● マルクスについて語る@経済板 ●

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11
 共産板の皆さん,こんにちは。

 経済板の方でもマルクスについて語る板ありますので参加
 できましたら宜しくお願いいたします。

 http://money.2ch.net/test/read.cgi/eco/1045737832/
2経済板住人:03/05/05 15:03
経済版では既に1のスレッドは糞スレ認定されておりまして
まともな住人には相手にされておりません。
数少ない参加者は経済学の基礎知識を微塵も踏まえていない
素人や他板からの出張組のようです。
経済板住人といたしましては、板違いなマル経スレは目触りこの上ないので
議論の場を社会学・哲学・共産板のいずれかに移転していただく事を強く希望します。
3名無しさん@3周年:03/05/05 15:06
なははは。
「21〜25 資本って何?」とか見て、おいおいっ! と
不安になったけど、すでに反響文士さんが居られるのね。

反響文士ファンは 経済板へ れっつらゴー
4:03/05/05 15:08
おいこら>2
マルクス経済学が 経済板では板違いってのはどういう理屈じゃワレ。
5名無しさん@3周年:03/05/05 15:10
6名無しさん@3周年:03/05/05 15:16
2は、資本論を読んだ事もない、
マルクスの資本への分析も理解していない、
それなのに経済通を気取りたいだけだろ(ケラケラ
7名無しさん@3周年:03/05/05 15:19
>>4
経済板のマル系スレで一例を挙げれば
転型問題、利潤率の低下、再生産表式、とかのテクニカルな問題を
深く突っ込んだ議論が全然出てこないじゃないの。
どうてもいい脳内情勢分析や政治的言辞ばかりじゃねえか。
あんなのラウンジの雑談とどこが違うんだよ?
8経済板住人:03/05/05 15:27
>>6
ここ共産板はレベルが高く、俺もここの議論には
敬意を払い勉強させてもらっている。
だが貴様のような半可通の厨房がマルクスの名を騙り
馬鹿を晒し、ひいては学問としてのマル経の地位を
おとしめるような真似は許さん。
9名無しさん@3周年:03/05/05 15:29
10名無しさん@3周年:03/05/05 15:39
>>9
クソスレ
つーか、最近の経済板のマル経スレに
資本論読んだことのある椰子はいるのかな?甚だ疑問。
昔は共産板の出張組が活躍していてレベルが高かったみたいだが
最近こないね。呆れてレスしたくないのかしら。
111     :03/05/05 15:39
 1です。皆さんどうもありがとうございます。言い訳ですが
 さすがにリーマンで暇をみては資本論を読んでいるという有様
 まのでさすがに転型問題、利潤率の低下、再生産表式までは
 手が回りません。そのレベルと御存知の上で宜しく御願いします。
12名無しさん@3周年:03/05/05 17:05
>7 さういう問題なら、その点を指摘し質的向上を図るべき
問題であり、決してスレ違いではないと思うズラ。
共産主義思想や科学的社会主義に至るならコチラの板が適切と思うが、
資本論をはじめとする経済学的分野に関しては、マルクスを語る事は
先方の板でも良いんでないですか?

>8 先方のスレでご活躍の反響文士さんはすげぃ勉強家らしく、
この板でもご解説くださっているありがたい御仁です。騙る云々の時代は
彼の登場で回避できてるんじゃないのかな>先方のスレッド。
だから、今後が楽しみ。ROMさせてもらいますわ。
13名無しさん@3周年:03/05/06 04:14
アポロンてほんとヴァカだな
14_:03/05/06 04:54
15動画直リン:03/05/06 06:14
16反響文士 ◆oz7Wpm.iX2 :03/05/06 10:22
>>12
あっちでも少し触れたけど、近代経済学の理論の言葉(表現)の整合性を
考え、ちょっとお勉強しますわ。とりあえず、連休中にスティグリッツを
ゲット。ついでに中谷巌本(入門 マクロ経済学)も倉庫から出しておこう。

そういうわけで、経済板の他の理論スレに登場しても、マルには登場しない
と思います。

※なんか、すげぇ誤解されていたけど、近代経済学(正統派経済学)には
多大なる敬意を持っている。つーか、大学生時代、俺は「近経の勉強会しよ
〜〜」と叫んでいたよ。マル経やりたい人に押し切られたが・・・(爆。
17名無しさん@3周年:03/05/06 10:36
               ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
              ( ´∀`)/< 先生もろDVDはどこですか?
           _ / /   /   \___________
          \⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\
           ||\        \
           ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||                
           ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||         ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  
              .||          ||         (´Д` )  <  http://www.dvd01.hamstar.jp だ!
                              /   \   \___________
                              ||  ||  
                              ||  ||
                         __ //_ //___
                        /  //  //      /
                       /    ̄     ̄      //
                       || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  ||
                       || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  ||
                       ||    教卓         ||  ||
                       ||                ||

18名無しさん@3周年:03/05/06 11:19
>>16
勉強熱心なのは解るけど、君のお噺は経済論じゃなく、文学の話なのよ。
物知りな読書家のエッセーですね。
あと新奇な経済物理学を持ち出して既存の経済学を否定するようなマネは
頑として慎むべき、学問にも様々あるけど、それぞれ一生を賭けて
研究に励んでいる研究者がいるのだから(しかも幾世代にも渡って)
批判するなら、こちらも彼らと同じく一生分のエネルギーを賭して
批判しなくてはならない。もちろんマル経、近経問わずね。
でなければ失礼だ。
19:03/05/06 11:47
>18 正しいか間違っているかは指摘内容で判断する事だろ。
何処を指してのお話なのかがわからんが、モマエこそ失礼というもんだわな。

君が一生を費やして何かの研究に励もうとも、
要した時間の長さは、正当性に関してなんの根拠にもならないよ。
20反響文士 ◆oz7Wpm.iX2 :03/05/06 11:50
>>18

一点に絞って。
>こちらも彼らと同じく一生分のエネルギーを賭して批判しなくてはならない。

気持ちはわかるけど、どうだろ? それならば、「俺たちは原子力について、
一生を賭けて開発している、素人は口出しするな!」ということと同じに
なりまへんかね? 確かに、(自然)科学者の端くれに位置する小生であ
っても、原子力については素人だ。だけど、原子力については勉強もし、
口出しも(かつては)していた。(ちなみに、京大の原子エネルギー研究所に
いたこともありますよ。それでも、あの世界においては素人と思う。)

態度が問題なのではなく、書かれていることの妥当性が問題なわけでしょ、
学問の場合。

人間に関することで、我に関せざるはなし! とはマルクスの好きな言葉
だけど、そう考えると失礼云々で議論を遮断するほうが、余程マル経の
創始者であるマルクスに失礼かと。どういうレベルであれ、批評する権利
はあるし、問題は、その内容かと思います。
21名無しさん@3周年:03/05/06 12:48
少なくともこの十年間の経済政策について
素人(マスメディアとそれに引きずられた世論)は常に間違い続けてきた。
バブル崩壊後の不況突入の初期の段階でプロ(一部の経済学者、政治家、官僚)の思惑通り
大規模な財政出動を実行していれば今日の不遇はなかった。
素人はデフレスパイラルに陥る過程の中で、本質的な危機を認識できず
瑣末なアジテーション(改革云々)にまんまと乗り、緊縮を要求した。
大衆政党自民党は、その世論の要求に抗いきれず、結果的に国民自身が
自らの首を絞める結果になったのはご存知の通り。

>>20
卑近な例ですが、2ch経済板における素人(私とあなたを含めて)の意見に
みるべきものがあるとはとても思えない。
とくにマクロ経済のような高度な問題はおとなしくプロの手に委ねるべきでしょう。
22名無しさん@3周年:03/05/06 13:31
>大規模な財政出動を実行していれば今日の不遇はなかった。
もまえさんは、資本と言うものを理解して居ない。

>大衆政党自民党は、その世論の要求に抗いきれず
モマエさんは、自民党と言うものに幻想を抱いている。

なによりもモマエさんは、プロや、
経済学に過大な幻想を抱いている。
23反響文士 ◆oz7Wpm.iX2 :03/05/06 13:45
>>21
歴史的経緯についての議論はわかるし、若干反論あるけど、ここでは
しないでおきましょう。(若干というのは、裏返せばほぼ同意ってこ
とです。ただ、従来の土建バラマキじゃあ、効果の程は?ってことです。)

で、経済政策を料理に例えます。素人はコックの料理の作り方に余
り邪魔をすべきではないけど、しかしどういう風に料理が作られる
かを知り、どんなものを食わされるかについて、口出しする権利は
あると思います。食べる側の権利ですな。で、口出しするレベルに
応じて、おっしゃるとおり、命がけで勉強する必要が生じることも
あるかと思います。でも、仕事については、その影響を受ける全て
の人に本来専門家が説明する義務があると思いますね。まあ、相手
の学習能力(含む態度)にもよりますけど。その意味において、僕
は「話のわかるアマチュア」でありたいと思います。

それから、「改革」幻想は、新自由主義とかいうブルジョア・イデー
にしたがって作られたものであり、それを推進したのはまさしく専門
家たちではないでしょうか。そういうわけで、僕には専門家への不審
感があります。
24名無しさん@3周年:03/05/06 15:55
マルクスはメイドとの間に隠し子あり。で、エンゲルスに押し付けて尻拭い。
自分の娘にはブルジョア教育つけさせて、学歴無い男との結婚許さなかった。

(後者については自分の後継者として期待したからこそだと「善意に解釈」できないこともないが、
前者については正当化できませんな)
太田竜先生が昔このことを知って
「私は自分をマルクス主義者だと思っていたことが心底恥ずかしい。」
と言ったのに共感して、俺もマルクス主義者やめたのよね。
25名無しさん@3周年:03/05/06 15:57
マルクスはメイドとの間に隠し子あり。で、エンゲルスに押し付けて尻拭い。
自分の娘にはハイソ教育つけさせて、学歴無い男との結婚許さなかった。

(後者については自分の後継者として期待したからこそだと「善意に解釈」できないこともないが、
前者については正当化できませんな)
太田竜先生が昔このことを知って
「私は自分をマルクス主義者だと称していたことが心底恥ずかしい。」
と言ったのに共感して、俺もマルクス主義者やめたのよね。 W)
26名無しさん@3周年:03/05/06 18:07
昼間から2chで釣りとはお大尽ですなあ
27ねっ(w:03/05/06 19:42
つーか、パターンを解析する能力がない俺でも
直感てやつぐらいは持っているつもりさ。
28名無しさん@3周年:03/05/06 20:23
うーんむ。24−25には、偉大なるねっわぁ大先生の金言である、
『等身大以上の期待をもつと、裏切られる』とか何とかいう御言葉を
紹介して欲しかったのに、直感ってなんだよ。なにを言いたいんだよ。意味わかんねーよ。
29名無しさん@3周年:03/05/06 20:44
テスト
30名無しさん@3周年:03/05/08 09:53
ラスト
31名無しさん@3周年:03/05/21 19:20
別にマルクスなんて語る必要もないが、
あれほど華々しく登場した竹中平蔵が沈没するかね。
銀行国有化だって?
国有化なんて旧ソ連のような社会統制主義のすることでしょ。

潰れるべき銀行は潰してしまうのが資本主義の浄化システムのよさでしょ。
32名無しさん@3周年:03/05/21 19:43
正社員一気に3割減 東急百貨店、希望退職で(共同通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030521-00000120-kyodo-bus_all

こんな状態では、資本主義は危ないよ。
資本主義は労働者が搾取されてこそ維持できるんだからね。
33名無しさん@3周年:03/05/21 19:56
資本主義を維持するためには、
まず雇用を守って、労働者をうーん
働かせて骨の髄までしゃぶりつくさなければ。
34名無しさん@3周年:03/05/21 20:46
マルクス経済にとってIT社会はどのように捉えているのでしょう?
35名無しさん@3周年:03/05/21 20:52
よくしらないなあー。
強酸党は以下の見解らすぃーが。
――IT(情報技術)……二十一世紀を前にして、コンピューターをはじめとした
情報通信技術の発展は、人類の文化・技術の発展のなかでも、画期的な一段階を開
きつつある。とくにインターネットの発展と普及は、世界中のコンピューター同士
の通信を可能にし、すでに国民の二割以上がこれを利用し、多様な情報を入手し、
発信する、新しいコミュニケーションの手段となっている。

 ITの展開は、現在まだ発展の途上にあり、政治がこれに対応するには、いま政
府がやっているような、「IT革命」の看板を従来型の公共事業の推進策に使った
り、景気対策の手段にするといった目先の対応ではなく、新しい技術を社会全体が
有効に活用できるようにするための本格的な方策をとることが重要である。なかで
も、新技術を国民の共有財産とし、その成果を国民すべてが受けられるようにする
方策や、ITを利用した新たな犯罪を防止する対策、ITのもたらす否定的諸問題
への対応などは、当面とくに重視する必要がある。
36山崎渉:03/05/22 00:07
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
37山崎渉:03/05/28 15:13
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
38名無しさん@3周年:03/06/15 11:34
共産主義者は、資本主義の行く末の心配をする暇があったら、
まず自分達の心配をしたら?結構、深刻なんじゃないの?共産主義の未来。
お悔やみ申し上げます。
39名無しさん@3周年:03/06/15 12:05
おいおい。マルクスの科学的社会主義という観念自体が、資本主義の分析を元に生まれたものだっつーの。
40名無しさん@3周年:03/06/15 12:26
その観念のとりこになってるんだろう。
41人間の商品化、全体主義への一歩:03/06/15 12:27
●●●マスコミの「盗聴、盗撮」は許されるのか?その8●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1011/10115/1011522150.html

557 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/04 20:21 ID:6CZCBOmt
・・常に報道のみを目的とし、取材した結果を報道以外の目的に
  供さないという信念と実績・・

某マスコミが原告のプライバシーの侵害行為で被告となった裁判で、
こんなことをのたまっている記事を見かけて思わず吐き気がした。
もし被盗聴者がこの盗聴の真偽の覗いをたてたとしても、
こんなことをいうのかなぁって。

日テレ月20時枠は、原稿にネガティブ盗聴キーワード盛だくさん。
42(´・д・):03/06/15 12:31
観念の虜? べつに社会主義という名前だろうと資本主義という名前だろうと
どーでもいーでし。 社会主義の実質を実現するのが、共産党だろうが
公明党だろうが自民党だろうが、どーでもいーでし。 
43名無しさん@3周年:03/06/15 13:12
そんでもってマルクスの分析とやらは正確なの。
44山崎 渉:03/07/15 12:42

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
45名無しさん@3周年:03/07/19 10:09
46_:03/07/19 10:28
47_:03/07/19 11:46
48_:03/07/19 13:11
49あぼーん:あぼーん
あぼーん
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ
51名無しさん@3周年:03/08/02 06:15
マルクスの偉いところは資本主義が正常に機能するということは、
常に失業者がいるという点を指摘したことかな。
それをその後の人間が誤解して失業や貧困がない社会をなんて
言うからおかしくなった。失業者がでるのは当たり前。
ただし失業者が無制限に増えると市場が無制限に縮小する
という矛盾が起こる。従ってその矛盾を解決する社会主義というのは。
国が厚生機関を設置して、失業期間の生活保障と、次の起業あるいは
就職への支援を行う。そういう機能を果たせばよい。という社会だろうな。
そうすることによって安心して倒産失業ができる社会を目指すべきなんだ。
もちろん甘やかしではいけない。生活保障といってもカツカツで生命維持できる、
尚且つ期間を定めその一定期間内に次の経済活動のための能力を身につけないと
いけない。そこには手厚い政策が必要だが。それができないやつは国がやる最低限の
社会資本整備等に強制的に従事させるというふうにする。
52名無しさん@3周年:03/08/02 06:17
>>51
言い尽くされた事を新発見でもしたかの・・・・・(以下略)
53名無しさん@3周年:03/08/02 06:19
だからまずやることはダメな会社はほっぽらかして潰してしまうことから始めないといけない。
54名無しさん@3周年:03/08/02 06:20
そのためには公共事業は全部中止すること。
不況対策は不要だ。
55名無しさん@3周年:03/08/02 06:25
失業対策だけやればよい。ただし全員は無理だから、
希望者だけ。資本家目指す人にはカネ貸せばいい。
ただし金利は最初はゼロでも軌道に乗ったら、
通常の銀行貸付の倍以上は収めないといけない。
56名無しさん@3周年:03/08/02 06:29
で個人の能力のないやつは必ずいるから、改めて最低限の
公共事業(下水道整備のようなもの)に通暁の賃金の6割とかで
雇う、あるいは公務員は一旦首にしてパートで雇えばいいわけだ。
地方公務員なんかホボ全員パートでいい。
57高卒:03/08/02 08:50
>>55
カール・マルクスは、良く知らないが、重工業など、生産体制を共有化した
場合に力が出そうな会社を、雇用保険別枠からつくり、バイトの最低賃金で
雇うような方法ではだめなの?
もちろん全員はダメ、労働意欲のない人は、解雇の対象にするってのはダメなの?
58山崎 渉:03/08/15 19:55
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
59あぼーん:あぼーん
あぼーん
60名無しさん@3周年:03/11/29 00:00
1:速報:02/10/04 15:40 ID:ooepz3rn
 東久留米市の篠原重信市議(共産)が、市民に運動会で国旗を掲揚した
市立六小校長の自宅へ抗議文書を出すよう呼びかけていた問題は
「主義主張のためなら他人の人権を侵害してもかまわない」という市議の
身勝手な姿勢を浮き彫りにした。識者からは「教育現場への不当な
政治介入で個人攻撃を煽(あお)るやり方は許されない」と議員としての
資質を問う声も出ている。
 文部科学省の学習指導要領などは「学校行事においてはその意義を
踏まえ国旗を掲揚する」と明記している。
 六小では昨年まで国旗を正門に掲揚していたが、今年は新しく赴任した
今直樹校長の方針で国旗掲揚を式次第に入れ、君が代のテープ伴奏と
ともに実施。教員らは異を唱えたが、最終的に校長判断で行われた。
 都教育庁によると、運動会での国旗掲揚も今回の六小だけでなく都内の
多くの小中学校で実施されており、六小同様、式次第に入れて掲揚している
学校もあるという。
 篠原市議はこの今校長の正当な職務行為に反発。自分の活動報告ビラの
中で「国民の間で評価の分かれていることを強制し押し付けた。基本的人権を
侵害するもの」と批判し、「抗議と要請先」として、今校長の自宅住所と名前を
掲載した。今校長の自宅には200通以上もの抗議文書が組織的に
送り付けられた。
 多摩地区のある小学校長は「校長の自宅を掲載してまで抗議を煽った
市議の行為こそが人権侵害にほかならず、悪質極まりない」と話す。(以下略)
( ´D`)ノ<引用元:Sankei Web(産業経済新聞社)
http://www.sankei.co.jp/edit/kenban/tama/html/kiji01.html
※5日以降はこのソースが見られなくなる可能性があるれす。
依頼:http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1033437089/690ほか
61名無しさん@3周年:03/12/27 20:22
あげ
62名無しさん@3周年:03/12/27 20:35
へぇ〜、まだ>>1のリンクのスレあるんだね。
経済板ってけっこう人いないんだな。
63名無しさん@3周年:04/02/05 19:32
64あぼーん:あぼーん
あぼーん
65名無しさん@3周年:04/04/25 09:10
私の教育改革論: 池田大作 (゚∀゚

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/kaikaku/
4月25日 関わることが子供を救う=創価学会名誉会長・池田大作さん

「毎日新聞」へのご意見ご感想ご抗議はこちら

フリーダイヤル 0120-468-012

「4月25日の掲載記事の件なんですけど・・・毎日のHPでみたんですが・・・」
66名無し@@:04/04/26 00:55
マルケス、ウェズレイJ最強2トップw
67くろしろ@社会学白痴断見教教祖:04/05/07 22:15
誰か書き込め(゚Д゚)ゴルァ!!

↓こっちへ書き込め(゚Д゚)ゴルァ!!
http://jbbs.shitaraba.com/study/4428/
68名無しさん@3周年:04/07/18 03:33
69名無しさん@3周年:04/07/18 19:08
7年も無職、年金未納、健康保険なしの反戦ネットワークのLPGさんが
一日も早く就職できる経済状態になるといいね。
広島のJUNさんがカキを食べ過ぎて下痢をしながら心配しているらしい。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5270/
70革命的名無しさん:04/11/21 22:04:34
一般的に共産主義を唱えたのがマルクスであるという説は誤りです。
実際はフランス革命より以前に、オーストリアのババリア地方にあったインゴルシュタット大学で教鞭を振るう、
大学教授アダム・ヴァイスハウプトが提唱したのが最初の共産主義です。
これらの詳細については「ラコフスキー調書」について記述されています。
71革命的名無しさん:05/01/04 18:18:45
強酸
72革命的名無しさん:05/01/05 06:30:52
マル経うざい、新古典派もうざい、ケインズもうざい。
73名無しさん@3周年:05/02/13 15:25:47
マルクスのことでしたら労働者社会主義同盟の高田健さんに聞くと、より理解が深まると思います。
          ↓
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm
74革命的名無しさん:2005/03/27(日) 10:20:15
「デモ、集会、シュプレヒコールは過激派用語、使用禁止、労働組合の旗は持ち込み禁止、マルクスを語る人は参加、お断り、アメリカ大使館、国会、首相官邸を
パレードコースにすると政治性が高くなり参加者が少なくなるからダメ、これからは反権力でないことをうりにし、総中流意識をくすぐった市民運動だ〜い」などと
提唱し反戦気分体験ごっこの先頭に立っている反戦ネットワークのLPG(ねっw)!貴殿に関し以下のような情報が寄せられています。
1.貴殿は、「光り物をご持参下さい」という呼びかけに応えようと、老衰で寝たっきりの頭のはげた隣のおじいさんを無理やり連れ出そうとした。
2.貴殿は、母、「たまさん」に、「おいら、宮下公園の集会に行って来る!」といって渋谷に行ったものの、
改札口付近で手当たり次第に女子高生に「ね〜ちゃん、わん、ないと、5000円でどう?」と声をかけては、「馬鹿にするんじゃないわよ!」と往復ビンタを食らっていた。
3.貴殿が宮下公園に行った時には集会も終わっていて、残っていた警官数名に「おまわりさん、
いつも市民社会の安全を守っていてくれてありがとう、よかったら僕にもスパゲティをご馳走して下さい、忘年会には呼んでね」と要求した。
4.貴殿は、「おいら、立川テント村の同志を応援してくる!」といって出かけた立川駅前でも2と同様の行為をしていた。

上記に関し確認が取れ次第、下のファイルにて糾弾することをここに警告する。
http://www.geocities.jp/peaceadvance/
75革命的名無しさん:2005/04/29(金) 16:29:22
うーんむ。
76革命的名無しさん:2005/05/21(土) 15:59:35
たとえ相手が悪だとしても・・・
77革命的名無しさん:2005/06/06(月) 14:54:34
マルクスの悪口をいうと反戦ネットワークのLPG(ねっw)さんに怒られますからご注意下さい。
それと、ねっw!おまえ、「おいら、ブントにほめられちゃった」といって俺に紹介した下のファイル、確かに高田健さんを絶賛しているが、(ねっw)のことなんて一言も書いていないじゃ、人をだますのもいい加減にしろ!
高田 健(許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局・九条の会事務局)
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm
78革命的名無しさん:2005/06/22(水) 07:30:01
教えてください。
79革命的名無しさん:2005/06/22(水) 16:44:04
>>78
ナニについて?
80革命的名無しさん:2005/07/07(木) 14:26:03
山岡夫人
81革命的名無しさん:2005/07/20(水) 11:00:52
郵便局での用紙をご利用ください。
82革命的名無しさん:2005/07/22(金) 10:19:30
いいえ、備え付けの便所紙をご使用下さい。
他紙の御使用は糞詰まりの原因となります。
83革命的名無しさん:2005/07/23(土) 15:32:58
そっか、マル糞ってか。
84革命的名無しさん:2005/07/31(日) 15:47:17
つーか、糞□○だろが。
85革命的名無しさん:2005/07/31(日) 16:39:23
マッとりあえず営業マンのバイブルとして
有効活用するべき。
86革命的名無しさん:2005/07/31(日) 18:52:53
団塊のジジーどもがリストラ・定年で逝っちまえば、
ただのゴミ扱いされるだけよ。
87革命的名無しさん:2005/08/01(月) 07:03:09
37、44、50、58>>反戦ネットワークのLPG様。

「天は二物を与えず」、「能ある鷹は爪を隠す」とでも申すのでしょうか、
AA、ずいぶんお上手ですね。新作を心待ちにしています。
88革命的名無しさん:2005/08/08(月) 16:28:04
「共産党の単独政権、もうすぐだぞ!おとら!」が口ぐせ、反戦ネットワーク、LPGお兄さん。私、妹の「おとら」でございます。 皆様、また兄が世間を騒がせているようでゴメンナサイネ。
あれでも、子供の時から何不自由なく育て、純真で優しい子供になりましたのに、いつの頃からか大阪の「黒目」と称する方の影響を受け、親の言うことを聞かなくなってしまったと母が申しております。
去年の夏も二人で「靖国神社」の鳥居によじ登って、なにか、「フンサーイ」と叫んでいたらしく善良な多くの市民の方から反撃を受けてしまったそうです。
それからというもの、黒目さんという方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「この、非国民!」といわれ道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。
昨日も兄に電話をよこして、「LPGよ〜、馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、おれ、昨日川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、
LPGはいつも「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく励ましてくれたそうです。
この間、「父さん、どうしてLPG兄さんの頭、あんなにおかしくなってしまったの?」と聞いたところ、
「泥酔して母に挑んだため、着床した時点で能にアルコールが回ってしまったらしく、どうすることも出来なかったんだ」といいながら涙を流していました。
学校では、「わ〜い、反戦ネット一頭の悪いLPGんとこの、おとら〜」といっていじめられます。
目ばり用の布テープと練炭を買ってあげたのですが実行してくれません。一日も早く家を出て行くなり電車に飛び込んでほしいと願っているわが家です。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、兄の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。兄に代わりまして深くお詫びいたします。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5270/
89革命的名無しさん:2005/08/08(月) 19:33:39
タイトルとはうってかわり、駄スレと化してしまったね。
マルクスを叩いて、賢いつもりなんてつまらないよ.
マルクス、マルクス主義の為さんとしたことは破綻したけど、
一般人レベルなら資本主義を理解するには、まだまだ学ぶところあるよ
ナニワ金融道の青木さんにもっと長生きしてもらい分かりやすく(誤読含めて)展開してもらいたかったな〜〜。
90革命的名無しさん:2005/08/09(火) 14:12:45
マルクス(思想)とマルクス主義は違うだろうにね。
91革命的名無しさん:2005/08/09(火) 18:52:38
つーか、マルクスの思想とマルクス・レーニン主義は違うんだ、
って言うヤツはいるよな。
ほんで、マルクス・レーニン主義ってのは前衛党主義とすれば、
マルクスは、革命に前衛党は必須ってなこと一言も言ってない
ってんだが、これって本当なのか?
92革命的名無しさん:2005/08/10(水) 08:55:51
吉本自慰サンはそう言ってるよな。
マルクス・レーニン主義はマルクス思想の
ロシア的改変であり、ロシア・マルクス主義とでも
呼ぶべきもので、スターリン主義の別名だってよ。
93革命的名無しさん:2005/08/17(水) 11:56:24
でも、反スタ・スターリン主義者の
革共同諸派の残党連中にゃ理解でき
んわな。
94革命的名無しさん:2005/08/17(水) 12:25:17
ここは経済スレなんだろ。思想なんてもんは一生の間に
その人のおかれている環境や状況でいくらでも変化するもんだ。
経済スレなんだから資本論だけでいいわけで、マルクスの思想
なんてどうだっていいことだ。
95革命的名無しさん:2005/08/17(水) 15:10:43
ちゃうな。
何でもありだぜ、2チャンはな。
96革命的名無しさん:2005/08/17(水) 19:56:36
まぁ、なんやかやと、楽しくカキコして
このクソ暑い夏を生き抜こうや。
97革命的名無しさん:2005/08/24(水) 11:31:05
マルクス主義者はスポーツの国際対抗の時には
本当に自分の国を応援しないんか?
98革命的名無しさん:2005/08/24(水) 11:40:49
> スポーツの国際対抗

「形を変えた戦争」だからな。
当然それに準じた対応をする。
99革命的名無しさん:2005/08/24(水) 12:20:45
マルクス主義の悪口をいうと反戦ネットワークのLPG(ねっw)さんに怒られますからご注意下さい。
しかし、ねっwの「おいら、高田健さんからの信頼が厚く、ワールドピースナウの元実行委員として重要な役割を担ってきた」という自慢話。どうもおかしいとは思っていたが、やはりうそだったか。
それと、ねっw!おまえ、「おいら、ブントにほめられちゃった」といって俺に紹介した下のファイル、おまえのことなんて一言も書いていないじゃないか!
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm
100革命的名無しさん:2005/08/25(木) 09:25:57
マルクス主義は国際主義である。
しかし、マルクス主義者は、
”国際対抗”の際には、かの偉
大なるスターリン同志の母国で
あり、かつ、社会主義革命の母
国でもあるロシアを当然応援す
るのであーる。
何か文句あっか?
102革命的名無しさん:2005/08/25(木) 18:12:26
>>100
スターリンはロシア人じゃねーぞ。
103土建屋の営業:2005/08/25(木) 18:29:04
グルジュワ人。
104革命的名無しさん:2005/08/26(金) 11:18:56
ごめんね。
おスタちゃんは露助じゃなかったね。
細けーこと探すなっての。
105革命的名無しさん:2005/08/26(金) 11:29:59
ナポレオンもフランス人じゃないしね。
士官学校時代フランス語がうまく喋られずにイジメられていた。
106革命的名無しさん:2005/08/26(金) 12:20:49
「共産党の単独政権、もうすぐだね、おかあさん」が口ぐせの反戦ネットワークのLPG(ねっw)。私、母の「タマ」でございます。
子供の頃は、「おいら、頭の悪さと胃袋の丈夫さは誰にも負けない!」という自慢する素直な子供でしたのに、いつの頃からか大阪の「黒目」という方の影響を受け、親の言うことを聞かなくなってしまったの。
黒目という方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「この、どアフォ!」といわれ、道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。昨日も孫に電話をよこして、「LPGよ〜、馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、
おれ、昨日川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、LPGはいつも「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく励ましてくれたそうです。先日、小学校に通う娘「おとら」に、
「かあさん、どうしてLPG兄さんの頭、あんなにおかしくなってしまったの?」と聞かれ、「おかしくなったんじゃないのよ、おとうさんが酔っ払った勢いで母さんに挑んだため、着床した時点で能にアルコールが回ってしまったらしく、
どうすることも出来なかったのよ」と話した途端、涙があふれて来てしまいました。見ると娘「おとら」の目にも大粒の涙が・・「どんなに馬鹿でも「おとら」のお兄さんだもん、これって家族愛っていうんでしょ、おかあさん、
今日、学校で教わったばかりだもん」といって、兄をかばう妹。心優しい子どもに育ってくれました。私さえ泥酔した夫を拒否していればと思うとくやしくてしかたがありません。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、愚息の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。本人に代わりまして深くお詫びいたします。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5270/
107革命的名無しさん:2005/08/27(土) 09:41:02
ほんじゃ、偉大なる革命の母国・ソビエトロシア
からトンズラこいたあの反革命トロツキーも露助
じゃねーのかい?
108革命的名無しさん:2005/09/01(木) 08:39:00
ユダヤ人じゃなかったかな。
ほんじゃ、レーニンはどう
かってか?
オラ知らね。
109革命的名無しさん:2005/09/01(木) 16:09:30
レーニンはユダヤ人とどっか他のヨーロッパ人のハーフじゃなかったっけ。
詳しくは知らね。スターリンの本姓のジュガシヴィリはユダヤ人の子、って
意味のグルジア語で典型的なユダヤ人の名前、とかどっかで聞いたが本当か?
110革命的名無しさん:2005/09/01(木) 18:08:51
父方の祖父が正教に改宗した。
111110:2005/09/01(木) 18:10:29
レーニンのことね。

スターリンは違う。
112革命的名無しさん:2005/09/03(土) 07:32:17
スターリンはマジャール人の血が入ってる、
って読んだことあったな、I.ドイッチャー
だったかE.H.カーだったか。
間違ってたらゴメンよ。
113革命的名無しさん:2005/09/19(月) 13:30:48
>>112
カルムイク人の4分の1。
114革命的名無しさん:2005/09/19(月) 17:21:36
カルムイク人なんて初めて聞きましたよ。
115革命的名無しさん:2005/09/19(月) 18:30:34
                 反戦ネットワークのLPG様。

「天は二物を与えず」、「能ある鷹は爪を隠す」とでも申すのでしょうか、何を目的としているのか存じませんが、延々とやっていらっしゃる、AAによる落書き、自分の中で架空の世界をつくり、
架空の人物を登場させた数分間隔(そうでない場合もあるが)の自作自演の書き込み、誠にもってご苦労様でございます。

しかし、ねっwの「おいら、高田健さんからの信頼が厚く、ワールドピースナウの元実行委員として重要な役割を担ってきた」という自慢話。どうもおかしいとは思っていたが、やはりうそだったか。
それと、ねっw!おまえ、「おいら、ブントにほめられちゃった」といって俺に紹介した下のファイル、おまえのことなんて一言も書いていないじゃないか!
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm

            1000をめざして、さあ、行ってみよう、Let Go!
                 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ 
116革命的名無しさん:2005/10/16(日) 11:45:31
>>115さん、息子の代理で参りました。

「共産党の単独政権もうすぐだね、お母さん」が口ぐせの反戦ネットワークのLPG(ねっw)。私、母の「タマ」でございます。
あれでも子供の頃は、「おいら、頭の悪さと給食の早食いは誰にも負けない!」という自慢する自覚にあふれた、とても素直な子供でしたのに、いつの頃からか大阪の「黒目」という方の影響を受け、親の言うことを
聞かなくなってしまいましたの。黒目という方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「大阪の恥さらし!どアフォ!」といわれ、道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。昨日も電話をよこして、「LPGよ〜、
馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、おれ、昨日、川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、LPGはいつも「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく励ましてくれたそうです。
先日、小学校に通う娘「おとら」に、「かあさん、どうしてLPG兄さんの頭、あんなにおかしくなってしまったの?」と聞かれ、
「おかしくなったんじゃないのよ、おとうさんが酔っ払った勢いで母さんに挑んだため、着床した時点で能にアルコールが回ってしまったらしく、どうすることも出来なかったのよ」と話した途端、涙があふれて来てしまいました。
見ると娘「おとら」の目にも大粒の涙が・・「どんなに馬鹿でも「おとら」のお兄さんだもん、これって家族愛っていうんでしょ、おかあさん、今日、学校で教わったばかりだもん」といって、兄をかばう妹。心優しい子どもに
育ってくれました。私さえ泥酔した夫を拒否していればと思うとくやしくてしかたがありません。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、愚息の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。本人に代わりまして深くお詫びいたします。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5270/
117革命的名無しさん:2005/11/08(火) 08:11:47
 
118 :2005/11/08(火) 10:00:18
119革命的名無しさん:2005/11/08(火) 10:00:29
trgじrjrhtくfstfれf
120革命的名無しさん:2005/11/08(火) 22:27:12
反革命トロツキーという見方は誤り。

共産主義の正道はトロツキー
121革命的名無しさん:2005/11/08(火) 23:01:32
共産党大阪市長候補の話は意味不明
122革命的名無しさん:2006/01/14(土) 17:11:12
マルクス・カールの略歴 - コービンの勉強ブログ
http://corbin.seesaa.net/article/2486881.html
123革命的名無しさん:2006/04/12(水) 12:54:55
>>116さん、

共産板の全スレにAAで落書きをしたり、自分で架空の世界を作り、架空の人物を登場させた(しかも数分間隔での)自作自演の落書きをして、「あの人、病気ではないのか」と噂されている反戦ネットワークのLPGの悪口をいうと、
親友のHN、「まっぺん」とかいう人に怒られますから注意して下さい。しかし、LPGの「おいら、ワールドピースナウの実行委員を卒業して、今は九条の会の事務局員やってんだ〜」という自慢話。やはり嘘だったそうですね。
それと、「おいら、ブントにほめられちゃった」といってみんなに自慢している下のファイル、あなたのことなんて一言も書いていませんよ。
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm

反戦ネットワーク所属、LPG様。

以下のような行為はおやめ下さい。このAAを数分間隔で60回以上も書き込んだあげく、「粉々に粉砕してやった」などと「自慢する」LPG様。とても「正常な方」とは思えません。
これ→http://money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1129005369/l50
これ→http://money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1133452703/l50

※一スレでの落書きの最高は、11月27日の220回!一回一分にしてもこれだけで、ほぼ4時間! 
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1131684083/
※次が212回(3月9日)
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1141279312/

「LPG様の強制入院に反対し、温かく見守る市民の会」及び参加賛同人一同
124革命的名無しさん:2006/05/18(木) 15:50:20
         ____
      _-=≡:: ;;   ヾ\
    /          ヾ:::\
   . |            |::::::|
   ミ|-=≡、 ミ≡==- 、 |;;;;;/
   .. || <・>| ̄| <・> |── /\
    |ヽ_/  \_/    > /
   / /(    )\      |_/
   | |  ` ´        )    リンチ・スパイ
   | \/ヽ/\_/  /  |    フレームアップの日本共産党!!
   \ \ ̄ ̄ /ヽ  /  /
     \__ ̄ ̄   /  /
    __ノ ̄ ̄ ̄ ̄(⌒)_
   //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐ヽ
  / /:::::::::::|  /:::::ノ__ | .| ト、 )
  | /:::::::::::::::| 〈 ̄   `-Lλ_レ' ノ
125革命的名無しさん:2006/05/23(火) 22:54:35
( ゚∋゚)テポドン発射に備えてXバンドレーダーを配備すればいいのさ
126革命的名無しさん:2006/05/24(水) 00:36:54
共産党支持者vs自民支持者
真面目に討論して勝つのはどちらでしょう?
           ↓
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1143960622/l50
127革命的名無しさん:2006/08/26(土) 22:37:47
国債が借金であることは事実であるが、それは形式的な議論でのみ妥当
するのであり、国債とは本質的には、総支出(総需要)を調節するため
の手段でしかないのだ (ラーナー『雇用の経済学』第一章)
それはまた、庶民が想像するところの借金とは異なるものである。すな
わち日銀が国債をたとえば、500兆円買取って保有した場合に、その
利息収入は日銀の手にはいるが、その利益は政府に納めなければならず、
単なる帳簿上の債権債務となることから明らかである。
さらに明確に国債の本質をとらえるためには、政府の子会社である日銀
を、年末30日に政府に吸収合併するところを想像すれば良い。そうな
ると国債の債権者が政府となるのであり、債権債務が同一人格に帰属す
ることになり、民法における混同の法理により、債権債務が消滅するの
である。これを借金と呼称することには、いささかの無理があることが
分かるだろうと思う。
128革命的名無しさん:2006/08/27(日) 18:00:52
医療過誤の尖兵   創価朝鮮学会 
医療過誤の尖兵   創価朝鮮学会
医療過誤の尖兵   創価朝鮮学会     医療過誤の尖兵   創価朝鮮学会
129名無しさん@3周年:2006/10/29(日) 11:05:04
これが日教組某県作成の教科書採点表だ
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20010714.html


マルクスの言葉
「青年に対し、祖国の前途に対する希望の灯を奪い、
祖国呪詛(じゅそ)の精神を扶植(ふしょく)することが革命の近道だ。」
日教組は忠実にこれを実践してきたのではないか。
http://homepage1.nifty.com/1010/newpagekakiko.htm

130革命的名無しさん:2007/05/08(火) 22:59:50
団塊のジジーどもがリストラ・定年で逝っちまえば、
ただのゴミ扱いされるだけよ。

131革命的名無しさん:2007/05/11(金) 07:40:48
何をほざくか。
この無職の低脳ゴミ怠け者!
132革命的名無しさん:2007/06/21(木) 14:27:19
マルクス主義への俗物的な批判をみていると、いまだに共産主義と社会主義との
区別もついていないし、プルードン主義のことをマルクス主義と根本的に誤解して
いるようなのが目立つ。プルードンについてさえ誤解していたりする。
そんな曖昧な理解でそうした連中は科学的な批判をしているつもりになっているんだから・・・・
133革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:21:23
25 名前: OFW 投稿日: 2001/01/27(土) 20:10
>>1
階級とは生産手段の所有に関する社会成員の区分であり、社会の生産関係を反映しています。
資本主義社会では資本家階級と労働者階級が本質的な階級として対立しており、生産手段の
所有者である資本家階級と生産手段から切り離された裸の労働力である労働者階級の存在は、
資本の価値増殖にとって本質的な要件です。
その他の自営農民、自営業者、インテリ等は中産階級と呼ばれ、安定した経済基盤を持たない
動揺する階級です。
しかし、以前「一億総中流意識」とか盛んに喧伝され、あたかも「意識が存在を決定する」かのような
宣伝がなされたので、労働者は自己が何者であるかを正しく理解できなくなっているようです。
最近でも、「マルクス主義社会理論に基づく」と称して、中間管理職やホワイトカラーを「新中間層」
と呼んで、労働者階級から区別する論者(下記サイト参照)も出てきているので、ますます、客観的
な現実認識から遠ざかり、労働者の階級的な自覚を阻害しようとする傾向があるようですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/ronbun05.htm#4
134革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:23:32
39 名前: OFW 投稿日: 2001/02/12(月) 11:42
収入の多少は階級対立の結果であり、それが階級を規定するのではない。
「日本は階級社会か?」という問いは社会の本質に関するもので、世代間格差とは無関係。
世代の自然的区別が階級の社会的区別なら、未来永劫「無階級社会」など来ないことになる。
近代社会の物象性を明らかにしたマックス・ウェーバーも、階級を「職業」に置き換えたことで、
中産階級の一員としての自己を正当化した。

学者が、自己の階級的利害を学問的誠実さに優先させるのは、昔から変りない事態であり、
彼らの祖先である僧侶階級が、「来世がある、現世を肯定せよ」と超俗的に言った同じ事を、
「現世は中立的で正しい、現世を肯定せよ」と世俗的に言うだけ。

大衆に対して現実認識ではなくイデオロギーを与え、現実社会の本質を隠蔽することは、
知識人の存在理由、その重要な職務(使命)になっている。
「今の世の中は自由で民主的な社会であり、階級など存在しない。」
「所得の格差があり階層社会であるが、階級社会ではない。」
「貧富の差が余りないから、ある程度は無階級社会だ。」
「職業選択の自由があるから、無階級社会だ。」
「性別で差別しなくなったから、無階級社会だ。」
「少なくとも学者は自由で中立的で善良な階級だ。」
等々等々。大衆の頭脳を混乱させることで利益を得るのは、どの階級か?
「階級などはないのだから、大衆の頭脳は正しく啓蒙される。」
「いや、階級などはないのだから、無階級社会の利益になる。」
「いや、大衆ではなく自由な市民しかいないから、誰も利益を受けない。」
「いや、本質を実感できない以上、大衆の頭脳は混乱しない。」
エトセトラ、エトセトラ…。
135革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:26:02
42 名前: OFW 投稿日: 2001/02/20(火) 01:00
>>41
>階層化して何が悪いの?
哲学板での「どうして人を殺してはいけないの?」のような意見ですね。
倫理的な問いには、皆なかなか答えが出せないようですが、少なくとも近代は「自由、平等、博愛」
という標語から始まったのは、歴史的な事実であり、近代ブルジョアジーが前近代的な身分差別に
抗して、人類の普遍的な原理(理念)として、個人の絶対的な主体性を打ち立てた。
その思想は、人間の可能性は無限であり、誰もが自らの能力を最大限発揮すべきだという内容を
含んでいる。
また、自然的な素質・能力には個人差があるが、誰もが等しく教育を受け、その多様な可能性を
伸ばすために文化・教養の働きを重視することが、人文主義(ヒューマニズム)という近代的理念です。
それは現在でも、国連ユネスコの活動等にも活きている。
それらは、決して経済的な点にまで踏み込めていないために、社会の物質的な基盤を捨象した精神的
な理念に過ぎないが、少なくとも貨幣による差別を正当化するものではないでしょうね。
また、「能力に応じた収入」など一般には現存していない幻想ですから、「能力が低いから低収入なのだ」
とは、現状を正当化するための、因果関係を逆にした議論でしょう。

あなたが、もし自分の能力を信じているなら、よく現実を見て、何が真実なのかを判断することもできる筈。
近代は感情ではなく理性の時代です。
136革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:28:33
44 名前: OFW 投稿日: 2001/02/20(火) 22:35
>>43
>ドキュソがやけになって暴発するから。
おもしろい意見が続くな。
「階層化=貧富の差をつけること」と「ドキュソ=能力の無い者」との間には
1.貧富の差は、能力の有無によって決められている。
2.貧富の差は、能力の有無によって決められていない。
の両方の場合があり得る。
ドキュソがやけになる場合とは、明らかに1.の場合であり、それは「能力がない者も富むことができなくてはならない」
という考えが前提にあるからだろう。そして、その前提自体には異論も出てくるだろう。
しかし、現実には1.は正しくない。したがって、その点ではドキュソはやけになる必要はない。
実際の問題は、生産手段を持たない労働能力者が、生産手段を所有しているドキュソの支配下に
置かれているという現実である。その現実が永遠に続くと考えるから、やけになる者もでてくる。
その暴発を防ぎ、労働能力者を懐柔するために、「厚生経済学」なる政治的な学問も出てきたわけ。
誰が本当のドキュソか、がポイント。

実際、どんなドキュソでも最高権力を握れる、というのが今の日本の姿であることは、周知の事実。
137革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:31:19
48 名前: OFW 投稿日: 2001/02/22(木) 00:16
>>45
>ピグウに労働能力者を懐柔しようという意図が全くもってなかったのは自明の理ではないか!

何にせよ個人の業績を評価する場合、その主観的意図が何であるかではなく、それが歴史的・
客観的に果たした役割を見なくてはならない。
資本主義がその勃興期における自らの解釈者としてアダム・スミスを生み、成熟期においてミルを生み、
そして一般的危機すなわち帝国主義段階に入ってマーシャル、ピグーやケインズを生んだとしても、
そこには学説の進歩というよりは、資本主義の歴史的な変容があることを見る必要がある。

20世紀に入り、資本主義体制は古典派の説くような市場の自由放任ではもはや維持できず、
貧困・失業は経済学が解くべき第一の課題になった。
それは、資本家階級と労働者階級の対立が、もはや和解しがたい程深刻になったことを意味している。
しかし「何故個人の自由に基づく市場のメカニズムでは社会の福祉・厚生が結果しないのか?」について、
新旧の厚生経済学およびケインズ学派は解答を出せず、結局改良主義、すなわち、政治的国家の市場
への介入による所得の再分配を説くだけである。
そのことは、真の原因、すなわち、階級対立の存在を覆い隠し、国家という共同体幻想を持ち出すことでしかない。

結局、(公共セクターと呼ばれる)政治的国家を必要とする経済学とは、科学というよりは政治的なプロパガンダ
に見える。最近の例で言えば、「公的資金の投入による金融システムの安定化」とは、かっての「国体護持」と
同じ程度の、階級社会を隠蔽しつつ維持するための「政治的・経済的政策」と言える。

ま、「こんなことは、自明の理ではないか!」でしょう。
138革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:33:41
大手企業の社員にアゴで使われる下請けオーナー社長はどうなるのだ?
139革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:35:39
51 名前: OFW 投稿日: 2001/02/22(木) 23:34
>>49
>「ピグウは本当にそういうことを意図して厚生経済学を作ったのか」
学者個人の主観的な意図に拘っておられるようだが、私は>>44で「労働能力者を懐柔する」と書いた時、
その主語は個人ではなく、「当時の資本家階級あるいは総資本」という物象化された集合的主体を指して
いるのです。厚生経済学を生んだのは社会的実体の力でしょう。
なるほど、ピグーに限らず、ケンブリッジ学派の学者は、個人的には皆「英国紳士」であり、その限り、彼らの
誰一人として「労働者を欺き、懐柔してやろう」という悪意をもっていた訳も無い。しかし、まさにその点にこそ、
「市民社会」(ブルジョア社会)の欺瞞性(関係性の悪)が端的に現れているわけです。
実際、改良主義とは、相手の手足を切り取った(生産手段を奪い取った)後でそれをすっかり忘れて、
「同じ人間なのに手足がないのは気の毒だから、私の食事を少し分けて上げよう。」と言うようなもので、
それは、何故世の中に手足の無い人がいるのかを問わない。

>>45
>「人間生活の改良の道具」
社会が本質的に資本家階級と労働者階級に分裂しており、一方の生存は他方の死を意味しつつ、
両者は分かちがたい時、普遍的人間とは何でしょう。
階級対立が1948年二月革命、1970年パリコミューンと劇的に展開したが、労働者階級の敗北に終り、
資本のレッセ・フェールに基づく蓄積・ 集中によって、貧富の差が極端に拡大し、個人の自由より社会全体
の福祉を問題にせざるを得なくなった時代においては、一方で小市民的な社会改良主義、他方で労働貴
族的な社会民主主義が主流となることは、確かに時代の必然でしょう。
その潮流は時代に適い、「正しい」が、その事は労働者が社会の本質に目覚め、自らの力で真に社会の
主人公となることをむしろ阻害する。それは「(賃金)奴隷にはムチだけではなく、アメも必要であり、それが
社会を安定化させ、社会の改良・厚生に結びつく」と言っているに過ぎない。
…ま、そんなとこです。
140革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:44:04
資本論では生産手段を所有して他人労働を支配下に
置くのが原理的に資本家階級で。労働力を販売して他人に
雇われているいるのが労働者階級なんだから。
前者が労働者階級で。後者が資本家階級だ。
アゴで使っているのはアゴで使うような仕事に従事させられている
からだ。下請けでアゴで使われているのはそうすることで
利潤が得られるからだ。
141革命的名無しさん:2007/12/02(日) 19:58:26
55 名前: OFW 投稿日: 2001/02/24(土) 07:06
>>53(45)
>「労働能力者の懐柔」ということの具体的意味
階級社会の本質に触れることなく、労働者の体制内化を計る施策や言論は、(これも主観的意図がどうあれ)
労働者階級の懐柔です。
まず、「資本家と労働者は対等であり、自由な契約に基づく雇用関係を結んでいる」という擬制を作ること。
賃金あるいはサラリーとは労働力商品の売価であり、労働に対する報酬ではない。

次に、「政策当局は、社会全体の厚生を最大にするために、富の再分配を行う」という擬制を作ること。
資本の無制限な価値増殖を所得再分配という手段で緩和する事は、ある程度は実質的な「不公正」の
是正でしょうが、社会的厚生関数という一見科学的・中立的な説明は、対立関係が存在する社会では
非科学的にならざるを得ない。「社会的厚生」や「公正」などの概念は恣意的・形式的であり、何らの
客観的根拠を持たない。

また、労働組合が「景気回復のためには、労働分配率を上げて消費を刺激する必要がある」といった
学問的根拠を上げて、労働者の関心を「賃上げ」に向けさせ、資本家や政策当局がある程度は
それに応えて、「労使協調」あるいは「福祉国家の建設」を宣揚することも懐柔でしょう。
142革命的名無しさん:2007/12/02(日) 20:00:58
56 名前: OFW 投稿日: 2001/02/24(土) 07:10
>>54
>ソビエトは…階級社会だよね。
旧ソ連の社会経済体制は国家資本主義という資本主義の極限形態でしょう。
それは「最も社会主義に近いが、それから無限に遠い」(レーニン)。
確かに、共産党官僚は自らを共産主義者と称していたが、実際には(軍、大企業経営者と共に)
ノメンクラツーラと呼ばれた支配階級を形成していたわけです。

>現在の日本が階級社会であることに 気付けっていう人は、具体的にどうすればいいか、はっきり示して欲しい
労働者の組織的団結による、資本主義的生産関係の転回でしょう。
それは、何よりも労働力商品としての自らの社会経済的な存在形態を廃棄して、社会的協業を経済の基本に
据えることです。

>物は豊富な上に貧富の差はないし
日本の豊富な物資は殆ど外国から来ている。それは外国での欠乏と相関がある。
また、階級対立とは貧富の差のことではなく、生産手段の所有・非所有に関する社会成員の編成をいう。
さらに「貧富の差がない」ことは事実に反している。「許容限度内の差」とでも言えばまだマシだが、
そうなると、誰が許容するのか、が問われる。
…結局上記は、社会の現実から目を背けることを奨励する懐柔的意見かな。
143革命的名無しさん:2007/12/02(日) 20:03:02
62 名前: OFW 投稿日: 2001/02/27(火) 21:46
>>60
>ココのスレッドは難しいから 無産階級の人間には理解できないや
「無産階級」とは随分古めかしい言葉が登場するな。
無産=財産をもたないかどうかは本質的な階級区分ではない。
生産手段の所有・非所有こそが、階級の本質であり、財産はその結果に過ぎない。
資本主義社会は、労働者階級と資本家階級の対立関係によって支えられている。
資本とは過去の労働の成果であり、それが労働しない階級により占有されているために、
世の中が乱れ、多くの不正・悲惨を生じているということこそ、近代の階級社会の姿。
かって江戸時代の学者安藤昌益が、身分としての武家階級が農民階級を支配していた姿を
「不耕−直耕」の転倒が自然の道を覆していると言ったように、近代社会では貨幣・資本が
人間をモノに変え、モノが人間を支配するという転倒した姿を現出している。
労働者が生産手段を所有することで、真に社会を自らのものとし、無階級社会に到達すること
が可能になる。
これは至って単純明快な話。
144革命的名無しさん:2007/12/02(日) 20:16:52
>>140
労働市場においては基本的に供給過剰が原則だから?
145革命的名無しさん:2007/12/03(月) 12:31:35
OFWのコピペ氏さんよ、『資本論』を読んだこともないような
連中の白日夢しかカキコしてないこんな強酸党板なんかでOFWが
理解されることなんぞ無いぞ。
経済学板か鉄板に行けや。
146革命的名無しさん:2007/12/03(月) 18:05:08
63 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/02/27(火) 22:05
?株を買っても生産手段を所有したことになるんじゃないの?
金持ち父さんと同じじゃん

64 名前: OFW 投稿日: 2001/02/28(水) 02:00
>>63
労働者(生産者)が株を買えば、労働資本家になるが、誰を雇用する(どの労働力商品を買う)のかな?
タコが自分の足を食うようにして、階級は消滅する???
147革命的名無しさん:2007/12/03(月) 18:08:08
71 名前: OFW 投稿日: 2001/03/09(金) 18:19
>>65(45)
レスが遅れてすみません。
>例えば、日本には年功賃金やボーナス制度といった特有の賃金形態が存在しています。
…外国諸国には見られない上記の賃金形態をどう説明できますか?なぜ、国家間で異なるのでしょう?

およそ客観的科学を志すならば、事物の現象形態とその本質とは異なるという点は忘れてはならない
大原則でしょう。
資本家と労働者とが対等に対面して、”ギブアンドテイク”の精神に基づき、雇用契約という等価交換契約
を結ぶという見かけは擬制であり、事柄の本質を覆い隠すものです。
そして、そこには政治的な要素が抜き難く存在している。
年功賃金やボーナスとは前近代的な「血縁イデオロギー社会」(山本七平)を物質的に保証するための
日本特有の遅れた資本主義の特徴ですが、事柄の本質は変わらない。
そして、「国家間で異なる」のは、経済がまさに政治的な本性を持っているからです。
「政治とは無縁な経済学」とは政治的イデオロギーでしょう。

>政策を実際に行う上に於いてはある程度恣意的にならざるを得ないのではないでしょうか。
社会の階級構造は恣意的ではなく必然的なものであり、政治施策は階級利害にその根拠をもちます。

>>67
>OFWさんって、昔15chで銅鑼さんとかすりらんかさんとと、 論争してたんだね。
そうです(汗)。まだ固定HNではなかったのですが。
しかし、あの板のセクト的な雰囲気には参ったな。銅鑼(ドラエモン)氏の「顔を立てて」(笑)引き下がったが、
近視眼的な論者が多過ぎですね。

>>69
>OFWってなんて読むの?如何言う意味っすか?
Old-Fashioned-Well(流行遅れの井戸)です。最近は古い知恵が廃れた、という感慨を込めて…、
なんちゃって。
148革命的名無しさん:2007/12/03(月) 18:09:54
73 名前: OFW 投稿日: 2001/03/11(日) 00:37
>>72
>まあ、あの議論を読んでどう感じるかは人それぞれでしょうけどね。
それはその通りで、感じは主観的なものですが、人間が理性的存在であるならば、対象的な真実は
客観性をもつと言えます。
特に、階級分裂をしている社会においては、支配階級と従属階級とで事態があべこべに現れるという点は、
忘れてはいけない点でしょう。
近代以降の最も根源的なイデオロギーとは商品、貨幣、資本のそれであり、それが自然的で永遠の存在
であるかのように説く学者、知識人とは、真理ではなく、自己の階級的利益を追求していると言わざるを得
ない。
労働者が自己を知り、現実的な類に高まるためには、イデオロギーを廃し、社会に対する現実的な認識と
共同的な実践が不可欠です。
働くことは人間が自然から自立するための最も根源的な行為であり、畢竟、経済とは「労働力の節約」に
関する事柄を言うのです。
確かに、資本主義社会では、それは転倒され、むしろ「労働力の濫費」こそが経済的と呼ばれていますが。
経済学を志す者ならば、経済が社会的人間の本質と如何なる関連を持つのか、という点を片時も忘れて
はならないでしょう。
149革命的名無しさん:2007/12/04(火) 10:39:24
すべてはユダヤの歴史操作と歴史発展において捉えられなければならない!



すべての歴史はユダヤによって操作されて来た!戦争と平和、革命はすべてユダヤに
より作られて来た!
しかし、にも拘わらず九条改悪妄動、新テロ特措法策動等重大なる政治的挑発を勤労国民に
対し仕掛け、そして韓国に事実上乗っ取られたライオンズクラブによる国民大半の
超過利潤による買収の結果としての暴走族に典型的にみられる内乱罪該当行為及び
多々の人心荒廃を齎して来るならば、我々日本国民はこれらに対して身命をとして
闘争せざるを得ない!

我々は人間なのである!最早、歴史の秘密が明らかになった以上、ライオンズクラブを
始めとする全ユダヤを徹底して排斥し、インターナショナルの旗のもとに団結し、
これからの歴史は人間の崇高なる使命として社会主義革命を実現し、経済政治を完全に
その制御のもとに置き社会の真の主人公をユダヤから人類に代えなければならないのである!
150革命的名無しさん:2007/12/04(火) 10:40:59
ライオンズクラブってユダヤ系なの?
151革命的名無しさん:2007/12/04(火) 11:37:11
もう人間廃業しろ!

この二枚舌の超臆病者のド阿呆!
152革命的名無しさん:2007/12/04(火) 12:20:21
>>151
いわれんでも、もうとうにオオカミになって楽しんでますがな。
153革命的名無しさん:2007/12/04(火) 19:54:34
秘密組織ライオンズクラブ全員抹殺すべし!
154革命的名無しさん:2007/12/04(火) 21:54:18
はいはい木村愛二はすっこんでろ。つーか木村はプルードン主義者だろ、反マルクスに用ねぇし
155革命的名無しさん:2007/12/04(火) 21:59:30
陰謀論読んだらユダヤ凄ぇと思うよ、資本論読んで資本主義凄ぇと思うように。まぁ、マルクスは別に反資本主義小児病じゃないし。何でも反をつけるのは昔のファシズムだな。
156革命的名無しさん:2007/12/05(水) 10:29:42
とイルミナティの使い走りが申しております。
157革命的名無しさん:2007/12/05(水) 12:04:38
超過利潤について分析すること無く現代社会を語る事は全くの虚偽か、無意味である!
158革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:38:42
309 名前:OFW :03/07/12 05:52
別スレで質問が出たので、久しぶりにこちらにカキコ。 
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1052665119/108

>108 :ふにゃぽん :03/07/11 09:43
>まず、階級、分業の廃棄のためには、高度な分業に裏打ちされた、高いな生産力が必要なわけで
 すが、その高い生産力を維持、発展させて行くには、やはり高度な「専門技能」=「ほぼ一生を、そ
 の専門技能の習得、および発展に費やさねばならないくらいの膨大な教育、研鑚」が必要になるわ
 けで、結果として、「分業の廃棄」が非常に困難になるように思われるのですが、ここはいかがでしょう
 か?
 
専門分野に必要な技能を習得するために「ほぼ一生を費やす」としたら、
それは高い生産力水準とは言えないでしょう。
一方で高度な道具=“簡単な”操作で高機能・高性能な作業を行う労働手段が
人間の<非有機的身体>として存在し、他方で高度な精神性=個別的な形態
のうちにある普遍性の習得が容易であることが高い生産力です。
「今では企業秘密がなくなり、世界のどこからでも最新コンピュータの動作原理を
マスターする教育プログラムを受講できるようになった。
これもInternational Non-Business Machine のおかげだ。」

遅れました。
OFW氏のコピペ私が継投します。
159革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:39:23
312 名前:OFW :03/07/12 10:03
>>310(ふにゃぽんさん)
>半導体や回路に至るまで、構造を熟知している人間は少ない
それは能力の問題ではなく、社会的必要(労働時間)がないためでしょう。

>高性能にさせていくのは、そうした人間にしかできない。
コンピュータと通信の一つの結合技術である携帯電話に関して言えば、その原理とそれを
実現させる機構、そして両者を物理的・論理的に構造化させる技術(移動体通信技術)は
比較的最近(30〜40年?)のもの。
それは短期間のうちに飛躍的に発展を遂げたが、それが可能だったのは、(昔のエジソンや
グラハムベルのように)少数の専門家がいたというより、開発・製造が多数の<非専門的専
門家>に分業化され、それらの社会的総合(技術水準by戸坂潤)の成果として現われた
からでしょう。 
携帯電話を実現させるために動員される多くの知識・技術は、個別に見れば、高校生レベル
の能力・教養でも十分理解可能な科学技術であり、理論やノウハウが公開されればされるほ
ど、誰でも短時間で習得し活用可能な環境になる。要は、各部門に割り当てるべき労働時間
の節約(エコノミー)の問題であり、素質や熟練の問題ではないでしょう。
160革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:40:26
318 名前:OFW :03/07/13 14:44
>>313
>俗流マルクス主義的スターリン主義者
 どこからそうなるのかな?

>実体主義者
 弁証法とは究極の実体を認めない立場、くらいは理解しておこう。 
 <実体>と<関係>とは相互反照する概念であり、関係の関係としての
 自己関係が実体であり、実体の真理は<主体>だということです。

>宇野+広松=青木
 右辺は知らないが、左辺の下らなさは良く知っているから、多分計算式
 が合っているならその値はゼロとなり、期待は殆んどできないな。
161革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:42:32
324 名前:OFW :03/07/15 23:06
>>321(302さん)
>関係実体論
初めて聞く言葉(関係論でも実体論でもない)で、意味不明。
関係vs実体は対立概念であり、諸関係の総体としてその否定が実体で
あり、実体の諸現象としてその否定が実在的な諸関係です。

>上の文章のとおりだから主体なるものは諸関係の複合にすぎない
誤解があるようですね。上で言っていることは、実体とは関係の関係
(自己との関係、自己内相関)であり、単なる諸関係の複合ではないということ、
そして、主体とは実体の真理(その概念に合致する存在)として、自己を知る
(自己に向かっている)者である、ということです。
例:「動物は対象に関係するが、人間は関係に関係する」(マルクス)。
  「人間の本質とは、・・・その現実の在り方においては、社会諸関係の総体
  (アンサンブル)なのである」(マルクス)。
162革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:44:06
328 名前:OFW :03/07/16 23:40
>>325(302さん)
>この点で広松とOFW氏に違いは無いんじゃないかと。
私(OFW)は関係主義者ではないから、大いに違いがあるでしょう。

>どうして関係の総体が関係の否定になるのか
<社会諸関係>(<諸本質>と言っても良い)とは、社会の中で諸個人
が取り結ぶさまざまな関係のことであり、それには経済的、法的、政治的、
芸術的、(狭義の)社会的等々、種々のものがある。
それぞれの社会関係は社会科学の個別分野(経済学、法学、政治学等々)
により研究され、諸個人間の経済的関係、法的関係等々、固有の関係性
(本質性)として定立されている。
しかし、すべての関係を現実に担う主体(実体にあらず)は諸個人であり、
各個人はすべての社会関係に関与すると同時に、それらの単なる寄せ集め
ではない。たとえば、もっぱら経済活動だけを行う個人は「経済動物」
と呼ばれ、伴侶から「あなたは人間ではない」と言われる結果にもなる。

>マルクスが初期の個人実体説を清算した文言として
初期マルクスは「個人実体説」(用語自体耳慣れないが)論者にあらず。
163革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:45:17
334 名前:OFW :03/07/17 22:46
>>330
>マルクスの相対的過剰人口論
産業革命以来において失業者が増えてきた理由についての論議ですが、
平たく言うと、機械制大工業が発達するにつれてモノが安く作れるが、
それ以上に労働力(人間)が必要なくなり一文無しが増える、ということです。

>>331
>関係の第一次性論を批判しないで
取り合えず下記を参照下さい
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1052665119/79-

>人間は諸関係の結節点にすぎない
と本気で思っているとしたら、どういう事か、自身の言葉での説明きぼーん。 

>ヒューマニスト
通常「人間主義者」「人文主義者」と訳されるが、多分マルクスには当てはまらない
レッテルかと。
164革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:46:48
335 名前:OFW :03/07/17 22:50
>>332
>もっと詳しく説明してほしいところだけど。
そうですか・・・。たとえば「浮世のしがらみ」という言葉がありますね。
あるいは「義理と人情の板ばさみ」でも良いが・・・。
<義理>とは一つの人間の関係性(倫理)ですが、ある社会(江戸時代
日本)に固有の、社会(諸個人の集まり)の統合原理だった。
一方<人情>とは、当時において<ある普遍的なもの>(今で言えば
「人間性」)として意識され始めてきた、別の統合原理の萌芽でしょう。
既に、義理では如何とも、し難い事柄(例:男女間の恋愛)があったわけで、
義理という倫理的関係は否定的なものと現われていた。
その場合、倫理だけを捉えると、その状況は説明できない。社会(個人
の実体)故に個人(そして個人間の関係)があり、個人と共に社会が動く。

あるいは・・・。現代は<職業社会>として、分業(労働の分割)が極限
にまで進んでいる。哲学者は哲学オンリー、運転手は運転オンリーだが。

・・・結構酔っているので、本日は、この位で失礼をば。
165革命的名無しさん:2007/12/06(木) 11:48:58
341 名前:OFW :03/07/18 19:32
>>333
知的啓蒙の徒として発言している積もりですが、インチキ思想が大杉。

>>338
>本質と現象、原因と結果の連鎖
本質と現象は連鎖関係ではなく、反照関係です。また<相互作用>とは
実体間について言われる概念であり、本質と現象は相互作用しない。

>ホーリズムの立場の広松的表現だろう。
関係主義の帰結がホーリズム(全体論、全体主義)とは、反ー弁証法的
(対立物への無媒介的な転化)で面白い。何故なら通常、全体主義とは
実体主義の一種と考えられているから。
例:日本民族とは個々の日本人の底にある悠久の実体である(民族主義者)。
関係(媒介性)の一次性(無媒介的な直接性)という矛盾の現われかと。

>質料は形相が現実のかたちを得るための条件という程度
「霊魂が現実のかたちを得るために、肉体という条件を必要とする」
とは唯心論。森は森の木が集まって形成されるが、森の木を離れて森は
ない。<森の形>は種々の樹木間の相互作用により規定され、変化する。
166革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:36:24
342 名前:OFW :03/07/18 19:33
>>339
>機械的連帯から有機的連帯への図式
義理とは有機的(前近代的)であり、人間愛とは機械的(近代的)とも
言えますね。本来の機械は生物(有機体)より後世に現われたのは確か。

>社会と個人が相互に媒介されていると言ってるだけにしか思えませんが。
上記の文だけ取ればそうでしょうが、諸個人(実在的部分)が先です。

>OFW氏も広松も同じヘーゲリアンであり、社会有機体説である
<ヘーゲル主義者>とは如何なる内容かな? 少なくとも、私(OFW)も
ヘーゲル(精神論者)も社会有機体論者(社会=一つの有機体)ではない。

>>340
>この「社会」って、ホーリズム的な全体と違うんじゃないの。
全体は存在しません。社会は複数の主体から構成され、維持され、発展
する相互交渉の開かれた場(空間性)として表象できるでしょう。 

>円環的な閉じられた構造に対する、ドゥルーズとガタリの批判
<円環的構造>は一定の自己同一性を定立しますが、無論、永久機関は
不可能であり<、現実の構造は常に開かれたもの(例:蒸気機関の螺旋構造)。
167革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:37:26
349 名前:OFW :03/07/19 11:28
>>343(340さん)
>ドゥルーズとガタリに近い
そうでしょか?脱構築主義者には根無し草(デラシネ)の退廃性が漂い、
成果を生まない自己(知識人階級)のアリバイ作りしか見えないが。

>>345
>直接に相互作用にかけてません。
了解デス(そうかなともオモたが)。

>質料因の位置づけが、おそらく関係主義を批判するうえでの重要論点だ
たとえば、廣松氏お好みの<紙の上の模様→老婆あるいは若い女性>と
は、それ自体外的な関係(形態)ですね。
有機体において質料の形相化が客観的に現われてくる。種子が発芽して
枝葉を広げ、花を付け、実を結ぶ、という自然過程は、可能態としての
質料が現成態としての形相に推移する形態転化(ヘーゲル流推論w)で
すが、質料の無限の可能性(生物の多様性)は環境との相互作用により、
独特の形相を創発的に生むことがある。それは、「始めに関係ありき」ではなく、
新たな関係性の歴史的創造と言えるでしょう。
168革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:38:08
349 名前:OFW :03/07/19 11:28
>>343(340さん)
>ドゥルーズとガタリに近い
そうでしょか?脱構築主義者には根無し草(デラシネ)の退廃性が漂い、
成果を生まない自己(知識人階級)のアリバイ作りしか見えないが。

>>345
>直接に相互作用にかけてません。
了解デス(そうかなともオモたが)。

>質料因の位置づけが、おそらく関係主義を批判するうえでの重要論点だ
たとえば、廣松氏お好みの<紙の上の模様→老婆あるいは若い女性>と
は、それ自体外的な関係(形態)ですね。
有機体において質料の形相化が客観的に現われてくる。種子が発芽して
枝葉を広げ、花を付け、実を結ぶ、という自然過程は、可能態としての
質料が現成態としての形相に推移する形態転化(ヘーゲル流推論w)で
すが、質料の無限の可能性(生物の多様性)は環境との相互作用により、
独特の形相を創発的に生むことがある。それは、「始めに関係ありき」ではなく、
新たな関係性の歴史的創造と言えるでしょう。
169革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:38:44
352 名前:OFW :03/07/20 23:27
>>351
>これだけではベルグソンみたいのに取り込まれうるわけで。
無論、あくまで質料vs形相という抽象的対立の自然界での例デス。

>革命的質料主義の立脚点をさぐる
「革命」とは喚情的効果(byI.A.リチャーズ)が強いだけの言葉かと。

>現実の諸個人が社会形成の出発点であるからこそ社会を根底から変革
アリストテレスも、実体とは形相と質料の統一としての個物であるとして現実態
を重視したが、社会の主体(実体の真理)は奴隷だった。
「主人が主人であるのは、奴隷が主人に対して奴隷として振舞うが故。」

>高度に物象化が進んだシステムにおいても(おいてこそ)言える
映画『マトリックス』のように、<システム>に支配された人間が反逆を企てるという
テーマはハリウッド映画お好みの一つであり、大衆の疎外感を代償的に満たす商業
戦略は成功していると言えますね。
しかし、そこにあるシステムの実体視とヒューマニズムはそれ自体幻想的なもの。
何故なら、システムとは<それが在ると思い込む時にのみ存在する>ような全体
(つまり仮象)だから。
資本主義的価値システムも同様です。
170革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:40:48
353 名前:OFW :03/07/20 23:28
>>351(つづき)
>主観が思惟を基盤にしてるかぎり、対象に外面的であるという思惟の限界は免れえないわけで、
 それゆえ複数の主観が要請され、共同主観性論になってしまう

論点は「ヘーゲル主義の認識論如何」でしたが、認識論が言語論的転回
を遂げて進行中なのは、それなりの必然性があるでしょう。思惟は常に言語
において現実的な働きですから、それ自体複数の主観においてのみ成立
する対話(弁証法)的な活動だということです。
認識は主観とその対象(実在)との関係としてあるが、対象性の転回が起き
る地点では他の主観(主観の他在、否定)が必要です。共同主観と呼ばれ
るものは止揚された(大文字の)主観としての表象であり、実在の経験的主
観ではないという事情は、言語論的には<観念的な自己分裂>(by三浦つとむ)
と呼ばれています。 

>この点で、「生産の過程としての自然」こそが実在的な連関だと主張し、間主観的関係に対置し
  たポストモダンに学ぶ点はあると思われる。

間主観的関係と実在的連関とが如何に対置されるのか、今一つ不明。
171革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:42:15
359 名前:OFW :03/07/21 19:56
>>354-355(ザハトホ実存主義者さん)
>現実は、・・・ある一つの体系に完全に還元する事はできない。
>>352等で言っているのは、まさにそのこと(イデオロギー=観念論的
解釈&体系的全体存在の否定)だが?

>民衆の現実を置き去りにすることができた
具体的に、どのような現実を指しているのかな?

>抽象的な議論をいくら繰り返したとしても、その議論が具体的な社会に密着していないなら、
  それは何ら実践的な意義を持たない空疎な議論
具体的に、どの理論を指しているのかな?
「具体的なものとは抽象的なものの結合である」(トロツキー)であり、
社会という最も具体的な存在の解明&止揚には、高度の抽象力が必要。

>具体の生産点での諸問題の具体的な解決を、体制内化する機関
具体的に、どの機関を指しているのかな?
172革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:43:19
363 名前:OFW :03/07/23 05:42
>>360
>般若心経の世界
「色即是空」ですか。
「実体の真理は主体である。」とは<即>という直接的な関係ではなく、
最高度の媒介関係(必然性の真理は自由である)を言います。

>社会形態には実体がないという。
そんなことは言っていないが。仮象は必然的な仮象(現象)です。

>主観的な取り違えとは別に、客観的転倒も存在する
むしろ、客観的な諸条件により主観的な取り違えが起きる、でしょう。
例:社会的な生産が私的に行われるとき、物象化は必然的なものとなる。
173革命的名無しさん:2007/12/06(木) 12:45:54
364 名前:OFW :03/07/23 05:45
>>361
>『イデオロギーとしての技術と科学』
は未見ですが、確かに“マルクス主義者”ハーバーマスが労働に言及しないのは、
ホルクハイマー『道具的理性批判』以来のフランクフルト学派に共通する表面的
な労働観(近代的技術主義という前提)に由来するかと。
その点で、自然に向かう労働と自己形成との必然的な結びつき(例:主人vs奴隷
関係の止揚)を押さえているヘーゲルの方が深い。

>「対話」によって共通了解あるいはフュアウンスがもたらされたとしても、それが知と存在の一致
  である保障があるわけではない。
無論、真理は多数決で決まるような事柄ではないが、誤謬(非真理)を必然的契機
とする運動であり、存在の普遍性に向かう知にとって<他者の知>が必要だということ。

>はじめに行為ありき、というのがポイント。
はじめに対象的行為ありき、でしょうね。
174革命的名無しさん:2007/12/06(木) 14:03:51
マトリックスのアニメ版を見ればわかるが、マシン軍団は共産主義のアナロジーと言える。この手のアナロジーはR.U.R.から続く古典的なもの。単なる物象の主体化ではないだろう。
175革命的名無しさん:2007/12/06(木) 18:04:13
372 名前:OFW :03/07/25 02:55
>>368(あちょーさん)
>主観をいくら集めても間主観になるだけで、真の客観にはならないです。
 確かに「複数の主観」と言うと主観が数えられるような誤解を生むが、
 本来<数えられるもの>は実在と呼ばれ、個物、個体あるいは個人など
 を指します。それらの共通の特徴は単位として分かたれた部分であると
 いうことです。一方、主観は実在しません。それは知る働き(主体)で
 あり、主観が存在するもの(対象的ないし客観的なもの)と考えられた
 場合、その特徴は<一者>として分かち得ない全体であるという点に
 あります。その存在性格は、実在と区別して、本質存在と呼ばれます。
>共同体の連帯協力によって得られた認識は共同主観です。
 たとえば共同体とは実在ではなく、本質存在です。それはある全体的な
 ものを指しますが、複数の共同体(他の共同体)が存在するとは、それ
 らが既に全体ではなく、諸部分であることですから、連帯協力は間主観
 であって、共同主観ではないでしょう。また、それらの連帯により得ら
 れた(対象化された)認識内容は一つの客観ですが、認識主体(主観)
 は複数ですね。共同主観の例としては国家(例:一つの日本)がある。
176革命的名無しさん:2007/12/06(木) 18:04:50
373 名前:OFW :03/07/25 02:56
>>369(あちょーさん)
>マルクスは、労働者と資本家に分けて考え
 たのは、主観的(安易?)な認識ではなく、客観的な根拠に基づくもの
 です。考えを「安易な考え」と「根拠のある考え」に分けて考えること
 が、哲学では重要です。
>上に立つ人や資本家の言動
 言葉を発することも、一つの労働(働きかけ)ですから、その限りでは、
 資本家も労働している。
 資本の反対語は賃労働(特殊な方式における労働)であり、労働一般で
 はないということです。
177革命的名無しさん:2007/12/06(木) 18:05:31
380 名前:OFW :03/07/26 04:41
>>377(あちょーさん)
>性質、概念、役割といった・・・複数の本質存在
 そうですね。本質は分かち得ないが「或る本質」(あるいは諸本質)と
 という場合、それは既に分類されて複数になっている。分類とは<類の
 分割>であり、それぞれの本質存在は特殊な<種>(種類)と呼ばれます。
 アリストテレスはそれらの諸本質を数え上げて<カテゴリー表>(範疇表)
 というものを作り、カントが認識(正確には判断)の基礎として、再び
 取り上げた。最高レベルのカテゴリーは、<質><量><関係><様相>
 という4つの本質存在です。しかし彼等は、それら相互の関係は何なのか
 という点については明確にしなかった。ヘーゲルが類ー種ー個の相互関係
 に基づいて、諸本質存在の必然性を明らかにしたのが『論理学』です。
>細胞の集合である人間の主観も共同主観であるといえます。
 集合体を形成する個々の細胞が、勝手に(主観的に)「私は一個の主体で
 ある」と考えて活動したら、人間の体はバラバラになってしまうでしょう。
 最初に一つの胚細胞があり、細胞分裂して多くの子供の細胞になり、
 それらが集まって諸器官を作り、最終的に一つの肉体(個体)ができる。
178革命的名無しさん:2007/12/08(土) 19:23:25
381 名前:OFW :03/07/26 04:42
>>377(あちょーさん)(つづき)
>主観と共同主観は実在としては同じものです。
そうです。つまり、共同主観などは実在しない(表象に過ぎない)のです。

>マルクス主義が失敗したのはなぜでしょう。
「失敗した」でしょうか? たとえばイラク戦争はまだ終わっていない。アメリカ資本主義は成功した?

>>379
>「資本家」と「労働者」に分けた客観的な根拠
他人の労働を自己のものに(私有)するか、自己の労働を他人のものにされるか(疎外された労働)か、です。
つまり、私有財産(生産手段の私有に基づく過去労働の領有)が資本の根拠です。
179革命的名無しさん:2007/12/08(土) 19:24:26
388 名前:OFW :03/07/26 23:29
>>382
>株式会社の場合
「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)であり、資本主義的階級対立の特徴は、主人と奴隷の
関係(人格的支配)ではなく、モノ(カネ含む)と人との関係(物象化的支配)です。その点では、資本家の
いない企業(“法人”)の方が、資本システムの理念型(笑)に適うとも言える。
また、日本的な株式持合い制度は、系列化や企業グループ化を目指した独占(競争の制限)の特殊形態。
極限的には、国家独占に至るかと。

>「マルクス主義が失敗したかどうか」は別でしょう
<共産主義>(マルクス主義)と言う場合、まず19世紀以降の世界史を貫く一つの客観的な運動(傾向性)を指し、
次にその具体的な現われ(思想、事件、政治活動等)を指します。
つまり、イラク戦争も共産主義とは別物ではなく、その世界史的な一環であり、個々の成否、現象形態を超えて、
現在進行中の歴史総体の中に位置づけて考えるべき、という趣旨です。
180革命的名無しさん:2007/12/10(月) 19:35:48
389 名前:OFW :03/07/26 23:30

>>383
>イラク特措法
<テロとの戦い>とは、冷戦後において、帝国主義(それはレーニンの時代から少しも進歩していない)的な侵略
(国家による非合法的暴力=テロ)を正当化するための新機軸に過ぎない。しかしその言葉には、確かにイデオロ
ギー固有の幻惑的効果があり、少し変だと感じる者も明確に反対の根拠を対象化できない。批判的知性が必要
な所以です。

>マルキストとしてそんなんでいいんですか?
「労働者階級の解放は、労働者自身の事業でなくてはならない」(マルクス)とは、マルキストが良く引用する言葉
ですが、これまでのマルクス主義の歴史的経験から学ぶべきことは、カクメイ家、セイジ家、チシキ人、ヤクニン等は
目立ったが、肝心の労働者自身が主体として、殆んど不在だったということでしょう。そして、現代は高度情報化社
会(洗脳社会?)であり、啓蒙(お望みなら思想闘争と言っても良いが)は、以前にも増して重要なマルキストの課
題かと。無論、最も良い自己啓蒙は、労働現場と階級闘争の中にあるわけですが。
181革命的名無しさん:2007/12/10(月) 19:36:43
394 名前:OFW :03/07/27 17:12

>>386(あちょーさん)
>バラバラでない統制された集合体を形成する
繰り返しますが、ヒトのような多細胞生物において<個体発生>は一つの胚細胞(卵細胞)から始まり、
多くの細胞分裂の成果として、一個の個体が形成される。予め多くの細胞主体があって、それらが集合
したのではなく、個体形成の過程が<主体形成>の過程であるわけです。

>共同主観も存在するもの(対象的ないし客観的なもの)
表象(主観的なもの)として存在すると言うならば、正しいでしょう。

>通貨より信用できる政治があれば通貨はなくなると思います。
確かに誰でも(女子小学生ですら)政治家の言うことよりおカネの言うことを聞くようだから、未だそういう政治は
存在していない。
荻生徂徠『政談』ではないが、武士(=かっての政治家)よりも商人の方が実権をもつ社会だということですね。

>>393>労働者階級がマルクス主義を必要としていないのでは?
何より必要としているのは、カネでしょうか。「それ(貨幣の秘密)は自分達の労働のことだ」という知恵は、必要
ないかな?
182革命的名無しさん:2007/12/14(金) 19:51:32
ここからはぼくが担当します。
23がOFWさんですからね。

23 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/25(金) 20:33
>1
労働者が自分の足でしっかりと立って世界を我がものにするためには、唯物論は必須の哲学でしょう。
すべての観念論は頭で立っていますから。

26 名前: 23 投稿日: 2000/08/26(土) 00:15
>25
ジャーナリストとして、最初はライン新聞の編集主任やニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の外国人特派員
として収入を得ていたが、お尋ね者になってからはひどい貧乏で、エンゲルスの援助を受けていた。
「資本論」の出版で少し息をついた時期もあった。

29 名前: 23 投稿日: 2000/08/26(土) 08:34
>28
と言うよりは、ジャーナリスト時代には農民が入会地(共有地)に自由に出入りできない現実から、
いわゆる「疎外された労働」という考えを持つようになった。
賃労働−資本の対立関係(資本家による労働者の搾取)を意識して、上記の疎外された労働と関係づける
ようになったのはむしろエンゲルスとの出会いにより、イギリス労働者階級の状況や共産主義的な運動を知る
ようになってからだと思います。
183革命的名無しさん:2007/12/14(金) 19:57:09
31 名前: 23 投稿日: 2000/08/26(土) 09:45
>30
>マルクス本人は資本主義のシステムにはあまりタッチしてなかった
「タッチする」という事の意味によります。因みにエンゲルスは父親の工場経営を継ぎ、また上記のようにマスクスを
経済的に支えるために、表向きは20年間温厚なビジネスマンを通したと言う事です。
また、マルクスはこんな事を「資本論」の中で言っています。
「ブルジョア経済学者達は貨幣の研究において本質を把える事には失敗してきたが、研究対象にはいつも困らない
状態にある。」(全然正確な引用ではなく、勝手なパラフレーズですが)皮肉がきついと言うより、本当に金には
不自由していたことを感じさせる。

33 名前: 23 投稿日: 2000/08/27(日) 09:47
宇野弘蔵は「『マルクス経済学』は『マルクス主義経済学』ではない。」と言って、アカデミズムの中に安住した
権威主義的な学者だろう。
彼はマルクスの「威光」を借りながら、同時に「その誤りを正して」独自の経済学(実は無内容なマルサス主義)
を作ったと言える程の、破廉恥なマルクス捏造者だ。
柄谷なども表面的な理解をもってマルクス解釈を説き、自由人の連合により文学的かつ「哲学的」共産主義を
実現しようとする、ポストモダン的曖昧さを売り物にする非プロレタリア的インテリに過ぎない。
労働者の解放は労働者自身の行為でなくてはならない。
184革命的名無しさん:2007/12/14(金) 19:57:39
37 名前: 32 投稿日: 2000/08/27(日) 23:50
>36
「誰がいいのですか?」と言う意味が良く分からないな。
もし、マルクス自身の考えが知りたければ、まず本人の著作を読む事です。あるいは、現在のマルクス主義と
見なされる思想諸潮流のうち「最も正統的な」ものは何かということなら、多分それぞれが自己をそうだと
主張していますから、自分で判断するしかない。
また、単に最近のマルクス主義的な動向(新傾向)は何かということなら、様々な傾向(多分に拡散的)があり、
これまたどれが良いとは言えない。 結局、「マルクス(主義)って何?」とは自分で調べ、考えるしかない。
但し、「労働者の自己解放を通して、人類の解放を目指す。」という壮大な射程を持った思想(家)である事は、
その具体的内容と歴史的展開は今措くとしても、確かに言えると思います。

38 名前: 37 投稿日: 2000/08/27(日) 23:53
誤: 名前: 32
正: 名前: 23
失礼しました。
185革命的名無しさん:2007/12/14(金) 19:59:00
42 名前: 23 投稿日: 2000/09/01(金) 02:32
>41
>大衆は消費をとおして消極的に支配階級?を支配しうる
それは余り論理的ではないし、歴史的必然だとも思わないな。ルフェーブルに関しては良く知らないが、
吉本氏は余り論理的な思考が得意ではないと思います。(当人はどう思っているかは知りませんが。)
確かに現代先進国では表面上、「大衆」は物質的豊かさに浸っており「アツイ」ものは流行らないように
見えるかも知れないが、傍観者的な態度では何も出てこないでしょう。
186マル同巨根派:2007/12/15(土) 08:59:03
ここからはオレが張るから。

5 名前: OFW 投稿日: 2001/03/23(金) 21:23
労働(Work)はまず、人間の必然(必要)として存在する。
それは個体の物質的な生存を維持するために、生活手段を生産しなければならないという点において、
人間に課せられた単純な自然的条件である。そして古来より、人間は協働という形態で生産を営んで
きたが、それは圧倒的な自然力の前では、明らかに個体の生産能力のみで個体を維持することは
不十分であることから来ている。

自然との交渉、それとの物質代謝過程において、個体は他の個体との関係に入る。共同体とは、
まずもって生産共同体として歴史に登場したのである。
そして、共同体の掟とは、互いに協力関係を結ばなければ、成員の生存が維持できないという、
自然的な厳然性として共同体の必然であったろう。

「自由な個人」などという虚構は、歴史のずっと後において誕生するのであり、産業革命と交易によって、
社会的な生産力が飛躍的に増大した近代以降のものである。
それは、むしろ圧倒的な迄に緊密化した社会的分業の存在を前提しており、商品と貨幣(一般的等価物)
によって覆い隠された人間社会の共同性を、否定的(他者化された)形態で主張する。
実際、その内実は所有としての所有(私有)によって保証された、排他的自己を称揚する利己主義に過ぎず、
アダム・スミスが説いた「自愛心」も、階級対立の中では、他者の労働を私有化する(労働力商品の購買と使用)
という、搾取関係の正当化でしかない。

労働とは、それにより人間が類として自由になるための媒介であり、個人が他者との協働の中で、具体的・
現実的に自己になり、その成果のうちに具体的普遍としての自己を対象化させる行為である。

市場における商品の売買によって利益を得ること、それは実際には他者の労働の成果を我が物にする
ということであり、その根拠である類的・共同的労働の蔑視であり、畢竟、労働者階級への敵対行為である。

現代の疎外された社会における勤労道徳の主張は、まずもって「働かざる資本家は食うべからず」という点から始め、
賃労働(労働力商品)の廃止へと進むべきであろう。
187マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:01:51
13 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>7
>もう少し詳しく、商品としての労働/労働力と言う事ですか?
賃労働は通常、労働力市場における使用者と労働者との間での自由な雇用契約による等価交換と
されていますが、何と何を交換するのかを考えて見れば、それは“裸の労働力”の一定量を貨幣と交換
するという点にあることが分かるでしょう。賃労働者は“自由な”商品です。

>有産階級/無産階級、不変資本/可変資本、外在化・物象化・疎外
まず、階級とは“生産手段の所有/非所有に基づく社会成員の区分”です。
資本主義社会では、資本家階級と労働者階級が基底的・本質的な階級であり、両者は弁証法的な
対立関係に置かれています。
そして、その他の階級、自営農民、自営業者、自由業等は中産階級と呼ばれ、不安定な動揺のうちに
あるメンバーでしょう。財産の有無は結果であり、原因ではない。

次に、「外在化」「物象化」「疎外」は相互に関連する概念ですが、
外在化(外化)とは、可能的・潜在的な存在が現実的・顕在的になること。

物象化とは、人と人との関係が物と物との関係として現象するという、近代特有の疎外の一種であり、
資本主義社会の全体に及んでいる(例:貨幣物神、俗物性(スノッブ)、官僚主義、システム主義、
業績主義)です。

疎外とは、自己の本質の外化がその喪失として現象する、ということです。畢竟、それは労働(対象的
な生産活動)の疎外に根拠を持っている。

>>8
>労働は自由への道と言うわけですか?
そうですね。国会図書館のカウンターの上には、「真理は我らを自由にする」という標語が掲げられていますが、
精神論としては正しい言葉も唯物論としては、「労働は我らを自由にする」が正しい。
もっとも、これはヒットラー・ナチが強制収容所の門の上に掲げたものと同じですが…。
188マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:04:19
14 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>9
>共産党の方ですか?
じぇんじぇん違います。日本共産党は共産主義政党ではありません(これホント)。
精々社会民主主義の党でしょう。

>>10
>共産党の人々って労働者なのかのう…?
一般党員はそうでしょうが、指導部は「職業政治家」でしょう。

>マルクス=大英博物館の紙魚=働かないオタク
最近の風潮の受け売りではなく、自分で調べ、考えましょう。
あなたが労働者(サラリーマン)あるいは将来の労働者である学生さんなら、自分がなにものであるかを正しく
理解することは、実践的な課題です。

>>12
>もっと建設的な話をしようよ。
そうですね。近代的な労働倫理については、何と言っても、西欧の国民精神の基調ともなっている、フランクリン、
ジョン・ロック、アダム・スミス等のものが代表でしょう。
フランクリンの13徳は、節制・勤勉・質素を精神的支柱とした、近代的市民(ブルジョア)の普遍的倫理であり、
また国王や教会という不労所得者ではなく、労働と私有に基づく理性的で勤勉な市民が社会の主人公だと説く
ロックの哲学は、まさに近代精神そのものです。そこでは、私有の権限(根拠)が排他的な労働に置かれているが、
おもしろいのは、交換(譲渡と取得)による富の蓄積を「黙契」(暗黙の契約)として正当化している点。
それは資本主義的「私的所有」が決して正当な等価交換に基づくものではなく、暗黙で間接的な強奪あるいは
奴隷売買によるものだということを、恥ずかしながら、認めたわけ。
言語一元主義ならば「私的言語の不可能性」と呼ぶ同じ事柄が、非言語的な労働における「所有の私秘性、
交換の不可能性」であることが、ロックにおいて読み取れます。哲学者と違い、労働者はおしゃべりをせず、黙々と
働く。
それは殆ど語られることがないが、社会の唯物論的な基礎として、働くもの(現実的なもの)です。
189マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:05:52
26 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 20:58
>>16
>風俗嬢は人間のクズ。
それは言い過ぎだ!
確かに、カネでは売買できないもの、してはならないものがある、とは倫理的な言明ですが、貨幣、資本という
物象的な力の前では、すべての人間はモノでしかない。「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)
サラリーマンと風俗嬢の違いは、見かけ程大きくはないでしょう。

>>20(7)
いわゆるマルクス経済学的な議論については、下記サイト(石塚良次氏)を参照下さい。
とても良くまとまった講義要綱です。
http://www.senshu-u.ac.jp/~the0393/99/lec/met1_14.htm
但し、労働の“哲学的な”意義といった点に関しては、労働者自身が自らの存在の根拠を反省し、自分達こそが
歴史と世界の主人であることの自覚が重要でしょうね。
「哲学は労働者階級を止揚せずには自己を止揚できない」(マルクス)。
190マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:08:10
34 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24
>人間は必ずしも共同体を必要とするのでしょうか?
必要でしょうね。個体としての人間とは類としての人間の現存在であり、それは、人類全体の内容・成果が
個人において“実現” しているということです。

>個人が必要とする諸条件と共同体が営まれる諸条件は必ずしも一致しません。
それはその通りであり、永遠に“一致”はしないでしょう。しかし、諸個人は共同体において生まれ、主体として
共同体を発展させ、そして次代にそれを伝える。個人と共に共同体も発展するのです。
具体的普遍とはそのことを言い、諸個人間のコミュニケーションが弁証法的な統一の条件です。

>共同体がシステムとして機能しなければならないのは個人が必要とするからで、それ以上でもそれ以下でも無い

それは個人と共同体との関係を外的なものとみる、近代特有の考え方です。
近代的個人が自由な主体として振舞えるのも、実際には生きるために必要な商品が市場に存在するからであり、
一般的等価物としての貨幣を所有しているおかげ。
そのため、個人は社会から自立して生きているという錯覚が生じ、社会は単なる必要物を提供する便宜的なもの、
と表象される。
それは“give and take”という利己主義的な社会観です。その結果、逆に社会の方はシステムという全体的・物象的
な存在として、個人に対して超越的なものとして迫り、全体主義的な非合理主義となって復讐を遂げた。
また人間社会の機能主義は、いわゆる社会システム論といった物象的・官僚主義的な発想を生み、個人をますます
アトム化した手段にしてしまう。
191マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:10:58
35 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24(つづき)
>労働者の共同体とはどの様なものですか?
「個人の解放は社会の解放なしにあり得ない」という言葉があります。
現在でも労働者は(分業という形態での)共同体を形成している。ただしそれは、市場という転倒した現実により
隠され、無秩序な自然状態に置かれているわけですが。それを自覚的なものにすることは、社会のすべての
物質的・精神的な豊かさを、諸個人の協働的・創造的な働きの成果として享受することになるでしょう。
そのためには、労働者間の連帯が不可欠であり、そこから「我々は一つである」との類的な自覚が生まれるでしょう。
たとえば、国家主義者はそれを言うが、国家とは幻想的実体として種的な存在でしかない。
「全体は存在しない」のです。

>個体が生存する為に共同体があるのか、共同体が運命付けられた (必然の)ものとして個体があるのか?
「必然とは盲目である。それは自己を知らず、外的な運命として個人を突然襲う」(ヘーゲル)。
必然性と言っても、外的な必然性と内的な必然性があります。
内的な必然とは、類的な本質を自己のものとして生きる個人の魂、とでも言えるが、それは別名「客観的精神」
と呼ばれます。(近代人の偶然的自由にはこの手の“大いなる精神”は理解不可能?)

>緩やかな個人主義は氏の結論からブルジョワの 欺瞞であるとされてしまうのでしょうか?
山崎正和流ですか?「緩やかな」という感性的な表現には、「現実的な」との表現を対置すべきかな。
繰り返しますが、全体主義は共産主義とは無縁の観念論ですが、近代的な個人主義も抽象的な観念論です。

>科学技術が可能とする高度情報化社会でも同様 の理論展開が可能でしょうか?
たとえば、“嫌な”労働はすべてロボットがこなし、人間は個人として自由(暇時間)を満喫できる理想社会が到来
したとして、人間は何をするのでしょう?
労働の必要とは、労働以外の余暇に向かうのではなく、労働(仕事)を内的な生命欲求の自由な発現にすること
でしょう。
192マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:12:36
36 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:23
>>33(20)
>商品論によって発見された価値の源泉としての時間やこれを梃子に展開されるマルクスの弁証法
労働価値説ですか。哲学板で何回かカキコしたが、あっと言う間に沈んでしまいました。
さしあたり、経済板での議論を参照下さい。
http://piza.2ch.net/test/read.cgi?bbs=eco&key=977618388
質問は改めてお願いします。ちょと、疲れた…。
193マル同巨根派:2007/12/15(土) 09:16:34
42 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 09:48
>>37
>社畜になったら、いつ歯医者に行けばいいのだろうか。
場所にもよりますが、会社の近くの歯医者の予約をとって、30分〜1時間位、勤務時間中に抜け出すことは、
大体皆やっている。(勤務時間中の私用外出扱い、あるいは会社も大目に見る)
>社畜になったら、いつ寝るんでしょうか。
以前よりも平均労働時間は減少しているが、中小企業の状況は相変わらずヒドイもの。
月間残業時間が50時間を超えると、帰宅時間は9時以降になる。通勤時間はむしろ伸びている。
>社畜になったら、いつ飯を食うんだろうか
朝飯を抜く人は多い。社員食堂がない場合は、昼は弁当(自前、仕出し、コンビニ)か街の飲食店を使うが
やたら集中して混む。飲み屋で晩飯を済ます御仁も少なくない。カップヌードルやパンは残業時には必需品かな…。
>社畜になったら、いつ音楽を聴くのだろう。
ウォークマンの登場以来、深夜残業中のリスニングも技術的には可能です。
>社畜になったら、いつ本を読むのだろう
サラリーマンは余り本を読まない。スポーツ紙、経済新聞、「これからのビジネスは○○しかない」といった時流もの、
あとは通俗小説位、かな。
>社畜になったら、いつ絵を描くのだろう
何の絵?大企業には絵画クラブなど各種同好会はあります。
>社畜になったら、いつ笑うのだろう
営業上はいつも大声で笑っている。
>社畜になったら、いつ泣くのだろう
“女の子”も最近は泣かないなぁ。無表情人間が増えた。
>社畜になったら、いつ2ちゃんできるのだろう
勤務時間中に私的にインターネットを使うことは、禁止です。(余り守られていないようで、会社も監視を強化している)
>社畜になったら、もう人間には戻れないのだろうか
“会社人間”が定年を迎えた場合、何が残っているかな?
194革命的名無しさん:2007/12/15(土) 17:11:47
巨根派サンは飽きっぽいからね。
OFWコピペより陸釣リに今夜もお出かけってとこかしら?
明日は休みだから、いくら疲れてもかまわない、ってとこかな。
195革命的名無しさん:2007/12/18(火) 18:15:04
>>194
絶倫派サンと巨根派サンは同一人物かな?
196革命的名無しさん:2007/12/18(火) 21:43:50
また転載よろしくお願いします
197革命的名無しさん:2007/12/20(木) 14:00:09
>>196
あのね、OFWのカキコの転載はこの板の他に、
哲学板と経済学板でも進行中だよ。
見てくるといいよ。
198巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:31:24
やっと時間をつくれました。
コピペ再開します。

48 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 21:56
>>45
(横レス失礼)
>社蓄ってさ、仕事以外に興味のあることがほとんど無い人なんだよ。
と言うより、会社と自分を一体化させて、会社の仕事以外に興味を持たない会社従業員のことでしょうね。
仕事一般について言えば、四六時中、音楽のことしか考えない作曲家もいるから。
ただし、すべてのサラリーマンは「賃金奴隷」だと言う事を忘れずに。

>社蓄から仕事をとったら何にも残らないし、誰にも相手にされない。
日本は会社社会ですから、自営業や自由業(芸能人、プロスポーツ選手、著述家等)を除けば、個人には
全く社会的な信用がない。
サラリーマンは名刺の肩書きがすべてであり、まさに、裸の労働力しかもたない境遇にある。
某革新政党が「市民と労働者の連帯を!」と言うように、サラリーマン(賃労働者)は、実質的には市民(ブルジョア)
ではないのです。
199巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:33:03
56 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 00:18
>>50
>「生涯学習」か「自己投資」かなんか知らんが
「労働力の質」を常に高めることは、技術革新や産業構造の変化に対応して自己の商品価値を維持するために、
ますます必要となるでしょう。倫理学風に言えば、勤勉=勤労と勉強がより普遍的に重要になる、かな。
日本での問題は、実業界からのニーズに対して、大学などが受け皿になれるだけのレベルがないこと、企業側
の雇用慣習が追いついていないこと。
USAでも、上昇型キャリア・コースに乗れるのは圧倒的に少数であり、巨大な貧富の格差の存在は、出発点で
の多数の諦めを生んでいるのでは?

>オレはヤだなぁ、激しく
まぁ、昨今のフリータばやりも、企業側のアウトソーシングや臨時雇用化の流れに応じた受動的なものですから、
決して安定してはいないでしょう。
バブル期以降、日本人は遊ぶことを覚えてしまったので、かっての勤勉・質素という精神的な富を食いつぶして
しまった様ですね。

>>51(45)
>ブルジョアになりたい。
名言ですが、ジャパニーズ・ドリームの可能性は、ジャンボ宝くじの確率位かな。
ITバブルもあっという間にはじけたのは、雇用拡大に結びつかなかった(情報産業の“付加価値”はもともと少ない
から、する筈もない)からで、期待は幻想でしかなかった。
…あと、「個がない」のはその通りですが、現在の風潮は「自己中」が増えたことで、それは「非社会化」と呼ばれ、
個人の社会的な自立とは異なるでしょう。
200巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:36:38
66 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 22:58
>>58
>バブルももちろんですが困窮の記憶が完全に薄れたいまとなっては使用期限切れ≠ノなるのは理の当然の
ような気がします
確かにそれは正しい。倫理はいつも時代に適応した人間関係の有り様を表現するから、使い捨て時代に
「モノを大切にする心」をいくら説いても、それだけでは無理でしょう。
そこで「モノと心の関係は如何なるものか?」という根拠への問いが必要になる。
根拠とは心とモノの同一性のことです。
その方法は弁証法的唯物論と呼ばれ、モノが溢れる中でそれが決して与えられた豊かさではなく、生み出された
豊かさであることを教えてくれる。
心ある人間がモノを求め、労働によってそれを生み出したのだ、という認識が、大事なのは労働であり、労働なし
には豊かにはならないことを教える。
ところで、これだけモノが豊かな世界の中で、労働は決して豊かではない、という事に気が付く。
それは「疎外された労働」と呼ばれる賃労働の姿です。

>>59
>労働は社会への言い訳。
珍しい意見ですね。もう少し内容を教えて欲しいな。

>>64
>OFWさんはNAMについてはどのような見解をおもちですか。
経済板でも聞かれたのですが、はっきり言って、関心ありません。大体、何で不買運動なの?

>私にはあれは唯物論から逃げようとする運動にみえ、それは無理なことだと思うのですが。
そうですね。マルクスに好意的な知識人でも唯物論者は稀です。その証拠は、労働および労働者に無関心
なこと。

>>65
>社畜になったら、思索するゆとりをもてるんだろうか???
全活動力が売上・利益に向かって動員されるから、余暇時間にはそこからの逃避として、精神を無思考状態に
置かざるを得ないでしょう。
201巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:38:31
80 名前: OFW 投稿日: 2001/03/27(火) 21:56
>>76
>働かなくても飯が食える奴を働かす謂れはないだろ。
何故「働かなくても飯が食える」のか考えて見よう。
1.他人に養って貰っている。
2.お金をたくさん持っている。
3.手を伸ばせば何でも採れる楽園に住んでいる。
の3通りが考えられる。
3番目は夢みたいな話だから、除外するとして、1の場合、他人としては、親、配偶者、パトロン、
子供(老親の場合)、社会(生活扶助)等が考えられるが、それらの人達自身も働いていない場合としては、
上記の2の場合しかない。
結局、お金を持っていることが、働かないでも生活できるためのポイントだと分かる。(これ、分かりきったこと)
しかし、お金自体は食えないから、それで買うべき商品こそが重要。そして、それは他人が働いて生産したもの、
でしょう。

>ただ、働かないのはいいとして端に迷惑をかけるのは良くないんだろうな。
どんな人も他人の働きに依存している。それが社会というものです。
働かないでも生活できるのは、他人の働きによってその人の生活物資を“無償で”賄っている、ということ。
これが答でしょう。これには謂れ(=正当な根拠)があるのかな?
202巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:42:40
85 名前: OFW 投稿日: 2001/03/28(水) 23:25
>>82
>予め能力のない人間はどうなるのでしょう?
「予め能力がない」とは先天的な障害あるいは幼児等の場合でしょうか?
その場合は当然、障害に応じて持てる力を発揮すれば良い、あるいは保護されるべき状態でしょう。
能力=可能性ですから、誰もが自らの可能性を追求し、その追求には限りがなく、予め決まってはいないでしょう。

>「能力に応じて働き、必要に応じて取得」といった言説が暴力的響きを持って迫ってくるように思えるのですが....
とても驚きのご意見です。
むしろ、能力がない人はその人なりに働き、かと言って、生活や欲求の必要に応じて十分に享受することができる、
というのは実質的な平等(社会が相互扶助的になっている)の主張であり、形式的には不平等(能力の差が取得
の差とは無関係である)であることを主張する言葉です。(どこが暴力的なのだろう?)
身体的・精神的に働くことができないなら、働かなくても良いのは当然でしょう。
しかし、働くことは本来、個人の一つの社会的な欲求であるはず。
現在の疎外された社会では、事情はまったく逆であり、働くことは苦役であり、強制労働でしかないでしょうが。
203巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:43:17
89 名前: OFW 投稿日: 2001/03/30(金) 03:56
>>83
>生産する行為が労働なのか 金銭を稼ぐ行為なのか
「労働の哲学者」である内山節氏が「働く」と「稼ぐ」の違いについて述べています。(『自然と労働』他)。
彼は非マルクス的な立場ですが。
また、エンゲルスも「労働」という言葉の二義性(WorkとLabor)について言及している。

>趣味的な活動で生産されるものもあるだろうし
無論、そうですね。労働一般と資本主義下での労働(賃労働)との区別が重要でしょう。

>> 86(82)
>労働の分業化→労働者の単能化→工業化・大規模化によって 労働日における必要労働時間が限りなく
平準化され

“固定した”分業や、資本間の競争および労働運動がもたらす労働時間の平準化は、必ずしも
>その結果として労働者の平等と団結が生まれる
とは限らないでしょう。むしろ、労働格差(労働貴族と単純労働者の分化)が進行しているのが、現状と言える。

>逆に言えば“労働”といった 運動(=闘争)過程において前述の社会的マイノリティーが疎外される(運動から)
のかも

いわゆる先進国では、労働運動は労働組合運動でしかなく、賃労働の廃棄にまで踏み込んでいない。
それは“疎外された”労働を前提している。社会的マイノリティとは疎外された社会が作り出した結果であり、
その解放のためには、社会自体(生産関係)の止揚が必要です。たとえば、「障害者の社会的参加」とは
正しいが、それはブルジョア社会の枠内では制限された範囲(人権、形式的平等等のブルジョア的権利)
でしか達成できないでしょう。
何より資本主義的「経済の論理」はすべてに優先してしまう。
204巨根派は最期まで闘うぞ〜、と。:2007/12/20(木) 18:45:33
91 名前: OFW 投稿日: 2001/03/31(土) 04:50
>>90(82)
>どちらかと言えば社会民主主義即ち修正資本主義の問題でしょう。
>労働運動が国家の枠組みの中に封じ込められた結果でしょう。
資本主義が政治経済的に修正資本主義に変容したことと、労働運動が「体制の補完機能」を果たすように
なったこととは、同じ事柄でしょう。
一方において社会主義の要素を取り込み「福祉厚生」を考慮することが、他方でそれに呼応した「労働者の
体制内化および階層化」を促進する。
またフォーディズム(「労働者を消費者として囲い込め」)の成功もある。

>ただ、そんなに肯定できるのでしょうか?
社会民主主義をですか?それは余り肯定できないでしょう。
また、労働者に依拠することの肯定如何ということなら、それはむしろ、労働者自身の否定の否定(現状の
自己を否定すること)の問題でしょう。

>ドイツの安楽死や 北欧福祉国家の“間引き”の事実
安楽死の是非とか、不労高齢者の処遇に関して言えば、それは結局社会の在り方に繋がる。
安楽死は、個人の尊厳の問題と言われるように、個人が社会的・精神的主体として如何に尊重されるか
という点で、個人の社会的内実と深く結びつく。つまり、生物学的生存が必ずしも人間的生存ではなく、
同時に個人の生存が必ずしも当該個人の孤立した生存ではない、という点です。
その矛盾は社会の解放(個人の社会化)と共に、たとえば宗教の止揚といった点と共に、止揚されていくと
思います。
また、高齢者が「労働能力のない個人」という理由で社会から疎外されるのは、極めて資本主義的な
経済原則に基づくものであり、生きている人はそれ自体で働く者(主体)であることは、経済を超えた内実
を持ちます。

>ダーウイニズム的決定論や国家社会主義、これらに対する懸念です。
いわゆる社会有機体論や国家社会主義(形容矛盾!)は共産主義とは無縁。
社会を、個人を超えた“超越的な実体”(社会システム論も同様)とみなすことは幻想であり、諸個人の関係性
の中にしか社会は存在しない。
かってのナチズムやスターリン主義(国家資本主義)的全体主義とは正反対の個人の社会化こそが必要です。
205勝手に闘ってろ、ドンキ・ホーテよ。:2007/12/20(木) 20:08:21
96 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:10
>>92
>システムを構成する各要素が(個、サブシステム)が、自律的に行動しながら、強調、競合的に行動しあい、
全体として任務を達成する(秩序を形成または維持する)システム}。

社会は確かに一つのシステムとして捉え得るが、本質的にシステム以上の存在であること、を忘れないことです。
パーソンズおよびルーマンの社会システム論も、生物学のアナロジーとして出発したが、行為からコミュニケーシ
ョンへとその機能的要素の内容をシフトさせてきている。

>本来争わなくてもよいところに争いを持ち込んで無駄に時間と労力を浪費することは無い。
まったくその通りであり、私企業が私的利益を追求することは、社会にとっては時間と労力を浪費することであり、
“経済的”とは呼べない。

>ここでも生物(ここでは生物内組織での協調)にその範を求めることが出来る。
企業内の生産システムと生物体システムの本質的な相違点は、後者では自律的な自己調節機能が即自的
にのみ存在している点です。全体(個体)がその実在的要素(器官、細胞、細胞内器官)に対して、“見えざる手”
として働き、器官の自律的機能は外部パラメータ(体温、水分等)の下で、相互に媒介し合う多くの反応サイクル
として自動的に制御されている。
一方、生産システムでは、目標は外部から与えられ、部分間の関連とそのリズムによる調整は綿密に計画されな
くてはならない。
そこでは、常に意志的な働きとコミュニケーションが重要な要素になる。

>>94
>働かなくても健康で文化的な生活ができるはず。
衣食住の用を満たす財があり余る社会がきたならば、労働(仕事)の意義も現在とは全く異なるものになるで
しょう。好きな仕事をするとは、人間の社会的・精神的・類的な自己を表現することでしょう。
206勝手に闘ってろ、ドンキ・ホーテよ。:2007/12/20(木) 20:10:00
97 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:12
>>95(90)
>その言説とマルクスの思想とを区別する必要がある
全く同感です。「福祉切捨て反対!」とは正しいが、「福祉を切捨てざるを得ない福祉国家自体の廃止を!」
が真実でしょうね。

>ナチズムやスターリズムのメカニズムと共産制のメカニズムの違いがわからないのですよ(マルクスの著作にも
具体的指摘はない)
まず、賃労働の有無が根本的に異なるのです。そして、そのことを突き詰めた場合、誰が生産手段を
握っているのか、そして階級発生の必然性とその止揚の条件に関する認識が進むでしょう。
個人とは類的な存在(具体的普遍)であり、全体が存在するとは種的(特殊的)な立場に止まること。

>問題の核心は関係論や時間論にあり、その解釈如何によっては前述の抑圧的体制に頽落する惧れがある
抽象的には正しいと思います。
「閉じた関係」vs「開かれた関係」、
「過去の決定」vs「未来の非決定」
等の対立を具体的・弁証法的に詰めることは、マスクス主義の理解(社会の本質論)にとって
重要でしょう。
ヘーゲルも言うように、「現実性」(働き)の概念とは本質力自身の現象として自己を生み出すもの、
のことです。
…実際、マルクス主義を唱える論者や活動家が、未来社会の具体的な姿を云々しないことは、
現実的な運動家として実践的には正しいが、その理念的な内容が誤解され、展望を失っている現在、
将来の社会が如何に運営されるかという点について、もっと理論的に議論されてしかるべきだと思い
ます。構想力の欠如は、実践的な情熱にも影響する。
207勝手に闘ってろ、ドンキ・ホーテよ。:2007/12/20(木) 20:11:56
100 名前: OFW 投稿日: 2001/04/03(火) 00:26
>>98
(横レス失礼)
>勤労は道徳ではありません。勤勉とも違います。

まあ、道徳かどうかはともかく、憲法では日本国民の権利および義務であるとされていますね。
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」(第27条第1項)
ところで、義務を果たさない人がいる場合、何故、憲法違反とはならないのかな?
1.果たしたくても、果たせない? (労働能力のない人、非自発的失業者等の場合)
2.果たしたくないから、果たさない? (1さんの様に、個人の自由権を絶対的だとする主張)
3.「勤労」の解釈により、たとえば資本家として直接労働していない人も、「金勘定」という勤労
義務を果たしていると言える。(現在の主流的な法解釈かな?)
さて、憲法自身は何と言う?
「憲法とは、畢竟、妥協の産物である」(ヘーゲル)

『工場日記』を書いたシモーヌ・ヴェイユのスレが、たまたま上がっているので、ついでながら彼女の言葉
(正確ではない)から…。
「権利とは相対的なものですが、義務は絶対的なものです」
「過酷な労働に痛めつけられた私は、この自分が、もはや乗合バスにも乗ってはいけない程、価値のない人間
(非国民?)であるかのような感情に襲われました。」
208革命的名無しさん:2007/12/20(木) 21:43:38
103 名前: OFW 投稿日: 2001/04/05(木) 00:19
>>101
>OFW氏に反論したいんだが、取っ掛かりすらつかめん。
反論は大歓迎です。何でも取っ掛かりになると思う。

>少なくとも全体主義批判の矛先が、個人やシステム論に行く事
私の説明不足でしょうが、個人=近代的個人か、具体的普遍(ヘーゲル)としての個人か、で全然異なるという点。
また、社会システム論が何故問題なのか、はもっと詳しく説明が要るでしょうね。

>統合的理念の落とし穴
私は理念が統合的だとは思っていない。むしろ自由な運動というイメージの方が強いな。

>>102
>労働は賃金を得るためにするわけで
現在の資本主義下の労働(賃労働)はその通りですから、

>それ以外に生き甲斐みたいな価値を置くことは
資本主義の下では、すべて欺瞞となり、その結果

>資本家の思うつぼ
となるのはその通りですね。ところが、最近の企業研修や就職情報誌などでは「会社のためではなく、
自己実現の欲求を満たすために仕事をしろ」などと煽られているのが現状です。

>そしてそういう価値観が親から子へ受け継がれ再生産を繰り返す。
資本とは「過去の労働が対象化されたもの」ですから、賃労働自体が、資本関係と共に、その価値観を
再生産しているわけです。
しかし、労働(仕事)には、歴史貫通的な積極的な意義がある、という事を忘れないことが重要です。
そして、その肯定的な面は資本主義下においても、労働現場では生きている。仕事仲間と協働して
成果を上げる、という労働の社会的・人間的な面は、労働者自身が何よりも密かな誇りとしている点です。
その矛盾した姿を捉えること(否定の否定)が肝要。
209革命的名無しさん:2007/12/20(木) 21:45:42
115 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:20
>>104
>そもそも勤労道徳なるものは明治維新、富国強兵いらいのものでしょ。
あからさまに「労働は美徳だ」と言う道徳は、日本が近代世界の仲間入りをして国富を蓄積するために、
資本主義的な労働を必要としたためでしょう。しかし一部の働かない階級を除き、働く事自体は人間の
自明のあり方として古来から肯定されていたでしょう。

>「過労死」最もばかげた死に方だろう。
そのばかげた事が現実であり、何故死ぬまで働いてしまうのか、が問題。
「自己の名声のため」あるいは「会社のため」という理由はむしろ少なく、「家族や同僚に負担がかかり、
ここで止めるわけにいかない」あるいは「責任ある仕事に対していい加減なことはできない」という、
それ自体は高邁な理由のためではないかな。

>>109
>個々の間の自律したコミュニケーションの能力が高いほど、その協調する能力は高くなると思います。
その通りでしょう。自律は協調と統合される。

>コンピューターやそれによる通信の技術を利用することによって、個々の間の自律したコミュニケーションの能力を、
飛躍的に高めることが出来る

技術的にはその通りですが、問題は制度的な部分でしょうね。

>>112
>フレックスタイムを導入するなどして
時間の問題こそが労働の鍵です。それは社会経済的な事柄ですから、社会全体が生産労働の相互調整を
いかに合理的に成し遂げるかが、課題です。
フレックスタイム制がなかなか普及しないのは、「時は金なり」が先にあるから。
210革命的名無しさん:2007/12/20(木) 21:47:26
116 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:21
>>113
>共産主義の共同体が原始共同体を発展させた
ものではなく、その止揚(現状の否定としての復活)というべきでしょう。

>(共同体:マルクス主義で、近代の私的所有社会以前に存在するとされる社会。(三省堂 大辞林 第二版 ))、
ちょと違うな。この説明なら「伝統的共同体」が正しい。共同体(Commune)とはむしろマルクスが
「ついに発見された」と呼んだ、パリ・コミューンのものに近いでしょう。

>現代の共産主義の共同体には、集団をまとめるものとして、どのようなものがあるのでしょうか?
「現代の共産主義の共同体」が旧ソ連、現中国等を指しているなら、それらは国家資本主義の国家であり、
共産主義の共同体ではない。
また、理論的なモデルを指しているなら、具体的な点は労働者自身が考えるべき課題である、としか言えないが、
要点は、社会経済的な面では、生産手段の共有に基づく直接生産者の生産協働体がまとめる。
それは、社会的分業の全部門に亘って、(財・サービス)生産の計画・実行・監視・改善(PDCA)の合理的な
マネジメントを行う主体です。要は、単に「自分達で自分達の社会を運営する」組識です。
(当然、生産手段の私有に基づく賃労働、貨幣、商品は廃止です。)
政治的な面では、上記の生産協同体自体の直接民主制による組識が調整機関として働くべきでしょう。
それは固定した指導部・官僚組識vs一般大衆の関係ではなく、行政事務は成員全員が交替制で当たる
べきでしょう。(代議制議会と官僚制行政機関が形成する現状の政治的国家は廃止です。)
近代社会をまとめているのは法ですが、当然ながら物理的な力、つまり警察がその裏付けとしてある。
人倫から法状態への移行は近代の利己的個人の実存を支えているわけですが、法の止揚として人倫の復活が
現実のものとなるでしょう。
211革命的名無しさん:2007/12/21(金) 17:41:41
118 名前: OFW 投稿日: 2001/04/09(月) 23:44
>>117
>最後の問題への返答は、まさにNAMそのものではないか
さぁ、どうでしょうか。私はそうは思わない。
労働者の協働体(Commune)を言うことなく、抽象的個人の連合(Association)を言う。
・・・これは言葉の問題ではない。
類的な統一を言うことなく、個別的な結合を言う。
生産関係の変革を言うことなく、不買運動を言う。
貨幣の廃止を言うことなく、地域通貨を言う。
国家の廃止を言うことなく、それへの抵抗を言う。
唯物論的な必然性を言うことなく、倫理的・恣意的な自由を言う。
労働者階級に依拠せずに、何が「可能なるコミュニズム」なのでしょう?
212革命的名無しさん:2007/12/21(金) 17:43:57
120 名前: OFW 投稿日: 2001/04/11(水) 00:25
>>119
>労働者の協慟体とは?
現代社会は既に全面的な分業体制による生産活動により維持されている。
すべての生産財と生活財は相互に緊密に関連する生産部門で生産され、市場を介して流通している。
そこでは、利潤原理に基づく私企業が主体となって生産・流通・分配が営まれているわけですが、
その主体を生産現場で直接生産に従事している労働者の手に返還し、協働的な労働に基づく、本来の
共同的で階級のない人間社会を復興しよう、というのが共産主義の理念であり、現実の実践の最終目標です。

>類的な統一とは?
人間が類的な本質存在だということは、「人類は一つである」ということ。
類(具体的な普遍性)− 種(自由な特殊性)− 個(現実的な主体性)とは諸個人が自然的な被規定性の
中にあって、社会を形成することにより、現実的に自由な共同存在だということを、概念的・弁証法的に表現し
ている。

>生産関係の変革はNAMも主張してるのでは?
NAM公式サイトの文章を読む限り、階級的立場が希薄ですね。
「非資本制的な生産と消費のアソシエーション」とは、局地的な生産協同組合程度のイメージですが、全面的な
生産関係の変革ではなさそう。「消費者としての労働者」とは、要するに消費者でしょう?

>貨幣を廃止できるの?
貨幣とは何か、を理解すれば、廃止は必然的です。

>国家の廃止とは? 唯物論的な必然性とは? 労働者階級に依拠するとは?
マルクス、エンゲルス、レーニンのすべての言説に共通する基本的な思想であり、共産主義の原理原則(ABC)です。
213革命的名無しさん:2007/12/21(金) 17:51:08
123 名前: OFW 投稿日: 2001/04/12(木) 00:29
>>121
>サルは人まねをすることは出来るが、猿自身を演技することは出来ない
まったくその通りですね。人間は彼自身を無限に演じることができる存在です。「自由な特殊性」とは無限の変様の
中に自己を写すこと。

>大衆社会を形成する人は何物ではないからこそ、…きわめて自由な商品…を演じることが出来るのではないでしょうか。
その通りです。<世人>は無限の質料として、それ自身が匿名的な労働力商品の在庫を形成している。
豊かな形相はすべて彼らが生み出す<商品>の側に移行しているが。

>果たして資本というシステムから与えられた麻薬でしょうか。
必ずしもそうではないでしょう。自己の<作品>に対して愛着をもつのは、古来からのものであり、
それは対象的活動(それは自己対象化活動でもある)としての労働のもつ本質的な契機です。
しかし、それがフェティシズム的な偏執になるのは、資本主義的モノ化のなせる自己疎外と言えるでしょう。
モノに対して偏愛をもつとは、<所有愛>という自己愛の変形と言える(例:ピグマリオン、“驚異の”サカキバラ、貨幣愛)。

>また、芸術活動とは、独り立ちするまではパトロンが必要な、資本が生み出したあだ花の美しい果実なのでしょうか。
何故、芸術が自立できないか。それは、即物的な世界の“彼岸”に美的形象を立てるからではないか。
物質(質料)の中にある無限の形象を捉えること、つまり、現実の働きの中に理念的な光を見ること、が必要なのでは。

>このシステムは簡素な生き方をただの憧れに昇華させようとしている
「昇華」というより、<見果てぬ夢>の再生産でしょうね。それは始めから逸らされ、商品に向かうように仕組まれている。

>すべての人が肉体の重さと精神の苦悩を克己して昇華しなければ、現実世界に出現するのはやはり難しいと思います。
「かくめいとはそれぞれの人の回心がなければ、成就しないものです」(太宰治)…だったかな。
まさに精神の転回が必要です。
214革命的名無しさん:2007/12/21(金) 17:53:34
124 名前: OFW 投稿日: 2001/04/12(木) 00:31
>>121(つづき)
>共同体を構成する構成員には現実の死の匂いが払底されている
共同体は個を超えて生きるが、個は類の現存在なのです。
個の中にある類を具体的普遍と言います。それは全体の中に埋没する個とは正反対のものであり、
それは多くの個の相互反照として一つの生命です。

>明るいスローガンに打ち出された空虚さ
それは現代の<自由・民主・平和>社会のこと?「影のない社会」とは健康な狂気そのものでしょう。

>何ものではないという絶望
「絶望」という表現は特徴的ですね。<無>とは反面、自由です。

>人間は悩むように出来ている
自然的な規定性を<質>と言いますが、「質は悩みである」(ヤコブ・ベーメ)と言われるように、人間は
質的な実存の開示性として、悩まざるを得ない。しかしその忘却(逃避)として、<量>的なマス(世人)に
頽落する。
「意識は存在に憑かれている」(マルクス)と言われるように、人間は物質的な身体を持つが故に、
モノに執着する(悩む)意識ですが、また身体によりこの世界に現存在し、対象的な活動を営む
(働くことのできる)現実的な存在です。
仕事により、教養を積み、人間は何ものかになる。
215革命的名無しさん:2007/12/21(金) 17:59:20
130 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 18:16
>>122
>何故「本来」などと言えるのか?いわゆる疎外論?
「本来性」とは本質性であると同時に始源性ですから、「社会の本質」を認識するためには、歴史的社会の
根源に関する、唯物論的かつ弁証法的な考察が必要です。本来あったのものに“成る”ことは「未来への帰還」
(トニー・ネグリ)とも言えるかな。

>ずばり、貨幣とはなんですか?
貨幣の第一の定義は「商品交換における一般的等価物」です。それは経済的価値の一つの現象形態であり、
その正しい理解のためには価値に関する本質論的な考察が必要です。(マルクス『資本論』の最初の章)
私も2chで貨幣に関して4、5回はカキコしており、下記を参照下さい。
「すべて貨幣価値に換算できます。」http://mentai.2ch.net/philo/kako/958/958032643.html(79は私です)

>>36にも挙げた「岩井克人の『貨幣論』は正しいのか」
>廃止は必然的なのに何故廃止されないのですか?
商品経済社会では貨幣が必要物なのは生産手段が私有化されているため。

>みんなが貨幣とは何か理解していないから?
世の経済学者も含めて、殆ど理解されていないですね。

>廃止したら物々交換ですか?
再分配が主要な形態でしょうね。交換は私的所有を前提にしている。

>国家の廃止とは具体的にどのような状況になったらいうのですか?
国家とは何か。それは古代から、階級対立のある社会には必然的に登場した。階級対立を廃止することが、
国家の廃止そのものになります。
216革命的名無しさん:2007/12/21(金) 18:02:59
131 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 18:18
>>125
>欲望があるから人間は働くのであって
人間の欲望(Desire)は単に動物的なものではなく、社会的な変容を受けている。特に資本主義社会では、
「モノに憑かれた欲望」として、それ自体が疎外されている。それはむしろ欲望の不断の駆り立てであり、
資本の価値増殖欲の補完物でしかない。欲望があるから資本は働かない。

>>128
>仕事は自己実現なんじゃない?
本来はそうですが、賃労働(労働力商品が行う仕事)は自己喪失です。

>>129
>そうなれば、勤労「道徳」へったくれなど言っておられなくなる
勤労道徳を持ち出すのは、多くの場合、自分は働かずに他人を自分のために働かせる者だと言うことです。
それは一つのマインド・コントロールです。労働は人間の必然であり、内的な欲求として、自然なものでしょう。
217革命的名無しさん:2007/12/21(金) 18:05:55
141 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 20:57
>>136
>良く分かりません
ある生産物が商品として交換されるための条件は何でしょう? 当然、それが生産者の所有物だからですね。
生産物の所有権は何に基づくか? 通常、生産手段の所有者が生産物の所有権を持つ、とされます。
そして、他人の持ち物を取得するための方法としては、奪うか、タダで貰うか、等価物と交換するか、しかない。
第3の場合、交換の量的な比率が問題になる。それが貨幣の機能です。

>再分配は「誰」が「誰」にするのですか?
共有物については、<類的>我々が<個的>我々にする、と言える。

>国家は再分配システムなんじゃないでしょうか?
階級社会の存続を計るために、福祉国家が一定の所有の移転を行うという点では、その通りです。

>私的所有の反対概念は何ですか?
口頭試問のようですね…。<社会成員全員による共有>です。
「所有とは生産手段に対する関係である」(マルクス)

>自分の身体の私的所有も良くないのでしょうか?
他者に譲渡不可能なものは所有することはできません。身体が所有対象である場合、それは常に「他者の身体」
(人身売買等)です。「体を売る」とは所有の移転ではなく、一定時間自己を他者の性的意思の下に置くこと。

>階級対立の廃止はどうすればできるのでしょうか?
生産手段の私有を廃止して共有化すること、が第一でしょう。
218革命的名無しさん:2007/12/21(金) 18:09:57
142 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 20:59
>>137-140
>政策にとっては、その担当の選任の平等より、政策の決定運営の平等の方が、大事
政策内容が全成員により受け入れられることは、成員間の利害対立が少なくなれば成る程、容易になるでしょう。

>政治闘争の代わりに、調査−調査に基づく意思決定の仕組み
政治闘争は集団的利害の対立から生まれる。公共的な意思の形成にとって、成員に対する啓蒙的で、開かれた
理性的コミュニケーションが重要だということでしょうね。

>政策の決定運営と、その担当者の選任とを分離し、
広い意味で立法と行政の分離が固定化されると、官僚支配の温床になる。

>議員やリーダーについては今まで通り、…選挙や投票の制度によって成員
>個人*多数の要求が反映されるようにコントロールして、利用
今までの「形式的民主主義」の欠陥は、職業政治家と一般大衆の固定的な分離により、殆どの成員が実質的には
単なる受動的な「票数」でしかなかったことにも現れている。
如何に全員が意思決定プロセスに実質的な参加ができるか、がポイントでしょう。
支配の交替制とは、人間の無差別性<支配の無>に向けた現実的な方法でしょう。

>理想的な社会を設計し
設計の前に、概念と構想が必要ですね。理想的な社会の具体的イメージは?

>平等の基準と別の平等の基準との対立
平等とは「単に存在するだけで、実質的効力のない区別」でしょう。

>「コンピューターやそれによる通信の技術を利用することによって」、
そうですね。現在のITレベルでも、社会活動の各方面において、分散的意思−統合的決定とそのフィードバック
あるいは時間変動に対する機動的な活動調整、等を実現する可能性はかなり高いと思う。
ただ、忘れてならないことは、精神的なコミュニケーション能力こそが決定的なものだということです。
219革命的名無しさん:2007/12/21(金) 18:13:29
146 名前: OFW 投稿日: 2001/04/19(木) 21:47
>>145
><類的>我々とは誰ですか?
すべての個人は類的な存在ですから、分かち難い統一の下にある訳です。それが社会という現実的な関係性の
実質的な内容です。

>貨幣を廃止した場合の再分配とは何を再分配するのですか?
1貨幣なしに、社会的な労働力の各生産部門への配分をどのように行うのか?
2貨幣なしに、生産物の分配をどのように行うのか?
これらの課題が具体的に解決されて、初めて社会主義も現実的になる。
現在、生産物は商品として市場における交換によって、社会成員間に分配されていますが、一般的等価物としての
貨幣(人間の類的な労働の疎外形態)がそれを可能にしているわけです。
それを廃止するとは、生産物が直接生産者の私有ではなく、社会全体の共有であるという原理を立てること。
そして、個々の生産とその成果の取得との間の比例関係(等価交換、価値法則)を廃止することです。

>生産手段の共有化とは具体的には?
生産手段は、

1労働対象としての土地、原材料等
2労働手段としての施設、機械等の設備、道具、燃料等

に大別されます。
現在の私有制では、自営業における小生産者を除き、企業主や国家官僚という、働くことのない所有者
(階級的代理人を含む)の気まぐれな意思がそれらの使用法を決定し、直接生産者である労働者に指令して
生産活動を運営しているわけですが、それらの実際の使用を直接生産者の共同意思の下に置くことが、
共有の現実的な意義です。
220マル同絶倫派:2007/12/22(土) 06:43:51
なんか色々な人たちがコピペに協力してくれてるようで感謝!感謝!の日々であります。

154 名前: OFW 投稿日: 2001/04/21(土) 06:30
ようやく接続できた。
>>148
>〜 マズローの欲求五段階説 〜
企業の管理職研修で必ず出てくるのが、これと「ジョハリの窓」ですね。
(自衛隊演習への特別参加はもう無くなってきたようだが。)
マズローはさすがに「自己実現も結局の所、企業業績=貨幣に還元される」とは言わなかっただろう。

>>149(Rage Against The Philosophyさん)
>面白みのない仕事をやてるのも、それを選択したのも全てお前の「内面」からの必然的結果だろ?
「職業選択の自由」とは、多くの者にとって賃労働者になる自由以外のものではない。それは資本主義社会の
必然的結果であり、内面は関係無い。

>>152 (Rage Against The Philosophyさん)
>「内面でメシがくえるか!!」
その通り!その唯物論を徹底しよう!
くれぐれも「この豊かな社会で、メシが食えなくなるのは何故か?」(失業者)という問いに
「おまえの能力がなかったからだ」などと、内面的な道徳話にすり変えないように。
221マル同絶倫派:2007/12/22(土) 06:48:34
162 名前: OFW 投稿日: 2001/04/22(日) 21:52
>>159
>「人類皆兄弟、生産物もみんなのもの」ということですか?
通俗的に言えば、その通り。
さて、人類を一つの家族とみる思想は通俗的にも結構多いでしょうが、殆どは「国家」(国という家)になってしまう。
国家とは幻想の共同体であり、イデオロギーです。それは観念的な倒錯ですが、何故そうなるのか。
<兄弟>というのはあくまで喩えであり、成る程、生物学的にはヒトは確かに共通の祖先から派生したのでしょうが、
それを社会的な存在にそのまま敷衍することはできない。つまり、<類>とは普遍であり、国家は<種>であり、
特殊ですから、国家を普遍的人類の上位には置くのは論理的にもカテゴリーエラーだということです。
ウィトゲンシュタイン流に言えば「家族的類似」が存在するのであって、実体的家族が存在するのではない、ということです。
実体的なものは労働による生産共同体でしょう。

>この場合、誰がどの生産物を得るのか、誰がどの労働をするのか どのようにきめるのでしょう?
1まず、誰が社会の生産活動を運営するのか、が先ですね。
それは労働現場で直接生産・サービス活動に携わっている労働者自身の組識でしょう。
そして、技術的な点から言えば、生産と分配の調整を計画的に行うことは、現在の生産力水準と情報技術レベルでも、
十分可能だと言うことは、確かでしょう。
生産は<社会的需要>の予測に基づく生産計画の立案から始まる。
それは現在でも、電気、水道、ガス等の基礎的インフラについて、企業が行っていることです。
各種生活財(最終消費財)の需要予測は、現在は無政府的な市場に委ねられているが、生産者と消費者との
コミュニケーション化(受注生産化)により、大幅に計画化できるでしょう。
そして生産財については、最終消費財の生産量を元にした産業連関分析(投入算出量分析)を適用できる。
これらの計画は、各生産部門にどれだけの資源を投下すれば良いか、そして社会の総労働力の必要な配分を
決めるでしょう。
222マル同絶倫派:2007/12/22(土) 06:52:31
163 名前: OFW 投稿日: 2001/04/22(日) 21:53
>>159 (つづき)
2労働力の配分を如何に行うか
それは、労働者自身が決める。その場合利己的個人の「職業選択の自由」という立場からみると、
上記の<必要労働>の概念は「必要に応じて働くこと」であり、一見「勤労道徳」の押し付けに見えるでしょう。
しかし、社会的連帯、類(私達は同じ社会の一員である)の立場から見れば、諸個人の自己欲求だということです。
それは理念的な<具体的普遍>の立場であり、たとえば「高齢化社会では介護労働が必要」なら、
「介護労働をしたい」という欲求は社会的なものですね。今は「3K職場はいやだ」かな?

>>160
>問題は 勤労道徳いらない。か、勤労道徳はいる。かだ。
その通り。しかし○×式の設問は哲学には馴染まない。その根拠、真理は何かという点にまで遡及し、
問題を敷衍的に論じることも必要です。
全否定でも全肯定でもない、<止揚>が重要だということ。
223マル同絶倫派:2007/12/22(土) 06:53:15
166 名前: OFW 投稿日: 2001/04/23(月) 21:42
>>165
>これは貨幣を廃止した場合、自分にどれだけ必要か歯止めが効かない貨幣こそ自己の限度を知らないもの
ですから、逆でしょうね。

上に書いたように、一定の社会的な生活水準を維持するために、電気が一人当たり一日どれだけ必要かということは、
現在でも分かっている。それは一方で生産力の水準、他方で社会の生産関係に対する関数ですね。

>生産計画に従って我慢すると
どうも利己主義的な個人の欲求(実は貨幣欲の変装)に捕われているようだが、貧しい時代には「足るを知る」ことが
当然とされたことを考えてみれば、欲望とは社会の関数であることが分かるでしょう。
何が「我慢する」ことになるのか、事柄を具体的に考えてみたら?

>>社会的連帯、類(私達は同じ社会の一員である)の立場に立たない人はどうなるのでしょう?
具体的にどのような人でしょう?<類>とは自然的・必然的なものであり、個人の恣意には依らない。
224革命的名無しさん:2007/12/26(水) 00:57:55
>>212

>>生産関係の変革はNAMも主張してるのでは?NAM公式サイトの文章を読む限り、階級的立場が希薄ですね。
>「非資本制的な生産と消費のアソシエーション」とは、局地的な生産協同組合程度のイメージですが、全面的な
>生産関係の変革ではなさそう。「消費者としての労働者」とは、要するに消費者でしょう?

労働者が自らが生産したものを消費者として買い戻すわけですから、
「消費者としての労働者」と言う表現になります。

NAMは実はプルードンの原理に基づいていますから、根本的に政治革命では
なく社会革命を目指しています。
類と個の弁証法は前衛的な特殊に媒介される危険がありますから、
どちらにせよ政治主義は危険だと思います。
225革命的名無しさん:2008/01/10(木) 00:46:45

「マル経難民」の床屋談義

金子勝 『反グローバリズム』岩波書店

著者は、経済理論学会(マルクス経済学の学会)に所属する経済学者では随一のマスコミの人気者である。「ブッシュはバカだ」とか「小泉改革はニセモノだ」というような床屋政談が受けるらしい。
この本も、最初から最後まで学問とは無縁の「ぼやき漫才」のようなもので、まあそういう読み物としてはいいが、まじめに受け取るべきではない。
マル経は、今でも一部の大学には講座の枠が残っているので、無能な学者でも職にありつける「穴場」である。しかし、よりどころとする理論が崩壊してしまったので、「きわもの」的なテーマを探すしかない。
こういう「マル経難民」が好んで選ぶテーマが「国際」「情報」である。このフレーズさえつければ文部省から科研費が引っ張れるし、状況の変化が激しくて「近経」の理論がついていけないので、「床屋理論」でも何かいえそうだからである。
そもそも著者のいう「グローバリズム」とは何なのか、ちゃんとした定義も書かれていない。国際会計基準と年金改革の話がごちゃごちゃに並んで、「グローバル・スタンダード」への非難が繰り返されているだけだ。
改革を批判するときの根拠は、いつも「リストラしたら景気が悪くなる」というだけで終わりだ。「市場の失敗」を非難するが、「政府の失敗」については何もいわない。
こういう介入主義もマル経の悪しき遺産である。著者は「主流派経済学」を批判するが、それを理解していないことは明白である。「情報の非対称」や「ゲーム論」についての孫引きをもとにした一知半解の「批判」はなかなか笑える。
この程度の学者でも慶応大学に職を得られるぐらい、日本のマル経業界は「売り手市場」になっているわけだ。先進国で最低レベルといわれる日本の大学の恩恵を受けている著者が「グローバリズム」に反対する理由はよくわかる

http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Kaneko0.html

226革命的名無しさん:2008/01/10(木) 02:27:27
マルチポスト乙
227やっぱかつ丼が美味いよね:2008/02/09(土) 07:14:01
11 名前: OFW 投稿日: 2000/12/22(金) 20:25
というか、「経済的」って言うのは、要するに同じ事をするのにも、人手をかけないでできること。
つまり、労働力の節約(Economy)でしょうね。おカネが絡むと、正反対の意味になるが。
228やっぱかつ丼が美味いよね:2008/02/09(土) 07:17:53
13 名前: OFW 投稿日: 2000/12/22(金) 22:12
>>12
なるほどね。でも、下のサイトで「貨幣とは何か」を語っている先生よりはマシかなと思うな。
http://www.nttdata.co.jp/profile/organ/riss/h9/theme1/guest1_1.html
>「貨幣」とは一般的な交換手段です。つまり、それによってすべての商品が買えるもの、というのが
>貨幣の定義であるわけです。
購買手段は交換手段とは概念として区別すべきでしょう。
物々交換では自己の所有物が交換手段ですが、それは購買手段ではない。
「一般的な交換」ということをまず説明すべきです。そうなるとマルクスを借りるしかない。
>「貨幣商品説」とは、アダム・スミスやマルクス、さらにはメンガー等によって唱えられたものですが、
それは貨幣それ自体が人々の欲望の対象になる商品であり、その商品が交換プロセスのなかで
自然に貨幣に転化していく、とする考え方です。
マルクスは「貨幣それ自体が人々の欲望の対象になる商品」であるなどとは言ってはいません。
貨幣は元来他の有用物と並ぶ有用物であり、それが交換の発展の中で、一般的等価物としての
貨幣になり、同時に他のすべての有用物が商品となった、と言っているのです。
歴史の始めから商品が存在していたかのような錯覚があるのかな?
>貨幣商品説が正しくないことはすぐわかりいただけると思います。
それは驚きだ。かのアダム・スミスやマルクスが苦労して考えたことがほんの一言二言の説明で
誤りであると片づけられるとは!
>1万円札は1万円の価値がある貨幣です。
なぬ?どこからそんな話が出てくるのか?前には貨幣には、欲望の対象としての価値はない
言っていた筈だ。如何なる価値か?
>つまり、商品としての価値はないわけです。
使用価値(有用性)と交換価値とを(意識的に)混同している。
使用価値ゼロでも交換価値が絶大だからこそ、誰もがお金を欲しがるのです。
そして、すべての商品は他者(非所有者)にとって有用だからこそ、交換価値が生まれるのです。
その限り、「すべての商品は貨幣である」が正しい。
229やっぱかつ丼が美味いよね:2008/02/09(土) 07:20:09
14 名前: OFW 投稿日: 2000/12/22(金) 22:14
>>12(つづき)
>ほかの人が1万円札を1万円の価値があるものとして喜んで受け取ってくれるからです。
そうではなく、それで「1万円の交換価値がある商品」が買えるという、国家への信用が
あるからです。概念の混乱。

>貨幣と他の商品が区別できなくなります。
なぬ?貨幣商品説は誤りだが、欲望を考えると区別ができなくなる。
だから、欲望を考えなければ良い、という論理?
>貨幣の場合は、他者の欲望ではなく、他者はさらに別な他者の欲望を予想しているわけで、
このプロセスが永久に続く

混乱は無意味に転化する。商品所有者Aは、他者Bの欲望を予想するが、貨幣により
その商品を買った自己Bの欲望は満たされる。また、商品を売り貨幣を手に入れた自己Aの
欲望は別の商品を買うことで満たされる。
つまり、自己から見れば欲望はその都度満たされる。「貨幣の場合」の欲望とは貨幣欲のこと
であり、貨幣は欲望の対象ではない、という先の主張と矛盾する。
言葉のすり替え(これは無意識だが)がある。
>貨幣には他者(=人間)の欲望が入っておらず、
貨幣に欲望が「入る」とは、日本語ではない。人間の欲望以外の欲望とは何か?
まさにマルクスの言う、疎外され(他者となり)、物象化(モノにされた)人間の欲望でしょう。
貨幣にはそれが一杯入っている。
>これは無限の循環論法です。
単に、論者の思考の混乱でしょう。
230やっぱかつ丼が美味いよね:2008/02/09(土) 07:32:47
15 名前: OFW 投稿日: 2000/12/23(土) 11:09
>>12(つづきのつづき)
>「貨幣は貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法が意味することは、
>貨幣とは「貨幣論的差異」を本質的に備えているということです。
>貨幣論的差異とは、貨幣は貨幣であるかぎりそれ自体のモノとしての価値を超える価値を
>本来的にもっているということです。
「貨幣論的差異」???価値を超える価値を本来的に(=誰が決めたのでもなくそれ自体で)
もっている??
「貨幣論的」とは「貨幣論によって規定された」と同義でしょうが、「本来的にもっている」かどうかは、
仮説として、検証されなくてはならない。勝手に「意味している」と決め付けてはいけない。
これを聞いた学生や大企業のサラリーマンが質問しないのは、相手が有名な東大の経済学教授
だからかな?八百屋のおやじが同じ事を言ったら、間違いなく「電波」扱いでしょう。

>ところが、自己循環論法の立場からいうと、…恐慌とは、人々が本来は一般的媒介手段
>でしかない貨幣をより欲しがっている状況です。
失業者は仕事や食料を欲しがっている訳ですが、「人々」には含まれていない?
また、貨幣には人間の欲望は入っていなかったのでは?
貨幣には価値を超える価値があり、「一般的媒介手段でしかない」だけではなかった筈では?

>そして、貨幣が貨幣として価値があるのは無限の欲望の連鎖があるから
「貨幣としての価値」=「無限の欲望の連鎖」とは、昔バブル期の日本で流行った「ポストモダニズム」、
つまり無意味な言葉を意味ありげに言う風潮のなごりでしょうが、未だに続いているとは。

>それは人々が貨幣を貨幣として使っている社会の存続に対して信頼していることを意味します。
>恐慌のときほど人々が資本主義社会の存続を信頼しているときはないのです。
どういう論理をつかえば、そのような事実に合わない逆説が出てくるの?
恐慌は、「恐慌を引き起こすもの」の存続を信頼していることを「意味する」とは??
むしろ、議論の無意味を意味する、が正しいのでは。
八百屋のおやじを含めて、普通の日本人に分かる説明ができないのかな?
231やっぱかつ丼が美味いよね:2008/02/09(土) 07:34:58
18 名前: OFW 投稿日: 2000/12/23(土) 17:26
>>16
>よければ、岩井先生の『貨幣論』を本格的に議論して欲しいな。
いつも思うのですが、インターネット時代だから、本人が2chに来て論戦に参加することが、
経済的にも文化的にも、最も望ましいのですが。
真理は公共的かつ真摯な討論から生まれる、なんちゃって。

>>17
>だけど、貨幣を信用して貯め込んで商品を買わなくなるから恐慌となるすなわち、
>人々は、貨幣制度が保証される資本主義社会の存続を信じているからだと言っ
>てるんだろ。
つまり、貨幣制度の存続を信じるとそれに裏切られるよ、ということを講義している訳?
ならば資本主義批判になるが。
まず貨幣を貯め込むのではなく、資本といった形態での価値を貯め込むというのが正しい。
それから貨幣と信用は区別すべきでしょう。そして消費者が商品を買わなくなるのは、
恐慌によって失業して買いたくても買えなくなるからであって、貨幣を貯め込んだからではない。
つまり、上記の人々とは資本家、すなわち資本というモノの人格的表現を指しているだけであり、
本来の人間が資本主義社会の存続を信じている訳ではないでしょう。
(論理のすりかえ?)件のサイトにもあるが、

>人々がほんとうは商品を欲しているのに、商品の媒介にすぎない一般的交換手段である
>貨幣を商品以上に欲しがってしまう。
経済学はこの顛倒の理由こそを明らかにしなくてはならないでしょう。
それは生産手段と生産者の分離に基づく階級対立が資本主義世界の根底にあり、
その物象的な表現が商品、貨幣、資本であるということです。
何故疎外された人間が商品(正しくは財)より貨幣を欲しがってしまうのか、資本の価値増殖欲は
人間の生活欲求と如何に矛盾するか、その理由を説明しなければ、「貨幣とは何か」に答えたことには
ならない。
「ほんとうは」といった曖昧な言葉や「貨幣論的差異」という意味不明な術語を持ち出して、
真の原因を殊更はぐらかしているとしか見えないのは、八百屋のおやじ的な誤読かな?
232ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:39:25
名前:OFW :2000/12/25(月) 00:00
>「俺頭悪いんだけど経済って」スレのレス20岩井克人は手放しの資本主義礼賛者ではないよ。
手放しの礼賛者などは他の経済学者の中にも少ないのでは?
ケインズさえ、資本主義は病んでいると考えていた。

>それに、マルクスをそんなに誤読しているだろうか。
決定的な点での誤読としては、ひどいものでしょうね。それも、マルクスに依拠していながら、
「マルクスは誤っていた。正しいのは私」と言う所は、かの宇野弘蔵並みでしょう。
「マルクス主義経済学ではなく、マルクス経済学すなわち宇野経済学こそが真理だ」!!!
マルクスは経済学(当時の国民経済学)批判をしたのであり、独自の経済学体系を立てたのではない。
資本主義の経済学は不可能だと言った訳です。

>あのサイトは、ああいう設定下での講義だから
「電子マネーの可能性を強調して、資本主義の否定的側面は強調しないようにする」という設定?

>随分と誤解を招く表現になっているのだろうけど。
別に誤解を招きそうな表現とも思えない。自説に正直だと思います。
233ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:41:28
5 名前:OFW :2000/12/25(月) 22:05
>>3
>岩井は教条主義的なマルクス読解に興味ないんじゃないの。
私も興味がないが、少なくとも「無限の循環論法」「無から有が生じる」「ここに『神秘』がある」
といった、貨幣物神をそのまま披瀝する貨幣論では、『貨幣の謎を解く』と題した著書で
「結局、貨幣は謎である」との答えを披瀝している非―学問的な「マルクス経済学」者と同然で
しょう。

>貨幣商品説と貨幣法制説はともに貨幣流通の実体的根拠を与えない。
実体的根拠とは何のことかな?「労働価値説」のこと?少なくともマルクスは単なる貨幣商品説
および貨幣法制説を主張しているのではなく、価値形態の歴史的な発展を跡付けているのです。
そして、物々交換から貨幣の発生を説く以上、「すべての商品は潜在的に貨幣である」と考えて
いたことは当然であり、また、国家を前提せずに信用を説く以上、信用と法制度を区別していた
ことも自明でしょう。
どうも、「価値形態」という言葉が分かっていないようだなぁ…。
そして、現象形態は実体的本質を前提するとは、論理的に当たり前の事柄であり、本質なき現象
などという現象主義や、「記号が記号を表わす」などというポストモダニズム的な汎記号主義は
観念論的なナンセンスです。
価値の源泉を人間の社会的な必要労働におくという、唯物論的に根拠ある議論こそが、経済学を
合理的な社会科学に高める唯一の道でしょう。

>少なくともここまでは『貨幣論』で説得力のあるところだと思う。
まったく説得力に欠けているところ、でしょうね。
234ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:44:11
9 名前:OFW :2000/12/26(火) 23:59
>>6
>もしかして、いまだに本気で労働価値説とか信じてるの?
本気ですね。
逆に本当にその内容を知っているの?と聞きたいな。
単に他人の話を信じているだけのような…。
大体、学問や思想は「信じる」などという信仰とは異なる。「根拠ある確信」とでも言った方が良い。

>>8(3さん)
>あんまり人の揚げ足取らないでほしいな〜。
ども失礼しました。どうしても論争調になってしまうのは、貨幣というテーマが重要だと思うためですので、
ご容赦。
しかし、私が指摘したいのは、岩井氏の(ポストモダニズム的な)論法こそが揚げ足取りだ、ということで、
それが反射して私の方が揚げ足取りに見えるのは半分誤解です。

>で、OFW氏によると、そのへんはどう説明されるわけ?
順番に対置すると、

>ある人が1万円札を1万円の価値のある貨幣であるのを信じているのは、他の人が1万円札を
>1万円の価値があるものとして喜んで受け取ってくれるからであり、
貨幣自体には<実体的>根拠はないのだから、人々がそれを「1万円札は1万円の<実体的>
価値がある貨幣」と信じていることが無限の循環論法を招き、それこそが貨幣を支えている
<非実体的な>根拠である、という論法でしょうが、これはおかしな論理だと思いません?
思い込みという「実体的でないもの」が現実の貨幣流通を「支えている」とは、哲学的に言えば、
「現実は幻想である」と言う主観的観念論の主張です。
ポストモダニズム的と言うのはそういうことです。
ですから、まず「1万円の<実体的>価値」という概念を問うべきでしょう。
つまり、「価値とは何か」という価値論がまずあって、初めて貨幣論が展開できるということです。
235ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:46:32
10 名前:OFW :2000/12/27(水) 00:07
>>8(3さん)(つづき)
岩井氏の議論の中でも
  1.モノとしての価値
  2.他者にとっての(商品としての)価値
  3.貨幣としての価値
  4.信用としての価値
  5.記号としての価値
という言葉がでてくるが、すべてを貫く自己同一的な存在こそが「価値の実体的本質」と
呼ばれるものであり、上記の1〜5はその現象形態であるという見方が学問的な探求の
開始点です。つまり、価値の本質から、貨幣を含めた価値現象を「説明」することが、
科学的な認識態度というものなのです。
(数学的モデルとて、価値を数量的な本質とする立場からの仮説です)

>貨幣法制説も…貨幣商品説もこの循環論法を満足に説明しない。
ですから、「無限の循環論法」は説明されるべきものであり、それを説明原理にしている
『貨幣論』はおかしい、と言っているのです。
これは決して揚げ足取りではなく、本質論という「はしごを外した」のは岩井氏の方なのです。

>これが貨幣流通に<実体的>根拠がないという意味だろね。
もし、貨幣流通に何の客観的根拠(根拠とは、それが単に主観的でなければ、すべて実体的
なものを前提します)もないとすれば、単に無根拠と言うべきであり、それを前提している経済学自体
が崩壊するでしょう。
これも揚げ足取りではなく、そこにあるのは概念の混乱だと言っているのです。
貨幣流通には明確に根拠がある。それは、「私的生産者による社会的生産」という矛盾でしょう。
236ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:47:40
13 名前:OFW :2000/12/27(水) 22:24
>>11
>こりゃ、まじめに論議したらOFWさんの負けだな。
そう見えますか。でも、勝ち負けよりは「正しい理解」が重要です。

>OFWさんが言っているのは、貨幣(価値)のあるべき姿であって、実際の姿(の全て)じゃない。
どうも理解して貰ってないようで、説明が必要。
私が言っているのは、貨幣および価値などという存在は無くなるべきであり、いずれそうならざるを
得ないということです。
それは価値とは何なのかを突き詰めて行けば出てくるでしょう。
そして、およそ事物の客観的認識のためには、実際の姿(現象)を超えて、その本質に遡及しなく
てはならない、ということです。
20世紀の学問全体が現象論になってしまった。それは、「本質」「概念」という言葉の意味すら理解
できない程にまで進んでいる。

>>12(“3さん”さん)
>柄谷氏と岩井氏との違いにも言及欲しいです。NAMも経済板では誰も知らないので。
1980年代以降、いわゆるニューアカデミズムからポストモダニズムという思潮が日本で流行ったが、
私は商業主義ジャーナリズムが煽った「知的なファッション」に過ぎないと思っていたので、殆ど興味
なかったし、今でも積極的な意義など少しも感じていない。だから違いは分からないです。
しかし、両者(そして浅田彰氏等)が「否定かつ肯定」の両義的な態度で、「マルクスは終わった」
「マルクスは偉大だったが、間違っていた」
などと繰り返し言及することは、マルクス(主義)について誤った理解を広めることになり、これは世の
若者および労働者を誤まらせる結果になる。このことは、やはり見過ごせないでしょうね。
(NAMの宣言などを読むと、資本や国家に対抗しようと倫理的になっても、小ブル知識人としての自己
の階級的立場は、絶対に手放せないようですなぁ…。しかしまたなんで「不買運動」なの?思弁的かつ
現実的実践?)
237ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:50:27
23 名前:OFW :2000/12/29(金) 22:50
>>15(トリックスターさん)、>>21
労働価値説とは給与(正確には賃金)が労働時間に比例していることではありません。
それは、価値の本質に関する次のような認識です。

「あるモノの経済的価値とは、そのモノの必要量を再生産するために、社会全体の労働量を
どれだけそれに振り向けたら良いかを表示している指標であり、社会的な必要労働こそが
価値の本体をなすものである。」

上記の認識は、次の考察を前提にしています。
1.モノの有用性(価値の直接的・質的な側面)
あるモノが有用か無用かは人により異なるし、代替物の存在によっても異なる相対的な
(主観的ではない)性格をもつ。いわゆる「限界効用説」は有用−無用が相互転化する限度を
価値としている。
2.モノの稀少性
それは価値の量的な側面であり、有用物の現存量と必要量との割合に応じて変化する。
いわゆる「需要と供給の均衡」という事態です。

しかし、上記1&2は価値が実在するという前提に立っているために、現象論でしかない。
それらの現象の底にある価値本体に関する本質論として、

3.モノの社会的生産
人間は生活に必要なモノを生産することで、必要物の稀少性を減じることができるが、
そのためには労働力を支出しなくてはならない。モノの価値とは稀少な労働力を、生産物のうちに
対象的に見たものである。
結局、経済とは、人間にとって必要なモノ(財)をどれだけ生産、分配、消費するかに関する事柄
であり、限られた資源と限られた労働力を如何に社会的に配分するか、という事柄を巡る諸現象、
諸本質のことです。
しかし、資本主義経済では、経済とは要するに「金儲け」のことでしかない。何故そうなるのか。
そこにお金(貨幣)の秘密(顛倒)があるが、結局、労働しない「私的生産者」つまり資本家と、
労働力を私物として売るしかない賃労働者との間の対立関係に原因があるということです。
238ちょいと代わるぞ:2008/02/09(土) 16:52:08
24 名前:OFW :2000/12/29(金) 22:51
>>22
>ビルゲーじゃ時給が違うじゃろ
ビルゲイツの収入は給料(賃金)ではなく、資本家(経営者)利得ですから、労働者とは
本質的に収入の源泉が異なる。
また、彼の途轍もない収入の高さは、基本ソフト技術の独占状態による「特別利潤」に
基づくものです。
それは特許や「営業上の秘密」によって保護されているから、消費者は自由主義経済に
反して、不当に高いものを買わされている訳でしょう。
「競争と言っても、あくまで独占を目指したものであり、競争と独占とは同じ事柄の両面に
過ぎない」(レーニン)。
239代わりっぱなしなけど:2008/02/09(土) 18:46:34
27 名前:OFW :2000/12/30(土) 15:39
>>25(トリックスターさん)
>○経の究極奥義をそう簡単に理解できるともおもってませんが
いわゆる「マルクス経済学」には理解すべき奥義といったものはないでしょう。
それはマルクスの主張を換骨奪胎して、
「マルクスは、共産主義イデオロギーに毒されたために、肝心の点で科学的・学問的認識を
踏み外した。これが正しい『マルクス的』経済学体系だ」
と言う。
しかし、それは大げさな見かけとは異なり、内容のない訓詁学あるいは抽象的なドグマのよう
に見える。繰り返しですが、マルクスは経済学を批判したのです。

>経済的価値って言うのは価格のこと?
市場経済(商品経済)の下では、価値は価格(価値の貨幣表現)として現象するが、
それはあくまで現象形態であり、その下にある価値の本質はそれを超える存在です。
岩井氏をもじって言えば、
「貨幣はモノとしての価値(使用価値)を超える価値(本質的・実体的価値)を示す」
のです。(岩井氏はそれを単なる量的な超過のように説いているが)
およそ科学者は現象を本質から説明しなくてはならず、現象を追うだけでは駄目です。
価格の理論ではなく、価値の理論が必要でしょう。

>それは需給の均衡で決まる
市場経済の下では、商品の”自然的”価値からの偏差として価格が変動する。
それは特定の商品の需要(支払い可能な欲望と呼ばれる社会的必要)とその現存量との
不均衡を表示するバロメータでしょう。
つまり、価格は需給の均衡ではなく、不均衡(偏り)しか示さない。
比喩的に言えば、バネの均衡点からの偏り(力)は均衡点でのバネの内部エネルギーの
絶対値を示さないのと同様です。
実際、需給関係からは、貨幣価値自体が変動する現象(例:一般的な物価騰貴)は説明
できないでしょう。
240代わりっぱなしなけど:2008/02/09(土) 19:17:10
29 名前:OFW :2000/12/30(土) 15:42
>>25(トリックスターさん)(つづき)
>それを指標に労働力の支出が行われる。
何故生産物を商品という形態で市場に送り出すのか?
それは「売る」ためであり、売れて貨幣に変換しなければ、価値は実現しない。
それは、生産が個々の私的な生産者によって勝手に行われているためです。
社会全体が一工場のようになり、全体の需要を直接生産に反映させ、経済を計画的に
運営すれば、商品や貨幣は不要ということになるでしょう。
(社会的需要の測定、生産物の分配方法、といった細かい点は省きます。)
そして現在、「労働力の支出」を行っているのは、利潤を追求する資本家(経営者)
であり、「労働せよ」と命令されている労働者自身ではない。

>その投入された労働量がモノの価値である。
これはアダムスミスを始めとして、多くの経済学者が躓いた(今でも躓いている)点ですね。
「モノの(実体的)価値」とは、自然物が色素を含むように、モノに内在したあるものではない。
それは社会的な存在であり、あくまでそのモノの再生産に必要な労働量です。
つまり、実際に投下された過去の労働量ではなく、現在の社会的な必要量と現存量とから
出てくる、「投下すべき」労働量です。
社会的実体とは、具体的な諸個人間の諸関係の総体を言います。社会が個人にとって
外在的であれば、社会は実体として不可測な自然のように振舞う。(いわゆる「見えざる手」、
「必然的運命」)
241代わりっぱなしなけど:2008/02/09(土) 19:21:32
30 名前:OFW :2000/12/30(土) 20:54
>>28(ななしるふぃさん)
>交換価値は社会的なもんだから、価値の源泉を労働に求めるのはおかしいのでは。
労働は社会的なものではないの?
自給自足なら別でしょうが、近代以降は社会的分業が確立しており、そのような歴史的背景
から、社会学という「社会の発見」も誕生した訳です。
コントやウェーバーも労働の社会性がなければ、職業人として学者にはなれなかったでしょう。
また、繰り返しになるが、交換価値とは価値の現象形態であり、その本質(実体)とは異なる
という認識が、経済学を合理的な社会科学とする。
そして、交換価値(商品価値)は社会的なものとは正しいが、それは「裏返された」社会性
(正確には物象化された社会性)だという認識こそが、市場経済そして資本主義経済の本質
に迫るための出発点でしょう。私的所有がそれを支えている。
マルクスは商品、貨幣および資本の本質を「価値形態」の発展として、歴史上初めて明らかに
したのです。

>バブルはどーなるの?
バブル経済とはまさに「実体経済」から遊離した、幻想のマネーゲームであり、実質的な価値を
何ら産み出さない、貨幣物神とそれに基づく信用の自己増殖現象でしょう。苦労して働かなくても、
誰もが一攫千金の機会を得られるとは!
利子生み資本(金融資本)とは「ブルジョア社会の狂った花嫁」(マルクス)と呼ばれました。
(今世紀になり、国家が金融・財政を通して、経済に直接的に関与するようになり、経済は
ますます政治化されてきているが、それはそれで、階級社会の現実を覆い隠す「国家幻想」に
裏打ちされている。)
242代わりっぱなしなけど:2008/02/09(土) 19:26:24
31 名前:OFW :2001/01/03(水) 18:35
>>12(”3さん”さん)(補足)
>NAMも経済板では誰も知らないので。
NAMの理論を支える一人らしい先生の「貨幣の本質と貨幣の未来」
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~nishibe/essensemoney.html
には、貨幣は廃棄すべきではないと主張されている。
>貨幣が体現すべき「価値」とは,自分ではなく他の人々の評価と是認に依存する社会的
>なコトである。
1970年代後半の日本思想界で流行った、「物から事へ」の強調は、たとえば広松渉
『事的世界観への前哨』等を生んだが、実際には現象主義に終ってしまった。
本来、モノ性(物性)とは自然の本体的在り方を言うのであり、「自然的な必然性」についての
理解がなければ、貨幣の本質は理解できない。確かに「貨幣とは社会的な事柄」とは正しいが、
それは単にお約束といったものではなく、「自然的人類の物質生産の必然性」から来ており、
社会の生産関係が客観的・歴史的な根拠なのです。
>人々は貨幣の発行者の約束や権威や権力を信じているのでも,貨幣のモノの価値を
>信じているのでもなく,
ただ,貨幣のコトとしての社会的価値の「同一性」を信じている。
「価値の同一性」こそが価値を「自己同一的な実体」と呼ぶ所以であり、それは社会的労働による
再生産活動を実体化したものです。
>もう一つの貨幣の未来は,貨幣の本質をすべての人々が自覚するところから始まる。
全くその通り。そして、貨幣に未来はないのです。
>地域通貨は…近代社会が実現した個人主義と自由主義を基本としながらも,新たな互恵的な
>コミュニティを再生し,信頼と自己責任にもとづいて,経済と言語におけるコミュニケーションを活性化
>することを目的としている。
ここでは、経済が政治と混同されている。そして表明されているのは、近代的個人主義・自由主義
という、市民(ブルジョア)イデオロギーに過ぎない。
実際、社会の唯物論的な認識はどこを探しても見当たらないにも拘らず、彼らは何故、繰り返し
マルクスに言及するのだろう?
243代わりっぱなしなけど:2008/02/09(土) 19:28:09
33 名前:OFW :2001/01/04(木) 11:34
>>32
>貨幣には未来しかない。
それを貨幣物神と呼ぶのです。
「貨幣は何でも買える」が故に(マナのように)絶対的な魔力を持つと思い、そして拝金教徒は
皆それに従う。
価値の実体力とは過去の対象化された労働が未来の労働を支配しようとする、まさに「過去の支配」
でしょう。
それは時間の流れを逆転させ、流動性を固定化させ、自由を必然性に変えるものです。

「実体とは偶有性の総体として、事象を貫く自己同一的な本質力である。人はそれを必然的な
運命と呼ぶが、それは外的な必然性であり、自由(偶然)な人を突然襲う。すべての現象は実体
から出て実体に帰って行く。それは全き闇であり、『無』自体である。」(ヘーゲル)

自由主義経済とは、物象化された社会的実体力である、貨幣および資本がその絶対的な必然性
(等価交換、支払期限の厳守等々)をもって自己に帰るという矛盾を、個人の自由と呼ぶ。
しかし、それは人間の自由ではなく、貨幣および資本の顛倒した自由でしかない。
「貨幣には過去しかない」、これが正しい。
244代わりっぱなしなけど:2008/02/09(土) 19:31:11
35 名前:OFW :2001/01/05(金) 23:42
>>34
>哲学?
そうですね。実際、今の経済学は経済の本質を忘れた、非哲学的、非思想的な学問
になっている。哲学的反省なき貨幣物神・資本物神をそのまま受け入れているため、
「おカネって何?」「価値って何?」という小学生の素朴な質問にすら、満足に答えることが
できない。
もし、経済学を人間の物質的生存にとって必要な財の生産・分配に関する、希少な資源
と希少な労働力の最適な配分の研究、と定義するならば、そこには本来「価値」などという
仮象的存在は現れることはなく、現存する生産手段の下で、多様な財の社会的な必要量
を再生産するのに必要な、社会的な労働量を計算するという、計画的生産と生産物の分配
の問題に帰着する。
しかし、生産手段の所有者と実際の生産者が分離・対立している社会では、すべては無秩序
であり、市場という無計画な偶然性が支配する「疎外された社会」を通してしか、社会の再生産
と生産物の分配は達成され得ない。
何よりも「労働力以外に売るべきものを持たない階級」が出現して以来、資本というその影が
世界を完全に転倒してしまった。工場内の厳格な計画的生産と工場外の無計画な販売競争
との対照は、社会の分裂をそのまま表現しており、金勘定だけが唯一の「合理的」法則になって
いる。
その点で、現代の経済学はちょうど、中世の天動説が惑星の軌道を計算するために、
複雑な周天円モデルを作り再現しようと苦労したが、結局「コペルニクス的転回」
(Copernican Revolution)に至らざるを得なくなった、神学的天文学の歴史を思わせる。
若き研究者とすべての労働者にとって、そこには良く考えてみる「価値」(但し経済的価値では
なく、学問的あるいは実践的な価値)があるのではないでしょうか。
245革命的名無しさん:2008/02/10(日) 08:12:44
元に戻ってわたしがコキペ致します。

38 名前:OFW :2001/01/07(日) 00:07
>>36
>50年ぐらい前のランゲとハイエクの論争を思い出すな
ランゲ市場社会主義における経済計算に関するレビュー
 http://www.bekkoame.ne.jp/~hyoko/langeindex.html
実際、スターリン主義型の「社会主義」(実は国家資本主義)経済に価格メカニズムを
最大限取り入れようとすることは、一つの矛盾を導入することになった。
問題は、「誰が生産を握っていたのか」であり、共産党官僚・独占資本家・軍部からなる
「ノメンクラツーラ」か、労働者階級か、が要点でしょう。
貨幣・資本(すなわち賃労働)そして国家の存在は、社会主義とは相容れないし、
少なくとも「労働力の商品化」は第一に廃棄すべきものです。
いずれにせよ、資本主義経済では、投資・金融・信用といった市場の事柄が経済の
表舞台であり、その地下にある生産自体は「私的な事柄」とされている以上、
経済学者の関心を余り引かない。実際、産業連関分析や労働経済学などは、
証券アナリストや主流経済学者にとっては魅力のないテーマでしょう。
労働者が資本家・経営者の単なる使用人に過ぎない体制下では、旧ソ連と同様、
システム(体制)の維持(均衡)のために、総資本の代表としての国家が、
どうしても乗り出さざるを得ない。経済は既に政治化されている。
246革命的名無しさん:2008/02/10(日) 08:20:41
42 名前:OFW :2001/01/07(日) 20:19
>>39
>じき恐慌が来た暁には、誰もがマルクスに縋りつくことを夢見て
恐慌待望論?それはマルクスとは無縁でしょうね。
サラリーマンが自己の社会的地位を自覚するのは現実認識から出てくるのであり、
その必然性の認識とは恐慌の必然性といった外的なものではなく、
労働こそが経済社会の存立性の物質的根拠なのだ、という内的な必然性の自覚です。
その点では、「夢見る」とは逆に、幻想から現実への転回でしょう。

>>40
>マルクスは恐慌からの脱出方法を提案できないからダメ
とても不思議な意見ですが、要は恐慌からの資本主義的脱出なのか、社会主義的脱出なのか、
という事でしょうね。
「マルクスの提案」とは、労働者階級の組織的団結による社会の転回(Revolution)であり、
「主人を交替せよ」というものでしょう。
また、「恐慌論」については、日本の(マルクス主義ではない)「マルクス経済学」においても、
「恐慌は必然的なものではない」と主張されているようですが、たとえば『資本論』を換骨奪胎した
宇野弘蔵氏は、自然科学的な必然性と歴史的・弁証法的な必然性とを混同しているようです。

「必然的なものは実在的条件に媒介されてのみ現実化する。しかし、それは条件によらず
現実化せざるを得ない。つまり、それは必然的だから必然的なのである」(ヘーゲル)。

必然性の概念とは「他であることの不可能性」であり、単なる可能性および蓋然性を超える
ものです。それは内的な本質存在の現象ということであり、「総体的なもの」の顕現です。
一方、外的な必然性は運命とも呼ばれる偶然的な必然性です。よくある恐慌待望論
(例:一般的危機論)などは没主体的な宿命論の裏返しに過ぎないでしょう。
247革命的名無しさん:2008/02/10(日) 08:22:09
43 名前:OFW :2001/01/07(日) 20:21
>>41
>精神現象学なしの論理学って言うところかね。天から降ってきたエチカかな。
『精神現象学』には有名な「主人と奴隷」の自己意識の相克の話が出ており、
主人のうちにしか自己を持たない奴隷は、大地に働きかける労働によって自立的自己を獲得する
と書かれています。
近代的な自由・平等思想の起源と主体意識の誕生を勤勉な市民(自営農民?)の登場に
見ているとも言えます。(無論それは観念論に止まるが)
現代の社会においてはどうでしょう。誰が主人で、誰が奴隷なのか?
(広告宣伝部長)「消費者は王様です」
(営業部長)「しかし、売れない。何故だ?」
(経営コンサルタント)「過剰供給、いや過少消費です」
(経済学者)「賃金の『下方硬直性』がスタグフレーションを招いているのです」
(労務部長)「それは労働組合がうるさいためで…」
(社長)「ええい、『不良在庫』はリストラ処分だ」
(広告宣伝部長)「しかしそれでは、王様が乞食になってしまいます
…等々。
エチカ(倫理)というより商品と労働の弁証法でしょう。
いずれにせよ、経済学者には「真実を見る勇気」という倫理が欲しいものですね。
248革命的名無しさん:2008/02/10(日) 08:27:19
62 名前:OFW :2001/01/10(水) 23:44
>>60(”(名前)まだない”さん)
>その「労働量」はどうやって測るんだろう?
>ソフトウェアのプログラミングに頭をひねるのと肉体労働するのとの違い
逆に質問ですが、実際に労働量は違うか同じか、どちらだと思いますか?
頭脳労働の方が肉体労働より楽だから、少ない?(現代では、肉体労働の「賃金」は
相対的に安いですよね?)
>貨幣価値で測るしかないんじゃないの。
「何」を貨幣価値で測る、と言われるのかな?
>岩井さんが言ってるのは、労働量とかそういう風に単一の根拠を求めても埒があかなくて、…循環として理解する
>よい他ない、ということ
岩井氏の『貨幣論』(ちくま学芸文庫)から少し引用すると、
「…「俗流経済学者」の誤謬とは、かれらが価値の形態を分析しながらその実体が
 なんであるかを明らかにしえなかったこと、あるいは「価値のうちにただ社会的形態だけを、
 またはむしろ社会的形態の実体のない仮象だけを」…見たということにあると、
 マルクスはいっている」(P24)
「たしかに、古典派経済学は価値の「実体」を発見した」(p25)
「古典派経済学は、…商品の交換価値が資本主義社会に固有な価値の「形態」にすぎない
 という認識をもつことができなかったというわけである」(p26)
岩井氏は要するに、「価値の現象形態とは実体のない仮象に過ぎない」という主張は正しい、
と言いたいのでしょうか。もしそうなら、価値の科学などはあり得ない筈で、確かに貨幣物神
(貨幣の神秘)は妥当なものとなる。しかし、他方で次の文からも分かるが、価値の科学を
主張している。
「…ワルラスの一般均衡理論…は、資本主義社会をおたがいに依存関係にある数おおくの
 市場のネットワークとしてとらえ、すべての市場の需要と供給を同時に均衡させる価値体系
 (一般均衡体系)の存在を数学的に証明したのである」(p32)
一般均衡理論で存在している体系とは「価値」体系ではなく、価値の現象形態である
「価格」体系でしょう。
上記は、まさにマルクスが俗流経済学に投げつけた「価値形態と価値との混同」そのものでは
ないでしょうか?
249革命的名無しさん:2008/02/10(日) 08:33:30
66 名前:OFW :2001/01/11(木) 22:31
>>63
>またヒックスの副題は主観的価値の理論だったのではないか?
近代経済学で客観的価値の理論があるのでしょうか?主観的価値とは価値の表象であり、
その実体(表象の対象)に関する客観的議論がない以上それは「価値とその現れ(表象)との
混同」でしょう。
>>64(”(名前)まだない”さん)
>労働を直接計量化することは不可能で、市場価値つまり価格で間接的に計るくらいしか
>思い当たりません。
労働とは対象的活動であり、およそ活動の量とは広くエネルギーと呼べるでしょう。
そして活動は時間的なものであり、「活動力」の一定時間の発現が現実的活動の量です。
無論それを直接計量することはできず、その働きを受けた対象の量で計るしかない。
たとえば、地震活動のエネルギーはそれが作用する震度計の振れを元に、それがどの位の
範囲の地域に作用を及ぼすかという規模(マグニチュード)として測定する訳です。
労働の計量は、労働対象に及ぼす労働の効果、すなわち生産物の量によって可能でしょう。
具体的な労働は、労働手段や労働組識に媒介された技術的なものであると同時に、
多くの個別労働が結合した社会的なものです。
そして、それは潜在的な「労働力」の一定時間の発現として見られ得る。
あなたが言っているのは、(労働自体ではなく)個別的「労働力」の交換価値である賃金の
事ですね。
>労働「量」です。
同上。労働量とは実在的なものであり、価値とは非実在的なものですから、後者で前者を
計ることは論理的に不可能です。現代の多くの労働組合でも労働力と労働が混同されて
いるようです。
繰り返しですが、「賃金」とは労働に対する対価ではなく、労働力の売価です。
この混同は資本の秘密であり、労働が価値の実体だという本質を覆い隠すものです。
>>65
>労働量=労働の質*労働時間
多分、具体的な有用労働と抽象的人間労働の区別を示したいのかな?
250革命的名無しさん:2008/02/10(日) 08:53:18
OFWさんって本当にスゲーな・・・
251革命的名無しさん:2008/02/10(日) 19:36:49
78 名前:OFW :2001/01/13(土) 15:13
>>69(63さん)
>計れないから客観的でない。だから価値とは言えない
そうは言っていません。価値の計量の問題と主観的価値の位置付けの問題とは別の議論です。

>ということでしたら、労働価値だって計れません。
労働価値とは何でしょう?私は「価値」と呼ばれるものは、「労働」の隠された別名であると
言っているのです。そして、与えられた生産計画のもとで、どれだけの労働を投入すべきかの
計算は、現在のすべての産業で行われているものでしょう。それを企業内だけでなく、
社会全体に押し広げることが、社会主義的な生産と呼ばれ、そこでは「価値」という用語は
不要なものとなるでしょう。

>直接間接に用いられている労働量なんて、産業連関表から推察するしかないではありませんか?
推察というより、測定でしょう。
産業連関表とはケネーの経済表並みに重要な経済法則の表現でしょう。
貨幣に基づく市場原理を追求する経済学が実体経済(社会の再生産構造)を軽視するのは、
ブルジョアジーの視点で経済を考えるからでしょう。

>労働が投下されているからといって価値を持っているものではありません。
>たとえば作られても使われていないダムを考えてみてください
ですから、価値の本質とは「社会的な必要労働」が対象的に表現されたもの、と言っているのです。
それは投下労働ではないし、単なる使用価値のことでもない。
社会とは一つの統一体であり、その再生産は抽象的な社会的労働の配分によって維持されている。
何をどれだけ生産すればよいかは、社会的な必要に応じて決まるでしょう。
使われないダムは社会的に不要なダムであり、「無価値なもの」と呼ばれるが、
本来「モノが価値をもつ」という表現自体が、仮象的(かりそめ、みかけ)なのです。
252革命的名無しさん:2008/02/10(日) 19:40:19
90 名前:OFW :2001/01/14(日) 07:16
>>79
>(だから投下された労働には価値が無い)
労働価値論とは、労働が価値を生み出す(正確には形成する)以上、労働自体は価値をもたない、
ということです。

>投下された労働量が意味を持つのではなく、
投下すべき労働が意味を持つのです。

>したがってコストを価格と考えるのは間違いだということになる
まったくその通りであり、実際に支払われたコスト(原材料費、設備減耗費および労賃)(製造原価)が
価格を形成するなどというのは誤まりです。
古くからある生産価格の議論は、平均利潤率を前提にした転倒した説明でしょう。

>>80
>OFWさんが、客観的価値を追求しなければ社会科学じゃないと、思っているなら
およそ科学は客観性の追求であり、世界は合理的な根拠(本質)があるということから出発する。
現象には客観的本質はない、と言うなら、結局勝手な思弁に陥るだけで、事実「貨幣論」は
そうなっている。

>近経に人は、客観的価値なんて考え出したら宗教になると思ってるかもしれないけど
何故なのかな?私には客観的なものは存在しないという方が宗教じみて見えるが。
価値の主観主義は資本(家)の無制限かつ無秩序な自由を正当化する「ブルジョアジーの夢」
でしかない。確かに使用価値とは個人によって異なるが、それは相対的なだけで、「必要(必然)」
という人間の客観的な有り様を反映している点で、決して主観の恣意に依らない本質をもつ。

>まともな議論をしたいんなら15chでスレでもたててみたら?
以前15chを少し騒がせました。
253革命的名無しさん:2008/02/10(日) 19:44:19
91 名前:OFW :2001/01/14(日) 07:31
>>88
>で、「貨幣論」はどうなったのよ?
価値の客観的形態を追跡したマルクスが、貨幣形態においてその完成を見たが、
その論法を「踏襲」して価値形態Zなるものを案出した岩井氏は、マルクスの価値形態論を借りて
マルクスの労働価値論を否定したと言っています。
「すべての商品は貨幣である」ことが多様な通貨の併存や電子マネーにおいて実現されている、
と仄めかしているが、実際には信用と貨幣とを混同しているに過ぎない。
「無制限かつ無期限の信用」などあり得ず、精々国家(幻想の共同体)に対する国民の信用が
幅を利かせている位。そして、それも国債がこれだけ肥大化しているため、国民は信用より不安が
先立つといった現状でしょう。
岩井氏の言うように「経済に本質的に新しいものなどない」以上、貨幣形態Zという循環論法とは
労働が価値の実体であることを隠すための、新種の貨幣形而上学にしか見えない。
確かに、貨幣とは一つの幻想に支えられている。しかし、それはまったくの無根拠ということではなく、
社会の階級対立に根をもつ、必然的な存在(必要不可欠なもの)であり、また貨幣を現れるがままに
受け取る経済学の表象は概念なき現象論と言えます。
結局、逆立ちした経済学は社会自体の転回によってしか、合理的・客観的 なものになり得ない、かな。
254革命的名無しさん:2008/02/10(日) 19:51:10
96 名前:OFW :2001/01/15(月) 00:34
>>93
>「マルクスの価値論は労働価値説であって、投下労働に基づいたもの。使用価値というのは
>近代経済学の交換により実現される価格と同じ。」というのを…ならった

それはマルクスの労働価値説の内容ではない、と言えます。
1.マルクスの価値概念は、使用価値、交換価値、価値本体(実体)という、相互に対立する
  3契機の統一として出されており、アダムスミスがまさに価値本体を労働として突き止めたことを、
  評価しているのですが、にも拘らず価格(交換価値の貨幣形態)と価値自体とを十分明確に
  区別できず動揺している、と評しています。
2.投下労働が価値の実体だというのは、表面的には分かりやすいが、それが誤りなのは、
  他の生産物の現存に応じて、(価格のみならず)価値が変化することを説明できないことからも
  明らかです。それは価値が自然的属性として生産物に含まれているかのように見る転倒
  (物象化と言います)を、労働価値説において踏襲する誤りでしょう。

価値の実体とは、自然的実体ではなく、社会的実体を指すのです。それは結局社会の物質的
再生産のために必要とされる労働に関する概念です。

>マルクス経済学では学派ごとに価値の捕らえ方が違うのでしょうか?
私は専門家ではないので、学派の詳細は良く知りません。それに、前レス(>>5,>>27)でも少し触れて
いますが、現代の「マルクス経済学」は全般にマルクス労働価値説の核心を誤解しており、事実上放棄
しているように思えます。
255革命的名無しさん:2008/02/11(月) 09:14:51
97 名前:OFW :2001/01/15(月) 21:22
>>94
>マルクスの価格と価値の乖離(労働価値説が成立しないこと)はマルクスの基本定理
>(という置塩の定理)で説明できること
とてもミスリーディングな表現で、内容を誤解しているかも知れませんが、まず、「価格と価値の乖離」
とは「労働価値説が成立しないこと」ではない。
それは、価値という本質が価格という現象において必然的に転倒せざるを得ず、その根拠は
抽象的人間労働という価値の実体が物象化され、物の属性であるかのように貨幣において
実現されるという、労働価値説の帰結だということです。価値法則は市場において貫徹される。
但し、それは価格という屈折を通して、自らの実体を隠蔽しつつ顕わにする、ということです。
この辺は弁証法的な抽象力・総合力が必要であり、「定理」という形式論理では捉え切れない
のでは?

>もし使用価値として、価格を意味しているとすれば、価値と価格が乖離するのは、利潤率が
>ゼロでないからだということになるでしょうね
まず使用価値は価格(自然価格?)を意味しません。使用価値は価値の質料(実在)であり
価格は交換価値の貨幣表現です。
ただ、おっしゃりたいことは何となく分かります。要は「利潤はどこから発生するのか?」という
根本問題でしょう。
古典派以前の俗流経済学では、「等価交換の原則(価値通りの交換)が成り立つ市場において、
商業利潤が発生する合理的な根拠は何か?」という点が難問だったようですね。

>>95
>貨幣についての説明もお願いしたいのですが・・
日本の「マルクス経済学」が何を言っているのかは、良く知りませんが、余り期待できないようですね。
マルクスが言っていることの表面的な概要は、岩井氏が述べている通りで、価値形態の最終段階
として貨幣が登場します。その後、貨幣の具体的な機能として、価値尺度、価値基準、購買手段、
支払い手段等が展開され、また、その形態として、鋳造貨幣、信用(代理)貨幣、価値章標等が
唯物論的に議論されている。
256革命的名無しさん:2008/02/11(月) 09:18:11
99 名前:OFW :2001/01/17(水) 21:46
>>98
>これは、労働が本来持つ価値は労働者に支払われる賃金バスケットのなかに含まれている
>価値よりも少ないということ(搾取の存在)のことですか?
違います。昔から社民主義者や労働組合が「搾取」という言葉を口にする場合、
常に「我々の『本来の』取り分を返せ」と言ってきたが、それはむしろブルジョア的私有原理を前提
にした議論であることを、知る必要があります。
搾取は確かに存在するが、それは事柄の一面に過ぎない。
私は「物象化」すなわち「人と人との関係がモノとモノとの関係として現れるという顛倒」が価値という
仮象を生み出していると言っているのです。
>つまり価格とは賃金バスケットに含まれる労働量で価値というのは労働が生み出す生産物に
>含まれている労働量ということです。
賃金とは労働力商品の売価であり、そこに「労働量が含まれている」ことはない。
価値あるいは労働量が生産物に「含まれている」というのはみかけ(仮象)の表現です。
ちょうど需要と供給を混同するようなものです。
供給(十分な現存量)がないから需要(不足分の必要量)がある訳です。
>それは産業全体の投入係数行列により決定するということではないですか?
与えられた最終生産物(消費財)の量(需要量)から始めて、すべての消費財、生産財の生産
および再生産に必要な社会的な労働量を算定するという、産業連関の考え方でしょうね。
>マルクス経済学の説明がかなりむずかしいですね。
自然科学のような意味で「資本主義社会の経済学」などは成立し得ないでしょう。
それは歴史的に発展し、深化する矛盾としてのみ解明され得る。
>マルクスの基本定理は搾取率がゼロなら、利潤率もゼロでこのとき直接間接に入っている
>労働量と生産価格は等しいというものでした。
利潤とは剰余価値の別名ですから、当然数学的にゼロはゼロでしょうが、重要な点は数式
に表現された、事柄の本質内容です。
数理的マルクス経済学者は、「マルクスの基本定理」などと言うが、「数学的」あるいは
「形式論理的」な「定理の導出」などは、マルクスの思考法とは無縁です。
257革命的名無しさん:2008/02/11(月) 09:22:00
100 名前:OFW :2001/01/18(木) 23:15
>>98(補足)
>それはある財を生産するのに、直接用いる労働量のほかに原材料のなかに含まれる
>労働量も必要
「原材料のなかに含まれる労働量」とは誤った言い方であり、労働量が生産物に含まれる
という表現は、過去の死んだ労働がモノとして実在するという錯誤を示しています。
それは通常の表現で「原材料の価値」と同義でしょうが、資本家は「労働(量)」という言葉
を使わないから、上記の表現はいわば「ブルジョア的労働者」(自営生産者)の立場を表
わしている。確かに原材料も労働生産物であることは事実ですが、それは労働量が原材料
の中に「実在的に」含まれているということではなく、対象としての原材料において、人が知識(観念)
として持っているだけの事柄です。
価値の概念とは「その生産物を再生産する場合に、社会的に必要とされる労働量」であり、
「既にその生産物に投下された労働量」ではない。両者は生産に関する条件が全く同一
なら等しいと言えるかも知れないが、生産物が既に存在する以上、必要度合いは変化しており、
歴史的条件は変わっていると言うしかない。
さらに、労働を知らず、その生産物のみを扱う商人や資本家が生産物において「価値」を
本体的な存在とみなし、それを形成する労働自体すら廃棄する。そうなると労働は価値
として実体化され、価値にもとづく商品、貨幣、資本といった仮象的で過去的な存在が
「真なる存在」とされてしまう。それは「直接用いる労働量」、すなわち活きた現在の労働
と対立する。
過去の労働が現在の労働、さらに信用において、未来の労働をも支配する。
それが「実体」(過去の必然)という概念です。資本主義経済の全運動はその矛盾に
もとづいています。
単に搾取が問題なのではなく、人間の非人間化(モノ化、疎外、奴隷化)が問題だと
いうこと、そしてその根拠の唯物論的な解明とその止揚(実体の主体化)の条件の探求
こそが、マルクスの経済学批判の根底にあるのです。
258革命的名無しさん:2008/02/11(月) 09:38:32
103 名前:OFW :2001/01/20(土) 00:35
>>101
>流動資本に体化された労働を過去の労働だから労働じゃないというのはどうでしょうか?
まず「流動資本」と「固定資本」の区分は、「可変資本」と「不変資本」の区分にすべきでしょう。
(原材料は「不変資本」の一部)また「過去の労働だから労働ではない」とは誤解です。
「資本とは過去の労働の対象化であり、現在の活きた労働(賃労働)と対立する」という事。

自然の一部である人間は自然に働きかけることによって、その物質的生存を維持する。
それを生産と呼びます。そして、生産は生産手段(労働対象と労働手段)と生産力(労働力)
との結合として分析できる。
この場合、労働手段自体が生産されたものであり、原材料も本源的自然を除いては、労働
により加工された結果として現存する。
資本家制的生産様式では、生産手段(原材料、機械設備等)の所有者(資本家)が労働力商品
をその担い手(賃労働者)から購入して、私的な商品生産を営む訳です。
過去の労働の成果である生産手段をモノとして私有した資本家が、それに資本価値(価値を生む価値)
が含まれていると見ることは、一つの逆立ちした表象です。それは、不変資本を労働力と結合して
生産した生産物には「付加価値が含まれている」という表象をもつことであり、
「資本は利潤を生む自己同一的な価値実体である」
という物象的な表象が完成する。まさにゾンビが活きた人間を支配するかのような世界がそこに
現出する。

その転倒、その弁証法的な対立が見えないと、価値・貨幣・資本の概念把握は不可能でしょう。
経済学者のように平面的な価値理解では、価格と価値の質的区別すらつかず、あるいは労働価値(!)
から生産価格への「転形問題」などという偽問題も発生することになる。
それでは岩井氏と同様「貨幣物神は正しい!」と言うはめになる。

>リカードは流動資本しかない場合で、労働価値説を用いようとしたからうまくいかなかった
>んでしたっけ?(不変の価値尺度の話ですがね。)
リカードは形式的には「投下労働量」を価値尺度とみたが、実質的には「賃金」(労働力の貨幣価値)
を価値尺度にしようとしたのでは?
259革命的名無しさん:2008/02/11(月) 09:39:14
104 名前:OFW :2001/01/20(土) 00:38
>>102
>マルクス経済学を社会学の基礎のようなものと考えておられませんか?
「マルクス経済学」とは何でしょう?
マルクスは決して資本主義経済に関して、合理的・科学的な理論体系を立てようとした
訳ではなく、むしろ資本主義自体が矛盾した、不合理な経済システムであることの必然性
を弁証法的に論証しようとしたのです。

およそ科学とは整合的な理論による現象の演繹的・客観的な説明でしょうが、資本主義社会
の理論は整合的になり得ない。
そこでは科学的理論は限界に達するのです。その限界点を明らかにすることが(優れた意味での)
「科学批判」(Criticism)であり、「客観的な世界は主体自身の客体化に媒介されている」という、
理論と実践の弁証法が社会状況を開示することになる。
「自由とはまさに必然性の真理である」(ヘーゲル)
という言明は、観念論ではなく、唯物論によって具体的な内容をもつことができるでしょう。

また、何故「経済」なのかと言えば、「自然と人間との間の永遠の物質代謝過程」こそが社会の歴史的
かつ自然的な物質的基礎をなすもの、だからです。無論、「経済学」が「社会学」の基礎をなす訳では
ありません。
260革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:11:46
106 名前:OFW :2001/01/20(土) 07:29
>>105
>流動資本(原材料としての商品)と労働を用いて商品を作りますね。
固定資本(土地、設備機械等)を忘れないように。また、労働を用いるのではなく、
労働力を用いるのです。労働は現実の活動であり、労働力はその潜在的な在り方。
それは労働者自身でしょう。

>その流動資本として使ったものを補填してもあまりあるだけの商品が生産されるから経済は
>存立可能なわけですね。
資本主義としての商品生産はそうです。そして、「あまりある」どころか「あり余る」ほどの商品が
生産可能なのが、工場制機械工業による大量生産。

>じゃあ流動資本と賃金分を超える部分はどこへ行くかというと、資本の価値額に応じて資本家
>に分配されるはずなのです。
その前に、「商品形態」は「貨幣形態」に転化され、価値を実現しなければなりません。
平たく言えば、市場においてすべて売れなければならない。それが問題の点です。
生産物が売れるか売れないか、それはまったく分からない。価値形態の転化のために、商品および
その担い手である資本家は「命懸けの飛躍」(マルクス)を遂げる必要があります。それは需要を
知らない無秩序な生産のためであり、市場における「見えざる手」によって事後的に生産の調整が
行われる。それが資本主義的市場経済です。

>(すべての産業で利潤が等しくなるのは、資本は産業間を自由に移動かのうだからです。)
まったくその通り。資本が自由なので、労働者は不自由な拘束を受け、また利潤が等しくなるから、
剰余価値が不等になり、合理的な再生産が不調になるのが現実であり、それは現在でも「不況」
として現実化していない?
「価値通りの交換」(等価交換、一物一価の原則)という規範が、現実には「生産価格での交換」に
なっているのが「転形問題」であり、にも拘らず経済学者が「現実は価値通りの交換が支配する
合理的市場経済社会である」と言うことは、イデオロギー(現実に合わない観念)でしょう。
経済学批判とは道徳的批判ではなく、現実とは違う、というイデオロギー批判(空想的理論の検証)
なのです。
261革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:14:11
107 名前:OFW :2001/01/20(土) 07:32
>>105(つづき)
>こういう現実があるわけで、それがけしかんというのは規範的な考えであって、
>実証的な考えではないわけですね。
現実をみて、その矛盾した姿が見えないのは、「無概念的」認識と呼ばれる。
唯一の規範は「真理を探究せよ」という、すべての認識者に向けた規範であり、
現実ではなく表象に捕われることを戒めるものです。
また、実証は重要ですが、「何が実証されたのか」ということに関しては、
反省的・本質的な理論(仮説)が必要だということです。そうでないと、実証主義は
「木を見て森を見ず」という現象論になる。

>価値とか価格というのは本来どうあるべきかというべきろんではなく、どうあるべきか、
ではなく、真理はどうなのか、です。
「本来の価格」「自然価格」「正常な利潤」「正しい経済政策」等々はすべて世の
経済学者が使う規範的な言葉であり、現実を正しく反映していないのでは?

>現実にどうなのかという現実認識であるわけでしょう?
まさにその通りです。マルクスは歴史上始めて「空想的観念ではなく、現実を見よ」と
言ったわけです。

>どうもお話が理解できないですね。
では具体的に「貨幣が何故必要か」という点にしましょうか?
先ほどの話で、生産された商品には価値が「含まれている」としても、それは売れなくて
はならない。それは何故でしょう?
262革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:16:40
109 名前:OFW :2001/01/20(土) 21:16
>>108
>産業を通じて等しくなるのはなぜか?
まず現象面で言えば、資本家にとっては、彼が投下する貨幣がどれだけ太って戻ってくるか、
にのみ関心がある訳ですから、投下すべき産業が何であっても構わない、という事情は別に
不思議なことではないでしょう。
そして、すべての資本家がより高い利潤率を求めて競争する結果として、むしろすべての
利潤率が全産業を通して均等化され、「一般利潤率」という平衡点に達する、ということも
自由競争の直観としては分かるでしょう。その過程は、市場というものが持つ逆説(見えざる手)
の一つであり、市場心理について、たとえば、哲学者J.P.サルトルが『弁証法的理性批判』
において、「他者性の次元」の例として分析したものでもあり、岩井氏も「他者の欲望」
「未来への先送り」等の用語で分析していますが、要するに、物象化した人間(他者なる自己)
の弁証法として説かれるべきものです。
そして、その過程の結果として実現される事態は、まさに社会全体の総資本による総労働の歪
んだ再配分(誤った割り算)ですね。
その場合、価値法則は全体として貫徹していると言える。実際現在は、IT産業に向けて
「全ての個別資本」が誰よりも早くと、移動競争をしているような有り様であり、早く独占して
「他者の自由」を排除しないと、独占を排除した完全自由競争の負け組になる、と言われている。

>(労働も自由に動いても、資本は自由に動けるよ)
マルクスは近代プロレタリアの誕生について、彼らが二重の意味で自由である、と言っていますね。
第一に前近代的な隷従関係、古い役務からの自由、第二に生産手段から切り離され、裸の労働力
として所有からの自由。
それは「職業選択の自由」といったごまかしの観念とは違い、リアルに社会を見る視点、そして弁証法的
な視点(自由は必然である)を示している。
私が「労働者は不自由」と言ったのは、職業をいくら自由に選択しても賃労働者であることから自由には
なれない、といった意味です。失業の自由?
263革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:23:05
110 名前:OFW :2001/01/20(土) 21:18
>>108(つづき)
>ここのところは、労働価値説を用いて価値を求めても意味がないという転形問題のことの気がするけど。

「価値」という言葉をどう定義するか、に掛かっているでしょう。
1.「価値とはモノがもつ効用である」?
2.「価値とは現存する有用物がもつ稀少性である」?
3.「価値とは貨幣で尺度される、経済学の基本量である」?
明らかに3は形式的な定義であり、実際には価値ではなく価格しか扱っていない。
「名目価格」「実質価格」という用語がそれを補っています。
尺度は存在するが、それによって尺度される実体は存在しない???

また、岩井氏も含め、経済学者は「労働価値説」という用語を「投下労働量で尺度された価値に基づく
交換が実際に成立しているという、科学的な法則」と考えているようですが、私は「価値という存在の実体は
社会的必要労働であるという、価値の本質認識」と考えます。それがマルクスの主張としての労働価値説で
しょう。
264革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:32:02
112 名前:OFW :2001/01/21(日) 09:36
>>111
>社会的必要労働というのを、投入係数を考えて一単位その生産物を社会全体として
>生産するのに必要な労働量と解釈するのが一般的ではないでしょうか?
概念としてはそうでしょう。ですから「社会が必要としている生産物」に関して、いかなる
社会において?という社会の本質に問題が移るでしょう。

>たしかに投入係数は変わるし失業もあるのでうれないものを作る労働というのは社会的
>には不必要と考えることができるのかもしれませんが、そのようには経済学では考えない
>のでは?
資本主義社会を前提にした経済学ではそうでしょうが、売買自体を廃止する社会主義経済
ではそうではないでしょう。念のために言っておけば、旧ソ連を始め、自称「社会主義国家」
とは社会経済体制としては、国家資本主義と考えるのが正しい。

>むしろマルクスは古典派をひきずっているから完全雇用を考えていたのではないですか?
「古典派をひきずる」という意味が良く分からないが、マルクスは雇用(正確には賃労働)の
廃止を考えていたのです。彼は、資本主義経済の整合的な理論体系をうち立てようとした
科学者、ではない。『資本論』とはブルジョア経済学の批判の書であり、「マルクス経済学」
なるものの教科書ではないのです。歴史的社会の唯物論という視点が必要。

>失業予備軍は賃金率が労働の再生産に必要な水準に決まると言っているだけで。
>ちがいますか?
まず「労働の再生産」ではなく「労働力の再生産」です。労働を再生産するとは、
「運動を運転する」並みの論理的エラーです。労働の価格とか、賃金とは労働の報酬とか、
同じ誤りです。(どうして皆、本質的な区別が分からないのかな…)
また、「失業予備軍」という言葉は「産業予備軍」が正しい。資本主義経済下では賃金率を
最低限に押さえるために、産業予備軍という失業者が必要、ということです。
265革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:33:52
119 名前:OFW :2001/01/22(月) 02:26
>>116
>しばらく僕はここのスレッドお休みにします。
それは残念。インターネットは続けるべきでしょう。

>資本主義はきっと滅びるという論理を展開して
資本主義が自動的に滅びるという論理は、誤解ですね。
資本家というものは、自らの階級的利害のためには、世界を消滅させてもよいくらいの考えを
もち得ますから。現に20世紀には2度の世界大戦と数多くの戦争があり、原爆・水爆(実験)
まで使用された。環境は修復不可能なまでに破壊されつつある。

>革命という新しい経済関係を作り出すときの軋轢をなるべく少なくしたい
革命は新しい経済関係のための転回(Revolution)であり、暴力的か非暴力的かは措くとして、
不可避なものでしょう。それは「必然性の王国」から「自由の王国」に向けた人類の主体的な
事業です。マルクスはそれを労働者階級の自己解放に向けた理性と情熱に託したということです。

>>117
>2ちゃんねるにはくだらない馬鹿書き込みが多すぎて
確かにくだらないものが多いのは確かですが、それは今まで余りにも「表現の自由」が押さえられて
いたためでもあると思う。また、一見してつまらない一行レスにも、カキコする人の表現したい本心
が見える場合もある。インターネットにより、確実に世界は変わるでしょう。それは、人類という一
つの歴史的かつ自然的な共同体が現実のものになる過程の一つだと考えれば、多くの無名の人同志
のコミュニケーションが如何に重要かということです。
266革命的名無しさん:2008/02/11(月) 16:36:05
130 名前:OFW :2001/01/28(日) 23:40
>>122
>それは貨幣が自分にしか根拠をもたない脆弱なものに過ぎないということを逆に暴き出して
>しまったとも言える。
それは少し誉め過ぎではないかな?
まず岩井氏は「貨幣が自分にしか根拠をもたない」とは言っていない。
彼は「貨幣は他者がそれを受け取るから、貨幣として流通する」と言っているので、要するに
「人間同志の約束」が貨幣の根拠だと言っているに過ぎない。
つまり、「貨幣の真の(客観的な)根拠は何か」という点には結局答えていない訳です。
それは彼が予め「労働価値説」を否定した上で、「さて、貨幣とは…」と語り出す以上、
始めから答えを遮断しているということです。

>岩井氏の貨幣論は貨幣からその存立根拠を理論的に奪うために 書かれたとも考えられる
私には労働価値説を葬ろうとするために書かれたと見えますね。
前にも書いたが、循環論法は貨幣にではなく、岩井氏および近代経済学の論法の方にある
のであり、貨幣という現実的な仮象は厳然として存在するのです。

>こう見ると案外、岩井氏の貨幣論は貨幣否定論と近接しているように思う。
まあ、一般の貨幣論よりは踏み込んでいると言えるでしょうが、価値の実体に迫っていない以上、
結局は無根拠な議論でしょう。

>貨幣の本源的無根拠性を暴露することで、貨幣の否定可能性への道を開いたという具合に。
「貨幣の本源的無根拠性」という言葉で何を言おうとしているのでしょう?
一般に根拠とは現存在の存立性ということですから、貨幣が存立するための根拠はそれが
「一般的等価物」であることですね。そして、その詳細は、マルクスの価値形態論が解明している。
むろん、貨幣が貨幣自身の根拠である、というのはナンセンスでしかないが。
267革命的名無しさん:2008/02/12(火) 07:30:37
131 名前: OFW 投稿日: 2001/01/28(日) 23:45

>>124
(横レス失礼)
>貨幣の無根拠性と貨幣の否定可能性の間の距離はあまりに遠い
 貨幣は無根拠なものではない。それは「現実的な仮象」であり、その根拠
 は生産者が互いに孤立しており、社会的な生産物が商品として交換されな
 くてはならないからです。そのためには等価交換が必要でしょう?
>世界の実在を証明することが難しいということが、世界の消滅へ道を開く
>と思いますか?
 世界の実在が証明できないのは、それが実在ではなく現象の総体だからで
 す。また、世界自体は消滅しません。それは主体の必然(必要)です。
>>125
>貨幣が崩壊しないのは実際的には「貨幣法制説」が「貨幣の無根拠性」を
>隠蔽するのに現に成功しているからにすぎない。
 それは信用と貨幣とを混同する議論です。代理貨幣と本源貨幣との区別が
 必要でしょう。確かに信用とは資本主義世界に対する信頼であり、その
 崩壊は資本家にとっては「世界自体の崩壊」と感じられるでしょうが、
 労働者にとっては、まさに「世界の夜明け」でしょう。
>コミュニストのマルクスの目論見(貨幣の否定)は恐ろしいが案外そこに
>あるともいえる
 コミュニストの目論見?は資本家にとってのみ恐ろしいのであり、現在既
 に日々恐ろしい目に合っている労働者にとってはそうではないでしょう。
 あなたは労働者それとも非労働者?
>だから、岩井氏は国家の力を軽視していると思う。
 国家とは政治的な暴力装置であり、階級対立を隠蔽する幻想の共同体です。
 それは、労働者が現実を把握すれば、自分が作り出した幻であるという
 ことに気が付くでしょう。むろんその現実の廃棄は政治的な実践を必要と
 するが。
 「主人が奴隷に対して主人であるのは、奴隷が主人に対して奴隷として
  振舞うからである。」(マルクス)
268革命的名無しさん:2008/02/12(火) 07:32:10
139 名前: OFW 投稿日: 2001/02/02(金) 21:36
>>136
>貨幣に否定しがたい根拠があったらしたら、それだけ逆に貨幣を廃止する
>のが困難だと思う。
 「貨幣の根拠」とは、貨幣が無くてはならない理由ということですが、
 それは社会の分裂状態にある訳です。その廃止は社会革命なしには成し
 得ないのであり、現状の生産関係をそのままにして貨幣だけ廃止できる
 筈もないでしょう。
>>137
>貨幣法制説が貨幣に根拠をなんとか与えているのに成功している
 何らかの学説が現実の貨幣を支える根拠ではなく、実際の経済がその根拠
 なのです。
 無論、通貨は国家と一体ですが、世界貨幣としての金が相変わらずその底
 に隠れているでしょうね。

140 名前: OFW 投稿日: 2001/02/02(金) 21:55
>>132
>「可能なるコミュニズム」批判して下さい
 最近の柄谷氏が何を主張しているのか詳しく知りませんが、労働者に依拠
 せずに、コミュニズムが可能だとは考えられない。
>>133(124)
>「労働者」が何をさしているのかということです。
 現在の資本主義体制の下では、何よりもまず賃労働者を指します。
 そして、自ら生産手段を所有して同時に労働する自営業者も労働者です。
 自ら働かずして、他者の労働(その成果)を収奪する者以外は、すべて労
 働者です。
 とりわけ、「自らの労働力以外に売るべき何物をも持たない」賃労働者は
 資本の価値増殖の根拠ですから、その疎外された実存を止揚することは
 本質的に社会の解放と結びついているのです。
269革命的名無しさん:2008/02/12(火) 07:34:04
142 名前: OFW 投稿日: 2001/02/03(土) 20:14
>>141
>本当ですか?
 本当です。「本当」という言葉が真実を指すならば。
>それは高々形而上的言説の中に回収されているだけの気がしますけど?
 現象と本質は異なりますから、現象面だけに捕われていれば、私の言説は
 形而上学的に思えるのでしょう。しかし、本質を理解すれば、世の人がい
 わゆる「貨幣の形而上学」(貨幣物神)に陥っていることが見えてくるで
 しょう。
 実際、岩井氏は自ら貨幣論を書いている過程で、一つの神学を扱っている
 かのような錯覚に陥ったと言っています。それは錯覚ではなく、貨幣自体
 を考えていけば、文字どおり形而上学にしかならないでしょう。
143 名前: OFW 投稿日: 2001/02/05(月) 23:49
>>135
>現実を把握すれば奴隷は何らかのアクションを起こすんでしょうか?
 現実は動かし得ないと予想すれば、起こさないでしょう。
 それは「予想の自己実現」と呼ばれるもので、自らが作る現実、という点
 に対する無理解でしょう。そのためにむしろ、「カネこそが唯一の現実」
 という社会を現実化してしまうわけです。
>奴隷が奴隷の身分に甘んじているのは現実を理解していないからなんでし
>ょうか?
 直接的な現実については、最もよく理解しているでしょう。それは毎日
 経験する狭い現実です。そこではカネがすべてを支配しているが、貨幣
 とは何か、などと考える余裕など無いから、それが無くてもよい存在、
 むしろ無いほうが世の中はシンプルで合理的になることまで理解できない。
 まして、「カネは絶対的だ」という教義が蔓延している以上は…。
>なぜ弱者は現実を知ることを恐れるのでしょうか?
 それは「現実を知ってもどうにもならない」という諦めが先に立つからで
 しょう。精々の所、「金持ち父さん」を夢見る位が関の山で、自らが現実
 総体を変える力と方策を握っていることに気づかない、ということかな。
 ウォルフレンも言うように「仕方がない」とは日本人の口癖ですが、それ
 は「仕方を知らない」ためであり、権力志向の知識人の責任でもある。
270革命的名無しさん:2008/02/12(火) 07:34:56
145 名前: OFW 投稿日: 2001/02/07(水) 22:27
>>144
>ソ連って結局なんだったんでしょう?
 旧ソ連は社会経済体制としては、国家資本主義と言うべきでしょうね。
 ノメンクラトゥーラと呼ばれた共産党官僚、軍部および大企業のボス達が
 生産手段を実質的に所有し、社会の政治・経済を支配していた。
 彼らは自らを共産主義者と呼び、その国家をソヴィエト社会主義連邦と称
 していたが、相変わらず賃労働、貨幣、国家を廃棄することなく、上から
 の強制的な生産計画(ノルマ)をもって計画経済と呼び、生産者の有機的・
 自発的な連帯と協働を阻止していた訳です。
 最近では、「日本は社会主義だ」という半ば冗談とも思えない意見も出て
 いるが、歴史的に存在した旧ソ連の「あの体制」を社会主義と定義するな
 ら、独占・寡占状態の大資本が国家官僚と一体となって、一国の経済を
 政治経済的にコントロールしている姿は確かに社会主義的でしょうね。
 20世紀以降、国家が経済に介入せざるを得ない時代(帝国主義時代)
 には、純粋な自由主義経済など存在すべくもないし、階級対立が続く限り
 、国家(幻想の共同体)が必然的に登場することになる。
 いずれにせよ、極度に政治化された経済の下では、経済学者は中立的な
 科学者という自らの本分を守ることはできないのは確かでしょう。
 階級対立が存在する社会においては、社会科学の中立性とは貨幣の中立性
 と同様、幻想に過ぎないのです。
271革命的名無しさん:2008/02/12(火) 07:36:46
150 名前: OFW 投稿日: 2001/02/14(水) 22:46
>>149
>貨幣物神が幻想だというような書き方をされてますが
 貨幣物神とは「人間の社会的な本質力が貨幣において体現され、人間的な
 関係性、豊かさ、主体的な自由等はすべて貨幣がもたらしてくれる。」と
 いう観念です。それは一つの幻想ですが、この疎外された社会においては
 必然的な(不可避的な)幻想です。
>貨幣物神も本質であるといえます。
 むろん転倒した形ではあるが、現実に無限の力をもつ本質です。それは
 非本質的な本質です。
>時代の要請によって個々人の考える本質になったりならなかったりでし
>ょう。
 確かに何が本質的で何が非本質的かは、観点や時代によって異なるわけで
 すが、決して個人的な主観には依らないものです。それは全体的な存在で
 あり、むしろ主観的な現象の底にある事物の客観的本質こそが、個々人の
 考えを規定していると言えるでしょう。
>僕は本質論より手続きのほうが重要だと考えます。
 手続きとはどのようなことを言われているのでしょう?
 誰もが豊かになるチャンスを増やすための、制度的な改良とかのこと?
>人が社会やそのしくみについて考えるのは、それを知ることによって
>この惨めな自分が豊かに生きうるという可能性をそこに感じるからです。
 そうですね。その可能性がないと思えば、現状に甘んじる方を選ぶ。
>結局多くの日本人はいまのままがいいんでしょう。
 確かに、多くの日本人は物質的には恵まれており、かってない程、豊かな
 時代を過ごしているとも言える。しかし、それはまったく根拠のない状態
 であり、偶然的で、見通しのきかない、徐々に崩壊しているという不安を
 感じながらのことでしょうね。現実から目をそむけ、ますます刹那的にな
 っていくのは、危機に対する弱者の防衛本能だと思う。
272革命的名無しさん:2008/02/13(水) 15:48:13
【韓国】南大門で印象操作に利用された日本人観光客
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1202862394/

<日本人が人の不幸を笑うニダ!の記事が完成するまで>
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1934444

朝日新聞のような、異常な報道機関が韓国にあるのも事実。
    ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (-@∀@)< あ?なんか言ったか
  φ⊂  朝 ) 
273いわし雲:2008/02/15(金) 19:30:33
やっと週末です。ほっとしながらも、適度な緊張感が残ってる。そんな感じかな。

296 名前:OFW :03/02/15 04:39
>>292(蟹さん)
>フェアな競争
確かに競争社会や取引社会では、ルールに則る公正さが要求される。それに対して“共生社会”では、
実質的平等が原則でしょう。人為的な規則(さらには法制度)が自然法則とは異なる所以ですね。

>>293
>合理的な優性社会を目標にするか、怠惰な均質社会を目標にするか
合理的vs怠惰なとは面白い考え。既に、優性社会=合理的な選択が働いて勤勉な者?だけが
生き残る社会といった社会ダーウィニズム的思想が混じっている。

ダーウィンは進化論において、品種改良のような人為選択から類推して自然選択の概念を導入したが、
彼が言う<最適者生存>とは結果として生き延びた変種が最適者なのだという結果論(同義反復)を
含んでいる。それは、選択なき選択性(目標なき合目標性)でしょう。

>人間にとって社会は如何にあるべきか
いかなる人間にとってか、がポイントでしょう。
既に現状の社会から“不当な”利益を得ている人間にとっては、現状はあるべき姿でしょうが、誰にとっても
そうだとは言えない。つまり少なくとも<社会制度の正当性>が満たされなくてはならない。
たとえば、ブルジョア社会は賃労働によって支えられており、それは私有財産制度(生産手段の私有)を
固定化しているが、その制度は公正でも正統でもないと、マルクスは考えた。
274いわし雲:2008/02/15(金) 19:35:58
298 名前:OFW :03/02/16 05:14
>>297
たとえば、マルクス一流の“デモーニッシュな”語りでは以下の通り。
「しかし、決定的なものは、価値の源泉であり、しかもそれ自身が持っているよりも多くの価値の源泉である
 という、この商品の独特な使用価値であった。 これこそは、資本家がこの商品から期待する独特な
 役立ち方なのである。そして、その場合、彼は商品交換の永遠の諸法則に従って行動する。
 ・・・労働力の日々の維持は半労働日しか要しないという事情、したがって、労働力の一日のあいだの
 使用が創造する価値がそれ自身の日価値の二倍の大きさであるという事情は、買い手にとっての特別
 な幸運ではあるが、決して売り手に対する不当行為ではないのである。 わが資本家には、彼に笑いを
 もたらすこのことはあらかじめわかっていた・・・手品はついに成功した。貨幣は資本に転化した。・・・
 問題のすべての条件が解決されており、商品交換の法則は少しも損なわれてはいない。
 等価物同士が交換された。 ・・・この全経過すなわち彼の貨幣の資本への転化は、流通部面において
 行なわれるのであり、しかも流通部面において行なわれるのではない。 流通の媒介によって行なわれる、
 というのは、商品市場における労働力の購買によって条件づけられているからである。 流通において行
 なわれるのではない、というのは、流通は生産部面において起こる価値増殖過程を準備するだけだから
 である。こうして、“ありえる限りの最善の世界では、すべてが最善に仕組まれている tout pour le mieux
 dans le meilleur des mondes possibles ” のである。」(『資本論』第1巻第1部第5章2節)

あるいは、エンゲルス流の直截的な語りでは、下記注釈がある。
「(30) ・・・ロッシャーのような男とその一味を強制して、現存する剰余価値の取得を正当化する資本家の
 多少とももっともらしい理由を、剰余価値の発生の根拠だとこじつけさせるものは、現実的な無知のほかに、
 価値および剰余価値の良心的な分析とおそらく危険で反警察的な結論とに対する弁護論的な恐怖である。」
(『資本論』第1巻第1部第7章1節)
275いわし雲:2008/02/15(金) 19:38:52
299 名前:OFW :03/02/16 11:40
>>297(つづき)
上の引用から分かるように、マルクスは労働力市場での労働力の売買と購買した労働力の自由な
(私的な)使用とを「不当行為ではない」と言っているが、段落全体を通読すれば、“真に正当”とは
見做していないことは明らかでしょう。
まさに、資本主義経済制度は法的にも正当であるが故に強靭であり、多少良心が痛む場面もあるが、
大学教授たちからも保証されている。その正当性は、畢竟<所有の正当性>に根拠を置いており、
生産手段と直接生産者との歴史的な分離の結果として、生産手段の私有を基礎にした近代資本主義
システムが自立してきたわけです。
イギリスにおける近代自由主義精神のバックボーンを形成したジョン・ロックは財産権の正当性を考究して、
その根拠を「本来的には労働、次に黙契に基づくその譲渡」に置いているが、それを継承したヒュームや、
アダム・スミス、ベンサムといったブルジョア学者達においては、その正当性はもはや自明の前提にまでなっている。
それは現代のロールズやローティ、ローマーといった“自由公正”を説く政治・経済学者にまで受け継がれている
「市民社会の秘密(黙契)」でしょう。正当だが真実ではない、とはそれが欺瞞だということです。
276いわし雲:2008/02/15(金) 19:40:39
301 名前:OFW :03/02/16 18:49
>>300
>マルクスは決して真なる正当性以外を破棄するために考えたんじゃない
「真なる正当性」とは、何らかの“唯一の正しい正当性”が存在するということではなく、
<正当性の真理>としての共同性を指しているわけ。
たとえばよく「形式的平等は実質的平等ではない。」と言われたりするが、では実質的平等を規定
しようとするとなかなかできないのは、<平等>とは自己止揚的な概念で、最低限の保証を超えれば、
<自由>に解消されるものだから。平たく言えば<区別性が何らの実効性をもたないような状態>では、
各人は自由に他人と差別されているでしょう。
「自由と平等は同じものである。ドイツ人が自由と言う同じ内容をフランス人は平等と言う。」(若きマルクス) 

>マルクスは偉大だけどその偉大さはマルクス主義者によって打ち消されてしまった
マルクスについては別スレでいろいろ書いたので、そちらをどうぞ。(そこで同じことを他に向けて言ったが・・・)
ただし「マルクスは偉大だ、しかし・・・」と言う論者は多いが、何が偉大なのかが示されない場合が殆んどで、
賛成も反対もできないかと。
いずれにせよ、「正義」は最近の日本では殆んど死語になりかけているかのようだが、海外では、米国のイラク攻撃
に対する世界的な反戦運動の高まり等を見ると、快楽・利益の損得勘定や単なる公正論(フェアな戦争?)
ではない<正義のパトス>がまだ生きていると思われ・・・
277労働って?:2008/02/22(金) 18:25:18
5 名前: OFW 投稿日: 2001/03/23(金) 21:23
労働(Work)はまず、人間の必然(必要)として存在する。それは個体の物質的な生存を維持するために、
生活手段を生産しなければならないという点において、人間に課せられた単純な自然的条件である。
そして古来より、人間は協働という形態で生産を営んできたが、それは圧倒的な自然力の前では、
明らかに個体の生産能力のみで個体を維持することは不十分であることから来ている。
自然との交渉、それとの物質代謝過程において、個体は他の個体との関係に入る。共同体とは、
まずもって生産共同体として歴史に登場したのである。
そして、共同体の掟とは、互いに協力関係を結ばなければ、成員の生存が維持できないという、
自然的な厳然性として共同体の必然であったろう。

「自由な個人」などという虚構は、歴史のずっと後において誕生するのであり、産業革命と交易に
よって、社会的な生産力が飛躍的に増大した近代以降のものである。それは、むしろ圧倒的な迄に
緊密化した社会的分業の存在を前提しており、商品と貨幣(一般的等価物)によって覆い隠された
人間社会の共同性を、否定的(他者化された)形態で主張する。実際、その内実は所有としての
所有(私有)によって保証された、排他的自己を称揚する利己主義に過ぎず、アダム・スミスが
説いた「自愛心」も、階級対立の中では、他者の労働を私有化する(労働力商品の購買と使用)
という、搾取関係の正当化でしかない。

労働とは、それにより人間が類として自由になるための媒介であり、個人が他者との協働の中で、
具体的・現実的に自己になり、その成果のうちに具体的普遍としての自己を対象化させる行為である。

市場における商品の売買によって利益を得ること、それは実際には他者の労働の成果を我が物にする
ということであり、その根拠である類的・共同的労働の蔑視であり、畢竟、労働者階級への敵対行為である。

現代の疎外された社会における勤労道徳の主張は、まずもって「働かざる資本家は食うべからず」という
点から始め、賃労働(労働力商品)の廃止へと進むべきであろう。
278労働って?:2008/02/22(金) 18:28:20
13 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>7
>もう少し詳しく、商品としての労働/労働力と言う事ですか?
賃労働は通常、労働力市場における使用者と労働者との間での自由な雇用契約による等価交換と
されていますが、何と何を交換するのかを考えて見れば、それは“裸の労働力”の一定量を貨幣と交換
するという点にあることが分かるでしょう。賃労働者は“自由な”商品です。

>有産階級/無産階級、不変資本/可変資本、外在化・物象化・疎外
まず、階級とは“生産手段の所有/非所有に基づく社会成員の区分”です。
資本主義社会では、資本家階級と労働者階級が基底的・本質的な階級であり、両者は弁証法的な
対立関係に置かれています。そして、その他の階級、自営農民、自営業者、自由業等は中産階級と
呼ばれ、不安定な動揺のうちにあるメンバーでしょう。財産の有無は結果であり、原因ではない。

次に、「外在化」「物象化」「疎外」は相互に関連する概念ですが、
外在化(外化)とは、可能的・潜在的な存在が現実的・顕在的になること。

物象化とは、人と人との関係が物と物との関係として現象するという、近代特有の疎外の一種であり、
資本主義社会の全体に及んでいる(例:貨幣物神、俗物性(スノッブ)、官僚主義、システム主義、
業績主義)です。

疎外とは、自己の本質の外化がその喪失として現象する、ということです。畢竟、それは労働(対象的
な生産活動)の疎外に根拠を持っている。

>>8
>労働は自由への道と言うわけですか?
そうですね。国会図書館のカウンターの上には、「真理は我らを自由にする」という標語が掲げられて
いますが、精神論としては正しい言葉も唯物論としては、「労働は我らを自由にする」が正しい。
もっとも、これはヒットラー・ナチが強制収容所の門の上に掲げたものと同じですが…。
279労働って?:2008/02/22(金) 18:30:30
14 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>9
>共産党の方ですか?
じぇんじぇん違います。日本共産党は共産主義政党ではありません(これホント)。
精々社会民主主義の党でしょう。

>>10
>共産党の人々って労働者なのかのう…?
一般党員はそうでしょうが、指導部は「職業政治家」でしょう。

>マルクス=大英博物館の紙魚=働かないオタク
最近の風潮の受け売りではなく、自分で調べ、考えましょう。
あなたが労働者(サラリーマン)あるいは将来の労働者である学生さんなら、自分がなにものであるかを
正しく理解することは、実践的な課題です。

>>12
>もっと建設的な話をしようよ。
そうですね。近代的な労働倫理については、何と言っても、西欧の国民精神の基調ともなっている、
フランクリン、ジョン・ロック、アダム・スミス等のものが代表でしょう。
フランクリンの13徳は、節制・勤勉・質素を精神的支柱とした、近代的市民(ブルジョア)の普遍的倫理
であり、また国王や教会という不労所得者ではなく、労働と私有に基づく理性的で勤勉な市民が社会の
主人公だと説くロックの哲学は、まさに近代精神そのものです。そこでは、私有の権限(根拠)が排他的
な労働に置かれているが、おもしろいのは、交換(譲渡と取得)による富の蓄積を「黙契」(暗黙の契約)
として正当化している点。
それは資本主義的「私的所有」が決して正当な等価交換に基づくものではなく、暗黙で間接的な強奪
あるいは奴隷売買によるものだということを、恥ずかしながら、認めたわけ。
言語一元主義ならば「私的言語の不可能性」と呼ぶ同じ事柄が、非言語的な労働における「所有の
私秘性交換の不可能性」であることが、ロックにおいて読み取れます。哲学者と違い、労働者はおしゃべり
をせず、黙々と働く。
それは殆ど語られることがないが、社会の唯物論的な基礎として、働くもの(現実的なもの)です。
280労働って?:2008/02/22(金) 18:31:56
26 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 20:58
>>16
>風俗嬢は人間のクズ。
それは言い過ぎだ!
確かに、カネでは売買できないもの、してはならないものがある、とは倫理的な言明ですが、
貨幣、資本という物象的な力の前では、すべての人間はモノでしかない。「資本家とは資本の人格化に
過ぎない」(マルクス)
サラリーマンと風俗嬢の違いは、見かけ程大きくはないでしょう。

>>20(7)
いわゆるマルクス経済学的な議論については、下記サイト(石塚良次氏)を参照下さい。
とても良くまとまった講義要綱です。
http://www.senshu-u.ac.jp/~the0393/99/lec/met1_14.htm
但し、労働の“哲学的な”意義といった点に関しては、労働者自身が自らの存在の根拠を反省し、
自分達こそが歴史と世界の主人であることの自覚が重要でしょうね。
「哲学は労働者階級を止揚せずには自己を止揚できない」(マルクス)。
281労働って?:2008/02/22(金) 18:58:14
34 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24
>人間は必ずしも共同体を必要とするのでしょうか?
必要でしょうね。個体としての人間とは類としての人間の現存在であり、それは、人類全体の
内容・成果が個人において“実現” しているということです。

>個人が必要とする諸条件と共同体が営まれる諸条件は必ずしも一致しません。
それはその通りであり、永遠に“一致”はしないでしょう。しかし、諸個人は共同体において生まれ、
主体として共同体を発展させ、そし
て次代にそれを伝える。個人と共に共同体も発展するのです。
具体的普遍とはそのことを言い、諸個人間のコミュニケーションが弁証法的な統一の条件です。

>共同体がシステムとして機能しなければならないのは個人が必要とするからで、それ以上でも
>それ以下でも無い
それは個人と共同体との関係を外的なものとみる、近代特有の考え方です。
近代的個人が自由な主体として振舞えるのも、実際には生きるために必要な商品が市場に存在
するからであり、一般的等価物としての貨幣を所有しているおかげ。そのため、個人は社会から
自立して生きているという錯覚が生じ、社会は単なる必要物を提供する便宜的なもの、と表象され
る。それは“give and take”という利己主義的な社会観です。その結果、逆に社会の方はシステム
という全体的・物象的な存在として、個人に対して超越的なものとして迫り、全体主義的な非合理主義
となって復讐を遂げた。
また人間社会の機能主義は、いわゆる社会システム論といった物象的・官僚主義的な発想を生み、
個人をますますアトム化した手段にしてしまう。
282労働って?:2008/02/22(金) 19:05:33
36 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:23
>>33(20)
>商品論によって発見された価値の源泉としての時間やこれを梃子に展開されるマルクスの
>弁証法
労働価値説ですか。哲学板で何回かカキコしたが、あっと言う間に沈んでしまいました。
さしあたり、経済板での議論を参照下さい。
http://piza.2ch.net/test/read.cgi?bbs=eco&key=977618388
質問は改めてお願いします。ちょと、疲れた…。
283労働って?:2008/02/22(金) 19:14:55
42 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 09:48
>>37
>社畜になったら、いつ歯医者に行けばいいのだろうか。
場所にもよりますが、会社の近くの歯医者の予約をとって、30分〜1時間位、勤務時間中に
抜け出すことは、大体皆やっている。(勤務時間中の私用外出扱い、あるいは会社も大目に見る)
>社畜になったら、いつ寝るんでしょうか。
以前よりも平均労働時間は減少しているが、中小企業の状況は相変わらずヒドイもの。
月間残業時間が50時間を超えると、帰宅時間は9時以降になる。通勤時間はむしろ伸びている。
>社畜になったら、いつ飯を食うんだろうか
朝飯を抜く人は多い。社員食堂がない場合は、昼は弁当(自前、仕出し、コンビニ)か街の飲食店を
使うがやたら集中して混む。飲み屋で晩飯を済ます御仁も少なくない。カップヌードルやパンは残業時
には必需品かな…。
>社畜になったら、いつ音楽を聴くのだろう。
ウォークマンの登場以来、深夜残業中のリスニングも技術的には可能です。
>社畜になったら、いつ本を読むのだろう
サラリーマンは余り本を読まない。スポーツ紙、経済新聞、「これからのビジネスは○○しかない」といった
時流もの、あとは通俗小説位、かな。
>社畜になったら、いつ絵を描くのだろう
何の絵?大企業には絵画クラブなど各種同好会はあります。
>社畜になったら、いつ笑うのだろう
営業上はいつも大声で笑っている。
>社畜になったら、いつ泣くのだろう
“女の子”も最近は泣かないなぁ。無表情人間が増えた。
>社畜になったら、いつ2ちゃんできるのだろう
勤務時間中に私的にインターネットを使うことは、禁止です。(余り守られていないようで、会社も監視を強化している)
>社畜になったら、もう人間には戻れないのだろうか
“会社人間”が定年を迎えた場合、何が残っているかな?
284労働って?:2008/02/22(金) 19:16:36
48 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 21:56
>>45
(横レス失礼)
>社蓄ってさ、仕事以外に興味のあることがほとんど無い人なんだよ。
と言うより、会社と自分を一体化させて、会社の仕事以外に興味を持たない会社従業員
のことでしょうね。仕事一般について言えば、四六時中、音楽のことしか考えない作曲家も
いるから。
ただし、すべてのサラリーマンは「賃金奴隷」だと言う事を忘れずに。

>社蓄から仕事をとったら何にも残らないし、誰にも相手にされない。
日本は会社社会ですから、自営業や自由業(芸能人、プロスポーツ選手、著述家等)を
除けば、個人には全く社会的な信用がない。
サラリーマンは名刺の肩書きがすべてであり、まさに、裸の労働力しかもたない境遇にある。
某革新政党が「市民と労働者の連帯を!」と言うように、サラリーマン(賃労働者)は、実質的
には市民(ブルジョア)ではないのです。
285労働って?:2008/02/22(金) 19:26:40
56 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 00:18
>>50
>「生涯学習」か「自己投資」かなんか知らんが
「労働力の質」を常に高めることは、技術革新や産業構造の変化に対応して自己の商品価値
を維持するために、ますます必要となるでしょう。倫理学風に言えば、勤勉=勤労と勉強がより
普遍的に重要になる、かな。
日本での問題は、実業界からのニーズに対して、大学などが受け皿になれるだけのレベルがない
こと、企業側の雇用慣習が追いついていないこと。USAでも、上昇型キャリア・コースに乗れる
のは圧倒的に少数であり、巨大な貧富の格差の存在は、出発点での多数の諦めを生んでいる
のでは?

>オレはヤだなぁ、激しく
まぁ、昨今のフリータばやりも、企業側のアウトソーシングや臨時雇用化の流れに応じた受動的
なものですから、決して安定してはいないでしょう。
バブル期以降、日本人は遊ぶことを覚えてしまったので、かっての勤勉・質素という精神的な富
を食いつぶしてしまった様ですね。

>>51(45)
>ブルジョアになりたい。
名言ですが、ジャパニーズ・ドリームの可能性は、ジャンボ宝くじの確率位かな。
ITバブルもあっという間にはじけたのは、雇用拡大に結びつかなかった(情報産業の“付加価値”
はもともと少ないから、する筈もない)からで、期待は幻想でしかなかった。
…あと、「個がない」のはその通りですが、現在の風潮は「自己中」が増えたことで、
それは「非社会化」と呼ばれ、個人の社会的な自立とは異なるでしょう。
286労働って?:2008/02/23(土) 19:55:33
66 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 22:58
>>58
>バブルももちろんですが困窮の記憶が完全に薄れたいまとなっては使用期限切れ
>になるのは理の当然のような気がします
確かにそれは正しい。倫理はいつも時代に適応した人間関係の有り様を表現するから、使い捨て時代に
「モノを大切にする心」をいくら説いても、それだけでは無理でしょう。
そこで「モノと心の関係は如何なるものか?」という根拠への問いが必要になる。
根拠とは心とモノの同一性のことです。
その方法は弁証法的唯物論と呼ばれ、モノが溢れる中でそれが決して与えられた豊かさではなく、
生み出された豊かさであることを教えてくれる。
心ある人間がモノを求め、労働によってそれを生み出したのだ、という認識が、大事なのは労働であり、
労働なしには豊かにはならないことを教える。
ところで、これだけモノが豊かな世界の中で、労働は決して豊かではない、という事に気が付く。
それは「疎外された労働」と呼ばれる賃労働の姿です。
>>59
>労働は社会への言い訳。
珍しい意見ですね。もう少し内容を教えて欲しいな。
>>64
>OFWさんはNAMについてはどのような見解をおもちですか。
経済板でも聞かれたのですが、はっきり言って、関心ありません。大体、何で不買運動なの?
>私にはあれは唯物論から逃げようとする運動にみえ、それは無理なことだと思うのですが。
そうですね。マルクスに好意的な知識人でも唯物論者は稀です。その証拠は、労働および労働者に
無関心なこと。
>>65
>社畜になったら、思索するゆとりをもてるんだろうか???
全活動力が売上・利益に向かって動員されるから、余暇時間にはそこからの逃避として、
精神を無思考状態に置かざるを得ないでしょう。
287労働って?:2008/02/23(土) 19:56:56
80 名前: OFW 投稿日: 2001/03/27(火) 21:56
>>76
>働かなくても飯が食える奴を働かす謂れはないだろ。
何故「働かなくても飯が食える」のか考えて見よう。

1.他人に養って貰っている。
2.お金をたくさん持っている。
3.手を伸ばせば何でも採れる楽園に住んでいる。

の3通りが考えられる。
3番目は夢みたいな話だから、除外するとして、1の場合、他人としては、親、配偶者、パトロン、
子供(老親の場合)、社会(生活扶助)等が考えられるが、それらの人達自身も働いていない
場合としては、上記の2の場合しかない。
結局、お金を持っていることが、働かないでも生活できるためのポイントだと分かる。
(これ、分かりきったこと)しかし、お金自体は食えないから、それで買うべき商品こそが重要。
そして、それは他人が働いて生産したもの、でしょう。

>ただ、働かないのはいいとして端に迷惑をかけるのは良くないんだろうな。
どんな人も他人の働きに依存している。それが社会というものです。
働かないでも生活できるのは、他人の働きによってその人の生活物資を“無償で”賄っている、ということ。
これが答でしょう。これには謂れ(=正当な根拠)があるのかな?
288労働って?:2008/02/23(土) 19:58:42
85 名前: OFW 投稿日: 2001/03/28(水) 23:25
>>82
>予め能力のない人間はどうなるのでしょう?
「予め能力がない」とは先天的な障害あるいは幼児等の場合でしょうか?
その場合は当然、障害に応じて持てる力を発揮すれば良い、あるいは保護されるべき状態でしょう。
能力=可能性ですから、誰もが自らの可能性を追求し、その追求には限りがなく、予め決まっては
いないでしょう。

>「能力に応じて働き、必要に応じて取得」といった言説が暴力的響きを持って迫ってくるように思える
>のですが....
とても驚きのご意見です。
むしろ、能力がない人はその人なりに働き、かと言って、生活や欲求の必要に応じて十分に享受することが
できる、というのは実質的な平等(社会が相互扶助的になっている)の主張であり、形式的には不平等
(能力の差が取得の差とは無関係である)であることを主張する言葉です。(どこが暴力的なのだろう?)
身体的・精神的に働くことができないなら、働かなくても良いのは当然でしょう。
しかし、働くことは本来、個人の一つの社会的な欲求であるはず。
現在の疎外された社会では、事情はまったく逆であり、働くことは苦役であり、強制労働でしかないでしょうが。
289労働って?:2008/02/23(土) 20:05:23
89 名前: OFW 投稿日: 2001/03/30(金) 03:56
>>83
>生産する行為が労働なのか 金銭を稼ぐ行為なのか
「労働の哲学者」である内山節氏が「働く」と「稼ぐ」の違いについて述べています。(『自然と労働』他)。
彼は非マルクス的な立場ですが。
また、エンゲルスも「労働」という言葉の二義性(WorkとLabor)について言及している。

>趣味的な活動で生産されるものもあるだろうし
無論、そうですね。労働一般と資本主義下での労働(賃労働)との区別が重要でしょう。

>> 86(82)
>労働の分業化→労働者の単能化→工業化・大規模化によって 労働日における必要労働時間が
>限りなく平準化され
“固定した”分業や、資本間の競争および労働運動がもたらす労働時間の平準化は、必ずしも
>その結果として労働者の平等と団結が生まれる
とは限らないでしょう。むしろ、労働格差(労働貴族と単純労働者の分化)が進行しているのが、
現状と言える。

>逆に言えば“労働”といった 運動(=闘争)過程において前述の社会的マイノリティーが疎外される
>(運動から)のかも
いわゆる先進国では、労働運動は労働組合運動でしかなく、賃労働の廃棄にまで踏み込んでいない。
それは“疎外された”労働を前提している。社会的マイノリティとは疎外された社会が作り出した結果であり、
その解放のためには、社会自体(生産関係)の止揚が必要です。たとえば、「障害者の社会的参加」とは
正しいが、それはブルジョア社会の枠内では制限された範囲(人権、形式的平等等のブルジョア的権利)
でしか達成できないでしょう。
何より資本主義的「経済の論理」はすべてに優先してしまう。
290労働って?:2008/02/23(土) 20:08:16
91 名前: OFW 投稿日: 2001/03/31(土) 04:50
>>90(82)
>どちらかと言えば社会民主主義即ち修正資本主義の問題でしょう。労働運動が国家の
>枠組みの中に封じ込められた結果でしょう。
資本主義が政治経済的に修正資本主義に変容したことと、労働運動が「体制の補完機能」を
果たすようになったこととは、同じ事柄でしょう。
一方において社会主義の要素を取り込み「福祉厚生」を考慮することが、他方でそれに呼応した
「労働者の体制内化および階層化」を促進する。
またフォーディズム(「労働者を消費者として囲い込め」)の成功もある。
>ただ、そんなに肯定できるのでしょうか?
社会民主主義をですか?それは余り肯定できないでしょう。
また、労働者に依拠することの肯定如何ということなら、それはむしろ、労働者自身の否定の否定
(現状の自己を否定すること)の問題でしょう。
>ドイツの安楽死や 北欧福祉国家の“間引き”の事実
安楽死の是非とか、不労高齢者の処遇に関して言えば、それは結局社会の在り方に繋がる。
安楽死は、個人の尊厳の問題と言われるように、個人が社会的・精神的主体として如何に尊重
されるかという点で、個人の社会的内実と深く結びつく。つまり、生物学的生存が必ずしも人間的生存
ではなく、同時に個人の生存が必ずしも当該個人の孤立した生存ではない、という点です。
その矛盾は社会の解放(個人の社会化)と共に、たとえば宗教の止揚といった点と共に、止揚されて
いくと思います。
また、高齢者が「労働能力のない個人」という理由で社会から疎外されるのは、極めて資本主義的な
経済原則に基づくものであり、生きている人はそれ自体で働く者(主体)であることは、経済を超えた
内実を持ちます。
>ダーウイニズム的決定論や国家社会主義、これらに対する懸念です。
いわゆる社会有機体論や国家社会主義(形容矛盾!)は共産主義とは無縁。
社会を、個人を超えた“超越的な実体”(社会システム論も同様)とみなすことは幻想であり、
諸個人の関係性の中にしか社会は存在しない。
かってのナチズムやスターリン主義(国家資本主義)的全体主義とは正反対の個人の社会化こそが
必要です。
291労働って?:2008/02/23(土) 20:11:23
96 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:10
>>92
>システムを構成する各要素が(個、サブシステム)が、自律的に行動しながら、強調、競合的に
>行動しあい、全体として任務を達成する(秩序を形成または維持する)システム}。
社会は確かに一つのシステムとして捉え得るが、本質的にシステム以上の存在であること、
を忘れないことです。
パーソンズおよびルーマンの社会システム論も、生物学のアナロジーとして出発したが、
行為からコミュニケーションへとその機能的要素の内容をシフトさせてきている。

>本来争わなくてもよいところに争いを持ち込んで無駄に時間と労力を浪費することは無い。
まったくその通りであり、私企業が私的利益を追求することは、社会にとっては時間と労力を
浪費することであり、“経済的”とは呼べない。

>ここでも生物(ここでは生物内組織での協調)にその範を求めることが出来る。
企業内の生産システムと生物体システムの本質的な相違点は、後者では自律的な自己調節機能
が即自的にのみ存在している点です。全体(個体)がその実在的要素(器官、細胞、細胞内器官)
に対して、“見えざる手”として働き、器官の自律的機能は外部パラメータ(体温、水分等)の下で、
相互に媒介し合う多くの反応サイクルとして自動的に制御されている。
一方、生産システムでは、目標は外部から与えられ、部分間の関連とそのリズムによる調整は綿密に
計画されなくてはならない。そこでは、常に意志的な働きとコミュニケーションが重要な要素になる。

>>94
>働かなくても健康で文化的な生活ができるはず。
衣食住の用を満たす財があり余る社会がきたならば、労働(仕事)の意義も現在とは全く異なるもの
になるでしょう。好きな仕事をするとは、人間の社会的・精神的・類的な自己を表現することでしょう。
292労働って?:2008/02/23(土) 20:13:46
97 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:12
>>95(90)
>その言説とマルクスの思想とを区別する必要がある
全く同感です。
「福祉切捨て反対!」とは正しいが、「福祉を切捨てざるを得ない福祉国家自体の廃止を!」
が真実でしょうね。

>ナチズムやスターリズムのメカニズムと共産制のメカニズムの違いがわからないのですよ
>(マルクスの著作にも具体的指摘はない)
まず、賃労働の有無が根本的に異なるのです。
そして、そのことを突き詰めた場合、誰が生産手段を握っているのか、そして階級発生の必然性と
その止揚の条件に関する認識が進むでしょう。
個人とは類的な存在(具体的普遍)であり、全体が存在するとは種的(特殊的)な立場に止まること。

>問題の核心は関係論や時間論にあり、その解釈如何によっては前述の抑圧的体制に頽落する
>惧れがある
抽象的には正しいと思います。
「閉じた関係」vs「開かれた関係」、
「過去の決定」vs「未来の非決定」
等の対立を具体的・弁証法的に詰めることは、マスクス主義の理解(社会の本質論)にとって
重要でしょう。ヘーゲルも言うように、「現実性」(働き)の概念とは本質力自身の現象として自己を
生み出すもの、のことです。
…実際、マルクス主義を唱える論者や活動家が、未来社会の具体的な姿を云々しないことは、
現実的な運動家として実践的には正しいが、その理念的な内容が誤解され、展望を失っている現在、
将来の社会が如何に運営されるかという点について、もっと理論的に議論されてしかるべきだと思います。
構想力の欠如は、実践的な情熱にも影響する。
293労働って?:2008/02/23(土) 20:14:47
100 名前: OFW 投稿日: 2001/04/03(火) 00:26
>>98
(横レス失礼)
>勤労は道徳ではありません。勤勉とも違います。

まあ、道徳かどうかはともかく、憲法では日本国民の権利および義務であるとされていますね。
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」(第27条第1項)
ところで、義務を果たさない人がいる場合、何故、憲法違反とはならないのかな?
1.果たしたくても、果たせない? (労働能力のない人、非自発的失業者等の場合)
2.果たしたくないから、果たさない? (1さんの様に、個人の自由権を絶対的だとする主張)
3.「勤労」の解釈により、たとえば資本家として直接労働していない人も、「金勘定」という勤労
義務を果たしていると言える。(現在の主流的な法解釈かな?)
さて、憲法自身は何と言う?
「憲法とは、畢竟、妥協の産物である」(ヘーゲル)

『工場日記』を書いたシモーヌ・ヴェイユのスレが、たまたま上がっているので、ついでながら彼女の言葉
(正確ではない)から…。
「権利とは相対的なものですが、義務は絶対的なものです」
「過酷な労働に痛めつけられた私は、この自分が、もはや乗合バスにも乗ってはいけない程、価値のない人間
(非国民?)であるかのような感情に襲われました。」
294労働って?:2008/02/23(土) 20:17:20
103 名前: OFW 投稿日: 2001/04/05(木) 00:19
>>101
>OFW氏に反論したいんだが、取っ掛かりすらつかめん。
反論は大歓迎です。何でも取っ掛かりになると思う。

>少なくとも全体主義批判の矛先が、個人やシステム論に行く事
私の説明不足でしょうが、個人=近代的個人か、具体的普遍(ヘーゲル)としての個人か、
で全然異なるという点。
また、社会システム論が何故問題なのか、はもっと詳しく説明が要るでしょうね。

>統合的理念の落とし穴
私は理念が統合的だとは思っていない。むしろ自由な運動というイメージの方が強いな。

>>102
>労働は賃金を得るためにするわけで
現在の資本主義下の労働(賃労働)はその通りですから、

>それ以外に生き甲斐みたいな価値を置くことは
資本主義の下では、すべて欺瞞となり、その結果

>資本家の思うつぼ
となるのはその通りですね。ところが、最近の企業研修や就職情報誌などでは「会社のため
ではなく、自己実現の欲求を満たすために仕事をしろ」などと煽られているのが現状です。

>そしてそういう価値観が親から子へ受け継がれ再生産を繰り返す。
資本とは「過去の労働が対象化されたもの」ですから、賃労働自体が、資本関係と共に、
その価値観を再生産しているわけです。
しかし、労働(仕事)には、歴史貫通的な積極的な意義がある、という事を忘れないことが重要です。
そして、その肯定的な面は資本主義下においても、労働現場では生きている。仕事仲間と協働して
成果を上げる、という労働の社会的・人間的な面は、労働者自身が何よりも密かな誇りとしている点
です。その矛盾した姿を捉えること(否定の否定)が肝要。
295労働って?:2008/02/23(土) 20:20:02
115 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:20
>>104
>そもそも勤労道徳なるものは明治維新、富国強兵いらいのものでしょ。
あからさまに「労働は美徳だ」と言う道徳は、日本が近代世界の仲間入りをして国富を蓄積
するために、資本主義的な労働を必要としたためでしょう。しかし一部の働かない階級を除き、
働く事自体は人間の自明のあり方として古来から肯定されていたでしょう。

>「過労死」最もばかげた死に方だろう。
そのばかげた事が現実であり、何故死ぬまで働いてしまうのか、が問題。
「自己の名声のため」あるいは「会社のため」という理由はむしろ少なく、「家族や同僚に負担が
かかり、ここで止めるわけにいかない」あるいは「責任ある仕事に対していい加減なことはできない」
という、それ自体は高邁な理由のためではないかな。

>>109
>個々の間の自律したコミュニケーションの能力が高いほど、その協調する能力は高くなると思
>います。
その通りでしょう。自律は協調と統合される。

>コンピューターやそれによる通信の技術を利用することによって、個々の間の自律したコミュニケーション
>の能力を、飛躍的に高めることが出来る
技術的にはその通りですが、問題は制度的な部分でしょうね。

>>112
>フレックスタイムを導入するなどして
時間の問題こそが労働の鍵です。それは社会経済的な事柄ですから、社会全体が生産労働の
相互調整をいかに合理的に成し遂げるかが、課題です。
フレックスタイム制がなかなか普及しないのは、「時は金なり」が先にあるから。
296労働って?:2008/02/23(土) 20:22:33
116 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:21
>>113
>共産主義の共同体が原始共同体を発展させた
ものではなく、その止揚(現状の否定としての復活)というべきでしょう。

>(共同体:マルクス主義で、近代の私的所有社会以前に存在するとされる社会。
<(三省堂 大辞林 第二版 ))、
ちょと違うな。この説明なら「伝統的共同体」が正しい。
共同体(Commune)とはむしろマルクスが「ついに発見された」と呼んだ、パリ・コミューンのものに
近いでしょう。

>現代の共産主義の共同体には、集団をまとめるものとして、どのようなものがあるのでしょうか?
「現代の共産主義の共同体」が旧ソ連、現中国等を指しているなら、それらは国家資本主義の
国家であり、共産主義の共同体ではない。
また、理論的なモデルを指しているなら、具体的な点は労働者自身が考えるべき課題である、
としか言えないが、要点は、社会経済的な面では、生産手段の共有に基づく直接生産者の
生産協働体がまとめる。
それは、社会的分業の全部門に亘って、(財・サービス)生産の計画・実行・監視・改善(PDCA)
の合理的なマネジメントを行う主体です。
要は、単に「自分達で自分達の社会を運営する」組識です。
(当然、生産手段の私有に基づく賃労働、貨幣、商品は廃止です。)
政治的な面では、上記の生産協同体自体の直接民主制による組識が調整機関として働くべき
でしょう。それは固定した指導部・官僚組識vs一般大衆の関係ではなく、行政事務は成員全員が
交替制で当たるべきでしょう。(代議制議会と官僚制行政機関が形成する現状の政治的国家は
廃止です。)
近代社会をまとめているのは法ですが、当然ながら物理的な力、つまり警察がその裏付けとして
ある。人倫から法状態への移行は近代の利己的個人の実存を支えているわけですが、法の止揚
として人倫の復活が現実のものとなるでしょう。
297革命的名無しさん:2008/02/24(日) 19:36:15
118 名前: OFW 投稿日: 2001/04/09(月) 23:44
>>117
>最後の問題への返答は、まさにNAMそのものではないか
さぁ、どうでしょうか。私はそうは思わない。
労働者の協働体(Commune)を言うことなく、抽象的個人の連合(Association)を言う。
・・・これは言葉の問題ではない。
類的な統一を言うことなく、個別的な結合を言う。
生産関係の変革を言うことなく、不買運動を言う。
貨幣の廃止を言うことなく、地域通貨を言う。
国家の廃止を言うことなく、それへの抵抗を言う。
唯物論的な必然性を言うことなく、倫理的・恣意的な自由を言う。
労働者階級に依拠せずに、何が「可能なるコミュニズム」なのでしょう?
298革命的名無しさん:2008/02/24(日) 19:38:55
120 名前: OFW 投稿日: 2001/04/11(水) 00:25
>>119
>労働者の協慟体とは?
現代社会は既に全面的な分業体制による生産活動により維持されている。
すべての生産財と生活財は相互に緊密に関連する生産部門で生産され、
市場を介して流通している。
そこでは、利潤原理に基づく私企業が主体となって生産・流通・分配が営まれて
いるわけですが、その主体を生産現場で直接生産に従事している労働者の手に返還し、
協働的な労働に基づく、本来の共同的で階級のない人間社会を復興しよう、というのが
共産主義の理念であり、現実の実践の最終目標です。

>類的な統一とは?
人間が類的な本質存在だということは、「人類は一つである」ということ。
類(具体的な普遍性)− 種(自由な特殊性)− 個(現実的な主体性)とは諸個人が
自然的な被規定性の中にあって、社会を形成することにより、現実的に自由な共同存在
だということを、概念的・弁証法的に表現している。

>生産関係の変革はNAMも主張してるのでは?
NAM公式サイトの文章を読む限り、階級的立場が希薄ですね。
「非資本制的な生産と消費のアソシエーション」とは、局地的な生産協同組合程度のイメージ
ですが、全面的な生産関係の変革ではなさそう。「消費者としての労働者」とは、要するに
消費者でしょう?

>貨幣を廃止できるの?
貨幣とは何か、を理解すれば、廃止は必然的です。

>国家の廃止とは? 唯物論的な必然性とは? 労働者階級に依拠するとは?
マルクス、エンゲルス、レーニンのすべての言説に共通する基本的な思想であり、共産主義の
原理原則(ABC)です。
299何者:2008/02/24(日) 20:36:59
マルクスのいた世の中とは全く違う世の中になっているのにまだ
そんなカビの生えた物を信じているというのは。
高速道路はなかったし航空機もなかった時代。世の中のスピードが
今とは全く違う時代。
四国の高知沖で昨日捕ったカツオが今日には東京の築地に入荷している。
トラックで夜通し走って朝には届いているという現実。
それにはどれ程の人が関わっているのだろう。
漁師、トラックの運転手、築地の仲買人、買取る小売業者に料理屋
だけでなく高速道路を作った工事業者、高速道路のチケット販売、
PA、SA等で働くレストランの従業員等
様々な人々の生活と労働がそこに関わっている。
ただ労働者と資本家という対立では説明しきれないものがあります。
そこを勘違いしないように。
300革命的名無しさん:2008/02/25(月) 13:09:26
基本はな〜んも変わっちゃいないじゃん。
基本と外皮を混同しないようにね。
市民社会の基本構造を理解出来ていないことに起因する繰り言かな?
それよっか、早くコピペを再開してよ。
301革命的名無しさん:2008/02/25(月) 17:31:44
>>300
今日は忙しいのよ。
誰かコピペやってよ。
302革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:12:33
123 名前: OFW 投稿日: 2001/04/12(木) 00:29
>>121
>サルは人まねをすることは出来るが、猿自身を演技することは出来ない
まったくその通りですね。人間は彼自身を無限に演じることができる存在です。
「自由な特殊性」とは無限の変様の中に自己を写すこと。
>大衆社会を形成する人は何物ではないからこそ、…きわめて自由な商品…
>を演じることが出来るのではないでしょうか。
その通りです。<世人>は無限の質料として、それ自身が匿名的な労働力商品
の在庫を形成している。豊かな形相はすべて彼らが生み出す<商品>の側に移行
しているが。
>果たして資本というシステムから与えられた麻薬でしょうか。
必ずしもそうではないでしょう。自己の<作品>に対して愛着をもつのは、古来からの
ものであり、それは対象的活動(それは自己対象化活動でもある)としての労働のもつ
本質的な契機です。しかし、それがフェティシズム的な偏執になるのは、資本主義的
モノ化のなせる自己疎外と言えるでしょう。
モノに対して偏愛をもつとは、<所有愛>という自己愛の変形と言える(例:ピグマリオン、
“驚異の”サカキバラ、貨幣愛)。
>また、芸術活動とは、独り立ちするまではパトロンが必要な、資本が生み出したあだ花の
>美しい果実なのでしょうか。
何故、芸術が自立できないか。それは、即物的な世界の“彼岸”に美的形象を立てるから
ではないか。物質(質料)の中にある無限の形象を捉えること、つまり、現実の働きの中に
理念的な光を見ること、が必要なのでは。
>このシステムは簡素な生き方をただの憧れに昇華させようとしている
「昇華」というより、<見果てぬ夢>の再生産でしょうね。それは始めから逸らされ、商品に
向かうように仕組まれている。
>すべての人が肉体の重さと精神の苦悩を克己して昇華しなければ、現実世界に出現
>するのはやはり難しいと思います。
「かくめいとはそれぞれの人の回心がなければ、成就しないものです」(太宰治)…だったかな。
まさに精神の転回が必要です。
303革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:14:55
124 名前: OFW 投稿日: 2001/04/12(木) 00:31
>>121(つづき)
>共同体を構成する構成員には現実の死の匂いが払底されている
共同体は個を超えて生きるが、個は類の現存在なのです。個の中にある類を具体的普遍と言います。
それは全体の中に埋没する個とは正反対のものであり、それは多くの個の相互反照として一つの生命
です。
>明るいスローガンに打ち出された空虚さ
それは現代の<自由・民主・平和>社会のこと?「影のない社会」とは健康な狂気そのものでしょう。
>何ものではないという絶望
「絶望」という表現は特徴的ですね。<無>とは反面、自由です。
>人間は悩むように出来ている
自然的な規定性を<質>と言いますが、「質は悩みである」(ヤコブ・ベーメ)と言われるように、人間は
質的な実存の開示性として、悩まざるを得ない。しかしその忘却(逃避)として、<量>的なマス(世人)
に頽落する。
「意識は存在に憑かれている」(マルクス)と言われるように、人間は物質的な身体を持つが故に、モノに
執着する(悩む)意識ですが、また身体によりこの世界に現存在し、対象的な活動を営む(働くことのできる)
現実的な存在です。
仕事により、教養を積み、人間は何ものかになる。
304革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:17:37
130 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 18:16
>>122
>何故「本来」などと言えるのか?いわゆる疎外論?
「本来性」とは本質性であると同時に始源性ですから、「社会の本質」を認識するためには、
歴史的社会の根源に関する、唯物論的かつ弁証法的な考察が必要です。
本来あったのものに“成る”ことは「未来への帰還」(トニー・ネグリ)とも言えるかな。
>ずばり、貨幣とはなんですか?
貨幣の第一の定義は「商品交換における一般的等価物」です。
それは経済的価値の一つの現象形態であり、その正しい理解のためには価値に関する本質論的な考察が
必要です。(マルクス『資本論』の最初の章)
>>36にも挙げた「岩井克人の『貨幣論』は正しいのか」
>廃止は必然的なのに何故廃止されないのですか?
商品経済社会では貨幣が必要物なのは生産手段が私有化されているため。
>みんなが貨幣とは何か理解していないから?
世の経済学者も含めて、殆ど理解されていないですね。
>廃止したら物々交換ですか?
再分配が主要な形態でしょうね。交換は私的所有を前提にしている。
>国家の廃止とは具体的にどのような状況になったらいうのですか?
国家とは何か。それは古代から、階級対立のある社会には必然的に登場した。
階級対立を廃止することが、国家の廃止そのものになります。
305革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:19:07
131 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 18:18
>>125
>欲望があるから人間は働くのであって
人間の欲望(Desire)は単に動物的なものではなく、社会的な変容を受けている。
特に資本主義社会では、「モノに憑かれた欲望」として、それ自体が疎外されている。
それはむしろ欲望の不断の駆り立てであり、資本の価値増殖欲の補完物でしかない。
欲望があるから資本は働かない。

>>128
>仕事は自己実現なんじゃない?
本来はそうですが、賃労働(労働力商品が行う仕事)は自己喪失です。

>>129
>そうなれば、勤労「道徳」へったくれなど言っておられなくなる
勤労道徳を持ち出すのは、多くの場合、自分は働かずに他人を自分のために働かせる者だと言うことです。
それは一つのマインド・コントロールです。労働は人間の必然であり、内的な欲求として、自然なものでしょう。
306革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:20:37
141 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 20:57
>>136
>良く分かりません
ある生産物が商品として交換されるための条件は何でしょう?
当然、それが生産者の所有物だからですね。
生産物の所有権は何に基づくか?
通常、生産手段の所有者が生産物の所有権を持つ、とされます。
そして、他人の持ち物を取得するための方法としては、奪うか、タダで貰うか、
等価物と交換するか、しかない。
第3の場合、交換の量的な比率が問題になる。それが貨幣の機能です。

>再分配は「誰」が「誰」にするのですか?
共有物については、<類的>我々が<個的>我々にする、と言える。

>国家は再分配システムなんじゃないでしょうか?
階級社会の存続を計るために、福祉国家が一定の所有の移転を行うという点では、その通りです。

>私的所有の反対概念は何ですか?
口頭試問のようですね…。<社会成員全員による共有>です。
「所有とは生産手段に対する関係である」(マルクス)

>自分の身体の私的所有も良くないのでしょうか?
他者に譲渡不可能なものは所有することはできません。
身体が所有対象である場合、それは常に「他者の身体」(人身売買等)です。
「体を売る」とは所有の移転ではなく、一定時間自己を他者の性的意思の下に置くこと。

>階級対立の廃止はどうすればできるのでしょうか?
生産手段の私有を廃止して共有化すること、が第一でしょう。
307革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:33:17
エコノミストの声

国の借金が大変なら日銀が買い取れば良い(長期国債買入)
という海外のエコノミストの声

● バーナンキFRB議長
    (ノーベル賞確実と言われている経済学者でデフレ問題の第一人者)

 「日銀は国債の買い取りを増やして、減税あるいはその他の財政政策
を行うべきだ。日銀の長期国債の保有額は発行済みの日銀券残高を限度
とするという日銀の自主規制は撤廃するべきだ。」

● ポール・サミュエルソン(ノーベル賞を受賞した経済学者)

 「3年間の新たな全面的な減税政策を実施するように提案する。
今後も継続して行われる公共投資は、日銀が新たに増刷する円によ
って行われるべきだ。」

(日銀が新たに増刷する円とは、日銀が長期国債を買い、それと引き
替えに出て行くお金のこと)

● ローレンス・R・クライン(ノーベル賞を受賞した経済学者)

 「私の提案は、通貨の膨張です。日銀は政府の借金(国債)を買い
取るべきです。減税をやるとよい。しかし、このような財政政策と共
に教育への投資も増やすべきだ。」

308革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:51:56
142 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 20:59
>>137-140
>政策にとっては、その担当の選任の平等より、政策の決定運営の平等の方が、大事
政策内容が全成員により受け入れられることは、成員間の利害対立が少なくなれば成る程、
容易になるでしょう。

>政治闘争の代わりに、調査−調査に基づく意思決定の仕組み
政治闘争は集団的利害の対立から生まれる。公共的な意思の形成にとって、成員に対する啓蒙的で、
開かれた理性的コミュニケーションが重要だということでしょうね。

>政策の決定運営と、その担当者の選任とを分離し、
広い意味で立法と行政の分離が固定化されると、官僚支配の温床になる。

>議員やリーダーについては今まで通り、…選挙や投票の制度によって成員個人*多数の要求が
>反映されるようにコントロールして、利用
今までの「形式的民主主義」の欠陥は、職業政治家と一般大衆の固定的な分離により、殆どの成員が
実質的には単なる受動的な「票数」でしかなかったことにも現れている。
如何に全員が意思決定プロセスに実質的な参加ができるか、がポイントでしょう。
支配の交替制とは、人間の無差別性<支配の無>に向けた現実的な方法でしょう。

>理想的な社会を設計し
設計の前に、概念と構想が必要ですね。理想的な社会の具体的イメージは?

>平等の基準と別の平等の基準との対立
平等とは「単に存在するだけで、実質的効力のない区別」でしょう。

>「コンピューターやそれによる通信の技術を利用することによって」、
そうですね。現在のITレベルでも、社会活動の各方面において、分散的意思−統合的決定と
そのフィードバックあるいは時間変動に対する機動的な活動調整、等を実現する可能性はかなり
高いと思う。
ただ、忘れてならないことは、精神的なコミュニケーション能力こそが決定的なものだということです。
309革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:57:07
146 名前: OFW 投稿日: 2001/04/19(木) 21:47
>>145
><類的>我々とは誰ですか?
すべての個人は類的な存在ですから、分かち難い統一の下にある訳です。
それが社会という現実的な関係性の実質的な内容です。

>貨幣を廃止した場合の再分配とは何を再分配するのですか?
1貨幣なしに、社会的な労働力の各生産部門への配分をどのように行うのか?
2貨幣なしに、生産物の分配をどのように行うのか?
これらの課題が具体的に解決されて、初めて社会主義も現実的になる。
現在、生産物は商品として市場における交換によって、社会成員間に分配されていますが、
一般的等価物としての貨幣(人間の類的な労働の疎外形態)がそれを可能にしているわけです。
それを廃止するとは、生産物が直接生産者の私有ではなく、社会全体の共有であるという原理を
立てること。そして、個々の生産とその成果の取得との間の比例関係(等価交換、価値法則)を
廃止することです。

>生産手段の共有化とは具体的には?
生産手段は、
1労働対象としての土地、原材料等
2労働手段としての施設、機械等の設備、道具、燃料等
に大別されます。
現在の私有制では、自営業における小生産者を除き、企業主や国家官僚という、働くことのない
所有者(階級的代理人を含む)の気まぐれな意思がそれらの使用法を決定し、直接生産者である
労働者に指令して生産活動を運営しているわけですが、それらの実際の使用を直接生産者の
共同意思の下に置くことが、共有の現実的な意義です。
310革命的名無しさん:2008/02/26(火) 18:59:08
154 名前: OFW 投稿日: 2001/04/21(土) 06:30
ようやく接続できた。
>>148
>〜 マズローの欲求五段階説 〜
企業の管理職研修で必ず出てくるのが、これと「ジョハリの窓」ですね。
(自衛隊演習への特別参加はもう無くなってきたようだが。)
マズローはさすがに「自己実現も結局の所、企業業績=貨幣に還元される」とは言わなかっただろう。

>>149(Rage Against The Philosophyさん)
>面白みのない仕事をやてるのも、それを選択したのも全てお前の「内面」からの必然的結果だろ?
「職業選択の自由」とは、多くの者にとって賃労働者になる自由以外のものではない。
それは資本主義社会の必然的結果であり、内面は関係無い。

>>152 (Rage Against The Philosophyさん)
>「内面でメシがくえるか!!」
その通り!その唯物論を徹底しよう!
くれぐれも「この豊かな社会で、メシが食えなくなるのは何故か?」(失業者)という問いに
「おまえの能力がなかったからだ」などと、内面的な道徳話にすり変えないように。
311革命的名無しさん:2008/02/26(火) 19:02:08
162 名前: OFW 投稿日: 2001/04/22(日) 21:52
>>159
>「人類皆兄弟、生産物もみんなのもの」ということですか?
通俗的に言えば、その通り。
さて、人類を一つの家族とみる思想は通俗的にも結構多いでしょうが、殆どは「国家」
(国という家)になってしまう。国家とは幻想の共同体であり、イデオロギーです。
それは観念的な倒錯ですが、何故そうなるのか。
<兄弟>というのはあくまで喩えであり、成る程、生物学的にはヒトは確かに共通の祖先から
派生したのでしょうが、それを社会的な存在にそのまま敷衍することはできない。
つまり、<類>とは普遍であり、国家は<種>であり、特殊ですから、国家を普遍的人類の
上位には置くのは論理的にもカテゴリーエラーだということです。
ウィトゲンシュタイン流に言えば「家族的類似」が存在するのであって、実体的家族が存在するの
ではない、ということです。
実体的なものは労働による生産共同体でしょう。

>この場合、誰がどの生産物を得るのか、誰がどの労働をするのか どのようにきめるのでしょう?
1まず、誰が社会の生産活動を運営するのか、が先ですね。
それは労働現場で直接生産・サービス活動に携わっている労働者自身の組識でしょう。
そして、技術的な点から言えば、生産と分配の調整を計画的に行うことは、現在の生産力水準と
情報技術レベルでも、十分可能だと言うことは、確かでしょう。
生産は<社会的需要>の予測に基づく生産計画の立案から始まる。
それは現在でも、電気、水道、ガス等の基礎的インフラについて、企業が行っていることです。
各種生活財(最終消費財)の需要予測は、現在は無政府的な市場に委ねられているが、生産者と
消費者とのコミュニケーション化(受注生産化)により、大幅に計画化できるでしょう。
そして生産財については、最終消費財の生産量を元にした産業連関分析(投入算出量分析)を
適用できる。
これらの計画は、各生産部門にどれだけの資源を投下すれば良いか、そして社会の総労働力の必要
な配分を決めるでしょう。
312革命的名無しさん:2008/02/26(火) 19:03:18
163 名前: OFW 投稿日: 2001/04/22(日) 21:53
>>159 (つづき)
2労働力の配分を如何に行うか
それは、労働者自身が決める。
その場合利己的個人の「職業選択の自由」という立場からみると、上記の<必要労働>の概念は
「必要に応じて働くこと」であり、一見「勤労道徳」の押し付けに見えるでしょう。
しかし、社会的連帯、類(私達は同じ社会の一員である)の立場から見れば、諸個人の自己欲求
だということです。
それは理念的な<具体的普遍>の立場であり、たとえば「高齢化社会では介護労働が必要」なら、
「介護労働をしたい」という欲求は社会的なものですね。今は「3K職場はいやだ」かな?

>>160
>問題は 勤労道徳いらない。か、勤労道徳はいる。かだ。
その通り。
しかし○×式の設問は哲学には馴染まない。
その根拠、真理は何かという点にまで遡及し、問題を敷衍的に論じることも必要です。
全否定でも全肯定でもない、<止揚>が重要だということ。
313革命的名無しさん:2008/02/26(火) 19:06:24
166 名前: OFW 投稿日: 2001/04/23(月) 21:42
>>165
>これは貨幣を廃止した場合、自分にどれだけ必要か歯止めが効かない貨幣こそ自己の限度を
>知らないもの
ですから、逆でしょうね。

上に書いたように、一定の社会的な生活水準を維持するために、電気が一人当たり一日どれだけ
必要かということは、現在でも分かっている。
それは一方で生産力の水準、他方で社会の生産関係に対する関数ですね。

>生産計画に従って我慢すると
どうも利己主義的な個人の欲求(実は貨幣欲の変装)に捕われているようだが、貧しい時代には
「足るを知る」ことが当然とされたことを考えてみれば、欲望とは社会の関数であることが分かるで
しょう。何が「我慢する」ことになるのか、事柄を具体的に考えてみたら?

>>社会的連帯、類(私達は同じ社会の一員である)の立場に立たない人はどうなるのでしょう?
具体的にどのような人でしょう?<類>とは自然的・必然的なものであり、個人の恣意には依らない。
31423がOFWね。:2008/02/27(水) 19:30:09
23 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/25(金) 20:33
>1
労働者が自分の足でしっかりと立って世界を我がものにするためには、唯物論は必須の
哲学でしょう。
すべての観念論は頭で立っていますから。

26 名前: 23 投稿日: 2000/08/26(土) 00:15
>25
ジャーナリストとして、最初はライン新聞の編集主任やニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の
外国人特派員として収入を得ていたが、お尋ね者になってからはひどい貧乏で、エンゲルスの
援助を受けていた。
「資本論」の出版で少し息をついた時期もあった。

29 名前: 23 投稿日: 2000/08/26(土) 08:34
>28
と言うよりは、ジャーナリスト時代には農民が入会地(共有地)に自由に出入りできない現実から、
いわゆる「疎外された労働」という考えを持つようになった。
賃労働−資本の対立関係(資本家による労働者の搾取)を意識して、上記の疎外された労働
と関係づけるようになったのはむしろエンゲルスとの出会いにより、イギリス労働者階級の状況や
共産主義的な運動を知るようになってからだと思います。

31 名前: 23 投稿日: 2000/08/26(土) 09:45
>30
>マルクス本人は資本主義のシステムにはあまりタッチしてなかった
「タッチする」という事の意味によります。因みにエンゲルスは父親の工場経営を継ぎ、また上記のように
マスクスを経済的に支えるために、表向きは20年間温厚なビジネスマンを通したと言う事です。
また、マルクスはこんな事を「資本論」の中で言っています。
「ブルジョア経済学者達は貨幣の研究において本質を把える事には失敗してきたが、研究対象には
 いつも困らない状態にある。」(全然正確な引用ではなく、勝手なパラフレーズですが)皮肉がきついと
言うより、本当に金には不自由していたことを感じさせる。
31523がOFWね。:2008/02/27(水) 19:31:06
33 名前: 23 投稿日: 2000/08/27(日) 09:47
宇野弘蔵は「『マルクス経済学』は『マルクス主義経済学』ではない。」と言って、アカデミズムの中に
安住した権威主義的な学者だろう。
彼はマルクスの「威光」を借りながら、同時に「その誤りを正して」独自の経済学(実は無内容なマルサス主義)
を作ったと言える程の、破廉恥なマルクス捏造者だ。
柄谷なども表面的な理解をもってマルクス解釈を説き、自由人の連合により文学的かつ「哲学的」共産主義を
実現しようとする、ポストモダン的曖昧さを売り物にする非プロレタリア的インテリに過ぎない。
労働者の解放は労働者自身の行為でなくてはならない。
31623がOFWね。:2008/02/27(水) 19:32:17
37 名前: 32 投稿日: 2000/08/27(日) 23:50
>36
「誰がいいのですか?」と言う意味が良く分からないな。
もし、マルクス自身の考えが知りたければ、まず本人の著作を読む事です。
あるいは、現在のマルクス主義と見なされる思想諸潮流のうち「最も正統的な」ものは何かということなら、
多分それぞれが自己をそうだと主張していますから、自分で判断するしかない。
また、単に最近のマルクス主義的な動向(新傾向)は何かということなら、様々な傾向(多分に拡散的)
があり、これまたどれが良いとは言えない。
結局、「マルクス(主義)って何?」とは自分で調べ、考えるしかない。
但し、「労働者の自己解放を通して、人類の解放を目指す。」という壮大な射程を持った思想(家)である
事は、その具体的内容と歴史的展開は今措くとしても、確かに言えると思います。

38 名前: 37 投稿日: 2000/08/27(日) 23:53
誤: 名前: 32
正: 名前: 23
失礼しました。
31723がOFWね。:2008/02/27(水) 19:33:09
42 名前: 23 投稿日: 2000/09/01(金) 02:32
>41
>大衆は消費をとおして消極的に支配階級?を支配しうる
それは余り論理的ではないし、歴史的必然だとも思わないな。
ルフェーブルに関しては良く知らないが、吉本氏は余り論理的な思考が得意ではないと思います。
(当人はどう思っているかは知りませんが。)
確かに現代先進国では表面上、「大衆」は物質的豊かさに浸っており「アツイ」ものは流行らない
ように見えるかも知れないが、傍観者的な態度では何も出てこないでしょう。
318革命的名無しさん:2008/02/29(金) 21:48:00
『大東亜戦争とスターリンの謀略 ー戦争と共産主義ー』
http://shikisima.exblog.jp/271392/

これは面白い本であり、衝撃的な本である。
しかも、今だからこそ冷静に読む事が出来る本でもある。
著者は昭和三年から特高警察も管轄する内務省警保局などに勤務し、昭和十一年から約十
年間衆議院議員であった三田村武夫氏である。

既に書名から分かるように、先の大東亜戦争が、ソビエトのスターリンが指揮する国際共産党
コミンテルンの謀略によって、対米英開戦に踏み切ったものであるとする本である。
現在、世間一般では、戦前において共産主義者は戦争に反対していたと言われ、皆そう信じて
いる。かく言う自分もそうだった。この本を読むまでは…

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義   三田村 武夫【著】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4915237028.html
319New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 06:52:42
OFW氏の見っけ!

25 名前: OFW 投稿日: 2001/01/27(土) 20:10
>>1
階級とは生産手段の所有に関する社会成員の区分であり、社会の生産関係を
反映しています。
資本主義社会では資本家階級と労働者階級が本質的な階級として対立して
おり、生産手段の所有者である資本家階級と生産手段から切り離された裸の
労働力である労働者階級の存在は、資本の価値増殖にとって本質的な要件
です。
その他の自営農民、自営業者、インテリ等は中産階級と呼ばれ、安定した
経済基盤を持たない動揺する階級です。
しかし、以前「一億総中流意識」とか盛んに喧伝され、あたかも「意識が存在を決定する」
かのような宣伝がなされたので、労働者は自己が何者であるかを正しく理解できなくなって
いるようです。
最近でも、「マルクス主義社会理論に基づく」と称して、中間管理職やホワイトカラーを
「新中間層」と呼んで、労働者階級から区別する論者(下記サイト参照)も出てきているので、
ますます、客観的な現実認識から遠ざかり、労働者の階級的な自覚を阻害しようとする傾向
があるようですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/ronbun05.htm#4
320New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 06:55:28
39 名前: OFW 投稿日: 2001/02/12(月) 11:42
収入の多少は階級対立の結果であり、それが階級を規定するのではない。
「日本は階級社会か?」という問いは社会の本質に関するもので、
世代間格差とは無関係。
世代の自然的区別が階級の社会的区別なら、未来永劫「無階級社会」
など来ないことになる。
近代社会の物象性を明らかにしたマックス・ウェーバーも、階級を「職業」に
置き換えたことで、中産階級の一員としての自己を正当化した。
学者が、自己の階級的利害を学問的誠実さに優先させるのは、
昔から変りない事態であり、彼らの祖先である僧侶階級が、
「来世がある、現世を肯定せよ」と超俗的に言った同じ事を、
「現世は中立的で正しい、現世を肯定せよ」と世俗的に言うだけ。
大衆に対して現実認識ではなくイデオロギーを与え、現実社会の本質を
隠蔽することは、知識人の存在理由、その重要な職務(使命)になっている。
「今の世の中は自由で民主的な社会であり、階級など存在しない。」
「所得の格差があり階層社会であるが、階級社会ではない。」
「貧富の差が余りないから、ある程度は無階級社会だ。」
「職業選択の自由があるから、無階級社会だ。」
「性別で差別しなくなったから、無階級社会だ。」
「少なくとも学者は自由で中立的で善良な階級だ。」
等々等々。大衆の頭脳を混乱させることで利益を得るのは、どの階級か?
「階級などはないのだから、大衆の頭脳は正しく啓蒙される。」
「いや、階級などはないのだから、無階級社会の利益になる。」
「いや、大衆ではなく自由な市民しかいないから、誰も利益を受けない。」
「いや、本質を実感できない以上、大衆の頭脳は混乱しない。」
エトセトラ、エトセトラ…。
321New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 06:57:51
42 名前: OFW 投稿日: 2001/02/20(火) 01:00
>>41
>階層化して何が悪いの?
哲学板での「どうして人を殺してはいけないの?」のような意見ですね。
倫理的な問いには、皆なかなか答えが出せないようですが、
少なくとも近代は「自由、平等、博愛」という標語から始まったのは、歴史的な事実であり、
近代ブルジョアジーが前近代的な身分差別に抗して、人類の普遍的な原理(理念)として、
個人の絶対的な主体性を打ち立てた。
その思想は、人間の可能性は無限であり、誰もが自らの能力を最大限発揮すべきだという
内容を含んでいる。
また、自然的な素質・能力には個人差があるが、誰もが等しく教育を受け、
その多様な可能性を伸ばすために文化・教養の働きを重視することが、
人文主義(ヒューマニズム)という近代的理念です。
それは現在でも、国連ユネスコの活動等にも活きている。
それらは、決して経済的な点にまで踏み込めていないために、
社会の物質的な基盤を捨象した精神的な理念に過ぎないが、
少なくとも貨幣による差別を正当化するものではないでしょうね。
また、「能力に応じた収入」など一般には現存していない幻想ですから、
「能力が低いから低収入なのだ」とは、現状を正当化するための、
因果関係を逆にした議論でしょう。
あなたが、もし自分の能力を信じているなら、よく現実を見て、
何が真実なのかを判断することもできる筈。
近代は感情ではなく理性の時代です。
322New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 07:00:10
44 名前: OFW 投稿日: 2001/02/20(火) 22:35
>>43
>ドキュソがやけになって暴発するから。
おもしろい意見が続くな。
「階層化=貧富の差をつけること」と「ドキュソ=能力の無い者」との間には
1.貧富の差は、能力の有無によって決められている。
2.貧富の差は、能力の有無によって決められていない。
の両方の場合があり得る。ドキュソがやけになる場合とは、
明らかに1.の場合であり、それは「能力がない者も富むことができなくてはならない」
という考えが前提にあるからだろう。
そして、その前提自体には異論も出てくるだろう。
しかし、現実には1.は正しくない。
したがって、その点ではドキュソはやけになる必要はない。
実際の問題は、生産手段を持たない労働能力者が、
生産手段を所有しているドキュソの支配下に置かれているという現実である。
その現実が永遠に続くと考えるから、やけになる者もでてくる。
その暴発を防ぎ、労働能力者を懐柔するために、
「厚生経済学」なる政治的な学問も出てきたわけ。
誰が本当のドキュソか、がポイント。
実際、どんなドキュソでも最高権力を握れる、というのが今の日本の姿であることは、周知の事実。
323New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 07:05:16
48 名前: OFW 投稿日: 2001/02/22(木) 00:16
>>45
>ピグウに労働能力者を懐柔しようという意図が全くもってなかったのは自明の理ではないか!
何にせよ個人の業績を評価する場合、その主観的意図が何であるかではなく、
それが歴史的・客観的に果たした役割を見なくてはならない。
資本主義がその勃興期における自らの解釈者としてアダム・スミスを生み、
成熟期においてミルを生み、そして一般的危機すなわち帝国主義段階に入ってマーシャル、
ピグーやケインズを生んだとしても、そこには学説の進歩というよりは、
資本主義の歴史的な変容があることを見る必要がある。
20世紀に入り、資本主義体制は古典派の説くような市場の自由放任ではもはや維持できず、
貧困・失業は経済学が解くべき第一の課題になった。それは、資本家階級と労働者階級の対立が、
もはや和解しがたい程深刻になったことを意味している。
しかし「何故個人の自由に基づく市場のメカニズムでは社会の福祉・厚生が結果しないのか?」
について、新旧の厚生経済学およびケインズ学派は解答を出せず、
結局改良主義、すなわち、政治的国家の市場への介入による所得の再分配を説くだけである。
そのことは、真の原因、すなわち、階級対立の存在を覆い隠し、
国家という共同体幻想を持ち出すことでしかない。
結局、(公共セクターと呼ばれる)政治的国家を必要とする経済学とは、
科学というよりは政治的なプロパガンダに見える。
最近の例で言えば、「公的資金の投入による金融システムの安定化」とは、
かっての「国体護持」と同じ程度の、
階級社会を隠蔽しつつ維持するための「政治的・経済的政策」と言える。
ま、「こんなことは、自明の理ではないか!」でしょう。
324New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 07:07:57
51 名前: OFW 投稿日: 2001/02/22(木) 23:34
>>49
>「ピグウは本当にそういうことを意図して厚生経済学を作ったのか」
学者個人の主観的な意図に拘っておられるようだが、
私は>>44で「労働能力者を懐柔する」と書いた時、その主語は個人ではなく、
「当時の資本家階級あるいは総資本」という物象化された集合的主体を指しているのです。
厚生経済学を生んだのは社会的実体の力でしょう。
なるほど、ピグーに限らず、ケンブリッジ学派の学者は、
個人的には皆「英国紳士」であり、その限り、彼らの誰一人として「労働者を欺き、懐柔してやろう」
という悪意をもっていた訳も無い。
しかし、まさにその点にこそ、「市民社会」(ブルジョア社会)の欺瞞性(関係性の悪)が端的に現れているわけです。
実際、改良主義とは、相手の手足を切り取った(生産手段を奪い取った)後でそれをすっかり忘れて、
「同じ人間なのに手足がないのは気の毒だから、私の食事を少し分けて上げよう。」と言うようなもので、
それは、何故世の中に手足の無い人がいるのかを問わない。
>>45
>「人間生活の改良の道具」
社会が本質的に資本家階級と労働者階級に分裂しており、
一方の生存は他方の死を意味しつつ、両者は分かちがたい時、普遍的人間とは何でしょう。
階級対立が1948年二月革命、1970年パリコミューンと劇的に展開したが、
労働者階級の敗北に終り、資本のレッセ・フェールに基づく蓄積・ 集中によって、貧富の差が極端に拡大し、
個人の自由より社会全体の福祉を問題にせざるを得なくなった時代においては、
一方で小市民的な社会改良主義、他方で労働貴族的な社会民主主義が主流となることは、
確かに時代の必然でしょう。
その潮流は時代に適い、「正しい」が、その事は労働者が社会の本質に目覚め、
自らの力で真に社会の主人公となることをむしろ阻害する。
それは「(賃金)奴隷にはムチだけではなく、アメも必要であり、それが社会を安定化させ、
社会の改良・厚生に結びつく」と言っているに過ぎない。
…ま、そんなとこです。
325New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 07:10:20
55 名前: OFW 投稿日: 2001/02/24(土) 07:06
>>53(45)
>「労働能力者の懐柔」ということの具体的意味
階級社会の本質に触れることなく、労働者の体制内化を計る施策や言論は、
(これも主観的意図がどうあれ)労働者階級の懐柔です。
まず、「資本家と労働者は対等であり、
自由な契約に基づく雇用関係を結んでいる」という擬制を作ること。
賃金あるいはサラリーとは労働力商品の売価であり、労働に対する報酬ではない。
次に、「政策当局は、社会全体の厚生を最大にするために、
富の再分配を行う」という擬制を作ること。
資本の無制限な価値増殖を所得再分配という手段で緩和する事は、
ある程度は実質的な「不公正」の是正でしょうが、社会的厚生関数という一見科学的・中立的な説明は、
対立関係が存在する社会では非科学的にならざるを得ない。
「社会的厚生」や「公正」などの概念は恣意的・形式的であり、
何らの客観的根拠を持たない。
また、労働組合が「景気回復のためには、
労働分配率を上げて消費を刺激する必要がある」といった学問的根拠を上げて、
労働者の関心を「賃上げ」に向けさせ、資本家や政策当局がある程度はそれに応えて、
「労使協調」あるいは「福祉国家の建設」を宣揚することも懐柔でしょう。
326New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 07:12:29
56 名前: OFW 投稿日: 2001/02/24(土) 07:10
>>54
>ソビエトは…階級社会だよね。
旧ソ連の社会経済体制は国家資本主義という資本主義の極限形態でしょう。
それは「最も社会主義に近いが、それから無限に遠い」(レーニン)。
確かに、共産党官僚は自らを共産主義者と称していたが、
実際には(軍、大企業経営者と共に)ノメンクラツーラと呼ばれた支配階級を形成していたわけです。

>現在の日本が階級社会であることに 気付けっていう人は、具体的にどうすればいいか、
>はっきり示して欲しい
労働者の組織的団結による、資本主義的生産関係の転回でしょう。
それは、何よりも労働力商品としての自らの社会経済的な存在形態を廃棄して、
社会的協業を経済の基本に据えることです。

>物は豊富な上に貧富の差はないし
日本の豊富な物資は殆ど外国から来ている。
それは外国での欠乏と相関がある。
また、階級対立とは貧富の差のことではなく、
生産手段の所有・非所有に関する社会成員の編成をいう。
さらに「貧富の差がない」ことは事実に反している。
「許容限度内の差」とでも言えばまだマシだが、そうなると、誰が許容するのか、が問われる。
…結局上記は、社会の現実から目を背けることを奨励する懐柔的意見かな。
327New Comerだけど宜しゅうねがいますです、はい。:2008/03/08(土) 07:15:44
62 名前: OFW 投稿日: 2001/02/27(火) 21:46
>>60
>ココのスレッドは難しいから 無産階級の人間には理解できないや
「無産階級」とは随分古めかしい言葉が登場するな。
無産=財産をもたないかどうかは本質的な階級区分ではない。
生産手段の所有・非所有こそが、階級の本質であり、財産はその結果に過ぎない。
資本主義社会は、労働者階級と資本家階級の対立関係によって支えられている。
資本とは過去の労働の成果であり、それが労働しない階級により占有されているために、
世の中が乱れ、多くの不正・悲惨を生じているということこそ、近代の階級社会の姿。
かって江戸時代の学者安藤昌益が、
身分としての武家階級が農民階級を支配していた姿を
「不耕−直耕」の転倒が自然の道を覆していると言ったように、
近代社会では貨幣・資本が人間をモノに変え、
モノが人間を支配するという転倒した姿を現出している。
労働者が生産手段を所有することで、真に社会を自らのものとし、
無階級社会に到達することが可能になる。
これは至って単純明快な話。
328労働って?:2008/03/08(土) 10:07:43
なんかNew Comer(新参者)先を越されたってとこかな。
お後はオイラがばっちし決めっからさ。

64 名前: OFW 投稿日: 2001/02/28(水) 02:00
>>63
労働者(生産者)が株を買えば、労働資本家になるが、
誰を雇用する(どの労働力商品を買う)のかな?
タコが自分の足を食うようにして、階級は消滅する???
329労働って?:2008/03/08(土) 10:08:32
71 名前: OFW 投稿日: 2001/03/09(金) 18:19
>>65(45)
レスが遅れてすみません。
>例えば、日本には年功賃金やボーナス制度といった特有の賃金形態が存在しています。
>…外国諸国には見られない上記の賃金形態をどう説明できますか?なぜ、国家間で異なるのでしょう?
およそ客観的科学を志すならば、
事物の現象形態とその本質とは異なるという点は忘れてはならない大原則でしょう。
資本家と労働者とが対等に対面して、”ギブアンドテイク”の精神に基づき、
雇用契約という等価交換契約を結ぶという見かけは擬制であり、事柄の本質を覆い隠すものです。
そして、そこには政治的な要素が抜き難く存在している。
年功賃金やボーナスとは前近代的な「血縁イデオロギー社会」(山本七平)を物質的に保証するための
日本特有の遅れた資本主義の特徴ですが、事柄の本質は変わらない。
そして、「国家間で異なる」のは、経済がまさに政治的な本性を持っているからです。
「政治とは無縁な経済学」とは政治的イデオロギーでしょう。
>政策を実際に行う上に於いてはある程度恣意的にならざるを得ないのではないでしょうか。
社会の階級構造は恣意的ではなく必然的なものであり、政治施策は階級利害にその根拠をもちます。
>>67
>OFWさんって、昔15chで銅鑼さんとかすりらんかさんとと、 論争してたんだね。
そうです(汗)。まだ固定HNではなかったのですが。
しかし、あの板のセクト的な雰囲気には参ったな。
銅鑼(ドラエモン)氏の「顔を立てて」(笑)引き下がったが、近視眼的な論者が多過ぎですね。
>>69
>OFWってなんて読むの?如何言う意味っすか?
Old-Fashioned-Well(流行遅れの井戸)です。最近は古い知恵が廃れた、という感慨を込めて…、なんちゃって。
330労働って?:2008/03/08(土) 10:10:08
73 名前: OFW 投稿日: 2001/03/11(日) 00:37
>>72
>まあ、あの議論を読んでどう感じるかは人それぞれでしょうけどね。
それはその通りで、感じは主観的なものですが、人間が理性的存在であるならば、対象的な真実は
客観性をもつと言えます。
特に、階級分裂をしている社会においては、支配階級と従属階級とで事態があべこべに現れるという点は、
忘れてはいけない点でしょう。近代以降の最も根源的なイデオロギーとは商品、貨幣、資本のそれであり、
それが自然的で永遠の存在であるかのように説く学者、知識人とは、真理ではなく、自己の階級的利益を
追求していると言わざるを得ない。
労働者が自己を知り、現実的な類に高まるためには、イデオロギーを廃し、社会に対する現実的な認識と
共同的な実践が不可欠です。
働くことは人間が自然から自立するための最も根源的な行為であり、畢竟、経済とは「労働力の節約」に
関する事柄を言うのです。
確かに、資本主義社会では、それは転倒され、むしろ「労働力の濫費」こそが経済的と呼ばれていますが。
経済学を志す者ならば、経済が社会的人間の本質と如何なる関連を持つのか、という点を片時も忘れて
はならないでしょう。
331革命的名無しさん:2008/03/08(土) 16:45:40
>>329
俺はOFW=Old Fucked Woman(犯られ老婆)って信じてたぜ。
だって、どっかのスレにそう書いてあったもんな。
ほんで、続編はあるんか?
332やっぱセクースがイチバンさ。:2008/03/10(月) 19:59:13
交代させてね、ちょっと強引にだけど。

11 名前: OFW 投稿日: 2000/12/22(金) 20:25
というか、「経済的」って言うのは、要するに同じ事をするのにも、人手をかけないでできること。
つまり、労働力の節約(Economy)でしょうね。おカネが絡むと、正反対の意味になるが。
333やっぱセクースがイチバンさ。:2008/03/10(月) 20:01:55
13 名前: OFW 投稿日: 2000/12/22(金) 22:12
>>12
なるほどね。でも、下のサイトで「貨幣とは何か」を語っている先生よりはマシかなと思うな。
http://www.nttdata.co.jp/profile/organ/riss/h9/theme1/guest1_1.html

>「貨幣」とは一般的な交換手段です。
>つまり、それによってすべての商品が買えるもの、というのが貨幣の定義であるわけです。
購買手段は交換手段とは概念として区別すべきでしょう。
物々交換では自己の所有物が交換手段ですが、それは購買手段ではない。
「一般的な交換」ということをまず説明すべきです。
そうなるとマルクスを借りるしかない。
>「貨幣商品説」とは、アダム・スミスやマルクス、さらにはメンガー等によって唱えられたものですが、
それは貨幣それ自体が人々の欲望の対象になる商品であり、
その商品が交換プロセスのなかで自然に貨幣に転化していく、とする考え方です。
マルクスは「貨幣それ自体が人々の欲望の対象になる商品」であるなどとは言ってはいません。
貨幣は元来他の有用物と並ぶ有用物であり、それが交換の発展の中で、
一般的等価物としての貨幣になり、同時に他のすべての有用物が商品となった、と言っているのです。
歴史の始めから商品が存在していたかのような錯覚があるのかな?
>貨幣商品説が正しくないことはすぐわかりいただけると思います。
それは驚きだ。
かのアダム・スミスやマルクスが苦労して考えたことがほんの一言二言の説明で誤りであると片づけられるとは!
>1万円札は1万円の価値がある貨幣です。
なぬ?
どこからそんな話が出てくるのか?
前には貨幣には、欲望の対象としての価値はない言っていた筈だ。
如何なる価値か?
>つまり、商品としての価値はないわけです。
使用価値(有用性)と交換価値とを(意識的に)混同している。
使用価値ゼロでも交換価値が絶大だからこそ、誰もがお金を欲しがるのです。
そして、すべての商品は他者(非所有者)にとって有用だからこそ、交換価値が生まれるのです。
その限り、「すべての商品は貨幣である」が正しい。
334やっぱセクースがイチバンさ。:2008/03/10(月) 20:04:34
14 名前: OFW 投稿日: 2000/12/22(金) 22:14
>>12(つづき)
>ほかの人が1万円札を1万円の価値があるものとして喜んで受け取ってくれるからです。
そうではなく、それで「1万円の交換価値がある商品」が買えるという、
国家への信用があるからです。
概念の混乱。
>貨幣と他の商品が区別できなくなります。
なぬ?
貨幣商品説は誤りだが、欲望を考えると区別ができなくなる。
だから、欲望を考えなければ良い、という論理?
>貨幣の場合は、他者の欲望ではなく、他者はさらに別な他者の欲望を予想しているわけで、
このプロセスが永久に続く混乱は無意味に転化する。
商品所有者Aは、他者Bの欲望を予想するが、貨幣によりその商品を買った自己Bの欲望は満たされる。
また、商品を売り貨幣を手に入れた自己Aの欲望は別の商品を買うことで満たされる。
つまり、自己から見れば欲望はその都度満たされる。
「貨幣の場合」の欲望とは貨幣欲のことであり、貨幣は欲望の対象ではない、という先の主張と矛盾する。
言葉のすり替え(これは無意識だが)がある。
>貨幣には他者(=人間)の欲望が入っておらず、
貨幣に欲望が「入る」とは、日本語ではない。人間の欲望以外の欲望とは何か?
まさにマルクスの言う、疎外され(他者となり)、物象化(モノにされた)人間の欲望でしょう。
貨幣にはそれが一杯入っている。
>これは無限の循環論法です。
単に、論者の思考の混乱でしょう。
335やっぱセクースがイチバンさ。:2008/03/10(月) 20:08:23
15 名前: OFW 投稿日: 2000/12/23(土) 11:09
>>12(つづきのつづき)
>「貨幣は貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法が意味することは、
>貨幣とは「貨幣論的差異」を本質的に備えているということです。
>貨幣論的差異とは、貨幣は貨幣であるかぎりそれ自体のモノとしての価値を超える価値を
>本来的にもっているということです。
「貨幣論的差異」???価値を超える価値を本来的に(=誰が決めたのでもなくそれ自体で)
もっている??
「貨幣論的」とは「貨幣論によって規定された」と同義でしょうが、
「本来的にもっている」かどうかは、仮説として、検証されなくてはならない。
勝手に「意味している」と決め付けてはいけない。
これを聞いた学生や大企業のサラリーマンが質問しないのは、
相手が有名な東大の経済学教授だからかな?
八百屋のおやじが同じ事を言ったら、間違いなく「電波」扱いでしょう。
>ところが、自己循環論法の立場からいうと、…恐慌とは、人々が本来は一般的媒介手段
>でしかない貨幣をより欲しがっている状況です。
失業者は仕事や食料を欲しがっている訳ですが、「人々」には含まれていない?
また、貨幣には人間の欲望は入っていなかったのでは?
貨幣には価値を超える価値があり、
「一般的媒介手段でしかない」だけではなかった筈では?
>そして、貨幣が貨幣として価値があるのは無限の欲望の連鎖があるから
「貨幣としての価値」=「無限の欲望の連鎖」とは、昔バブル期の日本で流行った「ポストモダニズム」、
つまり無意味な言葉を意味ありげに言う風潮のなごりでしょうが、未だに続いているとは。
>それは人々が貨幣を貨幣として使っている社会の存続に対して信頼していることを意味します。
>恐慌のときほど人々が資本主義社会の存続を信頼しているときはないのです。
どういう論理をつかえば、そのような事実に合わない逆説が出てくるの?
恐慌は、「恐慌を引き起こすもの」の存続を信頼していることを「意味する」とは??
むしろ、議論の無意味を意味する、が正しいのでは。
八百屋のおやじを含めて、普通の日本人に分かる説明ができないのかな?
336やっぱセクースがイチバンさ。:2008/03/10(月) 20:10:58
18 名前: OFW 投稿日: 2000/12/23(土) 17:26
>>16
>よければ、岩井先生の『貨幣論』を本格的に議論して欲しいな。
いつも思うのですが、インターネット時代だから、
本人が2chに来て論戦に参加することが、経済的にも文化的にも、最も望ましいのですが。
真理は公共的かつ真摯な討論から生まれる、なんちゃって。
>>17
>だけど、貨幣を信用して貯め込んで商品を買わなくなるから恐慌となるすなわち、
>人々は、貨幣制度が保証される資本主義社会の存続を信じているからだと言っ
>てるんだろ。
つまり、貨幣制度の存続を信じるとそれに裏切られるよ、ということを講義している訳?
ならば資本主義批判になるが。
まず貨幣を貯め込むのではなく、資本といった形態での価値を貯め込むというのが正しい。
それから貨幣と信用は区別すべきでしょう。
そして消費者が商品を買わなくなるのは、恐慌によって失業して買いたくても買えなくなるからであって、
貨幣を貯め込んだからではない。
つまり、上記の人々とは資本家、すなわち資本というモノの人格的表現を指しているだけであり、
本来の人間が資本主義社会の存続を信じている訳ではないでしょう。
(論理のすりかえ?)件のサイトにもあるが、
>人々がほんとうは商品を欲しているのに、
>商品の媒介にすぎない一般的交換手段である貨幣を商品以上に欲しがってしまう。
経済学はこの顛倒の理由こそを明らかにしなくてはならないでしょう。
それは生産手段と生産者の分離に基づく階級対立が資本主義世界の根底にあり、
その物象的な表現が商品、貨幣、資本であるということです。
何故疎外された人間が商品(正しくは財)より貨幣を欲しがってしまうのか、
資本の価値増殖欲は人間の生活欲求と如何に矛盾するか、その理由を説明しなければ、
「貨幣とは何か」に答えたことにはならない。
「ほんとうは」といった曖昧な言葉や「貨幣論的差異」という意味不明な術語を持ち出して、
真の原因を殊更はぐらかしているとしか見えないのは、八百屋のおやじ的な誤読かな?
337♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:43:29
1 名前: 美雪 投稿日: 2000/05/11(木) 17:10

貨幣価値に換算する対象さえ特定できたらすべて貨幣価値に換算
することできるし、換算することは非常に有益です。
哲学人はこの主張を否定しますか?
その対象が無限だったらどうするんだ!
そもそも貨幣の基準は!という愚問は控えてください。
あなたがたはユースケ・サンタマリアは筋肉モリモリだと
信じているんでしょうね。まずユースケさんを疑うことをお勧め
します。
338♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:50:53
79がOFWサンでちゅ。

79 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2000/09/09(土) 15:41
随分古いスレだが、おもしろいテーマで経済学板より哲学板での議論が有益だ。
私の主張@ 貨幣には価値が無い。(これ当たり前)
私の主張A まともな貨幣論は見たことがない。(浅学?)
私の主張B マルクスの価値形態論をちゃんと理解している人も見たことがない。
私の主張C ただお金が欲しいと思っているだけの人はこの手の議論には向かない。
339♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:52:13
88 名前: 79 投稿日: 2000/09/15(金) 10:20
>16
「過去に起こった出来事」は知識として
 @ 未来の予測のために例えば気象観測データとして商売できる。
   (三宅島の噴火を予測できないためにどれだけの経済的損害があるか?)
 A 歴史学者の給料に反映される。

>20
「資本主義徹底推進運動」を是非展開して欲しい、どうした美雪!

>30
既に「知的所有権」が存在しており、例えばヒトゲノムのDNA配列の法則は
桁はずれの貨幣価値を持っている。

>38
馬鹿な事を言わないように。交換価値は交換によって初めて発生するのでは
なく、社会的労働によって形成され、交換によって実現するのです。

>39
当然マルクスの価値形態論、労働価値説です。

>66
その通り。経済学はまったく非科学的です。

>68
あんたは偉い。それから本当の議論が始まるのです。

>80
ジンメルの貨幣論は余りに鈍くさい(流し読みですが)。
あまりシャープな思考ができていないと感じた。

(自戒:古いレスにコメントをつけてどうするのか!!)
340♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:53:12
92 名前: 79 投稿日: 2000/09/15(金) 17:10
>>89
どもです。(まだ2chに馴れていないので)
>>90
 私が答えるより美雪氏の方がセンス良く答えてくれると思うのです
 が、要はどんなものにも可能的に価値はあり、それはまず相対的・
 主観的であるという事です。(近代)経済学は価値を主観的なもの
 として研究対象から外していますので、批判は経済学に向けて欲し
 い。私は客観的価値(主観的価値を通して現れる本質)についてマ
 ルクスを援用します。
>>91
>労働が交換価値の根底をなすことは事実ですが、・・・
 これは驚きです。100万人に1人位の希少価値をもつ意見ですね。
 そのような事を(近代)経済学者に言えば、「おまえアホやな。」
 と一笑に付されるでしょう。(私も15chで総攻撃に会いました)
>僕が悩むのは、ワインの新酒と古酒の価値の違いです。
 この辺はきちんと説明しないと誤解を生むし、日本のいわゆるマル
 クス(主義)経済学者は皆全く誤解しています。
 「価値とは何か」
  @使用価値(有用性) A希少価値 B交換価値 C価値自体
  D価値の実体
 マルクスはすべてを統一的に説明しています。ワインの価値の違い
 はむしろAの稀少性の違いでしょう。

>時間も貨幣価値に転換できますか?
 むしろ逆です。労働時間が貨幣価値に化けるのです。これを物象化
 と呼びます。
341♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:53:41
93 名前: 79 投稿日: 2000/09/16(土) 15:01
>時間も貨幣価値に転換できますか?(続き)
 マルクスの価値形態論は商品の分析から始まります。それは価値の
 本質論であり、現在に至るまで誰も敢えて触れようとしなかった資
 本主義経済システムの根幹です。実際毎日の経済およびその学問的
 研究はすべて貨幣を「前提」にしているが、「そもそも貨幣とは何
 だろう?」という事には誰も真面目に触れようともしない。「お金
 が欲しい、お金が欲しい」とは誰もが言い、そのために毎日命を懸
 けているが、貨幣の形而上学存在(笑)は絶対不可侵の神と言う訳
 です。さしずめ経済学者はマンモーに仕える神学者と言える。
 労働者は自らが神を作り出しているのは実は自分なのだと気づく事
 が、神に仕える奴隷としての自己を解放するために何より必要な事
 でしょう。商品・貨幣・資本の言葉でなく、労働そして人間の言葉
 で経済を捉える事がマルクスの経済学批判の趣旨です。
342♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:54:16
94 名前: 79 投稿日: 2000/09/16(土) 15:09
>>93
 誤: 形而上学存在      正: 形而上学的存在
 誤: 自らが神を作り出して  正: 神を作り出して
343♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:54:58
102 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 00:53
貨幣は確かに偉大な力を持っている。現代社会においては生活に必要
な物資は殆どすべて商品として存在しており、昔の農村におけるよう
な自給自足は不可能になっている。「貨幣は便利なもの」と言った牧
歌的な状況はとうの昔の話であり、人間が生きるためにはまず貨幣を
得ることから始めなくてはならない。しかし誰でも「それは何か変だ
。」と感じている筈です。たとえば「直接必要なものは衣食住の用を
なす物資(財)であり、貨幣はその媒介手段(交換用具)に過ぎない
。」あるいは「生産・分配・消費を調整し市場において物資の需給を
均衡あるものにするためには貨幣に換算する必要がある。」と言った
表象が貨幣を単なる手段と見做すために持ち出されるかも知れない。
しかし、問題は「何が貨幣に換算されているのか?」という事です。
それは貨幣の力の源であるようなものであり、たとえば「購買力」
と呼ばれたりする。しかし商品には殆ど購買力はないとされている以
上、「商品の購買力を貨幣に換算している」とは実態に合わない。そ
れはどうしても「(経済的)価値」と呼ぶしかないような存在です。
しかし「貨幣自体に価値はない」とは誰もが言い、貨幣の力はやはり
その購買力にあると言います。前者は貨幣の使用価値、後者は貨幣の
購買力(交換価値)の面を言っている訳です。そして更に「お金持ち
」(例:ロックフェラー?)とは貨幣を物質として所有することで世
の中で実質的な力を持つ人のことです。では貨幣の力はどこから発生
するのか?その質問に対して経済学は無力です。「それは貨幣に元々
備わっているのであり、それ以上の余計な詮索は無用だ。」と経済学
者は言うでしょう。より「洗練された」言い方は「それは貨幣の一機
能(要するに主観的な約束事)である。」という訳の分からないもの
です。彼らの数理計算において価値は価格という姿でしか現れないか
ら、表面上価値は見事に消え去っている。しかし貨幣が存在しなくて
はならない。それは価値の物質的な存在です。そのような根底を(ヘ
ーゲル)論理学では「実体」と呼びます。つまり貨幣は価値の現存在
(現れ)なのです。
344♪♪♪もう春ですねエ〜♪♪♪   :2008/03/13(木) 09:55:41
114 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 08:23
>101
 何にせよ買う事ができるのはモノとしての存在性格を持つ対象です。事柄、
 関係、活動といった本来モノではない存在は対象化され更にモノとして扱
 われる事で売買の対象にできる。実際、過去の出来事自体は観念的な存在
 であり、媒介された知識としてしか存在しないが、それはモノとして(例
 :家系図、証言記録)売買の対象にされている。物象化とは対象化の一種
 (疎外形態)で、人と人との関係がモノとモノとの関係として、物質的な
 実在に体現されていると言う事です。
345革命的名無しさん:2008/03/14(金) 20:50:21
はるか未来の人間を「疎外」から解放するために
今生きてる人間を疎外し尽くして捨てるのがマルクス主義。
346革命的名無しさん:2008/03/15(土) 11:08:23
>>345
このたぐいのヴォケは何処にもいるって生きた証左ってことで。
347ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:13:52
116 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 14:48
>115
>商品の持つ価値は普遍的とはいえず、
商品の個別的価値はまず使用価値として主観的・相対的・偶然的であり普遍的ではない
というのは私も同意見です。
普遍性とは特殊性および個別性に対立する集合的な概念です。
個別的価値は多くの交換を通して市場平均として普遍的・客観的になるのです。
(質および量的価値は実在に属し、交換価値および価値自体は本質に属します。)

>貨幣価値自体を論じることにあまり意義を感じません。
貨幣は今の世の中で最も普遍的な価値と見なされており、
その本質(貨幣の本性)を論じる事は理論的のみならず、
実践的にも大変重要だと思いますが?
あと、1(美雪さん)の意見に対しての違和感こそが大事であり、
「このおかしさはどこから来るのか?」と考えることが哲学的に生産的だと言いたかったのです。
ナンセンスと割り切るのは簡単です。
348ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:19:21
120 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 17:35
(また、相手のいなくなった旧レスにコメントをつけてしまおう。)
>>20
「現在の高度資本主義経済社会にすべてのことがらは流通できる」
高度情報化社会はインターネットと共に!!、ですね。
でも資本主義が流通させるのは事柄ではなくモノとなった事柄、結局商品だけですが。
(私のこのメッセージは著作権フリーで無償コピーOKという共産主義的原則に従っていますので、
より流通性が高い、いやむしろ検閲対象かな?。)
>>32
「美しいこともドキュンなのも先生も生徒も,親も子供も,,反体制運動もカウンターカルチャーも
市場によって制御されていることで自発的なものではありません。」
昔小林秀雄が「今の左翼思想も商品として流通しているだけだ。」
という趣旨の批評をしていた。
>>35
「要するにあらゆる現象を数値化して、方程式を作って、将来のお金の動きを把握できます、
お金をあずけてみてはどうですか、と。」
あらゆる現象を数値化するのは近代の原理であり、
そこから方程式(一般法則)を立てるのも近代科学の原理です。
しかし、将来のお金の動きを把握する事は近代経済学が未だに成功していない。
躓きの石でしょう。それは何故か。
>>53(Hei!美雪)
「お金がなきゃどういう世の中になっちまうんだ。。。 」
お金のない社会を共産主義社会と呼びます。
>>52(What?美雪)
「『価値』っていうのは『円』にまでもっていく『労力』っていうこと。」
これだけが違和感のある考えです。何でそうなるの?
>>53(Nice to Say!美雪)
「いやあ お金って便利でいいなあ 」
いやあ お金って議論すればする程おもしろいなあ。
でも明日からまたお金のためにあくせく働かされるんだあ。早く寝なくっちゃ。
349ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:20:56
122 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 20:13
アリストテレス『ニコマコス倫理学』と言えば、
マルクス『資本論』の中で「交換の不可能性」を論じている部分が引用されていた。
確かモノの(使用価値という意味での)価値の大きさは
それを必要とする人によって異なり不等なものであるにも拘らず、
等価交換がなされるのは理にかなっておらず、
何かの間違いでしかない、と言う内容だった。
さすが大哲学者(アリストテレス&マルクス)の見る所は違うなと感じる。
(現代の経済学者に聞かせたい話。)
実際、所有者にとっては価値がないから相手に手渡す訳で、
どうして等価交換が可能なのかを疑問にも思わない経済学者の非哲学性。
因みに原著は読みかけて止めた。
(『自然学』『形而上学』はとても面白い)
また、数量概念についてはやはりヘーゲル論理学を参照したい。
「量とは自己に無関心になった(他者にとっての)質である。その規定(定め)は無限の自己超出である。」
商品の外在性と資本の無限増殖運動を連想させる。
350ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:23:08
123 名前: 79 投稿日: 2000/09/18(月) 23:55
(今はもう秋、美雪氏は来ない。で、続けて勝手に質問。)
「貨幣価値に換算する」ってどういう事?

貨幣は
@ 価値の尺度(物差し)
A価値の基準(標準的な価値)
B価値の計測器(交換によって値が定まる)
のどれ?
どの場合でも「価値」は貨幣そのものではないよ。

にも拘らず
C価値を蓄蔵する媒体(貨幣資産)
と言われ、

また
D価値の鏡(比喩的ですが鋭い!「鏡は自己を消すことで世界を映す」)
とも言われる。
一体貨幣、価値とは何?便利どころか「摩訶不思議」だと思わない?(そうか、思わないんだね。)
351ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:24:45
124 名前: 通りすがりの人 投稿日: 2000/09/19(火) 02:19
>>123
3じゃないですか?
貨幣価値は交換によってのみ決定すると思いますが。
交換とは量子力学の「観測」みたいなものじゃないでしょうか。

125 名前: 79 投稿日: 2000/09/19(火) 20:44
>>124
確かに交換によって初めて価値が「決定」するのは確かでしょう。
しかし、物理学的な位置および運動量は観測器と対象の両者に共通した属性ですが、
貨幣自体の価値はゼロと見なせる場合(例:紙幣、電子マネー)があるのは何故?
さらに、
Cの貨幣資産の場合「価値を貯えている」のであって、
もし観測器だとするならそれをいくら貯えても価値を貯える事にはならないでしょう?

「貨幣、価値とは何?」という質問には
上記@からD(さらにまだある機能)を統一的に説明できないと答えにならないのです。
さあ、どうぞ。
352ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:26:10
126 名前: 124 投稿日: 2000/09/19(火) 22:38
>>125
すいません。
(3)というのは、「貨幣価値」はどこにあるか?の答えでした。
つまり交換価値ということですね。
交換価値ですから、媒体(紙、ビット列)自体の価値は貨幣価値に無関係ですよね。
で「貨幣」とは何か? と問われれば、答えは(3)(4)だと思います。
「交換」とは貨幣による価値の測定と同時に貨幣の消費でもありますからね。

貨幣の交換価値を貨幣量で積分したものが、
蓄蔵された貨幣全体の価値の量と言うことになると思いますが、
その価値も「交換」があってはじめて決定されるものです。
つまり、貨幣の価値は、交換された「もの」の実体としての価値に等しいと言えると思います。
が、ここで、交換された「もの」の価値を決めるのは、他でもない、
当事者自身であると言えます。
だから、
(1)(2)は、それぞれの人間の心や身体の中にあるものだと思います。
(5)はちょっとよく分かりません。
353ヴォケにヴォケと言われたくはないよね?:2008/03/15(土) 11:28:34
127 名前: >79 投稿日: 2000/09/20(水) 00:06
?とかの機種依存文字を使うのはやめようね。

129 名前: 76 投稿日: 2000/09/20(水) 21:08
>127
うっかりしていた。失礼。丸付き1〜5は(1)〜(5)に変更します。
>126
つまり整理すると、
ア.貨幣自体には(使用)価値はない。
イ.貨幣の(交換)価値はそれと交換されるモノの(使用)価値(実体としての価値)に等しい。
ウ.単位当たりの貨幣の交換価値を貨幣量で積分したものが、蓄蔵された貨幣全体の(交換価値)の量である。
エ.モノの(使用)価値自体は主観的なものである。
となりますが、宜しいですか?
多分経済学者も上記とそれ程違う答えを用意してはいないでしょう。
しかし、
「貨幣との交換によってモノの(使用)価値の大きさが決まるが、それは主観的なものである。」(a)
という言明は非常におかしな内容を含んでいます。
そのおかしさに気づくことから貨幣および商品、そして資本の謎に迫ることができるし、
マルクスは実際にそれを辿って結局『資本論』にまで達したのです。
論理的には、マルクスと世の経済学者とのどちらかがバカだという事になります。
どちらだと思いますか?言明(a)は正しいと思われますか?
354革命的名無しさん:2008/03/15(土) 15:35:29
貨幣その物を「価値」とする根本には宗教的な信仰心がある
これが古来から金とか銀のような希少金属が、或いは
腐敗を防ぐ物である塩(魔物を払う効果があるとされた)
貨幣となった由来である

これは今でも続いていて、通貨と云う単なる紙や帳簿上の
数字に過ぎないモノが商品という具体的な物の購買手段となり
実態経済を支配し、金利や利潤を生み出すモノとしてそれ自体が商品に
なるのは、貨幣価値の根本にある「信用」(=信仰)
担保してるのは、貨幣を発行する国家の総合的な生産力やその潜在的な
成長可能性

しかし、その国家の生産力や潜在的な成長性自体が時代・文化・社会状況の
変化によって変わる美人の基準のような物であり、尚且つそれを量る物差しである
通貨自体が日々変動する物であり、どちらも実態の伴わないあやふやな物でしかない

だから貨幣による交換の、市場経済の根本にあるのは、ある種の物神信仰だと思われる
355革命的名無しさん:2008/03/16(日) 08:56:18
133 名前: 79 投稿日: 2000/09/21(木) 21:43
>>130
>「お湯の温度は測定できるけれども、そのお湯が熱いかぬるいかはそれぞれの人の主観による。」
ある人がお湯を熱いと感じる。
これは確かに主観的ですが、その「原因」としての「お湯の熱」は客観的なものであり、
それを客観的な尺度(温度計)によって測定する訳です。
無論、原因−結果という概念も相対的なものであり、
「何が原因か」は状況によって異なりますが、主観的なものでない事は明らかです。
ところが、近代経済学を含め、いわゆるマッハ流の主観主義的・現象主義的な科学観では
すべてを主観的なものとしてしまい、「客観的価値」などないと言います。
それは例えば、「『熱い』という感覚には原因などない。
それは主観的な思い込みあるいは昔からの習慣に過ぎない。」
と主張する様なものであり、それを聞いたら誰でも驚くでしょう。
ところが経済学者は価値についてそう主張するのです。
>>131
>価値の一元化というイデオロギーが、現在のいじめ問題なども生みだしているという側面・・・
少し飛躍し過ぎ。「経済的価値」にだけ的を絞って下さい。
>>132
>同じ大きさの主観的価値でも場所や時が異なれば価格(数値)が異なります。
>このズレを経済学はどのように解決しているのだろうか
経済学者ならすぐさま以下のように答えるでしょう。
「素人はこれだから困る。
 君の言っている変動するものとは商品価格の事であり、
 それは商品の需要量と供給量の不均衡によって変動するのは当たりまえの話だ。
 そして価値は主観的なものだから『同じ価値』など存在しない。
 価値について云々するのは形而上学である。」
と。
しかし、私はあなたの方が正しいと考えます。まさに貨幣が「同じ価値自体」と言う幻想を完成させているのです。
356355:2008/03/16(日) 08:59:03
書き忘れましたが、わたしがOFWさんのコピペを続けますね。
それと、79番がOFWさんです。

134 名前: 129 投稿日: 2000/09/21(木) 21:48
誤:  名前:76  
正:  名前:79
357355:2008/03/16(日) 09:01:45
137 名前: 79 投稿日: 2000/09/21(木) 23:41
>>135(横レス失礼)
>また、交換価値と主観的価値の関係も人それぞれ違っているからこそ、交換が発生し

まさにここが問題点。
物々交換で言うと例えば、

「私の持っている上着とあなたの持っている靴とを交換しよう。
 何故なら今の私にとっては靴より上着の方が必要物(効用が高く、
 価値が高い)であるのに対して、あなたにとっては事情はまさに逆だろうから。」

という事です。
これでは決して「等価交換」など起きる筈がないでしょう。
この問題をまともに捉えたのはマルクスだけです。
この問題を解くには弁証法が必要なのです。
不等なものの相等性は如何にして可能か。
貨幣が実に便利でありながら、その逆説が如何に解き難いものかと言う事です。
上の例をじっくり考えてみれば事態は計りしれない程重大事を含んでいるのだという事が
分かってくるでしょう。
「貨幣って便利で良いな。」どころではない。
358355:2008/03/16(日) 09:02:23
138 名前: 79 投稿日: 2000/09/21(木) 23:54
>>137
誤:靴より上着の方が必要物
正:上着より靴の方が必要物
(こういう単純ミスが議論を錯綜させる事がある、失礼。)
359355:2008/03/16(日) 09:04:05
139 名前: 79 投稿日: 2000/09/22(金) 21:11
>>136
>それを「価値」たらしめる源泉は、やはり使用者が主観的に感じる効用にあるのではないでしょうか。

まず言葉(概念)を明確にする事です。
「主観的価値」とは
ア.対象物に備わっている属性(性質、機能、性能)である。
イ.各人が対象物に認める効用(用途)である。
のどちらでしょう?
例えば、食物は食用に適した性質を持つが故に効用がある訳ですが、
価値が主観的とは「食肉の蛋白質成分に価値があるのではない。」という事でしょうか?
食用にするのは元々それが食用に適したモノだからでしょう?
確かに同じ肉でも、病人や腹一杯の人には価値が無い。
しかし、それは主観的なのではなく、
生理学的に食用にできないあるいは必要としないからであり、
客観的な根拠を持っています。
主観的ではなく相対的と言うべきでは?
そして、効用という点での価値とは使用価値であり、
その否定としての稀少性という面を持っています。
さらに使用価値は交換価値ではないのです。

他者にとっての効用が交換を生む。しかしその量は効用からは絶対に出てこない。
これが価値の秘密です。
マルクスはそれを弁証法の助けを借りて明らかにしました。
360革命的名無しさん:2008/03/16(日) 16:01:56
しかし、マルクスの価値説が「価値」の根本にあるモノは何か?
を明らかにしたものであったにせよ、それが共産主義の資本主義に対する優越性
を証明する訳では無い。むしろ、近代経済学は

「全ての人が貨幣と言う価値基準を信仰している以上は、それを実体として解釈してよい」

という考え方にたって「価格」と「価値」をあえて分離する事で、市場価格が需要と供給の均衡
によって決まると考えた

これは私見だけど、貨幣交換の極端に発達した現代においては、主観的な価値の社会全体の平均値が
市場における「価格」になると思われる。
361革命的名無しさん:2008/03/17(月) 23:44:30
資本主義が競争により生産力を最大化した結果、人類に未曾有の富
をもたらしたのは事実だろうけど、なんで個人の安楽水準を
とっくに満たせるくらいの生産力を持った成熟した資本主義の国で
飢え死にするような失業や貧困が生まれるのか?
俺にはそれがまったく理解出来ない。
362ニート・フリーターは21世紀の全共闘である:2008/03/21(金) 02:05:38
>>361
それは一つには生産力はすでに需要を満たすレベルに達しているのに
労働時間が短縮されず、それゆえワークシェアリングが実現されないから。

また一つには、資本主義がイデオロギー的に「勤労の価値」とやらを喧伝し、
そのプロバガンタのために見せしめ的に
社会の相互扶助のための費用を革命の起こらない最低限レベルにとどめ、
それによってプロレタリアを「働かなくては」という強迫観念の下に置き、
そのことによって「仕事に就きたい」人間を増やして互いに競争させ、
そうして常に過剰労働人口を過剰のままにしておこうと図っているからだ。

北海道で500何億とかで作った道路が野ざらしにされていると報道されたが、
公共事業に使う500億があれば、1世帯年間250万円として
2万世帯、6万人の失業者・貧困者が救済できる。
なぜその金を直接的扶助に使わず
効果の間接的で利権の巣窟の公共土木事業に使うのかというと、
無産階級を「働かなくては」の強迫観念によって働かせ搾り取ろうという
(この強迫的イデオロギーが作用しないと労賃が高騰してしまうので)
資本の策略があるためだ。
363355:2008/03/21(金) 07:32:05
145 名前: 79 投稿日: 2000/09/24(日) 08:20
>>144
>例えば同じ深さだけ井戸を掘ったとしても、そこから水がでてくるのか石油がでてくるのかで
>労働の結果生じる価値は違ってくるように思います。

「価値」が重層的な存在であり単純な表象では捉え難いものである事を忘れないで下さい。
それはいくつもの面(相)を持ち、相互に矛盾すら起こす厄介な存在です。
もし日本なら「空気と水はタダ」(最近はミネラルウォーターばやりでそうでもないが)ですから、
生き物にとってどれだけ水が必需品(使用価値が高い)であっても、
交換価値(商品価値)は殆どゼロという事になります。
逆に石油は貴重品でしょう。
つまり日本では水を掘る(「生産」と呼びましょう)事は「社会的に必要」とされていない。
しかし砂漠に囲まれたアラブの国では、事情はまさに逆でしょう。そこでは水は高価です。
水掘りに大きな労働力を充当する事が社会的な必要となります。
日本人にとってタダ同然の水もアラブ人には高価だと言う事情が商品経済を発生させ、
水商品自体が交換価値を持つあるいは持たないかの様に思われる事になる。
(交換価値とは非所有者にとっての使用価値です)まして、本来は一商品に過ぎなかった貨幣が
交換の基準になり、何でも買うことが出来るという購買力を持つようになると、
自らを価値自体だとして労働というその真実を隠してしまう。
364355:2008/03/21(金) 07:33:42
363の続きです。

価値とは社会的・普遍的な労働の性格がモノとして転倒されて現れた姿です。
それは財の「再」生産に必要な社会的労働の程度が財というモノ自身が持っている自然的・物理的性質
であるかの様に立てられた必然的な錯覚(物神崇拝)の根拠です。
未来に必要とされる主体的活動が過去の活動の成果として現存在している客体(対象物)に内在している
と見られる事を「実体化」と呼び、
特に人間の社会的関係が商品・貨幣・資本関係として転倒した姿で現れている事を「物象化」と呼びます。

労働に価値はない。
労働が価値を生み出す源泉(価値自体である)からです。
ところが経済学は「賃労働の価値」を云々します。
賃金は実際には「労働力の価値」つまり労働力の再生産(要するに労働者の生活を維持する事)に要する
労働の事であるのに、労働自体の価値だと言い張る(いやむしろ価値などについて何も言わない)
自らも商品・貨幣の言葉でしか語らない以上、資本主義社会全体の転倒した姿をそのまま受け入れているだけで、
本来の主人公である労働者は経済学からは奇麗に消去されてしまっているのです。(長文失礼)
365355:2008/03/21(金) 07:34:43
146 名前: 79 投稿日: 2000/09/29(金) 23:15
(誰もレスをつけないのでしつこく美雪氏にレス)
>貨幣価値に換算する対象さえ特定できたらすべて貨幣価値に換算することできるし、
>換算することは非常に有益です。

誰にとって有益かと言えば、無論お金持ち(世界のすべてを貨幣に換算する事で利益を得る人)です。
労働者は自らの労働によって資本家のために商品(他者にとっての効用物)を作り出し、
貨幣価値を作り出すしかない。
366355:2008/03/21(金) 07:37:58
149 名前: 79 投稿日: 2000/09/30(土) 10:04
>>147
「親に育ててもらった」負い目(負債)は養育費・教育費として換算される。
資本主義ではそれは労働力生産の投資として経済学的に計算され労賃の中に含まれている
(実際には労賃からの控除としてマイナスされ公共的税という見かけを取っている)。
介護保険では立派に計算式が出ている。
つまり資本主義では労働力は商品ですから、その生産(人口)計画と品質(労働という効用性)計画は
貨幣価値に従って<数値化>(試験点数化、要介護度)され、
世界標準(<貨幣>経済の国際競争力)に基づいて<測定評価>(選抜試験、介護認定)される。

「負い目」(負債感)自体が貨幣貸借のアナロジーでしょう。
本来人間を育てるのは社会全体の義務ですから、負い目という個人的な貸借の問題ではない。
子供は親の所有物でも、子供(個人あるいは世代)自身の所有物でもない。
そう思わせるのが「親への恩返し」という封建的「家」思想であり、
それに便乗した「世代間負担計算」という経済主義的な似非社会保障イデオロギーです。

「義務教育」とは社会の義務であり、子供の権利です。
社会主義的な共同性こそが貨幣を止揚して、
貨幣の真理としての「協働による社会と個人の解放」を現実のものとする。
367355:2008/03/21(金) 07:39:58
151 名前: 79 投稿日: 2000/10/01(日) 10:58
>>150
>あらゆるものが貨幣価値に換算できたらそっちの方がどんなに楽かということです。

おっしゃりたい事は理解しているつもりです。
私はそれを踏まえ、

「現代の資本主義社会はすべて(殺人すら)を貨幣価値に換算する非情な制度なのだ。
 事柄の本質を逸らす貨幣の物象化の力は心理的なものにまで及んでいる。」

と言う点を指摘したかったのです。
「何故、親の頭をあたかもボールのように金属バットでヒットする事が可能か?」、
そこには人と人との人格的関係が壊れた物象的な世界が広がっている事を哲学的に洞察して欲しい。
貨幣がその元凶にある。
元祖金属バット殺人を犯した○○少年の父親は一流企業のエリート・サラリーマンでした。
企業の中で利潤追求を何よりも大事な事と考え、
おカネ(金属)を集める事を命より大事に思えと教えられ自らも実行した事でしょう。
転倒された社会の本質力は○○少年の姿をとって、
「金属」バットと人の命とどちらが大事かと言う事を父親に教えたのではないでしょうか?
人間が社会的な存在であるというのは、かくまで深い真理なのです。

>負い目と負債感は違います。
アナロジー(類推)的な思考は文学的比喩としてしか捉えられていませんが、
個別的な事象からその本質に高まるための原初的な認識方法として、
もっと研究されてしかるべきと思っています。
368355:2008/03/21(金) 07:41:34
153 名前: 79 投稿日: 2000/10/10(火) 21:09
(久しぶりにレス)
「価値は主観的なものだ。」という事が現代を貫く「価値相対主義」の主張だが、
もしお金などに見向きもしなければそれも首尾一貫している。
しかし、(人間的価値すら計るという点で)価値の絶対的規準としての貨幣が厳然と存在しており、
価値が客観的に実在している以上、単に主観的と言ってお茶を濁しているのは、
現実とは合わない主張を振りまいているだけでしょう。
確かに「猫に小判」という諺は、
お金を有り難がる人間よりは猫の方がはるかに物事を客観的に見ているという皮肉を教えているが。
価値は厳然とした客観的な実在です。哲学者はお金を卑しむが、
「価値とは何か」を理解できないために現実の貨幣の力の前になす術を持たない。
369355:2008/03/21(金) 07:43:11
154 名前: 代理いぬ 投稿日: 2000/10/12(木) 08:34
>153
>価値の絶対的規準としての貨幣が厳然と存在しており、価値が客観的に実在している以上、
>単に主観的と言ってお茶を濁しているのは、現実とは合わない主張を振りまいているだけでしょう。
そんなことはないでしょう。
貨幣価値の"レート"を決めているのは人間社会の方なのですから。
貨幣が、

>価値の絶対的規準として
存在することはないし、

>価値が客観的に実在している
こともないです。

「価値相対主義」とは言いますが、どのような価値も相対的でしかありえないので仕方のないことです。
しかし、あなたの言う通りに、相対主義に乗っかったままでは何事も前進しませんから、
そこはよく考えてみるしかないのでしょう。(?)
370355:2008/03/21(金) 07:44:35
155 名前: 79 投稿日: 2000/10/13(金) 21:13
>154
>貨幣価値の"レート"を決めているのは人間社会の方なのですから
為替レートの話なら確かに貨幣の「相対的価値形態」に当たるでしょうが、
それは貨幣が商品として存在するという事です。
貨幣(価値基準)としての貨幣と商品としての貨幣は存在形態が異なります。
また人間社会自体も客観的な実在ですから、決して主観的・相対的ではない。

>どのような価値も相対的でしかありえないので仕方のないことです。
現象としてはそうですが、本質はそうではない。
そして貨幣は「現存在する価値物」として相対的な価値を尺度する万人共通の規準です。
そしてその実体は人間の労働にある。(取りあえず経済的価値に限定します。)
価値には「得難いもの」(稀少性)という側面があることを考えてみれば
決して相対的な性格だけで成立していない事に気づくでしょう。
371革命的名無しさん:2008/03/21(金) 15:17:38
●おい!お前等。ここで偽造や給料未払いなんかやってる悪徳企業
日本マ◎ドナルドの社長とおぼしき奴が、労働基準法違反過労死
などの事件に関して、開き直ってとんでもない社会問題発言してるぜ!?

ちょっとキチガイ社長に一言言ってやれよ!、ついでにマック不買運動もな。

http://bubble6.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1202042872/l50
372革命的名無しさん:2008/03/21(金) 15:46:06
現代の資本主義社会においては、「マルクス主義」もまた
消費される一商品なんですよね?
373オイラはコピペマン:2008/03/21(金) 21:21:23
5 名前: OFW 投稿日: 2001/03/23(金) 21:23
労働(Work)はまず、人間の必然(必要)として存在する。
それは個体の物質的な生存を維持するために、
生活手段を生産しなければならないという点において、
人間に課せられた単純な自然的条件である。
そして古来より、人間は協働という形態で生産を営んできたが、それは圧倒的な自然力の前では、
明らかに個体の生産能力のみで個体を維持することは不十分であることから来ている。
自然との交渉、それとの物質代謝過程において、個体は他の個体との関係に入る。
共同体とは、まずもって生産共同体として歴史に登場したのである。
そして、共同体の掟とは、互いに協力関係を結ばなければ、成員の生存が維持できないという、
自然的な厳然性として共同体の必然であったろう。

「自由な個人」などという虚構は、歴史のずっと後において誕生するのであり、
産業革命と交易によって、社会的な生産力が飛躍的に増大した近代以降のものである。
それは、むしろ圧倒的な迄に緊密化した社会的分業の存在を前提しており、
商品と貨幣(一般的等価物)によって覆い隠された人間社会の共同性を、
否定的(他者化された)形態で主張する。実際、その内実は所有としての所有(私有)によって保証された、
排他的自己を称揚する利己主義に過ぎず、アダム・スミスが説いた「自愛心」も、階級対立の中では、
他者の労働を私有化する(労働力商品の購買と使用)という、搾取関係の正当化でしかない。

労働とは、それにより人間が類として自由になるための媒介であり、個人が他者との協働の中で、
具体的・現実的に自己になり、その成果のうちに具体的普遍としての自己を対象化させる行為である。

市場における商品の売買によって利益を得ること、
それは実際には他者の労働の成果を我が物にするということであり、
その根拠である類的・共同的労働の蔑視であり、畢竟、労働者階級への敵対行為である。

現代の疎外された社会における勤労道徳の主張は、
まずもって「働かざる資本家は食うべからず」という点から始め、
賃労働(労働力商品)の廃止へと進むべきであろう。
374オイラはコピペマン:2008/03/21(金) 21:22:36
13 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>7
>もう少し詳しく、商品としての労働/労働力と言う事ですか?
賃労働は通常、労働力市場における使用者と労働者との間での
自由な雇用契約による等価交換とされていますが、
何と何を交換するのかを考えて見れば、
それは“裸の労働力”の一定量を貨幣と交換するという点にあることが分かるでしょう。
賃労働者は“自由な”商品です。
>有産階級/無産階級、不変資本/可変資本、外在化・物象化・疎外
まず、階級とは“生産手段の所有/非所有に基づく社会成員の区分”です。
資本主義社会では、資本家階級と労働者階級が基底的・本質的な階級であり、
両者は弁証法的な対立関係に置かれています。
そして、その他の階級、自営農民、自営業者、自由業等は中産階級と呼ばれ、
不安定な動揺のうちにあるメンバーでしょう。
財産の有無は結果であり、原因ではない。
次に、「外在化」「物象化」「疎外」は相互に関連する概念ですが、
外在化(外化)とは、可能的・潜在的な存在が現実的・顕在的になること。
物象化とは、人と人との関係が物と物との関係として現象するという、
近代特有の疎外の一種であり、資本主義社会の全体に及んでいる
(例:貨幣物神、俗物性(スノッブ)、官僚主義、システム主義、業績主義)です。
疎外とは、自己の本質の外化がその喪失として現象する、ということです。
畢竟、それは労働(対象的な生産活動)の疎外に根拠を持っている。
>>8
>労働は自由への道と言うわけですか?
そうですね。
国会図書館のカウンターの上には、
「真理は我らを自由にする」という標語が掲げられていますが、
精神論としては正しい言葉も唯物論としては、「労働は我らを自由にする」が正しい。
もっとも、これはヒットラー・ナチが強制収容所の門の上に掲げたものと同じですが…。
375オイラはコピペマン:2008/03/21(金) 21:24:04
14 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>9
>共産党の方ですか?
じぇんじぇん違います。
日本共産党は共産主義政党ではありません(これホント)。
精々社会民主主義の党でしょう。
>>10
>共産党の人々って労働者なのかのう…?
一般党員はそうでしょうが、指導部は「職業政治家」でしょう。
>マルクス=大英博物館の紙魚=働かないオタク
最近の風潮の受け売りではなく、自分で調べ、考えましょう。
あなたが労働者(サラリーマン)あるいは将来の労働者である学生さんなら、
自分がなにものであるかを正しく理解することは、実践的な課題です。
>>12
>もっと建設的な話をしようよ。
そうですね。
近代的な労働倫理については、何と言っても、西欧の国民精神の基調ともなっている、
フランクリン、ジョン・ロック、アダム・スミス等のものが代表でしょう。
フランクリンの13徳は、節制・勤勉・質素を精神的支柱とした、
近代的市民(ブルジョア)の普遍的倫理であり、
また国王や教会という不労所得者ではなく、
労働と私有に基づく理性的で勤勉な市民が社会の主人公だと説くロックの哲学は、まさに近代精神そのものです。
そこでは、私有の権限(根拠)が排他的な労働に置かれているが、
おもしろいのは、交換(譲渡と取得)による富の蓄積を「黙契」(暗黙の契約)として正当化している点。
それは資本主義的「私的所有」が決して正当な等価交換に基づくものではなく、
暗黙で間接的な強奪あるいは奴隷売買によるものだということを、恥ずかしながら、認めたわけ。
言語一元主義ならば「私的言語の不可能性」と呼ぶ同じ事柄が、
非言語的な労働における「所有の私秘性交換の不可能性」であることが、ロックにおいて読み取れます。
哲学者と違い、労働者はおしゃべりをせず、黙々と働く。
それは殆ど語られることがないが、社会の唯物論的な基礎として、働くもの(現実的なもの)です。
376オイラはコピペマン:2008/03/21(金) 21:24:42
26 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 20:58
>>16
>風俗嬢は人間のクズ。
それは言い過ぎだ!
確かに、カネでは売買できないもの、してはならないものがある、とは倫理的な言明ですが、
貨幣、資本という物象的な力の前では、すべての人間はモノでしかない。
「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)
サラリーマンと風俗嬢の違いは、見かけ程大きくはないでしょう。

>>20(7)
いわゆるマルクス経済学的な議論については、下記サイト(石塚良次氏)を参照下さい。
とても良くまとまった講義要綱です。
http://www.senshu-u.ac.jp/~the0393/99/lec/met1_14.htm
但し、労働の“哲学的な”意義といった点に関しては、
労働者自身が自らの存在の根拠を反省し、
自分達こそが歴史と世界の主人であることの自覚が重要でしょうね。
「哲学は労働者階級を止揚せずには自己を止揚できない」(マルクス)。
377オイラはコピペマン:2008/03/21(金) 21:25:19
34 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24
>人間は必ずしも共同体を必要とするのでしょうか?
必要でしょうね。
個体としての人間とは類としての人間の現存在であり、
それは、人類全体の内容・成果が個人において“実現” しているということです。

>個人が必要とする諸条件と共同体が営まれる諸条件は必ずしも一致しません。
それはその通りであり、永遠に“一致”はしないでしょう。
しかし、諸個人は共同体において生まれ、主体として共同体を発展させ、
そして次代にそれを伝える。
個人と共に共同体も発展するのです。
具体的普遍とはそのことを言い、諸個人間のコミュニケーションが弁証法的な統一の条件です。

>共同体がシステムとして機能しなければならないのは個人が必要とするからで、それ以上でも
>それ以下でも無い
それは個人と共同体との関係を外的なものとみる、近代特有の考え方です。
近代的個人が自由な主体として振舞えるのも、
実際には生きるために必要な商品が市場に存在するからであり、
一般的等価物としての貨幣を所有しているおかげ。
そのため、個人は社会から自立して生きているという錯覚が生じ、
社会は単なる必要物を提供する便宜的なもの、と表象される。
それは“give and take”という利己主義的な社会観です。
その結果、逆に社会の方はシステムという全体的・物象的な存在として、
個人に対して超越的なものとして迫り、全体主義的な非合理主義となって復讐を遂げた。
また人間社会の機能主義は、いわゆる社会システム論といった物象的・官僚主義的な発想を生み、
個人をますますアトム化した手段にしてしまう。
378オイラはコピペマン:2008/03/21(金) 21:26:12
35 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24(つづき)
>労働者の共同体とはどの様なものですか?
「個人の解放は社会の解放なしにあり得ない」という言葉があります。
現在でも労働者は(分業という形態での)共同体を形成している。
ただしそれは、市場という転倒した現実により隠され、無秩序な自然状態に置かれているわけですが。
それを自覚的なものにすることは、社会のすべての物質的・精神的な豊かさを、
諸個人の協働的・創造的な働きの成果として享受することになるでしょう。
そのためには、労働者間の連帯が不可欠であり、
そこから「我々は一つである」との類的な自覚が生まれるでしょう。
たとえば、国家主義者はそれを言うが、国家とは幻想的実体として種的な存在でしかない。
「全体は存在しない」のです。
>個体が生存する為に共同体があるのか、共同体が運命付けられた (必然の)ものとして
>個体があるのか?
「必然とは盲目である。それは自己を知らず、外的な運命として個人を突然襲う」(ヘーゲル)。
必然性と言っても、外的な必然性と内的な必然性があります。
内的な必然とは、類的な本質を自己のものとして生きる個人の魂、とでも言えるが、
それは別名「客観的精神」と呼ばれます。
(近代人の偶然的自由にはこの手の“大いなる精神”は理解不可能?)
>緩やかな個人主義は氏の結論からブルジョワの 欺瞞であるとされてしまうのでしょうか?
山崎正和流ですか?「緩やかな」という感性的な表現には、
「現実的な」との表現を対置すべきかな。
繰り返しますが、全体主義は共産主義とは無縁の観念論ですが、
近代的な個人主義も抽象的な観念論です。
>科学技術が可能とする高度情報化社会でも同様 の理論展開が可能でしょうか?
たとえば、“嫌な”労働はすべてロボットがこなし、
人間は個人として自由(暇時間)を満喫できる理想社会が到来したとして、
人間は何をするのでしょう?
労働の必要とは、労働以外の余暇に向かうのではなく、
労働(仕事)を内的な生命欲求の自由な発現にすることでしょう。
379280:2008/03/21(金) 21:29:11
36 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:23
>>33(20)
>商品論によって発見された価値の源泉としての時間やこれを梃子に展開されるマルクスの
>弁証法
労働価値説ですか。
哲学板で何回かカキコしたが、あっと言う間に沈んでしまいました。
さしあたり、経済板での議論を参照下さい。
http://piza.2ch.net/test/read.cgi?bbs=eco&key=977618388
質問は改めてお願いします。ちょと、疲れた…。
380280:2008/03/21(金) 21:30:08
42 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 09:48
>>37
>社畜になったら、いつ歯医者に行けばいいのだろうか。
場所にもよりますが、会社の近くの歯医者の予約をとって、
30分〜1時間位、勤務時間中に抜け出すことは、大体皆やっている。
(勤務時間中の私用外出扱い、あるいは会社も大目に見る)
>社畜になったら、いつ寝るんでしょうか。
以前よりも平均労働時間は減少しているが、中小企業の状況は相変わらずヒドイもの。
月間残業時間が50時間を超えると、帰宅時間は9時以降になる。通勤時間はむしろ伸びている。
>社畜になったら、いつ飯を食うんだろうか
朝飯を抜く人は多い。社員食堂がない場合は、昼は弁当(自前、仕出し、コンビニ)か街の飲食店を
使うがやたら集中して混む。飲み屋で晩飯を済ます御仁も少なくない。カップヌードルやパンは残業時
には必需品かな…。
>社畜になったら、いつ音楽を聴くのだろう。
ウォークマンの登場以来、深夜残業中のリスニングも技術的には可能です。
>社畜になったら、いつ本を読むのだろう
サラリーマンは余り本を読まない。スポーツ紙、経済新聞、「これからのビジネスは○○しかない」といった
時流もの、あとは通俗小説位、かな。
>社畜になったら、いつ絵を描くのだろう
何の絵?大企業には絵画クラブなど各種同好会はあります。
>社畜になったら、いつ笑うのだろう
営業上はいつも大声で笑っている。
>社畜になったら、いつ泣くのだろう
“女の子”も最近は泣かないなぁ。無表情人間が増えた。
>社畜になったら、いつ2ちゃんできるのだろう
勤務時間中に私的にインターネットを使うことは、禁止です。(余り守られていないようで、会社も監視を強化している)
>社畜になったら、もう人間には戻れないのだろうか
“会社人間”が定年を迎えた場合、何が残っているかな?
381革命的名無しさん:2008/03/21(金) 22:14:49
>>362
>それは一つには生産力はすでに需要を満たすレベルに達しているのに
>労働時間が短縮されず、それゆえワークシェアリングが実現されないから。

大まかに同意だが、この部分に対して俺の私見を述べれば、過剰な生産力を持った現代社会でも
労働時間が短縮されず、結果として貧困や失業が発生してしまうのは、労働や消費といった
行為自体そのモノが現代社会に於いては、際限の無い他者との差異化の欲望(=自分探し)と化しる部分が
あるからではないか

それ故に「自己実現」或いは「自分探し」と言う近代が生み出した概念そのモノが、高度消費社会
に於いては末期的な資本主義(人格・価値観が失われた利潤の拡大原理)によって獲物を捕らえる罠として
巧妙に利用されているのだろう

他者、そして今までの自分と少しでも異なる自分で在りたい、その為に労働と消費によって、
己を飾るブランド品の靴やバック、就業してる職業とその肩書きによって自分自身を形成する。

そんな無間地獄のような差異化の欲求と、自我の拡大の錯覚こそ現代の資本主義を成り立たせている
モノの正体だと思われる

だからこそ、これからは社会的な再配分の機能の強化と共に(それは旧来のサヨクの主張した結果の平等の事では無い)
「豊かさ」そのモノに対する価値観の再定義も必要になってくるのかもしれない
382おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:44:41
48 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 21:56
>>45
(横レス失礼)
>社蓄ってさ、仕事以外に興味のあることがほとんど無い人なんだよ。
と言うより、会社と自分を一体化させて、
会社の仕事以外に興味を持たない会社従業員のことでしょうね。
仕事一般について言えば、四六時中、音楽のことしか考えない作曲家もいるから。
ただし、すべてのサラリーマンは「賃金奴隷」だと言う事を忘れずに。

>社蓄から仕事をとったら何にも残らないし、誰にも相手にされない。
日本は会社社会ですから、自営業や自由業(芸能人、プロスポーツ選手、著述家等)を除けば、
個人には全く社会的な信用がない。
サラリーマンは名刺の肩書きがすべてであり、まさに、裸の労働力しかもたない境遇にある。
某革新政党が「市民と労働者の連帯を!」と言うように、サラリーマン(賃労働者)は、
実質的には市民(ブルジョア)ではないのです。
383おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:46:52
56 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 00:18
>>50
>「生涯学習」か「自己投資」かなんか知らんが
「労働力の質」を常に高めることは、
技術革新や産業構造の変化に対応して自己の商品価値を維持するために、
ますます必要となるでしょう。
倫理学風に言えば、勤勉=勤労と勉強がより普遍的に重要になる、かな。
日本での問題は、実業界からのニーズに対して、
大学などが受け皿になれるだけのレベルがないこと、
企業側の雇用慣習が追いついていないこと。
USAでも、上昇型キャリア・コースに乗れる
のは圧倒的に少数であり、巨大な貧富の格差の存在は、
出発点での多数の諦めを生んでいるのでは?

>オレはヤだなぁ、激しく
まぁ、昨今のフリータばやりも、
企業側のアウトソーシングや臨時雇用化の流れに応じた受動的なものですから、
決して安定してはいないでしょう。
バブル期以降、日本人は遊ぶことを覚えてしまったので、
かっての勤勉・質素という精神的な富を食いつぶしてしまった様ですね。

>>51(45)
>ブルジョアになりたい。
名言ですが、ジャパニーズ・ドリームの可能性は、ジャンボ宝くじの確率位かな。
ITバブルもあっという間にはじけたのは、
雇用拡大に結びつかなかった(情報産業の“付加価値”はもともと少ないから、する筈もない)からで、
期待は幻想でしかなかった。
…あと、「個がない」のはその通りですが、現在の風潮は「自己中」が増えたことで、
それは「非社会化」と呼ばれ、個人の社会的な自立とは異なるでしょう。
384おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:48:29
66 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 22:58
>>58
>バブルももちろんですが困窮の記憶が完全に薄れたいまとなっては使用期限切れ
>になるのは理の当然のような気がします
確かにそれは正しい。倫理はいつも時代に適応した人間関係の有り様を表現するから、
使い捨て時代に「モノを大切にする心」をいくら説いても、それだけでは無理でしょう。
そこで「モノと心の関係は如何なるものか?」という根拠への問いが必要になる。
根拠とは心とモノの同一性のことです。
その方法は弁証法的唯物論と呼ばれ、モノが溢れる中でそれが決して与えられた豊かさではなく、
生み出された豊かさであることを教えてくれる。
心ある人間がモノを求め、労働によってそれを生み出したのだ、という認識が、
大事なのは労働であり、労働なしには豊かにはならないことを教える。
ところで、これだけモノが豊かな世界の中で、労働は決して豊かではない、という事に気が付く。
それは「疎外された労働」と呼ばれる賃労働の姿です。

>>59
>労働は社会への言い訳。
珍しい意見ですね。もう少し内容を教えて欲しいな。

>>64
>OFWさんはNAMについてはどのような見解をおもちですか。
経済板でも聞かれたのですが、はっきり言って、関心ありません。大体、何で不買運動なの?

>私にはあれは唯物論から逃げようとする運動にみえ、それは無理なことだと思うのですが。
そうですね。
マルクスに好意的な知識人でも唯物論者は稀です。その証拠は、労働および労働者に無関心なこと。

>>65
>社畜になったら、思索するゆとりをもてるんだろうか???
全活動力が売上・利益に向かって動員されるから、余暇時間にはそこからの逃避として、
精神を無思考状態に置かざるを得ないでしょう。
385おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:49:45
80 名前: OFW 投稿日: 2001/03/27(火) 21:56
>>76
>働かなくても飯が食える奴を働かす謂れはないだろ。
何故「働かなくても飯が食える」のか考えて見よう。

1.他人に養って貰っている。
2.お金をたくさん持っている。
3.手を伸ばせば何でも採れる楽園に住んでいる。

の3通りが考えられる。
3番目は夢みたいな話だから、除外するとして、
1の場合、他人としては、親、配偶者、パトロン、子供(老親の場合)、社会(生活扶助)等が考えられるが、
それらの人達自身も働いていない場合としては、上記の2の場合しかない。
結局、お金を持っていることが、働かないでも生活できるためのポイントだと分かる。
(これ、分かりきったこと)しかし、お金自体は食えないから、それで買うべき商品こそが重要。
そして、それは他人が働いて生産したもの、でしょう。

>ただ、働かないのはいいとして端に迷惑をかけるのは良くないんだろうな。
どんな人も他人の働きに依存している。
それが社会というものです。
働かないでも生活できるのは、他人の働きによってその人の生活物資を“無償で”賄っている、ということ。
これが答でしょう。これには謂れ(=正当な根拠)があるのかな?
386おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:51:28
85 名前: OFW 投稿日: 2001/03/28(水) 23:25
>>82
>予め能力のない人間はどうなるのでしょう?
「予め能力がない」とは先天的な障害あるいは幼児等の場合でしょうか?
その場合は当然、障害に応じて持てる力を発揮すれば良い、
あるいは保護されるべき状態でしょう。
能力=可能性ですから、誰もが自らの可能性を追求し、その追求には限りがなく、
予め決まってはいないでしょう。

>「能力に応じて働き、必要に応じて取得」といった言説が暴力的響きを持って迫ってくるように思える
>のですが....
とても驚きのご意見です。
むしろ、能力がない人はその人なりに働き、かと言って、
生活や欲求の必要に応じて十分に享受することができる、
というのは実質的な平等(社会が相互扶助的になっている)の主張であり、
形式的には不平等(能力の差が取得の差とは無関係である)であることを主張する言葉です。
(どこが暴力的なのだろう?)
身体的・精神的に働くことができないなら、働かなくても良いのは当然でしょう。
しかし、働くことは本来、個人の一つの社会的な欲求であるはず。
現在の疎外された社会では、事情はまったく逆であり、働くことは苦役であり、
強制労働でしかないでしょうが。
387おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:53:54
89 名前: OFW 投稿日: 2001/03/30(金) 03:56
>>83
>生産する行為が労働なのか 金銭を稼ぐ行為なのか
「労働の哲学者」である内山節氏が「働く」と「稼ぐ」の違いについて述べています。(『自然と労働』他)。
彼は非マルクス的な立場ですが。
また、エンゲルスも「労働」という言葉の二義性(WorkとLabor)について言及している。

>趣味的な活動で生産されるものもあるだろうし
無論、そうですね。労働一般と資本主義下での労働(賃労働)との区別が重要でしょう。

>> 86(82)
>労働の分業化→労働者の単能化→工業化・大規模化によって
>労働日における必要労働時間が限りなく平準化され
“固定した”分業や、資本間の競争および労働運動がもたらす労働時間の平準化は、
必ずしも
>その結果として労働者の平等と団結が生まれる
とは限らないでしょう。
むしろ、労働格差(労働貴族と単純労働者の分化)が進行しているのが、現状と言える。

>逆に言えば“労働”といった 運動(=闘争)過程において前述の社会的マイノリティーが疎外される
>(運動から)のかも
いわゆる先進国では、労働運動は労働組合運動でしかなく、
賃労働の廃棄にまで踏み込んでいない。
それは“疎外された”労働を前提している。
社会的マイノリティとは疎外された社会が作り出した結果であり、
その解放のためには、社会自体(生産関係)の止揚が必要です。
たとえば、「障害者の社会的参加」とは正しいが、
それはブルジョア社会の枠内では制限された範囲(人権、形式的平等等のブルジョア的権利)
でしか達成できないでしょう。
何より資本主義的「経済の論理」はすべてに優先してしまう。
388おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:56:29
91 名前: OFW 投稿日: 2001/03/31(土) 04:50
>>90(82)
>どちらかと言えば社会民主主義即ち修正資本主義の問題でしょう。
>労働運動が国家の枠組みの中に封じ込められた結果でしょう。
資本主義が政治経済的に修正資本主義に変容したことと、
労働運動が「体制の補完機能」を果たすようになったこととは、同じ事柄でしょう。
一方において社会主義の要素を取り込み「福祉厚生」を考慮することが、
他方でそれに呼応した「労働者の体制内化および階層化」を促進する。
またフォーディズム(「労働者を消費者として囲い込め」)の成功もある。
>ただ、そんなに肯定できるのでしょうか?
社会民主主義をですか?
それは余り肯定できないでしょう。
また、労働者に依拠することの肯定如何ということなら、
それはむしろ、労働者自身の否定の否定(現状の自己を否定すること)の問題でしょう。
>ドイツの安楽死や 北欧福祉国家の“間引き”の事実
安楽死の是非とか、不労高齢者の処遇に関して言えば、それは結局社会の在り方に繋がる。
安楽死は、個人の尊厳の問題と言われるように、
個人が社会的・精神的主体として如何に尊重されるかという点で、個人の社会的内実と深く結びつく。
つまり、生物学的生存が必ずしも人間的生存ではなく、
同時に個人の生存が必ずしも当該個人の孤立した生存ではない、という点です。
その矛盾は社会の解放(個人の社会化)と共に、たとえば宗教の止揚といった点と共に、
止揚されていくと思います。
また、高齢者が「労働能力のない個人」という理由で社会から疎外されるのは、
極めて資本主義的な経済原則に基づくものであり、
生きている人はそれ自体で働く者(主体)であることは、経済を超えた内実を持ちます。
>ダーウイニズム的決定論や国家社会主義、これらに対する懸念です。
いわゆる社会有機体論や国家社会主義(形容矛盾!)は共産主義とは無縁。
社会を、個人を超えた“超越的な実体”(社会システム論も同様)とみなすことは幻想であり、
諸個人の関係性の中にしか社会は存在しない。
かってのナチズムやスターリン主義(国家資本主義)的全体主義とは正反対の個人の社会化こそが
必要です。
389おえ、コピペマンよ、何処行った?:2008/03/22(土) 09:59:02
96 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:10
>>92
>システムを構成する各要素が(個、サブシステム)が、自律的に行動しながら、
>強調、競合的に>行動しあい、全体として任務を達成する(秩序を形成または維持する)システム}。
社会は確かに一つのシステムとして捉え得るが、
本質的にシステム以上の存在であること、を忘れないことです。
パーソンズおよびルーマンの社会システム論も、生物学のアナロジーとして出発したが、
行為からコミュニケーションへとその機能的要素の内容をシフトさせてきている。

>本来争わなくてもよいところに争いを持ち込んで無駄に時間と労力を浪費することは無い。
まったくその通りであり、私企業が私的利益を追求することは、
社会にとっては時間と労力を浪費することであり、“経済的”とは呼べない。

>ここでも生物(ここでは生物内組織での協調)にその範を求めることが出来る。
企業内の生産システムと生物体システムの本質的な相違点は、
後者では自律的な自己調節機能が即自的にのみ存在している点です。
全体(個体)がその実在的要素(器官、細胞、細胞内器官)に対して、
“見えざる手”として働き、器官の自律的機能は外部パラメータ(体温、水分等)の下で、
相互に媒介し合う多くの反応サイクルとして自動的に制御されている。
一方、生産システムでは、目標は外部から与えられ、
部分間の関連とそのリズムによる調整は綿密に計画されなくてはならない。
そこでは、常に意志的な働きとコミュニケーションが重要な要素になる。

>>94
>働かなくても健康で文化的な生活ができるはず。
衣食住の用を満たす財があり余る社会がきたならば、
労働(仕事)の意義も現在とは全く異なるものになるでしょう。
好きな仕事をするとは、人間の社会的・精神的・類的な自己を表現することでしょう。
390革命的名無しさん:2008/03/25(火) 15:21:47
ケインズの「わが孫達の経済可能性」

@資本が集約し生産技術を発展させる→A資本の競争がヒートUP、結果。生産力は飛躍的に増大→B生産力の増大により「生活者」の安楽水準は満たされるようになる→→
→→C安楽水準が満たされる(飢えない)社会が作られた結果、労働の意味に変化が生じる→DCにより、膨大な生産力と技術力という遺産を残しつつ資本主義は崩壊する

つまり、資本主義を暴走させる事により、資本主義を壊すというのがケインズの結論。
その為には「貪欲や営利や警戒心は今しばらく我々の神でなければならない」との事だそうだ
391ニート・フリーターは21世紀の全共闘である:2008/03/26(水) 05:37:39
>>381

遅レスですまんが

>(それは旧来のサヨクの主張した結果の平等の事では無い)

は事実認定として間違いだろう。
「旧来のサヨク」は「結果の平等」など良かれ悪しかれ言ってなかったと私は認識している。
「結果の平等」はむしろ小泉的言説に共感したかもしれない「新式のサヨク」(リバタリアン左翼)
が言ったことではないか。

何が左翼か右翼かは分かりにくくなっている。
しかし俺はいくらかの基準を出したい。
1)「不自由な安全」よりも「自由な危険」を受け容れるのが左翼。
2)どんな犯罪であろうが国家または社会による「死刑」に反対するのが左翼。
3)「自己」は常に内面に弱者を抱えていると認めるのが左翼。
4)1で言ったことと3で言ったこととは矛盾するが、この矛盾を合理化せずそのまま生きるのが左翼。

結論:「結果の平等」などリバタリアニズムの主張にすぎない。
トロツキーの「永続革命論」が一国社会主義の変種にすぎなかったように。
われわれ「真の左翼」は結果などでなく、
結果を出そうが出すまいが、
「初めからの平等」を目指さなくてはならない。
392革命的名無しさん:2008/03/26(水) 08:53:48
>>391
なんでそんなに早起きなのかな?

さてと、現場への外出まで若干の時間があるから、ちょいとカキコするね。
「真の左翼」の"真"の定義って何よ?ってなことは訊かないけど、
第一にレーニン主義の完全否定が欲しいよね。
つまり、レーニン主義→スターリン主義の悪連鎖を断たないとね。
393革命的名無しさん:2008/03/26(水) 09:05:00
>>391
>>392
左翼の基準はだな、詰まるところ「ブス革命」を実行できるか否かだろうが。
なんやかや能書きのお喋りしてもだな、「ブス」への偏見を革命的に止揚できるかに
かかってる。
394革命的名無しさん:2008/03/26(水) 12:48:39
サヨでもウヨでもいいけんどよ、
カクメイをでっち上げられるか如何かが肝心な点だでよ。
391や393の旦那連中みたいによ、
"意識"つか"倫理"ばー追ってても、な〜んも出来やしねーど。
世の中変わっちまえば、"意識"や"倫理"なんぞなんぼでも、
180度でも変わるしな。
395革命的名無しさん:2008/03/26(水) 13:01:27
レーニン時代のソ連は裁判なしに一万人ぐらい銃殺刑にしたらしいね。
396革命的名無しさん:2008/03/26(水) 17:29:28
>>391
>「結果の平等」はむしろ小泉的言説に共感したかもしれない「新式のサヨク」(リバタリアン左翼)
>が言ったことではないか

確かに、薄甘いサヨク(新式サヨク)がよくそう言ってたな。
90年代末まで戦後民主主義と言う形でこういう主張が世間にはこびってて
俺はこの手の主張を聞くたびにウンザリしたもんだw

>結果を出そうが出すまいが、
>「初めからの平等」を目指さなくてはならない。

しかし、この部分は「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」と云うマルクスの定義と
矛盾してないか?
「初めからの平等」が出自によらない機会の平等と障害を持って生まれてしまった人への
手厚い福祉・厚生の実現を目指すというなら、何となく理解出来るのだが・・・
>>393
まず第一に暴力革命論の否定が必要だな。これを容認すると、暴力革命と抑圧の無間循環を生んでしまう
397ニート・フリーターは21世紀の全共闘である:2008/03/27(木) 03:52:11
>>393

>左翼の基準はだな、詰まるところ「ブス革命」を実行できるか否かだろうが。

極めて賛成する。
「美人は閨房においては低級であり云々」
と斎藤茂吉が言ったらしいが、大西巨人はこれを共感的に引用していた。
「悪女の深情け」という諺の「悪女」は「ブス」の意味である。
つまり相手が「ブス」ほど「閨房」においてしっぽりとした情感が醸し出されるというわけ。
この心理的機制には確かに普遍性がある。
なぜといえばブルジョア俗物の美意識に背を向けて
「二人だけの孤独」((C)堀辰雄)の「対幻想」を味わい深く感じるには
相手がブスの方が打ってつけだからだ。
この「悪女の深情け」の味わいを味わいうる能力を持った者こそ
「左翼」を称する権利があると言えよう。
398ニート・フリーターは21世紀の全共闘である:2008/03/27(木) 04:13:39
>>396
そもそも「平等」という言葉自体が
ある一元的な価値基準で人を計る、
そんな形而上学的意味合いを持っているので
「平等」という言葉で語ったそれ自体がよくなかったのかも知れません。
「結果の平等」という言い方を認めてしまったら最後、
「結果」に至る過程はただ一つ「競争」のみというイデオロギーを
暗黙のうちに認めてしまうことになるのです。

「リバタリアン」など単純バカに過ぎません。
こいつらの頭には「今ある以外のあり方」など想像として浮かばないのです。
「リバタリアン」とは、
歴史的所与としての資本主義しか人間が生きる方法はないと思っている連中のことです。
こういう低脳連中のボキャブラリーに付き合う必要は我々に全くないでしょう。
399革命的名無しさん:2008/03/27(木) 18:39:12
>>398
>歴史的所与としての資本主義しか人間が生きる方法はないと思っている連中のことです。
>こういう低脳連中のボキャブラリーに付き合う必要は我々に全くないでしょう

絶対的なモノと思われてる資本主義も実は特殊な条件の下に成り立つ
歴史の所産(=ドグマ)に過ぎないと云う貴方の見解には同意する

しかし、その資本主義が人類の歴史上、未曾有の富を生み出し
同時にあらゆる国境や境界を壊して世界を一つにしてしまったのは事実
(実は少し前にリバタリアンがよく口にしてた「世界市民」は資本主義が生み出した)

だからこそ、今後あなたの主張する「真の左翼」を結成(再生?)しなければならないとしたら、
社会・共産主義理論の原点に返った上での資本主義の功罪の再検討が必要になるんじゃないか?

無限の欲望とそれを実現する近代技術に伴って拡大する資本が何を生み出し、
その結果として、人間は何を失ったのか?「価値観の革命」を成す為には
この検討が必要になってくるだろうな
400革命的名無しさん:2008/03/29(土) 17:10:07
>>399
だけど皮肉な話じゃん。
マルクスがその出自の卑しさを嗤い、
執念こめて解析した"資本"こそが真の意味で国境を越え、
世界性を獲得しちまったんだもんね。
カネで買えないモノはこの世には無い、カネこそが神である
という意識=価値を如何やって相対化させるのか。
「価値の革命」の役割はデッカイし、重大だよね。
401革命的名無しさん:2008/03/29(土) 21:11:10
>>400
つ〜ことは、価値のカクメーとは意識のカクメーだと。
402革命的名無しさん:2008/03/29(土) 21:19:05
それじゃ人間k(ry
403革命的名無しさん:2008/03/29(土) 23:14:32
>>400
マルクスも、その事をある程度は予言してたと思う。共産党宣言に

ブルジョア階級は、世界市場の搾取を通して、あらゆる国々の
生産と消費とを世界主義的な物に作り変えた。反動家にとってはお気の毒であるが
かれらは産業の足元から、民族主義的な土台をきりくずした。遠い昔からの民族主義的な
産業は破壊されて、今なお破壊され続けている〜略〜物質的な生産における事と同じ事が精神的
な生産にも起きる。個々の国々の精神的な生産物は共有財産となり民族的一面性や偏狭は益々
不可能となり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される
(「共産党宣言」49〜50Pより抜粋)

俺の解釈に過ぎんが、近代技術と資本はその普及過程で世界を平板で一面的な物に作り変えた。
しかしその反面、皆が同じ物を欲しがるようにり、そして同じ価値観を共有するようになって
はじめて、欧米以外の国の人々にも人権や権利意識と云った思想が根付くようになった。
結果「世界市民」という概念も生み出されたんじゃないかな。

その間。豊かさの際限の無い拡大は本当に豊かさなのか?と云うやっかい極まりない問題は
問われる事無く、放置されたのだろうけど・・・
404革命的名無しさん:2008/03/30(日) 11:06:12
宮沢美智子にレス返している奴が仲間の自国民虐殺暴行窃盗のプロたる自衛隊2CH工作員である
見え見えの謀略。
405革命的名無しさん:2008/04/08(火) 12:08:56
406革命的名無しさん:2008/05/15(木) 16:15:15
◎北九州無職生活保護迷惑ホモおじさん:ごみカルターケーン(57才独身)の
 生活

 http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/dcamera/1207573382/301-400
★ http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/dcamera/1192789071/

 ★http://love6.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1204007635/601-700

407革命的名無しさん:2008/07/13(日) 00:43:20
結局はさぁ、マルクス主義経済学って名称で呼ばれててもさぁ、
マルクス主義下の社会での経済を論じた学問じゃないじゃん。
資本主義経済を論じた経済学だよね。
名称を変えろ!と言いたいね。
408革命的名無しさん:2008/07/13(日) 02:37:13
マルクス主義下の社会での経済を論じることが当時もできないのは当たり前。
そういうことをやるとすれば、空想論になってしまうからそういう立場を徹底的に
さけたのはマルクス本人。
資本主義分析のものであって、マルクス主義下の社会での経済を論ずる
ことなどできるはずはない。
409革命的名無しさん:2008/07/13(日) 06:57:29
>>408
ほんならさぁ、マルクス主義経済学って名前、ちょいと不可解くねぇかい?
オレも、いっちゃん最初はさぁ、マルクス主義国家での経済を著わしたんかと
誤解したもん。
ほんだから、407サンの気持ちは理解できるぜ。
410革命的名無しさん:2008/07/13(日) 09:18:57
マルクス主義経済学って、その内容からすると確かに不可解な名前だよね。
それに、マルクスが設立した経済学なんかじゃないのに、マルクスの名前が
付いてるなんてね。
それに、もう一個言うと、マルクス経済学というのもあるんだよね。
411革命的名無しさん:2008/07/18(金) 06:05:06
>>410
もうそんなに気にかけること無いんとちゃう?
今やマルクス主義を錦の御旗にした国家の自滅はあったり前だしさ、
それどころかマルクス主義自体が解体やん。
強いて言えば、ウンチとウンコの違い程度とちゃう?
412革命的名無しさん:2008/07/18(金) 09:29:42
うッ、うッ、マルクス主義をウンコ・ウンチらと同列に扱うとは、素晴らしいぞよ。
413革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:57:27
マルクスの言う「利子生み資本」について、どなたか詳しく教えてくださいorz
414革命的名無しさん:2008/07/22(火) 10:03:42
>>413
チミはな〜んも読んでないな。
ウンコやウンチのことはやっぱ医学板で訊けば。
415革命的名無しさん:2008/07/22(火) 10:34:21
413はペクチョン連続日本人殺人鬼売春婦の宮沢美智子だから当然!
416革命的名無しさん:2008/07/22(火) 11:15:48
ペクチョンが如何に残忍狡猾陰湿であり腹黒く日本人に痛打を与え続けて来た忌むべき存在であるかは、
あの宮沢美智子及び奴のカキコをみれば一目瞭然なのである!
417革命的名無しさん:2008/07/22(火) 14:14:59
宮沢美智子を擁護する輩は、奴の情夫である売国奴たる自衛隊しかいないのである。
418革命的名無しさん:2008/07/22(火) 19:27:57
>>417
いいじゃんかよ。
情夫たる者、売国奴だろうと愛国者だろうと、
テメーのスケを庇うのはあったりまえじゃろが。
男女の情のほうが国家なんぞより上位に置いて、
大切にしておかなくっちゃ、まらぞろ祖国だ愛国だなんてコトバに
掠め取られちまうぞ。
要は殺人者だろうが売国奴だろうが覘き魔だろうが、
そう簡単に国家権力や常識なんぞに売り渡しちゃなんねーってこった。
419革命的名無しさん:2008/07/22(火) 20:08:21
殺人者や売国奴の手にもはや国家権力は売り渡されている!
420革命的名無しさん:2008/07/22(火) 21:50:42
>>419
それは違う。
国家権力にとって殺人や売国行為や覗き見が常套手段だということに過ぎない。
国家(権力)という観念=幻想と、その従僕者どもの同一視は避けねばならない。
これ基本。
421革命的名無しさん:2008/07/22(火) 21:52:17
>>419
書き忘れたが、君の理解は過渡期としてだが、正しい。
が、真ではないぞ。
422419:2008/07/23(水) 10:22:06
ユダヤ人や資本、売国奴また支配層にとって自国の大衆やその財産を売買し、幾多の
生命を抹殺すると言う事はやはり現在も含めて過去から平然と行われて来た、と言う事だな!
それもシナリオ通りに?
423革命的名無しさん:2008/07/23(水) 11:52:50
標榜する理念が如何なものであれ、
国家とは自己保存と自己発展の為には
殺人だろうとなんでも手に染めるということだろう。
要は、国家とは資本制だろうとスターリニズムだろうと
基本は同じって理解だけど。
424革命的名無しさん:2008/07/23(水) 17:51:50
スターリンは皇帝側の二重スパイだったからアメリカと内通して恐怖政治も粛清もした!
すなわちスターリニズムは本来の社会主義とは無縁である!
本来の社会主義こそは全権力を勤労一般国民が掌握したのち、ユダヤ秘密組織の陰謀および
ユダヤ秘密組織そのものを完全粉砕し、国家による自国民虐殺や極道を止めさせる
事が出来るのだ!
425革命的名無しさん:2008/07/23(水) 18:58:47
階級国家及びアメリカと内通して形成されたスターリニズム国家に於いては、全生活を
ユダヤ秘密組織が支配している!
しかしながら資本主義殊に独占資本主義が粉砕され勤労一般国民が全権力を掌握した
社会主義社会に於いては、ユダヤ秘密組織の跳梁跋扈する余地は全く消滅し、経済は
勤労国民のもとに制御され貧困は撲滅される!独占の国有化社会化により全経済の
意識的制御は可能になるのである!
ユダヤ秘密組織は殲滅され、人類は歴史を自らの意思によって刻む事を可能にするのである?
426革命的名無しさん:2008/07/23(水) 19:29:20
「アカポンタン!控えるだべえ!」まで読んだ。
427革命的名無しさん:2008/07/23(水) 19:56:15
人類の仇敵たるライオンズクラブとユダヤ秘密組織の殲滅を!
428革命的名無しさん:2008/07/23(水) 20:30:07
ライオンズクラブ殲滅戦の開始を!

社会主義大革命により地上から戦争とあらゆる貧困を撲滅しよう!
429革命的名無しさん:2008/07/23(水) 20:43:00
ライオンズクラブ殲滅戦の開始を!
430革命的名無しさん:2008/07/23(水) 21:16:28
>>426
おsageよ、もう少し面白いこと書こうよ。ワンパターン過ぎ。
極道くんよりつまんないよ、それ。
431革命的名無しさん:2008/07/23(水) 21:30:58
>>424
その「本来の社会主義」とやらは何処に行けば見られるかな?
そいと、その「本来」とは何もって言えるのかな?
432革命的名無しさん:2008/07/24(木) 00:16:36
>>431
各地の日本共産党の支部に行きましょう。
433革命的名無しさん:2008/07/24(木) 02:43:13
長年の党支持者に対し「人殺し!」「敵だ!」などと流言蜚語を手当たり次第に飛ばし、
新たに就く職場の先々に於いて党支部、組合組織を作り、排除し、勤務を著しく困難にし、
これらに対する党本部への私の抗議の電話に策略を以って毒を食物に混入し身体の筋肉を溶かす
などと言うナチスばりの卑怯卑劣陰湿悪質なる返答を以って応えたのが党本部ならびに
修正主義ファシスト幹部と追従者どもである事実は歴然としている!
住居移転に際しては、地域の全不動産屋に号令をかけ自らの思惑通の住まい(民商経営マンション等)しか残さなかった!
これらの自らの思惑通りに住まわせた住居に於いては闇金で雇った民青や党員どもを
使い執拗なる生活妨害工作を続けたのである!

これらの一部の歴然たる犯罪行為を指令していたのが、外ならぬ現 修正主義ファッショ最高幹部
ならびに奴等の追従グループである事実は完全に明白なのである!

それ故にファシスト修正主義幹部たる不破哲三なるものが罵倒なる表現を以って批判される事は以上の事実から観ても全く
的を射ていると言うしか無いのである!(爆笑)

そして1998年3月末不破ファシスト一味が自衛隊及び自衛隊をその非常に強い支配のもとに置く
日本国籍の朝鮮人党員たる宮沢美智子ならびに菊澤ケン奈穂美夫婦どもに、無コの日本人豊島青年と森川婦人を
虐殺せしめ残虐なる方法で証拠隠滅を謀った驚愕の戦慄すべき凶悪犯罪に極めて深く
拘わっていた事実は不破ファシスト一味が国際的ユダヤ謀略組織であるライオンズクラブの
甚大なる影響下にあり奴等が内乱罪の指揮命令者に当たる極めて重い罪を負っている事を指し示すのである!
以外別報!
434革命的名無しさん:2008/07/24(木) 02:58:52
さあ、どうしようかな?(笑) 奴等戦々恐々だぜ(笑)!
435革命的名無しさん:2008/07/24(木) 03:02:29
奴がインターネットの出現を想定し得なかったのは唯一の見込み違いだったなあ(核爆)
436革命的名無しさん:2008/07/24(木) 03:07:16
反動の犬どもには安住の地などというものは無いのである!

万国の労働者よ団結せよ!
未来は我々勤労国民労働者のものである!
437革命的名無しさん:2008/07/24(木) 10:34:26
>>436
"国民労働者"と書いた時点でもう限界つか、
436は単純なブルジョア民主主義者ってのが露出しちまったな。
438革命的名無しさん:2008/07/24(木) 10:45:14
本質、要点に関しては相変わらずナメクジが塩を避けて通るように、又枝葉末節に
関しては随分大好物と見え強烈な食い込みを見せるなあ(笑)!
439革命的名無しさん:2008/07/24(木) 10:47:36
>>437
それを言うなら、436は単純な間抜けのほうが実感でしょう。
ねえ、皆さん。
440革命的名無しさん:2008/07/24(木) 10:58:27
私は国民労働者ってコトバを使うか否かは
枝葉末節どころか、重要な基本認識に属すると考えます。
ですので、437氏の文言は適切だと考えますけどね。
441革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:17:10
というような玄学的文学的(笑?)講釈に熱中するしか無い革命放棄主義者達ではあります(笑)!
442革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:27:55
たださぁ、実践は理論の検証という基本理解から言えばさぁ、
講釈は基本じゃん、そいつがさぁ、衒学的だろうと文学的だろうとね。
講釈のひとつも出来ない連中こそ革命とは終に縁の無く、使い捨てに
されちまうだけよ。
そいと、俺も国民労働者なんてコトバを読んだら、書き手の階級意識
を疑っちまうけどね。
まぁ、たかだか2chですがな。四の五のと言わないで楽しく時間を
浪費しましょうよ。
さぁ、昼食だよ〜ん。鰻でも行こうよ。
443革命的名無しさん:2008/07/24(木) 20:39:55
チョーセン人帰化党員宮沢美智子はソープランド嬢時代に毒を飲まされてIQ 80にまで
落とされ裏切られている東大卒の日本人連続殺人鬼です!
犠牲者の数は300人位との事!
朝鮮人党員の宮沢美智子には韓国ライオンズクラブの支配下にある殺しのプロである売国奴自衛隊が
常に付き纏い宮沢美智子の行動をコントロールしている!
444革命的名無しさん:2008/07/24(木) 21:05:57
概念、範疇、理論、よりも現実の方がはるかに品位が高く、現実は認識のすべての母であり土台なのです(苦笑)!
445革命的名無しさん:2008/07/24(木) 22:29:51
一連の通り魔殺人事件は若者を筆頭とする非正規労働者及び人民に対する売国的屈辱的なアメリカの
内政干渉受け入れ政策の極めて不幸で残忍なる結果である!
アメリカの内政干渉策すなわち規制緩和ならびに日本的雇用慣行の破壊に伴うリストラ、
長時間過密低賃金労働、過労死、労災、ホームレスの人々の存在、非正規雇用労働者の存在と
その増大は
一連の残忍な通り魔殺傷事件の悪しき憎むべき土壌である!
この悪しき憎むべき土壌は全人民勤労国民の手によって豊かな生活と未来を保障する労働を営み得る
豊暁なる土壌に造り代えられる事は日本歴史の必然である!
446革命的名無しさん:2008/07/24(木) 22:54:50
民族民主主義革命とそれに続く社会主義大革命の成功こそ、ありとあらゆる大小の犯罪の芽を
完全に絶つ事を保障する!
447革命的名無しさん:2008/07/24(木) 23:18:34
革命の成功と犯罪の発生はなんら関係ない。意味不明なことをいうな。
犯罪は、人間が動物としての本能性の呪縛から逃れられていないことに
より、必然的に発生するものであり、政治運動で解決できる問題ではない。
448革命的名無しさん:2008/07/24(木) 23:49:24
戦争、犯罪、貧困、病気などが生産力が今なお低い事とあいまち国際的ユダヤ秘密謀略組織の
跳梁跋扈による為に廃絶抑圧し得ないでいる事を認識できないチョー近視眼ハケン!
449革命的名無しさん:2008/07/25(金) 09:19:09
>>446
うッひゃー、とっくにに破産した
「民族民主主義革命とそれに続く社会主義革命」を
この21世紀になって書くとは団塊世代どころか大正生まれかな?
どっちにしても、意識の退化つか退廃って恐ッそろしいな。
450革命的名無しさん:2008/07/25(金) 09:23:46
日本は既にれっきとした「帝国主義本国」だからな。
451革命的名無しさん:2008/07/25(金) 09:51:13
より丁寧に正確に言うと政治的帝国主義へ突入せんとする経済的帝国主義国な!
452446:2008/07/25(金) 09:57:21
449へ。
〉とっくに破産した民族民主主義革命から引き続きおこる社会主義大革命

いつ破産したのか明確に述べよ!勝手に破産したなどと決めつける可からず!
453革命的名無しさん:2008/07/25(金) 16:02:50
反動ファシスト不破は党内に於いて不破の鶴の一声で何でも秘密りに実行出来る、と言う
実績の上に永年胡座をかいて来た為に党外の支持者に対しても同様に犯罪行為を行っても
すんなり事が運ぶとの錯乱を持っている!
全く不破にとって党内に於いては憲法も法律も無く正に無法地帯におとしめている!
不破の前には憲法や法律よりも不破自身の鶴の一声が最高法規なのである!
1998年3月末の自衛隊や朝鮮系帰化人党員どもが引き起こした虐殺事件は極右反動ファシスト不破の真のあからさまな姿であった!

不破はスターリン、金親子、チャウシェスクにも匹敵する極右反動共産ファシストなのである!

不破哲三一味が実権を握る共産党なぞは共産ファシズムの体現なのである!
454革命的名無しさん:2008/07/26(土) 06:53:39
>>442
やっぱ"意識の退化つか退廃"してたね。
「左翼」にとって常識域に属することが
理解できないんだもん。
455革命的名無しさん:2008/07/26(土) 12:23:29
党の賃上げ方針 時給1000円。

今時このような薄給だからワーキングプアが沢山いて大問題になっているんだ!共産党が修正主義ファシストと
名指しされる事は真実であり当然である!

時給1000円から800円なんぞであるならば資本が実現しているが、それでも食べていけないから
大問題になっているんだ!
最低賃金を一万円にせよ!週30時間労働制を早急に実現せよ!
長期有給休暇60日を保障せよ!
医療費教育費を無料にせよ!
年金を月100万円支給せよ!
ベーシック・インカムを導入実現せよ!
456革命的名無しさん:2008/07/26(土) 15:21:45
456
457革命的名無しさん:2008/07/26(土) 15:22:38
富山県では違法マフラーとか改造車乗ってる男は
喧嘩上等の証っていう地元の暗黙のルールだよ。いつでも喧嘩上等らしいけどなにか?
458革命的名無しさん:2008/07/26(土) 17:03:06
修正主義ファシスト晒しあげ
459革命的名無しさん:2008/11/16(日) 21:45:00
【海外】金融危機余波…欧州でマルクスの古典「資本論」がブーム [08/11/16]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1226800745/
460極道:2008/11/17(月) 06:32:44
ドイツでしょ。旧東ドイツのホーネッカーの流れを汲む連中が一儲けしようと増刷しているらしいね。日共と仲のよかったホーネッカーですからね。ヨーロピアンピクニック事件思い出してくださいね(^^ゞ^^ゞ
461革命的名無しさん:2008/11/17(月) 06:39:24
チャウシェスクと並ぶ暴政を敷いたホーネッカー。その後衛たちの宣伝をする共産党は、まだ依然として不破が権力掌握しているという証拠。不破が絶賛したホーネッカーでしたからね
(^^ゞ
462革命的名無しさん:2009/04/07(火) 00:13:07
第三次産業が産業構成比のほぼ半分に達するころ、1980年代を境に
政治的にも雇用形態に関する規制緩和の流れが起こってきた。

日本の場合、いわゆる高度経済成長期頃(1950年代60年代)を境に
マルクス主義的な意味でのプロレタリアートってのが大衆化する。
そのころにプロレタリアート階級が圧倒的多数派を構成するようになる。
つまり、第二次、第三次産業が、第一次産業を追い越すのがそのころ。

ちなみに、第二次産業は1973年まで上昇して、その後は少し下がりぎみに
横ばいして、1990年代にははっきりとした減少傾向に転じて行った。
第三次産業については今日まで一貫して急上昇の一途をたどっている。

マルクス主義的にいうプロレタリアートってのはどういう階級かといえば、
自分の生存条件をほぼ全面的に雇用市場に依存する階級ということだよね。
雇用を失うともうそこで生存条件のための生産手段を一切もたない。
派遣労働者に至っては会社の寮から追い出されて住むところさえ失う。

昔の戦後の貧困というのは、都会住民を除けば、住むところまでは失わな
かったんじゃないかな? それに田舎の人たちは(農地改革以降は)大抵
自分の田畑というものをもっていたから、金銭収入はゼロになっても最低限の
飲み食いはできた。白いお米が食えなくても芋や麦飯を食うことはできた。
そこが今日の貧困問題と違うところといえば違うところ。

プロレタリア階級、いわゆるサラリーマン家庭というのが圧倒的多数を
人口比上で構成する現在の貧困というのは、マルクス主義的な意味での貧困
というものが、ある意味ではほぼ前面に出てきた初めての歴史段階にある。
463革命的名無しさん:2009/09/09(水) 22:13:51
あのね、マルクスっていい人だったのよ。いい人すぎたのよ。
単純に言うと、昔は飢餓があったわけ。そうすると100人のうち90人しか食えないのよ。で、10人死ななきゃいけないわけ。
そこでマルクスはどう考えたかっていうと、「100人がみんな1割ずつ我慢すればいいじゃん、そうすれば100人全員食えるでしょ?」
っていうのが計画経済なのよ。
で、それに対して煩悩丸出し集団がいたわけよ、イギリスを中心にして。
「そうじゃない、自由競争に任せなさい。それで競争に負けた10人は死んでもらえ。」これが資本主義の自由主義経済ね。
で、それはそのままヒットラーの論理と同じなんだよ。逆に言うとね。
で、どっちが勝ったかっていうと資本主義勝ったんよ。ソ連なくなり中国なくなり。
それは当たり前で、マルクスは人間の煩悩甘く見たっちゅうことね。
でも、その資本主義対マルクスの計画経済の闘いで、資本主義が勝った、お互いの土壌があったの。
それは100人のうち10人飢えるっていう時代なわけよ。実は人類は、人類400万年の歴史の中で今から3、40年前に飢餓克服してんのよ。
で、今100人が100人食えるのよ。
ということは資本主義もマルクス経済もいらないのよ。計画経済いらん。共産主義いらん。資本主義もいらないのよ。
ところが今逆に来てんのよ。なんと、食料が投機で危機になってるわけ。資本主義成れの果て。
だから、資本主義明日やめなさい。日本は法律を決めて、憲法で資本主義禁止する。
464革命的名無しさん:2009/09/09(水) 22:22:14
何言ってるのよ〜
共産党の中央委員はなぜセレブな生活しているのか答えなさい。
ビシッ
共産党の下級党員はなぜ貧乏しているのか答えなさい。
ビシッ、ビシッ!
嘘つくと 粛正 よ!
465革命的名無しさん
日本共産党内にはなぜ階級があるのかしらん?
階級闘争起こさなきゃ、本当の革命にはならないんし゛ゃないかし?
お答え遊ばして!