☆宗教は、犯罪者を救いえるか☆

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1名無しさん@京都板じゃないよ
キリスト、仏は、悔い改めた者は救うというが。
2get
3名無しさん@京都板じゃないよ:04/04/28 19:55
神道=助ける神

キリスト教=救う神

よって後者。
4名無しさん@京都板じゃないよ:04/04/28 22:23
懺悔って言葉があるべ。
5お腹すいた:04/04/29 01:02
葬式坊主は葬儀屋と同じ金儲けだけ
仏教に墓は無い、墓は儒教だ、この罰当たりども。
釈迦にも墓はあるが?
>>1
板違い。

宗教板でやれ。

糸冬
8お腹すいた:04/04/29 01:40
釈迦=仏陀遺骨は取りやっこで寺院の中の舎利塔の中
9お腹すいた:04/04/29 01:46
かわいそうに成仏出来まえに涅槃さん
10名無しさん@京都板じゃないよ:04/04/29 02:11
>>7  こっちの方が比較的マターリできるからじゃないか?
ま、それにしては>>1も、いきなり釣りっぽいが・・・(笑)

アングリマーラのエピソードを中心に面白くなるかと思ったが、たいしたことないなw
このあとの展開に期待 o(^^o)
111:04/04/29 22:06
ぼかぁナポレオンになりたくって人を頃したんだYO!
ただそれだけの理由なんだYO!


こんな僕は救われますか?ってわけでアゲ。
121:04/04/29 22:11
自己レス

自分の欲望のために、残虐に人を殺す奴は許せない。
殺された当人、そしてその家族のことを考えると、誰だってそうだろう。俺だって許せない。

だが一方で、「許せない」というこの感情は、他でもない人間である自分の感情で、「神」の感情ではない。

人間の「許す」という感情には、能力的な限界があるが、たかがわれわれ人間が、「神」にもその限界があるなどと仮定してしまうのは、傲慢ではないか。
人間には限界があるが、神には限界はないのではないか。

人間は、長年の価値観や社会的慣習によって、他の人間を裁く。

しかし、宗教的な意味での裁きは、「神のみぞ知る」のでは。

個人的に、「神の許しの能力に限界はないのではないか」と思う。これも、人間であるわたしが考えた、傲慢な思想かもしれないが。
そういや去年だか手配中のお遍路さんタイーホが話題になったね。
救いはともかく居場所のない人間の感情の寄せ所としては機能してるって事なのかな>信仰
14名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/16 10:10
そもそも犯罪そのものが世間法によるもの。
仏の立場(出世間法)によれば
犯罪という概念はなくなる。
15名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/16 10:17
>>14
また、犯罪者は犯罪を犯す(学ぶ)ために、この世に生まれてきている。
であるからして、その犯罪(多種多様)を学べばそれでよし。
16名無しさん@京都板じゃないよ:04/08/17 04:11
>>14
自分の親兄弟、息子や娘が見るも無残な方法で、犯人個人の欲望のはけ口として
惨殺されたらどうなんでしょうね?
そんな冷静なことを言っていられます?
17名無しさん@京都板じゃないよ:04/08/19 12:36
>>16
おそらく>>14は涙ひとつ流さずに受け容れられるんでしょう。
仏法って凄いね。
親族を惨殺された場合、残された者は怒り、怨み、憎しみ、悲しみ、嘆き、絶望に陥る。
これら苦しみから脱して安らぎに至るのが、出世間法。

また犯人も欲望に駆られ人に危害を加えたことによって大変な苦しみを背負うことになる。
これら苦しみから脱して安らぎに至るのも、出世間法。

また既に修行をしてこの世の快楽と苦痛への執着を弱め、心の安らぎを保っている人は、
犯罪に巻き込まれた時にも、心の冷静さを保つ。怒り、怨み、憎しみ、悲しみ、嘆き、絶望
は自他を害するだけで物事の解決には役に立たないことを見極めたからである。
これもまた出世間法。

「まことこの世において、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむこと
がない。怨みをすててこそ怨みは息む。これは永遠の真理である。」(ダンマパダ)
19名無しさん@京都板じゃないよ:04/08/19 15:23
>>18
それを実践できるかどうかは別問題。
またお得意の言葉遊びですか・・・全然心に響きませんね。アホくさ・・・
>>19
もちろん実践したいとも思わない人には、何の関係もありません。

のぞき趣味から仏法に近づいても、何の益も得られません
討論したいから仏法を学んでも、知的興味しか得られません。

自己に本当の革命をもたらすこと、真実を体験すること、真に苦しみを
終滅させることを欲する人だけが、道を歩くことができるでしょう。
>>20
と言葉遊びが続いております。