新羅は倭人の国

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1名無しさん@1周年
朝鮮最古の正史〔三国史記〕では新羅の国の基礎を築いたのは倭人の
弧公という人物で、また昔氏という古代の王家も倭人だとなっています
この事について韓国ではどのように教育されているのでしょうか?
また韓国の人はどのように考えているのでしょうか?
2名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 11:39
勧告の教科書では触れてないんじゃない
3名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 11:43
>1
その部分の日本語訳を載っけてくれないかな。新羅の建国神話は日本の
と似てるとか聞いたことある。百済のだったかな?
4三國史記 新羅本紀:2000/06/29(木) 11:49
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki2/sangok-j.html
ここ漢文なんでよく分からない。
5名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 11:55
古代新羅には3つの王統があって
朴、金氏は降臨神話、昔氏は倭人系じゃなかったっけ
6名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 13:01
倭人というのは半島南部から九州北部にかけていた種族ではないかという
ことらしくて、倭人=日本人とここの常駐さん達が勘違いすると、また
彼らの現実への不満の捌け口になりますからこれを確認してお話を進めて
欲しいです。
7名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 13:14
中国、朝鮮の史書に出てくる倭人は現在の日本人の主要な構成種族と
考えて良いと思います
言語の同一性、3国間の古代文献の内容の一致性などからも
明らかです
8名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 13:27
話がずれますが、明治の元勲の孫の白洲正子女史は美術誌などで薩摩と
新羅の類似性を随分と気質まで含めて話していました。
天というのは騎馬系の持つ概念で、これは天から降りてくる降臨神話
あと、昔氏は海から大きな(桃じゃないのは間違い無い)なんかが流れて
きてという海洋系の始祖伝説だったんじゃなかったっけ?
これに新羅建国のなんかの由来があるんじゃなかったかな。多分朴、金氏
は中央アジア系、昔氏はなんかの海流とかで来た南洋系とか。
9名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 13:50
新羅は王家の伝説などみても海洋系と北方系の混合国家のようですね
魏志にも秦韓についてそのようなことが書かれています
ところで、天は「あま」でもあります
古代日本における天は騎馬系の概念なのでしょうか
海人系の概念なのでしょうか
10名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 13:57
韓国では壇君神話を教えてるぐらいだからな
11名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 14:05
日本の場合に当てはめられるかどうか別件として、中国思想においても
「天」は北方の騎馬系の文化の影響とされていますよね。
私見では高天原とかから海ではなく天ではないかと感じているのですが。
只これを以って近世を語るとずれますよね。しょうもない喩えですが、
あきらかに海人系の容貌の西郷隆盛は盛んに「天」を述べています。
文化とはそういうものでは?
大陸的な北方的な要素は縄文の関東に入植して成立した関東武士団と
その武士団が九州に移動したところに比較的に残滓が残っているのでは?
→「馬、船、常民」−東西交流の日本列島史− 講談社学術文庫
12名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 14:11
そもそも天孫降臨神話って中国、朝鮮、土着の神話を適当にごちゃ混ぜ
して作っただけだろ
ところで話題がずれとるぞ
13名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 14:17
そうか、韓国人はえらそうなこと言ってるくせに
自分たちが日本人のおかげで国を作れたのか
14名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 14:22
あげ
15名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 14:51
あげ
16>13:2000/06/29(木) 15:03
>ところで話題がずれとるぞ
むすこしだけ脱線お願い。
弥生人、倭人の関係が良く分からないです。誰かすっきりさせて。
17名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:27
一般に弥生人は渡来系と縄文系に分けられる
渡来系弥生人(彼らが倭人と呼ばれた)は水稲、鉄器文化の担い手で、
彼らの作った小国家群(奴国、邪馬台国)がやがて統合されて
大和王権へと発展していった
ちなみに現在の日本人は両者に百済、新羅などからの渡来人が
混血して、歴史的に形成された
18名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:33
>17
縄文系弥生人っていたの?
縄文人が先住で、大陸・半島方面からやってきたのが弥生人じゃ
なかったっけ。
ちなみにワシは体毛が濃い、耳垢ベットリ、体臭ある の縄文系。
19名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:38
形質人類学的に見ると近畿、九州は北方系が強く
東北、北海道は南方系が強い
これで日本民族がどのように形成されていったかわかる
20名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:41
>18
弥生人って言うのは弥生時代に日本列島に居住していた人々を
便宜的にそう言っているだけでしょ
従って縄文系も「縄文系弥生人」
21名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:43
17>一般に弥生人は渡来系と縄文系に分けられる

なんだこりゃ?
22名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:56

稲作を持って南方から来たのが弥生人じゃないのか?
北方半島系は稲作でなく麦しか取れなかったはず。
23名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 15:57
>全員まじめにかんがえんなアホども!
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/2479/
24名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:00
縄文人、弥生人というのは、もともとそれぞれの時代の
列島居住民を指す便宜上の区分。
弥生人=渡来系と捉えるべきではなく、
弥生(時代)人には渡来系と土着(縄文)系がいたと考えるべき。
前者がいわゆる倭人
25名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:24
どうでもいいが縄文期、それもかなり早期に米作はあったというのが、
最近の発掘から導き出されている大筋。

考古学って、最近パラダイム転換多くて面白いね。
26名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:27
なんか、話がずれとるなぁ。
弥生人の定義の問題よりも昔氏の話はどうなったん。
確か、新羅第4代国王昔脱解は倭国の東北の侘婆那(たばな?)
の出身とかのはず。
27名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:30
稲作自体は縄文期からあったのだろうし、
南方、北方両面から伝わったのでは?
ただ日本全土に伝わったのは弥生期だろう。
もちろん弥生時代の定義の問題があるが。
28名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:33
あー−なんだ、まどろっこしいな
29名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:41
age
30名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:45
天皇は騎馬系という説もあるし、
新羅は倭人系という説もある。
パラダイムだね。というよりも古代史には決定的な資料が無くて
個人の恣意的解釈によっていかようにも取れるということか。
31名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 16:51
昼はつまらん
32age:2000/06/29(木) 17:03
age
33名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 17:08
現在は親方が山陰の山林地主になっている多々良衆(もののけ姫でも縄文の東国から来た
主人公と敵対するだろう製鉄集団(天日矛=あめのひぼこ)やスサノオノミコトが
新羅系というのは一応古代史の定説になってますよね。

新羅の建築は石を多用した木造で素朴、百済の建築は(現存してるのは近畿地方に
しかないが)ほぼ木造で繊細というのも定説ですね。

倭というのは(古代に近代の国境はないから)北九州一帯と釜山一帯を本拠としていた
海洋系の部族だと思います。
この倭と北方系(中央アジア)の混合が新羅王朝だと思います。
34名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 17:44
あげ
35名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 17:51
朝鮮は日本固有の領土だ!!!
36名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 17:53
いらねーよ
37>33:2000/06/29(木) 18:12
定説になってないって。
製鉄技術の伝播は北回りからの物もあったし
スサノオが新羅に降臨したという記述はあるが
必ずしも、新羅系とは言えない。
と言う説がある。だけ。
38名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 18:41
>37
>スサノオが新羅に降臨、、、?、、、「降臨」?、、、?、、
君インターネットでしか字読まないような人?
文章もよくわかんないし、それになんでそんなムキになるんだ?
6さんの言ってた懸念は35以下37まで確かに出てきたな。
39名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 18:49
倭人=朝鮮南部、北九州の一部って言う説は古代に大和政権が
半島南部を支配下にしていたって言うことを
認めたくない人達の学説でしょう。
魏志や中国、三国史記、記紀、広開土王碑など見れば
倭=後の日本人主流派=大和政権だってのは当然
まあ、邪馬台国の時代はそれが大和王権かどうかは説の
分かれるところだけど。
韓国人はすぐに資料の曲解で古代日本は半島の支配下に
あったなどと言うくせに、自分とこの最初の
統一国家建国の歴史については何も言わない。
40名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 18:54
>37
>スサノオが新羅に降臨、、、?、、、「降臨」?、、、?、、
確か神話の中で一部そう言う部分があったはず。
これをスサノヲ=新羅系説の根拠とする人もいる。
41名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 18:59
なんだかちょっとおもろくなってきたな。
あげ。
42名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 19:16
ぎろんをもとむ。
43名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 19:32
>28
>あー−なんだ、まどろっこしいな
倭人のことあいまいにしとくと話が混乱するんだ。

こんなところか。
24
弥生(時代)人には渡来系と土着(縄文)系がいたと考えるべき。
前者がいわゆる倭人
33
倭というのは(古代に近代の国境はないから)北九州一帯と釜山一帯を本拠としていた
海洋系の部族だと思います。
この倭と北方系(中央アジア)の混合が新羅王朝だと思います。
39
倭人=朝鮮南部、北九州の一部って言う説は古代に大和政権が
半島南部を支配下にしていたって言うことを
認めたくない人達の学説でしょう。
魏志や中国、三国史記、記紀、広開土王碑など見れば
倭=後の日本人主流派=大和政権だってのは当然
まあ、邪馬台国の時代はそれが大和王権かどうかは説の
分かれるところだけど。

44名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 19:42
新羅が倭人の国っていうのは反韓派にとって
大きな武器だな。しかも自国の歴史書にそう書いてあるんだろ?
トンデモ説の騎馬民族説とは大きな違いがあるな。
45名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 19:46
24説、33説は時系列がわかるけど、
39説は、年表で調べたわけじゃないけど倭人と新羅の成立という年代とその
後の年代のことをぐちゃぐちゃにして言ってる感じで少し眉唾のような?
だれか教えてください。
46名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 19:50
44さん、
上でも最初にこういう懸念があったんですから、
>とここの常駐さん達が勘違いすると、また彼らの現実への不満の捌け口になりま
すからこれを確認してお話を進めて欲しいです。
一定の意図でまた始めないで下さい。
純粋に興味で見ている者もいるのです。
47名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:07
魏志倭人伝では倭人は半島南部と日本列島にまたがって存在していますね。
邪馬台国が九州にあったか、畿内にあったかは別にして
この倭人が後の大和王権を作った人々と同系統の人々であることは
「ヒコ」や「ミミ」の称号、国名などからもそうでしょう。
4世紀になると倭人=大和王権ととらえてもかまわないでしょう。
中国、朝鮮、日本の文献史料等の内容が一致するので。
ただ古代の国家、民族の形成については
冷静かつ純学問的に議論を進めるべきです。
過去100年間イデオロギーとナショナリズムに翻弄されてきた史学会の
過ちを繰り返すべきではありません。
48名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:12
なんかこのスレ議論がずれとるなぁ
49名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:13
46−>47
サンキュー
46−>44
来ないでね
50名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:25
46−>47
サンキュー >48
いえいえ
この学説については私も以前より気になっていました。
しかし過去の日韓の不幸な歴史の影響で学会でこの説に
触れることはタブーであったと思います。
日韓両民族が歴史的にどのように形成されていったかを
追及することは互いの文化を認め合う上で良いことだと思います。
月並みに言えば過去から現在に至るまで
両国は互いに大きく影響を与え合ったということでしょう。

51>45:2000/06/29(木) 20:27
33説のほうがよっぽど滅茶苦茶じゃないですか?
スサノオが新羅系って古代史と民俗学をごっちゃにしてるとしか思えない。
スサノオのような神は複合的な性格を持っているのが当たり前。
どこ系だのといった議論は無意味です。
それと近畿にある寺院建築は伽藍配置が百済系、高句麗系などといったことは
分かってるけど、最古の木造建築である法隆寺すら百済滅亡後に建造されたも
の。百済の建築が近畿に現存とは何を考えて言ってるのでしょう?
新羅の木造建築も残存していないし、統一新羅時代の石造建築の繊細さは有名
でしょうが。
52名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:27
日鮮同祖論!!!!!
朝鮮はにっぽんのものだーーーー
きききききき
53名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:34
過去50年間、韓国、朝鮮の歴史学者はいかにして史実を
歪曲し古代朝鮮国家が偉大であったかを捏造することに腐心してきた。
だって彼らは百済や新羅の人質を
「日本統治のため駐在してただけなんて」言うんだもん。
話になんないよ。
54名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:39
コ公という人は新羅の第2代の王に仕えて
国家の基礎を固めた人らしいです。
ちなみに新羅の建国は紀元前1世紀のこととされています。
韓国でどのように評価されているかは知りません。
55名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:44
古代の大和政権が新羅や百済を従属させていたかどうかは分からない
けど、百済や新羅より優位にたっていたことは間違いないと思います
が。なぜなら百済や新羅は強大な高句麗に対抗するために倭と同盟関
係を結ぶ必要があったでしょう?当時の倭が新羅や百済の先進的な技
術を求めていたとしても、国の存亡に関わるほどの問題ではなかった
はずです。百済が先進国だから優位な立場にあり、日本に文化を教え
てあげていた恩人だ、などといった韓国の考え方は当時の国際情勢を
無視して現在の先進と後進、つまり日本と韓国のイメージを勝手に古
代に持ち込んだ妄説だと思いますがどうでしょうか?
56名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:47
>51
>最古の木造建築である法隆寺すら百済滅亡後に建造されたもの。

滅亡したから来て作ったんじゃないの。


57>54:2000/06/29(木) 20:49
邪馬台国の時代にまだ国家として統一されていなかったのにどうやったら
紀元前に新羅が建国されるんだろうね?
58>56:2000/06/29(木) 20:52
あんた日本は百済の亡命王朝とかいう珍説を信じてるのかい?
59名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:53
>55
その事は三国史記や日本書紀、古事記等の史料などから
見ても間違い無いと思います。確かに代々倭に人質を送っていますし。
そもそも百済最後の「王」豊章(ほんとは王へんです)も倭国
から半島に戻って戦をしていますし。
60名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:58
>57
ごめん、もう少し意味を解説して。
6155:2000/06/29(木) 21:02
>59
ありがとうございます。そうですよね。
常識的に考えればそうとしか思えませんよね。
しかし豊章以前にも人質を送っていたのは知りませんでした。
62名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:02
>57
年代等も含めて新羅の歴史は4世紀くらいまで
日本の古代と同様、厳密な史料批判を必要とします。
ただ、コ公や昔氏の伝承は一定の史実を含んでいる可能性が
高いのではないでしょうか。
ちなみに新羅建国は紀元前1世紀ですがそのころは
斯濾国(字が違うけど勘弁してね)という
半島東部の1小国です。つまり、ほぼ同時代の奴国などと
同規模だったろうと思います。
63名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:02
新羅が何系ってのは上に出てきたが、百済や伽耶(任那?)はどう?
ここらへんの古代史って色々あって、訳が分からなくて、もう読む
の止めたのよね。ずぼらで申し訳ないが、教えて。
64名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:04
>55

SAPIOに発表して下さい。
6557:2000/06/29(木) 21:11
>60
新羅の前身と言われる辰韓は東夷伝の記述によると少なくとも3世紀
ごろは12カ国の国からなっていた。それが4世紀ごろに統一された
のが新羅。紀元前に建国なんて神話を鵜のみにしたたわ言。ただ54
さんもそれくらいはわかってて、ただ韓国で授業などでとりあげられ
る年代をあげただけかもしれません。
6657:2000/06/29(木) 21:14
>62
ごめんなさい。統一したしろ国のこと言ってたのね。
でもそれにしたって邪馬台国が大和の前身かどうかという問題と同じく
あくまで推測で、難しい問題ですよね。
6755:2000/06/29(木) 21:16
>64
SAPIOってなんですか?
68名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:19
日本で一番古代史に関して水準が高いとされる雑誌です。>55
69名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:23
どうも議論を聞いていると
「しろ国(後に、新羅と改称)」(?〜4C)
秦韓を統一した新羅(4C〜7C)
統一新羅(7C〜)
を混同しているみたいです。
コ公は半島の1小国だったしろ国の時代の人とされています。
7069:2000/06/29(木) 21:26
>66
ごめんなさい、反論が遅れた。
気にしないで。
>67
よしりんが漫画を書いている雑誌
71名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:32
朝鮮が我が日本帝国の固有の領土であることが証明された。
反韓派よ、いまこそ立ち上がれ!!!!!!
72名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:34
このレスはアカデミックだな
73名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:36
↑71
ここって結局こうなっちゃうんだよな。
7455:2000/06/29(木) 21:36
>67、>70
古代史に関して最も水準の高い雑誌によしりんが漫画描いてるんですか?
ちょっと信じられないのですが・・・。
75名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:38
>71
あんたはうせろ
76名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:40
>71
低教育層のスレに行って分析対象になってこい。
77名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:43
68の発言はジョークなんで気にしないでね。
よしりんの漫画は本当だけど。
78名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:48
ひひひひひひひひひ
7977:2000/06/29(木) 21:48
>67って自分にレス返しちゃいましたね。
>68の間違いでした。

>77
一瞬本気にしてしまいました。笑わないでね。
8079:2000/06/29(木) 21:50
また間違えた。自分は77じゃなくて74です。
81名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:53
混乱してる人が約一名
発狂してる人が約一名?
82名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:55
桓武天皇の母は百済王の末裔だし高句麗王の末裔も
日本にいるらしいし、わが国の領土を簒奪した
高麗、李朝は滅ぼして正解だったな
83名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 21:56
ところで1レスの答えは?
84名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 22:00
>83
そんなん、どうでもええ
85名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 22:05
でも朝鮮の連中が自国の最初の統一国家建国に倭人が
関っていた事についてどう歪曲してるのか興味あるよな。
誰か知らないの?
86名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 22:10
もっと過激な反韓攻撃を期待するぞ!!!!
87名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 22:50
age
88名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 23:53
age
89名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 01:21
a
g
e
90名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 06:54
age
91名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 09:42
あげ
92名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 14:50
age
93名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 16:04
朝鮮は日本の領土
94:2000/06/30(金) 16:14
おまえらふざけるな!!!
朝鮮は誇りたかき独立国として外圧を跳ね除けてきたんだ!!
95:2000/06/30(金) 16:17
歴史を歪曲するのはやめたまえ!!下劣漢ども!!
96>94:2000/06/30(金) 16:22
そぉ〜だねぇ〜、神話の時代から朝鮮とういう偉大な国は
中国もモンゴルも日本の圧力を跳ねのけてきたんだよね〜
その通りだとおもうよ、おれもそう思っているぞぉ〜
今、俺と君の歴史観が同じということに、猛烈な感動を覚えている。
歴史の共有は可能なんだ!!

だから日本が朝鮮を植民地にしたこともないし
ましてや従軍慰安婦なんて存在していないんだよ〜
よかったよかった。
97:2000/06/30(金) 16:31
話を勝手にすりかえるな!!
それは別問題だろ!天皇制日本帝国主義の朝鮮植民地支配によって、
朝鮮民族は辛酸をなめさせられ続けたんだ!!
その代償は現在に至ってもなお払われていない!
「慰安婦」問題に対する日本政府の態度は決して許されるものでないんだ!わかってるのか!!
98名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 16:34
わからん \(?。?")ナンノコト?
99:2000/06/30(金) 16:36
日本は人権問題に対する姿勢が極めて消極的なんだ!!
世界有数の人権後進国だ!!!
国際的な圧力をかけ続けていくことによって、日本政府に人権保証を求めていくしかないんだよ!!
100:2000/06/30(金) 16:39
わかったかおまえら!
朝鮮人問題はおまえら日本人の問題でもあるんだよ!!
朝鮮人への差別的な扱いを容認してきたのがおまえら日本人なんだ!!
何かスレッドのタイトルに関係ない話になってきたじゃねえかおまえらのせいだ!!!
101名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 16:45
mushi mushi
102名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 16:46
>85
>でも朝鮮の連中が自国の最初の統一国家建国に倭人が
関っていた事についてどう歪曲してるのか興味あるよな。
誰か知らないの?

韓国中学校教科書ではその頃の倭に関しては2回出てくるよ。
百済が新羅だか高句麗だかと戦争する歳に倭の勢力を入れたとか、
伽耶が鉄とかの交易を倭としたことかな。
それだけだな。楽浪時代には半島に○○とかの見慣れない国だか部族があって
その南に三韓があること、ついで高句麗、百済、新羅の3国時代にさっと移る。
伽耶もおまけでかいてあるが、百済、新羅にぼこぼこにされて滅んだ程度。
独自の文化もあったとかサラっとかいてある。建国の経緯とかは詳しくは書いて
なかったと思う、今手元に翻訳本がないのでこの程度だな。


103102:2000/06/30(金) 16:52
それから、何それを日本に伝えて上げたってのはもちろんしっかり書いてある。
漢字の何とか博士もね。とにかく一方的に善意で何かしてあげたかのごとくにだな。
104>朴:2000/06/30(金) 16:55
はいはい、嘘つきコリアンは困りまちゅねぇ〜
韓国ほどの超ド級差別国家はないのにねぇ〜
日本人からみたら完璧な歪曲捏造歴史認識教育がいきわたってて羨ましいかぎりですな。
10581:2000/06/30(金) 16:59
「朴」は単に日本人の反韓感情を煽るだけの日本人電波だよ。
106:2000/06/30(金) 17:16
>105
証拠を出せっっ!!!証拠を出せっっ!!!証拠を出せっっ!!!
107名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 17:44
朝鮮人は「われわれが日本に文化を教えた」って言ってる割に
王仁にしろ、他の奴にしろもとは中国系なんだよね。
漢、魏の植民地の遺民。
108>106:2000/06/30(金) 17:52
孤児の輸出。
黒人への差別・イヤガラセ。
外人と結婚した女は非国民扱い。
とうぜんその子供もハーフとしてまともな
仕事にはつけない。

多すぎて書ききれない。朴は韓国に行ったこともない
ヘタレ在日なのか、単なる基地外なのかよくわからんが
一応マジレスしとく。
109:2000/06/30(金) 18:19
別に韓国を賛美しているわけじゃないぞ!!
ごたく並べる前に自分の国の人権問題についてもっと考えたらどうだ!!
在日朝鮮人への差別にはじまり、女性差別、警察による人権侵害、
入管法による外国人管理等々上げればきりがないわ!!!!!
自分の国の問題を棚上げしといて他国批判とはおこがましいにもほどがあるぞ!!
110:2000/06/30(金) 18:24
てめえらの問題点を隠蔽するんじゃねえ!!!!!
111>109:2000/06/30(金) 18:25
お前がいえたことかよ
112名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 18:28
んで、朴くんは新羅が倭人の国だって事に対してどう思ってんの?
おたくの国の正史にそう書いてあるんだけど。
113>109:2000/06/30(金) 18:31
その言葉そっくりそのまま返すわ!!ぼけ!!
114:2000/06/30(金) 18:33
>113
なんだおまえ人がせっかく具体例をあげてやってるのにその態度はなんだ!!!
くだらない幻想なんて捨てちまえ!!日本と朝鮮半島は共に歩まなければならないんだよ!
115:2000/06/30(金) 18:34
>112
統一王朝の新羅が倭人の国なのかよ!三国時代じゃないぞ!
116名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 18:36
1スレの答えはなんなんだ−−−−−
117名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 18:38
>112
統一王朝の新羅が倭人の国なのかよ!三国時代じゃないぞ!
別に倭人の王家があってもいいわけね。
118>朴:2000/06/30(金) 18:40
その具体例全部さらに強烈に韓国にあてはまるだろ。

てゆーか、朝鮮半島は邪魔です。借金も返さなくて
いいので国交断絶してください。
119>109:2000/06/30(金) 18:41
在日なのか、留学生なのか、日本人なのか、韓国からかいている
韓国人なのか。
まず、自分の立場を明らかにしてくれい。
歴史教育とおかれている立場の背景が想像できるから。
韓国の事情について知っているかも大体わかるだろう。
女性差別は韓国の方が激しいのでは?
国際的な人権団体に日本がその点でつきあげくらったてはなしは
聞かないけど。少なくとも東アジアの中では一番進んでいる社会だとおもう。
それとも最近、キリスト教の影響でなくなってきてるの?
もっとも、キリスト教の中にも新約に妻は夫に従うべきであるという記述
あったけど。
日本人がかたって荒らしている場合もある。
あと、在日や留学生なら、日本から帰れば?
いやなのに無理していることないと思う。
その点、多くの日本人は理解できない。
120:2000/06/30(金) 18:47
>118
人の国勝手に侵略しといて何言ってんだ!!
植民地支配の代償は重いんだよ!!早く償うよう政府に要求するのは
われわれもそうだが、おまえら日本人の義務でもあるんだよ!!!!
121>120:2000/06/30(金) 18:51
てゆーか「ウェルカム・ジャパン」みたいな
一進会系朝鮮人がたくさんいたから併合できた。

インドネシア人

「わが国はオランダに350年間支配されたが
慢性謝罪要求体質の韓国と違い金をくれなどと
言ったことは一度もない。

韓国と違い我が国には誇るべき文化とプライドが
ある」

インドネシア>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>韓国
122:2000/06/30(金) 18:54
>国際的な人権団体に日本がその点でつきあげくらったてはなしは聞かないけど。

何を根拠にそんなこと言ってんだ!!1985年に批准した女性差別撤廃条約
に照らし合わせても、かなり遅れてるよ!
実際、規約人権委員会で何度か指摘されてるんだよ!!官僚や国会議員の数を見てみろよ
ほかの先進諸国と比べて断然少ないぜ!!
韓国?そりゃ遅れてるよ!!その事実は認めるぜ。前時代的な儒教思想に
固執するやつにはヘドがでるぜ!!
123>122:2000/06/30(金) 18:59
結局お前は祖国も嫌いだし、
今住んでいる国も嫌いなんだな。

奴隷階級の子孫の知能がよくわかるよ。
124:2000/06/30(金) 19:00
>121
誰に語らせてるんだ!!!悪質なレトリックには引っかからないぜ!!
実際被害をこうむった人民がそんなことを言ってるのか!
どうせオランダの植民地支配時代にその恩恵を受けた一部の特権階級だろ!!
汚い手を使うんじゃない!!先鋭化した冷戦構造の下、アジア各国に成立した
独裁政権は言論統制を敷き、民主主義を極度に制限したんだ!!!!
その中にあってちっぽけな力しか持たない人民の声は押さえつけられてきたんだろーが!!
125>朴:2000/06/30(金) 19:01
もしかして本物の姦民族?
やったっ!!うれしい!!本場もんがきたみたいだっ!!
126:2000/06/30(金) 19:02
>122
奴隷階級とはなんだ!!!何を持ってそんなことを言ってるんだ!!
論証してみろゲス野郎!!!!
127:2000/06/30(金) 19:04
>姦民族
字が間違ってるぞ文盲野郎!!!わが誇り高き民族の名を汚しやがって!!
128>朴:2000/06/30(金) 19:04
その言葉使いが奴隷根性丸出しです。
129名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:05
あげ
130>朴:2000/06/30(金) 19:05
姦民族は他の国の文化を姦するから、それでいいのです。
131:2000/06/30(金) 19:11
強制的に他国の民族の文化を抹殺したのは日本だろ!!!
歴史をすりかえるなゴロツキ野郎!!!!!
132:2000/06/30(金) 19:16
とにかく!!
日本の挑戦植民地支配について早く謝罪して代償を支払うんだ!!!
国交の正常化はそのあとだ!!
133名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:16
あげ
134>朴:2000/06/30(金) 19:18
お前の先祖は白丁だから、苗字も与えらない
「話す家畜」だったのさ。

てゆうかインド、マレーシア、インドネシア
タイを旅行したが、民衆も過去のことなんて
どーでもいいって感じだった。

昔の話を持ち出して金をせびるのは
世界の常識ではとても恥ずかしくて情けない
コトなんだよ。
135>朴:2000/06/30(金) 19:18
つーか、誰も国交なんて望んでないぞ(ワラ
姦民族とは国交断絶したいくらいなのにな(ワラ
136:2000/06/30(金) 19:20
多くの日本人は望んでいるのだ!!!!
ここにいるキチガイどもと一緒にするなよ!!!
137:2000/06/30(金) 19:23
>お前の先祖は白丁だから、苗字も与えらない「話す家畜」だったのさ。

何を言ってるんだこの差別主義者め!!!仮にそうだったとしてもそれがなんだ!!!
被差別民に対しては補償の必要がないのか!!まったく頭の回路どうかしてるな貴様ら!!!
138>朴:2000/06/30(金) 19:24
多くの姦国人は朴みたいな奴でないことを望む(ワラ
139韓国のGDPは…:2000/06/30(金) 19:24
大阪と同じ規模。

しかも破産中。

なんでそんな国に機嫌取ってまで国交結ぶ
必要がある?
140:2000/06/30(金) 19:25
>てゆうかインド、マレーシア、インドネシア
 タイを旅行したが、民衆も過去のことなんて
どーでもいいって感じだった。

どういうことだ!!!ちゃんと現地の人と話したのか!!疑わしいな。
てめーみたいな奴がいるから事実が歪曲されて伝わるんだ!!!
141>朴:2000/06/30(金) 19:27
日本はそんな一族にも立派な名前と教育を
与えて、密入国してきた連中の子孫である
お前は自由な日本でヌクヌクと育ちパソを
いじっている。
142>朴:2000/06/30(金) 19:28
少しは学習しようよ…
143>140:2000/06/30(金) 19:30
オレは英語とヒンドゥー語を話せる。
滞在も3ヶ月〜半年の長期だ。

お前は韓国語くらい話せるんだろうな?
144名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:31
韓国人は、日本人の左翼ですら右翼にしてくれる、右翼にとって
まっことありがたい民族だ。
145>朴:2000/06/30(金) 19:31
 オレのじいちゃんは、タイやミャンマーで現地の人と軍歌歌うのが趣味で、
何回も行ってます>大東亜共栄圏。

146:2000/06/30(金) 19:32
>139

すべて日本のせいだっっ!!!とは言わないが、朝鮮植民地支配に起因する
南北分断が現在の状況をもたらしたのは事実なんだよ!!!!
てめえらちょっとは自国の加害性を認めたらどうなんだ!!
IMFによる構造調整政策によって途上国をはじめ韓国も国内経済が
ズタボロになってんだ!!IMF出資金の第2位が日本なんだ!!!
だんだんわけがわかんなくなってきたぜ畜生!!!!!
147名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:33
朝鮮は歴史も文化も無い国だ
148>140:2000/06/30(金) 19:34
>ちゃんと現地の人と話したのか!!

バラナシではリクシャワーラーを殴った韓国人が
殺された。

インドネシアではオランダからの観光客にも
差別的な奴はいない。

マレーシア人の多くはイギリスを責めるどころか
英語ができることを誇りにしている。

オレの感想。

マレーシア>>>>>>>インドネシア>>>>>
インド>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>韓国
149:2000/06/30(金) 19:34
>オレのじいちゃんは、タイやミャンマーで現地の人と軍歌歌うのが趣味で、
何回も行ってます>大東亜共栄圏。

個別的事例によって戦争の悲惨さを覆い隠すのがてめえらの手法かい?
もう飽き飽きしたんだよそんな話は!!!!消えろ!!!!!
150名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:36
タイやミャンマーといつ戦争した?
151日本が…:2000/06/30(金) 19:36
守らなかったら今ごろお前は
「イワンの馬鹿」

日本の融資が無かったら
今ごろ韓国はミャンマー以下。
152>150:2000/06/30(金) 19:38
一応支配したし、今でもみやげ物屋で
当時の軍票売ってるよ。
153>朴:2000/06/30(金) 19:38
既に日本は戦争責任について認めてるだろ?
しかし当時の背景を考えればソ連、アメリカ、中国、日本、韓国自身にだって責任はおおいにあるはずだ。
チョソンの連中はそれを100%日本の責任にしたいだけだから、反発されるんだ。
だから自省の念のかけらもない姦民族は駄目なんだよ。おわかり?
154150:2000/06/30(金) 19:40
>152
支配したのは分かるけど現地の人と戦争はしてないだろう。
155:2000/06/30(金) 19:40
>141
密入国?ふざけるのもいい加減にしろ蛆虫野郎!!!!!
朝鮮人民は土地調査事業による土地の収奪や、日本の資本による搾取によって
自らの生活基盤を失い日本に渡航したんだ!!!!
歴史を歪曲するのはやめるんだ野蛮人め!!!!!
156名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:42
朴さんよ、馬鹿相手にすんのもうよせよ。こいつら子供が変なこといって
相手にしたり注意すると喜んでもっとやったりすんのと同じなんだから。
俺は日本人で仲間に見ろって言われてここに来た思想はあんたと反対方向
の者だけどあんたの為にも相手にすんのやめた方がいいよ。
157>155:2000/06/30(金) 19:44
まっとうな韓国人は戦後みんな帰国してるよ。

てゆーかお前、日本が李氏朝鮮の腐敗を正して文明化してやった
ことすら知らんの?
158:2000/06/30(金) 19:44
>153
どう認めてるんだ!!65年の日韓条約は経済協力という名目で謝罪を伴ったものではいぞ!!
正式な謝罪と被害者に対する補償を行えって言ってるんだ!!!!
実際に植民地支配したのは日本だろどうやって他国に転嫁できるんだ!!
159>158:2000/06/30(金) 19:46
意味がよくわからないので
出直して来てください。
160名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:47
>朝鮮人民は土地調査事業による土地の収奪や、日本の資本による搾取によって
>自らの生活基盤を失い日本に渡航したんだ!!!!
>歴史を歪曲するのはやめるんだ野蛮人め!!!!!
アンタモヤメルベキダナ!!!!!
161名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:47
なぜ植民地に賠償しなければならいの?
162:2000/06/30(金) 19:47
>157
まっとうなってなんだ!!!
朝鮮において生活基盤を喪失し、日本に基盤を移した人がどうやって帰れというのか!
帰っても生活できない状況を酌みやがれ!!!
植民地支配を正当化するおまえみたいな奴がいるから人権後進国なんだよ日本は!!!!!
163国際法では…:2000/06/30(金) 19:49
併合された朝鮮も日本と同罪だから、
請求権はない。

もっと言えば、チョソンも「戦犯」
164:2000/06/30(金) 19:50
>161
被害を与えたんだからそれに対する償いは当然だろ!!!
どういう感覚してんだおまえ!!!
165名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:50
あげ
166>162:2000/06/30(金) 19:51
つまり祖国が貧乏なら日本に密入国しても
認めろってこと?

イヤ。
167名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:52
がんばれーーー
168名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 19:52
>木ト
ベトナムに対する韓国の補償は?
169>164:2000/06/30(金) 19:53
李氏朝鮮の借金を肩代わりして
文明化してやったんだから貸しがある。

どんな被害を受ければ犯罪が減って
人口と所得が2倍になるんだ?(笑)
170:2000/06/30(金) 19:56
だから密入国ってなんだ!!!
労働力を大量に戦争に動因した結果、労働力不足に陥った日本の資本
が朝鮮の労働力を欲したんだろ!!!朝鮮人労働者の存在がなければ
日本経済が立ち行かなくなったから動員したんだろうが!!!
171>170:2000/06/30(金) 19:58
意味がわからん。

水飲み百姓が地主の功績を自慢するような
レベルの話だな。
172:2000/06/30(金) 19:58
>169
何が文明化してやっただ!!都合のいいように解釈すんなぼけ!!!
日本帝国主義による植民地支配を円滑に運営するためにとった政策だろ!
結果論で物言うなよてめえ!!!!
173:2000/06/30(金) 20:01
とにかくもっとまともな意見が書けるようにおまえらの差別意識を改めるんだ!!
もう帰るぜ!明日な!!!!
174名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 20:01
>164
植民地に国家賠償する義務なんてありません。あるとしたら欧米各国みな破産してしまうだろう。
175>172:2000/06/30(金) 20:01
アホはお前。
李氏朝鮮の歴史を勉強しろ。
祖国の言葉も話せんクズが、イメージだけで
もの言うと恥かくぜ。
176朴出現:2000/06/30(金) 20:04
イタイ大型新人だな。
デジュン2どころじゃないぜ。

こういう人材を在日から発掘・洗脳する
左翼はスゴい。
177>朴:2000/06/30(金) 20:10
じゃあ、お前ら姦黒人が東アジアの危機的状況にいったい何をしたんだよ。
え、いってみろ。
文民国家だかなんだかしらんが、東アジア全体が西欧によって植民地化されようって時に惰眠をむさぼり、日本の近代化&対西欧への誘いも断り近視眼的に国内にとどまってただけだろ。
そんな国がとなりにあれば日本にとっても安全保障上とんでもない危機的状況なんだよ。
あのときの日本にどういった道があったんだ?え?
ボーッとしてればチョソンの勇敢な兵が西欧をおっぱらってくれたのかね?
アホか、こいつ。
自らは何もせず、受けた結果に対してだけ被害者きどりのチョソンは大嫌いだ。
178名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 20:14
朴=デジュン2じゃないか?
デジュン2はキャラクターのイメージが定まっちゃったので、ちょっと
品のない新キャラを登場させたとか。
知識の少ないところや!の多発がよく似てる。
179名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 20:14
シナに女を貢ぎ続けたクソ民族が何を言う

180>178:2000/06/30(金) 20:23
デジュン2よりは朝日新聞系のレトリックや語彙を
知ってるから、別人だと思う。
181名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 20:37
おいおい、前半の学術的な論争はどこに行ったんだよ?
新羅は倭人の国でいいのか?
反論は無いのか?
182名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 20:37
>162
韓国は宗族内での結びつきが強く相互扶助がしっかりしているから、
まっとうな族譜を持つような家の人なら、親戚辿って頼ればいくらでも
生活基盤なんか築けたはずだよ。

つまり、帰国しても生活できない状況になるのは、
白丁とか韓国内で差別されていた人々。
そういう人々を迎え入れ、それなりの暮らしをさせてあげてる
日本は、感謝されこそすれ罵倒される筋合いはありません。

ようは、在日が帰れなかったのも”人権後進国”韓国のせいなのねー。
183金大中が…:2000/06/30(金) 20:39
出身地ゆえにどんな酷い差別を受けたことか。
184名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 20:55
チョンラ道差別はすさまじいらしいですね。
185>179:2000/06/30(金) 20:59
在日や韓国人は、その事をどう思っているのか知りたい
のですが・・・
もし本当に中国に対して韓国、朝鮮の女性達を
貢いでいたとしたら、決して彼ら倍達民族などに誇りなど
微塵も感じられない!
彼らは、その事を認めているのだろうか?
186名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 21:11
>176
>イタイ大型新人だな。デジュン2どころじゃないぜ。
デジュン2だよ。
187通りすがり>185:2000/06/30(金) 21:16
>もし本当に中国に対して韓国、朝鮮の女性達を
>貢いでいたとしたら

本当だよ。半島はシナの属国だったから
毎年3000人の女性を貢いでいた。
ちゃんと記録されている。
188名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 21:21
自国の歴史をどう評価するんだよ!!!!
韓国人は!!!!!
189まあ単純に考えて…:2000/06/30(金) 21:25
3000人を千年間貢いだとして、300万人。

悲惨な歴史だな。

日本人で良かった。
190>185:2000/06/30(金) 21:24
あれは元王朝に強いられて泣く泣くやったのです。
モンゴルに屈服させられた高麗の悲惨な状況を理解してあげましょうよ。
この点について韓国を批判するのは酷ですよ。
191>187:2000/06/30(金) 21:30
よくわかりました。ありがとうございます。
やっぱり彼ら朝鮮人は、弱くて誇りのない人達だったのですね。
従軍慰安婦の件も怪しいですね。
なぜなら売春こそ、彼ら朝鮮民族の伝統ですからね。
192倭人>190:2000/06/30(金) 21:31
反日は嫌いだが、あれだけは同情するね。
193倭人>191:2000/06/30(金) 21:33
>従軍慰安婦の件も怪しいですね。

もう論争は終わったよ。
結論は強制連行された慰安婦など一人もいなかった。

今裁判とかしているのは、親に売り飛ばされて
キーセンから慰安婦になったりした人達。
194名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 22:08
>190
>あれは元王朝に強いられて泣く泣くやったのです。
それをフビライにそそのかしたのは同じチョンじゃなかったかい?
高なんとかだったか。
195名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 22:11
朴さんよ、もうこいつら相手するなよ。子供が変なこと言ったりいたずらして
相手するとおもしろがって調子にのるのと同じなんだよ。
俺は日本人で言われてここ見に来ただけだけの思想もあんたと反対方向
の者だけど、こいつらただの実年齢と関係の無い精神的な子供なんだよ。
196名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 22:14
>195 コピペすんな
197名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 22:40
皇帝って何人 女いたの(平均)?
198190>194:2000/06/30(金) 23:18
そうでしたか?
でもたとえそうだとしても一部の売国奴がいたということで、
高麗王朝が自ら望んでしたことではないでしょう。
女性達が連れて行かれる時はかなり悲惨な光景だったそうですし。
199>1:2000/07/01(土) 01:01
1200年頃に書かれた古代史なんてそもそも信用出来るんですか?
日本に都合のいい話だけ信じてもね―。

だけどなんでわざわざ倭人なんて出すんだろ?
そこに信憑性がありそうと言えばありそう(笑)

まぁ韓国側の歴史教育がバイアスがかかっている
という批判材料としては充分だと思う。
200>198:2000/07/01(土) 01:06
明治期の日本の事情と同じだわな、侵略しないと自分らが危ない。
それだけのことだ。過度な感情移入なぞマスでしかない。
201>155:2000/07/01(土) 01:12
>>141
>密入国?ふざけるのもいい加減にしろ蛆虫野郎!!!!!
>朝鮮人民は土地調査事業による土地の収奪や、日本の資本による搾取によって
>自らの生活基盤を失い日本に渡航したんだ!!!!
>歴史を歪曲するのはやめるんだ野蛮人め!!!!!

すごいな。
とりあえず、じぃちゃん、ばぁちゃんに死ぬ前にホントのことを話してって
言ってみよう。

そういえば、この前韓国行ったときタクシーの中年のオヤジがぼやいてたな。
日帝時代はよかったぁとよく昔話するんだと。
オヤジはそんなことはないと捲したてるんだけどじぃちゃんはそういう話を
やめないんだと。
うちのじぃちゃんは日帝に洗脳されておかしくなったーと言ってたが
家族間の断絶を招いてる韓国の洗脳教育って怖いね(藁
202名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 02:31
っつーか、デジュン2……じゃないや、朴はここから出てってスレッド立ち上げて
くれ。

三国時代は日本も含めて、ダイナミックな時代だから歴史を知るのも面白いんだよ
ね。
203名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 02:33
>201
幾つかの本で紹介されていた、「聖水橋落下事件」の時のじい様
の”ぼやき”と同じだね。日帝時代の橋は何十年たってもビクとも
しないのに何たる事だ!って激していた話。
 俺も韓国に居たときの話     あるとき(もう大分前の話)
夜行列車に乗っていてウトウトしていると、50代半ばの韓国人3人
が同じボックスに乗ってきました。何となく話しが耳に入り、聞いて
いたら、話題がその近くに戦前あった日本人の工場で働いたとき
のことでした。かなり過酷で差別的な扱いに、今だ怒り心頭といった
話になり、私は寝たふりを決め込んでいた。
 ところが段々と小学生の頃の思い出になり、急に日本語が会話に
混ざるようになり、話題も懐かしい日本人の先生や友人の方
へ移っていった。「厳しかったけどあの先生のおかげで人格が形成された」
「健在なら、できたらもう一度合いたい」「あの日本人、いまどう
しているだろう?」などとなってしまいました。3人とも戦前の日本
時代の思いで話、日本人の思いでに時をわすれたようにはしゃいでいた。
これを聞いて、韓国の戦前世代も反日、嫌日、親日と複雑な思いが
あったのだなーと思いました。
日本人の私ですが、それからは韓国の古い世代にも親近感をもつように
なりました。 若い世代の手前、おおっぴらには言えないが、以外と
人間的には反感をもっていないのではと思った。
204名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 02:37
おやっ?
気がつかないうちに,大物新人がデビューしてるみたいだね。
朴君は奴を超えることができるかな?

205名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 05:28
朴って人、江戸っ子じゃないの?
完全にべらんめェ口調じゃん。

岡っ引きかと思ったよ。

206名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 06:37
倭人なの!
207名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 08:41
age
208名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 09:27
そんなに韓国が良いならさっさと帰れば良いがな、今は生活基盤が無くても
優秀なウリナラが助けてくれるから、すぐになんとかなるよ。

日本は外国人を差別なんかしてません、国籍による区別はするが
それは何処の国でも当たり前の事だろう?
209名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 10:04
朴デジュン2でてこい!!!!!!!
210:2000/07/01(土) 11:16
>177
私だって一定程度朝鮮史を学習した。しかし専門家ではなく、掘り下げた研究は行っていない。
梶村秀樹の朝鮮史や姜在彦などを中心に本も読んでいる。たしかに朝鮮の歴史は他国による不断の
侵略や支配によって辛酸をなめつづけたものに見える。確かに李朝期に全盛を迎えた朱子学の研究は
大義名分論によって政治を極めて弾力性に乏しいものとしてしまったと言える。
しかし!ここの掲示板にかかれてあることはその事実を誇大に解釈し、朝鮮史に対する著しい偏見を
植え付けるものではないだろうか!!
私はこのことに憤慨してこのように書き込みをしている!日本帝国主義の朝鮮植民地支配についてもそうだ!!
ここの朝鮮蔑視観はどうだ!!!ひどいものだ!!!
いいかげん植民地支配を正当化する議論をやめたらどうだてめえら!!!
見苦しいにもほどがあるってもんだ!!!
211>210:2000/07/01(土) 11:20
おまえキムチ三昧だろ?
その変な改行の仕方、まともな人間ならしないもん。
212:2000/07/01(土) 11:21
>178
そんな人間は知らないぞ!!!誰のことだ!!!!!
>179
当時の二国間の関係をぬきに事実関係を語るんじゃねえ!!!!ぼけ!!!!
>181
だから違うっていってんだろ!!!!!
>182
おまえらはすぐに被差別民をかつぎ出すな!!この差別主義者が!!!
それがどうしたんだ!!植民地支配がなければ日本への渡航はなかったはずだろ!!
213名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:22
キムチ三昧朴デジュン2
214:2000/07/01(土) 11:24
>189
日本だって中国に人間を貢いでいた歴史があるじゃねえか!!!
215:2000/07/01(土) 11:27
>199
なんでも自分の国に都合のいいことは信じたいんだよ。
こいつらほんとにどうしようもねえやつらだ!!!!!
216:2000/07/01(土) 11:30
>208
誰も韓国がいいなんて言ってないだろ!!!
>日本は外国人を差別なんかしてません、
よく言えるなこの野郎!!現実を直視しやがれ!!!!!
217名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:31
>215
その言葉、そっくり返すぜ
218名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:31
>215
その言葉そっくりお返ししますわ
219:2000/07/01(土) 11:32
>211
何だそれわけわかんないこと言ってんじゃねーぞゲス野郎!!!!
220名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:34
腹話、カッコワルイ
221217:2000/07/01(土) 11:35
わ〜い、218と兄弟になっちゃった。
222218:2000/07/01(土) 11:37
おや、同時に被ってしまいましたな
223名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:39
>朴
お前だって自分に都合の良い事だけを信じてるんじゃないのか?
224名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:53
腹話がばれたら逃げちゃった
225名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 12:45
朴デジュン2が出てくるとスレのレベルが急降下するな。
もう来るな、つまんねんだよ、同じことしか書けねえのか>朴デジュン2
226>225:2000/07/01(土) 12:48
ちがうよ、朴デジュン2キムチ三昧だよ。
227>朴:2000/07/01(土) 13:13
210は177に対する反論にはなっていませんが?
要はあなた、この板に書かれてる事が生理的に受け入れられなくて怒っているだけでしょ?
ならきっちり反論して、真実がどちらにあるか客観的な証拠を示せばいい。
あなたが今この板に感じてるような怒りと同質のものを多くの日本人は韓国に対してもっています。
それはこの板をザッと見ればわかるでしょ?
韓国政府のやってきたことは過去の歴史を歪曲、捏造し、国民に過剰な反日意識を植え付け、韓国国内の問題を反日感情に置き換えるような卑怯な事をおこなってきたわけです。
要は韓国国内のフラストレーションといったものを歴史問題にすり替え日本人に押し付けてきたわけです。
よって、洗脳された韓国人は日本人は過去にわれわれに迷惑をかけたのだから、どんな要求、どんな事をしてもよいと思っているふしさえあります。
(この事例はこの板に無数にあります。チョッパリ、ウェノムなどの差別用語、日本文化の簒奪、従軍慰安婦などに見られる嘘・誇張、個人的関係においての過去についての謝罪の要求)
そういった事柄全てに対して皆反発しているのです。
現在存在する過去に宗主国だった国がいったい植民地に対してどれだけのことをしてるの?
日本はよくやっているほうだよ。
日韓国交正常化条約においても日本は自らが持っている外貨の半分を韓国に支払ったし、政府間レベルではその時点で保証問題(個人レベルでも)についてはケリがついているはず。
その後の韓国の経済発展にたいしても援助したり、技術供与したり、世界中のどこに韓国に対してこれだけやってくれた国があるの?
あんたの文化的父にあたる中国や、親分のアメリカがどれだけのことをしたの?
その後に韓国政府が被害者に対してお金を挙げなかったのは、そちらの国内問題でしょ?
当時の賠償金だって当時のレートで出されたもので、現在から見て少ないから差額でも払えってか?
あれは当時の日本が出せる精一杯の金額だし、物価が上がるたびにそんな要求出されたんじゃ保証は一生終わらない。
228227続き:2000/07/01(土) 13:14
これだけしても日本に対して、いまだに保証とほざくのか!!
もし保証を要求するなら、
「当時の韓国政府は軍事政権で民意の反映されたものでなく日本から受け取った保証も直接の被害者に行き渡るものでなかった。だからもう一度なんらかの形(政府レベルでも民間のレベルでもよいから)で被害者に対する保証に協力してもらいたい」
といったしかるべき説明があるのならともかく、
「日韓国交正常化条約では保証は終わっていない。日本は反省して金を出すべきだ」の一点張り。
ふざけるな!!おまえら自分の非は覆い隠し、なんでもかんでも日本のせいにしやがる!!
首相が交代するたびに謝罪を要求しやがって、保証だって同じ事しようってんだろ!!
何度も言うようだが日韓国交正常化条約で政府間レベルでの保証はケリがついてるの!!
政府間で一旦話のついたものを蒸し返すのは国と国との関係で弱みを見せること。
現代に生きる我々がそんなこと了承できるわけないじゃねーかよ!!
それも政府が斡旋した民間レベルでの援助金に関しては受け取り拒否。(それもでっちあげの従軍慰安婦に関してだぜ。こんなお人よしな国家がどこにある?)
俺立ち日本人はお前ら韓国人のプライドを満たすために存在するんじゃねーんだよ!!
229名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/01(土) 13:36
そもそも、日本から援助を受けたのが韓国のミスなんだよ
日本と同じ工業立国を目指す以上日本から技術を買うしか無い・・・・
援助されたお金は、結局に日本製品を買うので日本に還元される
インフラも結局日本のゼネコンが参入して日本に還元される
当時7億ドル援助をして結局日本は、300億ドルの利益を得たらしいく
本にも「海老で鯛を釣る」だって
技術にしても、一線を引きのいた技術もしくは、日本では採算の
合わない技術ばかりが提供されているし、TGVのフランスも結局は
技術移転しないみたいだね。
230済州ズイキ:2000/07/01(土) 13:42
>228
韓国人にプライドなんてありません。
何千年もの間、彼らは中国に女を貢いできたのですから・・・
彼らにとって売春とは伝統なのです。
従軍慰安婦の件もあやしいもんです。
231:2000/07/01(土) 13:52
また出やがったな!!他国との比較において日本の行なった蛮行について責任逃れをしようってのか?
ふざけるな!!他の国がどうって問題者ないだよボケ!!!
おまえらの国が朝鮮をはじめアジアの国の人民に負わせた苦痛は永久に消えないだよ!!わかってんのかおい!!!
65年の日韓条約の締結に際してどれだけの韓国人が反対したのかしってんのか?ええ!!こら!!!
日本は東西の冷戦を利用してアジア各国の独裁政権を支援し、みずからの経済侵略の足場を構築していったんだ!!!
何が補償済みだ!!!!言い逃れにも程があるぞ!!!
他の国がしてなければ日本はしなくていいのかよ!!
アジアとの真の平和で友好的な関係をつくりあげるためには被害者への償いと責任者処罰が必要だろうが!!
232:2000/07/01(土) 13:54
>230
ふざけるな!!!誰も好き好んでそんなことしたんじゃないだろ!!
233名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/01(土) 13:59
また来たのか、、、粘着腹話野郎
234>170:2000/07/01(土) 14:00
>だから密入国ってなんだ!!!
>労働力を大量に戦争に動因した結果、労働力不足に陥った日本の資本
>が朝鮮の労働力を欲したんだろ!!!

やっぱり無知じゃないか。日本に渡航した朝鮮人の大多数は昭和10年までのもので
当時日本は世界恐慌の影響から不景気だったから、むしろ朝鮮人の密入国は取り締ま
られていたんだ。
その程度の知識もないのに偉そうな事を言っても笑われるだけだよ。
235名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:00
>65年の日韓条約の締結に際してどれだけの韓国人が反対したのかしってんのか?
韓国政府に言ってくれ。

>他の国がしてなければ日本はしなくていいのかよ!!
日本だけがするべきという根拠は?

>アジアとの真の平和で友好的な関係をつくりあげるためには被害者への償いと責任者処罰が必要だろうが!!
韓国以外の国からは、日本の行為は褒め称えられていますけど。

しっかし、経済侵略だってさ。久々に聞いたな、そのフレーズ。
236名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:02
朴って、こんなにムキになって噛み付いてくるところをみると
本物か?HANボードから電波野郎が流れてきているみたいだな。
237名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:04
>65年の日韓条約の締結に際してどれだけの韓国人が
>反対したのかしってんのか?ええ!!こら!!!
にもかかわらず,条約結んじゃったんでしょ。
それは,そんな国家元首を選出していた韓国人の責任だろ。
238>朴:2000/07/01(土) 14:04
今、韓国民が最優先に為すべき事は、経済再建でも、IT革命でも、
南北統一でも、世界化でも、日本文化解放でも、何でもない。歪み
まくった醜悪極まる自民族至上主義のクソ洗脳教育を即刻廃しする
ことだわな。歴史教科書は日本人が書いてやろう。お前らのような
骨の髄までバカ儒教思想に染まりまくった低能なおつむでは、まと
も人間を生み出すことなぞ土台無理な話だからな。なんなら、再度
占領したろか?ただし今度は前みたいに甘やかしはしないから覚悟
しとけよ。その腐り切った性根を根本から叩き直してやるからな。
239名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:05

     ∩__
    ⊂「_ 」⊃   HANボードってなんだい?
     ( ´∀`)  
    /     ̄ ̄|
  /  |     |_」
  |__|    |
     |_____|
      (_)(_)
240名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:08
>日本は東西の冷戦を利用してアジア各国の独裁政権を支援し、
>みずからの経済侵略の足場を構築していったんだ!!!
そのとうりだな。
韓国の軍事独裁政権にもどれだけの施しをしてやったか
もう数えきれないな。
241>231:2000/07/01(土) 14:08
>ふざけるな!!他の国がどうって問題者ないだよボケ!!!

オ〜イ。他の国がどうだろうと関係ないのなら
「アジアとの真の平和で友好的な関係」
何て言うなよ。
242>朴:2000/07/01(土) 14:10
植民地とはどういうものなのか、教えてやるわい。合併とは大違いだって
ことを身にしみてわからせてやる!
243>木ト:2000/07/01(土) 14:11
だから、政府間レベルっていてんだろ!!このボケ!!
なんで日本がお前らの国内状況までみて条約むすばにゃならんのだ!!
甘えるのもいいかげんにせい!!
244名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:13
なんか一気にレスがついた。
245>木ト :2000/07/01(土) 14:14
全ての不都合な事象に対して韓国人は常に他者に100%の責任を求める。
そういうメンタリティをなんとかしないと、日韓関係は最悪なものになるよ。
つーか韓国とは国交断絶してほしいよ。心のそこから・・・・
246名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:15
超賎人はイカレテマス。
247名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:19
朝鮮人って奴は,ほんっとにアホばっかだな。
見てて,可哀想になってくるよ。
なんでもかんでも,日本のせいにしないときがすまないみたいだな。
しゃべり方は,下品だし,粗野で乱暴
もう救いようがないな。
248:2000/07/01(土) 14:30
>237
その独裁政権を支えていたのは日米両帝国主義なんだ!!!
軍事独裁政権のもとで人民の反抗は武力でもって弾圧されたんだよ!!!!
日本の加害性を無視したお前のような奴は早くうせろ!!!
249:2000/07/01(土) 14:32
>241
ことあるごとに他国の例をひっぱて来る貴様らに向けた言葉だ!!!わからんのか!くずが!!!!!
250:2000/07/01(土) 14:34
>242
何だ!!!合併という言葉で植民地支配の歴史を隠蔽しようってのか?きちがいめ!!!!
251名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:35
その米国帝国主義に北朝鮮から守ってもらい
日帝からの経済援助で,今の韓国はかろうじて
国としての体裁を保っています。
日米両帝国主義がなければ今ごろ韓国は
世界地図に存在しません。
252名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:36
御前等馬鹿ぽん人が何を言おうと、韓国は馬鹿糞チョッパリよりかは遥かにマシだな。
御前等は自分達のした事を如何にも朝鮮の為にした事のように
偽って、神さんに許しを請いたいみたいだが、それは無理ってもんだ。
どうしたって御前等の罪は無くなりはしないし、韓国人は御前等糞チョッパリの
悪態を忘れない。幾らほざこうが無理。地獄でほざきやがれ。
253>252:2000/07/01(土) 14:37
日本語へんだよ。
254名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:40
別にチョン公に許してもらわなくて結構だよ。
255名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:40
それと、ウェノムはこれからどんどん滅び逝く国だからな
そこら辺の事をよーく分かって置いた方が良いな!
何時まで昔貯め込んだ金で偉そうに言えるかな???ふふ。
覚えて置けよ、絶対に忘れてないからな。
256名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:42
我々馬鹿ぽん人もかす凋賎人が,我々の奴隷だったことを
忘れないように,がんばるよ!
257>朴 :2000/07/01(土) 14:42
>おまえらの国が朝鮮をはじめアジアの国の人民に負わせた苦痛は永久に消えないだよ!!
>わかってんのかおい!!!
そうだそうだ、侵略者は永遠に許すな。
日本の朝鮮出兵も許せないぞ。
元寇で二回も攻めてきた朝鮮も許せないぞ。
中国の歴代国家の侵略も許すな。
モンゴルの侵略行為も許せないぞ。
ローマ帝国だって侵略者だぞ。
ヨーロッパ各国の侵略行為も追求するぞ。

あ〜あ、書いてて馬鹿馬鹿しくなってきたぞ。
258235:2000/07/01(土) 14:43
あ、オレ無視されてら。

要するに、こいつは自分に都合の悪いことは無視する厨房なんだ。
おまけに共産主義者らしい。あー、まともに相手をして損したわ。
259:2000/07/01(土) 14:44
>238
何をほざいてるんだ蛆虫野郎!!!!
日本の教科書にはアジア侵略戦争の凄惨を隠蔽しようとする意図が見え見えじゃねえか!!!!
あんな嘘と欺瞞がちりばめられた教科書で歴史教育を行なっているからお前の様なきちがいが再生産されていくんだ!!!
侵略の事実、2000万人民の虐殺の実態を掲載しやがれ!!!他国の教科書批判はそれからだ!!!
わかったかこの偏執狂のオガクズ野郎!!!!!!
260名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:44
>元寇で二回も攻めてきた朝鮮も許せないぞ。


これは台風で帰っちゃたからなぁ。
261>255:2000/07/01(土) 14:47
日本人が苦労してためたお金で援助されないと、
自国の経済危機も乗り切れない韓国のかたは、
あまり偉そうにしないでいただけませんか。
262名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:47
中田英寿は朝鮮人だ!!!

なんてことを言う馬鹿朝鮮人の言うことを
まともに聞いてどうする。
263:2000/07/01(土) 14:48
>235
だから何度も書いただろうが!!!
日本は朝鮮を侵略し植民地支配をしたんだよ!!!
その代償だろうが!!!!!
お前が言いたいのは政府レベルの話だろ!!それだったら韓国政府も褒め称えてるだろうよ!!!
264>255:2000/07/01(土) 14:49
あと,日本からの借金も忘れないでね。
265:2000/07/01(土) 14:49
>262
何のことだ!!!いちゃもんつけんてんじゃねえ!!!!
266名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:52
おーい韓国人SOTECのコンピューター不良品多いぞ。
267>263:2000/07/01(土) 14:53
じゃあ,君が韓国人を代表して求めているのは
日本政府からの韓国国民にたいする補償金なのかな?
268:2000/07/01(土) 14:53
>261
苦労してためただと?日本が戦後経済成長を果たしたのは朝鮮戦争やベトナム戦争といったアジア人民が流した血の上に成り立ってんだ!!!!
アジアでの冷戦対立の先鋭化がなければ今の日本はないだよ!!!
269名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:54
植民地支配じゃなくて滅ぼしておけばよかったんだ!
どうせ糞の役にもたたねぇ、劣等民族なんだから
270>260:2000/07/01(土) 14:54
上陸した後に、台風で帰ったからと言って無罪なの?
271名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 14:55
いくらほしい?いってごらん。
272235:2000/07/01(土) 14:56
侵略じゃなくて、併合な。

で、その代償はなにがいいの? どうしてほしいの?
君はどうするべきだと思っているの?

1965年の日韓条約は非合法なの?

できたらエクスクラメーションなしで答えてね。
273>260:2000/07/01(土) 14:58
>苦労してためただと?日本が戦後経済成長を果たしたのは
>朝鮮戦争やベトナム戦争といったアジア人民が流した血の上に
>成り立ってんだ!!!!
朝鮮半島を分割したソ連やアメリカ又は戦争を始めた北朝鮮や
ベトナムに出兵した韓国のおかげです。
274>270:2000/07/01(土) 14:59
だって可哀想じゃん、、、、涙がでてこない?
情けなさ過ぎるよ、、
許してやろうよ、我々は寛大な日本人なんだからさ。
ここで怒ったらチョンと同レベルだよ。
275273:2000/07/01(土) 14:59
>260は
>268の間違いです。
276>268:2000/07/01(土) 14:59
冷戦対立構造の上で,米ソに躍らされただけじゃねえか。
277名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:03
日韓併合がなければ,韓国は今ごろ間違いなくCISのなかの
最貧国になってたどろうな。
278名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:06
御前等糞チョッパリに言う事はもう無い。
北ならいざ知らず。
もうぽん人の時代は終わりを迎えている。
何時までも強がり言ってると本当に知らんぞ。
朝鮮戦争で国内産業が全て復興した事も、ベトナム戦争で戦後最大の
長期景気が続いた事も、アメリカの占領のお陰で軍隊に行かなくて済んでる
事も、アメリカのお陰で復興し、今もアメリカのお陰で儲けてる事も。
もうすぐ終わりだ。チョッパリどもよ!目覚めた方が良いぞ。
世の中は御前達だけで成り立っているのではないからな。
279名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:07
朝鮮が強ければ侵略なんてしなかったし、する必要もなかった。
ま、弱いものが虐げられるのはしょうがないよ。
280名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:08
戦後最大の長期好景気はバブル時期ですね。

どこをどうみても、日本の将来よりは韓国の将来のほうが
心配だよ。これ以上、日本に金の無心にこないでくれよ。
281名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:09
>日本の教科書にはアジア侵略戦争の凄惨を隠蔽しようとする意図が見え見えじゃねえか!!!!
韓国の教科書はそんな日本に狗のように尻尾を振って恭順した事実を思いっきり隠蔽してるね。
日本に反抗したものなんてほんの一部。ほとんどは自分から尻を差し出したんだよ。

>2000万人民の虐殺の実態を掲載しやがれ!!!
へー、そんな事実があったとは初耳、詳しく教えて。
282>278:2000/07/01(土) 15:11
その言葉,そっくりそのまま韓国・北朝鮮のかたがたに
おかえしします。
日本のことを心配してくれるのはとてもうれしいけど、
日本は韓国や北朝鮮みたいに他国の経済支援なしでも
生きていけるからさっ!
じゃっ がんばってね!
283>278:2000/07/01(土) 15:16
黙れバカチョン
日本にはケツを差し出し、口では中国のチンポコを2000年も
しゃぶってた腑抜け如きに何が出来るのか。
一生そうやって愚痴ってろ。
情けないクズめが。
284名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:17
>268
こら、朴、朝鮮戦争、ベトナム戦争は、代理戦争の面はあるが、
自分達がやったんだろう。日本は無関係だ。
特に朝鮮戦争時は、半島が明治維新頃の状態によく似ているではないか。状況はそっくりだ。
半島の、完全独立の機会を、2回も自分たちの内輪もめで潰すとは、
日本人からは、考えられない。危機意識薄すぎるのか、内輪もめが好きな民族なのか?
よくわらん民族だ。
人民が流した血って言われても、日本には関係ない。
韓国は、日本があげた独立お祝い金とベトナム戦争参加代金(20億ドルだったと思う。)で、
今の経済基盤の基礎を作ったのを知らんのか。
もっと自分の国の現代史を勉強をして発言しろ!
285>278:2000/07/01(土) 15:23
>もうぽん人の時代は終わりを迎えている。
終わりを迎えてこのぐらいの生活水準なら別に終わっていても良いけど。
その終わりを迎えている国より生活水準が低い、韓国や北朝鮮はどうなっているのかな?
>何時までも強がり言ってると本当に知らんぞ。
いや、別に知ってくれなくてもけっこうです。
286名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:23
あげとく
287名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:23
朴さん、ほんと相手にすんなって。
自分でも前に言ってた通り多くの日本人はここの奴らとは違うんだからさ。
韓国にも朴さんには理解できない何言っても通じないお子様はいるだろ?
みんな教室や教科書で一生懸命勉強した知識でもって知ったかぶりしてんだって。
朴さんの意見もかなり韓国よりであるとは思うけどね。
事実はひとつだけど解釈はひとつにはなりえないんだからもう無駄だって。
専門家だって足並み揃えたこと言ってないんだからさ。
288>287:2000/07/01(土) 15:26
ばかじゃないの?
289:2000/07/01(土) 15:26
>272
正式な謝罪を伴った補償だな。個人に対してだ。
290>289:2000/07/01(土) 15:31
>1965年の日韓条約は非合法なの?
こいつへの答えがないぞ

291>289:2000/07/01(土) 15:31
だから別に許してくれなくていいってば。
292:2000/07/01(土) 15:34
>281
何にもとづいてそんなこと言ってんだ!!!何か具体的な資料でもあるのか!!
あれだけ多くの朝鮮人が苦しめられた植民地支配を正当化しようとする奴は最低だ!!!!
293>朴さん:2000/07/01(土) 15:34
このスレッドは古代朝鮮の三国時代やそれ以前に関するスレッドなんだよ。
この時代は近年日本韓国とも発掘調査が進んで新資料がでているし、考察
にも日韓の違い(歴史観)が現れて興味深いんだから。
あなたはいつもスレッドのテーマに関係なくあちこちに書き散らしている。
日帝のことをハングル版にかくなとはいわない。だけどスレッドのテーマ
がなんなのか、まともに考えてから書いてくださいよ。
そんなあなたの厨房ぶりを面白がって煽っているほうもなんだけれど。

日帝のことを書きたかったら、それらしいテーマのスレッドを探し出して
書き込んでください。 たのむよーーーー
294名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:37
黙れ糞バカチョッパリ
アメリカにはケツを差し出し、口ではイギリスのチンポコを200年も
しゃぶってた腑抜け如きに何が出来るのか。
一生そうやって愚痴ってろ。
情けないクズめが。
何時までこういうぽん人の強がりが聞けるのか楽しみです。ふふ
295:2000/07/01(土) 15:37
>284
関係ないだぁ?何度言ってもわかんねんだな!!
日本は朝鮮戦争による特需でぼろ儲けしたんだよ!!!高度経済成長の基盤をそれで築いたんじゃねえか!!!
296235:2000/07/01(土) 15:37
>289
「正式」な謝罪とは、どのような謝罪ですか? これまでも首相がいく
どとなく謝罪していますが。
 補償に関しては、どのような算定基準ですか? また、日韓条約との
整合性はどうなりますか?

 個人に対する補償が成り立つものとして、その受給資格は?
297>292:2000/07/01(土) 15:38
どれだけの朝鮮人が苦しめられたかなんて知るかよ!
生まれても無いのに。
298>朴 :2000/07/01(土) 15:39
>何にもとづいてそんなこと言ってんだ!!!
>何か具体的な資料でもあるのか!!
とりあえず、「2000万人民の虐殺の実態」を掲載した資料を
自分が提示するのが先では?
自分が具体的な資料を出せないのに他人に偉そうにいっても駄目だね。
299:2000/07/01(土) 15:40
>290
非合法じゃねえよ!!そんなこと問題にしてねえだろ!!ようは日本政府が被害者に対して直接補償したかどうかだ!!経済援助が目的だからな。補償なんて頭から考えていなかったんだよ当時の日本は!!!
300>299:2000/07/01(土) 15:45
非合法じゃないなら個人補償も問題は決着済みだね。
日本が直接補償しない代わりに韓国政府に払ったんだから。
国内でどんな使われかたをしたのかは、内政干渉になるので日本政府は
関係ないことだもんね。
それとも貰ったお金の使い道まで日本に指導して欲しかったの?
301名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 15:47
まあ、日帝時代の日本からの持ち出し分を補償する
というのならまた話は違っただろうけどね…。
それから、李朝時代に比べりゃ天国よ、日帝時代は。
302:2000/07/01(土) 15:50
>293
わかった。すまん。もうそろそろ退出する。
>296
もちろん日本の侵略戦争の過ちを全面的に認め、これまで日本政府が
被害者に対して保証を行なってこなかったことについて謝罪し、日本の国内で彼我者を中傷するような輩
が存在し、彼らが被害者に対して負わせた苦痛についても
言及する。補償金は200万程度が妥当だろう。89年に台湾人元日本軍兵士に対して支払われたのが
200万だったが現在の状況に鑑み少し上乗せするのがベターだろう。
303>朴 :2000/07/01(土) 15:55
あらら、どっか行っちゃうんだ。
充分楽しみましたか?
さようなら。
304:2000/07/01(土) 15:56
>296
個人に対する補償が成り立つものとして、その受給資 格は?

国際法に照らして考えるべきだ。中国と違って民間人の大量虐殺は少なかったから
日本軍に従軍した人員に対する補償だろうな。
軍人軍属はおよそ35万人が徴収されてるんだ。彼らに対する補償は行なうべきだろう。
それと元「慰安婦」の女性達に対する補償だろうな。
305>朴:2000/07/01(土) 16:01
>日本軍に従軍した人員に対する補償だろうな。
>軍人軍属はおよそ35万人が徴収されてるんだ。
>彼らに対する補償は行なうべきだろう。
少なくとも日本人の軍人や軍属と同じ扱いはするべきでしょうね。
年金や一時金は日本人と同じ額で良いのでは。
>それと元「慰安婦」の女性達に対する補償だろうな。
これはどうするべきかよく分かりません。
306名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 16:07
>朴
あなたが政府高官にでもなって、正式に日本政府に請求して下さい。
307>朴 :2000/07/01(土) 16:17
そちらさん現在の韓国と日本、どちらがより国際的な信用があるか分かっ
てものを言ってる?
日本の国連常任理事国入りを、政府レベルで支持した国はアジアは勿論
世界中で数十ヶ国あるけど、韓国にはお呼びもかかってないよ。
308ぱるこ:2000/07/01(土) 16:20
あげるっちゃ
309>304:2000/07/01(土) 16:22
>国際法に照らして考えるべきだ。

だったら全部片づいているじゃないか。何言ってんだか。
310名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 16:27
朴さーんいっちゃうのー
311>294:2000/07/01(土) 16:27
またパクリかよ、お得意の。藁
チョンには工夫も創造もできない証拠だわな。
罵倒はチョンの十八番だろが、もそっと頭使えや、バカ糞チョーセンジン。
312名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 16:29
補償金を再度払ったら、もう二度と誰もガタガタ言わないなら
払っても良いけど、貰った後も「謝罪」だの「侵略」だのいつまでも
ガタガタ騒ぐんだろうな
313>朴 :2000/07/01(土) 16:32
あなたの論旨が穴だらけだから反論されるのです
己の矛盾に気づいて下さい。
314名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 16:43
彼はもう来ないと思うよ
315傍観者:2000/07/01(土) 17:06
軍人への補償の問題は、ぢぢスレで討論終了と認識しております。
在日で補償されないのは、帰化しなかったからです。
自分たちが、補償されないことを選んだようです。
なお、彼らが国籍簒奪といいますが、誤解です。
終戦直後、希望者はタダで帰国できました。GHQの声明があります。
GHQは、1946年、正当に設立された朝鮮政府が朝鮮国民として承認を与えるまで、
日本国籍を保持していると見なされるとしました。
一方、元祖在日は、解放国民として連合国民と同等の地位(外国人)を要求
いわゆる、三国人が発生します。
これに対し、GHQは、在日朝鮮人に有利な差別待遇は、一種の治外法権を創造するとして
是認しないとしました。
1949年、駐日韓国代表部は、連合国民としての待遇を要求しています。
また、国籍選択権は、不当であり、無条件に韓国国民としています。
日本国籍の希望者は、単純な帰化問題であるとしています。
つまり、在日は、自分たちで連合国民(外国人)であると要求し、外国人となったのです。
ですから、帰化した以外の人へは補償の必要はありません。
しかしながら、最近、在日関係者への補償措置がとられております。(同等ではありせんが)

ところで、斉明天皇の子、天智天皇が、百済、高句麗救援に行きますが、
当時は、相当半島との関係が深かったようですね。
斉明天皇が、半島関与を強力に推進したようです。
なんとなく、斉明天皇は百済系の人と血縁関係あるような気がします。
この辺からの話題で、議論再開を希望します。
316名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 17:08
しかし”たら、れば”の多い奴だったな
317>315:2000/07/01(土) 17:48
再開してお前が!!(倒置法)
318名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 21:35
>315
トンデモ説を除いて、斉明天皇と百済との関係は認められません。
ちなみにそのころ、百済の王子が倭国の人質となっていました。
319名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 21:40
よー−するに
チョソンに誇るべき歴史なんて無いってことよ

ははははははははは
320名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 21:56
>391
♪ あなたの過去など知りたくないわ〜♪♪
♪♪ 済んでしまったことなど〜♪♪
未来に向かって翔じゃありませんか
朝鮮・韓国の御同輩
321>木ト:2000/07/01(土) 22:00
あんた、生きが良くていいよ。
あんたはここで飼われてもいいよ。
322名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 22:08
朴くーーーん
出番だよ
323名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 22:19
およよよよよ
324名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 23:06
age
325名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 23:58
朴、でてこい!!!!!
326名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 00:27
あげ
327名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 08:20
朴さ〜ん
328名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 22:21
3o
329名無しさん@1周年:2000/07/04(火) 22:58
瓠公(=弧公、ここう)で検索をかけてみた。

http://www.intacc.ne.jp/HP/kiya/sehaci/kiya32c.htm
「三国史記〜新羅本紀」(B.C.20)、赫居世王は瓠公を馬韓に派遣した。
瓠公は倭人で瓠ひさごを腰に付けて海を渡って来た。

http://www.osakagas.co.jp/Cel/Cel42/Html/42_9.htm
金海の王族、金氏のうち脱解王に味方した者が新羅に逃れ、倭人の瓠公に庇護された。
この金氏が一七代以後(三五六年以後)、新羅の王についた。

http://proxy.saga-wjc.ac.jp/nagasawa/kyokasho/kokusi/maki1/txt-kokushi1.htm
崇神天皇の御代に、辰韓の地方から朴赫居世(ぼくかくきよせい)といふ人が出て、
新羅(しらぎ)の國を建てて、その王となり、内地から渡つて來た瓠公(ここう)を用ひて
よく國を治めました。

http://www.osakagas.co.jp/Cel/cel36/Html/cel36_15.htm
新羅の四代目の王である脱解は朝鮮の正史である三国史記によれば
「倭の東北千里にある多婆那の王と女王国の王女の間で生まれた」
330名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 00:54
なお「新羅は倭人の国」スレッドに感心を持たれた方、
1〜85(朴登場前)だけ読めば良いかと思います。
331名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 07:26
金印もらったのは日本(倭人)だけ。
332名無しさん:2000/07/05(水) 07:29
>黙れバカチョン
>日本にはケツを差し出し、口では中国のチンポコを2000年も
>しゃぶってた腑抜け如きに何が出来るのか。
>一生そうやって愚痴ってろ。
>情けないクズめが。

これって、在米中国人あるいは中国系アメリカ人の発言の
パクリでっせ。
333名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 07:30
高句麗に言わせれば、臣下(百済=高句麗の傍系)に庇護
されていた小勢力(成立当初の新羅)

でも新羅が勝ち残ったので文献なども当然新羅よりなので、
新羅が一番古いみたいに言ってるみたいけど。
334名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 07:35
>口では中国のチンポコを2000年も
>しゃぶってた

へへ。ばれたか。
でも、ここだけだろが、ぱくりじゃなく、応用と言ってもらいたい。
335名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 07:39
>331
>金印もらったのは日本(倭人)だけ。

えっ、そうだっけ?印は色んな国がもらってるはずだけど。金製は
倭だけなの?
336名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 11:42
>335
金印が発掘されたのが日本だけってだけだろ。
337名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 15:19
金印ってもらったら、なんかすごいことなの?
338名無しさん:2000/07/05(水) 17:21
>337
外交文書の封印に使う。
中国皇帝との柵朋(?)の関係成立の証となる。
オレは中国とツーカーよってわけで、
貰った方は自分の権威を高められる。
って岡田氏の受け売り。
手でつまむところが色々国ごとにちがってる。本だかTVだかで見た。
材質の違いってあったかなあ?
339名無しさん:2000/07/05(水) 17:24
ちょっと追加。
中国皇帝にその地の王(例えば)であることのお墨付きをもらったことになる。
340名無しさん祝1周年 :2000/07/05(水) 17:24
それを畑に捨てたのはすごいことだ。
341名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 17:26
>340
思わず、爆笑してしまった。
342名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 17:32
>331
>金印もらったのは日本(倭人)だけ。
確かに金印を贈られたのは極めて珍しいことなのだが
大月氏(中央アジア、仏教先進国)も金印を贈られている。

卑弥呼の他、その大臣2人には銀印が贈られているが「東夷伝」にある
他の民族には銀・銅印でさえも与えられていないし、倭「人」だけが
人の字を付けられている。
中国人にしては珍しく、人として認めていた模様・・・・・。
また朝鮮半島の民族に金印が与えられたことはない。
343名無しさん:2000/07/05(水) 17:39
あっ、思い出したぞ。岡田氏によれば、大月氏とか倭(奴)とかみたいな
とてつもなく遠いところからも使者が来たってんで、金印を大盤振る舞い
したとか。。。。なんかウソくせえなあ。
344名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 18:33
342>
「古代日本はどう誕生したか」豊田有恒。からの受け売りばかりで、すまんのですが

>388
金印・銀印・銅印・陶印 とあったようだ。
金印は、最上級。
陶印は、それほど重要でない民族。
345名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 19:09
印鑑を与える側のメリットは、やはり、
皇帝の権威の向上(主に国内向け)と思っていいのかな。皇帝の徳を
慕って、こんなところからも、あーんなとこからもワザワザやって
きたんだぜー、どや、すげえだろう、オレ様はってなわけ。金印授
けるならそりゃあ盛大にセレモニーをやったんじゃないだろか?
それとも安全保障の意味合いもあったのかな。印鑑を貰った方にメリット
(朝貢貿易のうまみと地元での権威獲得)が効力を有するうちは
周辺の蛮族も恭順してると考える。中国って周辺国との人質の交換
(安全保障のため)はあんましやってない気がする。一方的に差し
出したりしてる。きょう奴とかに。そういう風につらつら考えると、
倭や大月氏に金印をくれてやった理由はなんじゃろか?遠来の客だ
からハデハデな儀式をして皇帝権威向上をねらったか?もっと、そ
うせねばならない理由があったか?大月氏だとキョウ奴挟み撃ちとか
良馬の購入?とかあったと思うが、倭に金印くれてやる理由は何?
そんなに倭って皇帝も一目おくような存在だったのかな?
346名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 20:33
議論白熱!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
347>344:2000/07/05(水) 21:53
せっかくだから、もうちょいとウンチクを追加しよう。
>金印・銀印・銅印・陶印 とあったようだ。
>金印は、最上級。
間違いとも言いにくいのだが、最上級は玉製の印璽となる。
臣下や蛮夷の王にさずける印綬の印材の最上位が金。
余談だけど、印と綬がセットになっていて、印の材質と綬の色で格付け
していた。
近いところは、王になれない。将軍などの位を与えれらるので、印綬も
それに相当する銀印や銅印になる。
つまり、卑弥呼が受けた金印紫綬というのは王として認められたという
意味をもち、使節が銀印をもらったということは、同時に支那から位階
を貰っているということ。
あ、もちろん志賀島の金印は奴国王であって、卑弥呼ではない。
卑弥呼の場合は、親魏倭王として金印を与えられたという記録が残って
いるだけ。
う〜ん、ちょっとだけ剣道スレ風になったかな。
348名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 22:53
344>347
おお!なるほど。すごく解りやすい。
349名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 23:50
朝鮮は何貰ったの?
別に今の時代に中華文明のランキングなんてどうでもいいけど。
でもなんでくれたんだろ。
350>349:2000/07/06(木) 00:16
その時代に朝鮮なる国は無かったと思う。

あ、5000年前から古朝鮮があったんだっけ。俺としたことがうっかり
していた。
351名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 00:17
奴国王(金印?綬)
親魏倭王(金印紫綬)
大月氏(金印?綬)
卑弥呼の他、その大臣2人には銀印が贈られているが「東夷伝」に
ある他の民族には銀・銅印でさえも与えられていない
また朝鮮半島の民族に金印が与えられたことはない。

ちょい整理。
朝鮮半島の民族(3国時代末まで)は結局のところ金はおろか銀・銅
印さえも何ももらってないってこと?
352>350:2000/07/06(木) 00:22
5000年ではありませんよ。
かの国では半万年と言い表わします。


353名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 00:33
2333+2000=4333年
サバ読むな。
354名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:05
奴国王は、印綬。光武帝から(金印、福岡県志賀島で百姓の甚兵衛さんが発見)
卑弥呼は、金印紫綬。魏から(発見されていない)

他には、あやふやな記憶では
テン(サンズイに真、四川省)王国が、銀印?を贈られている。
355名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:12
東夷伝では明らかに三韓よりも倭が文明的に書かれてるそうですね。
高句麗は別格だろうけど。百済が急に発展したのは楽郎郡か帯方郡か
は知らないけど、とにかくそれらの中国の植民地の人間を吸収したか
らではないのでしょうか?日本の技術者に渡来系が多いと韓国の人は
喜ぶけど、百済や新羅も多分技術者は中国系が多かったんじゃないか
な。だからといって中国の文化だといわないけど。
356名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:26
354の訂正
>奴国王は、印綬。
奴国王は、光武帝から印綬(印鑑と紐)を授けられたと記録されていた。
江戸時代に志賀島で発見されて金印だったと判明、現在国宝に指定されている。
357名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:54
朝鮮人の歴史捏造を弾劾する!!!!!!
358名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:58
朝鮮からの渡来人って中国風の名前の人が多いよね。
つまり、朝鮮人の文化の基礎を作ったのは
中国系の移、遺民だったってことよ。
彼らがのちに日本にやってきた。
359名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:58
>354
諏訪春雄「倭族と古代日本」に書いてあるのだけど、
後漢の光武帝から起元57年に奴国王に授与された金印と、
前漢武帝が紀元前109年に槇国(木へんじゃなくサンズイ、変換できん)
の王に授けた金印とが、ともに蛇紐の金印であったことです。
蕃族に印綬を授けるのは晋代までつづきますが、北方民族のキョウ奴・鮮卑・
烏丸などには駱駝の紐の銅印を与えています。
・槇国王墓出土の金印は雲南省博物館蔵
・紐は印の取っ手
360名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/06(木) 02:03
日本の使節が来た時に「蛮族で、貢物もショボかったが
礼儀だけはちゃんとしていた、せっかくだから金印を授けた」
なんて記述をどっかで見たんだが。
361名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 02:09
>356
>光武帝から印綬(印鑑と紐)

紐と綬って同じ?諏訪春雄「倭族と古代日本」を見ると、
紐は印の取っ手を指して使ってる。
綬は印の飾り紐(ひも)みたいなみたいな物かな?
362名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 02:26
354>359
>槇国(木へんじゃなくサンズイ)の王に授けた金印
テン王国=槇国ってことで、銀印じゃなくて金印てことだよね。
363名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 02:36
>362
そうでーす。テンって読むのか、槇、ありゃ変換でけた。
364名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 02:41
>361
紐と綬って同じみたいだね。
よくわからなかったから漢和辞典で調べてみた。組み紐って意味だった。
>綬は印の飾り紐(ひも)みたいなみたいな物かな?
だとおもう。
365名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 02:46
やっぱ、槇国(木へんじゃなくサンズイ)。
読みはテン。槇はこづえ、ひのきの意。
音符のテンはつめるの意味。土で穴をふさぐ。
槇国(木へんじゃなくサンズイ)は穴にでも住んで、川で漁でもし
て暮らしてた民族かな。
366関係ないが…:2000/07/06(木) 11:37
昭和天皇が訪中した時、中国側から印鑑をプレゼントする提案があったらしい。
ナメた話だ…
367347 :2000/07/06(木) 12:44
>>361
綬はヒモですが、もともとは飾りではなく、腰に巻いて印を身につけるためのもの
でした。
色によって各付けがされたので、後代になって、飾り的な要素が強くなったという
ことです。
紐は、印のつまみの部分で、各付けとは関係なく、与える相手と関係のある動物な
どの彫刻をほどこしたようです。
368名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 17:42
ぬえ
369名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 17:43
朴デジュン2
ちゃんと名を名乗れ!
名無しでとおすな。
この臆病者
370名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 17:45
天皇陛下を韓国王に即位させ、
北を併合する。
371名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 19:14
朝鮮族は満州に移住させろ
372名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 20:16
これまでの修正含め、独断と偏見に基づいてまとめてみた。

金印 奴国王=現在の福岡辺り(金印紫綬) ……蛇紐(じゃちゅう)※
   親魏倭王=卑弥呼(金印紫綬)
   テン国=雲南省、倭族の国  ……蛇紐※
   大月氏=中央アジア
銀印 難升米、牛利(2人とも卑弥呼の使者)
銅印 キョウ奴、鮮卑 、烏桓など、 ……駱駝(らくだ)紐※

※ 紐(ひも)… 詳しくは367さんのが解りやすい
動物の形をした取っ手は、北方諸民族には駱駝紐。南方には蛇紐。
奴国王印が蛇紐だったのは、テン国と同じ稲作民族で蛇を神としていたのを
知っていたためらしい。

◎このHPには奴国王金印の偽物説・本物説、両方の理由が書かれている。
http://www.pub.ube-c.ac.jp/groups/jukunen/99/juku99101/kodaishi4.htm

◎卑弥呼に破格の金印が贈られた理由で考えられている説。
・「蛮族で、貢物もショボかったが 礼儀だけはちゃんとしていた、せっかくだから金印を授けた」
・ 好意を持っただけで金印というのは考えづらく、他の東夷諸国より統一が進んでいたから。
・ 中国人が一目置く、東アジア屈指の文明国だった。
・ 魏が、呉や蜀と対抗する必要上、倭人を味方につけたかった。

◎朝鮮半島の民族に金印が与えられたことはない。
「東夷伝」にある他の民族には銀・銅印でさえも与えられていないらしい。
373名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 20:29
話がハングル板の話題からずれて申し訳ないが、ついでだから「古代中国と倭族」鳥越憲三郎著に
金印を貰ったテン国について、と日本人のルーツにもつながる話があったので要約。

テン国
紀元前の倭族(※)の王国の一つ。常春の国といわれる。稲作民族、多種多様な青銅器、
また発掘調査された神殿には、日本の神社建築の二大原形といわれる神明造と大社造の源流が認められる。

※ 倭族
長江流域文化の担い手。稲作文化・高床式住居・靴を脱いで家に上がるなどの特徴があり、
黄河文化圏の民族によって滅亡したが、長江流域の山岳地帯。インド。ネパール。インドシナ半島・諸島。
朝鮮半島中・南部から日本列島などに逃避している。
日本の弥生人(倭人)は稲作文化を伴って長江流域から渡来したと言われる。
374名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 04:47
つまり弥生人=倭人=長江系ってことか。
確かに魏志や近年の遺伝子研究の成果からもそうかもね。
375名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 05:02
高句麗は高度な文化を持ってても反抗的だったし、三韓は植民地だ
ったんだから印なんて送らないでしょう?
376>372:2000/07/07(金) 09:53
>金印 奴国王=現在の福岡辺り(金印紫綬)

奴国じゃないよ。
委奴(いど)国が正しい。後の伊都国と言うのが正しそう。
「委」を「わ」などと読まないよね。
377名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 15:19
なんか、話題が金印の方へ行っている。お話を戻します。
倭人は、マレー系でしょう。
現日本人は、マレー系(南方)、扶余系(新羅、百済、任那)、縄文(アイヌ)の混血でしょう。
隋書の倭国傳には、「新羅、百済皆倭を以て大国と為す。珍物多し、併せて之を敬仰す。」
あるそうですから、新羅は明らかに倭人の国とは言えないのでは。
隋も倭国を、大国と見ていたようですが。
新羅は、扶余系(ツングース?騎馬民族)じゃないの?
378名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 15:24
百済の王族は扶余系らしいです。
新羅はトルコ系?
379名無しさん:2000/07/07(金) 15:28
>376
漢委奴国王(かんわのなこくおう)というのは間違いなんですか?
学校ではこう習ったんだけど…
380名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 16:47
>376
>委奴(いど)国が正しい。後の伊都国と言うのが正しそう。

諸説あるから、何が正しいとかは断定はできないよ。

委奴
国王
と刻印された蛇紐の金印を天明4年(1784年)に福岡市の志賀島で百姓甚兵衛が耕作中
に掘り当て、藩主の黒田家が買い上げた、とされてるとしか言えないよ。後は色々な
理由をつけて推測してるだけでしょ。
381名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 17:04
うーーむ。後漢書では、倭奴国、
金印は、委奴国で、混乱する。
漢委奴国王(かんわのなこくおう)が定説
でも、金印だと、いなこく、いに国、いぬ国と読める。
奴が、ナ行の音だから。いと国はちょっと苦しい。
382名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 17:11
>376
それと、2つの書物に印綬のことがかいてあることのみじゃないのかな。
後漢書東夷伝には、
「建武中元2年(57年)、倭の奴国奉貢朝賀すーーー(中略)。
光武、賜うに印綬を以てす」との記録があること。
魏志倭人伝には、
「景初二年六月(239年)倭女王遣大夫難升米等詣郡
。。。制詔親魏倭王卑彌呼
。。。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬」
383名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 17:23
訂正(382)
後漢書東夷伝には、
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。
光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/menu01.html

384名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 17:28
なつかしいな。受験日本史の資料問題を思い出す。
385名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 17:46
もう金印の話はしません。383のリンク先は倭や半島関連の中国史書の
漢文がまとめてあるので紹介しました。
>378「百済の王族は扶余系らしいです。」これかな?Yahoo板から、
『周書』には、「王の姓を夫余氏という」、と記されています。しかし、
同書のなかに「百済は、そのはじまりが、おそらく馬韓の属国の一つであり、
夫余系の種族と思われる」とも記述されています。『隋書』は百済王の先祖も、
高句麗からでて、夫余の人たちがそれに使えたとあります。『梁書』には
「(百済の)言語・服装とは、ほぼ高句麗と同じである」と記述されています
『通典』の『百済伝』には、北魏のときに、百済王が上表して、「臣は、高句麗
と同じく、先祖が夫余の出身です。」といった記述がみえます。
386名無しさん:2000/07/08(土) 05:23
>百済の王族は扶余系らしいです。
もしかして原住民とは別だったのかな。
387どーでもいいけど :2000/07/08(土) 13:14
三国史記って、どの程度のこってるの?
何かで、文字数でカウントできる、数百文字?くらいしか残ってないって読んだ
ような記憶があるんだけど。
三国遺事のほうは、残ってるんだっけ?
388名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 05:45
うーん三国史記って、古事記できたから、数百年も間空いてて
その間、日本の事馬鹿にしてたのに新羅は日本人が作ったって言うのって
有る意味信憑性あるよね。
書いた人勇気あるよね、古事記や日本書記にそんな事書いてないののに
今なら自虐史観とか言われるね。
でも、書いた人殺害されてないんでしょじゃ事実と皆知ってたんではないの?
少なくとも王室と知識人は
389名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 05:52
しかし高麗時代にはそれほど強い蔑視感情はなかったんじゃないですか?
390名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 06:11
うんにゃ、1300年代って倭寇、元寇などが時代ですぞ。
それに、あのころって歴史書って皇室ぐらいしか持ってなかった
から気に要らなければその後いくらでも変更可能なはず。
日本みたいに貴族・寺院・武士などが各地で持ってたとは違うとおもうぞよ
391名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 06:12
高麗時代は仏教が全盛だったよね。勿論儒者もいたけどね。
高麗の転覆には儒者の改革派が太祖をかついだわけだし。
太祖は敬虔な仏教信者だった。儒教一辺倒が本格的に浸透だす
のは李朝中期からで、一般庶民まで染め上げられるのは李朝後期
と聞いた。日本蔑視は秀吉からじゃないかな。それはそうと、
三国史記書いた時代には百済や新羅に関するネタ本があったん
じゃなかったかな。三国史記にはそのこと書いてないのかな。
392名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 06:20
>390
科挙制度は高麗時代の958年からだけど、坊主の発言力が強く
国政に口出ししてたわけでしょ。歴史書とかも寺とかにもあった
んじゃなかったかな?元に貢いだりしてて王の力は弱かったはず。
焚書をやりだしたのは李朝から。その時には仏教も弾圧したよね。
393>390:2000/07/09(日) 06:26
>それに、あのころって歴史書って皇室ぐらいしか持ってなかった
>から気に要らなければその後いくらでも変更可能なはず。

はぁ?
394名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 06:30
390>392
いやいや、そうでしたか。
とすると、韓国の歴史書とかは、各地に写しが分散しておいて
あって李朝の思惑でも改竄できなかった訳ですな。
いや良く韓国の古典や歌詞などは秀吉の唐入り(兆戦征伐じゃない
からね:あくまでも日本から見たら兆戦は通りみち)
の際加藤清正が全部焼き払ったて言ってるから、
そういう言うわけで改竄が可能ではなかったかと思っていたんです。
そうじゃなきゃ貴重な古典だけが焼失して歴史書が残っている
説明がつかないと思いまして。
(ぷ。また煽ってしまった。)
395>387:2000/07/09(日) 17:33
失われたとされているのは、三国史、あるいは旧三国史で、三国史記は12世紀の
後代の編集による歴史書ですね。つまり、4世紀前後の話を7〜800年後に書い
ているものです。全50巻だったか、現在は全部そろっているかは知りませんが、
一応は文献として存在するようです。
ただ、失われたという古い方の三国史の成立もおそらく11世紀くらいだろうとさ
れているようですが。
396名無しさん@1周年:2000/07/11(火) 19:44
金印をもらった勢力は滅ぼされたんだろう。だけど金印は自分達の
正当性を裏打ちするもっとも大事なシンボルだから、どうしても
その侵略者に渡したくはなかった。
畑に捨てたと言っても、郭のような物に瓶か何かにおさめられて
たらしいし。

ような気がするな。 
397名無しさん@1周年:2000/07/11(火) 20:44
古事記などには百済の歴史書の引用があるんでしょう?
失われたとはいえ最初の歴史書は半島のほうが早かったのでは?
あくまで百済を朝鮮民族の国とみなせるかどうかを別の話としてで
すが。
398>397:2000/07/11(火) 20:46
あったからといって失われてたらクソの役にもたたねーべ?

中国はころころ王朝が変わったけどちゃんと古い歴史書も
残ってるしなぁ
399>398:2000/07/11(火) 20:52
400名無しさん@1周年:2000/07/11(火) 20:54
>398
普通に考えると
半万年の歴史のうち確実なのは新羅統一以降しかないと
考えられるね。
百済の記事が多いのは同盟国(兄弟の国)だからだし
任那は夫婦の国だし(こう言うと半島の方が兄とか夫とか
言わないでね不毛のレス続くから)友好国の記録をとるのって
普通じゃないまた、半島が日本に朝貢した記録があるなら
それは、三国志における倭人伝と同じじゃないの?
401名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 01:48
age
402名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 05:09
age
403三国史記:2000/07/12(水) 10:52
手軽に読めるテキストとしては、
「三国史記」井上秀雄 訳注(全3冊)
平凡社の東洋文庫に入ってる。ちょっとした図書館なら、必ずあるでしょう。

404三国遺事:2000/07/12(水) 10:54
こっちは、「三国遺事考証」という有名な注釈書がある。
三品英彰が中心になって作ったもんだが、韓国ではいまだに
これを超える注釈は作られていない(そんな能力はない)
405>403:2000/07/12(水) 11:50
近所のの図書館ではなぜか一冊抜けてます。
406名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:18
チョンが盗んだのさ
407名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:06
age
408こういう視点はどうかな:2000/07/13(木) 04:28
古代を考えると、国力 ≒ 人口 ≒ 農業生産力 だったと言って問題無いと思う。
だとすると、九州の倭人の国が半島の倭人の国に優越するのは必然だと思う。
半島の気候は、ソウル ≒ 仙台、平壌 ≒ 青森 だと聞いた事がある。日本の
東北地方は今でこそ米どころだが、米は基本的に南方の作物だから半島での
昔の米作りは、百済でそこそこ、それ以外では厳しかったんじゃなかろうか。
(だからこそ百済に倭人が住みついたとも言える)
それに比べて九州なら二毛作も出来る。佐賀の平野など米を作ってくれと言わん
ばかりだ。
中国に近いということで半島の方が先進地域という印象が強いが、国力という
観点で見ると、日本の方が常に強かったと見て良いんじゃないだろうか。
409>408:2000/07/13(木) 04:34
そう思う。先進だから強いなんて現代の話で古代は違うはず。
半島よりも人口が多かった上、半島の国家は3国以上に分かれてた
のだから、新羅や百済より日本が国力があったのは当然。
410名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:42
>409
でも当時の日本にしても、今の日本のように一つではなく、北は
蝦夷やらなんやらだった訳だし、単純に人口が多いと言い切れる
のか?。

それに気候や地力が農業に適していても、武器や農具の元になる
鉄を作る技術は、半島の方が上かもしれんぞ。

だいたい当時の日本で国産の鉄器ってあったのか?。
411名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:44
>410
黒曜石とオリハルコン(ワラ
412>410:2000/07/13(木) 04:56
魏志東夷伝の記述だと卑弥呼の時代の倭の30国の人口は三韓より
もずっと多い。
413名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 09:41
任那日本府説は広開土王碑の碑文の内容を『日本書紀』の記述に沿うように解釈したものです。
『日本書紀』に書かれている内容は大和政権が自分たちの勢力誇大に表現したものです。日本は
明治時代になってこれを朝鮮半島を侵略する口実に利用しました。
明治初期に日本軍参謀本部の将校酒勾影信が石膏を塗るなどして碑文を改竄したという説があります。
大和政権が九州まで支配するようになるのは6世紀とも言われ、4世紀末に朝鮮に軍隊をおくる力が
あったとは到底思われません。
任那日本府は支配のための恒常的な機関ではなく、一種の外交機関もしくは単なる倭人の政治集団に
すぎなかったとする見解が示されています。
このように倭を大和政権と直結する考え方は反省を迫られています。
414名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:13
>410
 鉄が国産か否かは大した問題ではない。どれだけ鉄を所有していたか、
それが問題。国力があれば伽耶あたりから沢山買えるのでは。倭と伽耶は
仲良かったし。

>413
 改竄説は中国人の学者によって論破されている。この説は在日の
学者が倭軍の朝鮮出兵を否定したいという動機の下に言い出したもので
信憑性はない。
 
415名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:21
大和政権なの?
416名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:21
そうなの「
417>414:2000/07/13(木) 10:47
出雲の国は、鉄の一大産地である。
多々羅族がいたんじゃないかったっけ。
418名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 16:50
>414
日本に製鉄技術が伝わってから、生産量で朝鮮を抜くのは早かった
と思うよ。鉄造りは大量の木材を必要としたから、農業生産力と
同じ理由で日本の方が鉄造りに向いている。
そもそも日本に製鉄民族が渡ってきたのは、朝鮮半島の森を丸裸に
してしまって仕方なく日本に来たんじゃないのかな。あの当時に
持続可能な生産なる概念が有ったと思えない。研究が進めば朝鮮半島で
製鉄民族(多々羅族?)が行った森林破壊の証拠が見付かるかもしれない。
日本では見つかったらしいからね。
419おきまりのトンデモ対応:2000/07/13(木) 17:05
「任那日本府について教えて」スレから転載
>>413
>15 名前: オーソン・倭奴♪♪ 投稿日: 2000/07/06(木) 18:11
>
>高句麗の第19代王(在位391-412)国岡上広開土境平安好太王。略
>して、広開土王または好太王と呼ばれる王様の建てた4〜5世紀の
>碑文のお話ね。
>でもって、日露戦争前頃に日本の参謀本部の情報将校が、碑文を改
>竄したって説をぶち上げたのが、在日の歴史学者の李進煕。
>
>「好太王碑の謎 日本古代史を書きかえる」李進煕 1973.11
>
>反論の文献例としては、藤田友治、1986.9の「好太王碑論争
>の解明 “改ざん”説を否定する」かな。
>
>決定的なのが、「好太王碑と高句麗遺跡」王健群 1988.6
>現地(碑の所在地は中国領)で調査研究を継続している中国人の研
>究者に全否定されている。
>
>もともと、碑文の現物も見ないで論文でっちあげる方がどうかし
>てると思うけどね。

だそうです。
420名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 17:14
東夷伝に倭人が弁韓のあたりで鉄を自由に取ってたという記載があ
ったような気がするが。
421>413:2000/07/13(木) 17:24
倭が大和政権であるか、北九州の政権であるかで何か違いがあるの?
魏志倭人伝の倭国が大和か北九州(その他の説もあるみたいだけど)
かというのは決着ついてないよな。
君の言いたいことが、よくわからん。
別に、古代史を取り上げて、現代のことをあれこれ言い出すような
トンデモは、戦前はともかく、今の日本人はやらんよ。
どっちかっていうと、ほとんど妄想で古代史をでっち上げてるのは
いまでは在日や韓国のほうだぜ。
422名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 17:34
というかほとんど大和説に傾いてるじゃない。
423>421:2000/07/13(木) 19:46
>魏志倭人伝の倭国が大和か北九州(その他の説もあるみたいだけど)
>かというのは決着ついてないよな。

邪馬台国畿内説派の人だって、九州が倭に含まれないなんて思ってる人は100%いないよ。
当時の倭の領域を、九州派は、せいぜい九州とその周辺ととらえているのに対して、
畿内派は、九州から近畿までの西日本全域だととらえているのだ。この違いは大きいぞ。

しかし、近年、出雲王国や吉備王国の実在性を示す証拠が次々と見つかり、後者の
考えは成り立たなくなってきている。昨日も、鳥取で2世紀頃戦争で死んだと思われる
人骨が大量に発見されたばかりだ。

なお、魏志倭人伝には、釜山あたりと考えられる、航海に出る地点が、「北岸」と
記されていることから、釜山あたりも倭の領土だったのではないかという説がある。
424>420:2000/07/13(木) 19:58
倭や他の朝鮮の国が買いに集まってたらしい。取ったなんていっちゃ
駄目。「日本は古代からウリナラの物を奪ってた」なんて言われちゃうよ。
425名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 20:43
採るの間違いじゃない?
426>423:2000/07/13(木) 20:50
>後者の説は成り立たなくなってきてる
なんでだ?倭国内で戦があったってだけだろ?
倭人伝にも倭国大乱の記載があるだろ?
30余国が統一されるならそれなりの戦はあっただろうし、統一に
反抗する勢力もあって当たり前じゃない?
427横レス:2000/07/13(木) 20:57
>426
倭国大乱があり、卑弥呼が共立されたんです。
統一されたわけではありません。

423のいうように、後者の説は確かに無理が出てます。
後は日本史板でどうぞ。
428横レス:2000/07/13(木) 21:01
>427
書き忘れました。
>>421での言わんとすることは理解していますで。
429名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:05
>427
>423のいうように、後者の説は確かに無理が出てます。
あんた意味を取り違えてる。
430421:2000/07/13(木) 21:05
>423
423=413なのかな?
うーん、対話なり、議論なりをするつもりなら「名前」に最初の番
号をいれるか、コテハンにしてくれ。
それとも、初レスなのか?

>出雲王国や吉備王国の実在性を示す証拠が次々と見つかり、後者の
>考えは成り立たなくなってきている
出雲王国や吉備王国が実在すると畿内説がなりたたんのか?
426も言ってるが、倭国大乱の記述から、数十年の差で別王朝が並立
していても不思議はないと思うし、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく
て、倭国の女王であることを見逃してないか?
魏志倭人伝の記述は、中央集権国家には見えないぞ。
431426:2000/07/13(木) 21:06
>427
そういう意味で書いたんじゃないんだが・・・
まあいいです。
432名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:24
そもそも421の
>魏志倭人伝の倭国が大和か北九州(その他の説もあるみたいだけど)
>かというのは決着ついてないよな。
これが変。
添削すると、
魏志倭人伝の邪馬台国が大和か北九州(その他の説もあるみたいだけど)
かというのは決着ついてないよな。
ではないでしょうか?
邪馬台国は倭の中の一つの国です。倭=邪馬台国ではありません。
433名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:34
>430
>卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく
>て、倭国の女王であることを見逃してないか?
卑弥呼は邪馬台国の女王でないなどという説は聞いたことがありません。
倭国の女王でもありません。
卑弥呼を共立した邪馬台国連合に敵対していた国も倭国の一つです。
434名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:38
433補足
倭の女王と考えたのは多分、金印の「親魏倭王」からの考えだと思いますが。
当時の国内的には倭全体の女王という認識はなかったでしょうね。
435>433:2000/07/13(木) 21:43
だから倭国が西日本全体であってもおかしくないんでしょう?
出雲王国や吉備王国だって邪馬台国連合に敵対していても倭国だっ
たということになるんだから。
狗奴国だって倭国なんだから出雲が狗奴国である可能性だってある
のでは?
436名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:48
>434
そうかな?ほぼ倭全体の女王だったといえるんじゃないかな?
100余国が30余国になり、さらに統一が進んでいた時代なんだ
しね。完全に一つの国家ではなくても確実に統一に向かっていたと
思うし、出雲王国や吉備王国があったならやっぱりそれに反抗する
数少ない勢力だったってだけじゃない?
437421:2000/07/13(木) 21:52
>432
あはは、確かにおかしいな。
正確には、倭国の女王とされた卑弥呼の住んでいた邪馬台国が大和
にあったのか北九州にあったのかが、ですね。

ところで、わけがわかんないから、初レスの人以外は番号名乗って
ね。
438名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 22:05
>436
この意見は殆ど憶測ですね。これが判らずに学者が苦労してます。
ややこしくなりますからここではやりませんが、少なくとも
卑弥呼の共立が統一に進んでいたわけではありません。
トヨの時代に崩れてしまってますから。
倭=邪馬台国として考えるからおかしいことになってしまいます。
ここで、邪馬台国を話してもしょうがないので、終わりにします。
439421:2000/07/13(木) 22:44
>438
やっと、ぐだぐだと言ってる意味がわかってきた。
要するに、倭国が中央集権的な体制のもとに統一されていたかを問題に
してるのね。
でもって、卑弥呼の時代に畿内まで含めた西日本が統一されていたかを
疑問視してるってことか。
統一政権になっていようと、内乱状態が続いていようと、大陸から見れ
ば、少なくとも畿内あたりまでは倭国の範囲だったんじゃないの?
漢書で、別れて百余国をなしていた倭人と、卑弥呼の倭国には連続性が
ないっていうならともかく、一貫して倭でしょ。
悪いけど、そうでないというのならともかく、元の議論に戻ると、どっ
ちでもいい話だな。
440初めて書きます:2000/07/13(木) 23:14
>439さん
畿内説・北九州説ともに仮説ですから何とも歯がゆいんですわ。
「もし」なんて言葉を使っちゃ反則かも知れないけど、
もし、言うところの「倭(邪馬台国を含め)」が九州にあった!としたら?
大陸側は九州を「倭」と認識していたのではないでしょうかね。
敵対していた狗奴国も邪馬台国より南側にあったようですから。
その場合畿内は全く別の国。

畿内にあった!とすれば、もちろん439さんのおっしゃる通りだと思います。
(西日本)
いずれにしろ、
>元の議論に戻ると、どっちでもいい話だな。
同感っすね。
441どーでもいいけど:2000/07/13(木) 23:17
>>433
>>434
魏の皇帝(?)によって倭国王に任じられたんでしょ?
当時の東アジアでは、これほど正統な王権はないでしょうに、何を言って
いるんですか。

>当時の国内的には倭全体の女王という認識はなかったでしょうね。

当時の国内的って何のことを言ってるのかな。ドングリの背比べみたいな
小国が倭の中でお互いに争っていたけど、疲れちゃったから、一人をきめ
て、代表にした(同意してないのもいるでしょうね)そして、それを権威
付けるために、魏に入朝し、倭国王に柵封されたってことだよね。
これ以上の王の定義がどこに必要なのかな?
対外的には正統な国王でも、内部的には反対勢力がいたってことなら、別
に国王として失格ってほどのめずらしい話じゃないよ。


442421:2000/07/13(木) 23:28
>440
ども。
ほんとの事いうと、もう、どっちでもいいとは思うんですが、せっかく
だから、ちょっとだけ。
漢や三国頃の史書には、東の海中の異民族は倭人しか出てきませんよね。
当時の日本列島にいた人々の中に、大陸から見て倭人以外の人は見えな
かったということですよね。
でも、ある程度の勢力をもって別の種族が対抗していたのなら、当時の
中国にアプローチしただろうと考えるのが妥当ではないでしょうか。
畿内や出雲だったら、当時でも十分に朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡に行け
たと思いますし、その程度の外交は古代でもやったと思うんですがね。
別勢力が中国にアプローチしていないってことから、当時の日本列島の
弥生文明圏=倭人の範囲で良いのでは。
同時に、倭国王は倭人の王の意味なのではないかと思ってます。
実効支配範囲がどうであったかは、別の話でしょう。
443名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 23:35
>441
>魏の皇帝(?)によって倭国王に任じられたんでしょ?
>当時の東アジアでは、これほど正統な王権はないでしょうに、何を言って
>いるんですか。

呉の皇帝に認められても正統じゃないの?
「これほど正統な王権」て程のもんじゃないとおもうけどなぁ。
魏も呉も自分が正統と思って争ってたんだからさ。
邪馬台国はたまたま魏に朝貢しただけでしょ。
呉に朝貢してたらどうなったんだろ・・・
もしかしたら狗奴国が先に呉に朝貢してたのかも。
ま、どーでもいいけど。
444440>442:2000/07/13(木) 23:47
>弥生文明圏=倭人の範囲で良いのでは。
同感です。
>実効支配範囲がどうであったかは、別の話でしょう。
これも同感です。
西日本云々のレスを読んで、両仮説の勢力範囲を書いてしまいました。
混乱させたとしたら申し訳ない。
445423です。おさわがせしてすみません。:2000/07/13(木) 23:52
私が言いたかったことは、432さんと439さんの述べられている通りです。

そして、魏志倭人伝には、「海を千里渡ったところにまた国があり、皆倭種である」
とあり、倭人ではなく倭種、つまり、「倭と同じ人種だが別の国の人がいる」として
いることから、中国側がこの国を倭とはみなしていないことがあきらかです。

この海を渡ったところの国というのはたぶん四国でしょう。そのため、倭の領域は
せいぜい九州。西日本は統一なんかされていなかったとする九州派のほうが説得力が
あると思っています。

まあ、こういう話は日本史板のほうでやりましょう。それよりも、この板では、
(倭国の)北岸と記されている、狗邪韓國が倭の領土だったのかどうかを論じて
みませんか?地理的には任那と合ってるんじゃないでしょうか?
446名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 01:27
魏誌を読むとそう取れますね。
確か狗邪韓國に行く前の国が倭と接するとあった気が(うろ覚え)
で次の国が狗邪韓國となると上の意見に賛成だな。
447どーでもいいけど :2000/07/14(金) 09:29
>>443
>呉の皇帝に認められても正統じゃないの?
そうだよ。中華の皇帝に承認されるのが正統性確保の方法だったんだから。
中華の皇帝とみなされるなら、相手は魏でも呉でも蜀でも別にかまわんだろ。
ただ、意味のあるレスなのかな、これは。
そもそも、狗奴国が呉に柵封されていたって記録があるのか。
それなら、ぜひ話を聞きたいな。
448>445:2000/07/14(金) 14:25
この話はやめましょうと言ってるのに悪いのだが、倭の領域が九州
限定というのは無理があるでしょう。倭人伝の記述を信じるなら倭
には三韓を合計したものよりも多い戸数があります。それが九州だ
けに集中するというのはちょっと。それにおととい発表された島根
の遺骨が本当に倭国大乱を証明するものならば、本州にも倭国が広
がっていたことになりますよね?
449名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 15:38
>448
晋書には、240年、東倭が朝貢とあるそうです。
東倭は出雲、大和系と考えられます。
この出雲、大和系は、半島とつながっていたのかも。(神話から推測)
日本は、九州南部(邪馬台国含む)、狗奴国系、出雲、大和系の豪族分割状態
でしょう。
450名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 15:50
出雲系と大和系って一緒なの?まあどうでもいいけど。
どっちにしても好太王碑の時代の倭は大和王権だと思うな。
違うにしては古事記や日本書紀の記述と一致しすぎてる。
今ちょっと詳しいことがわからんが、呉織と漢織がやってきたのが
ちょうど倭の5王が南朝に朝貢した時期だし。
出雲での発見などは神話がかなりの部分の真実を含んでることを実
証したと言えるからな。
451>449:2000/07/14(金) 16:23
>晋書には、240年、東倭が朝貢とあるそうです。
「あるそうです」って、その後に推論を展開しているのに無責任だな。
率直にいって、とても簡単には信じられない話だな。
晋書では、東夷そのものの記述がいいかげん(不正確というのではなく
て、きちんと国の名前が書いてなくて、東夷○国が入貢したいったよう
な)で、研究者泣かせだったはず。
ひょっとして、東夷と東倭と間違えてない?
もし、東倭の入貢記事が晋書に本当にあるのなら、どこに記載があるの
か、ぜひ教えて欲しい。
452449:2000/07/14(金) 16:49
>451
晋書(宣帝紀)に正始元(240)年、正月に東倭が朝貢してきた。
だそうです。
無責任と言われれば謝ります。小心者なので。
453449:2000/07/14(金) 17:06
452にプラス
晋書、本紀には、倭国の条はないそうです。倭人はありますが。
あと、高句麗についてもないそうです。
東の方の国に興味がなかったのか?
454443>447長文ごめん:2000/07/14(金) 18:57
今日は仕事が早く終わって良かった。はぁと。
さて、447さん
>>443のカキコをもう一度読んでください。
そして>>447のカキコと比べてください。
同意と大きい違いが含まれてます。
同意点としては
>中華の皇帝に承認されるのが正統性確保の方法だったんだから。
>中華の皇帝とみなされるなら、相手は魏でも呉でも蜀でも別にかまわんだろ。
だからカキコの最後に「どーでもいいけど」って書いたんですわ。

ただ、
>「これほど正統な王権」て程のもんじゃないとおもうけどなぁ。
>魏も呉も自分が正統と思って争ってたんだからさ。
私はこれが言いたいんです。狗奴国のことは単に言葉のアヤとして
使っただけでして、、、これが誤解というか447さんの疑念を増幅
させてしまったんでしょうけど。もちろん呉に朝貢したなんて記録は
ありません。
魏志は魏の時代には書かれていません。禅譲(無理矢理ですが)された
晋の時代に纏められてます。蜀は魏に滅ぼされ魏は晋に乗っ取られ
呉は晋に滅ぼされました。晋は魏寄りの歴史を書いて当たり前なんです。
それに反発した蜀系の人達が「お話し」を広めて、最後には「三国志演技」に
なった程ですから。

そして卑弥呼朝貢はあくまでも魏の時代です。
三国が覇権を競ってたときです。
魏が卑弥呼を倭王として認めたとしても、呉からすれば「ってやんでぇ」
という反応でしょうね。
こういった認める側の国が争ってた時代にどこの国に認められたから
「正統」とは言い難いのではないか、ということです。

で、あなたの>>441の、
>魏の皇帝(?)によって倭国王に任じられたんでしょ?
>当時の東アジアでは、これほど正統な王権はないでしょうに、何を言って
>いるんですか。
これに反応しました。
ご自分でも書いてらっしゃるように、「相手は魏でも呉でも蜀でも別にかまわん」
のですからね。魏認定=東アジアの正統王朝とは限らないということです。
言ってることは、同じような気がするんですが・・・・
私がアホなんでしょうか(涙)
455451:2000/07/14(金) 19:01
>449
>無責任と言われれば謝ります。小心者なので。

言い方がちょっとぶっきらぼうだったかな。
気に障ったら、ゴメン!

ふ〜ん。帝紀のほうですか。これですね。
正始元年春正月、東倭重譯納貢、焉耆、危須諸國、
弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、
又増帝封邑。

なるほど、あるね。ただ、これが倭とは違う東倭
の存在を意味するのだろうか。調べてみよう。

とにかく、教えてくれてありがとう。
456451:2000/07/14(金) 19:03
>>453
>晋書、本紀には、倭国の条はないそうです。倭人
>はありますが。

晋書の倭人の記述は以下のとおり。
これを見て、倭国ではなく、倭人だと強調する理
由がなにかあるのかな。

記述内容は、倭人伝とほとんど変らんし、矛盾す
るような内容でもない。
倭人と書いてあって、倭国と書いてないから、倭
という国は存在しなかったって言いたいのかな?

倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、
無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有
三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。
自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。
昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、
今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、
當會稽東冶之東。其男子衣以横幅、但結束相連、
略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆
被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。
土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母
兄弟臥息異處。食飮用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣
迎之。死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食
肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大
事、輒灼骨以占吉凶。不知正歳四節、但計秋收之
時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、
不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅
其家。舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。
乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後
貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重
譯入貢。

457どーでもいいけど:2000/07/14(金) 19:25
>443
>>454
>魏認定=東アジアの正統王朝とは限らないということです。
>言ってることは、同じような気がするんですが・・・・
前提として、当時の東アジアにおいて、中華帝国が占めていた位置についての
認識に443さんと大きなズレはないようなので、441の「何を言っているんです
か」はちょっと言い過ぎでした。撤回します。
王権が国内の民衆の意思を中心に決まると決め付けているように読めたもので
ちょっと反発したということです。
古代史関係だと、皇国史観の影響をひきずって、日本の天皇に擬せられるよう
な人物が中華帝国に朝貢、柵封された、といった記述を否定しようとしたり、
その重要性を過小評価しようとする傾向がないわけではないので、気になった
ということもあります。
なんか、左翼的な人も逆に古代日本を小さくみせようとする傾向があるようで
すが。
ところで、「魏志は魏の時代には書かれていません。」とのことですが、中国
の歴代の正史は次の王朝の代に書かれるのが原則で、あえて書かなくても、こ
のスレッドに興味を持つような人には常識だと思うのですが。
458449:2000/07/14(金) 20:03
>456
すみません。カキコがまずかった。
晋が、正式に倭国を認めていなかったと言う意味です。
で、魏の後継者である晋は、当然倭国の存在は知っていた。
わざわざ、東倭と書いてあるので、倭国の東の倭です。
ですから、九州の東は、出雲、吉備、大和しかないと言うことです。
459451>449:2000/07/14(金) 23:29
>>458
晉書の成立は7世紀だからなぁ。
そこまで深読みする必要があるのだろうか。
そもそも、正始元年って、西暦240年で、晉代ではなく、魏の時代だね。
卑弥呼が親魏倭王に封ぜられた景初2年が西暦238年だよ。
魏志倭人伝と完全に重なる時代のことだ。
3世紀末に陳壽が書いたとされる魏志の詳細な記述にくらべて、倭の前に
東が付いてるから、倭国に対抗する勢力、例えば狗奴國が倭の東に存在し
ていて、それが魏に朝貢してたって考えるのは無理だね。
魏志倭人伝には、正始年間に魏がせっせと倭国にてこいれしている様子が
書かれている。
その解釈では、矛盾が多すぎると思うがどうだね?
460>449:2000/07/15(土) 14:41
あのぉ、東夷伝に「東倭」とあったら、はてな、と考える必要があるでしょうけど、
帝紀に出てきたら、東の倭ですから、日本のことでしょ。
倭は江南にもいたんですから、国名で倭国としないのなら、東倭でしょ。
そんなトンデモを主張している専門家がいるですか?

461449:2000/07/15(土) 15:30
>460
私は、専門家ではありません。ただの本読み人間であります。
知識の出所は、小林恵子です。ただこの人の本は、それこそ
トンデモ説に入るんだろうけど。まーあ、信用できるかなと言うところを、
つまみ食いしたのです。すみません。
で、晋書本紀には、倭人とあるわけで、帝紀に東倭とわざわざ書く必要は、
ないわけでしょう。一応うらをとりながら読んではいますけど。
あと、魏志倭人伝を読むと、狗邪韓国は、倭人の国になっているんですけど、
ここらあたりの、皆さんの意見は、どうでしょ。
462名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 15:50
東倭人なんて書かかないでしょう普通。東倭は倭国と考えるのが自然
だと思いますよ。あと、当時の日本がいくつかの文化圏に分かれてい
たのは認めますが、それが統一的な政権がなかったという根拠にはな
らないでしょう。隋書でも日本が幾つもの国に分かれてるかのような
書き方をしてるでしょう?そういえば唐書の中で倭の使者が、日本と
国名を変えた理由を、倭が日本を併合したからと言ったという記載が
ありますよね。あれは何なのでしょう?
463449:2000/07/15(土) 16:07
>459
魏は、魏呉蜀の時代でしょう。ですから味方は欲しいわけです。
呉、あたりは九州南方とかかわっていたとか、いかん妄想発言になりそう。
晋になったら、倭国に利害関係がなくなった。と言うのではダメ?
464451>459:2000/07/15(土) 16:53
>>463
古代史の楽しみは、空想を広げることにありますからね、楽しみな
がらぼちぼちまいりましょう。
小林恵子さんの本は、学術的な評価はともかく、私も楽しんで読み
ました。井沢元彦との対談なんかもあったかな?

さて、晉書の「正始元年春正月東倭重譯納貢」は晉の時代ではなく
魏、それも魏が卑弥呼を支援していてた時のことです。
だから、
>晋になったら、倭国に利害関係がなくなった。
という推論の基礎にはなり得ないでしょう。
465423>462:2000/07/15(土) 17:18
結局、話が続いてますね。

>あと、当時の日本がいくつかの文化圏に分かれてい
>たのは認めますが、それが統一的な政権がなかったという根拠にはな
>らないでしょう。

私は逆に、文化圏が別れていたのが、統一されていなかった証拠だと思っています。
なぜなら、文化圏が違うというのは、イコール宗教が違うということです。
宗教の違う民族同士が激しい戦争を繰返すのは、古今東西、世の常ですね。

また、「倭国大乱」が倭国内の内乱であるという考えは、畿内派、九州派ともに
一致するところで、この時代に激しい戦争があったことを示す遺物がほとんど
発見されないことから、大乱と言っても、世継ぎ問題に揺れるお家騒動のような
もので、口げんか程度のものだったのではないかとする説までありました。

ところが、先日、鳥取で発見された、この当時の戦争によると考えられる遺体は、
女子供まで含めて、無造作に溝に捨てられていたというもので、どう見ても、
敵対する民族の絶滅をはかった、内乱と呼べるような代物ではありません。

しかし、3〜4世紀にかけて、出雲が独自の文化圏を持っていたことは、まず
間違いないのですから、これは、当時、西日本が統一されていなかった有力な
証拠となるのではないかと思います。もちろん、これだけでは断言できませんが。
466449:2000/07/15(土) 17:20
ここに、449の名誉をかけて、敗北宣言をいたします。

魏志倭人伝を読むと、狗邪韓国は、倭人の国になっているんですけど、
ここらあたりの、皆さんの意見は、どうでしょ。

朝鮮の方に怒られそうだが、これもダメでしょうか。
467>449:2000/07/15(土) 20:38
>>466
魏志倭人伝をすなおに読めば、お説のとおりです。
でも、この話は戦前に「日鮮同祖論」として展開され、韓国併合の根拠付けにも
使われたので、今日ではタブーとまでは言いませんが、結構微妙な話になってい
るようですね。
でも、2chは個人や差別地域の特定を除き、なんでもありですから、どんどん
やってください。
468名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 05:05
ちょっといつの時代の話なのか混乱してるように見えます。
好太王の時代に関しては、私は西日本はほぼ統一されていたと
思います。出雲に独自の文化圏があってもそれを否定刷る根拠
にはなりません。なぜならある文化圏の勢力が別の勢力によっ
て制圧されたとしても、その地域の文化が支配側の文化に染ま
るまでには時間がかかるのが当然ですし、前時代の文化のある
程度の痕跡はその後も残るはずだからです。
469>468:2000/07/16(日) 10:47
好太王の時代は、4世紀末〜5世紀初頭です。
卑弥呼の時代から150年から160年くらい後の話ですね。
要するに卑弥呼の時代、西暦240年頃の前に戦乱の時代があり、その後にまた
戦乱の時代があった。
でもって、400年頃には半島までいって戦争をするほどの勢力になっていた。
西暦240年前後の卑弥呼の時代の倭国の実効支配範囲は九州とその周辺程度だ
たのか、畿内まで含めた範囲だったのかで意見が別れている。
この西暦400年頃についてはどうなんでしょう。ほぼ大和政権とされているん
でしょうか、それともまだ九州とその他の地域が分裂したままと考えられている
んでしょうか。
470名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 12:58
近年の考古学上の成果から大和王権は3世紀の後半ぐらいまでには西日本のほぼ全域
を影響下に収めていたと思われる。七支刀を見ても、4世紀後半には
大和王権と朝鮮諸国との交流があったことがわかる。
471>470:2000/07/16(日) 15:42
例の七支刀が通説では、A.D.471
獲加多支■大王(ワカタケル大王)=倭王武=雄略天皇
とされているから、5世紀には大和王権が成立していたことに疑問
を持つ人はいない。

A.D.421年から宋に朝貢して、しつこく三韓の権利を主張した倭の
五王(最後が倭王武)が大和政権であったことにも異議をとなえる
人はほとんどいない。

でもって、A.D.266年の壱与の西晋への朝貢以前については、まだ
まだ、邪馬台国論争が続いていて、決着がついていない。

問題は、A.D.413年に東晋に朝貢した倭やA.D.400年前後に朝鮮半島
で戦った倭が大和政権であったかどうかとういことでしょうね。

でも、倭の五王の朝鮮半島南部への名目的権利への執着からして、
彼らがA.D.400年前後に朝鮮半島で戦った倭の後継であることはまず
間違いないでしょう。
472名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 16:48
>471
七支刀と稲荷山古墳鉄剣を混同してますよ。
473昔のことだろ?:2000/07/16(日) 17:26
でもさ〜アメリカなんて侵略したのたかが500年前だし
474>471:2000/07/16(日) 18:35
七支刀の方は石上神宮に伝えられていたものね。刀の象眼文字から少な
くともこれが百済から来た刀であること、日本書紀の神功皇后摂政記に、
百済の肖古王が372年に遣使して七枝刀と七子鏡を献上したとあるの
がこれのことじゃないかって考えられてる。
だから、4世紀後半には西日本全体が大和政権の支配下にあって、半島
とも交流があったと考えられるってことかな。
稲荷山古墳鉄剣よりも、1世紀さかのぼる史料ということ。
475名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 18:47
結局のところ、邪馬台国九州説を取ると、3世紀の卑弥呼の倭国と
4世紀後半の大和政権の倭国の間の100年間に大変動があったっ
てことになるのかな。
で、なにがあったことになっているの?九州説では。
あれ、このスレと関係ないかな。
476>475:2000/07/16(日) 23:15
東遷でしょ。今や学会でも東遷を否定する人はほとんどいないよ。
477名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 04:59
age
478名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 05:02
>476

倭人が九州から大和へと進出したのは当たり前だけど、
その時期が問題だね。現状では3世紀以前と言うことかな?
479>478:2000/07/17(月) 11:09
57年、金印を奴国が受ける。188年頃、卑弥呼擁立
200年頃古墳時代始まる。369年、任那府成立
438年、倭の五王(宋書)だす。
以下妄想
100年頃、九州南で卑弥呼(天照大神)勢力成立、北上
あまりにも、九州南方に神代の伝承が多いから、また串間市王の山から、我が国最大の壁
が出土(国宝、完璧の語源、前漢の時代のもの)、漢の武帝のよりでかい。
160年頃、東征、倭国の乱、へへっ、邪馬台国移動説じゃ。
480名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 11:25
箸墓が卑弥呼の墓だという説が強いと聞くけどどうなの?
481名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 11:34
>479

そうだね、2世紀後半か3世紀後半のどっちかだろうね。

銅鐸文化の消滅と関連付けてみるのもいいかもね。
482>479:2000/07/17(月) 21:57
卑弥呼=天照大神だとすると、神武東征は壱与の次ぎの時代ということになるな。
だとすると、3世紀後半に再び倭国みだれて、畿内へ東征、大和政権樹立という
ことでどうかな。
そうすると、邪馬台国は北九州か。
う〜ん。個人的には畿内説でよいのではないかと考えてるんだが。
483名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 23:02
安本美典によると、九州(八女市あたりだっけ?ド忘れ)の地名が
明日香地方の地名とドンピシャと言ってますが。
山の名前・川の名前・土地の名前など。
これはここらの勢力が大和に移ったと見ていいんでしょうかね。

移動した(せざるを得なかった?)経緯は様々だろうけど
想像をたくましくすると、楽しいことではありますね。
484名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 23:29
1)源義経は衣川で死ななかった
2)生き延びた源義経は北走し、八戸地方を経由して蝦夷に逃げ延び、アイヌは
  恭順してこれを迎えた。
3)さらに源義経は蝦夷海を渡って大陸に入り、同地の人々を教導して、モンゴル
  帝国を築いた。
4)満州・蒙古ならびにシベリアと蝦夷の間には上古から交流があり、日本人も多く
  渡海していた。そのため、大陸諸地域には分化・言語のうえで共通点が多い。
  また、現在の満州から蒙古・シベリアにいたる広大な地域に暮らしている諸民族
  にはかつて渡海した日本人の血が流れている。
5)清朝および蒙古王室はジンギスカンの子孫であり、したがって源氏の末裔といえる。

  よって、元寇は先祖の地に戻っただけだったんのんじゃ!
485>484:2000/07/18(火) 00:23
マンガの読みすぎ (2までは許すが・・・・・)
486名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 05:26
あげ
487名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:27
age
488名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:46
age
489名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:47
オレはアジア主義の純正日本人だ。
憐憫の情を諸君に持つ。
490名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:59
age
491名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 23:07
>484
>489
ああ、数少ない良いスレにコピペはやめてくれよ。
他のスレで遊びなよ。
492名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 04:06
荒しに負けずに良質な会話が交され続けることを祈ってアゲ
493名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 15:07
>492
同意
494名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 06:52
荒しに負けずに良質な会話が交され続けることを祈ってアゲ


495479:2000/07/20(木) 08:51
魏志倭人伝の投馬国は、日向だと思うのですが。
妻と言う地名、ミミ(漢字忘れた)と言う高官がいたこと。
日向には、みみ川という川がある。美々津という地名もある。
ここが、神武東征の出発地にもなっており、沖に島が二つあるのですが、
その間から出航したので、今でもその間からは、漁船は出ない。
何故ななら、神武が帰ってこなかったので、2度と帰れなくなるためだそうです。
邪馬台国は、その南なので、串間、都城、種子島あたりしかなくなる。
496名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 08:56
魏志倭人伝って、不弥国から先はほんとになぞだね。
ただ全体の里程から推測すると投馬国は宇佐辺りじゃないかなあ。
497名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 02:07
魏志倭人伝って、不弥国から先はほんとになぞだね。
ただ全体の里程から推測すると投馬国は宇佐辺りじゃないかなあ。


498名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 13:05
荒しに負けずに良質な会話が交され続けることを祈ってアゲ


499名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 01:25
age
500名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 19:37
500
501名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 19:53
お前が荒らしでは?>498
502名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 07:14
>501

俺はスレッドを立てた本人だ!
503名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 04:19
任那万歳!
504名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 22:34
任那万歳!


505名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 04:09
これもを下げたたっのかな?
とりあえずあげてみよう
506名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 05:25
507名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 05:39
あ、俺も見た、そういや任那のスレ消えていたな。
あれも、急に在が消えたんだよね。チョット調べてみよう。
508名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 06:42
任那万歳!
509名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 05:30
任那をかえせ
510名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 06:39
新羅、百済は倭人の支配化にあったのは歴史の事実です。
511名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 01:03
age
512名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 17:12
韓国には近代歴史学は永遠に根づかないんでしょうね
513名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 18:13
任那の祖先の人達いたら返事くれ〜
514名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 19:52
任那日本府の発掘調査を大日本帝国時の朝鮮総督府が
肝いりでやりましたが、一切それに付随する遺物は
発掘されませんでした。
近代国家になったとき朝鮮半島にいた人が朝先人、韓国人
日本列島にいた人が日本人なんであって今の自分達の
都合から民族や血の優劣を決めるのはおかしいと思います。
又、そのことによって自分達の先祖の一部を侮辱すること
にもなるかもしれませんから。
515名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 20:33
>514
おらの頭が悪いのかもしれんが、意味がわからん。
何が言いたいの?
民族の優劣なんてカキコ、ありました?煽りは別にして・・
516名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 20:51
鮮人には煽りかどーかの区別つかないでしょ
517名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 21:07
>514
戦後、朴っていう大統領の命令で日本と関係のある遺跡は
すべてぶち壊したんだよ。
怖いね〜朝鮮人はこういう事実を知らないんだ?
518名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 21:19
朴は親日だったけどね。
自分の国は日本に比べてどうしようもないと
心のそこから思っていた。
519>518:2000/08/03(木) 21:30
朴正煕だな。
日本との国交を復活させたのもこの人。
520名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 06:03
age
521名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 10:06
日本を認めたくないんだね。
522名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 13:06
それなら、日帝の事もキレイさっぱり忘れてくれ、
そうすれば少しはまともな話も出来ようぞ。
523名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 21:38
新羅、百済は倭人の支配化に有りました。
高句麗は中国の支配下にありました。
524名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 06:37
さがりすぎだよ
よってあげ
525名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 07:47
任那日本府あげ
526>514:2000/08/21(月) 13:49
悪いのですがそれをやってるのは韓国、朝鮮の学者さんたちですよ。
527名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 14:30
528名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 01:05
カウンターのためあげ
529名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 06:42
カウンターのためあげ
530名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 14:37
任那奪還あげ
531外交官 :2000/08/28(月) 01:10
いずれにしても、それはありえない。
最近は天照大神は女神というのは推古あたりに捏造されたという解釈が
一般的だ。元々はアマテラスクニテラスオオミカミで男神である、とす
るならば、卑弥呼がアマテラスであろうはずはない。
また卑弥呼も、これは固有名詞ではないぞ。肩書きだ。
「いよっ、シャチョー!」の「シャチョー」と同じだ。
532名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 01:12
朝鮮南部は倭人の支配化にありました
北部は大陸人の支配化に有りました。
533名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 05:48
>532
あれあれ?ウリナラさんは?壇ちゃんは?半万年は消えたのか?
534名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 06:38
chiyoyo---n!
535名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 01:37
age
536名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 00:31
新羅、其の人、まじわりて、百済、高麗、漢等多し
百済、其の人、まじわりて、新羅、高麗、倭等多し

とかって書いてあったのは魏志韓伝?だったかどうか忘れたが、
要するに、百済は日本人度が高くて、新羅は中国人度が高かったって事かな。
百済の言葉はどうも日本語に近かったらしいしね。名前も中国人とか今の韓国人
ぽくないのが多いみたいだし。
537名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 00:40
宋書では、倭王は、安東大将軍であり、六国諸軍事を承認されている。
六国というのが、「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」だったり
「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」だったりしているが、
百済は鎮東大将軍とか寧東大将軍とかに任じられているので、
中国側が倭国と対等に置きたかったらしい。一応高句麗の流れだからだろうか。
でも新羅は疑いようもなく小国だったみたいだね。
でも任那や加羅を滅ぼし、唐と結んで主人の百済や高句麗まで滅ぼしちゃった。
すごいサクセスストーリー。

538名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 00:44
宋書では、倭王は、安東大将軍であり、六国諸軍事を承認されている。
六国というのが、「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」だったり
「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」だったりしているが、
百済は鎮東大将軍とか寧東大将軍とかに任じられているので、
中国側が倭国と対等に置きたかったらしい。一応高句麗の流れだからだろうか。
でも新羅は疑いようもなく小国だったみたいだね。
でも任那や加羅を滅ぼし、唐と結んで主人の百済や高句麗まで滅ぼしちゃった。
すごいサクセスストーリー。

539名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 01:05
なんかさ、朝鮮人って(北も南も)なんとなく汚らしく見えない?
たとえばさ、体操で東欧の選手なんか見てると、卑猥で悪いけど、抱きたいという気持ちが起こらないかというとそうでもないじゃない。
きれいな選手もいるし、彼女に出来るならさせてもらおうって思うことってない?
ほかのスレで基栄たんだのドキッチたんだの言ってるのもそうだと思うんだよ。
同じ日本人は当然として、欧米なんかにも魅力的な人っているでしょう。
なのに、韓国、朝鮮の人間だけはどうしても汚らしいような感じがしていやなんだよな。
2chでも韓国、朝鮮の選手に萌えてる奴は今のところ見たことないんだけど。
やっぱりそれだけ朝鮮人は下等ってことでしょ。
人間、遺伝子のレベルを守ろうとするものね。日本軍だって戦時中に、憂さ晴らしに強姦なんかはしただろうけど、
普通の日本人は、朝鮮人みたいな汚らしい下等人種には性的な興味もたないよな。
540名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 18:00
とりあえず、あげ
541>539 :2000/09/30(土) 18:19
そこまでのレイシズムはいくらハングル板でも受け入れられない。
もし、本気でそう思ってるのなら引いてしまう。
542名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 07:17
戦後、朴っていう大統領の命令で日本と関係のある遺跡は
すべてぶち壊したんだよ。
怖いね〜朝鮮人はこういう事実を知らないんだ?


543名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 15:25
暗殺された「ボク性器」とか言う大統領か?
あいつは親日だろ。知日というか。
「オレは維新志士のような気持ちで韓国を導いている」
 敵に殺されるならともかく、身内に殺されるとは、浮かばれん。

#どっちかと言えば、現在の反日教育の基礎を作った、無能で有名な初代大統領の
仕業だと思うんだがな。
544名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 07:40
新羅、百済は倭人の支配化に有りました。
高句麗は中国の支配下にありました。

545名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:36
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
546名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:37
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
547名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:37
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
548名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:37
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
549名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:37
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
f
550名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:37
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffd
551名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:37
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhg
552名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgds
553名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgdsegs
554名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgdsegssf
555名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgdsegssfs
556名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
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前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgdsegssfsgs
557名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgdsegssfsgsrc
558名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ffdhgdsegssfsgsrcfs
559名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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560名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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561名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:40
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
fessssxscsxzsxz
562名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:40
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
fessssxscsxzsxzszxz
563名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:40
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
fessssxscsxzsxzszxzs
564名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:40
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
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ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
565名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5de
566名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5def
567名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defr
568名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrc
569名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdf
570名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfgh
571名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghgh
572名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghghgh
573名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghghghss
574名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghghghssgh
575名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghghghssghghs
576名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghghghssghghsgjhf
577名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:41
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rt5defrcdfghghghssghghsgjhfhjt
578名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:42
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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579名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:42
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
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掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rfvhg
580名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:42
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rfvhgfgn
581名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:42
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
rfvhgfgnhfhshs
582名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:42
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ass
583名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:43
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
assddfdfffaf
584名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:43
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
f
585名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:43
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
fddfgg
586名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:44
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
587名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:44
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
dgg
588名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:44
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
dgghh
589名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:44
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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590名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:44
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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591名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:45
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
eeeee
592名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:45
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s
593名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:45
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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594名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:46
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
595名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:46
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
gssxx
596名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:46
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
o
597名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:46
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ossha
598名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:47
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
fffff
599名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:47
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ddddd
600名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:48
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
uxxxxx
601名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:49
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
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義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
602名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:49
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 xc
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
603名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:49
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
604名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:49
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。v vv
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
605名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:49
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 xx
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
606名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:50
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。x
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したsにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
607名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:50
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 cvd
608名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:50
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 c
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 cvd
609名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:51
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 z
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。 z
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配かx死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
610名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:51
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
611名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:51
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。a a
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
612名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:52
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
dd
613名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:53
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 dd
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 d
614名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:53
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
v
615名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:53
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
vcd
616名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:53
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価qqせず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
ww
617名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:54
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
618名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:54
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
dfd
619名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:54
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
cd
620名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:55
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 sss
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
621名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:55
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、q体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとqしめ、q過酷な収奪を繰り返した。aq1
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
622名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:56
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。x xx
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
623名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:56
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
624名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:56
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。x xx
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
625名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:57
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。x
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。 z
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
626名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:58
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯wを送らねばならなかったそうです。 w
627名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:58
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。w
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯wを送らねばならなかったそうです。 w
628名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:58
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 zz
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したaaにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
629名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:58
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
630名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:58
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 zx
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
631名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:59
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
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掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
632名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 03:00
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 werfhd
633名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 03:00
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したswにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
634名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 03:00
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたも的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
z
635名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 03:01
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたも的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
zssdxdxd
636名無しさん@1周年
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたも的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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