大陸打通作戦を成功に導いた「四式戦闘機疾風」

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1名無しさん@お腹いっぱい。
衡陽作戦から老河口作戦まで半年もの間、粘り強く戦い航空支援を続け、大陸打通作戦3000キロ勝利行軍を成功に導いた「四式戦闘機疾風」を語ろう!

猛威をふるう85戦隊の「疾風」
<中略>(62ページから引用)
 10月末、同じく二式単戦で編成されていた9戦隊の1個中隊が広東に移動、同地区の防空戦力は大いに増強された。
10月31のB-24、13機による香港空襲以来、11月上旬から中旬は85戦隊の防空担当である広東、香港方面の空襲は途絶え、
戦隊は戦力回復を進めることができた。11月13日、85戦隊の保有機は二式単戦17機、四式戦10機、計27機まで回復していた。
この頃、中国の陸軍戦闘機隊は消耗甚だしく、25戦隊は一式戦9機、四式戦3機を保有、9戦隊は二式単戦がわずか5機、
衡陽で大打撃を受けたばかりの48戦隊にいたっては一式戦2機を保有してたに過ぎず、85戦隊は当時、最大かつ最強の
戦力を保っていたのである。
 一方、4日の空戦でP-51を一挙に4機も失った第76戦闘機隊にとっても10月は厳しい月で、この一ヶ月間の戦闘と事故で
22機のP-51と10名もの操縦者を失っていた。

補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。逆に、日本側の防御努力が効果を上げつつあった。
11月21日、大村攻撃では6機のB-29が日本機により撃墜された。12月7日、奉天(訳注:今日の瀋陽)
の満州航空機会社空襲での損失率はそれとほぼ同じであった。事故による、敵の要撃による、
そして成都前進基地への日本軍の空からの攻撃によるB-29の損失はもはや見過ごし得ず、1944年の終りには147機に達した。
<中略>
マッターホルン作戦では49回の作戦任務を実施し、航空機の出動数は3,058ソーテイであったが投下した爆弾は
ただの11,477トンであった。この作戦に膨大な努力を傾けたわりに、日本の目標に与えた損害は僅かであった。
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/b29.htm

彼等の国民党観はハーレーのそれと好対照をなし,否定的なものであった.
「国民党は政治的には保守的な政治派閥の集合体であり,経済的には地方の郷紳,地主,商業的銀行家という
狭い基盤の上に立っているため, 日本軍の大陸打通によって,政府 ・軍部ともにその権威と士気を失墜し,
腐敗が拡大し,蒋介石石のリーダーシップは著しく低下してきている」 と観察していた.
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/6519/1/kenkyu0003000980.pdf

26.国民党の河南・湖南・広西での大敗
 1943年から1944年春にかけて、日本は太平洋戦争において敗退を繰り返していた。海路の交通はすでに
米軍によって遮断されていた。東南アジアに侵入して孤立した軍を支援するために日本は1944年、
中国東北から広州・南寧に至る”大陸交通線”の戦闘を起こし、中国では”豫湘桂戦役”と名付けられた。
これによって、国民党軍は粉砕され、河南・湖南・広西と
 日本軍が14余万人を河南に投入すると、国民党は戦わず、河南駐屯40万人の大軍はすべて逃げてしまった。
僅か1ヶ月で河南の全てが陥落し、人民の国民党軍の腐敗に対する怒りは頂点に達した。河南省のある一人
の議員が重慶へ願いを請いに行き、国民党軍が作戦において武官が軍よりも早く逃げ、軍が日本人の進攻
よりも早く逃げたことを訴えた。”武官は兵を、兵は武官を見つけることすら出来ない状況で、
副司令官も自分の将軍さえも見つけられなかった”と。多くの有識者が敗戦の原因を”武官が兵士の心を忘れ、
兵士が民の心を忘れたからである”としている。河南陥落後、日本軍は長沙・衡陽・桂林などの軍事基地を
次々に占領した。また、同年、日本軍は費用も弾丸も使用せずに、南寧を占領した。戦果を広げるために、
日本軍が国民党を追撃させた軍はたったの3,000人ちょっとであった。数十万人もいた国民党は相手の勢い
に脅えて逃げ出し、貴州省の独山鎮まで追い詰められた。そして、そこから後方に連なるよ
うにしてあった貴陽や重慶にも不安が襲うようになった。
http://www.chinabusiness-headline.com/2011/08/15357/

≪日本の降伏が突然だったので、米国の政府官僚たちは驚いた。軍事予算は2年間かけて徐々に減らし、
兵士たちを平時の国内経済の場に吸収していこうと考えていたのだが。もはやそんな計画は通用しなくなった。…≫
(The American Journey, 852頁)
http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/atombomboj.htm

なぜ「四式戦闘機疾風」は、残り1年で3500機?
http://mimizun.com/log/2ch/war/1255320599/
2名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/02(日) 03:00:21.94 ID:eH61irhw0
桂林、柳州攻略の航空支援
・・・・前略・・・・
 第五航空軍は十月末前後、自隊の後方補給のための船舶輸送掩護に戦闘隊の
主力を使用した。
 第十一軍の桂林攻撃は十一月九、十日に成功した。第二十三軍の柳州攻撃も十日
に成功した。この地上戦闘間、下山第五航空軍司令官は衡陽に進出して指揮した。
すなわち、戦闘隊による戦場制空、襲撃、軍偵部隊による偵察攻撃を反復した。
そして双軽には依然、敵の前進基地と判断される柳州、安康、シ江、雲南、老河口
の飛行場攻撃を継続し、相当の戦果を報じた。
 以上の桂柳攻略作戦は、国軍の近代的最高潮作戦であったレイテ決戦作戦と全く
同一時期に、約二、〇〇〇粁の距離を置き、支作戦の前者が一〇コ師団、飛行約
二〇コ中隊(約一五〇機)で成功し、主作戦の後者が約三個師団、飛行六〇コ中隊
(約二〇〇機)で失敗する奇妙な対照結果となった。
<戦史叢書 陸軍航空の運用<3>―大東亞戦争終結まで―(朝雲出版社)>

 十九年春〜二十年初めに実行された一号作戦は、国軍に前例のない大規模
のものであり、陸上戦略指導としては大成功と感じられるものである。しかし
B−29の本土空襲は阻止できず、太平洋方面における我が主作戦の敗勢を救う
べくもなかった。この間における中國航空作戦は、数質ともに次等の戦力で
よく靭軟な奮闘を続けた。中國方面に有力な米陸空軍部隊を吸引牽制し、
しかも彼我主力の決戦方面に対し、その決定的な攻撃威力を及ぼさせなか
ったことは、わが中國方面空地作戦の隠れた戦略的成果と評価すべきである。
 しかし問題は、中國方面にあった陸軍戦力を、国軍主力の決戦作戦方面に対し、
より有効に直接参加させる戦略方策の有無であり、それは更に深刻な別途の研究
にまたねばならない。
 これを要するに、陸軍航空の基本的体質に大きな影響を与えた中國航空作戦は、
支那事変間と大東亞戦争間とにおいて、その様相が著しく変化した。前者は敵が
弱体な中國空軍であり、後者は敵が強力な米陸空軍であり、航空撃滅戦、
制空権の獲得に最大の努力を傾注しなければならなかった。
<中国方面陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 /朝雲新聞社 , 1974 ( 戦史叢書 ; [74] )>

>後者は敵が強力な米陸空軍であり、

戦争終結時に、60,369人もの米軍人員が中国に居ました。34,000以上は航空部隊、そして22,000以上は地上部隊でした。

At the end of the war there were more than 60,369 American military personnel in China.
More than 34,000 were in the air units, and more than 22,000 were assigned to ground units.
http://beijing.usembassy-china.org.cn/ww2operationaloutline.html
3名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/08(土) 23:37:50.17 ID:TmmptD4w0
おまんこ女学院
4名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 15:25:35.59 ID:X+KthvkF0
【日韓】孫崎享氏「日本もドイツのように過去を清算するべきだった」〜
「米国でも‘リアンクール島’が韓国の領土となっている」[10/18]
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1350542136/
5名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/01(火) 16:09:49.10 ID:12qjHu2b0
 まず、日ソ中立条約に言及し、ソ連がナチス・ドイツに対して勝利することができなのは、日本がこの条約を
遵守したからであると鈴木氏は強調する。
< 5月9日、対独戦勝65周年記念日を迎え、自分(鈴木委員長)からもこの歴史的な日を心からお祝いしたい。
ソ連が対独戦争に勝利する上で日本は大きな役割を果たした。当時、日本はナチス率いるドイツと軍事同盟を
締結していたが、同時にソ連とも中立条約を締結していた。
 中立条約とは、仮に、ソ連がどこかの国と戦争を始めても、日本は中立を保つ、また、逆に日本が戦争を始めても、
ソ連は中立を保つということをお互いに約束したものである。当時、ヒトラーは日本に対し、ドイツとの軍事同盟を優先し、
ソ連を攻撃するように何度も要請した。しかし、日本はそれをはねのけた。
 仮に日本が別の選択をしていたのなら、歴史は変わっていたであろう。日本の選択は正しかった。なぜなら、
ファシズムは全く間違っていたからである。ヒトラー率いるナチスの悪行は言語に絶する。まずはこの点を皆様に
お伝えしたい。 >
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/580
6名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/03(木) 16:59:26.98 ID:aY1BQ8Qi0
第二次世界大戦でスティルウェルは、1942年に中国戦線を担当したが、この年から蒋介石は全く役に立たず、
能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないとレポートしていた。スティルウェルはビルマ・インドに拠点を移し、
ビルマの援蒋ルートを遡って中国大陸に攻め入り、数百万の中国兵をアメリカの将校団が指揮することで
中国大陸から日本を駆逐するという構想を持つようになる。その為に彼は蒋介石に対し彼の元に中国陸軍
の数個師団をよこし、彼に中国兵の訓練を任せるよう要求するのである。それにより、米式中国軍(米国式
中国軍)が編成されている。しかし、この彼の構想は蒋介石の利害と正面から衝突し、二人の関係は悪化。
最終的にスティルウェルは蒋介石にひどく嫌われて最後は解任されてしまう。蒋介石は軍隊の強化により
政権への反旗の翻しを危惧した。
アメリカは欧州でもナチス・ドイツと戦っており大軍をアジアに振り向ける余裕はなかった。蒋介石の国内権力基盤
は極めて脆弱だった。ルーズベルトとは正反対に、彼は中国国民党軍の腐敗と弱小ぶりを見抜いていた。
大陸打通作戦の前年には、戦勝後には米英ソ中で構成される『四人の警察官構想』を検討しカイロ会談に
出席したルーズベルトに、次に日本軍に攻勢されれば国民党は倒壊すると通告し、さらに中国本土からの
アメリカ軍の日本空襲作戦は日本陸軍の猛烈な反撃を招くとして反対した。また1944年、大陸打通作戦の
衡陽会戦に際しては夜も眠れず、2回も自殺を考えたと言う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB
7名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/03(木) 17:13:41.38 ID:aY1BQ8Qi0
この軍事的条件の一大変化とは、10月3日に決定された”対日戦略の修正”であった。
日米開戦以来陸軍首脳や中国現地のスチルウェル・シェンノー トらが構想して来た
中国東岸を基地 として対 日攻撃 を行 うとい う戦略は,この戦略修正によって破棄 され,
台湾,中国東岸への上陸は基本的には中止された。
代ってマ ッカーサ ー (DouglasMcArther)将軍の主張 を作戦の中軸 として採用し,
海軍 とくにキ ング (ErnestKing)海軍作戦部長の主張する作戦を側援的に遂行する
ことが決定 され,ル ソン島から沖縄へ上陸作戦 を敢行すると同時に,
マリアナ諸島から硫黄島を経 由 して沖縄へ進攻することになったのである。
この対 日戦略の修正は重大な結果をもた らすことになった。即ち(1)対 日政略
における中国の戦略的地位が低下 したこと。(2)1945年 8月の終戦時に強力なア
メリカ陸軍部隊が中国に存在 していなか ったことである。
対日政略において軍事的に貢献 してこそ,戦後における大国 としての地位が
保証 される訳であったが, この修正に よって, アメ リカの支援の下に軍事的貢
献 をする機会は減少 し,大国と しての地位 を要求 しうる根拠を失 って しまった
のである。又強力なア メリカ軍部隊が終戦時において中国に進駐 していなか っ
た為, ソ連軍,中共軍の軍事行動を牽制 しえなかったのであ った。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/6519/1/kenkyu0003000980.pdf
8名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/03(木) 17:29:59.93 ID:aY1BQ8Qi0
1943年11月のテヘラン会議でルーズベルト大統領が熱心に中華民国を連合国の主要メンバーに引きずり
あげることを主張した。戦後への構想は「四人の警察官」となった。中国は人工的に大国の扱いを受ける
ようになった。今の中国の学者たちもこの歴史の現実は率直に認めており、「中国はいかなる基準でも
三大国と対等なパートナーではなかった。実際には三大国によって新たな地位を決められたのだった。
当初はイギリスのウィンストン・チャーチルもソ連のヨシフ・スターリンも中国を二流のパワーとみなし、
大国の地位を与えることには強く反対した」と述べた。ルーズベルトは、中国の格上げは対日戦争での
中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の
再興を抑えるのに役立つ、と計算していた。アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配
の印象を薄めるという考慮もあった。しかしチャーチルはアメリカのこの動きを「中国の真の重要性をと
てつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリンも中国の戦争貢献の少なさを指摘し、
さらに激しく反対した。だがルーズベルトはソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、
反対を抑えていった[1]。ルーズベルトと正反対にチャーチルは回顧録では「蒋介石は権力の絶頂に
立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。
私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた。」と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E5%AE%98%E6%A7%8B%E6%83%B3
9名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/17(木) 11:09:08.40 ID:N1Hh68xo0
 1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻した際、後の大統領となるハリー・トルーマン
は、1941年6月24日付のニューヨーク・タイムズ紙に「ドイッが勝つと分かったら、ロ
シアを援助しなければならない。もしロシアが勝ちそうなら、ドイッを援助しなければ
ならない。こうやって、できるだけたくさん彼らに殺し合いをさせておけばいい」4と
の見解を述べていた。
 トルーマンの見解は当時としては決して特殊なものではなかった。1933年にソ連承認
を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領でさえ、1941年8月当時、ソ連を米国の
敵であるナチス・ドイツと戦っている「敵の敵」でいる限りの「味方」と捉えていた5。
 また、1941年12月7日の日米開戦以降、米国はソ連に対して対日参戦をさせようと圧
力を強めていったが、ソ連はこれに対してあらゆる口実を設けて応じようとしなかった。
12月16日、ルーズベルト大統領はソ連最高指導者のヨシフ・スターリンに、ソ連、中国、
英国、オランダ、米国の各国代表による会議を速やかに重慶で開催したいと提案し、さ
らにモスクワで米英中の大使とソ連首脳との会談を行うことを提案したが、ソ連はこれ
にも応じなかった。
 その後も米国は再三にわたってソ連の対日参戦を促しているが、ソ連の態度は変わら
ず、このことが米国側にいっそう大きな不満と不信を招いたことは当然である。
 そうしたソ連の態度に変化が見られ始めたのは、1943年8月24日のことであった。そ
の日はケベックで開催されていた米英軍事会議(暗号名:クォドラント)の最終日だった。
 ケベック米英軍事会議は、「1944年西欧進攻作戦(暗号名:オーバーロード)」の実施
を第一の目標とし、「ロシアがベルリンに入ろうとすれば、連合国も直ちにベルリンに
入る用意を」とのルーズベルト大統領の発言を受け、可能・必要ならばそれ以前にでも
実施するという緊急作戦計画(暗号名:ランキン)の準備開始を決定していた6。
 そこにソ連が「3国外相会議をモスクワで10月18日より開催することに同意する」と
伝えてきたのである。
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1506/1/joshidaigaku_13_147_177.pdf
10名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/17(木) 11:21:49.93 ID:N1Hh68xo0
7月2日、スティムソンは日本への最後通牒となる宣言の草案(スティムソン草案)
を大統領に提出した。その際、彼は短い覚書を添付し、大統領に日本への進攻前に、
又は原爆使用の前に日本に降伏条件を提示してはどうかと提案していた。同覚書には、
「硫黄島や沖縄で発揮された日本軍の狂信的抵抗を考慮して…日本進攻の際、米軍の損
害は50万になるかもしれない」と記され、「無条件降伏に等しい物を保証する」別の方
法があるならば、侵攻作戦の実施は狂気の沙汰であり、「現在の天皇制を維持し、立憲
君主政体を消滅させようとするものではないことを示せば、日本が降伏を受け入れる
可能性を著しく大きくするであろう」と述べ、米軍の日本本土進攻、原子爆弾の使用、
ロシアの対日宣戦布告の前にこれらの約束を提案すればうまくいくであろうと勧告し
ていた76。
 明らかにスティムソンの関心は占領後に展開されるであろう米国とソ連との競争に向
けられていた。そして、この時点で米軍指導部は天皇制維持を条件に早期講和の方向に
大きく傾いていた。
 だが、バーンズ新国務長官(7月3日就任)は、そうした軍部の動きに対して、無条件
降伏を見直すことが米国の弱みと映りかねず、それは日本を降伏に向かわせるどころか
逆に戦意を高めさせることになるとして反対した77。
 また、7月8日、米英両国の最高軍事指導者によって構成される合同参謀本部(CCS)
の下部組織である合同情報委員会は、ポツダム会談前の日本情勢に関する最終評価を大
統領に提出し、日本は完全な敗北又は無条件降伏を避けるためにあらゆる手段を用い、
ソ連の中立政策を維持させようとするであろうと指摘した。また、日本は、そのために
領土譲渡などの譲歩も用い、また米英とロシアとの不和の種をまき散らそうとし、ソ連
を仲介者として利用するかもしれないと述べ、ソ連の参戦は日本の敗北が避けがたいこ
とを最終的に日本人に確信させることになるであろうと指摘していた78。
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1506/1/joshidaigaku_13_147_177.pdf
11名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/18(金) 16:32:20.66 ID:43AWFmfr0
>>5
南進論が勝っただけで
実際は日本は関特演後ソ連に攻め込む気が満々だったがな
日ソ中立条約が考慮されたことはない
ただ北進論が南進論に負けたから
ソ連侵攻がなかっただけで
12名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/18(金) 16:38:49.49 ID:43AWFmfr0
>>1
簡単に書いている衡陽は日本軍の第一次総攻撃は失敗し
嵐兵団、檜兵団は壊滅状態となった
衡陽は日本軍の墓標で埋まると言われるほどの大苦戦の後に占領した

桂林は人数も装備も旧式な広西軍閥の軍にやはり苦戦し
敗退寸前となった
もし薛岳が動いていたら第二のインパールになる所だった
13名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/18(金) 16:47:02.72 ID:43AWFmfr0
中国軍の近代化は順調に進んでおり
シコウ作戦に参加した日本軍は近代化した中国軍に包囲殲滅された
終戦前は逆に日本軍の方が物資、兵器、食糧が不足していた
14だつお ◆t0moyVbEXw :2013/01/18(金) 16:50:46.87 ID:mkv9prvI0
>>13
>シコウ作戦に参加した日本軍は近代化した中国軍に包囲殲滅された
>終戦前は逆に日本軍の方が物資、兵器、食糧が不足していた

1945年になっても中国には支那派遣軍を弱体化させる事は出来ず、1945年のポツダム宣言受諾の際に
支那派遣軍総司令官の岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、
いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と無条件降伏に反対した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6

「野田首相が人類最悪の独裁者に認定されてしまった」 3500万の虐殺を繰り返そうとする野田佳彦を許してはならない
http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50382919.html

 日本は1872年、一方的に琉球王国を廃止し、「沖縄」という名で、その領土を日本の鹿児島県の管轄とした。
ここに来て、日本帝国主義の欲が出て、日本は朝鮮半島に攻め込み、1910年の韓国併合によって、
朝鮮の日本統治時代が始まった。続いて1931年には、中国東北地域に侵略し、満州(現中国東北部)全土を占領。
1937年から1945年にかけ、第2次世界大戦で連合軍に敗北するまで、日本は中国のほかの地域およびアジア諸国
への侵略を繰り返していた。
 釣魚島をめぐる争いは、そうした帝国主義の歴史が息を吹き返したことの現れである。すべての国が、
日本の帝国主義の野心こそが、アジア地域において大量の犠牲を出し、3500万人もの人が虐殺された悪の根源
であることを覚えている。拡張という日本の愚かな行為において、米国はいかなる役割も演じるべきではない。
(完結)(編集担当:米原裕子)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120929-00000013-scn-cn
15だつお ◆t0moyVbEXw :2013/01/18(金) 17:15:58.82 ID:mkv9prvI0
>>13
>シコウ作戦に参加した日本軍は近代化した中国軍に包囲殲滅された
>終戦前は逆に日本軍の方が物資、兵器、食糧が不足していた

 第2次世界大戦時、ソ連、米国、中国、英国、フランスを中核とする連合国は正義と平和を守るため、
ファシズムの侵略に奮起して反撃し、多大の犠牲を払い、最終的な勝利を勝ち取った。とりわけ勇敢的
なソ連人民はドイツファシズムと血みどろの奮戦を演じ、侵略者を国土から駆逐したのみならず、
多数の欧州諸国を解放した。ソ連赤軍は中国東北部に出兵し、抗日戦争における中国人民の最終的
な勝利に非常に重要な役割を果たした。
http://j.people.com.cn/94474/6975602.html

 45年8月の段階で、日本軍は兵力700万を数え、航空機1万機、軍用艦500隻を保有していた。
対する米国ほか連合国がアジア方面に投入していたのは180万人、航空機5000機である。
ソ連が中立を守っていれば、関東軍が対米戦に向かっていた可能性がある。その場合、戦争は長引き、
犠牲はより大きくなっていたはずだ。
 仮想の戦いによる被害を計算することは出来ない。ただ日中戦争では、37年7月から45年8月
までの97カ月で毎月平均10〜20万の命が失われ続けた。その多くは一般市民である。ソ連による
満州攻撃がなければ、少なくとも中国は相当な被害を受けていたことになる。
 さらにカルネーエフ氏は、米国による原爆投下が決定的な終戦の要因となったとの見方にも賛成できない。
「当時、原爆投下がどれだけの結果をもたらしたか、誰も知らなかった。今は数字が出ているから、
日本は原爆で降伏したと多くの人が語る。それは間違いだ。広島や長崎には巨大軍事工場も武器庫も
大部隊もなく、原爆投下で日本の軍事力が殺がれた訳ではない。だから軍事戦略上の意味はありえない。」
http://japanese.ruvr.ru/2010/08/08/14996759.html

広島、長崎における米国の野蛮な原爆投下ではなく、ソ連の対日参戦こそが日本政府をして、
戦争継続の無意味さを悟らせ、降伏を受け入れる決断をさせた。それは日本民族を本土決戦から救い出した。
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_20/66504824/

スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加
しなければならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかである旨述べた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf

 左の封筒は、ソ連の対日参戦を記念して、当時アメリカ合衆国で作られた記念品。ソ連対日参戦とスターリン
の判断を肯定的に評価している図案になっている。『8月8日、日本の最悪の恐怖が現実のものとなった』ソ連
対日参戦に対する米国の一般的な評価です。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppou3.htm

 この図録では、アジア各地における日本軍の終戦時の兵数をグラフにした。
 現地の占領当局となった陸軍の兵数で見ると、中国本土が105万人と最も多く、満州の66万人と合わせる
と各地域合計296万人の58%と約6割を占めている。
 次ぎに多いのは蘭領インドシナ(おおむね現在のインドネシア)が23万人である。朝鮮半島も北部の9万人、
南部20万人を合計すると29万人とこれを上回る。
 この他、多くの地域で、10万人内外の日本軍が進駐していたことが分かる。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8050.html
16名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/19(土) 13:37:55.42 ID:VINhrean0
なにアホー数字あげてるんだ。
シミジミあほーやな
17名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/19(土) 13:40:02.40 ID:VINhrean0
>>15
こいつみたいな空疎な数字を上げて抗戦を主張した青二才の参謀が当時もいたんだな。
脳ないではニホングン圧倒的優勢だな。
トホホなまでに馬鹿やで
18名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/19(土) 15:31:33.94 ID:mKpDVVRX0
236連隊で作戦主任をやっていた佐々木春隆は
著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
敵の支配地は裕福だったとか
食糧の補給がないから民家に押し入って食料を盗むしかなかった
補給する国力がないのにこんな大作戦「一号作戦」をやって大丈夫かとか
南支に派遣されアメリカ軍の上陸に備えて陣地構築を命じられたが
重火器の支給はまるでなく、これでは勝てないと思ったとか
終戦前後に遭遇した八路軍の戦意の高さや蒋介石直属軍の装備がアメリカ式で
最新鋭だったとか
そんな話がわんさか出ているが
19名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/19(土) 20:25:48.03 ID:UVdsNzb70
自虐史観てやつですかね
20名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/19(土) 21:09:59.41 ID:JNUwi7Qj0
>>18
>著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
>敵の支配地は裕福だったとか

≪児島襄「参謀(下)」のジョゼフ・スチルウェル編より引用≫
「“ピーナッツ”は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ・・・・ (中国政府は)
自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、
ただ金、権力、そして地位だけだ・・・・。手に入るものには何でも頭を下げ、
自分は戦わないように心がける・・・・。“インテリ”と金持ちは子どもを米国に送り、
農民の子どもが戦争に かりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。
 われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士
“ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ―おお神よ!! 」
≪中略≫
当時の米軍は、日本軍と同じく、行軍距離単位は四キロであったが、
その米式訓練をうけたはずの、いやボートナー准将自身がその訓練をした孫部隊は、
一キロ歩いては休み、次に一キロ進んではごろりと道端に寝転がる。
 しかも、頭上に英軍機が飛来して補給物資を投下すると、隊列を
乱してむらがり、悲鳴をあげつつ、下着に利用するパラシュートを奪い合う。
≪中略≫
孫部隊は狂喜した。中国大陸で負けつづけ、日本軍といえばかなわないものと信じていたのに、
その日本軍がひきあげたのである。勝った、勝ったと小銃を空に乱射しておどりあがった。
 ところが、勝ちに乗じた勢いで快進撃するものと期待していた孫部隊は、
たしかに前進は開始したものの、そのスピードは以前にもおとる低速であった。
そして、昭和十九年一月二十九日、孫部隊はついに完全停止した。
 ボートナー准将の急報によってかけつけたスチルウェル参謀長は、にこやかに迎える
孫少将の顔をぼう然と眺めながら、考えこんだ・・・・なぜ、前進しないのか?
≪中略≫
スチルウェル参謀長は、孫少将にかみついた。
「明らかに命令違反である。よろしいか。貴下の第三十八師団は、 全中国軍のなかで
とびぬけて優良な兵器、弾薬、糧食の補給を受けている。 足りないというのなら、
迎撃砲も、火炎放射器も、米兵だってさしあげる。 だが、命令に従うのが条件だ・・・・
もし自分の使命が達せられないようなら、辞職してワシントンに報告せざるをえない」
21名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/19(土) 22:18:32.35 ID:mKpDVVRX0
>>岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、
いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」

事実としてシコウ作戦で日本軍は完全に中国軍に火力で圧倒されて威滅され
四川をせめようとして異民族に敗退し
湖北だったかでは中国軍に追撃された
岡村寧次は現実を見ることはできなかったようだ
日本軍は中国軍を撃破することはできなくなっていた
22だつお ◆t0moyVbEXw :2013/01/20(日) 08:19:24.17 ID:e7v9n7Bl0
>>21
>岡村寧次は現実を見ることはできなかったようだ
>日本軍は中国軍を撃破することはできなくなっていた

また、岡村に蒋介石が接触したことから日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮
の中国名、白鴻亮から)が結成され、1949年(昭和24年)から約20年にわたり中国国民党政権に協力した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1
23名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/20(日) 14:38:50.01 ID:nYOjzwyO0
>>19
ばか?
まぬけ?
頭わるいんだろ
しょうがないなあ
24名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/31(木) 16:46:26.44 ID:WgwyA3Bj0
ってか、中国人なんてゴミみたいなものだろw
25名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/05(火) 03:12:29.42 ID:JFtmzfRn0
南進論が勝って無かったら疾風が飛ぶのも不可能だろう。
終盤は分断されたとはいえ、二年ほどはインドネシアから本土へ
ガソリンを運んでいたんだからな。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/06(水) 19:16:58.73 ID:IF0m0wQg0
ドイツ軍とシベリアで握手してカフカースの石油が日本に来ると妄想してみる
27名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/11(月) 22:20:14.76 ID:FqX4L/7K0
疾風は整備が難しいし
部品の品質管理も難しいから
信頼性に乏しかった
28だつお ◆t0moyVbEXw :2013/02/25(月) 13:39:49.34 ID:0U7g4oRX0
対中援助に寄与したアメリカの「フライングタイガー」
フライングタイガーは「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」の略称であり、1942年4月に創設し、
1946年4月、戦争終了後に解散された。創始者はアメリカ人飛行教官の陳納徳(シェンノート)氏であった。
1938年8月、宋美齢の求めに応じて、シェンノート氏は昆明市の郊外に航空学校を設立し、アメリカ軍の基準
で中国空軍を訓練し、中国空軍の対日戦に積極的に協力した。
1941年、ルーズベルト政府のひそかな支持の下で、シェンノート氏は個人団体の名義で巨額の資金を出して
アメリカ人パイロットとエンジニアを募集した。その年の7月と10月に、200余人もの勇敢で危険を恐れぬ隊員たちが、
対日戦参加のために中国に来た。
31回の空中戦で、フライングタイガーの志願者は5機ないし20機のP-40型戦闘機をもって217機の敵機を撃墜し、
みずからの損失はわずか14機だった。それ以後、「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」はフライング
タイガーのマークを使い始め、そのサメの頭の形をした戦闘機も世に名を知られるようになり、「フライングタイガー」
というニックネームも知られるようになった。抗日戦争が終わるまでに、フライングタイガーは敵機を2600機撃墜し、
積載量223万トン相当の船舶、軍艦44隻、100トン以下の内陸河川の船1万3000隻を撃沈するかあるいは大破させた。
また日本軍将兵6万6700人を撃ち殺した。フライングタイガーの隊員のほとんどは中国政府から賞を授与された。
10余人の飛行士はアメリカ、イギリス政府から飛行十字勲章を授与された。
ここ20年来、生き残りの元フライングタイガーの隊員たちはしばしば中国を訪れ、困難や危険にめげず飛行機の
残骸や戦友の遺骨を探すことに取り組んでいる。
http://japanese.china.org.cn/japanese/170095.htm
29名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/28(木) 01:04:03.39 ID:cygfYo2v0
アメリカの義勇兵は売春したり態度も横柄だった一方で
ソビエトの義勇兵は真摯で品行は方正だったという。
(マジで)
30名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 17:38:33.42 ID:I3iLZxKJ0
 ――日本軍を「足の曲がったごきぶりども」と罵ったのは・・・彼だ
 『中国日記』(J・スティルウェル みすず書房 昭和41年)
 日本軍を中国大陸に縛りつけ継戦能力を奪うことで日米戦争を有利に展開させようと狙ったルーズベルト
によって?介石の許に送り込まれながら、?介石とソリが合わず、最終的にはルーズベルトによって44年秋
に中国戦線米軍司令官兼?介石付参謀を解任されたJ・スティルウェル将軍の日記である。
 「一九四一年十二月七日 日本軍はハワイを攻撃」からはじまり、「(1944年)十月二十七日 
夜明けに飛行場を去る。午前八時、中国・ビルマ・インド戦区の最後」で終わる日記の間に、時に戦意昂揚し、
時に意気消沈し、時に悲憤慷慨し、時に茫然自失し、時に辛吟慨嘆する心情を赤裸々に綴った夫人宛の
数多くの手紙が収められている。41年から44年秋までの日本軍に対するルーズベルト、米軍首脳陣、
?介石、宋美齢夫人ら側近たち、国民党軍首脳、加えるに中国共産党などの幾重にも絡み合った利害関係
(対日戦勝利という“大義”から個人的利権まで)が、スティルウェルの立場から詳細に綴られている。
あの戦争の動向のみならず現在に繋がる米中関係の“深い闇”を知る上では貴重な資料だ。
 行間からスティルウェルの持つ狷介な性格が読み取れるが、それにしても、「ピーナッツ」「小男のでくの坊」
「小男の成上がり者」「握り屋で、偏屈で、恩知らずのがらがら蛇」「愚鈍で強情」「チビのばか野郎」「底抜け
の愚鈍さ」「小さながらがら蛇」「ゲシュタポと党諜報機関によって支えられた一党政府の長」「強欲、汚職、
えこひいき、増税、幣制の崩壊、おそるべき人命浪費、あらゆる人権の冷淡な無視」「名義上の頭首」
「その資格と業績に比して度はずれなアメリカでの宣伝によっておしたてられている」と止め処なく飛び出す
?介石に対する凄まじい悪罵。こんな気持ちで対応されたら、流石の?介石も頭にきた筈だ。
 国民党に対しては、「自分の見たところによって判断する。〔国民党〕汚職、怠慢、混乱、経済、租税、
言葉と行為、退蔵、闇市場、敵との取引」と辛辣極まりないが、一方の共産党に対しては「共産党の綱領
・・・・・税金・地代・利子の引下げ。生産と生活水準の高揚。統治への参加。宣伝していることの実行」と
極めて寛容で好意的な判断を記している。

 ビルマ戦線で苦戦を強いられた日本軍に対しては、「私の希望は、そのうちこの野郎ども(日本軍)を踏みつぶし、
戦争を終わらせることです」「足の曲がったゴキブリどもがどうやってわれわれの平和な生活をぶちこわしたかを考えると、
アジアの一つ一つの街灯にジャップの腸をまきつけてやりたくなります」と、想像を絶するまでに憎悪の念を隠さない。
 スティルウェルが綴っている日米開戦の日から44年秋までの日本をめぐっての米、中、さらには英国、ソ連の
“対日戦争勝利後”の中国をめぐっての虚々実々の駆け引きと同様に興味深いのが、この本の出版そのものだろう。
 「訳者あとがき」で、その戦中の戦績・業績に比してスティルウェルが余りにも不当に扱われていると憤慨した後、
この本が「どちらかと言えば冷戦時代の本国でよりも、むしろ世界の民主的世論に歓迎されたことが特徴であ」り、
「この日記をもっとも詳しく紹介したのはソ連の雑誌『新時代』であったことは偶然ではない」とし、スティルウェル
に対し「中国の反人民的な指導者ではなしに、抑圧されている人民のうちに自己の理想の支柱を見出そうとした」
「真の中国の友人として敬愛された」と熱烈な“讃辞”を送っている。
 翻訳者は満鉄調査部に巣くった左派代表格の石堂清倫。出版は「民主的」なみすず書房。出版された昭和41
(1966)年といえば、70年安保闘争の前夜だ――この3者の結びつきの背後に何やら政治的意図が感じられる。
(拙稿809、835回を参照願えましたら幸甚)《QED》
http://mizuhonokuni.sblo.jp/article/61945095.html
31名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:39:16.33 ID:fRUep3Pz0
とにかくエンジン、いちにもににもエンジン。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/20(水) 17:07:53.72 ID:M17z1cY20
B-29撃墜目指して開発 関係者が語る幻の戦闘機(前半)http://news.rcc.jp/?i=MjAyNDU=&#a
 特集です。10万人以上が亡くなったとされる東京大空襲から今月10日で68年がたちました。多くの犠牲者は、アメリカの爆撃機Bー29の無差別爆撃によるものでした。
 その後、広島での原爆投下にも使われたBー29。その撃墜を目指した日本軍の幻の戦闘機がありました。関係者の証言です。
 (瀬尾斎さん)「模型のBー29が飛んで来るのを、雨の日は、ぴゃっと600!言うて押す。600m先で秋水の30ミリの機関銃がちょうど交差するように設計されとるから」
 神石高原町の瀬尾斎さん、現在84歳です。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20245.jpg
 旧制府中中学在学中、16歳で海軍の予科練に志願し、「ゼロ戦乗り」を目指しました。成績優秀と評価され、秘密兵器のパイロットに選ばれます。
 その秘密兵器が、Bー29撃墜のため開発が進められていたロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」です。
 太平洋戦争末期、Bー29は日本上空に次々に飛来、終戦までに200を越える都市を攻撃しました。
 対応に迫られた日本軍は、終戦が近い1944年、当時同盟国だったドイツから潜水艦を使って設計図を取り寄せ、
陸海軍の総力を挙げて「秋水」の開発を進めたのです。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20245_L.asx
 時速は800キロ。ロケットの推進力を利用し、Bー29が飛ぶ高度1万メートルまで日本のプロペラ戦闘機なら40分は
かかるところを、わずか3分30秒で到達する設計でした。
 秋水の訓練パイロットだった瀬尾さんが書いているのは帽子ではありません。
急激な気圧の変化に体を慣らすための低圧タンクです。高度1万メートルと同じ低い気圧になるとあることで大変困ったそうです。
 (瀬尾斎さん)「そうすと、こうやっとくとだんだん腹がふくれたり、おならが出ていけん様になる」
 そのため秋水のパイロットには、白米に加えガスの出にくい高カロリーの肉や牛乳を支給されたそうです。
 (瀬尾斎さん)「へいじゃけえねー、ものすごいええ食事をさしてもらいよった」
 日本軍が力を注いだロケット戦闘機の開発―。終戦が刻々と迫っていました。(3/14 19:16)
33名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/20(水) 17:11:54.01 ID:M17z1cY20
B-29撃墜目指して開発 関係者が語る幻の戦闘機(後半)http://news.rcc.jp/?i=MjAyNDQ=&#a
 (鍵本文吾記者)「呉の大和ミュージアムにきています。こちらの展示物なんだかおわかりでしょうか。太平洋戦争末期、日本軍が開発した秘密兵器の一部なんです」
 この壺のような鋳物製の部品は、秋水のロケットエンジンの燃焼室とノズルです。戦艦大和を作った呉の広海軍工廠で作られました。
 2種類の薬品を化学反応で爆発させ、そのエネルギーを飛ぶ力にします。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20244.jpg
 日本には、ゼロ戦などの優秀な戦闘機があったのに、ドイツから設計図を運んでまでなぜ秋水のようなロケット戦闘機が必要だったのでしょうか。
 (大和ミュージアム 戸高一成館長)「当時の日本は1万メートル上空の爆撃機(Bー29)を撃墜する方法がなかなか
無くて、当時ドイツで開発してましたロケット戦闘機の資料をもらってですね日本で作ったのが秋水で。
ですから、ゼロ戦なんか非常に有名で優秀な戦闘機なんですけれども1万メートル上空で戦うことを想定していないので実際問題としては非常に難しかったんですね」
 しかし当時、従来の戦闘機でBー29を撃墜した人がいます。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20244_L.asx
 廿日市市に住む太刀掛俊雄さん、91才。岐阜県の川崎航空機で軍用機のテストパイロットをしていました。
 1945年1月のこと。Bー29が名古屋を空襲するため現れます。
 太刀掛さんは、工場の滑走路にあった戦闘機「飛燕」に飛び乗り、伊勢湾上空で一機を打ち落としました。
 (太刀掛俊雄さん)「高度8000メートルで伊吹山の上空から名古屋の方に向けて右旋回した。
Bー29の編隊へ向けて私が後ろから追っていって、編隊の下をもぐったわけ。そして2号機へ向けて、20m4門機関砲を発射して」
 ただ、太刀掛さんのようなケースはきわめてまれでした。
 太平洋戦争中のBー29の延べ出撃機数は3万3000機に対して、失われた機体は714機。損失率は2.2%と極めて低い割合でした。
 (市場久一さん)「うーん、やっぱりあのゼロ式艦上戦闘機というのにね、なんと言いますかね、
こだわり過ぎるというか、その後継機を早急に作り上げるという事に対する熱意が海軍にもなかったんじゃないかと思います、はい」
 島根県松江市に住む、市場久一さん、88歳。ゼロ戦の改修などの仕事をしていました。
 秋水は、名古屋の三菱重工の工場で作ることになり、まだ21歳だった市場さんも加わって操縦装置の設計を担当しました。
 ドイツから苦労して持ち帰った設計図は名ばかりで、実際はごく簡単な図面だったといいます。
 (市場久一さん)「私が担当した操縦装置にしてもいわゆる想像でやるしかないという面が沢山ありましたからみんな苦労したと思っています」
 徹夜も続いた突貫作業の末、ドイツでは3年かかった開発を1年で終えました。
 1945年7月、横浜の海軍基地での試験飛行。秋水は見事に離陸します。しかし、燃料タンクのトラブルで墜落、初フライトは失敗に終わりました。
 時は終戦目前。結局、秋水はBー29を1機も撃墜することなくその歴史に幕を下ろしました。
 (市場久一さん)「何か計画では、敗戦の次の年、3千機ぐらい作るという構想もあったように聞いていますんでまあ陸海軍も本気だった様ですね。これがあったらと言う」
 もし、秋水が早く実用化されていたら広島・長崎への原爆投下も防げたのでしょうか。
 (大和ミュージアム 戸高館長)「もしですね、仮に量産されたとしてもですね、実際に飛べる時間が3分少しかないんですよ。
ですからよほどコントロールしないと飛び上がってBー29の真下にたどり着くことができないですし、
機体が出来てもですね、実際の運用と言うのはきわめて難し方というのが現実だと思います」
 秋水のパイロット訓練を受けていた瀬尾斎さんは、茨城県の霞ヶ浦で終戦を迎えました。豪華な食事の待遇も様変わりしました。
 (瀬尾さん)「それが戦争に負けた言うたとたんににね、大根の葉っぱを入れたようなご飯に変わってしもうた」
 日本軍が秘密裏に開発を進めたロケット戦闘機「秋水」。アメリカよりも工業力が劣っていた当時の日本の限界を示すエピソードです。(3/14 19:16)
34だつお ◆t0moyVbEXw :2013/03/22(金) 10:05:11.28 ID:jjV4bxhv0
>>33
>当時ドイツで開発してましたロケット戦闘機の資料をもらってですね

1945年4月初めまでに、ルフトバッフェは1,200以上のMe262を受領しました。
その月においては戦闘機用配備が最高になりますが、ピークでも200機以下で、
戦闘部隊に供給されたのは生産機数の6分の1程度でした。
実用性はお粗末なままで、60%あたりをさまよっていました。Me262が昼間
戦闘機として飛ばされたのは最大でも57機にすぎず、それは1945年4月7日のことでした。
By the beginning of April 1945 the Luftwaffe had accepted more than 1,200 Me 262s.
The month saw the high point in the fighter's deployment, yet at the peak fewer than 200
of these aircraft, or about one in six of those built, served with combat units.
Serviceability remained poor, hovering around the 60 per cent mark. The largest number
of Me 262 day fighter sorties flown on a single day, only 57, was on 7 April 1945.
http://nazi.org.uk/military%20pdfs7/TheLastYearOfTheLuftwaffe-May1944-May1945.pdf

(SATURDAY, 7 APRIL 1945)
EUROPEAN THEATER OF OPERATIONS (ETO)
STRATEGIC OPERATIONS (Eighth Air Force): Mission 931: 1,314 bombers and 898
fighters are dispatched to hit airfields, oil and munitions depots and
explosive plants in C and N Germany; all primary targets are bombed visually;
they meet 100+ conventional fighters and 50+ jets; the German fighters attack
fiercely and in the ensuing air battle down 15 heavy bombers; the AAF claims
104-13-32 aircraft including a few jets:
http://paul.rutgers.edu/~mcgrew/wwii/usaf/html/Apr.45.html

 戦闘機不足の一つの理由は、ジェット機を製造する工場と、その組み立て
をする飛行場を、第15航空軍が何度も執拗に爆撃していたからだった。ドイツ
は一四〇〇機のジェット戦闘機を製造したが、そのうちのごくわずかしか飛ば
せなかった。レーゲンスブルクの飛行場はこの戦闘機の基地の一つだった。
第15航空軍が一九四五年二月八日の偵察飛行で撮影した写真では、四八機の
ME262が飛行場に駐機していた。第15航空軍は何度もこれに攻撃を加えた。
第455爆撃機群と、そこに属する第741飛行隊も、この二月の攻撃に参加
した。爆撃機群は一二機のME262を破壊し、四機に損傷を負わせた。他の
爆撃機群も同じような損害を与えていたから、敵は壊滅したも同然となった。
その後、ME262が単独で、あるいは小集団を組んで現われることはあったが、
飛行隊規模の編隊で出現することはついぞなかった。陸軍航空軍の公認の歴史
にもこう記されている。「あの優秀なジェット戦闘機が現われるときはいつも
少数だった・・・・・・ほとんど抵抗されることなく、ある飛行場から別の飛行場へと、
あるいはドイツの前線の背後に閑散としたアウトバーンへ飛んでいくさまは
ドタバタ喜劇のようだった」
<S・アンブローズ「ワイルド・ブルー」 >

Here is a breakdown for the US, British and German training for fighter pilots.
(ドイツ空軍の飛行訓練時間の推移)
http://www.taphilo.com/history/8thaf/8aflosses.shtml
35だつお ◆t0moyVbEXw :2013/03/22(金) 10:53:30.85 ID:jjV4bxhv0
>>33
> 太平洋戦争中のBー29の延べ出撃機数は3万3000機に対して、
>失われた機体は714機。損失率は2.2%と極めて低い割合でした。

議事録には次のようなイーカーの言葉が引用されている。
「日本にたいし航空兵力のみの使用を主張する者はきわめて重大な事実を見過ごして
います。それはつまり、航空機のみが敵と対決するときは、航空兵の死傷者数は決して
低下しないという事実です。現在の航空兵の死傷者数は一度の任務につきおよそ二パー
セントであり、一月当たりでは約三〇パーセントです」イーカーは続けた。
「時期を逸すれば、敵が有利になるだけです」
「日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌」(T・アレン&N・ボーマー著)

"GENERAL EAKER said that he agreed completely with the statements
made by General Marshall in his digest of the memorandum prepared
for the President. He had just received a cable in which General
Arnold also <page 559> expressed complete agreement. He stated
that any blockade of Honshu was completely dependent upon airdromes
on Kyushu; that the air plan contemplated employment of 40 groups
of heavy bombers against Japan and that these could not be deployed
without the use of airfields on Kyushu. He said that those who
advocated the use against Japan of air power alone overlooked the
very impressive fact that air casualties are always much heavier
when the air faces the enemy alone and that these casualties never
fail to drop as soon as the ground forces come in. Present air
casualties are averaging 2 percent per mission, about 30 percent
per month. He wished to point out and to emphasize that delay
favored only the enemy and he urged that there be no delay.
http://www.endusmilitarism.org/casualty_projections_Giangreco.html

>現在の航空兵の死傷者数は一度の任務につきおよそ二パーセントであり、一月当たりでは約三〇パーセントです

正真正銘のB-29です。尾翌の番号から、機体製造番号は、45-21739で、
米国のB-29関連のHPに記載の番号と同じでした。展示説明板には、
ハングルの他に英文で次ぎのように説明していました。
『世界的に有名なB-29は、第二次世界大戦と韓国戦争の3年間を通して
任務を果たした。韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000
tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。
この超空の要塞は、18個に分解され、1972年3月にカリフォルニアの
チャイナレイクからソウルへ輸送した。そのB-29は韓国空軍によって
再組み立てされ、そして、1972年8月以来Yoid Museumに展示された。』
http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.trip/trip.korea.html

COMBINED SUMMARY OF 20TH AIR FORCE & 9TH GROUP OPERATIONS
     20TH AIR FORCE                 9TH BOMB GROUPC
     From June 5, 1944 on             From February 9, 1945 on
Missions          380                        75
Sorties        
Combat          31,387                       1843
Other           1,617                        169
Total           33,004                       2012
Bomb and
mine tonnage      171,060                      11,376
B-29 losses
Combat losses      494                   14 + 5 non-combat
Training losses in U.S.  260                          1
Air crew losses
Killed             576                26 + 1 ground crewman
Missing           2,406                  96 (12 repatriated)
Wounded or injured    433                         30
http://www.9thbombgrouphistory.org/Chapters/Chapter_07.pdf
36だつお ◆t0moyVbEXw :2013/03/22(金) 10:58:08.52 ID:jjV4bxhv0
>>33
> 太平洋戦争中のBー29の延べ出撃機数は3万3000機に対して、
>失われた機体は714機。損失率は2.2%と極めて低い割合でした。

ところで太平洋戦線でアメリカは27,000機もの航空機を失ったって知ってるか?
欧州戦では未生還機に修理不能損傷機(damaged beyond repair)を加えても18,000機なのに対し。

Aggregate United States plane losses during the course of the
Pacific war, not including training losses in the United States,
were approximately 27,000 planes. Of these losses 8,700 were
on combat missions; the remainder were training, ferrying and
other noncombat losses. Of the combat losses over 60 percent
were to antiaircraft fire.
http://www.anesi.com/ussbs01.htm

In the attack by Allied air power, almost 2,700,000 tons of bombs
were dropped, more than 1,440,000 bomber sorties and 2,680,000
fighter sorties were flown. The number of combat planes reached a
peak of some 28,000 and at the maximum 1,300,000 men were in
combat commands. The number of men lost in air action was 79,265
Americans and 79,281 British. [Note: All RAF statistics are
preliminary or tentative.] More than 18,000 American and 22,000
British planes were lost or damaged beyond repair.
http://www.anesi.com/ussbs02.htm

なお、第二次世界大戦における航空機の損失は、事故や自然損耗のほうが圧倒的に多い。
また太平洋戦線では、公式統計の米軍死者406,000人の他、行方不明者もそれとは別に存在する。

 大体においてヨーロッパ戦域は、ジャングル病、マラリア、デング熱、
そのほか熱帯特有の病気に冒されないだけでも、まともな戦場といえた。
大戦中もっとも病気が恐ろしかった戦場は二つあり、一つはビルマで、
もう一つはニューギニアだった。イギリス軍の経験では、一九四三年
にビルマ戦線で戦闘による負傷者を一人後方に移送するたび、戦闘以外
の原因で後方に移送する者は百四十人を数え、その大半がマラリア
および他の熱帯性の病気の罹患者だった。この数字は一九四四年には、
徹底した防御策と新薬の導入により六十人に落ち、一九四五年には
四十人へと激減した。それでもなお、罹患者数は実に多い。
 アメリカ軍に目を向けてみよう。アメリカを離れなかった軍人や非戦
闘区域にいた軍人などを含め、アメリカ軍全体で考えると、戦闘による
負傷で戦闘不能になった者の率は、わずか一八%にすぎない。ビルマ、
ニューギニア、その他の熱帯地域で戦った軍人は、イギリス軍と同様、
数多くの熱帯性疾病の危険にさらされた。罹患者は敵軍による負傷者
より多い。敵軍がいなくても、病気の危険は去ってくれないからだ。
 アメリカ軍はメラネシアにあるサンタクルス諸島のヌデニに飛行
基地をつくろうと企てたが、多数の工兵が次々とマラリアに倒れ、
計画を放棄せざるを得なかった。それに加え「内国地帯」(軍事用語
=交戦国内で作戦地域を除く地域)での事故率が、飛び抜けて高かった。
一九四三年だけで、軍事関係の飛行事故で五千人が死んでいる。
<第二次世界大戦 あんな話こんな話 / J・F・ダニガン/著 A・A・ノーフィ/著 大貫昇/訳>
The German surrender on 8 May 1945, and the Japanese surrender on 15
August 1945, together marked the end of World War II. Of the estimated 16
million Americans who served during the war, 406,000 had died and almost
79,000 were missing. The war with Germany resulted in roughly 24,000
unaccounted-for, and with Japan over 54,000.
http://www.dtic.mil/dpmo/news/special_reports/documents/2000_wwii_report.pdf
37だつお ◆t0moyVbEXw :2013/03/22(金) 11:21:18.99 ID:jjV4bxhv0
>>36
>また太平洋戦線では、公式統計の米軍死者406,000人の他、

訂正。

また太平洋戦線でも欧州戦線でも、公式統計の米軍死者406,000人の他、

なお、

http://www.dtic.mil/dpmo/news/special_reports/documents/2000_wwii_report.pdf

はリンク切れ。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/22(金) 14:32:27.65 ID:2gL+k2Qn0
>>36
>一九四三年だけで、軍事関係の飛行事故で五千人が死んでいる。

World War II (1941-1945)
Total            293,121   670,846     115,185
European Theater   185,179    498,948     66,805
Pacific Theater     107,903    171,898     48,380
http://www.vfw.org/PR/Media%20Room/AmericasWarDead1775_2009.pdf

 太平洋戦争の特徴の一つは、非戦闘要因で破壊された航空機が多いことだ。
 戦争全体を通して見ると、敵前の行動で失われた航空機は、たったの25%にすぎない。
 残りの原因は天候不順、空母からの発着艦ミス、急造滑空路による事故と、熱帯性気候による航空機の損傷だった。
こうした太平洋独特の状況のため、航空機のロスは欧州戦線などよりはるかに高かった。
 アリューシャン作戦では、なんと87%が非戦闘要因による損害だった。
 たしかにアラスカには熱帯性の気候はなかったが、北極の悪天候が航空機の寿命を大幅に短縮したのである。
「第二次世界大戦 あんな話こんな話」 ジェイムズ・F・ダニガン
アルバート・A・ノーフィ 大貫昇=訳 文春文庫,P295
http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/58.html

>>36
>406,000 had died and almost 79,000 were missing.

World War II ended on August 15, 1945 . Nearly 406,000 of the 16 million Americans who
served in the war died. At the end of the war, the USG was unable to recover, identify,
and bury approximately 79,000 as known persons. They include those buried with honor as unknowns,
those lost at sea, and those missing in action. That number also includes the 1,100 sailors entombed
in the USS Arizona Memorial in Pearl Harbor. Today, more than 78,000 Americans remain unaccounted-for from WW II.
http://forums.army.ca/forums/index.php?topic=64228.0;wap

大戦中、アメリカ陸軍が指揮下に置いた船舶数は十一万一千隻。これに対しm
海軍は一万四千隻から一万七千隻(船の分類の仕方で変わってくる)の戦闘艦
を指揮下に置いた。船の数でいえば陸軍のほうが多いわけだが、ただし陸軍は
一隻の軍艦ももっていなかった。
 第二次世界大戦での上陸作戦のほとんどは陸軍が主導権をにぎっていたのだから、
陸軍が大船団を擁していても不思議はないかもしれない。陸軍は千六百二十五隻の
小型(千トン以下)外航船、それに一万一千百五十隻の内航船(曳き船、機雷敷設船、
燃料用艀、浚渫船などを含む)ももっていた。こういう分野は海軍が手を出したがらない。
<第二次世界大戦 あんな話こんな話 / J・F・ダニガン/著 A・A・ノーフィ/著 大貫昇/訳>

世にも奇妙な「空軍であって地上戦闘軍」
<中略>
 ドイツ空軍地上軍の半分以上は,高射砲部隊に属していた.
 いちばん多いとき(1944年末)は100万の兵士(数千人の女性兵士含む)が,2万基以上の空軍
(陸海軍所属の高射砲は別にある)の対空砲とサーチライト部隊に配属された.
 連合軍の進撃にともない,これら後方基地の高射砲部隊が前線に位置する結果になった.
ドイツ軍は地上の敵と戦うことも予想して高射砲をデザインし,兵士をも訓練してあった.
――――――第二次世界大戦 あんな話こんな話 / J・F・ダニガン/著 A・A・ノーフィ/著
http://keshiintokorozawa.web.fc2.com/faq08a04o07.html
39名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/08(水) 17:04:24.52 ID:ggfniBuw0
ドイツ空軍は、米空軍に敗れる以前に、ソ連空軍にも敗れていたと思う。

Crew training was important to all national air forces. Throughout the war the amount of time spent on
training decreased for all air forces. Here is a breakdown for the US, British and German training for fighter pilots.
http://www.taphilo.com/history/8thaf/8aflosses.shtml

上の独・英・米それぞれの飛行時間推移をご覧頂きたい。

特に注目すべきは、「1939 TO SEPT 1942」と「OCT 1942 TO JUNE 1943」で、
独空軍と英空軍の飛行時間の差が大きく逆転していることだ。
また1943年の米空軍は、シュヴァインフルト航空戦の失敗などで、戦略爆撃を断念していたはずだ。
それから航空機の損害機数でも、独ソ戦の前後で大きく変化している。
つまり独空軍はバトルオブブリテンでは負けてはいなかったが、独ソ戦では負けているということだ。

Luftwaffe Aircraft Used Only Against Allied Bombers
Month Year Percentage
June 1940 0%
June 1941 7%
June 1942 17%
June 1943 21%
June 1944 29%
January 1945 50%
http://www.angelfire.com/ct/ww2europe/stats.html

「Only Against Allied Bombers」は、米英戦略爆撃に対してのみの割り当てであろうが、
1943年の6月では21%に過ぎず、米英戦略爆撃が独空軍を弱めたとは考えられない。
1943年に独空軍の飛行時間が縮まったのは主として独ソ戦によるもの。
再度繰り返すが、1943年はシュヴァインフルト航空戦など、米空軍は戦略爆撃を断念していた時期だ。

戦線別ドイツ軍戦死者統計
Losses per theater
Theater      Dead      %
Africa       16.066     0,3   ←アフリカ戦線ww
Balkans      103.693    1,9
 North      30.165     0,6
 West       339.957    6,4
 Italy       150.660    2,8
Eastern Front
(- Dec 1944)  2.742.909    51,6   ←ソヴィエト赤軍は
Germany (1945) 1.230.045   23,1   ←頼もしいよなぁ♪
Various       245.561   4,6
 Total       4.859.056
http://www.axishistory.com/axis-nations/germany-a-austria/144-germany-unsorted/statistics/2461-german-losses-per-theater

くだらない西側の反ソ宣伝に騙されないよう気をつけような。

               あ  り  が  と  う  ソ  連  邦  !
40名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/13(月) 23:31:49.69 ID:ffeiUKvu0
【日露】「無条件降伏で失った北方領土、何の根拠もない日本は黙れ」ロシア副首相、日本の要求を一蹴[04/25]
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1366898746/

ロシアのロゴジン副首相は24日までに、
北方領土問題に関連し「われわれは領土論争が好きではない。特に何の根拠もなければなおさらだ」と述べ、
日本の領土返還要求を一蹴した。英BBC放送(ロシア語版)のインタビューで答えた。
 副首相は「日本の仲間はメドベージェフ首相に、南クリール諸島(北方領土)に行くのは良くないと指摘する。
無条件降伏し自ら開始した戦争の結果として失った領土に関して、日本は黙っているべきだと注意を促したい」と語った。(共同)
41名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/01(土) 08:06:05.48 ID:q8f2saH60
旧ソ連の技術水準は、核開発で比較するとアメリカよりも4年遅れだが、イギリスに対しては3年早かった。
これでソ連とイギリスの技術開発力の差が、誰の目から見ても明確になってしまった。

旧ソ連の核開発
1949年 8.29. セミパラチンスク核実験場で原爆実験に成功し、アメリカの原爆独占を終結させる
1953年 8.12. 水爆実験に成功
イギリスの核開発
1940年 原爆生産の可能性を検討する科学者委員会が設置される
1943年 アメリカのマンハッタン計画に参加
1946年 原子力研究所を設立し、独自の原爆開発計画を推進
1952年 10.03. オーストラリアのモンテベロ島で原爆実験に成功
1957年 5.15. クリスマス島で水爆実験に成功
2002年 2.14. アメリカと共同で臨界前核実験を実施
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pNuclear1_1.html

3年といえば、日本が本土空襲のころになってようやく南方で鹵獲した米英レーダーをコピー生産の
後に実践運用したくらいの期間である。原子爆弾という最強兵器でイギリスより3年早いということは、
ソ連の技術水準がイギリスと比較していかに高かったかを如実に語っていることになろう。
同じ戦勝国でありながら技術力でイギリスはソ連に大きく遅れて、世界の物笑いの種となった。
二番のソ連にさえ遅れているのに必死こいて三番目に核開発なんて、列強工業国として非常にみっともない。
こんなことなら「非核三原則」を理由に、イギリスは戦勝国でも核兵器は持ちませんということにすべきだった。
核開発をする実力はあるが、あえて「非核三原則」の理念を守るということで、核開発を止めたほうが列強としての面子が保てたろう。
まさにソ連の核兵器はアメリカの原爆独占を終結させイギリスをコケにし、しかも誰も殺さなかった「清潔な核兵器」だった。

              あ   り   が   と   う   ソ   連   邦   !
42名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:YVc+/xdMP
>>18
>著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
>敵の支配地は裕福だったとか

そりゃ米軍が援助してるんだから、当たり前だがな。蒋介石軍は、本当に恥ずかしい。

 一九四四年四月、日本軍は一五個師団に五個旅団を合わせて侵攻を開始した。
これを迎え撃つべき中国軍三〇万は、あっという間に姿を消してしまった。
五百人ほどの日本軍部隊に、何千という中国軍部隊が敗走させられた。中国軍
の指揮官たちは、自分たちの家族と財産を奥地に避難させるべく、トラック
隊を指揮した。シェンノートは、もしスティルウェルがもっと十分な「貸与法」
物資をこれらの中国軍部隊に与えてくれたら、こんなことにはならなかったはず
だと主張した。しかし、実際はこれらの部隊はたっぷりとアメリカの物資が供給
され、指揮官たちはそれを闇市や日本軍に売りとばしていたほどだったのだ。
<「宋王朝 下」(スターリング・シーグレーブ サイマル出版会)>
43名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/18(水) 21:43:11.61 ID:N4eWqasbP
『世界的に有名なB-29は、第二次世界大戦と韓国戦争の3年間を通して
任務を果たした。韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000
tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。
この超空の要塞は、18個に分解され、1972年3月にカリフォルニアの
チャイナレイクからソウルへ輸送した。そのB-29は韓国空軍によって
再組み立てされ、そして、1972年8月以来Yoid Museumに展示された。』
http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.trip/trip.korea.html

>韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000
>tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。

COMBINED SUMMARY OF 20TH AIR FORCE & 9TH GROUP OPERATIONS
     20TH AIR FORCE                 9TH BOMB GROUPC
     From June 5, 1944 on             From February 9, 1945 on
Missions          380                        75
Sorties        
Combat          31,387                       1843
Other           1,617                        169
Total           33,004                       2012
Bomb and
mine tonnage      171,060                      11,376
B-29 losses
Combat losses      494                   14 + 5 non-combat
Training losses in U.S.  260                          1
Air crew losses
Killed             576                26 + 1 ground crewman
Missing           2,406                  96 (12 repatriated)
Wounded or injured    433                         30
http://www.9thbombgrouphistory.org/Chapters/Chapter_07.pdf

朝鮮戦争の中朝軍と比べたら、旧軍の対空火力は10倍以上。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/19(木) 13:10:27.53 ID:kQekjjPq0
戦後ドイツでは鍵十字のナチス国旗を掲げることはおろか、ナチス擁護の
発言も取り締まりの対象になったとのこと。

これに対して日本は日の丸を堂々と掲げられて、中国人差別も平気でやれる。
中国人をチンピラゴロツキとか蛆虫とかゴキブリとか呼んでも全然平気。
つまり皇軍はドイツ軍とは違い、完全に負けたわけではなかったのだ。
負けは負けでも太平洋の日米戦に限定され、日中戦争は最後まで無敵皇軍。
日の丸はかつて大陸打通作戦中国チンピラゴロツキ殺戮街道3000キロで
皇軍が勇名を馳せたシンボルで、中国人に計り知れない恐怖を思い起こさせる。

大東亜戦争は正当防衛だったが、戦力が敵に及ばなかっただけ。
あの戦争を「侵略戦争」呼ばわりするのであれば憲法九条改正なんてやるな。
戦争は大東亜戦争のような大義名分の大きい戦争だけが肯定される、
そうでなければ憲法第九条の平和主義は守られるべきだと自分は考える。
また大東亜戦争は東洋平和のための戦いだから、平和憲法の条項に反しない。

ただし中国人が「東洋平和」と聞くと、これは東洋鬼が平和と叫びながら
大陸打通作戦3000キロを進撃してくる姿を想像して恐怖を感じるであろう。

     9 7 式 中 戦 車 チ ハ

それは機械的信頼性と燃費効率と走行性を兼ねそろえた、現在の日本自動車
産業の先駆けともいえる、世界最先端の自動車製造技術の象徴とも言えよう。
これはあくまで戦車ではなく、中国のチンピラゴロツキ蛆虫ゴキブリドブネズミ
サナダムシ専門の高性能機動殺戮マシーンであったのだ。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/19(木) 13:43:22.72 ID:kQekjjPq0
中国人という生き物は、ただただ日本軍に虐殺されるために涌いてきた、殺戮の標的物でしかなかった。
日中戦争は中国のチンピラゴロツキの大発生が原因で、チンピラゴロツキが増えすぎて増えすぎて、
皇軍が虐殺しなければ地球上がチンピラゴロツキだらけになってしまうところだった。
それからチンピラゴロツキを虐殺するのは楽しいし、また虐殺したチンピラゴロツキから物資を調達できた。
さらに言えば中国人を虐殺して、虐殺した中国人をすり潰して脂を抽出して、航空燃料にすればよかった。

さらにいえば米軍は朝鮮戦争でそのチンピラゴロツキ相手に大苦戦。皇軍の97式中戦車チハが
中国人を虫けら同様に虐殺してきたのと比べて、米軍の弱体ぶりは笑うべきものがある。
97式中戦車チハは戦車というよりは中国のチンピラゴロツキ専門の殺戮マシーンで、
それはまさに『地獄の大車輪』または『走るアウシュビッツ』と呼ぶにふさわしかった。
46だつお ◆t0moyVbEXw :2014/01/02(木) 13:53:24.70 ID:NyxZH/O10
>>18
>著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
>敵の支配地は裕福だったとか

中国社会の近代化を半世紀遅らせた
中国社会の近代化を半世紀遅らせた
中国社会の近代化を半世紀遅らせた

 ◇計算できない物質的財産の破壊
 「日本の侵略戦争が中国に与えた財産上の損失も、莫大で驚くべきものだ」、戦争中、日本軍はいたるところで、
狂気のように公共や個人の財産を略奪し、文化遺産を破壊し、鉱物・森林資源を採掘、伐採し、偽札を発行し、
軍事・民生施設を焼き払い、爆破し、中華民族の物質的精華は日本侵略者によってほとんど全部奪い去られた、卞博士はこう指摘した。
 この数年、抗戦時代の損失問題を研究し続けてきた卞博士は、当時、直接戦禍にみまわれなかったチベット、
新疆の両省クラス行政区を除き、残りの省は全部または部分的に陥落するか、一部が戦場になり、多くの都市、
郷・鎮が日本軍の盲爆にさらされたとみている。
 卞博士は、近年の研究結果で、全戦争期間中、中国が受けた直接の財産損失は1000億ドル、間接的損失は5000億ドル
に達することが明らかになったと語った。
 「むろん、戦争状態という制約から、抗戦の損害調査は、時間的完全性からも、空間のカバーという点からも、
極めて不完全なものである」、「日本の侵略戦争が中国に与えた巨大な物質的財産の破壊と壊滅ぶりについて、
正確な回答をみつけるのは不可能に近い」、卞博士はこう語った。
 そして日本の侵略戦争がもたらした大きな傷が、中国の近代化プロセスの重大な障害になったことは、学術界で突っ込ん
で研究する必要があると強調した。
 ◇中国社会の近代化を半世紀遅らせた
 日本の侵略戦争は中国社会に一大災難をもたらした。それは国家の安全、主権独立と領土保全を著しく破壊し、
中国の物質的、文化的財産に巨大な損失を与え、中国社会の発展と進歩を著しく停滞させることになった。
 卞博士は、「中国は世界の反ファシズム戦争中に最もひどい被害を受けた国であり、この戦争のために、
中国のように大きな犠牲を払った国はほかにないというのは少しも誇張ではない」と述べた。
 さらに、戦後の中国政府は国際情勢の変化に迫られ、また中日両国人民の友好への願いから、戦争被害の損害賠償請求
を放棄したと指摘、「しかし、中国は賠償請求を放棄したからといって、決してわが民族が受けた災難と損失を忘れたわけではない。
中国人民は永遠に日本軍がかつて中国で犯した戦争の罪悪と反人道的暴挙を忘れることはない」と述べた。

日本の侵略戦争は中国にどれだけの損害を与えたか 新華社解説
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/qqq115/t202631.htm
47名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/21(火) 13:40:51.77 ID:w8yJwes0P
米軍はB-29による成都から日本への爆撃には、1機あたり23トンの軍需
品(燃料、爆弾、弾丸等)が必要と考えていた。そのため、B-29、100機分と
成都防空の戦闘機が必要とする軍需品を合わせて、最低6,000トンの物資の
集積が必要であった。最新鋭の「超空の要塞」も石油がなければただのアル
ミの物体に過ぎないのである。
 昭和19(1944)年6月13日、ようやくカルカッタに待機する第20航空
軍所属の第58爆撃団(B-29)に出撃命令が下った。機体には250kg爆弾2ト
ンが積み込まれた。成都では燃料の補給だけが行われた。
 昭和19(1944)年6月15日午後、B-29、75機が成都の飛行場を離陸した。
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/4/4367/201105_065e.pdf

9)在華米空軍は,1941年初めに結成された米人の義勇空軍「フライング・タイガーズ」が
発祥であり,その後42年 7 月に正式に米陸軍航空部隊に改編されて第23追撃隊となり,さ
らに翌43年 3 月に米陸軍第14航空軍に改編された。44年 4 月30日現在の配備機数は,偵察
機10(P38),戦闘機294(P38,P47,P40,P51),爆撃機168(B24,B25)の472機であり,
重慶空軍233機と合わせて705機と判断されていた。当時の日本の第5 航空軍の出動可能機
数は約230機であり,彼我の戦力比は約 3 対 1 であったという。(益井康一『本土空襲を阻
止せよ!―従軍記者が見た知られざる B29 撃滅戦』光人社 2007年 23〜26頁,95頁,98頁)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-56/inoue.pdf

In January 1944 the air force had 194 fighters, 38 medium bombers, and 50 heavy bombers;
for the 9-month period beginning in October of that year. the totals were
Month    Fighters  Medium Bombers   Heavy Bombers
October     457     105           45
November    535     109           47
December    510     105           56
January     520      94           70
February     521      92           56
March       564     99           65
April        525     103           69
May        500     117           69
June       483      127           65
http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-9.html

ちなみに英本土上空戦のイギリス軍機は、以下の通り。

Day 22 July 31st 1940
July 31, 2010 in 74 Squadron, July 1940 | by Tony Rudd | Leave a comment
Weather: fair everywhere.
FIGHTER COMMAND SERVICEABLE AIRCRAFT AS AT 0900 HOURS:
Blenheim 63
Spitfire 239
Hurricane 348
Defiant 25
Total 675
http://battleofbritainblog.com/category/july-1940/
48名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/29(水) 17:12:33.03 ID:ShzOJaTPP
WWUでの中国の役割は不当に過小評価されている。日本軍の兵力の80%を引き付け国連軍を勝利に導いたのは中国の貢献だ
公開2013年10月21日(月) 17:49
中国の南京市にある南京大虐殺遭難同胞記念館で
第4回海峡両岸抗日戦争歴史学術シンポジウムが21日開かれた。
これに参加した海峡両岸の歴史学者たちは、第2次世界大戦における中国の貢献が過小評価されていたとみている。

南京大虐殺遭難同胞記念館の朱成山館長は
「戦後の冷戦などの要因により、第2次世界大戦中に中国が果たした役割がずっと低く評価されていた。
中国は第2次世界大戦中、日本の約80%の兵力を引っ張り、第2次世界大戦の勝利にきわめて重要な役割を果たした。
しかし、戦後、西側諸国は中国の貢献を十分に認めていない」と述べた。

海峡両岸抗日戦争歴史学術シンポジウムは今年で4回目となっている。
当日海峡両岸の基金会や大学、研究機構、記念館からの専門家、学者90人あまりが出席した。

http://itaiinews.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
49名無しさん@お腹いっぱい。:2014/02/24(月) 02:10:56.52 ID:M/jaujX8P
During the war, FEAF units flew 720,980 sorties and delivered 476,000 tons of ordnance.
For these numbers FEAF estimated it had killed nearly 150,000 North Korean and Chinese
troops and claimed the destruction of more than 975 aircraft, 800 bridges, 1,100 tanks,
800 locomotives, 9,000 railroad cars, 70,000 motor vehicles, and 80,000 buildings.
This damage was inflicted at the cost of 1,841 men killed, wounded and missing,
and 750 aircraft destroyed by the enemy.
http://www.state.nj.us/military//korea/factsheets/air_f_fs.html

何をやってたのかよくわからんものの、朝鮮戦争時のB-29の、のべ出撃機数は
実に約21300機で、これは対日戦におけるのべ約33000機の64.5%にもなる。
が、その損失は極めて軽微だった。
戦闘損失はわずか24機(!)、総損失でも107機(偵察型を含む)に過ぎない。
戦闘による損失率は0.11%、事実上、損害は無かったと言っていいレベルだろう。
共産軍の対空能力は、無力だった。
<中略>
ちなみに、この時の分析によると、共産軍のレーダーに、
日本陸軍のタチ18号、さらにはフライアのパルスパターンがあった、
という事なだが、ホンマかいな…。
この結果、アメリカは、ソ連のレーダーの多くが第二次大戦時に英米が
レンドリースでソ連に供与したタイプのコピー、あるいはその発展型だと知る。
野郎、勝手にパクりやがって!と怒るよりも、これはありがたかったはずだ。
なにせ、自分で作ってるんだから、その正確な周波数はおろか、
あらゆる性能データは調べるまでもなかった。
こうして、一方的とも言える対レーダー戦が展開されて行く。
http://majo44.sakura.ne.jp/planes/F22/origin/32.html
50名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/10(木) 10:21:14.25 ID:54BZ1aya0
旧日本軍弱小列伝 VS だつお(打通太郎)
http://www.logsoku.com/r/army/1166952288/
51名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/24(木) 16:36:42.51 ID:6YzZ9vt60
 スティルウェル問題は、一九四四年、東部中国において、日本軍が「一号作戦」
[大陸打通作戦の一部]にのり出した直後にやま場を迎えることになった。
 日本軍のこの作戦は、一九三八年の武漢占領以降初めての大規模なものであったが、
それというのも、アメリカの潜水艦隊が日本の沿海水域に侵入して、東南アジアの
占領地域への物資の海上輸送ルートを切断したために、遠隔地にある日本の拠点は
物資が欠乏し、連合軍の攻撃に対する抵抗力を失いつつあったので、代替輸送ルート
として、以前はそれほど必要でなかった中国を南北に縦貫する鉄道の確保にのり出し
たものであった。同時に日本はこの作戦で、シェンノートの第一四航空軍が新しく
建設した前進基地を破壊することを計画していた。
 シェンノートはかねてルーズベルトに対して、もし自分に前進基地があり、飛行機
があり―そしてスティルウェルが軍需物資のいいところをみんな持っていってしまわ
なければ、日本本土を爆撃するB29もそこを使うことができる、というのが彼の主張だった。
 これに対してスティルウェルは、そんな基地をつくれば日本軍に破壊されるだけだ、
とまったく逆の立場に立った。そしていつものように、スティルウェルが正しかった。

「宋王朝 下」(スターリング・シーグレーブ サイマル出版会)
52名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/30(水) 10:05:33.42 ID:2J+UBU0h0
 大陸打通作戦の第一次作戦(河南作戦)/昭和一九年(一九四四)四〜五月・・・・・・戦車第三師団、
戦車総数二五五両が参加。師団全体の踏破距離一四〇〇キロ、日数は三〇日(一日あたり四六・六キロ)。
師団捜索隊は約二〇〇〇キロ、三〇日(一日あたり約六七キロ)。
<中略>
 ここに示した日本戦車隊の長駆進撃も、連合軍側を大いに混乱させ急速な勝利をもたらした
典型例なのである。ちなみに、「電撃戦」と称賛される独ソ戦初期(一九四一年六〜七月頃)のドイツ
機甲部隊の場合と比較してみると、グデーリアンが率いる第二装甲集団が踏破距離約六五〇キロ、
日数二五日(一日あたり二六キロ)、マンシュタイン上級大将の第五六装甲軍団が約三三〇キロ、
四日(ドヴィンスク急襲時、一日あたり八〇キロ)で、日本戦車隊の"快速ぶり"はこれらに劣る
どころか優れた成果を上げているといえる。
<「陸軍機甲部隊」(学研)158頁  文・古是三春>
53名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/20(水) 07:55:24.62 ID:VX9/UNPs0
174 :連合軍公刊戦史からの抜粋:03/06/05 23:41 ID:usnD2Jzo
 タクロバンの混雑 栗田艦隊が後退したとき、日本軍は絶好の機会を失った。
レイテ橋頭堡は危険状態にあり、二十五日朝第七艦隊の軽空母二隻が沈没、
残りの半数以上の軽空母は作戦不能の状態にあった。
 日本軍機は二五日一二〇〇〜一六〇〇の間一二回レイテに来襲し、
タクロバンで上陸用舟艇二隻を撃沈、倉庫を破壊、桟橋に損害を与えた。
 日本軍の勇敢な一機は夕闇にまぎれ、着陸前の米軍機数機の最後尾から
着陸進入を装いながら接近して、突如大型上陸用舟艇を爆撃、炎上させた。
この艇はのち沈没した。
 日本軍はこの夜の間に、増援部隊を載せた最初の輸送船団(五〜九隻
の駆逐艦と五隻の貨物船)をオルモックに上陸させた。我々はこれを阻止
する処置を執らなかった。
 二六日、日本軍は合計一五〇機を使用し、一二回の空襲を行った。
最初は〇五一五で、一発の爆弾がマッカーサー大将の宿舎の邸の端にある
比島人民家に命中し、一二人を殺し一〇人を負傷させた。他の一発は
従軍記者の宿舎に命中し、記者一人が死亡し四人が負傷した。
 タクロバン飛行場では、日本軍機の執拗な妨害を受けたが、一五〇〇までに
鋼製マット一、〇〇〇呎を敷き詰めた。日本軍の攻撃のうち四回は全然警報が
でなかった。我々は壕を入ったり出たりした。これらの飛行機は超低空で
進入して滑走路に沿って飛びながら掃射とともに破片爆弾を投下した。
爆弾の四分の三以上は爆発しなかったが、そうでなかったら我々は大打撃
を受けたことであろう。(注 「タ」弾攻撃と考えられる)

比島捷号陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 / 朝雲新聞社 ,
1971 ( 戦史叢書 ; [48] )
54名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/26(金) 14:58:30.71 ID:qtSySjBk0
『戦史叢書 インパール作戦』p664-665

 これより先、日本軍第15軍主力によるインパール作戦が開始され、
コヒマは包囲され、インパールはの道は遮断された。日本軍が一気に
ディマプールへ突進して来れば、ディマプールを経由するスチルウェ
ル軍唯一の連絡線は危殆に瀕することになる。
 スチルウェル中将は敏感にこの危険を感じとり、ディマプール防衛
のために38師を反転させてその使用に供するであろうと強く申し入
れた。当時第38師はフーコン谷地をサズップ付近まで南下していた
ので、もしスリム中将がその申し出を容れていたら、フーコン作戦は
停頓していたであろう。
 スリム中将はこれを断り、現に雲南から逐次到着しつつある新来の
中国師団を併せ指揮して、できるだけ激しくミイトキーナに進撃する
よう要求した。
 スチルウェル中将は、スリム中将に対してその背後連絡線確保に関
する保障を求め、スリム中将は最悪の事態においても、10日以上連
絡線が遮断されることはないであろうと言明した。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/27(土) 04:25:31.34 ID:E0AwzYoP0
日清戦争〜国共内戦までの名将
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1297819381/より
16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/04/01(金) 09:28:59.01 ID:xRM7gkBF0
個人的に選んでみた。

No.1 白崇禧 小諸葛亮の名に恥じない名戦略家。日中戦争での主要な勝利は殆ど白の功績。国共内戦でも林彪を唯一撃破した。
No.2 粟裕 車橋戦役での日本軍の撃破に淮海戦役を始めとする国共内戦での主要な勝利。白崇禧に匹敵する天才戦略家。
No.3 彭徳懐 遠征に秀で、朝鮮戦争では中国人民志願軍初代司令官を務めた。大軍を動かす事に優れた用兵家。
No.4 方虎山 朝鮮系の八路軍指揮官。朝鮮戦争で帰国し中共軍の介入まで米軍・国連軍を押し止めた。
No.5 孫立人 僅か一個連隊の兵力でビルマ奥地で日本軍に包囲された英軍を援護し、10倍の兵力差の日本軍を撃退した東洋のロンメル。
No.6 林彪 平型関戦で日本軍に勝利。国共内戦でも遼瀋戦役・平津戦役と次々と勝利を飾る。
No.7 薛岳 万家嶺戦役で日本軍に勝利。白崇禧の優れた作戦もあり、三度の長沙会戦でも日本軍の撃退に成功。
No.8 毛沢東 共産ゲリラの父。
No.9 張自忠 宋哲元・李宗仁の下で目覚しい奮戦振りを見せ付けた勇将。
No.10 蔡廷カイ 第一次上海事変で日本軍に勇戦。
No.11 朱徳 中共軍の父。
No.12 劉伯承 ケ小平と共に国共内戦を勝利に導いた中共名将の一人。
No.13 衛立煌 雲南遠征軍(ビルマ遠征軍)司令官。雲南・ビルマから日本軍を駆逐。
No.14 戴安瀾 杜聿明配下の国民党軍唯一の機甲師団指揮官。崑崙関戦での活躍後、ビルマに遠征。トングーで4倍の兵力差の日本軍の撃退に成功。
No.15 蔡鍔 護国戦争を勝利に導いた護国軍の総司令官。
No.16 胡l 台湾(金門島)を中共軍の手から救った名将。
No.17 馬継援 西北部で中共軍を翻弄し続けた青海王の子。
No.18 張学良 郭松齢と共に奉直戦争で活躍。
No.19 馬仲英 新疆でトルキスタン政府やソ連軍相手に暴れ回った馬家軍の若き頭領。
No.20 馬占山 巧みなゲリラ戦を用いて日本軍と度々抗戦した東洋のナポレオン。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/27(土) 04:29:04.02 ID:E0AwzYoP0
番外:
聶士成 武衛軍の司令官。日清戦争・北清事変で奮戦。
宋哲元 馮玉祥配下の国民軍で張之江・鹿鍾麟と共に南口大戦で奮戦。長城抗戦で日本軍に対しても奮戦した。
李宗仁 台児荘の戦いで白崇禧と共に日本軍に勝利した。
盛世才 新疆に君臨した新疆王。
傅作義 綏遠事件で内蒙軍を撃破した。日中戦争・国共内戦でも奮戦。
張霊甫 日中戦争・国共内戦で奮戦した猛将。
余程万 常徳戦で凄まじい奮戦振りを見せ付けた勇将。
杜聿明 崑崙関の戦いで中村正雄中将を戦死させたらしい。
聶栄臻 黄土嶺の戦いで阿部規秀中将を戦死させたらしい。
賀龍 個人武勇が凄まじい人。
姉妹スレ
大陸打通作戦〜大地を駆ける3000`の雄叫び
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1176619163/
57名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/28(日) 13:04:36.81 ID:FfB9oo0b0
南京大虐殺 →捏造:真犯人は、蒋介石国民党軍。

百人斬り →日本のマスゴミの捏造:戦時中の与太話。

日本軍は残虐 →捏造:黄河決壊事件を見ても、支那人民を救ったのが日本軍。虐殺したのがシナ国民党軍。


(結論)
歴史を捏造してるのはシナ。




 
58名無しさん@お腹いっぱい。
( `ハ´)「解放軍はアメリカ連合軍に勝てたのに、なぜ国軍は日本軍に勝てなかったのか」 【中国の反応】
http://asiareaction.blog.fc2.com/blog-entry-1681.html
海外「中国って日本に勝ったっけ?」 中国が抗日戦争勝利記念の式典を開催
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1289.html
「第二次世界大戦時のドイツと日本はどちらが強かったアルか?」 【中国の反応】
http://asiareaction.blog.fc2.com/blog-entry-1685.html

>17.とある中国人
>ドイツの相手であるイギリス、フランス、ソ連、みんな強国のなかの強国だった。
>すべて工業化国家だった。

ドイツのメルケル首相は、演説の中でドイツのポーランド侵攻はヨーロッパや世界
に多大な危害を加えたと謝罪し、
http://www.forumpoland.org/db/okano09.pdf

>日本の相手である中国、朝鮮、フィリピン、東南アジアは農業国家だから、比べものにならない。

1942年春、アメリカのルーズベルト大統領は子息に向かい、中国がなければ、中国が壊滅させられていたら、
日本はどれだけの兵力を他の地域の作戦に投入していたか。彼らはオーストラリア、インドを手中にし、
中東まで攻め入ってドイツと共同作戦を張って、大規模な軍事行動に出ただろう。中近東で合流して、
ソ連を孤立させ、エジプトを併呑して、地中海の一切の交通ルートを絶ったに違いないと語っている。
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200508/2-1.htm

>もし狂ってアメリカを潰そうとしなかったら、あんなに早く負けなかっただろうね。

 戦勝国の地位に対する不敬。中国の抗戦は、辛く苦しいものだった。中国は反ファシズムの東洋の主戦場で、
日本軍国主義と決戦を繰り広げた。中国は一部の重要な国際会議に出席し、国連創設に参与したが、
西側の一部の国は中国の戦勝国としての地位を尊重しなかった。戦後の日本の領土範囲の処理、
東京裁判、サンフランシスコ平和条約の締結などの重大な件は、すべて米国が独自に主導した。同盟国の戦時中、
終戦当初の共通認識は米国に放棄された。「冷戦」は世界の反ファシズム戦争の勝利の成果を奪い取った。
西側の一部の歴史学者は第二次世界大戦について記述する際に、米国とソ連の力を一方的に強調し、
米国の原爆投下、ソ連の出兵が日本を打ち負かしたとする説まで浮上した。
日本の右翼勢力は、中国の長期的な抗戦によって敗北したなど最初から考えていない。
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2014-09/03/content_33418762_2.htm

>ドイツと比較することはドイツを侮辱することだ。

同じく敗戦国のドイツについては、シュレーダー前首相は「歴史を変えてはならないが、
私たちの最も恥ずべき1ページから多くのことを学べる」と話した。日本もドイツのように、
痛みを教訓とし、戦争問題を徹底的に反省、清算できるとよい。そうすることが、
アジア太平洋にとって望ましく、日本にとっても望ましい。(中国戦略文化促進会常務副会長・秘書長 羅援)
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-08/17/content_29746211_2.htm

 一九三六年四月八日、顧振を団長とする中国国民政府訪独団と、経済大臣兼国立銀行総裁
シャハト(Hjalmar Schacht)との間で、一億ライヒスマルクにおよぶ借款供与を内容とする
中独条約(別称HAPRO条約)が調印された。
http://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-079-045.pdf

 ところが、ナチズムの権力掌握後、独ソ関係の悪化によりこの軍事協力関係の維持は不可能となり、
ドイツ国防軍がみずからの活力を維持するためには、あらたな軍事的パートナーを必要とするにいた
ったのである。この面でドイツ国防軍、主として陸軍が注目したのは中国であった。・・・中略・・・
 また、国防経済という観点からも、ドイツ国防軍が親中路線を採用する理由が存在した。なぜなら、
両国の経済は相互補完的であったからである。ドイツ国防経済は、ロシアとの関係悪化後、
技術刷新の継続のためにも、また付加的な輸出の拡大のためにも、あらたな市場を求めていた。一方、
中国側は、ドイツからの工業製品輸入を天然資源の輸出で相殺することができたし、また一九三五〜三六年
のドイツの武器輸出総額のうち、実に五七・五パーセント(二千万ライヒスマルク)が中国に向けられていたのである。
 これに対し日本はその一パーセントにも満たない十七万七千ライヒスマルクであった。
<ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦 / 田嶋信雄/著 >