歴代韓国統監(統監の護衛:駐箚朝鮮軍司令官[長谷川好道]・・・)
第1代 1905.12. 1〜 伊藤博文(日露戦争終結)
第2代 1909. 6.14〜 曽根荒助
第3代 1910. 5.30〜 寺内正毅 韓国−李完用(伯爵)首相 (ハルピンで伊藤博文が暗殺さる)
歴代朝鮮総督(総督:じょどぅ 護衛:日帝の朝鮮軍[朝鮮駐留日本軍の事で最初2万人?])
1 寺内正毅(兼任) 1910年10月1日
2 寺内正毅(専任) 1911年8月30日(1914欧州大戦 山東ドイツ攻撃)
3 長谷川好道 1916年10月16日(1918シベリア出兵 1919年3・1独立運動から朝鮮全土暴動)
4 齋藤實[まこと] 1919年6月12日(1922シベリア撤退 1923関東大震災 1924溥儀を紫禁城から追放・大本教外蒙古侵攻失敗)
5 宇垣一成(臨時) 1927年4月15日
6 山梨半造 1927年12月10日
7 齋藤實 1929年8月17日(1928蒋介石が満州まで中国統一 1929張作霖爆殺)
8 宇垣一成 1931年6月17日(1931満州事変 1936年2月26日齋藤實が暗殺さる イラク首切りと同名の香田が226の首班)
9 南次郎 1936年8月5日(1937年7月 日支事変 1939ノモンハン事件 1941年12月大東亜戦争)
10 小磯國昭 1942年5月29日(ミッドウエー海戦[6月]の前)
11 阿部信行 1944年7月24日(1945年9月10日アメリカ進駐軍に対し降伏調印)
大正−昭和初期(東北関係・役職・最期) 事件ほか
原敬(岩手・平民宰相・首相・暗殺)対支那不干渉・対米協調・ロシア赤化伝播警戒
斎藤実(岩手[伊達藩士]・治安回復もと朝鮮総督・内大臣・226暗殺1936)朝鮮独立暴動沈静化・満州派兵反対
高橋是清(東京[伊達藩庶子]・景気回復もと蔵相・首相・226暗殺1936)英語学校出身ペルー苦力経
1910年8月22日 大韓帝国が、大日本帝国に全権委任する
__________ 大韓皇帝(公爵___・朝鮮族・景福宮)
__________ 大韓首相(伯爵→侯爵・朝鮮族・首相官邸)
__________ 大韓貴族(男爵___・朝鮮族・両班の屋敷)
__________ 朝鮮総督(子爵___・大和民族・総督府建物)
−34年11ヶ月3週間−
1945年8月15日 ポツダム宣言受諾(13条 軍隊の無条件の降伏)
__________ アメリカ軍の空爆が停止
1945年8月15日〜9月9日 臨時韓国代表?の金九(暗刹される)
1945年9月10日 米軍が京城[ソウル]市内に進駐・朝鮮総督府が、治安−行政の移管
__________ 李承晩(イすんマン・妻アメリカ白人)帰国
−2年11ヶ月3日間− 暴動:五台山[太白山脈北部]・ソウル[京城]・永登浦・
___________ __:智異山・求礼・順天・麗水・済州島・
___________ __:大邱・永川・浦項・慶州・密陽
___________ 義挙:信川[平壌の南方]・九月山・新義州・興南・咸興・端川
1948年8月13日 アメリカ軍政府(米軍政庁)から大韓民国が独立
−1年10ヶ月12日間−
1950年6月25日 北の人民軍が開戦前
___________ 韓国領(現在北朝鮮)の開城[ケソン]を砲撃し38度線を越え南侵
1922年 沿海州でのロシア赤軍の攻撃から日本軍が敗戦・シベリア出兵の撤退
1923年 関東大震災・大正天皇の摂政の宮(昭和天皇)の被害視察
1924年 大本教の外蒙古侵攻失敗・「モンゴル人民共和国」成立・ラストエンペラー紫禁城追放
1925年 共産革命が流行・共和主義デモクラシー弾圧・立憲制を守る・治安維持法・北樺太撤退
1926年 大正天皇崩御で昭和時代に日帝の目標は国体(天皇の生存継承)の護持≠民族の存続
−13年間− (1931年 満州事変 1936年 西安事件 1937年 日支事変)
1939年 ノモンハン事件(外蒙古事変 人民モンゴル独立防衛戦・ハルハ河戦争)
−5年間−
1945年「サハリン州」拡大「アイヌ人民共和国」にせず(講和条約にソ連に帰属とは書いてない)
「小笠原諸島」アメリカ信託統治領・アメリカ軍政 「千島諸島」民間人立ち入り禁止区域・ソ連軍の軍政(北海道を人民アイヌにしないと非難)
「(北)ベトナム人民共和国」建国宣言
1946年「フィリピン共和国」独立
−2年間− 共産軍(南の朝鮮共産党武装集団・朝鮮人ソ連軍・八路軍・ホーチミン軍)と
ポツダム宣言に浴した軍(光復軍・朝鮮人保安隊・国民党軍・植民地軍)の内戦
朝鮮進駐軍(在日朝鮮人の暴動民)は、内戦相手がアメリカ進駐軍。
1948年「大韓民国」「朝鮮民主主義人民共和国」「ビルマ共和国」「マラヤ連邦」発足 「内蒙古・黒龍江省」ソ連軍撤退「イスラエル共和国」建国
1949年「中華人民共和国」建国宣言「(南)ベトナム国」「インドネシア共和国」発足 「台湾」国民党政府所在「新疆省」設置
1950年 朝鮮戦争開戦「インド共和国」成立
1951年「沖縄政府」発足(沖縄国・国家主席の国)香港は100年租借だが沖縄は25年租借に同意
1952年「日本国」独立
1953年 朝鮮戦争休戦「カンボジア王国」「ラオス王国」独立
1955年「(南)ベトナム国→(南)ベトナム共和国」改称「熱河省」「西康省」廃止
−17年間−
1972年「沖縄・小笠原」日本復帰
1975年 ベトナム戦争終結「キッシム」インドが併合
1976年「ベトナム人民共和国」統一
原爆名( 倭人[矮小の背丈・チビ]・ リトル−ボーイ )
投下目標 広島のアメリカ兵やホーリネス教会員などの捕虜収容病院[人体実験
拷問ありと疑惑]の「星条旗に塗ったドーム(原爆ドーム)」の屋根
ジャック(4月フール)の
メリケン(アメ公)に金魚の糞のようについて回って
日本国中を「日本刀狩り・農地解放の手伝い」と言い訳して
婦女暴行・略奪・殺人をし
科学的社会主義と民主主義を「アメリカが認めた」といって
ついて回った先の日本人の土地を奪って住むべく
殺した日本人に成りすまして住み着いた
在日朝鮮人でもないし、帰化の過程を踏まないで
帰化人を自称する「成りすまし朝鮮人」の癖に。。。とか
負け犬の遠吼えてみる吼えツラ[面]かも。
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国民党系の中国人が戦勝国民と自称して日本人に危害を加えるのを見た朝鮮人が、
自分達も戦勝国民だと主張して暴れ回ったが、
GHQに朝鮮人は第三国人であり戦勝国民ではありませんといわれた、
と言うのが、”三国人”という言葉の始まり。
1811−12年、西北地方で洪景来(ほんギョンね)の乱。
1862年、晋州民乱(チンじゅミルらん)から壬戊民乱(イムむミルらん)。
1865−68年 丙寅邪獄(カトリック大迫害・フランス人と西洋学朝鮮人を大虐殺)
1876年、江華(かんファ)条約。
1884年、甲申政変(かぷシンちょんピョン)。[郵政局を破壊・日本人を大虐殺]
1894年、甲午更張(かポきょんヂャン)から【 東学党(とんハクだん)の乱 】を経て日清戦争に突入。
【 李完用(イ・ワンヨン)経歴と関連事件 1 】
千文字を修める「童蒙先習(トンモンソンスプ)」6歳。
孝経を修める。7歳。
小学を修める。8歳。神童と言われる。
漢陽(ハニヤン、現ソウル)の名家に養子入り。10歳。
壬午軍乱(イモクルラン)鎮圧の記念で特別−科挙試験に合格(1882年)。
甲申政変(カプシンチョンピョン)で
[郵政局の開設パーティーの前後に]
開化党(ケファダン)が国王を皇帝にする画策(1884年)。
新式−官立貴族学校−育英公院に入学(1886年)。
ほか同年に梨花学堂・培材学堂が創立。最初の西洋教育。
英語・歴史地理を修める。
アメリカ公使館に赴任(1887−90年)。
甲午(カポ)改革(1894年)。東学党の乱で全州占拠事件。
日清戦争(1894−95年)。
学部大臣「教育部長官」(文部大臣)に就任(1895年)。
外部大臣(外務大臣)に就任(1896年)。
独立協会(トンニプヒヨツペ)の活動。
大韓帝国成立(1897年10月12日)。
中枢院新官制が成立(1898年11月2日)。
パク・チョンヨン大統領、ユン・チホ副大統領の共和国樹立デマ・ビラ騒動(同年)。
【 李完用(イ・ワンヨン)経歴と関連事件 2 】
日露戦争(1904−05年)。満洲派兵から日本軍の大群が朝鮮を経由し戻ってくる。
学部大臣に就任(1905年)。「一進会(イルチンフェ)」結成(同年)。
議政府参政〔議政大臣に次ぐ〕(1907年)。
内閣総理大臣(同年)。ハーグ密使事件(同年)。焼き討ち事件(同年)。
明堂聖堂〔ソウルの最初のカトリック聖堂〕前、刺殺未遂事件(1909年)。
全権委員として日韓併合条約を締結(1910年8月22日)。
伯爵の爵位を受け朝鮮貴族となり朝鮮総督府−中枢院顧問(同年)。
朝鮮貴族院議員(1911年)。
中国−武漢蜂起。辛亥革命が始まる(1911年10月10日)。
3・1(サミル)独立運動−事件(1919年3月1日)。民族自決宣言に呼応。
中国−北京で5・4運動(1919年5月4日)。日本−大正デモクラシー・米騒動。
中国−安直内戦・朝鮮貴族で侯爵に叙される(1920年)。
中国−第一次奉直内戦(1922年)。
中国−第二次奉直内戦と北京政変で満州皇帝の溥儀を紫禁城から追放(1924年)。
肺炎で亡くなる。高宗以来の最大参列者の国葬(1927年)。
中国−国民党の北伐完成。日本−関東軍、奉天軍閥−張作霖を爆殺(1928年)。
満州事変(1931年7月)。
参考: 親日派のための弁明 キム・ワンソプ著 草思社 日本語訳p114−126。
韓国の歴史 河出書房新社 年表。
韓国併合への道 オ・ソンファ著 文藝春秋。
満州事変 太平洋戦争研究会=著 河出書房新社。
★日韓併合は韓国の要請で行なわれた!
■一進会(韓国最大の政治団体)の幹部、宋秉oの言葉(大意)
日韓双方の国力の差・文明の程度の差から「日韓対等合邦」は事実上不可能だ。「連邦制」では
欧米列強に対抗する様な強固な国家は建設できない。従って、日韓が一体となり列強に伍す強固な
国家を建設するには、大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に委譲するのが、最も現実的である。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nikkan4.html ■アメリカを訪れた朝鮮全権大使、李成玉『李完用侯の心事と日韓和合』
現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。
亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手は日本しかない。
欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。日本は日本流の道徳を
振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。
そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。
それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。
日韓併合が問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。
※朝鮮人の生活がインディアン以下だった事に衝撃を受けた発言
↓↓↓↓↓一進会や李成玉の意見が韓国政府に上奏される↓↓↓↓↓
■韓国三大紙『中央日報』2001.08.27の記事
本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の
李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる
李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651&servcode=100&code=100 >まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。
>まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。
…どう見ても韓国の要請です。本当にありがとうございました。
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅で
ヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、
ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津
駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、
仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、
日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、
「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、
その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして
殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやの
うちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の
不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
・大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた
朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の
同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の
栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意した
ところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。午後1時になると
約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、
白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、
半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、
暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。
敗戦国の日本人がなにをいうか」。警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、
街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。一部略
終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、
三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、
時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた
斯うした情勢にそりゃ儲かるだらう。取締を横目に犯罪のし放題、
警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから當時は物不足で、
賣る方は素人でも出來た仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を
奪ふのだから其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い
警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、
捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず
上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際
大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから
査察官は腕を切断されてしまった(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、
第三國人の來襲によって犯人を奪還された
富坂警察署事件、ついでに警官が殺された
澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た
平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした
【第一次神戸事件(GHQによる朝鮮学校閉鎖令に対する暴動】
衆議院 本会議(昭和23年05月07日)より引用
突然知事室の隣室に、喚声をあげて多数の朝鮮人が乱入しました。
器物、ガラス等を破壊する騒音が聞え、
ついで知事室の入口のドアを椅子等で打破ろうとするふうでありましたので
内部からこれを阻止する一方、警察長は電話にて急を警察本部に連絡し
警官の即時派遣方を命じておつたのでありますが知事室
隣室に乱入いたしました暴漢は、刻々その数を増し 口々に開けろ、殺すぞ
などと絶叫し、約三、四十分経過した後に遂に知事室入口のドアも打破られ
一時に約百名の暴漢は、なだれを打つて知事室に乱入し、手当り次第にいす
テーブルその他の備品を破壊し、電話線三本を切断、電話機三箇を破壊
知事の事務机に上り、ガラスを破り、二、三十分間は
阿修羅のごとく暴れまわり知事室の樣相は一変するに至つたのであります。
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ハルノートは拡大解釈をしても朝鮮 台湾 南樺太からの撤退は要求していません。
ハルノートを飲めば原爆も何もなかった。みんな幸せだった。
ハルノート上の「シナ」の範囲が極めて曖昧で アメリカの意向次第で
満州も朝鮮も台湾も含められるんだよ。
朝鮮も台湾も 元はシナ領土 から大日本帝国領になったんだからな。
戦前日本に渡ってきて日本人に なりすまして生きている
半島系も多いよ。外務官僚なんて縁故採用だから戦前外交官になった
朝鮮系外交官が 戦後GHQの工作員に鞍替えして権力を持ち
実質外務官僚のポジションを相続させるシステムが出来ている。
寺の住職だとか、老舗の反物屋だとか言っても丁稚上がりが乗っ取ったり
経営難につけ込んで養子入りした朝鮮人も多い。何と言っても家柄
家系を金で買ってなりすますと言うのは朝鮮人の特技ですから。
大学教授とか実業家というのも、日本の敗戦後アメリカ政府による
フルブライト留学によって 戦後日本の占領政策の走狗として養成された人間が
中枢を占めていて、しかもかなりの確率で半島系が日本人として植え込まれている。
親が神戸大学教授のIT実業家も在日2世だけど、親は国立大学の教授という看板で
日本人の振りをしている。勿論国籍は日本だが半島人特権倶楽部のメンバーとして
日本潰し朝鮮人による日本支配のために日夜邁進するだけの朝鮮人工作員である。
というかネット上にソースがあるほうがおかしい。個人の戸籍謄本が
おいそれとネットに流れるはずがない。いわば日本の民主主義が
在日の正体を厳重にガードしてくれてるわけでw 当然、在日もそれを承知している。
一応出自がハッキリしてる奴等は新聞やTVで報道されてるよ。
で、そういうものが全く無く、この板の伝聞が発祥?で生まれたのが509のコピペだよ。
信憑性の無い情報に踊らされてる奴は鮮ちゃん達の事を笑えないよ。まあ
麻原は朝鮮系を指し示すソースが多少ある。
織原は帰化韓国人であることがハッキリ報道されてる
他、韓国名の奴等は誤魔化しようなく韓国人だろうが…
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で
四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。この世のものとは思えぬ
女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。
飛行服の男たちだった・・・(中略)通りすがりの通行人の
目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の
路上で集団で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のどん底に叩き
込まれた。こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身に
つけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に
巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻き
つけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまるものが
あった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。「俺たちは
戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルは
ヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
>404 高句麗の南侵・王仁キシ渡来し習字の千字文一巻と論語十巻きを伝える(古事記・奈良の伝[稗田のアレ]神懸りのアレ)
>510 中国南朝・六朝梁国の周興嗣が習字の千字文を作詞する(遣唐使・平安仏教の伝[弘法大師ほか])
・・・満州王朝(清国)ホンタイジ(太宗)時代だと思うが・・・
・・・1636年?・朝鮮王仁祖が清朝太宗に対し三田渡の受降壇で九拝三叩の礼?・・・
中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたこと「渓陰漫筆」に書かれている。
夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然(新井白石 「国書復号紀事」)
朝鮮人つうのは狡くて人を騙す、利があれば信義なんか顧り見ない連中だ。
しょせん、わい ばく なんつう野蛮人だし、天性としてこういう性格に凝り固まってる。
明国皇帝の子孫(位:親王)
朝鮮国王(位:親王)仁祖(3代目太宗より始めた明朝時の扱い、清朝太宗時に三田渡で受降壇の扱い)
日本国王(位:親王)源道義(日本名・地位:足利義満・征夷大将軍・勘合貿易[寧波(明州)のみ開港])
日本国王(位:郡王)平秀吉(日本名・地位:豊臣秀吉−木下藤吉郎・天下人−関白−太閤殿下・朱印状貿易)
琉球国王(位:郡王)尚豊王(清朝になって王冠が12の垂れのある宝石をふんだんに使った物)
>鉄砲伝来1543年
>ザビエルが日本へ1549年8月14日
>関が原戦1600年
>島原の乱1637年(日本の軍勢が20万の大群で九州に集結しキリシタンを弾圧の報[対馬宗氏])
>1万4勢で南漢山城篭城から漢江東岸三田渡で朝鮮王が満洲八旗20万の清太宗に降伏
>チポンユソル(芝峰類説1700年代・李朝書籍)に倭芥子(うぇケじゃ・唐辛子)が記載
> ______サイパン陥落1944/07。
> 徴用令の朝鮮への適用開始1944/09。
> 結論サイパンに朝鮮人の徴用者などいない。(テレビのニュースで朝鮮人が謝罪と賠償金を要求)
満州皇帝(大清国皇帝[明玉璽・元玉璽])の他民族使節や元首への接見と交易(朝貢)窓口
________________________日本の長崎に来るオランダ船
広東省−広洲 西洋人の受け入れ窓口______日本の長崎に来る広東船
福建省−福州 琉球の使節と商人の受け入れ窓口_日本の長崎に来る福建船
熱河省−承徳 モンゴルの大ラマ
直隷省−北京 チベットの大ラマ 通行ルートを厳密に指定
直隷省−北京 朝鮮王 通行ルートを厳密に指定
___________(大同法[李朝収税法] −平壌城[中国]・
____________東莱城釜山鎮日本府史・済浦−富山浦(釜山)−塩浦[日本])
_______________________日本の対馬が行く東莱城への朝鮮通信船
_______________________日本の薩摩が行く琉球から出る南洋密貿易船
_______________________日本の長崎に来るカンボジア船
_______________________日本の松前の蛎崎氏のアイヌ謁見と
________________________千島列島で北前船の赤蝦夷交易(ロシア貿易)
李朝側の処罰と日本への要求(朝鮮人本国送還要求・李朝は極度の純血主義と鎖国貿易)
○朝鮮女性で倭人と交際した者は→ 死刑(ぢぢ登場の巻: 新政府日本人や
対馬藩士と売春した朝鮮女性をノミで打ち首・ノコギリで打ち首・・・)
○朝鮮国内の日本帰国が出来ない倭兵(日本人)→日本人狩りをし皮剥ぎで殺す(朝鮮事情)
○日本・中国(明王朝)通じ渡った朝鮮人→ 死刑(江戸初有馬氏の妾・
慶応大学福沢諭吉の金玉均ら・漢字真読の李朝実録−ハングルの林慶業将軍伝)
○日本に潜んでいた外国人→ 死刑(元寇の多賀城国府の手前の燕沢で高麗兵を打ち首・
宗門改めで焚刑−水責め凍死・戦時統制下の日章旗を掲げない外国人の収容と処刑)
朝鮮と清(中国・満洲皇帝)がどの程度の従属関係だったか。
朝鮮が中国からどれほど低い扱いを受けていたかを見ればわかる。
・朝鮮国王は清(満洲)の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝(雍正帝?)に奉呈した貢文に気に入らない言葉が
一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、
年貢への見返りを3年間停止する処罰を受けている。
現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、
昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を
地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という
屈辱的な隷属の象徴の門だった。この迎恩門で『朝鮮の国王』が
土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、
彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
中華文明圏でいうところの属国(柵封国)というのは、
西洋でいうことろの属国とは意味合いが異なるわけだが、
少なくとも、袁世凱の支配下にあった日清戦争直前の朝鮮は、
当時の西洋社会や現代でいうところの属国となんらかわりはないね。
清国、袁世凱と彼が差し向けた顧問なるものに、軍事的な意味での安全保障を頼り切り、
外交を握られ、財務を握られてたわけだから。
併合前の1905年当たりに日本と大韓帝国が結んだ条約について、
この条約締結そのものが日本の侵略だというのなら、
袁世凱がいた頃の朝鮮ってのは清の侵略により植民地統治下にあったと言わなければならない。
まぁ、早い話そろそろ自分達の国に帰って欲しいわけさ。
反日教育をされた人、あなた達の歴史的認識は間違っています。
というか捏造です。
その考え方や、日本に謝罪と賠償をなんて、未来永劫言い続ける
限り仲良くなんかなれません。
勘合貿易 明国は日本とは
寧波(明州)で『市舶司』を置き朝貢貿易(10年に一貢、船隻3、人300人)の制限
日本国王は源道義(室町幕府・征夷大将軍の足利義満)の許可印
幕府将軍一族(足利・細川など)と
豪族寺院(安国寺・相国寺など)が明国と儲け
地方豪族(松浦など)と大名商人(大友など)は私貿易で倭寇(南倭)を働いた。
1548年 私貿易弾圧・中国貿易業者と日本西国大名が報復反抗した。
1553年以降に江蘇・浙江の沿岸は倭寇の大規模な被害を受けた。
1560年ごろになると福建・広東に私貿易が移動し、中国人倭寇が横行した。
萬暦帝の時にマカオを経由してポルトガルの軍事力下に私貿易が横行し倭寇が減った。
朱印状貿易 朝鮮出兵後に講和で勘合貿易に変え
秀吉の死後に豊臣の家臣たち(徳川など?)と結んだ貿易。
満洲の中国侵略と支配(清朝[満洲王朝]に王朝の姓易革命)により
「中国人豪族の私貿易」と「日本の幕府の公貿易」の形に変容した。
市舶司○(貿易ありを知っている)・明国業者(司から許可有・明州)・西国業者・室町幕府
満洲総督×(貿易ありを知らない)・漢人業者(吏から無許可・広州)・出島業者・江戸幕府
「創価主」貿易 (21世紀の現代大倭寇[SGI交易]・20世紀の近代大倭寇[15年戦争])
学会員官吏と学会員業者の扱き下ろし便宜によりF活動上のなじみで貿易する。在日朝鮮人を
日本人と騙しぬく事を最低条件にゾーン長やブロック長や未来部部長や部員などの許可で行う。
共産官吏×(貿易ありを知らない)・漢人業者(官から無許可・上海)・在日業者・小泉慶応
ビザなし渡航の報復反抗を大規模に行う。共産中央委員にチクって取り締まるなど抗議したら
チベットやウイグルが、法輪功や黒社会が騒ぐぞ。と言って地方共産党員を脅す。
李氏朝鮮
明国は第3代李氏朝鮮王の
太宗から始めて朝鮮国王に冊封し、明末まで朝貢関係を強いた。
朝貢は3年に一度。国王交替時に挨拶。国王に封じる勅を貰う。
1.太祖 1392−1398 二人の王子を殺され仏教式に埋葬。
2.定宗 1398−1400
3.太宗 1400−1418 朝鮮国王に封じられる。彼から明末の16代の仁祖まで明に朝貢。
4.世宗 1418−1450 陰陽合体の性理説儒教を国教とし仏教を徹底弾圧し寺院を18院に減らす。
10.燕山君 1494−1506 和服・倭文字を使う朝鮮人を焚書坑儒。
11.中宗 1506−1544 三浦の乱・日本と結託する仏教徒や貿易者を大量殺戮。貿易禁止。
12.仁宗
13.明宗
14.宣祖 1567−1608(1592−1607 文禄慶長の役・明軍の保障占領と撤退)
15.光海君 1608−1623 日本軍の捕虜だった2王子の一人?。
16.仁祖 1623−1649 三田渡で満洲八旗に降伏し明国(南学)と関係を断ち
満洲(清国・北学)に朝貢。