徹底検証 花郎の正体

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1名無しさん
侍精神を日本に先駆けて養っていたとも、
テコンドーの練習をしていたとも言われる花郎。
その実態を原典を通じて明らかにしていきましょう。
2 :01/12/23 00:22 ID:R/PlG1Yz
いまはそれどころじゃないよ
3名無しさん:01/12/23 00:23 ID:GtwxKAaK
解釈

花郎徒 - The Hwarang Warriors (英語)
http://www.hwarangdo.com/hwarang.htm

花郎と尚武精神
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/hwarang.htm

新羅の花郎 - いろんな書籍の抜粋
http://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou.html
4名無しさん:01/12/23 00:24 ID:GtwxKAaK
原典

三国史記、三国遺事、海東高僧伝の三つです。
そのうち、三国遺事の原文はネット上で公開されています。

三国遺事 (簡体中文)
http://www.buddhist-canon.com/history/T49N2039.htm

以前三国史記の原文も見つけてローカルに保存したんだけど、
もとのページを見失ったんで、
だれか代わりのページを教えてくれるとありがたい。
海東高僧伝の原文はまだ見ていません。
5食道楽:01/12/23 00:25 ID:9pai/gHb
名スレの予感。でも今は不審船で忙しい方が多いから
何日か待ったほうがいいと思います。
6たけぞー ◆KsF5FhaI :01/12/23 00:30 ID:mEK9ov1h
って言うか、「花郎」も「テコンドー」も壁画がソースじゃ無かった?
ただのロールシャッハ-テストだと思われ・・・
7   :01/12/23 00:39 ID:1GF9MMe4
女だったんだろ
8おいらん :01/12/23 00:45 ID:yARCA8Vd
花魁
9名無しさん:01/12/23 00:51 ID:GtwxKAaK
>>5
ぼちぼち進めます。

花郎の成立

まず三国史記から

新羅本記
眞興王
三十七年 春, 始奉[源花]. 初, 君臣病無以知人, 欲使類聚群遊, 以觀其行義,
然後擧而用之. 遂簡美女二人, 一曰<南毛>, 一曰<俊貞>. 聚徒三百餘人, 二女
爭娟相妬. <俊貞>引<南毛>於私第, 強勸酒至醉, 曳而投河水以殺之. <俊貞>伏
誅, 徒人失和罷散.
其後, 更取美貌男子, 粧飾之, 名[花郎]以奉之. 徒衆雲集, 或相磨以道義, 或
相磨以歌樂, 遊娯山水, 無遠不至. 因此知其人邪正, 擇其善者, 薦之於朝.
故<金大問>《花郎世記》曰: {賢佐忠臣, 從此而秀. 良將勇卒, 由是而生.}
<崔致遠>《鸞郎碑序》曰: {國有玄妙之道, 曰風流. 設教之源, 備詳仙史, 實
乃包含三教, 接化群生. 且如入則孝於家, 出則忠於國, <魯><司寇> 之旨
也. 處無爲之事, 行不言之教, <周><柱史>之宗也. 諸惡莫作, 諸善奉行, <竺
乾>太子之化也.}
<唐><令狐澄>《新羅國記》曰: {擇貴人子弟之美者, 傳粉粧飾之, 名曰花郎,
國人皆尊事之也.}
10名無しさん:01/12/23 01:12 ID:GtwxKAaK
* もともとは源花といって女だった。リーダーは俊貞と南毛という美女だった
 が、嫉妬から俊貞が南毛を殺し、俊貞も死刑になって源花は潰れた。
* その後美貌の貴族の子弟に化粧をして、花郎とした。
* だいたい花郎という名前からしてそうだが、化粧をしたり、歌や音楽と、全
 然戦士らしくない。花郎から良将勇卒が出たというが、花郎が軍事訓練をし
 ていたとは書いていない。
* いろいろ引用しているが、そのうちの一つが「花郎世紀」。80年代になって
 突然発見されたが、偽物の可能性が高い。
11花太郎:01/12/23 02:54 ID:KS+zgV5D
ttp://210.183.32.153/english/tns/school/gumdo/bs02db9_05c.asx

花郎精神が海を渡り日本武士道の基盤になったのは紛れも無い事実です。
徹底検証なんて止めてください。
12名無し@諸行無常:01/12/23 03:58 ID:HoHwH0QN
シン・ボンニョン教授の韓国史を新しく見ること] 花郎と尚武精神
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/hwarang.htm
東亜日報。ちょっと韓国を見直した記事。
ダメな奴がたまにいいことするとスゲー評価されるみたいな感じで。
13 :01/12/23 05:32 ID:JwuOkJpj
確かに他人の解釈でなく原典で見ておく必要はあるね。
といっても原典を読み解く力はないなあ。。。
>>12にあるように花郎が一千年の間に朝鮮でどう見られていたかも出来れば知りたい所。
国際新聞に花郎世紀の特集があったけど、今日はサイトが落ちてるみたいだ。

取りあえずアゲ。
14竹埼委長 ◆T/zSkROU :01/12/23 08:46 ID:tCrZD3Ta
三国史記より花郎の記述。

三十七年〔五七六〕春 はじめて源花を奉じた。はじめ君臣たちは人材を見わける
ことができないのを憂い、おおぜいの人たちを集めて遊ばせて その行儀を観察し
てからこれを登用しようとした。ついに美女ふたりを選別したが ひとりは南毛と
いい 他は俊貞といった。仲間が三百余名集まると このふたりの女はその美貌を
争って相嫉妬した。俊貞は南毛を自分の家に誘って むりに酒を勧めて酔わしめ
彼女をひきずって行って河水の中に投じて殺した。そのため俊貞は死刑にされ
彼女の仲間たちは和を失って分散した。
その後 ふたたび美貌の男子を選び 化粧させたり着飾って花郎と名づけて優遇す
ると おおぜいの若者たちが雲のように集まってきた。あるいはたがいに道義を
練磨し あるいはたがいに歌楽をもって楽しんだ。景色のよい山や川を訪ねて遊び
楽しんで 遠くとも行かない所はなかった。これによってそのひととなりの正邪
を知って そのうちからよい者を選んで朝廷に推挙した。それ故 金大門の『花郎
世紀』は「賢い補佐の臣と忠臣がここから育ち 良将と勇卒がここから生まれた」
といっている。崔致遠の『鸞郎碑序文』は「わが国には玄妙な道があり これを
風流という。この教えを設けた源は『仙史』にくわしく述べてあるが 実にこれを
三教を包含したもので多くの民衆に接してこれを教化した。かつ 家にあっては
父母に孝行をつくし 外に出でては国に忠誠をつくすというのが 魯の司寇の趣旨
である。なにもしないことに安んじ 言葉に現れない教えを行うというのが 周の
柱史の宗旨である。もろもろの悪事はしないで もろもろの善行だけを君命にした
がって行うというのが 笠乾太子の教化である」と書いてある。唐の令狐澄の
『新羅国記』は「貴人の子弟で美しい者を選びだして 白粉をつけ飾りたてて 名
づけて花郎といい この国の人たちはみな尊敬している」といっている。安弘法師
が隋に行って仏法を修め 隋の僧 眦摩羅など ふたりの僧たちとともに帰ってきて
稜伽勝鬘経と仏舎利を王に献上した。
15>:01/12/23 09:00 ID:noJ+WHoO
要するに「花郎」とは現在のホストかニューハーフなんだろ。

これが武士かよ(藁

お釜だな。完全に。  いかにも朝鮮らしい
16 :01/12/23 09:25 ID:WECji2Rs
17名無しさん:01/12/23 15:09 ID:GtwxKAaK
さて、ここで hwarangdo.com に掲載されている英訳と比較してみます。
訳注的に括弧で入っている説明を除けば、大体原文通りなんだけど、
一箇所気になる訳があります。

原文: 設教之源, 備詳仙史

翻訳: The origins of the institution are detailed in the history of
 the Hwarang.

仙史 = the history of Hwarang
で本当に構わないのでしょうか?
18名無しさん:01/12/23 15:13 ID:GtwxKAaK
今度は三国遺事。

第二十四真興王。姓金氏。名?宗一作深?宗。以梁大同六年庚申即位。慕伯父法
興之志。一心奉佛。廣興佛寺。度人為僧尼。又天性風味多尚神仙。擇人家娘子
美艶者。捧為原花要。聚徒選士。教之以孝悌忠信。亦理國之大要也。乃取南毛
娘[山*交]貞娘兩花。聚徒三四百人。[山*交]貞者嫉妬毛娘。多置酒飲毛娘。至
醉潛舁去北川中。舉石埋殺之。其徒罔知去處。悲泣而散。有人知其謀者。作歌
誘街巷小童唱於街。其徒聞之。尋得其尸於北川中。乃殺[山*交]貞娘。於是大
王下令。廢原花累年。

※ JIS にない漢字が大分混じっています。

源花に関する部分です。三国史記と同じ事を三国史記より詳しく記述していま
す。
19名無しさん:01/12/23 15:20 ID:GtwxKAaK
続いて hwarando.com の訳と比較。やはり気になる訳があります。

又天性風味多尚神仙。擇人家娘子美艶者。捧為原花要。聚徒選士。教之以孝悌
忠信。亦理國之大要也。

Endowed with grace, he respected the hwarang and made beautiful girls
Wónhwa. His purport was to select persons of character and teach them
filial piety, brotherly love, loyalty, and sincerity - the substance
of governing the country.

「神仙」の訳語が hwarang になっています。

ó はソウルのソ、またはコムドのコにあたる母音だけど、化けずに表示
されるんでしょうか?
20名無しさん:01/12/23 15:27 ID:GtwxKAaK
三国遺事の続きです。

王又念欲興邦國須先風月道。更下令選良家男子有徳行者。改為花娘。始奉薛原
郎為國仙。此花郎國仙之始。故豎碑於溟州。自此使人悛惡更善。上敬下順。五
常六藝。三師六正。廣行於代(國史。真智王大建八年庚申始奉花郎。恐史傳乃
誤)及真智王代。

英訳との比較。

王又念欲興邦國須先風月道。
After many years, he thought it best for the health of the country to
establish the way of the Hwarang

風月道 = Hwarang?
何でもかんでも Hwarang と訳した Peter H. Lee って一体誰なんでしょうか?
21名無しさん:01/12/23 15:31 ID:GtwxKAaK
更下令選良家男子有徳行者。改為花娘。
and ordered a selection of virtuous youths from good families to be
its members.

シン・ボンニョン教授の言う「花娘」(当時の発音でファニャンらしい) がこ
こに出てきます。英訳は、「花郎」ではなく、「花娘」となっているのを無視
しています。とはいえ「花娘」が出てくるのはこれ一回みたいだし、男子を
「花娘」にしたって書いてあるからよく分からんのだけど。

始奉薛原郎為國仙。此花郎國仙之始。
At first, knight Sórwón was made Hwarang (Kuksón) - this is the
beginning of the Hwarang institution.

國仙 = Hwarang (Kuksón)
花郎國仙 = the Hwarang institution

この訳は正しいのでしょうか。

knight Sórwón とあるけど、原文には knight にあたる言葉があり
ません。両者を比較すると英訳から「郎」が消えているけど、まさか
郎 = knight じゃないよね?

この辺りから、花郎が武士だったことにしようという強引な解釈が始まってい
るような気がします。
22 :01/12/23 16:13 ID:bTywyQKR
花郎のことは全くの素人でようわからんけど、武力行使を生業とする
集団に”花”なんて漢字を使うかな・・・とは思うんです。思いっきり弱そう。
23ななち:01/12/23 21:15 ID:qyoMFi9i
「韓国併合への道」 / 呉善花
-------------------------------------
ここで多くを語ることは出来ないが、私は彼らが開化独立を旗印に
結束したところに、新羅時代の花郎精神の伝統を感じるのである。
新羅では上級貴族の師弟で十五、六歳の男子を指導者として花郎と
称し、その下に数百人から千人の青少年達が結集して花郎徒という
集団をつくっていた。彼らは学問・芸術・武芸を磨いて肉体と精神を
鍛え、戦時には勇敢な戦士集団として活躍した。
24ななち:01/12/23 21:15 ID:qyoMFi9i
花郎は戦場では常に先頭に立って戦い、けっしてひるむことがなかったと
いう。儀のため国家のためには自らの命を捧げることをいとわず、
友のために命を捧げることも清く美しい行為とされた。日本の武士道精神に
近いものと言える。
花郎精神は新羅時代以後、儒教、仏教、道教などの影響を受けて独自の発展をとげ、
現代韓国の軍人教育にもこの花郎精神が流れている。
文人主義の国韓国では、大学生は社会の期待を一心に背負った誇るべきエリート集団として
尊重されてきた。戦後、韓国の学生運動には確かに「暴走」があったかもしれないが、
彼ら学生戦士達の意識のそこにも花郎精神が流れていたことは、私の体験からも確かな
ように思える。
彼ら独立党が日本に大きく惹かれたのは、彼らの花郎精神が日本の武士道精神と共鳴
するところがあったからかもしれない。
-------------------------------------
>>3のリンク先を見るに、呉善花さんのこれはトンデモ?
「日本の武士道精神に近いものと言える。」ってなぁ。
25竹埼委長 ◆T/zSkROU :01/12/23 21:21 ID:yh7Pw/n7
三国遺事に花郎の記述ってどこにあるんですか?
見だし教えて。今度見てみるから。それにしても遺事
は高いな。9800円だね。
26774-3:01/12/23 21:26 ID:PnNu/Dq2
>>22
 多種多様な装備を持つと言う意味で「花」を使うことは、あったようですが、これは中国で
すし、同じく中国の花架拳というものもありますが・・・。
27 :01/12/23 21:41 ID:xnKJ/Mpr
というか、制度としての花郎って新羅だけ?
1000年前に途絶えた風習をいきなり復活させても
ちょっと問題あるんじゃないか?
ただでさえ高句麗以後の朝鮮ってまるで別の国に
なっちゃってるし。
28=22 :01/12/23 23:16 ID:gqeLvN81
>26
そうなんですか。「花」って何だか女性的なイメージが強いもので・・・。
勉強になります。
29>:01/12/23 23:21 ID:6Mc3X+5w
なるほど、だから朝鮮人は男同士でも手をつないで歩くんだな(藁
30名無しさん:01/12/23 23:22 ID:o6fcrquH
支那では、
「華」は男の名前に使う。
「花」は女の名前に使う。
らしい。
31名無し:01/12/23 23:26 ID:nVWseOcl
つーか、花郎って、ホモ集団だったて話し聞いたことあるんだけど(w
字ヅラからは、そっちのほうが合ってるような・・・
32っd:01/12/23 23:26 ID:Lyq4bopY
オカマ軍団じゃねえか
33名無しさん:01/12/23 23:30 ID:o6fcrquH
>>14
>崔致遠の『鸞郎碑序文』は「わが国には玄妙な道があり これを風流という。
これはオカマの事だな。
まぁ、オカマはオカマでもハードゲイの可能性は・・・・・ないな(笑)。
34名無し:01/12/23 23:38 ID:nVWseOcl
ああ、最初の方に説明が書いてあるね。
つまり、美少年に化粧して着飾らせて、
一緒に歌って踊ってさらに「道義」とやらを
楽しむのが、花郎ということだな。
どのへんが、もののふなんだ?(w
35 :01/12/23 23:43 ID:gqeLvN81
・・・野郎歌舞伎みたいなものかなあ?

平安時代の近衛府の役人も踊ってたような気がするけど、
何か、何かが違う世界だよね、説明読む限りでは>花郎
36名無し:01/12/23 23:46 ID:nVWseOcl
野郎歌舞伎というよりは、もっとはっきり、
「陰間茶屋」という気がします(w
37名無しさん:01/12/23 23:47 ID:7BCMbokq
日本の貴族や武士でも衆道はあったから、それに似たものが組織化
された感じのものだと思えばいいのでわ
38=35 :01/12/23 23:47 ID:gqeLvN81
違う、若衆歌舞伎の方か。間違えました。
39名無しさん:01/12/23 23:50 ID:GtwxKAaK
>>13
他人の解釈以前に、原文の韓国語や英語への翻訳の時点で既にあやしいですね。

>>25
すいません、今度からネット上の原文にリンクします。

第三巻
「彌勒仙花  末尸郎  真慈師」
http://www.buddhist-canon.com/history/T490994c.htm
40アホチョン:01/12/23 23:52 ID:thLOYyjk
チョン、あっち行け!
41名無し:01/12/23 23:54 ID:nVWseOcl
組織化されるのは頂けないなあ・・・(w
もしかして、女は戦場に連れて行けないからってんで
「従軍慰安夫」?(w
しかし、日本でも高坂弾正が「受け」のホモだったっていうからなあ・・・
42=35 :01/12/23 23:55 ID:gqeLvN81
>36
そんな、直接的な(w

日本もこれ系に関しては人の事はいえないかも。
つか、過去レスよむ限りじゃ、武に長けた人材を登用する基準じゃ
無いような気が。何のための選抜なんだろう。
43名無しさん:01/12/23 23:56 ID:GtwxKAaK
海東高僧伝の原文を見つけました。やっぱりネットって便利ですねぇ。
http://www.buddhist-canon.com/history/T50N2065.htm

海東高僧伝の花郎の起源に関する文章は三国遺事とほとんど同じです。
http://www.buddhist-canon.com/history/T501019c.htm
海東高僧伝独自の情報はこれぐらい。

此蓋王化之方便也。自原郎至羅末。凡二百餘人。其中四仙最賢。
This was a way to facilitate the king's government. According to the
(Hwarang) Segi, from Wonhwa to the end of Silla there were more than
200 knights, of whom the "Four Knights" were the wisest. (Namsókhaeng
(or Namnang), Sullang, Yóngnang, and An Sang)

「四仙」が Four Knights と訳されています。もちろん「仙」に騎士なんて意
味はありません。「四仙」について調べてみると...

四仙舞 - 韓国の宮庭舞踊
ttp://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=83697
新羅の時から伝える舞踊で四仙, すなわち永郎・述郎・安祥・南石行が秀麗な
山水を捜し回って学問科心を磨いた中 金剛山の舞仙台に上がって踊った踊り
だと言う.

つまり、四仙とは、永郎 (Yóngnang)、述郎 (Sullang)、安祥 (An Sang)、
南石行 (Namsókhaeng) の四人で、金剛山で踊っていたそうです。
生年没年不明で、どの王の治世で活動していたのかも分からないようです。
こんな連中を Knights と呼ぶのはほとんど詐欺じゃないですか。
44名無し:01/12/23 23:58 ID:nVWseOcl
>何のための選抜なんだろう。

「従軍慰安夫」を「強制連行」するための選抜でしょう(w
45名無しさん:01/12/24 00:09 ID:i1zmYv2v
海東高僧伝の別の個所。「花郎」と「男色」の字が見えます。自力では意味が
とれないんで解釈希望。

贊曰。風俗之於人大矣哉。王者欲移易。於當世如水之就下。沛然孰禦哉。始真
興既崇像教。設花郎之遊。國人樂從倣效。如趨寶肆。如登春臺。要其歸在乎遷
善徙義。鴻漸於大道而已。彼漢哀帝徒以色是愛。故班固曰。柔曼之傾人意。非
特女徒。蓋亦有男色焉。評之不可同日而語矣
http://www.buddhist-canon.com/history/T501020a.htm
46 :01/12/24 00:12 ID:NQDvvBPh
>43
はー、まー、つまりは、宮内庁雅楽部の皆さんを「武士です」といってるような
ものですかね。
・・・・なんでじゃーーーー!!!(怒
ほとんど詐欺、じゃなくて、大ウソツキっていうんですよこういうの。

>44
ご先祖(w を見習って、ベトナムでもそうすればよかったのに。
47 :01/12/24 00:27 ID:f1KC1e7w
>>23-24
呉善花はねえ、花郎の詳細は判然としていないと自書に書いてるのに
花郎を武士道精神に見立てて、あれが続いていればなあといった
願望が滲み出てしまう感じがままあるね。
48名無しさん:01/12/24 00:28 ID:71vxw5Ox
坊主と男色は切っても切れない。>>45
日本にゲイ道を持ち込んだのは弘法大師という伝説もある。

>彼漢哀帝徒以色是愛
漢の哀帝も男色の人だったのかな?・・・で、
故に班固曰く「人の意志を柔曼に傾けるのは女に限るものでは非ず、男色も同様である」
・・・・・・・・・
漢文の勉強もっとしとけばよかった(笑)。
49ななち:01/12/24 11:18 ID:vipWI//5
>>47
ああ、なるほど。
失礼ながら、この記述を読んで一気に呉さんが電波出してるのかと
思ってしまったんですよ、正直。
結構淡々と文章を書くイメージがあったので、この部分の熱の
入りようにもちょっと引いたりして。


秀吉なんか小姓を召さないから家老に心配された、という話もある
らしいし男色は一般的だったんだろうけど、それと花郎と武士道が
似通った物である、なんて話とはかけ離れてますよね。
50竹埼委長 ◆T/zSkROU :01/12/24 11:25 ID:JxNgk1Y/
多分日本人は男色に関しては世界一じゃないかな。
歴史上の多くの人物は男性経験がある(w
51名無し:01/12/24 12:20 ID:Wk3pevFo
聖徳太子も?
52_:01/12/24 12:32 ID:x14+8CXC
>聖徳太子
蘇我入鹿とラブラブだったろう。マンガの話だけど。
53 :01/12/24 12:39 ID:KAfQ8OaN
オカマとか陰間とか言っちゃいかんと思う。あれは近世のもの。
宗教絡みだから――稚児さんのイメージのほうが。化粧してるしさ。
54  :01/12/24 12:57 ID:a3UXNTfE
>>50
ギリシャもヨーロッパでは有名ですね。
55>:01/12/24 13:38 ID:QlzUBBjQ
韓国では今も男同士で手をつないで歩くのが普通だよ。

たしか、二人の前大統領が逮捕された時、法廷で二人がこっそりと
手を繋いでいたのがニュースになったな(気色悪い)
56 :01/12/24 14:27 ID:l/CKV+dM
>55
あと、飲み会とかで太ももに手を置くよね、よく。
あれもやめて欲しいんだけど。気持ち悪いから。

文化の違いなんだろうけど、異色に感じる。
57名無しさん:01/12/24 17:05 ID:YeIJvPu1
イスラム圏じゃオナニー禁止なもんだから、
抜きたくなったら友達(同性)に頼むんだってさ。
詳しく知っている人いる?
58 :01/12/24 17:32 ID:0N1CYtET
つーか侍の発祥は上皇親衛隊の「北面の武士」が起源だろ。
59名無しさん:01/12/24 21:28 ID:i1zmYv2v
>>23
呉善花さんの言う花郎精神=武士道精神を想定しているのなら、
実際にそのようなものがあったかは別として、
新羅の終わりで完全に断絶しているから、
現代韓国人に花郎精神なんて流れているわけがない。
もしそれがゲイ道なら知らないけど(W
60hail murcler:01/12/24 21:59 ID:1Y29Zvyo
>>56
漏れも太ももに手を置かれたことあるよ。
相手はアラブ系の人だったけど。
漏れに優しくするなっ!って叫びたかったよ…
ファッキン異文化。
61>>60:01/12/24 23:38 ID:nQfu46gt
アラブでは髭をはやしていないのはホモということになってる。
マジで多いぞ。
62名無し:01/12/25 00:15 ID:tQVB0kSJ
呉善花って[時々電波出したくなる]みたいなこと書いてるね。
三つ子の魂百まで?
63名無しさん:01/12/25 00:19 ID:y0ZeY+PQ
hwarangdo.com が花郎だと主張する人物のうち、
南毛、俊貞、薛原郎、四仙は片付けました。後は順番に見ていきます。
まずは斯多含と武官郎から。
斯多含は三国史記の新羅本紀に出てきます。初めて戦士らしい人間が登場します。

真興王二十三年 秋七月 百濟侵掠邊戸 王出師拒之 殺獲一千餘人 九月 加耶叛
王命異斯夫討之 斯多含副之 斯多含領五千騎 先馳入?檀門 立白旗 城中恐懼
不知所爲 異斯夫引兵臨之 一時盡降 論功 斯多含爲最 王賞以良田及所虜二百
口 斯多含三讓 王強之 乃受其生口 放爲良人 田分與戰士 國人美之.

また、列伝第四でも取り上げられています。

<斯多含>, 系出眞骨, <奈密王>七世孫也, 父<仇梨知>級瑗. 本高門華胄, 風標
清秀, 志氣方正. 時人請奉爲花郎, 不得已爲之, 其徒無慮一千人, 盡得其歡心.
<眞興王>命伊瑗<異斯夫>襲<加羅(一作<加耶>)國>. 時<斯多含>年十五六, 請從
軍, 王以幼少不許, 其請勤而志確, 遂命爲貴幢裨將, 其徒從之者亦衆. 及抵其
國界, 請於元帥, 領麾下兵, 先入<?檀梁>(<?檀梁>城門名, <加羅>語謂門爲梁
云), 其國人不意兵猝至, 驚動不能禦, 大兵乘之, 遂滅其國. 喚師還, 王策功
賜<加羅> 人口三百, 受已皆放, 無一留者. 又賜田, 固辭, 王強之, 請賜<閼
川>不毛?地而已. 含始與<武官郎>約爲死友. <武官>病卒, 哭之慟甚, 七日亦
卒, 時年十七歳.
64 :01/12/25 00:47 ID:zO2LiPaH
>>50
タイ?(うろおぼえ)の貴族階級にはその趣味があるそうな。で、日本のスパイは
潜入のため、昔、そういう訓練をしたという・・・。
 「日本の情報機関」リチャード・ディーコン 時事通信社 1983年
65 :01/12/25 00:52 ID:A5NTqUDI
>63
誰か、読み下しプリーズ(;´д`)
漢文勉強しなおそうかな。

>64
結構万国共通なんですかね?日本だけが特殊なのかと思ってたけど。
66名無し:01/12/25 01:53 ID:Fqxkxks5
ホモはゴリラやカモメにもあります。
脊椎動物共通です。
67ななち:01/12/25 14:13 ID:u4+KYP13
>>62
つーか、二十歳過ぎまで反日教育に染まっていた人があそこまで客観的に
日韓関係を考えられるようになったことがもはや奇跡。
呉善花さんなら多少の電波を許容する覚悟で尊敬の念を抱いているよ(w
68名無しさん:01/12/25 20:03 ID:y0ZeY+PQ
大意。

斯多含は真骨 (骨品制という身分制で上から二番目) で、昔の奈密王の子孫だ。
人に請われてやむを得ず花郎になった。従うものが千人もいたが、その心を掴
んでいた。真興王が、加羅を攻めようとした当時、斯多含は十五、六歳。従軍
を願い出るが、最初王は幼いので許さなかった。だが切実で意思が固いのを見
て副将に任命した。斯多含は加羅を強襲して滅ぼし、戦功をあげた。王は褒賞
を与えようとしたが斯多含は拒み、結局不毛の地だけを請うた。斯多含は武官
郎と死友となっていた。その武官が死んだので、嘆き悲しみ七日後に亡くなっ
た。当時十七歳。

新羅が加耶を攻め亡ぼした時、活躍したということらしいです。
当時15,6歳 (数え年?)。17歳で死んだとあるから、やたら若い。
69名無しさん:01/12/25 20:07 ID:y0ZeY+PQ
hwarando.com は三国遺事に書いてあるっていうけど、検索したところ、三国
遺事に「斯多含」の文字は含まれていないようです。
気にせず三国史記と英訳を比較してみます。

王以幼少不許, 其請勤而志確
In view of his youth, the king was reluctant but then consented to do so as
to demonstrate the bravery of the Hwarang youth

また原文にない「花郎」という単語を挿入しています。
斯多含が「花郎魂を見せてやる」と言ったとも、王がそれを望んだとも史記に
は書いていないんですが。願望で話を膨らましているようです。

それに続くサイト作者のコメント。

We see here that the Hwarang movement was not originaly organized to
fight, but when Sadaham demonstrated how effective the young
aristocratic Hwarang could be in motivating the Silla army to fight
this changed. Many of the following stories shows how the Hwarang now
started to fight for their country.

斯多含が花郎だったとは書いてあるだけで、花郎と軍の関係は何も説明されて
いません。
武官郎も花郎扱いされていますが、武官郎は斯多含の死友になったとは書いて
あるだけで、武官郎も花郎だったとは書いていません。
70 :01/12/26 00:57 ID:1ioQlZcr
71 :01/12/26 01:18 ID:1ioQlZcr
72aaa:01/12/26 16:24 ID:PLA8ZyHD
結局、花郎の真相はなんだったのよ?
73な(以下略:01/12/26 16:31 ID:b4DbyYlZ
小姓じゃない?
荒小姓の場合もあるだろうし・・・・・
74名無しさん:01/12/27 00:13 ID:0L39aZOm
>>70
その二番目のページ、こちらの百科事典とまったく同じ文章なんですけど。
かの国には著作権って概念がないんですかね、やっぱり。
ttp://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://kr.encycl.yahoo.com/final.html%3fid%3d172671
75名無しさん:01/12/27 00:51 ID:0L39aZOm
三国遺事に、花郎が教わっていたとある五常六芸とは何か?
hwarando.com の英訳は次の通り。

the five constant ways (goodness, righteousness, decorum, wisdom, and
fidelity), the six arts (etiquette, music, archery, horsemanship,
calligraphy, and mathematics)

五常とは、仁・義・礼・智・信の五つの徳のこと。儒教です。
六芸は、礼・楽・射・御・書・数。古代支那で必須だった技能・教養です。

このうち、「御」の訳が、horsemanship になっています。
horsemanship というと乗馬みたいだけど、「御」は車に乗って馬を操ること
のはずです。少なくとも騎馬を作っていたわけではないでしょう。

ところで、韓国語では山水と算数が同音異義語なんですね。
「数」をMathematicsと訳しているのを見て、一瞬間違いかと思いました。
76名無しさん:01/12/27 00:52 ID:0L39aZOm
さて、花郎がテコンドーをやっていたと主張する連中は何を根拠にしているん
でしょうか?それらしい武術を花郎が教わっていたなんて記述を見つけられま
せんが。


韓国の歴史の最も古い文書である「三国遺事」のような三国の記録文書に多く
散存した記述は、花郎徒がテコンドーの練習を非武装戦闘の学習のための身体
的・軍事的訓練の重要な一部と見なしただけではなく、レクリエーション活動
としても推奨したことを示している。
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/ency1_1.htm
77名無し@仕事人:01/12/27 01:45 ID:JyXEVhVl
つーか、陰間が学んでいた武術がテコンドーだとするなら、
間違い無く,弱そうだ。
78勤王派:01/12/27 09:46 ID:fPK1E3l6
衆道から武士道を引いたもんなんじゃないの → 花郎
79名無しさん:01/12/27 20:31 ID:0L39aZOm
新羅と百済のテコンドー
http://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=730462
特に真興王(24代:534〜576) の時の編制を改編して汎国家的な青少年修養団体
になった花郎たちの武技授業を漏らすことができない. 新羅の武技は花郎徒の
修練技術を代表的に指折る. 彼らは学問を修める一方身体を鍛えて武術の一つ
として手搏を行った. 彼らは儒 ・仏 ・仙思想を土台にしたし, その中でも仏
教の影響をたくさん受けた.
慶州仏国寺の 石窟庵に浮彫になった 金鋼力士 菩薩像がテコンドーの防御姿
勢を取っていることは釈迦の護衛場で力士を表現したのや, 像によって当時花
郎たちに及んだテコンドーの影響がすごく大きかったことで見る.

手搏
二人が取り組んで手で打って相手を倒す競うこと
http://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=96570

これも例によって高麗の壁画が根拠だそうです。新羅への言及はありません。
おまけに手搏は「風俗及び民俗 > 遊び > 韓国遊び」に分類されていたりします。

なお、三国史記、三国遺事、海東高僧伝を検索してみましたが、
「手搏」の文字は現れません。
80 :01/12/27 20:48 ID:u+ftsOZt
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/rekisi.htm
高麗史に出て来る「李義旻(イ・ウイミン)が手搏に長けていた」という
記録を以って、テコンドー側は李義旻が行なったという手搏があたかもテコ
ンドーであったようなそういう文が高麗時代にテコンドーがあったという
証拠として掲げ、テッキョン側はテッキョン側自らこの記録をテッキョンの
歴史として取扱い、他の多くの流派でも同様である。だが、そのどこにも
李義旻が行なったという「手搏」という武術がどんな形態の武術という記録はない。

高句麗の壁画にしても手搏にしても、韓国の様々な武術団体がそれに
起源を求める。そもそもテコンドーにしてもユードーにしても、それ自体が
捏造された物だから、歴史に関する記述がいい加減になるのは自明なんだけどね。
81 :01/12/27 22:03 ID:UfHNyjs4
>78
それって単なるホモってこと??
82   :01/12/27 22:15 ID:+HUlBjMi
プラトンの「饗宴」の中で登場人物の一人が「最も強い軍隊は愛する少年と共に
戦場に行った者だ、彼は愛する少年に勇敢さを見せるために頑張るだろう」とい
ったような記述が確かにあったな。
83名無しさん:01/12/27 22:38 ID:0L39aZOm
ホモスレッドの皆さんこんばんわ。

hwarangdo.com が次に取り上げているのは「白雲」という奴なんですが、
これはよく分かりません。
三国史記、三国遺事、海東高僧伝には出てきません。
ソースとして挙げている「東国通鑑」「三国史節要」「大東韻府群玉」は
いずれも李朝になってからできた本です。
しかもネット上には転がっていないようです。
だいたい「白雲」なんて仏教的にはありふれた名前なので探しにくい。
それに hwarangdo.com の情報をそのまま信じだとしても、
載っているのは「白雲は14歳の時花郎になった」という記述だけです。
84ななち:01/12/27 22:44 ID:BEPPd1pX
>>83
> ホモスレッドの皆さんこんばんわ。
ホモスレて言うなーヽ(`Д´)ノ

花郎精神=武士道精神とも言えるニダ!!
85 :01/12/28 00:31 ID:xwSSwl56
>83
あ、ども、こんにちは。本邦と朝鮮と世界のホモ事情今昔を論じるスレの住人です。
・・・つか、マジそんな感じになってきてるYO!

同性愛板にこのスレのリンク貼ったらどんな感想をくれるだろうか。
どう考えても、花郎って「そう」だとしか思えん。
86 :01/12/28 03:13 ID:V9bZYWcN
>これを確認するために「写真1」を見よう。これは「三国遺事」の原本中から花郎
に関する部分をコピーしたものである。ところが、ここには我々が教科書で習った
ように花郎が「花郎」ではなく「花娘」と記録されているという事実だ。

例の花郎批判論文の一節だけれど、これはどうなの?
まだ後のお楽しみなのかな?
87名無し:01/12/28 03:25 ID:NzoUF/vh
ファニャ〜ン
88勤王派:01/12/28 10:12 ID:qm/XaX+h
>>84
禿げたこと言ってんじゃねぇぞ、このタコ助!!
どうして、武士道が朝鮮オカマになるんだよ?
「葉隠れ」読んだことあんのか?
舐めたこといってっと、討ち入っちゃうぞ!!!!(藁
89名無し:01/12/28 11:30 ID:XytekVpM
「この世で最も崇高な愛は、壮年の男性の、美少年に対するそれである」
っていったのはソクラテスだったっけ。
90ななち:01/12/28 20:52 ID:Dz1yNibV
>>88
  Λ_Λ
 <=( ´∀`) <朝鮮オカマじゃないニ…と、思うよ。謝罪しる!


「武士道とは、死ぬことと見つけたり」。うーん、カコイイ。
91名無しさん:01/12/28 21:05 ID:LGho3Hee
次は未尸郎。hwarangdo.com は Miri-rang って書いているけど
現代韓国語読みでは Misi-rang だと思う。
三国遺事から。いかにも坊さんが書いているなと思うような話。

有興輪寺僧真慈(一作貞慈也)毎就堂主彌勒像前發原誓言。願我大聖化作花郎。
出現於世。我常親近睟容。奉以□周旋。其誠懇至?之情。日盆彌篤。一夕夢有僧。
謂曰。汝往熊川(今公州)水源寺。得見彌勒仙花也。慈覺而驚喜。尋其寺行十日
程。一歩一禮。及到其寺。門外有一郎。儂纖不爽。盼倩而迎。引入小門。邀致
賓軒。慈且升且揖曰。郎君素昧平昔。何見待殷勤如此。郎曰。我亦京師人也。
見師高蹈遠屆。勞來之爾。俄而出門。不知所在。慈謂偶爾。不甚異之。但與寺
僧敘曩昔之夢興來之之意。且曰。暫寓下榻。欲待彌勒仙花何如。寺僧欺其情蕩
然。而見其懃恪。乃曰。此去南鄰有千山。自古賢哲寓止。多有冥感。盍歸彼居。
慈從之至於山下。山靈變老人出迎曰。到此奚為。答曰。願見彌勒仙花爾。老人
曰。向於水源寺之門外。已見彌勒仙花。更來何求。慈聞即驚汗。驟還本寺。居
月餘。真智王聞之。徴詔問其由。曰郎既自稱京師人。聖不虚言。盍覓城中乎。
慈奉宸旨會徒衆。遍於閭閻間物色求之。有一小郎子。斷紅齊具。眉彩秀麗。靈
妙寺之東北路傍樹下婆娑而遊。慈迓之驚曰。此彌勒仙花也。乃就而問曰。郎家
何在。願聞芳氏。郎答曰。我名未尸。兒孩時爺孃倶沒。未知何姓。於是肩輿而
入見於王。王敬愛之。奉為國仙。其和睦子弟。禮義風教。不類於常。風流耀世
幾七年。忽亡所在。慈哀壞殆甚。然飲沐慈澤。昵承清化。能自悔改。精修為道。
晩年亦不知所終。説者曰。未與彌聲相近。尸與力形相類。乃託其近似而相謎也。
大聖不獨感慈之誠款也。抑有緑于茲土。故比比示現焉。至今國人稱神仙曰彌勒
仙花。凡有媒係於人者曰未尸。皆慈氏之遺風也。路傍樹至今名見郎又俚言似如
樹(一作印如樹)讚曰

  尋芳一歩一瞻風   到處栽培一樣功
  羃地春歸無覓處   誰知頃刻上林紅
http://www.buddhist-canon.com/history/T490995a.htm
92名無しさん:01/12/29 21:07 ID:DbnuU7UL
原文をコピーしてきて化けていた文字は、異字体があればそれに、なければ文
字参照で処理しているので、それでも化けたらすまそ。

白雲のところで触れた、「東国通鑑」や「三国史節要」は、李朝に入ってから
できた本なので、儒教に染まっているようです。
花郎は仏教色が強いんですがどう解釈されているんでしょうか。

しかし「邪論」と「史論」が同音異義語なのには笑ったよ。
ハングルだけで書いてあったらどうやって区別するんでしょう。
93名無しさん:01/12/29 21:11 ID:DbnuU7UL
「彌勒仙花  末尸郎  真慈師」は弥勒菩薩が転生して若者になり、
そいつが国仙になったんだけど、そのうちいなくなったって話。

いい加減な大意。

興輪寺に真慈という坊さんがいて、毎回弥勒像の前で願い事をしていた。弥勒
菩薩よ、花郎に転生してくれと。ずっとそんなことをやっていると、ある晩夢
の中に僧が出てきて、水源寺にいけば弥勒仙花を見られるぞと言った。真慈は
喜んで寺に向かうと、門外に若者が一人いた。少し話をした後若者は門を出て
いなくなった。その後別の僧と相談して、賢人が住んでいるといわれる千山に
行った。麓にいくと山霊が老人に変じて出迎えた。真慈は弥勒仙花が見たいと
行ったが、老人に、既に見たのに何を求めると言われて焦った。
一ヶ月後、話が真智王の耳に入った。真慈が探したところ、霊妙寺の東北にい
た。名を聞くと未尸と答えた。真慈は未尸を連れ帰り王に見せた。王は未尸を
敬愛し国仙にした。子弟と睦まじく、礼儀正しさと教えは例をみなかった。未
尸は七年間教えた後忽然といなくなった。真慈は哀しんだ。悔い改めて道に専
念した。(略)それから国人は神仙を弥勒仙花と、まとめ役を未尸と呼ぶよう
になった。これは皆真慈の遺風だ。(漢詩は分からんので省略)
94名無しさん:01/12/29 21:18 ID:DbnuU7UL
弥勒菩薩が登場します。サンスクリットではマイトレーヤです。
マイトレーヤと言えば、オウムの上祐を思い出して鬱になります。

さて英訳と比較。英文には何故か原文にない文章が挿入されています。

He proved to be outstanding in both wisdom and propriety. He taught
his Hwarang disciples social etiquette, music and song and also gave
them lessons in patriotic behavior, raising the name of Hwarang to its
zenith. After seven years of a brilliant career he disappeared into
the fairyland of Sin-són (land of the spirits), leaving behind the
grieving King and all of the Hwarang.

「愛国的な行動を花郎に教えた」なんて書いていません。
大体「花郎」という字自体、「願我大聖化作花郎」の一回しか出てきません。
「花郎の名声を頂点まで高めた」とも書いていません。
異本があるのか訳者の願望なのかはわかりませんが、
相変わらず花郎に武士らしきところは見えません。

あと気になるのは、「神仙」を Hwarang と訳していること。>>18 もそうでした。
95  :01/12/29 21:47 ID:OfiLrl9a
>>93
日出処の天子の世界ですな。
96はいはい:01/12/29 21:49 ID:tEIUdnjD
>>95
蝦夷何故、、、、!わらわを愛せないのじゃ!!
97名無しさん:01/12/29 22:31 ID:DbnuU7UL
>>86
「花娘」が出てくるのは、三国遺事だけ、それも唐突に一回出てくるだけです。
シン・ボンニョン教授 (「花郎と尚武精神」を書いた人) の著作を評した文章
に、次のようにあるので、学界では誤字だとして切り抜けているようです。

著者は‘三国遺事’にが漢字で‘花郎’ではなく‘花娘’(郎は男,娘は女の意)
に記録されたことに根拠,‘花郎は元々女だった’と主張する.これに対して学
界では “ような ‘三国遺事’でもその次に出る花郎の書き入れ時に‘花郎’
と記録されている点で推して‘花娘’は単純な誤字が明らかだと責めたりした.
ttp://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://www.kukminilbo.co.kr/html/kmview/2001/1204/091838569714151300.html

シン・ボンニョン教授、良い仕事してますね。

それと、「(郎は男,娘は女の意)」と注が入っているということは、
普通の韓国人は「郎」「娘」と漢字で書いてあると
意味が分からないんでしょうか?
こんな連中から「日本人はもっと歴史を勉強しろ」とか言われているのかよ。
おそろしや。
98 :01/12/29 23:04 ID:Bdyn3lUj
          \∧_ヘ
        / \〇ノゝ
       /三√´∀`)<花郎なんかと一緒にされたくないモナー
        U (:::::::::::)
          //三/|三|\
           (__)_)
99 :01/12/29 23:08 ID:NryM78JQ
>>98
うめえ…
100キムチは日本の漬物のパク李:01/12/29 23:44 ID:ovP9HpAh

なにが「花郎精神」だ!千年間、大陸を支配した諸民族を宗主国として隷属し、
 一度も外敵を追い出したことがない世界に例のない意気地なしであり、世界で
 でただ一国だけ、自分の手で独立を勝ち取れなかった負け犬弱虫がなにが「花郎
 精神」だ!臍が茶を沸かすわい!
101双角:01/12/30 00:49 ID:9G0ACXdE
我々が誇る「武士道」は江戸中期から発生した比較的新しい
精神の在り様だと僕は思う(戦国の武士はもっと現実主義者)。

花郎の影響もクソもなく、単に平和な時代の中で、本来の意味を
喪失した「戦士」が自らの生きる意味を問い続けた結果生まれた
生き方だろう。故に、朝鮮人は勘違いしてるが、尚武とか武勇は
武士道の本質ではなく、コテコテの忠臣愛国とも少し違う。

武士道には熱狂的な所は無い。寧ろ、自分達が本来の意味を
無くした遺物である事の寂しさと、戦わずして禄を貰うことによる
世間(藩)に対する遠慮が感じられる。そして、遠慮は人を自然に
正直・淡白にし、勤勉・倹約に駆り立てる。特に下の特徴が際立つ。

・「公」に仕える心。江戸も中期となると、生身の主君に対する
 忠誠ではなく「藩」に対する忠誠に変質している。すると
 盲目的忠誠ではなく、公共心に近いものになる。

・献身的精神。花郎の場合は名を残さんとての自己陶酔が原動力。
 武士の場合は、自らを虚しくした結果自然にそうなる。

結局、武士道精神は、戦争ではなく、明治の近代化に役立った訳だ。
公共心があり、汚職・浪費をせず、献身的に働く人材が揃っていた。
これこそ現代にも通じる美徳でもある。

朝鮮人が興奮する様な、華々しい武勇とかコテコテの忠義は、
武士とは無縁だ。また、そんなもんには真の価値は無い。
また「古いから偉い」という脊髄反射的考え方がそもそも下らん。
無視して良し。
102  :01/12/30 02:06 ID:ru8Uh7Xt
新渡戸稲造著『武士道』
http://www.rakuten.co.jp/kigyoka/379381/419538/420623/
103名無しさん:01/12/30 15:12 ID:MfGEQmWU
次は、居烈郎、実処郎、宝同郎の三人。
日本も登場します。三国遺時から。

  融天師彗星歌  真平王代

第五居烈郎。第六實處郎(一作突處郎)第七寶同郎等三花之徒。欲遊楓岳。有彗
星犯心大星。郎徒疑之。欲罷其行。時天師作歌歌之。星怪即滅。日本兵還國。
反成福慶。大王歡喜。遣郎遊岳焉。歌曰

舊理東尸汀叱 乾達婆矣遊烏隱城叱[月*(夸-大+八)]良望良古 倭理叱軍置來
叱多烽燒邪隱邊也藪耶 三花矣岳音見賜烏尸聞古 月置八切爾數於將來尸波衣
 道尸掃尸星利望良古 彗星也白反也人是有叱多 後句 達阿羅浮去伊叱等邪
 此也友物比所音叱彗叱只有叱故

http://www.buddhist-canon.com/history/T491015a.htm#1015a07
104名無しさん:01/12/30 15:22 ID:MfGEQmWU
第五居烈郎。第六實處郎、第七寶同郎ら三花之徒は、楓岳 [金剛山] に行きた
がった。心大星 (さそり座の中央付近の星) を犯す彗星があった。郎徒はこれ
を疑い、旅行を取りやめようと思った。その時、天師が歌を作って歌った。星
が怪しく、すぐに消える。日本兵は国に帰り、反って慶事となる。王は喜んで
郎を楓岳に遣わした。

この後に続くのは郷歌らしいです。意味不明です。
本文は「日本」で歌は「倭」なのはどうしてでしょうか?
ともかく、日本が新羅を侵していた事が
花郎がらみの文章にも載っているわけですね。
韓国人にこれを見せたらどう思うんでしょうか?

この文に「花郎」は出てきません。代わりに「三花之徒」と書かれています。
まあ花郎のことでしょう。問題は「三花」を Knights と訳していること。
四仙もそうでしたが、全然 Knights じゃない奴を騎士と呼ぶのは
詐欺です。
105名無しさん:01/12/31 16:49 ID:iI108uQ/
次は世俗五戒です。シン・ボンニョン教授が
「花郎と関係がない庶民の青年たちの生活規範」と主張するものです。

最初に韓国の一般的な認識を確認しておきます。

世俗五戒
http://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://kr.encycl.yahoo.com/final.html%3fid%3d92933
円光が隋国で求法から帰国した後, 花郎 貴山と蕭項が尋ねて一生を置いて境
界する金言を請ずると, 円光がこの五戒を与えたと言う. すなわち, 事君以忠・
事親以孝・交友以信・臨戦無退・殺生有択だ. これは後に 花郎道の信条になっ
て 花郎徒が大きく発展して三国統一の基礎を成すようにすることに大きく寄
与した.

ついでに、明石書店が出している韓国歴史教科書の高校編見てきたら、新羅に
触れた個所で「花郎道」と書いてあったけど、これは「花郎徒」の間違いだと
思う。「道」と「徒」は同音だから。
106名無しさん:01/12/31 17:19 ID:iI108uQ/
三国史記 新羅本紀
眞平王
二十四年 遣使大奈麻上軍 入隋進方物 秋八月 百濟來攻阿莫城 王使將士逆戰
大敗之 貴山-蕭項死之

三国史記 列伝第五
<貴山>, <沙梁部>人也, 父<武殷>阿干. <貴山>少與部人<蕭項>爲友. 二人相謂
曰: [我等期與士君子遊, 而不先正心修身, 則恐不免於招辱, ?聞道於賢者之側
乎?] 時, <圓光>法師入<隋>遊學, 還居<加悉寺>, 爲時人所尊禮. 貴山等詣門,
埀衣進告曰: [俗士顓蒙, 無所知識, 願賜一言, 以爲終身之誡.] 法師曰: [佛戒
有菩薩戒, 其別有十, 若等爲人臣子, 恐不能堪. 今有世俗五戒: 一曰事君以忠,
二曰事親以孝, 三曰交友以信, 四曰臨戰無退, 五曰殺生有擇. 若等行之無忽!]
<貴山>等曰: [他則既受命矣, 所謂殺生有擇, 獨未曉也.] 師曰: [六齋日・春
夏月不殺, 是擇時也. 不殺使畜, 謂馬牛鷄犬, 不殺細物, 謂肉不足一?, 是擇
物也. 如此唯其所用, 不求多殺, 此可謂世俗之善戒也.] <貴山>等曰: [自今已
後, 奉以周旋, 不敢失墜.] <眞平王><建福>十九{二十四}年壬戌秋八月, <百濟
> 大發兵, 來圍<阿莫>(一作<英>)城>. 王使將軍波珍干<乾品>・<武梨屈>・<伊
梨伐>・級于<武殷>・<比梨耶>等, 領兵拒之, <貴山>・<蕭項>, 并以少監赴
焉. <百濟> 敗, 退於<泉山>之澤, 伏兵以待之. 我軍進撃, 力困引還. 時<武殷
> 爲殿, 立於軍尾. 伏猝出, 鉤而下之. <貴山>大言曰: [吾嘗聞之師曰{士當軍
無退}, 豈敢奔北乎?] 撃殺賊數十人. 以己馬出父, 與<蕭項>揮戈力鬪. 諸軍
見之奮撃, 横戸 滿野, 匹馬隻輪無反者. <貴山>等金瘡滿身, 半路而卒. 王與
塋臣迎於<阿那>之野, 臨尸痛哭, 以禮殯葬, 追賜位<貴山>奈麻, <蕭項>大舍.
107名無しさん:01/12/31 17:20 ID:iI108uQ/
三国遺事から。
http://www.buddhist-canon.com/history/T491002c.htm
又三國史列傳云。賢士貴山者沙梁部人也。與同里帚項為友。二人相謂曰。我等
期與士君子遊。而不先正心持身。則恐不免於招辱。盍問道於賢者之側乎。時聞
圓光法師入隋回。寓止嘉瑟岬(或作加西。又嘉栖。皆方言也。岬俗云古尸。故
或云古尸寺。言岬寺也。今雲門寺東九千歩許有加西峴。或云嘉瑟峴。峴之北洞有寺
基是也)二人詣門進告昌。俗士顓蒙無所知識。願賜一言以為終身之誡。光曰。佛
教有菩薩戒其別有十。若等為人臣子。恐不能堪。今有世俗五戒。一曰。事君以
忠。二曰。事親以孝。三曰。交友有信。四曰。臨戰無退。五曰。殺生有擇。若
行之無忽。貴山等曰。他則既受命矣。所謂殺生有擇特未曉也。光曰。六齋曰春
夏月不殺。是擇時也。不殺使畜。謂馬牛鶏犬。不殺細物。謂肉不足一臠。是擇
物也。此亦唯其所用。不求多殺。此是世俗之善戒也。貴山等曰。自今以後。奉
以周旋。不敢失墜。後二人從軍事。皆有奇功於國家。

海東高僧伝から。
http://www.buddhist-canon.com/history/T501021b.htm
沙梁部.貴山。帚頂。詣門摳衣告曰。俗士顓蒙無所知識。願賜一言。為終身之誡。
師曰有菩薩戒。其別有十。若等為人臣子。恐不能行。今有世俗五戒。一曰事君
以忠。二曰奉親以孝。三曰交友以信。四曰臨戰不退。五曰殺生有擇。若等行之
無忽。貴山曰。他則既受命矣。但不曉殺生有擇。師曰。春夏月及六齋日不殺。
是擇時也。不殺使畜。謂牛馬鶏犬。不殺細物。謂肉不足一臠。是擇物也。過此
雖□所□。但不求多殺。此可謂世俗之善戒。貴山等守而勿墮。
108リトル愚礼@W杯は日本のもの:02/01/02 01:05 ID:Hjkrj+O3
>全然 Knights じゃない奴を騎士と呼ぶのは
詐欺です。

騎士大国フランスの人に聞かせたいなあ。
109 :02/01/02 21:15 ID:SDtkTGPL
応援age!
110名無しさん:02/01/03 14:49 ID:XHMHo0jo
貴山と蕭項が隋帰りの高僧円光に教えを請い、世俗五戒を授かった。後に百済
が新羅に攻めてきた時、新羅は逆に百済を打ち負かした。との時貴山と蕭項は
戦功を挙げて死んだ。という話。

hwarangdo.com は円光法師のエピソードにも触れているけどこちらは省略。貴
山と蕭項の話は、文献三つを持ってきたけど、三国遺事には三国史記の列伝か
らの引用と書いてあったりします。hwarangdo.com の英訳はごちゃまぜ。

原文を見てもらえば分かると思うけど、どこにも貴山と蕭項が花郎だとは書い
ていません。英訳には Hwarang と書いてあります。

賢士貴山者沙梁部人也。與同里帚項為友。
Two Hwarang, Kwisan and Ch'wihang, from Saryang district

自分の都合にあわせて Hwarang という単語を挿入する癖があるようです。
111名無しさん:02/01/03 14:49 ID:XHMHo0jo
世俗五戒について。そもそも「五戒」というのは、仏教の在家信者が守るべき
五つの戒めで、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒」です。何かモー
セの十戒に似ていると思うのは私だけでしょうか?円光法師が作った世俗五戒
は「事君以忠、事親以孝、交友以信、臨戦無退、殺生有択」です。儒教色が強
い感じがします。この中で「臨戦無退」は武士っぽくて利用し甲斐があるので、
世俗五戒と花郎を結び付けたのではないかと思います。

さて、百済軍が新羅の阿莫城を攻撃してきた時、新羅は百済軍を破って進撃し
た。貴山の父親の武殷が追撃の途中、伏兵に襲われて落馬した。この時貴山は
敵を数十人殺して馬を父に差し出した。貴山は蕭項と力を併せて戦い、軍の士
気を高めた。二人とも傷だらけになって途中で死んだ。王は後に鄭重に葬り、
位を授けた。

ということで、世俗五戒と花郎を結び付けたのは、韓国人の願望のようです。
112 :02/01/05 12:44 ID:WHIwsi4U
テコンドー名称の起源は果たして? (2001/05/25)
http://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://www.taekwon.net/korean/webzine/sub_body_01.asp%3fnews_no%3d1271
'画廊と世俗五戒すなわち画廊と常務精神'に対する内容が全然歴史的根拠がないという去る 4月
7日付け東亜日報に載せられた新伏竜教授(建国大政治外交社)の〈韓国史新たに表示〉'画廊と
常務精神' 題下の主張を読んで見れば現在私たちが分かっている歴史記録の歪曲性に驚かざるを得ない.
そんなにきらめき輝いて美しい存在ではなかったしただ画廊という存在があったということを
確認するほどだった. そうするうちに朝鮮戦争が起こると李承晩大統領が青年の愛国心が必要
だと思って, 当時陸軍本部正訓感だったし後で精神文化研究院長を勤めた歴史学者李善根大領
に韓国史で '青年文化'の遺産を掘り出しなさいと指示した.
これによってこの大領が '花郎道研究'(1954)を出版した時火とは一瞬に韓国史で一番偉い青年
文化の遺産で浮び上がった. 彼の主張を借りればこの忠武公, 開化派, 独立協会, 東学革命,
3.1運動がいちめん画廊精神を輝かした人々や事件だったということだ."
"世俗五戒は画廊を扱っている '三国有史' '三国史記' '海東高僧伝' どこにも画廊と世俗五戒
をかかって説明した所がない", "画廊が女性で男性に変わったと言ってそれがすなわち常務精神
のような男性文化に変わったのではなかった", "結局世俗五戒と言う(のは)画廊と無関係な庶民
青年たちの生活規範だった. 世俗五戒が画廊の戒律だったということは李善根の '小説'にでも
出る話だっただけだ."
李承晩による李善根の外れた愛国心が '画廊を武士道で遁甲'一歴史の歪曲が根拠ある事実だと
言う時, これは実に手におえにくい恥辱的事件になるでしょう.
上二つの内容と関連李善根が歴史学者としての過去行績がこれから検証されるべきだろって私た
ちは '韓国史新たに表示'を発表した学者的良心がテコン道界でもたくさん出なければならないと思う.
新伏竜教授! 彼はグンザおこっている日本歴史教科書歪曲性に対して国民的怒りが震動している
時に私たちの武道人たちに覚醒を促すどんなメッセージを伝達しているようだ.
この機会に私たちは 'テコンドー歴史すぐ表示と画廊と常務精神' など士官を検証して直さなけ
ればならないでしょう.
113名無しさん:02/01/05 15:24 ID:Ua4fWfsg
'Hwarang=Taekwondo' Needs Reinterpretation
http://www.taekwon.net/english/new_webzine/sub_body.asp?news_no=839
ホントこのGlobal Taekwondo Networkってサイトも玉石混交だね。

とろこで英語で 'Hwarang=Taekwondo' なんて言い方するの?
'Kumdo=Kendo' とかならわかるけど、花郎とテコンドーを等号で結ぶのって
変な感じがする。
114とにかくチョンとシナは市ね:02/01/05 19:35 ID:b97hMpU8
結局、花郎はなんだかわかんなかった・・・・。
輝いた過去をもてないチョンの、悲しい捏造の産物と考えていいようですね。
115名無しさん:02/01/06 16:20 ID:ODbUd+HG
次は近郎。こいつも武人じゃないですね。
三国史記 列伝第八から。

<劒君>, <仇文>大舍之子, 爲<沙梁宮>舍人. <建福>四十四{九}年丁亥秋八月,
隕霜殺諸穀, 明年春夏大飢, 民賣子而食. 於時, 宮中諸舍人同謀, 盜<唱?倉>
穀分之, <劒君>獨不受. 諸舍人曰: [衆人皆受, 君獨却之, 何也? 若嫌小, 請
更加之.] <劒君>笑曰: [僕編名於<金郎>之徒, 修行於風月之庭, 苟非其義,
雖千金之利, 不動心焉.] 時, <大日>伊瑗之子, 爲花郎號<近郎>, 故云
爾. <劒君>出至<近郎>之門, 舍人等密議不殺此人, 心有漏言, 遂召之. <劒君>
知其謀殺, 辭<近郎>曰: [今日之後, 不復相見.] <郎>問之, <劒君>不言, 再三
問之, 乃崙言其由. <郎>曰: [胡不言於有司?] <劒君>曰: [畏己死, 使衆人入
罪, 情所不忍也.] [然則?逃乎?] 曰: [彼曲我直, 而反自逃, 非丈夫也.] 遂
往. 諸舍人置酒謝之, 密以藥置食, <劒君>知而強食, 乃死. 君子曰: [<劒君>
死非其所, 可謂輕<泰山>於鴻毛者也.]
116名無しさん:02/01/06 17:23 ID:ODbUd+HG
剣君という宮殿の雑用係がいた。秋に霜害が酷く翌年は飢饉になって、人々は
子供を売って食った。同じ舎人どもが穀物をくすねようと共謀したけど、剣君
だけ断った。ばれたら困るので剣君を殺すことにした。剣君は、告げ口もせず、
殺されると分かっていながら宮殿に赴き、毒が入っていると知りながら出され
た酒を飲んで死んだ。

「舎人」の訳が Palace Officer。
下級役人のニュアンスが消えているんじゃないか。

舎人どもに「何故盗んだ食料を受け取らないのか」と聞かれた時の剣君の発言
に近郎が出てきます。

僕編名於<近郎>之徒
I am a student of the Hwarang Kunnang

また勝手に Hwarang を挿入していますね。まあすぐ後に近郎は花郎だって書
いてあるんですが。

時, <大日>伊瑗之子, 爲花郎號<近郎>, 故云爾
At that time the Ich'an's (high rank) son became a Hwarang, which is
why Kóngun spoke like this.

近郎と号したという部分が抜けていますが、まあいいでしょう。

その後剣君と近郎のやりとりがありますが、近郎の発言を表す「郎曰」の郎を
The Knight と訳しています。近郎って剣君と話し合っただけで、他には何も
行動してません。勝手に騎士にするなよ。
117名無しさん:02/01/07 22:02 ID:VlrSv5bm
正月が終わってみると、なかなか続けるのきついな。

次は、金庾信。超大物です。こいつが花郎になったと書いてあったから、韓国
人が花郎に武士道精神を投影したといっても過言ではないでしょう。

新羅が三国を統一し、唐を追い出すのに重要な役割を果した人物です。そのた
めか、三国史記は列伝の第一から第三までが金庾信を扱っています。破格の待
遇です。とにかく長くて、そのため hwarando.com に載っている英訳もまた長
ったらしいんだけど、三国史記で「花郎」について書いているのは始めの方の
一文だけです。

公年十五歳爲花郎, 時人洽然服從, 號<龍華香徒>.

hwarangdo.com の英訳をざっと眺めたところ、作者のコメントとして電波な文
章が挟まっています。

So Silla finally conquered Koguryó in 668 with the assistance of T'ang
China, but T'ang again revealed her ambition to put the Korean
peninsula under her control and again stationed troops in the former
territory of Paekche. Silla had no choice but to engage the Chinese in
battle and "The brave Silla soldiers, inspired by the Hwarang spirit,
hurled back the invaders" (?) (Translation: Samguk Yusa by Ha and
Mintz) and finally, in the sixteenth year of King Munmu's reign (676)
Silla succeeded in driving the Chinese out, unifying the peninsula.

「花郎精神を奮い立たせた勇敢な新羅の兵士たち」なんて書いてあります。
(?) がついてますね。どういうつもりでしょうか?三国遺事の翻訳のような形
になっていますが、こんなに出来事を要約した文章を三国遺事から見つけられ
ません。もちろん「花郎精神」云々は出てきません。
118  :02/01/07 22:11 ID:SxkDh/Ch
結論、武士道の祖形は朝鮮にあった。
119                       :02/01/07 22:14 ID:7hia/Umw
結論、>>118は、文盲。
120  :02/01/07 22:16 ID:SxkDh/Ch
もう諦めなっていくら資料引っ張り出してきても
武士道の起源は朝鮮なんだから
これ以上悪あがきしたって仕方ないでしょ。
121ワラ ◆JX6M57mQ :02/01/07 22:18 ID:3JM1Ds+G
>>120
ソースは?
122                       :02/01/07 22:20 ID:7hia/Umw
資料を出せない、ねつ造さん。
馬鹿に付ける薬はないな。。
あわれ。120.
123名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/10 22:05 ID:xArxr4Ys
age
124 :02/01/10 22:15 ID:9m5f1KNA
これによると花郎は日本の将軍にあたると書いてあるぞ(藁
http://www.martialinfo.com/styles/survey/nameexp.asp?person=Chief%20Master%20Taejoon%20Lee
125名無しさん:02/01/14 20:39 ID:Z+YIg4G8
hwarangdo.com は金庾信の章で、日本書紀まで引用していたりするんで
すが、全然花郎と関係のない話ばかりなので、無視して次いきます。

惠宿と瞿旵 好世郎 です。
今度も武人ではありません。というか普通に hwarangdo.com の英訳を読めば、
花郎が本当に武士なのか疑問に思うんじゃないか。

釋惠宿。沈光於好世郎徒。郎既讓名黄卷。師亦隱居赤善村(今安康縣有赤谷村)
二十餘年。時國仙瞿旵公嘗往其郊。縱獵一日。宿出於道左。攬轡而請曰。庸僧
亦願隨從可乎。公許之。於是縱横馳突。裸袒相先。公既悦。及休勞坐。數炮烹
相餉。宿亦與啖囓。略無忤色。既而進於前曰。今有美鮮於此。益薦之何。公曰
善。宿屏人割其股。寘盤以薦。衣血淋漓。公愕然曰。何至此耶。宿曰。始吾謂
公仁人也。能恕己通物也。故從之爾。今察公所好。唯殺戮之耽。篤害彼自養而
已。豈仁人君子之所為。非吾徒也。遂拂衣而行。公大慚。視其所食盤中。鮮胾
不滅。公甚異之。歸奏於朝。真平王聞之。遣使徴迎。宿示臥婦床而寢。中使陋
焉。返行七八里。逢師於途。問其所從來。曰。城中檀越家赴七日齋。席罷而來
矣。中使以其語達於上。又遣人檢檀越家。其事亦實。未幾宿忽死。村人輿葬於
耳峴(一作刷峴)東。其村人有自峴西來者。逢宿於途中。問其何往。曰。久居此地。
欲遊他方爾。相揖而別。行半許里。躡雲而逝。其人至峴東。見葬者未散。具説其
由。開塚視之。唯芒鞋一隻而已。今安康縣之北有寺名惠宿。乃其所居云。亦有
浮圖焉
126名無し:02/01/16 22:44 ID:ma+mbcYR
本音で言えば朝鮮人がまともになってくれるなら武士道精神をパクっていても黙認するのが
日本の利益だろうね。残念ながら歴史の捏造に励む彼らの姿は武士道とはかけ離れている
のだが。
 この板で暴れる連中に花郎の尚武精神なんてかけらも感じない。池のメダカばっかだし
127名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/17 07:19 ID:xOOdYUZm
ageてきましょ
128 :02/01/17 07:25 ID:wPAtiE3n
>>126
武士道精紳を「パクる」時点でまともじゃないだろ。
129名無しさん:02/01/17 19:41 ID:zPg7WgRr
>>124 同じ文章を hwarangdo.com で見つけた。
ttp://www.hwarangdo.com/hrd1.htm

こっちは文中に適当に漢字とハングルが挿入されている。
130応援あげ:02/01/17 20:57 ID:WStetflf
このスレ、netomoに紹介した方がいいんじゃないか?
131 :02/01/17 22:03 ID:Epo2ON4f
では、彗星歌の大意を述べます。
==
昔より東海岸に「乾達婆(花郎)の遊びし城」をば眺め
「倭軍来たれり」と烽火を上げたる海岸なり。
三人の花郎の観山遊興を聞きて、月も皓々と照り輝く。
道掃く星を眺め、「彗星なり」と申す人あり。
ああ、月はあの下へ昇り行けり。これ、何の彗星があろうぞ。
==
この歌では、以下のことを「錯覚である」と歌っています。
・花郎が遊ぶ城を見て、倭軍が攻めてきたと錯覚して烽火を上げたこと
・三人の花郎の遊覧を聞いて、道案内をする星が彗星であったこと
……で、凶兆である「彗星」が消え、倭軍も去ったことになってます。
132名無し=126:02/01/17 23:08 ID:hFHFCgKz
>128
ウリジナルはともかく武士の徳目を一部でも身につけてくれたらまともに会話ができる
ようになるんじゃないかとおもうんだがな。
 誰かがいってたが韓国人と口論のときには「君は両班の子孫だろう」といえば
急に機嫌がよくなって「そうだったニダ。両班はこんなことで怒ってはいけないニダ」
となるらしい。
 うまくすれば同じような効果が見込めると思うんだがな。
133朝鮮朝顔:02/01/18 07:41 ID:WnCc5ZCj
情けは人のために成らず。
そのような御為倒しが戦後の日本社会の態度であり
このような両国関係の泥沼化を生み出したんじゃないのかな?
134名無しさん:02/01/21 23:32 ID:Dpzv1ZJY
>>131 ありがと。
やっぱりこの花郎も武人じゃないわけだ。
135 :02/01/21 23:36 ID:XciPXCpZ
>御為倒し
 ってなに?
136 :02/01/26 04:28 ID:kdn5SjlQ
"花郎世紀郷歌は操作不可能"(ギムヤングウック教授)
(ソウル=連合ニュース) 金胎息記者 = 真偽論争が熾烈な 「花郎世紀」 筆写本に
載せられた郷歌は操作不可能だという主張が国語国文学界でまた出た.
ソウル市立大国語国文学科ギムヤングウック教授は最近発表した '花郎世紀の真偽
にグァンハンムンボブサゾックな接近-郷歌解読を中心に'という論文で筆写本郷歌
は検討結果 "この程度水準の深層的真似のためには既存郷歌の完全な解読はもちろん
文法的分析水準が 90年代の文法史学者水準に到逹すると可能なこと"と主張した.
こんな主張は仮に郷歌にだけ止むのではなく 「花郎世紀」 筆写本全体に大韓真偽
判別に影響を及ぼすようになるという点で注目されている.
(中略)
この作品がにせ物だか本当だかかかわらず既存国文学界はよく送り出し定価(送出征歌)
と言う郷歌を 8具体で把握したが金教授は 10具体に分析した.
この作品に対して主に文法的把握に力を注いだ金教授はこの郷歌がにせ物である可能性
を二つの, 操作が不可能なわけを五つをそれぞれかかった.
(中略)
彼は引き続きこの郷歌で近代的な文法要素が確認されていることは 「花郎世紀」が初めて
出た以来筆写過程で便改(変改)が成り立ったからだと付け加えた.
http://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=http://kr.dailynews.yahoo.com/headlines/ts/20020125/yonhap/yo2002012551112.html
137 :02/01/26 04:37 ID:Ks3Z7uM+
>>135
おためごかし、と思われます。
138名無しさん:02/01/26 05:28 ID:8QjbpMFL
このスレッド、いつも興味深く見ている。
花郎の検証もしっかりしているし、
古代の半島事情も垣間見られて勉強になる。

応援あげ。
139名無し:02/01/26 06:02 ID:U29bgfeA
「日本の衆道の起源は花郎」....
次の捏造はこれに決定。
140名無しさん:02/01/27 21:07 ID:t+YdXeEX
>>125
恵宿というのはかなりキている坊主で、瞿旵がやって来た時、生き物を
殺せないというので、自分の股の肉を切って食わせようとしたとか、死後に化
けて出たとか、そいういう話です。

釋惠宿。沈光於好世郎徒。
The Monk Hyesuk was formerly a member of the Hwarang Hoserang's group,
"one of the most renowned of the Hwarang of Silla".

惠宿が花郎だとは書いていません。

時國仙瞿旵公嘗往其郊。
One day Lord Kudam, a Hwarang came riding to hunt in the suburb of
Monk Hyesuk's hermitage.

国仙を勝手に Hwarang にかえてしまっています。Lord って書いてあるのを見
て、もしかして Knight は貴族の意味かと思ったけど、それにしても詐欺的で
す。

作者のコメント
Hyesuk knew that Kudam was a Hwarang and thought that he therefore
must be "a benevolent man whose compassion reach to other living
things. Thus I followed you. Now I see that you indulge in butchering
other living beings for your own pleasure. This can hardly be the way
of a benevolent gentleman." This must obviously have been
characteristic for a Hwarang

こういう話を聞くと、普通引くんじゃないの。それなのに、This must
obviously have been characteristic for a Hwarang ときた。
141名無しさん:02/01/27 21:09 ID:t+YdXeEX
次は竹旨郎。三国遺事から。英訳は順番が入れ代わっている感じです。
また郷歌が出てきます。意味不明なんで勘弁して欲しいよ。

http://www.buddhist-canon.com/history/T490973b.htm#0973b22
  孝昭王代  竹旨郎(亦作竹曼亦名智官)

第三十二孝昭王代。竹曼郎之徒有得烏(一云谷)級干。隸名於風流黄卷。追日仕
進。隔旬日不見。郎喚其母。問爾子何在。母曰。幢典牟梁益宣阿干以我子差富
山城倉。直馳去。行急未暇告辭於郎。郎曰。汝子若私事適彼。則不須尋訪。今
以公事進去。須歸享矣。乃以舌餅一合酒一缸。卒左人(郷云皆叱知言奴僕也)而
行。郎徒百三十七人亦具儀侍從。到富山城。問閽人。得鳥失奚在。人曰。今在
益宣田。隨例赴役。郎歸田以所將酒餅饗之。請暇於益宣。將欲偕還。益宣固禁
不許。時有使吏侃珍管收推火郡。能節租三十石輸送城中。美郎之重士風味。鄙
宣暗塞不通。乃以所領三十石贈益宣助請。猶不許。又以珍節舍知騎馬鞍具貽之。
乃許。朝廷花主聞之。遣使取益宣。將洗浴其垢醜。宣逃隱。掠其長子而去。時
仲冬極寒之日。浴洗於城内池中。仍合凍死。大王聞之。敕牟梁里人從官者。並
合黜遣。更不接公署。不著黒衣。若為僧者。不合入鍾鼓寺中。敕史上侃。珍子
孫為枰定戸孫標異之。時[囗@元]測法師是海東高徳。以牟梁里人故不授僧職。初
述宗公為朔州都督使。將歸理所。時三韓兵亂。以騎兵三千護送之。行至竹旨嶺。
有一居士平理其嶺路。公見之歎美。居士亦善公之威勢赫甚。相感於心。公赴州
理。隔一朔。夢見居士入于房中。室家同夢。驚怪左甚。翌日使人同其居士安否。
人曰。居士死有日矣。使來[這-言+不]告其死。與夢同日矣。公曰。殆居士誕於
吾家爾。更發卒修葬於嶺上北峰。造石彌勒一軀。安於塚前。妻氏自夢之日有娠。
既誕。因名竹旨。壯而出仕。與庾信公為副帥。統三韓。真徳太宗文武神文四代
為塚宰。安定厥邦。初得烏谷慕郎而作歌曰

去隱春皆理米 毛冬居叱沙哭屋尸以憂音 阿冬音乃叱好支賜烏隱 貌史年數就
音墮支行齊 目煙迴於尸七史伊衣 逢鳥支惡知作乎下是 郎也慕理尸心未 行
乎尸道尸 蓬次叱巷中宿尸夜音有叱下是
142ウサギ:02/01/28 07:18 ID:B1E3RQBC
>>139
>「日本の衆道の起源は花郎」
 ウサの手許にあるモノの本に、戦国策の龍陽君の故事に触れた後、
「鶏姦と云ふことに付いては異説あり。木村正辞氏の説に(明治八年
洋々社談第三十七号)曰く、鶏是一穴故に男色を謂つて鶏姦と為すと。
 〜中略〜 朝鮮では尻童なる一種の階級がある。」
──ってあるから、花郎が衆道の起源ってのは無理だと思うピョン♪
143さげ:02/01/28 23:48 ID:FmYavxwX
age
144花郎って:02/01/29 00:03 ID:BVKbQ0Q6
 女郎に言葉が似ているから,オカマってこと?
145ななし:02/01/29 13:40 ID:WNEH3hYL
身も蓋もない呼び名だな(藁>尻童
146ななしふたたび:02/01/31 21:01 ID:EKGxa4IG
 あーげー
147名無しさん:02/01/31 21:23 ID:MKJmaaAq
ホモクサイ。
148名無しさん:02/02/05 22:40 ID:2nz9FBRY
WHRDAのゲストブックに書き込んだら速攻で消された。
149名無しさん:02/02/06 22:03 ID:KQY+Ur6E
hwarangdo.com の説明には、竹旨郎は最も勇敢な花郎の一人、なんて書いてあ
るんだけど、金庾信に従って統一に貢献したというだけで、そういう話は出て
きません。

竹旨郎というのは述宗公の子供なんだけど、この名前にまた仏教臭い由来があ
ります。竹旨嶺というところで反乱を抑えていた男がいて、そいつがある日述
宗公の夢の中に出てきたので、探させたら少し前に死んでいた。述宗公は生ま
れてくる子はその男の生まれ変わりだと言って竹旨と名付けた。こいつが花郎
になったなんて書いていません。

前半はその竹旨郎に仕えていた得烏の話。得烏が出仕していたのに急にこなく
なったから、竹旨郎が探したら、捕らえられていた。それからいろいろあって
解放された。それだけ。武人が活躍するわけでも何でもない。

これだけだと花郎との接点が不明です。しいてそれらしいのと言えば「郎徒百
三十七人亦具儀侍從」の郎徒と「朝廷花主聞之」の花主の二つだけです。よく
韓国の説明で、郎徒は花郎に仕える者ってあるけど、普通名詞的に聞こえる。
花主を花郎の主と解釈して本当にいいのか?

最後に得烏が竹旨郎を慕って歌った歌が書いてあるけど、わからないしあまり
関係ないんで省略。
150名無しさん:02/02/06 22:05 ID:KQY+Ur6E
例によって英訳の捏造チェック。

Many years later, during the reign of King Hyoso (692-702), there was
a young man called Siro or Tugosil who was a follower of the noble
Hwarang ("enrolled in the Yellow Book of P'ungnyu").
竹曼郎之徒有得烏(一云谷)級干。隸名於風流黄卷。

どこにも noble Hwarang にあたる言葉がない。

追日仕進。
Siro attended Chukchi-rang every day in order to receive physical and
mental training as a loyal and patriotic Silla soldier.
妄想劇場。

行急未暇告辭於郎。
he had been called away so suddenly that he had not had time to report
to his Hwarang chief.
どこから Hwarang chief なんて出てくるんだ。

卒左人(郷云皆叱知言奴僕也)而行。郎徒百三十七人亦具儀侍從。
departed with his servants and 137 youthful Hwarang in stately
procession.
郎徒が Hwarang になっている。
151名無しさん:02/02/06 22:05 ID:KQY+Ur6E
美郎之重士風味。鄙宣暗塞不通。
He admired Chukchirang for his Hwarang Virtues and devotion to his
subordinates, and despised Iksón's corruption and stubbornness
Hwarang に関係する部分になると勝手に話を作る。

夢見居士入于房中。
a dream in which they saw this same man, in the flower of his youth,
enter their bedroom.
どこから in the flower of his youth なんて涌いてくるんだ?

壯而出仕。與庾信公為副帥。統三韓。
The boy grew into a strong man and joined the Hwarang. He soon became
famous. And people thought that he was an incarnation of Maitreya
Buddha.
原文と全然違うことが書いてある。Hwarang に加わったなんて書いていない。

最後に作者のコメントとして、子供だけでなく大人になっても花郎だった、と
書いてある。でもこいつら本当に花郎なのか?
152名無し@仕事人:02/02/06 22:41 ID:6SxopszV
>子供だけでなく大人になっても花郎だった

つまり、生涯ホモだったと・・・
153名無しさん:02/02/07 20:40 ID:xgYIV6DY
文努と金歆運。三国史記列伝第七巻から。

<金歆運>, <奈密王>八世孫也. 父<達福>?瑗. <歆運>少遊花郎<文努>之門, 時,
徒衆言及某戰死, 留名至今. <歆運>慨然流涕, 有激勵思齊之貌, 同門僧<轉密>
曰: [此人若赴敵, 必不還也.] <永徽>六年, <太宗>大王憤<百濟>與<高句麗>梗
邊, 謀伐之. 及出師, 以<歆運>為郎幢大監. 於是, 不宿於家, 風梳雨沐, 與士
卒同甘苦. 抵<百濟>之地, 營<陽山>下, 欲進攻<助川城>, <百濟>人乘夜疾驅,
黎明縁壘而入, 我軍驚駭顛沛, 不能定. 賊因亂急撃, 飛矢雨集. <歆運>横馬握?
待敵, 大舍<詮知>説曰: [今賊起暗中, 咫尺不相辨. 公雖死, 人無識者. ?公<
新羅>之貴骨, 大王之半子, 若死賊人手, 則<百濟>所誇?, 而吾人之所深羞者矣.]
<歆運> 曰: [大丈夫既以身許國, 人知之與不如一也, 豈敢求名乎?] 強立不動.
從者握摧勸還, <歆運>拔劍揮之, 與賊鬪殺數人而死. 於是, 大監<穢破>・少
監<狄得>相與戰死, 歩騎幢主<寶用那>聞<歆運>死, 曰: [彼骨貴而勢榮, 人所
愛惜, 而猶守節以死, ?<寶用那>生而無益, 死而無損乎?] 遂赴敵, 殺三數人而
死. 大王聞之傷慟, 贈<歆運>・<穢破>位一吉瑗, <寶用那>・<狄得>位大奈麻.
時人聞之, 作<陽山歌>以傷之.

論曰: <羅>人患無以知人, 欲使類聚塋遊, 以觀其行義然後擧用之. 遂取美貌男
子, ?飾之, 名花郎以奉之. 徒衆雲集, 或相磨以道義, 或相悦以歌楽, 遊娯山
水, 無遠不至. 因此知其邪正, 擇而薦之於朝. 故<大問>曰: [賢佐・忠臣從此
而秀, 良將・勇卒由是而生者.] 此也. 三代花郎, 無慮二百餘人, 而芳名美事,
具如傳記. 若<歆運>者, 亦郎徒也. 能致命於王事, 可謂不辱其名者也.
154名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/12 21:25 ID:c3Gonydy
花郎age
155名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/19 23:19 ID:2J0lIds0
age!!
156名無しさん:02/02/20 18:32 ID:g+bg8z2f
金歆運は幼い頃花郎文努の門下にいた。「文努」の名前が出てくるのはここ
だけ。「花郎」の文字が見えるのもこの一箇所だけ。「花郎金歆運」とは書
いていない。

hwarangdo.com の英訳は <歆運>少遊花郎<文努>之門 の部分を
Whenever his comrades in Hwarang Munno's group mentioned the undying
fame of a comrade who had perished in battle,
と後の文章とくっつけて、「少」を無視しています。サイト運営者は直前で大
人になっても花郎のままだったと言いたいから、都合が悪いのでしょうか。

その時同門の某が戦士して、名声を今に至るまで留めている。歆運は涙を流
して悲しんだ。同門の僧が言うには「こいつ戦に行ったら生きてかえってこん
だろう」

永徽六年百済と高句麗が新羅に攻めてきたんで、討伐することになった。金歆
運は将軍に任命された。百済に侵入して陽山で泊まっていると百済の兵の夜襲
を受けた。歆運はとめる従者を振り切って突撃し、数人を殺して死んだ。
王は悲しみ位を上げ、人々は「陽山歌」を作った。

永徽六年は西暦でいうと655年らしいけど、生年が分らないんで当時金歆運が
何歳だったか分りません。無駄死にする理由もさっぱり分からないし、戦いと
花郎との関連性もうかがえません。

このあとに続くのが「論曰」と三国史記作者の感想。内容的には新羅本紀
(>>9) のとほとんど同じ。花郎が良將・勇卒を輩出したと言うだけで、花郎自
体が良將・勇卒の集まりだったとは書いていない。
157名無しさん:02/02/21 22:38 ID:THJuPJMs
次は官昌。有名です。三国史記列伝第七から。

<官昌>(一云<官状>), <新羅>將軍<品日>之子. 儀表都雅, 少而爲花郎, 善與人
交. 年十六, 能騎馬彎弓. 大監某薦之<太宗>大王. 至<唐><顯慶>五年庚申, 王
出師, 與<唐>將軍侵<百濟>, 以<官昌>爲副將. 至<黄山>之野, 兩兵相對. 父<
品日>謂曰: [爾雖幼年, 有志氣, 今日, 是立功名取富貴之時, 其可無勇乎?] <
官昌>曰: [唯.] 即上馬横槍, 直?敵陣, 馳殺數人. 而彼衆我寡, 爲賊所虜, 生
致<百濟>元帥<階伯>前. <階伯>?脱胄, 愛其少且勇, 不忍加害. 乃嘆曰: [<新
羅> 多奇士, 少年尚如此, ?壯士乎?] 乃許生還. <官昌>曰: [向, 吾入賊中,
不能斬將?旗, 深所恨也. 再入, 必能成功.] 以手堯井水, 飮訖, 再突賊陣疾鬪.
<階佰>擒斬首, 繋馬鞍送之. <品日>執其首, 袖拭血, 曰: [吾兒面目如生, 能
死於王事, 無所悔矣.] 三軍見之, 慷慨有立志, 鼓?進撃, <百濟>大敗. 大王贈
位級瑗, 以禮葬之, 賻其家唐絹三十匹・二十升布三十匹・穀一百石.
158 :02/03/02 02:45 ID:JBVuT9Ps
サルベージあげ
159名無しさん:02/03/02 14:13 ID:H5eSxXU1
官昌は容姿が優れており、幼くして花郎になった。十六歳にして馬術と弓術が
できた。官昌は新羅が唐と連合して百済を攻める時、副将に任命された。父親
に「今こそ手柄を立てる時だ」と言われて突っ込んだものの、功を焦って敵に
捕まり捕虜になった。が、百済の将軍は、こんな若いのを殺せん、といって官
昌を解放した。しかし官昌は「今度こそ敵将を殺してやる」と再突入し、今度
は首を切られた。首は馬の輿に括り付けられ送り返された。父親は「名誉を守
り、王のために死んだのだから、悔いるところなし」と言い、軍は奮い立って
百済を破り、王は官昌の位をあげた。

官昌も生没年がわからないので、何歳の時戦にでたのか、その時も花郎だった
のか不明です。今度もろくに成果をあげていないのに称えられています。

ちなみに文中に出てくる顯慶というのは、唐の元号です。
160名無しさん:02/03/02 14:13 ID:H5eSxXU1
次は長春郎と罷郎。こいつらはマイナーなようです。
三国遺事第1巻の最後から。

  長春郎  罷郎(一作羆)

初與百濟兵戰於黄山之役。長春郎罷郎死於陣中。後討百濟時。見夢於太宗曰。
臣等昔者為國亡身。至於白骨。庶欲完護邦國。故隨從軍行無怠而已。然迫於唐
帥定方之威。逐於人後爾。願王加我以小勢。大王驚怪之。為二魂説經一日於牟
山亭。又為創壯義寺於漢山州。以資冥援
http://www.buddhist-canon.com/history/T490971c.htm
161ぽっぽ:02/03/04 20:22 ID:VvwsfoA2
オカマ剣士age
162名無しさん:02/03/05 18:07 ID:YUnTw4DC
本文に「花郎」の文字が一度も出てこないので、何でこいつらが花郎扱いされ
ているのかわかりません。

長春郎と罷郎は昔百済との戦いで戦死したんだけど、百済を討つ時新羅王太宗
の夢に出てきて言った。「わしらは国のために死んで骨になっちゃったけど国
を守りたいと思っている。だから軍に引っ付いて来たが、唐の将軍に邪魔され
てる。小勢を加えて欲しい」と。王は驚き怪しみ、二人の霊のために説経し、
寺を建てた。

続いていつものように英訳と比較。

長春郎罷郎死於陣中。
two Hwarang named Changch'un-nang and P'arang were killed.
勝手に「花郎」にされています。もしかして名前に「郎」がついていれば
自動的に花郎認定されるのでしょうか?

大王驚怪之。
The King was deeply moved by their patriotic spirit even in death.
勝手に話をふくらましています。
163名無しさん:02/03/05 18:08 ID:YUnTw4DC
次は金令胤。武将ですが、いつものようにちらっと花郎になったと書いてあるだけです。
三国史記列伝から。

<金令胤>, <沙梁>人, 級瑗<盤屈>之子. 祖<欽春>(或云<欽純>)角干, <眞平王>
時爲花郎, 仁深信厚, 能得衆心. 及壯, <文武>大王陟爲?宰. 事上以忠, 臨民
以恕, 國人翕然稱爲賢相. <太宗>大王七年庚申, <唐><高宗>命大將軍<蘇定方>
伐<百濟>. <欽春>受王命, 與將軍<庾信>等, 率精兵五萬以應之. 秋七月, 至<
黄山>之原, 値<百濟>將軍<階伯>戰, 不利. <欽春>召子<盤屈>曰: [爲臣莫若忠,
爲子莫若孝, 見危致命, 忠孝兩全.] <盤屈>曰: [唯.] 乃入賊陣, 力戰死. <令
胤>生長世家, 以名節自許. <神文>大王時, <高句麗>殘賊<悉伏>, 以<報徳城>
叛. 王命討之, 以<令胤>爲黄衿誓幢歩騎監. 將行, 謂人曰: [吾此行也, 不使
宗族朋友, 聞其?聲.] 及見<悉伏>, 出<?岑城>南七里, 結陳以待之. 或告曰:
[今此凶黨, 譬如檠?幕上, 魚戯鼎中. 出萬死以爭一日之命耳. 語曰{窮寇勿迫},
宜左次以待疲極而撃之, 可不血刃而擒也.] 諸將然其言暫退, 獨<令胤>不肯之
而欲戰. 從者告曰: [今, 諸將豈盡偸生之人, 惜死之輩哉? 而以向者之言爲然
者, 將俟其隙而得其便者也. 而子獨直前, 其不可乎?] <令胤>曰: [臨陣無勇,
禮經之所識, 有進無退, 士卒之常分也. 丈夫臨事自決, 何必從衆?] 遂赴敵陣,
格鬪而死. 王聞之, 悽慟流涕曰: [無是父無是子, 其義烈可嘉者也.] 追贈爵賞
尤厚.
164???R???l:02/03/05 18:27 ID:vYuH+8cE
花郎があるのは分かったんだけど「花郎道」っていうのはどうなの?
hwarangdoって言って海外に宣伝しまくりなんだけど・・・
165名無しさん:02/03/05 18:33 ID:RAyu5wo7
青年団(若衆宿)のこと?
166 :02/03/05 19:07 ID:7H1JFpIw
>>164
登録商標まで取ってるみたいね。
167名無しさん:02/03/06 20:27 ID:zoFGMcbB
>>164
合気道をベースにした武術らしいです。
rec.martial-arts でたまに取り上げられてる。
中には花郎の正体を知っている人がいて、必死に反論する韓国人と言い争っていたりする。

ttp://www.hwarangdo.com/Links.htm
これをみると世界各地に支部があるみたい。当然プロパガンダも行なわれているでしょう。


>>141 の慕竹旨郎歌の和訳をみつけました。
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~wkmurata/karou5.html
ソースは 「朝鮮文学史」金 思【火華】,趙 演鉉・著,昭和46,北望社
信頼できるかわかりませんが、転載します。

ゆく春を送り,その方今は亡く我れ哭き憂う.いつくしみ賜わりしこの身,ゆ
めあやまちぞおかすまじと,心して行かむ.束の間に,再び郎に逢うべけれ.
郎よ,恋うる心に,我がゆく道は,ああ,蓬茂き小路の,まどろむ夜も無きぞ
かし.

男が男に対して歌ったことを思うと非常にキモイんですが。
168 :02/03/06 20:43 ID:9SJNin9h
>12
おお、そうゆうのもあるんだ。
韓国のHPならそんなのあっても載せないと思ってたよ。
169あげ:02/03/14 22:25 ID:xekqqodR
170 :02/03/15 13:36 ID:JGc6u2WY
花朗っておかまスパイみたいなのじゃない?
女を他国に召しあげさせる中に暗殺者を数人交ぜていた。とか
171名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/15 16:11 ID:iKCV/hzi
>>165
>青年団(若衆宿)のこと?
それに近いと思う。
同性の未婚者どうしで集まって、共に学んだり遊んだりする組織なんでしょう。
花郎の場合はそうした交流を通じて、相互の精神的(時には肉体的)な紐帯が
育まれた面が強いと。

武士道云々というのは、花郎が貴族の子弟らの集団だから、
後にはその中から武官となり活躍した者もいるというだけの話であって、
花郎そのものに戦士的性格があったわけではない。

勝手にまとめちゃうと、こんな感じ?
172 :02/03/15 17:31 ID:0UtqyZFy
似てるかなあ?

若衆制 ーーー 若衆組、若者組、若連中等とも呼ばれ、時に若衆宿、あるいは単に『やど』とも
よばれた。村落における若衆制は、ポリネシア、メラネシア、インドネシアなど太平洋諸島全円に
広く存在しているもので中国、朝鮮には存在しない。若衆達はムラの祭礼を執行する一方、自分の
集落の娘たちについては自分たちで彼女らを支配していると思っていた。一種の神聖意識というべ
き感覚で、他村の若衆がムラに忍んでくるのを許さなかった。かれらは、夜中、気に入ったムラの
娘の家の雨戸を開け、ひそかに通じる。一人の娘に複数の若衆が通(かよ)ってくる場合がしばし
ばあったが、もし彼女が妊娠した場合、娘の側に、父親はだれだと指名する権利があった。娘に名
指しされれば、たとえ出来心であっても若衆は決して逃げることをせず、これと結婚した。生まれ
た子が、ときに他の若衆の顔に似ていることもあったが、問題がおこることはなかった。その集落
で生まれた子は共同体の子だという気分があって、そういう気分も、たぶんに血縁集団である集落
結束の暗黙の要素になっていたようである。この制は、明治以後大いにすたれた。若衆組に加入
(やど入り、組入り、若者入り)するのは十五歳前後で、妻帯すると、ふつう脱会する。加入の時
は、ムラのオトナ制に属する人の紹介が要る。加入には儀式があり、上座に若衆頭が着座し、左右
に世話役がすわり、ついで年齢順に、若衆達が居並ぶなかで、さまざまな宣誓をする。加入すれば、
夜は宿で仲間とともに寝るのである。
ーーー 司馬遼太郎著 - この国のかたち・ - 、文藝春秋
173 :02/03/15 20:38 ID:LAIFywJP
悔しいけれどお前に夢中 花郎道 花郎道♪
174名無しさん:02/03/16 18:49 ID:p4rs8BNv
三代登場するのでまずは系図を確認
欽春--盤屈--令胤

金令胤は眞平王の治世 (579-632) に花郎になった。
文武王の治世 (661-681) に宰相になった。
太宗王7年 (660)、唐の高宗 (649-683) の命令で百済を討伐することになった。
令胤の祖父金欽春は、王の命令を受け、金庾信らと精兵5千を率いて応じた。
秋、百済との戦うが不利だ。
欽春が息子盤屈を呼んで忠孝の大切さを説いた。
盤屈はそうだと言い、敵陣に突入して戦死した。
令胤は名家に生また。
神文王の治世 (681-692) に、高句麗の残賊悉伏が謀反を起こしたので、令胤は王に討伐を命令された。
令胤は出かける時人にこう言った。「宗族朋友に悪評を聞かせられん」
当地に着くとある者が言った。「今敵を捕まえるのは難しいが、慌てず騒がず待って相手を疲れさせれば
不要な戦いをせずにすむ。」
諸将は肯き一時的に退こうとしたが、令胤だけは戦おうとした。
従者はいさめたが、令胤は言った。
「有進無退が兵士の心得である。丈夫なら事にあたって自らの意思で決断する。付きの者などいらん。」
そして敵陣に突っ込み戦死した。
王はこれを聞いて涙を流し、褒め称え、賞を与えた。


今回は年代の絞込みにつかえそうな情報がいくつかあります。
眞平王の治世 (579-632) に花郎になった。
文武王の治世 (661-681) に宰相になった。
神文王の治世 (681-692) に反乱を討伐。

花郎になってから宰相になるまで少なくとも29年あります。
反乱討伐時となると完全に老人です。
その後の行動と花郎だったことが何の関係があるのか不明。
175名無しさん:02/03/16 23:00 ID:p4rs8BNv
次は短い。三国遺事から。

世謂安常為俊永郎徒。不之審也。永郎之徒。唯真才繁完等知名。皆亦不測人也(詳見別傳)
http://www.buddhist-canon.com/history/T490993a.htm

名前に「郎」が付くと花郎認定されるようです。
例によって英訳には勝手に Hwarang の文字が挿入されています。
内容としては安常が俊永郎の門下にいたのかわかんねーと言っているだけ。

ようやくこれでだいたい半分ぐらいかな。
176名無しさん:02/03/17 16:55 ID:pUkD80fj
夫禮郎

三国遺事 柏栗寺 の途中から。

天授三年壬辰九月七日。孝昭王奉大玄薩喰之子夫禮郎為國仙。珠履千徒。
親安常尤甚。天授四年(□長壽二年)癸巳暮春之月。領徒遊金蘭。到北溟之境。
被狄賊所掠而去。門客皆失措而還。獨安常追跡之。是三月十一日也。大王聞之。
驚駭不勝曰。先君得神笛傳于朕躬。今與玄琴藏在内庫。困何國仙忽為賊俘。為
之奈何(琴笛事具載別傳)時有瑞雲覆天尊庫。王又震懼使檢之。庫?失琴笛二寶。
乃曰。朕何不予。昨失國仙。又亡琴笛。乃囚司庫吏金貞高等五人。四月。募於
國曰。得琴笛者賞之一歳租。五月十五日郎二親就柏栗寺大悲像前禋祈累夕。忽
香卓上得琴笛二寶。而郎常二人來到於像後。二親顛喜。問其所由來。郎曰。予
自被掠為彼國大都仇羅家之牧子。放牧於大烏羅尼野(一本作都仇家奴牧於大磨
之野)忽有一僧容儀端正。手攜琴笛來慰曰。憶桑梓乎。予不覺跪于前曰。眷戀
君親。何論其極。僧曰。然則宜從我來。遂率至海壖。又與安常會。乃批笛為兩
分。與二人各乘一隻。自乘其琴。泛泛歸來。俄然至此矣。於是具事馳聞。王大
驚使迎。郎隨琴笛入内。施鑄金銀五器二副各重五十兩。摩衲袈裟五領。大綃三千
匹。田一萬頃納於寺。用答慈庥焉。大赦國内。賜人爵三級。復民租三年。主寺僧
移住奉聖。封郎為大角干(羅之冡宰爵名)父大玄阿喰。為大大角干。
母龍寶夫人為沙梁部鏡井宮主。安常師為大統。司庫五人皆免。賜爵各五級。

http://www.buddhist-canon.com/history/T490992c.htm
177名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/22 22:56 ID:IE16v7pM
あげ
178 :02/03/30 04:43 ID:7F58DzwD
179 :02/04/05 19:53 ID:t5SjWAOT
サルベージ
180こっぱー君:02/04/05 19:54 ID:QrcILaaK
フラワーボーイ マンセー!
181  :02/04/13 09:19 ID:O3vh9Pcv
で、結論は「花郎は男娼集団で二丁目のオカマ並みに怒ると暴れる場合がある」
ですね。
182探しています:02/04/16 05:50 ID:asVDxob9
『花郎世紀』という本をちょっと読んでみたいのですが。
webcatで検索すると九州大学に所蔵されているらしいのですが、ちょっとそこまで行くのも躊躇します。
売っている古書店か或いは関東近辺で所蔵している機関をご存知の方、ご教示いただけますれば幸いです。
あっ、同書が偽書ではないかとも議論になっていることは重々承知です。
183 :02/04/16 06:11 ID:JESTY21z
神田古書店連盟のデ−タベ−スが落ちてる・・・・

ここで検索したけどないですね。
http://www.jcross.com/usedbkcrs/usedbkaddr.html
184  :02/04/16 21:05 ID:mUbCvif/
>>182
近くの図書館で取り寄せてもらいましょう。
185 :02/04/18 10:24 ID:4d7bKHos
>>182
>花郎世紀 / 金大問著 ; 李泰吉譯<カロウ セイキ>. -- (BN11528961)
>釜山 : 民族文化, 1989.7
>122, 32p ; 24cm
>注記: 付: 『花郎世紀』影印 ; ***記述は遡及データによる
>著者標目: 金, 大問<キン, ダイモン> ; 李, 泰吉<リ, タイキチ>

金大問、李泰吉の『花郎世紀』はハングル訳だけどいいのかな?連中の訳なんぞ信用できないが。
大和書房HPから日本語訳をオンライン購入できるようだ。

http://www.daiwashobo.co.jp/books/ISBN4-479-87065-2.html
http://www.daiwashobo.co.jp/books/ISBN4-479-87066-0.html
金大問撰『花郎世紀』(上) 弘中芳男
金大問撰『花郎世紀』(下) 弘中芳男
ttp://lovely.millto.net/~seikakudou/main/faran/f-list.html
韓 李泰吉・訳 花郎世紀 民族文化 7月 1989
日 弘中芳男 金大問撰『花郎世紀』試訳』 古代文化を考える 20号 1989
186 :02/04/21 17:19 ID:OIlz+GWO
参考にしてちょ。

韓国のシャーマニズム 社会人類学的研究
崔吉城著
弘文堂
P.137

この地方 (引用注: 東海岸地方) では巫堂というのは主に巫女を指しており、男巫は「両中」[yangjung] または「花郎」[hwarang] と呼ばれている。


韓国のシャーマン
国文社
崔吉城著、福留範昭訳
P.157

南部地方では世襲のムーダンの夫として、巫楽の伴奏をする男たちを花郎と呼ぶ。

花郎とは、本来、新羅初期の貴族の青少年集団であり、団体生活をしながら文武の修行をし、
五戒 (君には忠、親には孝、友には信、戦いでは退くことを知らず、殺生は択ぶ) の
精神の下に勇猛な戦士集団として三国統一の原動力になった。統一をなしえた新羅の花郎集団は
山川に遊び、歌舞し、花鳥風月を愛でるただの青年貴族集団に変わってしまった。
ただし、新羅の花郎が歌舞をよくし、山川や戦闘では神懸りして神と一体となったという点にムーダンとの共通点を見出すことができる。
187  :02/04/21 21:00 ID:hdeXnlpD
>>186
韓国人は、まだ花郎に夢みてるのか?
188182:02/04/26 01:28 ID:p0gXpAb6
どうもありがとうございました! 自分、質問書きこむ前にぐぐるとかで一応検索したんですが気がつきませんでした。
さっそく当たってみます。本当にありがとうございました。九州まで行かなくて済むといいなあ。
189 :02/04/30 01:14 ID:/IKIRnXz
救済 age
190 :02/05/05 06:34 ID:Oz0wlwW4
 保守AGE
191日本史板から出張:02/05/10 16:49 ID:e3/dyNoW
>>188
「花郎世紀」なら季刊『邪馬台国』のバックナンバーに全文載ってるよ
梓書院に問い合わせて取り寄せたらいいじゃん
192これは:02/05/13 00:44 ID:mxfeNu4m
剣道スレと姉妹
193 
あげ