469 :
法の下の名無し:2009/11/17(火) 10:16:33 ID:304lTHK2
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。
三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より
470 :
法の下の名無し:2009/11/17(火) 10:17:19 ID:304lTHK2
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが
判つてゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。
三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より
471 :
法の下の名無し:2009/11/17(火) 10:18:32 ID:304lTHK2
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。
三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より
472 :
法の下の名無し:2009/11/17(火) 10:21:04 ID:304lTHK2
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。
三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より
473 :
法の下の名無し:2009/11/17(火) 10:22:01 ID:304lTHK2
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。
三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より
474 :
法の下の名無し:2009/11/29(日) 03:20:28 ID:wcCxYXqB
在日韓国人の「外国人参政権」を急いで欲しがる理由について。
以下の理由らしいとの事です。
2012年在日韓国人に徴兵義務強制、拒否すれば財産没収(正式決定済み事項)の法律が韓国で決定。
↓
2012年以降、在日韓国人は兵役をこなすか、手数料を支払うかしかなくなる。
↓
ただし、兵役に行くor国籍を認めて代金を支払うと特別永住資格を喪失するらしい(帰化するしか日本に居住する方法がなくなる)
ということは、頑張って2012年まで在日の参政権等の法律を阻止できればあの忌まわしい在日は駆逐できるってことなのか!
みんな頑張ろうぜ!日本の地を日本人の手に!!
できればこの文章を、いろんなページに貼り付けてほしい。
たのむ。子供たちに明日を!
参考・在日韓国人が参政権をほしがる理由
http://d.hatena.ne.jp/hidekopon/20091123/1258974145
475 :
法の下の名無し:2009/12/03(木) 12:20:18 ID:Pbaonaf2
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。
ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は
往々歴史を見誤まるのである。
三島由紀夫
「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より
476 :
法の下の名無し:2009/12/03(木) 17:13:32 ID:Pbaonaf2
兜町――それは現在のこの一瞬だ。
(中略)
そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない
現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も
役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。
いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ
気持があれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。
ひどく敏感で、ひどく鈍感。
三島由紀夫
「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より
477 :
法の下の名無し:2009/12/03(木) 17:14:13 ID:Pbaonaf2
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を
動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。
…兜町の第一線の人々と親しく話してみて、そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、
「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。
しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか?
それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。
三島由紀夫
「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より
478 :
法の下の名無し:2009/12/12(土) 10:39:40 ID:iiFs6UHs
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。
このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児のやうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を
十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと思つてゐる。
安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫
「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
479 :
法の下の名無し:2009/12/28(月) 15:55:26 ID:uJ/4NynC
…私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を肯定することにはならないといふ立場に
立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の言葉なのである。
すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は戦争である」これが
毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理とちやうど反極に立つものである。
すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。私は戦後、平和主義の美名が
いつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理につながることをあやぶんできたが、
これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの理由である。
三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より
480 :
法の下の名無し:2009/12/28(月) 15:56:35 ID:uJ/4NynC
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の肯定が
国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の理論的前提で
あるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮しないからである。
(中略)しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための
正しい核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。
それは又、古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張は
どんな立場からも発せられうるものである。かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、
道義的源泉であるとすれば、その自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。
三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より
481 :
法の下の名無し:2009/12/28(月) 15:57:34 ID:uJ/4NynC
道義の問題を別としても、暴力に質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と
警察の力のみを正義の力とみとめ、その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。
かくて毛沢東の論理は、結局、国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。
三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より
482 :
法の下の名無し:2010/01/21(木) 23:33:14 ID:56otM6Eq
483 :
法の下の名無し:2010/01/25(月) 10:31:25 ID:KGBflBAO
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と
馴れ合ひ、ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私はニューヨークで、
トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。
私は自民党の生きる道は、真のリベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国における
共産党の生きる道は、すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。
真にナショナルなものとは何か。
それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも与(くみ)しないものだと思はれる。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
484 :
法の下の名無し:2010/01/25(月) 10:32:16 ID:KGBflBAO
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。
権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも大切な秩序と、政治にとつて
もつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、われわれは「天皇」を持つてゐる。
実は「天皇」しか持つてゐないのである。中共の「文化」大革命に決定的に欠けてゐる要因はこれであり、かれらは
高度な文化の母胎として必要な秩序を、強引な権力主義的な政治的秩序で代行するといふ、方法上の誤りを犯した。
文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを犯す心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、
共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的にかかはらうとする姿勢において、すでに文化を殺してゐる。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
485 :
法の下の名無し:2010/01/25(月) 10:35:13 ID:KGBflBAO
(中略)最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としての
ナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、殺人の
責任は直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
486 :
法の下の名無し:2010/01/25(月) 10:37:26 ID:KGBflBAO
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の殺人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。
第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの
群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらうからである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。
しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとはさういふ意味である。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
487 :
法の下の名無し:2010/02/15(月) 11:26:02 ID:vtfWSEWL
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を
促しておくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐることである。
玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て戦友の飢を
救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に敗れたけれども、
人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。
三島由紀夫
「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
488 :
法の下の名無し:2010/02/15(月) 11:26:43 ID:vtfWSEWL
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。(中略)
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、はつきりと
自決の決意を固めてゐたからである。
三島由紀夫
「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
489 :
法の下の名無し:2010/02/15(月) 11:27:49 ID:vtfWSEWL
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、一つの
行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。氏はかう書いてゐる。
「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」
(中略)そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると同時に、絶巓における人間の美であつた。
三島由紀夫
「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
490 :
法の下の名無し:2010/03/13(土) 12:41:51 ID:X/tiaKA6
491 :
法の下の名無し:2010/03/21(日) 11:16:39 ID:9lvrno2t
オルテガの史観は、所与の事実をそのまま歴史とはみとめない。(中略)
これは結局、キリスト教徒の歴史観のうちにあらはれた世代の観念である。世代を媒体にして、歴史的事実が
形成されるといふ世代論である。(中略)
特攻隊の歴史感覚と、オルテガ流の「理念のなかにおける再体験の試み」といふ歴史感覚ほど、相隔たること
遠いものはない。
私には、今も、戦争体験はオルテガ流に甦つては来ない。特攻隊は歴史の中に突入し、埋もれた。
われわれは偶然生き残つて、歴史の外に取り残された。私は歴史の外にある自分の存在理由をたづねて、
今日に及んだのである。
三島由紀夫
「歴史の外に自分をたづねて」より
492 :
法の下の名無し:2010/03/30(火) 10:17:00 ID:rBA3pTkV
最近ウェイドレーの「芸術の運命」といふ本を面白く読んだが、この本の要旨は、キリスト教的中世には
生活そのものに神の秩序が信じられてゐて、それが共通の様式感を芸術家に与へ、芸術家は鳥のやうに自由で、
毫も様式に心を労する必要がなかつたが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以後、様式をうしなつた芸術家は方法論に
憂身をやつし、しかもその方法の基準は自分自身にしかないことになつて、近代芸術はどこまで行つても
告白の域を脱せず、孤独と苦悩が重く負ひかぶさり、ヴァレリーのやうな最高の知性は、かういふ模索の極致は
何ものをも生み出さないといふことを明察してしまふ、といふのである。著者はカソリック教徒であるから、
おしまひには、神の救済を持出して片づけてゐる。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
493 :
法の下の名無し:2010/03/30(火) 10:17:20 ID:rBA3pTkV
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。しつかりした
共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ共通の判断で、あれを善い、これを
悪い、あれは正しい、これは正しくない、といふ。それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を
与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャの
やうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と道徳的感覚は一つものになるであらう。
最近、汚職や各種の犯罪があばかれるにつれて、道徳のタイ廃がまたしても云々されてゐる。しかしこれは
今にはじまつたことではなく、ヨーロッパが神をうしなつたほどの事件ではないが、日本も敗戦によつて
古い神をうしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、
神が支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
494 :
法の下の名無し:2010/03/30(火) 10:17:40 ID:rBA3pTkV
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふそのことではないのである。
今世紀の現象は、すべて様式を通じて感覚にぢかにうつたへる。ウェイドレーの示唆は偶然ではなく、彼は
様式の人工的、機械的な育成といふことに、政治が着目してきた時代の子なのである。コミュニズムに何故
芸術家が魅惑されるかといへば、それが自明の様式感を与へる保証をしてゐるやうに見えるからである。
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。かういふ方法で
政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきたことを意味する。我々は今日、自分の
モラルの感覚を云々することはたやすいが、どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、
明言することはだれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に
従ひがちになるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
495 :
法の下の名無し:2010/03/30(火) 10:18:06 ID:rBA3pTkV
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられることはない。
文明のさまざまな末期的錯綜の中から生れたもつとも個性的な思想が非常な近道をたどつて、もつとも民族的な
未開な情熱に結びつく。ブルクハルトが「イタリー・ルネッサンスの文化」の中で書いてゐるやうに
「芸術品としての国家や戦争」が劣悪な形で再現してをり、神をうしなつた今世紀に、もし芸術としてなら
無害な天才的諸理念が、あらゆる有害な形で、政治化されてゐるのである。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて来てをり、もし
モラルの感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に抗して、芸術家が己れの感覚の
誠実をうしなはないことが大切になるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
ふうん
497 :
法の下の名無し:2010/04/05(月) 11:15:57 ID:VsGcB4YQ
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
498 :
法の下の名無し:2010/04/05(月) 11:16:24 ID:VsGcB4YQ
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
499 :
法の下の名無し:2010/04/05(月) 11:16:43 ID:VsGcB4YQ
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)
三島由紀夫「欲望の充足について」より
500 :
法の下の名無し:2010/04/14(水) 11:16:41 ID:wAsCUFDd
今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、
ある場合には、社会不安のたねにさへなる。
こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、平べつたい人間認識では、とても片付かない。
三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より
501 :
法の下の名無し:2010/04/16(金) 10:36:57 ID:E6V1HGWA
聞くところによると、例の「風流夢譚」掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長がその掲載を反対した
にもかかはらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたやうに伝はつてゐるらしいんです。
これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない。第一、新人の原稿ならいざ知らず、深沢さんといへば
一本立ちの作家ですからね、だれそれの推薦なんてあり得ないぢやないですか。世間ではよく、ある出版社の
背後にはこれこれといふ作家がゐて、その作家の言ふことならきく、といふやうな考へを持つ人がゐるらしいが、
それは“編集権”の存在を知らない者の言ふことで、編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも
守つてきたはずだ。ただ例外があるとすれば、“文学賞”の審査員になつたときくらゐのものだらう。
そのときだつて、技術顧問的な役割で、作品の芸術的な判断以外の社会的な影響にまでは、タッチしないものだ。
三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より
502 :
法の下の名無し:2010/04/16(金) 10:37:17 ID:E6V1HGWA
かういふ事情を知つてゐれば、ぼくが「風流夢譚」を掲載するやうに圧力をかけたなんていふことがナンセンス
だといふことがよくわかるはず。しかし、それにもかかはらずぼくの名が使はれたとすれば、それは一部の者が
苦しまぎれの逃げ口上に使つたのではないか。さう思へば使つた者にも同情の余地があるのだが、迷惑うけるのは
こちらだからね。ともかくふりかかつた火の粉ははらひ落としたいといふのが本音だ。
この際、次第に大きくなる風説――新聞雑誌でもそんな書き方をされてゐるんで――の誤解をときたい……。
(談)
三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より
503 :
法の下の名無し:2010/05/06(木) 11:13:14 ID:UEknYPqm
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威(三島由紀夫)16歳
「惟神(かんながら)之道」より
504 :
法の下の名無し:2010/05/06(木) 11:13:40 ID:UEknYPqm
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威(三島由紀夫)16歳
「惟神(かんながら)之道」より
505 :
法の下の名無し:2010/05/06(木) 13:50:06 ID:dM8/saHx
506 :
名は有る:2010/05/07(金) 23:46:35 ID:mhGJyIcZ
三島の小さな墓標が昔の市ヶ谷駐屯地の角に隠れてつくられていた。
最近防衛省を尋ね、その後を探すと、今でも角に三島由紀夫と書かれた墓標がある。これは部内の者でもほとんど知られていない。
当時、あの東部方面総監室で何があったのか・・・。
その当時の写真、三島の首、その写真、血でべったりの絨毯、それらは一体どうなったのか、あの時数多く部屋の写真を撮った・・・。その写真は全て没収されて、どうなったのか、今どこにあるのか、何故没収されたのか・・・。その理由はここには書けない・・・。
507 :
法の下の名無し:2010/05/22(土) 23:51:39 ID:BqS7r820
私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、おいしい料理が
生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、日本精神は
もつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。
三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
508 :
法の下の名無し:2010/05/22(土) 23:52:01 ID:BqS7r820
(中略)
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを
判断することは遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが
私の考へである。それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。
三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
509 :
法の下の名無し:2010/05/23(日) 05:00:40 ID:kpmFNk7C
510 :
法の下の名無し:2010/07/05(月) 11:17:29 ID:CBM31O6Z
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これを
カムフラージュするために、道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に
対する規制が行はれるのが通例である。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
511 :
法の下の名無し:2010/07/05(月) 11:19:52 ID:CBM31O6Z
エレキは有害で、青少年に対して危険であり、ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか
人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた考へであつて、
ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、
現代の政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、
ほとんど理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。
してみると日本には、真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府も
そんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
512 :
法の下の名無し:2010/07/31(土) 23:27:00 ID:Ml3Rib26
○偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。
それ自身健康無礙(むげ)なる状態は存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。
○承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして
平和熱へと転換する為に、自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
513 :
法の下の名無し:2010/07/31(土) 23:27:30 ID:Ml3Rib26
○デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。
併し真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の
群衆に存立の礎をもつやうに、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。
啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から偉大な古典的文学の創造力を
奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。
この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
514 :
法の下の名無し:2010/07/31(土) 23:27:45 ID:Ml3Rib26
○日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
○ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ
又取入れられ得たのであると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、
ナチスが禍(わざはひ)ありし如く、デモクラシイも禍あるものとなるであらうと思ふ。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
515 :
法の下の名無し:2010/07/31(土) 23:28:02 ID:Ml3Rib26
○偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。
○芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。
○人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
516 :
法の下の名無し:2010/07/31(土) 23:28:20 ID:Ml3Rib26
○退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。
諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は健康な人間ではなかつた。
君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。
だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。
つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、もつとおそろしく
退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は
君らを愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。
――なつかしい「描かれる」一族よ。君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、
描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の作者となる義務があるだらう。
(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
517 :
法の下の名無し:2010/07/31(土) 23:30:13 ID:Ml3Rib26
○流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。
○神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。
○どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や
荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに辷(すべ)り出す、
さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
518 :
法の下の名無し:
氏が、天皇に心をとらへられることを、単に十九世紀の制度の作つた新しい侵略主義的感情だ
といふならば、階級が感情を作るといふこの古くさい退屈な理論は、尊皇思想のみの力が
明治天皇制を形成したといふ唯心論の裏返しにすぎない。(中略)
私が特に制度の問題を論ずるに当つて、歴史的「文化的」伝統との関聨を重んじ、
このエトス=パトスに重点を置くのは、文化とは非常に高度な洗練を成立条件としつつ、
一方民族の根底的なエトス=パトスの原始性と切り離されたとたんに、その生命力を
失ふやうな繊細な花だといふ考へがあるからである。高度な宮廷文化(みやび)の保持者として
機能しつつ、民族的原質とつねに相関はつてきたものこそ天皇であり、それを措いて、
他に日本民族の最終的なアイデンティフィケーションは不可能であると私は考へる。
三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より