参加するほどに小論文が書けるようになるスレ

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602大学への名無しさん
>>579-580
誰もこの駄文に反論しないのはなぜだろう。それこそ日本の国語教育が病んでいる証拠なんじゃないかな。
581がすばらしい文章だと言うのは、581も同様に考えているからだろう、きっと。どうでもいいけど。

>「『ここで作者が言いたいことは何か?』なんて問題、作者の俺がわからないのに、子供たちが分かるわけないよな。
>問題全部解いてみたけど、漢字の問題しか当たんなかったよ(笑)」
>この作家の言葉を聞けば、「国語」という教科の教育がどれだけ無意味なものかがよく分かる。

またこれか、という感じ。国語ができない椰子は決まって同じことを言うね。ほんとうんざりするよ。
つまりね、作者の意図が作品に100%反映されていると考えていること自体がおかしいわけ。
よく言う「国語は作者に答えを聞けばいいだけだからつまんない」という意見と同じ。ため息がでるよ。

同じ言葉なのに、人によって違う意味にとることはよくある。いわゆる誤解というやつね。
このことを説明するのによく自転車の例が出されるけど、自転車の乗り方は言葉で説明できないでしょ。
あとは病気の時の辛さとか痛みとか。
頭で理解してわかっていることと、言葉で表現することは別なものなわけ。
だから作者がAと思って文章を書いても、読者はBと受け取ることがある。
もし社会的常識的に見てBの方に妥当性があるなら、いくら作者はAと思っていてもその内容はBと解釈されて当然。
そういう意味では、自分の作品についての問題が解けない作者なんてたくさんいるだろう。
そもそも作品を読んだら必ず作者の意図Aにたどりつかなくちゃいけないなんて誰が決めたの?
国語の授業はそんなことをするためにあるんじゃない。
もしそうしなきゃいけないなら、作者のもういない古典は永久に理解不能なんじゃないの?
タイムマシーンで「ここはどういう意味ですか」って聞きに行くのかな。(苦笑)
603大学への名無しさん:03/11/26 06:48 ID:LvShQ8Ns
ただ、こういう誤解を生んでいる原因として、国語の作問にも問題があることは確かだ。
「作者はどうしてこう書きましたか」という質問は小学校ではよくあるが、これは小学生の読む文章自体が一人称小説
の形態を取ることが多いためだ。文章の「私」=作者と考えた方がわかりやすいってことね。
「作中の『私』はどうしてこう考えましたか」という質問よりはずっと簡潔だから好まれるんだろう。
厳密に言えば、小説の物語世界内の作中人物と、生身の人間である作者を同一視できるわけがないのは明らかだ。
このあたりの区別があいまいだから、「作者」だけが決定権を持つ万能者として一人歩きしてしまうんだね。
よく読めば、高校の教科書なんかではもう「作者は〜ですか」なんて質問はされない(もちろん小説の場合)。
小学生のころの国語観をいつまでもひきずっていると、579のような小論文を得意気に書くようになってしまう。
読む人が読めば一笑に付されて終わり。

もうひとつ誤解を指摘しておきたい。

>教科書会社は通常、自社の教科書を学校側に販売するにあたり、教員のため
>の指導書を配る。指導書には、「ここはこういうことだからこう教えなさい」という唯一の解が記載されており、
>「まじめな」国語教員はその主旨通りに生徒に「教え」ているわけだ。

ここまですごい誤解はめずらしいね。笑っちゃうよ。「唯一の解」って何?数学じゃないんだから。
確かに教員用の指導書も手引きもある。でもそれはいわば教員の解釈を助ける情報であって、その通りに教えないと
授業が成り立たないとかそういうものではない。いわば授業の展開例のひとつでしかない。
今時教育実習生だって指導書通りには教えないんだけど。
604大学への名無しさん:03/11/26 06:49 ID:LvShQ8Ns
ただ解釈に関しては、確かに一定の規範があり、それは小説の場合文学研究者の意見に拠るところが大きい。
だから他教科と同じで学界で学説に違いが出れば、教科書にも反映する。いい例が漱石の『こころ』かもしれん。
その一方でそういう解釈のみの授業は確かにつまらんので、読解だけでない授業をすることもある。
全体でなく部分に注目したり、作文とか討論とかグループ学習などで作業を取り入れたりとかね。
その単元で何を学んでもらうかは教員の裁量次第。
別に作品を読み込んで解釈をたたき出すだけが国語じゃない。

>何も日本語を覚えるのに「国語」という教科は全く必要ない。
>人間は生きているだけで言葉を覚えることができるのだ。
>私は、「国語」にとってかわる「日本語」・「読書」という教科を提案する。
>「日本語」の時間では、漢字やことわざ、慣用句など、生活する上で知っておいたほうがいい日本語を教える。
もちろんそこには長文読解などという無意味なものはない。

笑っちゃうんだけど…。よく恥ずかしくないね。
確かに人間は生きていくだけで言葉を覚えるね。子どもは勝手にしゃべるようになる。
でも、同じ日本語でも差があるでしょ。会話の日本語と文章の日本語は違う。
まんがの日本語と新聞の日本語は違う。小学生が専門書を読めないのはどうしてなのか考えたことある?

子どもが自然と身につけるのは会話(話す、聞く)と文法構造だけ。
読み(文字、漢字)、書き(文章語)、専門的な日本語を操る言語運用能力は教育を通じて初めて身につく。
「長文読解」と「ことわざ教室」のどちらで高度な言語運用能力は身に付くのかよく考えてみたら?