49 :
:02/07/15 03:51 ID:XMuiBPTL
age
50 :
:02/07/16 21:52 ID:5vXENaCI
age
51 :
000:02/07/16 22:47 ID:XPCSgkB1
朝鮮民族長年の夢、民族統一(天下統一)
将軍さまは金正日ニダ
故に将軍さまは一番偉いのです
時の将軍徳川3大名です
52 :
:02/07/17 14:46 ID:T6sAdOIt
age
53 :
:02/07/17 14:54 ID:ZPIfVr/z
このスレ見るまで朝鮮通信使なんぞずっと忘れてたYO
つーか、「通信士」しか変換できないんですが
54 :
:02/07/17 17:21 ID:WiMa1zqQ
そう、忘れた頃にageられる通信士(w
55 :
:02/07/18 22:14 ID:cdn4s6uq
自分的に朝鮮通信使は朝貢の使節ではないと思うのれす。
国交の回復を働きかけたのは専ら徳川家康なのです。
しかし日本により甚大な被害をうけた朝鮮の国王はそれを信じず家康からの熱いラブコールを幾度となく
拒否していたのです。
大戦後の緊張感バリバリです。朝鮮は日本と仲良くする気などなかったのです。
両国の国交回復は1607年になります。
1609年には己酉条約が結ばれ貿易も始まりますた。しかしこれは朝鮮側の積極的な国交樹立の意思ではありません。
当時、海西、建洲では女真が勃興しはじめていたのです。
明は朝鮮の出兵により遼東に目を配る余裕を失い、且つ多くの士卒を失っていました。
この北方の脅威を抱える中で朝鮮は南方の緊張関係を自力の外交で修復する必要性があったのでふ。
56 :
:02/07/18 22:39 ID:cdn4s6uq
江戸時代のすべての期間を通じて幕朝関係はとても良好で、通信使は親善大使的な役割しか
見えてきませんが、万が一に備えての偵察も彼らの重大な任務だったと思います。
朝鮮出兵の前、朝鮮の文官が国力を偵察しに来ましたが、
通信使も人口、都市、武器、軍馬に関心を抱いています。江戸までの長い道のりをよく観察しています。
将軍への謁見も親善の名目以外にも戦略的に新しい指導者、首脳陣の諜報が重視されていたのではないでしょうか?
一方、日本からの使者は首都はおろか釜山の倭人館で停められ、それ以上国内に入ることを許されることはありませんでした。
>>56 豊臣秀吉の人も見抜けなかったり、日本を見てデムパな感想を残す連中では
何人来ても無駄と言うもの。
ついでに。幕府ご禁制の密貿易である「抜け荷」だけど、これ、いくら
近いと言っても魅力的な商品がない朝鮮相手には行われていないのだよ。
必ず、中国へ直接、あるいは中國経由の南蛮品。
どうしてだろうね。
59 :
:02/07/18 22:56 ID:cdn4s6uq
>>57 確かね、副使の人は日本は侵略するって報告してたんよ。
でも正使が「来るわけないだろゴルァ」って・・・・・・
60 :
好事家:02/07/19 14:20 ID:7rQUbBso
定期age
61 :
_:02/07/19 14:25 ID:X2YcRsXx
「ご禁制の朝鮮キムチを高値で売ったあとの利益はお代官様と山分けという事で」
「金智屋よ、そちも悪よのう」
62 :
:02/07/19 14:31 ID:NahNeGMD
韓国の方には資料は残ってないのでしょうか?
63 :
:02/07/19 17:02 ID:pJu123ax
琉球使節の正装って美しいものだったそうだけど、
幕府に「李朝さんみたいに奇異で面白い格好してくれないと、
異国の朝貢使節団てイメージ湧かないんだよね。
それに李朝みたいにアホな格好してくれないと民衆の見世物にならなくて、
目立たないでしょ。そこんとこヨロシコ」
と言われて琉球の正装とは違う珍妙な格好で行列させられたそうだ。
李朝に非は無いが、琉球可哀相…。
李朝の装束については、秀吉の時代(開戦直前の李朝の使節)から、
公家の日記に「変な格好」って思いっきり書かれちゃってるんだよね。
定期age
65 :
:02/07/21 00:48 ID:EwnR9EIN
>>13&
>>55 韓国人の学者?と
>>55は、朝貢と冊封を勘違いしてる可能性が大。
朝貢は、力関係上仕方なく一方が一方を立てつつ行う外交。下の国
が献上して、上の国がより多くのお返しする。ただそれだけ。
冊封は、力のある国の影響力を利用して国内をまとめる、要するに
上から下に役職を与えてるわけね。
>>19 確かに。朝貢であれ冊封であれ、下の国がから上の国に使節を派遣
するわけだからね。
>>21 それは、李氏朝鮮が中国の配下にあって、中国と日本の二つに同時
に仕えるわけにはいかなかったから。
>>24 那→奴だったと思う。
ちなみに金印は、日本と大月氏にしか与えていない。
>>33 だから、
>>21の対馬の宗氏の誤魔化しがあったわけ。
66 :
:02/07/21 01:10 ID:ZUrn7CV2
対馬は日本軍撤退から3ヶ月か6ヶ月後には使者を派遣していますな。
家康が積極的に動いたのは幕府の正当性を内外に示すためと、
明との正式な貿易の斡旋をしてもらうため。
67 :
55,56れす:02/07/21 08:06 ID:YHwE1Lc6
>>65 朝鮮側は過去に一度も臣下の礼をとったことはないし、
政治体制にしても日本の政令の影響を受けることはなかったのれす。
通信使もなんらかしらの物を幕府に献上していたわけですからその行為自体を「朝貢」といえば「朝貢」
なのですが、
1の言う「朝貢」は国家間の主従の有無を問うものだと思いましたので、それに対して
そうではないし、
付け足しとして、もっと多角的な要素を含んでいたということを言いたかったのれす。
だって朝鮮側は日本の首都までの情報を集めていたのに対して、自分の国の情報はずーと秘匿し続けた
んれすよ?修交の経緯からいっても戦略的な要素が満載です。
朝鮮に(日本)侵略の意気地があったかどうかわかりませんが、
王国の南方の安全を保障するのに(外交的にも軍事的にも)情報は多いいに越したことはありません。
倭乱の惨禍こそ彼らにとって最も記憶に新しく、且つ悲惨な体験でした。
王国の安全を背負う。
現代の私たちが考える以上に通信使達の役割や目的は大きかったはずなのれす。
68 :
:02/07/21 09:13 ID:XWjgDJEd
>>65 冊封使は上の国が下の国へ派遣するんでは?
確か琉球へは中国の冊封使が来て琉球王朝は最大級にもてなしをしてるはず。
だから韓国は朝鮮通信使は冊封使だと言ってるんでは?
69 :
55,56れす:02/07/21 09:38 ID:YHwE1Lc6
>>66 家康が積極的に動いたのは幕府の正当性を内外に示すためと、
明との正式な貿易の斡旋をしてもらうため。
なるほろ、幕府の威厳を諸侯に示すとか日本側にも様々な動機がありますね。
70 :
66ッス:02/07/21 11:00 ID:MwS/M8U9
琉球にも斡旋を要請していますね。
加藤清正も明に使者を派遣していたと思います。
全て失敗していますが明からの貿易船が再び来航するようになったので、
問題はなかったんだと思います。
71 :
age:02/07/21 21:19 ID:zwe04HSy
age
72 :
:02/07/22 16:51 ID:hktIcEdw
>韓国は朝鮮通信使は冊封使だと言ってるんでは
朝鮮通信使は「新将軍就任」をお祝いするためにやってきたんだよね。
なんでこれが冊封使になっちゃうの?
まさか李朝が新将軍を任命していたとでも(以下略
朝貢冊封体制化で建前上同格扱いだった室町期、
李氏朝鮮は対馬を倭寇基地撃滅を名目に対馬侵攻を行ったが、
「これに怒った将軍義持が朝鮮に討伐軍を送るらしい」という
噂が流れると、李朝は慌てて弁明(謝罪だな)のための使節団を日本に送り込んでいる。
つまり王朝創立30年ほどでまだ十分に力のあった李氏朝鮮と、
国内統一のままならない室町幕府でもこれほどの歴然とした力の差が存在していたわけで
室町幕府と比較にならない、政治、経済、軍事力をもった徳川幕府に対し、
更に力の衰えた李氏朝鮮が冊封使を送るなんてのは、
いかに非現実の世界に生きていた李朝の王族・両班でも思っていなかったのでは。
73 :
TTB:02/07/22 20:38 ID:meeuOfAC
>>65 朝鮮通信使が幕府への朝貢使節だったという解釈は可能だが、
朝鮮通信使が幕府への冊封使だったなんて解釈は成り立ちようがないよw
朝廷からの勅使は、将軍の上座から勅旨を伝える。
それ以外は、将軍と勅使は同格もしくは将軍>勅使で対面、
幕末には勅使が上座に座り、勅使>将軍という形になった。
もし朝鮮通信使が幕府にとって冊封使なら、上と同じような形になるはずだが、
果たして朝鮮通信使の正使は上段の間の上段に上がれたのだろうか?
74 :
73は:02/07/22 20:41 ID:meeuOfAC
75 :
名無しさん:02/07/22 20:45 ID:j7D5/D+U
>>72 義時の時代の話ソースキボンヌ
自分で調べてみたい。
76 :
名無しさん:02/07/22 20:45 ID:j7D5/D+U
義時じゃなくて義持だった。
77 :
:02/07/22 22:27 ID:Bi7IHp38
68は客観的に韓国人の主張の論拠をわかりやすく説明しているだけで
68自身の解釈ではないような・・・。
78 :
:02/07/22 23:09 ID:bhNXcVCB
「冊封⇔朝貢」の関係を
「奉公⇔御恩」と勘違いしてる人がいるような…
79 :
:02/07/23 00:51 ID:qR3eTY8O
>>65 だから、
>>21の対馬の宗氏の誤魔化しがあったわけ。
沈惟敬との国書偽造事件は文禄・慶長の役で朝鮮通信使とは関係がないと思うんですが。
しかも交渉相手が明だし。
80 :
定期揚屋:02/07/23 00:54 ID:7kqdNK2F
定期age
81 :
定期揚屋:02/07/23 10:29 ID:TosIEOMd
定期age
82 :
:02/07/23 10:51 ID:ZAkSsh37
対馬の宗氏が、前だか後だかに、密かに家来を日本の特使として釜山に派遣して
朝鮮国王を奉じる儀式をやっていたらしいね。
前、放送大学かなんかで見た。
83 :
:02/07/24 12:37 ID:F6fNSpap
御恩と奉公って軍役とかが関係してくるから全然違うのでは?
84 :
:02/07/24 17:27 ID:0HiLCEvd
age
85 :
れすれす:02/07/25 00:30 ID:LFcIVu7g
>>59 >>57 確かね、副使の人は日本は侵略するって報告してたんよ。
でも正使が「来るわけないだろゴルァ」って・・・・・・
侵略の可能性を肯定したのは正使の方なのれす。
これは1590年に秀吉に謁見した使者で、帰国後、朝鮮王への復命で正使の黄允吉は「秀吉は小さく、顔は浅黒で
容姿はこれといって異表はないが、人を射るように眼光は鋭く、胆力もあるようにみえる。
必ずや侵攻してくるだろう。」との進言に対し、
副使の金誠一は「秀吉の目は鼠のようで少しも恐れることはない。」と報告したのれす。
朝鮮王国は当時は西人派と東人派の派閥抗争が繰り広げられており、抗争の結果、副使側が所属していた
東人派の勝利により副使の倭は恐れに足らずとの見解が採用されたのれす。
86 :
:02/07/25 11:39 ID:y3aVE2fG
定期age
87 :
:02/07/26 07:25 ID:5P9cyHHX
age
88 :
:02/07/26 07:38 ID:c4E7i7Cy
東アジアには3つの独立した国があった。
中国、インド、日本。他の国は、3国の内国か、属国である。
インドは、インド皇帝の下に藩王(内国)が存在し、中国にも階層構造を
持っていた。日本も、天皇の下に将軍をおき、さらに大名(藩=内国)が
存在していた。
日本の内国「薩摩」の属国に琉球王国があったが、琉球王国はさらに、
中国(清)の属国であった。
また、朝鮮も中国の属国であると同時に、日本の属国であった。
独立国は、皇帝が存在し、下に王を置くものだ。
89 :
れすれす:02/07/27 01:34 ID:vufbbAz+
あまり知りませんでしたが、朝鮮通信使は15世紀初頭からすでに盛んだったようレスね。
高麗は元に服属し日本を攻め、倭寇は復讐を果たすかのように高麗を荒らし、高麗人を連れ去りますた。
両国関係が険悪だった時代れす。
やがて朝鮮では李氏が、日本では室町幕府が成立し共に明の冊封下にはいると明の冊封国同士を前提として
対等の関係で外交がスタートしまふ。
李朝は王国成立当初から倭寇の取り締まりと国人返還を求め、交渉の使者を派遣し続け、日本からも1404年に
足利義満が「日本国王源道義」と称してこれに答えたのがきっかけですた。
回礼使や通信使が李朝から室町幕府に派遣され、その後日本は明の冊封体制から抜け出ますが
両国の国交は継続し、その関係はなんと足利義昭(信長に追放されたヤシ)の代まで続きまふた。
90 :
保守:02/07/27 14:40 ID:oh+yAp2K
age
91 :
れすれす:02/07/27 21:40 ID:efyWwEcg
蛇足れすが、
日本が明の冊封下にはいり、東アジアの国際秩序に加わる機会は義満以前にもありましたが、
日本が南北朝の混乱期にあったことと、明の太祖からの通交の要請を当時大宰府を占領していた
征西将軍、宮懐良親王が拒絶したことにより実現していなかったのれす。
しかしさすが皇族れすね。
異朝に屈するを潔しとしなかったのでしょう。しかし皇族とはいえ一地方の太守に過ぎないのに国書を・・・
李朝と室町幕府との国交は活発で日本からの李朝に派遣された使者はのべ60回にわたりましたが、李朝が派遣した通信使は
応仁の乱が日本で起こったために廃止され、通信使はわずか50年の期間で回数は5回。
しかも渡海に成功したのはたったの3回でふた。
しかし報ヘイ使や回礼使も含めれば李朝からの使者の訪問回数はもう少し多くなりまふ。
92 :
れすれす:02/07/27 23:14 ID:efyWwEcg
この時代、日本は仏典の需要は信じられないほど高く、その多くを朝鮮から得ていまふた。
室町幕府が国交を修交するまえからも北九州の有力大名達が独自に倭寇を取り締まったり、連れ去られた李氏(高麗)の
国民を送還したり、剣などの方物を献上したりし、その見返りとして仏典を求めていますた。
その最初の大名は筑州太守守蔵忠住が被虜人民を帰したことに始まりまふ。1392年のことです。
1394年に九州探題の今川了俊が被虜人659人を送還し、翌年に朝鮮からの回礼使に「両蔵経」の舶載にたいして
礼を述べまふた。
大内義弘も翌年に禁賊と被虜人民の送還を約したさい大蔵経を求め、この後も再三大蔵経を求めますた。
さらにこの後も渋川道鎮などが経典を求め、
この時期50本もの大蔵経が日本に持ち込まれまれたのれす。
室町幕府と国交が結ばれた後でもこれは変わらず足利家は経典を献上され続けました。
93 :
:02/07/28 01:08 ID:j9LmJj12
>>91-92 経済史で習ったけど、当時の日本は銅や硫黄といった鉱物資源の産出国で、
毎年莫大な量の鉱物が大陸に輸出されていたらしい。
朝鮮からは木綿などが大量に輸入されていたらしく、国産化の必要もなかった。
現在では信じられないことだけど、本当に豊かな資源国だったんだね。
「大蔵経」も版木製作の手間を考えれば、朝鮮から輸入した方が遥かにコスト安
だったんだろう。でも、上の書き込みを読む限り、「強奪」のイメージも少々・・
94 :
:02/07/28 01:23 ID:tvt+lLbL
>>88 > また、朝鮮も中国の属国であると同時に、日本の属国であった。
ソース有る??
95 :
れすれす:02/07/28 04:38 ID:YcqzTpyt
>>93 そうれすね。日本も昔は資源国・・・シクシク。
当時の両国の献上品にもその特徴がみられますね。
日本・・・扇子、槍、刀剣、漆器木椀、盆類の工芸品、練緯絹、銅、赤銅、
生脳、胡椒、甘草、丹木、沈香、象。
李氏・・・黒細麻布、白細苧布、綿(糸由)、花度類、人参、松子、清蜜、斜皮、
虎、クロテン。高麗大蔵経、その他の仏典印本。
李氏は生脳や硫黄といった工業製品を強く求め、日本は経典をもとめますた。
またこの時期に琉球の貿易が拡大したこともあり、東南アジアの物産も日本に入ってくるようになりますた。
献上した物では胡椒、甘草、丹木、沈香、象などがそれにあたいまふ。
貿易の利益の恩恵をうける宗家や大友家からも献上品がおくられ、硫黄、犀角なども送られていました。
珍しいものでは宗家が孔雀を送ったほか、幕府が象を献上していまふ。
象を献じたのは義持で1411年のことれす。
余談になりますが「太宗実録」によれば前工曹典書・李璃が醜いという理由でこの象につばを吐きかけたところ
象が怒り、李璃を踏み殺すという事件がおきていまふ。
明・・・・・ドクター・ヘル
琉球・・・・ブロッケン伯爵
李氏朝鮮・・あしゅら男爵
室町幕府・・ゴーゴン大公
97 :
:02/07/28 15:10 ID:7ANdBAwT
98 :
とむ: