引き揚げ時の朝鮮人による日本人への危害について

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484マンセー名無しさん
@日本政府からの財政補充金には、たとえぱ製鉄奨励金、増炭奨励金などもあり、
 朝鮮半島はおんぶにだっこを続けていた。
 各種補充金は、昭和19年までに一般経費の補充金として4億3000万円程度に達していた。
 それは朝鮮半島が貧しく、自力で開発ができず、外債に頼らざるをえなかったからであるが、
 今日に至っても、その構造はまったく変わりがないのではないだろうか。

A鴨緑江、豆満江の架橋13ヵ所の予算は、じつは満州国から出たのであった。

B今日までの「日帝36年」に対する批判は、ほとんど朝鮮総督府が
 民度・民力の向上に懸命な努力を続けてきた・・・事実に触れることなく、
 ひたすら日本人と朝鮮人との・・・関係のみを取り上げることを目的としている

http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=history&key=1119060431&st=34&to=71
http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=history&key=1119060431&st=16&to=23
485マンセー名無しさん:2006/02/08(水) 06:54:52 ID:qhYHPMEk
>>484

ソ連軍は たくさんの戦車と機関車に乗って満州にやって来ました。その機関車の先頭には
裸にされた日本人女性が縛り付けられていたそうです

彼らが何故 そのような行動を取ったのか 詳しくは知りません。それが
ロシアの伝統なのか
女性を縛り付けておけば 機関車を攻撃されないと思ったのか
それとも他の理由なのか 私には分かりません

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葛根廟駅近くの平原に逃れてきた婦女子を大半とする2千余人の日本人避難民が
ソ連軍機甲部隊に追い付かれたんだ。まず、戦車隊の14台が避難民を蹴散らし
踏み潰していった。それを向かいの丘で見ていたソ連兵は「まるでマッチの軸がはねられ
潰されるようであった」と証言。さらに、自動車隊からソ連兵が降りて来て
マンドリン(機関銃)掃射を幼児にも情け容赦なく浴びせ掛け
最後に銃剣でトドメを刺していった。あたり一面は血の海。なぶり殺しにされたのは千数百
486マンセー名無しさん:2006/02/08(水) 07:00:05 ID:qhYHPMEk
http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=history&key=1090727010&st=123&to=145

1597年7月 元均の朝鮮水軍が壊滅
1597年9月 李舜臣の朝鮮水軍が鳴梁海戦で日本水軍を撃退するも
        朝鮮軍の姜が藤堂高虎の軍勢の捕虜となる
1598年8月 太閤秀吉死す・朝鮮から撤退が命令される

1598年10月 泗川で島津義弘の軍勢に明軍が敗退
1598年11月 露梁海戦で提督・陳燐の明水軍が島津勢に損害を与えるも
        撤退する小西勢は救援され
        李舜臣は流れ弾で戦死し朝鮮水軍は壊滅する
        明軍の水陸2万5千が朝鮮を保障占領し駐留する
        義兵は食糧難で飢え死が続出・日本軍は続々撤退

  2年間   半島全土で明軍が駐留する・北半分は延べ7年間に渡り駐留

1600年9月 関が原の戦い・小西が京都で処刑される・明軍が朝鮮より撤退
  7年間   捕虜交換の交渉が続く
1607年5月 朝鮮王宮と江戸幕府との間に講和が成立

http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=magic&key=1119865363&st=123&to=145

さすがに、日本全国税務署は多々あれど、<殉職税務官の碑>があるのは川崎税務署だけだそうです。
殉職税務官の碑の裏側に書かれている文章
 故大蔵事務官端山豊蔵氏は戦後世態の劇変に伴う道徳の頽廃に因り税法違反日に多きを
 加えんとするに際し神奈川税務署関税課長としてこれら悪質犯罪者の摘発に日夜オウ掌しつつありたるが
 偶偶昭和22年6月23日第三国人酒類密造の報に接し率先課員を統率してこれが取締に當たりたるところ
 不幸凶漢の不逞に報復に遭い遂に前途有為の身を犠牲に供しその職に殉ずるに至れり
487マンセー名無しさん:2006/02/08(水) 07:07:52 ID:bQmAAA+K
【 戦前の朝鮮人は奴隷ではなく日帝(イルチェ)の仲間(トンム:同務) 】
中国・韓国の歴史歪曲 なぜ日本人は沈黙するのか 黄文雄(評論家コウブンユウ) カッパブックス 光文社 ¥800+税
p115 『洪思翔中将の処刑』(文藝春秋)のようにフィリピンで戦犯として処刑された帝国軍人もいた
p116 ・・・([陸士]二十六期)には白洪錫(ペクホンソク)少将と、満州国協和会に参加した・・・関東軍司令部所属の尹相粥(ユンサンチュク)少佐や
韓国軍創設の元老 李応俊(イウンチュン)将軍がいた
第二十師団の歩兵大隊長 金錫源(キムソクウォン)少佐(陸士二十七期)のように
日本兵を率いて中国大陸に出征し 金鵄(きんし)勲章を受け 後年の朝鮮戦争でも韓国軍の師団長として勇名を馳せた人物もいる

【 帝国軍・第20師団について 】
臨時増刊9/5 歴史と旅 連隊旗でつづる太平洋戦争史 秋田書店 平成4年281 ¥951+税
一 日支事変(日中戦争)期間に於ける師団等
師団号:20 通称号:朝 編成地・留守担任:竜山 時期:大正6年
隷下歩兵連隊:78・竜山 79・竜山 80・大邱 (77・平壌)
主なる参加作戦・編成の事情等:北京周辺・郎坊戦闘。
[山西省]娘子関(ニャンツカン)に挑み肉弾を以っての突破は鯉登の滝の名も高い。
此頃の構成員は大阪九州多い。[山西省]太原戦その後南下中部山西を席巻す。・・・終戦時長:中井増太郎 終戦地:ニューギニア