1 :
おさかなくわえた名無しさん:
涙が出るような話が聞きたい
2 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/28 21:41:17 ID:ZDQ/IZTM
2げとー!
333号室
カトチャン、ペッ
5 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/29 08:43:18 ID:VwQe4M+1
思い出はいっぱいあるがまだ元気
死ぬか?
このスレタイ見ただけで泣けてくるから、想い出の書き込みなんてできないかも。
何で死んでしまう前にもっとおばあちゃん孝行しなかったんだろうと、ずっと後悔してる。
8 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/29 08:56:45 ID:VwQe4M+1
今年の春、ばあちゃんがあと1〜2年の命と言われた。
私には同棲中の彼氏がいた。
いずれは結婚する予定だったけど、まだまだ一人前ではないからと
結婚を先延ばしにしていた。
けれども、ばあちゃんに花嫁姿を見せたかった私。
彼も賛成してくれ、来年の春に結婚することになった。
GWに珍しく休みが取れたので、実家の両親に結婚の報告がてら
ばあちゃんの見舞いに行った。
その数週間前に脳梗塞で言語野をやられていたばあちゃんは
喋れないながらも、彼をつれてきたことをとても喜んでいた。
「夏にまた帰ってくるから、元気でおるんで」
・・・これが、ばあちゃんと交わした最後の会話になった。
6月の、コロッケ祭り真っ盛りの台風の日、ばあちゃんは危篤になった。
帰ろうにも飛行機が飛んでいない・・自棄で2chに書き込み、励まされる。
結局、最期には会えなかった。20年前に亡くなった、じいちゃんの誕生日に
ばあちゃんは空へ帰っていった。
ばあちゃん、花嫁姿は天国から見ててな。
そして、あの台風の日、ばあちゃんがに会えるよう祈ってくれた2chの
名も無き人たち、本当にありがとうございました。
10 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/29 09:21:56 ID:Agc7qfwp
ハ!
良い話だけかよ。
婆は死んでなきゃ俺が殺してたよ。
最低の婆だったからな。
最後まで家族に迷惑掛けてイキヤガッタ。
今でも思い出したら腹わが煮えくり返る!
11 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/29 20:00:26 ID:ZAUg5FJK
>>9 ・・・・・・
>>10 世の中色んな年寄りがいるもんだ。
と言いつつ詳細キボン
私の祖父はパン食べるときにジャム一瓶塗りたくっちゃうような
ものすごく甘党な人だった
糖尿病気味で心筋梗塞で10年前のクリスマスに死んだ
おじいちゃんの甘いものを食べるときの幸せそうな顔が記憶に残っている
13 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/29 20:07:47 ID:RQCnQs5Z
私が3歳の頃、婆ちゃんにバリカンで坊主にされました。
婆ちゃんは死んじゃったけれど、
バリカンで頭をカットする癖は治っていません。
♀23歳、バリカンでカットしています。
3分刈です。
14 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/30 08:37:41 ID:6tO9coHs
兄弟とかイトコの中でも孫に対する扱いは結構違うよな。
前に長男には小遣い絶対にやらないのに次男には
小遣いやってるばあさん見た。よっぽど悪い長男なのだろう。
次の人はじい、ばあに可愛がられたでしょ?
・親が一人娘である。
・自分が初孫である
・同居はしてないが月1は必ず会える。
こういう人って結構可愛がられるでしょ、知り合いにもあてはまる香具師
多かった。
聞くけどみんな兄弟の中では自分が一番懐いてた?それても別の香具師?
「今は亡き」とかもう少しマシなスレタイにしろ
あと、自分の事語らずに人の話聞こうなんて虫が良すぎる
幼稚園の頃、母親の実家に遊びに行っているとき、お茶をこぼしてしまった。
ばーさんが
「この子は兄弟の中で一番馬鹿で不器量だ」
といった。母もかばってくれなかった。
まだ生きているけどそろそろ芯で欲しい。
芯でも悲しくない。
17 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/30 21:38:54 ID:BVc4Q8vw
>>16 いるんだよね、そういうばあさん。
良い子だけ可愛がって残りは排除
18 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/30 22:04:46 ID:RyqZ+8SU
所詮は人間、血のつながりはあっても
可愛い気のある素直なヤツと可愛い気
のないヤツとでは差が出来る。
19 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/30 22:17:00 ID:kTTM6jiM
クリスマスの日、ばぁちゃんが死んじゃった。
うちは母子家庭だったんだけど、わたしが小さい頃は
月に一度くらいの割でばぁちゃんがダンボールにいっぱい
お菓子やら米やら野菜やらを詰めて送ってくれた。
字がろくに書けなかったばぁちゃんが一生懸命書いた手紙が入っていた。
「○○つぁん(←わたしの名)、ママのいうことよくきいて、なかよくね」
全部ひらがな、間違いだらけだったけど、じんときた。
あの重いダンボール箱を自転車で宅配所まで持っていったんだよなぁ。
ばぁちゃんが焼いたお菓子みたいに甘い卵焼きが好きだったんだよなぁ。
もう焼いてもらえないんだよなぁ。
今年の夏に死んでしまったウチのおじい。
両親が共働きだから、小さい頃は良く祖父母の家に預けられてたんだけど、
その時に乾燥機のCMを見て、便利になって来た乾燥機に対して
感慨深げに「乾太くんか…」と呟いてたのが何故か忘れられない。
あんまりお見舞い行かなくてゴメンヨ…。
21 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/30 22:38:40 ID:atasttzy
お袋が 死んで 半年
嫁に頼まれ おせち を 作ってる今
あれ?これどんなんだっけ? と 思っても聞けない今
存在の大きさに 涙
もう お袋の味は ・・・
ばあちゃんの思い出
ばあちゃん宅は近所だったので小学校のころは親と一緒に週1回 日曜によく行ってた
当時 日曜の夜は西部警察やマチャアキさんの西遊記を放送してて、とてもみたかったのだが
その時間帯は裏でたしかスター家族歌合戦なる番組をフジでやってて、これをうちの両親が大のお気に入り
漏れはいつも部屋でショボーンとしてた
けど、ばあちゃん宅はテレビが3台ほどあったので、好きなだけ西部警察や西遊記を見れた
もうばあちゃんが死んで10年になるけど、西部警察と聞くと、いまでもその頃の記憶がよみがえり
ばあちゃんを思い出してる
23 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/31 03:12:06 ID:t4/+yrxD
私が小学校に上がった時、クラスのほとんどの子が自転車を持っていた。
仲のいい友達も全員自転車を持っていて「持ってないの〜?」とバカにされてくやしかった。
親に「自転車買って!」と頼んだけど「まだ早い」とか「坂が多くて危ない」
と反対されて絶対買ってくれなかったのに、おばあちゃんは買ってくれた。
一緒に買いに行って、神経質で気むずかしい私が「これもヤダ!あれもヤダ!」
ってわがまま言いながらいつまでも欲しい自転車を決められないでいたのに
おばあちゃんはうれしそうにいつまでもニコニコ笑って
「○○ちゃんの欲しいのにしな」って言ってくれていた。
でも自転車を買ってもらって1年後、坂を転げ落ちて腕を擦りむいて頭を打った。
それを聞いたおばあちゃんは青ざめた表情で真っ先にうちに駆けつけてきて
「私のせいだ、○○ちゃんごめんね」とずっと謝っていた。
その時私「もう自転車なんか乗らない!」と言ってしまった。
おばあちゃんは寂しそうな表情だった。
おばあちゃんあの時は本当にごめんなさい。
赤い自転車すごくうれしかった。
24 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/31 05:43:13 ID:HCRvde+C
2年ほど前に死んでしまったおじいちゃん。
明治生まれだったからか、生涯おばあちゃんお手製のふんどし愛用してた。
でも、いわゆるポピュラーなふんどしではなく、一本の紐にさらしを縫い付けた
だけという、至ってシンプルな作りのもので、前から見るとちゃんと役割を果たしてるんだけど、
横からはもうアウト。チンコ丸見え。
飯食ってる最中とかに見てしまうと流石に「…」って感じだったけど、
もう見れないかと思うとなんだか寂しい。
妹とおじいちゃんの話になると、必ず最後はふんどしの話になって大笑いするんだけど
生涯おばあちゃんお手製のふんどしで貫き通したその信念は素晴らしいと
実は感心してるんだ。流行に流されるなと、良い物は良いと、教えられた気がするんだ。
しっかり流行追っちゃってるけどね…。ゴメン、おじいちゃん。
でも横チン忘れないから…。
・おじいちゃん
夕食に出たかぼちゃの煮物が気に入ったらしく、
「これおいしいわ」と言っておかわりした。
お婆ちゃんが皿に盛り付けて戻った時には亡くなっていたそうだ。
・お婆ちゃん
かなりボケが進行しており、同じことを何十回も聞き返すので
母に怒られてばかりだった。今年の7月に亡くなったんだが、最後まで
怒られてばっかで少し気の毒だった。
26 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/31 08:54:28 ID:iUk7zMGz
>>23 うあああああああああああああ、
想像すると切ない・・・・良バアだな
>>25 ばあちゃんさぞ、驚いただろうな・・・
ばあちゃんがことあるごとに「高校受かったら時計(腕時計)を買ってやるからな」
と言ってたのにくれなかったことを思い出した…
じいちゃんは雪が降ってから自転車に乗ろうとして
転んで骨折し入院した…
28 :
おさかなくわえた名無しさん:04/12/31 19:49:51 ID:iUk7zMGz
ショボーン
ウチの爺さんは職人さんで頑固爺だったらしい。
酒が大好きで、口より先に手が出るような人で凄く怖い人だったらしい。
いつもバリッっとしてて、おっかない爺ちゃんだった。
そんな爺さんも腎臓癌にかかってしまった。
発見された時には既に手がつけられる状態ではなく、モルヒネで痛みを紛らす
くらいしか出来なかったらしい。
しかし痛いとも弱音も吐かず、黙々と闘病生活を送っていた。
半年持つか…と医師に言われたのにも関わらず、1年近くがんばってたのに
今までピンピンしていたばあちゃんが心臓の発作でポックリ逝ってしまった。
ばあちゃんの葬式で見たじいちゃんの丸まった背中が妙に小さく見えたっけ。
そして葬式が終わった後、爺ちゃんも眠るように亡くなった。
朝起きて家族が見に行ったときには亡くなってたそうだ。
枕元には緊急のときに押すボタンもあったのに、押さずに一人亡くなったらしい。
婆ちゃんの後を追ったんだろう。爺ちゃん婆ちゃんの事大好きだったから…
おじいさん
若いころは酒と女をこよなく愛した色男だったらしい。
でも母は祖父が歳いってからの子供で更に私は末っ子なので
寝たきりになっているおじいさんしか知らない。
おじいさんの部屋にいるとスースー寝ている最中に
時折ものすごい爆音の屁をかましてくれるのが面白くて好きだった。
しかもえげつないくらいくさかった。
楽しいことが好きなおじいさんだったらしいので
お葬式でお坊さんが読経中にゲップをしてみんな笑ってしまったり
13回忌でそのお坊さんの息子さんが鐘と間違えて
お水を入れているコップを叩いてクリスタルな音が広がり
みんな笑ってしまったのもおじいさんだからなーという事になってます。
夏が終わる頃になると祖父が昔
「もうすぐ学校が始まるけど行きたくないなあ」とぼやく私に
「おじいちゃんも旧制中学に行ってる頃、そりゃあ学校行きたくなかったさ。
でも仕方無しに寮に帰ったら関東大震災が起きて本当にしばらく休校になったんだぞ!」
と、やけに楽しそうに話してくれたことを思い出す
32 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/01 17:46:44 ID:sa3psQIL
このスレ見ると・・・・・
24年前に亡くなったじーちゃん。
消防時の俺の良きケンカ相手だった。
一日に何度も、コツンってゲンコツくらってたよ。
ケンカして近所の公園に逃げたら、竹竿もって追いかけてきた。
でも、時々俺が問題やらかして家族中から怒られてたりすると
じーちゃんだけが、「よしよし、かわいそうに、お前はいい子だ」
って慰めてくれた。
消防の時に死んじゃったからろに真面目な話もしたことなかったけど
今ならたくさん、じーちゃんに聞いてもらいたいことあったのに。
なんか、なけてきた。
↑
>ろに真面目な話もしたことなかったけど
じゃなくて
ろくに真面目な話もしたことなかったけどに 訂正します。
スレ汚し、すみません。
私の祖父は私が物心ついた頃にはもう寝たきりだった。
でも昔はきりっとしいて、本当に男前の警察官だったと祖母は言う。
祖母は交番勤務だった頃の祖父に一目ぼれし、毎日差し入れ持っては猛烈にアタックしたらしい。
そして結婚。
大酒のみの祖父は、やっと買ったマイホームを酒の代金に飲みつぶし、子供がやっと大きくなったかと思うと、私が大学生の時肺炎をこじらせてあっけなく逝ってしまうまで寝たっきり。
祖母はつきっきりで看病し、ほとんど遊びらしい遊びはしていなかったのだが、それでも祖父を語るときはなんとも幸せそうだ。
病気の祖父を抱え、祖父が飲みつぶした家を女でひとつでまた手に入れ、グチひとつこぼさず笑って話す。
私は祖母を尊敬してる。
36 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/03 08:47:45 ID:gThSxoAp
ここはイイスレ(・∀・)
37 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/03 09:01:25 ID:BsN8U0HL
>>35 うおおおお、頼りないじいさんと
真面目なばあちゃんって見てると泣けてくるよ・・・
38 :
・・・:05/01/03 09:29:01 ID:0nERW2sq
祖父が入院していたとき、私は幼稚園の年長だった。
翌年に小学校に入学するので、ランドセルを買ってもらう約束だった。
その日、祖父のお見舞いに行き
私が祖父の胸をさすったら、突然大量に吐血した。
それが元で、祖父は亡くなってしまった。
そして私は、驚いて大泣きした。
ランドセルが買ってもらえないー、一年生になれない、
と言って大泣きしたのでつ。
39 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/05 22:21:52 ID:AxNY0htl
私もスレタイ見ただけで泣けてきた。
おじいちゃんが雪の日にベビーバスをソリにして、
私と弟を引っ張って遊んでくれたのを思い出す。
おじいちゃん重たくないかなあ、と思った。
おじいちゃんの手の感触は絶対忘れないよ。
41 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/05 22:57:30 ID:KAjUNRvo
うちのバァちゃんは私が幼い頃、昼寝の時によく昔話を話してくれたが、
その語り口がものすごく絶妙で、特にやまんばの話の中でやまんばが盗んだ牛を食らうシーンは
メチャメチャうまそうに聞こえ、そこだけを何回も話してくれるよう頼んでいた。
ちょうど10年前に病院で最後を見届けた時、一生分の涙が出たんじゃないかと思うくらい泣いた。
あそこまで泣いたのは今でもあの時だけである。
このスレ読んでたら2年前に亡くなったおじいちゃん思い出して涙でてきた。
小さいころは、おじいちゃん登りして遊んだり、おじいちゃんの
ザビエル禿げを隠す設計図を書いてプレゼントしたりしたなぁ…。
入れ歯をカパってずらせて「ウガァ〜!!」って脅かすのが十八番で、
やさしいおじいちゃんが急変して「ウガァ〜!」ってやるから
ビビッて大泣きしたなぁ。
もうちょっと長生きしてほしかったよ。おじいちゃん。
昔近所で火事があった。
子供が逃げ遅れ、取り残されているという状況の中
何とうちのじいちゃんが飛び込んでいき、無事救出したそうな。
(場所が入り組んだ小道にあった為、消防隊はまだ到着してなかったらしい)
当時中学生だった私。学校から帰って母からこの話を聞いたときは
思わず「じいちゃんかっこいー!!」と叫んでしまったよ。
44 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/05 23:46:41 ID:i8nETzz9
私の祖父は祖父自らの誕生日に亡くなったんだ。駅の階段から真っ逆さまに落ちて。ちょうどぴったり60年間生きたカコイイ祖父だ。
45 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/06 00:15:13 ID:jCsn38GJ
式の最中に突然棺おけ開いたのには、流石の坊さんもひっくり返ってたよ。
11月末にいきなり倒れてそのままポックリ逝ったバアちゃん。
ちょうど倒れる直前まで修学旅行(沖縄)に行ってて、お土産もばっちり選んであった。
『バアちゃんはタルトより饅頭の方が良いかな?ちんすこうも食べたいよなぁ♪( ´∀`)』なんて呑気に考えながら。
それで金曜日に帰ってきて、バアちゃんは月曜日に倒れて、水曜日に亡くなった。
倒れてからずっと昏睡状態で入院してたので、両親は二人ともそちらに向かってて家には弟と妹だけ。
泣いちゃダメだと思って耐えて、風呂の中でバレないように泣いた。
あのバアさん100まで生きるぞ、と言われてたほどの元気バアだったので本当にショックだった。
長文スマソ
両親の帰省で、毎年お盆にばあちゃんに会ってた。
ところがその年は様子が違っていた。
何気ない会話の最中にポツリと「今年で最後になるから…」
別れるときにも、泣きながら、いつまでも手を振っていた。
本当に元気なばあちゃんで、例年はそんなこと無かった。
ばあちゃんはその翌月に亡くなった。
自分の部屋の荷物をすべて整理して押入に片づけて、
家に代々伝わる料理を嫁さんに教えて、
棺桶に入れて欲しい物を家の者に伝えて、
それから動けなくなり、入院して、病院で亡くなった。
動けなくなる直前まで、苦しそうには見えなかったそうだ。
本当に平気だったのか、それとも我慢をしていたのか、
我慢をしていたのだとすると、それはいつ頃からだったのか、判らない。
>48
すごい話だ。
死期が分かるのかな。
現代だと、調子悪い→病院→癌が見つかる→半年くらいで他界ってパターン。
病院行かないのなら、やはり動物みたいに死期を悟るのかもしれない。
うーーん。
同居してたばあちゃんは明るくてやさしくて、人づき合いもうまくて、
癇癪もちのじいちゃんをうまーくなだめてくれて、ほんと大好きだった。
じいちゃんが小金持ちなんで「ご機嫌とってお小遣いもらいー」って言ったりw
そんなばあちゃんとは血が繋がってなかったけど、
ある日近所の人に「おばあちゃんに似てきたね」と言われ
びっくりしたけどうれしくなったのを覚えている。
でもある朝起きたら家の軒先で倒れていて、そのまま還らぬ人となった。
家族の誰か一人でももうちょっと早く起きてたら、
ばあちゃん一人であんなところに倒れたまま逝ってしまうようなことにはならなかったと思う。
4月とはいえ朝は冷え込んでた…ほんとにごめんね。
みんなでばあちゃんを抱えて布団まで連れて行って、
子供はとりあえず朝ごはんを食べて学校へ行けと言われた。
そんな気分じゃなかったけど、家にいてもすることないからって…。
朝ごはんは前の夜ばあちゃんが作ってくれたたけのことわらびの煮物(田舎だから…)。
もうこの味は一生食べられないんだな、と思ったらまた泣けた。
婆ちゃん死んじゃったのに学校行ったんか
52 :
50:05/01/10 21:07:57 ID:+wUKe8Za
>>51 家にいても仕方ないからって言われたんで…。
うちでは何十年と葬式を出してなかったのでどうしていいのかわからなかったんだと思います。
(親戚に葬式を出して間もないところがあったので、
いろいろ手伝ってもらったみたいです。)
日柄の関係で葬式まで2日空いたんですけど、結局葬式の日だけ休みました。
当日は文字通り泣く泣く自転車こいでいきました。
ありえない遅刻をしてしまったのでクラスメイトからへんな探りは入れられるし、
(ほんとのこと言うとまた泣きそうだったのでその日は先生以外には隠し通した)
授業受けてても泣けてくるし…。
もしかしたら私が家にいると泣きまくるので
それを嫌がったじいちゃんのこともあったのかもしれません。
53 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/13 20:35:03 ID:RE85fLYk
>>52 そういう状況だと「帰ったらおかえりと言ってくれるかも・・・」
とか考えちゃうから余計辛い
今電池探してたらばぁちゃんが最後にくれたお年玉とじいちゃんが最後にくれたお小遣いが出てきた。。
55 :
20:05/01/20 04:08:55 ID:Z+aMgO2n
おじいの介護疲れが祟って、おじいが亡くなった時には
お葬式にも出れなくなっていたおばあちゃんも、
ついに先日、おじいの後を追うように亡くなってしまった。
容態が悪くなって入院したと聞いた時は、何か嫌な予感がして、
夜中の3時ぐらいに無理を言ってお見舞いに行ったんだけど、
(うちの母が付きっきりだったので入れてもらえた)
いつも深夜から明け方にかけては起きてたらしいのに、その日だけはずっと寝たままだった。
仕方ないから顔だけ見て帰ったんだけど、その日の朝に亡くなってしまったらしい。
おじいの時はあまりお見舞いとか行かなかったから、
寝てたから結局話とかは出来なかったけど、生きてるうちに顔を見に行っておいて本当に良かったと思った。
前の書き込みの時にも言ったけど、親が共働きだったからすごくお婆ちゃん子だった。
小学生の時は毎週土曜日はおばあちゃんちに帰って、
パインの乗った宅配のピザを食べながらおばあちゃんと女の60分を見ていた。
無類の寂しがりだったので、親が仕事で夜に家にいないと
向かいのマンションに住んでたお婆ちゃんに電話して、いつも来てもらってた。
そんなおばあちゃんがもういないなんてまだ信じられない。
告別式とかはまだだけど、泣いてしまいそうな気がする。
56 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/28 12:05:34 ID:qjZU/i/F
中1の春に母方の祖父が亡くなった。
危篤だって連絡は来てて、学校休んででも連れてくからって親には言われてたけど、
田舎(秋田)に到着予定の前日に、祖父は逝ってしまった。
祖父との思い出は1個しかない。
小学生の夏休みに遊びに行ったとき、昼間一緒に散歩してて、
「田んぼを見てごらん」って言われたから見たら一面にかえるの卵がぶわわぁっと・・・。
思わず「ぎゃああああ!!!気持ち悪い!じいちゃんの馬鹿!嫌い!!」と叫んで、その場に祖父を残して一人で走って帰っちゃったんだ。
そのあと、祖父と仲直りしたとか話したとかいう記憶はない。田舎にもそれ以来行かなかったし。
私は学校にいたんだけど、学校に連絡が入って帰宅して田舎に行った。
10年位ぶりに祖父の顔を見た。癌だったらしいんだけど、がりがりに痩せてた。
寝てるみたいだった。最後のお別れって言うのでガーゼで祖父の体拭いた。冷たくて、硬くて、祖父の死を実感した。
「じいちゃんの馬鹿!嫌い!!」って言っちゃったのを思い出して、ごめんね、起きてよ、謝らせてよって。大泣きした。
滅多に田舎に顔を出さなかった私が号泣したことに驚いた親戚に、
事情を聞かれて話したら「もう怒ってないだろうよ。きっと気持ちは通じてるよ」って凄く慰められた。
でも、棺おけ担いで家の前でぐるぐる回ってるのを見て不審に思って聞いたんだ。
そしたら「帰って来れないように方向を分からなくするんだ」って言われて。
「お盆にも帰ってこれないじゃん!やめて!!」ってまた大泣きして大人達を困らせた。
今でもたまにだけど、ちゃんと謝りたかったなって思う。
1回しか田舎には行かなかったけど、祖父ちゃんのこと大好きだったのになって。
漏れも中一のとき母方のじいちゃんが亡くなったよ。
そのとき漏れは学校にいて、先生から家に帰るように言われた。じいちゃんは
入院していたし状態も良くなかったみたいだからもしかしたら、って思ったけれど
実際学校を休むことが出来るし、飛行機で移動するっていうもんだから
不謹慎ながら旅行感覚でわくわくした。
そんでじいちゃんの家に着く前母さんからじいちゃんは亡くなったと聞かされた。
なんとなく分かっていたことだったからその場は悲しくなかったのだが
家の中に棺おけに入ったじいちゃんを見て急に涙がでそうになった。
それでも涙を見せたくなかったから耐えた。その晩ピザを食べたのを覚えている。
じいちゃんはキリスト教信者だったし、生前から葬式はあげないでって言っていたから
葬式はあげなかった。キリスト教のじいちゃんはいつもご飯を食べる前にお祈りをする。
食にありつけることの感謝みたいなことを言って最後にジーザスアーメンって。
で、次の日火葬をした。骨だけになったじいちゃんは骨壷にこれはなんとかの骨と
言われながら入れてゆかれた。頭蓋骨はしっかりと形を残していて最後に入れられた。
それを持ってじいちゃんの父と母の入っているお墓に入れ
その帰り長谷川町子とかの有名人のお墓を見てまわったりした。そのとき母さんが
一生懸命に笑っている感じがして子供ながらに母さんがんばれって気になった。
去年の夏、祖母を亡くしました。
祖父と呼べる人は私が生まれる前に亡くなっていて、片方の祖母も同様だったので
「おばあちゃん」という存在は祖母一人でした。
物心ついた時から会うたびに「今年で最後になるかもしれないねぇ」と泣いていました。
それが30年以上続いたので永遠に続くものだと思っていました。
亡くなる数年前から入院していて、何度かしかお見舞いに行けませんでしたが
ある時、「お前が孫の中で一番可愛い」と言われました。
私はすぐむくれたり、他の子のように祖母にすり寄ったりしない生意気な子供だったのに
「他の子のように調子いい時ばかりすり寄って来ないお前の言動には嘘が無い。
お前の言葉は信用出来る」と言ってくれました。
多分他の孫達にも似たようなことを言っているのだろうと予測は付いたものの、それでも嬉しかった。
結局孫の中で最後に見舞いに行ったのは2番目に遠方に住む私だったというのも皮肉な話で。
取り乱して大泣きしてしまい葬儀の手伝いから外されてしまったのが悔やまれます。
59 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/28 23:50:46 ID:p7sjZyms
自分の思い出ではないのですが…
「男性にしては割と綺麗な手だね」と私が旦那の手の甲をさすっていたら、旦那に「死んだ婆ちゃんもよくそう言って手をさすってくれたんだ。」と言われてこっちも切なくなりました。
先日、旦那からお婆ちゃんの形見のべっ甲のかんざしをもらったので、頑張って髪も伸ばしています。
かんざしを見る度に天国にいる旦那のお婆ちゃんが心配しないよう、しっかりしなくちゃと自分に渇を入れてます。
スレ違いでしたらすみません…。
60 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/29 22:15:58 ID:PiX8Sy0L
じいちゃんもばあちゃんもだいぶ前に死んじゃったな。
じいちゃんがよく「日露戦争の時はどうのこうの」と言ってたな。
ついにじいちゃんばあちゃん全滅しちまった。
さびしいなあ。
62 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/30 21:22:40 ID:ejOn+rrk
どうしよう・・・今一番仲のいいばあちゃんが69歳なんだけど
どんなに長く生きたって100が限界だから長く付き合えても
あと31年・・・・死んじゃったらどうしよう・・・・しばらく
立ち直れないかも。「お前先を気にしすぎww」とか思われるかもしれないけど
マジで心配
>>62 100まで生きるとは思わないほうがいいよ。
今のうちに、ばあちゃん孝行しておくことだな。
父方のじいちゃんは駄犬が嫌いだった。
小型犬や雑種に冷たかった。
でもいとこが連れてきたパグに蕎麦をやっていた。
「器量の悪い犬だ」と言ってた。
よく訓練された躾けの完璧なコリーしか可愛がらなかった。
うちで飼ってたバーニーズは家族以外には全く懐かなかったのに
じいちゃんが来た時だけは大人しかった。
じいちゃんが亡くなって昔の写真が出てきた。
じいちゃんは戦時中軍用犬の訓練師だったらしい。
シェパードを訓練している写真があった。
なんとなく納得した。
65 :
おさかなくわえた名無しさん:05/01/31 20:11:19 ID:L7hhcm9e
66 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/01 09:16:28 ID:VOMB/rlG
俺もじいちゃん(親父の義父)を二年前になくしたけど、やっぱりじいちゃんばあちゃん
っていうのは孫ってだけで特別に俺たちを可愛がってくれるから、俺たちにとっては
親より特別な存在になることもあるんだと思う。
俺のじいちゃんは血行が悪くなって最後の七年間は片足だけで頑張って生きてた。
痛い、痛い、って毎日言いながらでも、高校ん時廃れてた俺と昔から一緒にやってた
将棋をしている間は俺もじいちゃんも昔みたいに戻れた。
じいちゃんが亡くなった大学四年の4月21日、俺は腸閉塞になりかけていて
辛くて、じいちゃんが部屋にいてくれっていってたのに辛くて上に上がって
便所に入ってた。じいちゃんは降りたら、亡くなってた。
信じられなかった。
火葬場で俺がボタンを押した時、泣き崩れた。じいちゃんは世界からもう消えちまった。
俺の大脳には残っていても、もう一緒に話すことも、怒られることもない。
22年、俺と一緒に遊んで、起こってくれて、可愛がってくれた。
母方にも祖父はいて、優しいが、俺の中でじいちゃんは一人だけ。
じいちゃんと俺が可愛がってた、拾ったキツネと秋田県の合いの子のような犬も、じいちゃんが亡くなるひと月前に14歳のよれよれの
体で家から消えた。もう目も見えなくなってた。あの時のじいちゃんの泣いてた顔は
いまでも忘れない。
じいちゃん、ケン、俺もいつ世界から消えても大丈夫だよ。
思い出があるからね。それだけで俺は幸せだったと思うよ。
何気に良スレだな、ここ。
大抵ホロリとくる話なんだが、30だけは爆笑したw
31みたいな話も好きだw
>>62 63に同意。
うちもつい1〜2年前までは元気だったお婆ちゃんが
ガンで急に亡くなってしまったよ。
まだまだ若かったのにさ。
近くに住んでたからもっと会いに行っておけば良かったって後悔してる。
今のうちから十分に大事にしてやってくれ。
69 :
1/2:05/02/02 08:38:33 ID:gDSyJX6Z
思い出…だけじゃないんだけど
私のばーちゃんも2年前に死んだ。
親父が跡取りなので、自分が、産まれた時からずっと一緒に暮らしてたばーちゃん。
頑固で我侭でプライドの高い癇癪もちだったけど、真っ直ぐ過ぎる生き方をしてきた人だった。
ばーちゃんが入院した時、私は漫画家目指して上京してて、夢を追い掛けるのに必死だった。
でも、そう簡単にいくわけもなく、バイトして生活費をギリギリ稼ぐ生活。
当然金もなくて、交通費もないぐらいでなかなか帰郷できなかった。
なんとか交通費工面して見舞いに行ったら
あのシャキシャキしてたばーちゃんがすっかり弱気になってて驚いた。
入れ歯外したまま、フガフガしてるばーちゃんと話をした。
馬鹿な話だけど、私はばーちゃんが死ぬなんてあるわけないと思ってた。ずっと生きてるって。
それだけ、あたりまえに側にいる存在だったんだと思う。
最後にぽつりとばーちゃんが「おまえの事が、一番心配だよ」って言ったのを覚えてる。
それが、私が聞いたばーちゃんの最後の言葉。
次に見舞いに行ったらばーちゃんは意識混濁状態で、
骨ばってた手はむくんでぶよぶよになってた。手を握ったら、握り返すように指が動いた。
「あんたが来たの、わかってるね」って、お母さんが泣き出した。
その翌日、ばーちゃんは死んだ。
葬式が終って初めて、ばーちゃんが死んだって理解した。信じられなかった。
寝ても泣いて、起きてもずっと泣いてた。バイトも続けられなくなった。
毎日毎日、それこそ頭狂ったんちゃうかと思うぐらい、涙が止まらなかった。
「あんたが一番心配だよ」って言葉が延々頭の中で繰り返されて
心配かけたまま逝ってしまったばーちゃんに、申し訳無くていっぱいだった。
70 :
2/2:05/02/02 08:39:06 ID:gDSyJX6Z
そんな生活をしてた時、偶然街中で知人に声をかけられた。1.2度会話しただけの関係。
私がバイト情報雑誌を持ってるのを見て、知人は少し考えた後
「もし、興味があるなら漫画のアシスタントをやってみんか」と言われた。
知らなかったけど、その知人は漫画家で、人手不足なんだという。
アシスタントをやるようになって半年、ほんとにまた偶然のきっかけで
小さい仕事ながら、自分の漫画を描くチャンスに恵まれた。
未熟だけど必死に頑張ったせいか、それからぽつぽつと仕事がくるようになり
今は毎月何らかの漫画を描いている。
偶然なのかもしれないけど、何だかばーちゃんがチャンスをくれた気がしてならない。
描いていると、ばーちゃんによくつつかれた私の左頬があったかくなるんだわ。
たぶん、ばーちゃんがまだ漫画だけじゃ食えない私を心配してるんだと思う。
ばーちゃんの所へいく時には、
自分が描いた漫画を山のように持っていけるよう、がんばろうと思ってる。
それまで楽しみに待っててね、ばーちゃん。
71 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/03 21:18:58 ID:GmDVuasd
どどどどどど、どうしよう。
この前じいちゃんが死んじゃったんだけどそれから10ヶ月たったついこの前。
お参りしようと仏間行ったらなぞの丸くて白い発光体が仏壇から襖に高速移動してるのを
見た。すぐにばあちゃんに報告したら「じいちゃんだったんか・・・」と言ってるが
実際あの球体がなんだったのか気になる・・
祖父は10年ほど前に死んでしまったわけだが、去年の正月ばあちゃんが
「今年はいい初夢見たがいちゃ。おとうさん(祖父)が出てきてくれてねえ…」
…祖母、歳も歳だけにお迎えじゃないのそれと言いかけたが、言えなかった。
そんな祖母、4日前に無事89歳を迎えました。
老いてなお益々盛んとはあの事だと時々母が遠い目をしている。
じいちゃん、せっかちなのは知っていたが私の高校入学くらいまでは
生きててほしかったよ。
結婚して子供が生まれたらお墓参りに連れて行くからね。
ばあちゃんの作ったカレーもう一回食いたいよ
一昨年の今ごろだな、婆さん死んだの。
婆さん、具合悪くて入院してて。
それでも、起きて冗談言っては笑えるぐらいだったから、
そんな心配せずにいた。
実家はなれて大学生やっててさ、別れる時も、
「また会おう」とか、「早く元気に」なんて気の利いた言葉言えずに、
「じゃあ。」って一言。婆さん、すげー寂しそうだった。
それから一ヶ月もしないうちに容態急変して。
連絡聞いて、病院行ったら、集中治療室に入ってて。
言葉も話せない状態で。そんで、そのまま…。
すげー後悔した。
何で、あの時、もっと話をしなかったんだろうって。
ごめんよ。
すげー楽しい事もあったんだけど、婆さんの事思い出すたび、
あの、判れた時の寂しそうな顔しか出てこない。
ほんと、ごめん。
今から20年くらい前、当時小学生低学年だった私は、祖父の枕元にある日記をよく勝手に見ていた。
見るどころか、絵を書いたりいたづら書きしたりしてた。
ある日、日記の最後の方にある真っ白のページに、でかでかと『おじいちゃんのお墓』という、立派な立体的なお墓の絵を描いた。
とても不謹慎なんだけど、当時の私にはおじいちゃんにはこういう墓に入って欲しいという願望で描いていたので罪の意識はない。
それを見たおじいちゃんはどう思ったのかなぁ・・とふと思った。
そんなおじいちゃんは昨日、96歳大往生でこの世を去った。
去年新しく作り直したピカピカのお墓が、あの時描いた私のお墓と似ている気がした。
じいちゃんの話。長文ごめん。
闘病生活何年だったんだろう。癌で、全身に転移していった。
手の尽くし様がないところまできたとき、退院して家に帰ってきた。
私は当時家を出て一人暮らしをしていたから
実家に帰るたび、介護ベッドの上のじいちゃんが痩せていく姿に驚いた。
元気な頃は、頑固で職人気質で怒鳴る声しか聞いたことなかったのに
実家に帰ってベッドのじいちゃんを覗き込むといつも
「よぉ帰ってきてくれたなぁ」とだけ細い声で、ものすごい優しく微笑んでくれた。
ある年、じいちゃんが再入院した。
帰省して顔を覗き込むと、じいちゃんはいつもどおり迎えてくれたけど
もう声を出す力もなく、微笑んでくれるだけだった。
その数日後アパートに戻ってると、実家から連絡がきた。
「皆に最期に会ってもらってる。来れるようだったら帰ってこい。」 と。
その日は大した用事もなかったのに、何故かすぐに帰らなかった。
新幹線に乗って空をぼーっと眺めていると、
晴れていた空が、トンネルを抜けたとたん真っ暗になり、大雨が降った。
それは5分ほどですぐ止み、光が差してきた。
不思議なんだけど、嫌な予感 とかではなく、ピンときたわけでもなく
ただ単に「あぁ、そっか…」とだけ、本当にそれだけが心に浮かんだ。
病院に駆けつけると、病室は何もなく、誰もいなかった。
訳がわからず、看護婦さんに聞くと、泣きそうな優しい顔で
「ご連絡いってませんでしたか…もうお帰りになりましたよ」と教えてくれた。
本当にもう訳がわからなかった。なんで居ないの。なんで誰も居ないの。
なんで誰からも連絡こないの。なんで私居なかったの。なんで。
77 :
76続き:05/02/06 06:02:19 ID:bpCQAw2R
ようやく実家に戻ると、盆正月でさえも顔を見ないような面々も揃っていて
その中心に白い布団が一組。傍にばあちゃんの小さい背中。
とりあえずじいちゃんの傍に座って、顔を見せてもらう。
父が何か謝ってくる。ばあちゃんが涙声で優しく話し掛けてくれる。
何か言わなきゃと途中まで言いかけたところで
胸が詰まってはちきれそうで、とっさにトイレへ逃げ込んでしまった。
私がうだうだしていたせいで最期に間に合わなかった。
間に合わなかっただけじゃない、最期を知らされなかった。
(父はそれを謝ってくれてたらしい。テンパって忘れていたそうだ。)
こないだ帰省したときはいつものように微笑んでくれてた。
いきなりこんなのが始まってて、そこに居るのにもう居ない。
それでも全てが理解できないまま、その日から葬式まで過ごした。
通夜では手を合わせても涙は出なかった。
手伝いをしたり、ばあちゃんに付き添ったりしてて、ヒトゴトのようだった。
葬式も、前日と同じような進行の中、前日と同じく無感情で参列していた。
ところが、お経を聞いていたら急に何かがこみ上げてきた。
焼香の番が来て、遺影を見つめて手を合わせたら、涙が突然溢れた。
席に戻るまでの短い間に急に嗚咽が止まらなくなり、まっすぐ歩けなくて
倒れこむように座り、しゃくりあげて泣いた。止まらなかった。
数年たった今でも、このときの罪悪感とかが重くて忘れられない。
一生忘れずにいようと思う。同じ失敗をしないようにしようと思う。
じいちゃん、仮通夜で、あのとき、素直に泣けなくてごめん。
私バカだから、理解できるまで時間かかっちゃったんだ。
でも、ぎりぎり間に合ったよね。最期のお別れできたよね。
この時期になると、石焼き芋屋を見かけるたびに
じいちゃんが毎年やってくれた焚き火の焼き芋思い出す。
またあの焼き芋が食べたいな。焚き火すごい楽しかった。
いろんなこと経験させてくれてありがとう。 いっぱい、ありがとう。
78 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/06 10:33:57 ID:E9OL36da
>>77 御愁傷様です。
やっぱどこの家もガンはキツイよな
79 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/06 10:36:25 ID:ABh5tAhB
婆ちゃん、舟和の芋ようかんと餡子玉が好きだったな〜
今、芋ようかん喰いながらふと思った。
80 :
1:05/02/06 11:04:05 ID:XWuVRHsS
私がばりばり思春期突入したときに同居始めたじいさんと私は仲が悪かった。
というより、私が付き合い方がわからんかった。
NHKにでてくるようなやさしい孫にはなれないし。
けれどじいさんは私の作った料理をほめてくれるし一緒に成人式の写真撮ったときもうれしそうだったし
下宿を始めた私が帰ってくるとすんごい笑顔で迎えてくれた。
私が家に帰ってまた一緒に住むようになった。
そのころから「年取ったなぁ」と思うことが多くなった。ごはんも少なくなったし、物忘れもするし。
そしてなによりも交通事故を起こすようになった。小さな事故だけど。電柱にぶつかったり。
じいさんはいつも私が家を出る時間に自転車の前に立っていた。邪魔に思うこともあった。
「おはよう」っていうときとなんだか急いでていえないときもあった。私は自転車に乗って急いで駅に向かうことで精一杯だった。
81 :
2:05/02/06 11:08:35 ID:XWuVRHsS
夏、稲刈りが終わってみんなでくつろいでるときに電話がなった。
母親が出て祖父あての電話だから取り次ごうとしたら
「立つのしんどいから(用)きいといて」といった。今までそんなことなかったのに。
右足を引きずったように歩くようになっていた。おこりっぽくなっていた。
車を車庫に入れるのも下手になっていて、二台分入る車庫の真ん中に車を置いていた。
何かとんでもないようなことがおきるんじゃないかと恐ろしくなった。
82 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/06 11:13:48 ID:Oruyu+pc
父方のオズィーさんは寝るのがはやかった。
自分で布団出して夜8時には寝てた。
燃えるゴミを庭で焼いてた。
お帳面を持っていて教訓かなんかを何かメモしてた。
落花生がおやつ。
83 :
3:05/02/06 11:15:46 ID:XWuVRHsS
私が居間でくつろいでいるときたないタイヤのちぎれたようなものをもって
祖父が現れた「A子(妹)がほしがると思って」私は気味が悪くて「A子そんなの頼んでた?しらないよ」と言った。
なんでそんなものを持ってきてるのかわからなかったし、妹は小さいころから仲良くできる子だったので
その二人の関係はしらない!って思ってた。
次の日くらいにA子と二人でいるところに祖父がやってきた。
カメラの調子がわるい・・とためし撮りをするために「A子とったげる」と言った。
またA子だけ・・とおもい私は無視していた。しかし、なかなかシャッターを切らなかったが、そのうちに祖父はシャッターを押し
自分の部屋に戻っていった。
祖父がおかしいと家族みんなが気にしだして
いつもカカッテル内科の先生にききにいこうとしてるときに祖父が自分でもおかしいと気づいて
病院にいった。
痴呆か脳梗塞か・・・と思っていた。
84 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/06 11:22:45 ID:8lVu9iwR
うちは母方のじいちゃんが死んでしまいました
死んでしまったのは中学生の時
じいちゃんは怖い・厳しい人でした 特に私には・・・
あまり悲しいとか寂しいと言う気持ちはありません
母方のばーちゃん
父方のジー・バーは生きてます
父方のジー・バーには元気で長生きして欲しいな
85 :
4長くなってごめん:05/02/06 11:33:36 ID:XWuVRHsS
大きな病院で診てもらうことになった。
即入院。「よく車でこれましたね」と言われた。
脳腫瘍だった。高齢のため摘出できないうえにおそらく悪性であることも言われた。
治療しなかったら1ヶ月、もって半年。昨日まで元気に畑に出かけてたのに信じられなかった。
「うそだ」と思った。けれど、どんどん弱っていった。じいさん・・・。
放射線で1回症状が軽くなったときに家に帰って畑を杖をつかって歩いたり私に作物の借り入れ時を教えてくれたり
農業したかったんだよね。寒いのにサンダル履きで長いこと畑を見ていた。
半年と言われて5ヶ月で亡くなってしまった。
なくなる直前、じいさんのカメラが部屋から見付かってフィルムを現像にだした。
そこにはじいさんの仕事(パートいってた)場の写真があった。小さい子どもの写真や花。
そして、A子と横を向いてる私の写真があった。涙が止まらなかった。私もカメラに収めたかったんだと
そのとき初めて気づいた。なんで前を向いてとらなかったんだろう
意識の無いじいさんに「私横向いてる・・・」っていったっきり何も話せなかった。
私は脳に損傷をおったひとのためのリハビリ職につく予定だった、なのにじいさんには何も出来なかったし、
病気も早く気づいてあげられなかった・・・北向きに寝かされたじいさんの横でずっと
後悔していた。家族で死に目にあえなかった(急いで帰ってきたんだけど無理だった)のは私だけだったのは
じいさんは私には会いたくなかったのでは・・とか思ってしまった。
そこにじいさんの親戚がきて
「じいさん、あんたのことすごい期待してたみたいよ」と言った。信じられなかった。
お葬式の後、父親にも
「お前がいつも自転車とばしていくからじいさんは心配してた」ときかされた。
いつも自転車の前にいたのは・・・!!
悲しかった。悔しかった。
けれど自分がじいさんに愛されていたことがわかった。
じいさんありがとう。本当にごめんなさい。
一周忌が過ぎてやっと夕方(じいさんがなくなったくらい)がこわくなくなったよ
86 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/11 19:14:00 ID:NiqspD7I
保守
87 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/11 19:47:53 ID:qonRKDTj
父が父子家庭出身。母が母子家庭出身。
したがって私には祖父ちゃんと祖母ちゃんは一人づつしかいなかった。
が、小学校中ごろまでそれが当たり前だと思っていた。
だって両親だって父ちゃんと母ちゃんの一人づつしかいないじゃん。
祖父ちゃん祖母ちゃんが二人づついるやつの存在を知ったときの驚きなんて・・・。
>>87 でも二人とも健在ってのはあまりないもんだよ。
合計4人の方が珍しいんじゃないか?
霊能力者ってのがよくいるけど、俺も幽霊でもいいからじいちゃんばあちゃんや父親と
話をしてみたいよ。
90 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/11 20:02:02 ID:Ph8N2DBx
うちなんか母方のじいちゃんが若いとき死んで、ばあちゃんという人は再婚
して母も会ったことありませんでしたが。しかも母を育てた曾祖母も再婚で
祖父を連れて嫁いできてたため、母の里に居る人々は血縁上まったくの赤の他人
な人たちなのであった。。。
母が里帰りしたときはその場になんか他人くさい空気がながれてたものです。
うちのばあちゃんは亡くなってから1年くらいの間に2回夢に出てきました。
片方はよく覚えてないんだけど、初盆の頃に見た夢では
じいちゃん(いまでも健在)とばあちゃんが茶の間でテレビを見てました。
私が「あれ、ばあちゃんどうしたん?」って言ったら
じいちゃんが「ばあさん帰ってきたんぞ」って言うんです。
「そうなんやー!」ってなぜかばあちゃんの足を確認する私(笑)
ばあちゃんはそんな私を見てやさしく笑ってくれてました。
たった今母方のじいちゃんが息を引き取ったと連絡が入った・・・
正月に会った時は、弱ってながらも普通に会話出来たのに・・・
あああああああああああああああああ!!!
じいちゃんに孫の顔見せてねえよ
ガキの頃もらった恩何も返してねえよ
稲の刈り取りの手伝いも1回しか出来なかったよ
じいちゃんの娘に心配かけさせてばっかだよ
畜生!! 畜生!! 俺のクソ野郎!!!
93 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/12 00:21:10 ID:o7U8g5Hw
>>92 2chに書き込むヒマがあったら1分1秒でも早くじいちゃんの家へ池
>>92 俺も去年同じようなことを思ったよ。
その思いだけで十分さ。
あとはじいちゃんが喜ぶように
少しでも立派な人間になってやれ。
>>92 一度でも稲刈りの手伝い出来たじゃないか。
正月に話せたじゃないか。
あんたは孝行者だ。
じいちゃん家行って手合わせてこい。思いっ切り泣いておあげ。
孫が出来たら、じいちゃんの墓に連れて行って合わせやれ。
子供の心配するのは親の特権みたいなもんだから多少はいいけど、たまにはかあちゃんにも孝行しとけ。
あぁ。それから、じいちゃんに貰った恩は、あんたのかあちゃんとこの先産まれるあんたの子供に返していけば良いんだよ。
97 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/21 23:02:14 ID:PHUOstI/
この前デパートに行ったら丁度1Fで小学校入学フェアみたいなのをやっていて
新しいランドセルがたくさん並んでいた。
「にゅうがくおめでとう!」と書かれた垂れ幕もかかっていた。
そしてある家族が子供と一緒にランドセルを選んでいた。
子供は棚に置いてあるランドセルを背負ったりして嬉しそうにはしゃいでいる。
それを見て私が小学校に上がった時のことを思い出してしまった。
私のランドセルは父方のおばあちゃんが買ってくれました。
たかが子供が使うものなのに、汚したりするかもしれないから合皮の安いやつでいいのに、
わざわざ職人が1つ1つ手で作った本牛革の高級な真っ赤なランドセルを買ってくれた。
それを私が背負って見せると普段は大人しくてあまりしゃべらないおばあちゃんが満面の笑みで
「○○ちゃんは体が小さいからカバン負けしちまうよ〜!カバンのほうが大きいよ!」
と声を裏返らせて大はしゃぎだった。
その家族の光景を見てこのことを思い出してしまって思わず涙が出た。
おばあちゃん私の入学をあんなに喜んでくれて。
ここ数年ちょっと精神的に弱っていて今では心療内科に通院中の身で、
「自分なんか生きててもしょうがないんだ、この世に必要ないんだ」
と思っていたけど、私の存在を喜んでくれた人がいたんだと改めて思い出しました。
おばあちゃんありがとう。
これからも天国から見守っていてください。
おじいちゃんもおばあちゃんに対しても後悔ばかり。
悲しくてスレにも書けない。
99 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/22 03:01:57 ID:a6+ZjvW8
このスレ本当に泣ける・・・
100 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/22 03:16:31 ID:X2zcJICj
私には祖父母の記憶がありません。
父母の記憶は努力して忘れてしまいたいです。
>>1 バカヤロウ!
思い出しちゃったじゃないか!。・゚・(ノД`)・゚・。
このスレ見てばあちゃんじいちゃんに会いたくなった。
うちは同年代の人と比べると珍しく、母方父方両方の祖父母が健在だからつい忘れがちだけど、
10年後も会えるかどうか分からないんだよな、本当。
母方のじいちゃんばあちゃんなんてもう6,7年会ってないよ。
会えるうちに会って可愛がってもらった恩返しがしたい。
何が出来るかわからないけど・・・。
>>102 電話とか手紙がおすすめ。
うちは進学して地元を離れてるけど、
昼間じいちゃんが一人で留守番してる時間帯に電話したりするよ。
母方のじいちゃんが亡くなったのは、私がその四月から小学校に通い始める、という
3月のことだった。弟は3歳。
あんまり記憶はないけど、近くの神社の池に、しけったお菓子とかお麩を持って行って、
じいちゃんと並んでコイにあげてたのは記憶にある。金網があって、池のすぐそばには
行けないんだけど、ある時それが開いてて、じいちゃんと一緒に入った。
あとは、じいちゃんのひざの上で、ニュートン(雑誌)の見開きの太陽系の図を見てるとこ。
その光景ははっきり憶えてる。
ばあちゃんが言うには、じいちゃんは、私(初孫)が生まれると聞くと、
「タバコはもうやめた」といってキッパリやめてしまったそうだ。
また、赤ん坊(私)が女だったときき、三人娘を産んでいたばあちゃんが、
「ああー、また女の子だねェ」と言うと、じいちゃんは
「○○さん(父方)は、男二人兄弟なんだから、初めての女の子だよ。そんなこと言っちゃいけないよ」
とばあちゃんをたしなめたそうだ。
じいちゃんは、旧国鉄のエライヒトだったらしい。どっかの線路に電車を開通させた写真を
最近見せてもらった。
東京、立川駅の駅長をやっていたそうだ。
戦争が終わり、機密書類などをあつかっていたじいちゃんは、
敗戦の報を聞くと、ばあちゃんと二人で機密書類をみんな燃やしたそうだ。
105 :
2:05/02/22 23:01:01 ID:E4g/Owub
3年ほど前、じいちゃんの、なん回忌だろう、わすれたけど、そのときに、
昔じいちゃんの下で働いていた駅員さんたちが、会いに来てくれた。
みんな、じいちゃんのことを「おやっさん」と呼んで慕ってくれていた。
「おやっさんが、資格をいろいろ取らせてくれて、国鉄が傾きかかった時には
みんな良い時期に良い部署へ移動できるように推薦文を書いてくれた。
おかげで、くいっぱぐれずに済んだ」という人もいた。
じいちゃんはいろんな人に尊敬されてたみたいだ。
じいちゃんはホントは絵描きになりたかったんだけど、
「そんなメシも食えないようなことは許さん!」と言われ、あきらめたそうだ。
私は絵が大好きで、良く描く。それを見るとばあちゃんが、
「あんたは、器用なとことか、絵が好きなのとか、読んでる雑誌とか、おじいちゃんによく似てるよ」と言う。
ちなみに弟は、くせっけの髪の毛とマユゲがじいちゃんにそっくりらしい。
弟なんて、ほとんどじいちゃんのことを憶えてないけど、遺伝子の中には
じいちゃんとかばあちゃんとか、そのもっと前の人達が、ちゃんと生きてるんだなって思う。
ちなみに、3月に母方のばあちゃんとおばさん、父方のじいちゃんと4人で
オーストラリアに行く。ばあちゃんは、去年行った韓国に夢中になって、
飛行機を見るたび「韓国に行くのかねェ」と思うそうだ。
今度はオーストラリアに夢中になるだろう。
もうじいちゃんもばあちゃんも、ばあちゃんはとくにヒザが悪いから、あんまし
動き回ったりとかできなくなるから、早いうちにどんどん一緒に旅行したりしたいよ。
同じ事何度も話したり、耳が遠くなったり、ちょっと疲れることもあるけど、大好きだよ、じーちゃんばーちゃん。
106 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/24 11:21:34 ID:f60HOY4x
じいちゃんばあちゃんとも家から離れたところに住んでたから毎年一回しか合えなかった。
しかし、時々電話でも話してたしお年玉も毎年現金書き留めで送ってくれてた。
じいちゃんが亡くなり、その後3年程でばあちゃんも亡くなったが
自分は海外に住んでいたから葬式は出席しなかった。
元々頻繁に会ってなかったのと葬式会場などを見ていないせいか
いまでも両人とも亡くなったという実感がまったくない。
悲しまなくてよかったかなー、なんて思ってる。
107 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/24 11:26:21 ID:wYY2SsPO
オイルショックの時に生理用ナプキンを買いだめしていた
小学生の頃、おじいちゃんが作ってくれた
おにぎりが好きだった。
冷たいご飯を丸めて味噌を塗っただけの。
おじいちゃんの手は大きいからおにぎりもでかいんだ、これが。
それをわしわし食べながらおじいちゃんと
『遠山の金さん』と相撲を見るのが日課だった。
あー思い出したら泣けてきた。
うちの祖父ちゃんも相撲好きだったなあ。
うちは小さい頃、カップ麺やインスタントラーメンを母親が食わせてくれなかった。
近くに住んでた祖父ちゃんちに行ってコッソリ食ってたなあ、相撲見ながら。
祖母ちゃんがいつも「チャルメラ」を買い置きしてくれてた。
あの頃は母ちゃんに内緒(バレてたらしいが)で、祖父ちゃんとラーメン食うのが馬鹿みたく嬉しかった。
今じゃカップ麺なんか食い飽きてんのに…
思い出したら泣きそうだ。
110 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/24 16:54:44 ID:OWW+0FH8
俺は母方のじいちゃんが高1のときに死んじゃったけど
他の二人のばあちゃんと父方のじいちゃんは健在。
でも死んじゃったじいちゃんが一番可愛がってくれたしな・・・
なんで一番可愛がってくれたじい、ばあちゃんばっかり早く死んじゃうんだろ
今から20年前の小学生の頃、家の裏手に鳳仙花が根付いてた。
家の裏手は陽の当たらないジメジメしたところだったから、ばぁちゃんと2人で表に植え替えようって話になった。
私はむかしっからばぁちゃんっ子だったし、ばぁちゃんと一緒に何か出来るってことを喜んでいた。
私はこれからすっごいいい事をするような気がしてわくわくして先に家の裏手に行っていた。
でもなかなかばぁちゃんが来ないから迎えに行こうとして、勝手口から玄関に回ろうとした。
そうしたら、勝手口を出たところでブレーキの壊れた自転車に轢かれたんだ。
左足首複雑骨折。完治まで5年かかった。
時は経ち、7年前。母から電話が来た。
ばぁちゃんの肺に癌が見つかり、もう3ヶ月ももたないって医者に言われたって。
やさしかったばぁちゃん。両親に怒られた時もいつも味方してくれて、慰めてくれた。
そんなばぁちゃんが癌なんて信じられなかった。
だけど慌てて実家に帰り、ばぁちゃんの看病をした。
意識のないばぁちゃんにちっちゃい頃の思い出話したり、楽しい話してるのに涙が止まらなかった。
いよいよ危篤って時に私は立ち会うことが出来た。
その時、意識なんてなかったはずのばぁちゃんは擦れた声で
「○○(私)、あの時早く裏にいけなくってごめん。怪我させてごめん。鳳仙花は今も玄関前で咲いてるよ」
って。確かに言った気がした。
泣いた。号泣した。
あの事をまだばぁちゃんが気にしているんなら、どうして気にすることないんだよって言えなかったんだろうって思って。
そのままばぁちゃんは息を引き取った。91歳だった。
私は実家を出てしまったけど、休みが取れたら実家に帰って鳳仙花の世話をしてる。
あの時のばぁちゃんと同じように。
112 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/24 23:43:32 ID:PGXAGneu
。∴(ノД`)∴。
泣きながら良スレage
113 :
拾い物:05/02/25 00:38:33 ID:VqLz73vr
なぁ、じいちゃん。
俺が生まれた時から語尾に「じゃ」を付けるようにしたんだって?
その方がじいちゃんっぽいからってさ。今時、いねーよ。そんなじいちゃん。
友達は「変」って言ったけど、俺は気に入ってたよ。
なぁ、じいちゃん。
お年玉、隠してから手紙に地図書いて渡したよな。
いい大人がニコニコ顔で「財宝の在りか」とかって書いてたな。
金額は大したこと無かったけど、探すの楽しかったよ。
なぁ、じいちゃん。
よく一緒にでかいバイクに乗ったよな。
後ろで怖がる俺を面白がってガンガン飛ばしやがって…。
あれ、マジで怖かったんだぞ。
なぁ、じいちゃん。
60過ぎてAVとか借りてたな。
思春期ど真ん中の俺に見せて、真っ赤になるのを見て大喜びしてたな。
実は俺、彼女できたんだぜ。
なぁ、じいちゃん…。
俺とバイクでツーリング行くんじゃなかったのか…?
庭にログハウス建てるんじゃなかったのか…?
余裕で100歳まで生きるんじゃなかったのか…?
あんたまだ75じゃないか…。足りねー…25年も足りねーよ。
そういや、計算苦手だったよな…。でもよ、25年は…違いすぎるだろ…。
この…クソじじい…好き勝手やって死にやがって…。
もう、あんたに反撃できねぇじゃねーか…。
帰って来いよ…頼むよ…。
高校受験の直前になくなった祖父。
厳しい人で、よく怒られた。
でもとても可愛がってくれた人だった。
亡くなる少し前、突然私に便箋をくれた。
「学問は重き荷を背負う。遠き道を歩くが如し。
楽は苦の種、苦は楽の種」
「泣いてはならん、挫けてはならん。
がんばれ、がんばれ、がんばれ」
おじいちゃん
勉強が嫌いで、サボる事ばかり考えていた私。
貰った時には「ふーん」という感想しかなかった。
でも30を過ぎた今、この言葉の意味がわかってきた。
辛い時の何よりの支えになっている。
おじいちゃんの人生で得た、最高の助言をありがとう。
そして、おじいちゃんの生きているうちに
この言葉の大切さを理解出来なかった馬鹿な孫娘を許してね。
私、今頑張っているよ。
116 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/25 14:53:00 ID:6/H5An5A
>>113 ネタかと思ったが後半みたら悲しくなってきた・・・
117 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/25 18:55:04 ID:n3jplLNa
大好きだったおばあちゃん。
いっつも縁側に座ってお茶飲んでた。
あたしに気付くとニコニコ手を振ってくれた。
転職したばかりの慣れない職場でグッタリだった父(おばあちゃんの息子)に、
『仕事きつかったら、辞めてもいいんだよ』と言った事があった。
可愛いなぁと思った。いくつになっても息子は息子なんだなぁ、って。
でもおばあちゃん、親父が仕事辞めたら、うちら生活できないんだよ〜とも思ったけど(笑)
あたしの名前はおばあちゃんから一字もらった。
すっごく誇りに思ってるよ。
跡取り娘だったのに、お嫁にいっちゃってごめんなさい。
今頃天国で怒っちゃってるかな?
許してね。すっごく好きな人と一緒になれたんだ。
曾孫の顔、みせたいなぁ(´・ω・`)
うちのおばあちゃん
具合が悪くなって運ばれた時に、
尿道にカテーテル入れられている時、
看護師に向って
「ワシのお○○に何つっこむんや!」
と怒鳴っていた(漁師町の女性だから言葉は悪い)。
それから2日後、あっちの世界にいったよ。
高齢になるとあっという間に悪くなるね。
爺さんは労働争議に関わっていたせいで、
ほとんど家にいなかったそうだ。
ブラックスーツにセルフレームの黒縁眼鏡、
髪はオールバックにして黒のマントを羽織っていたそうだ。
昭和初期生まれにしては上背もあるから、きっとかっこよかっただろう。
だが、かっこよさげなのは見た目だけで、
中身はもうほんとおかしな人だった。
寿司屋で酔い潰れ、ストーブの上で湯気を立てていた薬缶を引っくりかえし
全身やけどを負ってみたり(ものすごい痕が残ってた)
趣味はクロッキーと水墨画なんだけど、クロッキーは尋常でなく上手いのに
筆を持つとぐだぐだになったり。
一度、家の周りの野良猫を追い払おうと、爺さんは猫の絵を描いた。
猫を追い払うために猫の絵、っていう発想がすでに意味不明。
私が小学生のとき使っていた水彩絵の具で描かれたそれは、
まるでブタかイノシシか、どう見ても猫には見えない。
それを玄関前にどーんと飾って悦に入ってた。婆さんが隠れて捨てたそうだ。
じいさんは去年の年末、風呂で突然亡くなった。なんの悪いところもなかった。
その日までに、家の冬囲いの仕方を父に全て教え、屋根の補修を終え、
いつもは婆さんが切れるまでやらない縄綯い(冬囲いに使う)まで
しっかり終わらせてあった。
遺影には、その1月前に行われた彼の甥の結婚式の写真が使われたのだが、
その結婚式の最中に酔っ払って「これで俺の仕事は終わった」と言っていたそうだ。
爺さんは早世した両親に代わって、兄弟6人を立派に育て上げた。
結婚した甥で、爺さんの甥・姪がすべて結婚したことになる。
爺さんはこの甥(40歳)の結婚が遅いのを心配していた。
それが結婚したから安心して死ねると思ったんじゃないか、と婆さんは言う。
(結婚した本人からすれば迷惑な話ではある)
遺品を整理していたら、お年玉が出てきた。
12月の末に、すでに私と弟の分を用意していたらしい。
じいちゃん、私もう22だよ。もらうばっかりでまだ何もしてあげてないよ。
笑いながら泣いた。
葬式や法要が終わって、婆さんもちょっと元気ない。
爺さんの分まで、婆さんには長生きしてもらいたいと思う。
>120は119の2/2です。返す返すスマソ。
>>119-120 うまくいえないけど、おじいちゃん責任をきっちり果たしたんですね。
おしゃれさんだったみたいだし、ちょっとうらやましいなあ。
私の祖母ではなくて、親戚のおばあちゃんなんですが、
普段からほんとに元気だったのに風邪をこじらせて入院しました。
入院したときにすでにもう手遅れの状態で、普通に話が出来たんだけど
医者からは「あと2,3日でしょう」って言われてたそうです。
家族もそのことは本人には言わず、
(本人が気づくといけないので)親戚や近所に見舞いもさせなかったそうですが
なぜかそのおばあちゃんは意識を失う前に「葬式の時には仏壇の飾りは…」と
仏壇の支度のことをきちんと言い残して、医者が宣告した余命どおりに逝ったそうです。
やっぱりわかる人にはわかるんでしょうか。
うちのじーちゃん、一人っ子で、親がトモダチがいないとかわいそうだ、っていうんで、
良く家にトモダチになっていそうな子を食事に呼んだりしたらしい。
じいちゃんはマイペース。
オーダーメイドで作った高い革のカバンを、
「それ、素敵ですね!」といわれたら
「あげるよ」といってあげてしまい、自分は風呂敷包みで会社から帰ってきたこともあったらしい。
ばーちゃんはあきれ返ったそうだ。
高校時代には、甲子園野球の予選に出場、ピッチャーとしてマウンドにのぼったそうだ。
そんなじいちゃんは、左右の腕の長さが違って、シャツはいつもオーダーメイドだった。
卓球やビリヤードに凝り、卓球台、マイキューを持っていた。
相当にオシャレな人だったんだろう。背も高かった。
バーではモテモテだったそうだ。
じいちゃんの名前は福太郎。
生家の近所には、じいちゃんのように立派になるように、と、福太郎と名づけられた子がいたらしい。
じいちゃん、カッコよすぎだよ。今になって、ハナシとか、してみたかったなぁ。
じいちゃんの好きな絵のこととかさ。
私も、絵、描くんだよ、おじいちゃん。
父方と母方、両方のおじいちゃんが絵が得意だなんて、そしてそれが私にちゃんと遺伝してるなんて、
すごいよねえ。
器用貧乏なところは、ひいじいちゃんそっくりだってさw
台風の後に、ハマに落っこちてたお稲荷さんを拾ってきて、勝手に御社を手作りしたんだって?
器用だよね―。父方のじいちゃんも、凧作ったり、革細工したり、釣りのルアー?毛ばり作ったり、
とにかく器用だよ。
124 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/25 23:32:56 ID:6/H5An5A
みんなの見てたり俺の経験からも思うけど
余命宣告されたときって死ぬまでが辛いよな。死ぬまでは
毎日毎日「今日は大丈夫かな・・」と心配になるし寝る時に寝床で
大泣きしたこともあったし、で、とうとう本人が死んでしまうと前々から
覚悟は出来ていたので一晩済めば少しは落ち着く。
でも余命宣告されなかったらいきなり死んじゃって死んだ後に悲しむハメになるよね・・
あと俺は死にそうな病気とかかかったことないけどもうすぐ死ぬ人ってのはやっぱり
医者に言われなくても「俺はもうすぐ死ぬのかな?」ってある程度分かるらしいね。何が根拠なのかは分からんけど
みんなガンで死んでるな。
それぞれの最期
ばあちゃん(父方)
私が小学校2年の時。
見舞いに病院に行くと、もう声を出す気力がないのか
いつも私の手を握って微笑んでいた。いつもおやすみのキスを私としていた。
じいちゃん(父方)
中ニの時。
離れた所に住んでいたので、頻繁に見舞いに行けなかった。
まだ元気な時は、病室で写真取ったり話したり。
もう危ない、という時、肺がんだったのでぜいぜい苦しそうで、
ガリガリに痩せた足とか見せてきた。
思わず目を逸らしてしまった。
ばあちゃん(母方)
3年前。大人になってから、人が死ぬのは生々しい。
もう駄目なので見舞いに来いと、遠く離れた県に住んでいるばあちゃんに
会いに行った。
病院が苦痛みたいで、一時帰宅するとご飯をめっちゃ食べるのに、
病院に戻った途端に食べない…食べてくれよ…
ばあちゃんの息子(おじさん)とか、色々問題があって
凄い苦労した人だから、亡くなった時は
お疲れ様…ゆっくり休んでね、って思った。悲しかったけど。
じいちゃん(父方)は私が生まれる前に戦死。
そのじいちゃんが赴いた戦地の石(遺体は戻らなかった)を
大事にしていたばあちゃん。
126 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/26 01:07:48 ID:uYm6nssp
幼稚園の頃、じいちゃんばあちゃんの家に遊びに行って
つぶつぶオレンジを買ってもらいました。
飲み終わった後、
つぶ(缶なのでどうしても残る)が残ってるので、それが「もったいない」と
缶に水をいれてもう一度飲まされました。
今思い出してもなんか微笑ましい。
127 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/26 02:52:30 ID:0SXPrwpX
三十年前、俺が産まれたときには父方、母方の祖父母が四人と、曾祖母が三人いた。
二十年前、俺が小学校でイジメに、あっていたころ、祖父母は四人、曾祖母は一人になっていた。
十年前、俺が震災に遭って人生を踏み外し始めていたとき、それでも祖父母は四人、曾祖母は一人いた。
そして俺がやっぱり立ち直れずにいる今、残ったのは母方の祖母一人だけになってしまった。
おじいちゃん、おばあちゃん、ひいばあちゃん、こんな弱い孫でごめんな・・・でももうちょっと頑張ってみるよ・・・。
父方の祖父→自分が生まれる前にとっくに死亡
母方の祖父→自分が生まれる前に戦争で死亡
母方の祖母→性格ひねくれたババアだったので大嫌いだった
反りが合わなかったというのもあるが。死んでも全然悲しくなかった
一緒に暮らした事がなかったせいもあって嫌な部分しか目に付かなかった
というか嫌な部分が自分の母親の嫌な部分とそっくりなのがまた憎悪
いいね、お前らは祖父母にいい思い出があって
せめて母方の祖父が生きていればと思ったことは何度もあるんだが
祖父はどうも感覚が自分と似てるところがあるらしかったから。
初孫だったこともあって祖父ちゃんにはすごく可愛がられた。
酒飲みで、癇癪もちだったけど、私は怒られたこともなかったな。
三文安にならないようにと父親は非常に厳しかったけど、
父にこっぴどく叱られても祖父ちゃんという拠り所があったのは幸せだった。
ある日祖父ちゃんが三輪車を買ってくれた。
それを私がメチャメチャ喜んだのが嬉しかったらしく
三輪車と私を担いで父の会社まで見せに行ったそうだ。
バスも使わず歩いて40分かけて行かなくても
父帰宅後に見せりゃいいって話だけど、この話を聞いて涙がでた。
小学生の時に亡くなってしまったけど
今でも祖父ちゃんは拠り所になってるよ。
130 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/26 19:45:33 ID:e+1OHz65
やばいこのスレ泣ける・・・・もう1回
>>1から読み直そうっと
俺の小さい頃に死んじゃったじいちゃんはすっげぇやさしくてすっげぇ金持ちだった。
じいちゃんは俺が大好きで可愛かったんだと思う。よく俺を風呂に誘ったりした。
ある時また風呂に誘われたんだけど、俺はアイスが食べたいと言った。
じいちゃんはいつも俺のために冷凍庫にハーゲンダッツを絶やさないでおいてくれたんだ。
じいちゃんはさっそく俺にアイスを食べさせてくれた。もう無我夢中で食ったよ。w
今は滅多に食べないハーゲンダッツ、ものすごく美味かったのを憶えてる。
食べ終わってじいちゃんがさぁ行こうと言うと、
当時今以上に馬鹿だった俺はまた嫌がった。
さすがに見てられなかったのか、ばあちゃんが珍しく
俺とじいちゃんのあいだに入って俺を叱った。
じいちゃんはそれからすぐに癌に冒されて入院した。
俺は病院と見るたびに痩せていくじいちゃんが恐くて
ろくにお見舞いにも行かなかった。行ってもマンガみたいなのを読んでた。
最後に行ったお見舞いで、じいちゃんは俺に握手を求めた。
その時は特に何も考えもしなかったが、今考えると
じいちゃんに触れたのはそれで最後だったよ。
ある日じいちゃんの家に行くと、寝室にじいちゃんがいた。
顔には白い布がかけられていた。
じいちゃんは癌で死んじゃったよと親に言われた。
まだ小さいから、と参列には行かせてもらえなかった。
あの時に本当に戻りたいと思う。じいちゃんに謝って一緒に風呂に入りたい。
せめてもの罪滅ぼしにと、俺はまだ元気なばあちゃんを自分なりに大事にしてる。
じいちゃん、昔はありがとう。お世話になりました。もっと一緒にいたかったよ…。
駄文&長文スマソ。
ちなみに今母親になんで俺がじいちゃんと
風呂に入るのを嫌がったのか聞いてみたら、
「おじいちゃん太ってておっぱいがあるからいやだ」
と言ってたらしい…。i||i〇| ̄|_i||iナニイッテンダオレ…。
それと偶然かな?
珍しく自宅にハーゲンダッツのバニラのでかいやつ
じいちゃんが昔食べさせてくれたやつと同じ物があった。
なんか泣けてきた。
133 :
おさかなくわえた名無しさん:05/02/26 22:46:45 ID:e+1OHz65
>>131 ううう、子供だから仕方ないとは言え後悔が残ったままじいちゃんが死んじゃうと
辛いよな・・・・。
例えが悪いがお前が何十年か後に死んだら一緒に風呂入れや
厨房の頃、ボケ始めてたばぁちゃんに悪態ついてた。
もう死んで20年たつけど人生の中で一番後悔してる。
135 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/02 20:31:00 ID:5c2R1Tvn
・・・
うちの親族一同は三宅島出身で、爺ちゃん婆ちゃんの世代は
島の外に出たことがなかったらしい。
自分と弟は親族の中で一番末だったこともあって
産まれた時からこれでもかと可愛がって貰ってた。
夏がくるたびに遊びにいって、古い家の囲炉裏が珍しくて
井戸にはいつでも甘いスイカが冷やしてあった。
小学校に上がる前後に爺ちゃんも婆ちゃんも本土の病院に入院した。
お見舞いに行くたびに、ティッシュに包んだ千円札をそっと握らせてくれた。
葬式の時のことは今でもはっきり思い出せる。
最近になって、避難していた本家の最後の大婆が亡くなっていたのを知った。
すぐ近くにいたのに、どうして会いに行けなかったのか行かなかったのか。
「いつも熱出していた末っ子はちゃんと嫁にいけたよ」って
ちゃんと報告したかったのに。
きっと帰りたかっただろうな。帰してあげたかったな。
いつでも行けるから、と思っていた故郷だったけど
でも、あの家はもうない。灰と土砂でなくなっちゃった。
今は墓参りすら行くことができない。ごめんね。
思い出と違っちゃったな、失礼しました。
137 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/02 23:22:16 ID:F7Ln6sa6
思い出は誰も持っていけない、誰も盗めない。
そこに確かにあった、という記憶は宝です。
大切にして下さい。
138 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/03 01:54:17 ID:Hqumu0ip
『じいちゃんもうだめだから…』と言った祖父の姿はあまりにも小さかった。それから一週間後亡くなった。祖母は、朝から晩まで農作業で祖父を見ててやらなかったことに後悔して隠れて泣いてた。
140 :
138です:05/03/03 02:01:44 ID:Hqumu0ip
祖父は酸素マスクで寝て過ごしてて毎日何度も呼ばれてて面倒臭くなって聞こえないふりをしたこともあった。大声出させてごめんなさい。苦しかったよね。思いだすたびに後悔でいっぱいになります。
141 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/03 02:09:19 ID:Hqumu0ip
139 ありがとうございます。祖母は元気です。でも確実に年は取っていってますよね。仕方ないことですが。
自分は祖父と疎遠だったので、最後は辛いことになったとはいえ、沢山思い出を
持ってるあなたが羨ましくもあります。
祖母は年をとる前に亡くなり、薄情な自分は祖母を見捨ててました。
あなたにはまだお祖母さんがいる、それは幸せなことです。
いい思い出を作ってください。
あなたのお祖母さんが元気で長生きされますように。
約1ヶ月前、1月31日に祖母(83)がなくなりました。
思い出というか、母から聞いたエピソードなんだけど・・
孫・曾孫がばあちゃんにあいにいくとかならず自分の財布からおこづかいをくれた。
最後のほうはボケがはいっていて、姉の子(小学生)が遊びにいったときに、
顔を見た瞬間に店(自営)の金庫から10万くらいの束をわしづかみにして渡したらしい・・
いや、客観的にみたら単なるボケ老人の行動なんだろうけど、
ばあちゃんの孫曾孫思いのやさしさをしみじみ感じたのでした。
あとこれは最期死ぬとき。夜8時ごろ。
病院に家族親戚がそろってばあちゃん(意識朦朧)をがんばれがんばれと励ましているのに、
肝心のじいちゃんがいない。家に電話したら「月末で店が忙しいから行けない」と。(クソじじい。)
母がなきながら「タクシー呼ぶからとっとと来い!」と怒鳴って
しぶしぶ一時間後に到着。
じいちゃんが到着したら、安心したようにすうっと息を引き取ったそうです・・
きっとじいちゃんをまってたんだろうね、とみんなでいってました。
死ぬ2〜3日前から、じいちゃんがお風呂に入ると自分も服を脱いで
一緒に入ってたんだって。普段そんなことしないのに。
自分の死期をわかってて、じいちゃんと離れたくなかったんだろうな、と。
もう一度元気なばあちゃんに会いたいな・・
長文ごめ。
144 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/04 21:13:21 ID:sMsqkG5K
誰でも死ぬ前って「自分はもうすぐ死ぬ」って分かってるみたいだよね
やっぱり死ぬ前って本人は分かるのかな?
小学生の時かな。夏の夜、じぃちゃんは蚊帳を釣ってその中で寝ていた。私はその隣の部屋で寝てた。じぃちゃんがふいに「○○、蚊は来ちょらんか?一緒に寝らんか??」と言った。その当時、私はじぃちゃんが苦手で、その時は「いいよ!!」と断ってしまった。
そんなに大した??事じゃないけど、何故か今でも覚えている。あの時一緒に寝ればよかった。ごめんね。じぃちゃん……
>>145 じいちゃんも子どもの頃にはきっと自分のじいちゃんが苦手だったこともあるに違いない。
147 :
145:05/03/05 17:12:29 ID:Nas995iG
>>146、ありがとう……。
じぃちゃんが亡くなり、病院から帰ってきて、布団に寝かされていた。親は通夜の準備とかで忙しそうにしていた。父が私にこう言った。「じぃちゃんのそばにいてあげなさい。じぃちゃんは寂しがり屋だったから。」
しばらく、じぃちゃんの布団のそばに座っていた。だけれども、次第に怖くなって(遺体を見たのは?これが初めてだった)すぐその場を離れてしまった……。つくづく冷たい孫だよ……(ρд;)
俺の祖母は母親や近所の人に言わせればものすごくキツい人だった、らしい。
むろん俺にも厳しい面はあったが、それでも周囲には「自慢の初孫」だったそうだ。
祖母は俺の成人や嫁迎えを心待ちにしていた。中国文学科に進学した俺に良かれと、
田舎の新聞に連載されていた漢字の知識の記事を送ってきたり、手紙を書いてきたり…
筆不精だったので、返事はほとんど返さなかったので、祖母には寂しい思いをさせたと思う。
祖母は俺の成人と、嫁を迎え、曾孫を見ることが何より楽しみにしていたはずだ。
それなのに、成人の直前に危篤になり、俺は急遽帰郷する。
最期まで排便も自分でしたいと言って気丈だった祖母は、俺の顔を見て、俺の手を握り、
「もう二度と会えないと思ったよ…」
涙を流してそう言った。少しは心が強くなったと思い込んでいたその時の俺は、
「そんな気弱なこと言ってんじゃないよ!普段のおばあちゃんと違うじゃん!俺はすぐ東京に帰る!
成人式はもうすぐなんだから、まだまだ生きていられないと困る!第一嫁も見てないだろ」
祖母「そうだね…もう少しがんばるよ…」
そのまま帰京した俺。
149 :
148続き:05/03/05 21:32:08 ID:q4XDMt9/
その日。
俺は酒を飲みたくなり近所の盛り場に出かけ、痛飲した。
深夜、帰りがけ、田舎の民謡やらを道々歌いながら家路に就いた。
家に着いた瞬間電話が鳴ったと思ったら、
祖母の死の知らせだった。12月27日。奇しくも祖父の命日と一日違いだった。
バカだよ、ばあちゃん・・・後もう少し、待っていてくれたら立派に紋付を見せることが出来たのに。
ようやっと、彼女も出来たのに。
ばあちゃん・・・
150 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/12 10:07:12 ID:VGtAo6hA
い
今度、WOWOWで15日「おばあちゃんの家」って映画やるけど
マジ泣く。おばあちゃん子だったら、本能で泣く。
子供の頃って、相手に対しての思いやりとかわかんないから
おばあちゃんに、けっこうわがまま言って困らせてたもんな〜
それでも、おばあちゃんは、やさしくしてくれたよな〜
毎日毎日虐められてた。俺の存在なにが気に入らなかったのか。
ばあさんの思い出なんて憎しみしかない。一言でも謝ってから逝って欲しかった
あんたが家族に看取られ、静かに息を引き取るとは思って無かったよ。
神様は生前の行いを見てるとか嘘なんだね
今でもばあさんに殴られ、ご飯を貰えない夢をみる
幽霊でもいいから誤りにきてくれ。少しは嫌な夢を見なくなるかもしれないから。
153 :
152:05/03/13 18:39:53 ID:jXil05jr
×誤り
○謝り でした。
父方のじいちゃん、母方のばあちゃん&母の姉(叔母)と共に
オーストラリアから帰ってきた。一周間行っていた。
じいちゃんは品川生まれ・育ちの江戸っ子、ばあちゃんは横浜生まれ・育ちのハマッ子なので、
どんなものでも食べるし、びびったりもしない。ハイカラだ。
クロコダイルやバッファローもたいらげ、現地で買ったあやしいアイスも食べた。
ばあちゃんは膝が悪いので、ジャングル探検土ボタルツアーはどうしようかと思ったが、
ばあちゃんは「見たい」と聞かない。叔母に手を引かれ、テクテクと
森の中を歩く祖母。ツアーの最後尾をがんばって歩いた。
じいちゃんはシャカシャカと歩き、こちらが迷わないようにライトで照らしてくれる。
ばあちゃん「広いねえ」「ヘビは気持ち悪いねえ」「コアラはかわいいねえ」
じいちゃん「オーストラリア人は、たいして旨いもん食ってねえな!」
じいちゃんは早起きしてホテルから五分ほど離れたガススタンドまで歩いていき、
チョコバーとアイスを買ってきた。一人で行ってきた。すげえぞじいちゃん。
最終日はやはり日本食が恋しくなったらしく、日本食居酒屋で
スシと味噌汁ラーメンを食べてホット一息。
また旅行に行こう!
しまった。まだ死んでねえや、二人とも。
(・∀・)イイ!!
157 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/15 16:37:10 ID:aS9fWNw7
母方のじいちゃんは陸軍で整備兵だった。消防のころいろいろ話してくれた。
松山で活躍した紫電改の話は今でも印象深い。
その後大陸で終戦、武装解除するときに、露助がやってきそうだったので
ロス家から逃げて、アメリカに投降するときの様子(映画よりスリリング!)
なんかも良く聞いた。(同じ部隊で露すけに投降した人はシベリアで
ほとんどなくなったそうだ)
父方のじいちゃんは陸軍で下士官やってて、インパール作戦に参加して
生きて帰った(インパールからの生還がどれくらいむずかしいかは軍版でも
みてね)
どっちかのじいちゃんが死んでれば俺は今いないんだ。
戦争は無いに越したことはないが、当時、自分の置かれた立場で
一生懸命生きてたじいちゃんたち、ましてや自分の国にすら誇りを
もてない様なやつは嫌いだ。
こんなスレがあったんだ…以下長文、先日銀河鉄道に乗った爺ちゃんの事。
若い頃から体が弱く、従軍中に胸膜炎に罹って途中で帰されたらしい。
ぶっちゃけ80過ぎまで生きるとは誰も思わなかったとか。
帰還後に結婚して四児の父となるが、いくら仕方のなかった事とはいえ
戦争でたくさん人を殺してしまったトラウマで、それ以来虫も殺せなかった。
家の中に入って来た蚊やハエも叩き殺さず、そっと捕まえて外に放してた。
飼ってたハムスターが死んだ時も、家族の中で爺ちゃんだけが墓に向かい
いつも被ってたニット帽を取ってそっと黙祷してくれた。
相変わらず呼吸器は弱かったけど、元気な時は
バイクも乗り回すわパソコンも習うわアクティブな爺だった。
最期はやはり、元々弱かった肺の病気だった。
細面で彫りの深かった爺ちゃんの死に顔は作り物みたいにきれいで、
俺はその時爺ちゃんがけっこう美形だった事に気付いた。
葬式は喪主を務めたうちの馬鹿親父の都合で、
家に帰さず病院から葬祭ホールに直行、そのまま事務的にパック葬。
生前の爺ちゃんの人柄を語る人は少なく、ほとんど親戚の近況報告会だった。
つい先日納骨を済ませ、ようやく田舎に帰れた爺ちゃん。
一人遺された婆ちゃんが不憫だよ。どうか見守ってやってくれ。
実家を離れた俺では会う度に泣けてしまって、慰めるどころじゃないから。
159 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/16 23:58:45 ID:B6a9cVqz
2年前の夏にじいちゃんが亡くなりました。七十二歳でした。158さんのおじいさんと同じく、
体が弱く過度の痩せ型でした。戦争にも行かなく、40歳ぐらいの頃に死にかけたそうです。
ある日、じいちゃんが心臓の血管に亀裂が入ってかなり危険だ、との連絡を受け何度か隣の県まで会いに行きましたが、
集中治療室に入って目を覚ましませんでした。ある夜に危篤だと連絡が入り急いで行くと
もう冷たくなっていました。目の前にいるのがじいちゃんで、しかももう死んでしまって
いるのが自分の中で理解も整理もできませんでした。親戚みんな大泣きで、自分も大泣きでした。
温厚な人で、自分も可愛がってもらったので本当に悲しかったです。
半年前41度の熱を出したとき夢の中にじいちゃんが出てきました。
自分は夢に色が無いんですがそのときははっきり色があり、川がありました。
よく三途の川とかだと反対側に亡くなった人がいるのですが、そのときは川沿いの
小屋にじいちゃんが笑って座ってました。そして「悩んでいるようだけど、自分のなるべき姿は今すぐ決まらなくてもいいよ。
大学に入ってからでも選ぶ時間はあるよ」と言っていました。
当時自分は自分の進路を決めれずとても悩んでいました。
目がさめると熱はひいていて、涙を流していました。
夢の中に出てきて自分にアドバイスをくれた、とそう思っています。
161 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/17 00:39:24 ID:34z2V0VM
もうすぐお彼岸なので書きます。
私が生まれた時すでに父方も母方も祖父は他界していませんでした。
なので小さい頃からおばあちゃんとお墓にお参りに行くとおばあちゃんが
「おじいちゃんも喜んでるよ」と言いました。
まだ小さくて肉親の死というものを経験したことがなかった私は、
心の中で「ただの石(墓石)じゃん!なんでこれがおじいちゃんなの?なんで喜んでるってわかるの?」と疑問でした。
でも大人になって両家のおばあちゃんも亡くなり、今ではなんだかそれがわかるような気がします。
母方の実家のお墓は電車で遠いのですが、帰る時いつも駅の前まで
おじいちゃん(会ったことないけど)とおばあちゃん2人が笑顔で見送ってくれてるような気がします。
その時「あ、おばあちゃんが言っていたのはこういうことだったんだな」ってわかりました。
おじいちゃん・おばあちゃん、もうすぐお墓参り行くから待っててくださいね。
162 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/17 00:40:41 ID:1MQ+yH3S
母方の祖父母が
去年の夏、続けて亡くなった。
最初は、ばぁちゃん。告別式終わって2日後に、じぃちゃん。
皆が言うには、すごい仲良しで、ばぁちゃん方向オンチだから心配しちゃったんだよって。私も、そう思える。
初孫で、可愛がられた記憶しかない。大好きだ。
163 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/17 00:46:50 ID:k7hLeLCf
みんないい思い出あるんだなぁ・・・。
私なんて
「あんたは嫁にいけないよ!」
と言われたことくらいしか思い出に残ってないorz
164 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/17 00:50:53 ID:Nu48mLOp
うちのじいちゃん、生まれた時から体が弱く
医者からも「20歳までは生きられないでしょう」とお墨付きを貰い
もちろん徴兵検査でもはじかれた
結局じいちゃんが家を継ぐことになったんだが
体が弱いくせに「梅干に醤油かけると酸っぱさが消える」
「ゆで卵に醤油を目一杯かければご飯三杯食べられる」
などと塩分を摂りまくり、さらに毎日徹底的に酒を飲みまくる
結局途中で脳梗塞だか起こしてぶっ倒れた
それでも足腰立たず言語不明瞭のまま、日中はTVの前に座りっぱなしで20年以上生き
82歳で亡くなった お墨付きを貰った割には、兄弟中で一番の長寿だったりする
母方の祖父は私が4歳になる少し前に亡くなった。
生前の祖父に関して私が覚えているのは、
家(父方の祖父母も同居)を訪ねてきた祖父が居間に座っていて、その横に
私がくっついて座っていたという光景だけ。
その時自分がとても嬉しい気持ちだったというのは強く印象に残っている。
祖父が若い頃結核を患っていたため、父方の祖母が孫と祖父を会わせないように
母に命じていた、と知ったのは最近のこと。
記憶に残っているのは、多分、他の大人たちの目を盗んで
大好きだったおじいちゃんに甘えていた時のことだと思う。
亡くなる時も辛い思いをしたおじいちゃん。そのことも大きくなってから教えられた。
オレのじいちゃん85歳、今は母の弟(つまり叔父さんですね)の家で暮らしてる。
最近ようやくじいちゃんのありがたみと面白さ・偉大さが判るようになって、
週一くらいで家にお邪魔してお酒飲んでるんだけど、
叔父さんに「遺産目当て?」みたいな目で見られるのがちょっと・・・
じいちゃん農家やってたから、土地を沢山持ってるんだよな・・・
じいちゃんはそれに気付かず「お前にやれる土地も残しておくからな」なんて言うので
かなり気まずい。(気持ちはとても有り難いけれど)
俺は単にじいちゃんと焼酎が飲みたいだけなんだよ・・・
167 :
おさかなくわえた名無しさん:05/03/20 21:10:12 ID:KhWXoRKk
母方のおじいちゃん。
殆ど記憶が残ってないんだけど、コレだけは覚えてる。
まだおじいちゃんが生きていて、でも入院直前だった時に、
3歳くらいだった私は誰かに絵本を読んでもらいたかった。
でも家族みんなが(おじいちゃんの入院の準備で)忙しそうだったので、
病気とかわからなかった私は、残酷にも
おじいちゃんに絵本を読んでもらうことを頼んだ。
そうしたらおじいちゃん、眼鏡をかけて
一生懸命読んでくれたんだけど、
もごもご言ってるようにしか私には聞き取れず。
「もういいよ!」と言っておじいちゃんから絵本を奪ってしまった。
その後、おじいちゃんは入院→即他界。
未だに後悔しています。ごめんね、おじいちゃん。
168 :
名無しさん:2005/03/26(土) 02:14:56 ID:YFeFY23Y
最近、歯医者に治療に通ってます。
約20年振り位です。今の治療はあまり痛くもなく安心。
歯医者さんといえば、おばあちゃんに初めて連れてってもらったトコなのです。
その時は、あの音が怖くて大泣きして・・言う事を聞かず大変困らせた覚えが
あります。今、治療に行く度に思い出しては、あの時は悪かったなぁと
苦笑いしてしまいます。
今度、墓前に行った時は「今度は泣かなかったよ」と最初に報告しよ
うと思います。
>>168 ついでに新発明された虫歯治療薬も報告汁
170 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/03/26(土) 20:55:09 ID:p4wHpVmi
3日前に父方の祖父がなくなった。
父親は末っ子で長姉と17歳あいているから、祖父は高齢になる。92歳。
私が生まれた時で、68歳だった。
私が4,5歳の頃、一度私の家族が住んでいる官舎まで一人(祖母は膀胱
の病気になってから、尿意の感覚が分からなくなったため、遠出ができな
くなったから来なかった)で来たことがあった。
その時に父が運転する車で祖父と弟と一緒にスーパーへ行っておもちゃを
買ってもらった。
祖父におもちゃを買ってもらったのはこの時だけ。
次姉の夫の借金が原因で、私や弟や他のいとこにあまり何もできにくくな
ったらしい。
その後は、祖父の家に行ったら、時々父の運転で祖母と母親と弟と6人で
周囲をドライブしたりしたなあ。
私が小学生の時は、初詣も一緒に行った。
171 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/04/07(木) 03:33:53 ID:7c2QCHvK
留学して気弱になっている時に届いた祖母からの手紙。
漢字もまともに書けない鉛筆書きの手紙。
祖母から貰った唯一の手紙だった。
「オマエは本当にすごい。自慢の孫です。」と。
学校にも行けず田舎の豆腐屋に嫁いだ祖母は
いつも「すごいね」「えらいね」って誉めてくれた。
祖母が想像もつかない世界に今は住んでいるけど
彼女のシンプルで奥深い世界には到底叶わない。
年老いた時に彼女のような優しさを後の者に残せればと思う。
母方の祖父母は今も元気だけど、
父方の祖母とはよく会ってたけど、祖父とは、私は一度も会う事なく、遠い所へ逝ってしまった。
理由は長くなるが、パパンは幼い頃両親(つまり私の祖父母)が離婚してしまい、パパンは両親に捨てられて親戚中をたらい回しにされていた。
縁があってママンと出会い、二人はケコーンして私が生まれたんだが、
パパンは私が生まれた事も連絡せず、自分の父親に絶対に会おうとしなかった。
それから何年もの月日が流れ、私が社会人になったある日、祖父が死んだと電話が入った。
パパンを捨てた祖父が子供心に憎かったのに、急に寂しくなった。
今はもう写真でしか会えないけれど、お盆やお彼岸には、ママンと一緒に野の花を摘んで、一緒におはぎを作って供えて、手を合わせてます。
最近はパパンもこっそりじいちゃんの写真に手を合わせてたよ。
じいちゃんは私の顔を知らんけど、私はじいちゃんの顔を知ってるので
私があの世に行ってから、会えたらいいなーと思う。
長文スマソでした。
173 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/04/12(火) 18:05:24 ID:9Erl5R0+
じいちゃん…大工の棟梁で飲む打つ買うはするが、仕事も誰にも負けなかったらしい。飲んで吉原で倒れ
連絡あり、2日後に死んだ。82歳。大往生だ。鬼の棟梁と言われ、逆らったのは私だけとよく言われた。初めての内孫で目に入れても痛くなかったらしい。
ものすごい葬儀だったのを、子供心に何となく覚えてる。昭和30年。
ばあちゃん…大好きだったのに、遠く離れていて、しかも長男を生んだばかりで死に目にあえず。ごめんね。81歳。昭和59年。
遊びに行くたびに、「これでラーメンでも食べて。」と言って、
ラーメン好きの私におこづかいをくれていたおじいちゃん。
いつもお金を入れた封筒に『○○ちゃん(私の名前)、いつまでもお元気で』と書いてくれていました。
寝たきりになって、筋力が衰えてしまってほとんど字が書けない状態になってからも
震えた手で『いつまでもお元気で』と一生懸命封筒に書いてくれていました。
そんなおじいちゃんが亡くなってから一年が過ぎようとしていますが
おじいちゃんが丁寧に書いてくれた封筒、今でも持ってるよ。
これからも大切にするからね。
じいちゃんの運転するカブの後ろに
ノーヘルで乗ってたばあちゃん。
警察に停められると
「孫が!孫が産まれるんです!!!」って二人で叫ぶ。
「そうですか、今回だけですよ」と警察が見逃してくれたらしい。
とても仲良しの二人でした。
ばあちゃんが他界して、数ヶ月でじいちゃんも後を追うように
亡くなりました。
私の理想の夫婦です。
母が生まれるとき、祖母が妊娠中毒症になってしまい、最終的には
子供を取るか母体を取るか、という瀬戸際になったらしい。
どちらを選びますか?と医者に問われた祖父はこう答えた。
「両方助けろ!!」
結果、祖母も母も無事生き延び、そのおかげで私はここにいます。
現在は祖父母は天国にいるけれど。
おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう。
177 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/04/19(火) 03:47:46 ID:PQPdjnZD
去年婆ちゃんが死んだ。自分にとってよく会話していたのでとてもつらい
怒りっぽい性格だったけどそれでも忘れられない。「去年は最悪だった」って
言葉が耳に残ります
178 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/04/19(火) 04:35:18 ID:fa/51zhO
このスレええ話や(ノД`)
179 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/04/19(火) 06:11:18 ID:NLBdlo9N
うちの爺ちゃんも20年前に死んでしまったけど、子供の頃は
可愛がられた記憶しかないよ。でも、悪い時はきちんと叱ってくれた。
親に叱られるとなぜか、ムカつくのに爺ちゃんに叱られると素直に
反省出来たんだよね。
若い頃は戦争に行って負傷して帰ってきた(俗にいう傷痍軍人)事が
死んだ戦友に申し訳なくて生き残ったからには何かしよう!ってんで
自分一代で事業を起こしたバイタリティのある人だった。
でも、そうやって戦地から帰ってこなければ今の自分は存在しない
事になるのだから感謝してるよ・・・絶対に戦争は良くない。
ガンになって入院してからも、自分が見舞いに行くと必ずヨロヨロ
しながら病院の喫茶店で甘い物を食べさせてくれた。
最期の息を引き取る前にも「爺ちゃん」と呼びかけたら自分の声にだけ
反応してそれが最期で眠るように死んでしまった。
火葬して骨だけになってしまったのを見た時は号泣したな〜
時は経って大人になったけど、今こそ出来るならもう一度話してみたい。
核家族が増えたり祖父母と同居しない人も増えてるけど、子供にとったら
祖父母は居た方がありがたい存在だと思う(甘やかしは論外だけどさ)
そろそろ墓参り&掃除に行かないとな〜・・・
>時は経って大人になったけど、今こそ出来るならもう一度話してみたい。
あーホントそう思う。シミジミ思う。
なんかそう思うと泣けてくる。
一昨年、電柱の陰からヌーッと出てきた80歳のおばあちゃんを
車ではねてしまった。
転倒してアスファルトに頭を檄打し一面血の海。
外傷だったので足の骨折も含めて一命はとりとめたものの
入院中に持病の肺炎が悪化して数日後に亡くなりました。
手術は成功して、怪我の状態もよくなりかけてきたとき
だっただけにショックで1年ほど引きこもっていますた。
刑期は務めあげましたが2年経った今でも怖くてハンドルが
握れません。
先日、高熱を出しまして…
その時に珍しく、ばあちゃんから電話がきた。
「死んだじいちゃんが夢で〜○○(私の名前)が苦しんでる助けてやれ〜
と言うので、電話してみたんだよ。大丈夫か?」
とても嬉しかったよ〜。
消防の低学年で亡くなったけど、父方のじいちゃんというと「バナナ」を思い
出すなぁ……入退院を繰り返してたじいちゃんを見舞いに行くと、必ず
「バナナいるか?」って聞いてきたからなんだけど、さ。
何で毎回同じように「バナナ」だったのか、覚えてない。おそらくバナナが
高級品だった世代だったから、孫にいいもの食わせてやりたい一心だった
んじゃないかなぁ、と思う(´・ω・`)
ばあちゃんはじいちゃん死んでから約20年近く生きた。でもほとんど寝た
きりでもあった。原因は必要でもないのに輸血されて、それでリュウマチ
だか何かがうつったから。トラウマじゃないけど、献血はしても輸血には
ちょこっとだけ拒否感があるのはそのせいかな……結局、ばあちゃんは
最後は呆けてしまった。孫たちもわからないようになってしまった上に、
自分は東京に転勤になって地元から離れていたため最後は見取ってない。
今思うと駄目な孫だったんかもしれないなぁ……ごめん、ばあちゃん(TωT)
一方母方のじいちゃんばあちゃんは90近いのに未だ健在。この前の弟の結婚式
にもしっかり出席してきた。足腰弱ってるといってた側から、ささっと歩いてて
びっくり。まだまだ大丈夫みたいだし、長生きしてほしい、心からそう思う。
長文乱文スマソ(;´Д`)
おじいちゃん元気な人だった。
90近くで老衰で亡くなったけど(多臓器不全かな)子供の頃は私より長生きするんじゃないかって思ってた。
それでも、亡くなる半年ほど前くらいになったら急に弱ってボケはじめ、その時初めて
おじいちゃんはやはり私より先に死ぬんだって思った。
最後2ヶ月入院して亡くなりましたが、初めての入院、しかもレントゲンも撮ったことなかったんですよ。
入院するちょっと前におじいちゃんと2人で話していたら、私のこと孫とわかってなかったようで、
母の小さい頃の話とか、お気に入りの湯のみの話してくれた。
ちょっと悲しかったな。
その湯のみが石原慎太郎の弟のドラマの中で、家長の証として、父渡哲也から兄役の長瀬に
受け継がれて使われてたよ。
成田山にお参りに行った時のお土産らしいのですが、2重構造でハートのくり抜きがあるのです。
誰か知りませんか?形見なんで壊すの恐くて使えないから同じもの欲しいんだよね。
186 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/04/21(木) 11:00:51 ID:jZcsrSay
あの婆ちゃんが死んでしまったんだもん
終わりだ、この世は終わりだ
かなりの草加信者だったうちのババア
俺が物心ついたときから自分が死ぬ間際まで「あんたも入信しなさい。犬は素晴らしいお人だから」と毎日のように言ってた
正直、死んでよかったと思った俺はスレ違い&どうしようもない孫だったと思う。
母方の祖父。私が3歳の時に亡くなった。
医者の資格を持っているのにもかかわらず、働くことが嫌いで大工をしていた。
が、風が吹いたら遅刻、雨が降ったら休み・・と、何かの歌のような働き方だったそう。
若い頃から、働かない上に酒と女が大好物で、祖母も母も苦労させられたらしい。
実際に愛人を家に連れ込んで同居し、祖母がその愛人の食事の支度までさせられていたとか。
それ以外にも、数々の伝説がある。
そんな祖父も、孫(私)が産まれた事が、ものすごく嬉しかったらしい。
時々実家に連れて帰る母の車を、いつ着くのか分からないのに、大通りまで迎えに出て、
顔を見ると満面の笑みで「○○さん(○○ちゃんとは呼ばなかった)や、よー来たな」とあやし、
自分の子のお風呂さえ、ほとんど入れたこともないのに、必ず一緒に入っていたそう。
母が一番驚いたのが、命の次に大切にしていた、庭の松の木を売って、七五三の着物を買ってくれた事。
どこかの山で拾ってきた松(この時点でおかしいが)を、何年も大切に育てていたらしい。
そんな大切な松を売って、総絞りの着物を特注してくれた。
しかし同じ頃、祖父が56歳の時、末期の癌と判明。1年ももたないと言われた。
入院していたが、母が二人目の孫(弟)を出産したときは、外出許可をもらい、
バスを何本も乗り継いで、1時間以上かけて、病院まで会いに来たそう。
結局、その年の夏、七五三の着物を見ることなく亡くなってしまった。
当時3歳だった私も、祖父が亡くなって、それまでベッドの上にかかっていた、
ビニールのテントのような物が取り外された事は、今でも鮮明に覚えている。
今でも母は「あの人(祖父)は、早くに死んでしまったけど、好き勝手に生きて、
孫二人の顔も見ることが出来て、幸せな人生だっただろう」と言っている。
同じく母方の祖母。私が10歳の時に亡くなった。
若い頃は、近所でも評判の美人だったそうで、女学校へ通い、バイオリンを習うようなお嬢だったそう。
近所に住んでいた祖父に見初められ、半ば強引に結婚させられたらしい。
働かない祖父に苦労させられっぱなしだったはずなのに、亡くなった祖父の為に、
毎晩必ず般若心経を唱えていた。
ものすごく優しく、珠算は有段、茶道と華道も出来、私や弟の顔を曾祖母(祖母の実母)に
いつでも見せてあげられるようにと、50歳を過ぎて車の免許を取ったくらい、
努力家の尊敬する祖母で大好きだった。
亡くなる1年前、まだ元気だった頃に、一度だけ私一人で祖母の家に泊まりに行った。
一人暮らしの祖母は、すごく嬉しそうにしてくれた。
「いつもはどんなテレビを見てるのか」と聞かれ、その日は欽ドンの日だったので一緒に見た。
祖母は初めて見たらしく、「○○はこれが好きなんか〜」と何度も言っていた。
その晩、一緒に布団に入ったとき、「お婆ちゃんはな、あんたが一番かわいいんよ」と言いながら、
ギュッと抱きしめてくれ、朝まで抱っこしていてくれた。
翌年の6月下旬の早朝、近所に住む親類に助けを呼ぶ電話をして緊急入院した。
末期の癌で体中に転移していて、手術することすら出来ず、盆までは生きられないと言われた。
ここまで我慢できるとは考えられないと、担当医の先生も驚いていた。
抗ガン剤の影響で、髪も抜け落ち痩せ細っていっていたが、先生の予想の盆が過ぎ、
秋まで・・年末まで・・と余命が伸び、最終的には「限界を超えているはず。どこまでもつのか、
この方の忍耐力は想像がつかない」と言われた。
そして翌年の春先に、祖母は亡くなった。
一度も母は病院に泊まる事はなかったのに、前の日の夜、看護婦さんから電話がかかり、
「寂しそうにされているので、よかったら来て頂けませんか」と言われ、初めて母だけ泊まることになった。
一度行った香港に母と行きたい・・・など話ができるくらい安定していたのに、
明け方容態が急変し、そのまま旅立って行った。
朝、父に起こされ亡くなったことを聞き、祖母の家に連れて行かれた。
穏やかな顔をしていたが、母から亡くなる直前まで意識があり、壮絶な苦しみ方だったと聞かされた。
やっと楽になったのかと思うと、少しホッとした記憶がある。
火葬された祖母の骨は、抗ガン剤の影響からなのか、全体にオレンジ色の斑点があり、
下半身の骨はほとんど粉々になってしまったらしい。
祖母が亡くなったのも56歳、7歳年上の祖父が亡くなって7年で、同じ年齢だった。
生きていたとしたら、まだ二人ともまだ70代だったのに。
おじいちゃん、おばあちゃん孝行してあげたかったし、色んな話をしてみたかった。
俺の祖父は無口な人だった。
それでも消防の頃は一緒にカブトムシ捕りに行ったりしてたんだが
年をとるに連れてあんまり祖父の家に行かなくなってた。行くとしても盆と正月。
母と祖母の親子喧嘩などで行かない年もあった。
最後の入院が俺の大学受験シーズンと重なってて、俺の合格を新聞で一番に見つけた
のは祖父だった。それで一番大喜びしていたのも祖父だったそうだ。
葬式の日ににそれを聞いた俺は涙が止まらなかった。
ちなみに葬式のとき、祖母は通夜の疲れで居眠りしたり、
その時ずっと飛び回ってたハエを祖父の生まれ変わりだのと言ったりして
不謹慎だけどもワラタ
また祖父ちゃんとカブトムシ捕りにいきてーなぁ…
お祖母さん腹座ってるねw
>その時ずっと飛び回ってたハエを祖父の生まれ変わりだのと言ったりして
はだしのゲンと同じシチュエーションだけど悲壮感の欠片もねぇw
194 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/01(日) 07:27:20 ID:TlimiuOy
遠方に住んでいてたまにしか遊びにいけない私(孫)にいつも「なんか美味しいもん買ってくるからな」と言っては私に留守番させて買い物に出かけてたおばあちゃん。
今年初めに90才でなくなった。
後日談で親から、おばあちゃんが自分でかけてた生命保険が全部解約されていたと聞かされた。
今思うと保険を解約しては買い物に出かけてたのかな…と。涙がとまらなかった。
親も借金でおばあちゃんに散々苦労かけてたから、きっと後悔しているハズ。
こんな親なんで、おばあちゃんの葬式代はほとんど私が出しました…(泣)
sage忘れ
自分の曽祖父、曾祖母と祖父に祖母は自分が24歳まで(現在30歳)頑張って生きてたよ。1999年に全員一気に逝っちゃったけど・・・。特に祖父は軍人出身
だったからめちゃ厳しく箸の上げ下ろしまで厳しかったのが思い出される。お陰で現在9歳になる自分の息子も礼節がきちっと分かる子になったし。曽祖父、曾祖母
にいたっては曾孫の子を抱ける喜びを毎日口にしてたしな。漏れの最大の思い出は曽祖父、祖父、親父、漏れ、息子と5世代で家の玄関前で写した写真撮影
や。撮影時の顔は今でも忘れられない。仏のような曽祖父、カメラを睨みつける祖父、二日酔い気味な親父、帰省疲れでやつれた漏れと息子・・・。
この写真は漏れの財産やしこれからも大事に飾っておきたい。
・母方の祖母。
私が小学校にあがって三日目に死んでしまった。
もとから心臓が弱かったらしい(母から聞いた)。農家だったため、畑に行く途中で心臓発作
を起こし、急死。離れて暮らしていたため思い出はあまりないが、母が持っている写真を見ると
「(母が祖母に)似てきている」ことを感じる。
・母方の祖父。
母方の祖母が亡くなって二年後に逝去。
小学校で敬老の日に『祖父祖母に手紙を書く』ということをした。返事が来たことに驚く。
私と妹の連名で届いたハガキは、今は私が持っている。色あせているが、これからも大事にとってある。
唯一の思い出だ。
198 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/19(木) 20:24:07 ID:Jo0tzwlU
両親が共働きで母方の祖母が同居してた。
保育園のお迎えはときどき祖母がしてくれて、
保育園からの帰り道、途中の自動販売機で
甘い缶コーヒーを買ってくれて、それを飲みながら
畑の中の畦道?を通って帰った。
この前その道を通ったとき、新しくはなったけど
同じ場所に自動販売機があって懐かしかった。
住宅も沢山建ったけれど、畑もまだ残ってた。
祖母にお手玉を教わったけど、全然思い出せない。
母も知ってるはずだけど、脳卒中でボケ入っちゃって
覚えてない。
父方のじいちゃんは、私が小学三年の時に亡くなった。
覚えてるのは、とっても怖いじいちゃんだったなぁ…ってコト。
その怖いじいちゃんの思い出として、今でも覚えてる事がある。
みんなでテレビをを見ていたのだが
じいちゃんがいきなりお茶を吹いたのである。
その時見てたのは、「8時だよ!全員集合」
ドリフのメンバーのしょうもないコントに
いつもは怖いじいちゃんが反応したのである。
普段とのギャップが忘れられなくて
未だによく思い出す。
泣ける話じゃなくてごめんね。
200 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/19(木) 22:47:56 ID:gxNjF7oJ
私が22歳の時に亡くなった母方のおじいちゃん。
いつも自分で布団をひいていたのに、
亡くなる前の晩だけ、おばあちゃんに
「おふとん、ひいてくれる?」と頼んだらしい。
たまに思い出して、涙目になってしまいます。。。
201 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 01:27:49 ID:5Jea3Y6D
>>200 たとえ全米が泣かなくても私が号泣。
自分の大好きだった祖父は
地元の駅の長い階段の上から下まで転げ落ちて
頭を打ったのが原因で亡くなった。
病院に運ばれてから3日間はまだ息があった。
祖父自身の誕生日を迎えた朝、
眠るように息を引き取った。
ぴったり60年間生きた祖父。なんだかカッコイイ。
じいちゃんが亡くなる5年前、小学校以来行ってなかった、じいちゃんの家に行った。その時じいちゃんはかなり足が弱くなってて
ベッドにいる事が多かった。私が来た事を知ったじいちゃんは、杖をつきながらヨロヨロと出てきて、『よく来たな〜よく来た、よく来た』と言って泣いていた。
>続く。
そして、暫くの間感激してくれた。それから私も仕事やら日々の生活に追われ
じいちゃんの家には行けない事が多く、じいちゃんもどんどん弱り入院。最後はガンも発見され、息を引き取った。明治生まれで戦後の北海道で荒れ地を田んぼにし生活した立派な人と尊敬してます。
つい一ヵ月前に父方の祖父を亡くしました。
もう平気だと思っていたけど、ここに書き込むために
色々思い出していたらまた泣きそうになった。
もうちょっと気持ちに整理がついたら書き込みに来ます。
205 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 14:35:20 ID:isBcuSF+
二年前に祖母を交通事故で亡くした。
小学校一年生の時、ウルトラマンの映画を観に連れて行ってくれて、帰りにレストランで
お子様ランチ食べたのをよく覚えてる。
逞しい婆ちゃんで、近所のおうちの畑を耕したり、草抜きやったりして過ごしてた。
煩わしくて、冷たく接したこともあって、それが今でも心残りです。
突然だったからなぁ・・。
母方の祖父
短気で酒乱だったらしい祖父。私には優しかったから、そんな人には全然見えなかった。
暴れるたびにうちに電話がかかってきて「○○(私)を連れて来てくれ!」って言われ、
私が行けば、これまでの荒れが嘘のように収まっていたと、最近になっていろいろな人が昔話のように話す。
亡くなる前日に、これまで全くかわいがることもなかった男の従兄弟と麻雀をしていた。
差し入れに持っていった納豆巻を、とてもおいしそうに食べていた。
心臓発作で苦しむこともなく、お彼岸の近くに死んだおじいちゃん。20年も前の話。
父方の祖母
早くに旦那を亡くしてから、女手一つで4人の息子を立派に育て上げたおばあちゃん。
とても厳しい人で、気が弱くてグズだった私には怖い人だった。
同居していた長男の嫁とは気が合わずに、うちの縁側に来ては美味しそうにタバコを吸う背中の小ささにビックリした。
一回骨折してから、その背中はもっと小さくなって、怖かったおばあちゃんはか弱い人になった。
ガンと戦うこと数年、最期に仲違いしてた伯父とうちの父を和解させて、ご詠歌を歌いきって亡くなった。
家庭科で使う布を買うお金がない私がお金を借りに行った時、絶対返すと言った私にこう言った。
「なら、おばあちゃんが死んだ時に八重のクチナシをお墓に手向けてちょうだい」
何度もお墓には参ったけど、あれから早15年、その約束をいまだに果たせていない不甲斐ない孫を許してください。
長文スマソ。
同居していた父方の爺さんと婆さん。
死んだのは婆さんが5年前、爺さんが3年半前か・・・
爺さんは生まれてすぐかかった病気のせいで耳が聞こえなかった。そのため言葉も喋れなかった。
婆さんは小さい時にやはり病気で耳が聞こえなくなった。でも、言葉は喋れたから読唇術を覚えた。
見合い結婚だったらしい。耳が聞こえない者同士でくっつけたのだろう。
二人はすごく仲が良かった。いつでも一緒にいた。簡単な手話と筆談で楽しそうに笑っていた。
爺さんは、家は貧しかったが親の遺産として他の兄弟より多目の土地を貰った。
農家として一生懸命働いた。癌で入院するまでいつも畑にいた。
雨の日は何かの本を読んでいることが多かった、農業、建築、電気、医学・・・
爺さんは小学校までしか行けなかった。その反動だろうか、ものすごく勤勉だった。
今も使ってる2階建ての物置は爺さんが一人で作った。もう取り壊したが、大き目の温室も作った。
電気配線まで勝手にいじって引っ張っていた。爺さん、それは違法だよ。
俺は爺さんとはまともに話(筆談)をした事は無い。
ただ、色々実演してくれた。農具の使い方。薪の割り方。種の蒔きかた。水の蒔きかた・・・
一つ印象に残ってる事がある。ある時、親父が新しい草刈り機を買ってきた。
俺と親父でいじっていた。だが、刃の付け替えが上手くできない。刃が外れないのだ。
そこに爺さんがやってきて、親父が説明した。爺さんは刃の部分を見てから、付属の工具を漁り、何のことも無いように刃を外して見せた。
その鮮やかさ、一見で構造を把握する爺さんに尊敬の念を覚えた。
5年前の冬。風邪を引いていた婆さんがトイレで倒れているのを俺が見つけた。
動転した俺は外に飛び出して爺さんを呼んできた。爺さんは婆さんを起こして布団に寝かせた。
その夜、婆さんは死んだ。
後悔している事がある。俺はトイレで婆さんが倒れたことを親に伝えなかった。
何故、言わなかったのかは解らない。ただ、その事を今でも悔やんでいる。ふとした拍子に思い出す。
爺さんは、婆さんが死んでから数ヶ月落ち込んでいた。
その後、ある程度元気を取り戻したが、結局、婆さんが死んでから一年後、癌で入院した。
時々、見舞いに行ったが、痩せていく爺さんを見るのは忍びなかった。
続く。
結局半年後、爺さんは死んだ。
死ぬ1ヶ月前に外出許可を貰い、家の周りを車椅子で見て回った。
婆さんの墓にも行った。
葬式で、遺骨を目にした親父が泣いていた。初めて親父が泣いてるのを見た。
骨は太かった。葬儀屋も立派な骨だと言っていた。
爺さん、本当に骨の髄まで農家だったんだな。
今でも思い出せる。日焼けした肌、筋肉質な腕、土の入った爪。ニンニクを収穫した後は臭かったな。
爺さん、畑は半分花畑と果樹園になっちまった。爺さんがいないと管理しきれないよ。
爺さん、今年もそろそろジャガイモが取れるよ。出来はどうだろうな。
新ジャガで肉ジャガ作るよ、そしたら仏壇に供えるから・・・
このスレが紹介されてたので自分も書いてみる。
つい半年くらい前に亡くなった母方の祖母。
両親とも末っ子で、そのまた一番下の自分は年齢的には曾孫くらいの歳の差だった。
22と97。家と祖母の家が徒歩10分なこともあって赤ん坊の頃からよーく可愛がってもらいました。
高校になってもずっと週一で通い詰めて小遣いもらいまくってたりしました。
それでバイトもせず高校生活やりとげてたんだけど・・・w
で、小遣いもらう理由が肩揉みでさ、いったら必ずやってあげてたわけさ。
その家には親戚が3世帯ほど住んでいて、従兄弟(20以上歳離れてる)とかにもやってるうちに
その道の本職を目指してみようという気になってマッサージの専門学校へ。
専門の間も通い詰めて小遣いもらいまくり…。
それでどうにかこうにか卒業し、資格も取れました。ばーさんに見せに行ったさ。
就職してからは中々ばーさんちに行く事も出来ず、月一でどうにかいけてたような状態。
なんだか段々動きが鈍くなって、反応もイマイチになっていくのが分かっていたけどわからなかった。
それで、去年の12月24日にたまたまヒマだったから会いにいって(サミシーとかいうな)
マッサージしてて弱ってるのが分かっちゃったからこれからはもっと来よう、と決めたのさ。
そしてその次の次の日。26日。うちの家は年末に親戚一同集まって餅つき大会をやるのが定例で
家を出ている兄夫婦も来て、その年ももちろんやることに。でも自分は毎年出てたけどその年は仕事で出れなかった。
そして、ばーちゃんはその夜に亡くなった。
今日はよく食べたしもう寝るわー、と床に就いて少し経ったあとに呻き声で気付いたそうだ。
でもほとんど苦しまずに逝ったらしい。
大病もせず、じーちゃんが言ってから色々好き勝手わがままいいながら
人生を満喫してじーちゃんのもとへ昇って逝ったよ。色々土産話があっただろうな。
後日談だけど、逝く前の日に「玄関で誰か呼んでるから見て来い」って言ってたらしい。
同居してた叔母が見に行くものの誰もおらず…普段ならそれで終わりなんだけど
次の日の朝も同じこといってたんだって。信心深かったからお迎えが分かったんだろうね。
床に就くときの顔も妙に満足そうだったって話だし。
97歳。子供や孫、曾孫の顔を見て安心して満足したんだろうな、って話になったよ。
ほんと、大往生。仕事しててご老人にこの話をすると必ずそんな風に死にたいって言われる。
いい話のネタになってるよ。仕事のきっかけを与えてくれてありがとう。
元気なひとだったから悲しい・寂しい話題がひとつも出ないよ。
もうぐだぐだだ・・・書いてたら涙が出てきた。
唯一の心残り。餅つきの日に出席できなかったこと。
前々日に会ってるとはいえ、最後に会いたかった…。100まで生きるとか言ってたから油断してたよ。
最近また忙しくて線香も上げにいけてないけど、時間見つけて会いに行くからね。
本当に、ありがとう。
長文&超乱文失礼しました。
この春、療養中だった祖母が亡くなった。娘時代から盲目で、
孫(←オイラ)の顔どころか、娘(←母チャン)の顔すら見た事が
なかったオバアチャン。かなりの美人で、結婚するときもジイチャンが
「なにもしなくていい。居るだけでいいから結婚してくれ」と
プロポーズしたという話を聞いたときにはジイチャンすげぇなあと
感動したもんだ。
100歳を目の前にして亡くなってしまいとても悲しかった。
田舎からかなり離れているのでたまーに実家に帰ったときくらい
しかお見舞いに行けなかったのが悔やまれる。100歳のお祝いした
かったなぁ。
GWも帰省できずまだお墓参りもできてないけど、ちょうどウチの
ヨメサンがオメデタになった。長い不妊治療と辛い経験があったことも
あって、今とても幸せだ。まだまだ全然安心はできないし、
まだ誰にも知らせることができる段階ではないけど、なんとなく
オバアチャンが支えてくれてる気がする。
年明けには絶対3人でお墓参りに行きたいと思っている。
おばあちゃんとすごした時間は短かったけど、今もよく覚えている。
母の実家に行っては、おばあちゃんと姉と一緒に
草流しという遊びをした。
その辺の草をつんで、排水路に流し、誰が一番早いか
競う遊びで、私はそれを楽しみにしていた。
おばあちゃんが病気になり、うちに療養することになったときも
苦しいというのに、トランプをして遊んでもらった。
でも、おばあちゃんが死んでお葬式という時に
私は幼稚園を休むのは嫌だと泣いたらしい。
今思うと最悪の子供だなあ。
葬式自体もつまんないな、としか思えなかった。
小学校の時、授業で母に手紙を書いてもらう、というのがあった。
そこには、おばあちゃんが病気の時苦しかったけれど
私とトランプをするのが、楽しみだったよ、と書いてあった。
その時はじめて、おばあちゃんのいない悲しさを知ったような
気がした。
長文失礼しました。
全部読んだけど鼻水が凄い勢いで出てしまったよ。
俺の母方の祖父母の家では
ほぼ毎年一度は親戚の従兄弟やら叔母さん達やら集まって
餅突き機みたいので餅を作って皆で机を囲んで
出来立ての餅をちぎってのりに巻いたりあんこつけたり・・・。
今はもうその餅も食えなくなってしまった。
あの餅突き機で作った餅ふっくらもちもちしてて
すごくおいしかったなぁ・・・。
皆で色々喋って楽しく食べていたよ。
ほんと、何も孝行しなかったのが悔やまれる。
あれだ、父方のじいちゃん達はそんな風に扱わないようにしよう。
もちろんお父さんお母さん達もだ。
今でも爺さんが死んだときのことは後悔してる
入院したときに親が、「癌なんだ」といってたが
そのときは、たまに足が痛いというくらいで元気だったから
死ぬなんて考えてなかった。
あの日も親が行けというので見舞いに行ったけど
まさかその日に死ぬなんて考えてなかった。
昔、俺がいじめられていたときは相手の親を怒鳴って追い返していたりもしていた
厳しいこともあったのでおばあちゃん子だったんだけど、もっと話をしておけばよかった。
それまでは、墓参りなんてめんどくさいだけだったけれど、あれからは毎年欠かさず行っている
215 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/26(木) 01:45:43 ID:qLf6Tc/M
俺の母方のじいちゃんも、亡くなって数年たつ。
子供の頃母によく実家に連れて行ってもらい、妹とともにかわいがってもらったものだ。
思い出というと、高校の頃、進学に際して
「ななし(俺)は大学いって、末はハア大臣でもなれぇ」
というようなことを言ってくれた。(大臣は冗談だと思うが)
当時お馬鹿街道まっしぐらだった俺は、賢しいつもりで
「いや、俺は専門学校いってその道のスペシャリストになる」
とかなんとかたわけたことを言った。
「・・・ほうか」
と、じいちゃんはちょっとがっかりしたように言った。
復員してから、製材所で働きながら長男として幼い兄弟9人を育て上げたからか、
(それゆえ俺はじいちゃんを尊敬している)
大学に行くという自分の密かな夢を重ね合わせてくれていたのかもしれない。
じいちゃん、あのときはごめん。
そんなじいちゃんも高血圧には勝てず、卒中を起こして入院することになった。
リハビリ室で出迎えてくれた、車椅子に座ったがりがりのじいちゃん。
最初おれが誰かもわからなかった。
車椅子を押しながら、スペシャリストになんかなれるはずもなかった俺が就職を報告すると、
「ほうか」
と、蚊の鳴くような声でうれしそうに答えてくれた。
その後何の話をしたか覚えてないけど、それだけが忘れられない。
その後、三月もしないでいっちゃったね。
元気なじいちゃんと酒のんでみたかったな。
俺の知らない昔の話をたくさん聞かせてほしいけど、もう会えない。
もし俺が人生の苦難にぶち当たったら、あなたのたくましさを分けてください。
ありがとう、おじいちゃん。
216 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/26(木) 03:42:34 ID:gmZxgX+3
父方のじーちゃん。離れて暮らしてるから年に一度会う位だった。
だから、今となっては顔は思い出せても今一それ以外の印象が薄い。
親父が子供の頃はとても厳しい父親だったそうだ。でも、そういう印象はなかった。
一つだけじーちゃんのもので手元に置いてあるものがある。
それは手紙だ。どうやら俺が小学生1,2年ぐらいの頃に出した手紙への返事らしく内容は俺が書いた事に対して色々書いてくれてた。
誤字もしっかり訂正されてた(なんだか赤ペン先生みたいだった)。そんな事がすごく綺麗な字で綴られている。
何だか祖父の人柄が窺えるようで大切に保管してる。
印象が薄いって書いたけど、実は葬式の時は泣いちゃってんだよね。
最初は3,4日ぐらい学校休めるし、従兄弟とも会えるからこっそりワクワクしてたりもしたんだ。
葬式も最初は大人たちと一緒に大間で式にでてたんだけど、人が100人近く来たせいで子供達は別の部屋に移って遊んでた。
それで出棺の時にまた出たんだけど棺を見送ってようやく、もう会えないんだって気付いた。
そしたら、何かもう泣きまくり。自分でも不思議なぐらい泣いた。初めて亡くした親族だったから気付くのに時間かかったのかもね。
ちなみに納骨の時は悲しかったけどちょっと楽しかったです。
係の人がこれは大腿骨で一番太い骨とかこれが喉仏とか説明してくれてた。
私の父方の祖父は、父が中学生の時に、
交通事故(対向車がはみ出して来ての正面衝突事故)
で亡くなった。
車の免許を取って直ぐだったそうな。
祖父の事を祖母は、時々語ってくれる。
祖父はやさしい人で
お姑さんからきつく
当たられていた
祖母をかばってくれた事を今でも
嬉しそうに話す祖母を見て、いつも
会って見たかったと思える人。
祖父が免許を取る際に「お前も一緒に免許取らないか?」
と誘ったそうな。
その当時女性が車の免許を取る事は
めずらしい事だった筈なのに。
けど祖母が車の免許を取ることは
一度も無かった…
俺のばあちゃんは今年の2月に脳出血で亡くなった。
昔からよく世話を焼いてくれて、かなり迷惑をかけていた。
深夜に呼び出され容態が悪くなったと聞いて、病院に駆けつけ見守っていたが。
心電図のピーって言う止まる音…なんだか未だに克明に覚えている。
って何書いてるかわからんな
乱文スマス
220 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/26(木) 12:59:18 ID:dFYdCnR2
うちのばーちゃんは
自分が高校2年のホワイトデーに脳出血で倒れた。
そして翌年の大学受験をしで日に亡くなった。
じーちゃんは
ビールをついでありがとうと言われた日に亡くなった。
親父の方のばーちゃんは
お見舞いに行った夜亡くなった。
今では親戚中から死神扱いです。
>>220 無意識にそういう第六感が働いてるのかもね。
私も実家に帰ってる時に限って必ず親戚から不幸の連絡が入るよ・・・。
去年1年で3回親戚の不幸があったんだけど、なぜか毎回実家にいる。
3年前、大好きだったじいちゃんが肺がんでなくなった。
母が離婚してずっと働いてたから、夏休みとか長期休みになると
休みの間中、じいちゃんの家に預けられてた。
でも、私はそれが嬉しくて高校生になってもよく泊まりに行ってた。
孫は6人いるけど「お前が1番だな」って言われた時は
恥ずかしかったけど、すっごく嬉しかった。
私が子供産んだ時も、わざわざ墨磨って命名紙書いてくれた。
ミルクも飲ませてくれた。ばあちゃんが「自分の子供にすらしたことないのに」
ってびっくりしてたね。
いつも「ちゃんとやってるか?料理作ってるか?」って心配してくれたよね。
大丈夫、ちゃんとやってるよ。
今、お母さんが癌で入院してる。
じいちゃん、私は大丈夫だからお母さん守ってやってね。
まだ連れて行かないで。お願い。
223 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/27(金) 22:24:42 ID:wlVSIFaK
私が小学4年の時に死んだじいちゃん。
おじいちゃんと追いかけっこをした時、いつもおじいちゃんは遅かった。
私はいつも自分が勝てて喜んで、おじいちゃんも喜んでいた。何回も何回も追いかけっこした。
じいちゃんが死んだ後、おばあちゃんが「おじいちゃんは足が悪かったのにあんたとは何度も走ってたね」。
写真が大好きだったおじいちゃん。なにかしらいつもカメラを持ち歩いてた。
じいちゃんが死んだ後に気付いたけど、撮った写真は全部孫の私だった。
じいちゃんのカメラはまだ押入れの中に入ってる。まだ現像されてないフィルムが残ってる。
もしそれに孫の私がいたら絶対に泣く。
224 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/05/28(土) 00:35:39 ID:ylPJXgmH
ここは、良スレですね。
おばあさま、おじいさまの人と形が目に浮かびます。
どの方も、お孫さん(あなた達)を愛してるんだなっていうのが
伝わります。
「世話をかけて、ごめん」ってレスがありましたが、
おばあさま、おじいさま達は嬉しく思ってたでしょう。
愛する孫に必要とされてるって、実感したでしょう。
より一層愛おしく思われたと思います。
自立したあなた達を見て
安心しつつも、少し寂しく思われたかもしれません。
でも、安心する心の方が強かったはず・・・。
だって、自分は何時までも一緒にはいられない、
そのことを、一番分かってたはずだから。
ここのレス見ると羨ましくて堪りません。
長文駄文すみませんでした。
スルーしてください。
まだばーさんが生きていた12〜3年ほど前、
母親がばーさんの部屋から「こんなん見つけた!」と紙切れを持ってきた。
見ると和紙の切れ端に筆ペンで描いた私の似顔絵(これがまた似とらんのだが)
横には{美人です、○○(私の名前)ちゃん}と但し書きがw
その時はなんじゃこりゃと、母親と2人でウヒャヒャ笑っていたが、
半分シャレでなんとなく手帳にはさんでいて、ばーさんが亡くなった今もずっと持っている。
このスレ読んで久しぶりにその似顔絵見たらなんか涙出てきた。
人から美人なんて言われたことがなくて、自分の容姿に少しコンプレックス持っている私。
ありがとう、ばーさん。なんか気持ちがほっこりしたよ。
父も祖父も手先がやたらと器用で、ついでにギャンブル好きのヘビースモーカーだった。
娘のわたしがそんなもん受け継いでしまって申し訳ない……。
祖父は89歳で亡くなる半年前まで、20〜40代の若い連中と毎週徹夜麻雀やってたのだが、
家族はそれを全く知らず、四十九日の少し前にその人たちが皆でお悔やみに来てくれて
はじめて知った(友人宅に泊まりに行っているのは知っていたが……)
それはそれは強かったそうだ。花札やポーカーも強かったらしい。
パチモンだと思っていたロレックスも、床の間の適当そうな花瓶も、博打でまきあげた本物だった。
お正月など家族にカモられてばかりだったが、あれは祖父の演出だったのかと、
それも驚きのひとつだった。
強い祖父ちゃん、見てみたかったよ……。
ちなみにその博才、父や私にはきれいさっぱり受け継がれておりませんでしたとさorz
中学の頃亡くなった父方の祖父の思い出。
私が父方の家系で唯一の男孫だという事もあり、よく可愛がってくれた。
私が生まれた時は本当に大喜びして、祖父の経営していた会社総出で
私の名前を選んで決定したほどだった。
子供の頃はよく祖父の膝の上に乗って、祖父の飲んでいた酒を少しだけ分けてもらったりもした。
些細な事で一度だけ喧嘩した事もあったが、それでも尊敬に値する祖父だった。
祖父の死を聞かされたのは、父の会社の都合で引っ越した海外だった。
その日私はいつもの様に学校からスクールバスで家に帰ってきたが、どうも家の様子が慌しかった。
家の玄関から飛び出してきた母の口から一言「おじいちゃんが。」
それだけで、一瞬にして全てを理解した。
その時、祖父は末期ガンでもう長くはないと分かってはいたのだが、
それでもあれだけ自分を可愛がってくれた祖父が死んだという事実はショックだったし、大いに泣き崩れた。
その日の夜、不思議な夢を見た。
夢の中に祖父が出てきて一言「頑張れよ」と自分を励ましたのである。
それは、あまりにもリアルで到底夢とは思えなかった。
通夜のため父の実家に戻ってきた時、祖父の亡骸は大変穏やかな顔だった。
その祖父の姿を見てやはり大泣きしたが、今にして思えばあれは可愛がっていた孫に
最後に言いたい事を伝える事が出来た、という満足感から来たものではないかと思う。
ちなみに、父は霊感が弱いらしく夢に祖父が出てくる事は無かったそうだが、
伯父も私と同じ様に夢に祖父が出てきて「しっかりしろ」と言われたらしい。
天国にいるおじいちゃん、このスレで言うのも何だけど聞いてるかい。
今度、伯父さんに初孫が出来るんだよ。俺と一緒の男の子だよ。
無事に産まれる事を天国から見守っててちょうだいね、おじいちゃん。
*実はこの話には後日談があって、葬儀を済ませて帰ってきた海外の日本人学校で
自分の教え子の頭を平気でぶっ叩くオバ厨教師(しかも俺の担任じゃないんだコレが!)に
祖父の死のショックに追い討ちをかける様な酷い仕打ちを喰らわされたのですが、
スレの雰囲気悪くなるからこの後日談は無かったことにしておきます。
228 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/01(水) 05:48:19 ID:icnDAG5B
おばあちゃん死んだとき(去年の10月おじいちゃんは2年前の10月)うちら学校や仕事の時で急に死んじゃったから誰もついてやれなかった……
まさかあんなにポックリ亡くなるなんて…ごめんね誰もいてやれなくて。
葬儀の時とか学校休めてラッキーぐらいにしか感じなかった。なんでだろうあまりにも呆気なくいちゃったからかな・・全然おばあちゃんが死んだって実感がなかった
時がたつごとにもうおばあちゃんはいないんだって感じるようになった
学校が辛いときはよくおばあちゃんの家にサボりにいってたなぁ…もう励ましてもらえないんだ。今学校で孤立しちゃってなんか鬱なんだけどそのたびにおばあちゃんの家に行きたくなる。でも行っても会えないんだよねもぅ…。
最後に『ありがとう』ぐらい言いたかったなぁ…今週の休みにでもおばあちゃんおじいちゃんの家掃除に行こうっと喜んでくれるかな
長文糞文ごめんなさい
229 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/01(水) 05:52:19 ID:/jr7VqIE
出兵前の軍服を着た若いおじいちゃんの写真を見た。
残虐非道な日本軍と教えられた世代だから
当時おじいちゃんを軽蔑してた。
ごめんなさい。
ありがちな話しかな?
230 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/01(水) 21:39:32 ID:vcZHc0rP
近所にすんでいたおばあちゃん
赤の他人だったけど家が本当に近くにあって家族ぐるみの付き合いでした 幼稚園に通っているときは本当に
毎日のように遊びにいっていたそうです 実家の祖父 祖母もまだ元気で
手に職を持っている人でしたので余り構ってもらえず 父は仕事で母は弟が
生まれたばかりで 近所に同じ幼稚園に通っている子もいない私にとっては
良い遊び相手だったようで 本当に毎日べったりだったそうです そのおばあちゃんの
友達が遊びに来ると なんとかおばあちゃんに構ってもらおうと 邪魔をして
追い返していたそうでした(記憶には無いんですが)
おばあちゃんっ子の私でしたが 住んでいた一帯に高速道路ができることになり
立ち退きの引越しで家が遠くなってからは何か行事があるとき以外は余りあう事もなくなっていました。
私は高校に電車通学をしていたのですが その日は財布も定期も家に忘れてしまい途方に暮れているときに
駅の近所に住んでいるおばあちゃんの事を思い出しました。おばあちゃんに事情を話して
お金を貸してもらい何とか遅刻せず学校に間に合いました。
お礼とお金を返しに後日伺ったのですが、その時とびっきりに甘いコーヒーを出されました。
ちょっと「うわっ」って来るくらいの甘さのコーヒーでした。
後日、母におばあちゃんがこう言っていたそうです
「○○ちゃんが 困っていたときに役に立ててよかった。困ったときに真っ先に私を思い浮かべてくれてうれしい」
母からその話を聞いてショックでした。その後出来るだけおばあちゃんに会いに行くようにしました。
家に顔を出すたびに激甘のコーヒーを出してくれました 正直、甘すぎて不味かったのですが笑顔でだされてたのでいつも残さずのんでいました。
続く
続き & SAGE
今思えばおばあちゃんにとっては私はいつまでも小さい頃の○○ちゃんだったのでしょう
成長した私の好みが解らないから記憶にあるころの私に合わせて甘いコーヒーをいつも
を淹れてくれていたのだと思います
おばあちゃんの最後は私が見取りました。
大学の夏休みにおばあちゃんが危ないから家に帰ってきなさいという連絡が入りました
帰郷し病院に駆けつけました。 沢山の管に繋がれたおばあちゃんはとても小さくて
意識も無いようでした。 ○○だよ 帰ってきたよって声を掛けると
何かわかったのでしょうか 私の方に手を向けてきました。
手を握って話しかけている間に二度と目を覚まさなくなりました。 そのとき私はぼーっとしていました
人間って簡単に死ぬんだなって、母は○○が帰ってくるまで頑張ったんだねっていってましたが
だったら私は家に帰らなければよかったと
涙は家に帰って一人になったときに流れてきました。
私はおばあちゃんに一度も怒られたことがありませんでした。 本当に優しい人だったんだなって
感動ってわけじゃないけど、
満州に行ったじいちゃんは、戦争の話になるといつも生き生きしてたなあ
極寒の中人質になったりしながらも自分達で満州を作り上げた、と
全国にいるかつての戦友達と行く年に一度の旅行をいつも楽しみにしてた
でもかつての戦友達も毎年一人また一人と亡くなり、
気付けば最長老になってしまった祖父も今年の三月に逝ってしまいまった
ちびまるこに出てくるトモゾウじいさんに似てるかわいい祖父でした。
俺が物心ついたころには、すでに寝たきりだった、じいちゃん。
あるとき、1度だけ「今日は調子がいい!」といって、
よそ行きの格好で、杖をついて、店先でしゃんと座っていた。
その後ふたたび、寝たきりに戻って、数年後に亡くなった。
たまにしかじいちゃんの家に行けなかったけど、
偶然、あの勇姿を見られたのは良かった。
あの姿は、今でも目に焼きついてるな。
234 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/02(木) 12:05:34 ID:XeYPwHt7
祖母が2年前に肺癌で亡くなりました。
癌が発見された時は既に全身に転移してました。
高校から4年付き合っている彼氏と一緒に、
お見舞いに行きました。初めて私のばあちゃんと会った彼氏。
ばあちゃんと彼氏二人とも照れくさそうにしてたな。
私の花嫁姿見るまでは頑張ろう、って周りに話してたのを
亡くなってから知らされました。ばあちゃん、今年結婚します。
今も時々思い出して泣いてしまう私だけど、強くなって自分の大切な
人たちを守って生きてくよ。
苦労が多いことと不幸ということは違う、ということを私に教えてくれた
ばあちゃん。あなたの帳面(みのもんたのおすすめ食材がびっしり書いて
あったw)は今でも持ってるよ。
235 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/02(木) 22:07:45 ID:2dLMOiy5
私の祖父は中2の時に亡くなりました。
以前から肺ガンであることは聞かされていましたが、
面倒くさがってお見舞いに行きませんでした。(ホントゴメン)
夏休みに祖父の家に訪ねに行くと、
ガリガリに痩せ細った体で出てきてとても驚いたのを覚えています。
それからは祖父が心配になってちょくちょく見舞いに行こうと思ったんですが、
行けたのは最初で最後でした。
病院で会って泣き、別れるときにも泣き、葬式の時に周りに人がいるのに号泣。
と泣いてばかりでした・・・
別れるときに握手に応じてくれた笑顔と、皮と骨だけになってしまったのに大きく暖かかった
手は忘れられません。
酒が大好きで一緒に飲むのを楽しみにしてたのに・・・
元気になったら温泉行こうって約束してたのに・・・
ろくに恩返しできてないのに・・・
なんでだよ・・・
236 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/02(木) 22:43:42 ID:86A8xnYa
今金融で営業をやっているが、学生時代にはおとなしいタイプでとても営業向きではなかった。
でもそこに就職が決まったときじいちゃんはすげー喜んでくれた。涙流してた。近所では厳しく怖いじいちゃんだったけど孫には甘かった。
地元では名の知れたとこでじいちゃんの家にもそこの担当者が来ていた。でも入社の二ヶ月前に老衰で亡くなった。
入社当初はどうしようもない使いもんにならなかったけど、今は周りに助けられながらだけどなんとかがんばれてる。
だから今の自分を一目でも見てほしかった。もうちょいだけ長生きしてほしかった。
喜ばせてやりたかった。夢でもいいから出てきてくれよって今でも思う。まだまだ失敗ばかりだけどせめて天国から見てくれよな
ほんとにかわいがってくれてありがとう がんばるからね じいちゃん 長文すんません
237 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/02(木) 23:31:04 ID:+Drdckj+
夜遊びをして帰って夜中にダイニングで茶飲んで一息ついてると、夜中におしっこで
目覚めたのであろう祖父がついでに水を飲みにダイニングでうなだれてる私に一言。
「ご飯をちゃんと食べないかんよ」
「あぁ、うん」
死ぬ1ヶ月程前、私の母に「○○(私)はちゃんと料理やら洗濯は自分でできるのか?
そんなん結婚して恥かくぞ。ちゃんとやらせないかんよ」
生きてるうちに花嫁姿見せられなくてゴメン。
238 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/03(金) 00:04:11 ID:R034fy9a
うちの両親はずっと共働きだったので、ばぁちゃんがずっとうちの世話してくれてました。
でもうちが4年生になったとき、ばあちゃんは癌で入院。そのまま家に帰ってくることなく天国へ。
まだ小さかったし、突然のことやったから葬式の最中も全然泣けんかった。
でも業者さんが棺おけに蓋して、釘打ちはじめたあたりからボロボロ涙が流れてきた。
なんで閉じ込めるんよ、ばあちゃん起きたときびっくりするやんかって思ったら、かわいそうで泣けた。
うちはもう大学生で、人に世話してもらわんでも生きていけるようになった。
やけどばあちゃんにご飯作ってもらったこととか、幼稚園のバス停まで迎えに来てくれたこととか、今でも思い出す。
これからもずっと大好きや。ばぁちゃんほんまにありがとう。
長文ごめんよ。
赤ちゃんの時から20年一緒に暮らしていたおじいちゃんが三月に亡くなった。容体悪くなってから亡くなるまで半月、あっと言う間だった。
お父さんは小学生の時に出ていってしまったから、おじいちゃんが私のお父さん代わりだったのに…
私はグレておじいちゃんを苦しめることばかりしていた。
心配させ通し苦労させ通し、何一ついいことをしてあげられなかった。
病院に泊まり込んでたらおじいちゃんは酸素マスクの下で声にならない声で言った
「お前大変だろうから、帰れ」
泣いてしまってごめんおじいちゃん。
おじいちゃん、謝らなきゃならないことが山ほど山ほどある…もう遅いんだけれど。
おじいちゃんの作るラーメン食べたい。音痴な歌が聞きたい。また俳句も作って欲しい。
義経、楽しみにしてたんだよね…見せてあげられなかった。天国にもテレビあるかな。
涙が出てくるからもう止めとくさ。でもこれだけは言いたい。
私、おじいちゃんの孫で良かったよ。
年寄りってさ、神社仏閣が好きじゃん?うちの婆さんも例に漏れず好きだったんよ。
婆ちゃん子だった俺は浅草寺やら巣鴨やら色々連れてってもらったんよ。
んで、そういうとこって大抵ハトがいてエサをやったりしてたわけだ。まだ小学校上がる前ね。
社会人(当時、26歳)になってから一緒に神社に行く機会があって、やっぱりハトがいたんだよね。
すっかりヨボヨボになって足元の覚束ない婆さんの手を引いて歩いてると・・
婆 : (ハトを見て)・・おまい、ハトにエサやるかい?
って、がま口から小銭出そうとするんだよw
俺 : いやいや、ばーちゃん・・俺、いくつになったと思ってるんだよ?(苦笑)
あれから10年、婆ちゃんは未だに元気だけど、あの時のことを思い出すと笑えるやら涙が出るやら。。
消防の時、よく婆さんがサンドイッチ作ってくれてた。
でも、俺も弟もそのサンドイッチの耳だけは残してた。
ほら、あれ堅いし味しないし子供心にはとにかく嫌いだった。
でも、その耳の部分を婆さんが揚げて、それに軽く砂糖か塩をまぶす。
ただそれだけのものなのに、すごく美味しかった。
婆さんが亡くなってから10年近くたって、たまに自分でも作るけど
あの時の味と違うんだよなぁ・・
多分、当分の間そっちにはいけないけど、会ったら作り方教えてくれよ婆さん
242 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/10(金) 12:38:55 ID:+7d2kFOr
今年の2月にばあちゃんが死んだ。病気を患ってたわけじゃないよ。いつも早風呂なのに遅いって思って、じいちゃんが行った時には既に…。
島に住んでて船で行くので、幼かった私が名づけた呼び名は「おふねのばあちゃん」。
盆や正月ぐらいしか会わなかった。今思えばもっと会っておけばなって思う。成長するたびに友達や彼氏との約束をとって、島に帰ること少なくなってたもん。
就職が決まらなくて電話で「就職は…?」言われるたびに腹が立った。で、つい強い口調に。楽しい思い出もあるけど、後悔もいっぱいあるよ。
蜜柑農家だから、いつもおふねのばあちゃんはほんのり蜜柑の匂いがした。あの匂い好きだった。
きゅっきゅっと独特な笑い方をするおふねのばあちゃんが好きだった。
まだまだ元気なもう1人のばあちゃん、そして2人のじいちゃん!!
おふねのばあちゃんのかわりにいっぱい長生きしてよ!!
243 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/10(金) 13:32:32 ID:RM6vIYrs
父が私生児だから、生まれたときから祖父は一人しかいなかった。
俳句の先生をしていて外では周りからすごく慕われているのに
家では無愛想ですぐ癇癪を起こし、偏屈な人柄は母方の身内からさえ
あまり良く言われなかった。
そんな祖父の家に親戚で集まっていたときのこと。
幼くて病気がちだった私は、従兄弟たちと遊びにいけず
おじいちゃんと留守番になった。
静かな広い家の中で、怖い爺ちゃんと居るのつまんないなと思っていると
「公園、いくか」と声を掛けてきた。うなずくと、靴をはかせてくれ、
手を引いて公園まで連れて行ってくれた。
一人でしばらく遊んでいるのを、祖父は遠くから見ていた。
高い山の遊具から駆け下りるとき、転んで膝をすりむいた。
泣いているとゆっくり傍に来て「家帰って、赤チンつけような」
と優しく言ってくれた。父や母や叔母なら、私を丈夫な子にしようと
「泣きなさんな!死にゃせんわい!」と叱咤しただろう。
祖父のじんわりした優しさ、しわしわの手、今も思い出すけど
家族にその話をしても「うそ〜そんな人じゃないよ」っていうばかり。
きっとさびしがり屋で甘ったれだっただけなんだと思うんだけど。
もうすぐ亡くなって5年。若いときに死別したきれいなお嫁さん、
私の本当のおばあちゃんと穏やかな日々を送っているのかな。
浜名湖で漁師だったじいちゃん
無口だけど存在感たぷーり
船を操る勇姿はかっこよかったなぁ
朝3時に起きるのはつらかったけど、
何度か漁について行ったのは、いい思い出だ
干す
父方のばぁちゃん
いっつもニコニコして冗談ばっかり言って、大好物のキャラメルを
お土産に持って行くと手ぇ叩いて喜ぶようなばぁちゃんだった。
一度、誕生日に手作りのキャラメルを作ってあげたら、泣きながら神棚に供えて
いつまでも食べようとしなかった。
ほんと、幾つになっても『少女』の気持ちを忘れない可愛い人だったな。
247 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/06/30(木) 23:35:08 ID:hSp3UATC
おまえら、あんまり泣かせんな・・・でも、俺は、おまえらみたいな気持ちを
持っているやつらと一緒の時代に生きていることを、ほんとうにうれしく思う。
ありがとう。
おばあちゃん。
いちばん早く逝ってしまったおばあちゃん。親父が言うには、「お前はいちばん
俺のかあさんの血を濃く引いているな」とのこと。俺もそう思う。
プライドばっかり高くて、人間関係不得意だった。でも、一度仲良くなると、自分の
ことなんか全部ほっぽりだしてでも尽くして、感謝されなくても一顧だにしなかった。
確かに俺もそういうところがある。
246のキャラメルで思い出したんだ。俺がおばあちゃんに手を引かれて楽しく散歩してたときに、
キャラメル吐き出したことがあった。俺は3歳ぐらいのヘタレなガキだったから、
泣きそうになった。おばあちゃんは近くにあった堀の水でキャラメルを洗ってくれた。
でも俺は「汚い」とか言って口に入れなかった。
おばあちゃんの悲しい顔は、今でも俺の気持ちの奥底に残っている。俺は、
あなたが逝ってしまってから、どうしてもキャラメルが食えない。ほんとにごめん。
おばあちゃん、ほんとうにすまなかった。会いたいよ。大好きだったキャラメルを、
おばあちゃんと一緒にもう一回食べたいよ。
248 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/07/01(金) 00:53:04 ID:B6hndJg8
幼稚園の頃、「とんでるトリかいてー」と
画用紙の右端指差して渡したら、空飛んでる鶏書いてくれた。
249 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/07/01(金) 01:04:14 ID:FKxYSFzD
>>247確かに汚いよね。落ちたのを洗って食べさせるのも変。
駄目人間入っていて我ながらどうにもならん感じの俺
Gさんも呆れ果てて、半ば諦めてる様であった。
Gさん死んで小さな皮表紙の日記帳が出て来た
252 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/07/01(金) 11:37:00 ID:CrOkZYLW
うちの爺さんは、戦争中、二式大艇?とかいう大型の輸送機のパイロットをしていたらしい。
20年近く前に亡くなったんだけど、むかs
書くの途中で止めるのやめれ
俺が学校から帰って来る度に
家の前で立ってて、いきなりタックルしてきたり
水巻きホースをギリギリ当らない角度に向けて驚かせたり
御近所裏情報を何故か速報してくれたりした爺さん
隣に住んでるだけの赤の他人だったけど、面
ばあちゃん、と言っても曾祖母なんだけど。
いつもご飯残しては庭に撒いて集まってくるスズメにやってた。
ただ…
そのスズメ達の大半が住み着いてたヌコ達に喰われてたけどね〜
ぬこ鬼だな
結婚する前に入院中のおばあちゃんのところへダンナの顔見せに行った。
だんなに向かって
「アンタ、シアワセ者だね〜こんなベッピンさんと結婚できて」
と言ったw
バババカにも程があると思ってワロタ。
もう亡くなったけどかわいがってもらったな。。。
hosyu
258 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/07/19(火) 12:27:41 ID:lbatV4GK
今年三回忌のおばあちゃん。孫3人の中で一番かわいがってもらった。
職場や魚屋、山…いろんな所に連れて行ってもらった。
亡くなるちょっと前から咳が止まらなくなり、咳とおならを一緒にしていた。
おばあちゃんが死んだ時、「最後なんだから触ってあげなさい」と言われた。私は「いやだ」と言った。
それでもちょっと経ってから触ってみた。
冷たい…眠ったような顔をしているおばあちゃんが起きるのを期待していた私は、それが絶対に起きない事がわかって泣いた。大泣き。今までで一番泣いた。
おばあちゃん、元気かな…
じいちゃんが脳卒中で入院したとき
お見舞いにいったら、病室の窓辺においてあったラジオから
レッドツェッペリンの「天国への階段」が流れてきて
悪いとは思いつつも笑ってしまった。
260 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/07/23(土) 14:37:12 ID:UEirmvKR
俺が小学校2年のときにじいちゃんは亡くなった。
「腹が痛い」といって入院して生きて帰ってこれるはずの手術だった。
7月のことだった。
悲しくてしょうがなかった。
亡くなる一ヶ月前に「夏休みになったら泊まりにおいで」
って言っていたのに。
思えばじいちゃんはすごく俺を大切にしてくれていたのだと思う。
学校で怪我をしたとき、妹に内緒でお小遣いをくれたりした。
俺はじいちゃんが大好きだった。
月日が流れ、小学校を卒業するとき母親がくれた手紙があった。それには
「あなたのランドセルを買ってくれた人を覚えていますか?
ランドセルを買ってくれたおじいちゃんが、あなたの最後のランドセルを
背負っている姿が見れなかったことが一番残念です。」
手書いてあった。その瞬間涙がこぼれた。
そんな俺もいつの間にか高校2年。
いまだに亡きじいちゃんの事を思い出すと涙が出る。
しかし、じいちゃんが亡くなってから自分は身の回りの人間に
思いやりをもてたと思う。じいちゃんは最後に自分の死と引き換えに
俺に何か大切な事を教えてくれたのだと思う。
短い時間だったが、ありがとう。じいちゃん。
うちのばあちゃん、ガンで失くなった。その時の事は鮮明に覚えてます。
げっそりやせて、最期の数十分は苦しそうに息を吸おうと頑張ってた。
それをずっと見てたのにいつのまにか呼吸がとまってて、
なんて自然な死に方するんだろうって思った。テレビでしか見たことなかったから…
死亡診断されると母(嫁です)が泣き崩れたのが印象的だった。
いつもケンカしてたくせにと思ってるうちに自分も泣いていた。
262 :
おさかなくわえた名無しさん:2005/07/23(土) 19:02:37 ID:DIpXgRNp
小さい頃は人見知りが激しくて、おばあちゃんでさえその対象だった。
いつもあれこれはなしかけてくれてももじもじしていた。でもいざ車に乗って帰るとなると
ちょっと寂しくて車のバックフロントから見えなくなるまで手を振るのが習慣だったな。
縁台に足の悪いおじいちゃんがちょこんとすわって、おばあちゃんがその横にたってずっと
手を振ってくれた。その瞬間がほんとに大好きだった。
おじいちゃんは戦争を体験してきた人だったから
とても厳しかった、と言うのは雰囲気で何となくわかっていた。
母もそう言っていたし。
夏休みにおじいちゃんの家に行った時、当時3歳の自分は
おじいちゃんが来るとテーブルの下に隠れてしまっていた。
だから顔をしっかり見たことが無かった。言葉を交わした記憶もない。
しばらくしておじいちゃんはガンで死んでしまった。
まだ人が死ぬことについて分かっていなかったから悲しいとは思わなかった。
でも母に抱かれて見た、棺の中で横になっている
おじいちゃんの顔は鮮明に覚えている。
今思うと、ちゃんと話したりすればよかった。ごめんね、おじいちゃん。
じ〜ちゃんは事故で死んだ。山で倒れてきた木の下敷きになって。
ば〜ちゃんは毎日泣いてて1ヶ月後に自殺した。
ば〜ちゃん、本当にじ〜ちゃんの事が好きだったんだなと子供心におもった。
>>261ですがなんか亡くなった時の話ししか書いてなかったよ…
うちは両親共働きだったから、小さい頃遊んでくれたのも学校の宿題みてくれたのもほとんどばあちゃんだった。
よくおやつに蒸しパン作ってくれた。でも当たり前と思ってて家事とか手伝った事もほとんどなかった。
言うこときかないうるさい孫3人面倒みてくれて、大変だったと思う。
いきなりガンが見つかり入院してから、家事全般バリバリやってたばあちゃんが少しボケてしまったのがすごく悲しかった。
亡くなったのは数カ月後の私が高校2年の時だった。反抗期だっただけに、迷惑かけるだけかけて何も恩返しできないままだった。
亡くなってやっとありがたみが分かる、なんて何かのセリフみたいな事が実際に起きた。
できるならもう一度会いたいな。そしてお礼が言いたい。謝りたい。
夏休みの季節が来ると死んだ祖父ちゃんの事を思い出す。
祖父ちゃんの原付に二人乗りしてクワガタとかよく採りにいってた。
もう20年前の事だが、なぜかその記憶は他のどんな記憶よりはっきり、
色鮮やかに覚えてる。まるで昨日の事のように。
うちは片親だったから、母親方のばあちゃんが面倒みてくれてた。
元小学校教師で、何でも知ってて、冷静で物静かな人だった。
晩酌が好きだったらしく、日本酒とお新香と茶碗一杯のご飯を前にちびちびやっていた。
トイレに起きたフリして茶の間に行くと、白菜のお新香でご飯を巻いて一口食べさせてくれた。
町内の老人会で一泊旅行。楽しみにしていただろうに、孫の私が出がけに大泣きしたせいで
泊まらずに帰ってきてしまった。○○の宿題が心配だから、とか言って。
その祖母が冬のある夜、急に倒れて入院し次の日の夕方に亡くなった。
意識が混濁する中、ずっと「○○(私の名)の宿題は終わったか」「夕食は何がいいか」
「○○の服のボタンが」と私の事ばかり言っていた。
当時小学校3年だった私は、心臓マッサージされてるばあちゃんの口から
黄色い汁が出たのを見て怖くなった。
亡くなった後安置されてる部屋に入るのも怖かった。結局触れないまま棺に入れられてしまった。
お葬式の途中、集まった親戚と遊んでいた時、自分の左手が動かなくなってるのに気付いた。
右手で掴んで持ち上げ、手を離すとダラーンとなる。全然動かない。
精神的ショックで筋肉が一時的に動かなくなったらしい、という事だった。
今でもばあちゃんを思い出すと涙が出る。もうちょっと長生きしてくれたら孝行出来たのに。
世話してもらいっぱなしで何もしてやれなかったな。まとまりない長文ごめん。
ウチの祖母は寿命で肺の機能が先に停止して呼吸できない状態になっても
私に向かってかすれた声をかけてきた。
「立派になれよ」と。
あの時の私は社会的にみて落ちぶれた存在だった。今で言うニート。
祖母が元気な時に色々と励ましてもらった。けど変わらない私。
祖母が病床で伏せている時でもそのままだった。
祖母はそんな私に死ぬまで助力してくれた。
子供の頃、私は「いざとなったら人間なんて自分優先」とかって考えてた
でも、私の祖母はもぅ危ないってときでも同じように私の心配ばかりしてくるんだよね
病床で祖母は私の手を握りながらでも死に行く瀬戸際まで
「立派になれよ」
━━ああいう人がいわば本当の優しさと愛に辿り着いた人なのかな。
祖母が亡くなった時でも葬儀でも私は涙を流しませんでした。
たぶん、祖母の言う立派な存在になった時、涙すると思います。