浄土真宗の極意「今、まさに仏力を談ず」

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1名無しさん@お腹いっぱい。
浄土真宗の極意「今、まさに仏力を談ず」

ご信心になる方法はありません。真宗の信仰に入る道はないんです。それなのにみんな道があると思ってる。だいたい自分の思うとることが賢いと思うことから間違いだと親さまがおっしゃるのに、まだ自分の頭を使おうと思うとる。
真宗に入る道はない。真宗入門なんていらんお世話だ。入門するのもおればせんのもおる。そんな事、知るか。入門の道はない。何故か、真宗とは向うから来て下さる法である
2波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@佛所 ◆xd7mxrd9Z6 :2005/12/04(日) 23:57:13 ID:???
すれ違い、

削除申請予定。

sage進行ヨロ。
3名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/05(月) 00:04:50 ID:GNNGC/Tw
2のレスがなw

4名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/05(月) 00:12:48 ID:xSBGCbhc
真宗というのは、我何をなすべきかという説教は、せんことになっておる。
ところが、我々は、我何をなすべきかが問題になってしょうがない。なら真宗の説教は何かちゅうと、
「如来何をなし給うか。」これが真宗のお説教であります。
如来さまが浄土真宗、ご本願でありますから、如来さま何をなし給うかが、お聴聞であります。
しかし我々は生活者でありますから、何をなすべきかが気にかかってしょうがありません。
しかしどうぞご自分の中で工夫をこらして、自分にいい聞かせて、
「あんたあ、お念仏に関しては、我何をなすべきかを問題にせんようになさいませよ。
そして如来何をなし給うかを聞きたがる人間におなり」と言うようにした方がええ。
この如来さまからの言い方を、私どもは、約仏(やくぶつ)という。仏に約する。
仏さまの立場からのお示しに、気をかける人間になるのが大切であります。
我何をなすべきかというのは約生(やくしょう)であります。
私どもの側から、何をなすべきかということに気をかけていきますと、たいてい狂うてきます。
間違いではないが、そうなってきます。
例えば、ご安心(あんじん)のところでも「弥陀をたのむ」とありますね。
「弥陀をたのむ」とあるのは私どもの側です。
阿弥陀さまの側からいうたら、「たのませて、たのまれたもう親さまですよ」と言うんです。
「逃げる私を追いかけて下さる親さまですよ」ちゅうのが仏さまの側。
『御文章』の中でもありますよ。私どもの側、約生があります。「弥陀をたのめ」。
領解文の中にもありますね。
でもそれは間違いではありませんが、私ども自身が「我何をなすべきか」ということを、
朝から晩まで考えておる。そのやり方をそのままご法義の中へ持ち込んできますと、
他力がわからんようになる。
阿弥陀さまは他力であって、私がしゃんとしとるから救われるわけではない。
親さまがしゃんとしているから救われるわけです。
その親さまがしゃんとなさっていることに、気をつけるようになさった方がいいです。
我々のすることはご恩報謝であります。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/05(月) 13:50:17 ID:M302QDF3
学会の強引な勧誘とえらい違いだな。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/05(月) 14:11:29 ID:M302QDF3
信心はお助けの条件ではない。
信ずるのでお助けがあるのではない、お助けを信じるのである。

7日蓮:2005/12/05(月) 14:40:38 ID:???
念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説、スレ違いはsage進行
8名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/05(月) 18:45:24 ID:???
>>1
創価板のっとり?
9名無しさん@お腹いっぱい。
創価学会の強引な勧誘とえらい違いだな。

信心はお助けの条件ではない。
信ずるのでお助けがあるのではない、お助けを信じるのである。

真宗というのは、我何をなすべきかという説教は、せんことになっておる。
ところが、我々は、我何をなすべきかが問題になってしょうがない。なら真宗の説教は何かちゅうと、
「如来何をなし給うか。」これが真宗のお説教であります。如来さまが浄土真宗、ご本願でありますから、如来さま何をなし給うかが、お聴聞であります。
しかし我々は生活者でありますから、何をなすべきかが気にかかってしょうがありません。
しかしどうぞご自分の中で工夫をこらして、自分にいい聞かせて、
「あんたあ、お念仏に関しては、我何をなすべきかを問題にせんようになさいませよ。
そして如来何をなし給うかを聞きたがる人間におなり」と言うようにした方がええ。
この如来さまからの言い方を、私どもは、約仏(やくぶつ)という。仏に約する。
仏さまの立場からのお示しに、気をかける人間になるのが大切であります。
我何をなすべきかというのは約生(やくしょう)であります。私どもの側から、
何をなすべきかということに気をかけていきますと、たいてい狂うてきます。
間違いではないが、そうなってきます。
例えば、ご安心(あんじん)のところでも「弥陀をたのむ」とありますね。
「弥陀をたのむ」とあるのは私どもの側です。阿弥陀さまの側からいうたら、
「たのませて、たのまれたもう親さまですよ」と言うんです。
「逃げる私を追いかけて下さる親さまですよ」ちゅうのが仏さまの側。
『御文章』の中でもありますよ。私どもの側、約生があります。「弥陀をたのめ」。
でもそれは間違いではありませんが、私ども自身が「我何をなすべきか」ということを、
朝から晩まで考えておる。そのやり方をそのままご法義の中へ持ち込んできますと、
他力がわからんようになる。 阿弥陀さまは他力であって、
私がしゃんとしとるから救われるわけではない。親さまがしゃんとしているから救われるわけです。
我々のすることはご恩報謝であります。