涼しげな風が心地良く感じる。
気絶してから丸一日が経ってしまった五日目の昼。
どんどん良くなる体の調子に勇気を出し体を起こす。
体の中を万力で捻られる様な痛みはあったが這って動けるまでになった。
彼が転がされていた場所は黒く固まった血の海になっており
野犬や鴉の群れに襲われなかった幸運に感謝する。
ベルガモットは柔らかな土の上を這いバジルに帰る事にした。
囀る野鳥とさらさらと踊る草花をこんなに綺麗だと思った事は無い。
生命の喜びを噛み締めていた。
午後野原の脇に小川が流れているのを見つけると
血に塗れた体を洗いにその身を入水させてみる。
じわっといやな痛みは暫くすると何処かへと消え
水面に大きな血の筋が走った。
痛みや疲労が押し流れ出る様な赤。
残酷な仕打ちを受けた身を慈しむ清らかな流れ。
岸に半身を浸けたまま柔らかな眠りに包まれる。
月が照らす宵闇の世界。
朧げな夜の象徴は地上へその姿を現し彼を覗き込む。
水面の蒼い輝きがぼうっと浮かび上がらせる青年の美しい身体。
静かな世界は安息と安寧をもたらすと同時に
彼に生きる力を与えるかの様だ。
ベルガモットは目を覚ます。
力が漲っているのを感じながら。
彼が起きたのは真夜中だった。
全身を苦しめていた痛みは左程ではなくなり
歩くのは勿論無理をすれば全力で走る事も出来そうだ。
半ズボンの様な下半身の下着だけを付け
血に染まり更に破れた雑巾の様な衣服は捨てた。
舌にまだ感じる血の味を吸いつつ空腹を覚える。
バジル孤児院に辿り着いたのは
朝日が昇りかけシスターが祈りを捧げている時だった。
バジル孤児院の朝は慌しいものになっていた。
半月近く行方が分からなくなっていたベルガモットが
血に染まった下着姿で突然姿を現したのだ。
何かを喋ろうにも歯が無くなって上手く発音出来ない彼を
ニゲラはすぐさまベッドに運び傷の手当てをする。
諸所の傷は幸い治りかけてはいたものの
彼が受けた受難を物語っていた。
事の顛末を話すとニゲラはこっぴどく怒ったが
すぐにさめざめと泣き出し神に感謝の祈りを捧げた。
安静を取っている間何も出来ない時間が続いたが
時折子供達が耕作の合間を縫ってやってきては
賑やかしてくれるのでそれ程退屈はしなかった。
心を満たしてくれる純真な笑顔。
失敗はしたけれどこの子達の為に命を賭けた事は後悔していない。
ある日ベルガモットはニゲラの部屋を訪れた。
燦々と降る太陽の光とカーテンの影。
涼やかな風が白いレースを揺らす。
「シスター話があるんだ」
今年の食料の予測高と倉庫の目録を前に睨めっこを続けていた彼女は顔を上げる。
なにかしら、と問うニゲラにベルガモットは決心を伝えた。
「俺は旅に出る。冒険者になろうと思う」
驚いたニゲラにベルガモットは続ける。
「近年でも深刻な冷害が続き食料が危ういのはどうしようもない事実だ。
このままでは飢えと寒さで冬は越せないだろう。
食い扶持は少ない方がいいし組合で仕事をこなせば金も入る」
これは最近ずっとベルガモットが考えていた事である。
人一倍丈夫な身体をしているし適正と現状を考えると良い案に思えた。
暫く説得するのに時間を要したが最後はニゲラが折れた。
正午皆でささやかな送迎会を開きキャベツの煮びたしや
漁り尽くされた池から何とか見つけて来たスウィッシュ等が振舞われた。
嬉しそうに食べる子らが微笑ましい。
ここに留まっていては領兵に難癖を付けられる可能性もある。
旅立ちは必要に迫られていたしバジル孤児院の為にもなるだろう。
粗末な着替えを詰めた麻袋。
見送る孤児院の面々の寂しそうな顔。
後ろ髪を引かれたがベルガモットは別れを告げる。
夏の太陽は鮮やかな緑を以て彼の旅立ちを祝福したのだった。
ガラガラガラ・・・。
石畳の上を行く馬車と可憐な花々を売る街娘。
陳列台に山ほど盛られたフルーツと香ばしい匂いがそそるパン屋。
街灯の下では恰幅の良い中年男が身振り手振りを交え談笑している。
ここはソレル北西の街キャットニップ。
隣国クローバーレッドへ抜ける国家街道の北路、
ノースウェスト街道に位置する華やかな街だ。
北西部で一番大きな街の一つを汚らしい服を着てぶらつく青年がいた。
旅の垢に塗れているが良く見れば
その輝くルビー色の髪と端整な顔立ちはどこか気品さえ感じさせる。
すらりと引き締まった体は陶磁器の様な白い皮膚に覆われ
どこぞの物好きが見れば大枚を叩いてでも自分の物にしようとする
そんな美しさを持っていた。
だがあくまでも良く観察すればの話であり
ゴミ箱の中から拾ってきたかの様な汚らしい格好は街の雰囲気から浮いている。
何せ宿に泊まる金さえないからな。
自分がどことなく白い目で見られているのを感じるも
川の水で洗濯し野うさぎを追いかけ野草を食して来た旅で付いた汚れは
どうしようも無いレベルまで来ている。
第一元からボロ雑巾の様な衣服を使いまわして来たのだ
これ以上どうしろといった所である。
そんな街の目を尻目に何とか労働組合の事務所を示す
木製の看板前まで辿り着いた。
労働組合とは国家間の協定で成り立っており
全国から雑役から傭兵業まで人間の手を借りる仕事は大抵請け負う。
正式名称はルバーブ国家役務提供機構条約組織、であるが
面倒なので皆労働組合だの紹介所だの好き勝手に呼んでいる。
この街ではルバーブの呼び名が浸透しているようだ。
俗な呼ばれ方をされようとも国家協定の性格があるので
遠路はるばる仕事をしに旅をしたり
誕生国の外に出て野山に分け入って地質調査の護衛等もする。
それ故ルバーブで生計を立てている者は旅人だの冒険者だのと呼ばれ事が多い。
主に兵役を担う者を傭兵、薬の研究に従事する者を薬師等細かく分類すれば
相応の呼称が存在するが仕事の内容は個人の好みに合わせてその都度選択出来る。
落ち着いた赤い色の扉を開けると中は仕事を選ぶ組合員でごった返していた。
いかにも傭兵といった危険な雰囲気と装備を纏った者から
可愛らしい洋服に身を包んだ娘までその人種は多種多様であり
組合の斡旋する仕事の多様さを象徴していた。
皆頻りに書類をまとめた台帳を覗き込んでおり
どうやらそこに仕事の内容が書かれているようだった。
受付の活発そうな女は時折やってくる組合員の世話を
てきぱきとこなしており明るい色を宿した瞳をくりくりと動かしている。
「すまない、組合の仕事を回して欲しいのだが初めてなんだ」
ベルガモットの格好に少し嫌そうな表情をすると説明をし始めた。
「薬師の依頼を素人が引き受けても勤まらない様に仕事にはそれに応じた技能が必要です。
ですから取り組む仕事の種類に応じてまずは適性検査を兼ねた検定を受けて頂きます。
こちらの台帳に記された仕事には必要技能ランクが設けられており
検定の成績がその必要ランクを満たした場合にのみお受けして頂けます」
つまり高度な依頼には高い検定成績が必要であり
足りなければ受けたい仕事の分野の検定成績を
上げなければいけないという事らしい。
「どの分野の検定をお受けになりますか?」
俺の稼げそうな分野・・・力仕事、農作業、野草も少し分かるな。
後はほつれた衣服を良く縫っていたから針仕事も出来るかも知れない。
少し思案すると針仕事や庭作業、それに力仕事に関係する分野を尋ねてみた。
「えーそれですと・・・冒険者と手工業の分野になりますね。
それで宜しいですか?」
大の男が手芸を嗜むとなればいよいよ変人扱いなのだが
その怪訝そうな表情は受け流して検定を受ける事にした。
冒険業の試験は筆記と実技に分かれていた。
野草、地理、文化、兵法、探索理論、旅の知識、と
様々な分野からの総合問題だが
常に自然と隣合せに生きてきた分野草等の問題は解けたが
文化や地理等はシスターから聞かされた話くらいしか
あの閉鎖された土地では得られなかった。
実技は短剣・長剣・鈍器・槍・弓等好きな獲物で臨めるのだが
どれも使った事がないので長剣を勧められた。
だが基本形の型も扱いも何も知らない農民が出来る事といえば
力任せにぶんぶんと振り回す事くらいで
長年世界の各地で冒険をして来た試験官には手も足も出なかった。
唯一腕力だけは認められたものの試験を受けに来た者達の前で
派手に転ばされ失笑を買うはめになったのだった。
「ありがとうございました・・・」
男として強さに多少の自信があっただけに少し萎える。
窓の外はそろそろ昼を迎える頃だ。
食料を買う金もないので街中から溢れる良い香りも
ベルガモットにとっては拷問かも知れない。
午前の試験は余り手応えは得られなかったが
午後の手芸の実技は上手く行った様である。
ニゲラ直伝の針裁きと洋裁技術は目の前に置かれた布を
見る見る内に美しいポーチに仕立て、
制限時間内に縫い上げる課題では
素早くしかし的確に手袋を仕立て
短い作業時間とは反対に丁寧に作り上げてみせた。
しかし旗やドレス等専門職が扱うような物への技術は持ち合わせておらず
そこは流石に満足な作業が出来なかった。
夕暮れに渡された結果は冒険業C、手工業Bである。
(しかし縫い物の報酬は安いな。暫くはこの街で暮らす事になりそうだ)
人口の多いこの街では内需関連の仕事は比較的安価な報酬が相場になっている。
だが飯の種が無いよりはましだった。
その晩は空腹の腹を抱え街の外へ野宿し次の朝早く縫い物の仕事を探し
報酬が割りといい屋敷の奉公へ出掛けた。
出迎えた家婦長はあからさまにベルガモットを不審がった。
染みだらけの服と黒ずんだ麻布の袋。
街の路地裏を探せばいくらでも居そうな男。
無理も無い。
追い返そうとするがベルガモットは
検定のライセンスを提示し必死に頼み込んだ。
「確かに中では制服を着てもらうけれども・・・」
彼が真剣に頼むので少し可哀想になってきた家婦長は
ライセンスも確かな物だったので中へ入れる事にした。
キャラウェイの城まではいかないにしても相当に広い敷地。
良く刈り込まれた芝は青々と育ち大型の犬が三匹飼われていて
裏方には立派な毛並みの馬が四頭。
手の込んだ煉瓦が組み上げられた屋敷は大きな出窓やバルコニーがあり
豪奢な外観を丹念に作りこまれており、
エントランスホールはオペラが開けそうな螺旋階段と
大きなシャンデリアが吊るしてある。
調度品もマホガニーやポトフス等素人目に高級さが見て取れる物だったし
螺旋階段の踊り場にはつい見入ってしまいそうな大きな絵画が飾ってある。
・・・そこに小汚い男が周囲の空間と見事な違和感を醸し出しつつ立っていた。
「貴方さっさとお風呂に入って身支度を整えて下さいまし」
長く身を洗えなかったので少し臭かったかも知れない。
やっと人並みの、いやそれ以上の生活が出来そうだ。
ベルガモットは安堵の表情を浮かべると
同じく奉公している下男のコンフリーに連れられて召使用のバスへ向かう。
「ここは給金もいいし悪い人はいないよ。
家婦長のサントリナも厳しい人だけど立派な人だしね」
「あぁそうなんだろうな。兎に角このなりを何とかしたいよ」
コンフリーはくくっと笑うと着替えを渡してくれた。
上がったら浴槽は綺麗にしておくんだよ、と一言いうと仕事に戻っていった様だ。
しかしこれが召使用の風呂か。
獅子の口から湯が出るわけじゃないが大理石を使ってあるし
石鹸もバジルの雑貨売りの商品じゃ一番上等な奴だ。
何だかニゲラに申し訳ないな。
さりとてこのままでいるわけにもいかず
ベルガモットは全身を丁寧に洗う。
上品な香りがバス内に満ちて少しうっとりしてしまった。
風呂から上がり髭を剃り髪を整え制服に着替えたベルガモットを見て
サントリナは目を見張った。
長いルビー色の髪を後ろに撫上げ、見る物を魅惑する様な赤みがかった美しい瞳。
端整な顔立ちはどこかの貴族と言っても申し分ない眉目秀麗。
更に締まった体が黒の召使用の服をすっと着こなし映えていた。
「まぁ驚いた事!あの汚らしい服を着ていた時とは随分違うわね」
「はは・・・あれは農作業にも使っていて大分草臥れていましたから」
それは汚くもなるわね。
しみじみと呟くとサントリナは屋敷の案内と仕事の説明を始めた。
ベルガモットがこなすべき仕事は当初の通り針仕事だ。
そこに接客、掃除、買出しを当番制で行い時には大工まがいの事もする。
この屋敷では大概主な仕事と別に雑務を当番制で割り当てられているらしかった。
毎日大地と語り合っていた男は上流階級の雇い主に失礼が無いよう
生活習慣から言葉使いまでみっちりと教え込まれた。
彼は一度言えばすぐコツを捉えたし要領が大変良かったので
サントリナを大いに感心させた。
羊皮紙が文字をすっと記憶する様に
入って行くまるで縁の無かった文化の知識。
暫くすると彼は充分な水準にまでサントリナの教育を消化した。
屋敷へ来て五日目。
人目を引くベルガモットに言い寄って来る女は多かった。
しかし召使内の仕事に支障をきたさない為にも彼は努めて平常心で接した。
ここへはバジルへの出稼ぎの一環で来ているのだし
給金の良いここを今辞める事になっては勿体無いのだ。
勤務態度は誠実であり上手く溶け込めている。
来賓からの評判も良く特にご婦人方からは熱い視線を頂いていた。
「ではこれが今週分の給金になります」
サントリナからの初めての給金は仕事を満足にこなした充実感があり
何よりその額が嬉しかった。
少しではあるが孤児院へ仕送りも出来る。
少なくても飢え死にが出る事態は避けられるはずだ。
残りは衣服を作る生地代と剣術を習う金に当てよう。
窓から覗く燦々と輝く太陽。
空はいつもより鮮やかに見えた。
キャットニップの生活は楽しかった。
裁縫と剣術の腕は順調に上がっていったし
屋敷の下男と街へ飲みに行くのも面白い。
コンフリーはこの街が出身で色々な話を聞かせてくれた。
大通りの酒場の娘は街でも美人で有名だとか
衛兵の宿舎脇の森には幽霊が出るとか
面白おかしく軽快に話す。
ベルガモットは旅の間起きた出来事や
野草の見分け方等を話して聞かす。
野外生活の経験が無いコンフリーはこの手の話をとても好んだ。
そして三週間目が過ぎる頃にはそろそろ
冒険業の検定で次のクラスを狙う準備が出来た。
仕事が休みの日はたまにしか無かったものの
剣術の腕は実践で使える水準にまで仕上がったが、
やはり筆記試験は勉強を重ねなければいけない。
「君は剣術なんか学んでいるのか?」
下男部屋で兵法書や戦闘術について書かれた本を発見して
コンフリーは驚いた。
「ああ、いつか冒険業を請け負うつもりだ」
そういえばやたら体付きが良いし毎日トレーニングもしているな。
てっきり若い男にありがちな喧嘩対策や趣味で鍛えているものだと
思っていたコンフリーは一人納得した。
とはいえ頭の出来が良くても多岐に渡る冒険業の筆記勉強には
時間がかかるし、剣術の道場も基礎をやっと学び終えるかどうか
といった所だ。
更には武具・防具もある程度の物を買わなければ返って高くつく
事にもなるだろうし旅の用品も本番までには
本格的な物を揃えなければこちらも同じ目に遭う事だろう。
つまりはまだまだ金が要るのだ。
五週目を迎える頃ベルガモットは万全の体制で検定に臨んだ。
筆記に必要な内容は9割以上物にしたし
道場でも応用を学び師範代から一本取れる日も多くなった。
その分裁縫には力を入れられなかったがこれは本業にするつもりはないし
屋敷で仕事をする分には充分にこなせるだけの力量が付いている。
実技の検定場にいた彼は以前とは比べ物にならなかった。
繰り出される剣撃は鮮やかで無駄が無く、
更にこの短期間で驚くべき早さで吸収した技術は
良く消化されており諸所の場面できらりと光った。
元々力の強さなど身体的な能力が高かった彼が訓練を熱心に行った結果
その太刀筋は最早侮れない。
だが実践を経験していない部分が否めないのも事実だ。
試験官の動きは長年の経験を反映して完成されたものであり
その深く鋭い太刀の煌きは
底知れぬ才能と集中力を以て訓練を重ねたベルガモットでも
まだ越えられぬ物だった。
「そこまで!」
「ありがとうございました」
一ヶ月前まで基礎も知らない乞食の様な男が
一体どうすればここまで急激な成長を果たせるのか。
試験官はベルガモットの底知れぬ才覚に小さな嫉妬と驚きを隠せなかった。
帰り際に渡された冒険業Bランクのライセンス。
もう充分に活躍出来る水準である。
ある日屋敷にベルガモット宛てに手紙が届いた。
ニゲラからの物だと分かるとふとバジルの景色が思い出される。
真っ黒になって農作業をしていたあの頃。
懐かしさが込み上げる。
手紙には農具を新しい物に買い換える事が出来た事、
子供達に飢える心配の無い冬を過ごせてやれそうだという事、
布を買って新しい服を作ってやった事、
そして送金への感謝とベルガモットの体を心配する内容が書かれていた。
ああ俺は役に立てたのだなという気持ちで彼は嬉しくなり
これまでの経過や近況、
元気にやっている等の内容を書いて送った。
子供達は笑っているだろう。
あの笑顔を守る為ならなんだってやれそうな気がしたし
世話になったニゲラに恩返し出来る事が心底嬉しい。
七週目になると師範代の実力を超えた。
世界の地理や文化にもかなり詳しくなったし
原料さえあれば中級程度の薬の調合も出来るようになってきた。
旅の用品は揃えたので最近では暇な時間は専ら鍛冶屋へ出かける事が
多くなった。
「ベルガモットかいらっしゃい」
ジャックの店に漂うのは油と鉄の匂い。
ソレルの良質な鉄鉱石が鋳造される純度の高い鉄塊。
彼の手でそのインゴットが業物の作品に変貌するのだ。
店内に陳列してある物はほとんどがそうだ。
買い取られた中古品よりは彼の作品を手にしたい。
本格的な長剣は値が張るのでここの所ずっと目を付けている
小振りな鉄剣。
そしてバーツイーズの強固な皮をなめし鉄で補強した上半身用の軽防具。
どちらも良い品で値段も手が届く範囲。
「お前最近そればっか見てるな」
「ああ気に入ってるんだ。金が溜まったら買いに来るつもりさ」
見る目は認めてやると嬉しそうにジャックは言う。
職人の誇りを賭けた作品達はどれも光る物を持っている。
特にソレルの物は資源の豊かさも影響して鍛冶職人達が移り住んで来るし
その競争の中で磨き上げられた技術は近隣でも一目置かれているのだ。
戦術指南書を読み漁っていると九週目が過ぎた。
筆記は満点で通るくらいの自信があるが
冒険業の検定では武術が大部分の評価を握っている。
逆に言えば知識が無くても腕が鬼のように立てばAが取れる。
知識を満遍なく押さえ
満点に近く達人の域にまで行くと稀有な存在のS以上に到達する。
各組合事務所で取得出来るのはAまででS以上は別の検定所が用意されるらしいが
余り情報が無いので詳細は分からない。
Aでも貴族要人等の護衛を任される上位の資格である。
資金が溜まるまでには取得するつもりで
道場では一対多数の訓練を繰り返し相応の自信は付けてきた。
後は今日の検定次第なのだ。
武術実技の試験官は資格Aを持つ傭兵だった。
金の為に駆け抜けた生きるか死ぬかの日々。
そして多種多様の殺し合いを経て試験官になり多くの受験者を見てきた。
今目の前に立つ青年と手合わせして思う、
こいつは天才だ。
素早く巨人が振るった様な重い一撃が彼を襲う。
受け止めた模擬の剣が弾け飛びそうになる慣性を全力で受け流すが
良いタイミングで組み込まれるフェイントやヴォルテが襲い掛かる。
良くここまで技を自分の物にしたものだ!
内心舌を巻くが彼も本気で技を振るった。
それを見ている周りの受験生は絵画の様な美しく激しい
一撃一撃にただただ見入るばかりである。
久々に血の滾る手合わせが出来たな。
その身を占めるのは歓喜。
試験官は一本取られた。
ベルガモットの将来が楽しみである。
いつか噂に名高い英雄アルカネットに出会う日があるかも知れない。
いつかその斬り合いを見て見たいものだ。
そして試験官は次の受講生の試験に移るのだった。
ベルガモットは帰り際に資格Aのライセンスを受け取った。
目標の達成にちょっとした感動が胸に満ちる。
今日はコンフリーに酒でも奢ってやるか。
ドアを開け放つと秋も後半のキンと澄んだ空気が鼻腔に流れ込む。
ソレルはそろそろ冬を迎える。
街の至る所で白い煙が上がっている。
身が凍える季節になると炊き出しが多くなるのだ。
根野菜や近郊の養豚所の肉それに塩やハーブで作ったスープ。
ついつい立ち寄ってしまいたくなる冬の味覚。
レンガ造りの街並みは今日も活気に満ちていた。
その中央路を行き交う人波にルビー色の髪と綺麗な薄赤い瞳をした
美しい青年が歩いている。
線が細い様に見える身体は
その実鍛えこまれた短剣の様な鋭い筋肉を身に付けている。
腰にアーティチョーク家の家紋が入った長剣をぶら下げており
身に付けた熟練の針師の作と思われる洋服と良く合っている。
傍目には彼家の子息に思える。
見る者を魅了する美麗な顔立ちは少し困ったような表情だ。
「エキナ様、奥様に叱られますから・・・」
隣でベルガモットの腕を取って楽しそうにしているのは
アーティチョーク家の令嬢だ。
上質なカモミールの毛を編んだニット帽とバーツイーズの皮を
上品になめし凝った装飾を施したコートを纏っている。
足元はタンデライオンのブーツである。
どう見ても御嬢様。
貴族らしい綺麗な顔とゴールドの髪の毛も相まって
裕福な家庭で育った事を暗に示していた。
「あら、お母様はそんな事気にしないわよ?
サントリナは怒るかも知れないけど」
ふふっと浮かべる小悪魔な笑顔にベルガモットは内心小さな溜息をついた。
キャットニップの中央路は人込が多い。
すれ違って行く街人がエキナに見とれるのを見れば
隣を歩く身としては少し優越感もあるが、
アーティチョーク家のお膝元で使用人風情がご令嬢と腕を組んでいては
雇い主に対してもあまりよろしく無いのである。
ベルガモットがA級資格を取得した事は
コンフリーを中心としてあっという間に屋敷中へ広まった。
誠実な仕事ぶりも評価されていたしA級といえば胸を張って護衛の仕事を
引き受ける事も出来る資格だ。
武術実技の試験官も長い訓練と実践の中で取得した物であって
二ヶ月という短期間の取得は異例である。
だから彼はベルガモットの才覚に驚いていたのだ。
A級未満の護衛は付けないという当主の貴族らしい方針は
彼の資格の取得を以て該当しなくなった。
そこで一番喜んだのが令嬢のエキナ。
これで堂々とベルガモットと街へ遊びに行ける、というわけである。
(給金が増えたのは嬉しいがお叱りを受けそうな行動には参る)
彼の嘆きは最もかも知れない。
自由な気風はあるが封建制度で作られた社会には変わりないからだ。
「ねえねえ、次はあそこに寄りましょう」
「はい」
エキナも自由な時間はそうないのでずっと拘束されるわけではない。
まあ人の喜んでる表情はいいものだしな、と
視界が塞がれつつある商品の影でベルガモットは苦笑した。
それから暫くはエキナのお守りの仕事が多くなった。
コンフリーの教えてくれた穴場や
エキナが連れまわす高級品店も新鮮で面白い。
バジルに居た頃は決して味わう事の無かった物も食べ農村の貧しさと
貴族の富裕の差を身をもって知る。
エキナはベルガモットの農村での生活や旅の話に興味を示し
ベルガモットは彼女の話から貴族の多忙な生活や諸外国についての知識を深めた。
「貴族だって大変なのよ、毒殺されたり暗殺されたり!」
「確かに命の危険もありますね」
だがこの人は分からないだろう。
常日頃飢えや明日の生活の分からない暮らしを。
権力争いや金目当ての誘拐も身近な危険ではあるが
着る物も食う物も困らない生活がどれだけ幸せか。
兵士に痛めつけられ重い租税に絶望し、
畜生を見るような目で人間の誇りを奪われるあの生活を。
世の中を恨み必死に生きた生活で荒みきる事が無かったのは
シスターニゲラが皆の心を支えてくれていたからだ。
今夏の重税で農民の暴動が起きてもおかしくは無い。
飢えた家族の死を喜ぶ者などどこにもいないのだから。
十一週目に受け取った給金はずしりと重かった。
エキナが空いた時間はベルガモットにべったりだったし
暫く街へ出ていなかった彼女は彼を引き連れ遊びまわった。
その分護衛としての給金が増えたのだ。
孤児院の子供達へ今回は街の菓子も送ってやろう。
前から作っていた暖かい生地で作った服で
今年はむしろ幸せな冬を過ごさせてやれそうだ。
ニゲラには生地の他に上等なペンを贈ってやる。
ジャックの店は相変わらず熱気に包まれていた。
ガツガツと響く高い鎚打ち音。
「よおとうとう金が貯まったか?」
「ああお蔭様でね。今日は剣を貰おうか」
待ってな、と店の奥へ再び姿を消したジャックが持ってきたのは
例の小振りな長剣と少し古い鉄靴。
「お前がうちの店覗くようになってから街の娘共が来る様になってな。
けっ、女子供に売るような玩具はねえが
包丁やらナイフやらを買って行きやがる。
まあその礼だ。少し古いがなあにちょっと手加えてやったから充分使えるぜ」
「ははは。少し困っていたんだがお役に立てたようで何よりだ」
けっ、色男がよう。
そういうとジャックは靴を手渡す。
成る程所々補強されていて充分現役で使えそうだ。
長剣も良く鍛え磨き込まれていて突いて殺傷するのにも適する様に
ポイントに刃が付けてある。
鉄製の鎧に対して剣の切れ味はほとんど意味を成さないが
これは間接等の隙間に威力を発揮出来る。
「ありがとう良い品だ。また覗きに来るよ」
「おう、毎度」
鉄で枠を縁取った樫の木の扉を開けると街には粉雪が振っていた。
そろそろ今年も終わりが近い。
年末アーティチョーク家では盛大なパーティが開かれた。
数日前から大量に買出しを行い飯炊き女が下準備をてきぱきと進め
室内外に立派なオーナメントが飾り付けられた。
今日は要人も多数ご来賓とあって臨時の警備を雇い
屋敷には人がごった返している。
ベルガモットはエキナの護衛に付きご友人の令嬢と良く喋る彼女を
感心した様子で眺めていた。
良く喉が枯れない物だ。
話題は近年の政治情勢から今年の流行物や旅行先、果ては自慢話へと移って行った。
「あら、ベルガモットは剣術の腕も教養もありましてよ」
「畑で鍬を振るっていらした方が剣に持ち替えても
せいぜいラディッツが真っ二つになる程度じゃございません?」
心底可笑しそうに笑う貴族の子女達を見つめて
やれやれと思っていたベルガモットだったが、
エキナは顔を真赤にしている。
「良いでしょう。そこまで言うなら貴方のガードに決闘させなさいな。
ラディッツどころか食卓のパンさえ満足に切った事が無さそうですけど!」
エキナの挑発に相手方の令嬢はぷるぷると怒りで震え出した。
「宜しくてよ。レイガンが負けるものですか!」
貴族間でこういう事は割りと良くある。
怒りで気が収まらない場合は従者に決闘させるのである。
相手のレイガンは屈強の戦士然とした護衛で
肌に見える昔の太刀傷が彼の勇猛な経歴を物語っていた。
やれ面白い催し物が始まったぞと周りの貴族も囃し立てた。
雪こそ降っていなかったものの外は既に日が落ち
屋敷の光と設けられたかがり火が庭を煌々と照らしていた。
ベルガモットは山を駆け抜けた時の様な得も知れぬ活力を感じた。
自己の意識が拡大し全ての物を掌握しているような感覚。
全身の筋肉が唸りを上げ咆哮しているかの様な高揚感。
自然に笑みがこぼれた。
剣を構えの姿勢で顔の前に掲げる時レイガンは言った。
「俺は資格AAの傭兵だ。
机の上でお勉強ばかりしていたお前の資格とは訳が違う。
適当な所で参ったを言うんだな、死ぬぜ?」
AAでしかも傭兵資格ともなれば
冒険者としてはトリプルA程の実力が無ければ取得出来ない。
戦闘のプロフェッショナルとしてのライセンスだからだ。
ベルガモットの心境としては不思議に恐れは無かった。
あるのは全身を陶酔させる高揚感だけ。
「そうだな、お前の血を以てそれに答えよう」
ふんっ、と吐き捨て挑発に乗らない辺りはさすが歴戦の勇士といった所か。
「それではベルガモットとレイガンの決闘を執り行う。
いざ尋常に、始め!」
先手を取って長く重い長剣を振るったレイガンは意外に思った。
ガキン!と火花を散らした噛み合う剣の向こうに立つ
その細身の身体からは想像出来ない程の剣圧が返ってきたのだ。
戦場でも時折予想外の膂力を持つ兵がいる。
だがベルガモットからは巨人の剣に打ち込んだかのような
桁違いの腕力を感じる。
身体の奥底から湧き上がってくる力に押される様に
ベルガモットは矢継ぎ早に太刀を振るった。
ガツガツガツ!と押し込む程に相手の顔から僅かに残った
侮りが消える。
細身のベルガモットと屈強なレイガンが
巧みな技を交え火花を散らし雪を蹴り上げ剣を交差させるのに
貴族達は歓声を上げた。
貴族の女達は嬌声を上げ男達は指示を叫ぶ。
誰もベルガモットにレイガンの重そうな剣撃を受けきれるとは
思っていなかった。
その意外な展開が貴族達を熱狂させる。
AAの傭兵とAの冒険者の差を埋めたのはベルガモットの動きだ。
狼の様にひらりと身を返し巨人の様に切り返すその身体能力は
とても人間技とは思えない。
ひゅんひゅんと身をかわしては
鐘を打ったかのような轟音を撒き散らして撃ち込んで来る。
どんどん早くなる剣速にレイガンは舌打ちをした。
(ちっ・・・こいつどこまで底が深いんだ!)
そしてじんじんと痺れる腕で受けた下から振り上げられた強烈な一撃に
傭兵の身体は宙に飛んでいた。
ガツ―――ン!!
凄まじい剣撃に観客は悲鳴の様な一層の歓声を上げた。
素早く体制を整えたレイガンの喉元にはベルガモットの剣先が静止する。
「ま、まいった」
――勝者ベルガモット!
わあっという歓声。
夜空の下で饗宴は最高潮を迎えた。
「参ったよ、その身体のどこにあんな馬鹿力が隠れてたのか。
世の中広いわ」
すっきりした顔のレイガンとベルガモットは握手を交わす。
「昔から力だけは強いのさ」
それはレイガンも同じだったが桁が違う。
技はライセンスに見合った物の様に思うが凄まじい感性・膂力・身の動き。
正直人間の相手をしているとは思えなかった。
こいつはもっと強くなる、俺もまだまだだな。
屋敷の前では熱狂する貴族達に混じってエキナが狂喜していた。
火照った体に冬の外気が気持ち良い。
庭には激しい戦いの跡が捲れた芝と共に散らばっていた。
58 :
おさかなくわえた名無しさん:2006/12/24(日) 18:08:33 ID:GbPtUiE4
クリスマスにコツコツがんばる姿に涙した。
面白いけど。
昨夜の宴会は遅くまで続いた。
火花を散らした激しく華麗な決闘に
来賓からはいつまでも賞賛の言葉は止まず皆大盛り上がり。
奥方や当主も鼻高々で上機嫌だったし
娘達は物語の主人公を見る様な目でベルガモットを取り巻いた。
その傍でエキナは意気揚々とお喋りを続け
宴会は大盛況の内に幕を閉じたのだった。
朝日が眩しい。
雪化粧をした庭の枯れ枝に囀る野鳥。
白銀の世界が覗いていた。
繕い物に続き馬小屋当番の仕事を終えるとサントリナがやって来た。
「ブルーノ、お嬢様がお呼びよ」
ブルーノとはベルガモットの愛称だ。
ソレルでは大抵名前に一つ定型の愛称が用意される。
「はい、また街の外へお出掛けになるのでしょうか」
さあ存じ上げませんけど、破廉恥な真似はしないで頂戴ね。
念を押すと去って行くサントリナにベルガモットは苦笑した。
やはり関係を疑われているきらいはある。
事実無根だが彼は自身でも周囲の誤解を招かない様に気を付けている。
押しの強いエキナのあしらいには少し苦労するが問題は無いと思う。
まあ何かの用事だろう、と三階のテラスへ向かった。
大体用件はそこで伺う。
割とさばさばした彼女だが
嫁入り前の娘の部屋に男子が入る訳には行かないからだ。
大きな出窓から午後の日差しが彼女の髪に降り注いでいる。
ハニーブロンドの輝きがとても綺麗だ。
紅茶の入ったカップを持つ手は女性らしい繊細な手には
凝ったデザインの指輪がはめられている。
一枚絵の様な光景がそこにあった。
アーティチョーク家もこれだけ器量のある娘が居れば
良い縁談に恵まれるだろう。
「お嬢様お呼びでしょうか?」
「ご苦労様、あなたもお茶をいかが」
話し相手になれという事だろう。
紅茶を淹れ口に含むとダージリンの良い香りが鼻に抜けた。
ふとエキナは傍に置いてあった小箱を差し出した。
「これは?」
「昨日の決闘は凄かったわ。
まるで英雄フラックスのお話を目の前で見ていたかの様・・・。
これは決闘に勝利した褒美」
見ると中にはぎっしりと金貨が入っていた。
これまで屋敷で与えられてきた給金くらいはある。
「こんなに沢山。ありがとう御座います」
「貴方は旅の準備中だと言っていたけれどもとてもそうは見えなかったわ。
長年修行を積んできた名の有る騎士の様でしたもの」
ははは、あの晩は調子が良かったのです。
そう答えるが確かに調子云々以上の動作が出来ていた気はする。
そしてあの晩は必死に抑えたがレイガンを殺したくてうずうずしていた。
本気を出せば剣ごと彼の頭を真っ二つにする自信があった様に思う。
多分夜行性なのですと言うとエキナは笑顔をこぼした。
そしてもうすぐ旅立つという事や今年は雪が多いという事等
他愛の無い話をして過ごした。
頂戴した金は送金と旅の資金に充て、
残りはジャックの店で小手と軽鎧に化けた。
バジルの生活だったら三年飲まず喰わずで働かなければ。
つまり事実上決して手に入らない金額である。
何せ貯蓄出来ないその日暮らしを地で行く経済状態だったのだから。
冒険や傭兵の仕事でまとまった金が手に入ったら
灌漑設備や農地改革に挑戦してもいいかも知れない。
農業という分野自体重点的な課税の対象であるので難しくはあるが、
余裕を持って自然と暮らしていける生活が成り立てば
農業にはまた農業の良さがあるはずだ。
作物の成長に喜び収穫物を食し大地と共に生きるのである。
過剰な搾取さえ無ければ池にも生態系が戻るかも知れない。
ニットキャップの汚れた川とは比べ物にならない
清浄で健康な清水に囲まれて生きる。
その川の水を引いて水車でも立てようか。
農業の専門知識を持つ者を雇いあの土地を豊かにする手伝いをしてもらおう。
その為には金が必要だ。
大量の金が。
コンフリーやサントリナ、アーティチョーク家の当主に奥方、それにエキナ。
他の使用人にも世話になった感謝と別れを告げる。
最後の夜にはささやかな宴会も開いてくれた。
初めて来た時のボロボロの格好に眉を顰めた時の話。
すいすいと仕事を覚えていった時の話。
縫い物の丁寧さと仕事の速さに驚いた時の話。
次第に粗野で垢抜けない人柄が洗練されていった話。
そして必死に己を磨き心身共に成長を遂げ戦闘の専門家をも倒した話。
濃い三ヶ月だった。
まるでずっと昔からアーティチョーク家に居たかの様な感覚。
だが彼は去ってしまう。
屋敷の人々は彼の別れを惜しんだ。
そしてベルガモットは新たな旅立ちを迎えた。
昼だというのに嫌な暗さに包まれている森。
前評判では「出る」らしい。
確かに時々変なものが見えた。
深部へ近づくにつれて何かの気配は確実に濃くなっているし
時折現れる狂った動植物の数は増える一方だ。
例えば血走った目がある虫。
例えば明らかに苦悶の表情を浮かべる人間の顔を幹に持つ杉の木。
狂っていても害を及ぼさないものならいいが
異形の存在が悲鳴を上げて襲い掛かって来る姿は精神的に辛い。
彼らは行き場の無い思いを叫ぶのだ。
心臓に悪い。
この界隈が後悔の森と呼ばれる理由。
生きとし生けるものの、生前の無念や未練が渦巻いているからだな。
蒼い顔で思案しつつ
彼自身その森に足を踏み入れた事を後悔していた。
しぶとい事を除けば今の所手こずる敵に出会ってはいないが
精神が持つかどうかが問題だ。
確実に魂の一部を持って行ってしまう様な凄まじい悲鳴と姿。
更に後ろの薬師資格で調査隊に加わった学者が気を失わないかも不安である。
倒れたら最後この森の仲間入りをされて
背後から襲われそうな気がするからだ。
彼の初仕事は薬草採取。
その字面からは想像も付かない困難は
さすがAランクの仕事といった所だろうか。
調査に加わった他の面々も皆一様に疲れ果てている。
一匹ずつなら肝試し感覚で楽しかったかも知れないが
こうもひっきりなしに、しかも全方位から突然現れられては
身が持たない。
まだ斬れるだけましだ。
ばらばらにすれば活動を停止するし、
目の前の化物は寄生虫の様に何らかの生命体に動かされている
と思えば少しは気が楽だからだ。
だが首だけがこちらを向いて空中を散歩していたり
傍に寄って確かめると何もない木陰から腕の様な物が見えたり、
そういう完全に物理世界から離れた存在は勘弁して欲しい。
斬る事も払う事も出来ないし
協会で神父に祈ってもらい必死に気分的に楽になるくらいしか
対処の仕様がなく、事実上丸腰なのである。
本当に恐ろしい森。
ベルガモットは自分を強く持つ事で必死に耐えた。
悲惨な怪物に散々精神を痛めつけられた後やっと見えてきた目標ポイント。
ベルガモットの調査隊――傭兵・冒険者・薬師二名――は
全員何とか正気を保った。
こんな所に一晩泊まるのは心の底から嫌だったが
不幸にも森を抜けるだけで丸一日かかる。
初日の目標は割りと、安全な洞窟の侵入口への到達である。
とてもじゃないが眠りたく無い。
悲惨なパーティの心情に追い討ちを掛ける様に遠くでまた悲鳴が上がった。
皆の顔を照らしてぱちぱちと燃える焚火。
陰鬱な森の薪は湿って(それどころかほとんどが腐って)いたが
苦心して一晩越せるだけの量を集め、
ベルガモットの持ってきた火打石と牛の油から精製した灯油で着火したのだ。
眩しい物が嫌なのか化物共は寄って来なかった。
「帰り道はランタンを点けて移動した方が良さそうだな」
ぽつぽつと呟くのは肉体的な疲労が原因では無いだろう。
「ああそうだな・・・今日はきつかったぜ」
そう呟いたのは成人を迎えて間もない傭兵の青年だ。
今回の募集条件は冒険者のランクが高く
その他の職業はBランクで構成され全体難易度がAだった。
つまり森で迷わない探索術や
踏破の様々な障害を乗り越える技術が相当に必要で、
抵抗勢力は主力が二人協力すれば倒せる物という事である。
確かに常識が通じ難い局地は冒険者がいた方がいいし
この洞窟の内部も相当に探索が困難を伴う地形・状況だという事が予想される。
薬師の内一人がA資格を要求され他方がBだった事を考えると
片方の指示の元二手に分かれて探索する事を想定しているのかも知れない。
洞窟は地面の下に向かって伸びている様で
少し盛り上がった土と岩が入り混じった小さな台地に
落とし穴の様に縦穴が空いている。
嫌なのは早くも中から死臭らしき物がほのかに漂って来る事だ。
昼間の化物と同類。
それだけで皆を萎えさせるには充分だ。
せめてこの入り口の様な
縦に降りなければならない構造が続かない事を祈ろう。
緊急時には危険な地形なのだ。
薬師の一人が淹れてくれたハーブティーを飲むと
少し落ち着いたのか皆寝入ってしまった。
一人最初の焚火の番をしている最中にも時折不意に悲鳴が聞こえる。
勘弁してくれ。
皆が寝入ると更に嫌だ。
虚しい願いは天に届かず
剣に手を掛ける程近くで悲鳴が上がったり
そうかと思えば後ろの方でくすくす笑う声が聞こえたりした。
永劫に続くかの様な緊張の時間を味わわされた後は
交替してもすぐには眠れず、その内苦しい夜が過ぎた。
早朝目覚めた時の薬師の女の顔ときたら、
それは恐怖に塗れていて見てるこちらが怖くなる。
ベルガモットの目覚めに安心したのか
彼女が一晩中懸けて作った彼の外套の握り皺を直していた。
ふふ、余程怖かったのだな。
可愛い所が見られて少し和む。
「異常は無かったか?」
「異常だらけでもう訳が分かりません」
本と理論の中で生きて来た人間なら尚更不幸だ。
心労が激しそうだったので肩を抱いて励まし
皆が起きるまで眠らせてやる事にした。
日の光が洩れない暗い朝。
皆疲れが取れていないどんよりした顔で身支度を整えていた。
(やれやれ本番はせめて上手く事が運んでくれるといいが)
「僕・・・夢に見ちゃいました」
「私も・・・」
「おいおい気持ちは分かるが今日はやっと依頼の品を探せるんだ。
気合を入れて行こう」
どうやら割りと元気が残っているのはベルガモットと傭兵の青年だけで
薬師達は余りこの状況に対応出来ていない様だ。
薬師は普段薬の研究ばかりをしているし
資格にも薬関係の筆記試験と調合の実技しかないので無理も無いかも知れない。
研究費に恵まれている物は他の者に取ってこさせるのだ。
国や組織の資金力でないと賄い切れないが。
数々の難問を解き目が飛び出る様な入会金を払わなければ所属出来ない。
戦争だらけの近年の情勢を反映して薬学の水準は相当高度になっているし
組織に所属する薬学の研究者はいつか来るだろう徴兵を逃れ易い、
そんな噂が出回っているので人気も高いのだ。
同じ理由で武器や防具のマエストロを目指す鍛冶職も人気がある。
最後にハーブティーで体と心を少しだけ暖めた後
一行は洞窟に降り立った。
入り口の縦穴は成人男子の身長五人分程度の深い穴で
最初にランタンを腰に下げたベルガモットが降り
続いて薬師、そしてしんがりを傭兵の青年が勤める手筈で下った。
鉤と縄は一応手渡された案内書より余裕を持って用意したが
あまり採集に来る人間がいないのか内部の構造等の詳細が不明だ。
内部は良くない空気が立ち込めていそうだったのでベルガモットは皆に
昨夜作った綿と余った生地が材料の簡易マスクを配った。
「これベルガモットさんが作ったんですか?
何て言うか凄く意外です」
それは最初の頃屋敷でも良く言われていたので気にならなかった。
とりあえず安全に気を付けて損は無い。
がんばれ
土が削げ岩が剥き出しになった壁に密集した苔。
その所々に鮮やか過ぎる色の菌糸塊と地面に転がる動物の骨。
地上から誤って落下したものだろう。
カビ臭さを越え何かが腐った様な臭いはより強くなり
不衛生な洞窟である事は確かだ。
ランタンが照らす視界は以前山中を駆け抜けた時とは違い
五、六歩程度先までのもので、どんよりした薄明かりの先は
完全に闇が広がっている。
各人に薪の残りの棒切れを持たせ地面を叩かせながら進んだ。
地盤が弱くなった場所を発見したり見落とした空洞に落下しない為の
探索技術である。
土壁も多いこの地下洞窟では降雨によって引き起こされる
様々な危険が考えられる。
その影響は一応雨の降らなかった今回の道程でも油断できず、
どこかしらに水分を含んで緩くなっている層が存在する事も
充分に有り得るのだ。
本屋に置いてあった鉱山関係の本を読んでおけば良かった。
S以上の資格には様々な分野の専門知識が更に必要になるらしいが
とりあえずAには必要無かったのだ。
その結果が二ヶ月という超短期での試験突破だ。
時間の大部分を仕事で費やしていた事を考えると驚嘆すべき事実。
組合の構成員でも全業種併せて大体Bまでが80%
A以上が20%なのを考えるとその意味が実感出来る。
ちなみにS以上に至っては全体の5%前後であり
武術を扱う職業では英雄だのマスターだのと呼ばれる人種で、
技術や知識のそれでは匠だの博士だのと重宝される。
湿気と臭気はやはり化物と染み出した雨水が原因だった。
狭い洞窟内では小振りな武器が地の利を得て
突然闇の中に浮かび上がる不気味な存在を叩き切った。
その身に納めた骨くらいしか防御手段を持たない化物は
ベルガモットの剣撃に成す術も無く
ドロっと糸を引く粘液を撒き散らして果てる。
この異形の存在に声帯を震わせ馬鹿力で生物を襲わせる物。
薬師二名は化物の粘液状の体液から或る種の菌糸を疑っていた。
「認めたくないけどちらちら見てきたあの世の世界の方とは別・・・。
動き回ってる気持ち悪いのには腐ってるけどちゃんと体があるもの。
・・・時々一部ないけど」
確かに悲惨な魂の怨念がちらりと現れてしまう事はあった。
ただそれで全てを片付けてしまうには余りにも眉唾物な考えだし
まるでゴムの様なあの粘力は引っ掛かる。
72 :
おさかなくわえた名無しさん:2006/12/25(月) 16:07:51 ID:3H9Pgae8
時が変わって今は大正
道端ではちんこ丸出しでせんずりにふける若者で溢れかえっていた
ここは自由に使ってやって下さい。
ぶん殴られそうですが推敲してないので粗が目立つでしょう。
酷評お願いします。
・流し読みしたけど多分プロット的に面白い
・文裁に波があって拙い文章が所々ある
・上手く書けてる時はするする読めたと思う
以上に気を付ければ 昇って行く感じが上手く出てもっと良くなるんじゃないかな
77 :
おさかなくわえた名無しさん:2006/12/25(月) 22:24:20 ID:renvaXsT
>推敲してないので粗が目立つでしょう
クリエイターとして最悪の態度だ。
議論する価値も無い。
出直せ。
>>78 まあそう言ってやるなよ
所詮はネットの掲示板だ、気楽に行こうぜ
評価は大体一巡した様ですね。
暇な時また続きを書こうと思います。