1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
1日でも長生きしてもらいたい
君も体験者になるよ
もうじきね
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 12:04:44.74 ID:zpXe2+8qO
戦争を知ってて戦前を知らない者が日本をダメにした
どこぞの半島が法律で相続できるようにしたらしいから永遠に生き残るぞ
物理的に根絶やしにせん限り
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/18(日) 16:18:19.94 ID:7ngC4MRk0
戊辰戦争体験者は絶滅
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/18(日) 17:35:18.08 ID:gs0L12D7O
西南戦争も
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/19(月) 00:44:31.84 ID:+WlTHUR00
今から20年ぐらい前、俺は学校が終わった後にうちの爺さんに
学校で教える歴史とお家で教える歴史は別物って事でこの国の歴史について
聞かされてたぞ。大体wikiに書いてあるのと合ってるかなと思う。
明治生まれスレでやれよ……
あそこは長寿者総合
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/20(日) 23:54:51.20 ID:TCRUSuF2I
後、10年で消えるな
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/21(月) 00:14:37.26 ID:eX2+RUFI0
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/21(月) 21:01:50.97 ID:1R1Mnkjz0
マンガ 「嫌韓流」 を読もう
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/28(月) 21:55:37.89 ID:Dczb6ynN0
最近近所の元陸軍少佐が死んだよ
うちの爺さんは陸軍中佐で開戦して、海軍少尉で終戦した異質の人物。
戦中はずっとカツ丼作ってたらしい。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/30(土) 10:16:50.69 ID:tNhpQdTG0
日本とドレイ2:トルーマン大統領の記述。
「MIT総長コンプトン博士は、訪日後次の報告。
“日本は事実上、軍人をボスとする封建組織の中の奴隷国だった。
一般人は、一方のボスの下から他方のボス占領軍へ。
彼らにとってこの切りかえは、生計が保たれていければ、別に大したことではないのである」
https://twitter.com/magosaki_ukeru
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/02(月) 16:30:11.16 ID:Tl5mYG1/0
「盧武鉉政権、日本を仮想敵国に…米国に提案」
2012年07月02日15時35分
[? 中央日報日本語版]
セヌリ党の鄭夢準(チョン・モンジュン)元代表は2日、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権当時、韓国政府が米国側に対し、日本を事実上の主敵と規定することを提案した、と主張した。
鄭元代表は記者に対し、「当時のある閣僚級会談で、韓国政府は米国に対し、日本を仮想敵国(hypothetical enemy)に設定して提案した。これは軍事戦略上の主
敵という表現を使用しなかっただけで、事実上、主敵と提案したものだ」と述べた。
続いて「日本に対する一般国民の感情がよくなく、独島(ドクト、日本名・竹島)が常に問題になるので、盧大統領が提案したものだが、韓国と日本が同じ自由民主主義国家で、そう
でない国家に対抗して手を握ることを望んでいた米国側が非常に当惑していた」と話した。
平和を願う善通寺の戦争資料展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034262741.html 終戦から67年を迎え、香川県善通寺市の図書館では、戦争と善通寺の関わりを紹介する資料展が開かれています。
この資料展は、善通寺市立図書館が戦争の悲惨さを後世に伝えようと初めて企画したもので、会場には、日露戦争
から太平洋戦争にかけての写真や軍服などおよそ200点が展示されています。
このうち明治31年に善通寺に開庁された旧陸軍第11師団の初代師団長、乃木希典を紹介するコーナーでは昭和
12年の尋常小学校の教科書が展示されています。
教科書には、乃木師団長が子どものころ、街角で占いをする少年が父親を亡くし、病気の母親を支えていることを
知り、当時としては大金の2円を渡したという逸話が載っています。
また、戦時中、市内にあった「善通寺俘虜収容所」を紹介するコーナーでは、買い出しや生活用品の配給などふ虜
たちの生活がわかる写真のほか、67年前の終戦の日、昭和20年8月15日に記念撮影されたふ虜たちの写真も展示
されています。
見学に訪れた善通寺市の63歳の男性は、「戦争の悲惨な結果がいろいろ感じられるのでこれからも平和な世界が
続くよう願っています」と話していました。この資料展は、9月28日まで開かれています。
兵士たちの遺品展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024162171.html 平和の尊さについて考えてもらおうと旧日本軍兵士の遺品などを集めた展示会が文化の森にある徳島県立博物館
で10月8日まで開かれています。
これは県立博物館が終戦の日に合わせて企画したもので、会場には日露戦争から太平洋戦争までの戦争で
使われた装備品など兵士の遺品約70点が展示されています。この内、戦死した兵士が両親に遺した遺書は
育ててくれたことへの感謝と先立つ不孝への謝罪の言葉が書かれています。
また兵士の無事を祈って布に1000個の糸の玉を縫い付けて作った千人針は戦地に赴く大切な人の無事を祈る
気持ちが伝わってきます。この他にも兵士の食器や戦場での日記などが展示されています。
終戦の日の15日も親子連れなどが訪れ、展示品に見入っていました。
会場を訪れた男の子(小5)は「戦争で亡くなった人たちが残したものを見てかわいそうだと思いました。
戦争は起きてほしくないと思いました」と話していました。
戦争と平和について考える集い
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034238221.html 「終戦の日」の15日、戦争や平和について考えようという集いが高松市で開かれました。
この集いは、高松市の市民団体が毎年、終戦の日に開いているもので、会場の高松市総合福祉会館にはおよそ
100人が集まりました。集いでは、はじめに1300人余りが犠牲になった昭和20年7月の高松空襲を経験した
9人の手記をもとにつくられたDVDが上映されました。
このDVDは、経験者の手記を市内の中学校の美術教師がおよそ20枚の絵で表現し、ナレーションをつけたもので、
投下される焼い弾から命からがら逃げたときの様子などが生々しく再現されています。
上映のあと、参加した人たちは、戦争や高松空襲で犠牲になった人たちを悼み、全員で黙とうをささげました。
また、15日は、市内の高校1年生の荒川真由さんが、沖縄での平和学習を経験して感じたことを作文で紹介しました。
この中で、荒川さんは、「沖縄戦を経験した男性が『戦争とは、人が鬼になることだ』と語った言葉が今でも心の中で
響き続けています」と語り、平和の大切さを訴えました。
市民団体では、戦争を経験した人の数が少なくなる中、今後もこうした活動を通じて、戦争の悲惨さなどを広く伝えて
いきたいとしています。
高校生「平和」について語る
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012081507 PCサイトに動画有
一方、高松市では戦争の記憶を語り継ぐ集いが開かれました。
終戦の日に毎年開かれているこの集いは、33回目を迎えました。
今年のテーマは「戦争…現在と重なるあの日の記憶」。
高校一年の荒川真由さんは、中学校の沖縄修学旅行で戦争体験者から学んだことを話しました。
戦後生まれの世代が人口の8割近くを占め、戦争体験の風化が急速に進む今、
体験者の記憶を若い世代に引き継いでいくことが必要となっています。
旧満州開拓団の慰霊祭
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014255981.html 戦時中、今の四万十市から旧満州に渡った開拓団の慰霊祭が行われました。
慰霊祭を行ったのは四万十市西土佐江川崎の元開拓団員などです。
この地域からは戦時中、最も多いときで433人が旧満州に移り住み、300人あまりが亡くなりました。
このため、毎年この時期に慰霊祭を行っていて、ことしは20人が出席しました。
慰霊祭では亡くなった人たちの位はいをおさめた「忠霊塔」と呼ばれる碑の扉が開かれ、
出席者はひとりひとり線香を手に持って中に入り手を合わせていました。
当時9歳で帰国した76歳の女性は「忠霊塔には家族10人が入っています。
これからも元気に暮らせるようにと祈りました」と話していました。
両親と3人の兄弟を亡くした83の男性は、「満州で命を落とした人たちに見守ってもらい、
このとしまで生きられ感謝しています。親や兄弟たちが満州の地で安らかに眠って欲しい」と話していました。
>>18 旧日本軍兵士たちの遺品展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024162176.html 平和の尊さについて考えてもらおうと旧日本軍兵士の遺品などを集めた展示会が文化の森にある徳島県立博物館で
10月8日まで開かれています。
これは県立博物館が終戦の日に合わせて企画したもので、会場には日露戦争から太平洋戦争までの戦争で使われ
た装備品など兵士の遺品約70点が展示されています。この内、戦死した兵士が両親に遺した遺書は育ててくれたこ
とへの感謝と先立つ不孝への謝罪の言葉が書かれています。
また兵士の無事を祈って布に1000個の糸の玉を縫い付けて作った千人針は戦地に赴く大切な人の無事を祈る
気持ちが伝わってきます。この他にも兵士の食器や戦場での日記などが展示されています。
終戦の日の15日も親子連れなどが訪れ、展示品に見入っていました。
会場を訪れた男の子(小5)は「戦争で亡くなった人たちが残したものを見てかわいそうだと思いました。
戦争は起きてほしくないと思いました」と話していました。
子どもたちが戦時中の料理を体験08/14 18:36
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=32383 動画有
高松市で、食材が乏しかった戦時中の料理を小中学生が体験する催しが開かれました。
香川県立ミュージアムが毎年この時期に開いているものです。
小・中学生18人がボランティアの人の指導を受けながら戦時中、
香川で一般的に食べられていた雑炊とキュウリの浅漬けを調理しました。
当時は、雑炊に入れる食材が乏しかったため、今ではほとんど食べることがないサツマイモの茎を入れていました。
また、ご飯は粒を数えられるほどで、箸も立たなかったという話を聞きながら、作った料理を味わっていました。
このあと、ボランティアの綾田兼一さん(80)が高松空襲の体験を語り、児童たちは熱心に耳を傾けていました。
戦争の爪痕を巡る
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4004305461.html 空襲で被害を受けた建物など戦争の爪痕が今も残る場所を巡って戦争の悲惨さを学ぶ催しが、福山市で開かれました。
これは福山市人権平和資料館が企画したもので、25日は親子連れなどおよそ30人が戦争の被害を今に伝える
福山市内の11か所をバスで巡りました。
このうち、福山市東町の「光善寺」では、昭和20年8月の「福山大空襲」の際に落とされた焼い弾がお堂を焼いた
跡や建物のひさしを貫通したことを示す穴を見学し、資料館の担当者の説明に聞き入っていました。
また、福山市大門町の福山海軍航空隊の跡地では、航空隊員が生活していた兵舎の入り口に立てられていた
高さ2メートル近い石の門柱を見て、写真におさめていました。
参加した福山市の小学生は「身近なところに戦争の爪痕があることは今まで知りませんでした。たくさんの人が
亡くなった戦争をくり返してはいけないと思いました」と話していました。
岡山空風平和資料館が歴史に幕
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20120831_9 岡山市に戦災の悲惨さを伝える岡山空襲平和資料館があります。住民たちの手で資料を集め運営してきたもので、
400点以上の資料が並び、子どもたちの平和学習にも利用されてきました。
しかし、この資料館が31日、10年の歴史に幕を閉じました。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20120831_9.jpg 階段の踊り場周辺に、建物の隅を間借りするように貴重な資料が並びます。岡山空襲平和資料館です。
戦争の悲惨さを伝えてほしいと、市民から寄せられた資料は400点にも上ります。
戦争を経験した人々の思いで作られた資料館が31日、幕を閉じました。
2002年、旧出石小学校の校舎に作られた資料館には、開館当初、毎日数十人が訪れたといいます。
校舎の取り壊しとともに現在の場所に移転しましたが、岡山市にある唯一の戦災資料館でした。
館長の丸山さんの戦争体験の話とともに、資料は子どもたちの平和学習に利用さてきました。
年間約150万円の運営費はほとんどを寄付金でまかない、無償のボランティアが運営してきました。
それには限界があると市に資料館の整備を求めてきましたが、長い間それはかないませんでした。
ようやくこの秋、岡山市デジタルミュージアムに展示スペースが作られることになりました。
しかし、どのような形で展示されるかはまだわかりません。
岡山空襲から67年、当時の資料をどう生かして戦争の悲惨さを語り継ぐのか。
貴重な資料とともに人々の思いは、岡山市に託されることになります。
27 :
和行:2012/11/26(月) 20:48:43.44 ID:xZKdiLc/0
この中の人で、身内に聞いて、自分の経験でで、お聞きしたいことがあります。
本当は、沖縄に修学旅行に行ったとき、平和講和に来ていた人、
姫ゆりの塔で語っていた人、に聞きたかったのですが、いろいろとありまして聞けなかったことをお聞きします
「つらい中でも
1.あなたの戦争中のひそかな・ささやかな楽しみと言うか、笑顔になれた瞬間はなんでしたか?
2.感動した事、葉なんでしたか?」
この質問に関して、そして文章の言葉使いに関して、不快不可解に思った方も居られるでしょう。
文章に関しては、到らぬ点も多々あると思いますがご勘弁を。
質問につきましては
1、前にTVでアウシュビッツの生存者のかたが「一日一個面白い話を考える」ということ一日一個の話 をきいて力ない笑いがあったおかげ希望がもてた。」といっていたからです
2、戦争をし知らない私がふと疑問に思ったことです。
長くなってしまいましたが、
この質問にお答えいただけるとうれしいです。
空襲体験者が語る“この世の地獄”4月22日(月) 21時01分
ttp://rkb.jp/news/news/13772/ この時間のニュースでも何度かお伝えしましたが、終戦直前に、福岡県内の駅が空襲される様子を記録したカラー映像が、先日、見つかりました。
68年前に、福岡県久留米市の旧国鉄・荒木駅近くで空襲を体験した人たちが、このカラー映像を見ながら、当時を振り返りました。
●同窓会での乾杯 「お互いの健康を祝して乾杯します。ありがとう。乾杯!」「カンパーイ!」
おととい、久留米市内で開かれた荒木国民学校初等科の同窓会。集まった80歳前後の16人の前で、あの映像が上映されました。
1945年8月8日、久留米市の旧国鉄・荒木駅の上空から撮影された映像です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/04/2013-04-225-150x84.jpg アメリカ国立公文書館に保存されているのが、今年になって見つかりました。
駅や蒸気機関車を狙って、アメリカ軍の戦闘機が、機銃掃射をする様子がカラーで記録されています。
●黙とうをする同窓会参加者 「黙とうを捧げたいと思います。黙とう!」この日集まった16人は、68年前のあの日、空襲を体験した人たちです。
●空襲の体験者 「こんなの(映像)があるとは、夢にも思わんからですね、びっくりしたんです。現実には、まさかと思ってね」
●宇佐市での上映会 「北から南への空襲の映像になります」このカラー映像は先月、大分県宇佐市で、初めて一般公開されました。
福岡市から駆けつけた松尾哲雄さんは、同窓生にもこの映像を見てもらいたいと、今回の同窓会を企画しました。
■地図を説明する松尾哲雄さん 「これが、荒木駅」「私のうちは、ここんにきやん」同窓生が集まると、あの日の記憶が次々とよみがえります。
●話す空襲の体験者 「血の海だったってさ、汽車の中はね。そうして、うめき声やらね、もう地獄じゃった。本当、この世の地獄」
「あの空襲の時に、3人亡くなったのを見ました。撃たれてすぐそばにおったから。背中は当たり方は小さいですよ。
ところが、腹の方は、中からかなり大きく(穴が)ほげとるんですよ。それを、まだまだ血がどんどん流れているのを、
私なんかは、そばにおって見たんですが、検査の方が来てから、(遺体に)むしろをかぶせたんですよ」
同窓会には、映像の発見に携わった大分市の新名悠由さんも参加しました。
●体験者の話を聞く新名悠由さん 「田んぼばっかり。道のあぜに寝ろと言われるばってん、子供ですから、
恐ろしくて寝られないと。走って逃げるのが精一杯ね。それを追いかけるんですから。いろいろと恐ろしい目にあったよね」
今回のカラー映像に、音声は記録されていません。空襲を体験した人にしかわからない話の数々に、新名さんは耳を傾けていました。
●体験者の話を聞く新名悠由さん体験者 「あの機銃掃射の音たい。音がすごい。ババババって。ヒューンっていって、また、バババババ…。それを何回でもやる」
新名さん 「エンジンの音と機銃の音で、かなりうるさかった?」「そうそうそう」同窓会のあと、新名さんは、空襲の現場を案内してもらいました。
●説明する塚本利夫さん 「ここが弾の痕です。穴がほげてる。こことか、こことかですね」
荒木駅近くにある酒造会社の塀には、壮絶な機銃掃射の痕が今もくっきりと残っています。
●話す新名悠由さん 「僕なんかは、こういう弾の痕なんかは全く見たことなかったんですけれども、すごいですよね。実際に、これを貫通したり…」
●話す塚本利夫さん 「貫通してるからですね。弾の威力はものすごかったはずですよ」
●新名悠由さん 「あれは映像ですけれども、その映像は、実は本物のことだった。67年前に起きたことだったと。この弾の痕を見て、今、実感しています」
空襲から68年目に見つかったカラー映像。
体験者が語る証言と重ねあわせることで、当時の様子がよりくっきりと浮かび上がってくる印象を受けました。
●松尾哲雄さん 「それぞれの立場で、荒木町でも、それぞれの場所におったでしょ。それぞれが体験しとるからですね。私もびっくりしました、みんなから聞いて」
Q今後の活動は? 「記録していこうと思う。映像の記録、それから文章の記録。そして、語り継いで、平和の尊さ、そういったものを伝えていきたいと思います」
※スタジオ※ ●川上キャスター 島田さん、これは、実際に空襲を体験した人でも、こんな映像が残ってたんだなとびっくりされてるんですよね。
●島田誠さん そうですね。
それと、音が出てないと言われたんですけど、その音を、僕らはわからないんですけれども、その音って、すごかったと思いますね。
●川上キャスター 想像すると、また、怖くなりますね。
駅や蒸気機関車を狙ってるということなんですが、軍事施設じゃなくて、こういう一般の人たちが目標にされてるっていうのを考えると、改めて戦争の悲惨さっていうのを感じますね。
●島田誠さん それとまた、終戦の1週間前ですね、8月の8日って言われてますけれども、ぞっとしますね。
●川上キャスター この記録、記憶を語り継いでほしいなと思います。
周南市戦没者追悼式05/10yab
68年前のきょうはおよそ1000人が犠牲となった徳山大空襲の日です。
地元市民だけでなく県民全てが忘れてはならない日。周南市では戦没者を弔う式典が行われました。
周南市文化会館で行われた戦没者追悼式には徳山大空襲で犠牲となった遺族らおよそ600人が参列しました。
徳山大空襲では1945年のきょう80機ものB29の編隊が海軍施設を中心に爆撃を行い1000人あまりが犠牲に、
そのうち軍とは関係の無い人々は700人以上にのぼります。
また太平洋戦争でなくなった周南市出身の人は4500人を超えるとされています。
主催した周南市は多くの犠牲の上に成り立つ平和への思いを新たにしたいとしています。
“福岡の空襲映像”を一般公開5月13日(月) 21時09分
http://rkb.jp/news/news/14185/ 大分の市民団体が独自に入手した第二次世界大戦の終戦直前にアメリカ軍が福岡で行った空襲の映像を、これまで、この番組で何度か放送しました。
このうち、現在の航空自衛隊築城基地を狙った空襲の映像が、おととい、大分県宇佐市で一般公開されました。
●音楽 〜築城基地への空襲1945年7月25日、終戦のおよそ20日前です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/05/2013-05-136-150x84.jpg 現在の福岡県築上町の航空自衛隊築城基地、当時の旧日本軍・築城海軍航空隊の基地を狙って、アメリカ軍の爆撃機B24が爆弾を投下しています。
●映像を説明する織田祐輔さん 「爆弾がさく裂しているのがこういうふうに見えます。ピカピカ光っているのが、爆弾が落ちて地上でさく裂している光になります」
旧日本軍の基地が空襲される映像をアメリカ国立公文書館から入手し、一般に公開したのは、大分県宇佐市の市民団体「豊の国・宇佐市塾」です。
さきほどの映像からは、アメリカ軍が、「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる戦闘機の格納庫を狙っていたことがわかります。
また、B24に応戦する旧日本軍の戦闘機・零戦とみられる機影も確認できます。
会場には、当時、基地の近くに住んでいたという人も訪れていました。
●築城にいた西隆文さん 「うん。自分は、築城基地の近くですけどね。(小倉から)疎開して、築城の方にいたんです」
築上町の西隆文さんは、当時3歳でした。終戦間近になると、空襲警報が鳴るたびに、防空壕に避難していたことを覚えていると言います。
●西隆文さん 「そのころ、やっぱり防空壕に入っていたから。サイレン鳴りますよね、防空壕は蒸し暑いんですよ、真っ暗で。近くの人やら、いっぱい来るでしょ。
で、苦しくなるから外に出ると、築城基地からもくもくと黒煙と、それから飛来した米軍機が空中戦をやってたんだと思うんですけどね、高射砲みたいなのを撃っているけれども、なかなか当たらない。黒煙だけが、築城基地がやられた、そういうのを目の当たりに見てるからね」
戦時中の映像のほかにも、終戦後、アメリカ軍が撮影したカラー映像も公開されました。こちらは、終戦の翌年、1946年の福岡市です。
現在の中央区の大濠公園が確認できますが、周辺は、焼け野原となっています。
●映像を見た女性 「懐かしいっていうか、やっぱり戦争ってあっていいもんじゃないですね、ああいうのを見ると。やっぱりああいうのを、あっちこっちに見せていただくと、私たちの世代が若い人に話だけじゃなくてね、こういうことがあってとわかるんじゃないかと思う」
●史跡を案内する子供たち 「『生き残り門』と呼ばれるようになりました。門の柱には、爆弾でできた傷が今も残っています」
「豊の国・宇佐市塾」は、入手した映像を公開するだけでなく、地元の宇佐市に残る戦争史跡を巡るツアーなども主催してます。
●津曲記者 「コンクリートでできたドーム状の建物が見えます。こちらは、『掩体壕』と呼ばれる戦闘機を敵から見えないように格納する場所です。宇佐海軍航空隊があった宇佐市内には、こうした史跡が多く残されています」
8月には、68回目の終戦の日を迎えます。
「豊の国・宇佐市塾」は、アメリカ軍が撮影していた福岡や大分などが空襲される映像を独自に入手し、そのたびに、一般の人たちに公開しています。
映像を通して、戦争を語り継いでいきたいという思いからです。
●「豊の国・宇佐市塾」・織田祐輔さん 「まだ、明らかにされてないいろんな都市への空襲の映像を見つけていきまして、それを公開していければと。
やはり、戦争体験者がどんどんこれから減っていくんで、『映像』という新たな語り部によって、戦争がどういうものであったのかというのを後世に語り継いでいければいいなと、私は思っております」
※スタジオ※ ●川上キャスター 島田さん、白黒の映像でもそうですけど、カラーの映像っていうのは、ストレートに伝わってきますよね。
●島田誠さん リアルですね。
こういうことがあったんだって、今の若い人たち、どんどん、どんどん、この映像を見せて、伝えていってもらいたいと思いますね。
●川上キャスター 特に、福岡市民の憩いの場所と言われる大濠公園、あの辺、よく行くんですけど、全く何もなかったんですよね。
島田さんがおっしゃるように、たくさんの人、特に若い人に見ていただいて、その映像の説得力っていうのはあると思いますんで、戦争がどんなに悲惨なものかを本当に伝えていかなきゃいけないなという思いがしました。
5月23日19時54分更新元従軍慰安婦の韓国人女性 岡山市で講演
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=3 旧日本軍の従軍慰安婦だった韓国の女性2人が岡山市で講演しました。
87歳のキム・ボクトンさんと84歳のキル・ウォノクさんは1940年代に旧日本軍に連れ去られ従軍慰安婦を強制
させられたと話します。さらに戦後は韓国でデモ活動を中心に日本政府に謝罪と賠償を求めています。
今月、橋下氏が従軍慰安婦は「軍を維持するために必要だった」と発言し国内外で波紋が広がっていて講演会には
予定を上回る100人以上が訪れました。
2人は来日した今月17日以降、西日本各地で講演し、訪れた人はその悲痛な思いを真剣に聞いていました。
2人は24日、大阪で橋下氏に面会を求める予定でその後、近畿地方でも講演し今月27日に帰国することにしてます。
「私のような人間を作ってはいけない」 元従軍慰安婦の韓国人女性が証言2013年 5月18日(土)
来週大阪市の橋下市長と面会することになっている元従軍慰安婦の韓国人女性が福山市で体験を証言し、
「私のような人間を2度と作ってはいけない」と訴えました。
証言を行ったのはヨーロッパなどでも証言活動を続けている元従軍慰安婦の吉元玉さん、84才です。
今回は、支援団体の招きで来日したもので、24日には大阪市の橋下市長に面会することになっています。
吉さんは13才のときに「工場で稼がせてやる」と言われて慰安所に連れていかれ、抵抗すると殴られたと証言。
自分のような人間が二度と生まれないよう戦争のない世界を実現しなくてはいけないと訴えました。
また、橋下市長の従軍慰安婦をめぐる発言については傷ついたとした上で、
「面会の際には、謝罪できないまでも暴言を吐いてはいけないと伝える」と話しました。
吉さんは、あす広島市でも証言を行うことになっています。
ttp://www.tss-tv.co.jp/tssnews/NN1305180020.html
高校生が岡山空襲の痕跡を調査
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130606_11 6月29日は岡山空襲の日、今年で68年が経ちます。6日、山陽女子高校の生徒が、学校近くで空襲の痕跡を調査して歩きました。
学校では、この調査をもとに今月17日から、岡山空襲についての展示会を開きます。
空襲から70年、当時の爪あとが今もそのままの状態で残っています。
空襲についての調査は岡山市中区の山陽女子高校の3年生15人が行いました。
かつて、自分達の学び舎の周辺で何があったのか。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130606_11.jpg 生徒たちは、写真を撮ったり、メモを取ったりして、戦争の傷跡を記録していました。
岡山空襲は1945年6月29日の未明、アメリカ軍のB‐29による爆撃で、市街地の大半が焼け野原となりました。
山陽女子高校の敷地は、戦時中、紡績工場でしたが、空襲で全焼したといいます。
山陽女子高校では、戦争の記憶を風化させたくないと、今月17日から岡山空襲についての展示を開くことにしました。
学校が所蔵する、空襲の写真パネルに加えて、生徒たちが今回の調査でまとめたレポートも展示します。
平和な時代に生まれ育った、高校生たちです。
生徒たちは、この展示会を通して戦争の悲惨さを、自分達と同じ年代の人にも伝えていきたいと話しています。
展示会には、2年前、山陽女子高校のグラウンドから掘り出された、空襲で破壊された建物の瓦礫も展示される予定です。
岡山空襲の展示会は、今月17日から開かれます。
「岡山戦災の記録と写真展」開催
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130614_1 1945年の岡山空襲を語り継いでほしいと、今年も記録や資料の展示が始まりました。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130614_1.jpg 今年の展示は空襲の実態を見てもらうのと同時に、戦争中の日常も大きなテーマとなっています。
岡山空襲の6月29日に合わせて開かれている展示会。焼け焦げた時計が空襲の被害を今に伝えます。
立ちレポシティミュージアムの学芸員が3ヶ月かけて集めた太平洋戦争当時の日常が展示されています。
去年からミュージアムの別室に岡山空襲の被害を伝える常設コーナーが設置されたことで、
今年の展示はテーマを絞り込むことが出来たと言います。学芸員インタ当時の国民学校3年生が描いた絵画です。
明るくカラフルな色使いが印象的ですが、そこに書かれているのは兵士や戦車です。
岡山戦災の記録と写真展は岡山シティミュージアムで来月7日まで開かれています。
1人でも多くの人がこの展示を見て、戦争とは何かについて考えるきっかけにしてほしいと感じます。
15日午後には戦争資料の研究者による講演会やコンサートも開かれる予定です。
福岡大空襲から68年(2013年6月19日 18:06)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9520 6月19日は、68年前に1000人以上が犠牲となった「福岡大空襲」があった日です。
福岡市では戦争の犠牲者を弔う追悼式が開かれました。
福岡市民会館で開かれた福岡市主催の追悼式では、まず1分間の黙とうで始まりました。
遺族ら320人が参列し、先の大戦で亡くなった1万2000人の犠牲者の冥福と平和を祈りました。
遺族の代表者は、「戦後生まれが人口の8割になる。
851〜903平和がいかに尊いものか世界に強く訴えていくことを改めて誓います」と式辞を述べました。
一方、福岡市博多区の千代小学校では戦争の悲惨さを伝える『平和授業』があり、
福岡大空襲の体験者が「防空壕から出て空を見たら、すごい数の火の玉(焼夷弾)が雨のように降ってきた」
と当時の悲惨な光景を話しました。
当時の話を聞いた児童は「焼け野原になった街を見てどう思ったか」など質問していました。
『平和授業』を終えた児童は「その時の気持ちや苦しみまで心に伝わってきた」と話していました。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/20(木) 16:51:01.29 ID:OChKA7VF0
大正生まれの知人の爺さん達が相次いでなくなり
ギリギリ戦前の記憶を持つ親父や伯母もボケて来た
そろそろリアルな話は聞けなくなるな
街に残る岡山空襲の跡めぐる見学会
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130623_5 岡山空襲から68年を迎える6月29日を前に、街なかに残る空襲の被害の跡をめぐる見学会が岡山市で23日に開かれました。
この見学会は、岡山空襲の爪痕を見ることで、戦争の激しさと、平和の尊さを感じてもらおうと、
「岡山の戦争と戦災を記録する会」が20年前から毎年開いています。
参加者は、語り部から説明を受けながら、1945年6月29日の岡山空襲で被害を受けた寺の地蔵や狛犬などを
見学してまわりました。見学会は6月29日にも開かれます。
体験者が語る“福岡大空襲”6月19日(水) 19時51分
ttp://rkb.jp/news/news/14911/ 1000人以上の犠牲者を出した福岡大空襲から68年を迎えたきょう、福岡市の小学校で平和学習が行われ、子供たちが戦争体験者の話を聞きました。
福岡市博多区の千代小学校ではきょう、4年生から6年生までの児童111人を対象に平和学習が行われました。
戦争の語り部として招かれたのは、千代小学校の近くで福岡大空襲を経験した岡本良祐さん81歳と倉本たか子さん78歳です。
福岡市では68年前のきょう、アメリカ軍のB29が大量の焼夷弾を投下して市街地を焼きつくし、死者と行方不明者は合わせて1146人にのぼりました。
●倉本たか子さん「お隣の方が『燃えてるよ〜』と言った、表に出て見たんですよ、
ttp://rkb.jp/news/files/2013/06/2013-06-196-150x84.jpg そしたら飛行機から焼夷弾がどんどん落とされる光景がみえました、本当に怖いという気持ちが今もある」
戦争体験者の生々しい証言に、子どもたちも平和の大切さについて改めて考えたようです。
6月25日20時10分更新高校生伝える岡山空襲
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=2 戦争の悲惨さ平和の尊さを高校生が伝えます。
岡山空襲があった6月29日を前に岡山市の高校で空襲の爪痕を紹介する展示会が始まりました。
これは岡山市中区の山陽女子高校が生徒たちに戦争の悲惨さを知ってもらおうと日本史の授業の一環で行ったものです。
今月6日、3年生16人が学校周辺を歩いて回り焼夷弾で壊れた狛犬の台座や神社の屋根など、今も残る空襲の
痕跡を自分たちの目で確かめました。
生徒たちはそれぞれが感じたことを自分の言葉でレポートにまとめ、学校の玄関ロビーに展示しました。
この展示会は岡山空襲の日の今月29日まで開かれ、最終日には広島で被ばくしたピアノを生徒が演奏する
コンサートも開かれます。
岡山市で戦没者追悼式開催戦没者追悼式が行われ
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130629_3 1945年6月29日の岡山空襲から68年です。
岡山市が主催する戦没者追悼式が行われ、遺族や市民らおよそ1600人が参列しました。
1945年6月29日未明の岡山空襲では、市街地の大半が焼失し1700人あまりの尊い命が失われました。
追悼式には遺族や市内の小中学生らが参列し、空襲や先の大戦で命を落とした人たちに黙祷して哀悼の意を捧げた
あと、祭壇に花を手向けました。参列者は、平和への思いを新たにしました。
岡山市戦没者追悼式が行われた
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130629_7 1945年6月29日の岡山空襲からきょうで68年です。
岡山市が主催する戦没者追悼式が行われ、遺族や市民らおよそ1600人が参列しました。
岡山市民会館で行われた追悼式には、遺族や市内の小中学生らが参列し、岡山空襲や先の大戦で命を落とした
人たちに黙祷して哀悼の意を捧げたあと、祭壇に花を手向けました。
1945年6月29日未明の空襲では、市街地の大半が焼失し1700人あまりの尊い命が失われました。
岡山戦災遺族会会長の、太田宮子さんです。14歳のとき、現在の中区中納言町にあった自宅で空襲に遭いました。
迫りくる火の手から必死で逃げたことを、68年たった今も忘れることはできません。
この日は、追悼行事が各地で行われるなど、市民が平和への思いを新たにした一日となりました。
徳島大空襲から68年空襲体験を紙芝居で→紙芝居で伝える徳島大空襲
1945年7月4日未明、徳島は米軍の大空襲を受けました。
ttp://www.jrt.co.jp/nnn/news8672192.html あれから68年。戦争の悲惨さや残酷さを次の世代に語り継ごうと4日、徳島市の木工会館で空襲を体験した方による
紙芝居が開かれました。徳島市福島の木工会館にわかば保育園の子どもたちがやって来ました。
何のために集まって来たのかというと実は浜松利昭さんが自分で絵を描き、作った紙芝居を見るためなんです。
浜松さんが経験した徳島大空襲の紙芝居、兄と二人で防空壕に逃げて行く道中園瀬川の堤防から見た徳島市内の
真っ赤に燃える悲惨な光景、今から68年前、昭和20年7月4日のことです。
ttp://www.jrt.co.jp/nnn/picture/JRT_21921.jpg <紙芝居の内容>「町の人たちは 熱さに耐えられず、新町川へと飛び込み熱さに耐えて空襲が終わるのを待ちました。
グラマン戦闘機が自転車に乗っている女の人を見つけて50キロ爆弾を落としました。
残念ながらその女の人は爆弾の犠牲となり亡くなってしまいました。
ttp://www.jrt.co.jp/nnn/movie/news8672192.html 藍住町の方でもグラマン戦闘機は農作業をしている人を見つけ機関銃で攻撃をしました。
その人も残念ながら亡くなってしまいました。戦争は負けたけれども戦争が終わったのでとても嬉しかったですよ。」
「紙芝居は終わりですがひとつ、皆さんにメッセージがあります。皆さん、大きくなっても戦争はしてはいけません。
戦争は殺し合いですから勝っても負けても傷つきます。何ひとつ良いことはありません。
世界中の人たちが仲良く暮らすのが一番大切です。」[ 7/4 19:10 四国放送]
岡山市で戦没者追悼式06/29 17:57
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=34189 「岡山空襲」から68年です。第2次世界大戦などで亡くなった人の追悼式が開かれ、参加者が冥福を祈りました。
1945年6月29日、岡山市はアメリカ軍の爆撃を受け1700人あまりが亡くなりました。
追悼式は、岡山空襲や岡山から出征するなどして亡くなった約1万2000人の冥福を祈ろうと開かれているのもので、
24回目となる今年は遺族や市民ら約1500人が参加しました。
平和を誓って黙祷を捧げたあと、岡山市戦災遺族会の太田宮子会長が「大勢の犠牲者の亡きがらを見て、
戦争とはいかにむごく悲しいものであるかとの思いを忘れることはできません」と追悼の言葉を述べました。
11年前から戦争を知らない小・中学生が参加していて、花をたむけ戦争で犠牲になった人たちの冥福を祈りました。
“語り部”が小学校で特別授業7月2日(火) 21時03分
ttp://rkb.jp/news/news/15201/ 来月、北九州市で、鹿児島・知覧の特攻隊についての特別展が開かれます。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/07/2013-07-025-150x84.jpg それを前に、当時の特攻隊員たちの思いなどを知ってもらおうと、小学校で特別授業が行われました。
北九州市八幡東区の八幡小学校で開かれた「語り部による講話」には、5年生と6年生あわせておよそ100人が参加しました。
「講話」では、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館で語り部として活動している山口繁章さんが、
出撃前に家族にあてた特攻隊員たちの手紙を読み上げるなどして、戦争の実態を訴えました。
南九州市と交流を続けている北九州市では、知覧特攻平和会館所蔵の史料を展示する特別展が、来月、開かれることになっています。
今回の講話は、特別展を前に、子供たちに戦争について考えてもらおうと企画されました。
●講話を聞いた児童「命は本当に大切なものだし、あと、絆とかも大切なので、友達とかも絆を大事にしようと思いました」
松山で戦争犠牲者平和祈念追悼式
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20130726T184430&no=8 太平洋戦争末期の松山大空襲から26日で68年です。松山市では犠牲者を追悼し平和を祈る式典がありました。
追悼式は、戦没者の慰霊碑がある松山市の平和記念広場であり、空襲で家族を亡くした遺族らおよそ100人が出席しました。
式典でははじめに、戦争の犠牲者に黙祷が捧げられたあと、遺族を代表して、幼い時に満州で父親を亡くした
大濱カズ子さんが、体験などを語りました。
続いて、拓南中学校2年生の丹生谷紫月さんが、「戦争はいけないと思うだけでなく、平和な社会を築くにはどうすれば
いいか考えます」と、平和への思いを込めた作文を朗読しました。
松山大空襲は、太平洋戦争末期の1945年7月26日、アメリカ軍の爆撃機B29が松山市を爆撃し、
市民らおよそ350人が犠牲になったとされています。
参列者は献花台に花を手向けて犠牲者を偲ぶとともに、平和への思いを新たにしていました。
旧日本陸軍大刀洗飛行場パネル展TNC 2013/08/05 12:00:00
旧日本陸軍大刀洗飛行場を当時の写真で紹介するパネル展が福岡市で開かれている。
会場のアクロス福岡には空襲の様子などを写した約20点が展示され戦争の悲惨さを伝えている。今月18日まで開催
北九州市で“特攻隊”の展示会8月2日(金) 20時28分
ttp://rkb.jp/news/news/15846/ 鹿児島県の知覧は、第2次大戦末期に編成された旧陸軍の特攻隊・特別攻撃隊の基地があったことで知られています。
知覧特攻平和会館が所蔵する特攻にまつわる資料を集めた展示会が、きょうから北九州市で開かれています。
知覧以外で展示されるのは、今回が初めてです。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-029-150x84.jpg ●テープカット「『知覧特攻平和会館・北九州展』、オープンです。どうぞ…(ファンファーレ)」
かつて旧日本陸軍の特攻隊の基地があった知覧。
今回、展示されているのは、「知覧特攻平和会館」が所蔵する戦闘機のプロペラや機銃弾、
戦闘機の操縦席のレプリカなど20点と、特攻隊員の遺書や遺影のパネル40点です。
パネルについては、遺族への配慮のため、詳細に撮影することは許されませんでしたが、
遺書には、特攻隊員たちが出撃前を前に家族の幸せを願う思いがしたためられています。
●訪れた人「子供たちの勉強になりますし、こういうことがあったっていうことを教えてあげることができるので、
とてもありがたいことだと思います。私もさっき、あちらの遺書を見て、本当に涙が出そうになりました」
「頭が下がる思いがいたします。非常に感動いたしました」
「特攻という悲劇を決して繰り返さない」という思いと、戦死した兵士たちの慰霊を目的に建設された「知覧特攻平和会館」。
これまで所蔵する資料を持ち出して、別の場所で展示することはありませんでした。
今回、北九州市で初の展示会が開かれることになったのは、これまでの交流がきっかけとなりました。
旧知覧町は、2007年、ほかの2つの町と合併して「南九州市」となりました。
九州の「北」と「南」、似通った名前が縁で、その翌年には交流協定を結び、市長会談を開くなど関係を深めてきました。
●出迎える北橋健治市長「お久しぶりです!」きょうの会談でも、今後、さらに交流を促進していくことで合意しています。
●会見する南九州市・霜出勘平市長「(今回の展示は)我々にとりましても、
散華された1036名のみ霊も大変喜んでらっしゃるのではないかというふうに思っておるところでございます。
大変、市民も感謝をしているところでございます」
●会見する北九州市・北橋健治市長「歴史も生い立ちも離れたところではございますけれども、
本当にこの間の交流は、北九州市にとりましても、大変有意義だったと思っておりまして、ぜひ、今後とも交流を継続、
深めさせていただければと、このように願っております」
近隣諸国との関係がぎくしゃくする中、展示された品々は、特攻隊員たちが二度と帰ることのない出撃に臨んで、
祈ったであろう平和な世界を守っていくことの大切さを訴えかけています。
※スタジオ●川上キャスター「知覧特攻平和会館・北九州展」は、今月15日まで開かれています。
期間中、土曜日と日曜日には、知覧出身の語り部による講演も予定されています。
知覧特攻平和会館 北九州展TNC 2013/08/12 12:00:00
戦争の悲惨さや平和の尊さを知ってもらおうと特攻隊員たちの遺品などの展示会が北九州市で開かれている。
鹿児島の知覧特攻平和会館の軍服などの資料やパネルなど約60点が展示されている。今月15日まで。
飯塚市で戦争と人々のくらし展08月05日 12時20分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130805/3352021.html 戦時中の人々の暮らしや平和の尊さを知ってもらおうと、飯塚市で、兵士が家族にあてた手紙などを紹介する展示会が開かれています。
飯塚市歴史資料館の会場には、戦地の兵士から家族に送られた手紙や当時使われていた教科書などおよそ50点が展示されています。
このうち、昭和19年に飯塚市から硫黄島に出兵した兵士からの手紙には家族やふるさとに対する思いがつづられて
いて、「飲料は雨水だ良い水がほしいネ」と書かれています。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130805/3352021_5013352021_m.jpg また、縦1メートル28センチ、横が2メートルほどある軍艦旗は昭和19年に台湾沖でアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて
沈没した旧日本海軍の戦艦「金剛」のもので、乗組員だった飯塚市出身の兵士が沈没間際に体に巻きつけて、
船から持ち出したということです。この展示会は、飯塚市歴史資料館で今月20日まで開かれています。
8月14日12時26分更新全国戦没者追悼式 出発式
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=2 15日は68回目の終戦記念日です。東京で行われる全国戦没者追悼式に参列するため岡山・香川からも遺族が出発しました。
このうち岡山県から戦没者追悼式に参列するのは戦争で肉親を失った遺族82人です。
15日、東京で行われる式典には全国から遺族など約7000人が参列する予定で、岡山県を代表して戦争で兄を
亡くした、最年長で83歳の戸田博福さんが献花します。
岡山県遺族連盟によりますと岡山から参列する人の平均年齢は71.3歳。妻や兄弟などの参列は少なくなり、
ほとんどが戦没者の子供ということです。全国戦没者追悼式は15日、東京の日本武道館で行われます。
“八幡大空襲”を語り継ぐ8月8日(木) 20時24分
ttp://rkb.jp/news/news/15958/ 八幡大空襲から、きょうで68年を迎えました。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-088-150x84.jpg 戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えようと、きょう、空襲を経験した男性が当時の惨状を語りました。
八幡東区で開かれた講演会に招かれたのは、戦争の語り部として活動している石田候一さんです。
石田さんは、15歳の時に八幡大空襲を体験しました。●当時を語る石田候一さん「炎と煙に包まれている状態。
中央町方面、小倉方面も黒煙が立ち上っています。
汗がにじみ出すほどの熱気と焼け焦げる臭いが強烈でした」1945年8月8日、米軍の爆撃機およそ120機が落とした
焼夷弾で、旧八幡市、現在の八幡東区と八幡西区はほぼ壊滅し、死傷者はおよそ2500人に上りました。
会場を訪れた人たちは、石田さんが語る生々しい戦争の体験談にじっと聞き入っていました。
●講演を聴いた人「黒い雨とかが降ったり、爆弾とかがバーッと落ちてきたりしてるから、戦争っていうのが、
すごい怖いものだなと思いました」「戦争が起きると、どういうことになるのかということを子供たちに残していって、
いけないことだっていうことをわかってもらいたいなと思います」
石田さんは「電気やガス、何もかもが当たり前の世の中で、1人1人が平和についてもう一度、真剣に考えてほしい」と話していました。
8月14日19時55分更新全国戦没者追悼式 出発式
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=4 15日は68回目の終戦記念日です。東京で行われる全国戦没者追悼式に参列するため岡山・香川からも遺族が出発しました。
このうち岡山県から戦没者追悼式に参列するのは戦争で肉親を失った遺族82人です。
15日、東京で行われる式典には全国から遺族など約7000人が参列する予定で、岡山県を代表して戦争で兄を
亡くした、最年長で83歳の戸田博福さんが献花します。
岡山県遺族連盟によりますと岡山から参列する人の平均年齢は71.3歳。
妻や兄弟などの参列は少なくなり、ほとんどが戦没者の子供ということです。
全国戦没者追悼式は15日、東京の日本武道館で行われます。
県戦没者追悼式
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20130815T185044&no=8 8月15日は68回目の終戦記念日です。松山市内で県主催の戦没者追悼式がありました。
県の戦没者追悼式には、遺族らおよそ2000人が参列し、日中戦争以降の戦争で亡くなった県関係の4万4562人に
黙祷が奉げられました。
このあと中村知事が、「戦争の悲惨さや平和の尊さを語り継ぎ、平和な社会の構築に向け努力し続けていくことが大切」
などと式辞を述べました。続いて、遺族を代表して、当時33歳だった父親をミレー島で亡くした相田美和子さん72歳が
追悼の言葉を述べました。
この後、参列者は祭壇に花を手向け、戦没者の冥福を祈ると共に、あの惨劇を二度と起こしてはならないと、
平和への願いを新たにしていました。
福岡でも戦没者追悼式TNC 2013/08/15 15:30:00
福岡市中央区の福岡武道館で戦没者追悼式が行われた。式には戦争で亡くなった人の遺族など約1100人が参列。
今年の参列者の遺族の平均年齢は73.2歳と高齢化が進み、戦争体験の風化が課題となっている
福岡県戦没者追悼式 1100人が参列(2013年8月15日 16:50)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9757 68回目の終戦記念日の8月15日、福岡県でも、戦没者追悼式が行われました。
福岡県主催の戦没者追悼式では、およそ1100人の参列者が、終戦の玉音放送が流れた正午に1分間の黙とうを
捧げ、先の大戦で亡くなった人たちの冥福を祈りました。
続いて、遺族を代表し、夫を亡くした中間市の白木トシ子さんが「未来を担う子ども達のために、この平和な暮らしが、
いつまでも続くことを強く願っています」と追悼の言葉を述べました。
県によりますと、戦地や空襲などで亡くなった県民は9万3299人で、追悼式に参列した遺族の平均年齢は73・2歳と
高齢化が進んでいます。参列者たちは世界平和の実現を祈り、献花台に花を捧げました。
2013.8.15 19:35終戦の日、戦争語り継ぐ思い新たに
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=44725 68回目となる終戦記念日のきょう、松山市で県戦没者追悼式が開かれ、出席者たちが戦没者を哀悼して平和の誓いを新たにしました。
きょうの追悼式は、遺族らおよそ2000人が参列し、まず第二次世界大戦の県関係の戦没者4万4562人に黙祷が捧げられました。
続いて、中村知事が「戦後生まれの世代が大半を占める今戦争の悲惨さを語り継ぐことが極めて大切」と式辞を述べました。
そして、遺族を代表し、激戦地のマーシャル諸島で父親が戦死した相田美和子さん(72)が7年前に現地を慰霊した
体験を語り、平和の尊さを訴えました。
出席者は哀悼の思いをこめて献花台に花を手向け、平和の誓いを新たにしていました。
出征兵士の“家族への思い”8月12日(月) 20時58分
ttp://rkb.jp/news/news/16030/ まもなく終戦から68年、戦争を体験した人たちは高齢化し、当時のことを語り継いでいくことが、よりいっそう大切になっています。
福岡から出征した男性が戦地から家族へあてた手紙の数々を集めた企画展が、福岡市で開かれています。
●伊藤半次さんの手紙(ナレーション) 「ひろこちゃん、お勉強がよくできております。兵隊さんがみんなで誉めましたよ。
図画もよくかけましたね。お友達から負けないように勉強して、また、送ってください。さようなら」
これは、博多で老舗のちょうちん屋を営んでいた伊藤半次さんが、戦地から娘にあてて出した手紙です。
伊藤さんは、1940年に27歳で召集を受け、陸軍の兵士として満州に出征しました。
1945年6月に沖縄で戦死するまでの5年間、遠く離れた妻や子供たちに心配をかけまいと、ユーモラスな絵や明るい内容の手紙をあわせて350通送り続けました。
●岩本記者 「手紙の中には、祇園や山笠など博多の祭りがよく出てきます。半次さんが、博多の町に思いをはせていたことが伺えます」
頻繁に手紙を送っていた伊藤さんですが、1944年に沖縄に移動してから亡くなるまでの8か月の間に家族にあてた手紙は、わずか3通でした。
こちらは、沖縄から妻にあてた最後の絵葉書です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-127-150x84.jpg 「お芋に黒砂糖の多いのには、細い目をまんまるくなしたよ」などと、のどかな様子が記されています。
しかし、自ら絵を描いていたそれまでのものとは異なり、あらかじめ印刷された絵葉書が使われています。
すでに、絵を描く余裕がなかったとみられます。
●来場者 「なんか昔のことがわかって、良かったです」 「戦争当時の手紙をちょっと見たんだけど、
大変だったような印象を受けますね。戦争後に生まれた人間だから、ちょっとわからないけど、やっぱり怖いなと思いますね」
「博多町家」ふるさと館では「厳しい時代を前向きに生きようとした半次さんの力強さを感じてほしい」と話しています。
この展示会は、来月23日まで開かれています。
福岡で企画展”戦地から家族に宛てた手紙”8月12日(月) 14時55分
ttp://rkb.jp/news/news/16020/ 福岡から出征した男性が、戦地から家族へ送り続けた手紙を集めた企画展が、福岡市博多区で開かれています。
「博多町家」ふるさと館で開かれている企画展には、博多の老舗のちょうちん店の店主で、1940年に27歳で召集を受けた
伊藤半次さんの手紙や写真などおよそ130点が展示されています。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-123-150x84.jpg 伊藤さんは、1945年6月に沖縄で戦死するまで戦地から妻や家族に宛ててユーモラスな絵と明るい文章の手紙を送り続けました。
こちらは沖縄から妻に宛てた最後の絵葉書です。
「お芋に黒砂糖の多いのには細い目をまんまるくなしたよ」などと心配させないよう、のどかな様子を記したとみられます。
この展示会は来月23日まで開かれています。
企画展”戦地から家族に宛てた手紙”8月12日(月) 12時24分
ttp://rkb.jp/news/news/16016/ 福岡から出征した男性が、戦地から家族へ送り続けた手紙を集めた企画展が福岡市博多区で開かれています。
「博多町家」ふるさと館で開かれている企画展には博多の老舗のちょうちん店の店主で1940年、27歳で召集を受けた
伊藤半次さんの手紙や写真などおよそ130点が展示されています。
伊藤さんは、終戦前の1945年6月に沖縄で戦死するまで戦地から妻や家族に宛ててユーモラスな絵と明るい文章の手紙を送り続けました。
こちらは沖縄から妻に宛てた最後の絵葉書です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-122-150x84.jpg 「お芋に黒砂糖の多いのには細い目をまんまるくなしたよ」などと心配させないようのどかな様子を記したとみられます。
「博多町家」ふるさと館では「厳しい時代を前向きに生きようとした半次さんの力強さを感じてほしい」と話しています。
この展示会は来月23日まで開かれています。
【福岡】68回目「終戦の日」、戦没者追悼式で祈り08/15 14:39 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0030.html 15日は、68回目の「終戦の日」です。福岡市でも追悼式が開かれ、遺族らが戦争犠牲者の冥福を祈り、平和への誓いを新たにしました。
15日の戦没者追悼式には、遺族や関係者およそ1100人が参列しました。
遺族の最高齢は100歳で、戦没者の妻たちの平均年齢は93歳を超えるなど戦争の体験者は年々減ってきています。
参列した遺族の男性は「硫黄島で亡くなりました。私が5歳のときで顔は覚えていません」と父親のことを話していました。
また、「とにかく戦争は絶対にしてはならないと思います」とある遺族の女性は平和の大切さを語りました。
第2次世界大戦で死亡した福岡県の軍人や一般市民はあわせて9万3299人。
参列者たちは1人ずつ献花し、平和への祈りを捧げました。
【沖縄】南洋群島での戦争被害者ら国に賠償求め提訴08/15 18:56 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0028.html 太平洋戦争当時、日本の統治下にあった南洋群島での戦争被害者や遺族らが15日、国に謝罪と賠償を求める裁判を起こしました。
提訴したのは、サイパンやパラオといった南洋群島での戦争で自らが負傷したり家族が犠牲になったりするなど
当時民間人として被害を受けた24人です。
原告らは「長い間、戦争被害者の救済を放置してきた」として、国に対して謝罪と1人あたり1100万円の損害賠償を求めています。
弁護団によりますと、南洋群島の戦争で被害に遭った民間人による集団訴訟は、全国で初めてということです。
戦争の悲惨さ・平和の尊さ“後世に”8月13日(火) 20時50分
ttp://rkb.jp/news/news/16055/ あさってで、終戦から68年です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-137-150x84.jpg 戦争の悲惨さや平和の尊さを後世に伝えようと、当時の兵士の装備品などを集めた展示会が、きょうから福岡県久留米市で開かれています。
きょうから開かれている「福岡県戦時資料展」。
会場には、福岡県から出征した兵士が身につけていた装備品や、戦時中、市民が使っていた生活の品など、およそ250点が展示されています。
●神田記者「こちら、中国との戦争中に日本兵がかぶっていた鉄かぶとです。かぶとの中央部分には、銃弾が貫通した痕がくっきりと残っています」
この兵士は、奇跡的に一命を取りとめたそうですが、鉄のかぶとに残る銃弾の痕は、いつ命を失うかわからない戦争の悲惨さを物語っています。
こちらは、出征する兵士に女性たちが手渡した「千人針」です。兵士は、この布をお守りとして身につけ、戦場に向かいました。
●来場者「もう胸がいっぱいです。この人たちのおかげで、私たちが、今、幸せに暮らしてるっていうことを絶対、忘れちゃいけない」
「自分の家族のために(戦争に)行ったっていうのが、やっぱり見てると、写真とか、手紙や手記とか見ると、
すごくよくわかるので…」「そりゃ、やっぱり二度と(戦争は)しちゃいかんよねと思いますね。こういうのは」
福岡県は、23年前から、毎年、お盆の時期に、この展示会を県内各地で開催しています。
●福岡県行政経営企画課・小磯真一副課長「戦争の悲惨さ、そして平和の尊さ、これをやはり後世に伝えていくと。
そういう活動の一環として、こういう展示を毎年、このお盆の時期に開かしていただいているということです」
会場には、このほか、1945年・昭和20年6月19日の福岡大空襲で焼けた市街地や、戦後、
日本に引き揚げてくる兵士を撮影した写真なども展示されています。
この「福岡県戦時資料展」は、久留米市の六ツ門図書館で今月18日まで開かれています。
倉敷水島の亀島山地下工場跡を視察
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130819_14 倉敷市水島に、第二次世界大戦の時に作られた巨大な地下工場の跡が今も残っています。
水島コンビナートの北側にある、亀島山です。保存を訴える市民団体が、現地で視察会を開きました。
水島コンビナートの近く、地下に巨大な軍需工場の跡が残る亀島山です。
視察調査会は、この工場跡の保存措置を倉敷市に求めている、「亀島山の地下工場を語りつぐ会」が開いたもので、
全国で戦争の遺構を残す活動などを行う市民団体のメンバーなど、約70人が参加しました。
亀島山地下工場跡は戦時中に、アメリカ軍の空爆を逃れるため地下に作られたいわゆる疎開工場の跡です。
全長2kmにわたる、岡山県内最大級の戦争遺構で、戦時中はこの場所で航空機の部品などが作られていました。
以前は学校の平和学習などに利用されていましたが、崩落の危険があることから、
2010年を最後に一般公開が中止されていました。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130819_14.jpg 視察会の主催者は一般公開の再開のため、市に安全対策を求めています。
終戦から68年がたち、しだいに戦争の記憶が薄れる中、こうした戦争の遺構は貴重な存在です。
なんらかの形で保存し、活用していくことが必要だと感じます。
戦火をくぐり抜けた“教会”8月14日(水) 20時12分
ttp://rkb.jp/news/news/16078/ 終戦から、あすで68年です。福岡大空襲の戦火をくぐり抜けた教会があることを、ご存知でしょうか?
福岡市の大名地区にあったこの教会は、今は久留米市に移設され、平和の尊さを伝える貴重な資料として一般公開されています。
福岡県久留米市の病院の敷地内にある赤レンガの教会。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-148-150x84.jpg あまり知られていませんが、この教会は、もともとは福岡市中央区の大名地区にありました。
68年前、福岡大空襲の戦火をくぐり抜けた歴史の目撃者なのです。
1945年・昭和20年6月19日、アメリカ軍のB29が、福岡の街に大量の焼夷弾を投下しました。
市街地は焼き尽くされ、死者と行方不明者はあわせて1146人に上りました。
特に被害が大きかったのは、現在の博多区と中央区、とりわけ大名地区では、この教会以外のほとんどが焼失しました。
●案内する野瀬博明さん「2軒だけ焼け残って、それから向こうは焼けましたね」当時、大名小学校に通っていた野瀬博明さんです。
空襲の翌日のことを、今も鮮明に覚えていると言います。
●福岡大空襲を経験した野瀬博明さん「職員室に遺体を入れて、それからムシロをかぶせて…。やっぱり7〜8名おりましたね」
終戦の翌年、野瀬さんは、卒業式を迎えました。小学校の講堂は空襲で焼けてしまったため、卒業式は、赤レンガの教会で開かれました。
●野瀬博明さん「4クラスあったのがね、空襲で、2クラスになったと思います。女性と男性、別々やったからね。
確か、2クラスで何人おったかな、全部で100人ぐらいおったかな。空襲で、みんな、バラバラになってね」
教会が現在の場所に移されたのは、終戦から41年が経った1986年のことです。
教会を建て替えるにあたり、久留米市の聖マリア病院の創設者・井手一郎さんが、移設費用3億円を自己負担して、病院の敷地内に移しました。
教会は、一般公開されていて、誰でも訪れることができます。
●教会を訪れた人「歴史を知っているんです。全部、知っているんですよね。当時の福岡大空襲で焼け出されて、
あび叫喚のもと、逃げ回る人たちを、この教会は、じっと見守ってたと思うんですね」
終戦から、あすで68年。戦火をくぐり抜けた教会が、戦争の悲惨さをそっと伝えてくれています。
※スタジオ※●川上キャスター福岡大空襲の戦火をくぐり抜けたということだけでも、すごいことだなと思うんですが、
この教会の存在を考える時に、戦争の悲惨さも一緒に語り継いでいかなければいけないなという気がいたします。
終戦68年“平和への誓い新た”8月15日(木) 21時26分
ttp://rkb.jp/news/news/16095/ きょうは「終戦記念日」です。福岡市でも、戦争で亡くなった人たちを追悼する式典が開かれました。
●黙とうする参列者 「黙とうをお願いいたします…」
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-156-150x84.jpg 福岡市中央区で開かれた「福岡県戦没者追悼式」には、戦争で亡くなった人たちの遺族などおよそ1100人が参列し、黙とうを捧げました。
続いて、夫をビルマで亡くした中間市の白木トシ子さんが、遺族を代表して追悼の言葉を述べました。
●遺族代表・白木トシ子さん 「あなた、いつも見守っていただいて、ありがとうございます。
周りの人たちもよくしてもらって、何とか頑張って来れました。今では、私もおばあちゃんです。ひ孫もいます。
未来を担う子供たちのために、この平和な暮らしがいつまでも続くことを強く願っています」
参列した遺族らは、献花台に花を供え、戦没者の霊を弔っていました。
終戦から68年、参列した遺族の平均年齢は73.2歳で、最高齢は100歳でした。
終戦の日 県戦没者追悼式08月15日 19時19分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130815/3637801.html 終戦から68年を迎えた15日、県内の9万3000人余りの戦没者を慰霊する追悼式が、福岡市で行われました。
福岡市の県立福岡武道館で行われた県の戦没者追悼式は、遺族など約1100人が参列しました。
福岡県の小川知事が「私たちが享受している平和は、尊い犠牲のもとにあることを忘れず、先人が築いてきた平和を
次の世代に引き継ぐよう全力を尽くしたい」と、式辞を述べました。
そして、正午ちょうどに、参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
続いて、遺族を代表して戦地のビルマ、現在のミャンマーで夫を亡くした中間市の白木トシ子さんが「夫を戦地に
見送ったのは、結婚してから1年もたたない日のことで、遠い地で亡くなったことは無念だったと思います。
私も今ではおばあちゃんになりひ孫もいます。未来を担う子どもたちのためにも、この平和な暮らしがいつまでも
続くことを強く願っています」と追悼の言葉を述べました。
式では、最後に参列者全員が菊の花を献花台に供え、戦地で亡くなったり、空襲の犠牲になったりしたあわせて
9万3000人余りの霊を慰めました。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130815/3637801_5013637801_m.jpg 参列した遺族の平均年齢は73.2歳と、終戦から68年を迎え遺族の高齢化が年々進んでいて、参列者のうち最高齢
の飯塚市の100歳の女性は「戦争を知っている人が少なくなっているが、私たちは頑張って戦争はしてはいけないと
訴えていきたい」と話していました。
終戦の日 鐘の音に平和願う08/15 18:22
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=34464 8月15日は68回目の終戦の日です。岡山市の寺では、戦没者の冥福や平和を祈る鐘の音が響き渡りました。
平和への思いを次の世代へ伝えようと岡山ユネスコ協会が2000年から行っているもので今年で14回目です。
武泰稔会長が「平和な世の中にするために何をしなけれならないかともに考えましょう」
とあいさつしたあと、長泉寺の関係者や近所の人らおよそ30人が順番に鐘をつきました。
そして目を閉じて犠牲者の冥福を祈り、鐘の音と平和への思いをそれぞれ心に刻みました。
一方、高松市では戦争体験を語りつぐ集いが開かれ、約100人が参加しました。高松市の市民団体が毎年、
終戦記念日に開いていて冒頭で戦争の犠牲者に黙祷をささげました。
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/jn13081505.asx 34回目の今年は香川県出身の沖縄平和ガイド大島和典さんがスライドや映像を使って沖縄の米軍基地の現状を伝えました。
大島さんは「米軍基地がなくなると沖縄の人は生けていけなくなる」という人がいるが県民の所得に占める基地関係の
収入は5%にすぎない。実情を知ってもっと沖縄の人の声に耳を傾けて欲しいと訴えました。
福岡市で開催 “平和のための戦争展”8月20日(火) 12時48分
ttp://rkb.jp/news/news/16155/ 日本が抱える基地や核問題、憲法について考えてもらおうという「平和のための戦争展」が福岡市天神で開かれています。
福岡市天神のアクロス福岡できょう始まった「平和のための戦争展ふくおか」には、写真や新聞記事など様々な資料が展示されています。
この展示会は、市民団体などが主催して毎年開いているもので今年で19回目です。
今年は現在の日本が抱える憲法と基地、そして核の3つの問題がテーマです。
特に若い人たちにこれらの問題への関心を高めてもらおうと、会場には漫画などでわかりやすく解説したものも数多く展示されています。
また、展示されている軍服やかばんなどは直接触れることもでき、訪れた人は手に取りながら見入っていました。
この展示会は福岡市天神のアクロス福岡で今月25日まで開かれています。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-20-150x84.jpg
戦争体験語るDVD貸出開始
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/5064179071.html?t=1378060713353 県内の戦争体験者20人のインタビューを収録したDVDが完成し、8月から宮崎市の県立図書館で貸し出しが始まりました。
このDVDは宮崎市のボランティア団体「宮崎この人企画」が県内の戦争体験者などに協力してもらい3年前から
撮影してきたインタビューの映像を収録したものです。
DVDは上、下巻の合わせて2枚で、8月から宮崎市の県立図書館で図書と同じように貸し出しと、閲覧室での視聴ができるようになりました。
このなかには▼戦時中、延岡市にあった火薬工場で学徒として働いていた男性が、空襲によって多くの仲間を失った
体験を語る様子や▼都城市から歩兵連隊の隊員としてパプアニューギニアに出兵して戦闘に従事した男性の話など
が収められています。
「宮崎この人企画」の森川紘忠事務局長は「ひとつのまとまった戦争の記録として整理できたと思います。
多くの人に見てもらい戦争のむごさを知ってもらいたいです」と話しています。
日本海海戦の“慰霊碑”建立9月17日(火) 21時23分
ttp://rkb.jp/news/news/16691/ 今から108年前、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊は、福岡県宗像市沖の玄界灘で戦火を交えました。
この日本海海戦で亡くなった犠牲者を弔う慰霊碑が、宗像市に建立されることになりました。
●地鎮祭(音)先日、宗像市大島でロシア大使館の総領事や日本側の関係者が集まり、地鎮祭が開かれました。
日露戦争の犠牲者を弔う慰霊碑が、日本海を見渡せる大島の高台に建てられることになったのです。
●「在日ロシア連邦大使館」リャボフ・オレグ総領事「慰霊碑は、日露戦争の歴史だけではなくて、日本とロシアとの間の関係を、
将来に向かって、ロシアとの日本の間には友好と相互理解を深めましょうというようなことを象徴できるというふうに思っております」
今から108年前、現在の宗像市沖の玄界灘で、日本とロシアの軍艦が戦火を交えました。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/09/2013-09-178-150x84.jpg この日本海海戦による死者は、日本側が117人、ロシア側が4830人に上ったとされています。
慰霊碑を計画したのは、ロシアを代表する経済団体「オーポラロシア」の日本側の拠点・オーポラロシア福岡です。
●オーポラロシア福岡・田村文彦会長「ロシア人であろうが、日本人であろうが、人間には変わりがないので、やっぱり死を葬る、
また、先祖を敬うというのは、別にロシア人だろうが、日本人だろうが、関係ないじゃないかという勝手な判断で、
こういうことをしてみようということで、やるようになったんです」
福岡では、医療視察団を受け入れるなど、ここ数年、ロシアとの交流が広がっています。
去年8月には、視察団の一行が大島を訪れ、島の人たちと交流しました。
大島では、小中学生が赤・白・青の3色の鶴を折っていました。ロシアの国旗と同じ色で千羽鶴を作り、慰霊碑に供える予定です。
●子供Qこれから日本とロシアとどうなればいいと思いますか?「交流をいっぱいして、仲良くなったらいいと思います」
「私たちだけでなく、私たちの次の時代までずっと平和になっていくように祈って、折っています」
宗像市内には、ほかにも、ロシアを身近に感じられる場所があります。独特な形をしたこのログハウス。
くぎを使わないロシアの伝統工法で建てられていて、「バーニャ」と呼ばれるロシア式のサウナも備えています。
●説明するマキナ・アルビナさん「ボルシチとピロシキ、ほとんどの皆さん、ご存知ですね。ロシア人が大好きなのはこのクレープ。中にいろんなものを入れますよ」
Q日本人のお客さんは食べて、どういう感想を言いますか?「みんなおいしいと言いますよ」
ロシア出身のマキナ・アルビナさんは、ロシアの料理やログハウスを紹介する会社を経営していて、ここは、日本とロシアとの交流の場にもなっています。
●マキナ・マルビナさん「日本とロシア、もっともっと近くに、仲良くなったらいいなと思いますね。できれば、その懸け橋になりたいと思います」
大島の慰霊碑は、11月に完成する予定です。日本とロシア、福岡を拠点に、相互理解を深める動きが広がっています。
日本に戻ってきた“日章旗”TNC 2013/09/23 19:10:00
戦時中、出征した人に渡されたと思われる日章旗が日本へ戻ってきた。持ち主の関係者を探している。
ニューギニアから持ち帰ったという。百道道場や大刀洗製作所など福岡にゆかりのある地名が記されている。
学徒動員の35人に68年越しに卒業証書
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753936.html 太平洋戦争末期、鳥取高等家政女学校(現鳥取敬愛高校)から学徒勤労動員として広島県呉市に駆り出された
35人に、68年越しに3日卒業証書が手渡された。式典では在校生が卒業生ひとりひとりをエスコート。
在校生の「ひ孫」と参加した「三ツ井いさ江」さんが代表して証書を受け取った。
また木村富枝さんは「こんな毎日の生活で自分の青春時代を失ってしまうのか。
もっと勉強がしたいという気持ちが日々強くなった。
二度とない青春時代をしっかり学びしっかり遊びしっかりと生きて自分の可能性を信じて生活してください」
と在校生に語った。
68年越しの卒業式だが、学徒動員でつらい思いをしたことや当時の学校の対応といった複雑な思いから
参加を見送った卒業生も少なくない。
鳥取敬愛高校の小山富見男校長は「心のわだかまりを解いていくことをこれからも続けていく。
これで終わらせて済むような問題ではない」と語り、今後も定期的に長寿を祝う会などを開くなど、
卒業生たちの苦労に報いるような活動を行うことにしている。[ 10/3 19:47 日本海テレビ]
【福岡】戦没者を慰霊、遺族らがミャンマーに出発10/15 14:58 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0009.html 第2次世界大戦中にミャンマーで亡くなった戦没者の慰霊を行うため、福岡県の遺族らが15日、現地に向かいました。
巡拝に参加したのは、第2次世界大戦中にミャンマーで戦死した旧日本兵の遺族など15人です。
結団式では、福岡県の海老井副知事が「異国の地で亡くなった戦死者に故郷・福岡の様子を報告してほしい」と挨拶しました。
戦地の慰霊巡拝は、東南アジア各地で30年ほど前から毎年行われています。
福岡県によりますと、ミャンマーでの戦没者のおよそ1割に当たる1万5000人が福岡県の出身ということです。
兄を亡くした遺族は「おつかれさんでしたと」「みんなで九州に帰ろうねと言ってこようと」と話していました。
ヤンゴンなど3か所で追悼式を行い、22日に帰国する予定です。
”レイテ島の戦い”小竹町で遺品展10月14日(月) 12時51分
ttp://rkb.jp/news/news/17197/ 太平洋戦争中、フィリピンのレイテ島で行われた地上戦にまつわる遺品を集めた展示会が、福岡県小竹町で開かれています。
小竹町の「兵士・庶民の戦争資料館」には、フィリピンのレイテ島から持ち帰られた215点の遺品が並べられています。
会場には、薬きょうや銃剣・鉄製のヘルメットなど軍用品のほか、銃弾が命中した水筒・歯ブラシなども並べられ、実際に手にとって触ることもできます。
太平洋戦争中、レイテ島では日本軍とアメリカ軍が激しい地上戦を繰り広げ、多数の死傷者が出ました。
この展覧会はレイテ島の戦いが、1944(昭和19)年の10月に始まったことから、悲惨な戦争の記憶を後世に語り継ごうと毎年この時期に開かれています。
この展示会は入場無料で今月29日まで開かれています。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/10/2013-10-14-150x84.jpg
”ビルマ戦線”での戦没者を慰霊へ10月15日(火) 12時31分
ttp://rkb.jp/news/news/17219/ 第二次大戦中のビルマ戦線で戦死した福岡県出身者を慰霊するための訪問団が、きょうからミャンマーを訪れます。
福岡空港の国際線ターミナルビルでは、きょう午前「福岡県ミャンマー戦没者慰霊巡拝団」の結団式が開かれました。
慰霊巡拝団には第二次大戦中のビルマ戦線、現在のミャンマーで死亡した福岡県出身者の遺族15人などが参加しています。
参加した遺族の大半は戦没者の子供で最年長は飯塚市の80歳の男性です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/10/2013-10-152-150x84.jpg ミャンマーでは旧日本軍の兵士およそ13万7000人が死亡し、そのうち1万5000人ほどが福岡県出身者とされています。
一行は、タイのバンコク経由でミャンマーに入り、今月22日まで戦場の跡などを訪れて戦没者を慰霊する予定です。
第2次大戦の“ビルマ戦線”戦没者を慰霊へ10月15日(火) 16時42分
ttp://rkb.jp/news/news/17222/ 第2次大戦中の「ビルマ戦線」で戦死した福岡県出身者を慰霊するための訪問団がきょう、福岡空港から現地に向けて出発しました。
福岡空港の国際線ターミナルビルではきょう午前、「福岡県ミャンマー戦没者慰霊巡拝団」の結団式が開かれました。
慰霊巡拝団には、第2次大戦中のビルマ戦線=現在のミャンマーで死亡した福岡県出身者の遺族15人などが参加しています。
参加した遺族の大半は戦没者の子供で、最年長は80歳の林政春さんです。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/10/2013-10-154-150x84.jpg ミャンマーでは、旧日本軍の兵士およそ13万7000人が死亡し、そのうち1万5000人ほどが福岡県出身者とされています。
一行は、タイのバンコク経由でミャンマーに入り、今月22日まで戦場の跡などを訪れて戦没者を慰霊する予定です。
2013.11.6 19:48愛媛県傷痍軍人連合会・妻の会解散式
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=45180 戦争でケガや病気をした元軍人たちで組織される県傷痍軍人会連合会と妻の会がきょう、松山市で解散式を行ないました。
会員の減少と高齢化が理由です。県傷痍軍人会連合会と妻の会はきょう、会員ら85人が出席し解散式を行ないました。
連合会と妻の会の会員は10年前にはあわせて1152人いたものの、今年の4月には229人にまで減少。
会員の減少と高齢化のため会の存続が難しくなり解散を決めました。
妻の会の友近シヅ子会長は、会が解散しても戦争の悲惨さを伝えていく考えを示しました。
EBCデ-タ放送NEWS 6日15:40 県傷痍軍人連合会が解散式
戦争でケガなどをした元軍人らで作る県傷痍軍人連合
会と妻の会が6日、松山市で解散式を行なった。2つ
の会をあわせた会員は10年前は1152人だったが、
今年4月には229人に減少。会の存続が困難に。
“日本海海戦慰霊碑” 建立式11月3日(日) 18時13分
ttp://rkb.jp/news/news/17586/ 108年前の日本海海戦で戦死した、日本とロシアの犠牲者を追悼するための慰霊碑が、福岡県宗像市大島に建てられました。
この慰霊碑は、日露戦争の日本海海戦で亡くなった両国の犠牲者を追悼しようと、ロシアとの交流を進めているオーポラロシア福岡が建立しました。
慰霊碑は日本海を望む宗像市大島の丘の上に建てられています。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/11/2013-11-032-150x112.jpg 雨のため、大島の体育館で開かれた慰霊碑の建立式典には日本とロシアの関係者およそ200人が出席しました。
ロシア大使館のアファナシエフ大使が、「過去に目を向けることは関係を前進させることにつながります。
日本とロシアは隣国で友情と平和の中で暮らさなければなりません」と挨拶しました。
また大島とロシアの子供たちがロシアの歌を一緒に歌って友好を深めていました。
米子市で旧軍用拳銃と実弾みつかる
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8754053.html 米子市の民家の蔵から拳銃と実弾がみつかった。
みつけたのは米子市内60代の男性で8日午前、自宅の蔵を整理していたところ、新聞紙などに包まれた拳銃1丁と
実弾93発を発見し、警察が回収した。男性の父は、旧日本軍の軍人だったということで旧軍用拳銃とみられている。
警察は、こうしたケースでは罪には問われないので、自宅で拳銃などを見つけた場合には届け出てほしいと呼び掛けている。
[ 11/8 17:44 日本海テレビ]
回天追悼式
ttp://kry.co.jp/news/news8704192.html 人間魚雷=回天の訓練基地があった周南市大津島で10日、搭乗員らの霊を慰める追悼式が行われた。
周南市の沖合い10キロに浮かぶ大津島。
太平洋戦争末期、ここには人間魚雷=回天に搭乗するための訓練基地があった。
回天慰霊碑の前で行われた追悼式でははじめに全国各地から集まった戦没者の遺族らによる黙祷が捧げられた。
その後、参列者らは献花台に菊の花を手向けた。
また式では回天に関する紙芝居なども披露され、参列者は平和への思いを新たにした。
回天顕彰会の原田茂会長は「薄れつつある戦没者の想いを若い世代に知って欲しい」と話していた。
[ 11/10 21:13 山口放送]
学徒動員の運転士が体験した“悲劇”11月18日(月) 20時51分
ttp://rkb.jp/news/news/17895/ 第2次大戦末期に実施された「学徒動員」によって、西鉄電車の運転士を務めた人たちがいます。
15歳で運転士として電車に乗務し、終戦直前、西鉄電車を舞台に起きた悲劇を間近に体験した男性が、久留米市の母校で当時の様子を語りました。
●講演する山口義光さん「日本と世界とが戦っておる。軍国青年であったわけでございます。軍国青年っていうのはね、
ビンタとられたっちゃ、今、ヤーヤー言いよるけれども、それは我慢せなならん。
こう立って、『足を開け』、バチン、バチンって、しょっちゅうたたかれておりました」
久留米市立南筑高校で、生徒たちを前に戦時中の体験を語る山口義光さん。
現在83歳で、戦争当時は南筑高校の前身、旧制南筑中学校の生徒でした。
●表彰状を見せる山口義光さん「学徒勤労報国の実を挙げ、他の模範とするに足る。よって、ここにこれを表彰す。昭和20年4月8日ばい」
山口さんが見せてくれたのは、西鉄から贈られた表彰状。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/11/2013-11-186-150x84.jpg 「学徒勤労報国隊」の文字があります。山口さんは終戦直前、わずか15歳で西鉄電車の運転士を務めていました。
●山口義光さん「出発進行!『車内みんなに聞こえるように呼称しろ』と言われるわけですよ。でも、あんまり言いたくないわけです。
中学生で恥ずかしいんです」山口さんは、学徒動員によって、電車の運転を行っていたのです。
南筑中からは、50人ほどが運転士として動員され、「高良隊」と呼ばれていました。
時には停車駅を通過するミスもありましたが、精一杯、「運転士」という仕事に打ち込んでいたという山口さんにとって、
絶対に忘れられない1日があります。1945年8月8日。
アメリカ軍の戦闘機が西鉄・筑紫駅の上空に現れ、電車やホームに向けて機銃掃射を加えたのです。
この空襲では、少なくとも64人が死亡したとされています。今年2月に見つかったその空襲の映像を、山口さんに見てもらいました。
●山口義光さん「ほー、弾が飛んでいきよるのがわかるんですね。私もね、(銃撃を受けた電車の運転士が)私になってないとは限らないんだから」
銃撃を受けた電車の3本あとの電車を運転していたという山口さん。
前方の信号機は赤のままでしたが、異変に気づいて、ゆっくりと電車を進めたと言います。
●山口義光さん「『何した?どうした?』って言ったら、『電車がやられてる』と。
私が行った時は、もうすでに負傷者とか、死亡者はですね、運び出されたあとでした。
しかし、もう電車の車内には、べったり血が付いていた。本当、生臭い血のにおいがですね」
68年前の自分と同じ年代の後輩たちを前に、山口さんは、自らの記憶と仲間の証言を頼りに、あの日の状況を説明しました。
●講演する山口義光さん「こう回って、ダッダダダダ。こう回って、ダダダダダ。こんなことにならなければ良かった。
しかし、アメリカの航空兵がボタンいっちょ押せば、6門の機関銃からザーっと出ていくんだから、たまったもんじゃありません」
終戦から68年、戦争を知る世代が減る中、しっかりと戦争というものを伝えておきたい。山口さんは、そんな思いで語りかけました。
●講演する山口義光さん「生きていかにゃならとやけん。人間生まれたら、死ぬまで。
自分の生きる信念、そういうのを持って、勉学にいそしんでほしいと思います」
●講演を聞いた生徒「自分たちと同じ年代で、すごい体験をしてるんだなと思って、びっくりしました」
「自分が聞いて、自分の子供とかに聞いた話を伝えないといけないなと思います」空襲におびえながら、少年時代を過ごした山口さん。
未来を生きる人たちに同じ思いはさせまいと、自らの体力が続く限り、その体験を伝え続けるつもりです。
※スタジオ●川上キャスター15歳の山口さんが運転する電車が、アメリカ軍の空襲を受けたかもしれないわけですよね。
「死」というものが身近だった時代から68年、そんな世の中を二度と繰り返さないように、戦争体験をしっかり語り継がなければいけません。
傷痍軍人会解散 “元日本兵の思い”11月20日(水) 19時38分
ttp://rkb.jp/news/news/17935/ 終戦から68年あまり、戦場で負傷するなどした元日本兵で作る「福岡県傷痍軍人会」が、先日、解散式を開きました。
会長を務めてきた92歳の元日本兵は、今も全身に傷痕が残り、「戦争を繰り返してはならない」と静かに訴えています。
今月13日、『福岡県傷痍軍人会』の会員たちが護国神社を参拝しました。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/11/2013-11-206-150x84.jpg ともに戦って戦死し、いまは『英霊』として護国神社に祀られている戦友に『傷痍軍人会』の解散を報告するためです。
●福岡県傷痍軍人会・倉掛重喜会長「そりゃ寂しいですよ」現在、92歳の倉掛重喜さん。福岡県傷痍軍人会の最後の会長です。
●倉掛さんQこれはほくろじゃないんですか?この黒いのは…。
「これが弾ですよ。これが手榴弾の破片ですたい。こういうのがまだ10ぐらい入っとるとですよ」
顔、胸、腕、それに足。倉掛さんの体には、いたるところに激しい戦いの痕が残っています。
倉掛さんは20歳となった1941年の夏に徴兵検査に合格。日中戦争が5年目に入り、まもなく太平洋戦争が始まろうとする頃でした。
派遣されたのは中国南部の広東省。
到着してから1か月ほどして上官からの命令で向かった場所には、杭にくくりつけられた中国兵の捕虜の姿がありました。
●倉掛さん「20メートルから30メートルぐらい離れたところから、鉄剣って言って、『突撃に突っ込めっ』
て言うてから突かないとならんのですたい。初めてですから、やっぱり足のもつれてから転んだり、もうそういう人が多いとですたい。
そうすると、『貴様それぐらいのことで戦争ができるか』っていってから教官やらから気合いを入れられた」
終戦の1年ほど前、敵の陣地を襲撃する作戦では撤退する途中に敵に囲まれました。
無我夢中で敵兵に突撃したという倉掛さん、その際、すぐ近くで手榴弾が炸裂しました。
●倉掛さん「破裂した音だけは聞こえたばってん、ここをやられたのも同じ時期だったから、全然もうやられたなという気はないんですよ。
気が立ってしまっているからですね。痛いとかなんとか全然感じない」
どうにか味方の陣地にたどりつき一命を取り留めたものの、同じ部隊の45人のうち43人が戦死しました。
終戦を迎え、倉掛さんは、地元の筑前町でコメ作りを再開します。
しかし、戦場でのけがの影響で手に力が入らず農作業でも苦労の連続だったといいます。
●倉掛さんノイズQ.今も手は曲がらないんですか?
「これはこれくらい。力が全然入らない。握力がないですよ。5〜6年は苦労しました。
あの頃の百姓はみんな手作業だった。で、麦刈りができん、稲刈りができん。鎌が使えないから作業ができんかった」
倉掛さんが会長を務めてきた福岡県傷痍軍人会。戦地で負傷したり病気にかかったりした元日本兵への生活支援などを求め活動してきました。
多いときには3000人以上の会員がいましたが、いまではわずか120人ほど、平均年齢も90歳を超え活動が難しくなったため解散を決めました。
●会員「よりどころがない。しかし、消えていくのは仕方ない」
終戦から68年、このところ、中国や韓国との関係が悪化し、緊張が高まっています。
戦場で、死と隣り合わせの体験をしてきた倉掛さんは人間性を破壊し、尊厳を踏みにじる戦争のおろかさを静かに訴えます。
●倉掛さん「いまからの戦争っていうのは、我々の想像がつかないような戦争じゃないですかね。
もう全然敵の顔も見ないで、我々のときまでは相対してやっと決着がつくようだったけど…。
戦争だけはこれは、してから何にも利益がないんですよ。本当」
●後受け 銃弾が飛び交い、いつ死ぬかわからない戦場を体験した倉掛さんの言葉は戦争の実態やそのおろかさをはっきりと示しています。
戦争を体験した人たちが高齢化する中、その人たちの声や思いを次の世代にどのように伝えていくかが課題となっています。
パプアで発見の兵士遺骨が帰還
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013356151.html?t=1385712670900 南太平洋のパプアニューギニアで3年前に見つかった人骨が、太平洋戦争で戦死した高知県南国市出身の兵士と
わかり28日、遺骨がふるさとに帰りました。
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013356151_m.jpg ふるさとに遺骨が戻ったのは、南国市出身で高知県出身の兵士を中心に構成された「歩兵第144連隊」の上等兵
だった甲藤由雄さんです。
甲藤さんは太平洋戦争中の昭和17年、パプアニューギニア東部で25歳で戦死したという記録が残っています。
遺骨は3年前に発見され、近くに「甲藤」と刻まれた印鑑が埋まっていたことなどから厚生労働省がDNA鑑定を行った
結果、ことし10月、甲藤さんと判明しました。
甲藤さんの遺骨は28日、ふるさとの南国市岡豊町に帰り、甲藤さんのおいの妻にあたる百合子さん(71歳)に県の
職員から遺骨が手渡されました。
百合子さんは「見上げるぐらい背が高く、おとなしい性格の人だったと聞いています。ふるさとで安らかに眠って欲しいです」
と話していました。
県によりますと、平成15年から取り入れられたDNA鑑定で身元が判明した高知県出身の兵士は、甲藤さんで
10人目だということです。11月29日 09時47分
旧槇峰鉱山で追悼集会
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/5063454441.html?t=1386114797053 太平洋戦争の末期、県北部にあった槇峰鉱山に中国から強制連行され、過酷な労働や病気で亡くなった人たちを
追悼する集会が、日之影町で開かれました。
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/5063454441_m.jpg 日之影町から延岡市にまたがる旧槇峰鉱山では、太平洋戦争末期の昭和20年2月に、中国山東省から強制連行
されたおよそ250人の中国人が、兵器などに使う銅の採掘で強制的に働かせられ、3分の1近くの77人が過酷な
労働や病気のために亡くなりました。
追悼集会は、生き残った中国の人たちが帰国の途についた昭和20年12月3日にあわせて、強制連行の実態を調査
している市民グループなどが毎年開いています。
3日は、亡くなった人たちの名前が刻まれている慰霊碑がある日之影町の鉱山跡地におよそ30人が集まりました。
この中で、福岡市にある中国総領事館の劉光耀領事が、「歴史の教訓を謙虚に読み取り、民間レベルから、日中
両国の平和と友好にともに努力しましょう」と述べました。
そして、参列者の代表が、慰霊碑に花束をささげたあと全員で焼香し、再び祖国の地を踏むことなく亡くなった人たちの
霊を慰めていました。
市民グループでは、今後も調査を続けるなどして中国人強制労働の実態を後世に伝えていくことにしています。
12月03日 18時37分
陸軍歩兵連隊の写真など展示
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/tottori/4043511271.html?t=1386403064140 平和の尊さを多くの人に知ってもらおうと、戦前、鳥取市に駐屯していた陸軍の歩兵連隊の写真などを集めた展示会が、鳥取市で開かれています。
旧・陸軍の歩兵第四十連隊は、県東部の出身者を中心に2000人から3000人で編成され、現在の鳥取市岩倉の駐屯地から、日露戦争や第2次世界大戦の戦地に赴きました。
鳥取市の歴史博物館で開かれている展示会では、駐屯地の近くで写真業を営んでいた男性が軍の許可を得て撮影した写真や遺品など150点を紹介しています。
写真は、鳥取市内で行われた訓練のほか、食事や風呂など、兵士たちの日常の暮らしぶりも収めています。
このうち、射撃訓練の写真は砂丘で撮影されていて、鳥取の連隊は足場の悪い砂地で鍛えられたことから、健脚部隊と呼ばれていたということです。
また、兵舎の窓から笑顔をのぞかせる兵士たちの写真は、庶民の兵士たちのリラックスした一面をとらえています。
会場を訪れた、戦前の連隊を知る男性は「感慨無量です。懐かしいのひと言に尽きます」と話していました。
この展示会は来年2月9日まで鳥取市歴史博物館で開かれています。
12月07日 12時27分
奄美群島復帰60年 資料展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/5053624001.html?t=1386405207905 戦後、奄美群島が日本に復帰して今月25日で60年になるのにあわせて当時の復帰運動などの資料を集めた
展示会が、奄美市で開かれています。
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/5053624001_m.jpg この資料展は奄美群島に関する様々な資料を所蔵している奄美市立博物館と県立奄美図書館が合同で開きました。
奄美市立博物館の会場には、戦後、アメリカ軍に統治され、日本本土との自由な行きなどが厳しく制限された
奄美群島の歴史がわかる資料や、復帰運動の様子を撮影した写真など300点あまりが展示されています。
このうち通称「B円」と呼ばれる軍票は、日本の貨幣に代わって奄美群島で使わていたもので、アメリカ軍の統治が
貨幣にも及んでいたことがわかる資料です。
また、復帰運動が本格化した昭和26年から28年にかけて各地で開かれた住民の集会の様子を撮影した写真や
子どもたちが「日本へ返してほしい」と訴えた作文集なども展示されています。
県立奄美図書館の石本晃治指導主事は「より多くの方たちに見てもらい、先人たちがどういう苦労をしたか知って
ほしい」と話していました。
この資料展は来年の1月19日まで開かれ、展示品のうち県立奄美図書館の所蔵品については今月13日までの
展示となっています。12月07日 13時07分
戦争や被爆体験の継承考える会
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4005745581.html?t=1386479210832 戦争や虐殺が起きた海外の国々で歴史教育に携わる人たちを招いて、戦争の体験や教訓を伝える重要さを考える
シンポジウムが、広島市で開かれました。
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4005745581_m.jpg このシンポジウムは、広島の被爆者が高齢化し体験を語り継ぐことが難しくなっていく中で海外の事例を学び伝承の
あり方を考えようと、広島市立大学の広島平和研究所などが開きました。
会場の広島国際会議場には戦争や内紛で虐殺が起きたポーランドとルワンダそしてカンボジアから、歴史博物館の
副館長やガイドが招かれ、それぞれが戦争の体験を伝えるときに心がけていることなどを述べました。
このうち、ポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所の跡地で、ただ一人の日本語ガイドを務める中谷剛さんは、
「ユダヤ人でもない私が虐殺の歴史を伝えるうえで一番大切にしていることは、私が接した虐殺を免れた人の代弁者
として、彼らの声をそのまま伝えることだ」と話しました。
また、およそ20年前に民族対立から虐殺が起きた、ルワンダのイヴ・カムロンジさんは、「世界中の若者が自分の
問題として核戦争や虐殺の、いきさつや体験を学ぶことが悲劇を繰り返されないことにつながる」と述べました。
シンポジウムの参加者はそれぞれの発表を聞きながら戦争体験を語り継ぐことが次の世代の平和につながることを
確認していました。12月08日 09時40分
新たな空襲映像みつかる
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073573461.html?t=1386546641107 太平洋戦争末期にアメリカ軍が撮影した原爆が投下される前の長崎市の爆心地付近や鹿児島県と熊本県の空襲の
様子などが写った新たな映像を大分県宇佐市の市民グループが入手し、8日、公開されました。
映像は戦争遺跡の保存などに取り組んでいる宇佐市の市民グループ、「豊の国宇佐市塾」がアメリカの国立公文書館
の資料などを収集している会社などから新たに入手したもので、8日、報道陣に公開されました。
このうち長崎市の爆心地付近の映像は、太平洋戦争末期の昭和20年7月29日から8月1日の間に沖縄から出撃した
アメリカの戦闘機から撮影されたもので、長崎大学医学部や三菱重工業長崎造船所の幸町工場などが写っています。
市民グループによりますと、原爆投下前の様子がわかる貴重な映像だということです。
また、特攻隊の基地とした多くの若者が飛び立っていった鹿児島県の旧日本海軍の鹿屋基地などが、アメリカ軍の
空襲で炎上している様子なども写っています。
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073573461_m.jpg 市民グループによりますとこの映像は今後、宇佐市の平和資料館で一般公開されるということです。12月08日 18時54分
太平洋戦争開戦72年・「赤紙」で平和訴え
ttp://www.itv6.jp/catch/news_detail.php?date=20131208&no=0002 きょう12月8日は、1941年に太平洋戦争が開戦した日です。
松山市内では女性たちが兵士の召集令状、いわゆる「赤紙」を配り平和の尊さを訴えました。
これは、女性の立場で教育や福祉などの社会運動に取り組んでいる「えひめ母親大会連絡会」が毎年、
開戦の日に合わせて行っているものです。
きょうは女性10人が市内の繁華街に立ち、道行く人に戦時中の召集令状、赤紙が印刷されたビラを配り、
反戦などを訴えながら、「子供たちの未来を考える日にしてほしい」と呼びかけました。
また参加者は、おととい国会で成立した特定秘密保護法にも触れ、
「民主主義に反し国民の目・耳・口を塞ぎかねない悪法で許されるものではない」と廃止を訴えました。
「父は愛媛出身」比残留日系2世が日本国籍取得
ttp://www.itv6.jp/catch/news_detail.php?date=20140129&no=0002 第二次世界大戦前のフィリピンで日本人男性と現地女性の間に生まれた残留日系2世たちが
日本国籍の取得を申し立てている問題で、愛媛県出身の父親を持つきょうだい2人が日本国籍を取得しました。
今月24日付で東京家庭裁判所から日本国籍への就籍を認められたのは、
フィリピン在住のアイリーン・サカイ・ルアさん89歳と、サカイ・フランシスコ・ジュニアさん79歳の姉と弟です。
2人を支援してきた東京のNPO法人、フィリピン日系人リーガルサポートセンターによりますと、
父親のサカイ・ギタロウさんは愛媛県出身で、1910年代に移住してルソン島で製材所を経営。
現地女性と結婚し、12人の子供をもうけますが、1950年に現地で死亡しました。
アイリーンさんたちは2008年以降、日本国籍の取得を東京家庭裁判所に申請していました。
物的証拠が乏しく審理は長期化しましたが、東京家裁は5年半が経った今月24日、父親は愛媛県出身の日本人、
サカイギタロウさんであると認定し、アイリーンさんらの日本国籍の取得を許可しました。
アイリーンさんは、「知らせを聞いたときの嬉しさは、言葉ではとても表しつくせません。
もう一度、今度はその国民として、祖先の国を訪問するのを楽しみにしています」と話しているという事です。
佐々木禎子さんの甥がライブ
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023215971.html?t=1396055262485 広島市の平和公園にある「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんを通じて命の尊さや平和について考える
催しが28日、徳島市で開かれました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023215971_m.jpg 2歳の時に広島で被爆し、12歳で亡くなった佐々木禎子さんは元気になって学校に通いたいと願って鶴を折り続けた
ことから広島市の平和公園にある「原爆の子の像」のモデルになっています。
この催しは、小松島市を拠点に平和について考える活動を行っているNPO法人が開いたものでおよそ50人が
訪れました。
催しでは、禎子さんの甥の佐々木祐滋さんが家族から聞いた禎子さんについて「闘病生活は8か月間に渡り
苦しいものだったにも関わらず禎子さんは亡くなる時、最後に家族に向かってありがとうと話した」などと話した上で、
「何事にも感謝を感じることができる心が世界を平和にすることができると思う」などと禎子さんを通じて感じた
平和への思いを語りました。このあと、佐々木さんは禎子さんへの思いをつづった歌「INORI」など7曲を披露しました。
小松島市の50代の女性は「生きていること自体ありがたいことだというのを改めて感じました戦争は体験して
いませんが私も見聞きした話しを語り継いでいきたい」と話していました。
佐々木さんは「自分の思っていることを活動通じて話すことでなにかを感じてもらえたら」と話していました。
03月28日 20時07分
岡山空襲CGで再現 映像公開
ttp://www.webtsc.com/prog/news5/ 「岡山空襲はどのようにして行われたか」当時の空襲の様子をCGで再現した映像の公開がきょうから岡山市の
岡山空襲展示室で始まりました。
岡山空襲の展示資料に合わせて映像を紹介することで空襲の悲惨さを知ってもらおうと岡山市が製作したものです。
映像は3分あり基地を飛び立ったB29が岡山市の上空で焼夷弾を投下する様子や投下された焼夷弾からガソリン
などが飛び出し 火災を引き起こす仕組みなどが分かりやすく再現されています。
製作された動画は岡山空襲展示室のHPでもきょうから公開されています。
空襲をCGで再現
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=3 戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えます。
1945年の岡山空襲で大量に投下された焼夷弾の状況を解説する映像が岡山市で公開されています。
次々と投下される焼夷弾、そして、瞬く間に広がる炎。岡山空襲がどのように行われたのか、
コンピューターグラフィックスで再現した映像です。
1945年6月29日未明の岡山空襲ではアメリカ軍の爆撃機B29が約9万5千発の焼夷弾を投下。
岡山市によりますと当時の市街地の約63%が焼失し、少なくとも1737人の命が奪われたとされています。
映像は空襲に関する資料や証言をもとに作られたもので時間は3分11秒。
ゼリー状のガソリンなどが仕込まれた焼夷弾の構造や投下の様子などがリアルに分かる内容になっています。
解説映像は岡山市北区にある岡山シティミュージアムの空襲展示室で上映されているほか、
岡山市のホームページでも公開されています。
岡山空襲の焼夷弾解説画像を公開
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140422_9 1945年6月29日の岡山空襲で、どのように焼夷弾が投下されたかを解説する映像が完成し、岡山シティミュージアムで
22日公開されました。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140422_9.jpg 1945年6月29日の午前2時43分、B29が岡山市上空に焼夷弾を落とす瞬間を再現したコンピュータグラフィックスです。
落とされた焼夷弾は883tに及びます。岡山シティミュージアム5階の岡山空襲展示室です。
未明に約1時間半も続いた爆撃のすさまじさや、1700人以上の命が犠牲になった空襲の悲惨さを後世に伝えようと、
多くの資料が展示されています。今回、岡山市が制作したのは、焼夷弾がどのように投下されかを再現した映像です。
22日、上映が始まりました。
先導するB29が岡山市に大量の焼夷弾を投下し、そこで起きた火災を目印にして、あわせて138機のB29が
岡山市街地の6割を焼き尽くしました。
映像は、米軍の資料や体験者の証言をもとに、焼夷弾が地上に落ちて燃え上がるまでを再現しています。
戦争の記憶を風化させないために、展示室では今年の空襲の日6月29日に向けた特別展の準備も進めていると
いうことです。
岡山空襲を解説する映像公開04月22日 18:48
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1196 戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えます。
http://www.youtube.com/watch?v=v4hS8nEJ9MU 岡山市のシティミュージアムで岡山空襲の焼夷弾の投下状況を解説する映像が22日から公開されました。
5fにある岡山空襲展示室です 公開が始まったのは空襲の焼夷弾がどのように投下されたかなどを解説する映像です
空襲で使用された焼夷弾の実物やレプリカと共に公開 この映像は市が約27万円をかけて製作
1945年6月29日の 午前2時43分から1時間以上、高度1,500m付近で解束して続いた
▲この空襲で当時の岡山市の63%が消失し ▲1737人以上の命が犠牲に 映像では空襲で使用された焼夷弾の構造などを、
信管の爆発により、黄りんとゼリ-状のガソリンが飛び出して燃える、と解説していて、どのように攻撃されたのかを知ることができる
岡山空襲展示室 学芸員 木村祟史さん おかやまの街も空襲で焼けてしまったことが あるんだという事実を伝えていって
これかえらの平和についての思いを 新たにして頂けたらと思います 展示室は一昨年の2012年10月にオ-プンした常設展で
→これまでに4万人以上が来場 スタジオ男 是非これね、若い人たちに見てもらいたいなあと思いますね
まあ岡山空襲を取材させて頂いたことがあるんですが 岡山城が赤く燃え上がるところで
子供達がお母さんお母さんと探しながら逃げ彷徨うというインタビュ-をさせてもらったことがあるんですけど
是非こういうことはやはり伝えて戦争を2度と出してはいけないことを皆で考えてもらいたいですね
岡山大学の戦争遺跡をめぐる04月27日 13:49
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1224 戦時中の遺跡を知ってもらい後世に語り継ごうという講習会が27日、岡山大学で開かれました。
「岡山の戦争と戦災を記録する会」が開いたもので、会員ら9人が参加しました。
岡山大学津島キャンパスには、日露戦争後の1907年に旧陸軍第17師団の基地が置かれました。
そして部隊の改編を行いながら太平洋戦争終戦まで利用されました。
講習会では当時の建物や施設の跡地などをめぐり、どのような活動が行われていたかを学びました。
戦争体験者が減っていることから「記録する会」では講習会など後世に語り継ぐ取り組みを続けたいとしています。
高松空港跡を小学生が見学
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034392341.html?t=1400045924782 かつて高松空港があった高松市林町で地元の小学生が空港の跡地を訪ねる校外学習が行われ、町の歴史を学びました。
旧高松空港は、昭和19年に陸軍の飛行場として高松市林町に作られ、現在の高松空港が出来る平成元年まで
香川県の空の玄関口として利用されてきました。
校外学習は、地元の歴史を知ってもらおうと林小学校と県立文書館が行ったもので、6年生100人余りが参加しました。
児童たちは3つのグループに分かれ、文書館の職員の案内で、空港が建設される際、半分以上埋め立てられた
池や空港の滑走路があった現在の県立文書館の駐車場などを見て回りました。
駐車場では、職員から昔の高松空港には、滑走路を横断する道路があり、事故を防ぐために飛行機が発着する
際には遮断機を下ろして入れないようにしていたと説明されると児童たちは驚いた様子でメモをとっていました。
参加した児童は、「こんな町のなかに空港があったと知って、びっくりした。もっと町の歴史について知りたいと思った」
と話していました。
県立文書館では、高松空港の移転25周年を記念した資料展を5月25日まで開いていて、こうした機会に昔の空港に
ついても関心を持って欲しいとしています。05月14日 12時31分
徳島市戦没者追悼式
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024503331.html?t=1400833334525 明治時代以降の戦争で亡くなった徳島市出身の人たちなどを慰霊する追悼式が、23日、徳島市で開かれ、
遺族や関係者が平和の誓いを新たにしました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024503331_m.jpg 徳島市は、明治時代以降、太平洋戦争までの戦争に出兵して亡くなった市の出身者など合わせて6793人の
追悼式を毎年、5月23日に行っています。
遺族や関係者らおよそ300人が出席し、はじめに黙とうをささげて犠牲者を悼みました。
続いて、徳島市の原秀樹市長が「遠い前線で尊い命をささげた戦没者を思うと万感胸に迫ります。悲しみの歴史は
繰り返しません」と式辞を述べました。
また、徳島市遺族連合会の米川孝宏会長は「遺族の使命として戦争で学んだ教訓を次の世代に語り、
恒久平和の実現に一層の努力を尽くします」と述べました。
この後、遺族や地区の代表などが献花台に菊の花を手向け、平和の誓いを新たにしていました。
最後に、若い世代を代表して八万中学校1年生の福島真生さんが平和への思いをテーマにした作文を朗読し、
「僕たち若い世代が大人になった時は戦争のない平和な世界を築きます」と誓いました。
遺族会によりますと、会員は高齢化して追悼式への出席が年々難しくなってきているということですが、
来年以降の式にもできるかぎり出席していきたいとしています。05月23日 12時44分
高松で平和を語る集い
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034037331.html?t=1400982499879 昭和20年の高松空襲の体験談を聞いて戦争や平和について考えようという催しが高松市で開かれました。
この催しは高松市が開いたもので、最初におよそ130人の参加者が昭和20年7月4日の高松空襲で亡くなった
1359人の犠牲者に対して全員で黙祷しました。
そして高松市に住む水野忠彦さん(75歳)が高松空襲の体験を話しました。
水野さんは空襲の当時6歳で、自宅で寝ていたところ「バリバリドーン」という生木が避けるような轟音で目を覚まし、
外に出ると焼い弾が次々と降ってきて明るく見えたことなど生々しい記憶を説明しました。
また逃げる途中で爆弾が落ちる音が地響きと一緒に聞こえて生きた心地がしなかったと述べたうえで、
「当時の記憶は、今も鮮明に浮かんできます。平和の大切さと命の尊さを若い人たちに伝えなければいけない」
などと戦争体験を語り継ぐことの大切さを訴えました。
講演を聴いた78歳の女性は「私が経験した高松空襲や沖縄戦でなくなった父親のことを思い出しました。
改めて戦争はしてはいけないと思いました」と話していました。05月24日 18時17分
身近な戦争遺跡の保存を考える
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014773931.html?t=1401589324986 太平洋戦争末期、海軍航空隊の基地があった南国市で、身近に残る戦争遺跡について理解を深めようという催しが
開かれました。
南国市の公民館で開かれたこの催しは戦争遺跡の保存について考える市民団体が開き、郷土史の研究者や地元の
人など、およそ50人が参加しました。
この中で南国市教育委員会の担当者が地元に今も残っている「掩体」と呼ばれる航空機の格納庫について説明しました。
「掩体」は、太平洋戦争中の昭和16年ごろから現在の高知空港の周辺にあわせて41基作られ、今も残る7基は、
アメリカの戦闘機による攻撃の痕が残るなど貴重な姿をとどめているとして市の史跡に指定されています。
富山県から参加した女性は「掩体は、何も知らずに見たら戦争遺跡だとわからないかもしれません。
戦争を体験した人が少なくなるなかで、今後も残していくことが大切だと思います」と話していました。
また徳島県から参加した男性は「戦争をしてはダメだと考える一つの材料になると思うので、もっと戦跡の調査をして、
多くの人に見てもらいたいです」と話していました。06月01日 10時26分
空襲を耐えたビルを調査
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015070131.html?t=1402303518340 昭和20年の空襲で焼けずに残った高知市のビルが改修されることになり、工事を前に9日、市民団体が記録を残す
ための調査を行いました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015070131_m.jpg このビルは、高知市中心部にある3階建ての鉄筋コンクリート造りで、窓の部分の外壁には鉄製とみられる扉が
取り付けられており、こうした設備によって空襲による火災を免れたのではないかと見られています。
高知市の市民団体、平和資料館「草の家」によりますと、このビルは大正初期に建てられたもので、老朽化などに
伴って改修工事が行われることになり、9日は、市民団体の担当者がビルの写真を撮ったり外壁の様子などを
確認したりして記録として残す調査を行いました。
高知市は昭和20年1月から7月にかけて、あわせて8回にわたりアメリカ軍の空襲を受けて多くの建物が焼け落ちて
しまい、当時を伝える建造物としては貴重なものだということです。
平和資料館「草の家」の福井康人研究員は「このビルは空襲だけでなく昭和の南海地震も経験した歴史の証人です。
今後も長く残してほしい」と話していました。06月09日 12時31分
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/10(火) 15:13:50.10 ID:+Scs3KcE0
三笠宮崇仁親王が100歳でまだご存命なのは有名だが、東条英機暗殺作戦の立案者ということは知られていない。
岡山空襲の記録と写真展
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024587511.html?t=1403164721497 昭和20年6月29日に岡山市の中心部で、多くの犠牲者が出た「岡山空襲」の日を前に、
岡山市北区で空襲に対する市民の備えなどを紹介する展示会が19日から始まりました。
この展示会は岡山市の中心部でおよそ2000人の犠牲者が出たとされる昭和20年6月29日の「岡山空襲」
について紹介するもので、会場の岡山市北区にある岡山シティミュージアムには、実際に使われた焼い弾や写真
などおよそ450点が展示されています。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024587511_m.jpg このうち、空襲の直後に岡山市が作成した焼失範囲を示す貴重な地図は、劣化を防ぐために行われた修復作業の
あととしては初公開となります。
修復の過程で、地図を補強する裏紙に空襲警戒警報の発令などを記録した紙が使われていることがわかったという
ことです。
また会場には実際に設置されていた防火水槽のほか、水では消せない焼い弾の炎を消すための砂を入れたケースも
展示されていて、市民が日ごろから空襲のためにさまざまな備えをしていたことがうかがえます。
会場を訪れた人たちは空襲の悲惨さを物語る資料に見入っていました。
岡山シティミュージアムの猪原千恵学芸員は「6月29日は岡山空襲があって大勢の方が亡くなったのだと
もう一度考えるきっかけにして欲しい」と話していました。
「風船爆弾」を製造 女性語る
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005259361.html?t=1403165635041 太平洋戦争末期に旧日本軍が開発した兵器、「風船爆弾」の製造に携わった四国中央市の女性が19日、
愛媛大学で講演し、学生たちに平和への思いを語りました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005259361_m.jpg 講演したのは、四国中央市の医師、伊藤澪子さん(85)で、愛媛大学の「平和学」の講義には、学生らおよそ80人が
出席しました。
「風船爆弾」は旧日本軍が開発した兵器で、和紙を貼り合わせて作った直径10メートルほどの気球に爆弾や焼夷弾を
取り付けたものです。
戦前から国内有数の紙の産地だった現在の四国中央市をはじめ各地で製造されて、9000発以上がアメリカ本土に
向けて飛ばされ、民間人の犠牲者が出ました。
伊藤さんは、女学校時代に、風船爆弾の製造に動員された当時を振り返り、「戦況が悪化していることは感じていたが、
最後は精神力で日本が勝つと信じて疑わなかった」と心境を語りました。
そして、和紙の原料の楮の皮をはいだり、こんにゃくを溶かした糊で固めた和紙を気球の表面に貼ったりして
爆弾をつくっていたことを紹介した上で、「日用品の紙やこんにゃくさえ武器に変えて、国中を巻き込んで行われるのが
戦争だ。二度とこのようなことを繰り返してはならない」と訴えました。
出席した男子学生は、「風船爆弾を初めて知り、貴重な話を聞けて良かったです。
自分の祖父にも戦争の体験を聞いてみたいと思いました」と話していました。06月19日 13時38分
6月19日のニュース岡山空襲の地図修復 新資料も
ttp://www.webtsc.com/prog/news5/ 1700人以上の犠牲者を出した1945年6月29日の岡山空襲。
その被害状況を当時の岡山市がまとめた地図が修復され、その修復過程で岡山空襲の新たな資料が見つかりました。
7月19日、警報発令―。
これは当時の岡山市防空本部が残した冊子の下書きで、6月29日の岡山空襲以降も、岡山で警戒態勢が続いていた
ことが分かります。岡山市がきょうから開いている岡山戦災と記録の写真展で初めて公開されました。
下書きは防空本部が空襲直後にまとめた地図の補強用の裏紙として貼られていたもので、修復作業の過程で新たに
見つかりました。
このほかにも「市民の防空」をテーマに部屋の光が外に漏れないよう作られた電球や、市民が用意した消火用品など、
約200点が展示されています。展覧会は7月6日まで開かれます。
愛大で風船爆弾を証言(06月19日)
ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20140619&no=0005 太平洋戦争当時、四国中央市で風船爆弾の製造を経験した女性がきょう愛媛大学で教壇に立ち、
平和の大切さを学生たちに訴えました。
愛媛大学では、「平和学」と題した授業を実施していて、きょうは四国中央市の医師伊藤澪子さん85歳が教壇に立ち、
風船爆弾の製造に携わった経験を話しました。
風船爆弾は直径10メートルの紙製の風船に爆弾をつけ、アメリカへ向けて飛ばした兵器で、
女学生時代に伊藤さんは15歳で、紙の製造に従事しました。
講義の中で伊藤さんは若い女学生達が手を荒らしながら兵器製造に携わっていた経験を紹介した上で
改めて平和の大切さを訴えました。
一方、講義を受けた学生は、70年前、愛媛の地で起きていた事実に驚きを隠せない様子でした。
岡山空襲の日を前に 戦争の傷あと巡る見学会
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140622_1 1945年6月29日の岡山空襲から、まもなく丸69年になるのを前に、戦争の傷あとを巡る見学会が、岡山市内で行われました。
岡山の戦争と戦災を記録する会が、平和の大切さなどについて考えてもらおうと、毎年行っている見学会です。
あいにくの雨でしたが、30人が参加し、岡山市北区の岡山大学の構内に残る旧陸軍・第17師団司令部などの
建物を見て回りました。参加者は、戦争と戦災を記録する会の説明を聞きながら、平和への思いを新たにしていました。
岡山市内に残る戦争の傷跡をめぐる見学会は、今月29日にも行われる予定です。
水島空襲から69年
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024904421.html?t=1403417232569 太平洋戦争末期に岡山県倉敷市の水島地区にあった軍需工場がアメリカ軍の爆撃を受けた「水島空襲」から69年に
なる22日、市民が集まって平和の鐘を鳴らし、犠牲者を追悼しました。
水島空襲は、昭和20年6月22日、当時、軍用機を製造していた倉敷市水島地区の三菱重工業の工場がアメリカ軍の
爆撃機B29による空襲を受けたもので、従業員や周辺の住民など57人が死傷しました。
倉敷市福田町古新田の公園には悲惨な戦争を2度と繰り返さないようにという願いを込めた平和の鐘が設置
されていて、水島空襲から69年となる22日、市民などおよそ50人が鐘の前に集まりました。
そして、空襲が始まった午前8時36分に合わせて鐘を鳴らし、全員で1分間の黙とうをささげました。
このあと白いハトを空に放って、平和への思いを新たにしていました。
当時、爆撃を受けた工場で働いていた84歳の女性は、「戦争があったことを思い出すために毎年来ています。
平和な国であり続けるよう願っています」と話していました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024904421_m.jpg 平和の鐘を鳴らした小学5年生の女の子は、「戦争は怖いので平和が続くようにと思って鳴らしました」と話していました。
06月22日 12時25分
6月22日18時10分更新 水島空襲から69年 平和への祈り
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=1 6月22日は水島空襲の日です。倉敷市の公園では平和の鐘を鳴らし、平和への祈りを捧げました。
水島空襲が始まった午前8時36分。平和の鐘が鳴り響く中、約30人の参列者が1分間の黙とうを捧げました。
水島空襲は1945年6月22日アメリカのB29が軍用機を生産していた三菱重工業航空機製作所を爆撃したもので、
工場の従業員や周辺の住民など合わせて11人が亡くなりました。
水島空襲から来年で70年。参列者は空襲の記憶を風化させてはいけないと、平和への誓いを新たにしていました。
沖縄「慰霊の日」大学生黙とう
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025338771.html?t=1403570070683 沖縄は23日太平洋戦争末期の沖縄戦から69年の「慰霊の日」を迎えました。津山市の美作大学では沖縄出身の
学生が中心になって黙とうを行い、沖縄戦の犠牲者を悼みました。
昭和20年の沖縄戦では、20万人を超える人が犠牲となり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。
6月23日は、沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日で、沖縄県は「慰霊の日」と定めています。
沖縄からの学生が120人と全体のおよそ1割を占める津山市の美作大学では沖縄出身の学生などで作る実行
委員会が、沖縄戦の悲惨さや平和の尊さを再認識してもらおうと「慰霊の日」に合わせて23日正午から1分間の
黙とうを呼びかけました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025338771_m.jpg 大学の正面玄関には沖縄出身の学生をはじめ一般の学生や教職員、あわせておよそ120人が集まり、
学内放送に合わせて、沖縄の方向を向いて沖縄戦の犠牲者に黙とうを捧げ平和への誓いを新たにしていました。
参加した沖縄出身の4年の女子学生は、「毎年、ここで黙とうしていますが、沖縄以外の人もたくさん参加して
くれていてうれしく思います。」と話していました。06月23日 18時45分
6月23日23時44分更新 沖縄出身学生が黙とう
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=1 6月23日は太平洋戦争末期の沖縄戦から69年となる「慰霊の日」です。
津山市の美作大学では沖縄出身の学生らが犠牲者に黙とうを捧げ、平和への誓いを新たにしました。
1945年の沖縄戦では住民を巻き込んだ激しい地上戦により約20万人の命が奪われました。
6月23日は沖縄戦で組織的な戦闘が終わったとされる日で沖縄県は「慰霊の日」と定めています。
津山市の美作大学は学生の約1割が沖縄出身で、毎年慰霊の日には全ての学生や職員が黙とうし犠牲者を悼んでいます。
このうち沖縄出身の学生ら約120人も沖縄の方角を向いて平和への祈りを捧げました。
沖縄出身の学生らで作る美作大学沖縄県人会では今月28日、大学の体育館で沖縄戦をテーマにした創作劇を上演し、
命と平和の大切さを訴えることにしています。
徳島大空襲を巨大看板絵に
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025287641.html?t=1403848556285 太平洋戦争末期におよそ1000人が犠牲になった徳島大空襲の悲劇を後世に伝えていこうと、
映画宣伝の看板絵師だった男性が空襲の様子を巨大な看板に描き、27日、徳島市で公開されました。
昭和20年7月4日、徳島市はアメリカ軍の爆撃機による大規模な空襲を受け、市街地の60%以上が焼けて
およそ1000人が犠牲になりました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025287641_m.jpg 27日から徳島市で公開されているのは、この徳島大空襲の様子を描いた縦2点3メートル、横3点6メートルの
看板絵です。
制作したのは、徳島市の元映画看板絵師の湯浅利一さん(72歳)で、幼いころに体験した空襲を身につけた看板絵の
技術で後世に伝えようと、さまざまな資料をもとに1か月がかりで描きました。
27日は、湯浅さんと、空襲を語り継ぐ活動をしている浜松利昭さん(81歳)が、会場を訪れた近くの保育園児20人に
絵を見せながら空襲について説明しました。
看板絵には、焼い弾を投下するBー29や、激しく燃え上がる市街地の様子が迫力あるタッチで描かれていて、
園児たちは、真剣な表情で説明に聞き入っていました。
絵を描いた湯浅さんは「自分自身では空襲のことはあまり覚えていませんが、真剣に描けば見る人に伝わると思い、
無心になって描きました」と話していました。
この看板絵は、徳島市立木工会館で7月13日までほかの戦争に関する資料とともに展示されます。06月27日 12時49分
岡山空襲から69年 岡山市戦没者追悼式
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140629_1 1700人以上の命が奪われた岡山空襲から、きょう29日で69年になります。
岡山市では、戦没者追悼式が行われました。
今年で25回目となる追悼式には、遺族や市民などおよそ1600人が参列しました。
1945年の6月29日、岡山市はアメリカ軍の空襲を受け、市街地の大半が焼失し、1700人以上が犠牲となりました。
式では、遺族を代表して、岡山市戦災遺族会の太田宮子会長が追悼の言葉を述べました。
参列者は、献花台に花を手向け、平和への思いを新たにしていました。
岡山空襲69年 戦没者追悼式
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025473551.html?t=1404026257219 太平洋戦争末期、アメリカ軍による大規模な攻撃によって1700人以上が亡くなった岡山空襲から69年になる29日、
戦没者の追悼式が岡山市北区で行われました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025473551_m.jpg 岡山空襲は昭和20年6月29日の未明、アメリカ軍の爆撃機、B29による攻撃で岡山市の中心市街地の70%近くが
焼失し、1700人あまりが亡くなったものです。
この岡山空襲から69年になる29日、岡山市主催の戦没者追悼式が岡山市民会館で開かれ、遺族などおよそ
1600人が参列しました。
式典では岡山空襲の犠牲者のうち、名前が確認されている1453人の名簿が奉納されたあと、犠牲者に黙とうを
ささげました。
このあと遺族を代表して太田宮子さんが「戦争とはいかに悲しいものであるか忘れることは出来ません。戦争の
悲惨さや平和の大切さを後世に語り伝えて頂きたい」と追悼のことばを述べました。
その後、参列者が献花台に花をたむけ、犠牲者を悼みました。
式典に参加した79歳の遺族の女性は「岡山空襲では家族と一緒に逃げました。焼い弾で建物が次々に燃えている
のが見えたのを今でも憶えています」と話していました。
また、84歳の女性は「二度と戦争はして欲しくない」と話していました。06月29日 12時59分
6月29日18時10分更新 岡山市戦没者追悼式
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=2 1700人以上の尊い命が奪われた岡山空襲から29日で69年です。岡山市では戦没者追悼式が行われました。
式では岡山市の大森市長らが岡山空襲で犠牲となった人の名簿を奉納しました。
名簿には名前が確認されている1453人が記されています。
主催した岡山市によりますと29日は遺族や市民約1600人が出席し、献花をするなどして冥福を祈りました。
市では、遺族の高齢化などで悲惨な戦争の風化が懸念される中、
平和の尊さをしっかりと次の世代に伝えていきたいと話していました。
高知空襲展 始まる
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015181501.html?t=1404118128305 太平洋戦争末期の昭和20年、450人を超す人が亡くなった高知空襲の悲惨さを伝える写真の展示会が30日から
高知市役所で始まりました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015181501_m.jpg 高知空襲では昭和20年1月から7月にかけてアメリカ軍の攻撃を8回にわたって受け、450人を超す市民が
亡くなりました。なかでも7月4日の空襲は「高知大空襲」と呼ばれ、大きな被害を受けました。
高知市役所で始まった写真展は、「高知大空襲の日」を前に一般市民が戦争に巻き込まれていった悲惨さを知って
もらおうと毎年、この時期に開かれ、写真13点が展示されています。
このうち幅3メートル60センチ、高さ80センチのパノラマ写真は、空襲によって市の中心部の建物の大半が焼け
崩れた様子が捉えられています。
また空襲から2年後の昭和22年に市中心部の堀詰で撮影された写真は、焼け野原となった町並みにバラック小屋が
並び、戦後の復興へと向かっていく様子がうかがわれます。
写真を見た高知市の80代の女性は「当時、焼い弾が雨のように降ってきて山の方に逃げたことを思い出した。
人と人が戦うということはやってはいけないということを若い人に知ってもらいたい」と話していました。
この展示会は来月4日まで、高知市役所1階の玄関前で開かれています。06月30日 12時46分
徳島大空襲の追悼式
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025659611.html?t=1404458469435 およそ1000人が犠牲になった徳島大空襲から69年目となる4日、徳島市で追悼式が行われ、参列者が黙とうを
ささげて平和への誓いを新たにしました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025659611_m.jpg 太平洋戦争末期の昭和20年の7月3日深夜から4日にかけてアメリカ軍の爆撃機が行った徳島大空襲ではおよそ
1000人が犠牲になりました。
徳島市で行われた戦災死没者追悼式には、遺族などおよそ80人が参列し、はじめに全員で黙とうをささげました。
続いて、徳島戦災遺族会の片山光男会長が「私たちは空襲の地獄の中を逃げ惑い、最愛の肉親とは2度と言葉を
交わせなかった。私たち遺族は戦争の悲惨さを語り平和の尊さを訴えていきます」と述べました。
また、徳島市の原秀樹市長は「再び悲しみの歴史を繰り返さないよう誓いを新たにします」と述べました。
この後、参列者が1人1人祭壇に菊の花をささげて犠牲者を追悼し、平和への誓いを新たにしていました。
徳島大空襲からことしで69年となり、遺族の高齢化が進んで追悼式への参列者も減り続けているということですが、
遺族会では、これからも空襲の体験を語る会などを開き、戦争の記憶を後世に伝えていきたいとしています。
07月04日 12時44分
69年目の高松空襲跡を歩く
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035730971.html?t=1404525035899 1300人以上の犠牲者を出した高松空襲から69年を迎えた4日、空襲の跡を訪ね歩く催しが、高松市で開かれました。
昭和20年7月4日の高松空襲では、あわせて1359人が犠牲になりました。
4日夜、開かれた催しは、高松空襲を語り継ぐ活動を行っている民間の団体が開いたもので、およそ100人が
参加しました。
はじめに、主催者がアメリカ軍の焼い弾などによる爆撃が2時間ほど続き、高松市の市街地のおよそ8割が焼失した
ことなどを説明したあと、全員で黙とうをささげました。
続いて、参加者たちは、高松市中心部にある、大正時代に建てられた鉄筋コンクリート製の銀行の建物を見学し、
銀行の担当者から、行員が一丸となって消火活動にあたり、焼失をまぬがれたことや、空襲の被害を避けるために、
建物の外壁に迷彩の柄が施されていたことなどの説明を受けました。
参加した75歳の男性は、「若い人たちに平和な世の中をつくっていってもらいたいと改めて思いました」と話していました。
このあと参加者たちは、空襲を受けたあとの高松市内の様子を撮影した写真展も見学し、平和への思いを新たに
していました。07月05日 09時26分
岡山空襲 戦没者追悼式06月29日 12:46
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1585 岡山空襲から29日で69年です。岡山市で戦没者追悼式が行われました。
岡山空襲や岡山から戦場へ行って亡くなった人の冥福を祈ろうと、24年前から開かれていて、約1600人が出席しました。
1945年6月29日、岡山市街地が空襲を受け、1700人あまりの人が亡くなりました。
式では平和を祈って1分間の黙祷をささげました。そして遺族会代表の徳田伸さんが
「私たち遺族にとっても過ぎ去った1年1年は苦難の連続でした」と追悼の言葉を述べました。
この後、出席者は献花台に花をたむけて平和への祈りをささげていました。
高松空襲の悲惨さ伝える展示会07月04日 12:00
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1613 69年前の7月4日、高松空襲で1359人が犠牲になりました。空襲の悲惨さを伝える展示会が開かれています。
高松市の中心部、中新町交差点の地下通路で開かれている「地中の高松空襲展」です。
「高松空襲を子どもたちに伝える会」が去年からこの時期に開いています。
中新町交差点は当時、高松築港から南下する幹線道路の終点でT字路になっていました。
戦時中はそのロータリーに水をためて防火用水として利用していて空襲を受けて逃げ惑う人たちが飛び込みました。
また、空襲で未来を奪われた子どもたちの名前も並べています。
高松中学2年の堀川武さんは学校の防火要員として消火に向かい亡くなったそうです。
この展示会は7月14日まで開かれています。
https://www.youtube.com/watch?v=9jPOXPvf2tc 高松空襲を子どもたちに伝える会植田会長(82) 大きな音とともに 照明弾が落ちたら昼間のように明るい
風船爆弾製造の女学生聞き取り
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005937781.html?t=1405377568540 太平洋戦争末期に旧日本軍が開発した兵器、「風船爆弾」について調べるため、東京の専門家らが製造場所が
あった四国中央市を訪れ、製造に携わっていた当時の女学生たちに聞き取り調査を行いました。
調査をしたのは、旧日本軍の兵器について研究している、明治大学の山田朗教授ら4人で、風船爆弾に関する資料が
展示されている、四国中央市の資料館を訪れました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005937781_m.jpg 風船爆弾は、旧日本軍が開発した兵器で、和紙を貼り合わせて作った直径10メートルほどの気球に爆弾や焼夷弾を
取り付けたもので、現在の四国中央市など、全国の和紙の産地を拠点に各地で製造されました。
山田教授らは、資料館で展示を見学したあと、現在の川之江高校で爆弾の製造に携わっていた女性4人に聞き取り
調査をしました。
このうち、伊藤澪子さん(85歳)は、和紙の原料の準備から、できあがった気球に傷が無いかなどを確認する最後の
工程まで携わったと説明しました。
風船爆弾は、「最後の秘密兵器」とも言われ、旧日本軍は、情報が漏れないよう作業工程を細く分けて全国各地に
割り当てていたとされています。
山田教授は、「一連の作業工程を知っている貴重な証言者だ」と驚き、当時の作業の内容を細かく尋ねていました。
調査を終えて、山田教授は、「秘密兵器は残されている資料が少ない。風船爆弾が製造されて70年のことし、
製造に携わった人たちの声を記録して、実態を調べたい」と話していました。07月14日 20時36分
倉敷の小中学生が「平和学習」07月13日 17:43
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1662 戦争の悲惨さや平和の大切さを学ぶため、倉敷市の小中学生が広島市へ向けて出発しました。
倉敷市が1996年から毎年行っている「広島平和のバス」です。小中学生や保護者ら約270人が参加しました。
出発式では倉敷市の吉田晴一総務局長が「核兵器の恐ろしさや戦争の悲惨さをしっかり学んでください」と挨拶しました。
その後、倉敷市が定めた平和都市宣言を職員と参加者が一緒に唱和しました。
参加者は「以前、長崎の原爆を見にいったんで、きょうは広島を見て違いを考えてこようかなと」
「戦争が起こらないためには何をしないといけないのかということを知りたいです」などと離していました。
参加者は日帰りで原爆ドームを見学したり被爆者の話を聞いたりして、平和について学びました。
平和資料展
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003096931.html?t=1406241625160 太平洋戦争末期に松山市を焼け野原にした「松山空襲」を風化させないようにと当時の写真などを展示した
「平和資料展」が松山市で開かれています。
「松山空襲」は終戦直前の昭和20年7月26日、アメリカ軍のB29が松山市を爆撃したもので251人が亡くなり
市内は焼け野原となりました。
この資料展は「松山空襲」を風化させないようにと松山市が毎年この時期に開いています。
会場には、市民から提供された空襲直後の松山市の写真をはじめ当時使われていた生活用品、兵士が家族に
あてた手紙などおよそ300点が展示されています。
このうち、空襲直後の写真では石手川にかかる立花橋付近から市街地の様子を写していますが建物が焼失し、
遠くにある県庁が見通せるほど焼け野原になっていたことがわかります。
また、何人もの女性が白い布にひと針ずつ赤い糸で結び目を作り、お守りとして出征する兵士に贈った「千人針」
には縁起が良いと好まれた虎が描かれ、兵士の無事を祈った女性たちの心情がうかがえます。
松山市市民参画まちづくり課の大石和可子副主幹はい世代には、松山にも空襲の歴史があることを知ってもらい、
今の平和の大切さを感じてほしい」と話していました。
資料展は市の総合コミュニティセンターで今月30日まで開かれています。07月24日 19時06分
戦争犠牲者追悼式
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005928921.html?t=1406412262240 およそ250人が犠牲になった太平洋戦争末期の松山空襲から26日で69年がたち、犠牲者を追悼する式典が
開かれました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005928921_m.jpg 戦時中たびたびアメリカ軍の空襲にあった松山市では、終戦間際の昭和20年7月26日、B29の大規模な爆撃で
市街地が焼き尽くされ、およそ250人が犠牲となりました。
この松山空襲の日にあわせて毎年、遺族の会などが空襲や戦場で亡くなった人たちを追悼する式典を開いていて、
ことしは松山市の平和記念広場におよそ90人が集まり、まず全員で黙とうしました。
続いて、海軍の兵隊だった父を戦地で失った仙波美保子さん(70)が「私たちは戦争を忘れがちになっています。
いまのよき時代に生きていることを感謝し、平和の大切さを伝えていくことが大事です」とあいさつしました。
そして、出席者が1人ずつ献花台に花を手向け、戦争で亡くなった人の冥福を祈りました。
式典を主催した実行委員会の会長で、みずからも15歳で松山空襲にあったという中山淳さん(84)は、
「弟や妹を連れて戦火の中を逃げ惑い、大変な思いをしました。
戦争を語り継ぐのは年々難しくなるけども、必ず続けていかなければならない」と話していました。07月26日 19時01分
高松市戦争遺品展
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035901991.html?t=1406619282975 終戦直前の昭和20年に1300人を超える人が犠牲となった、高松空襲の悲惨さを伝える遺品や資料の展示会が、
高松市で開かれています。
これは、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ごうと、高松市が毎年開いているもので、市役所の1階のロビーには
高松空襲の遺品や当時の写真など117点が展示されています。
このうち、高松市中心部で見つかった懐中時計は、高松空襲のさなかの午前3時3分で止まっていて、空襲の時間を
具体的に示す唯一の遺品だということです。
また、特攻隊に志願した高松市の男性に贈られた寄せ書きは、本人から寄贈され、ことし初めて展示されました。
当時としては珍しく、男性が勤めていた職場の女性が中心となって書いたということで、女の子のイラストのほか、
「お元気で」といった女性ならではの優しさにあふれたことばがつづられています。
子どもと一緒に訪れた38歳の女性は、「戦争体験者が少なくなる中で、戦争を経験していない私たちが子どもたちに
語り継がなければいけない時期にきていると思いました」と話していました。この展示会は8月1日まで開かれています。
07月29日 12時47分
元特攻隊員が語る
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023122901.html?t=1406674280270 太平洋戦争の末期に、松茂町の海軍航空基地で飛行訓練を行っていた元特攻隊員の男性が、多くの若者が犠牲に
なった戦争の悲惨さを伝える催しが徳島市で開かれました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023122901_m.jpg 8月の終戦の日を前に開かれたこの催しは、特攻隊員だった91歳の田尻正人さんが、自らの体験を伝えようと
開きました。
特攻隊員として、松茂町で訓練を行っていた田尻さんは、出撃する前日に終戦を迎えましたが自分の仲間、56人が
犠牲になったとして、「当時、戦況などの実情は国民にはまったく知らされず、次々に特攻隊としてかり出された結果、
多くの若い命が犠牲になった」と戦争の悲惨さを語りました。
また、最近では、太平洋戦争の歴史を知らない若者がいるということに触れ、「若い人たちにも過去の歴史を知って
もらい、過ちを繰り返さないという強い気持ちを持っていただきたい」などと訴えていました。
参加した小学5年生の男の子は、「特攻隊はとても悲しいものだと思いました」と話していました。
また59歳の女性は、「すべてが狂っていた時代だと思いますが、同じ事を決して繰り返してはいけないと思います」
と話していました。
会場の徳島市立木工会館には田尻さんの仲間が残した寄せ書きや当時の写真などの資料、およそ50点が
展示されていて、訪れた人たちは、真剣な表情で資料を見ていました。この資料は8月17日まで展示されています。
07月29日 18時39分
高松で戦争の遺品展開催 ( 7/30)
ttp://www.ohk.co.jp/e/news/004.html 戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えようと戦争の遺品などを展示する企画展が高松市役所で開かれています。
戦闘訓練をする子供たちの写真や大砲の薬きょう。この企画展は高松市が毎年開いているもので、
市に寄贈された戦争にまつわる遺品やパネルなど約130点が展示されています。
市内に住む男性が出征する際、働いていた工場の同僚の女性たちが贈った寄せ書きは庶民の暮らしぶりが分かる
貴重な資料です。
高松市によりますと戦後69年が経ち悲惨な記憶を若い世代に伝えようと遺品などを持ち寄る人が増えているということです。
この企画展は、高松市役所で8月1日まで開かれています。
平和のための戦争展が始まる
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023530361.html?t=1407277714209 太平洋戦争末期の写真や資料を通じて、戦争の悲惨さと平和の大切さを呼びかける展示会が、津山市で開かれています。
この展示は悲惨な戦争の記憶を風化させず、平和の尊さについて多くの市民に知ってもらおうと、津山市の
平和団体などが毎年、この時期に開いているものです。
会場の津山市の市民ロビーには、原爆の惨状を伝える写真や絵などをはじめ、戦争末期の特攻隊の出撃や終戦と
ポツダム宣言を伝える当時の新聞などおよそ100点の資料が展示されています。
中には、出征する兵士の無事を願う「千人針」や日章旗の寄せ書き、それに戦時中に使っていたサーベルや訓練用の
木銃なども展示され、訪れた人たちが、熱心に見入っていました。
子ども連れで展示を見ていた女性は、「私自身も戦争を知らない世代ですが、たくさんの命が失われる戦争はしては
いけないと言うことを子供たちの世代にしっかり伝えていきたいと思います」と話していました。
この「平和のための戦争展」は、8月8日まで、津山市役所の市民ロビーで開かれています。08月05日 18時43分
学生に戦争体験者が語る08月01日 17:26
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1777 福祉や看護を学ぶ学生に戦争体験を伝える特別講義が1日、新見市で開かれました。
新見公立短期大学で開かれた戦争体験の特別講義には、地域福祉学科の学生など約60人が参加しました。
講師として戦争体験を伝えたのは、新見市に住む森光栄さん(90)です。
https://www.youtube.com/watch?v=97q9OVoD0e4 森光さんは1944年に出征し、国内で2等兵として厳しい軍隊生活を終戦まで続けました。
森光さんは「軍隊生活では上官の言うことは絶対で、スリッパで叩かれるなど言われるがままの生活だった」と話しました。
戦争体験者森光さん 私らが兵隊時代は人権尊重でない 虫けらと同様に扱われた感じがします
今の世の中がいつまでも続くようにと 私らは願っています 参加した学生は--- 女子 改めて人権の大切さとか人を思いながら
接していくことも思い直すことができた
津山市写真家が戦争体験の記録活動
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140813_10 15日は69回目の終戦の日です。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140813_10.jpg 戦争を体験した人が高齢化し戦争の記憶が薄れる中、津山市の写真家が戦争で夫を失った女性を取材し記録する
活動を続けています。女性の思いを取材しました。
津山市の写真家、柴田れいこさんです。この日、岡山県吉備中央町の民家を訪れました。
戦争で夫を亡くした女性を取材するためです。
小川マサ子さんは1943年5月に剛さんと結婚、夫はその一年後にフィリピンへ出征しました。
太平洋戦争末期、フィリピンは死の戦場と呼ばれていました。
武器や食糧の補給はとだえ、兵士は飢えと病に倒れていきました。
戦争が終わってからまもなく、小川さんのもとへ夫の戦死を知らせる広報が届きました。
柴田さんはこれまで戦争で夫を亡くした女性、約50人を取材、カメラにおさめてきました。柴田さんのアトリエです。
女性をテーマに写真を撮り続けている柴田さんにとっても今回の企画は特別です。
柴田さんの父親もフィリピン戦線へ出征し帰還しましたが、1963年に亡くなるまで戦争のことはほとんど語りませんでした。
柴田さんは終戦から70年を迎える来年、展覧会を開く予定です。
亡き父の思いを胸に、戦争に翻弄された女性の生き方を伝えていくことにしています。
戦争体験については13日夜のRSKメッセージでもお伝えします。
柴田さんの活動のほか、岡山・高松の空襲の体験や戦後30年間、妻にも語らなかった元兵士の思いなどをお伝えします。
須崎市で戦時中の部品見つかる
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013775381.html?t=1407982914431 須崎市の山中で戦時中、日本軍が使っていた部品などが次々と見つかり、調査を行った平和団体は、当時、
高知の沿岸部が一大軍事拠点だったことを示す貴重な資料だと話しています。
これは、高知市の民間の平和団体「草の家」が須崎市の山中を調査したところ、見つかったもので、山の斜面に
およそ30センチ四方の金属の板が埋まっていました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013775381_m.jpg これを横浜市にある資料館に送り鑑定してもらったところ、板の形や真空管が取り付けられている位置が、
残されていた図面と一致したことから戦時中、敵の艦船を見張るため、日本海軍が使用したレーダーの受信装置の
一部とわかったということです。
このほかレーダーを載せるコンクリート製の台座も見つかっていて、いずれも日本海軍のレーダー部隊が使用
していたと見られています。
須崎市など高知県の沿岸部には、太平洋戦争末期、アメリカ軍の上陸に備えて日本軍が数多くの部隊を展開し、
一大軍事拠点となっていて、草の家はそのことを示す貴重な資料だと話しています。
「草の家」の福井康人研究員は「見つかった部品を多くの人に見てもらうことで平和の大切さについて考えてもらいたい」
と話しています。08月14日 10時08分
全国戦没者追悼式の参列者出発式 ( 8/14)【11時45分更新】
ttp://www.ohk.co.jp/e/news/002.html 8月15日は69回目の終戦記念日です。
東京で行われる全国戦没者追悼式に岡山県から参列する遺族の代表が14日、JR岡山駅を出発しました。
岡山県から追悼式に参列するのは戦争で親や兄弟を失った遺族80人です。
岡山県遺族連盟によりますと今回の参列者の平均年齢は73歳で高齢化が進んでいて、戦争の悲惨さや平和の
大切さを次の世代に伝えていくことが課題だということです。
全国戦没者追悼式は15日、東京の日本武道館で行われ、岡山県からは2人が遺族代表として献花することになっています。
戦没者追悼式の遺族団結団式
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013739061.html?t=1408005508698 終戦の日の15日、東京で開かれる全国戦没者追悼式に参列する県内の遺族の結団式が、高知県庁で開かれました。
政府主催の全国戦没者追悼式は、終戦の日の15日、東京の日本武道館で開かれ、高知県からは10歳から83歳
までの遺族らあわせて83人が参列します。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013739061_m.jpg 14日は、県庁の正庁ホールで遺族の結団式が行われ、岩城孝章副知事が、「わが国は、戦没者の犠牲のもと
世界に誇れる平和で豊かな国家に発展した。そのことを忘れずしっかりと子や孫に引き継いでいかなければならない」
とあいさつしました。
このあと、遺族団の団長をつとめる県地域福祉部の井上達男副部長が「全国の遺族とともに戦没者の霊を弔い、
二度と戦争の惨禍を繰り返すことのないよう日本の平和を祈ってきます」と述べました。
父親を亡くした高知市の83歳の女性は、「戦争で父を奪われ、本当に辛かった。父に最近の出来事をたくさん
伝えてきたい」と話していました。
一行は、県庁からバスで高知空港に向かい、飛行機で14日午後、東京に入ったあと、15日の追悼式に参列します。
08月14日 14時52分
8月14日のニュース全国戦没者追悼式に遺族が出発
ttp://www.webtsc.com/prog/news5/ 終戦の日のあす東京で行われる全国戦没者追悼式に参列するため岡山県の遺族の代表らがきょうJR岡山駅を出発しました。
69回目の全国戦没者追悼式に参列するのは戦地や空襲などで家族を亡くした岡山県内の遺族80人です。
平均年齢は73歳で今年は戦没者の両親や配偶者はおらず年々子どもや孫の割合が高くなっていて、参列者は減少傾向だということです。
岡山県内でも各地で追悼式が予定されていますが、高梁市有漢町で毎年終戦の日に開催していた式は遺族の高齢化で今年は休止となりました。
戦争を語りつぐつどい
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013443631.html?t=1408085544337 「終戦の日」の15日、高知市で、中国からの引き揚げや広島での被爆など戦争の体験を語りつぐ催しが開かれました。
この催しは、再び戦争が起きないよう、体験した人の話を語りついでいこうと退職した教職員で作る団体などが
「終戦の日」に合わせて毎年、高知市で開いています。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013443631_m.jpg 催しでは、小学校の元教員で、終戦当時、8歳だった宮地智子さん(77歳)が、父親の仕事の都合で暮らしていた
旧満州・現在の中国東北部から敗戦後に母と姉、それに2人の弟とともに鉄道で引き揚げた際の体験を話しました。
この中で宮地さんは、途中、駅で若い母親が行方がわからなくなった子どもを探して歩き回る姿を見たことや、
日本人を狙った集団から逃れるため、夜中、茂みに隠れて息を潜めた体験などを話しました。
また、12歳のとき広島で被爆した植野克彦さん(81歳)は、「原爆が炸裂したときは一瞬、影がなくなりあたりが
ものすごく明るくなった。そのあとほかの生徒とともに港の方に避難したが、突然意識を失い、10日間ほど、
こん睡状態に陥った」と語りました。
会場には、およそ100人が訪れ、戦争を体験した人たちの話に耳を傾けていました。08月15日 13時59分
終戦の日に子どもが討論
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015606681.html?t=1408144095894 「終戦の日」の15日、全国から集まった子どもたちが平和について考える討論会が高知市で開かれました。
この討論会は、高知市の県立坂本龍馬記念館などが「終戦の日」にあわせて去年から開いているもので、
県内のほか、東京や大阪などから18人の小中学生と高校生が集まりました。
討論会では、司会進行役をつとめた坂本龍馬記念館の森健志郎館長が「今の世界や日本は平和だと思うか」
と子どもたちに問いかけると、全員が「平和ではない」と答えました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015606681_m.jpg その理由について「外国では今も戦争が続いている」とか、「日本でもほかの国の基地が作られたりしている」
などといった意見が出され、平和を実現するために世界各地でさらに取り組みを進める必要があることを確認していました。
高知市の小学6年生の女の子は「他人を優先できる思いやりがあれば、争いは少なくなると思う」と話していました。
また、東京から来た小学5年生の男の子は「世界に目を向けて、みんなが戦争をやめるよう話し合う場所を作って
いきたい」と話していました。08月15日 19時24分
終戦の日で平和を祈る催し
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023797161.html?t=1408145110976 終戦から69年を迎えた15日、岡山市北区の寺で市民が鐘をついたり空襲を体験した人の話を聞いたりして、
平和を祈る催しが開かれました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023797161_m.jpg この催しは、終戦の日にあわせて岡山ユネスコ協会が開いたもので、岡山市北区の長泉寺には、市民などおよそ
30人が集まりました。
はじめに全員で命と人権を尊重することやあらゆる暴力を許さないことなどを訴える平和宣言を読み上げ、
参加者1人1人が境内にある鐘をついて手を合わせ、平和を祈りました。
続いて15歳の時に岡山空襲を体験した岡山市東区の人見辰江さん(84)の講演会が行われました。
人見さんは、「爆撃の音に驚いて家の外に出るとあたりはすべて真っ赤な炎に覆われていました。家族と必死に
逃げましたが、一面焼け野原になった風景にただぼう然としました」と当時の状況を語りました。
そして、「当時の若い人たちが命をささげて築いてくれた平和に感謝してほしい」と訴えました。
参加者たちは人見さんの話に耳を傾けながら平和への思いを新たにしていました。
参加した83歳の男性は「戦争の悲惨さを若い世代に語り継ぐ大切さを改めて感じました」と話していました。
08月15日 19時51分
県戦没者追悼式(08月15日)
ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20140815&no=0002 終戦から69年を迎えた15日、松山市内では戦没者の追悼式が営まれ、参列者が、
先の大戦で無念の死を遂げた先人を悼むと共に平和を祈りました。
戦没者の遺族や自治体の関係者などおよそ2千人が参列したきょうの式典では、
黙とうがささげられた後、遺族を代表して父親がニューギニアで戦死した山崎民恵さん77歳が、追悼の辞を述べました。
県によりますと、先の大戦で亡くなった県内関係者は4万4千人余りで、その遺族の世代交代に加え、
戦争体験者が減り続ける中、平和の礎となってきた悲惨な記憶の継承が課題となっています。
県戦没者追悼式
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140815T192402&no=1 8月15日は69回目の終戦記念日です。松山市では県主催の戦没者追悼式がありました。
松山市のひめぎんホールで行われた追悼式には遺族などおよそ2000人が参列し、まず、
県関係の戦没者4万4562人に黙祷が奉げられました。
そして中村知事が「8月15日が我が国の平和の原点であることを改めて心に刻み、ふるさと愛媛の限りない
発展のため県民の皆様と心を一つにして着実に歩みを進めたい」と式辞を述べました。
続いて、遺族を代表して当時37歳だった父親を東部ニューギニアで亡くした、西予市三瓶町の山?民惠さん77歳が
追悼の言葉を述べました。
このあと参列者は祭壇へ花を手向け、それぞれの思いを胸に戦没者の冥福と平和への祈りを捧げていました。
ギフト処分セール
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140815T192526&no=2 お中元用の食料品ギフトを格安で販売する処分セールが、松山市のいよてつ高島屋はじまり、
15日あさから多くの買い物客で賑わっています。
このセールはお中元シーズンが過ぎて在庫となった商品を格安で販売していて、いよてつ高島屋ではお歳暮の
時期とあわせて年に2回行っています。
会場では、ビールやハムなどおよそ300アイテムが、定価の3割から5割引きで販売されています。
いよてつ高島屋によりますと、ギフト処分セールの人気は高く、毎回大盛況だということです。
こちらの「食料品ギフト処分セール」は、17日まで開かれています。
誤爆すまそ
2014.8.15 19:4769回目の県戦没者追悼式
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46754 15日は69回目の終戦の日です松山市で県戦没者追悼式が営まれ参列者が平和への誓いを新たにしました。
松山市で行われた追悼式には県内の遺族などおよそ2000人が参列し、第2次世界大戦の県関係の戦没者
4万4562人に黙とうを捧げ冥福を祈りました。
この後、中村知事が「8月15日が平和の原点であることを改めて心に刻みたい」と式辞を述べました。
そして、遺族を代表し戦闘の激しかった東部ニューギニアで父親を亡くした西予市の山ア民惠さんが追悼の言葉を
述べました。
集団的自衛権の行使容認を閣議決定するなど日本の平和行政が大きな転換点を迎える中、参列者は献花台に
花を手向けあらためて平和への誓いを新たにしていました。
終戦翌日犠牲の特攻隊慰霊祭
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013806791.html?t=1408231475968 終戦の翌日に起きた爆発事故で多くの兵士が死亡した、「震洋」とよばれる特攻部隊の慰霊祭が16日、基地があった
香南市で開かれました。
「震洋」は、爆薬を積んだ小型のモーターボートで乗員もろとも敵の艦船に体当たりする特攻兵器で、戦時中、
いまの香南市の手結地区に基地がありました。
終戦翌日の8月16日に誤った命令が出され、出撃の準備をしていたところ、爆発事故が起き、111人が犠牲になりました。
亡くなった兵士の命日にあたる16日開かれた慰霊祭には、遺族らおよそ60人が参列し、1人ずつ焼香をして犠牲者を
追悼するとともに、平和への願いを新たにしていました。
父親を亡くした広島県の74歳の女性は「私は当時5歳で父の面影はほとんど覚えていませんが、終戦を知りながら
死んだのは無念だったと思います。戦争のない平和な世の中が続くことを願っています」と話していました。
慰霊祭は県外の遺族を招いて、毎年開かれてきましたが、高齢化で参列者が減っていることなどから、
大規模に行うのはことし限りとなり、来年以降は地元の人たちだけで行うことが決まっています。08月16日 21時02分
終戦の日 市民の思いは…08月15日 18:12
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1859 15日は69回目の終戦の日です。
https://www.youtube.com/watch?v=CdkXn08j_Bg 岡山でも各地で平和への祈りが捧げられました。今、皆さんが戦争などについて考えていることは?
岡山市の県護国神社には戊辰戦争以降の戦争で亡くなった県出身者とみくにのある人56718人が祀られています
神事や式典が行われ遺族らが戦没者への冥福や平和への祈りを捧げた
一方県庁では終戦の日に合わせ半旗が掲げられた 正午には職員が黙とう 69回目の終戦の日を迎えました
戦争や集団的自衛権の行使について皆さんはどのような思いを抱いてるんでしょうか 市民は--- 爺さん
うちの長男も戦死してるんですよ やっぱり戦争というのは してはいけないことですかね
おばさん 戦争は得することは1つもないです 岡山駅自由通路 若男1 守らないといけないという
仕方ない理由もあるかもしれないので 難しいですね 一番はないのがいいですけど
若女1 普通のことが普通にできなくなるのが 戦争だと思うので この当たり前がしあわせだったんだなって
後になって思うのはいやなので 若男2 結局利益にはならないのでは ないかとは思います
若女2 どんなにひどいかなっていうのを知って 伝えていくのが重要だと思います
若女3 集団的自衛権の行使容認は いやですね 小さい子たちが それになるのかと思うと
できれば自衛隊の人でも避けた方が いいいんじゃないかなとは思います 護国神社にて元自衛隊員は---
集団的自衛権が行使されたら 犠牲になる方もいらっしゃるかもしれない 戦争とか争いのない国であって
今まで通り平和で それが一番でしょうね
多度津町で戦争資料展
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033940111.html?t=1408608328506 戦時中の生活を今に伝える品々を集めた資料展が、多度津町で開かれています。
この戦争資料展は、戦争の悲惨さを伝えようと多度津町立資料館が毎年8月に開いているもので、会場には
防空ずきんや鉄かぶと、それに学童疎開に関する資料などおよそ250点が展示されています。
このうち、陶器でできたポンプや紙製のヘルメットは供出によって足りなくなった金属の代用品で作られたものです。
なかには「代用ナベ」というシールが貼られた貝殻で作られた鍋やしゃもじもあり、当時、いかに物資が不足
していたかがうかがえます。
また千人針や千人力は、何人もの人がひと針ずつ赤い糸で結び目を作ったり、「力」という字を書いたりして出征する
人のお守りとして贈ったもので、身近な人の無事を祈る切実な思いが伝わってきます。
展示資料の一部を提供した善通寺市の法兼高政さん(88歳)は「勤めていた軍需工場では空襲が来てもなかなか
避難させてもらえず、九死に一生を得て助かりました。
戦後は平和に暮らすことを優先してもらいたいと思います」と話していました。
この資料展は8月31日まで開かれています。08月21日 12時09分
風船爆弾ミュージカル製作発表(08月21日)
ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20140821&no=0005 太平洋戦争中、四国中央市で製造されていた風船爆弾をモチーフに、
ミュージカルが公演されることが決まり、きょう、製作発表が行われました。
中之庄公民館で行われたきょうの製作発表には、
四国中央市出身の演出家、田辺国武さんのほか、出演者らが出席しました。
ミュージカル「風船爆弾を作った日々」は太平洋戦争末期、
軍の秘密兵器である風船爆弾を川之江高等女学校の生徒たちが、製造していた日々を描いています。
きょうは、原作となった本の著者で、当時、製造作業に携わった高橋光子さんも出席しました。
公演は、11月15日と16日に、四国中央市土居文化会館で行われる予定です。
69回目の終戦の日 戦時中の暮らしを知る資料展08月15日 12:36
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1855 69回目の「終戦の日」です。平和の尊さを感じてもらおうと戦時中の人々の暮らしを紹介する資料展が
香川県多度津町で開かれています。
https://www.youtube.com/watch?v=OKub-XNtZK8 多度津町立資料館が毎年8月に開いているもので、町民から寄せられた遺品や写真など約250点を展示しています。
当時の日本政府は戦局の悪化に伴い兵器に使う金属が不足したためマンホールのふたや銅像、
家庭の金属類などを回収しました。
会場には、その代わりとして家庭で使われていた貝殻のなべやしゃもじ、紙製のヘルメットなどが展示されています。
また、子ども用の防空ずきんも展示されていて子どもたちも戦争に巻きこまれていたことが分かります。
今年は、町内の古民家を解体するときに見つかった日清戦争を記録した写真帖など貴重な資料も展示されています。
資料展は8月31日まで開かれています。
資料館津島さん 古いお家にはよく見かけたんですけど 古い家もだんだん取り壊されている中で
貴重な資料がなくなりつつあるのが 現状ではないでしょうか
戦争知らない世代が意見交換08月15日 18:10
http://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1858 高松市で戦争や平和ついて考える集会が開かれ、戦争を知らない世代が意見を交わしました。
高松市の市民団体が毎年開いている集会で、まず、会場を訪れた人たちで黙祷をささげました。
そして、中学生から40代までの4人が戦争について思うことや分からないことについて述べました。
集会では弁護士による講演も行なわれ、戦争の怖さや憲法9条の大切さを伝え、集団的自衛権の行使を阻止
してほしいと訴えました。
https://www.youtube.com/watch?v=AOzmMmEH8pQ 8・15 戦争体験を語り継ぐ集い 中学3年生女子 集団的自衛権と言われても あまりピンとこない
自分は自衛隊じゃないから 大丈夫なのかと思ったら これからそうじゃなくなるかもしれない
自分の身も危なくなるかもしれない となったらわけがわからなくなる 30代女性 個人と個人ではすごく仲良くできる
都市と都市でもすごく仲良くできるのに どうして国と国になったら 急に雰囲気が悪くなるか分からない
風船爆弾ミュージカル制作
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003487821.html?t=1408687210518 太平洋戦争末期に四国中央市の女学校で、「風船爆弾」が製造されていた史実がミュージカルとして上演されることに
なり、21日、関係者による制作発表が行われました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003487821_m.jpg 四国中央市の中之庄公民館で行われた制作発表には、ミュージカルの演出家や出演者ら5人が出席しました。
「風船爆弾」は、旧日本軍が開発し、全国の和紙の産地を拠点に製造された兵器で、和紙を貼り合わせて作った
直径10メートルほどの気球に爆弾や焼夷弾が取り付けられていました。
今回、上演されるミュージカル「風船爆弾を作った日々」は、実際に「風船爆弾」の製造に携わった四国中央市の
女学生の記録が原作となっています。
演出を担当する田辺国武さんは、「当時の女学生の思いを大切にして、大人にも子どもにも心に残るミュージカルに
したい」と意気込みを述べました。
出演者はオーディションで選ばれた50人余りで、今年11月の上演に向けて9月からダンスや歌の練習を始めます。
ミュージカルの実行委員会の会長で、実際に「風船爆弾」の製造に携わっていた高橋光子さんは、「暗い戦争中でも
私たちは明るく生きてきました。楽しい劇になるといいですね」と話していました。
ミュージカル「風船爆弾を作った日々」は、ことし11月15日と16日の2日間、四国中央市の土居文化会館で上演
される予定です。08月22日 12時41分
風船爆弾テーマ ミュージカル制作発表(愛媛県)
ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784794.html 第二次世界大戦末期、川之江高等女学校の女学生らが風船爆弾を作った体験をもとにしたミュージカルが上演
されることになり、制作発表が行われた。
21日、四国中央市でミュージカル「風船爆弾を作った日々〜しゃぼん玉、宇宙までとばそ!〜」の制作発表が行われた。
ミュージカルでは、終戦前の日本で気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばす、いわゆる「風船爆弾」
を作った女学生の生活を通して、平和の大切さや命の尊さを描いている。
原作は、ミュージカルの実行委員会会長で自らも体験者である川之江高等女学校33回生の高橋光子さんらが
まとめた「風船爆弾を作った日々」で、南海放送の戒田節子アナウンサーが脚本を務めた。
ミュージカルは、四国中央市の土居文化会館で11月15日と16日の2日間上演される。[ 8/21 16:10 南海放送]
終戦70年で戦跡調査加速へ
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014294221.html?t=1409883562128 来年で終戦から70年の節目を迎えるのにあわせて、戦争末期、数多くの基地や軍事施設が作られた高知県の
平和団体は、市民に広く情報提供を呼びかけるなどして、戦争の実態調査を加速することにしています。
この調査は、平和活動をしている高知市の市民団体、「草の家」が高知県内で行っているもので、これまでに
▼香南市の山中で▽機関銃などを配置するトーチカや、▽兵士が移動に使った「交通ごう」などの跡を見つけたほか、
▼須崎市では旧海軍が使っていたレーダーの部品などを発見しています。
さらに来年は、終戦から70年の節目を迎えることから、草の家は、さらに調査を進めようと、市民に広く戦争に関する
情報の提供を呼びかけています。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014294221_m.jpg 求めている情報は、例えば、▼家の近くに防空壕や基地があったといった当時の記憶や、▼戦時中を偲ばせる写真や
資料などで、「草の家」まで連絡してほしいとしています。
高知県の沿岸部は、太平洋戦争末期、アメリカ軍の上陸に備えて基地や軍事施設が次々と作られましたが、
詳しい実態は、明らかになっていません。
草の家は「次の世代に語り継ぐためにも積極的に情報を提供してほしい」と話しています。09月05日 09時51分
高知関連の特攻隊資料を募集
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014488471.html?t=1410489246573 太平洋戦争末期に飛行機などで敵に体当たりする特攻隊の作戦が始まって70年にあたることし、
高知県の市民団体は高知に関係する特攻隊員の資料展を来月開くことにしていて、現在、写真などの資料を
募集しています。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014488471_m.jpg 特攻隊に関する資料を募集しているのは、県内の特攻隊員の遺族などで作る市民団体で、この団体では高知に
関係がある戦死した特攻隊員52人を紹介する資料展を来月、高知市で開くことにしています。
これまでに隊員20人の写真が集まっていますが、遺族の連絡先が分からないというケースも多く、資料収集は
難航しているということです。
市民団体では引き続き、隊員の遺影や遺書などの資料の提供を求めていて、心当たりがある人はp
OwOaptgmjttまで情報を寄せてほしいとしています。
市民団体の代表で、叔父を特攻隊員として亡くした土田彰さんは「戦死した特攻隊員の写真や遺品を通して
平和の大切さを改めて考えてもらうきっかけにしたい」と話しています。
資料展は来月28日から11月3日まで高知市の自由民権記念館で開かれることになっています。09月12日 10時00分
空襲痕残る石材多くが交換必要
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034505091.html?t=1410565616268 高松市は昭和20年の高松空襲で焼失した高松城跡の「桜御門」の石垣を解体修理する予定ですが、
空襲による火災の痕が残っている積石のおよそ半数が傷みがひどく解体修理の際に新しいものに取り替える必要が
あることがわかりました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034505091_m.jpg 高松城跡の「桜御門」は、江戸時代、城主の御殿があった「三の丸」の正門で、門の上に建物をわたした「櫓門」
という造りでした。
しかし、昭和20年7月の高松空襲で焼失し、高い熱で表面が赤っぽく変色した石垣が、空襲による火災を伝えています。
高松市は、傷みが目立つこの石垣を解体修理するため、先月、積石の状況を調査しました。
その結果、門の両側の石垣では、火災の痕が残る積石が合わせて68個ありました。
このうち、半数近い33個は、割れているなど傷みがひどく解体修理の際に新しいものに取り替える必要があることが
わかりました。さらに、ひびが入っているなど、解体すると再利用できない可能性がある積石も9個ありました。
高松市では、今年度中に石垣を解体し、来年度石を積み直して修理を終える計画です。
高松市は、「戦争を伝える資料としても貴重な石垣なので、できるだけ多くの積石を残し、取り替えるものについても
写真などの記録に残したい」と話しています。09月12日 19時29分
戦災と平和展(09月17日)
ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20140917&no=0004 痛ましい戦争の記憶を継承していこうという展示会が、きょうから、松山市の総合コミュニティセンターで始まりました。
初日のきょうは午前10時から開会式が行われ、展示会を委託した総務省の加瀬徳幸さんが
「若い方たちにも過去の悲惨な出来事を知ってもらい、思いを馳せて欲しい」とあいさつしました。
「戦災と平和展」は、終戦から69年が過ぎ、痛ましい記憶の風化が進む中、その事実を次の世代に継承しようと、
総務省の委託事業として92年から全国各地で開かれていて、県内では初めての開催です。
会場には、259人が犠牲になった松山空襲など四国各地の記録写真のほか、防空頭巾や千人針などが並び、
訪れた人たちは物言わぬ資料から、戦争の悲惨さを感じ取っている様子でした。
このほか、語り部による体験発表もある「戦災と平和展」は、今月21日まで開かれています。
戦災と平和展はじまる
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004319481.html?t=1410941515710 戦争の悲惨さと平和の尊さについて改めて考えてもらおうと太平洋戦争に関する資料を集めた展示会が、
17日から松山市で始まりました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004319481_m.jpg この展示会は、太平洋戦争の記憶を風化させないように、総務省が民間に委託して、県内で初めて開いたものです。
会場の松山市のコミュニティーセンターには、戦争に関する資料およそ120点が展示されています。
17日は、関係者およそ50人が集まって開会式が行われ、10歳の時に松山空襲を体験した松山市戦災遺族会会長の
愛原章さん(79)が、「69年前、B29から焼夷弾が雨のように降り、多くの子どもやお年寄りが亡くなったことを
忘れてはなりません。多くの人に足を運んでもらい、平和がいかに大切か感じて欲しいです」とあいさつしました。
会場には、およそ130機のB29が飛来し、350人以上が亡くなったとされる松山空襲の写真や、実際に松山市に
落とされた焼夷弾の破片などが展示されています。
また、戦災遺族会がおよそ10年かけて、松山空襲で亡くなった人を独自に調査した戦没者の名簿も展示されていて、
会場を訪れた人たちは、生々しい戦争の記録に見入っていました。
80代の女性は、「空襲から逃げた時の悲惨な状況を思い出します。若い人に知って欲しいです」と話していました。
この展示会は、今月21日まで、松山市総合コミュニティーセンターで開かれています。09月17日 12時35分
松山で「戦災と平和展」
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140917T194527&no=13 戦後69年が経った今も戦争の悲惨さを、風化させず、多くの人に知ってもらおうと、松山市で企画展が開かれています。
「戦災と平和展」は総務省の委託事業として全国各地で行われていて、県内では初めての開催です。
会場には、1945年7月26日に発生し、250人以上の犠牲者を出した松山空襲を中心に、空襲直後の写真や、
焼夷弾の模型などおよそ120点の資料が展示されています。
また、戦争体験を語る時間も設けられていて、17日は、15歳の時に松山空襲を体験した中山淳さんが、
当時の様子を次のように語りました。
「戦災と平和展」は今月21日まで、松山市総合コミュニティーセンターで開かれています。
2014.9.17 12:02戦災と平和展
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46917 戦争の悲惨さを幅広い世代に伝えていこうと、松山市内できょうから「戦災と平和展」が始まりました。
この展示会は、国が第2次世界大戦の空襲により大きな被害があった都市で開いているものです。
松山市総合コミュニティセンターでは、空襲を受け一面が焼野原になった松山市内の写真や、
街を焼きつくしたアメリカ軍の焼い弾の精巧な模型など、およそ130点の資料が展示されています。
会場を訪れた人たちは、悲惨な事実を示す資料を見て、戦争をしてはいけない思いを新たにしていました。
この「戦災と平和展」は今月21日まで開かれ、松山で空襲を体験した人の発表も行われます。
福竜丸以外の乗組員の記録開示
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014690511.html?t=1411175611490 60年前、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員が被爆したいわゆるビキニ事件で、
厚生労働省は周辺で操業していたほかの漁船の乗組員からも通常より高い放射線量が検出されていたことを示す
記録を開示しました。この記録は19日、情報公開請求をしていた高知県の研究者に対して開示されたものです。
ビキニ事件は60年前の昭和29年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、
静岡県のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人がいわゆる死の灰を浴びて被爆し、半年後に1人が死亡したものです。
当時、周辺の海域では多くの日本の漁船が操業していてこのうち、第五福竜丸を含む470隻あまりの漁船の
乗組員について、ビキニ事件からおよそ10か月間、放射線量が測定されていました。
開示された記録では通常、自然界で被ばくする放射線量は、年間2.1ミリシーベルト程度なのに対し、
第五福竜丸以外のあわせて12隻の漁船の乗組員の一部からは年間に換算して4ミリシーベルトを超える
放射線量が検出され、中には、40ミリシーベルトを超えていた乗組員もいたということです。
厚生労働省は、これまで第五福竜丸以外の乗組員の記録は見つかっていないと説明していましたが、
情報公開請求を受けて調査した結果、茨城県にある倉庫に保管されていたということです。
厚生労働省は、「一部の乗組員について通常より高い放射線量が検出されているが、あくまで1年間、
被ばくし続けたと想定した場合の数値なので、健康影響があったとは考えられない」としています。
ビキニ事件の研究者で、情報公開請求を行った高知県の元高校教師の山下正寿さんは、「当時、国が日本の漁船に
注意を呼びかけていれば、乗組員たちが高い放射線にさらされることはなかったはずだ。
今後、乗組員たちが実際にどのくらいの放射線をあびたのか、実態を詳しく調べる必要がある」と話しています。
09月19日 22時04分
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014690511_m.jpg
県戦没者記念館が開館
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024846541.html?t=1412497038848 太平洋戦争で亡くなった徳島県関係者の遺影などを展示する戦没者記念館が、徳島市に開館しました。
徳島県戦没者記念館は、戦後69年のことし、県遺族会が、徳島県護国神社の敷地内に建設しました。
5日、開かれた開館の記念式典では、徳島県遺族会の増矢稔会長が、「戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝え、
未来を考えるきっかけの場となってほしい」とあいさつしました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024846541_m.jpg 記念館には、徳島県関係の戦没者7450人の遺影が展示されています。
遺族の高齢化が進む中、戦争体験を風化させまいと、遺族から遺影1点につき1万円の寄付を集めて建設資金と
したということです。
館内には、このほか、戦地から家族に送られた手紙や軍服などの遺品、それに遺族が受け取った死亡通知書など
戦争の悲惨さを伝える資料も展示されています。
記念館では、今後、月に1回、県内外から戦争体験者を招いて「語り部の会」も開いていくことにしています。
県遺族会の増矢稔会長は、「特に若い人たちに見てもらい平和のために何ができるのか考えるきっかけに
なってくれたらありがたい」と話していました。10月05日 12時33分
満州引き揚げ者の貯金を返還
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025002621.html?t=1412606327776 終戦直後、旧満州・現在の中国東北部から引き揚げた際に現地の国の出先機関に預けられたままになっていた
通帳の持ち主が水島税関支署でわかりおよそ70年ぶりに家族に返還されました。
返還を受けたのは倉敷市の三谷雅子さん(72)です。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025002621_m.jpg 三谷さんは2歳の頃に終戦を迎え両親らとともに旧満州から引き揚げましたが、その際に両親が現地の領事館に
あたる「在外公館」に郵便貯金通帳など4点を預けていました。
終戦後はインフレを防ぐため国内に持ち込む預金や証券などが制限されていて超過した分を国内の税関や現地の
在外公館に預けたということですがその後、戦後の混乱の中で通帳が預けられたままになっていたということです。
三谷さんは両親から「満州でいろいろと預けた」という話を聞いていて、9月の倉敷市の広報紙で税関が返還を
行っていることを知って問い合わせたところ、通帳が見つかったということです。
通帳の預金に資産としての価値はないということですが三谷さんは6日水島税関支署長から通帳を手渡されると
「こういうものが見つかると思っていなかった。両親の形見として大切に保管したい」と話していました。
水島税関支署によりますと全国の税関には同じようにおよそ27万人分、86万点あまりの通帳などが
保管されていますが、持ち主や家族の記憶があいまいなため、特定に至らないケースが多いということです。
10月06日 19時15分
貯金通帳を69年ぶりに返還 (10/ 6)【20時23分更新】
ttp://www.ohk.co.jp/e/news/002.html 遺族のもとに69年ぶりに返還されました。終戦後に中国の東北部、旧満州から引き揚げる際、国に預けられた
現地の貯金通帳が6日、税関から家族に返還されました。
返還されたのは倉敷市の三谷雅子さんの両親が旧満州で使っていた貯金通帳5点です。
三谷さんは戦時中、旧満州に一家5人で渡っていましたが、終戦直後は海外からの引き揚げ者の通帳や通貨などは
外国為替管理法で国内への持ち込みが制限されていたため、日本に帰国した三谷さんの通帳も税関に
預けられたままとなっていました。
三谷さんは引き揚げ当時2歳で、当時の事を覚えていませんでしたが倉敷市の広報誌で、税関で通帳や通貨などを
返還していることを知り、問い合わせたところ今回、両親の通帳が見つかったものです。
こうした通帳や証券は現在も全国の税関に86万5000件あるということで、
税関では心当たりのある人は問い合わせて欲しいと話しています。
終戦時の“貯金通帳”が返還10月06日 18:39
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/2140 倉敷市の72歳の女性が終戦後、旧満州から引き揚げた際に両親が税関に預けていた貯金通帳が見つかり6日、
返還されました。倉敷市の水島税関支署を訪れたのは、倉敷市中庄団地に住む三谷雅子さん(72)です。
三谷さんは寄高真澄支署長から、両親と兄が預けていた現在の貯金通帳にあたる「郵政儲金簿」など5通の返還を
受けました。三谷さんは幼いころを旧満州で過ごし終戦後、日本に引き揚げました。
当時は法令によって一定額以上のお金を国内に持ち込むことが制限されていたため、
その際、両親が税関に郵政儲金簿を預けていました。
https://www.youtube.com/watch?v=c5K2nUq259E 満州国は日本の敗戦とともに消滅したため、貯金は無効になってしまっています。
それでも三谷さんは儲金簿に書かれた母親の字を指差すなどとても懐かしそうでした。
全国の税関では約26万8000人分の通帳や証券などを保管していて、
水島税関では引き続き問い合わせを受け付けています。
こんなんあったんが不思議なんですよ もう2、3年前だったら母親がいきてたから よかったのにと思って
リューネブルク市使節団交流会
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025157511.html?t=1413585309337 第1次世界大戦で捕虜になったドイツ兵の収容所があったことを縁に鳴門市とドイツのリューネブルク市が姉妹都市に
なってから40周年を迎え、記念の交流会が、17日、鳴門市で開かれました。
鳴門市には、第1次世界大戦で捕虜になったドイツ兵の収容所があり、人道的な扱いを受けて地元の住民とも親しく
交流したことで知られていて、これを縁に、40年前にドイツのリューネブルク市と姉妹都市になりました。
リューネブルク市の使節団は、16日から鳴門市を訪れていて、17日は、収容所跡地にある亡くなった捕虜の
慰霊碑に花を手向けました。
この後、鳴門市民との交流会が開かれ、捕虜のドイツ兵がベートーベンの交響曲第9番を日本で初めて演奏した
ことにちなんで、地元の保育園児たちがドイツをイメージした赤と黒の衣装に身を包んで「第九」の合唱を披露しました。
また、17日から発売される姉妹都市40周年の記念切手がリューネブルク市のウルリヒ・メドケ市長に贈られました。
使節団に参加したリューネブルク市の70代の男性は「長い間、友好が続いていることに感銘を受けています。
日独の交流が人と人との交流の中で芽生えて育まれたことを感じます」と話していました。
また、鳴門市民の20代の女性は、「40年の交流を誇りに思います。
戦争から始まった交流ですが、鳴門市民の人の良さがあったから続いていることだと思うので、
その1人としてこれからもずっと関わっていきたいです」と話していました。10月17日 19時55分
先輩の疎開生活 小学生がしのぶ10月17日 18:28
https://www.youtube.com/watch?v=65Gpxq1yR-k 第二次世界大戦中、観音寺市には大阪の国民学校の児童たちが集団疎開していました。
その後輩にあたる小学生が修学旅行で疎開先の寺を訪れ、戦争について学びました。
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/2208 16日に西光寺を訪れたのは大阪市立八幡屋小の6年生39人です 寺では1945〜45年にかけて小学校の前身、
ハ幡屋国民学校の児童31人が疎開していました この写真を見た先生が修学旅行での訪問を企画しました
お寺の入口にある山門のシャチホコの尻尾の部分が欠けてしまっています 当時の空襲で壊れてしまったということです
児童たちは当時のまま残る本堂で 住職から先輩たちが戦時中どんな暮らしをしていたか聞きました
住職の妻の高橋さん 当時は品物がないためご飯もおかずも 盛りきり(おかわりなし)でしたので 育ち盛りの子どもたちには
不足がちだったようで 多い少ないとけんかの種になることも あったようです 大阪から勝手を知らない香川県に来たので
生徒さんの中には少し精神的に不安定になっていたのか 6年生なのにおねしょをする生徒さんがいる
というのを賄いのおばさんから聞いたことがあると 更に児童たちは寺に残っていた当時の衣類や水筒などを
見たり触ったりして戦時中の暮らしを偲んでいました 児童は---女児 今やったらちょっとでも古くなったら
替えてたけど なんか昔はモノを大切にしてたから すごいと思った 男児 平和の方がいいかな
学童疎開から70年 最後に当時と同じ場所で記念写真を撮って思い出にしました
反骨の軍人 水野広徳70回忌法要(愛媛県)
ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784999.html 反戦の軍人として知られる水野広徳の遺徳を偲ぼうと19日、松山市の寺で70回忌の追悼法要と記念の式典が行われた。
水野広徳の墓がある松山市の蓮福寺で行われた70回忌の法要には遺族や関係者などおよそ70人が参加した。
水野広徳は松山市出身で明治時代の海軍大佐だったがヨーロッパで戦争の悲惨さを目の当たりにしたことから
反戦を訴える活動を続けた。法要のあと行われた式典では水野広徳の人生をイメージした琴の演奏が披露された。
また、ドラマ「坂の上の雲」のエグゼクティブプロデューサー西村与志木さんが講演を行い平和の尊さなどを訴えていた。
参加者は、明治という時代背景や水野広徳の人柄に思いをはせながら熱心に聞き入ってい た。
[ 10/19 12:40 南海放送]
“被爆ピアノ”のコンサート10月20日 18:23
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/2220 広島で被爆したピアノ「被爆ピアノ」を使ったコンサートが18日、高松市で開かれました。200人近くが集まったこのコンサート。
企画したのは、なんと高松市の中学生なんです。
https://www.youtube.com/watch?v=pTzsFzFGu18 サンクリスタル高松で18日行われ 演奏に使われたピアノは 広島の爆心地から1・8qの地点で被爆したものです
こちらのピアノはほとんど被爆した当時のまま残っています 塗料が剥がれているのはガラス片などが突き刺さった
からだということです 約180人が訪れた今回のイベント 企画したのは市内の中学1年生河村さん12歳です
ピアノは普通に家にあるものじゃないですか そのピアノが被爆したのを聞いたことがなかったし 戦争を身近に感じられたというか
河村さんは小学6年生だった去年、夏休みの宿題で原爆について調べる中で 被爆ピアノについて書かれた本
「講談社の、海をわたり被爆ピアノ」と出会いました そしてその内容に感動し 本の著者に手紙を送りました
最初の質問は「平和って難ですか」だったそうです 私たちが普段過ごしている中で 戦争とかそういうものってないんじゃないですか
それで、なんかよく知っている人に 聞いてみようかなみたいな 手紙を受け取ったのは被爆ピアノの所有者で
広島市のピアノ調律師の矢川光則さん 被爆2世の矢川さんは国内外で被爆ピアノのコンサ-トを行っています
q手紙をもらったときの気持ち 自分が子どものころ広島にいながらも 原爆・平和のことは全く意識していなかったですね
そういう意味においては すごいことだなと思いましたね はい 河村さんは矢川さんと連絡を取りながら被爆ピアノの
コンサ-トを企画 高松市が行っている企画提案事業を利用して 開催にこぎつけました 訪れた人は---女性
ピアノの力で多くの人に平和を知らすことが できるんだなって思って感動しました
河村さん すごいみんな真剣に聴いてくれて なんかみんなに平和の心が伝わったかなあと思います
日章旗 岡山の遺族に返還へ10月29日 18:20
https://www.youtube.com/watch?v=r6AXtUSN-dY 太平洋戦争中、フィリピンのルソン島からアメリカの軍人が持ち帰った日章旗。
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/2275 アメリカに住む所有者から「持ち主に返したい」という要請があり調査した結果、
岡山出身の男性のものであることがほぼ確実になりました。
1945年 太平洋戦争の激戦地ルソン島からアメリカ人が持ち帰った日章旗
69年の時を経て所有者のアメリカ在住の男性から日本に返還依頼がありました
その後の調べで岡山県から出征した方が持っていた可能性が高まりました
岡山市東区の佐藤温(あつし)さん78歳 日章旗の持ち主である可能性が高いのはルソン島で戦死した父の巌さんです
ルソン島で戦死した「佐藤巌さん」→同姓同名が全国で4人いることが分かり温さんの元に確認を求める依頼状が
県から届きました 最初は半信半疑だった温さんでしたが寄せ書きをした人物を見て、
父の巌さんのものであると確信を持ちました 当時の中国銀行頭取の公森という方なんですね
陸軍の中尉だった巌さんは 出征前は中国銀行本店に勤務していました 武運長久を祈った日章旗には
当時の頭取や専務など職場の人達の名前が多く書かれていたのです
温さんはすぐに県へ巌さんの持ち物であると返答 県もほぼ間違いないとみています
巌さんは1943年頃に出征 温さんは当時9歳でした 出征して満州にいた巌さんは家族に宛てて毎日のように
葉書を出していました その後戦局の悪化に伴い巌さんの部隊が1944年にフィリピンに転進
翌年の1945年7月、ルソン島で戦死したとの広報が届きました 温さん 遺骨はもう、本当に木切れだったと思うんですけどね
Q 日章旗が巌さんのものと確信した時は?率直に何か 涙ながらに やはり1番身近に持ってた物だと思いますから
改めて供養してやりたいと思います 日章旗の調査結果は 厚生労働省が取りまとめられたのち、持ち主に返還される
予定です スタジオ男 もしかしたらこの日章旗大切に保管なさっていたのかもしれないですけれども
お父さまが1945年の7月に亡くなられていたとなれば あと1ヵ月生き長らえば--- と、そう思わざるをえないですけどね
武運長久といいますと以前特攻隊を取材したときにも特攻隊が飛んでいくときにみんなが旗を何回も何回も振ったと
言うことを聞きましたけどね
高知出身の特攻隊展
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015741081.html?t=1414744469312 太平洋戦争末期に、飛行機などで敵艦に体当たりする「特攻作戦」で戦死した高知県出身者の遺影や遺品を集めた
展示会が高知市で開かれています。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015741081_m.jpg この展示会は太平洋戦争末期の昭和19年に特攻隊による「特攻作戦」が始まってことしで70年になるのにあわせて
遺族などで作る実行委員会が初めて開きました。
会場の高知市の自由民権記念館には、特攻戦で戦死した、高知県出身の若者あわせて52人の遺影や家族にあてた
手紙などおよそ250点が展示されています。
このうち現在の四万十町出身で、フィリピン沖で戦死した17歳の兵士の遺書には、残される母親を気遣うことばと、
辞世の句が記されています。
また、昭和20年8月15日、昭和天皇の玉音放送で国民に日本の降伏が伝えられる直前に関東地方の基地を
飛び立ち、アメリカ軍に撃墜されるなどして戦死した高知県出身の最後の特攻隊員2人について写真を交えて説明しています。
展示会を企画した実行委員会の代表世話人、土田彰さんは「特攻戦から70年たって記憶も風化しつつある中、
展示会を通してもう一度、平和について考えてほしい」と話していました。この展示会は11月3日まで開かれています。
10月31日 12時44分
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/03(月) 13:00:02.67 ID:S6xO0B0eO
カウラ事件70年 現地訪問の報告会11月03日 18:15
ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/2301 https://www.youtube.com/watch?v=uaqlh3MPFS0 第二次大戦中、オーストラリアで日本人捕虜が集団脱走したカウラ事件から今年で70年。
8月の記念式典に合わせて現地を訪問した山陽女子高校の生徒らが岡山市で報告会を開きました。
岡山市北区の旧・内山下小学校で開かれた報告会には8月にカウラを訪問した生徒や卒業生ら合わせて5人が
参加しました まず「のむら」教諭がカウラ事件に取り組むきっかけになった経緯や今回の訪問の内容を説明しました
カウラ事件は第2次大戦中の1944年8月 オ-ストラリアのカウラ捕虜収容所で 日本人捕虜が集団脱走し
234人が死亡したものです 今回生徒達は8月2日から5日まで現地にホ-ムステイし高校生と交流したり
日本人墓地や捕虜収容所の跡地で行われた記念行事に参加したりしていました また6年前から交流している
カウラ事件の生存者で瀬戸内市の(国立ハンセン病療養所) 邑久光明園の立花さんに向けて、インタ-ネット中継
なども行いました 生徒達は今回の訪問を通じて学んだことや取り組みなどをそれぞれ発表しました
3年の坂井さん 質問とか皆さんすごく積極的にしてくださったので 私たちがやってきたことがすごく伝わったと思いました
3年の大橋さん カウラ事件がどういうものであったのか いろんな人に広めていきたいと思います
山陽女子高校の卒業生で今回初めてカウラを訪問した、大学3年生の大和さんはsnsなどで発信することで新たな目標を
見つけることができたと話します 大学の友達も「カウラ事件って何?知りたい」と言って
くれて、そこで新しい考えも見つけることができて そこで大学の友達と話す中で次を考えていくことの
大切さに気づくことができました
※のむら教諭の字幕紹介なし
四国の捕虜収容所 写真展
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025988811.html?t=1415325702479 第1次世界大戦から100年になるのにあわせて、大戦中、ドイツ兵の捕虜が収容されていた四国各地の収容所の
様子を収めた写真などの展示会が鳴門市で開かれています。
第1次世界大戦中の捕虜収容所としては、鳴門市の収容所が知られていますが、四国にはそれより前に、徳島市、
松山市、香川県丸亀市であわせておよそ1000人のドイツ兵が収容されていました。
会場には、当時の捕虜の生活や文化を収めた写真や資料あわせておよそ100点が展示されています。
このうち、現在の徳島県庁のそばにあった収容所の写真からは外に出したベッドの横でくつろぐドイツ兵などの暮らしを
うかがうことができます。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025988811_m.jpg また、丸亀の寺で撮影された楽器を抱えるドイツ兵たちは、その後、鳴門の収容所に移り、日本で初めて
ベートーベンの交響曲第九番、「第九」を演奏したとされています。
松山には3か所の収容所があり、体育祭やスポーツを楽しむ捕虜の写真もあります。
このほか、中国の青島で日本軍が5000人近いドイツ兵を捕虜にした戦闘などの写真もあわせて展示されていて、
四国各地に収容所ができた背景などが詳しく紹介されています。
この展示会は鳴門市の鳴門市ドイツ館で12月21日まで開かれています。11月07日 09時55分
戦争体験 元兵士が語り継ぐ
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023020341.html?t=1415609520080 太平洋戦争末期、特攻隊の訓練が行われた飛行場があった阿波市で、戦争の記憶を語り継ぐ会が、9日、開かれました。
徳島県には海に近い松茂町に旧海軍の航空基地がありましたが、太平洋戦争の戦況が悪化するのに伴い、
山あいの今の阿波市市場町に秘密基地として「市場飛行場」が建設され、特攻隊の訓練も行われました。
この地域では毎年、語り継ぐ会を開いていますが、ことしは高齢のため、元特攻隊員が出席できない中、
元兵士たちが経験を語りました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023020341_m.jpg このうち長崎県佐世保市で終戦を迎えた91歳の男性は、は戦況が悪化したとき、『身の回りのものを整理せよ』
と命令する上官がいたが、『復員したら日本を救ってくれ』と訴える別の上官もいて、家族のお守りが入った「千人針」
の布を手に生きて帰った経験を語りました。
また、旧満州で終戦を迎え、シベリアで抑留生活を送った91歳の男性は「満州に出征したときは国のために命を
捨てても惜しくないと思ったが、シベリアでは戦争に負けて死ぬのは嫌だ、生きなければならないと思った」
と戦争に振り回された自身の人生を振り返りました。
会を主催する地元の住民グループは戦争の記憶を風化させないために、できるだけ会を続けていきたいとしています。
11月10日 12時49分
室戸市で「人権のつどい」
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015925071.html?t=1415931398949 思いやりや平和の大切さについて考える「人権のつどい」が13日、室戸市の小学校で行われました。
会場の室戸市の佐喜浜小学校には児童とその保護者らあわせて70人余りが参加し、まず、児童が日ごろ、
考えていることを発表しました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015925071_m.jpg このうち、2年生の児童は、自分の名前に込められた願いやつけてくれた両親への感謝の気持ちについて述べました。
このほか、戦前に日米友好のためにアメリカから数多く贈られた「エミリー」という青い目の人形についての紙芝居も
披露されました。
「エミリー」は、太平洋戦争が始まったあとは次々と焼却処分され、現在、県内にはこの佐喜浜小学校に一つしか
残っていないということで、子どもたちは、紙芝居を通して平和の大切さについても学んでいました。
紙芝居を制作した松井豊美さんは「低学年のこどもにもわかりやすく平和について知ってもらおうと作りました。
この小学校に1つだけ残ったことはすばらしいことなので、多くの人に知ってもらいたいです」と話していました。
11月14日 09時48分