九識論

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1興味 ◆pdbZuOSN8c
妙法蓮華経これ 九識論の心王也

学会教学と唯識と蓮華経について考えましょう
2名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 01:30:45 ID:???
( ^??^?) 丸1日以上たっての2ゲッツ
3名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 01:34:48 ID:???
4名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 01:16:49 ID:???
難解教典法華経
5名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 23:15:55 ID:???
外界の感覚が眼・耳・鼻・舌・身という五根
6中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/29(金) 11:55:11 ID:BSChi1+r

九識論については、学会の書籍なんかを読むと、解釈・説明が非常にわかりづらいね。

八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてある、と解釈した方が

分かりやすいと思うのだが、なぜか学会教学では、八識とは別の存在として九識を立てる。
7興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/06/29(金) 11:58:44 ID:BdN7tC+J
>>6
八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてある、と解釈したら法相宗になるからだと思います。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 12:14:05 ID:???
9中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/29(金) 12:21:17 ID:BSChi1+r

レスありがとう。

ん。法相宗では八識を最高位と説いていて、九識は肯定していない。

八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてあると解釈したら法相宗になるのだろう。

文証として大聖人は、どう説いてる?
10中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/29(金) 12:23:54 ID:???
訂正

誤>八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてあると解釈したら法相宗になるのだろう。

正>どうして八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてあると解釈したら法相宗になるのだろう。



文証として大聖人は、どう説いてる?

11興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/06/29(金) 12:46:11 ID:BdN7tC+J
>>10

天台大師は阿頼耶識のさらに深層に根本常識としての阿摩羅識(アマラ識)を説いています。唯識でもこころの極限に真如が顕現すると説いていますので、
悟りの内容は同じといえます。釈尊は原始経典に「清浄なる心の本性」を説いていますが、釈尊の悟りもこの根本常識を指します。般若心経では「光り輝く心」と表現され、「真如」、「仏性」とも言
います。つまり
アラヤ識に真如が顕現する=法相宗
アラヤ識の奥に深層に根本常識としての阿摩羅識(アマラ識)を説く=天台、真言、日蓮

阿摩羅識と真如は等価であり後にこれらは仏性と楞伽経において統合されるようだ、また日蓮は妙法蓮華教これ九識の心王(阿摩羅識)であるといいますね。
12中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/29(金) 13:09:17 ID:BSChi1+r

>アラヤ識の奥に深層に根本常識としての阿摩羅識(アマラ識)を説く=天台、真言、日蓮

>八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてあると解釈

ん〜。違いはないように思うのだがね。
13中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/29(金) 13:15:04 ID:???

大聖人は、八識に含蔵される「染浄の二法」に差別のないことを強調されている。

すなわち「浄法」たる「無明」と「染法」たる「法性」(=根本浄識)について「無明 即 法性」と説かれているし
「当体義抄」にも次のようにある。

『無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、
大論に云く「明と無明と異無く別無し是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄の
二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の
文とには過ぐ可からざるなり南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、
又明鏡の譬真実に一二なり委くは大乗止観の釈の如し又能き釈には籤の六に云く「三千理に在れば同じく
無明と名け三千果成すれば咸く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用なり」
文、此の釈分明なり。』

引用が長くなっちゃったけど、「切り文」だと誤解をまねくので。

つまり「八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてあると解釈」しても全く問題ない
ということになる。
14中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/29(金) 13:24:01 ID:???
これから九州まで出張なんで、続きがあれば、また明日。
15興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/06/29(金) 13:45:07 ID:BdN7tC+J
八識(阿頼耶識)の中に分類して「根本浄識」として九識を立てる場合と、清濁併せ呑む八識(阿頼耶識)の中の真如というのは、阿頼耶識と阿摩羅識を対象的にとらえるか、
抽出的にとらえるか、内包的にとらえるかで悟りへのアプローチが変わるように思う。
つまり、禅定において悟りを得る場合、阿頼耶識=仏性としてアプローチするのと阿頼耶識の次元ではなく阿摩羅識にアプローチするかになる。


16名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 17:15:01 ID:???
クソデブの股間にだらしなくぶら下がってるキンタマを思いっきり蹴り上げてみて。
「ブヒィッッ!?」って泣きそうな声出しながらデカい図体を丸めてうずくまるわよ。
大ブタが汗だくだく流しながら急所押さえて痛がってる姿は不様で笑えるわ

汗くさ大食い能無しクソデブは残酷ベビー@にキンタマぶっ潰されて氏ね
17興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/06/29(金) 20:53:35 ID:BdN7tC+J
>>14
つまり「八識(阿頼耶識)の中に「根本浄識」として「九識(阿摩羅識)」が厳然としてあると解釈」しても全く問題ない
となるならば、やはり真如=九識(阿摩羅識)でしょうか?それでは
>>7で私が言うように法相宗の考えと同じではないでしょうか?
元来、日蓮が法相宗を否定している原因の一つは
法相宗をはじめとする南都六宗は、伝教大師により、すでに破折されているからだそうだが最澄と徳一の問答は残されておらず、当時の為政者の出来レースであると考察される。
また大聖人は法相宗については『開目抄』に、 「しかれども玄奘三蔵・慈恩大師、委細に天台の御釈を見ける程に、自宗の邪見ひるがへるかのゆへに、自宗をばすてねども其の心天台に帰伏すと見へたり」
と勝手に思い込んでいるだけ。(玄奘三蔵&慈恩大師は法相宗の開祖)

余談ではあるが、駒沢の学者からの本覚思想批判を見るに最澄と徳一の問答は学術的には現在は本覚思想を批判し五性各別説を解いた徳一に軍配があがるのかもしれん。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 23:10:42 ID:Oweu4n+Z
五性各別説って信じる者は救われるが信じない者はアウトなキリスト教とほぼ同じ。
19興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/06/29(金) 23:36:57 ID:BdN7tC+J
>>18
なかなか、面白いですね。
五性各別説における無性有情は私は一闡堤なんではないか?と思います。
私にとっての一闡堤とは救済を必要としない人々ですがね。だから、実は普通の感覚でいえば幸せな生活を送る人間なんでしょう。
でも、仏教ではこのような人を文字通り救いがたいと解釈しますがね。

20中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/30(土) 12:36:16 ID:???
う〜ん…。
非常に抽象論になってきて、なんか不毛な感じがしないでもないな…。

ちなみに、牧口門下生である辻さん(辻武寿 元副会長)は、病気の会員を
激励するときに、この染浄の二法をよく引用していた。

「題目を唱えるときは、悪いところ(患部)を、ジャブジャブ洗うように
(そうイメージして)唱えるんだよ」と。

この指導通りに「必死の題目」を唱え、実際に「死の病」を克服した方も沢山いた。
21中道 ◆YAj0Mn3HwI :2007/06/30(土) 12:41:22 ID:???

池田名誉会長もよく言われている事ですが、結局、仏法と言っても、
具体的に人を救って行く為の「哲学」でなかったら、ただの
「観念の遊戯」になってしまいます。

それを根本に置いて、御書を学んでいくと「なるほど」と思うことが
沢山あります。
22興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/06/30(土) 15:01:04 ID:???
>21
>具体的に人を救って行く為の「哲学」でなかったら

仏教における、具体的救済とは仏果を得る事ですし、その為に仏性を知るのは必要ですしその為に唯識を知るのは重要ではないですか?

日蓮自体も南無妙法蓮華経これ九識の心王といいますから、識を知る事は南無妙法蓮華経を学ぶと同じではないでしょうか?
23母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/04(水) 08:50:15 ID:whYXaJIA
ほうほう、興味さんはまた新しいスレを立てたんですか・・・

興味さんの着眼点はいつも興味深い(w)、この前の生命スレも良かった、
んで、九識論の阿頼耶識って、やっぱアートマンですよね?
九識論は哲学としての仏教としては「アレ?」って思うけど、信仰としての
仏教ならOKかな、あくまで方便としてだけどねw
歳を取ると東洋哲学や仏教の実践面での意義を実感することが多い、
人生って面白いw

九識論は分析的な傾向が強くて、縁起や空とは異質な発想だよね。
例えば竜樹の縁起や空は構造主義的で、いかにも東洋哲学って感じだけど、
対する唯識派の思想は西洋的合理主義に通じるものがあると思うんだ。

ってことで、出勤前に良スレage!
24名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/04(水) 09:15:35 ID:???
九識論について勉強したいなら良い資料があるよ。

http://iriab.soka.ac.jp/orc/pdf/ARIRIAB-02.pdf

創価大学国際仏教学高等研究所という研究機関が資料として作ったものだから、
偏った見解なんかは省かれていて勉強するには丁度いい。

まあ、参考までにね。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/04(水) 09:20:08 ID:???
>>24
君、おもろいやんけ
26興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/04(水) 10:02:06 ID:qnaYUYBM
>>23
>九識論の阿頼耶識って、やっぱアートマンですよね?
九識(阿摩羅識)や真如は非常にアートマンに似ていますが本質を無常とすると思います。

>九識論は分析的な傾向が強くて、縁起や空とは異質な発想だよね。
例えば竜樹の縁起や空は構造主義的で、いかにも東洋哲学って感じ
唯識学派も竜樹の中観派の一切空も同じく空にを説く証明方法であると思います、ただ一切を空とする不空による証明と、内界が外界を認識しその働きにより世界が成立し内界は有であり外界は無
内界に自性は空であると考え空を説くんではないでしょうか?
つまり、1+1という質問の答えは2ですが、1+1=2という答えだけでなく1+1=1×2であり1+1=1+1でもあるんでしょう証明方法は無数にあり、空の証明の手段として皆が手法を変えているんでしょう
つまり、母熱さん的に説明すれば構造主義的でも西洋的合理主義でも証明結果は一緒で方法が違うだけだと思います。
27興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/04(水) 10:03:56 ID:qnaYUYBM
>>24
四大学派の対比までは読んだ。
よくそんなファイルみつけましたね。その中に創価としての意見もあればおもしろいんですが…最後まで読んで見ます。
28母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/05(木) 08:23:57 ID:X7d7Xh3M
>>26
興味さん、レスどうもです。

>九識(阿摩羅識)や真如は非常にアートマンに似ていますが本質を無常とすると思います。

俺は阿摩羅識はブラフマンではないかと思ってました、汚れのない阿摩羅識を
仏性であり、生命(=宇宙)の根源であると教えられていたせいかもしれませんね。
上でアートマンと言った阿頼耶識は、三世の業が蓄えられた蔵という教え方を
されてきました、これは輪廻が前提にあり、無常無我に矛盾するような印象を
持っています、竜樹の空は"無自性"ですが、学会の九識論では阿頼耶識に
三世を超越した本質の種があるとされ、俺はそこに"自性"を見出してました。

>唯識学派も竜樹の中観派の一切空も同じく空にを説く証明方法であると思います。

唯識派と中観派は"空に至るプロセスが異なるだけ"という解釈ですか、なるほど〜
まず創価学会の九識論から入った自分とは、阿頼耶識や阿摩羅識のイメージが
かなり違うようですね、一般的にはそういう認識が主流なのかな・・・
学会の九識論からは、縁起や空よりも梵我一如が強く意識されるんですよ。
29母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/05(木) 08:31:30 ID:X7d7Xh3M
俺的には・・・

 阿頼耶識=凡夫の我=アートマン
 阿摩羅識=久遠本仏=常住不滅の存在=ブラフマン

こんな雰囲気なんですよ。
30興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/05(木) 22:40:53 ID:omoiwbfs
>>28
>阿頼耶識は、三世の業が蓄えられた蔵という教え方をされてきました、これは輪廻が前提にあり、無常無我に矛盾するような印象を持っています

京都学派の秋月氏なぞは唯識なんぞ輪廻説を無理やり解釈する為の方便だと切り捨てていますね、また唯識派と中願派は共に空や無我を解きまよ。
輪廻説については無記をもって回答とする人がいますが、仏教の下地としてある思想ですし無記である、それだけが答えとは少々乱暴だと思います。

>竜樹の空は"無自性"ですが、学会の九識論では阿頼耶識に三世を超越した本質の種があるとされ、俺はそこに"自性"を見出してました。

竜樹の空は"無自性"ですその通りです、一切空です。唯識は外界を認識する自己(我ではない)は有そして、それが認識する世界を無とします。
そして、その働きの一切は空とします。一切は空であり無我ですが、認識する働きに有を認めます。もちろん有も空であると考えます。
共に空や無我を語ります説明の仕方が違うんです。

>梵我一如が強く意識されるんですよ。
それは、学会の歌い文句ですが、功徳を実利としているからでしょう、生命スレで言いましたが功徳を実利とすると功徳を受ける当体が必要となるんではないでしょうか?
それが、梵我一如となるのではないでしょうか?
31名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/07(土) 01:29:23 ID:???
どうもファンタジーの世界は好きになれんな。
32母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/09(月) 23:00:02 ID:NgPS0zBE
>>29
ファンタジーですか、ははは!
俺的には九識論はオカルトです、感じ方は人それぞれですね。
33母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/09(月) 23:03:25 ID:NgPS0zBE
>>30 興味さん
>輪廻説については無記をもって回答とする人がいますが、仏教の下地としてある思想ですし
>無記である、それだけが答えとは少々乱暴だと思います。

つまり無記を輪廻の否定とは捉えずに、
釈迦の世界観は、輪廻と無常無我との止揚だと考えるべきという意味でしょうか?
実は最近、そのような解釈に行き着いたのです、以前は「Aか非Aか?」という
考え方に囚われて大混乱をきたしていたので、少し捉え方を変えている最中です。
例えば空という概念も「有るか・無いか」で考えていた頃は、扱いに苦労しましたが
「有ると無いとの止揚」と考えると、意外なほどスンナリと受け止められる事に
気がつきましたよ、おそらく般若心経を読んだ影響だと思います。

>そして、その働きの一切は空とします。一切は空であり無我ですが、認識する働きに
>有を認めます。もちろん有も空であると考えます。

その"有"が、"実有"か"仮有"かが問題だと思ってきたのですが・・・
空を有ると無いとの止揚と考えると、どちらでも構わない事なのかもしれませんね。
ただし俺の理解は超えてます(汗)
その解釈では、業という"存在"の恒常性を条件付で認めているような気がして、
違和感を覚えます。

>功徳を実利とすると功徳を受ける当体が必要となるんではないでしょうか?
>それが、梵我一如となるのではないでしょうか?

言われてみれば・・・そうなのかもしれません。
過去世・現世・来世での功徳を受ける当体を連想させる為の梵我一如、
そして現世・来世での功徳を約束する修行が学会活動(笑)
モチロン「邪推だ!」と言われればそれまでですが、合点はいきますから。
34興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/10(火) 00:37:43 ID:JIcC9FGO
>>33
ちょっと脱線しましょう。
>以前は「Aか非Aか?」という
考え方に囚われて大混乱をきたしていたので、少し捉え方を変えている最中です。
例えば空という概念も「有るか・無いか」で考えていた頃は、扱いに苦労しましたが
「有ると無いとの止揚」と考えると、意外なほどスンナリと受け止められる事に
気がつきましたよ、おそらく般若心経を読んだ影響だと思います。

「有るか・無いか」つまり有or無と言うのは分別智の働く無明の思考です、俗に言う二元論ですね。
この場合の普通の答えは有or無となります、しかし、有は無の対象として存在しているのではないでしょうか?
無が在るから有在りとなります。有在るから、無がある。逆もそうです。

言葉を置き換えましょう、「生・死」という二元論を対象として考えた場合、生と死は反対の意味で対象的だが
生が在るから死が在り、死とは生によって得られています。生・死はお互いを補完し合う関係であり対立関係ではない
二元論を超越した答えそれが般若空観です生or死という答えをもとめるのではなく生・死は関係論でしかないのではないか?
つまり、生死は単なる働きでしかないのではないか?諸法実相はこれら諸々の関係全てだと思います。

有るか・無いかと聞かれたら私なら般若心経のように「有るでも無く、無いでもない 無いでもなく、有るでも無い」などと言わず「在る」といいますね。
だから分別智を働かせ二元論の罠に陥らない方法として般若の知恵はあるんだと思います。
35興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/10(火) 00:45:16 ID:JIcC9FGO
>>33
>その"有"が、"実有"か"仮有"かが問題だと思ってきたのですが・・・
空を有ると無いとの止揚と考えると、どちらでも構わない事なのかもしれませんね。
ただし俺の理解は超えてます(汗)

そうですね、どちらでもなく、両方である。

バカボンのパパ曰く
「反対の賛成なのだ!!」
36名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 07:08:56 ID:???
ファンタジー = 空想(クソ)して寝ろ!

って意味だが?
37母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/10(火) 22:26:48 ID:G2sBzZjR
>>34-35 興味さん
>生が在るから死が在り、死とは生によって得られています。生・死はお互いを
>補完し合う関係であり対立関係ではない

そうか!
生・死を反対概念的に捉えていくのね、だから相互補完関係も成り立つし、
中間の概念が存在しちゃっても問題ないわけだ。
何でも対立する矛盾概念的に捉えていたから理解不能に陥ったんだな、俺は。
指摘&脱線ありがとう、少しだけですが理解が深まったような気がしますよ、
やはり対話は有り難い。
38母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/10(火) 22:51:14 ID:G2sBzZjR
対話といえば・・・
臨済宗と創価日蓮仏法、当にディアロゴスだね(苦笑)
39名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 23:42:19 ID:???
>>37
>生・死を反対概念的に捉えていくのね
横レスだけど、それは間違いですよ。
生と死は同じもので、中とか空といった概念もそこから来てる。
たぶんecoさんが言いたいのは生命にとって生死は
一体不可分なものってことだと思われる。
40興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/11(水) 00:37:21 ID:CBchjPjt
>>37
>何でも対立する矛盾概念的に捉えていたから理解不能に陥ったんだな
そうだと思います、対立とは互いの存在を認めるという意味でもあります。
片方を認めないなら、対立はありません。片方だけでは存在せず答えはありません

>>39
>生命にとって生死は一体不可分なものってことだと思われる。
そう思います、西田幾多朗はそれを絶対矛盾的自己同一といいますね。
41興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/11(水) 00:41:41 ID:CBchjPjt
>>37
中間ではなく超越だととらえてみては?
42名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 22:39:14 ID:???
>>39-41
それを「中道」って言うんじゃない?  わかって見ればなんて
ことはない概念だけど、カンタンだから逆にみんな信じること
ができないのかも、、、
43母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2007/07/13(金) 22:47:54 ID:IFxMxzn+
>>39
横レス大歓迎です。
ecoさん(?)も生命について書いておられるのかな・・・まあいいや。
生と死は一体不可分、つまり表裏一体という言い方をされますよね、
分る気もしますが、どうしても具体的なイメージが掴めないのです、
もう少し説明してもらえると有り難い。

例えば、生と死を反対概念ではなく、相関概念的に扱うべきという意味かな、
表と裏、あえて別の言い方をすれば原因と結果、上と下のような感じで、
結果は次の瞬間には原因にもなり得るし、下はより低い所から見れば上にも
なり得る、そういったイメージでしょうか?

>>41 興味さん
>中間ではなく超越だととらえてみては?

ああ、そうですね。
止揚には高めるという意味もありますから、中間より超越のほうが
適切なのかもしれません。
しかし・・・・・生と死を超越・・・・・割とよく耳にする表現ですが、
そのせいか少し意味がぼやけてしまう気がするんですよ。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 02:30:52 ID:???

だれ人にも平等に「死ぬ時」がくる。

どんなに「生死」をエラそうに、他人ごとのように語っても
おのれの「死」が怖くない人間はいねえわなw
45興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/14(土) 03:25:54 ID:???
>>44
死は怖いが、生きるのは辛いぞ。

意識を失う経験は存外悪くはないが、死とどう違うのだろうか?
死に立ち会う事はあるが、悶え苦しみ、胸を掻きむしり断末魔と共に死ぬのはほとんどないようだし、死の恐怖って苦痛なんかな?そこんとこどうなのかな?ぐらいだなあ。
46興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/07/14(土) 03:32:21 ID:???
>おのれの「死」が怖くない人間はいねえわなw

では何故、自殺者がいるんでしょう?
47名無しさん@お腹いっぱい。
国の調査によると自殺者の殆どが「うつ病」だと言われている。
精神病の人間に恐怖心とか、まともな人間の感覚はないでしょう。