原作:山岡荘八
脚本:小山内美江子
音楽:冨田勲
徳川家康:滝田栄
織田信長:役所広司
豊臣秀吉:武田鉄矢
本多作左衛門:長門裕之
石川数正:江原真二郎
竹之内波太郎(納屋蕉庵):石坂浩二
随風(天海):竜雷太
松平広忠:近藤正臣
於大:大竹しのぶ
華陽院:八千草薫
瀬名:池上季実子
お愛:竹下景子
お万:東てる美
今川義元:成田三樹夫
太原雪斎:小林桂樹
武田信玄:佐藤慶
武田勝頼:藤堂新二
松平信康:宅麻伸
徳川秀忠:勝野洋
松平忠輝:田中健
北政所:吉行和子
淀君:夏目雅子
石田三成:鹿賀丈史
木の実:紺野美沙子
おみつ:萬田久子
今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
家康「(中山道の)進軍はゆるりとな」
秀忠がsageられないようにしたw
8 :
名乗る程の者ではござらん:2014/09/27(土) 23:00:48.47 ID:h8XNCiSf
秀頼をのぉ・・・ 秀頼を よろしく頼むのぉ・・・
10 :
名乗る程の者ではござらん:2014/09/28(日) 13:48:54.62 ID:A/J68K8r
>>3-4 濃姫:藤真利子
入れて欲しかったな。あの濃姫は歴代濃姫でも上位に入ると思う
これに続くのが、『国盗り物語』の松坂慶子かな
11 :
名乗る程の者ではござらん:2014/09/29(月) 08:25:25.35 ID:UgPczsKJ
役者は言葉でできている/滝田栄−足の裏から、分かりたい。
◆ 映画史・時代劇研究家・春日太一/滝田栄、大河ドラマ
週刊ポスト(2014/10/10), 頁:78
天正2年に家康は信長に内緒で、
義昭の使者と会談し、
徳川武田同盟の話をしていた。
その義昭との関係を切ったのが徳川北条同盟成立による信康殺害
清州同盟は対等同盟だろうね
尾張<三河・遠江・駿河
尾張・三河>遠江・駿河
尾張 vs 駿河 の力関係の中心軸は三河にある
信長にしたら三河を取り込むかどうかで天国と地獄の差がある
徳川の低姿勢従属は単に信長の力が飛躍的に伸びた結果でしょう
金ヶ崎の殿軍
「信長公記」には「4月28日、木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎城に残し・・・」
後日、信長は秀吉の働きに対し黄金30枚を褒美に与えたといいいますので、事実だと思われます。
秀吉は自ら殿を志願したといわれますが、実際は信長は秀吉の他に摂津守護の池田勝正、明智光秀の二名を殿に指名したといいます。
「金ヶ崎の退き口」といえば、秀吉の活躍が大きく喧伝されていますが、最近の研究では「金ヶ先の退き口」の殿軍は池田勝正が主力だったといわれます。彼が率いる摂津勢3000人が参陣しており、それに秀吉と光秀も殿の重責を果たしたようです。
ただ池田勝正、明智光秀はともに没落しており、手柄は秀吉の一人占めというふうになったのではないでしょうか。
なお家康については、「徳川実記」「寛永諸家系図伝」に加わったとなっていますが、一次史料には家康の参加はありません。
15 :
名乗る程の者ではござらん:2014/09/29(月) 19:42:42.71 ID:ZnKd6emL
>>13 今も、人口やGDP等の県勢で見ると、愛知県と他の東海三県(静岡、三重、岐阜)が一緒になってやっと並ぶか少ししたなぐらいだからね。
松平 信康(まつだいら のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪の瀬名(築山殿)。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父広忠同様に岡崎三郎と名乗った。
18 :
名乗る程の者ではござらん:2014/09/30(火) 15:32:12.87 ID:0waJMzoo
>>16 江戸時代に、松平と勝手に変えられたと考えた方が自然。
正室の長男で、信長が娘を娶らせてるくらいなのに、庶子扱いは不自然。
>>18 じゃあwikiを書き換えてみて。
書き換えできないなら貴方を信じない。
20 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/01(水) 08:33:12.39 ID:thVY34Ii
将軍家と尾張・紀伊・水戸の御三家以外は徳川を名乗れないから
松平と変えられたという説があるよね。>信康
本当かどうかわからないけど
史実の年齢では信長が三英傑の中で最年長なのに
実際は役所さんが1番年下
知った時ショックだったな
いやそんなこといえば
於大と広忠だって
史実では14歳と16歳だったし・・・
>>20 その原則でも本家の世子は徳川を名乗れるんだがな。
放送当時、近藤正臣の10代は納得が行くが
滝田さんの10代は無理がある、とか言われたものだw
年下の大竹しのぶを「母上」と呼び、年上の勝野洋から「父上」と呼ばれた滝田栄。
史実ではひとまわり年下のねねを女房に娶った秀吉だが、
ドラマではひとまわり以上年上の吉行和子が女房役だった武田鉄矢。
でも、それを強引に親子や年の差夫婦に見せちゃう演技力
於大は吉永小百合が出演依頼されていた、という噂を放送当時に聞いたことがある
今川氏真がもて遊んで捨てた女を家康は妻に迎えた
今川はいきなり織田の拠点撃破に動かなくても、織田を引きずりだして決戦を挑めばよかったんだよな。一度大打撃を与えた
あとに各個撃破に動けば勝てたんだよ。それを一大決戦をせずにいきなり各個撃破したもんだから、無傷の織田軍が出てきて
今川の弱いところをついただけなんだよな。
今川義元の最期がなぜか描かれていない
31 :
16:2014/10/03(金) 03:30:13.04 ID:???
違った。クレジットでも松平信康だった。
松平信康:田島和典→我妻光弘→宅麻伸 (家康の長男)
33 :
16:2014/10/03(金) 05:46:25.74 ID:???
訂正のそのまた訂正
第13回のクレジットでは徳川信康になっていた
奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。
元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは貞昌の弟の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。
元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。
処刑の前、おふうはこう述べたという。
「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
人は畜生以上に浅ましいものでございます。」
そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。
おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。
おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。
時々「私は貝になりたい」が元ネタでは?
という人がいるけど逆だよね
勝頼ファン(私)にとっては…つらいドラマ
瀬名の妖艶さがたまらん
瀬名で泣いてる唐獅子牡丹
落花有情は名作
本能寺の変
蘭丸「上様、御自らの働きおそれ多し」
伊賀越えでスルーされる穴山梅雪
徳川四天王のうち頻繁に登場するのは本多忠勝だけ。
徳川四天王のうち頻繁に登場するのは本多忠勝だけ。
石川数正の長男(康長)も次男(康勝)も家康に冷遇されている。
二人とも改易。
次男の康勝は大坂の陣で豊臣方について討死。
『徳川家康(NHK大河ドラマ)』で大久保長安を演じていたうだつの上がらなそうな男が後年家康のはまり役になるとは誰も予想できなかった
関ヶ原の戦い
『徳川家康』:秀忠故意遅参
『葵徳川三代』:秀忠遅参
二俣城落城の少し前に、織田信長が徳川家康に援軍を派遣。派遣された武将は諸説が有り、
信長公記 - 佐久間信盛・平手汎秀・水野信元
松平記 - 佐久間信盛・平手汎秀・水野信元・林秀貞
明智軍記 - 佐久間信盛・平手汎秀・林秀貞・滝川一益
総見記 - 佐久間信盛・平手汎秀・林秀貞・毛利秀頼・稲葉良通
『徳川家康』ではなぜか佐久間盛政(柴田勝家の甥)が三方ヶ原に参陣したことになっている
徳川家康は当時としてはあの家康像は斬新だったんだよ
平均視聴率30%越え大河のひとつだし夏目雅子もおるしの名作
「徳川家康」は肝心の家康役の滝田栄が存在感うすすぎていまいちだったなあ。
家康といえばやっぱり、「影武者」の油井氏か。役所の信長はよかったけどね。
やっぱ俺的には「葵」が一番よかったなあ。キャスティングがばっちり。秀忠の西田敏行
はかなりイメージ違うが。
でも「葵」は一般受けしないだろうけどね。視聴率にもでてたけど。
大竹さん老け役を嫌がって早々に姿を消しました。ほんとは関ヶ原のあたりまで登場するはずだったのですが。<於大の方
池上さんは撮影中に火傷してしまい築山殿の祟りかもといわれました。
秀吉が武田さんだったのは脚本家が金八と同じ人だったからです。
濃姫本能寺不在説は平成に入ってから確定したらしい。
それ以前は信長・濃心中シーンはドラマの定番であった。
上品すぎる朝日姫 ×
田舎者ぽい大政所 ○
53 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/04(土) 13:56:26.37 ID:IR753bgL
>>50 金八組
脚本:小山内美江子
秀吉:武田鉄矢
ねね:吉行和子
鳥居強右衛門:上條恒彦
浅野幸長:森田順平
饗庭局:芽島成美
他にもいると思うがとりあえずここまで
54 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/04(土) 14:46:18.15 ID:5xe39gtO
最近の大河はつまんない。
80年代の作品が一番大河らしかったかな?
「徳川綱吉」あたりで、往年の大河復活してほしいもんだ・・・
55 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/04(土) 16:19:21.10 ID:IR753bgL
「元信さま、わらわは良い妻になりまする〜」
「徳殿、わらわを今川の血筋と侮ってか」
「悪いのは殿じゃ。近頃では万のほかにも愛とか申すおなごを近づけておられるとか」
「重政!わらわは自害はせぬぞ!」
「徳川家を呪って、呪って、呪い続けて・・・」
金八大河としてはかなり有名だが、なにげに必殺大河でもある
林与一:仕掛人
石坂浩二:仕留人
近藤洋介:仕留人
渡辺篤史:仕置屋稼業、仕業人、渡し人
大出俊:仕業人
近藤正臣:新・からくり人、剣劇人
伊吹吾郎:仕事人
本田博太郎:仕舞人
津川雅彦:橋掛人
宅麻伸:橋掛人
萬田久子:橋掛人
田中健:剣劇人
滝田栄:激突
必殺メンバーが誰も出てない大河ってこの頃あるのかな?
「徳川家康」は役所の信長は良かったけど
家康が偽善者すぎて萎えた。
それに比べて「葵三代」の家康は最高でした。
「徳川家康」は大河ドラマのリーサルウエポン
信長、秀吉、家康の3英傑全員の生涯が描けて美味し過ぎ
信長が主役だと天下統一間近で逝ってしまい悲劇的なラスト
秀吉が主役だと天下統一後のストーリーが沈滞化しがち
その点家康だと先人二人の死でストーリーの山場を作れ
ラストがそのまま戦国の終焉になりキリが良く終われる
でも、この滝田栄の家康を今、放送してもウケないだろ。
平和主義者すぎるよ。
しかも、「家康と信長と秀吉は希に見る同志」とか、
無茶だろ。
書かれた時代背景とかも考えるべきなのか。
山岡が何らかの思いを平和主義者・偽善者家康に託しているのかもしれない。
あの時代はウケたんだよ、あの家康はさ
葵の家康は悪く言うとすでに手垢にまみれた家康像
山岡は皇国史観がメイン。
家康は勤皇家→よって家康は平和主義者
ということになる。大河では前段が省かれているけどね。
65 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 08:01:07.41 ID:XY4AGdyC
>>60-63 そのことについては何度となく、大河板にも出てきている。
山岡荘八が原作を書いた時代は、戦後・敗戦まもなくの頃。
当時の山岡の心境は、戦中は従軍作家だった山岡が、小説『徳川家康』の1巻あとがきや
『随想徳川家康』に書いたことからも読み取れる。
特攻隊の若者たちを多く見送った山岡の気持ち
「このような形(小説を執筆)でしか諸君の霊を慰めることができなく、
こんな私を許してもらいたい」
小説『徳川家康』は永遠の平和を希求する山岡荘八の想いが詰まっている。
当然、原作そのままに映像化した昭和58年当時のNHKスタッフにも
その想いが受け継がれていたものと思われる。
>>59 山岡の織田信長、太閤記は、徳川家康からの抜粋にちょっと書き足したもの。徳川家康は、信長と秀吉にもかなりページを割いてる。
67 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 08:14:04.39 ID:XY4AGdyC
>>66 原作の9巻は全部といっていいほど、秀吉VS勝家
家康の出番がほとんどないほど・・・
『徳川家康』を読んでいる気がしなかったw
68 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 08:38:28.35 ID:DN2a4Gkp
朝廷にとって、信長、秀吉、家康の誰が一番ましだったかだな。
信長は論外だろうが、秀吉もやりたい放題だったが、それが関白の権限だから干渉と言われなかっただけ。
誤読発見
浅野ユキナガ(正しくはヨシナガ)
淀殿役で夏目雅子が出てきた時は何故か泣けた。
この2年後に死んでしまうんだよなあ。
72 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 09:59:11.45 ID:skQzlZ0e
ツタヤから全部かりて見た感想。
夏目雅子はきれいだった。
>>69 誰が一番まし、どころか全部同じに見えてたかもね
彼らにとっては十把一絡げに「雅を解さぬお人達」だろう
スレちだけど石ノ森の「漫画日本史」で徳川の仕打ちに不満を持つ公家達が庭の雪を眺めて
「東の方がみんな雪に埋もれてしまえばよい」と話し合う一コマが当時の公家達の心境を象徴的に表していると思う
大坂の陣の真田幸村は49歳。
しかし、長年の配流生活で苦労し、実際の見た目はそれ以上に老けていた
という。
現代に伝わるイメージとは違い、実際の幸村は、活躍した時には、かなり
老けた爺さんだったのだ。
髪には白いものが混じり、歯は抜け、風体は年相応ないしはそれ以上
に老け込んでいたと言うね。
まあ、流人として暮らしはなかなか厳しいものがあったと。
ついつい石川数正に騙され、人質交換に応じてしまう氏真様のお姿は優雅そのもの
>>65 同時代性を理解しないといけないのに、それが出来ないのが多すぎるんたわよな
磔になった娘・・・石井めぐみさん、なかなか良かったと思います。
「鬼になりまする〜〜〜」ちょっと泣けた
家康カッコつけすぎ、「蛇の生殺し」
信康切腹は石川(旧今川派)と酒井(織田派)の対立という説もある
>>47 三方ヶ原の戦いでは滝川、平手などが簡単に一蹴され、クソの役にも立たない
援軍として描かれていたな
「甲斐なき織田の方々」
「言うな」
領民に助けるか、殺すかを委ねた家康・・・鋸挽きの刑・・・
81 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 11:14:41.98 ID:XY4AGdyC
>>77 勝頼「そちは死が恐ろしくないのか」
おふう「恐ろしゅうございますが、仕方のないことでござりまする」
勝頼「仕方がない!親の命ゆえ仕方がないと申すのか」
おふう「いえ、子にそうしたことを命じなければならない親はもっと哀れ」
勝頼「そこまで覚悟ができてるなら、なにも申すまい。
この世になにか申し残すことはないか」
おふう「おふうは、この次この世に生まれてくる時は畜生に生まれとうございます」
勝頼「なにっ!なぜじゃ」
おふう「畜生は鳥でも獣でも正直に生きてゆきます。
でも人間はだまし合わねば生きられませぬ。
人間は畜生以上に浅ましゅうございます」
磔処刑時
おふう「おふうはやっとなにになるかわかりました。
おふうは鬼になりまする。・・・鬼になるぞ、鬼に鬼に鬼になるぞ。
鬼に、鬼になるぞ。鬼になるぞ・・・」
82 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 11:17:47.79 ID:XY4AGdyC
あ、上にも書いてありましたね
84 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 13:01:04.24 ID:XY4AGdyC
>>53>>56 それと放送された翌年の役所広司の『宮本武蔵』とかなりダブってるのも有名。
『徳川家康』⇒『宮本武蔵』
役所広司:信長⇒武蔵 加瀬悦孝:竹千代⇒城太郎 池上季実子:築山殿⇒朱実
石坂浩二:波太郎⇒光悦 伊藤孝雄:信秀⇒池田輝政 江原真二郎:石川数正⇒青木丹左衛門
藤堂新二:武田勝頼⇒吉岡清十郎 氏家修:秀次⇒吉岡伝七郎
内藤武敏:本多正信⇒愚堂和尚
津川雅彦:大久保長安⇒沢庵 瑳川哲郎:前田利家⇒壬生叔父
奥田瑛二:松平勝隆⇒又八 岩本多代:旭姫⇒およし
宅間伸:松平信康⇒柳生兵庫 鈴木光枝:大政所⇒お杉
戸浦六宏:平手政秀⇒酒井忠利 森田順平:浅野幸長⇒北条新蔵
橋本功:久松佐渡⇒岩間角兵衛 堀 勝之祐:増田長盛⇒佐藤源三
山内明:島井宗室⇒小林太郎左衛門
大坂の陣での家康の偽善者ぶりにはついてゆけないわ
の゛ぶ や゛ず う゛〜! ぬぐわぅおおぅおゐゑ〜!!
光秀め、まんまとやりよったわ!
しかし、濃姫が本能寺で敵将と刺し違えて死ぬってのはね・・・
90 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 16:07:13.56 ID:XY4AGdyC
>>85 >>65を見て
でも、なんでいつもこういう人が定期的に出てくるんだ?
大河板の家康スレでも昔からそうだし。
もう少し原作が書かれた時代性を考えて欲しいですね。
91 :
ひどい歪曲:2014/10/05(日) 16:10:33.66 ID:???
秀頼、淀殿を自害させたのは井伊直孝(陪臣)のせい
⇒家康は関与していないw
国松丸の処刑は将軍家のせい
⇒家康は関与していないw
役所の信長はマジでハアハア…
主役(滝田)を完全に食ってたモンなぁ…
94 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/05(日) 16:40:11.29 ID:XY4AGdyC
>>91 別に井伊直孝のせいにしてないと思うが?
家康は柳生には怒ってたけど。
自分も井伊直孝のせいだと思わない。
国松丸の件も将軍家のせいじゃないし、家康のせいでもない。
あの時代、仕方がなかったんじゃない?
それから史実と違うという人がいると思うが
歴史小説はあくまでも小説だし、大河ドラマはあくまでもドラマなんだから。
作者の想いがわかれば、そんなに突っ込まなくてもと思うがな。
ま、思うことは人それぞれなんで、自分もこれ以上は言わないつもり。
所用もあるのでここまでにします。
>>93 レス、ありがとうございます。
とりあえず上記のような意見も言わせてもらいました。
それでは・・・
関ヶ原や大坂の陣の部分だけを抜き取って、
「葵」の津川家康と比較してバカにしてる趣味の悪い動画がニコにあるが、
滝田家康(山岡家康)の妙味はそれに至るまでの苦難の人生と
ドラマに於ける名優達の絶妙の演技を見て来ていないと、
こういった手合いには到底理解できないだろう。
>>95 そういうのって本作と同時に葵も小馬鹿にしているのと一緒だと思う
このスレ読んでよくわかったけど
徳川家康ヲタきもいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
98 :
1:2014/10/07(火) 06:06:03.45 ID:???
ファンの方もアンチの方も遠慮せず何でも書き込んでください。
何で大河板でやらないのか分からない
お歯黒の三樹夫さん・・・
大竹しのぶの於大は染みったれた感じがするなw
淀殿役で夏目雅子が出てきた時は何故か泣けた。
この2年後に死んでしまうんだよなあ。
長久手の戦いもなぁ・・・
できれば、平八郎が5百騎で秀吉軍4万と対峙するシーンなんかもやって
欲しかったな・・・
ちなみに鹿の角がないぞ!忠勝の冑!
『徳川家康』の主なキャスト
徳川家康………滝田栄
豊臣秀吉………武田鉄矢
織田信長………役所広司
北政所…………吉行和子
淀君……………夏目雅子
築山殿…………池上季実子
本多作左衛門…長門裕之
濃姫……………藤真利子
納屋蕉庵………石坂浩二
西郷局(亀姫)…竹下景子
南光坊天海……竜雷太
石田三成………鹿賀丈史
石川数正………江原真二郎
本多正信………内藤武敏
伝通院…………大竹しのぶ
雪斎……………小林桂樹
今川義元………成田三樹夫
今川氏真………林与一
華陽院…………八千草薫
武田信玄………佐藤慶
徳川信康………宅麻伸
徳川秀忠………勝野洋
松平忠輝………田中健
豊臣秀頼………利重剛
千姫……………石原真理絵
於万……………東てる美
徳姫……………田中美佐子
朝日姫…………岩本多代
茶屋四郎次郎…中山仁
明智光秀………寺田農
大久保長安……津川雅彦
木の実…………紺野美沙子
酒井忠次………福田豊土
本多忠勝………高岡健二
松平広忠………近藤正臣
伊達政宗………尾上辰之助
柳生宗矩………夏木陽介
おみつ…………萬田久子
大野修理………谷隼人
加藤清正………伊吹吾郎
真田幸村………若林豪
前田利家………瑳川哲朗
亀姫……………原日出子
あやめ…………田中好子
五郎八姫………岡本舞
水野忠政………北村和夫
本多正純………本田博太郎
毛利輝元………御木本伸介
武田勝頼………藤堂新二
岩松八弥………村田雄浩
市姫……………真野あづさ
小督……………白都真理
本阿弥光悦……大出俊
片桐且元………久米明
島左近…………川津祐介
水野信元………村井国夫
鳥居強右衛門…上條恒彦
木村重成………加納竜
鳥居忠政………橋爪淳
>>103 そりゃそうだよ。
当時のNHK大河は甲冑に予算を回せるほど金が無いよ。
真田太平記(大河ドラマではないが)も同様だが、これ以前の大河は甲冑の使いまわしを結構やっている。
甲冑デザインにまともに金を回すようになったのは「独眼竜」から。
夏目雅子の茶々が登場してたね。
はじめに長松丸(徳川秀忠)に輿入れさせようとしたけど、茶々が拒んで
立ち消えになったとは・・・ちょっとハアハアな展開。
「竹之内波太郎(熊野若宮)→納屋蕉庵」って相当いい役どころだな>石坂浩二
秀吉の失策
小幡城を攻める時に「ワシなら小幡なんて小城は捨てて…とっとと…」と
言いかけてから秀吉&三成は大慌て
家康をナメすぎ?
本阿弥光悦:大出俊(本名:大出俊隆)
日本社会党衆議院議員で村山富市内閣で郵政大臣を務めた大出俊は別人であり、血縁関係もない。
信玄狙撃の時には笛吹いてたな、熊野若宮
カルト宗教一揆煽動しちゃうし
エキセントリックで何を考えているのかわからない的な恐怖を感じる役所信長と、夏目淀君が神キャスティングな大河ドラマ
朝日姫の好感度ややUPでしたなw
鹿賀丈史の三成って野心的で神経質そうなところがいいな。
しかも、めっちゃプライド高そうだし。
石田治部(鹿賀丈史)・・・何か強気なんだか弱気なんだか・・・
左近あっさり戦死・・・川津祐介
成田三樹夫の義元は意外と好きだった
役所の信長はホント、当たり役立ったよね
長安死んだけど、ほとんどお香に黄泉の国に連れて行かれたって感じだな
二段構えだったな>お香
「わっ!出た!幽霊だ!」
「ん?ホントは生きてるんじゃないの?」
「やっぱ死んでんじゃねえかよ!」
という感じ。
やっぱ豊臣秀頼の直参って……という描かれ方だね、谷隼人(大野治長)とか
ありゃ、織田有楽斎というより百地丹波って感じだな、剃髪してないし。
確かに百地っぽいなw
片桐且元と一緒に駿府に出向いて欲しいという淀殿の要請を
「持病があって長旅には耐えられない」とか抜かして断ってい
たわりには・・・
その後、おまいはどんだけ長生きしとんねん!!!
前田利家が死ぬ直前に錯乱して見た幻覚の家康
滝田栄がずもももーん?と見下ろしてるのが、何か家康っぽくて良かった
秀忠役として思い出すのは・・・
「中村雅俊」「中村梅雀」「勝野洋」「西田敏行」
梅雀と勝野は2回やってるよね
梅雀は1回は大河じゃないけど
向井理の秀忠は凄かった。
父家康にネチネチと口撃。
あの時代なら殺されてるわ
木の実、小松姫、三条夫人……萌え
夏目雅子の淀殿はどうにか助けてあげたい願望に駆られたが、小川真由美のそれは火矢でも砲弾
でも撃ち込んでやれって感じだったw
助けたい淀ベスト3
1・夏目
2・樋口
3・池上
助からなくていい
1・小川
2・岡田(大河じゃなくて真田太平記)
3・永作
役所広司といえば、この「徳川家康」の信長や、新大型時代劇「宮本武蔵」の武蔵のような
激しい役のイメージがあったので、「いのち」でのイケメン医師役を見た時の
驚きといったらなかったな・・・
本多正純と共に大阪方と交渉した「阿茶の局」は、家康の信任
も厚く、女性ながら相当な人物だったらしい。
和平交渉の中で、さりげなく正純と「堀の埋め立て」の謀略
を合意させている。大坂方は「和平」だけで大喜びしていたが…
阿茶局は、家康没後も家康の遺命で秀忠の相談役をし、徳川和子入内のときに京に上って和子の世話役をやって、従一位をもらってる。
「わたくしも産みとうございます!」には笑ったけどね
その台詞は葵だ
「人生は重荷をしょって遠き道を行くが如し」を地で行ってる生き方が良いよね。
一歩一歩確実に歩を進めていく様は、派手さこそ無いが渋くていい。
甲斐での対北条戦(ドラマには出てこないが)、小牧・長久手での対秀吉戦などは、寡兵を以て大軍を制する
家康らしい戦い方。
>>103 本多平八郎が僅か500騎で秀吉軍4万に立ちはだかる、あの漢っぷりを
一度再現して欲しいよなぁ・・・
鳥居強右衛門…上條恒彦は、「葵」では上杉景勝役だったな。
いずれも「剛勇+実直さ」がよく出ていた。
『徳川家康』で直江兼続を演じていたのは睦五朗。
『葵 徳川三代』にはナレーション内で登場しただけ。
家康は短気で血の気(反骨心?)が多いのは幼少から見受けられるしね。
正月の席での小便とか。
35氏の言うように、短気で喧嘩好きの癖に、
それを押さえて冷静に冷酷に判断が下せるあたりすごみを感じる。
津川家康はその辺りを上手く演じられていたと思う。
その反面、息子達に対する気配りというか、愛情も垣間見えるし、
それでもいざ公事なら、身内に対してでも厳しく処置したり、人間くさくていい。
真田幸村(若林豪)の夏の陣で突撃する時のイッちゃった目は良かった
幽閉生活の中で終わろうとしていた初老の男が、最後に一花咲かせるというかね。
天下人を相手にその武名を天下に轟かせたのだから。
「負けても屈しなかった」・・・・いい言葉だなぁ
『武田信玄』の三条の方と八重(小川真由美)のコンビも良かったし、
『徳川家康』の木の実も好き。
でも、『真田太平記』(大河じゃないけど)の小松姫が最高だったな。
1話から5話で毎回マイナーチェンジしたメインテーマ、
どの回にも独特の味がある。
大坂の陣、内容薄すぎそれに当時 始めは幸村無名だろ!(始めから評価高すぎ)
若い頃は後家好き、年をとってからはロリコンという性癖を顕わにしてくださった
東照大権現さまの生き様は、男として是非にも見習いたいものです。
徳川時代は「治部少輔」名乗る人がいなかったという。
ホントかどうか知らんけど。
上杉景勝は三成といつから連絡とってたの?
単独で家康と戦う気あったの?
>>152 単独というよりもすでに佐竹や旧領の越後の国人など、
味方にできる勢力にはすでに手をうってますよ。
>>152 上杉景勝と石田三成が共謀して挙兵することを企てたというはっきりした歴史的資料はなし。
ただ上杉家家老「直江兼継」と三成が親しい間柄なのは有名みたいだ。
共謀説を唱える人たちの間では、
慶長三年(1598)九月〜翌年四年の四月ごろ。
このころ、三成は上杉家の伏見屋敷に起居している。
そのときに兼継は景勝とともに上洛していて、景勝が会津に帰国するや否や、
軍備や軍用道路の整備を急いだという記録がある。
歴史的に見ると、
景勝&兼続が領国に戻り軍備増強をしたが、
上杉征討のきっかけとなる「上杉に叛意あり」は、
1599年十一月に家康に戸沢政盛が密書で動性を伝え、
1600年三月に越後の一揆は景勝の謀略とする越後領主の堀秀治の告発、
同月の上杉家重臣「藤田信吉」が出奔し、「景勝に異心あり」と内報した。
それについて家康が上杉家に対して上洛と釈明を求め、
上杉家の返答「直江状」によって家康が会津にむけ出兵する。
っていうのが通説だね。
対して兼続が三成と直接会えた時期は、
兼続が上杉屋敷にいて、三成が失脚する前の1598年九月〜1599年三月。
まだ明確には上杉対徳川という構図はできていない。
なんやかや言っても、結局この作品の肝は
“鬼”作左と“漢”数正、2人の忠臣の忠義と友情。
そして演じた長門裕之、江原真二郎の代表作と言っても過言ではないと思う
このレスに集いしお歴々!! おすえて下さい。
三成は本当に誰かと共謀した歴史資料とかってありまつか?
上のレスみても景勝と共謀した証拠はないとなっておれますが・・・
かの有名な大谷吉継のエピソードでおわかりのように、吉継でさえ会津出征のおりうちあけたと・・・
宇喜多秀家も喜々として応じたが事後承諾だったとか・・・
毛利輝元も総大将要請は安国寺恵けいに託してるし・・・
安国寺、増田、長束あたりが共謀したの?
彼等が三成に同心した時期って大谷より後じゃあなかったっけ?
>>157 一般に言われていることでは1600年七月は、
2日(5日との異説あり)石田三成と大谷吉継と会談(このときは合意せず)
12日 三成、吉継が再び会談して挙兵を決意。同席者は安国寺と増田。
同日。三奉行(三成、増田、長束)連署による輝元への出馬要請書が出される。
同日。安国寺、大阪へ。
15日 毛利輝元、安芸を出立。
16日 毛利輝元、大阪入り。
1600年7月5日。
五大老の一人「宇喜多秀家」が豊国神社において出陣の儀式をとりおこなっている。
(北政所も出席)
「これは糞ではない、焼味噌じゃ! 」
かねがね疑問に思っていたのですが、
なぜ家康の脱糞事件が後世にまで伝わっているのですか?
こんな恥ずかしいことを・・・
時の権力者に都合のいいように歴史を書くのは世の常だし。
しかしこんな後世にまで伝わっているということは
江戸時代に書かれた歴史書に脱糞事件が記されているということでしょう。
なぜ?
>>160 故意に脱糞して家臣の緊張を解いたという話も伝わっているから、
逸話として創作されたと考えられないこともない。
馬はいい迷惑だよな
徳川家康45話『巨城の呼び声』より
松平忠輝『大坂城を、私に下さい。』
家康『黙らっしゃい!!』
豊臣秀頼も淀殿も健在のときに、このような問題(爆弾)発言をした忠輝は、
ある意味凄い人物だと思う。
松平康元・奥平信昌
活躍しているのに、四天王と比べて人気が低い面々。
165 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/09(木) 11:25:33.92 ID:mrTeRO57
奥平家は本多正純の宇都宮転封による亀姫激怒の印象がとても良くない
154 Classical名無しさん 2014/10/09(木) 11:47:52.18 ID:xgP2AsTI
お願いします
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>>165 亀姫の憎悪は理解できますけどね。
そもそも関係図としては、亀姫の娘が大久保忠隣の嫡子・忠常に嫁し、孫娘が
里見忠義に嫁している。
本多正純と忠隣の政治抗争の結果、忠隣が敗れたことでその里見家の運命も
決してしまったと。
娘と孫夫婦を不幸に陥れ、その上、奥平家までも肥沃な宇都宮の地から転封と
なり、その旧領が正純に与えられたとなれば、亀姫が正純に対して憎悪の念を
抱くのはある意味当然のこと。
その後、正純追い落としに亀姫が加担したのも当然の流れでしょう。
>>165 亀姫の憎悪は理解できますけどね。
そもそも関係図としては、亀姫の娘が大久保忠隣の嫡子・忠常に嫁し、孫娘が
里見忠義に嫁している。
本多正純と忠隣の政治抗争の結果、忠隣が敗れたことでその里見家の運命も
決してしまったと。
娘と孫夫婦を不幸に陥れ、その上、奥平家までも肥沃な宇都宮の地から転封と
なり、その旧領が正純に与えられたとなれば、亀姫が正純に対して憎悪の念を
抱くのはある意味当然のこと。
その後、正純追い落としに亀姫が加担したのも当然の流れでしょう。
側室を置くならば種の濃い間は後家さんがいいね。
子供を産んだ経験があれば尚更。子を産めない側室に無駄な種を使ってもな。
それにどうせ公家娘なんて子を産めるような体力ないだろうし。
で、中年過ぎたら「アンカ」代わりにロリータ趣味に。
その点でも大権現様は合理的。
家康の場合は「無駄撃ちしない」作戦の他に、築山殿へのコンプレックスがあるんじゃないの?
人質時代から散々バカにされ続けたようだし。
築山殿とは対照的な身分の低い寡婦に走ったと。
家康と築山殿には同年説と10歳近い年の差説(築山殿が年上)の説がある。
10歳年上説は、築山御前の悪女ぶりを誇張させるために
後世の人が後付けしたという説がある
言われるほど仲が悪くなかったと言う人もいる。
まあ確かに築山殿が悪女の方が幕府にとっては都合がいい。
実際の築山殿はさっぱりわからないけど。
姉さん女房の方が萌えるじゃん。
今でこそ姉さん女房は珍しくないけど、
夫の方が年上っていう夫婦が圧倒的に多かった当時としては、
家康(同年説もあるが)、秀忠、家光、家綱と4代続けて妻が年上っていう家も珍しいよね。
あと家宣と慶喜もそうだっけか?
>>132 一番助けたくない淀殿は私的には真田太平記の淀
10歳年上説をとった場合、築山殿の生年は1532年という事になる
義元の生年が1519年。
築山殿の母は義元の妹ないしは養女といわれてるから、
やっぱ無理が生じてくる罠。
まぁ、家康と同年、年上だとしてもせいぜい1〜2歳程度と考えるのが妥当じゃない。
滝田栄はいい
でも草燃えるでの伊東なんとか役はもっとよかった
秀忠時代に改易されたのは大名家41家。石高にして439万石。
これ以外にも転封が数多く行われている。
ちなみに家康による改易は石高にして377万石。
家康が糞を漏らしたというのは誤伝。
武田に完敗し、意気消沈した家康が入城したときに事は起こった。
雨に打たれながら馬に乗っていた為、腰に下げた袋から焼味噌が漏れていたのだ。
暗い雰囲気を払拭しようとした本多作左は一計を案じた。
作左「殿、糞が漏れておりますぞ!」
場は一転して笑いが響く事となった。が、
家康「それは焼味噌じゃ!馬鹿者が!!」
家康はマジギレ。
あまりに怒った為、本当に漏らしたのではという噂が生じたそうだ。
プライドの高いお嬢様である瀬名にとって、
自分より家格の低い人質の竹千代が亀姫にばっかにうつつをぬして、
自分を蔑ろにしていてるという現実が許せなかった。
だから意地になって竹千代を振り向かせようとした。
瀬名が竹千代にアプローチ
↓
それを関口のお父さんに見られる。
↓
娘の恋愛成就のために、
関口のお父さんが二人に内緒で義元に娘と竹千代の婚礼を許すよう願い出る。
↓
竹千代、義元から瀬名との婚礼を命じられる。
↓
何も知らない竹千代「工 工 エ エ エ エ ェ ェ ('д`) ェ ェ エ エ エ エ 工 工」
山岡荘八の徳川家康は、創作キャラだが石坂浩二が演じた納屋蕉庵(竹之内波太郎)が印象的だった。
初めは信長の影の軍師みたいな位置付けで、そのうち豪商になって時代の見届け人になっていった。
納屋蕉庵は作家(山岡荘八)の分身という存在で、何かにつけ出すぎの感じがあったな
あの役は、納屋『呂宋』助左衛門や竹之内流関係からインスパイアされたのかも。
小説では朝廷の祭事を執り行う祭司の末裔とか書かれてた。
桶狭間合戦でも村の代表として今川軍に進物をして足止めしたり、
元康だけで織田軍と当たらないように策をうったり、架空の役なのに大活躍すぎるw
『半蔵の門』では、信長側から「大高城から動かなければ元康を攻めない」と申し出が
あるんだよな。
但し、その言外に「兵糧と兵の命は保証しない」とも。
信長の梟雄の気性を見抜いた元康は、半蔵に命じて米粒を胡麻粒の大きさにさせて兵に
背負わせ、荷駄の米俵に土を詰めて囮に。
信長軍の一隊に襲われた元康は、囮の荷駄を捨て、一目散に大高城に駆け込む、と。
しかも、仮に今川軍が敗れた時の織田・徳川ことを考え、元康は鷲津砦攻略の先鋒を務めてこれを
攻略、信長に地団駄を踏ませる。
徳川家臣団に「忠」の字が多いのはなぜだろう?
秀忠以降の忠吉、忠輝、忠長やその世代の家臣は秀忠の偏諱としても、
本多、酒井、大久保、鳥居は軒並み「忠」の字を使っている。
この辺の「忠」はどこから来たんだろう?
>>181 家康から数えて五代前の親忠が初出っぽい。
三代前で曾祖父の信忠、父の広忠、息子の秀忠と、一代置きで使われている。
松平の系字の一つと考えても良いんじゃないか。
「徳川家康」の最後の方に出てた万田久子演じるおみつって結局なんのために出てきたんだろう。
納屋蕉庵の孫娘で千姫付きの侍女って設定だったけど、
秀頼の手がついて子供を産んでからどっか消えたよね。
次の回にはおみつはいなかったかのように侍女が別の人(おちょぼ)に変わってた。
すみません。孫娘じゃないですね
185 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/11(土) 07:27:39.52 ID:pt79BdSX
納屋蕉庵は主役を食ってたな。名前かえて最初から最後までいるしよw
架空キャラを使う事で歴史を新しい視点、違った視点でってやつだわな。
悪く言えば御都合主義だけど、歴史的な事物の空白みたいな所を、
ある程度好きに描いて味付けできるのが歴史小説の醍醐味ではある。
家康が好きで、家康のことを世間で言われるほど
陰湿な悪人だとは思わないけど、
山岡壮八の徳川家康は、ちょっといい人に描きすぎで
正直引いてしまうところが何箇所もあった。
>>187 私人的観点から見るか、公人的観点から見るかでがらりと評価が変わる人物。
ただ徳川当主として、また天下人として淡々と障害を排除していっただけ。
それに善や悪を持ち込むのは無粋だと思うけどなー。
負けず嫌いの喧嘩好き、だけど忍従を知り、長い雌伏を耐えられるケチでしたたかな親分って所だと思う。
そう、まさにその通り。
歴史的な観点で見れば、300年の太平を実現した功だけで
充分評価されるべきだと思うし、なまじ情けをかけて禍根(豊臣家)
を後世に残さなかったのは政治家として正しい判断だと思う。
だから、余計過剰な「いい人」の味付けはいらなかったと思う。
70を過ぎて自分は老い先短いのに、前天下人の息子が
成人して天下の堅城に莫大な黄金とともに居座ってるのを見ては
とても死ねんと思ったでしょう。徳川家安泰のために自分の目の玉の
黒いうちになんとしても除いておこうと思案したのは最も自然なことでしょう。
当時の家康の立場にあれば、十人いれば八、九人は同じことをしたのでは
ないですかね。
ちなみに徳川作品って本能寺の変直後の甲信攻略戦についてはあまり触れないんだよなぁ。
北条軍5万に対して僅か1万数千で勝利を収めたあたりなどはなかなかに興味深いと思うのだが。
>>191 かつて勝頼が放棄した新府城を手直しして本陣を置いた結果、信濃から甲斐に侵攻した
北条軍が完全に足止めされたからね。
真田昌幸が徳川方についた結果、退路まで断たれて和睦するハメに。
甲斐・信濃攻略戦は、家康が織田の与力大名から脱却する上で
重要な戦いだったからな。
そこはきちんと描かないと、武田との局地戦に手を焼いていた一属将が、信長が死んだ
途端、天下獲りレースの有力候補に・・・という展開になってしまう。
大河「徳川家康」の大阪夏の陣で柳生宗矩が怒涛の七人斬りをやってたね。
スタジオ撮りなんであまり臨場感はなかったけど。
四天王は影が薄いなぁ・・・。
作左最大の見せ場は秀吉の前で暴言吐いたとこ
お愛が病死した直後、「築山殿は殿に勝ち、お愛殿は殿に敗れたのじゃ・・・」は名言。
>>194 柳生の七人切りは徳川実記に載ってるそうだから史実の可能性大だな。
>>187 いい人というより、世間一般的な道徳観に封じ込めて描こうとするので、
深みのないチープな人間像になってしまうんだよな。
小説にしてもテレビドラマにしても大衆向けだから仕方ないが。
中村梅雀、西田敏行、渡辺いっけい・・・秀忠って常に微妙な位置付けだよな。
勝野洋、中村雅俊ならまだしも。
二枚目か三枚目かの違いだね。
勝野、中村雅の二枚目組は温厚に見えて冷酷非情な一面も持ち合わせているように描かれ、
西田、渡辺(梅雀は未見)の三枚目組は奥さんに尻に敷かれる情けない駄目亭主に描かれてる。
まぁ三枚目組の奥さん役は両方極妻だし頭が上がらないのも無理ないか。
202 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/12(日) 16:14:21.72 ID:nB5Ujt65
秀忠の恐妻家ぶりは保科正之の出生譚とかである程度有名だから
軽いノリを求める最近の大河にゃ恰好の食い付き処なんだろうね。
しかし、何でそんなに恐妻家なんだ?
大御所様には絶対服従でも、仮にも将軍様だぞ?
>>204 権威的なものより情愛的なものなんじゃない?
年齢差もあるし、妻であり姉であり母であり、
そんな風に見ている気がするよ。
藤堂高虎なんかも尻に敷かれているな。
比喩ではなく、夫の留守は妻が守る時代、
共同統治者として今よりも妻を立てなければならない時代だったんじゃないか?
大谷吉継は義理に厚い武将で好きだけど、小早川秀秋は嫌いやな。忘恩の徒は嫌いじゃ。
豊臣政権
秀吉の存命中から、既に政権基盤の脆弱さを露呈していたよね。
あくまで秀吉という個人の力だけの政権。
彼の老化がそのまま政権の疲弊に直結していた。
しかし、その一方で秀吉の死後、18年にわたって豊臣家が生き長らえたという事実を
どう捉えるかということもあるんだよね。
やっぱり関が原後に政権をあっさり家康に渡したことと大幅減封を受け入れたことが
豊臣家の余命を延ばしたんだろうね。
>>209 それはちょっと違うんじゃない?
豊臣家は徳川家に臣従したことはないのだから。
それに家康はあくまで 豊臣家の大老 として戦後処理を行っているからね。
豊臣家としては「何が起こったのかよく分かっていない」というのが実際のところだったのでは?
気がつけば蔵入地は激減し、諸大名は豊臣秀頼から恩賞をもらっておきながら、実際にはそれを
差配した大老・家康に付いていくという捻れ現象が起こっていったのではないかな。
おまけに秀頼は関白職にも就けない※状況では、諸大名は武家の棟梁(征夷大将軍・右大臣・
源氏長者)に従うのか、前関白の子息(内大臣、後に右大臣)に従うのかという選択を迫られるこ
とになる。
結果、軍事的にも政治的にも優位な立場にあった武家の棟梁側に吸収されていったと。
※豊臣家は1595年、秀次の処刑によって関白職まで手放してしまった。
これにより政権の正統性まで失ってしまうという手痛い失策を犯している。
豊臣家ってさ、石田や加藤や福島みたいな子飼いの人材もみんな大名にしちゃったから
肝心の豊臣家自体の軍事組織って石高の割りにもの凄く貧相じゃん?
これってよく考えたらもの凄い異常な状態だよね。 秀吉は本気で自分の死後の
有事の際には恩顧の大名の力だけで相当強大な敵性因子も排除できると思ってたのかな?
それとも呆けてそこまで考えが及ばず、周囲の進言も聞かずの状態だったのかな?
スレ違いだけどすごく大きな謎だよね。
>>44 石川数正の出奔は
ドラマに描かれているようなキレイごとではなかった
「徳川家康」、何気に女性陣にも目が離せない。
世間知らずゆえ非業の最期を遂げた瀬名、
家康を影で支える優しい女性お愛、
実は信長が一番信頼している人なんじゃないか感じさせる賢妻濃姫、
苦労人ながら関白夫人としての気品を持ち合わせた寧々、
根っからお嬢様していた淀殿、秀忠の成長を実の母のように見守る朝日姫、健康的な美人木の実・・・
素朴で心優しい千姫・・・
女性陣の配役が神的に絶妙だった。
特に朝日姫の最期は涙。
女性陣もよかったですな。
戦国の世に翻弄されならも懸命に生きているって感じで、
変にでしゃばりすぎず、でも存在感があって。
最近の大河ではなかなか出せない味でございまする。
華陽院と於大の方も忘れてはいけませんぜ。
215 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/13(月) 12:25:24.27 ID:EQ8VEW9c
>>210 秀吉は、死亡する1598年まで現任の太政大臣だったので、政権の正当性は保持していたと見ることができる。
ただ、秀吉の死亡により現任の大臣が、内大臣の家康一人となり(99年1月に菊亭晴季が右大臣に還補)、1605年に近衛信尹が関白に任じられ、6家の摂家の1つになってしまった。
山岡の『徳川家康』を読んでたら
鳥居強右衛門が磔にされた時、掌に釘を打ち込まれたと書いてあった。
ウソつくな!!
「パッション」のイエスじゃないんだよ!!
滝田栄の家康は、ミスキャストだったし面白みがなかった。全体に、おんな太閤記の配役をいじった感じに思えた。
役所広司って名前も知らない人が織田信長役、と知ってピンとこなかったけど、いざ役所信長が登場してみると、主役の滝田栄を圧倒するほど好演していたのでビックリ。
仲代達也の愛弟子だったんだ。
無名だった真野あずさが、お市役で出てたけど綺麗だったし、徳姫の田中美佐子より演技が上手いように思えた。
公家の悪役が板についてる成田三樹夫の今川義元は、よかった。今川義元役では断トツ!!
時代劇板には時代劇板ならではの良さがある
みんな固い感じで、自分の持味を生かしてたのは、長門裕之(本多作佐衛門)、津川雅彦(大久保長安)、お大(大竹しのぶ)、成田三樹夫(今川)、華陽院(八千草薫)くらいかな?
かなり好演してた武田鉄矢は「秀吉には、竜馬ほど力が入らない」って言ってたらしい。
夏目雅子は綺麗だったけど、演技は今イチ物足りなかった。
池上季実子の方がうまかったと思うな。
三方ヶ原の戦い
鶴翼の陣の負け
関ヶ原の戦い
鶴翼の陣の負け
家臣「甲斐なき織田の方々」
家康「言うな!」
第四次川中島合戦
鶴翼の陣&別働隊:引き分け
信康の娘たちの子孫は、名が松平や徳川でなくても
信康の女系子孫なのだから、このドラマはつらいだろうね
珍説
信長も家康も今川の血を引く信康”を徳川家の嫡子にしたくなくて
信康を死に追いやった。
清滝寺にある信康の墓には「松平三郎信康」と彫られている。
>>44>>212 石川康勝(石川数正の次男)
慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発すると豊臣方に与して大坂城に入る。
大坂冬の陣における真田丸の戦いの最中に配下が火薬を誤爆させ、
康勝自身も負傷したが、この騒ぎを東軍が内応の合図と勘違いした一件が有名である。
翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において天王寺口の将として出陣、真田信繁隊と運命を共にして乱戦の中で戦死した。
家康晩年のストーリーをいろいろ捏ね繰り回してあるので
全然現実味が無いのが欠点
築山殿「ほう顔の色が変わったのー」
このときの築山殿の妖艶さが凄い
大賀弥四郎が小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵と共謀し、
岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きすることを書いた、武田方への書簡が発見された。
山田八蔵も変心して信康に訴え出たため、大賀は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子五人がはりつけにされたのを見せられた後、岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、七日後に死亡した。
家康の死因は、胃がんという説もあったっけ。
胃がんだとすると、鯛のてんぷらを食べ過ぎた事に
よって体調を崩したけどそれからは回復し、その後で
胃がんによって死去したという流れかな?
たしか鯛のてんぷらを食べたのが死の3ヶ月前、
死の一月前あたりには、勅使の接待をやってたそうだから
少なくとも急性の食中毒で亡くなったって事はないんだろうなぁ。
信玄に鉄砲は命中しなかったんだけど、ものすごくタイミングよく発病、吐血して落命。
信康自刃の真相というのは謎めいた部分があるけど、当時、家康 VS 築山殿・信康の
御家騒動があったとする説もあるね。
酒井忠次の安土行きは徳姫の書状に対する釈明のためではなく、女婿・信康処断の
許可を取り付けるためであり、信康の幽閉先を次々と変えたのは、信康を担ぐ一派の
動向を見極めるためだったとすると辻褄が合う。
武田勝頼と内通していたかどうかの真相は不明だが、旧今川寄りの築山殿がかつての
同盟先である武田家と手を携えようとするのは当然のこと。
勝頼と信康が手を組めば、徳川家の進路は東ではなく西になる。
信康は今川家の血を引いているし、亡き義元の悲願でもあった西進作戦を築山殿が
意識していたとすると・・・徳川・武田連合軍で織田に対すれば勝算はあると。
家康 VS 築山殿・信康というより
家康直属の浜松派閥(中央集権化)VS三河国人派閥(昔ながらの連合政権)
の御輿としての信康という説も聞いた事がある。
後の酒井の息子の逸話が事実だとすると、「お前(と石川)に三河を任せ
たのに纏め切れないために息子が死んだ」と言う事となるので辻褄は合う。
徳川家の中央政権化は一向一揆鎮圧でかなり進んでいたが、まだ抵抗勢力
があったとしてもおかしくはない。
巷間言われているように、信長による信康排除という可能性は低くなりつつあるね。
徳川家中の問題について、同盟国当主の承認を得て処分すべき者を処分したのだろう。
但し、友軍である松平分家筋の軍事力(三河兵)を損なうことなく恩を売り、結果、家康自らが傷つく道を
選んだのかも知れない。
結果、家康の人間像も「海道一の弓取り」「信長に妻子を殺された悲劇の人」「律義者」に出来上がっていく。で、仕上げは関が原。
従来どおりの解釈で何の問題もない、信長信者以外は。
今川義元の血を引く信康を徳川家の嫡子にするわけにはいかない
240 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/14(火) 14:52:10.95 ID:SrKmbgu6
徳川家内でも発言力の強い酒井忠次と対立する信康をそのままにはできなかったんだろう。
ただ、人の父として、逃げて欲しいという思いはあったようで、大浜城みたいな廃墟同然のところに幽閉し、逃げることを期待した模様
石川数正出奔
秀吉との外交を担当していたが、次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉との外交を担当していたが、秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
秀吉との外交を担当していたが、対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、
数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、
数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、
数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
「徳川の家に伝わる古箒(数正の官名・伯耆守のこと)、落ちての後は木の下(秀吉のこと)をはく」
「家康のはき捨てられし古箒 都に入りて塵ほどでもなし」
秀吉からすれば、他家の重臣が寝返って自分の膝下に臣從するところまでが興味があり、その後は関心が無い。
だから秀吉に臣從したあとの石川出雲はパッとしなかった
作左は秀吉から嫌われていたようだ。
小田原征伐が終わって、家康が北条氏旧領の関東に移されてから後に豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。
その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。
>>244 3千石・・・
作左は大名にしてもらえなかったのか・・・
家康関東移封で”徳川の”所領が倍増(256万石)したときに
マイナーな家臣でも1万石(以上)もらって
大名になっているんだけどな
ポーズであったにしろ、秀吉のかーちゃんと妹を焼き殺す準備しちゃったからなあ
息子(お仙泣かすなのお仙)は大名に取り立てられてる。
日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、
重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙である。
この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代(成重・後の丸岡藩主)のことである。なお、手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である。
・家康に厚遇された本多作左の息子
・家康に改易された石川数正の長男、次男
251 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/15(水) 16:50:52.34 ID:RC225hJR
関ヶ原では関東方に付いたので改易の機会を逸したが、邪魔だったから大久保忠鄰、大久保長安もろとも、改易にした
おみつが身ごもった秀頼の子供は、その後どうなった?
あれは豊臣国松ではないのか?
なるほど国松か
おみつ→栄の局:萬田久子(納屋蕉庵の養孫、のち豊臣秀頼の侍女、架空の人物)
語りによると
おみつが生んだ子は女の子で乳母に預けたとなっています
257 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/16(木) 12:09:11.59 ID:5pkTehJ8
258 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/16(木) 12:27:45.51 ID:r+G4VbsX
は?
大河徳川家康、TUTAYAレンタルしました。
小学生のとき見たっきり。
瀬名が浮気するシーンとか、じいさんの秀吉を前に瓜売りごっこするシーンとか、
記憶どおりで懐かしかった!
しっかし、役者が若いな!大竹しのぶたとか、老け役なのに、多分まだ20代?
気になったのは、出演者の表示順。
中盤明らかに準主役の秀吉@武田鉄矢が、序列中ごろで、トリがなぜか納屋蕉庵。
なのに藤吉郎時代にトリになっていたり。
淀@夏目雅子がトリの回もあった。
今でこそ(死んでこそ)伝説の女優だが、当時は普通に「実力派の若手」扱いではなかったか?
『徳川家康』のクレジット
topから4人くらいまで重要な役
真ん中3人か4人が重要な役
ラスト3が重要な役
秀忠と云えば中村雅俊(春日局)
最近の大河は役者の年齢層が全体的に低いから若い内はいいけど年とって大名クラスになると威圧感というか貫禄がないんだよね
おみつが生んだ女児が天秀尼という設定か
このドラマの明智光秀はぱっとしない
明智光秀が頻繁に登場する大河ドラマ『功名が辻』『春日局』
>明智光秀が頻繁に登場する大河ドラマ『功名が辻』『春日局』
明智光秀を好意的に描いている作品:功名が辻
明智光秀視点からの本能寺の変が描かれた作品:春日局
松平忠輝が徳川宗家より赦免されたのは、死去から300年後の昭和59年(1984年)になってからであった。
忠輝の菩提寺である貞松院の住職・山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主の徳川恒孝に願い出て実現した。
最終回に家康から忠輝に「永対面禁止」と申し伝えていたね
信長って、他人を道具のように使うように、
自分自身も時代の道具になろうとしたんだな。
命を軽く見る、敦盛の歌の歌詞そのままの生き方だ。
家康て種違いも含めて兄弟たくさんいたんだね
久松な。
1話&2話を見たけど、退屈で死にそう。父や母の話なんて興味ないしね。
早く信長、秀吉の時代になってほしいわ
第9回 初陣
このあたりから面白くなりますよー
274 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/17(金) 12:37:42.47 ID:LB4gkdHZ
>>265 >このドラマの明智光秀はぱっとしない
光秀役だった岸田森急逝で、急遽寺田農に役が変わり光秀が出る回が少なくなったというのもあると思う
>>270 兄弟
家康、家元?、内藤信成?、
忠政?、樵臆恵最?、市場姫
異父弟:康元、康俊、定勝
大坂の陣
奥原信十郎は豊臣家にとって外様なのに
どうして秀頼のそば近く仕えることが出来たのだろうか
>>272 竹千代の元家族や環境がわかっておもしろす
>>276 奥原信十郎は柳生宗矩の従兄弟という設定の架空の人物
大河徳川家康は泣くシーンが多かった印象がある。それもオイオイではなく、
ウォーと泣いている印象が深い。
しかし、秀頼を助けようとしていた、というのは無理あるでしょ。
だったら国松を捜索して処刑したり、姫を出家させたりはしないと思うし。
大和への転封案にしても、豊臣家が絶対に承服しないと踏んだ上で「助命すべく譲歩した」
というポーズだったのだろうしね。
天下の平穏と徳川の安泰のためあえて大坂を滅ぼすという設定のほうが
ずっと偉大だし、実際そうだった
山岡は家康を貶めるためあんな卑俗な家康にしたんじゃないか
助ける気なんか無かったのは明白だと思うけど、
それならなぜ潜んでいる建物の中に兵を突入させて
秀頼たちを討ち取るか捕縛しなかったのか?
たとえば導火線をちらつかせるなどの
無理に突入できない状況があったのだろうか?
仮にも豊臣家の当主だからね。
徳川方の一兵卒に討ち取られるというのは拙いでしょ。
あの場合には自刃以外のシナリオは無かったはず。
秀頼を生け捕りにし、縄目の辱めを与え、もはや豊臣家の威勢が地に落ち、その権威など徳川時代には全く通用しないという烙印を押すことは政略的に重要であろう
津川が「しまった」といった理由は其処にある
大野修理が助命嘆願を願い出ようとしたのを拒否し、包囲・銃撃して自害を迫ったということ自体、
秀頼の死に方を既に家康・秀忠が決めていたということですから。
そうでなければ発見次第、打ち込んで良かったわけですし。
首を刎ねるにしても、切腹と斬首では天と地ほどの差があるように、敗軍の将とはいえ、相手は
右大臣・豊臣秀頼ですからね。
それなりの寓し方をしたのだと思いますよ。
だからこそ、無位無官の国松丸との扱いに差があったことも説明がつきますし。
信康自刃事件は徳川家史上最大の謎
石川数正が出奔していなければ江戸移封の際20万石は確実だった
とりあえず本多作左の唾の飛びっぷりは豪快でしたねw
なにしろ本多作左は、薪を山のように積んで
「えぇかぁ!大坂の猿が謀略をしき、殿に変事あらば、すぐさまババア(大政所)と朝日を焼き殺せ!」と聞こえよがしに怒鳴っていた人ですからな
そして、「数正ぁ…俺はやってるぞ…」と独りつぶやく
桶狭間の戦いで今川義元の最期が描かれていなかった。。。
人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
>>293 勘九郎義元@『武田信玄』の最後をまた見たい
ショーグンってのが英語でも通用するのは
今の東京を作った人、みたいな理解のされ方で
通じやすいんだよね。
家康公はなぜに江戸を拠点にしたのかな?普通は小田原だよね?
家康公が入る前の江戸は湿地帯の糞田舎だったらしいが。
とにかく、現在の東京の繁栄を鑑みるに、家康公の先見の明は偉大だよね
250万石の本拠地に成りえる
広い平地が江戸だったとかじゃ無いの?
江戸は丘陵地だらけであまり田畑を潰さずに済むのが気に入ったらしい
302 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/20(月) 08:03:05.54 ID:5eT/aDVJ
淀川の出口が大坂に対し、墨田・荒川の出口が江戸
つまり江戸は東の大坂
小田原では偏りすぎ
・・・て、原作やドラマでも秀吉も家康も言ってた
小田原征伐のとき、秀吉が家康を誘って連れ小便して
関東への国替えを申し渡すと共に治所を江戸にするよう奨めた
って話を、秀吉の先見性を誇示するかのように司馬遼あたりが
よく書いてたけど本当なのかね?
小便は江戸期の俗説。
秀吉が江戸を勧めた話は、後世の編纂物ばかりなので
本当にあったかと言われると微妙。
信長のテーマソング:明るい
秀吉のテーマソング:明るい
307 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/21(火) 07:37:32.73 ID:XBoPCc4P
>>302 石垣山の一夜城より小田原城を見下ろして
秀吉「どうじゃ、小田原城は?」
家康「は?・・・」
秀吉「関八州の主としてお身の本拠となるかじゃ」
家康「ここでは少々、偏りすぎてるようで」
秀吉「流石じゃ、大納言。ここへは心ききたる重臣を置けば良い。
では、どこにする?」
家康「淀川の出口が大坂であるように、墨田・荒川の出口にあたる江戸あたりかと」
秀吉「同じじゃ、大納言。江戸はあらゆる意味で東の大坂。その地相を備えておる。
わしをみなろうて、彼の地にでっかい城を建てられよ」
こんな感じの会話だったね、小説や大河ドラマでは。
308 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/21(火) 08:42:15.20 ID:MLAHGkqQ
正信「…ご用心なされませ」
家康「案ずるな」
秀吉「なんじゃ手あぶりもでておらんではないか長盛。心尽くしが足りぬ親切が足りぬ」
309 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/21(火) 09:25:15.46 ID:XBoPCc4P
>>308 家康上洛、秀長の屋敷にてだね
このあとが例の陣羽織の話
真田視点の第一次上田合戦
真田太平記
徳川視点の第一次上田合戦
無し
真田視点の第二次上田合戦
真田太平記
徳川視点の第二次上田合戦
葵徳川三代
311 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/22(水) 19:46:58.83 ID:Xuxi8JrH
大坂の陣で「西軍」と言っているが
大坂方とか豊臣方とかで呼ぶべきじゃないのか
西軍と言っても西国大名すべて豊臣の敵ですからねw
姉川の合戦のとき家康の動員可能兵力は‥・わずか8千
家康は8千のうち5千を信長の援軍としておくった律儀な人
8千て「わずか」じゃないぞ
結構な大国の動員力だぞ
動員可能兵力
1万石=250人〜300人
そんなもんなのか
山岡荘八氏の「徳川家康」の初版刊行は昭和31年(1956年)。
家康への研究そのものが進んでいなかった事もあって、山岡氏の著作自体にも創作が見られるし、歴史的な矛盾点も存在します(ドラマもその点は基本的に踏襲されている)。
おふう(於フウ)は奥平信昌(最初は貞昌 後に織田信長から一字をもらって改名)の妻です。
おふうの処刑後に徳川家康の娘亀姫が信昌の後妻となります。おふうの出自は奥平の一族です。
貞昌の父の貞能の従姉妹にあたります。父は奥平貞友です。
家康は、徳川幕府を滅ぼした明治政府のもとで
まるで悪人であったかのような宣伝がさかんになされましたが、
実際の家康は、戦国時代の人にしては、逆にかなり道徳的な人物です。
320 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/24(金) 02:43:06.46 ID:fcLATJ8Y
逸話の真偽はともかく、10万人で半年かけても落とせなかった小田原城を家康に使わせたくないという秀吉の意向はあったんじゃないかと思う。
いやいや、小田原城は謙信に囲まれた時は一ヶ月にも満たず
信玄は数日、秀吉も3ヶ月程度しか囲んでないよ。
半年は盛りすぎ。
50万石規模であの辺の好きな所へどうぞ〜なら小田原を選んでたかもな
江戸、小田原以外ならどこを選んだだろうか
なにせ江戸は火事が多かったから
小田原は本拠にするには位置が偏りすぎだな。
当時の江戸だと水運が中心かな、本格的に街道を整備するのは関ヶ原以降の筈だし
水運が便利で、関東の中心として偏りすぎず、田畑を潰さなくて済む丘陵地がちのところ・・・
と考えると大体場所は決まる
328 :
名乗る程の者ではござらん:2014/10/25(土) 20:53:02.52 ID:oZ7Q38i9
マイベスト家康
1位
森繁久彌
2位
丹波哲郎
3位
中村梅之助
4位
滝田栄
5位
該当者なし
丹波地方での光秀の人気は絶大です
>>328 関ヶ原(TBS)、春日局、真田太平記、徳川家康
瀬名(築山殿)が大賀弥四郎と密通していたという設定は
瀬名の子孫(女系は現存)には耐えられないだろうね
数正が家康のもとを出奔して秀吉の家来になった背景は
はっきりしていません。
従って、秀吉が数正をなぜ松本に配したかについても
その背景については憶測でしかありません。
ただ
・徳川家の史料において、数正の出奔についての詳細を記述することを避けていること。
・数正出奔後、徳川家の軍制が大幅に変更されたこと。
から、徳川家にとって、少なくとも好ましい状況でなかったことは確かだと思います。
その数正を家康の関東移封に合わせて、近接する松本に配したのは
対家康という役割を数正が与えられていたのは間違いないと思います。
抑え、監視役という意味合いもあったのでしょうが
徳川家の内状に最も詳しい、家康のもとを出奔した数正が徳川領のすぐそばにいるという
家康、徳川家への心理的プレッシャー
悪い言い方をすれば、家康へのイヤガラセ
という意味があったのではないでしょうか。
家康、徳川家にすれば、一番イヤな秀吉の家臣がそばにいる
という状況になりますから。
豊臣秀次の血統はしっかり残されてます。
しかも秀頼系の血統は天秀尼(秀頼娘)の死で江戸前期に絶えたのに対し、秀次の血統は実は現在も続いてます。
秀次の次女の血統は真田信繁(幸村)の子孫として現存してます。
当初は秀次の名籍を継ぐ形で「三好姓」を名乗ったようですが、
最終的には「真田幸村の子孫のほうが見栄えがいい」という理由かららしく、明治には真田姓に戻したようですが。
歴史の神様は秀次を見捨てなかったとも取れますね。あんなに残したかった秀頼系よりも、秀次系のほうが血統のこりましたからね。
マイベスト家康は津川雅彦かな?
このドラマは徳川四天王の影が薄い
誤読
第36回
28分頃
三成「言葉を慎め。(浅野)ユキナガ殿」(正しくは浅野ヨシナガ)
浅野ゆきながという言い間違いは全部で3回くらいあるよ
撮影現場に戦国マニアが誰もいなかったとしか考えられないw
徳川の一族だというのに
松平忠輝は損な役回りですな
柳生又右衛門宗矩さすがだな。7人くらい斬り捨てた。
柳生又右衛門宗矩
慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀(大天狗正家)で瞬く間に倒したという。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
天正二十年(1592年)の1月4日、徳川家康の6男・松平忠輝が誕生しました。
家康の息子なのに苗字が違うあたりでもうなんとなく見当がつくかもしれませんが、この人は父親に理不尽な嫌われ方をされ続けています。
その理由が「生母の身分が低いから」とか「顔が醜かったから」など、とても人の親がする言い訳とは思えないものばかり。
身分の低い女性がイヤなら手をつけなければいい話ですよねえ。
家康という人は何故か子供の顔に異常なほどこだわりがあったようで、忠輝の異母兄である結城秀康も「顔が魚っぽいからヤダ」というそれこそ子供のワガママのような理由で冷遇し続けています。
江戸を居城としたこと自体、戦闘より和平前提の殖産興業を中心でやっていく意思の表れだが、
江戸の町が江戸城を中心とした攻められにくい渦巻き状の町並みになっていることからわかるように
軍事的なシミュレーションを完全に捨てたわけではあるまい
仮想敵の最大のものは豊臣だから、対豊臣戦のシミュレーションがなければほとんど意味はないな
>>313-316 葵徳川三代 第九回のアバンタイトルによると
一万石あたり250人(兵站部隊を含めて250人)
三河に乱立してる小城の城主って、
かなり見知った苗字(松平・酒井・本多ほか)が多いけど、
概ねどのくらいの身分なの?
石高や常駐兵数とか分かったら教えて欲しい。
家康公の叔父さんの3男が侍大将で
50人率いて城主とかありそうで笑えるw
>>345 長沢松平、1,800貫目
深溝松平、8,949俵目
形原松平、750貫目
竹谷松平、1,200貫目
能見松平、250貫目
三河遠江駿河甲斐信濃、この五カ国は義元公・信玄公のかつての領土。家康公も感慨深かっただろうな。んで関東に転封されたのは加増といえど相当口惜しかったと察せられる。
かつての強敵達の領土を治めるなんて偶然にしてもロマンがあるよね。
関東への転封は良いことずくめだったけどなぁ
北条の進んだ統治技術を学べたし、蔵入地が激増(倍増)した事で
大名権力の強化も出来てる。
旧領では、領土を広げる為に在地の機構や権利を損なわない
ようにして国人の所領も安堵してきたけど、そこら辺も移封で
整理できたし。文句なしなんじゃないかな。
関東経営に失敗するようじゃ、とても天下は取れないな
天下を取るためのシミュレーションとして大変有益だったはず
関東移封で家康と側近はホクホク、その他の領地と結び付きの強い家臣は内心不満タラタラだったろうな。
そこをまとめて新領を統治できた家康はさすがだが。
test
一時史料を信用しないと歴史を語れない。二次史料を信用しないと小説は書けない。
因みに慶長四年九月の騒動が家康暗殺未遂事件とするのは一次史料には無く、
かろうじて「慶長記」にあるくらいなものだったりする
大久保長安と大賀弥四郎、信康と忠輝がダブってしゃ〜ない
355 :
名乗る程の者ではござらん:2014/11/06(木) 10:04:42.02 ID:GvdaGDJg
>>354 大久保長安に家康が言ってたね。
「わしは昔、そちと似た者を仕えさせたことがある」
忠輝も問題が浮上したとき、家康の夢枕に信康が出てきた。
やはり両方似ているんだね。
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのはウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
そこに義元急死、
遠州総劇が勃発し、
駿河と三河の連絡線が切断されたことを良いことに家康が自立し、火事場泥棒で三河を盗んだだけ
清州同盟、あれは従属同盟であり、
対等同盟かどうかも怪しいって話だ。
そもそも国力差がハンパない。
またその関係も、義昭の第一次上洛戦に向けた義昭側による働きかけにより成立したと見るべき。
そしてその失敗により義昭が若狭へ逃亡したのちも、
関係は存続していた。
だからこそ天正2年に家康は信長に内緒で、
義昭の使者と会談し、
徳川武田同盟の話をしていたのだろう。
その義昭との関係を切ったのが徳川北条同盟成立による信康殺害だろう。
人質関連年齢差
当主他 織田→今川移送時の年齢
1534年 織田信長 +9 17
1538年 今川氏真 +5 13
1543年 徳川家康 8
1545年 北条氏規 -2. 6
付き従った家臣
1527年 酒井忠次 +16 24
1533年 石川数正 +10 18
1539年 鳥居元忠 +4. 12
1542年 平岩親吉 +1 9
1548年 本多忠勝 -5 4 ただし駿府へは10歳のときとのこと
今川義元にとっての家康(今川配下なら元康)は、
秀吉にとっての宇喜多秀家みたいなもんか
一応一門扱いだし
6歳 今川の人質になる・・・はずが織田家へ
8歳 やっと駿府へ
14歳 元服して元信
16歳 元康に改名、瀬名姫と結婚
18歳 信康誕生
20歳 独立
test
偽善者・徳川家康
偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康
偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康
偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康
偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康 偽善者家康
366 :
名乗る程の者ではござらん:2014/11/24(月) 22:10:37.81 ID:xRY815Zz
脇役はいいけど主役に威厳がなさすぎて
徳姫の子役はかわいいな
今川家がいつどう滅んだのか?完全スルーされているんだなw
豊臣秀次の血統はしっかり残されてます。
しかも秀頼系の血統は天秀尼(秀頼娘)の死で江戸前期に絶えたのに対し、秀次の血統は実は現在も続いてます。
秀次の次女の血統は真田信繁(幸村)の子孫として現存してます。
当初は秀次の名籍を継ぐ形で「三好姓」を名乗ったようですが、
最終的には「真田幸村の子孫のほうが見栄えがいい」という理由かららしく、明治には真田姓に戻したようですが。
歴史の神様は秀次を見捨てなかったとも取れますね。あんなに残したかった秀頼系よりも、秀次系のほうが血統のこりましたからね。
秀勝の血統も残ってるな。完子から九条家へ、そして貞明皇后を通じて昭和天皇へと。
エピソードの数
原作:徳川家康>功名が辻
大河ドラマ:功名が辻>>>>>徳川家康
現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏の血を受け継いでいる。
豊臣完子─九条道房─待姫─輔実─幸教─二条宗基(母は徳川吉通の娘信受院)─治孝─九条尚忠─道孝─貞明皇后─昭和天皇─今上天皇
武田勝頼役の俳優さんは何気に美形ですね
朝日姫が美形でがっかり
他のドラマでは朝日(旭)がブスで盛り上がっているのにねw
他人下げしないと成立しない主役ってのもなぁ・・・
今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
家康「(中山道の)進軍はゆるりとな」
秀忠がsageられないようにした
自力での領土拡張度
秀吉>信長>>>家康
北政所が東軍寄りだったというのは間違え
@北政所周辺に西軍関係者が多い
三成の娘(辰姫)が養女になっている
側近の東殿は大谷吉継の母である
一説には小西行長の母ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)も側近である
A西軍寄りと見られる行動を取っている
側近の孝蔵主が大津城開城の交渉にあたっている
甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている
B東軍諸将との関係が薄い
『梵舜日記』(『舜旧記』)に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録が無い。
今の若い人にとっては夏目雅子さんは「伝説の美女」だそうだ
まだプッツンしていない石原真理子が見れる作品
>>378-379 「いやぁ、アレはひどかった」関ヶ原(TBS)
「御器量芳しからず」葵徳川三代(NHK大河)
朝日はブスに描いたほうがドラマは盛り上がるものだ
ピン子がどうしたって?
>>389 朝日姫はブスのほうがドラマが盛り上がるって話
大河の秀吉の朝日姫は細川直美だったな。歴代で一番綺麗だったんじゃないか。
滝田栄セリフ早口すぎワロタ。しかもところどころ噛んでるしwww
「真田太平記」の遥くららも早口だったけど当時は早口セリフが流行ってたのかね?
春日局(大河)も早口
>>394 『徳川家康』は原作が分厚過ぎるから、なんとか本編にいろいろ入れようとして
早口になっちゃったんだと思う
非現実的・観念的セリフが多いからな、原作は
ナレーション無双でもあるしな
清洲会議とか賤ヶ岳なんてのは秀吉の話なんだからそれこそナレーションか家臣の報告で済ませて
関東での駆け引き描けよといいたい
まぁそうゆう反省から独眼竜とか葵徳川という良作が登場したんだろうけど
松平広忠情けないなー
松平広忠の暗愚さを描き、松平広忠をsage
今川の雑兵の乱捕りを描き、今川家をsage
松平竹千代、駿府の今川館にて堂々と立小便す
しかし平手切腹のあたりは、まるで信長が主人公
語り:館野直光アナウンサー「氏真がもて遊んで捨てた女(瀬奈)」w
>>403 山岡の「織田信長」は、徳川家康の信長のエピソードを切り取って加筆したもの。
今川氏真がもて遊んで捨てた瀬名(築山殿)が主役の正室というのは、ちょっと…
今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
松平広忠の暗愚さを描き、松平広忠をsage
今川の雑兵の乱捕りを描き、今川家をsage
家康「(中山道の)進軍はゆるりとな」
秀忠がsageられないようにした
池上季実子さんの妖艶さは強烈
随風(のちの天海)の名言「事のならざるが却って慈悲」
大賀弥四郎
山岡荘八の『徳川家康』などのフィクションでは、築山殿とも共謀して武田勝頼に内通していたように描かれているものもあるが、史料の裏づけはない。
『徳川実記』によると、初めは徳川家康の中間だったが、
算術に長じていたため会計租税の職に試用された後、
三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。
普段は家康の居する浜松にありながら、
ときどき岡崎にいる嫡男松平信康の用も務めるようになり、
両者の信任を得て権勢並びなき者となり増長した。
しかし、家康の家臣近藤某が領地を加増されたとき、
大賀弥四郎が自分のとりなしによるものだと言ったため、
近藤は大賀に追従してまで加増されたくはないと返上を申し出でた。
このことがきっかけで、家康が大賀の日頃の悪行を耳にすることとなり、
大賀は捕らわれて家財を没収された。
すると、大賀が小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵と共謀し、
岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きすることを書いた、武田方への書簡が発見された。
山田八蔵も変心して信康に訴え出たため、大賀は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子五人がはりつけにされたのを見せられた後、
岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、七日後に死亡した。なお、小谷は甲州へ逃れ、倉知は討ち取られ、山田は千石を加増されたという。この事件の翌年に、勝頼が徳川方へ侵攻した長篠の戦いが起こっている。
『三河物語』では、上記のエピソードの他に、大賀の讒言によって家康と信康の間が険悪になったとも記されている。
岡崎三郎(信康)
現在では一般的には松平 信康と表記されるが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)に既に徳川に改姓しているため、生前は徳川 信康と名乗っていたということになる。
しかし、江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は将軍家と御三家のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「松平 信康」に格下げされたという。
築山殿
「生得悪質、嫉妬深き御人也」(『玉輿記』)。
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」(『柳営婦人伝』)。
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(『武徳編年集成』)。
「凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)。
『改正三河後風土記』では唐人医師の減敬と密通していたとされており、その有様は古代の道鏡・称徳天皇に匹敵するとされている。
信康に小侍従を斬らせ、信康をsage
キャステイングエピソード
徳川家康 当初は小柄で丸顔、やや小太りという従来のイメージのもとキャスティング選考が行われた。
リストアップされたのは緒形拳、松平健、中村梅之助、江守徹。
しかしながら、前者三人は前年度の大河『峠の群像』に出演しているため見送り、江守もスケジュールや家康の16歳時からの出演という条件には無理があり、こちらも実現出来なかった。
代わってスタッフ間に浮上してきたのが「なにも家康のそっくりショーをやるわけではない。われわれの手で新しい家康像を作り出そうではないか」という声で、30代前半の俳優に的を絞り、実力本位で選考した結果、滝田栄に決定。
かくて長身で面長、「最も家康に似ていない俳優」が家康役に決定した。なお、候補の1人だった中村梅之助は2年後のNHK大型時代劇『真田太平記』で家康を演じている。
豊臣秀吉 脚本担当の小山内美江子の強い希望により武田鉄矢に秀吉役が配された。武田は『おんな太閤記』の時にも秀吉役の最有力候補だったが、当時はTBS『3年B組金八先生』第2シリーズ出演中だったため実現しなかった。
この時代の大河は俳優たちが一生懸命演じている
奥平九八郎「この乱世で一番強いは武田勢と言われてござる。二番目が三河勢だそうな。
此度の戦はその誤りを正す絶好の機会と存ずる」
独り言を書いて楽しい?
織田信長 「最後の時代劇大河」になるかも知れない、ということで有終の美を飾らんと番組のヒットを祈念するスタッフは信長役には大物俳優の起用を切望していた。
その第一候補は当時の大人気歌手沢田研二である。この出演依頼に沢田も所属事務所の渡辺プロダクションも大乗り気。
早速スケジュールの調整が行われたが沢田の予定は既に先の先まで埋まっており、拘束時間の長い時代劇大河の入り込む余地は殆んど無く、「出演不可能」の結論が出されたのは配役発表の一週間前。
トップ演出の大原誠はじめスタッフは急遽大物スターの起用を諦め、新人採用の方針に転換。
時任三郎などが候補に挙がったが、最終的に端役ながら大河ドラマ出演の経験もあり、3年前に連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』でヒロインの夫の西城亮平役の滝田とも共演済みで、
NHKスタッフには既にその実力が認知されていた無名塾所属の役所広司に決定。
放送後、NHKには問い合わせの電話が殺到、評判となった。送られてきたファンレターも番組出演者中最大量。「役所君の持つ、精悍さの中にある優しい瞳に我々は賭けたのだ」というスタッフの意気に応えた。
撮影エピソード
ドラマの戦闘シーンのロケは富士山麓と御殿場市で10日間かけて撮影された。
兵士役はエキストラを招集し東京からバスでロケ地へ送迎していたが、
撮影3日目に東名高速道路で起きた事故の影響で足止めに遭い、撮影の遅れが懸念された。
やむを得ずチーフプロデューサーの澁谷康生をはじめ現場のスタッフ20名が衣装をつけ雑兵役に扮して撮影に臨み、
6時間遅れでエキストラを乗せたバスが到着するまで、撮れることが可能なシーンを撮影して急場を凌いだ。
大河ドラマ「徳川家康」は山岡荘八氏の「徳川家康」。
原作は全26巻、総ページ数約10000ページと言う大著です。
それゆえに原作通りにドラマを作ったのでは1年や2年の枠では入り切らず、エピソードを削らざるを得ません。
大河ドラマの原作は司馬遼太郎や堺屋太一など様々な歴史作家が書いていますが、ここまでのボリュームの原作は存在しません。
ただし、山岡荘八氏の「徳川家康」の初版刊行は昭和31年(1956年)。
家康への研究そのものが進んでいなかった事もあって、山岡氏の著作自体にも創作が見られるし、歴史的な矛盾点も存在します(ドラマもその点は基本的に踏襲されている)。
>エピソードを削らざるを得ません。
信長や秀吉のエピソードを削ってリメイクして欲しい
やるなら良い原作に基づいてリメイクしてほしい。
昔と今では研究結果とか解釈もだいぶ違うだろうから。
426 :
更新:2014/12/19(金) 09:50:13.29 ID:???
>>415 今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信康に小侍従を斬らせ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
松平広忠の暗愚さを描き、松平広忠をsage
今川の雑兵の乱捕りを描き、今川家をsage
家康「(中山道の)進軍はゆるりとな」
秀忠がsageられないようにした
徳川の負けイクサ:第1次上田合戦、第2次上田合戦なんかも正直に描けばいいのに。
『葵徳川三代』は逃げずに負けイクサをしっかり描いた。
【話題】「織田信長」役がもっとも似合う俳優といえば? 1位は小栗旬、2位は反町隆史★2(c)2ch.net
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1417925332/ ●1位/小栗旬(『信長協奏曲』/2014年)……12.8%
○2位/反町隆史(『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』/2002年)……10.0%
●3位/及川光博(『信長のシェフ』/2013年)……8.9%
○4位/渡辺謙(『織田信長』/1989年)……7.2%
●5位/渡哲也(『秀吉』/1996年)……6.7%
○6位/江口洋介(『軍師官兵衛』/2014年)……6.1%
●7位/木村拓哉(『織田信長 天下を取ったバカ』/1998年)……5.6%
○7位/豊川悦司(『江〜姫たちの戦国〜』/2011年)……5.6%
●9位/役所広司(『徳川家康』/1983年)……5.0%
○10位/緒形直人(『信長 KING OF ZIPANGU』/1992年)……3.3%
●10位/伊藤英明(『国盗り物語』/2005年)……3.3%
※単一回答式・12位以下は省略
http://woman.mynavi.jp/article/141206-29/
>>428 戦国自衛隊で織田信長役やった鹿賀丈史が入ってないんだな
430 :
名乗る程の者ではござらん:2014/12/20(土) 16:34:26.06 ID:ut5KTxO6
>>428 高橋幸治が入っていない時点で、全く信憑性無い。
若い人は高橋幸治知らんよ どうしようもない。
432 :
430:2014/12/20(土) 17:07:20.93 ID:ut5KTxO6
>>431 リンクにあるスレ及びその前スレを見ると、圧倒的に高橋幸治が無いのはおかしいとの話題になっているよ。
これを見ると、アンケート先の”働く女性”の程度が知れる。
ひょっとしたら、今安部内閣が進めている女性の社会進出に反対するため、「こんなアホな結果を出す連中にやっぱり大切な仕事は任せられない」と社会に印象づけさせるための陰謀かも。
いや、だって、幸治知ってる世代で現在「働く女性(フルタイムのことだろ?多分)」やってる女なんてなかなかいないから
だな
>>426 三成に秀次の妻子を処刑させ、三成をsage
437 :
430:2014/12/20(土) 19:13:23.39 ID:ut5KTxO6
>>433 黄金の日日なら、最近CSでもやっていたけど、40代後半以上なら地上波でも見るチャンスは有ったと思う。
まあ、高橋幸治を知っているかどうかは、ともかく、アレを1位にする位だから、史実(業績や肖像画など)上の織田信長を知らず、マンガとテレビだけで判断する、何れにしても「アホな結果を出す連中」と言えるのではないかな?
438 :
更新:2014/12/20(土) 19:16:06.75 ID:???
今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信康に小侍従を斬らせ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
三成に秀次の妻子を処刑させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
松平広忠の暗愚さを描き、松平広忠をsage
今川の雑兵の乱捕りを描き、今川家をsage
家康「(中山道の)進軍はゆるりとな」
秀忠がsageられないようにした
380 :名乗る程の者ではござらん:2014/12/08(月) 22:48:03.69 ID:???
他人下げしないと成立しない主役ってのもなぁ・・・
語り「金沢の前田家に対し当主利長の母・おまつを江戸に差し出すようにと
家康からの命令が届いていた」
前田利政「あまりといえば、あまりに無法な内府が申しじょう。
一大名が自分の領地に他の大名の人質をおさめさせた例は全くございませぬぞ」
>>438 その面子の中で一番下げられているのは信康だと思う
「これでもか、これでもか」と下げられた信康…
秀頼の遺児国松の処刑を秀忠の裁断とし、秀忠をsageた
秀頼自害を井伊直孝の責任とし、井伊直孝をsageた
444 :
名乗る程の者ではござらん:2014/12/21(日) 00:35:29.89 ID:Tqz5aK5x
>>419 武田は、長篠城を落とせず、鳶ノ巣山を襲われ、設楽が原で殲滅される。
確かに誤りを正した。
秀頼自害も国松処刑も家康が決めたこと。
井伊直孝と秀忠が気の毒。
キチガイの独り言連投がキモすぎる件
今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信康に小侍従を斬らせ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
三成に秀次の妻子を処刑させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
松平広忠の暗愚さを描き、松平広忠をsage
今川の雑兵の乱捕りを描き、今川家をsage
秀頼の遺児国松の処刑を秀忠の裁断とし、秀忠をsage
秀頼自害を井伊直孝の責任とし、井伊直孝をsage
松平忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父親から生涯を通じて嫌われた。
その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。
「藩翰譜」は「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、
と伝える。
つまり、家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのである。
天正二十年(1592年)の1月4日、徳川家康の6男・松平忠輝が誕生しました。
家康の息子なのに苗字が違うあたりでもうなんとなく見当がつくかもしれませんが、この人は父親に理不尽な嫌われ方をされ続けています。
その理由が「生母の身分が低いから」とか「顔が醜かったから」など、とても人の親がする言い訳とは思えないものばかり。
身分の低い女性がイヤなら手をつけなければいい話ですよねえ。
家康という人は何故か子供の顔に異常なほどこだわりがあったようで、忠輝の異母兄である結城秀康も「顔が魚っぽいからヤダ」というそれこそ子供のワガママのような理由で冷遇し続けています。
次男も六男も身分とか顔以外の理由があったのかもね
6歳 今川の人質になる・・・はずが織田家へ
8歳 やっと駿府へ
14歳 元服して元信
16歳 元康に改名、瀬名姫と結婚
18歳 信康誕生
20歳 独立
家康の三大危機のうち、三方ヶ原の戦い、伊賀越えは上手く描かれているけど
三河一向一揆は手抜き
三方ヶ原に家康が率いた兵は8千(&織田援軍3千)
諸城の守りに3千を配備
計1万1千
1万石あたり250人動員として
44万石
「語り無双」が目立つドラマですね。
珍説
信康は今川氏真の子だった
456 :
名乗る程の者ではござらん:2014/12/29(月) 22:28:31.15 ID:l+OHB2sg
大賀弥四郎ネタで引っ張り杉
築山殿は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児との人質交換によって、
駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った。
しかし、岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、
幽閉同然の生活を強いられたという。
永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚する。しかし、築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。
榊原康政はほんのちょっとしか出てこないのな
>>457 雪斎による織田信広と竹千代の人質交換に学んでるな。
まったりsage進行
伊賀越え
堺を経って四日間、全長三〇〇キロの強行軍であった。
ねねが漫画家だったとは知らなかったな
463 :
名乗る程の者ではござらん:2014/12/31(水) 12:04:54.41 ID:cSrzbruo
>>461 これでは、浅井長政の三女は一緒じゃなかった?
大の大人、しかも戦国武将でも大変だろうけど、9歳の童女に4日間、全長300キロの強行軍は大変だっただろうね。
そもそもあの時浅井三女が境にいるわけ無いし
465 :
名乗る程の者ではござらん:2015/01/01(木) 19:12:18.34 ID:UKyt3P0G
浅井三女は、堺どころか、その直前、本能寺に居たんでしょ?
466 :
名乗る程の者ではござらん:2015/01/03(土) 08:01:54.93 ID:iQWFt+MS
みんなシエのトラウマから抜けられないんだな
♪おー、おー! おー、おー!(おっさんの声)…♪ とかゆうお経みたいなBGMダサ杉w
960 :日曜8時の名無しさん:2015/01/02(金) 08:38:25.17 ID:/Wm4ABOM
徳川は秀吉との戦に備えて武田の残党を大量に召し抱えてるからな
やたらと武田↑はその所為もある
人質関連年齢差
当主他 織田→今川移送時の年齢
1534年 織田信長 +9 17
1538年 今川氏真 +5 13
1543年 徳川家康 8
1545年 北条氏規 -2. 6
付き従った家臣
1527年 酒井忠次 +16 24
1533年 石川数正 +10 18
1539年 鳥居元忠 +4. 12
1542年 平岩親吉 +1 9
1548年 本多忠勝 -5 4 ただし駿府へは10歳のときとのこと
家康は、使えた主君は死ぬまで裏切らいと本に書かれてたけど確かに義元、信長、秀吉には死ぬまで裏切らかったね。
家康は義元が死んでから氏真にも、弔い合戦を勧めているし。
氏真が、へたれだから信長についたんだし。
秀頼については、さすがに天下の欲望に勝てなかったんだろうな。
氏真については義元死後すぐに裏切ってると思ったが
あと氏真は義元のかたき討ちをしたいという手紙もあったはず
家内の大半の重臣が死んで領内の混乱ももあり断念したようだけど
子供の頃から長いこと見てた相手だから見限るにしてもさっさとできたのも当然なんじゃないかね
ああやっぱりこいつは駄目だと
氏真に勧めたというのもその辺のチェックテストみたいなもので
混乱した今川家内を即座まとめられなかった時点で新当主落第という
ただ義元がでかすぎたというのもあるけど
そんな駄目人間をまさかその後ずっと相手するはめになるとは
思ってなかっただろうが
信康の子供が二人とも女の子で良かったよね
男だったら面倒なことになっていた
幼名を於義伊(於義丸/義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われ、
満3歳になるまで対面を果たせなかった。
その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。
冷遇の理由は双子で生まれてきたことにあるともされる。当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた。
476 :
名乗る程の者ではござらん:2015/01/23(金) 11:50:58.99 ID:YPYTrjrZ
い・・・家康が2人!?
まさか影武者か!? と思ったら片っぽは大久保長安だった。。
て、古いボケスマソ。言ってみたかっただけですんで。。
477 :
名乗る程の者ではござらん:2015/01/23(金) 23:07:13.04 ID:yhGBfoEe
>>475 秀康さんは、嫌われてお兄さん亡き後の長子なのに家を継げなくて可哀想だけど、大大名になって子孫も繁栄したからまだマシ。
もっと可哀想なのは、死んだことにされ、知立(池鯉鮒)で息を潜めて生活しひっそり死んでいった双子の弟さんの方だね。
信康さんも、もう一人の弟までは気がつかなかったのかな?
>>477 晩年片足が不自由だったらしいけど
神職ってそんなに不遇な訳じゃないでしょ?永見貞愛
永見 貞愛(ながみ さだちか、天正2年2月8日(1574年3月1日) - 慶長9年11月16日(1605年1月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。
徳川家康の次男・結城秀康の双子の兄弟といわれる。
当時は「犬畜生と同じ双子腹」が忌み嫌われていたため家康から実子として認められず、彼は夭折したことにして、
母(長勝院)の実家である永見家に預けられ、そこでそのまま育った。
永見氏の一人として育った貞愛は、知立神社の神職を伯父の永見貞親から譲り受けたが、慶長9年11月16日に死去。享年31。
子女はいなかったといい、妻の姓名も不詳だが、晩年に足が不自由になっていたと伝わる。
秀吉との外交を担当していたが、次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉との外交を担当していたが、秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
秀吉との外交を担当していたが、対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
「内府」と呼ばれた人たち
羽柴秀吉
織田信雄
徳川家康
他多数
483 :
482:2015/01/24(土) 07:45:13.23 ID:???
徳川秀忠にも内府(正二位・内大臣)の時期があった
484 :
名乗る程の者ではござらん:2015/01/24(土) 14:08:44.63 ID:a2EFP4iY
>>481 左大臣や太政大臣は、名誉職的な位置づけで、任命されないことが多かったようだけど、
右大臣以下は、何時も誰かは任命されていただろうから、内府と呼ばれた人なんて数え切れないくたい居るんじゃない?
数えきれないほどいます
だ〜か〜ら
他多数
と書いておきました
しかし私みたいに、内府=家康、家康=内府と思い込んでいた人間には驚きだぞw
そうか、内大臣=内府だったのか。
三成め。木の実を殺したな。
まあいい。もうすぐ関ヶ原だ。
内府というのは、朝廷の官職(太政官)の「内大臣」の別称で、
中国(隋や唐の時代)の官職名になぞらえてこう呼びます。
家康は秀吉の時代に内大臣に任じられていたので「内府」と呼ばれたのです。
ちなみに家康は、1603年に征夷大将軍に任じられると同時に右大臣に昇進しており、
それ以降は「右僕射」「右丞相」「右府」などこれも中国風の呼び方で呼ばれるようになります。
昔は、官職を中国風の別の呼び方にすることが多く、その官職に複数名が任じられている場合には、地名を付けて個人を特定して呼ぶことが多く、
例えば、徳川光圀が「水戸黄門」と呼ばれたのは「水戸徳川家の権中納言」という意味で(黄門は中納言の中国風の呼び方)、
伊達政宗は大崎少将(仙台の大崎に領地を持つ右近衛少将)、宇喜多秀家は備前宰相(備前美作に領地を持つ参議=宰相は参議の中国風の呼び方)と呼ばれました。
ちなみに、家康が右大臣に昇進した後の「右僕射」という官職名は後に大阪冬の陣のきっかけになっています。
秀吉の霊を弔うために豊臣家が方広寺の鐘に「君臣豊楽 子孫殷昌」と彫ったのですが、
徳川幕府はこれを「豊臣を君とし、子孫の殷昌(繁栄)を楽しむ」、
奉納者として彫った家康の名前「右僕射家康公」を「家康公を射る」と読み、『家康を呪っている』碑文である、
と言いがかりをつけたのです。
無届の婚姻は家康を美化することは、さすがに無理だったw
@第37回の31分あたり
病床の前田利家が見た家康の幻影
家康が悪役に見える超貴重なシーン
この大河は家康が主役なので、黒家康は利くんの夢の中限定の希少な家康です
よく、室町中期の今入局が他にも同じ命名された女はたくさんいたという話と一緒だな
伊賀越え当時、家康に随行していた供廻は、以下の僅か34名であった。
酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、本多正盛、石川康通、
服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、
牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、
多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、
永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎
これらは徳川四天王をはじめとする徳川家の重鎮が揃っており、光秀の配下や一揆等に襲われていたら徳川家への大打撃は必至であった。
第38回「機は熟す」では家康は悪役
「真田太平記」の戦闘シーンは、どこかで見たことがあるな、と思っていたら
「徳川家康」の関ヶ原のシーンからとってきたものだった
三方ヶ原:鶴翼の陣の負け
関ヶ原:鶴翼の陣の負け
川中島:鶴翼の陣大苦戦(武田の副将・武田信繁戦死)
おみつ→栄の局:萬田久子(納屋蕉庵の養孫、のち豊臣秀頼の侍女、架空の人物)
鳥居おますって女?
性別判別不能
鳥居おますって漫画家みたいな名前だなw
Yahoo知恵袋より
>鳥居おますは分かりませんが、三浦おかめは本名では無く、三浦亀丸が本名だと記述した文書があります。
> 亀丸が何故おかめと称せられたかは不明です。顔立ちがおかめだったのか、亀丸がおかめとなったのかではないかと思われます。
柳生宗矩
慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀(大天狗正家)で瞬く間に倒したという。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
片桐且元いとあはれ
方広寺鐘銘事件だけは家康を美化できなかったw
当初、重要な役どころだった登場人物がその役割を終えるや、後日譚もその死も全く語られない人物が幾人か見られる。
追加
おみつ(栄の局)
>>504 歴史的重要事件なのに方広寺鐘銘事件はさらっと流されていましたねw
もしも、まともに描くと、主役(家康)が悪役になるw
「恐れながら大御所様のご自愛が通じるほどなら、(秀頼は)関ヶ原の折、助けられた恩を忘れて(後略)」
関ヶ原の戦いは「豊臣の家臣同士の戦い」ではなく、
豊臣(西軍)と徳川(東軍)の戦いだった、ということなんですね。
政宗の右目に絆創膏はってて萎えた。
架空の人物の使用法…
@信康に小侍従(架空の人物)を殺害させる
A三成に木の実(架空の人物)を殺害させる
B秀頼に栄の局(架空の人物)を犯させる
まだプッツンしてない石原真理子を見られる貴重なドラマ
プッツン女優
>>504 原作小説では、秀頼を大坂城から退去させるために、もうこんな手しか残ってない自分を情けながって泣いてたっけ
石原真理子・・・
実写映画版「めぞん一刻」で響子さん演じてたんだよなあ・・・
五代が石黒賢で
石原真理子と聞いて思い浮かぶのは、ふぞろいの林檎たち
ネコババのジョー・グレイス。
どこかで見た顔だと思ったら独眼竜のチョトマテクダサ〜イのジジィだったw
戦国自衛隊〜関ヶ原の戦い〜
伊庭 明義(伊庭隊2等陸尉)「後世に徳川家康を信じてはならぬ、と伝わっております」
家康の正室は「氏真がもて遊んで捨てた女」
>>519 山岡は、氏真、築山殿を悪く書き過ぎだな。
第9回「岡崎入城」
この期に及んでも まだ今川氏真と瀬名の2ショットシーンがある
甲相駿同盟で氏真は正室早川殿を北条家から迎えてることをスルーしてるよな。
氏真は結構愛妻家だったんだがね。
主役ageの犠牲者一覧
今川氏真の暗愚さを描き、氏真をsage
武田勝頼におふうを処刑させ、勝頼をsage
信康に旅の僧侶を殺させ、信康をsage
信康に小侍従を斬らせ、信康をsage
信長のせいで信康が自害したことにし、信長をsage
石田三成に木の実を殺させ、三成をsage
三成に秀次の妻子を処刑させ、三成をsage
豊臣秀頼におみつを犯させ、秀頼をsage
築山殿が大賀弥四郎と密通したことにし、築山殿をsage
松平広忠の暗愚さを描き、松平広忠をsage
今川の雑兵の乱捕りを描き、今川家をsage
語り:館野直光アナウンサー「氏真がもて遊んで捨てたオンナ(瀬名)」
氏真&瀬名、セットで下げられた
>>520 今川が専門の小和田哲男が監修していれば、
氏真はもっとまともに描かれただろうに。
穴兄弟
今川氏真
徳川家康
大賀弥四郎
信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、
濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として、
道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性はあるものの、
斎藤氏、土岐氏の血を引く濃姫の子供が信長の嫡男であれば、
より円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できるためではないかと思われる。
事実、信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている。
減敬と築山殿の密通は、文献があったみたいだが、氏真と大賀は山岡の完全な創作だろう。
築山・信康母子の下げられ方は異常
築山殿は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児との人質交換によって、
駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った。
しかし、岡崎城に入ることは許されず、
岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。
永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚する。しかし、築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。
本能寺の変が起きたときの所領は22年前の今川領と同等
全国的にも東北の乱立する大名よりちょっと上って言うレベルの大名だった
天下が取れたのは運以外の何者でもない
運を生かせるのが実力だな。
本能寺後に甲府、信濃を勢力圏に入れたのがでかい。あとは小牧長久手で自分を高く売るのに成功。
並みのやつにはできない。
@信康に小侍従(架空の人物)を殺害させる
A三成に木の実(架空の人物)を殺害させる
B秀頼に栄の局(架空の人物)を犯させる
こうして↑見ると、なんとも思わない
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@信康に小侍従を殺害させる
A三成に木の実を殺害させる
B秀頼に栄の局を犯させる
こうして↑見ると疑似世論の形成法
永見貞愛
徳川家康の次男・結城秀康の双子の兄弟といわれる。
当時は「犬畜生と同じ双子腹」が忌み嫌われていたため家康から実子として認められず、
彼は夭折したことにして、母(長勝院)の実家である永見家に預けられ、
そこでそのまま育った。
永見氏の一人として育った貞愛は、
知立神社の神職を伯父の永見貞親から譲り受けたが、
慶長9年11月16日に死去。享年31。子女はいなかったといい、妻の姓名も不詳だが、晩年に足が不自由になっていたと伝わる。
小谷城落城後
お市の方をどう扱うか、なんて話は
徳川家康と関係ないじゃんwww
537 :
536:2015/02/07(土) 16:11:01.39 ID:???
大河ドラマ「徳川家康」の構成
大河ドラマ「三英傑(信長・秀吉・家康)」⇒大河ドラマ「秀吉・家康」⇒大河ドラマ「家康」
信長単体の話と秀吉単体の話を共にカットすれば、つまらんドラマだ
山岡の徳川家康と織田信長を読んだら、信長はほとんど家康からのコピペ、抜き書き。
天正10年(1582年)6月2日、京都で信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こると、
旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。
河尻秀隆の同僚の森長可・毛利長秀が領地を放棄し美濃へ帰還する中、秀隆は甲斐国に留まる。
駿河を領有し、甲斐に野心を抱いた徳川家康は秀隆を美濃に帰そうと本多信俊を使者として送るが、秀隆は応じず信俊を殺害した。
しかし、その後発生した一揆に抗し切れず、秀隆は甲斐国からの脱出を試みるも、
岩窪において武田遺臣の三井弥一郎に6月18日に殺害された。享年56。
河尻秀隆の死により空域化した甲斐国はじめ武田遺領は、相模の北条氏直との天正壬午の乱を制した徳川家康が領した。
奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。
元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは貞昌の弟の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。
元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。
処刑の前、おふうはこう述べたという。
「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
人は畜生以上に浅ましいものでございます。」
そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。
おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。
おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。
「三河物語」に限らず徳川正史には今川義元は
必ず悪役として登場している。
そのわけは世話になった今川氏を裏切ってその領土を
奪った家康を擁護・正当化するため。
家康が人質時代今川にいじめられたというのは
作り話に近いことは今や広く認められている。
信康事件もこれと同種の話と考えてよい。
神君家康が妻子殺しなどとは口が裂けても
言えまい。だから信長に責任を押し付けた。
545 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/10(火) 22:22:21.50 ID:BzaDN6ox
>>543 千丸君は鳳来寺口で処刑されたけど、おふうさんが処刑されたのは、玖老勢の舞々坂だよ。
四天王の影が薄い
信長 KING OF ZIPANGUに滝田栄さんが柴田勝家で登場していたけど
完全にミスキャストだった
>>547 あれがあの後あの秀吉にしてやられるとか想像できない
岐阜に用事があったんで岐阜城に行ってみた。
岐阜城、山の上過ぎ!
下から見上げると山の上にポチっと見える感じ。
要害だったらしいけど、鍛えていない農業との兼業兵士じゃ
城に取り付く前にへたばったと思う。
もちろん自分はロープウェイ使ったが。
でも、城からの眺めは絶品だった。
夕暮れの街に長良川が光っていて綺麗だったよ
昨日は長浜と彦根にもいったけど、長浜は雪で身動き取れなかった・・・
なんでもかんでも「家臣が勝手にやったコト」にするんじゃねえよ滝田家康!
無責任杉やろ
ばんそうこう政宗の中の人ってとうの昔に若死にしてたんだな。
552 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/14(土) 10:42:23.82 ID:CdL8Yp4X
>>549 斉藤家はいざ知らず、織田信長公の軍は、兼業兵士ではなく、専業兵士だったから。
ただ、当時の農業は機械化されていないので、今の三ちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん)と違って、
一番重労働だっただろうから、専業兵士より体力あったかもね。
554 :
551:2015/02/14(土) 12:41:26.71 ID:???
生きてたら独眼竜出演もあり得ただろうに
まさにその年に逝くとは狙ってたとしか思えん。
伊達政宗:尾上辰之助
大河云々よりも歌舞伎界の重鎮になるはずだった人だな。
尾上菊五郎、市川團十郎と同世代で仲が良かった。
いくら戦国時代とはいえ、勝頼は残酷すぎる。
長篠城の戦いで鳥居強右衛門を捕えて磔にしたり、おふうの方や仙千代みたいな
女子供を殺したり。
鳥居のような勇者は敵ながら天晴れと称賛して城に帰すべきでしょ。
そうすれば敵も味方も、血も涙もある大将よと、感服したはず。
戦国時代の人質ってものがわかってないよなw
他の連中は別にして、鳥居は人質じゃないからな。
まあ、切腹命じて拒否なら斬首でも良かったろう。
辰之助は後鳥羽院がはまり役だと思ってたが政宗もいいな
561 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/20(金) 22:39:32.72 ID:pyDgf9aa
>>557,559
勝頼の武田家は、孫子を旗印にしていたくらいだから、楚荘王と解揚の故事を知っているはず。
その上で鳥居を殺したので、無能の極地というべき。
それか、親父と違い、孫子の意味も解らず旗印にしていたのかな?
何れにしても、無能な奴。
562 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/24(火) 12:02:50.32 ID:YMpynkAz
>>457 築山殿は相当問題のある人だったみたいね
築山殿は傲慢で嫉妬深い女性だったと伝わる。
史料の多くは後世の江戸時代に編纂されたもので、多少の誇張もあろうが、
江戸時代に権現様となった家康の正室だった人物がここまで貶められているのは異常とさえ言える。
ただし政治的に考えれば、政略結婚の価値がなくなった彼女を始末した徳川家が、
彼女を処断した事を正当化するためにでっち上げたものであるという可能性も否定できない。
「生得悪質、嫉妬深き御人也」(『玉輿記』)。
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」(『柳営婦人伝』)。
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(『武徳編年集成』)。
「凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)。
『改正三河後風土記』では唐人医師の減敬と密通していたとされており、その有様は古代の道鏡・称徳天皇に匹敵するとされている。
今川氏の滅亡が省略されている
第10回「三河一向一揆」
第13回「三方ヶ原合戦」
第25回「伊賀越え」
家康の三大危機のうち、三河一向一揆だけが危機に見えない
NHK大河ドラマ杯・秀吉役No.1決定戦
┌───── 勝新太郎(独眼竜政宗)
┌─┤ ┌─┬─ 仲村トオル(信長-KING OF ZIPANGU)
│ └─┤ └─ 西田敏行(おんな太閤記)
│ │ ┌─ 緒方拳A(太閤記、黄金の日日前半)
優勝┤ └─┴─ 竹中直人(秀吉、軍師官兵衛)
│ ┌─┬─ 武田鉄矢(徳川家康)
│ │ └─ 香川照之(利家とまつ)
│ ┌─┤ ┌─ 藤岡琢也(春日局)
└─┤ └─┴─ 火野正平(国取り物語)
└───── 緒方拳B(黄金の日日後半)
大河ドラマ YODODONO頂上決戦
┌───── 夏目雅子(徳川家康)
┌─┤ ┌─┬─ 永作博美(功名が辻)
│ └─┤ └─ 池上季実子(おんな太閤記)
│ │ ┌─ 樋口可南子(独眼竜政宗)
優勝┤ └─┴─ 松たか子(秀吉)
│ ┌─┬─ 藤村志保(黄金の日日)
│ │ └─ 瀬戸朝香(利家とまつ)
│ ┌─┤ ┌─ 大空眞弓(春日局)
└─┤ └─┴─ 深田恭子(天地人)
└───── 小川真由美(葵 徳川家康)
571 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/26(木) 00:14:03.64 ID:6ILCHa2z
>>566 緒方拳Avs緒形拳Bの決勝戦ですね。
>>567 シード1位夏目雅子のダントツ優勝ですね。
家康の父・松平広忠の死因
・病死
・岩松八弥(片目弥八)による殺害
・一揆による殺害
当初、重要な役どころだった登場人物がその役割を終えるや、後日譚もその死も全く語られない人物が幾人か見られる。
石川数正
本多忠勝
おみつ(栄の局)
水野信元
今川氏真
575 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/28(土) 02:15:06.68 ID:KXzIdL7G
>>574 奥平信昌夫妻(おふうさんじゃないほう)
本多作左衛門は、その死が語りで伝えられているから該当せず。
意外と少ないものなんですね
>>574-575
577 :
名乗る程の者ではござらん:2015/02/28(土) 11:32:03.47 ID:SekqFA3x
家康のラック
・田舎人質世継ぎが一級の教育を受けれた
・義元が討ち取られた
・三河衆が松平家を変わらず当主として迎え入れてくれた
・氏真が三河を纏めきるまで攻めてこなかった
・信玄がギリギリのタイミングで死んでくれた
・本能寺の変が起こった
しかも、自国の隣に突然空白地帯(甲斐、信濃)が生まれた
・女好き秀吉に年相応の実子がいなかった
・秀頼が徹底抗戦してくれた
・秀吉の息のかかった武将たちが、半島で感染した梅毒で全滅
秀忠が元服してこの名前になったのは
やはり、秀吉に忠義、という意味があったの?
秀吉の偏諱と安城松平家の通字の忠を合わせただけだよ
584 :
名乗る程の者ではござらん:2015/03/04(水) 16:27:44.32 ID:hFiLcMsI
『三河物語』によると、
本能寺で異変に気づいた信長の最初の言葉は
「上之助がべつしんか(城介が別心か=信忠の謀反か)」であったとされる。
ただし本能寺の変の際、著者の大久保忠教は京都にいなかったため、
どこまで信憑性があるか疑問がもたれる。
585 :
名乗る程の者ではござらん:2015/03/04(水) 23:14:35.09 ID:Yz0pXbPw
>>583 安祥家は、何故か一代おきに忠を使って居るけど、何故?
秀忠さんの孫からは、家綱、綱重、綱吉と使われなかったみたいだけど。
>>585 通字を家にしてしまったからだろう。両方組み合わせると家忠だが、有名な松平家忠が居たしな。綱吉は兄家綱から偏諱を貰ってるんで参考にならない。
長親は実際は長忠と名乗っていた可能性が高いので一代おきじゃない
家康以外で唯一忠を使わなかったのは清孝(清康)だけど、
清忠とならなかったのは父の信忠が自身の法名の「奉孝」の字を与えたかったからではないかと
新編安城市史で指摘されている。
事実、清康の兄弟も「信孝」「康孝」という名前である
>>587 34 名前:人間七七四年 :2015/03/05(木) 10:18:30.19 ID:WZUeQgXc
>>33 忠が安城家の通字の可能性が高い
あと長親は実際は長忠と名乗っていた可能性が高いので一代おきじゃない
家康以外で唯一忠を使わなかったのは清孝(清康)だけど、
清忠とならなかったのは父の信忠が自身の法名の「奉孝」の字を与えたかったからではないかと
新編安城市史で指摘されている。
事実、清康の兄弟も「信孝」「康孝」という名前である
人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
別のスレから丸コピペしてるの?
池沼か?1は
家康公はなぜに江戸を拠点にしたのかな?普通は小田原だよね?家康公が入る前の江戸は湿地帯の糞田舎だったらしいが。とにかく、現在の東京の繁栄を鑑みるに、家康公の先見の明は偉大だよね
江戸拠点は秀吉の案だとも言われてるが、埋め立てやインフラ整備をやって都市を建設したのがすごいな。
25 :人間七七四年:2013/03/11(月) 22:55:50.85 ID:39RHNs4P
家康公はなぜに江戸を拠点にしたのかな?普通は小田原だよね?家康公が入る前の江戸は湿地帯の糞田舎だったらしいが。とにかく、現在の東京の繁栄を鑑みるに、家康公の先見の明は偉大だよね
三方ヶ原の大惨敗ののち、家康は「脱糞田舎大名」と呼ばれた
脱糞の出典、山岡以外にあるのか?
597 :
名乗る程の者ではござらん:2015/03/06(金) 17:12:45.91 ID:uw2wmeRi
>>594 江戸を首府にしたのは、秀吉公の命令だったんじゃ?
大坂を本拠地にした秀吉公の尾張人的発想(大坂を発展させる元の発想は、同じ尾張の主君信長公らしいけど)。
本来三河人の発想だったら、小田原のままか、埼玉辺りを首府にしていたんじゃないかな?
>>596 あの絵はお漏らし直後って昔から通説なのでは?