85 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :
>>36 S
>>65 Sのように●持ちで、好き放題に連投で荒らしてる人間は極一部なんだよ。
>>33氏のご指摘通り深夜ということも当然あるし、
それ以前に普通は 連 投 規 制 というものがあるのです。まったく……とことん人間が腐ってるな君らは。
> よっぽどでないと、ご内相のことなんかわからないからね
……はぁ。(溜め息)
日蓮正宗の教義なんて、さして凄くも目新しくもないパッチワークですよ。そんなもんをふりかざして、何を偉そうにしてるんだか。
言っておきますが、本来はSの
>>19>>22>>27などに付き合って、日蓮正宗みたいな最低宗教の講義をする必要はありません。必要は無いというより、
そもそも板違いだからやるのは非常識。今回に限り、おバカさんを調子に乗らせないためにレスはしますが、次からそうした質問は、
宗教板の巣にでも行って訊きなさい。Sに付き合って荒らしの片棒担ぐのは真っ平御免ですから。
あと、何度も言うが私の信仰は浄土真宗。他宗派です。
> 四重興廃の観心のところってどういう意味をいうんでしょうか?
↓日寛の「観心本尊抄文段」を読めば載ってます。
「二には十法界抄に四重の興廃を明かす。謂く、爾前・迹門・本門・観心なり。第四の観心とは、永く通途に異り、正しく文底下種の法門を以て観心と名づくるなり。」
> あと引文のあとに、開結っていうのがあるのですが、これってなんの文献を見たらわかるんでしょうか?
同じく日寛の観心本尊抄文段。つかこういうのは富士門流教学の初歩では?
>>22>>27 質問元のテキストが何やら不明なので君のレスから流れを判断するなら、日蓮正宗で筋目だの所対だの言う場合は、大抵法主の神格化を擁護したいときです。
もっと言うなら、法主を猿山のボス猿のように頂点としたヒエラルキーを肯定し、その権威を背景に、自分がおごりたかぶって他者を見下したい時ですね。
86 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :2009/02/03(火) 23:39:36 ID:1Yl4uXTb
>>85続き
「所対」というのは「相手」という意味。
日蓮正宗では、個別に矛盾する教義を誤魔化して統合するために、よくこうした言い方をします。
>>47氏が、「文証の範囲は問答の相手によって変る。」などと言っているのが典型例です。
日蓮御書の兄弟抄に
> くぶし(拳)を以て虚空を打つはくぶし痛からず、石を打つはくぶし痛し。悪人を殺すは罪あさし、善人を殺すは罪ふかし。
> 或いは他人を殺すはくぶしを以て泥を打つがごとし、父母を殺すはくぶしもて石を打つがごとし。
> 鹿を吠うる犬は頭われず、師子を吠うる犬は腸くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、
> 仏を打ちし提婆は大地われて入りにき、所対(相手)によりて罪の軽重はありけるなり。
とありますが、この“同じ行動でも所対(相手)によってその意味が変わる”という点を利用してる訳です。
以下、簡単に解説しましょう。
S氏は「血脈相伝にも 法体 金口 法門 信心 の4つがあり、それぞれの訪問は所対による」
と述べていますが、この内「信心の血脈」を例に挙げると、正宗側の陥りがちな態度が分かり易いです。
一般にも分かり易いように噛み砕いて述べると、総じて言うなら日蓮の御書を読み正しい信心をすれば
日蓮の門下の人間全てに受け継がれるのが信心の血脈。しかし別して言えば日蓮正宗の法主ただ一人に
正しい解釈なり秘伝なりが伝わっていて、それが唯授一人金口嫡々の血脈。
こうした考えを正宗は総別のニ義とか呼んでいます。
ですから、信心の血脈をもって他宗教を相手に優越感を持つのはOKだが、信心の血脈を盾に
法主の血脈を批判するのは所対の乱れでNG。大体正宗の連中はこんな風に感じているのでしょう。
つまり教義の解釈は“所対による”と、こういう訳です。
こうした教義解釈は、概ね法主=ボス猿を絶対の頂点とした猿山の正当化に用いられます。
と真流一の会の信者が申しております。
88 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :2009/02/03(火) 23:43:38 ID:1Yl4uXTb
>>86続き
こうした教義が身に染み付けば染み付くほど、上にへつらい他を見下す態度が強化される。
ですから、過去においては僧侶が創価学会員に対して非常に横柄な態度を取ったと言いますし、
現在のネットでの法華講員の態度、つまり上から目線で「愚か者たちに教えてやる」という言動にも現れている訳ですね。
このスレでの一連のやりとりに見られるように、法華講員同士でも互いを偽物扱いし、
皆が法主の権威を笠に他を見下そうとするのは、彼らの教義がそういう構造だからです。
日蓮正宗の教義を学びそれに傾倒すればするほど、人間性は腐っていく危険がありますね。
S氏も、法華講で勉強を続けるつもりならよくよく注意したほうが良いでしょう。
S氏が四重興廃を学んでいるのは、察するにこのスレで“信心の血脈”に類する反論を受け、彼の力量では
それらを上手く論破出来なかったからでしょう。ですから彼は法華講員としては初心者であっても、
成りすましの法華講員という可能性は低いですよ。出来れば“一人前の法華講員”になどならないことを勧めたいですが。
で、バランスを取るために四重興廃の問題点も幾つかご紹介しておきましょう。まずは↓のサイトをご覧下さい。
http://www.ginpa.com/karagura/letter/k0018.html > この思想の元になったといわれるのが、天台の『法華玄義』の絶待妙の釈である。
> たしかにここには「今(迹の)大教若し起こらば、方便の教は絶す」「今本地の教興らば、迹の中の大教は即ち絶す」「今、観に入りて、縁寂せば、言語の道断じ、本の教は即ち絶す」とあって、
>これが四重興廃に転じていったといわれれば、なるほどと思われるが、この転じ方はむしろ『法華玄義』の換骨奪胎、単純化と矮小化ではないかと思われる。
>
> なぜならば、『法華玄義』が「絶す」とした言葉を、単純に「亡ず」という言葉に置き換え、「観心の妙」を「観心の大教」と置き換えてしまっているからである。
89 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :2009/02/03(火) 23:45:02 ID:1Yl4uXTb
>>88続き
> 「絶す」は「たえる」と訓じ、「絶滅」「廃絶」の意に使われることもあるが、本来の字義は字の成り立ちのごとく「色糸」であり、刺繍糸のことである。
>転じて美しいもの、立派なものの意となり、「絶妙」「絶景」のような使われ方が本来のものである。
> 『法華玄義』の当該箇所の解釈は、観心という修行の実践(智慧)によって本門の教が本来の目的を達し消化されるという意味ではなかったか。
>そしてこの「観心の妙」は『法華玄義』では明かされていないが、『摩訶止観』で「一念三千」の名目が示され、やがて南無妙法蓮華経へと結実してくるものだったのである。
↑このように考えると、四重興廃という教義の絶対性は怪しくなってきます。
また、ある意味創価学会側のサイトではありますが、↓の研究はなかなか鋭いところを突いているでしょう。
http://hw001.gate01.com/miya33x/paper2.html > 平安仏教界に摂関家や皇族出身者が門跡として流入すると、その門跡の継承パターンは世俗の家督の継承パターンと同様なものになり、公地公民から私的荘園制への
> 大きな流れの中で、寺院資産、儀礼、教義の私物化、家業化が進行した。天台本覚思想もこのような私物化を基礎とする秘伝の文化の流れの中で発展していった
↑リンク先をご覧になれば分かる通り、四重興廃はこうした天台本覚思想の流れにある考え方です。
日蓮正宗においてはまさに、こうした教義が中世日本で見られたような教えの独占や私物化に働いていると言えるでしょう。
90 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :2009/02/03(火) 23:47:52 ID:1Yl4uXTb
>>89続き
機会があれば詳しく論じたいとも思いますが、時宗や浄土真宗といった他力浄土門においても、過去同様の過ちがありました。
その問題点の創価学会との共通性については、笠原一男氏らによって古くから指摘されているところです。
つまり日蓮正宗の教義も、上記リンク先に指摘されているような平安仏教の貴族化や、本願寺の門主絶対主義といった
歴史上よく見られた過ちを、近・現代になって繰り返しているに過ぎないと言えるでしょう。
日蓮宗系の宗教学者である丸山照男氏は、かつて池田本仏論は日蓮本仏論の必然的な帰結であり、
創価学会を批判するならば日蓮正宗も潔く、日蓮本仏論を撤回すべきという趣旨の批判を行われました。
一般人から見ても、“池田崇拝”と“法主崇拝”は同じ穴のムジナにしか見えない醜い争いでしょう。
丸山氏は宗教学者であり、そのご指摘は優れた仏教学的研究に裏打ちされたものですが、本当に優れた仏教的指摘は、
同時に一般人が素直に納得し得る指摘と一致するものなのです。つまり正宗と創価はどっちもどっちです。