「南京大虐殺」を未来永劫語り継ぐスレ

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あなたのおじい様の戦争体験を教えて その11
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1144591772/

ここの>>69さん、ご参考までに。


〜 郷土部隊奮戦史 (昭和37年10月15日発行、平松鷹史 著) P199-202より抜粋 〜

満州事変の中で一番、日の当たらない苦労をなめたのは兵たん部の兵士たちで
あった。第一線のはなぱなしさはないし、その働きぶりが新聞に報じられることも
なかった。彼らは大陸特有のぬかるみ、けわしい岩山、きびしい寒暑、天然の
悪条件の中で行動のにぶい荷馬車をかかえ軽武装で敵のグリラと戦うという
戦争のカゲの苦労を一身に背負わされていた。

兵たん部隊の苦心は熱河作戦編の初めにかんたんにふれたが、当時軍需品の輸送に
当たっていた第十中隊特務曹長岩元丸江(のち大尉、日出町在住)の手記から当時の
輸送部隊の苦心をふり返ってみよう。

満州事変に六師団が参加したとき、この師団には平時編成であったため師団輜重隊
や大小行李は付属しておらず、軍需品その他の輸送には関東軍の責任で行なわれた。
四十七連隊では第五中隊(大尉永沢悦二) 第十中隊(大尉熊谷操)がこの輸送隊として
抽出された。
302189:2006/04/20(木) 21:57:57 ID:CfZwrP21
輸送に使うシナ馬、馬車、馬夫などは奉天、鉄嶺など鉄道沿線から徴発することに
なり、各地の官公署に対し徴発命令が発せられた。各地区では指定された期日までに
馬、馬車、人員を調達しなければならないわけで、どこも大混乱を起こした。

強制徴発であったが、借り賃や人夫の日当、使用中の事故にたいする補償などの
契約もちゃんとしており、使用期間は一ヶ月であった。日当はシナ人一日五十銭、
同監督八十銭、シナ馬、馬車一日一円くらいがその値段。徴発解除のさいは、
徴発の現地まで引率帰還のうえ、賃金を精算するという契約であった。

徴発された馬、馬車、人員は日本軍が監督して錦州から朝陽寺まで列車輸送、
そこから朝陽まで行軍し、朝陽から赤峰までの約三百二十キロ(八十里)の翰送に
任じたわけだ。輸送縦列は一個中隊が六個縦列を担当、二個中隊で十二個縦列を
受け侍つことになった。

一個縦列の警戒兵は小銃二分隊、軽機関銃一分隊の約二十五人、縦列長は小隊長と
先任分隊長があたり、シナ馬に乗って縦列を指揮し、五縦列ごとに行動、中隊長は
随時に縦列とともに行動した。縦列はイロハ順にオまであり、馬夫はイの何番という
番号腕章をつけて整理したが、のちには馬夫の逃亡が相つぎ指揮の兵隊たちを
悩ませた。
一車両にはシナ人馬夫一人、馬三頭引きとし、ほかに縦列ごとにシナ人監督二人、
蹄鉄工二人も付属するという大部隊であった。
303189:2006/04/20(木) 21:59:01 ID:CfZwrP21
熱河省はだいたい平地の少ないところであり、ほとんどが山岳地帯、もちろん
鉄道はなく道路もほとんど開発されていないというありさまだった。
このため輸送隊の苦心も言語に絶するものがあり、指揮官の心労はなみたいてい
ではなかった。

縦列の距離をなるべく短くしようとするが、馬車の数が多いためどうしても
ダラダラと長い行列になり、馬車と馬車の間がどうかすると三百メートルも開き、
一縦列の全長が四千メートルになることもあった。この長ったらしい縦列を
警戒する兵は先頭に五、六人、中央に五、六人、後尾に五・六人といったわずかな
もので、これで敵のゲリラから輸送品を守ろうというわけだから無謀に近い。

もし襲撃を受ければ馬車を一ヶ所に集め応戦することにしていたが、幸にも大きな
敵襲はないままに終わった。困ったのは馬夫の逃亡だ。宿営して一夜明けると
馬夫の数がぐっとへっている。仕方なく警戒兵が馬車を御しながら警戒を兼務する
という曲芸もやってのけた。
304189:2006/04/20(木) 21:59:18 ID:CfZwrP21
約一ヶ月の輸送期間中に馬夫が毎日のようにへってゆき、最後には一縦列八十台
あった馬車が三十台にやせ細ってしまい、縦列数をへして合併して使用するという
苦心を重ねた。

逃亡した馬夫たちは酷寒の地、しかも故郷から遠く離れた熱河の奥地で金も
食糧もなくただからだ一つで逃げ出し、はたして無事に帰ったかどうか。
戦争のカゲにはこうして軍の強制徴発に倒れた民衆の数も少なくなかった。

また「輜重輸卒が兵隊ならばチョウチョウ、トンボも鳥のうち」などという
失礼千万なざれ歌に耐え戦史の裏街道を黙々と歩き続けた兵たん線の将士の苦心を
われわれは忘れることはできない。太平洋戦争に敗れた大きな原因の一つに
この兵たん線の断絶があったことはすでに明らかなところである。報いられぬ
苦心は兵たん線を歩き続けた兵士たちの上において最もいちじるしい。
「奮戦史その後」にあえて一項をさいたゆえんである。