ある大卒中尉の沖縄戦

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1エリート街道さん
『 武器、なぜ捨てた』
 ◇米機密文書に中尉の名−−「看護婦と壕の中に」
 その写真には、男女の名前とともに米軍による短い説明が添えられている。「彼は
武器を投げ出し『戦うことに疲れた。結婚したい』と投降した−−」
 1945年4月、激戦の沖縄。原版のフィルムは米国立公文書館に残る。米雑誌ライ
フも「沖縄の愛の物語」と紹介した有名な1枚。だが、まつわる記録はほとんどない。
ある戦史家は「結婚そのものが米軍の演出ではないか」と言った。
 被写体の「日本軍中尉」と「花嫁」は実在するのか。なぜ米兵に囲まれた「結婚式」
なのか。私は真実を知りたかった。
2エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:44:26 ID:uhMYjnR5
内閣府の「沖縄戦関係資料閲覧室」で手がかりを見つけた。「CONFIDENTIAL(機密)」と印刷された米軍の「戦争捕虜尋問報告書」。その中に「K」という将校の名があった。
 地位−中尉。年齢−28歳。逮捕時の状況−投降するつもりで看護婦とともに壕(ごう)の中にいた。所属部隊−独立歩兵第11大隊。職務−機関銃中隊長。
 しかし、どこの誰かは特定できない。
 写真を見てもらいたい人が京都にいた。宇治市に暮らす元伍長、前川清一さん(83)はその11大隊の数少ない生存者だ。
 「これは確かにK中尉です。部隊が前線の陣地から後方に下がるときに、ひとり、逆の方へ行ってしもうた。そう伝え聞きました」。意外に落ち着いた口ぶりだった。
 −−その場面を目撃した人はいますか?
 直属の部下なら……。機関銃中隊は生存者がいないかもしれませんなあ。
 −−将校の投降はまれでしたか?
3エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:45:47 ID:uhMYjnR5
捕虜になるなら自決せえ。そう教育されてますやろ。米兵は捕虜を殺すと私も信じてましたな。
 前川さんの任務は砲兵への弾薬の補給。夜陰にまぎれて運び、昼は防空壕に隠れた。米軍は壕の上から穴を掘り、重油を流し込んで火を放つ。日本兵はそれを「馬乗り」と呼んで恐れた。11大隊の約1200人のうち1000人以上が戦死したという。
 「戦争は終わったんやから戦友会に来ませんかと、連絡してましたんやけど」。中尉から返事は一度もなかった。
 京都でもう一人、11大隊の元伍長(85)に会った。沖縄に派遣される前、中国に駐屯したころの記憶が鮮明に残っている。
 戦闘で機関銃を陣地に残して逃げた時のことだ。中尉に報告するとしっ責されるどころか、こう言われた。「いやいや。生きていてくれたら、それに越したことはない」
4エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:47:05 ID:uhMYjnR5
 米軍の捕虜調書はK中尉をこう記している。<彼は平均以上の知性をもち、高い教育を受けている。彼はアメリカとアメリカ人について知識をもっている。そうでなければ、彼は投降しなかっただろう>

 沖縄は23日、慰霊の日を迎える。写真の真相は封印されたまま60年の歳月が流れた。激戦のさなかに何があったのか。それをたどることで、戦争が人に強いる苦しみや悲しみを伝えられないか。

 中尉率いる機関銃中隊の生存者がいると聞いた。

 私は沖縄へたった。
5エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:49:42 ID:uhMYjnR5
『部下の訪問』

 ◇立派な中隊長が−−姿消した後、部隊全滅

 米軍が残した沖縄戦の写真「戦場の結婚式」のK中尉は、約110人の兵を率いていた。沖縄守備軍・第62師団独立歩兵第11大隊機関銃中隊長。直属の部下が沖縄で健在だった。

 島袋京蔵さん(79)。元1等兵。「あの写真のビラさえ見なければ、私にとっては立派な中隊長でした」。感情を抑え、語り始めた。

6エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:50:47 ID:uhMYjnR5
 1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。中部の最前線に配置された11大隊は5日ごろ戦闘に入る。隊は下旬までに兵力が半減し、浦添村(現・浦添市)の前田高地に転進した。

 前田高地は守備軍の司令部がある首里城を見下ろす要衝だ。頂上の争奪戦は凄惨(せいさん)な白兵戦になる。K中尉が姿を消したのは、そのころだったという。

 5月初め、米軍の偵察機が高地の上空からまいたビラを拾った。投降を呼びかける日本語と、牧師役の米兵を前にした日本人の男女の写真。「捕虜に友好的な米軍」の宣伝と一目でわかった。男はなんと中隊長だった。部下を殴らないその人を尊敬していた。

 指揮官が捕虜になった中隊の兵士は別の部隊に分散され、消耗品のように「斬(き)り込み」を命じられた。夜中敵に近づき、肉弾攻撃を仕掛ける。10人行けば帰ってこられるのは1人か2人しかいなかった。

7エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:51:26 ID:uhMYjnR5
 島袋さんは右足を撃たれた。戦力にならなくなると、衛生兵から自決用の手りゅう弾を渡された。恐怖はない。「先に逝った方が楽」と感じるようになっていた。「まだ働け」。親しい上官に手りゅう弾を取り上げられた。

 戦後まもなくK中尉の宿舎を訪ねた。大阪の大学で英語を学んだ中尉は、沖縄に設立された米軍直轄の外国語学校の教員になっていた。「中隊長殿」。精いっぱい抗議の気持ちをこめ、中隊の全滅を伝えた。「あなたがいなくなって、みんな亡くなりましたよ」

 「飲まないか」。勧められた泡盛を断った。返事はない。顔が「すまない」と言った。

 島袋さんは一度だけ、戦友の実家を訪ねて線香をあげたことがある。遺族の言葉が耳から離れない。「あの子は、まじめだから戦死したんです」。以後、戦死者の家を訪問していない。

 「私も中隊長も生き延びた。それでよかったのではないか」

8エリート街道さん:2005/07/22(金) 11:52:54 ID:uhMYjnR5
 島袋さんと一緒に前田高地を歩いた。戦友の呉屋定功(ごやていこう)さん(78)も来た。2人とも戦後ここに来るのは初めてだった。

 口数が少なくなった。「木は一本もなかったね。焼き尽くされて」。呉屋さんの言葉に島袋さんが答えた。「ここ、戦場だったのか。不思議な感じがする」。倒れた戦友を起こそうとする夢を今も見る。

 デイゴやガジュマルが青々と茂り、モンシロチョウが舞う。その羽音が聞こえそうなほど、静かな風景だった。(=つづく)
9エリート街道さん:2005/07/22(金) 12:00:06 ID:uhMYjnR5
10エリート街道さん:2005/07/22(金) 12:13:44 ID:1yW/4Fvl
しかし、この国の政府って今も昔も
        国民の命を完璧軽視してるよな。
111:2005/07/22(金) 14:10:48 ID:uhMYjnR5
>>10
レスサンクス

某地方版には「貿易の傍ら英語を勉強」ってなってたので市大か関大かも
この中尉。
で、俺はこれを読んで怒りを禁じえなかったけどね。部下はどうでもいいのか?!
とか、内地の家族はどうでもいいのか?!って。
12地底理系@暇:2005/07/22(金) 14:35:25 ID:aQ3LKMUk
部下を殴らないってことは、当時の教育に洗脳されなかったんだろうな。

極限状態での人の気持ちなんて常人にはわからないよ。

疲れ果てての選択だと思う。
個人的には、死ぬ方が簡単な選択だと思うけどね。
13エリート街道さん
ageとこう