大政奉還により中央政局での立場を失った会津藩主松平容保が最有力候補ですな。
つーか暗殺実行の裏付けが京都見廻組以外に無い時点で結論はほぼ出てる。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 08:48:22.63 ID:3Vt2iLhf0
>>2 容保説の信者全員が陥る盲点である。
暗殺なんだから、見廻り組を使うことに、容保に断りを入れる必要はない。
容保に無断で見廻り組を使ってやってしまえばよいのである。
永井と佐々木が、容保に無断で、見廻り組を使って決行した。これが正解。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 08:53:49.13 ID:3Vt2iLhf0
さて、現場に、坂本、中岡、藤吉以外の者が3人いたと仮定して、その3人とは誰か。
峯吉が嘘を言っていると考えれば、島田庄作と大橋慎蔵と峯吉である。
彼らは最初から現場にいたのだ。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 09:27:41.82 ID:3Vt2iLhf0
ただし三人の書生がいた、というのは「近畿評論」の記事だけ(?)で、しかもこの記事には脚色があるとされており、
また慷慨の士が五六人いた、というのも明治13年の原本だけで、明治44年の覚書にはないから、
もしかしたら書生も慷慨の士もいなかったのかもしれない。
ただし、土佐藩士がいたことを書いてはまずいと考えて、わざと省略した可能性もある。
語尾に
じゃん
とかつけてんじゃねえぞ
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 12:52:01.53 ID:AlQg9oLd0
>>3 論理不明。
坂本中岡暗殺は、当時の旧幕府と諸侯、特に土佐藩との提携を頓挫させたという意味で、
当時の旧幕府首脳(徳川慶喜・板倉勝静・永井尚志ら)の基本姿勢に反逆するものであった。
ゆえに、この暗殺事件は幕府首脳の周知の結果の可能性は低く、むしろ当時大政奉還に反対し
執拗に大政再委任を要求した、松平容保などの独断と考えたほうが理解が容易な事件であった。
永井は「小物」すぎて難だがw容保説よか信ぴょう性はあるな〜
>>4 峯吉の嘘ってw多少の記憶違いも確かにあるだろうが
相手がお侍様なワケだから「安易」にその名を出すとは思えない
いくら知り合いとはいえ名誉に関わる事だからね
て意味で、確かに島田は現場に居たとは思う
龍馬に近江屋を勧め、事件前後に居た人物がみな「土佐藩目付」てのも面白いw
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 18:56:38.79 ID:GZOO3UdK0
容保の命令を手代木が佐々木に伝えた、あるいは手代木が佐々木に命令した、と考えている人がいると思うが、それはまちがいである。
なぜなら手代木は「壮士二人を率い」と語っているが、今井と渡辺を信ずれば、暗殺団は七人だったのである。
もし手代木が容保の命令を伝えた、あるいは自分が佐々木に命令したとすれば、暗殺団の人数を知らないはずがない。
ゆえに手代木は龍馬暗殺のことを弟から聞いて知ったのである。
(つづく)
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:05:39.45 ID:GZOO3UdK0
9のつづき
さて、龍馬暗殺が急に決まったことならともかく、前々から計画されていたことなら、手代木がそれを知らないはずはない。
ところが上記のことから、手代木が知っていた気配がない。ゆえに容保が命令者ではない。
司馬によれば渡辺は「近いうちに大物をやるというので」見廻り組にスカウトされたのである。
それは二月。ゆえに二月頃から計画されていたのである。容保が計画していたなら手代木がそれを知らないはずはない。
ところが手代木は知らなかった。ゆえに計画したのは容保ではない。
目付、大目付、若年寄、老中…そのあたりが計画したのである。あるいは所司代。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:16:14.45 ID:GZOO3UdK0
9と10から、手代木の「某諸侯」発言は、手代木の勝手な思い込みであった可能性が高い。
見廻組がやったと弟から聞いて、見廻組は守護職配下なので、容保候が命令したのだと思い込んでしまったのである。
ただしこの仮定が成り立つためには、手代木がそれを聞いたのは維新後で、佐々木は維新後も生きていた、と仮定しなければならないが。
なぜなら容保が守護職在任時なら、手代木は容保に真偽を尋ねることができたはずだから。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:24:32.25 ID:GZOO3UdK0
>>6 3〜5は永井説を唱えているわたしであって、〜じゃん君ではありませんよ。
>>8 永井は若年寄ですよ。それより上は老中と将軍しかいないですよ。
たしかにやたら目付がうろちょろしているな。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:27:19.88 ID:AlQg9oLd0
事前に実行人数まで指定して暗殺命令を出していたら、
原発事故の対応手段と実行時間まで現場情報もないのに指定した菅直人と変らないわけだが。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:34:35.17 ID:GZOO3UdK0
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:34:58.23 ID:AlQg9oLd0
>>9-11 手代木の三人とする説明には、二階へ上がったのが三人で後は見張りだったという後の研究者の説がついています。
つまり、この話を矛盾と感じる見方のほうが邪推となります。ゆえに暗殺を計画したのは松平容保の可能性が極めて高いわけです。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 19:51:01.97 ID:AlQg9oLd0
佐々木只三郎の場合、要人暗殺は清川暗殺という経験があったにせよ見廻組の任務の中では特異で、
しかも土佐藩と旧幕府との関係悪化を容易に予想できる行動であるため、暗殺は旧幕府首脳の統一意思とは思えない。
そのような業務を佐々木が、たとえ兄弟とはいえ関係がないとあなたが主張する手代木直衛門に明かしては服務違反だろう。
要するに手代木は無関係などではなく、逆に手代木が兄弟の縁を利用して、
上司からの命令としての坂本暗殺を弟に依頼した、としたほうが順当。
がしかしだ、そこに手代木が彦根重臣に相談したという話が「都合が」いくわけ
そもそも服務違反というが、本来であれば佐々木「にではなく」
つまりは組織として与頭ではなく役に話を持って行ってこその服務違反であって
そうではなく佐々木に話が行った段階で差もありなんww
結果弟らが関わったことに何かしらの「危機」を感じた手代木が
懇意にしていた他藩の重臣に相談するわけだ〜
「弟が与頭とはいえ役を通さずに組織を動かした」等々・・・
彦根重臣手記では詳細は詳らかではないが
「無きにしもあらぬ」範疇であろうと
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 21:03:07.38 ID:WcMY1DJI0
>>15 しかし暗殺団が七人と知っていながら「壮士二人を率い」などと言うだろうか。
ただし暗殺団は三人だったという史料もちらほらあるから、三人だった可能性もないことはない。
今井の口述も、うんと深読みすれば、自分は見張り役だったと言い逃れるために、わざと人数を水増ししたとも考えられる。
>>16 わたしは「ゆえに手代木は龍馬暗殺のことを弟から聞いて知ったのである」と書いたが、必ずしもそうとはかぎらない。
翌日にはすでに近藤が知っていたという史料があるから、どこからか漏れて知った可能性もある。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 21:21:04.17 ID:WcMY1DJI0
さて話は変わるが、岩倉には中岡を殺す理由がない。しかし龍馬を殺す理由はある。
ところで大橋慎蔵というのは岩倉の知恵袋と呼ばれた人物だそうで、中岡を岩倉に引き合わせたのも大橋らしい。
とすると、その大橋が現場にいたと考えても、あながち不自然な想像でもない。
とにかく、なぜ峯吉が「大橋さんと他の志士の面々」と大橋の名を挙げたか、が引っ掛かる。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 21:27:22.83 ID:WcMY1DJI0
それはさておき木村幸比古の「龍馬暗殺の真犯人は誰か」を読んでいるのだが、この男はひどいね。
史料を無視して勝手な想像ばかりを書いている。こんなのは有害図書だ。
最初にこの本を読んでしまった読者は、変な先入観が身に付いてしまって、まともな推理ができなくなるだろう。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 21:58:40.68 ID:AlQg9oLd0
>>17 手代木が会津藩を代表して、彦根藩に会談を申し込んでいる書状を、
松平容保が知らないと考えているのなら、松平容保は藩のことにすら責任を持たない座敷郎内の人間ということになる。
つまり、手代木の話し合いたい案件が坂本暗殺についてのことであった場合、
松平容保は坂本龍馬暗殺をこの書状を出す時点で承知していたことになる。
「松平容保は関係ないから無実」、とするあなたの意見は成立しない。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 22:00:03.05 ID:AlQg9oLd0
>>19 >さて話は変わるが、岩倉には中岡を殺す理由がない。しかし龍馬を殺す理由はある。
そんなものは存在しませんが、仮定から間違っていますね。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 22:16:09.69 ID:uRVGF9MfO
岩倉には、殺す理由はあるだろ。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 22:31:51.30 ID:YrSWxG5M0
>>22 容保大先生、政治的理由なんて、どうとでも説明がつくのです。
君のように、岩倉には龍馬を殺す理由がない、という人もいれば、岩倉には龍馬を殺す理由がある、という人もいるのです。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 22:42:44.22 ID:YrSWxG5M0
坂本と中岡の二人が標的だったとしたら、黒幕は、土佐か、幕府、あるいは土佐と幕府の共謀だろう。
理由はどちらも討幕的活動をしているから、というもの。
薩摩、紀州…などには、なにがなんでも二人を同時に標的にしなければならない理由はない。
>>21 そりゃ〜アンタの足りない脳みそで判断するをは難儀な事と思われますが(笑)
では他藩の重臣、後藤とかも「いちいち」藩主にお伺いを立てての行動でしたか?
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 23:19:20.69 ID:YrSWxG5M0
前スレの
>>974を見て思ったのだが、永井というのは藩主でもないのに若年寄にまで成り上がった男である。
見方を変えれば、藩主という、重い、責任のある地位についたことのない人物である。
それゆえに言動が軽率である。毛利父子の首を刎ねろと言ったり、新選組を長州に送り込もうとしたり。
こういう人物だからこそ、見廻組という幕府の組織を使って、他藩の藩士を暗殺するなどということを考えたのではあるまいか。
容保は、仮にも藩主であるから、そんなに軽率なことはしないだろう。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 23:36:49.88 ID:AlQg9oLd0
>>24 それなら、あると断言するのが間違い。
>>26 山内容堂は、藩政をかなり自らの決済で執り行った人間でした。
薩土盟約も締結条件に難色を示し、却下したのは山内容堂です。
あなたは、長州の全てを重臣にゆだねていた、そうせい公あたりを例に挙げるべきでした。
>>27 それを挙げるなら、松平容保の場合は配下の新撰組の行動は苛烈でした。他藩関係者も処刑されています。
ほぉwでは後藤が龍馬と組んだのも容堂の「了承」なのですねw
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 08:59:20.58 ID:x2G77U4s0
佐々木多聞の密書は近江屋新助が差出人になっていたはず。ということは新助は幕府と内通していた可能性がある。
大正13年の「維新史蹟図説」でも井口家の人の談として佐々木只三郎と龍馬が話しているのが聞こえた、という証言があり、
近江屋新助が佐々木只三郎の声を知っていたらしい形跡がある。
新助は暗殺団が見廻組と知っていながら、谷らにはそれを話さなかったと思われる。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 09:10:37.74 ID:x2G77U4s0
>>28 容保先生、だから何回も言うけど、新選組が、内ゲバでもなく、粛清でもなく、公務執行でもなく、
幕府以外の人間の暗殺を行った例があるなら挙げてくださいよ。
仮にあったとしても、ただちにそれが容保の命令だとは言えないよ。
永井が命令したのかもしれないよ。
なぜなら油小路の変の指令者として永井の噂が立ったという例があるのだから。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 09:30:44.18 ID:x2G77U4s0
それと薩摩説や岩倉説の根拠は、平和路線の龍馬が邪魔だから、というものだ。
学者がどんなにそれを否定しても、学者の説を信じない人はいっぱいいる。
ごく常識的に考えて、討幕派にとっては穏健派の龍馬は邪魔だからだ。
薩摩はその段階では討幕ではなかったとか、龍馬は穏健派ではなかったとか諸説あるが、それらも説に過ぎない。
依然として、薩摩や岩倉には龍馬は邪魔だったという説は成立しうるのだ。
おまけに龍馬を殺害したのは薩摩人だという史料も存在するのだから、
薩摩説を検討しないのはまちがっているのである。岩倉説も当然検討しなければいけない。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 12:15:55.74 ID:ZY+96W5U0
>>29 容堂の意向に逆らう部分があったら、当然訂正されたでしょうね。
松平容保が無責任な馬鹿と考えているとしたら、君は松平容保の幕末に果たしたことを過小評価している。
>>31 >だから何回も言うけど、新選組が、内ゲバでもなく、粛清でもなく、公務執行でもなく、
>幕府以外の人間の暗殺を行った例があるなら挙げてくださいよ。
君が勝手に限定しているだけで、新撰組や見廻組が公務と主張して人を拷問にかけて殺した例はあるではないか。
>なぜなら油小路の変の指令者として永井の噂が立ったという例があるのだから。
正親町三条の日記では、近藤勇が「土佐藩が伊東甲子太郎を殺した」と言っている件について討議、とある。
つまり、永井という噂とは裏腹に関係者の間では松平容保とその部下としての新撰組犯行という証言が得られていたと考えられる。
現にこの後で、旧幕府は新撰組には表面上処分が下り、中身はそのままで改名することになる。
新撰組が天皇配下の御陵衛士を殺傷した件及び、坂本龍馬を殺傷した(と土佐藩が主張した)ことが改名の原因とされている。
要するに、永井よりも確実な情報として、関係者の間では松平容保とその配下の新撰組犯人説が流れていた。
君が永井永井と言っている件で、関係者は松平容保を犯人にしているのですよ。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 12:36:05.40 ID:ZY+96W5U0
>>32 常識的に考えて成立しないと判断された説を、ボクの常識は常識ではないといって持ち出すのは不合理です。
少なくとも、持ち出すだけの論理が必要ですが、あなたにはそれが全くない。
>ごく常識的に考えて、討幕派にとっては穏健派の龍馬は邪魔だからだ。
研究者の多数意見では、坂本龍馬は穏健派ではないのですが。
>薩摩はその段階では討幕ではなかったとか、龍馬は穏健派ではなかったとか諸説あるが、それらも説に過ぎない。
薩摩は基本的に討幕派だったと思われますが、外交上の協議の用意を無くすことはありませんでした。
研究者が提示する論理がある説と、あなたも論理を出せないような説
(例「ごく常識的に考えて、討幕派にとっては穏健派の龍馬は邪魔だからだ。」)を
一緒にするのは欺瞞です。
依然として、薩摩や岩倉には龍馬は邪魔だったという説は成立しうるのだ。
>あなたの心の中でしょう、一般的な研究者の説ではないし、まして常識的な説でもない。
>おまけに龍馬を殺害したのは薩摩人だという史料も存在するのだから、
根拠が極めて乏しい、あいつは気に入らない的な文章しか見当たりません。
>薩摩説を検討しないのはまちがっているのである。岩倉説も当然検討しなければいけない。
理由がありません。そして岩倉説の論理とやらは提示されていませんが?
あなたの文章は偏見を連ねて、常識だろ、と論理も無く偏見仲間を集めようとするだけじゃないですか。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 12:43:33.58 ID:ZY+96W5U0
>>30 >大正13年の「維新史蹟図説」でも井口家の人の談として佐々木只三郎と龍馬が話しているのが聞こえた、という証言があり、
>近江屋新助が佐々木只三郎の声を知っていたらしい形跡がある。
この考え方は変です。話し声が聞こえたので坂本龍馬が客人と会っているのだろうと思った、程度の意味じゃないですか。
あなたの文章には邪推が目立つ、その上結論が「新助は暗殺団が見廻組と知っていながら、谷らにはそれを話さなかったと思われる。」
なのですからあきれます。新助が知っていて話さない論理がありません。
薩摩自体が出兵できなく龍馬所じゃないし
だから西郷大久保小松が総がかりで帰国してる
大政奉還案は弾圧で遅れた土佐を薩長に並ばせるための救済案でもある
ついでに龍馬を過大評価しすぎですわ
龍馬は藩論の代表者じゃないし、薩長をどうこうするほどの力もない
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 17:32:10.22 ID:4PghjMd50
>>35 容保先生はその史料を読んでないのですか?
佐々木が、申し置くことがあるなら承ろう、と言ったのに対して、龍馬が、
汝らに言うべきことはない、思う存分殺せ、と言う声が聞こえた、とはっきり書いてあるのですよ。
それと、新助が幕府と内通していたら、谷に話すはずがないではありませんか。
正親町三条の日記についても反論したいが、その日記は詳しく知らないので今はやめておこう。
とにかく新選組だって、永井が使おうと思えば使えただろうとわたしは推測している。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 18:33:57.46 ID:iHUR5LvJ0
容保先生が反論してくれたおかげで、面白いことに気が付いた。
土人衛士を切候は
これを普通は「土人が衛士を切ったのは」と解釈するわけだが、そうするとその首謀者として永井の名が出るのは変である。
なぜなら、そうすると、永井が土佐人に命じた、ということになるが、幕府の人間が土佐藩士に命令するというのは変だからである。
そうすると「土人と衛士を切ったのは」という解釈も成り立つが、後の文を考えるとその解釈はやや苦しいから、結局、
「土人が衛士を切ったとされる油小路の変の首謀者は永井だという噂が立っている」と解釈すべきだろう。
土人がやったか新選組がやったかはともかくとして、とにかく首謀者として永井の名が出たのである。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 18:46:45.57 ID:iHUR5LvJ0
今井弟書簡の、永井からの慰労金50両の書付を見た、という証言について、相川氏が
慰労金ではなくて支度金ではないか、と推理しているのを読んで、なんと勝手な推理をする人だろうと思ったのだが、
今日、新選組の母体となった浪士隊の支度金が50両だったということを知った。
応募者が多すぎて一人当たり10両になったのだが、とにかく当初は50両だったのである。
そうするとこの50両という数値が俄かに信憑性を帯びてくるのである。
もしこれが支度金だったとすると、それを永井から貰ったということは、龍馬暗殺計画の首謀者は永井だったということになるのである。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 21:20:19.26 ID:ZY+96W5U0
>>38 その解釈はおかしい。
たとえ会話が聞こえたとしても、近江屋新助は坂本龍馬と佐々木只三郎の会話と断定することが出来ない。
君は場合場合によって、佐々木が斬ったと言ったり今井に斬らせたり、想像を挿げ替えては「正しいのである。」と勝手に宣言している。
実際は佐々木が言ったとは断定までは出来ないし、近江屋新助は「おそらく龍馬と押し入った相手の首領が会話をしたのだ」と言っているに過ぎない。
これで、近江屋新助と佐々木只三郎は事前に面識があったのだ、と君のように勝手に結論を下されては、こちらは君の破廉恥さに頭が痛くなる。
正親町三条の件だが、
近藤勇の当時の供述のように「御陵衛士を切ったのは土佐藩である」と正親町三条が考えているのなら、
この直後に、新撰組への旧幕府の処遇が怪しくなり、大阪に徳川慶喜が向かうと同時に新撰組は表面上廃止、
実際は単なる改名という処遇がなされる理由が乏しくなる。
もっとも、当時土佐藩は坂本中岡暗殺犯を新撰組と断定し処遇を求めていたので、それだけでも理由にはなるのだが。
どちらにしても、伊東甲子太郎暗殺後まもなく、事件の真相・近藤勇ら新撰組隊士による殺害が露見した事を考えれば、
既にこの日の中川宮との話し合いの段階で、薩摩派の正親町三条は近藤勇ら新撰組の犯行という証言を入手し、
佐幕派の中川宮へ詰め寄ったと私は考える。
高台寺党残党の薩摩藩邸への駆け込みは、事件当夜(実際は翌日夜の明ける前)だったのだから。
要するに、君が永井と叫ぼうとも、この時点で関係者の間では既に、伊東暗殺は新撰組及びその上司の松平容保の犯行として取りざたされていた。
>>39 支度金と暗殺料が同じ? 馬鹿な物言いだ。それを認めたなら新鮮組隊士は大金持ちですよ。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 21:37:33.96 ID:ZY+96W5U0
どうも、実際は松平容保の関係した事件を、無理に永井という噂があるから永井という噂もあるから、と
永井と結び付けようとする変な意見があって困る。
伊東甲子太郎暗殺は、近藤勇ら新撰組の犯行であり、彼らの上司は松平容保であった。
坂本龍馬及び中岡慎太郎暗殺も、当時は新撰組犯行説が強く、当然上司は松平容保だ。
どちらにしても当時の世評を話せば、世評では犯人は松平容保とする説が有力だった、ということになってしまう。
わざわざ永井にする理由がない。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 21:46:58.59 ID:ZY+96W5U0
坂本龍馬及び中岡慎太郎の暗殺は、
松平容保が命令を下し、会津藩士手代木直衛門が命令を伝達し、
犯行の実行は見廻組佐々木只三郎が行ったということが種々の傍証から極めて有力視、
現在では、ほとんど既知の事実とされています。
それに疑問を呈するにしては、あなたの話はでたらめが多い。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 22:50:03.43 ID:0VwtL/6I0
容保先生の無意味な反論にいちいち答えるつもりはないが、ひまだから書こう。
1 佐々木と坂本の会話の件。君の無意味な反論には答える気もしない。佐々木と龍馬が会話を交わしていたとしても、
君の容保説にとっては何の関係もないでしょう。
2 君の読解力のなさが端的に表れている反論だ。50両が支度金だったとしたら、新選組の例から考えて、信憑性が出てくると
わたしは言っているのである。
3 新選組の上司が容保であることは誰でも分っているのですよ。新選組の上司は容保なのに永井の名が出ている、そこが問題なのですよ。
そこから、永井が新選組を自分の手足のように使っていたのではないか、さらにまた、
見廻組も自分の思いのままに使っていたのではないか、と類推できるのですよ。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 23:26:17.48 ID:ZY+96W5U0
>>43 それは君の考えの方が意味がない。
1.君は近江屋新助と佐々木只三郎は事前に面識があったのだと主張する。しかしそれは
>>40で示すように論理がない。
2.「50両が支度金だったとしたら、新選組の例から考えて、信憑性が出てくるとわたしは言っているのである。」
これは尚更論理がない。
はっきり言おう。そのように職務上の暗殺行為で毎回多額の現金を受け取っていたら、新撰組隊士は大金持ちになっている。
職務上の通常の褒美としては多すぎるのだよ。その他にもいろいろ不審なつじつまの合わない点の多い手紙を、未だに掲げている君は不可解だ。
3.「新選組の上司は容保なのに永井の名が出ている、そこが問題なのですよ。」
論理外れもいいところだ。正親町三条は伊東甲子太郎暗殺事件の直後には、新撰組の近藤の言う土佐藩犯行説ではなく、
犯行は近藤勇ら新撰組自身の手による暗殺であったことを把握していたと思われる。
高台寺残党は甲子太郎暗殺当夜には面識の無かった薩摩藩邸に逃げ込み、薩摩藩に事件証言を行い自らの保護を求めているのだから。
ゆえに、永井云々という話は前座で、実際は真犯人である近藤勇ら新撰組が天皇の護衛を殺したという罪状報告と、中川宮への対処要求に
話の本題があったのではないかと推定できる。
現に新撰組への旧幕府への処遇は以後悪化し、慶喜の大阪移転に伴う見かけ上の解散、実は改名へと至る。
これについては土佐藩による、坂本中岡暗殺を新撰組の犯行とする旧幕府への弾劾も大きな役割を果たした可能性はあるが、
少なくとも、この時の話の内容が新撰組による暗殺の報告だったと考えられるところから、
永井よりも、新撰組の上司である松平容保の責任に話題が及んだと考えられる。
君の表面的な想像とは裏腹に、その後の処罰からは当日は新撰組とその上司である松平容保への処断が話題となったであろうということだ。
君は世評を問うが、伊東甲子太郎暗殺事件は直後には新撰組犯行とばれて、新撰組とその上司松平容保が問題となっている。
坂本中岡暗殺事件に至っては、世評は当時は新撰組犯行説で、もちろん上司は松平容保だ。
どちらを例にしても、世評で占うなら松平容保を犯人とするもので溢れていたことになる。世評が言うから永井という説はあまりに弱い。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 00:06:29.27 ID:ECgVsTqfO
誰が殺したにしても、なぜこの暗殺事件には、ここまで食い違う証言があるのかが問題なんだよ。
政治的な理由で、この事件を操作しようとした勢力がいるんだろうね。実際にはなんでもない暗殺事件で、犯人はその日にわかっていたと考えるべきだろう。
当時の情報操作にはまっているのが容保説を叫んでいる人だよ
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 03:09:57.04 ID:nPz4505M0
当時の世評が言うから永井、と言ってみたり
当時の情報操作に踊らされているから容保説に飛びつくのだ、と言ってみたり、あなたの話は矛盾が大きい。
今のところ確かなのは、会津藩士の手代木直衛門が、事件の詳細についてある程度以上確かな情報を残しているということ。
彼を中心に考えると、実行犯の佐々木只三郎と命令者の松平容保が無理なく説明できることになる。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 08:27:22.12 ID:ECgVsTqfO
手代木が一番確かな証言をしていると思い込んでいるだけでは? ちなみに永井説の方とは別人です。あなたは思い込みが激しく、冷静に物事を判断するのが苦手な方のようですね?
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 09:17:24.57 ID:j/3DWi//0
>>44 容保大先生はほんとにアフォですねw
1 無意味な反論だからパス
2 ほんとに分らない人ですね、容保先生は。いいですか、支度金というのは江戸から京までの旅費その他ですよ。
今井は江戸から来たんですよ。そのための支度金ですよ。浪士隊も江戸から京まで行ったんですよ。そのための支度金として一人当たり50両が支払われたんですよ。
だから50両が支度金だったとしたら、浪士隊のそれと同じ金額だから、話に信憑性が出てくるというわけですよ。
慰労金だとしたら多すぎるが、支度金だったとしたら、つじつまが合うということですよ。分りましたか?
3 あのねえ、新選組の上司が容保だとは限らないんですよ。というのは6月から新選組は幕臣に取り立てられているからです。
もしかしたら会津藩お預かりではなくなっている可能性もあるのです。その証拠に、油小路の変の首謀者として永井の名が上がり、
坂本暗殺事件で近藤を聴取しているのも永井です。6月以降、差配が変わっている可能性があるのですよ。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 09:24:47.99 ID:j/3DWi//0
(つづき)
池田屋事件の後、新選組隊士に一人5両の褒美が支払われている。それから、うろ覚えだが、
油小路の変の後で、一人1両の褒美が支払われている。ということは、
油小路の変は、普通考えられているような内ゲバではなくて、公務だったということだ。
指令した人物がいたのである。そしてその人物として永井の名が上がっていたのである。
あの事件は単純な事件ではない。裏に何か陰謀が隠されているのである。
なんだか、容保ガーが嫌いなので永井説を応援していたら
そいつがどんどん妄想にはまり込んでいる?
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 17:27:59.41 ID:nPz4505M0
なんでも永井のせいにするのは無理だし、
>>48,49に至っては全く話の内容に根拠がない。大体浪士隊のそれと同じ金額ではない。
手代木の証言を考える限り、会津藩及び会津藩主の松平容保の暗殺への関与を外すことは出来ない。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 18:36:22.12 ID:sMxq4oDE0
池田屋事件の恩賞金が一人5両だったというのは間違いだった。
一人10両で、別途、働きに応じて5両〜20両贈られた。(平隊士は5両、局長の近藤は20両)
>>51 浪士隊の支度金は当初一人当たり50両の予定だった。しかし50名募集のところ、250名ほど集まってしまった。
しかし予算は変更しなかったので、一人当たり10両になってしまった。
>>48についてだが、6月以降も新選組は守護職配下だったと思われる。訂正しておきます。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 18:46:14.85 ID:sMxq4oDE0
ところで渡辺の証言にある「先斗町の料亭青楼」はどこにあったのだろうか。
誰か知ってる人はいませんか。
暗殺団は三条通りのほうから来たのか、四条通りのほうから来たのか。
四条通りのほうから来たなら、岡本や峯吉と出会っている可能性があるのだが。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 18:58:56.78 ID:sMxq4oDE0
>>51 49について。根拠はすべて示してあるじゃないか。
1 油小路の変の後で、一人1両の褒美が支払われている。
2 首謀者として永井の名が上がった。
1からそれが公務であったことが推測され、指令した人物がいたと推定され、
2からその人物が永井であったと推定される。
P.9
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 23:48:11.94 ID:lKyvZAn00
55、56
せっかく教えてもらったけど、よく分からないw
十八丁下とは十八ページの下段だと思うが、p27〜p28にそれらしきものが載っているが、主人の名しか載ってないから、場所は分らないな。残念!
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 00:29:42.54 ID:bqFf7E6t0
p27に先斗町青楼として四人の主人の名が載っているから、四軒の青楼があったことが分かる。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 00:50:10.64 ID:bqFf7E6t0
いずにしても暗殺団はきわめて近くに待機していたことが分かる。
近くには酢屋、土佐藩官舎、土佐藩邸、谷の下宿などがあるのに、よくも見つからなかったものだと…。
おかしいですねえ…。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 01:09:37.24 ID:bqFf7E6t0
今井 口書 東山辺りで待機
口伝 東山辺りで待機、三条大橋か四条大橋を渡って現場へ
近畿評論 先斗町で待機
渡辺 先斗町の青楼で待機
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 09:08:10.73 ID:O0fbgVrd0
土佐藩邸の近くに彦根藩邸があることが前から気になっていたのだが、
うんと勘ぐれば、東山も先斗町も嘘で、彦根藩邸で待機していたのではあるまいか…。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 09:52:27.78 ID:O0fbgVrd0
渡辺がスカウトされた時の見廻役は堀岩見守。信州飯田藩主。松代藩も信州。
今井証言の松代藩はここからの思い付きでは?
渡辺がスカウトされた二月時点での目付は原、大目付は永井。
(永井はWikiでは2.3に若年寄格とあるが国史大辞典では2.30まで大目付である)
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 11:07:42.94 ID:3hTnk6VpO
幕末の暗殺で、犯人がわからない事件はほかにもあるんですか?
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 17:33:01.83 ID:oU9MNdnC0
暗殺団の帰路。
今井 口書 二条通りで別れた。
口伝 「ええじゃないか」にまぎれて帰った。
渡辺 四条通り→千本通り→下立売→智恵光院→佐々木の下宿寺
「ヨイヤナイカ」にまぎれて帰った。
渡辺の証言通りだとしたら、かなり大廻りをして帰っていることになる。
三条通りの方に出たほうが近いと思うが。
人目に付く四条通りをずどーんと千本通りまで直進している。
もっと人目に付かない小路を通ってもよさそうなものだが。
しかしどちらも「ええじゃないか」にまぎれて帰ったと証言しているので、信憑性はある。
そりゃ似ているさ〜w
今井の話が「ネタ」なんだもん
・・・な説
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 19:35:05.63 ID:mvkg6yQ00
>>65 しかし今井の「ええじゃないか」の話は口伝であって、世間には発表してないはずだが。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 21:08:55.46 ID:WIFvZZIu0
今井の口書が世間に公表されたのは大正15年の「坂本龍馬関係文書」だろう。
その中で初めて暗殺団が7人だったことが公表された。
ところが渡辺の「原本」は明治13年に書かれたが、そこに暗殺団が7人だったと書かれている。
したがってこの二人の証言はかなり信憑性が高い。
ところが手代木は「壮士二人を率い」と述べていて、暗殺団の構成を詳しく知っていない様子である。
知っていたら「壮士七人を率い」とか「壮士数人を率い」と述べると思うのだが。
土佐の内ゲバじゃろ
んでもその「原本」は果たして「その次期」に書かれたものか?
では、その原本には何故今井等犯行人物の「名」が記載されていないのか?
・・・だっけか?
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 23:07:00.54 ID:ULlaGh6Z0
>>69 明治13年に書かれた、と物の本に書いてある以上、確かな裏付けがあるのだろう。
見れば分かるようにごく簡単な覚書のようなものだ。
「拙者」が参加したことさえ書けばそれでよかったのだろう。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 23:16:38.87 ID:ULlaGh6Z0
うろ覚えで申し訳ないが、土佐の桂浜かどこかで、土佐勤王党の連中を褌一丁の裸にして
だまし討ちした事件があったはずだが、その首謀者がたしか後藤象二郎ではなかったか。
後藤というのはそういう男だから、後藤と福岡が坂本と中岡を同時に消したと想定しても全然おかしくはない。
ところが松平容保と松平定敬、この二人はどう考えてもそんなことをする人物とは思われない。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 23:33:01.16 ID:ULlaGh6Z0
なぜそう思うかをあらかじめ書いておくと、容保や定敬が、非常識な、卑劣な、人間だったと思われるような事例がないからである。
容保は卑劣な悪人だったと言っているのはこのスレの容保大先生だけであって、一般のイメージはそれと正反対なのである。
定敬に至っては逸話さえ残っていない。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 03:11:03.52 ID:BT/yVwvJ0
会津小説に騙されて、他人に罪を着せるのを喜ぶ人間が会津には多い。
記録を見ても、
>ところが松平容保と松平定敬、この二人はどう考えてもそんなことをする人物とは思われない。
>容保や定敬が、非常識な、卑劣な、人間だったと思われるような事例がないからである。
>容保は卑劣な悪人だったと言っているのはこのスレの容保大先生だけであって、一般のイメージはそれと正反対なのである。
と言われるような事例はどこにもなく、
逆に松平容保は、議事を取れば司会をはぐらかし、会議に至れば嘘と自己正当化ばかりだったのですが。
松平容保を擁護する人は、まともに松平容保の行動を調べもせずに彼をまともな人間だったと思い込んでいる。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 09:03:05.67 ID:Gb0R2J2O0
今井は、見廻組は京都守護職付属だったと認めているのだから、どこからの指図かと訊かれれば、あっさりと、
京都守護職からの指図でした、と答えればよいのである。ところがそうは答えていない。
閣老からか、それとも京都守護職からか、よく知らない、ととぼけているのである。
隠す必要があったのである。なぜなら永井は今井と同じ獄舎に収監されていたのである。
同じ獄舎に入っている人間の名を告げるわけにはいかなかったのである。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 09:17:05.46 ID:Gb0R2J2O0
ところで渡辺は、鞘を忘れてきたのは世良だと証言しているが、実は渡辺本人だったのではないか。
今井は渡辺がまだ生きていることを知っていたので、メンバーに渡辺の名を挙げずに、渡辺吉太郎とした。
そして鞘を忘れたのも渡辺吉太郎ということにした。
渡辺篤はそれを読んで、今井が自分の名を隠してくれていることを知ったが、
龍馬暗殺に参加したの吉太郎ではなく自分だ名乗り出るためには、鞘を忘れたことは都合が悪い。
そこで実際には暗殺に参加しなかった世良の名を出してごまかした…。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 09:21:28.07 ID:Gb0R2J2O0
一部訂正
龍馬暗殺に参加したのは吉太郎ではなく自分だと名乗り出るためには
ま〜晩年の、しかも弟と弟子に話しただっけか?
この人の場合、比較的早い段階で手記にしていたからいいようなものの
やはり、年取ってからの供述には?なものを感じる
参考例としては、南京虐殺とか供述しているじいいさんとかね
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 16:53:25.48 ID:1KWzSqmg0
>>77 それをいうなら手代木だって同じだと思うが。手代木が死んだのは78歳の時。
>>78 弘法も筆の誤り。猿も木から落ちる。
>それをいうなら手代木だって同じだと思うが。手代木が死んだのは78歳の時
だから、「そういう事」なんだよw
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 00:31:22.04 ID:mEqfAYpw0
犯行後の行動
今井 口書 二条通りで高橋と渡辺の2人は見廻組屋敷に帰り、佐々木は帰り、その他私たちはそれぞれの旅宿に帰宅した
今井 口書 それぞれ旅宿へと帰った
今井 近畿評論 私はその晩の前に相談していた佐々木只三郎のところに泊まり
今井 口伝 当日、全員で佐々木の居所に集合した。犯行後は「その後は散らばり、同夜と翌夜は、湯屋や酒屋など人の集まる盛り場をそ知らぬ顔でまわり…」
渡辺 佐々木の下宿の寺まで全員で帰った
これでみるとどうやら佐々木の下宿寺から出発して、犯行後も佐々木の寺に帰っている様子である。
見廻役にも所司代にも守護職にも報告している様子はない。
ただし佐々木の寺の向かいに永井の屋敷があったのだから、永井に報告している可能性はある。
いずれにしても、もし守護職の命令なら、まず守護職屋敷に報告に上がるはずだが。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 00:53:34.11 ID:mEqfAYpw0
渡辺
この件は秘密の公務であったので父に打ち明けたのみで、誰にも語っていない。
翌日、坂本が斬られたと評判になり、新選組の浪士が斬ったとか色々な噂が流れた。
こうして書くと軽く聞こえるかもしれないが、その当時の苦心は言葉では言い尽くせない
秘密の公務であったと語っているが、見廻組の犯行であることを必死になって隠そうとしていた様子がうかがえる。
要するに暗殺である。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 02:12:54.73 ID:FL9RrCL60
なんだか、永井犯人説しか信じない迷惑な人間がいるが、
動機を考えれば永井ではなく松平容保だろうに。
>>81 佐々木が上奏・報告すればいいだけじゃない?
>>82 渡辺もなんで晩年になって「表に出てきた」の?な話だな
当時それだけ秘密だったのなら、何も「筆記」にて残すという方法も然りだったと
(ま、実際に覚書程度は書いていた模様だが)
つまりはちゃんとした詳細な「直筆」で子孫に残す〜後に公表ってパターンも出来たはずだけれども
今で言うなら最後に「TV」に出たかったwwみたいな感じじゃん
>>83 永井説も然りだが、容保説もその「動機」につながる
明確な資料がありませんよ?ww
大政奉還に憂いでいたかもしれませんが
だから龍馬暗殺を命じた・・・という「記録」はありますか??ww
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 03:00:45.07 ID:FL9RrCL60
かといって、大政奉還に乗っかろうとしていた人間の可能性は更にないわけで、永井よりは容保だろう。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 08:52:00.39 ID:2ZkFK4gm0
まさに50歩100歩。いまのままだと両者とも冤罪被害者。
容保を黒幕にするためとなると、急に資料とか飛び越して感情的に断罪しちゃうのってw
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 08:52:43.77 ID:NoUa/uFV0
>>84 渡辺の記録は本人が書いたものである。
>>86 大政奉還が暗殺理由だという証拠はどこにもないし、
容保が大政奉還にそれほど強く反対だったかどうかは不明だし、
永井が勝や大久保のような開明派だったかもあやふや。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 09:08:33.15 ID:NoUa/uFV0
人間は、会ったこともない人間にそれほど強い憎悪を抱くことはできない。
容保が龍馬に会ったことがあるかどうかは不明だが、永井は少なくとも三回は会っている。
会って会談して、強い反感と憎悪を感じた、ということはありうる。
ピストル射殺犯だし、いろは丸事件の首謀者(そのことは近藤や三浦から聞いて知っていただろう)だし、
大政奉還の建策者(建策者だとは知らなくても、それが龍馬の思想だということは直接会談して聞いただろう)だし…。
ちなみにわたしは永井説しか信じていないわけではない。
ひとまず黒幕は永井だろうと狙いを定めて、その傍証となるものを探しているだけである。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 09:23:56.70 ID:NoUa/uFV0
永井は前々から龍馬を狙っていた。そのうち大政奉還の件で後藤や福岡と会談するうち、
建策者として竜馬の名が出た。そこで一度会って、どんな男か見てやろうと思った。
そこで福岡に、その龍馬という男を連れてきてもらいたい、と依頼した。そして会談が実現した。
何度か会って話しているうちに、やはりこいつは殺ってしまわなければならない、と考えた…。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 10:01:09.07 ID:/KeFHILHO
想像力豊かなのは、わかったよ。説得力には欠けるが。
容保説ではないが、容保だとした場合、憎悪とかはいらない。政治的な理由だろうからね。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 14:44:29.12 ID:bTk69wuWO
>>87 容保を犯人とすると茶化すのに、変なメロドラマはスルーする感情が変だ。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 17:19:25.65 ID:MJ8fwYet0
大政奉還が暗殺理由だと考えている人が多いようなので書いておくが、
1 「慶喜公伝」p98に、容保、定敬は大義を了解していただろうが、藩士は旧幕府に未練があったので…、とあり
2 p101に、板倉はまだ不満を持っていたので、春嶽が説き、手代木にも奉還は仕方のないことだと説き、中根雪江をして永井や渋沢にも説いた、とあるから、
容保や定敬は了承していたが、板倉、手代木、永井、渋沢はまだ不満をもっていたと思われる。
3 次に、容保が、大政奉還が龍馬の案だと知っていたかどうかは不明である(寺田屋お登勢の文書が本物なら会っていたことになるが)。
しかし永井は会って会談しており、龍馬の思想が大政奉還であることは確実に知っていたと思われる。
以上の理由から、大政奉還が暗殺理由であったとしても、容保説より永井説のほうが蓋然性が高いのである。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 19:04:53.06 ID:FL9RrCL60
>>93 この説は成立しないと思う。
同時代の岩倉具視書簡には、松平容保は大政奉還に激怒し撤回を求めたとあり、
その後の松平容保の行動でも、
>>93の引用部分を省略せずに話すと、
越前藩の公式記録には手代木・小野ら会津藩首脳に大政奉還受入れを説得したが、
会津藩は全く納得しなかったとある。
つまり、
>>93で恣意的な引用がなされており、松平容保および会津藩が大政奉還を了承していたという記録は、
後代の「京都守護職始末記」及び「慶喜公伝」に限られ、松平容保は大政奉還を全く了承していなかったという
意見の方が研究者では主流となっている。
以上の理由から、「大政奉還が暗殺理由であったとしても、容保説より永井説のほうが蓋然性が高いのである。」
という主張は成立しない。大政奉還は松平容保は受け入れていなかった。松平容保こそ容疑者と考えざるをえない。
また、
>>93では恣意的な引用が見られる。手代木や小野が会津藩の見解として大政奉還を拒否し、
松平容保の意思と言明していることを、あなたは隠して見解をまとめた。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 19:11:57.90 ID:FL9RrCL60
見解をまとまる際、明らかな隠蔽を弄する人間の見解が正しいのでしょうか?
「板倉はまだ不満を持っていたので、春嶽が説き、手代木にも奉還は仕方のないことだと説き、中根雪江をして永井や渋沢にも説いた、とあるから、
容保や定敬は了承していたが、板倉、手代木、永井、渋沢はまだ不満をもっていたと思われる。」
これは慶喜公伝からの引用から得られた見解といいましたが、後半部分はどこを探しても、あなたのような見解は得られません。
むしろ同時期史料から言うと、容保や定敬は了承していなかったというのが現在の見解ですよ。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 20:50:27.40 ID:MXqkOMt50
では容保先生、その越前藩の公式記録の書名を教えてください。
できれば何ぺーじ、あるいは何月何日の項に書いてあるかを教えてください。
わたしが自分で読んで調べてみます。
で、仮に先生の言われることが正しいとしても、容保が、龍馬が大政奉還の建策者だと認識していたという証拠はありますか。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 21:53:32.19 ID:MXqkOMt50
容保先生の言っているのは、たぶん「丁卯日記」のこの部分ですね。
「(慶喜の)御盛意貫徹希望仕り候は、肥後守(注:容保)は元より、家来共も一同御同然之儀に御座候得共、唯々今後の見込に於ては甚(はなはだ)心配仕候。
畢竟(ひっきょう)肥後守在職已然(いぜん)より存込居り候は、徳川家の政権は朝廷へ帰され、幕府にては王命を奉じ、順正の御政道に相成り候はば然るべしと存じ居り候處(ところ)、
此度の御一挙(注:大政奉還)にて、年来の誠心も違却仕り、失望の極地に御座候。政権を一途に帰され候は、恐れながら御尤(もっとも)至極の御儀存じ奉り候得共、
幕府迄御捨てなされ候ては、治り方附き申す間敷…」
なるほど容保候が失望の極地にあるとは言っているが、これはあくまで手代木が言ったことである。
手代木や外島は反対だったが、小野は賛成だったと「丁卯日記」にある。賛成の重臣もいたわけだ。
手代木は反対だったので、わざと容保候も非常に失望しておられる、などと言ったのかもしれない。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 22:33:47.80 ID:2K2o9jCa0
当時の藩主と家来の関係は、単純ではないよ。多いのは家来が進言して承認を解く形式が多い。
容保も手代木も、一介の浪士であは龍馬などほとんど知らず、誰かの進言、または、どうしても断れない依頼位でしか承認などしないよ。
まず、容保が命令者、黒幕というのは成立しない。
手代木が述べたような、断れない依頼である場合くらい。
容保が大政奉還を反対であろうと、容認していようと、黒幕説は、当時の殿様の存在を知らない素人節だよ。
容保は病気がちで、側女をはべらして酒を飲んでるようなことが多い。
当時、会津藩で竜馬らをよく知っている武士など多くはない。ましてや、暗殺をすべきと言えるほど、良く知ってる奴などゼロに近い。
容保の黒幕説だけは、論じても無駄。
それと、永井説だが、慶喜に大政奉還を進言したのが永井というのは通説。
大政奉還は、永井と慶喜が相談して決めたものだよ。
大政奉還時、当時は、幕府側の見回組の武士などに永井や板倉ら要人が暗殺されるのを恐れて、新撰組が二人の警護を大政奉還後には当たっていたくらいで、永井は見回り組など、うまくは使えないよ。
良く、当時の幕府内を見なさいよ。身内の方が怖かったのだよ。当時は。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 22:46:56.55 ID:FL9RrCL60
丁卯日記によると、
慶応3年11月28日
松平春嶽は会津藩公用人、手代木直右衛門を呼び出し手代木は
「肥後守(容保)は元より家来共も一同、大政奉還を批判し旧幕制でなくてはならない」と言った
と記述があります。
日記だから個人記録だろ、というのは大きな誤りで、これは越前藩の公式の立場の人間の行動記録です。
板倉勝静側近の魚水実録も同様ですね。
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 22:52:38.32 ID:MXqkOMt50
強力な新人登場という感じだな。
>慶喜に大政奉還を進言したのが永井というのは通説
まずはその定説を疑うことから始めよう。その通説が正しいなら
なぜ「慶喜公伝」p101に中根雪江をして永井や渋沢に説かしめた、という記事があるのだろうか。
永井の人間性を疑ってみよう。永井というのはその場その場で適当な言動をとる男ではないのか。
函館で敗色濃厚となるとあっさりと降伏したし。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 23:03:03.45 ID:FL9RrCL60
松平容保が忠君の志を持っていた、というのも根拠のない通説であることを忘れてはいけない。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 23:08:20.48 ID:FL9RrCL60
永井が大政奉還推進とされるのは、大政奉還後の江戸表要人(大政奉還反対派ばかり)との会談の席で、
板倉・小笠原及び永井のみが肯定的な意見を出し、他の旧幕府要人は絶対反対であったと記録に残っているからです。
つまり、この時点で板倉・小笠原及び永井は大政奉還の上に立って新政権の主導権をとることを主張し、
松平容保・松平定敬あたりは大政奉還に反対するのを止めなかったという事です。
>>98 カタモリガーの私念感情的資料提示無「反論」にいまからwktkww
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 08:39:21.88 ID:87oRbeXD0
>>98 松平容保に関しては、筆頭家老や国許の総意だった辞職帰国案を拒否したり、
兄の徳川慶勝による会桑帰国引退案を拒否したりしているので、
>当時の藩主と家来の関係は、単純ではないよ。多いのは家来が進言して承認を解く形式が多い。
は成立しないわけですが。
>容保も手代木も、一介の浪士であは龍馬などほとんど知らず、誰かの進言、または、どうしても断れない依頼位でしか承認などしないよ。
>まず、容保が命令者、黒幕というのは成立しない。
これに関しても、松平春嶽の回想に出るような人間を知らないと表現するほど、松平容保は無知とは言えないでしょう。
ゆえに松平容保による暗殺命令は、他の人物の命令説と比較しても、十分論議するに足るものでしょう。
ソースのない永井犯人説を声高に書く人がいますが、少しは一般的な史料も使うべきでしょう。
そうすれば、
>>100のような誤認断定もなくなるでしょうから。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 09:43:47.11 ID:Dl3QxSwj0
簡単に、容保説と永井説の基本的な誤解を述べたけど、当時の情報伝達や入手は、今と比べて、貧しいよ。
だから、我々は、大政奉還でも、全ての武士たちが知って同時進行的に動いていたと思いがちだけど、まったく違う。
いずれにしても、基本的な容保説と永井説の問題を述べたけど、当時の情報の貧しさを考えないと間違うよ。
龍馬が幕府擁護に大政奉還時、動いたとか、それをしっていた人間が、当時、何人いたと思う。
良く、当時を考えないとねー
それと、容保だけど、家臣の意見を聞いて、最後に決断というスタイルをとることが多い。
それは、バランスを見て動かないと、間違うからね。
当時の容保は慶喜や永井、春獄、岩倉らの前で、多くを語らないですよ。だから、彼の思いは意外と分らない。
家来の小野や神保は大政奉還に反対ではないし、
騒いでいたのは手代木ですが、彼が、いろんなところで奉還返還を叫んでいたけど、
それが容保の意思とは限らない。他の家来は、意外と冷静なのもいた。
永井だけど、当時は若年寄で、土佐藩を上手く懐柔しようとしていたのは確かで、
余り、土佐藩とはもめたくはなかった。
でも、建て前と本音は分けていたから、彼の黒幕説もわずかに残ってるよね。
では
通り魔説は?
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 16:53:53.22 ID:dnu2O/Fq0
図書館で「慶喜公伝」をぱらぱらと見てきた。
p88に、板倉と渋沢(成一郎)が大政奉還に反対していた、とくに渋沢は武力に訴えようとさえ企画していた、とあり、
p90に、江戸大評定の記事があるが、板倉、小笠原、永井のことは一行も記載がなく、
p98に、容保、定敬は大義を了解していただろうが、藩士はまだ未練があるので…とあり、
p101に、慶勝、慶永(11.8入京)入京後の記事として、板倉、手代木、永井、渋沢がまだ大政奉還に不満をもっていたので、慶永と中根が説得した、とある。
つまり11.8以後の時点でも上の四人はまだ大政奉還に不満だったのであり、
容保先生が
>>102で述べた、江戸大評定の時点から板倉や永井は大政奉還賛成派だったというのはまちがいである。
板倉と永井は一応慶喜に賛同して大政奉還に賛同したのだが、本心は不満だったということである。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 17:17:19.61 ID:dnu2O/Fq0
ついでに「昔夢会筆記」p68に面白い記事を見つけたから紹介しておこう。
板倉、永井らが慶喜を摂政にしようと相談した、という件に対して慶喜がこう答えている。
「永井の摂政…、聞かぬことだ…。永井あたりがこんな姑息の事を言ったのかもしれない。
つまらない話で、早く言うと、こびりついていたいというようなものだ。」
永井は姑息な言動をする男というニュアンスがあり、慶喜にこびりついて保身を考えている、という意を含んだ発言である。
永井の人物像を考える上で、参考になる史料である。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 17:21:48.09 ID:dnu2O/Fq0
107の記事から、板倉、手代木、永井、渋沢、この四人は黒幕候補としてマークしておく必要がある。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 17:33:02.51 ID:87oRbeXD0
>>107 丁卯日記をご覧ください。
>容保先生が
>>102で述べた、江戸大評定の時点から板倉や永井は大政奉還賛成派だったというのはまちがいである。
あなたは未だに間違いを訂正しない。不正に日々生きている。
>>108 大政奉還によって徳川慶喜は、二条の後任の摂政か諸侯会議の長となることを構想していた、というのは
現在では既に定説と化した感があります。
この二案は大政奉還後、江戸の老中らからの大政奉還翻意請願を退ける際に提示された説明の中に含まれていたとされ、
明治維新成立後、徳川慶喜が諸侯会議の長となる構想の存在すら否定している事を考えれば、この徳川慶喜の否定も全く同列、
徳川慶喜の明治以降の処世術、「政権は天皇に全て捧げるつもりだった。大政奉還がその証明であり私は天皇の忠臣なのである。」
という弁明に属するものでしょう。
要するにあなたの永井への中傷は、筋が通らないわけです。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 17:55:34.18 ID:2BT9eM/X0
>>108 >板倉、永井らが慶喜を摂政にしようと相談した
徳川家は公家じゃねぇぞ。
摂関家でもないのに摂政になれるわけがない。
そりゃ慶喜も馬鹿にする罠w。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 17:58:27.24 ID:2BT9eM/X0
ってか、新スレになったのにまだ永井にこだわってんのw。
ここまで来ると”何か私怨めいたもの”を感じるんだが。
そこまでして会津藩を庇いたいのか?。捏造も粘着過ぎると説得力を失うぞ。
ってか、もう失っているかw。
カタモリガーの慶喜論は賛同するんだがなwwwww
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 18:59:37.73 ID:g614/bNe0
>>110 容保先生、「慶喜公伝」の著者渋沢栄一は丁卯日記などのなどの史料を基にして書いているのですよ。
p101の記事の史料が何であるかは明日確認してきます。たぶん丁卯日記などだと思いますよ。
>>112 バカか、お前は。新スレになったら説を変更しなければならない決まりでもあるのか。
人を中傷している暇があるなら自分の説を出してみろ。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 19:28:36.79 ID:87oRbeXD0
>>114 それなら、あなたの
>容保先生が
>>102で述べた、江戸大評定の時点から板倉や永井は大政奉還賛成派だったというのはまちがいである。
が間違いということ。基礎資料に返りなさい。
慶喜公伝は後年の、「大政奉還は天皇への赤心の顕れ」という明治以降の徳川慶喜の見解が表明され、
大政奉還当時慶喜が抱いていたとされる、諸侯政権首班への夢を問われると、慶喜は急に不機嫌になって言葉を濁してしまう。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 20:12:38.59 ID:g614/bNe0
>>115 容保先生、p101の記事は板倉、手代木、永井、渋沢に関する記事であって慶喜とは関係ありません。
明日、p101の記事の史料を確認してきます。それが丁卯日記だとしたら、君の主張はまちがっているわけです。
容保先生の投稿には、…が定説です、…とされています、という書き込みが目立つが、
要するにそれは学者などの説をそのまま信じている君の傾向を表している。
本に書かれていることを信じている君の傾向が表れている。
学者も所詮人間。まちがうこともあるし馬鹿もいる。
先生、自分の頭で考えてください。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 20:20:53.60 ID:Dl3QxSwj0
慶喜公伝の内容などで論議しても、龍馬暗殺の謎は解けないよ。
それと、当時の政局を握っていた高官が、土佐藩の脱藩浪士の龍馬の暗殺など
画策している暇など無かったのだよ。大きな藩という組織を取り込めるか、仲間に入れられるかで、
高官は動いていたくらいですよ。
だから、龍馬をかなり良く知っていた武士たちとかが、黒幕だよ。
では、良く知っていた武士達とは、対立していた武士たち????
薩摩や長州というトンチンカンの説もいう人いるけど、これも、無理だね
話は変わるけど、永井だけど、慶喜と大政奉還を進めたけど、
勝ち目はあると見てたのだよ。当初は。後藤象二郎の甘言に、土佐藩は幕府側に付くと
思っても居たのだよ。だから、下手な騒乱は避けたかったのだ。
それ故、一介の龍馬の暗殺など命令しないよ。
でも、12月9日の王政復古では、在京の薩摩藩の5000の兵の圧力は、
各藩の動揺を、かなり誘ったのだね。
ところが、慶喜と永井は、薩摩の兵力を馬鹿にしていた。西郷や大久保の本気度を
分らなかった。島津久光が軍事クーデターなどさせないと、見てた。
この時は、倅の島津??が在京してたが。
まー、こんなところで、12月9日前まで、慶喜は、うまく行っていると
おもつて居た。竜馬らが暗殺された日には朝廷から、王政復古時の「組織案」などの
詰問が出ていたからね。
そんな日に、幕府側が土佐藩関係の龍馬なんか暗殺命令などださないよ。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 20:41:02.14 ID:2BT9eM/X0
>>114 >人を中傷している暇があるなら自分の説を出してみろ。
説を出すも何もすでにみんなが出して出尽くしてるだろw
それとも何か、君みたいに”根拠の薄い妄想”で新説捏造しろってか?。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 21:23:59.82 ID:VFjhrU/l0
板倉、手代木、永井、渋沢、この中で諸侯と呼べるのは板倉だけである。
とすると手代木発言の「某諸侯」とは板倉である可能性もある。とするとたとえば、
板倉→永井→佐々木→見廻組
ということも考えられる。今井は永井が指図者だと思っていたが、背後に板倉がいることを知らなかった。
しかし手代木はラスボス(最終的黒幕)が板倉であることを知っていた…。
とにかく某諸侯を何が何でも容保だと考える必要はないのである。手代木もさすがに老中の指図だとは言えなかったのである。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 21:48:32.93 ID:VFjhrU/l0
>>117 君の論は一理ある。常識的に考えればそうだろう。ところが永井はしばしば非常識なことをやっているのである。
龍馬は、たぶん京都町奉行所などがマークしていただろうから、幕府側は殺そうと思えばいつでも殺せる状態にあっただろう。
あとはGOサインを出すか出さないかだけである。当時の政治状況を考えれば、君の言う通り、普通なら出さないだろう。
ところが、永井なら出すだろう。そういう男なのである。非常識な男なのである。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:13:28.53 ID:Dl3QxSwj0
>>120さんへ
永井の個人的な面を知ったように話すのは、ご法度だよ。永井は、函館まで行き、それなりに
幕臣として動いた。あの歳で。それはそれで立派。
当時は大義名分が重要で、それに、暗殺のような秘事は、相当、信頼している配下にでもなければ
命令などはだせない。それに、土佐藩の目の前で暗殺など、当時の永井が出すはずもない。
当時でも、公務での暗殺というのは、よほどの大義名分がなければ出せない。
寺田屋事件の容疑でも、まずは土佐藩に容疑者引き渡しを要求するのが、当時の藩と奉行所間では、決められている。
藩邸というのは、当時はかなり、治外法権で土佐藩目の前というのは、土佐藩の支配領域にもとられているからね。
龍馬に対して幕府が対立しているから、幕府側の人間が黒幕というくらいの
根拠では、永井説は難しいよ。
まず、当時で簡単に暗殺ができると思っているけど、それなりに、江戸時代、
武士としての決めごともあり、簡単には暗殺もできないということを忘れないでよ。
特に、黒幕の指示というのは、命令された武士は、常に大義ありやと問うからね。
上役だから、簡単に暗殺の命令を出せると考えるのは甘い。当時の幕府組織でも、
そこは武士間で暗黙の決まりがあり、簡単に暗殺の命令などは無理なのです。
よほどの利害が一致するとか、よほどの大義名分があるとか。
永井説は新資料や新事実が出る可能性は、ゼロに近いよ。残念だが。
孫の今井敏明?の本では無理だよ。^0^
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:14:55.39 ID:87oRbeXD0
>>116 研究というものには、それなりの史料や当時の政治状況による裏付けがあります。
それがあなたの場合、松平容保可愛さに全てを無視し、論理上可能性の低い永井説だけを推奨してくる。
しかも論理が
>>108,120のように存在しない。
卑劣な真似なら、史料上は会津藩と松平容保が山のように実行している。
動機という点でも、当時土佐藩との提携を志向していた徳川慶喜・板倉勝静・永井尚志などが
土佐藩との騒動になる坂本龍馬暗殺を実行するとは考えられず、
逆に、大政奉還の撤回を執拗に要求していた松平容保らが犯人としては順当ということになる。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:31:31.73 ID:VFjhrU/l0
>>121 わたしのこれまでの説を読んでもらえれば分かるはずだが、わたしは、幕府の一組織が民間人を暗殺するというのは極めて非常識なことであって、
新選組でもそういう例があるなら出してみろ、と言ってきたのである。そしてそういう非常識なことができるのは、幕府側では永井くらいなものだろうと考えたのである。
君の論には人間性の考慮がない。嵯峨実愛の日記に「佐々木只三郎悪者のこと」とあるように佐々木も悪人であった可能性がある。
人間は誰もかれも君のように理路整然と考えて行動するわけではない。暴発もする。非常識なこともする。非常識な永井と悪人の佐々木が手を組んだと考えてもおかしくはない。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:39:31.33 ID:9kjvR/XT0
大目付松平勘太郎が目付榎本対馬に疑念を持ってるじゃん
永井より榎本対馬説のが信憑性があるじゃん
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:43:22.96 ID:9kjvR/XT0
>>123 何を言ってるのだ君は。
理路整然と考えて行動すると考えてもおかしくはないじゃん。
想像を楽しむのは自由だ
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:46:25.73 ID:VFjhrU/l0
>>124 やっと…じゃん君が登場しましたね。君が来ないから少々寂しかったのだが。
それはさておき、榎本対馬では今井の「閣老クラスからの指示を御指図と呼んでいた」
という口述と合致しないのですよ。むしろ老中の板倉のほうが今井の証言と合致するわけで…。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:49:40.11 ID:9kjvR/XT0
>>123 龍馬と親密な永井と佐々木が手を組まないと考えてもおかしくはない。
想像を楽しむのは自由だ
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:54:58.96 ID:Dl3QxSwj0
>>123さんへ
わずかに気持ちは分るけど、悪人だから龍馬らを暗殺をするという論理に近いのは、
龍馬が善で永井らが悪というような世界は、水戸黄門映画などの見過ぎでは。
単純な勧善懲悪の世界で論じるのは、おかしいよ。幕末を。
彼らが幕府を思っていたなら、それはそれで、忠義で、悪とは違うし。
それに、永井にしても若年寄まで昇りつめた武士で、功利的に動くとすれば、
一介の武士の暗殺のような愚は犯さないよ。佐々木も同じだよ。
一介の竜馬らを殺しても政局が大きく変わるはずもなく、それくらい、
彼らでも分かっていたよ。万一、彼らが悪人だったら,かえって龍馬なんか
暗殺などしない。何の利益もないよ。
悪人であれば、千両くらいのわいろでもあればだけど。^0^
上記の事は容保説にもいえるけどね。
それよりも、当時の幕府や各般の動きをもっと、別の視点で見た方が良い。
どんな暗殺事件や争いがあったかなど。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:55:14.02 ID:VFjhrU/l0
>>125 …じゃん君も以前はまともな書き込みが多かったが、わたしが永井説を出してから少々冷静さを失っているような気がする。
反論のための反論をしているような気がする。
理路整然と考えて行動する、すなわち良識的に行動するなら、
幕府の一組織を使って民間人を暗殺することもないだろうし、
>>121さんが言っているように、あの時期土佐人を暗殺することもないだろう。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 22:56:12.44 ID:9kjvR/XT0
>>126 >今井の「閣老クラスからの指示を御指図と呼んでいた」
という口述と合致しないのですよ。
私は今井の供述を信用してはいないのですよwww
君は全ての資料において整合性がとれると
考慮しているようだが錯誤である。www
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 00:20:59.42 ID:7YeTpljj0
>>121 >それに、暗殺のような秘事は、相当、信頼している配下にでもなければ 命令などはだせない。
これを読んで思ったのだが、たしか清河八郎の暗殺は板倉勝静が佐々木に命令したとか。
とすると板倉と佐々木は十分な信頼関係があるはずだから、黒幕は板倉かも。
まさか老中の板倉が龍馬ごとき一介の浪士を、という意見もあるだろうが。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 00:25:06.27 ID:7YeTpljj0
Wikiの板倉の写真を見ても、そうとう怖そうなおっさんだぞww
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 00:29:30.45 ID:LemapjuN0
卑怯な振る舞いといえば、新撰組の犯行時に多数報告がありますが、そのくらいのことも知らないのでしょうか。
伊東甲子太郎暗殺の際は、土佐藩の犯行であると偽証を行い、
京都与力殺害事件に際しては、他藩の名札を現場に投げ込んだという証言が残っておりますよ。
武士は清いという妄想に走るのは本人の勝手でしょうが、それは少なくとも会津藩・松平容保・新撰組などには当てはまりません。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 00:37:18.83 ID:LemapjuN0
顔が怖い、怖くないが問題ではないのです。
板倉勝静及び永井尚志は、後藤象二郎による大政奉還建白書提出後、
積極的に大政奉還推進を行ったことで知られています。
徳川慶喜が朝廷に提出した大政返上の起草文は、板倉が国許で作成させたものという説があることはご存知でしょう。
また、記録には龍馬が土佐藩に大政奉還を進言してから、後藤が板倉へ大政奉還建白書を提出するまでの間、
永井は大政奉還建白書の提出を急かしたという記録が残っています。
この状況で、土佐藩との関係を悪化させる暗殺に両名が踏み切るとは思えず、
やはり暗殺には、大政奉還に大反対し続けた松平容保らを挙げざるを得ないわけです。
プッ〜〜〜〜〜ッwwww
>この状況で、土佐藩との関係を悪化させる暗殺に両名が踏み切るとは思えず
だ・か・ら
暗殺
なんだろ?な話
関係を悪化させる・・・てことは「相手が判って」の事だろが?
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 01:35:41.96 ID:LemapjuN0
大政奉還と坂本龍馬の行動についての年表を挙げておきましょうか
5月1日 山内容堂入京、以後四候会議が開催
5月24日 兵庫開港と長州寛大の勅命。四候会議は徳川慶喜の勝利で決着
(坂本龍馬、後藤象二郎に大政奉還を進言)
6月9日 後藤象二郎・坂本龍馬入京
6月16日 後藤象二郎、山内容堂との面会時に大政奉還を進言、山内容堂は大政奉還を藩論とすることを裁可
6月22日 薩土盟約締結。土佐藩は薩摩と共に武装討幕を行うことに合意
7月3日 後藤象二郎、永井尚志と会談
7月13日 山内容堂、幕府への大政奉還建白に内意を与える
8月14日 原市之進暗殺
8月19日 薩摩藩、長州藩と討幕出兵で合意。芸州藩との協同討幕出兵へ
8月20日 土佐藩主山内豊範、幕府への大政奉還建白を指示
9月7日 後藤象二郎、薩摩の小松帯刃・西郷隆盛・大久保利通と会談。大政奉還提出まで討幕を待つよう主張するも受け入れられず
9月9日 後藤、薩摩と再度会談、やはり合意得られず
9月20日 永井尚志、後藤象二郎に大政奉還建白書の提出を急かす
9月27日 後藤象二郎、薩摩の小松帯刃・西郷隆盛・大久保利通と会談。建白書提出に薩摩藩は最終的には合意
9月28日 薩摩藩、武装討幕の一旦停止を領内に命令
10月3日 後藤象二郎、板倉勝静に大政奉還建白書を提出
10月4日 後藤ら会津藩邸を訪問、大政奉還建白書提出を言明
10月5日 新撰組の近藤勇、後藤象二郎に大政奉還建白書の写しが読みたいと書状を送る、後藤は後日送ると約束したが実行せず
10月9日 会津藩主松平容保、新撰組の近藤勇へ板倉勝静と永井尚志の身辺警護を厳命する
10月13日 徳川慶喜、二条城にて諸藩代表を前に大政奉還の意思を伝達する
10月14日 徳川慶喜、朝廷に大政返上の起草文を提出する
10月14日 新撰組の近藤勇、正親町三条邸を訪問し尾張候と越前候が登城しないようにと脅迫する
10月15日 朝廷、徳川慶喜の大政奉還を受諾する
11月15日 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件発生、坂本は当日死亡
11月17日 中岡死亡
11月18日 坂本・中岡・藤吉の会葬
11月18日 伊東甲子太郎、新撰組の近藤勇らによって暗殺される。近藤は土佐藩の犯行と主張
11月19日 伊東甲子太郎配下の浪士が薩摩藩邸内へ逃亡、伊東暗殺は新撰組の犯行と露見
11月22日 永井尚志、新撰組の近藤勇に坂本・中岡暗殺事件に関与していないか質問する。近藤の答は否
>>135 坂本・中岡への殺人が発生した時点で、旧幕府にとっては土佐藩との提携に関しては致命傷なんですよ。
何しろ、その前から新撰組隊士らに狙われているという記述があるのですから、旧幕府の犯行にされてしまいます。
例えば10月14日京都の海援隊士岡内俊太郎から、長崎にいた佐々木高行への手紙
「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(の土佐藩)と白川邸(の陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 09:14:27.49 ID:bCWfBgQM0
容保先生、君が何を言おうと「慶喜公伝」p101には板倉、手代木、永井、渋沢が大政奉還にまだ不満を持っていたと書かれているのですよ。
11.8以降の記事です。その時点でもまだ上の四人は不満だったのです。
それによおく考えてみましょう。龍馬が大政奉還論者であることをあの時点で確実に知っていたと思われるのは永井だけです。
永井は会談して「後藤より一層広大にて…」と語っているらしいから、龍馬の思想を聞いていることはまちがいない。
その後永井が他人に話しているかもしれないが、とにかく確実に知っていたのは永井だけです。
したがって当然、まず永井を疑わなくてはならない。
>10月9日 会津藩主松平容保、新撰組の近藤勇へ板倉勝静と永井尚志の身辺警護を厳命する
板倉と永井さえ大政奉還推進派として狙われていたのだから、土佐藩士の龍馬や中岡が狙われるのは当たり前。
したがって
>>98君が一連の投稿で主張している、あの時期に幕府側が龍馬の暗殺を企てるはずない、というのは理に合わない。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 09:20:41.27 ID:bCWfBgQM0
>>135君も言っているように、知られたら困るから「暗殺」なわけで、
あの時期に永井が龍馬の暗殺を企てるはずない、というのは必ずしも首肯できないのである。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 09:27:33.40 ID:bCWfBgQM0
>>133 >伊東甲子太郎暗殺の際は、土佐藩の犯行であると偽証を行い
これは永井が指示したという噂が立ったのだから、内ゲバではなく、秘密の公務による暗殺なのかもしれず、
それで、偽証する必要があったのでしょう。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 10:51:04.80 ID:lWygH/JMO
>>137 都合のよい拾い読みだね。
後藤が板倉に大政奉還建白書を提出した、と会津藩へ通知した途端に
会津藩配下新選組が土佐藩や海援隊・陸援隊の周囲をうろつき、
大政奉還建白書を入手しようとする様は
会津藩主松平容保が大政奉還に大反対を続けるこの後の状況も考えると、ある方向性が見える。
近藤勇は尾張と越前に参内をしないように脅迫まで行なった。
すると、この松平容保による板倉と永井への新選組の「警護」命令は、本当に警護目的だったのか? ということになる。
じゃんとか言ってんじゃねえ
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:12:41.62 ID:x2rBvwgi0
>>137 >君が何を言おうと「慶喜公伝」p101には板倉、手代木、永井、渋沢が大政奉還にまだ不満を持っていたと書かれているのですよ。
私は「慶喜公伝」p101を信用してはいないのですよプッ〜〜〜〜〜ッwwww
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:15:29.19 ID:x2rBvwgi0
じゃねえとか言ってんじゃねえ
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:23:48.62 ID:x2rBvwgi0
>>137 >板倉と永井さえ大政奉還推進派として狙われていたのだから、土佐藩士の龍馬や中岡が狙われるのは当たり前。
幕府内での粛清は存在するが非幕府側の人間を狙うことはないのである
プッ〜〜〜〜〜ッwwww
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:32:59.48 ID:IsOCvqBf0
さて図書館で「慶喜公伝」を確認してきた。p101の記事の史料は「丁卯日記」である。
これで容保先生の主張は通用しない。11.8以降の時点でもまだ板倉、手代木、永井、渋沢らは大政奉還に不満を持っていたのである。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:33:28.58 ID:x2rBvwgi0
>>137 >したがって
>>98君が一連の投稿で主張している、あの時期に幕府側が龍馬の暗殺を企てるはずない、というのは理に合わない。
人間は誰もかれも君のように理路整然と考えて行動するわけではない。
プッ〜〜〜〜〜ッwwww
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:44:57.81 ID:x2rBvwgi0
>>145 私は「丁卯日記」の全てを信用しているわけではない。
プッ〜〜〜〜〜ッwwww プッ〜〜〜〜〜ッwwww
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:46:18.79 ID:IsOCvqBf0
「慶喜公伝」
p88に渋沢が尾・紀・越・津などに遊説し、賀陽宮にも進言周旋し、紀・津などもこれに左袒し…とあり、
p91の江戸大評定の記事で、一部の人々は甚だしく土佐藩を憎み…とあり、
p104に紀の三浦、大垣の井田らは土佐藩討つべしとさえ声を上げ、まして会桑のごときは憤慨大方ならず…とあるから、
渋沢、賀陽宮、三浦、井田あたりが黒幕Xに依頼したと考えるのが自然ではあるまいか。
中でも紀の三浦が疑い濃厚で、それゆえに天満屋事件が起こったのでは…。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:49:59.15 ID:x2rBvwgi0
>>148 私は「慶喜公伝」を信用してはいないのですよプッ〜〜〜〜〜ッwwww
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:51:17.02 ID:LemapjuN0
>>145 >これで容保先生の主張は通用しない。11.8以降の時点でもまだ板倉、手代木、永井、渋沢らは大政奉還に不満を持っていたのである。
どこが成立しないのでしょう。あなたの想像とは関係なく、板倉及び永井には大政奉還成立にあたっているという事実がある。
さて、あなたの妄想はこの引用部分に表れていると思われますが、
板倉・永井らは大政奉還成立に奔走していたという事実について、あなたが目を背ける理由が不明です。
土佐藩との提携を考える場合、この両名が坂本を狙う可能性は低く、松平容保ら大政奉還に反対した人々に容疑があることになるのですから。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 16:59:59.07 ID:IsOCvqBf0
>板倉・永井らは大政奉還成立に奔走していたという事実について、あなたが目を背ける理由が不明です
容保先生、もっと素直になってくださいよ。わたしはその事実は認めていますよ。
にもかかわらず大政奉還後の記事であるp88やp101に板倉や永井がまだ不満を持っていたと書かれているのですよ。
しかもその史料は「丁卯日記」なのです。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 17:01:35.26 ID:x2rBvwgi0
>>151 私は「丁卯日記」の全てを信用しているわけではない。
プッ〜〜〜〜〜ッwwww プッ〜〜〜〜〜ッwwww
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 17:22:13.14 ID:LemapjuN0
紀州などには旧幕府の役人を使う権限がありません。
そのため、見廻組隊士を暗殺要員に使うには、上司の承認が必要です。
当時の京都における旧幕府首脳は、
将軍 徳川慶喜
筆頭老中 板倉勝静
若年寄格 永井尚志
見廻役 小笠原長遠
京都守護職 松平容保
京都所司代 松平定敬
ということになります。
このうち、徳川慶喜はもちろん大政奉還を推進したわけですが、
板倉勝静・永井尚志らも、大政奉還翻意目的で江戸から来た老中達を帰す際折衝に当たったとされ、
この両名が土佐藩の関係強化に水を注す坂本暗殺を企てたとは考えにくく、
また、当時見廻役は形骸化して、佐々木が全て取り仕切っていたと証言があります。
すると、権限のある人間の中で大政奉還に同意しなかった者となると、松平容保と松平定敬、
中でも若年者の松平定敬ではなく松平容保に濃厚な容疑がかかることになるわけです。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 17:26:45.47 ID:LemapjuN0
>>151 あなたの主張が成立しないからといって、私の事実紹介が成立しないと勝手に主張を始めても困ります。
大政奉還に奔走していた板倉・永井らには、土佐藩との関係を維持するために、坂本暗殺に手を出す余地がないのですよ。
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 17:36:21.48 ID:LemapjuN0
大体、17日の江戸大評定の記事に、京都にいた板倉・永井の動向が記されているわけがありません。
それゆえ、丁卯日記を読みなさい、と言ったのです。
なのにあなたは、「江戸大評定の記事に板倉・永井の動向が記されていないから、板倉・永井らは大政奉還に反対だった」と主張する。
丁卯日記を読みなさい。永井は手代木の唱える大政奉還反対主張には憂慮し、暴発を戒める記事が見られます。
どこが彼らは大政奉還に反対だったとなるのでしょう。あなたの史料検索は都合の良いところしか出してこない。
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 18:31:27.07 ID:LxmllUqs0
容保先生、わたしは君が
>>102で
>永井が大政奉還推進とされるのは、大政奉還後の江戸表要人(大政奉還反対派ばかり)との会談の席で、
板倉・小笠原及び永井のみが肯定的な意見を出し、他の旧幕府要人は絶対反対であったと記録に残っているからです
と書いているので、てっきりこれは江戸大評定のことだと早合点して江戸大評定のページを調べてきたわけです。
わたしの勘違いだったので謝ります。また明日にでも図書館で調べてきますよ。
しかしそれは11.8以後の事ですか? 11.8以前の事なら、依然としてわたしの主張が通用するのですが。
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 22:32:47.66 ID:brn8KtvZ0
そもそも坂本はなぜ永井と会談することになったのか。
後藤が、大政奉還の建策者は坂本だと話したからではないのか。
でなければ永井のような高官が一介の浪士と会談することはあるまい。
そう仮定して後藤と永井が会った記録を調べると
7.3 会談
9.20 会談 近藤も同席
10.9 永井、後藤に建白書採用伝達
これくらいしかない。この3回のうちどこかで話していれば、
坂本が大政奉還の建策者であることはその時点で幕府側に知られていたかもしれない。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 22:39:58.20 ID:brn8KtvZ0
11.10 福岡・坂本、永井を訪ねるが不在。散歩中の中村半次郎と出会う。
11.11 坂本、永井と会談。
11.14 坂本、永井と会談。
11.10の記事が気になる。会う約束もせずに訪ねたのか。
それとも約束はしていたが永井が不在だったのか。
中村半次郎と出会ったのは偶然か…。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 23:02:32.26 ID:brn8KtvZ0
11月18日付の近藤から三浦宛ての書簡を読み返してみたが、
どうもこれは龍馬暗殺とは関係ないような気がする。
三浦は暗殺には関与してないか…。
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 23:46:38.22 ID:LemapjuN0
>>156 >しかしそれは11.8以後の事ですか? 11.8以前の事なら、依然としてわたしの主張が通用するのですが。
君はまだ、個人的な妄想の飛躍を世間に押し付けようとする。
大政奉還に不満があることと、大政奉還を推進し土佐藩を取り込もうと画策することには全く矛盾がない。
同一の事物について、長所を重視するか短所を憂慮するかということでしかなく、どちらも同時に成立するものなのだから。
板倉や永井は、大政奉還によって諸侯の支持を得られると期待し、徳川慶喜の承認の元でこれを推進していた。
なのに君は、この板倉や永井が諸侯との協調を崩壊させる、坂本暗殺に手を出したと主張する。
彼らよりは、当時執拗に大政奉還を撤回するよう主張した松平容保らこそが、暗殺容疑者としては相応しいということになる。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 00:21:48.14 ID:ckG8JtSW0
黒幕というのは、大きな思惑や狙いがある人物、又は、相当の恨みや怨恨を持っていて
暗殺などをするのを命じた人間を言うことですよ。
佐々木が幕府側で、だから、幕府側の上役が黒幕であるから容保や永井が
黒幕だと論争しているような論争は、愚ですよ。
二人に、他藩の、それも一介の脱藩浪士を暗殺するまでの犯行動機を探すべき。
二人が後藤象二郎や西郷と大久保でも殺した黒幕というなら、犯行動機としてはあるかもしれないけど、
龍馬と中岡でね、犯行動機が、無さ過ぎる。
当時では竜馬も中岡も彼らにとっては小物だよ。現代では、みな、大物と思ってるけど。
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 02:02:02.85 ID:QPHpJMIu0
浪士の巨魁としてそこそこ有名だった
寺田屋で発砲してるし
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 09:11:48.24 ID:ckG8JtSW0
薩摩の桐野利明が、この年、赤松を京都で暗殺しているけど、
これには、犯行動機として、薩摩の軍政を赤松から幕府に漏らさないためという大義があった。
それ故、黒幕は西郷であろうという説が濃厚というような、どうしても、赤松を殺す必要があった動機を、
明確にしないとねー。
永井が、どうしても龍馬を殺す必要が、何があったか、ただ、同心をころしたとか、
倒幕派だからとか、では、弱いよね。黒幕説は。
皆が論じてるのは佐々木の上役だったということだけだからね。
この点は、容保にも言える。彼が、眼の色変えて竜馬らを暗殺すろ動機は何か?大政奉還反対という動機では、黒幕
なんて言えないよ。たとえば、龍馬が容保の寵愛する側女を取ってしまったとか。笑い。ハハハ
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 09:39:08.73 ID:WQzTn2zk0
なるほど161と163は一理あると思った。それでいくと、黒幕は土佐ぐらいしか思い浮かばないが…。
それはさておき、鳥取藩の記録にある「木村様」というのは
土佐藩の木村弁之進(三瀬八次、三瀬深造)のことらしい。
黒幕なんて存在しなくて、佐々木以下の現場の暴発って線は?
部下(今井等)に納得させるため上からの指示だと偽ったのでは?
そんで永井とかは犯行後にその事実を把握したが、
幕府側の犯行である事が今バレるのはまずいのでうやむやにしたと。
166 :
ヘボ:2011/09/04(日) 13:20:29.47 ID:ckG8JtSW0
>>164と165さんへ。
少し、本題に入れたような投稿、面白いですね。感謝。
犯行動機から言うと、永井尚志と松平容保の黒幕説は、途中から、この議論に入り始めたのですけど、
非常に弱いのですよ。完全否定したわけではないですよ。
永井や容保の動向をよく、調べることは龍馬暗殺の謎を調べるのに重要。
佐々木はいずれにしても幕府側だからね。
永井のことだけど、慶喜が10月8日、新撰組に永井の警護を厳命したのは、
見回組の武士に暗殺されるのを器具したからですよ。
先の原一之進の暗殺が旗本でしたから、その二の舞を防ぐため。
これはどうゆう意味か???
それと、佐々木多田三郎の犯行が露見したのは、全て、新撰組の、それも近藤勇がいった話
というものですよ。
永井、佐々木、近藤勇、これらも武士の行動は調べる必要あり。
そして、容保の立場は?
どうですかね、ここらは、
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 16:33:42.58 ID:C9Sh7xLh0
さてまた図書館で「慶喜公伝」を調べてきたw 容保先生を刺激するのはやめて、面白いと思った箇所を紹介しておこう。
p151〜p152に、中根が12.16の夕べ永井を訪ねて将軍家の辞官納地の話をしたら、永井が
「常の温藉には似もやらで憤激」したので、重ねて議論しても無益だと思ったので帰った、と書かれている。
それからp153に若年寄並の平山、大目付の戸川、目付の榎本が挙正退奸の上表を奏聞した、という記事がある。
平山、戸川、榎本、このあたりも黒幕候補に入れておこう。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 16:50:04.76 ID:C9Sh7xLh0
しかしもっと面白い記事を見つけてきた。
p107に11月に後藤が帰国後の話として、
1 乾らの討幕派は後藤の平和論に平ならず、
2 佐幕守旧派の野中太内、大八木五平らは後藤を弾劾し、さらに
乾と浪士との関係を暴いてその処罰を藩庁に迫ったが、
3 容堂は固く執りて動かなかった、
とある。とすれば佐幕守旧派の野中、大八木らには坂本・中岡を同時に暗殺したい理由があるわけで、
土佐が黒幕だとすればまずこれら佐幕守旧派を想定せねばならないだろう。
容保は関与していない気がする。
ただし坂本・中岡遭難の箇所に中岡がそのとき坂本に説得されて穏健派になっていた、とあるので、
変心した中岡を陸援隊などの討幕派が抹殺した、という解釈も成り立つと思う。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 16:54:13.05 ID:C9Sh7xLh0
上の書き込み下から3行目の容保は容堂のまちがいでした。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 17:04:10.04 ID:C9Sh7xLh0
>>165 その説については誰かが、暗殺というのは下手をしたら自分も殺られるのだから、
そんな危険を冒すはずがない、必ず上からの指示があったはずだ、と書いていたように思うが…。
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 17:29:55.84 ID:C9Sh7xLh0
土佐藩を犯人に仕立てようとしても、幕府の一部だった見廻組との関連性が見えない。
まして土佐藩の佐幕派は国許にしかいない。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 21:05:56.57 ID:4AhTx/hy0
172は容保先生ですかww
そりゃそうだけど、そこをあれこれ推理するのが楽しいんですよ。
それに暗殺なんて国許にいてもできますよ、腹心の部下とかスパイさえいれば。
たとえば島田庄作が守旧派の腹心の部下だったかもしれないし、
近江屋新助が、佐々木とか、その他幕府の役人と内通していたかもしれませんよ。
そうすれば暗殺なんて簡単にできますよ。
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 21:15:08.60 ID:4AhTx/hy0
後藤が大政奉還遊説のため会津藩の重役と会談したとき、
「貴藩とは昵懇の間柄だから腹を割って話すが…」と言っているように、
土佐藩と会津藩はもともと親密のようです。藩の上層部同志は交流もあったかもしれない。
土佐の守旧派がたとえば手代木に依頼しようと思えば簡単にできたかもしれませんよ。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 00:07:18.03 ID:B9HjlrWr0
容保と永井の謀議というのは、どう??
そんな証拠になるものないの?
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 02:22:30.58 ID:MpxTdAVv0
そんなものがあったら、土佐藩が新撰組犯人説で旧幕府に詰め寄ったときに、旧幕府側が反論してるよ。
つまり暗殺事件に関しては旧幕府側と土佐藩は接点なし。
永井ガーはいつも嘘をつく。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 02:43:55.78 ID:MpxTdAVv0
おっと上は、永井ガーの妄想土佐藩関与説に対する回答だな。
坂本の暗殺後、旧幕府は土佐藩の新撰組関与説に振り回されて抗弁も出来なかった。
土佐藩が関与したのであれば、旧幕府は後藤ら土佐藩上層部に情報を提示するだけで黙らせることが出来る。
それを実行していないということは、土佐藩関与はありえないんだよ。
永井関与説も似た傾向がある。
松平容保と永井尚志が暗殺で結託していたのなら、
明治維新後に犯人としての汚名を一身に背負った新撰組=会津藩が、抗弁の材料に永井を持ち出さない事はありえない。
現に鳥羽伏見の戦いにおいては、「京都守護職始末記」は松平容保の戦場での敗戦は語らず、徳川慶喜のその後の行動をなじって敗戦原因としている。
会津藩に抗弁する余地があったのなら、坂本龍馬暗殺事件でも他人が犯人だと名指しすることに当然なるのだが、その記述はない。
つまり、新撰組犯行だろうが見廻組犯行だろうが結局は命令の出元は松平容保だったので、
抗弁で改めて話題を提供したくなかったということになる。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 03:50:11.62 ID:MpxTdAVv0
つまり、坂本暗殺事件後の旧幕府の土佐藩への振る舞いが、結果として旧幕府内の犯行だと自白してしまっている。
土佐藩は、坂本暗殺後、薩摩藩の主張した新撰組犯行説に乗っかって、旧幕府に犯人として新撰組を挙げ、対処を求めた。
それに対して旧幕府は、私じゃない私じゃないと誤魔化すだけで反論を提示できなかった。
これは、旧幕府が本当に暗殺事件について何も知らなかったのか、
知っていたが、土佐藩に暗殺事件について知っている情報を提示すると、余計事態を悪化させると判断していたということを意味する。
このうち、旧幕府が暗殺事件後犯人を特定できなかったという説は、後の見廻組隊士の自白などによって既にありえないと判明している。
当時は近藤勇まで見廻組の佐々木らが実行犯だと知っていた。つまり旧幕府の上層部は事件後に暗殺犯人を把握特定していた。
では、旧幕府の見廻組が実行犯として、幕府の外に命令者がいた場合はどうなるかというと、
旧幕府は土佐藩に謝罪して、その真の命令者とやらを暴露すれば良いということになる。
しかし、そのような事は実行しなかった。
旧幕府の外部に命令者なんていないか、旧幕府にとって泥をかぶってでも守らなければならない人間が命令者ということだ。
旧幕府が泥をかぶってでも守らなければならない外部の人間は、中川宮だけだ。
二条摂政すら後任を選定すれば済む話で、九条や醍醐あたりの佐幕派公卿などは使い捨てで済む存在でしかない。
また、それらの人々まで含めたとしても、この人々が命令を行ったとして誰が見廻組まで取り次ぐ? そもそもそんな命令を聞く必要がどこにある?
当時、朝廷からの要人護衛要請すら、二条摂政から京都守護職の容保へ、容保から手代木を経由して佐々木へ伝達されている。
間に人を関与させないわけには行かないし、まして暗殺任務となると、聞く必要もない命令に進んで従った旧幕府要人こそが犯人ということだ。
要するに、幕府の外に命令者を押し付けるのは無理かつ無駄なんだ。
もし旧幕府の敵対者が暗殺を命令したのなら、その命令者の名を高らかに叫べば旧幕府は土佐藩の追及をかわせるんだよ。
しかし旧幕府は実行犯まで把握していながら、暗殺者を挙げることが出来なかった。
旧幕府内に実行犯も命令者もいたから、だから旧幕府は白を切るしか手段がなかったのさ。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 09:24:59.49 ID:0tE/jAkp0
176〜178は容保先生ですか?
長い反論だけど、「暗殺」なのだから、知っていても話さないのは当然ですよ。
話してしまったら「暗殺」じゃなくなってしまう。
それはさておき、おそらく今まで誰も唱えたことのないであろう新説をわたしが発表します。
現場に土佐藩士が二名参加していたと仮定して、藤吉を斬ったのはその土佐藩士ではあるまいか。
ま、珍説奇説と思って読んでくださいww
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 09:37:38.70 ID:0tE/jAkp0
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 10:12:49.65 ID:0tE/jAkp0
つらつら思うに、土佐の守旧派には、動機はあるが、何が何でも抹殺しなければならないほどの動機はない。
しかし討幕派(陸援隊)にはそれがあると言ってもよい。中岡が変心していたとすれば尚更である。
ゆえに土佐が黒幕なら陸援隊が怪しい。
幕府側で怪しいのは過激な連中である。たとえば渋沢、賀陽宮、三浦、井田あたり。
この連中が永井、容保、手代木、近藤、佐々木…に働きかけた…。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 14:34:49.83 ID:CPiQJBePO
>>179 新選組が容疑をかけられているのに、
幕府側が見廻組を実行犯と把握しながら、幕府の外に犯人を指摘できないということは、
命令者も幕府の中ということだ。
幕府の外に犯人を求めるのは無理だ。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 14:49:14.30 ID:+Vvt4dwOO
犯人は陸援隊の中井庄五郎!
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 14:59:02.15 ID:CPiQJBePO
土佐藩の後藤らが、大政奉還建白書を板倉に提出したと会津藩に通知してから、
会津藩配下新選組と近藤勇の行動が極めてうさん臭い。
建白書の写しが欲しいと言ってみたり、
土佐藩や海援隊、陸援隊を新選組が集団で監視したり、
尾張越前両候の大政奉還受入れ姿勢に噛み付いて、登城も参内も慎むように脅迫を行う、
果ては見廻組の佐々木が暗殺者と承知している。
これでは、薩摩の唱えた新選組犯行説はかなり真実性があったとするしかなく、
近藤勇は、暗殺事件を実行前から把握し関与していたということになる。
そしてその一連の動きは、どれも会津藩から出ている。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 16:32:35.70 ID:MpxTdAVv0
なんだか松平容保愛護・永井犯人説の人は、どの方面から容疑固めをしても松平容保命令犯の線が消えないので、
最近では「松平容保+誰か」犯人説で、もう一人の誰かだけを声高に主張するように変わってしまった。
でもそれでは、水戸黄門での主人公は親を殺された村娘だろ、とか、悪い代官を追及し消された与力の娘と許婚の若侍だろ、とか
唱えるのと何ら変らない。
どの犯人説でも、中心にいる松平容保の存在を外すと、途端に現実性が極めて乏しく成り果ててしまう。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 16:58:02.27 ID:Jjwvh/Wo0
>>184 >土佐藩の後藤らが、大政奉還建白書を板倉に提出したと会津藩に通知してから
会津藩にだけ通知したのですか? 他の藩にも通知したのでは?
>>185 >最近では「松平容保+誰か」犯人説で
わたしは依然として永井説ですよ。尤も少々ぐらついてきてはいるがw
最近は、永井に誰かが働きかけたのではないか、土佐は関与しているかいないか、
ということを中心に考えております、ハイ。
容保はどうしてもそんな命令を出す、あるいは承認する人物とは思えない、というわたしの容保像は変わっておりません。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 17:08:26.68 ID:Jjwvh/Wo0
これはあくまで私の想像ですが、容保の周囲の人々は容保が暗殺などを承認するような人物ではないと知っていたと思う。
で、仮に近藤とか佐々木が渋沢や三浦から依頼されたとしても、容保には内緒で殺ってしまおうという話になったと思う。
それだから「暗殺」なのです。容保の承認を得ずに行われたから「暗殺」なのです。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 17:24:11.05 ID:MpxTdAVv0
たとえば金喜老は善意の人、勝手にそう思う人が出るのは仕方ないかもしれませんが、結局は命取りでしょう。
彼は犯罪を行い、彼の過去に共感した人々の招いた韓国に引っ越しても、向こうで粗暴な犯罪を続けた。
過去はどうあれ、犯罪を起こした時点で彼の心は既に回復不可能なほど歪み果てていたわけです。
そして松平容保と会津藩は、数々の犯罪を行い反省もしなかった、確信的な犯罪者集団です。
あと、暗殺というのはそういう意味ではない。
徳川慶喜は大政奉還によって諸侯の支持を獲得し、
来るべき諸侯会議において首班となり、自らの政権継続の道筋をつけるという方針だったとされている。
これを、坂本・中岡暗殺という形で諸侯との協調対話に冷や水を浴びせ、
後には王政復古という形で、諸侯による会津桑名排除要求という形にまで対立を激化させてしまったのだから、
坂本暗殺は本来の幕府首脳の意思とは正反対、反逆と言ってよい身内の裏切り行為だった。
主人である徳川慶喜の意思に逆らう身内の行為だから、幕府は犯行を世間に明らかにすることが出来なかった。だから暗殺となる。
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 17:28:57.31 ID:Jjwvh/Wo0
最近は、といってもここ二、三日のことだが、
>>181で書いたように、
陸援隊かもしくは幕府、佐幕派諸藩の過激派が最も怪しいと思うようになった。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 17:31:56.72 ID:Jjwvh/Wo0
とくに龍馬と陸援隊の情報を最もよく掴んでいたと思われる近藤勇が怪しい。
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 17:39:13.29 ID:MpxTdAVv0
陸援隊や土佐藩関係者などが関与していたのなら、
土佐藩から新撰組犯行説を突きつけられた時点で、それを提示すれば済む話。
見廻組が実行犯という話は、当時の旧幕府内から後に複数の証言が挙がっており、
旧幕府首脳が調査すればすぐ内部的には露見したであろうし、実際にも誰が犯人かは把握していただろう。
実行犯に尋問を行えば命令者まで辿ることも可能だ。つまり旧幕府首脳は事件後に暗殺命令者も実行者も把握していた。
しかし旧幕府は、土佐藩に何も抗弁も出来なかった。
つまり暗殺命令者も旧幕府内部の人間だった。だから土佐藩には犯行自体をとぼけるしか手段がなかった。
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 18:11:47.36 ID:+Vvt4dwOO
容保先生のおっしゃるとおりなら、いまだにいろんな説があるのは不思議だね
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 18:30:29.17 ID:jmjFBfGh0
>>188 容保先生は龍馬暗殺事件を過大評価している。あの事件は政局にはたいした影響を与えてはいない。
>>191 >陸援隊や土佐藩関係者などが関与していたのなら、
>土佐藩から新撰組犯行説を突きつけられた時点で、それを提示すれば済む話。
これは一見説得力のある論だ。しかしそれを提示してしまえば、見廻組が実行したこともバレてしまう。
え〜〜〜〜〜〜っ
つまり、ケイキ様が江戸へ帰った理由が
龍馬が暗殺されたからなんだ
新説〜(笑)
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 19:43:41.80 ID:MpxTdAVv0
>>193 全てを新撰組のせいにされるよりは、実行犯が見廻組だということだけを認めて、
命令者を幕府外のせいにしたほうが数段マシだっただろう。しかし幕府はそうできなかった。
要するに、命令者も幕府内だったということになる。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 19:47:08.20 ID:+Vvt4dwOO
会津ではなく、幕府内ってこと?
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 19:59:33.48 ID:MpxTdAVv0
いや、暗殺命令者は、諸侯との関係が冷却化しようが徳川慶喜が尻尾切りできない、
慶喜の京都政権における重要人物であった、という意味だ。
徳川慶喜と敵対しているような人間が命令者なら、幕府は喜んでその人間を犯人として告発しただろう。
そうしていないのだから、実行犯だけでなく命令者にも、いわゆる佐幕小説家が好むような人間を挙げることは出来ない。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 20:07:48.35 ID:MpxTdAVv0
この場合の佐幕小説家が「好む」人間とは、彼らが敵役として勝手に登場させて、
無い事無い事あげつらい、悪し様に痛めつけて書くような人間のことだけどね。
彼らのやり方は史料を歪めている。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 20:09:24.47 ID:+Vvt4dwOO
容保だったら、幕府は差し出さないということ?
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 20:36:05.44 ID:MpxTdAVv0
だね。
鳥羽伏見で惰弱さを露呈するまでは、会津藩兵は無敵と自負しているところがあった。
彦根藩が長州征伐で出陣した挙句、小銃に追い回されて撤退し、赤備えの先祖にも似ずと酷評されていたのとは裏腹に、
会津藩兵は徳川慶喜の貴重な戦力として重視されていた、・・・・・・鳥羽伏見で潰滅遁走するまでは。
負けを経験していれば改良もしたのだろうが、会津藩兵はそれまで本当の戦闘に参加したことが無かった。
もっぱら、京都市内で警察権力として新撰組などと共に活動したときの印象で、会津藩は語られていた。
実際に鳥羽伏見で戦ってみたら会津藩兵は目も当てられないほど弱かった。徳川慶喜にとっても誤算だっただろう。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 21:18:36.04 ID:rroMsn1D0
容保先生、慶喜はそれほど会津の戦力を当てにしてはいませんでしたよ。
その証拠に、大政奉還後はもう会津に帰れと容保に言っているのです。
板倉が反対したから帰さなかっただけです。
それにそもそも慶喜には戦争をしようという気はなかったのです。
だからこそ江戸無血開城になったのです。
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 21:22:26.73 ID:rroMsn1D0
それに常識的に考えてごらんなさい。
土佐藩からの依頼でやったと仮定して、その土佐藩から抗議を受けたとき、
「実は貴藩からの依頼でやったのじゃ」なんて言えると思いますか。言えるわけがないでしょう。
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 21:28:35.15 ID:rroMsn1D0
おまけに、たとえば土佐藩から近藤勇が依頼を受けて、近藤が永井に話して、永井が承諾したと仮定しましょう。
さて土佐藩から抗議を受けて、近藤を尋問したのは永井です。
二人とも暗殺に関わっているのに、本当のことが言えるはずが有馬温泉。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 21:37:31.37 ID:rroMsn1D0
とまあ容保先生をおちょくるのはやめて、
当時、京都の土佐藩邸に土佐藩の佐幕守旧派の重役はいなかったのだろうか。
誰か知ってる人はいませんか。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 21:42:52.14 ID:Y12fzEIpO
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○ このレスをみたあなたは・・・3日から7日に
ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり
成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて
ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
これ以上生かしておくと困る人いた?
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 09:29:17.52 ID:cZYIs16g0
寺村左膳という人が気になる。大政奉還に賛同した人だが、どういうわけか
11月上京したときにはすでに在京重役との間に方針の隔たりがあった、とWikiにあり、
事件当日も他の重役とは離れて一人だけ別行動をとって芝居見物をしており、さらに寺村左膳手記に
「…何者共不知七人推参致し(中略)右七人の中三人、状を持参せりとて差出すや否や…」と、妙に正確な人数が記されていて、
おまけに寺村左膳日記によると事件への反応が冷たい。
鏡川伊一郎氏は島田庄作は見張り役として最初から現場にいた、と推測しており、その島田が寺村に事件を伝えた、と推測している。
とするとこの二人は黒幕の一味だった可能性がある。
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 09:41:05.89 ID:cZYIs16g0
妙に正確な人数を伝えたのが島田だったとすれば、寺村はともかくとして、
島田が黒幕の一味だった可能性は大いにある。
あれだろ?峰吉が帰ってきたら「中」から出てきたんだっけ?>島田さんw
それでいて、峰吉に「未だ中に賊が居るから云々と」
で、峰吉静止を聞かずに中に入って二階に上がると・・・「!!」
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 16:47:46.92 ID:dJUCbbHd0
そう。それに峰吉の証言を信用すると、そのとき近江屋新助は裏手の小屋に隠れてぶるぶる震えていたわけだ。
つまり近江屋新助が土佐藩邸に報告に行ったわけではないのだ。つまり誰も報告に行っていないのに、島田はそこにいたのである。
最初から暗殺団に加わっていたのなら、暗殺団の人数が七人で、二階に上がったのが三人だと知っているのだ。
それを寺村に報告したから、寺村は日記に正確な人数と暗殺状況を記すことができたのである。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 17:16:27.40 ID:sGL+YmRYO
また、個人ブログの引用かよ…
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 17:29:35.97 ID:l9HcNDJO0
>>204 >>201-204に根拠がないのは何故でしょう。
諸侯の会津桑名排除要求にもかかわらず、徳川慶喜は会津藩の帰国を鳥羽伏見の戦いまでは待ちました。
会津藩の武力をあてにしていたからと思われます。
その結果が大敗北で、大口を叩いていた松平容保を、以後慶喜は信頼することはありませんでした。
>土佐藩からの依頼でやったと仮定して、その土佐藩から抗議を受けたとき、
>「実は貴藩からの依頼でやったのじゃ」なんて言えると思いますか。言えるわけがないでしょう。
逆にこの場合は言わなければおかしい。なぜなら八百長相手の命を奪う契約違反行為そのものなのだから。君の常識は一般人とは異なる。
つまり、土佐藩は暗殺には関係はない。あれば幕府は土佐藩に反証を出せただろうに。
>>203に至っては、新撰組が佐幕派に都合の悪いときだけ土佐藩配下に鞍替えする不思議ぶりよ。
おちょくるも何も、論理もなく他人を中傷するための整合性のない作り話をこの場で出してきただけ。
あなたの行動はいつもそう、論理で負けると相手を馬鹿にした作り話を勝手に作って、その場で相手を中傷すればよしとする。
各地を巡回しては老人に法外な値段で者を売りつける、講演会商法とそっくりだ。
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 17:54:29.28 ID:l9HcNDJO0
某佐幕派編集者と話をしたときに似ている。
あの馬鹿は、意見が近いと見るや、根拠のない話を混ぜこみ東北が正しいと勝手に主張を始め、
根拠を質問すると、誰が作ったかもわからない薩長悪人話を一方的にまくし立てて話を終えようとした。
それで自称伝統保守なのだから、彼らの思考が思い量られる。
現在のところ、坂本龍馬及び中岡慎太郎暗殺者は、実行犯としては見廻組の佐々木只三郎ら見廻組隊士でほぼ決定。
命令は種々の傍証から、会津藩主松平容保から会津藩士手代木直衛門を経由して佐々木只三郎に命令が下ったとされている。
暗殺事件後、土佐藩は薩摩からの情報として、新撰組の犯行と結論を下し、旧幕府に処置を求めている。
旧幕府は犯行自体に明言を避けたが、明治以降になって旧幕府内及び会津藩から新撰組ではなく見廻組隊士を実行犯とする証言が複数挙がっている。
土佐藩関係者に限らず、佐幕派小説家あたりが犯人にしたいような人間が命令者なら、土佐藩が犯人を新撰組と断定して処置を求めた際に、
そのような旧幕府の敵を庇い立てして事件を隠蔽する必要が旧幕府には存在しない。
つまりこの暗殺事件は実行犯だけでなく、命令まで当時の旧幕府内の人物によるものであったと断定するしかない。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 18:34:53.15 ID:Ci7QQLfW0
容保先生に反論しても議論は平行線をたどるだけだからやめておこう。
話題を変えて、峰吉が中岡に使いを頼まれた薩摩屋というのはどこにあるのですか。
知っている人は教えてください。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 19:30:04.12 ID:Ci7QQLfW0
>>215 分りました。サンキュー。直線距離にして西南西に約400mというところか。
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 19:34:52.93 ID:l9HcNDJO0
反論不能な事態に直面すると勝手に、おちょくった、反論したって平行線に違いないから私はしないのだ、
とか言い張って話を誤魔化すのは、松平容保を犯人と認めたくないからですね。
それにしても、土佐藩の大政奉還建白書提出ではなく、
これを土佐藩が会津藩に表明してから、近藤勇が不審な行動に出ている。
建白書を見せろと書状を送りつけ、
土佐藩や海援隊・陸援隊の周辺を新撰組が執拗に徘徊監視し、
尾張候や越前候は登城も参内も慎むように脅迫を行う、
果ては暗殺事件後に暗殺が佐々木によるものと承知している。
この状況で、松平容保が新撰組に板倉勝静と永井尚志の「警護」を言明している。
大政奉還への松平容保の激怒と阻止姿勢を考慮する限り、この「警護」命令も実際は大政奉還阻止目的の脅迫とも考えられる。
あと、暗殺事件を新撰組とする土佐藩からの詰問に、
実際は実行犯を把握していたと思われるのに、旧幕府が回答を誤魔化すだけで答えていないという事実は、
暗殺事件の実行犯だけでなく命令者も旧幕府内であったということを強く示唆するものだ。
この期に及んで旧幕府の外に執拗に命令者を探しても、所詮言いがかりの域を出ることはないだろう。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 19:35:49.01 ID:Ci7QQLfW0
峰吉が裸馬に乗って陸援隊に知らせたというのは本当だろうか。
あの時代、町人が馬に乗ることはまずありえないと思うのだが。
武士だって訓練しなければ乗れない。坂本や中岡だって乗れたかどうか…。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 19:41:06.60 ID:Ci7QQLfW0
>この「警護」命令も実際は大政奉還阻止目的の脅迫とも考えられる。
先生、いくら何でもそれは考えすぎでしょうw
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 19:54:56.54 ID:l9HcNDJO0
いえいえ、この程度の話なら研究者崩れの小説家紛いの人々ならいくらでも話しています。
しかも証拠がないことと、当時の中村彰彦による激しい罵倒中傷(根拠なし)のせいで広まっていないだけで、
実際は論じるに値することと思われます。
>あと、暗殺事件を新撰組とする土佐藩からの詰問に、
>実際は実行犯を把握していたと思われるのに、旧幕府が回答を誤魔化すだけで答えていないという事実は、
本当に「知らなかった」という選択幅を提示できないのかねぇ〜先生はw
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 21:12:04.24 ID:4wJxaGSa0
大政奉還は成立してしまったのだから、いまさら土佐藩士を暗殺しても仕方ない。
それでも殺るというのは、よほど大政奉還を憎んだ人間だ。たとえば渋沢成一郎。
この男は慶応二年に幕臣に取り立てられたばかりの男だ。司馬は、そういう男ほど、
幕臣に取り立てられた感激があるので、幕府の崩壊を憎んだだろうと言っている。
近藤勇もそうだ。佐々木も、永井も、幕臣の家に養子に入って、自分の代で初めて幕臣になった男。
こういう男にとっては、やっと超一流企業に入ったのに、その企業が倒産してしまったようなもの、あるいは
やっと高級官僚になったのに、国家そのものが瓦解してしまったようなものだ。
永井や容保のような高官クラスではなく、渋沢、近藤、佐々木クラスを疑うべきではあるまいか。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 21:25:18.02 ID:4wJxaGSa0
佐々木が幕臣・佐々木矢太夫の養子となったのは27歳の時である。
27歳で初めて幕臣となったのである。さぞやうれしかったであろう。
その幕府が崩壊。大政奉還を憎んだであろう。暗殺の依頼があればすぐOK。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 21:37:56.16 ID:4wJxaGSa0
永井が旗本の永井尚徳の養子になったのも25歳の頃だ。
もともと藩主の子だから、旗本の養子になるのはどういう気持ちだったかは分らないが、
藩主になれないことは分かっていたのだから、やはりうれしかったのではあるまいか。
ただし渋沢や近藤や佐々木のような低い身分の生まれではないので、
大政奉還にそれほど強い憎悪はなかっただろう。それは容保も同じである。
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 10:19:23.81 ID:wQRPvJAj0
当時の日記というのは、その日のうちに書いたのだろうか。
それとも一二日遅れてから書くこともあったのだろうか。たとえば寺村日記の
「…表向不関係之事。」
というのは、寺村個人の感想なのか、それとも藩の方針としてそのように決まったということなのか。
当時の京都土佐藩邸の最高責任者は福岡ではなかったのか。
藩の方針として「 表向不関係之事」となったとしたら、それを決めたのは福岡か。
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 10:27:59.76 ID:wQRPvJAj0
寺村も福岡も、龍馬と一緒に大政奉還を進めた仲間なのに、なんとも冷たいことである。
当時土佐藩への風当たりが強かったし、龍馬と中岡は討幕的な動きもしているので、
この二人を処罰しておこうということになったのではあるまいか。
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 10:36:46.37 ID:Kqlj1uc50
容保は、京都守護職である立場上、大政奉還の一連の流れは把握出来たはずだ
討幕を警戒して見廻組や新撰組等が行った情報収集活動により、龍馬が薩摩藩の庇護の下にあることを幕府は知っていた
薩長同盟や大政奉還などのように今後も旧幕府にとって不利な治工作を可能性がある
それに形式的であれ幕府消滅という失態に対して憤りを感じても不思議ではない
大政奉還を受け入れられず、または一時的な緊急避難と捉え、幕府再建のための布石を打ったのかもしれない
龍馬暗殺に会津藩士が関与している以上、全く関与していないということはあり得ないと思うが
とある記録によれば、後藤と龍馬が「同席した」ってだけで藩内一部が「憤慨」したとか
所詮福岡は京の藩邸を「任されたに過ぎない」立場だったと
一部藩士が、「それは殿のご意向なのか?」等々詰め寄られたら
福岡ですら立場が危うかったに思う
例の佐々木某の「密書」?な件も
見方によれば、龍馬を庇護していた薩摩に対する土佐藩士の「嘲笑」にもみてとれる?
ワーイw龍馬殺られたって?薩摩「ざまぁ〜みろ」wとかね
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 12:49:37.82 ID:jOQ6EEnj0
>>227 >龍馬暗殺に会津藩士が関与している以上
佐々木はそのときは幕臣であって会津藩士ではない。手代木は関与しているかどうか不明。
230 :
ヘボ:2011/09/07(水) 14:29:34.45 ID:+ZLMtoHP0
佐々木只三郎は27歳で幕臣になったということは、それまで、会津に居たのよね。
であれば、会津で相当、教育もされたのでしょうね。
そして、兄、手代木や会津藩の援助で幕臣になったと思うよ。
だから、会津藩には思い入れがあったでしょう。当然ながら。
ここがヒントじゃないの。
清川八郎を暗殺した時は、幕臣になりたてで上役にさからわないで暗殺したけど、
この時から4年近く経っていて、見回り組の組頭として、相当、自信も
出来たころだからね、竜馬らが暗殺された時期は。
だから幕府の上役とも、多少の溝があったようだし。
幕府側の名栄ではないよ。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 15:46:27.30 ID:l+j8gw5G0
佐々木只三郎の独断か。それもありうるが、問題は龍馬暗殺がいつごろから計画されていたかということだ。
司馬が書いているように渡辺が龍馬暗殺の為にスカウトされたのなら、それは二月だ。
今井もその為に召集されたのだとしたらそれは五月だ。そのためには支度金も渡さなければならない。
そうすると上役の許可がいるから、佐々木独断ではできない。
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 15:57:14.45 ID:l+j8gw5G0
二月、五月の頃は大政奉還の影も形もなかったのだから、
その頃から龍馬暗殺が計画されていたとすれば、
暗殺理由は大政奉還とはまったく無関係である。
さらに土佐説も消える。
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 16:01:17.90 ID:l+j8gw5G0
その頃から暗殺計画があったのだとしたら、黒幕は幕府以外にない。
>>67 > 渡辺の「原本」は明治13年に書かれた
かどうかは、不明。むしろ怪しい。
今井信郎の話が近畿評論で世間に出てから、渡辺篤が自分の名前を加えた暗殺話を書いたということだけが確認できる事実。
渡辺篤は、その時に、元記事は・・・・と、あたかも信憑性を無理やり獲得するためのように述べてるだけ。
今井信郎の暗殺話も、渡辺篤の暗殺話も、手代木直右衛門の話も、
真の下手人(新選組)と真の黒幕(会津藩主松平容保・紀伊藩主徳川茂承)を隠蔽するための与太話に決まってんだろw
い い 加 減 気 付 よ !
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 17:23:06.81 ID:LRXqOwOv0
>真の黒幕(会津藩主松平容保・紀伊藩主徳川茂承)
は認めても
>真の下手人(新選組)
は、どうもねwww
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 17:30:15.43 ID:LRXqOwOv0
渡辺篤といえば、司馬は、渡辺はその頃は剣道場の道場主で、
近いうちに大物をやるというのでスカウトされた、と書いているのだが、
そんな史料があるのだろうか。
相川司の本では、渡辺の前職は二条城御門番組与力となっているのだが。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 17:43:25.83 ID:LRXqOwOv0
今井弟書簡はあまり信用されてないようだが、あれは普通の書簡ではないぞ。
今井弟の晩年病床での代筆である。(代筆者は不明)
いわば遺言みたいなものである。手代木証言と同じく、遺言のようなものなのである。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 17:58:25.98 ID:A8KTIO5cO
>>232 その仮定は成立しない。
たとえ大政奉還前から暗殺計画があっても、
幕府の基本方針に諸侯取り込みとそのための大政奉還が採用された時点で、
諸侯と敵対するような暗殺計画は放棄するだろう。
大政奉還後も暗殺計画を続けた時点で、暗殺は大政奉還を敵視した人間の犯行と言える。
>>236 >>217に満足な反論もできないでおいて、一体何を言ってるのだ?w
真の真犯人(新撰組)は真の下手人らしく文書を後世に全く残さず、
偽の下手人(見廻組生き残り)は偽の下手人らしく偽の文書を後世に残すに決まってるだろ!
>>237 司馬が妄想話を書いているのに決まってるだろw あの国賊司馬だぞw
>>238 何故、あの世まで持って行かず、死の間際にわざわざ最後ッペを放ったのか?を考えれば、
後世に虚言を残すためには最高のタイミングだったから、に決まってる罠w
遺言ほど、無責任かつ確認不可能な、本質的に信用不可な文書はない。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 19:05:48.63 ID:GDf5+bUc0
>>239 なるほどね。これは容保先生の言い分を認めましょう。
>>240>>241 君は新選組実行説だから容保説を採用しているのだろう。だから、君は黒幕について論じるより、
新選組実行説について論じるべきだ。その根拠はどこにあるかを。
で、君に聞くが、土佐が新選組を訴えたとき、なぜ永井が近藤を尋問したのだろうか。
新選組が守護職配下なら、容保が近藤を尋問すべきなのだが。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 19:18:39.22 ID:RRAAkKcu0
永井が、松平容保ではなく近藤勇に坂本暗殺を行ったか否かの尋問を行った理由は、
若年寄格ではあっても藩主ではない永井は、以前の奉行をやっていた時などの上位者にして
藩主である松平容保や松平定敬を尋問することが憚られた、ということでしょうね。
当時の永井の昇進は異常なレベルに達していました。周囲や部下はかつての上司ばかりだったのですから。
>>242 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
下手人と噂されている御家人旗本を大目付・目付が取り調べる権限はないと?wwwww
取り調べなければ、大目付・目付全員の立場がなくなってしまうだけ。それはマズ過ぎる。
よって、どうせ近藤はしらばっくれるだろうと思いつつも、幕府を代表して新選組局長を取り調べないわけにはいかなかったのさ
で、幕府側としても新選組に対する心象としては真っ黒だったんだろ。その後、新選組は解散させられているから。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 19:49:23.86 ID:GDf5+bUc0
243、244はまったく答えになっていない。わたしは、
新選組は守護職配下なのだから、新選組が訴えられれば守護職が訊問するのが筋だろうと言っているのである。
>>245 だ〜か〜ら、真の黒幕である会津藩は藩主も公用人も、真の下手人が新選組であるってことを知ってたからこそ、
素知らぬフリをして、新選組局長を形式的にすら取り調べなかったんだろ。余りにもバカバカしいからな。
これは、真の黒幕が会津藩で、真の下手人が新撰組であったことのも極めて重要な状況証拠な。
で代わりに、近江屋が見廻組の管轄下であること、および、見廻組の実質的なトップが会津藩公用人の実弟であることをいいことに、
坂本中岡暗殺は見廻組の手柄ということにして切り抜けようと、会津藩・新撰組・見廻組で口裏合わせをやったわけだ。
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 21:18:40.58 ID:RRAAkKcu0
>>245 >243、244はまったく答えになっていない。
この文の方が答をはぐらかしている。問題から逃げてはいけない。
松平容保が見廻組や新撰組へ暗殺の有無を照会することは、
記録はないが当然上司として行う必要がある。
しかし記録は残っていない。
理由は、
1.松平容保が暗殺にかかわっていないのなら、ここで佐々木を実行犯とする証言があったので、
幕府は暗殺にかかわっていないという表向きの公式見解を作るために隠蔽された
2.松平容保が暗殺事件の首謀者なら、犯人は自分だったし実行犯も知っていたので尋問を行う義務を果たさなかった
ということになる。
少なくとも京都の旧幕府首脳は、暗殺後には実行犯が見廻組の佐々木という確証を得ていたと思われる。
何しろ新撰組の近藤勇だけでなく、一般隊士までもが見廻組の佐々木が実行したと知っていたのだから。
暗殺実行犯が誰かは、旧幕府上層部が調べれば分かることなのだから。
そして暗殺命令者が誰なのか、それは京都の旧幕府上層部内の誰かということになり、記録自体が憚られる状況となる。
松平容保が近藤勇らに尋問を行った記録がないという事実は、松平容保の暗殺事件への関与を示唆するものと言えよう。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 21:22:19.05 ID:hIKye+3u0
>>246 なるほど、やっと新選組ガー君の論理が解った。なかなかの論理だ。
しかしそれなら、形式的に取調べして、お互いに、「知らない」ということにすれば済む話だ。
正解はこうだ。暗殺は永井と近藤が組んでやったことなので、もし容保に尋問されたら、
「知りません」と嘘を言うか、正直に「永井様の命令でした」と答えるしかない。
しかし、さすがにそれはまずいので、永井が訊問することにしたのである。
見廻組が実行犯だって認識は当時一般的なものだったの?
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 21:28:03.42 ID:hIKye+3u0
>>247もまったく同じだ。もし容保が命令したのなら、
形式的に取調べして、お互いに、「知らない」ということにすれば済む話だ。
>>248 イミフw
> 「知りません」と嘘を言うか、正直に「永井様の命令でした」と答えるしかない。
> しかし、さすがにそれはまずいので、永井が訊問することにしたのである。
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 21:59:54.31 ID:RRAAkKcu0
>>249 江戸で無役だった勝海舟は知りませんでしたし、見廻役の小笠原も、
計画自体知らなかった、当時見廻組は佐々木が自分を介さずに行動していた、と言っています。
しかし近藤勇は佐々木が暗殺をやったと知っていましたし、他の隊士の前でおおっぴらに語っています。
そして見廻組隊士は、きちんと公務として恩賞をもらっています。
その後、見廻組は犯行を隠すために隠れていましたが、これは旧幕府自体が犯行を隠蔽したことを意味します。
旧幕府は犯行にかかわっていないと公式にはされましたが、内部では口止めされながらもある程度犯人を知りうる状況があったと思われます。
もちろん、京都にいる旧幕府上層部なら事情は把握していたでしょう。
>>250 ウソを書くということと、本当のことを省略して書かないということは、意味が違います。
前者は明らかな偽証ですが、後者は逃げる余地があります。
この場合は近藤勇は「私はやっていない」と証言できますが、佐々木只三郎は偽証を避けるなら「私は・・・・・・」しか言えないわけです。
当然あるべき部分を書かないということは、松平容保と坂本龍馬の会見の有無についてもあります。
坂本龍馬は永井同様に松平容保に会見したと言明しているのに、永井には面会記録があって松平容保には面会の記載がありません。
つっこみどころがwww
>しかし近藤勇は佐々木が暗殺をやったと知っていましたし、他の隊士の前でおおっぴらに語っています。
大石の話か?結城の話か?ww
前者は、以前の「敵」の前に堂々wwと現れて「捕まった」お銚子物ですぜ??
後者にいたっては本当に隊士だったの?な話があるやつだぜ
あと、最後の隊長が「見廻説」否定してだでしょ?聞いたことないてww
>きちんと公務として恩賞をもらっています
あれ?篤さんは貰ったっていxtてましたっけ??
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 22:16:37.29 ID:hIKye+3u0
>坂本龍馬は永井同様に松平容保に会見したと言明しているのに
それは寺田屋お登勢の子孫が書いたとされる文書の中にお登勢の談話として出てくるだけであって、
その文書が偽書でないとは限らない。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 22:36:47.88 ID:RRAAkKcu0
>>254 並べて言及している永井への訪問は他の史料からも確認できるのに、
松平容保への訪問を偽書扱いするのは無理があります。
そのように主張するなら、他の史料と整合性のない今井弟の手紙など考慮する余地もありませんよ。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 08:37:01.86 ID:LOeedopd0
つーか、オマエラ史学の基本に戻って議論しろよ
一.根拠史料を示す
二.示した根拠史料が信頼に足るものである事を示すため、裏付け史料を示す。
以上の二種の史料を提示できないものは、信憑性が薄いものとして切り捨てる=書き込まない。
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 09:23:58.50 ID:cCzys+sO0
1 ピストル射殺
2 薩長同盟仲介
3 大政奉還建策
これだけでは暗殺理由としては弱い。もうひとつの理由は
4 将軍襲撃計画
これだ。10月13日の後藤宛ての手紙で、慶喜が建白を採用しないときは海援隊の手で慶喜を討つと書いている。
それに今井弟書簡でもその計画を立てたことが暗殺理由だと書かれている。
とすると龍馬は実際にそういう計画を立てていたものと思われる。
すると海援隊の中に裏切り者がいてそれを幕府側に漏らす、あるいは近江屋新助とかその他のスパイが政府側に情報を漏らせば、
幕府も黙認できない。
不審なのは後藤宛てのその手紙が中島家文書として残っていることだ。中島信行のことだろう。
中島は陸奥の妹と結婚している。中島と近藤長次郎は仲が良くて、近藤が切腹させられたことで
龍馬を恨んでいたとか、そういうことはないか。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 09:34:33.27 ID:cCzys+sO0
>>256 それもそうだが、そんなことを言ってたら、一行も書けない。
ここは専門の学者が書く場所ではない。素人が空想を楽しんだっていいだろう。
しかしたしかに、あまり無駄なことを書くのはやめよう。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 10:17:43.62 ID:LOeedopd0
>>258 空想を楽しむレベルではればいいが、
すでにその空想が議論の空転を生んでいる。
このスレに関してのみ当面”専門家のルール”を適用すべきではないか?
もちろん永久ではなく、議論に一定の答が出た時点で破棄すればいいだけだし。
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 12:39:55.38 ID:54jk2OlG0
吉田松陰も老中間部詮勝の暗殺を計画したことを供述して処刑された。
過去のことで、実行はされなかったが、計画したことで、処刑された。
龍馬も、実行はしなかったが、将軍を討つことを計画した。となれば、
さすがの永井や容保でも容認はできなかっただろう。
261 :
ヘボ:2011/09/08(木) 13:22:01.81 ID:WxM/hSm40
>>238 良いところもついているけど、一つ、龍馬が後藤に出した手紙で将軍を討つという内容が、
どのようにして、幕府側に伝わったかだとね。
後藤が幕府側に見せた。または、龍馬がアホで永井にそんなことをしゃべったか??
海援隊が漏らしたというのも??どうでしょう。この手紙の言質で、動向というのは
後世に我々が知っていることで。
>慶喜が建白を採用しないときは「海援隊の手」で慶喜を討つと書いている
これが理由であれば、龍馬「のみ」を亡き者にするってのは少々無理があると
それならば当時入京していた「他の隊士」はどうだったのか?
事後、入京して来た隊士らも狙われてしかりだと
龍馬を狙い近江屋を掴んだのであれば
隊士らの駐屯先である「酢屋」も当然襲撃されても可笑しくはないと
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 15:14:25.63 ID:63ZP5g0A0
龍馬は暗殺されていなかった!?
伊藤、板垣、岩倉がグラバーを通しスコットランドへ逃がした
さらに現在流通している龍馬の写真は影武者だという
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 17:11:55.36 ID:wjmgK/gP0
>>261 海援隊の中にスパイがいたことは分っている。佐々木多聞だ。その密書を近江屋新助の名で出していることから、
近江屋新助が幕府と内通していた可能性がある。将軍を討つ計画を近江屋で練っていたとしたら、近江屋新助が勘付いた可能性がある。
>>262 計画は実行されなかったのだから、懲罰として隊長一人を殺ればいい。
265 :
ヘボ:2011/09/08(木) 17:56:24.19 ID:WxM/hSm40
新撰組の密偵、村山謙吉が陸援隊に入ってるけど、
この話は、何処の資料なのかな?新撰組始末記かな??
だれか教えて下さい。お願いします。
どこまで信憑性あるのか知りたい。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:18:33.35 ID:gBWBNQ030
>>264 佐々木多聞を内通者扱いする説は捏造。
これを盛んに吹いている自称研究者は、最初、薩摩犯人説として佐々木多聞の手紙をおかしな解釈をつけて紹介した。
「才谷殺害人姓名まで相分かり是に付き薩藩の処置など種々愉快の義これありいずれ後便書取り申上ぐべきと存じ奉候」
これはまともに解釈すれば、「坂本暗殺犯が判明したので薩摩が処置してくれる。犯人に目に物見せてやる」、となるのだが、
この研究者は偏見が激しく、「薩摩は絶対犯人だ、佐々木も薩摩を敵視していたのだ、だからその犯人の薩摩が別に犯人を見つけたといっているので嘲笑したのだ」と、
解釈とも思えない解釈をつけて発表した。
以来佐々木多聞は、佐幕派小説家の間で薩摩に敵対したヒーロー扱いされているのだが、この自称研究者の中にしかそのような妄想が存在しない。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:20:38.16 ID:uaECTmPf0
十月十日頃に後藤に宛てた手紙でも、江戸の銀座を京に移してしまえば、将軍職など名あって実なし、などと書いている。
こういう将軍軽視の手紙も、幕府側に知られると、ただでは済まない。
そして不審なことに、この手紙も中島家文書として残っているのだ。
中島と陸奥は疑っておく必要がある。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:27:15.62 ID:gBWBNQ030
>>264 さらに理由がない。
由比正雪は未遂だったし、大塩平八郎は本来の蜂起目標時期とは違う暴発だったが一族まで累が及んだ。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:34:44.65 ID:gBWBNQ030
>>267 確かな犯罪の証拠があるなら、正規の捕縛処刑を行っても土佐藩からの詰問は排除できる。
しかし旧幕府は土佐藩からの旧幕府の暗殺行為への詰問へは、誤魔化すだけで事件への関与自体を隠蔽し続けた。
つまり、旧幕府は坂本龍馬が犯罪行為を行っているという証拠を持っていなかった。
なのに暗殺は実行された。
>>267のような邪推ではなく、旧幕府の正規の政策だった大政奉還への反発こそが、暗殺犯にとっては暗殺の動機であったと思われる。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:35:47.78 ID:uaECTmPf0
>>266 鏡川伊一郎 小説の孵化場 「龍馬暗殺事件・考」
ところで佐々木多門は岡又蔵とは兄弟の間柄であって、身内に宛てた手紙だから密書でもなんでもないという論者がいる。しかし、手紙の中には次のような箇所があるのだ。
「小子義は此節、何方よりも嫌疑無御座候間、必○御案披下間敷候。併決而油断不仕候間御案意被成下候」
要するに、「この節は、どこからも嫌疑はかけられていないので心配しないでほしい。といって決して油断はしていないから、ご安心ください」と書いているのだ。
「この節」はと、わざわざ断っているのは以前になんらかの嫌疑をかけられたことがあったのかもしれない。
先に佐々木は幕府のスパイとしか考えられない、と書いた。この手紙が密書としての性格を帯びていることと合わせて、証拠となるに、じゅうぶんな文面ではないだろうか。
いずれにせよ差出人を偽装すること、そのことに協力している近江屋は、すでにして龍馬を裏切っていたと言って過言ではない。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:47:48.56 ID:gBWBNQ030
松平容保を犯人として認めたくないばかりに、
2つの仮定を提示してみたようですが、どれも論理としてはおかしい。
1.外部が命令者に違いない→外部からの暗殺要請を聞き入れた時点で旧幕府首脳に首謀者がいる
2.暗殺には正当な理由があったに違いない→旧幕府が犯行を誤魔化した時点で、旧幕府首脳にとって外部に説明不能の失態
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 18:52:38.66 ID:gBWBNQ030
>>270 君の話には残念ながら論理がない。
>この手紙が密書としての性格を帯びている
妄想お疲れ。海援隊は新撰組などに監視されていたことは以前も言及があった。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 19:08:52.38 ID:uaECTmPf0
容保先生、270はわたしの意見ではなくて鏡川伊一郎氏の意見ですよ。
まことに尤もな意見であって、これを読んでも佐々木多聞を幕府のスパイだと思わない人はよほどのアフォですよ。
>>273 そういうblogの「使い方」はあまり良くないと思うよw
そこの内容をわざわざ提示した段階で「あなた」の意見も踏まえての事だろうから
それでいて「そこの作者の意見ですよと言われても説得力が無いよ?
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 19:40:03.68 ID:gBWBNQ030
>>273 鏡川自体が信用できない俗論の塊なので、一般的な研究者はあれの説は採用しない。
>これを読んでも佐々木多聞を幕府のスパイだと思わない人はよほどのアフォですよ。
鏡川や君の説に根拠がないことは理解したが、それと私にどんな関係があるというのだろう。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 19:46:51.62 ID:gBWBNQ030
>>273 再度聞こう。
新撰組が土佐藩や海援隊・陸援隊を監視していたという記述は存在するが、
それを考えた上で、手紙の中で嫌疑という言葉を使うことがなぜ、佐々木多門が内通者に違いないと言えるのだろうか。
鏡川の説は、はっきり言って陳腐な誤魔化しばかりなので、研究者が即時にゴミ箱に放るような代物だ。
これをどういう論理で尤もと主張するのか、君の神経を疑う。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 19:52:29.63 ID:8HU/7ja7O
永井説の人、またブログから引っぱり出してきたよw
素直な人だね
>>276 少なくともblogにてちゃんと「自説」を公表しているという意味に於いては
「うちらw(失礼)」みたいなネラーよかましだろ?な話
まだ鏡川さんなんて「いい方だと」
誰とは言わないが、近江屋はそもそも・・・・・・な説を唱えている方よりはw(ゲホン!)
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 21:24:54.73 ID:azECqLu50
>>276 無意味な書き込みはやめようと思うのだが、黙っていると容保先生の主張を認めたと思われる恐れがあるので書いておこう。
容保先生、佐々木は幕府の人間に密書を出しているのですよ。そしてその幕府の人間に、
「最近は疑われていないから安心してください」と書いているのです。
佐々木が幕府のスパイであるのは明白です。
なんでこんなことをいちいち説明しなければならないのかww
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 21:53:14.40 ID:gBWBNQ030
>>279 君の意見はまた誤魔化しか。
君が言いたいのはこの手紙だろう。
「才谷殺害人、姓名まで相分かり、是に付き薩藩の処置など種々愉快の義これあり、いずれ後便書取り申上ぐべきと存じ奉候」
「小子義は此節、何方よりも嫌疑無御座候間、必○御案披下間敷候。併決而油断不仕候間御案意被成下候」
>>266と
>>272で既に説明されている。
しかも君の言う幕府の人間(岡又蔵)とやらは佐々木多門の肉親で、手紙の全文を読む限り近況報告の内容となっている。
既に君が返答不能で逃げた話を、再度持ち出して済ませようというのか。
君がウソをつくのは勝手だが、それに付き合わされるほうは君の横暴さに不愉快極まりない。
佐々木多門を内通者とする説は既に否定されて久しい。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 22:11:37.05 ID:gBWBNQ030
>>279 再度
>>276を質問する。
君は既に各種の証拠から否定された説を持ち出して、佐々木多門を内通者と主張しているが、
再びこの説を持ち出す論理を一言も語らない。
・佐々木多門と岡又蔵は近親者である
・手紙の全文はどちらも近況報告である
・「才谷殺害人、姓名まで相分かり、是に付き薩藩の処置など種々愉快の義これあり、いずれ後便書取り申上ぐべきと存じ奉候」 は、
「薩摩が坂本暗殺犯を特定したから暗殺犯にももうすぐ裁きが下る、追って連絡するから」の意味で、
当時薩摩の推理した、新撰組犯行説への期待表明を意味する
・「小子義は此節、何方よりも嫌疑無御座候間、必○御案披下間敷候。併決而油断不仕候間御案意被成下候」は、
「最近は海援隊には何も嫌疑なんて無いから安心して」という意味で、海援隊が新撰組など旧幕府治安組織に監視されていたことを意味する
どれも以前に自称研究者が、薩摩犯行説を出すときに部分引用と恣意解釈で言い立てただけのもの。
全文を訳して背景を検査してみたら、薩摩が新撰組犯行説で犯人を捜査していたことや海援隊が新撰組などに狙われていたことを示す文章になる。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 22:24:48.50 ID:azECqLu50
容保先生、それはちがいます。岡又蔵が多聞の兄弟であろうと、岡又蔵は「松平主税様御内」の者、つまり旗本松平主税の家来です。
すなわち岡又蔵は幕府の人間です。その幕府の人間に手紙を出しているのです。
それから「小子」とは、わたしは、拙者は、という意味です。海援隊は、という意味ではありません。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 23:00:33.86 ID:gBWBNQ030
>>282 言うに事欠いて、また内通者説を引っ込めた上でそれでも話は正しいと主張を始めたね。
手紙の文面を見なさい。自称研究者の恣意的な一部引用ではなくて、手紙の全文だよ。
どこにも君の主張した内通者説は浮かんでこない。
>>281の解釈を採用するしかない。
君は断定したことが完全に否定された後も、その話を根拠も出さずに続けようとする。
俺、大人になったらタイムパトロールに入隊して、このスレの奴らの疑問を解決したいんだぁ…。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 00:08:42.95 ID:0rpIq3BJ0
どうも谷が怪しいな。講演の中で
「…実は今夜お前のところに行ったが、お前が留守であったから、坂本を訪ねて談話していると…」
などと話しているが、中岡が谷のところに立ち寄ったという証言は他の史料にはない。
それに中岡の死後、陸援隊の隊長になっているのも怪しい。
暗殺事件の土佐側史料はこの男の講演が主たるものだ。
海援隊の実質的な二代目隊長、佐々木高行も怪しい。今井聴取の最高責任者がこの男だった。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 00:23:53.04 ID:CQoWo/IP0
戊辰戦争研究会への加入を希望される方へ
メールで事務局までお知らせください。
(ご住所・お名前・電話番号、戊辰研用のハンドルネームをお知らせ下さい)
事務局より、年会費千円の入金依頼メールを
ご送付致します。
振込を完了しましたら、お知らせください。
振込を確認後、名簿登録と掲示板の
パスワードをお知らせします。
事務局 高橋美智子(神保修理)まで
お願いします。
[email protected]
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 00:24:20.59 ID:0rpIq3BJ0
谷も佐々木も薩土盟約などで西郷らと接触している。やはり薩摩も関与しているか。
薩摩と土佐が共謀して、見廻組に依頼した、これが正解か…。
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 00:34:03.47 ID:0rpIq3BJ0
依頼したのではなく、幕府側に情報を流したと考えてもよい。
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 00:50:21.61 ID:sO2e/8QI0
佐々木を内通者扱いするのが無理となったので、別の人間を手当たり次第に狙うとは、阿呆だな。
谷の
>>285における証言は、旧幕府側犯行とする説の大筋を逸脱するものではない。
もっとも、谷は現在確実視されている見廻組説ではなく新撰組説を主張し、生前一歩も譲らなかった。
変死した人間の跡を継いだ人間が全員犯人だというのなら、徳川慶喜は徳川家茂暗殺犯ということだ。
特に、当時慶喜は長州出兵中で大阪城にいたのは松平容保なのだから、松平容保が将軍暗殺魔ということになってしまう。
天満屋事件・・・
つまり、龍馬ら暗殺後、紀州藩公用人・三浦久太郎は果たして「どこから」
狙われるとの情報を得たのか?
単に、関わった人物の事後とのことで警戒していただけなのか?
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 08:54:12.05 ID:DcstYzkY0
>>289 >佐々木を内通者扱いするのが無理となったので、別の人間を手当たり次第に狙うとは、阿呆だな
べつに佐々木を内通者扱いするのが無理となったなんて思っていないぞ。
>変死した人間の跡を継いだ人間が全員犯人だというのなら
一応疑う必要があるだろ。
>>290 土佐側にスパイがいたということである。
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 09:01:13.13 ID:DcstYzkY0
佐々木高行は今井に私闘という判決を下そうとした。ところが児島から横やりが入って公務執行となった。
私闘なら処刑である。つまり佐々木は今井を処刑するつもりだった…?
近江屋新助は土佐藩御用達商人であった。ということは土佐藩の間諜の役目も帯びていただろう。
土佐が黒幕だとしたら、当然暗殺に協力しただろう…。
>>289 谷干城と近江屋新之介による新選組説を断固支持する。
新選組説は見廻組による偽装工作を見破った上での最も確実かつ筋の通った説であり、
見廻組説なんて当初から現在に至るまで偽装工作を鵜呑みにしたいだけの妄想の域を全く出ていない。
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 16:50:14.70 ID:KCBpSaNn0
木村幸比古「竜馬暗殺の謎」を読んだ。この男は史料の読みが杜撰でいいかげんで、腹が立つ。
しかし役に立つ資料も紹介してある。
その1 「佐々木只三郎伝」によると、暗殺団は近江屋と瓢亭との間にリレー式に見張りの者を立てて連絡を取っていたという。
とすると土佐藩邸の南側の道に見張りを立てていたことになるが、そんなことが可能だったのか。
その2 渡辺篤はたしかに元治元年9月に京都文武場剣術世話心得になっている。
それと慶応3年12月に永井主水正の護衛になっている。
「佐々木只三郎伝」てどうなんだろうねぇ〜あれ「お祝い本」みたいなものでしょ?
資料としてどういったもんだかw
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 18:44:22.89 ID:sO2e/8QI0
>>291 >べつに佐々木を内通者扱いするのが無理となったなんて思っていないぞ。
どこが無理でないのか挙げてごらん。先の2通の手紙については、
>>281で結論が出たね。
君の
>>279は、どこにも論理がないと君自身が認めてしまった。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 19:00:18.86 ID:T/lYN+Iu0
>>295 その1で挙げた部分は川田瑞穂(土佐出身の歴史学者)の談話だという。
おそらく桂早之助の子孫から聞いた話ではあるまいか。
>>296 もう容保先生の無意味な書き込みには反論しないことにしましたw
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 19:15:15.29 ID:T/lYN+Iu0
さて、またまた永井が怪しい史料を発見してしまった。永井は龍馬暗殺の黒幕だと疑われていた!
神山左多衛日記の11月20日の記事だ。
一、福岡、今日永井ヨリ御マネニテ新太郎、梅太郎討タレ候云々ニ付、
永井モ疑ハレ候云々、是ヨリ屹度糺トノ事也
御マネニテは御招きにて、の意か。新太郎は慎太郎のことだろう。
さあ永井説に反対の君たち、これをどう見ますか。
新撰組説だが、近藤にはアリバイがあったのは「周知」かと
(旧夢会津白虎隊)
会津藩士、山本覚馬との宴会にて
その際に(覚馬らが近藤宅からの帰り)
二人の会津藩士に出くわし「龍馬暗殺」の報を聞く
「佐々木とも近藤とも・・・・・」
頭がそうだからと言って絶対ではないが(土方が動いた?)
覚馬らは、近藤から頼まれていた特注の刀の件にて訪問
(つまりは、いつ来るとも判らない状況下だった)
てか、話が本当であれば、事後すぐに「佐々木」という名が出ていた?てとこか
秋葉原に出入りしてる?
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 05:17:14.09 ID:2VABgBtk0
ここの永井ガーは反論が出来ないと、無意味だと勝手に断定して話を続行させることにしたようだね。
それでは痴呆と変らない。
>>298 言いがかりはどの人間にも付く。問題は犯人として成立するか否かとなる。
その点では、永井ガーにはどれも話に論理がなく反論も出来ないのに、ひたすら永井永井と叫んでいる能無しだ。
この人間は、松平容保が大政奉還に反対ではなかったと激しく主張しているのに、
再三引用している慶喜公伝ですら、会津藩が大政奉還に反対したと記してある事を無視する。
大政奉還に激怒の上撤回を求め、自らの引退と引き替えによる徳川慶喜と尾張ら諸侯との提携案(徳川慶勝の引退勧告)を
拒否し京都に居座ろうとした松平容保こそ、坂本龍馬暗殺犯人としては順当ということになる。
>>213や
>>281に回答できない永井ガーは、いくら妄想に従って永井説を記そうが論理がない。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 05:42:01.38 ID:2VABgBtk0
言いがかりを犯人と即断定するのは、
町の噂で永井を犯人とするものがあったから永井が犯人なのだ、とすることや、
肥後藩史料で「龍馬が死んだ、これは薩摩が犯人なのだ。」と記しているから薩摩を犯人とするのと何ら変らない。
永井に関しては単なる町の噂であり、同時に中岡慎太郎の話を聞いた関係者の間では新撰組説も語られており、
しかも新撰組の上司は松平容保だ。つまり、永井よりも松平容保の方が実際は関与を疑われていたことになる。
肥後藩史料に関しては、その断定に何も理由付けが無いばかりか、他の部分に薩摩に対する敵意がみなぎる記述があり、
佐幕派優位であった当時の肥後藩の、薩摩への敵意ゆえの言いがかりとするのが定説化している。
犯人として挙げるには動機も手段も傍証も必要で、その中で最も疑わしいものを犯人とするしかないのだが、
松平容保を犯人とするものと比べると、他はどれも根拠に乏しい。
まして旧幕府の外に暗殺命令者を想定することは、暗殺事件後に旧幕府が土佐藩の、
新撰組犯人説に基づいた追求をごまかし続けたという事実に反する。
土佐藩関係者や旧幕府の敵が暗殺命令者なら、旧幕府はその旨を土佐藩に通知すれば済む話だ。
この点で坂本龍馬暗殺犯は、実行犯が見廻組なだけでなく、命令者も旧幕府の中に存在していると考えるしかない。
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 09:02:41.72 ID:vRSLow8h0
容保先生が何を言おうと、
>>298の史料は厳然として存在するのである。
さて、龍馬暗殺の件で永井が疑われ、油小路の変の件でも永井の名が出たのはなぜか。
ひとつ考えられることはこうだ。
どちらも新選組の犯行と世間では思われ、その黒幕として永井の名が出たということは、
新選組を使っているのは永井だ、新選組を操っているのは永井だ、という認識が当時の人々の間にあったからではないのか。
とくに近藤勇が永井の腹心の部下のようになっていたからではないのか。
ではさて、見廻組はどうか。見廻組を操っていたのは誰か。佐々木か、手代木か、永井か、それとも…。
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 09:26:05.92 ID:vRSLow8h0
もし薩摩や土佐が、龍馬と中岡を消すために、幕府側に情報をリークして、
それで幕府側が動いて暗殺に踏み切ったのだとしたら、
暗殺の命令者あるいは承認者が永井であろうと容保であろうとそんなことはどうでもよいのである。
その場合、真の黒幕は薩摩や土佐だからである。
もうこの際、容保も永井も土佐も薩摩も絡んでて、
実行は新撰組と見廻組の共同作戦で引き込みは近江屋、
実際に龍馬に一太刀目を入れたのは中岡。
っていう仮説が成り立つか誰か検証してみてくれないか。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 10:53:49.55 ID:esX9ZPRmO
永井ガーなら、その仮説も成立させてくれるよ
容保先生ってホント「自爆」好きよねww
>言いがかりを犯人と即断定するのは、
>町の噂で永井を犯人とするものがあったから永井が犯人なのだ、とすることや、
>肥後藩史料で「龍馬が死んだ、これは薩摩が犯人なのだ。」と記しているから薩摩を犯人とするのと何ら変らない。
先生の容保犯人説も「手代木伝」からでしょ?www
会津藩公用人が知っていたから「当然」藩主も知っていて然りであるwwww
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 14:33:04.37 ID:GwV7qboJO
>>303 論理上、松平容保による暗殺命令しか議論に値するものが現存しないという事実については
永井ガーは目を背けるのみ。
それで噂話があるから永井だ土佐藩だと記す、
この松平容保愛護マニアの思考が不憫でならない。
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 14:37:05.26 ID:GwV7qboJO
>>304 その説は成立しない。
旧幕府内の責任者が同意しない限り見廻組は行動できない。
つまり旧幕府内にしか暗殺命令者を求めることは出来ない。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 14:38:59.09 ID:GwV7qboJO
>>307 松平容保による暗殺命令には、傍証が山程あるのだよ。
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 16:28:38.46 ID:GwV7qboJO
手代木証言に今井証言を筆頭に、数え切れないよ。
もったぶらずに「具体的に」どうぞw
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 18:25:30.71 ID:eLpXe15N0
さて、また図書館に行ってお勉強してきた。そこそこ有益な情報を得てきたので紹介しておこう。
まず、永井が、永井候と表記されている史料を見つけた。いずれも「寺村左膳手記」の慶応3年の記事。
10月9日 「今朝、永井候へ象次郎罷出ル。…」
10月12日 「同十二日朝、象次郎、永井候へ出候処…」
してみると手代木のいう某諸侯を永井と考えてもあながち暴論ではない。
ちなみに閣老とは、広辞苑によると、老中の別称である。実際、「寺村左膳道成日記」に、
板倉閣老、閣老板倉候、という表記が散見される。
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 18:52:03.07 ID:eLpXe15N0
次に、海援隊の長岡謙吉も狙われていたという記事を見つけた。「寺村左膳道成日記」11月18日の記事。
今夜、御国脱走人長岡謙吉ト申者、福岡へ対面之為松本ヘ来候処、素リ才谷、石川同断之者ニ付、
会、桑、新選組等之目をソソグ所となり、既ニ今夜右長岡之跡付来候者有之よし密ニ告るもの有り、
依而俄ニ松本より裏道を開キ河原へ出し、立退カセタリ。
長岡が福岡に対面のため松本楼に来たが、尾行されていたため、裏道から逃走させたという記事である。
同日、海援隊士七、八人が上京していたが、新選組等の詮索がきびしいので白川の陸援隊屯所に入れた、
という記事が「神山郡廉日記」にある。
やはり海援隊は狙われていたのである。大政奉還のせいか、将軍討伐計画のせいかは知らないが。
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:06:20.42 ID:eLpXe15N0
それと、11月26日に後藤が参殿して永井と会談しているが、
その同じ日に永井が近藤勇を尋問している。これは偶然か。
それから「朝彦親王日記」9月13日に、秋月悌次郎に、原市之進の後任に近藤勇を推薦し、
永井に言えばうまくやってくれるだろうと内々に話した、とある。
それから12月14日に永井が近藤勇ら新選組を率いて下坂している。
永井と近藤勇(新選組)の親密さが窺える。
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:14:52.07 ID:2VABgBtk0
>>316 どこに永井と近藤勇の親密さが書かれているのだろう。
原市之進の後任に近藤勇を推薦したのは中川宮で、
無関係な上位者である永井を説得すれば、無謀な推挙も通るだろう、といっているだけの話だ。
会津藩預新撰組の組長近藤勇という位置づけは、
>>314,315の記述で変るものではない。
印象操作だけで、君の文章は中身がない。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:15:23.32 ID:eLpXe15N0
「寺村左膳道成日記」9月24日の記事に、
幕府の詮索もきびしく、会津の嫌疑も甚だしいので、後藤が千両を与えて、
陸援隊の浪士を白川藩邸から一時出邸させた、とある。ただし、「尤未施」ともある。
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:21:52.55 ID:2VABgBtk0
>>313 全部挙げたら、この板に充満してしまうよ。
松平容保を犯人とする傍証は数知れずあるが、
永井に犯人を着せようとしても、松平容保らと比較しても近藤らと同席したという記述はめったにない。
だから数少ない記述にしがみ付くことになるが、それらも正規の行動を逸脱しない。
あからさまに怪しい近藤勇・手代木直衛門・松平容保の三人と実行犯の佐々木只三郎。
これらは言うまでもなく、一会桑政権の中でも会津のサークルに属する人々であった。
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:22:31.01 ID:eLpXe15N0
天満屋に新選組が護衛の為に駆け付けたのは、
「晦結溢言」では会津候の命により、となっており、
「浪士文久報告記事」では会津公用方より申居り、となっている。
>>319 >松平容保を犯人とする傍証は数知れずあるが、
だ・か・ら
傍証を早くっ!!
手代木と今井の件「だけ」で傍証?数しれず??www
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:30:22.11 ID:2VABgBtk0
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 19:33:22.55 ID:eLpXe15N0
>>265 「中岡慎太郎陸援隊始末記」所載の新選組から陸援隊への手紙
「会津藩文書」10月9日の項
「神山郡廉日記」11月16日
>>299 西郷隆盛を暗殺しようと付け狙って、間違えて西郷の付き人を暗殺したのが土方歳三だからな。
新選組説の場合、「もうよい、もうよい」と言ったのは土方歳三と考えられるな。
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 20:16:22.62 ID:2VABgBtk0
>>325 なら反論して御覧なさい。
君がいくら印象操作を行おうとしても、松平容保が坂本龍馬暗殺命令者という線が崩れたことはないのだから。
土佐藩を犯人に仕立てようとした永井ガーも、暗殺後土佐藩が新撰組を犯人と断定し、旧幕府へ処置要求を行った際、
旧幕府側は誤魔化すだけで対応不能だったという事実に対して、何も説明できない。
暗殺実行犯は見廻組、暗殺命令は会津藩主松平容保から手代木直衛門と通じて見廻組へ命令された。
現在のところこの説が尤も有力であり、他の説はこれと比較すると動機も手段も傍証もない現状では参考にならない説となる。
皆様、熱い御議論、ご苦労様。
ここまでをまとめると、
黒幕が容保でも永井でもその両方でも、
実行犯は新選組、
偽装犯が見廻組と手代木ということですね。
第三者にとっては、実に有意義な御議論です。
゚( ゚^∀^゚)゚。アーッハハハハノヽノヽノヽノ\ / \
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 20:33:57.67 ID:2VABgBtk0
正直、松平容保を坂本龍馬暗殺犯人とする傍証や日記、史料上の記述はあり過ぎて書ききれない。
だから、他の数少ない別方向の証言に対して、それは違うと反論を加えざるを得ないし、
松平容保の大政奉還への激怒、自らの権力を諸侯らに譲ることへの反感が事件の背景にあったと結論を付けざるを得ない。
尤も、坂本龍馬自身は大政奉還と並行して武力討幕への動きを加速させていた。
しかしこれにしても、坂本や中岡を殺したところで土佐藩内に復帰した土佐勤王党及び尊王攘夷派が止まるわけでもないし、
逆に坂本龍馬暗殺によって土佐藩の旧幕府への詰問は続き、両者の提携は暗殺前よりも遠ざかってしまった。
手代木が、旧幕府と土佐藩の仲を裂いた坂本龍馬・中岡慎太郎を成敗した、と目的を挙げるにしては、
暗殺という手法はあまりに稚拙で、土佐藩との関係修復という目的を達成するどころか遠ざけている。
やはり目的は松平容保の、大政奉還つまり公儀政権成立=会津藩失脚に対する怒りとしたほうが順当だ。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 21:08:58.40 ID:svlyv2Tm0
龍馬暗殺の件で土佐が幕府を訴えた件について「贈従一位池田慶徳公御伝記」では、
土佐は板倉に、犯人は松山脱藩浪士で新選組に入った二名だと確証を以て訴え出た、(中略)
早速取り調べたところ、「土州より申出候趣ニ相違無之由ニ御坐候。」
つまり、土佐藩から訴えた趣旨でまちがいないようだ、という文である。
この文書が正しければ、幕府は土佐の主張をそのまま認めたようである。
大石の自供によれば近藤は見廻り組の犯行だと知っていたのだから、明らかにおかしい。
近藤が嘘をついたか、近藤も永井も、知っていて知らぬふりをしたかのどちらかである。
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 23:44:09.24 ID:2VABgBtk0
板倉勝静の、坂本・中岡暗殺事件新撰組犯行説を認める発言だが、
その後の新撰組に、特に処罰が加えられていないことから、
単なる目くらまし、誤魔化しの域を出ないと思われる。
誰かの、「私には反論不能です私は馬鹿です今までみんなウソをついていましたごめんなさい」
=「無意味な書き込みみには反論しないことにしましたw」程度の、愚劣な糊塗にしか見えない。
王政復古に伴う徳川慶喜の大阪移転時に、新撰組は改名を言い渡されているが、組織には変更もなく、処罰された人員もない。
またこれには、天皇の兵である御陵衛士・伊東甲子太郎の一党が暗殺された事件で、間違いなく近藤勇ら新撰組が犯人であるという証拠が
挙がっているため、こちらを問われた結果という説もある。
また、当時尊王攘夷派浪士や坂本龍馬暗殺犯として悪名高かった新撰組の名を、再度の上洛時には隠蔽する必要があったという話もある。
当時、坂本・中岡暗殺事件においても新撰組犯行説は声高に論じられ、しかも当時の近藤勇ら及び新撰組の行動は極めて怪しい。
しかしこの際の新撰組改名が坂本暗殺を旧幕府が自らの犯行と認めたうえでの新撰組への処罰だったとは信じにくい。
何故なら、せいぜい新撰組の存在をを隠蔽する工作程度のことしかやっていないのだから。
>近藤が嘘をついたか、近藤も永井も、知っていて知らぬふりをしたかのどちらかである。
どちらも想定する必要がない。板倉の誤魔化し返答の域を出ないのだから。
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 23:45:05.62 ID:eAU2Kx6C0
遊撃隊は関与してないだろうか。関東の旗本百人余りで構成された部隊だ。
11月9日に入京し、11月14日から市中巡邏を開始している。
12月12日 見廻組も遊撃隊に編入
12月14日 見廻組→新遊撃隊と改称
12月23日 見廻組→旧称の見廻組へ復帰
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 00:22:18.74 ID:Zt+ZpaLf0
坂本・中岡暗殺事件とは、見方を変えれば、
下士の坂本・中岡に代わって、上司の佐々木・谷が実権を握った事件である。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 00:23:29.55 ID:Zt+ZpaLf0
上司→上士に訂正
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 01:45:28.86 ID:Zt+ZpaLf0
どうも寺村左膳が気になる。
慶応3.5.9に先斗町近江屋で肥後、会津、久留米藩士と会合している。
土佐側の出席者は他に4名でそのうち二人は小目付。
9.8に祇園一力で会津、久留米、熊本、筑前藩士と親睦会。
土佐側は他に後藤、毛利、小目付二人。
9.13に栂尾で肥後、会津、桑名、久留米、等の藩士十五六名と会合。
9.14、江戸から来た小笠原謙吉と面会。この人は乾退助の手下で暴論家である、先日豊永が言ったところと少しも相違なし、と評し、(中略)
自分と真辺は今春老公が上京した時から、浪士の輩や勤王家の意に背け、交際もない、と書いている。
要するにその頃から、浪士や勤王家がどうなろうとわしゃ知らん、という態度だったと思われる。
小目付などを交えて会津などの藩士と会合しているのも気になる。
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 09:05:48.19 ID:Ajb3Fv+C0
個々の会合の目的や趣旨が龍馬暗殺計画と直接関係あるのか立証出来なければ説得力は皆無だな
裏付けが取れず場当たり的な主張に終始しているよう
先ずは、黒幕を辿るためには実行犯とされている面子の素性から割り出して行けばよいのではないか
政局を左右する暗殺計画なので実行犯は秘密がもれないよう全幅の信頼を置ける者が選ばれることになるだろう
身内なら好都合だし、実行犯のリーダーが他の共犯者の人選にあたり素性、思想背景、能力等を知りうる立場にあれば裏切り者は出にくい
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 16:46:40.02 ID:IuxhTmST0
鏡川伊一郎「月琴を弾く女」を読んだ。
氏のブログには書かれていないことも少しは書かれているので、少しは参考になる。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 17:39:18.53 ID:IuxhTmST0
「旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいた…」
今井の口書の「旧幕府では」という箇所に注意しよう。
つまり「閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいた」のは見廻組だけではないのである。
旧幕府のあらゆる組織が「閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいた」のである。
すると、今井の口書をそのまま素直に信用すれば、命令したのは、板倉、永井…あたりしか考えられないのである。
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 18:24:05.57 ID:aj7D6Pwj0
意図的に最有力容疑者の重職者・松平容保を省略しようという姑息さ
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 19:12:07.26 ID:D1URYC6j0
よく考えると、見廻り組がどこの配下か、などはどうでもいいのである。
見廻り組がどこの配下であろうと、龍馬暗殺に関しては「御差図」で動いたのである。
そして「旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいた」のであるが、
京都守護職は、閣老などの重職ではないが、見廻り組は京都守護職付属だから、その方面からの命令かもしれないが、よく分からない、という文意である。
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 19:36:21.75 ID:D1URYC6j0
今井の口書には、嘘と思われるものが3つある。
1 自分は見張り役だったと述べたこと。
2 渡辺一郎と世良敏郎の名を出さなかったこと。
3 命令者を永井だと知っていたのに知らないととぼけたこと。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 19:49:04.21 ID:D1URYC6j0
もう一つ、暗殺理由と、
「今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わない」
というのも嘘だろう。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 20:36:09.09 ID:aj7D6Pwj0
>>339-341 松平容保ファンの一連の書き込みは捏造ばかり。
>そして「旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいた」のであるが、
>京都守護職は、閣老などの重職ではないが、見廻り組は京都守護職付属だから、その方面からの命令かもしれないが、よく分からない、という文意である。
旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいたのであるが、
重職者の中では見廻組は京都守護職付属なのだから、京都守護職にして会津藩主の松平容保からの命令だろう。
がまともな現代語訳となる。「京都守護職は、閣老などの重職ではない」「その方面からの命令かもしれないが、よく分からない」と書く人間は一人もいない。
>今井の口書には、嘘と思われるものが3つある。
>1 自分は見張り役だったと述べたこと。
>2 渡辺一郎と世良敏郎の名を出さなかったこと。
>3 命令者を永井だと知っていたのに知らないととぼけたこと。
1.他の史料との整合性では、後の自ら討ち入って大活躍したという記述の方が眉唾、見張り役の方が正しい
2.生きている人間について言及しないのは当然
3.今井は命令者については、直接直接命令を受けたわけではないがおそらく松平容保であると名指ししている。永井云々は妄想の域
>もう一つ、暗殺理由と、
>「今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わない」
>というのも嘘だろう。
坂本の寺田屋事件の際は、奉行所も併せ数百名の捕り方が動員されている。
その点を考慮すると、七人、五人あるいは三人という見廻組佐々木只三郎の暗殺用人員選定では、最初から捕縛は考えていない。
佐々木只三郎にとって、最初から標的の部屋にいる人間を殺傷するのが目的だった。
その証拠には見廻組は、坂本・中岡と面会もしていないうちから藤吉にも斬りかかって惨殺している。
この点で松平容保オタクがこの発言を嘘とする理由が存在しない。
所属が守護下とはいえ「イコール」容保の指図になるとは「限りません」
元来が、浪人対策の上での組織だった新選組に比べ
見廻組は幕臣・御家人を中心とした組織、しかも直参「扱い」だった
しかも組TOPにはちゃんと「大名・又は旗本」な人物が拝命している
活躍の場が京なので、その京を任されている守護職の「下」になっただけとも言えるって話だ
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:05:38.69 ID:7TpHs4Pj0
あはは、容保先生はやっぱりアッポーですね。文章の読解力のなさが丸出しです。
先生のおっしゃる通り、暗殺団は最初から殺すつもりで侵入しています。だから、
「今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わない」 というのは嘘なのですよ。
公務執行ということにするための嘘なのですよ。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:18:39.21 ID:aj7D6Pwj0
>>344 >先生のおっしゃる通り、暗殺団は最初から殺すつもりで侵入しています。だから、
>「今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わない」 というのは嘘なのですよ。
>公務執行ということにするための嘘なのですよ。
松平容保愛護者は阿呆だ。
佐々木が公務と宣言しない限り、見廻組隊士には任務を遂行する理由がない。
つまり、どんな場合でも隊士へは公務と説明される。
今井がまったく別の陰謀や人情お涙頂戴話を聞かされるわけがないし、そんな高度な政治情勢判断を要する話に従う義務は隊士にはない。
松平容保偏愛者は、講談話ばかりを語って正しいつもりになっているが、そのような話では公務は動かない。
暗殺は演劇ではない。
>あはは、容保先生はやっぱりアッポーですね。文章の読解力のなさが丸出しです。
嘘をついたときは謝罪するのが人間の基本だが、松平容保自身もこの偏愛者も、嘘には更に嘘を重ねて生きている。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:29:03.90 ID:aj7D6Pwj0
つまり、通常なら「幕府に仇なす奴だから捕らえよ」が、佐々木から見廻組隊士の命令になる。
通常の場合は殺害という意味は含まない。
しかし坂本暗殺事件の場合は、「今回は取り逃がさないのが主目的なので、捕縛だが万一手に余る場合は討ち取っても構わない」
と今井は命令されたことになっている。これは、佐々木は最初から捕縛ではなく暗殺を意図しているということを示す文章なのだ。
松平容保偏愛者が講談に酔って、見廻組隊士が公務員であることを忘れているのは当に馬鹿の極みといえよう。
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:37:50.76 ID:v2zQR1o50
でもまぁ、あの時に龍馬は死んで幸せだろう。
あのまま生き残っても、末は政商でしょ。
汚職塗れで叩かれるだけだし。死んで美しい実績だけが残ったので英雄になった訳でw。
生き残った榎本武揚や勝海舟なんて福沢諭吉からボコスコ叩かれまくったんだしw。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:47:55.47 ID:7TpHs4Pj0
容保先生には何を言っても通じないのでこの辺でやめておきます。
永井説は引っ込めてもいいが、容保説だけは絶対に認めたくない男より。
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:58:48.30 ID:7TpHs4Pj0
わたしがこのスレに来てから、二か月以上が経過したと思う。
まったく白紙の状態から始めて、少しずつ勉強してきた。
中岡慎太郎は好きになれそうな気がしたが、龍馬はどうしても好きになれなかった。
しかし最近、龍馬の写真を見て、けっこう哀しそうな表情をしているなあ、と思うようになった。
豪快とかそういうイメージばかりで語られているが、静かな人だったという述懐もある。
ともあれ、少しは好感も持ててきたような気もする。
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 22:52:03.81 ID:aj7D6Pwj0
>>348 嘘をついたことを認めなさい。
あなたの説に正しい部分は、これまで一つもなかったのだから。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 23:08:10.32 ID:aj7D6Pwj0
その上、
>>342に示したように、あなたの話には意図的な捏造が多い。
慶喜公記を金科玉条のように掲げる割には、この中で会津藩が大政奉還に大反対したと記されていることには
全く無視を決め込む。
あなたの話に根拠があったためしがない。どれも文を一部抄訳ではなく全体で見れば別の意味になったり、
別の複数の史料との整合性がなかったり、見る人を騙そうとする意図に満ちている。あなたの話はあなた自身が信じていないだろう。
このような嘘でしか擁護できない松平容保は、政治家としてもどれほど卑劣だったのか考えればわかるだろうに。
それを板倉のせいにしたり、永井のせいにしたり、自らの責任まで全て徳川慶喜に押し付けた「京都守護職始末記」と同じ卑劣さがあなたの文にはある。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 00:08:54.34 ID:t3qO4WLmO
容保先生も、もうちょっと自分なりに推理すればいいのに。どうせただの歴史オタクなんだからさ
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 03:43:18.91 ID:krbaSM3q0
犯行現場が京都であるのに京都守護職を差し置いて暗殺が実行され得るのだろうか
もし幕府の指揮命令系統が硬直したものならなおさら困難だろう
大政奉還に否定的な見解を持つ容保は、慶喜公に従順な臣下ではなかった
幕府が一枚岩でなかったから江戸城明け渡し後に分裂したのだろう
いずれにせよ松平容保の関与は濃厚だと思うが
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 06:41:37.22 ID:lOhqGdm/O
迷ったらまず現場に戻れ。
現場第一!!
まずは現場検証からだ!!
そこから足跡を辿る。
こんな基礎も分からんこの板の住人はにわか。
明日報告するけんな!!
待っとれ!!
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 08:32:32.07 ID:xFsjMeT+0
今井の妻いわの口伝によると、当日の朝、桑名藩士といわれる渡辺某が自宅を訪れた…。
今井の口伝では当日召集されたのは口書と同じメンバーだった…。
これでみると、口伝でまで用意周到に参加メンバーをごまかすとは思えないから、
渡辺吉太郎は確かに参加していたと思われる。それと参加メンバーも口書通りである。
ただし渡辺一郎と世良はまだ生きていると思って、名を出さなかったのかもしれない。
そうすると参加メンバーは9人だったかもしれない。
近江屋の中に入ったのが7人で、外で2人が見張りしていた…。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 08:36:46.65 ID:xFsjMeT+0
土佐藩邸は塀で囲まれていたのだろうか。
それともどこからでも這入れたのか。
裏門があったのか。
本に載っている地図を見ると正門は東にあるように思えるのだが。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 08:56:38.07 ID:xFsjMeT+0
>>353 あなたも教科書的に物を考えすぎ。当時の命令系統としては、
守護職−所司代という系統と、
老中−大目付、若年寄−目付という系統が考えられる。
町奉行所がどちらの配下だったかは不明。通常は所司代配下だったが、
当時は老中が在京していたので、老中配下だったかもしれない。基本的には
京都町奉行は老中配下なのである。
そもそも見廻り組がどの配下だったかを研究している研究者がいるくらいだから、
見廻り組の実態は不明なのである。
守護職と所司代の関係もいいかげんなもので、当初は所司代は守護職の命令を聞かなかった。
その後も、動乱のような特別な場合を除いては、所司代は所司代で独立的に動いていた。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 09:12:15.82 ID:xFsjMeT+0
新選組だって、いちいち容保にお伺いを立ててから活動していたわけではあるまい。
そうであればこそ油小路の変の首謀者として永井の名が出たのである。
容保にお伺いを立ててからやったのなら永井の名が出るはずはない。
>>355 もしかすると、確かに佐々木に直に渡辺は「誘われた」と
がしかし、何らかの理由により
一緒に行動することが出来なくなったために
では「別の人物に」という意味で渡辺が今井を誘ったのかもしれない
360 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 16:05:48.08 ID:x9nU+cWJ0
698 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/09/13(火) 15:54:37.34 ID:JvZ3XeeI0
どこで聞いていいかわからないので、こちらでお聞きしますが、ちょっと知りたいことがあるので
明治維新のとき、(牛の肉を食わないのは野蛮人)(キリスト教が国教でないのは野蛮国)といった
人がいたそうですが、具体的な言い出しっぺの人間の名前はわかりますか
日本と欧米列強のどちらの国が、そういったのか
以前別スレで聞いたんですけど、具体的に誰が発言したのかと聞くと曖昧なんです
なんで知りたいかというと、クジライルカ論争とちっと関係していて
私は英文のホムペで、イルカを食うのは悪党だという西洋人にむかって
なんの生き物を殺すのは悪くて、何の生き物だったら殺してもいいのかの論争をするのに
どうしてもそれが知りたいんです
西洋人は、日本では明治維新まで牛を殺すのは悪徳だと考えていたの自体を
しらないみたいですけど、
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 16:11:31.73 ID:x9nU+cWJ0
699 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/09/13(火) 16:00:21.05 ID:JvZ3XeeI0
つまり、日本では長いこと、牛馬を殺すのは悪徳行為とされましたよね
西洋人は、黒船でつっこんできて、牛を食いたいから要求して、日本では食い物ではないと
いわれて、海外から輸入して日本で食べていた時期があったらしいんです
昔は、外人が増えると日本人に肉食の習慣がつくからと嫌ったらしいですね
てことは、日本人の観点からすれば、肉食常習者は賤しいと言う事になりますが
西洋では魚食う方が賤しいらしくて
日本人はイルカ食うじゃないかって怒るから
あんたたちだって牛だの馬だの日本人が食ったらいけないと思うものを
食っていたじゃないか、仏教国にきてまで、テメエが食いたいからって肉食したがった
くせにってドツイているところです
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 16:21:21.68 ID:x9nU+cWJ0
701 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/09/13(火) 16:11:21.52 ID:JvZ3XeeI0
ネット上でちらと調べたところでは、まだ日本で牛を食べたらいけないという
概念が強いころ、牛や豚のトサツ場を正式に東京に作ったのは、今老舗の洋食やを
やっているところらしいんです
外人と正式に付き合うことになったから、日本に外人が増えるだろうし
外人相手に肉食わしたら儲かるだろうと目をつけて、日本にも広がるだろうと
思ったら、最初嫌がられたらしいけど、あたったみたいで
で、外人きた直後から、(仏教やっていても国が栄えない)とか思った要人などが
いたそうで、仏教排斥運動みたいのが、連動して起きているんですよね
私、仏教すきなんで、いい話だと思えないんですけど、
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 16:32:29.12 ID:x9nU+cWJ0
702 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/09/13(火) 16:15:45.81 ID:JvZ3XeeI0 [5/6]
あと、しつこくてすみませんが、歴史知らないので教えてください
長い間、仏教が栄えていたのを、国学者などがうらんで、廃仏毀釈など
行ったらしいですが、長い間仏教が嫌いだったのに、仏教の上に立てなかったと
それが鎖国体制が終わったら急に神道が台頭したのは、
外国の介入があって、国が乱れたから便乗できたんですか?
連投すみません
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 17:08:33.46 ID:44P1R7in0
さて後藤が容保と面会したことはあるのかと調べてきた。
「慶喜公伝」p52に10月4日の記事として、後藤らが会津藩の外島らを招き、建白の顛末について伝え、
外島らは帰邸して容保に報告し、そのあとで藩議を開いたが議論まちまちで一決しなかった、とある。
それだけである。その後も面会した様子はない。
よく考えれば幕府や諸藩には遊説する必要があるだろうが、警察庁長官の容保に説明する必要はない。
ゆえに、寺田屋お登勢文書の、龍馬が、永井や容保に会って話はついているから安心してくだされ、と言ったという話は眉唾ものである。
偽文書とは言わないが、内容に嘘や誇張が混じっていると考えるべきである。
365 :
ヘボ:2011/09/13(火) 18:24:21.58 ID:eBb8Thdi0
>>363 良い話ですね。ここでは会津藩は佐幕派だ、佐幕派だ、容保は大政奉還に激怒し
ていた、などと、言っていた人が多いが、会津藩も割れてたのよ。
容保はみんなの意見を聞いていただけですよ。
この日は、慶喜と大政奉還については、菜奈氏がついていた。
家臣が越前藩などに奉還返還を叫んだから、容保も同じ
と見るのは。アホでは。
殿様と家臣は意外と割れてるからね。
容保黒幕説は、いずれにしても無いね。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 18:24:55.64 ID:/tH3wCqK0
>>358 >容保にお伺いを立ててからやったのなら永井の名が出るはずはない。
全く関係しない人間を首謀者扱いする噂が時に流れるのは、上の方にも例が示されております。
実際は誰がやったのか、伊東甲子太郎暗殺は近藤勇ら新撰組の犯行で、この上司は京都守護職松平容保でした。
坂本龍馬暗殺事件でも当初は新撰組暗殺説が主流で、この上司も松平容保です。
噂を根拠にするのなら、松平容保が犯人ということは余計不動になってしまいます。
尤も、それ以前に各種証言に証拠を比較検討する限り、松平容保が暗殺を命令したと考えてほぼ差し支えないと思われます。
>>364 >よく考えれば幕府や諸藩には遊説する必要があるだろうが、警察庁長官の容保に説明する必要はない。
根拠不明。京都守護職にして会津藩主の松平容保が藩主でないのなら、会津藩家老西郷頼母は養子に藩を潰されずに済んで安堵したでしょう。
そして、永井や容保に会って話はついているから安心してくだされ、という証言のうち永井への面会は他史料で確認できるのです。
松平容保とも面会をしていたと考えるのが通常でしょう。
逆に、その後の京都守護職始末記などで坂本龍馬へ関する記述が一切ないことについて、
成立が明治の終わりであることも考慮し、ある種の隠蔽や嘘・誇張が混入しているものと思われます。
同時代の板倉や永井、松平春嶽や尾張藩書簡などにも記載があるのに、松平容保の周辺が書いた文献にだけまるで言及がない。
しかも、手代木の他藩へ送った書簡などには坂本への言及かとも思われる怪しいものもあるのに。
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 18:52:02.26 ID:K6QWGYG50
>同時代の板倉や永井、松平春嶽や尾張藩書簡などにも記載があるのに
容保先生、それは本当ですか? 龍馬と容保が面会したという史料があるのですか?
あるなら具体的な資料名と日付を教えてください。
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:01:52.35 ID:K6QWGYG50
>よく考えれば幕府や諸藩には遊説する必要があるだろうが、警察庁長官の容保に説明する必要はない。
容保先生に説明してあげましょう。大政奉還という政治上の問題を警察庁長官に説明する必要はないということです。
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:02:51.62 ID:/tH3wCqK0
>>360-363 スレ違いです。しかしソースは提供しましょう。
明治政府のキリスト教受容策についての議論のソースは、大抵が「青木周蔵自伝」内からの引用です。
・伊藤俊輔(博文)が木戸孝允に「キリスト教を国教にしましょうよ」と言ったので私が不明を正した。伊藤は木戸閣下に怒られた。
・アメリカで条約改正をやろうとしたら、「キリスト教が国教でないなんて野蛮」と向こうに言われた。しかしそれは違うのだ。日本は文明国だ。
などということが書かれています。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:14:41.10 ID:/tH3wCqK0
>>367-368 また松平容保偏愛者は、部分引用で話を歪曲させようと狙う。
>その後の京都守護職始末記などで坂本龍馬へ関する記述が一切ないことについて
と前提を挙げているではないか。部分引用で誤読を誘う手法は、あなたの常套手段ですね。
>>368 >よく考えれば幕府や諸藩には遊説する必要があるだろうが、警察庁長官の容保に説明する必要はない。
根拠不明。京都守護職にして会津藩主の松平容保が藩主でないのなら、会津藩家老西郷頼母は養子に藩を潰されずに済んで安堵したでしょう。
現に土佐藩は会津藩へは大政奉還建白書の提出を通知しています。
京都の幕府重臣の松平容保は、坂本龍馬にとって最も大政奉還を説明すべき人物の一人ということになります。
その松平容保と面会したと坂本竜馬は証言している。しかもその証言の中には、他史料でも確認できる永井との面会への言及がある。
これは、この証言ではなくその後の会津藩側の史料に隠蔽が加えられたとするほうが順当でしょう。
実際は、松平容保は坂本龍馬と面会していると思われるわけです。
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:27:29.69 ID:K6QWGYG50
先生、あなたが
>同時代の板倉や永井、松平春嶽や尾張藩書簡などにも記載があるのに
と書いているから、わたしは、ではその具体的な資料名と日付を教えてくださいと書いたのですよ。
無いのですか? 無いなら無いと言ってください。
会津藩には10月4日に説明しています。わたしが言っているのは、
京都守護職としての容保には大政奉還という政治上の問題を説明する必要はないということです。
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:33:09.87 ID:/tH3wCqK0
>>371 龍馬に対する言及ですよ。
例えば板倉の部下が書いた公式記録には、大政奉還に関する扱いについての言及が数知れず存在しますよ。
永井についても越前藩の記録内に永井と併せて言及は多数、尾張藩に至っては大政奉還への言及と共に存在します。
>わたしが言っているのは、
>京都守護職としての容保には大政奉還という政治上の問題を説明する必要はないということです。
あなたはそう言っていません。>警察庁長官の容保に説明する必要はない。
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:38:59.99 ID:/tH3wCqK0
おっと、途中で発信してしまいました。
あなたは
>わたしが言っているのは、
>京都守護職としての容保には大政奉還という政治上の問題を説明する必要はないということです。
と言葉を変えて、京都の幕府重臣としての会津藩主・松平容保に、坂本龍馬が大政奉還への話をする必要がないと主張している。
実際は、後藤象二郎らも大政奉還建白書の提出を会津藩へ通知しています。
坂本龍馬も、永井と共に松平容保に会見したと言明している。そして永井への会見は確かに記録にある。
松平容保だけ会っていません、とする会津藩側の史料には疑問があるわけです。
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:44:07.62 ID:K6QWGYG50
なるほど、龍馬に関する言及ですか。
それが無いということは、要するに容保は龍馬に会っていないということですよ。
「京都守護職始末」に見廻り組の記事が一切ないのも、見廻り組の実際の指揮は京都守護職ではなかったということですよ。
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:52:31.04 ID:/tH3wCqK0
>よく考えれば幕府や諸藩には遊説する必要があるだろうが、警察庁長官の容保に説明する必要はない。
>ゆえに、寺田屋お登勢文書の、龍馬が、永井や容保に会って話はついているから安心してくだされ、と言ったという話は眉唾ものである。
>偽文書とは言わないが、内容に嘘や誇張が混じっていると考えるべきである。
ほら、松平容保ファンは京都における幕府重臣だった松平容保が、土佐藩から大政奉還建白書の提出を通知されているのに、
坂本龍馬が幕府重臣や諸藩藩主の一人である松平容保に面会する必要がないと主張している。
あなたは途中で話の論理を曲げている。幕府重臣や有力諸藩代表に会う必要があるのなら、松平容保にも遊説を行う必要があるでしょう。
そして永井に対しては確かに面会した記録があるのです。
上の文は、松平容保ファンの論理に従えば、こう書き直されるべきでしょう。
よく考えれば幕府や諸藩には遊説する必要があるので、幕府重臣の容保にも説明する必要がある。
ゆえに、寺田屋お登勢文書の、龍馬が、永井や容保に会って話はついているから安心してくだされ、と言ったという話が正しく、
面会などない、あるわけがないとする説は眉唾ものである。現に永井とは面会した記録があるのだから。
面会記録が全くない「京都守護職始末記」などは、偽文書とは言わないが、内容に嘘や誇張が混じっていると考えるべきである。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:52:50.62 ID:K6QWGYG50
何回でも説明してあげましょう。
会津藩には10月4日に説明しています。藩の重役が帰邸して容保に報告しています。
だから藩主の容保に説明したのと同じことですよ。
幕府や諸藩には大政奉還建白の顛末について説明する必要があります。だから会津藩にも説明したのです。それが10月4日です。
しかし京都守護職という警察庁長官には政治問題を説明する必要はないのですよ。
今でいえば、たとえばTPP問題とか沖縄基地移設問題を警察庁長官に説明したりしますか?
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 19:58:40.11 ID:K6QWGYG50
後藤は板倉や永井には説明していますよ。それは幕閣だからです。政府要人だからです。
しかし京都守護職というのは警察庁であって、政府ではないのです。
容保は警察庁長官であって、幕閣ではないのです。
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 20:02:26.42 ID:/tH3wCqK0
不明は糾しますよ。
あなたは、幕府重臣や有力諸藩代表に説明する必要があるとしながら、
その両方を兼ねる松平容保にだけは、大政奉還を説明する必要はないと主張した。
あなたの論理はおかしい。あなたの文の前段が正しいのなら後段は必ず間違っている。
そして、坂本龍馬は永井に面会した記録があるのですよ。並んで言及された松平容保にだけ面会がない、と主張するのには無理があります。
問題は、新撰組・見廻組・坂本龍馬などへの言及が、何故会津藩側の史料から蒸発したのかということでしょう。
幕末の会津藩の工作は、朝廷内へも含め言及できないものが多かったのだろう、と考えるより他ありません。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 20:07:06.42 ID:K6QWGYG50
「京都守護職始末記」には新選組に関する記述がちゃんと存在しますよ。
容保先生はときどき嘘をちょこっと混ぜて書くから、知らない人はつい騙されてしまいます。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 20:07:51.66 ID:/tH3wCqK0
>>377 >後藤は板倉や永井には説明していますよ。それは幕閣だからです。政府要人だからです。
>しかし京都守護職というのは警察庁であって、政府ではないのです。
>容保は警察庁長官であって、幕閣ではないのです。
ほう、京都守護職が幕閣ではないという主張は始めて聞きました。
実際は間違いなく幕府内の官職ですよ。参預会議にも出席する必要がないと。それなら島津久光は大喜びしたことでしょう。
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 20:15:05.39 ID:/tH3wCqK0
>>379 本来先刻承知していたはずの行動への記載がなかったりして、
抜け落ちた部分を作った理由と意図への興味の方が強い「史料」ですけどね。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 20:28:09.30 ID:t3qO4WLmO
めちゃくちゃだろ、それ。諸藩に説明して、会津藩には説明しなくていいって…
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 20:36:20.95 ID:/tH3wCqK0
京都守護職は、将軍後見職・政事総裁職と並んで、島津久光の江戸幕府恫喝と、その後の一橋派復権
(文久の幕政改革)によって誕生した江戸幕府内の役職です。
位置付けは当初ははっきりしませんでしたが、この地位に就くのを嫌った島津久光の代わりに松平容保が就任してから、
容保が徳川慶喜の腹心として京都の治安担当を行うに至り、京都で幕府とは半ば独立していた一会桑政権の
三人の主要閣僚の一人と位置づけられることになります。
また、徳川慶喜が将軍位に就いてからは一会桑政権が徳川幕府を飲み込む形となり、幕府の主要閣僚と位置付けられることになります。
>しかし京都守護職というのは警察庁であって、政府ではないのです。
>容保は警察庁長官であって、幕閣ではないのです。
京都守護職というのは京都の治安を預かる役であって、松平容保は徳川慶喜の腹心、一会桑政権の三人の主要閣僚の一人なのです。
容保は京都の警察庁長官であって、当時の幕閣の中心人物の一人なのです。
坂本龍馬が京都の幕府閣僚へ大政奉還の意義を説くに当たり、龍馬にとって松平容保はぜひ説得すべき人間であったことは間違いありません。
しかし、松平容保は大政奉還には激怒し、撤回を執拗に要求した。容保にとって大政奉還を説く坂本は許されざる存在だったことでしょう。
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:03:21.61 ID:t3qO4WLmO
お二人の議論は、動機の解明ですか? 暗殺現場の証言をしたのは、誰と誰ですか?
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:14:49.57 ID:nIiNMJGs0
容保がそれほど重要な人物なら、まず後藤が容保に直接面会して建白の顛末について説明するだろう。
ところがそういう記録が一切ない。
手順としてはまず後藤が容保と会談し、そのあとで龍馬が容保と会談する、これが普通だろう。
一介の浪人がいきなり土佐藩参政の後藤を飛び越えて会談するということはありえない。
ところが後藤が容保と会談したという記録はないのである。
ゆえに龍馬が容保と会ったというのは眉唾なのである。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:33:21.52 ID:nIiNMJGs0
>>384 なぜこんな議論をしているかというと、容保先生は龍馬暗殺の原因は大政奉還だと主張しているからである。
しかしそのためには、容保が、龍馬が大政奉還の鼓吹者だと知っていた、という前提が必要である。
もちろん知っていたかもしれない。しかし知らなかったかもしれないのである。
しかし永井は会談しているから龍馬の思想を確実に知っていた。ゆえに大政奉還が暗殺理由だとしたら、
まず永井を疑わなければならない。
ところが龍馬が容保と会談して自分の思想を述べていたとすると、
容保は龍馬の思想を知っていたことになるから、容保も疑わなければならない。
要するに、容保が、龍馬が大政奉還の鼓吹者だと知っていたかどうか、を議論しているのである、結局は。
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:38:37.59 ID:nIiNMJGs0
会ったこともなく、大政奉還の推進者であることも知らないような人物を、殺せと命ずるはずはないからね。
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:44:55.52 ID:/tH3wCqK0
>>385 後藤象二郎は会津藩を訪問し、大政奉還建白書を提出した旨通知しています。
そして坂本龍馬は永井及び松平容保と面会したと言明し、長居については記録が他の史料からも残っています。
ゆえに龍馬が容保と会ったというのは確実性が高いものです。
>>384 いえ、松平容保愛護の人が、坂本龍馬は大政奉還について幕閣及び諸藩に説明する必要があった、と書いているのに
次の行ではこの両者を兼ねる松平容保に対してだけは会う必要がないと主張しているのは、酷く不合理なんです。
嘘はいけませんし偽りを放置するのもよくないでしょう。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:51:41.16 ID:nIiNMJGs0
容保ちゃんの相手をするのはあほらしいからもうやめます。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 22:02:36.55 ID:t3qO4WLmO
でもさ、暗殺現場の証言がはっきりしてれば、こんな議論にならないのでは? なんで証言が食い違うのかを解明したほうが早くない?
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 22:05:44.86 ID:/tH3wCqK0
松平容保愛護の人が、坂本龍馬暗殺犯は松平容保とされており、
動機が容保の大政奉還への激怒と撤回要求にあるとされていることへ、感情的に掴みかかっているだけのことです。
最初は、松平容保は大政奉還を歓迎していたと「京都守護職始末記」を挙げて説明しようとしましたが、
この史料は他の史料と整合性がありません。
しかも他史料ではどれも、松平容保が大政奉還へ激怒していたこと、その後も執拗に撤回を要求していたことに言及があります。
この人がよく引用する慶喜公記ですら、会津藩も大反対であった旨の記述があるのですが、そこだけはこの人は引用を拒否します。
松平容保は大政奉還に激怒していたのです。
次に、手代木直衛門と松平容保が無関係だったと主張を始めたのですが、
会津藩公用方の手代木直衛門が会津藩主の命令に逆らっていたとするのには無理があり、ここでも彼は逃げました。
次に、大政奉還と坂本暗殺は関係ない、と主張を始めたのですが、それにしては後藤象二郎の会津藩への大政奉還建白書提出通知直後から、
会津藩預かりの新撰組と近藤勇の行動が胡散臭すぎるのです。この話題も松平容保にとって不都合だったのか彼は逃げました。
彼は犯人は松平容保ではないと主張を出しては、その主張を掘り下げると松平容保への嫌疑がより深まってゆくために放棄するという、
救いのない彷徨を行っています。
全ての試みで彼は失敗しています。
最近は嘘がばれると、相手の話が無意味だとかあほらしいとか勝手に宣言して議論を打ち切ろうとします。
この行動は不公正なだけでなく卑怯です。まるで松平容保本人の行動のようです。
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 22:18:37.37 ID:/tH3wCqK0
坂本龍馬及び中岡慎太郎暗殺時に被害に遭ったのは、この両名及び一階にいた護衛の藤吉です。
加害者の人数に差異があるのは、研究者によると
・実行者を二階に上がった見廻組の三人に限定し、一階で見張りをやった隊士を含めなかった
・証言当時生存していた人間への言及を、相手に迷惑をかけることを避けるために外した
・証言を重ねるうちに、最初は見張りと証言していたのに後には自尊心が昂じて自分が龍馬を斬ったことにしてしまった
など推論があり、その中で、実行犯は佐々木只三郎を指揮者とする見廻組隊士数名(7人〜3人)とする説が定説化したわけです。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 22:35:28.97 ID:nIiNMJGs0
さきほど「さかのぼり日本史」を見ていて、ふと思ったのだが、
暗殺命令を出したのは江戸在府の老中や若年寄ではあるまいか。
一応選択肢の一つに入れておこう。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 00:36:12.45 ID:wJZjeVCYO
定説はなんとなく知っています。それよりも、近江屋、峯吉、あと中岡の言葉を聞いた谷の証言が食い違うことに疑問を感じます。
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 08:30:46.69 ID:kyZP89VE0
近江屋の店主も暗殺にかんでるよ
死んでないのが証拠
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 08:43:41.79 ID:DabLBFLp0
今井がやったという証言はいくつかある(大石、西村、結城…)が、
桂、渡辺吉太郎、渡辺一郎、がやったという証言は一つもない。
とすればやはり、やったのは今井か…。
>>394 誰かが、あるいは誰もが嘘をついているからでしょう。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 08:49:29.89 ID:DabLBFLp0
近江屋は幕府と内通していた可能性があり、
峰吉は近江屋あるいは土佐藩から口止めされていた可能性があり、
谷は谷で真実を語っていない可能性がある。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 10:06:40.37 ID:wJZjeVCYO
近江屋が内通してたとして、なぜ嘘の証言をしなくてはならないのでしょうか?なぜ、峯吉は土佐に口止めされなければならないのでしょうか?
寺田屋が残って近江屋が「残らなかった」のはどういったものなのか?
単に子孫の営業努力が足りなかったのかw?
移築という方法も無きにしも非ずだったに思うし(現寺田屋がそう?)
ましてや、かの龍馬の「最後の地」なわけで
当時の行政は「何」も出来なかったのか?
私有地だからしゃ〜ないかもだが
なんか「簡単」にコンビニになっているよな気がしてなんだかなぁ〜と
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 14:17:44.82 ID:BCYddL/z0
容保が激怒したというのは、佐幕派の家臣、要人の手代木らが、各藩に
述べたことで、本人の激怒の証拠は無い。
容保は、ずっと慶喜のそばに居て、他藩の武士には意外と会っていない。
二条城にいた外は、側女といつも酒を飲んでいた。笑い。
それと、京都守護職は老中並みか、上ですよ。京都所司代の上は、老中
ですからね。
ここの人達は会津藩にも大政奉還に文句を言わなかった要人のことは
述べないで、一方的に佐幕派だと。
当時は、どの藩主も、バランス人事で、討幕でも佐幕派に転んでもよい、
どちらにも、転べるように多くの藩主は、家臣を配置してたのよ。
でなければ、明治維新など起こらなかったよ。
親藩の尾張や彦根藩だって王政復古時は朝廷側だよ。
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 14:25:14.49 ID:2NiVutYm0
容保なんて先生wwwの話で言うと、まだ龍馬という外部な人間を抹殺なわけだから
かわいいものじゃんw
容保の兄貴なんて「家臣」抹殺だぜwwww
(青松葉)
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 17:28:44.67 ID:A1XtcEbO0
さて菊地明編「京都守護職日誌」第四巻 慶応2年8月〜慶応3年8月の1年間について、
見廻り組がどこから指令・伝達を受けているかを調べてきた。いろんなところから受けている。
慶応2.9.12 守護職→見廻り役
9.15 老中板倉→見廻り役
12.19 若年寄京極→目付→見廻り役
慶応3.4.19 伝奏衆→所司代→見廻り組
8.26 所司代→見廻り組
8.27 所司代→見廻り組
ざっとこんなもの。注目すべきは若年寄京極→目付→見廻り役という例があること。
これで若年寄永井→目付→見廻り役という線がありうる傍証になる。
それから老中板倉から直接京都町奉行に伝達されている例が二つある。
それと慶応2.8.3に遊撃隊が大目付、目付の配下になっている。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 18:41:53.80 ID:ZuCj9jqb0
さて永井説を唱えてきたわたしにとっては不利な史料を見つけてしまった。
「十津川記事」によると慶応2.8.17に京都西町奉行滝川讃岐守が「肥後守ノ旨ヲ承ケ」深瀬仲麿を捕縛した。
その容疑は「…密に公卿、諸藩ノ間ニ周旋シ、薩長二藩ノ軋轢ヲ調停センコトヲ謀リシト云フニアリシト。」
さてこの深瀬仲麿だが、龍馬暗殺のときに十津川郷士と名乗った犯人が差し出した名刺に書かれていたのが、深瀬仲麿らしいのである。
すると、容保が、深瀬仲麿から龍馬の情報を得て、深瀬仲麿の名を利用して、暗殺に踏み切ったと考えられなくもない。
わたしにとっては不利な情報だが、一応紹介しておく。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 18:57:50.53 ID:bPDppDIg0
どっちにしろ佐幕派の命だろ
坂本龍馬と会って幕府のお為にならぬ危険な奴と認識したんだろう
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 21:53:55.14 ID:HGr073yL0
>>394 今井(維新直後) 家の人間が一階で騒いだので黙らせた。私は一階で見張り役だったが、二階には龍馬と他に二人いたらしい。
二階に上がった隊士に聞くと、龍馬は殺し他も斬ったが、龍馬でない方は死んだか特に確かめなかったとのこと。
今井(後年その1)私が龍馬と中岡を斬った。二階には坂本・中岡のほかに書生が三人いた。書生は屋根伝いに逃げていった。
今井(後年その2)私が龍馬と中岡を斬った。二階には坂本・中岡のほかに書生が二人と力士がいた。書生は逃げた、力士は斬った。
谷干城 殺された三人と近江屋関係者以外に店の中にはいなかった。書生などはいない。
近江屋 家には殺された三人と近江屋関係者がいた。一階には護衛の藤吉(力士)、二階には近江屋の小僧が三人いた。
峰吉 私は軍鶏肉を買いに行ったのでその場にいなかった。私が帰って二階に上がったとき龍馬は部屋で死亡しており、
中岡は隣家の屋根にいたので部屋に運び入れた。事件後馬を飛ばして陸援隊へ報告した。
渡辺篤(その1) 坂本龍馬は自分が殺害した。家には一人少年がいたが幼いので放置した。
渡辺篤(その2) 坂本龍馬は自分が殺害した。坂本の他に五〜六名いたがみんな斬った。
それで、翌朝の近江屋の状況は
一階に藤吉、二階に坂本龍馬と中岡慎太郎が倒れていた。坂本龍馬は死亡が確認された。藤吉は翌日死亡、中岡は証言を残したが翌々日に死亡。
他に死体などはない。
よって、事件当時の近江屋内の家人たちの行動は、
峰吉 :在一階→逃亡、後帰宅して状況を知り陸援隊へ通報
藤吉 :在一階→斬殺、最初の犠牲者
近江屋 :在一階→拘束
近江屋の小僧三人:二階の部屋に滞在→逃亡(屋根伝いか?)
坂本・中岡:二階の部屋に滞在→斬殺
ということになる。書生とは小僧を見誤ったものだろう。
見廻組や新撰組は、昼夜、京都市中を練り歩いていたんだろ。
そんなやつらが、何で「少年」を放置したり、「書生」を逃したりしたんだろ。
>>404 GJ!
永井尚志単独首謀犯説でさえ新選組犯行説は容易になり立ってしまうのだが、
やぱり暗殺犯は松平容保〜新選組が最も妥当か。当然、某諸侯〜見廻組説は偽装工作ね。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 22:43:38.51 ID:PMk2pzjC0
「見廻組という組織は老中の支配下にあって、行動に逸脱がないように誓約書まで取っていた」
鏡川伊一郎氏のブログに氏の文章として書いてあったのだが、これを裏付ける資料はあるのだろうか。
>>408 褒めてくれたのはありがたいが、新選組説はどうもねwww
俺の手柄だあああ!!!
って吹いて回りたくなるんじゃない?
新撰組なら。
>>410 もし真の下手人だったら、あんな卑怯な不意打ち、自慢したら最後、武士としての名折れp
真の下手人の場合、吹聴したくても吹聴できない不名誉以外の何ものでもない。
>>411 鴨さんは愛人と共に「寄ってたかって」
伊東はべろべろに酔わしただろ?近藤さんがw
その伊東さんの遺骸を「そのまま」におびき寄せた新選組の元同士なみなさんww
清河は正面から挨拶して、別のやつが「後ろ」からバッサリ!!wで惜しく止めは正面からグサッ!と佐々木さんww
不名誉なら今井さんも渡辺さんも「武士の名折れ」なワケですね(笑)
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 09:07:35.16 ID:U9vSPpEE0
慶応2年(1866)8月29日夜、十津川郷士中の井庄五郎、前岡力雄、深沢仲麿らは、長州藩を非難する高札を抜き取り文字を墨で塗りつぶし、鴨川ヘ投げ捨てました。
この深沢仲麿というのは深瀬仲麿とは別人か。深瀬仲麿が拘囚されたのは8月17日だが。
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 09:13:37.72 ID:U9vSPpEE0
田中光顕日記の慶応3年6月11日。
「石川(中岡)の旅宿に至り十津川の士吉田俊雄、深瀬仲麿、芸州藩小林柔吉の三士に逢ふ。…」
深瀬仲麿はこの頃にはすでに釈放されていたのか…。
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 09:35:34.10 ID:U9vSPpEE0
413の記事の出所は西村兼文の「新選組始末記」だろうから、西村兼文が深瀬仲麿を深沢仲麿と誤表記した疑いがある。
とすれば深瀬仲麿は8月29日頃には既に釈放されていた可能性がある。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 09:37:35.41 ID:U9vSPpEE0
名前が使われた、とこの秘話を明かしたのは深瀬仲磨のご子孫で、緒方洪庵顕彰の立派な適塾会報の冊子に載りました。
この子孫の書いたものは信用できるのか。
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 09:51:09.63 ID:tMONJQhVO
中の井庄五郎は、天満屋で死んだ陸援隊の中井庄五郎?
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 16:54:58.87 ID:KS0oIuw+0
平凡社「日本人名大事典」によると深瀬仲磨は
慶応元年に幕吏に捕らえられ、殆ど二年間獄中にあり、明治維新により赦されて出獄したとある。
すると龍馬暗殺のときは獄中にあったわけで、中岡は深瀬が獄中にあることは知っていただろうから、すぐに変だと気付くはずだが。
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 16:58:50.76 ID:KS0oIuw+0
三条制札事件で捕らえられた中井の処遇が決まり
中岡が一任されていたので、その件で近江屋にて連絡を待っていた
その際に「深瀬」の名(札)が使われた・・・・・・か?
・・・て話だと、一つ問題が
仮に上記な件な場合、つまり中岡は「近江屋」にいることを
どこか(土佐藩邸?)に伝えていた可能性もある
でなければ定宿ではない近江屋に連絡は「来るはずも無く」
・・・と思ったが、白川に伝えていれば「なんてことない」かww
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 18:03:57.69 ID:UUpFb7Sx0
新撰組始末記とか慶喜公伝とかは一級資料ではないから
使い方に気をつけないとね。
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 18:47:27.45 ID:tMONJQhVO
中井が天満屋で斬死したので、海援隊が首だけもって帰る途中に、重いから井戸に捨てたって話を聞いたことがある。
普通、味方の首を井戸に捨てる?
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 08:38:46.32 ID:CgM3HB0c0
渡辺篤の文書では最初から坂本と中岡の二人を標的にしていた様子がある。
すると中岡が必ず龍馬のいる近江屋に立ち寄るように仕向けた人間がいるはずだ。それは誰か。
清河はなぜ暗殺されたのだろう。なにも殺すことまでしなくてもいいと思うのだが。
黒幕として老中の板倉と老中格の小笠原の名が上がっているらしいが、
では龍馬暗殺の真の黒幕も老中か。永井(や容保)は命令を伝えただけか。
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 09:43:14.67 ID:CgM3HB0c0
宮川の釈放が、中岡を誘い出すための罠だったとしたら、京都町奉行所に、宮川を釈放せよと命じた人物がいるはずである。
京都町奉行は所司代(守護職)あるいは老中配下だから、その命令を出せるのは定敬(容保)か板倉。
となると永井の線は消えるわけだが、永井から所司代あるいは町奉行所に命令は出せないのだろうか。
ふにゃ〜宮川と中井を混同してたゼヨww
そういや、竜馬・中岡を検視した土佐藩医がいたらしいけど・・・・
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 23:54:32.10 ID:BQ5DMmIl0
松平主税助が絡んではいないだろうか。佐々木只三郎の講武所時代の上司で、佐々木に清河暗殺を伝えたともされている。
清河暗殺の翌日に浪士取扱に復職しているのも変だ。海援隊に入っていた幕府のスパイ佐々木多聞の密書の宛先が松平主税助家内の岡又蔵。
多聞が龍馬の将軍討伐計画を松平主税助に報告→松平主税助が老中小笠原長行に報告→小笠原長行が遊撃隊頭取桃井春蔵に報告→
桃井春蔵11月9日入京→在京幕閣に報告→幕閣(板倉、永井、容保、定敬)、龍馬暗殺を決意…。
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 00:44:30.70 ID:6BXJ70yI0
>>426 佐々木多門を未だにスパイ扱いするあたり、永井ガーは妄想が解けていませんなあ
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 09:31:48.63 ID:hJ5chFc70
>>270を読んでもまだ佐々木多門をスパイとは思わないなんて、427の人はよっぽど頭がどうかしてるね。
佐々木多門がスパイではないというのなら、その根拠を挙げてほしいね。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 09:44:29.35 ID:j13Xh3nBO
スパイでない説明はしてもらっただろ?お前は他人の個人ブログでも読んで妄想してろよ
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 12:09:21.09 ID:0kbdjR5w0
>>426
これは面白いと思うよ。佐々木多聞という名前が良いね。
佐々木只三郎の親せき筋の旗本ということも考えられる。
どうでしょう、この親戚関係というのは??
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 12:33:05.97 ID:7584OKgFO
佐々木家によい年齢の近親がいたなら、手代木家から只三郎を養子に取ったりしないわけで。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 12:51:05.72 ID:EyZ0zxQx0
>>429 お前のようなバカの書き込みを見るくらいなら、鏡川伊一郎のブログを読むほうが百倍もまし。
>>431 すぐ否定するんじゃなくて、いろいろ想像しろよ。
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 13:01:20.74 ID:EyZ0zxQx0
>>429 えらそうに言うなら自分で説明して見ろ。このスレの読者全員が納得できるように。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 13:19:25.85 ID:7584OKgFO
>>270は、否定されて永井ガーが反論できなかった阿呆話なので、
スパイ扱いすることは不可能です。
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 13:24:05.48 ID:7584OKgFO
反論出来たならともかく、反論不能になって逃げ出した話を後で繰り返す永井ガーのは馬鹿の行動だ。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 19:32:29.71 ID:iU1ugMpE0
434 435は無視することにして、
深瀬が捕縛されたのは8月17日。その頃は長州征伐も幕府の敗北が決定的になっていた。
そんな頃に、薩長の間を周旋したというような容疑で捕縛しても仕方がないと思うのだが。
そもそもその程度の容疑で捕縛できるのか。
深瀬の捕縛は、裏に何か別の意図があったのでは?
多門〜岡への書簡が「これだけ」なんでなんともしがたいw
海援隊士であれば「酢屋」経由で書簡をって場合もあるのだろうが
この場合は近江屋を経由しようとした
封書には「十九日」と書いてあるそうだから、事後に多門自身が近江屋に滞在し
「ついでに」その書簡を手配してくれと頼んだかもしれない
ただ、差出人が「近江屋」なので、これをどう解釈していいのかがねw
事後、京に居た隊士らが、龍馬らを偲んで「現場」にて何か会合でもしていたかもしれないし
その中の一人が多門だった
その時にささっと手紙を書きとめ「これ江戸に出しといて〜」と
宛先聞いたはいいが、「・・・・はて、書いた人間は誰でしたっけ?」とかww
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 19:58:28.84 ID:iU1ugMpE0
慶応3年4月11日に松平定敬に対して、
殿中に於いては老中同様に勤務するようにという達しが出ている。
殿中というのは二条城のことか。要するに殿中に於いては老中として扱われるということである。
ということは定敬も幕閣に含まれることになる。
ということは今井の口書の「閣老などの重職」には定敬も入れておかなければならないか?
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 20:49:34.30 ID:6BXJ70yI0
>>436 無視よりは、永井ガーは根拠のないことを喋ったことについて恥じるべきでしょうね。
>>281で結論が付いて永井ガーが逃亡し、以後相手がいなくなったところで話を蒸し返し、
相手が再び現れると逃げるだけで質問を受けると無視する、という馬鹿な対応を永井ガー=松平容保偏愛者はしているのだから。
あと、今井の「御指図とは幕府重職者の意思を意味した。見廻組は京都守護職配下だったのでこの場合は松平容保の命令だろう」
に個人名まきちんとで書いてあるのですが、松平容保、と。
「だろう」だろw?
それを言えば手代木さんの私本では「桑名候」だぜ??ww
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:06:21.54 ID:6BXJ70yI0
それは、「筆者(新聞記者)が判断したところ、手代木老の言葉でいう某諸侯とは
桑名藩の松平定敬のことであって、断じて松平容保候ではない」であって、本人の判断じゃないと結論が出たはずですが?
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:17:49.13 ID:8IvPi14O0
わたしは逃げたのではなくて、容保先生や434 435と話すのはあほらしいからやめただけである。
それはさておき面白い事実を見つけた。
永井は龍馬暗殺のちょうど一か月後の12月15日に若年寄に昇進している! 龍馬暗殺のご褒美か!?
尤も同日に大河内正質が若年寄から老中格に昇進しているから、あまり関係はなさそうだが…。
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:21:42.37 ID:6BXJ70yI0
今井の言う、坂本暗殺命令を出した「重職者」とは、「御指図を出せる立場の旧幕府内のえらい人間」という意味でしかなく、
幕閣か否かが問題とはならない。
当時の京都における旧幕府の組織は入り乱れていたが、
頂点に旧将軍の徳川慶喜、次に筆頭老中にして京都赴任中の板倉勝静、若年寄格の永井尚志、
京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬、見廻役の小笠原弥八郎(6月就任12月病気辞任につき影が薄い)あたりは
職権として御指図を出せるので、当然今井の呼ぶ「重職者」の定義の中に入ってくる。
しかし今井は、見廻組が京都守護職配下であったことからこの御指図は松平容保の命令だろう、といっている。
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:26:09.13 ID:6BXJ70yI0
>>442 >わたしは逃げたのではなくて、容保先生や434 435と話すのはあほらしいからやめただけである。
>>281に反論の出来ないことを「あほらしい」といい、他人が忘れた頃に根拠のないことを繰り返すのなら、
松平容保偏愛おじさんは、本当の痴呆症なのだと考えるしかない。ボケ老人が飯を食わせてもらえないと言って騒ぐのと同じ。
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:30:11.53 ID:8IvPi14O0
容保先生、嘘は書かないでください。
>この御指図は松平容保の命令だろう
などと今井は述べていません。原文をよく読み、その文意とニュアンスをよく理解しましょう。
容保が幕閣であるかないかはどうでもよいのです。肝心なのは、
今井は容保は幕閣であるとは認識していないということです。
今井の口書の原文をよく読んでください。
そうすればそのことが分かるでしょう。それが分らないとすれば、
あなたは文章の読解力がないのです。
>>441 「怪しいよ」といいたかっただけなのだがw
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:37:29.22 ID:6BXJ70yI0
>>445 >容保先生、嘘は書かないでください。
>>この御指図は松平容保の命令だろう
>などと今井は述べていません。原文をよく読み、その文意とニュアンスをよく理解しましょう。
いいえ、今井はこう述べています。あなたの解釈の方が一般的ではなく、異常です。
この文についての松平容保偏愛者の解釈が異常であることについては前も話題になり、
松平容保偏愛者はこの一件でも逃げました。(
>>342)
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:41:02.89 ID:6BXJ70yI0
>>445 >容保が幕閣であるかないかはどうでもよいのです。肝心なのは、
>今井は容保は幕閣であるとは認識していないということです。
>今井の口書の原文をよく読んでください。
>そうすればそのことが分かるでしょう。それが分らないとすれば、
>あなたは文章の読解力がないのです。
全てにおいて全く根拠なし。ゴミ認定せざるを得ません。あなたの悪い部分が出た文章です。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:57:15.27 ID:8IvPi14O0
あはは、先生は…いや、やめとこう、先生だけじゃないな…
>>270を読んでも佐々木多門はスパイではないと考えるのは十人に一人だろう。
実行犯は新選組と考えるのも十人に一人。
今井の口書を読んで先生のように解釈するのも十人に一人。
そういう人を変人奇人という。いや正しくは○○という。
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:09:39.88 ID:6BXJ70yI0
>>449 むしろ
>>270,281を読んで、佐々木多門はスパイであると考える人間がいたなら異常でしょう。
現にあなたは反論も出来ずに逃亡し、「議論も反論もできないけどスパイ、そういうことにしろ、論理は皆無だし根拠もないが」、
と主張するだけなのですから。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:11:29.13 ID:6BXJ70yI0
>>449 >今井の口書を読んで先生のように解釈するのも十人に一人。
これも不合理ですね。今井の言うところでは、御指図を出した命令者は松平容保も含んでいるのですから。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:18:22.43 ID:8IvPi14O0
容保先生や新選組ガー君、このスレは女の人も読んでるのだから、
あんまりバカなことを書くと笑われますよ。
(男ってなんでこんなにバカなのかしら…)ってね。
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:24:39.72 ID:6BXJ70yI0
>>449 >今井の口書の原文をよく読んでください。
>そうすればそのことが分かるでしょう。それが分らないとすれば、
>あなたは文章の読解力がないのです。
再度掲載しましょう。
あなたは松平容保が犯人でないと言い張るために、文章に無理な解釈を勝手に与えて松平容保は関係ないと言っている。
実際は今井の証言では御指図は松平容保を含む。
それにしても、松平容保偏愛者はここまで文章の解釈ができない人間なのだろうか。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:26:25.73 ID:j13Xh3nBO
だから、もう永井ガーは個人ブログ読んで、知った気になってろよ。小松と鏡川まぜこぜにして喜んでればいいよ
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:48:49.30 ID:8IvPi14O0
先生、では説明してあげましょう。
今井は永井から命令を受けていた。しかし永井は同じ獄につながれているので永井の名を出すわけにはいかない。
そこで、閣老などの重職者からの命令を御指図と呼んでいたので、その辺りからの命令だろうか、と言った。
しかし幕閣なら人間は限られてくる。板倉と永井しかいないからである。そこでさらにあいまいにするために、
(容保は幕閣ではないが)あるいは見廻り組は京都守護職付属なので、松平容保様からの命令なのか、よく知りません、と言ったのである。
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 23:01:35.62 ID:8IvPi14O0
とにかくここの人間は頭が悪すぎる。平均的な知性の人間、百人を連れてきて
>>270の記事を読ませて、
それでも佐々木多門はスパイではないと考える人間がはたしてどれくらいいるだろうか。
中にはバカもいるから一人や二人はいるだろうが、残りの九十八人は佐々木はスパイだと考えるだろう。
このスレの常連はたぶん十人未満だ。それなのに佐々木多門はスパイではないと考えている者が少なくとも二人もいる。
ここはバカの集まりである。まともなのはヘボさんくらいかな。あとは話にならない。
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 23:11:40.26 ID:j13Xh3nBO
個人ブログ丸写しが何言ってんだか…影響されすぎだよ、あんた
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 23:14:29.92 ID:6BXJ70yI0
>>456 なら
>>281を説明して御覧なさい。佐々木多門をスパイと考えるのには無理があるし、彼に関してはあれ以外の史料はない。
はっきり言って、あの手紙は通常の近親者への手紙内容を逸脱するものではない。
昔、薩摩陰謀説の人間が細切れに偏見をてんこ盛りにしながら紹介しただけで、あの手紙にやましい部分は見られない。
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 23:46:32.20 ID:6BXJ70yI0
佐々木多門の手紙その一
「・・・・・・才谷殺害人、姓名まで相分かり、是に付き薩藩の処置など種々愉快の義これあり、いずれ後便書取り申上ぐべきと存じ奉候」
これに対する自称研究者(薩摩陰謀説)の意見
・薩摩が暗殺犯人の癖に他人が犯人なんて言っているから、正義の味方の佐々木多門が嘲笑っているのさ、
え?なぜ佐々木多門が薩摩が犯人と知っているのかって? それは薩摩は犯人だから犯人なんだよ!
某小説家の意見
・薩摩が暗殺犯人を見つけたと言っているのを、真犯人を知っている佐々木多門が嘲笑っているのさ、
え?なぜ佐々木多門が真犯人を知っているのかって? それは佐々木多門が犯人の一味なんだよ!
大多数の意見
・薩摩が坂本暗殺犯を見つけたと言っているのを、これで暗殺への報復ができると海援隊隊士の立場から喜んでいるのさ
自称研究者の意見は議論にも値しないとして、某小説家の意見も酷い。
だいたい薩摩が当時追及していた新撰組及び近藤勇は、この時点で極めて不審な行動を重ねており、これは坂本暗殺と関連があった可能性が高い。
隊士の大石からは、「近藤勇が佐々木只三郎に、『坂本龍馬暗殺の御首尾お見事でした』と言っているのを聞いた」と証言があるように、
新撰組からすら追及を受けると真実が漏れる危険があった。笑っている場合じゃない。現に後に近藤は捕縛された。
谷干城が直ちに近藤勇を処刑しなければ、後に近藤勇自身から佐々木只三郎や近藤勇に命令を飛ばした人物について証言が得られただろう。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 00:32:56.30 ID:4gCPzfp+0
>>455,456
要するに、新撰組犯行説は見廻組犯行説に極めて類似しており、どちらも松平容保を上司とする旧幕府内の組織の犯行であるため、
どちらの説で追求が進んでも、松平容保にとっては笑い事では済まされない。
旧幕府側で犯行の隠蔽があった場合も、見廻組の代わりに新撰組犯行説が主流になってしまえば、隠蔽した意味がない。
意味があったとするなら、処刑された近藤勇や大石ら新撰組隊士の代わりに明治に生きた、今井や渡辺程度のものだろう。
スパイなら、暗殺事件直後から薩摩が追求していた新撰組犯行説を笑えない。ゆえに、
佐々木多門の手紙その一
「・・・・・・才谷殺害人、姓名まで相分かり、是に付き薩藩の処置など種々愉快の義これあり、いずれ後便書取り申上ぐべきと存じ奉候」
で佐々木をスパイと判断するのはありえないんだよ。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 00:46:58.35 ID:4gCPzfp+0
>>455 >容保は幕閣ではないが
そんな言及はありませんし、語間からもそのようなものは出てきません。
あなたは妄想が過ぎます。
唐津侯(老中・小笠原長行)より登 営之命あり、板(老中・板倉勝静)、唐(小笠原長行)両閣老
小野権(会津藩士・小野権之丞)、一同謁見、坂下良馬潜匿之一条、薩人之謀略等密々下問
慶応2年の段階にて、肥後藩士・上田某の日記に書いてある通り
幕閣(老中)には薩長・龍馬の詳細は知られていた
別段永井を「出す」までもないと思うが?
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 07:37:57.69 ID:Wx6betEC0
話しなげえよ 読む気しねえし
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 09:44:01.78 ID:sFxOcbwg0
>>462 なるほど、たしかにその通りではある。最近はわたしも、永井とか容保が勝手にやったのではなく、幕府全体の合議ではないかと思うようになった。
具体的には板倉、永井、容保、定敬、このあたりである。しかしそれなら、暗殺までしなくとも捕縛だけでいいだろうという疑問も残るのだが。
仮に最大の容疑が将軍討伐を企てたことであったとしても、いきなり暗殺することはないだろうと。
それと後年、新聞記者?が龍馬暗殺について旧幕府関係者に聞きまわったとき、誰も知らなくて、
大鳥だけが知っていたという話があるから、旧幕府内でも厳重に秘密とされ、一部の関係者以外は知らなかったと思われる。
それほど統制されていたということは、老中などの幕府上層部が関与しているのではあるまいか。
いずれにせよ、永井や容保の独断というのは、やや苦しい説かもしれない。
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 09:56:42.72 ID:sFxOcbwg0
さてあいかわらず佐々木スパイ説を信用していない人がいるので、佐々木スパイ説の根拠を書いておきます。
1 差出人が本人ではなく近江屋新助となっている。
2 幕府旗本の家来に宛てて書かれたものである。
3 文中に「この節は、わたしはどこからも嫌疑はかけられていないので心配しないでほしい。といって決して油断はしていないから、ご安心ください」と書かれている。
以上の理由によりわたしは佐々木は幕府のスパイであると考える。もちろんそう考えない人がいてもいい。
とにかくこの件に関してはこれ以上議論しようとは思わない。
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 10:18:02.12 ID:sFxOcbwg0
それと
>>456で、ここの皆さんに侮蔑的なことを書いたことを反省しております。
まあ、人間、たまには切れるときもあります。大目に見ていただきたい。
佐々木多門は一応「海援隊士」なわけです。そして隊長の龍馬が殺られたばかりです
遠く江戸にある身内?な岡は心配でたまりませんw
もしかして多門も「幕府から狙われている」のではないかと・・・・
それに対して多門は「大丈夫〜追手は来てないよwでも油断できないけどねww」な手紙を書いた・・・・とも考えられると
あと差出人の件ですが、仮に近江屋がスパイであるならば
封書を「まんま」残しておくことは後々不具合を起こす可能性もあった思います
何故なら、送り先・送り手等が「書いてある」わけですから
それならば、「それら」を処分して中身「だけ」を残すか
あて先「のみ」の封を偽装?して手紙を包む等等出来たに思いますが
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:20:05.20 ID:Vr1qOXZFO
>>465,466
相変わらず根拠がない。
どれも以前の議論で否定されている。
罵倒で相手を屈服させたと思い込むのは、あなたの人格上の問題でしかない。
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:31:03.44 ID:Vr1qOXZFO
>>464 大政奉還という路線と、土佐藩や有力諸侯と敵対する坂本暗殺は、両立しないことに留意すべきでしょうね。
あなたが「そればかりを問うな」しか言えないこの問題で、
板倉や永井は大政奉還に積極的で、
強硬に反対したのが松平容保らであったということについても記しておきましょう。
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:49:02.69 ID:Vr1qOXZFO
>>465 回答できないことを無視して、種々の議論から既に否定されたことを繰り返すのはデマゴーグに過ぎません。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 21:18:38.64 ID:uXOxrF+60
容保ちゃんはあいかわらず暗殺理由は大政奉還だと信じきっているようだが、はたしてそうだろうか。
今井の口書を読んでみよう。まず兵部省では、
1 不軌を謀った。
2 それで捕縛しようとしたが、逃げられたので今度こそは捕縛するためにやった。
次に刑部省では
1 不審の筋がある。
2 幕吏を撃ち倒し逃走したので今度こそは捕縛するためにやった。
3 ただし龍馬が幕府にとってどのような不審ある者かは知らない。
捕縛理由については述べているが、暗殺理由については述べていない。
不軌、不審、の内容は知らないと述べている。はたして本当に知らなかったのか。(つづく)
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 21:33:41.65 ID:uXOxrF+60
わたしは今井は暗殺理由を知っていたと思う。しかもそれを正直に話したと思う。
しかし、取り調べたのは土佐藩士だが、それを書けなかったのである。なぜか。
暗殺理由が将軍討伐を企てたことだからである。
それは龍馬のイメージを悪くするだけでなく、土佐のイメージを悪くする。
それで佐々木高行らと今井は裏取引をしたのである。真の暗殺理由を書かない代わりに、犯行を公務執行にする、と。
不軌というのは辞典で調べると、反乱、謀叛などを企てること、とある。
まさに将軍討伐は不軌にぴったり当てはまる。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 22:50:56.62 ID:4gCPzfp+0
反論できないことについては馬鹿にするだけで、絶対に反論を試みようとしない永井ガーの不実については、
昔から変らぬことでもあるし、彼の人格上の欠陥なのだから、他人が修正するにしても無理な部分もある。
松平容保礼賛者=永井ガーは先天性の痴呆なんだよ。嘘を駆使して指摘は全て中傷で返す。
>>471でも
>>472でも、反論の形式を最初は見せるが、その後は妄想に逃避するだけで形になっていない。
嘘をつく人間は松平容保に心酔してしまう、という構図がここにある。
>>445,449,452のように、自説が崩壊したことへ、他人への中傷で返すような人間なのだから。
>>492 妄想ですな。坂本も中岡も、将軍を殺すと言って憚らない存在だったからこそ、尊王攘夷派の中で生命を保った。
両名共に、幕府転覆話を息をするように吐く過激派であったことは当時の書簡からも明らかです。
しかし、大政奉還を行う以上、徳川慶喜・板倉・永井らには土佐藩や有力諸侯を味方にする必要があった。
大政奉還と坂本暗殺は相容れない。京都の幕府指導部内から暗殺命令が出たとするなら、
大政奉還に強硬に反対していた松平容保らを暗殺命令者と考えることになるでしょう。
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:05:13.16 ID:4gCPzfp+0
>>472 幕府を倒せと騒ぐだけで、実際は民家への強盗をやっていたような集団(例 天誅組)が維新後顕彰されているのに、
将軍誅殺計画や幕府転覆計画が軍功扱いされないわけがない。
坂本龍馬の場合、はっきりしない朝鮮半島進出談が明治以降は過大に取り上げられ、
朝鮮半島進出(侵略)の先駆者として戦前は強い支持があった。
将軍誅殺計画や幕府転覆計画など、明治の新政府にとっては顕彰対象そのものだ。
>それは龍馬のイメージを悪くするだけでなく、土佐のイメージを悪くする。
あなたは江戸幕府の権威が、明治以降も保たれていたと勘違いしている。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:20:32.48 ID:j8dTM+VP0
大政奉還に対する認識の違いがそもそもある。
薩長→上手く実にもって行き出来る限り新政府強化。
龍馬中岡→薩長と同じ。
諸藩→薩長と幕府の中間。
佐幕→形式だけで再任リセット幕府存続。
慶喜→出来るだけ良い条件で新政府入り。
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:34:53.53 ID:uXOxrF+60
>将軍誅殺計画や幕府転覆計画など、明治の新政府にとっては顕彰対象そのものだ
先生、それは極端な論ではないかと。今井が自供したのは明治3年ですよ。
その頃はまだ、将軍討伐を計画していた、というのは世間には憚られることでしょう。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:45:58.45 ID:j8dTM+VP0
>>474 政変が起きたから強盗になったんだよ。
政変がなかったらまさに栄誉ある天皇の軍隊の先鋒になった。
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:51:30.90 ID:uXOxrF+60
土佐藩は幕府のために大政奉還を建白したのに、その土佐藩の浪人が将軍討伐を計画していたとバレれば、
「なんだ、土佐の奴ら、最初から幕府転覆を狙ってやがったのだな、ひでえ奴らだ」ということになってしまう。
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 00:27:27.08 ID:sP1xObyM0
>>475 大政奉還以前から薩長側には、
幕府勢力の影響力をなるべく低下させようとする意図があったことは否めない。
大政奉還が諸侯に与えた政権参加という餌は、それまで政権を担っていた会桑と、
大政奉還による政権参加を欲した有力諸侯との、次の権力をめぐる争いという形で対立を激化させた。
(例 徳川慶勝による松平容保・松平定敬への帰国引退勧告)
そのため薩摩はこれを積極的に煽って、尾張・越前・土佐・安芸などの兵と共に、会桑を朝廷警護から追い出してしまった。
これが王政復古。それと同時に、徳川慶喜の官位と領地についても朝廷に返上するよう要求した。
会桑は有力諸侯らに信用されていなかったし、会桑は大政再委任運動という形で有力諸侯の政権参加を拒んだ。
諸侯が会桑を支持しなかった理由が、会桑の尊王攘夷派への苛烈な弾圧行為にあった事を考えれば、
坂本龍馬暗殺は大政再委任運動と共に、徳川慶喜の意図した旧幕府中心の政権再編構想から実際の歴史を逸脱させる、大きな要因になってしまった。
見廻組による坂本中岡の暗殺は、徳川慶喜の構想した大政奉還の意図を踏みにじる最悪の愚策であった。
>>476 >先生、それは極端な論ではないかと。今井が自供したのは明治3年ですよ。
>その頃はまだ、将軍討伐を計画していた、というのは世間には憚られることでしょう。
根拠なし。幕府に敵対していた人間は、維新成立時点で夜盗紛いまで大手を振って歩いていた。
それゆえ犯罪者が政権側にいるとして当時の江戸市民らは反発した。
それとも江戸っ子は、嘘をついて彰義隊を応援し、清廉潔白な明治新政府に敵対したというのか?
>>478 なりません。幕府が倒れて公武合体は討幕を表向き隠す擬態だったということになったのですから。後藤象二郎すら討幕の志士と自称しました。
あ〜〜あwとうとう龍馬を慶喜暗殺犯にまで押し上げたかw先生は(笑)
>>473 永井ガーを容保ガーに変えれば、まんま先生に跳ね返りますよw
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 09:37:19.48 ID:v0DKxnCo0
容保ちゃんには欠点がいっぱいある。
暗殺理由が大政奉還だと思い込みすぎていること
龍馬暗殺が政局に重大な影響を与えた、と思っていること
容保が大政奉還に激怒した、と信じきっていること…
いずれも不明確な、疑問の余地のあることなのに、教科書的に、教条的に、信じてしまっている。
いわば一種の狂信者。しかしそこがまた面白くてかわいいwww
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 18:41:55.13 ID:FmC+BOu10
「十津川記事」を信用するなら、深瀬仲麿は容保の命令を承けて捕縛されたとなっている。
捕縛することでさえ、町奉行所ではなく守護職の命令を受けてやっているのだ。
とすれば、まして暗殺など、町奉行所の独断ではできないだろう。容保と同等かそれ以上の重職者の命令でなければできないだろう。
とすれば命令者は限られてくる。在京の幕府要人としては板倉、永井、容保くらいのもの。
ただし定敬は城中では老中扱いだったから、定敬も含まれるかもしない。
龍馬暗殺は、この四人のうちの誰か、あるいはこのうちの何人かの命令ではなかろうか。
これ以下のクラスの人間の命令ではありえないような気がする。
龍馬を暗殺したのは薩摩藩ではないでしょうか?
西郷(薩摩藩)は幕府を武力討伐し、政権を完全に掌握したかった。
しかし、江戸城無血開城と大政奉還を取りまとめた龍馬の条約では
どうしても新政府の中枢に幕府出身者を置かなければならなかった。
この条文が邪魔だった西郷は龍馬を暗殺し、幕府を挑発し条約を反故させ、戊辰戦争へと突入させた。
いかがでしょうか?
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 19:06:03.54 ID:FmC+BOu10
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 19:13:26.18 ID:FmC+BOu10
松平主税助というのは、和歌が好きなところとか、佐々木只三郎によく似ているな。
Wikiで見ると、小説などでも、司馬以外は、すべて悪役として描かれているようだ。
松平主税助と佐々木只三郎。どちらも悪人で、気が合ったのではあるまいか。
その佐々木が清河を暗殺した。
一度あることは二度ある。龍馬暗殺も松平主税助が関与しているのでは…
わーいw連休からみんなが戻ってきたぞ〜〜〜〜
形勢不利・今更感だが「薩摩」説もいいかもしれんwww
487 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 19:38:02.94 ID:FmC+BOu10
どうも清河暗殺と龍馬暗殺の命令者は同一人物のような気がする。
清河暗殺の命令者が板倉だとしたら、龍馬暗殺の命令者も板倉ではあるまいか。
清河暗殺のとき永井は京都西町奉行だったから、清河暗殺には関与していないだろう。
永井は、板倉の指令を佐々木に伝えただけか…
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 19:51:25.71 ID:FmC+BOu10
京都西町奉行→京都東町奉行に訂正
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 21:18:59.71 ID:DNCS34qq0
清河暗殺の理由は、4月15日をもって江戸と横浜を焼打にして京都へ上り、
京都浪士と心を合わせ、長州と一手になり二条城に討ち入るという計画を立てたことであるらしい。
やはり、ただ反幕的人物であるというだけでは暗殺されない。倒幕挙兵という不軌を謀ったからである。
龍馬にも、将軍討伐計画だけでなく、もうひとつ、新政府綱領八策の過激な文がある。
強抗非礼公議ニ 違フ者ハ断然征討ス 權 門貴族モ貸借スル?ナシ
これが幕府側に知られていたら、やはり暗殺の理由の一つになるのではないか。
この新政府綱領八策の文書は周囲に配っていたと思われるから、幕府側にも知られていたと思われる。
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:09:51.79 ID:sP1xObyM0
>>480,481
このように、根拠のないことを相手のせいにして、
嘘をつけば松平容保を守れると思い込んでいるのが、松平容保擁護の悪いところ。
ところで、松平容保を擁護しようとすればするほど、容疑が濃厚になっているのは何故でしょう。
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:24:53.75 ID:sP1xObyM0
>>489 >やはり、ただ反幕的人物であるというだけでは暗殺されない。倒幕挙兵という不軌を謀ったからである。
これを旧幕府の統一された意思だと主張することは無理でしょう。
少なくとも徳川慶喜や板倉・永井は、この時点で暗殺を行えば諸侯との関係を崩し、立場は不利になるのですから。
ところで、散々永井ガーが主張した
>>472,476は完全に撤回ですか。
根拠のないことで相手に粘着すべきではありませんね。
だいたい松平容保ファンは反論一つ出来ずに逃亡してばかりです。
この松平容保ファンは人格も悪ければ、話す内容にも根拠がない。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:35:29.89 ID:sP1xObyM0
>>481 >いずれも不明確な、疑問の余地のあることなのに
どこに疑問があるのかが不明です。後年、会津関係者が必死に編んだ小説・「京都守護職始末記」をソースに使うのは無理ですよ。
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:57:02.52 ID:sP1xObyM0
板倉・永井説は、両名が大政奉還を政権参加権という餌に用い、
有力諸侯を味方につけようとしていた当時の状況に反しているので、あまり支持できない。
大政奉還以降の会津桑名と有力諸侯との対立は、大政奉還が提示した諸侯への政権参加権を会津桑名が反故にするか、
それとも会津桑名が追い出され諸侯が代わりに権力を手にするか、という部分に焦点があったのだから。
この時点で大政奉還に明確に反対していたのは、京都では松平容保・松平定敬などで、江戸ではほとんど全ての人間が反対していた。
板倉・永井らは江戸からの大政奉還反対意見への沈静化に奔走しており、彼らはこの時点で反対していたとは言えない。
この状況で諸侯との緊張を生むことになった暗殺事件が発生した。土佐藩の旧幕府への詰問などを考えれば、
当時土佐藩を味方につけようと模索していた板倉や永井には、暗殺を命令する利益より損失が大きい。
旧幕府内から暗殺の命令が出されたとするなら、大政奉還に執拗に大反対していた松平容保らを筆頭に挙げるしかあるまい。
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 23:55:46.41 ID:NIj6Cl5o0
容保大明神には同じことを百回言っても通じないようだが、念のために書いておこう。
板倉、手代木、永井、渋沢らが春嶽と中根に説得されたのは、先生が「彼らはこの時点で反対していたとは言えない」と書いているより時点よりずっと後のことである。
わたしはこのことを二回も三回も書いた。しかし先生はまったく聞こうとしない。
それから定敬が反対していたという史料はあるかな。
定敬も大政奉還に協力しているぞ。板倉と連署して江戸の老中に大政奉還を告げたのも定敬だし、
朝廷に参内して大政奉還を上奏したのも定敬だ。
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 01:12:49.30 ID:5mnP1cq40
>>494 >板倉、手代木、永井、渋沢らが春嶽と中根に説得されたのは、先生が「彼らはこの時点で反対していたとは言えない」と書いているより時点よりずっと後のことである。
>わたしはこのことを二回も三回も書いた。しかし先生はまったく聞こうとしない。
ほら、松平容保ファンはこのように誤魔化す。
この人間は、大政奉還を土佐藩取り込みの道具として活用し、て江戸の幕臣へは大政奉還受諾へ説得を続けていた板倉・永井の活動を、
その後、別の上手い道はないかと聞いてきたという記事をもって、「以前は反対の側だったに違いない」という主張をするが、
それでは、この両名が大政奉還受諾のために江戸の幕臣を説得した事情と合致しない。
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 01:50:09.02 ID:5mnP1cq40
だいたい永井は、土佐の後藤象二郎が大政奉還建白書を一向に提出しないのに業を煮やし、
何故建白が遅れているのか、と提出を促しているわけで、
彼が大政奉還に反対だったとする松平容保ファンの意見は、史料に合致しません。
また、土佐藩の建白書提出後、徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還上表は、
当初言われていた永井の筆によるものではなく、板倉勝静及びその腹心、山田方谷らによって書かれたものという研究が出ています。
この両名が大政奉還によって得られるはずの、それまでの会桑に代わる
有力諸侯を基盤とした公儀政権樹立に障害となることを実行したとは思えず、
その意味で、公儀政権成立でそれまでの権力の座から追われる、そのために大政奉還に大反対し続けた松平容保らこそ、
坂本暗殺命令者としては順当ということになるわけです。
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 02:34:00.24 ID:5mnP1cq40
>>494 「紀の三浦、大垣の井田らは土佐藩討つべしとさえ声を上げ、まして会桑のごときは憤慨大方ならず」
あなたの大好きな慶喜公伝ですよ。
>>492 >会津関係者が必死に編んだ小説・「京都守護職始末記」をソースに使うのは無理ですよ。
そりゃ〜「あなた」は認めませんよねww
でも、「これ」を認めなくて「他」ならOKなんてwwww
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 10:17:02.06 ID:tRKEput20
>>495>>496 だから何回も書くが、それらの記事の後にp101の記事が出てくるのである。大政奉還成立前後に
板倉や永井がそのために奔走したのは誰でも知ってるよ。ところが成立後の11月8日以後の記事として
板倉、手代木、永井、渋沢らがまだ大政奉還に不満だったという記事が出てくるのである。
先生も見苦しいね、いいかげん認めたらどうですか。
>>497 その箇所の記事のどこにも容保が憤慨していたとは書かれていませんよ。
それより定敬が反対していたというなら、その史料を挙げてください。
定敬も大政奉還のために奔走しているじゃありませんか。
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 10:55:15.37 ID:tRKEput20
容保は慶応3.1.15に慶喜から長州再征軍解兵奏聞の使者を命ぜられたが、
板倉に不可を申し入れ、その夜、重臣を召して意見を問い、翌日、風邪を理由に使者を辞退した。
「七年史」によると「肥後守は此後は殆んど国事に関係せざりけり」と書かれている。
実際、大政奉還のときもこれといった動きはしていない。
大政奉還に激怒していた、などというのは容保大先生の勝手な思い込みである。
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 11:07:40.54 ID:tRKEput20
>>462の記事を見ると、上田は、老中二人と会津藩重役に下問されている。
ここから類推すると、龍馬暗殺も老中と会津藩重役との協議によるものではあるまいか。
容保は参加していないだろう。病気のせいか、それとも拗ねたのか知らないが、一種の職務放棄みたいな態度をとり続けていたから。
「丁卯日記」によれば、事後直に福岡が越前候に呼び出され、その際に「おそらくは新撰組・・・」と語ったと
後に、永井と一緒に近藤への詰問云々と書かれているとおり
福岡も「最初」は新撰組と思っていたふしがある
さて、時代は下ってその「子孫」な方の話である
佐々木犯行の映画を観て、それを「否定」したわけだ
そりゃそうだ、先祖wは「新撰組」と読んでいた
・・・但し、その方は「あれは誰が聞いてもいっちゃ〜ならんことになっている」とも付け加えている
はて?上記のとおり「調べれば」先祖が新撰組と判断していることは「明白」なのに
どういうことだろうか?
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 14:17:26.67 ID:VmoUwgXEO
犯人は新撰組でも見廻組でもないからでしょ
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 19:28:00.54 ID:qJV8EKY30
大政奉還後にやられてるから、大政奉還後の状況が向こうの思惑と違ってやられた可能性が強い。
坂本は大政奉還を機会に王政復古で朝廷の基盤を確固とするよう動いてた。
容保や永井も大政奉還に賛同したとしても、容保は京都守護は辞めてない。
505 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 19:48:27.71 ID:36wjOSzS0
容保はそれまでにも守護職を辞退しようとしたことがあったが、慶喜が止めた。
大政奉還後も帰国を勧告されたが、板倉が反対した。それに朝廷から、暫くは京都の治安などは従来通り幕府が行うようにと通達された。
506 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 20:20:07.70 ID:RjlKt3D+O
>>500 それは、松平容保は自らの辞任に抵抗した、という論拠になっている記事です。
松平容保が大政奉還に激怒したことは間違いないと思われます。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 20:41:10.31 ID:RjlKt3D+O
坂本や中岡は大政奉還と並行して、
陸援隊屯所開設や板垣退助への接近による、
京都への土佐藩尊王攘夷派兵力の集結を実行していた。
二人がこの兵力を何に使おうと意図していたか、
公義政権翼賛のための兵力とするにはこの二人は過激過ぎる。
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 20:50:59.59 ID:qJV8EKY30
もしもの武力討幕の場合の挙兵と朝廷の親兵にする為だろう。
一方で討幕の密勅がある。
薩摩兵と長州兵を京に呼び寄せる為のもの。
当時朝廷は0石で自前の兵がない以上、400万石の徳川から領地返上させなきゃ基盤がない。
徳川はこれを知ってたから大政奉還しても、再び主導権を握れると考えていた。
大政奉還直前に後藤に出した手紙も面白いw
「先生」とまで書いてせっついているw
しかも、もし駄目なら「薩長」からヤキいれられるゥ〜wwと書く始末
結局「事」は成ったわけだから万々歳w・・・・のはずだが
一方で、龍馬が薩摩藩邸入の打診を断ったわけだけれども
手紙では色々書いてはいたが、「書けない」理由もあったかもしれん・・・・・・
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 21:18:08.42 ID:5mnP1cq40
>>498-501 松平容保ファンが史料を読み間違えているのを可哀相に思います。
たとえば、
>容保は慶応3.1.15に慶喜から長州再征軍解兵奏聞の使者を命ぜられたが、
>板倉に不可を申し入れ、その夜、重臣を召して意見を問い、翌日、風邪を理由に使者を辞退した。
>「七年史」によると「肥後守は此後は殆んど国事に関係せざりけり」と書かれている。
>実際、大政奉還のときもこれといった動きはしていない。
これは松平容保による長州再征伐要求、そして松平容保と諸侯との対立の例としてよく引用される記述です。
第一次長幕戦争の際、全軍の長となったのが尾張藩徳川慶勝であり、その下に薩摩の西郷隆盛があった関係上、
第一次長幕戦争のほとんど戦闘を伴わない終結は尾張・薩摩の合意事項となり、以後第二次長幕戦争で両藩は出兵に反対し、
その後も長州復権による事態の沈静化という姿勢を、朝廷や諸侯は取ることになります。
これに明確に反対し、徳川慶喜が諸侯との柔軟姿勢に転じた後も長州征伐を主張し、諸侯との溝を広げたのが、松平容保という人なのですよ。
この際の松平容保の出席拒否は、諸侯と対決姿勢を鮮明にしたという点で、大政奉還への激怒と同じ意思によるものとされています。
>大政奉還に激怒していた、などというのは容保大先生の勝手な思い込みである。
松平容保が大政奉還に激怒していたというのは既に定説化しています。思い込みと呼ぶには反証が後の会津側の勝手な主張しかない。
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 21:55:00.80 ID:6sWuTDj60
>>506>>510 わたしは勉強不足なので、
>>500の記事がそういう意味を持っているとは知らなかった。
で、その日と翌日の会津藩文書を原文で読んでみたが、わたしの漢文読解力ではよく分からなかった。
なんとなく分ったのは、藩論が一決しなかったので、とにかく一旦風邪を理由にお断りしようということになったようだ。
で、話は変わって、君らに聞くが、容保が大政奉還に激怒したという史料はあるかな。
「丁卯日記」は、わたしの見たところ、手代木個人の意見であって、必ずしも容保の意見とは限らない。
容保先生によれば岩倉の日記に容保が激怒したという記述があるそうだが、できればそれをここに上げてほしい。
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 22:34:35.36 ID:6sWuTDj60
再度、当日の会津藩文書を読んでみた。あやふやながら解釈すると、
どこまでも病気と称して、日ならずして辞表を提出すべきだという論と、
辞表などは絶対に提出すべきではないという論が出た。また、
諸藩がどう動くか分らないから、ひとまず様子を見ようなど、藩論一決しないうちに、
刻限も迫ったので、とりあえず風邪を理由に使者を辞退しようということになった、というような感じである。
ついでにいうと、この後、容保はしきりと守護職辞退を幕府に申し入れるようになる。
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 22:49:32.61 ID:6sWuTDj60
龍馬が大政奉還直前に後藤に出した手紙についても、わたしはいろいろと疑問を持っている。
まず龍馬にしてはいやに過激な、切羽詰まった感じの手紙だ。いやに深刻というか、大袈裟な手紙だ。
龍馬は大政奉還をそれほど重大視していたのだろうか。
もしかしたら偽書ではないのか。
もう一つ、その手紙と、京都に銀座を移してしまえば、将軍なんて名だけで実なし、という手紙、
この二通の重要な手紙が、どちらも中島家文書として残されていることだ。
なぜ中島信行の許にこれらの手紙が残されていたのか。中島はどうやってこれらを入手したのか。
中島はもしかしたら裏切り者ではないのか…。
514 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 23:01:04.22 ID:6sWuTDj60
過激といえば、新政府綱領八策の末尾の文も、龍馬にしては過激すぎると思うのである。
強抗非礼公議ニ 違フ者ハ断然征討ス 權 門貴族モ貸借スルコトナシ
これは本当に龍馬の文なのか。この箇所だけ偽書ではないのか。
誰かがこの箇所だけ書き足して、幕府に流したのではないのか。
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 23:16:53.56 ID:6sWuTDj60
わたしは中島と陸奥を疑っているのである。それは、どちらも維新後に、嘘っぽい美談を語っているからである。
中島は、慶喜が大政奉還を受け入れたときに、「この人のためなら死ねる」と泣いたと言い、
陸奥は、新官制議定書に龍馬の名がないのを見て「やはり龍馬は偉い」と思ったという。
どちらも嘘くさい話だ。陸奥の話は作り話だとも云われている。中島の話も史料はあるのか?
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 23:51:40.72 ID:9dux4VjS0
坂本は元々過激だろう
今一度せんたくいたし申し候という手紙の前にも、姦吏を一事にいくさいたし打ち殺しと書かれてる
大政奉還も慶喜が聞かないなら斬り込むまでよと言ってる
大政奉還も大久保一翁が唱えたもの
内容も政権を朝廷に奉還し、徳川家は家康が関東に移る前の旧領を貰い諸侯の列に下るべきという案
単に政権返上してめでたしでない
王政復古でこじれ鳥羽伏見、江戸開城、戊辰戦争で実現
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 23:56:15.41 ID:9dux4VjS0
中島と陸奥は反薩長閥だから
陸奥は西南戦争の際新政府転覆企てるほど当時むかついていた
龍馬もちあげも自由民権派
ほらほら、会津の家老、西郷頼母の家族の「お話」に出てくる人が中島さん
龍馬事後、聞き込みして「九州地方の訛りがどうだこうだ」な情報を得たのが「中島」さんww
どちらも「確証」はありませっんw
勝海舟って、かなり腹黒だよ。
西郷だろうな
西南戦争で贖罪したと考えられる
西郷自身はやらんでも良かったのだろうが、薩摩藩としては面白味が無く武力行使のために突き上げられて決行した
龍馬に恩があるから長州の線は0
会津新撰組は幕府が大政奉還して武力衝突を避けたのだから、また自分から武力の火種を撒く可能性は0
見廻組は薩摩藩士との付き合いが深かったから西郷の許可を得た薩摩藩士が見廻組に依頼したという線が当たりだと思う
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 21:14:04.57 ID:R5OLPBjL0
火種も何も幕府会津が京に上洛したから戦争になってんだが。
戦争になれば勝てると思ってたのは幕府会津の方だし。
坂本よりも西郷、大久保、小松をむしろ大政奉還の元凶と狙ってる位。
薩摩は京に兵を上洛させるのさえ苦労し、長州に至っては朝敵で武力行使所じゃない。
坂本所でない上に、坂本の考えと方向性も当時の薩摩と変わらん。
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 21:54:59.04 ID:xYgWCD1m0
佐々木多門は、いつ、どのような経緯で海援隊に入ったのか。
たぶん神戸海軍操練所時代にそこの生徒として入ったのではあるまいか。
神戸海軍操練所は諸藩の浪人も受け入れていたから、それを監視するために、
最初から幕府の間諜として入っていたのかもしれない。
その後神戸海軍操練所が閉鎖された後も、浪士らと行動を共にして、海援隊に入ったのでは?
神戸海軍操練所が閉鎖されたのは、生徒に討幕的浪士がいたからで、閉鎖後も、
幕府としては浪士らを監視しておく必要があったのである。佐々木はそのための要員であった…。
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 04:52:10.38 ID:c0hQis7N0
岩倉具視による、会津が大政奉還阻止に怒り狂っているという記述は、日記というよりは書簡ですな。
岩倉具視から大久保一蔵(利通)への書簡(慶応3年10月16日付)
会狂気の如く憤然是非薩邸を討つなど段々申し候由
万事畢竟は西小大の三人これあるゆえ也
土には云云芸云云これらを斃すべしと種々議論ある由・・・・・・
薩摩ではこれを見た直後、17日に小松・西郷・大久保の三人は京都を離れ、
同日には吉井幸輔(友実)が坂本龍馬を訪ね、身の安全を図るように助言を言い残しています。
薩摩は、土佐藩の大政奉還建白書提出には、討幕挙兵に迷いを生じさせるといって難色を示しましたが、
徳川慶喜が受け入れの姿勢を示した途端に、幕府を政権から引き摺り下ろすまたとない機会として
積極的に朝廷に大政奉還受入れを進言します。しかし会津は大政奉還自体に大反対だった。
そして後藤象二郎が会津藩に大政奉還建白書提出を告げた直後から、近藤勇とその配下の新撰組の不穏な行動が続く、
この最中に坂本龍馬と中岡慎太郎は殺された。
とりあえず訳も付けましょうか
会津は狂ったかのように憤然とし、薩摩藩邸を討伐するなど言っている。
こんなありえない事態になったのはみんな西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通のせいだ、
土佐の誰某、安芸の誰某も殺してしまえ、といろいろ議論をしている。
土佐の誰というのは、おそらく、大政奉還建白書を出した後藤象二郎や福岡藤次らのことになります。
坂本龍馬や中岡慎太郎が含まれているのかは、ここではよくわかりません。
安芸に関しては、忘れられがちですが土佐藩が大政奉還建白書を出して間もなく、安芸浅野藩も大政奉還建白書を出しています。
討薩表並みの出し遅れで、現在では誰の記憶にも残っていませんが、提出しています。
自身に危険を察知したであろうから、旧知に対して宿の斡旋を頼んだのにも関わらず
かといって、知らぬ間柄ではない所からは「向こうから」の誘いにも関わらず
「対面があるから」と断る始末
でも、その対面がある所には結局「入れずじまい」だったで
その近場にて宿すと
寺田屋の件は「当人」の要望では無いにしろ
「結果」逃げ匿ってもらったワケだから、いまさら「遠慮」というのは如何なものか?
龍馬が再度薩摩に関わろうが、幕府・会津側は既に薩摩に対して遠慮はないであろうと
寧ろ、自分が幕府側に狙われている事が
その「対面」に及ぼす事への危惧はかんじなかったのか?
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 09:07:44.78 ID:xnqHuzV50
>>523>>524は容保先生でしょうか。
その手紙なら知ってます。しかしそのどこにも容保が憤然としたとは書かれていません。
後藤が建白の経緯を会津に伝えたときも藩論は一決しなかった。
容保は何事も自分では決めず、藩論に従っている。
>>500の記事でも、その場では
板倉に、お請け致しますと答えてから、帰藩して藩会議を開いている。
容保がほんとうに大政奉還に激怒していたなら、自分の一存で反対を表明したはずだ。
ところがそうしていない。容保が大政奪還運動をしたという形跡はない。
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 09:18:37.68 ID:xnqHuzV50
容保は
>>500の記事の後、しきりに守護職辞任を幕府に要求している。
会津藩重役も幕府や有力公家にしきりと容保の辞任を懇願している。
3月になって暫時帰国が正式に認められたが、なんやかやで実現せず、
4月になっても帰国願書を提出している。
で、結局は8月に辞意撤回ということになっている。
要するに容保はやる気を失っていたと思わざるをえない。
大政奉還のときも、これといった動きは何もしていない。
そういう人間が龍馬暗殺指令を出したとはとても思えない。
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 19:49:56.02 ID:c0hQis7N0
松平容保は、朝廷には辞めるといいながら結局辞任せず、
徳川慶勝による辞任要求には頑として応じませんでした。
これでは、
>要するに容保はやる気を失っていたと思わざるをえない。
>大政奉還のときも、これといった動きは何もしていない。
>そういう人間が龍馬暗殺指令を出したとはとても思えない。
という見解は事実誤認も甚だしく、松平容保は辞任をほのめかすことで周囲の譲歩を得る詐欺を常用していた
と記するしかないでしょう。
松平容保は当時大政再委任を主張し、大政奉還を勧める諸侯や徳川慶喜・板倉・永井らとも対立していたのですよ。
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 20:03:21.19 ID:c0hQis7N0
辞める辞める詐欺といえば、松平定信が政敵を葬り無理な政策をごり押しする際によく使った戦術でした。
それゆえ、結局辞任もせず、実際に実兄が辞任を迫った際は拒否してしまうような辞意が、本心とは思えません。
「松平容保は辞めるつもりだった」説は中村彰彦が執拗に唱えていますが、松平定信の一件との兼ね合いから
辞意とは譲歩を得るための詐欺だった、という説の方を研究者は重視しているというのをお忘れなく。
そして実際、松平容保は東北戦争時でも京都時代の地位を名乗るのを止めませんでした。
530 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 21:07:28.87 ID:GktRz3K30
県立図書館に本を返却してしまったので、正確なことは言えないが、容保や会津藩重役がしきりと辞任を懇願してくるので、
幕府も仕方なく、板倉が容保の養子を善徳と決め、善徳が元服式を行っている。幕府は善徳を容保の後任に据えるつもりだったのだろう。
しかしさすがに守護職という大任を少年に任せるわけにはいかない。そこで慶喜が説得したのだろう。
先生は「周囲の譲歩を得る詐欺」というが、それはどういう意味なのかさっぱり分からない。
それから「松平容保は当時大政再委任を主張し」とあるが、その史料はあるか。会津藩ではなく、容保がそういう主張をしたという史料はあるのか。
先生はしばしば会津と容保を同一視している。たとえば
>>523の史料もそうだ。そこには会津が憤激したとあるが、容保が憤激したとは書かれてないのだ。
先生はしばしばこういうごまかしをちょこっとやるから、知らない人は信じてしまうのである。
何故に定信がそうだから容保も「そうなのだ」になるのかが不思議ww
まー元々先生は「不思議ちゃん」だからwww
まぁ辞任を盾に何かを迫るってのは、詐欺っつー訳でもなく
当時よく使われてた政治的駆け引きの一種だとは思うが。
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 09:51:17.34 ID:Kcoy9Ekb0
いや、だから「周囲の譲歩を得る詐欺」というが、その「譲歩」とは何なのか、また、
「辞任を盾に何かを迫る」というが、その「何か」とは何なのかがさっぱり分らないのである。
一体君らは何を言おうとしているのか…。
容保はただ、病気がちだったし、孝明天皇も崩御されて、やる気がなくなったから辞めたいと言っただけだと思う。
譲歩? 政治的駆け引き? 一体何の譲歩なのか。どういう政治的駆け引きなのか。
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 10:12:39.22 ID:Kcoy9Ekb0
昨夜、録画していた「さかのぼり日本史」を見ていたのだが、意外なことに、
将軍継嗣問題のとき会津藩は南紀派だったらしい。つまり家茂派。
してみると会津藩としては一橋慶喜に忠誠を尽くす必要はないともいえるわけだ。
もともと春嶽に説得されて、いやいやながら守護職に就いたのだ。
病気がちだし、天皇はお亡くなりになるし、征長戦争も敗けたし、もう守護職の存在意義もなくなった。
辞任してさっさと国に帰りたいと思うのも無理はない。それでなくても藩経済は大変苦しいのだし。
容保の辞任は容保だけが言い出したことではない。藩の重役もしきりと幕府に懇願しているのである。
容保にどんな政治的意図があったというのか。そんなものは何もない。
>>533 俺は詐欺だっつった本人じゃないんでアレだが、
第二次征長軍解兵に対する抗議の辺りじゃね?
具体的には慶応2年3年の辞意。
まぁ俺は先にも言ったとおり、こういうのは特にあの当時多用された当然の行為で、
詐欺なんかではないと思ってるが。
慶喜ちゃんも使ってたし、家茂の辞表が有名だよね。
政治的駆け引きであると同時に、単にこんなんじゃやってらんねぇって意思の表明でもある。
容保が「周囲の譲歩を得る詐欺」であるならば
慶喜は「周囲の引き立てを得る詐欺」だわなww
将軍就任時みたいに「自らが律しw」さえすれば周りが全てお膳立てしてくれる・・予定が
結果「そうは」ならなかった
・・本当は「あった」のかもしれん伝手が・・・永井あたりが「使えるやつがいる」と
それが「龍馬」だったと
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 21:05:57.85 ID:yVGaYvr/0
平尾道雄「維新暗殺秘録」の清河八郎と、坂本中岡の項だけ読む。この本によれば、
清河暗殺の理由は、攘夷の企て。関与を仄めかされているのは老中板倉、松平主税助、松平山城守の家来金子与三郎。
それと、暗殺後に浪士取扱高橋泥舟、山岡鉄太郎、松岡万、窪田治部右衛門が役をやめさせられ小普請入り、
佐々木只三郎、速水又四郎らが罷免されている。
暗殺前に全員を罷免していたという黒鉄ヒロシの漫画は嘘か。黒鉄ヒロシも当てにならないな。
ともあれ一応佐々木らは罷免されている。龍馬暗殺のときはなぜ罷免されなかったのか…。
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 21:17:31.39 ID:yVGaYvr/0
坂本中岡の項には「大正五年・川田瑞穂氏聴取書」が載っている。
これによると峰吉が帰ってきたとき近江屋にいたのは、島田以外では、
近江屋の家族新助の弟−小三郎、妹の某、家内と子供二人である。新助がいない。
ということは新助は土佐藩邸に知らせに行っていたのか。それとも新助のことを言い忘れたのか。
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 21:36:54.87 ID:yVGaYvr/0
清河の暗殺だが、佐々木や速水がやったのに、その上司である高橋や山岡が知らなかったというのも変な話だな。
老中が直接佐々木らに内密に指令していたのか。
とすると龍馬暗殺も老中→佐々木か。それとも老中→永井→佐々木か。
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 23:01:32.34 ID:GbQWN7M00
容保→手代木→佐々木でしょ
暗殺についての証言を残しているのは手代木なのだから。
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 23:04:52.51 ID:GbQWN7M00
>>531 なんだか、容保を擁護する人には不思議ちゃんが多いのにはびっくりします。
他人を罵倒し自らの論理は皆無なのですから。
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 23:11:16.04 ID:GbQWN7M00
>>533,534
それにしては、実際に徳川慶勝に辞任帰国を要求されると、
完全に拒否しているのですから、松平容保の「辞任要望」は擬態としか思えません。
龍馬が暗殺されたこの時期、松平容保の権力の亡者としての地位の維持欲望が、
結果として、徳川慶喜・板倉・永井らの目指した公儀政権設立への反逆として、諸侯との対立を生んでいたわけです。
その最中に坂本龍馬は暗殺された。
お〜おかえり〜先生〜ww休日出勤ご苦労様です!!
兄貴は「弟がやった」としか答えてませんよ〜〜え?弟の本に書いてあるって??
でも弟から「聞いた」ワケではなく、「兄貴の」を参考に書いたやつですぜ??
しかも何故か「二種類」あるとかwww
あと、永井と板倉は「同じ」と考えないほうがいいですぜ〜?
永井は「同情してくれる」龍馬を知っていたが
板倉は薩長をくっつけた「危険人物」としか知りませんよ〜・・・(これは多分だがw)
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 00:45:28.21 ID:tGlxUbKa0
1 容保は元々攘夷思想なんだけどな
2 ただ職務規定を蔑ろにしない節度ある人物なのだ
この2文を理解した人は可也詳しいと思う
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 01:36:29.67 ID:C6djVKdjO
峯吉や谷、近江屋の証言と、龍馬を斬ったって言い出した連中の証言、どっちが信憑性あるの?
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 02:15:39.75 ID:tGlxUbKa0
>龍馬を斬ったって言い出した連中の証言、どっちが信憑性あるの?
どっちが正解なんだろうねw
例えば、土佐藩邸より駆けつけた人物が谷「だけではない」はずなのに
(峯吉証言な島田等)
「何故」か、谷が土佐側を「代表」してみたいな印象はあると思う
少なくとも、遺骸は土佐藩医が見聞したという、その内容も定かではないし
上記、島田は横目付なわけだから当然現場検証みたいなものもあったに思うが・・
そして武家なりとも一応民家でおこった事件なワケで
奉行所がどう関わった等々もあるかと
(時期が時期だけに遠慮・拒否られたかもしれん)
あと近藤アリバイな話の中で、近藤と合った会津藩士が帰宅途中で同藩士らと「ばったり」会い
龍馬殺害の報を受けたという話
「以外に」早い段階での情報ってのが興味ぶかいかと
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 10:27:46.94 ID:sReZIDTx0
菊地明「京都見廻組史録」を読んでいる。見廻り役の蒔田と松平が老中に出した起請文の前書の第五項に、
「…もし斗り難き儀これあるにおいては、肥後守、越中守(と)申し談じ、そのうえにて極め難きは老中までうかがい申すべき事。」とある。
これを見ると見廻組は、普段は見廻り役の配下で独立的に動いていたと思われる。
見廻り役だけでは決断できないような問題が生じたときだけ、所司代、守護職に相談し、
それでも決められない問題は老中に相談する、と。
すると、土佐藩の浪士の暗殺など、見廻り役、所司代、守護職などの独断では決定できないだろうから、
老中までお伺いを立てる必要があるだろう。とすれば決定したのは老中である。
しかし伝達役が永井というのは変だから、下からの案件ではなく、老中(と永井)が内密に決断したのだろう。
というわけで、これまで永井説を唱えてきたが、最近は老中(と永井)説に傾きつつある。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 11:34:10.07 ID:wbxZ7meN0
つまり手代木のいう「某諸侯」とは板倉もしくは永井のことである。
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 11:38:36.20 ID:wbxZ7meN0
結局、容保先生は、大政奉還に容保が激怒したという史料を提示できなかった。
大政奉還に定敬が反対したという史料も提示できなかった。
会津藩や桑名藩は反対しただろうが、容保や定敬が反対したという史料はない。
会津藩でも意見は分かれていた。藩一丸となって反対したわけではない。
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 13:45:27.37 ID:C6djVKdjO
永井がなんのために龍馬を暗殺するの?
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 15:54:40.01 ID:5N1E7yaP0
さて見廻組の海野某だが、慶応元年十二月二十八日付二十一名の新規登用者の中に
海野繕蔵
の名がある。
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 16:09:15.51 ID:bw7ehy3B0
547さんへ
実は、峯吉は谷干城に明治維新後は使われていたのよ。
554 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 16:22:16.79 ID:5N1E7yaP0
>>551 あまりに単純な質問なので思わず笑ってしまったが、
それは分りません。あなたが自分で考えてください。わたしはただ今井弟の書簡に永井と書いてあるから永井説を唱えているだけで。
龍馬暗殺事件はねえ、暗殺理由すら分かっていないのですよ。
>>553 ということは谷と峰吉はグルだな。(と考えてもよいということだな)
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 16:31:33.17 ID:C6djVKdjO
永井には龍馬を暗殺する理由がないからね
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 18:34:51.62 ID:xvp3oI0D0
551と555さんは同一人物ですか?
ではあなたは誰が黒幕だと思うのかな。容保? 板倉? それとも…
他者の説によれば、例の書生の内の一人が「岡本」だったという話
定説では直前?にて近江屋を退散・・・・
「京都河原町才谷梅太郎氏ノ下宿ニ於テ同君及石川氏等暗殺セラル。該当事件ヲ福岡藤次氏ノ通知ニ依リ”岡本健三郎”に氏ト同行シテ該処ニ至リ・・・」
土岐真金履歴書
直前まで当人と談笑していたワケだから、福岡と同行というのはない話ではないと思うが
「別の」見方をすれば、まさしく現場に居た「当事者の一人」だったからこそ同行した?とも考えられる
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 19:12:44.28 ID:xvp3oI0D0
坂本と中岡が宮川の引き取りの件で話をしていた、というのは宮地の証言だったかな?
宮地はそのことをどうやって知ったのか。立ち寄ったときに聞いたのか。
559 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 19:39:30.69 ID:gVyRr+DD0
>>550 根拠のない結論を勝手につけてもらっては困る。
会津藩は松平容保の承認なしに行動する藩ではなかったし、
西郷頼母らによる辞職帰国提案も、徳川慶喜による辞職帰国提案も、拒絶したのは松平容保本人だ。
>会津藩や桑名藩は反対しただろうが、容保や定敬が反対したという史料はない。
>会津藩でも意見は分かれていた。藩一丸となって反対したわけではない。
こういうことを記して、大政奉還に松平容保が反対の姿勢を津図家辞任も拒否していたことを誤魔化す。
隠棲を望んでいたと松平容保ファンは声高に言い放つが、結局東北戦争時も松平容保は京都時代の役職を掲げていた。
未練たっぷりなんだよ。
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 20:00:13.11 ID:gVyRr+DD0
>>555 理由がないというよりは、当時の板倉・永井らにとっては坂本暗殺で得る利益よりも
諸侯との提携を失う、損失の方が大きいといえる。
大政奉還で徳川慶喜らが進めていた公儀政権樹立構想は、結局のところ旧幕府の官僚が横滑りして新政府の官僚になり、
尾張越前らの有力諸侯を上席に置いて、周囲を全国の他の諸侯らの合議制会議で固めるということだった。
しかし一会桑の中の会津と桑名と、有力諸侯とは折り合いが悪かった。
会津らは権力の喪失を恐れ大政奉還自体に反逆し、逆に有力諸侯は会桑の排除を要求した。
岩倉具視の手紙などにもあるように、大政奉還を進めた人々は当時会津から敵視され、狙われていた。
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 20:16:50.70 ID:sKuLxhzu0
倒幕派と佐幕派にとって大政奉還の受け取り方が違うからなぁ〜
坂本や倒幕派は大政奉還をキッカケに、新政府の基盤を強めようとしてる
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス 權門貴族モ貸借スルコトナシ
と、新政府に逆らう者は誰だろうと容赦せず討つとしてる
大政奉還運動が危険と見られていたら、大政奉還前に坂本は暗殺されてるだろうし、後藤も斬られてるはず
しかし暗殺されたのは大政奉還後で、大政奉還に対する捕らえ方の違いが現れたからでないだろうか
慶喜は佐幕派に大政奉還はあくまで徳川を生かす為と説いたろうし
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 21:18:51.75 ID:WpbfRb3J0
後藤や土佐藩が討幕に切り替えたのはいつなのか。小御所会議の当日か。
慶喜や佐幕派が、こんなはずではなかったと気付いたのはいつか。小御所会議の当日か。
坂本暗殺当時にすでに幕府がこんなはずではなかったと気付いていたならともかく、そういう兆候はまだないと思うが。
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 21:36:38.61 ID:WpbfRb3J0
仮に容保が大政奉還に反対だったとしても、土佐藩の浪士暗殺を独断で決められるだろうか。
会津藩重役の意見も聞いただろうし、会津藩と守護職だけの独断で決められることでもないだろうから、
老中とも相談しただろう。その上で決定したというなら話は分かる。
しかし容保や会津藩だけの独断というのは、ちと考えられない。
なぜなら今井弟書簡を信じれば、永井から伝達されているからだ。
守護職と会津藩の決断なら、守護職か所司代、もしくは手代木から伝達されるはずである。
564 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 22:53:15.78 ID:C6djVKdjO
大政奉還後に暗殺して、永井さんや容保さんは利益があるんですか?
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 23:12:48.54 ID:n3jvObUy0
タニカンの講演記録がすべて。あれ以上でも、あれ以下でもない。
566 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 23:15:36.95 ID:WpbfRb3J0
551 564さんは同一人物かな。単純すぎて笑える質問ばかりしてるね。
さあ、分りません。あなたが自分で考えてくださいね。
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 00:41:06.46 ID:h39lOEOA0
>>562 西郷隆盛の書状ではこうある。(12月5日西郷隆盛発の蓑田伝兵衛宛書状)
坂本龍馬・石川誠之助の両人暗殺に遭い、土邸大いに憤激いたし、
廿七日の御発船は今一つ運漕御人数御繰り出し相成り候て、早早御迎えに乗り戻り候時機に御座候
後藤にも俗論よりは怨みを受け既に危うき場にも陥り候次第にて、
迚も此の上は正義の党と結合申さず候はでは致し方なき次第にて、
乾・小笠原の徒と相結び有志中とも一体の場合に立ち至り、土州に取りては不幸中の大幸と相成り、天下の大慶に御座候
坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されて、京都の土佐藩邸は大いに憤激していて、
27日の山内容堂候の京都到着にさらに人員が必要になったようで、大阪まで京都の土佐藩邸から出迎え要員を送り込むようだ。
後藤象二郎は(容堂候到着延期に際し)藩内佐幕派の反対を受け窮地に陥る場面もあったようで、
この際、土佐藩内尊王攘夷派と連携せざるを得なくなったわけで、
板垣退助や小笠原唯八など尊王攘夷派と土佐藩上層部が結ぶ状況に立ち至り、土佐藩にとっては不幸中の幸い、天下の大慶といえるだろう。
この西郷隆盛の書簡では、王政復古(12月9日)の直前、土佐藩が山内容堂及び付属土佐藩兵を入京させる時点で、
後藤象二郎の討幕派への忠誠を確認する内容となっている。
大政奉還によって旧幕府が諸侯を取り込み新政権を作るという、旧幕府側の構想は、
王政復古によって、旧幕府内の会津桑名を追放し徳川慶喜の権利も縮小(辞官納地)する、諸侯側の構想に挿げ替えられた。
これは後に、鳥羽伏見の戦いで旧幕府側が敗北したことにより、会津桑名だけでなく徳川慶喜や旧幕府側を朝敵として排除追討する更に過激なものに変貌を遂げた。
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 01:08:57.82 ID:h39lOEOA0
おっと、山内容堂の京都到着は12月8日で、11月27日は土佐からの山内容堂の出港日ですな。
この時点で西郷隆盛は、後藤象二郎が王政復古に踏み切るか危ぶみつつ、
土佐は薩摩と王政復古を協同実行すると判断するに至ったのが、山内容堂の土佐出発情報を手にした時点であったというわけです。
つまり、この時点まで王政復古が行われるか、土佐藩が参加するかは流動的であり、
旧幕府の意図する二条城での諸侯召集と諸侯会議開催も、可能性としては否定できませんでした。
しかし全国の諸侯は乱世への参加を嫌がり、慶喜の呼びかけた公儀政権への道、諸侯会議には一向に諸侯は集まらず、
逆に薩摩が、京都に勢力を持っていた有力諸侯へ呼びかけていた、一会桑排除=王政復古が代わりに水面下で進行しました。
大政奉還は王政復古を誘発したというわけです。
まー「丁度良く」龍馬が居なくなった事で、後藤が「腑抜け」になってしまった
て事ですなw
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 08:36:09.26 ID:WRSvpee0O
大政奉還後に龍馬を斬ったところで、幕府側にはなんのメリットもないから、それはないな
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 09:41:52.22 ID:sUpUgY4C0
なにはともあれ、坂本暗殺の時点では、幕府はまだ、こんなはずではなかった、とは思っていなかったと思う。
しかし、なにはともあれ、大政奉還その他諸々の活動を含めて、幕府にとって為にならん奴だから消してしまおう、ということになったのか…
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 09:51:52.28 ID:sUpUgY4C0
清河暗殺では、なにはともあれ浪士取扱の高橋、浪士取締の山岡ら、それと実行者の速水、佐々木らが全員罷免されている。
ところが龍馬暗殺では罷免者ゼロ。その辺が不審といえば不審だ。
尤も清河の場合は白昼の暗殺で下手人も分かっていたから、幕府としても処分せざるを得なかっただろう。
龍馬の場合は夜間で犯人も不明だったから、幕府は知らぬ顔を通したのか…。
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 10:33:11.43 ID:sUpUgY4C0
見廻組のなかにもう一人、海野という組士を見つけたので報告しておく。
慶応3年10月10日に清所門警備を命ぜられたメンバーの中に、
肝煎 海野弦蔵
とある。海野繕蔵と同一人物か。それとも親子か。
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 10:41:00.01 ID:sUpUgY4C0
ちなみにこのときのメンバーに、与頭、佐々木只三郎と、
肝煎、今井信郎、渡辺吉三郎の名がある。渡辺吉三郎は渡辺吉太郎のことか。
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 10:59:34.00 ID:sUpUgY4C0
よく見ると上記メンバーの中に渡辺鱗三郎もいる。渡辺一郎、篤である。
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 11:34:58.96 ID:sUpUgY4C0
見廻組が今井らを雇おうとしたときの要望書は目付に提出されている。
それから、8月に老中から見廻り役に出された綱紀粛正の通達の中に、
「火付盗賊の類い、そのほか悪行これあるもの潜伏の聞こえこれある節は、時宜により
町奉行へ申し談じ、守護職、所司代へ申し出で、すべて重役の意に任せ、手柄争いをむさぼるべからざる事。」
とある。
つまり見廻組というのは、老中、守護職、所司代だけでなく、目付や町奉行の配下でもあったと思われる。
>>576 てか、「特定」の「直属」な機関にだけではなく、「他の機関」を通して事にあたれって事でしょ?
しかも「臨機応変」に
仮に岡っ引きに自分が所属する与力・同心に判断を仰ごうとしても連絡が取れない場合は
「ほかの」与力・同心でもいいから、そいつの判断を仰いで行動するようにて話かと
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 15:36:49.13 ID:OEI1iPS60
577
そうだな。文面からすると町奉行とは同等というか同格だったと思われる。
579 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 15:55:40.91 ID:OEI1iPS60
さて、またまた恐ろしい史料を発見してしまった。といっても渡辺篤の履歴書だが、
慶応四年二月頃のことらしいが、見廻組頭の岩田織部正から渡辺と後藤源右衛門の二人が呼び出されて、
大久保一翁の暗殺を命ぜられたというのだ。(「渡辺家履暦書」)
即答を避けて退き、考慮しているうちに沙汰止みになったという。
恐ろしい話だ。ちなみにこの頃は見廻組は目付の配下にあったと思われる。
守護職も所司代も王政復古の翌日に解職になっているから、容保や定敬とはまったく無関係な話だ。
とすればやはり幕府の主戦派から出た暗殺指令だろう。板倉も永井も最後まで新政府軍と戦った。
とすれば龍馬暗殺も板倉、永井あたりから出た指令ではあるまいか。
さあ、これで容保説は不利になった。龍馬暗殺は江戸の幕閣からの指令ということも考えられる。
その岩田さんて明治期に「音律入門」て本書いたんだよねw
何この「落差」ww
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 18:44:00.38 ID:IgcaSkq60
板倉 1.29 免職
小笠原 2月に職を辞す
永井 2.9 免職
幕閣が2月頃に職を辞している。大久保暗殺が沙汰止みになったのはそのためか…。
582 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 03:01:42.82 ID:Cktk5Dn10
>>579 松平容保擁護の人は、また根拠の乏しい発言で誤魔化す。
坂本龍馬暗殺は、大政奉還について板倉や永井がまだ希望を持っている時期のものでした。
この時期に坂本龍馬を狙う可能性があるのは、大政奉還に敵意を漲らせていた松平容保などの集団であり、
その後の、徳川慶喜が江戸城に逃げ込み薩長新政府への降伏に傾いた状況とは、全く異なります。
583 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 03:15:43.84 ID:Cktk5Dn10
というより王政復古自体が会津桑名と、尾張越前土佐ら有力諸侯との対立の結果生じたものであり、
諸侯が会津桑名の排除を要求したのは、この会桑両藩が諸侯に権限を渡さず、尊王攘夷派へは苛烈な弾圧処刑を繰り返していたからです。
その代表例が、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺であったことを思えば、
徳川慶喜の公儀政権が実現せず、代わりに王政復古が発生した原因はひとえに会桑、
その中でも松平容保の権力の座への固執にあったと考えざるを得ません。
松平容保の不始末が王政復古と鳥羽伏見の戦いという形で更に旧幕府に打撃を与え、
板倉・永井は武装抵抗で対応し、徳川慶喜は恭順の道をとることになるわけです。
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 12:42:06.90 ID:ty5Yko8CO
龍馬暗殺以外にも、大政奉還後に苛烈な弾圧があったということですか?
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 12:45:29.83 ID:iqWoMwoI0
1 佐々木らが清河を暗殺し、黒幕として老中板倉と小笠原の名が上がり、
2 見廻組の佐々木らが坂本中岡を暗殺し、
3 見廻組の渡辺らに大久保一翁暗殺指令が出され、板倉、小笠原、永井が辞職した頃に一翁暗殺が中止された。
ここから類推すると坂本中岡暗殺も板倉、小笠原、永井らの謀議と考えるのが自然でしょう。
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 12:52:52.93 ID:iqWoMwoI0
>>584 よく知りません。容保先生に聞いてください。ただし容保先生はちょくちょく嘘を書きますから信用してはいけません。
>会桑両藩が諸侯に権限を渡さず、尊王攘夷派へは苛烈な弾圧処刑を繰り返していた
と書いていますが、ではその例を挙げてくださいというと挙げられないでしょう。
とにかく先生はちょこっと嘘を混ぜますから注意してください。知らない人は騙されてしまいます。
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 13:04:09.40 ID:iqWoMwoI0
容保先生の論は
1 容保は大政奉還を憎んでいた。
2 容保は大政奉還の建策者が龍馬であると知っていた。
という前提の許に成立しているのだが、1についても2についても確証がない。
さらに手代木は龍馬暗殺の理由として「土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て」
と、大政奉還とはまったく逆の理由を挙げているのに、先生はそれを認めず、
維新後に会津も勤皇だったと弁解するためにわざと大政奉還のことは略したのだと主張している。
容保が孝明天皇の贈り物を一生身に付けて放さなかったというエピソードも、
それは世間を欺くためのポーズだったと主張している。先生はそういう人です。狂信者です。
588 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 14:19:30.04 ID:ty5Yko8CO
容保説はいまのところ一番有力な説だから、狂信者とかは思わないけどね。
ほんとに黒幕がいたのか?という気がしています。龍馬が誰かに斬られて、それを新撰組や見廻組の仕事だったことにしたかった人たちがいただけではないかな。だから、暗殺現場にいた人たちの証言が食い違うんじゃないかな
容保説は「有力」ではないよw?「会津藩」説が有力って話なだけ
休日出勤先生wの言い分だと、仮に「永井説」だった場合
永井の上司は老中で、老中の上は将軍様・・・・つまり黒幕は「慶喜」だ!!といっているにすぎないww
その上司に話を通さずに「出来るはずがない」という理由だけ
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 15:07:22.07 ID:ty5Yko8CO
どっちにしても永井よりは可能性としては、容保のほうが高いとは思うんですが。
誰が暗殺したとしても、現場の証言が食い違う原因として、証言を聞き出す側に都合のいい証言をさせているのではないかと思うんですよ。だから、単純な暗殺事件がいまだにはっきりとした事実がわからないのでは?と
591 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 16:09:03.60 ID:y2JmzZmI0
公平を期すために、容保説にとって有利とも思える史料を挙げておこう。
慶応2年11月15日堀岩見守が見廻役着任以後の、見廻組の誰かが書いた内部告発文書だ。
「当今の風習、与頭にて守護職公用方へ熟談にて事を取扱い候義故、見廻役衆は書き付けの取り次ぎのみにて何事も任せず(中略)
佐々木只三郎へ万端御委任にてしかるべくと、常々不快のところ、先般、御当家様より見廻組の義に付き、御用筋御目付河村より堀殿を差し置き、
佐々木只三郎を呼び申し談じ候由。これにより堀殿ますます不快の由に御座候。」
ここには守護職公用方と佐々木が見廻役を通さずに事を運んでいるのが常態化しており、
目付も見廻役を通さずに佐々木に用を伝えている、と告発されている。
つまり(容保)→手代木→佐々木ということは十分考えられる。ただし、
(永井)→目付→佐々木ということも考えられるのである。
592 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 16:16:08.82 ID:y2JmzZmI0
見廻組の仕事ではないかも、という意見もあるようだが、仮に土佐か薩摩がやったとしても、
今井、渡辺、手代木に嘘の証言をさせるのはむずかしいと思うよ。
薩摩は可能かもしれないが、土佐は渡辺との接点がない。(今のところそういう史料が見つかっていない)
593 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 16:24:08.72 ID:y2JmzZmI0
今井→取調官が土佐藩士。西郷の嘆願云々の話あり。
渡辺→薩摩藩士海江田と接点あり。
手代木→会津藩は薩摩藩、土佐藩ともに交渉があった。
ゆえに薩摩なら三人に偽証させることは可能。
しかし土佐は渡辺との接点がない。
594 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 17:20:04.68 ID:y2JmzZmI0
当日現場に駆け付けた人間が、自分に都合の良いような証言ばかりを残しているのも気になるのである。
谷→「お前の所に寄ったが留守だったので…」と中岡が語った…
田中→「君から貰った刀で受けたがやられてしまった…」と中岡が語った…
吉井→「岩倉先生だけが頼りだ…」と中岡が語った…
みんな、それぞれ、自分のアリバイ作りをしているように思えるのである。
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 18:38:58.02 ID:1MD3zm3m0
今井 兵部省 「召し捕ろうとしたが、3人居合わせたので…」
今井 刑部省 「龍馬を討ち取り、外2名も斬りつけ…」
今井 実歴談 「6畳の方には書生が3人いて…」
渡辺 履暦書 「13、4歳位の給仕で命が助かった者が1名おり…」
渡辺 履暦書原本 「五六名慷慨ノ士居合…」
証言がバラバラだ。いったい書生、慷慨ノ士はいたのか、いなかったのか。
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 18:45:14.19 ID:1MD3zm3m0
こういうことも考えられる。
峰吉は惨劇の後で帰ってきたのではなく、惨劇の行われている最中に帰ってきた。
そして、見てはいけないものを見てしまった。たとえば暗殺団の中に土佐藩士が参加しているのを。
それで、真実を話すことを口止めされた…。
『履暦書原本』(明治13年6月25日、渡辺篤著)
これも疑問である
「事後」十数年経ってからの言わばメモ書き
何故にこの年に書きとめようとしたのか?
598 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 19:52:47.93 ID:ty5Yko8CO
龍馬が殺害された事実を、薩摩なり土佐なりが政治的に利用しようとした結果、証言が食い違うと考えています。殺害を自供している二人も、明治になってからなので、政府はどうとでも出来るでしょうし。
誰かが黒幕で、というほどの事件ではなかったのではないでしょうか。そういう事件にしたかった人たちがいたというだけで
そうなると、福岡子孫な人の「いっちゃ〜ならん事になっている」発言が気に掛かるなと
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 21:13:34.05 ID:cgS+4+K10
龍馬暗殺が政治に利用されたとか、政局に変化を与えたという形跡はない。
その証拠に後藤はその後も公議政体論を諸藩に遊説しているし、土佐藩が討幕論に傾いたわけでもない。
薩長も討幕の密勅を土佐には隠していたから、最初から土佐を当てにしていない。
龍馬暗殺は政治には何の影響も与えなかった。
601 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 21:24:26.76 ID:CSAZPcr80
黒幕は、勝栄二郎。
「どこぞの人らが片付けてくれた」お陰で薩長は「すんなり」既定路線を行けたワケだw
とも言える
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 22:35:31.38 ID:cgS+4+K10
いまいちよく分からないのは、薩長がなぜあれほど強硬な討幕に拘ったかということだ。
このことに納得のいく説明を与えた歴史家はまだいない。
単に思想的なことなのか、それとも経済がからんでいるのか、それとも…
604 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 22:40:17.30 ID:cgS+4+K10
龍馬の思想も、いまいちよく分からない。
討幕派の薩長を同盟させるかと思えば、大政奉還を建策する…。
いったい何を考えていたのか。
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 23:03:39.73 ID:/upJZeja0
そもそも薩長は必ずしも武力討幕じゃないし
龍馬も平和倒幕じゃない
薩長が武力討幕に傾いたのは四候会議が失敗したからで
話し合いで決着しないから武力の背景なしじゃ動かないと見た
実史では龍馬が薩長の同盟を結ばせたとか一言も出てこないし
薩長同盟という言葉とかも後後付けだよね
>>603 当たり前じゃね。だって幕府は単独では一番力を持ってた訳で、その幕府に喧嘩を売るんだから滅亡させられるうちにやっとかないと、いつまた力を付けて報復されるかわからないんだから
>>604 まず第一に世の中を変えること
その為には徳川幕府を終わらせなきゃならん。これが大前提。
例えば小学生に金をせびられても誰も払う奴はいない。だが、その小学生が銃を持ってたら話は別。これが薩長同盟。抑止力が働くからこそ相手は話し合いに応じる。大政奉還。
話し合いに乗らなければ引き金を引く。これが討幕。
誰だって出来れば誰も血を流さず済ませたい。これが龍馬の思想だと思う
609 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 00:13:37.07 ID:me6aXzhx0
薩長にしても周旋と議論で解決ができるならそれに越した事はない
ただそれだけで難しいと見てただけで
大政奉還を後藤と共に頑張ったのは小松
いざという時の武力討幕を長州に伝えたのは小松
討幕の密勅の請書に署名したのも、小松・西郷・大久保
>>606 一日、西郷余ニ今日の形情ヲ図リ、六条ヲ以テ将来ヲ約ス。「良馬亦此席に陪ス」。
其翌夜、京都ヲ発シ浪華ニ下リ留ル数日、而テ前ニ約スル所ノ六条、前途重大ノ事件ニシテ、余ノ謬聞有ランコトヲ恐レ、一書ヲ認メ良馬ニ正ス。良馬其
紙背ニ六条ノ違誤ナキヲ誓テ之ヲ返ス。(『木戸孝允文書』)
慶応2年(1866)2月5日(3月20日)
木戸が「わざわざ」龍馬に「裏書」してもらって、西郷と大久保がそれを確認し返している
内容は同盟の条文ね
つけたしw
確かに「くっつけた」とは言い切れないが、「仲人」的立場だった事はあきらかかと
それじゃ西郷の使いぱしりだったってのは分かるだけだね
>>612 ・・・・
すまん「そうだった」ぽいww
やはり「当人」の書いた手記とはいえ「鵜呑み」には出来ないってことかww
614 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 09:31:57.20 ID:S4YvIA/X0
いや、まだまだ謎は多いよ。
寺田屋で襲われた理由を聞いた西郷と小松が大笑いした、とか、
大政奉還直前に後藤に宛てた手紙で、失敗したら薩長に合わせる顔がない、とか書いてること…。
どうもよく分からんのだな。特に前者が。
元々龍馬は中岡の暗殺の巻き添えくって殺されただけだから
龍馬暗殺で勘繰ったとこで答えはでないのは当たり前
誰がやったにしても
龍馬を寺田屋殺傷事件のお尋ね者として捕縛するでもなく
遺体すらも放置して逃げたことから見て
主たる目的が龍馬に置かれていなかったことを示している
616 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 12:09:41.29 ID:UPHL9xSXO
それだと、中岡がトドメをさされていないことは、もっと謎になりますね
617 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 12:21:06.86 ID:oIb6n/rj0
それは単に、もう死んだと思ったからでは?
今井の実歴談でも、翌日まで生きていたことに驚いているから。
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 12:29:43.78 ID:oIb6n/rj0
つまり今井が斬ったのは中岡かもしれないということ。
それと大久保一翁暗殺に渡辺と後藤源右衛門が呼び出されているところを見ると、
龍馬暗殺に渡辺篤も参加していたことに信憑性が出てくる。過去の実績を買って一翁暗殺に渡辺を起用したと思われるからだ。
もしかすると後藤源右衛門という男も龍馬暗殺に参加していたかもしれない。
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 12:45:09.65 ID:UPHL9xSXO
遺体を放置したから龍馬暗殺が目的ではないと言っておいて、トドメをさされてもいない中岡暗殺が目的だという理屈は、どうなんでしょうね
中岡への判断は斬った人物よか「差配」していた人物でしょ?
所謂「もうよい、もうよい」だっけか
仮に佐々木であるならば、清河時に「ブスリ」と留めを刺した人物である
中岡が目的であればそう中途なことはしないかと
仮に中岡が「振り」をしていたとしても、そこを急所に「ズブリ」でいいわけだから
がしかし、有名?な隣の屋根伝いにて悶絶・・・なパターンだと
留めを「めんどいw」と思ったかもしれんw
621 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 12:58:47.68 ID:oIb6n/rj0
元治元年6月16日発令の見廻組登用者のなかに
見廻組並 後藤源左衛門
とある。これが後藤源右衛門だろう。
>>619 615の投稿はわたしではないから、615さんに聞いてください。
薄暗がりの中龍馬は中岡が居る事がばれないよう変名で中岡を呼び
刀は無いかと言ったらしいが
変名で呼ばれたほうが中岡でないなら
もう一人の龍馬が中岡と取り違えられたと考えられる
てか、「どちらが?か」な議論な場合
「二人」にとどめを刺すだけで済むとおもうけどねw
一方は無関係だから生かしておく・・・・なんて考えはしないと思うな
どちらも瀕死の重傷を負って
きっちりとどめは刺されてないし
向かい数メートルが土佐潘の定宿だった事を考えると
正体がばれる事がまずいと判断して逃げる事を優先したと考えられる
現にすぐ助けを呼びに言ったやどの主人と
入口で刀を抜き待ち構えた土佐潘の連中はまんまと犯人を取り逃がしている
それにしては
事後、鼻歌?を歌いながら退散した・・・・という目撃情報(樋口真吉日記)があることを考えると
「余裕」はあったに思うけどね
龍馬は初刀より額を含め4刀ほどで平伏し
中岡は腕が取れかかり
骨まで達した最後の2刀含め11創と
なっている
医学的根拠はわからないが「腕が取れかかる」程の傷であれば
出血多量とかにはならんのだろうか?
龍馬は当時の人から見れば大した事ないっていう人いるけど、たかだか一介の郷士一人に名指しで暗殺命令出た類例って他にもあるの?池田屋は一網打尽だし、桂も長州の有力者でしょ。それを踏まえるとやはり十分凄い人物だったように思うんだけどなあ。
629 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 16:43:56.75 ID:F1vbq9DU0
各TV局は無試験入社で在日韓国朝鮮人の採用を毎年 続けました。
もちろん在日朝鮮人たちは日本戸籍をとり日本名で入ってきます。
いわゆる「なりすまし日本人です」。
その在日韓国朝鮮人社員が昇進して、主要な報道番組のプロデューサーや報道局長
など1980年以降、決定的な権力を持ったポストに、つき始めました。
すなわち、在日韓国朝鮮人に各TV局は、乗っ取られていると云う事です。
その証拠に、韓流ブーム捏造と韓流ゴリ推しTVが、繰り広げられています。
それでは何故テレビ局が在日韓国朝鮮人の指示で動き支配されたのか?
1960年頃、テレビ放送で朝鮮人に対してうかつにも侮蔑的な事を言ってしまい、
その事に対して、朝鮮総連から、会社及び経営幹部に対し 、脅迫的な抗議行動がくりかえされました。
彼等は自宅にまで押しかける始末だったと言います。
朝鮮総連の手打ちの条件は、社員募集の採用枠に在日朝鮮人枠を数名設ける事でした。
恐怖を感じていたTBSはそれ以降、無試験入社で在日韓国朝鮮人の採用を毎年 続けました。
この脅迫で味を閉めた朝鮮総連は各局のテレビ局をTBSと同じように
因縁をつけて脅し、在日枠を設けさせたのです。NHKも同じです。
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 16:44:48.27 ID:F1vbq9DU0
みなさんご存知の犬がしゃべるCM。 ソフトバンク
韓国では、公然と外国人差別がひどいが、中でも黒人は最低ランクで忌み嫌われている。
そして韓国語では、ケセッキ(犬の子)という言葉が最大の侮辱語。
刺されても仕方ない、と 言われるぐらいの差別用語。
このCMでは、父親が犬で、長男が黒人の設定。
この時点で、在日朝鮮人コミュニティでは日本人クソ呼ばわりの裏メッセージとなりニヤニヤが止まらない。
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 16:45:51.97 ID:F1vbq9DU0
テレビ局だけでなくテレビ局を動かすことの出来る広告代理店電通にまで
この在日韓国朝鮮人枠を設けさせたのです。そして電通のトップにまで
「なりすまし日本人」がなってしまいました。
各局のテレビ局は、電通には逆らえません。広告料がTV局の収入だからです。
韓国あげあげ報道は、電通が仕掛けたものです。
「なりすまし日本人」が多くを占める民主党が政権を取るまでのテレビ局の自民党叩きを思い起こしてください。
偏向報道、捏造報道、などまともな報道機関とは思われません。
この人達はテレビ、広告代理店、新聞、週刊誌、一流企業、政治家など日本の
中枢に入り込んで、日本を弱体化させていってます。
管直人、小沢一郎、仙石、輿石幹事長みんな帰化人です。国会議員90人以上が帰化朝鮮人。
実史では名指しで暗殺命令が出たなんて一言も言われてないし
捕物方を殺害した指名手配犯人としては名が割れてたんだろうけど
当時の瓦ばんかなんかだと坂本なにがし氏殺害さる、程度の扱いだった
桂、勝、西郷の使い走りをした三年程度しか実史では残ってない
唯一確かなのは亀山社中を作ったくらい
土佐の樋口さんは早くに「龍馬が飛び立ったぞ」みたいな文句を日記に書いてたぞ?
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 18:18:54.82 ID:iBRu/+WO0
標的が龍馬だけだったとは限らない。
「同年11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、
その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により…」
渡辺篤の履暦書によれば明らかに坂本・中岡の二名が標的だ。
635 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 18:25:50.84 ID:iBRu/+WO0
「…夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、横に倒れたところを突き刺し、
左右にいた両名も同時に討ち果たした。その中の1名が中岡慎太郎であったことは、後日聞いた。従僕も同じように即死した。」
ただしこれを読むと龍馬が標的だったような気もする。
後に奈良県警「本部長」までなったお方だからねw
情報はなんとでもなるかと
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 19:49:44.47 ID:/b1G2Lfo0
具体的に名が上がったメンバー
今井証言 佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次カ、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎
渡辺証言 佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺篤、世良敏郎
大石証言 今井伸郎、海野某、高橋某
一翁暗殺 渡辺篤、後藤源左衛門
ここから暗殺メンバーを推測すると、
佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺篤、世良敏郎、海野某、高橋某、それにおそらく桂隼之助。
高橋某は高橋安次カとはかぎらない。渡辺吉太郎、土肥仲蔵、桜井大三郎は参加していなかったかもしれない。
後藤源左衛門が参加していた可能性がある。
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 20:50:02.18 ID:UPHL9xSXO
どう推察すれば、そうなるのかわからん…
639 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 21:43:23.49 ID:L5ip7bDw0
●元新徴組隊士:千葉弥一郎さんの証言
坂本龍馬を殺したのも、近藤のように思われていたが、今ではすっかりその時の事情も分って、近藤が殺したのではない。
名は忘れたが、会津藩の剣士が殺したのだということが分るようになったが、
あの時も近藤が坂本を殺そうとしたのを、坂本は珍しい人傑だから、まあもう少し生かして置いて、どんなことをするか見てからにするのも宜かろうと、
土方が止めたのだというように聞いている。
640 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 21:56:27.41 ID:L5ip7bDw0
これが本当なら、佐々木が、「近藤がやらないなら俺がやってやる」と思ったのかも。
641 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 22:00:34.26 ID:L5ip7bDw0
千葉弥一郎が清河暗殺についての談話を残しているようだが、ネットで検索しても見つからない。
誰か情報を得たら教えてください。
司馬遼太郎の影響受けまくって
名のある登場人物が犯人じゃないといけないみたいな考えが間違いのもとなんだよ
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 22:24:15.53 ID:L5ip7bDw0
公平を期して、容保説に有利とも思える史料を挙げておこう。文久3年3月23日の近藤勇の書簡。
尚々
去ル十六日会津公御召ニ仍而昇堂仕御自身御合ニ而一同之赤心報国之段如何ニも感心被為
在以来之儀者会藩者とも与力合助救相頼度与被仰下候依而天下奸物誅戮之義も御内意有之
尤奸人共表向誅戮候者天下錯乱与も可相成乍併奸人共表ニ者尽忠報国飾り内ニ者徳川家権
威削かん彼是奸謀巡シ未タ京地不成穏尤姦物とも常々厳重用意いたし居要意ニ者難行候間
何レも会藩与心合是非天誅加へ度乍併大諸侯後呂見も有之候得者小子共天命短夕事与心配
罷在候若亦京地身命捨候節ハ父事者何分可然様養育伏而奉願上候
644 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 01:00:44.18 ID:lbdoIabu0
松平容保の命令で手代木が佐々木に支持した、というのが一番尤もだと思うのだが。
近藤勇の当時の行動も、会津藩が大政奉還への動きを察知した直後からであり、
それ以前の、永井が土佐藩と大政奉還へ協議していた時期ではない。
645 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 01:03:22.13 ID:lbdoIabu0
ここの永井暗殺説の人は、松平容保の怪しさを隠蔽するために
言っている相手に狂信者と罵ったり、人を愚弄中傷しては喜んでいる。
まるで松平容保やその支持者本人が人殺しであるかのような振る舞いだ。
646 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 01:20:31.21 ID:lbdoIabu0
>>586,587
永井説の人はこのように、都合の悪いところが出ると、「あいつは時々嘘を混ぜる」と嘘をついて、
自説への誘導を図る。
>>会桑両藩が諸侯に権限を渡さず、尊王攘夷派へは苛烈な弾圧処刑を繰り返していた
>と書いていますが、ではその例を挙げてくださいというと挙げられないでしょう。
会津藩の大政奉還への反対姿勢は、将来のあるべき公儀政権での諸侯の活動を阻害したという点で、権限委譲への反対姿勢ですね。
その上尊王攘夷派への弾圧は過去からその時点まで改まらない。
他人へは例を挙げられないうそつきといいながら、実は松平容保への過剰な擁護を重ね、嘘をばら撒くのがこの人の姿勢です。
>>587も同じ。
>1についても2についても確証がない。
といいながら、示したことへは全て言及を避け、松平容保自身が守護職辞任を拒否した事実は無視して小説上の謙譲精神噺のみを書く。
この人は事実を示さない。松平容保の実際の行動は不正まみれです。
彼の行動を糾弾することは、諸侯が何故大政奉還後に一会桑から離反したかの説明に必要です。
松平容保の行動を問えば、糾弾の形になるのは止むを得ないことです。彼はそういう人間なのですから。
まぁ休日出勤サービス業な先生は「置いておいて」と
>>639 いつごろの証言なんだろね?著作あったようだから「そこから」の引用かな?
ホント、ふたりの「性格」というのが解る内容だわなw
・・て考えると、では高台寺党の処分は「どっち」が言いだしっぺなのかな?とかね
あと、これだけでは判らないけど、なんか「上から目線」のようなww
648 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 06:58:06.59 ID:lbdoIabu0
>>603 薩長両藩が幕府と何故軍事的に対決するに至ったかですが、長州の場合、二度の幕府による出兵がある上に、
松平容保らは再度の出兵を堅持し、彼らによる体制が固まれば再征は必至でした。
薩摩の場合、四候会議における主導権確保失敗が大きかったと思われます。
徳川慶喜の無力化を、以後薩摩は一貫して堅持します。
逆に言えば、徳川慶喜が島津久光に花を持たせていれば、久光は討幕に至らなかった。
それと大きいのが、薩摩琉球を経由した日本と諸外国との貿易代金の増減が、薩摩藩の財政そのものであったこと。
幕府の貿易管理は尻抜けでした。生糸も蚕紙も寒天も昆布も茶も、薩摩で作っていないものも全国から薩摩藩が購入し琉球から輸出されていましたから。
各地の開港と幕府官僚による貿易管理は、薩摩藩財政にとって極めて都合の悪い事象でした。
薩摩が主導権を得るには、各地の開港で藩財政が逼迫する前に幕府と勝負をつける必要があったわけです。
それにしても、永井説の人は
>>647のように罵倒と嘘を続けるだけで、全く根拠のない話を続けているものだ。
649 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 07:24:51.49 ID:lbdoIabu0
>>615,618,634
今井の最初の2つの証言によると、
兵部省口書 明治三年二月では、二階に上ったのは今井ではなく、佐々木と他に隊士三人、
上がった人間の話によると二階には三人いて、どれも討ち果たした、ということになっています。
もう一つの刑部省口書では、二階に上ったのは今井ではなく、佐々木と他に隊士三人、
上がった人間の話によると二階には三人いて、龍馬を討ち取り他の2名に斬りつけたが、そちらの生死はわからない、ということになっています。
峯吉の証言と併せると、中岡は屋根へ逃げたので、主目標ではないと捨て置いたのかもしれません。
今井は、後の「私が龍馬を斬ったのだ」「坂本さんお久しぶりですと尋ねて龍馬がどちらか確かめたのだ」という発言修正の前から、
中岡慎太郎ではなく坂本龍馬が主たる暗殺目標であったと、していることになります。
>>649 いまだに今井信郎・渡辺一郎という精神病質者の虚言癖全開の自慢話に
ダマされ続けたまんまのわいそうな人がいるとは・・・・
651 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 10:00:52.53 ID:mbfXoHTl0
容保先生は昼夜逆転の生活を送っているのかなww
まあ、それはどうでもいいが、では、
>会桑両藩が諸侯に権限を渡さず、尊王攘夷派へは苛烈な弾圧処刑を繰り返していた
という例を挙げてください。具体的に。どんな「苛烈な弾圧処刑」がありましたか?
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 10:13:39.57 ID:mbfXoHTl0
暗殺指令者予想
◎◎ 板倉勝静
△ 小笠原長行
▲▲ 永井尚志
△○ 松平容保
× 松平定敬
これ以外では手代木、大目付、目付、町奉行、見廻役etc
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 10:21:00.84 ID:Fu01EUZlO
それはいったい誰の予想だよ…
654 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 12:37:54.43 ID:vYBI5uKO0
殺害現場の近江屋と土佐藩邸の位置関係は近いでしょ。
それと、福岡藤次がいた芭蕉は近くの大和屋となっている。
臭いよね。
だれか、この位置関係とかの地図が載ってるHPがある?
知ってたら、教えてください。
お願いします。
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 12:58:20.88 ID:QuLciPaq0
654
HPは知らないけど、本になら載ってるよ。たとえば菊地明「竜馬暗殺 最後の謎」p19
大和屋は近江屋の南、三軒目?くらいの位置にある。
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 17:32:09.37 ID:vYBI5uKO0
655様
丁寧は紹介、ありがとうございます。
本は急には取り寄せられないので、
他にHPでよいのがあれば教えてください。
というのは、近江屋の隣とかいてあるものもありでして。
マー、二、三軒先も隣でしょうが。
657 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 19:17:06.07 ID:2DCBj4oQ0
清河暗殺はどうやら老中小笠原の命令らしい。
一橋家の家臣で、慶喜の小姓であった村井鎮(後に久五郎、摂津守)の回想記「村摂記」。
「時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果たせしむることになった、
其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して」とあり、特記事項として「左の人名は本文に掲ぐべからず」とした上で、
「御老中は小笠原壱岐守、当時図書頭と云ふ、頭は、松平上野介、前主税之助と云ふ、高橋伊予守、精一郎と云ふ、山岡鉄太郎、
内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」
658 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 19:33:33.28 ID:2DCBj4oQ0
清河暗殺には二つの理由があったようである。
1 攘夷決行が4月15日だったので、未然に防ぐ必要があった。
2 清河には朝廷・関白鷹司輔煕から攘夷の達文が下されていた。ゆえに大っぴらに捕縛できなかった。
ここから龍馬暗殺を推測すると、
1 坂本・中岡が何かを企てていたので、それを未然に防ぐ必要があった。
2 坂本・中岡が土佐藩士だったので大っぴらに捕縛できなかった。あるいは、
坂本・中岡が公家から何かの支持を得ていたので大っぴらに捕縛できなかった。
3 天満屋事件は、龍馬暗殺は幕府の指示ではないと思わせるためのカムフラージュである。
659 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 19:38:56.10 ID:2DCBj4oQ0
660 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 19:44:55.11 ID:2DCBj4oQ0
すぐ隣りではなく、一軒か二軒隔てた隣りだったはずである、何かの本で読んだ記憶によれば。
661 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 21:08:35.79 ID:4hfJxD/60
とにかく坂本・中岡と公家の関係を調べる必要がある。
それと清河暗殺は頭一名と刺客五名で、龍馬暗殺とほぼ同じような人数構成である。
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 21:18:26.72 ID:4hfJxD/60
龍馬は和戦両様もしくは平和論者とされているが、それは本当か。
もしかしたら薩長と龍馬は最初からグルだったのではないか。
船中八策も薩長の指示だったのではないか。
大政奉還も薩長と龍馬がグルで仕組んだのではないか。
龍馬の大政奉還は幕府を油断させるためのカムフラージュだったが、
後藤も土佐も幕府もそれを知らなかった。
龍馬は討幕の密勅のことまで知っていたのではあるまいか。
永井と会談したのはあくまで幕府を油断させるためでは?
663 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 21:28:48.71 ID:4hfJxD/60
ところが幕府の中に龍馬の本心が討幕であることを見破った鋭い男がいた。
たとえば近藤勇である。
>>643にあるように近藤は
奸人共表ニ者尽忠報国飾り
ということをよく知っていたからである。そこで近藤はたとえば容保に注進し、
容保は幕閣に報告して、協議した。そして暗殺と決まった…
664 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 22:58:19.05 ID:Fu01EUZlO
その場合、龍馬だけを暗殺したところで何も状況は変わらないと思うが。そんな事実をつかんでるんなら、土佐藩に詰問すればいいだけじゃない
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 22:58:57.55 ID:lbdoIabu0
>>651 >会津藩の大政奉還への反対姿勢は、将来のあるべき公儀政権での諸侯の活動を阻害したという点で、権限委譲への反対姿勢ですね。
>その上尊王攘夷派への弾圧は過去からその時点まで改まらない。
>他人へは例を挙げられないうそつきといいながら、実は松平容保への過剰な擁護を重ね、嘘をばら撒くのがこの人の姿勢です。
回答はこれですね。全く、他人に嘘をばら撒くのに本人は反省しないのが、松平容保信者の特徴でしょう。
666 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 23:21:10.73 ID:lWBysm130
>>662 慶喜は薩長の討幕戦避ける為に大政奉還したんだが
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 23:30:52.43 ID:lbdoIabu0
>>652,661
永井を暗殺者に仕立てることが無理と分かり、代わりに板倉を暗殺犯に仕立てようとしても、
徳川慶喜の朝廷への大政奉還願の筆者は、大政奉還当時囁かれていた永井より、現在の研究では板倉及びその部下とされております。
松平容保及び会津藩が、大政奉還に一貫して反対の姿勢を示していたことを考慮すれば、
坂本龍馬への暗殺意思を持っていたのは、松平容保の側とすべきでしょう。
土佐藩による大政奉還建白書提出直後の、近藤勇及び新撰組の不穏な行動を考えれば、
松平容保に対する一部の人間の過剰な擁護こそ奇妙な話でしょう。
他人の人格を傷つければ他人の主張が崩れると思っている人に限って会津藩と松平容保が好きなのですから、彼らの精神が推し量られるというものです。
坂本と中岡の大政奉還後暗殺されるまでの行動は、土佐藩尊王攘夷派の軍備強化と京都への戦力集結にあったわけですから、
坂本が狙われた原因としては、この両名が軍備を何に使おうとしていたかが問題になります。
穏当なところでは京都における土佐藩の発言力強化なのですけど、それを越える計画があったのか。
王政復古は、土佐藩や越前藩が事前に徳川慶喜に連絡した形跡があるので、少なくともそれを超える計画でないと、
大政奉還の枠組みを崩してまでして暗殺する理由がありません。もっとも、大政奉還に元から反対だった人々は遠慮はしないでしょうが。
668 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 00:05:55.30 ID:7KSquToJ0
>>662 >船中八策も薩長の指示だったのではないか。
>大政奉還も薩長と龍馬がグルで仕組んだのではないか。
薩摩は当時、長州・芸州との協同武装蜂起による京都占拠計画を進めており、
土佐藩の大政奉還建白書については、計画を混乱させるとして幕府への提出に難色を示しています。
しかしこの協同出兵は事前に情報が漏れており、時間が経つにつれ実行が困難になっていました。
薩摩藩家老の小松帯刀はこの時点で、一転して幕府を政権の座から下ろす計画として土佐藩の大政奉還建白書提出に理解を示します。
将来の土佐藩との提携の材料として、薩摩は武装蜂起を一旦中断し、土佐藩の大政奉還建白書提出に合意を出すことになります。
薩摩としては、失敗必至の現在の蜂起計画を続行するよりも、もし大政奉還が実現すれば望外の利益が得られ、
もし徳川慶喜が拒否した場合も、反幕府蜂起に土佐藩を参加させて勝率を上げることが出来ると考えたわけです。
つまり、土佐藩の大政奉還建白は薩摩が望んだものではありませんが、最大限利用するために最後になって賛同したわけです。
>>667 坂本龍馬お参り候事に相成候えども、毎々は嫌疑もこれありにつき、
夜中に出かけ候事にて、すなわち昨夜も参り申し候、
象二郎とは又一層高大にて、説も面白くこれあり、
彼が申すところ至極もっとも候えども、未だ時機至らずと申し聞き候ところ、
夫れは薩土に任せ候へば、必ず行なわれ申すべしとの事ゆえ、
例の兵威をもって事を成し候ては、朝廷へ対し相済み申さず候、
夫れゆえに「兵力によらずして行なわれるべし条理あり」と申し候ゆえ、
左様なれば兎にも角にも申し置き候との物語なり。
中根雪江 「丁卯日記」
事件当日、永井より二名の印象を聞く
670 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 09:41:01.86 ID:cVMICdkK0
あいかわらず容保先生は具体例を上げないな。いつもいつも教科書の丸写しだな。少しは定説を疑うということを学んでもらいたいね。
1 会桑両藩が諸侯に権限を渡さず、尊王攘夷派へは苛烈な弾圧処刑を繰り返していた 。→具体例を示してください。
2 容保は大政奉還に激怒した。→確実な証拠を示してください。「丁卯日記」と岩倉書簡では確実な証拠とは言えません。
3 容保は大政奉還の建策者が龍馬だと知っていた。→確実な証拠を示してください。「寺田屋お登勢文書」では確実な証拠とは言えません。
先生、これらが示せないなら、あなたがどんなに容保説を唱えても信憑性はありません。
671 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 09:59:56.40 ID:cVMICdkK0
寺田屋お登勢文書に記載されている、龍馬が、容保とも会っているから安心してください、と語ったというのが嘘っぽい理由についてはわたしは既に書いた。
>>364 >>385 参照。
672 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 10:02:01.48 ID:C1O3iuw1O
バカだろ、お前。確実な証拠なんかあれば、とっくに犯人も黒幕も判明してるだろ。
自分は推測をだらだらと垂れ流して、他人には確実な証拠を出せか?
673 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 10:51:02.78 ID:cVMICdkK0
推測さえ出せないバカは黙ってろ。
お前は新選組ガーか? 幼稚園に行って来い。
674 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 10:59:41.76 ID:C1O3iuw1O
さっさと確実な証拠を出せよ。今度は誰のブログを出してくるんだ?
675 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 11:32:25.32 ID:cVMICdkK0
お前の言ってることは一理あるよ。だから反論はすまいと思ったのだが、
ついカチンときて、673を書いたのである。
それだけだ。お互い、アホな喧嘩はやめよう。
あれ?今日は昼間から先生がいるん??めずらしいな〜 休日かな??
677 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 15:19:46.78 ID:78JpQNSV0
新選組だから守護職。と教科書的に考えないほうがいいぞ。
新選組が設置されたとき、永井は京都町奉行だった。当然新選組とは接触があったはずだ。
その証拠に、見廻り組が設置されたとき、人数が足りないので、新選組から借用しようとしたことがあった。
このとき会津藩は断ったのだが、永井(当時大目付)に相談している。永井もそれは断ったほうがいいだろうという返事だったので、断ったとある。
つまり永井も新選組と深く関わっていた。
678 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 15:27:48.57 ID:78JpQNSV0
慶応三年の容保は八月まで病気と称して面会謝絶だったから、当然新選組や見廻組との関係も薄い。
そのせいかどうかは知らないが、近藤勇は永井と親密になっている。後藤と永井が会談したときも近藤がいたし、
油小路の変で永井の噂が流れ、龍馬暗殺の件でも永井が疑われている。
ちなみに大政奉還後に板倉と永井に新選組の警護が付いたが、それを命じたのも容保ではない。
慶喜が容保に命じて警護に付かせたのである。容保は国政への関心を失っている。
679 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 15:45:29.47 ID:78JpQNSV0
12月に永井の警護に付いているのが渡辺篤だ。一翁暗殺に起用されたのも渡辺篤。
もともと見廻組の隊士用の剣道場の道場主だったのだから、腕は達者だったにちがいない。
龍馬暗殺に参加したというのもあながち嘘ではあるまい。渡辺篤の履暦書はもっと信用されてもよい。
かなぁ〜?今井とどっちを信じる?言うたら「今井」さんになるけど・・・・
まず、今井の証言の「渡辺」とは別人であること
そこまでの名であれば、今井は見知って当然かと思われる
(今井自体も、幕府の職を転々としていた)
道場主「だった」からこそ、つてで情報を得ることが出来た
後に、奈良県警の本部長にまでなった人だから、その「つて」でも可能かと
覚書を書いているじゃないか?と言われるが、何故か明治初頭に書かれていること
本来であれば、事後「直ぐに」ではないのか?
腕は達者・・・だったからこそ、「何も」実績の無いことに不安があったかもしれん
よく言うじゃない、我が家は「武門の誉れ」高い由緒ある家だ・・・・とかね
681 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 18:57:11.75 ID:2yyFdHx40
>>573 >>574 >>575参照。当然今井は渡辺一郎を知っている。
今井が挙げた七名は今井以外全員死んでいることが不自然だと指摘されている。
つまり今井は生きている人を庇うために嘘のメンバーを挙げたのではないかと考えられている。
わたしは今井は渡辺篤を庇うために渡辺吉太郎の名前を挙げたのだと考えている。
その渡辺吉太郎が鞘を置き忘れたと書いたので、それを読んだ渡辺篤が、汚名返上のために、
履暦書を書いたのだ、というのが菊地明?の説である。
でもそういう「解釈」をしちゃうと、他の証言「そのもの」も胡散臭く聞こえると思うが?
683 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 20:51:15.41 ID:TcC6HehB0
678
慶喜が、なぜ、新撰組に要人の警護を頼んだのか??
分かるかな????
684 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 22:36:49.52 ID:7KSquToJ0
また松平容保擁護の嘘を撒く人が出ている。
>>670 >あいかわらず容保先生は具体例を上げないな。いつもいつも教科書の丸写しだな。少しは定説を疑うということを学んでもらいたいね。
各種の証拠、そこから得られる傍証があるから定説もあるのですよ。あなたの妄想は松平容保擁護で飛躍が激しく、信用に足るものがない。
1.について
>>655の回答例は無視し、そんなものはなかったと嘘をつく。これが松平容保擁護の行動というものですよ。
さあ、皆さんもご覧ください。松平容保擁護は嘘をついて、他人を中傷している。
2.3について
「確実な」とあなたが限定せざるを得ない理由は、これらの松平容保が大政奉還に激怒し撤回を再三主張したという論拠が、
動かしがたいからです。私はこれらの論拠で十分と考えますし、一般的な研究者も同様です。
松平容保は大政奉還に激怒し、そして坂本龍馬は松平容保に面会した可能性が極めて高いのです。
また、松平容保は実兄の辞任要求も拒絶し京都守護職に留まっています。半引退だったとか、権力へ固執がないという表現は後世の誤魔化しです。
>先生、これらが示せないなら、あなたがどんなに容保説を唱えても信憑性はありません。
むしろ、容保が関係しないという説に甚だ疑問があります。
松平容保は幕府の重臣にして坂本龍馬の大政奉還運動において主たる説得目標でした。
これを否定するあなたの意見は、どこにも信じるに足る要素がない。
685 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 22:46:00.85 ID:J3QEPumZ0
>松平容保が大政奉還に激怒し撤回を再三主張した
>坂本龍馬は松平容保に面会した可能性が極めて高いのです
>松平容保は幕府の重臣にして坂本龍馬の大政奉還運動において主たる説得目標でした
だから先生、これらの史料を挙げてくださいよ。
686 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 22:56:40.16 ID:J3QEPumZ0
とくに「松平容保は坂本龍馬の大政奉還運動において主たる説得目標だった」というような話は聞いたことがない。
これも先生お得意のちょこっとした嘘ですか? それとも先生の勝手な妄想?
687 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 23:03:52.73 ID:J3QEPumZ0
龍馬が大政奉還の件で会談した幕府要人は永井だけですよ。
容保と会談していたなら、どこかの藩士や公家の日記などに必ず残っているはずだし、
龍馬の書簡に残っていてもおかしくない。土佐藩の重役の日記にも残っているはずだ。
ところがそういう史料が一切ない。それでも先生は
坂本龍馬は松平容保に面会した可能性が極めて高いのです
というのだろうか。
688 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 23:07:38.59 ID:J3QEPumZ0
>松平容保が大政奉還に激怒し撤回を再三主張した
これも手代木が反対したとか会津藩が憤激したという記録はあるが、容保が激怒したという記録はない。
689 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 23:36:39.72 ID:7KSquToJ0
松平容保の命令による、新撰組の板倉・永井警護はその実かなり胡散臭い。
私は、警護に名を借りた大政奉還阻止のための監視の可能性があると見る。
この警護、もともと松平容保が二条城との往来時に板倉・永井に危害が及ばないように警護すべきと主張したのだが、
当時の新撰組の行動がかなり不穏だ。
まず、後藤が大政奉還建白を板倉に行ったと会津藩へ通知した翌日には、近藤勇は後藤象二郎へ大政奉還建白書の写しが欲しいと要望している。
次に当時の陸援隊隊士の書簡に、新撰組が土佐藩邸及び陸援隊屯所へ監視を続けていると記述がある。
また近藤勇自身の発言によると、「大政奉還は論外。幕府の権威を高めてこそ公武合体は成立する」。
また徳川慶喜が大政奉還を表明すると、近藤勇は正親町三条宅を訪問し、
尾張候や越前候が参内登城して受諾斡旋をしないように脅迫している。
近藤勇の意思は、明らかに大政奉還阻止にあった。
そして土佐藩への監視も、大政奉還建白書を提出したとの会津藩への通知から始まり、
板倉・永井への「警護」も、会津藩主松平容保の主張から発している。
690 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 23:49:04.43 ID:7KSquToJ0
>>685-688 松平容保及び会津藩が大政奉還に激怒し、撤回を執拗に要求していたことについて、
「容保さまじゃないに違いない、藩士や藩の発言だ」と主張する割には、そのための論理を全く書かないあなたはおかしい。
岩倉具視、手代木直衛門、そしてあなたがよく引用する「慶喜公記」にすら会津の大政奉還への激怒は色濃く描かれている。
まして上に挙げた近藤勇の発言、どこにも大政奉還推進などには見えない。
まあ丁卯日記では、手代木が松平容保候も大政奉還に激怒していると主張がある一方で、
一部の会津家臣へは越前藩から大政奉還を説得した、という記述もあるのだが。
これで「容保サマは大政奉還推進の立場だった」、「容保サマは何も知らなかった、禁治産者だから」と言い換えるのは、
松平容保自身への冒涜に思えます。徳川慶勝による辞任要求拒絶も松平容保自身の行ったことです。
691 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 00:19:04.60 ID:QLpvYxfO0
司馬氏の歴史と視点に書かれてる
渡辺なる人物がそうであったとしてるけど
実際はどうなのだろうか??
佐々木只三郎がやったとなると
これは凄いことだよね・・・
清河と竜馬、中岡なんて。
会津絡むとホント「理性失う」やからが多いからねw龍馬の件に限らずさww
質問に答えろ・・と聞かれて「別」な質問をぶつけては「はぐらかす」
挙げ句の果てには質問「自体」が可笑しいと切り返す始末w
あまり相手にしないほうがいいよ?無駄な労力w
693 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 17:26:28.93 ID:EjVjOV5m0
龍馬と永井はどこで会談したのか。たぶん永井の屋敷だろう。まさか城中で会談したわけではあるまい。
では容保はどこに住んでいたのか。守護職屋敷か。すると龍馬が容保と会談しようと思えば守護職屋敷に出かけて行かなければならないが、
そんなことが可能だとはとても思えない。指名手配犯が警察庁に出かけて行くようなものだからである。
ゆえに龍馬が容保と会談したというのは眉唾ものである。はっきり言えば嘘だろう。
694 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 18:25:55.02 ID:5eYiyWPkO
その理屈はおかしいね。あなたがそう思うのは勝手だけど
695 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 19:05:30.05 ID:EjVjOV5m0
694は容保先生かな。どうおかしいのか、それを書いてくれないと。
696 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 19:10:23.17 ID:a3GVm6dw0
幕府会津の誰がやってもおかしくないね。
大政奉還も慶喜のほとんど独断みたいなもの。
だから鳥羽伏見で衝突した。
697 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 19:15:28.65 ID:5eYiyWPkO
警察庁にいけない指名手配犯なら、そもそも暗殺などしないで堂々と捕縛すればよい。堂々と捕縛できない人間なら、警察庁にも行けるよ
698 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 19:26:54.39 ID:EjVjOV5m0
龍馬と永井が最初に会談したのはいつなのか。
10月10日に会談したと書いてある本がたまにあるが、
ブログなどの龍馬の年表や幕末年表を見ても10月10日にはそういう記載はないが。
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 19:32:59.77 ID:5eYiyWPkO
ちょいちょい自分の都合のいいように解釈するよね。ちょっと見方を変えれば、会うことのできる永井より、屋敷に立ち寄ることも危険な容保のが、よっぽど怪しいとは思わないんですか?
700 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 20:01:35.61 ID:EjVjOV5m0
>>699 たしかにその通りだが、容保先生をおちょくるために、わざと強硬な書き方をしている面もあるのですよ。
わたしも永井説一辺倒ではない。最近は少しは容保も怪しいと思うようになった。それで公平を期すために、容保説に有利な資料もここに上げている。
それはさておき、危険といえば守護職屋敷だけでなく、二条城も危険だろう。だから永井と会談したのは、永井から呼ばれたのだろう。
龍馬のほうから自分で押しかけて行ったのではないと思う。
ところで容保が永井と同席で竜馬と会ったという話があるそうだが、ソースは何だろう。「寺田屋お登勢文書」か。
単にお登勢に心配をかけさせないために「言った」とも考えられるしね
どのみちそれ以上資料が無いから、その線では難しいと思うよ
702 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 21:20:54.55 ID:yKX7qLKB0
容保が、龍馬が大政奉還の建策者であると知っていたとすれば、
それは近藤勇からの情報ではあるまいか。
近藤は永井と共に後藤と会っているし、新選組というのは諜報機関でもあった。
(わたしはこのようにときどき容保説に有利な書き込みもしているのである、明敏な人なら文体で分かってくれると思うが。)
703 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 21:31:53.84 ID:yKX7qLKB0
話変わって、清河の場合、暗殺の翌朝、幕府は残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵二千名を動員している。
明らかに、攘夷の決行を防ぐための暗殺であった。
ところが龍馬の場合、海援隊や陸援隊が幕兵に取り囲まれたということはない。だから、
暗殺の理由がいまいちハッキリしないのである。何が何でも暗殺しなければならない理由があったのか…。
薩摩説などが出てくる理由がこういうところにある。
704 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 09:24:49.93 ID:gfpvCaBB0
黒幕予想
◎ 幕府
○ 土佐
▲ 薩摩
△ 紀州
× その他
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 10:02:23.27 ID:gfpvCaBB0
伊藤甲子太郎が「僕は君たちを斬ることになっている。新選組か見廻組が斬ることになっている。」と訪れて話したという話がある。
さあ、そこでだ。すると黒幕は伊藤甲子太郎や新選組や見廻組に命令することができる人物ということになる。
そうすると誰でも京都守護職松平容保だと思うだろう。
ところが、豈はからんや、龍馬暗殺の黒幕、伊藤甲子太郎暗殺の黒幕として永井の噂が立ったのである。
だから、図式的、教科書的にものごとを考えてはいけない。わたしは容保先生を刺激するためにこんなことを書いているのではない。
永井説は十分検討に値すると思うから書いているのである。
706 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 11:25:48.55 ID:JKOgwvBbO
伊藤に命令できるなら薩摩のが怪しいね。解釈の仕方でどうとでも言える話だ。新撰組が狙っていますと吹聴してまわる伊藤というわけだ。
あっちこっちの話を永井が怪しいとくっつけてるだけだね
707 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 11:32:37.61 ID:JKOgwvBbO
永井ではないと断定するわけではないけど、どうやっても辻褄が合わなくなること証言が多い事件だよね。
それはやっぱり、その後に勝者になった側がなんらかの隠蔽をしたと考えていいのではないかな。
直接、薩摩や土佐が暗殺したかどうかは別にして
708 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 12:52:32.96 ID:o1uH02gJ0
>>706 前にも書いたが、第二次長征のとき、永井は新選組を連れて広島に行っている。
近藤勇、伊藤甲子太郎も一緒だった。だから、永井と近藤らは気安い関係になっていたと想像できる。
その後、永井と近藤との会談のときも近藤が同席したし、中川宮が近藤を目付にしようとしたときも、
永井に相談すればうまくいくだろうという話が出ている。
つまり永井と近藤はツーカーの間柄になっていたと想像できる。
永井と新選組が深い関係になっていたからこそ、新選組の犯行と思われた龍馬暗殺で永井が疑われ、
伊藤甲子太郎暗殺でも永井の噂が立ったのだとわたしは想像する。
>あっちこっちの話を永井が怪しいとくっつけてるだけだね
とあなたは言うけれど、よりによってなぜ永井の名が出るのかを考えなければならない。罪を着せようと思えばいくらでもその候補はいるはず。
ところがなぜか、油小路の変でも龍馬暗殺でも、今井弟書簡でも、永井の名が出たのである。
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 13:07:03.54 ID:o1uH02gJ0
世の中には勝海舟さえ疑っている人がいる。しかし、勝を疑うくらいなら、その前に、まず永井を疑え、とわたしは言いたい。
710 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 13:27:49.42 ID:JKOgwvBbO
だったら、当時そこまで永井の名が出ていたと主張するなら、なぜ永井であると断定されていないのですか?
711 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 13:38:12.67 ID:o1uH02gJ0
わたしはいろんなブログを当たっているが、いまのところ、永井説を唱えているのは小松格氏だけのようである。
わたしが信頼している鏡川氏でさえ、永井にはまったく無関心である。
なぜだろう。要するにイメージ、先入観だと思う。
永井は大政奉還に賛成した人、永井は龍馬を理解した良い人…
こういうイメージがあるから、油小路の変の首謀者として永井の噂が立ったと聞くとビックリしてしまうのである、「エッ、なんで?」と。
おそらく永井説を採る者は、100人のうち5人くらいしかいないだろうと思う。
〜じゃん君でさえ、わたしの永井説には拒否反応を示した。最近新参の女性らしき人も永井説には懐疑的のようである。
女性は生真面目だから教科書に書いてあることをそのまま信じてしまう。容保先生も真面目な人だからそうなってしまっている。
712 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 13:44:28.61 ID:o1uH02gJ0
>>710 断定できるほどの確証がないからです。というよりむしろ指令者は板倉で、永井は伝達役に過ぎなかったと思い始めているし、
容保もたしかに怪しいなと思い始めているからです。最初は絶対に容保ではないと確信したのだが。
要するにわたしもイメージで推理しているのですよ。容保はそういう人間だとは思えなかったのですよ、これまでは。
713 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 14:20:08.18 ID:JKOgwvBbO
永井が命令して新撰組が実行犯であるという噂が、当時流れたのなら、大政奉還に反対の容保も、武力討伐したい薩摩も、喜んだでしょうね。
わたしは、教科書的というより、すべては勝者が都合のいいように書き換えた事件だと思っていますよ。
714 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 16:19:09.42 ID:A0AWbSU90
閑話休題。わたしは昔、占星術に凝っていた頃がある。占星術では次のように分類する。
男性星座 火の星座(牡羊座、獅子座、射手座)風の星座(双子座、天秤座、水瓶座)
女性星座 土の星座(牡牛座、乙女座、山羊座)水の星座(蟹座、蠍座、魚座)
そして男性星座同士、女性星座同士は相性が良く、男性星座と女性星座は相性が悪いと考える。
とくに最も相性が悪いとされるのは火の星座と水の星座である。
で、たとえば坂本と中岡はどちらも土の星座で相性◎、永井と近藤も水の星座で相性◎、
容保と慶喜も山羊座同士で相性◎、容保と孝明天皇も土と水で相性○、これらの人物はいずれも女性星座だから相性は○である。
これに対し、薩摩の西郷、大久保、小松、長州の高杉、桂、土佐の後藤などは男性星座である。(つづく)
715 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 16:31:45.84 ID:A0AWbSU90
さて永井だが、永井は魚座である。魚座というのは、心が優しく、気が弱くて周囲に合わせるタイプが多い。それと感情に波がある。
永井も感情に波があったようである。普段は温和だが、時として激昂するタイプ。
あまり知られていないが、魚座は二面性のある星座なのである。二面性というとすぐ双子座を思い浮かべるが、双子座だけではない。
占星術では魚座と射手座も二面性のある星座としている。だからといって永井が黒幕だと言っているわけではないが。
ちなみに板倉は獅子座で男性星座。永井とは相性が悪い。坂本や中岡とも相性が悪い。
716 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 16:43:00.51 ID:A0AWbSU90
まちがえた。板倉は水瓶座だった。
ちなみにお龍さんは7月23日生まれなので、実に微妙だが、ぎりぎり蟹座だろう。
蟹座なら龍馬と相性は○。ただしかなり獅子座的な面を持った女だっただろう。
717 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 16:47:44.33 ID:JKOgwvBbO
その誕生日は旧暦ではないのですか?
オカルト板でやれ
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 17:31:53.99 ID:A0AWbSU90
大変なチョンボを犯してしまった。永井は射手座だった。
射手座も二面性ある星座。男性星座。坂本・中岡とは相性悪い。
720 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 18:30:10.88 ID:JKOgwvBbO
そういうことは、個人のブログでやってればいいのでは?
721 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 18:51:44.09 ID:Jg/As80e0
>>700 嘘を押し付けるために、松平容保を過剰に擁護しているだけにしか見えません。
722 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 19:14:00.67 ID:Jg/As80e0
>>702 それはありませんね。
永井が後藤象二郎と面会を行い、永井が近藤勇を後藤に紹介したのが9月20日。
意見は全く折り合わず、後藤は近藤の後日送ってきた書簡の、大政奉還建白書の写しを見たいとの要望も無視しています。
(「伯爵後藤象二郎」という自伝的な本によると、日程は不明ですが一度だけ近藤と会った話はあります)
その後両者は全く交流もなかったのに、10月4日を期に近藤勇は大政奉還阻止に動き始めます。
7月や8月の、永井と後藤が内々に大政奉還を話し合っていた時期ではありません。
10月4日 後藤ら会津藩邸を訪問、大政奉還建白書提出を言明
10月5日 新撰組の近藤勇、後藤象二郎に大政奉還建白書の写しが読みたいと書状を送る、後藤は後日送ると約束したが実行せず
10月9日 会津藩主松平容保、新撰組の近藤勇へ板倉勝静と永井尚志の身辺警護を厳命する
10月13日 徳川慶喜、二条城にて諸藩代表を前に大政奉還の意思を伝達する
10月14日 徳川慶喜、朝廷に大政返上の起草文を提出する
10月14日 新撰組の近藤勇、正親町三条邸を訪問し尾張候と越前候が登城しないようにと脅迫する
10月15日 朝廷、大政奉還受入れを決定
あなたは嘘をついてまで松平容保を擁護する。それは許しがたいことです。
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 19:39:36.59 ID:Jg/As80e0
また、徳川慶喜の朝廷に提出した大政奉還上書が、
土佐藩の大政奉還建白書の9日後に提出されていることを考慮すれば、
徳川慶喜・永井尚志と、大政奉還上書を実際に作成した板倉勝静及び山田方谷(板倉の腹心)は
10月3日の、土佐藩による大政奉還建白書の板倉勝静への提出の前に
土佐藩の大政奉還建白を受け入れることを決定し、大政奉還上書を作成していたと考えるべきでしょう。
実際のところ、小松帯刀の板倉勝静への質問
「ご老中は受け入れる意思があるとおっしゃいましたが、それならいつ朝廷に提出するか明言できますよね」が、
翌日に提出するという板倉の回答を誘い、敏速な徳川慶喜の大政奉還宣言になったという面もあるのですが、
文章自体は作成されていたわけです。
あなたは松平容保を庇いたいあまりに、板倉を大政奉還反対派に仕立て上げようとする、この行為も変。
724 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 20:21:27.40 ID:l10t3L790
永井尚志が賛同したっても
結局永井も最後まで新政府と戦ったわけだから
大政奉還賛同時と状況が変わったってこと
725 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 20:47:40.72 ID:JKOgwvBbO
永井の期待した大政奉還は慶喜を盟主とした新政府で、薩長中心の新政府を作るためではないので。
それを薩長のクーデターによって、ひっくり返されたという話です
726 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 20:57:35.09 ID:l10t3L790
つまり永井は龍馬と大政奉還は賛同しても根本的な考えが違う
慶喜ですらそうだろう
龍馬の根本的な立場はあくまで尊皇攘夷実現
朝廷政治の確立が第一
727 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 21:03:33.47 ID:pQsDZPxE0
>>722 先生は何か誤解されていますね。わたしは先生の説に助け舟を出すつもりで
>>702を書いたのです。
容保が、龍馬が大政奉還の建策者だと知っていたとすれば、ざっと考えて次のどれかでしょう。
1 幕府の密偵の情報
2 龍馬と会談して知った
3 近藤(新選組)からの情報
4 永井からの情報
で、1は資料がなく、2は「お登勢文書」だけ。それでは先生の説が成り立たないから、3の可能性もあるでしょうと助け舟を出したのです。
実際、近藤は二回?後藤と会ってますから、そのとき聞いた可能性があります。それから永井はそれより多く会ってますから、永井は後藤から聞いた可能性がある。すると、
永井が近藤、あるいは板倉や容保に語ったかもしれない。実際、永井と龍馬が会談したのは11月11?だが、それは永井が龍馬が大政奉還の建策者だと知ったから実現した会談だろうから、
実際はそれ以前に知っていたはず。だから板倉も容保も近藤もそれ以前に知っていた可能性がある。
先生、わたしはあなたに助け舟を出しているのですよ。
だからさ〜先生「相手に」するなってww
それとも「似たもの同士」だから仕方がない??
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 21:12:23.95 ID:pQsDZPxE0
>>723 これについてもわたしはくどいほど書いた。
板倉や永井が大政奉還に奔走したことは認める、と。それは誰もが知っている事実である。
ところが11月8日以後の「丁卯日記」の記事に、板倉、手代木、永井、渋沢らがまだ大政奉還に不満を持っているので、
春嶽と中根が説得に当たったという記事が出ている、と。
わたしが何回書いても先生はこれを認めようとしない。
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 21:20:26.20 ID:Jg/As80e0
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 21:25:46.59 ID:Jg/As80e0
>>729 不満を持っていたということに反対しているのではなく、
「不満を持っていたからこの時期に板倉と永井は大政奉還反対派に回っていた」、というあなたの説がおかしいのです。
その後も江戸などから大政奉還撤回の要請は次々に来ましたが、これをなだめて追い返したのは板倉と永井であったとされています。
この際「慶喜公は二条の次の摂政に就く事になる」「慶喜公が公儀政権の長なら幕府と同じこと」などと説明があったとされ、
明治以降は徳川慶喜は一転してもみ消しに懸命になっています。
732 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 21:29:20.47 ID:l10t3L790
大政奉還は10月14日に行われ、龍馬の暗殺が11月15日
その間の状況は、大政奉還実行の賛否が中心になり、板倉らは大政奉還を悔しがり、会津などで幕府復権論を起き、渋沢誠一郎は兵力を合わせれば政権の取り戻しも有ると尾張藩などに出兵を要請
薩の西郷、小松、大久保、土と芸は誰々を討つべきと状況がむしろ緊迫
733 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 21:42:12.28 ID:pQsDZPxE0
>>731 なるほど、やっと分りました。しかし厳密に言えば、わたしは
>この時期に板倉と永井は大政奉還反対派に回っていた
などと書いたことはありません。では逆に聞きますが、
「この時期に容保は大政奉還反対派に回っていた」という証拠はありますか?
「慶喜公伝」ではそのずっと前に、容保、定敬は大義を了解していただろうが、という記事がありますよ。
734 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:00:57.27 ID:Jg/As80e0
岩倉具視から大久保一蔵(利通)への書簡(慶応3年10月16日付)
会狂気の如く憤然是非薩邸を討つなど段々申し候由
万事畢竟は西小大の三人これあるゆえ也
土には云云芸云云これらを斃すべしと種々議論ある由・・・・・・
徳川慶喜公伝では
紀の三浦、大垣の井田らは土佐藩討つべしとさえ声を上げ、まして会桑のごときは憤慨大方ならず・・・・・・
会津のどこに大政奉還への賛意などあるのでしょう?大政奉還の足を掬ったのは、会津藩であり松平容保です。
あなたは会津藩の大政奉還への叛意に対しては、「松平容保候はいい人!」と小説から洗脳された感情論に走り、
会津藩のやったことへはまともに向き合おうとしない。
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:09:28.71 ID:JKOgwvBbO
会津=容保か?ということを言っているんではないですか? 薩摩=久光か?って話と同じで。
わたしは容保説でも永井説でもないので、どうでもいい話ですけど
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:13:39.23 ID:Jg/As80e0
見廻組は警察組織であり、彼らが動くには上司の承認が必要です。
内部粛清の延長のつもりで、既に朝臣となっていた伊東甲子太郎やその部下の高台寺党を討った新撰組ならまだしも、
見廻組の捕縛行為には上司の承認が必要です。そして見廻組の今井は御指図(京都の幕府中枢からの命令)があったとしています。
当時の京都の幕府中枢が
征夷大将軍:徳川慶喜
筆頭老中:板倉勝静
若年寄並:永井尚志
見廻役:小笠原長遠(形式的な人事に過ぎなかったと後世表明、戊辰戦争前に辞任)
京都守護職:松平容保
京都所司代:松平定敬
といったあたりに限定される以上、大政奉還を進めた徳川慶喜、板倉勝静、永井尚志を除外すると残るのは、
松平容保を筆頭とする大政奉還反対派、ということになるわけです。
737 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:35:12.33 ID:pQsDZPxE0
>>734 まったく
>>735さんの言っている通りである。
会津が憤激し手代木も大反対だったことは分かっている。しかし小野は賛成だった。
後藤から大政奉還説明の話があったとき、藩論が一決しなかったとあるように、藩全体が反対していたわけではない。
「慶喜公伝」でも、容保、定敬は大義を了解していただろうが、藩士は未練を持っていたので…と書かれていて、会津=容保ではない。
藩議を開いて意見を聞いているところをみると、強硬な反対派ではなかったと思われるし、藩論が一決しなかったのも、容保が強硬な意見を持っていなかったからだろうと思われる。
とにかく重役や藩士はどうであれ、トップの容保の考えがどうであったかが問題である。
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:41:54.72 ID:JKOgwvBbO
薩摩も長州も土佐も、藩論はひとつにするのは簡単ではないでしょうから、藩論が一致しないから容保は黒幕じゃないというのは乱暴ではないでしょうか?
薩摩では久光の承認は、やはり必要なのでしょうか?
739 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:42:26.78 ID:pQsDZPxE0
>>736 今井は京都守護職松平容保は幕閣だとは認識していない。そういう文意である。
幕閣と呼べるのは板倉と永井だけである。
ただし定敬は城中においては老中扱いされていたから、定敬も入れるべきかもしれないが。
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:45:20.43 ID:JKOgwvBbO
やはり見廻組が公務として行ったとすれば、容保説に落ち着きそうですね。容保本人が強い意志で承認したかどうかは別にして、承認は必要だったということですかね
741 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:52:35.08 ID:Jg/As80e0
>>739 >今井は京都守護職松平容保は幕閣だとは認識していない。そういう文意である。
>幕閣と呼べるのは板倉と永井だけである。
今井の発言を読む限り、そんな解釈は成立しません。
京都守護職は一会桑政権の中枢にして、大政奉還当時の幕府の中枢です。
742 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:54:20.25 ID:pQsDZPxE0
藩論が大政奉還に賛成であったとしても、容保が反対なら、暗殺指令を出すだろう。
逆に、藩論が大政奉還に反対であったとしても、容保が賛成なら、暗殺指令は出さないだろう。
暗殺ですよ、暗殺。政治条項を決定するのとはわけがちがう。
藩の重役が龍馬暗殺を決定したからといって、はい、そうですか、と暗殺指令を出すだろうか。
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 22:56:47.62 ID:JKOgwvBbO
史学は史料を読み解くという学問でしょうから、いまのところは、そこに落ち着くということでしょうね。
それでも、わたしはそれには違和感を感じていますので、勝者が見廻組実行犯のシナリオを書いたと思っていますけど
744 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:01:57.04 ID:JKOgwvBbO
暗殺はそんなに当時、重要な案件ですか? ちょっと冷静になってくださいね。将軍暗殺とか、藩主暗殺じゃないんですよ。暗殺だらけの京都ですよ
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:02:47.39 ID:pQsDZPxE0
見廻組がいろんなところからの指示で動いていたことは既に例証した。
最も決めがたい件は老中に相談せよという取り決めがあることもわたしは示した。
だから見廻組が公務としてやったとしても、容保の指示とは限らない。
746 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:09:15.93 ID:pQsDZPxE0
暗殺だらけの京都であったといっても、幕府が諸藩の藩士を暗殺したといういう例は殆んどない。
清河暗殺はきわめて切羽詰まった状態だから行われたこと。
そう軽々に幕府が暗殺を行うことはできない。それゆえ清河暗殺も老中の指示とされている。
下っ端役人が軽々に行えることではない。
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:17:01.43 ID:JKOgwvBbO
暗殺が見廻組だとすると、そういうことになるんですね。わかりました。
では、自ら動いて大政奉還を成立させ味方につけた土佐を、龍馬暗殺によって敵にまわした理由はどこにあるのでしょう?
748 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:22:04.02 ID:Jg/As80e0
薩摩も土佐も、龍馬暗殺直後から近年まで新撰組実行犯説で、
見廻組実行犯説は、新撰組大石証言によって今井が明治新政府に尋問を受け、
その後、今井が自分から真犯人だったと触れ回るようになって、世に知られるようになった説です。
新政府は、近藤勇を谷干城が有無を言わさず斬首処刑してしまった関係上、
その後、見廻組を実行犯とする有力証言が集まっても、新撰組説を止めることができなかった。
新撰組でも見廻組でも、命令を出せるのは京都の幕府中枢。
新撰組の場合は、朝臣であった伊東を襲った例や商家を襲った例、伏見の与力を襲った例などがあり、
上司の意向以外の要素もありうるのですが、
逆に見廻組が一般人を襲ったといえば、大阪で刀も取らない塾講師を捕まえて殺してしまった事件があるだけ。
見廻組を実行犯とする限り、当時の京都の幕府中枢からの命令という要素が色濃くなってくるわけです。
当時の京都の幕府中枢で大政奉還に反対していたといえば会桑、つまり松平容保を筆頭に考えざるを得ないわけです。
749 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:36:31.26 ID:pQsDZPxE0
>>747 実はそれがよく分からないからこそ薩摩説や土佐の内ゲバ説も出てくるわけですが、容保先生の説明はすっきり明快です。
つまり容保は慶喜ともあまりうまくいってなかったので、慶喜に造反したという説です。
一つ見落としがちなのは、当時、暗殺者は不明だったこと。新選組の犯行とされたが、確証はなかった。
つまり幕府の犯行だとは確定していなかった。それで天満屋事件なども起きた。
うんと深読みすると、幕府の犯行であることを隠すために、薩摩や土佐が関与しているという情報が流されたのかも。
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:38:43.54 ID:Jg/As80e0
>>747 研究者の主流の説は、
大政奉還後、会津桑名と、京都で勢力を持っていた有力諸侯(尾張・越前・土佐・宇和島・安芸・薩摩ら)との間に反目が生まれていた。
大政奉還によって徳川慶喜が創設をもくろんだ公儀政権における諸侯の政権参加、諸侯への権限委譲に、
それまで権力を手にしていた京都守護職と京都所司代が反発し、
大政奉還推進によって、諸侯との連合を目指す慶喜・板倉・永井らの思惑をよそに、
会津桑名は江戸の幕臣と呼応する形で、大政奉還を撤回させることを望んだ(大政再委任運動)。
この動きに諸侯も反発し、会津桑名へ辞任帰国を要求した。
ということになります。
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:48:56.58 ID:JKOgwvBbO
会津には、龍馬を殺す理由はあるということですよね。わかりました。
永井には逆に、暗殺する政治的な理由はなかった。するとすれば、私怨でもないと実行する必要はない。
結果として、暗殺できて喜んだのは会津。土佐が討幕に傾いて薩摩も利益ありですね
752 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:57:12.54 ID:Nu1JrPI80
逆に会談を重ねる内、龍馬は後藤や土佐藩と違い徳川の為にはならない。
龍馬は危険な奴と見た可能性も十分あるけどね。
後藤の大政奉還論も聞いてるだろうし、龍馬の大政奉還論も聞いて違いがあるしね。
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:59:51.77 ID:pQsDZPxE0
容保先生は会津の権力欲を強調するが、そんなものはないと思う。
もともと、藩主より将軍に忠誠を尽くせという会津藩の藩是によって京都に来たのである。
ゆえに慶喜の意に逆らうような土佐藩士暗殺を容保が命令したとは思えない。
板倉・永井の命令にせよ、容保の命令にせよ、幕府のためを思ってやったのである。
幕府のためにならん奴だと思って殺ったのである。
板倉にも永井にも容保にも龍馬を殺す理由はある。
754 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 00:01:15.28 ID:JQS6ejg8O
でも、龍馬を暗殺したら土佐が離れるということはわかるんじゃないですか?
755 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 00:07:43.55 ID:JQS6ejg8O
権力欲がないとか、現実的な意見ではないですね。個人の権力欲は別にしても、各藩が利益を得るために動くのは当然です。ましてや、薩長と徳川で新政府を作れば、会津は潰されますよ
政治的理由で攻めるとホント「ドツボにはまる」よね〜w
歴史というのは面白いもので、あれだけ倒幕・新政府と第一線にて従事していた人物が
事が成ったその初期に殆どが「消えて」二番手以降の人物らがその後の主導権を握った訳だ
で、少し手前wに戻ってだ
近江屋事件ってのは、龍馬・中岡と、共に土佐外郭団体の首領が「同時期・同時刻」にて消えた訳だ
これを偶然・歴史の必然と思うのは簡単な事ではあるが
出木杉ですよね?神様w
と言いたい気分
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 01:54:05.87 ID:JQS6ejg8O
なにが言いたいか、よくわかりません
ひといきつきましょうよwってことwww
759 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 10:07:58.07 ID:9sWFXGhU0
実際、政治的理由はどうとでも説明がつくから厄介なのである。たとえば、
>結果として、暗殺できて喜んだのは会津。土佐が討幕に傾いて薩摩も利益ありですね
とあるが、味方につけようと思っていた土佐が離れるのは幕府にとっては不利。
幕府にとって不利なら会津にとっても不利だろう。それに龍馬暗殺で土佐が討幕に傾いた形跡はない。
>ましてや、薩長と徳川で新政府を作れば、会津は潰されますよ
とあるが、これも分らない。断言はできない。
760 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 10:23:28.58 ID:9sWFXGhU0
>大政奉還によって徳川慶喜が創設をもくろんだ公儀政権における諸侯の政権参加、諸侯への権限委譲に、
>それまで権力を手にしていた京都守護職と京都所司代が反発し
容保先生はこう書いておられるが、京都守護職と京都所司代が反発した形跡はないのですよ。
定敬は城中では老中も兼ねていたから、大政奉還に協力して動いている。
先生の書き込みにはこのようにちょこっと嘘が混ざっているから、初心者は騙されてしまうのですよ。
761 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 10:29:45.98 ID:9sWFXGhU0
>でも、龍馬を暗殺したら土佐が離れるということはわかるんじゃないですか?
これを認めてしまえば黒幕は幕府ではないということになる。
しかし容保先生の説明は単純明快で、それを承知の上で容保が命令したというのです。
容保は慶喜に反逆したというのです。
762 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 10:44:42.94 ID:9sWFXGhU0
わたしも指令者=黒幕だとは必ずしも思っていない。だからこそ指令者予想と黒幕予想を別に書いた。
見廻組がやったのだから指令者は幕府の人間だろう。しかし黒幕は坂本・中岡を消すために幕府に情報を流した、
あるいは幕府に依頼した人間だろう。それが黒幕である。指令者と黒幕は分けて考えなければならない。
わたしと容保先生は指令者が誰であるかで論争している。わたしは板倉・永井説であり、先生は容保説である。
しかも先生は指令者=黒幕=容保説だと思う。
763 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 16:22:44.96 ID:JQS6ejg8O
当時の情勢としては、容保先生の話の通りでいいのではないでしょうか。会津は大政奉還になり、諸侯会議により新しい体制になったら、排除されるでしょうから。
動機としては、容保が自然ですね。わたしは、その情勢を利用した勢力がいるのでは?と考えていますけど。でも、永井説の人がいて、なかなか話せる感じではないみたいですね
真贋ともかく、永井と直に書いた資料がある以上「検証」はあって当然でしょうか?
しかし「容保」と直に書いた資料はどうでしょうか??
え?只三郎伝ですか???
微妙ですねw
765 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 21:05:38.46 ID:hyyIvOWM0
>>763 なんでも自由に書いてください。わたしは別にガチガチの永井論者ではありませんよ。
わたしは容保先生がムキになって反論してくるのが面白いから書いてるだけで。
766 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 23:43:16.68 ID:jVQjlat5O
767 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 00:00:26.40 ID:iFQCoHRn0
>>760 また永井ガーは根拠のない嘘を書いて、
傍証などで明らかな京都守護職と京都所司代の大政奉還への反抗撤回論を隠蔽する。
この人間が論証に使う慶喜公伝にも、会桑の大政奉還への反発は書かれているのに
この人間は引用をせず、代わりに関係のないことを並べてさも賛成でしたと主張する。
会議に列席すれば賛成?馬鹿を言っちゃいけません。
新撰組の土佐藩への監視、近藤勇の尾張越前への脅迫、
どれをとっても大政奉還を土佐が提言したと会津藩が認識したときからのことです。
768 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 00:29:43.68 ID:iFQCoHRn0
>>762 >しかし黒幕は坂本・中岡を消すために幕府に情報を流した、
>あるいは幕府に依頼した人間だろう。それが黒幕である。指令者と黒幕は分けて考えなければならない。
暗殺発生後の旧幕府の対応を考える限り、「黒幕」云々がいたとしても旧幕府関係者の範疇を外れることはない。
坂本龍馬暗殺事件後、土佐藩は薩摩藩の調査に基づく新撰組実行犯説を真実と断定し、旧幕府へ処分を要求した。
しかし旧幕府では板倉が「その一件は新撰組かも」と言ったものの、処分等は徳川慶喜が大阪に移転した後の改名程度しか見当たらない。
これにしても、新撰組による伊東甲子太郎暗殺事件の方が重大視されていたという説もあるし、
改名自体が、京都再駐留時に安全に入京するための隠蔽工作に過ぎないという意見もある。
旧幕府の敵、佐幕派小説家あたりがこれこそ黒幕・真犯人と言いたがるような人間が本当に「黒幕」なら、
土佐藩が暗殺犯として新撰組説を主張し旧幕府へ処分を要求した際に、旧幕府側がその黒幕・真犯人とやらを挙げれば済む話。
暗殺事件発生当時、見廻組が暗殺実行者ということは、近藤勇はおろか一般の新撰組隊士にも承知している人間がいた。
見廻組には公務としての恩賞が支払われ、隊士は事件後人々の目を避けて隠れていた。これも公的な決済があり公費を使ったものだろう。
要するに、京都の旧幕府中枢を預かる人々なら、事件後は暗殺実行者が誰かについての調査は容易であったと思われる。
京都の旧幕府中枢にとって坂本暗殺実行犯の特定が容易なら、命令者の特定も容易ということになる。
しかし土佐藩の抗議表明と不審を買いつつ、旧幕府は事件自体を隠蔽し責任を回避した。
要するに、暗殺命令者も京都の旧幕府中枢にいたので、土佐藩への回答として真犯人を名指しであげつらうと、余計に旧幕府の立場がなかったということだ。
だから隠蔽しか旧幕府はできなかった。「黒幕黒幕黒幕を探せ、実行犯は問うな、旧幕府は無罪に違いない」とか言っている半藤一利らの言動は不実だと思う。
769 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 02:24:48.84 ID:ODSDQ6ORO
福岡の子孫が「それは、言ってはいけないことになっている」と発言したことや、お龍が「飼い犬に手を噛まれた」と発言したこと、弥太郎の日記が公開されないことなどは、どうお考えですか?
>>768 新選組が知っていた・・・・・は元隊士大石の供述「のみ」ですよ?しかも拷問末の話です
嗚呼、結城さんですか?あの人が隊士だった「説」もあやしいかと
恩賞が・・・これも今井さんの話「のみ」ですよ?今井さん家に出たのであれば
「渡辺さん」にも出ている筈なのに「書いてましたっけ?」
人々の目をさけて・・・・・・佐々木筆頭に鳥羽伏見に於いて奮戦、残党が江戸に帰り「狙撃隊」と名を変えた等々・・・
スレ上記にもありましたが、大久保暗殺計画もあったくらい
別段「通常業務」だったと
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 08:45:42.30 ID:3VBr7Gnu0
>>767 >>494参照
>それから定敬が反対していたという史料はあるかな。
>定敬も大政奉還に協力しているぞ。板倉と連署して江戸の老中に大政奉還を告げたのも定敬だし、
>朝廷に参内して大政奉還を上奏したのも定敬だ。
桑名藩=松平定敬ではありません。桑名藩が大政奉還に反対だったからといって松平定敬も反対だったとは限りません。
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 19:06:30.53 ID:GQsLDbp40
近江屋新助の弟、新三郎。この男は怪しくないか。事件当夜、現場にいたのに、これといった記録も証言もない。
近江屋新助は龍馬より一歳下だから、弟の新三郎は二十歳代の青年だったはず。
それにしては影が薄い。峰吉のほうが活躍している。
井口新三郎。この男に注意しよう。
773 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 21:11:07.68 ID:H7pKEM4L0
陸援隊に入っていた新選組の間諜村山謙吉が、10月15日までに薩長、陸援隊、十津川郷士らの挙兵計画があると近藤勇に伝えている。
実際は実行されなかったが、それによって幕府が陸援隊隊長の中岡をマークしていたことはまちがいないだろう。
だから中岡は巻き添えではなくて、最初から標的に入っていたかもしれない。
それにしてもそのような内通がありながら、幕府が陸援隊を捕縛しようとしていないのは不思議だ。
土佐藩が大政奉還を提案した藩だからか。それほど土佐藩に配慮していたなら、なぜ坂本中岡を暗殺したのか。
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 23:54:40.18 ID:iFQCoHRn0
>>770,771
ともに根拠なし。
見廻組隊士が犯行後身を隠したという点については、隊士自身の証言がある。
また、行事に出席していたから犯人でないとすると、代わりに板倉・永井が犯人であると主張する松平容保擁護の根拠が消える。
行事の出席よりは、会津藩や桑名藩が大政奉還に強硬に反対していた、藩主もそれを容認していたとする事実を採用すべきだろう。
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 00:06:29.02 ID:39YRP9LJ0
ある推理。
永井と容保が同席の上で龍馬と面会したという話があるらしい。仮にそれが本当だとすると、永井か容保のどちらかが裏切ったのである。
しかしどちらか一人が裏切るというのは考えられない。なぜならそれは龍馬への裏切りだけでなく、永井(容保)への裏切りでもあるからである。
ゆえに裏切ったとすれば二人で共謀して裏切ったのである。しかし土佐藩士暗殺となると二人の一存だけでは決定できないだろうから、板倉に相談したはずである。
だから結局、板倉、永井、容保、この三人の謀議である。
776 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 00:16:14.25 ID:Zn7sEZGe0
>>769 ・福岡藤次の「それは、言ってはいけないことになっている」
明治以降の福岡藤次と、谷干城などの高知県政界との龍馬暗殺事件についての微妙な関係を反映していると思われます。
谷干城:近江屋の隣の家で寝ていながら事件に駆けつけもせず、葬儀にも出なかった福岡は許せない
福岡藤次:その日は居酒屋で飲んでいたから近江屋の事件は分からなかった。葬儀に出なかったのは私も狙われていたからだ
この対立のため、福岡は地元高知では常に居心地が悪く、弁明に明け暮れることになりました。
・お龍が「飼い犬に手を噛まれた」と発言したこと
わかりません。
・弥太郎の日記が公開されないこと
岩崎弥太郎は聖人君主ではなく、むしろ相手の失点を見逃さずに利殖に励む人間でした。
具体的には、龍馬が生きていた頃は土佐藩の藩費を無心する龍馬へ良い感情はなかったようですし、
明治後期になれば明治政府内・小野組・鴻池組・三井組、そして渋沢栄一らと虚虚実実の商争を繰り広げることになります。
公開できない理由が龍馬の一件だと思ったら大間違いでしょう。
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 00:18:08.96 ID:Zn7sEZGe0
>>775 あなたの話は無理です。会った人間が全て仲間なら国会は紛糾しないでしょう。
778 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 00:22:44.16 ID:39YRP9LJ0
暗殺指令は幕府ルートか守護職ルートか。
幕閣と守護職。どちらが上か。わたしは幕閣が上だと思う。
そうすると暗殺は幕閣だけで決定することができる。
しかし守護職は一存では決定できないだろう。幕閣に相談する必要があるだろう。
ゆえに暗殺指令者は、幕閣か、幕閣と守護職の共謀かのどちらかである。守護職の一存ではない。
779 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 03:02:50.85 ID:3KvrdLLM0
780 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 03:35:12.98 ID:Zn7sEZGe0
>>778 あなたの意見は筋が通りません。
>しかし守護職は一存では決定できないだろう。幕閣に相談する必要があるだろう。
これを怠った行為ゆえに、会津桑名は諸侯のみならず、徳川慶喜からも辞任引退を提言されるに至るのだから。
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/06(木) 23:28:54.43 ID:scRny7a30
誰もいないの????
マー、佐々木只三郎が幕府側だから、松平容保や永井尚志が黒幕だ
といくら、叫んでも、堂々巡りだわな。
資料が乏しいし。磯田のくだらない松平容保説と同じだよ。
なんだ、「龍馬史」という本は、ここで論じてるより、ひどいもんだ。
あれでは歴史ではないよ。邪推論だよ。
磯田の「龍馬史」含めて、論理なし。
782 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/07(金) 09:31:54.21 ID:JYTPWZJc0
平尾道雄「陸援隊始末記 中岡慎太郎」を読む。これといって参考になることはなかったが、
なんとなく、陸援隊には裏切り者はいないという感じがした。
ネタもアイデアも尽きたし、永井説の人がいるので書きにくい、みたいな投稿もあったので、書くのを控えているのである。
しかし
>>763の人も一向に投稿してこないね。遠慮せずに書けばいいのに。書けばわたしに叩かれるとでも思っているのだろうか。
みんな新鮮な説を期待しているのだから、どんな珍説奇説でもいいから発表してほしいものだ。
その後に起きた天満屋事件ってのはホント「ガス抜き」には最適であったと
つまりは、陸海w共に内部の強固派?を黙らせる(若しくはそれに近い)出来た訳だ
中井ってのがポインドだわな
「両者」を繋いで事を起こさせるにはもってこいだなと
これも、元来が龍馬が狙いであって中岡は巻き添えに・・・という両者の思惑を
いやいや、両者共に狙われた訳だから敵討ちにと「纏める」事が容易であったと
土佐も土佐で「体よく」外郭団体2つを収めることが出来た訳だし
陸海TOP排除に「身内」が絡んだ・・・とは言わないが
少なくとも、「それを利用」してそれぞれの隊士がステップアップした事は否めまいかと
784 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/08(土) 15:01:10.90 ID:4X8JmSSx0
十津川(とつかわ)と松代(まつしろ)。共通する文字が一つある。つ。
今井は偽の藩の名前を忘れたが、「つ」が付いたような気がした。
しかし今井は関東人なので十津川という地名には馴染みがなかった。
しかし松代藩がすぐに思い浮かんだ。水戸藩と並ぶ勤皇藩として有名だったから。
それで「松代藩とか」と供述した…
>>963 容保は守護職屋敷のヒッキー!!!!説 か
゚( ゚^∀^゚)゚。アーッハハハハノヽノヽノヽノ\ / \
永井が永井屋敷に容保をお忍びで呼んでもいいし、
永井が龍馬を連れて容保屋敷に行ってもいいし。
>>785はアンカー違い。正しくは、
>>693 容保は守護職屋敷のヒッキー!!!!説 か
゚( ゚^∀^゚)゚。アーッハハハハノヽノヽノヽノ\ / \
永井が永井屋敷に容保をお忍びで呼んでもいいし、
永井が龍馬を連れて容保屋敷に行ってもいいし。
>>781 磯田道史も、歴史改竄に狂ってるだけの妄想患者だね、ホント。
788 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/08(土) 21:00:22.00 ID:hjfJgPEm0
不審な点が一つ。
今井を取り調べたのは土佐藩士で、時の法務大臣も土佐の佐々木高行。
土佐人なら暗殺団が十津川郷士と名乗ったことくらいは共通認識として知っていたはず。
それなのになぜ今井の松代藩という供述をそのまま採用したのか。
789 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/08(土) 23:04:23.55 ID:nVqNI8dBO
お〜い龍馬!では、流れからして確実に薩摩が暗殺したようになってるが
もう、薩摩が暗殺したことでいいんじゃね?動機は十分だろ
後年、谷が講演にて今井を「売名」扱いしていた件で
その背後に、谷の近藤に対する対応の「まずさ」が露見されるのを恐れた云々
つまりは、真犯人登場により近藤処罰の強行対応の批判と
しかし、大石、伊東襲撃嫌疑にて斬首もあることから
谷の対応が退けられたとしても、同嫌疑にてやはり近藤は処罰を免れなかったのでは?
なんとなれば、今井に対応した元同藩士・佐々木の存在もある訳だし
とにもかくにも、谷の講演内容は「見方」によれば興味深いわけで
その辺りは鏡川さんのblogに詳しい
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/09(日) 20:53:36.17 ID:w5H/Xqc80
鏡川氏は谷の講演録の前半も読んでいるわけだが、ここに参加している人でそれを読んでいる人はいるのかな?
わたしは「坂本龍馬関係文書」も読んでいないのだが、君らは読んでいるのだろうか。
>>788 全然採用していないんだが。
即、売名行為扱いあるいは妄想患者扱いで静養させた。
薩摩は大義のためなら裏切り、非道も働いた。
なぜ龍馬にだけは危害を加えないのか。
794 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/11(火) 08:55:55.79 ID:Q5f7Vgza0
それもそうだが、龍馬の影響力をそれほど大きく見ていたかどうか…。それに中岡まで殺す必要はないし…。
それよりも
>>783を見て思ったのだが、坂本中岡暗殺も「ガス抜き」として行われたのではないか…。
1 幕府の大政奉還派が、反対派の憤懣を弱めるためにやった。→指令者は板倉・永井
2 土佐藩が、土佐藩への風当たりを弱めるためにやった。→黒幕は土佐藩
結局は憶測でしか語れないんなら、一番動機の強い薩摩が暗殺した可能性が強いだろ
暗殺直前では龍馬を暗殺したところで幕府側にメリットは無いからな
それよりも、倒幕や新政府案に障害をもたらす龍馬の折衷案に不満を抱くのは、倒幕に躍起になってる一本気の薩摩のほうが暗殺する事で利益が大きい
>>795 長州という倒幕派の核弾頭を救った坂本中岡を殺したいほど憎んでいたということで推測すれば、
今も昔も、会津藩・新選組で決まり。
見廻組は、偽装工作・隠蔽工作担当で決まり。
797 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/11(火) 19:56:01.55 ID:QV+9qodn0
>>795 龍馬が、政局を左右できるほどの力を持っているだろうか。
海援隊は軍事力としては話にならない。
あとは龍馬の言論の力、人脈、交渉力などだが、幕府や諸藩を動かせるほどの力を持っていたかどうか。
それに、薩摩は中岡を殺す理由がない。
幕府側からすれば、薩長同盟から始まる倒幕優勢の方向を龍馬が位置付けた時点までで、龍馬を殺害する必要性が無くなっている
後は幕府の抗戦派による憎しみぐらいだろう
それよりも、公儀政体案をもって色々とかぎまわりだした龍馬を殺害しようと思うのは、完全に幕府を滅ぼす目的を持つ薩摩だと言えると思うが
799 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 00:03:32.42 ID:q1kcH99C0
しかし龍馬が生きていても何ができただろうか。せいぜい永井のような人物と会談するくらいのものだろう。
龍馬は浪士だから、小御所会議にも参加できない。だから王政復古のクーデターを阻止できるような力はない。
本によれば、九月頃には薩長は討幕路線を決めていたらしい。
だから土佐藩が大政奉還の建白をしようと龍馬が永井と会談しようと、薩長はそんなことは眼中にない。
800 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 01:39:40.13 ID:5Xdyu0KlO
龍馬暗殺がなければ、土佐の藩論は後藤たちの慶喜を盟主とした新体制だと思う。暗殺を防げなかった責任を追及され、板垣たち討幕派の台頭を許した。
龍馬暗殺が土佐に与えた影響はかなり強いよ。土佐藩が幕府につく可能性はかなり高かったはずだからね。だから薩摩が犯人だとは言わないけれど、薩摩がこの事件を利用した可能性はあるだろうね。
少なくとも、龍馬がいたら、薩長のクーデターはおこしずらい状況にはなったと思うよ。
801 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 05:04:54.14 ID:Ms4BfOw90
筋の通らない「薩摩であってくれば俺達無罪」説はもうたくさんなんだが。
大政奉還後、中岡と共に坂本龍馬は土佐藩尊王攘夷派を焚き付け武装蜂起を画策していた。
>公儀政体案をもって色々とかぎまわりだした龍馬を殺害しようと思うのは
>だから薩摩が犯人だとは言わないけれど、薩摩がこの事件を利用した可能性はあるだろうね。
>少なくとも、龍馬がいたら、薩長のクーデターはおこしずらい状況にはなったと思うよ。
どちらも憶測の域を抜けない。
>>799 「建前」でも薩長との仲立ちをした人物だよ?
一浪人風情の集まりな海援隊長として、御三家とタイマンして金を毟りとった人物だぜ?
こんなある意味「不気味」な人物はそうザラにはいないかと
大政奉還までは、バックに薩長がいた訳だが
「これが」もし幕府側に付くようになったら「面倒」だったのは確かに思う
王政復古は仕方ない、が、正直に奉還をした徳川をこのまま滅すには忍びない
せめて、復古後の体制に加えることが出来ないか?・・・・等々
龍馬に率先してそれをやられてしまえば元もこうもなかったに思う
>>798 その公儀政体派を最終的に壊滅させたのは幕府に近しい派閥な訳で。
それだけでは一概にいえんと思われ。
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 09:05:59.21 ID:5Xdyu0KlO
龍馬の変節を許せない仲間内の犯行ってのが、一番しっくりくる気がするね。
それを、もみ消して幕府を犯人にしたかったのが薩摩。
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 09:54:25.07 ID:VDwY/Nyw0
龍馬にはそれほどの力はなかったと思うがねえ。
幕府にも、勝、一翁、春嶽などの開明派がいたわけだし。
龍馬は小御所会議に参加できるような身分じゃないし。
龍馬の平和論なんて薩長は眼中にないし。
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 10:13:33.97 ID:VDwY/Nyw0
「手代木直右衛門伝」に曰く「深く幕府の嫌忌を買ひたり」
深く幕府の嫌忌を買ったから暗殺されたわけだ。だから指令者は幕府だ。
幕府の中枢とは誰か。幕閣だ。京都守護職はあくまで京都の治安を維持するために設置された機関だ。
京都における幕府の軍事力の中枢だ。だから容保はいわば武官だ。
これに対し幕閣は文官だ。政府としての幕府の中枢は文官の板倉・永井だ。
幕閣の板倉・永井が命じたか、幕閣が京都守護職の容保に命じて指令を出させたかのどちらかだ。
>>806 そうなるともう、「誰が」という個人よりも、幕府という巨大システム自体が
崩壊する間際に最後っ屁のように機能して、龍馬を殺したということですね。
まあナットクかな。
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 10:22:21.66 ID:5Xdyu0KlO
幕府がわざわざ暗殺しなくてはならない理由がない。動機としては弱いんだよね。新撰組なり見廻組の暴走ということなら、ありえるだろうけど。
それほどの力がないというなら、なおさら幕府が暗殺する理由はないだろ?
809 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 10:40:52.14 ID:VDwY/Nyw0
>>808 薩長から見れば龍馬の力など眼中にない。しかし幕府からすれば要注意人物だ。
「手代木直右衛門伝」に曰く
「当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめ…」
810 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 11:03:41.48 ID:VDwY/Nyw0
ただし、清河の場合は、攘夷決行を防ぐために、何が何でも早急に暗殺する必要があったが、
龍馬の場合はそれがない。だから動機としては弱いことは確かだ。
だから、見廻組の暴走、あるいは永井なり容保なりの個人的判断による暗殺ということも考えられなくはない。
811 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 11:20:28.88 ID:5Xdyu0KlO
幕府にとって要注意人物で、薩長にとっては眼中にないというのは納得できないですね。
土佐の藩論が討幕なら幕府の要注意人物。公儀政体なら薩長にとって要注意人物になるはずですが。
一番、動機があるとすれば、討幕として動いていた龍馬の身内が、変節した龍馬を許せなかった。というところではないでしょうか
>>800 いや、それはない。
鳥羽伏見当時に倒幕派が土佐藩牛耳ってたら、一も二も無く初日から全力で参戦してる筈でしょ。
実際に初日から参戦したのは、一部の倒幕派部隊だけ。
第一、倒幕派筆頭の板垣は土佐に帰されてて、上洛を命じられたのは1月8日で出発が13日。鳥羽伏見とっくに終わってる。
土佐藩自体も、1月3日開戦直後の怪しい動きは全て封じられて、4日からは渋々新政府軍として参戦してる。
龍馬が生きてても、鳥羽伏見を止められなきゃどうにもならんよ。
春嶽とかと一緒に、旧幕府軍の大坂進発を防ぐため奔走はしたかもしれんな。その点はロマンがある。
>>811 重要人物ではあるが、土佐藩に与える影響としては無視していいレベルだったってことじゃない?
あそこは土佐勤王党以降容堂公一強体制だったし。
明らかに倒幕派で三条とも昵懇だった中岡慎太郎も殺されてるし、土佐藩や薩摩藩の犯行だとすれば
かなりの下っ端の暴走じゃないかな。
814 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 12:44:48.64 ID:s4a7m7rv0
中岡慎太郎も殺されているということが、薩摩説や土佐藩討幕派説にとっては難点だ。
中岡も龍馬に説得されて変心していたから殺した、というなら筋は通るが。
土佐藩守旧派説ならすんなりと筋は通る。
815 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 12:59:31.20 ID:s4a7m7rv0
いずれにしても薩摩説や土佐説では、どうやって見廻組に実行させたかを説明しなければならないが、それは極めて難しいよ。
尤も、実行したのは見廻組ではない、というのなら話は別だが。
816 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 13:15:52.50 ID:s4a7m7rv0
土佐説で最も有力なのは後藤説だと思う。
後藤は永井や近藤勇と会っているからな。
依頼しようと思えばできる。
土佐藩への風当たり、また自藩守旧派からの突き上げへの「ガス抜き」として、
坂本・中岡に犠牲になってもらった…
ただし常識としてはちと考えにくい説ではある。自藩の藩士の暗殺を幕府に頼むなんて。
>>815 簡単な話「眼をつぶる」でOKだったと
別段、土佐藩全体が狙われていたわけでもなしだし
「もし、身内以外な犯行で、事後帰りがてら「鼻歌・和歌?」を口ずさみながらの退散」
なんて、余裕が無い限りは出来ないと
只、それを会津・手代木等「命令する」側に伝えたか、若しくは幕府捕方の誰かに話したかだと
818 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 16:12:20.92 ID:MTW1WqAc0
>>817 最後の行の「それ」が何を指しているのかが、分からないのですが。
龍馬暗殺の動機が公儀政体論ならば、後藤も殺されて当然なのに、龍馬と中岡だけが殺されたのを考えると、意外と土佐の上司の命令という事もあり得るかも
佐幕派犯行を認めたくないばかりに無理な仮説を重ねている。
暗殺実行犯は見廻組。これは現在となってはほぼ間違いない。
命令者は松平容保。これも現在ではほぼ間違いない。
松平容保とは異なり大政奉還に板倉や永井は活路を見出していたのだから。
土佐藩に命令者を押し付けるのは無理。
何故なら暗殺事件後土佐藩は、暗殺は旧幕府の犯行と決め付けて、旧幕府に内部処罰を要求しているのだから。
その上暗殺事件は土佐藩内の尊王攘夷派を焚き付ける結果となり、土佐藩の王政復古への参加を誘発してしまった。
無理に暗殺犯に土佐藩を巻き込もうと考え、「あれは出来レースで土佐藩の旧幕府への依頼だったのさー」と嘯いてみても、
その後旧幕府は土佐藩に一方的になじられ、土佐藩は旧幕府排斥の意図に満ちた王政復古に参加してしまう。
出来レースにしては、その後旧幕府は江戸も領地も全てを失うまで叩かれ、一つも抗弁をやることはなかった。
つまり佐幕ファンが叫ぶ、土佐が裏から命令していたという陰謀説は実在しないことになる。
後考えで、最後に利益を得たものが全ての犯人なのだー、と叫ぶのは、当時の状況を考えない無知のなせる業なのだろう。
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 01:31:59.04 ID:bIu1k5ZNO
あなたの中では、犯人は容保と決まっているのなら、ここを覗く必要はないのでは? あなたの考え以外は無知だと断定できるのなら、本でも出して、みなさんが納得できるようにしてください。
>その上暗殺事件は土佐藩内の尊王攘夷派を焚き付ける結果となり、土佐藩の王政復古への参加を誘発してしまった
「それが」狙いだったとも言えるww
そいや谷さん、講演で「何故か」乾さんの手紙を引用していたよねww
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 04:16:27.46 ID:iEtsFww/O
怪しくない事物へ懸命に火の粉を飛ばそうとしても、
松平容保による暗殺嫌疑が盛んになるだけ。
824 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 09:53:52.04 ID:oWUjwr6/0
黒幕と暗殺理由はセットである。
黒幕を推理することは暗殺理由を推理することであり、暗殺理由を推理することが黒幕を解明することにつながる。
しかし黒幕の推理が外れていても暗殺理由は正解のこともあり、暗殺理由は不正解でも黒幕は当たっていることもある。
だから、どんな説でも、それはおかしいと軽々に決めつけるべきではない。
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 10:04:26.15 ID:oWUjwr6/0
たとえばわたしが黒幕は永井だと主張すると、永井は大政奉還に活路を見出していたのだから、永井がそんなことをするはずがない、という人がいる。
しかし大政奉還が理由だとはかぎらない。他の理由で暗殺を命じたのかもしれぬ。
つまり暗殺理由が何であれ、黒幕永井説が正解である可能性があるということである。
これは他のどんな説についても言えることである。
826 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 10:11:43.68 ID:CJAtszEH0
>>825 >しかし大政奉還が理由だとはかぎらない。他の理由で暗殺を命じたのかもしれぬ。
>つまり暗殺理由が何であれ、黒幕永井説が正解である可能性があるということである。
筋が通らない。坂本暗殺事件後の土佐藩の行動は、暗殺を旧幕府の犯行として敵視し尊王攘夷派へ合流するものであった。
つまり、板倉や永井が坂本暗殺を命令したのなら、彼らは大政奉還の先に夢見ていた公儀政権を自ら葬る自殺行為をしたことになる。
旧幕府内に命令者を求めるのなら、大政奉還に反対した松平容保あたりしかありえないんだよ。
827 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 10:27:06.89 ID:oWUjwr6/0
先生、今日はお休みですかww
筋が通らなくても、黒幕=永井=正解ということもありえますよ。
それに暗殺後に土佐藩が尊王攘夷派へ合流したという形跡はありませんよ。
828 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 13:29:25.89 ID:CJAtszEH0
筋が通らないことを指摘されると、それがどうしたと主張をした上で、更に嘘を重ねる。
松平容保ファンの行動は人間として不適当だろうね。会津若松関係者の犯人隠蔽の罪は大きい。
>それに暗殺後に土佐藩が尊王攘夷派へ合流したという形跡はありませんよ。
喋る内容からして嘘ばかり。王政復古は旧幕府を排斥する行為としての色彩が強いものであった。
上のお人は松平容保を毛嫌いするあまり、見識が本末転倒になってるようだ
暗殺後に行われた小御所会議において、土佐は山内容堂が徳川慶喜や会津・桑名の排斥について弁護していますが何か?
松平慶永公も慶喜召集の意見を述べてますが何か?
旧幕派排斥の考えは、あくまで薩長側の公家の意見が多数なだけで、小御所会議全体が賛同の意志を示した訳ではありませんよ
どんなに先生が力説wしても、容保が「命令した」という確たる証拠が無い以上は
永井説その他と「立場」は同じって事さぁ(笑)
まさか「佐々木伝」が・・・とは言わないよなww?
831 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 18:09:05.42 ID:tzXbwbVi0
その時歴史が動いた」に半藤先生が出演されてた回で
半藤氏は「薩摩藩黒幕説」の私見を述べておられたかと
膨大な著作物もあり広い視点で歴史を渉猟する氏の見解とも思われなかった
当時はまだ見廻り組説が主流じゃなかったのだっけ?うる覚え
そして同じ回に出演されていた女史(氏名失念)は「後藤陰謀説」などぬかしておった
見廻り組凶行説は平成の世ほぼ定説となっているのですかね
問題は誰が黒幕、指示したのか? 容保か?永井か?
誰が得をするかという観点より龍馬を消さなければならない動機探しの方より真実に迫れると思うのですが、。。。
832 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 18:22:19.05 ID:g8vpf3At0
幕府側からして目障りだからやられただけだろう
今井も坂本という奴はただ好んで世を騒がし、幕府の為にならん悪徳漢程度の認識しかない
結局鳥羽伏見でぶつかるけどあれも偶発的なものだしね
833 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 18:31:36.90 ID:8GEkBOvy0
大体、会津=悪と決めつけすぎているな。
会津は薩摩と組んだこともあるし、土佐とも親密だった。
834 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 00:40:03.59 ID:6JeZhieL0
容保、永井
龍馬暗殺の動機としより強いのはどっち?
日本語の不慣れな貴様に語る必要はない!
836 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 01:56:00.20 ID:eLQ2ScA90
ここは大学の研究者が学問の成果を競い合う学会の論文発表の場ではない
日本語が不自由であろうとも身分出自生い立ち学歴右左の区別なく
自由に討議し自由に自説を披瀝する闊達な場であるべきである
堅苦しい事を申すでないわ
837 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 06:48:43.91 ID:zgQvg81Y0
例えば、
>>829のように根拠のない私論を書く人もいるのだから、
書くこと自体は自由。ただ、松平容保を犯人じゃないと言い張る人の論理はいつもこのように曲がっている。
土佐は山内容堂が徳川慶喜や会津・桑名の排斥について弁護していますが、土佐藩兵は京都守護職及び京都所司代の軍を朝廷から追い出し、
代わりに自軍を駐屯させております。
松平慶永公も慶喜召集は主張したものの、辞官納地の確約を実行させることについては異論はありませんでした。
>旧幕派排斥の考えは、あくまで薩長側の公家の意見が多数なだけで、小御所会議全体が賛同の意志を示した訳ではありませんよ
このような、自分に都合の良いところを繋ぎ併せて常識と異なる結論を書く人が、いわゆる「佐幕派」と呼ばれていることに、私は怒りが止まらないのですよ。
838 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 07:05:58.65 ID:zgQvg81Y0
>>833 会津は犯人じゃない、という決め付けが小説家を中心に根拠もなく語られ、研究者は迷惑しています。
近年の研究では実行犯は見廻組で決定的、命令者も松平容保及びその周辺が限りなく濃い。
実行者が見廻組である以上、上司が命令を出したことは明らかです。
名目上だけでこの後すぐ辞任してしまう見廻役の小笠原ならともかく、
少なくとも上司が事件を知らず、部下が外部の敵対勢力の命令を受けていただなんて小説家の説では、旧幕府自体の存在意義がないわけです。
しかも見廻組はその後も旧幕府に忠誠を尽くしました。この時だけ裏切ってました、では話が通じないのですよ。
そして旧幕府内で動機があったとすれば、それは松平容保ら大政奉還に叛意のあった要人たちです。
少なくとも、大政奉還から徳川慶喜を首班とする諸侯会議への道筋を思い描いていた、徳川慶喜や板倉勝静・永井尚志らには、
この時期は土佐藩や雄藩諸侯との関係を悪化させ、旧幕府排除に他ならない王政復古に諸侯を踏み切らせてしまった暗殺行為は、逆効果でしかない。
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 07:21:26.17 ID:095DanpXO
明治維新のテロリストの筋書きを素直に信じている単純な人間の発言www
>例えば、
>>829のように根拠のない私論を書く人もいるのだから
先生のが「私論」じゃんかw
貴方の説で「根拠・資料」を提示したのが「一切」ないことww
小説に惑わされる「研究者」てどんだけwwww
「真っ当な」研究者に会津・容保「憎し」なんていませんよ??
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 08:06:50.66 ID:zgQvg81Y0
>>840 ほら、このように史料の恣意的な解釈をやらかした人間を政党と看做す人がいる。
>>829は
>>837に示したように、都合の良い一面だけを紹介して結論付けた一面的な主張です。
842 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 09:08:06.39 ID:PCNvF/6c0
>>835はねえ、たぶん新選組ガー君です。この人はときどきこういう暴言を書き込む癖があるから、困ったものです。
843 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 16:09:37.97 ID:e13ApqrY0
見廻組というのは幕府が設置した組織。隊士は幕臣。
当然、給料は幕府から貰っている。京都守護職から貰っているわけではない。
だから今井は京都守護職松平容保を庇う必要もなければ義理立てする必要もない。
逆に幕府のお偉方に対しては少しは義理立てしなければいけない。
だからこそ取調べのときは、幕閣かそれとも容保か、知らない、と言葉を濁した。
しかし弟にだけは、永井様からの命令だった、と真実を話していたのである。
尤もそれは手代木も同じで、主君の名を挙げるわけにはいかぬから「某諸侯」と言ったのだろう。
しかし某諸侯を容保と解さなければならぬ必然性はない。
人間として、武士として、指令者の名前をぺらぺら喋ることを憚ったのかもしれぬ。
844 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 00:49:36.48 ID:Y1IXEJUG0
永井説と容保説
こりゃぁ決着を見るには尚時間がかかるかな?
845 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 06:47:05.02 ID:b+ar+rHV0
某諸侯。この言葉がポイントである。
普通、藩士は藩主のことを某諸侯とは言わない。主君と言うだろう。
だから、手代木が某諸侯と言ったということは、普通の文として解釈すれば、それは他藩の藩主のことである。
それをわれわれが、勝手に、容保のことだろうと解釈しているのである。
846 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 06:54:48.86 ID:b+ar+rHV0
永井は、既に寺田屋騒動のときに、龍馬を殺せと命令している。
その後、潜伏先が不明だったり、土佐が大政奉還を建白したので、捕縛を控えていたが、
そのうち建策者が龍馬であると知り、さらに、口では大政奉還を唱えながら、
裏では、討幕に備えて、土佐に銃を入れていることも掴んでいただろう。
(おのれ、浪士の分際で、幕府をなめおって…)
これが暗殺理由である。
847 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 12:36:01.95 ID:Npvj7BdP0
中岡は倒幕派公家と早くから接触していたから、幕府は中岡もマークしていただろう。
中岡が薩長同盟成立に奔走したことも掴んでいたかもしれない。
だから中岡が同時に暗殺されたことも、偶然ではないかもしれない。
用意周到に計画された暗殺だったかもしれない。
848 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 12:53:50.04 ID:QJc/sOHt0
容保ファンはどうしても永井指示説にしたいようだなw
849 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 15:47:44.14 ID:DICuaPJr0
暗殺に見廻組が抜擢されたのは、単にそこが見廻組の担当地区だから、という理由だけではない。
暗殺というのは、極秘裏に、粛々と、行う必要がある。それが見廻組が選ばれた理由の一つだ。
というのも、新選組が何かをしでかすときはいつも騒々しい。それに対し見廻組は文武に優れた礼儀正しい集団だ。
実際、鞘を忘れたことを除けは、負傷者もなく、証拠も残さない、実に鮮やかな暗殺だった。
850 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 15:58:56.06 ID:DICuaPJr0
暗殺というのは、極秘裏に遂行されねばならないから、余計なルートを介さない。
余計なルートを介すと、秘密が漏れるからだ。だから、幕閣が指令者だとすると、
守護職も所司代も大目付も目付も介さないだろう。
幕閣→(見廻役)→佐々木→見廻組
という線だ。同様に、容保が、幕閣に内緒で、指令を出したとすれば、
容保→手代木→佐々木→見廻組
だろう。見廻役は介さない。なぜなら見廻役を介すと、見廻役は確認のため幕閣に問い合わすだろう。
そうすると秘密がばれてしまう。
851 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 16:07:57.07 ID:DICuaPJr0
さて見廻組は幕府が設置した組織だ。だから重要な任務は、当然、幕府が差配する。
とくに、大政奉還を建白した土佐藩の藩士を暗殺するのだ。重要な任務だ。失敗してはいけない。幕府の仕業だとばれてもいけない。
だから守護職も所司代も大目付も目付も介さず、直接、幕閣が見廻役もしくは佐々木に指示したと考えるべきである。
852 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 17:47:46.51 ID:43J6A1J+O
くどい奴だな。もうわかったからいいよ
>>847 当時の全ての暗殺事件を調べているわけではないんで微妙な話だが
「大概」暗殺は「外」で行われているのが多いに思う
そしてだ、仮に外・「屋外」にての行動だと、複数同時ってのは余ほどヤル側も人数掛けなければ無理に思う
無論、同時・同場所に居る「理由」も付加することを考えれば
つまり、龍馬・中岡を同時に仕留める方法として「屋内」てのはベストだったと
あと、永井説だけれども、あれだけ龍馬が行き来していたわけだから
なんとなれば「屋外」での行動も可だったに思うがねぇ
つまり、お前は狙われていない・・・と安心させておいて、なるべく「単独」での行き来を促進させ
後は、夜遅く、帰宅途中を襲わせる・・・・・のが「簡単」だったに思うが
854 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 18:48:14.57 ID:V3qkZr1f0
>>853 なるほど。言われてみればその通り。
ということは、やはり坂本・中岡を同時に狙ったわけか…
855 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 19:48:03.24 ID:V3qkZr1f0
ふと思ったのだが、龍馬は一人でのこのこ永井に会いに行ったのだろうか。
藤吉とかの用心棒は連れて行かなかったのか…
856 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 20:59:33.72 ID:wnzOtMF10
龍馬・中岡が殺されて、世の中がどう変ったのか
>>850 じゃ、どういうわけで、近藤勇や大石鍬次郎は、偽装下手人の見廻組隊士の名前まで知ってたんだ? ん?
858 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 09:42:03.70 ID:BHdAie5f0
>>857 さあ、そこだ。そこが問題だ。渡辺篤の履歴書によれば、秘密のことなので父にしか話さなかった、とある。
つまり見廻組の他の隊士にさえ話していなかったと思われる。ところが同じ渡辺篤の履歴書によれば、
翌日早くも近藤勇が佐々木に「昨日はお手柄で」と言ったと書いてある。
つまり近藤勇だけは最初から知っていたと思われる。だからわたしは以前、永井と近藤の共謀ではないか、と書いたのである。
近藤が、当時、容保と永井のどちらとより親密だったか、それがポイントだ。
わたしは永井と近藤はツーカーの間柄だったと思うが。
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 09:54:41.39 ID:f95uASGx0
結局さ、永井なり容保なり近藤なり幕府の上層部、新撰組の隊長の幾人かが
「坂本はけしからん輩だ、いっそ消してしまうか」って謀議してたんだと思う
最終的に誰か一人の決断がないと暗殺指令→実行には至らないけど
複数の幕府の関係者が坂本を狙ってたんだろうな
捕縛された以上、どう足掻いても死一等は免れなかった筈だからねぇ〜近藤さんは
そんな現状で、永井・佐々木らを「庇う」理由は無かったに思うがね
武士らしく死にたかった?あぁ、それなら「告げ口」は由とおもわなかったかな?
861 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 21:23:38.63 ID:xRtOQgGi0
近藤勇が捕縛されたとき、龍馬暗殺の件で尋問されたという証拠はあるのだろうか。
何かで読んだが、近藤はその件ではまったく尋問されていない、と書いてあったと思うが。
近藤が容保を庇う理由はあるか。新選組は幕府から給料をもらっていたはず。
まさか京都守護職あるいは会津藩からもらっていたわけではあるまい。
オモロイなぁ〜
例の榎本恩赦の立役者、参謀・黒田清隆さん
彼の「いぬ間に」これも例の相馬、横倉、大石、「今井」さんらの取り調べ・刑・等々が行なわれたんだなぁ〜と
「結果」は知っての通りww
彼が居れば、「歴史」は変わってたかもしれんなぁ〜
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 13:01:28.01 ID:/LqR9y0M0
黒田って仕事モードに入ると没入して脇目も振らずにまい進するけど
酒癖悪くて寄って妻を惨殺した人?
明治新政府創設間もなくの妻殺しで政府の主要な顔が身内殺しなんて庶民に示しがつかなくなるからって
内々に処理されたってホント?大久保が不問に付すように指示したとかなんとか
そんな、山縣・伊藤が推進する朝鮮半島進出資金として、
黒田・榎本がやっていた開拓使事業が取り潰しになる事件の前後だけ、
山縣子飼いの福地桜痴が吹いて回った俗説を真実として語る人間が未だにいるだなんて。
元米沢藩士の千坂高雅も蹴り殺したって断言してたけどね。
ただし、千坂家に駆け込んだ黒田の妻の妹も含めて蹴り殺した現場は
見てないんだよね。
まぁ黒田が凄い酒乱だったのはガチだけどね。
"してた"とか"だった"とか言って、あたかも自分が見たかのように言い切る奴って何様なんだろうね
史料なんて曖昧な記録なんだから、必ず"らしい"を付けて語るべきだろう
>>866 おつw
さぁ〜がんばって埋めていこうwwww
なんか知らないけど、ここスレってほんとにパワーいるなぁ〜w
869 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 23:03:54.32 ID:+QAZY9v80
普通、殺人事件が起きれば、町奉行所などの役人が駆け付けて、取調や捜査を行うはずだが、
龍馬暗殺のときはそれらの役人が来たのだろうか。
土佐藩は町奉行所に知らせたのだろうか。
870 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 21:06:32.44 ID:ulHqPjWw0
福岡が、「あれは言っちゃいかん事になっとるんだ」と言ったということは、
なにはともあれ、黒幕は永井でも容保でもないということだな。
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 21:37:01.23 ID:79Yeebo50
それはないw
これまでのところ松平容保しか犯人はいないじゃないか
872 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 12:33:37.08 ID:mfGdU4Tx0
三条制札事件で犯人を捕まえてみたら土佐藩士だったので、容保も困惑して、料亭で会津藩と土佐藩で宴を開いて和睦を図った。
容保はそういう配慮のできる人である。それに、藩主より将軍に忠誠を尽くせという藩是のために京に来たのである。
そういう容保が、土佐藩士を暗殺して慶喜を困惑させるようなことをするはずがない。
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 12:38:34.79 ID:mfGdU4Tx0
これに対し、永井は、既に赦免と決まっている毛利父子の首を刎ねよと言った人物だ。
しかも大目付の分際でだ。さらに第二次長征の前に、こともあろうに人斬り屋の新選組を
長州に送り込もうとした人物だ。閣僚の資質があったとは思えない。
龍馬暗殺は、永井が、板倉とも容保とも相談せず独断でやったことだろう。
それだからこそ幕府内でも真相が不明だったのだ。
>>870 ・・・そう言い伝えられていたわけだから、子孫な方が「知っていた」とは思えない
でも、おもいっきりTVにて「佐々木・・・・そうではない」と言って「しまった?」
バツが悪くなったのかな?
875 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 18:48:01.24 ID:qNz2M9RH0
その、福岡の子孫が出たというNHKの番組を見たことがないので、何とも言えないが、ヤラセの可能性はないのか?
「おもいっきりTV」だよw
「今日は何の日ふっふ〜〜〜〜〜♪」っと
ちなみに当時流れた映像は、阪妻「坂本竜馬」とのこと
877 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 22:01:16.14 ID:T4rWQY4i0
「おもいっきりTV」か。それならヤラセだな。真面目に検討してきた自分がアホだった。
ん?何がヤラセなん??
まー自分も「観た」口ではないんで何ともし難いがww
ここの連中は、エラそうに語ってる割にはテレビやマスコミに影響された阿呆ばかりだな
880 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:33:02.84 ID:t/xg/J1j0
「坂本龍馬を斬った男」p217に、今井が東照宮の木像を祀る神社を建てようとしたとき、
まず真っ先に山岡鉄舟を訪ねて相談している。今井と山岡は親しい間柄だったのだろうか。
龍馬暗殺に山岡は関与していないだろうか。
今井は勝海舟とも親しかった可能性がある。まさかとは思うが、龍馬暗殺に勝は関与していないだろうか。
今井、佐々木、山岡ラインは「同門」とかじゃなかったけか?
882 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 18:58:28.38 ID:i/Q0cksE0
なるほど、調べてみたら今井、佐々木、山岡、勝、は全員、講武所でつながっている。
883 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 19:32:40.22 ID:oVOev/7N0
東照宮の件は、当時、勝と山岡は、新政府との関係も強く、金もあったので、今井が訪問したのだ。
金目当てだよ。
勝と山岡が、今井信朗の赦免に、明治三年に動いた可能性はあるが。わずかだが。
勝と今井てそれほどの「仲」ではなかったに思うが?
それよか、今井の捕縛の「詳細」って当人の証言以外でありましたっけ?
885 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 12:48:38.19 ID:tldNQWrz0
今井の捕縛って何のこと? 函館で降伏したときのこと?
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/06(日) 17:45:20.13 ID:NQh0SrsP0
今井信朗は刑部省で、拷問とかを受けた形跡はないよね。大石鍬次郎なんかとは大違いだね。
何故なのかな。不思議だよね。
臭いよ。偽証かな。今井は????
>>886 大石鍬次郎は、拷問されないと分かって、新選組に有利になるように供述変えようとしたんだから、
大石鍬次郎も拷問は受けてない。
なんでもかんでも新選組のせいにする西村兼文が
龍馬暗殺は京都見廻組の犯行だったとあっさり片付けているんだから
当たり前に京都見廻組の犯行じゃねえの?
889 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/07(月) 12:40:25.55 ID:WE4E8hKX0
平尾道雄「海援隊始末記」を読んだ。
なんとなく、海援隊に裏切り者はいないという気がした。
海援隊にも陸援隊にも裏切り者はいないのではないか。
>>888 というよりか、彼が編纂した志士らの詩集だっけ?「興風後集」てやつ
<明治二年?>
そこに”龍馬、中岡のは掲載されていない事実”
後の「文明史略」<明治6・7年?>で見廻と語ったわけだけれども・・・・
言わずもがな??ww
週刊大衆ですら
京都見廻組説を採用したんだから
他の説はどうやっても見込みないだろ
>>891 逆だろ
週刊大衆主張の見廻組説 以 外 が 正 解 。
893 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 13:22:09.64 ID:xfSxPeot0
>890
調べたら「文明史略」明治19年ですね。これが最初の見廻り組説??
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/10(木) 17:03:43.06 ID:iX75KuA6O
正解無き水掛け論
ネット掲示板に何を期待しているんだい?
松平容保で決まりでしょ
他の説は小説内では容保は清い人っていってるだけだし
897 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 09:40:42.00 ID:PbIcPKgq0
仮に容保が犯人だとして、暗殺理由は何だと思いますか?
大政奉還に反対だから?
大政奉還とは関係なく、幕府にとって為にならん奴だと思ったから?
それとも、慶喜を困らせてやろうと思ったから?
それとも標的は中岡だったとか…
1.大政奉還に松平容保をはじめ会津藩は大反対
2.徳川慶喜と諸侯との関係強化が会津藩の権威失墜に直結していた
899 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 12:41:19.47 ID:t+4euTPQ0
2がいまいちよく分らない。
諸侯とは佐幕諸侯のことなのか。
関係強化とは具体的にどのようなことを指すのか。
会津藩の権威失墜を防ぐために暗殺したのか。
それならやったのは会津藩だと名乗り出ればいいはずだが。
900 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 14:34:45.98 ID:f2YvA8iI0
公儀政権構想ですよ。
徳川慶喜を頂点に、あとは西南雄藩などを周囲に配置して政権の要とする構想だった。
しかし京都にいた諸侯は、会津と桑名の排除を要求していた。
徳川慶喜は公儀政権成立に際し、会津桑名から諸侯へ政権の背景武力を乗り換える姿勢を見せていた。
901 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 21:05:03.22 ID:WnWd7Eex0
なるほど。しかし龍馬を暗殺したからといって、
公儀政権樹立後に会津桑名が有利になるとも思えないのだが…
一志士(中岡入れると二志士)を会津藩・新選組が逆恨みしまくっただけp
新選組じゃねえよ
京都見廻組だ。
えらい違いだぞ。
元白虎隊士だっけか?暗殺当夜、某所より「帰宅途中」にて藩士数名に出くわして龍馬襲撃の報を聞いた等々・・・・
どういう「経緯」で出くわしたかはなんともだが
「現場」よりの報告途中だったのか、一旦、藩邸からの情報を関係者へとの途中だったのか・・・・?
世話になった赤松小三郎を冷酷に暗殺した薩摩。
龍馬のことも絶対そうだ。
906 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 08:20:38.81 ID:qvjSWYPW0
>>904 近藤勇に刀を届けた帰りに、「佐々木か近藤がやったらしい」と聞いたという話のことか?
会津藩士がそう話したということは、彼らは真相を知らなかったわけで、ということは、
会津は暗殺には関与していない、または、関与してはいるが一般藩士には知らされていなかった、ということだな。
907 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 08:32:38.78 ID:qvjSWYPW0
中村半次郎はその日記で幕奸(幕府のスパイ)だから斬ったと記述しているが、
赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場で、
議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われる。
なるほど。Wikiの説明を見ると龍馬とそっくりだな。しかし中岡までなぜ殺したのか…
赤松については
薩摩上層部は暗殺反対だったが
中村が勝手に殺して
暗殺の正統性をアピールするために日記に書き残した。
どっちに転んでもいいように
武力討幕と大政奉還のふたまたかけていた龍馬とは背景がまるで異なる。
というか、
薩摩藩がホントに龍馬暗殺にかかわっていたなら
赤松の場合と同じく中村が堂々と日記に書き残してFA。
半藤一夫氏は薩摩藩陰謀(黒幕)説唱えてた(過去形)けどその後変節してないのかね?
倒幕路線を大政奉還献策で邪魔されそうになった薩摩藩の仕業か
会津藩、幕府側の人間による指示なのか?
最終的に命令下したのは永井?容保公?
大政奉還献策といっても
龍馬自身は
「後藤如何に平和的に復古せむとするも、到底兵を用ゐざるを得ず」
とぶっちゃけているくらい
武力討幕やる気マンマン。
911 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 18:52:22.73 ID:TnHCDCuF0
中川宮が容保か永井に依頼した、という線は考えられないか…
912 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 20:49:15.11 ID:sJST9ATU0
>>907 中岡は巻き添え?
止めを刺されていないし。
913 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 20:52:01.04 ID:sJST9ATU0
>>908 赤松=上田藩
龍馬=土佐藩
バックの藩がまるで違うw
914 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 21:48:51.25 ID:GbuJTjR40
>>910 > 「後藤如何に平和的に復古せむとするも、到底兵を用ゐざるを得ず」
ズバリだね。出典は何?
>>917 サンクス
船越衛(元広島藩士)の証言 かぁ
>>910 > 「後藤如何に平和的に復古せむとするも、到底兵を用ゐざるを得ず」
の出典はこれ↓かな
男爵船越衛伝 手島益雄 著
919 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 09:29:21.72 ID:zF92tuzh0
土佐は公議政体派で容堂も最後まで慶喜を擁護していました。
坂本龍馬はその土佐藩士であり、幕府にとっても土佐を敵に回すべきでもありません。
この事からむしろ大政奉還により既得権を奪われた一幕臣の私怨による短絡的な行動であったとわたしはみます。
因みに会津容保侯も大政奉還に賛成していました。
920 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 09:32:18.73 ID:zF92tuzh0
京都見廻組犯行説を採る場合
当然ながら京都見廻組は幕府関係者からの要請によって暗殺を決行したわけで
龍馬暗殺の命令者は幕府の上層部、
具体的に容疑者を挙げるなら、
京都守護職の会津藩
京都所司代の桑名藩
当時幕府方だった紀州藩
永井尚忠や榎本対馬といった幕府高官らということになります。
>>920 新撰組説を採った場合でも全く同じだよ。
新撰組は、見廻組同様、既に立派な旗本御家人集団なんだからさw
見廻り組に直接指示を出せる役職にいるのは誰?
守護職じゃないの?容保か永井のどっちかでしょ
923 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 12:41:48.05 ID:TUDO5GA+0
>>919を考えれば永井。
今井弟書簡とも符合するし、永井を永井候と表記した史料もある。つまり手代木証言とも符合する。
会津子飼いの新撰組の犯行なら
見廻り組以上に
会津首謀は決定的なはずなんだが・・・
越前潘のえらい人の日記では
会津は大政奉還反対だったな。
徳富蘇峰?の作品読んで脱け出せようのない束縛感みたいな窮屈な気持ちになったって
司馬氏坂の上の雲のあとがきで自白してなかったっけ?
で、明治の日本人がどんな気持ちで弱小国家(といえるような体を成していなかった)を
西欧の列強に比するべく立て直そうとしたか しかも今日の我々から見れば
たいした軍事力も経済力もない国が 当時の日本人だけが真剣に富国強兵を目指していた
その明治の日本人と心情を描きたかった‐みたいな件りがあったような(?
すみません
>>925は誤爆です
スレと全く無関係です スレ汚し流れぶった切り失礼します
武市半平太に替わって切腹致し候
927 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 23:15:10.25 ID:On5dxxQB0
坂本龍馬の命日age
928 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 23:19:36.29 ID:N/xkf1re0
and生誕日
929 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 23:38:15.38 ID:n1G32DLt0
>>923 根拠なし。
松平容保が大政奉還に反対の立場だったことは史料にもある。
このスレを最初から読んでみたが、松平容保が大政奉還に賛成だったという意見には根拠がない。
930 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 01:24:56.01 ID:yPIkhK/m0
>>929 「京都守護職始末」も立派な資料におもいますぜ?wダンナww
要は、容保さんが実は「話のわかった」殿様であったと「知られては」困る方々がいらっしやったとww
そりゃそうだw
領地まで行って戦争して女子供巻き込んでの死闘やったわけだから
後になってそんな話が出てもらってはねぇ〜
がしかし、慶喜さんはホント「賢い」よなぁ〜と(笑)
>>939 「京都守護職始末」なんてものを信用可能な資料ででもあるかのように妄想してしまっている時点で語る資格無しp
>>931 「京都守護職始末」なんてものを信用可能な資料ででもあるかのように妄想してしまっている時点で語る資格無しp
934 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 09:19:02.86 ID:NKHMA3J+0
>>934 暗殺直前の龍馬は永井んところに通いづめで
永井ん隣は佐々木只三郎の宿舎だったんだから
龍馬の潜伏場所くらいは自力で探り当てられるだろう。
近江屋事件の解説について
ウィキメディアよりも
ニコニコ大百科の方が詳しく書いてあるのはどういうことなんだろう。
>加治ショウイチ「という内容の小説を書いたら10万部売れた。笑いが止まりませんなハハッ」
>半分カズトシ「先の坂本龍馬暗殺特番において、坂本がグラバー=フリーメイソンの手先に過ぎぬと大衆に印象付けることに成功した」
>なかむー彰彦「『薩摩が京都見廻組に坂本龍馬の居場所をリークした』これが最近の有力説となりつつある」
>三度狂気「あ、それボクが大河ドラマ『新徴組!!』で採用しますた」
>Mr.YEN「経済学的に見ても討幕派が坂本龍馬を暗殺しようと思ったことは確実」
>小林H三「薩摩の背後には更なる黒幕、グラバー=フリーメイソンがいたという"真実"。このシナリオを遂行せねばなるまいが、Wikipediaのグラバーの記事には『石柱は昭和42年に寄贈された』とあるようだ」
>加治ショウイチ「メイソンが黙っちゃいませんな」
>☆リョウイチ「あそこには我が配下がいる。いずれ削除しよう。」
>なかむー彰彦「京都見廻組?今井信郎?そのようなどこの馬の骨とも分からぬ無名の輩にあっけなく殺されてしまった、などという退屈な"事実"は不要」
>半分カズトシ「さよう。歴史の"真実"は作家(われら)が創る」
ワロタ
936 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 12:05:42.78 ID:4c1wlUrE0
今井は龍馬暗殺数年経過してから「あれはワシと数人の仲間でやった」と自白しているが
西郷が今井の赦免に口添えしたって噂はどうなの?
もしかして西郷も龍馬暗殺に一枚噛んでる?
でも薩摩藩じゃないと思うなぁ
永井か容保のどっちかだと思うが、
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 12:10:50.67 ID:NKHMA3J+0
>>935 「坂本が死んでも、薩長はあずかり知らぬことでごわす」
とかw
>>936 http://373news.com/_bunka/jikokushi/70.php 函館政府関係者の早期赦免は全員が西郷の口添えのおかげなんだが
>留守政府を預かることになった西郷隆盛は政府要人が国内にそろっているうちに榎本たちの処分を決定すべきだと各方面を説いた。
>これはアメリカの南北戦争(1861−65年)での北軍政府の寛大な処置を指していると思われる。北軍政府は捕虜を早期に釈放し、南軍関係者の多くに特赦を与えている。この「美談」によって、北軍政府は国際的な名声を得た。
>もし榎本たちを処刑したら、国際社会から非難を浴びることになる。さらに岩倉使節団の前途に悪影響を与えかねない。西郷はそれをよく理解していたから、北軍政府の処置に倣おうとした。そして正月4日、榎本たちに対して特赦が与えられた(榎本の釈放は3月)。
んでも、近藤、大石の処分は免れなかったじゃん?
ああ、すまん「別枠」だわな
そいや渡辺篤の職も薩摩の「斡旋」とか
薩摩と幕府の仲が決定的に悪くなるのは
慶喜が将軍就任してから。
だから幕臣や会津藩士と薩摩藩士が友達だってことは珍しくもなんともない。
奈良県庁に就職の口利きしてもらったくらいで
龍馬暗殺に結びつけるのはね・・・
だいたい薩摩藩と京都見廻り組の繋がりだったら
京都留守居役高崎正風と
与頭佐々木只三郎の友達付き合いが一番大きいんじゃないか?
いやさw
「偶々」薩摩の伝があったんで等な場合であっても(何の背景もない)
そいつが「後」に近江屋事件の関係者だったって所に「おいおいw」ってなる話だと(笑)
なんだか、京都見廻組の公務の話に、
「この人間は昔薩摩の人間一度酒を飲んだことがあるから薩摩の濃密な関係者ということにしろ」的な話を持ち出すのが異常。
幕府・会津と薩摩は
八・一八政変や禁門の変で
いっしょに京都から長州を叩き出した仲なんだから
まったく付き合いのなかった人間を探し当てる方が逆に難しい。
生え抜きの京都見廻組ならまだしも
渡辺篤や桂早之助は京都奉行からの出向組だったんだし。
>>944 妄想乙
会津は桑名や東北諸藩と仲良くしてただけw で、薩摩と会津戦争。
薩賊会奸を否定する人を初めて見たな。
高崎と秋月がいっしょに中川宮を訪問したことを知らないの?
秋月悌次郎なんぞと知り合いになってしまった高崎正風はその後薩摩藩内で永久に引っ込まされたことを知らないの?
948 :
555:2011/11/17(木) 11:42:11.19 ID:S1Vpp8kGO
鳥羽の戦いが起こる
四日前の話だっけ
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 09:57:00.47 ID:AZgOcaEz0
磯田道史「竜馬史」を読んだ。
板倉の人物像の見方が単純すぎるし、今井の口書の文意を理解していないし、今井弟書簡を完全に無視しているなど、
問題点は多いが、中に一つ、永井説にとって有利と思える材料を見つけた。
p177に今井の妹の証言として「いつぞや信夫(信郎の息子)が、あの書付があるとお父さんために非常に好都合だからといって、
方々探しましたが見当たりませんでした」とあり、磯田氏はそれは京都守護職からの褒状だと解釈しているようだが、今井弟書簡にこうある。
「…永井氏より金五十両慰労のため送りし書附を見たることあり」
つまり今井妹の証言の「書付」とは「永井氏より金五十両慰労のため送りし書附」のことではないのか。
951 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 10:03:20.28 ID:AZgOcaEz0
そもそも龍馬が14日の夜に永井を訪れたことを裏付ける資料はあるのか。
それを永井が中根に語ったのは龍馬が暗殺された当日。
よりによってなぜそんな日に永井は龍馬のことを語ったのか。
怪しいと思わないか?
永井は一種のアリバイ作りをしているのではないのか。
952 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 17:42:57.57 ID:xln27+sa0
磯田道史「竜馬史」はひどい本だった。
歴史をやる人間ではないね。偏見と独断で書いていて、
それで、手代木伝でお茶を濁して、おわり。
大学に雇われてから、学生に資料を集めさせて書いたような
感じで、龍馬伝ブームに乗せるだけのために書いた。
あれでは、歴史を語るのはやめろだね。
文芸春秋だよね、あそこも駄目になった出版社だねーー
953 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 23:36:15.07 ID:do0Aam2E0
磯田道史氏って茨城大学の准教授かな?
ちょこちょこテレビでも見るようになった
若いでしょまだ 文芸春秋誌上で磯田氏、半藤一夫氏、関川氏、他で幕末の志士達をテーマに取り上げて
鼎談する企画があり読みました。
954 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/24(木) 19:04:05.68 ID:66F4yRtf0
磯田道史。永井の屋敷の前に佐々木の下宿寺があったことを自慢そうに書いていながら、永井をまったく疑っていない。
また、寺田屋事件で、某大目付が龍馬を殺せと言ったことを知りながら、当時の大目付が誰であるかを調べていない。
調べればそれが永井であることが分かったはずなのに。
要するに、どいつもこいつも永井を最初からまったく疑っていないのである。
それを思えば、永井が黒幕だと指摘した小松格氏は鋭い。
955 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/25(金) 16:31:51.95 ID:tEP2gfmS0
某大目付って、だれなの?松平貫太郎????
だとすれば、それ間違いでは?
磯田氏は、手代木伝で、逃げたのだよ。ろくに調査もしていないで。
「竜馬史」は後世に残る、悪書。大学に在籍する歴史家の作品ではない
と思いました。
956 :
世捨人:2011/11/25(金) 18:09:09.80 ID:yZoL1Lph0
>>955 寺田屋事件当時の大目付は永井なのですよ。
957 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/25(金) 18:19:07.44 ID:R+vFGG2z0
残念ながら永井に一票
958 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/25(金) 19:18:48.97 ID:QfXUr0xx0
大政奉還を土佐藩が出す前から、何故提出しないのだと土佐藩に提出するよう要求している永井を、犯人には出来ないよ。
口調から見ると、とある松平容保大ファンが一人で言い立てているようだが、永井は犯人としては可能性は薄い。
肝心の「物証」がない以上、身内がどうのこうで永井である・・・・な話は
一方で、寺田屋・女将から伝わっている竜馬が、永井・容保から「身の安全」を保障されたって話と同類なんだとw
960 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/26(土) 11:36:23.64 ID:UYSXm+MC0
961 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/27(日) 17:10:07.78 ID:i9IlKB900
>>959 > 永井・容保から「身の安全」を保障された
龍馬をそう油断させておいて、
永井・容保から近藤勇・新選組に暗殺指令が出、
偽装工作のため、手柄は見廻組にくれてやった、と。
なるほど。
これが正解だな。うむ。
962 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 15:09:16.38 ID:Q0LqgJp20
>>958 これまで何回も書いてきたことだから、ムキになって反論しようとは思わないが、
丁卯日記に、板倉、手代木、永井、渋沢らが大政奉還後も不満を持っていたこと、また、
将軍の納地問題に話が及んだとき、いつもの温厚さに似ず永井が憤激したので、これ以上話しても無駄だと思い退出した、ともある。
幕府が潰れてただちに禄を失うのは幕臣である。これに対し、会津藩はただちに潰れるわけではない。既得権益を失うのは永井である。
また、龍馬に、幕府の力で薩長に勝てるかと問われて、勝てないことを認めている。
頭の中では分っていても、いざそのことを口に出して認めるのは腹が立つものである。
永井が龍馬に対してカチンときたということも想像すべきである。
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 15:22:20.48 ID:QsFmB99I0
>>962 会津を擁護したい気持ちは理解するが、
君の話には論理が薄い。
・幕府が潰れて困るのは永井だ
公儀政権で生き残るのは永井ら幕臣であり、政権から消えるのが会津であった。
公儀政権の話をしながら会津は無事と突然論理不明の話を混ぜ込むのはおかしい。
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 15:32:29.20 ID:QsFmB99I0
>>962 ・将軍の納地問題に話が及んだとき、いつもの温厚さに似ず永井が憤激したので、これ以上話しても無駄だと思い退出した
大政奉還に辞官納地は関係ない。
現にこの問題は、他の諸侯も同様に辞官納地を行わない限り徳川慶喜だけに押し付けることは出来ないと
松平春嶽や山内容堂が唱え、鳥羽伏見の戦いが始まるまではこの方針が堅持されている。
そして、このスレッドの上の方では、あなたと思われる熱烈な松平容保ファンがこの話を振りかざして薩長の不正を罵っている。
尤も、鳥羽伏見の戦いが始まってしまったので、敗北者の旧幕府側の主張はこの後朝廷側から消滅してしまうので、この罵倒は不正だ。
そして、この話を今更無視して、永井叩きに使おうと試みるのは、あなたの主張が
一貫性のない、松平容保だけを擁護し他の人に容保の不実を擦り付けるものに見える。
965 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 15:38:24.89 ID:QsFmB99I0
残りの行に関しては、あなたの単なる罵倒でしかない。
小栗や渋沢が大政奉還に不満を持ったことは記録にあるが、彼らは江戸で京都には居ない。
板倉や永井については、別のより良い案を模索した形跡はあるが、本人たちが元々推進してきたものではないかと松平春嶽らに一喝されている。
そして他人の不正をあげつらうより先に、京都にあって徳川慶喜へ反逆し大政奉還打倒を謳っていた会津藩について、
あなたの口はなぜか重い。不思議なことだ。
966 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 18:26:45.68 ID:YZ7/HIf40
963〜965は容保先生ですかw お久しぶりですw
会津は政権から消えても別に困らない。会津に帰ればいいだけのこと。
幕臣は納地となると途端に困窮する。だから永井は納地の話が出たとたんに憤激したのだろう。
それから私は薩長の不正を罵るような投稿をしたことはない。
>残りの行に関しては、あなたの単なる罵倒でしかない
罵倒ではない。永井が龍馬に対して反感を持ったということも想像してみようと提言しているのである。
967 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 21:05:33.60 ID:8IBxi05z0
でも、どこでも藩は苦しく、すぐに廃藩置県をしたしな。
明治維新後のことは、あまり龍馬暗殺と関係ないし。
永井もわずかに、黒幕としては可能性は残されてるけど、
弱いよね。永井は海軍の件では、龍馬と話は合うだろうし、
問題は、永井のプライドだけだね。龍馬に対しては
郷士輩が、クソという私怨だね。でも、どうだろう、
それしかないよね、動機は・・・・
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 10:09:16.01 ID:SxMIrLoH0
海軍といえば、龍馬が軍艦に乗って幕府の艦隊をやっつけたという情報も永井には届いていたかもしれない。
また、今井が新聞記者?に語った龍馬暗殺動機の一つに、龍馬が海援隊を率いて海路江戸に向かって幕府を攻撃しようとした、
という陳述があったはずだ。するとそういう情報を永井や勝がつかんでいたかもしれない。
というわけで、勝も黒幕の一人に浮上してくる。
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 11:44:55.30 ID:Bk88ceI0O
すげえ妄想w
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 12:41:32.61 ID:V5u6P6zP0
どこを妄想と言ってるかは知らないが、そういう資料があることは確かだ。
誰もこの資料には言及しないが。
971 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 15:44:19.25 ID:qTk7jHL+0
松平容保を犯人にしたくないだけで、話しに整合性がないな
972 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 19:08:12.79 ID:vVDha/zL0
慶応3年11月11日付林謙三宛 手紙より一部抜粋
○扨、今朝永井玄蕃方ニ参り色?談じ候所、
天下の事ハ危共、御気の毒とも言葉に尽し不被申候。
大兄御事も今しバらく命を御大事ニ被成度、
実ハ可為の時ハ今ニて御座候。やがて方向を定め、
シユラか極楽かに御供可申奉存候。謹言。
十一月十一日
龍馬
追白、彼玄蕃ハヒタ同心
ニて候、再拝。
973 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 19:25:55.77 ID:xA4dO+VA0
968さん、その資料は、どこのもの??
おしえてください。
それと、永井と龍馬の関係だが、
龍馬が永井とあっているのは福岡藤次と一緒の時もあるよね。
974 :
世捨人:2011/11/30(水) 19:52:24.60 ID:7SqmvOjR0
>>973 たしか相川司の「龍馬を殺したのは誰か」に、ごく簡単に紹介されていたと思う。
わたしももっと詳しく知りたいのだが。
どういうわけかこの資料に言及している論者が一人もいない。
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/15(木) 09:47:02.04 ID:p/jIOdG90
unko
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 19:09:47.87 ID:G53nNjAa0
金正日の死去に容保が関係していると思う。
厨wではないんだが
福岡子孫さんの話ってのは
もしかすると、福岡自身が永井を「紹介」したようなものだから
それで後に真実が判明し、「紹介しなければよかった・・・」等々の悔やみも含め
周りからの追求も絡めての
「言ってはならない」
なのかもしれんなぁ・・・・と
大政奉還に激怒していた松平容保と面会したのがまずかったのかも
松平容保にしてみれば、大政奉還に走る徳川慶喜への警告として、標的に選んだということ
龍馬を暗殺したのは薩摩だっつってんのに、いつまで無味乾燥な議論してんだ?このクズ共
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/21(水) 21:38:24.88 ID:NKYDMzJu0
薩摩が実行?
薩摩が唆し?
981 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 00:26:51.94 ID:jYgyFJz80
誰? ベラ?
今のところ、9割9分9厘松平容保が暗殺指令の出所
残りの可能性に永井や板倉や勝や榎本(武揚ではない、見廻組の方)を懸命に当てはめようと画策中
↑何が何でも会津を悪者にしたがる薩長厨の2ちゃんオタク
しね
実行犯は見廻組
同時期に、新撰組が同じ目的で土佐藩周辺を監視(近藤勇は暗殺計画を事前に承知)
会津人がネット上で不正を働いたとしても、これで薩長に犯人の罪を着せるのは無理
誰も「長」は疑っていないが…
987 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
>>986 一つ上に「薩長厨」と書いてあるのだが。
会津関係者は不正が常態ということだね。