飯室谷不動堂酒井雄哉大阿闍梨ファンの集い

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95名無しさん@京都板じゃないよ
>>93
度々のご回答有難う御座います。
>死者を火にくべて一体何の供養ぞ、ということです。
とのことですが、遺体は火葬にしますし、様々な供物を火にくべて供養とする「護摩供」
なのですから、「添え護摩木」に「供養の想い」を託しても浄火によって届くと思うのも
有りではないでしょうか。
或いは、亡き人への供物として「ご飯や果物やお菓子」も護摩供の火によって、亡き人に
届くと思っても間違いは無いと思えるのですが・・・・
護摩供の浄火によて、亡者に供物が届くなら「亡者護摩」は十分成立すると考えられますし、
禁じ手とする理由も見当たりません。
実際に「亡者護摩」によって、供養が届き、救われる亡者があるなら、「禁じ手」すること自体を
考え直すべきではないのでしょうか。

また、この世の事象が平穏であることを希求する「息災」とのことですが、この世とあの世とは
全く隔絶したものではなく、連綿として繋がり、表裏一体の者と考えます。
であるならば、この世の事象が平穏であるためにはあの世も平穏であるべきで、その意味では
この世もあの世も分け隔てなく「息災」は及ぶべきと考えますが間違っていますでしょうか。