ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート2

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657卵の名無しさん:01/11/11 02:21 ID:???
我々は、この質問がアメリカ人から出されたことに驚いている。それぞれの行動は、同様
の反応を導くだろう。我々は、イスラム教徒、イスラム教徒の子供と女性を悪から遠ざけ
ておくために、このような処罰を用いなければならない。アメリカの歴史は、民間人と軍
人を区別していないし、女性と子供すら区別していない。長崎などへの爆弾を使った連中
なのだ。これらの爆弾は子供と軍の区別をつけることができるだろうか? アメリカは、
すべての人々を破壊することを防ぐような宗教を持っていないのである。

パレスチナにおけるイスラム教徒に対する諸君の状況は恥ずかしいものだ。アメリカに恥
というものが残っているとすればだが。シオニストとキリスト教の軍の間の協力のあった
サブラ(Sabra)とシャティラ(Shatilla)における虐殺で、子供たちの頭上で家が破壊さ
れた。また、イラクにおける臨時労働者の証言によれば、アメリカは100万人以上のイラ
クの子供たちの死という結果に終わった処罰を遂行したのである。

これらすべてはアメリカの利益の名においてなされた。我々は、世界最大の泥棒にしてテ
ロリストは、アメリカであると信じている。我々がこれらの猛攻をかわせる唯一の方法は、
同様の手段を使うことだ。

我々は、軍服を着た者と民間人の区別をつけない。彼らすべてがこのファトワの標的であ
る。特にホバル(Khobar)爆撃後、アメリカの役人は、すべてのアメリカ市民が大使館の
治安部門に連絡をとってイスラム教徒と活動家についての情報を得るように呼びかけてい
る。ファトワは、イスラム教徒の殺害者、聖地攻撃者、イスラムの領土を占拠しているユ
ダヤ人の援助者をもすべて含んでいるのである。

●世界貿易センター爆破

ジョン・ミラー:ラムジ・ヨウセフは信奉者でした。あなたは彼を覚えていますか? あ
なたは彼を知っていましたか?

オサマ・ビン・ラディン:ラムジ・ヨウセフは、世界貿易センター爆破後、有名なイスラ
ム教徒となった。イスラム教徒なら誰でも彼を知っている。あいにく、私は事件前には彼
を知らなかった。

彼はアメリカの侵略からイスラムを守ったイスラム教徒として記憶している。イスラエル
の利益を守るため、ユダヤ人を守るためにアメリカ政府がイスラム教徒を攻撃したのだと
アメリカ人に知らしめるために、この事件を起こしたのだ。

アメリカ人は、ラムジ・ヨウセフに続く多くの若者を見ることになろう。

ジョン・ミラー:ラムジ・ヨウセフが逮捕されたとき、あなたが支払いをしていた迎賓館
にいたというのは本当ですか?

オサマ・ビン・ラディン:ニュースで報道されて私が知っているのは、彼がパキスタンの
ホテルで逮捕されたということだけである。
658卵の名無しさん:01/11/11 18:15 ID:???
もうやめろよ、精神異常の荒らしのためにこのスレッドが余計に目立つやないけ!
659卵の名無しさん:01/11/11 20:38 ID:???
>>658
目立つことを気にしているあなたがあげるのは何故?
律儀にも荒らしはsageているのに。
ヘタに意見してあげるよりも、このスレ、下がったまま、黙って見殺しにするしかないと思う。
660卵の名無しさん:01/11/11 21:38 ID:???
荒らしというより妨害だな。なにかまずいことでもあるのだろう。
そうだろ? 659さん
661卵の名無しさん:01/11/11 22:03 ID:???
●大統領暗殺計画

John Miller: ワリ・カーン・アミン・シャー(Wali Khan Amin Shah)はマニラで逮捕され
ました。アメリカ当局は、彼があなたのために働き、あなたに資金援助され、その地に訓
練キャンプを作り、その計画の一つとしてマニラ訪問中のクリントン大統領暗殺計画があ
った、と信じています。

オサマ・ビン・ラディン:ワリ・カーンはイスラム教徒の青年である。アフガニスタンで
は、彼は「ライオン」とあだ名されていた。彼は最もよい青年の一人である。我々はよい
友人であった。我々は、アラーが惨めな敗北によって彼らを追い払うまで、ロシアと、同
じ塹壕でともに戦った。あなたは、彼がわたしたちのために働いたと言ったが、我々のな
かにはだれか他の人のために働く者はいない。我々はみなアラーのために働くのであり、
アラーの報酬を末のである。そして、クリントン大統領暗殺計画についてあなたは述べた
が、それは驚くことではない。私はそれについて知らなかったが、驚きはしない。

私が言ったように、すべての行動は、同様の反応をもたらす。クリントンは、彼が殺した
者たち、その子供や母親を攻撃した者たちから何を期待するというのだ? それは驚くよ
うなことではない。

ジョン・ミラー:合衆国の連邦当局は、現在も、エル・ホハル(El Khohar)とリヤドで
合衆国軍を攻撃するようにあなたが命じ、投資したという疑いについて捜査しています。
オサマ・ビン・ラディン:アメリカ政府をなだめるためにサウジ政府が人々を投獄したあ
と、我々は人々とイスラム教徒を目覚めさせ、Ulimaからファトワを実行した。最も有名
なのは、デーク・サルマン・ビン・ファハド・アル・オデー(Dhekh Salman bin Fahd
al-Odeh)と、サファド・ベン・アブデル・ラーマン・エル・アウリ(Safad ben Abdel Rahman
el Awli)であった。

そこで我々がこれらのファトワを伝え、聖地から敵を排除するために人々を立ち上がらせ
たので、人々の中には、ハレド・エル・サイード(Khaled el-Sa'eed)、アブデル・アジズ
・エル・メテム(Abdel Azziz el Me'them)、ハムード・アル・ハジェリ(Hamood al Hajery)、
ミスレー・エル・サムライ(Misleh el Samray)のように、聞き入れる者もいた。彼らの殉
教にアラーの恵みあらんことを。イスラエル国家の頭を高く上げ、アラーの地におけるサ
ウジ政府のアメリカ政府との協力によって与えられた不名誉を取り除くよう、彼らは望ん
できた。

預言者に祝福あれ、その計画に従ったこれらの若者が、偉大なる英雄であり、殉教者であ
るとみなす。我々は呼びかけ、彼らは答えた。我々はアラーに、彼らを受け入れ、耐え忍
んだ彼らの親たちに恵みがあるよう祈る。

ジョン・ミラー:あなたはアメリカでテロリストのリーダーという烙印を押されていま
す。あなたの信奉者にとって、あなたは英雄です。あなた自身ではどう考えていますか?
662卵の名無しさん:01/11/11 22:06 ID:???
オサマ・ビン・ラディン:以前にも言ったとおり、私はアメリカがどう言うかは気にして
いない。我々自身と我が同胞たちは、崇拝してその書と預言者に従うように我々をお作り
になったアラーの崇拝者であると見なしている。私はアラーの崇拝者の一人である。私は
アラーを崇拝しており、それはアラーの言葉を掲げて全イスラム領からアメリカ人を追い
立てるためにジハードを実行することも含まれる。

●合衆国破壊への熱望

ジョン・ミラー:アフガニスタンでムジャヒディーンがロシアを破るとは誰も考えていま
せんでしたし、誰もが驚きました。将来、中東におけるアメリカの関与と、あなたのよう
なグループのとる未来についてどうお考えですか。

オサマ・ビン・ラディン:アメリカの作ったNATOは、ヨーロッパとアメリカをロシアか
ら守るために兵器を改良するのに4億5500万米ドルを費やしている。それでいて彼らは一
発も撃っていない。アラーはイスラム教徒、アフガニスタンのムジャヒディーン、他のイ
スラム諸国出身の者とともに戦う者とともにいらっしゃる。我々はロシアと元ソ連邦と戦
って、言うまでもなく彼らをうち破ったが、アラーが破ったために彼らはいなくなったの
である。学ぼうと思う者に対して、これは学ぶべき教訓である。

ソ連邦は1979年の12月の最後の週に侵入し、アラーの助けでその旗は数年後の12月25日に
引きずり下ろされて投げ捨てられ、ソ連邦と称するものは何も残らなかった。

預言者に祝福あれ、彼によって約束されたアメリカ人とユダヤ人に対するアラーの勝利と
我々の勝利を、我々は確かなものにしている。「審判の日は、イスラム教徒がユダヤ人と
戦うまで来ないであろう。ユダヤ人は木と石の影に隠れ、木と石は告げて語る、『イスラ
ム教徒よ、私の後ろにユダヤ人が来て彼を殺した』と」。

我々は勝利を確信している。我々のアメリカとの戦闘は、ロシアとの戦いよりも巨大なも
のだ。アメリカ人はかつてだれも犯したことのない非常に愚かな誤りを犯した。彼らはイ
スラム教のシンボルである2億人のキブラ(Kibla)を差し押さえた。この反応は、イス
ラム教徒の学者と若者を非常に奮い立たせたのである。

我々は、アメリカのための黒き日と、合衆国の合衆国としての終焉を予告する。そしてそ
れは分裂状態となり、我々の土地から退却して、息子たちの遺体を集めてアメリカに送り
返すことになるであろう。アラーはそれを望んでいらっしゃる。
663卵の名無しさん:01/11/12 00:44 ID:???
↑ ん? よく分かりませんが何を言ってるんですか?
664卵の名無しさん:01/11/12 00:51 ID:???
その情熱を本業に向ければいいのに>沢井さん
665卵の名無しさん:01/11/12 07:49 ID:???
>>664 それは自分自身への言葉だろ?
666卵の名無しさん:01/11/12 07:51 ID:???
●サウジ王室

ジョン・ミラー:サウジ王室の未来と、そのアメリカ、ならびに合衆国軍との関係はどう
なると考えていますか。

オサマ・ビン・ラディン:歴史はあなたの質問への回答を示している。国益を売り、国民
を裏切り、イスラム国家から取り除く行動を行なったいかなる政府も、成功しないだろう。

ユダヤ人・キリスト教徒とともに立ち、聖なる神殿アル・ハラミエン(Al-Haramien)を
ユダヤ人とアメリカ国籍その他のキリスト教徒に没収されたリヤドの指導者とその一族
は、滅亡するであろうと予言する。彼らはイスラム国家から離れてしまった。

我々は、イラン王室のシャーのように、ちりぢりになって消えるであろうと予測する。ア
ラーは彼らに最も聖なる地の富を与え、石油からの未曾有の富を与えたが、彼らは罪を犯
し、アラーの贈り物の価値を貴ばなかった。我々は、イスラム国家に対する大惨状が、特
にイラクのイスラム教徒に起こったあと、破壊と離散があるだろうと予言する。

預言者は「猫のために女は地獄に行った。彼女はそれに食べさせず、自分の食事を猫から
隠した」という。彼女は猫に食べさせずに死に追いやったために地獄に行ったが、イラク
のイスラム教徒の数百万人を隔離するために数十万の軍勢を送るのに合意して理屈を付け
た者はどうなるのだろうか?

ジョン・ミラー:サウジ政府は、アメリカ軍にとどまっていてもらいたがっていると思い
ますか?

オサマ・ビン・ラディン:これは違いを作るわけではない。アメリカの反対、侵略、貪欲
はいまだに存在しているからである。彼らは政府の言葉によって来た。政府がとどまって
ほしいと考えようと離れてほしいと考えようと、違いは生まれない。若者たちがあなた方
に木の箱と棺桶を送るとき、あなた方はアメリカ軍人と民間人の遺体をそこに入れて去る
ことだろう。あなた方が去るのはこのときだ。

イスラム大衆は、イスラム世界を解放することに向かって進んでいる。アラーは望んで
いる。我々は勝つ。

●次の標的

ジョン・ミラー:あなたのメンバーがソマリアのアメリカ人を相手にしたときの状況を詳
しく説明してくれませんか? あなたはどこにいたのですか?

オサマ・ビン・ラディン:アラーが我々にアフガニスタンでの勝利をもたらしてくださ
り、正義が明らかになり、イスラム国家のイスラム教徒を数百万人殺害した者たちが死ん
だのち、イスラム教徒の精神から、超大国神話が取り除かれた。若者たちはアメリカを超
大国として見るのをやめた。アフガニスタンを離れて、彼らはソマリアに向かい、長い戦
667卵の名無しさん:01/11/12 07:53 ID:???
いの準備をした。アメリカはロシアと同様になるだろうと考えて。しかし、彼らはアメリ
カが30万人の大軍を送り込んだときには驚いて、世界中からさらに多くの軍勢を集めた―
―パキスタンから5000人、インドから5000人、バングラデシュから5000人、エジプト、セ
ネガル、その他サウジアラビアなどからから5000人。 若者たちはアメリカ兵の士気の低
いのに驚き、アメリカ兵は張り子の虎だという思いを以前よりもはっきりと認識した。数
回の打撃のあと、世界の指導者、新世界秩序(ニューワールドオーダー)の指導者による
湾岸戦争と基盤施設の破壊――そして乳児用人工乳工場、食糧生産に必要なすべての民間
工場、橋、ダムの破壊――を残して、アメリカは鳴り物入りの宣伝やメディア・プロパガ
ンダもすべて忘れて、敗れて逃げた。

何度かの打撃の後、彼らはこの見出しを忘れ、死体と不名誉な敗北を引きずって逃げ、そ
ういう見出しを使うのをやめた。そして、アメリカという名前は実態よりはるかに過大評
価されていることを思い知ったのだった。

これが起こったとき、私はスーダンにいて、この大いなる敗北を大いに喜んだ。それはす
べてのイスラム教徒を喜ばせることである。アラーは、次の勝利がサウジアラビアのヘジ
ャズとナジドであることを望んでおられ、それはアメリカ人にベトナムとベイルートの恐
怖を忘れさせるほどのものになるだろう。

ジョン・ミラー:多くのアメリカ人は、アフガニスタンで起こったような軍対軍の戦いは
双方の軍にとって栄光であるけれども、世界貿易センターのように民間人や子供が殺害さ
れるような爆弾を仕掛けるのはテロリズムだと考えています。

オサマ・ビン・ラディン:彼らが受け入れているわけではない話をしているね。アフガニ
スタンでの我々の勝利とロシアの敗退後、アメリカのメディアに誘導されている世界のメ
ディアは、我々に反対するキャンペーンを始めた。ロシア人は1989年、ほとんど10年前に
撤退したという事実にもかかわらず、それは今でも続いている。本物のテロリスト、アメ
リカ人に対してムジャヒディーンがとったいかなる行動もないのに、我々をテロリストと
して糾弾するキャンペーンを行なってきたのである。これは一方的だ。

一方で、アメリカの政策は、民間人と軍人と子供、人間と動物を区別しているとは認めら
れない。たとえば、私は以前に長崎と広島のことを話した。ここでは、彼らはすべての人
々を除去しようとした。イスラム教徒に対しては、イラクの子供たちの数十万人の死を証
言した西洋人とキリスト教徒の証拠がある。そして、Qana、イスラエル人とShattila、ディ
ル・ヤシン(Dir Yasin)とボスニアがある。

十字軍戦士は、我々の母、姉妹、子供たちの虐殺を続けた。アメリカはいつも彼らを支援
する決定を行ない、イスラム教徒からのミサイルを防ぎ、セルビア人がイスラム教徒を虐
殺するのを認める決定を行なってきた。あなた方は、これらの行動を防ぐような宗教を持
っているのではない。だから、あなた方は同じような目に遭うことを反対する権利はない。
すべての行動は反応を導く。犯罪には処罰がふさわしい。同時に、我々の主要な標的は軍
人であり、そこに働いている者である。
668名無しさん:01/11/12 21:49 ID:???
もしもし
669卵の名無しさん:01/11/12 22:48 ID:???
はいはい
670卵の名無しさん:01/11/12 23:20 ID:???
他のスレッドで不気味なスレッドがあると聞いて来ましたが
ここは一体どういうスレッドなんでしょうか?
最初から読み直します
671卵の名無しさん:01/11/13 00:03 ID:???
>>670
前スレの最期から、それに続いて当スレは最初から荒らしに見舞われています。
いったい何時まで野放しにしておくつもりなんだろう。
672卵の名無しさん:01/11/13 00:39 ID:???
我々の宗教は、戦闘員ではない無辜の子供、女性を殺害することを禁じている。自分自身
が塹壕に入る女性兵士は、男性兵士と同じ扱いを受ける。

●全世界的テロ統合

John Miller: あなた方のように、アメリカを攻撃するための方法と手段を決定する別の集
団の指導者による高次の会議は存在しますか?

オサマ・ビン・ラディン:アメリカ人が聖地に侵入後、イスラム世界にはかつて見たこと
のない多くの感情が巻き起こった。大会議は数日前にパキスタンで開かれ、それにはパキ
スタンの150人の学者が参加した。会議の目的は、聖地を解放するために働き、この地域
のイスラム大衆の間の努力を調整することであった。

また、アラーの祝福で、アフガニスタン、インド、その他のイスラム国家の学者たちから
の個人的ファトワが通過したが、ここに偉大な合同ファトワが通過した。協力はこの宗教
の一般的支援者の間に広がりつつある。この努力から、「ユダヤ人と十字軍に対するジハ
ードのための国際イスラム戦線」が作られ、それは他のグループとともに我々も加わって
いる。これはユダヤ人と十字軍に対するジハードを遂行するイスラム教国家の奮起を調節
する最高会議を有する。

ジョン・ミラー:大多数のアメリカ国民はオサマ・ビン・ラディンの名前を知らないが、
まもなく知られることになるでしょう。アメリカ国民に何かメッセージがありますか。

オサマ・ビン・ラディン:アメリカ国民は、指導者の地位を売国的な指導者に委ねた、と
言いたい。これは、クリントン政権で特にひじょうに明らかになっている。アメリカ政府
は、アメリカの内部のイスラエル勢力を示すエージェントであると考えている。国防総省
や国務省のように現在の政府の機密省庁や、CIAその他の機密治安機関を見れば、我々は
ユダヤ人がアメリカ政府で第一の発言権を持っており、それこそ彼らがアメリカを使って
世界、特にイスラム世界での計画を遂行する方法なのである。

聖地にアメリカ人がいることは、ユダヤ人を支援し、ユダヤ人の背後を安全にすることに
なる。数百万人のアメリカ人が路上生活者で、生活水準以下、貧困ライン以下で生活して
いるこの時代、イスラエルが我々の土地を占領して聖地に植民地を建設するのを助けるよ
うにアメリカが向かっていることがわかる。

アメリカ政府は、ユダヤ人の利益のために、サウジアラビアにいるアメリカ人の生命を見
捨てている。ユダヤ人は聖なる書コーランの中でアラーが、ウソと殺害によって預言者を
攻撃した人々、マリアを攻撃して大罪によって彼女を告発した人々であると示しておられ
る。彼らは、アラーの預言者を殺した人々だ――彼らは殺し、犯し、人類から盗まないだ
ろうか?
673卵の名無しさん:01/11/13 00:41 ID:???
彼らは、全人類は自分たちが使うために創造されたと信じており、アメリカ人は最も使い
勝手のいい創造物であると思っている。アメリカ政府は、アメリカを破壊に導き、アメリ
カは次の10年間にも超大国であると信じて疑わない者たちもいる。

だから、一国民としてのアメリカ人に告げる。兵士の母たちに、一般のアメリカの母親た
ちに告げる。自らの命と、子供たちの命を大切に思うなら、国益を求め、ユダヤの利益を
求めるのではない愛国的な政府を見つけよ。

専制政治が続くことは、アメリカに戦いをもたらす。ラムジ・ヨウセフその他のように。
自らの国益を求めて他人、他の土地、他の名誉を攻撃しないようなまともな政府を求めよ、
というのがアメリカ国民への私のメッセージである。

ジョン・ミラー:ビン・ラディンさん、わたしたちの聞きたいことはほとんど終わりまし
た。私が尋ねていなくて、あなたが付け加えたいことはありますか?

オサマ・ビン・ラディン:我々はイスラム教徒大衆との密接な関係があるということを強
調したい。アラーを称えよ。聖地解放問題は個人的な欲望ではなく、私は一人のアラー崇
拝者であり、そしてイスラム国家のアラーの兵士の一人なのである。運動は早く、軽く前
進している。そして、アラーの助けにより、我々のアメリカとユダヤ人に対する勝利を確
信している。我々は、反応の大きさに確信を得ている。彼らは立ち去ることを毎日遅らせ
ている。そして彼らが毎日ぐずぐずしているあいだ、彼らはイスラム国家から新しい死体
を受け取ることになろう。

サウジアラビア政府は数か月前、断食月(ラマダン)に、数多くのミサイル、対空ミサイ
ル、SAM、ストリンガー・ミサイルを押収した。海外で、250名の兵士の載った輸送軍事
飛行機に対してSAMミサイルが発射されるとき、アメリカ政府は国民にいいわけできる
のだろうか? 彼らはその死を正当化できるのだろうか? サウジアラビア政府が押収し
たものは、捕捉されていないものよりはるかに少ない。アメリカ政府は、もし固執するも
のが残っているなら、特に聖地から、そしてすべてのイスラムの領土から息子たちを引き
上げる以外の方法はない。そして、我らの領土を占拠しているイスラエル政府とユダヤ人
を如何なる方法でも援助することを控えることだ。

●シャイフ(長老)・アブデル・ラーマンとの関係

我々は、アメリカ政府のイスラム教徒に対するいかなる攻撃についても、また国民の利益
に反する我々の国々の政権に対する支援についても、完全な責任を課す。我々はまた、イ
スラムの象徴、シャイフ・アブデル・ラーマンへの攻撃にも責任を課す。この方はアラー
が真実を語るように勇気を与えた最も優れたイスラム教学者の一人と思われる。

彼は健康状態が悪いと聞く。そして60歳の年齢であって盲目であり、アメリカの扱いはひ
どい。シャイフ・オマルの投獄は、イスラム教の宗教、そして諸国に対する攻撃である。
我々は、シャイフ・オマルの投獄に、そして他のアメリカにいるイスラム教徒の投獄に責
任を課す。
674MR-SW:01/11/13 11:39 ID:???
おはよー!昨日の夜は遅くまで飲みすぎた。
ご飯食べて、もう一眠りします。
直行してることになってますので、よろしく。
駐在の時は、毎日こんな生活。
MR最高。
675卵の名無しさん:01/11/13 15:43 ID:???

アメリカのジャーナリストに対する私の言葉は、「我々がなぜそれを行なったかを尋ねる
な。彼らの政府が何をすることによって、我々自身を守らざるをえなくしたのかを尋ねよ」
ということだ。私の言うべきことはこれですべてである。

ジョン・ミラー:どうなさるつもりか、短くお答えいただきたいのですが、アブデル・ラ
ーマンが先週発表した新しいファトワについて述べる機会はありましたか?

オサマ・ビン・ラディン:ない。

ジョン・ミラー:あなたの持っている銃の話、それをどうやって手に入れたかをお伺いす
ることができるでしょうか? アフガン戦争のとき、キャンプへの3日間攻撃にいたロシ
ア人との接戦で手に入れたというような伝説がいろいろあるのです。

オサマ・ビン・ラディン:我々はロシアとの危険な戦いをくぐり抜けた。ロシアについて
語るのは、西洋に知られている残忍さと危険さで充分だ。彼らは我々に毒ガスを使い、私
はそれを浴びた。彼らは我々の場所に航空機を使い、我々は多くの兵士を失ったが、以前
と違って、多くの特殊急襲部隊攻撃を阻止することができたのである。

ジョン・ミラー:歴史によれば、1897年、テディ・ルーズヴェルトは前線で戦った栄誉あ
る状況で成長した裕福な人物であり、軍とは別の自分の部隊を集め、自分自身のメンバー
を厳選し、戦闘に赴きました。あなたは中東版のテディ・ルーズヴェルトに似ています。
オサマ・ビン・ラディン:我々はアラーの崇拝者であり、我々の任務を遂行する。我々の
義務は、すべての国家に、光と結合するよう呼びかけることだ。我々の第一の義務は、こ
の宗教の民であることであり、この宗教のために戦うことである。 我々が発展してから、
アメリカの兵器は我らの頭上に、我らの子供と母親の頭上にやってきた。Qanaその他の
ように。 西洋人は、我々が虐殺者であるかのような印象を持ってきた。彼らはまさに、
東欧、トルコ、アルバニアなど、イスラム教を保護し、数世紀にわたって幸福に共存して
きた隣人たちに目を向ける必要がある。イスラム教徒を虐殺者としか報道せず、はるかに
多数の虐殺されてきた我々の数については示さない、ユダヤ・メディアの影響のもとに西
洋大衆は置かれている。 人々を光に導くのが我々の義務である。
676卵の名無しさん:01/11/13 15:45 ID:???

どれだけの痛みを覚悟する必要があるか

小泉政権の登場で、改革が国民の圧倒的支持を集めている。改革なくして回復なし、痛み
なくして改善なし(no pain no gain)、も今や国民のコンセンサスである。もっとも国民は、
どれほどの犠牲を払う必要があるのかについて、十分に覚悟ができているとは考えがたい。
株式市場は改革政権歓迎相場を演出のさなかにあるが、今後改革に伴う痛みが明らかにな
るにつれて、下落場面に入っていくのではないか。今後改革進展の過程で予想される痛み
とは、大きくわけて2つあるだろう。

まず予期される第1の痛みは、景気・雇用の落ち込みである。過去5年間、政府の需要創
造がなければ、経済は著しい縮小となっていたはずである。外需を除けば政府需要だけが
肥大化した。過去5年間、名目GDPがほぼ500兆円と横ばいの中で、政府部門債務は年
平均63兆円、対GDP比13%のペースで増加し続けた。この間、政府部門は家計貯蓄増加
額を100%吸収してきた。つまり、政府の需要創造で民間所得が維持され、それがまるま
る政府にファイナンスされるという、ほぼ完璧な社会主義的貯蓄・投資循環が、1990年代
以降の日本経済の背骨となってきたのである。財政支出による景気下支えを批判する小泉
政権の下では、そうしたミルク補給は期待しがたい。それが途切れる時の痛みの大きさは
容易に想像される。

しかし、もっと深刻かもしれない第2の痛みは、国民財産の大規模な喪失であろう。少し
気が早いかもしれないが、今後日本で大規模な財産権の剥奪が起こることを予期しておく
必要がある。現在が明治維新、戦後の改革に続く近代日本で第3回目の開国、変革期であ
るとの認識は多くの人々が共有する。
677卵の名無しさん:01/11/13 15:48 ID:???

過去の変革期には体制の変化、既得権益の喪失などとともに、財産権が大規模に剥奪され
た。第1回の財産権剥奪は、明治維新時の1869年から1876年にかけての士族階級を対象に
した秩禄処分である。1986年の版籍奉還による家禄の削減に始まり、1876年の秩禄処分、
金録公債証書の交付で完了した。士族に永続的に保証されていた俸禄米を得る権利を、剥
奪し紙切れにしたことで、政府の所得は著しく増加し、新たな投資原資が調達された。そ
れを基盤として新たな財閥が形成されたのである。第2回の財産権剥奪は、第2次世界大
戦後の新円への切り替え時である。1946年2月の預金封鎖、500円を上限とした現金引き出
し制限、1946年3月の旧円500円を限度とした新円交付と旧円の廃棄である。国民の金融資
産は紙くずとなり、旧来の資産家層は没落した。同時に進行したインフレで金融・産業資
本が救済された。これはその後の新興財閥勃興の起点となった。

それに対して今回予想される財産権の削減は国民の国に対する債権である。1人あたり個
人金融資産は、2000年時点で1093万円だが、そのうち607万円が預金、保険掛け金などを
通しての政府部門への債権(投資・融資)となっている。1人当たり個人金融資産は、1990
年から2000年までの10年間に747万円から1093万円へと346万円増加したが、このうち公的
セクターへの融資は303万円から607万円へと倍増した。なんと過去10年間に増加した個人
金融資産の88%が公的セクター向け債権だったのである。

1人あたり607万円(1人あたりGDPの1.5倍)という巨額の貯蓄をなぜ政府部門に融資しているのか。国の担保資産は僅少である。また公的セクターは利払い、返済資金の原資
となるキャッシュフローも産み出さない。唯一の保証と言えるものは徴税権である。つま
り「私は国に600万円融資する。なぜなら国は私に対して600万円の徴税権を持っているか
ら」と言うことである。それはまさしくジョークの世界である。1人当たりの納税額は年
間ほぼ30万円である。600万円はその20年分に相当する。私が国に600万円も納税する(つ
まり資産を減らす)ことなしには、私の国への融資も返済されないことになる。

経済成長の加速、増税(消費税主体)により超長期間にわたって返済をする、というシナ
リオがあったが、今やそれは不可能である。刺激的財政の下でも名目経済は収縮し、税収
は減少、金融機関救済もあり財政赤字は拡大の一途、というのが現在の財政状態である。

いずれ家計の金融資産価値は、(1)インフレまたは(2)強制評価減(国の借金棒引き)で、
大幅な目減りを余儀なくされるだろう。今後訪れる経済困難、株安、円安、金利上昇のプ
ロセスで、それが広く認識されることとなるだろう。国民は嵐が訪れる前に自分の資産防
衛を果たしておくべきである。
678卵の名無しさん:01/11/13 19:10 ID:???
な〜〜にぃ??
679卵の名無しさん:01/11/13 22:24 ID:???
>>678
まぁ、そういう日もありますよ。
680卵の名無しさん:01/11/13 23:14 ID:???
>>674
駐在さん、気を付けてくださいね〜!
SWは監視してますよ〜!
社内のPCはネットワーク化されてますから社内のPCからの書き込み及び
外勤してなきゃいけない時間帯の2チャンネル閲覧は絶対にチェックしてますよ〜!
ここへの書き込みをしてる人は特に気をつけてくださいね〜!
書きこむならインターネットカフェが一番安全らしいですよ〜!
681卵の名無しさん:01/11/14 00:52 ID:???
>>680
だいたい社内から書き込まないでしょう。
記録に残るから。
682卵の名無しさん:01/11/14 03:14 ID:???

皆殺しの天使 (1) 山口昌子

十七世紀フランスの絶対君主ルイ十四世をたたえて作られたパリのバンドーム広場は、この町の名所の中でも最もパリらしい雰囲気を伝える場所として知られている。千二百門の
大砲を溶かして鋳造された中央の青銅の塔はナポレオンの像を頂き、世界の宝石業界のト
ップを形成する宝飾店やショパン臨終の地となった旧ロシア大使館などの歴史的建造物が
広場をぐるりと取り囲んでいるからだ。

欧州の富の蓄積を象徴するかのようなその建築群の中でも、華麗さと重厚さでひと際、群
を抜いているのがホテル、リッツである。今年一月二十一日朝、氷点下三度の冷え込みの
中でリッツは異様ともいえる熱気に包まれていた。二階にある六つのスイートルームを使
って午前十時からシャネルの春夏オートクチュール(高級仕立て服)のショーが行われるか
らだ。時間通りに集合することはめったにないフランス人の記者やカメラマンが緊張した
面持ちで招待状と身分証明書を示し、正面玄関を足早に通り抜ける。二階の廊下付近では
カメラマンたちが最良の位置を確保するために殺気立った雰囲気さえ漂わせている。

突然、テレビカメラのライトが輝き、だれかが「マダム・シラクだ」と叫んだ。カメラマ
ンたちが、その声の方向になだれを打って走り出す。招待客の一人、シラク大統領夫人が
到着したのだ。

●熱気と喧噪 ファッション界でこう言われてからすでに久しい。高級仕立て服の時代は
去ったという指摘は大衆化が進む世界の現状の中でもっともらしい説得力をもって伝えら
れてきたが、リッツを包む熱気と喧噪はオートクチュール・ショーが決して「死の祭典」
ではないことを物語っていた。

パリには年四回、ファッションの季節が訪れる。一月と七月にオートクチュール(正式加
盟十五社)、三月と十月にプレタポルテ(高級既製服=正式加盟二十六社)のショーが開か
れるからだ。「パリ・コレクション(パリコレ)」とはそれらの総称であり、世界中から集
まる記者は各シーズン千人にも達している。そのパリコレのハイライトとされているのが
シャネルのオートクチュール・ショーであることを私が知ったのは20世紀特派員の取材を
始めてからだった。

この町の数多くの国際イベントと同様、パリコレも事前に主催者のパリ・クチュール(服
飾製造業)協会に申請しておけば取材はほぼ可能である。ところがシャネルの場合、プレ
タポルテの招待状は届くものの、オートクチュールの招待状が届くことは一度もなかった。

●名前の魔力 「ココ・シャネルという創始者のロマンとなぞが染み込んだ名前の魔力、
メゾン(店)の持つ伝統の力、モード界をリードする現主任デザイナーのカール・ラガフェ
ールドの才気。モード記者にとってシャネルは必見のショーですよ」 フランスの女性週
刊誌「エル」のフランソワーズ・デュク記者はこう語る。パリコレの中でも「シャネルの
オートクチュール」は別格であり、招待状は厳選されたモード記者にしか届かないという
わけだ。
683卵の名無しさん:01/11/14 03:18 ID:???
その招待状を何とか今年は手に入れ、私もちょっと緊張しながらリッツに出かけた。パリ
コレの大半はルーブル美術館地下の広大なホールで開かれているが、シャネルは昨年から
オートクチュール会場をリッツに移し、招待者も千五百人から三百五十人に絞った。「モ
デルが目の前を通るので細部が分かるし、布地に触って感触を味わうこともできる。マド
モワゼル・シャネルのショーの原点に戻したかったんです。それにリッツはシャネルゆか
りの場所ですから」と株式会社シャネルの広報担当責任者ド・クレモントネール氏はその
理由を説明する。

九八年に創業百周年を迎えるリッツは数多くの逸話に彩られている。開館式にはマルセル
・プルーストが出席し、皇太子時代の英国王エドワード七世はこのホテルを定宿にしてい
た。アーネスト・ヘミングウェーはパリ解放の四四年八月二十五日、米軍とともにナチに
接収されていたホテルに到着し「リッツを解放する」と叫んでいる。

そんな逸話の主人公の中でも最も有名なのがココ・シャネルである。彼女は一九三四年か
ら七一年一月十一日に八十七歳で生涯を閉じるまで、このホテルに住んでいた。「ココ・
シャネルが使っていたスイートはいまも最も人気があり、空き部屋になることはめったに
ありません」とリッツの担当者はいう。

カンボン通りにあるシャネルの店はホテルから歩いて五分ほど。「気に入らないとショー
の直前に出来上がったドレスを全部ほどいて縫い直しを命じた」(アトリエ主任だったマ
ノン・リグール氏)という完ぺき主義者シャネルにとって職住接近のホテル暮らしは、ぜ
いたくである以前に仕事のための欠くことのできない条件だったようだ。

こうしたきらびやかな合理性はシャネルの服にも反映されている。「典雅だが着やすくて
着崩れしない」とフランソワーズ・ジルー氏は指摘する。フランスの代表的週刊誌「レク
スプレス」の共同創立者でジスカールデスタン政権時代に女性の地位省、文化相を歴任し
たジルー氏も閣僚時代にはシャネルを愛用した。

公式の場でオートクチュールを着用することは、フランスの大統領夫人や女性閣僚にとっ
て半ば義務でもある。オートクチュールを含めたデラックス産業は石油、車、武器などに
次ぐフランスの重要産業なのだ。

第一次大戦後のパリで活躍した米国の写真家マン・レイの作品にシャネルの写真がある。
絵はがきになるほど有名なその写真の中のシャネルは横を向いてカメラを見ようともしな
い。それは、ひとつの時代と一人の個人との恋愛にも似た緊張関係を示しているかのよう
に見える。

皆殺しの天使(2) ひた隠しにされた少女時代

ガブリエル・ボンヌール・シャネルは一八八三年八月十九日、パリから南西約三百キロの
ロワール川流域の町、ソーミュールで生まれた。豊かな川辺に中世の城が並び「フランス
で最も美しい」といわれる地方である。詩人デュ・ベレーが「芸術の母フランス」と歌っ
たのもこの地のことだ。
684卵の名無しさん:01/11/14 18:20 ID:???
律儀にも荒しの大量文書攻撃を止めないんだね。
お望み通り?、もうすぐ過去ログ倉庫逝き、なんですかね。
685卵の名無しさん:01/11/14 18:36 ID:???
しかし、一九七四年にモード雑誌「ヴォーグ」の元編集長でゴンクール賞作家のエドモン
ド・シャルル=ルーによる伝記「シャネル ザ・ファッション」が出版されるまで、シャ
ネルの出生地はこの町ではなく、フランス中央部のオーベルニュ地方とされることが多か
った。シャネル自身がそう語っていたからだ。「あたしは、オーベルニュの消ゆることの
ない火山そのものだ。馬のたてがみのように黒い髪の毛、煙突掃除のひとのように黒いま
つげ、オーベルニュの山の溶岩のような黒い肌」(「獅子座の女シャネル」)日本では虚実
が混同されて「オーベルニュ地方ソーミュール」などと紹介されてもいる。

●出生証明書

ソーミュールを訪ねてみた。タクシーの運転手からホテルの受付まで大半の市民はいまも、
「シャネルの家」の所在地どころか、この町がシャネルの生地であることさえ知らない。
しかし、市役所ではさすがに確認することができた。ナポレオン以来の行政王国フランス
らしく出生証明書が保存されていたからだ。

「一八八三年八月二十日午後四時、ソーミュール市救済院の職員、ジョセフィーヌ・ペル
ラン、独身、六十二歳が出頭し、同救済院で昨日午後四時に出生した女児の出生証明書を
申告。女児は商人アルベール・シャネル、二十三歳、住所サン・ジャン通り二九番地、同
じく女商人ウジェニー・ドゥボール、二十歳の子で、同女は夫と同所に住んでいる。女児
の名前はガブリエル」この日、市庁舎には助産婦と思われるジョセフィーヌ・ペルランの
ほかに救済院の職員二人が出頭した。三人とも読み書きができなかったため市長が署名し
ている。また女児の両親の結婚証明書などいっさいの書類がなかったことから、届け出は
口頭で行われ、「シャネル」のつづりも「CHANEL」ではなく「CHASNEL」と
間違って記入された。両親が籍を入れるのは翌年十一月だ。

ソーミュールの名所に「ウジェニー・グランドの家」がある。バルザックが一八三二年に
発表した純愛名作「ウジェニー・グランド」の女主人公の家だ。正確にはモデルの女性が
住んでいた家なのだが、「ウジェニー・グランドの家」の標識が掲げられ、町中がその存
在を誇っている。バルザックはこの地方がお気に入りで、「谷間の百合」の主人公にもこ
の地への愛着を述べさせている。

後にシャネルは「顧客の家に招待された初めてのデザイナー」とも言われるようになる。
一九〇〇年ごろまではどんなに成功した大デザイナーも、あくまで「出入り業者」であり、
顧客の家、つまり社交界から招待されることはなかった。フランスは現在も少数エリート
が支配する国だが、こうした階級意識の残存が「シャネルの生家」より文豪バルザックの
小説のモデルの家を優遇する背景となっているのかもしれない。

シャネルの死後、多数の伝記が出版された。中でも正統派「シャネルの伝記」としてシャ
ネル本社などが推薦するのが外交官で作家だったポール・モランが一九七六年に出版した
「獅子座の女シャネル」だ。
686卵の名無しさん:01/11/14 18:56 ID:???
モランは第一次大戦後の無秩序と狂騒の時代、そして同時にフランス芸術の栄光の時代で
もあった一九二〇年代の「ラネ・フォル(狂気の時代)」に流行作家として活躍した。ちょ
うどシャネルが認められ始めたころだ。十九世紀的なものすべてを葬り去ったとして「皆
殺しの天使」と呼ばれるようになるシャネルの本質をいち早く、見抜いたのもモランだった。

しかし、第二次大戦中、ビシー政府の外交官だったモランは戦後、「コラボ(対独協力者)」
として外交官を免職になり、年金もはく奪されて、スイスで一種の亡命生活を余儀なくさ
れていた。「獅子座の女シャネル」の出版は一九七六年だが、その内容は四七年にモラン
がスイスでやはり隠とん中のシャネルから聞いた話を一人称でまとめたものだ。シャネル
が生前、自ら流布した《履歴書》を忠実に再現すると同時に、その孤独な姿が浮かびあが
り、確かにシャネルの心の真実を伝えたということはできる。

シャネルはこの再会した旧友に夜を徹して自分の半生を語り続けた。少女時代については、
孤児同様の寂しい日々を送ったもののブルターニュ地方の金持ちの二人の叔母に預けら
れ、修道院経営の学校で教育を受けたと述べている。

●孤児院へ…  しかし、実際はシャネルが十二歳だった一八九五年に母親が結核のため
に三十三歳の若さで死亡し、以後十八歳まで仏中央部オーバジーヌの孤児院に預けられて
いた。シャネルには一歳上の姉、二歳下の弟、四歳下の妹、六歳下の弟がいた。七歳下の
弟もいたが生後、まもなく死んでいる。母親が出産を繰り返す間、父親は常に不在だった。

そして父親はシャネルを孤児院に預けると、二度と彼女の前に姿を現さなかった。シャネ
ルの洗礼名「ボンヌール」は「幸福」の意味だけに哀れだ。しかし母親の病死も父親が行
商人であることも貧困層の出身であることも孤児院で育ったことも非難されるべきことで
はない。例えば同時代の米国であれば、むしろ輝かしい成功物語を際立たせることになる
はずのこうした少女時代を、シャネルは生涯、ひた隠しにした。

●実像と裏切り  「本が出版されたときはシャネルの神話を壊した、と非難ごうごうで
した」とシャルル=ルーは当時を振り返る。彼女はモード記者として生前のシャネルと親
しかった。「ほとんど、毎週会って食事をした」という仲だ。それだけにシャネルの実像
を説き明かした彼女に、裏切られたという思いをもつ人も少なくなかった。その感情はシ
ャネルに近い人ほど強い。

シャネルは生前、コレット、ケッセル、ミシェル・デオンら名のある作家に伝記を書かせ
ようとしたが、結局、実現しなかった。六カ月間、シャネルのところに通って話を聞いた
後、執筆を放棄したミシェル・デオンは「彼女のいとこ、めい、おいなどに話を聞き、無
名時代の写真を見つけ、出生証明書を探し出し、第二次大戦後のスイスの生活を加え、彼
女が語る自伝とは別の伝記を書くことも可能だったかもしれない。しかし彼女への友情と
愛情と尊敬がそれを阻んだ。彼女のうそをそのままにしておきたかった」と告白した。
687通過します:01/11/14 23:00 ID:???
気持ち悪いスレッドだな
688卵の名無しさん:01/11/15 00:25 ID:???
しかし相変わらずいい加減な会社だよな〜!
689卵の名無しさん:01/11/15 00:39 ID:???
少女の瞳に焼き付いた騎兵

ココ・シャネルの生地、ソーミュールは十八世紀から騎兵学校の所在地として知られてい
る。そもそもシャネルの父親がソーミュールにやってきたのも毎年、騎兵学校の広場シャ
ルドネールで開催される騎兵たちのショー「カルーセル」を見物にやってくる観光客にク
レープ菓子を売るためではなかったか。

現在は正式名を「陸軍機甲・偵察訓練学校」と呼ぶこの騎兵学校の起源は、ルイ十四世の
弟が率いる騎兵連隊が一七六三年にソーミュールに駐屯したときにまでさかのぼる。そし
てルイ十五世の時代の軍人で、騎兵を重視したショワズールは、一七六六年から七〇年に
かけて、広大な訓練場と校舎を建設し、騎兵養成学校を創立する。床や階段に大理石が使
われている壮麗な校舎は現在も使われており、フランス陸軍の往時がしのばれる。

●伝統ある学校 ナポレオンは騎兵の用兵に天才ぶりを発揮したが、その騎兵隊もソーミ
ュールで鍛えられたものだ。ロシアの帝政時代にはツァーの近衛兵がこの学校で学ぶなど、
外国から修練にきた将校も多かった。 日露戦争の沙河戦で秋山好古の騎兵が最左翼を守
ったのに対し、最右翼の「宮さま旅団」を指揮した閑院宮載仁親王もサンシール士官学校
のほかにここで学ばれている。

仏国防省の解禁秘密文書の中には、一八八八年五月十二日付で東京のフランス公使館戦争
省軍事アタッシェ、ブーグイン大佐が仏戦争相にあてた書簡が含まれている。そこには閑
院宮が「現在、ソーミュールの学校の生徒である」との記述もある。

日露戦争を前に、ロシアと同盟国だったフランスが日本に関する情報をかなり収集してい
たことを、これらの秘密文書は明らかにしている。また、日本では当時、海軍は英国式を
取り入れたものの、陸軍は当初、徳川幕府のフランス式を引き継いでいたことから日仏の
軍事関係は現在よりずっと密接だった。

後にプロイセン(ドイツ)が普仏戦争に勝ったため、陸軍はドイツ方式に切り替えられるの
だが、このことを残念がるフランス人がいまだに多いのにも驚かされる。彼らに言わせる
と、第二次大戦でドイツと組んだ日本が敗戦する遠因はここにあるというのだ。 ただし
騎兵だけはフランス式を堅持した。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、日露戦争で活
躍した日本陸軍の騎兵部隊の生みの親、秋山好古がフランス留学中、硬直美を基本とする
ドイツ式は「人間の姿勢として不自然であるため騎手は長時間の騎乗にたえられなくなり、
疲労ははなはだしい」とみて、おりから訪仏した山県有朋にフランス式の有利さを直訴し
たからだという。

「坂の上の雲」には、秋山好古が後年、陸軍大学校で講義したときの話も書かれている。
好古は講義の最初に「騎兵の特質とはなにか」の命題をかかげ、いきなりかたわらの窓ガ
ラスをげんこで突き破って「これだ」と言った。 「騎兵は地上にたかだかと肉体を露出
している」と好古は講義を続ける。このため「容易に敵の銃砲火を受け、全滅する例も戦
史にはざらにある」「が、いかなる兵科よりも機動性に富み、効果的に奇襲に成功するこ
とができる」「しかも騎兵は、一騎一騎はよわいが、これを密集させてよき戦機に戦場に
投入すれば信じがたいほどの打撃力を発揮する」というのだ。
690卵の名無しさん:01/11/15 00:42 ID:???
この「打撃」を好古はガラスをやぶることで示し、しかし「打撃」を発揮した後に全滅す
るかもしれない危うさを素手が傷つくことで表した。

●頭を高々と…  シャネルの生涯を考えているうちに、このエピソードを突然、思いだ
した。機を見るに敏だった上、いつも頭(こうべ)を高々と上げて人生と時代に果敢に挑戦
しつづけたシャネルの生涯と、この騎兵の特質が二重写しになって見えてきたからだ。

何よりもシャネルのモード哲学が騎兵の特質を示していないだろうか。現在も世界中の女
性を魅了しているシャネル・スーツの原点は、女性が一人で自由に車の乗り降りができる
ということを前提にデザインされた。そのモードはまず、十九世紀の絞りに絞っていたウ
エストをゆったりと解放し、床に引きずっていたスカート丈も短めにして何よりも機動性
を尊重することから始まった。

「坂の上の雲」には久しぶりに会った兄の好古の服装を見て、弟の真之がその華やかさに
驚くシーンもある。陸軍士官学校から帰ってきた馬上の兄は「肋骨三重の上衣というのは
他の兵科とおなじであったが、金条(きんすじ)の入った真っ赤なズボンをはき、サーベル
の刀帯も革ではなく、グルメットという銀のくさり」という姿だった。

軍服の中でも騎兵の制服は各国とも飛び切り華やかだとされているが、好古は常々、「身
辺は単純明快でいい」と言い、服装のことで真之を「歴とした男子は華美を排するのだ」
と叱責したこともあった。それだけに、この仏陸軍の影響を受けた派手な騎兵の制服に対
する真之の驚きは大きかったろう。

ソーミュールの「陸軍機甲・偵察訓練学校」の付属博物館には歴代の騎兵の制服が展示さ
れている。黒、ブルー、ベージュなどの色鮮やかな制服の金ボタンや詰め襟スタイルは、
なんとシャネル・スーツの特色に似ていることか。

●鮮やかな印象 また、シャネルが孤児院から出て最初に行った町、ムーランにはこの時
期、えり抜きの猟騎兵第十連隊が駐屯していた。 エドモンド・シャルル=ルーの「シャ
ネル ザ・ファッション」によると「フランス最高の精華というべき男の集団」であり、
彼らは「薄手の綾絹の軍帽や、山羊の毛で七本の肋骨をつけ、三列の金ボタン、袖に巧み
に飾り紐を縫いつけた長外套や、騎兵だけが着ているような空色のブルーの上着」で町を
闊歩していたという。

シャネル・スーツの原型が騎兵の制服にあったことは今ではほとんど定説になっているの
もうなずける。騎兵の町ソーミュールはシャネルの生地であるばかりか、シャネル・スー
ツのルーツでもあるわけだ。 シャネルが母親の腕の中で見物したはずの「カルーセルの
ショー」は一八二八年に始まり、いまも続いている。人口約二万三千人の小さな町には毎
年、このショーを見るため三万人の観光客がやってくる。 そして最新型戦車の行進やオ
ートバイの曲乗りなども登場するショーの最大の呼び物は、かつて幼い少女の胸にも鮮や
かな印象を刻み付けたに違いない騎兵の乗馬演技である。だが、シャネルは生前、ソーミ
ュールの名を口にしたことはなかった。
691卵の名無しさん:01/11/15 07:11 ID:???
>>荒らし殿
電波に満ちた執拗な荒らしを繰り返す君は、
会社に相当な怨恨を抱いているようだね。
君をここまで追い込むとは恐ろしい会社だね。
最低の会社だね。
君は十分がんばった。
君の御陰でこのスレッド(=会社)を気持ちが
悪いと称する人々もでてきた。
会社の威信は地に落ちた。
692卵の名無しさん:01/11/15 11:07 ID:???
恩恵も負の遺産も一身に: ココ・シャネルが生まれた一八八三年八月十九日付のフラン
スの新聞、フィガロ紙は二人の人妻の不倫事件がトップ記事だった。見出しは「二つの裁
判」。 第一の事件は、副知事と情事を重ねていた人妻を夫が告訴し、人妻は三カ月の禁
固刑を言い渡された。ところが、副知事は無罪放免となっている。理由は彼が「公務員だ
から」だった。

第二の事件は二年間、南米に出掛けた夫の留守に、「当然のことながら愛人を持った」人
妻の不倫事件である。ある日突然、帰国した夫はわが家に「自分の後任者どころか後継者」
がいるのを発見した。不倫で告訴された妻は「夫を裏切ったわけではない。死んだと思っ
たからだ」と必死に主張したが、判決はやはり二年の禁固刑だった。夫は「妻の相手も訴
えたかったが公務員だからできなかった」と悔しがった−。

 フランスは当時、「女は果樹が園芸家の所有物であるように、男の所有物だ」としたナ
ポレオン法典によって結婚制度が厳しく規制されていた。カトリックの国フランスでは中
絶も協議離婚も一九七五年まで認められなかった。裏返せば、厳しい結婚制度の裏で愛人
を持つ習慣が大いに認められていたともいえよう。

 この記事を書いたアルベール・デルプル記者は公務員重視の「裁判の不公平」を批判す
る一方で、夫の後任者のみならず後継者まで作ってしまった人妻の不用心を「ちょっと早
すぎる」と批判した。突然、帰国した夫に対しても「予測できた事態」と、その無分別を
冷笑し、「現代に適合しないこうした古い法律のもと」では「バルザックの小説のような
ことがたくさんある」と慨嘆している。

 一方、当時の高級週刊紙で「世界新聞」と副題を掲げた「リラストラッション」の一八
八三年八月二十五日号は、十九日の日曜日に地方議会選挙が実施され、共和党が千四百四
十五議席中千十二議席を獲得して勝ったことを伝えている。 共和党は一八七一年に第三
共和政の初代大統領に選出されたティエールらが育てた党だ。共和主義的ブルジョアの政
党として二月革命の実現に努め、普仏戦争の開戦に反対し、パリコミューンに圧迫されな
がら、徐々に支持を伸ばしていった。

■ 波乱の時代: 同紙はまた一八八三年一−七月のフランスの貿易収支も報告している。
それによると、輸入が約二十八億フラン、輸出が約十九億五千万フランで、前年度比では
輸入が五千八百万フラン増加し、輸出は五千万フラン減少。「あまり好ましくない状況」
と指摘している。

 参考までに十九日付フィガロ紙によると、当時のグレビェ大統領が自分のアパートを家
賃一年一万七千フランで貸していたが三年後に五千フラン値上げし、代償として借家人に
レジョン・ドヌール勲章を与えたという記事がある。現在の日本の物価で考えれば、一フ
ラン二百円前後だろうか。ちなみに約十年前の普仏戦争で、フランスがドイツに支払った
戦争賠償金は五十億フランだった。 さらに同紙を見ていくと、インドシナのトンキンで
は戦闘が続き「安南人に多大な戦死者が出たが仏軍は二人が戦死、六人が負傷と善戦」と
ある。仏遠征軍を率いるバデン大佐が苦戦している状況も伝えている。フランスは八月二
十五日にはユエ条約を締結してベトナム(安南)を保護国化した。
693卵の名無しさん:01/11/15 21:19 ID:???
沢井さんも嫌われたもんすね。
同業者としてお見舞い申しあげます。
694卵の名無しさん:01/11/15 21:42 ID:???
フランスは八三年にマダガスカル島遠征、八八年には仏領ソマリランドの建設と植民地政
策を活発化させていくが、その結果、ベトナムで中国(清)と軍事対立が起きるなど、植民
地政策遂行のために多額の軍事費と人命を投入しなければならず、クレマンソーら急進派
から攻撃されることにもなる。シャネルの生まれた日のフランスの政治、外交、経済状況
は波乱含みだったわけだ。

「馬上のサン・シモン」と呼ばれたナポレオン三世の第二帝政時代にフランスは本格的な
産業革命が展開し、鉄道網が発達した。 パリではオスマン男爵の都市計画によって狭い
曲がりくねった道路が拡充整備されている。

暴動やバリケード防止の政治的目的もあったが、凱旋(がいせん)門やコンコルド広場、シ
ャンゼリゼ大通りが出現し、パリは光にあふれ、印象派の画家を育てたことも事実である。

しかし、第二帝政時代は一八六七年のパリ万博を頂点に陰りを見せ、普仏戦争で幕を閉じ
る。パリコミューンで再び首都にバリケードが築かれ、それも壊滅。一八七一年には第三
共和政が発足し、一九四〇年のナチ・ドイツによるフランス占領まで続いていく。一八八
三年生まれのシャネルはこの第三共和政の恩恵も負の遺産も一身に背負い、その興亡を生
き抜いたことになる。

■馬との関係 リラストラッション紙の「パリ通信」欄にはチュイルリー公園で開催中の
「パリ・イースキア祭り」の記事もある。イースキア島はイタリア南部の火山島で、温泉
や海水浴場のある夏の避暑地として知られている。紀元前五世紀にギリシャ人が建設した
町なので遺跡も多い。

記事は「パリをまだ離れられないパリジャンがチュイルリー公園にイースキア祭りを見に
行けば、切符を買った入場者は失望しないはずだ」と述べ、この有料イベントの盛況ぶり
を伝えている。フランスの有名な有給休暇制度が始まり、一般国民がバカンスに出掛ける
習慣を持つようになるのは一九三六年のレオン・ブルムの人民戦線内閣時代からだが、記
事は十九世紀末にはすでにパリジャンが夏のバカンスに出掛けていたことを示している。

リラストラッション紙は題字が示す通り、イラストが売り物だ。シャネルが成人し、オペ
レッタの歌手を夢見ていたころ、同紙の服飾ページを参考にしたという。この号ではアム
ステルダムの万博や仏中部トゥールの町の火事現場や騎兵部隊の演習風景がイラストで紹
介されている。さらに「馬のプロポーション」と題する記事もあり、これには理想的な数
値を記入した馬のイラストが付いている。 シャネルの生地、ソーミュールは騎兵学校の
所在地だが、シャネルと馬はどうやら縁があるらしい。シャネルの最初の愛人エティエン
ヌ・バルサンも、彼女が生涯で唯一、愛したといわれるアーサー・カペルも、彼女にプロ
ポーズしたとされるウエストミンスター公も馬が生活の大きな部分を占めていた。
695uu:01/11/15 22:40 ID:???
この気持ちの悪い荒らしは余程会社に恨みがあるようだけど
管理人から完全ににらまれてるよ
696卵の名無しさん:01/11/15 23:03 ID:???
ここまで執拗な荒しぶりは、もう病気ですなぁ。
69750:01/11/15 23:28 ID:???
スズケンとオオモリが合併か。
実質はスズケンが吸収するでしょう。
前にアップジョンがSWを買収するって話は、どこに行ったのかな?
工場欲しいと、外資から何回か声が掛かってるんですよね。
698卵の名無しさん:01/11/15 23:33 ID:???
養われた規則正しい生活: 初春の柔らかな日差しの中、森の中の曲がりくねったなだら
かな坂道を上っていくと、突然、視界が開け、そこに十字架をいただいた教会の尖塔が見
えてきた。 パリから約五百キロ。最寄りのブリーブ・ガイヤード駅にはフランス自慢の
新幹線(TGV)が停車しないので、電車だと四時間かかる。さらに十五キロ東のオーバジ
ーヌ行きの列車は一日四、五本しかない。 空路ならパリからロンドンには三十分、ボス
ニア・ヘルツェゴビナのサラエボでも二時間の距離だ。仏中西部リムーザン地方のこの人
口七千人の町はサラエボよりも遠くにあるともいえる。

■シャネルの色: 町は中世がそのまま残っているような静寂に包まれていた。二軒ある
ホテルは本格的な春がやってくるまで休業だ。 先刻見えた教会は中世の修道士が建てた
僧院の付属施設だった。標高三百メートルの小高い丘にある町に入り、僧院と教会の石造
りの黒い屋根とベージュ色の壁を仰ぎ見たとき、「あっシャネルの色」と思わず声が出た。

先入観のせいだろうか。屋根と壁の色は、パリのカンボン通りにあるシャネル本店の基本
色、黒とベージュと同じ色だった。この基本色は世界中のシャネルの店で使われており、
室内装飾を勝手に変えることは契約違反となる。この黒とベージュはシャネル・モードの
基本色でもある。 それに無駄をいっさい排した典型的なロマネスク様式も、ある意味で
シャネルの原型といえないだろうか。シャネルの伝記「シャネル ザ・ファッション」の
作者、エドモンド・シャルル=ルーは、シャネルが十二歳から十八歳まで暮らしたのはこ
の僧院だった、と推定している。

シャネルの母親が一八九五年二月六日、行商人の夫の後を追って疲れ果てて結核に倒れた
のはブリーブ・ガイヤードだった。母親は逝き、五人の子供が残された。父親は最寄りの
孤児院にシャネルと長女ジュリアンを預け、そのまま姿を消した。幼い妹アントワネット
は親類に預けられた。 二人の弟たちは農家の養子になった。男の子は労働力になるから
だ。孤児だったり、親がいても育てる能力のない子供を町や市が面倒を見て、適当な農家
などに紹介し、養育費は国が持つ。そんな制度があった。弟たちはその後、父親と同様、
行商人になった。

シャネルはこの弟たちを含めた親類縁者について積極的に語ったことはない。孤児院生活
のことは口をつぐんだままだった。ただ一九四七年の冬、ポール・モランに自分の過去を
語ったとき、こう述べている。「そのときから、孤児ということばが、あたしを恐怖の氷
づけにしてしまいました。いまでも、小さな女の子たちのいる孤児院を見に行くのも、『あ
の子たちは、みなしごなのよ』ということばを聞くのも、涙なしには、できない始末です」
(「獅子座の女シャネル」)

■暖房もなく…: オーバジーヌの僧院は十二世紀、教会が本格的な改革運動に初めてさ
らされていたころ、当時の教会に愛想をつかした隠とん者、エティエンヌ・ドバジーヌが
建てたという。町の名前もこの聖人からきている。森をひらき、水を引き、神との対話だ
けで過ごしていたこの世捨て人を慕って支持者が集まり、共同体が形成された。一一四七
年には、女性が共同体に参加しているというハンディがあったにもかかわらず、修道会か
ら僧院建設の許可が出た。
699卵の名無しさん:01/11/15 23:36 ID:???
フランス革命後、マリア聖心修道会が廃虚同然だった僧院を孤児院として買い取った。当
時の書類によると一八五九年六月二十一日に二万六千フランで購入となっている。 当初
は孤児のほかに寄宿生徒もおり、一八九〇年には孤児二十六人、寄宿生徒六人の記録があ
る。有料の寄宿生徒の共同寝室が広いホールで天井には天使の絵が描かれ、暖房もされて
いたのに対し、孤児の共同寝室は屋根裏部屋で暖房もなかった。

孤児は十二−十四歳が「守護天使組」と呼ばれてニワトリやウサギの世話を担当し、十四
−十六歳の「聖ジョセフ組」は畑仕事、十六−十八歳の「聖母組」は年少者の世話のほか
牛乳やチーズ作り、裁縫などの作業を行った。 夏は午前七時、冬は午前八時起床、夕食
は夏が午後七時、冬が午後六時、就寝は午後八時三十分だった。

シャネルは一九三一年九月、米国の作家ジュナ・ベルネスのインタビューに次のように答
えている。「睡眠は七時間か八時間が必要。窓は開けたまま寝ること。早起きして仕事は
懸命に、一生懸命にやりなさい。夜更かしは禁物。耳や目、考えや神経を研ぎ澄ましてお
きなさい。夜更けすぎに面白いことなんか何もない」 シャネルは当時、社交界にも君臨
し、一九二一年に発表した香水「シャネルの五番」も大成功していた。一九三一年にはハ
リウッドを制覇し、グレタ・ガルボやマレーネ・ディートリヒらが争ってシャネルと交際
することを名誉としていたころだ。

■過去の遺物: 生活も不規則だったと思えがちだが、シャルル=ルーをはじめシャネル
をよく知る人は「彼女はアルコールもほとんど口にしなかった」と証言する。こうした規
則正しい生活態度は、孤児院時代に養われたのかもしれない。「キッスや愛撫や、教師や
ビタミン剤が、子供を殺してしまうだけではなく、不幸にし、ひよわな人間に仕立ててし
まうのだ」(「獅子座の女シャネル」)とも警告している。

授業は孤児も寄宿生も合同だったから孤児たちには余計、つらいものがあったろう。寄宿
生はその後、姿を消し、「孤児(約三十人)がトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する
衣類一式)の製作を修道女と裁縫室で行っている」(一九〇二年三月四日付のブリーブ市の
副市長からコレーズ県知事にあてた書簡)という状態になる。

シャネルがオーバジーヌのこの孤児院にいたことを証明する記録はいまのところ何もな
い。孤児院は一九六五年に廃止になり、現在は「生命の言葉」という宗教団体が研修など
の合宿用に使用している。

シャルル=ルーは「ありふれた不幸というものはない。あるのは、その時代のさまざまな
不幸だ」と指摘している。社会保障制度が進み、それが財政赤字を圧迫するフランスの現
代では、孤児院はもはや過去の遺物なのかもしれない。
700卵の名無しさん:01/11/16 00:02 ID:l2rdhjFz
あたしは いつも傲慢だった: 子供の時間はゆっくりと流れる。青春が短く感じられるの
は大人になってからだ。フランス中部の森の奥、小高い丘の上の元僧院を利用した孤児院
で、十二歳から十八歳までの六年間を過ごしたシャネルにとって、この歳月はどんなに長
かっただろう。

後の壮麗、華美なゴシック建築に比較して、十二世紀に建てられた典型的なロマネスク様
式の僧院と教会には彫像も飾りもない。その黒い屋根とベージュ色の壁。孤独な少女の目
には冷たく映ったに違いない建物に秘められた、凛(りん)とした力強さや温かさ、繊細さ
にシャネルが気が付いたのはいつごろだろう。

孤児院の生活を忘れたころに、その美しさが蘇ってきたのだろうか。そして孤児たちが着
ていた白と黒の制服。エドモンド・シャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」に
は、白と黒の対照について、こんな記述がある。

「黒のスカートは、長持ちするように、そして大またで歩けるように、ボックス・プリー
ツに裁ってあった。修道女たちのベールは黒く、彼女たちの頭を締め付けている糊のよく
きいたまっ白いバンド…」 白もまた、シャネルが生涯、愛した色ではなかったか。孤独
だった少女時代について、シャネルはポール・モランにこう語っている。

「服を注文するカタログをながめては、お金を湯水のように使う夢にひたっていた。真っ
白な服、白い部屋、そして白いカーテン。白い色ばかりが夢にうかぶのは、あまりにもう
す暗い家に閉じ込められていたせいだろうか」(「獅子座の女シャネル」)

《聖女の物語》 当時の孤児院の生活をしのばせる記録がある。一九〇五年に作成された
孤児院所有の家具などの目録だ。それによると、食堂には「二個の引き出し付きの長さ四
メートルの木製のテーブル二個」「二個の引き出し付きの三メートル八十センチのテーブ
ル一個」「四メートルベンチ一個と三メートルのベンチ二個」「小さな二メートルのベン
チ一個」「スプーン二十五個とフォーク二十五個」「二十五個のコップ」など。

教室には「壁にかかった黒板」「教師用の小さな机と網藁張りのいす」「生徒用の状態の
悪い机二個とその木製のいす」「フランスと欧州の地図二枚」「宗教ものの額縁四個」な
ど。 共同寝室には「わら入りのマットレス付きの鉄製のベッド八個、各ベッドに敷布二
枚」「古いわら入りの鉄製のベッド五個」「小さな鉄製のベッド十六個」などなど。

さらに図書室には「ジャンヌ・ダルク五幕もの、ジョセフ・ド・ムーラン作」「ジャンヌ
・ダルクに関する他の本、ジョセフ・ド・ムーラン作」「気で病む男、ジョセフ・ド・ム
ーラン作」「聖エティエンヌ・ドバジーヌの生涯」など。

ジョセフ・ド・ムーランは通常の仏文学史などには名前も記載されていないマイナーな作
家だ。しかし、感受性の鋭い少女時代にシャネルはおそらく、火刑となった救国の聖女の
物語を繰り返し読んだはずだ。そして、世捨て人同然の極貧生活を送りながら、当時とし
ては珍しく男女混成の共同体を容認し、男女双方の熱い支持を得て僧院の建立に成功した
聖者の伝記も読んでいるだろう。
701T社工作員:01/11/16 04:53 ID:???
会社のナニが気に入らないんだ。
給料安いとことか?
将来性か?
同族経営か?
ダメ上司か?
702卵の名無しさん:01/11/16 06:09 ID:???
第二次大戦中、シャネルと交友があった元ナチ将校、テオドール・モームは戦後、シャネ
ルの伝記を執筆中のシャルル=ルーにあてた書簡の中で、「彼女の血潮にはジャンヌ・ダ
ルクの血が流れている」と書いたことがある。あながち「ロマネスクな推量」(仏週刊誌
レクスプレス、クリストファ・アグニュス記者)とは言い切れないかもしれない。

《裁縫の日々》 シャネルら孤児が修道女の指導の下で、熱心に行ったのが裁縫だった。
孤児たちはトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する衣類一式)を仕上げ、それは地方
の町やパリに卸されて孤児院のわずかな収入となった。

シャネルのアトリエの主任だったマノン氏は「マドモワゼル・シャネルはいつもハサミを
首から鎖でぶらさげ、気に入らない作品はほどいたが、針を持っていたのは見たことがな
い」と証言するが、孤児院でみっちり裁縫の技術を習得したことは間違いない。

それにしても孤児院では毎日、着ていたのが白と黒の制服なら、毎日、目にしていたのも
修道女の制服だった。そして毎日、縫っていたのも他人の制服ということになる。幼い目
に映ったであろう生地ソーミュールの騎兵学校の士官たちの制服に、孤児院を出て最初に
行った町ムーランの猟騎兵部隊の制服、それにこれらの少女時代の制服群。


機能性と持久性と合理性。そして、そこから生まれてくる独特の美しさ。シャネルのモー
ドの基本が制服を通して形成されていったことがうかがえる。

《成功の秘密》 孤児院の孤独で屈辱的ともいえる生活を、シャネルは頭を上げ、誇り高
く耐えた。 「あたしは、いつも、とっても傲慢だった。頭を下げたり、ぺこぺこしたり、
卑下したり、自分の考えを押しまげたり、命令に従うのは、大きらいだった」「傲慢さは、
あたしの性格のすべての鍵ともなったかわりに、独立心となり、または非社交性ともなっ
た。それは同時に、あたしの力や、成功の秘密にもなっていったのである」(「獅子座の
女シャネル」)

孤児院はすでに廃止され、僧院の建物は現在、宗教団体の合宿場として使われている。し
かし、僧院の創始者である聖者エティエンヌ・ドバジーヌの墓はいまも残っている。墓に
は聖者の石像が横臥しているが、その顔の部分は擦り減っている。聖者の顔を愛撫(あい
ぶ)すると願い事がかなうという言い伝えがあるからだ。

シャネルもこの静謐と薄闇が支配する教会の中で、聖者の顔を何度か愛撫したはずだ。シ
ャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」によると、孤児院を出てから数年後に出
会った最初の愛人、エティエンヌ・バルサンに、シャネルはこう言った。 「前にもエテ
ィエンヌという名前の保護者がいたのよ。彼も奇跡を見せてくれたわ」

シャネルにとって、孤児院があった町の名前の由来でもある聖者、エティエンヌ・ドバジ
ーヌ(オーバジーヌのエティエンヌ)こそが、最初の愛人だったとも言えよう。
703卵の名無しさん:01/11/16 06:14 ID:???
最初の世間だったムーラン

パリから南に約三百キロ。人口約二万七千のムーランは中世の建物が随所に残る典型的な
フランスの地方都市だ。この町の中央広場に面して「ル・グラン・カフェ」がある。

ベルエポックの典型的レストランであるパリの「マキシム」と同じように、店内は鏡が張
りめぐらされ、高い天井には草花の蔦模様のフレスコ画が描かれている。ブルボン王朝の
十八世紀に大流行し、ナポレオン三世の第二帝政時代に復活し、さらに世紀末にも蘇った
ロカイユ様式(貝、小石をセメントで固めた装飾や複雑な曲線が特徴)の典型だ。

店の奥にはスタッコと呼ばれる大理石の粉の入った化粧しっくいの付け柱(壁の一部が張
り出している柱)風の飾り露台も見える。隅におかれたピアノからはベルエポックの陽気
なシャンソンが今にも聞こえてきそうだ。 「私はかわいそうなココを見失ってしまった、
大好きな私の犬のココを…」

<人気カフェ> シャネルは孤児院を出た後、この町にやってきた。おそらくは修道会の
紹介でお針子として働きながら「カフェ・コンセール」の歌手を夢見ていた。まだ自分の
本当の才能に気が付かず、将来を探っていたころだ。

歌やショーなどのステージがあるカフェ・コンセール(演芸カフェ)こそ十九世紀の世紀末
とベルエポックの象徴だった。シャンパンなどを飲みながら風刺のきついシャンソンを聴
き、手品や軽業を楽しむ娯楽場兼社交場である。パリでは一八六〇年代から出現し、一八
八九年にはモンマルトルに「ムーラン・ルージュ」が開店して全盛期を迎える。

「ムーラン・ルージュ」の呼び物であるフレンチ・カンカンの、ちょっとエロチックで陽
気な踊りにパリっ子は熱狂した。ロートレックも「ディヴァン・ジャポネ(日本の長いす)」
とともにこのカフェを愛し、傑作を生んでいる。ここは今でも日本人をはじめ世界各国の
観光客を引き付けている。

こうした人気カフェではお針子出身の大テレザやモデル出身のイベット・ギルベールが大
スターとして人気を集め、女優たちより収入も多かったといわれる。ムーランのような田
舎町にもカフェ・コンセールは浸透し、パリ風の「ル・グラン・カフェ」は人気の中心だ
った。

<黒い学生服>  シャネルがこのカフェに出入りするようになるのはいつごろだったの
だろう。十八歳以降は修道女を目指す者以外は預かれないという孤児院の規則のため、シ
ャネルは十七歳のときに、姉のジュリア、そして親類の家にいた妹のアントワネットとと
もにムーランにあった宗教施設の寄宿舎に送られ、ここで二年間を過ごす。

 ムーランの近くの町には鉄道員を夫に持つ叔母が暮らしており、シャネル姉妹を引き取
る能力はなかったものの、バカンスには呼んでくれた。ムーランにはシャネルと同年の叔
母、アドリエンヌもいた。シャネルの伝記作者、シャルル=ルーはこうした関係でシャネ
ル姉妹はムーランに送られたと推察している。
704卵の名無しさん:01/11/16 06:21 ID:???
 ムーランはシャネルにとって最初の世間だったとも言える。町には孤児院では見かけな
かった男子学生がいた。少年たちは黒い学生服を着て、白いワイシャツに花形結びにした
ネクタイをしていた。ネクタイは後に、シャネルによって断髪のボブヘアとともに「ガル
ソンヌ(少年)・スタイル」として大流行することになる。一九二〇年代のことだ。

若い叔母のアドリエンヌは美しく優雅で、親類にはなじめなかったシャネルもすぐ親し
くなった。二人は二十歳になると寄宿舎を出て修道会の世話で、町の中心街、オルロージ
ュ通りの洋裁店で働き出した。

ムーランの町のはずれ、アリエ川の向こうには猟騎兵連隊の宿舎があり、町には周辺の城
館の貴族たちの通う競馬場があった。シーズンの呼び物のレースには駐屯場の士官たちも
出場した。

またしても馬である。シャネルと馬はよほど、縁があり相性が良いのだろう。しかもこの
時代、ここに駐屯していた猟騎兵第十連隊は、騎兵の中でも「えりぬきの部隊」として知
られていた。名前には貴族を表す「ド」が付き、「聖ルイ王が騎士たちに十字軍遠征を呼
びかけた時代に後戻りしたような感じ」(「シャネル ザ・ファッション」)の若者たちだ
った。 彼らは「武装を解くと、すぐに散歩に繰り出した。大げさにふくらませた真っ赤
な乗馬ズボンをはき、軍帽はあまり目立たないようにかぶっていた」(同)という。

<魅力を発散> こうした散歩着や、三列の金ボタンやそでに飾り紐を縫い付けた長外と
う、騎兵の特徴の空色の上着などはパリの最高級店に注文したが、飾りひもの繕いや金ボ
タンのつけ替えには町の店にやってきた。

シーズンにはこうした店は大繁盛だった。シャネルとアドリエンヌは臨時にこうした店に
アルバイトにやってきた。士官たちが二人の美しい娘に気がつき、「ル・グラン・カフェ」
など流行のカフェに誘うようになるのは時間の問題だったはずだ。当時の写真を見ると、
アドリエンヌはふっくらとした官能美だが、シャネルの方はやせて大きな目と口、鼻ばか
りが目立っている。

しかし、後のシャネルの友人で、ロートレックやルノワール、ボナールのモデルも務めた
パリ社交界の女王、ミジア・セール(彼女については後述する)は一九一七年に女優のセシ
ル・ソレルの家の夕食会で初めてシャネルと会ったときの印象をこう述べた。

「食卓で、私の注意はたちまち非常に濃い褐色の髪の、一人の若い女性に引かれた。彼女
は一言も発言しなかったが、抵抗しがたい魅力を発散していた」(オーサー・ゴールド、
ロバート・フィザル著「ミジア」)

上流階級の士官たちもミジアと同様の感想を持ったのだろう。彼らはたちまち二人をデー
トに誘い出す。待ち合わせ場所はもちろん「ル・グラン・カフェ」や「ラ・ロトンド」な
どの人気カフェ・コンセールだった。
705卵の名無しさん:01/11/16 15:29 ID:???

「ココ!」と叫ぶ熱狂的な士官

フランス中部の町、ムーランにあるレストラン「ル・グラン・カフェ」のオーナー、モー
リス・ポシュロンによると、この店が建設されたのは一八九九年だった。 費用は二十五
万フラン。 現在の金額に換算すると、四百五十万フラン(約一億円)前後だという。シャ
ネルが通った開店早々の時期には、ベルエポックを代表する豪華カフェだった。

一九〇三年、二十歳を迎えたシャネルはこうしたカフェで士官たちに囲まれながら、いつ
か田舎町からもお針子仕事からも解放され、パリで暮らす日を夢見ていたのだろうか。
フランス文明の輝かしい一ページ、ベルエポックの定義はさまざまだ。大修館の新スタン
ダード仏和辞典では「二十世紀初頭の古き良き時代」となっている。

「普仏戦争と第一次大戦という二つの戦争の間(一八七一−一九一四年)の悲劇的時代。フ
ランスはドイツとの戦争という固定観念と脅威に捕らわれていた時代」と定義するのは哲
学者アンドレ・グリュックスマンだ。 「だからこそ人々は消費社会に快楽を求め、今の
人生をより良く生き、謳歌しようとした。水平線のかなたには戦争が感じられ、いずれ危
険(戦争)という運命を避けられないと感じていた。危険と香水、快楽、女性、オペラ、オ
ペレッタで代表されるベルエポックは隣り合わせのものだ」

一九〇五年、フランスの兵役制度は二年になり、兵役免除も廃止された。同年三月には日
露戦争でフランスの同盟国ロシアが敗北するのを見たドイツは、モロッコのタンジールに
上陸してモロッコにおけるドイツの権益を宣言した。単独でドイツと戦争に入ることを恐
れたフランスは国際会議(アルヘシラス会議)に訴え、米英の支持を得てやっとモロッコで
のフランス、スペインの優位を確認することに成功したが、その後もモロッコでは反仏民
衆ほう起が起きるなど不穏な動きは続いた。

一九〇六年からは労働争議が頻発し、労働総同盟(CGT)はアミアン憲章を採択して社会
革命を目標にしたストライキなどあらゆる手段に訴えることを確認した。こうした中で誕
生した急進派のクレマンソー内閣は短命に終わり、一九〇九年にはかつてのゼネストの提
唱者、アリスティード・ブリアンの内閣が発足する。一方で国家主義も台頭し、戦争の脅
威は日に日に増大していった。

歴史学者ピエール・ノラもベルエポックを第一次大戦前までとして次のように定義する。
「ある種のクラスにとってのある種の平等、国全体にとってはある種の均衡と一定の財政
的繁栄、ある種の生活の楽しみ、ある種の平和、ある種の安定。つまりすべてが暫定的だ
った。一方でアナキズム、社会主義があり、非常に惨めな生活を送っていた労働者がいた
からだ」

そして「当時の人々はナポレオン三世時代を《第二帝政時代の祭典》と呼び、古き良き時
代として懐かしんだ。ベルエポックはそれぞれの人間の記憶の中に存在する」と総括する。

 一方、歴史学者のミシェル・ヴィノックは「ベルエポックは神話だ」と指摘し「幸福な
時代は決して存在しないが、幸福な思い出というのは存在するからだ」という。
706卵の名無しさん
ムーランのシャネルにとって、この時代はベルエポックだったのだろうか。彼女はカフェ
・コンセール(演芸カフェ)の人気歌手を夢見ていた。孤児院出身の若い女性にとって、手
っ取り早い出世の道に思えたからではなかったか。

ムーランで最も繁盛していたカフェ・コンセールの一つ「ラ・ロトンド」の主人は彼女の
採用を決める。彼女の歌手としての才能より、集客能力を重視した結果かもしれない。彼
女にはその時点ですでに士官のファンがたくさんいた。

一九〇五年ごろ、ムーランのカフェ・コンセールには「ポーズ嬢」と呼ばれる女性たちがいた。 「スターの後ろに半円状に座った十人ほどの端役。彼女たちはサロンのような雰
囲気をかもしだして店の格が高いように見せ、スターが舞台から消えると、彼女たちが立
ち上がって代わる代わるシャンソンを歌い始める」(シャルル=ルー「シャネル ザ・フ
ァッション」) シャネルも「ポーズ嬢」としてデビューする。持ち歌は二つしかなかっ
た。「コ・コ・リ・コ」と「トロカデロでココを見たのはだれ?」だ。いずれもパリのカ
フェ・コンセールではやっていた歌である。

舞台にシャネルが登場すると、観衆はいっせいに鶏のコッコッという鳴き声をまねる。「そ
れが最後に、彼女のしゃがれ声で、とても雄鶏の鬨の声だとは思えないくらいおずおずと、
『コ・コ・リ・コ』が始まると、彼女を勇気づけることになるのだった」(「シャネル
ザ・ファッション」)   シャネルは後に「ココ・シャネル」と愛称で呼ばれるように
なる。彼女自身は「父親がつけてくれた愛称」と説明したが、シャルル=ルーは「トロカ
デロでココを見たのはだれ?」が起源だとみている。

「私はかわいそうなココ、私の大好きな犬ココを見失ってしまった、トロカデロで。私の
最大の後悔だ。男に裏切られるよりもずっとつらい」 歌のルフラン(繰り返し)の部分は
「ココ!ココ!」。ここで熱狂したファンたちはいっせいに「ココ!ココ!」と叫び、ア
ンコールを求めた。士官たちにとってシャネルはいつしか「ココ」になったというわけだ。

しかし、シャネルはこの程度の成功では満足しなかった。ムーランは田舎町にすぎない。
五〇キロ先には鉱泉で知られる保養地のビシーがあった。富裕階級が集まり、猟騎兵たち
も休暇を過ごしにしばしば、でかけていった。競馬場もカフェ・コンセールももっと立派
なのがある。 シャネルはここで運を試すことにした。その彼女を援助したのがシャネル
の最初の愛人といわれるエティエンヌ・バルサンだった。