>>1 乙!!
あああ、22時間も
ラスト50個をいっきに埋めようとして焦って荒らさなきゃ、
次スレなんてできなかったのに。
放置しときゃ、自然に潰れたのに。ばかまるだし。
もう長期スレに決まったね。
2ができたら、3もできちゃうんだよねー。なぜか。
やればやるほど逆効果>22時間 ぷぷぷ
信濃は寝たのか?
ショックで軽くダウンしているのでは?
すぐに気を取り直してPCに向かうだろうから、
しばし待ってやってたもう。
鬼畜スレ保守してやがるぜあいつ
で、ピースボートはイラクでどんなビジネスしてるの。
高遠菜穂子並には儲けてるんだろうね。
スイスの民間防衛に出てくるスパイ活動そのまんまのピースボート
http://nokan2000.nobody.jp/switz/page04.html 国民をして戦うことをあきらめさせれば、その抵抗を打ち破ることができる。
軍は、飛行機、装甲車、訓練された軍隊を持っているが、
こんなものはすべて役に立たないということを、一国の国民に納得させることができれば、
火器の訓練を経ることなくして打ち破ることができる・・・・・・。
このことは、巧妙な宣伝の結果、可能となるのである。
敗北主義−−それは猫なで声で最も崇高な感情に訴える。−−諸民族の間の協力、
世界平和への献身、愛のある秩序の確立、相互扶助−−戦争、破壊、殺戮の恐怖・・・・・・。
そしてその結論は、時代遅れの軍備防衛は放棄しよう、ということになる。
新聞は、崇高な人道的感情によって勇気付けられた記事を書き立てる。
学校は、諸民族の間との友情を重んずべきことを教える。
協会は、福音書の慈愛を説く。
この宣伝は、最も尊ぶべき心の動きをも利用して、最も陰険な意図のために役立たせる。
>>7 ずいぶん貴重な情報をもってるようだな。
で、高遠さんはいくらもうけたんだい?
反核平和の火リレー:炎に願い託して 長崎・平和公園を出発 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000201-mailo-l42 県内を一周して平和や反核を訴える「反核平和の火リレー」が20日、長崎市
松山町の平和公園をスタートした。28日まで県内と佐賀県の一部の241区間
約390キロを約600人がつなぐ。
リレーは82年、米国の中距離核ミサイルの欧州配備に反対する運動の
盛り上がりを受け、広島で始まった。長崎では、県平和運動センター青年女性
協議会などで作る実行委の主催で、85年にスタート。ギリシャから贈られ、
長崎市で燃え続けている「ナガサキ誓いの火」から採火した火をつないで
「核も戦争もない平和な世紀に」と訴える。
この日は原爆投下時刻の午前11時2分に黙とうした後、ランナーがトーチを
手に国道206号を北上した。昨年の最終ランナーで、今年は第1走者となった
長岡千代美さんは「核や平和を改めて考えるきっかけになれば」と話した。
【横田信行】
7月21日朝刊
(毎日新聞) - 7月21日17時40分更新
戦後60年:平和への思い新た 鹿児島で原爆慰霊式−−遺族ら80人出席 /鹿児島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000221-mailo-l46 終戦60年の節目に、広島・長崎への原爆投下で亡くなった県出身者を追悼する
つどいが20日、鹿児島市山下町の県民交流センターであった。遺族や被爆者ら
約80人が出席し、平和への思いを新たにした。県原爆被爆者協議会(地頭所
正人会長、950人)の主催。
式では、地頭所会長が「戦争のない平和な世界をつくることが最大の供養」と
述べた。続いて、98年の慰霊碑建立後新たに亡くなった223柱を含む998柱の
名簿を奉納し、黙とうした。
広島県庁に勤める父を42歳で亡くした中川久子さん(63)が遺族を代表して
あいさつ。「60年の長い年月の間に、多くの人が病と後遺症に苦しみながら
亡くなった。核兵器の恐ろしさと廃絶を訴えてきたが、各国がいまだに核兵器を
製造し、保持していることに憤りを感じる。生き残った者の使命として恒久平和と
核廃絶を訴え続けたい」と語りかけた。
県内の被爆者健康手帳取得者は3月末で1407人、平均年齢は約75歳と
高齢化が進む。現在、認定申請を却下された県内在住の7人が、国に対し
却下処分などを求めて鹿児島地裁に提訴している。式では記念講演として
森雅美弁護団長が認定基準のあり方について話した。
【高橋咲子】
7月21日朝刊
(毎日新聞) - 7月21日17時50分更新
硫黄島で都の戦没者追悼式 遺族「日本を見守って」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000158-kyodo-soci 太平洋戦争で激戦地となった小笠原諸島・硫黄島(東京都小笠原村)で21日、
都主催の戦没者追悼式が行われ、遺族ら約50人が参列、冥福を祈った。
硫黄島には1945年2月に米軍が上陸、日本兵2万人余りが戦死したとされる。
都の追悼式は戦後60年となる今年で23回目。「鎮魂の丘」で行われた式で、
遺族代表の栗田猛さん(67)=大田区=は「平和な日本を戦禍やテロに遭う
ことのないよう、この島から見守ってください」と述べた。
また「日本の礎として多数の同胞が犠牲になった史実を次の世代に語り継いで
いくことは、わたしたちの重要な使命」とする石原慎太郎知事の式辞を都幹部が
代読した。
遺族らはその後、摺鉢(すりばち)山などの戦跡を回り、慰霊碑に水を掛け、
手を合わせた。
(共同通信) - 7月21日18時27分更新
若手集い、平和話し合う パグウォッシュ会議前に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000145-kyodo-soci 核兵器と戦争の廃絶を目指し、世界の科学者が討議する「パグウォッシュ
会議」の第55回年次大会が23日に広島市で開幕するのに先立ち、平和に
向けた活動を探ろうと、10代から30代の若手の研究者による「ヤング・
パグウォッシュ会議」が21日、同市中区で始まった。
会議には米国やロシア、パキスタン、中国などの核保有国に加え、
日本やイランなど10数カ国から約40人が参加。
2つのワーキンググループに分かれ、核不拡散や持続可能な開発について
意見を交わすほか、被爆者の体験を聞く予定。2日間の日程で、22日には
会議をまとめた声明を発表する。
(共同通信) - 7月21日17時24分更新
アインシュタインの手紙:故篠原さんとの往復書簡に「核廃絶メッセージ」 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000287-mailo-l34 ◇寄贈受けた原爆資料館、展示に活用の方針
原爆開発を巡り、海を越えて激しい論争を交わしたアインシュタイン博士
(1879〜1955)と哲学者の故篠原正瑛(せいえい)さん(1912〜2001)の
往復書簡。広島市の原爆資料館に寄贈された20日、関係者は「手紙は
核廃絶への2人からのメッセージ」と話した。【田中博子、堀江拓哉】
広島国際会議場(中区)での寄贈式後の会見で、篠原さんの友人で元東京都議
の高山真三さん(68)は「読めば読むほど、哲学者と物理学者の激烈な論争。
しかし、その中で、人間対人間の友情が生まれた」と評した。畑口実館長は
「被爆60年で、特殊相対性理論発表から100年。ラッセル・アインシュタイン
宣言から50年。節目の年の寄贈に、偶然以上の意味を感じている」と感謝し、
展示に活用する方針を明らかにした。
篠原さんは戦前、ドイツに留学、日本語教師などをした。現地で終戦を迎え、
連合国軍に抑留された後の49年に帰国。在野で哲学研究に取り組んだ。
「僕らはごめんだ―東西ドイツの青年からの手紙」(光文社)などの著作がある。
1952年、言論雑誌が博士へ送った公開質問状にかかわったことを契機に、
篠原さんは翌年手紙をしたためた。手紙について、篠原さんは「保存に適した
場所に寄贈すること」と遺言。遺言作成にかかわった佐久間豊弁護士が
ドイツなどを含めて寄贈先を探していた。遺族が寄贈先を探しているという
6月の毎日新聞の報道をきっかけに、大学など11の施設、団体が受け入れを
希望した。
遺族らで話し合った結果、原爆開発に携わった博士への手紙で、毎年8月6日
に篠原さんが広島を訪れ平和記念式典に参加していたことなどから、同館への
寄贈を決めた。
7月21日朝刊
(毎日新聞) - 7月21日17時20分更新
平和祈念資料展示室:開設1年機に展示替え 血のり付いた千人針も−−船引町 /福島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000108-mailo-l07 ◇遺族会が呼び掛け、新たに70点
戦死者の遺品などを遺族が持ち寄った田村市船引町の平和祈念資料展示室
が20日、開設1年を機に展示替えした。新たに「血のりの付いた出征千人針」
など約70点を展示。遺族会は「戦後60年の今、国が戦争を起こさないように
皆で考えよう」と呼び掛けている。
展示室は昨年8月、「田村市(旧船引町)遺族会」(佐々木勝義会長)が
「戦争で家族を失うのは、私たちが最後にしてほしい」という願いから、戦争の
悲惨さを訴えるために開設された。
それぞれの遺族が保管していた軍靴や水筒などの遺品や召集令状(赤紙)、
戦地と家族との手紙など約230点を展示。開設約1年で約2000人が訪れ、
新たに遺品の展示を申し出る遺族も目立った。1938年に兄が中国で戦死した
荒井三重さん=田村市船引町芦沢=は、今回の展示替えで兄の遺品「血のりの
付いた出征千人針」の展示を申し出た。千人針は、出征する兵士に「弾よけ」を
願って家族や知人が贈るもの。兵士が生きて戻って来るには、1000人の女性が
一針ずつ縫い1000個の玉を結ぶのが良いとされ、当時は近所を回ったり、
街頭に立ち千人針を縫ってもらう光景が見られたという。
荒井さんの兄は、腹部に千人針を巻き戦い、弾を受け千人針に血のりが付いた
とみられる。戦地から遺留品として送られてきたという。
父が中国で戦死した鈴木正一・田村市遺族会副会長(64)は「戦後60年たって
戦争が風化してきているが、国の犠牲になって家族が死んでいったという遺族の
思いを受け継いでいってほしい」と話している。
展示室は午前9時〜午後5時(月、火曜日休み)。入場無料。問い合わせは
田村市教委船引教育分室内(0247・82・1133)へ。
【福沢光一】
7月21日朝刊
(毎日新聞) - 7月21日16時16分更新
“がんばれイラク”電波に乗せ 左京の全盲男性 市民の現状紹介
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000034-kyt-l26 点字原稿を読み、イラク市民の現状を放送する河内谷さん(京都市中京区・
京都三条ラジオカフェ)
京都の全盲の男性がイラク市民の暮らしぶりや平和を求める取り組みを、
ラジオ番組「がんばれ!イラク市民ラジオ」で紹介している。イラクの市民団体を
取材して情報を集め、パーソナリティーとして点字原稿を指でなぞりながら放送。
「紛争やテロの情報ではなく、私たちと同じ市民の日常の姿を伝えたい」と意気
込んでいる。
左京区の河内谷收さん(28)。毎週月曜午後9時から3分間、京都市中京区の
コミュニティーFM局・京都三条ラジオカフェ(FM79・7MHz)で放送している。
これまでに現地で市民の手でラジオ局がつくられたことや広く市民が参加する
平和組織のできたことなどを報告。若者の娯楽や女性の人権問題も伝えていく
予定という。
自身、視覚障害者として苦労することが多かったといい「イラクでは私以上に
生きることすら困難な市民がいる。そんな現状を広く知ってもらいたい」と情報
発信を計画。視覚障害のためラジオが最も身近なメディアだったことから、
5月初めから番組を始めた。
イラク関係の講演会に足を運び、市民団体発行の新聞を知人に読んでもらって
情報収集する。先月は講演のため入洛した現地の市民組織「イラク自由会議」の
サミール・アディル議長に直接インタビューも敢行した。
自らパソコンで原稿を書き、特殊なプリンターで点字原稿にして放送で読み
上げる。聞きやすいよう、NHKの放送などを参考に、アナウンスの練習もしている。
今後も当面は放送を続けたいという河内谷さんは「平和的に国づくりを目指す
イラク市民を京都から支えたい。いずれイラクの市民ラジオ局と放送で交流したい」
と夢を語る。
(京都新聞) - 7月21日14時39分更新
戦争を知らない親子へ 市民グループが絵本展 仙台
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000010-khk-toh 戦後60年を機に親子で戦争について考えてもらおうと、「いま子どもに
手渡したい平和の本―戦争と平和を考える絵本展」が22日から仙台市
泉図書館(泉区泉中央)で開かれる。長年読み継がれている絵本に加え、
最近の絵本、写真集も紹介する。
市民団体のみやぎ親子読書をすすめる会などが主催。「かわいそうなぞう」
など読み継がれている絵本に加え、ここ10年で出版された「ピアノは知って
いる月光の夏」「地雷ではなく花をください」といった絵本、イラク戦争の写真集
など計200冊を展示する。
親子がその場で読めるような絵本が中心になる。23、24の両日は午前11時
と午後1時半の2回、絵本の読み聞かせや紙芝居なども行う。「すすめる会」
会員の盛合佐知子さん(71)と増田家次子さん(72)が、仙台空襲(1945年
7月10日)の体験談を語る。
「すすめる会」代表の酒井文子さん(66)は「親も戦争を知らない世代になり、
親が子どもに読み聞かせをして自分の子どもに戦争の悲惨さを伝えるきっかけ
になってほしい」と話している。
27日まで(25日は休館)。入場無料。連絡先は酒井さん022(228)1776。
(河北新報) - 7月21日14時46分更新
在外被爆者や遺族ら参列へ 8・6式典、8カ国大使も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000092-kyodo-soci 広島市は21日、8月6日に行われる被爆60年の平和記念式典に、
米国とブラジル、韓国の3カ国に在住する被爆者やその遺族ら計10人を
招くと発表した。
在外被爆者やその遺族らの式典参列は被爆50年の1995年以来、
10年ぶり。当時は米国や韓国など11カ国から計20人が参加した。
また同市は、オーストラリア、ニュージーランド、メキシコなど8カ国の
駐日大使が参列することも明らかにした。核保有国からは、ロシアの
駐日臨時代理大使が参列するという。
市によると、小泉純一郎首相についても、参列の方向で最終調整を
進めている。
(共同通信) - 7月21日12時22分更新
戦後60年の原点:芝居「人類の破片」 平和への思い、新たに /福島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000107-mailo-l07 ◇模擬原爆、全国各地に50発投下
◇同級生「供養」と会場に−−−福島・瑞龍寺で上演
福島市渡利の瑞龍寺で20日に上演された芝居「人類の破片」には、
模擬原爆にかかわりのあるさまざまな人たちが訪れた。模擬原爆の実態を
明らかにした愛知県の研究者や爆弾の犠牲となった斎藤隆夫さんの遺族や
同級生らが舞台を囲み、平和への思いを新たにした。【岩佐淳士】
「模擬原爆を後世に伝える意味でも素晴らしい演劇でした」。三浦秀夫さん
(65)はこの日、愛知県春日井市から新幹線を乗り継いで会場に駆けつけた。
15年ほど前、市民グループ「春日井の戦争を記録する会」の仲間とともに
米国の資料を調べ、模擬原爆が全国各地に投下されていた事実を突き止めた。
その後も丹念に全国の投下地点を訪ね歩き、実態を本にまとめた。瑞龍寺も
二度、訪れたことがある。
亡くなった隆夫さんの父運男さんが寺に預け、今回の芝居の題材となった
模擬原爆の破片を見るためだった。「模擬爆弾は全国に50発落ちたが、
きちんと破片を保管してあるのは珍しい。犠牲者がいたからこそ、残された
のでしょう」としみじみと語った。
隆夫さんの尋常高等小学校時代の同級生、佐藤トミさん(74)は「ずっと気に
かかっていた隆夫さんの供養をしたい」と会場に足を運んだ。「戦争について
私の記憶に一番残っているのは、隆夫さんが亡くなったこと」と話し、ほかの
同級生らと一緒に真剣な面持ちで舞台を見ていた。
60年前のこの日、隆夫さんの倒れていた田んぼにいち早く駆けつけた
姉ミチさん(78)や、破片を通じて知人や親せきに戦争の悲惨さを伝えてきた
隆夫さんの弟貞雄さん(69)も観劇した。貞雄さんは芝居が終わると舞台に
上がり、「過去のことなのでその真実も薄らいできた。このような機会をいただ
いて故人も成仏していると思う」とあいさつした。
また、破片を大切に預かっていた亘理正篤住職(79)の妻宮さん(76)は
会場で、「人類の破片」のテーマソングを大正琴で披露した。
◇エピローグで形見の蓑紹介
芝居のエピローグで、隆夫さんが死亡した時に着ていた蓑(みの)が紹介された。
60年間、遺族が形見として大事に保存していた。また、亘理住職と貞雄さんが、
出演した子供たちと一緒に平和を願い、模擬原爆の破片に白い布をかぶせる
セレモニーも行われた。
7月21日朝刊
(毎日新聞) - 7月21日16時16分更新
沖縄戦のフィルム入手 上原正稔さん、23日から上映
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000005-ryu-oki 沖縄戦時、米軍が北谷町、読谷村に上陸する様子や捕虜となった住民の
姿を収めた映像を那覇市のドキュメンター作家・上原正稔さん(62)がこのほど
入手した。映像は米国国立公文書館などから取り寄せたもので、約1時間に
編集され、23日から8月にかけて那覇市内で上映される。
上映するのは上原さんが2年前から今年5月にかけて米国国立公文書館から
取り寄せたフィルムと、県平和祈念資料館が所有するものとを編集したもの。
作品としては今回が3本目となる。
チビチリガマから脱出したと思われる母子や体中包帯だらけで顔をゆがめる
少女など悲惨な沖縄戦の様子が映し出されているほか、ブランコに乗り、
カメラに向かって笑顔を見せる羽地村(現名護市)の子どもたちや、具志川
(現うるま市)の海岸とみられる場所で楽しそうに水遊びをする子どもの姿が
映っている。
本島に上陸する際、約4千人の戦死者を出すと米軍情報部が予測していた
ことも説明文で紹介。バックナー米第10軍司令官に案内され、泡瀬(シモバル)を
視察する太平洋地域総司令官のニミッツ元帥の姿もある。
上原さんは「これまであまり公開されていない読谷村の映像も手に入った。
読谷村の人にも見てほしい」と話している。
上映会「パンドラの箱を開けるとき」は23日、8月1―6日が那覇市のてんぶす
那覇で午後6時から(7月24日のみ3回上映)。問い合わせは沖縄戦フィルム
ライブラリー事務局098(852)2846。
(琉球新報) - 7月21日9時57分更新
被爆地で対話と交流 イスラエル・パレスチナ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000210-kyodo-soci 被爆60年の今夏、紛争が続くイスラエルとパレスチナの高校、大学生が、
日本の民間非営利団体(NPO)などの招きで広島、長崎両市を訪れ、日本の
高校生と交流する。プロジェクトの実行委員会が21日、長崎市で発表した。
イスラエル、パレスチナから6人ずつが来日。広島、長崎などの高校生7人
が同行する。一行は広島、長崎両市の原爆資料館を訪問、8月9日には
長崎市の平和祈念式典に参加する予定。
プロジェクトは昨年、広島を訪れたエルサレム・カトリック教会のイブラヒム・
ファルタス神父が「紛争のため出会うことすらできない聖地の若者たちに、
この地で対話をしてほしい」と発案し実現した。
(共同通信) - 7月21日20時36分更新
住民の視点で護憲論議 市民団体「平和憲法の会」飯塚市で初のシンポ開催
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050721-00000003-nnp-l40 【筑豊】 嘉飯山地区の労働組合や教育関係者でつくる市民団体「平和憲法
の会」(木原範恭世話人代表)が初めてのシンポジウムを三十日午前十時から、
飯塚市飯塚のコミュニティセンターで開く。戦後六十年の節目を迎え、改憲に
向けた動きが活発化する中で、平和憲法の持つ意味について、あらためて
一般の住民の視点で語り合うという。
同会は、護憲を主張する五十九の団体・個人で組織。一月の結成以来、
憲法や教育基本法の改正問題などをテーマに、専門家を招いた講演会を
開催してきた。
シンポのテーマは「しごと・くらし・じんけんと憲法」。これまでの講演会を
踏まえて、地元の高校教諭、戦争体験者、女性団体代表ら六人がそれぞれの
意見を交わす。当日は、同会が嘉飯山地区の有権者を対象に実施した
憲法に関するアンケート結果も報告する。
シンポは入場無料。問い合わせは同会事務局の籾井さん=090(9471)8763。
(西日本新聞) - 7月21日2時18分更新
しかし、すごいあらされ方だな。
次スレが立つだけなのに。
>>1 すごいぞ。
乙!!!!!!!!!
怪しいピースボート
あげ
は? つまんね〜スレだな
ピースボート信濃君
辻元氏だっけ
信濃は八時から九時まで寝ていたようだなw
ピースボートはイラクでどんな怪しいビジネスしてるのですか。
33 :
国連な成しさん:05/07/22 14:56 ID:048XsMqY
USENブロードネットワークス。
100MBで申し込み、速度判定の結果たったの2MB。
解約の申し込みをしたら違約金が必要とのこと。
プロバイダ選びに迷っている方、あくまで参考にどうぞ。
ピースボートって結局どういう団体なんですか?
まあ民間防衛という本を読めば、ピース団体の狙いは理解できる
バクダットにピースボートは
入港できないだろぅ
間違いないっ
37 :
国連な成しさん:05/07/22 19:02 ID://1od5iY
平和船ってアレだろアレ
発情期の青年を船に押し込めて長期間旅させるやつ
「ラブジャンキー」で検索汁
よさそう
39 :
国連な成しさん:05/07/22 22:14 ID:GWKOuFvs
ピースボート信濃君
たしかにやしいな
スイスの民間防衛に出てくるスパイ活動そのまんまのピースボート
http://nokan2000.nobody.jp/switz/page04.html 国民をして戦うことをあきらめさせれば、その抵抗を打ち破ることができる。
軍は、飛行機、装甲車、訓練された軍隊を持っているが、
こんなものはすべて役に立たないということを、一国の国民に納得させることができれば、
火器の訓練を経ることなくして打ち破ることができる・・・・・・。
このことは、巧妙な宣伝の結果、可能となるのである。
敗北主義−−それは猫なで声で最も崇高な感情に訴える。−−諸民族の間の協力、
世界平和への献身、愛のある秩序の確立、相互扶助−−戦争、破壊、殺戮の恐怖・・・・・・。
そしてその結論は、時代遅れの軍備防衛は放棄しよう、ということになる。
新聞は、崇高な人道的感情によって勇気付けられた記事を書き立てる。
学校は、諸民族の間との友情を重んずべきことを教える。
協会は、福音書の慈愛を説く。
この宣伝は、最も尊ぶべき心の動きをも利用して、最も陰険な意図のために役立たせる。
人道主義さえもプロパガンダ扱いか
そうやって疑心暗鬼に落ちてればいいさ
赤十字を生んだ国とは思えんな
立命大で孔子学院設立記念式典 中国政府、孟子像を寄贈
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050722-00000056-kyt-l26 関係者に披露された中国政府寄贈の孟子像(京都市北区・立命館大図書館)
立命館大(京都市北区)で22日、日本で初の孔子学院の設立記念式典が
開かれ、立命館の名称の由来となった中国の思想家、孟子の像が中国政府
から寄贈された。
孔子学院は中国政府が世界各地に設立している学術組織。今年10月に
立命館大国際平和ミュージアムに「立命館孔子学院」として開設予定で、
学生や社会人対象の中国語講座、中国文化や経済に関する講座を開く。
中国・清華大(北京市)の協力で運営し、大阪や東京での講座も計画している。
この日は立命大図書館で孟子像が披露された。孟子の出身地・山東省の
花こう岩で作られており、中国政府が制作した初めての孟子像という。
記念式典で、中国政府の蔡名照・国務院新聞辨公室副主任は「日中友好は
両国人民の共通の願いであり、アジアと世界の平和と発展につながる。
孟子像とともに携えてきた中国人民の友好の気持ちが未来へ引き継がれる
ことを信じている」と話した。
(京都新聞) - 7月22日21時50分更新
原爆展:被爆直後の広島、長崎 写真で悲惨さ実感−−宮崎市民プラザ /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050722-00000286-mailo-l45 被爆の悲惨さを伝えて平和について考えてもらおうと「宮崎原爆展」(同展を
成功させる会主催)が21日、宮崎市橘通西1の市民プラザで始まった。24日まで。
会場には、原爆が投下された直後の広島や長崎の町並みや被爆した子供たちを
写した写真パネル、原爆を題材にした書籍や証言集、被爆者が着ていた衣類など
計約80点を展示。22〜24日の午前11時と午後2時には、県内在住の被爆者が
体験談を話す。無料。
学校のリポート作成のため来場した宮崎西高2年、松岡諒さん(17)は「原爆は
イメージでしか分からなかったが、写真を見て実感がわいた。二度と悲劇を起こさ
ないためにも原爆は造らない方がいい」と話していた。
問い合わせは同会0985・25・3977。【関谷俊介】
7月22日朝刊
(毎日新聞) - 7月22日17時51分更新
広島市:来月6日の平和記念式典、テント席4000席に倍増 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050722-00000204-mailo-l34 ◇高齢の被爆者に配慮
広島市は、8月6日の平和記念式典で、テント席を昨年の2000席から
4000席に増やす。高齢化した被爆者に配慮したものだ。同市は、暑さ対策に
帽子や水筒の持参を呼びかけている。
被爆60年の今年は、例年同様に総理や知事らのほか、衆参両院議長と
最高裁長官もあいさつをする。このため、式典の時間は約20分間延長される。
テント席は倍増したが、参列者席の全体を覆うテントを張ると約3000万円も
かかることや、テントの土台が芝生を傷つける恐れから、これが限度という。
また近くを通る人に式典の様子がわかるよう、「原爆の子の像」の南側と
原爆資料館屋上にスピーカー7台を増設する。
式典で、原爆投下時刻の午前8時15分に「平和の鐘」をつくのは、遺族代表
の同市職員、坂本綾さん(40)=西区=とこども代表の市立温品小6年、
藤田健君(11)=東区。「平和への誓い」は市立本川小6年、岩田雅之君(11)
=中区=と市立口田小6年、黒谷栞さん(11)=安佐北区=の2人が読み上げる。
黒谷さんは祖母が被爆者で、涙を流しながら体験を話すのを聞き、二度と戦争を
起こしてはいけないと思ったという。「世界中に平和を願うヒロシマの心を伝えら
れるよう、気持ちをこめて読みたい」と話していた。
【田中博子】
7月22日朝刊
(毎日新聞) - 7月22日17時22分更新
映画:「父と暮せば」上映 原爆投下後の広島が舞台−−来月3日・亀岡 /京都
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050722-00000122-mailo-l26 ◇悲劇の中にも人のやさしさ描く
原爆投下後の広島を舞台に、生き残った者の苦しみ、人のやさしさなどを
描いた映画「父と暮せば」(黒木和雄監督、04年作品)=写真はチラシ=が
8月3日、亀岡市余部町ののガレリア亀岡で「ヒューマンシネマ2005」として
上映される。同市の「平和月間」の取り組みの一環。
原爆投下から3年、図書館に勤める美津江(宮沢りえ)は、愛する者たちを
一瞬のせん光で失い、生き残ったことへの後ろめたさから息をひそめるように
生きていた。そんな彼女の前に原爆の資料収集に情熱を注ぐ青年が現れ、
2人は互いにひかれていく。
それでも幸せを望んではいけないとためらう美津江の前に、父・竹造(原田
芳雄)の幽霊が現れ「恋の応援団長」を名乗り、娘の心を開かせようとするのだが……。
ヒロシマの悲劇を描きながらも、温かな笑いがあり、父娘の会話には心が和む。
無料。午後2時、7時の2回上映(開場は30分前)。先着順で定員200人。
亀岡市生涯学習部人権啓発課啓発振興係(0771・25・5018)。
【矢倉健次】
7月22日朝刊
(毎日新聞) - 7月22日17時0分更新
うんにゃ
被爆者アンケート:過半数が「責任」は米日両政府
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050723k0000m040111000c.html 被爆60年にちなみ「被爆者の声を伝えよう」と「日本原水爆被害者団体
協議会」(被団協)が実施したアンケート「わたしの訴え」の中間報告が22日、
まとまった。
全国の被爆者1612人が回答。「原爆被害の責任」について、「米日両政府
にある」が56.9%で、「アメリカ政府」は20.7%だった。
「60年間でとくにつらかったこと」(複数回答)は「自分の健康がいつも不安」
(73%)、「子供や孫の健康・将来が不安」(48.1%)、「あの日のできごとが
心の傷に」(39.6%)−−の順だった。
中間報告は29日から東京都新宿区の日本青年館で始まる国際シンポジウム
「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」で紹介される。
毎日新聞 2005年7月22日 21時26分 (最終更新時間 7月22日 21時35分)
寝たのか?
「戦争状態」不安の市民 ロンドンまた爆発
「東京だって可能性ある」
http://www.yomiuri.co.jp/features/london/200507/ld20050722_03.htm 【ロンドン=千葉直樹、黒井崇雄】厳戒態勢のロンドンで21日午後、またも
起きた地下鉄とバスを狙った爆発に、市民や在留邦人は不安を口にした。
「これは一種の戦争状態だ」。ウォーレンストリート駅の現場近くを通りかかった
経営コンサルタント、ラルティノ・カルテラさん(45)は、驚いた様子で語った。
近くに住む料理人ローネル・グビエさん(33)は「短期間に2度もあったことが怖い」。
11歳からロンドンに住んでいるというパキスタン系の会社員ハックナズ・カーンさん
(48)は「(2度も)起きたことは驚かない。イラク戦争などに対する反発でテロリストは
世界中で動いている。東京だって可能性がある。だれも(テロを)止められない」と
話した。現場近くのホテルで受付をしている女性従業員は「ここで働いている以上、
離れるわけにはいかない」と半ばあきらめ顔だった。
◇
「いずれ同じ事件が起きると思っていた」。ロンドン中心部の印刷会社現地法人に
勤める日本人男性(51)は、そう語った。7日のテロ以降、駅の入り口には2人1組
の警察官が立ち、警戒態勢を強めていたが、乗客の手荷物まで検査しているわけ
ではないからだ。
イギリスヤクルトの松原弘泰社長は「用心してもテロはいつどこで起こるか分から
ない。家族は外出時になるべく車を使っている」と語った。
(2005年7月22日 読売新聞)
ピースボートはテロ組織とつながりはあるのか?
もし、あるならテロ支援団体として存在が問題になるな。
56 :
国連な成しさん:05/07/23 10:13 ID:4tFmSwVk
正義か悪かなんてプロパガンダ以上の意味はないんだよ(^^;)
44 名前:国連な成しさん メェル:sage 投稿日:05/07/23 01:31 ID:???
人道主義さえもプロパガンダ扱いか
そうやって疑心暗鬼に落ちてればいいさ
詐欺罪で捕まった辻元の作り上げた組織なんだよな
ジャミーラ
テロから支援を受けている
結局ピースボートってどういう団体なんですか?
募金詐欺
揺れたなぁー
高遠菜穂子さんは少年のあそこも洗ったんだろうか?
高遠菜穂子さんは少年のあそこも洗ったんだろうか?
高遠菜穂子さんは少年のあそこも洗ったんだろうか?
高遠菜穂子さんは少年のあそこも洗ったんだろうか?
高遠菜穂子さんは少年のあそこも洗ったんだろうか?
郵政民営化:反対訴え、街宣を開始−−社民党県連など /大分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000196-mailo-l44 社民党県連と県平和運動センターが22日、「郵政民営化反対!県内キャラ
バン」を始めた。参議院で郵政民営化関連法案が審議される中、来月5日まで
県内各地で街頭演説などをする。
大分市内であった出発集会で、旧全逓の日本郵政公社労働組合(JPU)
県協議会も加盟する運動センターの岩崎正文議長も「民営化されれば、
もうからない地方の郵便局は切り捨てられる」と危機感を強めた。【藤原弘】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日17時46分更新
朗読劇:「この子たちの夏」上演 被爆者の手記、手紙、詩など−−徳島 /徳島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000193-mailo-l36 ◇感動呼んだ母親の気持ち
60年前の8月、広島市と長崎市に投下された原子爆弾で被爆した親子たちの
手記や手紙などを読む朗読劇「この子たちの夏」の自主上演会が21日夜、
徳島市藍場町2の県郷土文化会館で開かれ、市民ら約600人が鑑賞した。
「この子たちの夏」の台本は演劇集団「地人会」の木村光一さんが被爆者の
手記などをもとに制作。85年夏から毎年、全国でプロによる公演や自主上演が
行われている。徳島では主婦や学生、社会人らが「自主上演実行委員会」
(船越智子代表)を設立し、朗読劇に協力し続けている女優の長内美那子さんの
指導も受けながら、練習を続けてきた。
メンバー35人がステージ上で、原爆で子どもを失った母親の気持ちをつづった
手記や手紙、詩などを感情を込めて朗読すると、客席からは、被爆地のあまり
にも悲惨な状況に、思わずすすり泣く声も聞かれた。
「戦後60年の年に、平和の大切さについて考えてもらいたくて参加しました」
という高校生の柴田彗菜さん(16)は「難しかったけれど、一生懸命読みました。
朗読を聴いて何かを感じてもらえたら」。朗読を聴いた同市国府町竜王の
蓮池由美子さん(57)は「とても良かった。感動で涙が止まりませんでした」
と話していた。
【小野沢健一】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日17時26分更新
核兵器廃絶 パグウォッシュ会議年次大会、広島で始まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000021-maip-soci 原爆慰霊碑に献花後、祈るパグウォッシュ会議出席者=広島市中区の
平和記念公園で23日午前10時49分、武市公孝写す
核兵器廃絶を目指す科学者の組織「パグウォッシュ会議」の第55回
年次大会が23日、広島市中区の広島国際会議場で始まった。約40カ国から
自然・科学・人文科学者ら約170人が参加。「ヒロシマ・ナガサキから60年」を
全体テーマに意見を交換する。年次大会の日本での開催は95年の広島大会
に次いで2回目。
開会式で、大会組織委員長の大西仁・東北大理事は「展望は10年前より
暗いが、核廃絶を話し合うのに最もふさわしい場所・広島で議論を深めよう」
とあいさつ。国連のアナン事務総長もメッセージを寄せた。
参加者らは続いて同区の平和記念公園内の原爆慰霊碑に献花した。午後は
「ラッセル・アインシュタイン宣言の今日における意義と核廃絶」を議題にした
作業部会などがある。27日まで。
【中野彩子、林田七恵】
(毎日新聞) - 7月23日17時21分更新
広島・長崎原爆展:あすまで開催 折り鶴コーナーも−−松江・県民会館 /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000263-mailo-l32 広島、長崎両原爆の惨状を伝えるパネル約40点を展示した「広島・長崎原爆展」
が松江市殿町の県民会館で開かれている。24日まで。
原爆投下から今年で60年になるのを機に、フォーラム「平和・人権・環境」しまね
(松江市御手船場町、杉谷肇代表)が企画。原爆展では、原爆投下直後の広島、
長崎両市の様子や被爆者の写真のほか、被爆による白血病で12歳で亡くなり、
広島の「原爆の子」像のモデルとなった佐々木禎子さんの生涯も紹介している。
会場には、折り鶴コーナーも設けられており、広島、長崎へ贈る千羽鶴用の鶴を
折ることもできる。会場では、通行人らが足をとめてパネルに見入ったり、鶴を
折るなどしていた。
【久野洋】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日17時16分更新
核廃絶願い、平和訴え ヒロシマ撮影の故松重さん
愛知万博(愛・地球博)瀬戸会場で23日、被爆60年を前に平和を考える
イベントが開かれ、原爆投下当日、広島市の爆心地付近をただ1人撮影した
元中国新聞カメラマンの故松重美人さんが、平和への思いを語ったビデオ
メッセージが初めて公開された。
松重さんは腎臓を患い、今年1月に92歳で亡くなったが、闘病生活中の
昨年12月、病床で遺言とも言えるメッセージを残した。「地球上の生命ある
ものすべてが、円満に生きていける世界平和が望ましい」と声を振り絞って
訴えた。
松重さんは1945年8月6日、広島市中心部に入り、5枚の写真を撮影。
中でも原爆投下の約3時間後、爆心地から約2・3キロの広島市千田町
(現・中区千田町)の御幸橋西詰で焼け出された人々を写したカットは
歴史的資料として有名。
(共同通信) - 7月23日17時15分更新
国民平和大行進:核兵器の廃絶訴え、広島・長崎を目指す /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000264-mailo-l32 核兵器の廃絶を訴えながら、広島、長崎を目指して全国を行進する「国民
平和大行進」が22日、松江市に入り、約130人が市内で平和の尊さを訴えた。
行進は毎年実施。各都道府県をリレー形式でつなぎ、8月2日から9日まで
それぞれ広島、長崎で開かれる原水爆禁止世界大会を目指す。今年は全国
11コースで行われており、県内を通るコースは富山県を6月9日に出発し、
日本海側を歩いて広島を目指す。
今年は被爆60年を迎え、2人の参加者がコースの踏破に挑戦中。松江市
灘町の志谷泰雄さん(64)は「富山から歩いてきたが、登下校する小学生たち
に声をかけるとみな驚いた様子だった。平和の大切さをぜひ孫の世代に伝え
たい」と話した。
この後は出雲市や雲南市などを通り、30日に飯南町赤名を抜けて広島県
へ入る予定。
【酒造唯】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日17時16分更新
平和展:「原爆の子の像」のサダコさんの記録紹介−−小山 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000059-mailo-l09 小山市の「2005平和展」が22日、同市生涯学習センター(JR小山駅西口
ロブレ6階)で始まった。26日まで。戦争の悲惨さや平和の尊さを再認識し、
次世代に引き継ごうと、平和都市宣言(92年)の事業として95年から実施
している。
「サダコと折り鶴」ポスターは、2歳で被爆し12歳で白血病で死亡した、
佐々木禎子さんの短い生涯を通した平和の訴え。病床で折った折り鶴への
願いが「原爆の子の像」のきっかけとなった。禎子さんの闘病や、像完成までの
ポスター26枚が、原爆被害と平和の大切さを伝えている。
このほか、広島・長崎の原爆写真パネル、広島原爆被爆資料や、小山の
小中学生の平和ポスターなどを展示。ビデオ上映「つるにのって〜とも子の
冒険」「ヒロシマ・母たちの祈り」、折り鶴製作コーナーもある。
【佐野信夫】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日16時20分更新
<核兵器廃絶>パグウォッシュ会議年次大会、広島で始まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000035-mai-soci 核兵器廃絶を目指す科学者の組織「パグウォッシュ会議」の第55回年次大会が
23日、広島市中区の広島国際会議場で始まった。約40カ国から自然・科学・人文
科学者ら約170人が参加。「ヒロシマ・ナガサキから60年」を全体テーマに意見を
交換する。年次大会の日本での開催は95年の広島大会に次いで2回目。
開会式で、大会組織委員長の大西仁・東北大理事は「展望は10年前より暗いが、
核廃絶を話し合うのに最もふさわしい場所・広島で議論を深めよう」とあいさつ。
国連のアナン事務総長もメッセージを寄せた。
参加者らは続いて同区の平和記念公園内の原爆慰霊碑に献花した。午後は
「ラッセル・アインシュタイン宣言の今日における意義と核廃絶」を議題にした
作業部会などがある。27日まで。
【中野彩子、林田七恵】
(毎日新聞) - 7月23日11時53分更新
パグウォッシュ会議が広島で開幕、世界の科学者集う
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000403-yom-soci 核兵器廃絶を目指して世界各国の科学者が意見を交わす第55回パグウォッシュ
会議年次大会が23日、広島市の広島国際会議場で開幕した。
米、英、中、露など約40の国と地域から約130人が出席。最終日の27日に
「ヒロシマ宣言」を発表する。
開会式でM・S・スワミナサン会長は「5月の核拡散防止条約(NPT)再検討
会議が失敗に終わり、会議の役割は大きくなっている。被爆地・ヒロシマ、
ナガサキの惨劇を忘れてはならない」とあいさつした。
出席者は式後、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花、犠牲者に祈りを
ささげた。
(読売新聞) - 7月23日12時38分更新
被爆地に世界の科学者 パグウォッシュ会議開幕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000108-kyodo-soci 広島・平和記念公園の原爆慰霊碑を訪れたパグウォッシュ会議の参加者=
23日午前10時55分
核兵器と戦争の廃絶を目指す科学者らの国際組織「パグウォッシュ会議」の
第55回年次大会が23日、「ヒロシマ・ナガサキから60年」をテーマに、広島市
中区・平和記念公園の広島国際会議場で開幕した。日本での年次大会は
1995年の広島以来、2回目。
被爆60年を迎えた広島に約40の国・地域から約170人の科学者が集まり、
政治的な立場の違いを超えて自由に意見を交わし、最終日の27日には世界に
向けて「宣言」を発表する。
同会議のスワミナサン会長(79)=インド=は開会式のあいさつで、核拡散と
テロリズムの台頭を指摘し「核のテロが現実のものになろうとしている。暴力が
平和の文化に影を落とす時代を終わらせよう」と呼び掛けた。
体調不良のため欠席した会議創設者の1人、ロートブラット氏(96)=英国=
はメッセージで、「核が紛争に使われる危険は今までになく高い」と警鐘を鳴らした。
(共同通信) - 7月23日13時3分更新
抱き合う母子の碑が完成 空襲語り継ごうと、青森
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000139-kyodo-soci 青森市役所前に完成した「空襲・戦災都市青森の碑」に手を合わせる女性=23日午前
第2次大戦中の青森市空襲から60年たつことを受け、風化しつつある
空襲の記憶を語り継ぎ、平和を祈ろうと、防空壕(ごう)の中で抱き合う母子を
かたどった「空襲・戦災都市青森の碑」が青森市役所前に完成、23日、
除幕式が開かれた。
市民団体でつくる「青森戦災・空襲60周年事業実行委員会」が主催。
碑は、高さ1・3メートルの台座に白い御影石で作った高さ1・1メートルの
像が置かれている。
1945年7月28日の米軍の空襲で亡くなった約1000人は、ほとんどが
女性や子ども、高齢者だったため、公募で母子像が選ばれた。建設費は
募金でまかなった。
委員会の佐藤義男会長(97)は除幕式で「空襲で多くの犠牲者が出た
ことを忘れることはできない。次代の平和に心を砕いていきたい」とあいさつした。
(共同通信) - 7月23日17時13分更新
<平和祈念像>長崎原爆忌前に1年間の汚れ落とす
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000030-mai-soci 長崎原爆の日(8月9日)を前に、長崎市は23日、平和祈念式典の会場となる
平和公園(同市松山町)にある平和祈念像の1年間の汚れを落とした。
祈念像は台座を含め高さ13.6メートル。作業には大型のクレーン車を使い、
照りつける日差しの中、アームの先端につり下げられたかごに作業員が乗り込み、
水をかけて汚れや鳥のふんなどをモップなどで丁寧にふき取った。
祈念像は長崎県出身の彫刻家、故北村西望氏の制作で、1955年8月に完成。
空を指す右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和をそれぞれ表し、
静かに目を閉じた表情は犠牲者の冥福を祈っている。【横田信行】
(毎日新聞) - 7月23日11時53分更新
平和祈念像水洗い 長崎原爆の日を前に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000063-kyodo-soci 長崎原爆の日を前に、平和祈念像を水洗いする作業員=23日午前、長崎市の平和公園
8月9日の長崎原爆の日を前に、長崎市は23日、同市松山町の平和公園に
ある平和祈念像を水洗いした。
強い日差しが照り付け、セミが鳴く中、クレーン車に乗った作業員が、ホースで
水をかけながら、モップで丹念に祈念像の汚れを落とした。
平和祈念像は、彫刻家の北村西望氏の作で1955年に完成した。台座まで
あわせると高さ13・6メートルの青銅製。天を指す右手が原爆の脅威を、水平に
伸ばした左手が平和を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている。
(共同通信) - 7月23日11時14分更新
憲法九条の精神世界に パグウォッシュ会議、広島で開幕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000003-kyt-l26 核兵器と戦争の廃絶を目指す科学者らの国際組織「パグウォッシュ会議」の
第55回年次大会が23日、広島市中区で開幕するのを前に、大会参加者らが
22日、世界各地から同市内のホテルに次々と到着した。会議には40数カ国から
約170人が参加。最終日の27日に、被爆地から世界へ向け「宣言」を再び発表
する。
「パグウォッシュ会議」の第1回会議に参加した故湯川秀樹博士の平和思想を
受け継ごうと、湯川博士ゆかりの京都の科学者らが22日、声明を発表した。
声明は、核廃絶実現のため戦力不保持を定めた憲法九条の精神を世界に
広めようと訴えている。
湯川博士から京都大物理学講座を継いだ田中正・京大名誉教授(77)=
素粒子論=や、指導を受けた加藤利三・京大名誉教授(72)=光物性=ら
3人が呼びかけ、声明に尾池和夫京大総長や安斎育郎立命館大国際平和
ミュージアム館長ら研究者236人が賛同した。
声明は「憲法九条は核廃絶や人類の未来への布石として先見的、人類史的な
意義をもつ」としたうえで、憲法九条の「かつてない存続の危機」を訴え、会議の
参加者に対し「見解の支持と全世界への表明を要望する」としている。
湯川博士は第1回パグウォッシュ会議(1957年)に参加したあと、日本の
科学者が平和に関与するよう科学者京都会議の開催に尽力した。
声明に賛同した九後太一・京大基礎物理学研究所長(56)は「湯川博士の
影響で学問を志した私たちとして、平和の精神を受け継ぐのは当然」と話した。
(京都新聞) - 7月23日10時29分更新
「平和な島返して」 女たちの声ネット150人が道ジュネー
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000002-ryu-oki 基地のない暮らしを訴えて、金武町から参加した山城京子さん(中央)=那覇市の国際通り
基地のない平和な沖縄を取り戻そうと「心に届け 女たちの声 ネットワーク」は
22日、「普天間基地・辺野古断念を求める女たちの道ジュネー」を国際通りで行った。
金武町や宜野湾市など県内各地から約150人が集まった。参加者は「もう沖縄の
どこにも基地はいらない」「子どもたちのために平和な未来を」とのメッセージをこめた
横断幕やプラカードを手に、炎天下、県庁前から牧志公園まで歩いた。
呼び掛け人を代表して国政美恵さんが「思うように進まない沖縄の現状に落ち込む
こともあるが、子どもたちの未来を守るためにもわれわれの世代で(基地撤去を求める)
戦いを終わらせなければならない」と力強く訴えた。
県庁前県民広場では、リレートークや「マミドーマ」の「沖縄から基地を刈り取って
花を咲かせよう」という替え歌に合わせたパフォーマンスなど、さまざまな方法で
基地撤去を求めた。
子どもの安全、親が守る 金武町の山城さん
「政府は守ってくれない。親が必死になって子を守らないと」。基地撤去を求めて
行進する女性たちの列に、金武町から参加した山城京子さん(61)=並里区=が
いた。地元では米陸軍の都市型戦闘訓練施設で実弾演習が始まったばかり。
額に汗を浮かべてむせ返る国際通りを歩み、思いを訴えた。
あまり運動に参加することはなかったというが、2年前、100歳だった祖母が
亡くなる数カ月前に遺言のように語り始めた言葉が気持ちを変えた。
祖母は沖縄戦で夫と子を亡くし、金武町内は60%が基地に取られた。遺族年金
などでお金には困らなかったというが「家族を失い、山を失い、お金があっても心は
癒やされない」と嘆いた。そして生活の場にあり続ける「戦争に力を貸す」軍事基地
の存在。「私には何もできない。あなたたちが考え、何とかしなさい」と涙を流したという。
「町内には基地がらみの収入がある人も多いし、大きな声で基地反対とは言い
にくい」と山城さん。それでも都市型での訓練も始まり、危機感は高まる。「おばあの
体験を繰り返してはいけない。自分たちの身を守るために立ち上がらないと」と
力を込めた。
(琉球新報) - 7月23日9時18分更新
被爆者の叫び原爆出撃地で 来月6日の式典長崎の西田さんテニアン島へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000023-nnp-kyu 長崎、広島に原爆を投下したB29爆撃機が飛び立った北マリアナ諸島連邦・
テニアン島(米自治領)で八月六日に開かれる平和式典に、長崎原爆被爆者の
西田清さん(75)=長崎市葉山一丁目=が参加する。被爆から六十年。
原爆搭載機を送り出した島の市民と、被爆者が過去の因縁を乗り越えて手を
携え、核兵器廃絶と世界平和を誓う。
テニアン市議会から招待を受けた長崎平和推進協会と西田さんが二十二日、
記者会見した。同協会などによると、テニアン市は二〇〇三年から、八月上旬に
原爆死没者慰霊の平和式典を開いているが、被爆者を招くのは初めてという。
式典は、テニアン市や同市議会でつくる実行委員会の主催。テニアン島の
海岸近くの公園で開かれ、島民らがろうそくを手に平和を祈り、灯ろう流しで
原爆死没者を追悼するという。
西田さんは広島から参加する二人の被爆者とともに七月二十八日に日本を
出発。サイパン島などで学生らに被爆体験を語った後、テニアン入り。
八月六日にテニアン島のホテルで被爆体験を語り、式典に出席する。
西田さんは十六歳の時、爆心地から約七百メートルの長崎医科大付属病院で
被爆。同協会の継承部会員として語り部活動をしているが、海外で被爆体験を
話すのは初めて。
西田さんは「長崎に原爆を投下した『ボックス・カー』の出発地を訪問するという
緊張感はあるが、今回の招待は、地元の人たちの平和を求める気持ちの表れ
と思う。被爆の実相を伝え、核兵器廃絶に向け、ともに努力していくきっかけ
にしたい」と意気込みを語った。
(西日本新聞) - 7月23日2時17分更新
話し違うけど、
募金は儲かるんだってね。
半年ほど前にテレビのニュースでやってたんだけど
募金を街頭で集めているおっさんがいて、
そのおっさんの居場所を捜して、テレビ局が追跡したら
たしか一日50万円くらいの上がりがあったらしい。
それでその殆どは、自分の懐にポッポナイナイで、
借金の返済などにあててたらしい。
巧妙なのは、
たまに 月1度程度、ほんとに一日も満たない分を送金するらしい。
10万円とかその程度じゃないかな。忘れたけど。
おっさんにしてみれば、支援しているということは事実なんだろうから
巧妙といえば巧妙だけど、毎日の上がりが 50万円というのは
ハンパな逆じゃないなと思った。次の上がりじゃなくて、一日の
上がりだったぞ。
困っている人をネタにして募金を集めて、その中のほとんどをポッポナイナイなんて
よくない。
戦没者慰霊祭:「命の尊さ語り継ぐ」−−日光 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000058-mailo-l09 日光市戦没者慰霊祭が22日、日光市安川町の市総合会館であり、遺族や
関係者ら約130人が出席した。
菅原栄光門跡ら輪王寺の僧侶による読経に続き、日光市遺族連合会の
上吉原元次会長が「あのような戦争を再び起こさず、命の尊さを語り継がれる
よう進んでいきます」と述べ、平和への誓いを新たにした。
同市の戦没者はニューギニア戦線を中心に約500柱。式典に出席した
内藤サキさん(83)は実弟を硫黄島で、義弟を特攻隊で亡くした。「お国のため
にはしょうがなかったのでしょうけど、さびしいですね。この60年間が、みなさん
のおかげで、平和だったことを感謝します」と話していた。
【浅見茂晴】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日16時20分更新
◆<第五福竜丸>「発症原因は放射能ではない」米公文書で判明
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000014-mai-soci 1954年3月、米国が行ったビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸(乗組員23人)
の被ばくが発覚した直後の同年4月から、米・国家安全保障会議の作戦調整委員会
(OCB)が、放射能による乗組員の発症の原因を「サンゴのちりの化学的影響」
などとする情報操作を画策していたことが22日、分かった。情報公開された
米公文書で判明。日本での反核反米運動の高まりを恐れた米政府高官の発議で、
同委員会が検討していた。専門家は、真相隠ぺいの対日工作が極めて早期に本格化
していたことに注目している。
文書は、東京工業大大学院の山崎正勝教授(科学史)が米国のアイゼンハワー
図書館で入手。国務省や国防総省、CIA(米中央情報局)の高官で構成され、
米国の対外心理戦略を扱う協議機関であるOCBが54年4月22日付で起草した
もので、「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための
米政府の行動リスト」と題されている。
それによると、科学的対策として、「日本人患者の発病の原因は、放射能よりも
むしろサンゴのちりの化学的影響とする」と明記。「放射線の影響を受けた日本の
漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の
準備も含め、非常事態対策案を練る」としている。
第五福竜丸は3月1日に被ばくし、同16日の新聞報道で発覚した。同22日には
早くも、アースキン国防長官補佐官(当時)がOCBに対し、反核運動が高揚しつつ
ある中、事件がソ連の反米運動の扇動に利用されることへの危機感を示す書簡を
送っている。
この事件では同年9月、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が死亡。日本人
医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在まで、「放射線が直接の
原因ではない」との見解を取り続けている。
山崎教授は「早い段階から、船員への賠償を言いながら、放射線の被害を
小さく見せようとした米国の二枚舌を示す文書。米国はさらにその後、原子力の
平和利用は価値の高いものと宣伝する工作を日本で進めており、背景には、
日本人の反核反米意識をそぐ意図もあった」と話している。【遠藤孝康】
▽広島平和研究所の高橋博子研究員(アメリカ史)の話 米国がビキニ事件後、
放射能の影響を小さく見せようとしていたことは知られていたが、4月の段階で
乗組員の死を想定し、対策を練っていたのは驚きだ。そして久保山さんの死後、
被ばくの直接的影響を即座に否定した姿勢を考え合わせると、予定通りに計画を
実行したという印象だ。
(毎日新聞) - 7月23日3時7分更新
ピースボート信濃君
>>85-86 すごいすっぱ抜きだな!
それにしても、いまだに
> 日本人 医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在まで、
> 「放射線が直接の 原因ではない」との見解を取り続けている。
だということは、知らなかった。
信濃自演・・・
見ていて哀しくなってくるw
スイスの民間防衛に出てくるスパイ活動そのまんまのピースボート
http://nokan2000.nobody.jp/switz/page04.html 国民をして戦うことをあきらめさせれば、その抵抗を打ち破ることができる。
軍は、飛行機、装甲車、訓練された軍隊を持っているが、
こんなものはすべて役に立たないということを、一国の国民に納得させることができれば、
火器の訓練を経ることなくして打ち破ることができる・・・・・・。
このことは、巧妙な宣伝の結果、可能となるのである。
敗北主義−−それは猫なで声で最も崇高な感情に訴える。−−諸民族の間の協力、
世界平和への献身、愛のある秩序の確立、相互扶助−−戦争、破壊、殺戮の恐怖・・・・・・。
そしてその結論は、時代遅れの軍備防衛は放棄しよう、ということになる。
新聞は、崇高な人道的感情によって勇気付けられた記事を書き立てる。
学校は、諸民族の間との友情を重んずべきことを教える。
協会は、福音書の慈愛を説く。
この宣伝は、最も尊ぶべき心の動きをも利用して、最も陰険な意図のために役立たせる。
ロンドンで射殺の男性、テロと無関係
2005年 7月24日 (日) 01:26
http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/kokusai/20050724/20050723it13-yol.html 【ロンドン=長谷川由紀】英ロンドン警視庁は23日、声明を発表し、22日に
ロンドン南部の地下鉄ストックウェル駅で警官が射殺した男性は21日の同時爆破テロ
とは無関係だったことを明らかにした。
なぜ射殺する事態になったかを調査しているという。
男性は22日、同駅近くで警察の監視下にあった民家から、地下鉄に向かったところ
を警官に追跡され、地下鉄の車両に入ったところで、取り押さえられ、射殺された。
一方、英捜査当局は22日深夜、ロンドンで21日に起きたテロに関連し、新たに
男1人を逮捕した。男は、ストックウェル駅近くの家宅捜索で拘束された。同事件を
巡っては、22日、同駅近くで別の男1人が逮捕されている。
2人の逮捕者について、当局は身元など詳細を明らかにしていないが、英メディア
によると、最初に逮捕されたのは、ストックウェル地区に住むアフリカ系の男。23日付
の大衆紙サンは、この男が21日にハックニー通りでバスを爆破した可能性が高いと
伝えている。2人目の逮捕者はこの男の義理の兄弟という。
米メディアなどによると、21日の事件で見つかった爆弾は、7日の同時テロで使用
された爆発物と成分が似ており、捜査当局は、両事件について同一組織による
犯行との見方を強めている。
独議事堂前に軽飛行機墜落 ベルリン、テロかと緊張
2005年 7月23日 (土) 13:16
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/kokusai/20050723/K2005072301390.html 22日午後8時半(日本時間23日午前3時半)ごろ、ベルリン市中心部にある
連邦議会議事堂前の空き地に超小型軽飛行機が墜落、大音響とともに燃え上
がった。独警察当局によると、操縦していた男性が死亡した。英国で同時テロが
起きたばかりで、警察は一帯を一時通行止めにし、物々しい雰囲気に包まれた。
警察によると、飛行機は1人乗りで、上空を遊覧中にバランスを崩して落ちた
可能性がある。目撃者の男性は朝日新聞の取材に「ボーンという大きな音がして
すぐに身をかがめた。テロかと思った」と話した。
現場は政府機関が立ち並ぶ一角。墜落時、北西200メートルの首相府に
シュレーダー首相はいなかった。連邦議会は21日解散され、9月の総選挙が
正式に決まったばかりだ。
どっちもアメリカのテロだろ。
花火や万灯流し、良さ来い踊りも盛況 あやべ水無月まつり
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000040-kyt-l26 にぎやかなリズムで「あやべ水無月まつり」を盛り上げた良さ来い踊り(綾部市・西町商店街)
綾部(京都府)の夏を彩るイベント「あやべ水無月まつり」(まつり実行委主催)が
23日、川糸町の由良川河川敷と西町商店街などで催された。訪れた多くの市民が
花火や「万灯流し」「良さ来い踊り」などを楽しんだ。
西町商店街では「あやべ良さ来い」のにぎやかなリズムがまつりを盛り上げた。
ことしは12団体約200人が鳴子を手に、息の合った踊りを披露した。また各種の
飲食物をそろえた屋台村も登場。ひとときの涼を求める市民でにぎわった。
由良川河川敷では、献灯神事と世界平和を祈る万灯流しに引き続いてメーン
行事の花火大会がスタート。約4000発の花火が次々と打ち上げられ、夜空を
焦がすたびに、堤防を埋め尽くした市民らから歓声が上がっていた。
(京都新聞) - 7月23日20時29分更新
MOTTAINAI:あきる野市立御堂中、学校全体に運動広がる /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000163-mailo-l13 <もったいない>
◇生徒会中心に2カ月半−−生徒、教員が協力
◇電灯こまめに消す/用紙のリサイクル/給食を残さない
あきる野市草花の市立御堂中学校(石澤輝安校長、生徒数317人)は5月から、
生徒会の5人を中心に「モッタイナイ運動」に取り組んでいる。始めてから約2カ月半、
生徒だけでなく教員も協力し、学校全体に運動が広がってきた。
きっかけは、ノーベル平和賞受賞者でケニア副環境相のワンガリ・マータイさんが
提唱する「MOTTAINAI(もったいない)」精神を報じた毎日新聞の記事。4月の
総合学習で紹介され、多くの生徒が関心を示したため、生徒会が学校全体の
運動として取り組むことを提案した。
運動の柱は、電灯をこまめに消す省エネ、用紙のリサイクル、できるだけ給食を
残さない――の3点。
生徒会は、ほぼすべての教室や廊下、トイレの蛍光灯のスイッチに、「電気を
消そう」などと書いたシールを張った。その結果、一度つけると下校時までつけっ
放しというのが普通だったが、不要な時は消す習慣が身についてきた。そもそも、
窓ガラスのある廊下は日光だけで十分明るいということも分かった。
また、学習用に日々大量に配られるプリント用紙を有効活用するため、各教室に
不要な用紙の回収箱を設置。これまでごみ箱に捨てられていた紙が1カ月に
1000枚以上、リサイクルに回されている。
給食時間には、放送委員会の協力を得て「今日も残さず食べましょう」と全校放送
している。このかいがあってか、市内4中学校のうち給食を残す量がトップの回数は、
運動を始める前の4月に給食14回中9回だったが、6月は給食22回中6回に減った。
生徒会長のダン・バン・ニャット君(3年、ベトナム国籍)は「みんなの協力もあって、
運動に手応えを感じています。できるだけ長く続けたい」と話している。
【冨所卓也】
7月23日朝刊
(毎日新聞) - 7月23日16時31分更新
<原爆慰霊碑>来日中のユーシェンコ・ウクライナ大統領献花
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050723-00000040-mai-soci 来日中のユーシェンコ・ウクライナ大統領が23日、広島市の平和記念公園を
訪れ、原爆慰霊碑に献花、原爆資料館などを見学した。
同国は旧ソ連時代の86年、チェルノブイリ原発事故を経験。91年の独立後は、
米露に次ぐ世界第3位の核保有国となったが、96年までに非核化を成し遂げた。
ユーシェンコ大統領は今年1月に就任し、20日から23日まで来日中。小泉純一
郎首相との首脳会談などの後、カテリナ夫人やアナトリー・キナフ第一副首相らと
広島を訪れた。
ユーシェンコ大統領は、秋葉忠利市長の先導で同慰霊碑の前へ。花輪を供えた
後、神妙な面持ちで胸の前で十字を切った。続いて訪れた同資料館では、
畑口実館長の説明を受けながら、ヒロシマの惨状を伝える展示に熱心に見入っ
ていた。【堀江拓哉】
(毎日新聞) - 7月23日12時56分更新
信濃め荒らしに必死だなw
荒らしに必死な奴がいるな
原爆投下直後の調査資料公開へ 広島入りの海軍が作成
2005年 7月23日 (土) 11:05
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20050723/K2005072200911.html 広島に原爆が投下された直後に現地入りした海軍が作成し、戦後に一部が行方不明
になっていた原爆調査資料が、広島県呉市の海事歴史科学館「大和ミュージアム」に
遺族たちから寄贈された。呉鎮守府の調査隊と大本営の海軍調査団の資料計91点
で、投下された爆弾について科学的に調査したことを示す様々な記録が含まれている。
大本営が原爆と正式に断定したのは8月10日で、その結論に至る経緯や、日本軍の
原爆に関する知識がどの程度だったのかなどを実資料から解明する上で重要な
手がかりになりそうだ。
同ミュージアムは被爆60年にあわせた8月の企画展でこれらの資料を全面公開する。
以下略
スイスの民間防衛に出てくるスパイ活動そのまんまのピースボート
http://nokan2000.nobody.jp/switz/page04.html 国民をして戦うことをあきらめさせれば、その抵抗を打ち破ることができる。
軍は、飛行機、装甲車、訓練された軍隊を持っているが、
こんなものはすべて役に立たないということを、一国の国民に納得させることができれば、
火器の訓練を経ることなくして打ち破ることができる・・・・・・。
このことは、巧妙な宣伝の結果、可能となるのである。
敗北主義−−それは猫なで声で最も崇高な感情に訴える。−−諸民族の間の協力、
世界平和への献身、愛のある秩序の確立、相互扶助−−戦争、破壊、殺戮の恐怖・・・・・・。
そしてその結論は、時代遅れの軍備防衛は放棄しよう、ということになる。
新聞は、崇高な人道的感情によって勇気付けられた記事を書き立てる。
学校は、諸民族の間との友情を重んずべきことを教える。
協会は、福音書の慈愛を説く。
この宣伝は、最も尊ぶべき心の動きをも利用して、最も陰険な意図のために役立たせる。
関係ない記事はる奴
荒らし報告逝きオメ
募金詐欺
このスレは、前スレの後半から、平和運動のニューススレだよ。
同じコピペを貼り続けているやつこそ、荒らしと思うが。
関係ない記事はる奴
荒らし報告逝きオメ
まあ民間防衛という本を読めば、ピース団体の狙いは理解できる
北朝鮮よりも今や中国がアジアの脅威となりつつある
敗北主義最高
集団自決
中国で残虐行為をしてきた日本軍がそのまま沖縄戦に行って
同じような行為を沖縄の人々にもして来たのである。
中国で731部隊人体実験
>108
他のコピペなら歓迎するくせに、なぜ直前のコピペ内容だけは
断固拒否するのかな?
というか、高遠関連のコピペをしていたら、高遠スレとみなされて
あぼんされるだけだが。
124 :
国連な成しさん:05/07/24 11:59 ID:2i2sefOw
>>113 民間防衛では
「何に対しても疑いを持て」と書いてあるが一方で
「スイス政府の言う事は絶対に安心」とある
根本的に矛盾してる
125 :
国連な成しさん:05/07/24 12:42 ID:D5Z1.hfI
ピースボートってアルカイダの政治部門ですか。
>>126 いや、政治部門と言うより、集金組織として活動してるんだろ。
128 :
国連な成しさん:05/07/24 13:34 ID:2i2sefOw
え?人民解放軍の対日プロパガンダ部隊じゃないの?
ボランティアを隠れ蓑にした政治活動してるから怪しまれるんだよな。
で、ピースボートはイラクでどんなビジネスしてるの。
高遠菜穂子並には儲けてるんだろうね。
最悪
ピースボート信濃
ピースボート最高
「沖縄を基地から解放して」 性被害の女性、外相に手紙
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050724-00000006-ryu-oki 稲嶺恵一知事あてに、米兵による性暴力被害の過去をつづり、米軍基地撤去を
訴えた手紙を書いた女性が22日、「沖縄を基地から解放してください」などと
記した町村信孝外相への「最後の手紙」をまとめた。同日、手紙は平和な沖縄を
取り戻そうと那覇市の国際通りを「道ジュネー」した「心に届け 女たちの声
ネットワーク」の主催者側に託された。後日郵送される予定。
町村外相はこれまで、この女性の手紙に対し「一面的」などと発言。その後、
発言の撤回はないものの「被害者が不快感を持たれたのなら、率直におわび
申し上げる」と述べている。
今回の外相あての手紙では政府関係者がいう「沖縄の負担」について「人の命が
奪われる危険性を負担という言葉で片付けることができるのでしょうか。わたしに
起こった事件を『負担をおかけした』という言葉で謝られても納得できません」と反論。
「沖縄県民は国民として扱われているでしょうか。どうか県内の基地移設を止め、
沖縄を基地から解放してください。わたしのような犠牲者が2度と生まれないように
力を貸してください。この書面をもって最後の手紙とさせていただきます」と訴えている。
(琉球新報) - 7月24日10時18分更新
テロリスト支援団体!
ピースボート最高
船の上ですることが最高なのか?
広がる対米不信52% 日米合同世論調査
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050724-00000012-kyodo-pol 共同通信社とAP通信社は今月初め、戦後60年を機に日米両国の国民意識を
比較するため、電話方式による合同世論調査を実施した。それによると、
日本国民の過半数の52%が米国政府を「信頼できない」と答え、対米不信感が
国民レベルで広がっている実態が明らかになった。逆に米国民の59%は
日本政府を「信頼できる」と答えた。
湾岸戦争直後の1991年の同種調査に比べると、日本国民の対米不信感は
26ポイントも高くなっており、イラク戦争に代表される米ブッシュ政権の
「一国主義」的な外交・安保戦略への懸念が強いとみられる。
(了)
(共同通信) - 7月24日7時45分更新
ピースボート最高
8月に日韓共同クルーズ 草の根交流目指し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050427-00000097-kyodo-soci 市民団体ピースボートは27日、衆院議員会館で記者会見を開き、日韓の
市民約600人が乗船し韓国、中国、沖縄、長崎をめぐる「共同クルーズ」を
8月に開催すると発表した。
靖国神社参拝や領土問題などをめぐり日韓関係が厳しくなる中、市民レベルで
交流を深めるのが狙い。韓国の環境団体「環境財団」との共同事業で今後
10年間、クルーズを続ける。
8月13日に東京を出港し韓国、上海、沖縄を経て8月27日に長崎に帰港する。
船内では日韓や北朝鮮の歴史などをテーマに語り合う。寄港先の上海では
「東アジア」をテーマに、沖縄では日米韓の安全保障問題を取り上げてそれぞれ
フォーラムを行う。
参加費用は1人31万−70万円。
問い合わせはピースボート事務局03(3363)7561
(共同通信) - 4月27日12時25分更新
で、ピースボートはイラクでどんなビジネスしてるの。
高遠菜穂子並には儲けてるんだろうね。
キモ女
144 :
国連な成しさん:05/07/26 00:19 ID:PQ5IsxQw
ピースボート
戦後60年:半田空襲の日、犠牲者追悼式−−半田の雁宿公園 /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050725-00000056-mailo-l23 終戦と半田空襲60周年を記念した「半田・戦災犠牲者追悼式」が24日、
半田市雁宿町の雁宿公園にある平和祈念碑前で行われた。戦争の惨禍を
継承しつつ、平和を願おうと半田空襲と戦争を記録する会(佐藤明夫代表)が
主催した。県内だけでなく高知や京都などから、かつて学徒動員で働いた人や、
犠牲者の遺族ら約100人が出席した。
半田空襲は、60年前の45年7月24日にあった。同市上浜町にあった
中島飛行機半田製作所を米軍のB29が爆撃。県内のほか12都府県から
動員された学徒や強制連行された若者ら278人が死亡した。44年12月の
東南海地震でも、同社山方工場などで、若者154人が犠牲になった。
同市乙川薬師町、杉浦博之さん(73)が遺族を代表して、「戦争の悲惨さや
愚かさを子供たちに伝え、平和の尊さをかみしめてほしい」とあいさつ。
鹿児島一中4年の時、学徒動員された名古屋市名東区、元日本福祉大学長、
諏訪兼位さん(77)と、当時同製作所内で働いていた半田市瑞穂町、
姜碩中さん(84)=在日1世=が、空襲の体験と仲間への思い出を話した。
【林幹洋】
7月25日朝刊
(毎日新聞) - 7月25日16時56分更新
「核と紛争、同時解決を」 中東の学者5人が討論
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050725-00000142-kyodo-soci 広島市で開催中のパグウォッシュ会議第55回年次大会は25日、3日目の
全体会議が開かれ、「中東における安全保障と軍縮」をテーマにしたパネル討論
で、エジプトの元国連大使、モハメド・シェーカー氏が「中東が抱える核問題と
パレスチナ問題を同時並行で解決していくことが必要だ」と呼び掛けた。
討論には、エジプト、イラン、イラク、パレスチナ、イスラエルの5人がパネリス
トとして参加した。
シェーカー氏は、核開発疑惑を抱えるイランについて「西欧諸国と対話ができ
なくなっている。アラブ諸国が対話を仲介することが必要だ」と指摘した。
これに対し、イラン・テヘラン大のサイデ・ロトフィアン助教授(政治学)は
「イランの核は平和利用を目的としていることを、米国は信用していない。
イスラエルの核問題が解決されれば、中東は核のない地域になる」と述べ、
イスラエルに核問題に向き合うよう求めた。
(共同通信) - 7月25日17時43分更新
戦災死没者追悼式:80人が参加−−大垣の慰霊碑前で /岐阜
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050725-00000014-mailo-l21 大垣市戦災遺族会(岩田一夫会長)主催の戦災死没者追悼式が24日、
同市笠木町の慰霊碑前で営まれ、遺族ら約80人が死没者のめい福と
世界平和を願った=写真。
宗教色をなくした献花方式で、大垣空襲が激しかった7月に毎年、実施されている。
全員で黙とうした後、岩田会長や来賓の小川敏市長らが「大垣空襲から60年。
あの日のことは忘れることができない。永遠の平和と人にやさしいまちづくりを
進める」などとあいさつ。続いて参列者が次々と祭壇に白菊をささげ手を合わ
せた。中には祖父母と参列した中学生の姿も見られた。【子林光和】
7月25日朝刊
(毎日新聞) - 7月25日16時51分更新
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1099219130/402 高遠ボランティアスレと
ピースボートスレと
イラク潜入ボランティアスレ
みごとに3つ揃って削除依頼が出ている。
よほど、この3つが嫌なのだろうか?
何度も何度も同じものを削除依頼されているが、そのたび削除されなくて
同じものをこれ以上削除依頼をすることが、迷惑だってこと考えられないのだろうか。
高遠スレに限っては、誰かの手により荒らされまくって
ねたスレだから削除してくださいとは。
これで削除がもしも通るようなことがあったら、もうおしまいだ。
自衛隊イラク派遣:再派遣に反対−−福岡・中央区で市民団体集会 /福岡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050725-00000227-mailo-l40 陸上自衛隊第4師団(司令部・春日市)からイラク南部サマワで活動する
第7次復興支援群が、今月末にも派遣されるのを前に、県内の平和運動家
などでつくる「平和をあきらめない人々のネットワーク・福岡」など2団体が
24日、中央区内で反対集会を開いた。
集会には、東京都立川市で自衛隊官舎にイラク派遣反対ビラを各戸配布し
住居侵入容疑で逮捕、起訴された市民団体「立川自衛隊監視テント村」の
大西章寛さん(一審で無罪判決、検察が控訴中)も参加。「イラク派遣に対し、
自衛官や家族も不安を持っているだろうとチラシを入れただけで、逮捕に驚いた。
予想もしない弾圧で大変だったが、全国からの支援もあって1審で無罪を
勝ち取ることができた」などと話した。
参加者は「自衛隊を即時撤退させろ」「新たに派遣するな」と抗議する集会決議
を採択。その後、同区天神周辺などをデモ行進し、北部九州に駐屯する自衛隊
部隊からのイラク派遣に反対を訴えた。
〔福岡都市圏版〕
7月25日朝刊
(毎日新聞) - 7月25日17時36分更新
>>148 よほど、その3つのスレが、気にいらないんだな。
東京 「女たちの戦争と平和資料館」オープン記念イベント
05年7月31日(日)午後4時 早稲田奉仕園内スコットホール
第1回特別展 女性国際戦犯法廷のすべて〜「慰安婦」の被害と加害責任
05年7月31日〜11月20日 女たちの戦争と平和資料館
http://www.wfphr.org/ 東京 立ち上がるイラク市民 イラクにはイラク人による民主主義を!
IFF(燃えるイラク)マジド議長 東京講演会
05年8月1日(月)午後7時 国立青少年オリンピックセンター
http://give-peace-a-chance.jp/118/050801.html ミトリ・ラヘブ牧師講演会 「爆弾には愛を」
パレスチナ紛争で破壊された瓦礫を、愛の天使に変える
東京 05年8月3日(水)午後7時 日本福音ルーテル東京教会
京都 05年8月4日(木)午後7時 日本福音ルーテル京都教会
広島 05年8月7日(日)午前10時45分 日本福音ルーテル広島教会
http://www.febcjp.com/
他のスレでもそうだが↓これが入ると、
ものすごい勢いで埋めコピペが入る。よほどまずいことなのか?w
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1099219130/402 高遠ボランティアスレと
ピースボートスレと
イラク潜入ボランティアスレ
みごとに3つ揃って削除依頼が出ている。
よほど、この3つが嫌なのだろうか?
何度も何度も同じものを削除依頼されているが、そのたび削除されなくて
同じものをこれ以上削除依頼をすることが、迷惑だってこと考えられないのだろうか。
高遠スレに限っては、誰かの手により荒らされまくって
ねたスレだから削除してくださいとは。
これで削除がもしも通るようなことがあったら、もうおしまいだ。
いつも平和運動情報ありがd
航空隊の遺構巡りや格納庫清掃 児童が平和学習発表
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000008-nnp-l44 【大分】 太平洋戦争末期、特攻隊基地だった宇佐海軍航空隊について
地元の小学生が学習成果を発表する「宇佐航空隊の世界6」が三十一日、
宇佐市法鏡寺の宇佐文化会館小ホールで開かれる。宇佐市の地域おこし
グループ「豊の国宇佐市塾」(平田崇英塾頭)が一九八七年から続ける
古里の歴史文化の掘り起こし活動「宇佐細見」の一環。戦後六十年の今年、
地域に残る戦争遺構を通してあらためて戦争の悲惨と平和の大切さを考えて
もらおうと企画した。
当日は、航空隊跡地に隣接する八幡、柳ケ浦、駅館、四日市北の四小学校
六年生の代表が、航空隊の遺構巡りや、軍用機の格納庫「掩体(えんたい)
壕(ごう)」の清掃活動から学んだこと、感じたことなどを発表する。
午後一時半からの発表に先立ち、映画「連合艦隊」(一九八一年、東宝)を
上映。メガホンをとった松林宗恵さん(85)による記念講演「映画監督の
見た人生 日本人の心」もある。
入場無料。問い合わせは教覚寺=0978(32)0308。
(西日本新聞) - 7月26日2時12分更新
小泉首相靖国参拝訴訟で、きょう判決=初の高裁判断へ−大阪高裁
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000013-jij-soci 小泉純一郎首相が2001年8月に行った靖国神社参拝は、政教分離を定めた
憲法に違反するとして、日韓両国の戦没者遺族らが首相と国、靖国神社を
相手取り、参拝の違憲確認と1人当たり1万円の損害賠償、参拝差し止めを
求めた訴訟の控訴審判決が26日、大阪高裁(大出晃之裁判長)である。
小泉首相の靖国参拝をめぐっては、東京、大阪など4高裁と松山地裁で
係争中だが、高裁段階での判決は初めて。
(時事通信) - 7月26日6時3分更新
あげ
>>156 削除依頼も 3つワンセットか。必死だな。
高遠ボランティアスレと
ピースボートスレと
イラク潜入ボランティアスレ
居眠り中?
>>161 それらとプラス、信濃を悪く言うスレ が
削除依頼の4つのセットになっているようだ。
なんでだろう。
>>161 常に削除依頼は、
ボランティアスレと
ボートスレと
信濃悪口スレ。
どうも嵐と行動形態が似てる。
ピースボートの主な活動ってなんですか?
船に乗ってセックスしまくりというのは本当ですか?
たくましい妄想ですね
まるで旦那に相手にされない 主婦みたいだな (´,_ゝ`)プッ
ピースボートに直で聞いたらどうだ?
>>165 どうせそんな気もないくせに。
グリンピース信濃必死だな。w
>>161>>164 なんか近しいスレばかり3つ削除依頼。
よほど目の上のタンコブのようなスレなんだろうな。
コブ
寄贈:原爆関連の児童書を市立図書館に−−高槻・被害者の会 /大阪
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000275-mailo-l27 原爆の惨禍から60年を迎えるのを前に、高槻市原爆被害者の会(西川隆
会長)は、同市の市立図書館5館に、「絵本 さだ子と千羽づる」など30種類の
原爆関連の児童書86冊を寄贈した。
同会は市立図書館と協力し、図書を選定した。「小さな子どもたちに、
平和の大切さを学んでほしい」と、すべて児童書にした。児童書購入の経費は、
同会の会員たちが被爆体験の語り部に出向いた際の謝礼などを積み立てて
用意した。
同会は1961年に設立され、現在は374人が加入している。今夏も平和展に
合わせた語り部活動を予定しており、8月11日午前11時からと午後1時半から、
同市立生涯学習センターで行われる。
【坂口雄亮】
7月26日朝刊
(毎日新聞) - 7月26日17時5分更新
■支局長からの手紙:終わらない戦争 /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000199-mailo-l32 「目の前がピカッとひらめいた。全く青天のへきれきであった。爆弾が玄関に
落ちた? 私は伏せようとした。その時すでに窓はすっぽんと破られ、猛烈な
爆風が私のからだをふわりと宙に吹き飛ばした。私は大きく目を見開いたまま
飛ばされていった。窓ガラスの破片があらしに巻かれた木の葉のように襲いかかる」
60年前の8月9日。爆心から約700メートルで被爆した県出身の長崎医科大
物理的療法科部長(当時)、永井隆博士はこう書き残しています。ガラス片で
重傷を負い、血だらけの「不動明王のごたる(同僚の話)」姿になりながらも
負傷者の救護を懸命に指揮し、3日目にようやく医大から自宅に戻ると、
妻緑さんは焼け跡でわずかな遺骨を残すだけになっていました。
その後、原爆症で寝たきりになっても、「長崎の鐘」「この子を残して」などの
貴重な記録を残して1951年に43歳で逝った永井博士。長崎市と、出身地の
雲南市三刀屋町には記念館があり、その生涯をたどることができますが、
当支局の細川貴代記者が24日付社会面で伝えたように、博士が長崎の復興
を願って寄贈した約1300本の桜のうち、最近の調査では33本しか現存せず、
後世に残す努力が必要なことも分かってきました。
原爆跡のさくばくとした荒野を何と呼ぶか。駐留軍の簡易飛行場に立てられた
小さな看板文字「アトミック・フィールド」を見て、永井博士は「そうだ。原子野と
訳しよう」と話し、終戦の年のクリスマス前日には原子野に急造の鐘楼(しょうろう)
が立てられました。現存する桜を調べた市民団体は「桜は『原子野を花咲く丘
にしたい』と願った博士の大切な形見」として保護活動を続けています。
◇
先日には出雲市大社町の山中で、終戦間近の1945年7月に墜落した旧海軍
航空隊の一式陸上攻撃機の残がいや搭乗者の遺品が60年ぶりに見つかり
ました。その記事を読んだ九州のある遺族からは「兄が乗っていたかも知れない」
と詳細を尋ねる手紙が寄せられました。この記事も担当した細川記者は「肉親に
とって、まだまだ戦争は終結していない」との思いを強くしました。
そればかりではありません。イラク戦争や世界各地のテロなど、兵器が人の
命を脅かす状況は続いています。今、日本はそれに積極的に「NO」と言えている
のか、という疑問も浮かび上がってきます。
◇
8月1日からこの面で新たな企画を始めます。第1部のタイトルは「戦後60年
語り継ぐ記憶」。60年の記憶をたどりながら、次の世代に平和を伝える試み
となります。読者の皆さんの記憶や感想、提言も支局にお寄せ下さい。
【松江支局長・松倉展人】
7月26日朝刊
(毎日新聞) - 7月26日17時15分更新
◇青年が本音ぶつけ交流−−東住吉区
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000276-mailo-l27 日本、在日韓国・朝鮮人、韓国の青年が本音をぶつけ合いながら交流する
「日本―在日―韓国ユースフォーラム2005」が28日〜8月1日、東住吉区の
長居ユースホステルなどを会場に開かれ、同フォーラム・ジャパン事務局では
参加者を募集している。
同フォーラムは97年、3者の「出会いと交流と対話のプログラム」として
スタート。第2次日韓協約から100年、戦後・解放から60年、日韓基本条約
締結から40年にあたる今年のテーマは「歴史の分かち合いと共有のために」。
29、30両日のフィールドワークは、大阪で「大阪で生きるマイノリティと戦争の
爪跡に触れる」「東アジアの平和と北朝鮮人道支援」「『わたし』とジェンダーと歴史」
を実施。他には「京都に住む在日コリアンの戦後」「神戸の多文化共生社会
への取り組み」「日本の植民地支配とヒロシマ―朝鮮人被爆者問題を中心に」
がある。
31日は日韓中青年シンポジウムを開催。ヨーロッパの歴史教科書問題に
詳しい近藤孝弘・名古屋大大学院助教授の基調講演後、3国のユースフォーラム
代表がパネルディスカッションを行う。
参加費は2万5000円(食費・宿泊費・交通費込み)。部分参加も受け付ける。
問い合わせは同事務局(06・6762・7261)へ。
【江田将宏】
7月26日朝刊
(毎日新聞) - 7月26日17時5分更新
>>167 ピースボートに直接聞いたとして本当の実態を話すはずないよ。
それより、現在ピースボートに参加したことのある人の告発が聞きたいな。
8月に日韓共同クルーズ 草の根交流目指し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050427-00000097-kyodo-soci 市民団体ピースボートは27日、衆院議員会館で記者会見を開き、日韓の
市民約600人が乗船し韓国、中国、沖縄、長崎をめぐる「共同クルーズ」を
8月に開催すると発表した。
靖国神社参拝や領土問題などをめぐり日韓関係が厳しくなる中、市民レベルで
交流を深めるのが狙い。韓国の環境団体「環境財団」との共同事業で今後
10年間、クルーズを続ける。
8月13日に東京を出港し韓国、上海、沖縄を経て8月27日に長崎に帰港する。
船内では日韓や北朝鮮の歴史などをテーマに語り合う。寄港先の上海では
「東アジア」をテーマに、沖縄では日米韓の安全保障問題を取り上げてそれぞれ
フォーラムを行う。
参加費用は1人31万−70万円。
問い合わせはピースボート事務局03(3363)7561
(共同通信) - 4月27日12時25分更新
ピースボート最高
>>156 削除依頼も 3つワンセットか。必死だな。
高遠ボランティアスレと
ピースボートスレと
イラク潜入ボランティアスレ
どれも実質高遠スレ。
自治スレ決議で、ひとつまでと決められているし。
そのひとつも、ああまで個人中傷が目的では。w
憲法判断せずに「不当」 靖国敗訴で原告会見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000169-kyodo-soci 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐる訴訟の控訴審判決で、大阪高裁が
原告側の控訴を棄却したことを受け、原告や弁護団が26日午後、大阪市内で
会見、憲法判断に踏み込まなかった判決内容に不満を漏らした。
井上二郎弁護団長は「侵害された利益に検討対象を絞り、憲法判断しなかった
のは残念で不当」と批判。
今後の方針について菱木正晴原告団事務局長は「戦いは続けていく」と上告
する方向で検討していることを示した。
原告の一人で韓国人の李熙子さん(62)は「法の良心が踏みにじられた」と
声を荒らげた。父が旧日本軍の軍属として徴用され「死亡通知もなく無断で
靖国に祭られた」と身ぶり手ぶりで説明。「いつかは正義が勝つ」と力を込めた。
原告団長の菅原龍憲さん(65)は「今年は戦後60年の節目の年。しかし、
裁判官が憲法判断から逃げ続けているのを暴露した。本当に無念」と怒りを
あらわにした。
(共同通信) - 7月26日18時6分更新
核廃絶に英知を:パグウォッシュ会議’05 非人道性に衝撃 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000155-mailo-l34 ◇参加者ら、原爆資料館を見学
3日目を迎えた中区で開催中の「パグウォッシュ会議」年次大会。参加者らは、
日程の合間を縫って原爆資料館を見学したり、被爆体験に耳を傾けたりして
原爆被害の実態を肌で感じている。大会事務局や同市には原爆映画貸し出し
の問い合わせもあり、被爆地開催の効果が期待できそうだ。
初日に高橋昭博・元原爆資料館長の被爆体験を聞いたカナダ軍事大准教授、
ウォルター・ドーンさんは「女性や子どもら非戦闘員まで無差別に殺りくする
原爆の非人道性に強い印象を受けた」と真剣な表情で語った。
参加者は開会式後に記録映画「ヒロシマ:母たちの祈り」を鑑賞。広島を初めて
訪れたイランの戦略研究センター主任研究員、ナセル・サハフィ・アメリさんは
「原爆が招いた悲惨な結果を初めて知った。外国のテレビ局で放映する方策を
考えては。特に核保有国の政策決定者に知ってもらうべきだ」と提案した。
資料館の浜岡克宣主幹は「参加者が自国での原爆展開催の主催者になって
ほしい。ロンドンなど核保有国の大都市で開催する契機になれば」と話した。
【中野彩子】
7月26日朝刊
(毎日新聞) - 7月26日17時20分更新
安全委が予定の聴取終了 九電のプルサーマル計画
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000196-kyodo-soci 九州電力が玄海原発3号機(佐賀県玄海町)で計画しているプルトニウム・
ウラン混合酸化物(MOX)を使うプルサーマルについて、原子力安全委員会は
26日、九電の安全対策を認めた原子力安全・保安院から、当面予定していた
ものとしては最後のヒアリングを実施した。
安全委事務局は近く委員全員に答申内容の原案を提示し、異論がなければ
安全委は、保安院の審査を妥当と答申する。これにより国の安全審査は事実上
終了し、九電が2010年度までの導入を目指すプルサーマル計画は、実現に
向け大きく近づく。
安全委と並行して平和利用などの観点から審査をしている原子力委員会も
近く、計画の遂行は問題ないと結論付ける見込み。保安院は両委員会の
答申を得た上で、早ければ8月にも、プルサーマル実施を認める原子炉設置
変更を許可する。
(共同通信) - 7月26日19時10分更新
●かけられたペンキ、あえて一部残す 長野・無言館の石礎
2005年07月24日09時27分
http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY200507230381.html 無言館にある「記憶のパレット」の土台には、ペンキの一部が残されている
=23日午後、長野県上田市で
長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」の石礎(いしじ)「記憶の
パレット」に赤いペンキがかけられた事件から1カ月。誰が何の目的でやったのか、
今も分かっていない。出征直前まで絵を描きながら、一編の作品も世に問うことなく
死んでいった画学生たち。ペンキがかけられた石礎は、遺族が兄弟や父親の
かすかな面影を探す場でもあった。館主の窪島誠一郎さん(63)はペンキの
一部をあえて残して修復した。
事件について窪島さんは多くを語らない。「無言館にはいろんな意見があっていい。
でも、それをこんなやり方でしか表せないのは悲しい」とだけ話す。ペンキの一部を
あえて残すことにしたのは、「なかったことにはしたくないから」という。
ペンキに覆われた石礎に「小西育太郎」という名があった。44年、台湾とフィリピン
の間のバシー海峡で戦死した。22歳だった。妹の小西照子さん(77)は新聞で
ペンキ事件を知り、「なぜこんなことに」と言葉を失った。写真の中で兄の名前は
赤く染まっていた。
事件前の6月5日。1年に1度遺族が集まる無言忌に出席した。初めて石礎を
見て、「これで兄もゆっくりと眠れる」と思った矢先だった。この日の来館者の
感想ノートには、照子さんが記した歌が残っている。
〈パレットに兄の名探す薄暑かな
美しき夏の信濃路去る名残り
無言忌の石礎に心残しつつ
やがて雪積もる石礎に思ひ馳せ〉
事件から1カ月余り。石礎の一部に残された赤いペンキに気づかずに通り過ぎる
人も多い。23日、長野県諏訪市から訪れた平林英也さん(69)は、「戦争で
芸術の道を断ち切られた人たちが、再びペンキをかけられるとは。でも、作品と
ともに、彼らは生き続けているのを感じますよ」と話した。
窪島さんは言う。
「人はどう生きるのか。人を愛するということはどういうことか。無言館が伝える、
そんな根源的なことを、私たちはもう一度思い出す時ではないでしょうか」
ピースボートとイラク情勢の関係スレなのに、
それにはいっさい触れず、
記事コピペ荒らし ばかりだ。
前スレ後半から、
「平和運動と、イラク反戦」のスレとなっていますが、なにか。
テロ誤認射殺、発砲警官の逮捕求めブラジルでデモ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000202-yom-int 【リオデジャネイロ=中島慎一郎】ロンドンでテロ捜査中の警官に誤って
射殺された電気技師ジェアンシャルレス・ジメネゼスさん(27)の出身地の
ブラジル南東部ミナスジェライス州ゴンザガで25日、発砲した警官の逮捕を
求めるデモが行われた。
デモにはジメネゼスさんの両親をはじめ友人や住民ら数百人が参加。
「本当のテロリストは英警察」などと書かれた横断幕を手に「謝罪ではなく
裁きを」と訴えた。
(読売新聞) - 7月26日11時37分更新
ブラジル人技師誤殺、英の独立委員会が審理開始
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050726-00000404-yom-int 【ロンドン=長谷川由紀】英国の警察苦情処理独立委員会(IPCC)は25日、
ロンドン南部の地下鉄ストックウェル駅で、ブラジル人電気技師のジェアン
シャルレス・ジメネゼスさん(27)がテロ捜査中の警官に誤って射殺された
事件について、審理を開始した。
IPCCによると、初日の審理で、ジメネゼスさんが頭部に7発、肩に1発の
計8発撃たれていたことが明らかにされた。これまでは目撃証言などから、
警官がジメネゼスさんの頭部に5発発射したと思われていたが、実際は
それより多かったことになる。
この事件では、ジメネゼスさんのビザが失効していたことが誤殺につながった
可能性を示唆する報道もあるが、BBC放送によると、ジメネゼスさんの家族は
これを否定、警察当局を提訴することを検討しているという。
一方、ブレア首相は25日、この事件について初めて公式に言及し、「心から
申し訳なく思っている」と述べた。
(読売新聞) - 7月26日12時7分更新
故郷ブラジルで抗議デモ、英テロで誤射、死亡の青年
2005.07.26 Web posted at: 18:18 JST - CNN/AP
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200507260023.html ブラジル・ゴンザガ──ロンドンで起きた同時テロの容疑者と間違えられ、
地下鉄駅内で射殺された、電気技師ジャン・チャールズ・デ・メネゼスさん (27)
の故郷ブラジル南東部ゴンザガで25日、デ・メネゼスさんの親族や友人
数百人が、ロンドン警視庁を非難するデモを行った。誤射した警官の逮捕を
求めている。
デモの参加者たちは、「英警察こそテロリスト」といった垂れ幕を持ち、「謝罪は
無意味。公正を求める」と口にしながら、ブレア首相の謝罪はまったく不十分だ
と訴えた。
ゴンザガ市長は、デ・メネゼスさんが頭部に7発、肩に1発の銃弾を受けたことに
憤り、誤射は「暗殺」だとして、「ブレア首相が謝るのは簡単だが、意味がない。
警官が武装していない英国に、一体何が起こったんだ」と、怒りをあらわにした。
また、22日に射殺されたデ・メネゼスさんの遺体を、いつブラジルへ移送する
のかを英国が明らかにしないことにも怒りの声を挙げ、ブレア首相に対し、
デ・メネゼスさんの遺体を早く帰国させるよう求めている。
ブラジルではこのほか、国内各地で遊休地の実力占拠などの運動を進めている
土地なし農民運動(MST)も、26日にブラジルの英国大使館前とサンパウロの
英領事館前で、デモを実施する予定。
>>191 こういうピースなんとかの仕込みでないデモは、尊いな。
「英警察こそテロリスト」といった垂れ幕が、自然発生的に、
友人の間で出てくる、その時の空気こそ、
「革命のはじまり」に、近いものだ。
左翼の人なら分かってもらえると思うが。
↑
ここはイラク情勢とピースボートの関係について考えるスレだよ。
無関係な記事コピペはスレ荒らし。
他所でやってくれ。
>>174 たしかに、3つのスレ、
もう必死で削除依頼ばかりしてる。
>>192 自然発生のデモほど感動するものはない。
ピースボートは、平和運動の集団。
平和運動について、事実を知り、認識を深める。
まったくスレ違いではない。
原爆慰霊碑の碑文に傷 ハンマー持った男が出頭
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000015-kyodo-soci 26日午後11時ごろ、広島市中区中島町の平和記念公園にある原爆慰霊碑に
傷がついていると、警備員から110番があった。約10分後、ハンマーを持った男が
「慰霊碑を傷つけた」と広島中央署に出頭。同署は、器物損壊の疑いで逮捕状請求
手続きを始めた。
調べでは、原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
と書かれた碑文に傷がついており、同署が被害を詳しく調べている。
男は20代とみられ、「碑文の『過ち』の文言が気に入らなかった」と供述。被爆
60年の原爆の日を前に関係者は大きな衝撃を受けている。
広島市によると、「過ちは」の計3カ所に傷があるという。
平和記念公園の中央にある原爆慰霊碑の石室には原爆死没者の名簿が納められ、
毎年8月6日、慰霊碑の前で平和記念式典が営まれている。
(共同通信) - 7月27日1時48分更新
199 :
国連な成しさん:05/07/27 12:55 ID:lsUwnTwI
ピースボートとチョソの関係
関係があるんなら挙げてくれ、確証のある物をな
>>199
>>196 勝手に平和を望んでいるのはいいが、政治思想が強すぎてちょっとな〜。
>>201 憲法が変えられて戦争を本当にするようになったら、太平洋戦争末期の大日本帝国臣民よろしく
灯火管制の暗い電球の下で「早く戦争終わって欲しいね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー 」と言う他なくなるんだぞ。
それでいいのか?
<戦争資料展>名古屋市博物館で開幕 従来の3倍の規模で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000015-mai-soci 「平和のための戦争資料展」(名古屋市、愛知県主催)が27日、同市瑞穂区の
市博物館で始まった。市と県は「戦争資料館」建設を検討しているが、財政難か
らめどが立っておらず、同館のために市民から収集されたものの一部、約300点
が展示されている。
収蔵資料の展示は03年から毎年行っているが、今年は終戦60年のため、
従来の3倍に拡大。防毒マスクや防空ずきん、各家庭に常備された消火弾
(未使用)など、戦時をしのばせるものばかり。
また、今回は長崎市との共催で「ナガサキ原爆資料展」も併設。原爆が落と
された時刻で止まった柱時計や、高温と爆風で変色した聖母マリア像など、
原爆の恐ろしさを物語る資料が並ぶ。17歳で被爆した長崎市の小崎登明さん
(77)の被爆体験も聞くことができる。
市と県は、NPO法人からの資料館建設を求める請願書を94、95年に採択。
「戦争に関する資料館調査会」を作り、98年から資料収集を始め、これまでに
6600点以上が集まった。資料館建設について市企画調整室は「寄贈施設の
間借りや、市や県が所有していて使わなくなった施設を再利用できないか調査中」
と話している。同展は31日まで。【岡崎大輔】
(毎日新聞) - 7月27日10時4分更新
世界平和を呼びかけサンタナらが公演
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000037-sanspo-ent 世界平和を呼びかける日本公演「Emissaries for Peace(平和の使者)〜
サンタナ ハンコック ショーター〜世界の子どもたちの未来へ」を開くカルロス・
サンタナ(58)、ハービー・ハンコック(65)、ウェイン・ショーター(71)が26日、
東京・信濃町の民音ミュージアムホールで会見した。
広島、長崎の被爆60年を機にサンタナが首唱した企画。27日の横浜アリーナを
皮切りに大阪、長崎、広島の4都市5公演。被爆60年にサンタナは「音楽をきっかけ
に新たな人間の輪を築いていければ」と呼びかけた。
〔写真:世界平和を呼びかけた音楽の巨人たち。(左から)カルロス・サンタナ、
ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター〕
(サンケイスポーツ) - 7月27日8時4分更新
ピース暴徒!
デヴィッド・リンチ監督が、世界平和に70億ドルを寄付したい?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000009-flix-ent 『マルホランド・ドライブ』のデヴィッド・リンチ監督 - (C) DailyCeleb.com/NANA TSUSHIN
デヴィッド・リンチ監督が、自身で創設した新しい基金「意識的な教育と
世界平和のためのデヴィッド・リンチ基金」を通じ、70億ドル(日本円だと
約7,000億円強)を世界平和のために寄付したいと発表した。
しかし、このお金は実際に存在する訳ではなく「世界平和のための
デヴィッド・リンチ財団の寄付金目標額」で寄付金が70億ドルに達したとき
「世界中の学校に超越瞑想プログラムを設立することに、このお金を
使いたい」とリンチは語った。
リンチは32年間、この超越瞑想プログラムを続けている。彼は、基金を
調達するため9月、10月に合衆国でのツアーを計画しているという。
(FLiX) - 7月27日17時16分更新
<原爆慰霊碑>傷つけた右翼容疑者を逮捕 広島中央署
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000035-mai-soci 広島市中区中島町の平和記念公園にある原爆慰霊碑の石碑の文字などを
傷つけたとして、広島県警広島中央署は27日未明、同市安佐南区祇園7、
右翼団体構成員、嶋津丈夫容疑者(27)を器物損壊容疑で逮捕した。
「『過ちは』の文言が気に入らなかった」などと話しているという。市は6日までに
傷を仮修復し、その後、本格的な修復作業に入る。
調べでは、嶋津容疑者は26日午後10時55分ごろ、さくなどを乗り越え、
石碑(高さ76.7センチ、幅1.24メートル、奥行き2メートル)の「過ちは」の
部分などを鉄製ハンマー(長さ約30センチ、重さ約1.3キロ)でたたくなどし、
縦約2.5センチ、横約1.5センチの傷を十数カ所つけた疑い。防犯ビデオで
監視中の警備員が通報後の同11時10分ごろ、「慰霊碑を壊した」と同署に現れた。
慰霊碑は建築家の故・丹下健三氏が設計。「安らかに眠って下さい/過ちは/
繰返しませぬから」と刻まれている。52年8月6日に完成。内部には原爆死没者の
名簿が奉納されている。秋葉忠利・広島市長は「ヒロシマの心や世界の平和を
求める人々の心を踏みにじり、原爆死没者の御霊(みたま)を冒とくする行為で、
強い憤りを覚える」とのコメントを出した。慰霊碑では02年3月、赤いペンキが
かけられる事件が起きている。
【吉川雄策、大沢瑞季】
(毎日新聞) - 7月27日13時26分更新
13日から「長崎原爆展」 平和の尊さ かみしめ 大津市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000023-kyt-l25 原爆で焼き尽くされた長崎市内を紹介する写真パネル(長崎原爆資料館所蔵)
戦後60年を記念して、大津市は8月13日から、「長崎原爆展」を同市御陵町の
市歴史博物館で開く。長崎市との共催で、原爆資料の展示のほか、被ばく者の
講話などもある。滋賀県内で、長崎の原爆をテーマにした展示会が開かれる
のは初めてという。
大津市は2003年に「広島原爆展」を催している。戦後60年の節目に、
長崎の被ばくについても知り、平和の尊さを考えてもらおうと、長崎原爆資料館の
協力を得て企画した。
原爆投下時刻の午前11時2分で止まった懐中時計や柱時計、熱風を受けた瓦、
被ばく者が着ていた背広など、同資料館所蔵の資料約30点を展示し、倒壊した
浦上天主堂や焼き尽くされた市内の様子などを写真パネル70枚で紹介する。
13、14日には、爆心地から約3キロの路面電車の営業所で被ばくした元運転士
の和田耕一さん(78)=長崎市=が体験を語る。
また、初日のセレモニーに、長崎原爆資料館の多以良光善館長を迎え、
大津市内の子どもたちが作った1000羽鶴を贈る。
8月21日まで。無料。
問い合わせは大津市総務課TEL077(528)2710へ。
(京都新聞) - 7月27日11時18分更新
ピースボートについてカキコすると過剰に反応するのはなぜ〜。
売り上げがさがっちゃうのかな?
終戦記念日:「終戦の蔵」コーナー開設−−白石の人形の蔵 /宮城
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000060-mailo-l04 終戦記念日の8月15日、白石市城北町の私設展示館「白石・人形の蔵」に、
庶民生活と戦争にかかわる品々を公開する「終戦の蔵」コーナーが開設される。
内覧会が8月4日まで開かれており、太平洋戦争の慰問袋や千人針を展示している。
同館はこれまでは終戦記念日に合わせ企画展を開いてきたが、今年は終戦
60年の節目の年に当たることから「戦争を風化させず、平和の尊さを考える
きっかけになれば」(佐藤好一郎館長)と常設コーナーを設置した。
配給券や寄せ書きの日章旗、生活日記、兵隊人形、特攻隊関連品、戦意高揚
の紙芝居――など計約1000点を展示。
開館は午前10時〜午後4時。水曜休館。
問い合わせは同蔵(0224・26・1475)。
【豊田英夫】
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日16時6分更新
公演:モンゴルの声明とパーカッション共演−−来月3日、上京区・金剛能楽堂 /京都
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000147-mailo-l26 ◇平和と鎮魂、祈りを込め−−路上生活の子ら支援
モンゴルの仏教僧たちの声明とパーカッションが共演する「響きの宇宙
風の曳(えい)航」が8月3日、上京区烏丸通一条下ルの金剛能楽堂で開かれる。
収益はモンゴルで路上生活を強いられている子供らの支援にも充てる。
来日するのは、モンゴル・ウランバートルにあるダシチョイリン寺院の僧侶
ボヤンデルゲルさんら主に20代の6人。映画「地球交響曲」などに音楽を
提供している打楽器奏者、長屋和哉さんと共演する。モンゴルは元々チベッ
ト仏教が盛んだった。共産主義体制下で抑圧に耐え、僧侶らは伝統を受け
継いできた。その読経の重厚な低音は、心に深く染み入る。
長屋さんは、モンゴルの急激な市場経済化の中で路上生活に追い込まれた
子供らにゲル(移動家屋)を贈るなどの支援を行っており、公演の収益は
その活動に充てるという。
公演を企画した長野県松本市の住職、高橋卓志さん(56)は「モンゴルには
ホーミーという独特の歌唱法があるが、読経は芸術性が豊かだ。原爆投下の日
を控え、公演には平和、鎮魂の祈りを込めている」と話す。
午後6時半開演(同6時開場)。全席自由で当日4000円(前売り3500円)。
また、8月2日午前7時半から東山区の清水寺経堂で、奉納演奏を行う。
モンゴル僧声明公演in京都実行委(090・8445・8200)。
【野上哲】
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日17時2分更新
関西学院大:サークル、韓国でボランティア 来月、住宅建設に協力−−三田 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000254-mailo-l28 今年は戦後60年、そして日韓国交平常化から40年の「日韓友情年」にあたる。
関西学院大神戸三田キャンパス(三田市学園2)のボランティアサークル「エコ
ハビタット関西学院」の学生らが来月1日、韓国に向かう。同国のボランティアと
一緒に、貧困や災害で住まいがない人の家を建てるプロジェクトに参加するためだ。
このサークルは米国に本部を置くNGO団体「HFHI」(ハビタット・フォー・ヒュー
マニティ・インターナショナル)の学生支部。韓国に向かう一行は三十数人になる
予定。三田市を自転車で出発、広島市までの約370キロを4日かけて募金や
講演会をしながら走る。同市の平和記念公園では、「平穏に暮らせるのは平和が
あるから」との思いから、支援してくれた家族や友人に折ってもらった千羽鶴を
ささげる。同月5日に広島からフェリーに乗り、韓国の釜山へ向かう。
韓国の都市部は、急激な発展を遂げているが、農村部では、貧しさのため家を
持てなかったり、相次ぐ災害によって住居をなくした人も多いという。
メンバーは、8日に同国西部の天安(チョナン)・牙山(アサン)の両市で現地の
ボランティアと合流し、くぎ打ちや断熱材を埋め込むなどの作業を手伝う。4棟を
造る予定だ。
参加する総合政策学部2年の宮本昌宏さん(19)は昨年も参加。現地スタッフの
男性から「日本人にいいイメージはない」などと言われたが、けがをした際に、
この男性の介抱を受け、互いに話をするうちに心が打ち解け、別れ際には
「チング」(友だち)と涙ながらに言ってもらえた。「両国が竹島や歴史教科書問題
などで対立し続けるのは悲しい。同じ人間として向き合える場所にしたい」と
話している。
【服部陽】
〔阪神版〕
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日17時5分更新
折り鶴ピースバトン60:5万羽の千羽鶴、連合島根に渡す−−連合鳥取 /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000303-mailo-l32 被爆60年を迎えた広島に中国5県で集めた千羽鶴をリレー方式で届ける
「折り鶴ピースバトン60」がこのほど、県庁に到着し、連合鳥取から連合島根に
約5万羽の千羽鶴が引き渡された=写真。
中国5県の連合が主催。13日に岡山を出発し、鳥取、島根、山口と回って
来月2日に広島へ到着し、広島市の平和記念公園へ届けられる。これまでは
各県の連合が別々に千羽鶴を集めて届けていたが、被爆60年の今年は
リレー方式に変更した。
ダンボール箱に詰められた千羽鶴約5万羽が安田邦夫・連合鳥取会長から
矢倉淳・連合島根会長代行へ手渡された。安田会長は「イラク戦争やNPT
(核不拡散条約)再検討会議の決裂など、平和を願う思いとは逆行する動きが
進んでいる。核廃絶の運動を中国5県で引き継いでもらいたい」と述べた。
この後出雲市など5市で平和行進を行い、8月1日に山口へ到着。千羽鶴は
県内8市役所や中国労働金庫の10支店で受け付けている。
【酒造唯】
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日17時15分更新
松山空襲:60周年、遺族ら冥福祈る−−市戦災犠牲者追悼式 /愛媛
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000129-mailo-l38 太平洋戦争中の松山空襲から60周年に当たる26日、松山市の市総合
コミュニティセンターで市戦災犠牲者追悼式が開かれ、戦没者の遺族ら
約800人が参加して犠牲者の冥福を祈った。同センターではこの日、
松山空襲の犠牲者や広島の被爆者の遺品約200点を展示した平和資料展
が始まった。31日まで。
式では、黙とうの後、中村時広市長が「戦争の教訓を深く心に刻み、
後世に伝えなければならない」と追悼の言葉を述べた。戦争で夫を亡くした
遺族代表の本多志げ美さん(94)は「戦後、遺族が歩んできた道は苦しい
毎日の連続でした。皆様(戦没者)が何より願った自由と平和をこれからも
守っていくことを誓います」と話し、遺族は次々に慰霊碑に献花した。
同空襲では6万2200人が被災し、死者・行方不明者は259人に上った。
当時の市街地の50〜60%に当たる約4・8平方キロが焼けた。
平和資料展では、被爆して死亡した男の子が使っていた三輪車、原爆
による高熱で一瞬にして真っ黒になった弁当箱のレプリカ、広島市民が
被爆直後の様子を描いた絵などを展示。内子町の会社役員、佐藤基国さん
(61)は「私の義母も救助活動中に長崎で被爆したので、何度も被爆体験を
聞いた。二度と核兵器が使われるようなことがあってはいけない」と話していた。
【伊藤伸之輔】
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日17時30分更新
すごいあらされ方ですね
被爆60年:長崎平和考 もう一つのナガサキ・県央の記憶/1 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000206-mailo-l42 ◇きのこ雲−−今も忘れえぬ光景
「瞬間的にピカッと光った。長崎のほうを見たら、それはもう……」
今月6日の昼下がり。大村市松原出張所の一室に数人が集まり、60年前の
記憶をたどった。参加したのは、60代後半〜80代。いずれも市北部に位置する
松原地区に住む人たちだ。
今年2月、長崎原爆資料館に、原爆投下後の「きのこ雲」を写したとみられる
写真が寄贈された。集まった人たちの共通点は、写真の撮影場所を特定する
際の聞き取り調査に協力したこと。撮影場所は3月に松原地区の鹿ノ島付近と
特定された。この日は、聞き取りをした出張所長の増山聖二さん(54)を囲み、
1時間余りにわたってきのこ雲の目撃談を語り合った。
〈井戸水をバケツに汲んで飲もうとしたとき、ドカーンと来た。びっくりして、
慌てて防空壕(ごう)へと逃げた〉〈クラゲの足のように赤や黄色の光線が見えた。
異様な光だった〉〈温い風が起こり、爆風が来た。地震のように足元が揺れた〉――。
集まった人たちは、口々にあの日の光景を語った。
1945年8月9日。その日は、大村市内でも朝から空襲警報が発令されていた。
当時、松原国民学校初等科(現在の松原小学校)4年生だった中島トシ子さん
(69)は、今の国道34号にある野岳入口交差点の近くにあった防空壕にいた
ことを覚えている。
早めの昼食を取ろうと防空壕を出て海岸通りを母親に連れられて自宅へ
向かう途中、約25キロ離れた長崎市の上空で原子爆弾がさく裂した。それからは
パニックだった。来た道を引き返し、防空壕へ逆戻り。「その時の光景ははっきりと
頭の中にある。60年経っても忘れられない」。しばらくして長崎市の上空を見ると、
異様な「きのこ雲」がもくもく立ち上がっていた。
もう一つ、今も消えない記憶の断片がある。それは原爆の被災者が収容された
国民学校の講堂を終戦後に掃除したことだ。大きな講堂の廊下や板の間を
ぞうきんで拭(ふ)いた。赤チンや血が床に付着していた。当時、講堂は
旧海軍の救護所として使用されており、被災者の一部は臨時列車で運ばれて
きていたのだ。
その後、地区にはなんらかの病気がはやり、早くから発病した人の中には
亡くなった人も少なくなかったという。自らも10月10日に入院。隔離され、
約1カ月を病院で過ごした。
「今思えば、あれは赤痢だったのかもしれない。恥ずかしさもあって誰にも
言わずに過ごしてきたけれど、人生の中で一番苦しい時期だったことは、
『きのこ雲』と一緒に記憶に残っている」
× ×
戦後60年の節目の年に、岩手県の男性から寄贈された長崎原爆の「きのこ雲」
の写真。地上からの撮影が確認された写真としては4例目となる。長崎に投下
された原爆は、その周辺で暮らしていた人々にどんな影響を与えたのか。
県央地区での証言や記録を交えて、周辺部からの視点で長崎原爆をとらえてみた。
【太田誠一】
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日17時40分更新
ここも荒らしているのか?
●戦後60年企画:語る・伝える・あの夏 第1部・米軍記録から/1 /熊本
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000200-mailo-l43 ◇熱帯夜襲った米軍機、作戦を知らない地上の人々
「熊本市は住宅街と商工業地区、行政施設が混在する。我々の攻撃目標は
重要な通信・行政施設が存在する熊本城と白川の間の地域だ」――。
1945年7月1日。米軍の作戦任務報告書によると、サイパンから出撃した
B29は計162機。第497爆撃隊隊長のアーノルド・T・ジョンソン大佐は出撃前、
こう部下に指示した。
当時「熊本城と白川の間」に位置する市役所のそば、現在の熊本市花畑町に
住んでいた矢野峰子さん(72)=嘉島町鯰=は12歳。写真屋の娘で6人兄弟の
二女。自宅で就寝中に突然空襲警報が鳴り響き、しばらくすると「照明弾の光で
昼間のように明るくなった」。
大江捷也さん(72)=熊本市辛島町=は熊本城からやや北よりの同市京町の
高台に自宅があった。済々黌(旧制中学)の1年生で、「入隊して戦うことを夢見る
典型的な軍国少年だった」という。その夜は当時同市八景水谷にあった陸軍
幼年学校に入学するのを目標に、自室で受験勉強に励んでいた。
◇
B29は硫黄島から進路を鹿児島県枕崎市方面にとり、天草灘で機首を北東に
向け一直線に熊本市へ。途中、天草や三角上空で地上からの対空砲火があった
が、同報告書によると、効果は「微々たるもので不正確」。第73航空団は無傷
のまま県の心臓部に向かった。
午後11時59分。熊本上空に少数の先導機部隊が襲来。レーダー誘導で
市内2カ所に設定した爆撃照準点に向け焼夷(しょうい)弾を投下、後続の
主力部隊の「目印」となるように大火災を起こした。
「普通の空襲ではない。ここは危ない」。家のそばの防空壕(ごう)に家族8人で
身を潜めていた矢野さんは、南方の白川方面から押し寄せる火の手を背に、
熊本城を目指して走った。城壁近くの森には次第に人が集まり、やけどした
人々も次々に運ばれてきた。大江さんは外で瞬く焼夷弾の光に驚き、正体を
確認するためにあわてて屋根に駆け上がった。
◇
「熊本大空襲」があった1945年7月1日。米第21爆撃軍司令部は、南方マリアナ
諸島を基地とし、B29戦略爆撃機が配備された四つの航空団に出撃命令。このうち
サイパンの第73航空団が命令された第241号作戦の目標は「熊本市街地」。
米軍は熊本市について、「九州第4の都市。小規模工場は飛行機部品工場に
改造されているとみられ、軍事施設も集中している」などとかねてから重要視。
だが、報告書によると、この日熊本などが目標に選ばれた最大の理由は「焼夷弾
攻撃に最適の天候」と判断されたため。この日の熊本市は梅雨の半ばで昼から
雲が多く、微風。夜になっても気温は下がらず、2日午前0時の気温は25・4度、
湿度87%の蒸し暑い夜だった。
◇ ◇
戦後60年。戦争の記憶は年々風化し、膨大な犠牲と引き換えに手にした平和憲法
も今、岐路にさしかかる。あの夏を教訓に、語り、伝えていくべきものとは……。
第1部は米軍が残した記録や市民の証言などを基に熊本の空襲について振り返る。
(この連載は、門田陽介と新里啓一が担当します)
7月27日朝刊
(毎日新聞) - 7月27日17時45分更新
ひたすら、記事コピペ荒しか・・・。
イラクとピースボートについてカキコされるとそんなに都合の悪いことがあるのか。
49カ国・地域の合唱団が集う 「世界合唱の祭典京都」開幕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050727-00000065-kyt-l26 「世界合唱の祭典京都」のオープニングガラコンサートを飾る、児童合唱と
いちひめ雅楽会の「越天楽」共演(京都市左京区・京都コンサートホール)
49カ国・地域からプロ、アマの合唱団が集う「世界合唱の祭典京都」
(第7回世界合唱シンポジウム、全日本合唱連盟など主催)が27日夜、
京都市左京区の京都コンサートホールでのオープニングガラコンサートで
幕を開けた。8月3日までの期間中、京都の街は歌声に染まる。
祭典は1987年のウィーン大会以降、3年に1度開催。アジアでは初で、
国立京都国際会館と同ホールを主会場に、演奏会やセミナーを開く。
招待合唱団は、海外からBBCシンガーズ(イギリス)など22団体、国内
10団体。登録参加者は3700人にのぼる。
「ライジングサン」と名付けた開幕コンサートは、「異文化を理解し、
平和に貢献しよう」との開会宣言やあいさつの後、京都のいちひめ雅楽会と
宝塚少年少女合唱団などの「越天楽」共演で始まった。民謡や童歌の
アレンジ作品や比叡山延暦寺の声明、菊水鉾保存会の祇園囃子(ばやし)
など日本の伝統を感じさせる演目が並び、合唱団京都エコーは、池辺
晋一郎さんの新作「相聞III」を初演した。最後は坂本龍一さん作曲の
テーマ曲を参加者の約1800人が合唱した。
期間中、招待団体と市民合唱団が共演する「コミュニティー・コンサート」が
府内各地で開かれる。31日には、児童合唱や母親コーラスの大会も
京都コンサートホールである。一般入場可。有料。
事務局Tel:075(705)2001。
(京都新聞) - 7月27日23時9分更新
前スレ後半から、
「平和運動と、イラク反戦」のスレとなっていますが、なにか。
>>222 だろうね。いくらやっても無駄なのにね。
次はスレタイに、2ちゃん検索のピースボートをリンクしてやってくれ。
米で核テロ起きたら「メッカを核攻撃」 米下院議員
2005年07月27日12時03分
http://www.asahi.com/international/update/0727/007.html 米下院のトム・タンクレド議員(共和、コロラド州)がラジオ番組でイスラム過激派が
米国に核攻撃した場合の対抗策として「イスラム教の聖地を壊滅させることも
できる」とサウジアラビア・メッカへの核報復を示唆し、在米イスラム教徒らの
間に反発が広がっている。
7月中旬、テロリストが米国内に核兵器を持ち込んだ場合の対応策を聞かれて
発言した。司会者が「メッカへの爆撃ということか」と確認したのに対して「そうだ」
と述べた。同議員の報道担当は26日、朝日新聞に「発言は仮定の質問に答えた
ものだ。謝罪も撤回もしない」と述べた。
イスラム世界の対米世論に敏感な国務省は「イスラムを侮辱する発言」
(エアリー副報道官)と批判。「我々は宗教としてのイスラムやその聖地に敬意を
払っている」と米政府の立場を説明した。トルコ外相が発言を批判するなど波紋は
海外にも広がりつつある。
発言の撤回を求める声に対して同議員は「広島やドレスデンを爆撃した際、
我々は必ずしも必要でない多くの人々を懲らしめた。戦争とはおぞましいものだ」
などと釈明した。同議員は移民制限など保守的な主張で知られる。
世界平和を呼びかけサンタナらが公演
2005年 7月27日 (水) 04:08
http://news.goo.ne.jp/news/sanspo/geino/20050727/120050727026.html (サンケイスポーツ)
世界平和を呼びかける日本公演「Emissaries for Peace(平和の使者)〜
サンタナ ハンコック ショーター〜世界の子どもたちの未来へ」を開くカルロス・
サンタナ(58)、ハービー・ハンコック(65)、ウェイン・ショーター(71)が26日、
東京・信濃町の民音ミュージアムホールで会見した。
広島、長崎の被爆60年を機にサンタナが首唱した企画。27日の横浜アリーナを
皮切りに大阪、長崎、広島の4都市5公演。被爆60年にサンタナは「音楽を
きっかけに新たな人間の輪を築いていければ」と呼びかけた。
〔写真:世界平和を呼びかけた音楽の巨人たち。(左から)カルロス・サンタナ、
ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター〕
こいつの場合は、金が目的だろうな。w
>>228 いや、サンタナはかなりの平和主義者だよ。
サンタナを●吸って聞くと、ほんとに平和がイメージできた。
昔はね。
ひたすら、記事コピペ荒しか・・・。
イラクとピースボートについてカキコされるとそんなに都合の悪いことがあるのか。
原爆の日前に公園を清掃 広島、市民ら1700人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000063-kyodo-soci 被爆60年の原爆の日を前に、平和記念公園で草むしりをする市民ら。
後方は原爆慰霊碑=28日午前、広島市中区
被爆60年の原爆の日を前に、広島市民や市職員など約1700人が28日、
平和記念式典の会場となる広島市中区の平和記念公園一帯で清掃をし、
植え込みのごみを拾ったり、原爆ドーム付近の元安川護岸を水洗いしたりした。
午前7時すぎ、集まった市民らは原爆死没者の霊に黙とう。早朝から照り付ける
夏の日差しの下、汗をぬぐいながら、竹ぼうきやくま手を手に公園に散っていった。
学徒動員で広島市内を離れていたために、被爆を免れたという同市西区の
勝部郁夫さん(73)は「被爆から60年がたち、近所でも被爆者が減っている。
8月6日を前に市民が集まり、みんなで掃除をすることに意味があると思う」と話した。
(共同通信) - 7月28日10時52分更新
戦跡ガマ ごみの山 積徳学徒動員の糸洲壕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000015-ryu-oki 戦時中、野戦病院として使用された糸洲壕の入り口に積み重なった廃棄物=
27日、糸満市伊敷
沖縄戦中、野戦病院として使用され、多くの住民や日本兵が亡くなった
糸満市伊敷の糸洲壕(ウッカーガマ)の入り口に古いタイヤやプラスチックの
パイプが捨てられ、関係者の怒りを買っている。関係者によると、糸洲壕では
2000年ごろから廃棄物が確認されている。この壕に看護学徒生として動員
されていた積徳高等女学校(積徳高女)の同窓生や、平和ガイドからは
「壕はいわば聖地。腹立たしい」「沖縄のチムグクル(真心)はどこにいったのか」
と怒りや嘆きの声が上がっている。
糸洲壕は沖縄戦当時、糸洲地区の住民や日本兵が避難していた。1945年
5月27日から6月26日まで積徳高女から25人が動員され、第24師団第二
野戦病院として使われた。現在は壕までの案内板が立てられ、壕の前には
鎮魂の碑が立ち、平和学習の場としても活用されている。
廃棄物が捨てられているのは壕入り口に下りる階段の両脇。古いタイヤや
さび付いたホイール、プラスチック製の箱や束ねられたパイプなどが無造作に
捨てられている。
新垣道子積徳高女ふじ同窓会長は「壕はいわば聖地。そこにごみを捨てる
なんて」と怒りで言葉を失ったという。
新垣会長によると、以前も鍋や調理で使うボウルなどが捨てられ、平和学習の
ガイドが片付けたという。同窓会も年に1、2度は掃除を委託していた。新垣会長ら
役員は「このままにしておくと、どんどん廃棄物が増える」と懸念している。
県観光ボランティア友の会の安里芳子会長も2000年ごろから廃棄物を目に
していた。友の会では大きな廃棄物は廃棄場所などの問題で手をつけられず
にいた。「情けない。60年前、ガマ(自然洞くつ)がどういうふうに使われたか
知っていて廃棄したのなら人間性を疑う」と嘆いた。
安里会長は「具志頭村のクラシンジョウの壕などにも粗大ごみが捨てられて
いる」と糸洲の壕に限った問題ではないと指摘している。
(琉球新報) - 7月28日13時52分更新
遺品展:茶箱に入った父の遺品、戦後60年機に公開−−来月6日まで、越谷 /埼玉
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000144-mailo-l11 一人の国家公務員が終戦前後に集めた戦争関連資料を展示した遺品展が
越谷市赤山町1の絵本館で開かれている。役所の内部資料とみられる文書など
当時を物語る貴重な資料が含まれ、戦争体験者など年配者らが見入っている。【金沢衛】
◇軍事資料や日誌など、戦時しのぶ貴重な資料−−植田さん
同市在住の会社員、植田誠さん(62)が昨年、千葉県君津市の実家の荷物を
整理し、茶箱二つを見つけた。植田さんの父で1961年に48歳で亡くなった
萬年さんのもので、戦前からの書籍と新聞を中心に手帳や写真、当時の役所の
文書などが入っていた。戦後60年の節目にあたり公開することにした。
萬年さんは教員を経て38年から叙勲や褒章を担当する政府の賞勲局に勤務した。
「(秘)」印が押された賞勲局の内規や高額寄付者の名簿、天皇に提出する
議会文書の下書きなど職務上の資料も含まれている。また海軍省が太平洋戦争
開戦直後の41年12月24日に作成したとみられる海軍作戦経過概要図もある。
35年から1年間入隊した軍隊生活を記録した入隊日誌、スケジュールなどが
書き込まれた職員手帳など戦前の生活ぶりや社会背景も読み取れるという。
絵本館を主宰する植田さんの妻恵子さん(55)は「リストラや自殺の増加、
子供を取り巻く犯罪の多発、世界で繰り広げられる紛争など平和を願わずには
いられない状況です。義父が資料を保管していた意図は分かりませんが、
戦争と平和を考えさせるきっかけになれば」と話している。
30日午後1時半からは同所で「平和を伝える 語りと音楽の集い」も開かれる。
広島戦争体験談や朗読会、ミニコンサートもある。展示は8月6日まで。
電話048・966・1002同館。
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日16時26分更新
教科書問題:「つくる会」採択に反対する親ら、署名1万人分を杉並区教委に /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000136-mailo-l13 ◇3次署名1万人分を提出
杉並区の中学生の子を持つ親らが作る「『つくる会』の教科書採択に反対する
杉並・親の会」が27日、「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した扶桑社の
教科書を採択しないよう求める署名約1万人分を、区教委委員長と教育長あてに
提出した。第3次分で、これまでに提出した署名は計2万1709人分という。
署名者の約6割が区民、残りは全国からという。
また、親の会は約400人を集め同日昼、区役所を囲む「人間の鎖」を作って
反対をアピール。韓国で平和運動などに取り組む若者6人も加わり、キム・ウネさん(20)
は「韓国には日本に悪い感情を持つ若者もいる。互いに誤解があるためで、教科書が
誤解を生むものでないことを祈ります」と話していた。
区教委は来月4日、どの教科書を使うかを採択する予定。
【渡辺暖】
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日16時32分更新
ハンコック ショーター
県戦没者慰霊式:4500人が参列−−金沢 /石川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000184-mailo-l17 第54回石川県戦没者慰霊式が27日、金沢市野田町・野田山の県戦没者
墓苑で、遺族や関係者約4500人が参列してしめやかに行われた。
明治維新から第二次世界大戦までに戦死した県出身者3万2838人を追悼した。
式には、谷本正憲・知事や山出保・金沢市長のほか、県遺族連合会、県遺族連合会
婦人部などの関係者らが参列。全員で忠霊塔に向かい黙とうした後、谷本知事らが
献花を行った。
谷本知事は「今年は戦後60年の節目の年。今日の平和と繁栄を築いてこられた
のは、みなさまの尊い犠牲があったからこそ。戦争の悲惨さを後世に伝え、安全で
安心して暮らせる県づくりをして行くことを誓います」と述べた。
【山中尚登】
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日16時41分更新
ピースフェスタ明石:戦後60年、平和を考える 教科書や空襲の資料など展示 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000234-mailo-l28 戦後60年の節目に、改めて平和について考えるイベント「ピースフェスタ明石」
(実行委主催)が27日、明石市相生町2の市立勤労福祉会館で始まった。
前後半に分けて田島征彦さんの絵本「ななしのごんべさん」の原画展(8月1日まで)
のほか、戦前戦後の教科書や明石空襲の資料などを展示。戦争被害や平和、
憲法9条についての講演会などがある。8月7日まで。2日は休館。問い合わせは
実行委事務局(078・912・2797)。
イベントは、「ななしのごんべさん」スライド上映など(30日午前10時半)
▽「世界がもし100人の村だったら」をテーマにした池田香代子さんの記念講演
など(31日午前10時半)▽戦後60年―戦争被害と加害を語り継ぐつどい
(8月6日午後1時半、無料)▽大蔵海岸花火事件から4年―市民のつどい
(同5時半、無料)▽小森陽一さんの記念講演とフリートーク「輝け平和憲法」
(8月7日午後1時半)など。入場料は2週間通し券で大人1000円(小中高生500円)。
【南良靖雄】
〔神戸版〕
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日17時6分更新
ひたすら、記事コピペ荒しか・・・。
イラクとピースボートについてカキコされるとそんなに都合の悪いことがあるのか。
戦後60年:米軍空襲の惨禍伝える 30、31日に「戦争と平和展」−−一宮 /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000005-mailo-l23 ◇体験者の語りや写真パネル展示
終戦間近に米軍の空襲で大きな戦禍を被った一宮市の同市民会館で
30、31の両日、「一宮『戦争と平和』展」が開かれる。当時、爆撃の中を
逃げ回った市民らが戦争体験を披露するほか、一宮空襲や広島・長崎の
被爆やイラク戦争の写真パネルなどを展示。戦争の悲惨さと平和の大切さを
訴える。
一宮市民らでつくる同展実行委員会が、戦後60周年で計画した。同市は
1945年7月13日と同28日の2回、B29による空爆を受け、死者727人、
負傷者4187人を出し、1万戸以上が被災した。空襲体験者が減少し、
世界ではテロを含む戦火が絶えない状況を憂えて企画した。
戦争体験者を招く「語り部トーク」は、30日午後3時半から約1時間開催。
当時、小学3年生で一宮へ集団疎開していた男性ら3人が、焼夷(しょうい)弾
が降る中を命からがら逃げた体験などを語り継ぐ。同日午後にはイラク戦争を
描いたドキュメント映画「リトルバーズ」(綿井健陽監督、前売り券1200円)の
上映会もある。
柴田伸治・実行委員長は「戦争でいつも被害者となる一般市民の視点から、
戦争と平和について一緒に考えたい」と話している。
【井上章】
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日16時56分更新
信濃マジ死にかけじゃん。
病院行けよマジで。
しゃかりが4枚目アルバム発売 「コドウ」など12曲収録
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000020-ryu-oki 沖縄音楽の表現で独自の歌の世界を作るポップグループ、しゃかりの
4枚目のアルバム「コドウ」(ドリーミュージック、3000円)が27日、発売された。
琉球古典音楽の唄三線で最高賞を取った後も笛に挑戦。意欲的に伝統に
向き合うボーカルの千秋。「単なる沖縄のはやりと思われたくはない。沖縄に
根差したものと、同時にもっと新しいものも取り入れて“しゃかりサウンド”を
作っていきたい」と意欲的に語る。
表題曲「コドウ」は、限られた時間で人を愛する切ない人魚の気持ちを表現。
オリオンビールCM曲「ここから」、FM沖縄との連動で生まれたごみゼロを
目指す「Go〜Meの想(おも)い」、2004年の沖国大米軍ヘリ墜落事故の後
に作った「生まれたばかりの君の未来へ」など全12曲を収録。
「生まれた−」について、千秋は「身近にずっと基地があって良さも分かるし、
平和についてものが言えない部分もあったが、自信がなくても音楽で残して
いかないといけないのでは−と考えた」。
発売記念ライブを各地で開く。8月1日午後7時から、東京・南青山MANDALA
で(3800円)。同12日午後9時から、北谷町のモッズで。同26日午後9時から、
那覇市のパライソで(いずれも前売り2000円、当日2500円)。
問い合わせイズム098(833)9012。
(琉球新報) - 7月28日14時12分更新
県戦没者慰霊式:4500人が参列−−金沢 /石川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000184-mailo-l17 第54回石川県戦没者慰霊式が27日、金沢市野田町・野田山の県戦没者
墓苑で、遺族や関係者約4500人が参列してしめやかに行われた。
明治維新から第二次世界大戦までに戦死した県出身者3万2838人を追悼した。
式には、谷本正憲・知事や山出保・金沢市長のほか、県遺族連合会、県遺族連合会
婦人部などの関係者らが参列。全員で忠霊塔に向かい黙とうした後、谷本知事らが
献花を行った。
谷本知事は「今年は戦後60年の節目の年。今日の平和と繁栄を築いてこられた
のは、みなさまの尊い犠牲があったからこそ。戦争の悲惨さを後世に伝え、安全で
安心して暮らせる県づくりをして行くことを誓います」と述べた。
【山中尚登】
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日16時41分更新
全く、ピースボートっていう奴は・・・。
光に浮かぶ「平和の門」 広島、仏建築家制作
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000278-kyodo-soci フランスの建築家らが制作、ライトアップされた「平和の門」=28日夜、
広島市中区の平和大通り
広島市中区の平和記念公園前の平和大通りにフランスの建築家らが
制作している10基の「平和の門」がほぼ完成し、28日夜、ライトアップの
本格的な点検が行われた。
1基は高さ9メートル、幅2・64メートルで、金属の枠組みを半透明の
ガラスで覆っている。表面には世界18種類の文字と49の言語で「平和」
の文字が刻まれ、内側のライトが点灯されると、柔らかな光の中に文字が
浮かび上がった。
10基の門は、平和大通りを挟んで向かい合う高床式の原爆資料館の
10本の柱と同じ間隔で配置された。
門を制作したのは建築家ジャン・ミシェル・ビルモットさんと、グラフィック
アーティストのクララ・アルテールさん。昨年2月、広島市に計画を持ち掛けた。
(共同通信) - 7月28日22時8分更新
広島に10基の「平和の門」 フランスの建築家ら制作
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000175-kyodo-soci 広島市中区の平和記念公園前の平和大通りにフランスの建築家らが制作
している10基の「平和の門」がほぼ完成し、28日夜、初めてライトアップの
点検が行われる。
1基は高さ9メートル、幅2・64メートルで、金属の枠組みを半透明のガラスで
覆っている。表面には世界18種類の文字と49の言語で「平和」の文字が
刻まれ、夜間は内側のライトで、文字が浮かび上がる仕組み。
10基の門は、平和大通りを挟んで向かい合う高床式の原爆資料館の
10本の柱と同じ間隔で配置された。
(共同通信) - 7月28日22時3分更新
記事コピペで、
スレテーマ追求の 妨害するのはやめろ。
IRAが武装闘争終結宣言 北アイルランド和平進展か
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000283-kyodo-int 【ロンドン28日共同】北アイルランドのカトリック過激派アイルランド共和軍(IRA)
は28日、声明を出し、同日午後4時(日本時間29日午前零時)をもって、
武器の放棄と武装闘争の終結をメンバーに命じたと発表した。ブレア英首相は
IRAの発表を高く評価するとの声明を出した。
IRAの武装解除が進まないことから機運が後退してきた北アイルランド和平は、
IRAの武装闘争放棄宣言で、再び進展する可能性が出てきた。
しかし、北アイルランドのプロテスタント勢力が求めていた解散要求をIRAは
拒否しており、今後は実際にIRAの武装解除が進むかどうかが焦点となりそうだ。
(共同通信) - 7月28日23時5分更新
平和のための戦争展:郡山総一郎さんらの体験講演など−−宮崎で30、31日 /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000272-mailo-l45 戦後60周年を記念し、平和の大切さを訴えようと「平和のための戦争展」
(実行委主催)が30、31の両日、宮崎市民プラザ4階ギャラリーで開かれる。
戦争語り部や昨年、イラクで武装勢力に一時拘束された佐土原町出身の
カメラマン、郡山総一郎さんの講演などがある。
戦争展は9年前から毎年開催。30日は宮崎市の村岡良昭さんと大城清吉さん
が太平洋戦争中の宮崎や沖縄戦の様子を語る。31日は郡山さんが「子どもと戦争」
を題に、海外での戦場取材の体験を語る。会場には赤江飛行場の絵や寄せ書きの
日の丸など戦争遺品を展示する。
入場券500円(2日間共通)。高校生以下無料。
問い合わせは佐川さん0983・42・2432。
【中尾祐児】
7月28日朝刊
(毎日新聞) - 7月28日17時50分更新
中学生が平和継承の集い 長崎市 被爆体験聞き意見発表
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000006-nnp-l42 【長崎】 被爆者の体験談を聞いて中学生が意見交換する「原爆と平和を
継承する集い」が二十八日、長崎市平野町の原爆資料館であった。
被爆六十年に合わせ、長崎平和推進協会が初めて開催した。
集いには同市内の十六校から中学生三十六人が参加。六班に分かれ、
被爆者の体験談を聞いた後、学校での平和活動や今後取り組みたい活動
について意見をまとめ、発表した。
中学生たちは核廃絶を求める「高校生一万人署名活動」への協力や
被爆遺構の訪問などを紹介。「日本の若者が核保有国の若者に核廃絶を
訴えることが大事」「二度と戦争をしないために憲法九条が必要」などと
訴えた。三重中二年の土山栞さん(14)は「ほかの学校の人の意見が
聞けて勉強になった。今日考えたことを多くの人に伝えていきたい」と話していた。
(西日本新聞) - 7月29日2時22分更新
妨害と
あらされまくりなので、次スレタイリンク、
それでヨロシコ。
>>247 妨害と
あらされまくりなので、次スレタイリンク、
それでヨロシコ。
なぜ狂ったように削除依頼するのかだな。
必死に削除依頼や荒らしをすることで逆にピースボートが怪しい団体だと印象付けられてしまうのに・・・。
でもやめたくても、やはりやめられないのだろう。
冷静さを失うというか、わかっていても最後に来るのが耐えられないのだろう。
22Hよ。スレがあってはよほどまずいのかな
誤魔化したり、記事コピペを貼って荒らしたり、削除依頼したり
いいかげんにしろ。
>>247 よろしく。
ピースボートのHPで船の旅募集してた・・・。
行ったら洗脳されるかな。
されないんじゃない?w
大阪の謎の募金集団の代表が再逮捕されたらしいね。
怪しい募金集団ってあちこちにあるんだな。
二度と繰り返さない−平和のための戦争展
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000000-nara-l29 写真パネルや戦争遺品をを通して、平和の尊さを学ぶ保育園児=28日、
奈良市杉ケ町の市生涯学習センター
世界平和の確立に寄与することを目的としたNGO(非政府組織)日本平和
委員会の地域組織である奈良市平和委員会(宮崎快尭会長)など11団体・
6人で構成する「平和のための奈良市の戦争展」実行委員会が28日、
「2005年 平和のための奈良市の戦争展」を同市杉ケ町の市生涯学習
センターで始まり、市内の保育園児らが見学した。入場無料。31日まで。
(奈良新聞) - 7月29日11時5分更新
原爆慰霊碑を1日から修復 石材の取り換えも検討
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000160-kyodo-soci 広島市中区の平和記念公園にある原爆慰霊碑が26日夜に傷つけられ、
政治結社構成員の男が逮捕された事件で、市は29日、8月6日の平和
記念式典を前に、1日から3日にかけて応急の修復作業を行うと発表した。
今後、本格的な修復として慰霊碑の碑文部分の石材を取り換えるなど
具体的な方法を検討する。
市によると、専門家の見立てで、抜本的な修復には1カ月以上かかると
判明。式典に間に合わせるための応急措置として、石粉の粘土を傷ついた
部分に練り込み、アクリルの絵の具で石の模様や碑文を着色する。
(共同通信) - 7月29日13時15分更新
<中田英寿>伊チームらと広島の原爆慰霊碑に献花
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000055-mai-spo サッカー・日本代表の中田英寿選手(28)が所属し、親善試合のため来日中の
イタリア1部リーグ(セリエA)のフィオレンティナの選手らが29日、サンフレッチェ
広島との翌日の試合を前に、広島市中区の平和記念公園を訪問。選手らは
原爆慰霊碑に献花した。
小雨の落ちる曇り空の下、選手らはリラックスした表情で公園に到着した。
白のポロシャツと黒のハーフパンツ姿にサングラスをかけた中田選手らは、
慰霊碑前に整列。イタリア人ゴールキーパーのニッコロ・マンフレディーニ選手
(17)が、チームを代表して花を供えた。その後、ガイドの説明を受けながら、
原爆ドームを見学した。
フィオレンティナはJ1の3チームと対戦するため、26日に来日。28日には、
大阪・長居スタジアムでセレッソ大阪と対戦し、3―0で快勝した。
【堀江拓哉】
(毎日新聞) - 7月29日14時54分更新
県原水禁:核廃絶訴え、平和行進始まる /佐賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000297-mailo-l41 原水爆禁止県協議会(緒方克陽会長)が主催する「九州縦断核兵器廃絶・
県内平和行進」が28日、鳥栖市役所からスタートした。
行進は5月13日に沖縄から始まり、今月27日に福岡から佐賀に引き継がれた。
出発前に同市役所で行われた集会で、緒方会長は「米国の臨界前核実験や
北朝鮮、イランの核開発など状況は厳しいが、一度核兵器が使われると
大変なことになる」と核廃絶を訴えた。
この日の行程は、佐賀市役所までの約27キロ。約60人の参加者は
「子供たちに核のない未来を」と書かれた横断幕を先頭にして歩いた。
県内の行進は来月1日まで続き、有田町役場で長崎県へ引き継がれる。
7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日17時40分更新
全国シンポ:戦争遺跡の現状考える−−来月20〜22日、長崎で /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000295-mailo-l42 戦争遺跡の現状について考える「戦争遺跡保存全国シンポジウム長崎大会」
(戦争遺跡保存全国ネットワークなど主催)が8月20〜22日、長崎市風頭町の
矢太楼で開かれる。遺跡研究者ら約350人が参加し意見を交換するほか、
被爆遺構や原爆資料館、朝鮮・中国人などが強制連行され働かされた
炭鉱跡など戦争遺跡の見学会もある。
シンポは、地下壕(ごう)や軍の施設など戦争にかかわる遺跡を平和の
証言者と位置付け、保存して平和教育に役立てていこうと全国各地の団体が
集まり、97年に長野で始まった。今年で9回目。戦後60年の節目として
被爆地で開催することになった。
20日は午前9時からの被爆遺構巡りに続き、午後1時から開会式と
全体集会がある。岡まさはる記念館理事長の高実康稔・長崎大名誉教授が
「長崎における韓国朝鮮人・中国人強制連行と被爆」と題して講演。分科会では
「戦争遺跡保存運動の現状と課題」「平和博物館と次世代への継承」などに
ついて話し合う。21日も分科会と全体集会で、地元実行委の代表を務める
本島等・前長崎市長の記念講演「原爆投下は正しかったか 戦争責任を
考えずに核廃絶を語れない」などがある。22日はフィールドワーク。
参加費(20、21日分)1800円、高校生以下無料。30日締め切り。
問い合わせは大会事務局・県教組(電話095・822・5195)。
【横田信行】
7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日17時40分更新
被爆60年:平和のため何が出来るか 継承の集いで、中学生と被爆者が討議 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000292-mailo-l42 被爆体験を若い世代に語り継ごうと、「中学生による原爆と平和を継承する集い」
が28日、長崎市平野町の原爆資料館で行われ、市内の中学生36人と被爆者
6人が、「平和のために何が出来るか」などについて討議を繰り広げた。
被爆60年を機に、長崎平和推進協会が初めて企画。修学旅行生などへの
講話を行っている同協会継承部会員39人の平均年齢は74歳で、体験の継承は
年々難しくなっていることを受けて開催した。
同市内の16校から36人の中学生が参加。爆心地から約1・4キロで被爆した
恒成正敏さん(76)が「被爆直後、誰も救えず、水さえも与えられなかったことを
今でも悔いている。平和を作り出すため、皆さんに期待することは大きい」と
基調講話。その後、六つのグループに分かれ、被爆者を交えて意見交換をした。
4歳の時に被爆した小峰秀孝さん(64)は「地獄を経験したからこそ、生きて
いるって素晴らしいと思う。勇気を出して、身近なところから、平和のために
出来ることを考え、行動してほしい」と中学生たちにエール。同市立日吉中3年の
永田有莉香さん(14)は「見た目では被爆者と分からない人でも、心には傷を
抱えている。実際の被爆体験は語れないが、原爆の悲惨さや被害の大きさを
後世に伝えていきたいと思った」と話していた。
【小山内恵美子】
7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日17時40分更新
ながさき9条フェスタ:11月3日にも開催 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000291-mailo-l42 「憲法9条を守り、世界に広めよう」をテーマに憲法公布日の11月3日、
長崎市平野町の平和会館で「ながさき9条フェスタ2005秋」が開かれる。
25日夜、同市であった実行委の初会合で決まった。
同市では憲法記念日の5月3日、平和・宗教・被爆者・労組などさまざまな
団体が結集して「ながさき9条フェスタ」が開かれ、約1500人が集まった。
運動をさらに広げ、被爆地・長崎から9条を守る声を再結集しようと、
このときの実行委メンバーなどが中心になり、再び実行委を立ち上げた。
実行委はメンバーの委員を募集中。
問い合わせは市民ネットワーク長崎電話095・822・4098。
7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日17時40分更新
>>258 募金詐欺の詐欺罪で逮捕。
募金詐欺まがいのボランティア団体は事実を隠すために必死になっているんだろうな。
イラク支援:「劣化ウラン弾の怖さ知って」 高校生ら、31日に街頭募金 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000294-mailo-l42 劣化ウラン弾(DU)による放射線の影響とされる障害や病気が多発している
イラクの窮状を救おうと、長崎市の高校2年生3人と中学時代の担任がイラク
支援の平和活動「No More DU! from長崎」を立ち上げた。31日、
長崎市の鉄橋(てつばし)で、パネル展と医療支援の街頭募金をする。
3人は、市立大浦中で同級生だった安永優里さん(16)=長崎女子商業高
▽石井美保さん(17)、松岡順子さん(16)=ともに長崎南高。担任は池田章子
教諭(44)。
3人は中3の平和学習で聞いた被爆者、城臺美弥子さんの講話で「日本だけが
被爆国ではない」とDUの存在を教えられた。さらに、イラクで武装勢力に身柄を
拘束されたボランティア活動家、高遠菜穂子さんの講演を聞いたのをきっかけに、
今年4月から支援活動の準備を進めてきた。
3人は、被ばく治療で実績がある長崎大で医療研修しているイラク人医師2人
とも交流。がんやテロによるけがで命を落としている子どもたちの写真を借り受け、
パネルにした。今回、集まった募金は2人に託す。
安永さんは「高校生の仲間を増やして活動を広げていきたい」、石井さんは
「城臺さんからの『あなたたちにバトンタッチします』という言葉で自分たちが
行動しなくてはと思った」と意気込みを述べている。池田教諭は「平和学習が
こういう活動に実を結んで、すごくうれしい」と話した。
パネル展示と募金活動は31日午前10時〜午後1時、後輩にあたる大浦中
3年生20人と一緒に取り組む予定。
【横田信行】
7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日17時40分更新
投下された「原爆模擬弾」模型を展示 舞鶴で「戦争展」始まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050729-00000051-kyt-l26 舞鶴に落とされた「原爆模擬弾」の実物大模型を見る人たち(舞鶴市北吸・市政記念館)
戦争の歴史から平和の尊さを考える「平和のための舞鶴の戦争展」が29日、
京都府舞鶴市北吸の市政記念館で始まった。戦後60年の今年は、「舞鶴空襲
60周年展」と題したコーナーをつくり、舞鶴に落とされた「原爆模擬弾」の模型
などを展示している。
舞鶴地労協や舞鶴平和委員会などでつくる実行委が、1995年から毎年夏に
開いている。
1945年7月29日、大型爆弾で97人が死亡したとされる舞鶴空襲のコーナー
には、爆撃された旧舞鶴海軍工廠の航空写真や、原爆投下の訓練だったことを
示す米軍の資料に加え、発泡スチロールでつくった原爆模擬弾の実物大模型
(長さ約3・3メートル、高さ1・5メートル)などを展示。
会場内のミニシアターでは、舞鶴空襲の時に海軍工廠で働いていた同市南田辺、
瀬野研三さん(76)が講演し、「奇跡的に助かったが、地獄のような光景を目にした。
戦争ほど悪いものはない」などと語った。
31日まで。午前9時半−午後8時(最終日は午後6時)。無料。
(京都新聞) - 7月29日19時30分更新
まさに、ピース暴徒だな。
いいですかっ
自分の子が可愛かったら
絶対乗せてはいけませんよ
平和な日常守れと呼び掛け 「九条の会」に9500人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050730-00000140-kyodo-soci 加速する改憲への動きを阻止しようと、作家の大江健三郎さんや哲学者の
鶴見俊輔さんらでつくる「九条の会」が30日、東京都江東区の有明コロシアムで
講演会を開き「静かで平和な日常を守りたい」と呼び掛けた。
同会発足以来最多の約9500人(主催者発表)が参加した。
講演会では、大江さんが「国は広島、長崎、沖縄の戦争犠牲者に、過去の被害を
受忍せよと押しつけた。さらに有事法論議では当時の福田康夫官房長官が
思想・信仰の自由の制限に言及した。最も大切な基本的人権が勝手に制約される」
と懸念を示した。
劇作家井上ひさしさんは「終戦当時の日本男性は平均寿命23・7歳。東京大空襲、
広島や長崎で多くの人が亡くなった。そんな時代が正しい、素晴らしかった、という
人たちが増えている。憲法や平和を『日常』と言い換えよう。楽しく暮らす私たちの
日常を守りたい」と訴えた。
(共同通信) - 7月30日18時42分更新
イラク派遣中止求め集会 1500人がデモ行進
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050730-00000118-kyodo-soci 陸上自衛隊第七次イラク復興支援群の隊旗授与式が行われた30日、
陸自第四師団の駐屯地がある福岡県春日市では、派遣に反対する市民団体
などが集会が開いた。
主催者の「平和・人権・環境福岡県フォーラム」によると、集会には約1500人が
参加。駐屯地までデモ行進し、イラク派遣の中止と撤退を求める申し入れをした。
同フォーラムの中村元気代表(58)は「地元九州からの派遣ということで、
命を大切にしてほしい、行かないでほしいと思っている市民の声を届けたかっ
た」と話した。
夫婦で参加した50代の男性は「ニュースなどで見ていると、最近のイラク
治安情勢は以前に比べて悪化したように感じる。本当に安全な場所なのか
立ち止まって考え直す時間も必要」と話していた。
(共同通信) - 7月30日17時46分更新
広島市に「平和の門」完成 仏の建築家らが寄贈
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050730-00000074-kyodo-soci 完成した「平和の門」を見る広島市の秋葉忠利市長(右端)と制作者の
フランス人建築家ら=30日午前、広島市中区の平和大通り
広島市中区の平和記念公園前の平和大通りに、フランスの建築家らが
デザインした10基の「平和の門」が完成、しゅん工式が30日行われ、広島市に
引き渡された。
式の後、秋葉忠利・広島市長が制作者の建築家ジャン・ミシェル・ビルモットさん、
グラフィックアーティストのクララ・アルテールさんらと一緒に門をくぐり、完成を祝った。
門は1基が高さ9メートル、幅2・64メートル。通りを挟んで向かい合う原爆資料館の
10本の柱と同じ間隔で配置された。金属の枠組みを覆う半透明のガラスには
世界18種類の文字と49の言語で「平和」の文字が刻まれ、夜間は内側から
ライトアップされる。
ビルモットさんらは、パリやサンクトペテルブルクにも平和をテーマにした
モニュメントを発表している。今回の制作費約3億円は日仏の企業などが寄付した。
(共同通信) - 7月30日13時15分更新
自衛隊イラク派遣:市民団体「ローカルネット」、首相あてに反対要請 /大分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050730-00000208-mailo-l44 市民団体「ローカルネット大分・日出生台」(浦田龍次事務局長)は29日、
イラク南部サマワへの第7次復興支援群派遣中止などを求め、陸上自衛隊
湯布院駐屯地に、小泉純一郎首相らにあてた要請書を提出した。
要請書は、第7次群派遣中止と現在イラクにいる自衛隊の即時撤退を求める
内容。この日は、ローカルネットのメンバー11人が湯布院駐屯地正門前で、
横断幕などを掲げてイラク派遣に抗議。浦田事務局長は「サマワは明らかに
戦闘地域。現地の状況も悪化しており、自衛隊員の命も危険にさらされて
いる」と即時撤退を訴えた。
7月30日朝刊
(毎日新聞) - 7月30日17時46分更新
サンタナさんら広島訪問 「音楽を通して平和を」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050730-00000113-kyodo-ent 原爆慰霊碑に献花する(右から)ハービー・ハンコック、カルロス・サンタナ、
ウェイン・ショーターの3氏=30日午後、広島・平和記念公園
世界的に有名なロックギタリストのカルロス・サンタナさんやジャズピアニストの
ハービー・ハンコックさん、ジャズサックス奏者のウェイン・ショーターさんが30日、
広島市中区の平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に花をささげ、原爆死没者の
冥福を祈った。
3人は広島、長崎の被爆60年に合わせ、世界平和を呼び掛けるジョイント
コンサートを開くため来日中。献花前に秋葉忠利・広島市長を表敬訪問し、
「平和を願う芸術家の皆さんに広島に来てもらい、核兵器廃絶の機運を大いに
盛り上げてほしい」と市長から歓迎の言葉を受けた。
献花の後、サンタナさんは「罪のない多くの人々が原爆で亡くなった。音楽を
通して世界に平和をもたらしたい」と話した。
(共同通信) - 7月30日17時39分更新
原爆:サンタナさん・ハンコックさん・ショーターさん、落下中心碑に献花 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050730-00000073-mailo-l42 ◇世界平和への願い込め
米国の人気ミュージシャン、カルロス・サンタナさん(48)、ハービー・
ハンコックさん(65)、ウェイン・ショーターさん(71)が29日、長崎市松山町の
原爆落下中心碑に献花し、原爆資料館を見学した。
3人はいずれも米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を受賞。ラテンロック
のギタリスト、サンタナさんは00年のグラミー賞で史上最多の9冠に輝いた。
キーボード奏者のハンコックさん、サックス奏者、ショーターさんはジャズ界の
世界的プレイヤー。
3人は04年のモントルー・ジャズ・フェスティバルで初競演。サンタナさんの
呼びかけで、戦後60年を迎える日本で音楽によって世界平和を訴えようと
「平和の使者」と題したコンサートが実現し、同日夜、長崎市でのコンサートを
前に資料館などを訪れた。
サンタナさんは「音楽を通して平和への思い伝えたい」、ハンコックさんは
「核兵器は悪魔的産物。世界中の人はここを訪れる必要がある」などと話し
ていた。
【横田信行】
7月30日朝刊
(毎日新聞) - 7月30日17時40分更新
遺族や被爆者ら170人が参列 東山・霊山観音で慰霊式典
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050731-00000031-kyt-l26 原爆の犠牲者の冥福を祈り、献花する参列者ら(京都市東山区・霊山観音)
京都府原爆物故者慰霊式典が31日、京都市東山区の霊山観音で営まれた。
遺族や被爆者ら約170人が参列し、60年前の悲劇と死没者の苦しみに思いを
はせ、永遠の平和を祈った。
京都在住の被爆者で組織する京都府原爆被災者の会(平塚哲夫会長)が毎年
開いおり、今年で37回目。同会が霊山観音境内に建立した慰霊碑に約760柱
のみ霊をまつっている。
式典では、全員が黙とうした後、病気欠席の平塚会長の「被爆者である私たちは
全世界に向けて核廃絶を強く叫び続けなければならない」という式辞が代読された。
お年寄りが大半を占めた参列者は、1人ひとり白い菊の花を霊前にたむけ、
手を合わせていた。
出席した男性(85)は「60年間戦争はなかったが、将来が心配だ。もっと子ども
たちに平和の大切さを伝えたい」と話した。
(京都新聞) - 7月31日19時19分更新
まだ荒らしているよ。
「うらかみ九条の会」結成 長崎市・住民ら70人 爆心地から平和訴え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000006-nnp-l42 【長崎】 「戦争の放棄」を定めた日本国憲法九条を守ろうと、長崎市浦上地区の
住民ら約七十人が三十一日、「うらかみ憲法九条の会」を結成した。今後、
講演会や勉強会などを開き、被爆地の中心から平和を呼びかける。
同市岡町の長崎原爆被災者協議会会議室であった集会では、呼びかけ人の
葛西よう子さん(女性史研究家)が「被爆地長崎の自衛隊がイラクに派遣される
など、平和憲法は風前のともしび」と強調し「終戦で『もう戦争はしない』と誓った
原点に戻るべきだ」と訴えた。
舟越耿一・長崎大教授(憲法学)は、中国で反日デモが活発化したとき、
長大の学生から「一歩も引くな」「自虐史観を払しょくするチャンス」という意見が
出たことを例に挙げ「九条を守るだけではなく、社会に広がる好戦的な雰囲気に
立ち向かわないといけない」と指摘した。
県内では、土山秀夫・元長崎大学長らの呼びかけで「長崎県九条の会」が
昨年十月に設立したのを皮切りに約二十の「九条の会」が発足している。
(西日本新聞) - 8月1日2時9分更新
戦争やテロなくそう 夏祭りで訴え 福島・白河
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000001-khk-toh 福島県白河市白坂のNPO法人が運営する「アウシュヴィッツ平和博物館」
(小渕真理館長)が主催する「白河平和の夏祭り」が30日、同館で開かれた。
博物館の創始者で、3年前に亡くなった前館長の青木進々さんの命日(31日)
にちなみ、平和の尊さを考える催しとして毎年行われている。地元をはじめ、
県内外から80人が参加した。
同館学芸担当の我妻英司・夏祭り実行委員長は「9.11世界同時多発テロ
からイラク戦争、ロンドンの同時テロと、今も世界は新しい戦争のただ中にある。
平和への思いを心に深く刻むことが求められている」とあいさつ。参加者は、
戦争やテロの犠牲者に対し1分間の黙とうをささげた。
祭りでは昨年に続き、原爆朗読劇「この子たちの夏」を上演。地元の主婦7人
が3カ月前から毎週1回、けいこを続けてきた。原爆で子を亡くした母の思いを
情感込めて語り掛けると、観客の中には、ハンカチで目頭を押さえる人も見られた。
この日は、増築工事を終えた新展示室も無料で公開された。
(河北新報) - 8月1日7時6分更新
戦地から思い切々 農民兵士の手紙朗読 9、10日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000002-khk-toh 太平洋戦争の戦地から古里の家族に向け、農村出身の出征兵らが書き送った
書簡を朗読する催し「戦没農民兵士の手紙」(いわてアートサポートセンター主催)が
9、10の両日、盛岡市の同センターで開かれる。地元放送局のアナウンサーや
演劇人らが出演、スライド上映や音楽なども交えたステージ構成で、兵士らの
心情に迫る。
1961年発刊の「戦没農民兵士の手紙」(岩手県農村文化懇談会編、岩波新書)
から、岩手県出身者を中心に15人の手紙を取り上げる。
読み手は、大塚富夫さんら岩手放送アナウンサー3人。地元の劇団「赤い風」と
「9月とアウラー」の演劇関係者らも出演する。
冒頭に「農民兵士たちの証言から現代の生存の意義を問い続けたい」と、
同書の「まえがき」を読み上げ、農村文化懇談会の活動の精神を語る。
手紙の内容は「丈夫な子供を産んでくれ。それがお前に与えられた最大の
任務だぞ」「この手紙が届くころは田植えも過半になりましょう」などと、残してきた
妻へのいたわりや農作業への気遣いが、率直な言葉でつづられている。
朗読は、文面などのスライド上映や、グラスハープなどの生演奏を挟みながら
進み、男女の読み手が交代しながら語ることで「掛け合い」的な効果を生む工夫も
される。
演出の藤十郎さんは「平和のいしずえとなった農民兵士の存在を、朗読という
表現を通じ多くの人の心に刻み込みたい」と話している。
両日とも午後7時開演。前売りは大人1200円、高校生以下800円。連絡先は
いわてアートサポートセンター019(604)9020。
県農村文化懇談会は、関連行事として「戦没農民兵士の手紙」展を、10日から
16日まで盛岡市のプラザおでってで開く。朗読劇で取り上げられる手紙も含め、
所蔵する25点の手紙を一般公開する。入場無料。
(河北新報) - 8月1日7時6分更新
<原爆慰霊碑>傷つけられた碑文の仮修復作業始める 広島市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000024-mai-soci 広島市の平和記念公園の原爆慰霊碑の碑文が傷つけられた事件で、市は
1日早朝から石碑の仮修復作業を始めた。6日の平和記念式典に間に合わせる
ための応急措置で、式典後に本格修復する。事件は7月26日夜、右翼団体
構成員が、碑文の「過ちは/繰返しませぬから」の部分を削ろうとして十数カ所を
傷つけた。
(毎日新聞) - 8月1日11時59分更新
原爆慰霊碑の修復始まる 広島、平和記念式典に向け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000058-kyodo-soci 広島・平和記念公園で始まった傷つけられた原爆慰霊碑の補修作業=1日午前5時5分
7月26日夜、右翼団体の構成員の男にハンマーとのみで傷つけられた
広島市中区・平和記念公園の原爆慰霊碑の補修作業が1日未明、始まった。
本格復旧には1カ月以上かかる見込みで、今月6日に開かれる平和記念式典に
間に合うよう3日までに応急処置を終える予定。
慰霊碑では1日午前4時半ごろ、作業が始まった。職人2人が、碑文のうち、
のみで傷つけられた「過ちは」の部分に粘土を練りつけ、へらなどで形を整えた。
2日以降、石の模様に合わせてアクリル絵の具で色を付ける。
広島市は、お参りに訪れる遺族らの邪魔にならないよう配慮し、早朝に作業を
進めた。
(共同通信) - 8月1日10時7分更新
沖縄戦看護婦らの証言展 ひめゆり資料館で31日まで
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000084-kyodo-soci 「陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」の展示パネルを見る元軍医の長田紀春さん
(右から2人目)=1日午前、沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館
「ひめゆり学徒」の戦争体験を伝えるひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市)
で1日、沖縄戦に動員された看護婦や軍医らの過酷な体験を紹介する戦後60年
企画展「陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」が開幕した。31日まで。
同資料館によると、ひめゆり学徒らが動員された「沖縄陸軍病院」は整った
施設は持たず、洞窟(どうくつ)で傷病兵の治療をした。学徒以外に軍医や看護婦、
衛生兵ら342人も働いており、そのうち260人以上が死亡した。
同資料館では元学徒自らが、当時の経験を来館者に語っているが「同じ壕(ごう)
にいた正規の看護婦や軍医の過酷な体験を伝えなければ」との思いから、今回の
企画が実現。 米軍の砲撃が迫る中、青酸カリを混ぜたミルクを負傷兵全員に
飲ませるよう命令されたことや、投降する住民に日本兵が切りつけた様子など、
軍医や看護婦らの証言をパネルに展示。また「病院壕」から収集された薬瓶や
注射器なども展示されている。
(共同通信) - 8月1日12時6分更新
平和のリボン 広島の原爆ドームを取り巻く
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000009-maip-soci 平和へのメッセージを記したリボンで原爆ドームを取り囲む参加者たち=広島市中区で
31日午前8時38分、西村剛写す
平和への思いを込めて作ったリボンをつなぎ合わせて原爆ドーム(広島市中区)を囲む
「平和のリボンの集い」が31日あり、国内外から集まった約1000枚のリボンが原爆ドーム
を取り巻いた。
被爆した女性らでつくる「ヒロシマ・平和のリボンの会」(渡辺美代子会長)の主催。90年
から5年ごとに開き、今年で4回目。「WE LOVE PEACE」や「争いのない平和な地球を」
など、思い思いのメッセージが描かれた布(縦約50センチ、横約1メートル)をひもで結び、
地元のガールスカウトのメンバーら約100人がリボンを持つなどして、原爆ドームを取り
囲んだ。原爆が投下された午前8時15分には、黙とうをささげた。
【吉川雄策】
(毎日新聞) - 8月1日10時8分更新
米の尼僧 石仏と対面 壬生寺寄贈の108体 「教え、西洋でも」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000014-kyt-l26 松浦貫主から譲り受ける石仏の説明を受ける米国人僧侶たち
(午前11時、京都市中京区・壬生寺)
原爆犠牲者の供養を通じて平和活動を続ける米国人尼僧らが1日午前、
交流のある壬生寺(京都市中京区)を訪れ、同寺から石仏108体の寄贈を
受けた。同寺の石仏が海外へ渡るのは初めて。原爆投下から60年を迎える
のを機に今月、長崎と広島を慰霊に訪れる一行は、「仏さまの教えを通じて
平和の大切さを米国でも訴えたい」と話している。
米国オレゴン州の寺院住職ジャン・澄禅・ベイズさん(59)をはじめ、僧侶や
仏教徒ら約30人。小児科医でもあるベイズさんは、長崎に原爆が投下された
日に生まれ、大勢の子どもが犠牲になった原爆の恐ろしさを聞かされて育った。
二十数年前に僧侶になり、平和の取り組みを続けてきたベイズさんに共鳴した
同寺の松浦俊海貫主が石仏の寄贈を申し出た。
この日、同寺に到着したベイズさんらは、本堂の地蔵尊(重要文化財)前で
一緒に読経した後、境内に並べられた地蔵尊や阿弥陀(あみだ)如来の
石仏108体と対面。「歴史を感じさせる大変すばらしい贈りもの。東洋で生まれた
お地蔵さんの教えを西洋でしっかりと広めたい」と話していた。
(京都新聞) - 8月1日14時50分更新
原爆体験の継承、3割が風化を懸念…「語り部」調査
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000002-yom-soci 広島、長崎への原爆投下から60年を機に、読売新聞は、ボランティアで
被爆体験を語る「語り部」活動をしている被爆者100人から、心情や将来への
期待などを聞き取り調査した。それによると、「原爆体験の継承」について、
3割以上の人が風化を懸念していると回答した。
次世代につなぐ手だてに関しては、体験記の教科書掲載、教員養成課程
への広島・長崎研修の導入など「教育」の項目を挙げた回答が多かった。
活動している約280人のうち、3割以上にあたる広島70人、長崎30人の
協力を得た。被爆50年の10年前から語り始めた人が3割を占めた。
全員が平和や命の尊さ、核兵器の怖さを伝えたいとしており、9割が、その
気持ちが相手に「十分、伝わっている」「ある程度は伝わっている」と回答した。
惨禍の継承では、「確実に受け継がれていると手応えがある」としたのは
16人。20人は「危機感を抱いている」、13人が「手応えがあまりない」と、
3割が不安を抱いていた。
被爆体験の継承方法(複数回答)では、「体験記を書き残し、(身体の続く限り)
語り続ける」が54票で最多。「体験記の教科書掲載」43票、「国などが調査・
研究する」39票、「教員養成に広島・長崎研修を導入」32票と続いた。
「本当は話したくない」「ずっと胸に秘めていることがある」と答えた人もいた。
(読売新聞) - 8月1日13時3分更新
戦後60年:浅草の灯ろう流し、40年ぶり“復活”−−12日・隅田川 /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000128-mailo-l13 ◇大空襲慰霊、平和祈念し隅田川に1000個
東京大空襲と終戦から60年の夏、慰霊と平和を祈り、隅田川で流灯会
(りゅうとうえ)」が行われる。12日夜、吾妻橋のたもとになる台東区花川戸1の
水上バス乗り場付近から、1000個の灯ろうを流す。浅草観光連盟と浅草大平和塔
維持会の主催。
終戦翌年の1946年、浅草復興祭の際に、住民が大空襲で被災した家族のために
流したのが始まりとされる。当時は浅草寺が主催。年々盛んになり、一時は3000個
の灯ろうが流れ、両岸に数十万人を集めた。
しかし、コンクリート堤防が完成して水面が遠くなり、65年を最後に中止。その後は
別の場所で時々行われるだけになった。浅草寺はかわりに「万燈会(ばんとうえ)
(万霊燈籠(ばんれいとうろう)供養会)」で灯ろうのおたきあげを続けている。
今では堤防に親水テラスもできた。大空襲から60年の今年、住民から復活を
求める声が上がり、行政の許可を得てようやく昔と同じ場所で“復活”することになった。
当日はまず午後5時半に浅草寺(同区浅草2)の大平和塔前で大空襲犠牲者の
法要が行われる。同6時45分、いかだ船や屋形船の上から、係員が高さ16センチ
ほどの灯ろうを流す。午後7時10分ごろに流し終える予定。雨天の場合は14日に
順延する。
主催する二つの会の会長を務める永野章一郎さん(76)は「浅草の夏の風物詩
の一つになってほしい。霊を供養し、平和への思いをつないでいきたい」と話して
いる。問い合わせは浅草観光連盟(03・3844・1221)。
【益子香里】
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日16時31分更新
平和のための戦争展:所沢で、3日まで /埼玉
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000266-mailo-l11 05所沢「平和のための戦争展」が31日、所沢市役所1階市民ギャラリーで
始まった。戦後60年の今年は劣化ウラン弾に被爆した森住卓さんの写真展の
ほか、所沢青年・9条を考える会の若者が聞いた戦争体験ビデオなども紹介している。
庁舎ロビーでは、イラク戦争を取材した毎日新聞外信部の藤生竹志記者が
講演し、映像を使って米国の戦争の「大義」やイラクの現状を語った。展示会場
には毎日新聞の報道企画「圧制と戦禍―イラクの苦悩」で取材した写真と記事を
紹介し、「すいとん」試食、「この子たちの夏」と題した朗読劇もあった。日の丸や
軍服、千人針、新しい歴史教科書と現在の教科書の違い、絵で見る「東京大空襲」
なども展示している。戦争体験ビデオを作った鈴木史織さん(21)は「戦争体験者に
接して語り継ぐことの大切さを感じた」と話していた。3日まで。
【吉村建二】
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日16時26分更新
核保有国指導者に憤り 長崎の平和宣言文骨子
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000101-kyodo-soci 長崎市の伊藤一長市長は1日、8月9日の平和祈念式典で読み上げる
平和宣言文の骨子を発表した。核保有国の指導者に強い憤りを表明したほか、
米国市民、日本政府、若い世代にそれぞれ呼び掛ける形を取った。
伊藤市長は記者会見で「被爆地の60年の思いを伝えたい。戦争を知らない
若い世代にも理解してもらえるような分かりやすい内容になった」と述べた。
今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議が決裂した結果を受け、
核保有国の指導者の「核抑止力に固執しようとする姿勢」を強く批判した。
一方、米国市民にはテロに対する不安に共感し、昨年に続き核兵器廃絶に
向けて連携を呼び掛けた。
(共同通信) - 8月1日12時24分更新
富山大空襲:平和への願い新た 60周年のつどい、資料展示や講演で /富山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000158-mailo-l16 約3000人の命が奪われた1945年8月2日未明の富山大空襲から今年で
60年を迎えたのを機に、「富山大空襲60周年のつどい」が30日、富山市
新総曲輪の県民会館で開かれた。会場では実際に投下された焼夷弾(しょうい
だん)の実物も展示されるなど、約100人の参加者は平和への願いを新たにした。
94年から戦争体験を語り継ぐ活動を続けている「富山大空襲を語り継ぐ会」
(田中悌夫・代表幹事)が悲惨な体験を風化させまい、と企画。会場には、廃虚
になった富山市の様子を描いた体験者の絵や、炎上する市街地を撮影した
写真パネルなど約30点が展示された。絵では、黒こげになった犠牲者の遺体が
山積みになったり、滑川市の海岸に流れ着いた様子など、体験者が悲痛な思いで
描き出しているのが分かる。また、空襲を受ける前の総曲輪地区の地図など
からは、米軍の目標とされた地区の99%を焼き尽くした空襲の規模の大きさも
うかがえた。
つどいでは、アメリカの資料を分析する工藤洋三・徳山高専教授(山口県周南市)
が「〈米軍資料〉に見る富山大空襲」の演題で講演。人口に基づいて日本の180の
市街地が攻撃対象地区に選び出されたことなどを説明した。当時旧神通中2年生
だった田中代表幹事(74)は「みんなが平和を願っているのに今、世界中でテロや
戦争が頻発している。今年は戦後の還暦。私たちの運動も、さらに盛り上げて
いかなければならない」と不戦を誓っていた。
【青山郁子】
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日16時38分更新
こんにちは:「岐阜空襲を記録する会」事務局長・篠崎喜樹さん /岐阜
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000026-mailo-l21 ◇惨禍繰り返さぬために
戦争、空襲の記録を残して一人でも多くの人に伝え、惨禍は二度と繰り返さない
――。1974年に「岐阜空襲を記録する会」を発足させて約30年。今も資料の
収集や展示、出版・講演活動などに力を注ぐ。「戦後60年。戦争の記憶が風化
していく中、我々のような草の根の運動がますます重要になってくる」と話す。
9歳で敗戦を迎えた。軍国主義から民主主義への180度の転換。子ども心
にも強烈な記憶として植え付けられ「民主主義の洗礼を受けた」。長良高3年時、
被爆者だった担任教諭から原爆体験を聞いた。担任の勧めもあり、広島大学に
進学。55年に広島・平和公園で開かれた第1回原水爆禁止世界大会には
学生ボランティアとして会場の設営などにかかわった。
「空襲を記録する会」は高校教諭時代、有志ら10人で作った。「終戦から30年
がたって、空襲を記録に残そうという運動が全国各地に広がっていった」。また、
生協や教職員組合など24団体で作る「岐阜市平和館をつくる会」(93年発足)
にも参加。岐阜市生涯学習センター内に、戦争に関する資料を展示する「平和
資料室」の設置(02年1月)を実現させた。
戦後60年を機に、篠崎さんを含め11人の執筆者が今年7月、岐阜、各務原、
大垣の空襲記録をまとめた「岐阜も『戦場』だった」を出版した。
「執筆者は自分を除く全員が戦後生まれ。自ら学んで伝えていこうという動き
が生まれている。僕はもう(活動から)引っ込んでもいい」。着実に根付いている
運動に自信をのぞかせ、冗談っぽく笑った。【式守克史】
ヒロシマ平和の灯のつどい:核兵器や戦争の根絶、ろうそくを手に願う−−中区 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000118-mailo-l34 ◇原爆慰霊碑前で、100人参加
原爆慰霊碑の前でろうそくを手に、原爆死没者の冥福や核兵器廃絶などを祈る
「ヒロシマ平和の灯のつどい」が31日、中区中島町の平和記念公園であった。
参加した約100人が胎内被爆者から体験などを聞いた後、公園内の「平和の灯」
から採取した火をろうそくにともして核兵器や戦争の根絶を願った。
広島市女性団体連絡会議(香川恭子会長)の主催で98年から始まり、今年で
7回目となる。
体験などを語った安佐南区伴東8、主婦、石原智子さん(59)は、原爆慰霊碑の
碑文「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」の「過ち」が削られた事件
について触れ、「容疑者を取り巻く環境が平和でなかったのだと思う。私にも容疑者と
同年代の子どもがいる。碑文の本当の意味について、容疑者と話す機会が持てたら
と思う」と話し、「平和で慰霊ができる喜びを、原爆死没者に伝えたい」と、ろうそくを
空高く掲げた。【吉川雄策】
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日17時20分更新
ホワイトプロジェクト:芸術通し平和発信−−広島・中区の記念公園 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000117-mailo-l34 芸術を通じて戦争犠牲者を慰霊し、平和への願いを発信しようと、中区中島町の
平和記念公園「平和の灯」北側で31日、石こう製の手のオブジェをつるす「ホワイト
プロジェクト」があった。白は「不戦」を象徴するといい、みんなで手を合わせて
平和への祈りをささげる様子を表現したという。同プロジェクトは今年で4回目。
現代美術家で、制作責任者の新田和成さん(51)は「人の命や心を大切にする
平和を伝えたいと考え、企画した」と語る。
オブジェは、左右の手のひらで石こうを包んだもので、平和へのメッセージが
書かれている。今年6〜7月の間に約380個が集まり、「平和の灯」北側の
縦約12メートル、横約16メートルのスペースに釣り糸でつるした。
同プロジェクトに参加した古賀直人さん(21)は「いつか被爆した人は、いなく
なる。一つの爆弾で多くの人が死んだことをしっかり伝えていかなくては」と話した。
【大沢瑞季】
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日17時20分更新
被爆60年:先輩らの証言重く 旧広島市立第一国民学校、段原中で慰霊の集い /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050801-00000116-mailo-l34 ◇全校生出席
旧広島市立第一国民学校(現・同市立段原中)の犠牲者を慰霊する平和・慰霊の
集いが原爆の日を前に31日、南区段原山崎町の同中学であった。夏休み中の
全校生が参加し、体育館では被爆者による座談会や原爆をテーマにした浪曲劇
などがあり、生徒たちは平和への思いを新たにした。【堀江拓哉】
同校は爆心地から約2・6キロに位置し、建物疎開に出動中の学徒と教員が
被爆死。90年、同窓生らでつくる「一高会原爆慰霊碑建設委員会」が校門前に
50人の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑を建て、毎年献花など慰霊祭を続けている。
被爆60年でもあり、今年は初めて全校生が出席した。
座談会では、自宅の屋根の上で被爆した美甘(みかも)進示さん(79)=東区=
が「裸でバケツ一杯の熱湯を浴びたようだった」と例えた。同国民学校で校舎の
下敷きになった勝田憲爾さん(73)=東区=は「同じく校舎内にいた妹は帰ら
なかった」。この日、浪曲劇を披露した玉井美佐子さん(71)=南区=は「叔父が
臨時救護所となった講堂に収容され、校庭では死体が次々と焼かれていた。
戦争だけは許されない」と、涙ながらに話した。一高会会長の戸井五郎さん(75)
=南区=も体験を語り、生徒たちは真剣なまなざしで聴き入っていた。
座談会後、慰霊碑前で行われた慰霊祭では、生徒たちはクラスごとに千羽鶴を
ささげ、犠牲者の冥福を祈った。段原中3年の庄野大貴さんは「体験談を聴くことは
あまりなく貴重。聴くことによって、原爆の記憶を自分の中に持って生活することが
大事だと思う」と話した。
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日17時20分更新
その後も世界は軍拡競争に進んだ。「現在、新聞報道で、今の若者の3割が
『原爆投下はやむを得なかった』と思っていることを知り、ショックを受けました。
核は恐ろしいものです。核兵器だけではありません。原子力発電所からの廃棄物で
劣化ウランが作られ、イラクやアフガンで使われています」「被害だけでなく、日本の
過ちもしっかりと考えていくことも大切だと、若い人に伝えたい」。静かな口調で訴えた。
8月1日朝刊
(毎日新聞) - 8月1日17時16分更新
荒らして逸らして必死だなって感じ。
ここは 荒らされすぎ。
よほどテーマに沿うと困るのか何かかも。
何しろ、ピース暴徒だからな。
朝日新聞
男性に暴行を加えて現金を脅し取ろうとしたとして、
京都府警東山署は2日、反核運動に取り組んでいる
環境ジャーナリストのアイリーン・美緒子・スミス容疑者(55)
=京都市左京区=ら3人を、傷害と恐喝未遂の容疑で逮捕した。
3人は「弁護士が来るまで何も話せない」と黙秘しているという。
ほかに逮捕されたのは、スミス容疑者の長女(21)と
米国人の男性英語教師(40)。
調べでは、3人は7月下旬、宮崎市の会社員男性(27)を
京都市の英語教師宅に呼び出し、顔や頭を殴打して軽傷を負わせ、
約100万円を支払うよう脅した疑い。
※元記事:
http://www.asahi.com/national/update/0802/OSK200508020050.html 朝日新聞 平成17年08月02日
> アイリーン・美緒子・スミス
パンパン女の末路だな。w
アメリカ人と付き合うと、こうなる。
小泉も、そのうちそうなるな。w
座り込み:「岩国基地の機能強化」などに抗議 2団体90人、原爆ドーム前で /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000241-mailo-l34 県平和運動センター(向井高志議長代行)と原水爆禁止広島県協議会
(片山春子代表委員)は1日、米空母艦載機部隊による夜間発着訓練(NLP)移転
を含む岩国基地(山口県)の機能強化と、陸上自衛隊第7次イラク復興支援群の
派遣に反対する座り込みを行った。60回目の「原爆の日」を迎える6日を前に、
参加者は「二度と同じ過ちを繰り返さない」と平和への決意を新たにしていた。
座り込みには、労組や市民グループなどの約90人が参加。じりじりと照り付ける
日差しを受けながら、原爆ドームの前で横断幕を掲げて座り込んだ。向井議長代行
らが、住民の生活を脅かすNLPの移転問題やイラク情勢の悪化について説明。
秋光民恵・同センター副議長は「岩国基地の機能強化は従来の滑走路延長、
バースの整備、NLP移転などとは質的に異なり、岩国基地を世界戦略の拠点に
するもの」などと記した声明文を読み上げ、採択した。
同センターの梶川勝利・事務局長は「広島は、被爆地であるとともに、かつて
アジア侵略の基地となった軍都だった。この歴史を忘れてはいけない。過ちを
繰り返さないためにも、岩国基地の機能強化には断固反対したい」と述べた。
声明文は同日、小泉純一郎首相とトーマス・シーファー・駐日米大使にファクスで
送付した。【下原知広】
8月2日朝刊
(毎日新聞) - 8月2日17時21分更新
広島から核廃絶の歌声を 「かぐや姫」再結成
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050803-00000012-kyodo-soci 平和コンサートの収益を広島市に寄付し、原爆養護ホーム新設に貢献した歌手の
南こうせつさん(56)が6日、「戦後60年に、大きく核兵器廃絶を訴えたい」と、
フォークグループ「かぐや姫」を再結成し、広島市西区のホールでコンサートを開く。
原爆養護ホームの訪問を通じて知った被爆者の老いていく姿に「二度と過ちを
繰り返さない」と肌で感じてきた南さん。「戦争や核兵器が映画やアニメの世界に
なってしまうと怖い。痛みを直接伝えないと駄目だ」とコンサートへの意気込みを
語っている。
南さんによると、広島に目が向き始めたのは、「神田川」「赤ちょうちん」な
どヒット曲を相次いで世に出した1970年代。「これからは社会奉仕を」と考え
始めたが、「偽善は嫌だ」とためらった。
(共同通信) - 8月3日6時29分更新
米国活動家が断食 原爆投下に懺悔 語り部と話も 平和公園などで
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050803-00000006-nnp-l42 【長崎】 米国の平和活動家のジョン・シューシャードさん(66)夫妻が、長崎市
松山町の平和公園などで、原爆投下に対する「懺悔(ざんげ)の祈りと断食」の
活動を行っている。
ジョンさんは妻のケリーさん(60)と、マサチューセッツ州の自宅に戦争難民らを
無償で受け入れる活動をしている。同公園では一日から「被爆者の苦しみを
少しでも共有するため」として断食を行いながら、「原爆による残虐行為を謝罪
いたします」などと書いたビラを配っている。
二日は、被爆体験を伝えている語り部の谷口稜曄さん(76)=長崎市大鳥町=
の話を聞き、「あなたの苦しみと勇気が無駄にならないように、戦争に反対する
活動を続けていきたい」などと涙を流しながら語り合った。
二人は四日に広島へ行き、再び長崎に戻って九日まで活動を続ける。
(西日本新聞) - 8月3日2時9分更新
「すべての命大切に」 下関平和美術展始まる 市立美術館
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050803-00000011-nnp-l35 【山口】 「下関平和美術展」(ピース21下関実行委員会主催)が二日、下関市立
美術館(同市長府黒門東町)で始まった。「すべてのいのちを大切に。平和の壁に
花一輪を」をテーマにした同展は、今年で十五回目。平和の願いを込めた百二十五人
の絵画や工芸、書、写真などの作品百七十点が展示されている。七日まで。入場無料。
木を模したオブジェは「Peace―2」と題され、幹から伸びる枝に昨年の来場者が
つづった平和へのメッセージがつるされている。「孫たちが戦争に行くようなことは
絶対イヤ」「人の命を簡単に奪ってはいけない」。作者は「平和への願いが時を超えて
つながればいいな」と作品に託した思いを寄せている。
海中を泳ぐダイバーを描いた油彩画「ブルーホール」の作者は「この海に生きる魚
たちは、おなかがいっぱいになれば余分な殺生はしません」と訴え、「六十年前の
多くの犠牲者の魂のように美しい」と玄関先の孔雀(くじゃく)サボテンを描いた作品も
ある。同実行委では「平和であればこそ、できる芸術文化活動。平和の貴さを考える
きっかけになれば」と話している。
(西日本新聞) - 8月3日2時9分更新
活動報告展:「アフガニスタンの孤児たち」 2〜7日に開催−−「ラーラ会」 /奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000215-mailo-l29 ◇写真や特産物展示、6日には講演も−−生駒市芸術会館
アフガニスタンの紛争による孤児を支援する主婦らのグループ「ラーラ会」(柄子真弓
代表、生駒市)が2〜7日、生駒市西松ケ丘の同市芸術会館「美楽来(みらく)」で、
活動報告展「アフガニスタンの孤児たち」を開く。孤児の様子を伝える写真や、
岩塩、絹織物など特産物を展示。6日午後2時からは、柄子さんが講演する。
入場無料。
03年8月の設立以来、初の報告会。柄子さんは02年以降、アフガンを5回訪れて
いる。首都カブールの西約640キロ、へラートにある4カ所の孤児院を回り、劣悪
な環境で生活する孤児たちに胸を痛めた。孤児たちの靴や毛布などの差し入れを
続け、孤児院建設を決意。会費のほか、活動を知った人の寄付もあり、今月末に
完成する。柄子さんは「ただの収容先でなく、孤児自身が平和を考えられる孤児院
にしたい」と語る。
展示は午前9時〜午後5時。2日は正午から、7日は午後4時まで。
問い合わせは柄子さん(0743・78・8047)【青木絵美】
8月2日朝刊
(毎日新聞) - 8月2日17時11分更新
平和求め全国会議員に寄贈 大崎氏の遺族が賛同募り
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000147-kyodo-soci 大正時代から第2次世界大戦終戦までの世相と庶民の生活を描いた「戦中派
からの遺言」の著者、経済学者大崎平八郎さんの遺族が2日、平和を願う大崎さん
の遺志を継ぐため、すべての国会議員約720人に同書を寄贈した。
妻京子さん(81)によると、4月に85歳で亡くなった大崎さんは生前「戦後60年の今、
平和が揺らいでいる。議員はこれを読んでから憲法を考えてほしい」と話していた。
京子さんらは5月、衆参両院の全議員に同書を贈るため「普及をはかる会」を設立。
賛同者約220人から集まった資金で本書を購入し、寄贈が実現した。
本を受け取った民主党の藤末健三参院議員は「戦争を起こさない歯止めが必要。
憲法9条は変えるべきじゃない」と訴えた。
(共同通信) - 8月2日17時42分更新
被爆者が6日の式典に参加 原爆機出撃地のテニアン島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000141-kyodo-soci 広島、長崎に原爆を落としたB29爆撃機が飛び立った米自治領の
北マリアナ諸島・テニアン島で6日、平和式典が開かれ、被爆者3人が
初めて参加する。同島では、米退役軍人向けの式典も別に開催され、
被爆者らは複雑な思いも抱えるが「被爆の実態を知ってほしい」と話している。
訪問する被爆者は「ひろしまを語り継ぐ教師の会」の会長松島圭次郎さん
(76)と事務局長梶矢史昭さん(66)、長崎市の西田清さん(75)。
60年前の8月6日未明、テニアン島の米軍ノースフィールド基地から、
広島を壊滅させた原爆リトルボーイを積んだB29エノラゲイが出撃。
3日後、長崎に投下されたファットマンを載せたB29ボックスカーが離陸した。
(共同通信) - 8月2日17時23分更新
上映会:映画で平和を見つめ直そう 「ヒバクシャ」、川崎で /神奈川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000050-mailo-l14 ◇7日、幸市民館
戦後60年の今夏、映画をみて平和を見つめ直そうと幸市民館(川崎市幸区
戸手本町1)で7日、現在の核問題に迫ったドキュメンタリー映画「ビバクシャ」
(グループ現代制作、03年)の上映会が開かれる。主催は、さいわい「ヒバクシャ」
上映実行委員会と川崎市教育委員会。
映像作家の鎌仲ひとみ監督が、湾岸戦争中に劣化ウラン弾で被曝(ばく)し
白血病になったイラクの少女との出会いをきっかけに、イラク、日本、アメリカと
国境を越えて広がる核汚染の被害者の日常を記録した。被害者の思いを伝える
作品になっている。
幸市民館の平和人権学級に参加していたメンバーが「地域で改めて平和を考える
機会をつくろう」と上映会を企画し、実行委をつくった。7日午後1時半〜午後3時半。
無料。問い合わせは同市民館(044・541・3910)。
併せて15日まで、川崎市平和館が所蔵する川崎大空襲の写真や、幸歴史の会が
収集した空襲時の区内の写真、体験者の手記など計約100点も同市民館ロビーで
展示されている。【野口由紀】
8月2日朝刊
(毎日新聞) - 8月2日16時33分更新
核廃絶へ国連に特別委を 広島市が平和宣言骨子
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000102-kyodo-soci 広島市の秋葉忠利市長は2日、被爆60年の8月6日の原爆死没者慰霊式・平
和祈念式(平和記念式典)で読み上げる「平和宣言」の骨子を発表した。
この中で、10月に開かれる国連総会の第一委員会(軍縮)に、核兵器のない
世界の実現と維持を検討する特別委員会を設置するよう求める。
宣言では、被爆60年の8月6日を「継承と目覚め、決意の刻(とき)」として、
被爆者の志を受け継ぎ、責任に目覚め、行動に移す決意を世界に表明する。
また、今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、米国をはじめとする
核保有国が、核廃絶を望む世界大多数の市民の声を無視している事実が
明らかになったと指摘。
国連が特別委員会の勧告を受けて、2020年までの核廃絶を実現するための
具体的ステップを10年までに策定することを求める。
(共同通信) - 8月2日13時21分更新
「原爆の子」追悼ライブ おいの歌手 3日福岡市で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000074-nnp-kyu 広島市で被爆し、白血病のため一九五五(昭和三十)年に十二歳で亡くなり、
同市の「原爆の子の像」のモデルとなった故佐々木禎子さんのおいのロック歌手、
佐々木祐滋さん(35)=福岡県春日市出身=が三日、五十回忌ライブコンサートを
禎子さんが眠る福岡市で開く。祐滋さんは「原爆が生んだ悲劇と禎子が教えてくれた
家族愛のすばらしさを、自分たちの世代に伝えたい」と語る。
「禎子さんのDNA(遺伝子)が入っているのだから、彼女の歌を歌って」
二〇〇〇年夏、東京での平和集会での出来事だった。禎子さんの兄でもある
父雅弘さん(63)=同県那珂川町=と一緒に参加した会場で、見知らぬ高校生の
一言にハッとした。
禎子さんのことは、幼いころから雅弘さんや祖父から聞いていた。家族を気遣って
亡くなるまで「痛い」「怖い」と言わなかった十二歳の少女。「僕にはまねできない」と
尊敬していた。毎年、福岡市内に墓参りにも行った。しかし、中学時代から始めた
バンド活動で歌うテーマとは思わなかった。「身近にありすぎて見えてなかった」。
〈泣いて泣いて泣きつかれて 怖くて怖くて震えてた 祈り祈り祈り続けて 生きたい
と思う毎日でした〉(「INORI」)
高校生に促されて作詞したバラード「INORI」。聞き入る観客の反応は、それまで
「楽しむだけで歌っていた」ときとは違っていた。音楽が持つ、メッセージを伝える力。
一生歌い続けることを決意し、〇二年夏、ロックバンド「GOD BREATH」のリード
ボーカルとしてプロデビューした。
〈あのたいせつな夏を抱きしめて行こう 僕らの中にあるから 生きる勇気をくれた
から〉(「たいせつな夏」)
今回のライブでは、禎子さんについて地元の小学生らに語ってきた雅弘さんも
朗読劇を行う。
祐滋さんは「被爆から六十年の今、当時のことを知らない若者たちにも身近に
感じてもらえるように歌いたい。安らかに眠る禎子にもこの思いを届けたい」と
話している。
ライブは福岡市中央区天神のビブレホールで午後七時半開演。前売り千五百円
(当日千八百円)。問い合わせ先はA・Iコーポレーション=0120(58)0596。
(西日本新聞) - 8月2日14時57分更新
最多の8万羽に 八幡市平和の折り鶴 6日、中高生が広島へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000031-kyt-l26 市民から寄せられた「平和の折り鶴」(八幡市役所)
京都府八幡市が市民から募り、平和への願いを広島に届ける「平和の折り鶴」が
今年は過去最多の約8万羽になりそうだ。折り鶴は、平和大使として6日、広島を
訪問する同市内の中高生が平和記念式典で「原爆の子」像にささげる。
同市によると、市民から寄せられる折り鶴は一昨年は3万2000羽、昨年は
5万羽だった。今年は向日市内の夫婦から「向日市に平和の折り鶴の活動が
ないため」と、1万3000羽が寄せられたこともあって激増した。市は「自治会単位
や市職員の取り組みが地域に浸透してきたのも大幅増の原因」としている。
毎年、約千羽の折り鶴を届ける同市男山の主婦、金子啓子さん(58)は「核の
恐ろしさを忘れず、次の世代に幸せで平和な時代を伝えたい、という思いを折り目の
ひとつひとつに込めて作りました」と話していた。
(京都新聞) - 8月2日11時51分更新
核廃絶訴え 60年目の決意 立命大で「戦争展」 絵画など展示
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000032-kyt-l26 広島に投下された原爆の実物大模型に見入る市民ら(午前10時20分、
京都市北区・立命館大国際平和ミュージアム)
「2005平和のための京都の戦争展」が2日、京都市北区の立命館大国際平和
ミュージアムで始まった。核兵器の現状や廃絶に向けた運動、戦後補償問題の
歴史をたどる資料などが展示され、平和に向けた戦後60年目の課題を問いかけ
ている。
同展は市民グループなどでつくる実行委員会が毎年開いており、今年で25回目。
核廃絶を訴えるコーナーでは、広島と長崎の被爆者が自らの体験を描いた絵画
約30枚や、今回が初公開となる米国立公文書館所蔵の被爆地広島の写真、
60年間にわたる世界的な核廃絶運動の歴史などを紹介している。
また、従軍慰安婦や強制労働、中国での遺棄毒ガス被害など、戦後補償問題を
パネルを使って分かりやすく解説。京都市東山区馬町など府内42カ所で約400人
の犠牲者が出た空襲の実態や歴史教科書問題を検証する展示も行われている。
会場の入り口には、伏見工業高の生徒が、ピカソの絵画「ゲルニカ」をモチーフに
作製した立体画を展示した。
7日まで。期間中は映画上映や講演会、シンポジウムなども開かれる。午前9時半
から午後4時半まで。入場無料。
問い合わせは同実行委事務局Tel:075(231)3149へ。
(京都新聞) - 8月2日14時51分更新
戦時の性暴力“告発” 「女たちの資料館」が開館 東京・新宿
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000009-ryu-oki 戦時下の性暴力の被害と加害の資料を集めて開館した
「女たちの戦争と平和資料館」=1日、東京都新宿区西早稲田
【東京】戦時下の性暴力の被害と加害の実態を記録する「女たちの戦争と
平和資料館」(西野瑠美子館長)が1日、東京都新宿区西早稲田に開館した。
「慰安婦」問題など日本で初めて戦時下の性暴力に焦点を当てた資料館。
「慰安婦」制度の責任者の刑事責任と国家責任を認定した2000年の女性
国際戦犯法廷の審理全容、8カ国の被害者と加害兵士の証言、沖縄を含めた
慰安所マップなどを展示している。ジャーナリスト・松井やよりさん(故人)の
遺志を継いで開館にこぎ着けた。
証言では強制的に慰安所に送られた経緯、心の傷を抱えながら戦後を
生きてきた女性たちの過酷な体験がつづられている。「慰安婦」募集に際して、
陸軍省の方針を示した1938年3月の通達の写し、中国南部を占拠した
日本軍から「慰安婦」を集めてほしいとの要求に、内務省が応じる内容が
記された1938年11月の文書の写しも展示している。
西野館長は「教科書から慰安婦の記述がどんどん消え、加害の記憶が
消えつつある今だからこそ、若い人たちに足を運んでほしい」と話している。
京都市から訪れた村上麻衣さん(26)は「戦争体験者から直接、話が聞ける
最後の世代として責任を感じながら見た」、東京都の千々岩弦さん(28)は
「慰安所のことを想像するのは難しいが、一人一人の証言が深い意味を
持っている。この問題をじっくり考えたい」と話していた。
(琉球新報) - 8月2日10時19分更新
宇治・ウトロ地区:韓国の大学生らが視察 「人権問題解決を」 /京都
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050803-00000246-mailo-l26 宇治市伊勢田町の在日コリアン集住地域「ウトロ地区」に2日、韓国大邱市の
大学生ら6人が訪れ地区を視察した。
市民団体「日本軍『慰安婦』ハルモニと共にする市民の会」と「平和統一市民
連帯」のメンバー。日本での正しい歴史教育を求め、「新しい歴史教科書をつくる会」
が執筆した教科書の採択反対などを目的に7月25日に来日。東京都教委などに
抗議や是正を求める申し入れ書を提出した。
この日は、ウトロ町内会の厳明夫・副会長(51)が、戦前の国策事業で現地周辺
に進められた軍事飛行場建設時の様子を説明した。
リーダーの朴正姫さん(29)は「ウトロの住民が日本人だったら、日本政府は
放置していたでしょうか。その意味でウトロは人権問題。日韓両政府の努力で
解決を目指すべきだ」と話した。【新宮達】
8月3日朝刊
(毎日新聞) - 8月3日17時2分更新
講演:漫画家・石坂啓さん「もはや戦時」 危機感訴え−−佐賀 /佐賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050802-00000307-mailo-l41 漫画家で「週刊金曜日」編集委員の石坂啓さん(49)の講演「学校に行かな
ければ死ななかった子どもたち」が31日、佐賀市天神のアバンセであり70人が
聴き入った。「子どもたちによりよい教科書を!市民の会」主催。
中3の息子がいる石坂さんは、彼が20歳になるまでに憲法が「改正」されている
だろうと“予言”したうえで日本の危険な針路に言及。「有事法制など、ここ10年で
戦争のできる体制が急速に整備された。反戦の声を上げるだけで逮捕される今は、
もはや『戦時』と考えていい」との認識を示した。
さらに、従軍慰安婦や南京大虐殺を過小評価したり、なかったものにしようとする
勢力の動きを「うそでも100回言えば、そんなものかなと世間では通用してしまう」
と教育の恐ろしさを説き、大人たちが作った枠組みに感受性豊かな子どもたちを
押し込めることで生じるゆがみが、学校を息苦しいものにしているのではないか
と案じた。【林田英明】
8月2日朝刊
(毎日新聞) - 8月2日17時40分更新
コピペが何か虚しいな・・・。
そこまでしてイラクとピースボートの関係に後ろめたさを感じているのか。
誇れる活動ならこんなことしなくてもいいのに。
信濃寝るな
ピース暴徒だな。
展示会:子らの目に映るアフガン 友好協会などが写真と絵画を−−宝塚 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050803-00000278-mailo-l28 ◇平和な未来へ生き生きと−−18〜23日
「宝塚・アフガニスタン友好協会」(西垣敬子代表)と「アフガン子ども教育運動」
日本支部(旦匡子代表)は、アフガンの子どもたちに使い切り簡易カメラ(レンズ
付きフィルム)を渡し、撮影してもらった写真と、絵画を勉強している中学・高校生
の油絵の展示会を18〜23日、宝塚市南口2の市国際・文化センターで開く。
子どもや若者たちの目に映った、貧しいながらも、復興に向けて力強く生活する
人たちの姿が伝わってくる。【吉田勝】
絵画は、首都カブールの職業訓練施設のアーティストクラスの14人が描いた
24点を展示。理髪店での散髪の光景や装飾の施された民族的な帽子のような
ものを被る女性など、印象に残る作品ばかりだ。
写真展では、アフガン東部の街・ジャララバードの孤児院や国立大付属中学校
に通う6〜14歳の21人が撮影した約530枚のうち、42枚を展示する。孤児院の
子どもたちやナンとお茶だけの家族の食事風景など、どれも表情は明るい。
西垣さんが今年3月下旬から約2週間、ジャララバードを訪問して実現。今年
3月末に閉鎖した大阪・心斎橋のカメラ店のギャラリーが資金とカメラを提供した。
西垣さんは「アフガンはまだ社会が不安定ですが、子どもたちは平和な未来への
希望を抱いて元気に生活している。その視点を通してアフガンを垣間見てください」
と話している。
入場無料。問い合わせは同協会(0797・84・8446)か同日本支部(0798・67・2087)。
〔阪神版〕
8月3日朝刊
(毎日新聞) - 8月3日17時6分更新
イラク戦争生々しく ドキュメンタリーを上映 福島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000001-khk-toh イラク戦争のリポートを続けたビデオジャーナリスト綿井健陽さん(34)が監督を
務めたドキュメンタリー映画「Little Birds(リトルバーズ)―イラク 戦火の家族たち」
が、20―26日、福島市の福島フォーラムで上映される。「戦争の実相を知ってもら
おう」と福島市内の教員らが企画した。東北では初の上映会となる。
映画は、綿井さんがイラク戦争の開戦直前から約1年半にわたり、バグダッド
などで撮影した123時間の映像を、1時間42分にまとめた。綿井さんは空爆下の
バグダッドから映像リポートを送り続け、2003年度の「ボーン・上田記念国際記者賞」
の特別賞を受賞している。
市民の視点に立った映像で、米英軍の空爆などで平和な市民生活が破壊される
様子を記録している。自宅を空爆されて3人の子どもを亡くした一家や、クラスター
爆弾の不発弾で右腕を失った少年らに密着し、通常のニュース映像では映し出さ
れない戦争の悲惨さを伝えている。
映画は4月に東京で封切られ、以後、全国各地で自主上映会が開催されている。
福島市では教員や高校生ら十数人が実行委員会をつくって準備を進めている。
呼び掛け人の一人、福島市の学校職員長谷川百合子さんは「花火のように映って
いた戦火の下で、何が起きていたのかを知り、戦争の悲惨さを肌で感じてほしい。
60年前の日本の状況にも思いをはせてほしい」と話している。
入場料は前売り1000円(大人、子ども共通)で、当日券もある。21日は綿井さん
の講演会も予定されており、映画とセットで前売り1500円(大人、子ども共通。
先着180人)。連絡先は同実行委080(1825)4935。
(河北新報) - 8月4日7時6分更新
2つの原水禁大会が開幕 50年の節目も分裂開催
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000167-kyodo-soci 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)系と原水爆禁止日本協議会(原水協)系
の2つの原水禁世界大会広島大会が4日、始まった。1955年に第1回の
原水禁大会が開かれてから50年という節目の年だが、今年も分裂開催となった。
原水禁は「平和への思いが一致した」として、初めて連合、核兵器禁止平和
建設国民会議(核禁会議)と統一開催し、約1万人(主催者発表)が参加。
連合の笹森清会長は「日本は二度と原爆を使うような戦争を起こさせては
いけない。戦争体験と原爆被害者の思いを風化させてはならない」と訴えた。
原水協系の大会には約8000人(主催者発表)が参加。主催者を代表して
あいさつした安斎育郎・立命館大教授は「原爆はおびただしい数の人の命を
奪い、生き残った人も今なおさまざまな困難に直面している。世界中の核被ばく者
と連帯し、新たな被ばく者をつくらないための行動が必要だ」と語った。
(共同通信) - 8月4日18時55分更新
証言集を出版 県平和センター被爆連 原爆と「その後」26人心の叫び
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000006-nnp-l42 【長崎】 県平和運動センター単産被爆者協議会連絡会議(県平和センター
被爆連、川野浩一議長)は、被爆六十年と結成三十年の節目として、証言集
「グラウンド・ゼロからの再生」を出版した。被爆者の証言を中心に、写真や
年表などを使って「長崎原爆」を網羅的に提示。被爆後から現在に至る市民の
動きや若者の座談会なども盛り込み、核廃絶に向け、継承を重視した内容に
なっている。
証言集はB5判で二百三十ページ。昨年九月、被爆連内部に編集委員会を
立ち上げ、証言や資料などの収集を進めてきた。
登場する証言者は二十六人。初めて「あの日」の体験を告白した人や、
被爆者の遺体処理にかかわった人、被爆を証明できずに苦しんできた人など、
それぞれの立場で六十年前を振り返り、胸の内を明かしている。
中には証言を寄せた後、亡くなった女性も。川野議長は「被爆を語る人は
着実に減っている。彼らの叫びに耳を傾け、次に生かすため、この証言集を
役立ててほしい」と訴えている。証言集は千部発行し、定価千円。
問い合わせは被爆連=095(823)7281。
(西日本新聞) - 8月5日2時18分更新
アジア仏教者との対話集会:「戦争は人殺し」 瀬戸内寂聴さん講演−−東山区/京都
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000250-mailo-l26 3日、東山区のホテルで始まった世界の宗教者の集い「平和の架け橋を求めて
アジア仏教者との対話集会」(天台宗など主催)で、作家の瀬戸内寂聴さん(83)が
「無償の奉仕の力」と題し講演した。「どんな美辞麗句を並べようとも、戦争は
人殺しであり絶対にしてはならない」と訴える語り口に、約360人の出席者は
聴き入った。
瀬戸内さんは45年8月、中国・北京で終戦を迎えた際「日本は本当にひどい
ことをしたので、殺されると思った」と振り返り、「私たちには、戦争がいかに
残酷なことかを語り継ぐ義務があるが、まだ若い人に十分伝わっていない」と
懸念を示した。自らも73年に出家しただけに、「不殺生」の戒律に触れ、
「自らだけでなく他者が殺生しようとするのも止めねばならない」と宗教者に
注文した。
また、「自分を犠牲にして他人の幸せのため尽くす『利他』の心が仏教者には
大切」とし、「仏に受け入れられる祈りは、自分のためでなく人のために祈った
祈りだ」。「混迷の極にある地球だが、人間はこのまま戦争ばかり続けるほどば
かじゃないと思う。私はまだ絶望していない」と締めくくった。
【鶴谷真】
8月4日朝刊
(毎日新聞) - 8月4日17時3分更新
戦争展:初公開の被爆写真も 絵画、パネルなど展示−−7日まで、北区 /京都
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000251-mailo-l26 ◇立命館大平和ミュージアム
戦争を二度と起こさないよう平和の尊さを訴える「平和のための京都の戦争展」
が北区の立命館大国際平和ミュージアムで開かれている。第二次大戦後60年
となる今年の柱は、核兵器の根絶や戦後補償問題。戦争の歴史を振り返る
写真や絵画などが多数展示され、来場者は真剣に見入っていた。同展に
関連する講演などのイベントもある。7日まで。【加藤小夜】
平和を訴える市民らでつくる同展実行委の主催で、今年で25回目。入り口
では、伏見工業高の生徒が製作した、ピカソの「ゲルニカ」を立体的に表現した
作品が、来場者を迎える。
広島に投下された原爆の原寸大模型や米国立公文書館が所蔵していた
投下直後の広島市内の写真(初公開)などのコーナーでは、原爆の悲惨さや
核兵器の廃絶を訴える。ほかにも、旧日本軍の慰安婦問題や強制連行、
中国での毒ガス遺棄や残留孤児などの訴訟をはじめとした戦後補償問題を
説明したコーナーや教科書の変遷などが、各テーマごとに分かりやすく展示
されている。西陣や馬町などの空襲の記録など京都の戦争遺跡を紹介したり、
戦死した兵士が家族にあてた書簡や身につけていたお守りなど遺品の展示も
ある。
期間中は、同展、今年4月にリニューアルした地階の常設展とも入場無料。
問い合わせは、同展実行委(075・231・3149)。
8月4日朝刊
(毎日新聞) - 8月4日17時3分更新
イラクでピースボートはどんな利権を手にしているの?
7日に県短文学大会 平和を願い各部門で交流 別府
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000008-nnp-l44 【大分】 日常生活や平和への祈りを短詩型文学に込めた「第四十六回県短文学
大会」(県、県教委、西日本新聞社主催)が七日、別府市田の湯町の地方職員共済
組合別府保養所つるみ荘で開かれる。当日は講演会のほか、俳句、短歌など
部門ごとの分科会も開かれる。
今回の大会には、県内外から短歌百五十七首、俳句三百二句、川柳百五十八句、
現代詩十編が寄せられた。当日は各部門の大会賞受賞者を表彰するほか、
分科会で交流を深める。講演会も開かれ、講師の後藤惣一・元大分大教授が、
県出身の童謡詩人で多くの童話作家を育てた後藤楢根の生涯について語る。
同大会は一九六〇年に「原爆忌短文学大会」として始まった。七四年から
「県民文化の向上発展」を新たな目標に加えて「県短文学大会」と改称。今年は
戦後六十年の節目の年でもあり、平和に思いを寄せた作品も多く寄せられている。
(西日本新聞) - 8月5日2時18分更新
被爆者の姿に涙 久留米市でパネル展
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000004-nnp-l40 【筑後】 久留米市人権啓発センターは特別パネル展「光景―戦後60年 平和
へのみち」展を、同市諏訪野町のえーるピア久留米で開いている。二十八日まで。
入場無料。
同センターは、戦争は最大の人権侵害と位置付け、毎年この時期に戦争と平和に
関する特別パネル展を開いている。今年は、広島の原爆被爆者らを写した約二十点
と国連の五十年間の活動を紹介した三十点の計約五十点のパネルを展示。
無残にも焼けた被爆者の遺体など生々しい写真に見入っていた久留米市東合川町
の女性教諭(34)は「何度も見たことがある写真も多いが、見るたびに涙が止まらない。
戦後何十年たっても、人間が起こした悲劇を次の世代に伝えなくてはと強く感じる」
と話していた。
同センター=0942(30)7500。
(西日本新聞) - 8月5日2時18分更新
宗派越え「世界の平和」祈る 比叡山延暦寺で集い
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000033-kyt-l25 宗教の垣根を越えて、世界平和を祈って黙とうする宗教指導者たち(大津市・延暦寺)
比叡山宗教サミット18周年記念「世界平和祈りの集い−アジア仏教者との
対話集会」の平和の祈り式典が4日、を天台宗総本山・延暦寺(大津市)で
行われた。仏教やキリスト教、イスラム教などの宗教指導者たちが、
世界平和実現への祈りを、ともにささげた。
根本中堂近くの広場で開かれた式典には、アジア諸国の僧侶や国内の
さまざまな宗派の代表や子どもたち約1000人が参加。インドや中国、台湾、
韓国の仏教指導者やマレーシアのイスラム宗教者が壇上で自国語で祈りの
言葉を順に述べた後、渡辺恵進・天台座主が平和祈願文を読み上げた。
また、この日午前にアジアの仏教指導者たちが平和貢献について交わした
論を踏まえて「比叡山メッセージ」を発表。「ブッダの説いた縁起や相互依存の
理念は人類の共存と地球環境の共生に資する」と、平和の架け橋として
一層努力していくことを誓った。
(京都新聞) - 8月4日20時29分更新
広島6日被爆60年 平和訴え、市民続々と到着
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000143-kyodo-soci 原爆ドーム前を通過する「ストーンウオーク」の一行。碑石は原爆や戦争の
犠牲者を追悼しようと、長崎から運ばれた=4日午後、広島市中区
人類史上初めて原子爆弾が投下された広島は6日、被爆60年の「原爆の日」
を迎える。平和記念式典の会場となる広島市中区・平和記念公園には4日、
長崎から重さ700キロの石を運んできた「ストーンウオーク」の一行や、
原水爆禁止国民平和大行進など、世界平和を訴える国内外の人々が続々と
到着した。
この日は、核兵器廃絶の道を探ろうと、25カ国99都市の市長らが集まる
平和市長会議が開幕。1955年に始まった原水爆禁止世界大会は半世紀を
経て、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と原水爆禁止日本協議会(原水協)の
2つに分裂したままスタートした。
(共同通信) - 8月4日19時2分更新
歩こう広島まで:75キロ歩いて知る尊さ 邑南から平和記念公園、35人参加 /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000292-mailo-l32 旧瑞穂町(邑南町)から広島市の平和記念公園までの片道75キロを歩く
「チャレンジ2005・歩こう広島まで」(瑞穂平和を考える会、瑞穂地域公民館
連絡協議会主催)の出発式が3日正午、邑南町出羽の「いきいきセンター」前広場
であり、瑞穂中や矢上高の生徒19人を含む計35人が参加した。
出発式で、大山博子・同協議会長が「原爆が投下された時、広島からここまで
戻り、父母の顔を見て亡くなった人もいました。自分の力を試してほしい」とあいさつ
した。
この後、最年長の三上福三さん(73)=同町出羽=ら参加者が出発。今年が
6回目の参加となる同町岩屋後谷、日高久夫さん(67)は「今年は体調がすぐれ
ませんが、頑張り完歩を目指します」。また、矢上高1年の佐貫萌美さん、金山唯さん、
瑞光(たまみつ)然(しかり)君の3人も張り切っていた。
参加者たちは、国道261号と54号を通って4日午前8時に広島市の平和記念公園
に着く予定。その後、慰霊碑へ黙とうし、同日バスで帰町する。
同町は被爆地、広島に近く被爆者も多い。当時、広島から疎開して来た人は2日
がかりで町へ入った。当時の苦しさを体験することで、平和の尊さを知ってもらおうと、
86年からこの催しを実施している。【大賀英作】
8月4日朝刊
(毎日新聞) - 8月4日17時16分更新
戦後60年の原点:原爆の惨状、写真や絵画で−−平塚市役所で資料展賀 /神奈川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000132-mailo-l14 原爆投下による広島、長崎の被災地の惨状を写真や絵画で見つめ直す
「原爆被爆60年記念被爆資料展」が平塚市役所1階市民ホールで開かれている。
平塚市原爆被災者の会(小賀六郎会長)の協力で、市の平和推進事業の一環
として開催した。
広島平和記念資料館が所蔵する被爆資料や原爆に関するパネルなど50点の
資料が当時の惨状を訴える。
空高く広がるキノコ雲、被爆で焼け焦げた遺体や全身焼けただれた被災者の
姿などが胸を突く。一面焼け野原になった被爆直後の市街地など、戦争の記憶が
薄れる中、改めて核兵器の非人道性を伝えている。8日まで。【山西禎宏、写真も】
8月4日朝刊
(毎日新聞) - 8月4日16時31分更新
被爆惨状描くDVD配布 長崎県が小中高校に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000012-kyodo-soci 長崎県は被爆60年に合わせ、若い世代に被爆の実相を映像で伝えようと、
原爆投下までの歴史や被爆後の惨状を紹介したDVDを制作、県内外の
小中高校などに計約2450枚を配布した。
長崎市が1995年にビデオと16ミリフィルムで制作した「ナガサキの少年
少女たち」をDVD化した。日本語版と英語版それぞれ30分が収められている。
原爆開発の経過や被爆者のインタビューも収録されている。
配布先は県内の小中高校のほか、中国、四国、九州・沖縄地方の小中高校と
各都道府県の教育委員会など。
県国際課は「県外の学校でもぜひ平和学習に役立ててもらいたい」と話している。
(共同通信) - 8月4日7時52分更新
ピカドン竹やぶ:忘れまい、平和の証し 合唱劇、久々の再演−−7日、東区で /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050803-00000311-mailo-l34 原爆投下後、広島市中心部から焼け出された市民を炎から守った竹やぶがある。
「ピカドン竹やぶ」と呼ばれ、一時は絵本や合唱劇にもなるなど注目を集めたが、
最近は訪れる人もなく、住宅街の片隅でひっそりとしている。被爆60年を機に
「竹やぶの話を忘れないで」と、住民らが合唱劇の再演を計画し、練習を始めた。
竹やぶは、広さ約200平方メートル。東区牛田旭2の牛田山の中腹に広がっている。
原爆投下当時は近くまで火の手が迫ったが、竹やぶは焼け残ったため多くの市民や
軍人が避難したという。
近くに住む車椅子の画家、はらみちをさん(77)は83年、絵本「ピカドンたけやぶ」
(岩崎書店)を出版。絵本をもとに愛知県の作曲家・藤村記一郎さんが作った合唱劇は
一時、全国の幼稚園や合唱団で歌われた。
被爆50年の95年には、渇水で竹の半数近くが枯れた。しかし、ボランティアの世話で
竹やぶは再生した。
だが最近、竹やぶを訪れる人は減っている。ここ数年は十分な手入れもされていない。
昨夏には竹やぶの所有者で、当時の状況を知る伊藤アサノさんが103歳で亡くなり、
竹やぶの話をする人も少なくなった。
◇今月7日に東区の公民館
もう一度竹やぶを通じて平和を訴えようと、藤村さんが今年、はらさんに広島での
合唱劇の上演を持ちかけた。合唱劇を初演した愛知の合唱団と広島の合唱団計
約100人が共演し、近くの公民館で今月7日に再演することが決定した。
上演会を盛り上げようとはらさんは6月、平和の尊さを歌う「へいわのうた」を作詞した。
はらさんは「私たちが死んでも、竹やぶは生き続ける。若い人に竹やぶを訪れてもらい、
戦争の愚かさを全身で感じてほしい」と話している。【田中博子】
8月3日朝刊
(毎日新聞) - 8月3日17時20分更新
ピースボートはイラクでどんな利権を得てるんだろうね。
必死にコピペでスレ潰ししようとしてるみたいですね。何か後ろめたいことでもあるのかな。
自分で調べて告発でも何でもしたら?
343 :
国連な成しさん:05/08/05 19:10 ID:71FAYVSY
■■■■■ 情 報 提 供 の お 願 い ■■■■■
指名手配中の市民団体のみなさんです。
http://www.police.pref.saitama.lg.jp/kenkei/joho/tehai/tehai_kageki.html ● 中 核 派
中核派は、過激派の中で最大の勢力を有する集団(セクト)です。
正式名称を
「革命的共産主義者同盟全国委員会」
といい、過去に多くのテロ、ゲリラ事件を引き起こしています。
● 革 マ ル 派
革マル派は、過去に中核派と分裂して結成され、現在でも中核派と並ぶ勢力を有する集団(セクト)です。
正式名称を
「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」
といい、過去にゲリラ事件や対立する中核派や革労協との間で凄惨な内ゲバ事件を引き起こしています。
● 革 労 協
革労協は、昭和44年に結成され、現在でもテロ・ゲリラ事件や内ゲバ事件を繰り返している集団(セクト)です。
名称を
「革命的労働者協会」
といい、過去に爆弾を利用し警察官を殺害するなどの事件を引き起こしています。
>>343 なるほど。
それらの団体の別の姿ってことか。
へー。
で、各種平和団体がそれのフロントだと言う証拠は?
>>345 平和団体って、ピースボートやピースウィンズジャパンやワールドピースナウのこと?
フロントって何?
戦後60年:原爆の非人間性、訴え−−長崎で被爆の2人に聞く /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000087-mailo-l23 広島・長崎への原爆投下から60年目の夏が巡ってきた。県によると05年3月末現在
で県内に3175人の被爆者が暮らしている。高齢化が進み最も多かった87年度から
622人減り、昨年度1年間で71人が減った。原爆の記憶が社会から風化する一方、
60年を経ても被爆者たちの心の傷は癒えないまま。若い世代に体験を伝え、核兵器の
非人間性を訴え続けている県内の被爆者2人に話を聞いた。【桜井平】
◇爆風に飛ばされ 「語ることが使命」自覚−−稲垣慶子さん(74)
=主婦、名古屋市港区港楽
学徒動員先の兵器工場の事務所に、佐賀の空襲警報を伝えるラジオが流れていた。
「長崎も、もうすぐですね」。先生に話しかけた途端、赤い火の玉が見え爆風に吹き
飛ばされた。爆心地から1・2キロ。同じ部屋の先生や同級生は即死で、私は奇跡的に
助かった。でも体中誰かの血で真っ赤。ジャガイモみたいな大きさの水泡が五つくらい
腕から垂れ下がって、顔も誰か分からない状態だった。薬の代わりに機械油を浸した
包帯を腕に巻いたけどウジがわいて。髪が抜けて歯茎の出血が止まらなかった。
原爆で県立女学校の同級生が約50人亡くなった。自分も尿管結石や白血球の異常
に苦しみ、今も時折高熱とめまいが出て布団の上げ下ろしもできなくなる。原爆は
今も一番怖くて、死んでも忘れられないかもしれない。恐怖で行けなかった爆心地に
10年前、初めて立ったとき、涙がボロボロと止まらなくてね。
今年4月に生まれて初めて渡米し、ニューヨークで開かれた核拡散防止条約(NPT)
再検討会議を前に、サンフランシスコとワシントンで被爆体験を語った。「下手でもいい。
生きているうちに被爆者として体験を語ることが使命だ」と自覚した。帰国後は高校や
若者の集会で体験を語っている。
実感しているのは今の若者たちが原爆はおろか戦争についても、余り知らないこと。
過ちを繰り返さないために、原爆の非人間性や悲惨さを伝えたい。「知らないうちに
戦争できる国になっていた」という状況にしてはいけないと思う。
◇虫の息で弟「水を」 飲ませれば…今も不憫に−−道上昭雄(みちがみ・しょうお)
さん(76)=無職、名古屋市南区明治
用事で自転車を押していたら「ゴーッ」という地鳴りのような音が聞こえた。反射的に
伏せると、せん光とともにすごい爆風。自転車は2、3メートル飛ばされた。爆心地から
約3キロの長崎市内。奇跡的に無傷だった。
2時間半後。爆心地から約500メートルの自宅に帰ると、畑の中で4歳の弟が
全身が真っ黒にやけどをして埋もれていた。「水を飲みたい。水を飲みたい」と
虫の息で訴える弟を抱き寄せ「今飲んだらいかんのや」と我慢させた。弟は約30分後
に亡くなった。今も、仏壇に手を合わせるたびに「なぜあの時、水を飲まさなかったのか」
と不憫(ふびん)に思えてね。
付近で生きていたのは弟だけ。だから「原爆の悲惨さを私に伝えたかったのかな」
と思い、仕事を辞めた約10年前から反核・平和運動を始めた。今も目を閉じると、
真っ黒になって動く弟の小さな体を思い出してね。
被爆後は三重県の親類宅に身を寄せて大工になった。放射能を浴びたため白血球
の減少や糖尿病、耳の炎症などの症状に悩まされ続けた。自衛隊がイラクに派遣
されているけど、劣化ウラン弾の影響が心配。見えない放射能は本当に怖いよ。
原爆は父母、弟2人と妹の肉親5人の命を一度に奪った。敵のような存在で、
これ以上憎いものはない。今、語り部として学校などで被爆の体験を話している。
核兵器を一度使えば、何十万人もの生命や平和な暮らしが犠牲になる。被爆体験を
語ることでこの悲惨さ、非人間性を伝えたい。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時56分更新
児童らに被爆体験語る 郷土史家夏目さん 諫早で「平和の集い」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000006-nnp-l42 【長崎】 戦争体験を通して子どもたちに平和の尊さを教える「平和の集い」(諫早市主催)
が五日、同市東小路町の諫早図書館で開かれた。同市が定員百人で参加者を募集
したところ、二倍近くの応募があり、急きょ午前と午後の二回開催。平和に対する
子どもたちの関心の高さがうかがえた。
集いでは、郷土史家の夏目孝男さん(73)が、自らの被爆体験を披露。当時、
中学二年だった夏目さんは、長崎市内から運ばれた負傷者の救護に当たった際に
被爆した。
夏目さんが写真を掲げて「負傷者を迎えに諫早駅に行くと、体が焼けただれた人
たちが続々と列車を降りてきた」「救護所では、傷口にウジがたかり、むごいもの
だった」などと語ると、集まった子どもたちは熱心に聞き入っていた。
(西日本新聞) - 8月6日2時18分更新
核廃絶へ被爆者の志継承 被爆60年、広島原爆の日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000012-kyodo-soci 広島は6日、史上初めて原爆が投下されてから60年の「原爆の日」を迎えた。
爆心地近くの広島市中区・平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・
平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、被爆者や遺族らが犠牲者に鎮魂の祈り
をささげ、核兵器廃絶を誓う。
「核のテロ」さえ現実視される中、5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議は、
軍縮と不拡散に何の成果も残せなかった。国内では平和憲法を見直す動きが
活発化、原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは」の碑文が傷つけられる事件も起き、
被爆地広島の責務があらためて問われている。
秋葉忠利広島市長は平和宣言で「核兵器廃絶と世界平和の実現のため、
努力し続けた被爆者の志を受け継ぎ、果たすべき責任に目覚め、行動に移す
決意を」と世界に呼び掛ける。
(共同通信) - 8月6日6時27分更新
直後の惨状医師克明に 大村海軍病院の治療記録 50年後に英語版出版
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000027-nnp-kyu 長崎原爆投下直後、千人を超す被爆者が運び込まれた大村海軍病院(現・長崎
医療センター、長崎県大村市)での治療の様子などを克明に記した「長崎原爆の記録」
の英語版が執筆から半世紀を経て長崎・ヒバクシャ医療国際協力会の手で出版された。
同会は「被爆の実相を伝える貴重な資料」として、国際機関や核保有国の駐日大使館
などに配る。
著者は、一九四四年から四五年に同病院長だった故・泰山弘道さん。「記録」には、
重度のやけどを負った被爆者など三十四人の症例を写真付きで説明、次々と命を
落としていった様子を医者の立場で記している。壊滅的被害を受けた長崎医科
専門学校(現長崎大学医学部)の復興問題なども記している。
泰山さんは故・永井隆博士の勧めもあり、五一年に日本語、五五年に英語で
書き上げた。五四年には米国の水爆実験で第五福竜丸が被爆しており、激化する
核開発競争を憂い米国に原爆の悲惨さを訴える狙いがあったとみられる。
泰山さんが五八年に亡くなった後、八四年に東京の出版社が日本語版を出版した
が、英語の原稿の存在は知られず、埋もれたままだった。昨年、英語版のことを
知った山下俊一・長崎大原爆後障害医療研究施設教授が泰山さんの遺族宅にあった
原稿のコピーを基に出版にこぎつけた。
本はA5判で百九十三ページ。現在、世界保健機関に出向中の山下教授は
「反核・平和の意識が今より薄い五五年に、一人の医者が長崎の声を世界に伝え
ようとした事実は重い」と話している。
(西日本新聞) - 8月6日2時17分更新
長崎原爆 家族失った8女性 「世界平和を」続く祈り
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000028-nnp-kyu 長崎原爆が投下された長崎市浦上地区で、家族を失ったカトリック信者の女性八人が
五十五年間、毎月九日に集まって祈り続けている。「九日の祈りの会」と名付け、原爆で
亡くなった家族を思って祈っている。八月は九日の平和祈念式典に出席するため、五日に
開いた。平均八十歳になった女性たちの祈りは、原爆への憎しみや戦争への怒りを超え、
世界の平和を求めるようになっている。
この日、山田シズさん(81)方=同市上野町=に全員が集まった。シズさんが「原爆から
六十年。世界の人々が日々の生活を平和に送れるように祈りましょう」と呼びかけた後、
約一時間、祭壇に手を合わせ死者を弔う祈り「ロザリオ」を唱えた。
カトリック教徒が多い浦上地区では信者約一万二千人のうち約八千五百人が死亡という。
シズさんは出征中の兄弟を除き、父と自分だけが生き残った。山田マツノさん(84)は
投下された当時、大阪にいたが実家七人は全員死亡。片岡八重子さん(83)は、母、妹、
弟を放射線の急性症状で次々と亡くすなど、八人は家と家族の大半を失った。
会は一九五〇年夏、苦しい生活の中、シズさんらが「月に一日だけでも、死んだ家族を
ゆっくり思い出す日ばつくろう」と呼び掛けたのが始まり。祈りは途切れることなく約六百
六十回に上った。
「なぜ自分がこんなに苦しまなければならないのか」。当初はやるせない思いや、米国
への憎しみが消えることはなかった。だが、声を合わせ、ロザリオを唱えることで心の平穏
を取り戻し、次第に「こんな思いを誰にもさせてはならない」と、世界平和を併せて祈るよう
になったという。
「喜びも悲しみも分かち合って姉妹のようになった。死ぬまで続けていきますよ」とシズさん
は話している。
(西日本新聞) - 8月6日2時17分更新
岡本太郎さん:原水爆テーマの壁画「明日の神話」、中心部分修復−−東温 /愛媛
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000252-mailo-l38 ◇意気込み伝わってくる
芸術家・岡本太郎さん(1911〜96年)が原水爆をテーマに描いた巨大壁画
「明日の神話」の中心部分が4日、東温市南方の修復作業場で報道陣に公開された。
炎に包まれるがい骨を描き、核の悲劇を乗り越える人間の強さを表現したとされる
部分。平野暁臣・岡本太郎記念館館長(46)は「間もなく原爆投下60年。太郎さんも
『テロや戦争が相次ぐ今こそこの絵を見てほしい』と願っているのではないか」と話した。
明日の神話(縦5・5メートル、横30メートル)は、岡本さんが反戦・反核の思いを
込めた作品で、副題は「ヒロシマ、ナガサキ」。現在、100個ほどの破片を、
約1000平方メートルの作業場いっぱいに並べ、絵画修復家、吉村絵美留さん(55)
らが慎重につなぎ合わせている。10月ごろにはすべての破片の接合を終え、絵の
表面の調整に入る。
岡本作品の修復を数多く手がけてきた吉村さんは「平和や戦争など、太郎さんの
作品の要素をすべて盛り込んだ作品。作業をしていると、太郎さんの意気込みが
伝わってくる」と話していた。【小林祥晃】
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日17時31分更新
<原爆の日>6日に平和記念式典、32カ国から参列者 広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000076-mai-soci 広島は6日、60回目の「原爆の日」を迎える。広島市中区の平和記念公園では
午前8時から、遺族や被爆者、国内外の政府関係者らが出席し、平和記念式典が
開かれる。今年は過去最多の32カ国から参列者があり、10年ぶりに海外在住の
被爆者や遺族らも招待され、人種や国境を超えて平和への思いを一つにする。
5月の米ニューヨークでの核拡散防止条約(NPT)再検討会議の決裂や北朝鮮の
核保有宣言など、被爆者の訴えもむなしく、核兵器を巡る状況に明るい兆しはない。
こうした状況を踏まえ、秋葉忠利・広島市長は平和宣言で、同日から1年間を
「継承と目覚め、決意の年」と位置づけ、「世界の市民が危機感を持って自らの
責任に目覚め、世界の国やNGOと共に核兵器廃絶に向けた多様なキャンペーン
を展開しよう」と呼びかける。
また式典では、高齢化した被爆者に配慮し、テント席を昨年の倍の4000席に
増やして備える。
被爆後、多くの焼かれた市民が水を求めて入った原爆ドーム前の元安川では5日、
被爆前の原爆ドーム(広島県産業奨励館)の姿がコンピューターグラフィックス(CG)
を使って川面に映し出された。
被爆前後の姿を見比べて、平和の尊さを感じてもらおうと、広島の街づくり団体が
昨年に続き企画。被爆前のドームの姿が穏やかな川面に投影されると、市民は
原爆への怒りと平和への思いを新たにしていた。【田中博子】
(毎日新聞) - 8月5日20時35分更新
戦後60年:被害・加害の二重構造認識を−−原水禁議長・岩松繁俊さん /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000148-mailo-l42 ◇古くて新しい、被爆地からの訴え
「日本の加害責任を厳しく自己批判したうえで、反核・平和を訴えなければ
ならない」。原水爆禁止日本国民会議(原水禁)議長の岩松繁俊さん(77)=
長崎市江里町=は20年以上にわたり、こう提言してきた。岩松さんは被爆地・
長崎から初めて選ばれた議長だ。NPT(核拡散防止条約)再検討会議が決裂し、
中国・韓国との歴史認識の対立が表面化した戦後60年の今年、岩松さんの
話を通し、古くて新しい、この被爆地から世界への訴えを紹介したい。【横田信行】
■被爆より敗戦に衝撃
「原爆被爆のショックは、大日本帝国の無条件降伏に比べれば、ものの数では
なかった」
岩松さんは自身が被爆者でありながら、60年前をあえてこう表現する。学徒動員
され、爆心地から1・3キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆したが「天皇、大日本
帝国への忠節をたたき込まれた軍国主義の模範生だった」という岩松さんが敗戦を
知って、まず考えたのが「自分の責任だ。陛下に申し訳ない」。数日間、自決場所を
探して被爆地をさまよった。
敗戦で日本のすべてが終わるはずが、9月には「1億玉砕」を教えてきた学校は
何事もなかったかのように再開された。「天皇制軍国主義を頭からなくすのに十数年
かかった」という経験を持つだけに戦後教育の評価は「歴史をきちっと教えていない」
と厳しい。
■まず加害に謝罪を
原水爆禁止日本協議会運動に参加した岩松さんは「被爆者を軽視してきた従来の
中央主導ではなく、被爆地からの運動を」と考え、核実験をした国の元首へ抗議の
手紙▽平和活動家への国際連帯を求める手紙▽世界の新聞社への被爆体験の
惨状と反核を訴える投書――に独自に取り組んだ。
米国の新聞に載った投書に対し「我々は真珠湾を忘れない。戦争を抑止する
兵器は何であれ正しい」という米市民からの反論の手紙に怒りを覚えたが、同時に
日本の運動の独善性に気づく。「被爆による被害を強調する余り、戦争責任を
忘れてきたのではないか。日本の加害責任も、原爆を投下した米国の加害責任も
当事者は明確に謝罪していない」
■国際的視野が必要
到達した理論が「被害・加害の二重構造」だ。「市民も帝国主義による被害者で
ありながら、帝国主義の手先となって他国への侵略に加担し、沖縄、被差別部落、
障害者、朝鮮・中国人を差別してきた加害者でもある」
この理論に共鳴した一人が本島等・前長崎市長だ。岩松さんは平和行政を巡って
平和宣言文起草委員会の委員を辞職するなど、本島市長と対立してきたが、
本島市長が88年、市議会で「天皇に戦争責任はある」と発言し、脅迫を受けたり
銃撃された際は「言論の自由を求める長崎市民の会」の代表となり、支援の論陣を
張った。
核兵器廃絶を目指す科学者の組織「パグウォッシュ会議」のきっかけを作った
英国人哲学者バートランド・ラッセルと親交を深め、徹底した反核・平和思想に
触れた。「他国の人と意見を交換し、考え方に耳を傾けるべきだ」と国際的視野の
重要性を説く。
「被害者と加害者は対立したり矛盾したりしない。被害者の立場を追求すれば、
他国の被害者への共感が生まれるし、被害者を生み出した加害者の存在を
認識する」
◇ ◇
「優れた思想家だが、運動家ではない」との批判もある岩松さんだが、訴えは
強い説得力を持つ。一方、被爆者など加害の側面を強調することに抵抗を感じる
人も多い。7日から長崎市で原水禁と原水協(原水爆禁止日本協議会)の大会が
始まる。「加害」はどう取り上げられるのか。
………………………………………………………………………………………………………
■人物略歴
◇岩松繁俊さん
長崎市生まれ。東京商科大卒業後、長崎大経済学部教授や学部長を歴任。
専攻は社会思想史。61年、分裂前の長崎県原水爆禁止日本協議会に入り、
62年から教宣担当常任理事。分裂後は原水禁に合流し、事務局次長、副議長、
議長代行を経て97年から議長。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日17時44分更新
追憶・戦後60年目の夏に:被爆アオギリ2世大きく−−吉備町の喜多さん宅 /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000206-mailo-l30 ◇「反戦」の伝言
1945年8月、広島に投下された原爆で枯れ木同然になりながら、翌春には新芽をつけ
被爆者らを勇気づけたアオギリの2世が、吉備町垣倉の農業、喜多敏宏さん(53)、
睦代さん(52)夫妻宅の庭で大きく育っている。当初は植木鉢で30〜40センチほど
だったが、今では屋根を越す勢いだ。1世の親木は6日、ヒロシマで60回目の原爆忌を
迎える。【辻加奈子】
喜多さん宅のアオギリは、小学教諭だった睦代さんが91年、当時担任していた町立
田殿小2年のクラスで育て始めた。3粒の種子のうち1粒が芽吹き、95年3月、転勤を
機に自宅に引き取った。
玄関前に鉢を置いたところ、鉢の底穴から地面に根を伸ばし、ぐんぐん成長。喜多
さんは「枝を切っても春には葉が出る。生命力がすごい。『戦争はだめだ』と伝えようと
しているようだ」と言う。睦代さんは「お客さんには、2世ですよと伝えています」と話す。
2世は昨秋ごろから種子をつけるようになった。2人は「3世を育てたいという人が
あれば、譲りたい。被爆アオギリの輪が広がれば」と希望している。
被爆アオギリは爆心地から約1・3キロの広島逓信局(現中国郵政局)中庭で被爆。
高熱と爆風で枝葉はすべてなくなり、幹は半分焼けてえぐられた。被爆地は「70年間は
草木も生えぬ」と言われたが、アオギリは翌46年春、新芽をつけた。73年5月、庁舎
建て替えに伴い、広島平和記念公園に移植された。種子は国内外へ贈られ、各地で
2世が育っている。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日17時10分更新
映画:戦災孤児描く「ムッちゃんの詩」、あす上映−−高取町・壺阪寺で /奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000124-mailo-l29 戦後60年の夏を迎え、高取町壺阪の壺阪寺で6日午後5時半から、戦争中に
孤児となった少女を描いた映画「ムッちゃんの詩」の上映会がある。入場無料。
ムッちゃんは、1945年、横浜大空襲で母と弟を失い、父も戦死したため孤児に。
九州・大分で親せきの元に身を寄せるが、結核を患い、防空壕の中で12年の
生涯を閉じたとされる。当時6歳で「ムッちゃん」に出会った中尾町子さん=
京都府在住=が毎日新聞に手記を掲載。反響を呼び、その後、本にまとめ
られた。映画は戦後40年の1985年に製作された。1時間40分。
上映後、平和を祈る護摩法要と花火大会もある。近鉄壺阪山駅から同寺まで
臨時バスを運行。
問い合わせは同寺(0744・52・2016)。【青木絵美】
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日17時10分更新
ピースボートは何を隠したくてコピペ続けているんだ?
しかし、思想的に偏っているなぁ。
平和の針:人と人つなげ 広島原爆忌へささげる「ポジャギ」ほぼ完成−−姫路 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000269-mailo-l28 ◇姫路の岩田さん
フォークアート(民衆芸術)がテーマの「川のほとりの美術館」(姫路市西中島)の館主、
岩田美樹さん(50)が、「平和の針」と名付けて昨夏から制作していた韓国式パッチ
ワーク「ポジャギ」がほぼ完成した。麻布の切れ端を縫い合わせて作るポジャギに、
「布と布とがつながるように、人と人がつながっていけたら」と平和への願いを込め、
賛同した約540人が協力した。岩田さんは広島原爆忌の6日、このポジャギを
平和記念公園(広島市中区)で開かれる平和記念式典などに持参し、平和への
祈りをささげる。【安藤大介】
ポジャギは、古くから朝鮮半島で使われてきた布。物を包んだり、おおったりする
もので、日本の風呂敷にあたる。もともと織物が貴重だった時代に小さな布をつなぎ
合わせて作られたが、近年では色鮮やかなものなどが民芸品として人気がある。
岩田さんは韓国旅行中にポジャギを見て、その美しさに驚かされた。これがきっかけ
となり7年前から「ポジャギ展」を開いてきたが、自分も作ってみようと思い立った。
夫で版画家の健三郎さん(57)と話す中で、「誰もが参加でき、縫うことで一つに
つながっていけるポジャギ作りを、平和への願いを広げる活動にしていこう」と決めた。
来館者や近くの小学生、高校生、同館でのポジャギ教室参加者らに呼びかけ、
賛同者が縦横約10センチの布を縫い合わせた。同館でポジャギ作りを教える
講師の金貞美さん(38)もサポート。約540人の思いがこもった縦横1・5メートルの
ポジャギが完成間近だ。
岩田さんは「ポジャギには布と布がつながっていく美しさがあり、また制作を通じて
韓国や在日の人をはじめ、多くの人とのつながりを確認できた。ポジャギを通した
平和活動をこれからも続けていきたい」と語る。完成したポジャギは同式典に持参
するほか、「ポジャギはもともと朝鮮半島のもの」との考えから、同日、同公園の
韓国人原爆犠牲者慰霊碑(広島市中区)も訪ねて活動を報告する。
◇ ◇
同館では9月12日まで、今回制作したポジャギや韓国の民芸品など計20点を
集めた「平和の針」展を開催している。入館料は200円。
問い合わせは同館(0792・85・3770)。
〔播磨・姫路版〕
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日17時6分更新
原爆:丸木夫妻の作「原爆の図」展示−−松本・神宮寺で恒例「いのちの伝承」 /長野
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000063-mailo-l20 松本市浅間温泉の神宮寺で、広島、長崎で被爆し亡くなった人を追悼する
恒例の「いのちの伝承」プログラムが始まった。水墨画家の丸木位里(いり)、
油彩画家の俊(とし)夫妻が共同制作した連作「原爆の図」が展示され、
多くの人が訪れている。
「原爆の図」展示は高橋卓志住職(56)が98年に始めた企画で、今年で8回目。
今回は全15部ある作品のうち、被爆した人々が水を求めてさまよう姿を描いた
第3部の「水」と、主婦が始めた原水爆禁止を求める署名活動を表した第10部の
「署名」が展示されている。
反戦美術として丸木夫妻の作品は広く知られるが、夫妻の作品を展示する
丸木美術館(埼玉県東松山市)の入館者数は年々減っているという。高橋住職は
「社会は平和ボケしている。不条理な死を迎えなければならなかった人に思いを
はせてほしい」と話す。
「原爆の図」展示は7日までの午前9時〜午後5時。5日午後6時半からは、
パーカッション奏者の長屋和哉さんとモンゴル僧による法要コンサートが開催
される。いずれも入場無料で、コンサートは要予約。
問い合わせは同寺(電話0263・46・1611)へ。
【反橋希美】
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時46分更新
スレッドテーマに沿った話し合いの邪魔することに必死だな。
下がっているときでも、こっそり下の方で記事コピペで埋めているところを
見ると、よほどこのスレ 早く消費してもらいたいのだろう。
でも無駄だけどね。次スレができるだけのこと。
原爆:生き地獄だと思った−−長崎で被爆した井手勝子さん(76) /三重
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000093-mailo-l24 ◇直射の人は全身真っ黒、体中のはがれた皮膚が手の爪にぶら下がっていました
「生き地獄でした」――。7万人以上の命を一瞬にして奪った、1945年8月9日の
長崎原爆から間もなく60年。爆心地から約2キロ地点で被爆した井手勝子さん(76)=
鈴鹿市東磯山=は「あの日」を強烈な言葉で振り返った。井手さんに、壮絶な被爆体験
と平和への願いを語ってもらった。【聞き手・鈴木顕】
◆死んだ子抱く母 手足ちぎれかかる人 街は真っ赤だった
◇「あの日」の記憶
松浦市(長崎県)に両親と暮らしていましたが、学徒動員で、長崎市内にあった
「三菱兵器トンネル工場」に勤務し、そこからほど近い女子寮で寝泊まりしていました。
あの日は夜勤明けで寮で眠っていました。午前11時ごろ、屋根瓦が滑り落ちるような
「ガラガラ」という音で目覚めたら、がれきの下敷きになり、身動きができませんでした。
どうにか私は外に出たのですが、中からは同じ部屋にいた仲良しの子の「助けて、
助けて」という声が聞こえました。しかし、私自身頭から血が出て、目も開けられず、
しかもすぐ後ろに火が迫っていて助けられませんでした。
あちこちから悲鳴が聞こえる中、何とか広場に向かいました。直射の人は全身
真っ黒で、体中からはがれた皮膚が手の爪にぶら下がっていました。死んだ子供を
抱いたお母さん、手足がちぎれかかった人…生き地獄ってこういう感じなんだと思いました。
その夜、治療できる病院に行くため、長崎市を離れることになりました。電車に乗ろう
と駅まで歩きましたが、道のあちこちから手が出てくるんです。「助けてくれ」と草むらに
横たわった人たちが足首をつかんできて、なかなか前に進めません。電車に乗れた
のは午後9時ぐらいでしょうか。外を見ると街中が真っ赤に燃えていました。
◆腐敗臭ひどく 廊下には体液 目や耳にうじ虫
◇病院で
夜が明けて4時か5時くらい、大村(同県大村市)の駅で降りました。ここでもやけどを
した人がホームじゅうをはいずり回っていました。病院は腐敗臭がひどく、廊下には
体液が落ちていました。生きた人でも目や耳にうじ虫がわき「体をかまれて痛い」と
言っていました。病院中に「水をくれ」と言う声が響いていましたが、数日後には
減ってきました。みんな死んでいったんです。
私は体中が傷だらけで、かさぶたを取る度にガラスの破片が出てきました。
それから、ずっと右目の横がチクチクしていたのですが、約40年後の1984年に
ガラス片が見つかり、取り出してもらいました。今でも大事にとってあります。
◆被爆を隠し 爆風の記憶は抜けず 今も風の音が怖い
◇狂わされた人生
顔のけがもひどくて、人付き合いを避けるようになり、被爆者だということも隠して
いました。被爆者手帳を病院で出すのが嫌で、30年ほどは出したことがありません
でした。(払う必要のない)お金を払ってでも、被爆者であることを隠したい、と思って
いましたから。また昔は「近寄るとうつる」と言われたりして、特別な目で見られたんです。
娘にも黙っていて、成人してから初めて話しました。
今でも風の音が怖いんです。あの時刻み込まれた爆風の記憶が抜け切らないんで
しょうね。台風が来た時は、一晩中寝られずに過ごしたこともありました。
原子爆弾は人殺しのためだけの道具で何の役にも立ちません。絶対にあっては
ならないものです。被爆した人はみんな人生を狂わされました。戦争をしなければ
核も要らない。とにかく戦争をしないことが一番大事なことだと思います。
〔三重版〕
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時56分更新
戦後60年の原点:被爆した白沢さん「原爆がいかに悲しい出来事だったか…」 /山梨
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000134-mailo-l19 広島、長崎への原爆投下から今年で60年。6日には、広島市で平和記念式典が、
9日には長崎市で長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。毎日新聞社は
全国で、被爆した100人から聞き取り調査をした。県内には120人の被爆者が健在で、
平和への祈りをささげる。広島市で被爆した笛吹市一宮町南野呂、白沢イヅミさん
(81)に「あの日」を語ってもらった。【中村有花】
◇「爆風で家の中に吹き飛ばされ気絶した」−−広島で被爆した笛吹市の白沢イヅミ
さんが“証言”
◇「原爆がいかに悲しい出来事だったか後世に伝えたい」
兵役で広島の部隊に所属していた夫と45年3月に結婚し、山梨から移り住んだ。
鍋と釜だけ持って、戦火で燃えていた名古屋を通過し、一昼夜かかって広島にたどり
着いた。結婚するまで夫がどんな人か知らず、結婚式のために夫が一時帰宅した時に
初めて知り合ったわけで、広島に越した当初は、寂しくて海に行って泣いてばかりいた。
やがて近所の人が一緒にご飯を食べさせてくれたり、野菜をくれたりと面倒を見てくれる
ようになり、うれしかった。
8月6日、爆心地から3、4キロにあった家から夫を送り出し、洗濯をするために家から
出ようとして空を見上げると飛行機が見えた。すぐに家から飛び出した瞬間、真っ赤な
火の玉が広がり、爆風で家の中へ吹き飛ばされて家具で頭を打ち、気絶した。
どのぐらいたったか、目を開けると男女の区別も付かないほどのやけどを負った
人たちが、家の前の通りに列を作って歩いていた。それから約1週間、夫のことが
気になりながらも、公民館に連れて行ったり、赤チンをぬったりと救護活動を手伝って
いた。夫は街の片付けや捜索をしていたため帰ってこられず、遠くから生きている
私の姿を確認しては、また仕事に戻っていたと後から聞いた。
少し後になって、広島で面倒を見てくれた人が、真っ黒な水を吐きながら亡くなった。
私が作業に行くはずだった建物疎開(空襲に備え建物を撤去する)の現場も被害にあい、
1日早く行っていた知り合いが亡くなった。もしあの時、家の中に吹き飛ばされなければ
私も死んでいただろう。後遺症もなく、偶然が重なって助かったとしか思えない。
家の前の道で毎晩遺体を燃やし、臭くて眠れなかった。無縁仏が河原の上におびた
だしく並べられた。今でも一つ一つの場面を思い出すと涙が出るほどの衝撃で、忘れる
ことはできない。
今後、孫や子供が兵隊に出ることを想像するだけでも恐ろしい。だからこそ、原爆が
いかに悲しい出来事であったかを後世に伝えていかなくてはならないと思う。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時46分更新
戦後60年の原点:見たこともないきのこ雲−−長崎で被爆・栗原精子さん /北海道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000113-mailo-hok 全国100人の被爆者を対象にした毎日新聞の聞き取り調査で、北海道からは
長崎で被爆した胆振管内白老町の栗原精子さん(80)が回答を寄せた。「原爆は
一瞬のうちに大切なもののすべてを奪った。親せき、友人、平穏な日常、健康な体……」。
60年の歳月を経ても癒えることのない傷の深さを笑顔の裏にのぞかせた。【和田浩幸】
◇不気味さ…今も鮮明に−−白老の栗原精子さん
1945年8月9日。その日は勤め先の「三菱電機長崎製作所」が休みだった。天気が
よく、朝から母と2人で約10キロ離れた疎開先の滑石(なめし)村から長崎市東町の
実家に荷物を取りに来ていた。空襲警報がけたたましく鳴り響き、反射的に近くの
防空壕(ごう)に飛び込んだ。
防空壕は爆心地から約1・2キロ離れた風頭山のふもとにあった。扉が爆風で
吹き飛ばされた。外をのぞくと、見たこともないきのこ雲が上がっていた。「何とも
言えない不気味さだったことを今でも鮮明に覚えています」。
別の防空壕に避難した母は精子さんを捜しに、放射能が漂う長崎の街を数時間
走り回った。その3年後に63歳で亡くなった。全身に原因不明の吹き出物ができて
苦しんでいた。被爆が原因としか思えなかった。
栗原さんも被爆直後に高熱を出し、ひどい下痢と吐き気に約3カ月悩まされた。
夫の源三郎さん(91年に73歳で死去)が定年を迎えたのを機に77年、北海道に
移住した。
北海道に来てショックを受けたのは、原爆に対する意識の低さだった。引っ越した
直後、室蘭市の病院で被爆者の健康診断があった。健康診断を示す看板がない。
不思議に思って病院の職員に理由を尋ねると「他の人にうつるといけないから」
という答えだった。
原爆のことを思い出すのは今でもつらい。「戦争を知らない世代は平和のあり
がたさを認識し、二度と戦争を起こさない努力をしてほしい」。切実な願いを最後に
口にした。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時1分更新
原爆:被爆した子供、母の手記を朗読劇に 主婦11人が上演−−7日・宇都宮 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000014-mailo-l09 広島市と長崎市に投下された原子爆弾で被爆した子供や母親の手記を読む
朗読劇「この子たちの夏」の自主上演会が7日、宇都宮市長岡町の宇都宮美術館で
開かれる。当時の子供たちが口ずさんだ唱歌の替え歌などが取り入れられ、
オリジナルの作品に仕上げている。【田後真里】
「この子たちの夏」は、地人会(東京都新宿区)の木村光一氏が被爆者の
手記を基に構成し、85年からプロの女優による公演や自主上演が国内外で
されてきた。今回自主上演をするのは、宇都宮市雀宮の周辺に住む40〜50歳代
の主婦たちだ。婦人会で出会った、年齢もさまざまな11人のメンバーが、
「自分の子供たちの時代に平和を残したい」という願いで集まり、子供たちを
送り迎えする車の中や家事の合間に練習を重ねてきた。
実行委員の神山博子さん(52)は「初めは、戦後世代の自分たちにできるか
不安もあった。朗読することで被爆者の悲しみや痛みを感じることができると
分かり、語り継ぐ大切さを知った」と語る。演出を担当した豊口政子さん(58)は
「当時の子供たちのはやり歌を取り入れ、音楽を生演奏にした。上演するたびに、
『この子たち』への思いは強くなる」と話す。写真パネルなども取り入れた、
独自の演出を見ることができる。午後3時開演。入場無料。
また、佐野市御神楽町の安藤勇寿「少年の日」美術館でも7日午後2時から、
戦争の語り部活動を続ける沢木景子氏による原爆や戦争体験者の手記の
読み語りがあり、同3時半から、地元主婦からなる朗読劇サークル「てんとう虫」
による「この子たちの夏」上演がある。
問い合わせは同館(電話0283・67・1080)。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時20分更新
372 :
国連な成しさん:05/08/06 07:19 ID:o2m3UpZo
新聞の役割は事実を報道するだけではなく
国民世論を平和に導く使命があるのである。
これらの認識を持っている新聞も朝日だけだろう。
他の新聞には平和に対する認識が低いのである。
日本が永遠に平和な国である為には朝日の活躍に期待するしかないのだ。
>>360 >>364 のようなカキコが出ると団体職員がとんできて荒らしはじめるんだね。
ピースボートってそんなに世間様に後ろめたいアブナい活動してるのか?
原爆:地獄絵の実相、赤裸々に 「相模原被災者の会」が証言集を刊行 /神奈川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000157-mailo-l14 ◇証言集「水をください」刊行−−相模原原爆被災者の会
◇平和と命の大切さ訴え
広島、長崎への原爆投下で被災した後、相模原市に住む人たちの「相模原
原爆被災者の会」=久保ヨシミ会長(72)=が、惨状と被爆体験を伝える証言集
「水をください」(B5判、153ページ)を刊行した。原爆で亡くなった人たちの無念の思い
を背負い自らも傷を抱えて生きてきた被爆者の戦後60年。今、改めて廃墟と化した
地獄絵の実相を証言し、平和と命の尊さを訴える。【高橋和夫、写真も】
被災者の会は75年に結成。「水をください」は創立30周年を記念して、10周年と
20周年に刊行の証言集も合わせて発刊された。被爆者も齢(よわい)を重ねて
寝たきりや病床の人が多くなる中、新たに11人の証言を加え、計47人の被爆体験記
を掲載した。
久保(旧姓武田)さんは12歳、広島市の比治山高等女学校1年生だった。その日、
1、2年生は朝から県庁など建物疎開の勤労奉仕の予定だった。だが、「天気がいい
から空襲がありそうだ」と校長の直感で学校に待機。小高い比治山に隠れるように
あった爆心地から約3キロの木造校舎は爆風で倒壊し、ガラスの破片で顔などに
けがをした。火の玉のようなキノコ雲がわき上がっていた。
爆心地から1・5キロの自宅に向かう途中、焼け野原に多くの人が死に絶え、
生きている人も顔がはれ、目がつぶれ、背中が焼けただれて横たわっていた。
若い兵士に「水をください」と呼び止められた。水筒は空。怖くなって水筒を捨てて
逃げた。「あの人たちは無縁仏となり葬られた。どこの出身ですか、お名前は、
と聞いておけばよかった」と悔やむ。悔恨が一生の心の傷となった。父は行方不明。
兄と一緒に死体の置かれた寺や学校を訪ね歩き、野原で息絶え絶えに転がっていた
母を見つけた。防空ごうから布団を出し、焼けたトタン板で屋根を設けて母を介抱した。
証言集はこうした被災直後の様相や家族、友人を助けられなかった負い目、
イラク戦争への憂慮などがつづられている。
米国ニューヨークの国連本部で今春、被爆者の遺品などを展示する初の原爆展が
開かれた。久保さんは、セントラルパークで被爆体験を話し、「再び被爆者を出すな」
と訴えた。
5月下旬、被災後初めて、「怖いような、うれしいような思い」で母校を訪れた。
「助けを求める人を放って逃げた、被爆の原点を見るのが怖くてこれまで足を向け
られなかった」。改めて思った。「証言がどこまで分かってもらえるか、むなしい思いも
ある。だが、過去は遠くにかすみ歴史は隠ぺいできても、被爆者の証言は消滅しない」。
語り部としての責任の重さをかみしめる。
相模原市内の被爆者は約350人いる。だが、被爆者への差別問題も根深く「会員に
なりたくない」と苦しんでいる人もいて、会員は約120人。「私がいなくなったら会は
解散せざるを得ない。せめて戦後60年は持ちこたえよう」とまとめた貴重な証言集だ。
1000部印刷し、一部500円。
問い合わせは久保さん(042・747・7628)。
8月5日朝刊
(毎日新聞) - 8月5日16時31分更新
「歴史風化させぬ」と追悼 広島で韓国人被爆者慰霊祭
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000067-kyodo-soci 韓国人原爆犠牲者慰霊碑に献花し、犠牲者の冥福を祈る女性ら=
5日午前、広島・平和記念公園
強制連行などで日本に渡り、広島で被爆して亡くなった韓国人を追悼する
慰霊祭が5日、広島市中区の平和記念公園に立つ「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」
の前で営まれ、被爆者や遺族らが犠牲者の冥福を祈った。
この1年間に死亡が確認された4人を加えた計2617人分の死没者名簿が
碑に納められた。
在日本大韓民国民団(民団)広島県地方本部の朴昭勝団長は「被爆者の
たどった歴史と記憶を、そして、わたしたちに託された思いをいつまでも風化
させないよう、次世代に受け継いで参ります」と追悼の辞を述べた
被爆者の姜文熙さん(86)は「現在生きているわたしたちは、素晴らしい平和を
守る義務がある。どんなことがあっても戦争と核兵器、差別には反対しなければ
ならない」と話した。
(共同通信) - 8月5日12時5分更新
反戦ロック 生徒に響く−被爆犠牲者・佐々木禎子さんのおい
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000005-nara-l29 終戦記念日を控え、大和高田市池田の市立高田西中学校(城野良夫校長、
562人)は4日、同市本郷町のさざんかホールで全校生徒が参加した「人権・平和
学習会」を開催。東京を拠点に歌で反戦平和を訴えているロックバンド「ゴッドブレス」
(5人)を招き、音楽を通して反戦平和についての認識を深めた。
ゴッドブレスのボーカルを務める佐々木祐滋さんは、2歳のとき広島で被爆し、
12歳で白血病で亡くなった、被爆犠牲者のシンボル的存在である佐々木禎子さんの
おいで、死の間際まで明るく前向きに生きた禎子さんの生き様を音楽とともに
伝える活動を続けている。
(奈良新聞) - 8月5日11時9分更新
原爆ドーム前にハトの風船 グリーンピース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000070-kyodo-soci 平和を願い原爆ドーム前でハトをかたどった風船を掲げる人たち=
5日午前、広島・平和記念公園
被爆60年を前に、国際的な環境保護団体「グリーンピース」は5日、広島市
中区・平和記念公園の原爆ドーム前で、平和を象徴する白いハトをかたどった
風船10個を掲げ、核廃絶を願うイベントを繰り広げた。
風船はハトが翼を広げた形で、長さ2、3メートル。156の国・地域から集まった
約9500のメッセージが、羽根の1枚1枚に張り付けられている。
風船が地上数メートルに浮かぶと、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の
田中熙巳事務局長は「核戦争を行わないことを世界の首脳に伝え、行動を起こし
ていかなければならない」と訴えた。
(共同通信) - 8月5日11時49分更新
原爆60年 広島市で世界会議、大会が開幕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000002-maip-soci 原爆ドームに向かって「戦争の犠牲となった名もなき市民」の墓石に見立てた
1トンの石板を運ぶ参加者たち=広島市中区で4日午後2時47分、西村剛写す
6日で60回目となる広島「原爆の日」を前に4日、広島市中区で世界の都市の
代表らが参加する「平和市長会議」総会や、原水爆禁止世界大会が開幕した。
全国の被爆者数(今年3月末)は、昨年より7320人減の26万6598人。
被爆者が減って平均年齢も73歳を超え、核を巡る国際情勢が厳しさを増す中、
今年の広島には、国内外から人々が集い、平和への思いを一つにする。
原爆や戦争の犠牲者を悼み、重さ1トンの石碑を長崎から広島へ人力で引く
「ストーンウォーク」の一行約200人が同日、同区の原爆ドーム前に到着した。米
国の平和団体「ピース・アビー」が呼びかけ、99年に始まった。米同時多発テロ
犠牲者の遺族会も参加。日本では初めて実施された。
【牧野宏美、久木田照子】
(毎日新聞) - 8月5日10時14分更新
広島、盛り上がっているなぁ。
きのうのTBSの番組もすごかったし。
視聴率、どのていど行ったのだろうか。
さて、もうじきその時間だ。
死者たちの冥福を祈ろう。
だな。
きっとイラクとピースボートの怪しい関係があるんだろうよ。
ピースボートや高遠菜穂子さんのことについて触れられると、ついつい反応しちゃうんだろうな。
ボランティアってそんなに儲かるオイシイ職業なのか?
テレビ見てんの?
急に手が止まってるけど。
383 :
国連な成しさん:05/08/06 10:10 ID:i1dUyPl6
ニューヨークでの反戦活動もいいが、ニューヨーカーから見て、「東洋人は一体
何のパフォーマンスを遣ってるんだ?」てな扱いだわな。
広島、長崎の原爆で死んで逝った人々の無念や
原爆を受け生き残った人々の後遺症の傷の痛みは
受けたものにしか分からない
だから、この傷を受けてない我々も同じ一つ思いになるよう感じるべきだ!
なるほど
ピースボートスレのあらされ方は半端じゃないね
そういえば、ピースボートはイラク情勢と無関係なことはないからと、
削除人さんが結論を出し、ここは削除されなかった。
第一回目に、このスレが立てられて、すぐに削除依頼を出た。
そのスピードは半端なスピードじゃなかった。
しかし1度目の削除依頼が却下されて、それで普通は諦めるはずなのに、
まだ諦めきれずに、それを不服として再度しつこく嘆願書みたいな文章を書いて
削除依頼を出していた輩がいて
2度連発で削除依頼を出したのに、
削除人さんは、イラク情勢とピースボートは無関係ではないとまた削除をしなかった。
なんでピースボートスレだけ、そうまでして必死で何かから隠そうとするかのごとく
そうまでして削除したがるのか?
しかも驚くべきことに、ピースボートスレまだ削除依頼が出ている。
削除依頼ばかりするのは迷惑だろうに。
同時に削除依頼が出ているのは、
高遠さんのスレと
有機ヨードのイラク潜入ボランティアスレ
そしてピースボートスレ。
この3つを同時に削除依頼を出している。
なぜだろうか? 3つとも削除されないと何度も何度も決まっているのにね。
ピースボートって実際は怪しい活動してるんですか?
388 :
国連な成しさん:05/08/06 22:29 ID:pDOb8xAI
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
||千の9.11万の9.11で ||
||平和憲法を作って ∧_∧ いいですね。
||さしあげよう \ (゚ー゚*)
||________⊂⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
もっと面白いの貼ってよ
衆院選なら投票日は来月4日?11日?議員そわそわ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000215-yom-pol 郵政民営化関連法案の成立が依然厳しく、小泉首相が「否決なら衆院解散」の
姿勢を崩さない中で、各党・議員の関心が集中しているのが選挙日程だ。
9月4日もしくは11日の投票が有力だが、自民党内では「短期決戦」で4日を
望む声が強いのに対し、公明党は11日を強く希望し、与党内でも意見が割れている。
8日の参院本会議で法案が否決され、首相が即日解散した場合、憲法の規定で
40日以内に衆院選を行わなければならない。総務省は「都道府県選管への
説明会や掲示板・印刷物の発注など、公示の準備には最低2週間は必要」(幹部)
としている。
日曜の投票を前提とすると、選挙日程は「23日公示、9月4日投票」「30日公示、
9月11日投票」の2通りが想定される。
自民党内で推す声が強まっているのが、9月4日投票案だ。
武部幹事長ら執行部は、法案に反対票を投じた議員を公認しない方針だが、
亀井静香・元政調会長らは「新党も選択肢」と強調している。執行部としては、
できるだけ新党の準備を整えさせないため、4日案に魅力を感じるようだ。
首相官邸も「9月11日は米同時テロ発生から4年にあたり、『小泉自爆解散』
と言われる」として、4日案を推しているという。
しかし、この日程では、解散から投票までの期間が30日間を切り、政党や
候補者にとって「お盆休み返上の殺人的スケジュール」(自民党幹部)となる。
与党内でも、公明党は「9月4日投票では選挙準備が間に合わない。解散に
反対のところを受け入れるのだから、それくらいはのんでもらわないと困る」
(幹部)として、11日案を働きかける考えだ。
投票日を遅らせる方策としては、9月17日の「土曜投票」案もある。土曜投票は、
2000年6月の衆院選の際、当時の森首相が検討を指示したが、政府や与野党
から消極論が相次ぎ、頓挫した。もし今回、平日投票が行われれば、1969年の
衆院選以来、36年ぶりとなる。
小泉首相が8日に解散を決めても、天皇陛下の「解散詔書」を衆院が受け取る
手続きを9日に行えば、9月18日投票も可能となる。この場合、「過去に例が
ない」(総務省幹部)連休日の投票になる。
(読売新聞) - 8月7日0時19分更新
大阪〜広島 講演&観光(&取材)ツアー
http://reishiva.exblog.jp/ 大阪に講演(下記ご参照)に行ってくるついでに、原爆記念日の広島に行ってきます。
取材・撮影もしてきます。
・・・ああ、でもその前に片付けないといけない仕事が(^^; おまけに 「花火大会見に
いこうよー」等のお誘いもあるのだが、今忙しいので、帰ってきて原稿書いてからだね。
そんなこんなで、ちょい待って。いや、ちゃんと行くから。
多分。
で、4日の講演は、労組主催なのですが、一般参加歓迎とのことなので、お近くの方は
お気軽にご参加下さい。
8.4 PEACE Appeal 2005 「IRAQ 報道されない真実」
場所:中ノ島中央公会堂
時間:18時30分より講演、19:30よりパレード with サウンドカー
主催:RENGO OSAKA Yourth
# by rei_shiva | 2005-08-02 00:48 | シバレイな日々 | Trackback |
■特集放送、米批判も 世界がヒロシマ振り返る
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000077-kyodo-int 広島に原爆が投下されて6日で60年。米テレビがニュース番組で特集を組む
など、世界はさまざまな角度から「ヒロシマ」を振り返った。
米NBCテレビは5日夕の定時ニュースの中で、「原爆投下から60年」と題して
放映。B29爆撃機エノラ・ゲイが広島に原爆を落とす様子などの映像を交えながら、
死者数などを説明した。米CNNテレビは、広島の平和記念式典の模様を生中継した。
5日付のキューバ共産党機関紙グランマは、「原爆投下は(2001年の米中枢
同時テロによる)攻撃を上回るテロ行為だ」と米国を批判する記事を1面に掲載した。
ベネズエラのチャベス大統領も4日「世紀を超えて記憶される最悪のテロ」と米国を
非難した。
英国の反戦団体「核軍縮運動(CND)」は6日付の英紙インディペンデントなどに
1ページ広告を掲載、政府に核兵器廃棄などを呼び掛けた。(共同)
(共同通信) - 8月6日12時2分更新
これを利用して海外に逃避
または極秘に来日・・
ピースボートはテロリスト支援団体なのですか。
平和を求めるためにテロリスト支援とはおかしいような気がするが・・・。
核廃絶の志継承こそ責務 広島原爆の日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000089-kyodo-soci 被爆から60年の「原爆の日」を迎え、平和と核廃絶を願い営まれた
平和記念式典=6日午前、広島・平和記念公園
広島は6日、史上初めて原爆が投下されてから60年の「原爆の日」を
迎えた。爆心地近くの広島市中区・平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・
平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、秋葉忠利・広島市長は平和宣言で
「核廃絶に努力し続けた被爆者の志を受け継ぎ、果たすべき責任に目覚め、
行動に移す決意を」と呼び掛けた。
また戦争の放棄をうたった日本国憲法を「21世紀の世界を導く道標
(みちしるべ)」と位置付け、原爆慰霊碑の碑文の言葉を引用し、被爆60年の
節目の時に、「過ちは繰り返さない」との誓いを謙虚に再確認するよう求めた。
式典には国境や世代を超え、被爆者や遺族ら約5万5000人が参列。
投下時刻の午前8時15分、「平和の鐘」が打ち鳴らされると、参列者が
一斉に黙とうし、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。
(共同通信) - 8月6日14時1分更新
広島・原爆の日 「核廃絶」世界へ60年 「責任と決意」訴え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000073-nnp-kyu 広島は六日、史上初めて原爆が投下されてから六十年の「原爆の日」を迎えた。
爆心地近くの広島市中区・平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」
(平和記念式典)が営まれ、秋葉忠利・広島市長は平和宣言で「核廃絶に努力し
続けた被爆者の志を受け継ぎ、果たすべき責任に目覚め、行動に移す決意を」
と呼び掛けた。参列した子ども代表の岩田雅之君(11)と黒谷栞(しおり)さん
(12)は「わたしたちは、核兵器の恐ろしさを世界中の人々に訴え続けます」と、
「平和への誓い」を読み上げた。
式典には国境や世代を超え、被爆者や遺族ら約五万五千人が参列。投下
時刻の午前八時十五分、「平和の鐘」が打ち鳴らされると、参列者が一斉に
黙とうし、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。
「核のテロ」さえ現実視される中、五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議は、
軍縮と不拡散に何の成果も残せなかった。国内では平和憲法を見直す動きが
活発化、慰霊碑に刻まれた「過ちは」の碑文が傷つけられる事件も起きた。
秋葉市長は宣言の中で、十月に開かれる国連総会の第一委員会(軍縮)に
特別委員会を設置し、二〇二〇年までの核廃絶を実現する具体的なステップを、
一〇年までに策定するよう提言した。
五年連続の参列となる小泉純一郎首相に加え、衆参両院議長、最高裁長官の
「三権の長」が十年ぶりにそろってあいさつ。小泉首相は「在外被爆者への
支援を含め、援護施策の推進に努力する」と述べた。
河野洋平衆院議長は碑文に触れ、「過ち」とは「アジアの中で針路を誤り
戦争への道を歩んだこと」と、人類が核兵器を使用した事実の二つを意味する
と指摘した。
米国、ブラジル、韓国の三カ国と各都道府県から招かれた被爆者も参列した。
この一年間新たに死亡が確認された被爆者は五千三百七十五人。氏名が
書き加えられた原爆死没者名簿三冊が慰霊碑に納められた。死没者数は
計二十四万二千四百三十七人、名簿は八十五冊に。広島市内の被爆者の
平均年齢は昨年の七二・二歳から七二・八歳に上がった。
(西日本新聞) - 8月6日14時32分更新
<広島原爆忌>「継承と目覚め、決意の年」と市長が平和宣言
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000024-mai-soci 被爆地・ヒロシマは6日、60回目の「原爆の日」を迎え、秋葉忠利・広島市長は
平和宣言で「継承と目覚め、決意の年」を掲げた。核拡散防止条約(NPT)再検討
会議が決裂し、核兵器の拡散や新型開発への懸念が高まっていることについて、
「核保有国や核保有願望国が、世界の大多数の市民や国の声を無視し、人類を
滅亡に導く危機に陥れている」と批判。核兵器廃絶を求める被爆者の志を継承し、
国際世論を高めて国際社会を平和へ導くことを誓った。そのための行動として、
今秋の国連総会で、特別委員会設置を求める。
同市中区の平和記念公園で催された平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和
祈念式)には過去2番目の約5万5000人が参列。その前で秋葉市長は、核保有
を宣言した北朝鮮や、使用しやすい小型核兵器の開発を進める米国など8カ国を
厳しく非難。そのうえで、核兵器廃絶を目指す世界の都市でつくるNGO「平和
市長会議」の加盟都市が1080都市に急増していることなどを列挙。国際政治の
現実とは裏腹に、世界の人々が核兵器のない社会を求めていることを指摘した。
さらに、平均年齢が73.1歳に達した被爆者の志を「汝(なんじ)殺すなかれ」
の真理と述べた。「この真理を、国家や宗教を超える人類最優先の公理として
確立する必要がある」とした。さらに、「この真理を永久に採用した憲法は、
21世紀の世界を導く道標」と憲法改正への動きにもクギを刺し、日本政府に
核兵器廃絶と、在外被爆者問題の解決など援護策の充実を求めた。
式典は午前8時に始まり、秋葉市長と遺族代表2人が、この1年間に死亡、
または死亡が確認された被爆者5375人の名簿2冊を同慰霊碑下の奉安箱に
納めた。原爆死没者名簿は計85冊、死没者数は24万2437人に上る。
続いて、小泉純一郎首相、伊藤一長・長崎市長らが献花。原爆投下時刻の
午前8時15分、参列者は1分間の黙とうをささげた。その後、市内の小学生
2人が「平和への誓い」を朗読した。
あいさつに立った小泉首相は「平和憲法を順守し、国際社会の先頭に立って
核軍縮・核不拡散を推し進める」と明言。続いて河野洋平衆院議長は、「日本は、
アジアの中で針路を誤り戦争への道を歩んだ。その帰結の一つが原爆投下
だった」と、日本の戦争責任に言及した。
式典には核保有国のロシアなど過去最多の32カ国の駐日大使らが参加した。
【遠藤孝康】
◇在外被爆者、10年ぶりに出席
平和記念式典には、10年ぶりに広島市が招待したり、渡日治療中の米国、
韓国、ブラジルなどの在外被爆者や遺族らが出席した。在外被爆者への現行の
援護策は、被爆者手帳取得や手当申請のため一度は来日しなければならず、
高齢や病気の被爆者には大きな負担。この「来日要件」の撤廃が課題になっている。
韓国・ソウル市の朴源釦(パクウンク)さん(70)は、被爆時、広島市の国民学校
3年生。1人でいた自宅が突然崩れ落ち、頭を切って服は血だらけになった。
あまりの熱さで海に飛び込んだ後、家にあった布団を水に浸して逃げたという。
45年12月に帰国後、体調の良い日はないと言い、これまで3回、同市内の
病院などで渡日治療を受けた。
式典は初参加。「あまりの人の多さにびっくりしました。帰国後、朝鮮戦争が
あり、2度戦争を体験した大変な人生でした」と振り返った。
1歳で同市の旧西観音町(爆心地から約1.3キロ)で被爆したブラジル・サン
パウロ市の金子ユウさん(61)は「いつも被爆後何年たったかを(自分の歳と
一つ違いなので)意識する。亡くなった皆さんのために祈りたい」と語った。
【牧野宏美、中野彩子、武内彩】
(毎日新聞) - 8月6日14時45分更新
「原爆で人生台無し」 遺族・岸本さんが参列
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000015-ryu-oki 長年、原爆症で苦しみ亡くなった夫・久三さんの妻岸本芳子さん(右から4人目)と、
娘の規子さん(左から5人目)、孫ら=6日午前10時、広島市中区の広島平和記念公園
【広島で新垣梨沙】広島市に原子爆弾が投下された1945年8月6日から
15日の終戦日まで、爆心地周辺の被爆者の救援作業にあたり、長年、
原爆症に苦しみ亡くなった岸本久三さん(享年67歳)の妻・芳子さん(75)
=名護市=は、娘や孫らと共に「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和
祈念式」に参列した。「原爆で夫の人生が台無しになった。子どもたちにも
苦労をかけた。国にはたくさん文句を言いたい」。「宝物」の久三さんの
写真2枚を手につぶやいた。
久三さんは42年、19歳で県立三中を卒業。拓殖大学に在学中徴兵され、
45年8月当時は、広島市宇品の陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に所属して
いた。原爆が投下された時間帯は講堂の中におり、直爆は免れたが、
まだきのこ雲が残っていた6日午前から終戦の15日までの間、爆心地
周辺の被爆者の救援作業にあたり、残留放射能を浴びた。
戦後、古里の名護に帰り教師となったが、結婚して長女・規子さんが生まれた
あたりから、高熱や倦怠(けんたい)感、体のしびれなどの症状が出始めた。
外傷はなかったが、戦後の報道規制などで広島・長崎の被爆の事実が公に
されなかったことから周囲のつらい偏見や差別にも遭い続けた。
芳子さんは「治療費、生活費のために夫の父の土地を切り売りした。
実の母からも『フユーナームン』(怠け者)と言われ、本人は相当つらい思い
をした」と目を伏せる。
平和祈念式に参列するのはこれが二度目だが、「もう年で今回が最後」と
芳子さんは語る。母を気遣い、福岡から駆け付けた規子さん(54)は「父は
8月6日のことはあまりに悲惨すぎて言葉にならないと言ったが、戦争は
絶対にしてはいけないということだけは強調していた」
父の面影を振り返りながら、原爆の、戦争のもたらす苦しみと平和の尊さを
「子に伝えたい」と誓っていた。
(琉球新報) - 8月6日14時22分更新
原爆の掛け図 未来に託す 自ら被爆体験福知山の元教師
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000009-kyt-l26 原爆の悲惨な体験を描いた掛け図と、寄贈した妻の瀞さん(左)と道彦さん
自らの被爆体験を描いた掛け図で子どもたちに原爆の悲惨さを語り続け、
昨年亡くなった京都府福知山市の元男性教諭の遺作が、このほど遺族から
京都府原爆被災者の会(京都市南区)に寄贈された。大型用紙に描かれた
12枚の絵は、忘れてはならない60年前の広島の記憶と、未来に託す
平和の願いが込められている。
昨年3月、79歳で亡くなった福知山市牧、福井満夫さん。当時、軍の
見習士官だった福井さんは、広島市で訓練中に爆心地から約1キロの距離で
被爆した。戦後は福知山市の中学校で教諭をつとめ、子どもたちに被爆体験を
語り継いできた。
掛け図は「ヒロシマのゲンバク」と題し、横1・6メートル、縦1・1メートルの
12ページ。「全身を殴られる衝撃が続き、空気が焼けた」という原爆さく裂の
瞬間や、崩れ落ちた広島城の天守閣、街を包み込む猛火など、自らの体験を
語る場面ごとを、迫力ある絵で表している。
多くのけが人で埋まった救護所の場面では、助かる見込みがないため
処置しないよう体に赤チンで番号が書かれる重傷者が、痛々しい姿で描かれ
ている。最後は、ふるさとの山からミズゴケを抱えて駆けつけた母が、急性原爆症
の息子の体を冷やそうと懸命に看病し、やがて死んでいく姿で幕を閉じる。
掛け図は1978年に作製されてから福井さんガンで亡くなる前年までの25年間
にわたり、福井さんが語り部で訪れた京都や滋賀の小中学校で使われた。
府原爆被災者の会では、掛け図と残された台本を使ってビデオに残し、被爆体験
の継承に役立てていくという。
妻の瀞さん(76)は「夫に病名を告げた時、しばらくベッドに正座し、涙を流した。
無念だったのでしょう。子どもに託した平和な時代がいつまでも続くことを願って
やみません」と静かに語り、長男の医師、道彦さん(49)は「晩年はどんなに
体調が悪くとも子どもに話すことに力を捧げた。まだ、伝え続けたかったと思う」
と振り返った。
(京都新聞) - 8月6日11時40分更新
本で語り継ぐ戦争 彦根で200冊展示
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000004-cnc-l25 【滋賀県】彦根市尾末町の市立図書館で、企画展「戦争と平和を考える」が
開かれている。21日まで。
同館が所蔵する戦争や平和をテーマにした本を多くの市民に見てもらおうと、
終戦記念日が近づくこの時期に毎年企画している。
1階フロアの会場では第2次世界大戦や原爆を扱った書籍をはじめ、
戦争をテーマにした漫画「はだしのゲン」や紙芝居など約200冊が並ぶ。
その場で親が子どもに読み聞かせたり、手に取って静かに読みふける
来館者の姿が見られた。
このほか会場では、県内の空襲被害の規模を示した解説パネルなどを
展示している。月曜は休館。(島 将之)
(中日新聞) - 8月6日13時51分更新
上映会:「歴史を風化させない」 戦争映画5本−−きょうから、福井で /福井
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000236-mailo-l18 ◇きょうから19日まで
戦争を描いた映画の上映会「日中戦争、太平洋戦争を忘れない 歴史を
風化させないために」が6日から、福井市順化1のメトロ劇場で行われる。
19日まで、「土と兵隊」「真空地帯」「ビルマの竪琴」「戦場のメリークリスマス」
「鬼が来た!」――の5本。
「土と兵隊」(1939年)は、中国を行軍する日本軍を描いた国策映画。
戦時中、国民がどのように戦争を知らされていたかを知ることができる。
「真空地帯」(52年)は、召集された青年が訓練され帝国軍人として送り出
されるまでの、野間宏の小説を映画化。「ビルマの竪琴」(56年)は、
敗走する日本軍の物語を美しい琴の音色とともに描く。
「戦場のメリークリスマス」(83年)は、42年のジャワでの日本軍の俘虜
(ふりょ)収容所と、46年の戦犯拘置刑務所での極限状態での兵士たちの
心情を描く。大島渚監督。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしらが出演。
「鬼が来た!」(00年)は中国北部の山村に預けられた日本兵の捕虜と
対応に苦慮する村人をコミカルに描いた、00年カンヌ映画祭グランプリ作品。
主催の福井映画サークル協議会とメトロ名作上映会は「戦争の事実、悲惨さ
を記憶にとどめ、平和を考えるきっかけになれば」としている。
ビルマの竪琴=6〜11日午前11時、午後1時10分▽土と兵隊=12〜15日
午前11時▽鬼が来た!=16〜19日午前11時▽戦場のメリークリスマス=
6〜11日午後7時半、12日同1時10分、同7時半▽真空地帯=13〜19日
同7時半――。当日一般1200円、学生1000円。
問い合わせは同劇場(0776・22・1772)。
【樋口岳大】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時42分更新
ヒロシマ原爆60年 星野村でも広島の火囲む
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000071-nnp-kyu 被爆直後の広島で採られた「平和の火」をともし続けている福岡県星野村の
星のふるさと公園でも六日、原爆死没者を慰霊する同村主催の平和式典が
あった。被爆六十年を迎える今年は、詩の朗読会なども開催し、参加者たちは、
思いを新たに平和の尊さを語り継ぐことを誓った。
平和の火は昨年五月、八十八歳で亡くなった同村の山本達雄さんが、
叔父を捜して被爆直後の広島に入り、焼け跡にくすぶっていた炎をカイロに
入れて持ち帰った。一九六八年からは村が管理している。
式典には約三百五十人が参列し、原爆投下時刻の午前八時十五分、
全員で黙とう。秋葉忠利・広島市長のメッセージが読み上げられた後、
山本さんの長男郁雄さん(60)が「『人間同士が殺し合う愚かなことは、
もうやめにゃいかん』と語った父の言葉をあらためて皆さんに伝えたい」と訴えた。
その後、同村総合保健福祉センターで、紛争地域の地雷の悲惨さをつ
づった詩の朗読会や児童らによる平和をテーマにした合唱会を催した。
(西日本新聞) - 8月6日14時32分更新
被爆60年:平和への思い、石川県原爆被災者友の会・西本多美子さんに聞く /石川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000230-mailo-l17 ◇「記憶、風化させてはならない」語り部として各地へ
−−石川県原爆被災者友の会事務局長・西本多美子さん(64)
原爆投下から60年。当時4歳だった石川県原爆被災者友の会事務局長、
西本多美子さん(64)=金沢市額谷3=は、広島市段原末広町の自宅で
被爆した。家を失ったが、奇跡的に家族も含めて大きな負傷は免れた。
移り住んだ石川で今、原爆の語り部として活動を続ける西本さんは
「数少なくなる被爆体験者として、原爆の実情を伝えていきたい」と語る。
【聞き手・花牟礼紀仁】
「B29だ」という近所の男の子の声がして、窓の外を見に行った母の後に
くっついて行きました。2、3歩内側に下がった瞬間「ピカッ」。カメラのフラッシュを
千も二千も光らせたような銀白色のせん光は、子ども心にも強く印象に残っています。
家は壊れましたが、市外の勤め先にいた父、姉はじめ、家族7人に幸い大きな
けがはありませんでした。市街地と私が住んでいた地区(爆心地から2・3キロ)
の間には山があり、その陰になったため、市街地のような惨状にはならなかった
のだと思います。
27歳で結婚し、初めて広島を出ました。31年前、夫の転勤で金沢市に住み、
そこで被爆者に向けられる「世間の目」を初めて意識するようになりました。
広島では、被爆者であることを隠す人はいませんでしたが、石川では自ら
語ろうとする人は少ない。子どもや家族への偏見を恐れてのことです。
かつて約250人いた石川県原爆被災者友の会も、現在は149人まで減り、
平均年齢は70歳代半ばとなりました。「このまま原爆の記憶を風化させては
ならない」との思いから、語り部としての活動を続けています。
地元の小中学校はじめ、英米やロシア、ギリシャ、コスタリカなどでも子ども
たちに体験を伝えています。ワシントンの小学校で、「サダコ(「原爆の子の像」
のモデル)の話を知ってる」と聞くと、口々に「知ってる」と返ってきました。むしろ、
日本の小学生の方がこういうエピソードを知らない。
知り合いの教員は校長から「平和教育を控えてくれ」と言われたそうです。
教育現場での締め付けがそうさせているのでしょう。日本の子どもたちも、
私たちが話すと、とても熱心に聞いてくれるのです。これからも、核兵器廃絶を
信じて語り継いでいきたいと思います。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時41分更新
被爆60年:平和への思い、県被爆者協議会事務局長・田島正雄さんに聞く /富山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000225-mailo-l16 ◇今も耳に残って離れない「助けてくれ」の声−−田島正雄さん(77)
原爆投下から60年。広島市民に加え、出征や学徒動員で赴いた人、投下後に
救援で向かった人ら、数多くが犠牲になり、生存者も体や心に計り知れぬ“傷”
を負った。現在、富山県被爆者協議会事務局長を務める田島正雄さん(77)=
富山市水橋新町=も被爆者の1人。核兵器廃絶を願い、講演活動などを続ける
田島さんに、当時の体験や平和への思いを聞いた。【柳沢和寿】
「その時」を田島さんは、広島県・江田島(爆心地から約15キロ)にある陸軍宿舎
で迎えた。学徒動員で実家のある富山を離れ、陸軍船舶特別幹部候補生隊に
配属。朝から兵舎内で、部隊の出動準備に従事していた。
「突然、ものすごいせん光を受け、体全体に熱さを感じた。直後に『ドカン』と
大きな爆発音が響き、暴風に襲われた。落ち着いてから辺りを見ると、兵舎の
天井や窓が吹き飛んでいた」。幸い、けがはなかった。
「広島に敵の新型爆弾が落ちた」との情報だけを元に、部隊が船で急行した
司令部のある宇品港(爆心地から約4キロ)では、既に多くの兵員が死亡または
負傷。爆心地へと移動し、遺体の整理や倒壊家屋からの負傷者救助などを続けた。
「爆心地に近づくほど生存者は見つからなくなった。『兵隊さん、水をくれ』と
頼まれて飲ませると亡くなる人も多く、途中から水を与えぬようにしたのがつらかった」
原爆投下から4、5日後の救助活動中に激しい下痢、脱毛に見舞われた。
数日で回復したが、終戦後に富山へ戻り2年近く過ぎた1947年春、今度は
激しい熱を伴う肺炎を患った。約2カ月間入院し、退院後も体のだるさが続いた
という。「当時は『被爆者』という言葉すら知らず、何が原因かわからぬまま。
被爆の恐怖について知ったのは、戦後だいぶ経ってからだった」と振り返る。
我が身の被爆に改めて不安を抱いたのは、二十数年前に孫が生まれた時。
「そのころ、ようやく放射能の恐ろしさを知るようになっていたので、無事に生ま
れるか心配だった。でも、おかげさまで健康に育ってくれてます」と笑顔を見せる。
20年ほど前から県被爆者協議会の活動に参加。さまざまな場で自らの体験を
話すなど、多忙な日々を送っている。
「女性や子どもの遺体も、数多く見た。『なぜ、この人たちはこんな目に遭わ
ねばならぬのか』と。人々の『助けてくれ』という声は、今も耳に残って離れない」。
講演の最中、涙をこらえきれなくなることも多い。
「二度と核兵器を使わせたくない。被爆二世や三世にもどんな影響が出るか
わからず、それこそ人類滅亡につながりかねない。平和がいかに大切かを
伝えていくことが、私たちの役目です」。60年前の光景を目の前に浮かべつつ、
力強く語った。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時35分更新
戦後60年の原点:長崎爆心地1.7キロで被爆、葛飾区・長岡和幸さん /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000016-mailo-l13 ◇生き残った者の宿命 廃絶へ被爆体験語り継ぐ−−長岡和幸さん(71)
原爆が落ちた時、父は出征中で、残りの家族、私と母、弟4人、妹1人の7人は
みな、長崎市内の家にいた。家は洋服店で、私は台所近くで母親が昼食を作る
のを手伝っていた。
その時、音は無く真っ白い光に包まれた。2、3秒。最初、家族と表通りの方に
出たが、真っ白い光に包まれていたので、「そっちに行くな、こっちだ」と言って、
急いで裏手の竹やぶに逃げ込んだ。その後、ものすごい爆風が襲いかかり、
家族全員が竹林の根元にうずくまっていた。幸い全員けがは無かった。ただ、
爆風が過ぎて家に戻ると、家の正面玄関のガラスの戸が粉々に砕けていた。
それから家族で200メートルほど離れた避難所へ逃げ、一晩を過ごした。
私は58年に東京へ出てきた。その2年後に結婚して、娘が2人生まれた。
娘が出来た時は、被爆の影響が出ないかと心配だったが、健康な子で本当に
ほっとした。その娘たちはいずれも専業主婦で孫が4人いる。
今、他の被爆者10人と地元の小中学校で毎年夏休み前に、被爆体験を
語ったり、被爆者運動の総会のチラシを作っている。そういう時、娘がチラシを
作ってくれ、娘たちの夫も「父親を手伝ってあげなさい」と言ってくれる。本当に
感謝している。
私はどういう形でも、戦争には反対だ。核の抑止力なんかに守られている
ようでは、本当の平和ではないと思う。
核廃絶は実際は難しいのかもしれない。しかし、被爆者として私は、あの時
死ななかったことを「生かされている」と思って核廃絶を訴える。それが生き
残った者が背負った宿命と感じる。【聞き手・反田昌平】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時31分更新
戦後60年・鳥取:広島・長崎の悲惨さ、魂に刻もう−−被爆の戸田重治さん /鳥取
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000250-mailo-l31 ◇20世紀の一番大事な教育現場−−広島で被爆の戸田重治さん(81)=米子
ヒロシマに原爆が落とされてから、6日で60年がたった。旧日本軍の鉄道隊員
だった戸田重治さん(81)=米子市宗像=も、広島市内で被爆して白血球が
少なくなり、2カ月間の療養を強いられた。「広島と長崎は、20世紀で一番大事な
教育現場」。爆心地から2・2キロで放射能を浴びた当時21歳の生き証人は、
広島で14万人、長崎で7万人の命を一瞬に奪った“悪魔の兵器”廃絶に向け、
60年前の惨事を語り、平和の大切さを静かに訴えた。【山下貴史】
あの日は午前6時半ごろに起きました。掃除をして、顔を洗って、食事を済ませ
てから、8時過ぎに広島市楠木町にあった兵舎(今の私立崇徳高校)2階の教育隊
長室に行きました。
私は山口県萩市生まれで、萩市立商工実業学校を2年で中退後、鉄道省下関管区
に奉職しました。昭和18(1943)年10月に徴兵検査に甲種合格しましたが、機関士
だったこともあり、広島市の東部駐屯派遣大隊の鉄道隊に入りました。
6日に上官の部屋に行ったのは、前日までの出張報告をするためです。出張先で
もらったトマトと大豆を上級班長と同僚に上げて、隊長が来るのを待っていました。
その時でした。
◇せん光で気絶、兵舎の下敷きに
白熱でしかも黄色のせん光が、一瞬にして部屋中に広がりました。まぶしくて、
私は廊下に飛び出し、かがみました。爆風が窓側から一気に入り、ザザザー、
ザザザーという大きな音がしました。まるで将棋の駒が倒れていくように、瓦や板
が飛び、木造2階建ての兵舎は吹っ飛び、私は気絶してしまいました。
どのくらいたったのか。目の前に光のようなものが、すうっと、私に向かってきました。
つねってみても痛くない。ここは地獄だろうか、極楽だろうか。すると中隊長の声が
聞こえました。私は兵舎の下敷きになっていたのです。はりとはりの間のすき間に
落ちたため、助かりましたが……。
太田川の土手道には、顔が火ぶくれた人、皮膚が焼けてぶら下がっている人が
たくさんいました。約4キロ先の長束村(現在の長束町付近)に歩いて向かう途中、
川で顔を洗うと、手のひらが血で染まりました。頭や顔にけがをしていたんです。
◇背中にガラス片、死体焼くにおい
小高い山の上のお堂を目指してはっていくと、天ぷらを揚げたように皮膚が
ただれた人、背中にガラスの破片が刺さった人が40〜50人はいました。山の上
からは広島港が良く見えました。街にはぽつ、ぽつと、青い火が5、6カ所上がって
いました。死体を焼くにおいもしました。戦争に負けると思いました。
玉音放送は、長束村の民家で聞きました。進駐軍にどこかへ連れて行かれる
のではと思いましたが、これで明かりを自由につけていいんだなとホッとしました。
20日ごろだったと思います。母のシゲが1人で萩から汽車を乗り継いでやって
来ました。母は私の遺骨を持って帰ろうとしたそうです。「よう生きとった。よう
生きとった」と。29日に無期休暇で除隊しました。
◇惨劇の記憶伝え、平和国家作ろう
戦後は国鉄に戻り、米子市議を8期務めました。昭和50(75)年に被爆者手帳
をもらい、健康管理手当を受給しています。現在は常に健康管理をして、最大限
努力していくしかありません。
10回ぐらい体験を話しました。被爆の記憶は風化しています。被爆経験がない
から、今の人は原爆の悲惨さを分からないのかもしれません。原爆投下は、
二度と戦争してはいけないということを日本人の魂の中に刻んだ悲劇ですが、
政府はイラクに自衛隊を派遣するなど憲法9条をないがしろにしています。
広島と長崎に行って原爆がどれだけ悲惨だったか、若い人たちにはその実相を
学んでほしい。修学旅行などを利用して広島と長崎に行ってもいい。現場に教材は
あります。広島と長崎は、20世紀の中で一番大事な教育現場です。平和国家を
作るため、社会全体で原爆を勉強することが、今こそ求められているとの念を
強くしています。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時5分更新
’05湖国・平和考:被爆60年への思い、大津在住の2人に聞く /滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000311-mailo-l25 ヒロシマは6日、ナガサキは9日、60回目の原爆忌を迎える。陸軍に入隊し、
広島駐屯中に被爆した大津市中央の小寺博さん(81)と、学徒動員中に長崎
市内で被爆した大津市日吉台の杉野佳志さん(79)に当時の状況や、被爆60年
の思いを聞いた。
◇「戦争は最大の人権侵害」−−大津出身・小寺さん
小寺さんは大津市出身で、陸軍入りして44年12月に広島へ。45年8月6日、
爆心地から約1・3キロの地点で被爆した。
1等兵だった小寺さんは、現地で負傷者の搬送に当たった。激痛にのたうち
回ったり、やけどで皮膚がただれた人々が無数に並び、倒れてゆく光景が、
今も印象に残る。「いっそ一思いに焼け死んだほうが楽だったのかもしれない」
と思うほどだったという。
58年に県被爆者友の会を設立。会長として「再び被爆者を出さないため」と
写真展の開催やスピーチ、デモ行進など、精力的に活動を続ける。
体験を語り継ぐ上で、障壁も少なくない。「被爆者は被爆という1点だけでつな
がっている」。個々の思いはさまざまで、社会的差別などが原因で表に出たがら
ない人も多い。小寺さんは「被爆者は肉体以上に精神を痛めつけられている。
戦争という国家の行為で傷ついたのに国は十分な対応をしてきたのか。最近は
国会などでも被爆者支援が大きな話題になることもなく、現状では身の不幸と
あきらめるしかない」と語る。小寺さんは次世代へ向けて、「戦争は最大の
人権侵害。再び繰り返さないために、国民は声を上げていくべきなのに、
最近の『自分さえよければ』という風潮が心配」とメッセージを送った。
【高橋隆輔】
◇「人生で一番の悲惨な体験」−−神戸出身・杉野さん
杉野さんは、神戸市出身。松山経済専門学校(現在の松山大学)在学中の
1944年、学徒動員で長崎市の三菱長崎造船所に行き、魚雷艇の製作に従事した。
45年8月9日午前11時過ぎ、いつものように造船所の2階で作業していると、
窓の外が真っ赤になり、数秒後爆風で建物が大きく揺れた。とっさに床に伏せ、
再び顔を上げると、造船所中の窓ガラスが割れ、鉄製の窓枠がアメのように
変形、床の上に工具類が散乱していたという。
「とにかく逃げなあかん」。そう思い、近くの防空ごうに向かう途中、けがをした
のか工員ら数人が岸壁から海に飛び込むのを目撃したという。杉野さんは幸い、
背中に爆風で飛ばされた木片が刺さった程度のけがで済んだという。
終戦の日の晩、憲兵隊らしき兵士が寮にやって来て「われわれは降伏しない。
一緒にやってくれ」と話し、学生らも「僕たちもがんばる」と答えたという。
しかし、造船所にいることも出来ず、学生たちはいったん郷里に帰ることにした。
この時、原爆で焦土と化した街を目の当たりにし、初めて投下された特殊爆弾の
威力を知った。
杉野さんは「人生の経験の中で、一番大きな体験が原爆に遭ったこと」と
言い切る。「一緒に学徒動員で行った学生の多くは途中で、召集され兵隊として
亡くなった人もいる。私は軍隊には行かなかったが、原爆に遭ってしまった。
たまたま命があったという気がする。そんな経験から、どんな悲惨な出来事も
乗り越えられる。それを信念にして、これまでずっとやってきました。子や孫ら
にも困難にあった時、そう考えるよう言ってきました」と静かに語った。
【高田房二郎】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時10分更新
戦後六十年展:旧日本陸軍の銃弾、薬きょうから「平和」の紙片−−下市 /奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000284-mailo-l29 下市町下市、町アメニティセンターで開催中の「戦後六十年展―振り返って
みよう! あの日あの時」で、銃弾の薬きょうに入れられていた「平和」と
書かれた紙片が展示されている。町文化連盟副会長の大西一則さん(50)が、
中学生だった36年前、友人から譲り受けた。上質な紙で、戦後に入れられた
ようだ。大西さんは、「どんな思いがあったのだろうか」と話している。
旧日本陸軍の三八式歩兵銃で、弾(長さ約6・5センチ)は2発あった。薬きょう
には火薬が残っていたため「危険だから抜こう」とピンセットで外し、内側に
巻かれた白の紙片に気づいた。「平和」の文字は鉛筆書きで、丁寧に書かれて
いた。
当時、教師に見せると「三八式小銃の弾。軍需工場に動員された女学生が
入れたのでは」と話したという。しかし防衛庁防衛研究所では「紙を黒色火薬に
長く入れると黒くなる。弾は機械で作られて抜き取り検査し管理は厳重だった。
紙を入れると不発、暴発し責任を問われる」と、戦時中に入れられたのでは
ないと説明する。
「六十年展」には、千人針、志願兵募集のポスターや同連盟の菊田仁郎会長が
収集した戦争中の新聞なども展示。9月30日まで(午前9時〜午後5時)。
土日曜、祝日休み。問い合わせは同センター(0747・52・8234)【栗栖健】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時5分更新
原爆・私の証言:垣貞博子さん/妹尾要さん /岡山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000261-mailo-l33 60年前にあった戦争の最大の惨禍(さんか)である広島、長崎への原爆投下。
広島県と県境を接する岡山県にとっても、それは決して対岸の火事ではなかった。
県内には今も大勢の被爆者が暮らし、「8・6」を語り継いでいる。岡山市被爆者会
副会長の垣貞博子さん(76)=岡山市あけぼの町=と、県原爆被爆者会会長の
妹尾要(かなめ)さん(74)=同市北幸田=の2人に、改めて当時の惨状を語って
もらった。
◇体の左側、次々に発病−−岡山市被爆者会副会長・垣貞博子さん
当時、女学校の4年生で、爆心地から2・5キロ離れた航空機部品工場で作業
をしていました。工場の北西側に窓があり、青白い光に気付いて窓の方を見よう
とした瞬間、オレンジ色の光が迫ってきて伏せました。建物は倒壊し、体のすぐ横、
3センチくらいのところに梁(はり)が落ちてきました。
外へ出ると、急ごしらえの救護所に目を開けられないほどに顔を白く腫らした
友人が横になっていました。熱線でやけどすると白くなるんですね。おなかを
パンパンに腫らしたブタの死がいのような感じでした。全身に大きな水ぶくれを
何個も付けた老人が歩いていました。何が起きたのか分かりませんでした。
帰宅すると、全身にやけどを負い、顔の皮をあごからぶら下げた妹(13)が
いました。妹は女学校1年で、爆心地近くで野外作業中、熱風の直撃を受け
ました。私は頭がボーっとしていて、なぜか「かわいそう」と思いませんでした。
「外にいるのと同じようなのが家にもいるな」と。妹はその夜、息を引き取りました。
翌朝、打撲で体中に痛みが走り、寝返りも打てないほどになりました。私は
痛さで「妹と代わってあげるから殺して」と言ったのですが、今は、どんな思いで
両親はその言葉を聞いただろう……と思います。
5年後に故郷の岡山に戻りました。40年ほど前から卵巣膿腫(のうしゅ)、
乳房の腫瘍(しゅよう)、緑内障と発病し、大腸ガンにもなりました。当時、
爆心地の方に向いていた体の左側ばかり。被爆の影響だと思います。
これまで原爆のことは思い出したくないので、語りませんでした。しかし十数年
前、名古屋に暮らす孫から「聴かせてほしい」と電話があり、初めて被爆体験を
話しました。「誰かが話さなくてはいけない」と思いました。市被爆者会での活動も
始め、語り部をしています。
若い人には私のような苦労はさせたくないです。私だけでたくさん。戦争さえ
なければ、あんな恐ろしい原爆を使うことはなかったはず。戦争だけは絶対に
嫌です。【構成・若狭幸治】
◇60年間、頭離れぬ不安−−県原爆被爆者会会長・妹尾要さん
あの日の朝、私は国有鉄道の広島駅で広島車掌区の同僚ら約40人と線路に
下り、いつものようにラジオ体操をしていました。空がピカッと光ったかと思うと、
ドーンという轟(ごう)音が響き、訳が分からないまま数メートル吹き飛ばされ
ました。気付いたら腕や脚が熱くなっていて……。本当に一瞬の出来事でした。
私は満鉄に就職しようと思い、1945年4月に広島県三原市の私立糸崎鉄道
学校に入学しました。広島車掌区の鉄道員として学徒動員されたのは7月下旬
です。8月4日に岡山市北幸田の実家にいったん帰省し、下着などの忘れ物を
持って6日早朝に広島に戻った途端、被爆したわけです。これも運命だった
のかもしれません。
やけどの痛みで「あちー」と声が出て、倒れたまま泣きました。周囲を見回すと、
駅舎の屋根は崩れ、同僚らはうつぶせになって倒れています。とにかく避難
しようと思い、みんながばらばらになって走りました。至る所が燃えており、
空襲で一面に爆弾を落とされたのかと思いました。1発の爆弾の被害だとは
今も信じられません。
広島駅の二つほど隣の駅まで走り、動いていた貨物列車で夕方ごろ広島県
三次市まで逃げました。国民学校が教室いっぱいにけが人を収容しており、
私も毛布1枚で寝ました。周囲の大人から「特殊兵器で死者が相当出た」と
聞かされ、恐ろしくなりました。
健康な人が後から市に入り、被爆して亡くなった例もあります。私はすぐ
市外に脱出できたのが良かったのかもしれません。でもいつ倒れるかと心配し
続けてきました。被爆の影響か、20年ほど前から狭心症で月1回病院に通って
いますし、将来の健康にも不安があります。この60年間、原爆が頭から離れた
ことはありません。
次の世代には戦争や核兵器のない平和な世界をつくってほしいと思います。
核兵器を廃絶できないとしても、核の恐怖を伝え、話し合いで争いを解決して
ほしいと願っています。
【構成・四谷寛】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時20分更新
追憶・戦後60年目の夏に:「戦争嫌い」作りたい−−童話作家・山本さん /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000307-mailo-l30 ◇悲惨さ、子どもに−−岩出の童話作家・山本真理子さんに聞く
◇きょう広島原爆忌
1945年8月の広島、長崎への原爆投下から60年。自身の被爆体験などを
基にした童話を執筆し、原爆の悲惨さと平和の尊さを訴え続ける岩出町の
童話作家、山本真理子さん(78)に当時の記憶や今の思いなどを聞いた。
【聞き手・岸川弘明】
◇被爆、がれきの下敷き
姉と二人、自宅(広島市打越町208、爆心地から約1・8キロ)の茶の間で
朝食を取っていました。窓の向こうにすごい閃光(せんこう)が見えて。光った
なと思った瞬間、もう吹き飛ばされていました。もちろん何が起こったのか
わかりません。一時的に目が見えなくなり、耳も聞こえなくなりました。気が
付いたらがれきの下敷きに。屋根の瓦の中に首まで埋もれました。
どれくらい時間がたったのかわかりません。「真理ちゃん、真理ちゃん」と
叫ぶ声が聞こえました。姉の声でした。後で聞いたんですが、姉は光った瞬間、
ちゃぶ台の下に身を隠したそうです。
私を見つけると、姉は泣きながら周りにある瓦を一つずつ取り除き、私を
引き出してくれました。姉もけがをしていました。足の傷から血がどんどん
流れていて。私を助けるのに必死で、自分のけがには気がつかなかった
のでしょうね。今度は私が泣き出してしまって。二人ともよく命が助かったなと
思います。
◇後遺症をずっと心配
被爆の体への影響はずっと心配でした。私には子どもが3人いますが、
幸い影響が出なかった。それでも、小さい時は子どもが風邪をひいただけで
被爆の影響かもしれないと思ったほどです。
今はもう大丈夫だけど、若いころは雷の音やカメラのフラッシュが怖かった。
それと、何か物が上から落ちてくるのではという不安感。初めて入る建物を
くぐる時は、「もしかしたら崩れてくるのでは」となかなか入ることができなかっ
たんですよ。
若いころは、それはもう「アメリカ憎し」でした。でもね、それでは憎しみの
連鎖を生むだけだって気づいたんですよ。それよりも、原爆の悲惨さを伝える
ことの方が大事だって。
◇核兵器はなくせる
原爆を知らないっていう若い人をテレビで見たことがあります。原爆の記憶は
確実に風化していると思います。広島、長崎に落とされたのはいわば「原爆の
赤ちゃん」。今の核兵器はその何千、何万倍の威力を持っているんでしょう。
使用すれば、人類が全滅してしまいますよ。それなのに今でも核実験は続いて
いるのだから。
でも、核兵器をなくすことは可能です。だって人間が作ったものでしょ。人間が
作るのをやめたら済む話です。自然災害などとは違うんですから。
若い人たちに原爆の悲惨さを知ってほしくて、私は小中学校などを回って
語り部みたいなことをしています。「戦争嫌いの子どもたちを作ること」。
それが私の使命だと思っています。
………………………………………………………………………………………………………
■人物略歴
◇やまもと・まりこ
和歌山市出身、和歌山高等女学校卒。童話作家。陸軍に勤務していた
父の転勤で広島に住んでいた18歳の時、被爆した。主な著書に「広島の
姉妹」「広島の母たち」など。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時15分更新
原爆:園児ら「平和の祈り」 広島原爆の日を前に追悼−−松江 /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000244-mailo-l32 広島原爆の日を前に、多くの被爆者を子どもたちが追悼する「平和の祈り」が
5日、松江市の松江カトリック教会であった。教会に隣接する「松江暁の星
幼稚園」の園児約100人が平和を願い、小さな手のひらを合わせた。
同幼稚園の園長も務める原田豊己神父(51)は、原爆を描いた絵本
「おこりじぞう」(山口勇子作)を読み聞かせた。被爆して全身が焼けただれた
女の子が、死ぬ間際に「水が飲みたい」と道端に立っていた地蔵のもとへ
倒れ掛かると、地蔵は仁王のような怒りの顔を見せて涙をぽろぽろとこぼし、
涙を女の子の口へ運ぶ――。
「戦争をすることで、戦争と関係ない女の子が原爆を受けて死んでしまう。
地蔵はそのことに怒ったんです」。原田さんはそう語りかけ、川中淳太ちゃん
(5)は「爆弾がなかったら、女の子は死ななくてすんだのに」と話した。
【酒造唯】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時15分更新
広教組関連ホテル発砲事件:発生1年、解決に至らず−−広島・東区 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000263-mailo-l34 県教職員組合(広教組)の関連団体が運営するホテル「東方2001」=
東区光町2=を狙った発砲事件は、6日で1年を迎えるが、容疑者逮捕には
至っていない。8月6日の祈りの朝を銃弾で切り裂く凶行に市民の怒りは
いまだに大きく、付近に住む女性会社員(43)は「銃を使ってしか自己表現
できない犯人は情けない」とば倒した。
事件は、昨年8月6日未明に発生。内外で二重になっている同ホテル玄関
の自動ドアの外側ガラス1枚が粉々に割られ、内側から銃弾2発が見つかった。
広島東署捜査本部は、銃弾はロシア製拳銃「マカロフ」で、銃弾は38口径と
みている。
同本部は、現在も聞き込みなどを進めている。捜査員は「暴力で社会活動を
封殺しようとする許されない犯行だ」と改めて検挙を誓う。
同ホテルの支配人は「今年4月に委託運営業者が変わった。私は事件に
ついてはほとんど知らない。嫌がらせもまったくない」と話す。昨年、平和記念
式典に出席するために小学生などを引率して関東地方から来た市民団体は、
今年も同ホテルを利用。引率した男性は「ホテルを変える考えは全くなかった。
今年は静かに平和を祈りたい」と話した。【吉川雄策】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時20分更新
ろうそく手に核兵器廃絶や世界平和 中京区の三条大橋で反戦活動
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000055-kyt-l26 ろうそくをともし、戦争の犠牲者を追悼する参加者たち
(6日午後7時半、京都市中京区・三条大橋)
広島への原爆投下から60年目を迎えた6日、京都市中京区の三条大橋で
市民有志がろうそくを手に原爆犠牲者を弔う反戦活動「キャンドル・ビジル」
を行った。多くの人出でにぎわう週末の三条大橋に平和の火が静かにともった。
2001年9月に起きた米中枢同時テロ後の世界平和を願い、団体職員や
学生らが同年結成した市民団体ピースウォーク京都の主催で、「原爆の日」の
活動は初めて。ビジルは「寝ずの番」や「通夜」などの意味で、反戦の意思
表示活動として世界に広がっている。
核兵器廃絶や世界平和を願う親子連れやお年寄り、若い人たち約50人が
参加し、ペットボトル製のカバーをかけたろうそくを手に三条大橋に立った。
「PEACE」や「核兵器のない世の中を」などと書いた手作りの看板を掲げ、
通行人に平和の尊さを訴えた。
京都市左京区のアルバイト浅井桐子さん(49)は「今なお、多くの犠牲者が
出ている戦争の実態をあらためて考えたい」と話していた。
(京都新聞) - 8月6日22時9分更新
広島の鐘、静かに鳴り響く=原爆犠牲者に祈り−ドイツ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000012-jij-int 【ベルリン6日時事】広島への原爆投下から60年に当たる6日、ドイツでは
キリスト教団体や平和活動家らが未明から広場などにろうそくをともしたり、
第2次大戦で空襲を経験した人々らが教会を訪れるなどし、各地で原爆
犠牲者に祈りがささげられた。
原爆投下時刻の午前1時15分(日本時間同8時15分)、広島の姉妹都市、
北部ハノーバーの教会では、犠牲者をしのび、広島から贈呈された鐘が
3回静かに鳴り響いた。
(時事通信) - 8月7日7時1分更新
原爆誕生地で反核デモ=「ヒロシマ、ナガサキを後悔」−米
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000016-jij-int 【シリコンバレー6日時事】広島への原爆投下から60周年を迎えた6日、
人類初の原爆を製造したロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)など
米国内の原爆ゆかりの地で、核廃絶を求める抗議行動が繰り広げられた。
研究所周辺には平和団体関係者ら500人以上が集まり、「ヒロシマ、ナガ
サキ(への原爆投下)を後悔する」「石油を求める戦争をやめよ」と書かれた
プラカードを掲げて抗議。日本の被爆者も駆け付け、「広島、長崎の悲劇を
繰り返さないで」と訴えた。
(時事通信) - 8月7日9時1分更新
被爆した「友のため歌った」=鎮魂の祈り、初の野外コンサート−平和公園で・広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000112-jij-soci 「平和の聖地」に力強い歌声−。広島市中区の平和記念公園で6日夜、
「広島平和コンサート2005」が開かれた。原爆慰霊碑に並ぶように組まれた
大型ステージ。気鋭の指揮者、佐渡裕氏のタクトで、鎮魂と平和の祈りが
音楽となった。
平和記念公園は原爆死没者の慰霊の地。大音量での演奏はふさわしく
ないとして、市は従来オーケストラなどの野外演奏を認めなかった。それが
被爆60年を迎え、平和のメッセージが込められた楽曲を中心に今回の
コンサートが実現した。
この日のために編成された「平和巡礼合唱団」が市民に歌い継がれて
いる「ひろしま平和の歌」を、被爆者を励ますかのように力強く歌い上げた。
最年長の同市西区、森本範雄さん(77)は「友のために歌った」。路上で
被爆。立ち話をしていた親友は熱線を浴びて即死し、森本さんは陰に
隠れる形で助かった。動転し、その場に放置した遺体は行方不明に。
「心に重くのし掛かっており、振り払うために合唱や被爆体験の語り部
活動に打ち込んできた。これからも友のために歌い続けたい」と最後に
笑顔を見せた。
(時事通信) - 8月7日0時0分更新
平和を願い風船に短冊 大津で原爆の日法要
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000004-cnc-l25 【滋賀県】「原爆の日」の6日、犠牲者の冥福と世界平和を祈る法要が、
大津市園城寺町の三井寺でしめやかに営まれた。
同寺の福家俊明長吏(83)ら僧職や一般市民ら約100人が参列。原爆が
広島に投下された午前8時15分に黙とうをささげ、「世界の子どもたちが
笑顔で暮らせますように」などと書かれた短冊を付けた風船約3千個を空に放った。
読経の後、福家長吏は「今こそ唯一の被爆国国民として平和憲法を生かし、
仏教の寛容の精神で核のない平和な世の中を目指します」と「反核平和への
三井寺アピール2005」を読み上げた。
法要後には、原爆をテーマにした紙芝居上演や俳句会などもあった。
(吉岡雅幸)
(中日新聞) - 8月7日11時1分更新
原爆:旧日本軍収容所で被爆のオランダ兵捕虜2人、平和祈念館に遺影登録へ /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000079-mailo-l42 長崎市で旧日本軍の捕虜として被爆、死亡したオランダ兵2人の遺影が
4日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録申請された。広島市の
歴史研究家、森重昭さん(68)が仲介した。国立長崎原爆死没者追悼
平和祈念館で登録される。
クリスチャン・H・H・アールダルス大尉(当時30歳)とヨハネス・H・F・ベ
ールさん(同22歳)。森さんの仲介で、オランダ兵モーリッツ・J・L・メーゲ
ンスさん(同23歳)の遺影も7月26日、同祈念館に申請され登録が済んでいる。
森さんは昨秋、外務省外交史料館(東京都)の資料で連合国軍総司令部(GHQ)
などの調査によるオランダ兵捕虜7人の死亡記録を発見した。3人は爆心地
から1・65キロの長崎市幸町にあった旧日本軍の収容所第14分所で被爆。
アールダルス大尉は8月14日に頭がい骨骨折、ベールさんは同17日に
全身やけど、メーゲンスさんは9日に圧死したと記してあった。
アールダルス大尉は捕虜番号1号で捕虜の司令官的存在。収容所では弟の
ウィリー・アールダルスさんも原爆で死亡したと考えられていたが、森さんの
調査で生存してオランダに帰国、99年亡くなったことも分かった。
長崎市によると、オランダ人捕虜9人が原爆死没者名簿に記載されている。
【横田信行】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時40分更新
広島原爆忌 被爆テーマのTシャツコンテストを企画
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000015-maip-soci 被爆60年Tシャツコンテストを発案した木戸祐子さん=広島市中区の
平和記念公園で6日午前7時43分、貝塚太一写す
平和記念式典に、初めて参加した経営コンサルティング会社社員、木戸祐子
さん(23)=広島市=の姿があった。身につけた紺色Tシャツには「NUKE
FREE(核をなくそう)60」の文字。今年5月、勤務先の会社で「ヒロシマ被爆60年」
をテーマにしたデザインコンテストを企画し、商品化した。「やってみたら、そんなに
難しいものじゃないってわかりました」。これからも自分なりの形で平和にかかわ
っていこうと思っている。
広島に生まれ育ったが、身内に被爆者はいない。小中学校時代の平和学習の
時間には被爆体験を聞いたりしたが、どこか人ごとのように感じた。しかし、高校を
卒業したころから「広島に生まれ育ったのに、自分は何もしてないなあ」と思うよう
になり、ずっと心にひっかかっていた。02年に現在の会社に入り、田原実社長
(40)が、出身高校の原爆慰霊祭の手伝いをしている姿を見て、思いは強くなった。
被爆60年を伝える新聞記事がきっかけとなって、アイデアを練るうちに普段
着ているTシャツが目に止まった。「Tシャツなら8・6の時期にちょうどいいし、
誰にでも身近。平和問題を意識したことがない若い人たちに着てもらえたら」
コンテストの審査委員長を務めたデザイン会社社長、福原勘二さん(44)は
被爆2世。木戸さんについて「肩の力が抜けて、自分にできる平和を考えよう
という姿が心地よかった。関わらなかったら、自分も原爆を意識することはなか
ったかも知れない」
Tシャツの話を紹介した福原さんのブログには、「私も実は2世」と名乗る人が
次々と書き込みをし、平和教育の大切さなどについて意見が交わされた。
式典に出て木戸さんは、「若い人が意外に多くて親しみを感じた。一歩を踏み
出せたような気がする。来年も参加しようかな」と話し、一緒に行動してくれる
仲間が増えることも期待している。【牧野宏美】
(毎日新聞) - 8月6日17時50分更新
鎮魂、平和願い灯籠流し 被爆60年の広島、暮れる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000165-kyodo-soci 被爆60年を迎え、鎮魂と平和の祈りを込め元安川に流された灯籠。
後方は原爆ドーム=6日夕、広島・平和記念公園
安らかにお眠りください─。広島市中区の原爆ドーム横を流れる元安川
などで、灯籠(とうろう)流しが6日夕行われた。平和を願う言葉が書かれた
赤、青、黄色など色とりどりの灯籠約1万個が川面に揺れ、被爆から60年の
「原爆の日」は鎮魂の祈りとともに暮れた。
被爆者の主婦井関正子さん(72)=同市佐伯区=は、がれきを運び出す
作業の最中に被爆して亡くなった多くの級友を思って川辺にたたずみ、
孫の武田真美さん(22)と一緒に「戦争のない幸せがいつまでも続きます
ように」と書いて灯籠を流した。
東京から両親と弟2人と来た中学2年生の本田健志君(14)は「原爆ドーム
を初めて間近で見て、原爆の恐ろしさを知った」と灯籠を見つめた。
(共同通信) - 8月6日20時51分更新
広島で灯籠流し平和へ思い新た 派遣の県内高校生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000004-ryu-oki 【広島で新垣梨沙記者】原爆死没者の霊を慰める「ピースメッセージとうろう流し」
が6日夜、広島市中区の原爆ドームの横を流れる元安川など4カ所で行われた。
北谷町の「広島・長崎平和学習派遣事業」の一環で広島を訪れている同町の
高校生2人も、メッセージを添えて灯籠(とうろう)を流し、明日への平和を願った。
2人は同日午前、北谷町と毎年交流を重ねる広島被爆者援護会の献水式に
参列し、体内被爆者の家族の原爆体験などを聞いた。「すべての人々が平和に
暮らせるように」とのメッセージを添えた玉城美歌奈さん(15)は「原爆と地上戦、
状況は違っても悲惨さは変わりないと感じた」と話した。
(琉球新報) - 8月7日9時29分更新
灯ろう流し 「原爆の日」の夜、川面に鎮魂の炎 広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000000-maip-soci 平和の願いを込め、元安川に流される灯ろう=広島市中区の平和記念公園
で6日午後7時47分、貝塚太一写す
原爆犠牲者の冥福を祈り、平和を願う恒例の「とうろう流し」が6日夜、
広島市中区の原爆ドーム脇を流れる元安川など3カ所であった。60回目の
「原爆の日」の夜、色とりどりの灯ろうの鎮魂の炎が、川面に揺れた。
今年は、大学生ら若者約10人が高齢の被爆者に代わって灯ろうを流す
試みに取り組んだ。若者らは、福祉施設や病院にいる被爆者125人を
事前に訪ね、灯ろうに記す平和へのメッセージや被爆体験を聞き取った。
自分たちと同じ年ごろで深い傷を負い、身近な人を失った被爆者の体験を
継承する機会も作りたかったという。
灯ろう流しは戦後間もなく、水を求めて被爆者が飛び込んだ川で始まった。
現在は、ボランティアが約1万基の灯ろうを有料で用意している。
【久木田照子、山口一朗】
(毎日新聞) - 8月7日11時2分更新
原爆:広島・長崎投下から60年…被爆者の思いは 宮崎の楠木さん /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000197-mailo-l45 ◇悲惨な記憶、今もなお
1945年夏――。
「暑いから外で食べます」。少女3人はそう言って、柳の木で陰になった食堂の
外階段に腰掛けた。
3人は長崎市の造船所に勤める工員で、いとこ同士。この日、8月9日は、
造船所で防空ごう造りを手伝い、製材所に材料を取りに来た。
3人は階段に縦一列に座った。宮崎から親せきを頼って家族で長崎に来た
当時14歳の楠木妙子さん(74)=宮崎市吉村町=は上から2段目に座った。
作業前に腹ごしらえしようと、ひざの上に弁当を載せた時だった。
楠木さんはこの60年間、8月が近づくにつれ、あの夏の記憶がよみがえって
くる。「あと何日したら8月が来るかを考えてしまうんです」。8月6、9日にテレビで
広島、長崎の平和祈念式典を見ると涙が出てくる。
爆心地から南に約1・5キロ。爆風で飛ばされ意識を失った。気が付くと、
積み重なった材木の間に頭を入れ、うつぶせになっていた。すぐに起き上がれ
なかった。
あたりが火の海に一変していた。顔をやけどして片方しか目を開けられないで
いたいとこを見つけたが、もう1人は探し出せなかった。
自分の体を見ると、服の後ろ側が破れて背中から尻まで赤くただれ、右ひじは
骨が見えるほど肉がえぐられていた。治療を求め、山腹の学校に行ったが、
死体と重傷者がひしめき合っていた。
「家に帰ろう」。途中山の中で、手を引いていたはずのいとこがいなくなって
いた。「自分のことだけで精いっぱいだった」。日が暮れていく中、一人、泣き
通しで歩いた。「自分が生きてるのかどうかも分からなかった」
ようやく探し当てた家は崩れ、誰もいなかった。窓から入り、タンスの脇に
背中を上にして、小さな体を横たえた。「ここで死んでもいい」
「妙子か」。父親が見つけ出し、家族のいる防空ごうまでおぶってくれた。
その後、列車を乗り継ぎ、線路を歩いて、清武町の父の実家に着いたのは
1カ月後だった。
「帰郷後も近所の人から『この子は助からないだろう』と言われた。それ以来、
体が弱って健康への不安は常にある」
右ひじのけがは毎日何回も薬を塗って治療した。若いころは夏でも長袖を
着て過ごした。「なぜ原爆というひどい物を造らねばならなかったのか、落とさ
ねばならなかったのか。核兵器は二度と使わないでほしい」。悲しげな目で
語った。【関谷俊介】
………………………………………………………………………………………………………
◇9日から連載します
6日、広島に原子爆弾が落とされて60年の歳月が流れた。県内の被爆者や
その周辺にいた人々は60年間に何を考えどう生きてきたのか。長崎原爆の
日の9日から連載します。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時50分更新
かぐや姫 ヒロシマで平和の歌
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000013-dal-ent 5年ぶりに再結成して平和コンサートを開いた「かぐや姫」。左から伊勢正三、
南こうせつ、山田パンダ=広島市西区のホール(撮影・神子素慎一)
1970年代に活躍したフォークグループ・かぐや姫が6日、約5年ぶりの再結成
を果たし、広島市西区の広島サンプラザホールで「被爆60年特別コンサート
ヒロシマ60」を開いた。これまで広島で慰問活動を行ってきた南こうせつ(56)が、
被爆して60年目の「原爆の日」にメンバーを招集。ヒット曲「神田川」などを披露する
とともに世界平和を訴えた。
世界平和、核兵器廃絶を願うかぐや姫の歌声が会場に響き渡った。2000年の
ツアー以来、この日限りの再結成。1986年から広島で慰問コンサートを開いて
きた南の「被爆して60年の今年、僕の原点でもあるかぐや姫でコンサートをやり
たかった」という声にこたえて、メンバーの山田パンダ(59)と伊勢正三(53)が
駆けつけた。
客席からの盛大な拍手を浴びて登場した3人。南は「被爆国の国民である
われわれが、核のない世界を願いコンサートを開きました」とあいさつ。
山田は「60年前の今日が繰り返されないよう、子供たちの平和を願い歌います」
と語りかけ、伊勢は「3人で並ぶと、僕もかぐや姫だったとしみじみ思う」と言った。
愛・地球博の現場へ中継されたステージでは被爆者に向けて黙とうした後、南が
「世界平和のため一緒に」と音頭を取り、約4500人の観客と「神田川」「妹」
「22才の別れ」など32曲を熱唱。戦争を知らない世代と60年前の悲劇を経験
した人々がひとつになった。また特別出演した大友康平(49)が「上を向いて
歩こう」、森山良子(57)が「さとうきび畑」を披露し、盛り上げた。
これまでの収益金を広島市に寄付し原爆養護ホーム新設に貢献した南。
応援に来た山田と伊勢をうれしそうに見ながら「今回は経費がかかったけど
収益の一部を市に寄付します」と冗談めかして約束した。
(デイリースポーツ) - 8月7日11時20分更新
サンパウロで「ヒロシマ展」=地元大学主催、核兵器の惨禍伝える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000036-jij-int 【サンパウロ6日時事】ブラジル・サンパウロ市中心部の美術館で広島原爆忌
の6日、核兵器がもたらす惨禍を広く伝えようとサンパウロ総合大学が企画した
絵画展「ヒロシマ1945」が開幕した。広島平和記念資料館収蔵の被爆者らによる
絵86点のパネルなどが展示されている。
開幕式では、在ブラジル原爆被爆者協会の代表らがあいさつ。同国ではあまり
知られていない被害の実態を説明し、核兵器廃絶を訴えた。原爆のきのこ雲を
バラの花になぞらえ、逆説的にその醜さを訴える同国の有名な詩「ヒロシマのバラ」
が朗読された後、参加者全員で黙とうした。
(時事通信) - 8月7日13時2分更新
長崎平和祈念館が夜間開館 7−9日、原爆資料館も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000097-kyodo-soci 被爆60年の長崎原爆の日を控え、長崎市平野町の国立長崎原爆死没者
追悼平和祈念館と長崎原爆資料館が7日、夜間開館を始めた。9日までの
3日間、午後8時まで見学ができる。
祈念館は原爆の犠牲を後世に伝えるため2003年にオープンした。地上には、
苦しみの中、水を求めた多くの犠牲者を悼むため、直径約30メートルの水盤を
設置。犠牲者数に合わせ、夜は約7万個の光が点灯される。
地下には約3万6000人の被爆者の体験記が閲覧できるコーナーもある。
また、自身も長崎原爆で被爆しながら医療活動に従事した姿が長編アニメ
として近く公開される医師秋月辰一郎さん(89)が当時、実際に使った器具を
特別展示している。
祈念館は入場無料。原爆資料館は9日の入場料を無料にする。
(共同通信) - 8月7日18時43分更新
原水禁運動の統一検討 連合と原水禁、核禁会議
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000104-kyodo-soci 広島、長崎での原水禁大会を共同で開催している連合の笹森清会長、
原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の福山真劫事務局長、核兵器禁止
平和建設国民会議(核禁会議)の水木芳徳事務局長は7日、長崎市内で
記者会見し、今後3団体で原水禁運動の統一に向けた検討を進める考えを
明らかにした。
笹森会長は「新しい団体のつくり方も含めた論議を始めていいと思う。
来年の大会までにめどをつけたい」と説明。
福山事務局長も「来年に向けてさらに運動の強化、連携をしていきたい」
と話した。
(共同通信) - 8月7日19時10分更新
原水禁長崎大会が始まる 核兵器廃絶を訴え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000108-kyodo-soci 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)系と原水爆禁止日本協議会(原水協)系
の2つの原水禁世界大会長崎大会が7日、始まった。
原水禁は連合、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)と共同で開催し、
約5500人が参加。連合の笹森清会長は「核兵器を廃絶して平和な世界を
実現したいというのが広島、長崎の気持ちだ」と訴えた。
原水協の大会には約4500人が参加した。核保有国の米国やフランスで
平和運動をしている若者が活動を報告。フランスの女性は「平和への闘いは、
すべての世代に受け継がれるべきだ」と呼び掛けた。
(共同通信) - 8月7日19時15分更新
戦後60年の原点:本土決戦へ陶器の手榴弾製造、旧川越中生徒らも動員 /埼玉
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000184-mailo-l11 ◇歴史資料館調査で判明−−上福岡
◇きょうから企画展で公開
戦時中、本土決戦に備えて「チビ弾」と呼ばれた陶器の手榴弾(しゅりゅうだん)や
陶製地雷の製造に旧川越中(現・川越高)などの生徒がかかわっていたことが、
上福岡市立歴史民俗資料館(高木文夫館長)の調べで分かった。同館は6日から
開く戦後60年記念企画展「造兵廠(しょう)と戦争遺跡」で手榴弾15個を陶製地雷
とともに公開する。
上福岡市内に終戦まであった旧陸軍造兵廠(火工廠)川越製造所には約8000人
が勤務し、勤労動員された住民も数多くいた。あどけなさの残る旧制中学や国民
学校高等科の生徒らも含まれ「お国のため」と兵士の監視下で過酷な作業を
強いられた。県内の軍事施設は米軍の空襲で資料がほとんど残されていな
かったが、同館の地道な聞き込み調査で、中学生らの勤労奉仕の実態が明らか
になった。
中でも、川越市南古谷にあった同造兵廠民間下請け弾薬工場の「浅野カート
リット」には1944年秋、旧川越中1、2年の男子生徒40人が動員され、荒川の
土手伝いに自転車と徒歩で通勤した。生徒は若い女子工員の指導で瀬戸、
備前、信楽など全国で焼かれた野球ボール大(直径6センチ)の陶製手榴弾に
信管や湿気防止ゴムを取り付け、円盤型地雷(直径30センチ)とともに弾薬箱
に詰め込んだ。火薬が詰められ、爆破実験も繰り返され、死と向き合う危険な
作業だった。
造兵廠関連工場に動員された当時旧川越中1年だった日出間哲郎さん(74)、
同、橋本日出松さん(75)、旧川越工業学校1年の細井栄五郎さん(74)の
3人が21日午後1時から同館研修室で、作業中に爆死した同級生の話などを
織り交ぜながら、学徒動員の悲しみの史実を語る。
同展には、戦争資料や写真パネルなど220点も展示され、高木館長は「戦後
60年の節目に、身近にあった戦争を知り平和の尊さを感じてもらいたい」と
話している。9月4日まで(月曜休館)無料。
電話049・261・6065同館。
【藤川敏久】
8月6日朝刊 (毎日新聞) - 8月6日16時25分更新
チャリティーコンサート:「Peace!」 平和テーマに歌・演舞−−8日 /奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000286-mailo-l29 奈良市中新屋町の奈良町物語館で8日午後5時、コンサート「Peace!」
が開かれる。
大阪、京都、奈良出身の若手芸術家が、それぞれの古里で平和をテーマに
作った曲や演舞、一人芝居などを披露する企画。売り上げの一部は、関西
盲導犬協会に寄付される。主催するピース実行委員会は「動物を通じて、
命の大切さ、ぬくもりを感じられる公演にしたい。若者が真剣に考えている
平和への訴えを聞いてほしい」と訴える。1500円。
問い合わせは同実行委員会(06・6930・1755)。
【最上聡】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時5分更新
小百合、英語で朗読 ライフワーク“原爆詩”20年
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000031-sph-ent 女優の吉永小百合(60)が6日、東京・パルテノン多摩で開催中の「多摩市
平和展」(7日まで)でライフワークにしている原爆詩の朗読を英語で行った。
英語での朗読は99年米シアトル、その後に広島で1度あり、今回で3度目。
戦後60年、原爆投下された8月6日に、核兵器を用いた国の言語を用いての
朗読にふだんにも増して期するものがあった様子。NHKの特番では会場と
広島を結んで中継され、吉永は「核兵器をつくるのも戦争を始めるのも人間。
みんなの力でストップさせるのが私の願いです」などと語った。
英語で披露したのは原爆詩集を初めて世に出した故・峠三吉さんの「序」で
英題「Prologue」。「ちちをかえせ、ははをかえせ…」で始まるこの作品は
朗読会で必ず吉永が最初に読む一編だ。約1000人を前に計8編を聞かせ、
涙をぬぐう人も多く見られた。
86年にこの活動を始めてちょうど20年。「被害者、加害者の関係を超えて
世界に向かって発信していかなければなりません。きょうは心が締め付けられ
るような思いで読ませていただきました」吉永はこの後、第2の被爆地の長崎にも
赴き、朗読を行う予定という。
(スポーツ報知) - 8月7日8時1分更新
22 :国連な成しさん :04/07/20 05:36 ID:???
アメリカというのは、サダコ像の腕を切り落とすようなやつらの国なんだぞ。
修復サダコ像、米シアトルで「8・6」原爆忌に披露
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040720-00000501-yom-int 広島原爆で被爆し、白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんを
モデルに建てられ、昨年末、右腕を切断された米ワシントン州シアトル市の
「サダコ像」(ブロンズ製)が世界8か国からの寄付金で修復され、59回目の
原爆忌となる8月6日(現地時間)に披露される。
像は広島市特別名誉市民だった平和活動家フロイド・シュモーさん(故人)
の働きかけで「ピース・パーク」に設置された。昨年末、米国で原爆投下の
「エノラ・ゲイ」復元機展示を巡る議論が起きたさなかに右腕が肩から
切り落とされているのが見つかった。
像の修復費5000ドルのうち、シアトル市民が2000ドルを寄付。現地の
平和活動家美智子パンピアンさんがインターネットで残りの募金を呼びかけた
ところ、日米やイギリス、フランス、ブラジルなど8か国から寄付があったという。
修復は7月中に終わる。
禎子さんは「鶴を千羽折れば病気は治る」と信じ、死の間際まで鶴を折り
続けた「サダコの物語」として世界中に知られる。
修復された像の披露に立ち会う兄雅弘さん(62)(福岡県那珂川町在住)は
「世界中から募金が集まったことはうれしい。禎子の心をしっかりと伝えたい」
と話している。(読売新聞)[7月20日3時10分更新]
ピースボートの人達がヒロシマから帰ってきたようですね。
>>447 そして日本も、“過ちを犯した人類”に日本人が含まれているのが気に入らないと言って
文言が刻まれた石碑を傷つけるような輩がいる国。
過ちを犯したのはプロ市民
当時はその“プロ市民”なる言葉さえ存在しなかったわけでw
>>452 以前からプロ市民は存在してたでしょ。
何を今更、存在自体を隠そうとするのかな〜。
プロ市民というのは、反米右翼のことなのか。
<衆院選>「自公で過半数取れなければ退陣」小泉首相明言
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050808-00000106-mai-pol 小泉純一郎首相は8日夜、首相官邸で記者会見し、来月11日投開票の
次期衆院選について「自民、公明両党が過半数の議席を獲得できなかったら、
私は退陣する。郵政民営化反対勢力と協力することはない」と明言した。その上で
「国民がやはり郵政民営化は必要だと過半数の議席を与えてくれれば、参院の
皆さんも気を変えて協力してくれると確信している」と語り、自公両党で過半数を
得られれば、今秋の臨時国会に改めて郵政民営化法案を提出、早期の成立を
目指す考えを示した。
衆院解散に踏み切った理由については「国会は郵政民営化を必要ないという
判断を下したが、民営化に賛成するか、反対するか、国民に問いたい」と説明。
今回の解散を「郵政解散」と位置付け、同法案の衆院本会議採決で反対した
自民党議員の扱いについて「民営化に賛成する候補者しか公認しない」と述べた。
その一方で「自民、公明両党で過半数を得ることができれば、どの政党であれ
賛成勢力とは協力したい」と語り、郵政民営化を軸にした政界再編にも言及した。
衆院本会議採決で欠席・棄権した議員に関しては「よく(話を)聞いて、民営化に
賛成すると言えば、公認も考える」と述べた。【中村篤志】
◇衆院解散を受けて小泉純一郎首相が8日夜に行った記者会見の要旨は次の通り。
<郵政民営化関連法案否決>
残念ながら国会は郵政民営化は必要ないと判断した。本当に必要ないのか
国民の皆さんに聞いてみたいと思う。今回は郵政解散だ。賛成か反対かを
はっきりと国民に問いたい。郵便局の仕事は民間に任せても十分できる。
むしろ今よりも多様なサービスが展開でき、国民の利便も向上する。
改革を推進しようと言う民主党は、民営化の対案も出してくれないで、自民党の
抵抗勢力と一緒になった。このままで行財政改革ができるのか。「もっと大事な
ことがある」という人がたくさんいるのは知っている。しかし、郵政民営化ができない
で、どんな大改革ができるのか。公務員でなければ公共的な大事なサービスは
維持できないというのは官尊民卑の思想だ。
率直に言って、選挙の時に自民党も民主党も郵政3事業にたずさわる国家公務員
の支援を受けている、大事な支援者の言うこと聞かなきゃならないという気持ちは
分かるが、国民全体のことを考えるべきだ。郵政民営化に反対するのは「手足を
縛って泳げ」と言うようなものだ。
<衆院選への対応など>
郵政民営化に賛成する候補者しか公認しない。賛成する自民、公明で過半数が
確保できれば、再度国会を開いて成立させるよう努力する。(参院の構成は変わら
ないが)国民が郵政民営化に支持を与えてくれれば、反対、棄権した参院議員も
必ず応えてくれると思う。「国民は支持していない」と思って今、反対している。
私も率直に言って選挙はやってみなければ分からないと思うが、選挙後、郵政
民営化賛成の勢力と協力していかなければならない。反対の勢力と協力すること
はない。だからこそ、自民、公明で過半数を得ることができるよう全力を尽くす。
自民、公明で過半数を得ることができなかったら、私は退陣する。過半数を
獲得できれば、どの政党であれ賛成の勢力とは喜んで協力していきたい。
欠席、棄権の方はよく聞いて、「賛成する」と言えば公認も考えられる。
<靖国神社参拝>
靖国参拝を(衆院選の)争点にする気は全くない。これ(靖国参拝)は人間の
自然な感情だ。中国との関係があるが、私は日中友好論者だ。これからも日中、
日韓の友好関係を維持・発展させることが極めて重要だと認識している。
(毎日新聞) - 8月9日0時11分更新
米国人監督が原爆映画 核廃絶の願い込め 長崎市で11日初公開
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050809-00000020-nnp-kyu 米国人監督が、被爆体験の継承に努める被爆者や長崎、広島の若者の姿を
追ったドキュメンタリー映画「THE LAST ATOMIC BOMB―最期の原爆」が
完成し、十一日、長崎市で初公開される。被爆者で長崎原爆遺族会会長の
下平作江さん(70)も出演しており、下平さんは「米国人が核兵器廃絶への
願いを込めて立ち上がってくれた。その願いを世界に発信できることは感慨深い」
と話している。
映画は、ともにニューヨーク在住で、テレビ・ラジオジャーナリズムの優れた作品
に贈られる「デュポン・コロンビア賞」の受賞経験もあるロバート・リクター監督(75)と、
平和教育研究家のキャサリン・サリバンさん(38)の共同製作。昨年十一月から
今年五月にかけ、長崎、広島両市や核保有国の米国、英国、フランスで撮影した。
下平さんや、元高校生平和大使の草野史興さん(20)=筑波大三年=らが
米ホワイトハウスを訪れ、ブッシュ大統領に長崎の平和祈念式典の招待状を
渡そうとする場面や、五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議での活動の
様子などを収録している。
今後、国内のほか、米国や欧州などで上映を予定。上映時間は約九十分。
長崎市での上映は十一日午後二時から、同市平野町の長崎原爆資料館で。
入場無料。映画に先立ち同一時半から、リクター監督とサリバンさんがあいさつ
する。
問い合わせは、「上映する会」の増田さん=090(5933)6123。
(西日本新聞) - 8月9日2時10分更新
459 :
↑:05/08/09 17:11 ID:???
ピース暴徒はイラクで怪しげな活動でもしているのですか?
こんなにしてまでスレを荒らして、話をそらそうとするなんて・・・。
小泉はもういいから早く退陣してくれ!
小泉が掲げる郵政民営化は否決され崩壊した。
日本国民は反対した衆参議員に感謝の念を捧げるべきである。何故なら彼らの票によって、独裁的政治日本が救われたからである。
このまま小泉のままでいたら日本は間違いなく破綻で、国民は貧しい国のまま(金正日)政権に突入していたであろう。
小泉は、この4年間総理の座に居座り、何一つと改革というものはやって来なかった。やることは貧しいものを虐げ税を奪い取るだけ。
この小泉の化けの面を持つ最悪な人物はある時には善人の振りをして見せ、国会や昨日の答弁では強欲な手振りをふまえ、まるでヒットラー的しゃべりである。
その強引さは、本来ならば、否決されたなら内閣総辞職をし、総理を退陣するべきだが、自分はまだ総理の座を狙い、自分の身だけを保身し
自分以外の他人を犠牲に追い込む衆議院解散のやり方は、まるで独裁者そのものを国民は見せつけられたことに気づくべきだ!
この小泉の本質を見抜けぬバカなマスコミや新聞はオウムや公明信者と同じと言える。マスコミは自社をより活に営むことえを考えているのならば逆のの行為をやっている
ことに気付くべきだ!小泉の掲げる郵政民営化は自からの考えではなく、他人の理論を借りて語っているが為に、うわっぺらだけの中身の無い口先だけのものである。
小泉の郵政民営化の浅はかさがそこに表れている。また、公明党は金や権力にすがってまでも、政権の座を狙い宗教に化かし会員票で狙う最低な我欲さがにじみ出ている。
小泉=公明党は、何処までも救われないままに、永遠に神に見放されるものとなるだろう!
モーセ…
モーセタン(*´д`)'`ァ'`ァ
削除依頼もスルーされた今、
もはや話逸らしのためのコピペで容量をつぶして荒らすしか、
方法は残されていないかな。
それほどまでに、このスレの存在が困るのか。
■長崎原爆忌 式典でも被爆体験を継承 核兵器廃絶誓う
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050809-00000024-maip-soci 拡大写真
平和公園で平和を願い祈りをささげる人たち=長崎市松山町の平和公園で
9日午前6時39分、山下恭二写す
長崎は9日、60回目の原爆の日を迎えた。爆心地近くの平和公園(長崎市
松山町)で、市主催の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典があり、市民らが
核兵器廃絶と恒久平和を誓った。伊藤一長市長は平和宣言で今年5月のNPT(
核拡散防止条約)再検討会議の決裂に触れ、「国際的な取り決めを無視し、
核抑止力に固執する姿勢を変えようとしなかった」と米政府を名指しで非難。
さらに「世界の市民やNGOと手を結び、平和の鐘を長崎の空から高らかに
響かせよう」と呼び掛けた。
原爆・戦争を経験していない市民が7割を超える。次世代へ被爆体験を継承
するため、今年は市内の全小中学校に呼び掛け、9割以上にあたる65小学校、
36中学校から代表が式典に参加。開式を告げる「長崎の鐘」も、従来の市職員
に代わり高校生が突いた。
式典は午前10時40分に始まり、被爆者や遺族ら6250人が参列。被爆者の
平均年齢は72.5歳。この1年間で死亡が確認された被爆者2748人の名簿が
新たに奉安され、原爆死没者は13万7339人になった。献水、献花の後、
原爆投下時刻の午前11時2分から1分間の黙とうをささげた。
伊藤市長は米政府を非難する一方で米市民には配慮。「9・11同時多発テロ
による恐怖の記憶を今でも引きずっている」と米市民が抱くテロへの怒りと不安に
理解を示し、「大多数が心の中では核兵器廃絶を願っていることを知っています」
と良心に訴え連携を呼び掛けた。
被爆者代表の坂本フミヱさん(74)は「『長崎を最後の被爆地に』と叫びつづ
ける」と「平和への誓い」を読み上げた。また、平和宣言で初めて取り上げられた
在外被爆者の援護充実に関し、小泉純一郎首相はあいさつで「援護施策の推
進に誠心誠意努力してまいります」と述べた。【横田信行】
<長崎平和宣言(全文)>
今、被爆から60年を迎えた空に長崎の鐘の音が響きわたりました。
1945年8月9日午前11時2分、米軍機から投下された一発の原子爆弾は、
この空で炸裂(さくれつ)し、一瞬にして長崎のまちを破壊しました。死者7万4千人。
負傷者7万5千人。何も分からないまま死んでいった人々。水を求めながら息絶え
た人々。黒焦げになり泣くこともできないで目を閉じた幼子たち。かろうじて死を
免れた人々も、心と身体に癒やすことのできない深い傷を負い、今なお原爆後障害
に苦しみ、死の恐怖に怯(おび)えています。
核保有国の指導者の皆さん。いかなる理由があっても核兵器は使われては
なりません。そのことを私たちは身をもって知っています。60年間、私たちは、
「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」を訴えてきました。国際社会も、核実験の
禁止や非核兵器地帯の創設に努力し、2000年には、核保有国も核兵器の
廃絶を明確に約束したではありませんか。
それにもかかわらず、今年5月、国連本部で開かれた核不拡散条約再検討
会議は、核兵器拡散の危機的状況にありながら、何の進展もなく閉幕しました。
核保有国、中でもアメリカは、国際的な取り決めを無視し、核抑止力に固執する
姿勢を変えようとはしませんでした。世界の人々の願いが踏みにじられたことに、
私たちは強い憤りを覚えます。
アメリカ市民の皆さん。私たちはあなたがたが抱えている怒りと不安を知って
います。9・11の同時多発テロによる恐怖の記憶を、今でも引きずっていることを。
しかし、1万発もの核兵器を保有し、臨界前核実験を繰り返し、そのうえ新たな
小型核兵器まで開発しようとする政府の政策が、ほんとうにあなたがたに平安を
もたらすでしょうか。私たちは、あなたがたの大多数が、心の中では核兵器廃絶を
願っていることを知っています。同じ願いを持つ世界の人々と手を携え、核兵器
のない平和な世界を、ともに目指そうではありませんか。
日本政府に求めます。わが国は、先の戦争を深く反省し、政府の行為によって
再び戦争の惨禍が起こらないようにすることを、決意したはずです。この憲法の
平和理念を守り、被爆国として、核兵器を「持たない」「作らない」「持ち込ませない」
とする非核三原則を、直ちに法制化するべきです。今、関係国が努力している
朝鮮半島の非核化と、日本の非核三原則が結びつくことによって、北東アジアの
非核兵器地帯化の道が開けます。「核の傘」に頼らない姿勢を示し、核兵器廃絶
への指導的役割を果たしてください。
さらに日本政府に求めます。被爆者はすでに高齢に達しています。海外の
被爆者にも十分な援護の手を差し伸べるとともに、被爆体験による心の傷が
もとで苦しんでいる人たちの支援も充実してください。
長崎では、多くの若者が原爆や平和について学び、自ら活動に取り組んで
います。若い世代の皆さん。原子爆弾によって無念の死を遂げた人々に、
深く思いを巡らせてください。一人ひとりが真摯(しんし)に過去の歴史に学び、
平和の大切さや命の尊さについて考えてみてください。長崎市民は、皆さんの
平和への取り組みを支援します。世界の市民やNGOと手を結び、ともに
平和の鐘を長崎の空から高らかに響かせようではありませんか。
被爆60周年を迎えた今、原子爆弾で亡くなられた方々の御霊(みたま)の
平安を祈り、私たちは、広島とともに、核兵器廃絶と世界恒久平和に向けて、
決してあきらめることなく努力することを宣言します。
2005年(平成17年)8月9日
長崎市長 伊藤一長
<被爆者代表 平和への誓い(全文)>
60年前の8月9日、原子爆弾はここの500メートル上空で、炸裂(さくれつ)した
のでした。一瞬にして数万の人々を死へ追いやり、街を焼き尽くし、破壊し尽くした
のです。生き延びた人たちは、60年過ぎた今日でも、原爆の後遺症に苦しみ続け
ています。
私は、女学校の3年生でしたが、その日はたまたま家にいました。学童疎開で
家を離れていた妹も、久しぶりに帰ってきていました。ピカッと目を突き刺すような
閃光(せんこう)が走ったのは、「少し早いけどお昼にしよう」と妹が疎開先から
頂いてきた白米のおにぎりの包みを開いた時でした。原爆は、私の家から1.8
キロほどのところへ投下されたのです。私は、10メートルほど飛ばされ、庭に叩
(たた)きつけられました。土煙で視界は閉ざされ、その場にうずくまりました。
しばらくして視界がひらけてくると、あたりは見渡す限り、瓦礫(がれき)の原と
なっていました。私は、一目散に近所の林へと走りました。どのようにして林へ
たどり着いたのか覚えていません。あちこちから被爆した人たちが林へ逃げて
きました。衣服を剥(は)ぎ取られて裸同然になった人、胸をえぐられ、ピクピク動く
心臓が見える人、前とも後ろともわからないほどに焼け焦げた人、林の中は
このような人たちでいっぱいになりました。いつの間にか、私は意識をなくして
いました。
この林で一晩過ごして、私を探す母の声で意識が戻りました。周囲の人たちの
ほとんどが亡くなっていました。そのあと、私はまた意識がもうろうとなり、死線を
さまよったのです。
住まいが壊れて住めなくなった私たち一家は、8月19日に両親の故郷へ向かい
ました。そこへ落ち着き、近所の医者に往診を頼みましたが、来てくれた医者は、
息絶え絶えの私を覗(のぞ)き込むだけで、「死ぬものにやる薬はない」といった
とか。「医は仁術」と聞いていましたが、戦争は医者の人間性までも喪失させる
のでしょうか。
あれから60年、私は何とか生きて来ましたが、本当に長く苦しい道のりでした。
こんな苦しみは、ほかの誰にも味わわせてはならないと思っています。
それなのに、地球上に争いは絶えず、核兵器はなくなるどころか新しい性能の
核兵器の開発さえ計画されていると聞きます。「ふたたび被爆者をつくるな」と
命をかけて訴えてきた私たちの声は、どうして届かないのでしょうか。
でも私は諦(あきら)めません。命ある限り、生き残っている26万余の被爆者
とともに、そして平和を求めてやまない国内外の皆さん方とともに、「長崎を
最後の被爆地に」と叫びつづけることを原爆犠牲者の御霊(みたま)の前で
お約束し、私の「平和への誓い」といたします。
平成17年8月9日
被爆者代表 坂本フミヱ
<小泉首相あいさつ(全文)>
本日、被爆60周年の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の
犠牲者の御霊(みたま)に対し、謹んで哀悼の誠を捧(ささ)げます。
今なお被爆の後遺症に苦しんでいる方々に対して、心からお見舞い申し上げ
ます。今後とも、高齢化の進行など被爆者の実情に配慮しながら、在外被爆者
への支援も含め、援護施策の推進に誠心誠意努力してまいります。
人類史上唯一の被爆国である我が国は、長崎、広島の悲劇を再び繰り返して
はならないとの堅い決意の下、今後とも、平和憲法を遵守(じゅんしゅ)すると
ともに、非核三原則を堅持してまいります。また、国際社会の先頭に立ち、
国際的な核軍縮・核不拡散のための取り組みを推し進め、核兵器の廃絶に
全力で取り組んでまいります。
戦後、長崎は歴史がいきづく観光都市として、大きな発展を遂げました。
今日まで、長崎の復興に尽力してこられた多くの方々に心から敬意を表します。
世界平和実現に向けて取り組んできた市民の願いは、平和の鐘の音とともに、
世界中の人々の心に届いています。本年は、原爆の惨禍を世界に訴える
ため、追悼平和祈念館が、アメリカで「海外原爆展」を開催しています。今後とも、
長崎が、平和について世界に発信する国際的な交流拠点都市として発展する
ことを確信します。
終わりに、犠牲となった方々の御冥福と、被爆者並びに御遺族の今後の
御多幸をお祈り申し上げます。
平成17年8月9日
内閣総理大臣 小泉純一郎
(毎日新聞) - 8月9日17時28分更新
★アートで反核訴える NYでビル壁面にアニメ
・ニューヨーク在住の画家、黒田征太郎氏らがアートを通じて世界に反核を訴えようと
今年から始めた「ピカドン・デー」のイベントが8日ニューヨークで行われ、米中枢
同時テロで崩壊した世界貿易センタービルの跡地「グラウンド・ゼロ(爆心地)」などで
反核と平和を訴えるアニメが上映された。
この日は、黒田氏の友人らが、エンパイアステートビルやグラウンド・ゼロなど
11カ所を回り、黒田氏が描いたきのこ雲や、平和を意味する花が育つアニメを
ビルの壁面に映し出し、平和を呼び掛けた。
ピカドン・デーは黒田氏が「広島、長崎という特定の場所だけではなく、世界の人が
反核や反戦の気持ちを分け合う日を作りたい」と、世界の芸術家に呼び掛けて
始まった。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=SMT&PG=STORY&NGID=home&NWID=2005080901003495
原爆投下3分後のきのこ雲 AP、写真6枚配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050809-00000137-kyodo-int 焼け跡に残る仏像、つえをつき、ぼうぜんと立ち尽くす男性−。米国のAP通信は
9日、60回目の長崎原爆の日に合わせ、原爆投下から3分後に撮影された
きのこ雲など、当時の写真6枚を配信した。
60年前に米軍のB29爆撃機「ボックスカー」から投下された原爆は、一瞬で
7万人以上の命を奪い、長崎上空に巨大なきのこ雲をつくった。
破壊された市内では、つえをついた着物姿の男性が1人立ち尽くす(米陸軍
通信隊提供、撮影日不明)。9月1日に同通信隊が撮影した写真では、破壊
された路面電車とレールが見える。
投下から約1カ月後の9月14日の写真(撮影者不明)は、廃材を利用した
粗末な小屋が見える焼け跡で道路上の人や車をとらえた。同月24日撮影の
米海兵隊提供の1枚は、がれきの中の仏像を写している。(共同)
(共同通信) - 8月9日18時21分更新
>>464 ピース暴徒の活動内容にはコピペ荒しというのもあるらしいね。
ピースボートとイラクの関係や高遠菜穂子さんとのつながりについてカキコされると狂ったように反応するよね。
何かマズイことでもあるのかね。
8月15日に反日活動呼びかけ続々 中国政府は規制か
2005年08月10日20時44分
http://www.asahi.com/international/update/0810/013.html 戦後60周年となる15日を前に、中国のインターネット上で、反日活動や
追悼集会への参加の呼びかけが続々と現れている。中国政府は、小泉首相の
靖国神社参拝に強く反対しながらも、反日活動が社会の不安定化につながること
を警戒。香港紙によると、デモや集会の申請を一切受理しないよう地方に指示した。
「815愛国反日極右勢力連盟陣線」という団体は、13日から15日まで遼寧省
大連市内の14カ所で「国辱を忘れるな」などと書かれたビラを配る計画を、
若者に人気の検索サイトの掲示板に発表した。発起人の男性(31)は、活動は
無届けだが、これまでのところ当局から何も言われておらず、「日本の誤った
歴史認識と靖国参拝を批判するもので、政府の考えにも一致する」と話す。
ネット上ではこのほかにも、14、15両日に上海、湖北省武漢、四川省成都、
江蘇省蘇州の各市で戦争犠牲者の追悼集会を開くよう呼びかける団体や、
靖国参拝の動きに抗議書を発表する団体もある。
一方、10日付の香港紙明報は、中国政府が地方の警察に民間の戦勝記念活動
やデモの申請をすべて不受理とし、当局主催の記念行事に市民を動員するよう
指示した、と伝えた。中国当局は4月の一連の反日デモ以降、ネットの書き込みを
削除するなど、規制を強めてきた。
もっとも、ある政府系研究者は、こうした規制の動きが、今回は天安門事件
(6月4日)や盧溝橋事件の記念日(7月7日)の前と比べて鈍いと指摘する。
「中国政府は、小泉首相の15日の靖国参拝を何としてもやめさせたい。ネット上
の声は日本政府への圧力ともなりうるが、それがエスカレートして中国社会が
不安定になるのではもっと困る、というジレンマがある」とみる。
長崎原爆の日を悼む 同郷の友らの冥福祈る 被爆者や遺族が慰霊祭
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000010-nnp-l46 【鹿児島】 六十回目の長崎原爆の日の九日、奄美大島から女子挺身(ていしん)隊
などとして徴用され、長崎市で被爆した約六十人の被爆者や遺族が名瀬市内の
ホテルで慰霊祭を開き、同郷の仲間や姉弟の冥福を祈り、平和を訴えた。
奄美大島と喜界島でつくる県原爆被爆者福祉協議会奄美支部(百九十一人)が
主催。原爆がさく裂した時刻に合わせ、全員で黙とう。奥田静男支部長(78)が
「平和こそが願いであり、原爆の恐ろしさを後世に伝え続ける」と平和宣言した。
奥田さんは十八歳の時に徴用された長崎市の造船所で被爆。同市で兄は即死、
姉は病死したという。奥田さんは「青春などなかった。姉の悲惨な姿が忘れられ
ない」。同郷の十歳代の三人が即死したという豊田サチエさん(82)は「六十年
たっても悲しみが消えない」と話した。
県健康増進課の調べでは、県内の被爆者手帳所持者は千四百七人(三月末
現在)。このうち、奄美群島は二百三十一人に上る。戦時中、奄美特産の大島紬
(つむぎ)は「ぜいたく品」として生産が制限され、千人以上の女性が軍需工場に
徴用されたいわれる。
「核兵器ない世界を」市民団体が平和集会 鹿屋市
長崎原爆の日の九日、市民団体「反戦・反核・平和運動をすすめる大隅市民の
会」(上山陸三代表)が鹿屋市内の広場で記念集会を開いた。
会員や賛同者ら約五十人が参加し、「二度とヒバクシャをつくらない、核兵器の
ない世界を」などと書かれた横断幕の前に座り込んだ。上山代表は「被害者の
立場になって理解し、謝罪の心を抱いて隣国の人々と交流しなければ、東アジアに
平和は訪れない」と力強く訴えた。
参加者たちも「戦争や原爆をなくそうという教育が薄れている」「今度の衆院選で
は平和憲法を守る人を選びたい」などと、それぞれの意見を述べた。最後に、
原爆投下の時間に合わせて、参加者全員で被爆者に黙とうをささげた。
(西日本新聞) - 8月11日2時21分更新
核廃絶訴え「人間の鎖」 市民団体がピースウイーク 米国人の謝罪も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000006-nnp-l42 【長崎】 長崎市松山町の爆心地公園で九日、地元の平和市民団体が
「ピースウイーク2005市民集会」を開いた。核兵器廃絶や世界平和への
願いを込めて、全国から訪れた約百人が爆心碑を囲んで手をつなぐ
「人間の鎖」をつくった。
集会には、米国・マサチューセッツ州で平和運動に取り組んでいる
ジョン・シューシャードさん(66)と妻のケリーさん(60)も参加。ジョンさん
は「原爆を落とした国の国民として心から謝罪したい。アメリカ国民すべてが
被爆者の話を聞くべきだ」と話した。
長崎原爆が投下された午前十一時二分、全員で黙とうをささげ、「戦争放棄
を決意した日本国民はあらゆる争いを和解に導く真摯(しんし)な努力を
しなければならない」とする長崎市民平和宣言を採択した。
大分県中津市から家族五人で参加した中学教諭池田年宏さん(40)は
「平和に向けて何をすべきか確認できた。あらゆる場面で核廃絶を訴えて
いきたい」と話していた。
(西日本新聞) - 8月11日2時21分更新
ナガサキ描き伝える宿命 芥川賞作家市平和担当 中村さん
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000025-nnp-kyu 「六十年は節目だが、終わりではない」。長崎市松山町の平和公園で九日
にあった平和祈念式典で、裏方として働いた長崎市平和推進室長の中村明俊
さん(46)には、もう一つの顔がある。芥川賞作家、青来(せいらい)有一。
長崎市に生まれ育ち、被爆地に住む人々の心の奥底を描いてきた作家が、
平和行政担当者として迎えた初の原爆の日。被爆体験の継承が重い課題
になる中、節目の日を終えたその目は「ポスト六十年」を見据えていた。
福祉畑が長かった中村さんは今年四月、原爆をテーマにした作家活動が
認められ、被爆六十年の目玉人事として平和推進室長に起用された。
九日の式典会場では、海外から駆けつけた平和市長会議のメンバーの米国や
フランスの市長らの案内役を務めた。早朝、宿泊先のホテルから引率。遺族席の
後ろで式典を最後まで見つめた。二十二年間の市役所勤めで、席に着いて
式典を見たのは初めて。その会場には高齢の被爆者や遺族の姿が目立った。
夏の強い日差しの下、自らが作成に携わった「長崎平和宣言」を伊藤一長
長崎市長が読み上げていく。「私たちは核兵器廃絶を決してあきらめない」。
市長のその言葉に大きくうなずいた。
ずっと書き続けてきた小説では、二〇〇一年に芥川賞を受賞した「聖水」など、
長崎を舞台に原爆や隠れキリシタンをテーマにした作品が多い。「ここに生まれ、
ここに育ち、ここを知っている。爆心地に住む人を描く役割と宿命が私にはある」
との思いからだ。
「被爆者にとっても、平和行政にとっても、マスコミや市民の注目度が下がる
六十一年目以降こそが課題だ」。式典後、中村さんはそう語り、作家としての
思いをつけ加えた。「爆心地に住む人々の心と、ナガサキの記憶を書き続けたい」と。
(西日本新聞) - 8月11日2時20分更新
核固執の米に憤り 平和宣言 長崎60回目の「原爆の日」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000026-nnp-kyu 六十回目を迎えた「長崎原爆の日」の九日、長崎市主催の原爆犠牲者
慰霊平和祈念式典が、同市松山町の平和公園で営まれた。五月の核拡散
防止条約(NPT)再検討会議決裂で核拡散への懸念が強まる中、伊藤一長・
長崎市長は平和宣言で、核抑止力に固執する核保有国、とりわけ米国に
対して強い憤りを表明。日本政府にも米国の「核の傘」からの脱却を求め、
「私たちは核兵器廃絶と世界恒久平和に向けて、決してあきらめることなく
努力する」と被爆地の決意をあらためて世界に示した。
午前十時四十分に始まった式典には、被爆者や全国の遺族をはじめ、
十年ぶりとなる米国、韓国、ブラジルの在外被爆者・遺族代表ら約六千二百
五十人が参列。この一年間に死亡が確認された被爆者二千七百四十八人
の名簿が奉安箱に納められた。長崎原爆の死没者は計十三万七千三百
三十九人で、生存する被爆者の平均年齢は七二・五歳となった。
献花などに続き、原爆が投下された午前十一時二分、会場内に「長崎の鐘」
が鳴り響き、参列者は一分間黙とう。犠牲者の冥福を祈った。
平和宣言で伊藤市長はNPT再検討会議決裂に触れ「世界の人々の願いが
踏みにじられた」と、五年前の同会議で核兵器廃絶を約束した核保有国を
批判。米国市民に「核兵器のない平和な世界をともに目指そう」と呼びかけた。
日本政府には被爆国として核廃絶への指導的役割を求めるとともに、高齢化
する被爆者の支援と在外被爆者の援護を要望。若い世代に対しては過去の
歴史を学び、平和の継承を訴えた。
宣言に続き、被爆者代表の坂本フミヱさん(74)=長崎市香焼町=が
「平和への誓い」を読み上げ「命ある限り生き残った被爆者とともに『長崎を
最後の被爆地に』と叫び続けます」と述べた。
小泉純一郎首相は「平和憲法を順守し、国際社会の先頭に立ち核軍縮・
核不拡散を推し進める」とあいさつした。
(西日本新聞) - 8月11日2時20分更新
悲劇に心重ねたいまつ行列 長崎・浦上天主堂
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000024-nnp-kyu 長崎原爆で信者約八千五百人が犠牲になった長崎市本尾町の浦上
天主堂で九日、追悼ミサや、十三年ぶりに復活した「たいまつ行列」
などの催しがあった。
追悼ミサは午前六時に始まり、約八百人が参列。一九五九年に再建された
天主堂は、白いベール姿の信者たちが歌う賛美歌と祈りの声に包まれ、
平野勇主任司祭は「(長崎の悲劇を)決して繰り返してはならないという
意思を持たなければならない」と呼びかけた。
夜には、天主堂から、平和祈念式典があった平和公園(同市松山町)まで
歩く「たいまつ行列」があった。約千二百人の信者らが、長さ約八十センチ
の竹で作ったたいまつを手に約五百メートルを歩いた。
この日は、被爆六十年に合わせ、半分の大きさで再現した旧天主堂の
祭壇に、被爆後、がれきの中から発見された「被爆マリア像」も信者の手で
収められた。
【写真】平和祈願祭でたいまつ行列をする信者たち=9日午後7時54分、
長崎市本尾町の天主公園(後方は浦上天主堂)
(西日本新聞) - 8月11日2時20分更新
原爆投下を歴史的に検証 長崎、終日追悼行事続く
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050809-00000128-kyodo-soci 被爆60年を記念したシンポジウム「広島・長崎−原爆投下の意味を考える」
が9日、長崎市内で開かれ、日本と米国の歴史学者が核廃絶への道を探った。
同市では、このほか原爆犠牲者を追悼する行事などが終日、続いた。
平和祈念式典が開かれた同市松山町の平和公園には、1日で約4万人が
訪れた。
シンポは、長崎平和研究所と立命館大国際平和セミナー、米アメリカン大
の共催で、市民や学生ら約120人が議論に聞き入った。
福岡大の西嶋有厚名誉教授(西洋史)は「日本降伏の直接要因はソ連参戦
だった」と原爆投下が戦争を終結させたとする見方を批判。「国民の批判が
戦時中の支配層に向けられないよう、降伏から戦後処理を主導した政府内
のグループが、敗戦の責任を原爆に転嫁した」と持論を展開した。
(共同通信) - 8月9日17時57分更新
戦後60年:“出征”した牛、絵本に 平和願い、佐伯の女性2人が出版 /大分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000193-mailo-l44 15日の終戦記念日を前に、佐伯市都市計画課副主幹の野々下留美さん(38)と、
同・行財政改革推進課長の川嶋文絵さん(54)が、野々下さんの亡き祖父母が
長年飼育した農耕牛が戦時中に兵士の食料用に徴収されたという実話を基に、
絵本「べエが戦争に行った日」を自費出版した。
農家だった野々下さんの祖父貫(つらぬ)さんは、少年時代に農耕用の黒牛ベエ
を飼い始めた。約20年たった戦時中のある日、食糧難で兵士の食料用に供出する
よう軍から命令された。ベエとの別れを惜しむ妻サトさんに貫さんは「(兵士が)
戦地で生き延びるためや」と怒鳴りつけたものの、佐伯駅から積み出されるベエが
「モー」と一言鳴いたのを見て、生涯たった一度の涙を見せる――というストーリー。
野々下さんは20代の時にこの話をサトさんから聞いた。サトさんが他界した95年
に文章化してNTTふれあいトーク大賞に出品したところ、1万2190点の中で
優秀賞を受賞。戦後60周年の節目に出版を思い立ち、受賞時の文章を絵本用に
加筆修正。さし絵は、税務課時代の上司で絵が得意な川嶋さんに、当時の佐伯の
写真を参考に描いてもらった。
野々下さんは「祖母の命日でもある終戦の日に間に合った。戦争は小さな町の
小さな家庭にも悲しみを残す」と話し、川嶋さんは「親子で、家族で読んでほしい」
と勧めている。1470円。
新風舎03・5414・3414。
【降旗英峰】
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日17時46分更新
宗像市少年少女合唱団:日韓交流は私たちの手で! 子供平和キャンプに参加 /福岡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000162-mailo-l40 ◇きょうから16日まで
韓国・金海市と姉妹都市を結ぶ宗像市の市少年少女合唱団(代表・片山由美
さん、17人)が11〜16日、韓国で開かれる「光復60周年アジア子供平和
キャンプ」に参加する。竹島の領有権問題を巡って一時は両国間の交流中止が
相次いだが、片山さんは「子ども同士の交流から真の友情が生まれる」と確信
している。【中原剛】
合唱団は80年に市内の小中学生で結成。03年に金海市を訪問して「さくら」
など美しい歌声を披露し、ホームステイなどで友情を深めた。こうした縁で7月
初旬、金海市文化院から市に「韓国政府として合唱団を招待したい」と連絡があった。
団員の保護者から「光復節(15日)は日本の植民地支配から解放されたことを
祝う日で、最近の反日感情からして(訪韓を)見合わせてはどうか」との意見も出た。
一方で「子どもたちは平和を肌で感じている。共同生活から得るものは大きい」
との意見もあり、参加を決めた。
訪韓団は小学2年〜中学3年の10人と片山さんら5人。11〜13日は金海市の
隣の昌原市で中国、カンボジア、東ティモールなど5カ国の子どもたちとキャンプ生活。
14、15日はソウルで光復節中央慶祝式などに参加し、浴衣姿で「世界中の子ども
たちが」(手話付き)「宝島」「ふるさと」など6曲を歌う。
城山中3年、中野美穂さん(14)は「いろいろな国の子どもと交流できるので楽しみ
です。浴衣姿で歌うのは初めてですが、頑張ってきます」と話していた。
〔福岡都市圏版〕
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日17時36分更新
蕨市:幼児ら戦時食のすいとんを試食 平和事業で戦争の悲惨さ学ぶ /埼玉
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000061-mailo-l11 戦後60年・蕨市平和都市宣言20年記念、第9回平和事業「夢・希望……
平和」(蕨更生保護女性会・旭町公民館共催)が10日、同館で幼児から
お年寄りまで80人が参加して開かれ、同市中央6、主婦、吉田陽子さん(65)
が蕨空襲の体験談を発表した。
当時5歳だった吉田さんは焼夷(しょうい)弾で片腕を失った。姉と母も重傷を
負い、3人一緒にリヤカーで病院に運ばれた悲しい思い出を話した。女性会は
毎日新聞埼玉版(5月24日)に掲載された「更生保護施設『清心寮』でもらった
1本のつえ」の記事を朗読した。
「さとうきび畑」などを歌った後、昼食では女性会メンバーが同市錦町産の
小麦粉で作った戦時食のすいとん、おやきなどをみんなで食べた=写真。
【森国郎】
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日16時26分更新
平和、命の尊さ 語り芝居で 市民団体など主催 20日福知山で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000009-kyt-l26 戦争体験をもとにした語り芝居「あの日 私は」が20日、京都府福知山市
内記の市民会館4階ホールで開かれる。戦後60年の節目に、平和と命の尊さ
を語り継ぐ。
市内11の市民団体で構成する「人にいちばん近いまちづくり推進会議」などが、
戦後60周年記念事業として主催する。
語り芝居は、関西の老舗劇団「関西芸術座」などから4人の女優がそれぞれ
1話を語る。第1話は、同劇団の藤山喜子さんが沖縄戦をもとにした「艦砲の
嵐をくぐりぬけて」を上演。第2話は「満州からの最終列車は燃えた」、第3話は
広島の原爆体験をつづる「母さん、水をちょうだい」、第四話は大分を舞台に
「ムッちゃんはどこへいったの」を演じる。午後1時半開演。入場無料。保育
ルーム、手話通訳なども用意する。
また、15日から市役所1階ロビーで原爆や空襲など戦時中の写真約40点を
並べて「パネル展」もあわせて開く。19日まで。同推進会議の畠中俊郎会長は
「戦争を知らない世代にも語りを通して平和の大切さ、戦争の悲惨さを訴えて
いきたい」と話している。
(京都新聞) - 8月11日10時49分更新
沖縄のミュージシャンが反戦訴へ 上京区で14日夕、コンサート
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000051-kyt-l26 反戦活動を続けている沖縄県在住のミュージシャン海勢頭(うみせど)豊さん
のコンサートが14日夕、京都市上京区新町通一条上ルのカトリック西陣教会で
開かれる。普天間飛行場の県内移転への反対が高まる中、「戦後60年たつ
のに沖縄は米軍基地に苦しめ続けられている。その思いを本土の人たちに
届けたい」と歌とメッセージで訴える。
海勢頭さんは沖縄の過去と現在を音楽で伝え続けようと各地で公演を続ける
一方、沖縄戦を描いた映画「GAMA−月桃の花」(1996年)のプロデューサー
も担当した。近年は沖縄での活動を中心にしてきたが、「沖縄以外では報道も
市民の関心も低調になっている」との海勢頭さんの訴えに賛同した関西の
音楽仲間が京都で約10年ぶりのソロライブを企画した。
午後5時半開演。2000円(学生1500円)。
問い合わせは西野さん携帯090(2102)9550へ。
(京都新聞) - 8月11日21時10分更新
イマジン反戦マンガ展:レノンの名曲テーマ、26点展示−−松山で15日まで /愛媛
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000253-mailo-l38 ジョン・レノンの名曲「イマジン」をテーマにした1コマ漫画26点を紹介する
「イマジン反戦マンガ展」(松山市と市人権教育推進協議会共催)が10日、
同市のいよてつ高島屋で始まった。無料、15日まで。
終戦の日にちなむ催し。毎日新聞などに風刺漫画を描く所ゆきよしさんら
漫画家8人の作品集「IMAGINE」(イマジン、03年)掲載作の一部。このうち
森田拳次さんの作品は、ニューヨークのビル街に掛かる虹を描く。虹は中央
2カ所で切れており、じっと眺めると「9・11」同時多発テロで崩れた世界貿易
センタービルが、そこにあるように感じられる。平和への祈りを込めた作品に、
親子連れらが見入っていた。
【古谷秀綱】
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日17時34分更新
戦後60年の原点:原爆や戦争の不条理伝えたい−−宇都さんが朗読劇 /神奈川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000093-mailo-l14 ◇被害・加害の両側面を静かに、しみじみと−−あす茅ケ崎で
10年間、原爆や戦争の不条理を静かにしみじみと訴える朗読劇の上演を
続けてきた宇都純子さん(56)がこの夏もまた、12日に茅ケ崎市のハスキ
ーズギャラリーで朗読劇を開く。今年は、「広島第二県女二年西組 原爆で
死んだ級友たち」を朗読する。被爆した級友らの姿を、クラスでただ一人助か
った女生徒、関千枝子さんが40年後に遺族や関係者から話を聞いたドキュメント。
全員の「あの日」の姿を浮かび上がらせる。
宇都さんはお父さん子。子供のころから戦争体験を聞いて育った。戦友の死
や戦闘の様子……。ところが思春期のころ、いつものように笑い話にしながら
戦争を語る父親にはっとした。「うちの父は人を殺してきた。どうしてそんなこと
を人に話せるのか」。嫌悪感が募り、抱えたまま年を経た。
子供を出産したころ、父が戦争体験をつづった本を作った。読み進み、
父親の吐き出したい苦しみを知った。戦友を失った悲しみ、人を殺した苦しさ。
「父は戦争が懐かしくて話すのではない」。深い憤りと悲しみがそこにあることに
気がついた。
「戦争を伝えなければならない」。一人での朗読依頼が来た95年、生半可な
気持ちではできないと思っていた広島を取り上げる決意をした。文献をいくつも
読み、体験談を聞きに行き、朗読作品を100回、200回と読み込んで、
字面を情景に変えて体に作品を染み込ませた。
反戦の気持ちは人一倍強い。けれど、朗読会場には反戦を訴えたり誰かを
批判したりするビラは置かない。戦争で日本がやってきたこと、原爆が落ちて
喜んだ人もいたこと、被害と加害の両側面を持つむなしい「戦争」に思いを
致してほしいからだ。声高にではなく、静かに伝えたい。
「朗読、物書き、活動家。それぞれのやり方で戦争を伝えていけばいい。
その“点”がやがて“線”となり次の世代へと引き継がれていく」。話す宇都さん
の隣で、父親の勲さん(84)が静かに新聞を読んでいた。
朗読は12日、午後3時半と午後7時半からの2回。チケット前売り1500円、
当日1600円。18歳以下500円。
問い合わせは宇都純子さん(0467・86・3173)
【稲田佳代】
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日16時32分更新
平和について考える会:「原爆の子の像」モデル、「禎子さん」の兄が朗読劇 /福岡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000280-mailo-l40 「長崎原爆の日」の9日、南区の西花畑公民館で、地域の児童を中心に
平和について考える会があった。原爆症のため1955年に12歳で死亡し、
広島市の平和記念公園内にある「原爆の子の像」のモデルとなった故佐々木
禎子さんを描いた朗読劇を兄の佐々木雅弘さん(64)が演じ、約40人の児童が
聞き入った。死を自覚しつつ最期まで明るく振舞った禎子さんに、会場では
目頭を押さえる姿がみられた。
禎子さんは2歳の時に広島市で被爆し、9年後に白血病を発病した。回復を
信じ千羽鶴を折り続けたが、8カ月後に死亡した。効果音を交えた朗読劇は、
そうした禎子さんを情感豊かに描く。
雅弘さんは「禎子はとても友達を大切にしていました。しかも『もっと生きたい』
と思っていたのに、12年しか生きられなかった。今日感じたことをぜひ、お父さん
やお母さんと話してください」と児童に語りかけた。
児童からは「禎子さんはとても強い子だと思いました。私もそんなふうになり
たい」「命を大切にしないといけない。核兵器はなくさないといけないと思いま
した」などの感想が次々と発表された。【笠井光俊】
〔福岡都市圏版〕
8月10日朝刊
(毎日新聞) - 8月10日17時36分更新
日中友好希望の翼:派遣の2大学生が抱負 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050810-00000302-mailo-l42 長崎市のNPO法人「岡まさはる記念長崎平和資料館」(高実康稔理事長)は
このほど、「日中友好希望の翼」(11〜18日)に参加する県内の大学生が
長崎大環境科学部3年、宮里朋枝さん(21)と長崎外国語大4年、田崎翠さん(21)
の2人に決まったと発表した。
「希望の翼」は、旧日本軍による加害をたどる旅に若い世代に参加してもらおう
と02年にスタート。一行は上海、無錫、南京を訪問し、十数人から体験談を聞く。
宮里さんは沖縄県金武町出身で、実家の裏が米軍基地。「加害者意識はなくて
被害者の気持ちが強かった。中国の人が何を考え何を伝えたいと思っているのか、
いろいろ学んで沖縄の思いも伝えたい」と話す。一方、田崎さんは長崎市出身。
大学で中国語を学び、半年間の中国留学経験がある。「反日デモが起きた理由
や、歴史教育のギャップを知りたい」と抱負を話した。
8月10日朝刊
(毎日新聞) - 8月10日17時42分更新
平和発信、沖縄から学ぶ 韓国・済州島研究者3人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000003-ryu-oki 村上有慶さん(右端)と平和事業について熱心に意見を交わす(左から)
呉承國さん、張允植さん、崔榮根さん=10日午後、佐喜眞美術館
韓国政府から「世界平和の島」として指定を受けている済州島で平和推進
事業に取り組む3人の研究家が10日、県内視察のため来沖した。済州島で
本年度に入り本格化した歴史資料館や平和資料館建設計画に向けた資料、
情報収集が目的。3人は「沖縄は戦場となり、今でも米軍が駐留している中、
住民レベルで『平和発信』に努めている。学ぶべき点は多い。武力によって
住民が大量に死亡した歴史的共通点もあり、平和継承の方法を吸収したい」
と語った。
済州島では1948年4月3日、米軍政に反対し立ち上がった住民を軍や
警察が「共産暴動」と位置付け虐殺、約3万人が犠牲になった。韓国政府は
2003年、「4・3事件」と呼ばれているこの事件について、公式に謝罪、
犠牲者の名誉回復に向けた特別法を制定するなど、政府レベルで「平和の島」
としてのアピールに努めている。
来沖したのは、事件の歴史継承に取り組む研究所の張允植(チャン・ユンシク)
さん、呉承國(オウ・スウグク)さん、崔榮根(チェ・ヨングン)さん。2泊3日の
日程でひめゆり平和祈念資料館や県平和記念資料館などを視察する。
この日は普天間飛行場横に建つ佐喜眞美術館(宜野湾市)を訪問したほか、
沖縄平和ネットワーク元代表世話人の村上有慶さんと意見交換した。
普天間飛行場を目の当たりにした張さんは「済州島には今年5月に海軍建設
の計画があったが、海軍の後ろには必ず米軍がいると強く反対した。米軍からは
平和は生まれない。飛行場を見ると、怒りがこみ上げてくる」と語った。
また、呉さんや崔さんは「4・3事件の犠牲者の失われた記録や記憶を残し
続ける施策を平和の島・沖縄から学びたい」と話していた。
(琉球新報) - 8月11日9時44分更新
戦後60年の原点:松代から世界の紛争地へ−−海外で活動・福井美穂さん /長野
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000079-mailo-l20 太平洋戦争末期に着工し、朝鮮人をはじめとした1万人以上が働き、多くの
犠牲者を出した松代大本営。「こんな悲劇が日本にあったとは」。中学2年の
夏休み、自由研究で衝撃を受けた少女はやがて米英の大学で紛争解決を学び、
NGO(非政府組織)の現場責任者として東欧、アジア、アフリカで難民支援に
青春を懸けてきた。「大本営跡地は、世界の紛争地への第一歩でした」。
海外で活動する長野市出身の福井美穂さん(31)の姿には日本が60年前に
残した教訓と平和への祈りが重なる。【長野支局長(前アフリカ特派員)・城島徹】
◇「弱者が戦争の最大の犠牲者」−−遊び場は大本営の跡地だった
「いとことかくれんぼをしました。涼しくて気持ちよかった」。長野市篠ノ井に
生まれた福井さんは小学校低学年の夏、松代町にある気象庁の地震観測所
(現在の精密地震観測室)に近い地下トンネルで遊んだ。
その遊び場が、本土決戦に備えて軍部が極秘に移転を計画した大本営、
つまり日本軍の最高司令部の跡地だと知ったのは中学2年の夏休み。「母から
教えられ、自由研究の課題にして調べて驚いた」。祖父母が建設中に軍部から
家を追われたことや、過酷な労働を強いられた朝鮮人の存在も知った。
「怒りを覚え、弱者が戦争の最大の犠牲者だと感じたのです」
進学した県短大では、「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼碑を守る会」の塩入隆
会長から近代史を学び、大本営建設で強制労働させられた朝鮮人の孫が留学
していた。運命的な「大本営との縁」を感じた。
その後、米国の大学と英国の大学院で難民支援や紛争解決を学んだ。99年に
NGO「難民を助ける会」に入り、民族紛争に揺れたバルカン半島を担当。マケド
ニアとボスニア・ヘルツェゴビナで各半年間、疾病者の巡回医療や障害者の
支援事業を調整し、「紛争のトラウマの悲惨さにショックを受けた」。さらに
ユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)で1年間、国内避難民の障害者支援に
奔走した。
01年8月、NGO「ピースウインズ・ジャパン」に就職し、「9・11」米国同時テロの
2カ月後からアフガニスタンとパキスタンで現地事務所設立と国内避難民の支援を
手がけた。
02年春から現在までシエラレオネで難民キャンプの設立、水、食料・日用品の
配布や衛生問題を担当。キャンプ内の難民暴動で人質になったり、マラリアに
何度も苦しんだ。今月26日の帰国が決まり、「人なつこい現地の人々のおかげで
3年半を過ごせた」と振り返る。
「赴任当時、人々は平和と復興に希望を持っていたが、一向に改善されない暮らし
に政府への不満を募らせている」「日本人は安全な水や電気、それに教育を受ける
権利にもっと感謝すべきかもしれない」。今月上旬、福井さんは日本へのメールに
こう書いた。
◇ ◇ ◇
私が福井さんを取材したのは02年5月、シエラレオネ。手足を切断された犠牲者
が多数出た激しい内戦が終結した直後で、首都フリータウンの上空には国連平和
維持部隊のヘリコプターが大音響で飛び交っていた。首都郊外のでこぼこ道を
大型の四輪駆動車のハンドルを握って現れたのが福井さんだった。
帰国間近の福井さんは「そばや豆腐、おでんを食べ、温泉に入って休みたい」
と思う半面、「アフリカの水を飲んだ者はまたアフリカに戻るという言葉に真実味を
感じる」と話す。帰国したら「原点」の松代大本営跡を再訪し、学校などで海外での
体験を報告するつもりだ。
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日16時46分更新
必死にコピペでサゲようとしている姿が痛々しい・・・。
余程、イラクとピースボートの関係において触れられては困る利権を守りたいみたいだね。
498 :
国連な成しさん:05/08/12 10:47 ID:Jo9.r.Ac
ピースボードの愚痴をたれている暇人にはニートが沢山居ると聞くが、
書き込みする暇があれば、就職活動なりアルバイトなりに励むべきなのだ。
学生なら勉学が学生の本文なのである。
ピースボートに参加するのに結構、金がかかるんだろ。
家が金持ちの奴が多いから働かかなくてもいいんじゃないかな。
ピースボートの活動への“参加”には金などかかりませんが?
船旅には費用が要るけど。
アメリカ自体、アメリカ人がいなければ、
インディアンの平和に住まう土地のままだったら、
今でもどれほど美しい場所だったことか。
本国イギリスにおいてさえ、必要の無かった人間が、
その美しい土地を占拠し、際限なく繁殖を繰り返した結果が、
今のアメリカだ。
もっともこれは、縄文人の土地を掠奪して荒らした、
朝鮮から渡ってきた日本人と日本列島の関係と、同じである。
日本人がいなければ、この島々は、どんなに美しかったことか。
これはまた、アングロサクソン人とブリテン島の関係、
ユダヤ人とパレスチナの関係と、同じである。
かくして、アメリカ、日本、イギリス、イスラエルは、
「悪人の枢軸国」なのである。
>>500 その船旅にいくら上納しないといけないんだろうね。
“上納”?
もしかして、船や飛行機に只で乗れると思ってる?
社会勉強し直すべきだね、
>>502は。
505 :
国連な成しさん:05/08/13 00:35 ID:c2NpIo1M
【 首相15日靖国参拝見送り−戦後60年、中韓に配慮 】
小泉純一郎首相は12日夕、15日の終戦記念日とその前後の靖国神社参拝を見送る意向を示した。
記者団が首相官邸で、2002年4月の首相参拝の際に発表した「終戦記念日やその前後の参拝に
こだわり、再び内外に不安や警戒を抱かせることは私の意に反するところだ」との所感について「思
いは変わっていませんか」との質問したのに対し「変わりません」と明言した。
首相の靖国参拝は戦争責任をあいまいにするとして中韓両国などが批判。戦後60年のことし、中止
を再三求めていた。9月11日投開票の衆院選を控え、対中関係を重視する連立相手の公明党は、
「自公関係がしっくりいくためにも、参拝は避けていただきたい」(神崎武法代表)などと自粛を強く求
めており、首相も選挙協力への影響を考慮したとみられる。
首相は8日の記者会見で「衆院選で争点にする気は全くない」と述べていることから、投開票日まで
参拝を見送る可能性も高まりそうだ。
就任前に首相は「(終戦記念日の)8月15日、いかなる批判があろうと必ず参拝する」と「公約」し
たが、中国などの反発に配慮し2001年の参拝は8月13日とした。02年は靖国神社の「春季例大
祭」に合わせ4月21日に参拝、これに合わせて所感を発表した。03、04両年は1月にそれぞれ
参拝した。
http://www.sanspo.com/sokuho/0812sokuho044.html
506 :
市民派護憲左翼:05/08/13 00:39 ID:z1eIEf3Y
朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番まともではないだろうか?
日本が右傾化しないように社説で繰り返し述べている。
はき違えた愛国心を煽るようなマスコミを信じてはいけない。
売れさえすればいいという軽薄な商魂の論説ばかりが、
国を危うくするのは太平洋戦争で懲りたであろう。
機会ある毎に日本の過去の過ちに対する反省を促し、
関係諸国との友好を深めようとしているのが朝日新聞である。
なまじ知った歴史の一部で全てがわかった顔をすると恥をかくだけだ。
のうのうと生きていられるのは平和憲法のおかげであることは間違いない。
できもしない自主防衛を唱えていては過去の過ちを繰り返すだけである。
不利なことがわかっていながら、国民を煽って戦争に突入し、
買い物も切符が無ければ買えもしないような生活をさせながら、
運用される資金はすべて軍事行動向け。
動力になるべき燃料もなく、資源も無い日本が何の大義もない戦争を
推し進めるのは狂気の沙汰としか言い様が無い。
進軍ラッパをもう一度聞きたいのか?
高校生1万人署名活動:過去最高の8万622人 「平和大使」に託し国連へ /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000258-mailo-l42 核兵器廃絶を求める声をスイスの国連欧州本部に届けようと、県内の高校生が
取り組んでいる「高校生1万人署名活動」実行委は11日、長崎市で会合を開き、
同日現在の署名総数を8万622人と発表した。署名は「高校生平和大使」の3人
に手渡され、大使らは16日、署名とともにスイスに向けて出発する。
今年は被爆60年にちなんで6万人を目標にしていたが、ブラジルで8347人、
フィリピンで3022人など海外4カ国で1万1831人分の署名を集めた。また、
国内でも愛・地球博(愛知万博)などで活動を展開した。署名総数は過去最多
となった。
実行委のメンバーはこの日、「みんなの思いが詰まっているので重いです」
などと言いながら、平和大使の平湯あゆみさん(17)、山田詩郎さん(19)、
中村充さん(16)の3人に署名を手渡した。【横田信行】
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時42分更新
高居地下壕:宇佐の戦争遺跡、史跡に指定 平和授業活用へ /大分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000276-mailo-l44 宇佐市教育委員会(熊埜御堂宏實委員長)は15日付で同市上田の防空壕・
高居地下(横穴)壕を戦争遺跡として市文化財(史跡)に指定した。戦争遺跡
としては城井一号掩体壕(えんたいごう)についで2番目。
旧宇佐海軍航空隊跡の東側を流れる駅館川の東岸には、1945年2〜3月
に掘られた約五十の海軍用地下壕が残っている。空襲で焼けた司令部など
隊の施設を移したもので、高居地下壕はその一つ。鷹居神社近くにあり、
宇佐航空隊の歴史を知る上で貴重な遺跡。
総延長は146メートル。内部は四つに分かれていて中心部は高さ2メートル、
幅2メートル。壁面には、柱を立てた掘り込み(高さ1・8メートル、深さ10センチ、
横18センチ)があり、板張りの壁だったらしい。軍の食糧倉庫や弾薬庫だった
という。
今年5月、高校生らしいグループの花火遊びが発覚して以来、市は入り口を
金網でふさいだが、市職員の案内があれば、だれでも見学出来る。小倉正五・
市文化課長は「市史跡に指定されたので、平和授業などにどしどし活用して
ほしい」と話している。【大漉実知朗】
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時46分更新
新報特別賞の受賞喜び合う 一フィートの会記念の集い
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000000-ryu-oki 琉球新報特別賞の受賞を喜び合う一フィート運動の会の関係者ら=11日夜、那覇市の八汐荘
平和運動への貢献が認められ、6月に琉球新報特別賞を受賞した沖縄戦記録
フィルム一フィート運動の会(福地曠昭代表)は11日、那覇市松尾の八汐荘で
「受賞記念の集い」を開催した。会場には50人以上の関係者が集まり、受賞を
共に喜んだ。
福地代表は「戦争のことだからお祝いというよりも、評価は評価として頂き、
賞に応える活動を続けていくことがわれわれの使命だと思う」と語った。
中村文子事務局長は全県民からのカンパに感謝し、「体験者が少なくなっていく
中で、平和を希求する心と戦争に反対する行動力をどう育てていくのか。沖縄戦を
二度と繰り返さず、沖縄、世界の恒久平和のために精いっぱいの努力を続ける」
とあいさつした。
また、戦後60年を機に同会のホームページを開設したことや10月に完成予定
の新たなビデオ作製が報告された。海勢頭豊さんによる歌や太佳(たか)流華の会
による琉舞も披露された。
(琉球新報) - 8月12日9時31分更新
平和訴え本島縦断 沖縄市で第13回ピースラン
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000011-ryu-oki 南北の2コースが合流し、ゴールの沖縄市平和モニュメントを目指すピースラン
の一行=沖縄市山内
【沖縄】沖縄市平和月間の一環として、市民ランナーが平和を訴えながら
沖縄本島を縦断する第13回ピースラン(主催・同実行委員会)が8日、
辺戸岬と平和の礎をスタートする南北2コースで行われた。
各地の走友会など11チーム約180人が参加。「平和だから走れる」などと
書いた横断幕を掲げながら、約半日をかけて走破した。
北コースは午前5時、南コースは午前9時にそれぞれスタート。最後は
沖縄市民会館で2コースが合流して、一団となって同市山内の市平和
モニュメント前に午後4時すぎにゴールした。
ゴールで出迎えた高良武助役は「平和の尊さを内外に発信する行政の
事業に共鳴してもらっている。ますます大きく発展してほしい」とねぎらった。
北コースを走った矢野恭次さん(56)=西原町=は「辺戸岬から42キロと
最後の13キロを走った。午前中は曇っていて走りやすかったのは良かった。
目標の50キロに届かなかったのは少し残念」と汗をぬぐった。
(琉球新報) - 8月12日11時22分更新
平和の尊さ伝えたい 多治見で「戦争と平和展」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000007-cnc-l21 【岐阜県】戦後60年を記念して、戦時中の生活を伝える品物を展示する
「戦争と平和展」が多治見市の養正公民館で開かれている。20日まで。
会場には、戦争中の世界地図や多治見市内の戦没者の写真、鉄かぶとや
軍服など兵士の所持品をはじめ、多治見駅が機銃掃射を受けたときに米軍機が
落とした薬きょうや、鉄製品の代用として使われた陶器製のボタンなど、同公民館が
市民に呼びかけて集めた品物約400点が展示されている。
当時のたんすやちゃぶ台、ラジオなどを使って戦時中の生活を再現したブース
もあり、同公民館では「戦時中の市民の苦労を感じてもらえれば」と話している。
また、同公民館では8月15日正午から、すいとんの試食会、午後1時から戦争
体験を語る記念講演会を開催する。 (小西 数紀)
(中日新聞) - 8月12日11時3分更新
戦争と人権展:憲法の男女平等理念追うビデオも−−あすから県女性センター /奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050811-00000277-mailo-l29 「戦争と人権展」が12〜14日、奈良市東向南町6の県女性センター(近鉄奈良駅
5分)で開かれる。戦後60年に、女性と人権、子どもと人権を考える。
会場では、終戦直後、日本国憲法の草案作成に携わり、男女平等の理念を
盛り込んだ米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんの証言で、憲法作成の過程を
追ったドキュメンタリービデオ「私は男女平等を憲法に書いた」や、イラクにおける
劣化ウラン弾の被害をリポートしたビデオ「悪の枢軸とは誰のことか?〜劣化ウラン弾
とイラクの子どもたち」が放映される。また、沖縄やアフガニスタン、イラクの報道
写真展もある。
問い合わせは自治労県本部(0742・64・1000)内の県女性解放共闘(代表・
藤原智代さん)。【氷置恒夫】
8月11日朝刊
(毎日新聞) - 8月11日17時10分更新
パネル展:戦争の悲惨さ伝える 原爆でやけど負った少年など60点 /三重
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000046-mailo-l24 ◇久居のポルタひさいで展示
戦争や原爆の悲惨さを伝えるパネル展が久居市新町のポルタひさいで
開かれている。1985年に非核平和都市宣言をした久居市が、被災者の
写真や絵の展示を通して核兵器廃絶の必要性を訴えようと企画した。
原爆による熱で背中に大やけどを負い、あまりの痛みで「殺してくれ」と
叫ぶ少年の写真や手から皮膚が垂れ落ちている女性の絵、核実験で
被ばくし、手が大きく膨れあがった元米兵の写真など約60点を展示している。
子供と一緒に訪れた津市の主婦(32)は「戦争の恐ろしさを子供に伝えねば
と思っているが機会がない。こういう催しは貴重」と話した。16日まで。入場無料。
【山口知】
〔三重版〕
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日16時56分更新
平和のための戦争展:西南戦争から第二次世界大戦までの資料を展示−−姫路 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000172-mailo-l28 ◇個人収集1000点余を展示−−きょうから、姫路・網干市民センターで
姫路市網干区垣内中町の網干市民センターで12日から、「平和のための戦争展」
が始まる。西南戦争から第二次世界大戦までの戦争資料を紹介する。
展示される資料は、骨とう品店を営む前嶋泰請さん(42)=同市網干区坂出=
が20年以上かけて個人的に収集した。前嶋さんは戦争を称賛、否定することなく、
来場者に考えてもらおうという狙いで、定期的に戦争展を開催している。
今回は、原爆や空襲の被害を伝えるパネル写真や、戦時中の生活用品、戦死者
の遺品などさまざまな角度から戦争を語り継ぐ資料を展示。日露戦争で使われた
軍服や、明治天皇の直筆とされる署名が入った勲章の授与書など、見応えのある
ものが多い。細かいものまで合わせると、1000点以上にのぼるという。
前嶋さんは「戦争のすべてを歴史的事実として伝えたい。戦争のことをそれぞれが
考える材料を提供したい」と話している。14日まで。入場無料。来場者に明治時代
の官員録の複製を贈る。問い合わせは前嶋さん(090・4309・5477)。
【酒井雅浩】
〔播磨・姫路版〕
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時6分更新
県内自治体・核実験アンケ:「抗議する」「しない」同数 「まだ意識は低い」 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000259-mailo-l42 ◇反核市民団体が発表
反核運動に取り組む市民グループの集まり「核実験に抗議する長崎県内
市民団体交流会」は、県内自治体を対象にした臨界核実験に関するアンケート
結果を発表した。核実験への反発を示す自治体は割合では増えたが、
合併による自治体数の減少に伴う側面が大きく、交流会は「被爆60年を
意識した回答はあったが、まだ核実験への意識は低い」と話している。
アンケートは00年にスタート。今年は5月に県内46自治体(県を含む)に
質問を送り、35自治体が回答を寄せた。質問は(1)実験に対する抗議文
送付などの対応(2)実験に対する見解(3)実験を容認している日本政府
への見解――の3点。今回、市で回答しなかったのは五島市だけ。南串山町は
6回連続の無回答だった。
(1)への回答は「送付する」「送付しない」とも13自治体。過去の送付は
県や市に限られてきたが、今回は南高、北松の6町が送付を表明した。
(2)の実験に対する見解では、大島村だけが「問題なし」と回答。「実験
するな」は県や長崎市など31自治体で、88%と過去最高だった。「どちら
とも言えない」は3自治体。
(3)については、政府の態度を「妥当な考え」とした自治体はなく、「抗議
すべきだ」が県や長崎市、時津町など24自治体で、「どちらとも言えない」が
佐世保、大村市など11自治体だった。
交流会は「北海道苫小牧市の非核平和都市条例では『核実験が実施され
たら反対を表明する』と定めている。被爆地から遠い苫小牧市の対応を
見習ってほしい」と訴えている。集計結果は市民団体交流会で発表し、
全自治体の首長と議会議長に送った。
【横田信行】
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時42分更新
アートライブ:ゼロ戦がハトだったら 平和の願い込め即興劇−−甘木できょう /福岡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000159-mailo-l40 ◇太鼓奏者や舞踏家ら5人
甘木市黒川の「THE MUSEUM 音楽館」で12日午後7時から、アートライブ
「ゼロセンガ、ハトニナルヒ」がある。太鼓奏者ら異なる分野で活躍する5人が
「ゼロ戦がハトだったら」との想定で、即興劇を披露。平和への願いを伝える
のが目的だ。
廃校になった市立黒川小学校の校舎を活用し、世界の子供の絵を集めたり、
芸術作品を展示しているギャラリー「共星の里」。ここを運営している芸術家たち
が平和について語らう中で、企画を思いついた。
出演は、人間国宝の太鼓奏者、大倉正之助さん▽舞踏家の玉野黄市さん
▽ビデオ作家のヒグマ春夫さん▽ライブ絵画の柳和暢さん▽元フジテレビ
アナウンサーの山川建夫さんの5人。シナリオはなく、5人がそれぞれ30分
程度のライブパフォーマンスを見せる。どんなイベントになるかは、その場の
発想次第になる。
「共星の里」の尾藤悦子・クリエイティブディレクターは「自然豊かな黒川の地
で、すべての世界に平和が訪れることを想像できる夜にしたい」と話している。
当日券は3500円。問い合わせは共星の里電話0946・29・0590。
【柳瀬成一郎】
〔福岡都市圏版〕
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時37分更新
被爆連:「60年」機に証言集刊行 「核兵器廃絶の資料に」 /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000260-mailo-l42 県平和運動センター単産被爆者協議会連絡会議(被爆連、川野浩一議長)が
結成30周年を記念し、被爆60年を機に「被爆者が何を伝え、次の世代が
どう受け継ぐべきか」をまとめようと証言集「グラウンド・ゼロからの再生」を
刊行した。
被爆連は旧総評系労組の被爆者団体で構成している。証言集では教師、
救援列車の機関士、兵士など、さまざまな立場だった人が寄稿した。
佐世保海軍病院の諫早分院で次々と被爆者が亡くなり、死体が処理されて
いく様子や、原爆投下当日、工場の仕事をさぼったことで命は助かったが、
友人らを亡くしたことを背負い続けるため被爆者健康手帳の申請をして
こなかった話などが収められている。証言した後、証言集の完成を見ずに
亡くなった人もいる。
このほか、原爆の被害の状況、被爆連の歩みや被爆者、被爆2世・3世、
女性による座談会なども収録した。川野議長は「被爆連の最初で最後の
証言集。核兵器廃絶運動の資料として活用してほしい」と話す。
B5判230ページ、1000円。
問い合わせは県平和運動センター電話095・823・7281。
【横田信行】
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時42分更新
みやざき市民のつどい:戦没者追悼と平和祈る /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000177-mailo-l45 宮崎市は11日、戦没者の追悼と平和を祈る「みやざき市民のつどい」を
市民文化ホール(宮崎市花山手東3)で開いた。戦後60年を迎えることから
開いた。遺族ら約1500人が参加した。
市遺族連合会の川越一士(いつお)会長は「私たち遺族は今後も戦争のない
平和な国際社会確立のため努力していく」と追悼の言葉を述べた。また、
本郷中の1年生約50人が当時の戦争をテーマに地域の人から聞き取った
体験を発表した。
同市では終戦直前の8月10〜12日に大空襲があり、市街地が炎上。
1991戸が焼失し、26人が死亡したという。
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日17時51分更新
戦後60年の節目の年に 向日で平和と人権の集い
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000019-kyt-l26 戦後60年の節目の年に、「平和」とは何か、市民に問いかける安斎さん(向日市民会館)
京都府向日市は12日、同市寺戸町の市民会館ホールで「平和と人権の
集い」を開いた。市民約200人が参加。戦後60年の節目の年に、戦争の
悲惨さや平和の尊さを皆で考えようと、立命館大国際平和ミュージアム館長
の安斎育郎さんの講演「血液型占いから原爆被災まで−戦後60年に
平和の現代的意味を考える」を聴いた。また、市民によるミニコンサートも
行われ、バイオリン独奏や京都西山高吹奏楽部の演奏なども楽しんだ。
安斎さんは「平和とは、戦争が無いだけでなく、あらゆる暴力の無い状態を
指す。5秒に1人がどこかで飢え死にするような、構造的暴力がある世界は、
平和とは言えない」と指摘。さらに、血液型占いによる性格の決めつけも
文化的暴力の一つといい、「わたしはB型ですけど、『B型は大胆不敵で
傍若無人』などと血液型で人を見立てる国など、世界中を探しても日本以外
にあまり無い」と批判した。
講演に先立って、地元の小学4年生による平和書道展入選者の表彰も
行われ、佐々木綾香さん=第5向陽小=が市長賞、土井香帆里さん=
第6向陽小=が教育長賞をそれぞれ受賞した。
(京都新聞) - 8月12日18時30分更新
日韓でキャンドルイベント 平和祈り500人で人文字
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000255-kyodo-soci 日韓で平和のメッセージを発し憲法9条の大切さを訴えようと、非政府組織
(NGO)「ピースボート」が12日、東京・千駄ケ谷の明治公園でキャンドル
イベントを開き、ろうそくを持った日韓市民約500人が平和を願う人文字をつくった。
ピースボートは、戦後60年の節目にお互いの平和を誓おうと、初の日韓共催
を企画した。今回は50回目のクルーズで、13日に出港する。日韓からそれぞれ
300人が乗船し、ソウルや上海、沖縄などを回る。
日没後、ろうそくを持った参加者が、日本語と韓国語で「平和」の字と憲法9条
を意味する数字の「9」を人文字で描いた。韓国から来た大学生金曉永さん(21)
は「国同士は嫌悪感を持っていても、韓国人は日本人に親近感を持っており、
友達になりたいと思っている」と話した。
(共同通信) - 8月12日20時48分更新
平和の源流:砂川闘争50年/2 「駐留米軍は憲法違反」 /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050812-00000051-mailo-l13 ◇今問われる伊達判決の精神
「死んだ子の年の数は数えたくない」。港区で弁護士事務所を構える独協大
名誉教授の松本一郎さん(74)がつぶやいた。「死んだ子」とは、砂川闘争に
絡んで米軍駐留が憲法9条に違反するとした判決のことだ。裁判長の名を
冠して「伊達判決」と呼ばれる。松本さんは陪席裁判官として審理に携わった。
57年夏、米軍立川基地の中にある土地収用をめぐり住民側と政府側の対立が
再燃した。7月8日、測量に抗議する学生や労働者ら約1000人の一部が
境界の有刺鉄線を壊し基地内に侵入。9月には計23人が日米行政協定に
伴う刑事特別法違反容疑で逮捕され、このうち7人が起訴された。
事件を担当した東京地裁刑事第13部は、伊達秋雄裁判長、清水春三判事、
判事補の松本さんの3人。「君はどう思うか」。伊達裁判長はまだ20代の松本
さんに憲法論の宿題をたくさん出し、銀座のバーで議論するのもしばしばだった。
判決を下書きした松本さんは、違憲判決に踏み切る裁判長の覚悟が分かっていた。
「駐留米軍は憲法9条が禁止する戦力に該当し、憲法上その存在を許すべ
からざるものといわざるを得ない」。59年3月30日の判決は刑特法を違憲無効
とし、7人の被告に無罪を言い渡した。公判が終わった後、松本さんは伊達
裁判長に辞表をこっそり見せられた。辞表は受け取られなかったというが、
それだけ大きな反響が予想された。
伊達判決は、翌60年に日米安保改定を控える政府を震撼(しんかん)させた。
検察側は判決を不服として、東京高裁を超えて最高裁に飛躍上告。最高裁は
59年12月16日、「日米安保条約は一見極めて明白に違憲無効と認められない
限り、司法審査権の範囲外」と伊達判決を破棄、差し戻した。15裁判官の
全員一致だった。
松本さんは異動先の盛岡地裁一関支部でニュースを聞いた。「最高裁に
応援団がいてもよかったんじゃないか」。道に積もる雪をけり、悔しくてやけ酒
を飲んだ。伊達判決は、裁判官の良心を貫こうと憲法判断に踏み込んだ。
しかし、最高裁の判決以降、裁判所は憲法9条について判断を避ける傾向が
強まっていく。
伊達裁判長は退官後、法政大教授などを務め、94年12月に85歳で亡く
なった。冷戦構造が崩れ始めた89年の講演でこんな未来を語っていた。
「日本国憲法の精神は決して過去の夢物語でも亡霊でもなく、今日まさに
再びよみがえって世界各国の結束と協調によって政治を動かすだろう」
伊達判決の精神は死んだのか、それとも生きているのか。「日米同盟」の
強化が進み、改憲も現実の政治日程に上りつつある日本で、厳しく問われる
重い命題だ。
【木村健二】=つづく
8月12日朝刊
(毎日新聞) - 8月12日16時34分更新
このスレも荒らされているね。
2ちゃん管理部もここまで荒らされて
なんで黙っているんだろうね。
>>523 ほんとだね、
それだけピース暴徒がコワイ団体なんじゃないの?
525 :
国連な成しさん:05/08/13 12:53 ID:yvPLHzcs
バックが朝鮮総連とか。
なんでも桃色航海というらすいのが
桃色ゲリラ
民主党
総理大臣 岡田克也(東大法卒)
国務大臣 川端達夫(京大法卒)
外務大臣 鳩山由紀夫(東大工卒)
厚労大臣 横路孝弘(東大法卒)
国交大臣 菅直人(東工大工卒)
官房長官 仙谷由人(東大法卒)
防衛長官 前原誠司(京大法卒)
造反組
亀井静香(東大経卒)
小林興起(東大法卒)
自民党
小泉純一郎(私立・慶応大卒)
安倍信三(私立・成蹊大卒)
船上でヤリまくりか・・・。
少々金がかかっても参加してみようかな。
山口・下関市 朝鮮総連と韓国民団が共同でコリアンフェスタ開催
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20050813/20050813-00000037-nnn-soci.html 日本が戦争に敗れた解放60周年を記念して朝鮮総連と韓国民団の2つの
団体が互いに親睦を深めようという催しが13日、山口・下関市で開かれた。
この「山口コリアンフェスタ」は、朝鮮総連県本部と韓国民団県本部が南北
共同宣言5周年と解放60周年を記念して、初めて共同で開き、約300人が
出席した。
フェスタでは、韓国民団県本部・趙東波団長が「政治を抜きに親睦を深め
ましょう」とあいさつし、朝鮮総連県本部・沈盛久委員長は「同じ民族が集まる
ことは本当にうれしい故郷に近い山口県から1つになりましょう」と応じた。
そして、南北の酒を混ぜた統一酒で乾杯し、フェスタ開催を祝った。
山口県内には在日韓国・朝鮮人約9000人が住んでいるということで、
総連と民団では「38度線の壁は日本にもあったが、この会をきっかけに
壁を取り払い、今後も交流を続けて行きたい」としている。
[13日20時16分更新]
中国イスラム教徒の慰霊祭 旧日本軍が殺害、15日開催 [ 08月13日 16時14分 ]
共同通信
http://www.excite.co.jp/News/society/20050813161431/Kyodo_20050813a489010s20050813161434.html 旧日本軍が中国・山東省で1938年、中国人のイスラム教徒29人を殺害した
とされる事件の犠牲者を悼む慰霊碑が同省済寧市に建立され、15日に現地で
除幕式と慰霊祭が開催される。
父親を殺害されたという王英麒さん(73)が、慰霊祭に出席する松本耿郎・
英知大教授(イスラム思想)に説明したところによると、事件があったのは
38年1月11日。済寧に侵攻した旧日本軍が、イスラム教礼拝堂の済寧清真西大寺
に避難していた宗教指導者の王さんの父親らを含むイスラム教徒の回族を殺害した。
日本軍が礼拝堂の門に向け発砲したため、まず王さんの父親ら4人が門を開け
「守備軍ではない」と説明したが、いずれも殺害された。ほかの回族も次々と殺され
たという。
こうした事実は、被弾しながら生き延びた男性が証言。この男性や遺族らが
日本政府を相手に謝罪と補償を求める訴訟を起こしたい意向という。
■「原爆を許せ」と説教する「平和」
バチカン主導の「反核」の欺瞞
米国の核戦争準備助ける 2005年7月30日付
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/genbakuyurusetoseltukyousuruheiwa.htm 広島と長崎に原爆が投下され、幾十万人の無辜(こ)の非戦斗員がむごたらしく
焼き殺されてから60年を迎える。この史上もっとも凶悪な兵器である原爆を
投げつけたアメリカは、60年たった現在、なおも正義の行為であったと開きなおり、
先制使用を広言し、使用可能な小型原爆の開発をやり、さらに被爆国日本を
原水爆攻撃の前線基地として再編しようとしている。しかも被爆地である広島湾を、
岩国基地を中心に核基地として大増強するというこの上ない侮蔑(べつ)を加えて
いる。広島、長崎をはじめ全国、全世界で、原爆使用を押しとどめる世界的な力を
結集した原水爆禁止運動の再建を願う要求はきわめて大きい。このようななかで、
「反核平和」と称しながら、「加害責任を反省し、真珠湾攻撃を謝罪し、原爆投下を
許さなければならない」「被爆体験を語ってはならず、和解しなければならない」
などと、マスコミからも行政側からも叫ばれ、それに平和運動勢力と称してきた
部分も合流している。力ある原水爆禁止の運動を再建するために、この潮流の
主張するところの意味を明らかにしなければならない。
被爆市民が語ることを抑圧
広島、長崎の被爆市民は、被爆体験について語れなかったし、子や孫たちも
聞いてくれなかったといっている。学校に行って「じいちゃん、ばあちゃんたちが
悪いことをしたから原爆を落とされた」と教えられ、平和資料館も「広島は軍都
だったから落とされた」という展示になり、新聞やテレビは夏が来るたびに「加害
責任の反省を」と大合唱してきた。さらに「平和」の看板をかけた多くの勢力も
「加害の反省をしないものは犯罪者」のようなふるまいをしてきた。
そして最近では、「日本人は真珠湾攻撃を謝罪し、広島、長崎の原爆投下を
赦(ゆる)さなければならない」、そして「和解しなければならない」との主張が、
「怒りより祈りの方が尊いのだ」というキリスト教とダブさって主張されている。
広島、長崎が原爆投下を許せという声が上がるのにつれて、アメリカはいっそう
図に乗って原爆使用の方向にすすんでいる。
『毎日新聞』(24日付)が特集した「還暦の戦後――祈りの長崎」で大きく紹介した
「被爆絶対視せず、“加害”直視」と題する長崎大の舟越耿一教授の考えは、
「反核平和」を叫んで、実際には核戦争を押しとどめる力をつぶしてしまう特徴を
あらわしている。
舟越氏は、本島等・元長崎市長の「日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、
広島と長崎が、原爆投下を赦(ゆる)すことである」「赦しえないことを赦す考え方、
それが必要である。広島、長崎は“和解の世界”への先頭に立つべきであろう」
という主張に深く共鳴し、「被爆者が前面に出ない市民運動」「原爆被害を絶対化
しない平和学」を追究しているのだといっている。記事はさらに「怒りより祈りの
方が深い」とか、「キリスト教徒永井隆博士」の「被爆体験は“み摂理”“神の恵み”」
といった諦観を奥深い思想であるかのようにたたえている。
「原爆を二度と使用してはならない」し「すべての核兵器は廃絶しなければならない」
という叫びは、広島、長崎の惨状をくぐった人人の痛切な体験から出発している。
ところが、広島や長崎の被爆市民は、その体験と思いをなかなか語れなかった。
戦後日本を占領したアメリカは、「原爆投下は戦争を終結させ、幾百万の人命を
救った」「原爆投下は戦争をした日本に責任があり、真珠湾への奇襲攻撃をした
日本人は反省しなければならない」という宣伝が空の上から押さえつけていた
からである。しかも占領軍は、原爆について公表することを厳重に禁止していた。
このような状況をうち破ったのは、朝鮮戦争を開始し、戒厳令のような弾圧下に
あった広島を舞台にしてたたかわれた1950年の8・6平和斗争であり、峠三吉は
この運動に歓呼して参加し原爆詩集を発表した。この運動はたちまちにして
全国に広がり、五年後には広島で世界大会が開かれるまでになった。そして
朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも原爆を使用することができないようにしたし、
「原爆を使用することが正しい」などとはいわせない力となった。
運動無力化に役割 「加害責任」叫び
日本からはじまって世界的な大運動となった原水爆禁止の運動は、60年代に
入って混乱し、すっかり力のないものとなった。その中心は、実際に原爆を投下
した犯罪者であり、最大の原水爆戦争の仕かけ人であるアメリカとたたかうのか
どうかであった。運動内部から、アメリカ擁護勢力が原水禁運動を破壊していった
のである。
そして70年代に入ると「原爆といえばパールハーバー」「侵略への加害責任を
いわなければ国際的には通用しない」などと、アメリカの息のかかった国際的会合
に行ってまるめこまれた連中によって、加害責任反省論が大大的に吹聴され
、実際の原爆投下者であるアメリカの犯罪を追及することがまるで犯罪であるか
のようにあつかわれた。
1970年代には、米ソの核拡張政策と「戦略核兵器削減」など「核軍縮」の
かけひきがつづいた。1978年に第1回国連軍縮特別総会が開催されるのを
機に、商業マスコミが「核の脅威」の論陣をはるなかで、1981年、レーガン
米大統領が「限定核戦争の可能性」を公言。これにたいしてヨーロッパを中心に、
「新型ミサイル配備反対」の運動が高揚した。
「原爆を許す思いやり」を宣伝
ここに登場したのはローマ法王ヨハネ・パウロ二世であった。パウロは「均衡に
もとづく抑止力は、道徳的に容認しうる」と声明。ヨーロッパのカトリック司教団は
「西側の一方的な核凍結案に反対」し、「相互的でなければならない」と主張して、
反ソ・アメリカ擁護の「反核」路線をとなえた。
パウロはその線で、81年2月、原爆都市である広島を訪問、「戦争は人間の
しわざ」であり、それを克服するには「国境や社会階級をこえた思いやり」が必要
であると説いた。その意味を結果から見ると、原爆はキリスト教徒であるアメリカ
の「しわざ」であるが、そのような「しわざ」をした人間に二度としないようにさせる
のではなく、「しわざ」をされた異教徒の側に「思いやり」を求めるものであった。
広島と長崎しかない被爆都市の長崎市長であった本島市長は、天皇の戦争
責任発言で有名になったが、自身が熱心なカトリック教徒で、バチカンを何度も
訪れた。ローマ法王とも会って教えを請うた本島氏は、長崎の学校では「原爆を
平和教育の原点にしてはならない」という決まりを押しつけ、原爆遺跡をつぶし、
「原爆投下を許す思いやり」を実行し、被爆市民を沈黙させてきた。
本島氏はのちに、「日本人が謝罪しない限り、アメリカは原爆投下は正当で
あったと言いつづけるだろう」「広島、長崎の被爆者たちはアメリカの“原爆投下”
を“赦す”とはっきり言わなければならない」とか、「広島、長崎は“和解の世界”
への先頭に立つべきである」「安保条約の是非を言えば論議はなりたたなくなる」
と自説を語っている。
被爆者が許すのならともかく、被爆していない本島市長が勝手に許してしまう
わけで、「敬虔なクリスチャン」というのもその実態はかなり横暴なわけである。
被爆遺跡はすっかり片付けてしまったが、アメリカの側は真珠湾で沈没した
軍艦を記念館に残し、「リメンバーパールハーバー」をしっかり実行している。
パウロの広島での「思いやり」宣言で、いたく感動したのが広島の原爆資料館で、
87年10月には、日本がアジア諸国を侵略したから投下されたという「加害責任
を問うコーナー」の設置を決め、96年東館が完成した。
さらにパウロ宣言にいたく感動したのが、「日共」修正主義集団の宮本顕治で、
全国幹部を集めた会議で「今日の情勢のなかでは当然で勇気ある呼びかけだ」
と絶賛した。
日本のマスコミも色めき立ち、平和運動の指導者のようなふるまいとなった。
この年九月、『朝日新聞』は社説で、「日本の平和運動は原水禁運動にとどまり
すぎて、核軍縮にとりくむ実効ある戦術に欠けてはいまいか」と書いて、翌年の
第2回国連軍縮総会へむけて「反核軍縮運動」を提唱。日本における「反核軍縮
運動」として、NGOの運動や道路に寝そべる「ダイ・イン」や「ローソク・デモ」など
キリスト教的パフォーマンスがあらわれた。
社会党系の原水禁議長である岩松繁俊氏も「加害責任を自己批判し、長崎から
反核・平和を訴える」という主張をとなえた。秋葉忠利・広島市長は、「報復の連鎖
を断ち切り和解を」と主張し、原爆投下を命令したトルーマンもその対象とすることを
強調。2003年には、2年後のNPT再検討会議にむけて「核兵器廃絶のための
緊急行動」を提唱した。それは今年5月のニューヨークで、すっかりあしらわれる
結果となった。
被爆市民の方を敵視し攻撃
この運動の特徴は、被爆した広島、長崎の市民の怒りを抑えこみ、沈黙させる
こと、そしてアメリカの核独占を擁護することが重要な内容となっている。
この潮流は「加害責任の反省」「真珠湾攻撃の謝罪」「許せ」「和解せよ」の叫びで、
被爆市民を怒らせている。それは被爆市民の共感をまったくえないばかりか、敵視
しているのである。本島氏の「広島よおごるなかれ」と題する講演では、峠三吉を
攻撃するとともに、「日の丸の小旗をちぎれるようにうちふって軍隊の出撃に
熱狂的に歓声の声をあびせた、年寄り、主婦、娘さん、中学生、女学生、学童こそ、
数年のちの“被爆者”たちであった」と、天罰であるかのように語り、「原爆投下者
への“怒りや憎しみ”を持ってはならず、投下を赦すべきだ」と主張した。
米国の擁護が特徴 屁理屈と高尚な説教で
他方では、アメリカ擁護である。『朝日新聞』(25日付)は、若宮啓文論説主幹
がコラム「風向計」で、「非道の責任を米国にだけ求めるのはフェアでない」と主張。
昨年の8・6をまえに『朝日』が広島でおこなった「国際平和シンポジウム」では、
筑紫哲也などが「反核を反米にすりかえてはならない」と主張している。
この反核平和運動は、核拡散防止を柱にしているが、それは「原爆は真珠湾
攻撃をしたから落とされたのだ」という論理の延長であり、アメリカに逆らって
核開発をすることに反対し、アメリカの核独占を擁護するというものである。
このような論調というものは、めずらしいものではなく、敗戦後占領下でやって
きたことであった。「原爆は戦争を終結させた」「無謀な戦争をやった日本人は
反省せよ」といい、被爆者の口をふさいで、アメリカ製のキリスト教に結びつけて、
お祈りのあきらめに導くというものであった。
その状況を突き破って、原水爆禁止の運動がまき起こると、自治体が参加する
官製原水協の時代をつくった。60年安保斗争にむかうときには、アメリカとたた
かってはならないという「敵なし」をとなえて、自民党や民社党の核禁会議が騒ぎ、
60年を過ぎると「いかなる核にも反対」「部分核停」といって騒ぎが起きた。
これらの分裂と混乱が行き着いた先が現在であり、要するに、実際に原爆を
受けた被爆市民を排除し、原爆を投下し、戦後も原水爆戦争の危機をつくって
いるアメリカを擁護するというものであった。
現在のマスコミをあげて、行政機関を動員し、学者を使い、バチカン・キリスト教
が前面に出、さまざまな政治勢力がダンゴになった、いわば官製「反核平和」は、
敗戦後のアメリカ占領下の状況にもどったものであり、使い古しの時代遅れである。
そしてこの「反核平和」運動というものは、原爆体験をはじめとする現実世界と
離れた屁理屈と高尚な説教をとなえることに特徴があり、いわば根のない空中
遊泳運動である。したがって広島、長崎市民には相手をされず、アメリカにも
国連にもなめられ、マスコミが騒ぐばかりで実態はローソクの火が消えたように
なっている。
現実の世界は核戦争の危機がなくなるのでなく、いっそう強まるものとなって
いる。しかも最大の戦場はアジアであり、あろうことか日本をアメリカの核攻撃
基地に再編強化している。八〇年代の「核軍縮」運動はなるほどソ連の崩壊で
すすんだ。「核拡散防止」といって朝鮮などの核開発を大問題にしてきたが、
そうしてアメリカの核独占がすすんだ結果、原水爆戦争の現実的な危険性が
高まってきた。核攻撃をしても報復の恐れがなくなることで、原水爆使用の
条件が大きくなっているのである。広島、長崎への原爆投下は、まさにアメリカ
しか原爆を持たないという条件のもとであった。
核使用容認が狙い 「原爆許す平和」の意味
このようななかで、「原爆投下を許し和解する反核平和」とはなにを意味するか。
それは平和の仮面をかぶって、広島、長崎の怒りを抑えつけアメリカの原爆使用を
激励することに等しい。
「真珠湾攻撃をしたから原爆を使った」というのは、アメリカ側の国民を動員する
ためのただのプロパガンダにほかならない。これを、日本の大新聞や学者が
いまどき、オウム返しで叫ぶのは、まことにお粗末なかぎりである。
アメリカは幕末のペリー来航以来日本占領の意図を持っており、日露戦争の
あとには日本占領計画をつくっていた。日米開戦は、中国市場を奪いとり、日本を
占領するという目的のために、アメリカ側からも待ち望んだものであった。
日本の天皇を頭とする帝国主義支配階級は、中国全面侵略をやって中国人民
の抗日戦争でにっちもさっちもいかなくなるなかで、米英仏蘭の植民地を奪い
かれらとの戦争に突きすすんだ。かれらがこの戦争でもっとも心配したことは、
自分らの支配の地位を守ることであり、日本人民の内乱・革命であった。そして、
日本人民を犠牲にして米英の側に降伏し、かれらに守られて戦争犯罪の責任を
回避し、支配の地位を維持することであった。アメリカ以上に日本人民を敵視し
ていたのだ。
原爆投下は、八月八日と決まったソ連の参戦まえに、日本を降伏させ単独占領
するためであり、戦後のソ連との対抗のために、ソ連を脅しつけるためにも原爆
投下を焦ったのである。すでに日本の都市は空襲で焼き払われ、抵抗する力は
なくなって降伏は時間の問題になっているなかであり、戦争終結のためにはまったく
必要はなかった。アメリカの利己的な野望のために、あのような残虐な兵器を
平然と使用したのである。
このようなアメリカの原爆投下の犯罪を「許せ」とか「和解せよ」というのは、
現在原爆を使用することを容認せよということにほかならない。犯罪を犯したもの
がその罪を償ったならば、許すこともある。しかし犯罪者がいまだに謝罪すらせず、
開きなおって、いまなお正義であったといって、ふたたび原水爆を使用しようとして
いるなかで広島、長崎の被爆者に「許せ」というのはこの上ない屈辱である。
それは口では「反核平和」といいつつ、実際には原水爆戦争を引き寄せる大
インチキにほかならない。
「反核」といい「平和」というとき、広島と長崎の被爆市民に認められないものは
インチキである。原爆を投げつけられ、その痛みを知っているのは広島と長崎の
市民だけである。力ある原水禁運動を再建するには、被爆への新鮮な怒りから
出発しなければならず、原爆の使用をもくろむ平和の敵を鮮明にしなければならない。
原水爆戦争を阻止すること、あらゆる原水爆の製造も貯蔵も使用も禁止する
ことは、全世界の要求である。被爆者攻撃・原爆投下者アメリカ擁護のインチキな
「反核平和」潮流に振り回されるのでなく、広島、長崎の被爆市民、全国のあらゆる
人民、さらに全世界の平和を愛好する人民によって、原爆を使用する者の手足を
縛り上げる運動を再建することが課題である。
このスレも無関係な記事コピペで荒らされているね。
2ちゃん管理部もここまで荒らされて
なんで黙っているんだろうね。
日本のアメリカによる原爆投下は
広島や長崎の人々にはとても惨い悲劇である
今も尚、後遺症で苦しんでおられる人々には、
60年間に渡り、一言では言い表せない心痛であったことと思う
この苦しみを2度と味わうことのないように、日本はすべきなのに
この痛みを全く感じないかのごとく、この小泉のバカはイラク戦争に先頭
斬って加担しているのである。
小泉は口で言うことと、やることは全く別であると日本国民は認識すべきである。
>>541 そのうちすごい額請求されそうだ。
放置。
>543
額を請求さえれるべき人間は
これまでに嘘をつき続けた小泉政権
モーセ…
ところでピースボートってイラクに行ってるの?
548 :
国連な成しさん:05/08/14 21:15 ID:pzGTYMFw
(-。-)
549 :
国連な成しさん:05/08/14 21:16 ID:pzGTYMFw
(-o-)
靖国神社を肯定する遺族は、実は全体の半分以下。キリスト教遺族会、平和遺族会などは
靖国神社への強制祭祀に反対しているが、靖国はファシズム時代そのままに、
遺族の声を拒否し続けている。
▼小泉首相は靖国神社参拝の中止を! アジアの平和と和解・共生をめざそう!
8・15集会と平和行進
◎基調報告 西川重則(平和遺族会全国連絡会代表・戦没者遺族)
「今こそ靖国神社問題の根本的解決を」
◎記念講演 進藤榮一(しんどう・えいいち)さん
(筑波大学名誉教授)
演題「戦後60年と日本外交のゆくえ――東アジア共同体を構想する」
◎日時=8月15日(月)午前9時15分開場、9時45分開会〜正午まで
集い終了後、靖国神社周辺を戦没者遺族を先頭に平和行進
◎場所=千代田区一ツ橋の日本教育会館8階第1会議室(03・3230・2831)
(地下鉄神保町駅・竹橋駅・九段下駅下車5分〜7分)
◎参加費=500円
◎主催=平和遺族会全国連絡会
英タイムズ紙、「つくる会」教科書採択を批判
▼Wounds still to be healed
For Asians, Japan has yet to take the steps requiredfor reconciliation
「今なお癒やされねばならない、傷ついた人々
〜アジアの人々のために、日本はまだ
和解のための措置を続ける必要がある〜」
@『タイムズ』(英)
http://www.timesonline.co.uk/article/0,,542-1732864,00.html >戦時捕虜に対する補償の問題がなおくすぶるとはいえ、西洋諸国は
いまや、国際社会の一員としての強い責任感を持つ平和的民主主義国家
として日本を受け入れている。しかしアジアにおいては、日本はまだ
そのように受容されてはおらず、信頼もされていない。
この状況のすべてが日本の失敗のせいではない。日本によるアジアへの
寛大な戦後の経済援助は、民間投資とともに、この地域の経済成長を
支援してきた。・・・「大躍進」政策に対する中国の沈黙を見ても、
気まずい過去の歴史を直視するのが困難な国は、アジアで日本だけでは
ないことはわかる。
しかし、日本はなお理解すべきであろう。「遺憾の意」の表明を繰り返して
いるにもかかわらず、適切な償いを求める声にまだ応えてはいないという
ことを。過去を反省しないことで論議を呼んでいる学校教科書を、
日本政府は教科書検定制度で通過させた。激しい怒りが引き起こされたが、
これらは日本の教育政策がもたらした「不和」であるとの強い主張がある。
実際には学校に選択権があるし、この教科書は日本の学校のわずか
1%が使用しているにすぎないのも事実である。しかし、このような選択肢は
許されるべきではない。ドイツはナチス時代の過去について、言い抜けする
ことを許してはこなかった。日本もまた、その国益の観点から、少なくとも
ドイツと同様に、毅然とした態度をとるべきである。
8・15記念講演会 遺跡耳塚をたずねる
戦後60年 日韓歴史の回顧と展望
05年8月15日(月)午後2時半〜4時 在日大韓基督教京都南部教会
講演後、豊国神社前の耳塚をたずね平和記念のつどい
私たちは日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第二
次世界大戦において、アジア諸国及び他国の人々、ならびに我国の
同胞に対して、多くの悲惨と恥辱の苦しみを与えた事実を想起し、再
び罪に陥ることのないため終戦60年、日韓国交正常化40年の8月15日
終戦記念日の機会を捕らえ、平和の君主イエス・キリストによる和
解を求めて祈り、心新たに神の愛の責任を果たしたく決意をするも
のです。誘い合ってお集まりください。
お話 李元植先生
1924年生まれ。文学博士。
元 韓国成均館大・台湾国立政治大・近畿大教授、京都大学講師、
現 韓国翰林大客員教授
会場 在日大韓基督教京都南部教会
京都市南区東九条北松ノ木町38
電話 075−671−4922
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.11.7N34.58.30.8&ZM=11 会費 席上自由献金にご協力ください
共催 在日大韓基督教京都南部教会
関西超教派キリスト者戦争責任告白者会 代表 小島十二
■8・15 2005 平和を語る八月名古屋集会
(略称=8・15名古屋集会 )
──────────────────────────
八月名古屋集会実行委
・日時 2005年8月15日(月)午後1時30分から
・会場 愛知県勤労会館小ホール(地下鉄鶴舞下車)
・内容 日本国憲法第9条 劇的輪読 = 名古屋高野会
講演とスライド=高遠菜穂子さん
「命に国境はない〜イラクで見たこと考えた こと」
演劇公開稽古=平和を願う演劇の会 「育子さんの夢」テーマは教育
高遠さんへの質問と意見交換
司会=もとNHKアナ沖野浩一さん
みんなで歌おう、平和への思いを
歌 若尾眞理子さん ギター 本 秀樹さ ん
・資料代 ひとくち1000円 (学生700円)
<主 催> JCJ東海、愛知県平和委員会、愛知憲法会議、新聞労連東海地連 、 民放労連東海地連、全印総連愛知地連、愛高教、名高教、平和を願う演劇の会
ロンギ元NZ首相が死去 核めぐり米艦寄港拒否
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000029-kyodo-int 【シドニー14日共同】ニュージーランドの非核政策を導入したデービッド・
ロンギ元首相が13日、腎不全による合併症のため北部のオークランドの
病院で死去した。63歳だった。
1983年に労働党の党首となり、84年に首相就任。85年、米海軍の
艦船が核兵器搭載の有無の通報を拒否したことを受け、同艦船の寄港を
拒否する厳しい非核政策を掲げた。
原子力船や、核兵器を搭載可能な外国艦船などの寄港を禁じる反核法案を
議会に提出し、87年に可決。非核政策は現在も堅持されている。国営企業の
民営化にも着手したが、同政策に対する反発などで89年に辞任した。
(共同通信) - 8月14日10時57分更新
ロンギ元NZ首相死去=反核政策で米と対立
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000019-jij-int 【シドニー14日時事】ニュージーランドの元首相、デービッド・ロンギ氏が13日、
腎不全に伴う合併症のため、オークランド市内の病院で死去した。63歳だった。
1942年、オークランド近郊の医師の家に生まれ、弁護士などを経て84年から
5年間、労働党政権の首相を務めた。在任中、原子力船や核兵器搭載艦の
寄港を禁じる「非核法」を制定。この反核政策をめぐり対米関係が悪化。
米国はニュージーランドとの豪州・ニュージーランド・米国相互安全保障条約
(ANZUS条約)を凍結した。
85年にはオークランド港で国際環境保護団体グリーンピースの船「虹の戦士」号
がフランスの工作員によって爆破された際、「下劣な国家支援テロ行為」と非難し、
フランスとも対立した。
(時事通信) - 8月14日11時1分更新
<大阪大空襲>モニュメント完成 大阪国際平和センター
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000035-mai-soci 大阪大空襲の犠牲者を悼むモニュメント「大阪空襲死没者を追悼し平和を
祈念する場」が14日、大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市中央区)
に完成した。同センターが寄付を募って建て、これまで判明した8816人の
死没者名が銅板に刻銘されている。家族の名をなでながら胸を詰まらせる
遺族の中に、父と兄を失った梅原雅子さん(73)=大阪府茨木市=の姿があった。
1945年3月13日の大空襲の日。梅原さんは学童疎開先から大阪市西区
の家に戻ったばかり。翌日に国民学校の卒業式を控えていた。母が卒業式
のために手作りしたセーラー服と革靴を枕元に置いて眠った。
午後10時ごろ、警戒警報は空襲警報に変わった。274機のB29の大編隊が
上空から焼夷(しょうい)弾を集中投下する初めての大爆撃だった。「先に逃げろ」
と叫んだ父の中村馨さんは、偶然帰宅していた船乗りの兄泰三さんと残り、
くすぶり始めた家を守ろうと水をまき続けた。
梅原さんと弟浩三さん(67)は母むめのさんに手を引かれ、焼夷弾の中を
必死に走った。防空頭巾(ずきん)にも火が着き、焦げた死体につまずいたが、
恐れる余裕すらなかった。「無言の母の手はものすごい強い力だった」。爆撃後に
自宅付近に戻ると、一面焼け野原で父と兄の姿はなかった。母は「金歯が目印
になる」と父を探したが、父と兄をしのぶ物は何も見つけられなかった。この日
約4000人が犠牲となり、市中心部の全域が燃えた。
消された命を「名簿」に残そうと、大阪戦災傷害者・遺族の会の伊賀孝子会長
(73)らが、聞き取りなど20年以上かけた調査が今回のモニュメントにつなが
った。子どもたちが戦災と平和への祈りを“体感”できるよう8回の大空襲と同じ
八つの鐘に囲まれている。
「中村馨」「中村泰三」。2人並んで刻まれた銅板にそっと手を触れた。「ありが
たい。誰も語れる人がいなくなって、忘れられてしまうところでした」。かばんの
中には、親せき宅に残されていた古ぼけた家族写真をしのばせていた。
【田中謙吉】
(毎日新聞) - 8月14日20時43分更新
●「抗日」展覧会を視察=「平和発展の道」強調−中国主席
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000080-jij-int 【北京14日時事】中国の胡錦濤国家主席は14日、抗日戦争勝利60周年を
記念し、北京市郊外の中国人民抗日戦争記念館で開催中の大型展覧会
「偉大なる勝利」を視察した。中国中央テレビによると、胡主席は「歴史を
心に刻み、過去を忘れず、平和を愛し、未来を開く」と強調し、「中国が
平和発展の道を歩むことに変わりはない」と述べた。
同展覧会は、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(1937年)記念日
の7月7日に開幕し、温家宝首相らほかの指導者は同日に参観。胡主席は
同日、外遊中だったため、日本が降伏した記念日に当たる8月15日を前に
視察した。
(時事通信) - 8月14日23時1分更新
●南北、対日批判の共同声明 歴史認識の是正促す
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000019-kyodo-int 【ソウル15日共同】日本の植民地支配からの解放60年を記念する韓国と
北朝鮮の共同行事に参加している南北の民間代表団は15日、植民地支配の
象徴的施設の1つとされるソウルの西大門刑務所跡地を訪れ、日本の歴史認識
の是正を促す共同声明を発表する。
今年に入り竹島(韓国名・独島)の領有権や歴史教科書問題などに関して
南北はそれぞれ対日批判を繰り返している。
共同声明は南北が一致して、植民地支配の責任をあらためて追及。小泉
純一郎首相の靖国神社参拝や日本の「軍事大国化」への動きを強くけん制する
狙いとみられる。
西大門刑務所は植民地時代に朝鮮半島の独立運動家を弾圧した場所として、
韓国では歴史教育の場となり、当時の獄舎がそのまま保存・展示されている。
(共同通信) - 8月15日7時58分更新
福岡の劇団ソウルで公演 長崎原爆を題材平和訴え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000015-nnp-kyu 【ソウル14日原田正隆】長崎被爆六十年と朝鮮半島光復(植民地解放)
六十周年に合わせ、長崎で被爆した韓国人をテーマに韓国公演を行っている
劇団「道化」(福岡県太宰府市)のソウル公演が十四日、開幕した。東徳女子大
公演芸術センターホールには韓国の若者を中心に約三百五十人が詰めかけ、
七人の俳優が訴えかける「なぜ長崎で韓国人が被爆したのか」に考えを巡らせた。
同劇団は今月一日の長崎公演を皮切りに、十一日からは韓国西南部・居昌
(コチヤン)で公演し、ソウルから釜山へと韓国三都市で計七ステージを上演
する予定。
作品は韓国初上演の「ナガサキ’ん グラフィティ」。一九七一年の長崎市爆心地
周辺の中学校運動場を舞台に、サッカー少年らが、長崎で被爆した叔父がいる
韓国人少年と触れ合う中で、「在韓被爆者」「被爆二世」「創氏改名」の存在と
不条理を知る物語。実際に爆心地に近い中学校を卒業した篠崎省吾・同劇団
代表(46)らが、多くの被爆者が住み「韓国の広島」と言われる東南部・陝川
(ハプチヨン)などを取材して生んだ、長崎弁と韓国語が入り交じる作品だ。
七〇年代初めの日本の中学生が使っていた差別的な言葉や、朝鮮半島の
人々をさげすむ意識もありのまま描いており、公演ではそうした場面で観客席の
空気がピンと張りつめた。篠崎代表は「日本の戦後世代が、韓国人に韓国人
被爆被害を伝えるのは難しい仕事。光復六十周年を十五日に控え、街じゅうに
太極旗(韓国国旗)があふれる中での緊張した公演だったが、笑える場面では
笑ってくれたり、拍手もあったりして受け入れられたと思う」と語った。
観劇したフリーター金素(キムソ)瑛(ヨン)さん(25)は「韓国では被爆者に
対する認識が不足している面があるので、公演は貴重な試み」と話した。
ソウル公演は十五日まで。十七、十八日は釜山公演。
(西日本新聞) - 8月15日2時15分更新
映画で「戦争」考える 平和のつどい改憲反対も訴え 大分市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000008-nnp-l44 【大分】 終戦記念日を前に、県平和委員会(阿部充満会長)は十四日、
大分市府内町のコンパルホールで「終戦・被爆六十年平和のつどい」を開催。
日中戦争などを題材にした映画を上映して、平和の尊さを訴えた。
「つどい」は終戦記念日に合わせ、一般市民でつくる同委が毎年開いている。
今年は国会で進む改憲論議を意識して護憲派グループが監修した映画
「新しい憲法の話」を上映。日中戦争をテーマにした「侵略(パート1)語られ
なかった戦争」も取り上げられ、約四十人の参加者は真剣な表情でスクリーン
に見入っていた。
上映後は参加者が「一人ひとりの力は弱いが、結集して平和を訴えなけ
れば」「戦争は過去の話ではない」など意見発表し、憲法改正反対などを
訴えたアピール文を採択した。
(西日本新聞) - 8月15日2時15分更新
平和の大切さかみしめ 戦中の「だごじる」40人食べる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000005-nnp-l41 【佐賀】 終戦記念日を前にした十四日、戦時中の庶民の食事だった
「だごじる」を食べるイベントが佐賀市天神三丁目のアバンセであり、
お年寄りら約四十人が参加した。
新日本婦人の会佐賀県本部など六団体が一九八二年から開催。毎年
参加している同市丁畷町の関家さよ子さん(71)は「平和の大切さを若い
世代に伝えていきたい」と話した。
会場では、広島・長崎の原爆被害を伝えるパネルの展示のほか、戦時中に
上野動物園のゾウが殺されたテレビ番組のビデオを上映。同会が作った
だごじるを全員で食べた後、参加者が戦時中の体験などについて語り合った。
(西日本新聞) - 8月15日2時15分更新
<大阪>終戦記念日に「赤紙」配って反戦訴える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000001-abc-l27 終戦から60年を迎えたきょう、大阪・なんばで、市民グループが復刻した
赤紙を配って戦争反対を訴えました。
この活動は、大阪の市民グループが、太平洋戦争終戦の日を忘れず、
平和の大切さを訴えようと始めたもので、今年で33回目となります。
グループのメンバーは、軍隊への召集令状だった赤紙を復刻したチラシを
街行く人に配って、戦争の不条理さや平和憲法の大切さを訴えました。
赤紙を受け取った人は「伝えていくことの大切さがわかった」と話していま
した。市民グループは、イラクへ派遣されている自衛隊の即時撤退なども
訴え、世界の平和を願っていました。
(朝日放送) - 8月15日14時35分更新
反戦一人芝居300回超 福岡市の玄海椿さん 被爆者らの体験伝え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000001-nnp-l40 【福岡】 戦争経験者や被爆者から聞いた体験談を基に、反戦の一人芝居を
続ける福岡市東区多々良の玄海椿さん(46)。大ホールから公園、学校、民家
まで、求められればどんな場所でも演じ続け、公演回数は三百回を超えた。
「私たちが死んだ後も伝えてほしい」。被爆者らの願いを胸に、戦後六十年の
今年も舞台から平和を訴える。
玄海さんは大分県中津市出身。短大卒業後に福岡市の劇団テアトルハカタ
に入団し、一九九九年から独立して一人芝居を始めた。
独立して最初に演じたのは、出征した夫の帰りを終戦後も待ち続ける助産師を
演じた喜劇「嘆きのサンバ」。上演後に楽屋を訪れた観客が泣いて自分の戦争
体験を語りだしたのを見て、「戦争の悲惨さを演技で語り継いでいこう」と使命感
を抱いた。
一人芝居のレパートリーは八作品。うち四作品は戦争がテーマだ。三十日に
福岡市で公演する「父と暮(くら)せば」は、広島の原爆投下後に生き残った
後ろめたさに悩む娘の前に父親の霊が現れて励ますストーリー。初めて演じた
ときは、広島の被爆者に方言指導を依頼し、かたくなに断られた。
「(被爆体験を)語り継いでいってくれるのなら」。ようやく引き受けてもらったとき
は、引き換えに反戦芝居を続けることを約束した。戦争体験がない玄海さんは、
図書館で戦争について勉強し、多くの戦争経験者から話を聞いたという。
演じた後には観客にアンケートをとり座談会を開く。時に厳しい意見もあるが、
「自分が泣いたことに感動した」という学生の声はうれしかったという。
米国や英国でのテロなど、最近の情勢には不安を感じるが、「戦争やテロは
人間が起こすことだから絶対解決できる」と考えている。「自分ができることは
演技をして観客に訴えること」。一人芝居で平和を訴えていく覚悟だ。
三十日の公演は午後六時半から、福岡市中央区荒戸のふくふくホールで。
入場料千円。問い合わせは芝居屋企画=092(672)6380。
(西日本新聞) - 8月15日2時16分更新
平和の思いを鐘の音に 十五日集いサビエル記念聖堂で 山口市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000011-nnp-l35 【山口】 世界五大陸に一つずつしかない平和の鐘の音に平和を誓う集い
「平和の鐘を鳴らそう!」が、十五日午前十一時から、山口市亀山町の
山口サビエル記念聖堂で開かれる。終戦から六十年。参加者が鐘を鳴らし
ながら、それぞれの平和への思いを宣言する。
この鐘は、同聖堂の「大聖年平和の鐘」(直径八十センチ、重さ三百八十
キロ)。二〇〇〇年のキリスト生誕二千年を記念し、当時のローマ法王、
ヨハネ・パウロ二世の呼びかけで鋳造され、五大陸に一つずつ贈られた。
法王が一九八一年に広島から平和メッセージを世界に発信したことから、
広島教区に属しフランシスコ・サビエルにゆかりの深い同聖堂が設置場所に
選ばれた。
「平和の鐘を鳴らそう!」は、県青年ユネスコ連絡協議会(岡田元子会長)が、
同聖堂などの協力で二〇〇〇年の終戦の日に始めた。この年、戦争のない
二十一世紀にするために一人一人ができることを行おうと、国連が「平和の
文化国際年」を定めたのがきっかけだ。
集いでは、ノーベル平和賞受賞者らが「平和の文化国際年」のために起草
した「わたしの平和宣言」の唱和などに続き、参加者が鐘を鳴らして思い思い
の“平和宣言”を行う。だれでも無料で参加できる。
同協議会の有田知永事務局長は「鐘の音に平和への願いを込め、世界に
届けたい。身近にできることから始めませんか」と呼びかけている。
有田さん=090(4695)0118。
(西日本新聞) - 8月15日2時16分更新
基地の本土移転主張 小林よしのり氏
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000004-ryu-oki 【宜野湾】漫画「新ゴーマニズム宣言・沖縄論」の著者・小林よしのりさんの
講演会(小林よしのりを沖縄に呼ぶ会主催)が14日、宜野湾市のコンベン
ションセンター劇場で開かれた。若者を中心に約1300人(主催者発表)が
訪れた。小林さんは基地問題について「属国の状態に慣れてほしくない。
沖縄の中で基地をたらい回しにしても決着はつかない。米軍は思いやり予算
があるからいる。移転するなら、本土が引き受けなければいけない」と訴えた。
小林さんは米軍ヘリ沖国大墜落事故に触れ「日本の主権侵害だと訴えたが、
本土の人間に伝えるのは難しい」と本土と沖縄の温度差を指摘した。ただ、
沖縄側に対し「非武装中立(の論調)はまずい。思考停止せず、平和をつくる
ためにどんな戦術があるかを徹底的に考えなければならない」と強調した。
また、日本の地域文化が近代化によって失われつつあることに警鐘を鳴らし
「沖縄には本土で失われた文化がある。コンプレックスを持つ発想はやめ、
誇りを持って守り続けてほしい」と求めた。
(琉球新報) - 8月15日10時24分更新
糸洲壕のごみ撤去 ボランティア清掃呼び掛け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000007-ryu-oki ボランティアらにより次々に廃棄物が収集された糸洲壕=13日、糸満市伊敷の糸洲壕
沖縄戦で避難壕だった糸満市伊敷の糸洲壕(ウッカーガマ)入り口のごみや
廃棄物の撤去作業が13日行われた。同壕の入り口には古いタイヤやプラス
チックのパイプなどが捨てられており、平和ガイドや同壕に補助看護婦として
動員された積徳高等女学校(積徳高女)のふじ同窓会(新垣道子会長)などが
問題視していた。
撤去は県観光ボランティア友の会(安里芳子会長)が呼び掛け、同会会員
約10人と積徳高女ふじ同窓会役員らが参加した。糸満市役所がごみ収集車
2台を提供し、市生活環境課職員5人も参加した。
壕から2トントラック2台分のプラスチックや鉄製のパイプ、トタン、タイヤなどが
次々と運び出され、ビニールやガラス瓶などの生活ごみも集められた。
元積徳学徒隊の名城文子さん(78)=宜野湾市=と田崎芳子さん(78)=
那覇市=は「(糸洲壕は)命を助けてもらった忘れられない場所」と話し、
「終戦直後は学徒隊や遺族で清掃したが、最近は年を取って大掛かりな掃除
はできなかった。いつも気になっていたので、きれいになって涙がでるほど
うれしい」と感謝した。
自身も戦争体験者で、友の会の吉嶺全一さん(73)=那覇市=は「(清掃
ができて)良かった。去年から平和学習で糸洲壕を使っていて何とかならない
かと思っていた」とほっとした表情を見せた。
(琉球新報) - 8月15日10時32分更新
映像から真実学ぶ、村民ら熱く見入る 伊江島平和映画祭
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000013-ryu-oki 多くの人が訪れ、思い思いにスクリーン(写真上)を見詰めていた平和映画祭
=伊江村の「はにくすにホール」
【伊江】豊かな平和とは何なのかを映像を通して問い掛けようと、伊江島
平和映画祭(同実行委員会主催)が7月31日、伊江村のはにくすにホールで
開かれ、一挙に6作品が上映された。村民ら約100人が訪れ、思い思いに
スクリーンを見詰めていた。
映画祭は同日午前10時開幕し、戦後伊江島で起きた故阿波根昌鴻さんを
中心とした土地闘争を描いた「教えられなかった戦争〜沖縄編」(高岩仁監督)
を皮切りに、フィリピンの山岳地帯に住む人々の生活から真の平和を訴え
掛ける「アボン・小さい家」(今泉光司監督)、1人旅のさなかで目の当たり
にしたチベットの生活を撮影したドキュメンタリー「チベットチベット」(金森
太郎監督)などが放映された。
2003年に当時の伊江小6年生が演じた劇「ガジュマルは生きている」
「花は土に咲く」のビデオ映像も上映された。
会場ロビーには同村の写真家、金城盛和さんが撮影した伊江島遺骨収集
の写真も展示された。
映画祭出席のため今泉、金森両監督も伊江島を訪れた。伊江島は初めて
という金森監督は「実際、その場所(チベット)に行ってショックを受けた。
直接目にすることで認識することは多い。伊江島についても映画祭を通して
知ることができて良かった。知らないことには何も始まらないから」と知る
ことの大切さを強調した。
「教えられなかった戦争―」を見た同村の名嘉トネさん(79)は「素晴らしい。
みんなこの話自体は分かっているかもしれないが、知らない部分も多いと
思う。だから多くの人に見てもらいたい」と当時のことを振り返りながら語った。
(琉球新報) - 8月15日10時51分更新
戦場の惨状を後世に 松本で「愛と平和のつどい」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000001-cnc-l20 【長野県】戦争体験者の生涯やその周囲の人々の思いから戦後60年を
振り返る「愛と平和のつどい」(中日新聞社など後援)が14日、松本市
美術館であり、100人近い市民が人命と平和の尊さに触れた。市民
グループ「平和を愛する会in松本」(平田和文代表)が戦争の悲惨さと
むなしさを後世に伝えようと企画した。
今年2月に87歳で亡くなった松本市の医師相野田啓(あいのた・はじめ)
さんに焦点を当て、軍医として従軍した第2次世界大戦後に捕虜として
フィリピンの収容所で過ごした6年間や、帰還後も消えなかった自責の念を、
妻重子さんや長男慶司さんが語った。
重子さんは「赤紙(旧日本軍の召集令状)一つで大切な命が捨てられる
ことがないよう、一人ひとりが子どもを守り、命の尊さを教えるチャンスに
してほしい」と強調。相野田さんから伝え聞いた戦場の惨状を話し出すと、
戦争を知らない高校生もうつむくように聞き入った。(赤川 肇)
(中日新聞) - 8月15日12時58分更新
平和願い折り鶴 川に渡す 日吉ダムで丹波の学生たち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000033-kyt-l26 「平和」を願って川に渡された折り鶴(日吉町中・日吉ダム)
口丹波の大学生や専門学校生らが平和への願いを込めた折り鶴を川に渡し、
戦後60年目に思いを寄せる初の取り組みが終戦記念日の15日、日吉ダム
(日吉町)であり、約2000羽の折り鶴が夏空に舞った。
「平和を願う人ぞれぞれの気持ちを折り鶴に託し、一つにつなげよう」と、
京都学園大(亀岡市)の学生自治会が企画。京都伝統工芸専門学校(園部町)や、
明治鍼灸大(日吉町)にも参加を呼び掛け、各自治会のメンバーらで実行委員会を
組織した。
折り鶴はビラなどの古紙を使用し、3校に回収箱を置いて学生らに折り鶴の
制作協力を募った。集まった折り鶴は、縦に50個ずつ重ねた束を1本のロープに
二十束ほど垂らし、同ダムの円形展望橋(直径約70メートル)に渡した。
また、この日は、一般の来場者にも折り鶴の制作を呼び掛け、家族連れら
約70人がゆっくりと丁寧に鶴を折った。
発起人の田端昇吾さん(20)=京都学園大3年=は、「平穏な日常が当たり前に
なっている今、みんなで『平和』について考えたかった。学生同士の交流も生まれ、
このムーブメントが平和の架け橋になれるように期待したい」と話している。
(京都新聞) - 8月15日21時29分更新
8・15絵本のつどい:戦争体験談に20人が耳傾け−−札幌 /北海道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000013-mailo-hok 絵本の朗読や講演を通して平和の大切さを語り継ぐ「8・15絵本のつどい」が
14日、札幌市内で開かれ、小学生を含む市民約20人が戦争体験者の話に
耳を傾けた。
このつどいは、市民グループ「ハンマダン」(金時江代表)が、00年8月14日
から毎年開いており、今年で6回目。はじめに金代表が、絵本「いえなかった
ありがとう」(文・徳永和子/絵・吉田郁子)を朗読。作者が少女時代に体験した
出来事をベースにした物語で、日本で行われていた朝鮮人への不当な差別が
描かれている。
続いて、原爆症認定集団訴訟原告団の一人で、札幌市在住の柳谷貞一さん
(79)が、広島で被爆した時の様子を証言し、「市街地を流れる川の中に死人
の山ができて、目を疑うほどひどい状況だった」と、戦争の悲惨さと平和の尊さ
を訴えた。【鈴木勝一】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時1分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 石田国夫さん /北海道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000014-mailo-hok <45年8月15日・終戦>
◇家族一緒の生活こそ−−札幌郷土を掘る会世話人、共同代表・
石田国夫さん(73)
終戦時、私は13歳で網走管内美幌町にあった国民学校高等科2年生
でした。玉音放送をどこで聞いたのか、自分が泣いたかどうかも思い出せ
ません。親元を離れて暮らしていたことが寂しくてたまらなかったのと、
食糧がなかったことがつらくて終戦の実感がわかなかったのかもしれません。
ただ、終戦直後に体育の先生が「新日本建設の第一歩を踏み出すんだ」と
グラウンドに集まった生徒を励ましたことは覚えています。「戦争に負けたの
にいいこと言うなあ」と思いました。
美幌の学校に来たのは「立派な軍人にさせるために大きい学校にやりたい」
と親が希望したからです。ボロ家を借りての自炊生活で、食べ物はジャガイモ
や麦など、昼の弁当はトウモロコシが1、2本。焼いたでんぷんカスや馬の餌も
食べました。
学校は2年間通ったけれど、勉強した記憶があまりない。「援農」といって
農家を手伝う労働がほとんどでした。毎朝手にかまを持って出かけ、疲れて
フラフラになったところに農家の人がイモやカボチャを煮て持ってきてくれた
のが楽しみでした。
終戦の年の暮れ、女満別の実家に18歳年上の兄の戦死公報が届きました。
「ラバウルで戦死」とありました。母は仏壇の前で手を合わせて泣いていました。
戦後は教師として働き、70年代から戦争体験者からの聞き書きや郷土史の
発掘に取り組んでいます。家族が一緒に暮らせることが平和の第一歩だと
思います。家族をバラバラにし、子供を飢えさせる愚かな戦争を二度と繰り
返してはいけないという気持ちを一層強くしています。【報道部・鈴木勝一】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時1分更新
あの夏を忘れない:戦後60年の記憶/4止 新聞記者 /秋田
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000080-mailo-l05 ◇「戦争は狂気の日常化」−−むのたけじさん(90)=横手市
玄関先で遺骨が入った箱を受け取った母親は涙を見せずに一礼したが、
その唇は震えていた。真珠湾攻撃の成果に国内が沸いた太平洋戦争の
開戦後間もないころ、戦死した兵士の故郷・秋田への「名誉の帰還」。
その場面を報じた翌日の新聞の見出しには「靖国の母、毅然(きぜん)と」
の見出しが踊り、母親の悲痛な思いを伝えるくだりはなかった。新聞記者
として取材していたむのたけじさんはその後、家の中で一人泣き崩れる
母親を目の当たりにしていた。「あの悲しみこそが戦争の真実。でも
『お国のため』の枠にはめないと記事にはならなかった」と振り返る。
戦後、新聞をはじめとする報道機関は日本軍の軍国主義に追随したとして
非難を受けた。むのさんは終戦前日の1945年8月14日、「戦争に加担した
新聞社の責任は免れない」と退社。「東京が大空襲に遭っても、大本営発表の
『被害は軽微なり』で焼け跡の写真は載せられなかったわけだから。そのけじめ
を付けなければならなかった」
戦時を取材した経験から「戦争は狂気の日常化」と言ってはばからない。
開戦すれば、社会が進んで戦時体制のアクセルを踏む。止めようもない
民衆の力が作用し、人間らしい真実の感情は徹底的にねじ曲げられる。
そこに報道が乗せられ、戦死は軍国調のベールで覆われた美談に仕立て
られていく。
「もし戦死兵の母親の悲しみの事実を書こうものなら、憲兵が来る前に
民衆に、新聞と家族がひねりつぶされる。戦時体制からはみ出る者は
『非国民』としてはじき飛ばされてしまう」。その意味で「戦争は民衆の
集団発狂」とその危うさを表現する。
だからこそ国民保護法の成立や自衛隊のイラク派遣など、国民と自衛隊を
めぐる最近の動向にはきな臭さを感じる。「いったん戦時体制に入ってしまえば、
法律に明記されている国民の権利、自由の約束はすべてストップする」と
危機感をあらわにする。「その前に民衆が何が何でも戦争体制を拒否しな
ければ、人権は成り立たない」
新聞社を退社したむのさんは48年、横手市で反戦と平和を訴える週刊新聞
「たいまつ」を発行。その中の一節で平和をこうつづる。
「人間には水と空気と平和が必要だ。水と空気は、人間の生まれる前から
あった。平和は生きていこうとする人間たちが自分で作っていかねばならない」
戦後60年。自らにけじめを求めた「あの夏」を原点に、むのさんは今なお
平和への強烈なメッセージを社会に発し続ける。【津村豊和】=おわり
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時10分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 山折哲雄さん /岩手
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000055-mailo-l03 <45年8月15日・終戦>
◇国家と宗教、調和し平和−−宗教学者・山折哲雄さん(74)
当時私は、東京から花巻市の母の実家に母と弟と3人で疎開していました。
宮沢賢治の生家から300メートルの寺でした。
1945年8月10日、勤労動員で石鳥谷町で稲作を手伝って帰る途中、
米軍機1機が100〜200メートル先に銃弾を浴びせました。パイロットの
顔が見えるくらい急降下したことを覚えています。その後、市の中心部から
黒煙が見えました。家族を案じましたが、家の手前で火は消し止められ無事でした。
日中戦争や太平洋戦争により「日本人は暴力的だ」と言う人もいますが、
平和をつくるのに夢中になった民族です。平安時代の350年間、江戸時代
の250年間。こんなに長期間、2回も平和が続くのは日本以外にはないことです。
島国だからということもあります。ただそれ以上に、国家と宗教の調和が
保たれていたことが大きいのです。宗教と政治権力が対立したときは、ヨー
ロッパを見ればわかるように乱れます。日本で国家と宗教の調和のベースと
なったのが神仏共存です。平安時代はこの社会システムを国民に普及させて
いったのが政治だった。政治的な権力と宗教的な権威の二元的な構造が
できたから、平和が続いたのです。
今の若い人は宗教心が希薄だと言われますが、私はそうは思いません。
気付いていないだけです。賢治の作品を読んだり、宮崎駿の映画を見て
感動するのは、内々に宗教心を持っているからです。
平和史ではなく革命史を基本に作られた戦後の歴史教育も見直さなければ
なりませんし、宗教を含めた平和文化という価値観を我々の世代が伝え続け
なくてはいけないと思っています。【盛岡支局・安田光高】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時6分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 佐藤藤三郎さん /山形
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000040-mailo-l06 <45年8月15日・終戦>
◇平和を尊ぶ心、教育で−−「山びこ学校」の卒業生・佐藤藤三郎さん(69)
終戦当時、私は山元村(現上山市)の国民学校の4年生でした。1942年4月
に入学。徹底した軍国主義の時代で、2年生の時に教育勅語を暗記させられた
のを覚えています。
先生は大半が代用教員で人数も少なかった。2年生の1年間は、代用教員が
辞めたり軍隊に召集されたりで、担任が3回も代わりました。学校近くに防空壕
(ごう)を掘るのも、村内の家の田畑を耕すのも授業の一環。日本は「神の国」
だと教え込まれ、講堂には「米英撃滅、常に戦場にある気持ち」と書いた紙が
飾ってありました。自由に発言できる雰囲気ではなかった。
終戦の数週間前、低空飛行するB29を、桑の木に登って眺めた記憶があり
ます。まさか山村の集落が爆撃されるとは思っていなかったので、恐怖感は
なかったです。
8月15日の玉音放送は、家のラジオで聞きました。よく聞き取れなかった
けれど、戦争に負けたことは分かった。防空壕に逃げたり、サイレンで家の
電気を消したりする生活が終わることがうれしくて、近所に終戦を触れ回りましたね。
同年秋ごろ、米軍が学校に来て、軍事用具を隠していないか査察しました。
先生が真っ青な顔をして教科書で隠していたのが印象深かった。戦後は漢字
表記が変わるなど、勉強することがたくさんあったのに、学習する余裕はなか
ったのです。
小学校時代に十分勉強できなかったのが、何より悔やまれます。平和を大切
にする心は、教育でしかつくれない。中学で出会った無着成恭先生のように、
上からのきまりにただ倣うのではなく、自分が大切だと思うことを独自に教え
られる先生が必要だと思います。【山形支局・山根真紀】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時10分更新
戦後60年:敗戦の日も「学童に食事を」 疎開先旅館の元女将、体験記す /福島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000046-mailo-l07 ◇記憶伝える言葉重く−−会津高田・根本さん
太平洋戦争中の集団学童疎開の体験を書き残そうと、受け入れ先の旅館で
若女将だった会津高田町の根本タカさん(87)が体験をつづった。集団疎開で
奔走した関係者が亡くなる中、根本さんは「児童や親、住民の苦労をいま字に
残しておかないと何も残らない」と危機感を抱き、戦後60年の節目に原稿を
書き上げた。【町田徳丈】
根本さんの家は以前は旅館「紅葉館」だった。1944(昭和19)年8月16日
から東京都台東区の西町国民学校の児童百数十人を受け入れた。だが、
町史には集団疎開受け入れについて、数行の記述しかない。記録を残したい
と考えた根本さんは、当時の校長が保存していた学校日誌と自身の記憶を
もとに原稿をまとめ、会津高田ペンクラブが年1回発行する「高田文学」に寄稿した。
体験記は、自粛していた盆踊りが児童歓迎のため警察の特別許可を得て
行われたことや、旅館の裏庭を畑にしてジャガイモを植えたなど、戦時のにおい
を漂わせている。
夕暮れ時に親を思って泣く児童の姿に、根本さんは胸を痛めた。「目をこすり
ながら、だまって泣いた。『帰りたい』とは言わなかった」と振り返る。面会に来る
両親も涙を見せなかった。「あのころの親は気丈で大したものだった」
警戒警報が出て煮立つコメを消すよう命令されたが、無視した。「今消したら
おまんまになんねえ。子めら達にくわせらんにぐなんべ(食べさせられないで
しょう)」。配給制度で食料確保に悩んでいた。少しの食料も無駄にできなかった
気持ちを今回記した。
終戦の8月15日正午の玉音放送。昼食の用意で放送は聴けなかった。
人づてに敗戦を知って虚脱感に襲われた。しかし、「食事を用意しないと」と、
いつも通り食事を作ったという。
「いまの人たちは終戦直前のあの状況に耐えられるのか」。根本さんは戦時の
体験を残すことで平和の重さを伝えようとしている。
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時15分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 金相泳さん /群馬
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000007-mailo-l10 <45年8月15日・終戦>
◇「何か」が消えた解放感−−パチンコ機器製造「平和」元社長、金相泳さん(71)
追浜(おっぱま)(神奈川県横須賀市)の住宅街の、屋根が飛ばないようトタンに
石を数十個乗せた小さな平屋に住んでいました。8月15日、私を呼んだ父は
厳かな顔で告げました。
「お前の本当の名前は、金相泳(キムサンヨン)だよ」
当時私は11歳。急に言われても、初めて聞く名前はピンと来ません。日韓併合、
創氏改名の時代です。父母は心の中だけで、私の名前を大切に呼び続けていて
くれたのです。
戦後も貧しさは変わらず、リヤカーで残飯を集め養豚を手伝いながら通学する
日々。それでも終戦は、空襲や命の危険が去っただけでなく、子供心にも萎縮
(いしゅく)したり虚勢をはらなければならなかった「何か」が消えた解放感があり
ました。
学生時代、本名ではアルバイトにもなかなか採用されない現実に直面します。
通名を使うにも戦争中強制された名前には抵抗がある。大学卒業を前に、東京
六大学野球で活躍していた選手の名と金(きん)と同音の漢字を組み合わせ、
「小柳錦二」と自ら命名。卑屈な気持ちではなく、新しく生まれ変わったつもりで
ビジネスに励みました。前橋へ来て42年、「小柳」も県内外で少しは知られた
名前になったことに誇りを持っています。
縁あって入社した「平和」もまた、創業者の中島健吉氏が「戦争に加担しない
事業を」と誓って名付けた社名。戦争は風化させてはならない、二度と繰り返し
てはならない、という思いは私たちの世代に共通した願い。そして、日韓に
再び不幸な歴史が繰り返されてはならない、友好親善のために何かを残したい
と思っています。県日韓親善協会副会長として、後に続く人たちの道しるべと
なれれば、と。【前橋支局・藤田祐子】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時21分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 早乙女勝元さん /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000058-mailo-l13 <45年8月15日・終戦>
◇生き残る発想なかった−−作家・早乙女勝元さん(73)
「重大放送がある」
両親や姉たちがいそいそとラジオを聴きに町内会の詰め所に出かけ、
家で留守番をしていた私は「とうとう一億玉砕のときが来た」と思いました。
「神風が吹いて勝つ」と教わってきた子どもですから、戦争に負けて生き
残るという発想はみじんもありません。ところが、帰ってきた父が「戦争に
負けたらしい」と言い、信じがたいが自分たちは生きている。「天皇の
ラジオ放送一つで戦争が終わるなら、なぜもっと早くそうしなかったのか」
と思いました。
生まれる前から日中戦争が始まっていて平和がどういうことか分からない。
8月15日を過ぎても頭の中が混沌(こんとん)としている。その私が平和を
実感したのは8月20日。つまり灯火管制解除の日ですね。実家は東京の
向島という下町にあり、かろうじて全焼を免れた。15日以後もB29は
上空を飛んでいて、警戒警報も鳴っていたんです。公式に解除が発表
されて焼け残りの家から明かりがぽつぽつと点(とも)りだす。私の家も
黒いおおいをはずして裸電球に照らされる家族の顔を見たとき、心の底から
「ああ、これが平和なんだ」と安堵(あんど)しました。
戦後は町工場で働きながら文学を志しました。日本が本格的に復興
するのは50年の朝鮮戦争の特需景気からで、これは戦争への間接関与。
それに耐えられず私は文章書きになったようなもの。そのころから東京
大空襲の記録も書いていました。
戦後60年のこの夏、「小説 東京大空襲」(草の根出版会、全3巻)を
刊行しました。戦争を知らない子どもや孫の世代に、過去の戦争の実態を
民衆の視点から伝えられたらと願っています。【東京社会部・明珍美紀】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時33分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 阿刀田高さん /新潟
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000139-mailo-l15 <45年8月15日・終戦>
◇我が子、戦地に送らない−−長岡に疎開した作家・阿刀田高さん(70)
長岡市で生まれ、3歳で東京の自宅に移りました。戦火が激しくなった1944年、
再び家族で長岡に疎開し、中学卒業までの6年間を過ごしました。
長岡空襲に遭ったのは5年生の時。夜、目を覚ますと、大手通の空が赤くな
っている。急いで家族と近くの土手に避難しました。30機ほどのB29が機体を
赤く染めて東の方に向かっていました。焼夷弾がしだれ柳のように降っていて、
「花火だな」と思ったのを覚えています。
体育館は遺体でいっぱいでした。近くの防空壕では、子どもを抱えるようにして
死んでいる母親の遺体も見ました。私の自宅は幸い無事でしたが、それで嫉妬
(しっと)され、よくいじめられました。
空襲の数日後、いとこと焼けた町を歩きました。当時いとこは、海軍の研究所で
戦艦を造る研究をしていました。少ない鉄で大きな船をつくる研究していた彼が、
落ちていた焼夷弾の筒を拾い上げ「勝てないな」とつぶやいたのをよく覚えて
います。空からばらまいて捨てていくものに、日本では考えられないほど質の
良い鉄を使っていたんですね。私もそれを聞いて「だめだ」と思いました。
戦争が終わって平和憲法を聞いた時は、すがすがしい気持ちになりました。
私は、現代の母親に期待したい。60年前、母親は我が子を戦地に送った。
母親は、あの悲惨さをもう許さない。男がうっかりと変な戦争に進む可能性は
あります。だけど、我が子を戦争に送りたくないという母親の切実な気持ちは、
60年前よりははっきりと理性的に表れる可能性がある。それは力であり、
戦前から大きく変わった点だと思います。【新潟支局・北上田剛】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時38分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 吉田喜重さん /福井
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000188-mailo-l18 <45年8月15日・終戦>
◇生活奪った福井空襲−−映画監督・吉田喜重さん(72)
終戦の時、生まれ育った福井にいました。12歳で中学1年。福井市の外れに
家族で疎開していましたが、玉音放送も「天皇は甲高い声だな」と思っただけ
で、何を伝えているかは分からなかった。父が小声で「戦争は終わったよ」と。
周りも内容をあまり理解していない様子で、たぶん、1カ月前に福井を襲った
大空襲が、思考能力を奪ったんだと思います。
7月19日の夜。私と父は市中心部の実家にいて、寝ていると、父から
「すぐに逃げなさい」と起こされた。父は、ラジオで各地の爆撃情報を聞いて
ました。「琵琶湖をB29の大編隊が飛んでいる」と知り、先に逃がしてくれたんです。
私は半信半疑で速足で歩く程度。でも、しばらくして突然、閃光(せんこう)が
走り、昼間のような明るさになった。照明弾です。気付いたら来た道を戻って
いました。
ザー、ザーと夕立のような音がしてきて、大きな筒が何百個もヒラヒラと
揺らめき落ちてくる。怖くて父のもとに走ったがいなかった。またきびすを
返したら焼夷弾(しょういだん)が落ち始めて、木や住宅、川も燃え出した。
周りは静か。本当はそうじゃないけど、子どもだったから生きるのに必死で
聞こえなかったんでしょう。
家は焼けてなくなった。みんな、そうでした。だから、終戦を知って「平和に
なる」とか、「負けて悲しい」とかの感情はありませんでした。生活を奪われた
悔しさの方が大きかった。
空襲と原爆投下は「心の内」でつながってました。でも「原爆の死者だけが、
本当のことを知っている。私に描く権利があるのか」という葛藤(かっとう)が
あって、「鏡の女たち」(03年)まで半世紀かかってしまいました。
【福井支局・田辺一城】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時41分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 三枝礼子さん /山梨
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000151-mailo-l19 <45年8月15日・終戦>
◇火の海だった甲府中心街−−軍需工場に動員された、三枝礼子さん(74)
国民学校5年だった1941年、太平洋戦争が開戦しました。43年にはあこがれ
の甲府高等女学校に入学しましたが、学校は勉強をするスペースなどなく、
落下傘作りの工場になっていました。私たちはもんぺをはき鉢巻きをして
軍需工場に通い、飛行機の翼をやすりで磨く作業をさせられました。
45年7月6日。その日の夜は家族で甲府市高畑町(現国母2)の自宅に
いました。空襲警報が鳴り、父親から「遠くに逃げろ」と指示されました。
6人兄弟の長女でしたので、私が末っ子を、二女が5番目の子を背負って
逃げました。警防団長をしていた父は、自宅に残りました。走ったり、歩い
たりして2キロほど行った橋の下で、疲れ果てて座り込んでしまいました。
甲府の中心街の方向は火の海で、まるで真昼のようでした。
銀色のB29が次々に飛んで行くのが見え、目の前の家に焼夷(しょうい)弾
が命中し、鴨居(かもい)に掛かっていた浴衣に火が燃え移り、舞い上がり
ました。2歳の妹が「怖い」と背中にしがみつきました。父の無事を祈りました。
翌日、自宅で父と再会し、身内の被害はありませんでしたが、顔見知りの
おばさんが中心街の防空壕(ごう)の入り口で死んでいるのを見ました。
「これが戦争なんだ」と実感しました。
8月15日。「大事な放送がある」という父の言葉で家族全員がラジオの
前に座り、日本が負けたことを知りました。私はもちろん、まち全体が
虚脱状態になりました。
52歳まで小中学校の教師として働き、時折教え子たちに戦争体験を
話してきました。これからも平和がどれだけありがたいものかを伝えて
いきたいと思っています。【甲府支局・中村有花】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時45分更新
戦後60年:東海 戦火逃れた「子午の鐘」、10年ぶり響く−−三重・久居 /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000145-mailo-l23 ◆忘れ得ぬ、あの日あの時
◇戦後60年の節目に犠牲者を弔い、世界平和の願いを込めて鳴らしたい
◇終戦記念日、10年ぶり響く
三重県久居市幸(さや)町に数奇な運命をたどった鐘がある。「子午(とき)の
鐘」。太平洋戦争の末期、消失の危機に遭いながら、偶然にも無事で残った。
終戦記念日の15日、この鐘が美しい音色を響かせる。地区住民は「戦後60年
の節目で犠牲者を弔い、世界平和の願いを込めて鳴らしたい」と話している。
鐘が造られたのは江戸時代中期の1736年。時を知らせる役割を担っていた
が、その後火事の合図としても利用された。
それから200年余たった戦争末期、国内では軍事資源として鉄の需要が
高まった。各地で金属の強制供出が相次ぎ、銅や錫(すず)で出来たこの
鐘も例外ではなかった。
しかし「兵器」に変わっていたはずの鐘は、戦後間もなく思わぬ所で発見
された。地元の長老が津市の国鉄・阿漕(あこぎ)駅に行った際に、駅の
貨物用ホームの端に置かれていたのを偶然、発見したという。幸町自治会長
の冨永勝次さん(74)は「終戦の年、駅付近は大きな爆撃に遭っている。
だから鉄道で鐘を運ぶことが出来なくなって放置されたのかもしれない」と
推測する。鐘は地区住民により荷車で元の場所に運ばれた。その後、
1959年の伊勢湾台風でも鐘堂が崩れる災害に見舞われたが、鐘は
無傷で現在まで残っている。
鐘を突くのは、毎年6月10日の「時の記念日」と大みそかの2回だけ。
終戦記念日に鳴らすのは、戦後50年の年(1995年)以来だ。戦争を
くぐりぬけた、いわれのある鐘の音は午前11時40分から久居市内に
響きわたる。【鈴木顕】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時57分更新
大阪大空襲:不戦の誓い、忘れないで 体験者、平和願い合掌−−京橋駅慰霊祭 /大阪
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000253-mailo-l27 60年前の8月14日、大阪城内の陸軍造兵廠を狙った空襲があった。
B29が投下した1トン爆弾は、京橋駅にも落ち、約500人が犠牲になった。
吹田市南吹田の田中耕一さん(76)は「あの日は本当に死を覚悟した」
という。入隊する先輩を見送り森ノ宮駅に戻る途中、空襲警報がなった。
電車は直前に発車、上空には既にB29が。「グォーン」というさく裂音。
地面に伏せ、恐怖で気を失いそうになった。土埃(ほこり)で横の友人の
顔も見えなかった。駅周辺は木っ端みじんに吹き飛び、大きな穴がいくつも
あった。後に京橋駅で多くの人が犠牲になったと知った。生かされた命。
「戦争をしないと誓った60年前を忘れかけているのではないか」。そう感じる。
豊中市蛍池中町の山縣宏子さん(69)は、父と自宅に向かっていた。
電車の扉が開いた途端、乗客が飛び出した。父の手を握りしめ踏切小屋に
逃げ込んだ。B29が去り、線路を歩いて大阪駅に向かう途中、大勢の
うつぶせの死体を覚えている。直後に降った黒い雨にぬれた。「運が良か
ったとしか思えない」。14日、同駅前で営まれた慰霊祭に参列し、手を
合わせた。【粟飯原浩】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時7分更新
戦後60年:東海 戦争絵画で平和を訴える−−春日井の山田昭さん /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000146-mailo-l23 ◆忘れ得ぬ、あの日あの時
◇子供たちがこんな絵を描く時代に二度としてはならない
◇ゼロ戦、軍艦…少年時代の古い絵
60年前の古い絵からは、軍国教育の跡がありありと浮かび上がる。愛知県
春日井市鳥居松町の元会社経営、山田昭さん(68)宅に残る絵。少年時代に
描いたゼロ戦や軍艦など戦争絵画ばかりだ。山田さんは「子供たちがこんな
絵を描く時代に二度としてはならない」と平和の大切さを訴えている。
山田さんは三重県波瀬村(現一志町)に生まれ育ち国民学校に入学。絵画が
得意だったため、終戦を迎えた3年生までの絵画や通信簿を大切に保管して
きた。伊勢湾台風で家財道具が流されたが、絵は奇跡的に残った。
粗雑なわら半紙約20枚にクレヨンで描かれているのは、軍艦の前に立つ
軍人や急旋回するゼロ戦、戦う兵隊など。裏には教師が押した「優」の印が
残る。山田さんは「夢は兵隊になることだった。敵を殺す兵隊は偉いと思って
いた」と振り返る。
敗戦直後。女性の担任が教室で「日本は負けました。これから一生懸命
日本のために頑張りましょう」と話しながら、ボロボロと涙を流したという。
「先生まで泣かしてしまう戦争が一気に嫌になった」。山田さんの絵のモチーフ
は戦後、風景画や女優などに代わった。
山田さんは伊勢湾台風で画材を失い、絵画から遠ざかったが、今年4月から
再び絵筆を握り、油彩画に取り組んでいる。小学生の孫に当時の絵画を見せ、
戦争の話をすることもあるという。
世界ではテロが頻発し、日本では自衛隊のイラク派遣などが議論を呼んで
いる。山田さんは「終戦当時は一億総玉砕に向かい、子供の心まで戦争に
駆り立てられた。一度戦争が始まれば核兵器も何でも使われる可能性が
ある。戦争を二度と繰り返してはいけない」と語気を強めた。【桜井平】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時57分更新
’05湖国・平和考:沖縄の歴史学ぶ 映像作品を上映、集いに40人−−湖南 /滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000091-mailo-l25 ◇阿波根さんの生涯演じた劇基に制作
沖縄の歴史などについて学び、平和について語り合う「平和の集い」(滋賀・
沖縄県人会、沖縄館三線倶楽部、結の会共催)が14日、湖南市中央5の
「沖縄館」で開かれた。終戦の日に合わせて毎年8月に開催され、今年で
10回目。滋賀・沖縄県人会のメンバーや同館の利用者など約40人が集まった。
集いでは、米軍に対する抵抗で非暴力を貫いたことから「沖縄のガンジー」
と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんの生涯を、伊江村立伊江
小学校の6年生が演じた劇を基に制作された映像作品「花は土に咲く」を
上映した。阿波根さんは、住んでいた伊江島の土地を米軍が強制収容した
ことから、沖縄本島各地を島民と歩いて実情を訴えるなど、土地闘争の
先頭に立った。作品では、座り込みや「乞食行進」など、非暴力による抵抗
の様子を、子どもたちが懸命に演じる姿がスクリーンに映し出された。
参加した大津市大平、教員、斉道説子さん(57)は「伊江島の戦いを演じる
ことにより、忘れてはならない伊江島の原点を、子どもたちが真剣なまなざし
で訴えていたことが印象的だった」と作品の感想を語った。
上映後は沖縄の伝統楽器「三線」の演奏も行われた。「ひめゆりの歌」
「軍人節」など戦争にまつわる歌が披露され、参加者は平和への思いを
募らせながら、聴き入った。【高橋隆輔】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時2分更新
戦後60年:日野町と町民が事業実行委を組織 20日にシンポやつどい /滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000093-mailo-l25 ◇来年1月、記念誌も刊行
戦後60年にあたり、戦争を二度と繰り返さず平和な社会が続くことを願って、
日野町は町民と「戦後60年事業実行委員会」を組織。20日を中心に「戦争と
平和のシンポジウム」「戦争体験を語り伝えるつどい」「戦争の記憶展」などを
開く。来年1月には「戦後60年記念誌」も刊行する。
最初は20日午後1時半から町林業センターで開く「戦争体験を語り伝える
つどい」。戦地に赴いた人、学徒動員で軍需工場で働いた人、疎開で日野町
に来た人など町民9人が、3グループに分かれて戦争体験を語り、戦争を
知らない世代に当時の体験を伝える。
同日午後7時半からは、日野公民館で藤沢直広町長をコーディネーターに
「戦争と平和のシンポジウム」。戦争体験者、疎開者、連合青年会長ら4人が
パネリストとなり、体験談や平和への思いについてディスカッションする。
20、21の両日、町勤労福祉会館では町民47人から集めた戦時中の
写真、物品、資料など約500点を展示する「戦争の記憶展」が開かれる。
開戦を伝える電文のコピーや出征ののぼり、水筒、飯ごうをはじめ兵士の
遺品などを展示する。
実行委には、町民十数人から戦後60年についての手記も寄せられた。
つどいやシンポジウムの内容と併せ、「戦後60年記念誌」にまとめる。
【斎藤和夫】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時2分更新
平和の灯:戦没学徒の広場に 十数年ぶりNPOの手で−−南あわじ /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000260-mailo-l28 第二次大戦の戦没学徒を慰霊する南あわじ市・大見山の「戦没学徒記念
若人の広場」に14日、広島市の平和記念公園から採火された平和の灯
(ともしび)が運ばれ、メモリアルタワーに十数年ぶりに火がともった。
広場は67年に開設されたが、運営する財団法人動員学徒援護会の財政
が悪化し、阪神大震災で施設が損壊したため閉鎖された。戦時資料は
昨年暮れ、立命館大国際平和ミュージアムに寄贈されている。
NPO法人「動員学徒記念若人の広場復興委員会」(谷安司理事長)が
「戦後60年を機に平和を訴え、広場の復興気運を盛り上げようと」と、
消えたままになっていたともしびに再び火をともすことにした。
この日は関係者ら約40人が参列。メモリアルタワーのバーナーに点火
されると、戦争で亡くなった学徒の冥福を祈り、秋葉忠利・広島市長のメ
ッセージを読み上げた。【登口修】
〔淡路版〕
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時7分更新
神戸空襲:アジアの人々と平和を 犠牲の朝鮮人慰霊、市民団体が開催 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000258-mailo-l28 ◇パゴダの見学会も
市民団体「KOBEピースiネット」は14日、神戸で強制労働をさせられ、
神戸空襲で犠牲になった朝鮮人を慰霊するパゴダ(仏塔)の見学会などを
開いた。戦後60年の節目に、「アジアの人々とともにつむぐ平和」と銘打って
戦争について考える機会を設けた。
約20人の参加者は中央区の東福寺へ。パゴダは高さ約2・2メートル。
勤務中に犠牲になった朝鮮人労働者約50人の遺骨が安置されている
という。86年に当時の住職が無縁仏だった労働者たちを慰霊しようと
建立。参加者は「ここにあるなんて知らなかった」とパゴダを触っていた。
続いて同区の神戸YMCAで兵庫朝鮮関係研究会の高祐二さん(39)が
「神戸大空襲と朝鮮人」のテーマで講演。1940年代のピーク時には
県内に12万人の朝鮮人が住み、約10万人が強制労働をさせられていた
という。
高さんは「当時の川西航空機は、空襲があると知りながら朝鮮人を働か
せた」と指摘。「神戸空襲は何人亡くなったかも分かっていない。大阪の
空襲では名前も分かっているのに腹立たしい」と憤っていた。【小川昌宏】
〔神戸版〕
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時7分更新
終戦記念日:平和の鐘打鐘や原爆パネル展、灯ろう流し…不戦の誓いも新たに /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000110-mailo-l30 ◇きょう、多彩な催し
60回目の終戦記念日となる15日、平和を願い、戦没者の冥福を祈る行事が
県内各地で行われる。
和歌山、貴志川、紀北、那賀青洲、橋本の各ユネスコ協会は、平和の鐘打
鐘会を実施。和歌山市内では岡山の時鐘堂や紀三井寺など23カ所で、
正午から1分間黙とうした後、鐘を打つ。那賀町内では、住民に黙とうを呼びかける。
和歌山市のJR和歌山駅西口地下広場では「戦後60年 8・15メモリー〜
風化させてはいけない〜」を開催。午前10時からドキュメンタリー映画の
上映や原爆パネル展、午後1時からは戦争体験者の話とパネルディスカ
ッションがある。
海南市の燦燦公園内にある「日中両国平和の塔」の前では、午前8時から
「8・15平和の集い」が開かれる。終戦を中国で迎えた戦争体験者の話に
耳を傾け、改憲の動きや靖国神社参拝問題などを語り合う。
打田町の竹房橋近くの紀の川河川敷では午後7時半から「第4回平和と
慰霊の祈り 万燈会」が行われ、市民グループが700本のろうそくで「命」
の文字を描く。尺八の演奏もある。橋本市向副の紀の川河川敷で開催さ
れる「紀の川祭」でも、灯ろう流し(午後7時)が行われる。県護国神社
(和歌山市)では午前10時から平和祈念祭がある。【水津聡子】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時14分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 小畑昭子さん /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000112-mailo-l30 <45年8月15日・終戦>
◇古里にも及んだ空襲−−和歌山ユネスコ協会副会長・小畑昭子さん(76)
終戦記念日の15日、平和の鐘が正午から、和歌山市内の寺院などで一斉に
打ち鳴らされる。主催する和歌山ユネスコ協会の副会長、小畑昭子さん(76)は
学徒動員や和歌山大空襲を経験。平和への祈りを込めて、今年も参列する。
1944(昭和19)年7月25日、小畑さんら和歌山市立高等女学校の4年生
約180人は、学徒動員で兵庫県明石市の航空機工場に送られた。「夜の部屋
では、ホームシックになって、一人が泣き出すと、また一人と泣き出した。
気づいたら、全員が泣いていた」
工場では、ネジなどに不良品がないかを検査。「食事も粗末で、最初は臭くて、
のどを通らなかった」。疲れた体から空腹と寂しさがあふれていた。
軍需工場の空襲が相次ぎ、娘の身を案じた父親に勧められ、小畑さんは
和歌山市に戻り、臨時教員になった。しかし、空襲は古里にも及んだ。
和歌山大空襲があった45年7月9日、小幡さんは、勤務先の野崎国民学校
(現・市立野崎小)で宿直をしていた。深夜、空襲が始まると、他の教員2人と
電車の線路伝いに避難。市内が燃えて、まるで真昼のようだった。焼夷(しょうい)
弾が降る中、小さな橋の下に逃げ込み、空襲が終わるのを待った。
和歌山大空襲の犠牲者は1100人以上。明石市の工場では、小畑さんが
帰郷した後の45年1月、県内から動員された他校の女生徒11人が空襲で
亡くなった。
平和の鐘は全国に先駆け、和歌山で始まり、58回目の今年は市内など
25カ所に広がった。小畑さんは「人の心に平和のとりでを築き、戦争を
二度と起こさない」との思いで鐘をつく。【和歌山支局・青木勝彦】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時14分更新
戦後60年・語り継ぐ記憶:第1部/12 漫画家・平野勲さん /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000217-mailo-l32 ◇平和な時代に夢かなう−−平野勲さん(82)=青森県三沢市
◇「軍国少年」から「漫画少年」に
軍靴の響きを聞いて育った少年時代。出雲市出身の漫画家、平野勲さん
(82)=青森県三沢市=は「戦死は日本国民最高の美徳」と教えられた。
遊びは「戦争ごっこ」。「お国のために銃を取り、戦場に行かねばならない」。
自分に言い聞かせていた少年だった。
そんな時代、楽しみは田河水泡の漫画「のらくろ」。主人公の野良犬「のら
くろ」が猛犬連隊に入隊、失敗しながらも明るく活躍する軍隊生活を描いた
ものだ。当時、大人気で、小学生だった平野さんも同級生から借りて夢中になった。
「絶対に漫画家になるんだ」。そう心に誓った平野さんは、いつしか「軍国
少年」から「漫画少年」になっていた。
◇
だが、中学卒業時の41年、太平洋戦争に突入した。夢を語り合った友人の
多くは海軍兵学校や陸軍士官学校へ進学。軍隊がいよいよ目の前に迫って
来た。44年、長崎県の陸軍歩兵部隊に入隊。同年9月、香川県の陸軍船舶
幹部候補生隊に移り、出征せぬまま終戦を迎えた。
軍隊では毎日厳しい訓練の日々。絵を描くことも許されない。一人になると
手帳を取り出し、隠れながら漫画を描いた。
軍隊生活を支えたのは古里・出雲の思い出だった。家族、友人、そして
にぎやかだった祭り。娯楽が少ない時代。高揚感とにぎわいを思い出しては
古里をしのんだ。
◇
戦後、同級生らの大半が戦争で死んだことを知った。
「自分は昔、軍国少年でした。でも今、戦争には大反対。大嫌いです。友人、
親類…。随分多くのものを失いました。二度とあってはならないものです」
悲壮感はなく、明るい平野さんの漫画。これまで描いた祭りの画は約3500枚
に上る。戦後、中学教員になったが、漫画家の夢を捨てきれず上京。漫画家
として大成し、今年、日本漫画家協会賞特別賞を受賞した。
「戦時に遠く離れてみて、初めて古里の良さ、ありがたさを知りました。絵を
通じて子どもらに古里の素晴らしさを感じてもらえたら」
戦後の平和な時代に平野さんの夢はかなった。【細川貴代】
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8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時18分更新
戦後60年:鳥取の保育園で体験聞く会 園児ら、慰霊碑前で反戦誓う /鳥取
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000220-mailo-l31 ◇銃弾の雨、馬車に死体の山
鳥取市河原町曳田の市立八上保育園(小谷禎子園長)が、戦争体験者から
戦争について話を聞く会を開いて、今年で3回目を迎えた。今回は長崎への
原爆投下から60年に当たる9日、近くに住む田村史妻さん(73)が、2〜5歳
の園児19人に戦争の恐ろしさ、や平和の大切さを話した。
田村さんは同市気高町で生まれ、1936年に4歳で家族と満州(中国東北部)
に渡り、15歳まで過ごした。終戦後は、ソ連軍の侵攻や中国の内戦に巻き
込まれ、大変な思いをしたという。
田村さんはこの日、空から雨のように機関銃の弾が降ってくる中を逃げた
ことや、馬車やトラックで亡くなった人が大勢運ばれていったことなどを話した。
園児たちは「戦争って何」「どうして戦争は終わらないの」などと質問しながら、
熱心に耳を傾けていた。
同保育園の裏には、集落から出征し戦死した人たちを弔う慰霊碑があるが、
話を聞き終えた園児たちは慰霊碑に手を合わせ「もう戦争はしません」と
誓った。前嶋優奈ちゃん(4)は「戦争は人を殺し合いっこするから嫌」と
話した。小谷園長は「去年までは漠然と戦争がいけないと理解していた
子どもが、今年は戦争の悲惨さや怖さを自分なりに考えるようになった。
繰り返し語っていくことが大切」と話している。【田辺佑介】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時18分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 南良行さん /鹿児島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000201-mailo-l46 <45年8月15日・終戦>
◇次世代に戦争を語る−−万世飛行場建設を手伝った・南良行さん(74)
万世飛行場は加世田市の吹上浜に建設された陸軍の秘密飛行場でした。
1945年3月に運用が開始され、特攻隊が出撃していきました。
私は当時、国民学校に通っていました。43年ごろから近くの児童たちは
奉仕作業として飛行場建設を手伝いました。
飛行場は海沿いの松林を切り開いて建設されました。私たちは伐採した
松を運び出しました。何の目的で飛行場を作るかは知らされませんでした。
何しろ地図にも載っていない秘密の飛行場でしたから。松の運び出しが
終わると芝を張ったり、ドラム缶を貯蔵する穴を掘ったりしました。学校の
授業はほとんどなかった。雨が降った時に本を読むぐらいでした。
終戦の年になると、加世田市でも空襲や戦闘機の機銃掃射が激しくなり
ました。機銃掃射の時は、操縦士の顔が見えるほど低空を飛んできました。
空襲警報が鳴る度に奉仕作業も中断され、仕事にならなくなる時が多くなりました。
空襲の被害で、木の上に人体がぶら下がっていたり、ほとんど皮のむけた
遺体を見ました。ひき肉が飛び散ったようになっていた光景は、今でも忘れ
られません。
飛行場から特攻隊が出撃していたと知ったのは戦後のことです。戦争が
終わり、地元の消防組合に勤めて、91年に退職してすぐ、飛行場跡地へ
加世田市平和祈念館を開館させるために働きました。遺族から遺書や遺品を
集める中で特攻隊について学びました。
戦争の記憶は薄れ、体験者も少なくなりました。戦争の恐ろしさは体験しない
と分からない。自分が子供や孫の世代に戦争を語ることが大事と考えています。
【鹿児島支局・河津啓介】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時51分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 坂和寿々子さん /愛媛
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000163-mailo-l38 <45年8月15日・終戦>
◇平和願う気持ち皆同じ−−サカワ社長・坂和寿々子さん(75)
戦争中は松山市の済美高等女学校の生徒でした。戦争が激しくなると授業が
なくなり、勤労奉仕で毎日、特攻隊員が身に付けるマフラーなどを縫っていました。
当時、私は威圧的な軍人は好きになれませんでしたが「最前線に送られる兵隊
さんが身に付けるのだ」と思うと、無事に帰ってきてほしいと願わずにはいられ
ませんでした。今でも「私のマフラーを身につけた隊員のうち、帰ってきた人は
いるのだろうか」と考えることがあります。
3年生になると、兵庫県伊丹市の零戦の部品工場に学徒動員されました。
連日のように空襲があり、そのたびに田んぼの中を逃げ惑いました。一度、
目の前に六角形で緑色の爆弾が落ちたことがあります。田植えの時期で、
泥に沈み込んだため爆発せず、助かりました。あと50センチずれていたら
命がなかったかもしれない。
戦後、黒板製造の会社経営に携わっていた夫と結婚しましたが、39歳の時に
夫を亡くし、私が後を継ぎました。ずっと「何があっても後悔しない」という気持ち
で仕事に打ち込んできました。戦争でいや応なしに死を意識したせいかもしれません。
仕事を通じ、芸術家・岡本太郎さんの養女、敏子さんと知り合ったのが縁で、
先月から東温市の工場を、太郎さんの巨大壁画「明日の神話」の修復場所
としてお貸ししています。壁画は、太郎さんが「原水爆の悲劇を乗り越え、
平和な世界を築こう」との願いを込めた作品。戦争では私よりもつらい体験を
した人はたくさんいると思いますが、平和を願う気持ちは皆同じ。修復が成功し、
太郎さんのメッセージが世界に伝わることを願っています。【松山支局・小林祥晃】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時35分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 朝倉邦夫さん /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000208-mailo-l34 <45年8月15日・終戦>
◇焦土の呉の軍国少年−−「呉戦災を記録する会」代表・朝倉邦夫さん(69)
1945年3月19日、呉軍港を狙った空襲は中国地方では初めてのもので、
沖縄上陸作戦を前にした海軍への先制攻撃だったのでしょう。街中を逃げ惑い
ながら、撃墜されて灰ヶ峰中腹に落ちるグラマン機数機を目撃し、興奮した。
その後、家へ帰ると爆弾の破片が屋根を突き抜けていた。本通国民学校3年生
でした。
間もなく、6年生の兄と一緒に三原市郊外の仏通寺宿坊へ集団学童疎開しました。
母と姉も疎開先の寮母やお手伝いとして住み込みで働くことになり、呉海軍工廠
(しょう)工員だった父親だけが呉に残ることに。
お盆休みで農家に分宿していて聞いた「玉音放送」の意味は理解できなかったが、
「学寮へ帰れ」と指示があり、敗戦を知った。
呉へ戻ったのは9月17日のこと。13回の空襲を受けた市街地は一面焼け野原
だった。床下の防空ごうで難を逃れたものの、家を焼かれ、顔や腕に大けがをした
父は三角兵舎の簡易住宅で暮らしていた。家族5人は再会の喜びをかみしめた。
9歳までとはいえ、日本は勝つと信じ、特攻機にあこがれた軍国少年だった。
大学で歴史学を学んでようやく、戦時教育の怖さから解き放たれた。市内の中・
高校で教べんをとり74年、「呉戦災を記録する会」を発足させた。平和教育の
ための原爆の参考資料は多かったが、呉の近現代史を学ぶ公的な資料は
極端に少なかった。
戦後60年たっても生々しい戦災体験記が集まってくる。アジア外交の行方、
有事立法、テロ続発、米イラク攻撃と、国益を振り回す現代社会の危なっかしさ。
まだ5年や10年は戦災体験記を集める必要性を感じている。【呉支局・牧正】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時22分更新