351 :
金龍:
じゃーそろそろ
>>314に答えておこう。
とりあえずテーマは客観的評価・主観的評価の基準について、そして主観的評価基準の意味と可能性。
まず
>>248に示した通り、同一の対象に対する異なる「見方」というものが存在する。
ある同じ絵があひるに見えたりうさぎに見えたり、立方体の見方の変化もこれと本質的に同じだ。
単なる「○」を書いていくら見てもその手の劇的な反転はなかなか起こらないだろーが、例えばその「○」を
○××
○○×
○×○
の中の真中の「○」とすれば、同じ「○」でも○×ゲームとしての意味を担った「○」に見えてくる。
その時の「○」は多少歪んでいようと「Φ」のように書かれようと、「同じ」意味、「見方」で捉えられる。
そして、こんなふうに見方が変化しうるということは、単に紙に一つ書いた「○」だって
一つの「見方」の下に見えていたってことだ。こういう見方のことをとりあえずアスペクトと呼んでおく。
ちなみに、アスペクトは別にある時点に一つとは限らず、同時に多重のアスペクトの下に
同じ物が見えてることも十分あることだ。
ここで
>>241の
>見た形「○」が、予め知っている形「○」と同じであるって事を
>確認する必要あるんじゃないの?
に答えるとだ、この確認ってのはつまり見た何らかの図形を「○」というアスペクトの下に見ることを
選択するってことだ。(本当はさらにその知覚を「何らかの図形として見る」ことの選択もある)
で、この選択はコンピュータのような演繹推論ではない。アブダクションってやつだ。
例えば殺人事件の犯人を探す時、「とりあえず」ある人物Aを犯人として見てみることで、
その後アリバイが無い、動機がある、その他の状況証拠を整合的に説明できるってな感じで
「そう見ることでうまく説明がつく、不都合が無い」という論理で犯人としてのアスペクト選択を
確認していくわけだ。これがアブダクションによる推論。
「とりあえずそう見る」という決定が先で検証は後回し、うまくいかなけりゃ別のアスペクトを
探すことになるだろーし、「○」なんかは先天的性質やら経験上の慣れやらでほぼ一発で決まるだろう。
352 :
金龍:02/12/09 05:52 ID:7NZGKcwI
しかし、重要なのはそのアスペクト選択はあくまでも「とりあえず」だということだ。
あひる−うさぎの絵を見て「あひる『が』書いてある」と言った奴はいつか
「うさぎ『に』も見える」と言う時が来るかもしれない。
日本語では複数のアスペクトの可能性が意識されてる時「〜に見える」とか「〜として見える」と言う。
具体的に別のケースが確認されてなくても、
適当にごちゃごちゃ書いた線を見せて「何『に』見えるか?」「自分は〜『として』見た」というふうに
他なる可能性の意識さえあればそういう言い方を用いる。
逆に他なる可能性の意識がなければ「〜『が』見える」というふうに言う。
この「に(として)」と「が」がとりあえず主観と客観の分かれ目とも言えるだろう。
しかし、何度も言うように、主観的・客観的に関わらず、全てのアスペクト選択は「とりあえず」であって、
原理的に他なる可能性を排除できないということ。
アスペクトの選択は一つの規則の選択であり、規則としての承認・否定を判断する審級の選択でもある。
例えば図形の丸を見るアスペクトは「○」を丸として承認し、「Φ」を丸として否定する。
しかし○×ゲームの「○」を見るアスペクトなら、重要なのは「×」との差異だから
「○」も「Φ」も○×ゲームの「○」としてなら承認・許容されるだろう。
アスペクトによってそれ固有の規則と、その規則に従っているかいないかを判断する審級が存在する。
規則として厳密な例は足し算だ。これも同様に、「1+1=2」は足し算の規則に従っていると承認され、
「1+1=3」とか「*+=−?」なんかは足し算の規則に従ったものではないと否定される。
ここで、問題は、足し算なんかは誰が見ても正しいアスペクト・規則は一つしかないと思うだろーが、
実はそれさえも錯覚だということだ。足し算でさえ、その規則は「とりあえず」なんだ。
353 :
金龍:02/12/09 05:53 ID:7NZGKcwI
これを示したのがクリプキによるプラスとクワスのパラドックス。
ある人がいて、そいつは今までに一般人と同様の足し算をしてきたとする。
しかし、ある時突然そいつは「68+57」の答えを5だと言った。
実は、そいつがプラス(+)の計算だと言ってきた規則は次のようなクワス(*)の計算だった。
・x,y<57の時、x*y=x+y
・そうでないなら、x*y=5
そいつがこういう規則を足し算だと思い込んでいて、今まで57以上の数を使った足し算を
したことがなかったなら、今までの全ての経験では問題なかった規則が実は足し算ではなかった
ということだってあり得る。そしてこういうクワス算の可能性は無限に存在する。
無限の可能性を排除した規則を定義するには、無限の規定を明示する必要がある。
しかし人間の経験が有限でしかありえない以上、無限の規定を修得することは不可能。
ということは、誰しも今まで問題なく足し算を習得してきたと思い込んでいても、
それが「本当の足し算」ではないという可能性を否定できないことになる。
誰も「本当の足し算」を知らないということは、「本当の足し算」などは存在しないってことだ。
数学基礎論なんかでは厳格な帰納的定義が用いられているが、それだってその帰納的定義に用いる
より初歩的な「=」とか「数える」といった概念のアスペクト・規則に同じ問題が生じる。
いくら基礎的な規則に遡行したところで、無限にこの問題がつきまとう。
354 :
金龍:02/12/09 05:54 ID:7NZGKcwI
ついでに、論理学の最も基礎的な規則「A,A→BからBを推論できる」に同じ問題があるってのが
ルイス・キャロルのパラドックスだ。あとゲーデルの第一不完全性定理は、自然数や変数に+×の計算を
したものを=で結び、論理記号や括弧で繋いで構成された命題、
∀x(x=x+0)…(全てのxについてx=x+0である…真)
∀x¬∃y(x=x+y)…(全てのxについてx=x+yとなるyは存在しない…偽)
なんかを、真の命題は証明可能で偽の命題はその否定が証明可能なように公理系、つまり
真の命題を証明(承認)し、偽の命題を反証(否定)するような規則を明示化・プログラム化しようとしても、
どうしたって証明も反証もできない決定不能な命題が出てきてしまうってことを証明した。
別に証明されようとされまいと、全てのアスペクト・規則は未完結なんだが、
算術(足し算、掛け算、論理演算)を含む程度まで複雑な体系となると、
自らその未完結性を認めることができるってことだな。
こうして、論理・数学、知覚、社会的な規範に至るまで、
およそ全ての意味的営みには規則とアスペクトの「とりあえず」性、つまり未完結性があるってことになる。
ここまで読めば↓に俺が書いたことの意味もよりよく理解できるだろう。
http://life2.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1037440340/405-408nf
355 :
金龍:02/12/09 06:22 ID:7NZGKcwI
で、ここまでアスペクト・規則の原理的な未完結性を強調してきたわけだが、実際問題、
足し算でクワス的な間違いをしたり「○」を突然四角と言う奴なんていねえじゃねーかって話になるが、
これが評価基準の問題に繋がるわけだ。ここからしばらく以下の見間違いの話をしていくことにする。
@Aがそこにある物体を指して「蛇だ」と言う。
Aそれに対し、Bは「もっとよく見てみろ、それは縄だ」と言う。
Bそして近付いてじっくり確認したAが「縄だった」と言う。
Aは遠くの物体が蛇「に」見え、Bはそれが縄「に」見えたわけだが、
この場合、反転図形のようにどっちの見方も正解なんてことにはならず、
明らかにAの選択したアスペクトが間違いで、Bの選択したアスペクトが正しいことになる。
ここで「誰も本当の縄を判断する規則を知らない」なんて言ったって無駄だ。
なぜAとBのアスペクトに優劣が生じるかというと、Bの方がその「同じ」対象を「よく見ていた」からだ。
重要なのは「同じもの」を「よく見る」という点。
356 :
金龍:02/12/09 06:24 ID:7NZGKcwI
「同じもの」とは、物体ならそれを見る角度、距離、照明その他の条件、時点など、あらゆる瞬間の
視点からの「見え姿」の集合であり、抽象概念ならそれに対するあらゆる観点からの「思え方」の集合だ。
ただし「視点」と言っても単に目の位置ではなく視覚以外の感覚器官も含めたあらゆる条件を意味するとする。
(こういう抽象的な「視点」の定義はパースペクティブと言った方が適切だが、長いから視点と呼ぶ)
通常だったらその集合は一つの名前の下に纏め上げられるわけだし、名も無きそこらの物体には、
「そこにあるもの」といった仮初の統一的性質によっていくらかの見え姿を統合することになる。
もっとも、固有名を持つものの同一性だって、実質的には性質によって結合されたものの全体だ。
ただし、有名な固有名の議論で、「固有名は性質の集合には還元されない」という定説があるが、
これは要するに「どの」性質において同じ見え姿の集合が、イコールその固有名によって
統一的に指示される見え姿の集合と一致するかが決定できないということだ。
例えばある日、
「木の下にある赤い石が青くなった」という出来事があり、翌日
「あの青い石が木の下から道に転がっていった」という出来事があったとする。
一日目の始めと終わりは「木の下にある石」という性質によって統合され、
一日目の終わりと二日目の始めは「木の下にある青い石」という性質によって統合され、
二日目の始めと終わりは「青い石」という性質によって統合されてることになる。
その石を後に「変色物X」という固有名で呼ぶことにしたとして、その固有名によって纏め上げられる
見え姿の集合は、「木の下にある」とか「青い」とかいった性質では纏め上げられない。
仮に「石である」という性質で統合しようにしても、第一に単に「石である」ものは普通、
それ以外にもいくらでもある以上、ただその一個の石のみを指す固有名とはイコールにならないし、
なったとしても、三日目にそれが石から鉄に変化する場面を目撃したら、それは依然として
「変色物X」という固有名で呼ばれ得るが、もはや「石である」という性質では統合できなくなる。
357 :
金龍:02/12/09 06:26 ID:7NZGKcwI
要するに、固有名が指示対象とする見え姿の集合は不特定の性質によって「つぎはぎ」にされ、
数珠繋ぎになったひとまとまりの系列だということになる。
抽象概念の中にだって同じことはある。人工的に「Xとは性質a,b,cを兼ね備えたものである」
とか定義された概念なら別だが、自然に発生した概念は大抵、固有名と同じようなものだ。
例えば「正義」やら「愛」やらの本質は何かと規定する試みが尽きないのはそのためだ。
ある概念の「本質探し」とは、実際その概念の下に指示されてるものはいろいろあって掴み所がないが、
その中でも特にこの性質を持つもののみが、真にその概念によって指示される「べき」だって主張だ。
ここではっきり言っておくと、「そこにあるもの」にしろ「性質Aを持つもの」にしろ、
これもまた一つのアスペクトだということだ。「同じもの」とは、その見え姿や思え方の集合であり、
この集合は実質的に「そこにあるもの」とか「性質Aを持つもの」といった不特定の性質によって
部分部分が数珠繋ぎになった一つの系列だが、その部分部分を繋ぐ性質もまた、
各視点・観点からの、より小単位の対象を把握するアスペクトだってことになる。
ちなみに視点や観点はアスペクトかって言うと、とりあえず観点はアスペクトだと言えるが、
視点、つまりパースペクティブは場合によるし用語上の問題もある。
一応、「さっきも今も『同じ』視点から見ている」なんて言える以上、異なる対象を繋げるアスペクト的な
働きを視点が担うこともある。まあ、用語的には普通これをパースペクティブと呼ぶもんだが、
この場合は本質的にアスペクトと変わらない。ただし、更に「XもYも「同じ」さっき(今)見ている」
とかいう言い方をしようとすると、今とかさっきをある程度の時間幅で捉えるならありえるが、
それを瞬間として捉えてるならこれ以上の分解はありえない。分解不可能な瞬間といっても別に
時間幅0ではなく、つまり空間的にも時間的にもこれ以上分解したら意味が無くなるような幅のことだ。
この瞬間の条件をアスペクトの極限と呼ぶかパースペクティブと呼ぶかは結局用語の問題だが、
まあ普通はパースペクティブだな。まあ結局アスペクトとパースペクティブの違いなんてこんなもんだ。
358 :
金龍:02/12/09 06:30 ID:7NZGKcwI
で、さっきの蛇と縄の見間違いの話に戻るとだ、「そこにあるもの」つまり「そこ性」を持つものは
同じものにも関わらず、Aにとっては「蛇である」蛇性を持つ見え姿や「縄である」縄性を持つ
見え姿が混在した集合ということになる。これら性質を異にする小単位の見え姿の集合は、
とりあえず「そこ性」のアスペクトによって一貫して取り纏められ、@の時点ではその全体に
蛇性のアスペクトを重ねて見ていたが、Bの時点で納得してからは、蛇性のアスペクトの下に
捉えられた見え姿を含む集合の全体を縄性のアスペクトで上塗りされることになる。
しかしBは全ての時点で一貫してその同じ物の見え姿の集合の全体を縄性のアスペクトで捉えていた。
AとBの違いを図示すると次のようになる。
A
@{「そこ性&蛇性&視点a」}=そこの蛇
A{「そこ性&蛇性&視点a」「そこ性&縄性&視点b」}=そこの蛇か縄
B{「そこ性&蛇性&視点a」「そこ性&縄性&視点b」「そこ性&縄性&視点c」}=そこの縄
B
@{「そこ性&蛇性&視点x」「そこ性&縄性&視点y」「そこ性&縄性&視点z」}=そこの縄
A{「そこ性&蛇性&視点x」「そこ性&縄性&視点y」「そこ性&縄性&視点z」…}=そこの縄
B{「そこ性&蛇性&視点x」「そこ性&縄性&視点y」「そこ性&縄性&視点z」……}=そこの縄
「」が個々の瞬間の見え姿の単位で、その中にその見え姿を捉えるアスペクトと視点を示している。
{}が「同じもの」としての単位で、見え姿の集合の全体を取り纏めるアスペクトを=の右に示す。
テキストにかいて一気にかいてくれー 気になる
360 :
金龍:02/12/09 09:44 ID:7NZGKcwI
このAとBの違いこそが、「よく見ていた」か否かの本質だ。Aは僅かな視点からしか対象を
見ていないうちに蛇だと速断したのに対し、Bは既に多くの視点から対象を見ていて、
ある視点xからは蛇に見えるものの、その他の多数派の視点から縄に見えることを総合的に判断して、
縄と判断していたわけだ。(まぁ別に蛇に見える視点を知らなくても十分多くの視点で見てればいいんだが)
もちろん、
A@{「そこ性&蛇性&視点A」}=そこの蛇
BA{「そこ性&縄性&視点X」}=そこの縄
みたいに、特別Bがよく見ていたわけではなく、たまたま後によく見ていくうちに判明する、
あるいはよく見ていた第三者Cならそう判断するところの、アスペクト選択をしていたに過ぎない
場合もあるが、これは偶然Bが「よく見ていた」ように見えるだけのことだ。
また、「よく見る」というのは相対的だし、先に書いた原理的な未完結性もあるわけだから、
絶対の判断ということはなく、常に全体のアスペクトを覆される可能性は残存する。
しかしそれでも通常は、よりよく見た者の判断はそうでない者の判断よりも優れていることになる。
統計的・確率的にも、より多くの視点から見た者Bの総合判断は、そうでない者Aがその後
多くの視点で見てから達する判断に一致しやすく、Aが経験を積む間にBにも新たな経験があったとしても、
既に多くの視点に基づいてなされた統計的・確率的に安定した判断は覆りにくい。
そして結果的に最終的な時点でABの判断が一致することで、Bの判断がより多くの視点に基づいた
優れたものであったことが証拠立てられることになる。
361 :
金龍:02/12/09 09:53 ID:7NZGKcwI
ただし、多くの視点から見るといっても、同種の偏った視点ばかりから沢山見ても、
「よく見る」ということにはならない。真に「よく見る」ということは、対象の名前や「そのもの」
としての同一性を軸に、より多種多様な視点・観点から対象の「見え姿」「思え方」を集めることだ。
「もっとよく見ろ」と相手に促すのも、相手に偏った視点を改めさせるためだ。
時に、自分の偏った視点に相手を無理やり同調させようとすることがあるが、これは洗脳だ。
結局視点の多様性に不寛容で、相手の自由を阻害しない限り判断の一致が得られないような判断は、
力を広く及ぼして偏った状態を維持しなければ支持が得られないから、優れた判断とはなり難い。
一種のエントロピーの法則で、部屋の一部の空気に温度の偏りを作ってもいずれ拡散していくように、
人は自然に偏った視点から多様な視点へと拡散していく。そこで、その多様な視点を先取りして、
人が今後多様な視点を経験していけば達するであろう判断を予見できる者が「よく見た者」だ。
この、「今後」「もし」経験していけばってところが重要で、「よく見た者」の判断は
必ずしも現在の多数派でなくても優れているということがあり得るわけだ。
例えば、典型的なのはパラドックスで、俺が今まで説明したパラドックスなんかも、
大多数の一般人は単純に嘘だと判断する事実を、少なくともある意味では認めなければならない
という判断の方がより「よく見た」上での判断であって優れていることになる。
つまり、多数派でなくとも、多様な視点・観点を先取りして「よく見た者」の判断は、
優れていると言い得るわけだ。最もその優秀さを実際に信頼する上では他の実績を参考にするしかない。
過去に予見を的中させ、実際によく見ていた証拠を多く提出した者こそが、統計的な信頼を得て
新たな判断に関しても少数派でありながら正しさ・優秀さを見込まれる。
362 :
金龍:02/12/09 09:54 ID:7NZGKcwI
この信頼もまた一つのアスペクトだ。ある人物Aが人物Bの判断が優れていると信頼する場合、
{「Bの判断&正しい&視点a」「Bの判断&正しい&視点b」「Bの判断&正しい&視点c」…}
のように、過去の多くの事例abc…において正しさが実証されてきた結果、
{…「Bの判断&間違い&視点A(x)」「Bの判断&正しい&視点B(x)」}
と、新たな事例xでA個人の判断とBの判断が食い違っても、なお全体は「Bの正しい判断」という
アスペクトの下に取り纏められ、信頼が成立する。これが形骸化したものではない真の意味での権威だ。
363 :
金龍:02/12/09 09:55 ID:7NZGKcwI
「よく見た者」の権威といっても、そもそも「よく見る」ことができるものとそうでないものがある。
「よく見る」ことができるのは「同じもの」であって、他者とその「同じもの」に対する指示を
共有できないものは「よく見る」こともアスペクトが覆ることもありえない。
蛇と縄の見間違いの事例では、「そこにあるもの」としてAB間で指示対象が共有できたからこそ、
「蛇だ」と言うAに対しBが「もっとよく見てみろ」と言うことが可能だったわけだ。
しかしAが「痛い」と言う場合にBが「もっとよく痛んでみろ」とか「それは痛みじゃない」
なんてことを言うことはできない。「痛み」はAに対してのみ現れてBと指示を共有できないからだ。
「盲腸の痛み」といった概念なら共有できるだろうが、まさに「この痛み」の感覚は決して共有できない。
当時激痛だと感じた痛みを自分自身でよく思い出してみたらそんなに痛くなかったと思い直す場合だって、
よく思い出してるのは「痛かった記憶」であって、現にある「この痛み」ではない。
「そこにあるもの」に対する指示は共有できるが、それを見ている自分の視覚的感覚そのものや、
それを蛇として見た瞬間の志向的感覚そのものに対する指示は共有できない。
要するに、複数の視点から「よく見る」ことができるものってのは、常に全貌が明らかにはならない、
見方、即ちアスペクトに関して未完結なものなわけだ。それに対してその場で全貌が明らかになって、
これ以上別の見方が入り込む余地のない完結したものを感覚と呼ぶ。
他なる視点に開かれてる対象は、経験を積むにつれて感覚が鋭敏になるといった視点の変化も加勢して、
さらに未知のアスペクトが発見されていくことになる。はじめはあまり美味くないと思うラーメンでも、
より多様な視点から味の見え姿を経験するうちに、突然今まで知らなかったアスペクトの下に捉えられ、
さらにそれがより高次のアスペクトから美味いと判断されることがある。
それが単なる個人の嗜好からの偶然の発見という域を超えて、より多くの味覚的経験を積んだ者、
即ちラーメンに関して「よく見た者」の多くが認める魅力的アスペクトであるなら、
そのラーメンはたとえ現在の支持者が少なかろうと、美味いラーメンだと言えることになる。
364 :
金龍:02/12/09 10:20 ID:7NZGKcwI
もうここまで書けば結論は容易だ。「美味」の判断も美的判断の一種だ。
優れた判断というのは、現在の多数派、つまり現在の一致を必ずしも必要とはしないが、
それでも根本的には最終的な「人間の一致」を予定してる。
「人間の一致」こそが判断、アスペクト選択の優劣を決する本質ということだ。
「よく見た者」とは人間の一致を先取りする者、つまりは一人でありながら
多くの人間の経験を自分の中に包括した者。
論理学や数学でクワスのような問題が起きないのは、まさに強力な「人間の一致」が可能な規則によって
その根本が支えられてるからだ。最小限の規則の組み合わせのみで全体が構築されるから揺らぎが少ない。
しかし美のように新たなアスペクトが登場するサイクルの早い分野では、一時の一致も長続きしにくい。
ただ、それでもより多くの視点を先取りし、「よく見た者」の判断は優れていると言い得る。
審美的な判断に続いて、ものの善い/悪いという価値的判断がある。価値的判断に関して
「よく見た者」なら、より普遍性の高い価値基準を持ち、多様な価値に寛容な、
いわゆる「器の広い人間」となる。多様な人間の経験を内部に包括しているわけだからこれは当然だ。
「器の広い人間」という言葉が世の中で実感を持って語られてる以上、そういう優秀さはあるってことだ。
人の優秀さに関する判断ならそれらよりはさらに幾分「よく見た者」の優位が顕著だろう。
で、結局何かを評価する基準というのは、客観的・主観的を問わず、対象をより多くより広範な
視点・観点からの「見え姿」「思え方」の集合として取り纏め、多くの人間の経験を内部に包括し、
「人間の一致」を先取りし代表することのできた「よく見た者」による判断であること、
またはその「よく見た者」が集合の全体から抽出した自らの判断を近似する規則のことを言うわけだ。
365 :
金龍:02/12/09 10:33 ID:7NZGKcwI
あー書きすぎたな。
まーだが、凡庸な学者なら論文10本書いても到底書けない内容を
論文0.5本くらいの分量に圧縮してるわけだ。我慢してよく読めや。