→But 'somone' could not rent out ,with the caves, their occupants' notion of time.の強調構文 (2)しかし、洞窟泊まり込んでも、洞窟の元々の持ち主が感じていたような時間の捉え方はお金を払っても借りることなど出来ないだろう。 (1)rent outを使い、借りるものを人の持ち物とした時点で、貸し手が発生する。しかし、貸し手は今はもう存在しないから。 だから条件節は『もし貸し手が今もいたとしても』。
しかし実際に読んでいるときはこんな考え方はしていない。 their original と読み進んだとき、この部分は気にしない。名詞を修飾する語だとわかっているので名詞がでてくるまでこの語句の 本当の意味はまだわからない、と思っているわけだ。 そして occupants を見て occupy が頭に浮かぶと同時に where? と思う。自然にツッコんでしまう。「住んでるって?どこに?」という感覚。 このとき初めて「あ、さっきの their って the caves で場所を指してんのか」となる。頭の中では those who originally occupied the caves のことだな、と納得して notion of time も notion → note から note about what? と考え、それに続く語句 of time から note about time であることがわかり、 名詞化していることを考慮して how they note about time だな、と思っているわけ。
>>735で出て来た (1) I couldn't have done such a thing. (2) I cannot have done such a thing. で (2) の過去形はどう見分けるのか、といことだがいい例文が見つけられない。 原則として、仮定法ならば『ムリヤリ』な部分があるはずで、それはまず時制がどこかおかしいはず。 推測の文の過去形は時制におかしいところがないということになるが、それはまた例題を解く中で解説することにしよう。
>>734 >(1) I couldn't have done such a thing. >(2) I cannot have done such a thing. >の2つの文の区別である。これは仮定法の問題ではなく、単に紛らわしいから勘違いをする、というレベルであるのだが >しかし2つの文が意味するところが大きく異なるのに加え、この混同により読解にも影響があるから困ったものだ
ジーニアスには下のようにありますがなにか。 He cannnot have told a lie.(彼がうそをついたはずがない) (He could not have told...ともいえる)
I can speak English as well as you. この文を読んだとき、無意識に I can speak English well and you can speak it well too. であると思いがちだ。
これは中学で比較を導入されたとき I am tall. と He is tall. の2つの文を比べて I am taller than he. となるのだ、という説明をされるからではないか とおもっているのだが。
しかし実際は、比較表現は比較の尺度として well なり tall を引き合いにしているだけで事実としてそうだというわけではない。 上の文 I can speak English as well as you. では I は you と比べて as well as なだけ英語を話せる。だから you がほとんど英語を話せないのなら I もほとんど英語を話せない。 したがって (1) 僕は君と同じくらい上手く英語を話せる。(基本的に上手く話せる) (2) 僕はせいぜい君と同じくらいしか英語を話せない。(話すのは下手) の2つの意味に取れることになる。たいがいは (1) の意味になるのだが、(2) の意味になることも少なくなく、誤読のもととなる。 また、(2) の意味にとらねばならないときに比較の対象が省略されたりすると、全くわからないなんてことになる。
似たような誤解をしているものに all がある。 That's all I have. という文では「それが私の持つすべてです」と訳して「たくさん持っている」イメージでいる人が多いが、 実はこの文は「それだけしか持ってないんです」という意味に使われることが多い。 All you need is Love. 「愛こそすべて」と訳すと「愛」が他のもろもろに優先される、「愛が勝つ」という感じだが、 本来は「要るのは愛だけさ」と訳すべきな気がする。
この前提がわかってくると比較でつまづくことが少なくなる。 no more 〜 than は「鯨の公式」などで有名らしい。A whale is no more a fish than a horse is. というやつだがコレ、 高校時代に交換留学生で俺の高校に来ていた米人はなぜか「間違い。than じゃなくて as」と言って譲らなかった。 まぁ、間違いじゃなくて今はあんまり言わないってことなんだろうけど。
鯨は馬以下に魚である・鯨が魚であることは馬が魚であること以上ではない・鯨が魚じゃないのは馬が魚じゃないと同じだ 等々 どう訳してもいいだろうけれど、俺は結局、鯨と馬を比較して no more で、その尺度は「魚であること」(魚度) だと考えている。 no more と not more では no more の方が「絶対 more じゃない」という強い否定の気持ちがある。 鯨が魚であることは、馬が魚であることよりもさらに程度が低いんだ、ということ。 要するにこの慣用表現では than 以下に「ありえないこと、馬鹿げていること」が来て、「それよりさらにありえない」という パターンを踏むので 「鯨は魚なんかじゃ絶対無いんだよ。それは馬が魚だっていうよりありえないんだ。」という意味になる。 ここで than 以下に「ありえないこと、馬鹿げていること」が来ることはパターン化しているので省略しても 大体わかるということが起こり、 He is no more an artist. 奴はぜんぜん芸術家なんてもんじゃない。 という表現も生まれる。
いい機会だと思うので、自分でこうした紛らわしい比較表現についてまとめてみると良い。 ・no more ・no more 〜 than ・no more than ・not any more 〜 than ・etc.
そのthanは、現代英語の前置詞likeの意味なんだそうです。 その交換留学生がasだと言ったのもわかりますね。 asは昔はlikeみたいな使いかたをしていましたから。 旧約聖書のThe Song of Songs第1章3節は1611年版King James Versionでは Thy name is as ointment poured forth. ですが、現代英語では Your name is like ointment poured forth. です。 「こんなところにthan?」というのがまずあって、 「likeの意味だろうが、古い英語っぽいからasだろう」と思って そうやって言い張ったんだと思います。私の知り合いのネイティブ(歴史学のPhD)も 「こんな変な文章は見かけないし、学ぶ意味もない」といってました。
すいません、質問してる方も自分で錯乱してたかもしれないです。寝起きに文章書くのはよくないな…orz 納得出来ました。ただ、>>763の説明はちょっとわかりにくかったかな…。 I can no more swim than a stone (can swim). 自分はa stone以下は発言者が信じてないこと・偽の命題・非常識が置かれていて、I can swimもそれにno more(勝る度合いがゼロ)だって教えられましたね。 逆にno less A than BのBは発言者が信じていること・真の命題・常識が置かれ、no less(劣る度合いがゼロ)であると。
形容詞 worth を思い出してもらいたい。 S is worth〔名詞〕, S is worth Ving の形で使われる。 [例] The new method is well worth consideration.
しかし、〜はやってみるだけの価値がある、という用法では It is worth while〔名詞〕, Ving, to V の形となる。このとき worthwhile と一語にするほうがよく見られる。 つまり S is worth. とはしない。
これは、is worth の部分がたとえて言うならシーソーの支点で、主語と worth のあとの語とが釣り合っている、という イメージなのではないか、と考えている。だから S is worth. とするとバランスがわるい。 要するに語の据わりが悪いのだということだろうと思う。だから形式主語を置いて It is worth 〜 としようと思うのだが、これだと It が実際に何かを指示している場合と見分けがつかない。 そこで while を置いて形式主語を明示してやる、こんな流れだと考えている。
倒置にもそういったバランス感覚が働いて語順が決定されているのではないか、と思う。その支点にあたるのは たいていの場合 V であるのだが、語句の長さによってそれが変わる場合もある。