三島由紀夫と楯の会

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1名無しさん@お腹いっぱい。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:19:47 ID:K5GEvNJK
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
…普段の平時からそれぞれの能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。

三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より
3名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:20:11 ID:K5GEvNJK
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた教育で、
国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ持つて
行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に残した、
この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、我々が
いくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないといふことは、
何を意味するんだといふことを考へないできたんです。

三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より
4名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:20:38 ID:K5GEvNJK
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。
ナチスはワイマール憲法を改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。
ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、
ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下でナチズムといふものは出てきたんです。
この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すればファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。

三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より
5名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:25:40 ID:K5GEvNJK
日米共同コミュニケによつて、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。
すなはち国内的には、今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしやぶらせつづけて面子を立ててやる一方、
過激派には現憲法にもこれだけの危機収集能力のあることを思ひ知らせ、国際的には、無制限にアメリカの
全アジア軍事戦略体制にコミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使ひ、一方では
安保体制堅持を謳いながら、一方では平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするといふメリットが
生じたのである。
これはいはば吉田茂方式の継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによつて強ひられた憲法であるより以上に、
さらにアメリカの軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないといふ恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。
改憲サボタージュは、完全に自民党の体質になつた。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
6名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:26:05 ID:K5GEvNJK
空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、といふところに、新憲法のふしぎな魔力があり、
戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない。
完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす。
それは戦後のヤミ食糧取締法と同じことである。
(中略)
私が憲法を問題にするのは、そこに国家の問題が鮮明にあらはれてゐるからであり、しかも現憲法は、国家への
忠節に肩すかしを食わせて、未実現の人類共通の理想へのみ忠誠を誓はせるやうにできてをり、国家と忠誠とを
別次元に属する形で併記してゐる。
国家とは何ぞや、忠誠とは何ぞや、といふ問ひからはじめなければ、変革の論理は実質を欠くことにならう。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
7名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:26:32 ID:K5GEvNJK
私見によれば、祭政一致的な国家が二つに分離して、統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)に
分れ、後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐるのが現代の日本である。近代政治学が問題にする国家とは、
前者にほかならない。ところで自由世界の未来の国家像は、ますます統治国家がその統治機能を、自治体、民間団体、
企業等へ移譲し、国家自体は管理国家としてのマネージメントのみに専念し、言論やセックスの自由は最大限に容認し、
いはばもつとも稀薄な国家がもつとも良い国家と呼ばれることにならう。そこでは時間的連続性は問題にされず、
通信連絡、情報、交易の世界化国際化による空間的ひろがりが重んじられる。スポーツや学術をはじめ、多くの領域で
世界国家的イメージが準備される。事実このやうな管理国家は世界連邦たるべきものの胎児なのである。
これを支配する原理は、ヒューマニズム、理性、人類愛などであり、非理性的ないし反理性的なものはきびしく
排除されるロゴスとしての国家である。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
8名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:26:59 ID:K5GEvNJK
一方、祭祀的国家はふだんは目に見えない。ここでは象徴行為としての祭祀が、国家の永遠の時間的連続性を保障し、
歴史・伝統・文化などが継承され、反理性的なもの、情感的情緒的なものの源泉が保持され、文化はここにのみ
根を見いだし、真のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートスとパトスの国家の首長は天皇である。
ここでは濃厚な国家がもつとも良い国家なのである。
さて統治国家を遠心力とすれば祭祀国家は求心力であり、前者を空間的国家とすれば、後者は時間的国家であり、
私の理想とする国家はこのやうな二元性の調和、緊張をはらんだ生ける均衡にほかならない。
私はこの二種の国家をつきつけて、国民にどちらの国家に忠誠を誓ふか、決断を迫るべきであると思ふ。
いふまでもなく真にナショナルな自立の思想の根拠は、祭祀的国家のみにあり、統治的国家は国際協調主義と
世界連邦の方向の線上にあるものである。
そしてその忠誠の選択に基づいて、自衛隊を二分したらよいのである。このことは現憲法下でも法理的に可能である。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
9名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:27:53 ID:K5GEvNJK
(中略)
日本の防衛のあるべき姿を考へれば考へるほど、私にはほかの解決は思ひ当らない。もちろんこれには憲法の
制約を考慮に入れた上のことで、憲法を変へるとなれば、また話は別である。
日本にとつて緊急に変革を要するものは防衛の問題であり、しかもそこにいかにして自立の思想を盛り込むか
といふ問題である。日本に変革の必須な問題は多々あらうが、これを除外して変革を考へることは空論であり、
共産党ですら、核兵器に一言も触れぬ狡猾さをもつて、武装中立を謳つてゐる。日本の防衛と自立の永遠の
ジレンマのもとである核兵器が、国内戦に使へないといふ特質を持つてゐるところに目をつけて、この特質を
逆手にとつて、絶対自立の軍隊を健軍することがまづ急務であり、自衛隊をただあいまいに安保条約に
接着させておくことは危険なのだ。
中共はすでにIRBMの戦略配置を終つたと伝えられ、日本はその射程距離内にはひるのである。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
10名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:30:24 ID:K5GEvNJK
(中略)
変革とは一つのプランに向かつて着々と進むことではなく、一つの叫びを叫びつづけることだ、といふ考へが、
私の場合には牢固としてゐる。前述の自衛隊二分論は、相対的解決策としての変革にすぎぬが、その中にも
私の叫びの貫流してゐることを、聞く人は聞くであらう。
かつてアメリカ占領軍は剣道を禁止し、竹刀競技の形で半ば復活したのちも、懸声をきびしく禁じた。
この着眼は卓抜なものである。あれはただの懸声ではなく、日本人の魂の叫びだつたからである。彼らは
これらをおそれ、その叫びの伝播と、その叫びの触発するものをおそれた。しかしこの叫びを忌避して、
日本人にとつての真の変革の原理はありえない。近代日本知識人が剣道のあの裂帛の叫びを嫌悪するのは、
あれによつて彼らの後生大事にしてゐる近代ヒューマニズムと理性の体系にひびのはひるのをおそれるからだ。
あの叫びこそ、彼らの臆病な安住の家をこはしにかかる斧の音をきくからだ。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
11名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:30:54 ID:K5GEvNJK
変革とは、このやうな叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。その結果が死であつても構はぬ、
死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救ひ上げ、精神の
最終証明として後世にのこすことだ。言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。
文化とは形であり、形こそすべてなのだ、と信ずる点で私はギリシャ人と同じである。

三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より
12名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:35:26 ID:K5GEvNJK
私は戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の富)だと考へる者である。

三島由紀夫
「わが『自主防衛』」より
13名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:36:07 ID:K5GEvNJK
日本の歴史をみてわかるやうに天皇は多くの時代日本文化の中心であられた。日本文化のおほらかな、人間性を
あらはした明かるく素直な伝統が天皇の中に受容されてゐる。この文化の象徴である天皇を守るにはどうしたらいいか。
私は、天皇の鏡にもし日本の文化、歴史、伝統とちがつた、大御心といふことのためでないものが映つてきたならば、
それは陛下は拒絶なさることはできないので、国民がそれを拒絶することが忠義であると思ふ。
共産主義が日本の政体を変へて天皇を日本の文化、伝統から引き離し、あるひは日本の文化を破壊して天皇をすら
破壊しようといふ意図を秘めてゐるのであるから、われわれはこれと戦はねばならないと思ふのである。

三島由紀夫
「私の自主防衛論」より
14名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 11:37:13 ID:K5GEvNJK
そして天皇の伝統が絶たれた場合にわれわれの祖先代々の文化の全体性が侵食されてしまふからこそ、それを
守つて戦はねばならない。そのためにはやはりいまの憲法下でも、非常に制約があるけれども陛下があるときには
自衛隊においでになつて閲兵を受けられることも必要であらう。
あるひは国の名誉の中心として文武いづれの名誉の中心も陛下であられるといふかたちをなんとか新憲法下でも
つくつていけることができるんぢやないかと考へるのである。
私は日本を守るとはどういふことか、守るべきものは何なのかといふことについていま青年たちと議論してゐる。
私はまづ手近なところから、自分にできる範囲のことで小さくやつていきたい。すべてそこから始めなければ
何ごとも始まらない。
国民一人一人がいざといふ場合は銃をとつて立ち上がるぐらゐの気持を持つてやらないと将来の日本は
えらいことになるぞといふ感じを持つてゐる。

三島由紀夫
「私の自主防衛論」より
15名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 15:31:22 ID:UFokfWSH
流れぶった切ってすみません。

☆わが国の総理がひげの隊長に国会でお勉強会に参加するの巻☆

http://www.nicovideo.jp/watch/sm9925644
16名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 00:16:46 ID:fomn0xVw
>>15
全然構いませんよ。また面白い情報お願いします(^^)v
17名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:08:13 ID:fomn0xVw
自衛隊法第三条にも明記されてゐる通り、いまや我々が自衛隊は間接侵略の対処及び、通常兵器による局地的な
侵略については、安保条約の力を借りずに全くの自分の力でこれに対処するやうに規定されてゐる。
…なぜこのやうな変化があつたのかといふと、これは日本の自主防衛力が多く認められてきたことばかりとは
いへない。すなはち、間接侵略といふものは、高度に政治的な戦争形態であり、高度にイデオロギッシュな
性質なものであり、またその範囲はきはめて広く思想戦、心理戦、言論戦から実際のゲリラ戦や、いはゆる遊撃戦
活動から社会主義革命に至るまで、あらゆる段階を含んで進行することは自明であるから、このやうな国内問題に
類する間接侵略に対して、外国軍隊が直ちに第一段階で介入することは内政干渉と受けとられる恐れが充分あるので、
したがつてアメリカとしても間接侵略に対する対処を早く自衛隊自らの手にゆだねようとしたわけであらう。

三島由紀夫
「自衛隊二分論」より
18名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:08:35 ID:fomn0xVw
日本の周囲の情勢を見渡すのに、直接侵略事態はむしろ可能性が薄く、間接侵略事態がある程度進行した場合に
はじめて直接侵略事態が起こるであらうといふことが常識として考へられる。
一例がソビエトはいはゆる熟柿作戦といはれてゐるやうに、昔からいつたん相手を安心させてから、例へば
一国が両面作戦を恐れてソビエトと手を握つた時に、ソビエトは一旦これと手を握つて相手を安心させた後に、
相手がソビエトに背をむけて敵と戦つてゐる留守を狙つて背後から、その条約を破つてこれを打ちのめし、占拠し、
あるひは自分の手に収めるといふ時機を狙ふ戦略に甚だ老練であり、甚だ狡猾である。

三島由紀夫
「自衛隊二分論」より
19名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:09:01 ID:fomn0xVw
ソビエトが現下のやうな政治情勢で、日本に直接侵攻してくることは、すぐには考へられないけれども、
ソビエトなり北鮮なり中共なりのそれぞれ色彩も形態も異なつた共産主義諸国が、もし日本に政治的影響を及ぼして、
間接侵略事態を醸成するのに成功した場合、そしてそれが日本全国の治安状態を攪乱せしめ、国内の経済も崩壊し、
革命の成功が目の前に迫つた場合、このやうな場合にはソビエトが、あるひは新潟方面に陽動作戦を伴ひつつ
北海道に直接侵攻してくる危険がないとは決していへない。
決していへないけれども、このやうな直接侵略事態を考へる前に、最も我々が問題にすべきものは、これを
最終目的として狙つてくる、間接侵略事態の進行である。

三島由紀夫
「自衛隊二分論」より
20名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:16:59 ID:fomn0xVw
もちろんわれわれは、いたづらに自己を拡張し、いたづらに古い軍国主義や、軍国主義の幻に惑はされて、
日本をそのうぬぼれの成し進めるままに、昔の誤りを繰り返へさせようとするものではありません。しかし、
私が言ひたいのは、元と末といふことであります。何よりも大事なのは、何を元と考へ、何を末と考へるかであり、
まづ元を固めてから末に及ぼすのが、政治のみならず人間精神の常道であります。元とは何か。
元とは、日本が自主自尊の念を持つて国防に邁進し、日本文化と伝統を守るのに人の力を借りず、その力を
侵さうとするものに対しては、一人一人、断固としてこれを排除する決意を持ち、少なくとも国民の一人一人に、
このやうな背すぢが一本通つたところで、はじめて堂々と面を上げて諸外国と交際し、産業・文化の交流はもちろん、
国益のために必要があれば軍事同盟もいとはず、あるひは国際連合への義務をも回避しないといふところに
あるのでなければなりません。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より
21名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:17:27 ID:fomn0xVw
(中略)私は、十月二十一日の新宿における反戦デモの見物に行きましたが、あのデモを見物したあとの私の感想は、
ただ一言「これで日本の憲法は変はらない」といふことでありました。(中略)
もし政府当局者が、この現場を見れば、もはや憲法を変へなくても、あらゆることが可能であるといふ判断を
持つたに違ひなく、しかも憲法を変へないといふことは、国際的、国内的に二つの極端なメリットを持つ
といふことを認識したに違ひありません。
(中略)また憲法自らは、相変はらず偽善的なただ乗り主義と、肩身の狭いやうにみえる防衛義務と相携へて
いかねばならんといふ跛行的状況の永続を意味し、われわれが矛盾に耐へるのをおそれれば、みすみす外国の
術中に陥り、われわれが矛盾を甘受すれば、知らない間に精神の弛緩状態に陥つて、ますます現状維持の泥沼に
沈むかもしれないからです。
われわれは狼にならうとすれば熊に食はれ、豚にならうとすれば人間に食はれるのかもしれないのです。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より
22名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:17:50 ID:fomn0xVw
国際関係はいつも微妙な力のバランスの上に立ち、一国民のナショナリズムをもつてしても、なんともなる
ものではありません。しかし一九七〇年を境に、われわれは個々に目をらんらんと光らせてわが身を振り返へり、
世道人心の奥に目を開いて、そこに底流するものを認識し、日本とは何か、真のナショナリズムなるものとは何か、
それを守るにはどうすればよいかを考へなくてはなりません。いまやナショナリズムは、新聞紙上や街頭で
絶叫される演説の叫びではなくて、われわれの一人一人に対する鋭い問ひかけになつたのであります。
ナショナリズムとは何か。ナショナリズムとは、軽々しく心に訴へるやうなものではなく、われわれの心の
奥底にあるものに対して、鋭い深いふれ方をし、われわれの最も美しい記憶とまた最もおそろしい記憶とも
結びついてゐるやうなものであります。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より
23名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:18:18 ID:fomn0xVw
それは、ヘルデルリンのハイムクンフト(帰郷)といふ詩にもあるやうに、ふるさとといふものは、われわれの
いちばん奥にあつて最もなつかしいものであると同時に、最もおそろしいものなのであります。
日本でいま、このやうなナショナリズムなものはあるでせうか。この民主主義の、言論自由の世の中で、
米軍基地撤廃も、沖縄の即時奪還も、いかやうな政治的な主張も、あるひは北方領土返還にしろ、言論として
声高に叫ばれ、また整然たるデモ行動にあらはされれば、自由にあらはされることができるものであります。
そのかはりそれは大衆社会の中で、不可能を、難業を、道理立てはするが、また再び忘れられるおそれのある、
いくつかの政治的主張の一つなのであります。
もはやわれわれのいちばん心の奥底で鋭い問ひを問ひかけ、外国のあらゆる力の干渉に対して、何千年の歴史・
伝統をもつて堂々と応へ得るものはただ一つ、天皇しかないといふのが、私の長年の主張であります。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より
24名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 13:18:56 ID:fomn0xVw
人は、天皇と言ふと、たちまち戦前、明治憲法下における天皇制の弊害を思ひ出し、戦争からにがい経験を得た人ほど、
天皇制に対する疑惑を表明してきたのが常ですが、私は、天皇制とは、その歴史は、あくまでもその時代時代の国民が、
日本人の総力をあげて創造し復活させてきたものだと思ふのです。いつも新しい天皇制があり、いつも現在の天皇制が
あり、その現在の天皇制の連続の上に永遠の天皇制があるといふところに、天皇の本質がひそむのです。これは
一つの例をとつても、天皇ご自身にわれわれのやうな姓名ファミリーネームがなく、一つの非人称的な方として
伝承されてきたことをみてもわかります。新しい天皇制は、われわれがつくつていくものであり、そしてこれを
抜きにしては日本の今後の自立の精神の中心は見あたらず、また天皇をいたづらに政治権力に接着おさせすることなく、
あくまで無限受容の無我の本主体として、その日本独自の歴史・文化・伝統のみにかかはる君主制を確立
しなければなりません。
…左翼の民族主義が、その欺瞞を露呈するのは、彼らから天皇に対する態度徹底を、はつきりと再び引き出す
ことにしかないでせう。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より
25名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/11(木) 23:34:16 ID:fZonGvSr
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。
(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか?
…言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげてをり、われわれの文化の連続性は、
民族と国との非分離にかかつてゐる。
そして皮肉なことには、敗戦によつて現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題を
ほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に
立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、
国を現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
26名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/11(木) 23:34:39 ID:fZonGvSr
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。
すなはち、それは非分離を分離へ導かうとするための「手段としての民族主義」なのである。
…前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
27名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/11(木) 23:35:04 ID:fZonGvSr
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。
それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する
異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。
第一の問題は、沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の
平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。
そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反するイメージ――
外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族の歴史の罪障感によつて
権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
28名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/11(木) 23:35:26 ID:fZonGvSr
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。
これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、先進工業国における
革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。
被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。
しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、
保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
29名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:13:18 ID:wvsC2qt9
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいて
ゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。
諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。
青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。

三島由紀夫
昭和45年11月、楯の会会員への遺言
「楯の会会員たりし諸君へ」より
30名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/13(土) 17:24:16 ID:O3o+pm9D
【高森アイズ】自衛隊教育から「歴史観・国家観」排除の愚[桜H22/3/10]
http://www.youtube.com/watch?v=nPz1TeKazeA&hl
31名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:36:09 ID:aJ1vpxCj
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、日本の
近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に示されたことはなかつた。
このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた官僚文化によつて
代表されてゐたことと関はりがある。私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた
明治官僚補綴の石橋の醜悪さに目をおほうた。
すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの価値自体を
見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の特殊事実までが推論されなければ
ならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと押しこめられて行き、政治的機構の
醇化によつて文化的機能を捨象して行つたがために、つひにかかる演繹能力を持たなくなつてゐたのである。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
32名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:36:40 ID:aJ1vpxCj
雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の
真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。
(中略)
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの
形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、
無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、
「国と民族の非分離」を回復せしめようとする変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。
孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、「一筋のみやび」を実行したのであつて、
天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであつたが、西欧的立憲君主政体に固執した
昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
33名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:37:09 ID:aJ1vpxCj
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて時間的連続性を充たしたが、政治的無秩序を
招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には関はりなかつたのである。
政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供せざるをえなかつた。
そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも
無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる
「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを失墜せしめられたのである。
天皇と文化は相関はらなくなり、左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」
「文化の全体性の統括者としての天皇」のイメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
34名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:38:00 ID:aJ1vpxCj
(中略)
かつて物語が歌の詞書から発展して生れたやうに、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルは
その敷衍であつて、ひびき合ふ言語の影像の聨想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、
ほとんど無意識の普遍的手法をなしてゐる。宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間に
はさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのである。
伝統との断絶は一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」
「さび」のやうな、時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかつた。天皇といふ絶対的媒体なしには、
詩と政治とは、完全な対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るしかなかつた。
みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の
民衆文化論の示唆するところとことなつて、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発してゐる。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
35名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:39:33 ID:aJ1vpxCj
そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、「幽玄」「花」「わび」「さび」などを
成立せしめたが、この独創的な新生な文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極、
古典主義の極致の秘庫が天皇なのであつた。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と
倫理的激発をたえずインスパイアするところに天皇の意義があり、この「没我の王制」が、時代時代のエゴイズムの
掣肘力であると同時に包容概念であつた。
天照大神はかくて、岩戸隠れによつて、美的倫理的批判を行ふが、権力によつて行ふのではない。速須佐之男の命の
美的倫理的逸脱は、このやうにして、天照大神の悲しみの自己否定の形で批判されるが、つひに神の宴の、
鳴滸業を演ずる天宇受売命に対する、文化の哄笑(もつとも卑俗なるもの)によつて融和せしめられる。
ここに日本文化の基本的な現象形態が語られてゐる。しかも、速須佐之男の命は、かつては黄泉の母を慕うて、
「青山を枯山なす泣き枯す」男神であつた。菊の笑ひと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されてゐた。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
36名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:41:44 ID:aJ1vpxCj
速須佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の
倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。
これこそは八咫(やこの)鏡の秘義に他ならない。文化のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の
中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、といふのが、
日本の文化の大綱である。それは永久に、卑俗をも包括しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の故郷であつた。
菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から
与へられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思はれるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、
軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
37名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 11:44:33 ID:aJ1vpxCj
(中略)時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認する
かもしれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、
今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として
利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、その運命は決つてゐる。
このやうな事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに
確実な防止策はない。もちろん、かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、
文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。
文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴエルト・アン・ジッヒ)だからであり、天皇が
否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。

三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
38名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:40:10 ID:/yXoDjFz
われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。
いかに暴力的表現をとろうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。
不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、
一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。
空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、
以て過半数を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者を圧迫し、社会の各分野へ
浸透して来たのがかれらの遣口である。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。
日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
39名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:40:31 ID:/yXoDjFz
(中略)
われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなはち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する
人間主義的社会主義といふ幻影を破砕するであらう。
この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どおりに行はれるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の
怖るべき本質をあらはすことは明らかだからである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
40名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:40:49 ID:/yXoDjFz
まづ言論闘争、経済闘争、政治闘争といふ方式はかれらの常套手段であり、「話し合ひ」の提示は、すでに
かれらの戦術にはまり込むことである。
(中略)
われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、日本の国土の水際ではなく、われわれ
一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。
千万人といへども我往かんとの気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、
挑発、をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
41名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:41:10 ID:/yXoDjFz
われわれは除外例や例外少数者の問題その他のなかに、人間性の真理を発見する立場をとつてゐる。
中共革命の過程では文化大革命がなかなか終熄を見なかつた間に、少数民族問題がガンをなしてゐることが
明らかになつた。ウィグル地方の少数民族地域は原爆実験地域としても戦略上重要な地域であるが、ここにおける
革命委員会の成立は最後まで危ぶまれてゐた。
異民族統治の経験のある大国では、少数民族の帰趨(きすう)が革命的要素になることが認識されてゐると同時に、
またその国自体が革命的な原理に成り立つ国である場合は、一転して反革命の危険を内在させた分子として
見られるのである。
反革命とは、人種上は少数民族の原理であり、人間性の上では閑却されがちな人間性の真実の救出の問題である。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
42名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:41:30 ID:/yXoDjFz
かつてプロレタリアは社会的疎外の代表であつた。戦争前には日本の経済政策の貧困から農村は疲弊し、
飢餓状態は蔓延し、人身売買は兵士の心を押へ毒してゐた。
しかし、戦後は工業化の進展にともなつて取り残された農村は、人工的な米価政策によつて救済された。のみならず、
貧困は解決され、労働者は革命や政治闘争よりも、経済闘争のはうがより有効であるやうな時代に生きてゐる。
(中略)
日本で行はれてゐる、体制対反体制、権力対反権力の論争は、お互ひに相手側の弱点をつかむ巧妙な論理を
発明してゐる。体制側は、いはゆる革命主体を自称する学生や、その他の人々に対して、お前たちは中共から
金を貰つてゐる、外国勢力から助けられてゐるといつでも揚言することができる。
これに対していはゆる革命勢力はみづからをナショナリストとして既定し、体制側を買辧勢力と規定し、かつ
自分たちに反対するオピニオン・リーダーを全て体制の代弁者ないし走狗と規定することができるやうになつた。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
43名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:43:56 ID:/yXoDjFz
彼らの論理はかうである。「もし、大学あるひは論壇あるひは文壇のやうな、マス・コミュニケーションのなかの
一つの小さな枠組の中では、たとへ反体制的言論が支配的であつても、そのなかにおける少数者の言論は実は
社会全体の体制的な感情へのおもねりにすぎない。すなはち一定の小集団のなかにおける少数意見は、集団外の
圧倒的な体制的言辞を背景としてそれを自分の後楯としてなされてゐるのだ」といふ主張である。
ここにおいて、さつき言つた社会的疎外と少数者の問題はパラドックスに当面する。すなはちわれわれは、
小さな閉鎖社会のなかで生きるときに、疎外者あるひは少数者になり、開放された社会のなかで生きるときは
体制側の代弁者となるといふやうに彼らから言はれるのである。
しかし、われわれの社会における生き方は、彼らの言ふほど単純なものではない。
彼らのいはゆる体制的権力側のオープン・ソサイエティといふものは、実は存在するかのごとくして存在せず、
われわれのまはりに茫漠としたアモルフな形をもつて漂つてゐる。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
44名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:44:16 ID:/yXoDjFz
大衆社会化は社会像のこのやうなアモルフ化アンフォルメル化に貢献した。十九世紀的国家形態が崩壊した現在は、
それにかはるべきゲゼルシャフトが強固な利益社会として屹立してゐるのではない。
われわれはそれぞれの小集団のなかでのみ自分たちの存在の原点を確保することができると感覚的に感ずる。
(中略)
その外側の社会は、膨大な無定見の社会構造を呈示してゐるのである。
すべてを唯物弁証法ないし社会主義的思考をもつて分析して、自己の小集団に波及するアモルフな社会の圧力を、
安保体制下の権力の波及した状況と解釈することは、一見実に簡単でわかりやすい。しかし、もしこのやうな
わかりやすい社会にわれわれが生きてきたと仮定するならば、疎外の問題も少数者集団の問題も、われわれと
社会の間のアンビバレンツの問題も起りやうがないのである。
つまりそのやうに、小集団と社会との間を論理的に直結させるといふ思考方法は、社会疎外から出発した
思考方法を自ら否定するものにほかならない。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
45名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 11:44:34 ID:/yXoDjFz
(中略)
ここには、戦後の社会の無限の責任遡及によつて、つひには責任の所在を融解させてしまふ「無責任の体系」の
影響が大いにあり、すべては社会がわるい、といふときに、人は自ら、社会のアモルフ化に手を貸してゐるのである。
彼らは最初、疎外をもつて出発したが、利用された疎外は小集団における多数者となり、小集団における
マジョリティを次々とつなげて連帯させることによつて、社会におけるマジョリティを確保し、そのマジョリティは
容易に暴力と行動に転換して現体制の転覆と破壊に到達するといふのは、革命のプランである。そして、
責任原理の喪失を逆用したそのやうな革命は現に着々と進行してゐる。
しかし、われわれ文化の側に立ち、人間の側に立つ人間は、疎外がそのやうな自己矛盾に陥つてゐるやうな
状況に対して、むしろ疎外や、少数者といふものを積極的に評価するところから出発しなければならない。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
46名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:52:50 ID:/yXoDjFz
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
47名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:53:13 ID:/yXoDjFz
日本の社会問題はかつてこのやうではなかつた。戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、
純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、
一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。
しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、
偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力から
その道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。
われわれは疎外を固執し、少数者集団の権利を固執するものである。それのみが、革命勢力に対して反革命の
立場に立ち得るし、彼らの多数を頼んだ集団行動の倫理的矛盾に対して、最も強い、先鋭な敵手たり得るからである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
48名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:53:33 ID:/yXoDjFz
人は疎外からみづから逃れたいといふ要求を持つてゐる。その要求の最もわかりやすいスローガンは
「自由」であるが、自由を与へられると、エーリッヒ・フロムではないが、再び自由から逃避しようとし、
逃避のメカニズムはオートマティックに進行するのである。そして、逃避のメカニズムがオートマティックに
進行するときに、疎外された少数者はいつしか多数の集団者となり、多数の集団者はマジョリティとなり権力を求め、
遂には少数者を蹂躙し、自分のよつてもつて立つところの存在理由を自己否定せざるを得なくなるのである。
その革命の経過こそ、われわれが最も見張らなければならぬものであり、われわれに彼らの原点の感情に対する
安価な同情を許さないところのものである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
49名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:53:53 ID:/yXoDjFz
反革命は、革命行動の単なる防止ではない。反革命は革命に対して、ただ単なる暴力否定をもつて立ち向ふ
ものではない。なぜなら、暴力否定は容易に国家否定に傾くからである。
反戦平和のスローガンが、ただちに暴力行動を意味するといふことを、三派全学連は新宿動乱で公衆の前に証明し、
それによつて公衆に、反戦平和といふ言葉の欺瞞を白日のもとにさらけ出すといふ大きな貢献を残した。
しかし、暴力は暴力自体が悪でもなく、善なのでもない。
それは暴力を規定する見地によつて善にもなり、悪にもなるのである。
彼らは国家権力を暴力装置と規定し、機動隊を階級敵と規定し、彼らの規定によつて権力自体は、すべて膨大な、
革命を抑圧してゐる暴力機構と考へられる。
(中略)
暴力否定が終局的に革命を支持するものであることを最もよく知つてゐるのは革命勢力、特に共産党なのである。
共産党は最後の革命に手段としての暴力を十分容認するが、その暴力が民衆の支持を得るまでは差し控へる、
といふことを知つてゐる。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
50名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:54:18 ID:/yXoDjFz
われわれはもし、暴力といふものを本質的、原理的に否定するときには、これに立ち向ふことは決してできない。
大学問題はあたかも革命全体のミニアチュアであるが、暴力に対するに理性をもつてした大学教授連の考へは
十九世紀的迷蒙に侵されてゐる。暴力と素手で立ち向ふことができないのは理性の特質であり、そしてまた
理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみづから確認できないといふことは暴力の特質である。
かくて、暴力と理性とは、お互ひにその正当性を奪ひ合ふ段階においてこそ同格であるが、暴力は一つの理性的
思想を背後に持つてゐると主張することによつて、すなはち理性だけよりも強く、相手を国家権力なる「暴力」と
つながつてゐるといふ論理へ追ひ込むことによつて、むりやり、自分の土俵へ相手を引きずり込む戦術に長けてゐる。
暴力否定が国家否定につながることは、実に見やすい論理である。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
51名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:58:37 ID:/yXoDjFz
われわれは絶対的暴力否定の抵抗思想としてガンジーの思想の如きを知つてゐるが、ガンジーは少なくとも
抵抗の思想である。日本の非暴力主義には、抵抗の思想は稀薄であり、エゴイズムのみが先行してゐる。
絶対平和主義は、自分たちの集団に対する攻撃をも甘んじて容認するといふことにおいて、少なくとも
集団に対する攻撃を容認しない、といふ原理に立つ国家の不可侵性を否定するものだからである。
国家は力なくしては国家たり得ない。国家は一つの国境の中において存立の基礎を持ち、その国境の確保と、
自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の不可侵性と、主権の不可侵性のために力を
保持せざるを得ないことは、最近のチェコの例を見ても明らかであらう。
もちろん十九世紀的な主権国家の幻はすでに崩れ、国際的な集団保障の時代が来て、国家概念は、社会主義共同体と、
自由諸国の国々とに別れ、ヨーロッパですら、将来のイメージとしては、共同体的な同盟国家よりも、さらに
強固なつながりを持つた国家形態を求めてはゐる。


三島由紀夫
「反革命宣言」より
52名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:58:58 ID:/yXoDjFz
しかしながら、現実に支配してゐるのは国家の原理であり、イデオロギーの終焉はまだ絵空事であつて、むしろ、
技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家は
このやうな自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみづからの手中にをさめるための口実として
使はれてゐるにすぎない。
まだ国際政治を支配してゐるのは、姑息な力の法則であつて、その法則の上では力を否定するものは、最終的に
みづから国家を否定するほかはないのである。平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる
自信喪失をねらつて、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図してゐる。そこで最終的に
彼らが意図するものは、国家としての日本の崩壊と、無力化と、そこに浸透して共産政権を樹立することに
ほかならない。そして共産政権が樹立されたときにはどのやうな国家がはじまるかは自明のことである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
53名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:59:24 ID:/yXoDjFz
(中略)
一般大衆は、革命政権の樹立が、自分たちの現在守つてゐる生活に、将来どのような時間をかけてどのように
波及してくるかについてほとんど知るところがない。彼らは、現在の目前の問題としては、いつもイデオロギーよりも
秩序を維持することを欲し、ことに経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に
浸み込んで、自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、といふ方向に
向つてゐる。そして、秩序自体の変質がどういふ変化を自分たちにおよぼすか、といふ未来図を彼らの心から
要求することは、ほとんど不可能である。人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合、たとへたつた一人の容共的な閣僚が入つても、もしこれが
警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首のすげかへを徐々に始め、
あるひは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであらう。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
54名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:59:52 ID:/yXoDjFz
(中略)
われわれ反革命の立場は、現在の時点における民衆の支持や理解をあてにすることはできない。予告し、先取りし、
そして、民衆の非難、怨嗟、罵倒をすら浴びながら、彼らの未来を守るほかはないのである。
さらに正確に言へば、われわれは彼らの未来を守るのではなく、彼らがなほ無自覚でありながら、実は彼らを
存在せしめてゐる根本のもの、すなはち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである。これこそは
前衛としての反革命であり、前衛としての反革命は世論、今や左も右も最もその顔色をうかがつてゐる世論の
支持によつて動くのではない。われわれは先見によつて動くのであり、あくまで少数者の原理によつて動くのである。
したがつて反革命は外面的には華々しいものになり得ないかもしれないが、革命状況を厳密に見張つて、もし
革命勢力と行政権とが直結しさうに時点をねらつて、その瞬間に打破粉砕するものでなければならない。このためには
民衆の支持をあてにすることはできないであらう。いかなる民衆の罵詈雑言も浴びる覚悟をしなければならない。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
55名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 23:00:13 ID:/yXoDjFz
(中略)
政府にすら期待してはならない。政府は、最後の場合には民衆に阿諛することしか考へないであらう。世論は
いつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には
大衆社会の持つてゐるその非人間性を否定しようとするのである。
では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。
われわれは天皇といふことをいふときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるといふやうな
時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考へる天皇とは、
いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のやうに、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、
このやうな全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するやうな勢力に対しては、われわれの日本の
文化伝統を賭けて闘はなければならないと信じてゐるからである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
56名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 23:01:54 ID:/yXoDjFz
われわれは、自民党を守るために闘ふのでもなければ、民主主義社会を守るために闘ふのでもない。もちろん、
われわれの考へる文化的天皇の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適であると
信ずるから、形としてはこのやうな民主主義政体を守るために行動するといふ形をとるだらうが、終局目標は
天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するやうな政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
57名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 11:42:01 ID:Z29ieGDF
…無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。
非武装(チェコは事実上非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえない
ことは明らかである。武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。

三島由紀夫
「自由と権力の状況」より
58名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 11:42:25 ID:Z29ieGDF
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなるからである。
そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と「非武装」とは
同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。

三島由紀夫
「自由と権力の状況」より
59名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/26(金) 11:11:44 ID:owY8Hute
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。

三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。

Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。

三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。

三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
60名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/26(金) 11:13:00 ID:owY8Hute
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?

三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。

三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より
61名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/26(金) 11:13:52 ID:owY8Hute
「いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。
だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)」

三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長 男の盟約」より
62名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 16:41:42 ID:rxOXsOmU
ヒロイズム願望人間。
天皇や武士を脳内美化、カルト気味。現実の天皇には批判的。(人間宣言など)
英雄死願望を持ち、結局、周囲に迷惑な死。
平和・民主主義・平凡を愛せない愚物。

三島の事件理由・・・クーデターを警察力で排除=治安出動による自衛隊合憲化の可能性が消失。
まともな政治活動で、憲法改正を訴えろって。

三島の自衛隊国軍化の目的・・・天皇を中心とした伝統を守る為
まず「国民を守る」だろボケ。戦前みたいに天皇守護に献身しよう、みたいな社会は糞。
「天皇を守る」が建前の皇軍が、島民を無惨に殺害した久米島などの例もあるんだよ。
たかが写真を守る為に、死んだ者も居るんだよ。

三島の天皇存在理由・・・近代化、工業化へのアンチテーゼ
下らないな、そんな存在の為に死ねるかよ。

武士ぶって皇国に魂を捧げたつもりの死?天皇万歳で死んで満足?
理念だけなら、労働者が絞られない社会万歳の方がマシだね。
もちろん欠陥が多々目立つ共産国には賛成しないが。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 17:27:13 ID:2PaCtqBj
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。
この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。
それ自体としては、別に非難すべきことではない。
しかしかうして知識人のConformity が極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆるConformity に疑問を抱いて、
むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。
一方、知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。
母親たちは子供に兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、
子供たちはぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より
64名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 17:27:43 ID:2PaCtqBj
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふのであらう。
しかし私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、
一つの概念を隠すために用いられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、
いやといふほど見てきた。あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。
文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前に述べたやうに、
私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。
これは日本文学のうち、優雅の伝統を特に私が愛するからであらう。
行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、尚武とサムライの伝統を
復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。
Self-justification は卑しい、といふサムラヒ的な考へが、私の中にはもともとひそんでゐた。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より
65名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 17:28:09 ID:2PaCtqBj
私は或る内面的な力に押されて、剣道をはじめた。もう十三年もつづけてゐる。
竹の刀を使ふこの武士の模擬行動から、言葉を介さずに、私は古い武士の魂のよみがへりを感じた。
経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた。
自分の信念を守るために命を賭けるといふ考へは、Old-fashioned になつてゐた。
思想は身の安全を保証してくれるお守りのやうなものになつてゐた。
(中略)
しかし私は、若者はギュムナシオーンとアゴラを半ばづつ往復しなければならぬと信ずる者であり、
学生ばかりでなく、あらゆる知識人がさうすべきだ、と考へる者だ。
言論を以て言論を守るとは、方法上の矛盾であり、思想を守るのは自らの肉体と武技を以てすべきだ、と考へる者だ。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より
66名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 17:28:37 ID:2PaCtqBj
かうして私は自然に、軍事学上の「間接侵略」といふ観念に到達したのである。
間接侵略とは、表面的には外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも
日本にとっては)日本といふ国のIdentify を犯さうとする者と、守らうとする者の戦ひだと解せられる。
しかもそれは複雑微妙な様相を持ち、時にはナショナリズムの仮面をかぶつた人民戦争を惹き起し、
正規軍に対する不正規軍の戦ひになる。
ところで日本では、十九世紀の近代化以来、不正規軍といふ考へが完全に消失し、正規軍思想が軍の主流を占め、
この伝統は戦後の自衛隊にまで及んでゐる。日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく、
あの第二次世界大戦に於てすら、国民義勇兵法案が議会を通過したのは降伏わづか二ヶ月前であつた。
日本人は不正規軍といふ二十世紀の新しい戦争形態に対して、ほとんど正規戦の戦術しか持たなかつた。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より
67名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:11:43 ID:V4fWzbEI
…私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を肯定することにはならないといふ立場に
立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の言葉なのである。
すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は戦争である」これが
毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理とちやうど反極に立つものである。
すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。私は戦後、平和主義の美名が
いつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理につながることをあやぶんできたが、
これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの理由である。

三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より
68名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:14:42 ID:V4fWzbEI
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の
肯定が国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の
理論的前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮
しないからである。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、
道義的源泉であるとすれば、その自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。

三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より
69名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:16:31 ID:V4fWzbEI
道義の問題を別としても、暴力に質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、
軍隊と警察の力のみを正義の力とみとめ、その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て
来るのである。
かくて毛沢東の論理は、結局、国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。

三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より
70名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:22:33 ID:V4fWzbEI
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と
馴れ合ひ、ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私は
ニューヨークで、トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。
私は自民党の生きる道は、真のリベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国に
おける共産党の生きる道は、すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。
真にナショナルなものとは何か。
それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも与(くみ)しないものだと思はれる。

三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
71名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:24:19 ID:V4fWzbEI
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。
権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも大切な秩序と、政治にとつて
もつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、われわれは「天皇」を持つて
ゐる。実は「天皇」しか持つてゐないのである。
中共の「文化」大革命に決定的に欠けてゐる要因はこれであり、かれらは高度な文化の母胎として必要な秩序を、
強引な権力主義的な政治的秩序で代行するといふ、方法上の誤りを犯した。
文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを犯す心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、
共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的にかかはらうとする姿勢において、すでに文化を殺してゐる。

三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
72名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:29:18 ID:V4fWzbEI
(中略)最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人
としてのナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、
殺人の責任は直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。

三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
73名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/02(金) 23:30:27 ID:V4fWzbEI
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の殺人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。
第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの
群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらう
からである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。
しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとはさういふ意味である。

三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より
74名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/03(土) 03:36:06 ID:bcfGG05h
ってかもっと今できる世界平和について考えろ
ウズベキスタンという小国では日々大量の人間が投獄されている・・・
無論恐怖政治のせいだ。その中には無罪な人もたくさんいるのだよ
75名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:17:56 ID:0Xsjy0zL
芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。
芸道は正にそこに成立する。
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも「死」と同じ
虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」
「本当に命を賭けた行為ではない」といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、
ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して
到達することのできない境地である。「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる
大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを
表現しうるだけである。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
76名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:18:42 ID:0Xsjy0zL
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が
大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、
心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の
質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた「私小説」のやうな例もあるが、
ここではそれに言及する遑(いとま)はない)

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
77名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:19:43 ID:0Xsjy0zL
(中略)芸道には、本来「決死的」などといふことはありえない。
…ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きて
ゐなければ成就されない道だからである。「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、
余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、
現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、
武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
78名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:21:04 ID:0Xsjy0zL
(中略)
武士道とは何であらう?
私はものごとに「道」がつくときは、すでに「死」の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは
死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代では
なくて、すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。
真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構へと、死を前にした
人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の
権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した
戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに
自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
79名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:24:18 ID:0Xsjy0zL
私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した
二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の「私の昭和史」の次のやうな一節を読むがいい。
天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、
つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。
「『(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、
そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ』」
この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことが
できるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
80名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:28:24 ID:0Xsjy0zL
さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、
「葉隠」の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃く
のこつてゐた。
このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の飯を喰ひ、
死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。
飛躍するやうだが、旧憲法の統帥大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと
思はれるのである。
史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統帥大権を
握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムは
そのやうに経過したとしても、統帥大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に
直属せしめるところにあつたと思はれる。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
81名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 23:29:46 ID:0Xsjy0zL
二・二六事件の悲劇は、統師大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の
権力のために死ぬことができるであらうか?
早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
82名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/09(金) 11:59:24 ID:YkmiXQLM
昭和維新の歌  映画 『2・26』 より

http://www.youtube.com/watch?v=xtQNFqmGucM&hl
83名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/14(水) 00:50:10 ID:YIdXQTbw
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。
このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児のやうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を
十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと思つてゐる。
安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
84名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/14(水) 00:51:46 ID:YIdXQTbw
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。
精神といふと、またいつもの精神主義かといはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の
「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が
大政治家として権力を握らなければ役立たない。そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが
「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
85名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/14(水) 00:53:20 ID:YIdXQTbw
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のこと
など考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。
さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのでは
ないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、
自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
86名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/14(水) 00:55:17 ID:YIdXQTbw
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。
左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの
大きな力で状況を変へていく、といふのが基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、
左翼は一般にさうですね。
ところがわれわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた
状況から、初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、
さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにも
ならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
87名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 22:39:09 ID:WyPAcGQA
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。(中略)
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。
世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。

三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より
88名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 23:54:29 ID:0GCRjdmB
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。
精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、失はれた完全な
理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある「古代の完全性」への郷愁である、と。
精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにもかけはなれてしまひ、
社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。
ここから人間を取りもどすには、ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。

三島由紀夫「きたへる――その意義」より
89名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 23:55:27 ID:0GCRjdmB
苦しい思ひをしなければならぬ。
人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりしてゐるやうにはできてゐない。
鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて使ひものにならなくなる。
精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。
これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。
若いうちに、つらいことに耐へた経験を持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。
軍隊のやうな強制のない現在、一人一人の自発的な意志が、一人一人の未来を決定するにちがひない。

三島由紀夫「きたへる――その意義」より
90名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 23:58:58 ID:0GCRjdmB
端的只今の一念より外はこれなく候
一念々々と重ねて一生なり(葉隠)

新年に想ふのは「葉隠」の一章。
マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気をもちたい。
一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから……

三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
91名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/23(金) 00:00:06 ID:8iNL8rES
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。
なぜ多数を恃むのか。自分一人に自信がないからではないのか。
「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。
その少数の一人一人が、「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。
たつた一人孤立しても、切り抜けて行けなければならない。

三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より
92名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 00:05:19 ID:p6sRdhSm
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀(辰雄)さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。
私は小説と肉体との関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は
非常な胃弱でした。当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて
逆立ちして、しばらく我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして
私は、自分の身体を鍛へ直さうと思つたわけです。
(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
93名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 00:07:01 ID:p6sRdhSm
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまで
ズルズル入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうに
そそのかしてゐる。多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識が
ある人間に技術を与へて小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、
フィルターで濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かに
ひつかからないで出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。

三島由紀夫「日本とは何か」より
94名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 00:09:19 ID:p6sRdhSm
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄は
どうしても旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。
堀さんの小説の世界といふものは、完全に限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な
胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはりこの方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、
川端さんがストライキの小説を書いたといふものはひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり
肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
95名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 00:12:07 ID:p6sRdhSm
(中略)
日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へてゐるんだ
といふ神秘的な共感を感じるんです。(中略)
私はやはり、安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。(中略)来年の六月の安保は
自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、表面上のかたちは
安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、安保賛成か反対かといふことは、
本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
…私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成
といふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。

三島由紀夫「日本とは何か」より
96名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 00:14:36 ID:p6sRdhSm
私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ
鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、
アナーキストも出てくるでありませうし、われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。
しかし、われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないかと思ふんです。
(中略)
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
…かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」――さういふ
二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、
あるひは行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐる
わけであります。

三島由紀夫「日本とは何か」より
97名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 23:41:04 ID:Lajumq/A
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。
その滅亡は、一つの信仰の死である。
この死を前に、戦死者たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも
「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。
ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。

三島由紀夫「一読者として(吉田満著 戦艦大和ノ最期)」より
98名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/30(金) 23:18:09 ID:oEEfFVzM
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、
東南アジアと日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。

三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。
もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でも
すこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。
もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。

三島由紀夫「インドの印象」より
99名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/30(金) 23:18:57 ID:oEEfFVzM
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。

三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、
事実とイリュージョンとの合金です。
「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件があるでせう。
海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。
幻想をくだくには幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。

Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?

三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。

三島由紀夫「インドの印象」より
100名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/01(土) 07:54:39 ID:4IKR1Eav
西諸島に自衛隊配備=防衛相が検討表明、対中国で

 インド訪問中の北沢俊美防衛相は30日午後(日本時間同日夜)、日本周辺海域での
中国海軍の活動活発化を受け、沖縄県の南西諸島への自衛隊部隊の配備を検討する
考えを表明した。2011年度予算概算要求に調査費を計上するとしている。
ニューデリー市内のホテルで同行記者団に語った。

 また、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関連し、沖縄のさらなる
負担軽減策として、沖縄本島東側の訓練区域の一部解除や、鳥島、久米島の
両射爆撃場の返還などを、今後の対米交渉の中で求めていく方針を示した。 

 北沢氏は「水撃とか、射爆場とか、ロードマップに載っていない沖縄の懸案事項がある。
鳩山由紀夫首相は、そういうものもひっくるめて沖縄のために(交渉を)やろうと思っている」
と述べた。(2010/04/30-21:43)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010043001142
101名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/06(木) 23:52:45 ID:7s3jvExc
或る有名な左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で
人気を得てゐたが、新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど
暴虐でなかつた。軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、
他ならぬ彼の学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
102名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 00:52:25 ID:KSfRtWrB
今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐる

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
103名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 00:52:48 ID:KSfRtWrB
不退転の決意とは何か?すなはち、国民自らが一朝あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を
守る決意であり、自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
104名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/17(月) 15:46:39 ID:/ptARv7b
おおおおおおおおおおおお
105名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:41:48 ID:ZL36928h
われわれ楯の会は自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に
報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや
隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知った。
ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を
呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に
出たのは何故であるか。たとへ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

三島由紀夫「檄」より
106名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:42:42 ID:ZL36928h
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。
しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の
法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を
なして来ているのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。

三島由紀夫「檄」より
107名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:43:31 ID:ZL36928h
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。
われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。
自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によつて、
自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる
責務はない、と信じた。

三島由紀夫「檄」より
108名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:44:24 ID:ZL36928h
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに
自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。
憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の
前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の
本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」
ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍(なが)ら
訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

三島由紀夫「檄」より
109名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:48:15 ID:ZL36928h
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な
警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。
その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の
反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。
治安出動は不要になつた。政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、
国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしやぶらせ
つづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、
実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は
気づかない筈はない。そこで、ふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。

三島由紀夫「檄」より
110名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:49:16 ID:ZL36928h
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来
二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は
政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の
可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた
自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が
残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、
決然起ち上がるのが男であり武士である。

三島由紀夫「檄」より
111名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:49:58 ID:ZL36928h
われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な
命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを
正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に
与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。
シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、
軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に
操られ、党利党略に利用されることではない。

三島由紀夫「檄」より
112名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:50:37 ID:ZL36928h
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。
武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。
繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる
核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、
抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。

三島由紀夫「檄」より
113名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 14:51:12 ID:ZL36928h
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、
共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、
この挙に出たのである。

三島由紀夫「檄」より
114名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/27(木) 06:59:57 ID:+R6DIQ/1
三島先生は素晴らしいよ
115名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/13(日) 14:53:20 ID:Y/JFaF51
国体は日本民族日本文化のアイデンティティーを意味し、政権交替に左右されない恒久性をその本質とする。
政体は、この国体維持といふ国家目的民族目的に最適の手段として、国民によつて選ばれるが、政体自体は
国家目的追求の手段であつて、それ自体、自己目的的なものではない。
民主主義とは、継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない。
これがわれわれの思考の基本的な立場である。
旧憲法は国体と法体系の間の相互の投影を完璧にしたが、現憲法は、これを明らかにしてゐないことは
前述の通りである。
けだし、国体の語を広義に解釈すれば、現憲法は二種の国体、二つの忠誠対象を、分裂させて持つてをり、
且つ国民の忠誠対象をこの二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐるからである。

三島由紀夫「問題提起」より
116名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/13(日) 14:54:36 ID:Y/JFaF51
国体は本来、歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に
成立するものであるが、革命政権における国体とは、いふまでもなく、このやうなものではない。
革命政権における国体は、未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の
理想主義をその本質とするであらう。
ところが、奇妙なことに現行憲法は、この相反する二種の国体概念を、(おそらく国論分裂による日本弱体化
といふ政治的企図を含みつつ)、並記してゐるのである。
これが憲法第一章と第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである。
…第九条についてはあとで詳述するが、国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した
この九条において、正に同一の条項が、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の
基盤をなしたのであつた。

三島由紀夫「問題提起」より
117名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/13(日) 14:55:39 ID:Y/JFaF51
(中略)国体と政体の別を明らかにし、本と末の別を立て、国にとつて犯すべからざる恒久不変の本質と、
盛衰を常とする政体との癒着を剥離することこそ、国の最大の要請でなければならない。
そのためには、憲法上、第一章と第二章とが到底民族的自立の見地から融和すべからざるものであり、
この民族性の理念と似而非国際主義の理念との対立矛盾が、エモーショナルな国民の目前に、はつきり
露呈されることが何よりも緊要である。
このことは、グロテスクな誇張を敢てすれば、侵略戦争の宣戦布告をする天皇と、絶対非武装平和の
国際協調主義との、対立矛盾を明示せよ、といふのではない。むしろその反対である。
もし現憲法の部分的改正によつて、第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌になり、
自立はさらに失はれ、日本の歴史・伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。

三島由紀夫「問題提起」より
118名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/13(日) 15:00:03 ID:Y/JFaF51
われわれは、第一章、第二章の対立矛盾に目を向け、この対立矛盾を解消することによつて、日本の国防上の
権利(第二章)を、民族目的(第一章)に限局させようと努め、その上で真の自立の平和主義を、はじめて
追求しうるのである。
従つて、第一章の国体明示の改正なしに、第二章のみの改正に手をつけることは、国家百年の大計を誤る
ものであり、第一章改正と第二章改正は、あくまで相互のバランスの上にあることを忘れてはならない。
さて、何故に第一章の「国体」は、国民の忠誠対象として衰退したか?
それはあくまで教育と政策の結果である。(中略)
「忠誠」だけは有難迷惑な贈物であり、これを拒絶する装置も隠密周到に作られた。
しかし忠誠を拒絶することは、自ら国体たることを否定する態度に他ならないから、やむなく大衆は無際限に
その忠誠をうけ入れてくれる第九条のはうを現時の国体と考へるにいたつたのも無理はない。
尤もこれらの皇室政策が、天皇御自身の御意向に添うたものである、と私は言はうとしてゐるのではない。
事勿れ主義の官僚群が作つたものであることは明らかである。

三島由紀夫「問題提起」より
119名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/13(日) 15:01:49 ID:Y/JFaF51
もしかりに、一定妥協して、不十分ながら第一章が日本の「国」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、
第二章は明らかに、国家超克の人類的理想について述べてゐる。
第一章が「国のため」といふ理念を一応掲げてゐると仮定しても、第二章が掲げてゐるのは「人類のため」
といふ理念である。国民の側から云へば、国家意志の不明確である。
これらの茫獏たる規定から演繹される国家最高の理念とは、人命尊重のヒューマニズムに尽き、平時はそれで
よいが、ひとたび危機に際会すると、一九七〇年春のハイジャック事件のやうに、韓国、北鮮がそれぞれ明白に
国家意志を表明したのに、ひとり日本は、人命尊重のヒューマニズム以上のものを表明することができず、
しかもこのヒューマニズムには存分に偽善が塗り込められるといふ醜態をさらしたのであつた。

三島由紀夫「問題提起」より
120名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 14:43:23 ID:Vlt9vDOv
――さて、逐条的に現憲法の批判に入ると、
第一条(天皇の地位・国民主権)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条(皇位の継承)皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、
これを継承する。
とあるが、第一条と第二条の間には明らかな論理的矛盾がある。
すなはち第一条には、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるが、第二条には、
「皇位は、世襲のものであつて」とあり、もし「地位」と「皇位」を同じものとすれば、
「主権の存する日本国民の総意に基く」筈のものが、「世襲される」といふのは可笑しい。
世襲は生物学的条件以外の条件なき継承であり、「国民の総意に基く」も「基かぬ」もないのである。

三島由紀夫「問題提起」より
121名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 14:44:29 ID:Vlt9vDOv
又、もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の
総意とみとめるときは、「世襲」の語との矛盾は大部分除かれるけれども、個人の自由意志を超越した
そのやうな意志に主権が存するならば、それはそもそも近代個人主義の上に成立つ民主主義と矛盾するであらう。
又、もし、「地位」と「皇位」を同じものとせず、「地位」は国民の総意に基づくが、「皇位」は世襲だと
するならば、「象徴としての地位」と「皇位」とを別の概念とせねばならぬ。
それならば、世襲の「皇位」についた新らしい天皇は、即位のたびに、主権者たる「国民の総意」の査察を受けて、
その都度、「象徴としての地位」を認められるか否か、再検討されなければならぬ。
しかもその再検討は、そもそも天皇制自体の再検討と等しいから、ここで新天皇が「象徴としての地位」を
否定されれば、必然的に第二条の「世襲」は無意味になる。
いはば天皇家は、お花の師匠や能役者の家と同格になる危険に、たえずさらされてゐることになる。

三島由紀夫「問題提起」より
122名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 14:45:24 ID:Vlt9vDOv
私は非常識を承知しつつ、この矛盾の招来する論理的結果を描いてみせたのであるが、このやうな矛盾は明らかに、
第一条に於て、天皇といふ、超個人的、伝統的、歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保証者たる機能を、
「国民主権」といふ、個人的、非伝統的、非歴史的、空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。
これは、「一君万民」といふごとき古い伝承観念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を
接着させ、移入の、はるか後世の制度によつて、根生の、昔からの制度を正当化しようとした、方法的誤謬から
生れたものである。
それは、キリスト教に基づいた西欧の自然法理念を以て、日本の伝来の自然法を裁いたものであり、
もつと端的に言へば、西欧の神を以て日本の神を裁き、まつろはせた条項であつた。

三島由紀夫「問題提起」より
123名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 14:46:05 ID:Vlt9vDOv
われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する権利を有する。
天皇制を単なる慣習法と見るか、そこに日本的自然法を見るかについては、議論の分れるところであらう。
英国のやうに慣習法の強い国が、自然法理念の圧力に抗して、憲法を不文のままに置き、慣習法の運用によつて、
同等の法的効果と法的救済を実現してゆくが如き手続は、日本では望みがたいが、すべてをフランス革命の
理念とピューリタニズムの使命感で割り切つて、巨大な抽象的な国家体制を作り上げたアメリカの法秩序が、
日本の風土にもつとも不適合であることは言ふ俟たない。
現代はふしぎな時代で、信教の自由が先進諸国の共通の表看板になりながら、十八世紀以来の西欧人文主義の
諸理念は、各国の基本法にのしかかり、これを制圧して、これに対する自由を許してゐないのである。

三島由紀夫「問題提起」より
124名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 14:47:02 ID:Vlt9vDOv
われわれがもしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念のコンフォーミティーから
だけは自由でありえない、といふことがあらうか?
又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、習俗、伝習、
文化、歴史、宗教などの民族的固有性から、それほど自由でありうるのだらうか?
それは又、明治憲法の発祥に戻つて、東洋と西洋との対立融合の最大の難問に、ふたたび真剣にぶつかることであるが、
敗戦の衝撃は、一国の基本法を定めるのに、この最大の難問をやすやすと乗り超えさせ、しらぬ間に、日本を、
そのもつとも本質的なアイデンティティーを喪はせる方向へ、追ひやつて来たのではなかつたか?
天皇の問題は、かくて憲法改正のもつとも重要な論点であつて、何人もこれを看過して、改憲を語ることはできない。

三島由紀夫「問題提起」より
125名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:48:14 ID:WZ61HY/b
これについて幾多の問題点が考へられる。天皇のいはゆる「人間宣言」は至当であつたか?
新憲法によれば、「儀式を行ふこと」(第七条第十項)とニュートラルな表現で「国事行為」に辛うじて
のこされてゐるが、歴史・伝統・文化の連続性と、国の永遠性を祈念し保障する象徴行為である祭祀が、
なほ天皇のもつとも重要な仕事であり、存在理由であるのに、国事行為としての「儀式」は、神道の祭祀を
意味せぬものと解され、祭祀は天皇家の個人的行事になり、国と切り離されてゐる。
しかし天皇が「神聖」と完全に手を切つた世俗的君主であるならば、いかにして「象徴」となりえよう。
「象徴」が現時点における日本国民および日本国のみにかかはり、日本の時間的連続性と関はりがないならば、
大統領で十分であつて、大統領とは世襲の一点においてことなり、世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる
天皇は、正にその時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。

三島由紀夫「問題提起」より
126名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:49:54 ID:WZ61HY/b
天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において、現実所与の変転する
政治的責任を免かれてゐればこそ、保障されるのである。
これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると考へなければ
論理的でない。なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。
そのやうな天皇が、一般人同様の名誉毀損の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的詐術であつて、
「栄典授与」(第七条第七項)の源泉に対する国自体の自己冒涜である。

三島由紀夫「問題提起」より
127名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:51:07 ID:WZ61HY/b
「神聖不可侵」の規定の復活は、おのづから第二十条「信仰の自由」の規定から、神道の除外例を要求するだらう。
キリスト教文化をしか知らぬ西欧人は、この唯一神教の宗教的非寛容の先入主を以てしか、他の宗教を
見ることができず、英国国教のイングランド教会の例を以て日本の国家神道を類推し、のみならずあらゆる
侵略主義の宗教的根拠を国家神道に妄想し、神道の非宗教的な特色性、その習俗純化の機能等を無視し、
はなはだ非宗教的な神道を中心にした日本のシンクレティスム(諸神混淆)を理解しなかつた。
敗戦国の宗教問題にまで、無智な大斧を揮つて、その文化的伝統の根本を絶たうとした占領軍の政治的意図は、
今や明らかであるのに、日本人はこの重要な魂の問題を放置して来たのである。
天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ、といふのが私の考へである。

三島由紀夫「問題提起」より
128名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:52:34 ID:WZ61HY/b
一方、旧憲法の天皇大権は大幅に制約されて然るべく、天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならないが、
第二章への遠慮によつて、天皇の栄典授与の国事行為ですら、文官に対してのみ公然となされてゐる不均衡
不自然は、九条の変更によつて、直ちに改められるであらう。
但し、事軍事に関しては、旧憲法の「統帥権独立」規定の惨憺たる結果を見るにつけ、決して天皇にその
最終指揮権を帰属せしむべきではない。

三島由紀夫「問題提起」より
129名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:54:26 ID:WZ61HY/b
…第九条第二項の「前提の目的を達するため」を、「前提の目的を達するために限り」と強ひて限定的に解し、
国際紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄するために限り、戦力を保持しないが、それ以外の自衛の
目的のためには保持しうるとして、自衛隊の法的根拠とするすこぶる苦しい法解釈である。
これが通常の日本文の語訳として奇怪きはまるものであることはいふまでもない。
ありていに言つて、第九条は敗戦国日本の戦勝国に対する詫証文であり、この詫証文の成立が、日本側の
自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない。
ただこの条文が、二重三重の念押しをからめた誓約の性質を帯びるものであり、国家としての存立を危ふくする
立場に自らを置くものであることは明らかである。
論理的に解すれば、第九条に於ては、自衛権も明白に放棄されてをり、いかなる形においての戦力の保有も
ゆるされず、自衛の戦ひにも交戦権を有しないのである。
全く物理的に日本は丸腰でなければならぬのである。

三島由紀夫「問題提起」より
130名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 14:15:50 ID:yDrLEmM7
ああぁ、三島さんは
すばらすぃ〜よぉ
しんじゃったけどさぁ〜
131名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:05:54 ID:NkA5TWrS
(中略)
第九条のそのままの字句通りの遵奉は、「国家として死ぬ」以外にはない。しかし死ぬわけには行かないから、
しやにむに、緊急避難の理論によつて正当化を企て、御用学者を動員して、牽強附会の説を立てたのである。
自衛隊は明らかに違憲である。しかもその創設は、新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の
変化による要請に基づくものである。(中略)
護憲のナショナリスティックな正当化は、あくまで第九条の固執により、片やアメリカのアジア軍事戦略体制に
乗りすぎないやうに身をつつしみ、片や諸外国の猜疑と非難を外らさうといふ、消極弥縫策にすぎず、
国内的には、片や「何もかもアメリカの言ひなりにはならぬぞ」といふナショナリスティックな抵抗を装ひ、
片や「平和愛好」の国民の偸安におもねり、大衆社会状況に迎合することなのである。
しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大し、兵器体系を改良し、
もつとも厄介な核兵器問題への逢着を無限に延させるために、平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に
進んでゆくことである。

三島由紀夫「問題提起」より
132名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:06:57 ID:NkA5TWrS
…核と自主防衛、国軍の設立と兵役義務、その他の政策上の各種の難問題は、九条の裏面に錯綜してゐる。
しかしここでは、私は徴兵制度復活には反対であることだけを言明しておかう。
(中略)
私は九条の改憲を決して独立にそれ自体として考へてはならぬ、第一章「天皇」の問題と、第二十条
「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考へなくては、折角「憲法改正」を推進しても、却つて
アメリカの思ふ壷におちいり、日本が独立国家として、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬ、と再々力説した。
たとへ憲法九条を改正して、安保条約を双務条約に書き変へても、それで日本が独立国としての体面を
回復したことにはならぬ。韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終ることは明らかであり、
これらの国家は、アメリカと軍事的双務条約を締結してゐるのである。

三島由紀夫「問題提起」より
133名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:07:34 ID:NkA5TWrS
第九条の改廃については、改憲論者にもいくつかの意見がある。
「第九条第一項の字句は、そもそも不戦条約以来の理想条項であり、これを残しても自衛のための戦力の保持は
十分可能である。しかし第二項は、明らかに、自衛隊の放棄を意味するから削除すべきである」
といふ意見に、私はやや賛成であるが、そのためには、第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として
挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含してゐるといふのは、
不公平不調和を免かれぬ。
その結果、わが憲法は、国際社会への対他的ジェスチュアを本質とし、国の歴史・伝統・文化の自主性の表明を
二次的副次的なものとするといふ、敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう。
むしろ第九条全部を削除するに如くはない。

三島由紀夫「問題提起」より
134名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:08:32 ID:NkA5TWrS
その代りに、日本国軍の創立を謳ひ、健軍の本義を憲法に明記して、次の如く規定するべきである。
「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の
信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」
防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。
物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることが
できないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、
外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を
守るものではないことは、赤化したカンボジア摂政政治をくつがへして、共和制を目ざす軍事政権を打ち樹てる
といふことも敢てするのを見ても自明である。

三島由紀夫「問題提起」より
135名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:10:19 ID:NkA5TWrS
自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。
現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が
孕まれてゐることが銘記されねばならない。
憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。
なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、
徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。
自衛隊は、警察予備隊から発足して、未だその警察的側面を色濃く残してをり、警察との次元の差を、装備の
物理的な次元の差にしか見出すことができない。
国家の矜りを持つことなくして、いかにして軍隊が軍隊たりえようか。
この悲しむべき混迷を残したものが、すべて第九条、特にその第二項にあることは明らかであるから、
われわれはここに論議の凡てを集中しなければならない。

三島由紀夫「問題提起」より
136名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 23:34:27 ID:ty94X2J1
「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。
先生(三島由紀夫)は、その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。
思想的な評論など出していましたからね。
例えば、『対話・日本人論』とか、思想的な評論関係の著作を出していましたから。
文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。
小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。
…あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大ってどんどん広がって
いったわけです。当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。
想像できないでしょうが、そうだったんです。で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。
今見れば漫画みたいになっちゃうかもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に危機的に感じていました。
そういう時代風潮を押さえて見ないと、あの頃の行動というのはわからないんですよ。
今の、この社会状況から見てたんじゃ」
持丸博(元楯の会初代学生長)

鈴木亜繪美「火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
137名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 23:34:53 ID:ty94X2J1
「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。
ああ、俺の考えは世の中に合わないのかな、と思ったよ。
…学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。
肉体的には負けないけど、論争して負けたくないから理論武装したいと思った。
先生(三島由紀夫)の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。
根ほり葉ほり訊いたね。先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、
時間を守る、威張らないし、そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。
礼儀正しさとか非常に親切心があるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」
仲山徳隆(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
138名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 00:21:29 ID:UNbij4K4
私はあらゆる国家は固有の自衛権を持つてゐるといふ考へから自衛隊を合憲と見る人々の主張に
反対してゐない。しかし、本来民主国家の国民的権利に属する国防の問題を義務化することには
反対といふ観点から徴兵制度には賛成でない。若者にとつて団体生活が必要だといふ私の考へは、
徴兵反対となんら矛盾しないのである。いまの青年に自制心とか規律とかが欠けてゐるのは
事実だから。(中略)
私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しい
バランスを設定することなのである。

三島由紀夫「青年と国防」より
139名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 00:22:14 ID:UNbij4K4
私が望んでゐるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあひだの
正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)
私が一番疑問に思ふのは、万一いま大戦争が起つたら自衛隊全部がアメリカの指揮下に
はひるのではないかといふ危惧です。この問題については、隊内のいろんな人たちとも
話合ひました。
私の考へはかうです。政府がなすべきもつとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、
安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、
日本の自衛権の独立的な価値を、はつきりわけてPRすることである。たとへば
安保条約下においても、どういふときには集団保障体制のなかにはひる、どういふときには
自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかといふ“限界”をはつきりさせることです。

三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
140名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/14(土) 23:46:28 ID:ih8a17i0
自主独立の問題一つとつても、戦前の「自主独立」の日本が、軍縮会議以来、いや三国干渉以来、
絶えず列強の干渉によつて軍縮に対するチェックを受け、それによつて国内世論が、
沸騰してきたことを考へると、日本のやうな地理的要衡の、一定の経済力と一定の軍事力しか
持ちえない小国が、条約下にあらうがあるまいが、国際同盟の参加国であらうがあるまいが、
外力の影響によつて左右されるのは宿命的だと思はなければならない。


抵抗とは遊戯ではない。完全無防備の抵抗といふものがもしありうるならば、その最有力な例を
とり上げて指摘するならともかく、それが成功するかしないかの時点で、それを無防備的抵抗の
良きお手本とすることは、それ自体が国家を否定し、民族の自立を否定する思想であると
言はなければならない。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より
141名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/15(日) 16:06:37 ID:i/nx3+vk
なんだガチホモスレか
142名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/16(月) 12:47:35 ID:cNirHCQR
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての
天皇もあり得ない、(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。
すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな神人分離の時代からその二重性格を
帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、現実所与の
存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像
といふものは歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに
否定しても、そこにまた現在のやうな現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残る
といふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと私は考へる。そして現在
われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張して
ゐるのである。

三島由紀夫「砂漠の住人たちへの論理的弔辞」より
143名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/16(月) 12:47:56 ID:cNirHCQR
私は必ずしも栄誉大権の復活によつて「政治的天皇」が復活するとは信じません。
問題は実に簡単なことで、現在の天皇も保持してをられる文官への栄誉授与権を武官へも
横辷りさせるだけのことであり、又、自衛隊法の細則に規定されてゐるとほり、天皇は
儀仗を受けられるのが当然でありながら、一部宮内官僚の配慮によつて、それすら
忌避されてゐるのを正道に戻すだけのことではありませんか。


いはゆるシヴィリアン・コントロールとは政府が軍事に対して財布の紐を締めるといふだけの
本旨にすぎないが、私は日本古来の姿は、文化(天皇)を以て軍事に栄誉を与へつつ
これをコントロールすることであると考へます。

三島由紀夫「橋川文三への公開状」より
144名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/22(日) 18:24:58 ID:ff2E3Khw
三島由紀夫御大をとやかく言うわけじゃないけど
楯の会を中途半端なままで終らせてしまったのはチョット頷けない今日此の頃です。
まだまだイケたんじゃないかと思うのに……
145名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 23:53:41 ID:FeIyGcWd
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに
幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて
散るこそ花と 吹く小夜嵐

三島由紀夫 辞世の句

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の
思ひを知るは 野分のみかは

森田必勝 辞世の句


火と燃ゆる 大和心を はるかなる
大みこころの 見そなはすまで

小賀正義


雲をらび しら雪さやぐ 富士の根の
歌の心ぞ もののふの道

小川正洋


獅子となり 虎となりても 国のため
ますらをぶりも 神のまにまに

古賀浩靖
146名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/29(日) 23:23:30 ID:CjJV9cTD
「三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。
じっと見られた大きな目がキラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。
(中略)
体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。
薬を飲まされ、隊舎のベッドで横になっていると、三島先生がいらしたんです。
ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。『幾つになった』と訊かれ、『十八です』と答えると、
『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、行けるか?』と。先生のあの声は忘れられないですよ」
田村司(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
147名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/29(日) 23:23:58 ID:CjJV9cTD
「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時はバリケードがあって
機動隊が出てましたよ。早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。
圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が主流でした。
でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。
それでいろんなものを読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。
そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。
自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。
それと規律で全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの
規制の中で人間がどうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです」
佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
148名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/29(日) 23:24:26 ID:CjJV9cTD
「三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。
思想的束縛がありませんでした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。
僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。
僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。
非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、水晶のような、
そんな印象でした。森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。
そういう意味で翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」
佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
149名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:32:08 ID:gFcnF7YG
「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを出されて
いました。こういうのは、これから面白いなと思った。
つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を担うという構想を出されていた。
アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけがそのような民兵組織がなかった。
自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、ああいう考え方は非常に新鮮でした。
今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。あの時、三島先生は
『銃の重さを知ることが非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。よく記憶しています。
国を守るということは、銃の重さを身体で感じることなんだと、理屈ではないんだと。全くその通りだなと思いました。
ほとんどの話は忘れてしまったけれど、これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
150名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:34:26 ID:gFcnF7YG
「森田とは同じ年だった。ある時、先生が俺をからかって、
『森田には命預けますっていう学生がいっぱいいるんだよ』と言ったんだ。そうしたら、森田は顔を真っ赤にして、
『いやあ、僕の命は先生に』って言った。
僕は自分の日記に書いても先生に直接そんなふうに言ったことないよ」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
151名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:35:29 ID:gFcnF7YG
「高校一年の時に、文化大革命が起きて、新聞は『文化大革命』礼賛一色ですよ。
『毛沢東万歳!』ってすごかった。ものすごい理想国家のように持ち上げていた。
ところが、新聞にちっちゃく記事があって、大陸から香港に逃げてフカに食われて死んじゃう人が
何百人もいるのを目撃したって。そんな素晴らしい国ならなんで亡命して逃げて来るんだ。
変じゃないかって、子供心に思っていたわけです。
…右でも左でもなかった。ところが、昭和四十五年一月頃、早大キャンパスに確か『三島由紀夫と
自衛隊に体験入隊しよう』というタテ看板を見て、俺が求めていたものはこれだと、決心。
楯の会という意識はなかった。自衛隊に行くことが主で入会はついでだった。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
152名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:36:02 ID:gFcnF7YG
「そのあと、サロン・ド・クレールで三島先生に会いました。非常にさっぱりした感じだった。
どんな本を読んでいるかと訊かれて、大江健三郎と。
その時、先生は大江健三郎の絶版になった本の話をしたんだよ。『政治少年死す』ていうやつを。
読んでないから答えられなかったんだよね。先生は、なんでこんなヤツが来たんだみたいな顔して、
森田さんの方を見た。森田さんは『いやいや、なかなか元気がいいですから』と言ってくれました。
森田さんの一言で、私は救われたようなもんです。
そうでなければ、こんな軟弱な学生が入れるわけないじゃないですか。
森田さんて人は、知れば知る程素晴らしい人でしたね。快活という言葉、一言。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
153名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:41:34 ID:gFcnF7YG
「三島由紀夫先生と楯の会のことは、田舎にいる時は全然知らなかった。興味もなかったし。
父親が靖国会をやっていて、その関係で森田必勝さんに会ったんです。
確か、森田さんが橘孝三郎(祖父)のことを知って、靖国会の事務所を訪ねて来たんです。
その後、私も紹介されました。親父は森田さんのことをこう言ってました。
『森田必勝という、なかなかいい男が俺を訪ねて来たぞ。凄く気骨のある人間だ。凄くいい青年だぞ』って。
くりくりっとした坊主頭の人で、本当にね、少年みたいにね、本当に裏のない人でした。
森田さんは兄と同じ二十年生まれ、ずっと兄のように思っていました。
(中略)
西新宿のルノアールで、三島先生にお会いしました。ほとんど何も言えなかったけどね。
『橘先生、お元気ですか?』と、祖父の橘孝三郎のことを訊かれたことを覚えています」
塙徹二(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
154名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:42:00 ID:gFcnF7YG
「私は、正式な会員じゃないんです。
もともと大学が早稲田だったから、楯の会のことはよく知っていたんですよ。
でも、その当時は入ろうという意識はなかったですね。
…国学院の友人に、三島先生に心酔しているものがいて、仲間と一緒に先生に会いに行くことになったんです。
それにも、たまたま行かなかった。
友人は、念願の先生にお会いして、頭の中が真っ白になって
『先生は、いつ死ぬんですか?』と訊いたそうですよ。
先生は、『わっはっはっ』と大笑いされて、『まあ、お茶でも飲め』と、紅茶をご馳走になった。
何も聞けなかったけど、気さくな人だったと。夏の暑い日だった。
社交辞令だろうけど、募集してるから、また来い、ともおっしゃってくれたそうです」
須賀清(元楯の会幻の六期生)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
155名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:42:32 ID:gFcnF7YG
「森田必勝とは同じ二十五歳だった。当時、森田たち十二社のメンバーはすぐにテロだとか言っていた。
できるわけねえじゃないかこいつら、と思っていた。
でも、事件が終わってから、森田の見方が変わった。あの男に対する見方は変わったよ。
先生に対しては変わらない。もともと凄いなと思っていたからね。
…何かの折に触れ思い出すと、『あいつは凄かったな』と思う。
要するに、腹を切る切らないの前に、あの状況に立てるかどうか考えた。
それから介錯して、短刀を取って……。あの状況に立った古賀、小賀、小川、森田は凄いと思う。
三期で一緒だった牧野隆彦が、先生が亡くなった四十五歳を越えた時、『先生に、すまない』と言った。
そして、翌年四十六歳、くも膜下出血で死んでしまった。その時は、ショックだったね」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
156名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:44:08 ID:gFcnF7YG
「フルコガ君(古賀浩靖)とは事件後、品川だったか、電車の中で偶然会ったことがあります。
その時、彼は『すみませんでした』と言ったので、僕は『そんなことないよ。君がそんなことを思うことは
サラサラないね』と答えた記憶があります。
先生は、残すべき人間は残したんだと思いますよ。おそらく。
だから、残った人間は、重い荷物を背負っているんですよ。
私以外に、楯の会の会員で二人、自衛隊で定年を迎えた人がいます。
彼らと違うのは、私は事件が起きる前に自衛隊に入隊していたことです。
二人は事件が起きたあとに入ったから。まあ、どちらが大変という比較は難しいですが、それぞれ
大変だったと思いますね。ずっとマークもされてましたから。
多分、三人とも定年までマークされていたと思います。
…事件当日に市ヶ谷で斬られた人と会ったこともあります。
腕を斬られて、背中を何針か縫った人を知っています。でも、三島先生のことを悪く言う人はいません。
先生の心情はわかるということを、随分言われました」
イニシャルK、元明治大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
157名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:49:49 ID:gFcnF7YG
「たぶん、先生は最初一人で死ぬつもりだった。森田さんも死ぬ覚悟を決めていたんですよ。
『森田の精神を恢弘せよ』とは、その森田さんの純粋な行為、行動、信条を後の人に伝えろというのが
あるのだと思います」
佐原文東(元楯の会会員)

「三島先生という存在自体は亡くなられても、文学者としての三島由紀夫、社会的な立場にある人としての
三島由紀夫は残ると思います。しかし、森田についてはおそらく何も残らない。
森田について言いたいことは政治的な森田。日本には『自決』という政治的表現があるんです。
諭したい相手がダメだと思ったら、自らの命を捧げて訴えるという政治的な表現法です。
行動主義の森田だったから、西洋的にしゃべり尽して相手に伝える事をせず、『自決』という行動で、
『日本の真の姿を見よ』と訴えたかったんだろうと思います」
伊藤好雄(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
158名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:54:37 ID:gFcnF7YG
「先生はもうそれなりに著名で確立されている方です。でも、森田さんは無名でした。三島先生は、ものすごく
森田さんの身の上を案じ、今後、森田さんの精神がそのまま埋もれてしまうことに対して危機感があったんだと
思います。僕の進んできた道を――商社に入ってずっと普通に生活してきたことを、申し訳ないという気持ちが
あります。(中略)
僕は、大学で中国語を学び、中国という共産主義の国が隣にあって、日本がどう思われているのか、最近の
反日の運動を見るにつけ、その前から中国はずっと日本に対して辛く当たっていることを経験してきました。
みなさんは日本の中で日本を見てきたと思うけれど、僕は中国というフィルターを通して日本を見てきたんです。
預言者としての三島由紀夫というのは、ものすごく的確だと思います。今の日本の政治はぶれている。外交上、
中国にしてやられています。そういういたたまれない状況にあるだけに、非常に的確に予言していたな、
と思います。それだけに、三島先生や森田さんのやった行動が余計光ってくると思います。一条の光というか、
僕は、やがてもっともっと輝いてくると思ってます」
古屋明(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
159名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:58:56 ID:gFcnF7YG
「僕が、どうしてしゃべる気になったかというと、結局、あの事件は、『三島由紀夫』だけが
前面に出ているから。
だから、世間の評価というのは、いわゆる作家が起こした結末だというのがほとんどでしょ。
もし、三島先生一人だけだったら、僕はそれは認めるわ。だけど、森田さんが一緒だった。
まるで森田さんなんて、さしみのツマみたいなもんや。
だから、僕はそれが我慢できへんかった。ずっと、今でも、そう思う。
三島先生は、もの凄い追い詰められたと思うの、森田さんに。本当に。
もし森田さんがいなかったら、三島先生、絶対せえへんよ。ああいうことは。思い切れなかったと思う。
違った形でしたかもしれへんけど。自分で腹切って死ぬことはあったかわからへんけどね。
ああいうことはしなかったと思う。うん、すべて森田さんの影響よ、あれは。
森田さんの言動でもわかっていたし」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
160名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 10:59:34 ID:gFcnF7YG
「…森田さんは『自分でテロするなら、必ず自分の命を絶たなきゃいけない。
生き残ったらいけないんだぞ。
そんなヤツいるか?今の日本で、自分の命を賭けてもいい奴がいるか?』そう言った。
森田さんは、その時、もう覚悟できてたし、三島先生について行ったらいいと、
自分の命を捨てる覚悟だったんやろうね。
三島先生は、すべて規定済みやった。たぶん野次で、自分の声がかき消されるのもわかってた。
それを上回るようなマイク使ったら、値打ちもない。演説と違うんだから。やっぱし、最後は肉声よ。
明治維新から百年たって、高杉晋作や坂本竜馬がどうだったか、今では我々もわかる。
五十年、百年たって、わかる人がわかればいいのよ。
当時、二十歳前後だった我々は、他のみんながこれからどうして生きようという学生時代に、
どうして死のうか考えてた。それだけの覚悟をしてしまった。
それは、森田さんも、我々も一緒だった」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
161名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 11:00:01 ID:gFcnF7YG
「三島先生と一緒に行動を起こし、残った三人のうちの二人古賀浩靖と小賀正義は、自分が楯の会に誘ったんです。
警察に留置されている二人のことをずっと考えました。
(中略)
フルコガ(古賀)とチビコガ(小賀)が出てくるまでは、東京にいるのが義務だと思いました。
彼らが出てきたので、その年の秋、秋田に帰ることになりました。
お金がなかったので、トラックをレンタルして、運転手を古賀と友人が手伝ってくれました。
一日かかって秋田に着き、夜に三人で酒を飲みました。その時、古賀に訊いたんです。
『古賀(ヒロヤン)、ひとつだけ訊きたいことがある、いいか?』
『何だ?』
『十一月二十五日、あすこの現場を出る時、投降して捕まって出る時、どういう気持だったんだ?』
今考えると、バカな質問をしてしまった。自分でさえ頭がまっ白になったのに、彼らがその時のことを
言葉に表現できるはずかない……。気付かなかった」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
162名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 11:00:51 ID:gFcnF7YG
「なかなか答えてくれないから、『あの事件は、何があなたに残ったんだ?』と訊いた。
すると、古賀は、カウンターの上で、ゆっくり右の手のひらをただ上に向け、何かを持つようにした。
古賀はその手をじっと見つめたまま、一言もなかった……。
それが何を意味しているのか理解したのは、一ヶ月か二ヶ月たってからだった。もう声も出なかった。
それは、三島先生と森田さんの、首の重さ……。それを知った時、ふーっと血の気の引くような衝撃に襲われた。
あの人が首を落とし、安置した。古賀だけが首の重さを知っている……。
彼らに事件のことを訊いたのはそれだけ。あとはもう訊けない。
今でも時々会うが、一切そういう話はしない。失礼に当たると思っています。
(中略)
あの行動を凌駕する言葉とか文章、表現はない。
それを残された会員みんな、漠然と確実に持ってしまっているんです」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
163名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 11:01:29 ID:gFcnF7YG
「拘置所にいる時、記録として残しておこうと思った。
日記のような形にしようと思って、それを看守に言ったら、あかんと言われた。
ノートは手に入ったので、洗面所にあった釘で書いた。結局、検閲で見つかって没収されてしまった。
三島先生は、日本は文化概念として天皇陛下がいらっしゃると言われてきた。
『我々の一番の根幹は、天皇を守るか守らないか。これから稲を植えて収穫するのは、
天皇家しかやらないんじゃないか、そういう未来が来るよ、工業化のあげくに……』
先生はずっとそう言っていた。
森田さんに対して…忸怩たるものがある…何もできていない…。
しかし、僕をはじめ、みんなも表に出なくていいと思う。本来埋もれていくべきだと思う」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
164名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 11:02:55 ID:gFcnF7YG
「森田さんのことを語り合うのは価値があるが、自分たちのことを話すのは間違っていると思う。
先生は偉大な人だから、それは置いて、我々は埋もれていげばいい。埋もれなければならない。
活動したことは価値あることで、先生が『楯の会』という、今までにない団体で行動したのは、
時代に夢があったからだと思う。今後とも出て来ないだろうし、価値があった。
でも、我々が、楯の会の会員だったということを口にするのは、違うと思う。
森田さん自身、そんなに言ってほしくないと思っているのではないか…。
僕は黙って死んで行く…という人だから。
…『森田の精神を後世に恢弘せよ』とは、三島先生と森田さんの、感性を持てということだと思う。
先生があそこまでできたのだから、僕もできるだろうと。それがずっとある…。
自分はそれだけのことをやっている自信はある」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
165名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 14:38:20 ID:gFcnF7YG
革命には神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も
激しい内的衝動は、同時に現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と
同居してゐるのである。


遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、
信頼する部下に裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようと
することの、ほとんど楯の両面である。なぜならその革命の理想像を現実が絶えず
裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の裏切りの一つの態様に
すぎないからである。革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に
身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の信頼と繋りといふものの夢からは、覚めて
ゐなければならないからである。一方では、信頼と同志的結合に生きた人間は、論理的指導と
戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥ることをものともせず、銃を持つて
立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。

三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
166名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/08(水) 14:38:35 ID:gFcnF7YG
もし、どこかに覚めてゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、人間の最も
盲目的行動も行なはれないといふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。
その覚めてゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、
もし、世間全部が理性を没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、
これ以上はない確かな証明でしかないのである。

三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
167名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/09(木) 11:36:01 ID:twhGLZeu
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・
自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
168名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/09(木) 11:37:34 ID:twhGLZeu
(中略)
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、
批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、
政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ
思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながら
そこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
169名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/09(木) 11:38:57 ID:twhGLZeu
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的
盲信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
170名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/09(木) 11:41:36 ID:twhGLZeu
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
171名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 16:05:45 ID:hFjmqkBN
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、
バカに古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことは
ないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔色がすぐれなかつた。

三島由紀夫「現代青年論」より
172名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 16:09:45 ID:hFjmqkBN
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は
二・二六事件に欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い
道義性の実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、
強姦の罪を犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの
証左であつて、毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。

三島由紀夫「現代青年論」より
173名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 16:14:48 ID:hFjmqkBN
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が
残つてゐるだけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、
何ら高い道義性を感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の
源泉になるのである。

三島由紀夫「現代青年論」より
174名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 16:46:59 ID:DV5F45ib
いいねえ・・・・しみじみと読める
175名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 11:28:42 ID:pHKpAk19
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、
神州清潔の民はとてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を
解放区といふのであらう。

三島由紀夫「維新の若者」より
176名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 16:47:46 ID:pHKpAk19
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。
…それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。

三島由紀夫「二・二六事件と私」より
177名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 16:49:00 ID:pHKpAk19
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みよう
といふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の
「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の
根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは
文士たると否とを問はず、生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として
天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、
一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら
「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤が
わだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。

三島由紀夫「二・二六事件と私」より
178名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 16:52:33 ID:pHKpAk19
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふ
ところに、自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。
現在只今の政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」

三島由紀夫「二・二六事件について」より
179名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 16:53:57 ID:pHKpAk19
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつた
のである。そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の
底流は、ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を
含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを
言つてゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、
北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな
死にすぎなかつた。

三島由紀夫「二・二六事件について」より
180名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 16:55:01 ID:pHKpAk19
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。
又、世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。
政党政治は腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を
救はうとする大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。

三島由紀夫「二・二六事件について」より
181名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 16:56:18 ID:pHKpAk19
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、
正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。
もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そして
この錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握り
つぶされてゐたのだつた。二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、
宮城包囲を敢へてしなかつたことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、
左翼の革命理論から云へば、これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、
女子供を一人も殺さなかつた義軍の、もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、
二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後
二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。

三島由紀夫「二・二六事件について」より
182名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 11:18:30 ID:5ieMcNtD
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。

三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
183名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 11:19:46 ID:5ieMcNtD
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが判つて
ゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。

三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
184名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 11:20:49 ID:5ieMcNtD
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。

三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
185名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 11:22:14 ID:5ieMcNtD
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。

三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
186名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 11:23:44 ID:5ieMcNtD
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。

三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
187名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 01:19:06 ID:l6V3Ie83
三島という存在があったから、この日本の戦後60年というのが
かろうじて救われてる。
三島のいない戦後民主主義を考えるとぞっとする。
188名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 03:44:21 ID:m4c3gl+Y
三島は知れば知るほどちゃねらー好みの愛すべきキャラクターなんだよな。



それはそうと1よ、連投自重しる
189名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 00:24:36 ID:OjjP3BOr
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、
私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。

三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
190名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 00:24:43 ID:usmUb467
オレはこの連投のセンスがかなり効くw この時代に三島は効く
もっとやってくれ
191名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 00:25:54 ID:OjjP3BOr
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を
防止しなければ、第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。
十年もつといふ宣伝で買つた洗濯機が、三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で
押して来られたら一トたまりもない。
幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をしてゐられるから、平和がありがたい、
といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと同じである。

三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
192名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 00:27:05 ID:OjjP3BOr
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。
今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。
ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、
公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。

三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
193名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 00:28:13 ID:OjjP3BOr
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた
煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。
かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んで
ゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの権威を落すものであると考へる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。

三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
194名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 00:30:59 ID:OjjP3BOr
>>190
閲覧ありがとうございます。
195名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:01:02 ID:OjjP3BOr
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は
進歩してゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もう
スターリン批判以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の
西洋崇拝から言ふと少し外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の
理想から遠くなつてしまつた。近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的な
ラディカルな革命のやり方でやれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
196名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:02:14 ID:OjjP3BOr
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の
下に於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の
本当に実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
197名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:03:38 ID:OjjP3BOr
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。
(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは
来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が予測されない闇の中を進んでゆくためには、
その闇の彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに対決して本当に自分の現在に生きるか
といふことの二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
198名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:04:53 ID:OjjP3BOr
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、
私自身の考へから、経験から言へるのです。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
199名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:06:04 ID:OjjP3BOr
(中略)
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間の
ところで文化は完結してゐる。その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
200名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:10:28 ID:OjjP3BOr
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分である
といふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な
成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを
背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。
(中略)「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと
驚いたことがあるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
201名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:11:37 ID:OjjP3BOr
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができる
といふのは、人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
202名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:12:26 ID:q/mcwzaG
こちらへ誘導しましょうかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89%E7%99%BA%E9%9B%BB
これなら空母もイージスもステルスも蚊トンボですよ。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:13:26 ID:OjjP3BOr
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と
伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。
ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で後輩を、
又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると思ひます。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
204名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/16(木) 14:07:45 ID:ARjLloZE
前略
「蓮田善明とその死」感激と興奮を以て読み了へました。毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな
気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ
固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、
なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて
来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。
しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に
憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり
込んで行けたのでした。

三島由紀夫
昭和42年11月8日、小高根二郎への書簡より
205名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/16(木) 14:08:51 ID:ARjLloZE
「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の
青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分が
そのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。
氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを
託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかつた。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
206名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/16(木) 14:10:12 ID:ARjLloZE
(中略)
それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対して
あんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する
怒りだつた。
戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、
その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、
その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、
どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた
文化のために、憤りにかられてゐたのである。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
207名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 11:22:39 ID:y44wvl0Z
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞が
この青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。
かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、
かれらは何を隠さうとしたのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
208名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 11:25:19 ID:y44wvl0Z
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
209名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 11:28:24 ID:y44wvl0Z
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。(中略)あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、
武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、
百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、
一つの例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際
起つたもつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が
濃厚であり、このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
210名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 11:30:47 ID:y44wvl0Z
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の
歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。
そして日本の近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
211名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 11:35:23 ID:y44wvl0Z
私の四十年の歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、
戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。
そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が
起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した
事例であつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
212名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 11:39:19 ID:y44wvl0Z
それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、ヴィエトナムが
どこにあるかさへ知らなかつたのである。
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした
予感の中にあつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
213名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 01:10:54 ID:POr8oof1
昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、
時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に
携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれの
とるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に
抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、
支持を表明する者である。
われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、
ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、
すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。

三島由紀夫「文化大革命に関する声明」昭和42年3月1日
(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房)
214名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 12:11:37 ID:POr8oof1
「我が国旗」

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。それは鹿児島の大大名、天下に聞えた
島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の作文
215名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 12:14:08 ID:POr8oof1
「三笠・長門見学」

船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、
海迄だるさうだ。併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。
艦前に来て再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ! 此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。艦頭の国旗は、うすらな風に
ひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。
其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
216名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 12:15:05 ID:POr8oof1
「三笠・長門見学」

私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃
此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。艦の全体に
ペンキで戦痕が記されてある。こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、
天皇の御稜威のいたす所であらう。艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
クレーンや、色々の機械の動く音と、金槌の音が、あたりを震はせてゐる。「今造つて居る戦艦は、十一月に
進水式をするのです」と案内の人が言つた。あちらでは古い旗艦を保存してゐるのに、こちらでは新しい軍艦が
どんどん生れて来てゐる。一寸面白く思つた。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
217名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 12:16:25 ID:POr8oof1
「三笠・長門見学」

其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、
余りにその設備の新式なのに驚いた。艦上には四十糎(サンチ)の素晴らしい大砲がある。其の太い砲口から
大きな大きな砲弾が出たらどうであらうと思ひ乍ら、案内の人にともなはれて下へ行く、水兵さんの頭を
刈つて居る所、色々な室、何も彼も物珍らしく面白い。時間が無かつたので、ゆつくり見学することが出来ず
残念であつたが、記念撮影をして再びランチに帰つた。あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、
日本の海は安全なのであらう。ランチが着き菊丸まで歩いて、かうして今日の有益な見学を終つた。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
218名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 12:17:58 ID:POr8oof1
「分倍河原の話を聞いて」

私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、
うつさうとした森があつて、遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。白く細く見えるのは
鎌倉街道である。遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて其の代りに陣太鼓の音や
骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。其の時、足下の草の中から、
小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。益々空は青い。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
219名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 23:02:35 ID:POr8oof1
「支那に於ける我が軍隊」

七月八日――其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。懐来より大同へと
我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。我国としても出来得る限りは、事件不拡大を
旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、第二の日清戦争、否! 第二の世界大戦を
想像させるが如き戦ひに遭遇した。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
220名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 23:03:55 ID:POr8oof1
「支那に於ける我が軍隊」

飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、苦戦に苦戦を重ねて
居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。たとへ東京に百二十度の炎暑が
襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。浦塩(ウラジホ)には、
東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫! 世界は既に動揺してゐるのだ!
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
221名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 23:04:55 ID:POr8oof1
「菊花」

渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、自然と園芸家によつて
造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、自然の
造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、長い睫毛の下から無邪気な瞳を
覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、山の端に日が燃え切る頃、
大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も恐れずに微笑む時である。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
222名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:46:10 ID:A7rlFf3R
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。
真の同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその乳臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、
無意味にして有害でさへあるであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
223名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:46:48 ID:A7rlFf3R
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。
誤解してはならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を
生ずる時、既に道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ
強さを以て執拗に維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には
報いが落ちるであらう。即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より
卑怯に遁(のが)れんとする者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に
対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から
目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を
声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
224名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:47:16 ID:A7rlFf3R
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰(あた)かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に
謳歌したのである。沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。
我々は自らに憤り、又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで
持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほど
もちながら、自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。
我々は現在現存の刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。
もし我々に死が訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
225名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:47:43 ID:A7rlFf3R
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ
目賭(もくと)したのは「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握され
つゝあるが如く直感されたのである。危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも
招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含する
のである。意識内容はむしろネガティヴであり、意識なる作用そのものがポジティヴであると説明して
よからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日
正午、異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
226名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:48:09 ID:A7rlFf3R
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみが
いかに同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、
これによつて超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を
得るであらうと信ずる。人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ
忘れ果てて泣くのである。この刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の
極小に於て最高最大たりうることを。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
227名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:50:06 ID:A7rlFf3R
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。
「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも
即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心(おほみこころ)より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。
この刹那、わが国体は本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す
天皇御親政の世に還つたと拝察せられる。黎明(れいめい)はこゝにその最初の一閃を放つたのである。(中略)
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。
ますらをぶりは一旦内心に沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、
なよ竹のみさを持せんと力(つと)めることこそ、わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
228名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 15:58:47 ID:A7rlFf3R
○ 偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。
それ自身健康無礙(むげ)なる状態は存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。


○ 承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして
平和熱へと転換する為に、自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
229名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 16:05:24 ID:A7rlFf3R
○ デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。
併し真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の
群衆に存立の礎をもつやうに、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。
啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から偉大な古典的文学の創造力を
奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆を
おそれてゐる。
この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。

○ 日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
230名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 16:06:45 ID:A7rlFf3R
○ ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ
又取入れられ得たのであると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、
ナチスが禍(わざはひ)ありし如く、デモクラシイも禍あるものとなるであらうと思ふ。

○ 偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。

○ 芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。

○ 人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
231名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 16:10:19 ID:A7rlFf3R
○ 退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。
諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は健康な人間ではなかつた。
君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。
だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。
つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、もつとおそろしく
退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は
君らを愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。
――なつかしい「描かれる」一族よ。君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、
描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の作者となる義務があるだらう。
(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
232名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 16:11:20 ID:A7rlFf3R
○ 流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。

○ 神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは
注目すべき事実だ。

○ どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や
荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに辷(すべ)り出す、
さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや恵まれずとも怨まない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
233右翼ゲリラ:2010/09/21(火) 21:58:15 ID:EZL2lR/w
正しいこととは何一つ無い
何一つ無いことをすることが正義だ。
234名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 11:39:36 ID:0enQM22d
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルクの
港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、
威風堂々と入つて来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは
別に応答もなく、まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。これは実に単純な感情で、
とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、
それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な明るい心情が、
そこから光りを放つてゐるやうだつた。

三島由紀夫「日本人の誇り」より
235名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 11:40:00 ID:0enQM22d
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。私はひねくれ者のヘソ曲りで
あるし、私の心情は時折明るさから程遠い。それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くして
ゐるのである。これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなに
いつも「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。いくらインテリぶつたつて、
いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、結局、
いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ帰ることができるんだな、と考へる。

三島由紀夫「日本人の誇り」より
236名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 11:40:15 ID:0enQM22d
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。しかしそんなことは
どうでもよいことだ。私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいた
ところで、小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを
大切にする。人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する。
日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。

三島由紀夫「日本人の誇り」より
237名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 11:40:31 ID:0enQM22d
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の
特攻隊を誇りに思ふ。すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、
押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の
部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と
勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。

三島由紀夫「日本人の誇り」より
238名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 11:40:51 ID:0enQM22d
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と
同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、
理由のないことではない。だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。日本人がノイローゼに
かかりにくいことを誇りに思ふ。どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを
誇りに思ふ。そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。

三島由紀夫「日本人の誇り」より
239名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 10:31:30 ID:KXaRKgoz
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1221494175/
240名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 17:38:29 ID:Yz1b9Vky
端的只今の一念より外はこれなく候
一念々々と重ねて一生なり(葉隠)

新年に想ふのは「葉隠」の一章。マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気を
もちたい。一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから……

三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
241名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 17:49:49 ID:Yz1b9Vky
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。
精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、失はれた完全な
理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある「古代の完全性」への郷愁である、と。
精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにもかけはなれてしまひ、
社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。ここから人間を取りもどすには、
ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。

三島由紀夫「きたへる――その意義」より
242名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 17:51:08 ID:Yz1b9Vky
苦しい思ひをしなければならぬ。人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりしてゐるやうには
できてゐない。鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて使ひものにならなくなる。
精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。
これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。若いうちに、つらいことに耐へた経験を
持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。軍隊のやうな強制のない現在、一人一人の自発的な意志が、
一人一人の未来を決定するにちがひない。

三島由紀夫「きたへる――その意義」より
243名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 12:54:50 ID:lxyCg8TU
剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、
剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。それに
スピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには日本人の
闘争本能をうまく洗練させた一見美的なかたちがある。
西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりすると
ねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ
二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。

三島由紀夫「文武両道」より
244名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 12:55:07 ID:lxyCg8TU
さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃から
すこしも変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――
たとへば相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。これが
テニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。
だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく合はない格技はないでせう。たとへば、共産主義とか、あるひは
ほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまくくつつけようとしてもうまくくつつかない。共産党員で剣道を
やつてゐる者があるかも知れないが、その人は自分の中ですごい“ギャップ”を感じることでせう。
僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても
自分の思想との矛盾は感じない。

三島由紀夫「文武両道」より
245名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 12:55:22 ID:lxyCg8TU
戦後、インテリ層の中で、「これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……」
といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に「これから文武両道の時代だ……」
といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代が
きたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。
元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、
そのまはりにいろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。男は、いつも
バランスをとつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ考へからいけば、
いつも自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で文武両道といふ言葉を
もち出した)。さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。
実はそれが全人間的といふ姿の一つの理想である。

三島由紀夫「文武両道」より
246名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 12:55:38 ID:lxyCg8TU
その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま二・二六事件の将校のことを
研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。
末松太平といふ方の「私の昭和史」(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきの
かけ出しの作家などはちよつと足元にも及ばない。ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身に
つかなければ書けないものです。また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな
教養を身につけてゐた。
ところが大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。
そして大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。
近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものを
いつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。
最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。

三島由紀夫「文武両道」より
247名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 12:56:24 ID:lxyCg8TU
…しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。とかくいまは無理をする
といふことを一般に避けるやうになつてきてゐる。
そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。古いギリシャ人の
考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、一人一人の
人間の中の特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと押へる。
すべての面で、このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。
…このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から
生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重に
なれば体力だけがぐつと上がる。――これはバランスがくづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。
だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたもので
なければないといふわけです。

三島由紀夫「文武両道」より
248名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 17:09:17 ID:srwvE5x5
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら
威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、
航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。私がお茶漬ナショナリスト
といふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、
どうにも否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、
一方では文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きく
しないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言つたらどうだらうか?
比較を一切やめたらどうだらうか?

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
249名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 17:11:34 ID:srwvE5x5
(中略)
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、
衰亡してしまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を
名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
250名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 17:14:35 ID:srwvE5x5
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の
国際会議か何かで、三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューに
ひるがへつた。これは実に晴れがましい印象だつた。自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、
一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
251名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 17:17:58 ID:srwvE5x5
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、
日本人の感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな
心情を鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、
胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、さういふ
中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつき
ながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
252名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 15:28:21 ID:F0Jv5yMy
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、
さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として
抹殺するにいたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な
問題に触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。

三島由紀夫「一貫不惑」より
253名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 15:30:20 ID:F0Jv5yMy
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、
その点、思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。

三島由紀夫「一貫不惑」より
254名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 18:00:30 ID:cXBoZCw/
楯の会と血盟団よ
今こそよみがえれ!!
255名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 18:41:37 ID:VWoLVd2d
三島は、今の腑抜けのような日本を見るのが嫌で、自決したのかもな。
256名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 23:18:18 ID:+7cA+2XD
(大野)氏が、天皇に心をとらへられることを、単に十九世紀の制度の作つた新しい侵略主義的感情だといふならば、
階級が感情を作るといふこの古くさい退屈な理論は、尊皇思想のみの力が明治天皇制を形成したといふ唯心論の
裏返しにすぎない。制度が先か、国民感情が先か、といふ鶏と卵とどちらが先かといふやうな「論争」に
巻き込まれたくない点では、氏も私と同様であらう。
私が特に制度の問題を論ずるに当つて、歴史的「文化的」伝統との関聨を重んじ、このエトス=パトスに重点を
置くのは、文化とは非常に高度な洗練を成立条件としつつ、一方民族の根底的なエトス=パトスの原始性と
切り離されたとたんに、その生命力を失ふやうな繊細な花だといふ考へがあるからである。

三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
257名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 23:19:44 ID:+7cA+2XD
高度な宮廷文化(みやび)の保持者として機能しつつ、民族的原質とつねに相関はつてきたものこそ天皇であり、
それを措いて、他に日本民族の最終的なアイデンティフィケーションは不可能であると私は考へる。もちろん、
宮廷文化を除外した日本の歴史も書けるし、民衆文化史も書けるであらう。大野氏の云ふやうに「ええぢやないか」
騒動を中核に置いた民衆の歴史を書くことも可能であらう。しかし、大野氏のやうな考へは、文化から、
その最高の洗練と美と高貴を追ひ出さうとする一種の畸型の情熱に転化することが容易であり、あげくのはては、
毛沢東の、「百姓にわからない文化は文化でない」といふ考へ方や、江青女史の京劇改革の方向へ結びつき、
つひには文化芸術は、ガサツな政治宣伝の道具に使はれてしまふのである。すなはち大野氏は、最初の私の引用に
あるやうに、「革命的であればこそ他のあらゆるものに優越する」といふドグマを、一歩も出ない人だからである。

三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
258名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 14:52:31 ID:Su/qYiq0
Q――現代のビジネスマンに要望することは?
三島由紀夫:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。あれは
商人のお祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね、武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところ
ですよね(笑)。武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の
意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。
ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。今の商人といふのはさういふ気持が
ないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
259名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 14:54:20 ID:Su/qYiq0
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。どんな国の、いかにも民族資本でもね、
インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、
日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。自分らが企業体の中で活躍するとき、
いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、さういふものによつてをかされていくといふのは、
青年として耐へがたいだらうと思ふ。それでボクは武士は武士として一人でぐわんばつてゐる。ところがボクもね、
扶持をくれないから浪人なんですよ。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
260名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 14:55:52 ID:Su/qYiq0
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、
今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、
何をする、さういふことをしない人もゐますがね、当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、
公私混同みたいなところが。
とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。
戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して
ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、
かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
261名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 15:00:14 ID:Su/qYiq0
外人記者なんかに会ひますとね、日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。これは実はまちがひ
だつていふんです。
…といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを
外人に説明するとき、三つあるといふんです。
それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。
第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。
そしてね、軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility はある
かもしれない。Self-sacrifice は欠けてゐると。かうなつたらアウシュビッツの収容所長だつてさうなんで、
自尊心はもつてゐた、責任観念はもつてゐた、ただねSelf-sacrifice といふものは外国にはないから、
だからさういふことになるといふふうに説明するんですよ。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
262名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 15:06:26 ID:Su/qYiq0
ですから本当に日本人が武士道にめざめれば、あなたがたが心配することは何もない。身を殺して仁をなすことが
武士道の極意だと説明するんです。その場合、欠けてゐるものは武士道のみならず、ことに商人に欠けてゐる。
そして、とにかく口では国家の再建をとなへ、日本精神をとなへ、自分の金は一文も出すのはいやだ。十円の金も
惜しい、全部会社の伝票、そんな精神ぢやだめなんだといふことですね。
(中略)自主防衛といふのは自分が苦しい思ひをするといふことがだれもわかつてない、まづ自分が犠牲を
はらふといふことがまづない。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
263名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 20:52:59 ID:Z5zRaTJj
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。
…従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのではないか、と思ふのだが……。
三島由紀夫:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は
楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆に
アピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスを
やることだ、これが非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきや
できないのが本当である。内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。
共産党を内部批判すると英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判
した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
264名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 20:53:25 ID:Z5zRaTJj
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は
文化や伝統が規定すると思ふんです。(中略)
個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
なくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には
何もいへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
265名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 20:53:43 ID:Z5zRaTJj
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。(中略)会社の帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、
いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、あんなもの私的なもので、上役とのいさかひは
その場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
266名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 20:54:10 ID:Z5zRaTJj
Q――士道とは何か。
三島由紀夫:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかり
いつてゐるわけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、
かへつてよはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるの
かもわからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。
ストイックなのは損だと、だれもが考へてゐる。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
267名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 20:54:26 ID:Z5zRaTJj
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。
三島由紀夫:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人が
さうであればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
268名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 20:56:12 ID:Z5zRaTJj
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで
一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。
「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、
心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、
士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは
士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
269名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:21:03 ID:UyfJCfU+
戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を
叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に耽る者、勉学にはいそしむが
政治的無関心の殻にとぢこもる者、「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、
ほぼ三種類に分けられるにいたりました。(中略)
われわれは一九六〇年以後、言論活動による国の尊厳の回復の準備を進めて参ると共に、一九六五年にいたつて、
国防精神を国民自らの真剣な努力によつて振起する方法の研究に着手しました。(中略)…核兵器の進歩は
却つて通常兵器による局地戦(いはゆる代理戦争)の頻繁か発生を促し、これを戦ふ者も正規軍のみでなく、
ベトナム戦に見る如く人民戦争の様相を呈して来た以上、必ずしも高度に技術化された軍隊でなくとも、
通常兵器を以て国防に参与できる余地のあることが常識化されるにいたりました。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
270名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:22:43 ID:UyfJCfU+
そもそもわが自衛隊は、安保体制下集団安全保障の一翼を担つて、国防の任務に就いてをりますが、この任務のうち、
純然たる自主防衛の領域は、新安保条約によれば、
一、間接侵略に対する治安出勤
二、非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
の二領域であります。この二つのケースにおいては、自衛隊は、いかなる外国軍隊の力をも借りず自らの手で
国防を引受けるといふ重大な任務を負うてゐるのであります。(中略)
「間接侵略」の形態も亦、一様ではありません。革命の客観的条件の成熟と向うが認めた時点が何時であり、
そこへ向つて、いかなる一連の動きによつて「間接侵略」といふ内戦段階へ移行するかは予断を許さぬのみならず、
現に今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐると考へて
いいのです。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
271名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:24:19 ID:UyfJCfU+
これに応戦する立場も、単に自衛隊の武力ばかりでなく、千変万化の共産戦術に応じて、あるひは言論、あるひは
行動により、千変万化の対応の仕方を準備するのが賢明であります。そのための最後の拠り処は、外敵の
思想的侵略を受け容れぬ鞏固な国民精神であると共に、民族主義の仮面を巧妙にかぶつたインターナショナリズムに
だまされない知的見識であり、又、有事即応の不退転の決意でなければなりません。このやうな決意を持たぬ思想は、
怯懦に陥つて、いつか敵の術策に陥ることをなしとしないのであります。
不退転の決意とは何か? すなはち、国民自らが一朝事あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を守る決意であり、
自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
しかし、気魄だけでは実際の役に立たないので、武器の取扱にも周到な教育を要し、指揮統率の能力も、
又これに応ずる能力も、一定の訓練体験なしには、つひに画に描いた餅にすぎません。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
272名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:26:43 ID:UyfJCfU+
又、別方面から考へれば、何事も感覚的にしか理解しえない無関心層の青年に、国防精神を植ゑつけるには、
単なる思想指導や言論による教育では不十分で、実際に彼らに執銃体験を与へることによつて、彼らが
武器といふものの持つ意義も危険も知り、感覚を土台にして、より高い国防精神に覚醒する端緒をつかむといふ
ことも十分考へられるのであります。
ここに思ひ到つたわれわれは、諸外国の民兵制度を研究し、左記のやうな各種の資料を得ました。
(中略)
以上のやうに、民兵制度なるものを種々検討してみたわれわれは、平和憲法下の日本で、われわれ国民が
市民としての立場で国防に参与する方途は、ここにあると確信するにいたりました。民主国家国民としてあらゆる
自由と権利を享楽してきた日本人は、戦後、義務の観念を喪失したと云はれますが、実はまだ使つてゐない権利が
一つ残つてゐるのではないか、民主国家の国民としてのもつとも基本的な権利である、「国防に参与する権利」
だけは、まだ手つかずのままではないか、といふのがわれわれの発想のもとであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
273名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:28:49 ID:UyfJCfU+
民兵といふ言葉はみすぼらしく、魅力的でないので、われわれは祖国防衛隊といふ言葉を使ひます。(中略)
専門家の概算によると、長大な海岸線を持つわが国の国土防衛のためには、三五万から百万の陸上兵力を
必要としますが、(中略)…のこりの十七万は何とか国民の自主的な努力により確保せねばならぬのであります。
従つて祖国防衛隊は、大都市においては都市防衛、海浜地域においては沿岸警備、山間地域においては
対ゲリラ防衛を任務とすることになるでせう。又、出勤した正規軍師団の後方警備要員としても有効適切であります。
ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。
正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に
関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を
発見してゆかなければなりません。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
274名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:33:18 ID:UyfJCfU+
現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも
一兵卒として召集し、無理な一本化を急いで弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は
市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。
正規軍の増強と精鋭を望む議論としては正論でありますが、日本の現状から見るとき、徴兵制度の弊害の記憶が
ありありと残つてゐる国民感情から見ても、又、もし将来徴兵制度復活が実現されても、そのときはもはや
国論統一が成し遂げられた時点であり、国論統一が成就するや否やわからぬ過渡期の危機を収拾するには間に合はず、
前途のとほり、間接侵略の複雑微妙な進行過程において、徴兵制を強行すれば、軍自体の赤化の危険さへ
懸念されるのであります。その点からも、「思想堅固な者にのみ、武器をとらせる」方式を別途に考へなければ、
間接侵略に真に対処することは不可能なのであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
275名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:34:40 ID:UyfJCfU+
これらの考察ののち、われわれは一九六六年秋にいたつて、祖国防衛隊のもつとも基本的な原案を作製しました。
(中略)
概ね、右のとほりでありますが、無給である以上、隊員には強い国防意識と栄誉と自恃の念の養成が必要とされます。
又、まだ法制化を急ぐ段階ではありませんから、純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他はなく、
一方、一般公募にいたる準備段階に数年をかけ、少くとも百人の中核体を一種の民間将校団として暗々裡に
養成することが先決問題と考へられたのであります。(中略)
われわれはかくて自衛隊内部にも知己を得て、国防問題について真剣に論じ合ひました。われわれの知りたいことは、
市民軍の指導者たる幹部要員の教育に、必要最低限度、どれだけ訓練が必要とされるか、現行法制下でそれが
可能か、といふことでありました。そしてつひに、それが可能であるといふ成果を得たのであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
276名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:37:14 ID:UyfJCfU+
祖国防衛隊基本綱領(案)
祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を
守らんとする市民による戦士共同体である。
われら祖国防衛隊は、われらの矜りと名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を
破壊する一切の武力的脅威に対しては、剣を執つて立ち上がることを以て、その任務とする。

 隊 歌
強く正しく剛(たけ)くあれ
文武の道にいそしみて
正大の気の凝るところ
万朶(ばんだ)の花と咲き競ふ
日本男子の朝ぼらけ
われらは祖国防衛隊

若く凛々しく勇ましく
高根の雪に恥づるなき
市民の鑑(かがみ)武士の裔(すゑ)
祖国を犯す者あらば
かへりみはせじ楯の身を
われらは祖国防衛隊

清く明るく晴れやかに
憂憤深き夜は明けて
正気光りを発すれば
歩武堂々の靴跡に
敵影(てきえい)霜と消え失せん
われらは祖国防衛隊

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
277名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 18:28:52 ID:IDcS2Ie2
ただのきちがいおやじ  論ずる価値もない
アホか くだらん
278名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 20:34:50 ID:1Z7PDo8I
●三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼四十年祭「野分祭」●

11月24日(水)午後7時より
花園神社(新宿)

野分祭のあと、荒谷卓先生(至誠館館長)による記念講演
「神道と武士道の現代的意義」が行われます。

お問い合わせは「野分祭実行委員会」へ
TEL03(3364)2015
279名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 11:59:45 ID:j3j4ZbHP
現下の日本のもつとも重要な問題は、国家理念の確立と、青年に「大義とは何か」を体得せしめることであります。
多くの青年が、日本が犯される時は銃を執つて戦ふ覚悟を、口でこそ示しますが、その方途も、真の敵の所在も
明確につかんでゐないのが実情であります。
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
しかしこのやうな自覚も、強い思想的バック・ボーンなしには、たちまち足元から崩れ去るのが、今後の複雑な
政治状況であり、又、そのためには団体生活の訓練と、一定の基礎的な肉体訓練が必須であります。

三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
280名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 12:00:04 ID:j3j4ZbHP
このやうな青年によつてこそ、日本の安全保障と自主防衛の精神は、将来へ向つて輝やかしく保持され、
国の安全こそ企業の安全につながることが、国民全体によつて理解される糸口がひらけるのであります。
企業防衛イコール国土防衛の精神を確立するために、われわれは陸上自衛隊の協力を得て、従来の体験入隊より
一歩前進した、比較的長期間の組織的体験のプランを作製し、各企業体経営者各位の賛同を得て、J・N・Gの
横の組織を創り出したいと念ずるものであります。

 仮 案
一、中卒あるひは高校卒の青少年を、一定期間(十日乃至一ヶ月)当組織へお預りし、体験入隊をお世話し、
必要に応じて年一回、あるひは春秋二回といふ風に継続し、J・N・G隊員として、溌剌たる挺身的な模範社員を
各職場へお返しします。企業防衛を国土防衛の基盤として理解する、信念ある中堅社員育成のために、資する
ところ大なるものがあると信じます。(後略)

三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
281名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 11:14:32 ID:59URuObT
諸君は、去年の10・21からあと、諸君は去年の10・21から後だ、もはや憲法を守る軍隊になって
しまったんだよ。自衛隊が二十年間血と涙で待った憲法改正というものの機会はないんだ。もうそれは政治的
プログラムから外されたんだ。ついに外されたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の10・21から一年間、おれは自衛隊が怒るのを待った。もうこれで憲法改正のチャンスはない。
自衛隊が国軍になる日はない。健軍の本義はない。それを私は最も嘆いていたんだ。
自衛隊にとって健軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとは何だ。
日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。
おまえら聞け。聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。

三島由紀夫
自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説より
282名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 11:15:26 ID:59URuObT
それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものは
ないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本……アメリカからしか
来ないんだ。シビリアン・コントロールといって……シビリアン・コントロール……んだ。
シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法の下でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
そこでだ、おれは四年待ったんだよ。おれは四年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……四年待ったんだ、
……最後の三十分に……待ってるんだよ。

三島由紀夫
自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説より
283名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 11:16:35 ID:59URuObT
諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、
自分らを否定する憲法にペコペコするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだね。今の憲法は、政治的謀略で、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。
自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊に
なったのだということにどうして気がつかんのだ。どうしてそこに気がつかんのだ。どうしてそこに皆気がつかんのだ。
おれは諸君がそれを断つ日を待ちに待っていたんだ。……でもただ小さい根性ばっかりに惑わされて……、
ほんとうに日本のために立ち上がるときはないんだ。
…憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従うことしか知らないのか。
諸君の中に一人でもおれと一緒に立つやつはいないのか。

三島由紀夫
自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説より
284名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 12:18:40 ID:5KxHmLzz
この人の言ってる事は正論だよなまさにこの人の望んだ国防軍が今必要な時代になってるんだから
285名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 16:03:48 ID:ijxcMPdt
三島の危惧した通り日本は亡国まっしぐら
自主防衛を捨てた国が滅びゆくのは自明の理
人類と国家の歴史が証明している

286名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 18:56:35 ID:zWCtnAX4
>>284-285
三島が自害した成果というのがこれからの日本でヒシヒシと響いてくるでしょうね。
どんなに人々が自由だ、平和だ、憲法0条だということを叫ばれて国軍を否定しよう
とも、それが偽りであることを三島が身をもって示してしまったのだから。
287名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 11:03:52 ID:XAOl2mWg
「楯の会」を創設した私の考へは、中共文化大革命の経過やチェコ事件によつてますます強められましたが、
日本ではかつての軍閥の悪夢があまりに強く残つてゐるため、「銃をとる」などといつたら引つくり返らんばかり、
すべて受身にしか行動を考へられないのが、すでに敗北の姿勢だと思ひます。
フランスのレジスタンスの闘士も、文化をまもるために命がけで銃をとりましたが、そのためには当然平時から
訓練もいります。暴力に屈して自尊心を捨てた最近の大学の先生たちのまねだけはしたくないものです。
私たちの時代はたとへ間違つた先見を捨て切れなくても、せめて若い世代に、日本人としての誇りを最終的に
守る覚悟を植ゑつけたいと思ひはじめた「楯の会」の運動ですが、一方、徴兵制度と言論統制に対しては、終始
反対を表明してきた私の態度は、拙著「文化防衛論」にも明らかです。

三島由紀夫「『楯の会』批判の二氏に答へる」より
288名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:21:21 ID:xZvfkUYy
近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは
地を払ひ、詩の深化は顧みられない。すなはち、近松も西鶴も芭蕉もゐない。われわれの生きてゐる時代が
どういふ時代であるかは、本来謎に充ちた透徹である筈にもかかはらず、謎のない透明さとでもいふべきもので
透視されてゐる。
どうしてかういふことが起つたか、といふことが私の久しい疑問であつた。外延から説明する、工業化や
都市化現象から説明する、人間関係の断絶や疎外から説明する、あらゆる社会心理学的方法や、一方、
精神分析的方法にわれわれは飽きてゐる。それは殺人が起つたあとで、殺人者の生ひ立ちを研究するやうなものだ。
何かが絶たれてゐる。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があつたからだ。そして、このやうな
創造力の涸渇に対応して、一種の文化主義は世論を形成する重要な因子になつた。正に文化主義は世をおほうて
ゐる。それは、ベトベトした手で、あらゆる文化現象の裏側にはりついてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
289名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:22:30 ID:xZvfkUYy
文化主義とは一言を以てこれを覆へば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か
喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、
人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。
フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術は、いかに陰惨な題材を扱はうとも、その断片化
自体によつて救はれて、プラザの噴水になつてしまふ。全体的人間の悲惨は、フラグメントの加算からは
証明されないからである。われわれは単なるフラグメントだと思つてわれわれ自身に安心する。
悲惨も、いかなる悲惨であらうとも、断片の範囲を出ないからであり、脱出はわれわれの能力外のところではあるが、
立派にのこされてゐるからであり、われわれの不能に酔ふことと脱出に酔ふこととは一致してゐるからである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
290名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:23:50 ID:xZvfkUYy
日本文化とは何かといふ問題に対しては、終戦後は外務官僚や文化官僚の手によつてまことに的確な答が与へられた。
それは占領政策に従つて、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだつた。平和愛好国民の、華道や茶道の
心やさしい文化は、威嚇的でない、しかし大胆な模様化を敢てする建築文化は、日本文化を代表するものになつた。
そこには次のやうな、文化の水利政策がとられてゐた。すなはち、文化を生む生命の源泉とその連続性を、
種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じることだつた。
すなはち「菊と刀」の連環を絶ち切つて、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧する
ことだつた。占領政策初期にとられた歌舞伎の復讐のドラマの禁止や、チャンバラ映画の禁止は、この政策の
もつともプリミティヴな、直接的なあらはれである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
291名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:25:14 ID:xZvfkUYy
そのうちに占領政策はこれほどプリミティヴなものではなくなつた。禁止は解かれ、文化は尊重されたのである。
それは種々の政治的社会的変革の成功と時期を一にしてをり、文化の源泉へ退行する傾向は絶たれたと考へられた
からであらう。文化主義はこのときにはじまつた。すなはち、何ものも有害でありえなくなつたのである。
(中略)しかしこれはもともと、大正時代の教養主義に培はれたものの帰結であつた。日本文化は外国に対しては
日本の免罪符になり、国内に対しては平和的福祉価値と結合した。福祉価値と文化を短絡する思考は、大衆の
ヒューマニズムに基づく、見せかけの文化尊重主義の基盤になつた。
われわれが「文化を守る」といふときに想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との
二つである。その二つは融合され、安全に化合してゐる。その化合物がわれわれを悩ますが、しかし、文化に
対する、ものとしての、文化財としての、文化的遺産としての尊敬は、民主主義国、社会主義国(中共のやうな
極端な例外を除いて)を問はないのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
292名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:26:29 ID:xZvfkUYy
(中略)
(社会主義的文化政策は)文化の形式と内容は分離可能なもの考へられてをり、形式自体は無害であるから、
これに有用な内容を盛ることができるとされ、極端な場合は江青女史の京劇改革のごときものも可能になる
ところの理論的根拠がほの見えてゐる。
しかし、単にものとして残された安全な文化財については、レニングラード・バレエがソヴエトにとつて
有害でないやうに、歌舞伎も、能も、あらゆる伝統的日本文化も、一応有害ではないのである。それはむしろ
有益な観光資源であり、芸術院会員の歌舞伎俳優は、一転して、忽ち人民芸術家の称号を与へられるであらう。
(中略)アマチュアの創造する文化は、既成職業人の創造する文化よりも、はるかに規制しやすいといふ認識が
ここ(働くものが文化をつくる)には含まれてをり、社会主義国家が発表機関を独占すれば、ことさらな
言論統制を強行しなくても、一般アマチュアの発表慾と虚栄心に訴へかけて、それと引きかへに、内容を
規制することが容易なのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
293名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:29:46 ID:xZvfkUYy
しかし、社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言ふ
までもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明してゐる。(中略)
何らかの政治的規制が文化の衰弱を防ぐといふ口実をゆるすところが、文化自体の包含する矛盾であり、
文化と自由との間の永遠の矛盾である。(中略)
が、いはゆる自由陣営の文化主義と、社会主義国の安全な文化財に対する尊重とは、いづれも一見、伝統の
擁護と保持の外見をとるがゆゑに、もつとも握手しやすい部分であると思はれる。
いづれの立場からも文化は形成された〈もの〉として見られてゐる。その結果何が起るかについては、中世以来の
建築的精華に充ちたパリの破壊を免かれるために、これを敵の手に渡したペタンの行為によくあらはれてゐる。
(中略)国民精神を代償として、パリの保存を購つたのである。このことは明らかに国民精神に荒廃をもたらしたが、
それは目に見えぬ破壊であり、目に見える破壊に比べたら、はるかに恕しうるものだつた!

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
294名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 12:31:23 ID:xZvfkUYy
このやうな文化主義は、一度引つくりかへせば、中共文化大革命のやうな目に見えぬ革命精神の形成のために、
目に見える一切の文化を破壊する「逆の文化主義」「裏返しの文化主義」に通じるのであり、それは、ほとんど
一枚の銅貨の裏表である。私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
295名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 15:21:50 ID:knxw7mGU
だが、三島が死んで神か、あるいは神に近しい存在になった事で
日本は三島の死によって呼び止められ、そして呼び起こされる形で
新しい時代を築き始める。

もしかすると三島こそ日本の救世主だったのかもなあ。
296三島由紀夫:2010/11/06(土) 19:01:54 ID:A0StM4r+
>>295
俺の遺志を継いだ君たちの中からこそ、救世主が誕生するのだ。君こそ大和魂だ。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 20:30:51 ID:l9mIFzY3
>>296
今後の日本で、一体どういう人が出てくるのか非常に気になってくるところですね。
298名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 23:57:08 ID:mM0bjpxE
今の時代、これからの時代に三島由紀夫の遺志が生かされていくと思う。
299名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 00:38:14 ID:6+GheM7w
三島は松陰の魂を受け継ぎ、幼い国民に死をもって衝撃の記憶を植え付けてくれた
死して尚、魂は死なず、誇り高き秀でた魂に感謝してもしきれない。


300名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:42:31 ID:ynZYMcIC
第一に、文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の
無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、
いかに混濁した形をとらうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると
考へられ、従つて、いはゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する。文化とは、能の一つの型から、
月明の夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも
包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の
仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、
禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥(さ)す。
文学は、日本語の使用において、フォルムとしての日本文化を形成する重要な部分である。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
301名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:43:27 ID:ynZYMcIC
日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を
芸術作品化する特殊な伝統を持つてゐる。武道その他のマーシャル・アートが茶道や華道の、短い時間のあひだ
生起し継続し消失する作品形態と同様のジャンルに属してゐることは日本の特色である。武士道は、このやうな、
倫理の美化、あるひは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、
伝承のための手がかりをはじめから用意してゐるが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺戟するフォルム
なのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色であり、
一見もつとも自由なジャンルの如く見える近代小説においても、自然主義以来、そのときどきの、小説的フォルムの
形成に払はれた努力は、無意識ながら、思想形成に払はれた努力に数倍してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
302名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:44:24 ID:ynZYMcIC
第二に、日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。西欧ではものとしての文化は主として
石で作られてゐるが、日本のそれは木で作られてゐる。オリジナルの破壊は二度とよみがへらぬ最終的破壊であり、
ものとしての文化はここに廃絶するから、パリはそのやうにして敵に明け渡された。
(中略)
このもつとも端的な例を伊勢神宮の造営に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、
いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーに
オリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーに
たよらざるをえぬギリシア古典期の彫刻の負うてゐるハンディキャップと比べれば、伊勢神宮の式年造営の
文化概念のユニークさは明らかであらう。歌道における「本歌取り」の法則その他、この種の基本的文化概念は
今日なほわれわれの心の深所を占めてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
303名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:45:51 ID:ynZYMcIC
このやうな文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)と
オリジナルとコピーの関係にはないところの天皇制の特質と見合つてゐるが、これについては後に詳述する。
第三に、かくして創り出される日本文化は、創り出す主体の側からいへば、自由な創造的主体であつて、型の
伝承自体、この源泉的な創造的主体の活動を振起するものである。これが、作品だけではなく、行為と生命を
包含した文化概念の根底にあるもので、国民的な自由な創造的主体といふ源泉との間がどこかで絶たれれば、
文化的な涸渇が起るのは当然であつて、文化の生命の連続性(その全的な容認)といふ本質は、弁証法的発展
乃至進歩の概念とは矛盾する。なぜならその創造主体は、歴史的条件の制約をのりこえて、時に身をひそめ、
時に激発して(偶然にのこされた作品の羅列による文化史ではなくて)、国民精神の一貫した統一的な文化史を
形成する筈だからである。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
304名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 23:54:14 ID:ynZYMcIC
日本人にとつての日本文化は次のやうな三つの特質を有することになるが、これはフランス人にとつての
フランス文化も、同種の特質を有すると考へてよからう。すなはち国民文化の再帰性と全体性と主体性である。
真のギリシア人のゐないギリシアに残された廃墟は、ギリシア人にとつては、そこから自己の主体へ再帰する
何ものもない美の完結した〈もの〉であつて、ギリシアの廃墟からの文化の生命の連続性を感じうるのは、
むしろヨーロッパ人の特権になつてゐる。しかし日本人にとつての日本文化とは、源氏物語が何度でも現代の
われわれの主体に再帰して、その連続性を確認させ、新しい創造の母胎となりうるやうに、ものとしての
それ自体の美学的評価をのりこえて、連続性と再帰性を喚起する。これこそが伝統と人の呼ぶところのものであり、
私はこの意味で、明治以来の近代文学史を古典文学史から遮断する文学史観に大きな疑問を抱くものである。
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、といふ認識に
他ならない。

三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
305名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 23:56:02 ID:ynZYMcIC
又、「菊と刀」のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと
容認することが、文化の全体性の認識にとつて不可欠であつて、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の
文化政策的理念に抗するところのものである。文化はまるごとみとめ、これをまるごと保持せねばならぬ。
文化には改良も進歩も不可能であつて、そもそも文化に修正といふことはありえない。これがありうるといふ
妄信は戦後しばらくの日本を執拗に支配してゐた。
又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の
三位一体のやうな主体性においてのみ発現するものである。これについて、かつて戦時中、丹羽文雄氏の
「海戦」を批判して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを
手つだつたはうが真の文学者のとるべき態度だと言つた蓮田善明氏の一見矯激な考へには、
深く再考すべきものが含まれてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
306名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 23:57:20 ID:ynZYMcIC
それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説「篠竹」を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであつて、
主体なき客観性に依拠してゐたことを自ら証明したからである。文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の
延長上に、あるひは作品、あるひは行動様式による、その時、その時の、最上の成果へ身を挺することであるべき
だからである。そして日本文化は、そのためのあらゆる文化的可能性をのこしてゐるからである。
以上三つの再帰性、全体性、主体性による文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、
文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう。

三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
307名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 00:15:15 ID:ReM4U5Ft
体を通してきて、行動様式を学んで、そこではじめて自分のオリジナルをつかむといふ日本人の文化概念、
といふよりも、文化と行動を一致させる思考形式は、あらゆる政治形態の下で、多少の危険性を孕むものと
見られてゐる。政治体制の掣肘の甚だしい例は戦時中の言論統制であるが、源氏を誨淫の書とする儒学者の思想は、
江戸幕府からずつとつづいてゐた。それはいつも文化の全体性と連続性をどこかで絶つて工作しようといふ政策で
あつた。しかし文化自体を日本人の行動様式の集大成と考へれば、それをどこかで絶つて、ここから先はいけない、
と言ふことには無理がある。努力はむしろつねに、全体性と連続性の全的な容認と復活による、文化の回生に
向けられるべきなのであるが、現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の一つでもある、
際限もないエモーショナルなだらしなさが現はれてをり、戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と
偽善が生じたのであつた。つねに抑圧者の側のヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、戦時中も現在も
変りがない。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
308名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 00:16:17 ID:ReM4U5Ft
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねて
おいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。
しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、
いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。
守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に
目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに剣の原理である。
守るといふ行為には、かくて必ず危険がつきまとひ、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るには
つねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
文化主義はこのパラドックスを回避して、自らの目をおほふ者だといへよう。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
309名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 00:17:30 ID:ReM4U5Ft
(中略)力が倫理的に否定されると、次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、実は恐怖の
演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。(中略)そこ(文化主義が暴力否定から国家権力の最終的否定に
陥る経路)では「文化」と「自己保全」とが、同じ心理的メカニズムの中で動いてゐる。すなはち、文化と
人文主義的福祉価値とは同義語になるのである。
かくて、文化主義の裡にひそむ根底的エゴイズムと恐怖の心理機構は、自己の無力を守るために、他者の力を
見ないですまさうとするヒステリックな夢想に帰結する。
冷徹な事実は、文化を守るためには、他のあらゆるものを守ると同様に力が要り、その力は文化の創造者保持者
自身にこそ属さなければならぬ、といふことである。これと同時に、「平和を守る」といふ行為と方法が、
すべて平和的でなければならぬといふ考へは、一般的な文化主義的妄信であり、戦後の日本を風靡してゐる
女性的没論理の一種である。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
310名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 00:18:56 ID:ReM4U5Ft
(中略)
もし守るべき対象の現状が完璧であり、博物館の何百カラットのダイヤのやうに、守られるだけの受動的存在で
あるならば、すなはち守るべき対象に生命の発展の可能性と主体が存在しないならば、このやうなものを守る行為は、
パリ開城のやうに、最終的には敗北主義か、あるひは、守られるべきものの破壊に終るであらう。従つて
「守る」といふ行為にも亦、文化と同様に再帰性がなければならない。すなはち守る側の理想像と守られる側の
あるべき姿に、同一化の機縁がなければならない。さらに一歩進んで、守る側の守られる側に対する同一化が、
最終的に成就される可能性がなければならない。博物館のダイヤと護衛との間にはこのやうな同一化の可能性は
ありえず、この種の可能性にこそ守るといふ行為の栄光の根拠があると考へられる。国家の与へうる栄光の根拠も、
この心理機構に基づく。かくて「文化を守る」といふ行為には、文化自体の再帰性と全体性と主体性への、
守る側の内部の創造的主体の自由の同一化が予定されてをり、ここに、文化の本質的な性格があらはれてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
311名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 00:19:59 ID:ReM4U5Ft
すなはち、文化はその本質上、「守る行為」を、文化の主体(といふよりは、源泉の主体に流れを汲むところの
創造的個体)に要求してゐるのであり、われわれが守る対象は、思想でも政治体制でもなくて、結局このやうな意味の
「文化」に帰着するのである。文化自体が自己放棄を要求することによつて、自己の超越的契機になるのは
この地点である。
従つて、文化は自己の安全を守るといふエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。現在、平和憲法を守ることが、
一方では、階級闘争の錦の御旗になり、闘争とは縁のない、感情的平和主義者、日和見主義者、あらゆる
戦ひの放棄による自己保全を夢みるマイ・ホーム主義者、戦争に対する生理的嫌悪に固執する婦人層などの、
自己保全派の支持層に広汎に支へられてゐるといふ事情は、イデオロギッシュな自己放棄派が、心情的自己保全派に
支持されてゐるといふ矛盾を犯してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
312名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:40:06 ID:SPAqkLZ8
文化における生命の自覚は、生命の法則に従つて、生命の連続性を守るための自己放棄といふ衝動へ人を促す。
自我分析と自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を
成就すると考へられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このやうな献身的契機を含まぬ文化の、
不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれたところのものであつた。そして自我滅却の栄光の根拠が、守られるものの
死んだ光輝にあるのではなくて、活きた根源的な力(見返す力)に存しなければならぬ、といふことが、文化の
生命の連続性のうちに求められるのであれば、われわれの守るべきものはおのづから明らかである。かくて、
創造することが守ることだといふ、主体と客体の合一が目賭されることは自然であらう。文武両道とはそのやうな
思想である。現状肯定と現状維持ではなくて、守ること自体が革新することであり、同時に、「生み」「成る」
ことなのであつた。

三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より
313名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:41:36 ID:SPAqkLZ8
さて、守るとは行動であるから、一定の訓練による肉体的能力を具へねばならぬ。台湾政府の要人が、多く
少林寺拳法の達人であると私はきいたが、日本の近代文化人の肉体鍛錬の不足と、病気と薬品のみを通じて肉体に
関心を持つ傾向は、日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。私は、明治以来のいはゆる純文学に、
剣道の場面が一つもあらはれないことを奇異に感じる。(中略)肺結核の登場人物は減少したが、依然として、
そこには不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、
半狂人、などの群がり集まつた天国なのである。戦ふことのできる人間は極めて稀である。病気及び肉体的不健康が
形而上学的意味を賦与されたロマンティスムから世紀末にいたる古い固定観念は、一向癒やされてゐないのみならず、
こんな西欧的観念は、時には時世に媚びて、民俗学的仮装であらはれたりする。このことが行動を不当に
蔑視させたり、危険視させたり、あるひは逆に過大評価させたりする弱者の生理的理由にさへなつてゐるのである。

三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より
314名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:48:50 ID:SPAqkLZ8
さて、「菊と刀」を連続させ、もつとも崇高なものから卑近なものにまで及び、文化主義者のいはゆる「危険性」を
避けないところの文化概念の母胎は、何らかの共同体でなければならないが、日本の共同体原理は戦後バラバラに
されてしまつた。血族共同体と国家との類縁関係はむざんに絶たれた。しかしなほ共同体原理は、そこかしこで、
エモーショナルな政治反応をひきおこす最大の情動的要素になつてゐる。それが今日、民族主義と呼ばれる
ところのものである。よかれあしかれ、新しい共同体原理がこれを通して呼び求められてゐることは明らかであらう。
戦後の民族主義はほぼ四段階の経過を辿つたといふのが、私の大まかな観察である。
戦後しばらく、占領下の民族主義は国家観念の明らかな崩壊の状況下に社会革命なるものと癒着してゐるやうな
外見を呈した。(中略)吉田内閣は、国民総体の欺瞞へのよろこびを代表してゐた。占領に対する欺瞞的抵抗が、
民族主義のひそかな、語られざる満足になり、一方、大声の、公然たる民族主義は、革命の空想と癒着した。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
315名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:49:55 ID:SPAqkLZ8
(中略)
池田内閣のあのやうなふしだらな消費政策がはからざる逆効果をもたらし、オリンピックにおいて、平和憲法と
民族主義との戦後最大の握手が国家の司祭によつて成功した。これは一つの国家による、そして国民による、
民族主義的達成のピークであつた。しかし安保条約下における民族主義といふ制約は、民族主義そのものの質の
変化を正にこのときひそかに要求してゐた。佐藤内閣は、いろんな面で、「正直な内閣」たらざるをえぬ宿命を
担つてゐた。国会の防衛論争が正に破綻に瀕せんとする寸前に、オリンピック選手円谷の自刃が起つたことは
象徴的である。国家権力は、再び、民族主義に、それのみが国家が民族主義に寄与することのできる贈物で
あるところの国家的栄冠を与へることに失敗しつつある。
第三次の民族主義は、エンタープライズ事件を一つの曲り角として、再び「ナショナリズムの糖衣をかぶつた
インターナショナリズム」の登場を許したと思はれる。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
316名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:50:56 ID:SPAqkLZ8
エンタープライズ事件における三派全学連の行動は、日本におけるナショナリズムとインターナショナリズムの
「見る者」と「見られる者」の分離を明確にした注目すべきモメントを形成した。すなはち、米軍基地の存在が
過去の自民党政府の民族主義の昂揚によつて却つて、自立の感情を刺戟し、国民心理に無形の負担を感ぜしめ、
又、国会の防衛論争において、「自主防衛」の具体的方策を執拗に問はれた佐藤首相が、「自主防衛とは
すなはち三次防を行ふことだ」(十二月九日国会答弁)と答へた瞬間に、論争はその論理的発展を失つて単なる
政争の場面へ顛落し、国民の自主防衛意識は精神的支柱を失つて政治的プラグマティズムへ直結され、却つて
米軍基地の柵をのりこえた日本青年といふ象徴的事件が、国民のエモーショナルな欲求の一斑を満足させて、
民族主義を一つの曲り角へ導いたのである。このやうなターニング・ポイントは、実はヴィエトナム戦争によつて
長期間に養成されたものであつた。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
317名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:52:08 ID:SPAqkLZ8
すなはち、ヴィエトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識の
うちに醸成し、反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。類推とは、他民族の自立感情に対する
感情移入を以て、自民族の自立感情のフラストレーションの解決をはかるといふ代償行為である。そこでは
厳密に言つて、近代国家の形成を経ぬヴィエトナムの民族主義とわが民族主義との歴史的諸条件の差異、
民族主義にとつての本質的な差異は看過されてをり、又、インターナショナリズムの連帯と同情や感傷による
連帯との本質的な弁別は、無視されるか、あるひはカヴァーされてゐる。(中略)
彼ら(三派全学連)は上陸した米軍兵士を殺すわけでもなく、基地内の米軍兵士に射たれたわけでもなかつた。
ただ強引に「見られる民族主義」を演じるといふその象徴行為は、彼らの「作られた民族主義」の側面を露呈した。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
318名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 12:53:27 ID:SPAqkLZ8
インターナショナリズムによつて国家を否定し、ナショナリズムによつて民族を肯定しようといふその政治目的は、
その否定と肯定が同義語になるやうな決定的モメント、すなはち革命を暗示するには足りず、却つて、その分離の
様相を明確にしたのである。(中略)
「かれら」の文化は、民族主義とインターナショナリズムの国家超克との結合点としてとらへられるであらう。
これは文化主義のもつとも先鋭な政治的利用の方式であり、文化主義そのものが内包してゐる「人類の文化」概念の、
民族主義的下部構造からの再構成である。この種の動きは、小規模ではあるが、日本の新劇運動に深く浸潤してゐる。
その依つて立つ共同体理念である民族主義自体が、共同体の意味の移管を暗示するやうに「作られて」ゐるのである。
しかし、何はともあれ、共産主義にとつてもファシズムにとつても、もつとも利用しやすい民族主義が、目下の
ところ、国家に代つて共同体意識の基本単位と目されてゐるだけに、民族主義のみに依拠する危険は日ましに
募つてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
319名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 19:25:58 ID:dsIGlRBe
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか? 自主独立へのエモーショナルな熱望は、必ずしも民族主義と
完全に符合するわけではない。(中略)言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげて
をり、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかつてゐる。そして皮肉なことには、敗戦によつて
現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と
国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、国を
現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
320名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 19:27:22 ID:dsIGlRBe
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。すなはち、それは非分離を分離へ導かうとする
ための「手段としての民族主義」なのである。
(中略)
前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
321名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 19:29:01 ID:dsIGlRBe
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。それは
三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する異民族」
といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。第一の問題は、
沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の平和憲法と
世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに
変容させられる日本民族の相反するイメージ――外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふ
イメージと、異民族の歴史の罪障感によつて権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら
典型的に表現されたのである。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
322名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 19:30:19 ID:dsIGlRBe
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、
明らかに政治的意図があつて、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
そこには、しかし、日本の民族主義との矛盾が論理的に存在するにもかかはらず、ヴィエトナム戦争とアメリカの
黒人暴動とが、かかる「手段としての民族主義」を、ヒューマニズムの仮面の下に、正当化したのである。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
323名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 19:31:56 ID:dsIGlRBe
手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、
民族主義を領略しようと企てるであらう。しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます
顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の
左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
324名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:02:04 ID:qKIM4yOV
叙上の如く、日本では戦後真の異民族問題はなく、左右いづれの側にとつても、同民族の合意の形成が目標で
あることはいふまでもないが、同民族の合意とは、少なくとも日本においては、日本がその本来の姿に目ざめ、
民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致することである。その鍵は文化にだけあるのである。又、その
文化の母胎としての共同体原理も、このやうな一致にしかない。
そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治との
もつとも古い対立がひそんでゐる。文化を全体的に容認する政体は可能かといふ問題は、ほとんど、エロティシズムを
全体的に容認する政体は可能かといふ問題に接近してゐる。
左右の全体主義の文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、
つねに全体性の削減へ向ふのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の
嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
325名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:03:29 ID:qKIM4yOV
文化の全体性には、時間的連続性と空間的連続性が不可欠であらう。前者は伝統と美と趣味を保障し、後者は
生の多様性を保障するのである。言論の自由は、前者についてはともかく、後者については、間然するところの
ない保護者である。
もちろん言論の自由は絶対的価値ではなく、それ自体が時には文化を腐敗させることは現下の日本に見るとほりで
あり、ともすると言論の自由が文化の創造的伝統的性格とヒエラルヒーを失はせ、文化の全体性の平面のみを
支持して、全体性の立体性を失はせる欠点があるけれども、相対的にはこれ以上よいものは見当らず、これ以上、
相手方に対する思想的寛容といふ精神的優越性を保たせるものはない。かくて言論の自由は文化の全体性を
支へる技術的要件であると共に、政治的要件である。言論の自由を保障する政体の選択が、プラクティカルな
選択として最善のものとなるのはこの理由からである。文化の第一の敵は、言論の自由を最終的に保障しない
政治体制に他ならない。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
326名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:06:33 ID:qKIM4yOV
しかし、言論の自由は本質的に無倫理的であり、それ自体が相対主義の上に成立つた政治技術的概念であるから、
いはゆる自由陣営に属することの相対的選択を、国是と同一視する安保条約の思想は、薄弱な倫理的根拠をしか
持ちえぬのは当然であり、それは今後ますますその力を失ふであらう。
言論の自由と代議制民主主義とが折れ合ふのは、正にこの相対主義的理念に於てであり、いかなる汚ない言葉も
一度は言はれねばならない、といふところから精神の尊卑をおのづから弁別せしめるのであるが、その最終的
勝利にはいつも時間がかかり、過程においては、趣味の低下、美の平価切下を免れない。それは言論の自由が
本質的に、文化の全体性のうち、その垂直面、すなはち時間的連続性には関はらないからである。しかも自由の
非自由に対する優位は、非自由の速攻性と外面的権威に対してハンディキャップを負ふ一方、自由そのものが、
政治宣伝技術上イデオロギー化のきはめて困難な政治概念であるため、危機に臨んでは、無理なイデオロギー化に
よつて足をとられやすい。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
327名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:08:11 ID:qKIM4yOV
そこで自由諸国といへども、内部から全体主義に蝕まれる惧れをなしとしないのは、幾多の実例に見るとほりである。
「民主政治の信者は……共産主義者よりも、自分の考えがちなことすべてについて無意識である」とパーキンソンは
その「政治法則」の中で言つてゐる。「たとへば、彼らの宗教はかならずしも一冊の聖なる書物による宗教ではない。
彼らは、あいまいな歴史知識にもとづいて議論しがちだ。(中略)政治の理論と実際を討議するどんな場合にも
君主政治もしくは寡頭政治にまったく長所がないと否定するのは、バカげたことであらう」
かくて言論の自由が本来保障すべき、精神の絶対的優位の見地からは、文化共同体理念の確立が必要とされ、
これのみがイデオロギーに対抗しうるのであるが、文化共同体理念は、その絶対的倫理的価値と同時に、文化の
無差別包括性を併せ持たねばならぬ。ここに文化概念としての天皇が登場するのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
328名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 10:59:16 ID:SFrOgUwV
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、日本の
近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に示されたことはなかつた。
このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた官僚文化によつて
代表されてゐたことと関はりがある。私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた
明治官僚補綴の石橋の醜悪さに目をおほうた。
すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの価値自体
(ヴェルト・アン・ジッヒ)を見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の
特殊事実までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと
押しこめられて行き、政治的機構の醇化によつて文化的機能を捨象して行つたがために、つひにかかる演繹能力を
持たなくなつてゐたのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
329名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 11:00:06 ID:SFrOgUwV
雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の
真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。
かつて建武中興が後醍醐天皇によつて実現したとき、それは政権の移動のみならず、王朝文化の復活を意味してゐた。
(中略)
このやうな文化概念としての天皇制は、文化の全体性の二要件を充たし、時間的連続性が祭祀につながると共に、
空間的連続性は時には政治的無秩序をさへ容認するにいたることは、あたかも最深のエロティシズムが、一方では
古来の神権政治に、他方ではアナーキズムに接着するのと照応してゐる。
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの
形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、
無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
330名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 11:02:33 ID:SFrOgUwV
もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、「国と民族の非分離」を回復せしめようと
する変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、
「一筋のみやび」を実行したのであつて、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきで
あつたが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて(明治元年十月「氷川神社を武蔵国の鎮守に為し
給へる詔」には、祭政一致の文字が歴然と見える。――西角井正慶氏著「古代祭祀と文学」)、時間的連続性を
充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には
関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に
犠牲に供せざるをえなかつた。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
331名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 11:03:48 ID:SFrOgUwV
そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも
無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる
「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを失墜せしめられたのである。天皇と文化は相関はらなくなり、
左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」の
イメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。かくて文化の尊貴が喪はれた一方、復古主義者は
単に政治概念たる天皇の復活のみを望んで来たのであつた。
とはいへ、保存された賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かつ詩人である天皇のお姿は活きてゐる。御歌所の
伝承は、詩が帝王によつて主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかはりなく、民衆詩を
「みやび」を以て統括するといふ、万葉集以来の文化共同体の存在証明であり、独創は周辺へ追ひやられ、
月並は核心に輝いてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
332名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 11:05:09 ID:SFrOgUwV
民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の
文化伝統をただ「見る」だけではなく、創ることによつて参加し、且つその文化的連続性から「見返」される
といふ栄光を与へられる。その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造営のやうに、今上であらせられると
共に原初の天皇なのであつた。大嘗会と新嘗祭の秘儀は、このことをよく伝へてゐる。
文化の現存在と源泉、創造と伝承とが、このやうな形で関はり合つてゐる文化共同体としての天皇制は、
近代文化の担ひ手の意識からは一切払拭されてゐるやうに見えるけれど、われわれは宮廷風の優雅のほかには、
真に典例的な優雅の規範を持たず、文化の全体性は、自由と責任といふ平面的な対立概念の裡にではなく、
自由と優雅といふ立体的構造の裡にしかないのである。今もなほわれわれは、「菊と刀」をのこりなく内包する
詩形としては、和歌以外のものを持たない。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
333名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 11:07:36 ID:SFrOgUwV
かつて物語が歌の詞書から発展して生れたやうに、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルは
その敷衍であつて、ひびき合ふ言語の影像の聨想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、
ほとんど無意識の普遍的手法をなしてゐる。宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間に
はさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのであつた。伝統との断絶は
一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」「さび」のやうな、
時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかつた。天皇といふ絶対的媒体なしには、詩と政治とは、完全な
対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るしかなかつた。
みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の
民衆文化論の示唆するところとことなつて、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
334名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 12:08:17 ID:jPjy5Mqy
そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、「幽玄」「花」「わび」「さび」などを
成立せしめたが、この独創的な新生な文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極、
古典主義の極致の秘庫が天皇なのであつた。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と
倫理的激発をたえずインスパイアするところに天皇の意義があり、この「没我の王制」が、時代時代のエゴイズムの
掣肘力であると同時に包容概念であつた。天照大神はかくて、岩戸隠れによつて、美的倫理的批判を行ふが、
権力によつて行ふのではない。速須佐之男の命の美的倫理的逸脱は、このやうにして、天照大神の悲しみの
自己否定の形で批判されるが、つひに神の宴の、鳴滸業を演ずる天宇受売命に対する、
文化の哄笑(もつとも卑俗なるもの)によつて融和せしめられる。ここに日本文化の基本的な現象形態が語られて
ゐる。しかも、速須佐之男の命は、かつては黄泉の母を慕うて、「青山を枯山なす泣き枯す」男神であつた。
菊の笑ひと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されてゐた。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
335名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 12:09:46 ID:jPjy5Mqy
速須佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の
倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。これこそは
八咫(やたの)鏡の秘義に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の中に
包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、
といふのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも包括しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の
故郷であつた。
菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から
与へられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思はれるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、
軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
336名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 12:11:59 ID:jPjy5Mqy
(中略)
時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかも
しれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、
今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として
利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、その運命は決つてゐる。このやうな事態を防ぐためには、
天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、
かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すもので
なくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、
あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
337名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 00:48:47 ID:EH6JSBDU
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。
わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだといふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が
日本であるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを
考へていきたいです。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
338名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 00:51:25 ID:EH6JSBDU
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメント
やることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことを
やつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。
昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、
これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、
いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また
忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
339名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 00:53:22 ID:EH6JSBDU
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、
ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。
紙くずでうづまつてしまふ。それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。
この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。
そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです…

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
340名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:42:05 ID:mzsnMCg1
一、われわれはあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問はず、
共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企図、あらゆる行動に反対する者である。この連結の企図とは、
いはゆる民主連合政権(容共政権)の成立およびその企図を含むことはいふまでもない。国際主義的あるひは
民族主義的仮面にあざむかれず、直接民主主義方式あるひは人民戦線方式等の方法的欺瞞に惑はされず、
名目的たると実質的たるとを問はず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様にわれわれは反対する者である。
「共産党宣言」は次のごとく言ふ。
「共産主義者は、これまでの一切の社会秩序を強力的に顛覆することによつてのみ自己の目的が達成されることを
公然と宣言する」
われわれの護らんとするものは、わが日本の文化・歴史・伝統であるが、これらは唯物弁証法的解釈によれば、
かれらの「顛覆せんとする一切の社会秩序」に必然的に包含されるからである。

三島由紀夫「反革命宣言」より
341名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:43:12 ID:mzsnMCg1
二、われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその
精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。
なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて
革命への過程に化せしめるからである。自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の
美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は
「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき
未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを
最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。

三島由紀夫「反革命宣言」より
342名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:44:43 ID:mzsnMCg1
三、われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現を
とらうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、
これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。
空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て
過半数(マジョリティ)を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者(マイノリティ)を圧迫し、
社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遣口である。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれの
ものである。再び、有効性は問題ではない。なぜならわれわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への
過程とは考へないからである。

三島由紀夫「反革命宣言」より
343名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:45:58 ID:mzsnMCg1
(中略)
われわれは天皇の真姿を開顕するために、現代日本の代議制民主主義がその長所とする言論の自由をよしとする
ものである。なぜなら、言論の自由によつて最大限に容認される日本文化の全体性と、文化概念としての天皇制との
接点にこそ、日本の発見すべき新らしく又古い「国体」が現はれるであらうからである。
さて、かれらは、言論の自由を手段的過程的戦術的に利用し、言論の自由自体に革命を論理的に推進する
進歩的価値が内在すると主張するが、これはあやまりである。言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の
境界線にすぎぬが、同時に人間の本能的な最低限の要求を充たすものである。(拙論「自由と権力の状況」参照)
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを
持つてゐない。
この「妥協」を旨とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を欠く欠点を有するが、言論の自由を守るには
最適であり、これのみが、言論統制・秘密警察・強制収容所を必然的に随伴する全体主義に対抗しうるからである。

三島由紀夫「反革命宣言」より
344名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:47:11 ID:mzsnMCg1
従つて、第二に、われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなはち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する
人間主義的社会主義といふ幻影を破砕するであらう。この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どほりに
行はれるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の怖るべき本質をあらはすことは明らかだからである。
五、まづ言論闘争、経済闘争、政治闘争といふ方式はかれらの常套手段であり、「話し合ひ」の提示は、すでに
かれらの戦術にはまり込むことである。(中略)われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、
日本の国土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千万人といへども我往かんとの
気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、挑発、をものともせず、かれらの
蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。

三島由紀夫「反革命宣言」より
345名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 21:19:26 ID:8ec8z2cF
346名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 15:53:23 ID:yWlBOplP
日本の国民感情は今だに「核アレルギー」から脱しきれず、さまざまな意味での進歩を妨げている。現代世界に於て
「核」は、われわれの知識をはるかに越えて発達しすでに政治面では「核」をぬきにして世界の外交政治は
考えられない。(中略)
日本が「核武装」すると主張すれば一般国民にとって非常なショックとセンセーションで迎えられるであろう。
しかし世界情勢に目を転じ、百年先の日本の進路を考えてみれば、むしろ核武装の主張は好戦的でも奇矯でもなく
当然のナショナリズムの発露なのである。
(中略)社会党が戦術上、今だに「非武装・中立」を唱えているため、保守対革新の国防論議は、「日米安保体制か
非武装中立か」という二者択一の幼稚な形で示される傾向にある。しかし「非武装」と「中立」は本来、
別個の概念であり、いうまでもなく「中立政策」には「武装中立」が含まれている。

森田必勝「『核』は将来のエネルギー源 単独核武装はタブーか」より(昭和42年)
347名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 15:54:30 ID:yWlBOplP
永世中立国のスイスは、(中略)強力な民兵制度を保持、非常時には人口600万人中、一日で70万人の
大規模な動員が可能とされている。スウェーデンも同様に、(中略)最新兵器による攻撃に対しても防衛力を
持つことを目標とし、兵器の90%までを国産でまかなう体制をとっている。人口760万人の小国でありながら、
140万人分の原爆退避壕が建設されている。この地下大退避壕は現在、駐車場として利用されているが、
日本以外のどの国をみても「国防」に対する態度が真剣なのである。史上初の敗戦で日本人の感傷は少女趣味に
堕していはしまいか。
ますます強大化する列国の軍事力から自らを守るために、現在の戦争の最終段階の「核」戦争にも対処出来得る
防衛を、何時までも「米の核のカサ」に頼っている時期ではないのである。
中立・非同盟政策をとる国々のほとんどが「武装中立」というのが世界の現状である。「非武装中立」という
考え方は、戦争放棄の平和憲法をもつ日本の生んだ「特殊で珍妙な構想」といえよう。

森田必勝「『核』は将来のエネルギー源 単独核武装はタブーか」より(昭和42年)
348名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 15:55:47 ID:yWlBOplP
人間に闘争本能があり、どのような体制においても人間が変らぬ限り競争は続く。列国の政治に対する野心は
日本人が想像する以上に深く、ナショナリズムは時として狂信的な形で表現される。ひとりだけ、そんな中で
観念的な平和論をぶっても、周囲は一笑し、かえって利用され侵略されてしまうのが世界の現状であろう。
そうした意味でも「非武装中立」は絶対に不可能である。
(中略)今、日本が単独で防衛することになれば、自衛隊は限定戦争にさえ対処することが出来ず、核攻撃を
うけた場合、日本は歴史から消失してしまう結果となるだろう。熱い対立は祈ることによって避けられるものではなく、
平和は願うことによってのみ訪れるものではないのだ。
(中略)安全性をさらに高めてゆくには、日本が単独に核武装する以外にない。かりに今「核武装」を決意し、
国家政策として推し進めてゆくにしても五年の月日はかかるであろう。その頃、中共はICBMを相当数
実戦配備化してしまっている。

森田必勝「『核』は将来のエネルギー源 単独核武装はタブーか」より(昭和42年)
349名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 17:07:21 ID:kLbxDlzs
核武装賛成!
350名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 02:51:25 ID:6+9ewgWG
【眼前百事】核議論を!三島由紀夫と村田良平の遺言
http://www.youtube.com/watch?v=t-BSyjcc2no
351名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 09:58:51 ID:NYYOwByA
【イタリア】ローマで三島由紀夫のシンポを開催--来年[11/26]
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1290762634/

このスレのhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1290762634/11-17
で、「竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」の
説が引用されてて非常に驚いたのは、どうももヨーロッパ人には
三島の主義、或いは三島の行動にキリスト教の神を見たということだ。
つまり神と愛による死の契約の成就という、ヨーロッパで失われた神へ
の信仰と言うのを彼等はおそらく見たのであろう。

つまり、三島はヨーロッパ家としてヨーロッパの歴史や哲学、美学、
その精神性を見出しそれをナショナルな日本的なものとして実践したのである。
これは同時に、ヨーロッパの保守系知識人にとっては
最大の政治的なダイイングメッセージであったに違いない。
352名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 12:31:14 ID:812+1uMO
「冷戦」の産物である日米安保条約は、同時に日本にとっての立ち直りの重要な起爆力となったことは否定できない。
しかしこのことは、日本安保が、日本の物質的立ち直りと無縁な状態で恒久化されることを意味しない。我々が
よく認識しなければならないことは、日本安保条約は、その究極の根拠を日本国憲法に置いたものであり、我々が
日本の「中立」に徹底さを求め、防衛論議において強固な国民的合意を求める際に、日本国憲法に対すると同様の
民族的熱意でもって、その反民族的な本質を暴露してゆかねばならないということだ。
日本を取り巻く世界状勢は、かつての硬直した冷戦体制のかわりに、かつての米ソの衛星圏よりの自己主張の
叫びが目立ち、分極化、多極化の様相を見せつける。(中略)各国をしてそれぞれの主張を、国際社会に対して
要求させる。(中略)
現代世界の秩序に新たな要因を加えたものとして中共の抬頭があげられる。中共の出現は、その急テンポな
核装備の進展の事実とあわせて、日本の今後の進路に決定的な介入を挑んでくるであろう。

森田必勝「二大国支配の打破」より
353名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 12:33:22 ID:812+1uMO
ノサップ岬には数回足をのばし、ガスの晴れ間から水晶島にソ連の監視兵が動いているのさえ観ることができた。
還らぬ北方の島々への関心はさすがに高く、私達の使命感はより一層高まった。現地の漁民はただもくもくとして
働き、涙さえ浮かべようとしない。(中略)
学生運動は社会的起爆剤としての役割を持っている。学生及び青年の行動が、連鎖反応的に運動の輪を拡げ、
大きな力へと成長させてゆく。その歴史的自覚を持ったときこそ、新しい学生運動の明るい展望は開けて
くるのである。とするならば、北方問題に関しても、政府も漁民も立場上言えないような主張を代弁するのが
学生ではないのだろうか。民族の悲願として、全千島、南樺太をあらゆる条約や障害をのりこえて取り戻すこと。
この正当な主張も、政府及び根室市がソ連と交渉するときには、歯舞、色丹、国後、択捉だけが対象となっている。
千島列島はサンフランシスコ条約で放棄したから可能ならば日本に復帰させて頂きたいと及び腰である。

森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より
354名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 12:35:10 ID:812+1uMO
外交のベテランソ連に対し、はじめから下手で臨むものだから、馬鹿にされて相手にされないのも当然だと
言えるかも知れない。
(中略)
私達は一体何のために「北方領土復帰運動」を行なうのだろうか。ただ単に魚の穫れる漁場がほしいとか、
領土的野心からとかでは決してない。根室市で、私達と関係者との懇談会の席上、ある一人の老人は絶叫調で
こう言った。「たとえ、ソ連が何十年居坐ろうとも、われわれは日本民族の闘いとして、この運動を続ける」と。
この老人の一言に、恐らく私達すべての立場は代表されるのではないだろうかと思う。
(中略)
北方領土への関心は、一般国民をして領土主権の問題、民族意識の問題、国家理念の問題へと眼を開かせる。
それはやがて、日本という中級国家が、これからの世界の荒波をどう航海しどうすすんゆくのかという、
主権国家としての自立の条件への模索となってゆくであろう。

森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より
355名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 12:38:51 ID:812+1uMO
結集された同志諸君! 我々はついにソ連に奪われた祖国固有の領土、貝殻島、水晶島が見渡せる所まできています。
(中略)我々は、その北方領土諸島への最短距離にある貝殻島を眼の前にして、身体中の怒りが、民族の血が
たぎりつつあるのです。日本民族の祖先が営々としてきずきあげてきたあの島々を、我々はたとえ何年かかろうと、
どれだけの犠牲が出ようと、必ず取り返してみせる、といった意気込みをもって、更に力強くこの運動を続けて
いかなければなりません。(中略)
我々は午前中、ここに立てられている標識に「本土最東端=ノサップ岬」と書かれているのを発見しました。
ノサップが日本の最東端なのか?
日本の最東端は全千島列島の尖端にあるシュムシュ島であり、ソ連の軍事占領下にあるとはいえ、本来は
日本領土ではありませんか! ノサップをもって、本土最東端などと開き直る敗北主義は、(現地の方々が、
これほど敗北的な現実主義に陥っていることを、我々は改めて知らされたけれども――)我々の熱意と民族の魂とで
粉砕しなければならないと考えます。

森田必勝「演説 北方領土返還問題」より
356名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 12:40:25 ID:812+1uMO
(中略)
一九一七年のロシア革命は、全世界の知識人にショックを与え、人類の幸福、バラ色の社会とかいうデタラメな
宣伝文句につられて日本にもマルクス主義運動が入ってきました。階級史観なるエセ歴史主義の虚妄は、やがて
本家本元のロシアの、その後の数限りない侵略の事実によって明らかにされているではありませんか。(中略)
我々にとって、共産主義は敵には違いないが、イデオロギーというよりも、むしろ人間の魂の問題として、
このような思想を拒否するわけです。だから、何回も何回も繰返すように、反共という立場はイデオロギーの
位相によるアンチではなく、人間性の問題として、人の自由を束縛し、他国民の迷惑を何とも思わぬような
独善的な国家主義を、(それはマルクスのいった共産主義とはほどとおいけれども――)我々は憎んでゆかなければ
なりません。

森田必勝「演説 北方領土返還問題」より
357金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/12/01(水) 10:58:16 ID:buWvU2kq
三島由紀夫没後40年
http://www.youtube.com/watch?v=DrV72DAELmk
358金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/12/01(水) 16:06:49 ID:6VMxQ1LU
やめ検事猪狩俊郎マニラで暗殺以降検察おまわり犬発狂しとるな
恐喝でっち上げと賞揚(しょうよう)等の規制)違反容疑って
あほか
http://www.youtube.com/watch?v=f7x0BzrAE5o
http://www.youtube.com/watch?v=cgJekaQUouA
359名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 23:31:31 ID:wdI9ky84
社会党の「護憲条例」提出は、社会党自体の愚かさを示して余りありますが、私達は何としても、こうした
バカげたことを避けるために、ここで抗議集会をもちたいと考えます。
皆さん、既に御存知のように、現在の憲法は、GHQが、日本が再び立ち起ることが出来ないようにと、永久に
三流の後進国家としての位置におとしこむために作られた“占領基本法”でしかありません。ですから、
“マッカーサー憲法”とも呼ばれ、心ある国民は、一日も早くこのようなインチキ憲法を改正し(その改正方法に
関しては、いろいろな議論はありますけれども―)自主的な日本民族の手になる憲法の制定を呼びかけています。
現行憲法の基調は、さきほどの山本委員長の演説でも触れたように、アメリカ占領軍の日本弱体化政策の基調、
すなわち三S、五D政策にのっとられて作られた、“アメリカのための”日本国憲法であります。

森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
360名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 23:32:57 ID:wdI9ky84
三S政策とは、セックス、スポーツ、スクリーンといったSのイニシャルに代表される軽薄極まりないアメリカ文化の
移入によって、日本の伝統的な文化、歴史を破壊しようというたくらみであり、五D政策とは、第一に非民族化、
第二に非産業化、第三に非集中化、第四に非軍事化、そして第五に民主化といった、それぞれがDのイニシャルに
象徴される、徹底的な日本の破壊のための基本方針であります。
GHQは、日本の占領中に、権力をフルに行使して、これらの基本方針を実行し、軍隊を解体し、国家の独立を
まっとう出来ないような状況にしました。そして、警察機構を分断し、各県の県警はそれぞれの自治体に
帰属させたり、あらゆる連絡網の分断を策したのであります。
また日本の産業が再び力をつけることのないよう、航空技術の開発を停止させたり、国家的規模の産業の興隆を抑え、
あるいは、再び日本に民族精神の昂揚がないようにと、歴史、地理教育の禁止を策したのでありました。

森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
361名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 23:34:17 ID:wdI9ky84
とりわけ、日教組に代表される極端な歴史教育の歪曲は、「民主化」という、アメリカニズム、もしくは
プラグマティズムを背景に、わが国の光輝ある歴史を、一方的な視野から裁断し、日本の過去の歴史はすべて
悪いのだ、といった調子のおどろくべき教育の条件の下で、我々戦後世代は育ってきたのです。あの家永訴訟に
みられるごとく、まったく内容の無いマルクス史観で貫ぬかれた家永三郎の日本歴史が、それを代弁しています。
(中略)
そしてまた憲法をよく読んでみれば、第九条と、第九九条が、明らかに相互矛盾しているにもかかわらず、
(これは、わずか二週間で作ったという拙速主義の何よりの証しですが―)そのような矛盾点にほおかむりして
現行憲法は世界に誇るべき平和憲法だなどといって自己満足している学者、文化人、党派の、日本民族と日本の
歴史に対する犯罪的な行為を、我々は絶対に許してはならないと思います。

森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
362名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 20:24:56 ID:9XPl9gNJ
第7回出陣学徒慰霊祭のお知らせ

●開催日:12月5日(日)
●場所:第1部 靖国会館
    第2部 靖国神社本殿
●参加費3000円(玉串料込)学生1000円

●当日のスケジュール
■記念講演 於靖国会館2階偕行の間
13:00開場、13:30開会
・実行委員長挨拶
・来賓挨拶
・学生意見表明
・記念講演:宮本雅史先生
演題:「回天特攻の真実」
(宮本雅史先生略歴)
1953年和歌山県生まれ。慶應義塾大学卒業後、産経新聞社入社。93年にゼネコン汚織事件のスクープ
で新聞協会賞を受賞。書籍編集者を経て、現在那覇支局長。『回天の群像』では、元特攻隊員や遺族
の証言を追い、特攻隊員の心とその背景に迫った。著書に『特攻と遺族の戦後』『歪んだ正義―特捜
検察の語られざる真相』ほか多数。

■出陣学徒慰霊祭 於靖国神社本殿
15:40より

●主催:日本保守主義研究会学生部
http://www.wadachi.jp/

●協賛:拓殖大学政策研究愛好会「日本の心」http://nihonnokokoro.web.fc2.com/

 当日予約なしの参加も承っておりますが、会場の都合事前に下記のフォームよりお申し込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=533120
363名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 08:14:38 ID:boPina7z
先日、某出版社から、生前の三島由紀夫氏のプライベート写真を入手しました。

本来、写真集を出版を予定をしていたが、三島氏の割腹自害の後、写真家自身が、
急死してしまい、出版の予定が永遠に失われ、更にネガフイルムが紛失して仕舞
残存の写真集用の原本写真だけが残されてしまいました。

昨日、その某出版社の社長から、残された写真を託されました。権利者が移譲されたのを機会に
オークションに出品する予定です。
その中の一枚は、彼が自衛隊に仮入隊した時に(45日間)撮影されたものです。

全ての写真の裏にシリアルbェ書かれています。
写真が写真だけに、心ある人に入札して頂きたいと思っていますが、反対の方も
おいででしょうから、一応お知らせさせて頂きます。

364名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:03:23 ID:MJrgJQfu
4月12日(水)雨
ソ連、人間衛星船打上げ、回収に成功。
僕はこれから宇宙へすぐ行けるということは嬉しいと思うが、下の方の人、貧乏な人を
まず助けてから(それを)すべきだと思う。
森田必勝
昭和36年(高校一年)の日記より


1月29日(月)晴
いっこうに雨が降らない。人間ってどうしてこんなに悩んだり、考えたりするのだろう。
ありそうもない、起りそうもないことを想像して、ああ俺はだめだ、とか、この世は何とバラ色なのだろうと
無邪気に遊んでいるチビさんや赤ン坊の寝顔がうらやましい。でも彼らも何時かは人間として悩まなければ
ならない時がやってくるのか、と思うとよく判らないが、人生のはかなさ、うつりかわりというものをつくづく
感じる。今はなにかしら、苦しい。おれの心を本当に判ってくれるのが、この世に何人いるだろうか? (中略)
僕は今一人の人を思い切り愛したい。(中略)M子を思いっ切り、死んでもいいから、何とかして彼女に俺の心が
判ってもらえないかなあ。

森田必勝
昭和37年(高校一年)の日記より
365名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:04:53 ID:MJrgJQfu
5月11日(金)晴
母へ
僕の母、白い手、黒い髪、白い大きな目、いつも天のどこかで僕を見守り、愛撫してくれる。お母さん、僕、
今日学校で寝た。かんにんだよ。でもどこかでお母さんの声が、必勝、あと十分だからがんばりなさい、と
聞こえてきたよ。(中略)そうか、お母さんのいる天国へ僕も行こうか。お父さんも待っていてくれると思うけど、
きっと仲が良いんでしょうね。僕も今、そんな友達を求めているんだけどなかなか現われない。僕は自分なりに
夢をもっているつもりだけれど実際、自分でも何になるか判りません。でも悪い人間にはならないつもりです。

森田必勝
昭和37年(高校二年)の日記より
366名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:06:18 ID:MJrgJQfu
9月2日(日)晴
年も17歳。浮わついたことは極度に避け立派な人間になりたい。おれには日本、いや世界を背負うという
義務がある。それにはしっかり落着いて勉強し、どんな苦境にも負けないファイトと、強い精神を学ぼう。
さいわい、おれにはもったいないぐらいのガールフレンドが出来た。誰からも好かれる立派な人、森田必勝に
なりたい。今から17ヶ月間、頭のわれるようなトレーニングをやる。そして日本をおれがにぎってやる。
どんな時にも負けない人間にしておく。必ずや何かの形でおれが日本をにぎってやる。雑草のようにかみついてやる
その基盤をしっかり作ろう。

森田必勝
昭和37年(高校二年)の日記より
367名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:07:14 ID:MJrgJQfu
10月19日(金)曇
死にたくないが、死についてすごくあこがれる。このままポッと死んでしまったところで悲しむ者はいないし、
遠いのじゃなくて漠然と憧れる。気ばかり焦って実際には少しも勉強していない。ああおれは情なくなってきた。
番数が下ったことが、ひしひしとのしてくる。でもいいさ。人間は学校の成績だけじゃないんだ。しっかりやろう、
どこまでも。


10月26日(金)晴
おいらは天下の雑草だい。踏まれても踏まれても起きあがり、ますます強くなるんだ。おれには恋が出来ないんだ。
おいらは親なしの雑草さ、大人のエゴ、そして浮世の煩わしさ、みんな肌で感じとるんだ。
人間にののしられ、恥かしめられ、何をされようったって胸をはって生き抜くんだ。雑草は心が広い、広い。
何でも包んでしまう人間だぞ。生れたときから、親がどういうものか判らない。だからおれは子供だけは、
『寂しい』と一言も言わせないようにしたい。

森田必勝
昭和37年(高校二年)の日記より
368名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:08:12 ID:MJrgJQfu
5月23日(金)曇がちの晴
浪人がこんなにつらいものとは、覚悟はしていたものの悲しい。俺自身辛いと思っていることが、一般の人には
遊びに見られるのだから、まったく立つ瀬がない。

10月17日(土)曇
最近の国際情勢を見ていると、頭がおかしくなりはしないかと心配だ。まず第一に頭にくるのは、中国の核実験、
しないでもいいものをしやがって全く頭へ来る。バカにつける薬は無しってところだ。

森田必勝
昭和39年(浪人)の日記より


6月15日(火)晴
つまらない。何のために生きているのだろう。判らん。判らない。頭が痛い。
きれいなものが、見たい。本当にきれいなものが―。美しい、素晴らしいものが、女性でもいい、絵でもいい、
音楽でもいい、とにかくきれいなものがみたい。

森田必勝
昭和40年(二浪)の日記より
369名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:10:36 ID:MJrgJQfu
5月某日(日付不明)
きのうクラス委員会で、早稲田精神丸出しの勇敢な先輩と知り合った。総会で、革マルの一方的な議事進行と、
独善的な議事内容に怒って革マルのヤツらに単身、喰ってかかっていた。(中略)
左翼に対決して学園正常化のために奮闘しているグループがあることを初めて知る。それでこそワセダ精神だ!

森田必勝
昭和41年(大学一年)の日記より

1月某日(日付不明)
日文研でも早稲田祭で「紀元節考」の展示をやったが、ぼくらも少しは民族の正気回復のために役立ったのだろう。
しばし「古事記」や「日本書記」の由来や日本人の祖先について討論。先輩達の博識におどろいた。考えてみれば、
ぼくらの高校の歴史教科書は、民族のロマンなんかぜんぜん教えてくれなかった。日教組が悪いことにして
先輩達に質問集中。

森田必勝
昭和42年(大学一年)の日記より
370名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:10:03 ID:tYHsZTIF
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。
忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。

三島由紀夫「忘却と美化」より
371名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:11:12 ID:tYHsZTIF
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。

三島由紀夫「忘却と美化」より
372名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 12:22:47 ID:LgAyNje9
何を守るかといふことを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れ
といふことでは非常にわかりにくい。文化云々といふと、おまへは文化に携つてゐるから文化文化といふ、
それがおまへ自身の金儲けにつながつてゐるからだらう――といはれるかもしれない。あるひは文化なんか守る
必要はない、パチンコやつて女を抱いてゐればいいんだといふ考へ方の人もゐるだらう。文化といつても、
特殊な才能をもつた人間が特殊な文化を作り出してゐるんだから、われわれには関係がない。必要があれば
金で買へばいい、守る必要なんかない――と考へる者もゐるだらう。しかし文化とはさういふものではない。
昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るといふことだ。太古以来純粋を保つてきた一つの
文化伝統、一言語伝統を守つてきた精神を守るといふことだ。しかし、その純粋な日本精神は、目には見えない
ものであり、形として示すことができないので、これを守れといつても非常に難しい。またいはゆる日本精神
といふものを日本主義と解釈して危険視する者が多いが、それはあまりにも純粋化して考へ、精神化し過ぎてゐる。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
373名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 12:23:48 ID:LgAyNje9
…だから私は、文化といふものを、そのやうには考へない。文化といふものは、目に見える、形になつた結果から
判断していいのではないかと思ふ。従つて日本精神といふものを知るためには目に見えない、形のない古くさい
ものと考へずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思へるものを並べてみろ、そして
それを端から端まで目を通してみろ、さうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやつて
守ればいいかを考へろ、といふのである。
歌舞伎、文楽なら守つてもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまつただ」などといふ退廃的な文化は
弾圧しなければならない――といふのは政治家の考へることだ。
私はさうは考へない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。
江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももつと退廃的なものがたくさんある。それらを引つくるめたものが
日本の文化であり、日本人の特性がよく表はれてゐるのである。
日本精神といふものの基準はここにある。しかしこれからはづれたものは違ふんだといふ基準はない。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
374名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 12:24:44 ID:LgAyNje9
良いも悪いも、あるひは古からうが新しからうが、そこに現はれてゐるものが日本精神なのである。従つて
どんなに文化と関係ないと思つてゐる人でも、文化と関係ない人間はゐない。
歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であつても、そこには日本人の魂が入つてゐるのである。
私は文化といふものをそのやうに考へるので、文化は形をとればいいと思ふ。形といふことは行動であることもある。
特攻隊の行動をみてわれわれは立派だなと思ふ。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には
「バカ・ボム」といはれるだらう。
日本人のいろいろな行動を、日本人が考へることと、西洋人の評価とはかなり違つてゐる。
彼らからみればいかにばか気たことであらうとも、日本人が立派だと思ひ、美しいと思ふことがたくさんある。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
375名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 12:25:35 ID:LgAyNje9
西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、
不道徳なものは全部やめようぢやないか――といふのが文明開化主義である。
西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、
さういふものを全部否定していつたら、日本には何が残るか――何も残るものはない。
日本文化といふものは西洋人の目からみて進んでゐるとかおくれてゐるとか判断できるものではないのである。
従つてわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかつたことを知らなければならない。
西洋の後に追ひつくことが文化だと思つてきた誤りが、もうわかつてもいい頃だと思ふ。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
376名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 15:00:03 ID:loEo5qA5
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。
私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が
多いが、憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。
天皇陛下を政治権力とくつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力として
くつ付けたことは過去の歴史の中で何度かあつた。しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。
それをどうして、われわれは陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私には
その点がどうしても理解できない。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
377名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 15:00:53 ID:loEo5qA5
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。
しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる文化の象徴である。
さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。
日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、
政治的偏見にまどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が
必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
378名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 15:01:50 ID:loEo5qA5
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり市民武装
といふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。
勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。日本刀を
美術品とか文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に冗談話をするのだが、
日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに
向けるべきか、といふことこそ問題だと思ふ。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
379名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 15:02:46 ID:loEo5qA5
…これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。
自衛隊は、平和主義の軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、
一人一人高度の思想教育を行なはなければならない。
さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、日本の隣にある、
このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
380名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 15:04:47 ID:loEo5qA5
ドナルド・キーンといふアメリカ人がおもしろいことをいつてゐる。幕末に来日した外国人旅行記を読むと
「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。
それは臆病だ」と書いてゐる。ところがそれから五、六千年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを
世界中に知られたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻つてしまつてゐる――といふのである。
しかし鯖田豊之氏にいはせると、日本人は死を恐れる国民だといつてゐる。これはおもしろい考へ方だと思ふ。
確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出してゐる。日本人だつたら大変な騒ぎだと思ふが、
羽田空港などで戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見てゐても、けろりとしてゐるが、日本人だつたら
とてもそんな具合に淡々として戦場に行けるものではない。まづ千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、
涙と歌がついて、悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入つてくる。それらが死のジャンプ台に
ならなければ、どうにも死ねない国民なのだ。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
381名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 15:06:53 ID:loEo5qA5
私はインドへ行つて死の問題を考へさせられたのだが、ベナレスといふ所はヒンズー教の聖地だが、そこでは
人間が植物のやうに死んでいく。死骸がそこらにごろごろあつて、そばでそれを焼いてゐるのに平気でゐる。
これは死ねば生まれ変ると信じてゐるためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会へるといつて、
病気になるとお経を読んで死を待つてゐる。
このインド人のやうな植物的な死に方は、日本人にはとても真似できないだらう。
日本においては死は穢れだとされてゐることもあるが、日本人といふものは非常に死の価値を高く評価してゐる。
だから、たやすく死んでたまるかといふことで、従つて切腹で責任を果たすといふことにもなるわけだ。
私たちは、さういふ死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければ
ならないと思ふ。繰返へすやうだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
382名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 03:09:56 ID:HVaFu+Pv
21世紀は高貴な魂の時代
いよいよ日本人の真価が問われる。
383名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 00:54:44 ID:8m2CKDbJ
かく戦えり〜近代日本史〜/戦士よ、起ち上がれ!
http://www.youtube.com/watch?v=Pjn2toKjDAw
384名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 13:45:16 ID:z64lxRa0
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。…
第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、絶対
ありえないからだ。これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべてウソである。
被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる被曝者は
一人もゐない。(中略)
広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。(中略)
それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。
この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もつとも、原爆によつて突然発生したと
いふより、私自身の中に初めから潜在したものであらうが……。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
385名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 13:46:14 ID:z64lxRa0
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは
二度とくりかへしません」といつた。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の
「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。
そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。
一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される
工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は
核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
386名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 13:46:38 ID:z64lxRa0
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることが
できない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、
輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。
日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が
保たれたかといふと、さうは思へない。第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、
今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さが
わかつてゐても、必ず使はれたらう。人間とは本来、さういふものである。その意味でヒロシマこそが、
最大の「核抑止戦略」であつた。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
387名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 13:47:02 ID:z64lxRa0
加へて、第二次大戦を転機に、世界的に被害者と加害者の逆転がおこつた。先進国が後進国に負ひ目をもち、
大国のアメリカが外ではベトナム、内では黒人問題で手をやく――といつた一連の現象である。つまり弱者が
優位に立つといふ“逆勢力均衡”なのだが、その先端を切つたのは、被害者の極、ヒロシマなのであつた。
将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。ベトナムのやうに、今使ふかと世界の注目を
あびてゐる地点よりも、未開の国で突如使はれるかもしれない。大国が、中程度の国をそそのかして核使用の
口実をつくることも考へられる。
だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としての
ICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ
考へに達した時であらう。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
388名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 00:02:22 ID:rjDJF2XS
Tribute to Yukio Mishima and Tatenokai
http://www.youtube.com/watch?v=bFR3iO5HqWk
389名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 23:04:47 ID:JF4qDWYt
「森田さんは、非常に純粋な方でした。だから、すべてを賭けておられたんでしょう。それは、言葉の片言隻句に
森田さんの純粋な気持を私なりに感じました。楯の会に対して、大切にしようという思いをつくづく感じました。
森田さんは、三島先生だけを行かすわけにはいかない、という学生長としての立場もあって、十分考えられたんじゃ
ないですかね。
すべてを森田さんが引き受けてしまったのだという思いはずっとしています。非常に、それは、辛い……。
若い、純粋な人が……。(中略)
今の日本には、遺憾極まりない気持です。靖国神社にしても、日中問題にしても、全部本質的なことを飛ばして、
表面的なことだけでやり過ごしている。そういうことを、森田さんは我慢ならなかったんだと思います。私は
今でもそうだから、二十代の純粋な考え方だったら、本当に我慢できなかったと思いますよ。
私は、今、学生にも言うんです。『こんないい加減な世の中に対して、君たちはなぜ憤りを持たないのか?』と。
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
390名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 23:05:46 ID:JF4qDWYt
楯の会にいたことを、特に学生には言っていません。三島由紀夫の本を読んだ学生はあまりいません。読めない
でしょう。あらゆる面で学力低下がひどいから、日本語がどんどんおかしくなっています。
僕らは、あの当時、それなりに自分の国のあり方を真剣に考えていました。右であろうが左であろうが。やっぱり
もっと国に対して真剣だった。今は、みんな本当にそういうものがまったく感じられない。(中略)
平和というのは、戦わないこと。今の日本では、それが平和だと言われています。不戦の誓いだとか。
本当にそうなのかなと思います。むしろ逆ですよ。平和というのは、自国の防衛をきちっとやって相手から
侮られないというのが平和であって、戦わないというのが平和ではないんです。それは奴隷の平和です。攻めて
くればやるぞ、という覚悟があって初めて平和というものは維持されるわけですから。
森田さんの志を恢弘せよというのは、やっぱりそれぞれ自分たちの現在の場所においてその当時の気持を実現せよ、
という意味で私は理解しています」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
391名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 12:31:00 ID:I/a5U3JX
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな
状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。


私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて、むしろ
国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て
二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のナインであり、天皇信仰自体が永遠の
現実否定なのである。


道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。
二・二六は、このやうな意味で、当為(ゾルレン)の革命、すなはち道義的革命の性格を担つてゐた。
あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の
形態をとる。すなはち日本天皇制における永久革命的性格を担ふものこそ、天皇信仰なのである。

三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
392名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 12:31:31 ID:I/a5U3JX
追ひつめられた状況で自ら神となるとは、自分の信条の、自己に超越的な性質を認めることである。


決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、男性的な美徳である。


事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。弱さとは
そのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? もしさうだとすれば、強さとはファクトを
容認した諦念に他ならぬことになり、単なるファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が
最悪の状況に立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは「最後の楽天主義」の
英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、つひには実在となる。なぜなら、悔恨を
勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。

三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
393名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 11:57:41 ID:DkxSHrcV
天長節奉祝日乃丸大行進の御案内

[日時]
 平成廿二年十二月廿三日(木曜日)雨天決行
  第一部 十七時〜 集會
  第二部 十八時〜 日乃丸大行進

[場所]
 大通り公園中央(神奈川縣横濱市中區弥生町三の卅五)
(地下鐵 阪東橋・横濱橋商店街前の所です)

※日章旗・旭日旗・幟・提燈等歡迎致します。
※服裝自由、隊服着用可、會旗・隊旗掲揚歡迎致します。
※駐車場の用意は御座いませんので、交通機關を利用して御越し頂ければ幸ひです。

[主催] 神奈川縣維新協議會
394名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 12:45:16 ID:5MW85g77
はつきり言へることは、近代戦のもつとも凄壮な様相が如実に描かれてゐる点で、又、ただ僥倖としか思へない事情で
生き永らへた証人によつて、人間の「滅尽争」Vernichteter Kampf がはつきり描かれてゐる点で、これは世界に
比類のない本だといふことである。この本は実にありえないやうな偶然(すなはち証人の生存)によつて書かれた
ものであるから、これ以上の文学的贅沢などを求めるのは全く無意味である。
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を促して
おくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐる
ことである。玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て
戦友の飢を救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に
敗れたけれども、人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
395名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 12:46:35 ID:5MW85g77
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、
頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに戦死したのち、
三日目に米軍野戦病院で蘇り、さらにペリリュー収容所で、敵機を破壊しようと闘魂を燃やす。
しかも氏が生を無視しようとすればするほど、死もあとずさりをするのである。もちろん、氏に課せられた死の条件が
十であるとすれば、その条件がたとひ一であり二であつた人も、一方では現実に命を失つてゆく。それは意志とも、
あるひは勇気とも関はりがない。氏の勇猛果敢が、氏の命を救つたすべての理由であつたといふわけではない。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
396名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 12:47:41 ID:5MW85g77
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、はつきりと
自決の決意を固めてゐたからである。
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、一つの
行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。氏はかう書いてゐる。
「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
397名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 12:49:01 ID:5MW85g77
第三には、これは私自身にとつても大切な問題だが、「見る」といふことの異様な価値である。
行為のさなかでも見ることをやめない人間が、お互ひに「見、見られること」を根絶しようとして戦ふのが、
戦争といふものであるらしい。敵をもはや「見ること」のない存在、すなはち屍体に還元せしめようとするのが、
戦ひの本質である。氏がつひに生きのびたといふことは、氏が戦ひに勝つたといふことであり、自分の目と、
自分の見たものとを保持したといふことである。そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると
同時に、絶巓における人間の美であつた。
そして目が見たものは、言葉でしか伝へやうがない。そこに言葉の世界がはじまり、文学の根元的な問題がはじまる。
言葉が、徐々に、しのびやかに、執拗に、とどまるところを知らぬ動きをはじめるのである。……

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
398名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:08:29 ID:vjV9+I39
戦後、文化の問題の偏頗な扱ひは、久しく私の疑惑を培つて来た。戦争について書かれた作品で、文学作品として
後世に伝へられる資格を得たものは、悉く文学者の作品である。餅は餅屋であるから、もちろん文章は巧い。
文学的な深みもあり、普遍的な説得力もある。しかし、いかんせん、その個人的な戦争体験は限られてをり、
戦闘に参加する前から文筆の人であつた者の目に映じた戦争は、どんなに公平を期しても、そこに自ら視点の
限定がある。いかなる大戦争といへども、個々人にとつては個人的体験であることは当然だが、同時に、そこには、
純戦闘員による戦争の真髄が逸せられてゐたことは否めない。
誤解のないやうに願ひたいが、私は、文学者の書いた戦記が、体験のひろがりと切実さを欠いてゐる、と非難して
ゐるのではない。ただ、あの戦争に関する記録乃至創作を、純文学的評価だけで品隲することは、実は、もつと
大きな見地からは、非文学的、ひいては非文化的行為ではないか、といふ疑問を呈したのである。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
399名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:10:01 ID:vjV9+I39
その好例がこの「戦塵録」である。これがいはゆる文学作品を狙つた記録でもなければ、文学的素養ゆたかな人の
作物でもないことは、一読すでに明らかである。しかしここに描かれてゐるのは、大きな一つの文化及び文化様式の
終末の悲劇なのである。
わけても貴重なのは、筆者が戦闘機乗りとしての純戦闘員であり、戦争の最先端の感情と行為を体験し、又、
一人の若者であつて、純情な恋愛とその愛別離苦を身にしみて味はひ、且つ、戦争の終末とその終末に殉じた人たちの
最期に立会つたといふことである。行為者にして記録者であること、青春の人にして終末の立会人であつたこと、
……このやうな相矛盾する使命をこの人に課したのは、おそらく歴史のもつとも生粋のものを後世に伝へようと
はかられた神意であるにちがひない。
今にして思へば、私は、戦後文化の復興者であらうと自負した人たちの近くにゐすぎた。そこにゐたのは、必ずしも
私の責任ではないが、そこにゐて感じた反撥の数々は、却つて私をして文化と歴史の本質について目をひらかせて
くれたとも考へられる。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
400名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:11:30 ID:vjV9+I39
すなはち、昭和二十年八月、身を以て、日本文化の伝統的様式を発揚し、日本の純にして純なる文化の終末を体現し、
そこに後世に伝へるべき真の創造を行つたのは、いはゆる文化人ではなくて、「戦塵録」に登場する、若い
戦士だつたのであり、自刃して行つた矜り高い武人たちだつたのである。戦後の文化人は、そこにもつとも重要な
文化の問題がひそむことを理解せずに、浅墓な新生へ向つて雀躍したのである。残念ながら、私もその一人で
あつたと云はねばならない。「戦塵録」の著者ならびにその戦友たちは、若き日を、戦ひ、死に直面し、
絶対的なものについて思惟し、しかも活々と談笑し、冗談を飛ばし、喧嘩をし、異国の美女に心を惹かれ、
明日をも知れぬ恋を体験し、……そのやうに十分に生きた上で、ひとりひとり、いさぎよく散つてゆく。冒頭の
人名の上に引かれた赤線は、かれらの名を抹消するのではなく、かれらの名を不朽のものにするのである。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
401名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:12:26 ID:vjV9+I39
そして、選局逼迫の只中にも句会を催ほし、死に臨んでは辞世を作る。日々日本刀の手入は怠りなく、そこには、
日本人に対する日本文化の「型」が与へた最後の完璧な強制とその達成があつた。もちろんかれらは、強制されて
句を作り辞世を詠んだわけではない。しかし文化の本質とは、その文化内の成員に対して、水や空気のやうに、
生存の必須の条件として作用して、それが絶たれたときは死ぬときであるから、無意識のうちに、不断に強制力を
及ぼす処のものである。それこそは文化であり、このやうな文化を理解しなくなつたところに、戦後の似而非文化は
出発したのである。戦士たちの死の作法そのものが文化であるやうな文化の、最高度の発揚とその終末を、
「戦塵録」ほど、みごとに活々と語つてゐる本はなく、その点でいはゆる文学作品をはるかに凌駕してゐる。
では果して、日本文化は滅びたのか? 私は、ここには、反時代的なその「型」の復活の衝撃によつてのみ、
蘇生の可能性をのこしてゐる、とだけ言つて置かう。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
402名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:13:27 ID:vjV9+I39
「戦塵録」は、もとより意図して、文化の発揚と終末を語つたものではない。それは伝来の規律正しい簡潔な
「軍隊の文体」で語られた記録であり、すべてが「型」の文体であるから、そこには人間心理の発見などといふ
ものではない。戦闘状況は巨細に述べられるが、強ひて迫力を加へようとした抒述はない。(中略)
平凡な抒述であるだけに却つて深い真実に迫つてゐる。戦闘の場面と、これら恋愛の場面と、最後の自決の場面が、
「戦塵録」の三つのクライマックスであることは明らかである。
私はその上に、ただ一行、いつまでも心に残る個所をあげておきたい。それは私がそのやうな青空を同じ時期に
日本でも見てゐるからであり、又、今を去る数年前、同じ青空を、現地カンボジアで見てゐるからでもある。
昭和二十年六月二十五日、死を決した著者は、スコールのあくる日の大空、「手を伸せば指の先が藍色に染って
しまひそうな」ほど鮮やかに澄んだ熱帯の空を眺めて、次のやうな一行の感想を心に抱くのである。
「此の大空、果てしない碧空にこそ凡ての真理を包蔵して居るのではなからうか」

三島由紀夫「『戦塵録』について
403名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 06:05:13 ID:Su3vL/To
三島由紀夫「『アナル・セックス』について
404右翼の少年:2011/02/19(土) 15:59:05 ID:7GNmHI6Z
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13608635 ニコニコ動画

強靭な精神をもってしても群衆の騒音という巨大な透明な肉塊は壊せまい。
405名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 00:13:15.44 ID:+M2MUPZl
三島由紀夫はホモなどではない
406名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 19:15:43.15 ID:tnrUN6lY
三島由紀夫先生の主張は正しかった
生きていれば間違いなくノーべ○賞を受けていたであろう
407名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:51:15.59 ID:e+NwkPST
武士道を体現した男
408名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:10:19.99 ID:Cs7glcH0
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。
過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた。といふのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、
昭和初年にいたつて、このやうに否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の
温床となつたために、ますます大正知識人に嫌はれる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあへて
伝へまいとした有害な「黒い秘教」になつたのである。
一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪ひ去つた。北一輝のやうな日本的
革命思想の追究者は、孤立した星であつた。マルクシズムが陽明学にとつて代り、大正教養主義・ヒューマニズムが
朱子学にとつて代つたといふこともできるであらう。朱子学の、なかんづく、荻生徂徠のやうな外来思想の心酔者は、
大正知識人にとつてもむしろ親しみやすかつた。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
409名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:10:39.60 ID:Cs7glcH0
国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものに
なつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、
国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、
インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと
考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者で
あるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底に
ひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、
醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つで
あつたのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
410名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:11:02.08 ID:Cs7glcH0
現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いてゐる。すなはち、西欧化近代化の文明開化主義の
明治政府と、その劇画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを
批判し、あるひは「教育」する立場に矜りを見つける。マルクシストさへ、近代化の方策の差といふのみで、
近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には
出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児で
あるといふ点で、矛盾はない。
現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派といふ様相を
呈するであらう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあつたよりも
激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなつた現在、菌にも耐性ができて、
大ていの薬では利かなくなつたのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
411名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:11:58.73 ID:Cs7glcH0
さて今まではといへば、たとへば(中略)氏(丸山真男)はそのかなり大部の著書の中でわづかに一頁の
コメンタリーを陽明学に当ててゐるに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、
これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学で
あるとなし、陽明学は朱子学の理の内包してゐた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、
朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失つた、と説いてゐる。
しかしながら陽明学は、明治維新のやうな革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印してゐた。
陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの
二本の柱にあると思はれる。(中略)二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッカーの準備した
能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、
ナチスのミスティシズムを形成した。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
412名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:12:24.65 ID:Cs7glcH0
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に
入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは
人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。
本居宣長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがつて平田篤胤、さらには林桜園のやうなミスティックな
神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培つた。
また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といはれる大塩平八郎の乱の
背景をなし、大塩の著書「洗心洞箚記」は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいふべき西南戦争の首領
西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
413名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:05:12.98 ID:Cs7glcH0
また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打つてをり、一度アカデミックなくびきをはづされた
朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へ
おりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあづかるのである。
主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによつて善悪を超越する哲学であるこの陽明学といふ危険な思想は、
丸山氏のいふところの、まさに逆を行つて、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派といふ仮面に隠れながら、その実、
もつとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かつて進んでいつた。その「良知」とは、単に
認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入つて創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、
武士的な行動原理と思はれる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもつとも危険な消息を伝へるものであつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
414名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:05:41.99 ID:Cs7glcH0
(中略)
私はさつき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するといふことを言つた。陽明学の時代にはニヒリズムと
いふ言葉はなかつたから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に
表はれてゐる。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚といふものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを
良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると
主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま
太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた
思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に
偏在する太虚に帰することができるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば能動的ニヒリズムの根元と
考へてよいだらう。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
415名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:06:13.75 ID:Cs7glcH0
ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまふことは、森鴎外も小説「大塩平八郎」の中でそれとなく
皮肉に指摘してゐる。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達してまた現世へ
戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へにはこの仏教の空観と陽明学の太虚を
つなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、
また陽明学的な行動ともいふことができるのである。
陽明学をごく簡単に説明したものとしては、井上哲次郎博士の「王陽明の哲学の心髄骨子」といふ古い論文がある。
(中略)明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこつた人であるが、朱子哲学が二元論であつたので、
これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるひは平等主義的な傾向を与へて
陽明学を体系づけた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
416名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:06:31.83 ID:Cs7glcH0
(中略)
そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに
立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
もちろん、認識と行動との一致といふことを離れて考へてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては
古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、
恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。これは哲学の中の二つの潮流を
形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表はれとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現はれた。
陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとした
ものだからである。私がかう言ふのは、学問によつてではなく行動によつて今日までもつとも有名になつてゐる
大塩平八郎のことをいま思ひうかべるからだ。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
417名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:06:52.90 ID:Cs7glcH0
(中略)
大塩が思ふには、われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、太虚の一つである。
この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つて
ゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に
帰すれば、天がすでにその心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていくほかはない。形の
あるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。
しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を
語ることができるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
418名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:11:15.78 ID:Cs7glcH0
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して
真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、
すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであると
いふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」といふことを
つねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと思はれるのである。心がすでに太虚に
帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。
心が本当に死なないことを知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
419名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:45:04.44 ID:UaF2S6iL
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
420名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:45:31.16 ID:UaF2S6iL
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共に死ねなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
421名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:45:51.32 ID:UaF2S6iL
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
422名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:46:12.25 ID:UaF2S6iL
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
423名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 15:32:12.24 ID:UaF2S6iL
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
424名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 15:32:30.85 ID:UaF2S6iL
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
425名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 15:32:51.92 ID:UaF2S6iL
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
426名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:36:50.48 ID:KOCuU+a8
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
427名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:37:10.05 ID:KOCuU+a8
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
428名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:37:30.64 ID:KOCuU+a8
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
429名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:37:51.46 ID:KOCuU+a8
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
430名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 22:05:57.90 ID:srjA7x0R
「蜂起する時が来ている」

三島が生きていればこう言って迷わず行動しているはず
ニ・ニ六事件と同じように

三島は生まれる時代を間違えた
あと少しでこの国は滅びるかもしれない
意志を継ぐ輩は存在するのだろうか
431名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 23:50:15.13 ID:PY4uAtke
 新聞はなぜライフラインと原発報道しか報じない?
  デフェンス・ラインに関して、あまりに報道が少なすぎないか?
****************************************

 予備自衛官に招集命令がでたのは、じつに震災から五日後、3月16日である。
この出遅れは諸外国では考えられない不手際である。政府に危機管理感覚が欠落している証拠である。
 それにしても、登録した予備自衛官が6000人強しかいないというのも、非常識ではないのか。自衛隊OBは少なくとも数十万人はいるだろう?

 ライフライン偏重、ビジネスラインの報道となると日本経済新聞を読んでいないと理解できない。ましてデフェンス・ラインとなると日本のマスゴミには詳しい考察が見あたらないのは何故か?

 震災から五日目にようやく仙台港が整備され大型船が着岸できるようになった。
兵站(ロジェスティック)支援でいうと、これが一番大事であり、ライフラインの根幹である食料、燃料、医薬品、機材、建材などの運搬は兵站拠点の構築、再建にある。米軍の揚陸艦が貨物搬入作戦を開始する。
432名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 23:51:20.99 ID:PY4uAtke
 秀吉は戦国武将のなかでも、とりわけ兵站に天才的才能を発揮した。だから殆どの戦闘に勝利した。家康から明治維新、日清日露の戦役まで、日本人は兵站についてよく理解できていた。

 ライフラインへ水、食料、医薬品、おむつ、粉ミルクを搬入する運搬ルートは、戦略的にいえばライフラインではなく、デフェンス・ラインなのである。
日頃、国家安全保障や防衛に無頓着な政治家、ジャーナリストしかいない国でも物事の基本が分からないらしい。無邪気に道路が塞がれている、はやくなんとかしろと騒いでいる評論家がいるが、あれはいったい何だろう?
 米倉経団連会長が嘆いた。「被災地に物資を送ろうにも、送る手段がない」(16日、記者会見で)。

 仙台空港は米軍の協力で再開に漕ぎ着け、ヘリコプターの発着が可能となり、孤立した村々への物資輸送ができるようになった。これは米軍主導でおこなわれた。米軍輸送機C−130機が二機、仙台空港の着陸し、本格的復旧作業に入った。
 洋上の米空母は大車輪の活躍をした。艦上から減りで物資を運び、各地の救援活動に尽力した。
動員された米兵は一万人と言われる。

433名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 23:52:22.62 ID:PY4uAtke
 空母がなぜ大事か?
欧米、いや中国でも小学生でも理解できることが、日本の政治家にようやく理解できたようだ。空港、港湾が壊滅的打撃を受けた場合、
空母とは「移動できる飛行場」であり、移動可能な拠点の必要性は、今回のような災害のときに数倍数十倍の威力を発揮するのである。

 また大量物資を運ぶに、少量しか運べないタンクローリーを西日本から500台も廻すと海江田大臣が自慢そうに記者会見したが、
自衛隊に揚陸艦があれば、タンクローリーも積み込める。フェリーをチャーターすることも復興シナリオには算入しておくべきであろう。
 
 松島基地ではわが航空自衛隊の戦闘機28機が津波の被害にあった。防空能力は激減したのだが、代替予算の話さえない。
 ディズニーランド休園延長などというニュースはどうでもいいことではないか。
434名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 16:22:04.05 ID:yuI7HuVJ
阪神の時におにぎりと辻元のビラを配りながら拡声器で自衛隊批判を始めたババアがいた。
辻元清美、 阪神大震災の被災者へ
「自衛隊は違憲やから自衛隊が支給する 食べ物は食べるな!」
435名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 10:55:17.44 ID:lP6mVa0x
三島由紀夫の噂話・思い出話2
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1298604504/
436名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 12:41:10.04 ID:LPfGMbYK
思想的立場からこの著者に偏見をもち、かういふ本をことさら避けてとほる人たちが居れば、さういふ人たちは
私には狭量に思はれる。何はあれ、宮崎氏は、道徳的善悪を離れて、自分の感じ方に忠実なのである。
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンが
あつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。日本人が
ボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的であり、
人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。

三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
437名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 12:41:37.71 ID:LPfGMbYK
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の
書くものも、一般人を納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、
動物学者の書いた狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に
映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。
私は何も礼を失して、宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に
貴重なのである。
(中略)
氏は決して異常でもなければ特殊でもない。(中略)軍隊そのものも、決して日本および日本人にとつて、
突然変異的な発生物ではなかつた。その社会的必然、経済学的必然は自明であり、兵隊のもつてゐた平均的情緒、
平均的悲哀は、日本人の内に深く根ざし、今日おもてむき軍隊をもたない日本にも、この種の感性は、依然
普遍的に潜在してゐる。

三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
438ホモ>1:2011/04/14(木) 15:44:47.30 ID:NwkmZdyW
・菅直人君が大震災で東工大の同窓生幹事に聞いて来たときのメモ(流出)

「改憲派議員は人間的に鼻糞(ハナクソ)」と女子大生から言われる意味は?
「前原がペンタゴンの犬で悪いかよ!」とスタバ中板橋店で長島昭久は何故喚いたの?
自民党森善朗の息子と世襲坊や小泉進次郎の頭と性格が酷似している理由。
麻生太郎は何故、株式2chネルを買い取ったのか?
http://www.angelfire.com/planet/horiemon06/mokuzinoko.htm
沢尻エリカと辻元清美は9月2日に「純米酒・田部婁潟」を何本買ったのか?
原子力委員長中曽根康弘の娘が原発建設1位の鹿島社長と結婚したのは愛かい?
安倍晋三は騨床市内の駒模町で本当に4回もケツを拭いたのか?
自民党と民主党右派の議員が朝五時に軍部官僚の靴磨きに列を成すのは何故だ?
金正恩は学生時代に北千住のキャバクラ「Jun」で牧田美奈子に会ったのか?
菅直人が毎日3個しか食べない「清トメ煮」は本当は1個幾らなのか?
http://esashib.web.infoseek.co.jp/zisinmokuzi.htm
439名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 20:05:51.85 ID:ClW7i6PS
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。

三島由紀夫「わが同志観」より
440名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 20:06:27.76 ID:ClW7i6PS
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、神と
個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。

三島由紀夫「わが同志観」より
441名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 20:06:53.10 ID:ClW7i6PS
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。

三島由紀夫「わが同志観」より
442名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:30:47.91 ID:9/fMoBvi
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、その論理が終るまで
やむことがない。これはあたかもぜんまいを巻ききつたおもちやが、そのぜんまいがゆるみきるまで無限に同じ運動を
繰り返すのに似てゐると言へよう。知識人にとつては、行動のこのやうな論理がこはいのである。


目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きてゐる人たちは行動といふものを
忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理がある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや
言論ではなくて、肉体行動に帰着しなければならないことは当然なのである。


人生の時間や、また何百時間に及ぶ訓練の時間は人々の目に触れることがない。行動は一瞬に火花のやうに
炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。であるから、時間がかからないといふことによつて
行動を軽蔑することはできない。

三島由紀夫「行動学入門」より
443名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:31:18.18 ID:9/fMoBvi
体を動かしてゐるときには、われわれの体自体が全体なのである。したがつて、自分の体以外の全体といふものは
その目に映らない。どんなにチームワークのとれた団体競技であつても、その一人一人のプレーヤーの行動は、
いつも全体の見地から行なはれてゐるわけではない。われわれは全体が見えないで、自分の命じられ、指定された
行動の中で全力を尽くすときに、肉体行動としての最高のレベルに達することができる。しかし、その場合にも
少なくとも集団行動であれば、全体を見透かす目がなければならない。ところが、人間が全体を見透かすのは
目だけであつて、体全体ではないのである。


ここに一つの矛盾が起きてくる。われわれは、行動しようとすると自分の体を動かす。しかし、その行動を有効にし、
目的に向かつて進めようとすれば、かつ幾つかの力を集めて、集団的な力を発揮させようとすれば、どうしても
その全体を統制する行動者にならなければならない。しかし、全体を統制する行動者になることは、無限に自分から
肉体的行動の余地を少なくしていくことなのである。

三島由紀夫「行動学入門」より
444名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:31:45.57 ID:9/fMoBvi
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外にはなくなるであらう。
ところが死の向う側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを考へることは
できないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がないとすれば、それ以前の
すべての効果は無効にすぎない。
しかしまたそこには逆説が成り立つので、われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを
発見しないのかもしれない。


無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、そこに正義運動の
反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。

三島由紀夫「行動学入門」より
445名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 10:17:49.92 ID:AwM85syh
待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を
発揮することであり、そこにこそほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つて
ゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、
賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められ
なければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。


長い待機の時間はことばではないのである。行動とことばとの乖離が行動を失敗させるやうに、ただことばや観念で
待機に耐へようとする人間は必ず失敗する。坐禅がその間の消息をよく説明してゐるが、面壁して何時間でも坐つて
ゐなければならぬといふ、あの精神状態には、生き、動かうとする人間の行動を徹底的に押しつぶして、そこに
人生の真理に到達する精神的なバネを、たわみ込んでいくといふ発明がみられる。行動がことばでないと同様に、
待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で最も苦しい時間なのである。

三島由紀夫「行動学入門」より
446名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 10:18:26.91 ID:AwM85syh
アメリカ的な戦術は敵の可能行動を幾つかに分析して、消去法によつてその可能行動を絞つて、それに向かつて
こちらの作戦を立てるといふことが綿密に行なはれてゐる。しかしかういふ合理的な作戦といへども、相手が
自分と同じ頭脳を持ち、論理構造を持つてゐるところで初めて成り立つもので、敵が宇宙人であるかあるひは
ベトコンのやうに、アメリカ人とまるきり違つた生活感情と論理構造を持つてゐる人間が相手のときは往々にして
失敗する。
計画は百パーセントを規制するものでもなく、行動の百パーセントの成功を保証するものでもないが、その
何十パーセントかを可能の範疇の中に組み入れる。人は行動の型を持つてゐる。(中略)相手方の行動のパターンを
収集するのは情報の働きである。


ソウル市内の北鮮スパイがいかにして露見するかを聞いたが、実につまらないことでたびたび捕まつてゐる。
一例がタバコである。(中略)北鮮スパイはまづタバコの値段を聞くところで足がつく。またタバコの値段をよく
知らないので、おつりをもらふのを忘れたことで足がつく。(中略)向う側からいへば、情報の不足である。

三島由紀夫「行動学入門」より
447名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 10:18:59.18 ID:AwM85syh
行動とは、自分のうちの力が一定の軌跡を描いて目的へ突進する姿であるから、それはあたかも疾走する鹿が
いかに美しくても、鹿自体には何ら美が感じられないのと同じである。およそ美しいものには自分の美しさを
感じる暇がないといふのがほんたうのところであらう。自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、
美がその本来の純粋な形をとるとも言へる。だからプラトンは「美はすばやい、早いものほど美しい」と言ふのである。
そしてまたゲーテがファウストの中で「美しいものよ、しばしとどまれ」と言つたやうに、瞬間に現象するものにしか
美がないといふことが言へる。


武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則として、そこへこめられる
精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいてゐる、といふところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか
行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、
誰が持つことができようか。

三島由紀夫「行動学入門」より
448名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 12:10:00.91 ID:VXxv+0fW
力はいつも数で評価され、戦力は数以外にはないと思はれてゐる。しかし、数が増すほど行動のヴォルテージが
下がり、数が減るほど行動のヴォルテージが上がつて、例へばテロ化する、といふ法則も亦厳然として在る。
ゲリラは多くは小さな集団であつて、その小さな集団では数はたいして意味をなさない。その数のかはりに
一人一人の能力と、おそるべき意志力と、その団結心が要求されるのである。ここで集団と団結心との問題が
きは立つたコントラストをなして浮かんでくる。
もし、鉄の団結を持つた大集団があれば、それは有効であり、人におそれられるであらう。(中略)しかしながら、
ほんたうの意味で強固な団結心に富んだ、巨大な集団といふものは考へられない。われわれは自分の手で小さな
集団でもつくつてみれば、小集団ほど団結心も高い筈であるのに、その実、いかに強固な団結心をつくるのが
むづかしいかといふことを、如実に味はふのである。

三島由紀夫「行動学入門」より
449名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 12:10:31.74 ID:VXxv+0fW
集団をつくれば、そこにおのづからその集団の目的に照らして、人間の差が歴然と出てくることを否定することは
できない。ごく簡単に言つても、十人の集団がゐれば一人が自然に指導者になるだらう。そして百人の集団のうち
十人が精鋭であれば、あと九十人は幾つかのニュアンスを持ちながら、ぐうたらの会員から、非常に熱心な会員までの
幾段階かに分けられてしまふ。キリストの弟子は十二人あつて、そのうちに一人ユダといふ裏切り者がゐたやうに、
集団は宿命的にさういふものを持つてゐるのである。
そして集団の濃淡は、一番濃い中心としての指導者から、周辺に広がるほど薄まつていき、その薄まつた極限まで
全部を含めた行動が集団行動となる点では、大衆社会の何千人、何万人のマス行動とも何ら変りはない。


一人一人が全く自発的な意志で、全能力をかけて、お互ひにまた同じやうな高さの能力を持ちながら団結すると
いふことは、実は口で言つてもやさしいことではない。

三島由紀夫「行動学入門」より
450名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 01:02:00.68 ID:wC8iX005
はじめてこう言う所の存在を知りました。
遠く和歌山有田の地から拝読しております。
451名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 09:58:09.23 ID:+FcDo7HY
>>450
ありがとう。
452名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 19:38:05.93 ID:8BtY+gA2
われわれは集団行動と一口に言ふけれども、そこに微妙なニュアンスの差があつて、最後の最後には、中心の個人の
決意にすべてがかかつてゐるといふことをみるのである。一種の非合理的な熱狂と陶酔の渦で大ぜいの人間を
巻き込みながら、一つの目的へ向かつて突き進めるには、その中核体が熔鉱炉の炎のやうに燃え盛つてゐなければ
ならないのである。革命的指導者とはそのやうなものであり、右からの革命でも、北一輝はそのやうなカリスマ的
性格の持ち主であつた。いはばカリスマ的性格とは、核融合を起させる一番最初の核のやうなものであつて、
彼が原動力であり、彼が炎の中心であるからこそ、火は燎原の炎のやうに周囲に広まつていくのである。そこで
われわれは集団行動といふことばにまぎらはされずに、一人の人間の意志が歴史を突き動かし、結局、大きな歴史も
一つの人間意志から生まれたといふところに注目しなければならない。カストロも、また、ゲバラも毛沢東も
一個人であつた。どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだといふことを知らねば
ならない。

三島由紀夫「行動学入門」より
453名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 23:09:15.99 ID:+nIWNNR1
すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。行動は、
たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断はなかなかつかない。歴史の中に
埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為はたくさんある。


行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせないからこそ行動なのである。
ことばでとらへた行動といふものは、煙のやうに消えていき、そこに何ら痕跡は残らず、また、行動の理論体系を
立てるといふこと自体が、行動家の目から見ればすでに滑稽である。


法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びて
ゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの
見地から裁かれるやうになつた。

三島由紀夫「行動学入門」より
454名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 15:41:36.05 ID:VTSL/g9M
行動はともするとヒューマニズムを乗り越えるものであり、生命の危険ををかすものであり、したがつて、
近代ヒューマニズムがつくり上げた全体系と衝突するものである。


会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 
後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 
現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢に
まみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らが
かつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗に
さらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて
否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。

三島由紀夫「行動学入門」より
455〒(^-^)/:2011/06/30(木) 00:16:11.72 ID:sFJKTeLL
三島由紀夫の自衛隊体験入隊が笑える、自分より年下の陸曹から靴磨きが不十分だ
と指摘され逆ギレしそうになりながら磨いたそうな、インテリは結果肉体労働には
不向きで変なプライドが邪魔するんだ。偉そうに革命を企てるが自衛隊員のほとんどが薄ら笑いで聴いてたよ、侍気取りで自決してるしホモの小説を執筆してるし
何がしたかったのか分からん。
456名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:42:54.42 ID:mq0SIuql
言論の自由も左翼の言論の自由と右翼の言論の自由がある。私も小説を書いていますときはさほどに感じない
けれども、文壇というところは、文学賞など審査する場合、私ははっきりいえますが、かりにも思想的偏向で
作品を選んだことはない。たとえそれが、共産党員であろうがなかろうが、自分と政治的意見がかわろうが、
文学作品としてよければいいという立場を通しております。しかしひとたび評論の世界に入ると、なるほど
むずかしいもんだなということを最近痛感したことがあります。
私事ですけれども(中略)「文化防衛論」というのを書きました。つまらんものですが、一所懸命書いたんで
七十枚ほどの長いものになった。そうすると、読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが
文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。
ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
457名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:44:02.19 ID:mq0SIuql
三島:もう一つはテレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それをフィルムではどうにでも
なるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィをつけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を
吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、偏向にしろ、
われわれは実に微妙なところで生きているということです。

小汀:ほんとうにそうです。(中略)
無着成恭という寺の坊主の、あんまり日本語のできない人、(笑)それと対等で議論するというんだ。ぼくは
(中略)しゃべる機会がほとんどない。こららにしゃべる機会を司会が与えないようにしているんだ。(中略)
(無着は)発言したら最後、マイクをはなさないんだ。(中略)向こうが七分の土俵を使えて、こちらは三分しか
使えない。そういうたくみな戦術をつかうんだ。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
458名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:45:09.98 ID:mq0SIuql
三島:タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。子供が「先生、
スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、その無着が「チミ、
それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうのハナスと違うの。
ツガ(違)うけれども、あのネ(中略)アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがら
スサノオノミコト、ツウ人がいだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐ
したの。(中略)それがら機織りをこわして……(中略)あの岩戸ツウのはどう考えればいいがツウと、あれね、
お墓なんだね。(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。そして
神話的なことを全部リアリスティックに教えている。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
459名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:45:40.15 ID:mq0SIuql
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
460名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 23:58:41.24 ID:mq0SIuql
>>459訂正
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
(中略)とにかく厚顔無恥というのが彼らの特質ですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
461名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:14:16.25 ID:E71ywee8
(全般的に右寄りの人たちは)清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、
清らかのまわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、清らかなものだけ
もっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは清らかなものの中にもあるんだということが
理解できないんですよ、彼らは……。むしろ左翼はそこらはうまいですよ。はじめから民青なんかのサークルでも
男女交際、(中略)きれいな女の子なんかがいっしょに手をつないでくれる。まあフォークダンスやりましょう、
そのうちに女の子のほうがアクティブだと、「こんどのなんとかの反戦デモに参加しない?」というと、
「きみにいわれたら……」ということになるでしょう。みんなエロティックからはいっていますよ。(中略)
これでは(右翼は)チャームという点がむずかしい。ユーモアも笑いもなくてはね。
いかに思想が正しくても欠点は欠点で自覚しなきゃいかんと思います。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
462名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:15:00.82 ID:E71ywee8
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
(中略)それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い兵器を
もっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。いままでは兵器は使えるからこそ
強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。広島で使ってあんな惨禍を起こして
使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは
心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対する
ものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方からしみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて
被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
463名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:15:44.40 ID:E71ywee8
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。つまり女が
男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。
そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。それで全学連がヘルメットの
下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと垂れるようになっているという話も
ききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
464名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:17:52.61 ID:E71ywee8
(中略)力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。これは
世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と
世論というものの関係だと思います。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
465名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 11:53:58.21 ID:xneCKrW+
ところでさぁ、ネトウヨの聖書=三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』に南京大虐殺が出てくるって知ってる?
新潮文庫137ページ。

> 「あの川又という老人は、もとの有名な川又大佐なんだよ。君も知ってるだろう。南京虐殺の首
> 謀者と目された男だ。
>  あいつはとうとう身を隠して、戦犯裁判から逃げとおした。もう大丈夫となると、姿を現わし
> て、この牡丹園を買いとったんだ。
> 戦犯の罪状には、彼の責任をとるべき虐殺が、数万人に及んでいる。しかし本当のところ、大
> 佐がたのしみながら、手ずから念入りに殺したのは、五八○人にすぎなかった。
>  しかも、君、それがみんな女だよ。大佐は女を殺すことにしか個人的な興味を持たなかったん
> だ。
>  ここの持主になってから川又は牡丹の木を厳密に五八○本に限定した。手ずから花を育て事実
> 牡丹園はこれだけの成果をあげている。しかしこんな奇妙な道楽は何だと思う?
466名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 17:29:35.81 ID:PN9ghboA
「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。暴力団の
不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。われわれは社会的な
病気だ、ソーシャル・ディジーズだ、すべて社会の被害者で、社会の矛盾がわれわれに集中されて、こういう
人間になっちまった、われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いと
いうんです。お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。そうすると
金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。これは
人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
467名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 17:31:13.25 ID:PN9ghboA
たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、(中略)何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地を
ほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、
撃っちまえばいいんですからね。そのくらいのことをアメリカは考えなければだめだと。(中略)双務的で
あれば、国民は納得する。納得させるためには、アメリカの広いところで、一坪くらいの土地がなんだ、と
そういったんです。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
468名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 17:32:32.42 ID:PN9ghboA
向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)こっちもやっているし、向こうでもやっているから、
おあいこですね。
それで解放されますよ、こっちのアメリカの基地は、そのかわりにこっちで責任をもって守ってやる。
もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権が
どこにあるかということになると、実にむずかしいですね。(中略)最終指揮権については、いろんなカバーが
あるわけですね。(中略)
私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
469名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 17:36:13.34 ID:PN9ghboA
ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても日本を
まもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。
(中略)
ところで自衛隊のことは、ぼくはあんまり細かいところまで知りすぎているんで、物をいいにくくなって
いるんですが、訓練の安全管理の問題を一つとってみても、予算がいろいろ響いている点があると思うんです。
はやい話が自衛隊には、はばかりの紙がないんです。紙の予算がないんです。だからみんな兵隊はPXで鼻紙を
買って、けつをふいているんですよ。
(中略)紙ならいいです。別に命にかかわりはないから。ところがレインジャー訓練のとき、末端の部隊には、
新しいロープが配給にならないんです。そうすると、何度も何度も耐久限度のすぎたやつを使っているところが
あるんですね。ちょっと危ないなと、思ってもやっちゃう。それでロープが切れて、現実に事故が起こっている。
これは予算ということもひとつの問題です。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
470名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 23:01:56.18 ID:PN9ghboA
こういうことをあまりいっちゃいかんかもしれないけれども、防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの
軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に
共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
471名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 11:13:14.06 ID:bP1+HaLs
僕は、自由主義政治論の欠点は、人間の理性の盲信というのがあると思うのですよ。バートランド・ラッセルが、
現在では、いちばん狂気に陥りやすいのは理性だと言っているのですね。つまり、政治がそんなに技術的に
扱えるものだろうかという疑問が、僕には非常にある。(中略)
ナショナリズムは、近代的理性の産物であるネーションをやすやすと逸脱してしまうわけです。そんなことから、
だんだん考えるようになったのは、なぜプラトンが、理想国家から詩人を追放したのか。それは自分に似て
いるからではないか。理想国家の政治家にとっては詩人が自分たちに似すぎているからではないか。自分に
似たものは、ほかにはいらない。政治というのは、どうも人間の根元的な衝動に根ざしていると思う。本来、
政治と芸術というのは同じ泉から出ているのではないかと僕は思う。だから排斥し合うのではないかと。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
472名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 11:14:17.05 ID:bP1+HaLs
進化論が迷妄なら、政治制度の進化論も迷妄であって、政治にとって、原始的形態は必ず、よく理性で考え抜かれ
磨き抜かれた近代的形態の間隔を縫って出て来る。理性的、技術的な政治制度は、政治の本源的なパトスと必ず
抵触するときがくるからです。政治の世界の、普遍的理性という問題は、国際連盟で失敗し、戦争裁判で馬脚を
現わし、国際連合で無力化している。現実の政治制度は、人間の普遍的理性と、民族の深層心理的衝動との、
二つの車輪の間にいつも二つに引き裂かれる宿命をもっている。アメリカのような国では、それでなんとか
やっていけるでしょうが、もっと古い歴史のある国では、反発するものが起きてくるのは当然だと思うのです。
それだけでは、どうも政治も物足りなければ、芸術も物足りなくなってくる。それで、政治が物足りないのは
たしかで、僕は、アメリカン・デモクラシーが普遍妥当性をもっているとは、微塵も思いませんがね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
473名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 11:15:40.59 ID:bP1+HaLs
(戦前は)こんな狭い国は、こんなに人口が多くては、とても食えないと。それでどこかの領土を開発しなければ
ならない、なんだかんだと言っていたわけですよ。ところが戦争が済んでやってみたら、人口が多いことは
かえって経済復興にプラスになった。同時に狭い国に人口が多いということは、横(大衆、空間)の社会の形成を、
とても容易にした。というのは、人口が少なければ縦(伝統、時間)の世界を維持できる。人口が多いものだから、
横の社会の形成が楽にできた。というのは技術社会に入りこむことがたやすかった。そうすると、戦前からの人間の
考えとまるで逆な現象が現われた。これだけの人口が、賃金の上昇によって国内生産物を国内消費する体制が
できて、そうして横の社会が成立して、テレビやマス・コミュニケーションが発達して、すべてが瞬間瞬間に
横にダーッと広がるでしょう。縦には絶対広がらない。横にだけ広がる。そのなかで、もちろん技術伝承は
いらなくなる。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
474名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 11:16:37.80 ID:bP1+HaLs
そうすると作家の孤立というのは、ほかの国の倍ぐらい孤立してきているのではないかと思うのです。作家と
いうのは、技術的にはなるほど横の社会の住人だが(小説の近代化がますますそれを助長したのだが)、言葉に
おいては、あくまでも縦の世界に生きているものだと思います。そうするとわれわれが人生というものに対して
もってる夢、人間というものに対してもってる夢は、いつも縦の形で出てくる。それが横と完全に交差した一点しか
ないのですね。(中略)ある作家は縦だけの孤立状態、それは職人の誇りですね。それだけに逃げるでしょう。
そうすると、そこなりに作家が稀少価値があって、作家は漆の職人、それから棺桶の職人のように、静かな
ところで自分の技術を守って、かつてのよかりし人生の代表者になるかもしれないが、僕はそれではちっとも
満足しないですね。ぜんぜんそれではいやなんです。
(中略)ときどき横の社会に、ヒステリックに、縦の社会を見せてやろうという、欲求を感じる。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
475名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 11:23:44.99 ID:bP1+HaLs
インダストリアリゼーションの必然的結果で、工業化の果てに、精神的空白なり荒廃がくるというのは、どこの
国でも同じ現象だと思います。それをアメリカ化と言っているのは間違いで、フランスではコカ・コーラを
飲まないことによって、アメリカに対抗するのだと言っているが、これは実にむなしい結果で、フランスも
コカ・コーラを飲むようになった。日本もコカ・コーラを飲むようになった。これはアメリカだけのつくった
現象ではなく、アメリカというものが、大衆社会の一つの、歴史上の最初のサンプルとして現われたので、これは
ロシアもそういう形になっているし、ヨーロッパもいやおうなしにそういう形になっているし、日本もなっている。
後進社会では、まだそこまでいってない。だから、後進社会の大衆というのは、大衆社会化の大衆ではない。
少なくとも、ベトナムの民衆は、大衆社会化の民衆ではないのですから、焼身自殺するでしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
476名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 11:24:38.66 ID:bP1+HaLs
いま民族の国と大衆の国とにだんだんわかれちゃって、それは後進国、先進国というような形に実際はなっているが、
われわれも、いやおうなしに、そういう状況に追いつめられていて、そのかわり日本という国は、バランスを
とる力は激しいですから、民族ということばは、少しかすがついたことばで、あまり好かんですけれども、
日本とはなんぞやという問題が、どうしてもそこで出てくる。大衆社会化が激しくなれば、それに対抗するものは
なんだろうというと、アメリカ対日本ではないと思う。つまり工業化ないし大衆社会化、俗衆の平均化、
マスコミの発達、そういう大きな技術社会の発達、そういうものに対して、日本とはなにかということを言って
いるので、やはり攘夷思想の中にあった恐怖の予感はこれだったと思うのです。いまは西洋もクソもないですね。
アメリカですらないですね。つまり新しい時代の新しい大衆社会化の現象が起こっている。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
477名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 15:40:25.67 ID:aZFtyEgB
完全な大衆社会化がどんどん実現してくると、そのなかにおける芸術家の孤立というものが、一般的孤立の中へ
まぎれこんじゃう。(中略)横の社会、つまり大衆社会というのは、逆に言えば一人一人が孤独になる社会で、
それが全部等価になって、芸術家も一つの歯車にすぎない。いくら威張っても、いくら仕事をしていても、自分の
アパートのなかで、一人でテレビを見ている状況と変わらない。そうしてくると、やはり個対全体という形は、
なんかあまりに近代的な古い問題提起じゃないかという気がしてきて、大衆社会化に対抗するには、やはり個対
全体という形でなくて、向こうが量でくるなら質だという考えではなくて、量でくるなら、還元された別の形の量、
つまり縦の量ですね、横の量ではなく縦の量、そういうもので、ある意味で集合的なものがだんだんほしくなってくる。
その場合に、僕の契機になったのは「ことば」ですね。ことばというものは、結局孤立して存在するものではない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
478名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 15:41:04.66 ID:aZFtyEgB
芸術家が、いかに洗練してつくったところで、ことばというものは、いちばん伝統的で、保守的で、頑固なもので、
そうしてそのことばの表現のなかで、僕たちが完全に孤立しているわけではない。それは、ことばは横にも
広がるが、同時に縦にも広がる、だから芸術家の、ことに文学者の仕事は、ことばを通じて「縦の量」というものに
到達するのだと。それは林さんのおっしゃった伝統とか、民族という問題とつながってくる。ですからことばを、
自分の孤立した作業と考えることから、ことばというものが、大衆社会に対抗する一つの質だけではないものだと
いう考え方が、だんだん出てくるのですね。なぜなら大衆社会では、良質であるということも、一つの商品価値に
すぎないからです。

ことばは質だけではなくて、ことば自体のなかに、一つのいわゆる、集合的無意識も眠っているだろうし、
それが日本語の問題になってくるのですが、政治家は、結局ことばというものは絶対にわからない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
479名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 15:41:33.70 ID:aZFtyEgB
文学の仕事というものは、どうも僕は、衆を頼むというようなところが、どこかにあるような気がするのです。
衆を頼むというのは、悪い意味ではないのです。つまり、いまの大衆社会の人間に対抗するには、別の衆を
頼まなければならない。その衆とはなんであろうか。それはやはり、自分だけの問題ではないと思うのです。
そうすると自分だけのことに文学者が関心をもって、ただ近代的自我の模造品のようなものを書いていたのでは、
大衆社会に、なんにも対抗するものは出てこないという……。
(中略)
つまり僕の量という観念は、たくさん書くとかいうことではないのです。たくさん書くとか、マスコミに流すとか、
テレビに連続物を書くとかいうこと、僕はそういうことを意味してない。つまり力ということですね。(中略)
ことばというものは、質とか量とかいう問題を超越した、もっともっと大きなものですね、言霊的なひろがりの
あるものだと考えるようになった。それを、僕は少しずつわかってきたような気がする。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
480名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 20:26:59.50 ID:aC2Crgcy
三島:男というのはうぬぼれと、闘争本能以外にはないのではないかな。

林:だから、ニーチェの権力意志、あれはたいへんな発見ですね。
三島:どうもうぬぼれと、闘争本能以外はエネルギーの源泉がないでしょう。

林:それがなければ孤独にも耐え得ないでしょう。君だって孤独じゃない、僕だって孤独じゃないよ、闘争本能が
あるから、たった一人でけっこうだ。(中略)みな孤独になれないから、あせっているのではないかな。孤独に
なれないというのは、脆弱な精神だよ。

三島:それはそうです。ただ僕がさっき言ったことは、テレビを見て一人でアパートにいる三時間と、芸術家が
自分をパッシブなものだと思っているときの三時間の孤独感と似ているということです。そうなっちゃったら
おしまいだと言いたいのです。それで、なんか孤独のなかで享楽している。一人でテレビを見ておもしろければ、
それがなにが悪いという考え方だってあるでしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
481名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 20:27:28.60 ID:aC2Crgcy
林:孔子が、自分のやることには創造はない、創作はない、すべて尭舜の道を、周公の道を祖述して復活するだけだと
言っている。あれは強い精神だと思ったね。独創性なんかにこだわっていないから、孔子は古代に友達があって
孤独じゃなかった。創造というものは、それ以外にないね。

三島:独創性を信じたやつで、一流の文学者は一人もいませんよ。ヴァレリーもぜんぜん独創性なんか否定しているし。
ちょっと僕はね、量で対抗するということで、林さんに誤解されたが、僕らは現実のいまの時点における
量対量ではなくて、三十三間堂の通し矢みたいな、西鶴の矢数俳諧の一日一夜千六百句の記録だとか、昔の坊主が
米粒にお経を書いたとかあるでしょう、納経で一心不乱にお経を写すとか、ああいう作業しかないということを
言いたかったのですよ、孤立すれば孤立するほど。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
482名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 20:28:23.06 ID:aC2Crgcy
三島:僕はね、いろんな対抗策はもちろん考えているのですが、対抗策としては、一つは、そういうふうに米粒に
お経を写すようなことをやろうとしている。つまりいまテレビの人たちが、視聴率などと言って威張って、
三千万人見たとか言ってる。テレビの人に僕は言うのだが、あなたたちの仕事は、一時間か三十分間で消えて、
もう永久に……それはリバイバルもたまにあるが、それでさみしくはないか、ときくと、向こうはキョトンとして、
あなたは、時間というものを短かく考えているけれども、三十分のテレビドラマを一千万人が見れば、それを
加乗すれば、長い小説を三千人が読んだより、ずっと大きいではないかと反論してきますよ。人間の忘却とか、
記憶とかいう、縦の要素は全部忘れられている。そういうことを考えるのは彼らにとっては怖いのです。長く
記憶に残って、読み返されるということは怖いのですよ。それは、いまの大衆社会化のウィーク・ポイントだと思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
483名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 20:29:03.40 ID:aC2Crgcy
三島:こっちは、向こうが横に一千万人でくるならば、縦に一千万で、一千万字書ければいいではないですか。
(中略)一日十字でもいい、あるいは一日二百字、三百字でもいい。しかし、一日、もし一千字ずつ書ければ、
十日で一万字ですからね。それで一月で三万字書けるでしょう。そうして一年間で何万字書けますか、そうやって
いくしかないと……。
(中略)
横の世界にも付き合わなければならないが、それには絶対に精神を提供しない、横には。なぜならそれは、生の
非連続性の再確認にしかならないからです。実存主義の哲学も、結局、この再確認に耐えて生きてゆけ、という
ことでしかない。あらゆるヒューマニズムはそれです。「生きる」ということは、この再確認、再確認、再確認に
だけ宿るわけですから、そんなところに精神を支出しても無駄ですね。精神は連続性へ、死へ向けていればいい。
剣道なんかには、その精神主義の中に、ちょっとそういう魅力があるのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
484名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 20:29:52.12 ID:aC2Crgcy
世界を回ってみますと、現在日本のように無階級な国はないように思う。
実に(日本は)不思議な国で、アメリカはもっともっと階級がありますね。ステータス・シンボルがそれぞれ
あって、クラブでも上のクラブに入らないと、お嫁さんのいいのが来ないとか。それからなんだかんだと言って、
一つ一つの関係が非常にうるさいですね。


戦後の知識人におけるユートピアは、アメリカ占領下において、あたかもそういう近代的価値概念(自由、平等、
博愛、人類愛とか)が、普遍性をもったかのごとき錯覚をもった。(中略)それが平和主義なんかの精神的な基盤、
あるいは理論的な基盤になって出てきた。一口に言えばインターナショナリズムだけれども、(中略)それらの
価値は、結局それぞれの民族や歴史や伝統のなかではじめて存立するものであって、けっして普遍的な概念ではない。
ヨーロッパにだけ普遍的概念として妥当したものも、アジアにおいては必ずしもそうではない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
485名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 23:43:55.24 ID:2mJdEiJa
GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての意味よりも
思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、近代的
普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度
復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、僕はアメリカの影響というのは、
日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。というのは、アメリカと
いう国は、十八世紀の古典的な理念が、おもて向きいちばんのうのうと生きている国なんですね。アメリカは
ああいう人種の雑種の国ですし、歴史は浅いし、インターナショナリズム的な観念でも、国内でじゅうぶん
充足するわけです。妥当するわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
486名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 23:44:37.92 ID:2mJdEiJa
たとえばここにフランス系アメリカ人と、ドイツ系アメリカ人と、オランダ系アメリカ人の三人の話を通じさせるのに、
結局先祖のもとまでもどって、十八世紀的な理念で伝達するほかない。だから彼らは、自由といい、平和といい、
人類というときに、それは信じていると思う。それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を
運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、
ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、いい実験になったと思う。(中略)たとえば
川島武宣の民法学を僕は習いましたが、民法学のなかにおいて、彼のギリギリの近代主義民法学ですがね、
そんなものは絶対日本の社会構造には妥当しなかった。戦後になってやってみた結果、アメリカが与えたと同時に、
アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、
ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
487名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 23:45:07.17 ID:2mJdEiJa
これは大きな問題だと思う。そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を
信じていると思う。これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは
戦争をやって自由のために戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。ただ日本人は、
そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。というのは、日本で自由だの平和だのといっても、そんな
粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、
そこのうえで近代的な観念が生きている。それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、
それは結局アメリカのおかげだと思うのです。それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
488名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 23:46:11.34 ID:2mJdEiJa
林:アメリカニゼーションは、日本の戦後のはっきりした現象ですが、その初期にはアメリカ出先機関の
アメリカニゼーションだったな。日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと
思いこんだのが三等学者です。新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。彼らが新憲法を守れと
いうのは当然です。(中略)

三島:しかも、丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。ファシズムと
いうのは、ぜんぜん日本にありませんよ。

林:絶対ありません。どう考えてもね。

三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。今度彼らを分析していくと、別なものに
ぶつかるのですよ。丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。一つが天皇崇拝、一つが農本主義、
もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。そうすると、それはファシズムというヨーロッパ概念から、
どれ一つ妥当しはしませんよ。

林:一つも妥当しない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
489名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 23:47:17.40 ID:2mJdEiJa
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。日本のいわゆる愛国運動というのは、もちろん資本家と
いろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、当時二・二六事件もそうだが、二・二六事件の
あとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、今度、やはり反資本主義的なポーズにおける
声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。やはりわれわれの徒だということになって、それで
賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、そういうファシズム一つとってもそうだし……。

林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
490名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/16(土) 22:57:10.05 ID:55+RlbR9
林:それから二・二六事件にしても、進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。

三島:事実はぜんぜん違っている。

林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。

三島:僕は、ああいうものは、ある意味で林さんのおっしゃる、文明開化というものからくる一つの事象であって、
日本の近代化の激しい運動の、ラジカルな運動がああいう形をとったと考えてもいいと思いますね。いつも日本では、
アイロニカルな形で社会現象が起こっている。いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、反動的な
形態をとったり、一見進歩的形態をとっているものが、いちばん反動的なものである場合もある。政治学者などが
日本の現象を見る場合には、ぜんぜん分析が皮相で浅薄だという感じがいつもするのだけれども。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
491名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/16(土) 22:58:03.26 ID:55+RlbR9
林:丸山君にこだわるわけではないが、あの人をピークとする敗戦学者の学問はいかにも学問らしい顔をして
いますけれども、読めば少しも学問ではないのです。学問というのは、読んでみて、「ああ、そうだったか」と
目からウロコの落ちるような気になるのが学問です。敗戦大学教授の仕事は読者の目にウロコをかぶせるような
ものですよ。

三島:ほんとうにそうですね。でも、近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。
そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃったと
いうことで、これが歴史の非常なアイロニーですね。普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が完全に
近代化することによって近代社会が成立し、そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが社会に
実現されるという、じつは必ずしもコミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
492名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 21:38:25.34 ID:DlG1NMqI
あの時
三島が国の舵を取れていたらこんな国にはならなかった

三島に味方しなかった爺どもは売国者だから殺して構わない
493名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 22:54:28.87 ID:xzTvxW/n
三島:ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が
進行し、工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。それと、日本人の
なかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで起こっているわけですね。
そうすると、毎日テレビを見て、土曜日にはレジャーだということで、あわてて自家用車で海にでかけている人間の
なかにも……。

林:みんなレジャーから帰ってくると、夫婦ゲンカしている。

三島:それはもう、しょっちゅうです。(笑)僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に
対してすらなんらの予見もしなければ、その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。
第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
494名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 22:55:20.62 ID:xzTvxW/n
三島:僕が大蔵省にいたとき大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。
ドッジ声明でなんとか救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。経済法則というものは、実に
あいまいなもので、こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。それで戦後の経済復興は、結局
戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか経済学者の指導とか、ドイツのシャハトの
ような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、まったくめくらめっぽうでここまできた。これは
経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。一方、戦後の文化界はなにをやったか。それは僕も戦時中よりも
いい作品が出たと思います、戦後の二十年の芸術作品は。これも一人一人勝手にやったので、だれのお蔭も
被ってないと思いますね。理論的指導者、思想的指導者というものは一人もなかった時代ですね、おそらく。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
495名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 22:55:55.59 ID:xzTvxW/n
三島:ともかく、彼ら(進歩的近代主義者)は思想を一つもつくらなかった。日本の知識人に自分の国の歴史と
伝統に対する知識というものが、ぜんぜんなかったわけですから、簡単に言えば。(中略)
あとどんな思想が……僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼らはもう弁ばくできないと思うのです。
だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出てももうしょうがないですよ。

林:まず、現われたのがアメリカン・デモクラシー、おつぎはソ連礼賛論ですな。それを圧倒したのが中共絶対論。
……だが、それもどうやらしぼみ始めたようだ。

三島:とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、もう
そんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと……あんな芝居を書く男は、頭が三十年
古いとみんな笑ったものです。そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。
ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
496名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 02:26:07.19 ID:CyVAbAVB
497名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 23:27:23.22 ID:C3/dmtRt
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、
攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。

林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、このアイロニイが
わからないのだな。いまにわかります。

三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。

林:アイロニイだらけだ。内村鑑三も新渡戸稲造も日本精神について英語で書いた。ドイツ文学の鴎外と英文学の
漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。現在、日本回帰の論文を発表しはじめた若い学者たちは、ほとんど
西洋史家だ。東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。政治の面でも、自由民権家は
大アジア主義者になる。幸徳秋水が生きながらえておったら国家主義者になっていただろう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
498名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 23:28:17.62 ID:C3/dmtRt
林:若い高村光太郎は文明開化派で西洋派だったが、晩年はたいへんな日本主義者になる。与謝野鉄幹、
北原白秋をはじめ詩人たちの大部分は同じ道を歩いている。すべて内的な自己展開であって、時流におし流されて
ものを言ったのではない。

三島:伊東静雄なんかも、戦争中のものは非常にいいですよ。ほんとうにいい詩ですね。

林:だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟して
いなければ、一歩も進めない。平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。
地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。

三島:ほかの遊星を攻撃する……。

林:人類はあと何世紀くらい戦争をやるのでしょう、人類という動物は!

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
499名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 00:34:05.85 ID:834iFI9v
富士山周辺真っ黒
大噴火警報
http://www.hinet.bosai.go.jp/
わっしょいわっしょいわっしょいわっしょい
やばいよやばいよやばいよやばいよ
http://www.youtube.com/watch?v=wzIr1LpEQwU
500名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 23:40:45.03 ID:N3wbKT/B
林:アジアは一つというが、日本もシナも、インドもインドネシアも、タイも、たがいに理解し合っているとは
思えないね。「アジアは一つ」というのは、スローガンであり、政治目的のある言葉だ。主唱する民族のエゴイズムが
ふくまれている。昔は日本が大アジア主義と言い、今は中共がAA作家会議を主催する。そういう意味では、
福沢諭吉の「脱亜論」の方が正直だ。(中略)政治家諸君は大いに親善外交をおやりになって結構だが、文学者は
AA作家会議より前にもっと日本自身のことを考える必要があるね。その方が正直だ。

三島:ほんとうはそうです。僕は、アジア主義だけはちょっとわからない。政治的にはもちろんわかり得ると思うが。
まったく政治的なものですね。

林:政治的なアジア主義というものは、わかりますよ。日本が圧迫されているとき、同じ圧迫された朝鮮やシナや
インドと力をあわせて立ち上がろうという主義なんだが、いまは、中共さんも韓国さんも威張ってるのだから、
こっちとは関係ありませんよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
501名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 23:41:43.83 ID:N3wbKT/B
三島:ヨーロッパ共同体というものは文化的には昔からあったのだから、それが伝統に帰ることであり、そうして
普遍的ヨーロッパに帰れということを、ゲーテは言いたかったわけですね。しかし日本では、普遍的ヨーロッパと
いうものは、日本にとってはぜんぜん別なものでしょう。それから普遍的アジアというものは、文化的にはない。
だから日本にとっていま世界文学などというのは、ちゃんちゃらおかしいということになるわけですね。そうして
翻訳されても、人情はわかるだろうが、ことばのスピリットがわかるわけがないということです。それは当然な
ことでしょう。じゃ、わからないから訳さないというのは、それもバカな話で、わかる部分だけでもおもしろいと
いうのが、ほんとうの小説ではないでしょうか。ドストエフスキーでもロシア語のニュアンスがわかるわけでは
ないけれどもおもしろい。それはそれで、翻訳したものはまた別なものですね。でも世界文学などというのは
空疎な観念で、いまの日本にはあり得ないですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
502名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 23:42:58.50 ID:N3wbKT/B
林:(世界主義者は)インターナショナリズムという観念によってナショナリティーを簡単に否定するのです。
みな浮き上がっている。政治次元においてインターナショナリズムを過信すると、インドネシア共産党みたいに
浮き上がって民族主義者に虐殺されてしまいます。インドネシアの事件で、日本共産党がふるえあがって、
中共と離れたという、うがった観察もあるくらいだ。土着性というもの、ナショナリティーというのは怖いですよ。
意識下にテロリズムの基盤をひそめている。日本に続発した個人的テロリズムは、なにも独占資本が指令した
ものではない。自発的なものだ。テロリズムの論理は西洋ではアナーキズムだが、東洋では老荘派の虚無主義です。
仏教にも一殺多生という観念がある。文学的だよ。いまに三島君の本を読んで、暗殺を実行しましたという青年も
出るかもしれない。

三島:僕が教祖で捕まるか。でもあれは、テロリズムを全部容認するわけではない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
503名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 23:44:10.51 ID:N3wbKT/B
三島:しかし近代的法秩序というものの欠陥に対して、それを否定してテロリズムをやるということは、これは
刑法では確信犯で、これは近代的法秩序、近代的法道徳ではどうすることもではないものですね。モラルの点から
言ってもしょうがない。

林:(中略)大統領暗殺はアメリカ民主主義の光栄ある伝統みたいになっている。民主主義が防止できるのは
集団的暗殺であって、個人的テロリズムではない。

三島:そうなんです。これはどうしようもないのです。人間性というのは、近代的な法秩序よりもっと広くて、
もっと広大で、もっといろいろなことを考えるものだし、そのなかにそれなりの真理があり、それなりの確信が
あるのだから。

林:だいたい文学の傑作は個人的テロリズムですよ。

三島:全部そうです。

林:作家が自分の作品に命をかけたら、テロリズムの書が生まれる。作家の目には、テロリズムは美しい。

三島:どうしてもしょうがない。

林:人間的美の極致として映る。武士の切腹がそうであるように。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
504名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 23:36:53.08 ID:AFKfKtaF
三島:文士はことばが自分のノミであり、大工道具なんだから、大工道具にケチをつけられるのは、気味が悪いね。
社会革命家というのは、いつでもことばをいじりたがる。北一輝でも、エスペラントで国語を統一しようと思って
いたのだから。中国は全部漢字を簡略化してね、あれでは古典文学は読めないでしょう。いま実業家のなかでも、
この頃漢字をやめろとか、なぜローマ字にしないかとか、カナ文字ばかりでやっている会社もあるしね。全部
カナ文字という会社もあるのですね。それで、ことばというものは一歩プラクティカルなことを考えたら、絶対
こんな不合理なものはない。ことばの性質というものは、そういうものです。ことばというのは、そもそも人間の
意思を疎通させるために、生まれたものであるにもかかわらず、もしプラクティカルな見地からしたら、実に
非合理に満ちているという。これはどこの国のことばでも、みなそうですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
505名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 23:37:54.39 ID:AFKfKtaF
三島:たとえば英語のナイトクラブのナイトは、night。あの gh はなんだということになる。それでアメリカでは、
ナイトクラブのことを、nite CLUB と書くね。ことばはそういうものですよ。国語問題表意派のほうも、やはり
プラクティカルな議論にとらわれているところがありますね。あれは表音派と同じことになる。つまり、ことばに
ちょっとでもプラクティカルな原理を導入したら、もうだめですよ。ことばというものは、全くそういうものは
ないのです。実際に必要な見地から言えば、こんなに無駄なものはありゃしない。

林:政治的な便宜論です、(表意派、表音派)どっちも。

三島:そうなんです。あれに巻きこまれるのはいやなんです。どっちが便利だという問題になっちゃう。僕が
言っているのは、どっちが便利だというような問題ではない。またどっちが使いいいというような問題ではない。
どっちが意味が通じるという問題ですらないのだから。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
506名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 23:39:31.35 ID:AFKfKtaF
林:それぞれの民族には十万年くらいは変わらない核心性格がある。神風連的なものは日本民族の核心性格の
発現でしょう。この核心は(中略)日本民族の意識下にひそんでいる。奈良、平安時代のシナ文化と仏教文化の
流入もこの核心を変え得なかった。(中略)十万年と、二千年または二百年の「外来文化」は勝負になりませんからね。
日本人の民族性格は、天然真珠の玉のように、十万年の核心(core)をつつんで、儒教文化、仏教文化、西洋文明が
重なっている。(中略)人間の性格の外皮は真珠のように固くないから、核心がときどき流れ出し、爆発する
ことがある。これが国粋主義で、どの民族にもそれがある。ロシアでも、西欧派のツルゲーネフに対して、
スラブ派のドストエフスキーがいたようなものだ。復古主義の形をとるが、実は、求心運動としての革命的
爆発ですね。神風連はたしかにその旋風で竜巻でしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
507名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 23:40:34.57 ID:AFKfKtaF
三島:僕はこの熊本敬神党、世間では、神風連と言っていますが、これは実際行動にあらわれた一つの芸術理念でね、
もし芸術理念が実際行動にあらわれれば、ここまでいくのがほんとうで、ここまでいかないのは、全部現実政治の
問題だと思いますよ。それでは、彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、
純日本以外のものはなんにもやらないということ。それもあの時代だからできたので、いまならできないが、
食うものから着物からなにからかにまで、いっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。
失敗するにきまってるのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、
非常に感動するのです。
思想の徹底性ということ、思想が一つの行動にあらわれた場合には、必ず不純なものが入ってくる。必ず戦術が
入ってきて、そこに人間の裏切りが入ってくる。それがイデオロギーというものでしょうが、そうして必ず
目的のためには手段を選ばないことになっちゃう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
508名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 23:42:04.19 ID:AFKfKtaF
だけれども神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、
みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。
それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味で
いちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです。もう二度とこういう純粋実験はできないですよ。
その後いろいろなテロリズムが起こりました。いろいろなものがあったでしょう。しかしこれくらいの純粋実験と
いうものはないですよ。日本の歴史のなかで、こういう純粋実験があったということは、みな忘れていますが、
当時は笑うべきことだったかもしれないが、なにごとかだったと思うのですよ。それで僕はいまの(中略)
あいまいな日本精神とかなんとかを、ここでもってもう一度よくこれを振り返ってほしいのです。そういう意味で、
僕は神風連を言うのですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
509名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 22:42:26.83 ID:I7htS+He
三島:たしかに日本人が外国に対して徹底的に受け入れるというのは、十九世紀の全く正しい方法だったと思います。
(中略)近代化することによって、植民地から身を守るか、あるいは受け入れないことによって敗北するか、
どっちしかなかった。一つの道しかなかった。(中略)
僕は政治的に、たとえば明治維新において、もっと日本的にやるべきだったとか、外国の武器を使うべきではないと
言っているのではないし、日本の西欧化をするべきではなかったと言っているのでもなんでもない。西欧化は、
十九世紀には単なる西欧化であったが、二十世紀においては単なる西欧化ではない。(中略)西欧化という段階を
通り越していると思うのです。だけれども、その必然的結果としての大衆社会化という問題が、いまわれわれの
前にあって、それに対抗する概念を僕はさがしている。僕がさがしているものは、どうしてもその前にいかなければ
ならない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
510名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 22:43:36.41 ID:I7htS+He
三島:僕たちはもうハカマもはかない、ズボンをはいてる、西洋的な生活をしていますね。しかし禅は、そうで
あってはいけないという考えです。それは天皇制の考えにつながるのです。禅はそうであってはいけない。何か
究極的なものは、そうではあってはいけないという考えがあるのです。(中略)いまに(日本人は)日本酒の味も
わからなくなるでしょう。そういう一面をもっているが、精神の本質的な価値というのは、僕たちのなかにある
かもしれないが、カソリックにおける教会みたいなものがどこかにあって、精神の本質的な価値を守らなければ、
われわれにはとても生活全般で守ることはできない。われわれは電話もかけなければならない。テレビを見なければ
ならないし、自動車にも乗らなければならないから、どこかに自動車に乗らない、テレビを見ない、電話をかけない、
ガスを使わない、電気を使わないというものがなければならないと思うのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
511名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 22:44:21.47 ID:I7htS+He
三島:(僕は)文学的な目で見るといま日本とか、日本人という、みんなの言っている概念のあいまいさに
耐えられない。いったいどこを根拠にして言っているのか。(中略)日本人はたしかに、いろんなものを取り入れて、
雑然と消化してしまう国民であるけれども、日本および日本人ということは、いまこんなに問題になっているなら、
それの純粋実験ということを、どういうふうにしてやるかということを僕は考えるのです。たとえ無力であってもいい。
(中略)なにがそれでは、そういう純日本的なもの……純日本人的なものの純粋実験だろうかと考えると、結局、
神風連にいっちゃう。あすこにガンジーの糸車があって、かならず敗北するでしょう。それは勝つわけはありません。
つまり西欧化のほうが正しいに決まっている。(中略)かならず敗北するのだけれども、そこに純粋性と正当性が
あって、そういうものがつまり、われわれが日本および日本人といっているものの核になっているのではないか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
512名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 22:44:54.95 ID:I7htS+He
三島:いったい日本では抵抗精神というのはどこにあったか。純日本の抵抗精神というのはどこにあったか。(中略)
僕はへそ曲りですからね、そういうものをさがす。そうすると、禅寺が電気冷蔵庫を持っていてはいかんではないか。
ガンジーは糸車を回したではないか。そうすると、神風連が電線の下を通るときに、あれでもって電報がくるのだ、
あんなものはバテレンの妖術だというと、頭の上に白扇を乗っけて、下を通ったという、あの白扇に、つまり
西欧文化というものはどういうものを日本にもたらすか、というものの予感がはっきりひらめいていたように思う。

林:大きな予言ですよ。

三島:大きな予言ですよね。いまから白扇を持ってもどうしようもないが、白扇で電線の下を通ったということは、
あの電線がただの電線ではないのだぞ、あの電線が、あれから、百年たってこういうような状態をもたらすのだぞ、
という予言としか思えない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
513名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 22:30:26.33 ID:VE/4+hU1
三島:神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に
転倒させ、廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」
という思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な
中核として総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、
それは伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた
思想の実現です。僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとに
したという考えはむしろ逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化した
という考えが正しいと思います。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
514名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 22:31:17.62 ID:VE/4+hU1
三島:(神風連の起こった)その時代の天皇観念には、天皇を宗教的精神的中心として純粋に確保したいという
強烈な考えが、一方にあっても少しも不思議はなかった。
明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に
対する、一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。神風連が
電線に対してかざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統帥大権的天皇の
イメージのうちに、攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。
これがさっきの神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の最後の
拠点となられるむずかしい使命を帯びられた。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
515名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 22:32:24.52 ID:VE/4+hU1
天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。二・二六事件において、まことに
残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の二の舞になったということです。
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を
辿ってきた。唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
516名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 22:33:09.55 ID:VE/4+hU1
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん
西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。そのもっとも醇乎たる悲劇意志への
共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うとアイマイに思われるでしょうが、僕は
維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」給うということを言っているのです。
そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の最後のトリデとなりつづけることによって、
西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の原理になり給うことです。イギリスのまねなんか
なさっては困るのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
517名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 22:54:14.69 ID:YI1wuhow
三島:僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
(中略)
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
(中略)つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。

林:革新のシンボルにもなります。これからもかならずなります。

三島:ならなければいけないのですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
518名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 22:54:57.97 ID:YI1wuhow
林:日本共産党史には二つのコミンテルンテーゼがありますね。あれはロシアの三流学者が書いたもので、
いま読んでみると、全くでたらめな日本分析です。その、まるでバカみたいな打倒天皇制論を、野呂栄太郎などが
日本に当てはめようと苦労したのだが、当てはまりません。天皇制の基盤は地主勢力だ、いや独占資本だといっても、
三流学者の見当ちがいで、的はずれです。それで天皇制打倒論はお蔵になってしまったのだ。(中略)


三島:僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
519名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 22:57:18.66 ID:YI1wuhow
三島:ただ僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それでは土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、そうして、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、
ことばは農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。

林:(中略)諸民族の神々がみんなちがうということは、無神論の根拠だが、その逆に神が諸民族に違った形で
現われるということは、その背景に神があることの証明だという有神論、この方がおもしろいね。

三島:そうですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
520名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 21:12:42.01 ID:wMR2KPFv
三島だけが正しかった
三島の言うとおりにすればこんな国にはならなかった
521名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 13:42:28.82 ID:L4h964H1
三島:僕は、新憲法で天皇が象徴だということを否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇が
お待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも。

林:私は、天皇以外に忠誠を尽くす気はない。大統領でも人民執行委員会でも国家主席でもだめだ。神にして
人間なるもの、人間にして神なるものを創造して、それ以外には仕えないというのは大きな知恵ですよ。(中略)
僕は天皇は昔から象徴だったと思っている。

三島:天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による
不可知論を一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋(こい)でしょう……。

林:恋闕(れんけつ)……。

三島:恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。それが
ぼくは日本の風土だというふうに思うのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
522名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 13:43:19.07 ID:L4h964H1
林:僕は天皇アナーキストだから、天皇以外に仕えない。「マッカーサー天皇」はもってのほかだ。吉田総理にも
片山(哲)委員長にも仕えない。あなたは吉田さんは好きらしいが、僕も好きだが、彼に忠誠をつくせと言ったら、
とんでもないと申します。

三島:それは絶対にいやですよ。

林:さいわいに日本には、天皇という人間でない支配者が実在している。有史以来、いや、おそらくそれ以前から
存在している。どんな事件が起ころうとも、今度の敗戦があろうが、存在しつづけている。この不思議さ。

三島:ある意味では、日本人というものの象徴だという意味では、日本人のフレキシビリティーというものの、
あれほどの象徴はありませんね。

林:高級なる政治思想ですね。人間には仕えない、神以外には仕えない、天皇は現人神である、という高級な
政治理念だな。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
523名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 13:44:00.27 ID:L4h964H1
林:祭政一致はエジプトにもギリシャにも古代シナにもあった。そういうものは時代が進歩するとなくなると
学者は言うが、僕は信じないな。僕の天皇アナーキズムは、人間には仕えない、神でなければ仕えないという精神。
日本人はその精神をもち続けている、不思議な国だ。

三島:たしかにそうですね。それは武士道はあったけれどもね。

林:武士道は立派なものです。武士道には神道も仏教も儒教も入っているが、中心に天皇があったから、武士道が
できた。

三島:ということも言えます。と同時にやはり、その前で行きどまりということもあるでしょう、藩主のところで。
つまり殿様のために身を捧げる。

林:(中略)和辻哲郎は封建時代以前の日本の家族制度の中に天皇制の根拠を発見している。武士の忠義も殿様だけが
対象ではない。その殿様たちが天皇絶対だった。織田信長も、上杉謙信も、豊臣秀吉も、徳川家康でさえ……。

三島:最終的にはそうですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
524名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 16:51:44.47 ID:O4tYVbLW
三島:日本のように反体制的大政党を抱えた国が、シヴィリアン・コントロールをやるということは、危険きわまる
体制じゃありませんか。

林:軍人はコントロールできますよ。天皇は軍部に対してはシヴィリアンですよ。

三島:まあそうだけれども、もしこれから徴兵制度ができて、若い人たちが兵隊にとられて、そうしておまえの
命はもらったぞというとき、昔は上官から天皇まで一貫していた。(これからは)シビリアン・コントロールで、
間に(もし反日の)政治家が介在していて……。

林:ああ、そういう意味……。

三島:そういう意味です。

林:あなたは東大法科の優等生だから、新憲法を研究してごらんなさい。読めば読むほどひどいものだ。あれは
廃止しなければいかん。必ず廃止されます。明治憲法がそのまま復活することはないでしょうが、新憲法に
くらべれば立派な憲法だ。統帥権を人間に与えず、神としての天皇に与えた点はおもしろい。

三島:そういうことです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
525名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 16:52:13.19 ID:O4tYVbLW
三島:「木戸幸一日記」のなかで、敗戦後の昭和二十年九月二十九日の日記につぎのように記されている。
陛下がファシズムを信奉するかのように非難攻撃していたというアメリカの新聞論調に対し、遺憾に思われてこう
言われたと。「其際、(天皇は)自分が恰もファシズムを信奉するが如く思はるゝことが最も堪へ難きところなり、
実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで
御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり」とこう言っておられるの
ですね。僕は、「実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云ふべく」という文句は、
非常に感銘深いのです。林さんの言われる、日本の西欧化、それからイギリスの立憲君主政体ということに、
陛下はやはり非常に忠実であられたことはまちがいないと思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
526名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 16:52:41.25 ID:O4tYVbLW
戦争が終わったとき、「実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云ふべく」といわれたときに、
ちょっと陛下のなかで、なにかが揺らいだと思う。だけれども、それは、またそのまま、いまずっとイギリスが
いいということになったから。

林:むずかしい問題ですね。天皇現人神ということは、天皇は神そのものではないということにもなる。天皇と
いうのは神の象徴で、しかも生きた人間で、われわれは神の声を天皇を通じて聞きたいと望んでいる。

三島:一種のミディアムですね。

林:神道はシャーマニズムだという学説もある。天皇はシャーマンだということは、恥ずかしいことでも不敬な
ことでもない。神と人間の仲介者ですから。(中略)マッカーサーはキリスト教徒だから日本の現人神の思想を
理解できなかった。日本人をブードゥー教徒なみに扱かった。扱かいきれぬので天皇利用の政策に移行した。
ついでに自分がマッカーサー天皇になってしまった。いけませんね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
527名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 23:12:50.39 ID:kDmsuFV7
三島:宿命に対する自由の例外というのは、人間だれでも認めるでしょう。もし林さんが、生まれつき片輪で、
足が一本しかないとしますね。林さんは非常にご自身で宿命的に苦しまれると思います。だれだってそうですね。
それが自分一人の宿命と考えるのはいやだから、どう考えても、これは人間に課せられた、どうにもならない
宿命だと思う。私は足が一本しかないが、ほかにも、もっと、もっと宿命をもった人がいる。(中略)人間は
宿命のなかの動物です。しかし自分が宿命で、こんなに苦しんでいるだけにどこかに自由はないだろうか。自分の
宿命を超脱するような自由がほしいではないか。そうしたら自由のイメージを描くのが普通でしょう。それが
自分に実現できなければ、どこかに宿命から超脱した人間というものを求めるでしょう。それが天皇であり、
宿命に対する自由の象徴なんです。
それは一つの比喩として言っているのです。
林:もっと聞かせてください。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
528名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 23:13:28.43 ID:kDmsuFV7
三島:自由のイメージを求めるとしますね。僕の場合は、宿命ということばを使ったのは、インダストリア
リゼーションです。それから日本の近代史です。それから二十世紀的現象というもの。これは宿命ですよ。それを
われわれは、だれ一人としてまぬがれないし、日本人であってもなくてもまぬがれないことは当然なんです。
インド人でも当然です。インドネシア人でも当然そうです。そういうなかでもって、われわれはそのなかの
いろいろなマイナス現象につき合って生きているわけです。なんとかかんとかと。(中略)だけれども同時に、
そのインダストリアリゼーションに、絶対に巻きこまれないものがあってもいいじゃないですか。

林:それに異議はありません。

三島:それがですね、歴史的必然と見えるものに対する、自由の象徴ですね。
それが天皇であり、なんでありという考えです。
(中略)(それは)外見的には自由が縛られているかもしれない。だけれども自由はその意味では逆転していると
いうことを僕は言いたい。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
529名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 23:14:28.13 ID:kDmsuFV7
林:献身への憧れとかね。僕らは文学に献身していると思って己を慰めているのですな。文学も一種の神の業ですから。

三島:あなたは、その神と自分の芸術作品と同一視することはできませんか。

林:同一視したい。

三島:そうでしょう。つまり僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、
いろいろなもののね、その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。つまりね、一つ自分が作品を
つくると、その作品は独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから人間の歴史の必然性の輪からポンと
はみ出す、ポンと。これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。
その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、自分が
自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
530名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 22:13:45.21 ID:zGptUcqc
三島:現代において危険な思想はなんだろうか。(中略)いろいろ考えました。一度、僕は新聞に原爆のことを
書いたことがある。そして、ナセルが「落とすなら原爆を落としてもいいよ」とか、中共が「水爆を落としても
いいよ、われわれは人口七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、ああいうのはもっとも危険な
思想だろうと、そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。
いま、危険な思想というのはなんでしょうね。ほんとうの危険です。キリスト教がローマで危険だったように
危険だということ。なんか人間性に根ざしていながら……。

林:本物の思想はみな危険な思想でしょう。思想というのは、人を切腹させたり殉教者にしたりしますね。
人がそのために喜んで死ぬ思想は危険思想でしょうね。危険でない安全思想は有害な思想だ。平和主義とか、
新憲法擁護とか、こういうのは、有害なる思想ですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
531名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 22:14:12.00 ID:zGptUcqc
三島:幕末に武陽隠士の「世事見聞録」という本があって、いま僕なんかの言っているようなことをしきりに
言っている。今の世は堕落していて、武士道が復活しなければならない、と。それを滝川政次郎が「いかにも
太平の逸民らしい思想だ」と批評しているのが面白い。(中略)

林:太平ムードの現状はわれわれの責任ではない。しかし終末思想や危険思想は、太平の頂点にあらわれる。

三島:いつもそうなんです。

林:この太平ムードの頂点において、なぜ君が「英霊の声」を書いたか。これは文壇批評家諸君は理解できない。
それでけっこうではないですか。旧約聖書は予言の書だが、二千年たって、やっとイスラエルという国ができた。

三島:「葉隠」は、僕は戦後二十年ずっと読んで、いつも座右から離したことはない。あれは実におもしろいので、
あんなおもしろい人生知のある……あれは、日本のモンテーニュだと思いますがね。(中略)

林:(中略)よく考えてみれば、人間は常に死地に出入りしているのですよ、太平な世の中でも。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
532名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 18:36:47.12 ID:zqpYh+BN
三島由紀夫が予言した事はほとんどあってるじゃん。
533名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 23:12:00.40 ID:tLadBoxY
林:はげしい抵抗精神というか、末世観というか、それが日本にはあらわれますね、ときどき。

三島:必ずあらわれるのですね。

林:末世観は革命精神ですね。たとえば日蓮の終末観。(中略)昔は宗教がそれをやってくれたが、今は文学者が
ときどきそのかわりをする。すべての文学者がとは言わないが。

三島:それは政治家なんかより十年早くあらわれるでしょうね。

林:政治家よりもね。だから孟子は自ら「王者の師」と称したのです。王者の師は王者によっては受け入れ
られないのが普通だ。追放されたり処刑されたりする。王者が、十年か二十年たって気がついてももうおそい。
(中略)幕末に、日本の侍たちに勇気をふるい起こしたのは、孟子ですね。軍人だった田中義一首相も広瀬武夫と
同じころに留学して、よく勉強したのです。(中略)だから軍人が総理大臣にたくさん出た。あれは無理もない。
政党人たちは勉強する暇がなかった。選挙と地盤が心配で投票ばかり気にしていたから。

三島:いまでも実業家は本を読まないですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
534名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 23:12:29.97 ID:tLadBoxY
三島:橋川文三なども言っているけれども、戦争中の特攻隊の連中でも、それから戦没学徒の心情でも、
死ななければ国家を批判はできない、死ぬことによってはじめて国家を批判できるという。日本人の最高のものに
対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、かなり切腹のみにとどまらず、いろいろな形であらわれて
いるものだと思いますね。つまり、批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら「英霊の声」などを
書いたときに、ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。つまり絶対を批評するということが
できるか、できないか、これはだれもわからないことですね。だけれどもその批評形式としては、 死しかない
ということはありますね。それは小さな例で言えば、市川団蔵が巡礼をして、船から飛びこんで死んだ。実に
りっぱな最期だと思う。団蔵という人は、おそらく学問もないだろう、理論もないだろう。そういう人間の
一生をかけた批評という点では、最高のものだろうと思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
535名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 23:13:00.93 ID:tLadBoxY
三島:日本人は、最高の批評の形式というのは、ことばのないものでしかないという考えがどこかにある。
それは、禅の不立文字からきたものばかりではないと思いますね。体当りと言えばそれまでですが、なんか
自己否定という形が批評になると、こっちに主体があって、対象を分析したり、対象を論理的に解釈することが
批評ではないのだと、こっちが自分を根本的に否定して見せることが批評なんだというような、批評の根本形式が
あるように思う。
(中略)
新聞は、それ(団蔵の死)をセンチメンタルに扱う。旅路の果てみたいに。その新聞の志の低さ、精神の低さに
驚きますね。乃木大将の死でも、明治に殉じたという面もあるだろうが、明治のつくった文化全体に対する批評だ
とも言えますね、おそらく。焼身自殺だって、あれは全然批評だしね。

林:福田恆存君は認めないが、僕は焼身自殺を認める。

三島:アメリカ人には絶対わからない。だいたい西洋の批評というのは、命が惜しいということですからね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
536名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 23:24:40.64 ID:iIc9sl1g
林:死ぬなら海がいいね、いちばん。……君は出征する時、天皇陛下万歳という遺書を書いたそうですね、(中略)
結局は遺書の文字のままあのとおりでしょう。

三島:あのとおりです。結局あのとおりです。

林:人間というのはそんなに複雑ではないですね。立派な遺書ですよ、あれは。

三島:いまの人は貔貅(ひきゅう)という字が読めないのですね。皇軍の貔貅という字が。――それはそうと、
この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。遺書というのではないが、ザラ紙に鉛筆の
走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」などというのがあり、この
生々しさには実に心を打たれた。九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は
薄まってしまう。もし出版するなら、写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように
忠告しました。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
537名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 23:26:21.72 ID:iIc9sl1g
それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという叡智を
もっていたとしか思えない。もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。しかしそれを
「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。僕が「きけわだつみのこえ」の
編集に疑問を呈してきたのはそのためです。そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。
もし人間が決定的行動を迫られるときは、本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。それは泡沫の
ようなただの「心理」にすぎない。そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。
それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、
おそろしい幸福感で思い出すんです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
538名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 23:29:34.57 ID:iIc9sl1g
三島:いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。僕は少なくとも、
戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません。

林:そういう時代はきますよ、必ずきます。君はすでに天皇は神でなければならぬと言い出した。(中略)
戦後二十年の新憲法教育で、日本人のコア・パーソナリティーまで変わったと思うのは甘すぎます。民主主義の
本家のアメリカ人自身、星条旗のもとに、毎日死んで行っている。アメリカ人の冒険精神と敢闘精神は彼らの父祖が
ヨーロッパからもって来て、アメリカ大陸で開花させたものでしょう。日本の歴史はアメリカよりも古いのです。
民族の性格はそう簡単に変わるものではありません。簡単に変わるものより頑固に変わらないものの方に僕は
望みをかけます。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
539名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 23:51:38.49 ID:YqI5pGpM
540名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/06(木) 10:01:04.20 ID:P02MVOl5
541名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 20:52:50.46 ID:DMVmuTUA
三島由紀夫vs東大全共闘(長尺版)
http://www.youtube.com/watch?v=5wLaND09VF8
542名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 18:05:54.44 ID:bYkiDVSz
三島由紀夫が生きていて今の民主政権をみたら…
脳の血管が切れるだろうね。
543名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/10(木) 21:49:00.71 ID:HEmXoA/v
小林よしのりさんもそうだけど逆にこういう人って日本人離れしてるんだよな。強烈に論をはるが高飛車ではなくちゃんと若者の話にも真剣に耳を傾ける。自分の地位や名誉を振りかざさない。権威に屈しない。
愛国者ほど日本人離れしている
544名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/10(木) 21:59:28.97 ID:Hf0l3ksC
盾の会がつくった憲法案見たけどいいこと書いてるね。
545名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 09:41:06.57 ID:VZNlol0c
割腹自決をした三島事件。今だったら全く報道されないんだろうな。三島氏は自宅で病気による急死とか自殺扱いにされて。
駐屯地でのクーデター未遂は都市伝説の噂に留まってるに違いない
546名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 10:40:28.18 ID:kPlyu6Xe
701:吾輩は名無しである :2011/11/12(土) 09:54:17.61 [sage]
やっぱりTPPは裏でキッシンジャー(ユダヤ)が糸を引いていたね。
中国と密約して、日本の自主防衛を阻止して、三島のクーデター計画も潰した黒幕、
ユダヤ人の手先キッシンジャー。
奴らが勝手に決めた核停条約を、三島は不平等条約の再現だと言って、あと二年のうちに
自衛隊を国軍にしなければ永久にアメリカの傭兵だと遺言を残した。この、あと二年というのは、
沖縄返還のこと。日本は沖縄返還という名目と引き換えに、永久に自主防衛を放棄させられたのです、
キッシンジャーと中国の裏の密約によってね。
今回のTPPも中国のなかに入りこんだユダヤ財閥とアジア支配に向けて計画したことだと思う。
547三島由紀夫:2011/11/13(日) 08:15:20.46 ID:rtwDaNe2
詐欺師アメリカを殲滅せよ!
敵はアメリカに在り!
548名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/13(日) 23:22:23.24 ID:zkcCNAtw
公明党は創価学会信者のみ
知るべき!
猥褻盗聴機器
日本テロ装置
Googleで集団ストーカーと検索下さい
誤解のない様ギャンクテクノロジー犯罪を理解願います

*公安が新興宗教を配下としたオウム信者潜伏からの誤作動2004から!?
国民は20%公安に盗聴管されてる
549名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 15:04:49.52 ID:9K/XBrtw
中国工作員ばかり
テクノロジー犯罪テロ装置(脳内盗聴器)
今年の5月に日本の警視庁防課は被害者のSDカード15分を保持した

有る!!国民に出せ!!

創価は潰せる
*犯人は創刊学会幹部だかキタオカ1962年東北生は、二十代で2人の女性をレイプ殺害して入信した
創価本尊はこれだけで潰せる
同和
公安
工作員
在日
官憲
東芝
日本住めない
550名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/05(月) 11:08:38.91 ID:wM/jxNiY
三島由紀夫事件について語り合おう
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1323037072/
551名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/16(金) 15:00:52.16 ID:BIsGEOWa
    一
夏は稲妻 冬は霜
富士山麓にきたへ来し
若きつはものこれにあり
われらが武器は大和魂
とぎすましたる刃こそ
晴朗の日の空の色
雄々しく進め 楯の会

    二
憂ひは隠し 夢は秘め
品下(しなふ)りし世に眉あげて
男とあれば祖国(おやくに)を
蝕む敵を座視せんや
やまとごころを人問はば
青年の血の燃ゆる色
凛々しく進め 楯の会

    三
兜のしるし 楯ぞ我
すめらみくにを守らんと
嵐の夜に逆らひて
よみがへりたる若武者の
頬にひらめく曙は
正大の気の旗の色
堂々進め 楯の会

三島由紀夫「起て! 紅の若き獅子たち(楯の会の歌)」
552名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/16(金) 15:15:04.60 ID:SLoqJhAM
いくら敗戦したとは言え、いつまでも米国に対して属国みたいにしなくてもいいんじゃないか。
そろそろ自主憲法制定、米軍基地完全撤退、自国軍の再建
完全独立国としてアジアの覇王として復活せねばなるまい。
そして将来は米国に報復して立場を逆転させる。
553名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/17(土) 11:38:29.55 ID:IMmaxfQy
クーデターを企図したのに不発というか誰も賛同しなかった
思想家としては北一輝よりはるかに下だ

大人数を動かすには凄みのある基地外じゃないとダメだ
三島は色物の基地外で終わったんだ
554名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/18(日) 11:56:54.21 ID:w3z5p+c/
555名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/18(日) 18:22:48.69 ID:tuKqcGPE
久留米大学院にて福岡県警岡元公安署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん Twitter FBIcommanding
556名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 13:20:16.81 ID:YGWs4aeX
この数世紀、白人による有色人種に対する支配、植民地化と言うなの略奪、侵略。
この白人の横暴な行為に対して「お前たち!いい加減にしろよ!」と有色人種の代表として我々日本民族が立ち上がったのである。
今を生きる日本人たちはこの先人の勇敢で誇り高い行いに感謝し、日本人として誇りを取り戻すべきである。
いつまでも押し付けられた自虐的史観に騙されることなく本来の日本人として目覚めようではないか!
557名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/20(火) 19:30:50.30 ID:LIYg44bH
もし亜細亜の覇王である日本が白人に対して立ち向かわなかったら
他のアジア人は白人に鞭で叩かれ強制的に略奪、搾取され続けていたであろう。
有色人種の代表として日本が徹底抗戦したおかげで戦後の有色人種の植民地支配からの解放へと
繋がっていったのである。

558名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 16:47:47.47 ID:ldibzyUM
559名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 15:28:02.32 ID:Y8skgMsl
560名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 19:49:53.21 ID:4+7N18Io
保守
561J:2012/03/04(日) 06:51:19.55 ID:ABjYdFUw
政治、戦争歴史、マスコミ、教科書、宗教、医療業界、警察、司法・・・
すべて見事に一体化され、国民は完璧に洗脳されて来ました。
真の情報を得られるのは、インターネットとほんの一部の書籍のみ。
アメリカ国民は既に気づきはじめました。
私は4年前から少しづつこういった事の一部を知り初めていたので受け入れられましたが、一気に観ると頭が困惑します。
→ 「 貴方を洗脳から覚醒させるアメノウズメ塾@ 」
http://www.youtube.com/watch?v=zWPAktCuzK4
これらの周辺の関連動画を片っ端から観ることをお勧めします。
「自分は知っている!」という先入観は捨てて観ることを願います。
562名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/12(月) 13:33:20.81 ID:sXMxozFX
(1)春の墓参
*******

日時:  3月25日(日)14:00 多磨霊園・平岡家墓地
集合:  13:30 多磨霊園正門前「よしの家」
     府中市紅葉丘2−7−4
     ? 042(361)2176
http://www.yoshinoyasekizai.com/common/map.pdf

当日は三島研事務局スタッフが「よしの家」の前で三島由紀夫研究会と書いた紙を持って立っています。直接行かれる方は多磨霊園十区一種十三側 の平岡家墓地前にお越しください。
終了後「よしの家」にて直会を予定しています。

563名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/27(火) 16:00:08.12 ID:JkBfqmn9
               2001年、
 広末涼子がある朝鮮人俳優の車をタクシーで追いかけた・・・・

  《 これは、朝鮮の日本占領計画ののろしであった・・・・ 》

日本占領の計画として、まずは朝鮮が日本の芸能界を占領する。
 そして芸能人に朝鮮のイメージをよくさせるような台詞を言わせ
それに感化された女性たちが朝鮮人の陰茎を膣にいれ子を産み
その子たちが宿り蜂のように日本を食らい尽くすという算段である。
http://yy81.60.kg/test/read.cgi/yagi/1332829379/
564名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 10:58:47.47 ID:+Sd3Tayx
この河と書物の河とは正面衝突する。いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が
成立つのは、死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり
血があり汗がある。言葉を介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、
人々が寄つて来ないのも尤もだ。この河は農耕のための灌漑のやさしさも持たない。富も平和も
もたらさない。安息も与へない。……ただ、男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことは
できないのである。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 行動の河)」より
565名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 10:16:44.62 ID:lLq5b1vi
http://www.wakamatsukoji.org/11.25/index.html
11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち

6月2日公開
566名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 20:28:41.67 ID:ZWWaDJ3Y
・・
567名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/05(木) 23:11:24.97 ID:rngauubI
//
568名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/06(金) 23:58:36.09 ID:w9M4C3sr
論外!
569名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/10(火) 22:18:09.27 ID:dgqT9UmV
三島由紀夫て誰
570名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/10(火) 23:53:19.82 ID:CEk6jwFB
万歳
571名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/17(火) 23:49:53.75 ID:idY8Mfgc
若者が立ち上がれ
572名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/17(火) 23:51:18.52 ID:idY8Mfgc
三島由紀夫バンザイ
573名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/17(火) 23:52:22.25 ID:idY8Mfgc
三島氏に憧れる
574名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/17(火) 23:54:26.23 ID:idY8Mfgc
もっと対談内容をくれ
575名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 00:05:09.39 ID:gRQnVIok
実業家達よ、本を読め!
576名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 00:12:32.57 ID:ektbDZHS
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げることしかない。
それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これは
ことばにかけると同じ重さを、からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
嘘なんだけども効果はある。
アメリカ大使館の窓から旗を三つぐらい垂らせば世界中に報道され、これはたいへん象徴行為になって効果が
あるんだけれども、根底的に意味はない。意味がないんだけれども、意味があるかのごとくなっている。そして、
全学連は最終的に意味があるかのごときところで満足しているということが表現者として気に入らないんだ。
これは正義運動としての自己冒涜だよ。正義運動を正義運動たらしめる根底的なものは、最終的に自己破壊しかない。
それができないということは、もう一つの表現のところに頼っているんだ。

三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
577名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 00:31:49.00 ID:Q/uhFgBN
札幌市の三浦敏嗣です。
「集団ストーカー被害者が団結する掲示板」へ来てください。
PC用:http://jbbs.livedoor.jp/news/4492/
携帯:http://jbbs.m.livedoor.jp/b/i.cgi/news/4492/
集団ストーカー関連の被害などもこれが原因だそうです。
殆ど、自分の妄想かもしれませんが知識を共有したいです。
Facebookにも書いています。三浦敏嗣で検索すれば出てきます。
578名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/22(水) 22:49:22.66 ID:H7KykE6E
579名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/23(木) 00:40:27.11 ID:h4W0IqQP
580名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/23(木) 19:54:49.85 ID:tFhvyT8D
三島由紀夫とオカマの会
581国を愛するような情けない男に、、:2012/08/24(金) 08:49:25.76 ID:u9iydf+f
「・・・・私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首筋に、激しいキスを
しゃぶりつくようにしたのだった。三島さんは、身悶えし、小さな声で、わたしの
耳元にささやいた。
「ぼく、、、幸せ、、」
歓びに濡れそぼった、甘え切った優しい声だった。・・・」
http://esashib.com/mishima03.htm
三島とともに心中した森田必勝は右翼学生組織・日学同(日本学生同盟)の幹部だった。
43年に出来た下部組織「全日本国防学生会議」の議長だった。
『新右翼・民族派の歴史と現在、新増補版』で森田と親しかった鈴木邦男は言う。
「、、日学同の粛清の歴史はすごかった。「楯の会」に走った人間も、みな除名処分で、
森田必勝などは「共産主義者に魂を売った。」という理由で除名処分にし、
そのことを「日本学生新聞」にデカデカと載せていた。
日学同を裏切る人間は即、敵(共産主義者)を利するものであるという理屈だった。
、、、日学同は、、昔のことに頬かむりして、三島事件に便乗した。
、、森田の日記まで出版しさらに、毎年三島、森田を追悼する「憂国忌」までやっている。
これでは「楯の会」ならずとも激怒するのは当然である。
、、、、今でも、楯の会の人間や当時の事情を知っている人間は、
だから憂国忌には一切参加しない。、、」

三島由紀夫が武道に走った重要な契機は「右翼に対する深刻な恐怖であったことは
間違いない。」と三島の実弟・千之氏は言う。(『三島由紀夫の生涯』安藤武著)
http://esashib.com/tohokuzisin01.htm
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-03-19/2012031915_01_1.html
人生は祭りの夜のように、あっという間に過ぎて行く、
神も教祖も天皇も王も、国家も民族も、どこにも在りはしない、
そのような卑小で笑止なものに入れあげる時間など、
どこにもない。

そのようなものに価値を与え、ぶら下がり、すがりつくのは、
楽なことかもしれないが、何の意味もない。
宗教、民族、国家などという薄汚いかたまりを、まず捨てることだ。
そのような小汚いものにしがみつく、
情けない男になっては、生まれてきた意味すらない。

582名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/30(木) 19:25:37.83 ID:sGBfXt6X
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏さく

・・・今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌の世をば現じ
583名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/30(木) 23:32:44.66 ID:QtdhE4gP
>>581
三島の弟はそんな発言してないと否定しています。
三島の憂国忌も林房雄が発起人だし、近年は森田必勝のお兄さんも参加してるから、鈴木邦男が
言うほど敵対視してないよ。
鈴木邦男が言うことは短絡的だから、あんまりすべてを真に受けない方がいいと思います。
デタラメで間違ってることも多いし。
584名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/30(木) 23:39:58.14 ID:2g37OKTi
鈴木邦男=北朝鮮に甘い夢を描いている馬鹿サヨクが右翼のふりしてる人
585名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/31(金) 15:00:15.46 ID:l6GxynYY
夏は稲妻冬は霜富士山麓に鍛え来し 若きつはものこれにありわれらが武器は大和魂 とぎすましたる刃こそ晴朗の日の空の色
憂いは隠し夢は秘め品下りし世に眉上げて 男とあれば祖國を蝕む敵を座視せんや やまとごころを人問はば青年の血の燃ゆる色
兜のしるし楯ぞ我すめらみくにを守らんと 嵐の夜に逆らひて蘇えりたる若武者の 頬にひらめく曙は正大の気の旗の色
586名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/01(土) 19:22:44.65 ID:4OA9+RNf
中国って今も中華人民共和国なの?
587名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/25(木) 22:12:21.92 ID:PZgq0rjA
今の時代に三島が生きていたらなあ
588名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/08(火) 16:20:36.37 ID:g3a+uZs3
蘇る三島
589名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/08(火) 18:17:25.68 ID:yESf7nZK
右翼が臭くて息ができない
おえーーー!!!!!!!!!
おえーーーー!!!!!!!!

!!!!!!!!!!!!!!
窒息死・・
590名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 07:28:34.11 ID:q4PJN0yv
三島由紀夫の霊界通信とか、自動書記のおばさんとかは何だったのか?
591名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 17:45:05.23 ID:zKuvEXYL
dddddddddd
592名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/15(土) 19:53:43.53 ID:AcHp5kRe
593名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/18(火) 21:01:40.58 ID:r2QINlRu
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


すべての偉大なる日本国民に捧げます。すべての偉大なる日本国民に捧げます。すべての偉大なる日本国民に捧げます。

           http://www.youtube.com/watch?v=Dx-BBg0AgP4 
        
http://www.youtube.com/watch?v=yxP3JKupCAY

                                     


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
594名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:z/iDprto
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
595名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:IXqlCYp/
このスレ1001までsage埋めてください!お願いします!
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/break/1323723496/l50
596ぱとりおっと ◆TITpQte1.o
 40年以上経って改めて三島先生の偉大さに気づきました。日本への予言はことごとく的中。
今年も地方で追悼祭を行ないます。スメラミコトイヤサカ