★邪馬台国は、ウリナラが起源!!!★

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1 代理人
●邪馬台国の位置と性格
韓錫鳳/朝鮮社会科学院法学研究所所長

邪馬台国問題は日本の古代史だけでなく、初期の朝・日関係史の研究において
提起される重要な論点の1つだ。弥生文化時代に存在した邪馬台国は、朝鮮と
深い関係を持っていた。

日本の歴史学会は長い間、邪馬台国の位置の問題について論議を深めてきた。
それによると、大きく「九州説」と「近畿説」に分かれる。

「九州説」は「三国志」に基づいている。もちろん「九州説」にも肥後菊地山
門説、豊前宇佐地方説などいろいろある。最近では吉野ヶ里遺跡の発掘によ
り、「九州説」がいっそう有力になってきた。朝鮮の歴史学会は、邪馬台国が
北九州に存在したと見ている。それは朝鮮と無関係の国ではなかったと見るか
らだ。

邪馬台国が存在した3世紀は弥生文化時代であった。弥生文化の胎内から発
生・発展した邪馬台国は、弥生文化の影響を多く受けたはずだ。

周知のとおり、弥生文化は朝鮮の農耕文化から深い影響を受け築かれた。した
がって、邪馬台国もそのような角度から考察されなければならない。

「三国史記新羅本紀Aラ馬台国の卑弥呼が新羅をはじめとする朝鮮の
様々な国と使節の往来などの接触を不断に続けてきたことが示されている。同
時に、邪馬台国が日本列島の近畿地方に存在したのではなく、朝鮮と海を1つ
隔てた地域、つまり九州地方に存在したということも示唆している。

なぜなら、西部日本を統合することも出来なかった邪馬台国が、近畿地方に存
在したとは到底思われないからだ。3世紀の社会経済的な水準と権力の段階か
らすれば、その当時に日本列島が統合されていたはずはない。

邪馬台国は北九州に存在し、それは朝鮮の古代奴隷所有国家だった辰国(三
韓)、馬韓の強い影響を受けて成立した小国家だったと思われる。馬韓の人々
は海を越え、日本列島に少なからず進出・定着した。日本列島に馬韓の小国が
存在したことは、「宋書」倭人伝にも記録されている。

日本に渡った馬韓の人々は様々な遺跡や遺物を残したが、そのうちの代表的な
ものが吉野ヶ里遺跡だ。

その遺跡では2300余個の単独の墓が発掘され、特定の王族級の墓も判明さ
れた。

また北九州一帯は単独墓が集中してある地域で、玄界灘に面した糸島半島、博
多湾沿岸、春日市、太宰府市、筑後市、朝倉町、神崎町一帯など朝鮮と最も近
い海岸、またはその海と連なる平野の丘陵地帯に展開している。

朝鮮新報11月13日(月)号
2名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/17(金) 17:56 ID:???
読めないのでAGE
3早く専用スレ立ててよ : 2000/11/17(金) 17:58 ID:???
>>1殿
感謝です〜。
取り急ぎ、御礼まで。
4名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/17(金) 18:05 ID:???
なるほど、それで朝鮮や反日サヨクは邪馬台国が畿内にあっては困るのか。
そもそも、頭の悪い考古学者達が、出土する漢鏡の年代を無視して、
根拠なく古墳時代の始まりを遅らせていたから、九州説のような幻が長らえた。

年輪年代学の進歩で、土器型式から最初期の前方後円墳とされる纏向石塚古墳は200年頃の
ものと判明し、卑弥呼の墓は、最初の巨大古墳の箸墓古墳が有力になっている。
箸墓古墳には、吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)が並べられ、畿内と吉備が連合して、
前方後円墳体制を拡大し、西日本を統率するに至ったと理解できる。
百済や新羅が国家体制を確立するずっと以前に、倭国は強大な国家を確執していたってこと。

当時の東日本は、東海(狗奴国)発祥の前方後方墳体制が拡がって、対峙していたことが窺えるが、
その後、前方後円墳体制に変わっており、日本を統一し、朝鮮半島にも勢力を拡大していった。

これが、中国・日本・朝鮮の文献や、遺跡・出土品から見た、妥当な解釈でしょう。
5ホームランスレの21 : 2000/11/17(金) 18:08 ID:???
つっこむのは楽しいけど、果たして「朝鮮新報」が「マスコミ」と言える
のだろうか?三大紙やKBSのトンデモなら価値があるんだが…
6私が化石捏造ハンです! : 2000/11/17(金) 18:21 ID:???
>>1さん、あんがと。
う〜ん、この異様に辛口(唐辛子とニンニクとキムティーの香り)の電波!
dでも、痛い処、抽出。専門家の解説願いたし。
>朝鮮社会科学院法学研究所とは←何ぞや?
>邪馬台国は、朝鮮と深い関係を持っていた。←ホントか?
>弥生文化は朝鮮の農耕文化から深い影響を受け築かれた。
↑中国本土、東南アジアからの稲作文化渡来ルート説は、如何に?
>三国史記新羅本紀の記述は、まじか?
「卑弥呼が新羅をはじめとする朝鮮の様々な国と使節の往来などの接触を不断に続けてきたことが示されている。
同時に、邪馬台国が日本列島の近畿地方に存在したのではなく、朝鮮と海を1つ隔てた地域、
つまり九州地方に存在したということも示唆している。」
>日本列島に馬韓の小国が 存在したことは、「宋書」倭人伝にも記録されている。
↑ホントけ?「宋書」倭人伝てのは、中国の古書?何気に、半島の古書に記述が無いのか?
>日本に渡った馬韓の人々は様々な遺跡や遺物を残したが、そのうちの代表的な
ものが吉野ヶ里遺跡だ。←その根拠は、ゴッドハンドのわしもわからんぞ。
7私が石器捏造ハンです! : 2000/11/17(金) 18:27 ID:???
>>5さん
うん、確かにね。
あそこは、日本空手はウリナラのテコンドーが起源!!!
のところだからね。(笑)
8名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/17(金) 19:45 ID:xKYUq9dA
別スレになったのね
一応1の記事について補足します。

■「2000年前の東ア」大阪で学術討論/北南朝鮮学者も

東アジア国際学術討論会(歴史学・考古学)「2000年前の東アジア」(主
催=同大アジア研究所、後援=大阪府など)が11、12の両日、八尾市の大
阪経済法科大学で行われた。

同討論会は東アジアを中心にした国際学術交流会で、考古学・歴史学分野の公
開シンポジウムとして十数年前から開かれているもの。

2000年を記念した今回のテーマは、2000年前の東アジアと、日本列島
の文明化過程や国家形成過程のスタート時期と言われる「弥生時代」。南北朝
鮮、日本、中国、台湾、ロシアの学者10人が論文を報告、発表した。

休憩時間には、初顔合わせとなった喜勝・朝鮮社会科学院歴史研究所室長と
崔秉鉉・韓国崇実大学校教授が「民族共有の歴史を発掘し、朝鮮の文化を発展
させましょう」、「そうです。それはわれわれ民族共通の財産です」と語りな
がら、固い握手を交わす1場面も見られた。(関連記事)


■東アジア国際学術討論会

  「2000年前の東アジア」/朝鮮社会科学研究者報告

-------------------------------------------------------------------
大阪経済法科大学で行われた東アジア国際学術討論会(歴史学・考古学)
「2000年前の東アジア」では、北南朝鮮、中国、台湾、ロシアなどの学者
10人がそれぞれ論文を報告、発表した。その中から、朝鮮の学者2人の報告
(要旨)を紹介する。
喜勝・朝鮮社会科学院歴史研究所室長は、吉野ヶ里遺跡から出土した絹が朝
鮮の三眠蚕糸で織られているという立場から、朝鮮の古代絹と弥生文化につい
て言及している。韓錫鳳所長は、日本でも関心の高い邪馬台国についての歴史
考察を行った。
9名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/17(金) 19:57 ID:???
私は関西在住者ですが、因みに大阪経済法科大学は地元では「経法」と
呼ばれ、その…偏差値が…すこぶる…………
10名無しさん@お腹いっぱい : 2000/11/17(金) 20:11 ID:O8IEYfkI
自然風土から考えれば日本のほうが朝鮮よりはるかに豊かだから、
農業技術の発達していない古代ほど日本のほうが朝鮮より豊かだった
と思う。
文化は常に大陸→半島→日本の順に伝わったという発想も疑わしい。
ましてや政治権力の版図の大きさと中国文明とは無関係。
11名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/17(金) 22:11 ID:???
魏志東夷伝には、倭や朝鮮の諸地域の戸数を記しているけど、倭の方がずっと巨大。
古墳時代初期において、邪馬台国(畿内)は7万戸、投馬国(吉備)は5万戸だけど、
馬韓は50余国で計10万余戸、弁韓&辰韓は24国で計4〜5万戸に過ぎない。
12age : 2000/11/17(金) 23:06 ID:???
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。

好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。

考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期〜後期(5〜6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。


13名前入れなきゃダメなの? : 2000/11/17(金) 23:13 ID:???
>>9
>私は関西在住者ですが、因みに大阪経済法科大学は地元では「経法」と
>呼ばれ、その…偏差値が…すこぶる…………

ちゅうか、そもそもあそこは北に送金している総連絡みの学校だって
14名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/17(金) 23:14 ID:???
今度のパクリは邪馬台国か。
邪馬台国の起源は韓国にあり!!!
15歴史厨房 : 2000/11/17(金) 23:19 ID:???
>三国史記新羅本紀Aラ馬台国の卑弥呼が新羅をはじめとする朝鮮の
>様々な国と使節の往来などの接触を不断に続けてきたことが示されている。

歴史厨房でも分る事。当時朝鮮の国なんてないだろ?中国人の
殖民地があっただけ。笑わせる。終わってるんだよ。

三国史記新羅本紀・・・・これってなんですか?朝鮮人が歴史書物引っかき集めて
中世になってから捏造したお話?こういうお話って、引き継がれて来たものなのか
寄せ集めなのか調べれば分る事じゃないの?
卑弥呼や邪馬台国って魏志倭人伝読んで仕入れた知識だろう?
邪馬台国に関する記述が倭人伝以外にも残ってるの?
16名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 01:03 ID:???
これまで示したように、任那は倭国の直轄領で、新羅は属国だった
17名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 01:36 ID:???
鮮人は、都合が悪いスレは、みんな上げて隠そうとする根性がダメ過ぎ
18名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 10:16 ID:???
>日本列島に馬韓の小国が存在したことは、「宋書」倭人伝にも記録されている。

一目瞭然に分かるウソをつくのが、朝鮮の恥ずかしいとこ。(わらわら
倭国が海を渡って95国を征服したとの上表文、新羅・任那などの諸軍事を宋が認めたことは
書いてあるが、そんなことは一言も書いているわけない。
岩波文庫とかで読むか、本場中国の中華書局の本を読めばハッキリ分かる。
19暴君 : 2000/11/18(土) 11:17 ID:nBtdNtpo
なんか暇だなー
あくびが出て困るぜ
20名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 12:36 ID:???
朝鮮の捏造バカあげ
21豚いる慢性 : 2000/11/18(土) 12:46 ID:4kdAcG12
未安ハムニダー、ウリナラ駅舎家は漢文が読めないのです
22名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 12:55 ID:???
朝鮮が中国の属国だったという誤解をしている人がいる。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/6084/sakuhou.htm
23名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 14:08 ID:???
中国だけでなく、契丹や満州の属国でもあった。
モンゴルに直接支配されたり、日本に併合されたもある。
24在日二世 : 2000/11/18(土) 17:09 ID:???
 冊封という形式一つとっても、全く違う。

1、中国王朝側からは権勢誇示、夷狄側からは自己の権威付けに役立った、ほとんど義務規定の無い関係。
2、貿易のための名目的冊封関係。
3、完全に頭を押さえつけられ、多大な貢物を要求された関係。

 朝鮮が対中国で1の関係を保ったのは、せいぜい高麗朝初期まで。後は名実共に3の
属国扱いで、わずかに中国内乱期に独立を叫ぶのみ。それも混乱の収拾と共に鎮圧された。
 一方の日本は古代において1、中世において2の関係までで属国扱いは受けず、
近代を除く物理的な軍事力では最強の元による属国化の試みも、実力で挫折させた。


 1000年属国に甘んじていたとしても韓民族の誇りに傷がつくとは思えない。
むしろ、事実を歪曲することは誇り無き人間のすることだと強く思う。
 旧オーストリア帝国下の諸民族が、独立後に歴史を改竄しなければ誇りが
保てない等とは、まるで聞かない。
 東アジアに存在する国だからと言って、中国並の歴史のボリュームを捏造しなくても
良いし、日本並みの先進的な歴史を盗作しなくても良い。
 韓国にはそれなりのよさが有るのだから、それを誇りにすれば良いのだ。
25マンセー名無しさん : 2000/11/18(土) 19:08 ID:???
...
26裕仁(顔面神経痛) : 2000/11/18(土) 19:21 ID:???
ふん
27名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 19:46 ID:???
在日二世さんって本当に在日二世? 二世というと私と同じくらいの
世代だろうが、あなたみたいなひとばかりだと、半島や在日に関する
考え方も変わらざる得ない。
しかし、こんな人って私の経験だと1%もいない。
28名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 19:57 ID:???
>最強の元による属国化の試みも、実力で挫折させた。

ウソをつくな。完全に支配されていたじゃないか。
29名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 19:58 ID:???
28は読み間違い、すんまそん
30在日二世 : 2000/11/18(土) 20:19 ID:???
>27さん

 80年代中盤以前の韓国人が記した韓国史の邦訳版を読んでみてください。
 このくらいの常識的記述は、ちゃんと記してあります。
 80年代後半から、妙な記述がでてきはじめます。
 個人的にはソウル五輪以降からおかしくなったと思ってます。

#まあ、古代において朝鮮と中国は対等の力関係とかいう妙な記述も一部有り、
後の景気が良いトンデモ韓国史を彷彿とさせますが・・・・。
31在日4世? : 2000/11/18(土) 21:35 ID:???
日本が元を撃退できたのは、幸運(台風?)のせいもあった。
元軍の戦術が、日本の地形に合わないだろうから、上陸できて
も苦戦したとは思うけど。
32名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 21:41 ID:???
>元軍の戦術が、日本の地形に合わないだろうから、上陸できて
>も苦戦したとは思うけど。

確かに。森や林、田の多い日本の風土じゃ
弓兵が主軸の高麗軍、騎馬兵が主軸の元軍は
苦労するだろうよ。
どうしても近接戦闘に持ちこまないといかんもんなぁ。
33名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 21:47 ID:???
>>31
それは違うようだよ。NHKで見たけれど日本は「やぁやぁ我こそは…」で
武者が一人ずつ名乗っていたりしていたが、対して元軍は爆弾使ったりで明らかに
上だった。戦闘としては一回目は惨敗だった。それで次に備えて防塁造ったりなんか
して戦術を工夫して二度目に備えたんだよ。だから一回目に台風が来なけりゃ
相当攻め込まれていたらしいぞ。集団戦術の外国人相手に一騎打ち挑んでたんだから(w
34在日4世? : 2000/11/18(土) 21:50 ID:???
結局、元側は戦線を維持できなくなり野営地さえ作れずに、船に引き上
げたわけだ。
どちらにせよ、元軍は撃退されただろうと思う。
35名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/18(土) 21:56 ID:???
日本側、上陸地点付近の海岸線では、惨敗だったな。
元軍は押せ押せの戦いをしながら、なぜ、船に引き上げた?
3633 : 2000/11/18(土) 22:09 ID:???
>>35
NHKでも台風で片付けていたような、、記憶が定かでないけど。しかし
結局34の言うように兵站なしのため結局負けるんじゃないのかな、太平洋
戦争の日本軍みたいに。
37在日二世 : 2000/11/19(日) 00:08 ID:???
>35さん

 文永の役時、日本側は完全に元側を舐めきっていました。
 「恩賞をもらって貧乏から抜けたいのだが、敵の首が足りなくなるとおもう」
 という呑気な手紙を送った御家人すらいました。
 しかし、結果は大惨敗で、水際防御に失敗して主力は水城(唐・新羅の襲来に備えた
朝鮮式山城/元寇当時はほぼ遺跡状態)の防衛線まで撤収、そこを突破されたら
大宰府の陥落必至の劣勢に追い込まれました。

 にもかかわらず戦果拡大をせずに元軍は引き上げました。元にとっては対南宋決戦が
控えており、日本が敵に回らないように武威を示すだけで十分と考えたようです。
 しかし、対日侵攻軍は朝鮮の港に入る寸前に嵐に見舞われ、壊滅的な損害を受けました。
38名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/19(日) 00:27 ID:???
結局チョソは何もしなかったのかな?
ただ、元を煽って日本を攻めさせただけ?
39うをっ : 2000/11/19(日) 00:30 ID:???
鎌倉幕府の衰亡(1)
〜元寇〜
日本における戦闘の実際(一騎打ちの虚妄)
「武士の戦闘は一騎討ち」という固定観念は、いまだ根強い。関連書には、「日本の武士は名乗りをあげ、蒙古に一騎打ちを挑んだ」と書いてあるはずである。

しかし近年、この通説は、研究者の努力によって覆されつつある。

既に述べたように、我が国では、律令制以来、軍団制・健児制・選士制など、集団戦を想定した軍組織が形成されていた。

無論、武士団もまたこれらの影響を受けている。


http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3608/histo2.html
40在日二世 : 2000/11/19(日) 00:36 ID:???
 両方とも本気ではなかった文永の役時とちがい、弘安の役時は元側も
日本側も挙国一致でした。
 元側は予備兵力を残さない全力を日本に派遣し、日本側は防塁設置や
動員強化で対応しました。
 結果、第一次対日侵攻時と違って先鋒の東路軍は苦戦し、主力の江南軍
合流後も橋頭堡を築くにいたらず、食料が尽きるまで戦うか撤退かが
論議されていた時、嵐に見舞われたのです。
41名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/19(日) 00:53 ID:???
 一度目の日本侵攻に際しては当時の日本軍主力は太宰府に集結中だか
ら前線で戦ったのは方面軍隷下の一部前線部隊のみです。
 それらと戦って海岸橋頭堡を放棄して船に帰ったって事は継戦能力を
失うほどの損害を受けたと考えるのが妥当かと。
 敵集団に対して頭領以下武士団単位で突入・首取って引き上げは常に
強襲の形を取るから双方に出血を強いるわけで、戦力・補給の限られる
侵攻軍には嫌な戦法だったでしょう。
 敵を撃退して戦線を整えたところに次の集団が突っ込んできて掻き回
すわけだから損害が多い事を除けば遅滞戦術としもはそう悪くないと思
います。
 軍事板で聞けばもっと詳しい解説が聞けると思う。
42名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/19(日) 00:55 ID:???
元軍2万人、高麗軍1万人からなる元軍が10月3日に朝鮮半島の合浦の(ガッポ)を出発し、途中、、すでに5日に対馬、14日に壱岐を襲った。両島とも守備の武士が奮戦したが衆寡適すべくもなく一蹴された。

http://village.infoweb.ne.jp/~ikiko/ikihtm/IKIKOKU.html
43在日二世 : 2000/11/19(日) 01:04 ID:???
 ちなみに、第一次対日侵攻(文永の役)は兵力2万6千、第二次対日侵攻
(弘安の役)は兵力14万(東路軍4万、江南軍10万)でした。
 注目すべきは、元側が国内警備を除いての総動員だったのに対して、
日本側がほぼ同数の兵力で防衛したことです。
 しかも、日本側には板東武者が主力の予備兵力もあり、九州の御家人と
と元軍が激戦を繰り広げているさなか、山陽道を急行中でした。

 近年、高麗の奮戦が日本の勝利の主因だった等と、韓国や在日の
トンデモ史家が言っていますが、日本側は野戦で元と渡り合ったのに対し、
高麗は主に篭城戦で抵抗したのです。
 つまり、元の動員兵力に対抗できなかった高麗は城砦に立て篭もるしか
手が無く、元がそれを力攻めしなかった以上元軍の損害は限定的で、
時間稼ぎにはなったかもしれませんが、後の日本側勝利の主因にはなりえません。
44在日二世 : 2000/11/19(日) 01:05 ID:???

 日本側は文永の役後に元に対する報復のため、高麗侵攻を企てたりしました
(実行は無し。渡洋侵攻と専守防衛のどちらが有利かを図った結果、防衛に決定)が、
高麗は一度の敗戦で反撃の気が萎えてしまい、元の傘下にはいりました。
 しかし高麗は面従腹背で、元使を暗殺したり、南宋にひそかに援助したりしたため、
自ら元の侵攻を招いてしまったのです。
 しかも、戦況が悪くなるとほとんど無視していた日本に対して援軍を
要請したりしています。(文面は、「高麗を助ける事は、日本のためになる」
といった、義に篤い武士を萎えさせるようなものです。ちなみに、
日本からの断りの返書が届く前にあっさり降伏しました)
 高麗の対蒙古戦争はこのようなものでしたので、どれだけ日本の防衛に
役立ったか、あやしいものです。
45名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/19(日) 02:04 ID:???
>>44
42さんのリンク先と在日二世さんのレス見て勉強になりました。
ありがとうございます。
46名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/19(日) 04:22 ID:???
NHKでも適当に番組作ってるってこったな。
神風神話神国日本神話を破壊するところにサヨ的な喜びがあるのかと思ったけど(朝日新聞)
元軍とちゃんと渡りあったって事の方がウヨ的には嬉しいと
思うんだがなぁ。
47age : 2000/11/19(日) 11:13 ID:SkL0MtVM
学校では習わなかった真実がここにある
48金小中独島大統領 : 2000/11/19(日) 13:27 ID:???
焼かれとる・・・山が・・・・業火にさらされる・・・・
49名無しさん@お腹いっぱい。 : 2000/11/19(日) 23:50 ID:???
都合が悪いと、直ぐに荒らすのが、頭の悪い朝鮮人の悪い癖
まともな朝鮮人は、恥ずかしくてきっと泣いているぞ
50名無しさん@お腹いっぱい : 2000/11/20(月) 02:17 ID:???
 元寇ネタが出たからちょっと書くか。

 元寇で大活躍(?)した宗教家といえば、日蓮。

 「法華経(つまり俺様)を信じないから最近は世が乱れ、このまま法華経(俺様)を
無視すると内乱と外冦が起きる」とした、立正安国論を提出したが幕府は当然無視。
 あまりしつこいので佐渡に流されたが、二月騒動と元寇で予言が当たったと
有頂天になり、幕府も日蓮に興味を示したものの、一度の会見のみでやはり無視。
 無視しつづけられた腹いせに、身延山に引きこもって元寇で日本が敗退すると
予言したものの、これは見事に大ハズレ。
 敗北によって荒廃した日本を救う宗教家として脚光を浴びたいという、麻原の
ハルマゲドンを彷彿とさせる構想を持っていた日蓮は、最期の予言が大ハズレだった
事についての言及が無いまま、弘安の役の翌年、失意のうちに死亡。

 これほどのドキュン宗教家は日本史上希に見るが、そんなのを現在もありがたがって
いる連中の親玉がチョン。
 しかも、今はデージン(大臣)を何人か出してる与党。

 ものすごくやり切れないものを感じるぜ。
51名無さん@お腹いっぱい : 2000/11/20(月) 04:02 ID:???
お前学会員のチョンかよ?
52名無しさん@お腹いっぱい
>30 在日2世

その80年を境に論調が変わってきたという意見に同感
ですね。
実は70年代後半に韓国の企業に3年在籍していましたが、
その当時と80年代以降、最近の韓国人の思考はずいぶん
変わったと思います。当時の上司や取引先の方で植民地世代
の方には剣道、柔道家もいましたが、日本人の武道家の名前
はよく知っていても、まさか起源が韓国にあるなんて言う人
は一人もいなかったです。
 また日本語が達者なんで、植民地政策のことなどかなり
突っ込んだ話をしましたが、とことん悪く言う人はいません
でした。逆に日本から来た若者に対し、本当によくしてくれ
ました。今でも感謝してます。

その後の変化、やはり反日=ナショナリズム高揚教育の結果が
この行き過ぎた自己肯定に走らせていると思います。