>>452-453 の「祟りは迷信」というのが両社の公式見解なら、
そりゃ「方便」として言ってるだけだよ。
稲荷や荼枳尼天の「祟り」は間違いなくある。
その人が一生懸命信仰する分にはイイが、その熱心の余り、自宅敷地に
勧請してお社を建て、御祀りしたとしよう。
やがて時間が過ぎ、子供や孫の代となり、信仰心など殆ど無い後継ぎと
なった時、敷地のお社はお給仕もされなくなる。
そうなると、稲荷や荼枳尼天は最早「神」ではなくなり、その家に祟る存在と
なってしまう。
下手をすればその家が絶えるまで祟り続けるだろう。
元々が「神」だっただけに、非常に面倒な存在となって、並みの行者では
なす術も無い。
公式見解では「祟りは迷信」というなら、その時になって「引き取ってほしい」と
頼んでも相手にして貰えないかもね。
お札を戴いて来たり、お参りするならまだしも、自宅に勧請するのは、
くれぐれもご注意されたし。