外国人の人権2

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348法の下の名無し
続き。

我が国が、国民主権、民主主義の原理を採用しています。(前文、1条)。
国民主権における「国民」の内容が、憲法上定まっていないとすれば、国民主権原理が全く無意味に
なってしまうことから、その意味の「国民」は、実質的な意味を持ちます。
民主主義は、治者被治者の自同性の要請を含みますから、「国民」概念を解釈するにあたっては、
被治者の実態を重視して考えるべきです。これが「>>1」の中心議論です。

民主主義が正義かと抽象的に問われれば、それはYESでしょう。しかし、民主主義の内容は一義的
ではなく、民主主義とくくられる一群の中でもずいぶんと異なった考え方が存在します。
直接民主主義と間接民主主義が高校の教科書にも載っていた対立の例です。
こうして、民主主義の中身をどうとらえるかもまた、憲法解釈の問題となります。

国民主権に関する議論の詳細はどこかを検索してもらうとして、通説は、権力の正当性の根源が国民に
あることととらえます。この立場からは、国民は「過去、未来も含めた観念的統一体」と定義され、
治者被治者の自同性も抽象的にとらえられることになります。
いわゆる有力説は、通説に加えて、総体としての国民と同一視される有権者団が、実際の権力を行使するとします。
有力説によれば、同一視という観念を通じて、その限りで治者と被治者が現実に結びついています。
いずれにせよ、現在する国民が現実に権力を行使することととらえる学説はあまり支持をえません。
これは、民衆というのは気分屋で愚かな者だから、現実に力を行使させるとろくなことにならない、
国民主権、民主主義の名の下に、憲法秩序の破壊が行われかねない、という親切心ないし大きなお世話的な考慮によるものです。
こうして、憲法の要請する治者被治者の自同性とは、現在、未来も含む観念的な被治者が、
権力の制定性の根拠でなければならないこと。有力説に立つと、上の被治者と同一視出来る有権者団が、
現実の権力を有すること(ほぼイコール参政権を有すること)を意味することになります。

もう一度、国民概念に返ります。ここから先は、まったく私の考えです。
過去未来も含めた総体としての国民については、抽象的意味での治者被治者の自同性に反さぬ様、
少なくとも現実に被治者の実態を有する者は、ここに組み込まなければならない。
また、この意味の国民が国籍で定まるとするのは、国籍法で定められた主権者が国籍法に自らの定義を委ねるという美しいまでの循環論ができあがってしまう。
通説ならば、国籍法による国籍保有者が総体としての国民の枠をはみ出さない様にすることが要請されて、
国民概念に関する議論は、それで終わりです。もう民主主義という理由は消費尽くされました。出てきません。
あとは、国籍法が14条、15条3項等ほかの規定に反さない様にするだけです。
有力説に立つと、実際の参政権保有者と総体としての国民が同一視できる必要があります。
参政権と国籍を切り離さない議論の進め方(前の仮定1)に立つと、実質的意味の国民と有権者団が、
同一視出来るように国籍法を定められなければなりません。とはいえ、相手は抽象的総体ですから、
幾何で言う合同は無理で、せいぜい相似形でしょう。相似形を崩さない範囲で、国籍法に関する立法裁量が認められます。

続きは、また今度。
いまや手元にまともな教科書もないので、間違い等あれば、ご指摘下さい。