語り合おうぜよ!!
維新後割とすぐに死んでる党員も多いな。
田中光顕とかマジ勝ち組。
何かと一緒に行動してる大橋慎三も明治すぐに死んでるな。
あとやっぱり長岡謙吉とか。
光顕は出世した上97まで生きたからマジ勝ち組だな。
あと土方久元や河野敏鎌もそこそこ。
土佐志士の顕彰の歴史調べると大体田中光顕が顔出してるのな。
あることないこと言ってるイメージがあるがwこいつがいなかったら土佐志士はもっとマイナーだった。
スレタイの変化が表すように
一般的には、武市瑞山と言う呼称も、武市半平太と言う呼称も
どっちも同じくらい世間に浸透してるけど、
武市ファン的にはどっちの呼称が好みなん?
俺は半平太と瑞山を気ままに使い分けてるが。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 00:19:36.83 ID:MRzTeQSU0
半平太の方がメジャーじゃないか?「瑞山」はお堅いイメージだがはんぺいたと
書くと随分かわいらしくなる
山がつく号は多いから半平太のが分かりやすくて個人的にはいい
前スレ最後、清岡道之助の弟の清岡公張が河田小龍のパトロンだったって本当?明治以降の話か?
龍馬は小龍と2回くらいしか会ったことないんだっけか
通称の半平太だと呼び捨てに抵抗感を感じるので
瑞山の方が呼びやすい。
もしくは武市先生で。
弥太郎違いだが岩崎弥太郎は土佐勤王党の事をどう考えていたのかな。
近藤長次郎はあるいは土佐勤王党に加盟していたかもしれないみたいだけど。
岩崎弥太郎の義叔父の岡本寧浦がまた土佐勤王党関係者と縁が深いしね。
>>7 「画人 河田小龍」って本に出てるって。
清岡公張は維新後出世してたからパトロンになったのはそれ以降だろうけど交流は前からあったんじゃない。
ナポレオンの絵とやらは安政3年、岡本寧浦の門人繋がりで交流のあった清岡道之助の依頼で描いた「西洋戦争図」の事だね。
河田小龍は龍馬に海軍のアイデアを与えただけじゃなく、人材を育てて龍馬をサポートする約束もしてたというけど本当かな?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 07:39:10.14 ID:b3mQ+T8o0
武市さんなら、さっきホライズン・インベストメントの日本法人代表に就任して
腐った日本を買い叩いてたよ(´・ω・`)?
>>9 その延長で藻洲潟に塩田を作って失敗したって話もw
創作ネタで叩かれてるといえば樋口真吉ら宿毛勤王党グループの岩井精一郎もそういうとこあるよな。
創作鵜呑みの以蔵オタは横田達雄「武市半平太と土佐勤王党」で天誅で利用云々毒殺を恨んで云々
だのの話はあり得ないって検証済みだが何か?ですむからいいとして
司馬遼太郎「峠」で河井継之助が英雄扱いされてるのを鵜呑みにして精一郎が全部悪かったみたいな言い方する人もいるが
領民を戦禍に巻き込んだ恨みから地元では何度も墓壊されてた扱いの河井を小説一つで英雄扱いたあ虫のいい話だねえ。
>>8 岩崎弥太郎は近藤長次郎に目を掛けてたんだよね。
外国の脅威に立ち向かおうとしてたんだから
当然みんなそれなりに海外に対する興味はあったはず…。
容堂さんも漂巽紀略を大名間で見せびらかしてたらしいw
ところでジョン万次郎と接点のあった党員ていたっけ?
海援隊に入ったような人は当然会ってるんじゃないの?
中島信行、長岡謙吉とか。
ジョン万(当時は中浜姓)は、後藤象二郎が夕顔号を買うの手伝ったり、
ジョン万が薩摩藩に戻って、岩崎弥太郎に任せるまでは、
その辺取り仕切っていたわけだし。
土佐勤皇党が土佐藩を牛耳っていたころは、
幕府に仕えていたから、藩政を一緒にやったりはしてないけど。
そもそも新おこぜ組に教えた立場の人だし。
幡多郡の重鎮、樋口真吉はジョン万次郎との接点あった記録があるようだな
調べてみると意外なところで交流があって面白いんだよな
絵金と武市も師弟関係だったり。
以蔵がジョン万次郎の護衛してる。
坂本系の人は勝とセットで結構会ってるんじゃないか。
漂巽紀略を書いた河田小龍は、ジョン万次郎から
アメリカでは大統領が選挙で選ばれていることを聴いて、
当初嘘じゃないかと疑ったらしい。
"勤皇"党は国王なしの大統領制をどう思ったのだろうか。
あー以蔵がいたか。
でも護衛の話は時代考証すると慶応年間のはずで、
つじつまが合わなくってしまうらしいが、あのエピソードの以蔵はすごい。
みなもと太郎も褒めてた。
後藤象二郎も東洋の所でジョン万から話を聞いて、もらった世界地図に朱墨で書き込んだりしていたようだ。
佐々木高行は初めて世界地図を見たときの回想で、「万次郎はアメリカ贔屓だから
日本を小さく描いたんだろうと同僚同士で話し合っていた」と言っていた。
ドラマでよく見るが、当時の日本人は日本がこんなに小さな国だとは知らなかったということか。
>>17 あの時期岡田はもう処刑済みの筈。
みなもと先生の「風雲児たち」面白いよね。おもっくそ司馬遼太郎準拠だけどw
他の党員もっと出して欲しいけど、そういえば土佐勤王党を扱った研究書が横田先生の本しかないのを思い出した。
松岡先生が今度書いてくれないかなあ。
藩内のインテリ同士は大体交流があるみたいなんだよね。小龍もインテリだし。
鹿持雅澄の門下生がサブリーダー格に多いのと武市さんがリーダーなのはやはり関係あるのかな。
慶応年間は獄中だよ。
慶応元年5月11日に打ち首で。
文久三年から以蔵が京に戻るまでの間のどこかじゃないのかね。
たしか龍馬も万次郎との接点が確認できる史料はなかったような。
>>19 中浜家の口伝では万次郎の墓完成時に岡田の護衛話となってるけど
お墓が出来た時はもう処刑されてたから多分人違いか何かじゃないかな?
口伝で護衛話がある他の剣客も名前が間違ってるらしい。
剣術修行〜天誅〜拷問の経歴を見てると島村衛吉って岡田以蔵の上位互換ぽい。
衛吉の道中記に吉田松陰の句が載ってるらしいけど
松陰の辞世の如く大和魂に殉じた凄まじい死に様だったね衛吉。
それにひきかえ岡田のアホときたら…
「万次郎の墓完成時」の記憶が間違ってるんじゃないかね。
慶応年間にジョン万次郎を切る人間がいたかどうか。
元治年間がギリギリじゃない?
禁門の変と佐久間象山が元治元年。
>>21 維新後も暗殺事件は頻発してたけど。
情勢が変わったからってオール開明派になった訳でなし色んな考え方の人間がいるだろうさ。
ようするに万次郎の護衛話は出典が相当怪しいので史実として取り上げる事が出来ない話なのね。
マンガみたいに派手なエピソードで人気があるのは解るけど、そういうものは基本的に創作要素が大幅に盛り込まれてる。
ところで
>>12の岩村精一郎は龍馬に心酔して陸援隊に来て戊辰戦争に参加してたみたいだけど
樋口真吉達と龍馬って何で交流があったの?だいぶ出身地域が違うよね?
>>12 今では長岡には河井の記念館まであるからなぁ…
武市さんのテロリスト扱いといい、創作の影響ってつくづく怖いと思うよ
以蔵には記念館などできなくて良かった良かった
武市はテロリスト。
>>22 ジョン万次郎は日本帰ってきてから、出自もあっていろいろと嫌な目にあってるんで、
人から嫌われることは避けるし、トラブりそうになると職を辞して逃げてるのよ。
妬まれるんで、なかなか通訳をやってくれないし、遣米使節団は大変だったとか。
以蔵が批判されてるとすぐに湧くわかりやすい粘着アンチの為にコピペ
〜勘違いしてる腐女子向け〜史実の岡田以蔵テンプレ
●人斬りやらされて可哀相?暗殺で利用された?
利用されてない、どころか武市先生は天誅禁止の支持を出していた。
天誅は一対一の果たし合いじゃない、多人数で少人数をリンチするだけ。
一緒に天誅に参加した他藩の志士まで利用されてたってか?
天誅は汚れ仕事でなくむしろ英雄視される行為。 以蔵が着牢時、牢番に自慢話しているのを聞かれていることから功名心が強い人間性が窺われる。
●あんなに武市先生に尽くしたのに!
以蔵が武市先生を慕ったとか尽くしたとか書かれた史料はこの世に存在しない。
これは「武市先生が非常に慕われる人柄だった」という所から派生した創作。
そもそも「武市先生の為」に天誅するという認識が誤ってるし、
武市先生を慕ったというなら、以蔵と共に天誅に参加し、 武市らの釈放を求めて決起し死んだ
野根山23士メンバーの名でも挙げるべきだね。
本当に以蔵が武市大好き(笑)なら拷問にも耐えられたんじゃないか?
●仲間に見捨てられた?
調子こいて殺人を重ねお縄になりそうになったので以蔵は江戸の長州藩邸に逃がされた。
これは武市先生の紹介状がないと無理だろうな。
同時期に高杉晋作への借金を他の党員が立て替えてあげた記録が千屋菊次郎の日記 に。
その後勝海舟の所に行くも酒色に溺れ以蔵は身を持ち崩しホームレス化。
●毒殺を恨んで自白?
司馬遼太郎の創作。
書簡の記録から実際は以蔵が拷問ですぐ自白→仲間の投獄続出→毒殺計画浮上が正解。
その後、同志間書簡で「以蔵も不義を後悔してる」という記述が。
勤王党員だった以蔵の弟に以蔵に毒盛るか自害させるか考え中なんで親を説得してきてほしい
みたいな話し合いがあったが、結局以蔵に毒を送る必要がなくなった。
既に仲間に実害を出している平時なら切腹モンの裏切り者に対して、武市先生達は強引な処分は行わなかった。
あーあと岡田は貧民でも無学でもないんで「純粋で判断力が無かったから騙されてたの!」みたいな責任逃れも通用しない。
◎結論
岡田以蔵のみを特別視せず共に行動した人間と比較してみると、以蔵は単なるクズ。
惨めな最期になるべくしてなった完全に自業自得の人間。
勤王党は好きだが武市は大嫌い
党員達が弾圧されて犠牲になったのはぜんぶこいつのせいだからな
>>27 つ
>>26 もう来ないんじゃなかったの?w
前スレで
985 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2011/05/31(火) 16:06:53.18 ID:vwyHn10iO [3回発言]
>>983 別に粘着を擁護してる訳じゃなく、粘着じゃないのに例の粘着自演認定されたから腹立ててるだけですが何か?
お前ら全員ウザイよマジで死んでこい
986 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2011/05/31(火) 16:15:17.82 ID:vwyHn10iO [3回発言]
以蔵ヲタも以蔵ヲタだが武市や勤王党のヲタも相当ウザイな
自分等の都合の悪い書き込みはなんでもかんでも自演扱いかwww
もうこんなスレ二度とこねぇよ気分悪い
とか言ってたよねw
瑞山獄中書簡集の最後の手紙から、以蔵がいまだに
一人だけわざわざ牢番に伝言頼む位には武市先生を慕っていたのは判明してるんだよね。
ただ武市先生にとって以蔵は仲間と身内の仇みたいなもんで到底受け付けられない存在だったし、
そんな厚顔無恥な以蔵のことを心から嫌悪していた。
そりゃ嫌いもするし軽蔑するよね、せっかく逃がしたのに自ら落ちぶれ捕縛される事態を招いたあげく
女も耐えてる拷問に泣き喚いて仲間を次々に売ったんだもの。
最終的に武市先生があれだけ以蔵を嫌っていたのだからその気持ちを汲んであげたい。
という訳でセットで語るのはもうやめたげて欲しいなぁ。
武市が以蔵逃がしたって確定してんのかよww
平井や他の党員が逃がしたのかもしれないだろうが
武市が平井や間崎や以蔵や沢山の党員達を犠牲にしたのは確かだろうが
もう少し上手くやればこんなに犠牲出さずに済んだんじゃねーんかと
本当にあれしか方法無かったのかよ?
武市は党員達の命を犠牲にした無能なクズ以外の何者でもないだろうが
こいつは犠牲になった党員達の事どう思ってたんだろうね
とりあえず、瑞山神社なんていって奉られるような価値は全く無いだろ
勤王党と武市のスレ分けてほしいわ
勤王党を武市みたいな無能と一緒に語ってほしくない
勤王党ヲタなら武市なんか嫌いになって当然だと思うんだが、ここの連中は頭がおかしいのかな?
てめぇの無駄な志に罪の無い党員達を付き合わせるのはいい加減にして欲しいわ
スルー検定が始まったようだな。
勤王党好きで武市嫌いって人も多いから
やっぱスレ分けた方が平和だよ
武市みたいなゴミよりも、平井は間崎や以蔵や衛吉とかの方が立派なのは明らかですからwww
武市ヲタはこのスレから消えてくださいね!
一応勤王党だから武市の墓にも行くけど、心では罵倒してますよwwww
武市の墓だけは手を合わせてないしwww
こんな奴がなんで奉られてるの?マジで理解できないんだけどwwww
武市など、四天王からも外すべきだと思いますね。高知県民は馬鹿なの死ぬの?
武市みたいなクズを奉るくらいなら、平井や間崎や以蔵みたいな立派な志士達を奉りやがれ
武市なんて肥溜めがお似合いよ
武市ヲタは隔離でお願いしますね
次のスレタイは勤王党について語るスレでお願いしますね
武市?そんなゴミはイラネ
靖国神社に以蔵合祀を求めよう!忘れられた勤王の志士を
顕彰しよう!!
靖国には、武市外して以蔵奉れば良いと思うよ
高知の歴史民俗資料館でやってる勤王志士たちの遺墨遺品展行った人いる?
結構量ある上貴重なものも感動した
四天王は当然としてマイナーな志士も揃ってたな
武市はマジでイラネwwだけど、他党員は好きだから、勤王党展は見に行くよ
>>15 絵金といえば
実は隠れ勤王党員だったのではないかという指摘もされている様だ。
売れっ子画家だった絵金があるいは瑞山に惚れこんで活動資金を提供していた可能性もあるのではないか?
と、研究者に言われていたが、この辺は当時の土佐の庶民が瑞山と勤王党に協力的だった事を踏まえていってるのかな。
ついでに現存している血盟書の写しはかなり名前が抜けているようだ。
どう見ても党員として活動しているのに名を連ねてない者がよくいるらしい。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 13:53:47.71 ID:l4fY+GdZO
松岡司の連載には武市関連の濡れ衣を晴らす意味で期待してるんだがここしばらく放置されてるな。
岡田以蔵が自白で仲間に類を及ぼしたため顕彰を拒まれた事は当時の記録にも残っているが
岡田家子孫もいることだし、以蔵の不品行についてはどの辺まで配慮して書くつもりなんだろう。
ちなみに松岡氏は武市家子孫の依頼で資料集に寄稿したりもしている。
アンチは何だか嶋岡晨か菊池明みたいな物言いになってきてるなw
擁護しようのないものを美化したがるからそうなるんだろうが。
子孫等に配慮して人物描写する人って
そんなにいなそうな気もするが。
釣れとる釣れとる。
「岡田以蔵=ただのクズ」と言われるとメンヘラ腐女子粘着以蔵オタのよくないスイッチが入ってしまう様で。
もうスクリプトだと思う事にするよ。
こういうキモイのがいるから以蔵の話題出したくないんだよね。
>>16 どう思ったんだろうね。
野蛮な制度だと思ったのか、いいなあウチもやりたいと思ったのか、まあ人それぞれだったんじゃないかな。
龍馬も天皇中心の統一国家を目指すって点では他の勤王党員と変わらなかった。そこは武市先生の影響も受けてたんだと思うよ。
封建制からいきなり選挙制を導入しようとしてもそれは無理。
薩長同盟ももともと武市先生が「両雄確執せば、天下の事為す可らず、勉めて薩、長の協和に力を致さん」って連携強化に腐心してた事なんだし。
龍馬だって横井小楠や由利公正とダベりながら
「君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行末」とか詠ってた人なんだから。
その後の方向を考えると、河田小龍の影響が非常に強かったと思う、坂本は。
そういえばもう終わってしまったんだがGW中に
「土佐勤王党150周年 二十三士遺品展〜二十三士の背中を見て今を考える」
が縁の地でやっていたらしい。行きたかったな…。
あと昔の23士展の図録がオークションで売られてて、割と良いお値段で落札されてた。
中岡と清岡一族の者は藩校で学んだ友人同士でその後も縁が深い関係だったが
確か23士の中には中岡の親戚もいたよな。新井竹次郎だっけ?
武市と以蔵の関係を、西郷と中村(桐野)の関係と比較して武市叩く人いるけど、
西郷中村(桐野)の関係と比較するなら、武市と以蔵よりも、武市と島村衛吉の方が良いと思うんだが
中村と以蔵じゃ人間性に天と地程の差があるから、比べる対象にもならないと思うんだよな
まぁ、人斬りと呼ばれたのは以蔵の方だからそっちと比較したくなるんだろうけど
以蔵の人間性の低劣さは誰もが認めている。誰も以蔵を美化していない。
しかし、以蔵の師匠で指導者であった武市は以蔵の性格を矯正すべき立場
にあったはずなのに、逆に助長し悪用して殺人鬼に仕立て上げ、しかも
御用済みとなったら口封じに毒殺を図る、そのような武市の人間性は
以蔵にも劣るではないか。ほかの勤王党員を守るために以蔵を毒殺してもいい
という発想は以蔵を同志と思っていなかった証拠だ。以蔵は同志を裏切ったの
ではない。同志扱いされていなかったことに気づいたから、もはや同志を守
るために拷問に耐える義務はないと達観したんだよ。以蔵が裏切る前に武市が
以蔵を裏切ったんだよ。
武市は以蔵を悪用も殺人鬼に仕立てあげたりもしてません!
小説鵜呑みにするアホは帰ってくれ
こんな人の少ないスレで特定の話題にこだわってると自演がすぐバレるよ。
さんざん見え透いたオタナリしてた平井収二郎ネタはもういいのかい?
島村衛吉とほぼ同じ経歴の久松喜代馬も忘れないであげてね。
2人とも麻田道場では武市さんと同門で、
武市さんの門弟兼親しい友人であり、天誅や勅使の護衛に参加し、以蔵のせいで死んだ。
野根山二十三士について調べたら地元ではすごく大事にされてるようで良かった。
龍馬と後藤が遺恨を水に流して手を組んだ事ばかり注目されるけど、それは二十三士の縁者も同じなのにねぇ。
河野は怨恨を捨てきれず、維新後江藤を葬り去りたい大久保に利用されたけどなwww
河野は維新後に洋行して強烈な国権主義になっただけ
武市が叩かれる意味が分からない
勤王党に入るの決めたのも土佐に残るのを決めたのも別に武市のせいじゃないし
中岡の様に弾圧の後に即脱藩すればよかっただけで
平井と間崎に自白状書かせて土佐に送り返したのは武市ですよね?
令旨組の死は武市のせいだと思う
キチガイ以蔵ヲタは大河ドラマ板から出てくんなよ。
武市ガー以蔵ガーとよく知りもしない収二郎の話以外で勤王党について話したい事もないくせに。
以蔵みたいな自白で仲間を死地に追いやった以外に特筆すべき記録のないアホウを
庇い立てしようとすると最終的に恣意的に歪めた解釈で勤王党全体をくさし始める事になるらしい。
菊池明の以蔵本みたいにねw
時勢が勤王党に不利になった時、当然脱藩するしないで党内で意見が割れた。
逃げる者に命が惜しいのか臆病者という意見もあった。
間崎・平井・広瀬達や他の党員が武市さんを恨んだとでも?
主君の為に命を懸けると誓って、切腹命じられたら潔く死ぬのが侍ってもんよ。
もちろん逃げる事を選んだ側を否定してる訳じゃなく価値観は人それぞれって事。
皆が自分で選んだ事を武市さんを貶したい一心でバカにするなって言ってるの。
武市の事は嫌いだが、別に勤王党全体を叩くつもりはないよ
むしろ勤王党が好きだからこそ武市の事が嫌いなんだが
この勤王党スレの人達なら理解できると思ったんだけどな
がっかり
平井は武市を恨んだと思う。憎んでたかもね
自分があれだけ守ろうとした大切な姉小路を、武市は新兵衛を使って殺させたから
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 20:16:41.29 ID:upXywgyv0
>>48 二十三士最年長の川島総次が、中岡の真ん中の姉の夫だから義兄にあたる。
北川竹次郎が新井家の養子になって庄屋の補佐役についたのも中岡の
必死の説得があったから。(昔その時歴史が動いたの名言で紹介されていた)
中岡が一緒に脱藩を誘った須賀恒次も、同じ田野学館で学んだ学友も、五十人組に参加した
メンバーも多くいた。
彼らを全員斬首した責任者だった小笠原唯八と、中岡が手を結んだのは、
龍馬と後藤が組んだと同じぐらいの壁があっただろうな。
>>58 収二郎が武市さんの礼讃者かつ親しい友人だった事は資料読めばわかるけど
お前のそれは何が根拠になった話なのかな?
収二郎が『十文字切腹』だと勘違いしてたお馬鹿さん♪
収二郎の切腹が諸説ある事も知らない癖にどの辺が好きなのかな?
収二郎も延々オタナリで武市先生叩くネタに使われたくないだろうよ。
以蔵は勤王党中最低の志士だった。
久松喜代馬とも武市さんの弟子同士で一緒に修行の旅に行って親しい仲だっただろうね。
そんな仲間達を土壇場で次々に売ったのが岡田以蔵。
>>59 ああ、川島総次だったか、ありがとう。
新井竹次郎といえば実家に当たる北川家から
龍馬記念館が資料の寄託を受けて来年企画展をやるそうだ。
展示品には河田小龍の絵画や山内容堂の書もあるとか。
>>41 前スレで行った人の話が上がってたな。
木村幸比古の講演の話も。
マイナーといえば田内衛吉の墓でググると新旧の墓の様子があっさりヒットするw
墓マイラーっていうんだっけ?こういうの。
ありがたい事だがね。
武市の後継者路線には中岡が居た
中岡は幕末後期の志士として最高のレベルの人物だったろう
武市や中岡と土佐藩を率いれる器量あったのを両方失ってしまったのが不幸
要するにろくなことせんな容堂って
容堂は能力はあっても、トップの器では無かったな。
武市はともかく、中岡が死んだのは容堂関係ないだろw
東洋暗殺がいけなかったんだ。
吉田東洋暗殺事件は長い目で見れば
土佐が薩長土肥の一角を占めるにあたって
歴史的に最低限の必要性があったイベントなんじゃないの?
武市から多大な影響を受けた坂本や中岡ら旧勤王党員の働きかけにより
土佐藩も明治維新に大きく貢献する事になるわけだが、
もしその時に吉田東洋が存在していたら、
坂本や中岡らはスムーズに土佐を利用できたかどうか怪しい。
そもそも東洋が生きてたら、勤王党は土佐から出ることも出来なかったんじゃないかな
東洋は薩摩と考えが同じなんで、東洋生きていても全く問題ない。
東洋生きてても別に問題ないけど、東洋生きてたら、龍馬や中岡や勤王党が歴史に名を刻む事は無かったと思う
もしあの時吉田東洋を排斥していなかったら…
薩長土の微妙なパワーバランスが崩れて歴史が変わっていただろう。
容堂は藩の統治という点で間違った事はしていないさ。
だが武市先生といい野中太内といい信念を持った部下には気の毒な事であった。
獄中闘争の中で、野中太内と武市先生はお互いを密かに認めあってたっぽいよね
信念を持つ者同士、何か感じるものが有ったんだろうか
>>73 武市先生が国事にかける気持ちの純粋さは容堂も佐幕派の上士達もよくわかっていたと思うよ
そういう人だったから党員の皆もあれだけ尽くしたんだろう
ところでNHKオンデマンドで安岡章太郎へのインタビュー番組があった
ちょっと気になる
開明派で容堂の信任厚かった東洋を暗殺すれば弾圧されて当然。
身から出たサビだね。後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎が
門下生だ。板垣退助も容堂の庇護下にあった。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 10:10:31.80 ID:VhmKLyPR0
>>75 板垣は東洋の私塾少林塾で後藤や岩崎と一緒に教わっているから東洋の門下生だよ。
板垣は東洋に目をかけられていたけど、塾生ではないな
訪ねてきた東洋に俺のところに来いと誘われても、少林塾の連中は文弱の徒だとディスっていた。
>>77 多分それです
勤王党員が集会に使ってたお店の子孫の家に、東洋暗殺の打合せの模様が記された書類が残ってて、
その家のお婆さんが「これは宝物じゃ」って言ってたんだそうな。
協力した側もある種の誇りを感じていたんだろうね。
その書類はもう残っていないようだけど…
天誅組ってほんとは天忠組と呼ぶんじゃないかな
まあ天皇の義軍として一番最初に挙兵したし
今日はいちおう青蓮院宮令旨事件で切腹になった者の命日だな。
脱藩というと自由なイメージがあるけど
脱藩者は大体死んでるんだよな。
田中光顕や土方久元らは非常に運の良いケースだった。
光顕などは脱藩のせいで父親がかなりキツイ処分を受けていた気がする。
やはり陪臣の方がより重い処分になるのかな。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/08(水) 00:35:23.99 ID:tGUBTT8r0
毎日が誰かの命日
毎日の明日は誰かの誕生日
>>75 勤王党が東洋暗殺したから弾圧されて当然という理屈がまかり通るならば、東洋も優秀だったがワンマンで無駄に敵が多かったから暗殺されて当然というになるな
暗殺は問答無用の所があるからなあ。
勤王党は実際暗殺や天誅に関与して、しかも自白があったわけだし。
武市投獄は禁門の政変後
武市切腹と勤王派弾圧は禁門の変と第一次長州征伐前
龍馬中岡に接触は第二次長州征伐後
土佐の一藩勤王は鳥羽伏見の後
暗殺と言うより容堂と土佐藩の保身と政治情勢の変化だよね
【ブラック】ベ イ カレント・コンサ ルティング【最悪の詐欺企業】
▼▼▼ 詐欺に注意 ▼▼▼
ベ イカレ ントとは、ピンサロ出身の代表取締役江口が経営する、
黒い噂(100%真実)が後を絶たない、きわめて悪質な人材デリバリー会社です。
入社危険!履歴書が汚れます!
間崎哲馬関係の文献て何かありませんか?
>>88 寺石正路 「土佐偉人伝」
寺石正路「間崎滄浪先生の絶筆自刃刀」(「土佐史談」16)
瑞山会編 「維新土佐勤王史」
平尾道雄 「間崎滄浪」
松村巌 「間崎滄浪」(「土佐史談」57~58)
田中光顕 「維新風雲回顧録」
「間崎則弘小伝」(「維新史料」13)
詩集「滄浪亭存稿」
高知県立図書館で武市関連の本をペラペラと見てたら、武市はその頃はすでに江戸には居なかったから、塾頭として皆から一目置かれるなどという史実は無かったのだ!とか言ってる本見つけたんだけど捏造だったの?
>>90 どの頃?
なぜその場で調べてこないw
明日また図書館で調べてこい。
>>88 あとは清河八郎や土佐勤王党関係漁ってみるとか
それと横川正郎「維新志士の手紙 望月亀弥太・間崎滄浪」
>>90 まずどの本に載ってたんだ?そのころっていつ?
>>92 松田智幸の土佐勤王党考察
この人によれば、武市が盟主だというのも嘘で、本当の盟主は深尾なんだそうだ
本当の勤王党名簿だと、板垣が15番目で、武市は18番目なんだとさww
>松田智幸
龍馬暗殺当時近江屋は存在しなかった!とか言ってる電波さんかw
三藩勤王入京の計立てた武ちんが
土佐藩にあせってそりゃ東洋やるわな
まーたアンチ武市の粘着以蔵ヲタが妙な所から孫引きしてバカ晒してんのかw
コイツ個人ブログからの引用も大好きだよな。
土佐勤王党関連の記事がある所なんて数える程しかないからネタ元バレバレだがw
土佐藩が彼らを守ってあげれば龍馬や慎太郎は死なずに済んだかも。
田中顕助が言ってた、長州は助けてくれたのに土佐藩は冷たかったって。
武市に限らず勤王の志士が現在の日本見たらどう思うだろうかw
切腹か天誅しまくりかね?
ある所で武市捕縛を
「逮捕」と言うべきか「投獄」と言うべきかで少し揉めてるんだが、
どっちが正しいのよ?
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/10(金) 13:20:47.30 ID:YROebv8B0
捕縛でいいじゃんw
捕縛じゃないでしょ。お縄にはなってないから。
取り調べだって座敷に通されて畳の上で質疑したくらいなので。
逮捕というのは、身柄を確保すること、
投獄は、確保した身柄を獄に入れてその後も拘束すること。
だからどちらも正しいのでは?
瑞山と龍馬って見事に正反対だよね。
二人で何の話してたのかなあ…想像付かないw
ところで横田氏の昔の記事とか読んでたら文体が相変わらずでワロタw誌面から浮いてるしw
いや面白いけどさ横田氏の本。
横田氏が昔の記事で瑞山の魅力の本質とは何か未だ考え中であると言ってたけど
最終的には「武市半平太と土佐勤王党」で人格が傑出して素晴らしかったっていう結論になってて
私も瑞山先生の性格が好きなんでやっぱそこかぁ〜と腑に落ちたよ。
横田氏は瑞山の事を「革命家にはなれなかった人」とも言ってたな。
幕府が天皇の命令をないがしろにするのを正させ、
彼らの主君・容堂の汚名を晴らすのが勤王党結成の目的だったからな。
よく勘違いされてるが武市さんは倒幕派ではなかったし。
ただ土佐藩の維新志士を育て、他藩との連携基盤を築き、
薩長同盟や王政復古という形で武市さんの目指していたことは実現したのだから
龍馬達との連携プレーの勝利ということになるのではないかな。
山内民部に対し薩長が勤王を唱へ討幕論を決したから遅れるなと言ってるし討幕論者だろ?
少なくとも幕府があくまで抵抗するなら討幕も排除せずだろう、立場も公武合体の薩摩より急進的な長州と歩調合せてる
土佐藩には家臣としての忠誠心あったけど、徳川に大して陪臣だから忠誠心持つ必要もない
三藩入京なんて幕府に対する政治クーデターみたいな物で、徳川安泰時代だったら藩は即討伐か取り潰しもの
今日なら一部の軍隊率い天皇の下に集まり、勝手に朝廷政権作って日本政府に命令出すようなもんで
うーん。でも実際に武市が仲良かったのは長州の久坂ではなく、薩摩の村井修理だしな
久坂ら長州と仲が良く、家茂暗殺まで企んだりする平井はあきらかに倒幕派だったが、武市は違うんじゃない?
他の勤王党員が長州と歩調合わして倒幕思考だったから、武市までそうだと勘違いされてるんだよね
武市は、薩摩と長州のバランスが崩れないように頑張ってて、どっち派でも無いのに
武市は生きてたら他の勤王党員と意見が合わずに敵対したんじゃないかね?
>>107 > 山内民部に対し薩長が勤王を唱へ討幕論を決したから遅れるなと言ってるし討幕論者だろ?
書簡に倒幕ってはっきり書いてあるんだっけ?
勤王および上京でなく?
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 04:22:30.24 ID:TSfJvtSTO
同志の足を引っ張った党員の代表例といえば岡田以蔵だけど
龍馬達もたいがい勝海舟の足引っ張ってるよな。
所詮幕臣だし利用するだけ利用したれと思ってたのかなw
三藩入京で武市らが提出し朝廷が幕府に突きつけた改革の建白書
畿内を朝廷の直轄領とし、親兵を置く
参勤交代制の廃止
王政復古
この通りだと徳川は一諸侯の地位に転落し幕府は倒れて自然倒幕になる
後の大政奉還と王政復古の大号令と明治の近衛軍設置と同じ
幕府は参勤交代の廃止は飲んだが、親兵設置はあくまで拒否してる
山内民部近習 生原重周 覚書
一日 武市先生 予の家に来たりて 時大いに迫る 薩長 夙に勤王を唱ヘ 遂に討幕の論 既に決す
我が藩 時機失うべからず
これを見ても長州や薩摩の志士と交わり倒幕論自体は出てた
しかも倒幕論に否定的でなくそれを持って土佐藩が薩長に遅れないよう言ってる
そもそも武市が倒幕を否定する理由がない
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 12:44:07.32 ID:QSEYHa/e0
「この日本国には天子様があってその下に将軍があり、将軍の下に大名があり、大名の
下に家老・士とつづいている。
天子様は伊勢神宮と先代の帝に忠孝を尽くし、家老・士はそれぞれの主人の大名への忠義を
尽くすわけで、我々は藩主が天子様へ忠義を尽くされるようにと思って、国の美名が天下に
輝くよう国のために働くことが、即ち藩主と天子様への忠義である。
先祖と両親の恩を忘れ家を絶やし、脱藩するとは、その不忠不幸より勝った忠義などどんな知恵が
ある人にもできないものだ」
これは武市の考えがよくあらわされている。尊王はそれぞれが自分の上の者に忠義を尽くすこと
だと言っている。
武市は幕藩体制の否定はしてないが、あのまま生きてれば倒幕になるだろそりゃ。
たしか参勤交代の廃止に連動して人質だった大名の妻子も国元に帰されてなかったっけ?
倒幕への一里塚は着々と築かれていた訳だ。
武市の考えというか古典的時代からある武士一般倫理の考えだろ
鎌倉時代からの武士の倫理観として、自分を扶持する直接の主君に対して忠誠心が求められる
武市の立場からすれば容堂に対しては忠誠心が要求される
武市の思想からすれば勤王こそが土佐藩の為になるって考えだから矛盾してない
天子様があってその下に将軍がありは明らかに今までの武士にはない観念的な革命思想で
天子様が将軍の上にあるという思想で、始めて現秩序の幕藩体制や将軍を否定できる
武市にしろ高杉にしろ西郷にしろ尊攘倒幕と武士としての倫理忠誠心はなんら矛盾してないわけで
明治後に西郷や大久保が苦にしたのは廃藩置県によって久光から不忠者と言われつづけた事で
徳川将軍に対してはそういう倫理的な感傷はない
薩摩武士は将軍なんかより俺らの殿様のが上の存在と思ってたような臭いあるし
>>115 武市らって容堂に忠誠誓ってたか?
民部には忠誠誓ってたのかもしれないけど、容堂に対しては不愉快にさせるような事ばかりやってたじゃん
平井、間崎、弘瀬はよりによって容堂と仲が最悪な豊資に擦り寄って藩政改革を企んで切腹になったし
以蔵らは、死体投げ込んで容堂脅迫してるし、
こりゃあ容堂も勤王党弾圧するよな
>>116 誓ってたよ。
彼らにとって吉田東洋や安政の大獄関係者は斬らねばならない佞臣&君側の奸だったワケ。
血盟文に
かしこくも我が老公、夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ、
斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる、君辱かしめを受る時は臣死すと
とか
上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす
とも書いてある。
容堂が安政の大獄に連座して謹慎・桜田門外の変あたりの時勢を考慮に入れると別に不自然ではない。
しかしこの盟約文じっくり読むと色々な解釈が出来る表現が盛り込んであって面白いね。
勤王党は天皇が何よりも尊いって序列を明確にしたかったんだから
朝廷から土佐藩に令旨を出させるのも彼らとしては問題なかったのかもしれぬ。
ただ勤王党をめぐる情勢は主に長州の浮沈に掛かっていたからね。
容堂が脅迫された件は岡田犯人説確定する資料も乏しいしまあどうでもいいこった。
当時の志士は簡単に倒幕なんて言わないよ。
書き残して、漏れたら、それだけで処罰の対象になってしまう。
親しい間でしか言わなかった。
だから代わりに勤皇とか攘夷とか言えることを大声で言ってた。
そもそも容堂は隠居様で実際の藩主は豊範だった
まあ幕末になると殿様生身個人に対する忠誠というより
お国という藩組織への忠誠になってた面もある
水戸藩の志士達がキレるきっかけになった水戸の御老公こと烈公・斉昭だって隠居だし。
>>117 安政の大獄関係者はわかるけど、何故東洋?
東洋だって容堂守るため、力を蓄え藩を強くする改革してただけじゃないの
>>122 過激な尊攘派からしてみれば東洋は幕府に阿る佞臣なんだよ。
梅屋敷事件なんかで揉めてる所をみると彼らは容堂を尊皇攘夷派だと認識していたようだ。
勿論容堂も尊皇心は持っているだろうがそれ以上に佐幕派なんだが。
東洋にも書生風の意見といわれているが、要するに下士は政治に関しては万年野党で、その分過激なんだ。
容堂は江戸詰め経験者で、切れ者として有名だったくらいなので、
幕臣に対しては上から目線だし、御三家にも堂々と意見を言っている。
だから尊攘派が頼りにして当然。結局尊攘運動は雄藩頼りなんだから。
もう少し事態が進むのが遅れたら、長州諸隊や海援隊、陸援隊のような
グループが力を付けて、状況を左右するようになったと思うが。
まあこれは東洋的な策だから、勤皇党らしくないが。
いわゆる正義派と俗論派の争いってやつね。土佐に限った話じゃないけど。
ところで松岡司の龍馬本マイナーなのかな。amazonでレビューついてないし。
定本坂本龍馬伝とか凄い詳しい内容なのに。
確かに松岡先生あんまり文章は上手くないが…
そのあまり上手くない文章で武市先生をフォローしようとしてる武市半平太伝やその他関連書籍が涙ぐましい。
しかし中岡が板垣を「洗脳」という表現には疑問を感じる。
板垣って元から尊皇攘夷派だよね?
いまだに以蔵は自白しなかったとか、武市は以蔵を捨て駒としか思ってなかったとかいうのを史実だと思ってる人多くてうんざりする
もう少しどうにかならないのかな
武市さんが可哀想
確か昨日のヒストリーでもそんな事言われてたんだっけ?
もう以蔵を美化して武市さんを貶めるのはやめて欲しい
三文字切腹で笑いが起きたとかなんなの…笑うところじゃ無いんですけど
違勅開国、安政の大獄に次いで、和宮問題で天下の有志は激怒し、薩摩、長州、土佐、水戸、越前らの急進的志士は密かに倒幕攘夷を進めてた。
兵を二つに分け、江戸城に火を放ち将軍らに砲をあびせ佐幕派大官を斬り、
一方は箱根の天嶮に伏せ和宮の御輿を奪い、佐幕派の兵を迎えて戦い江戸の一手と呼応するという策を企てた。
それで武市に誘いが来る。
武市は容易ならぬ大事と、江戸で薩長ら有志と会い、諸君らの義挙は当然の事で私も賛成する者ではあるが、忌憚なく言えば動機と理想は良いが時機と方法が良くない。
また幕府が衰えたと言っても、まだまだ力があり公武佐幕の諸藩もある。
もし軽挙して敗れればどうなるかと、必勝を期する準備がないと指摘した。
樺山らが土佐の武市どのは賛成してくれると聞いたから通知したのに、我らが暴虎の勇とすれば如何なる策あるかと詰め寄った。
武市は夫は勤王、妻は佐幕、子は攘夷ではどうにもならない、
一家の主義主張を定め、一藩の方針を確立し、一藩勤王となり、藩主を報じ京に上洛し、三藩が連合して大勢を動かし公武合体の佐幕論・幕府に対抗できると、
始めて三藩挙藩勤王による入京と三藩連合を提唱し、倒幕挙兵の議を中止させ、暫く幕府の模様を見つつ、各々が自藩を統一して連絡を取りあい藩主を奉じ上洛するとなった。
所が提唱した土佐藩自体が薩長に上洛が遅れ、東洋が頑なに佐幕論を唱えた為に最終的に武市も暗殺手段を決断する事となった。
それが本当なら、武市は東洋の命一つで、過激派攘夷志士達から江戸を守ったって事になるんじゃ…?
この事を東洋に相談すれば良かったのに
まぁ、裏を返せば、実現できないような無謀な策を立てた武市って頭悪いのか?って事にもなるのかもしれんが
東洋暗殺によって実現したではないか
武市の考えは次いだ連中が実行し結局明治維新で達成されたし
>>131 ごめん。東洋を暗殺しなければ実現できないような策を立てる武市ってアホなの?って事ね
そのせいで後々弾圧されるような事態になってるし
過激派の暴走に困った武市が、代わりに策を立てて誰も被害を出さずに上手く行った例といえば、岩倉具視暗殺を止めるため、久坂達に出した断スト案かな
こういうエピソードを知ると、武市さんって世間での暗殺ヒャハーwwwなイメージと違って、かなりの穏健派だということがわかるね
被害を出すとか穏健とか意味不明w
尊攘王政復古実現の為に初めから命を捨てるって連中なのにw
単なる命惜しみの臆病者なら初めから志士なんてやらないのが前提でしょ
武市から言わせれば幕府に対抗するには藩組織を動かす以外にない
藩一つすら動かせないのに脱藩し天下を動かすなんてのはさらに無謀って考えで
現に明治維新の主力になったのは薩長両藩で次いで武市らを失い遅れた土佐
これが明治の藩閥になる
弾圧されたのは政治情勢の変化によるものに過ぎないし
別に武市の事を命が惜しい臆病者だとは言って無い
ただ、暴走する志士らを止めるためとはいえ、ただでさえ、上士と下士の身分制がキツイ土佐で、一藩勤王は策として正当だったのかなと疑問に思っただけだ
東洋を殺さなくても済むような、もっと良い案が有ったのではないかと
勤王党から多くの脱藩者が出たのも、この主張が無謀だと思う人が多かったからでは?
武市は動機と理想に賛同してるんで
単純にわが身大事で穏便第一の事なかれ主義からくるでなく、その英気にさらなる目標と方向性を与え発展させたわけで
東洋を殺さなくても済むようなもっと良い案なんてのは当時無いし
現に東洋一人を除いただけで土佐の政治情勢は変転し上洛できてるわけで
自分は手を汚さずに犠牲にもならずに座って世が変わるなんて当時の少なくとも志士は思ってないし
武市と勤王党は政治情勢の変化で弾圧されたが、政治情勢の再びの変化で勤王党の生き残りの龍馬や中岡に接触してくるし
最終的には薩長に遅れながらも一藩勤王を達成し戊辰戦争で功績挙げてる
>>133 結局、脱藩した坂本のほうが大きく世の中を動かしたけどな。
結局は土佐の中から世の中を変えようとした連中よりも、土佐から出て外から変えようとしたした人間の方が勝ち組だったんだよな
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 12:49:02.54 ID:3eslMuDEO
>>136 龍馬の仕事って主にストロー役ですやん。
と言うか武市の存在が無ければ、後の龍馬らの活躍も無かった。
>>125 松岡先生、「洗脳」て言葉好きだよね
半平太伝中、富あて書簡の記述でも「洗脳した」と書いている
>>138 それ以下なのが武市先生。
武市先生のやっていたのは結局は井伊大老と同じ。
井伊大老が譜代大名、旗本のトップに君臨して、大獄を行ったように、
藩の改革に反対する守旧派と組んで、力で政道をねじ曲げた。
土佐勤皇党を性することが出来ず、京の治安の不安定を招き、
それが一つの引き金になって、長州征伐が行われた。
土佐征伐にならなかったのは、武市を切腹させた容堂のおかげ。
何の意味もなかったとは言わないが、時代を動かすことはなかった。
土佐征伐とかまたトンデモな意見がw
>>141 容堂が何であんなに武市先生の処罰に苦慮していたと思う?
志士を弾圧した体制側になりたくなかったからだよ。
名もなき藩士ならともかく武市先生は将軍に謁見までして全国に名を知られた有名人だったし。
だから参政暗殺の罪で処分するべく尋問を頑張ってたってこと。
以蔵以外の勤王党員が頑張ってたから失敗したけどねw
龍馬のやったことは武市の薩長土勤王連合の引継ぎ
武市の薩長和解調停案→中岡が弾圧後引き継いで動く→龍馬を引き入れる
中岡と龍馬が薩長同盟の仲介が出来たのも武市が基礎作ってた為
土佐勤王党出身で信用されてたから
武市が失敗で龍馬が成功ってのも意味不明だしどっちも世の中動かしたが維新前に死んでる
脱藩した連中なんてほとんど死んでる龍馬や中岡や吉村も死んでる
>>141 長州征伐が決まるのは蛤門で長州が破れるから
長州征伐自体諸藩が否定的だったのに土佐討伐なんて諸藩が賛同するはずない
土佐藩が目先の情勢変化に追われてあせって殺しただけ
政治情勢なんて刻々変化するもんだし
そんな吉田松陰と高杉晋作はどっちが優秀?
みたいな話されてもな、困る。
大体当の容堂やら後藤やらが武市の処罰を誤りと認め、後悔してるじゃないか。
当時の世間的には瑞山の一番の功績っていえば勅使東下だろ。
歴史的に言えばそれプラス土佐藩の維新志士の父。
結局、即今攘夷はすぐに取り止めになったけどね。
攘夷の勅使東下は意味なかった。
小攘夷は愚論だからね。
>>141 また妙な解釈引っさげてバカ晒しに来てんのかよw
今度はどこの受け売りだ?お前も懲りないな。
維新が成るまでの佐幕派と尊攘派の勢力争いにおいて
朝廷>幕府の流れを強めたのが勅使東下の意義。
そもそも幕府が天皇の意思を無視し勅許なき条約調印に踏み切ったところから
いわば幕府の公約違反を糾弾し道を正させようとする運動が始まった。
平井って、実は留守居組の家の息子だから上士だったんじゃん
武市の片腕として好き勝手に暴れられたのも、それを全部武市に押し付けて知らんぷり出来たのも、全て上士ゆえに他の党員及び武市を内心見下していたから出来た事だったんですね
勤王党の主要人物だったくせに、間崎には伝記があって、こいつには無い事が不思議だったんだが、ふーんそういう事ね。
令旨事件でこいつだけすぐ牢屋送りにならなかったのも、別に罪が軽かった訳ではなく、こいつの家が上士だったから、間崎広瀬よりも処罰が甘くなっただけだったんですね
上士だから幹部になれて、上士だから調子に乗って死んだそれが平井
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 22:33:21.58 ID:MPUuM9Yi0
土佐に勤王の芽を撒く事松蔭の如し
人心を糾合する事西郷の如し
藩政を動かす事大久保の如し
朝廷を動かす事岩倉の如し
三藩連合を企てる事中岡龍馬の如し
全てで傑出した完璧超人だったな瑞山は
実に惜しかった
藩主上京の時も三条家から令旨出してもらってなかったっけ?
中岡が居たのだが、土佐藩が庇護しなかった為に死んでしもうた
あの時点だと既に龍馬よりも、中岡の方が土佐藩にとっても倒幕派にとっても大事だったろうきに
薩の西郷と大久保、長の桂や大村や死んだ久坂と高杉、朝廷の三条と岩倉、土佐の板垣とあの時点で誰これ無く絶大な信頼集めてた中岡
西郷が明治に言ってる戦の一字とか正道とか中岡が幕末に説いた理論だろう
田中も中岡先生は又とない智謀の持ち主じゃった、坂本先生はハンコをついてただけじゃったと言ってたし
板垣も龍馬は商人になったんだろうが中岡という人は立派に参議が勤まる人物だったと太鼓判押してたし
>>93 >松田智幸
この人はアレやなあ。
悪気はないのかもしれんけど通説を覆そう覆そうという欲目が前面に出過ぎて
資料を見る目がおかしくなっとるな。
歴史研究に功名心など無用。
脱藩したり暗殺事件に関わった事で
吉村虎太郎や岡田以蔵、吉田東洋暗殺の実行者等が
血盟書から名前を削られたりする中、
坂本龍馬は(短期間で勤王党を辞め、武市と袂を分かった…とか言われるのに)
血盟書から名前を削られる事が無かったのには、何か特別な意味はあるのかね?
龍馬は別に勤王党辞めてないだろう
龍馬が脱藩したのは吉村と同じ薩摩の倒幕攘夷に参加する為
脱藩して伏見についた頃には既に寺田屋事件後で終わってた
脱藩した後も普通に勤王党と協力し合ってる
吉村や那須らは天誅組で挙兵して幕府に討伐されたからな
そもそも、武市と仲違いして脱藩とかは、龍馬信者が龍馬ageのためにそう思っていたいだけで、実際は違うからな
龍馬は勤王党脱藩支部みたいなもんだった訳
武市も龍馬と敵になったとか別に思ってなかったし、別に迷惑かけられた訳じゃないから、 血判状からも抜く必要なかった。
ただ、吉村とか岡田とかは過激行動で勤王党に迷惑かけたから、容堂に見せなくてはならなくなった時に、血判状から抹消されただけ
龍馬はよく発案者の様に描かれるが別にアイディアマンじゃなく
優れてたのは度量の広さと魅力、ずば抜けた行動力と度胸
薩長同盟も最期局面を龍馬が担当したって事だし
大政奉還なんかも文久の時点で既に幕臣の大久保が唱えてる
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 20:30:01.83 ID:Mve74ILJi
【東京】新宿駅前反パチンコ街宣 & パチンカーへの呼びかけ
【日時】6月25日(土) 9:00集合
【場所】JR新宿駅東南口階段下
【活動予定】
9:00〜9:30東南口階段下にて反パチンコ街宣
9:30〜10:00駅近辺のパチンコホールに並ぶパチンカーへ直接呼びかけ
10:00〜11:00東南口階段下にて反パチンコ街宣
土佐は薩摩の芋畑と長州の蜜柑畑の肥やしになった
と言われたとか言われなかったとか
若くて貧乏な頃の鹿持雅澄を援助した上士の福岡某は福岡孝悌と同じ家系の人?
武市さんの提案した三藩主入京で
それまで権威に過ぎなかった朝廷が権力を持ってしまったわけですよね。
軍を持つ≒権力を持つって事だし。
計算ずくの深謀遠慮なのか正論を押し通したら結果がついて来たのか…。
京都周辺の藩に天皇の親兵を持たせようと提案していたのはそういう事か。
武市は権力の鬼だからねぇ。だから嫌われる
>>163 党員達から命懸けで慕われてた武市先生に何言ってるのかねこの粘着以蔵ヲタは。
武市先生は人徳といいその無私無欲ぶりといいマジパねぇお方ですよ、人物評ググッてきなさい。
そんな武市先生なので志士の本分忘れて身を持ち崩した以蔵の事は大っ嫌いだったけどね。
以蔵はこの期に及んで厚かましく伝言なんかして呆れられてたけどw
>>164 ま、武市ヲタがなんと言おうが人気は以蔵>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>武市だから諦めろww
武市はマジキチ不細工DQN腐れ外道だから嫌われてるけど、以蔵は健気な悲劇の美少年だから大人気www
不細工マジキチDQN鬼畜武市ヲタは現実見ようねwwww
こんなクズを好きなんて頭おかしいって理解できるからさ!
まぁそもそも、武市なんて党員から顎呼ばわりされてバカにされるレベルの存在だからなwwww
平井ですら慕うふりしながら、裏では武市を窮屈窮屈言って嘲笑ってたって話だしね
だから武市が居なくなった後に清々して天誅ヒャハーって暴れたんだろ?
朝廷、かつて攘夷の詔を下す。中しこうして三藩縦横周旋、しかして後ようやく定むるを得る。吹山尤も力あり。
平井収二郎
>>161 薩摩がとっくの昔に構想していた。
斉彬が死ななければ実現していた。
>>168 んでその辺を実行に移したのが武市半平太達だったという事だな。
島津久光が似たような事やろうとしてる最中
寺田屋事件勃発→吉村虎太郎は強制送還、坂本龍馬はアテが外れてしばらく放浪する羽目になったが。
>>166 また以蔵オタの腐女子が悔し紛れに暴れてんのか。
武市と土佐勤王党について調べた上で岡田に好意的な話なんか出よう筈もないから諦めろよ。
池内大学なんざ大獄で同志を売った疑惑でわざわざ殺しに行ってたのに、さんざん天誅したと思ったら
いざ自分が責められる側になるとあっさり仲間を売る、岡田は結局そんな程度の男だった。
粘着してるアンチも以蔵と同じく足を引っ張るしか能の無いアホウだな。
自分のレス読み返してみろよ、以蔵オタのキモさがよくわかるわw
研究の頓挫してる平井収二郎にばかり拘る辺り大河ドラマと個人サイトからの知識がメインのようだが。
もうその粘着荒らしを相手するのは止めようや…。
もう散々論破済みだしさ。
荒らしはスルーで。
武市と違い、龍馬からその死を嘆かれた平井は、武市よりも人間が上だったとしか思えないけどな。
武市という人間の醜さと平井という人間の素晴らしさを龍馬はよく理解してたんだと思う
>>169 いや、薩摩は土佐藩の事情、志士は無視。
京都薩摩藩邸にはシンパがいたけどお国では傍流で。
この辺は長州と随分事情が違う。
>>172 武市の死なら龍馬・慎太郎共に悼んでいたんだが知らんのかこのニワカオタは。
その龍馬にも見捨てられた以蔵ってマジで人間のクズなんだろうなw
>>173 そりゃ久光が他藩の末端志士の顔色伺う訳無いだろw
まあこの様に一人が倒れても引き継いでくれる人間がいるってところが連携・連帯の力って事だな。
藩を超えた連携の重要性は瑞山が一貫して説いていた事でもある。
>>174 龍馬から見捨てられたというソースは?www
おそらくそうであろうというレベルの話だろうwww
どうせ、龍馬が武市の死を悼んでたってのもソースは無い話だろう?
収二郎は乙女宛の龍馬の手紙が残ってるけどなww
収二郎はまことにむごいと言う程亡くして惜しいと思ってたのに対し、武市に対してはあ〜やっぱ死んだかくらいの反応だったという事しか知らないけどww
龍馬は脱藩の時点で武市のことは見切ってたし、どーでも良い存在だったとしか思えないけど?
もうこの基地外に構うのは止めようよ。
キリが無いし、どんどん荒れてしゃあない。
以蔵萌え〜(笑)だった大河ドラマファンは次のドラマに移ってると思うけど
ここで武市さん関連の話が盛り上がってるのが荒らしに来るほど悔しいのかね?
ググれば分る話をいちいち尋ねるな。
このアンチの言い分だと武市さんから犬畜生にも劣るアホウ呼ばわりされた以蔵はその通りの人物だと言う事だなw
武市さんがかつて目を掛けた門弟であった以蔵をあたかもゴミかウジ虫のように非常に嫌っている事を不審がる人もいるが
皆が国事に命懸けてるのを尻目に、
仲間から金借りて遊郭で遊び呆け、身を持ち崩して浮浪者になり、捕縛され牢番に自慢話、拷問で仲間の事を次々に自白しましたーじゃ
軽蔑される要素しかないじゃないか。不思議でもなんでもない。
話題を変えると徳富蘇峰も土佐藩の志士の活動においては武市半平太を最も高く評価していた。
国学の発展とか勤王運動が倒幕・明治維新にどう作用したか、もっと注目されるといいんだけどな。
えー徳富って、汚職の山縣とつながり深かったジャーナリストじゃんww
おそらく、バリバリの長州閥派ジャーナリストだろう。
長州閥なら武市を一番評価して当たり前じゃないか?
武市の書簡を編集した岩崎も長州閥だし、坂崎が坂本や平井を自由民権運動に利用したように何か裏があったんじゃね?
>>178 それを言ったら土佐の志士は長州と縁が深い奴だらけだろうがw少しは考えてから物言え。
龍馬も有名だが最も功績があるのは瑞山である
といった論調だったな。「播かぬ種は生えぬ」ということだとか。
長州でいう所の吉田松陰ポジションだったしな瑞山。
ところでお前平井収二郎の話好きだけど関連文献の一つでも何か読んだことある訳?
ぶっちゃけ、武市sageするのに都合がいいのが、平井、坂本、以蔵の話題なんだよな。
こいつらのヲタって武市disるのが大好きだし
だから便乗してdisらせてもらってるんですわ
間崎、東洋、大石も武市disるのに結構都合が良い存在だけど
坂本と役割が被るからな〜
平井と間崎や大石(弥太郎?)って勤王党でも一番中心的な人物だろうが阿呆かwww
吉田東洋は敵を作りすぎた。どんなに政策がよくたって失脚するのは当然。
>>179 土佐の松陰的ポジションはジョン万次郎でしょう。
やはり武市さんは久坂的ポジションかと。
>>182 敵を作りすぎた一番大きな理由が、身分制度撤廃で、
それで守旧派に利用された下士に殺されちゃうんだから、
この時点で土佐はボタンをかけ間違えたね。
武市さんが暗殺を止められなかったのが残念。
>>183 ああ、松陰の思想に影響を受けて、それを土佐に広めたという意味で久坂かもね
京での活動だけ限定すると久坂は武市よりも平井の方が近いと思うが
その平井が京都での政治工作について「瑞山最も力あり」って評価してるんだけどね。
平井の本読んだ事が無いなら何を根拠に言ってるんだろう?
>>183 勤王思想で理論武装して政治的な主張を行う事を正当化できるよう感化した点で
長州の吉田松陰=土佐の武市瑞山って言ってるんじゃない?
万次郎に対応するポジションといえば長州ファイブじゃないかな。
>>185 それは謙遜だろ、武市は勤王党のトップなんだから。
俺様マジスゲー俺様最高とか言わないだろ普通
そもそも平井の本なんて有るの?間崎と違って伝記が出てるとか聞いたことないんだが
平井関係の史料って、日記とこの前高知の史料館から出たのだけじゃない?
維新土佐勤王史では、武市以上に朝廷工作に奔走して京師は隈山の一人舞台と言われる+公家や天皇に凄く信頼されてたみたいだけど違うの?
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 14:34:53.81 ID:mj5rBDpt0
福島の悲劇は私に戊辰戦争の会津の悲劇を想い起こさせる。会津を含む東北の悲劇と言ってもいい。
現首相の菅直人は自らを長州人としている。高杉晋作が好きというのも同郷だからという要素が大きい。
小泉純一郎は父親が薩摩の出身であり、やはり長州人を自負する安倍晋三を加えれば、
薩長がいまだにこの国の政治を動かしているとも言える。
福島を含む東北は「白河以北一山百文」として、その政治から切り捨てられてきたのである。
「薩長軍は官軍にあらず、官賊だ」とする会津の人たちがいまも薩長に怨みを深くしているのは、
彼らが戦いで死んだ者の埋葬を許さなかったからである。
賊軍すなわち犯罪者という理由で、官軍は会津藩士の遺体の埋葬を禁じた。そのため、
放置された遺体は狐や狸や野犬に食いちぎられ、烏につつかれたりして惨憺たる有様となった。
一部は白骨化し、一帯は死臭ただよう地獄と化したという。そこを通る者は鼻をふさがなければ歩けなかったといわれる。
かの白虎隊士の遺体も同じだった。
ある村の肝煎があまりにかわいそうだと哀れんで、ひそかに埋葬したが、密告によって肝煎は捕えられただけでなく、
遺体は掘り起こされて、ふたたび放置されてしまった。
一方、官軍という名の薩長軍は会津城下の寺に墓地を設けて埋葬している。
あるいは、こじつけと言われるかもしれないが、震災に対する復興援助の遅れや、
原発に対する信じ難い無為無策を見ていると、第二の東北処分ではないかとさえ思われる。
東北出身の私としては、てめぇら、本気で助ける気があるのかと怒鳴りつけたくさえなるのである。
(佐高 信)
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1937
「荒らしはスルーしてくれ」という呼び掛けは皆にスルーされて
荒らしは全く皆にスルーされてないw
>>186 武市に松陰ほどの影響力と功績はないでしょ。
ポジション的に松陰でいいんじゃねーの細かいことは気にせず
多くの土佐志士が武市に影響されたってことで。
あれだけの人望・カリスマ性を持った武市だからこそ、
あれだけ多くの有志が武市の下に集結し、武市に感化されていった。
武市の存在が無かったら、龍馬や中岡ら多くの土佐系志士の活躍と土佐藩の明治維新への貢献は無かったろう。
明治維新と言う結果から逆算して考えると、これが武市の果たした一番の歴史的役割。
戦後民主主義下のヒーローである坂本龍馬と勤王・攘夷思想の間に
距離を置かせたがる者が現代には多いせいもあってか、
こういった「土佐の吉田松陰」的な歴史的役割は、意外に周知されてない気がするが。
松陰の影響力は長州藩に留まってないしなあ。
ちょっと武市さんを持ち上げすぎでしょ。
久坂レベルの人なのに。
そりゃ土佐の影響力は薩長には到底及ばないし。
ただ薩長土肥の働き、どこが欠けても明治維新はあの時点で成らなかっただろう。
というわけで
>>188 京師は隈山の一人舞台、というのも有り得ない。
維新土佐勤王史を鵜呑みにしたらダメだとあれだけ言われているのに…この話題前スレでも出てなかったかw
歴史民俗資料館から出ている平井関係の資料集によると、平井の研究は諸般の事情で頓挫しているそうだ。
つまり平井の働きぶりに関して現在は評価が不可能な状態、
武市シンパの平井使って武市さんけなそうとしても土台ムリな話。
アンチに構うなと言うなら話題を変えないとな。
高知歴史民俗資料館で土佐勤王党展が終わったが来月中旬から他の博物館で一斉に勤王党関連の展示が始まるらしい。
どこか土佐勤王党の充実した図録を出してくれれば嬉しいんだけど。
>>195 武市の江戸行きは、天皇が平井の手紙に感激して決まったんだから、つまり全部平井のおかげって事だろう?
武市の功績なんかじゃない
平井が武市のシンパだって?笑わせないで欲しいな
裏で武市を窮屈呼ばわりして馬鹿にしてた平井が?有り得ない。
立場上媚びてただけでしょう
ま、武市を慕うふりして裏で仲間に対して武市の悪口を言ってまわってた腹黒平井も、
自分に尽くした以蔵をさんざん利用してきたくせに必要なくなったらゴミクズみたいに捨てた鬼畜外道武市もどっちも最低って事だな
どんなに優秀でも性格悪いと駄目ですね
はいはいソースソース
収二郎で武市さん叩くのに失敗して残念でしたw
遊郭にハマり狂って高杉にまで借金して龍馬に見捨てらた挙げ句、
女も耐えてる拷問に泣き叫んで昔からの仲間を次々売ったゴミクズ以蔵のオタは帰ってくんない?
せっかく松岡先生が伝記連載始めたのにドラマが終わったら一気に誰も話題にしなくなって残念だったねw
一般的にサイコな殺人鬼としてイメージされてる人物のファンなんて
やっぱり頭おかしい人が多いのかな。
その以蔵連載に、以蔵は竹村東野に学んだとあるが、
東野の弟子には勤王党員も多くいて中岡も門下生だった。
東野に詳しいサイトを見ても以蔵の名前はないが、一体どの史料に載ってるのかな。
サイコな殺人鬼じゃなく、悲劇の美剣士だろ?言葉は正しく使おうなww
武市ヲタこそ、東洋暗殺から暗殺という手段に溺れたサイコなテロリスト、残忍冷酷二重人格武市が好きとか頭おかしいんじゃない?
ま、世間で武市は鬼畜で通ってるから別にいいけど
武市を素晴らしいとか言ってるのはここの連中だけだろ
土佐勤王党は同門の人間が固まってる。
瑞山の門下生は言うまでもなく、鹿持雅澄門下とか間崎哲馬門下とか岡本寧保とか河田小龍とか…
他に誰かいたっけ。
徳弘門下は勤王党に限らず土佐藩士が広く教えを受けていたようだが。
>>199 岡田家の協力を受けて執筆してるなら、岡田家に残ってる資料でも見せてもらったんじゃないかな
以蔵は裏切り者として扱われたせいであまり資料が残ってないみたいだし
残ってるとしたら、岡田家しか考えられないような
>>198 お前こそソースもってこい糞武市ヲタwwww
以蔵が龍馬に見捨てられたという史料は残ってんの?www
龍馬は鬼畜外道武市の魔の手から以蔵を助けようとしてくれた良い人ですよ。
その上、どうしても平井が武市に不満を持ってた。密かに見下して嫌ってたってのを認めたくないんですねwww
平井と武市は表面だけで本当はすげー仲悪かったって知らないんですね
というか、実際の勤王党員はみな、性格最悪な武市の事嫌いだったからな
>>203 勤王党員から武市さんの悪評なんて逆さに振っても出てこないけど?
またまた残念でしたw
武市の窮屈坂本の法螺は二人の親密さを説明したエピソードだし
アギ先生も田中光顕がそれだけ尊敬されてたんですよって説明した時に出た話じゃないか。
人斬り以蔵が好きです(笑)なんてリアルで胸張って言えないでしょ?
「それ具体的に何した人なの?」って言われて説明できる?私なら引くわー…
どう言い繕っても危険人物じゃないw
松岡先生「武市半平太伝」で以蔵はとにかく身持ちが悪くて〜とか龍馬に見捨てられて〜
とか書いてたけどあの辺どう処理するんだろ。
あ、以蔵の話題は粘着キチガイが喜ぶから出さない方がいいと思います。
荒らしとの抗争が自作自演じゃないんなら聞きたいんだけど、
何でいちいち荒らしに構うんだ?荒らしはスルーって、基本中の基本だろ。
荒らしはスルーしてくれって言う呼びかけをさらっとスルーしてるいつものノリで
荒らしもスルーしてくれんかね?
この基地外荒らしは、もう散々皆に論破された後なんだし。
高松順蔵(龍馬の義兄)も東部出身の志士への影響が大きかったようだ。
東洋の少林塾にも優秀な若者が多かった。
江戸だと安積艮斎とか。
>>204普通に言えますが何か?むしろ武市の方が言いにくいんじゃない?
暗殺狂いのキチガイ、テロリストの親玉で、慕って尽くしてくれた弟子に、己と仲間の保身のために毒を盛って殺そうとするそんな卑怯者なんて好きなの?って言われるでしょうしね。
ああ、今まで散々そう言われてきたからムキになって突っかかるんですね可哀想に
武市さんや立派に生き抜いた他の党員は維新の礎になった志士。
以蔵は本人の生き様が証明してるけど志のない単なる便乗DQN。
土佐の恥って評価、間違ってないと思うよ。
時期的に武市さんの牢に牢番が蛍の差し入れした話を思い出したよ。
最終的に300匹位の蛍を集めてくれたんだっけ。
同室のクソ虫さんwが蛍を入れるこばんを作って稲とか入れといてくれてたけど
これってどんな道具なんだ?
虫籠みたいなのか。
土佐の恥?今では慰霊祭も行われて沢山の人が訪れてますが?
勘違い野郎な超小物な性格最悪アホ武市は卑怯者ないやな奴っていう評価ですけどね
まぁ、妥当でしょう
今まで会ってきた幕末ファンは勤王党ファンも含めて全員武市なんて大嫌い、こいつだけは絶対に許せないって言ってたけどね
武市ヲタの必死さ加減が笑えるwww
悔しかったら、評価変えてみろってんだ
いや歪んだ腐女子界隈の人気でそんなん言われても。
そういえばドラマ板に801板で武市の話ばっかするな!とイチャモン付けてたっけw見境ないなw
そっ歯の巨漢を美剣士扱いねぇ…(笑)それもう以蔵関係ない人じゃね?
ちなみに武市先生と以蔵の慰霊祭の人出の差は知ってるよね。悔しいのう悔しいのうw
>>209 伊藤礼平って名前がちゃんとあるんだよねw>クソ虫さん
武市さんにすごいフレンドリーだったけど一応上士なんだよな〜あの人。
上士で名前分かるなら年譜とか残ってないんだろうか。その後の人生が気になる。
>>208 以蔵の墓の場所を聞かれた役所の人が以蔵を「土佐の恥」呼ばわりしてたって話だったっけ?
一言多いような気もするが、まぁ実際そう言われても仕方ないわな。
>>194 というか武市は松蔭より上だよ
松蔭は思想家としては先進的だったけど、武市の様に実現に持っていく統率力や政治力はなかった
松蔭はあくまで先駆者ではあったが単騎駆けの志士として死んだ
久坂自体20代前半で長州尊攘派の若手リーダーになり長州の藩論を覆して尊攘論に持って行ってる
そもそも松蔭から久坂が若手のナンバー1といわれてますがな
松蔭ら先駆者の志士の単なる個人レベルの思想や志士活動レベルを藩外や藩レベル、大組織レベルまで実現化して持ってったのは武市や久坂ですがな
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 01:25:14.29 ID:YoR1MbK00
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>>212 腐女子界隈の話ではないですが?一般の話をしてるんですがね、男もそう言ってたし
世間の武市なんて所詮は卑怯者でヒステリックな殺人狂のキチガイでしかないですが知らないのかな?
武市に良イメージなんて無いよ
以蔵は純粋で健気なイメージで認識されてるけどね
>>214 久坂は凄いけど武市はどうかな?武市なんてただ邪魔者消すために暗殺繰り返してただけのキチガイでしかないし
武市はあまりにも対抗組織が消されていくんで、黒い噂で皆から脅えられてたでしょ?だから結局世の中から消された。
自業自得のマジキチDQN
武市は幕末最強のキチガイだからな〜。こんな奴を好きとか言ってる奴もきっと殺人鬼なんだろうな
武市なんて、長州ファン久坂ファンからも小物な上にマジキチとしか認識されてないもんな〜
そんな武市が好きとか言うの恥ずかしいからもうやめたら?
私だったら恥ずかしくて武市が好きだとか言えないな〜。
とてもじゃないけどイメージが悪すぎて無理
顔真っ赤にして連投するなよ邪魔だからw
以蔵の話なんてしてる人もう全く見かけないし残念でした。
このスレで話す事もさほどないのでお引き取り下さいw
そういえば田内衛吉の墓には参ったけど以蔵の墓なんて参拝したくないんでスル−してきましたって人もいたなあ。
あのアホが何したか知ってれば普通は嫌いだよね…ただのクズだし。
あそこの墓地久松喜代馬とか他勤王党員の墓が結構集中してたのは知らなかったよ。
あの辺のボランティアさんが案内してくれる観光コースに武市半平太コースなんかもあったw
武市先生のお墓辺鄙な所にあるからちょっと利用してみたい気もする。
ボランティアさんに案内してもらうってどんな感じなんだろうね。利用した人いる?
>>222 史実の以蔵でも好きだというファンも居るけどな。
そもそも武市がすばらしい人間ならばもっと人気出てるはずだよね?
なのに、幕末志士の中でも人気ワーストなのは何故なのかな?
正直言って、今まで武市アンチしか見たこと無いんだよね
素晴らしい人間のくせに嫌われてるその理由を教えてほしいな
武市の史跡が嫌がらせされたみたいだけど、所詮その程度の人物だったんだろう
単に創作捏造史で龍馬ageの為に割り食わされてるだけw
尊攘志士龍馬の考えからして捏造してるし、龍馬の行動は全て美化しなければならない
脱藩も武市より深い思慮があって脱藩したかのようにしなければならない
龍馬の行動は全て正しかったとすると武市の挙藩勤王は間違いとせねばならない
そして龍馬は一人特殊な考えがあり民主主義者にして戦後の平和主義者であったとw
実際当時も武市死後も土佐系の志士が先覚的盟主として仰いだり考えるのは武市であって龍馬でない
龍馬は土佐系の志士から見ればまあ同輩くらいでしかない
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ☆荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
|| ☆放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ☆反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを
|| 与えないで下さい。 ∧∧
|| ☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚Д゚*)
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂ ⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、藍沢先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
>>224 だが、世間一般ではその捏造が史実と認識されているのだよ残念だったねぇww
大勢に認識されれば間違ってる事も正しくなり、正しい事でもそっちが嘘になってしまうのだ
という事で、実際の武市がいくら素晴らしかろうが、武市は信者の存在を良い事にアホな事を叫ぶだけのヒステリックな勘違い野郎が世間での史実なのだよ。くやしいのぅwww
瑞山先生なら志士の歴史を捻じ曲げ快とする、捏造者の評などもとより論ずるに足らないだろなw
瑞山先生の考え通り一藩勤王尊皇攘夷が実現し、日本は異敵の侵略を防ぎ列強にまでなったし
田中光顕も当時土佐で勤王と言えば、火付け盗賊の類と変わらないとされたと言ってるし
藩の保護も失い弾圧された立場だし
中岡も志士の失敗を見て喜んでる惰弱の輩など元より論ずるに足らないとしてるね
武市なんかを持ち上げてるこのスレの連中は本当に愚かだ
まだ有能と名高くイメージも良い間崎平井辺りを持ち上げとけば幸せだったものを、よりによって、こんな世間で笑い物&嫌われ者にしかなってないような武市を持ち上げてるんだもんな
武市をまともに評価してる人なんて居るの?
どうせこいつは、暗殺繰り返して京都を恐怖に陥れた凶悪なテロリストとしか思われてないんだから、いい加減持ち上げるのやめたらいいのに。
こんな酷いイメージしかない奴を持ち上げて恥ずかしくないの?
攘夷の朝議を覆そうと目論んだ一橋慶喜の上洛計画を青蓮院宮を口説いて潰したり、
江戸では勅使に対する幕府の返答を朝廷優位な内容に改めさせた事とかも
武市の大きな働きだと思うが、あんまり語られないな。
史跡に嫌がらせって単に記念館のガラスが割れてただけでしょーがw
以蔵みたいなゴミクズが好きな奴ってやっぱり人間性がゴミクズなんだね〜
アンチ対象けなす為なら嘘はつく、自演はする、見え透いたヲタナリはする、恥ずかしくないの?
この粘着アンチ見てると、ああ岡田以蔵オタって頭おかしいんだ…って良くわかるわ。
そういえば武市アンチの嶋岡も三流週刊誌みたいな凄い下品な本書いてたっけ。
武市さんを無理やりこき下ろそうとすればする程、アンチの人間性の下劣さがアピールされちゃうんだね。
>>222 ボランティアってこれか。
http://ryoma-hometown.com/ 事前予約がいるみたいだな。ただ龍馬の生まれた町記念館は展示がショボイという評判だが…。
龍馬は脱藩浪人組のまとめ役だったのではないかな。
龍馬も最終的には「私一人二て五百人や七百人お引て、天下の御為するより、廿四万石を引て、天下国歌の御為致すが甚だよろしく…」と
と寄せ集めの浪士集団の限界を悟り、武市さんと同じ挙藩勤王の道を選んだ。
天誅組の轍を踏むまいと思ったのかもしれない。
ここって勤王党のスレなのに武市と以蔵ばっかりだな。
もっと吉村虎太郎や海陸援隊、新おこぜ組、堺事件、迅衝隊なんかの幕末土佐全般の話もすればいいのに
中岡慎太郎のスレないからここでもいいよね
生まれ故郷の北川村はファンはもちろん、ファンじゃなくても中岡慎太郎が
好きになる場所だな。
田野学館は結構な遠さなのに毎日徒歩で通っていたとは恐れ入る。
二十三士の墓や処刑場には胸が熱くなった。
>>231 龍馬が天誅組のことを「戦が下手で自分ならああならない」と言ってたっけなあ。
あれも龍馬なりの悲しみなんだろうな。
生まれた町記念館って建てるとき揉めたんじゃなかったっけw
あーはいはい武市ヲタは人間性もクズなんですね。
さすが権力の亡者、身分だけで才能皆無な人間性もクズ武市のヲタは違うわ
武市は世間一般ではただのテロリストでしかなく、偉人だなんて認められてないからな(偉人か?という意見も多いしな)www普通に以蔵と同レベルだとしか思われてないから安心しろwww
武市は世間ではここでヲタがどんなに叫ぼうがただのクズ
武市は一藩勤王を成し遂げ、京において朝廷の権威を不動にし、薩長土の提携を作り上げた
既に維新の基礎はここで出来上がった
その後に薩長が藩益、藩情、主導権争いで争い三藩連携が一時崩れた
武市も土佐の為に留まり連座死するが、龍馬と中岡が奔放し再びこれを再構築した
武市の世間での評価は、中岡坂本を志士として世に送り出したという、ただそれだけの人間でしかないからな。
あとは天誅で京を恐怖に陥れた危険なテロリストとしか認識されてないし。偉人でも志士でも何でもないから先生なんて呼ぶ価値もない
もちろん尊敬にも値しない
>>232 吉村虎太郎は山本喜三之進・大石団蔵と一緒に瑞山の書簡を久坂に届けるため萩まで出向いてたな。
萩は今でも史跡を保存していて見事なもんだが、高知の方はあまり史跡を大事にしないらしいね。
坂本家代々の墓地も宅地開発業者の手が入ってかなり揉めたそうな。なんだかなあ…。
瑞山宅周辺は今でも当時の面影を残していると誉められていた。
大石団蔵は知ってる人は知ってると思うが、
山本喜三之進も天誅に参加し、捕縛後拷問されるも耐え抜いて永牢処分、維新後まで生き抜いたクチだ。
勤王党関係者だけでもかなりの数がいるからなかなか研究が進まないのかもしれん。
瑞山宅と言えば、どこの記事だったかは忘れたけど
切腹した武市の遺体が葬儀のために吹井村に帰ってきた時、
村人が一斉に列を作って出迎えたと言う話に感動した。
政治犯として葬られた武市にここまで敬意を表すなんて、
なかなかやりにくい事だっただろうに。
人望を伺わせるエピソードに関しては事欠かないな、武市は。
高知って龍馬を金儲けの材料にして稼ぎまくってるくせに史跡を大事にしない
なんでもかんでも龍馬にこじつけて龍馬関連の場所はアピールしまくるくせに
ちょっとマイナーになると放置
それでも大河効果で整備されてきた場所はあるけどな
北川村はそれこそ中岡への尊敬が伝わってきたけど。(中岡自体が村政にかなり貢献したから
かもしれないが。柚子とか今では名産品だし)
郷土史の力の入れようは昔はトップレベルだったようだが、今では中心組織の土佐史談会すら
運営が怪しくなっているとのうわさ。
>>238 吹井に葬るための葬式の列が何キロにもわたっていたという話だっけ?
大石団蔵は土佐の家老暗殺者から薩摩の英国留学生、その後は出世もせず、土佐にも帰らず
鹿児島で死ぬというかなり複雑な人生だとは思うけどな。
土佐だけを取り上げているものを除いて、幕末を扱った学術書で、
武市のことを大きく取り上げているものは皆無に近いよ。
志士30人の中に入るかどうかというレベル。
優れた人間ではあったが、暗殺に絡んでしまって、
身を持ち崩したという評価。
>>238 武市先生人望と人柄に関してはほぼ百点満点だよね。
まず投獄後牢番が全面協力ってのが凄いって思ったわ。牢番が番してないものw
非番でもわざわざお見舞い来たりしてたし。
土佐勤王党の行動をより的確に理解するためには関ヶ原の戦い以降の土佐藩独特の事情を知る必要があるよね。
土佐藩の本読んでみようかな。そういう書き方してるみたいだし。
>>242 名将の決断だかなんだかで、頼朝と一緒に扱われていたみたいだけど、そこでも負け組として扱われてるようだし、やっぱり似たような評価しかされてないんだろうな
別な歴史系ムックでも、以蔵と一緒に天誅で京都を恐怖に染め上げたテロリスト的な書かれ方しかされてないみたいだし
本当は人柄が良く人望が有ったのにも関わらず、一般的なイメージは残念な人、危険思想の悪役でしかないってのがもうね…
高知出身だが今は都内在住なもんで新・瑞山記念館に足を運べずにいるんだが、
新しくなった瑞山記念館の展示内容は、旧記念館に比べてだいぶ変わってる?
(結婚後に描いた美人画が展示されてるのは知ってるが)
旧記念館には武市の肖像画(二枚)と初代銅像の刀以外には、
めぼしい物は無かった気がするけど。
>>244 自演はさておき「身を持ち崩す」の用法を間違えてる。
以蔵オタって一日中武市先生の悪口で頭いっぱいなんだね。
実際に身を持ち崩し仲間を死なせたゴミクズ以蔵は置いといて
叩くのにムック本(笑)使いたきゃせめて雑誌名と執筆者名挙げなきゃソースにならんでしょ。
それとも出したら叩かれるのが目に見えてるソースなのかな?
>>245 瑞山記念館でググれば改修後の様子も大体わかる。
展示は音声ガイドも付いて充実しているみたいだな。
GW中は未公開だった美人画等の真物を展示していたみたいだが、
盗難の恐れがあるし普段は価値のあるものは置けないだろうね。
去年瑞山獄中書簡展〜拝啓おとみ殿〜に行ったがあれは良い企画展だった。
後日中岡慎太郎館でそれの図録を買った。
>>246 去年の歴史街道四月号か何かだったかな
徳川家康と一緒に扱われてて、武市と以蔵が京を恐怖に陥れた師弟として書かれていたはず。
名将の決断は最近出た勝者義経、敗者瑞山で扱われてる
一体なんなの?武市先生に都合の悪いレスは皆アンチの仕業にするつもり?
久松喜代馬(武市瑞山らと同日に処刑)
五十嵐文吉(維新後もボチボチ長生き)
野老山吾吉郎(池田屋事件で負傷し逃亡するも長州藩邸前で力尽き切腹)
土居佐之助(大和義挙で捕縛・刑死)
途中送信した。
田内衛吉らと同じ真宗寺山の墓所に眠る志士達だが
こうしてまとめてみるとまるでバラバラな生き様だなあ。
当時も家によって宗派とか違ってたりするのかね?
バラバラに行動して次々に死んでいってしまう。
武市先生を筆頭に、彼らが志に掛けた気持ちの純粋さを思うと切ない。
命を惜しまず土壇場で潔く切腹しちゃったりするし。
池田屋事件で死んだ人は長州藩邸まで逃がれたのを桂小五郎の判断で締め出された、って説もあるんだっけ?
これは別の人だったかな。
>名将の決断
歴史小説家の童門冬二が織田信長と坂本龍馬の判断を徹底比較!とかやってる頭悪そうな週刊誌か。
わかった、戦国BASARAで嫌いな武将叩きまくる腐女子と同レベルなんだ岡田以蔵オタって…。
>>240 土佐史談会運営大変そうなのか…
イヤだな、高知絡みの歴史研究が龍馬に学ぶ生き方〜とか龍馬の行動論〜とかそんなのばかりになったら。
土佐は藩内の勤王佐幕の対立含めて幕末が一番面白いと思うけど、
もっと藩全体を取り扱った作品が出ればアピール出来るのだろうか。
ここに武市アンチがあまり居ないのに驚いた。
平井間崎辺りの勤王党幹部とか以蔵のヲタだと、勤王党好きでも武市の事だけは大嫌い!ってなるのが普通なんじゃないかと
中岡や龍馬や吉村のヲタは武市の事見下してるんだろうなと思ってたし、今までそういう人しか見たこと無かったんで
ただ、ここに武市ヲタしか居ないだけなのかな?
ぶっちゃけ勤王党ヲタなんて、リーダーが小物だったからみんな死んだんだ!武市許すまじ!って武市を恨んでるような連中ばかりだと思ってたから
このスレなら平気でアンチ出来ると思ってたんだけどな
土佐史談会云々以前の問題として、
横田達雄が亡くなった今、土佐勤王党を真面目かつ本格的に研究してる人って
松岡司以外に誰がいるん?
>>255 いないんじゃない?
そもそも真面目な研究は普通お金にならないから龍馬以外の土佐人はあまりタッチされてないんじゃないかな。
あんなにバカスカ関連本が出る幕末の人物は龍馬と新撰組位だよw
ただ大河で注目を浴びて、企画展の為に資料の掘り起こしが進んでるみたいだから研究に進展があるといいね。
土佐勤王党がドラマであんなに扱われるのは初めてだったし
平井収二郎なんて初めて名前出して貰えたという…。
ドラマの勤王党は扱い散々だったけどな。
武市もテンプレ通りのアレだし。
以蔵と平井は人気でたけど、武市はますます嫌われただろうねwwww
ま、墓にゴミ撒かれなかっただけありがたく思わないとねww
瑞山の慰霊祭とか関連式典には県の偉いさんも出席してるそうだし、立派に顕彰されている。
勤王党員多しといえども
子孫が肩身が狭いと言っていたのは岡田以蔵くらいのもんだろう。
それにはまた別の事情もあるが…まあ以蔵の話はよしとこうか。ファンの品性が誉められたもんじゃないのはよくわかった。
土佐の歴史研究といっても古代から近代までテーマは色々あるわけで、
松岡司も自由民権運動から志士に興味を持ったといってたからなあ。
この話は知らなかったので意外だった。
個人的には大石円の人となりが気になるな…。
龍馬物は龍馬死亡で終わるからその後が扱われることはほぼ無いのが残念だ。
彼らの連携は繋がっている。そういう繋がりの連鎖こそがドラマティックだと思う。
以蔵ファンでも真面目に史実追ってる奴はいるけどな。
幕末は土佐史のメイン題材だし、その中心が土佐勤王党だったのだから、
研究がなくなるってことはないだろ。
土佐史談会はさりげなく会費上げてるがwそうでもしないとやっぱり苦しいのか。
土佐史談の既刊はどれくらい昔のまで通販してもらえるんだろう。
土佐史談でしか読めない貴重な話が結構あるが、高知行かなきゃ読めない。
>>257 お墓に安っぽいイメージキャラクターの看板立ってる以蔵よりマシ。
まともな墓地の扱い方じゃないよアレ。
ファンは漫画脳の人が多い印象。集団リンチの天誅で誰が強いの弱いのってさあ…
以蔵関連の創作まとめた所見たけど基本は異常者扱い。
平井収二郎ってドラマに初登場、関連書籍もなく研究は頓挫なのに本当に「平井オタ」なんているのかな?
勤王党関連サイトは色々調べてたけど見た事ない。
本当にいたのなら収二郎の何が魅力だと言っていたのか教えてくれない?
純粋に知りたいんだけどw
幕末史を対象としている学術書を読めば分かるとおり、
土佐勤王党はほとんど評価されてない。
>>259 真面目に追っている奴「も」中にはいるかもな。
まあ去年のドラマから今現在まで岡田追ってる奴は皆無だから、粘着アンチが嫉妬して未練がましく居着いてるんだろう。
反響の無さに松岡氏が肩透かし食らってないか心配だw
通販の事情なんてここで聞いてもムダだから土佐史談会に直接問い合わせるべきだろ。
野中兼山遺族の講演行きたいな。
>>251 >織田信長と坂本龍馬を比較
何故戦国武将と維新志士を比べようと思ったw筆者のオナニー全開やなw
土佐史談会といえば長宗我部の子孫が4月に講演に来てたんだな。
武市瑞山達が京都に来た時長宗我部の墓参りしてた気がするんだが、
これは何に書いてあった話だっけ?
>>260 検索避け入ってるサイトならぐぐっても出てこないよ
平井ヲタの人は、武市と比べて平井は人間性も素晴らしい真面目な武士だって言ってたな
優しく、最後まで武市に尽くして死んだ所が好きだと言っている人も居たな。
武市はまるでゴミクズかのような言い方してたけど
平井は何も悪い事してないのに、武市のアホのせいで死んだんだ武市大嫌いって言ってる人も居たな
ここの連中は以蔵ヲタばかり叩くけど、平井ヲタだって以蔵ヲタ並みに創作鵜呑みの武市がアンチ結構居るよ
同じ創作鵜呑みの武市アンチでも、以蔵ヲタは叩くくせに、平井ヲタをはじめとする以蔵以外の勤王党ヲタは叩かないんだふーん
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ☆荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
|| ☆放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
||ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ☆反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを
||与えないで下さい。 ∧∧
|| ☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚Д゚*)
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂ ⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
は〜い、藍沢先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
何で腐女子が嫌われてるのかよく分かるな。腐女子サイトの話はよそでやれ。
>>258 歴史小説の岡田以蔵は性欲の権化だったり人斬って射精する変質者だったりと
異常な快楽殺人鬼って描写が多かったからな。
またある種の「惨めさ」の象徴という扱い方でもあった。
子孫はそんな創作にいちいち目を通していないだろうが汚れたイメージは漠然とあったんだろう。
岡田のやらかした事はフォロー不可能だが子孫のイメージ挽回したい気持ちは分かる気がする。
ところで松岡司が武市家子孫の依頼で書いたのって何だ?
武市とかただのゴミクズじゃねーか。
ゴミクズだった報いで死んだだけなのに美化されすぎ
タマキン王党
例の揉めに揉めた三志士像、今月から高知駅前に展示らしい。
像の設置より三志士が具体的に何をした人物か周知させる方が先だと思うんだが。
めいめいが関わった役割としては
武市:他藩との人脈形成、志士の育成、朝廷復権工作(和宮奪回プランを止め三藩主上京を提案、王政復古の提唱、勅使東下)、尊皇藩の連携作り
で、武市の人脈と尊皇理論を引き継いで
坂本:倒幕勢力の仲介、薩長同盟、武器の輸送、船中八策、後藤と協力し大政奉還
中岡:倒幕勢力の仲介、薩長同盟、薩土盟約、三条と岩倉の仲介、板垣と協力し武力討幕ルートをキープ
って感じになるのかね。
細かく言うともっと色々あると思うが。
>>260 漫画脳というか、チカチーロや市橋容疑者のファンと同類の臭いがする。
マーダーケースブック愛読してる殺人鬼萌えっていうか猟奇趣味の奴。
実在の岡田以蔵のショボさ考えたら妄想こじらせて女優の気を引こうとした
ジョン・ヒンクリーJr.辺りが妥当だと思うけどなw
実際は天誅なんてのもショボイもんじゃん。
集団リンチで殺されてるの公家の家来の町人とか下っ端役人とか小者ばっかw
>>269 衛吉の死に様は酷いとしか言いようがない。獄中死って…
衛吉も呻き声と断末魔を聞かされた武市さん達も本当に気の毒だよ。
島村衛吉も龍馬の親戚なんだよね。
武市さんと龍馬が親戚っていうより島村家が龍馬と血縁関係。
>>273 そんな小物を以蔵に命じて切らせたような武市は超小物ですねわかりますwwwって馬鹿にする人も多いけどな
あと、天誅禁止令出した後もどうせ以蔵にだけは密命出して斬らせてたんでしょ?って主張する人も居る
どうせ姉小路も、邪魔になった田中と以蔵を消したくなった武市の陰謀でしょ?とかも
しょせん武市なんざ世間では外道でしかない
残念でしたwww
領袖の武市が切腹、自白者4名が斬首になる中、
他の勤王党員は永牢等の処置が下っているが、
江戸時代の刑罰には永牢(今で言う無期懲役・禁錮か?)なんて
正式には存在しなかったよな?
東洋暗殺で権力手に入れた味をしめて、京都で馬鹿みたいに暗殺繰り返したアホ武市は信頼失って殺されても当たり前なのに
ここの連中は美化しすぎ。
武市なんて志士達から天誅されてもおかしくない権力しか頭に無いクズなのに(しかもそのためなら手段選ばない最低さという…救えない)
なんで武市みたいなクズの名前付いてるの?普通に土佐勤王党についてのスレで良いじゃん
武市みたいな腐れ外道と一緒に語られるとか勤王党が可哀想
荒らしは島村衛吉の資料集でも買ってくれば?
以蔵よりよっぽど立派な人物だったんだし。
>>277 普通にあるけど。
大名クラスですら永蟄居とかあるし。
>>269 島村策吾でググッたらこの人も中岡を教育した人物という事で?顕彰碑があるみたい。
田中光顕達以外に高知県東部地方も顕彰に熱心なようだね。
以蔵のせいで島村衛吉はじめその他の仲間が死んだ以上、
武市さんと同じく龍馬も以蔵の事許せなかったと思うけどね。身内なんだし。
龍馬も厳しい所は厳しいよ。
海援隊士の回顧録に龍馬が違反者を斬り殺した話も伝わってる。
どうも以蔵オタには武市さんと正反対の龍馬なら以蔵を助けてくれる筈!みたいな幻想があるようだけど、
実際に以蔵が身を持ち崩して借金しだすようになったのは武市さんの監督下を離れた後、
時系列的に龍馬にも見捨てられてなきゃ浮浪者になってない。
最初はそんなイメージなかったけど
調べていくうちに武市先生って純粋な人だったんだな〜と史料に触れると感じさせられる。
土佐人自体素直な人が多いっていわれてるけどw
国学思想に関しては鹿持雅澄の薫陶を受けてるんだろうけど
性格傾向は生まれついてのものだったのかねえ。
高知駅前のレプリカ像の事だが、
「土佐勤王党結成150周年」をアピールするんなら、
並んだ三体の像のセンターは、今回は武市にして欲しかったわ。
>>284 龍馬ファンが煩いからこういう配置になったんじゃないの?
>>285 まぁ、そんな所だろうね。
桂浜に設置するか否かで揉めに揉めていた時の
一部龍馬ファンのキレッぷり(「龍馬に失礼だ!」「桂浜は龍馬の聖地だ!」)には
舌打ちしたもんだ。
武市先生はパイオニアだがそれぞれ別動隊のリーダー格だったんだからいいんじゃね別に。
思うに武市先生がやってた事は公約を守れとか道義や決まり事を守れとかそういう事だったんだよなあ。
幕府にとってはさぞ苦々しい人物だったろう。
>>277 有名人でいうと高野長英なんかも永牢処分じゃなかったか。
たしかに永牢は政治犯とか特殊なケースの人が多いと思うけどね。
ちょっと前まで幕府を批判しただけで捕まったり処刑されたりする時代だったのに武市先生達はバリバリ批判してたからなー。
時勢の変化で簡単に殺されることは覚悟の上だったろう。
事実安政の大獄で志士が大弾圧受けた直後に活躍してた訳だし。
土佐の志士が殺気立ってた理由の一つに、この安政の大獄に絡んで水戸浪士達と似たような主君の境遇への義憤があったと思われる。
せめて中岡が井上聞太みたいに生き残ってくれれば良かったのに。
大政奉還に逆上したバカ殿松平容保のせいで…。
新撰組とか会津のヲタは、松平容保を神か何かのように崇めて
龍馬暗殺を薩摩の仕業にしたがってるようだが、こいつが黒幕って方があり得そうだよな〜
そいつらは、容保あがめながら武市の事はテロの黒幕、冷酷鬼畜、悪の帝王扱いして罵るけど、容保なんて黒いこと相当してるだろうになwww
維新期の制度改革、廃藩置県・身分差別の撤廃等は天皇崇拝・一君万民の思想の上に成り立っている。
徳川政権下での尊王思想はその時点で唯一正統性を持った絶対権力へのカウンターと成り得た。
しかし、どんなに高尚な政治思想も、権力をにぎれば専制政治に転化しえる。
「天皇は絶対的に尊い」という土台はそれゆえに批判し辛い対象であり、軍部の専制に利用された。
維新に命を懸けた志士達が掲げた理想はこんな形で歪められてしまったのだ。
>>286 醜い論争だったねw
>>292 最近は尊王攘夷論を見直す研究者もボチボチいるようで。
歴史の暗い部分を無視して議論を避けても歴史から学ぶことはできないのにね。
維新後天皇を巡っては山県有朋と幸徳秋水で長州土佐人の因縁があるのがまた面白い所。
大東亜と天皇は関係ないがなw
天皇制に原因なんて、国家の存在が原因、軍存在そのものが悪、民主主義は欠陥、人間そのものが地球の害の様なお花畑のレベル
幸徳秋水の様な電波と、山縣の様な何だかんだで貢献した大物と比べるのも失礼
そも建国以来億兆の民と天皇の徳で培った王者の歴史と伝統を敗戦でそこないかけたのは当時の国民の責任
天皇は別に独裁でも専制でもなく、明治から憲法も議会もあり政権交代も政党政治もあった
政治家がゴミで軍部が台頭したにすぎない
当時の軍部も特別なのが牛耳った分けでなく、むしろ維新で朝敵に回った側
大東亜は明らかに国民が起こした戦争で、天皇は尻拭いしたに過ぎないでしょ
今も当時と政治の国民レベルは変わってないだろね
現代の尊攘派ですね。
>>296 幕末土佐の政局前半は容堂対武市の闘いだったね。
既に関係文書に収録されてるのに現物が個人宅から出て来るのはどうしてなんだろ?
漢詩の写しは武市さんの手元に別にあったんだろうか。
前半は東洋対武市では?
武市は金の使い道までクレーム付けてる。
容堂と武市は必ずしも対立してない
対立したのは尊攘派が落ち目になって容堂が佐幕よりを明確にし牢獄入れてから
土佐や武市に限らず諸藩の勤王家も弾圧されてる
今回現物が見つかった漢詩って、本当に容堂に対する恨みを綴ったものなのか?
ちょうど例の漢詩を作った時期のある日
「上洛して同志と謀り、賊を斬りまくる夢」を見たらしいが、
「恨み」と言うのは、尊攘派冬の時代に権利を牛耳っていた連中に対する恨みでは無いのか?
容堂も朝廷と幕府でかなり揺れて、酔えば勤王冷めれば佐幕だろう
8月の政変で長州派が一掃され、武市を牢獄に入れるがすぐ殺さず1年半も生かしてるし
その間長州は蛤で敗戦し朝敵になり、長州征伐が始まる
いよいよ勤王派は終わりと武市を殺した
その後第二次長州征伐で長州が幕府に勝った為、勤王派の生き残りだった龍馬や中岡に接触
その後もどっちに就くか踏み切れず、倒幕は大政奉還方式で容認するが徳川家は擁護してる
ギリギリの鳥羽伏見の戦いでも薩長と徳川の私戦で土佐兵は戦いに加わるなと指示、土佐は薩長より戦いに加わるのが一日遅れその後主流になれず
鳥羽伏見で薩長の勝ちが決まりようやく一藩勤王を決心した
>>296 獄中の無念さをつづったとみられる武市半平太の漢詩(高知市立龍馬の生まれたまち記念館で)
坂本龍馬の盟友で、土佐勤王党を率いた武市半平太(瑞山、1829〜65)が、切腹までの獄中で書いたとみられる漢詩の書が見つかり、
高知市立龍馬の生まれたまち記念館が14日、発表した。
改革が果たせず、「恨無限」などとある。武市の研究家で鑑定した松岡司・前高知県佐川町立青山文庫館長は「勤王党を弾圧した
前土佐藩主・山内容堂への恨みと無念さがにじみ出ている」とする。
漢詩の書が見つかったのは初めてという。
漢詩は縦120センチ、横28センチの紙に書かれ、掛け軸に表装。
由来書によると、武市が信頼した牢番・門谷貫助(1843〜94)の頼みで書かれた。
門谷の知人の手に渡り、その子孫が他の資料とともに記念館に預けた。
(2011年7月14日 読売新聞)
展示は25日から。
>>300 今回のニュースに出た七言絶句の漢詩は夢上洛陽謀故人衝巨奸〜と書いてあるもので
多分それの事。
容堂ってより世の中の俗論派全体の事を指すと思われる。
>>303 俺も漢詩を書いた時の恨みの矛先は
容堂と言うよりも当時の俗論派全体だと思った。
松岡氏は「容堂に対する恨み」と解釈してるみたいだが、
この解釈にはどうもシックリと来ない。
武市はやっぱゴミクズだったんだな
暗殺しまくった自業自得でこうなったって全然わかってないし
何が恨み限りなしだよこのゴミクズがwww地獄で反省しろ!
やっぱり武市など全く同情できない小物ですなwwww
死ぬときですらぐだぐだと恨み節たれて、清さがまったくない
こいつのどこが高潔なのやらwwww
やっぱり、アンチが正しかったということですな
そんな武市をマンセーしてる武市ヲタもクズ
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 01:32:34.61 ID:ZYdNAp7/0
夢上洛陽謀故人
終衝巨奸亢逾振
覚来淕汗恨無限
只聴隣鶏報早晨
夢覚而得一絶
瑞山
三文字切腹からも十分無念の程は伺われる。
時勢によってコロコロ旗色を変える指導者を恨んでいたことだろう。
そんな生き方瑞山とは正反対だからな。
侍の信念に殉じた生涯であった。
>>305 この人本当は武市好きなくせにどうしてわざわざ色んなスレにアンチのフリして書き込んでるのか、つくづく不思議
精神的に気持ち悪い
ここ1ヶ月のIDでバレバレなんだけど
武市は嫁も誰にでも足開くようなビッチだし、本人ガチホモDQNだし良いところが全く無い
>>306 失敗したら黙って腹斬るのが武士でしょww
自分の愚かさを棚にあげて、藩主を恨みまくって死ぬような小物を美化しすぎ
そもそも、こんな中途半端に頭が良いだけの視野が狭いチンピラ小物の何処に尊敬できる要素が有るというのか?
一般でも笑い者になってるし、まさに土佐の恥とはこいつの事ですな
こいつのせいで高知のイメージ悪くなるから、持ち上げるの辞めるべき
龍馬と中岡だけで十分こいつはいらない
ここの人達は武市好きとかよく言えるよね
恥ずかしくないの?よく人から嘲笑されるでしょ?
武市だけは絶対好きになりたくないな〜。人から馬鹿にされたくないし
>>307 この粘着腐女子は俳優の大森南朋が嫌いでねー、こっちにも流れてきちゃったみたい。
何今更笑泣録初めて見てきたようなことを…読んだ事なかったんかい。
命令に盲目的に従い黙って死ぬことを諫死とは言わない。
道を誤った主君に真っ向から抗議して死ぬことを言う。
武市先生関連の史料は最近よく見つかるね。
大河ドラマで「そういえばうちに縁の品があったな」と思い出す人が増えたのかな。
牢番にあげる品にわざわざ書く位だから無念を後世にも伝えてほしかったのだと思う。
武市先生牢屋の中でも「世の中間違ってます!」ってずっとプンプンしてたからねw
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 09:54:16.54 ID:k7TQq7630
>>307 IDは知らんが、どうみても武市好きで武市の話したくてたまらんようにしかみえなかった
歪んだ愛情表現なんだろう
>>314 代々海外に恥を晒し続けてたわけだな
流石は土佐の恥さらし
>>315 幕末の土佐勤王党盟主・武市半平太(瑞山、1829〜65)が、切腹直前に「恨(うらみ)無限(かぎりなし)」などと無念さをつづった漢詩の書。
獄中で記したとは思えないほど立派な書は、信頼していた牢番に贈られたものだった。
1世紀半を経て初めて世に出たことに、14日発表した高知市立龍馬の生まれたまち記念館や専門家らは「よくぞ残ってくれた」と驚きを隠さない。
武市は獄中で漢詩を詠み始め、約50首を「メモ書き」した雑記帳が残されているが、作品としての書は現存しないとさていた。
贈られた牢番・門谷貫助(1843〜94)は武市に心酔し、武市も信頼していたと伝わる。
書を保管していた高知市の植田夏彦さん(故人)が残した由来書によると、門谷が「一生の記念、一家の宝に何か書きて給はらぬことを乞ふ」と武市に頼んだという。
夏彦さんの父、重治さんは、門谷と同じ同市春野町西分に住んだ富農で、門谷と交流があり、何らかの形で家蔵したらしい。
夏彦さんに受け継がれた後も、奇跡的に残った。戦前、単身で朝鮮半島に渡った際には書を持参し、日本人学校で教師を務めた。
終戦後の引き揚げで、食料や衣類を手放しても、この書だけは「危急の折といへども放棄するに忍びず、表装を外し一巻となしてリュックサックに負ひて帰るを得たり」と、辛うじて守り抜いたという。
書を鑑定した松岡司・前佐川町立青山文庫館長は
「改革を果たせなかった無念さは、武市が何よりも言いたかったこと。最も信頼した門谷だから託せたのだろう。海を越え、代々大切にされるに足りる、残すべき作品」
と感慨深げだった。(畑矢今日子)
(2011年7月15日 読売新聞)
良い話だ。
牢番は近隣の村から来る農民の仕事だった筈だが、こちらも記録が残ってたんだな。
武市が書簡等で露骨に容堂への批判を展開するようになったのはいつ頃からだっけ?
松岡氏が今回発見された漢詩の内容を「容堂に対する恨み」と解釈しているが、
(個人的には、容堂のみに対する恨みを表現した詞には思えないが)
武市が書簡等で容堂批判を展開し始めた時期と漢詩が作られた時期が符合するのかが気になった。
確か武市も投獄後しばらくは、まだ容堂に対する敬意を持ち続けていた筈だが。
「アア、けしからぬ世の中にて候。」 と 、しきりに憤慨してたし
たかが容堂一人どうこうで尊皇攘夷運動したわけでない
>>315 どっちが恥知らずなんだか、どうせリンク先の文章読んでなかったんだろ。
縁のある人が必死に代々守ってきた品物をバカにできるお前の人間性が恥ずかしいわ。
>>317 尋問が本格化して同志の犠牲が増えだした後じゃないか?
逆さ瓢箪の初出ってどの手紙だろう。
>>301 > 容堂も朝廷と幕府でかなり揺れて、酔えば勤王冷めれば佐幕だろう
よくそう揶揄されるけど、
容堂は最初から公武合体派なので、頓珍漢な批評だと思う。
公武合体ってのは勤皇佐幕なので。
佐幕じゃ勤皇にならないって尊攘派シンパの人は考えるのかもしれないけど、
孝明天皇が公武合体派なんで、全く問題ないどころか、より勤皇的。
かなり時代が下らないと、倒幕は天皇の意志に背くこと。
>>317 > 確か武市も投獄後しばらくは、まだ容堂に対する敬意を持ち続けていた筈だが。
武市の場合、この辺はよく分からない。
切羽詰まってからの罵詈雑言を見ると、結構裏表のあった人だと思う。
逆から見れば、常に自分を律していたから、表が整っていたと言えるのだろうけど。
容堂に老候としての君臣の敬意はあったろう。
斉彬の敵として憎み久光をジゴロ呼ばわりした西郷すら、島流しで殺されかけても生涯君臣の礼儀は失ってない。
弾圧された連中や龍馬も中岡も、容堂に復讐なんて誰も考えてないし。
もっとも当時正式な藩主は豊範だが。
>>320 長州すら内心倒幕派が居ても藩としては公武合体だよ。
禁門でも薩摩と会津の賊を討つが名分だし。
安政の大獄で謹慎くらう前の容堂&東洋コンビが幕府に表明した意見は攘夷論なんだが。
要するに大獄という非常に厳しい処分に「生意気言ってスンマセンでした」と
容堂達はこの時点ではまだ強大だった幕府の権威に恐れをなしたって側面もあるわけ。
ここでこれ以上強硬な態度に出ると藩まで危ない、だから謹慎前までの容堂の意志を継ぎ〜
という勤王党のコンセプトは書生風の意見と言われた。
しかし桜田門外の変から幕府の権威はどんどん落ち目になっていき
朝廷側と幕府側勢力の大義の奪い合いに突入していくわけ。
>>321 そんな藩主をゴミクズとしか思ってないような武市がなんで勤王党の盟主になんてなったんだろう
大石がなれば良かったのに
武市なんてこの裏表の激しさだと、表面上は勤王のため容堂の志を継ぐためとか言ってても、所詮脳内では藩主や天皇見下してたんだろうし、
生き残ってもいずれ本性出して皆から見放されただろうしね
所詮世の中を良くしたかった訳でも、容堂の志を継ぐためでもなく、ただひたすら偉くなりたいとしか思ってなかったって事だろうな
こんな私欲まみれの人間に、世を憂いて付いていった党員達が哀れだね
>>323 攘夷と言っても大攘夷でしょ。
そしてひとまず開国は延期してよく考えろと。
将来の開国は否定してない。
そもそも東洋は藩政で開国貿易を推し進めようとした人だから。
容堂は
勤王(将軍に水戸慶喜押し)→佐幕(井伊の大獄)→勤王(井伊暗殺〜武市ら活躍)→佐幕(勤王派没落〜長州征伐)→勤王(長州復活〜大政奉還)→佐幕(会議で慶喜擁護)→勤王(会談で脅され黙る)→中立(鳥羽伏見)→勤王(戊辰)
攘夷(大獄前)→開国(大獄後)→攘夷(武市活躍)→開国(慶喜の説得)
>>325 阿部正弘に求められて提出した意見書には開国貿易拒否、海防警備を強化しろって明記されてる。
安政の大獄前の容堂は水戸藩・朝廷と連携しての一橋派だ。
武市の主張は朝廷をないがしろにした幕府の弱腰外交方針におもねるな、
天皇に忠義を尽くせっていう事で一貫しており裏表などない。
土佐藩の尊王対佐幕は階級闘争の趣があるのは事実だが、
武市の行動原理は強烈な尊王感情。
開国拒否は一時的なものだよ。
時間稼ぎして良策を錬ることになってる。
>>328 そもそも勅許なき通商条約締結に反対していたのが一橋派だ、
その後更に過激な意見書で容堂が隠居謹慎する羽目になったのはどう説明するんだ?
安政の大獄前後の紛糾は、国政論議によるところも大きいけど、
幕政の改革派と守旧派の戦い、将軍選びの戦いって面が大きいでしょ。
そもそも東洋が開国富国強兵派なんで。ジョン万も近くにいたし。
ただ当時のアジアの情勢見て拙速な開国をすべきでないと論じただけ。
そもそも開国慎重論と勅許なき通商条約締結反対は全く矛盾しないけど。
どこが相反することなの?
一橋派のリーダー格が尊王攘夷のメッカである水戸藩の徳川斉昭。
慶喜の父親だからな。
大獄前の容堂の立ち位置は尊王攘夷派。
慶喜自体が攘夷強行派じゃない。後見人として朝廷と交渉した時も、
黙って幕府に任せるか、自分たちでやるかどっちかにしろと迫ってる。
攘夷を約束されないように家茂の拝謁も仮病でやめさせてるし。
幕府に攘夷をしろと朝廷に言わせない立場で戦ってる。
容堂も攘夷派ではない。その辺は慎重に考えてる。
幕政改革派。この一点で守旧派の支持を受けている井伊と対立した。
当時の幕府寄りの人間は、征夷大将軍に攘夷の朝命が下っても、
現実問題として欧米にすぐ勝てるわけでないし、
征夷大将軍が攘夷出来ませんと云う訳にもいかないし、
かなり慎重な言動を行ってる。
井伊直弼は徳川斉昭と政敵だった。
今話してるのは土佐勤王党結成の切欠になった、大獄前に容堂の表明していた政治的な立場の事な。
その時点では尊王攘夷派。
容堂は最初攘夷派だろ?
ペリー来た時、大阪の町は邪魔だから焼けと言ってなかったか。
その後安政の大獄で開国になるが、次に破約攘夷に賛同。
慶喜の以後幕府無いと思っての開国演説に皆感動し開国。
>>327 階級闘争と言えば
井口村事件が土佐勤王党結成の発端ていうのも維新土佐勤王史の創作じゃないかアレ?
自由民権運動的なイメージで階級差を殊更強調しようとしているような。
「私どもは土佐藩には複雑な気持ちを持っている。故郷と呼ぶには冷たすぎた。
私など脱藩後、新撰組などの幕吏の追求に生命をなまに晒されているときに、
親身になって庇護してくれたのは母藩の土佐ではなく長州藩であった。
私の故郷は長州といっていい。」
武市→死
龍馬→死
中岡→死
吉村→死
平井→死
間崎→死
広瀬→死
田中光顕、土佐は冷たくて嫌いだったってハッキリ言ってるしねw
ところで容堂公が武市先生に対してうなされる程すまないと思っていた事って何だったのかな。
自分の方針を明確にせずその件は検討する〜とか言って誤魔化し続けた事?
武市の主張が正しく勤王の世になったからでしょ
武市を殺す判断と決断したのは容堂で、誤りとなったが藩主だから誰も責めれないし
諸藩も弾圧してた勤王派を急に牢から出し優遇し、藩代表者にしたて人脈頼りに京都政権に送ってる
土佐は武市らのおかげで、薩長に次いだ配慮と評価されたが、あくまで薩長に次いだ評価で主導権を握れなくなった
薩長と人脈を持ち、尚且つ土佐派をまとめ、対等に駆け引きできる政治家は居なくなり
薩長について官に残ったり、下野して政府転覆計ったり、自由民権運動に走ったりした
勢力がほとんど無くなる
土佐は藩内で暗殺したからねえ。
暗殺の証拠なんて、まったく挙げれて無いわな。
長州の様に必要だったが挙兵内戦したり、明治後の薩摩の様に官と野に分かれ大勢死傷出す方が良いのか。
武市を投獄したのも切腹させたのも、勤王派不利な情勢だからに過ぎないしね。
武市が単なる人望家で自分の名誉をもっとも重んずるなら、手を汚す暗殺手段もとらなかったろうなぁ。
東洋一人排除することで政変起こせると判断、計画実行の手腕が駄目でも失敗してたろう。
死を覚悟して藩に戻ったのも、連座死を少数に留めたのにも武市の人格と力量が現れてる。
実に惜しかった。
土佐は尊攘派が他の雄藩より劣るのが弱点だった。
>>341 武市や平井、間崎ら勤王党上層部は別にそんな事無いのでは?
実際に政変前は、京や江戸でも、薩摩長州と対等に渡り合ってた人達だよ?
難点は身分差別が激しい土地で身分が低かった事でしょ?
あと、容堂が狡猾な殿様だった事
関ヶ原の戦い以降の長宗我部の遺臣の不満や期待を一身に背負って立ったのが武市って言われてたけど、
当時の土佐郷士にとっては武市さんがヒーローだったんだよなー。
切腹後藩内の反発も激しかったようだし。
もちろん龍馬も脱藩組のリーダーとしてそれなりに尊敬されてはいただろうが。
ぶっちゃけ死んだ土佐連中のが薩長の連中より個々の人物技量は上だったろうなぁ
今一得体の知れない龍馬抜きにしても、武市≧西郷、大久保 中岡≧木戸じゃろう
武市は西郷の様な薩長土の志士を惹き付けた人望と、藩組織を動かす大久保、木戸的な政治技量あったし
龍馬や中岡の様、大局を見る対幕戦略も持ってた
必要なれば大久保の様、マキャベリになれる面もあった
その上、江戸三大桃井の塾頭勤め剣も人脈もあり、学問教養も西郷、大久保、木戸より上じゃき
三文時切腹を見ても気力胆力も尋常でなかったぜよ
中岡も武市のあとを引き継ぎ、禁門で崩れた薩長土の連携を再び作り直した
倒幕戦略の基礎構築は中岡の頭脳と功績が大きい
長州単独では不可能と見て、薩長同盟の基礎作りから、土佐内部で板垣ら上士を倒幕に引き込み古勤王党と結ばせ、薩土盟約や薩土密約、三条岩倉提携、岩倉薩摩提携を実現させた
倒幕勢力の再構築と倒幕勢力を官軍に仕立てる朝廷工作の基礎を作ってる
自分達を襲った刺客を、卑怯憎むべき、しかし豪胆愛すべきと評したほど、冷静な頭脳と豪胆さも兼ね備えておった
板垣も中岡は西郷、木戸と並び立派に参議になれるほどだったと言ってるからのぅ
>>344 さすがに実務に関してはそんな事ねーよ
土佐の志士は一貫してサポート役
維新後西洋文化の流入で知識階級全体にブレイクスルーが起きるから
維新前のスペックはあまりアテにならない。
でも板垣の「坂本龍馬がもし生存していたら五代才助か岩崎弥太郎のように実業方面に
発展する人だったと思うが、中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩をならべて参議に
なるだけの人格をそなえていた」
は信じたいところではある。正直龍馬の商才はあやしいけど。
>>342 よく考えたら武市平井間埼の勤王党中枢ってみんな弾圧切腹なんだなw
やっぱり藩のうしろだてがないとアウト
>>346 板垣自体が参議やってたから信用できるじゃきに
そもそも板垣は龍馬と縁薄い
志士歴と政治力無い板垣を引き立てたのは全部中岡のお膳立て
>>346 結果的に土佐が薩長に遅れをとり、薩長と共に並び権力を握れなくなった発端は
容堂が薩長と並び活躍していた武市、間崎、平井ら勤王党中枢を次々と殺してしまったせいも有ると思うわ
でも、その後になんとか中岡龍馬が頑張って後引き継いで頑張ってくれたけど、結局その中岡龍馬も死んで完全に土佐はアウトになったそんな印象
>>346 藩の重臣を身内が暗殺してるのも土佐だけだから。
土佐勤皇党がきっかけを作った怨念スパイラルでアウト。
>>346 商才は結構あったんじゃないか。
同時代に、紀州藩から賠償ぶんどったり、
他藩相手に商談まとめたり。
いくら後ろ盾がいたと言っても同時代に他にいないから。
>>349 赤穂藩やら壬生藩やら他藩にも同様のケースはあるよ物知らず。
龍馬達は商才ないし船の操舵技術も未熟だったのではないかと言われてるね。
サポーターとしては優秀だったと思うけど。
幕末は日本全国の藩が尊皇と佐幕に割れて内紛だらけだったのに藩の重役の暗殺が土佐だけとかw
龍馬を中心に幕末が動いてるとでも思ってる人?
>>351 志士崩れのロクデナシの墓こそ潰されてれば良かったのに
というのは冗談としても
お墓の妙な看板見たけど多分あれ大河ドラマの以蔵のイメージで売り込んでる訳だよね?
以蔵の墓に堕落した裏切り者って事実を掲載しとくなら構わないけど
事実と違いすぎる事をアピールしたらそれって完全に嘘じゃない。
参拝者用の記入メモがあるみたいだけど一筆苦情書いておきたい気分だわ。
>>349 土佐勤王党は東洋暗殺したから弾圧されたみたいな言いぐさだけど
ぶっちゃけ弾圧されたのは土佐勤王党だけじゃ無いんですけど
土佐勤王党だけが弾圧されたならその理屈も通るんだろうが、他の藩でも尊皇攘夷派が弾圧されてるからその理屈は通用しないよね
結局東洋暗殺だって、自白も取れなかったくせに、不敬罪とかいう超適当な理由付けて武市切腹させただけだし
実際に関わっていたのだから、
武士道精神があるなら自ら切腹すべきだった。
武市が自ら切腹するべきだったとか何を頭が悪い事を言ってるの?
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 20:44:31.62 ID:luSUk3r/0
過激勤王派の江藤を生かし鳥羽伏見後に藩代表として活用した佐賀の鍋島
西郷を心の底から憎悪したが殺さずに活用した久光
自分を含め政府要人暗殺計画を企てた陸奥を使えると見て関わった部分を握りつぶしてた大久保
武市、平井、間崎、龍馬、中岡ら皆殺しにしてしまったた土佐
土佐は狭量で先見性もヴィジョンもなく
自分で自分の首を絞めた阿呆でいいか
尊皇一本槍だしね。
ちょっと残念な人だった。
瑞山に関しては土佐藩独特の事情を考慮すると奇跡的な活躍ではあったが
時勢には誰も勝てなかった。
>>359 土佐はどっちつかずだから結局薩長に負けたのだ
せっかく有能なのが死んで築いて土佐も貢献してたのに
藩滅亡を賭し倒幕した薩長が明治の主役になるのはある面当然かね
>>359 結果論だが、むしろ尊皇一本の方が勝ち組になれただろうよ
土佐はせっかく武市らが尊皇一本で頑張ってたのに、肝心な奴等がどっちか付かずだったのが敗因だろう
容堂は太内も切腹させてるから、完全に佐幕という訳でもなく、まさにどっちか付かずの二股男だった
そもそも尊皇一本、佐幕一本だと残念な人だという考えが理解できん
むしろ揺るぎない信念に好感がもてるんだが
変節漢がそんなに偉いのだろうか
土佐勤皇党が力を持っていた時に、土佐は軍隊の近代化が遅れたからな。
これが維新後、土佐が影響力なかった大きな原因の一つ。
土佐勤皇党が藩改革よりも、
守旧派と組んで、藩を動かすことを優先したから。
上洛、上洛でもともと藩政改革の意識が低い。
東洋を暗殺する前から、改革より上洛と上申していて、
その上暗殺直後には、守旧派の地位低下を伴う軍隊の近代化をご破算にしている。
内戦まで起こしているけど、
ちゃんと内政改革もやっていた長州と対照的。
さらに新オコゼ組が藩政改革を行っていた時も、
坂本の脱藩問題で亀山社中→土佐海援隊となるのが遅れ、
武器の購入がままならなかった。
もともと薩長は密貿易で儲けてたから土佐とはスタート地点からして違う。
ところで中岡慎太郎はなぜ地味なのだろう?
薩長同盟以外にも龍馬並みに貢献してるのに。
>>364 その後藩政改革もちゃんとやろうとしてたじゃん間崎や平井が令旨まで取って
武市もその応援のために土佐へ帰ったんでしょ?
身分が低いものが多かった勤王党的には、最初に藩で主導権を握らなければ京都で朝廷工作自体出来なかったんだからそれは仕方ないじゃない
東洋は婦女子のごとき公家相手に何ができる?とか言ってたんだし
藩政改革の東洋と朝廷工作の武市で役割分担がちゃんと出来てれば良かったんだけどね
>>365 堅実すぎるんじゃないかな。
武市や坂本のようなエキセントリックな所がない。
まともな学者さんはちゃんと評価しているからいいんじゃない?
中岡はずっと石川と名乗ってたから、まず中岡って誰やねんって感じ?
薩長同盟の裏書や派手な役目も坂本に譲ってるし、勤王倒幕一本の隙のない理論家で戦の一字説いてる
坂本の様に、公武側の幻想が都合よく入る余地ない
暗殺されなければ陸援隊を率い、薩長と共に京で挙兵するつもりだった
坂本は土佐派が中央の争いで破れ下野し、自由民権運動する時、薩長に負けず王政復古に貢献し尚且つ民権寄りの人物の象徴として持ち上げられた
武市は土佐王政復古第一人者だし、中岡も薩長と同じ路線だから反薩長大政官が大義名分で持ち上げにくい
>>364 長州が軍を近代化したのは四境戦争前、坂本が薩摩名義で仕入れて売った武器で
中岡は最新式の元込め銃買う様土佐に指摘してたが、なんとか板垣や旧勤王党の協力で戊辰戦争まで間に合い
戊辰無敵の土佐迅衝隊を率い活躍してる
維新後も板垣が軍制改革し騎兵まで持ってた
もっとも廃藩置県で各藩の武器、工業、税の徴収権は全て中央に没収されるから意味ない
鳥羽伏見の戦いの終了までの時点で、明治後の格付けは既に大体決まった様な物
人気と業績の大きさって結びつかないもんだよな
中岡はやっぱり龍馬に比べると華がないんじゃない?典型的な志士路線で
よくも悪くも地に足ついてる感が。庄屋出身らしい泥臭さって一般的にはウケないだろう
人気に不可欠なラブロマンスも、奥さんの情報も少ないし中岡自身が女性交際をおおっぴらに
しない性格だったようだからほとんどない。
でも世間はともかく、幕末好きからは人気あるだろ。少なくとも嫌いっていう人を見たことない。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 20:09:43.17 ID:5PUaHnnN0
中岡の情勢分析能力や将来を見通した戦略眼、行動力と度胸はどう見ても屈指だな
将来のロシア、清国、アメリカの脅威まで指摘してる
全部戦争した相手
中岡は地味でも、武市みたいに創作で妙なイメージ付けられて、変に馬鹿にされたり叩かれる事も無いから良いじゃないの
ここ以外でも好きだって普通に言えるし
武市が好きなんてdisられんのが怖くて、正直ここでしか言えんわ
そういうのを西洋ではBarbarianと言う
竜馬すきーのが恥ずかしいわ
ああミーハーなんだろうなと内を見透かされます
>>371 まあそれは武市さんのせいもあるでしょ…
というか竜馬のせいだろ?
武市に変なイメージつけたのは司馬あたりが始まりだろ?
明治も正四位もらって正当評価されてるし
酷いのはお〜い竜馬あたりと龍馬伝と見るね
龍馬ファンは一部宗教じみてるからな…別に美化しなくても魅力的な人物だと思うけどね。
武市に関しては「天誅で以蔵を利用だの毒殺未遂を恨まれて云々は司馬遼太郎の創作だけど?」
で済む話じゃないか。
武市も坂本も中岡も新しい時代を夢見て儚く散った志士だよ。
>>374 むしろ維新直後は尊攘派は誰でも評価する傾向だったよ。
>>375 それが済む話じゃ無いんだよね
創作だって言っても信じないアホが多くてさ
むしろ龍馬好きでも龍馬ファンって言い出しづらくね?
鉄矢のせいもあるけどw
真面目に調べてても龍馬好きって言うだけミーハー認定されそうで黙ってる
おーい竜馬と竜馬がゆくは面白いだけに悪い意味でも影響力あるよな。
龍馬ファンってそんなに言い出しずらいか?
ミーハーとかも以蔵ファンよりはマシだと思うけど
disられる方が嫌だけどな自分は
粘着の誘導に簡単に乗せられる人がここまで多いとはw
夫れ攘夷と云うは、皇国の私言に非ず、其の止むを得ざるに至っては、宇内各国、皆之を行うもの也。
米利堅嘗て英国の属国也。
時に英吉利王利を貪る日々に多く、米民益々苦む、因て華盛頓なる者、民の疾苦を訴え、是に於て華盛頓米地十三邦の民を師い、英人を拒絶し、鎖国攘夷を行う。
此より英米連戦七年英遂に不勝を知りて和を乞い、米利堅是に於て英属を免れ独立し、十三地同盟合衆国と号し一強国と成る。
実に今を去ること八十年前なり。
ゼルマニアは属国たりしも、亦能く国議を定め、拒絶攘夷を行い、戦争八年、戦う毎に悉く敗すと雖も、其の末に至って一戦能く奇を出し、大いにイスパニアの軍を敗り、遂に独立す。
是れに依って之を看れば、主客当然、権我れに在り、其の和戦開鎖は、時の宜きに隨い、国の利害に由り唯我に好む所のまゝ也。
中岡先生の攘夷論文は現代でも通じますね。
攘夷は日本だけの特殊な物にあらず、侵略の危機に接する時世界各国が行うもの。
かつて、イギリスの属国だったアメリカも神聖ローマも攘夷を行い独立した。
歴史を見れば、侵略国は独立戦争に決して勝てない。
だから主権は我々にある、戦うも和するも開国も鎖国も時の状況で良く行われるもので、国益を良く計り行えば好むものである。
「竜馬がゆく」的な龍馬のイメージ抱いてる人と龍馬関連の話はあまりしたくないな。
武市先生とイゾウの関係については軽く説明したら解ってもらえたけどなあ…
イゾウのしょうもなさ教えたらションボリされたけどw
お墓参りにちょっと行ってみたーいとか言ってた人の夢を壊しちゃったみたい。
まあ歴史上の人物について調べてみたら幻滅するのはよくある事だよ。
しかし長生きすると一番トラブルを起こしそうな気がするのが中岡だ。
大久保始め新政府の方針を受け入れられたかどうか…
中岡はどっちかというと坂本より国権主義に近いから大久保に近いんでないか
かといって、庄屋出身で民権的な面もある
人物も手腕も木戸より遥か上、大久保よりもある面で秀でてる
官側につくにしても民権で野に下るにしても、手腕のない板垣に代わり土佐を率いて活躍できただろう
>>382 むしろ中岡よりも吉村の方が問題起こしそうな気がする
土方久元に興味あるんだけど、イマイチどういう人か分らないんだよな
「回天実記」も入手困難だし
>>382 中岡は主張は激しいけど、トラブルはほぼ皆無だったよ。
譲るところは譲る人だったのでは。
活躍した時期、隠密活動が多いからよく分からない所が多いけども。
土方久元と田中光顕で勤王党出身者の出世2トップという感じ
土方もそれなりに維新回顧録があるから読んでみるとか
光顕ほどベラベラしゃべってないけどw
影から支えるタイプの人間だと思う
新政府は土方みたいな親政派は宮内省に置いてる。
上手いこと働き場所を提供してる。
>>385 私も読んだことない。
東大出版が1972に解題付きで復刻してるから、
結構たくさんの大学図書館が所蔵してる。
身分証明書があれば貸し出ししてくれる大学あるよ。
回天実記は文久3年の政変七卿落ち〜慶応4年正月まで
すごく分厚いからなかなか読めない
田中土方佐々木を見ても土佐閥は宮中の微妙なところに追われちゃってるな
土方は近デジで多少読めるはず
龍馬が生きてればといわれるが
中岡が生きてた方が代わったろうなw
中岡が生きてれば鳥羽伏見の戦いも傍観してた土佐藩を引きずり込み参戦させたろう
そうすれば土佐は薩長に功績で後れを取らない
中岡は禁門から戦い経歴も申し分なし
上士にも郷士にも尊敬されてたから土佐派をまとめられる
能力的にも薩長の巨頭にまったく劣らない
そんなに期待されても中岡も困ると思うぞ。
板垣達だって脱藩に近い形で出兵したんだし。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 19:05:23.86 ID:9lenVz1x0
勤王派最悪状況の蛤御門の変真っ只中から動き出し、倒幕王政復古まで持ち込んだ中岡なら何とかするだろなw
中岡は挙兵参戦する気だったし、生きてれば土佐も薩長と連携が保てた
中岡龍馬が死んで土佐と後藤路線は完全孤立
板垣ら武闘派上士は中岡に洗脳され完全信服してたしw
京に居た土佐4個小隊も、容堂の命を無視し、鳥羽伏見開戦翌日に一斉参加した
中岡の死と、1日の遅れがその後の土佐にとって致命的になったw
田中光顕は再版された回顧録しか関連書籍知らんのだけど
他には何があるのかな?
伊藤博文の回顧録に出番はあるのだろうか。
>>393 中岡が生きている間は倒幕まで方針変換してないぞ。
薩摩や岩倉は。
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 08:28:08.68 ID:D6p7o+tdO
>>
>>344 中岡はともかく、武市はご覧の通りの超絶小物なのであり得ない。
美化しすぎ
武市なんざ、本来は土佐で顕彰されるのも小物過ぎてあり得ない
龍馬の関係者だからそのおかげとか言われてるのに何が勤王党再結成の三士像だ笑わせるなよ
三士は三士でも、中岡龍馬吉村で良いだろ
あ、あんな小物でも勤王党の盟主だから外せなかったんですね?
高知も、龍馬の関係者だからって、こんな小物のアホウ持ち上げなくちゃならなくてかわいそうね
獄中漢詩からして、武市が超絶小物なのは間違いないんだから認めろよアホ共wwwww
こんな偉人とも呼べない超絶小物のクズ持ち上げる奴は頭おかしいとしか思えんわ
高知に抗議しようかな
しかも身分差別主義者のゴミだし
武市とかいうしょーもないゴミ美化して何がしたいんだろう高知は
普通にゴミ扱いすれば良いのに変なの
それが相応しい扱いなんだし
実際は武市みたいなゴミが盟主で勤王党の皆さん困ってたからね
以蔵なんざ、本来は土佐で慰霊祭されるのも小物過ぎてありえない
子孫も殉難志士に加えて欲しいなどという話は厚かましいのではないか
龍馬の人徳アピール要員として需要があっただけだが何が武市に尽くした志士だ笑わせるなよ
武市を慕った党員なら島村衛吉や清岡達でいいだろ
高知もこんな軽蔑される要素しかないDQNを客寄せパンダとかいい加減にするべき
また以蔵オタが発狂してんのか。
創作ネタでホルホルしてないで知り合いとやらを論破してみたらどうだ?
以蔵が誉められた要素の無いただのクズだって判明して残念だったな。悔しい悔しいw
瑞山の三藩入朝の計が、倒幕王政復古の始まりだしな
まっこと岡田は土佐勤王党の面汚しぜよ!
腐れ女子は土佐勤王党関連の建設的な話題を提供する気が無いなら邪魔しに来るな。
そういえば武市家を継いだ人(半太じゃない方)と龍馬の甥の坂本直寛は
維新後も行動を共にしているんだな。
片岡健吉や板垣の長男と一緒に北海道に行って仲良く洗礼受けとる。
武市さんの獄中漢詩の展示今日からだっけ?
松岡先生忙しそうだね。他に鑑定やる人あまりいないんだろうか。
>>405 武市みたいな小物なんてどーでもいい人が多いんでしょうよ
この漢詩だって、武市の小物っぷりをアピールしたい人らが展示したがってるだけなんじゃないかね
それと別に、武市を小物だと思ってるの以蔵ヲタだけじゃないから
一般的に小物のイメージしか無いからね武市は
松岡氏がなぜこの漢詩を「容堂のみに対する恨み」を綴った物だと思ったのか
直接聞けるものなら聞いてみたい。
自分にはどうしても8・18の政変の主役である薩摩や会津等に対する恨みとしか思えんし。
>>403 しかし薩摩からは相手にされてないし、
治安に不安を持った朝廷からのお願いで、即今尊攘派は京から退却いただいた。
その後あれこれあって大攘夷派が主流になった。
武市はただのテロリスト以上でも以下でもない
偉人扱いするのも馬鹿げてる
暗殺大好きな殺人鬼のくせになwwww
先祖代々大事に保管されてきた品をバカにできる人間性の奴が何でこのスレにいるの?
歴史の話する気もないくせに腐女子臭さ丸出しで何と戦っているのやら。
>>408 前に鑑定した逆さ瓢箪の手紙のイメージが尾を引いてるとか?
切腹直前の書っていうのは何が根拠になっているんだっけ。
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 23:03:34.86 ID:4kHGqD5Y0
>>409 武市や久坂と結んだ樺山は薩摩の誠忠組だが?
薩摩は約束通り上洛し、久坂、平野、真木、清川、吉村、龍馬といった連中も薩摩挙兵に加わろうとしてる。
その後薩長土上洛後、親兵問題にしろ薩摩の了解も取り付けてる。
薩摩は一方で朝廷を主導してた、長州土州勢力とも繋がりを持ってた。
一転して正反対の立場の会津と組み、長州らを叩き落したから生涯長州から憎まれた。
後に上洛した西郷は、薩摩の評判が余りに悪い事に驚き会津と手を切ってる。
尊攘派は朝敵になってからも、京の市民は命がけで匿ったほど。
攘夷も薩摩、長州は実行した為に天下を主導できた。
土佐は実行しなかった為、結局天下を主導できなくなった。
>>411 そもそもそんな狭量丸出しの漢詩を、代々大切にしてたっていう奴の気持ちが理解できないし
そんな漢詩を書く人間も軽蔑しこそすれ、尊敬なんて出来ない
>>413 お前みたいな屑に理解・尊敬されるようじゃオシマイだからな。
>>412 薩摩が上洛した時は公武合体のつもりだった。藩主も西郷も。
土佐勤王党の弾圧あたりが土佐の幕末史で一番暗い。
野根山23士とか死をもって意見表面するつもりが意見も聞いてもらえず斬首とか悲惨すぎる。
その上武市先生は身内が拷問の中で死んでるわ
病で動けないほど衰弱してたのを引きずり出されて尋問されるわで散々な状態だったからね。
これでこの反応が狭量というなら逆にどんな反応を期待しているのやら。
獄中書簡から伺える武市先生の実像は生真面目だけど喜怒哀楽のある普通の人間。
そういう人が志を持ち命懸けで幕府に抗議したからこそ尊敬を受けてるのにね。
武市とかいう幕末一のゴミクズを擁護しててアホじゃないの?このスレ
暗殺されなかったのが奇跡みたいな奴じゃん
切腹だって、暗殺繰り返して暴れたせいの自業自得としか思えないけどなぁ…
そんな奴が容堂を恨むとか、逆恨みも良い所だと思うし小物を極めてるとしか思えないけど
こんな奴偉人なんてとてもじゃないけど呼べないと思う
高知も他県から馬鹿にされるから、こんなゴミクズを顕彰するのやめたら良いのに
正直武市に殺された連中の方が恨み限りなしだと思うけど?
そんなゴミクズなんて嫌いになる方が当たり前なのに、ここの連中は武市が好きなんだよね?
頭おかしいから病院行った方が良いんじゃないかな?
こんなキチガイ殺人鬼が好きとか、道徳観念が欠如してるよ
高知県民からしても武市はクソヤローでしかないので、金輪際持ち上げるのはやめてもらいたいんですが
武市ヲタは尊敬されてるって思い込んでますが、そんな事全くないですから安心してくださいね
正直言って、こんなゴミクズを顕彰とか頭おかしいとしか思ってないですし
このスレの連中もクズしか居ないから全員滅べば良いのに
いいかげん武市はゴミクズクソヤローだって認めてくれないかなぁ…
こんな奴が良いって言ってるのは、このスレ含め頭おかしい奴しか居ないってのはわかりきってるんだからさ〜
このスレ潰れるまで荒らすから宜しく
>>414 武市みたいなゴミクソヤローのヲタのお前よりかはマシwwwww
武市みたいなクソヤローのヲタである事を土下座して謝れよ
この汚物wwww
武市みたいな汚物をマンセーする奴は恥知らずとしか言いようがないですね
日本人として恥ずかしいです
いい加減ゴミだって認めてくださいよ
その方が楽でしょ?
今までだってあんなクソヤロー好きとか頭大丈夫?って蔑まれて来たんでしょ?
可哀想に
本来武市なんてトイレに流されるくらいの存在でしかない
そんなうんこを擁護して持ち上げるのがこのスレ
武市の墓にもうんこ撒き散せば良いのに
本来はそういう扱いがお似合いな奴だし
そもそも武市が高知で顕彰されてるのが理解できない
このクソヤローは百害有って一利無しな人物じゃないですか?
しょせん、観光課が大河効果で客寄せとして利用してるだけでしょうし、こんなクズはすぐに忘れ去られるでしょう
>>414 だから美化しすぎだって
武市はただ自分の身分を上げたかっただけの権力の鬼に過ぎん
所で横田達雄の「武市半平太と土佐勤王党」って、もう完売しちゃってるん?
武市先生の言う通りにすればよかったのに
容堂は佐幕にも倒幕にも役立たずただ時勢を混乱させただけだし
結果土佐を薩長の軍門に下らせる事になった
東洋は小物で大計ないし
大計ないのは小攘夷派。
日本の生まれ変わりに邪魔なので朝廷にすら見限られて全員粛清。
粛清所かその後にひっくり返されてるじゃないかw
日本を生まれ変わらせたのは攘夷派
中岡も攘夷を行った薩摩長州が天下を主導するだろうと、明治の薩長閥を攘夷戦後に早くも予言断言してるし
日本全体を考えた大攘夷・武市先生と、小攘夷で日本国の重きを知らない東洋では器が違いすぎたのだ
公家も容堂も時勢に応じて有利な方に付いてただけだろ。
瑞山達逃げなかったリーダー格には守るべき信義や家族があった。
>>427 「武市半平太と土佐勤王党」は残念ながら割と前に完売。以前史談会に行った時に聞いて来た。
何部くらい刷られたんだろうな。
瑞山の漢詩の書見て来たが実際に眺めてみると予想よりは立派な感じに見えた。
今回の展示は寄託なんだな。
展示後は今後も縁者の方が大事に伝えてゆくのだろう。
禁門も結局薩摩の力借りてだから、あの時点で既に幕府じゃ無理と見抜いた武市の彗眼は正しかった
>>416 会津が売りにしている白虎隊の自刃者は19名と伝わっているが
土佐ももっと野根山二十三士をアピールすればいいのにな。
龍馬のイメージで明るく捉えられているが、本来幕末は陰惨な時代である。
また司馬史観の影響で明治が明るく前向きなイメージで語られているムキがあると思うが
実際はそう単純な話でもない。
別に東洋が小物だとは思わないけど
東洋は富国強兵のための藩政改革してた人でしょ?
東洋は勝と思想が同じだと思うし、小攘夷派の狭量武市なんかよりもよっぽど大物なんじゃないかな
>>433 完売か。
良い本みたいだし、もっと多くの人に読んでほしいとも思ってたから残念。
勝は日本海軍建設や雄藩構想や倒幕も容認した国家改造思想の持ち主で
江戸無血開城成した大物
佐幕東洋は勝や武市ほど天下国家の視野ないだろ
あったらそもそも武市にやられてないだろう
武市が朝廷を重んじ雄藩の上洛も決まったから土佐も時期逃すなと言っても、公卿に何が出来る書生に翻弄されておるレベルでまったく時勢眼ない
航海遠略策で天下周旋した長井雅楽の小規模小役人版だろ
長井も時勢眼なく久坂の高論に負けるえいぜい小利口レベルだった
【土佐藩兵の軍服寄託】 高知新聞2011年07月26日
土佐勤王党の幹部だった大石弥太郎の弟で、兄と共に戊辰戦争に従軍した谷作七(さくしち、1831〜93年)が使っていた軍服やライフル、
陣中の日誌など33点がこのほど、作七の子孫から南国市岡豊町の県立歴史民俗資料館に寄託された。
当時の軍服類は珍しく、野本亮学芸員は「記録から作七の具体的な足跡が分かる上、歴史的状況や雰囲気も感じられる」
と史料価値を高く評価している。
にわかに脚光を浴びたせいか史料がよく集まるね。
大石弥太郎の日記類とかはないのだろうか。
あと土佐史談会のHPがいつの間にかリニューアルされとる。
>>437 せめて獄中書簡集だけでも何とか入手したい。
問い合わせが相次げば再版考えてくれないかな…
自費出版だしそういう性質の本じゃないか。
横田氏が出してたのって武市さん関連以外では
寺村左膳日記と那須信吾書簡と樋口眞吉日記&伝記と千屋菊次郎日記であってる?
>>438 別に東洋は単純な佐幕じゃないしwww
勝の開国海軍思想に姉小路が影響されて変節した時、武市は激怒してたんだが?
武市なんて所詮その程度の器の持ち主じゃないか
平井は姉小路に護身用の銃渡して守ろうとしたり、投獄された後も姉小路に手紙書いたりしてたのにね
そんな小攘夷狭量武市より東洋の方が小物とかあり得ないからwww
武市が生きてたら四傑とか言ってるひとも居るが
武市なんてどうせ生きててもあっさり死んでたに決まってる
ここの連中は美化しすぎ
平井間崎中岡が死んだのは残念だが、こいつみたいな小物が死んだところで、少しも残念じゃない
事実上絶版になった故人(横田達雄)の自費出版の著書を再版するためには、
どういう障害があるんだっけ?子孫の許可等も得なきゃならないかな?
横田達雄の著書のうち、自費出版で発表された主な物は
「維新土佐勤王史のウソ・マコト」「武市瑞山獄中書簡」「武市半平太と土佐勤王党」の三冊だったな。
新HPサイトデザインが古臭いなw無駄なアニメーションとか。
多分ご年配の方が作ってるんだろうけど。
東洋達開明派だって所詮断片的に仕入れた外国の知識の受け売りしてるに過ぎない。
南の島を植民地にしよう!みたいなプランなんておよそ現実的じゃないし。
大体土佐の開明派で一番の英才教育を受けた後藤が維新後はパッとしなかったしね。
安政五年、藩重臣勤王家小南五郎右衛門は、江戸藩邸において自ら吉田元吉の抜擢を進言。
小南はこの後、大急ぎで帰国して吉田と面会し、本人を説得して藩参政の地位に就かせた。
吉田と小南の二人は、容堂公を補佐する為、相互協力の下、様々な藩政改革に着手した。
その功により小南は、容堂公より、裏地に尽忠報国と刺繍された豪華な羽織を下賜される。
だが吉田は、参政に就任して容堂公の信任を得た途端、小南の手柄を横取りするかのように、
急激に藩庁内で独善的な態度を取り始め、安政の大獄に連座して謹慎中の前藩主山内容堂公
の謹慎解除を実行する際、幕府からの追及を交わすという名目で、事前に藩重役達に相談する
ことなく、独断で、何の非も落ち度もない容堂公の側近役として最も信頼されていた恩人の小南の
家禄を強制的に没収し、城下西三十里の地へ追放謹慎処分させ、更に他の仲間の同僚や藩重役
らをも失脚させて行った。
大恩ある小南には恩を仇で返し、他の同僚、家老、江戸在勤藩要職者らを次々に苦境に陥れる
という卑劣な愚挙を犯して土佐藩庁中枢を掌握して藩政の実権を握った吉田は、空いた藩庁要職
の地位に自分の息のかかった子飼いの部下を就かせ、自身の周辺を身内で固めた後に強烈な
独裁を敷き、容堂公の権力を笠に着て、時節を顧みることなく傍若無人に振舞い始めた為、
藩内の家中上士、下士全体から尋常なく嫌われた。
>>442 武市は姉小路の暗殺に関与した可能性があるからな。
>>445 > 南の島を植民地にしよう!みたいなプランなんておよそ現実的じゃないし。
徳川時代後期には対欧米では遅れを取っていたが、
対アジアではその当時も日本が一番の国力。
日本は徳川時代初期に世界で一番銃を輸出していた国。
>>446 それは小南納得の上、容堂に重い処罰が加わらないよう、
土佐藩内で先に処分してしまおうという戦略で行ったこと。
実際、その後も小南と東洋は敵対してないし。
東洋の一番の愚行は旗本を酒の席で殴って謹慎になったこと。
ないわ。武市は、坂本が姉小路に会う前に、薩長和解調停案と藩政改革仰ぐ為、帰国してるだろ。
暗殺なんて、さらにその後の話。
龍馬の神戸海軍塾自体、土佐勤王党が支援してるし。
むしろ、坂本と姉小路が会えたのは勤王党繋がりだろう。
姉小路は勤王党にとって、大事な朝廷工作の存在だから。
護衛したり、護身用銃渡し守ろうとしたり、やられた後も犯人探索してる。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 18:43:57.96 ID:v09LDR2G0
>>450 > むしろ、坂本と姉小路が会えたのは勤王党繋がりだろう。
公知は、攘夷催促で江戸に行った時に勝に江戸湾の案内してもらってるのよ。
国防上の視察で。この時は武市を連れていったんだけどね。
その後、摂海防備巡察になって、上洛した将軍の仏社行幸に付き合った後、
勝に再度、大阪湾の視察を手伝った貰ったわけ。
坂本は勝に付いて行って、公知に会ってる。
そこで武市とは全く逆の攘夷論を公知に話したわけよ。
だから武市は「篭絡された」と言ったわけ。
国事参政で朝議決定に参加できる立場だもの、痛かったわな。
東洋は、小物が無礼したのを斬り殺す奴だからね。
一時脚光浴びた、長井の航海遠略策自体も、所詮は単なる幕府追従救済案に過ぎないし。
久坂は、航海遠略は、松陰の生前案の一つでもあったが、こんなものでないと憤慨し、長井排除と要撃計ってる。
長井も初めは、久坂を書生若造と侮り眼中になかったが、途中から久坂に押され恐れを抱き、長州に返すよう工作してる。
西郷も、長井はとんでもない奸物で暗殺やむなしとし、自藩で長井案に心酔した堀次郎を衆前に呼び出し、堀が今後も長井案に賛同するなら刺せとまで面罵激昂してる。
武市の雄藩上洛すら信じられずに書生論と嫌った、先天的佐幕東洋では。
吉田元吉は、長浜に私塾を開講していた頃、知人や門下生を掴まえては
「学問が有りさえすれば、君主をたぶらかすことぐらい他愛もない」と豪語。
その数年後、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を斬った水戸浪士の行動に対して、
「君臣の道を誤った不忠の逆臣同然の行いである」と自身の言動を忘れて罵り倒す。
やはり、水戸藩の藤田東湖の云うとおり、吉田元吉の性格にはかなり難があると思う。
水戸藩士藤田東湖の東洋評「あの気質では平和には死ねまい」 <<此の予言も見事に的中。
>>451 脱藩してやること無かった龍馬が春嶽に会い、勝の弟子になったのは間崎の紹介がきっかけだし。
そもそも古参の大石円自体勝の弟子。
武市は姉小路と龍馬が会う前に本国に諫止覚悟で帰国してるし、龍馬は勤王党の別働隊に過ぎないでしょ。
海軍強化の必要性は攘夷派も全員認識してるし。
別働隊に過ぎない人間が
なんで武市が嘆く姉小路の篭絡なんかしちゃったの?
別働隊に過ぎないのにw
家茂が大阪から勝手に江戸に帰らないように、
急遽、大阪湾巡察ということにして監視役で大阪に付いて行ったのに、
そこで龍馬の話聞いて開国派w
>>447 やっぱり武市は姉小路殺してたのね
姉小路守ろうとしてた平井がそれを知ったらどう思ったかな?
仲間の信頼裏切ったり、やっぱり武市って最低の屑だね
あそこで死んどいて正解だと思う
平井は可哀想だったけどね
海軍支持とかは勝手に他の党員がやった事で、武市は海軍なんて全く支持してなかったって事だわな
まぁ、小攘夷狭量屑武市には海軍の良さがわからなかったみたいねwww
海軍受け付けない小攘夷しか受け付けないこんな頭の悪い馬鹿は、生きてても党員はいずれみんな見放したわな
化けの皮が完全に剥がれる前に死んで良かったんじゃね?
勤王党でおそらく武市だけだったんじゃね?鎖国攘夷派ってwww
やっぱり武市は過大評価だわな
だって他の党員と違って、大攘夷が全く受け付けないような小物だもの
武市など実際には勤王党内で一番小物。
たとえあそこで死ななくても、河上みたいに斬首されて終わってたんじゃね?
>>450 その後にまた京に戻ってきてじゃん
その時に暗殺を指示したんでしょう
武市のゴキブリっぷりを認めなくないんだろうけど
何で武市と平井が意見違える必要があるんだよこのアンチはw
其の時勝麟太郎、今の勝安房氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、
其時帰って来てから鋭鋒が挫けたと云ふ都合で、轟武兵衛なり、武市半平太などは姉小路様は籠絡されたとか云ひましたが、
其時大なる砲丸を二つ持って帰って、此の丸が割れて飛ぶので、軍艦は斯う云ふもので、丸は斯う云ふものである。
充分に此要害が出来ぬから危ないと云ふ事であります。其れから鋭鋒が鈍った
by東久世通禧『史談会速記録』
姉小路公知って龍馬とも接点あったのか?出典は?
>>456 「やっぱりしてたのね」ってどこから来てるんだよw
>>460 有るじゃん
武市は海軍否定派。平井は海軍容認派
姉小路の変節に怒った武市が姉小路を暗殺しようとしたのとは逆に平井はその姉小路を守ろうとしていた
武市にうんざりしてるだろ普通
勤王党員の檜垣清治って、白札〜上士身分?
捕縛後、上士身分に上がっていた武市と同じ南会所に来たみたいだけど。
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 20:35:17.75 ID:yL0B9/u00
>>460 出典はすぐには出ないけど、
坂本が蒸気機関の模型、日本語訳兵書を姉小路に寄贈したことになってるよ。
一緒に船に乗ったことくらいどんな本にも書いてあるでしょ。
勝は大阪湾の防御には、何をすべきか、どのくらい時間と費用がかかるかを説明している。
当時朝廷は大阪湾から南蛮が上陸して京都に来るのを恐れていたから。
鋭鋒が鈍ったどころか、二週間後には幕府に製鉄所と軍艦を作れと命じてる。
小攘夷派としては、鋭鋒が鈍ったことになるのかもしれないが。
何でいちいち荒らしに構うんだよ。
>>462 武市が怒ったって話の出典は?
姉小路が貴重な協力者なのは変わらない。
尊攘派グループに属する武市と平井共に姉小路の身辺が危くなったのを危惧して警戒を促していたんじゃないか。
大体武市は一貫して不要な暗殺を制止してきただろう。
>>463 文久二年の国事周旋に江戸に付いて行って、
そこで事件起こしてずっと投獄されていたからそれはないんじゃ?
武市が上士格留守居組へ昇進したのは、江戸から帰った12月でしょ。
>>466 > 姉小路が貴重な協力者なのは変わらない。
いやー、姉小路は将軍監視役だったのに、
幕臣と行動を共にしている間にすっかり開国派になってる。
老中小笠原長行と幕府挙兵上洛の計画を立てていたって噂もある。
もちろん方向としては、公武合体、開国で。
浅野氏祐談で、慶喜も暗に認めてる。
>>466 そんなもん、どんな本にも書いてあるだろう。
姉小路暗殺は武市にとっては必要な暗殺だったんだろう
人斬りとして有名になったため邪魔になった田中新兵衛と岡田以蔵を都合良く両方処分も出来るし
血盟したのが判明してる上士は3名。
宮川 助五郎、一瀬 源兵衛とあと一人は忘れた。
>>464 ソース知らなかったんでね。
思い出したらまた教えて欲しい。
>>459 戻ってないよ。
坂本が姉小路に会う一月前に武市と会って、(つまり籠絡する前)
土佐に戻るのを辞めるよう話してる。
武市はその後土佐から出られなかった。
まあ容堂の信任厚かった攘夷シンパの小南まで解任されてるんだから、
戻るなっていうのも当然なんだけども…
武市が帰国したのは文久3年4月4日。
文久3年4月28日に龍馬が姉小路公知の摂海視察に随従。
文久3年5月20日に姉小路公知が暗殺され、勤王党は犯人の探索に尽力。
>>469 以前も言ったがムック本の孫引きは出典にならないからなw
公武合体派や協力的でない公家をいちいち暗殺してたら岩倉具視の首はとっくに飛んでるわ。
権限のない志士にとって協力してくれる可能性のある公家は一人でも多く必要だったと思われる。
それでも維新後生きてたら、攘夷思想捨てきれなくて斬首の可能性高そうだけどね武市は
あとは神風連の乱辺りのリーダーに担ぎ上げられてたかもな
土佐勤王党員の書簡 (文久三年六月二十六日付)
この間廿三日の夜、中川宮様の内、山田勘ゲ由、伊丹蔵人の両人、
御格懸りヲ以つて御召し捕りニ相成り、東町奉行エ揚屋入り仰せつけられ候。
これは全体、怪しき事どもこれあり、姉殿の一条ニモ何ぶん関係致し居り候との御不審を以つて、右の次第。
しかし、これと申す確証ハ承り申さず候。
土佐勤王党の土方楠左衛門は、姉小路卿暗殺犯の容疑者として青蓮院宮家来の山田勘ゲ由と伊丹蔵人の二人が捕まったのは、
事件後にこの二人が、摂州湊川の大楠公墓所への墓参を口実に、薩州へ逃亡を企てているとの情報を奉行所が探知したから、
と後述している。事件直後、大勢の土佐勤王党員が現場に駆けつけ、即刻、同党員の吉村虎太郎らが犯人の後を追跡したが、
何一つ成果を得ることなく、途中で断念して引き返してきた。結局、真相は何も分からず、そのまま事件は迷宮入りした。
宮川助五郎と一瀬源兵衛と田所壮輔のはず
檜垣は「拷問で恥ずかしながら気絶してしまった」と書いてるから下士だろうけど
山田町ではなく南会所にいたっけ?
吉村虎太郎も姉小路暗殺の犯人を捜すため乞食に変装してる。
それより田野町の二十三士温泉って…いや別にいいけどw
維新後の旧勤王党の思想は神風連じゃなくて前原・西郷寄り
西郷に呼応するため一時対立していて立志社と結ぶも立志社の獄、佐々木高行の
工作による内部分裂で失敗におわった
じゃあ武市が生きてたら、第二の西南戦争が土佐で起こってた可能性も有った訳だな
明治政府自体攘夷が目的だろ。
そもそも神風連が立ち上がったのは廃刀令でだし。
神風連の思想だと刀は絶対神聖なる者だから、帯刀禁止なら反乱して死ぬしかなかたった分けで。
その神風連さえ、洋学に通じてる連中居るし。
謎なのが、武市自身はバリバリの攘夷なのに、勤王党には間崎、大石といった開明的思想の者が居たことだな
そもそもなんで間崎は東洋門下なのに勤王党に入ったんだ?
新おこぜ組に入れてもらえなかったからか?
>>475 迷宮入りしてないって。
田中は首実験で暗殺犯確定してるって。
他の二人がよく分からないだけで。
>>480 別にそれほど対立する考え方じゃないでしょ?
勤王党と新おこぜ組は。
武市さんが藩校や貿易に前向きじゃなくて、
そんな金あったら上洛の金にしろと東洋に迫っていたくらいで。
>>481 自分が武市嫌いなのはそういう所なんだよな
薩長に負けたくなくて、焦って東洋殺しちゃったというただの負けず嫌いな人に思える所
そもそもなんでそんな開明的思想もない小攘夷な上に藩政改革に興味無い武市が勤王党の盟主なのかが謎
大石が盟主やれば良かったのに
明治維新の目的自体が攘夷。
具体的には天皇一元化の中央集権体制と破約攘夷。
だから国内で廃藩置県やったり、外交で不平等条約改正に発足早々から乗り出してる。
そもそも初期攘夷論者の松陰自体、鎖国論は一時凌ぎにしかなら無い大策が必要と言ってるだろ。
攘夷=鎖国としてる人間のが、当時の攘夷論者よりも無知。
開国鎖国は単なる攘夷の手段に過ぎない。
中岡が、わざわざ時勢論で攘夷論や討幕攘夷の説など書いてるだろう。
>>482 平井収二郎を諦めたこのアンチは
大石弥太郎について何か調べた事があるのだろうかw
勤王党の結盟文ってそもそも大石が考えたもんだろ?武市はただなにも考えずに清書しただけwww
実質上の盟主って大石じゃないの
武市が何故かでしゃばって一番最初に名前載せてたけどww
>>483 じゃあ何故勝の開国論に姉小路が傾いた時に武市はキレたのかな?www
勝が幕臣だったから?
>>483 > そもそも初期攘夷論者の松陰自体、
> 鎖国論は一時凌ぎにしかなら無い大策が必要と言ってるだろ。
松陰はどっちかというと大攘夷だし、
一時しのぎにしからなくても、日本を窮地に追い込むだけの小攘夷よりはいいだろ。
実際、小攘夷派が粛清されてから、
小御所会議は開国路線の大攘夷になったんだし。
もし武市半平太と中岡慎太郎が生きていれば・・・
時勢の推移に対応するため、情勢探索方として土佐勤王党が出していた密偵役の中岡が、
武市や勤王党幹部と会い、「窃に示知己論」で土藩と党員の行くべき道を説き、皆を納得させる。
又、武市は維新後、明治帝の御意志であるとか言って、無理やり宮内大臣辺りの座に縛り付けられる。
その後、慎重派の武市は、西郷らの挙兵を止め、士族有志を宥めるために各地を遊説してまわるだろう。
松蔭は公武開国小攘夷から、勤王攘夷の大攘夷倒幕論にかわったんだよ。
「鎖国の説は、一時は無事に候えども、宴安姑息の徒の喜ぶ所にして、始終遠大の御大計に御座なく候」
「万国航海仕り、智見を開き、富国強兵の大策相立ち候様仕り度き事に御座候」
と初め公武開国を唱えてる。
その後に天子中心の急進攘夷草莽崛起論に達する。
「徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらること、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。
幸に上に明天子あり、叡慮を悩されたれども、陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず
「列藩の諸侯に至ては将軍の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。将軍外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。」
「那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」
「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。」
最終的に日本を救うのは、勤王倒幕攘夷意外なしと達する。
>>488 勤王党は武市だけ殺せば良かったと思うけどね
武市以外は大攘夷許容してたっぽいから
松陰はずっと開国派だろ。
松陰が、公武開国攘夷だったのは和親条約時点までだろ。
高杉も今は力を整えて将来の攘夷を計るべし、久坂も国内で空論を述べても仕方ないと海外に渡ろうとしてる。
日米修好通商条約で急進論になる。
松陰
「幕府に結局人物はいない。小さい事は分かっているようだが世界の動きを見通して大略をたてられるような人物はいない。
外国との交渉は、向こうの云うなりになって、次々と制せられている。黒船以来数年にもなるのに、航海の策一つない。」
「将軍は天下の賊、今討たずんば、後世の人たちはなんといおう」
「日本の状況は古今の歴史にもないほどに悪い。アメリカが幕府の自由を抑え、幕府は天朝と諸侯の自由を抑え、諸侯は、国中の志士の自由を抑えてしまっている。
その為、心ならずも天朝に不忠をしている。それというのも、人物が及ばなければどうにも成らない。
このままでは、乱世も無しに直ちに亡国になるしかない。今大切なのは日本を乱世にすることである。乱世に成れば何とか打つ手
も出てくる。だめになったわが藩を、外から蹶起して変革する方法もある」
龍馬もコロコロ転向するから何考えてるか分りにくいところがあるよね。
>>476 乞食に変装w
吉村そんな事してたんか。それ何に書いてあったの?
二十三士温泉は処刑された最年少の子がイメージキャラクターになってるそうな…
いいのかな娯楽施設をそんな重い話にちなんでw
こっちもいわゆる諌死だよなぁ…。
高知も23士を全くアピールしていない訳じゃない。
御免-奈半利線の田野駅のイメージキャラクターである田野いしん君は、
23士をモデルとして誕生したキャラクターらしいし。
ただ俺は田野いしん君のモデルを長い間、中岡慎太郎だと思い込んでいたが。
>>496 初公開資料は戊辰戦争時の遺品になりそうな予感。
23士だっていてもたってもいられなかったんだろうけど
自分の為に集団で自殺行為されて喜ぶ人なんていないっしょ。
ましてやその行為で事態が好転する見込みはまるでなく状況は厳しくなるばかり。
大石弥太郎は「武市さんを牢から無理やり出しても逃げない」って反対したようだが。
>>481 >迷宮入りしてないって。
>田中は首実験で暗殺犯確定してるって。
・黒子を着候恠者二三人来リ候を御見留メ被遊
・先ニ賊を追参リ候御供返シ合 直ニ其刀をもき取 賊を追払
姉小路卿暗殺事件は、文久三年五月二十日夜の十一時頃に起きた。
暗闇の中で応戦した姉小路卿御供は、襲撃してきた犯人が覆面をしている事は視認しているが、
賊と斬り合って追い払うのに精一杯で、詳細な犯人の人相、特徴に関しては、何も確認出来ていない。
取調べで田中は、事件への関与を強く否認。確証なき状況で首実験をしても、犯人を確定出来るとは思えない。
・彼ノ奪取候刀之形 薩風ト申事ニ相決候
那須は、事件の数日前、料亭で田中が何者かに奥和泉守忠重薩摩拵佩刀をすり替えられのを知っていたので、
田中は事件に関与していないとの思いで、自信を持って「これは田中新兵衛の差料に違ひない」と証言をした。
証言をした那須らは、当時、薩藩邸に匿われている身で、もし薩藩を不利にするために悪意の証言をすれば、
薩摩藩邸取締役藤井良節と同藩士らの不興を買い、問答無用で追い出されるか、極めて危うい状況に陥るはず。
しかし、現実にはそうならず、那須らは、天誅組挙兵に参加する文久三年八月十四日まで薩摩藩邸に滞在している。
田中の自害は、料亭において不覚にも佩刀をすり替えられ、それが犯行に用いられた事を恥じて切腹したものとみる。
ごめんなはり線の各駅キャラクターって結構投げやりだよなw
二十三士にちなむなら隻眼にするとか…あれは本当に中岡に見えるw
大石弥太郎は戊辰戦争の陣中日記、獄中日記は存在する
二十三士の行動は前々から危険視され実際説得もされたがそれを振り切って蹶起した
抵抗せず投降したのは獄中審問の場で堂々と意見を述べるつもりだったから。
危ぶんだ藩は「審議を待たず東郡中に於いて即やかに首刎ぬべき者なり」と取り調べ
せず全員処刑した。清岡道之助、治之助らの痛憤やる方ない
>>493 > 航海の策一つない。」
開国じゃん。
なんで勤王党は武市が盟主なんだろう
あんな小物よりももっと良い人居ただろうに
大石の人を見る目が悪かったのか、それとも都合良く利用できる存在だと思ったのか
そうでもなければ身分が白札という以外は何もない武市なんて盟主に据えないよね
流離譚の維新後の大石弥太郎達の行動は何が出典になってるのかな。
富永が逃げてきたあたりとか。
安岡家に伝わる話だけが元ネタじゃないと思うけど。
土佐勤王党の土方楠左衛門が、武市半平太と島村衛吉に宛てた手紙 文久三年九月四日付
檄
中興之大業向成之處 奸賊狂妄奉悩 震襟候事不堪憤激 一同西國罷り下 擧義兵候
順逆ハ顕照ニ付 有志之者ハ一旦長州え馳集候様可到 仍テ如件
三條中納言
三條西中納言
東久世少将
壬生修理権太夫
四條侍從
錦小路右馬頭
澤 主水正
國々有志之者え
右檄文四國ニハ宮部鼎蔵持参致 八月廿二日兵庫乗船ヲ以て罷越し 藝州エハ備後ノ浦ヨリ同廿三日ノ夜半比早船ニ而 米藩水野丹後
淵上謙三 清岡半四郎ト自分ト四人 御使被仰付罷越 同廿五日晩景廣嶋着 直様北村又惣 松嶋徳之進 山田養吉三人ニ面會
右三人藝藩有志也 段々致議論 同廿六日寺尾生十郎 永田権助両人 養吉同伴ヲ以て来リ 中納言様より 藝少将様エ之御書簡渡シ
御使之事件相述 同廿七日又々三人来 安藝少将様ヨリ之御返簡致持参 重役共より之御返答申上候ニ付 檄文ハ山田養吉エ為見候事
肥後等エハ丹波出雲守 青木彦兵衛九月一日當地発足ヲ以罷越し 熊本 久留米等エハ條公ヨリ之御書簡も行 石州エヘハ水野丹後
淵上謙三両人行 津和野公エハ御書モ行 米両人ハ廣嶋ヨリ直ニ罷越し候而今日迄モ未だ當所エ不来 七卿様方は去月廿七日三田尻御着
尚以檄文ニ応じ馳集候有志之面々は 御賄ニ相成申候由 既ニ少々允ハ参リ居候者も御座候 小生初御警衛一同勿論御賄ニ而心配少ク
御座候 此段為御心得得貴意置候 百拝
宮部鼎蔵が武市半平太に宛てた手紙 文久三年九月八日付
□相伺候処 愈御勇健被成御起居候由 先以珍重奉欣賀候 迂生五月頃卒度帰国 直ニ上京仕候処 時勢彌以切迫之中 彼是変遷
此条は既ニ達高耳候ト贅言不仕候 然処 先之十八日不慮之大変動発起 誠以言語道断之二第有之候 尤 此条モ疾ク御聴取ト不能
多言候へ共 全以奸賊党与 讒誣之妄言ヲ巧ニシ 奉劫朝廷 忠誠無二之諸公卿ヲ離間之 前ニ姉小路殿ヲ奉暗殺候同輸ニ而
今度三條殿ヲ奉初 正議之御方々ヲ惨毒之所行ニ及ビ 遂ニ挾朝廷 会諸侯ト欲する逆謀顕著明白御座候処 天日いまた地ニ墜終す
於三條殿極密々ニ叡慮御奉承之義有之 断然御奮勵 從西国忠義純正之御義挙御心算御決定ニ有之 曲直順逆ハ明瞭之義ニ付
顕密は機宜ニ応 南海 西海 山陽 山陰有志之列藩 御赴告ニ相成 且又 草莽賁志者へハ飛檄ヲ以召募ニ相成候間 忠誠同志之向々
上下一致弥以合体同挙いたし候者必然ニ有之 依而今般 三條殿奉初 三條西殿 東久世殿 壬生殿 四条殿 錦小路殿 澤主水正殿
御一同長州へ下向ニ相成候事ニ御座候 誠ニ 行幸之御義御決定 大業向成之処 奸賊狂妄
天機ヲ破のミならす悪逆無道の挙動 切歯憤懣之極 実以皇國之大頽運今日ニ候間 早戡定不相成候而は天下之蒼生無所措手足
誠ニ〃〃志士殺身之秋不出数旬ト相考申候
大兄於此際定而御卓見有之御焦心之義ト 実ニ旦夕不堪懸想ニ 迂生此節兵庫港より三條殿御使命ヲ蒙リ 徳嶌城罷越 執政当路之
人物ト反覆辨論 頗得要領候間 直ニ尊藩へ罷出 大兄御熟談仕度奉存候へ共 御関門大厳ニ付 不得已関所ニおゐて 大石利左衛門君
御面会申入置候 左候へハ 巨細は大石君へ可申述置 希クハ直々御聴取取被下度 結要之処ハ 大兄初御同志御一同中国筋へ出張被下
御熟算承度一条ニ御座候 最早此時ニ方テ天下之賊焔踏消不申而は果敢〃〃布参不申ト相心得候事ニ御座候 何卒早々戎裝相見 軍機
相謀度心願ニ御座候
逆旅中不能多毫 要用草略仕候 御一覧後丙丁希上 早々御報所希候 恐惶謹言 九月八日卯上刻 宮部鼎蔵増美
土方楠左衛門 『回天實記』 九月二十日
本藩中岡慎太郎昨夜到着の由、藩情報知の為めなり。今朝来訪す。
承候へば国元にて近頃俗論沸騰候て、有志の徒往々罪を獲候者これあり。流涕大息の外これなく候。
中岡慎太郎が、獄中の武市半平太に宛てた手紙 文久三年十一月六日付
寒気ニ御座候處先以過日以来ハ獄中ニ御困之趣 実ニ慨歎ニ不絶候 然ニ私義去月十四日帰着仕
宿毛口え参リ先生初四五輩之斯相成候義承 実ニ愁歎ニ餘候 夫より段々薩之情実得御意度存居候得共更ニ便無御座居候処
折柄 權吉 先生之番ニ行由承 幸之事ニ付一寸御見舞申上度 帰郷以来 同志之者と論紛々ニ而 更ニ定不申 愚昧浅識之者
実ニ案付不申 忙然と罷在申候 京師之模様も兼々切迫之由 千屋金策より罷帰候段 臣子言ヘからす事も有之様子ニ而
誠ニ仰天之至ニ御座候 乍併 臣子之分として 何ぼ悪逆不道之者といへとも \毒を奉差上なと申事ハあまり之事と存候へ共
奸物之所為ニ付 何やら分り不申 此上ハ幾重も探策之上 同者と議論を定へくと奉存候 尚 委細は權吉出勤ニ付
折を以御対談可被成候 先達 薩へ罷越候処 薩之情実更ニ分リ不申候 彼より御馳走之役人新納十郎と申参リ候処
長州より御使者到来之節 御国之御扱ニ相成候様之致方と同し事ニ而 更ニ訳分リ不申 夫より段々諸士を尋候処
或ハ旅行 或ハ病死抔申 一向逢事不能 不得止罷帰申候 兼而先生より尋呉候様御申被成候樺山三円義ハ此度還俗仕
樺山清吉郎と名乗 小目付ニ抜擢せられ上京と申事ニ候 夫ニ彼之大島党ハ皆 先達 攘夷之後 幽閉御免ニ相成候へ共
未 役義杯ハ不仕由 其餘之事ハ更ニ分リ不申 実ニ残念至極ニ御座候 帰リ懸 肥後之模様奉リ候処 肥後も墨之助
龍之助公子上京 此度ハ公武御合躰之処周旋之由 右藩 去暮より今春迄ハ我党頗志を得候処 京都大変より元之如ニ相成
是迄相唱候勤王之者ハ大体幽閉せられ候様之模様ニ而 大ニ嫌忌御座候由 実ニ御国と大同御座候 尚御推量被仰付度
今日は權吉出勤之様子奉候間 あらかしめ得貴意候 次第ニ寒気弥増ニ相成候間 御自愛千萬ニ御座候 先ハ右計迄 早々 恐惶謹言
十一月六日 北諸生 先生膝下
※權吉=依岡珍麿 帯屋町南会所牢番(土佐勤王党員)
>>506 この書状は本当に中岡の書状なん?
確か松岡司は中岡慎太郎伝で
「武市半平太伝を書いた時はこの書状を中岡の書状だと思ったが、やっぱり怪しいかも」
みたいな事を書いてたような記憶が…
土佐勤王党血盟同志 中岡慎太郎書翰 (元治元年十月十日付)
京師変動以来、長州も朝敵の名を蒙り、逆臣益々跋扈、実に天下の大事去り申候。
尋いで長州馬関戦争も一時の権動とは申ながら、外敵を受る場合に付、暫時媾和相成り残念至極に存じ奉り候。
されども節は屈し申さず、色々に言ふべからず心痛の次第也。
然し償金は出し申さず、幕府より一万二千金相渡し候事実正也と云ふ。
今又夷賊横浜において恐多くも勅許開港を請ひ居候由、実に寒心すべき事也。
又今冬来春の中摂海へ来寇するの説あり、是に於て天下大事の去就相定り申すべく、実に天下ムチャクチャに相成り申し候。
去月讃州路より浪華に登り、瑞山及廿三士厳刑を蒙り候由風聞承り、実に以て言語に絶し、悲憤極まり申し候。
右に就き断然帰国、刑に就き候論もなきにあらず、されども夫には又勢決し難き事もこれあり、先ず相止り居申し候。
天下の勢かく相成り候ては、各国俗論と相成り致し方もこれなく、何卒同志中此の上は脱走これなき様、精々御慎制願上奉り候
僕等今日迄生残り申候事旦前後失策のみに相成り候事ども、諸君に何の面目あらん。 痛哭嘆息、御憐察下さるべく候。
田所左右輔氏九月廿九日割腹せり。 是又真に嘆息す。 故に遺物を送る。 別書に及ばず。
申上げ度き事山々候へども、誠に御国事風聞に承はり候ては言ふべからざる御苦心のみならず、御同志中如何の御事に
これあるべくと、日夜通念に堪えず、取急ぎ候故多言せず。 謹言
申上る事の眼目
一、 天下挽回再挙なきにあらず、然りながら今暫く時を見るべし。
依て沸騰及び脱藩は甚だ無益也。涙をかゝへて沈黙すべし。 外に策なし。
一、 勅許開港の事及び摂州来寇の事、君公に奏して御思召を伺ふて可なるべし。
御返事伺度事左に記す
一、 御国論如何の事。
一、 天眼組議論の事振ふや否や。
一、 同志中刑罪禁獄慎等の事、別に夫々東群大変の人名の事。
附、留守彼是類族まで禁獄慎等はこれなきか、委細共に一家の存亡まで承り度き事。
附、同志中刑に就き候月日、上書の由。
僕等より
中平保太郎様
上田楠次様
門田為之助様
大石弥太郎様
河原塚茂太郎様
其外様
別書仕候。若し御手前にて委細の事相分らず候はゞ、御苦労ながら御出府成し下され、急々御返事仰付られたく、
若し又此人とふ留六つかしき都合も御座候はゞ、其御考彼れ是れ都合悪しからざる様願上げ奉り候。
十日 清之助
保太郎様
菊馬様
対面以前の瑞山評価
清之助→武市は一剣客、何をか知らんや
対面後評価一変し、釈放求め死ぬほどだから瑞山はどう見ても西郷クラスだったろう
久坂も武市に対面し西郷より上とまで惚れこんだ
そもそも武市とよく比べられる西郷が人望買いの小物だしww
まぁ、女関係は島の女に手を出して子供まで産ませておきながら、手紙すら出さなかった西郷に比べたら
子供は居なくても嫁一筋だった武市の方が良いとは思うけど
ただ、それだけ
勝海舟の神戸海軍操練所って尊皇攘夷派が幕府叩いてるのに便乗して設立したんだよな。
んで尊攘派の失墜と共に勝も幕府の保守派に睨まれ失墜と。
尊攘派については勝はどう思っていたのかね?
あーくそ。白文じゃ書簡読めねえ・・・orz
>>512 篭絡された姉小路の進言。
摂海巡視で勝に言われて、上に進言し、
それが幕府に対する海防に関する朝旨三か条になった。
朝廷が軍艦作れって言ってんだから、
当然操縦する人もいる。出来たのは朝旨の一年後。
そもそも摂海巡視も家茂が言い始めたこと。
姉小路は攘夷を約束せずに江戸に船で帰るつもりかと監視に付けられた。
朝旨直後の勝の日記より
> 海軍ならびに器械製作の議、他年邦家の為に努力を尽せしに、一朝姉小路殿
> に説解せしに、公、英明之見を以て、終に奏聞を経られしによりけむ、今日
> 此御沙汰を拝聴す。我が微衷、天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす。
>>515 家茂が摂海巡視を言い出した張本人だってのと、
平井や長州が家茂暗殺を企んだ事に何か繋がりが有るのか気になる
平井はなんで長州といっしょに家茂暗殺計画なんか企んだの?
瑞山は言ってる事は正しいんだよな。
あくまで武士の本分を実践しろという
当時の儒教的価値観に基づいた主張を繰り返し、行動していただけであって。
それは理想論ではあるんだが、その理想が新時代の側面を支えた。
つまり武市は、理想に行動が追い付かずに死んだアホだと言うことだな
理想を実現するためには正論を述べているだけでは駄目な時もあるわけでwww
そんなアホに付き合わされた党員は可哀想だったね
>>517 その辺に関しては武市先生が一番の実践者だったことがあれほど心酔された一因だと思うね。
現代人には理解し辛いが、旧時代の価値観の結晶のような人だった。
幕臣研究家の松浦玲は勝を反幕の幕臣とし
「勝は家茂を脅迫する形で神戸海軍操練所を作る許可をもぎ取った」とまで言っているけれども、
勝海舟もある意味で独特の立ち位置だよな。
要するに幕政改革の為に反幕勢力を必要としていた部分があるってわけか?
尊攘派の志士まで塾生に抱え込んでたのはどういう意図があったのか。
そういえば武市と勝が密談していたかもしれないという話が中浜万次郎の家に伝わってるそうだね、
信用できる類の話じゃないがw
>>498 首実験したのは会津藩庁記録だかに書いてあるでしょ。
> 取調べで田中は、事件への関与を強く否認。
否認してないって。
取り調べ始まる前に自決したんだから。
> 料亭で田中が何者かに奥和泉守忠重薩摩拵佩刀をすり替えられのを知っていたので
知るわけない。
田中は刀をすり替えられたと誰にも話してない。
見たものもいない。
会津藩ねぇ…
そういえば足利三代木像梟首事件は会津藩士の大庭恭平が内部工作してたんだっけ。
吉村虎太郎達が姉小路卿暗殺犯探しを熱心にやってた話は何に書いてあるの?
>>520 中浜家の家伝だね。「私のジョン万次郎」に書いてあった。
万次郎が行きつけだった店にその孫が訪ねて行ったら
奥から挨拶に出てきたお婆さんに「勝様、武市様にもお世話になりました」って言われたって話。
>>519 そんな古い価値観の人は、新しい世の中にはついていけなかったろうな
あそこで死んどいて正解
生きててもどうせどこかで絶対に死んでただろうし
容堂は結局間違ってなかったんだから、後悔する必要なんてなかったんじゃね?
>>522 大庭恭平がスパイで事件を通報したってのは小説の創作じゃないの?
戊辰戦争から新政府軍に加わってるくらいだから、
本当に尊攘派だったのでは?
>>522 大庭は、土佐勤王党の周囲も出没してたね
隈山春秋に大庭の名前出てきてて、平井も結構大庭と会ってるみたいだった。
平井→大庭経由で会津に情報が流れた可能性は無いのかな
>>521 > 首実験したのは会津藩庁記録だかに書いてあるでしょ。
誰一人賊の顔を見ていないのに、犯人を特定できるはずがない。
> 否認してないって。
> 取り調べ始まる前に自決したんだから。
捕縛時から取り調べに至る過程で、一度だけ強く否認している。
>>527の
>乾退助(板垣退助)、小笠原唯八たちの上士は、容堂の命をうけて勤王党に対抗する上士の反動団体を組織した。
で思い出した。
「土佐勤王党考察」 で筆者の松田智幸が妙な事を言ってるんだ。
間崎滄浪の手紙で「後藤達が偽党を作っている」という表現が出てきて
これが第二の勤王党だとか何とか珍妙な事を書いてたんだが
間崎の指す「偽党」って上に出た上士達の集団を差してるって解釈でいいのかね?
あと板垣退助は上士50人位のグループを作ってたと思うけどこれも同じ集団?
メンバーから見ても新おこぜ組が再結集しただけでしょ。
>>528 竹内綱って吉田茂の実父だよね。
八月十八日の政変の直前に独自に開国に傾いてるんだな。
>松田智幸
この困ったちゃん一部で軽く物議を醸してたような。
他の研究者を批判する事に定評のある松浦玲氏にもオイオイ何言ってるのこの人みたいなコメントされてたなw
自費で購入した史料とやらは全て活字化して衆目に広く晒し批評を待つべき。
「岩井孫六日記」は確かに興味深い史料だけどさあ…。
>>527 これ読む限りだと、やっぱり馬鹿なんだな武市ってwww
こんなアホはさっさと殺しといて正解だったわね
こんなアホになんで勤王党員も付いていったのか…
でも、後藤の植民地計画も現実的な計画とは到底思えないけどね…
武市みたいな馬鹿を盟主にするより、大石が自ら盟主になった方が良かったとしか思えないが、ここのスレ住人的にはどうなの?
日本にない物資の輸入どうするの?って聞かれて答えに困るとか武市馬鹿だろwww
佐幕に対する反発で何の策もなく攘夷唱えてるだけのアホにしか思えないんだけどwwww
こんな馬鹿が盟主って時点で、勤王党終わってたと思う
党員達は優秀でも、肝心な盟主が武市のごとき無能だった事が勤王党最大の悲劇と言っても良いだろう
そして最後はあの小物前回の漢詩とかwww
武市の屑野郎っぷりが良くわかりますな
全部自分の自業自得なのに逆恨みしててウザい
さて、武市ヲタはどう反論してくれるのかな?www武市の小物っぷりが明らか過ぎて反論も出来なくなったのかな?www
即今攘夷派はこんなもんでしょ。
時代の熱狂ってやつで。
時代を引っ張ったのは倒幕開国派だよ。
>>536 だよね
やっぱり武市はただの小物だったって事だね
なんでこんな奴が尊敬されてたのかわからない
ただの馬鹿なのに
無能ゴミクズ武市ヲタは完全にこのスレから消えたみたいだね
良かったww良かったww
こんな無能をマンセーするような馬鹿はこのスレには不要な存在だからな
いっそ武市の名前もこのままスレタイから削除すれば良いと思う
こんな土佐の恥さらしの名前をスレタイにしてたら、ゴミクズ武市以外のヲタも馬鹿扱いされそうだから迷惑
横田達雄が入交の武市本をメッタ斬りにしてる本があるようだが、
ここの住人的にも入交の武市本は残念な評価?
横田達雄は武市を過大評価し過ぎ
武市なんか全然たいした奴じゃないのに
入交くらいが妥当でしょ
入交本あの安さもあっていいと思うけどな
入交批判もあるけど大体通説の間違いや言葉遣い、細かい時系列違いの指摘
いくらなんでも滅多斬りしすぎw初めて読んだ人はあの口調にヒいてしまうんじゃないか
入手困難な「維新土佐勤王史のウソマコト」の一部が入ってるのは嬉しい
>>527 明治期に入って民権派が創作した捏造ネタ
それなりに工夫をしているが 細部の詰めが甘い
>>527 >文久3年(1863)5月26日に側用役岩村通俊と共に宿毛を出発したのである。
>次で武市半平太を訪うた。武市は勤王党の首領で、久坂玄瑞、三条実美などと攘夷討幕の計画をなし、
>【高知に帰って容堂公に建議をした当時のことであるので】
武市が意見具申(太守様及御隠居様への建言)をしたのはこの後の事で、時期が合わない。
民権派って武市sageなんだね
そこだけを取り上げて捏造ネタだというのはどうかとも思う。
横田氏は武市瑞山がお好きで熱心に研究してたけど過大評価はしとらんよ。
先入観を否定し過剰な美化や事実と異なる中傷を除いた実像を追求してただけ。
読んでもいない本に知ったようなコメントしないように。
明治維新の王政復古路線を支えた国学的な価値観・勤王運動は忘れられがちだけど
大石弥太郎のその後の古風な暮らしぶりをみるに彼らは多分古い日本のままでいて欲しかったのだと思う。
これはナショナリズムの問題なんだね。
小攘夷武市の無知無能っぷりを認めたくなくて、都合の悪い部分は全部民権派の捏造とのたまう武市ヲタは勤王党ヲタの恥さらし
流石は土佐の恥さらしがお好きだという方は違うわね〜
勤王党オタを自称する割には維新後大石弥太郎たち古勤王党が何してたか知らないという。
古勤王党は急速な欧化は日本の国体を失うといって反対し一般的には保守派に分類されるのだが、
大石弥太郎の幕末の行動を見ると決して過激は固陋攘夷家というわけではないんだよな。
率先して外国の兵学を取り入れてる。
鹿持雅澄の門下だった影響が強かったのか。
宿毛は土佐西端で九州を向いている港のある町。
元々西瀬戸内海や南九州との交易で栄えた町だから、
貿易を重視するのは理解できるね。
明治になってから堺で貿易を営んだけど、土佐藩に辞めさせられてる。
岩崎とバッティングするからだろうか?
>>546 ここでは敵と看做されている容堂も生涯洋装してないようだしね。
武市も生きていたら髷、和服のままだったろう。
>>549 武市や東洋だって門下生なんだからパーソナリティの問題かと。
>>550 それは意外だな
容堂って佐幕開国だったんじゃないの?
外国の文化を受け入れられるタイプだと思ってたのに
結局アンチは横田達雄の本通読した事あるの?
近代化と王政復古運動はどちらも欠かせない明治維新の裏表。
江戸時代を通じて育まれた諸要素が幕末には凝縮されていた。
大石が富永と占いを交えて時勢を考えてたあたりはやはり中世の人だなあと感じる。
富永が持ち寄った情報も踏まえてるんだろうけどね。
当時の土佐藩士は西洋砲術の訓練に参加し洋学にもある程度触れ西洋に関して全くの無知ではなかった。
その結果どういう行動を選ぶかは人それぞれ。
>>536 維新の起爆剤は尊皇攘夷思想だろうがw
理想を現実が補強したともいえる
論破された岡田以蔵オタがネチネチ煩いな
堕落したゴミクズのオタがw
武市アンチは全て以蔵ヲタだと決めつけるのはやめた方が良いのでは?
坂本龍馬自体も勤王攘夷論者なのにかなり捻じ曲げられてるからね。
創作物による刷り込みによって、勝海舟と出会い開国派に転向したとされてるが、まったく間違い。
海舟の下で働いていた時でさえ、坂本の考えは長州の尊攘過激派と同じ破約攘夷論でした。
越前で村田巳三郎と激論をかわした記録があるし。
長州の攘夷戦も、売国幕府の奴らを打ち殺すと怒ってるからね。
坂本龍馬の尊王攘夷思想は、当時の活動家の常識を超えてなく。ぶっちゃけありきたりで、先進的思想の持ち主だったといえない。
>>494 平尾道雄「天誅組烈士 吉村虎太郎」
飯沼某の手記に
「朔平門の変ありしより如何にもして賊の手がかりを取んと、身には繿縷(ぼろ)を纏ひ、
手にはかげた椀を下げ、乞食の体になり凡三昼夜に及びたれど其甲斐なかりける」がソース
しかもそのせいで体調を崩したとある。
天誅組や大和義挙の本は大量にあるし地元でも顕彰されてるのに、吉村虎太郎の個人伝記はこれくらいしかないようだ。
土佐四天王だからもっとあるかと思ったが…
>>557 創作物の刷り込みって怖いよね
世間の以蔵イメージなんて、9割が創作から派生した嘘で固められた虚像だもんな
武市の悪いイメージも創作から刷り込みだらけだし
>>556 ずっと前から特徴的な連投してるキモイのは元々以蔵オタの腐女子だけどね。
よりによって岡田に尽くされました〜なんて史実と真逆の気分悪いイメージ持たれて武市さんが可哀想。
他に同志も門弟もいっぱいおったやんけ!
武市さんは身内を死地に追いやった以蔵をあんなに憎んでいたってのに全く…。
時に流離譚の出典だけど安岡氏は作家であって研究者じゃないから一次史料はあんまり詳しくないと思うのね。
平尾氏とか寺石氏とか有名どころの本を参考にしたんじゃないかな。
武市が長州の外国公使刺殺計画を
容堂から定広に伝えることで断念させてるし、
土佐と長州は結構考え方違うよ。
イギリス公使館焼き討ちも直前まで
江戸に勤王党の人間がたくさんいたのに結局参加してない。
直前に尊攘派の主だった人間の集まりあったのに。
なんか岡田以蔵が好きって言うだけで非人間的なこと言われるスレだなw
以蔵ファンは信頼されていたのに最期はああいう落伍者になってしまった点に惹かれるんじゃないか
史実上の以蔵がどんな非道な奴か言っても意味がないし批判するべきではないと思うが
フィクション信者がひたすらうざいのは同意
安岡章太郎は流離譚を出したあと横田達雄から長文の史実訂正&著書の武市瑞山獄中書簡送り付けられたらしく、
その姿勢に感心したと書いていたような
流離譚のほかにも自分の先祖やルーツに関わる話が多いね
初めて書いた小説が安岡嘉助の東洋暗殺をモデルにしたものだったとか
>>562 狂ったように連投しだす約一名はどう見ても粘着荒らしだろw
アレまで擁護すんのか?
岡田以蔵嫌いだねー
志の無い志士気取りだったって本人の糞くだらん末路が証明してるからなw
盛大に仲間巻き込みやがってあのアホ
横田達雄は良く調べてくれて非常にありがたいんだが
本人も自分の著書が後年の研究の叩き台になる事を期待していたように
土佐勤王党関連の研究はこれでもまだ手付かずの部分が多い
維新土佐勤王史もまだまだ突っ込む所がある
>>561 瑞山は堂々たる攘夷を成すべきという考えだったからなぁ
清国の現状見て来た高杉が、日本の現状にかなり危機感を抱いて以後超攘夷に走る
清にも林則徐という攘夷志士がいて、このままでは阿片通商で銀を失い、武器も用いられずわが国は植民地化されると断固攘夷策を取った
もっとも戦いを恐れた皇帝政府に穏健派が漬け込み林則徐を遠ざけ軍を武装解除した挙句、香港割譲横暴要求され怒って戦い破れ、以後外交でずるずると犯され100年侵食された
高杉は上海で林則徐に感心示し敬意示してるし、幕府や当時の日本の状況状態は清国と同じと見てる
中岡も林則徐、断然タバコを焼く事を聞けば即是をけなす。そして支那は遂に今日の衰になってしまった。と書いてるね
個人的には、「史実以蔵に惹かれる」と言う人の事をとやかく言うつもりは無い。
史実以蔵を好きな人の言い分を何度か聞いた事があるが、
そういう人達は別に史実以蔵を尊敬してるってわけでは無さそうだし、
完全な第三者目線から史実以蔵の人生にある意味で惹かれる感覚も理解できない事は無い。
岡田は天誅で名が売れる程暴力を好んだ割にいざ自分が拷問される番になると
簡単に昔からの仲間達を売り出すあたりが一番軽蔑される要素だと思う。
腕っぷしだけでちやほやされて借金で女買うのに溺れた挙げ句自慢話して、さぞ楽しかったでしょうよ。
辞世見るに最期まで一応志士のつもりだったらしいけど、その辺の事情知ってると何とも安っぽい言葉だね。嘘だもの。
長州はあとできまり悪くなったのか
攘夷が方便に成りだした時期をサバ読んでる可能性があると指摘されてたな。
時勢によって考えが変わっていくからこの人はこういう思想って言い切るのは難しい。
佐幕開国尊皇攘夷の4つのカテゴリーだけで考えるのもちょっと乱暴だと思うよ。
横田氏の本読んでると松岡氏の武市半平太伝が見劣りするんだよなあ。
去年出た清岡道之助の本を読んだんだが人物伝というより小説なんだなアレ。
しかも入ってる解説がちょこちょこ間違ってる。
大半が土佐藩の情勢の説明に割かれ清岡の出番はあまり無い。
でも横田達雄の本って今では手に入らないじゃない
しかも癖があって読みにくいし
松岡司の方が読みやすいし、手に入りやすいからお薦めしやすい
まぁ、確かにクセのある文体ではある。
昔読んだ歴史雑誌でほぼ全編に渡って幕末土佐を取り上げた物があったが、
坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山、吉村虎太郎、後藤象二郎等々、
幕末土佐の著名人の個別の特集記事もあった。
武市の記事(サブタイは確か「革命家になれなかった土佐勤王党首領」)を書いていたのが横田達雄だったが、
文体が他の記事から浮きまくってたなw
あの文体は浮くだろ…
松岡氏の本はハードカバー4千円から復刊で半額以下になったから手に入りやすくなった
武市なら最初にあれ勧める 入門が横田氏はハードル高い
中岡だったら「維新の周旋家」か「陸援隊始末記」
>>567 あの本なんであんな風にちょくちょく間違ってるんだ?w
兄弟の順番が違う、出身地が違う程度で内容には障らないが気になる
清岡なら「野根山烈士伝」が作者が安芸郡の郷土史家、出版が二十三士顕彰会だけあって
ほかには載ってない地元の伝承、エピソードが多かったが、最初から非売品で入手困難
横田さんの本は資料発掘の部分はいいんだけど、
解釈や感想の部分で武市の贔屓がかなり強く入るから、
長く読まれることはないんじゃないか。
参考文献には挙がるだろうけども。
贔屓はともかく、横田達雄の本を読んで、武市アンチ目的の本を出すようなクズが居るのはいただけない
しかも、横田達雄よりもこのクズの方が広く読まれているようで、巷で広がっている武市の悪いイメージには、このクズも大いに貢献してる気がする
>>566 以蔵の辞世の句の中身がウソとは斬新な解釈だな
まあ見栄というか嘘だわな、尽くした云々に行動が全く伴っていないクズだったんだからw
メイン研究対象には誰でもだいたい贔屓目が入ってるよw
横田氏の本には瑞山への愛が込もっているが書き方がそんなにアンフェアだとは思わん
あの出典の記述をキッチリ記載する方式は他の本にも見習って貰いたい
そういえば龍馬と中岡の記録上の最初の接点ていつになるんだったかな?
元から武市道場で面識はあったと思うが。
>>573 ただ、岡田が土佐勤王党の中で
ずば抜けてクズだったかどうかはちょっとわからん所があるよね。
自白について岡田がまずいのは確定だけど、
京の行動について他の勤王党志士どうだったのか。
あまりに詰まらない天誅が横行してるものね。
>>575 他の勤王党員でもアホなのはいただろうね
武市が居た頃よりも、京から去った後の方が天誅も盛り上がっていたようだし
以蔵以外にも調子に乗って無駄な天誅を繰り返してたクズも沢山いたと思う
ただ、高杉やら勝やら助けてくれる人が居たにも関わらず、遊郭にはまって身を持ち崩したあげくに取っ捕まり、ベラベラ自白して仲間に迷惑かけるまで落ちぶれたのは流石に岡田だけだったと思うが
攘夷資金ってことで、商家に強談して金を借りて、
借り倒すって事件も結構起きてるしね。
武市の関与していた目明し文吉は、
殺すだけじゃなくて、竹を局部に刺して拷問してるよねえ。
あれもどうなのよ。
後、岡田も天誅は初期しかやってない。
これは土佐全般に言えることだけど。
初期は天誅をリードしたけど、
遅くとも文久三年初めには辞めてる。
>>577 文吉も別に武市が残忍な暗殺方法をわざわざ指示したわけじゃないけどね
斬りたい人が多すぎたので、籤引きで選んだあげく、下っぱ連中が殺し方談義で盛り上がった時に、島村衛吉が「こんな犬猫同然の者を斬るなど刀の穢れである、絞殺にするのが宜しい」と言って殺し方が決まったわけだし
そもそも文吉は、安政の大獄のスパイだったから、勤王党のみならず、他の攘夷派からも恨まれていたし、ヤクザみたいな奴だったので、京都の人らから石投げられるくらい嫌われていたみたいだけど
なんか、武市アンチの勤王党ヲタは暗殺を全部武市に押し付けて、武市を残忍な殺人狂いにしたてあげたいみたいだけど、違うから
勤王党ヲタなんて所詮武市アンチしか居ないんだよな
それなら、今すぐ武市の名前をスレタイから抜けよ
武市以外の勤王党だけ語るスレにすれば良い
>>574 記録上なら西郷にドタキャンされ薩長同盟頓挫の時期?
慶応元年閏五月の下関
これ以前に龍馬と中岡が薩長同盟で連携した記録はあったっけ。
そもそも龍馬は早川養敬ら筑前勤王党、土方久元、中岡の活動に飛び入り参加
してきたわけだし。
武市道場で出会ったとすると龍馬21中岡18歳頃か。
武市関連はアンチとヲタナリしか居ないとか酷いスレだよな
はやく武市の名前をスレタイから抜くべき
>>578 絞殺を提案した人間がわかっているだけで、
誰の指示で拷問したのかはわかってない。
武市の提案だったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
ただそれだけ。
即今攘夷こそ勤王攘夷を成す為の大義を打ち立てた大事な基礎。
薩長は即今攘夷、勤皇王政復古、破約攘夷全て実現。
小攘夷派のせいで、土佐は薩長に下らざるえなくなった。
東洋のような開国派なんてどの国にも居た。
一方で挙国攘夷体制構築できない国が植民地化されてる。
瑞山が勤王攘夷の大計を打ち立て日本を救ったのであった。
わかった。やっぱり武市の名前をスレタイから抜くべきだと思うわ
どうせ勤王党ヲタは、武市を勤王党員達に指示して非道な事をやらせた残忍なゴミクズとしか思ってないのわかったし
大好きな勤王党と冷酷非道なゴミクズの名前が一緒にスレタイに有るとか嫌だろ?
なら抜くべき
武市みたいなゴミクズのヲタも、やっぱり冷酷非道なゴミクズなんだろうしね
さっさと追い出すべき。その方がこのスレも平和になるってわかったし
勤王党ヲタには武市アンチしか居ないのも、よーくわかったしね
武市ヲタも武市もこのスレには不要
>>582 拷問指示したのは平井だと思う
こいつは、武市が知らない間に、多田帯刀をあんな酷い殺し方するように指示した人間だし
平井の行動見てれば、武市よりもこいつの方が拷問指示とかやりそうじゃん?
井上佐市郎の暗殺指揮してたのもこいつだし
武市アンチの勤王党ヲタは、平井の悪事を全て武市に押し付けたがるよね
実際には武市よりも他の勤王党員と近い位置に居たのは平井なのにね
天誅にもノリノリで参加してるし
家茂暗殺もたくらんでるから、明らかに暗殺マンセーだろこいつ
>>583 ゴミクズ武市ヲタは洗脳されたみたいに同じことをくり返すよね
さすが幕末の麻原なんかのヲタは違うわwww
武市がゴミクズなのは周知の事実なんだから、武市ヲタは認めるべき
武市はただの極悪テロリスト
そして平井は、極悪テロリスト武市の陰に隠れて「わしは何もしてません武市が全部悪いです」と全部武市のせいにして悪事三昧の腹黒。
武市が極悪テロリストなら、平井は陰の独裁者だ
>>583 薩摩はかなり後になるまで公武合体派だぞ。
王政復古直前まで会桑を排除すれば徳川とは結ぶつもりだったし。
>>586 ただ島田左近(最初の天誅)を拷問した田中新兵衛と
武市が天誅に関与する直前に何度も会ってるんだよな。
武市の日記では。
もちろん平井も、間崎に対する土佐最初の天誅関与は確定しているし、
目明し文吉は殺される数日前にも土佐勤王党の人間に
拉致されて拷問されてる。場所は薩摩藩邸だったから、
平井が関与している可能性は高い。
>>587 ノリノリといえば、武市も自分の関与した天誅の
梟首の見物人が出ているところに見学しに行ってるよ。
日記に何度か出てくる。
だいたいノリノリじゃなければ天誅なんかやらないだろ。
イヤイヤやっていたとでも言うのかよw
>>952 そりゃ当然、武市から指示されてイヤイヤやってる事になってるんだろ?決まってるじゃん
少なくともこのスレの大半の人間的には
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ☆荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
|| ☆放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ☆反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを
|| 与えないで下さい。 ∧∧
|| ☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚Д゚*)
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂ ⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、藍沢先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
ID:uqrRCqnMO
このアンチID変わるまで我慢できずファビョりだしたかw
はいはい辞世の句まで虚栄心とウソまみれの岡田以蔵はゴミクズ確定っと。
他の勤王党員の話したきゃ自分から話題ふればいいだけじゃん。
土佐勤王党は藩から活動資金出てたけどね…そのための他藩応接役だし。
>>577 目明し文吉だけがあそこまで過激な拷問を受けた原因は
文吉が卑しいヤクザ者だからというよりも
尊攘激派の志士達が神聖視する御所の女官を強姦した経歴の為。
志士達が天皇について語ると涙を流し出す人種だという事を念頭に置けば納得いかない?
あとチンコに針突っ込んだのがは生前だろうけどケツから竹竿突っ込んで晒したのは死後ね。
ところで在京日記で谷干城が武市先生の所に来て西国探索の藩命を受けたと知らせに来てるね。
横田氏の注によると探索は名目で、熊本藩主の上京・周旋を求める三条の親書を携えての使命らしいけど
これは谷の方の記録がソースになっているのかな?
西国には樋口真吉も同行したらしい。
党員じゃなくても勤王派上士とは結構協力してたみたいね。
武市に好意的な人間のスレに居着いてアンチは何がしたいのかねえ。
別にお前みたいなキモいのにファンになってもらわんでいいから帰れw
>>580 お富が坂本と中岡に柿を出した話があったから接点は前からあったようだ。
武市の所で勤王党員が宴会やってた時も一緒にいたのかな。
武市に好意的な人が多いスレ?本当にそうなかね
武市を冷酷な殺人鬼にしたい人も居るみたいだけど?
くだらないヲタナリしてないで、はやくスレタイから武市の名前を抜けばいい
お前らもいい加減学習しろ。
粘着荒らし(自演もしてるみたいだね)にまともに取り合ったって無駄、
荒らしの相手をする行為も荒らしだと言う事を。
基地外は孤独に暴れさせておけば良いんだよw
武市に好意的に振る舞ってる痛いヲタナリだらけのくせに、よくもまぁ、武市に好意的とか言えるもんだな
笑える
逆に以蔵オタで土佐勤王党オタな人は(本当にそんな人いるのか知らんが)
岡田のせいで他の勤王党員が死んだ事をどう考えているんだろう?まあ多分興味ないんだろうけど。
アンチも他の党員の話がしたけりゃ島村衛吉の話題でも出したらどうだ。
菊地明の以蔵本読んだ限りでは
「以蔵は悪くないんですぅ〜以蔵の弟もきっと勤王党員から村八分に
されて苦労したでしょうね〜それでも兄弟愛を貫いたんでしょうね可哀想に…」
と身を持ち崩したり自白で仲間を巻き込んだりという都合の悪い部分は書かずに
根拠のない菊地の脳内ストーリーで勝手にオチつけてたがw
これだから岡田と以蔵オタは嫌いなんだよなあ。
武市&土佐勤王党の面々が好きな身としては腹立つ。
創作で哀愁漂うイメージ持たれてるんだろうが単に仲間を無駄に苦しめただけの人間だっつの。
けど岡田は武市の関与は吐いてないでしょ。
あのへんのさじ加減がよくわからん。
いずれにせよ、毒殺されそうになったから怒って吐いたというのは、
武市のことを吐いてないから、状況的にも非常に苦しい話。
柿の話って坂本と中岡と吉村が3人で揃ってるときの話ではないよね
頻繁に武市家に出入りしてるから接点はあっただろうけど
四天王の個性が一番現れてるエピソードで好きだな
>>602 武市は出てこないエピソードだから、正確には四天王じゃなくて三傑だけどね
>>600 以蔵ヲタで間崎ヲタという人を見たことあるが、勤王党員は武市のせいで死んだんだ、なんでこんなやつが顕彰されてるの?わからない。
武市の墓に行ったけど手なんて合わせてやらなかったとか、武市の事批判しまくりだった
以蔵&勤王党ファンで武市アンチって結構見かけるよ
好みなんて人それぞれ1つみただけで全員そうだと決めつけるやつが馬鹿
ところで昨年の11月に放送されたヒストリアの龍馬と中岡の回、
柿をふるまわれたときの中岡の反応が「いだだきますと言って行儀よく食べた」となっていた。
中岡は「かたじけのうござる」と返事して絶対に手を付けないんじゃなかったかと気になった。
あのエピソード、中岡がいただきますと食べるパターンもあったのか?
ヒストリアは何を参考にしたんだろう。
>>604 以蔵の小説書きたいとか言ってる腐女子サイトの事か?w
以蔵オタは本当に都合の悪い事は目に入らないよな、お前含めてw
要望通り他の勤王党員の話もしようか。
以蔵のせいで死んだ島村衛吉達についてはどう思う?
>>606 何お前、腐女子のストーカーなの?キモい
>>607 図星だったみたいね。
自分が場違いにあちこち荒らして回る以蔵萌えのキモ腐女子なくせにw
>>606 この人あそこからの引用大好きだよねー。
以蔵贔屓のサイトだから都合良かったんだろうけど。
このアンチも横田氏が指摘してた「自分の好悪、先入観を証明するに足る部分のみを抄引して論をなす」以蔵オタの典型タイプ。
土佐勤王党はマイナーだから関連文献名でググッて引っかかるサイトは他の人も見てるに決まってるでしょ。
以蔵みたいに不快な人物の話こそいらないから一人でよそでやってれば?
最近コンビニで見た龍馬関連の某ムック本でも、武市先生の項では岡田毒殺関連の創作話が訂正されてて良かった。
海援隊士中心で岡田は項目すらなかったし。龍馬が平和主義者扱いなのは流石のムック本クオリティだったけど…。
しかし松岡司先生ももう68歳か。
土佐勤のいわゆる研究書らしい研究書って最近では横田氏のだけだよね。
知識量と調査量で横田氏超えをしてくれる人は今後出るんだろうか…。
武市なんて思想も無いし、何考えてるのかわからないから評価出来ない
べつに以蔵がずば抜けてクズって訳でもないのに、ここの連中は酷く言い過ぎ
>>608 党員一人ずつならともかく
まじめに土佐勤王党全体を調べるとなると結構難しいと思う。
武市さんの濡れ衣があちこちで晴れてきてるみたいなのは良かったよねホント。
ところで中岡慎太郎館で8/28まで
企画展「坂本龍馬と中岡慎太郎−幕末を動かした相棒の比較検証−」が開催されてる件。
誰か行ける方レビューお願いします…
始まって一週間経つのにHPまだ更新されてない
岡本八太郎だったか?武市に以蔵にも劣る奴だと言われてたの。
同じく斬首になった村田忠三郎は地元でも顕彰されているようだな。
地元にも大きい石碑があるし、あの寺石正路も伝記を執筆している。
荒らしはそもそも以蔵オタじゃないから以蔵のこと悪く言っても意味ないよ。
いちいち構うここの住人は学習しないな。
勤王派の上士でも山川佐一右衛門、小原與一郎、本山只一郎はマイナーでいまいち
何やっていたか分からないな。
龍馬が後藤と手を結んだとき批判を受けたのは有名だが、中岡が小笠原唯八と提携
したことを悪く言う連中はいなかったのだろうか。中岡と小笠原の因縁は
龍馬と後藤を超えるものがあったと思うが…
>>612 後藤に対する反感が特に強かったのは
武市さんがそれまで郷士のリーダーで絶大な支持を受けていたからじゃない?
処刑後の反発が凄かったみたいだし。
二十三士の扱いで酷いのは意見表明すら許されなかったということで
武装蜂起した時点でもう死刑は免れなかっただろう。
岡田関連の話はすっかり荒れネタだから控えた方がよさそうだね…話題がループしてるし。
まあ史実が明らかになるにつれ岡田が受け付けない人も出てくるだろうとは思った。
>>612 中岡は乾と先に会ってる可能性があるということだが。
しかも乾も小笠原も、後藤に比べたら攘夷派みたいなもんだしねえ。
中岡は板垣を狙ったことあったんじゃなかったっけ?
板垣が俺の命狙ったろうと、中岡も君の言う通りであると認めた話。
禁門直後に西郷に会ってるという話もあった。
禁門で足に弾丸受け、刺し違い覚悟で西郷に会って話し薩摩兵を撤退させた話。
そこで西郷は大きな人物と知り薩長同盟に奔放した。
その話をして小松が土佐犬そっくりだねと言い、中岡が前に久光を刺す計画もあったと打ち明け中岡の剛胆さに驚いた話があった。
中岡と龍馬がそれぞれ倒幕の方針を固めたのっていつ頃だっけ?
中岡は手紙にはっきり雄藩連合の武力倒幕って書いてるのが、
薩長連合の一年ちょっとくらい前じゃなかったかな。
坂本は武力倒幕とは言い難い所があるし、
幕藩体制廃止の倒幕であっても反徳川じゃないし、
二人の立場はちょっと違うかな。
よく二人並べられて語られるけど、
脱藩浪人で薩長連合に絡んだ辺りは共通だけど、
中岡はずっと武市に近い考えの人だよね。
ただ武市は自分が欧化するつもりがないので、
武力倒幕について有効だったと言えるようなことは特にやってない。
藩軍の西欧化まで考えてないので。
上洛して玉を握ってしまえばいいという考え方。
中岡は西洋砲術学んでる。三者三様。
藩閥的な意味で、三人の中で
生きていて一番土佐藩に有益だったのは中岡だと思う。
武市も、以蔵や龍馬と西洋砲術学んでたんじゃなかったか?
武市だって、西洋の技術が必要なのはわかってたんじゃないのかね
武市以蔵龍馬が徳弘董斎、中岡が吉村謙次郎に西洋砲術学んでる
土佐は海岸線が長いので海防のために砲術が必要だった
中岡は武市の正を継いだともいわれるな。中岡が一番パワーバランス良さそう。
生き残りの後藤板垣が坂本中岡に比べると劣るのは仕方ないな
>>617 >ただ武市は自分が欧化するつもりがないので
武市は、それが出来る身分でない。
>武力倒幕について有効だったと言えるようなことは特にやってない
藩情からして、まだその段階に至ってない。
>藩軍の西欧化まで考えてないので
土佐藩が本格的に軍事改革に着手するのは、慶応二年二月初旬から。
長州再征が失敗に終わった直後の慶応二年九月四日、藩庁は同方面の
視察に、島村寿太郎ら土佐勤王党員と士格勤王家の合計六士を派遣。
このうち島村寿太郎と佐井寅次郎が京に上って中岡慎太郎と再会し、
容堂公の考えが揺らぎ始め、藩論が転回しつつあることを教えた。
慶応二年末、土佐勤王党の密偵として藩外で活躍していた中岡慎太郎が、
在国の勤王党同志に向けて手紙を送り、必死で軍政改革の必要性を説き始める。
翌二月、中岡の激励に触発された土佐勤王党の大石弥太郎が御小姓組に編入され、
軍備役に就き、大目付乾退助、小目付谷干城と協力し合いながら、士格俗論派の強い
抵抗を排しつつ、次々と改革を断行。これが戊辰役で大活躍した迅衝隊の編成に繋がる。
慶応三年五月二十八日、上京していた勤王党同志の島村寿太郎、池知退蔵、森新太郎が帰国する際、
京都東山曙亭において、土州幡多郡勤王党頭領樋口真吉と中岡慎太郎主催で慰労送別会が催された。
その席上、中岡慎太郎は帰国する同志に向けて「将来事を成そうとするには門閥家による必要がある。
自分は乾退助と交際しているが、乾は門閥ながら屹度、仕事の出来る人物だ。今度江戸から帰るので、
自分は待ち受けて国家の事を談じたが、彼も大いに同意を表している。諸君も帰国の上は昔の反感は
捨てて、乾と共に事を諮れば、必ず成功するだろう」と来るべき討幕戦に備え、土佐藩内上位士格者
及び門閥家との連携の必要性を説いた。京都堀川一条御花畑の小松帯刀邸において、西郷、乾ら薩土
藩士間により討幕戦を視野に入れた私的密約が締結されたのは、この六日前のことである。
武市は途中で死んでしまったせいで、世間からの評価が低くなってしまってるよね
武市さんは東洋暗殺後、藩の保守派と組んだからなあ。
当時の土佐は幕府と同じ保守派の巣窟。
土佐勤王党が主導権を握ると同時に芸家まで復活。
京での活動だけ、藩の事情と剥離。
内戦で保守派を打倒した長州藩との違いだな。
一番凄いのはどう見ても武市だろう
松陰流で言えば武市は忠義を成した人で、龍馬中岡はそれを元に功業を成した人で
武市が居なきゃ龍馬だのも活躍できてないだろ
そもそも龍馬は薩摩上洛の討幕に参加する為始め脱藩してるし
武市は討幕挙兵だと脱藩促す本間らを臭いと見て脱藩を止めてる
武市らが薩長土を京に上洛提携させ、朝廷を不動にした時点で倒幕王政復古の基礎は成ってる
政局も江戸から完全に京に移り、幕府も京に上洛して朝廷工作せざる得なり、会津藩を京都守護に命じた
後に倒幕王政復古になるのは薩長土の雄藩兵力と、それを官軍に仕立てた朝廷の権威
龍馬や中岡は武市らが作った基礎レールをなぞって再び仕切り直したんで
大政奉還方式の倒幕自体は、武市が三条らと幕府に突きつけた意見とあまり変わらないし
中岡も龍馬より早く大政奉還自体は唱えてる
中岡はさらに進んで大政奉還では無理と見て、武力討幕方針意外なしと固める
龍馬も徳川勢力の排除には変わらないと思うけど
向こうが先に手を出してきたら討つというだけ
松陰は「西洋歩兵論」ってのがあるんだな。
武市さんとはちょっと考え方が違うよ。
武市さんは密航しようとしたりせんだろ。
あれ、安政元年(1854)だぜ。安政5年には倒幕公言だし。
松陰は本当に狂っていて先駆的だよ。
「博学がお前を狂わせているのだ」って奴だな。
>>624 松陰
「たとえ我が身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ、“時”をつくり、時代を開いていける。いまやらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、革命の火種を消してしまうのか」
「上手に“生きよう生きよう”と立ち回るのは“功業の人”である。国家のためにと言いながら、生きて功名を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか」
「高杉よ、久坂よ、“時を待て”とは何たる言い草だ。皆、苦労もせず、“ぬれ手で粟”で、功名のみを得ようというのか」
武市は松陰の影響も受けてる
初めて久坂と会った時に松陰の話を聞き
後で自分は松陰に及んでない恥じるといってるし
長州藩が立ち上がるのも松陰以後だし
松陰以前はひたすら幕府を恐れ土佐よりも臆病な藩
松陰も藩を当てにしたのが自分の生涯の過ちと言ってる
長州を革命勢力に仕立てるのは松陰や久坂らで武市と同じ役割
島村衛吉の道中記にも吉田松陰の辞世の句が記してある。やはり影響受けてたんだろう。
衛吉は学問は苦手なタイプだったらしいが良い句を残している。
盟約を違えず大和魂に殉じた悲惨な最期だった。
>>622 そもそも武市はそれが出来る身分じゃない。
上流武士の高杉とは違う
武市らは身分が低かったから、保守派を味方に付ける事でしか藩で発言権を得る方法がなかったって事じゃないの?
>>617 >坂本は武力倒幕とは言い難い所があるし、
え?
>>629 味方に付ける相手が決定的に間違ってる。
松陰さん聞いたら嘆いただろう。
藩での発言力を増すために保守派と手を結んだなんて。
勤皇視点だと東洋派のがより保守派
松陰は現実認識力はある人。
分かった上で自分の役割は一歩目を成す事と行動した人で、
弟子には自分のやり方真似るな
悩んでた高杉には10年待て、必ず君が必要な時勢になると言ってる。
>>631 どの辺を保守派と言ってるのかわからないけど、民部や小南は勤王派だから間違いだとは思わないけどね
佐川の連中はさっさと消しておくべきだったと思うけど
中岡は脱藩するまで先代死んで若くして庄屋を継いでいたくらいで、
現実的、実務的なバランスがいいのは当然。
柚子が名産になったのも、中岡が塩を買えない農民に、
柚子をかけて魚を食うことを勧めたからだという説がある。
中岡が師の武市をどう見ていたのかは人物評や行動の記録から分かるが、
武市が門弟の中岡をどう見ていたのか分かる記録って残ってないよな?
武市ってただの悪人だろ?なんで高知では英雄扱いされてんの?理解できない。テロリストのキチガイを英雄扱いとか高知狂ってる
本来なら武市なんて、英雄の龍馬や中岡と並べるのも許されない。幕末の最悪のテロリストを英雄と並べるなんて高知許さない
岡田以蔵って単に功名心が強いだけのキチガイテロリストなんだろ?
遊郭狂いになった挙句女も耐えた拷問に泣きわめいてすぐ仲間の事ゲロったゴミクズ以蔵が
武市と仲間に尽くした(笑)とか先人に失礼過ぎるので
高知は金輪際以蔵の慰霊祭なんてイベントで観光客誘致を図るのは止めるべき。
以蔵は土佐勤王党の仇であり恥。
>>630 龍馬は武力倒幕と大政奉還、和戦両方の構え
でいいんじゃないか。薩摩と歩調を合わせての。
この時期はもう幕府対薩長というよりも幕府内強硬派の会桑対薩長になってた。
この点に関しては中岡の方が時勢を見る目がある。
>>638 武市ヲタは、以蔵と違って世間でのイメージが悪いからって必死過ぎww
どんだけ以蔵叩いても武市のイメージは良くならないのに馬鹿みたい
「中岡慎太郎という人物がある。この人物は世間で名高くなっている坂本龍馬よりは、ある面で優れていたかと私は思っている。
坂本龍馬がもし生存していたら実業方面に発展する人だったと思うが、中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩をならべて参議になるだけの人格をそなえていた」 by板垣退助
「倶に語るべき一種の人物なり」by西郷隆盛
「かねて西郷、中岡氏を称して『節義の士なり』という」by 田中光顕
「随分たしかなる人」by大久保利通?
「われ中岡と事を謀る。往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と相謀らざれば、また他に謀るべきものなし」 by坂本龍馬
「誰が余の片腕を奪い去ったのか この恨み必ず報ぜざるべからず」by岩倉具視
「薩長の勢を似て閣下に立ち候へば、幕も風前の燈影光を滅し候」by大村益次郎
「王政復古論の筆頭は坂本龍馬だということになってはいるが、或は中岡慎太郎の方ではないかと自分は思っている」by大江卓
「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。派手なことは坂本に属するが、中岡ほど苦心したものはないと思う」by早川養敬
武市は例の有名な獄中自画像を描いた時、計三枚の自画像を描いたとどこかで聞いたけど、
これはつまり、胸をはだけた姿で団扇を持ってるやつと微笑を浮かべながら本を読んでるやつ以外に
まだ見つかっていないやつがあると言う事か?
>>642 武市さんマメだったから縁の品がよく残ってるらしいよ。
去年お宝鑑定団に出た牡丹の絵も引っ越し祝いに近所の人にあげたやつじゃなかったっけ。
牢番が武市さんに絵や書をねだるのが一時ブームになってたよね。
秘密書簡のやり取りどころか家から画具一式まで取り寄せて牢番が番してないw
そもそも取り調べも畳の上で話し合いするだけだし…
畳の上の緩い話し合いだけで、武市は痩せて骨と皮だけの姿になったと?
んなバカな…きっちり厳しく尋問されたに決まってんだろwww
そもそもいわゆる畳の上の話し合いは、屏風囲いの審問ってやつで
あまりにも尋問で武市が上手く切り抜けるもんだから、あえて丁寧な扱いをすることにより、油断させて武市の失言を狙うという心理的作戦で、尋問とは別のものだと思ってたんだけど違うの?
武市はやせ細ったのはストレスもあるだろうが、一番の原因は獄中の不衛生な環境だろ?
他の入獄組の同志にも同様の症状(腹痛・下痢)に悩まされていたのを見ると。
まぁ医学に関しては全くのド素人だし、獄中の不衛生な環境の具体的に何が一番体に悪かったのかは分からんけど。
松岡司氏が何かの本で「武市半平太伝を高知新聞に連載していた時、獄中での病状に関する記述を読んだ知り合いの医師から
『武市半平太は癌だったのでは無いか?』と言う指摘を受けた事がある」
と言う話をしていたが、実際どうだったんやろ?(確か、その本の中では癌では無かったと結論づけていたが)
上士待遇で拷問受けなかった瑞山すら、取り調べの場に布団持参、肩貸されなきゃ歩けないような状態だった
桃井で塾頭を努めたほどの使い手だった島村衛吉も拷問死
小畑孫三郎は仮出獄3日後に死んだからこれも獄死同然
瑞山が癌だったかの話は「高知の不思議大辞典」で読んだな
結局違うみたいだけど
649 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/14(日) 06:19:33.83 ID:mgmjN/U+I
武市の先のビジョンが見えねえ
幕府はもうだめ、薩長土で尊皇攘夷まではわかる
その後どうしたか気になる
幕府に提示し内容だと
畿内を朝廷の直轄領とし、親兵を置く→八策の御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
参勤交代制の廃止→雄藩が幕府より独立。
王政復古→八策の天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
幕府は一諸侯に落ち、朝廷を頂点とした雄藩連合の政権になるんでないか
容堂が武市らを投獄してから1年弱もの間、武市らをずーっと放置プレーしてたのがよく分からん。何考えてたんだろ?
文久三年に土佐に戻ってからは、勤王派を藩の要職から解任したり、
平井・間崎・広瀬に関しては投獄後2ヶ月足らずで切腹に追いやった容堂が、
投獄後の武市らを処断するのに迷いがあったとはなかなか思えないのだが…。
青蓮院宮令旨事件は、中川宮本人から漏れた話だから、
シラを切りようもなく、長引く要素がない。
盟約文に「錦旗若し一たび揚らば、団結して水火をも踏む」とあるけど
やっぱり倒幕も視野に入れて結党したのかね。
各藩の代表が倒幕するつもりになったのはだいぶ後の筈だが
倒幕の話自体は志士間でもう出てたもんな。
>>654 基本的に、最初の頃は、大和親征で天皇が軍議を開けば、
実質的に軍事権を奪還できるという考え方だったのでは?
だから雄藩の尊攘派は上洛を急いだ。
細かい部分はいろいろと違いもあるだろうけど。
中岡慎太郎の時勢論て4つあるよね。
特に評価されてるのは一番最後の奴だと思うけど。
それぞれどの時期に書いたんだっけ?
>>642 Wikipediaの瑞山の画像があの仙人みたいな獄中ルックなのはどうかと思うw
他にちゃんとした肖像画もあるというのに。
ところで龍馬記念館で去年見つかった土佐藩邸側の新史料が展示されてるらしいな。
>>657 同意。トップの肖像画は写実的なちゃんとした肖像画に変えてほしい(写実的なやつが一番有名なんだし)。
自画像は「勤王党弾圧」の所に移動させるとかさ。あれ、どうやったら変えれるんだ?
個人的には一般の本とかでも、ちゃんとした肖像画を載せずに敢えて獄中自画像だけ載せてる本を見ると複雑な気分になる。
>>634 中岡は土佐で初めて
村人に柚子を栽培することを奨励した人物だそうな。
柚子を売った金で食料を買う事を村人に奨めていたとか。
吉村虎太郎も庄屋時代は色々工夫して評判良かったらしいね。
>>659 俺の方で時間と余裕があれば、
(いつになるかは分からんが)ちゃんとした肖像画をupして、獄中自画像を勤王党弾圧の節に移動させたいと思う。
ちゃんとした肖像画を使用するためには、まず高知の歴史民俗資料館等の許可が無いといけないだろうけど。
>>661 自分も門田為之助気になってる
加盟5番目で勤王党の要所要所に顔出すわりにマイナー
マイナー人物網羅してる維新土佐勤王史にすら死ぬところも紹介されてないのはなぜだろう
門田はおりょうの談話や中岡の日記にも出てきた。
>>634 中岡の父親は慶応2年まで生きててかなり長生きした
そういえば中岡の祖父は北川氏に殺されたが、中岡自身はどう思ってたんだろうな。
>>663 レスサンクス
うろ覚えだけど、為之助の名前は誰かの消して上から貼り直してあって、実は加盟5番目じゃないとかどっかで読んだ
ほんとかどうかは不明
でも、そこそこできた人物だったようだし山内容堂にも和歌貰ったり可愛がられてたとあるからなんでマイナーなのか分からん
門田宇平屋敷跡ってのがあるんだが、そこの看板も宇平(父)のことは書いてあっても為之助には触れられてないし
>>661 父親の門田宇平が一弦琴の先生やってて勤王党関係者が門下生に多い。
琴って男性でも習いに行くもんなんだね。
>>665 その辺りの雰囲気とか分かればと思って宮尾登美子の「一絃の琴」読んでみたんだが、土佐勤王党とは関係なかったと書いてあった
が、実際には土佐勤王党の会合の隠れ家的にも使われてたらしい
城下町にもあった宇平の屋敷が、宇平死後すぐに売り払われたとか書いてあってあの本は史実と全然違うらしい
当時は琴も男の文化だったってのもあるだろうし、土佐勤王党の集まりのためってのもあったのかも
関係ないけど門下生の名簿に坂本龍馬の姉もあるらしい
>>666 土佐勤王党の会合の隠れ家かぁ…
ちなみに何に書いてあったの?
勤王党はもともと付き合いのあった人同士が多いから自然と活動範囲が被ってきたのもあるかもね。
>>667 宇平の子孫に直接聞いた
為之助は子供いなかったから、娘が婿養子とって門田の家継いだそーな
勤王党が弾圧されてるとき、元治元年の6月だったか、
投獄されてない同志が善後策を話し合うために、土佐七郡の代表が集まって話し合うじゃん。
その会合で中央と安芸郡の意向が決裂して二十三士の蹶起に繋がるんだが。
会合の場所が小高坂の門田為之助の家だったという説が有力。
樋口真吉の家だったという人もいるが。
それと流離譚で知ったが、安岡嘉助の父と門田宇平がすごく仲良しでしょっちゅう遊んでる。
宇平は安岡家と同じ香美郡山北村の出身だからか。
>>666 妹の加尾が門下生だったっぽいから、そのコネで勤王党幹部の平井が党員集めて集会の隠れ屋として利用してたんじゃね?
もしかしたら、平井も門下生だった可能性有るかもしれないけど
>>669 安岡家の家って門田家の家のすぐ近くだね
この前行ったけど、門田家は更地で安岡家は残ってた
>>670 平井収二郎?
うーん、ありがとう、調べてみる
>>663 勤皇党の血判状について
『大石団蔵・安岡嘉助・那須信吾の3名は抹消しており、吉村虎太郎・池内蔵太ものぞいています。
それは筆による抹消ではなく、紙を裁断して繋ぎ合わせたり、抹消された名前の上に別の同志の名を貼り付けているようです。
冒頭の江戸加盟の人たちの間に、土佐にいた間崎哲馬・門田為之助が挟まっているのはおかしいので、これは内蔵太と以蔵の上に重ねた可能性もあります』
武市半平太伝より
とのこと
門田宇平の門人には
坂本権平・乙女、今井高純・竹子、平井加尾、望月清平、土佐勤王党員は大石弥太郎、渡辺弥久馬など
鹿持雅澄の門人には
吉田東洋、佐々木高行、大石弥太郎、吉村虎太郎、坂本八平(龍馬の父)らがいたとされる
吉村虎太郎て鹿持門下だった?
師匠は楠山庄助と間崎哲馬しか知らなかった
>>669で思い出した
元治元年6月10日を期限に、中岡達が何かしようとしてたみたいだけど
池田屋事件前に古高が喋ったとされる計画と、何か関係あるんだろうか?
>>675 門田宇平の家は2代前(門田信弘)の代で分家し、黒岩氏から郷士の身分を譲り受けている
本家はもともと郷士。元親記などにも出てくる長宗我部家臣とも言われている
で、宇平の娘は本家の息子(門田秀質)と結婚している
分家してから4代目同士ね
宇平と為之助、その妻の墓は市内にあるが、近くに他の門田家の墓がないのは分家なためだと思われる
ちなみにここって草書体読める人いる?
解読してくれる人いたら投下するものがあるけど・・・
>>676 中岡慎太郎が土佐の同志に宛てた手紙 (元治元年五月初旬)
謹白、時下薄暑に候処、諸賢台益々御安健御勉なさるべく賀し奉り候。
過日は細書差出申さず、失敬相極め申候段、偏に御宥恕希ひ奉り候。
扨々天下の事、実に地に落ち候様恐察仕り候。此節朝廷よりは政令一途と称し、万事幕府へ御委任に相成り、
内は薩の奸臣両高崎、藤井、井上の如きもの、親王及び大臣、大納言等を挟んで陰に逆意を施して天下に私心
なきを示し、悪名を掩はんため、暫く三郎本国に帰る。最初少将に任ぜられ、未だ幾ばくならずして中将に進む。
私権の行はるゝ事も是にて見るべし。又、諸藩のねたみを恐れて正邪に拘らず位官に進む。因備閑叟に至る迄なり。
因は固辞す。願はくは御国も御辞し遊ばされ度、扨両高崎帰国の由申唱へ居候処、加州へ罷越し彼の愚論を説きに
行くものと見えたり。昨日加州若殿上京[過日福健等肥人及び高崎左太郎と共に加州人を説くの策談し居たり、
間を入れて是を知れり、果して言の如し可恐々々]努力して彼方へ引入居申候様子に御座候。
然りながら我々にも少々手懸りこれあり、彼策を討たんと計る。然りと雖も我は死地の論、彼は生地苟安の論、
俗情に合ふ所は極て彼が説なり。歎くべき事に御座候。扨過日宮家向斬姦の事あり。事遂げずと雖も大に姦物
恐怖を生じ、中川宮は薩人を退け、自ら国事懸り御辞表に及び、引退いて参内せず、近衛も同様、是は薩人藤井、
井上、猶今奥向に侍る。是朝廷の毒虫なり。議奏中、野々宮始め皆辞職引籠り、正親町大納言殿は御一人退かず、
是は正義也。一昨日は有栖川宮様御父子、鷹司前関白の御息子、九条大納言等御国事懸り御蒙り、是は叡慮より
出ると云。此事甚だ以て賀すべし。
然りと雖も姦賊如何の策あるも計りがたきに付、是に於て人事を尽さず、徒に天に任せ置き候ては、恐れながら
又々如何様の叡慮を悩した奉る様の事に至り候も計り難く左候ては実に草莽御互の罪軽からずと、只々苦念に堪
申さず、大樹公も当月七日東帰の訳にて出足、大坂に下る。水因力を極めて之を止むと雖も行はれず、最早出帆
にも相成るべくと相察申し候。
斯る切迫に及び候ては機会の急、間髪をも入れず、此の大機を失ひては実に相済まざる事に御座候。之に依て
天下同志の士と相約し、来る六月十日を以て期限とし、天下の浪士相集り、京摂の間に伏匿し、団結して奉効の
忠を致さんと相約申し候。さりながら甚だ機密の事にて河野及び水の山口、因一人、及び外両三人と相謀り申し候。
千屋菊、清半、今浪華に在り、是等上り候はゞ相謀り、大いに尽力の含に御座候。佶磨儀は別策あり候事故、書面、
僕の白す所と少々相違もこれあるべきかは存じ申さず候へども、僕の論決して虚言にてあらず、僕実に去年出国
仕り候て、今に至るまで寸功もなく、おめおめ生長らへ、又諸君の至るを待ち、人の力に依て事を成さんとするは
先達脱走のしるし相立ち申さず、申分なく赤面の至に御座候。
実は一権道相行ひ申すべくと相考へ、清半等と相謀り、已に不帰を誓ひて出門の事も両度に及び候へども、事不幸
にして遂に成らず、天下の人に対し面目更に御座なく、せめては天朝へ乱入嘆訴してなりとも、一身を清め申さんと、
長人四五名相約し候へども今日の機に望み候ては、今一策これあるべくと申すに相成り、只今の策に相決し申候。
此の上勢の動き様により右の一決も又々無きにも限らず、然しながら、とても四五名右の策に出で候のみにては、
只今の事決して運び申さず、是非々々、大決断に出で申さずては相成らざる様存じ奉り候。
>>676 中岡慎太郎が土佐の同志に宛てた手紙 (元治元年五月初旬)
右に付、独眼竜組は出で申すべきに付、城中及び中郡の勢は成丈け其の土の豪傑衆より御引廻しを以て御打立に
相成り、樋口先生は西郡御引率にて急々御上り願ひ奉り候。御国の儀はかねてより三藩と唱へ、勤王藩の名望天下に
流れ居り候処、水長素より盛にして天下を以て自ら任じ、国力を尽して王事に勤む。
宍戸、宇都宮、壬生の三藩も決心尽力、因、備、津和野も亦然り。備は君公よし、下に人材なくして確乎たらずと
いへども、其志大に好し。因、津和野に至ては頗る確固憤発す。
此時に至て独り我藩恣々無為、独り三藩の名に背くのみならず、天地神明に対してこれを何とか言はん。
只今、御国の勢を以て考ふるに、純策に出候はゞ民公子御上京[是も是非、来月中旬を過ては不相成]乾退組随従、
其余有志の士残らず此の如くなればよし。若し然ること能はずんば、公子上京これあるとも行はれず、仮令乾組
随ふとも、外同志随はずば行はれず、兎ても我等同志の志を達する日を内にて待ち候ては、決して百年待ちても
其期これあるまじくに付、同志中国に先だって報効し候時は、天下より見候ても、矢張土佐国の盛事にして、則ち
忠孝にも相成り申すべくや。
兎も角も今日、天下の事を成ざれば成る日これなく、幾重も〃〃日夜相継ぎ御苦心の上、急々御決策願ひ奉り候。
願はくば虚喝と思召さず、能々御察読願ひ奉り候。且又其上にて乾君など随従にて公子御上京相成り候はば是又
甚だ宜しき事と存じ奉り候。此度は小南猿四郎君、宮川君なども御出張祈る所に御座候。
右の通り大挙候時は、却て御国の勢も張り申すべく、其上時宜に寄り生残りたる人は又帰国も相成るべく、何分にも
早く天下を瓦解さずては憂土崩に至り殆んど救ひ難からんと存じ奉り候。
一旦干戈動き、人心改り申さずては、中々攘夷も何も出来申さず、過日、千屋虎之助長崎より帰り、清国の模様を
聞候に、北京とか彼本国大いに此節盛に相成り候趣、兎角、大敗も取らねば行かぬものと見え申候。
痴念切迫、前後不分、冀くば御推読の程、是祈り候。万機拝眉の辰を期し候。 恐惶謹言
五月旬一夕認 道正
樋口様
上田様
門田様
諸君子足下
右の通相考認め候へども、国に死し候事、素より御銘々の御論に従ひ、御処置これあり候事は少しも御止め申上げざる事に候。
※同書簡は、香美郡野市村郷士山本四郎が京より持参
大石弥太郎ノ 中岡慎太郎ノ書翰ニ対スル意見書 (元治元年五月中旬)
四郎、誠ガ書ヲ携へ南ニ帰り、其書ヲ読ミ且其言ヲ聞ク。
長国ノ壮夫、誠等ト謀リ、宰相ヲ擁シ旗鼓ヲ京師ニ建テ以テ中原ヲ酒掃セシ。
若シ然ル能ハザレバ、游撃八百名ヲ率キ来リテ之ヲ襲ハヾ、猶会侯ヲ擒ニスルニ足ルト。
此挙ハ、大樹ハ東辺鎮圧ノ為メ東ニ皈リ、三郎等ノ如キ牧伯、皆国ニ就カシメ、京師ホトンド空虚ナリ。
此ノ機ニ乗ジテ中原ヲ掃ハヾ、事難キニ非ズ。
千載ノ一時ナリ。速カニ公子ヲ奉ジテ来会セヨ。
天下三藩ノ美称不滅ト。其意懇切、是誠輩ノ虚喝ニ非ズト。
余、四郎ニ問フ、三ブ国ニ帰ル甚恠フベシ。
彼皈ラバ朝廷又変アランコト童子モ尚察スベシ。
三郎、豈之ヲ知ラザランヤ。
四郎云フ、彼レ近日ノ挙動疑フベキハ吾人皆同ジ。
市街モ之ヲ罵ルニ至ル。
故ニ暫時国ニ帰リテ悪名ヲ掩ハント計ルナリト。
四郎=土佐勤王党血盟同志 野市村郷士山本四郎
誠=土佐勤王党血盟同志 北川郷大庄屋見習中岡慎太郎
猶会侯=松平容保公
大樹=将軍徳川家茂公
三ブ、三郎=島津久光公
公子=連枝家老 山内豊誉(容堂公実弟)
>>675 >長岡謙吉
そーそー。
謙吉こと今井純正のパパ。今井高純の妻は直って名前だったと思うけど竹子って同一人物?
しかし門田宇平が一弦琴を伝えたのは安政六年か、結構遅いな。
>>677 とりあえず投下してみては。
あとyahoo知恵袋の日本史カテなら草書体読んでくれる人がいるようだ。
683 :
677:2011/08/24(水) 00:23:50.87 ID:djNvr1Fw0
>門田宇平がむすめ下本かるも(苅藻)
下本かるも:城下北奉公人町の「サカリ三林亡」の綽名のあった美人の娘をさす。
宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫版P.158
という事だそうです。
これはどういう性質の文なの?
だれの家にあったのかだとか誰から誰宛てなのかという説明
俊章?なら公文守太郎俊章のことかと少し考えたが…
>>684 門田宇平の娘が「サカリ三林亡」の名の美人とのことでしょうか?
確か宇平には娘が二人いたはずなのでどちらでしょうね
>>685 門田家の誰かへ当てたものと思われますが詳細不明なので解読してほしく思います
時代は明治だと思われます
>>679 そうそう、これ。引用ありがとう。何の本に載ってるんだろう?
しかし自分の読解力では、大まかにしか分らない・・・
北添佶磨の策と思われるものもあるけど、どこまで本気だったんだろう
当時の尊攘派がどれだけ切羽詰まってたのか、いまいちピンと来ないや
>>682 >竹子
長岡謙吉の姉で、足立行蔵の母親だったと思う。
門田為之助は勝海舟の門人にもなってるね。
文久二年十二月十二日の海舟日記に
「門人の門田為之助と近藤長次郎がやって来た」という記録がある。
土佐人が弟子になっている事を示す最初の記述といわれているけど(大石弥太郎は除く)。
ちなみに越前藩の記録「続再夢紀事」では同年十二月五日に間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎が春嶽に面会とある。
龍馬はいつごろ海舟に弟子入りしたか明確な記録はないけど同時期なんだろう。
門田為之助はその後元治元年五月以降、土佐勤王党の獄の再審問が始まり事態が緊迫した際には
同志二十八名と死を覚悟しての出頭請願を行ってる。
いつ頃土佐に帰って来たんだろ。
この時の二十八名の名前わかる人いる?
>>690 わざわざ個人サイト貼って質問とか何がしたいのかねチミは。
ちなみにリンク先の参考資料
坂本龍馬日記【菊地明、山村竜也】とか龍馬伝の特集本とかやなw
海舟日記 文久二年十二月九日「此夜有志両三輩来訪、形勢の議論なり」が龍馬達との初接点かもしれないし
そうでないかもしれないと言われている。またこれが最初の接触である証拠もない。
ググれば龍馬書簡や関係者日記の要点載せてるサイトあるからもっと頑張るか
龍馬と海舟の出会いなら龍馬関係の本で解説されてるから好きなの読んでくればいいんじゃないか?
692 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 01:02:07.29 ID:FWpzN4Dd0
>>691 そうなんだ、詳しくないんですまない
要するに史実がどうなのか解らんということなのね
正確にはわからないけど大体この辺らしいという事だよね>龍馬と海舟の出会い
>>642 三点の自画像は維新土佐勤王史に収録されてる。
武市さんの獄中書簡読むとそれ以外にも色々描いてたみたいだけど。
時々弟子入りは文久2年10月頃と見るけれど
少なくとも坂本間崎近藤が春嶽に謁見して紹介状貰った12月5日以降だよな?
この師弟関係はやたらめったら取り上げられるが、実際の関係はどうだったのだろう
>>693 団扇バージョンと本バージョン以外のもう一枚の自画像、維新土佐勤王史で見れるのか。
そのもう一枚の自画像は、一般の武市本には全く掲載されて来なかった物なん?
花は清香に依って〜の一番有名な自画像と
燕雀焉くんぞ〜とやつと
笑泣録の牢番が沢山いてその中で本読んでるやつじゃない?
>>695 どんな絵だったかは覚えてない。
三点が維新土佐勤王史に収録っていうのは横田氏の本で見た。
ところで剣術修行から帰ってきた龍馬が読書を始めたのを門田為之助から聞いた大石弥太郎が
本当に読めるの?って聞きに行ったら、読みはめちゃくちゃだが大意は掴んでたって話は出典何だろう?
698 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/26(金) 13:34:37.01 ID:RVyKehBx0
>>691 龍馬伝の特集本なんて、史実を知るのに何の役にもたたない気がするんだけどなw嘘まみれだものしかも山村菊地って最悪wwww
「読書を始めた」ってのがまた酷い。
>>679 尊攘派に敵視されてた九条が「叡慮」と表現されてるのが興味深い。
中岡が「僕実に去年出国仕り候て、今に至るまで寸功もなく〜実は一権道相行ひ申すべくと相考へ」と言ってるのを見ても
彼らの間では功名=権道(テロ)という価値観だったのが分かるな。
テロに溺れて自滅した武市は功名心の塊だったって事だわな
こんなクズだから後世でのイメージがろくでもないのも納得だ
>>702 無益なテロは止め「半平太は功名を貪る事は嫌いだ」と吉村に言っていた瑞山がいつテロに溺れたって?
長州ら尊攘藩と組んで朝廷勢力の強化に尽力し全国に名を知られた瑞山に今更テロでの功名なんて必要ない。
一人京を逃げ出す羽目になるまで功名を追いかけまわし、牢番に自慢話をしてたどっかのアホウは溺れていたかもしれないがw
龍馬の学問といえば
蘭学塾で適当に聞いていた龍馬が、先生の解釈は間違ってると指摘したエピソードあるじゃないですか。
先生がお前はオランダ語読めるのか?と返したら読めないがその解釈では筋が通らないから云々…という話。
竜馬がゆくではねずみ先生と呼ばれてた気がする。
もし史実ならその先生って誰のことか分かる?龍馬と接点のあるそれらしい蘭学者って誰のことなんだろう。
まだこの荒らしに構うのか。
>>705 そうだな。もう構わない事にする。スレの初めにコイツ向けのテンプレも貼ってあるしな。
>>697 大石弥太郎の回顧録みたいな物があるそうだがそれに載ってる話かもしれない。
この大石の回顧録とやらの書名が分かる人がいたら教えて欲しい。
蘭学塾云々は流石に創作じゃないか?
此度屹度名分御正遊ばれ、政令一切朝廷より御施行
武ちん
大政奉還の4年前。
中岡って時々過激なこと言い出すよな。山内連枝をかかげて上京って現実的な策とは思えない
>>706 回顧録あるのか?と伝記見たら少し載ってた。全文はどこに載ってるんだろう。
「これは倒幕の演習だ」と返して龍馬を笑わせた話なんかもあったな。
あまり多くを語らない人物という印象があるが。しゃべりすぎるのは光顕。
過激って過激しかおらんがな
>>703 東洋暗殺で暗殺は権力を握るのにてっとり早い手段だと気付き、京都でも功名に溺れて勤王党員を巻き込んで、佐幕派を次々と暗殺
ついに過激行動を迷惑に思った容堂から弾圧され、自分の間違った行動のせいで仲間を次々と巻き込み犠牲にした
そんな救いようのないクズ野郎をなに持ち上げてんの?
馬鹿じゃない?
瑞山のおかげで犠牲を最小に留めた上、土佐は新政府でも功績評価されたが正しい。
今ではほとんど評価されてない。
幕末を研究している人で評価する人は皆無。
建設的な議論なんかする気が無く、端から荒らす目的でやって来る人間に
何を言ってもどんなに相手をしても無駄だから、スルーしろってば。
あと、この荒らしは以蔵ヲタじゃないので以蔵批判しても無駄。
>>712 現在生きてる歴史家の中では、武市はゴミクズ評価が普通だからね
武市なんか評価してるのは地元贔屓入ってる高知の歴史家だけだろう
あと、頭おかしいここの連中ね
武市はただの犯罪者でありテロリスト以外のなにものでもないのでwwww
今度はばればれの自演まで始めた模様。
みんな相手しないように。
武市先生に『権力』ねえ…
このアンチ以前は菊池だか山村だかの著作を愛読してたんだろうな
ムック本で勉強した気になるの大好きみたいだし。
>>708 中岡とか庄屋層の方がより切実に倒幕傾向だったのかもしれないね。
それだけ農民の暮らしに対する不満が根強かったんじゃないかって言われてた。
天保庄屋同盟の細木庵常と鹿持雅澄は友人同士だったそうだ。
武市さんたちの前の代から交流があったんだね。
中岡を語る上で久坂玄瑞は外せない
中岡の草莽思想や戦の一字の思想も久坂から継承したもの
松岡司の以蔵連載読んだけど、以蔵の勤王党参加の経緯に対する解釈について違和感を覚えた
あの時点で武市が、以蔵を勤王党に相応しくないと気づいていたのに情で勤王党に入れただけだと言うのなら
そんな奴を勤王党に加えたから、結果的にベラベラと自白されてしまう結果になり、勤王党は壊滅した…すなわち元を正せば私情に走って駄目人間を加えた武市のせいって事にならないか?
つか、普通に考えてもその頃の以蔵は他の勤王党員と参加の理由もたいして変わらなかったと思うんだよな
武市から駄目人間認定されはじめたのは、普通に考えると、天誅禁止令無視して無駄な暗殺繰り返しはじめてからじゃないかね?
武市の掛け軸の容堂に対する恨み云々といい、最近の松岡氏の解釈には首を傾げる
掛け軸の漢詩は絶対、容堂への恨みなんてもんじゃなくて
尊攘派冬の時代に力を持っていた連中全般に対する怒り・恨みだと思う。
>>718 実は吉田松陰も草莽に対して余り期待していなかったという…
岡田遺贈なんてそもそも資料は少ない、目立った働きもない、素行も悪いという微妙な人物じゃないか
それを想像であれこれ補完しようとするのは本来真面目な研究者のする仕事じゃないね
>>661 土佐史談25号に
『瑞山の股肱門田爲之助』って記事がある。
彼は瑞山にも頼りにされてたようだ。
松陰さんは、公をまとめる再認識として天皇にたどり着き、個の再認識からたどり着いたのが草莽しょ
明治維新は近代国民国家の成立で、国民国家は国民皆兵で、国民皆兵は攘夷で、攘夷をまとめるのが勤王で、勤王をまとめるのも攘夷で、勤王と攘夷は別々でもあるけど両輪でもあるんで。
松陰は死の前に、藩も幕府も天朝もいらん、今必要なのは我が体と達するけど
既成すべて否定してるんでなく、個から影響を与えて既成を立て直すと改めて個にたどり着いたんで。
継いで実践化し変革と統合の政治理論化したのが久坂らで。
久坂は勤王攘夷の為に個の草莽崛起面から志士の提携を計り、日本全体をまとめる公の原理には勤王を打ち立てようとした。
勤王攘夷成立の手段として即今攘夷を必要とした。
即今攘夷は戦いをテコに変革と日本統合の崛起手段とする戦の思想で。
久坂死後は、高杉や中岡らに引き継がれた。
久坂に比べたら武市なんて小物も良いところですよね
いったい武市は何がしたかったの?出世?
仲いいイメージだけど歳の差10近くあるんだよな
まさか武市が松陰より年上だとは
>>719 以蔵の勤王党加盟の経緯の元ネタは皆山集だそうだが、史実という確証はないとか?
掛け軸のは新聞によって書いてることまるで違うので、松岡司が本当は
どう発言したのか分からなかった
瑞山は久坂よりもよりリアリスト
草莽は尊いが、草莽挙兵だけでは攘夷は達成できない。
まず志士がそれぞれ自藩を勤王にし
薩摩、長州、土佐を動かし、三藩の力で朝廷を動かし変革し、堂々たる攘夷を成すべきという考え。
この辺は久坂や龍馬や中岡より、藩への忠義心あった高杉、西郷、大久保らに近い
高杉の場合さらに突き進んで、他藩との連携も無意味とし、長州の大割拠思想に発展する
明治維新の目的はどう外敵に侵略されない国家攘夷体制を作るか。
松陰、久坂、武市、中岡、西郷らが正当な主役
幕末物は龍馬や勝を主役とするから開国がどうたらとおかしくなる。
あげく長井や東洋のような、小攘夷の小物が持ち上げられてしまう
東京三鷹市で個人が運営してる「街の小さな小さな文学館」という所で
土佐藩お抱え刀工の左行秀作、武市瑞山所持と伝わる槍が去年から展示されてるそうな。
約1・3メートルと通常より短く手槍と見られ、京都で護身用に使っていた物ではないかと言われている。
実物見た事ある人います?
730 :
661:2011/08/30(火) 11:42:14.66 ID:C+hV021N0
敷居が高いようで尋ねにくいのですが、龍馬や土佐勤王党関係で良い本があれば教えて下さい
初心者お断りでしたら、以後は書き込まないようにします
>>669 調べてみたのですが、門田宇平の母は安岡十作(安岡お上家)の娘のようです
宇平の祖母も安岡家から来ているようですし、門田本家も安岡家から嫁を貰うことが多かったようです
家が近いこともあり、血縁関係も強く、安岡家と門田家は繋がりが強かったのではないかと思われます
宇平の妻は『徳弘隆吾』の娘とのことですが、知らない名前なので分かる人がいたら教えてください
>>772 ありがとうございます、ちょうど手に入ったので読んでみました
人柄も良く、信頼されていたようですがリーダーシップを取るタイプではなかったように感じました
そのことや早逝したこととが名前が残っていない一因なのでしょうか
>>729 ありがとうございます
為之助が具体的に何をしていたのか分かりました
『長州俊姫様』とは長州から山内豊範に嫁いだ、毛利信順の娘のことで良いのでしょうか?
>>730 >>729を貼っておいてなんだが…
これに限らず、お龍の話は話半分で聞いておいた方がいいw
実際は婚儀の為ではなく、俊姫の処遇改善に動いていたらしいし。
>毛利信順の娘のことで良いのでしょうか?
で、毛利敬親の養女なんだっけ。
俊姫の結婚は文久2年で龍馬とおりょうが会ったのは元治元年
長州が転落して俊姫は豊範と別居させられるのだが、勤王派からの批判が多かったらしい
為之助はその処遇改善に奔走していたのか?
>>730 安岡十作は息子がいなかったのか、お上家から安岡権馬を養子に貰ってるよね。
武市に「門為などは誰が見ても頭立候者」と認められてるし、
大石弥太郎も坂本龍馬と門田為之助を勤王党に誘えば中部の者はこぞって
加盟するだろうと言っていた
城下同志の中心的人物と目されていたのではないか
為之助は伏見生まれなので、京の事情に通じてるとも読んだことあったような
あ、お上安岡十作の息子の鉄作に男児がいなかったので、お下の権馬を養子にもらってるのか
安岡家系譜だと門田為之助までは載ってなかった
734 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 15:08:36.29 ID:C+hV021N0
>>731 >>732 俊姫は毛利信順の娘で、藩主である敬親の養女となり、山内家に嫁いだのですね
で、龍馬と為之助が会ったのは婚姻後なので辻褄が合わないと
時代を考えると俊姫の処遇改善が妥当と考えられるが確証がない、という感じでしょうか
当時は為之助の評価は高かったのですか
断片的な話ばかりなので、著作者が為之助を持ち上げてるだけだと思っていました
>733
安岡系譜について、可能であればどこで見られるか教えて下さい
ちなみに、安岡十作の娘と結婚したの(門田宇平の父)は門田信稔(千治)という名です
>>734 自分のは文庫本だけど、流離譚の巻頭に安岡家系図がついてる
高知住みだったら図書館の郷土コーナーに「郷士年譜」とか「御侍中先祖書系図牒」とか
あるけど
門田家の遠戚か何か?
>>727 久坂、武市は富国の視点が薄いからなあ。
>>735 ありがとうございます、流離譚も読んでみようと思います
後半はごお察しの通りです
質問したいのだが、何故土佐郷士は明治になって今まで虐げてきた上士に復讐しなかったんだろう?
260年も屈辱を味あわされ勤王の仲間を無惨に殺されたというのに…俺だったら対等にいるのすら嫌だわ
水戸のさいみ党のように今日までの恨みを晴らせば良かったのに…今となってはただよそ者に踏みにじられたという汚名しか残ってないように見えて情けなく見える
不平等ではあったが別に郷士が上士に虐げられるという関係では無い。
土佐で志士が決起した動機が主に階級闘争に求められるのは創作史観の影響。
階級格差への不満の影響もあっただろうがそれが本流では無い。
>>730 「坂本龍馬全集」「龍馬の手紙」宮地佐一郎
「武市半平太と土佐勤王党」「維新土佐勤王史のウソ・マコト 」横田達雄がおすすめ。
他に龍馬がメインでない幕末通史の本も併せて読んだ方が良いと思う。
長州メインに研究してる青山忠正の「幕末維新」とかどうかな。
あと高知の人なら、山内家宝物資料館で古文書解読講座や
家から古文書が発掘された時の相談も受け付けてるようなので相談してみるといいかもしれない。
http://www10.ocn.ne.jp/~yamauchi/04kouza/kouza/kouza.html
>>736 そこは役割分担でしょ?勤王党や長州の中でも、富国強兵中心に活動をしていた人達と王政復古中心に活動をしてた人らがいて、武市や久坂は政治の表舞台に立っていたから役割が後者だったってだけじゃないの?
で、伊藤、井上、坂本間崎は前者
いや創作史観というよりいわゆるマルクス主義的な捉え方なのかな
マルクスの主張した「歴史上の全ての闘争は階級闘争である」というような。
そういえば横田氏の本でその手の事が批判されてたような…うろ覚えだが。
明治維新の原動力は外国の脅威の前にどうやって国を守るかという試行錯誤だったと思うよ。
そのためにベストだと思われる手段が
龍馬の場合はまず攘夷だ→開国して富国強兵だ→そのためには倒幕だと変化していって
瑞山達は天皇中心の中央集権的な国家体制作りだったんじゃないかね。
武田鉄矢史観だと復讐したくなるが、実態はどうだろうね。
歴史が逆さまなんだなぁ。
開国したのが明治維新と見てるが、鎖国攘夷を確立したのが明治維新。
植民地化された国は色々な要因から鎖国攘夷を確立できず、生身の開国通商状態に晒され植民地化。
西洋列強は攘夷戦の連鎖で一足早く国民国家を成立。
初めて国民軍を率いたのがナポレオン。この勢でヨーロッパ大半を制圧。
今度は征服された側が、攘夷独立。
アメリカも攘夷戦を戦い抜きイギリスから独立。
近代国家を作り上げた後は、攘夷できない未開の国々を次々植民地。
ついに東洋に来て清を阿片戦争、アロー戦争で破り、日本の知的階級は皆戦慄し危機感ができた。
>>745をみるにやはり武田鉄也の視観は正しかったんだろうね
そういえば昔、NHKで山内一豊をやるってなった時には誰も反応しなくって、龍馬やるってなった時は大盛況だったって話を聞いたことがある
この辺りを見ても如何にしこりが続いてるのかが分かる。土佐から去っても赦さない、みたいな感じ
>>745 井口村事件のどの辺が土佐勤王党結成の切欠なんじゃいボケェ〜
一体何がどう勤王党結党に影響してるのかご教示願いたいもんだわ
自由民権論者の坂崎シラン達が階級間闘争マンセーするためのこじつけだろうが
一体いつ土佐勤王党が上士と階級間闘争しましたか?
野根山23士の決起ですら該当しないんだが?
>>745 そのWikipediaのページって
何見て書いたんだろう?ww
>>749 東洋暗殺は階級間闘争の果ての事件だいう解釈なのでは?
そこら変も武市の評価がおかしくなってる一因だね
>>750 「井口村刃傷事件が土佐勤王党結成のきっかけ」という話の出典は例によって維新土佐勤王史だった筈。
もちろん勤王党員の周辺史料を調べてもそんな話は出てこないがね。
刃傷事件の時、武市は土佐にいたっけ?
>>745 なんか見たことあるな〜と思ったら これお〜い竜馬だろwwwwww
下げ緒の話は汗血千里駒の創作
階級闘の意識差は当然あったろな
郷士の大半は勤王、上士の大半は佐幕に別れたのも
郷士の脱藩流行も、身分的に藩を動かせない立場だからだし
武市が軋轢に苦労したり暗殺使わざる得ないのも
しかも長宗我部元親は一領具足の皆兵を率い四国を席巻した英雄
>>755 で、いつ土佐勤王党が階級間闘争したって?
土佐勤王党が出来たのは違勅開国問題と安政の大獄で一橋派の処分に山内容堂が連座したせいなんだが
後年浸透した価値観を江戸時代の人間に持たせたがるから歴史観が歪むんだ。
そうそう、知ってるかもしれないけど平尾道雄氏の『土佐維新史料 書翰篇』に門田為之助書簡も入ってた。
758 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 23:29:16.47 ID:/ya85Yzb0
>>754 漫画を確認してみたらセリフが同じだなw
出典;お〜い!竜馬
と明記すべきwww
759 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 23:49:08.65 ID:JKAivdjD0
>>756 >土佐勤王党が出来たのは違勅開国問題と安政の大獄で一橋派の処分に山内容堂が連座したせいなんだが
土佐勤王党の盟文中に山内容堂公の事が触れられているのは、
江戸で久坂、樺山らと約した計画を遂行するための方便に過ぎない。
容堂公の謹慎を本気で憂いていたのなら、結党の時期はもっと早くなるはず。
門田為之助らが白装束で藩庁に決死の抗議をした話は何に載ってたかな…。
この辺の話は獄外同志の話し合いに参加した樋口真吉の『遣倦録』にも載ってるかな。
土佐勤王党の、特に瑞山の基本理念は藩への、そして朝廷への『忠義』だよ。
武士の正しい道を全うし正しい忠義を実践しろと主張してるの。
忠義ってのは主君のイエスマンでいることじゃなくて
主君が道を誤れば、身の危険をかえりみずどこまでも諫言して再考を求めるべしと、こういう考え方なんだよ。
容堂だっていざ錦旗が上がれば討幕せねばなるまいと覚悟していた。
当時の忠義ヒエラルキーが朝廷>幕府>藩なんだから朝廷の意志を曲げるのは不忠。
で彼らは武士なんだから国家の独立を保つために戦うべしって考えは極めて当たり前。
まあ当時の藩は公的機関のようなもので藩主は象徴。
直接指揮する容堂が異例な殿様だから賢侯と呼ばれた。
無知で恐縮だが、
井口村刃傷事件Wikipediaに載っている事の顛末と、龍馬や半平太の発言の出展はどこ?
上でも言われているが、龍馬と半平太のセリフが「お〜い!竜馬」と被りまくりなんだが、
まさか本当に「お〜い!竜馬」が出展ってわけじゃないよね?
マジでおーい竜馬が出典なんでしょwww
wikiなんて酷いもんは酷いよ
大河以前の以蔵wikiなんて、人斬り以蔵が出典だったし
最近色々書き換えられたみたいだけど
ちなみに、龍馬のwikiもおーい竜馬や司馬がソースで酷かったよ。
以蔵は東洋暗殺の場にも居なかったのに、関わった可能性もあるようだキリッみたいな事書かれてるし色々酷いよ
真覚寺日記 文久元年三月十三日付
当月四日の夜、井口にて若侍、郷士、御用人、御茶道頭、途中、行当たりの
論より喧嘩となり、その場にて三人切り死に、家に帰りて二人切腹。
鳥渡したる口論より暫時の間に五人死失とは如何なる因縁ぞや。
昨年は江府に於て三月節旬に井伊家の騒動有り、当年は御国許にて諸方の騒ぎ、
戸波にても四五人を切りし者有り、大小の違ひは有れども、ともに剣難にて死するも、
三月は桃の酔ひより事の起れるゆえなるべし。 恐るべし 〃〃。
真覚寺日記 文久元年三月二十付
此間、井口騒動の砌、頭をきられし御茶道頭松井某、今以つて死せず、
養生に懸り有れども、頭の脳へ刀疵懸りけるにや、すべて言舌分明ならずといふ。
其事に携りし人数多にて、弐拾余人、遠足留めになる。
中にも川原町の安部某、永福寺の福典等も右の御詮議懸りに加はる。
>>743 「攘夷」って言葉の定義が我田引水すぎ。
>>755 武市の暗殺はほとんど次の二点の報復からだろ。
・和宮降嫁問題
・安政の大獄
嘘か本当か、維新土佐勤王史に安岡覚之助の家に血盟書の原本を預けてあったが
覚之助入獄の為、大石弥太郎が門田光之助に預け、その後紛失とあるね。
この門田光之助は門田為之助と関係あるのか?
>>767 何もおかしくないと思うが?
皆が国家の独立を大目的として見据えていたから維新は成った
>>768 和宮降嫁問題は関係ないな。瑞山らが関与した暗殺は
・藩論転換の為の吉田東洋暗殺
・安政の大獄関係者
のみ
>>769 そうそう、門田為之助のことかと。残ってたら面白かったのに。一級史料だろ。
謎の多い加盟順と削除された党員のことも分かる。
血判状と聞くと一枚の紙にずらーっと署名されているのを想像するが、実際は誓紙に
書いたんだっけ?
>>752 >>753 維新土佐〜には井口村事件は記述なしだったはず。汗血千里駒では冒頭から扱われてる。
読者の涙を誘うために宇賀喜久馬の年齢を大幅に下げたのが、史実と扱われるようになったとか。
井口事件の郷士側は、龍馬、池内蔵太、河野万寿弥、門田為之助、大石弥太郎以外に誰かいたかな。
>>767 攘夷論を理解しないとね。
攘夷が無知だった様に捻じ曲げられ、開国が先進的で正しいかのよう描かれる。
清や諸外国と違って日本が開国に成功したのは、明治維新で近代国家を作り上げた上という前提を都合よく無視する。
中岡
攘夷と云うは、日本国の私言にあらず。そのやむを得ざるに至っては、世界各国、みなこれを行うものなり。
アメリカかつて英国の属国なり。米民苦しむ。ここに於いてワシントン米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖国攘夷を行う。連戦七年英国ついに勝たざるを知りて和を乞い、アメリカここにおいて英属を免れ独立し、十三地同盟合衆国と号し、強国となる。
第一、卓識なる者を久坂玄瑞と云う。吉田松陰の門弟にして英学を少々学び、西洋事情も大に知れり。
この人常に論じて「西洋諸国といえど、ロシアのピョートル、アメリカのワシントン、国(近代国家)を興す者の事業を見るに、是非とも百戦中より英傑起り、議論に定まりたる者に非らざれば、役に立たざるものなり。実に名論と相考え申し候。
長州高杉晋作は方今洛西第一の卓識家の名あり。
この説曰く「英仏、方今大強の勢をもって支那の衰政を目がけ、正々堂々をもって勝んと欲するを、日本現今に取り手本とせば大間違なり。
今日我手本とすべきは英仏等の未盛の時(近代国家を作る前)、国を起せし節、戦争度々これ有り、これを学ばずんば何の益かあらん」これ某の攘夷説なり。
武市らは、和宮降嫁問題に関与した岩倉具視の命はむしろ遠回りに助けてるよね
中山忠光は殺したかったみたいだけどwww
>>771 佐川とか離れた土地で血盟した分もあったので血盟書は3枚くらいに分れていたんじゃなかったっけ。
汗血千里駒の井口村事件にはそもそも武市さん出てこなかったような…
確か武市・坂本両名がこの事件に関与したって史料は本人達の側には無いんじゃなかったかな?
ところで寺石正路による「贈従四位村田忠三郎克昌伝」という伝記が出ているが
以蔵と一緒に斬首になったせいで村田忠三郎も剣客の印象が強いけど、実際は間崎と共に探索や交渉を任される立場の人物だったらしいね。
勤王党員で探索を任された人物は他に坂本龍馬、山本喜三之進、上田楠次、中岡慎太郎、土方楠佐衛門などがいるが
この辺が比較的頼りにされてた人物という事かな。
結局、
>>738の明確な解になるものは出なかったなぁ…
勤王党が潰された時点で郷士は不抜けの集団になりさがったということか
何か悲しいな
土佐人は今日までよそ者に踏みにじられるのが好きなM連中なだけだったというのが
脱藩したのが少しマシだったというだけで
>>775 だから別に虐げられてないと言っているのに。
藩上層部と争って誰にどんな利益があるというんだね?
龍馬も後藤と手を組み「又御国の為ニ力を尽すとおおせらるるが、是ハ土佐で生レ候人が、又外の国につかへ候てハ、天下の大義論をするに諸生ニまで二君ニつかへ候よふ申され、又女の二夫ニつかへ候よふ申て、
自身の義論が貫らぬきかね候故ニ、浪人しつけるに、又ハ御国をたすけるに到さねバ、ゆかぬものニて候」
「私一人ニて五百人や七百人の人のお引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家の御為致すが甚よろしく」と言っている。
復讐目的だったら、そもそも明治維新なんぞ起きてないわw
誰も意思を継ごうとしないし、倒幕が成功しても薩長幕府が出来上がっただけ。
草莽中心の路線は八月の政変で崩れて、藩の力を使った国内変革に向かい、目標が倒幕一本に絞られさらに廃藩置県に向かった。
>
>>777 結局脱藩した連中も武市の目指した一藩勤王路線に戻ってきたもんね
ほっとけ
ドラマ小説マンガで薄ぼんやりとしか歴史を知らないアホに
幕末史を一から説明しようとしても馬の耳に念仏だ
上のやり取りが全く頭に入っていないようだからなw
今即攘夷によって、成功した面と失敗した面がハッキリ現れた
これがあったから明治維新に進んだ
成功面は今即攘夷を行った薩長に士気と変革が興り富国挙兵に進み、その後大正まで日本主導する事になる
失敗面は日本は改めて封建制の弊害で一致して攘夷できる様な体制でないとハッキリする
>>781 P.65 文久元年辛酉の項に、
>三月三日の夜、偶ま井口村刃傷事件起り、
>下士池田寅之助なる者、實弟の殺されし其の場に、當の敵なる上士の剣客山田廣衛を斃し、
>従容として屠腹したるが、坂本等一時池田の宅に集合し、敢て上士に對抗する気勢を示したり
としかないな。
龍馬がこの事件に関与したのも創作の可能性があるが、これに関連するその他の逸話の元ネタは「汗血千里駒」+「竜馬がゆく」の創作かな。
実際の所、土佐勤王党結成とは全く関係ないw
龍馬伝HPで龍馬記念館の学芸員(元教師で史学畑と無関係の人)が関係してるんじゃないでしょうかね〜とか言っていたが
これも創作で広まったイメージを踏襲しているに過ぎない。
>>782 勤王党の結成自体には全く関係ないと思うけど、この事件をきっかけにして、勤王党への参加を決めた連中は結構居たんじゃないかと個人的には思う
で、そういう連中は、明治になって、板垣の自由民権運動に参加したんじゃないかな
>>784 んでその根拠は?
この事件と勤王党の活動にどういう関連性があると考えているわけ?
>>782 >実際の所、土佐勤王党結成とは全く関係ないw
>>784 >勤王党の結成自体には全く関係ないと思うけど
大石弥太郎は不免俗組の幹部
不免俗組とは何ですか?
>>786 つまり、尊皇の志があつい武市は、人権派の大石から都合よく利用され盟主にされてしまっただけって言いたいのか?
酷いやつだな大石www
>>786 維新後の民権運動と井口村事件にどんな関係があるかは結局説明出来ない?
各地で不平士族が反乱起こして粛清されてたり
土佐でも、反乱の疑いをもたれた連中が投獄される立志社の獄が起こったりする事件が起こったため
土佐の不平士族達は自由民権運動に走ったんじゃなかったっけ?
つまり土佐の不平士族が反乱起こす代わりに行ったのが自由民権運動
ようするに井口村事件が勤王党が出来たきっかけというのは、自由民権運動をアピールするための坂崎の創作だと考えるようが自然だよな
井口村事件を不平士族反乱と重ねたかったんでしょ
勤王は必然的に四民平等の思想と意味が含まれてる
古代天皇親政は身分制なく官位のみで、庄屋同盟とかの思想は典型的
士農工商の身分制がはっきりできたのは、徳川が成り上がり者が多い戦国乱世を納めるため
武市の場合は白札だから勤王思想と共に脱藩せず最後まで藩に対する忠義にも拘った
板垣が戊辰戦争で会津攻めした時、会津農民は我関せず所か官軍側に協力した
やはり四民平等でなければと板垣の自由民権運動のきっかけの一つになった
板垣の会津での経験がきっかけで自由民権運動に目覚めた発言はウソだろw
794 :
661:2011/09/03(土) 10:42:01.62 ID:MSKgamoU0
>>732 ありがとうございます、流離譚を手に入れたのでこれから読みます。
安岡家系図を見ると十作自身も養子ですね。
門田秀實(秀実)が門田本家で、十作はその次男、宇平から見ると「大叔父の息子」に当たる続柄のようです。
その左下辺りに記載のある「門田信次」は秀實の長男、十作の兄に当たるようです。
>>739 ありがとうございます。なかなか難しそうなので時間をかけて読んでみます。
資料館についても時間を探して行くようにします。
>>760 ありがとうございます、調べてみます。
郷士が虐げられてたかは分かりませんが、明治、大正に生まれた方は上士に対する反感?のようなものがあるように感じます。
江戸時代から続いてきたものなのか、近世になって刷り込まれたものかは分かりませんが・・・
屈折したものかもしれませんが古くからの家であれば長宗我部の家臣であるという郷士なりのプライドもあったようですし、山間部に行くほどに山内以前への思い、一種の懐古主義のようなものが残っているように思われます。
いずれにせよ、面白く無く思っていたとしても、話のネタ程度で本気でどうこうしようというものではなかったのではないかと思います。
板垣が自由民権運動の理念を知るのは明治6年の政変で下野してからだが。
戊辰戦争で会津士民が一体になり、官軍に抵抗していたら板垣はもっと苦戦したか死んでた。
士農工商制は、むしろ隔たりで秩序統治する制度。
軍事的義務と政治参加権は武士が独占する代わり、庶民は国家に関する軍事的政治的責任は負わない。
郷士が拷問されあっさり腹切らされてる面や、脱藩が多かった面からも身分制の軋轢はあったんだろね。
板垣は戊辰戦争後にいち早く兵制改革を行い、身分制を破り、歩兵、騎兵、砲兵、工兵の四種を備え皆兵に切り変えた。
戊辰戦争の実戦経験も活きたと思われ。
長宗我部は誰でも武士になれる一領具足制を取ってたから、数万の兵を動員でき四国の大半を制覇。
百姓からして長宗我部家臣で、身分制の隔たりが薄い。
山内家が進駐してきた時、もっとも反発したのは正規の長宗我部武士より一領具足の農兵。
容堂が腹切らせたのは武市だけじゃなく、上士の野中太内もだけど
容堂は身分とか関係なく保身で時勢的にじゃまな奴を切腹させただけでしょ
>>792 天保庄屋同盟って肩身の狭くなりつつあった庄屋が祭礼で席次を無視されたことに対して
本来の序列・格式を尊重せんかい!って怒った事件であって、
むしろ封建制の適切な適用を改めて求めるような動きなんじゃないの?
土佐勤皇党の勤皇運動も同様の性質がある。
勤王に四民平等の思想が含まれるなんてのはもっと後の話。
>>794 高知県立図書館の三階でデータベース化された土佐史談会の全会誌が読めるけど
ついでに先祖の調べ方など尋ねてみてはどうでしょうかね。
あと間崎滄浪の『滄浪遺稿』文久2年閏8月下旬頃の記録に
壬戌秋日、与門田為之助、坂本龍馬、上田楠次、会飲、時新令始下とある。
遊女の子は女子なら遊女に、男子は奴隷にするべしと言ってた板垣が変われば変わるもんだなw
799 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 00:09:46.32 ID:CfsD0JfF0
板垣や中岡は戦の一字を経て到達した思想だからな
久坂の西洋と云う毒蛇に噛まれ全身に開国の毒が回った後では、もう攘夷も崛起もできないという思想
幕末に平等思想を持ち込むのが誤り
正統な序列に基づいた忠義を尽くす事を常々主張してきた武市が脱藩しなかったのは当然の事
そもそも反体制的な目的で活動してたら藩主が協力しないし、藩の支援無しには大した事は成し遂げられない
801 :
661:2011/09/04(日) 00:47:29.97 ID:dfnWdpBK0
>>797 ありがとうございます、2階の山内家文書は関係ありそうな部分は見てみましたが、3階は行ってなかったです。
『滄浪遺稿』についても調べてみます。
私自身、さほど時間が取れないため調査がなかなか進みませんが、他の事も含めて分かったことはここで報告するようにします。
現時点で私の分かることでここで役に立ちそうなことは、門田為之助が僧格林沁(センゲリンチン)の文書を書き写していた事くらいです。
忙しくて解読できていませんが、清が西洋に対抗する必要性について述べた文書を為之助が書き写したもののようです。
清の思想などについて学ぶ事は当時の志士の間で多かったことなのでしょうか?
802 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 01:34:45.81 ID:CfsD0JfF0
勤王もルソーも中の論理が違うだけで同じ面がある
昔は平等だった
武市は拝謁権あり藩政を動かせる立場だから龍馬などとは立場が違う
>>790 明治初期における高知の諸派勢力
『古勤王党』 土佐勤王党の直系結社。復古主義的だが幕藩体制否定派。立志社の民権的イデオロギーに反対した。※西郷の挙兵に呼応
『立志社』 板垣退助を中心に、中流以上の上士(郷士も数人)が集まり士族救済を目的に設立。後の自由民権派。※西郷の挙兵に呼応
『静倹社』 上士だけが集まり、封建制と藩政復活を目的に結成。新政府の平等主義に強く反対を唱えた。※西郷の挙兵に呼応
『中立社』 新政府に出仕していた元勤王家上士の佐々木高行が、立志社、静倹社、古勤王党等の諸勢力を纏めるために設立した。
西南戦争の際に佐々木は、積極的に民権派の主要メンバー逮捕と古勤王党の解体工作に動き、高知県士族らの武装蜂起を制圧した。
古勤王党と立志社は、西南戦争時、西郷軍に呼応しようと一時的に提携して武装蜂起を図ろうとしたが、それ以外では反目していた。
※明治十年頃の高知県内諸派兵力は、古勤王党千百名、立志社五百名。静倹社は不明。
>>802 一体何を指して同じ面があると言っているのか
「昔は平等だった」とはいつの時点のどんな状態を指しているのか
>>802 > 勤王もルソーも中の論理が違うだけで同じ面がある
アホすぎて話にならん
自由民権運動も国権前提の勤王思想と交じり合った自由民権論
中江兆民も、皇国思想や天皇親政を批判したことはない
自由民権運動は国学以来の系譜の延長線上にあるからとされてる
王権親授説を否定して人民主権に大きな礎を残したルターさんと勤皇がねえ。
>>806 天皇ありきの曲学阿世でしょう。
日本の天皇制の一つの特徴だね。
天皇制、尊王思想をベースに幕末維新期の日本の政治体制は変化していったけど
幕末と自由民権運動の思想的背景を同一に語られるのはちょっと…
ところで来週日曜日に室戸市で松岡司先生の「中岡慎太郎」出張講座があるね。
来月は別の講座があるけど以蔵新伝の内容に疑問がある人は直接聞いてみては?
>>801 >僧格林沁
太平天国の乱やアロー戦争で活躍した清の軍人か。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1 wikipediaの孫引きで申し訳ないが太平天国の乱は当時かなり注目されてたようだ。そもそも「尊王」も「攘夷」も中国から輸入した言葉だしね。
門田為之助の勝以外の学問の師は誰だったのかな。
ところで「龍馬が生まれたまち記念館」の一弦琴展示解説で門田宇平の門人の説明があったんだが
もしかしたら門人帳などが残っているかもしれない。
直接行くのが難しいなら電話で問い合わせたらいいかもしれない。
天皇制はもともと一君万民体制。
西洋の自由平等は絶対王政と個人の関係から発達、民権思想の発想元はキリスト教。
現実に民の力が強くなるほど民権に移行して行った。
天皇制の場合、王権面と政教面二重の役割があった。
尊皇攘夷はそういう意味で、物凄い考えられた日本に合ったスローガン。
清は尊皇攘夷を貫徹成立できず植民地化された。
本来武器の優劣があっても、当時のイギリス程度の植民地にされるはずがない。
阿片戦争も武器の優劣は十分承知し、内陸に引き込みゲリラ戦で絶滅させる気だった。
実際イギリス軍は、民衆の蜂起でほぼ全滅しかかった。
>>774 山本喜三之進も石部宿事件に参加してたのか。
久坂の手紙を持って帰り、弟・四朗も党員で妹が大石団蔵の妻とガッツリ勤王党員だなw
瑞山らの釈放運動を展開し投獄後は拷問に耐え抜き戊辰戦争に参加、維新後まで生き延びた数少ない人物。
>>801 いずれ調査や子孫の方に伝わる話がまとまった形で活字にでもされるといいのですが。気長に頑張って下さい。
ちなみに樋口真吉の「遣倦録」は「維新日乗纂輯」一巻収録です。
気になるのは龍馬達と別行動になりいつの間にか土佐に帰っている所。
脱藩していなかったから遊学期間が終わったらそのまま帰国したものか。
>>728 左行秀といえば近藤長次郎に目を掛け修行資金を援助していたらしい。
人間関係狭いんだな。
牢番として牢に潜入した党員が後藤に武市の所の奴だとバレて摘み出されてたと伝わってるが
この人の名前は依岡権吉?依田権吉?
どっちだったっけ。
小説はソースにならんからなぁ
>>814 おk。では、これでどうですか?奥さんw
寺石正路の大著『南学史』によれば、門田為之助は
小高坂村車瀬に住んでいた、池治助に読書と習字を習ったそうな。
同門には望月亀弥太、野村維章らがいたようだ。
それほど間違ってはいないだろ。同時代的な感覚だと。
書簡見てると好戦的な表現が目につくけどな龍馬。当時の感覚だと普通かもしれんがw
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス
権門貴族モ貸借スルコトナシ
その後の時勢を見ると単に見込みが甘かっただけ。
最後は龍馬も討幕派に舵を切り、仲間内で『平和主義者』は容堂の顔色を伺わなければならない後藤のみ。
龍馬は実の所全く平和主義者ではない。
規則破った海援隊士切り殺したり、仇討ち暗殺したりする龍馬が平和主義者とか笑わせるww
武市の暗殺ヒャハーと同じように、後世の作家が植え付けた間違ったイメージだろ
龍馬が徳川勢力との全面戦争を避けようとしたのは事実だろうが、それは薩摩なんかとも変わらないでしょ。
薩摩にしても、ギリギリまで政治解決しようとして、妥協は無理となって戦争になった。
後から見れば鳥羽伏見も圧勝だが、負ける可能性や予測も多かった。
平和主義というなら、当時どっちつきか悩んだ日和見中立派の容堂や格諸藩のがそう。
中岡がわざわざ倒幕説いたのも日和見の和平派が多く、戦いまで覚悟してるのが居なかったからだろし。
龍馬の目的は、武市らを殺し時勢から完全に遅れた土佐を大政奉還建白で救助する。
土佐と薩長を強調させ、戦争の場合薩長と共に戦わせる。
王政復古で新政府樹立を強固にし、徳川勢力と戦わずして勝てる状況をできる限り作る。
徳川勢力の主導権は排除。
無駄な内乱をできる限り避け、外国が入り込む隙を作らない。
新政府に反抗する勢力は容赦せず討つ。
基本的に薩摩と方針は変わらない。
個人と藩を比べないほうがいいのでは?
藩にはいろいろな人がいますし。
西郷と土佐藩比べたらアホかと思いませんか?
例えば某漫画に「長州と気脈を通じ合っていた武市半平太」と言う一節があるけど、
別にこれがおかしな文章だとは思わんな。
「平和主義の維新志士」ってのがまず認識としておかしいわなw
龍馬が平和主義者だと思いたい龍馬オタにとって龍馬は
平和主義に基づいた海軍設立を夢見て平和主義的に武器輸送したり人身売買したりしてたのだろう。
うーむ病気だ。
当時薩摩は、西郷大久保小松らが主導したが皆同じでそ。
薩土盟約は、薩摩は土佐の顔を立て大政奉還に同意する。土佐は兵を上洛させ薩摩と協調する。
土佐からすれば独自の案で、乗り遅れた時流の中心に顔を出せ、薩摩とも歩調を合わせられる。
薩摩からすれば戦争になった場合、土佐を薩摩と共に挙兵させられる。
後藤が兵隊率いずに来たから破約になったが、薩摩も国許の反対で兵を上洛できず最終的に大政奉還に同意。
平和倒幕派と武力倒幕派に単純に分けられるけど、薩摩は両面進めてたんで、龍馬もなんら変わらない。
後藤と共に大政奉還に遂力した小松も、鳥羽伏見の勝利を普通に喜んでる。
龍馬はあちこちの意見聞いて調整しまとめる周旋家で、動けたのも薩長土の協調共益が前提だからだしね。
>>822 まぁ、それは実際に史実でもそうだったからね
龍馬の場合、史実では平和主義者じゃないのに、平和主義者のイメージ定着してる事に違和感感じるわけであって
以蔵関係での武市ゴミクズイメージの逆パターンなんだよ
>>824 薩摩は京藩邸が突出して尊攘倒幕に走っていたので有名。
薩摩主流派が倒幕に傾いたのは四候会議破綻の後だし、
過度の尊皇も戒めてる。
> 薩摩は両面進めてたんで
主流派に両面を進めるつもりはない。
あったら寺田屋事件(文久2)なんて起こってない。
瑞山の王政復古込みの建白書案てやっぱり穏健倒幕プランじゃないのかね。
アレによると徳川は一諸侯の地位に転落するわけだし。
木戸孝允曰く『武市先生に対しては頭が下がった。今日こそ言うてやろうと思うても押しつけられて了う』
という話が森下菅根という人物が筆記した物に伝わってるそうだがこれって何に書いてあるのかね。
あと武市さんが長州のテロに反対した時の長州側の反応とかも。
武力倒幕派ってのは周旋と議論だけじゃ動かない、最期は戦ってでも決着つける覚悟あるよ派。
龍馬もそうであって変わらない。
薩摩は大政奉還と同時に、武力倒幕も進めてたがむしろ当たり前で。
武力や力の背景ない外交なんて現代の国際政治でも通じない。
>>826 寺田屋事件は誠忠組が起こした。
江戸で武市や久坂と約束した上洛は薩摩がいち早くできたが、上洛してから薩摩藩の方針と食い違い急進派は今更引けないとなったんで。
独自行動した西郷は久光に憎まれ島流し。
薩摩の場合も、当初大久保は同志と共に脱藩し、水戸浪士と井伊直弼を斬る路線と、久光に取り入り藩政を動かす路線両面進めてた。
直前に久光に気に入られ、しかも久光が俺が薩摩兵を率いて上洛するわと言ったから脱藩中止。
禁門でも一方で朝廷を主導してた長土と協調し、一転して会津と同盟結び長州を追い落としてる。
追い落とした後は会津と手を切り、前に追い落とした長州と結び倒幕。
元から変幻自在の外交。
>>827 特に穏健ではない。それができるなら鳥羽伏見も戊辰戦争も起きなかった。
実際徳川は諸侯の位地に落とされたが領土与えられて、存続してる。
慶喜は大政奉還しても、どうせ朝廷には武力ないから、結局徳川の力頼るしかないでしょと見た。
むしろ幕府という古い政権の重荷と名が無くせて、徳川は新政府の実権と主導権の実は取れるんじゃないかと見た。
それじゃ大政奉還も王政復古も有名無実で意味なくなる。が西郷大久保らの立場。
王政復古は大政奉還を実にする為の延長的な行動。
そこで処分をめぐり綱引きしてる間、徳川会津が京に上がってきて決裂戦争になっただけ。
>>829 朝廷に武力が無いと幕府に対抗できないなんて、慶喜が考える以前に、文久二年の時点から武市も考えてたと思うんだけどな
だからこそ、朝廷のまわりに武力置こうとしたんだと思うし
その時はまだ武市の考えは叶わなかったけど、維新後に実現した。
>>829 > 寺田屋事件は誠忠組が起こした。
いやいや制圧した方は命令で仕方なく行っただけ。
一悶着あったけど最後は説得したしな。
そういえば吉田東洋って若い頃ついカッとなって家僕を斬り殺し
その一族の復讐を恐れて家に引きこもり勉学に専念し始めたんだって?
上士のイメージ通りの奴だな。
この板の人達は色んな史料を読んでいるんだろうけど、
例えばたけちんぽが下戸だったとか、龍馬が梅毒だったとかは史料にあるわけ?
>>823 戦後の価値観で中世の考え方を評価されてもね。
「尊皇思想は軍国主義の元!」などと言われる向きもあるけど
じゃあ開国通商・軍隊の近代化の先にある対外膨張路線は無関係なのかと聞きたい。
ところで望月亀弥太の兄・望月清平の日記は現物が確認できず偽書ではないかと言われているらしい。
>>834 その清平日記の話を横田氏が平尾氏にした所
「『望月清平陣営日記』ね、フフフ…」と言われたそうだw
ただ戦災で焼失した可能性なんかも考えられるが。
>>825 このゴミクズって言葉が好きな人は
大河ドラマ板の佐藤以蔵スレで晒されてた南海地震で高知沈めとか言ってる佐藤健のマジキチオタだろうか…。
山村竜也監修のアサギの話題出すのこの人だけだし。
以蔵萌えの人がこのスレにしがみついても好意的な話は出ないしネットで勉強した気になるのもおすすめしないけどね。
菊地明は結論ありきで決めつけるの大好きだよね
以蔵の本も酷いもんだったしな
>>837 何を今更
岡田以蔵みたいなヘタレクズDQNのヲタなんて脳味噌腐った腐女子に決まってるだろw
いつも場違いな話題ばかり出してすぐ分かる
ゴミクズ以蔵が気になって仕方ないんだろうなw
まっ瑞山に好意的で以蔵のクズ振りをよく承知してる松岡氏が連載担当してくれて一応良かったとしとこう。
>>836 有難うございます。
やっぱこの板の人達ってスゲエや。
この梅の 花をば君の 面影と 思いかへして 眺め暮らさん
良い歌だね!
一番面白いのはあの武市先生が奥さんにこんなこと言えるんだなという部分だけど。
横田氏が最後まで続く武市夫妻の獄中書簡のやりとりに胸が熱くなるな…的な事をいっていてワロタw
獄中書簡集に愛詰まりまくりなのも頷ける。
そりゃ家では
富ぃ〜まってつかさぁい〜とか甘えてんだ
『武市先生の未亡人に逢うた時未亡人が言った。存生中どんな事をしても先生は格別のことは言わなかった。
富夫人が嫁入りして一年二年経っても小言を言わぬので一日夫に
「久しく居りますがお叱りになったことがない、お気に入らぬことは御遠慮なく仰せられたい」
の意味を述べると先生は
「女のすることはお前に任してある故に、男が女のすることまで切り盛りをすることはない」』
>>843 龍馬の立ちしょうべん対する抗議は避けた武市さん
>>847 これはwwwキモいを通り越して怖さを感じるレベルww
>>847 メンヘラで腐とか終わってんなこの佐藤兼以蔵オタ
以蔵オタって本人に加えてオタまでタチ悪いのな、対象が対象だからなんだろうけどw
スレの最初の方でやたらとファビョってた時はネットで何を見たのやら
>>847 ツイッターも相当キモイなこいつ。
何で龍馬伝の佐藤の扱いが気に食わない!キイィ→高知滅べになるんだよw
>以蔵!以蔵たん!!アサギの以蔵たん!!!(*´Д`)ハァハァ うぉぉぉぉおお!!、以蔵たんとはマジでちゅっちゅしてぇ!!再登場はあるんだろうか。あるとしたらいつ頃になるのか。/アサギ 人斬り以蔵、マジイケメンwww
まあこの手の奴だよな、バレバレだったけど
以蔵新伝の感想、ここに書いたのと同じ事を延々と書いてるが
こんなキチ腐の読者が付いてる松岡司が不憫だw
>>845 どんだけ延滞してるのかと思ったら戦時中の話か。
戦争で焼失した貴重な史料も色々あるんだろうなあ。
>>837でどんなクズだよと呆れつつ
>>847を見たら、ああこいつか。
佐藤以蔵スレでも曝されてあまりの痛さにどん引きされてたな……。
そもそもあの史実無視で美化されまくりだった佐藤以蔵の何が不満なんだか、
美化が過ぎて自分の中ではあれは『岡田以蔵』では無いことになっているくらいだ。
>>851 そんな事言ったら『武力に頼らない平和的な手段を模索した人物』みたいに表現された龍馬も大概だよw(公式HPより)
坂本龍馬の歴史上の立ち位置まるで無視かコラ。
もういいよ岡田以蔵みたいな志士崩れのゴミカスの話題は。腐女子がブヒブヒ喜ぶだけ。
結局最後は龍馬にまで見捨てられたカスなんざイラネw
龍馬の思想行動に影響を与えた人物として名があげられるのは大体勝海舟とかで、
瑞山が龍馬に与えた影響は無視される傾向がある。
勝は影響のあった人物の中の一人に過ぎない。
横井小楠、大久保一翁にも注目するべき
龍馬の海外への関心は河田小龍との接触以前から親族を通じてあったのではないかとも言われている。
赤松小三郎「御改正之一二端奉申上候口上書」の影響は結局どうなんだろうね。
幕府に近い人間の影響が強くなっているのが面白いね。
久坂先生の影響が無視されてるわね。
龍馬の思想で一番影響強いのは久坂だと思うけど。
瑞山先生も当時数多く会った諸藩の人で最も信服したのは久坂だし。
吉村や龍馬らが脱藩したのも、久坂に会ってだし。
中岡も文武両道の久坂先生と年上なのに絶賛の詩を作ってる。
死んだ久坂の事を、良く書いてる。
高杉も久坂兄に及ばんとしてたし、禁門の時も死んだと言う噂が流れてるけどほんとですか、毎日夢に見ると書いてる。
西郷も久坂先生が生きてたら参議などと言ってられんと言ってる。
龍馬は瑞山の感化で志士になり、
久坂+吉村達の影響で脱藩し、
その後は会う人間に随時影響を受けていってる。
特に誰が一番というのは無いと思うが最終的には
>>844に見られるように
瑞山の路線も取り込み発展させていったようだ。
本来瑞山のやり方が正攻法だっただけなんだが。
正攻法のはずだった瑞山は、今ではすっかりキチガイ扱いがデフォな件
あんまりこういう事は言いたくないんだが、
尊王思想にアレルギーがあり、開国思想が一方的に正しかったと思い込み、
かつ戦後民主主義が生み出したヒーローとしての龍馬像が大好きな人は、
龍馬を尊王攘夷思想から遠い所に置きたいがために、
龍馬が瑞山に感化されて志士になった点を無視したがる面もあるんじゃないかね?
それくらいキチガイなことしないと時流にはのれなかったんだろうよ
結局よそ者に尊厳も金銭も吸い上げられ、時流による名誉も横取りされる結果に終わったが
龍馬は藩政を動かせる立場じゃないからね。
後藤が接触してきた為に、後藤を通し初めて影響与えられる立場になった。
大政奉還にしても、土佐藩救済の面もある。
瑞山は拝謁し容堂に意見述べられる立場で、中岡も容堂に拝謁した事がある。
瑞山は踏み止まって脱藩せず、中岡は弾圧後に脱藩し、龍馬は初期に脱藩した違いはここらだろう。
龍馬の政治思想と政治的立場も、勝、横井、一翁らによって個別政策面で影響受けても、根本的政治思想と立場は最初から変わってないだろう。
周りからも幕府派に変節したと見られてないから、薩長同盟にも関われたし。
龍馬の脱藩を、武市のやり方にうんざりしたからだという事がまるで史実みたいに広まってるけど、実際には久坂の手紙のせいだよな。
ID:f9pcRMx2O
以蔵オタのキチガイは話に混じらんでいいぞw気持ち悪いからw
龍馬は戦前も薩長政権に対するアンチテーゼだろ。
旧佐幕派からすれば、明治維新は薩長の陰謀という陰謀史観。
他藩からしても、薩長閥がむかつく。
土佐派も明治6年の政変で下野し自由民権反薩長の立場になった。
薩長の西郷、大久保、木戸を超える大物にして本物の志士のナイスガイ。
悪の陰謀企む薩長の前に立ちはだかり、大政奉還で徳川や佐幕派を救おうとし、三傑を超える最高の功績なのに政府に入らず世界の海援隊でもやりましょうと笑い飛ばし、自由民権思想を持つ本物のヒーロー坂本竜馬が誕生。
ついでに戦後は平和主義になり、薩長から目ざわりとして殺されたもついた。
>>864 その論は他の土佐藩の人間にも適用できてしまうのでは?
土佐派の立場がある。
自由民権寄りの思想で、大政奉還を受け持った人物じゃないとね。
武市は薩長と変わらない立場。
中岡も薩長と同じ上、武力討幕側を主に担当。
旧佐幕側にも受けが良く、特定の幕府や藩にとらわれず、自由民権思想的シンボルで幻想が入る人物じゃないと。
武市先生その後の時代の人にとっては感情移入しにくいよねえ
封建社会の精神の結晶みたいな人だったし。
龍馬も江戸時代に死んだ人なんだけどね。
以蔵きゅん萌え〜(笑)のキモオタは散々武市関連スレ粘着荒らしといて
まだここで質問したら答えてもらえると思ってるのかな。
>>719の疑問に反証が無い事もないけど教える訳ないし以蔵関係の史料の話してあげる気も無いよ。
以蔵のアフォについての話はテンプレにまとまってるんだから
もう質問しないで、厚かましい。大体もう誰も以蔵なんて興味無いし全く話題にしてない。
武市先生を悪く言ってるのは何より創作から入ったDQNだって自分から証明してるじゃないw
堕落したマジキチ殺人鬼のファンって公言して憚らない人ってやっぱ人間性おかしいと思う。
以蔵新伝はどれくらいの期間続けるつもりなんだろ?
あのペースだと7〜8年くらいかかるんじゃないか?
>>868 実は田中光顕のサイン入りの本自体はそんなに珍しくない。
チクとスレ違いかもだが板垣退助縁の史料が41点も新たに寄託だって。凄いな。
一応瑞山先生の存命時から板垣と協力しようという動きはあったそうだ。
板垣は上士には珍しい尊王攘夷派で、後藤とセットのイメージがあるが、
実際は吉田東洋とも距離を置いてた変わり者らしい。
>>859 面もあるというよりその通りだろう。
維新志士が幕末に生まれた背景には江戸時代を通じての儒学・国学の発展があるが
現代人にそういう価値観は理解が難しい。
そこに現代人の価値観を持ち込んでしまうから
その時代日本にに無かった考え方を幕末の人間が持っているような勘違いをし
挙句の果てにトンデモな歴史解釈をする羽目に陥る。
>>871 > 後藤とセットのイメージがあるが、
ねーよw
尊皇攘夷運動は間違いで自由民権運動は正しいみたいな感覚なんだの。
戦前の皇国史観への反動なんだろうが。
板垣と後藤がセットにされがちなのは幼なじみだからじゃね?お互いをいのすやすと呼びあってたみたいだし。そりゃあ大人になれば思想も違ってきたりするけど、絆は変わらないのでは?
それは龍馬と収二郎も同じだし
龍馬と収二郎って仲良かったか?
涙痕録の人物評見ただけだと親密かどうかわからんけど
そろそろ「盛組」の登場ですか?
>>876 >>875は例のキモオタだ。触っちゃいかんw
ところで池内蔵太って勤王党血盟第一陣から参加し
その後は割と何でもありの面白い経歴だよね。
この人達別行動してる土佐勤王党員についてはどう思っていたんだろう?
フィクションの板垣後藤ってジャイアンとスネオみたいだなw
西郷大久保がセットで語られるのと同じなんじゃないの
>>878 別々に行動しても大目的は同じなわけだから
互いに交流や人員の出入りが続いてたんじゃないか。最良だと信じる手段が違うだけで。
坂本が幕府側の人間との交流を深めながら長州にも信頼されていたのは
瑞山ら土佐勤王党のコネのお陰。
白石正一郎の仲介も大きい。
いずれにせよ、コネは最初だけでしょ。
長州の人間が人を見れないボンクラという主張するのでない限り。
尊皇攘夷派の立場が長州の浮沈にかかっていたことを考慮しても
土佐勤王党員は長州好き過ぎるw龍馬含めて
宮川助五郎とか何やってんだよw
山内も土佐の偉人認定されてるよ。銅像あるし。
885 :
801:2011/09/22(木) 01:51:44.69 ID:gbn9SXkf0
>>810 ありがとうございます
残念ながら、活字にできるほどには伝わっていないです
本家、宇平の家、為之助の家がそれぞれ別で、為之助自身も子供がいませんでしたが、その後も養子貰ってばかりです
また、安岡家と違って屋敷が残っていないことからも分かるよう、明治以降は苦労したようです
為之助のことについては、ほぼ公表されているものしかないのかな、と思っています
>>813 ありがとうございます
>>883 長宗我部が入っている理由は、ゲームとかでのブームのおかげではと思います
個人的には長宗我部が評価されることは嬉しいですが
山内なんて賊軍になればよかったのに
>>886 そういう事言うなよ。
山内だって、山内の事情があったんだろうよ。
ここの連中って、山内アンチだらけなの?
最後の藩主豊範は武市を守れなかったことを生涯悔いていたんだぞ。
容堂も普通に好きだよ。
豊熙が生きてりゃ容堂とか出番ゼロだったよね
最初に東洋を見出だしたのもこの人
微妙な立場だった容堂が色々やらなきゃ土佐も日和見藩の一つだったろうな。
責任ある立場の人間は普通リスキーな事はしない。
>>887 勤王党や23士の非業の末路を考えるなら、ここの連中はほぼアンチだと思うぞ
少なくとも俺はアンチだ
>>891 というか斉彬時代の薩摩の藩主主導の政治が異常。
基本は合議制。
そういう意味では武市の切腹決定も異常だが。
>>892 つまんないやつ。
勤王党好きだけど山内も好きだよ
容堂ぶっとんでて面白い
上司にはしたくないがww
豊範は勤王派に同情的だったんだっけ。
子供の頃に読んだ「おーい!竜馬」をきっかけに武市半平太や土佐勤王党に興味を持ったんだが、
未だに容堂=差別主義者の悪人的イメージが抜けきらない。
あの漫画の容堂のキャラが俺には強烈過ぎた。
武市と以蔵の死刑を後藤達に命じる時の容堂がめちゃくちゃ怖かった。
容堂も複雑な立場だったのさ。
時勢に加え山内家内、藩内の事情、藩主同士の事情など考えなければいけない要件が色々あった。
尊皇と佐幕どちらを優先するのかは親幕藩でも難しい問題なんだ。
破天荒に見えてもイメージほど自由だったわけじゃない。
>>885 各博物館にメール何かで問い合わせてみたら色々捗るのでは。
家の襖から古い書き物が出てきたって人も結構いるからね。
>>757の書簡も暇な時に読んでみたらいいんじゃないですかね。
海舟日記には門人になって以降の記録は他にあるのかな?
門田為之助は龍馬が暗殺されるちょっと前という慌ただしい時期に病没してるから埋もれた人物になってしまったのかもしれん。
京都藩邸生まれで京都の事情に通じ容堂に可愛がられたって人物評をどっかで見たがソースは忘れたw
>>894 > 豊範は勤王派に同情的だったんだっけ。
藩主になった直後は、実質、柴田備後・五藤内蔵助辺りが
藩を動かしていただろうし、よくわからんことが多いね。
なにしろ激動の時期は十代だから。
三条実美と血縁関係にあるから、親朝廷ではあったんだろうし、
もちろん、上洛、勅使護衛の後は、
ひと仕事させてくれた勤王党を重く見ただろうけど。
>>895 あの漫画は武市の扱いも相当酷かったと思うがwwwなんせ、悪名高き土佐勤王党始末を参考にしてるからな。
容堂はあまりにもアレだったんで、山内から苦情来たらしいぞw
まあ山内家は一豊が土佐入国した際の相撲大会でだまし討ちしたエピソードが有名なので
子孫の扱いが悪いのも仕方ないかもしれんw
だからといって長宗我部の遺臣と遠州掛川から来た者の子孫が階級間対立したって解釈はどうかと思う。
>>899 自由民権運動に代表される「封建制の打破」が土佐の誇りだからね。
明治維新もそういう評価が主体で、王政復古運動による統一国家の誕生は二の次なんだろう。
明治維新の半分が見えなくなっちゃってるんだと思うよ。
後年に遡って現在の価値観を適用するのは本来やってはいけない事なんだけど…
>>898 器の小さい竜馬(この漫画では竜馬)の引き立て役って感じだったな、あの漫画の武市は。
あげくに妻一筋なのも性的トラウマが原因の様に描かれる始末ww
嫌な奴だな〜と思いながら読んでたけど、人間臭くてそんなに嫌いでは無かった。
去年の大河の武市はあの武市を良い人化させた感じだと思っている。
マンガやらドラマやらの話はどうでもいい。
月形半平太の話をするのと同じで板違いだ。
と言うか自演かよ
>>902 いや、板違いではないだろ
脚色とはいえ、あれも一つの客観的見解だから
一蹴するのはどうかと
お前のマンガ(笑)の下らん感想なんてどうでもいいんだよアホがw
マンガとドラマの話しか出来ないなら歴史板に来るな、ウザい
史実通りに描写したら龍馬の脱藩はガセ情報に踊らされたただの先走りだからな
この時期の瑞山の働きと比較されるとグダグダしてる龍馬が霞んで見える
まあ戦前は右翼が皇国史観で歴史を歪め、今はその反動で左翼が歪めてるって事だ
そういえば岡田伊蔵も左翼劇が悲劇(笑)イメージの原点だったな、実際はただのクズの自業自得だがw
>>901 創作の武市扱いなんて、おーいに限らずそんなもんでしょ?
創作では、信念と人間性全否定の小物がデフォ
馬鹿馬鹿しくなって、最近では資料しか読んでないな
>>905 真山青果の「人切り以蔵」はプロレタリア文学だと指摘してる人がいて成る程と思った。
司馬遼太郎版の「人切り以蔵」にしてもそうだが、
あんなベタベタの泥臭い話をよく実際にあったと思い込める人間がいるもんだw
全くおめでたい頭の持ち主だよ。
武市もよりによって以蔵とセットで扱われて気の毒なことだ。
そういや龍馬伝説がテレビで検証されてたなw
葉山の御夢、汗血千里駒、真山青果、司馬遼太郎…
時代によって異なった要素を託されてるのが面白い。
最近は瑞山の方にも好意的なスポットライトが当たる機会が増えてきて良かったよ。
個性に関しては龍馬に負けず劣らずだがタイプが正反対なんで創作ではどうも相性が悪い。
片方の正当性をアピールするともう片方がくすんでしまう。
れっきとした勤王の志士としての坂本龍馬の足跡を辿る本格的な資料で何かお薦めの物はある?
龍馬を尊王攘夷思想から離れた場所に起きたがる連中の本はひとまず敬遠したいんだが。
>>908 >最近は瑞山の方にも好意的なスポットライトが当たる機会が増えてきて良かったよ。
…とは言っても未だに出鱈目書く本も少なくないからなあ……。
それが創作に限っての話ならまだともかく、そうじゃないから呆れる。
時々本気で武市の評価を上げまいとする一派があるのではと勘繰りたくなることがあるよ。
>>908 そうか?
番組の感想見たら、龍馬伝説が創作だったなんて信じませんキリッみたいな連中だらけだったぞ?
一回そういうイメージが付いちゃうとなかなか覆せないんだよ
武市の悪人的なマイナスイメージも同じで、まだまだ覆すのは難しいと思うよ
以蔵新伝、毎回オチ部分で以蔵がディスられてんのが恒例になってきてるなw
武市age以蔵sageにしたいのは伝わってくるが松岡氏ももっとスマートにやればいいのに、相変わらず表現がくどい
勤王思想や対外強硬派にアレルギーがある人達にとっては、
武市半平太みたいな人物の評価が上がるのは困るだろうね。
龍馬オタは龍馬を偶像視したいだけで龍馬の実像に興味があるわけじゃないからw
歴史創作ファンと歴史研究が趣味の人は住み分けた方がいいよ。これは別々の趣味。
薩長同盟の交換条件も「義ではなく利で取引するぜよ!」なんて龍馬が提案したという史料はないし
武市さんも龍馬も時勢に応じて薩長のサポート役としてよく働きましたね〜って評価で総合出来ると思う。
>>909 龍馬もれっきとした尊王の志士で〜というような事は松岡司も書いてたけど
坂本龍馬の関連書籍で決定版ていうのは無い。
本人史料に加え、龍馬を特別視する事無く幅広く幕末の本を読んでいく事をおすすめする。
横田達雄が「以蔵毒殺計画は実行されなかった」と結論づけてたけど、
ある本で「以蔵毒殺計画は二度実行されたが、いずれも失敗した。
一度目は以蔵がニラや野菜類を好まない事を知らなかったためである」
みたいな事を書かれてた。
「野菜の中に毒を仕込んだが、以蔵がニラや野菜類を好まない事を知らなかったために毒殺失敗」
の事実を伺わせる資料って、何かあった?
>>916 知らなかったどころか、牢番に調べさせたから以蔵の好き嫌いなんて知ってた
なんの本かは知らないけど、間違ってるよそれ
武市下げしたい連中の戯れ言としか思えないけど
>>916 そんな史料は無いw
つーか横田達雄氏の検証記事も読まずにここでその話をしても埒が明かないという事をまず理解するべき
誰が書いたどのムック本の記事だ?w
>>917 やはり以蔵の好き嫌いに関しては、事前に(結果的に計画は実行されてないけど)普通に知られていたんだな。
最初は敢えて本の名前を出さなかったが、この話が書かれていたのは例の土佐勤王党始末。
『毒殺に失敗した理由』として「以蔵が野菜類を好まなかった事を知らなかった為」云々と、
妙に具体的に語られていたから、「嶋岡は一体どこからこんな情報を仕入れたんだろう?」と 、ずっと気になってた。
>>918 やっぱり、そんな資料は存在しないのか(つまりは著者の妄想と言う事だな)。
数年前に国会図書館で土佐勤王党始末を読んで以来、ずっと気になっていた事だったんだがw
毒殺計画は実行されていない事が横田達雄の調査で解った事は以前から知ってはいるが、
自分は都内在住なもんで、なかなか横田達雄の本を読む機会が無くてね。
いずれ再度国会図書館に行って、横田達雄の本も読んでみたいと思う。
妄想というよりここまでくると武市アンチの嶋岡の『嘘』だなw
横田氏の獄中書簡集が出て調べる手間がある程度省けたんで
ここぞとばかりに武市先生の悪口を書いたのが「土佐勤王党始末」。
凄い下品な内容だったがどうも潔癖症的な武市先生のキャラが一部男性には信じられないというか、受け付けないのではないだろうか。
横田氏が帯屋町に晒し首にしたるわー!とブチ切れてたねw
嶋岡も横田氏の剣幕に後でめっちゃビビっていたらしい。
そういえば横田氏って「流離譚」の作者にも間違ってる部分を指摘した手紙を送ってたんだってね。
現存してたら公開してほしいなその手紙、かなり読んでみたい。
「流離譚」いい本だけどマイナーだよね。絶版本の割りに入手は容易だけど。
なんだ、土佐勤王党始末だったのか。
あの本は武市disるためだけに書かれた武市ヘイト本でしかないから、読むだけ時間の無駄だよ
瑞山先生と以蔵のこの話題定期的に出るNE!いい加減ウゼー
次スレはもう少し建設的な話が出るといいね、
あと不毛なディスり合いはいい加減止めにしないかw
龍馬を平和主義者にしておきたいのはドリーム全開の龍馬信者に加え佐幕派贔屓の輩もだね。
平和主義者の龍馬を断固倒幕派の卑劣な薩摩の奴らが暗殺したんでしょうね〜というイメージを刷りこんで
賊軍側の悲劇wの象徴・バカ殿松平容保の暗殺への関与から目をそらさせようと必死w
賊軍地域の一部の歴史家の俺たち無実の被害者なんです史観にはウンザリだよ。
924 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 20:00:37.28 ID:N98gSoo70
武市さ〜ん まってつかさぁい〜
不当に悪く言われてる人物のファンはナイーヴになりがちなんだよ。
武市先生に限ったことじゃないけど。
>>921 獄中書簡こそカリスマ的な魅力があるといわれた武市先生の真骨頂じゃないか。
あの本で武市先生好きになった自分みたいなのもいるのにまあ色んな受け取り方する人がいるもんだ。
奥さんとの細やかなやり取りや牢番からの凄い慕われぶりなんか感動したけどなあ…
非番でもお見舞いに来られたりホタルや大量のお花の差し入れされたりとかさ。
テレビで思い出したけど
田中光顕って超勝ち組人生で心底羨ましい奴だな
土佐人だけじゃなく高杉の弟子で顔広いし
晩年は遺品コレクターで石碑立てまくり
幕末〜太平洋戦争直前の空気を感じられただけでも羨ましいが
60過ぎてから生娘を嫁にしてやがってこの野郎
政府に残った方は瑞山
野に散った方は龍馬を立てた
>>野に散った方は龍馬を立てた
大石弥太郎も?つか、個人的には、龍馬だけじゃなく平井収二郎も自由民権運動に利用されたイメージあるんだけど
龍馬は民権派のプロパガンダだろ
そして政府の薩長閥に不満持つ奴が「リーダーの武市先生さえ生きていれば土佐だって…」と
夢託しちゃった感じ。
以蔵連載って終わったら本にする予定とかあるのか?ネットだけ?
>>931 本になるっしょ。というかいいのかアレ毎回恒例の様に以蔵をディスっててw
以蔵のアホがもっと志高くしっかりしてれば
武市さんも創作ネタでウダウダ言われずすんだのに全くもう。
もしくは身を持ち崩した段階で龍馬の所でケジメつけておいてくれればなー。
近藤長次郎みたいに。
瑞山が生きてたら薩長の思い通りにはさせなかったろうに
せめて龍馬、中岡のだれかいきてれば
土佐はその辺が白状
実際武市先生は西郷の人望と大久保の謀才と木戸の世故を合わせたような人物だからな
>>934 武市さんに大久保の謀才?流石にそれは無い
策謀なんざ、武市さんからは一番遠い存在じゃね?
何を指して言っているのやら
薩長の思い通りって何を指してるの?
容堂公が悔いてたのも武市さんがいれば土佐閥の地位が今よりマシに〜というより
もっと忠義や信念に関する心情的な事だと思うよ。
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 23:09:47.31 ID:/upJZeja0
三藩連合、東洋暗殺、クーデター、朝廷工作と武市の謀才と政治力のおかげだろう
粘着の相手はするなっての
>>933 武市は生きていても新政府で大きな仕事はできないでしょ。
大攘夷への転向も難しい性格だろうし。
明治に入っても下野確実ですよ。
>>937 全部猪突猛進の時代の仕事だしなあ…
こっちには向いていたが…
新政府に出仕→下野して田舎で大人しく暮らすエンドだったら良かったのに武市さん
基本的にいつも周囲と話し合って独断しない人だし大攘夷への転向も可能だと思うよ
隠忍自重を求めるタイプで事を荒立てたりもしないでしょ
土佐藩に西南雄藩のサポートさせるのが目的だったんだし
942 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 00:28:35.35 ID:me6aXzhx0
武市は忠義の人でもあるが松陰の思想の影響受けた変革家でもある
土佐を薩長と台頭に並ばせようとした辣腕家でもある
龍馬や中岡も同じ
単なる忠義の人ならそもそも勤王思想は持たないし勤王党を立ち上げて運動もしないし東洋暗殺もしない
大久保も人間的には超糞まじめだしね
>>939 それは別に性格関係無いだろ
道理的に納得できるかどうかの問題
長州が攘夷決行してフルボッコにされたの見ればいくら頭堅くても少しは考えるでしょ
あの時点での考えや性格で判断すると評価誤るよ
944 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 00:42:21.49 ID:me6aXzhx0
そもそも大攘夷なんてのはとっくに潰れたし
大攘夷は幕藩体制のまま開国しようと言う長井なんかが唱えた奴ね
長州が講和したのも八月の政変で破約攘夷で国内をまとめられなくなったからに過ぎないし
ちなみに攘夷派が唱えたのは即今攘夷、破約攘夷、大開国論だし
>>942 >単なる忠義の人ならそもそも勤王思想は持たないし勤王党を立ち上げて運動もしないし東洋暗殺もしない
なるほど。そうだな。
時勢というものがあるんだろう
乱世の〜、治世の〜、という言葉、幕末並びに戦国で思い出す
時代は時代が必要とする人を生み出すんだろう
>>944 明治に入ってほぼ全員が大攘夷になった時の話でしょ。
土佐藩はまったく薄情
武市所か龍馬と中岡もそれで死んだ
土佐藩邸に入れてれば両名死なずにすんだろ
薩摩の吉井がわざわざ土佐藩邸に入れてもらえないなら、薩摩藩邸に匿ってやると来たくらいだし
龍馬が断ったのも土佐藩に悪いと思ったからだろ
>> 947
田中光昭も言ってたね。土佐は冷たかったって。
長州の方が優しかったって
>>946 大開国論となえたのは大久保忠寛だよ
伊東甲子太郎も唱えてる
龍馬は師弟関係で強調される勝より大久保一翁の主張をなぞって実行してる
大政奉還も大久保が唱えたもの
長州藩が実行したのは攘夷の中でも即今攘夷という奴
だから即今というんだよ
なんか混同されてるけど
土佐勤王党って幕府に対しては批判的だけどアンチ山内ではないよね。
山内家に対して複雑な感情はあっただろうけど。
何でペリー来航以降尊皇攘夷運動が盛り上がったかっていうと
臨戦態勢の軍事政権が建前だった武家社会のルールを棟梁であるはずの徳川が反故にしたからで
長宗我部の遺臣でもある下士の側としては徳川幕府の不手際には厳しい目を向け
一方山内&上士側としては徳川の肩を持たなければいけない立場で
土佐藩内の対立は身分抗争ではなくて異なるルーツの人間の立場違いから発した対立だと思うよ。
武市は大攘夷を認められそうなの?
やたら、武市を狭量のアホ扱いしたい奴が沸いているが、平井のヲタかな。
平井オタのフリした岡田以蔵オタのキチガイ腐女子ならいたけどなw
平井の切腹について突っ込まれてすぐバレた
次スレにも餌をやるなと書いておこうw
気が弱い癖に凶暴だったゴミクズ以蔵のオタなんて左翼小説に感動したバカと腐女子しかいないwww
以蔵ファンまで叩くのは止めろよ。
ある人物を批判するなら兎も角、その人物のファンの人格攻撃までする手法は好かん。
このスレの住人なら、「自分達がされて嫌だった事は他人にもしない」と、
その辺は十分肝に銘じてると思っていたが。
小説鵜呑みのアホと粘着キチガイ腐女子に遠慮の必要はない
大体岡田以蔵のファンなんてブログで精神病自慢してる痛い奴だらけだったぞw
自分が叩かれる番になってピーピー文句言い出すなんてゴミクズ以蔵そっくりだなw
集団リンチで弱い者イジメの功名心漁りにばかり熱心で風俗狂いで落ちぶれたクズとwww
そういや以蔵の親も上昇志向強かったんだな、成る程w
>>955 まぁ、まともなヲタも居るには居るけど、九割は虚像を崇拝してるだけだよね
夢見過ぎてて気持ち悪いよ
龍馬信者や新撰組信者と同種の気持ち悪さを感じる
>>954 同意。はっきり言ってここで散々暴れていた以蔵オタの武市叩きレスと同じくらい読んでて不快だよ、
痛い奴の相手している内に自分が痛くなってどうするんだ。
ま、以蔵オタの武市先生叩きは酷かったからね〜
土佐勤王党スレだし勤王党の獄で仲間死なせた以蔵が叩かれるのはある程度仕方ない、私も以蔵は嫌いだ。
真山青果の左翼劇由来のイメージ鵜呑みにしてた方が頭パーだったねワロスということでもういいんじゃない?
例の佐藤健/岡田以蔵オタの粘着荒らしも創作イメージと現実の違いが今更分かったからって居つくな気持ち悪い。
お前にレスしたくないんだよ。
話変わるけど尊皇攘夷運動が感覚的にNGで自由民権運動はOKなのは
現代社会に禍根があるか恩恵があるかどうかの違いだと思うよ。
でも高知の歴史業界は自由民権運動的なイメージに引っ張られすぎてると思う。
民権運動も最初から麗しい目的の為に始まったわけじゃないんだけど…
尊皇攘夷運動も自由民権運動もどちらもその時代に合わせて展開した政治運動なんだけどね。
>>950 周布が暴言はいたとき郷士は知らん振りしたけどね
切腹騒動のこと?
>>959 あの場にいなかったのに上士(小笠原唯八)に因縁つけられたんだろ
>>958 >お前にレスしたくないんだよ。
だったらしなきゃいいのでは。何と戦ってるのか知らないけどスルーしろよ。
>>962 >何と戦ってるのか知らないけど
>>24-42みたいな奴とだろう。
何を荒れてるのかと思ったがどうもこれは
土佐勤王党員の墓参りに行ったが以蔵の墓だけは手を合わせたくないのでスルーした
という人のブログ記事見て悔しくて堪らなかったんじゃないかw
結局コイツ土佐勤王党員の遺墨・遺品展行ったのか?
どうせハナから行く気もなかったんだろうに何を偉そうにw
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 11:46:23.13 ID:JjHnvcF6O
>>963 このキチガイ以蔵オタ個人ブログからの引用大好きだから堪えただろうなw
史実上の岡田のクズ振りを知っていれば以蔵の如き堕落したゴミクズの墓になんぞ参る訳が無い
天誅に加わり最後は拷問死した者や瑞山の釈放を命がけで嘆願した者、志士の本分を全うした者と見比べれば以蔵のクズ振りは歴然
涙するのは左翼劇鵜呑みのバカばかりw
>>964 ニュースになった時興味本位であの墓地行ったことがあるけど
参拝者ノート見ると「イゾウきゅん超かわいそう!武市のバカアホ市ね!」みたいな事書いてる
例の粘着アンチみたいな恥ずかしい奴もいたが
「瑞山記念館にも行ってきました」みたいな人も居たぞ。
あの辺まとめて地元の観光コースに入ってるらしい。
同じ墓地に眠る田内衛吉や久松喜代馬たちももっと注目されるといいんだけどな。
>>965 まぁでも、瑞山記念館行った連中も、心の中では武市さん罵倒してたに違いないよ
そんな以蔵ヲタ実際にいたから
以蔵ヲタは漫画脳で、以蔵を脳内美化して、武市さん罵倒までいかなくても、内心馬鹿にしてる人しか見たこと無い
決め付けはいかんよ、決め付けは。
>>966みたいなクズ腐女子を見てるとやはり岡田以蔵オタは
以蔵本人同様のゴミクズみたいな人間性なんだろうなという印象が深まるばかりだがなw
この御時世に南海地震で高知潰れろとか台風で高知に人死にが出れば良かったのにとか書くようなクズと
>龍馬信者や新撰組信者
どっちも嫌いで、本体まで嫌いになった
以蔵は、去年の大河以蔵スレがみる限りまともだったので、別に
何故、こうも荒らしをスルーできない人が多いのか…いい加減腹が立ってくる。
荒らしがいない時にわざわざ荒らしの話題を出して、荒らしを呼び寄せたりもするし。
何年経ったらスルーを覚えるんだよ。
>>969 あのスレも、武市叩きレスで埋まって、まともな以蔵ヲタが宥めてた時あったけどね
あのスレに珍しく常識人が集まってただけだよ
ブログやmixiでは、武市死ねの嵐だったから
>>966 何ひとごとのように言ってるんだ、自分の事だろw
大河ドラマ中はネチネチと同じ様なことを武市関連スレに書き続けてたよな。
コイツのせいで佐藤健までキモくなってきたわ。
>>970 すまんね。
話題を変えると山村竜也の今月の「歴史人」の記事があちこちで叩かれてるな。
龍馬は平和主義扱い、薩摩と慶喜はあることないこと持ち出して叩き
何を庇いたいのか自ずと見えてくるというものだw
印象だけを根拠に似たような事書いてる奴もいるが、山村の場合はワザとやってるんだろうなあ。
山村…ああ、以蔵ヲタのキモ腐男子かwwww武市さんの事も自分の本で、暗殺を好んだ残忍野郎扱いしてたよねwww
相変わらず自分の萌え人物擁護するためには手段を選ばないなぁwww
自分が言われた事を他人にすり替えようとしてもムダなんだよキモ腐女子w
この佐藤以蔵オタ本当に気持ち悪い。
自演もオタナリも毎回バレてないと思ってやってるのかな?
特徴的だから一発で分かるんだけど。
ところで去る九月二十七日は武市瑞山の生誕日で吉村虎太郎の忌日だったね。旧暦だけど。
もう小説仕立ての以蔵新田はどうでもいいから「土佐勤王党」の連載とか始まらないかなあ。
>>965 他の観光客や研究者まで来る場所で痛過ぎる腐女子ノリ全開www
粘着してるキチガイ腐女子以蔵オタのお仲間だなwこいつ自分は別だと思ってたようだが誰が見ても同類だよw
頭悪くてタチ悪い腐女子のまさに典型的タイプww
まあ以蔵の墓自体佐藤健モデルと思しきベニヤ板か何かのショボいキャラ看板が立っててまともな墓の扱いじゃないみたいだがwww
岡田以蔵オタ=キチガイ腐女子で決定
>>971 >ブログやmixiでは、武市死ねの嵐だったから
それがちょっと愛妻エピソードが放送されたら「本当は優しい人だったんですね!(涙)」
「嫌な奴だと思っていたけど、良いところもあったんですよね!」みたいな感想ばかりで鼻で笑った。
見境なく粘着認定して噛みつき、スルーせずに暴言吐きまくる以蔵アンチも相当痛いとしか思えないんだが
全くその通りだけど言っても無駄だと思う。
今までも注意する人はいたけど、軒並み以蔵腐オタ認定して更に叩いてるし。
最近は特にガラが悪い武市ファンが目につくな。
いくらここで暴れまわっていた荒らし(以蔵ヲタ?)が痛い奴だったからって、
荒らしと同じようなテンションで荒らしに対抗したり、他を叩いたりしてりゃ、
「以蔵ヲタも痛いが武市ヲタも痛い。武市ヲタに以蔵ヲタの荒らしを叩く資格は無し」
と思われるだけだと思うけど。
(ガラ悪い連中は、実はわざと痛い武市ヲタを演じてそういう流れに持っていきたい武市アンチかな?)
まぁ、それ以前に自分達が『武市ヲタは○○』と言われて不愉快な思いをしてきたのなら、
他人を同じように罵倒する事に対しては本能的にブレーキがかかるのが、
マトモな人間だと思うのだが。
タチの悪い以蔵オタが荒らしていたのは事実だからなw
この話が嫌なら違う話題を振ればいい
ガラ悪い連中は、武市ヲタなり頑張ってる武市アンチじゃないかな。
そう思いたいわ。
自分がヲタなり自演するから、他人もそうだと思ってるんでしょうね。
岡田以蔵とキモ腐女子がヘドが出る程嫌いなだけだw
人に説教するゆとりがあるなら建設的な話題でも提供したらどうだ?
みんな荒らしに構うのだけは大好きやねー。
次スレは
>>990まで行ってからでいいかな?
986 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 23:10:19.26 ID:Ji665ii20
ガラ悪い人って、以蔵関係ない話でも間違ってたら叩きまくってるよね
他人の意見が聞けない人なのかそういう話し方しかできない人なのか知らないけど、いずれにしてもかなり残念な人だなぁ
前スレ〜このスレの始めの方で以蔵オタと思しき武市先生のアンチが
平井収二郎が真のリーダーだ皆武市なんて実はバカにしてたんだとか収二郎を引き合いに出して色々言ってたなあ。
結局この人は平井収二郎マンセーする割に彼の切腹が諸説あるって事を知らなくて
オタナリが露見してたけど。
>>987 この写真はヒゲが無いように見えるが今まで真吉の写真として使われてた物はこれの後に写したのかな?
あるいは軍服だったから戊辰役中伸びたのかw
しかし
>(龍馬の)隠れ家の手配をしたり、
とあるが手配してたっけ?手配を頼まれたが連絡が届いてなかったんじゃなかったか。
有名な座ってるのは54歳頃に横浜で撮影
今回のは慶応3年の京都で撮られた可能性が高いとか。
>>990 毎日のリンク先の方では
今回の写真は横浜で撮影された可能性が高いと書いてあるんだが…。
次スレ立ててくる。
>>993 大石神影流皆伝だから当然長刀でしょうね。
樋口真吉は土佐勤王党に多くの門弟を送り込んだというけど宿毛の党員て誰がいたっけ。
岩村三兄弟くらいしか知らん。
樋口真吉は、龍馬を見出だした男とか言われてるけど、武市さんとも親しかったんだよね?
龍馬を見出だした男〜は去年出た樋口真吉本の作者が勝手に言ってるだけだし…
あの手のとりあえず龍馬と絡めとけば売れるだろ的なタイトルの本はあまり信用がおけない。
>>996 http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/048501.html 佐井松次郎、矢野川龍右衛門、田辺豪次郎、佐井寅次郎の4名。
『維新土佐勤王史』には「血盟簿以外の勤王党同志人名録」と題して次の記事と幡多人士があげられている。
「血盟者の名簿に列せざる勤王党同志は、或は遠隔の地に住し、或は其の地位の利害より、或は血盟をなす暇なく、或はその血盟中止後に蹶起せる人々にして、
要するに、其の精神の血盟者と異なる所なきは、現に左に列記する人の中にて数十名の殉職者を出したる事実、之を証し得て余りありといふべし、
故にその血盟書の名簿に列すると否とは、もとより敢てその間に軽重する所なきなり。」と非加盟者の立場を説明して、血盟外の同志として人名をあげているが、
その中で、幡多の人は次のとおりである。
安岡亮太郎
岩村有助(礫水)−宿毛
岩村精一郎(高俊)−宿毛
小松勇道
桑原助馬
桑原戒平
樋口真吉
岩村左内(通俊)−宿毛
樋口甚内
桑原平八
斎原治一郎(大江卓)−宿毛
1000なら武市瑞山獄中書簡妻及び姉宛てが復刻
ほか土佐史本が復刊する
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