徹底検証 花郎の正体

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144花郎って:02/01/29 00:03 ID:BVKbQ0Q6
 女郎に言葉が似ているから,オカマってこと?
145ななし:02/01/29 13:40 ID:WNEH3hYL
身も蓋もない呼び名だな(藁>尻童
146ななしふたたび:02/01/31 21:01 ID:EKGxa4IG
 あーげー
147名無しさん:02/01/31 21:23 ID:MKJmaaAq
ホモクサイ。
148名無しさん:02/02/05 22:40 ID:2nz9FBRY
WHRDAのゲストブックに書き込んだら速攻で消された。
149名無しさん:02/02/06 22:03 ID:KQY+Ur6E
hwarangdo.com の説明には、竹旨郎は最も勇敢な花郎の一人、なんて書いてあ
るんだけど、金庾信に従って統一に貢献したというだけで、そういう話は出て
きません。

竹旨郎というのは述宗公の子供なんだけど、この名前にまた仏教臭い由来があ
ります。竹旨嶺というところで反乱を抑えていた男がいて、そいつがある日述
宗公の夢の中に出てきたので、探させたら少し前に死んでいた。述宗公は生ま
れてくる子はその男の生まれ変わりだと言って竹旨と名付けた。こいつが花郎
になったなんて書いていません。

前半はその竹旨郎に仕えていた得烏の話。得烏が出仕していたのに急にこなく
なったから、竹旨郎が探したら、捕らえられていた。それからいろいろあって
解放された。それだけ。武人が活躍するわけでも何でもない。

これだけだと花郎との接点が不明です。しいてそれらしいのと言えば「郎徒百
三十七人亦具儀侍從」の郎徒と「朝廷花主聞之」の花主の二つだけです。よく
韓国の説明で、郎徒は花郎に仕える者ってあるけど、普通名詞的に聞こえる。
花主を花郎の主と解釈して本当にいいのか?

最後に得烏が竹旨郎を慕って歌った歌が書いてあるけど、わからないしあまり
関係ないんで省略。
150名無しさん:02/02/06 22:05 ID:KQY+Ur6E
例によって英訳の捏造チェック。

Many years later, during the reign of King Hyoso (692-702), there was
a young man called Siro or Tugosil who was a follower of the noble
Hwarang ("enrolled in the Yellow Book of P'ungnyu").
竹曼郎之徒有得烏(一云谷)級干。隸名於風流黄卷。

どこにも noble Hwarang にあたる言葉がない。

追日仕進。
Siro attended Chukchi-rang every day in order to receive physical and
mental training as a loyal and patriotic Silla soldier.
妄想劇場。

行急未暇告辭於郎。
he had been called away so suddenly that he had not had time to report
to his Hwarang chief.
どこから Hwarang chief なんて出てくるんだ。

卒左人(郷云皆叱知言奴僕也)而行。郎徒百三十七人亦具儀侍從。
departed with his servants and 137 youthful Hwarang in stately
procession.
郎徒が Hwarang になっている。
151名無しさん:02/02/06 22:05 ID:KQY+Ur6E
美郎之重士風味。鄙宣暗塞不通。
He admired Chukchirang for his Hwarang Virtues and devotion to his
subordinates, and despised Iksón's corruption and stubbornness
Hwarang に関係する部分になると勝手に話を作る。

夢見居士入于房中。
a dream in which they saw this same man, in the flower of his youth,
enter their bedroom.
どこから in the flower of his youth なんて涌いてくるんだ?

壯而出仕。與庾信公為副帥。統三韓。
The boy grew into a strong man and joined the Hwarang. He soon became
famous. And people thought that he was an incarnation of Maitreya
Buddha.
原文と全然違うことが書いてある。Hwarang に加わったなんて書いていない。

最後に作者のコメントとして、子供だけでなく大人になっても花郎だった、と
書いてある。でもこいつら本当に花郎なのか?
152名無し@仕事人:02/02/06 22:41 ID:6SxopszV
>子供だけでなく大人になっても花郎だった

つまり、生涯ホモだったと・・・
153名無しさん:02/02/07 20:40 ID:xgYIV6DY
文努と金歆運。三国史記列伝第七巻から。

<金歆運>, <奈密王>八世孫也. 父<達福>?瑗. <歆運>少遊花郎<文努>之門, 時,
徒衆言及某戰死, 留名至今. <歆運>慨然流涕, 有激勵思齊之貌, 同門僧<轉密>
曰: [此人若赴敵, 必不還也.] <永徽>六年, <太宗>大王憤<百濟>與<高句麗>梗
邊, 謀伐之. 及出師, 以<歆運>為郎幢大監. 於是, 不宿於家, 風梳雨沐, 與士
卒同甘苦. 抵<百濟>之地, 營<陽山>下, 欲進攻<助川城>, <百濟>人乘夜疾驅,
黎明縁壘而入, 我軍驚駭顛沛, 不能定. 賊因亂急撃, 飛矢雨集. <歆運>横馬握?
待敵, 大舍<詮知>説曰: [今賊起暗中, 咫尺不相辨. 公雖死, 人無識者. ?公<
新羅>之貴骨, 大王之半子, 若死賊人手, 則<百濟>所誇?, 而吾人之所深羞者矣.]
<歆運> 曰: [大丈夫既以身許國, 人知之與不如一也, 豈敢求名乎?] 強立不動.
從者握摧勸還, <歆運>拔劍揮之, 與賊鬪殺數人而死. 於是, 大監<穢破>・少
監<狄得>相與戰死, 歩騎幢主<寶用那>聞<歆運>死, 曰: [彼骨貴而勢榮, 人所
愛惜, 而猶守節以死, ?<寶用那>生而無益, 死而無損乎?] 遂赴敵, 殺三數人而
死. 大王聞之傷慟, 贈<歆運>・<穢破>位一吉瑗, <寶用那>・<狄得>位大奈麻.
時人聞之, 作<陽山歌>以傷之.

論曰: <羅>人患無以知人, 欲使類聚塋遊, 以觀其行義然後擧用之. 遂取美貌男
子, ?飾之, 名花郎以奉之. 徒衆雲集, 或相磨以道義, 或相悦以歌楽, 遊娯山
水, 無遠不至. 因此知其邪正, 擇而薦之於朝. 故<大問>曰: [賢佐・忠臣從此
而秀, 良將・勇卒由是而生者.] 此也. 三代花郎, 無慮二百餘人, 而芳名美事,
具如傳記. 若<歆運>者, 亦郎徒也. 能致命於王事, 可謂不辱其名者也.
154名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/12 21:25 ID:c3Gonydy
花郎age
155名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/19 23:19 ID:2J0lIds0
age!!
156名無しさん:02/02/20 18:32 ID:g+bg8z2f
金歆運は幼い頃花郎文努の門下にいた。「文努」の名前が出てくるのはここ
だけ。「花郎」の文字が見えるのもこの一箇所だけ。「花郎金歆運」とは書
いていない。

hwarangdo.com の英訳は <歆運>少遊花郎<文努>之門 の部分を
Whenever his comrades in Hwarang Munno's group mentioned the undying
fame of a comrade who had perished in battle,
と後の文章とくっつけて、「少」を無視しています。サイト運営者は直前で大
人になっても花郎のままだったと言いたいから、都合が悪いのでしょうか。

その時同門の某が戦士して、名声を今に至るまで留めている。歆運は涙を流
して悲しんだ。同門の僧が言うには「こいつ戦に行ったら生きてかえってこん
だろう」

永徽六年百済と高句麗が新羅に攻めてきたんで、討伐することになった。金歆
運は将軍に任命された。百済に侵入して陽山で泊まっていると百済の兵の夜襲
を受けた。歆運はとめる従者を振り切って突撃し、数人を殺して死んだ。
王は悲しみ位を上げ、人々は「陽山歌」を作った。

永徽六年は西暦でいうと655年らしいけど、生年が分らないんで当時金歆運が
何歳だったか分りません。無駄死にする理由もさっぱり分からないし、戦いと
花郎との関連性もうかがえません。

このあとに続くのが「論曰」と三国史記作者の感想。内容的には新羅本紀
(>>9) のとほとんど同じ。花郎が良將・勇卒を輩出したと言うだけで、花郎自
体が良將・勇卒の集まりだったとは書いていない。
157名無しさん:02/02/21 22:38 ID:THJuPJMs
次は官昌。有名です。三国史記列伝第七から。

<官昌>(一云<官状>), <新羅>將軍<品日>之子. 儀表都雅, 少而爲花郎, 善與人
交. 年十六, 能騎馬彎弓. 大監某薦之<太宗>大王. 至<唐><顯慶>五年庚申, 王
出師, 與<唐>將軍侵<百濟>, 以<官昌>爲副將. 至<黄山>之野, 兩兵相對. 父<
品日>謂曰: [爾雖幼年, 有志氣, 今日, 是立功名取富貴之時, 其可無勇乎?] <
官昌>曰: [唯.] 即上馬横槍, 直?敵陣, 馳殺數人. 而彼衆我寡, 爲賊所虜, 生
致<百濟>元帥<階伯>前. <階伯>?脱胄, 愛其少且勇, 不忍加害. 乃嘆曰: [<新
羅> 多奇士, 少年尚如此, ?壯士乎?] 乃許生還. <官昌>曰: [向, 吾入賊中,
不能斬將?旗, 深所恨也. 再入, 必能成功.] 以手堯井水, 飮訖, 再突賊陣疾鬪.
<階佰>擒斬首, 繋馬鞍送之. <品日>執其首, 袖拭血, 曰: [吾兒面目如生, 能
死於王事, 無所悔矣.] 三軍見之, 慷慨有立志, 鼓?進撃, <百濟>大敗. 大王贈
位級瑗, 以禮葬之, 賻其家唐絹三十匹・二十升布三十匹・穀一百石.
158 :02/03/02 02:45 ID:JBVuT9Ps
サルベージあげ
159名無しさん:02/03/02 14:13 ID:H5eSxXU1
官昌は容姿が優れており、幼くして花郎になった。十六歳にして馬術と弓術が
できた。官昌は新羅が唐と連合して百済を攻める時、副将に任命された。父親
に「今こそ手柄を立てる時だ」と言われて突っ込んだものの、功を焦って敵に
捕まり捕虜になった。が、百済の将軍は、こんな若いのを殺せん、といって官
昌を解放した。しかし官昌は「今度こそ敵将を殺してやる」と再突入し、今度
は首を切られた。首は馬の輿に括り付けられ送り返された。父親は「名誉を守
り、王のために死んだのだから、悔いるところなし」と言い、軍は奮い立って
百済を破り、王は官昌の位をあげた。

官昌も生没年がわからないので、何歳の時戦にでたのか、その時も花郎だった
のか不明です。今度もろくに成果をあげていないのに称えられています。

ちなみに文中に出てくる顯慶というのは、唐の元号です。
160名無しさん:02/03/02 14:13 ID:H5eSxXU1
次は長春郎と罷郎。こいつらはマイナーなようです。
三国遺事第1巻の最後から。

  長春郎  罷郎(一作羆)

初與百濟兵戰於黄山之役。長春郎罷郎死於陣中。後討百濟時。見夢於太宗曰。
臣等昔者為國亡身。至於白骨。庶欲完護邦國。故隨從軍行無怠而已。然迫於唐
帥定方之威。逐於人後爾。願王加我以小勢。大王驚怪之。為二魂説經一日於牟
山亭。又為創壯義寺於漢山州。以資冥援
http://www.buddhist-canon.com/history/T490971c.htm
161ぽっぽ:02/03/04 20:22 ID:VvwsfoA2
オカマ剣士age
162名無しさん:02/03/05 18:07 ID:YUnTw4DC
本文に「花郎」の文字が一度も出てこないので、何でこいつらが花郎扱いされ
ているのかわかりません。

長春郎と罷郎は昔百済との戦いで戦死したんだけど、百済を討つ時新羅王太宗
の夢に出てきて言った。「わしらは国のために死んで骨になっちゃったけど国
を守りたいと思っている。だから軍に引っ付いて来たが、唐の将軍に邪魔され
てる。小勢を加えて欲しい」と。王は驚き怪しみ、二人の霊のために説経し、
寺を建てた。

続いていつものように英訳と比較。

長春郎罷郎死於陣中。
two Hwarang named Changch'un-nang and P'arang were killed.
勝手に「花郎」にされています。もしかして名前に「郎」がついていれば
自動的に花郎認定されるのでしょうか?

大王驚怪之。
The King was deeply moved by their patriotic spirit even in death.
勝手に話をふくらましています。
163名無しさん:02/03/05 18:08 ID:YUnTw4DC
次は金令胤。武将ですが、いつものようにちらっと花郎になったと書いてあるだけです。
三国史記列伝から。

<金令胤>, <沙梁>人, 級瑗<盤屈>之子. 祖<欽春>(或云<欽純>)角干, <眞平王>
時爲花郎, 仁深信厚, 能得衆心. 及壯, <文武>大王陟爲?宰. 事上以忠, 臨民
以恕, 國人翕然稱爲賢相. <太宗>大王七年庚申, <唐><高宗>命大將軍<蘇定方>
伐<百濟>. <欽春>受王命, 與將軍<庾信>等, 率精兵五萬以應之. 秋七月, 至<
黄山>之原, 値<百濟>將軍<階伯>戰, 不利. <欽春>召子<盤屈>曰: [爲臣莫若忠,
爲子莫若孝, 見危致命, 忠孝兩全.] <盤屈>曰: [唯.] 乃入賊陣, 力戰死. <令
胤>生長世家, 以名節自許. <神文>大王時, <高句麗>殘賊<悉伏>, 以<報徳城>
叛. 王命討之, 以<令胤>爲黄衿誓幢歩騎監. 將行, 謂人曰: [吾此行也, 不使
宗族朋友, 聞其?聲.] 及見<悉伏>, 出<?岑城>南七里, 結陳以待之. 或告曰:
[今此凶黨, 譬如檠?幕上, 魚戯鼎中. 出萬死以爭一日之命耳. 語曰{窮寇勿迫},
宜左次以待疲極而撃之, 可不血刃而擒也.] 諸將然其言暫退, 獨<令胤>不肯之
而欲戰. 從者告曰: [今, 諸將豈盡偸生之人, 惜死之輩哉? 而以向者之言爲然
者, 將俟其隙而得其便者也. 而子獨直前, 其不可乎?] <令胤>曰: [臨陣無勇,
禮經之所識, 有進無退, 士卒之常分也. 丈夫臨事自決, 何必從衆?] 遂赴敵陣,
格鬪而死. 王聞之, 悽慟流涕曰: [無是父無是子, 其義烈可嘉者也.] 追贈爵賞
尤厚.
164???R???l:02/03/05 18:27 ID:vYuH+8cE
花郎があるのは分かったんだけど「花郎道」っていうのはどうなの?
hwarangdoって言って海外に宣伝しまくりなんだけど・・・
165名無しさん:02/03/05 18:33 ID:RAyu5wo7
青年団(若衆宿)のこと?
166 :02/03/05 19:07 ID:7H1JFpIw
>>164
登録商標まで取ってるみたいね。
167名無しさん:02/03/06 20:27 ID:zoFGMcbB
>>164
合気道をベースにした武術らしいです。
rec.martial-arts でたまに取り上げられてる。
中には花郎の正体を知っている人がいて、必死に反論する韓国人と言い争っていたりする。

ttp://www.hwarangdo.com/Links.htm
これをみると世界各地に支部があるみたい。当然プロパガンダも行なわれているでしょう。


>>141 の慕竹旨郎歌の和訳をみつけました。
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou5.html
ソースは 「朝鮮文学史」金 思【火華】,趙 演鉉・著,昭和46,北望社
信頼できるかわかりませんが、転載します。

ゆく春を送り,その方今は亡く我れ哭き憂う.いつくしみ賜わりしこの身,ゆ
めあやまちぞおかすまじと,心して行かむ.束の間に,再び郎に逢うべけれ.
郎よ,恋うる心に,我がゆく道は,ああ,蓬茂き小路の,まどろむ夜も無きぞ
かし.

男が男に対して歌ったことを思うと非常にキモイんですが。
168 :02/03/06 20:43 ID:9SJNin9h
>12
おお、そうゆうのもあるんだ。
韓国のHPならそんなのあっても載せないと思ってたよ。
169あげ:02/03/14 22:25 ID:xekqqodR
170 :02/03/15 13:36 ID:JGc6u2WY
花朗っておかまスパイみたいなのじゃない?
女を他国に召しあげさせる中に暗殺者を数人交ぜていた。とか
171名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/15 16:11 ID:iKCV/hzi
>>165
>青年団(若衆宿)のこと?
それに近いと思う。
同性の未婚者どうしで集まって、共に学んだり遊んだりする組織なんでしょう。
花郎の場合はそうした交流を通じて、相互の精神的(時には肉体的)な紐帯が
育まれた面が強いと。

武士道云々というのは、花郎が貴族の子弟らの集団だから、
後にはその中から武官となり活躍した者もいるというだけの話であって、
花郎そのものに戦士的性格があったわけではない。

勝手にまとめちゃうと、こんな感じ?
172 :02/03/15 17:31 ID:0UtqyZFy
似てるかなあ?

若衆制 ーーー 若衆組、若者組、若連中等とも呼ばれ、時に若衆宿、あるいは単に『やど』とも
よばれた。村落における若衆制は、ポリネシア、メラネシア、インドネシアなど太平洋諸島全円に
広く存在しているもので中国、朝鮮には存在しない。若衆達はムラの祭礼を執行する一方、自分の
集落の娘たちについては自分たちで彼女らを支配していると思っていた。一種の神聖意識というべ
き感覚で、他村の若衆がムラに忍んでくるのを許さなかった。かれらは、夜中、気に入ったムラの
娘の家の雨戸を開け、ひそかに通じる。一人の娘に複数の若衆が通(かよ)ってくる場合がしばし
ばあったが、もし彼女が妊娠した場合、娘の側に、父親はだれだと指名する権利があった。娘に名
指しされれば、たとえ出来心であっても若衆は決して逃げることをせず、これと結婚した。生まれ
た子が、ときに他の若衆の顔に似ていることもあったが、問題がおこることはなかった。その集落
で生まれた子は共同体の子だという気分があって、そういう気分も、たぶんに血縁集団である集落
結束の暗黙の要素になっていたようである。この制は、明治以後大いにすたれた。若衆組に加入
(やど入り、組入り、若者入り)するのは十五歳前後で、妻帯すると、ふつう脱会する。加入の時
は、ムラのオトナ制に属する人の紹介が要る。加入には儀式があり、上座に若衆頭が着座し、左右
に世話役がすわり、ついで年齢順に、若衆達が居並ぶなかで、さまざまな宣誓をする。加入すれば、
夜は宿で仲間とともに寝るのである。
ーーー 司馬遼太郎著 - この国のかたち・ - 、文藝春秋
173 :02/03/15 20:38 ID:LAIFywJP
悔しいけれどお前に夢中 花郎道 花郎道♪
174名無しさん:02/03/16 18:49 ID:p4rs8BNv
三代登場するのでまずは系図を確認
欽春--盤屈--令胤

金令胤は眞平王の治世 (579-632) に花郎になった。
文武王の治世 (661-681) に宰相になった。
太宗王7年 (660)、唐の高宗 (649-683) の命令で百済を討伐することになった。
令胤の祖父金欽春は、王の命令を受け、金庾信らと精兵5千を率いて応じた。
秋、百済との戦うが不利だ。
欽春が息子盤屈を呼んで忠孝の大切さを説いた。
盤屈はそうだと言い、敵陣に突入して戦死した。
令胤は名家に生また。
神文王の治世 (681-692) に、高句麗の残賊悉伏が謀反を起こしたので、令胤は王に討伐を命令された。
令胤は出かける時人にこう言った。「宗族朋友に悪評を聞かせられん」
当地に着くとある者が言った。「今敵を捕まえるのは難しいが、慌てず騒がず待って相手を疲れさせれば
不要な戦いをせずにすむ。」
諸将は肯き一時的に退こうとしたが、令胤だけは戦おうとした。
従者はいさめたが、令胤は言った。
「有進無退が兵士の心得である。丈夫なら事にあたって自らの意思で決断する。付きの者などいらん。」
そして敵陣に突っ込み戦死した。
王はこれを聞いて涙を流し、褒め称え、賞を与えた。


今回は年代の絞込みにつかえそうな情報がいくつかあります。
眞平王の治世 (579-632) に花郎になった。
文武王の治世 (661-681) に宰相になった。
神文王の治世 (681-692) に反乱を討伐。

花郎になってから宰相になるまで少なくとも29年あります。
反乱討伐時となると完全に老人です。
その後の行動と花郎だったことが何の関係があるのか不明。
175名無しさん:02/03/16 23:00 ID:p4rs8BNv
次は短い。三国遺事から。

世謂安常為俊永郎徒。不之審也。永郎之徒。唯真才繁完等知名。皆亦不測人也(詳見別傳)
http://www.buddhist-canon.com/history/T490993a.htm

名前に「郎」が付くと花郎認定されるようです。
例によって英訳には勝手に Hwarang の文字が挿入されています。
内容としては安常が俊永郎の門下にいたのかわかんねーと言っているだけ。

ようやくこれでだいたい半分ぐらいかな。
176名無しさん:02/03/17 16:55 ID:pUkD80fj
夫禮郎

三国遺事 柏栗寺 の途中から。

天授三年壬辰九月七日。孝昭王奉大玄薩喰之子夫禮郎為國仙。珠履千徒。
親安常尤甚。天授四年(□長壽二年)癸巳暮春之月。領徒遊金蘭。到北溟之境。
被狄賊所掠而去。門客皆失措而還。獨安常追跡之。是三月十一日也。大王聞之。
驚駭不勝曰。先君得神笛傳于朕躬。今與玄琴藏在内庫。困何國仙忽為賊俘。為
之奈何(琴笛事具載別傳)時有瑞雲覆天尊庫。王又震懼使檢之。庫?失琴笛二寶。
乃曰。朕何不予。昨失國仙。又亡琴笛。乃囚司庫吏金貞高等五人。四月。募於
國曰。得琴笛者賞之一歳租。五月十五日郎二親就柏栗寺大悲像前禋祈累夕。忽
香卓上得琴笛二寶。而郎常二人來到於像後。二親顛喜。問其所由來。郎曰。予
自被掠為彼國大都仇羅家之牧子。放牧於大烏羅尼野(一本作都仇家奴牧於大磨
之野)忽有一僧容儀端正。手攜琴笛來慰曰。憶桑梓乎。予不覺跪于前曰。眷戀
君親。何論其極。僧曰。然則宜從我來。遂率至海壖。又與安常會。乃批笛為兩
分。與二人各乘一隻。自乘其琴。泛泛歸來。俄然至此矣。於是具事馳聞。王大
驚使迎。郎隨琴笛入内。施鑄金銀五器二副各重五十兩。摩衲袈裟五領。大綃三千
匹。田一萬頃納於寺。用答慈庥焉。大赦國内。賜人爵三級。復民租三年。主寺僧
移住奉聖。封郎為大角干(羅之冡宰爵名)父大玄阿喰。為大大角干。
母龍寶夫人為沙梁部鏡井宮主。安常師為大統。司庫五人皆免。賜爵各五級。

http://www.buddhist-canon.com/history/T490992c.htm
177名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/22 22:56 ID:IE16v7pM
あげ
178 :02/03/30 04:43 ID:7F58DzwD
179 :02/04/05 19:53 ID:t5SjWAOT
サルベージ
180こっぱー君:02/04/05 19:54 ID:QrcILaaK
フラワーボーイ マンセー!
181  :02/04/13 09:19 ID:O3vh9Pcv
で、結論は「花郎は男娼集団で二丁目のオカマ並みに怒ると暴れる場合がある」
ですね。
182探しています:02/04/16 05:50 ID:asVDxob9
『花郎世紀』という本をちょっと読んでみたいのですが。
webcatで検索すると九州大学に所蔵されているらしいのですが、ちょっとそこまで行くのも躊躇します。
売っている古書店か或いは関東近辺で所蔵している機関をご存知の方、ご教示いただけますれば幸いです。
あっ、同書が偽書ではないかとも議論になっていることは重々承知です。
183 :02/04/16 06:11 ID:JESTY21z
神田古書店連盟のデ−タベ−スが落ちてる・・・・

ここで検索したけどないですね。
http://www.jcross.com/usedbkcrs/usedbkaddr.html
184  :02/04/16 21:05 ID:mUbCvif/
>>182
近くの図書館で取り寄せてもらいましょう。
185 :02/04/18 10:24 ID:4d7bKHos
>>182
>花郎世紀 / 金大問著 ; 李泰吉譯<カロウ セイキ>. -- (BN11528961)
>釜山 : 民族文化, 1989.7
>122, 32p ; 24cm
>注記: 付: 『花郎世紀』影印 ; ***記述は遡及データによる
>著者標目: 金, 大問<キン, ダイモン> ; 李, 泰吉<リ, タイキチ>

金大問、李泰吉の『花郎世紀』はハングル訳だけどいいのかな?連中の訳なんぞ信用できないが。
大和書房HPから日本語訳をオンライン購入できるようだ。

http://www.daiwashobo.co.jp/books/ISBN4-479-87065-2.html
http://www.daiwashobo.co.jp/books/ISBN4-479-87066-0.html
金大問撰『花郎世紀』(上) 弘中芳男
金大問撰『花郎世紀』(下) 弘中芳男
ttp://lovely.millto.net/~seikakudou/main/faran/f-list.html
韓 李泰吉・訳 花郎世紀 民族文化 7月 1989
日 弘中芳男 金大問撰『花郎世紀』試訳』 古代文化を考える 20号 1989
186 :02/04/21 17:19 ID:OIlz+GWO
参考にしてちょ。

韓国のシャーマニズム 社会人類学的研究
崔吉城著
弘文堂
P.137

この地方 (引用注: 東海岸地方) では巫堂というのは主に巫女を指しており、男巫は「両中」[yangjung] または「花郎」[hwarang] と呼ばれている。


韓国のシャーマン
国文社
崔吉城著、福留範昭訳
P.157

南部地方では世襲のムーダンの夫として、巫楽の伴奏をする男たちを花郎と呼ぶ。

花郎とは、本来、新羅初期の貴族の青少年集団であり、団体生活をしながら文武の修行をし、
五戒 (君には忠、親には孝、友には信、戦いでは退くことを知らず、殺生は択ぶ) の
精神の下に勇猛な戦士集団として三国統一の原動力になった。統一をなしえた新羅の花郎集団は
山川に遊び、歌舞し、花鳥風月を愛でるただの青年貴族集団に変わってしまった。
ただし、新羅の花郎が歌舞をよくし、山川や戦闘では神懸りして神と一体となったという点にムーダンとの共通点を見出すことができる。
187  :02/04/21 21:00 ID:hdeXnlpD
>>186
韓国人は、まだ花郎に夢みてるのか?
188182:02/04/26 01:28 ID:p0gXpAb6
どうもありがとうございました! 自分、質問書きこむ前にぐぐるとかで一応検索したんですが気がつきませんでした。
さっそく当たってみます。本当にありがとうございました。九州まで行かなくて済むといいなあ。
189 :02/04/30 01:14 ID:/IKIRnXz
救済 age
190 :02/05/05 06:34 ID:Oz0wlwW4
 保守AGE
191日本史板から出張:02/05/10 16:49 ID:e3/dyNoW
>>188
「花郎世紀」なら季刊『邪馬台国』のバックナンバーに全文載ってるよ
梓書院に問い合わせて取り寄せたらいいじゃん
192これは:02/05/13 00:44 ID:mxfeNu4m
剣道スレと姉妹
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あげ