朝日新聞の戦争責任

このエントリーをはてなブックマークに追加
毎日新聞
竹槍では戦えない、と陸軍をこきおろす
 当時の朝日新聞のライバル、毎日新聞も戦争中は軍・政府のお先棒を担ぐ報道をしてい
るが、一般に「竹槍事件」と呼ばれる報道がそれである。一度だけの抵抗とはいえ、抵抗ら
しい抵抗をしなかった朝日と比べると、大きな違いといえるだろう。
 「竹槍事件」が起こったのは、敗色が濃厚となった昭和19年2月23日だった。毎日新聞朝
刊一面に、「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋
航空機だ」と見出しのついた二つの記事が載ったのである。
 「勝利か滅亡か・・・・・・」の内容は、連戦連勝を思わせるニュースしか聞かされていない国
民に、太平洋戦線が米国の進撃で苦況にあることを知らせたものであった。
 それだけでなく、「太平洋戦争は海洋戦である。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本
土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦
われるのである」と本土決戦では、勝ち目のないことを訴えている。
 「竹槍では間に合わぬ」の記事はこれを受ける形で、「敵が飛行機で攻めて来るのに、竹
槍をもって戦い得ないのだ。問題は戦力の結果である」と航空兵力増強を主張している。
 この記事の背景には陸海軍の反目があった。海軍は深刻な飛行機不足に直面していたに
もかかわらず、軍需物資確保をめぐり陸海軍が反目し合っていたため、十分な資材が海軍
の航空機生産には回らず、飛行機増産が思うように進まない事情があったのである。
>>278の続き
当時の海軍省担当のキャップ新名丈夫記者は、この点を踏まえて新聞による一大キャンペ
ーンを社に進言。海軍担当のキャップが書いた記事については事前検閲不要という紳士協
定を利用し、新名記者自身が執筆したのである。新名記者は「八つ裂きにされてもかまわ
ぬ。社も潰されるかもしれない。しかし、それでもやるほかはない」との決意だったという。
 もっとも、この記事は戦争批判ではなく、あくまで体制を肯定した上での提言記事だが、
悪化する戦局を一時的にも打開しようと考えれば、この主張は正論であった。
 だが、こんな提言記事でさえ、陸軍やその頂点に立つ東条英機首相は許さなかった。無
検閲で発行された一連の記事を見た東条首相は激怒。発禁処分としたが、朝刊は既に配達
を終わっていた。
 東条の怒りはその日の夕方、再び爆発した。毎日は同日夕刊でも、「一歩も後退許され
ず 即時敵前行動開始へ 現戦局・全国民に要請」と題した記事を掲載。ここでも海軍航
空兵力増強を訴えたのである。
 こうした記事により、毎日は廃刊を迫られ、新名な責任を感じて進退伺いを出した。し
かし、吉岡文六編集局長はこれを突き返した上で、逆に新名に「金一封」の「特賞」を与えた。
 新名はその後、陸軍によって"懲罰召集"され37歳の中年二等兵として兵役につかざるを
得なくなったが、海軍が報道班員として再徴用することで救出されたのである。
 毎日は廃刊は免れたものの、抵抗はこれで終わった。新名記者は戦後、雑誌に寄せた手
記で「悲痛の限りであったことは、(抵抗が)たった一日であとが続かなかったことだ」と記
している。
 この事件の際、朝日の緒方竹虎副社長(当時)と原田譲二代表取締役(同)が、「どうも飛
んだことで・・・・・・近火見舞いに来ました」と毎日新聞社を訪れたという。抵抗しない新聞
社の幹部として、緒方や原田はどんな心境だったのだろうか。