【朝貢】朝鮮通信使の旅を再現【再び】

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1ななし
朝鮮通信使の旅を再現 韓国学生が日韓親善訴え出発
【ソウル26日共同】※中日新聞三面囲み記事より

 韓国の大学生ら百六十人余りが二十六日、江戸時代に朝鮮半島から外交使節団
として来日し学問や芸術を伝えた「朝鮮通信使」の行列を再現する旅に出発し
た。ソウルから東京まで約一ヶ月かけて市民交流などを行い、日韓の友好と親善
をアピールする。
 同協会によると、ソウルを出発した一行は全州、大邸(※ママ、大田の誤りか?)
を経て八月二日には釜山
からフェリーで対馬入り。五日に下関に上陸後、バスで通信使ゆかりの地を見学
して回りながら広島、岡山、大阪、名古屋、静岡県三島の各市で行列を計画。二
十五日には東京・原宿で最後の行列を行う予定だ。

>来日し学問や芸術を伝えた
ハァ? 何これ?
22:02/07/27 10:15 ID:z/zxAT3R
ニダ
3 :02/07/27 10:16 ID:lCWMpJsi
>>1
欠落部分を補ってみました。

・・・来日し(日本の)学問や芸術を(朝鮮に)伝えた「朝鮮通信使」・・・

此なら意味がわかる?
4:02/07/27 10:19 ID:tiEpRlDV
韓国人に、朝鮮通信使のことをネタに話してたら、
「日本人は通信使の存在に自尊心が傷つくでしょ。私たちの先進文化を
伝えてあげた人たちなんだから」といわれ、
「別にそんなことはないけど」と逝ったら、
「だったらいいんだけど」といわれてしまったのね
5 :02/07/27 10:22 ID:sH8ZEGoX
第11次朝鮮通信使節(1763〜1764)の一員だった金仁謙の日本紀行文、「日東壮遊歌」金仁謙
著 高島淑郎訳注 平凡社東洋文庫 より。

大阪を見ての驚き
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」

名古屋を見ての驚き
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 遠路随一といえる
中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが この地に比べれば寂しい限りである」

江戸を見ての驚き
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 橋や船にいたるまで
大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」

京都を見ての電波(笑)
「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し
子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し
四百里六十州を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ」
6||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/27 10:23 ID:sd2jNeLv
一応・・・。

金仁謙著の「日東荘遊歌」(東洋文庫、定価3100円)
(大阪港の感想)
「その昔、桜船で下る王濬(おうしゅん)が益州を称えた詩があるが
ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」
「倭の十一隻の金の桜船が命を受けて迎えに来ていた・・・
その豪華絢爛 万古に例を見ない見事さである」
(大阪の感想)
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)
の万倍も上である」「我が国の都城の内は実際には一里に及ばない・・・
(大阪は)ほぼ十里と言われる土地は全て利用され・・・」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さも
この地には及ばないという」
(淀城の水汲み水車の感想)
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」
(京都にて)
「人々の富める様は大阪には及ばないが都の西から東までの距離は
三里に及ぶという」「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が
倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し子々孫々に伝えられていることである
この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し四百里六十州を 朝鮮の国土とし 
朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ」
(名古屋の感想)
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 
遠路随一といえる中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが 
この地に比べれば寂しい限りである」
(江戸の感想)
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 
橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」
7真珠人夫 ◆4jioMWoA :02/07/27 10:24 ID:OEEmgTZs
>>4
オリもヤシらと共に韓国で歴史勉強してみたいわマヂ
どんなファンタジーを騙ってるのかしら?
8 :02/07/27 10:24 ID:sQAK55jJ
当時朝鮮は先進国だった日本から何も学ぼうとしなかったのが大問題。
9 :02/07/27 10:25 ID:gWz6clKx
韓国の馬鹿高校生は、朝貢しに来るのか?
10ななし:02/07/27 10:26 ID:UjdGB/02
韓国小学生向け歴史教科書だそうです。
http://village.infoweb.ne.jp/~jl6ehr/minzoku6.html

 朝鮮は最初、日本と貿易し、彼らが持参した銅を食料や衣服と交換していた。
しかし、日本が壬辰倭乱を起こした後は、彼らとの交流を断ち切った。しかし、
日本の新しい支配者である徳川は、わが国と再び国交を結んでくれと【懇願】して
きた。彼らは、強制的に連行したわが国の民を帰国させ、【手土産を持って参上】し、
再び侵犯しないことを約束した。朝鮮からも彼らに使いを差し向け、2国間の
交流が再開された。以後朝鮮は、日本に通信使を出すようになった。通信使
一行は300名から500名程度の構成で、学問、技術、芸術などに秀でた人物を
選抜した。通信使一行は日本の国賓として鄭重なもてなしを受けた。朝鮮通信使
一行が各地を通り過ぎる時、日本の人々は新しい知識や品物を得るために
道すじや宿舎に集まり、面会を願った。彼らは通信使一行が渡した漢詩、絵、
文字などを家宝にした。【日本が通信使一行をとても大切にしたのは、優れた
朝鮮の文化を受け入れるためであった】。したがって実際にわが国の使節と
日本の学者、文人たちの間には活発な文化交流が行われた。【特に朝鮮の
儒学は、彼らの学問を発達させるうえで助けになった】。

ハァ、こういうことね…
11||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/27 10:28 ID:sd2jNeLv
かぶったからついでに。はぽねすさんのをコピペ

朝鮮通信使が各地に残したもの――唐人おどり
http://www3.justnet.ne.jp/~asao/toujin.htm
http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/sisetu/tiiki/mini/toujin/toujin.html
http://www.alles.or.jp/~wakebe/tojin/tojin.htm
12 :02/07/27 10:29 ID:sQAK55jJ
>>10
ようは下らない自慢話をしたいだけか。
また文化を伝達してやった韓国に感謝しろなんて言い出すんじゃないのか?
はっきり言って江戸時代の日本の方が李朝時代の韓国よりも全然進んでいた。
韓国は日本から何も学ぼうとしなかったことが、
その大いなる停滞を助長した。
韓国は朝鮮通信使の姿勢を批判すべきである。
13||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/27 10:32 ID:sd2jNeLv
結局、洗脳に使いたいんだろうな。
「この文化を創り、広めたウリは偉いニダ」
14真珠人夫 ◆4jioMWoA :02/07/27 10:34 ID:OEEmgTZs
やっぱオナニー(タルタリ?)の起源はチョーセンにありそうだわな・・・
15 :02/07/27 10:38 ID:lCWMpJsi
>>14
オナンの末裔だったのか、チョンて。
16 :02/07/27 10:39 ID:PYZFBTrB
朝鮮通信使が来た時に、見物人が大勢あつまったのは本当なんだろうけど、
同じ時代に『象』が来た時にの方が見物人も多かったし、歓待もされたんだよね。
鎖国の時代だから、つまらないモノでも海外のモノに餓えていたんでしょう。
日本人は好奇心が強い民族だから。
17真珠人夫 ◆4jioMWoA :02/07/27 10:40 ID:OEEmgTZs
>>15
キリスト教も浸透してるし(違
18IMF ◆METaKEzo :02/07/27 10:50 ID:roAO1gJ2
まああれだろ、韓国人としては通信使は日本に文化を伝えに行ったと思わなきゃ
やっていけないんだろ(藁

日本人で、参勤交代は地方の文化を江戸に伝えに行ったと思ってるアフォは居ないしな。
19  :02/07/27 10:51 ID:A0xzUJeq
>>18
> 日本人で、参勤交代は地方の文化を江戸に伝えに行ったと思ってるアフォは居ないしな。

ワロタ !
わかりやすいっ!
20 :02/07/27 11:16 ID:24cDVi/Q
視察と言う名の観光
21 :02/07/27 11:33 ID:UjdGB/02
韓国側主催
 韓日文化交流協会
日本側主管
 日本ウオーキング協会 http://www.walking.or.jp/

沿道の皆さんへ。
仮装行列の写真アップをきぼんぬいたします。
22好事家:02/07/27 14:49 ID:7Z2RSL/J
>>20
報告があれじゃ、「カラ出張」と言われても仕方あるまい。
23 :02/07/27 14:56 ID:sQAK55jJ
純粋に日韓友好の為に通信使を礼賛するならまだいいんだけど、
朝鮮人はどうしても文化の高い国が低い国へ文化を伝えた
と宣伝したいらしい。
江戸期の日本と同時代の朝鮮では日本の方が経済力も文化水準も断然上。
はっきり言って朝鮮通信使から日本が学んだことなど
漢詩や儒学などどうでもいいようなことばかり。
それを歪曲して高い文化を伝えたんだから日本は感謝しろと言わせるつもりだ。
馬鹿馬鹿しいから相手をする必要はない。
24 :02/07/27 15:29 ID:qfuvbcLT
>ソウルから東京まで約一ヶ月かけて市民交流などを行い
集団レイプ旅行ですか?
25 :02/07/27 15:34 ID:YUzVKiU5
>漢詩や儒学などどうでもいいようなことばかり。
それはどうかな?漢詩や儒学も日本文化に多大な影響を与えたのは事実だし。
無理に相手を見下す必要はない。

ただ、
>江戸期の日本と同時代の朝鮮では日本の方が経済力も文化水準も断然上。
これは事実だね。諸外国の記録にもある。
言われる通り、純粋に過去の交流を偲ぶのはいいが、
無理に利用するのは頂けない。
26 :02/07/27 15:35 ID:PYZFBTrB
若い女性と犬は表に出すな。自警団は井戸を見張れ。
27ウリナラ反省 ◆POamlPkU :02/07/27 15:37 ID:Ue1NgZri
>>26
>>自警団は井戸を見張れ。

激しくワラタ
28    :02/07/27 15:40 ID:kZvRmKu7
ついでに言うとコンビニからあらゆるエロ本が消滅するだろう。
29 :02/07/27 15:42 ID:egehtk0J
今も昔も二国間の地位は変わらない。
今回の話も「韓国よろしく」とわざわざ向こうから
出向いてきたにすぎない。あちらへの見返りは日韓友好のおめこぼし。

朝鮮通信使はただの朝貢。
30俺 ◆tBBB.ORE :02/07/27 15:49 ID:cwJ2t+u+
そして穴のあいた変な硬貨が残る
31 :02/07/27 16:15 ID:aRuySAO9
学校で習った歴史と本当の歴史のギャップに
驚かされるけど、本当に朝鮮通信使はただの朝貢?
いろいろなお土産を持ってきてへいこらしてたの?
そもそも何なんだい?朝鮮通信使って
32 :02/07/27 16:29 ID:/fxB/gYy
新潟日報にも記事があった。
市民団体名「韓日〜」って…
33 :02/07/27 16:44 ID:I16KTVVa
>>31
他のレスにもでてるけど、朝貢貿易のしょぼい版って感じ。
最初は頻繁に来すぎてうざかったので、将軍が交代する毎にしかくんな!って
制限されちゃったのれす。なんで頻繁に来たんでしょうねー?

ちなみに江戸時代の日本の銅は世界中に流通するくらい産出量が有ったので
ごっそりもらって帰る朝鮮通信使の存在は、まずしい李氏朝鮮には(以下略)
34 :02/07/27 16:59 ID:aRuySAO9
>>33
銅の話等は俺には難しいが、
その他で疑問に思ってたのは日本の文人が通信使の役人に
書をもらって喜んでいたという話だけど、俺が思うに
あの時代はいろんな学問があって、中華思想・儒教マンセー
派みたいな分派もあったみたい、その一派だけの話じゃない
の?他は野次馬っぽい庶民がめじゅらしがってたとか。
35馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/27 19:40 ID:NkqG/cvA
朝鮮通信使は朝貢ではないでしょう。「朝鮮なんて所詮、三韓征伐んときは属国だ
ったんだよ」と、松平定信への上奏書『草茅危言』の中で語った寛政期の儒学者中
井竹山が、「だから、お客さん扱いする必要なんてねーんだよ」と結論付けたことか
ら逆説的にわかるように、朝鮮通信使は朝貢使とはいえなかったのが事実でしょう。
いや、大衆の目には一種の朝貢使として映った可能性は大ですが。ただ、朝鮮に
対する「属国視」は、国学の隆盛が興る江戸後期を待たねばなりませんが。
あと、何かとこのスレには「江戸期の日本が李氏朝鮮から学ぶものなど無かった」
と主張したがってる御仁方がおられるようだけども、全然そんなことはなくて、とい
うかむしろ逆で、江戸期の日本人が朝鮮から謙虚に学び続けたからこそ(まぁ、確
かに朝鮮通信使から直接学んだというよりは、釜山の倭館経由の密輸本が主でし
たが)、19世紀中盤以降の両国の明暗が分かれてきたわけで。もし、「朝鮮王朝は
日本に多大なる文化的恩恵を与えたんだぞ!」と言われたら、「朝鮮から学ぶもん
なんて無かったね、バーカ!」と返答するのは、奴さん以下というか、愚の骨頂であ
って、「はい。多大な部分を李朝から学びました。“朝鮮儒学がなければ、江戸儒学
など存在しなかったであろう”とすら言えます。江戸期の日本人は、朝鮮から多くの
ことをひたすら学びました。しかし、朝鮮は日本から何も学ぼうとはしなかった。それ
が、近代朝鮮の悲劇を招いた何よりの原因ではないでしょうか?」と逆に問い正すの
が正しいやり方。どこの国であれ、受けた恩恵を認めようとしない姿勢というものほど、
不実なものはありますまい。
36へぇ:02/07/27 19:49 ID:VNpHpvDO
現在だって、韓国の大統領ってっさ、日本国に就任報告にやってきて援助を貰って帰るじゃない・・・
37はぽねす:02/07/27 19:50 ID:NtyMVg+7
>>35
まぁ、それと唐人をどりを残したことも忘れてほしくはないなぁ。
あれ、画像だけでもイイけど、動画だとさらにイイぞ。かなり前にNHKでやってて
腹を抱えて見てた。
38  :02/07/27 19:53 ID:KwP3Vwt2
>>36
それを言ったら、中国とか米国と日本の関係が、気になるけどね。。

援助してるのに、行ってるから。米国にも中国にも。こっちから。
39 :02/07/27 19:57 ID:bxUeQCZ3
見かけたら石でも投げてやりますか?
今年は小泉の靖国参拝の話とか、教科書の話が出ないから
途中で切り上げて帰っていってくれないのねん。
40 :02/07/27 20:13 ID:YHRRkjCv
>>37
妙な格好をした連中が「正気に(・∀・) カエレ!」ってノボリを立てて

沿道を練り歩いたことに拠る祭りですな。

「日本は弟だから、兄である朝鮮に従うのが正道!」などとぬかして。



…思ったんだが、最初にこの祭りを始めたヤツ、絶対元ネタをバカにしてたな(藁

気の狂ったヤツが「正気に(・∀・) カエレ!」なんて言い始めたら
そらぁ祭りにもならぁよ(藁
41馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/27 20:19 ID:NkqG/cvA
う〜ん、ダメだこりゃ。(藁 ヘ(´〜`)/`
42||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/27 20:27 ID:/38xPLNb
>>41
もう少し、「朝鮮儒教」「江戸儒教」の内容と
関連性を教えてください。
専門外のオイラにはわからんです。
てめーで調べろと言われればそれまでですが、
敷居が高い・・・。
43 :02/07/27 21:48 ID:/xYQWHBP
うーん。
朝鮮通信使によって、日本の思想的潮流に何某かの変化をもたらした事実があるのでしょうか?
ソレが一番知りたい。
鎖国時代の日本に朝鮮通信使がもたらした文化がある程度エスニックなインパクトがあったのは当然だと思うのです。
唐人踊りあたりの痕跡は当たり前だと思うのですが、朝鮮通信使が本当に先進的な思想、哲学を
持っていたとすれば、必ずもっと大きな痕跡が残っているはずなのですが。
ソレは唐人踊りなどは比較にならないほど大きなモノだと思うのだけど、
今まで朝鮮通信使をある意味軽視していたのですが、考えてみると特にソレに対する知識が
具体的に何かある訳ではないのです。
このあたりの知識の補完をしておきたいのです。
44ななし:02/07/27 22:34 ID:UjdGB/02
>>43
朝鮮朱子学→水戸学→尊王攘夷→明治維新→日韓併合(藁
45 :02/07/27 22:46 ID:/xYQWHBP
>>44
ナニ?
自爆って事?
46Ю:02/07/27 23:49 ID:9Lx7zu9c
>>35 は後半でいいこと言ってる。
47馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/27 23:51 ID:NkqG/cvA
>>44
ちゃうちゃう。水戸学は朝鮮朱子学の系譜じゃないよん。朝鮮朱子学の系譜
を強く引いてるのは、藤原惺窩や林羅山系統のいわゆる“林家”系。一方水
戸学は、明の遺臣朱舜水(明滅亡後日本に亡命、水戸藩に養われた)が持
ち込んだ明代朱子学のほうの流れを引いてる。あとその図だと、水戸学の
前には「土佐南学(山崎闇斎系)」、水戸学と尊皇攘夷の間には「古文辞学
→国学」がそれぞれ入るでしょ。

>>42
え〜と。まず朝鮮の儒者としては、朝鮮朱子学の大成者にして、現在韓国の1000ウォン
札にも描かれている、「東方の朱子」こと李退渓を挙げときましょうか。もう、朱子の理気二
元論を発展させたこの人なくしては、朝鮮儒学は(日本儒学も)語れない。日本でも藤原惺
窩、林羅山、山崎闇斎らがかなりこの人をリスペクト。あまりにリスペクトし過ぎて、朱子の
解釈はこの人の説に頼りきってた感さえある。あとは、弟子の李栗谷との「四端七情論論
争」が有名(この李栗谷が、もう1人の朝鮮儒学の大成者)。ただ、この論争はそれぞれの
弟子たちに受け継がれ、それが後に、あの悪しき「党争」にまで発展してしまう。そういった
意味じゃ、罪作りなヒトでもある。と、まずはこんなもんでいかがでやんしょ?<説明
48馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/27 23:51 ID:NkqG/cvA
>>43
いや、朝鮮通信使自体はたいして思想的影響は与えてない。だって、やっぱりただの外交
儀礼に過ぎないもん(藁)。ただ、申維翰の『海游録』などの、通信使による日記モノは結構
影響を与えた。なんてったって、帰還した通信使が(もちろん朝鮮国内で)内輪で奏上した
はずの日記が、次の通信使が来る頃にゃ、すっかり日本中に出回ってたっていうハナシが
あるくらいだからね(藁)。上で挙げた中井竹山なんかが、「通信使なんてイラネーヨ!」と
主張した理由の1つとして、通信使の日記の中に多々出て来る、毎日見境無く怒涛のよう
に書を求めて押し寄せて来る日本人(知識人から下男まで様々)や、あまり詩作がお上手
でない日本の知識人たちの様子(無論事実)の描写に、心底こっ恥ずかしくなった、ってー
のがある。「んな、みっともないザマを見せるな!」って思ったワケやね、中井ちゃんは。
あと、確かに通信使たちの日記は秀逸。金仁謙の『日東壮遊歌』あたりは読んでてムカッ
腹が立ってくるばかりだけど(藁)、申維翰の『海游録』なんかは、ホントに秀逸。江戸時代
の風俗描写書、あるいは日本人論としても一級品。我が愛する司馬遼太郎センセは、何
かやたらと申維翰を低評価してたけども、俺は結構高評価。特に、京都滞在中の天皇に
関するところとか、巻末付録の雨森芳洲との「日本の男色習慣に関する論議」とかがおも
しろい。天皇関連のとこなんか、後の世(明治以降)のことを何やら暗示してるようで、興味
深い。
49馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/27 23:57 ID:NkqG/cvA
>>46
おうおう。センキューセンキュー。(藁
50馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/28 00:01 ID:67kTgX3S
あ、>>47を訂正。考えてみりゃ水戸学は闇斎経由で受けてますな、
朝鮮朱子学の影響。まぁ、チビッとだとは思いますが。(←言い訳。(汗
51000:02/07/28 00:02 ID:JYqOPhUC
チョンはシナに対しての朝貢の再現は
絶対やらないだろうね・・(ww

だからチョンも日本には感謝しないと
いかんぜよ・・(ww
52 :02/07/28 00:02 ID:E1fpxoO7
>>48
ありがとうございます。
思想的潮流にとくに影響なしと・・。
個人的な知的階級層を見た場合のレベルの高さも現在の韓国人と現在の韓国人を
彷彿とさせるところがあるようですね。
しかし「外交的儀礼」で400人単位の通信使ってのもさすが韓国、見栄の国柄ですねー。
壬辰倭乱の痛手から数百年も回復できなかったてのはやっぱネタなんすかねー。
53秋山真之 ◆IUZyjmw6 :02/07/28 00:09 ID:lllRlQtp
>>52
いちおう、日本の費用で来た。
そのため幕府の経費節減の槍玉に上がって、一方的に
費用を縮小された事実を忘れては成らない。
と、付け加えておきます。
54000:02/07/28 00:10 ID:JYqOPhUC
そもそもチョンの貨幣は一応
あったようだが偽物がばかリ
貨幣の価値はなかったため
将軍がわざわざチョン御一行の渡航費用
も賄ってやったんだよね
55JKC:02/07/28 00:10 ID:lEmL3NZh
 文化に関して日朝どちらが優位であったかを判断するのは難しいでしょうが、
経済に関して言えば同時期の朝鮮よりも江戸時代の日本の方が進んでいたと思う
のですが。

 日本が江戸時代中期には既に欧米に匹敵するほどの為替取引などを行っていた
のに対し、李氏朝鮮の場合は19世紀末になっても京城や平壌などの一部の大都市
を除けば、為替取引はおろか紙幣すらロクに使われていなかったそうですし。
 そのため、地方での商売には常に大量の銅銭が使われ、高額な取引の際は運搬に
馬が必要なほどの銅銭が使われた事もザラだった・・ と、当時の朝鮮を訪れた
欧米人の旅行者の本に書いてありました。

 その為19世紀後半に両国が欧米列強の侵略に晒された際も、日本が富国強兵
政策によって急速な近代化を行えるほどの経済力の下地があったのに対し、朝鮮は
近代化はおろか、目前の列強の侵攻をはね除けるのに必要な軍事力さえ構築できる
経済力を持たなかったため、20世紀に入ってあまりにも対照的な結果をもたらした
のだと思いますが。
56000:02/07/28 00:15 ID:JYqOPhUC
世界で最初に株式の取引を始めたの
はわが日本だし勿論、世界に先駆けて
先物取引を始めたのも我日本なんだよなーーー。

そのときチョンは・・・・(wwww
57奈々氏:02/07/28 00:26 ID:fByYYAnY
以前にTVで見た記憶では、確か唐人をどりをする人って見物客の女の尻を目指して追っかけて、さわりまくるんだよね。
違ったかな?
ということは、昔の通信使も同じような事をしていたとみるのが普通でしょ。
どう?
58馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/28 00:26 ID:67kTgX3S
>>55
うむ。文化に優劣なんてつけられないけど、少なくとも経済の規模には優劣は
つけられる。そうして同時代の日朝を比べてみると、もうお話になんないほどの
差。しかしこれは「朝鮮人の気質が云々」なんていう話じゃなくて、偏に朝鮮の
社会体制(ガチガチの朱子学、党争、両班による収奪)に問題があったわけで。
それは、JKC氏が挙げる「欧米人の旅行者の本」(たぶんイザベラ・バード著の
『朝鮮奥地紀行』だと思われる)の中にも出ているように、両班の収奪を逃れて
満洲や沿海州に移住した朝鮮人たちが、地元のロシア人より余程かいい生活
をしていたという例からもわかる。あるいは後に、日本(の支配下の朝鮮・満洲)
と隣接した地域にいることによりスパイ化することを恐れたスターリンが、その
沿海州に済む朝鮮人たちを、中央アジアのタシケントに強制移住させた例が
あったが、その朝鮮人たちはなんと中央アジアで米の栽培をやってのけた。
要は、「ヒトは置かれた環境が大事」ということ。そういった意味じゃ「近代朝鮮
の悲劇」は、「俗に言えば運が悪かった」(BY故オブチ)ということになろうか。(藁
59馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/28 00:33 ID:67kTgX3S
追記。その、中央アジアに強制移住された朝鮮人たちは、同じ理由で
強制移住させられてきたドイツ人と共に、今じゃ現地でエリート階層を
担っているそうな。(藁
60好事家:02/07/28 01:48 ID:OklNKIMW
>馬賊ハンターD様
なるほど、ローマとギリシァ哲人の関係を髣髴とさせるね。
文禄・慶長の役でも高名な朝鮮儒者が捕虜として連行され、
大名達が獲得を競い合ったとか、それが端緒だったね。

しかし江戸時代の儒学(≠江戸儒学)はまさに百花繚乱ですな。
朝鮮系儒学は文献の形で大量に江戸の学問所に流入したけれども、
「科挙」を前提とする大陸の学問がどのような形で位置づけられたのだろう?
テキストの音読に基づき定型の作詞作文を旨とする大陸式が、そのまま定着?
日本知識人の「訓解に基づく作詞作文」の伝統を、少しは揺るがしたのだろうか。
現在、儒教研究の古典として京都派の評価は海外でも高いが、江戸派は如何に。
官学といえども諸派の一つに過ぎず、儒学といえども諸学の一つに過ぎない日本に於て
朝鮮通信使として来朝した賢人は「アテナイの学堂」に集う一人ではなかったろうか。
馬賊ハンター様の博識には、今後も大いに期待をかけております。
61 :02/07/28 01:53 ID:0IMGSfgz
「唐人をどり」ってコスプレのルーツですか?
62   :02/07/28 03:06 ID:D1hF8yfB
馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ氏、えーと、すいません、ご教授いただきたいんですが・・・

儒学って後の官学ですよね。
湯島聖堂が開かれたのもこれらの影響だったと理解してます。
これを手本に藩校が成立したのをきっかけに、寺子屋教育も広がっていったんですよね。
そのような意味での儒学(朝鮮)の影響は大きかったと認識してまして、教育普及のきっかけづくり
という点での評価しか持ち得ていません。
朝鮮から学んだものとしては儒学が中心と理解しているのですが、それ以外はどんなものでしょうか?
新井白石のケースはあっても、李氏朝鮮のように儒学者集団が力を持ったことはないですし、
あれ、他にあったっけ・・・と頭を悩ましています。
また、井原西鶴や近松門左衛門は、貝原益軒の女人三従を違った方向から作品にしてます。
どちらかというと儒教的倫理からは外れています。

>朝鮮から謙虚に学び続けたからこそ
うーん、ぐぐってもデムパが多くて・・・儒学以外に学び続けたものって・・・本草学は本は輸入したけど
学び続けたものとは、とても言えるモノじゃないし・・・うーん。

ちなみに、個人的に両国の明暗を分けたのは、強固な幕藩体制という形態の有無だと考えています。
この産業の確立と商業の活発化したのが最大の要因ではないかと。
そうそう、参勤交代では殿様に付き従っていた学者が、学問上の交流を深めた一面があります。
63   :02/07/28 03:17 ID:D1hF8yfB
とと・・間違えて送ってしまった・・・

元禄文化の頃ですよね?儒学が盛んになりだしたのは。
この当時に経済も活発化していたと思いますが、ここら辺りにもキーがあったりしますか?
64 :02/07/28 03:31 ID:TBvsBxBz
中央アジアに移住させられた朝鮮人の人たちのインタビュー
読んだことあるけど至極まっとうだった。
某半島の同胞については冷めた目で見ていたな。
人は育ちだということをしみじみ感じた。
でもこの人たちソ連邦が崩壊して中央アジアの国々が次々独立し出してから
ロシア語しか喋れないんでけっこうキツイらしい。
65名無しさん:02/07/28 04:42 ID:gbHL5riN
朝鮮人って本当に憐れな民族だね
「俺達の先祖は日本にあらゆる先進知識を授けてやった」「今現在、日本
の後塵を拝しているのは日帝36年の収奪のせい」「朝鮮民族は世界一優
秀(あるいは世界三大優秀民族)」とか本気で思っているらしいし
朝鮮人のDONぶりは、政府による徹底的な反日教育のせいとか言う人も
いるけど、そうでなくても狂ってるよ

>「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が倭人の所有するとこ
>ろとなり 帝だ皇だと称し子々孫々に伝えられていることである
>この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し四百里六十州を 朝鮮の国
>土とし朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ」

↑この下劣な品性は今も昔も全然変わってないよ
6665:02/07/28 04:43 ID:gbHL5riN
訂正:DON→DQN
67なすび:02/07/28 07:38 ID:Fn57KHvo
>>60
>なるほど、ローマとギリシァ哲人の関係を髣髴とさせるね

始皇帝と韓非子の関係に似てなくもない。
イングランドとスコットランド学派とかね。
征服者が被征服者の人的リソースを吸収していく過程はそっくり。
68||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/28 08:40 ID:wMouVylJ
>馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ
>>47
遅くなりましたが、てんきゅー!

同じことをもう一度書くことになるけど、
李退渓によって大成された朝鮮儒教は、
藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎らによって解釈され、
日本儒教へ大きな影響を与えたと見てよろしいのですね。
その過程で、朝鮮通信使はたいした事はしていないと。
そして、こんなに詳しくは無いけど>>60、>62と似たようなな事思った。
朝鮮系儒学は何処まで日本の学問や、
生活体系に影響を与えたのだろうかと。

>>67
>服者が被征服者
ここは、李氏朝鮮と日本の関係に当てはめれるのかなあ。
対等とまでは行かないが、従属と対等の間じゃなかろうかと。
69暇な人:02/07/28 09:08 ID:pB2fhdId
>>35
>朝鮮通信使は朝貢ではないでしょう。

実はそうでもない。
解釈に色々あるし、その行動だけを見れば朝貢とは言えないかもしれないが、
(朝鮮からの贈り物はあるが、幕府から下賜された品はないなど実際の朝貢とは形が違う)
そして幕府や政府高官は(林、新井など)朝貢と見ていたようなんですよね。
最も幕府に残っている文書ってのは、多少修辞的な言葉で幕府をヨイショしている
『徳川実記』ですから、幕府の姿勢は朝貢でも、実際は多少違った可能性はあります。

つーか貴方何時からハン板に出没するようになったんですか?

>>53
半分正解で半分間違い。
日本滞在費は日本持ちだが、日本まで来る旅費は朝鮮持ち。
実はこれは結構馬鹿にならなくて、ほぼ同じくらい。(100万両:92万両だったかな)
70暇な人:02/07/28 09:13 ID:MSHDQAAd
最後の費用はうろ覚えなんで間違っているかもしれません。

一番正確な表現をすると、
幕府は朝貢として見ていたとして、庶民や諸藩にそう宣伝した。
朝鮮は朝貢ではなく、進んだ文化を教授したと宣伝した。
双方の意思に違いがあるが、おそらく双方とも分かっていただろうし、
どちらにも都合の言い様に解釈していたんじゃないかな?
71 :02/07/28 09:15 ID:MqpbIrxq
>>1の話だけど
まだ記事のURL届かないの?

72 :02/07/28 09:17 ID:MqpbIrxq
このスレの教訓!
・・・・・・・・・

 
さあどうぞ!!
73 :02/07/28 09:18 ID:EA/L+X6S
>>5
この部分だろうな。韓国が本気で分析しなければならないとこは(w
74JKC:02/07/28 09:25 ID:MxHirWqh
 何ヶ月か前の読売新聞に載っていた話ですが、朝鮮通信使が日本に行く度に、
経由地兼ホスト役の対馬藩には多額の交付金が幕府から支給されたそうです。

 ちょっと前の記事なので具体的な金額までは覚えていませんが、常に財政の逼迫
に悩まされていた対馬藩にとってはこの交付金は大変有り難く、その為対馬藩も
朝鮮に掛け合って度々通信使を派遣するように要請したそうです。
75IMF ◆METaKEzo :02/07/28 09:31 ID:ugZ5O9y1
>>31
>いろいろなお土産を持ってきてへいこらしてたの?

そのお土産が、日本へ文化を伝えたという事になっているのです。
76 :02/07/28 09:40 ID:EQa6Zjn/
半島の人達って日本にお土産してまで文化伝達者のプライドが欲しかったんだ・・。
偏狭なプライドを捨てて、日本から学ぶ態度があれば半島の状況も多少は良くなったかも
知れないのに・・。
77IMF ◆METaKEzo :02/07/28 09:48 ID:ugZ5O9y1
>>62
>そうそう、参勤交代では殿様に付き従っていた学者が、学問上の交流を深めた一面があります。

日本人で、参勤交代は地方の文化を江戸に伝えに行ったと思ってるアフォは
居ないであろう事と同様に。

現在と違い地方と中央で大きく異なっていた時代に、学問に関わらず文化的
にお互いに影響が有ったということを否定するアフォも存在しないだろうな。
78 :02/07/28 09:53 ID:2VH+SFPl
通信使は日本の偵察が大きな目的だったと思います。
しかし、大集団のため行動はかなり制限されていたはずです。
対照的にオランダの使節は、少数で然したる接待も無い代わりに、
結構自由に出来たようですが。
79 :02/07/28 09:56 ID:G/WUoWxj
おい!おまえら!このスレ

勉 強 に な り ま す 。
80||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/28 10:03 ID:wMouVylJ
ついでに。

朝鮮通信使は朝貢か? (95) 
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/korea/1026071382/l50
81IMF ◆METaKEzo :02/07/28 10:04 ID:ugZ5O9y1
>>78
もちろん、通信使としてもわざわざ外国まできて何かの目的がないとただの
間抜けでしょうな。

そして、そのよううな視察を許していたという事は江戸幕府が朝鮮をどうせ
日本に歯向かえるはずは無いと、軽く見ていたという事であると思われます。

ちなみに日本からの使者は決して、朝鮮中央まで行く事は許されなかった
そうです。ひたすら日本を恐れていたのでしょうね。
82ななし:02/07/28 10:10 ID:24d9dGMB
>>71
1の記事は中日新聞Web版では載ってませんでした。
かわりに朝日新聞の記事を紹介しておきます。(半年前のものですが)
http://www.asahi.com/international/jk/020113b.html
83楠某:02/07/28 10:28 ID:rw1beNe/
朝鮮通信使は、1607年から1811年までの間に12回来ています。
その10年ばかし前、1596年に、文録の役(壬申倭乱)の停戦交渉に、
朝鮮の使節が大阪まで来ており(豊臣時代だから当たり前)、これを
朝鮮通信使のことはじめとする説もあるようですが、実際には
家康の政治的意図により始まった1607年からの使節をそう呼ぶと
考えて差し支えありますまい。
問題は、200年以上にも渡って来日していることで、その間に日本の
社会は大きく変化しています。そこを無視して一律に、朝鮮側の言う
ように「後進国へ文化を伝えてやった」だの、日本の言うように「朝貢
使節だ。いやそれにすら当たらない」だのと主張してみても、あまり
実りはありません。

通信使が始まった17世紀初頭、日本国内は戦乱からようやく統一が
為されて間もない頃であり、一方の李朝は既に2世紀以上を閲して
いました。自らを「小中華」と呼称し、「我が国は中国の次にエラい!」と
していたのですから、日本なぞ夷狄・蛮族の後進国、人以下の猿の国よ
と見なしていたのは想像に難くありません。
一方で、ほんの10年と少し前には、その蛮国に攻め込まれてアタフタした
という事実もあり、尚更に「進んだ朝鮮、遅れた日本」認識を強くしていた
というか、そうせざるをえなかったのではないでしょうか。

ですから、開始当初の朝鮮通信使は、確かに「朝鮮の(大陸の)進んだ
文化を日本に伝える」という意味合いが色濃く出ていたと思われます。
84楠某:02/07/28 10:28 ID:rw1beNe/
続き

しかしながら、日本の江戸時代は歴史上最も国力が増加した時代です。
政治体制としては、アメリカのユナイテッド・ステイツ方式を先取りしたとも
言われる、ユナイテッド・ハンズ体制(そんな言葉はありませんが)により、
中央集権でありながら地方の経済的利益がある程度守られていました
ので、国全体としての資本蓄積は急速に進行しました。
その結果として、都市部、特に江戸においては、世界初の平民文化が
華開くことになり、17世紀末の日本は「町人文化の時代」を迎えることに
なります。いわゆる元禄期です。

一方、この時代の朝鮮は、李朝の後半期に当たるわけですが、支配階級
である両班から始まった腐敗が全国的に侵攻し、国全体が疲弊していき
ます。ですから、綱吉の将軍位襲職を賀しに来た通信使の頃には、既に
日朝両国の経済的・文化的立場は逆転していました。
ところが、たかだか100年も経っていないのに、夷狄と蔑んでいた国に
抜かれた、これからは日本の良いところを学ばねば……などと、朝鮮側が
考えられるはずがありません。19世紀の通信使の廃止に至るまで、遂に
朝鮮使節は日本に何かを学ぼうとはしませんでした。日本と同様に鎖国を
していた朝鮮にとって、それは数少ない異文化・異体制の輸入機会で
あったのに。

この結果がどうなったかは、その後、19世紀後半に、両国が「近代社会」の
荒波に放り出されたとき、それぞれがどう泳いだか、或いは溺れたか(笑)と
いう、歴史的な事実が、端的に示していると思います。
85 :02/07/28 10:37 ID:IFeUwUAC
結局、あれだなぁ、近現代での一方的な関係みたいなのものを
過去の解釈でバランスをとりたい、あるいは自国の方を重く見たい、というような
願望があるんだろうね、底流には。
だから、文化なり何なりを日本に伝えたとしたいんでしょう。ごく単純な解釈としては。
江戸時代だと、さすがに技術を伝えたとは言えなかったろうけど、
朝鮮の役で連れて来た陶工は、技術を伝えたことになってるしw 
86IMF ◆METaKEzo :02/07/28 10:49 ID:ugZ5O9y1
>>85
おそらく彼等の解釈では、日本の大学にきている韓国人留学生は
日本へ学問を伝えに来た事になってしまうのでしょう。
87真珠人夫 ◆4jioMWoA :02/07/28 10:51 ID:9Vl3MI9+
つーことは密航者はあえて危険を冒してまで先進技術を伝えに来た人たちなのかしら?
88 :02/07/28 10:53 ID:IxjcrEWA
>>馬賊ハンターDさん

とても勉強になりますた。
申維翰の『海游録』面白そうだしどこかで入手して読んでみます。

あともしよろしかったらですが、私も>>68さんの書いてらっしゃる
>朝鮮系儒学は何処まで日本の学問や、
>生活体系に影響を与えたのだろうか。

に関する馬賊ハンターDさんのご意見をお伺いできたら嬉しいっす。

89とむ:02/07/28 10:59 ID:fA8xeR/z
>>35
>朝鮮通信使は朝貢ではないでしょう。

実態は朝貢では?
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/kankoku_heigou1.htm#rekisi
上URLより引用
第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙の「日東壮遊歌」

筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白(将軍のこと)に国書を奉ずる儀式に出ると、
前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、
頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外」と、参席を拒み通している。

>ただ、朝鮮に対する「属国視」は、
>国学の隆盛が興る江戸後期を待たねばなりませんが。

日本の朝鮮観は記紀の頃から属国では?

http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/murai-shousuke-ajianogenko.htm

上URLより引用

これが鎌倉末期の『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』甲本(こうほん)になると、
征伐の動機は仇討ちに変わり、必然的に三韓征伐の前段に新羅の日本侵攻が創作されます。
そこには、蒙古襲来に加勢した高麗への恨みが反映しているとみてまちがいないでしょう。
また馬飼の話は、皇后が弓のはずで石に「新羅国ノ大王ハ日本ノ犬也(なり)」と書きつけた、
という話に変わります。馬飼は低い身分とはいえ人ですが、中世にはそれが犬畜生に転落したのです。

90とむ:02/07/28 11:01 ID:fA8xeR/z
続き南北朝末期の『太平記』巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、
話の筋は『愚童訓』と変わりありませんが、「三韓の夷(えびす)」という語があらたに登場し、
その三韓は同時代の高麗と理解されております。
話の内容ととも見逃せないのは、『愚童訓』や『太平記』が、ひろい社会に享受された、
民衆との距離が近い作品であったことです。とくに『愚童訓』にはたくさんの異本があり、
それがたとえば愛媛県八幡浜(やわたはま)市の八幡神社のような地方の神社にまで分布しています。
また三韓征伐伝説をふくむこの本の前半部を、八幡神の縁起として独立させた作品が、
絵巻物・奈良絵本・版本などのかたちで相当数残されています。
右の事実は、全国の八幡宮が八幡神の異国降伏の霊威をきわめて積極的に民衆に教化
したことを想像させます。
そうした活動のなかで、新羅王を犬とみるような露骨な蔑視観も、民衆のなかに浸透し
定着させられていったことでしょう。
中世以来根を張ってきた朝鮮蔑視観は、近代の朝鮮植民地化の過程でいっそう増幅される
ことになります。
こうした囚われた意識を払拭するためにも、元寇をアジア的、あるいは世界史的視野から
とらえなおす試みは、意味があるといえるのではないでしょうか。


91とむ:02/07/28 11:03 ID:fA8xeR/z
>>47

>もし、朝鮮王朝は日本に多大なる文化的恩恵を与えたんだぞ!」と言われたら、
>朝鮮から学ぶもんなんて無かったね、バーカ!」と返答するのは、
>奴さん以下というか、愚の骨頂であって、

朝鮮王朝は日本に多大なる文化的恩恵を与えたんだぞは事実か?
事実と主張する代表的学者、よく新聞にもコメントを寄せている。

http://www.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-4/sinboj000424/sinbj00042451.htm

上URLより引用

21世紀への課題は「善隣友好の輝ける日の光で、影の正体を照射し、
そのわい曲の歴史を正すこと」だと語る。学問への情熱は益々燃え盛っている。


92とむ:02/07/28 11:04 ID:fA8xeR/z
>はい。多大な部分を李朝から学びました。“朝鮮儒学がなければ、江戸儒学
>など存在しなかったであろう”とすら言えます。江戸期の日本人は、朝鮮から多くの
>ことをひたすら学びました。しかし、朝鮮は日本から何も学ぼうとはしなかった。それ
>が、近代朝鮮の悲劇を招いた何よりの原因ではないでしょうか?」と逆に問い正すの
>が正しいやり方。どこの国であれ、受けた恩恵を認めようとしない姿勢というものほど、
>不実なものはありますまい。


>>68

>李退渓によって大成された朝鮮儒教は、
>藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎らによって解釈され、
>日本儒教へ大きな影響を与えたと見てよろしいのですね。

朝鮮儒教の日本への影響?

http://157.82.36.80/~nss/K3.htm

上URLより引用

藤原惺窩学は程朱学を主体とするも陸王学と老荘学、
及び仏教・神道をも包含する折衷綜合学的儒学で、
純粋朱子学とは遠い位置にあった。
林羅山学はより純粋と説かれるが、
清原家学や吉田神道、李退渓と陳北渓などの影響があって必ずしもそうでなく、
朱子学説によりながらも理気論で心即理的に修正して独自な発展も見られた。
彼等は不純な諸学兼学的な日本的朱子学を形成した。
93 :02/07/28 11:13 ID:v+rW7hUV
しかし、文化・技術等を「伝えてやった」という言い方、考え方は
やはり朝鮮人特有のものではないか。
三国志・水滸伝等、現在ではポピュラーな中国文学も江戸時代に伝わったし、
水滸伝の影響で町火消し、漁師など男伊達を自認する職業の間で刺青が
流行ったからといって、現在中国人が日本に「伝えてやったアルヨ」とか言うことはない。
明の時代に日本刀が倭刀の名前で軍に正式採用されたこともあったが、
日本人がそのことで、中国よりも日本の刀鍛冶技術が優れているなんて言わないし。
結局、中華からのお下がり文化しか持たなかった朝鮮は、昔も今も誰か自分たちよりも下の
文化・国を欲しているのだろう。
その相手が隋の時代より中華と対等に交易・交流していた日本なのがお笑い種だが。
94000:02/07/28 11:20 ID:jTp7UVf7
もし朝鮮通信使一行が路上で参勤交代の大名御一行
と鉢合わせになったらチョン達は路肩に並んで
大名が通り過ぎるまで土下座したんだろうか・・・(ww
95 :02/07/28 11:23 ID:lpUouJoF
「日本につたえてやった物」以外に何を自慢したらいいのさ?
96 :02/07/28 11:25 ID:rw1beNe/
>>93
韓国では、「中国(大陸)の文化が、朝鮮(半島)を経由して日本に伝わった」と
いう表現も許さないそうです。いったん韓国に伝達された時点で韓国の文化と
いうことらしいです。
97 :02/07/28 11:26 ID:HHBUJS/0
>>93
中華料理には強い火力に耐える中華鍋などが必須だが
質が高い、日本刀を溶かしてつくったものが出来るようになって広まっていった
っていう話を聞いたんですがマジですか?

これがマジならちょっと凄いぞ。
98 :02/07/28 11:26 ID:v+rW7hUV
>>95
世界の隅っこでつつましく、大人しく生きていればいいのでは
99竹埼委長:02/07/28 11:28 ID:NtFoWf3N
>>96
それを欧米や中国の学会に認めさせればいいんだけどさ。
欧米も東アジア学の水準が上がっちゃってさ、現物読んじゃうからね。

100 :02/07/28 11:30 ID:lpUouJoF
「あ、日本じゃん」

「これ俺の知り合いなんやで」

「同じ釜の飯食ったっていうの?」

「・・・えらいねー」

「ああ・・・えらいよ・・・」

「でも、俺の方が上手かったんだぜ」
101あやかし:02/07/28 11:31 ID:zHIRP8kp
つうか、この朝鮮通信使ってさ。
使者以上の意味があるのかね。

具体的にどんな学問とやらを伝えたんだか・・・・
102蚯蚓 ◆7/rPtdAY :02/07/28 11:37 ID:S2dIop1k
【近世日本人は朝鮮をどうみていたか 】(倉地 克直)で読んだんだけど、
朝鮮通信使は、秀吉の「高麗陣」で拉致されてきた朝鮮人を連れ戻すのが
最初の目的だったそうです。だから、最初は多かったけれど、しだいに
減って将軍の代替わりに儀礼的にくるようになった。

朝鮮通信使が復活するなら、ついでに日韓併合で強制的に日本につれて
こられた朝鮮人を連れ帰ればいいのに。

日本の儒教への影響は、秀吉の高麗陣で、捕虜として日本に拉致されてきた
朝鮮儒・姜杭(カンハン)の影響が大きいと思う。学者でもない通信使が、
日本の学者に影響を与えることができるとは思えない。
103||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/28 12:11 ID:wMouVylJ
>とむ
>>92
リンク先の書いている人が正しいとすれば、
纏めると(結局同じ事を書くことになる)、
最初から朝鮮朱子学が政治に利用される事は無く、
また、純粋朱子学として日本で成立し用いられたわけでもなく、
さまざまな学問や考え方を取り入れ、新たな日本的朱子学を形成し、
しばらくした後に、幕政へ政策的に用いられるようになった。
活動をリンク先から抜粋して書き垂れると、
>惺窩は現実政治に参加せず「友社」活動をした。
>他方、羅山は、寛永年間に塾舎と先聖殿を開設して基礎をつくり、
>林家は二代の法印鵝峰の弘文館をへて家塾を発展させ、
>三代鳳岡の時に湯島聖堂と講堂が建設されて準官学となり、
>侍形で大学頭に任命され、文教行政を司り、
>朱子学が全国的に普及させた。
>林門はその後衰退し、正式には寛政の改革の一環で昌平坂学問所が
>官学として公認され、朱子学も封建教学として確立した
と言う事ですか。
こまごまとした質問でしたが、ありがとうございました。

>>47にある、悪しき「党争」というのが、藤原惺窩や林羅山らの
弟子たちが何をやったのか、上に書いたような・・・。
これ以上はハソ板のことじゃないし、自分で調べることですね。

ボクは何処へ行こうとしているのだろうか・・・。
104||´_ゝ.`||| ◆agefPANQ :02/07/28 12:13 ID:wMouVylJ
>>102
在日の人が祖国へと帰っていく。(・∀・)イイ!
105とむ:02/07/28 13:06 ID:fA8xeR/z
>>103

>>47にある、悪しき「党争」というのが、藤原惺窩や林羅山らの
>弟子たちが何をやったのか、上に書いたような・・・。
>これ以上はハソ板のことじゃないし、自分で調べることですね。

党争とは朝鮮の党争で、藤原惺窩や林羅山らの
弟子たちは関係ないのでは?

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-100.htm
上記URLから引用

まず、王位纂奪劇などがあった。そして、そう、両班の党争である。
仏教が敗退し、武官が敗退した後は、儒教文官同士の党争が残っていたからだ。
殺し合いの政争は、国家整備が終わった15世紀末から開始された。
士林や儒林と呼ばれた彼らは、初めは「東人」と「西人」に二分し、
その後小分裂を繰り返し、王朝の滅亡まで党争を続けた(注)。
106parebellum :02/07/28 13:58 ID:yfaqwMQT
朝鮮通信使の旅再現  韓国学生ら出発 1カ月かけ市民交流

http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2002jul/28/K20020728MKE1Z100000010.html
107IMF ◆METaKEzo :02/07/28 14:31 ID:ugZ5O9y1
>>106
そのイベントで、韓国学生等は何を感じ取るでしょう・・・
108  :02/07/28 14:46 ID:to/DdVvR
日本語できる奴もいるだろうしな>韓国学生
「教えてあげた」「伝えてあげた」
日本でもこの表現を使うかどうか注目したい。
109 :02/07/28 16:46 ID:5YgKMO7P
>>107
あれだろ
「あれはウリナラ起源」「これもウリナラ起源」と自尊心を満足させ、日本人
をうんざりさせながら進む旅
110 :02/07/28 16:50 ID:l6wPJw1k
>>109
ご明察!
111馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/28 17:05 ID:J7JfCz8k
うっわ〜、流石ハン板、物凄いレス量だ・・・。こりゃ大変だなァ。(汗

>>62
>朝鮮から学んだものとしては儒学が中心と理解しているのですが、
>それ以外はどんなものでしょうか?

え〜と、ぶっちゃけ無いです(藁)。儒学オンリー(まぁ、それが結構大きくはあったんですが)。
朝鮮出兵のときに陶芸や活版印刷術を掻っ攫っては来ましたが、それ以降朝鮮じゃ自然科
学の類が絶えちゃって。自然科学を発達させるためには(明末や江戸日本が西洋に学んだ
ように)やはりどこからか学ぶ必要があるのですが、朝鮮は学ぼうとしなかった。当時、朝鮮
が学ぶためには3つの経路があったのですが、そのうちの1つ、西洋とは没交渉だったので
無理、いきなり日本に学べというのも無理(江戸前期までは、“儒学においては”朝鮮のほう
が超先進国だったというのは事実)、となると残るは清ですが、これも「抗清復明」の国是の
ために表立って許されなかった。もちろん、清を通じて西洋の先進技術を学ぶことを主張し
た一派(李[シ翼]、朴趾源、丁若繧轤フ「実学派」。李[シ翼]・丁若繧ヘ日本の国情にもよく通
じ、日本から学ぶことも主張した)もいたのですが、党争の波に押し込められ、結局彼らは
傍流のままでした(実際、彼らが軒並み“南人”(当時政界を追われていた野党)に属してい
たことも多分に影響してはいるのですが)。だから正しく言うならば、「学ぼうとしなかった」と
いうよりは、「社会体制が、学ぶ者たちが主流になることを許さなかった」というべきでしょうか。
112馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ :02/07/28 17:05 ID:J7JfCz8k
>>62の続き
>個人的に両国の明暗を分けたのは、強固な幕藩体制という形態の有無だと考えています。
>この産業の確立と商業の活発化したのが最大の要因ではないかと。

まさしくその通り。幕藩体制の存在が、「各藩の殖産興業」「法人としての藩への忠誠心」
を養ったものと思われます。中央政府による任命赴任式だと、どうしても腐敗が生まれて
しまいますから(日本でも、律令体制下の国司の無茶っぷりを思い出して頂ければ。あと、
朝鮮の「党争」を日本の例に引き付けるならば、摂関家による菅原道真の追い落としあた
りが丁度いいでしょうな。科挙こそないものの、中の下からのし上がってきたものの政争
によって追い落とされた、律令下では唯一の例ですから)。「国司の収奪」や「大宰府左遷」
がずーっと続く世の中ですよ。そりゃ地獄でしょう。まぁ、「戦国の殺し合い」も地獄っちゃあ
地獄ですが。(藁
113馬賊ハンターD ◆HUNT/0HQ
>>69
>幕府から下賜された品はないなど

あれ? 結構下賜されてたと思いますよ。朝鮮じゃなかなか手に入らない、
オランダ商人経由の南方の物産とか。まぁ確かに、本場中国の返賜には
量的にはるかに及びませんが。それでも絶無ではないですよ、一応。

>そして幕府や政府高官は(林、新井など)朝貢と見ていたようなんですよね。

林の場合は個人的なコンプレックスから来るものでしょう。林羅山存命当時は
まだまだ朝鮮のほうが儒教先進国でしたし、羅山の師匠筋にあたる惺窩があ
れだけ朝鮮に転んでるのを(姜著『看羊録』参照)見せ付けられたんですし。
白石の場合は、彼特有のリアリズムから来るものでしょう。朝鮮を属国視した
がる水戸彰孝館の史館衆(水戸学派連中)に対し、佐久間洞巌にあてた書簡
の中で手厳しく批判していることから、察することが出来るとは思います。ただ、
白石は朝鮮に対して主張すべきことはガツンと主張していますから(「大君問
題」)、そういった意味では、まさしく元祖「NOと言える政治家」といえるでしょう。(藁

>つーか貴方何時からハン板に出没するようになったんですか?

3日ぐらい前からです。念願のハン板進出を果たしました。(藁