: 「つくる会」が「朝まで生テレビ参戦」! 2

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718使徒
今晩は。国際情勢板の「使徒」と申します。
早速ですが>>691>>692さんの朝鮮に於ける志願兵について御意見申し上げます。

戦前の日本軍に、朝鮮名のまま中将になった人もいたそうですので、
意欲をもって志願した朝鮮人も多かったのでしょう。
しかし実際、志願兵募集は困難を伴ったようです。
719使徒:2001/05/27(日) 23:38
以前国際情勢板に書き込んだものをコピペします。

日本軍は朝鮮人を徴兵することには、長い間ためらっていたのである。武装させた途端に反乱軍になったらたまんねえ!という恐れがあったのである。
しかし戦局の拡大による兵員不足は朝鮮での徴兵制導入を余儀なくされた。「外地民族を兵力として活用するは焦眉の急務」(陸軍省兵備課「大東亜戦争に伴ふ我が人的国力の検討」)
また、「今次大戦を大和民族のみの犠牲において行ふことは適当ならず、大和民族のみが戦死し、朝鮮民族が残るときは、その旺盛なる繁殖力と相まって、将来由々しき問題を引き起こすべし」というふざけたことをぬかす奴もいた。(山崎正男「陸軍軍制史概」
「旺盛なる繁殖力」って・・・・・・・朝鮮人をネズミかゴキブリ扱いしてるな・・・・・・・
720使徒:2001/05/27(日) 23:40
まず、1938年4月3日朝鮮に於いて、陸軍特別志願兵制度が施行された。これは、日本に好意的な中流以上の階層(中流以上の階層なら日本に好意的だと勝手に思いこんでいたのである!)の子弟から志願兵を集め、皇民教育を施して日本軍の一員にする目的であった。
しかし実際は募集対象とした中流以上の階層からは志願者は少なかった。(当たり前である、生活の不安もないのに好きこのんで戦場になんかいくか!)しかし朝鮮総督府はメンツにこだわり採用予定者の数十倍の志願者数を呼び込もうとして各道・郡の役所にハッパをかけ、さらに各道・郡はその下の「面」ごとに志願者を割り振ったのである。
「萬一にも之が失敗に終わる如き結果を見んか、それは半島将来の由々しき大問題」(朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所教授海田要大佐)という危機感の元に、志願者数の多寡が「愛国熱のバロメーター」と理解され、行政組織の末端である「面」では、学校卒業者を脅迫したり、父親を拘留して志願を迫ったり、名前だけ貸せと騙して志願させるなどの方法が採られたのである。
さらに1943年10月20日、学生を対象にして陸軍特別志願兵臨時採用規則が施行され、適格者2830名から多数の志願を期待していたが、一ヶ月後の募集期限が近づいても、応募者は10分の1にも満たなかった。
そこで朝鮮総督府小磯国昭は、「一人の例外のも無く志願せよ」との声明を発表した(それじゃ徴兵じゃんかよ)。そしてさまざまなキャンペーンが展開された。新聞紙上には「狐疑逡巡は絶対に不可」「志願せざれば非国民」などの脅迫的な文字が踊り、また各道各郡ごとに対象学生の志願状況をチェックした。
あげくの果てには、志願しなかった者には「厳格錬成」して全員を炭鉱などの重労働に徴用することが決定された(徴兵忌避の罰則そのものだなこりゃ)こうして、最終的に志願者は2034名に達した。
721使徒:2001/05/27(日) 23:46
そしていよいよ1944年4月1日から第一回徴兵検査が行われ、甲種・乙種合格の約13万人が翌年5月までに入営し、順次部隊に配属された。(朝鮮総督府「第八五回帝国議会説明資料、財務局長用」1945年8月)
しかし徴兵にて入隊した兵には逃亡者も相次いだ。朝鮮総督府や軍部は戦局が不利になるに従って「何時暴動化するような事がないとも限らない」(朝鮮総督府小磯国昭「葛山鴻爪」)「英米と通じて反乱を起こすのではないか」(機密作戦日誌、1945年第一七方面部隊)などと、危惧の念を深くしていた。

是非とも反乱を起こして戦争の早期終結に役立てていただきたかったと思う次第である(ウホホホ


これが朝鮮での志願兵制度の実態のようです。
「倍率何倍」とかいうのも、
政治的な宣伝文句とか誇大広告とかハッタリだったのでしょう。