【派閥】統制派vs皇道派・条約派vs艦隊派【抗争】
1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2010/11/28(日) 19:52:38 ID:iZIsiJvG0 派閥抗争で優秀な人材を失った陸海軍。結果開戦時の軍首脳部は とんでもないメンツで挑まざるを得なかった。永田鉄山や堀悌吉がいたら 違った結果になったのでは
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/28(日) 20:08:00 ID:vBeKH68x0
日本人の敵は日本人
組織の存在と、キャリアを傷つけないための戦争。 そして盛り上がる国民…。 こえええ〜(((((((( ;゚Д゚))))))))
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/30(火) 23:31:16 ID:qQa94BNN0
結局国益より自身が属している組織を優先してしまう悲しい性を もつのが日本人
保守祈願
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/06(月) 11:09:24 ID:4hPhgh0I0
東條でなくて永田だったら、嶋田じゃなくて堀や山梨だったら どうなってたかな
う〜ん、そういうトップも大事だが、そういう人を支持する人がどれくらいいただろうか? そこも気になる…。
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
統皇条艦
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/08(土) 19:30:02 ID:sIibKZI10
1940 nen niwa kaigun syoogun wa [taibei sensoo wa sinai] to itte ita yo. 1941 nen ni sensoo zyunbi meirei ga deru to sireikan wa sore ni sitagatta. kaigun wa kokumin wo damasita.
派閥なんてどこの組織でもあるだろうが 明治の陸海軍でもあったのかな、あんまり聞かないけど
永田じゃなくたって今井や山脇にやってもらえば中々変わってくると思うけどね
>22 明治の陸海軍は、派閥という以前に長州閥・薩摩閥があまりに強力だったから…
で、そこから漏れた非薩長系が実務ポスト占めて昭和に実権を…
統制派と皇道派って、要は革新派と保守派の戦いだったんだよね
統制派も改革派だよ。統制経済を推進したのは 統制派。
じゃあ皇道派って改革派なんだ。。。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/06(日) 23:30:35.69 ID:YpOhcFHM0
残ったのが陸軍は東條・杉山、海軍は嶋田に及川・永野だもんな 派閥争いのよって有能な人物が軍を追われたのが痛いが 結局の所その後の史実はあんまり変わらなかったのかな
でも派閥争いでクビ斬られた有能な人材って一体誰がいるんだろうか。 クビじゃなくて背中斬られた人間なら永田がいるけど。。。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/10(木) 07:45:47.88 ID:d9SW00e/0
去年中公文庫で復刻された「軍国太平記」は、なかなか面白かった
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/13(日) 17:34:04.32 ID:YDT/AavN0
>>30 クビにするのは無理なんで若手や中堅将校なら陸大やら隊付に回されるんじゃないの?
で戦史やら軍内の抗争に直接関与できないから名も残らんから、実際のポテンシャルや考え方なんかも分からないまま。
その辺りは現代の企業内の主導権争いと同じなんじゃないかと思う。
いやいや、予備役編入でしょ。軍縮期の常道。
>30 海軍だと山梨勝之進や堀悌吉なんかを予備役にした大角人事が一番ひどかったんじゃない? 山本五十六は「海軍にとって、巡洋艦戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか」とまでいってたし。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/23(土) 20:47:50.02 ID:+CYvxBF8O
永田が暗殺されたのって陸軍省内じゃなかった?それなのにこんな事件が簡単に起きてさ 226だって、呆気なく終ったって誰か書いてた 優秀な人を生かせないわ、危機管理が足りないわ、組織の問題って今の日本にも通じるよね
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/24(日) 07:44:34.48 ID:4EaZdVnQO
明治の軍人は薩摩長州派閥! 昭和の軍人は東北出身者がずらり! 東條、山本に石原や板垣もみな東北出身者。 ここがあの戦争を解く鍵!
東條英機は、父英教が陸軍大学校を主席で卒業したのに賊軍藩出身故に 藩閥人事の犠牲となって中将で退官したことを憤り、父の無念を晴らすべく 藩閥打倒に全力を注いだ。いい話じゃないか。
>>36 省内の執務室だったかな。
色んな規律が当たり前にあって、当たり前に守られると信じられていただけに陸軍内は動揺した。
それは226事件でも同じで、その動揺が陸軍内の疑心暗鬼と派閥抗争を更に進めしょうもない観念ばっかり説いてまともに戦えない軍隊になった。
たらればの話になるけど永田が生きていれば少なくとも陸軍は軍内の粛清はあっても荒木やら宇垣があれほど政治的に大きな存在にはならなかっただろうな。
>>30 実質的にクビみたいな形になったのは小畑かな?
あと皇道派重鎮で唯一残っていた鈴木が東條にクビ切られた
それがショックだったのか鈴木は数ヶ月後に死亡
>>39 永田は政務家としては有能だったかも知れないが軍事戦略家としては大したことない
南進論をぶち上げていた時点で戦略眼がまるでないのがわかる
そして史実は彼と対立していた小畑の言っていた通りに進展して日本は破滅してしまった
よって永田が生きていても歴史は変わらなかったろう
むしろ皇道派が権力を握っていた方が歴史が変わっていた可能性はあったと思う
真崎にしろ小畑にしろ対米戦は絶対反対の立場だったからね
国力も違い補給も続かないのだから勝ち目はないと彼らはわかっていた
何かと評判の悪い真崎だが少なくとも戦略眼では永田よりはるかに上だと思う
永田や東條のような軍人の皮を被った小役人が日本を破滅に導いたんだよ
昭和に名将なし。幅を効かせたのは参謀畑の人間ばかり。
だいたい永田は過大評価されすぎだろ 実戦や作戦立案の経験もない軍政畑の人間だぞ? 要するに東條と同じただの事務屋 その事務屋がちゃんとした軍隊なんか作れるわけがない 実際永田は総力戦がどうの言っていたけど具体的に何かしたか? 陸軍の自動車化を推進したわけでもない航空部隊を育成したわけでもない補給能力を向上させたわけでもない・・・・いったい何したんだ? 結局は実際の戦争が全くわかっていない事務屋に過ぎなかったってことだ
皇道派の方がまともに見える
226の時にしろ統帥権干犯の時にしろ事件に便乗してポスト狙った皇道派がまともって…
少なくとも永田東條一派よりはまともってことでしょ 皇道派は荒木にしろ小畑にしろ第一次大戦を自分の目で見てきたからその差だろう だいたい大戦末期の満州での対ソ作戦なんて昭和の初めに小畑と鈴木が考えたものだしな 当時とは装備も情勢も違っているのにそのまま変更一つしなかったのが信じられん
今から40年前というと1971年 1941年の40年前というと1901年 感覚のズレが大きかった 軍人だけでなく政治家も臣民も それでも赤紙が来れば「三八式」に銃剣をセットし敵陣に突っ込む 時々、南方戦線へ行った夢を見る
皇道派岡村大将マンセー
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 01:58:45.11 ID:eZrhxLIX0
皇道派では小畑が異質だな 荒木、真崎にも臆せずものが言えたようだし(彼らも尊重してた) 226後予備役に退けられたがちょっともったいなかったかも?
戦後にな 降伏調印に出るのを渋っていた梅津を怒鳴り付けたとか
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 08:40:42.94 ID:zHLQ4w8I0
平家海軍国際派 源氏陸軍国内派
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 15:50:52.95 ID:qFxxctPb0
竹槍だけで英米を打ち負かせる荒木大将スゲー
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/08(日) 19:52:14.55 ID:HmGgCYW00
>>48 >皇道派では小畑が異質だな
ほかの陸大の秀才が平民出のなか、小幡だけが男爵子息だからな。
無論、小幡男爵は兄が次ぐにしろ、平民エリートとは異なった視点
で行動できただろう。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/09(月) 02:47:18.00 ID:V//XMSs50
作戦の鬼 小畑敏四郎 シュリーフェンこそ我が師
陸軍と海軍が戦争しながら 陸軍・海軍のそれぞれ内部でも戦争しながら 中国と戦争しながら その片手間にアメリカとイギリスに戦争を挑む よくこんな無茶苦茶やったなあ 国が滅ぶと皆分かってたろうに、指摘したらKY呼ばわりされるし
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/13(金) 02:17:47.40 ID:kZlOXzwV0
永田は横死したため評価は難しい(坂本龍馬のごとく) 残された遺稿をみると満州国の日本による内部指導は速やかに打ち切るなど (現在からみると対外的にみれば当然の結論だが、政治家、外務官僚、軍人の一部) 実行出来るかはその時の政治力学で決まる ただ日中全面戦争を回避出来るだけの影響力は有ったんでは? 小畑と対立したのは行き掛かりとはいえ(目的は一緒でも戦術的な対立) 融和できる余地は有ったと思う
57 :
名無しさん@お腹いっぱい :2011/05/13(金) 03:01:48.76 ID:EaHUBeKo0
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/13(金) 05:29:19.90 ID:tdfDCAgC0
Hull Noot wo ronzuru hituyoo ga aru.
>>56 そもそも中国をボコしようと言い出したのが永田
だから仮に存命でも戦争になっていただろう
小畑ともその点で決定的に対立することになった
基本的に皇道派は親英米で(荒木や真崎が戦後に自分を親米派と言ってたのは別に間違ってない)ドイツかぶれの統制派とはこの点も違う
>>57 鈴木率道
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/13(金) 11:13:23.80 ID:x7MZDt3G0
ヨーロッパでは本来貴族の子弟が行く幼年学校や士官学校に 日本では官費だからと貧乏人が殺到したのが悲劇を生んだんじゃないか? 幕府が残っていて近代化したらヨーロッパ方式になっていたと思う。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/20(金) 02:49:09.03 ID:L/b6HXtS0
真崎が軍司令官からいわば二階級落ちの参謀次長(格は師団長以下、実質的な権限ははるかに強い、格を維持するためか軍事参議官兼任) に就任して人事に関与し最初にした事 ・少将昇任直前の小畑を(今村を追いやって迄)二度目の作戦課長に登用 ・小畑、永田を少将昇任と同時にそれぞれ第三、第二部長にした(本当は第一にするつもりだったが小畑が固辞) ・後任作戦課長は中佐の鈴木率道(小畑の教え子で腹心)を抜擢 結果は参謀本部の中枢である作戦関連は主管の第一部長古荘でなく小畑が中心になってしまった 永田も元々は真崎を担いだ方だがこれはと思ったんだろう
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/20(金) 03:47:25.11 ID:vqpyyZLL0
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/20(金) 14:18:51.49 ID:0YashVGA0
適切なリーダーシップが存在しない組織は最悪の結末に終わる
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/20(金) 16:16:20.44 ID:TXXynIl1O
地域出身者同士の争い!
>>63 江戸幕府の時代から責任の所在を明らかにしないで
なぁなぁで済ませるのが日本文化だからなぁ
>>60 幕末の旗本の体たらくを考えれば、それで良くなったとは思えない
小畑って経済とか国際関係とか全然考えないで 作戦一辺倒でソ連やっつけたる!!! って感じの人間だと思ってたんだけど違うんかね。 そんなんでソ連とやり合えるのかな?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/01(水) 01:40:22.57 ID:DZhyFDdA0
>>67 小畑は伝統的な仮想敵ロシア(当時はソ連だが)論者
それに備えるには総力戦体制が必要で、積極的な北進論を除けば永田と同じ
仲違い状態になったのは両雄並び立たずということだろう
>>68 いやそれは違う
小畑の作戦を見ればわかるが彼の考えていたものは少数精鋭の部隊による内線を利用した各個撃破戦術
またソ連との全面戦争は想定していなく一撃を加えて南進の意図を挫くというもの(予防戦争)
総力戦体勢による大動員など全く考えておらずソ連との戦争もあくまで局地戦に止めるという考えだった
ソ連との早期開戦を主張したのも時間経過とともに戦力差が開いて内線作戦が破綻することになるから
小畑と永田の違いは単純で前者は日本の国力で総力戦体制は無理だと思っていたのに対し後者は無理矢理でもそういう体制にしようとしたこと
しかしながら永田がそう思っていても現状では不可能・・・・だいいち金がない
ではどうするか?そうだ支那から分捕ればいいじゃないか!・・・・というわけで日本は泥沼の日中戦争に突入することに
おまけにアメリカが介入してきてどうにもならない状態に陥る
そしてこれらのことは小畑が予想していたこととほぼ同じになってしまったわけだ
>>69 資源がないという現実から局地戦か満州・河北確保かの選択肢が出てきただけでどっちも都合の良いステップ組み上げただけの空想だという。
両者ともあまりにも見通しが甘いw
>>69 つまりそれって
永田は支那一撃論者で小畑はソ連一撃論者だった。
その意見の食い違いで喧嘩別れしちゃったってこと?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/15(水) 04:27:57.75 ID:O1voF0xq0
>>71 永田も小畑も満州の日本権益を維持することが最重要と考えてた
小畑は戦術的にも最大脅威の対ソ連に予防戦争も辞さずという立場
永田はそこまで強硬でなくむしろ専守に徹し満州国内部の充実が優先と考えてた
(遺稿によれば支那本土と事を構えることになれば欧米列強の干渉が必須だと懸念してた)
>>71 永田は対ソ持久戦争論者で支那資源の確保が必須。
小畑は対ソ短期戦争論者で支那には不干渉方針。
石原と小畑がタッグ組めば良いのにな。
小畑はアメリカは必ず通商破壊戦をやってくる(そして日本にとって致命的なものになる)と言い当てたりしたしねえ 門外漢の予備役陸軍将軍の方が専門家であるはずの海軍の連中よりよっぽどわかっていたというのが何とも皮肉
軍人って、基本的に「戦術を研ぎ澄まして敵軍を打ち負かす」ことに全神経を注ぐから、 経済環境をどう整えるかとか、敵対的な相手とどう上手く距離を取っていくかとかの 微妙な駆け引きとか調整が必要な作業はそもそも向いていないんだよな。 そういうのは本来、経済官僚や外務官僚なんかが利害得失を勘案して政策を練って、 それを大臣や首相に働きかけることで国家としての政策が決まっていくものなのに、 軍人達が自分たちが「省益」を拡大するために好き放題していった結果、 軍事力を使って金をドコドコ注ぎ込みながら、経済的利益を得られる環境を ボコボコに破壊していくという訳が分からんことを営々と行うハメになった。 朝鮮にしろ台湾にしろ満州にしろ中国租借地にしろ、軍事力を背景にして進出していくのに 必要な経費と経済基盤を造るために投下支那家りゃならなかった資本の額とは、 そこから得られる利益と比べものにならないほどでかかった。 結局、軍人の勇ましい自己満足のために国家を傾けたというだけのことだったよな。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/17(金) 13:04:36.66 ID:EgASX2SD0
組織の自己目的化ってヤツだね。
第一次世界大戦のドイツでもヒンデンブルク、ルーデンドルフらを中心とした対露派と ファルケンハイン、ゼークトらを中心とした対英仏派とで激しく対立してたんだよな。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/17(金) 21:49:00.26 ID:GfBuhaVi0
>>35 大角人事は伏見軍令部総長宮の圧力なんだよな
日本の海軍を右傾化させたのは宮様なんだよ
>>76 当時の書籍を読んだら分かるけど、軍事費の削減を訴えて軍縮条約
に賛成している人間でも「満蒙の特殊権益の維持は絶対に必要」という
立場が多い。
要するに当時の日本における「大陸権益の維持」は戦後で言えば一時期
の「憲法9条を守れ」と似たようなもんだったのさ。
>80 それはよく分かる。 日清・日露の二つの戦争を経てきているから、これを手放すという行為は「戦争の死者への冒涜」みたいに 見られてしまうものだから、うかつなことを言うと周囲から一斉につるし上げを食いかねなかった。 大東亜戦争という痛い教訓を経て手に入れた「憲法9条」というのは、押しつけという性格に目をつむりさえすれば、 「戦争にはもうコリゴリだ」という気持ちの強かった国民にとっては、9条を守ることは戦死者への慰霊・鎮魂であり、 9条の放棄が「戦死者への冒涜」という感覚で捉えられたのと、似ている。起こった現象としては真逆だけど。 どちらも強烈な「観念論」であって、現実の国家運営の利害得失や損得勘定を超えた処に位置しているという意味でも 欲にてるっちゃよく似てる。 ただ、戦後の日本政府は9条という「錦の御旗」を高々と掲げながら警察予備隊→自衛隊という抜け道をちゃっかり確保して、 なおかつ在日米軍という後ろ盾をしっかりと手元に引き据えながら国家運営を行うだけの賢明さを持ってはいたよな。 国民には「核密約」という重要な取り決めを隠しておき、後世の批判を浴びることを覚悟しながら「平和の維持」という 最重要点な国益を守ることを至高の価値として、国際社会の荒波を乗り切るという難しい国家運営を行った。 その辺は、戦後日本という国家の「凄み」を体現しているし、手痛い教訓をきちんと活かした政権担当者としての 見識や器量をこうした部分に見いだすことが出来る、と思う。
海軍少佐だった石丸藤太はロンドン条約調印時の海軍内部における 条約反対の声を「三百代言」と厳しく非難したり、最終的な軍備全廃 を唱えたりとか、当時の軍人は今の自衛官よりよっぽど自由に意見 が言えたんだな。
>>79 大角人事と荒木人事が省主導を崩して日本を破滅させた?
それだと硬直した人事をした方が正しいってことかな?
>83 それまでの人事慣行が硬直していたと判断するかどうかは人によるけど、 仕事をこなせる力量を持っているかどうかで判断するのではなくて、 トップが自分の気に入ったヤツを要職につけてしまうという体制が取られることで、 結果として事務仕事が滞ったり必要な改革が頓挫したりするのはまずいだろ。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/21(火) 00:33:00.62 ID:spbZVSxC0
大角が条約派の俊英たちを馘首したのは確かだが 彼自身は特別反条約派というわけではない どちらかというと定見を持たず調整型か? 日本の組織では内部抗争が激化すると応々にしてこういうタイプが浮上する
大角人事は満州事変における内閣の命令に服さなかった条約はを狙い撃ちしたもの。 大角はもともと中間派で派閥抗争を苦々しく思っていた
>>35 確かに酷かった。あの時米内・山本・井上も予備役にできていれば海軍は一枚岩で対米戦が戦えたのだ。実に惜しいことである。
伏見宮人事が良い悪いありますけれども、 結局最後はアメリカと戦ってそしてボロ負けする運命なのです。 あぁ悲しきニッポン。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/21(日) 19:37:00.29 ID:CbPKmW5b0
宮様は結局は双方に利用されただけだな(多くは艦隊派だけど) それと別に嶋田は個人的にもお気に入りみたいだが・・・
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/31(水) 15:50:49.67 ID:d0kvl9qu0
なんだかんだいって皇道派は戦上手の作戦家が多い。 対ソ予防戦論者で日中戦争反対対英米戦不可で作戦畑の人間が多かった 真崎・小畑・山下あたりが主導権を握っていたらまた違った歴史になったのでは なかろうか。 山下・柳川平助などは皇道派として敬遠されつつも実際に太平洋戦争で戦果を立てている。 ただ沿革的には皇道派は薩摩肥前派の末裔にあたる。 陸軍の薩長土肥のうち当初陸軍を牛耳ったのが最大勢力の薩摩閥(西郷・桐野など) だが、明治六年の政変で西郷・桐野・篠原などが大量辞職して以来、長州の陸軍として 長州閥が跋扈する。土佐は既にたいした勢力をもっていない。のちに長州閥が衰えて 消滅するが、それに対抗して上原率いる薩摩閥は宇都宮率いる肥前佐賀閥(左肩党)に 代わられていた。宇都宮の後を継いだ佐賀閥のドンが真崎で大分を除く九州閥と 土佐系を率いていた(皇道派)。
皇道派に作戦に長けた野戦指揮官として有能な人材がいたというのは事実ではある。 だからといって彼等が主導権を握っていたらという推論には必ずしも頷けない。 好戦的で勢力拡大主義的な考えの持ち主は皇道派にも相応にいたし、 なにより2・26事件で暴発するに到った陸軍内での皇道派の追い詰められっぷりは 彼等と対立した永田らが悪辣だったからと云うよりも、彼等の自業自得によるところが 少なくないように感じるからだ。 永田を暗殺した相沢三郎の行動を「義挙」として肯定的に捉えて、 裁判の場で彼を擁護するような言動を取っていた皇道派のやり方に対して 陸軍の大勢が彼等を批判するようになっていったのだから。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/02(金) 00:54:17.25 ID:bORMUojl0
小畑は前にも書いたが派閥を抜きにすれば能力からして使いようは有ったはず 山下は派閥抗争に関係なく順調に出世してきたのだが 永田の後任の軍事課長になってから巻き込まれた 226の時の軍事調査部長(陸軍広報の元締め)の時の行動は右往左往でいただけない その後は人事面で冷や飯 部内で東條のライバルとみなされたのも大きい 小畑と同じでちょっともったいなかったかも?
小畑の場合は永田との対立が先鋭的だったし、一方の永田がああした形で死んだ以上、 釣り合いを取る意味でも中央復帰は難しかろう。 派閥を抜きにすればというのは一言で云うのはは簡単だけど、 それがそう簡単にできるのならば苦労はない。 もしそれが出来たのならば2・26事件だってそもそも起こらなかったともいえるし。 山下の場合は、2・26事件時の言動からすれば、皇道派の青年将校へのシンパシーが かなり強烈に感じられるので、あの事件がああした終息を迎えた以上はやむを得ないんじゃないかな。 有能だったろうとは思うけど、対立する一方の側が殺されるというところまで進んだ派閥対立だし 生き残った側(統制派)の方が敵対者に過度の報復を行うのを自制しただけでもめっけもんだったと 言えるんじゃないかな。 永田と渡辺錠太カは殺されたし、片倉衷は実際に撃たれてる。 武藤・東條・辻あたりも、皇道派のクーデターが成功してたら殺されていて可能性があることを考えれば、 真崎や荒木といった首魁が死刑を免れたのだけでもめっけもんだと思う。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/03(土) 00:48:44.73 ID:TiMMbvit0
小畑はクビだぞ
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/03(土) 03:42:52.98 ID:TRmodAkB0
総理大臣:荒木貞夫 陸軍省 陸軍大臣:永田鉄山 陸軍次官:前田利為 参謀総長:小畑敏四郎 参謀次長:橋本虎之助 軍務局長:梅津美治郎 教育総監:渡辺錠太郎 航空総監:徳川好敏 兵器局長:原乙未生 海軍省 海軍大臣:堀悌吉 海軍次官:山梨勝之進 軍令部総長:米内光政 軍令部次長:井上成美 軍務局長:山本五十六 艦政本部長:小沢治三郎 航空本部長:塚原二四三 連合艦隊司令長官:高須四郎
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/03(土) 03:47:10.20 ID:TRmodAkB0
関東軍 総司令官:樋口季一郎 総参謀長:岩畔豪雄 参謀副長:秋草俊 北満州方面軍 総司令官:山下奉文 総参謀長:石原莞爾 第1軍司令官:柳川平助 第2軍司令官:岡村寧次 第3軍司令官:本間雅晴 第4軍司令官:今村均 北部方面艦隊 司令長官:山口多聞 参謀長:大西瀧治郎 陸戦隊:安田義達 この面子で対ソ戦やったらどうなる?
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/04(日) 03:54:49.62 ID:u0GnkwYu0
山下がマレー、シンガポール攻略司令官の時に 参謀だった辻政信の人事考課では敢闘精神は認めつつも権限逸脱、独断専行に過ぎるとして低い評価 以前から彼の人事考課はほとんど同一なのに重要なポストを歴任続けたのはどうしてなのか? 山本五十六の言として会った後「あんなのをのさらばしてるから陸軍は駄目なんだ」と幕僚に感想を述べてる
首相が荒き貞夫という時点で詰んでます。 対ソ戦を行うとしたら、武力戦という意味合いよりも、政治・外交・宣伝戦の 側面の方が重要性を増すはずなので。 どの国と手を組むのか、戦争開始の大義名分は何か、攻勢終末点をどこに置くのか、 占領地域の統治をどのように行うのか、などの難しい問題の解決が求められるけれども、 高橋是清あたりに「要するに荒木君は何をしたいんだね?」とか言われてしまうような 智恵のない男にはなにも期待することが出来ない。
>>95 二・二六事件が起きてないという前提なら
総理大臣:斎藤実
外務大臣:幣原喜重郎
駐米大使:斎藤博
駐英大使:重光葵
>>98 平時の年功序列を気にしてたら戦争には勝てませんよ。
戦時では無能な先輩方には御下がりいただかないと。
海軍のハンモックナンバー絶対視とか、平時の人事で太平洋戦争を戦った のが日本軍。 海軍大臣が海兵32期の堀悌吉で、海軍次官が海兵25期の山梨勝之進とか絶対 にあり得ない。 井上成美は本人も戦下手を自覚していたから、軍令部次長はミスキャストで しょう。 山口多聞と大西滝治郎は同期だから、大西が山口の正式な部下になることも あり得ない。
>>99 自分もそう思った。
けど当時の首相なんて統帥権の前にはお飾り的存在だったし、
苦しい戦争を戦い抜くなら国民に人気のある荒木も十分アリじゃないかと思う。
戦略、外国力を重視するなら統帥部の人間に
きっちりした人を持ってきたほうがいいと思う。
総長:武藤信義
次長:畑英太郎(無理なら西義一)
一部長:小畑
二課長:鈴木率道
これで昭和10年、11年辺りに開戦。
陸軍省に宇垣派、統制派を持ってこれればいいですね。
問題は荒木が首相ということで、軍部よりの政策連発して
日本があっという間に破綻してしまいそうなところ。。。
そもそもなんで開戦前提なんだ。二・二六が起こって無かったら民政党 岡田政権のままで天皇の意を汲んで不拡大・対外協調の道を探ってただろ。 上海の生き残りの重光と野村にもっと大役が廻ってたかもしれん。
航空総監:鈴木率道 機甲本部長:酒井鎬次 連合艦隊司令長官:末次信正
>>95 陸軍省と参謀本部
海軍省と軍令部
を一まとめにしてる時点で無学さを表してるね君
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/06(火) 02:26:39.15 ID:CptOm4KK0
なにか現実無視で妄想スレになってきたな・・・
妄想から目を覚ますには豚骨ラーメンだろwww
軍令部総長は百武源吾だろw 親米派だし、実際にも候補に名が上がってたしな
>102 >けど当時の首相なんて統帥権の前にはお飾り的存在だったし、 それはちと違う。 首相が統帥部に押されてお飾り扱いになるのはもっと後。 「もっと」っていっても、ほんの数年のタイムラグではあるんだけど、 少なくとも、満州事変前後と2・26前後と盧溝橋事件前後とで、 それぞれ政府・陸軍省・参謀本部、この3者の力関係はかなり変化してる。 この時期の政軍関係の権力構造の変化は、めまぐるしい上に外部からその変化が分かりにくいから かなりややこしいんだけど、少なくとも「統帥権の独立」「統帥権干犯」という言葉が 全てを左右できるほど強い力を持っていたというのは最近の研究で否定されてきてる。
戦時になれば平時の統帥大権と国務大権の力関係が逆転しちゃうってことでしょ? 日米開戦時に英機や東郷に直前まで真珠湾攻撃を教えなかったうんぬんみたいに。
満州は日本の生命線とか 満州手放すことは考えられないとか言うけど どう考えてもアメリカとの貿易が生命線だよね アメリカと貿易で仕入れた莫大な油と鉄資材があっての満州開拓でしょ 順序がひっくり返ってる
>110 >戦時になれば いや、そう単純な話では無くって、平時において徐々に軍側の発言力を増やす 既成事実の積み重ねが行われていったってこと。 本来、戦争になったって政府が軍の行動を統制するのが当たり前なのに、 それが出来ないような仕組みを徐々に進めていって、平時においても 政府の行動を軍が掣肘できるようにしていったというのが、 1930年代を通して軍の発言力が拡大していった目的でもあり動機でもある。 アメリカでもドイツでもイギリスでもソ連でも、戦争が始まってしまっても ちゃんと政治の側が軍をコントロールしているのに、日本でそれが出来なかったのは もっぱら平時に組み立てられていった既成事実の組み合わせの存在が大きい。
>111 >順序がひっくり返ってる 前に別のところで書いたことなんだけど、この頃の日本の行動を見ていると ホント、ギャンブルで負けて熱くなってるオヤジの行動原理にそっくり。 パチンコや競馬で熱くなって仕事そっちのけでそちらにのめり込んで、 遅刻や無断欠勤を繰り返すようになってついには解雇されてしまい、 逆ギレして会社に殴り込みをかけるような行動。 どう考えてもギャンブルで得られるアブク銭より、日々の生活を支える 会社からの給与収入の方が確実性が高い上に全体的な金額も大きいのにね。
>>112 政友会が田中義一を取り込んでからかな。田中があんな死に方しなければ
もっと天皇の意思(国際法遵守)が陸軍にも上手く伝わってたかもな。
>>113 戦争で得られる利益が貿易の利益を上回るなんて思ってた奴はいないと思うけどなぁ
皆立場上反対できなくてなんとなく戦争しちゃっただけなのでは
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/08(木) 05:58:24.12 ID:v1xt11i90
田中義一については陸軍現役時代は政治能力に長けた人物に見える 政友会総裁になってから理由の由えか(機密費問題)海千山千の政党人に翻弄された 攻める時はいいが受身になると醜態だったな(それまで恵まれ過ぎたか?) 首相としての実績は対中国、対欧列強への積極外交などバランスを欠いた感じは否めない (内政はまあまあだが)
>114 一番はじめのスタートは、田中義一内閣時の張作霖爆殺事件からだろうね。 あのときの田中は天皇への上奏内容自体は矛盾していることを承知の上で、 なんとか部内を抑え込んで統制を保とうとしていたんだけど、天皇が短気を 起こして「お前なんかやめちまえ」みたいなことを言ってしまったせいで 辞職することになってしまった。 個人的には田中に首相をもう少しやらせてみても良かったんじゃないかとも 思うんだけどね。後の世評で言われているほど、悪い政治を行っているわけでは なかったように思うから。 ただまぁ、この時点での政友会が腐っていたというのは間違いのないところでもある。 民政党になってからの幣原外交の方がやっぱり水際立っていたのは間違い無いので、 田中外交との違いが必要以上に喧伝されてしまったというところはあるかも。
>115 引っ込みがつかなくなってバカな選択をしてしまうというあたりが、頭が熱くなってる証拠じゃないかな。 「もう○万も突っ込んでるんだ、いまさら後に引けるかっ」っつって、 会社を無断欠勤してパチンコ屋や競馬場に向かってお金を注ぎ込んでいるウチに 会社から見放されてクビを言い渡されるみたいな状況。 >113 を敷衍するとこんな構図かな。 「○万円を注ぎ込む」→「10万の英霊を死なせて満州に足がかりを作る」 「今さら後に引けるか」→「英霊に申し訳が立たない」 「会社を無断欠勤しはじめる」→「満州事変・支那事変・南京攻略」 「会社からクビを言い渡される」→「対日石油禁輸・ABCD包囲網・ハルノート」 「会社に殴り込みをかける」→「太平洋戦争・真珠湾攻撃・マレー攻略作戦」 「逮捕・懲役・一家離散」→「敗戦・占領・一面の焼け野原」 中国や満州をギャンブル場、米国や国際社会を会社に置き換えるとこんな感じか。
>116 >陸軍現役時代は政治能力に長けた人物に見える 同感。 シベリア出兵時に関してはちょっと問題があるにしても、佐官時代に在郷軍人会を組織して 「良兵・良民思想」という考え方を持ち込んだ点はもっと評価されて良いと思ってる。 原敬と上手く連携を取ってシベリア出兵にもきちんとけりを付けたし、陸軍内の統制に関しても 彼が現役でトップに立っていた間はちゃんと睨みを効かせていた。 田中→宇垣→永田という系譜をたどる陸軍統治(陸軍省優位・参謀本部がそれに従属する体制)が 破綻をせずに進んでいれば、その後の陸軍の暴走はもう少しまともなモノになってたんじゃ無かろうかと 悔やまれてならない。
>>117 どこが短気だよ
一年も待たせて置いてあやふやな報告しかしないんだから
怒られて当然だろ
まぁ、きちんとした報告をしていたら軍がばらばらになってたかも知れないのは解るが
>120 >怒られて当然だろ 天皇が叱責した結果、田中が首相を辞任してしまって、陸軍に対する睨みを 効かせ得る人材を失ってしまったというのがまず問題なのと、 本来は立憲君主として振る舞うはずの天皇が、首相の進退を左右できるって前例が出来てしまうと、 君主無答責という前提が崩れてしまうという問題が出てきてしまう。 多少の失政があったとしても、その時政権を担当していた人間が変われば政治が変わって 良くなっていくという希望の元に国民の不満を逸らせることが出来るけど、天皇が首相の 行動を制御できるというのならば、失政への不満がダイレクトに天皇に向かっていってしまい 国民の政治への反発が天皇制へと向かってしまう。 これは立憲君主制を取る上では大きなマイナスだ。 あの場面では、天皇の叱責によって田中が失脚するよりも田中の失点が積み重なるのを待って 閣僚の中や宮中・財界・軍部といった勢力の中に徐々に田中下ろしの機運が高まるのを 待つ方がトータルで見れば良い結果が出た可能性が高いんじゃないだろうか。
>>121 きちんと報告しろと命じたのに、命令を実行しなかったから怒ったのであって
内閣を介すべき政治上の判断を直接下した訳ではないから、立憲君主の振る舞いからは外れないと思う
また、軍に睨みを利かせられる人材を失う事になったと言うが
すでに睨みを利かせる事が出来なくなってたからあのような結果になったんではないだろうか
>>120 自分も田中にはちょっと懐疑的な印象を受ける。
というか首相になってからの田中にはまったく陸軍を掌握する力なんかなかったと思う。
陸軍に睨みが聞いたのは、彼が育てた宇垣が陸相として力を振るっていた時だけ。
張作霖の時も、宇垣が陸相だったら犯人罰して陛下に叱られることもなかったはず。
軍人時代は長州閥で山縣に気に入られて、それなりに能力もあったかもしれないけど、
辞めちゃったら普通の政治家と変わんないと思う。
>122 いや、内閣のトップとして報告した内容を批判したんだから、 その判断の是非は別として、政治的責任というのは生じてしまう。 たとえば、浜口内閣が金解禁を行って不況を加速させてしまうという 政治上の判断ミスを行ったとき「なぜ、天皇陛下は浜口の判断を却下して くれなかったんだ」という怨嗟の声を生んでしまうという恐れは生じる。 君主無答責というのは、政治が悪い方向に向かったときに君主の責任を 軽減する機能果たすわけだから、首相の判断が明らかに間違っていた時でも その判断の是非を云々するべきではなかった。 既に田中が軍に睨みを効かせられなくなっていたというのは確かに一理あるけど、 それでも浜口雄幸や彼がれろに倒れた後の若槻内閣での、陸軍による一連の策動を 政治の側が制御しうる余地は残ったんじゃないかという気がする。 宇垣が田中を見限りつつあったのは事実だけど、それでも田中が陸軍の中に残していた 在郷軍人会の300万という票田は、政党政治を行う上では相応の力を持っていた。
>123 田中の力と言うよりも宇垣の力というのはその通りだけど、その卯が気の存在を ひっくるめて「田中の力」ということは出来るんじゃないだろうか。 当時の宇垣が陸軍内で綱引きをしていたのは上原を中心とする九州閥だけど、 田中と宇垣はその対九州閥とでは共闘関係にあるのだし、田中が延命することは 宇垣にとってはまるっきりのマイナスではない。 むしろ宇垣の後継者である南陸相時代に陸軍内が混乱して、荒木が陸相になって 旧宇垣勢力への掣肘をはじめたという構図からすれば、田中というそれまで後ろ盾に なっていた存在を失ったのは宇垣にとってはかなり大きなマイナスとして働いたんじゃないかな。
この時期の中堅将校の派閥の動きってどうなんだろう。 一夕会はまだ結成されてないけど、その前身の二葉会や木曜会は活動してた訳で この頃すでに田中の奏上を裏から妨害できるほどに力を持ってたのかな? それとも、別の力で田中が勝手に潰れて、そのあとの権力の空白に乗じてらが力を持つようになってきたのかな? そこのところがイマイチよく解らないんだが。
張作霖爆殺事件の頃にはまだ永田たち中堅幕僚の発言力はあまり強くはない。 田中の上奏がああいうものになったのは、関東軍や陸軍中央の意志も河本を擁護するもの だったからという見方の方が有力なんじゃないかな。 軍以外にも、財界や宮中、閣僚からも事件の真相公表は避けた方が良いという意見が かなり強く存在していたみたいだし。 実際、河本が周囲の反対を押し切って単独で実行したというよりも、関東軍の上層部が 暗黙の了解を与えて実行に踏み切らせたという側面の方が強い。 大杉栄殺害事件の甘粕正彦のように、因果を言い含められて人身御供にされたという 側面が強いように感じる。 その後も河本の生活に関しては軍がかなり面倒みてるし。 一夕会のメンバーが実際に中核的な位置につくのは昭和4年に人事局補任課長に岡村が就任してから 以降のことだから、昭和3年の張作霖事件の時にはまだそれほどの力を持っていなかったし、 大正期を引き継いで陸軍内の統制も盤石なものだったから、下っ端レベルの発言が陸軍大臣や 首相の動向を左右できるようなことはまずあり得ないと思う。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 20:01:17.67 ID:snL1JP3/0
山縣のような建軍の元勲で終身現役の元帥ならともかく (例としてはかけ離れ過ぎてるけど) 現役を退けば影響力はほとんど無い 桂や宇垣のような実力者でもそう
軍への影響力は無くなったとしても、首相になったり閣僚になったりという形で 間接的には軍に影響力を持つってことはあるでしょ。 当時の首相ってのは戦後の首相と違って対閣僚との関係は上司対部下の関係ではなくて チームのリーダーとチームの一員という位置関係。 首相をトップとする支持命令系統に入るって訳じゃないから、首相と陸相は力関係としては 従属的ではなかったかもしれないけど、やっぱり総理大臣が国家のリーダーという 位置付けではあったから、首相の決めた方針には陸軍大臣も従わざるを得ない形になっていた。 桂は現役大将のまま首相になったから例外としても、田中は陸相から予備役に入って ほぼ横滑りの状態で政党党首になって首相の座に着いたから、陸軍内に対しては 相応に発言力があったと考えて良いんじゃなかろうか。 また、この頃の政治は内務省や外務省などの官僚出身者が相応に重きをなしていたし、 そういった人々の母体省庁への発言力ってのは、現役だったときに目をかけていた 「子飼いの部下」に対する恩義や義理人情みたいなものに依拠する場合が多かった。 陸軍にしても、官僚組織という面から見ればそういう風潮はけっして少なくはなかった。 軍令側の参謀本部畑の人間に関しては、現役かそうでないかというのが大きかったようだけど 陸軍省や海軍省などの軍政側に身を置いていた人間にとっては、退役後の進路が政治寄りに なっていたこともあるし、閣僚や宮中に理解者(パイプとなる人材)の存在を求める 軍政当局者にとっては無視できない存在だったはず。
陸軍内に強い影響力を残したまま政党党首になった というより、陸軍内で思うように影響力を広められなかったから、 打開策として政会に活躍の場を移したんだと思う。 もともと、強い政治力を持つ原敬と連携することで、 山縣亡き後の主導権争いを優位に進める腹積もりだったが、 その原が死に後ろ盾だった山縣まで死んだことで 劣勢に立たされることが多くなったんじゃないかな。 まあ、ついてなかったんだと思う。
>130 原が死んだことで目論見が狂っちゃったってのはその通りだと思うけど、 陸軍内で手詰まりになったから政界に転身したというのは必ずしもどうかと。 むしろ、田中は大正デモクラシーの高潮によって粛軍ムードが強くなっている状況と、 その空気を受けた政党政治による陸海軍への圧迫をはねのけるために、政党政治の中に 入り込んでいって、政友会を陸軍よりの政治勢力へと変えることを考えていたのだと思う。 田中が陸軍を退役して政治家になった頃の状況は、その数年後の張作霖爆殺事件を 契機にわき起こってきた「昭和陸軍の胎動」という予感はまだほとんど無くって、 山梨軍縮・宇垣軍縮といった軍備縮小を飲まざるを得ない状況に追いやられたいた。 田中の政界進出は、在郷軍人会の三百万票という武器を携えて、政党政治を切り従えて 陸軍という組織を積極的に防衛するための手段であったと考えてる。 この辺は小林道彦の『政党政治の崩壊と満州事変』からの受け売りだけど。
田中は上原元帥道連れ退役だったんだっけ。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/17(土) 21:50:00.28 ID:Pi4wjFDr0
>>131 在郷軍人会は、上原派が握っていたらしい。
田中が攻撃された陸軍機密費事件のときも、在郷軍人会は反田中だった。
>>132 終身現役の元帥相手に、どうやって道連れ退役するんだよ。
>133 >在郷軍人会は、上原派が握っていたらしい。 上原派がそれほどの力を持っていたというのは、ちょっと私には考えにくいんですが・・・ 田中との権力闘争に敗れて、勢力としてはほとんど壊滅寸前だったじゃないですか。 >田中が攻撃された陸軍機密費事件のときも、在郷軍人会は反田中だった。 「機密費事件」という限定された局面においては反田中を表明したとしても、 彼が「軍人の地位向上」を公約に掲げて、軍縮を主張する他の政治家達と選挙戦を戦ったのなら、 やはり田中へ票を投じるという在郷軍人は相応に多かったんじゃないでしょうか? 政治家達にしても、政党政治に対して反発を示すことが多かった陸軍の中から、 政党政治への理解を示してその土俵に載ってきた田中に対しては一定の評価をして 歓迎をするという機運はそれなりにあったと思います。 森恪なんかはその代表だったと言えるんじゃないかな。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/18(日) 12:54:15.40 ID:WNtdf0ag0
田中との権力闘争に敗れた上原派将軍が大量に予備役編入となったため、 在郷軍人会の幹部を上原派が握ったらしい。 少し後になるが、永田鉄山斬殺事件の後に陸軍次官となった古荘幹郎が、 「在郷軍人といふのは、大体元来早く罷められて、不平をもつてゐる者 が多い」と原田熊雄にこぼしている。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/18(日) 12:55:36.78 ID:WNtdf0ag0
それから、陸軍機密費事件というのは、上原派が中野正剛にリークして、 田中を攻撃させたようだ。
>135 少し勘違いしているようだけれども、在郷軍人会の中で幹部と末端とではまったく意識や バックボーンが違うよ。 将校が退役して在郷軍人になったという場合と、徴兵に採られた兵士が除隊した後に、地元の 農村や都市の下層民として在地に帰ってきた場合とでは、陸軍という組織に対するスタンスも 問題意識も違う。 人数的に圧倒的多数を占めるのは後者の「兵隊上がり」として社会的にあまり高い地位を 与えられていなかった人々です。 そういう人々が青年期の何年間かを「懲役兵役一字の違い」とまで言われた過酷な兵隊生活を 送ったという共通体験を元に寄り集まったのが在郷軍人会。 元はといえば、そうした彼等が軍から地元に戻ったときに、軍隊式の考えや習慣が身に ついてしまっていたために上手く社会に馴染めずに問題行動を起こしがちだったり、 徴兵されずに済んだ経済的に豊かだったり上級学校に行っていたおかげで徴兵されずに 済んだ人々との間に生まれた経済的・社会的格差を感じて徒党を組むようなことが多かったから その人々を組織化して農村や町内会といった共同体社会の中に上手く溶け込めるようにと 便宜を図ることを考えたのが田中義一だったわけです。 昔の社会での「軍隊帰り」「兵隊上がり」という存在に対して、共同体の成員が向ける視線というのは あまり好意的なモノではなくて、むしろ「厄介者」「余計者」的な者が多かったようです。 日清・日露戦後に除隊して地元に帰ってきた兵士達の中には、後のベトナム戦争の際に米国社会が 名付けた「ベトナム帰還兵問題」のような、戦場での行為に精神的な傷を負って帰ってきた兵士が 社会で問題のある行動を起こすという事例が結構見られました。そういった兵士がほんの数パーセント いるだけで「これだから軍隊上がりは…」みたいな意識が醸成されがちです。 また、シベリア出兵の失敗や、その後の軍への批判的世論の形成とによって、軍という組織 自体に対する批判的視線は強化され、その疎外感故になおのこと在郷軍人会という組織の存在が ひとつの拠り所として機能したわけで、そうした経緯を考えれば組織上部の幹部連中の中で 反田中意識を持った人々の割合がいくらか増えようとも、「在郷軍人会の父」と称されるほどに 在郷軍人の地位向上やその思想的強化・訓導といった事柄に熱心に取り組んできた田中の業績は 彼等の中に確固として存在し続けたろうと思います。
>>133 そりゃそうだw
誰と勘違いして記憶してたかな。
やっと森さんの永田鉄山読んだ なんか、実は永田も大した人間ではなかった。というのが感想なんだけど。 もちろん他の同期よりは抜きん出てたんだろうけど。 正直、悲劇的な結末故に誇張されてきたとしか思えない
まぁ、志半ばに死すって言うとifのロマンがあるよね。 大正軍閥とかも。
>>139 たぶんねえ、リアタイムでも、妄想っぽい伝聞になっちゃっている今でも・・・評判は高い人物なんだと思うよ。
実体はともかくね。
個性だけでは如何ともし難いのが時代の趨勢というか、社会のシステムというか。
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/23(金) 17:26:02.73 ID:cWIixI8L0
永田鉄山が殺されなかったら、あのタイミングで東條が陸相になることは なかったからねぇ。 歴史は大きく変わってたと思うよ。
>>142 そーかなー。皆で調整して妥協して開戦したんだから、そんなに違わないと思うよ。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/23(金) 19:34:06.94 ID:cWIixI8L0
日米交渉がこじれたのは、東條の融通の利かない性格のせいもあるよ。 永田なら常識人だから。
>>144 個性なんか関係ないでしょ。総意なんだから。
>>144 中国から撤退なんて誰が陸相でも飲めない
「死んでなかったら歴史変わってた」ってことなら、白川とか渡辺錠の方が 影響大きかったんじゃないか。畑英太郎(俊六の兄)もどうだったか
永田が生きていたら、基本的には中国から手を引いて満州国の国力の培養に注力しよう という方針は堅持されていた可能性はある。 盧溝橋事件の時に石原が不拡大路線を主張した際に、現地の東條やら参謀本部の武藤やらが 一撃論を主張して戦線の拡大に走ったけど、陸軍省でそれを掣肘して石原とともに不拡大を 唱える人物がいたなら全面戦争への道は避けられた可能性はあったんじゃないか? 東條も武藤も、石原には反発したとしても、永田には服従しただろうから。 現場で意見が分かれて組織が機能しなくなったときに、人柄なり人望なりでそれをまとめる事の 出来る人材が居たかどうかってのは大きいんじゃないかな。
>>148 統制派自体が対中強硬派じゃなかったか。
部長時代の小畑vs永田の議論なんか読むと、永田が生きてても
日中戦争は避けられなかったと思う。
東条があんなに早く出てくることは無かっただろうけどw
>>148 なにライバルの小畑みたいなことを言ってんだ?
中国の資源を使って総力戦態勢を維持するのが永田の手段であり当面の目的なんだから撤退なんかするはずなかろ?
永田は陸軍だけじゃなく政官財の全ての人脈を使って支那占領地からの撤退を阻止するに決まってるじゃん。
>>148 蓋を開けたときに、永田の意見は中国を恒久占領して不足資源を獲得することだった。
むしろ死んだことで永田は不撤退イデオローグとなった、東条は永田に踊らされていたとも言える。
>148-153
別の場所で書いたことがあるんだが、永田と小畑の対立というのは別に中国政策を巡ってのモノではなくて、
単純な派閥的対立・感情的対立といったモノだった可能性が高い。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1288680742/395-406 あと、あの頃の情勢では「満州国」と「支那本土」とはかなり分けて考えられてることも忘れない方が良い。
蒋介石にしても、面子の問題があるから満州国を正面から承認することは出来なかったけど、
外向的に上手く立ち回ることで日本との関係を穏便なモノに持っていこうとする指向を持っていた。
満州国を保持したまま、蒋介石と手を結ぶというのは必ずしも不可能なプランではなかった。
現場の関東軍や支那派遣軍をちゃんと軍中央が抑えていられたら、の話ではあったけれども。
永田も小畑も所詮器が小さい。 連中より遥かに力量があった宇垣閣下ですらダメだったんだからしょうがない。
>>154 いまごろ何をいってんだ?永田路線と小畑路線の対立は散々研究し尽くされているだろ?
勝ったほうの永田路線が史実だったんだから、永田が生きてりゃ余計撤退などありえない。
森靖夫の『日本陸軍と日中戦争への道―軍事統制システムをめぐる攻防』と 永田の伝記を読むと良い。 これまでの研究や通説が多々ひっくり返されてるぞ。 永田はその死後に統制派グループを継承した東條や武藤といった面々の行動のせいで 色眼鏡で見られているけど、基本的には中国に対して融和的な姿勢を持っていた軍人だよ。
しかし永田なら、東條みたいに「三奸四愚」を側近にすることはなかったと 思う。 東條は地頭が悪いのを自覚していて嫉妬深いから、自分より頭のいい人間は 登用しなかったんだと思う。 その点、陸士首席、陸大2番の永田なら、もっといい人材を登用していたの ではないかな?
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/24(土) 23:53:26.55 ID:cpYEk0X60
東條は永田の一期下だから永田が存命だと人事コースがかなり違ってた可能性大 永田の後任の軍事課長(陸軍軍政の要)の後任が山下になった時 それ故に永田も容認してるし (東條は翌年少将昇任が確定してた) 東條の問題は能力というよりも性格の偏狭さ
>159 偏狭というよりも、喧嘩っ早くて好き嫌いが激しいという印象がある。 石原もそうなんだけど、敵を作りやすい性格なんだよな。 どんな組織であれ、周囲の人間から好感を持たれるというのは組織の中で生きていく上では 絶対に必要なスキルなんだけど、この2人はその点において大いに問題があった。 永田があそこで死ななければ、ってのはそうした面でも傑出していたからなんだよな。 一夕会があれだけの人数を抱える集団に成長したのも、永田の器量や人格を認めた人間が それだけ多かったってことでもある。 信念を持って「陸軍の統制を回復する」という政策を実行したから皇道派の将校からは 敵意を持たれたけど、この対皇道派政策は、先に派閥人事で好き放題に振る舞っていた 荒木・真崎の行動が招いたものだしなぁ。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/25(日) 01:47:11.07 ID:qzvrLfUG0
宇垣は鈴木荘六(士官学校同期)退任の時になぜ武藤信義を選ばなかっただろう 人脈的には異なるとはいえ軍歴からして(当時は教育総監)参謀総長に相応しいと思うのだが・・・ 上原に対する私恨が影響したか 武藤は上原に私走されるほどやわな将軍でないのに・・・
>>157 両方持っているけど、何ページらへんに書いてあるの?
森さんの永田本によれば、結局永田も派閥対立を収拾出来なかったと。 しかも「統制派」と呼ばれるものは永田一派である以上、永田でも陸軍はまとめきれなかっただろうね
永田なら、東條みたいに、服部卓四郎が何度ミスをしても一時的な左遷で 作戦課に復帰させるみたいな、個人的な偏愛による人事はしなかったと思う。
>162 『日本陸軍と日中戦争への道』の方は図書館で借りて来たんで現物が今手元にないから、 『永田鉄山 平和維持は軍人の最大責務なり』の方で挙げますね。 一番分かりやすいのがp209〜p215までの、満州事変終結後の参謀本部第2部長としての 意見書提出から、小畑との間で意見が対立して喧嘩両成敗の形で2人とも旅団長として 転出するまでを詳述した部分。 特に、これまで広く認識されていた「小畑が満州国を堅持して対ソ連の備えを固めることを 主張し、永田らがその前に中国を叩いておこうとする対支一撃論を主張した」という通説を 原田熊雄の『西園寺公と政局』中に記録された鈴木貞一の談話や、ヨーロッパから帰国した ばかりで両者の対立関係を知らなかった高嶋辰彦という一少佐の回想などを通じて、 丁寧に論駁してる。 その後の東支鉄道の買収を巡る両者の姿勢の違いや、そもそもの始まりである満州事変への 対応を見ても、永田が性急な武力行使や戦線の拡大に関しては、常に批判的・抑制的な 姿勢を持っていたことが窺えます。 小畑が満州国堅持論者だとする主張が、橘川学『嵐と闘う哲将荒木』という皇道派寄りの 著作によって提示され、その後の研究者がこの通説をそのまま受け入れて流布されたもの という指摘は、たしか「日本陸軍と〜」の方でなされていたと記憶しています。
>>165 横からクレクレで申し訳ないが、満州事変に対する永田の反応って
どんなものだったん?
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/27(火) 00:46:21.65 ID:noZPQcTY0
永田に限らず満州権益の保存のためには ここまで来ると直接軍事行動有るのみというのは省部の局部長以下の一致した意見 永田も最新兵器移動などに関与している
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/27(火) 00:47:22.69 ID:noZPQcTY0
×保存 ○保全
>166 満州事変の少し前、参謀本部では橋本欣五郎や建川美次といった強硬な姿勢の持ち主たちの 主導する「情勢判断」をもとにして、満州の武力占領までを視野に入れた関東軍との連携を 想定していたようだけれども、永田ら陸軍省側はそれを何とか穏当な方向へと持ってゆくべく、 陸軍省と参謀本部の主要部署の課長を招集して「五課長会」を開催して、六月十九日に 「満蒙問題解決方策の大綱」を提出した。 5課長会の面子は以下の通り。 永田鉄山 陸軍省軍事課長 岡村寧次 陸軍省人事局補任課長 山脇正隆 参謀本部総務部編制動員課長 渡久雄 参謀本部第二部欧米課長 重藤千秋 参謀本部第二部支那課長 そして、会長に建川美次参謀本部第二部長をおいて、強硬派に言うことを聞かせる下地を用意した。 そこで策定された内容が大ざっぱに言うと、以下のような感じ。 「満州での張学良による排日政策を受けて、いずれは武力行使を行うこともやむを得ない。 けれども国内向けの根回しなり関係部局の了解を得るなどして、あくまで軍中央が政府と 意思疎通を行いながら限定的にかつ慎重に行動を起こす。その際には諸外国の理解や支援を 得られるように対外的な外交施策もぬかりなく行うことを必要とする」 森靖夫『永田鉄山』(p155-p156) 大ざっぱな要約だけれども、正確な文章を読みたい人は同書に当たって下さい。 ほぼ同内容が、森の「日本陸軍と〜」にも載ってたと記憶している。 他にも、朝鮮軍の独断越境の方に接して、参謀本部は政府による閣議決定を経ずとも天皇への 帷幄上奏を行って事後承諾でかまわないとして書類を作成して今村均作戦課長が書類を作成して 永田の処に廻して捺印を求めてきたのを断固反対を貫いて撤回させてる。 経費の支出を伴う出兵を閣議の承認も経ずに行うのは不当であり、ひいては天皇に災いすることに なると主張していた。 結局、若槻内閣が閣議で出兵を認めて経費支出も追認したから結果的に帷幄上奏の必要がなくなり 正式な「国家としての武力発動」となって、一応の形は調えられたのだけれども。 上記の部分で示された永田の言動を見ても、花谷正・片倉衷といった連中が上京した際に 「永田に相談したら、止めろと言われた」といった内容の戦後の回想などを見ても、 満州事変については、全般的に永田は批判的に見ていたと言って良いと思う。
>>169 通説とは違った感じですが、なら何で満州事変は起きて
それを永田始め中央が阻止できなかったんでしょ。
>>163 の言うように纏めきれなかったのか……
>170 その辺のカラクリに関しては、小林道彦の『政党内閣の崩壊と満州事変』が詳しい。 満州事変を起こして暴走しはじめた関東軍を掣肘するには、軍中央の永田たちだけでは 制御しきれなかった。 一応は中国側からの攻撃に対する反撃という形を取っていたからね。 実際には関東軍の謀略というのが、軍や政府の首脳には早い時点で伝わっていたけど、 国民や諸外国の手前それは公に出来る情報ではなかった。 だから陸軍省中枢の永田達は、政党政治家達や宮中グループ、外務官僚などと連携して 火消しに当たっていたんだけど、これらの諸勢力もまた内部で牽制しあって有効な手立てを 取れずにいて迷走し、そうこうしているうちに部数増を目的として国民を煽ることを選んだ 新聞によって作り上げられたイケイケドンドンな国民世論に全体として押し流されてしまった、 という構図がかなり精緻に一次史料に拠る形で解き明かされてる。 実際問題、石原や板垣といった関東軍上層部が闘っていたのは、現地での張学良軍閥では無かった。 ほとんど抵抗らしい艇庫なんて無かったから。 それよりも、大正デモクラシー期に緩やかに統合されて形成されていた日本国内の既存の政治機構全体、 軍中枢・宮中の重臣・内務や外務や大蔵と行った各官僚閥・政党政治家などが寄り集まって具現化していた 「国家システム」だった。 その意味では、十月事件等と連動した「クーデター」の一種として見た方が 全体の理解としては正しいんじゃないだろうか。
永田が生きていたとして、宇垣と緊密にし、 宇垣内閣ができていたとしても、やっぱり統制は難しかったろうな。 どの途、死んでたと思う。
博打だから満州事変前には反対。成功したら賛成。それが永田の意見。
ん〜勉強になるな〜
>170 >通説とは違った感じですが、なら何で満州事変は起き 満州での武力発動が軍中央によって政治日程に挙げられていたにもかかわらず なぜ「満州事変」という謀略の形を取って石原らが動いたのか、について。 ひとつには純粋な軍事的得失の問題として、あのタイミングがベストだったという 石原らの「現場での判断」があったという側面がある。 ・ソ連がいまだ国としての態勢を盤石にして居らず(革命勃発からまだ十年ちょっと)、 満州で日本が軍事的行動を起こしても南下してきて「日ソ戦争」になる可能性が低い。 ・また当面の敵の張学良も、蒋介石の対共産党戦へ参加するために満州を離れており、 組織としての張学良軍は有効に機能し得ない烏合の衆と見て良い。 ・張学良軍閥の支配地の中国人民衆は張学良の支配に不満を抱いており、日本軍が 軍閥を排除することを暗黙裏に望んでいる。 このような観測の元に、このタイミングでならばことを起こしても「軍事的には 勝利を得られる」という手応えを石原たちは得ていたのだろう。 対して中央部ではあくまで国内・国外に向けての政治的な正当性の主張を充分に 行うことの方の重きを置いており、軍事的な得失よりも政治的な得失の方を 重視していたというのが、出先と中央とで意見が割れてしまった原因だと思う。 日露戦争でも、条約に違反して満州に居座るロシアに対してすぐさま戦闘を 仕掛けるという選択肢も「準軍事的」にはあり得たけれども、対外的な理解を 得られない状態で戦争に突入することによる「政治的な不利」を良く理解していた 政府と軍中央はきちんと自制に自制を重ね、諸外国の目から見ても「これなら 日本がロシアに宣戦布告するのも無理からぬこと」と見なすような状況を 作り上げてから戦端を開いた。 その後の外債による戦費調達や、講和の仲介を米国が買って出てくれたことなど、 対外的な政治配慮がいかに重要かを明治の元勲らは良く承知していたのだろう。
>>170 永田は事前に大砲を送るなど協力しているが、「やるな」と意見している。
朝鮮軍越境の事後承諾でも捺印を最後まで拒否した。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/01(土) 23:35:40.78 ID:Zx7e36O90
>朝鮮軍越境の事後承諾でも捺印を最後まで拒否した。 軍事課長はこの件には関係ないだろ 上司に意見具申をしたかもしれないが
>177 参謀本部側で永田と意志を通じていた今村の苦肉の策で行われた連係プレーだね。 帷幄上奏は参謀本部が単独で行いうるものだから、陸軍省側の永田の判子が無くとも あくまで強行しようと思えば出来たから。 ただ、この前年に起こったロンドン軍縮条約問題の際、加藤寛治軍令部長が帷幄上奏を行って 軍令部と海軍省を二つに割った艦隊派VS条約派の大混乱が起こったから、それを横目で 見ていた陸軍としても陸軍省の了解を得ずに帷幄上奏を行うことは不安だったろう。 下手をうって事態の進展が不利に転んだ場合、参謀本部の人間が一斉に左遷される可能性だって 充分にあったから、陸軍という「官僚組織」に属する人間にとっては、そう簡単に思い切れる ものではないだろう。 だからこそ、クビを覚悟で謀略を起こした石原や板垣が、事変終結後に強硬派軍人の支持を 集めるという結果を生んだと言える。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/02(日) 02:00:56.37 ID:8C28/dz00
>>178 現実の事態はその通りだが
追認の奉勅命令は参謀本部の専権事項
後現実には満州権益擁護(目的そのものは政党、官界も一致)のためには
直接軍事行動が必要というのは省部の局簿課長で一致してた(決行の時期の問題は別)
軍首脳部も対外的、対内的な配慮で逡巡してたにすぎない
板垣、石原の行動もその背景があって出来たこと
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/02(日) 02:02:42.49 ID:8C28/dz00
×局簿課長 ○局部課長
>179 うん。 だからその「決行の時期」の問題が重要だから、陸軍省も政府も宮中も躊躇した。 石原達にしても、「満州権益擁護」という多くの人間を納得させうる目標を持ちつつも、 謀略によってしか武力行使をはじめられなかったのは、それが原因。 そして、結局この「時期が悪い」というか機が熟していないうちに行動を起こしたことの付けが リットン報告書やら連盟脱退という政治的なマイナス条件を突きつけられる結果に繋がった。
>>178 平時に勝手に開戦した指揮官は死刑なのに、昭和天皇の事後承諾を取りにいってるのだから陸軍の総意でない奏上をするのはまずいよね。
ゴネた永田も最後には捺印しているけどね。ゴネ得狙いで人気取り(言い方を変えればこれが「統制」?)をするのは辻とかと同じ。それが正しい陸軍ボタンの押し方だから仕方がない。
171も書いてるように、満州事変を石原や皇道派の国内体制変革の最初の一歩という文脈で捉えた方が分かりやすいよね。 対外的にはワシントン体制の動揺、対内的には政党内閣の打破を目論んでたんだし
>183 同意してくれてありがとう。 満州事変以来、「軍部が一貫した意志で国家を戦争に引っ張っていった」という 昔ながらの左巻きな考え方をしている人が世間一般では一定数いるみたいなんだけど、 この辺の軍内の急進派と穏健派、政党内の親軍派と国際協調派、官僚内部での革新派と守旧派などの それぞれの対立軸が引き起こした事態だとして捉えるとかなり違った像が見えてくる。 そのそれぞれの動きを調べていって、全体像を理解しようとしていこうとするとけっこう面白くって、 個人的に興味を持っているあれこれ読んでいるところなものだから、賛同してくれる人がいると大変嬉しい。
>>184 うん、内政でも外交でも行き詰まりを見せる大正時代の良識を爆破するというか
瓦解させるというかそういう動きとして満州事変は整理できるんじゃなかろうか。
軍内部でも、永田鉄山は大正時代の教養人然としているしな。
>185 >大正時代の良識 この頃のそうした穏当な政治的成熟は、客観的には政党の金権腐敗や財閥の強欲による 労働者・農民の圧迫や経済的収奪というかなり大きなマイナス面をも持っていたから、 それを攻撃するという軍部の主張にある程度の説得力を持たせてしまう状況だったのが 彼等の意識のバックボーンにはあったんだろう。 本当ならば、政党の腐敗に関しては彼等が己の行動を自己批判できるようになるまで待つ というさらなる政治的成熟を待つべきだった。 また、財閥への経済的一極集中に関しては、労働組合の育成や保護、小作農の経済的自立や 法的・経済的環境の整備という地道な努力を政界・官界が行っていく努力をするべきだった。 それらがなかなか進む様子を見せないところに気が短い軍人たちの一部が「壮士化」していく 下地になっていったんじゃないかなという気がする。 もっとも、そうした「壮士化」には、彼等が大正デモクラシー的な風潮の中で、軍服を着て 街中を歩くと「税金泥棒」と侮蔑を受けたりするような状況というのも手伝っていた可能性は あると思ってもいるが。 彼等にとっても、軍人軽視の風潮というものを打破したいという気持ちは決して小さなモノでは 無かったろうと思ってる。 満州事変というのは、そうした彼等の自尊心の充足を満たし、軍事力こそが国家に奉仕する 最大の力であるという自分たちの立場の正当化する状況をもたらしたが故に、多少の謀略が そこに存在していたとしても、多くの軍人が「その行動を是とする」姿勢をとったということ なんじゃないかと。 永田もまた、彼等のそうした心情自体は理解出来るものだったろうし、彼等の持つそうした心情の 巨大な熱量の前には抗しきれるモノではないという現実的な判断もあったんだろうね。
>>186 選挙でコロリと買収されたり、長期的な国益を考えられずに目先の武力解決を熱狂的支持・促進させるような国民を背景にしているからな。
調和を取るために内部矛盾を解消していったら、破滅的な対外戦争に至りましたとさ。
軍(林・真崎以降の世代)がそもそも天皇の言うこと聞いちゃいなかったわけで、 結局昭和天皇と「君側の奸」が親政してた方がよっぽどマシだったな。
世代は年齢じゃなくて大将になった順で。 忠臣と自惚れてる奴は沢山いたけど、天皇の真意を察した(と推測できる) のなんて梅津・多田・阿南・田中静くらいじゃないか。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/19(水) 23:31:03.58 ID:T6bkzrAy0
畑も入るんじゃない? 米内内閣で陸相を辞めたのも、閑院宮に無理矢理辞めさせられたんだし。
191 :
名無しさん@お腹いっぱい :2011/11/03(木) 17:17:05.74 ID:YF6JmyMO0
ここは良スレ 現代のハルノート=tpp 不平等条約が明治の先勲の戦いだったことを考えると 研究の成果を披歴されたし
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/03(木) 18:01:28.27 ID:u6ojVOo1O
支那事変の頃の不許可写真集を見る機会があったが実に醜い、というか不許可と許可の基準が判断不可能www ちっとでも兵器が写ってたり部隊行動とおぼしき写真が全てアウトなのは当たり前で 作業服姿で笑顔で談笑してる兵隊さんの写真が不許可の捺印を押されてたりする 満州事変の時、マスコミ(せめて朝日だけでも)が国益や発行部数ド返しで徹底的に軍部を非難し叩いてりゃ 永田も何かとやりやすかったろうし 陸助のキチガイ共もおりこうさんにしてたんだよな
>>191 ハルノートとは背景が違うというか・・・
ハルノートの場合は、日米交渉が頓挫した後で
米が日本との戦争を回避する努力を実質放棄した後。
こういう認識なのですがどうでしょうか?
>>192 朝日は満州事変を批判していたと思いますが、
右翼や軍部OBに乗り込まれたりで圧力に屈したんですよね。
徹底的に対立していれば、いずれ実力行使受けて
どっちみち言論は封殺されていた気もします。
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/04(金) 13:23:43.80 ID:fRvYVdID0
>>193 >右翼や軍部OBに乗り込まれたりで圧力に屈したんですよね。
その説は怪しいらしい。
東京朝日主筆の緒方竹虎は、日本右翼の源流、玄洋社の幹部だし、副社長の
下村宏、営業のトップ石井光次郎も、台湾総督府幹部時代から玄洋社との
付き合いが深かったそうだ。
>>194 d
なるほど
そういう説もある。程度の認識にしておきます
国家総動員法統制下ならいざしらず まだこの頃は陸軍の息のかかった連中がどうこうよりも 軍部礼讚の社説で発行数を伸ばす毎日や新興の読売に足元すくわれるのを恐れた的なニュアンスだったのでは ロンドン軍縮では朝日は艦隊派に対し頑として反対を貫いたし 軍部批判の余地や選択肢は充分あったはず 板垣征四郎やその取り巻き連中が満州事変後に一番恐れていたのが マスコミから叩かれる事と国民に賛同してもらえない事だったと後に語ってる マスコミから賛同されなきゃあんなデタラメでうやむやな措置にならず はみ出しもんは意気消沈し萎えていったのではと個人的には思えるが
>>196 大政翼賛体制の時とは雰囲気違ったでしょうね
※そういえば、満州事変の取り扱いについて、
板垣(だったかな?)とか陸軍省の誰かが
マスコミとかにお願いしてなかったでしたっけ?
うろ覚えですが^^;
恫喝っていうよりはお願いっていう感じで、
やはり言論統制が厳しくなった後とは
違った雰囲気を持ったのを覚えています。
ついでで申し訳ないのですが・・・
ご存知でしたら教えて貰いたいのですが
満州事変→シナ事変前くらいって憲兵の力はどんな感じだったのでしょうか?
大政翼賛体制になってくると、ガンガン憲兵使ってドンドン権力増していったと思うんですが、
この頃は、そうでもなかったのかな?
二二六事件における国家統制主義の有効性や影響力をあの戒厳令下で軍部連中は悟ったんじゃないのかな まぁ憲兵と特高は全く別もんだけどね 北一輝なんかはとばっちりだったけど アカは治安維持法施行時からすでに容赦無しでしょ メトロポリタン主義社や純粋な民主主義活動者もアカと同類に扱われ大正と比較すりゃ 出版活動や集会の類いが極度に制限されたのは間違いないんだろうけど 支那事変までは東京博覧会も開催の手筈だったし銀ブラもパーマネントは控えましょうの あの看板でるまではおkだったはず
>>198 ありがとうございます
>まぁ憲兵と特高は全く別もんだけどね
あぁ・・・結構混同してたかも^^;
>>193 「早速論説の打ち合わせ会議を開いたところ、結局仕方がない、
背後から鉄砲を撃つような事はできぬというので事実に引きずられてしまった。」
と緒方は事変の第一報について語っており
大阪朝日では十月十二日、八時間に渡る役員会議を開いて
「今後の方針とし軍備の縮小を強調するのは従来の如くなるも、
国家重大事に処し日本国民として軍部を支持し、
国論の統一を図るは当然の事にして、
現在の軍部及軍事行動に絶対批判を下さず極力之を支持すべきこと」
というような結論を取り決め、翌日には高原操(取締役)が
社の大方針を編集局の幹部クラスを集めて示達した。
席上、「ジャーナリズムとして外務省の如く軍部に追随するつもりなのか」
などといった荒げた声もあがったが高原は、
「現時急迫なる場合、微々たる事は論争する時期に及ばず」と一蹴する
当時、大阪朝日の経済部記者で戦後の朝日を代表する森恭三は、
関西の財界人もインテリ層も軍の独走に反対であったと回想し
「仮に朝日が“満州事変反対”の論陣を張っていたならば
必ずしも孤立無援ではなかったのではないか、ところがそれをやらなかった。
朝日の内部で論説委員や編集の部長会が、社運を賭してでも
関東軍独走を批判し、事変に反対の姿勢をとれといった意見を出したという話を、
私はついに聞かなかったし、また私達若い記者が
この問題について上層部へ説明を求めるという事もしませんでした」
このような朝日の豹変っぷりに笹川良一率いる国粋大衆党から
「軍部に膝を屈し、社会の木鐸たる気節を亡失したる
貴社の態度は吾人の怪訝に堪えざるところなり」と嘲笑われたほどである
緒方竹虎のお叱りやイヤガラセ云々とはそうした朝日の
驚くほどの豹変っぷりにたいしてではなかったのだろうか
>>200 >大阪朝日では十月十二日、八時間に渡る役員会議を開いて
自分は、うろ覚えでして、この時に朝日の姿勢が変わったと思っていました。
ただ、満州事変直後も満州事変擁護の記事が朝日紙面に載ってるんですね。
---
ちなみに、自分はメディアの報道体制について多くの情報は知りません。
知っているのは下の内容くらいです。
ttp://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/08.pdf ttp://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/09.pdf ※勝手に参照させてもらいました^^;
下の方のサイトの
> 不買運動は『大阪朝日』の大きな打撃となった。その時の模様を当時の『大阪朝日』
>整理部次長・大山千代雄は次のように回想している。
> 「大阪朝日全社内に満州事変を不満とする空気がみなぎっているものだから自然に
>紙面にもにじみ出てくる。すると、小倉で新聞不買運動が起った。在郷軍人会が主と
>なって不買を決議した。いろいろ朝日からも人を派遣して、了解を求めた結果、師団
>長がこの決議を撤回するのに非常に骨を折ってくれた。
> しかし、依然としてその後も整理部内で事変への反対の空気が根強く、首脳部は、
>整理部、支那部員と話し合いを続けた。この時も高原編集局長は「船乗りには『潮待
>ち』という言葉がある。遺憾ながら我々もしばらくの間、潮待ちをする(12)」と答えた、と
>いう。
これらの印象があって、朝日は当初満州事変に反対。というイメージがあったみたいです。
ただ、上のサイトを確認すると、当初から満州事変擁護の記事も書かれていたみたいですし・・・
10/12までは、朝日社内で統一されているわけではなく、満州事変擁護派と否定派の双方が意見を紙面に載せていた。
ということなのかな?
10/12以降は、社内の統一見解として満州事変擁護の体制になった。
こんな感じなのかな?
事変の一月前、同盟通信、毎日新聞、朝日新聞と外務省そして陸軍との懇談会の席上、 「満州国の独立の必要と必然性」を述べる小磯国昭軍務局長に対し 「時代錯誤も甚だしい、そんなことに今の若い者がついていくとは思えない」と緒方竹虎ただ一人が強く反駁したらしいし 述べてあるように事変当初は朝日社内でも事変擁護の統一見解で纏まっていたわけではなかったのが緒方の態度からも読み取れる ただし軍部の独走に警鐘を鳴らしていたそういった朝日の見識派も一方で満州権益擁護という 日本人の源流として断固否定できない信念を根底に孕んでおり社の存続や売り上げ云々以外にも 欧米の事変に対する連日連夜の強い論調が逆撫でとなって感情的反発を生みリベラル且つ冷静な判断力を鈍らせていったのかも知れない まぁ明確に言えるのは解釈上この時までは軍部の恫喝や圧力に決して屈した訳ではなく ジャーナリズムが軍部に自ら魂を売ったとしかとれない 政界、財界、言論界は何故、軍部に追随し抵抗しなかったのかと中枢の真っ只中にあった木戸は尋ねられ 「二二六事件の粛清が堪えた、アレで皆が竦んでしまった」と語ってる事からも 満州事変までは軍部が絶対的畏怖的存在であったという訳では決して無かったしね
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/06(日) 18:45:14.41 ID:1cEF+DnZ0
>緒方竹虎ただ一人が強く反駁したらしいし でも、それって戦後の緒方本人の弁明で、他にそれを裏づける証言はないんだよ。 だから、どこまで信用できるんだか。
>>202 ありです。
まあ、マスコミも利益がなければ存続できない組織ですし、
個人レベルで言えば出世や利権、また家庭もあるし個人の安全もあるっていう
色々な事情があるということですね。
軍部にしても政治家・官僚にしてもしかりだとは思いますが。
>>203 なるほどです。
自分は当然真偽は分かりませんが、
戦後で、都合よく自分を正当化するというのは、
往々にしてあることですよね。
やっぱり多角的というか、多くの資料を見てからでないと
なかなか自分の意見としてまとめるのは難しそうです^^;
ご意見ありがとうございました。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/01/14(土) 18:20:43.00 ID:7RqdIytk0
長閥 反長閥 土佐派・佐賀派 宇垣系 騎兵閥 反宇垣系 統制派 皇道派
そろそろ昭和維新の準備せんといかんね。 今年は寒波らしいし雰囲気出るわ。
川田稔『昭和陸軍の軌跡』を読んだんだけど、 この本(というか川田氏)は、永田鉄山の影響を 過大に見ているきらいがあるんだよね。 永田の死後なのに、太平洋戦争前後における 武藤章の対米スタンスに永田の影響を見るのは ちょっと牽強付会の感を否めない。 森靖夫氏のこの本に対する書評を読んでみたいな。
総力戦体制へ向けた軍国化政策を実務面で推し進めた永田鉄山は常にそういう評価のような気がする。 楽市楽座の信長の様にシンボリックな形で受け取られてるんじゃないかな?
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/26(日) 12:46:16.86 ID:Rx6lrtQx0
影響なし
>207 永田の影響を多く見積もりすぎという批判はもっともなんだけど、 武藤の行動に永田の影響を見るというのは必ずしも牽強付会って気はしないんだよね。 彼は永田が皇道派の敵意を一身に浴びていた頃に永田の下で直属の部下として働いていて、 その経綸に信服していた一人だったし、敬愛する上司をむざむざと殺されてしまったという 無念の思いをその後長く持ち続けていたというのはあり得る話だと思う。 その後の2・26事件では自身もクーデターを起こした青年将校たちの暗殺リストに載っていた ってくらいに永田の衣鉢を受け継ぐ「統制派」の一人としての自負もあっただろうから、 東條とはまた違った部分で、「永田さんの遺志を受け継いでいかなければ」という気持ちも 人一倍持ってたと思う。
>>210 ああ、それなら分かる気がする。
新書という性質の制限があるのかもしれないけど、
資料の比較だけでなく、そういう人と人のつながりを
描く点がもう少しほしかったな。
>211 膨大な史料を渉猟して様々に比較検討することで、通説となっている事柄に対して 新しい光を当ててみせるというのが学者本来の仕事だから、 川田稔の書き方はたしかに学者として正しい行き方なんだと思うけど、 もう少し「血の通った人間の営み」として歴史事象を読み手の前に広げて見せて欲しい、 という気持ちも、『昭和陸軍の軌跡』を読んでいて感じることだったりする。 永田・武藤・東條・石原という、日本陸軍のいってみれば「大スター」を並べて見せてるんだから、 もう少し物語性って言うか、彼らの「人間味」みたいなものまで踏み込んで論述してみようって 冒険をしても良いんじゃなかったのかなぁ。 せっかくの良書なのに、史料の例示が余りにも多いもんだから新書だからってんで手を出そうとする シロウトさんへの敷居が無駄に高くなっちゃってる気がするよ。 もうちょっと永田と東條のあいだにあった心情的な絆や、東條と石原の間の確執なんかにも ページを割く余裕があっても良かったと思う。
>>207 俺はあの本の作者は、結論ありきで書いてる印象が強くてがっかりしたなあ。
政府方針に沿って帷幄上奏を阻止しようとした永田は陸軍上層部に反抗する下剋上の象徴ってそりゃ酷い。
政府>軍の文民統制を正義としたい香りがぷんぷんするんだが、それにしては論理が一貫してない。
まあ、そもそも統制派が確固たる派閥として扱われてるのも違和感ありまくりで、
その辺旧来の史観と何が違うのかどこが新しいのかわからない。
>213 たしかに、浜口雄幸への思い入れが強いために、陸軍にいる永田のことを「悪玉」として見る意識が強いせいか、 随所に強引な論理で史料を解釈している面も多かった気がする。 あの当時は永田以上に過激な思想を振りかざして「下克上」をやらかそうとしてた連中が大勢いたから、 永田としてもバランスを取るためにそういう連中の暴発を抑えるために強硬な態度を示さざるを得なかったけど、 全体としてはなんとか現地軍の暴走を押し留めようとする政府と陸軍首脳の支え役を やっていたというのが実情に近かったよな。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/24(土) 17:59:48.79 ID:zv4P6dqW0
陸軍の最終勝者って、東条英機? 岡村、小畑、永田、板垣、石原
>215 陸軍自体が負けたんだから、「勝者がそもそも居ない」というのが正確ではないかと・・・ 個人的には、上記の名前の中に阿南惟幾・梅津美治郎の名前を入れてみたいが。
>217 その文脈だと、瀬島龍三の方がふさわしいかも。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/05(木) 03:12:01.11 ID:7cy6He7O0
>>216 その二人(阿南、梅津)は最後まで派閥的な行動は無く最高位を極めた
これって?
豚骨だな。 豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!! おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。 薬味はネギと紅ショウガね。 マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね! ああ〜また食いたくなってきた〜。 明日も食うけん!!
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/07(土) 17:47:20.43 ID:P24c9W8C0
>>218 小物だろ
辻政信が関連してる日本軍の悪事とされてるもの
バターン死の行進、シンガポール華僑虐殺。
ガダルカナルの無謀な作戦。
これだけでも当時の軍組織がちゃんとしてれば軍令違反で死刑だぞw
そこだな。 問題は。 辻ごときが政治勢力化しえた状況。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/08(日) 15:47:22.53 ID:7BOCETc10
>221 >小物だろ いや、戦前の行動如何の話じゃなくて、戦後に栄達したかどうかという視点での話のつもりだったんだ。 戦前の基準で言えば服部にしても辻にしても大して出世してたった訳でもないじゃない。 大臣とか次官レベルまで行った訳じゃないんだし。 戦後になって服部機関を作って暗躍したり、ベストセラーを書いて国会議員になったりしたから有名になった。 その意味で言えば、シベリア抑留から返ってきて商社に入って会長にまで上り詰め、 中曽根政権のブレーンの一人として国政の枢機に参与した瀬島の方が「勝ち組」に相当するんじゃ 無いかなと思ったんだ。
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/10(火) 03:47:15.30 ID:x3giJ0zJ0
辻 昭和戦争期に特に実戦で参謀ながらこれほど上層部を引きずった軍人はいない 当然知力、戦術眼は抜きん出てたが私見では統率力も抜群でむしろ実戦部隊長の方がむいてるし弊害も少なかったと思う 参謀として使った山下も能力は認めながら人事考課で統制逸脱多しと酷評してるし 山本五十六も大本営派遣参謀の辻に会った後「あんなやつをのさばらしてるから陸軍は駄目なんだ」と評したという 簡単に小者と片付けられる人物ではない
>>224 ならば宇垣一成でどう?
下村定もかな。
>226 宇垣は確かに陸軍における「勝者」では有ったと思うけど、最終的には勝者という位置付けで その人生を終わったわけではなかったし、このスレにおける「統制派・皇道派」という 括りの中にいる存在でもないでしょう。 長州閥という枠組みの中で育ち、その枠組みを崩して宇垣閥とでもいったグループを 築き挙げた手腕と実績は大したものだと思うけど、宇垣内閣流産事件に見られるように、 最終的には子飼いの部下たちに裏切られて顔に泥を塗られたという顛末を考えれば、 構成の人間の目からは、むしろ「不遇に終わった人」みたいなイメージの方が強い気がする。 下村定に関しては何とも言い難い。 敗戦処理投手として登板してきちんとした仕事をしたという評価はすべきだと思うけど、 「最後の陸軍大臣」という肩書き以外に語るべき事柄が無い人だと思う。
お前らぶっちゃけどっち派? おれ皇道派。 偉そうな事喚き立てつつ、身の安全を謀る。 ミスター非国民でいくぜ。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/15(日) 01:06:23.79 ID:bmX+utqy0
条約派だお。 条約で米英を拘束して、国力を高めるお。 それしかないお。
永田鉄山の見識や言動を支持している身としては統制派寄りの立場だけど、 永田死後の統制派はあまり好きでは無いかな。
条約派かな。 条約一つで戦艦一隻楽に潰せる。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/23(月) 23:19:18.78 ID:IK9KZ0Im0
【山本五十六こそが日本を対米戦争に引きずり込んだA級戦犯】 ■日中戦争 勃発、泥沼化 (海軍の予算拡大が目的) 海軍次官・山本五十六は、陸軍と対等の予算獲得のため大量の爆撃機配備をもくろみ その宣伝のため脅威をあおり中国空爆を計画したと考えられる。 海軍の南京爆撃(渡洋爆撃)は、盧溝橋事件以前から周到に準備訓練していた、中国に対する計画的な侵略戦争。 当初は敵飛行場を標的にしたが、山本が開発した96陸攻は防弾装備が皆無で旧式の敵戦闘機に撃墜されまくり、直ぐに都市無差別爆撃に切り替える。 第二次上海事変を機に4ヶ月にもわたって南京への猛爆は敢行された。 山本五十六が中心となって強行した南京無差別爆撃こそが日本の暴走の始まりである。(日中戦争泥沼化) そしてこれこそが共産党の狙い通り全中国人を反日で一致団結させ、世界を敵にまわす結果を招く。戦略的な効果は殆ど無く日本の被害は増大。 ルーズベルト大統領は海軍の南京無差別爆撃を世界に向けて非難。(隔離演説) アメリカ大統領が歴史上初めて、日本を強烈に非難した。 (満州事変でさえもアメリカ大統領が日本を批判したことは一度も無かった。) ■対米開戦 陸海軍とも当初は対米戦争を避ける米英可分論が主流だった。 しかし山本五十六は米英不可分論によって対米戦争を主張し、対米脅威論を流布し海軍全体を強行に対米早期開戦に決意をさせた。 皆の反対を押し切って米国本国であるハワイ、西海岸を奇襲。 自国が攻撃されない限りは戦争に参戦しないというルーズベルトの公約は反故にされる。日本支持だった共和党までが対日、対独全面参戦を支持。 米国世論は反戦から参戦支持に豹変し、アメリカを総力戦に無理やり突入させた。 対米開戦確定後も、国の方針(対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案)では、対英戦を守戦とし、米国との和平を視野に入れていたが、 海軍のハワイ奇襲(東条首相ら政府は知らされていなかった)によってそれは絶望となった
>>234 五十六はアメリカと内通していだんだろ。
だろうね。 おそらく仲介役は昭和天皇。
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/05/05(土) 23:27:53.47 ID:FU8zcbvW0
永田鉄山 子供の頃は成績が抜群というわけではなかったが、父の遺訓を受けて友人と 夜学会を組織して一日も休まず復習し、先生から参考書を借り受け勉強をした。 東京の幼年学校に移っても特徴のない小柄で平凡な子と見られていた。 学期が進むにつれて頭角をあらわしトップを争うようになった。 講堂で居眠りしているのを見た事がない(同級生の話) その日のことは必ずその日に整理することにしていた。しかも極めて几帳面に。 父母を尊敬し、年上を敬い、同輩を大切にした。 礼儀正しく快活さを失わなかった。たとえどんなに忙しくても友人から質問を されたらどんな難解難問でも己の勉強を投げ出して快く答えた。 幼年学校の時、友人が病気で入院した時は自分のものと友人のもの二冊を ノートした。日曜、休日の際は必ず病気で休養室にいる戦友を見舞い友人を感激させた。 友人が外出禁止になったときは必ず土産を持って慰めた。 「ヤア」の一言の挨拶にも実に言い知れぬ情を感じられた。 その友情は同輩にとどまらず、旧知旧友に対しても変わることはなかった。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/05/05(土) 23:33:21.50 ID:FU8zcbvW0
品行方正、挙動厳格、聴講中の姿勢端正、礼儀丁重。 全てにおいて卓越していたが、恥ずかしがりやを克服するために並々ならぬ努力をした。 人によって厚薄のあるような交際はしなかった。 独善に陥って人を見下し、尊大振る風はその痕跡だも見出すことはできなかった。 常に謙遜の美徳の中に天成の才気を包みむしろ平凡人として終始した。 休日は先輩の家を訪問し、教えを請い片言隻句を記録し、 反省の資とし、それに対して検討を試みた。 当時の日記を見るといかに深くこの点に留意していたかが窺われる。 先輩だけでなく禅門を叩いて心を鍛錬し、孫呉の兵書を読み、 語学の勉強のために宣教師を訪ねそのかたわら宗教の勉強もした。
俺も凡人として努めているよwwwwwwwwwwwwwww
>>215 杉山でしょう。
戦争によって陸軍を極めた。
恐いものなしで好き勝手したあと、勝手に自殺して。
こんな人生おくってみたいわ。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/05/20(日) 12:29:02.45 ID:dWqh7kTg0
>>240 能力がないのにトップに立っちゃって
いろいろ苦労があったとおもうよ
東條に参謀総長職取られたりしたし
杉山元元元帥
石原って皇道派?もしかして
>>240 グズ元グズ元と公然と陰口囁かれる人生が素晴らしいとは思えないが
>>243 どっちからもハブられてた、そのお陰で226では命拾い
>244 >どっちからもハブられてた、そのお陰で226では命拾い ハブられてたというと語弊があるような気がする。 どちらの陣営からも一目置かれていたけど、その一方でどちらからも危険視されていたって方が近いかと。 満州事変の立役者って事で、皇道派からは「良くやった!」みたいに見られていただろうけど、 石原本人としては皇道派的な国粋主義思想はハナからアホらしいと思って見てたろうと思う。 統制派の側からしたら、満州事変で軍の命令系統を無視して暴走した張本人ってんで苦々しく思う感じもあったろう。 ただ、2・26事件の渦中で武力鎮圧の方に舵を切ってその討伐実施への推進役となった石原に対して、 事件後の「粛軍」に名を借りた皇道派一掃人事で石原を処分することが出来なかったってところじゃないか?
真田穣一郎って有能?無能?
>>245 なんか、石原莞爾って優秀だと思っていたが、
レス読んで人騒がせな軍人に思えてきた。
皇道派って原理主義組織みたい・・・
>>247 優秀は優秀、ただ自分の考えを周囲に理解させる能力がなかったし
その努力も怠ってた
>>248 なるほど、優秀でも周囲から煙たがられ最後は予備役行きだし、一発屋みたいだね
東條ってそんなに悪い軍人だったのかな?
石原贔屓の人の本って、石原を東條と比べているが
天才というより奇才の石原を、秀才タイプの東條が理解ある態度を取れなくても
しょうがない気がする(´・ω・`)
>>249 基本は忠勤一筋の小役人だからね、No3あたりには適任だけどトップを張る器じゃない
だから憲兵を掌握しての恐怖政治に走った、調整能力が無いから
押さえつける以外できなかった>東條
まぁ、石原の言うとおり長城を越えずに、それこそナチやソ連がどうなろうとも 不拡大路線を貫いてれば、いずれ第三帝国なりアメリカなりと激突するとしても 30年は戦争を遅らせることは出来たと思うよ ただその場合、それこそ世界が灰燼に帰す程の大戦争になるだろうけどね 核も実用化されてるだろうし
>249 >東條ってそんなに悪い軍人だったのかな? 軍人としてはそう悪い部類じゃなかったんじゃないか? 野戦軍指揮官や作戦参謀としての技量については何ともいえないが、 編制動員といった陸軍省勤務時代の実務に関しては折り紙付きだったらしいし、 「カミソリ」とあだ名される程度には能吏として名を売っていた存在ではあった。 面倒見の良さとかもあったから、直属の部下からも相応に慕われていたようだし。 近代的軍隊というのは「蛮勇」をもって良しとするものではなく、 規律正しい統制と組織への服従こそが命みたいな所があるから、 そういう意味では東條のような謹厳実直を絵に描いたような人間は ある意味ではとても「軍人らしい」と評し得る人間だとは言える。 ただ、いかんせん大局を見る全体的な視野が狭く、感情的に偏狭なところがあって 国家という複雑な構築物をスムーズに動かしていくだけの技量には欠けるところがあった。
>251 >まぁ、石原の言うとおり長城を越えずに、それこそナチやソ連がどうなろうとも >不拡大路線を貫いてれば それはそうだけど、満州事変という前例を作って「手柄さえ立てちまえば、政府も軍の中央も 文句を付けては来ねーぜ」っていう空気を醸成したのも石原だからねぇ。 ある意味、自分で播いた種というか。
>ただ、いかんせん大局を見る全体的な視野が狭く、感情的に偏狭なところがあって >国家という複雑な構築物をスムーズに動かしていくだけの技量には欠けるところがあった。 一人の例外を除いて平成以降の歴代首相全般にもあてはまるけどな 首相を任期制にして参院を廃して一院にしたうえで官僚も課長より上位の役職は総入れ替えするぐらいのことをしなきゃ この国は変わんない希ガス
>>252 >面倒見の良さとかもあったから、直属の部下からも相応に慕われていたようだし
ヤバイ・・・そういうこと言われると「良い人」評価が確定してしまう。
優秀な軍部官僚なら、彼は首相なんて引き受けなければ良かったのに・・・
>>254 一人の例外が気になるわ
>255 「良い人」であることと、「有能な政治家」というのはイコールでは結ばれないものなのですよ。 吉田茂は有能な政治家だったと思うけど、個人的にはあまりお近づきになりたい人物ではなかったようだし、 カーター元大統領は良い人なんだとは思うけど、政治家としては有能ではなかったようだ。 永田鉄山が陸軍となって全体の舵取りを行い、岡村寧次や武藤章、板垣征四郎や石原完爾がその幕僚として辣腕を振るい、 東條英機や梅津美治郎が堅実な実務をとりまとめるという体制を取れていれば、大日本帝国陸軍というのはもうちょっとまともな 組織として機能しえていたように思う。
>>256 手術で例えると、オペは上手いが性格が悪い医者と、親切で人柄は親しまれるけどオペが下手な医者みたいなもんか
>257 心因性の病を抱えている病人にとっては、親切で人柄が良くて話し上手な医者の方が、 オペが上手くて性格が悪いぶっきらぼうな医者よりも、病気の治癒には遙かに役に立つかも知れない。 国家にとっても、大風呂敷を広げて壮大なビジョンを明示する政治家は確かに役に立つ場合もあるけど、 それは実務を支える有能な手足となる人材が周囲にいてこその話だったりする。 後藤新平なんかもそうだけど、大風呂敷タイプの人間が実績を残すには周囲に実務かタイプの人間が 存在していてそういう人間たちと協力し合う環境が整っていないとその壮大な経綸は活かせない。 石原完爾と東條英幾は、この2人の仲を取り持ってまとめ上げるだけの包容力のある人材がいて、 そのところを活かして適切な部署に配置していれば、ともに日本を支える人物たり得る存在だったと思う。 永田亡き後には、そういう人材がとうとう出てこなかったのが日本にとっては不幸なことだった。
一夕会とは何だったのか?
サルを完全に破壊する実験って知ってる? まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。 それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。 食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。 腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。 ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。 ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、 サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
旧軍の軍人の行動は、パチンコ依存症のギャンブラーのそれに近いって事なんだろうね。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/08/10(金) 16:00:56.82 ID:WOp3ACKs0
成功体験への固執ってやつだな
その成れの果てがあの自爆戦争ですか?
石原達の独断専行が処罰されなかったツケだな 同様に横行してた国内でのテロに関しては226でヒロさんが激怒したおかげで その後ピッタリと収まったんだから
その前の段階の、張作霖爆殺事件での河本大作を処分しなかったのの方が問題だったんじゃないかね。 石原が満州事変を起こしたのも、「河本があの程度の処分で済んだのだったら、もっと上手くやりゃお咎め無しになるに違いない」って 思えたからだろうから。 昭和3年の時点で、陸軍が自分たちの責任を認めて河本だけでも死刑にしとけば、 その後の陸軍の暴走はなかったかもしれない。
そもそも他人の土地(満州)を「日本の兵隊さんが血を流して(ry」 云々言って、利権に拘ったのが不味かったのでは? 一方では白人の帝国主義を批判しておきながら 自分達も充分、ヘゲモニー好きって二重基準が、そもそもの病理じゃ・・・
>267 日清戦争では勝てたから賠償金を取れたけど、日露戦争では名目上は勝ちだけど実際のところは痛み分け もしくは引き分けみたいなモノだった。 奉天会戦や日本海海戦の勝報ばかりを知らされていた国民は知らないだけで、もうちょっと戦争が 長引いていたら破綻していたのは日本の方だった公算が高い。 だから賠償金なんて取れなくてもしょうがないのに、納得がいかない国民の感情を何とかなだめるために 「満蒙の権益は日本人が血を流して勝ち取ったモノ云々」というキャッチフレーズを言い出したあげくに、 それを何度も口にしている内にいつの間にやら意識を縛られて権益を実際以上に過大なモノと 政治家も国民も思い込むようになってしまった。 実際のところ、満蒙の利権なんて満州全体の土地のほんの数パーセント程度の港湾周辺や鉄道付属地に 限られたモノだったのに。
時代認識が全然違う。 日露戦争以後も日本にとって最大の国防課題は対ソ戦略だった。 第一次大戦後、列強との戦争は総力戦になることが明白となり、 国家総動員体制が築けない限り必敗となる。 ここで日本には諸事情から総力戦は不可能であるから、 総力戦は取らずに短期決戦ですべて決着すべしという一派と、 無理だからと諦められる問題ではない為、 無理を承知で総力戦体制を築く為に大陸に資源を求める一派とで抗争が始まった。 いずれにしてもソ連の国力拡大は日本を遥かに凌いでおり、 時間が経てば経つほど彼我の戦力格差は増大して、 どうにもならなくなる事態が近付いていた。
>269 >国家総動員体制が築けない限り必敗となる。 簡単なことです。 まずは戦争になるような外交政策をとらず、ワシントン体制を中心とした 多国間条約網を維持し、協調外交を堅実に守っておけばよかったんです。 そもそもアメリカとは国力が違うんだから、日本が国家を総動員した戦力を保持しても アメリカ一国の総動員には負ける。 だからこそ英米を味方に付けて、ソ連を封じ込める政策をとれば良かった。 勝てない相手と戦争をして勝つ手段を探すより、勝てない相手とは戦争をしない 方策を立てるべき。
>>270 >勝てない相手と戦争をして勝つ手段を探すより、勝てない相手とは戦争をしない
方策を立てるべき。
そもそも軍事力の裏付けのない外交なんて無力だ。
協調外交なんて全然簡単じゃない。
>271 軍事力のみに頼ろうとする外交こそ無謀の一言でしょう。 日本の場合は海という自然の防壁に国土を囲まれているうえに、第一次大戦後には 世界第3位の海軍力を持つ強大な軍事国家だった。 あとは海軍力第一位と第二位の米・英とケンカさえしなければ、日本を軍事的に脅かす存在は 実際問題として存在しない。 協調外交が簡単じゃないと言うけど、軍事力で米英にケンカを売って互角に渡り合おうという方が 遙かに難しい。 国家というのは軍事のみで成り立っているのではなく、他国との友好的な協力関係を維持することで 学問や文化、経済や産業の協力体制が充実することもまた国家運営上の必須要因。 それらを棒に振ってまで他所にケンカを売り続けるのは賢明な態度では無い。
>>272 ただこちらが売らなくても万全の準備を整えた相手に売られる可能性もあった
そうなるともうどうしようもない
だから攻撃は最大の防御的な思想でとにかく切り取れる場所は切り取るしかなかった
石原の献策を受け入れて長城を超えず、かつ列強に満州資本をある程度提供すれば
戦争は避けられたと思うよ、それでも30年くらいが限度で
その後に起こる戦争は水爆が飛び交う最終戦争になってた可能性が高い
ソビエトを中心とした共産勢力 ナチを中心としたファシズム勢力 アメリカを中心とした自由主義勢力 この3すくみになれば危ういながらも均衡は保てる 日本は徹底的な不拡大主義でかつ防共をスローガンにすれば アメリカも手は出せない
戦前ドイツ政府の共産党弾圧に協力したソビエト社会主義⇒共産勢力 ソビエトもファショ国家だが、それだと都合の悪いソビエト系進歩的文化人が勝手に独・伊をファシスト国家と規定した⇒ファシズム勢力 経済的隆盛で世界市場を席巻しつつある日・独をブロック経済で締め出した米・英⇒自由主義勢力 一寸、何を言っているのか分からないよ>274
>273 >こちらが売らなくても万全の準備を整えた相手に売られる可能性もあった それはちょっと被害妄想が過ぎる。 むしろ世界的には第一次世界大戦の惨禍があまりにも酷いモノだったんで、 各国が「もう戦争はゴメン」と思う気持ちが強まっていたというのが現状だった。 その中で日本はほとんど被害を受けずに済み、戦争特需で儲けて経済力を付けた上に 造船能力や鉄鋼生産力も上がって大規模な(世界三位)の海軍を擁する大国に成長した。 この状況で日本に「万全の準備を整え」てケンカを売ってくるような国はまず無い。 あるというのなら例示してくれ。
>>268 >納得がいかない国民の感情を何とかなだめるために
偏った情報を国民に与えると、結局政府も自縄自縛になっちゃうのか
>満州全体の土地のほんの数パーセント程度の港湾周辺や鉄道付属地
ハリマンさんの共同経営でも良かったね
タカ派世論ってのはお隣の国を見ていても厄介だな
不都合な事実を国民に突きつけると、愛国心で反発するし・・・
日露戦争で「勝った」と言い繕った代償が、あの昭和の戦(´;ω;`)
陸軍は統制派も皇道派も功を焦る集団ということでは変わらずいずれ暴走・自壊 (下剋上の風潮等)した気がするが、海軍も大角人事の一回で簡単に崩壊した所を 見るとあまり問題の根は変わらないのかもな
>278 海軍と陸軍とでは派閥対立の強度や質がけっこう違っていそうな気がするけど。 少なくとも、派閥対立の果てに敵対者を暗殺しようとかいう行動は海軍内ではなかった。 5・15事件での海軍士官達の行動は派閥対立というのとはちょっと違うし。 海軍は理が勝つタイプの人間が集まった組織だから、組織の利益を獲得する方向では動くけど、 組織の利益が減るのを承知で自派閥の利益を追求するという行動を刷る人間はあまり出なかった。 陸軍はもう少し情念が勝るタイプの人間の集まりだったから、外部からの陸軍に対する不審感や批判が 醸成される事になろうとも敵対派閥の排除が最優先となるところまで派閥対立が激化した。 海軍の場合はまず艦艇という巨大な器物を上手く動かすことが必須技術であり人的評価の基準ともなったけど、 陸軍の方は膨大な数の人員を統御することが求められる一方でそこには「採点基準」というものが明確でなく、 むしろ上官の受けが良いかどうか仲間や部下から慕われているかどうかとかが出世を決める処があったのも、 派閥対立が起こり、それが激化する要因の一部でもあったんじゃないかって気がする。 今の会社組織になぞらえてみて、製造系メーカーを考えたときに海軍は工場系の技術者集団、 陸軍は体育会系気質の営業部隊みたいに捉えてみるのも一興かと。 デカイ機械を正確に動かして事故を起こさないようにするためには、仕事仲間の人格やら好き嫌いよりも 「仕事が正確か、ミスや抜けがないか」というのの方が重視されるので、その意味では派閥対立の発生する 余地が少ない。 対して営業部隊は正確な技術云々というのはあまり問われない代わりに、チームとしての連携力や集団の和が 重視されるので人間関係の好悪や相手に対する好き嫌いというのが対立の芽として発生しやすい。 (もちろん営業だって「売り上げ成績や受注量」といった目に見える指標は存在するけど、それのみを基準にして 課員がバラバラに動くことを良しとする企業より、集団として協調体制を取ることを良しとする企業も多い)
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/09/13(木) 23:27:57.67 ID:kB65X/Dz0
>>277 いや、敵の戦略意図を挫き自らの戦略を通した点で勝ちは勝ちで間違いないけど
ただどっからどう見ても辛勝だが
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/01/15(火) 22:17:17.72 ID:mto+iH0b0
age
このスレでは北岡伸一の『官僚制としての日本陸軍』を読んだ人はいないのかな。 かなり面白い本だったし、「陸軍の派閥対立の再検討」の章は読み応えがあった。
石川信吾や神など独逸、独逸と草木も靡くの艦隊派の末裔等は 海軍力ちんけな独逸にいったい何を求めていたのだろうか?
このスレでは田中隆吉陸軍少将の『日本軍閥暗闘史』を読んだ人はいないのかな。 かなり面白い本だったし、「近衛内閣と支那事変の勃発」の章は読み応えがあった。
>286 その本は読んだことがないけど、どんな具合に読み応えがあったのかを 教えて貰えるとありがたいな。 研究の進んだ近年の著作しか読まずにきてしまっているから、戦後まもない時期に 書かれたこの手の本がどんなことを語っているのかについて、興味がある。
>>統制派vs皇道派・条約派vs艦隊派 こんな連中よりも、藩閥の方がマシだった。藩閥の方がまだ国全体というもの を考えて行動していた。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/16(土) 21:52:26.50 ID:T5Ml1TEg0
age
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/21(木) 12:12:09.07 ID:DljxWBvq0
BS歴史館 2月21日(木) 午後8時00分〜9時00分
http://www.nhk.or.jp/bs/rekishikan/ 「徹底検証 二・二六事件〜日本をどう変えたのか?〜」
昭和11年2月26日、早朝。近代日本最大のクーデターといわれる二・二六事件が起きた。
裁判記録の最新研究から、東京中枢を数時間で占拠した陸軍の青年将校たちの意外な事実が明らかになった。
将校グループは決して一枚岩ではなかったのだ。なぜか? さらに事件後、陸軍で台頭したのは、若手の革新幕僚。
陸軍を大きく変えた、その手腕と狙いは? 事件は日本をどのように変えたのか、議論しつくす。 【語り】佐々木蔵之介
>291 見たけど、話しの底があんまり深くなくて概説をサラッとなぞっただけにしかなってなかったな。 ところどころに印象的な発言や重みのある言葉もあるんだけど、その背景や注釈にあたる情報が 少なくって、この番組を見ただけの人にはたぶん伝わってなかったと思う。
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/28(木) 10:28:12.08 ID:SvMIbp6l0
山本五十六は言ってるじゃないですか、一年ぐらいはもつって、勝った勝ったでいくだろうと。
だけど後はもう知らんて、そしたら天皇はそれでもいいからやれちゅーわけですよ。
やらないと自分の身が危ないと。スキャンダルをみなばらされて全部失うと、スイスに貯めた金も失うと。
なぜ石油があったか考えてみたことありますか。
これはですね戦争のときに、アメリカは日本には石油を売らないと。
ところがパナマ国籍の船ならば、石油を積んでいって日本に売っても自分達は攻撃できない。
というような理屈で日本に石油を間接的に売るわけです、本当の話です。
でこれに三菱が作った昭和通商という会社がそれを引き受けるわけです。
で昭和通商と三菱は同じですけど、そこでまずいので日本水産という会社が代行するわけです。
魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、
戦争は長引くわけです、太平洋でいっぱい戦争しました、あれはアメリカの石油をもらって、
アメリカの石油を使った軍隊と戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ。
そしてある時になってもう石油をやらないという時に、天皇は気がつく。
ああ遂に終わりがきたかと、これが真相なんですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes 御巣鷹山ジャンボ機はほぼ間違いなく自衛隊機に撃墜されたんです。
墜落現場からミサイルの破片が回収されたんです。
ジャンボがミサイル積んでるの、積んでないでしょ、じゃ何で撃墜したの?
アメリカの無人標的機が尾翼にボーンとぶつかっちゃって、相模湾上空で。
でビーンて尾翼ふっとんじゃって、これアクシデント。
で横田基地になんとか誘導しようとしたんだファントムで。
だけどレーガンと中曽根あたりがねこれはやむなしと。
バレたらね反自衛隊感情まき起こるから、どうせ堕ちるなら撃墜やむなし。
墜落地点はすぐわかってたのになぜ救助に行かなかったんだよ。
全員死ぬの待ってたんだよ、生存者いちゃまずいんだよ。
でこれ書いちゃまずいかなぁって思っちゃうね、冷静になると。
だけどそのとき、ちょうどね『そんなの関係ねぇ』って流行ってたの(笑)
小島君に励まされて、小島よしおに、よっしゃーってんで書いたの。
http://www.youtube.com/watch?v=p2QN3_NXlTs
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/03/01(金) 00:10:07.09 ID:2p/B4eJxO
艦隊派の加藤寛治が統帥権問題を取り上げた根拠は正しかったのか?
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/03/01(金) 00:13:54.62 ID:2p/B4eJxO
ロンドン海軍軍縮条約で加藤寛治が統帥権干犯を言い始めたのが 昭和の軍部の暴走の発端だろ?
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/03/01(金) 00:16:26.38 ID:2p/B4eJxO
それを聞いた陸軍が「統帥権干犯だぞ!」とやったら何でも 自由にやれるんだと勝手解釈し始めた。 天皇は内閣の補弼なしに軍部の操り人形になった。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/03/01(金) 00:37:26.88 ID:2p/B4eJxO
大正デモクラシーによって民主化に向かった政治慣習と、旧態 依然としたままの大日本帝国憲法の条文のギャップが軍部の 暴走に繋がったわけで。
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/03/01(金) 10:16:19.38 ID:2p/B4eJxO
石原と林が満州をやらなかったら、統帥権問題もそのまま 沈静化したかも知らんな。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/03/01(金) 10:32:14.73 ID:2p/B4eJxO
やっぱり36年の日独防共協定と翌年の日中戦争との関係を国際 検察局に突っ込まれてるもんな。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/05/11(土) 04:48:51.22 ID:uq+ZVbSRO
やっぱ石原は死刑だな。 あと徳富。
石原の構想通りならシナ事変も大東亜戦争もなかっただろ。
あれ? 最終戦争は日ソだったっけ?
石原の考えた日米決戦は壮絶な殲滅戦。絶対に勝てる見込みがつくまで全力で回避しなければならないものだった。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/06/20(木) 14:56:16.16 ID:dTgDzk040
>>295 統帥権干犯を言い出したのは犬養毅や鳩山一郎が政争の具として使ってから。
しかも浜口は先に軍を指揮する最高司令官たる昭和天皇に軍縮条約の承認、決裁をもらっていた。
加藤がどうこう言う前に第58回衆議院特別国会が始まっていて、その議場で野党政友会の犬養毅、
鳩山一郎が「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と発言し政府を攻撃した。
しかも反対派は天皇の伯父にあたる伏見宮を担ぎ出し、条約調印は統帥権干犯と騒ぎ出したことで、
天皇自身が言い返すことが出来無くなったのを見て、統帥権干犯が悪用された。
それまの常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(第12条)」と規定されていた、
編成大権の管轄事項で、内閣(海軍省)が決め、それを統帥部が承認して決まっていた。誰もそれを統帥権干犯だとは思ってなかった。
>>306 統帥権干犯をクローズアップしすぎる論調が多いように感じるな。軍縮条約には海軍内の艦隊派と条約派
で別れて対立が始まり、加藤は「軍令部は責任が持てない」という曖昧同意であり(軍令部が同意していない
という統帥権干犯悪用の根拠として有名だが)、海軍内の調整に当たった岡田啓介は加藤の財部の海相辞職要求を
受け入れ、首相の浜口から不足している兵力を補充する約束を言明させ、さらに文書にあった
「財政が許せば」の文言も削らせている。
穏健派とされる岡田だがこの時は軍縮条約という名を得るために艦隊派に実利を与え過ぎたように感じる。
永田鉄山も二・二六事件で標的になった重臣達も 日本の国力が弱い事を知っていて戦争を回避しようとした人達だよね。 皇道派将校達は日本のために動いたんだろうけど、結果的には日本を破滅させた。
>308 実際、満州事変で英米協調派の若槻内閣が倒れた後の、荒木が陸軍大臣の地位にあった いわゆる「皇道派時代」の時期に、ソ連との間の軍備の近代化には大きな差が付いてしまっていた。 満州という広大な地域を占領することによってソ連に対抗しようと考えたのは良いけど、 実際にはそうした工業化や機械化を進めるだけの体力が日本には無かったし、そうである以上は 軍事的な緊張を高める手段によるよりも、列強間条約を維持して経済力や工業力を充実させるために 軍事的な緊張状態を緩和するようにした方が良かった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 皇道派ですら、その軍備の欠陥を自覚し始めていた。それ以外のものは、早くから深刻に感じていたに違いない。 永田は一九三三年(昭和八年)十月の書簡において、「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、青竜刀式の頭脳、 まだ残っていこと、及び過度に日本人の国民性を自負する錯誤に陥っている者の多いことが危険なり」として、 「邦が貧乏にして思う丈のことが出来ず、理想の改造の出来ないのが欧米と日本との国状の差中最大なるものなるべし、 この欠陥を糊塗するため粉飾する為に、まけ惜しみの抽象文句を列べて気勢をつけるは止むを得ぬ事ながら 之を実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」と述べていた。 皇道派に対する根本的な批判であった。 北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(p84-85) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 国家として選ぶべき途を、外国とは事を構えずに平和的な手段による経済活動で国内の富を蓄積する方を選ぶか、 軍事的手段を取って他国と事を構えることを恐れずに外に打って出る方を取るかという岐路に立ったとき、 威勢の良いかけ声に踊らされて後者を選んでしまったのが大きな選択ミスだった。
>>309 永田は軍の近代化なんてまるでわかっていなかったよ
実際具体的になにをどうするかなんて何一つ語っていない
言っていたのはルーデンドルフの受け売りだけ
所詮東条と同じ事務屋で軍事知識など素人同然だったのが永田という男だよ
むしろ皇道派の方が軍の近代化に熱心だった
小畑山下なんかそうだし鈴木なんか陸軍航空隊の基礎を作った人物だ
補給の重要性もちゃんとわかっていた
何かと評判の悪いあの真崎でさえ対米戦は補給が続かないから負けると早くから言っていた
だいたい南進論を最初に言い出して対米戦への道筋をつけたのは永田でしょうが
ソ連よりもはるかに強大なアメリカを敵に回してどうする気だったんだろうねえ永田は
まあそもそもルーデンドルフなんぞ信奉している時点で終わっているが
>>310 そうなんだ。
荒木への批判として「精神論ばかり言って日本の軍隊の近代化を遅らせた」というのがあるけど
統制派も変わらないね。
渡辺錠太郎は陸軍の戦地拡大を批判していて
首相官邸襲撃に参加した池田少尉によると「若い者の戦意を削ぐような話をしていた」そうだけど。
だからって機関銃で蜂の巣にされて何度も斬り付けられるってのは残酷…。
>>308 総力戦対策の為に自給のための中国進出をしたら泥沼の総力戦になったでござる、
>>309 永田はそもそも東条や石原と木曜会をつくり、そこで満蒙領有を結論としている。
この木曜会が双葉会一夕会と膨張していくにつれそこへの具体策として
荒木、真崎、林の擁立を掲げそれが犬飼内閣で荒木陸相を実現した。
自分たちの意見を通すために長州閥人事を打破するということでは
上の3人以外でも小畑、山下、鈴木、岡村寧次、板垣征四郎、河本大作、土肥原
など中堅層では広範に支持されたものだよ。
皇道派と統制派の争いのクローズアップや永田の良識人というキャラクター化
を描写し、陸軍に選択肢のアナザーがあったように導く北岡に限らず、
そのような著作(小説、論文に限らず)の多さには疑問を感じざるを得ない。
312が一番真に近いのだろう。
>>311 荒木の極端な精神論は貧乏で早急な近代化は難しくそこを兵士の質で補おうというのが根底にあるから
あと軍内の共産主義浸透を防止したいという面と
実際日本の工業力はまともな水冷エンジンが最後まで作れなかったことからも一朝一夕に上げることは難しかったと思う
むしろ永田の方が現実無視の無茶な計画をぶち上げていて荒木の方が現実をちゃんと見据えていたとも言える
小畑もそうだが基本的に皇道派は現有の国力戦力で如何に戦うかだけを考えていたように思う
実際小畑の立てた対ソ作戦も少ない戦力で敵を迎撃する内線作戦だったし
だいたい国力を上げる云々は政治家の仕事であって軍人の仕事ではないしね
政治家の領分に顔を突っ込んだ永田はその時点で終わっているとも言える
宇垣はなんであんなに嫌われたんだろう 総力戦体制構築、軍の近代化に無理解ってわけじゃないし 一夕会の少壮幕僚らの思想と相容れないって程でもないような
>>314 1920年代後半に長州閥の打破から始まった陸軍中堅官僚の政治活動だが、
具体化の進展で荒木、林、真崎の擁立が目的となり、荒木の陸相が犬飼内閣で実現
したけど、この頃から荒木、真崎VS林、永田という図式が始まる。
犬飼亡き後の斎藤内閣で丸くなったせいで軍内での支持を失ったように言われている。
だけど当時の陸軍内では統制派が総合国策大綱をつくり総力戦への政策提言が始まっている。
これは机上論ではなく、実行に移すために外部の勢力、社会大衆党や官僚との交流をおこなっている。
社会大衆党は5.15事件を資本主義への攻撃と捉え、広田内閣で作られた内閣調査局は官僚の横断的な組織であり、
陸軍の要請への賛同を前提としている。ここに陸軍の政策提言は社会大衆運動を巻き込む形で
2.26のようなクーデターではなく合法的に「国策」として実現した。内閣調査局がその後企画庁、企画院へと
発展し、国策立案の花形官庁となる。
統制派にせよ皇道派にせよその目的は自分たちの意のままになる内閣を作ることにある。
荒木及び皇道派が退場させられたのはその行動範囲が軍部に限定していることにある。
思想的に統制派と同じだが、結局クーデタ-が限界だということも2.26でわかる。永田は途中退場に
終わったが統制派が巧妙なのは当時の社会情勢をよく読み、資本主義に敵意を抱く左翼、統制経済を志向する
新官僚や右翼を取り込んだことにある。
>310 >永田は軍の近代化なんてまるでわかっていなかったよ >実際具体的になにをどうするかなんて何一つ語っていない もうちっと勉強したほうがいいよ。 永田以上に欧州大戦によって登場した「総力戦」の概念を理解していた軍人はいなかったし、 永田が音頭を取ってその概念を陸軍内に広める努力をしていなかったら、 そもそも日本陸軍の近代化なんぞありえなかった。 >むしろ皇道派の方が軍の近代化に熱心だった ちゃんちゃらおかしい。 皇道派の連中がまともに近代化という課題について考えていなかったことくらい ちょっと本を読んでみれば誰でも理解出来る。 >だいたい南進論を最初に言い出して対米戦への道筋をつけたのは永田でしょうが 永田がいったい何時「南進論」なんぞ言い出したんだ?
>312 >総力戦対策の為に自給のための中国進出をしたら泥沼の総力戦になったでござる、 武力でもって領土の切り取りをやろうとしたアホな現地軍がいたからね。 総力戦に備えるための軍事力と経済力を付けるという発想と、武力で領土の獲得を 図ろうという発想は、そもそもぜんぜん別のモノ。
>313 >永田はそもそも東条や石原と木曜会をつくり、そこで満蒙領有を結論としている。 木曜会は鈴木禎一が主導して石原たちをメンバーに引き入れた研究会であって、 永田も東條もオブザーバーみたいなものとしてしか参加してない。 永田と岡村あたりが主導したのは双葉会の方で、この両者が合流したのが一夕会。 >皇道派と統制派の争いのクローズアップや永田の良識人というキャラクター化 >を描写し、陸軍に選択肢のアナザーがあったように導く北岡に限らず、 >そのような著作(小説、論文に限らず)の多さには疑問を感じざるを得ない。 実際、満州事変以後の日本の陸軍には、混乱を収束して破局を回避するという 選択肢を取り得る余地があったことは間違いないよ。 勇ましいことばっか言って後先考えない輩が多かったせいでそう言う方向に 進むことが難しかったのは確かだけど。
>314 >荒木の極端な精神論は貧乏で早急な近代化は難しくそこを兵士の質で補おうというのが根底にある 軍の近代化というのは、そもそも兵士の質で補えるようなモノではない。 そのことを理解出来て居なかったのが皇道派の最大の間違いだった。 大和魂で戦車や飛行機と戦えるかっての。 大戦末期の日本軍の惨状がそれをよく示してる。 >永田の方が現実無視の無茶な計画をぶち上げていて では、永田のぶち上げた「現実無視の無茶な計画」というのを具体的に挙げてみてくれ。 いったいどんな計画案なんだい? >小畑もそうだが基本的に皇道派は現有の国力戦力で如何に戦うかだけを考えていたように思う >実際小畑の立てた対ソ作戦も少ない戦力で敵を迎撃する内線作戦だったし 現有の国力戦力では「そもそもまともな勝負にならん」というのが明白だったんだけど。 小畑がどんな作戦を立てようと、実際のソ連の機械化された軍隊の実力を理解せずに 立ててた計画って時点で机上の空論でしかない。 >だいたい国力を上げる云々は政治家の仕事であって軍人の仕事ではないしね >政治家の領分に顔を突っ込んだ永田はその時点で終わっているとも言える んじゃ、ロンドン条約に難癖付けた海軍の艦隊派は全員「軍人として終わってる」ってことだね。 敵とまともに戦えるだけの軍備を要求するのが軍人の仕事。 予算の関係でそれを実現するのが難しいと政府が撥ね付けるのであれば、 それを可能とさせるような環境を作るべく努力するのも軍人の仕事だよ。 そもそも陸軍大臣も海軍大臣も内閣を構成する行政府の一員なんだから、 政治の仕事に足を突っ込んだら「軍人として終わってる」とされるのであれば、 陸軍大臣も海軍大臣も「軍人として終わってる」ってことになるんだが。
>317 >永田は途中退場に終わったが統制派が巧妙なのは当時の社会情勢をよく読み、 >資本主義に敵意を抱く左翼、統制経済を志向する新官僚や右翼を取り込んだことにある おおむね同意。 近代戦を戦うためには、国家全体の持てる力を注ぎ込む体制がなければ勝利は見込めない。 軍隊の兵士がどんなに精強であろうと、優れた兵器や武器弾薬の補給がなければ戦闘での 勝利は得られないし、兵器も武器弾薬も工場で作られるモノである以上は一定程度の 工業力が無い限りは補給以前にその生産が追いつかないから。 そして工場の生産性を上げるためには、経済環境の整備と労働条件の向上といった、 総体としての国家の経済運営や社会構造にも目配りをしていかなければならない。 優れた軍の指導者というのは、同時に優れた政治家でもなければならない。 永田の死後の統制派がそうした「政治家的資質」を少しでも持っていたならば、 ああしたバカげた戦争には入っていかなかったろうに。
>>318 >永田以上に欧州大戦によって登場した「総力戦」の概念を理解していた軍人はいなかったし、
その概念自体が間違いだったということになぜ気づかない?
だいたいこれを言い出したルーデンドルフは結局第一次大戦でドイツを敗戦に導いてしまった
政治は軍事のために何でもやれというクラゼヴィツとは真逆の考えの結果だ
軍事はあくまで政治ためにあるということをルーデンドルフも永田もわかっていなかった
>皇道派の連中がまともに近代化という課題について考えていなかったことくらい
>ちょっと本を読んでみれば誰でも理解出来る。
鈴木は航空戦力の重要性を早くからわかっており実際彼は陸軍航空隊を手塩にかけて育てた
山岡も特殊兵科を充実させようと尽力した
真崎小畑山下なども同様
しかし統制派ではそのような人物は皆無
東条や富永のような能無ししかいない
>永田がいったい何時「南進論」なんぞ言い出したんだ?
対中一撃論をぶち上げたのは永田
そして荒木小畑らが英米との戦争になると反対しても持論をひっこめなかった
これは結局対英米戦を永田が目指していたことに他ならない
>>319 >武力でもって領土の切り取りをやろうとしたアホな現地軍がいたからね。
それを最初に言い出したのが永田であり
>総力戦に備えるための軍事力と経済力を付けるという発想
のために中国に攻め込み結局対米戦に突入し破滅した
>>321 >軍の近代化というのは、そもそも兵士の質で補えるようなモノではない。
>そのことを理解出来て居なかったのが皇道派の最大の間違いだった。
弱いなら弱いなりの戦い方があるんだよ
物量だけで決まるならアメリカはベトナムで負けていない
>大和魂で戦車や飛行機と戦えるかっての。
>大戦末期の日本軍の惨状がそれをよく示してる。
それをやったのが統制派じゃないか
>永田のぶち上げた「現実無視の無茶な計画」
資源も基礎工業力もろくにない日本が総力戦体制を築こうとするのがそもそも無茶
最初から無理だったんだよ
>現有の国力戦力では「そもそもまともな勝負にならん」というのが明白だったんだけど。 >小畑がどんな作戦を立てようと、実際のソ連の機械化された軍隊の実力を理解せずに >立ててた計画って時点で机上の空論でしかない。 小畑の立てた作戦は内線の利を活かした迎撃戦 そしてこれはフィンランド軍が冬戦争で実践した 装備兵力とも貧弱なフィンランド軍は機械化されたソ連の大軍に大損害を与え壊滅させた フィンランドごとき小国でさえ出来たことを日本軍が出来ないはずはない 机上の空論では決してないんだよ >んじゃ、ロンドン条約に難癖付けた海軍の艦隊派は全員「軍人として終わってる」ってことだね。 終わっているよ間違いなく 戦争は政治目的を達成するための手段に過ぎないという根本的なことを全く理解していなかった これは永田も同様だ >敵とまともに戦えるだけの軍備を要求するのが軍人の仕事。 >予算の関係でそれを実現するのが難しいと政府が撥ね付けるのであれば、 >それを可能とさせるような環境を作るべく努力するのも軍人の仕事だよ。 軍人に出来るのは政治家に対する提言だけ 間違っても無理強いしたり政治に顔を突っ込んではいけない 実現できないのなら現有戦力でなんとかするよう努力する 今の自衛隊もそうしている >政治の仕事に足を突っ込んだら「軍人として終わってる」とされるのであれば、 >陸軍大臣も海軍大臣も「軍人として終わってる」ってことになるんだが。 軍事は政治の一部なんだから提言するのは当然 統制派のダメなところは軍事が政治を超越して主導権を握ろうとしたことなんだよ 永田はクラゼヴィツすらろくに読んでいなかったんだろうね
南進論というか、統制派は親独で対中進出傾向で行き止まり。手段が間違っているから総力戦体制も成り立たない。 私は親英の皇道派も幣原外交も正しいとは思わないけど、まだマシなんじゃない? 権力の下降化もあって、無統制の、史実でははダメなとこ取りになってしまった。
で、永田さえ生きていればって論調もダメダメかと。 日本で独裁なんて制度上も風土上も無理だし、結局軍人達にしても自部門を有利に回すために、他人の領分を侵食してしまい全体向上をもたらさない行動に終始していた。 まあ、そういう官僚的な(というか官僚そのものだが)出世システムの巧者が出世志向で舵取りしているのだからむべなるかな。 現代組織もそんな感じのケースが多いけどね。花形部門を回すことばかり考えて最適化するのも確かに良いけどさ、正しいとされることばかりやっていると、補助部門が立ち行かなくなるんだよね。
そもそも石炭くらいしか採れるものがなく産業もろくにない満州を総力戦のための経済基盤にしようという考え自体が間違っているわ 石橋湛山ではないが本気で国力上げたいのなら国内に投資すべきだった 永田が大好きだったドイツにしろソ連にしろまずは国内産業の育成やインフラ整備をしたのちに対外進出している いったい彼は何を見ていたんだろうね? その点満州をソ連に対する防波堤としか考えていなかった皇道派の方がちゃんとわかっていたわ
> いったい彼は何を見ていたんだろうね 軍が政治力を掌握する過程だろ あとは社会主義とか平時からの無用な軍備強化とかだろうな
>そもそも石炭くらいしか採れるものがなく産業もろくにない満州を総力戦のための経済基盤にしようという考え自体が間違っているわ 大慶油田……と書いても、顔を真っ赤にしながらググったコピペを貼り付けてくるだろうからどうでもいいが、 文頭から後知恵を誇らしげに書くのって、中学生かい?当時の一般常識や大勢に逆らう人物しか称揚できない厨二病患者を強調されても困るんだよね。 大勢に逆らって未だに領土拡張を続ける、現在の中国を批判するなら分かるけどw >ソ連にしろまずは国内産業の育成やインフラ整備をしたのちに対外進出している おいおい国家の基本は国民を食わせることだろ。 ウクライナ大飢饉は君の教科書には掲載されていないのか。
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:g5CSxfqk0
> ウクライナ大飢饉
これが国内の産業を育成するためのもんだろ。食糧を輸出した金で工業化した
石原莞爾とかのソ連かぶれはこれを知ってたのかな?
> > いったい彼は何を見ていたんだろうね
> 軍が政治力を掌握する過程だろ
この点が
>>318 の
> 永田以上に欧州大戦によって登場した「総力戦」の概念を理解していた軍人はいなかった
ってことだろうね
ところで永田鉄山ってどんな軍の近代化に取り組んだの?
> 社会主義とか平時からの無用な軍備強化とか
これが永田の言う近代化ってことはないよね
>これが国内の産業を育成するためのもんだろ。食糧を輸出した 頭カラッポで、こちらが投げ与えた用語を検索しなきゃ何も言えないのなら、無理に言葉を返す必要はないのよorz 検索して見つけ出した都合の良い(と思い込んだ)単語のみをぬきだしたところで >ソ連にしろまずは国内産業の育成やインフラ整備をしたのちに対外進出している この文意が破綻しているという事実は変わらないだろ?本当にオツムのヨワイ子だね… 鼬だからもう止めるけど、ソ連の農業政策はレーニン=スターリンの無能に起因していて、 風土の特性を知悉していた農民を追い出し、都市労働者や鉱山労働者に(君のようなググっただけの薄っぺらい)西欧農業のマニュアルを押し付けたことにある ウクライナ大飢饉は人災なの
>>332 別に破綻はしていないだろ
ドイツがガンガン公共事業やってインフラ整備したのは事実だし
つーか君が何を主張したいのか意味不明なんだが?
そもそも日本語としてなっていないし
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:FEi7zacH0
相手が言っていない「ドイツ」に話題をそらすことが俺のジャスティス(キリッ) それが正しい日本語での会話w
言葉遊びをするアホは放っておいて 日本が強力な戦車を開発できなかった原因の一つに貧弱なインフラのせいというのがある 貧弱な港湾設備しかなかったので重い兵器の積み下ろしが出来なかった また道路がろくに舗装されていなかったので航空機を飛行場まで牛車で運ぶという始末 こんな状態で軍の近代化なんか出来るわけがない 満州に投入した膨大な資金を国内のインフラ整備に使った方がどれほど有益で軍の近代化に貢献できたろうか 結局永田は軍の近代化も近代戦も全く理解していなかったと断じてよかろう 東条よりはちょっと有能な事務屋に過ぎないというのが永田鉄山という男の評価だよ
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:1hF6R0mg0
>日本が強力な戦車を開発できなかった原因の一つに貧弱なインフラのせいというのがある貧弱な港湾設備しかなかったので重い兵器の積み下ろしが出来なかった >また道路がろくに舗装されていなかったので航空機を飛行場まで牛車で運ぶという始末こんな状態で軍の近代化なんか出来るわけがない グデーリアンの著作すら読んでいない連中による某戦車アニメ以降、俄が戦車を語ることのうざさ… ドイツがソ連に最新の戦車を持ち込んでも、ソ連からは「ドイツがこんな低スペックな戦車しか保有していないわけがなく、ドイツはソ連に技術情報を出し惜しみしている」と 決め付けられたエピソードすら知らねぇんだから溜め息がでるorz 欧州での過剰なインフレーションに日本は巻き込まれなかっただけだろ。 牛車の件は、 吉村昭の『零式戦闘機』に、道路事情の悪さ・振動の少なさなどを総合的に判断してあらゆる試行錯誤の結果だと書かれているのに、ネット情報だけの 耳年増が未だに趣旨も理解できずに書き込んでいる… そもそもこれは、米では航空機工場に飛行場が隣接しているのに対して、日本では工場の近接地に飛行場が確保できないというだけの話なのにな。 例え話が全く用をなさない頭の悪さなのに、コトバアソビだのアホだの自分語りだけは得意だというのだから失笑するほかないw
>>366 は文章をちゃんと読めないアスペか文句のための文句を言っているだけだな
自分で「道路が悪い」って書いているじゃないかw
其れまでの文脈を無視し、唐突に「ドイツ」ではと書き込んだ時点で、
>>333 は誰からも相手にされないアスペ患者に認定されたんじゃないかと、
>>337 が不安に感じるのはよく分かるよ。
安心汁!俺だけは決して君を見捨てないから。絶対に勝てる口論で、しかも何を言っても俺の実生活に害が及ぶ事は絶対にないのだから。匿名掲示板の醍醐味というやつを最後まで楽しまさせてくれw
>牛車
既に書いた事だが、米と土地事情が異なる日本では航空機の運搬に牛車が使用された。これは好んで知障が揶揄する話だが問題の所在は何処に在るのだろう。
>>337 が車の運転免許を取得し、渡米したのち現地の道路事情の現実を知るまで我我は待たねばならないのか。
それも一案だが、当人が実行(自らの思い込みが間違いだとの確認)する気があるとは思えない。
潤沢な税金に保障された平成日本の道路は世界標準と見做すべきだと主張する
>>337 (337はこんな事は書いていないと否定するだろうが、337の知力に合わせた文章の構築は苦痛なだけなので、
337の抗議は無視する)がいる一方、現在の日本の道路が世界では特異であり、戦前の日本の道路が世界標準に近いという考え方もある。
知識と経験が隔絶した両者の所感が軌を一にする事は絶対にありえないので、この件は保留して仮定の話をしてみよう。
仮に戦前、田中角栄的人物が道路族を形成し税金を湯水のように使える遣り口を実践したとする。この337が繰り返し書き込んでいる国内インフラ整備の一端だな。
それで戦況が変わるのだろうか?
陛下から下賜された賜り物として我我は兵器を恭しく扱うべきなのだろうか。「芸術的な航空機を作らせたら世界一」と皮肉られる航空技術者、前線では全く使えない航空無線機。
こんなものを量産していても、米国との比較でもありえないほどに肥大した関連団体によって完璧に保守された道路があり、当時の技術力では製作不可能なサスペンションの開発に最優先で取り組めばよかったのか。
問題にすべきなのは日本の技術者の開発姿勢なのではないのだろうか…
長くなるのでこの話はここで切って、国内インフラとやらに筆をすすめよう。
我が国のロボット産業についてよく語られる話として手塚治虫氏の功績が挙げられる。欧米と違って日本の労働者はロボットへの拒否感が弱いという話だ。
裏を返せば戦前の我が国でも産業機械の導入は労働者の強い抵抗があったということになる。
左翼の巣窟であった満鉄社員が「若し満州国ではなく日本本土にトラクター工場を建設すれば間違いなく労働者の襲撃を受けただろう」と語っている。
この337は馬鹿なラノベ作家と同じで、個人が何かすれば集団の意識や国家の方針は安易に変更できると信じて疑わないようだが、世の中にでたことがないから現実の重さを知らないのだろう。
戦前の日本でマンパワーを損なう動きが農業従事者や工場労働者にむけられたときの争議の苛烈さなんか到底予測不可能なんじゃないかと思ったりする。
何故国内で有用に使えない資金が満州・台湾・朝鮮・南方島嶼に投下されたという現実がみえないのか。
将来を透徹して優れた先見性を評価するのではなく、後知恵による批判を有用だと思い込んでいる
>>328 にしてみれば、失われた領土に資本を投下した事実が許せないのだろうが、
問題の捉え方が根本から間違っていると断じるしかない罠。
>貧弱な港湾設備しかなかったので重い兵器の積み下ろしが出来なかった
真珠湾で反復攻撃を行わなかったのは航空爆弾が払底したからだ
大和は片道燃料で沖縄に出撃した
etc.etc.
即座に嘘だと断言できる事柄を旧軍人が率先して口にする。
何が正しいのか判断できる見識のないモノが珍奇な主張に率先して食いつく。
そろそろマトメに入りたいのだが、337は感情的な人格攻撃ではなく、webで拾い集めた皮相な言葉しか知らない愚か者だと確言できる決定的な一言を書いてみようと思ったりは……しないよなw
さっきから発狂してるのってちょっと上で完全に論破された永田信者か?
桂浜の坂本龍馬像の隣に小畑敏四郎像を飾りたい by土佐民
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:NAWtqc0x0
調べてみると敗戦まで軍隊の中で何が起きても 司法が干渉できない聖域化してたんだって
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN ID:d+vGkzsDO
日本は道路網は貧弱だったが、鉄道網で対応していた。
ドイツについては
>>328 で出ているんだがな
永田の大好きだったドイツが
あとの駄文は支離滅裂な電波オナニー過ぎて返す気にもならん
どういう立場で誰に何を言っているのか、さっぱり分からんレスも >支離滅裂な電波オナニーの駄文 だけどな。
>>342 軍内には陸海軍刑法がそれぞれ適用されるルールがあるからな。
>>330 >大慶油田……と書いても、顔を真っ赤にしながらググったコピペを貼り付けてくるだろうからどうでもいいが、
↑これの意味が不明なんだけど。当時はまだ発見されていないですよね。
採掘できない油田を引き合いに何を言いたいのだろうか?まだ近場ではオハ油田の方が現実的ですねえ。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:Yae6V4oSO
>>347 買っとけばよかった北樺太。
即座に金を積めばよかった満州。
粥を啜ればできたことです。
この辺を日本の軍人達はどう考えていたかですね。
結ばなければよかった日ソ中立条約で放棄したオハ油田採掘権。
これについてもです。
>>347 永田が生きていれば発見されていたと言いたいんじゃないの?
>この辺を日本の軍人達はどう考えていたかですね それを言うなら今の日本企業もサハリン開発で何度も煮え湯を飲まされているのに未だに食いついているけどね 347-349 凄まじく自演臭い
永田や石原の信者ってまだいるんだな 議論で勝てなくなったら厨二病患者だとか相手を罵倒するのに方針転換 やってることがオウムや創価みたいなカルト狂信者じゃん 永田も石原もこんな信者はいらんと思うぞ
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:Yae6V4oSO
>>350 相手の主権下で何かをする権利を買うのと、主権そのものを買い取るのでは大違いです。
隣は倍の値段でも買えというではありませんか。
石原は割りと対ソ戦構想に関しては皇道派寄りでは?
>>352 348だろうとは推察できるけど、多分考えている事が全く噛み合っていないと思割れ。
続けるなら話を整理してね。
>>330 調べて見つからなかった油田を、
粥をすすれば見つかった?
永田が生きていれば見つかっていた?
気違いの論理は理解しがたい。
粥どころか、娘は女郎屋へ身売り、男は兵隊になるしか食べていけない状態でしたが何か?
>>355 その状況を変えたいと願うのは当然だけど軍に身を置いたまま活動した奴らがいたのとそいつらがのさばったのが悲劇だね
森靖夫の"永田鉄山 - 平和維持は軍人の最大責務なり" ってどう?
これによれば永田は軍部大臣文官制に賛成だったそうだけど
20年代と30年代で永田の意見が変わったの?
荒木や小畑がソ連への先制攻撃を企ててたって説はどう思う? その通りって人も永田の捏造って人もいるけど
>356 その本にも書かれてあるとおり、永田は大正デモクラシー期の政党政治の伸張を理解していた軍人だから、 軍部大臣文官制も「いずれは受け入れざるを得ない施策」として捉えていた。 その潮目が変わったのは、満州事変というイレギュラーな現地軍の暴走とそれを止め得なかった 陸軍中央部のコントロール能力の欠如による「下克上の機運」が醸成されたことによる。 満州事変以前と以後とで、軍人の鼻息はまるっきり変わった。 「政党政治何するモノぞ」みたいな反発が(それまでの反動も手伝って)強烈に巻き起こっていたから、 政党人の大臣就任なんて受け入れる余地が無くなってしまった。 20年代と30年代とでは軍を取り巻く環境が激変したから、考えが変わる方がむしろ当然だろう。
>323 >>永田以上に欧州大戦によって登場した「総力戦」の概念を理解していた軍人はいなかったし、 >その概念自体が間違いだったということになぜ気づかない? 何が間違いなんだかさっぱり分からん。 現実に第一次大戦によって、戦争の質と規模はまるっきり変わった。 ルーデンドルフだとかクラウゼヴィッツがどうとかとは全く関わりなく、 戦争にまつわる概念自体が変化したんだよ。 >>皇道派の連中がまともに近代化という課題について考えていなかった >鈴木は航空戦力の重要性を早くからわかっており実際彼は陸軍航空隊を手塩にかけて育てた その鈴木は自分が手塩に育て上げた航空隊が、ソ連の軍事力の前では話にならないレベルだって 気がついて愕然としていたようだけど?(北岡伸一『官僚制として日本陸軍』p84) >山岡も特殊兵科を充実させようと尽力した >真崎小畑山下なども同様 全く論拠も根拠もないね。 北岡著の詳細な皇道派批判の文章に抗するだけの内実を伴っていない繰り言に 耳を傾ける必要性を感じないな。 >対中一撃論をぶち上げたのは永田 >そして荒木小畑らが英米との戦争になると反対しても持論をひっこめなかった 一体何時の話をしているんだ? 永田が対支一撃論を主張したなんて話は党に否定されているが?
>324 >>武力でもって領土の切り取りをやろうとしたアホな現地軍がいたからね。 >それを最初に言い出したのが永田であり 寝言もたいがいにしろ。 満州事変という「領土の切り取り」的な現地軍の暴走を取りやめさせようとしたのが永田であって、 その現地軍の暴走を追認して満州国独立へと舵を切っていったのが荒木陸軍大臣だ。 永田はその後も一貫して現地軍の策動を取りやめさせようとしていたし、性急な武力の行使には 慎重な姿勢を崩していない。
>324 >>軍の近代化というのは、そもそも兵士の質で補えるようなモノではない。 >弱いなら弱いなりの戦い方があるんだよ まるで大戦末期の「竹槍で米軍と戦え」とか言っていた大本営作戦参謀と同じような言い分だね。 >>大和魂で戦車や飛行機と戦えるかっての。 >それをやったのが統制派じゃないか その頃にはとうに永田は殺されてるんだけど。 東條やらのアホは永田の持っていた考えを理解するだけの能力も無い連中だから あの大戦末期の惨状を引き起こしてしまった。 >資源も基礎工業力もろくにない日本が総力戦体制を築こうとするのがそもそも無茶 だったらソ連を相手に戦争をしようなんて無茶な考えを持っちゃダメだったね。 君が言っているのは単純な皇道派否定の論理だ。 永田のように既成事実として成立してしまっていた満州国に関してはしょうがないから 現状維持を念頭に置いて治安の維持と民心の安定と産業の奨励を行うことで静穏を保ち、 ソ連に対しては戦争に繋がらない形で融和的な政策を採っておくべきだった。
>325 >>ソ連の機械化された軍隊の実力を理解せずに立ててた計画って時点で机上の空論 >小畑の立てた作戦は内線の利を活かした迎撃戦 まるっきりの机上の空論だね。 >フィンランドごとき小国でさえ出来たことを日本軍が出来ないはずはない そういうのを机上の空論って言うんだよ。 >んじゃ、ロンドン条約に難癖付けた海軍の艦隊派は全員「軍人として終わってる」ってことだね。 >終わっているよ間違いなく 海軍の艦隊派と提携していたのが陸軍の皇道派なんだけど。 >軍人に出来るのは政治家に対する提言だけ 実際に永田はそうしていたけど? テロを奨励して政治に圧力をかけることを積極的に行ったのが荒木らの皇道派なんだけど。 5・15事件で、被告を擁護して軽い刑罰を下したのは一体誰だったと思ってるんだ? 一国の首相を殺害した犯人を「その心情は諒とする」とか言っていたのが荒木ら皇道派。 >統制派のダメなところは軍事が政治を超越して主導権を握ろうとしたことなんだよ 永田死後の東條や武藤といった連中がそうした策動をしていたのは事実だけど、 それは永田が指向したことでも何でもない。 「統制派」という言葉と「永田派」というのはそれぞれ別のモノとして理解すべきだね。 北岡伸一も上で挙げたその自著でこういっている。 「私は、ここでは統制派という言葉を避けて、永田鉄山の周辺に結集し、陸軍の実権の 掌握を目指した人々だけを永田派と呼ぶこととしたい。」(p85)
>327 >結局軍人達にしても自部門を有利に回すために、他人の領分を侵食してしまい全体向上をもたらさない行動に終始していた。 当時の陸軍軍人の中で、他省の官僚と提携して全体向上を目指す行動を取ったのは永田ぐらいのものだったんだが。 >328 >石炭くらいしか採れるものがなく産業もろくにない満州を総力戦のための経済基盤にしようという考え自体が間違っているわ そもそも満州を取ったのは現地軍の策動とそれを追認した皇道派であって、永田がしたのはその後始末というか 尻ぬぐいとしてそれくらいのことしかできなかったというのが近いんだけど。 >石橋湛山ではないが本気で国力上げたいのなら国内に投資すべきだった だから、それをしようとしていたのが永田なんだって。 対外的な武力進出を抑制して、経済を好転させて産業を奨励するために商工省や外務省と言った 外交や貿易を主務とする省庁の官僚らと連携を取る姿勢を持っていたし、社会大衆党などの 無産政党の幹部である麻生や亀井らとも連携して、労働問題や小作問題の解決を目指すことで 国民大衆の生活の安定を実現しようとしていた。 また当時においても大きな力を持っていた木戸や原田といった宮中グループとも連携を取って その理解と協力を得ようという態度を取っていた。 そういう国家全体を動かすための施策への理解とその必要性の認識をしていたことこそが永田の凄みで、 荒木や小畑といった皇道派連中の単細胞ぶりとはその点で一線を画している。
永田についてはよく知らんが > 経済を好転させて産業を奨励するために商工省や外務省と言った > 外交や貿易を主務とする省庁の官僚らと連携を取る姿勢を持っていたし、社会大衆党などの > 無産政党の幹部である麻生や亀井らとも連携して、労働問題や小作問題の解決を目指すことで > 国民大衆の生活の安定を実現しようとしていた。 > > また当時においても大きな力を持っていた木戸や原田といった宮中グループとも連携を取って > その理解と協力を得ようという態度を取っていた。 これは明らかに軍服を脱いでからやるべきだろう
>364 軍服を脱いで行う必要が有るのは政党政治家として政治活動を行うことだろ。 陸軍の必要とする施策を、軍務局長としての職責と権限でもって実行出来るように 働きかけるのに、なんで軍服を脱がなけりゃならんのだ。 他省の官僚や政党政治家との折衝や交渉を行うことがそもそも軍務局の仕事だって 理解出来てねーんじゃないのか?
>>356 「どう?」と言われても、永田がいれば大慶油田が見つかったと言う仮定に全く繋がらないからダメノダメダメ論理ですね。
>>363 全体向上?所詮は交渉で言うことを聞かない相手にサーベルをガチャつかせて強要していた人だからねえ。
部内調整の矛盾を他部の負担で調整してきた人だからなー。
そんなに買いかぶっても駄目よね。
>366 そういうあなたは実際に森の著書を読んだの? >367 >所詮は交渉で言うことを聞かない相手にサーベルをガチャつかせて強要していた人だからねえ。 森は永田の言動や彼と付き合いのあった人物の談話などを詳しく調べても、永田がサーベルをガチャつかした ような形跡はまったく発見出来なかったと述べているし、むしろ「軍人離れした人物で、まるで大学教授と 話しているような印象を受けた」と述べている人がいるのを紹介しているよ。 実際に、永田の交渉相手で「サーベルをガチャつかされた」なんて言っている人はいるのかい? 単に、有末誠三が戦後に「永田さんはよく話の途中に『君、サーベルをガチャガチャやって脅かすか』 などど云われていましたから、やはり我々の気持ちとちっとも違わないのです」と述べているだけだろ。 実際に「サーベルをガチャつかせて」交渉を行うことの多かった有末が、戦後になってからそれを 「永田もそうやっていた」というイメージを作り出すことで「俺だけじゃない」という言い訳を しているだけのように思えるけど。 >部内調整の矛盾を他部の負担で調整してきた人 そんな人間相手に、他省の官僚が協力的な姿勢を取るかね? 交渉なり調整なりは、ある部分での自分の側の要求を通すために別の部分で相手の要求を受け入れる といった行為によって、自分の側と相手の側とを含めた全体最適を求める作業だ。 永田が軍内以外の人脈を持ち、外務省や商工省や宮中とのパイプを持ち得たのも、そうした行為を 積み重ねていった結果と考える方が妥当なんじゃないかと思うよ。
>>365 経済問題やら労働問題やらに口を出すのは明らかに軍事官僚の役割を逸脱した行為だよ
そういうことがやりたいのなら軍服脱いで政治家になれということだ
あと一官僚が特定の政党と癒着するのもいただけない
>369 わからんやつだな。 軍の国家に対して、軍政の一環として予算を要求したり編制や装備の拡充を求めるのは 閣僚の一員として内閣を構成する陸軍大臣を窓口として行うのが本来のあり方。 軍人勅諭にある「世論に惑はず、政治に拘らず」というのは、そうした本来の窓口ではない 軍人一般に対して制限を加えるための文言であって、陸軍大臣のみがそうした「世論を勘案し、 政治に携わる」環境を整えるためのもの。 そして、そうした作業は一人の陸軍大臣が個人の力で行いうるモノではなく、陸軍次官や 軍務局長といった直属の下僚の補佐を得ながら進めるモノ。 あくまで事務方のスタッフとして陸軍大臣の仕事を助けるのが軍務局長の職責なのだから、 陸軍大臣のみが携わる政治交渉や他省との折衝が軍務局長の主要な仕事の一つとなる。 この理屈をまず飲み込んでから発言しなさい。
軍事力が必要とされる局面というのは、主として外国との利害折衝が上手くいかない時の 最終局面としての武力行使が選択肢に入って来たときなのだから、当然外交当局とは 密接な関係を保ち、情報を共有して外交に遺漏をきたさないように努力する必要が有る。 また、外交問題は経済(貿易)上の角逐や権益の追求が原因として惹起する場合が多いため、 商工省や拓務省などとも情報を共有して事に当たる必要がある。 満州における満鉄の行動如何なんて問題に関してはモロにこれが当てはまるだろう。 国内に目を向けてみれば、軍が徴兵によってその頭数を確保する際の人員供給源は 主として農村に頼らざるを得ない(当時の日本は人口の過半が農林水産業に従事)、 従って農林省との協調によらなければならない場面が多々あった。 当時は農村の疲弊が叫ばれ、借金まみれになって娘の身売りをしなければならない農家が 多数存在していた社会状況なので、小作争議への対処などを通じて富の分配の公平化を図り、 農村の状態を立て直さなければ、徴兵によって一家の働き手を奪われてしまう農村の不平不満が 軍に集中する恐れがあった。 そのため、人員供給源の確保のための農村の経済的安定化は、軍にとって重要課題となっていた。 軍の組織を上手く回していくためにはこうした様々なファクターを適切にハンドリングして 様々な問題を解決するための最適解を探す必要が有り、各省庁のトップが集まる閣議において その調整を行うのが陸軍大臣に要求される「政治的役割」であり、その補佐をすることを求め られていたのが、陸軍次官〜軍務局長〜軍事課長といった軍政スタッフだ。 「政治に関与したければ制服を脱げ」というのは、そうした職責に当たっていない参謀本部や 隊付将校などの軍令系統の仕事に就いている人間に対して向けられるべき言葉であって、 軍政を担当する陸軍省の中枢スタッフに対して向けるべき言葉ではない。
だから米軍や今の自衛隊の連中がそういうことをやっているか? やっていないだろ? つまりはそういうことだ
>372
米軍の話はよくわからんので何とも言えんが、自衛隊がそれをやっていないというのは
単に君が無知なだけだ。
自衛隊の権限が抑制されており、一定の制限がかけられた状態ではあるが、安全保障会議という名前で、
他の省庁との連携や調整は通常業務の一つとして行われている。
かつてのように強大な権限がなく、内閣からの独立性が否定されているという大きな違いはあるが、
軍事官僚が他の省庁との調整無しに、単独でその業務を遂行出来るというモノではないという点は
変わってはいない。
防衛省・自衛隊HP
http://www.mod.go.jp/j/profile/mod_sdf/index.html ・我が国の防衛組織
防衛省は防衛大臣を長とした政府の行政機関の1つです。
内閣総理大臣は自衛隊の最高の指揮監督権を有し、その指揮監督のもと、防衛大臣は
自衛隊の隊務を統括します。
安全保障会議は、国務大臣(内閣総理大臣、外務大臣、財務大臣、防衛大臣、内閣官房長官、
国家公安委員会委員長、経済財政政策担当大臣(置かれている場合))で組織されます。
374 :
366 :2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:sLzxgNy80
>>368 一般書で良いなら、森靖夫で『日本陸軍と日中戦争への道』と『永田鉄山』ぐらいなら読んでるけどね。
永田関係なら川田稔の『浜口雄幸と永田鉄山』や『昭和陸軍の軌跡』や『満州事変と政党政治 軍部と政党の激闘』は一般書籍だから読んで当然ですよね。
『秘録永田鉄山』なんかも所有はしていないけど、一度は目は通していますが。
マンセー本とか批判本とか・・・玉石混合だけど、結局の所は幻想を抱いちゃ駄目ってことだよね。
で。ある程度の本を読んでいるけど、何か?
375 :
366 :2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:sLzxgNy80
>>363 の
>そもそも満州を取ったのは現地軍の策動とそれを追認した皇道派であって、永田がしたのはその後始末というか
>尻ぬぐいとしてそれくらいのことしかできなかったというのが近いんだけど。
↑所謂、統制派が起こしたのが満州事変なワケで、永田も大砲を送ったり色々便宜を取りはからって肯定的に動いているワケなんですが。
(時期について慎重であったけど、「満州事変やる派」なのには違いないし、それを事後利用しまくった)
こんな結論が出てくる論理は「非常に狂っている」と僕は思います。凄く思います。
>374-375 それだけ読んでいるのであれば、満州事変に際して永田がそれを積極的に推進する ような行動を取って居らず、むしろ抑制しようとした陸軍中央部の側に立って 現地軍の統制に心を砕いていたことくらいは理解出来ると思うのですが。 永田が大砲を送ったのも、国内の合意を取り付けて政府主導での軍事行動を起こすための準備の一環であって、 非合法な謀略によって武力行使を行うことを念頭に置いたモノでは ありません。 満州権益を守るために政府の支持の元に武力行使に行うことと、デッチアゲの謀略で騙し討ちするのとは、 ぜんぜん違うことだということくらいは理解しておくべきです。 そもそも、満州事変を起こした石原や板垣が「統制派」であるという認識に到っている時点で、 あなたの理解が底の浅いモノであることを示しています。 見当外れというほかありません。
>>376 はあ?永田信者?としかいいようがない認識だね。
それで振られた話題に一般書籍しか挙げなかったわけだが、君は僕より本を読んでいたのかね?
大慶油田の話からも逃げちゃったみたいだし。
>377 >はあ?永田信者?としかいいようがない認識だね。 あなたの個人的感想などはどうでも良いですよ。 >君は僕より本を読んでいたのかね? あなたが挙げている森と川田の本は当然ながら全て読んでいますよ。 で、挙げられるのはそれだけ? 満州事変時の永田の行動や態度は小林道彦の『政党内閣の崩壊と満州事変』などでも 丹念に記述されておりますが、こちらはお読みになってはおられませんか? >大慶油田の話からも逃げちゃったみたいだし。 もともと私は大慶油田の話などはしたことがございませんが。 どなたと勘違いしておいでですか?
そもそも社会大衆党なんていう泡沫政党と癒着しているのがおかしいんじゃないの? 現代に例えるなら自衛隊幹部が共産党や維新辺りと癒着しているようなものだろ
>379 社会大衆党が泡沫政党などと言ってしまうあたりで既に無知を晒していますね。 坂野潤治の『昭和史の決定的瞬間』や井上寿一の『政友会と民政党』あたりでも 読んでみなさい。どちらも新書でお手軽に手に入る。 当時の社大党は国内の左翼勢力全てを糾合した政党だったし、また永田らが主導していた 内閣審議会と内閣調査会を結節点として岡田内閣−民政党−新官僚といった勢力との 連携を通じて、当時の政権の中枢に食い込みつつあった。 永田は陸軍パンフレットに盛り込まれた「広義国防」という概念を看板にして、 新官僚・民政党(財閥を支持基盤とする政治勢力)・社会大衆党(工場労働者や 小作農民などの社会弱者を支持基盤とする政治勢力)といった、互いに相容れない 主張や主義を持つ勢力を結集させることで閉塞状況の打開を図っていた。 こういう歴史的背景を勘定に入れずに、今の共産党や維新の会などと同一視する乱暴さでは そもそもまともな理解すらおぼつかないんじゃないかね。
いや閉塞させたのは永田自身だから。
>381 そう主張したいのであれば、きちんとした論拠なり一次資料なりを提示してください。 無内容な1行レスをされてもこちらとしては「話にならん」としか返しようがない。
>>382 >>378 なるほど、永田信者の人は体系油田戦線から撤退ですか、誰もあの発言の責任を取る者が居ないと了解しました。
駄目駄目ですね。
だって永田が満州事変に賛成していたことは、大勢が証言したり見解を述べているじゃない?
今まで出ていた本にも書いてあるでしょ?註釈もちゃんと読まないと駄目ですよ。
例えば根本博、西浦進、高宮太平、綾部橘樹、鈴木貞一・・・・
永田は満州事変のために要塞砲を旅順から奉天へ運ぶのに苦労したと言っているし、
書簡でも「対支対満問題・・・(は、国家を引きずるなら)奇道でも可なり」と実力行使を認めています。
ついでに言えば、小林の本だって私の目の前の本棚に並んでいる訳ですよ。
>>368 暴力をちらつかせた話だって
有末精三は永田が「サーベル、ガチャガチャやって脅かすか」と何度も話のなかでこのフレーズを使っていたと言っている。
また、根本博も十月事件の時に永田が「抜かずに内閣に凄味を効かせる方が得策だ」と話したと言っている。
永田は、説得できないところに対して結局は実力行使で解決する。
この姿勢では国家破綻は必至なので駄目駄目ですね。
>実際に「サーベルをガチャつかせて」交渉を行うことの多かった有末が、戦後になってからそれを
>「永田もそうやっていた」というイメージを作り出すことで「俺だけじゃない」という言い訳を
>しているだけのように思えるけど。
>>368 「あなたの個人的感想などはどうでも良いですよ。」(と、
>>378 で御自身が言われている訳ですが・・・)
>>380 永田が生きていた頃は衆議院でたったの5議席しかないんだが?
お前は永田賛美の偏向した本ばかり読まず常識でものを考えろ
そもそも永田信者が永田賛美のために書いた本を根拠にしている時点でね
>>379 社会大衆党は大政翼賛会につながる近衛の一国一党制度への最初の協賛者だよ。
この軍部によるファシズム体制への転換の際、国民への説明役、農村の小作農の
生活水準の改善という名分への保証人として果たした役割は大きい。
社会大衆党をソビエトのスパイや反国家集団のように言う連中がいるが過大評価もいいところで
日本の民主主義が政策でなく利益誘導を専らとする後進性を抱えているのは末期ワイマール共和国
でNSDAPと共産党の無産政党が半分以上の議席を占めたドイツとの比較から明らかだよ。
日本もドイツも国民生活の困窮という問題を抱えながらドイツでは議会の中から全体主義が現れ、
日本では軍部によるクーデターを発端に全体主義へと移行し、社会大衆党はこれを資本主義打倒
の機会と見たのが実相だよ。
>>380 閉塞状況の打開ではなく閉塞状況を利用して首相の任免権を握ろうとしたのが正しいよ。
永田というより、統制派がクーデターのような非常事態を待望していたのは対策要綱
で戒厳令を布くことで議会や重臣に掣肘を加える企図を見れば明らかだよ。
>>376 板垣や石原が統制はではないって珍説は誰が提唱してんの?個人的妄想?
統制派にも色々あるのは知っているし、彼ら自身が統制派なんてのはなかった良識派だった、とか言っちゃつていたのもあるけどさー。
まあ、一般的な分類では彼らは統制派ダロ?
どんな分類で認識しているのかわからんが、宇垣系、皇道派、統制派の三区分が一般的じゃねーの?
マンセー本だって批判的に読むことができれば栄養になるんだけどね。 快楽のためのエロ本として読んでいるようでは駄目。
永田の対中一撃論はデマとかも永田マンセー本にしか書いていなく その後の永田の子分どもの行動を見る限り事実としか言いようがないでしょ 逆に小畑が対ソ戦キチガイでソ連を攻撃しようとしていたとかの方がデマの可能性が高い 実際小畑の作戦を見るとあくまで迎撃を主体としており積極的に攻撃するようなものではない おそらく永田とその子分どもがデマを流したのでしょうな
永田ageは東条sageの反動だろ。アメリカ相手の戦局悪化で別に後継首班のアテもないのに 倒閣起こした宮中や軍部連中が戦後に自分たちの身勝手な行動を正当化するために 東条を批判する文脈で永田が持ち上げられたのだろう。
>383 >だって永田が満州事変に賛成していたことは、大勢が証言したり見解を述べているじゃない? は? 永田が満州事変に賛成していた? そんなことを述べている人はいないよ? 永田が賛同していたのは陸軍中央が意思統一して政府に働きかけた上での出兵であって、 謀略によって事を起こして騙し討ちをすることなどではない。 君の理解が不充分なために「永田が満州事変に賛成した」とかいう誤った考えに 到ってしまっているだけ。 >例えば根本博、西浦進、高宮太平、綾部橘樹、鈴木貞一・・・・ どの談話だい? 具体的に文章を挙げてみなよ。 >永田は満州事変のために要塞砲を旅順から奉天へ運ぶのに苦労したと言っているし、 そりゃ苦労するだろうさ。 対日感情が悪化している現地において、軍備強化を行うのはその摩擦をさらに悪化させるからね。 だからこそ陸軍省軍事課長はその職責として現地軍の強化を図る必要があったろうが。 それを悪用して「謀略による騙し討ち」をした現地の石原や板垣が非難されるのは当然だが、 必要な戦力を充当するという軍人として当然の行為を行った永田が非難されなければ ならない謂われはないよ。 >書簡でも「対支対満問題・・・(は、国家を引きずるなら)奇道でも可なり」と実力行使を認めています。 矢崎勘十宛の書簡の一節だね。 ちゃんとその文章をよく読んでごらん。 「また上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず。陸軍の力のみにて事を決するは、 国が真に滅するや否やのドタン場の最大非常手段なり。軽々しく用うべきにあらず。」 どうみたって満州事変を擁護する文章じゃないだろ。 >ついでに言えば、小林の本だって私の目の前の本棚に並んでいる訳ですよ。 んじゃ次の部分を読んでみるこったね。 p178 7行目〜14行目。 p180 6行目〜12行目。 「永田が榴弾砲の搬入・据付を認めたのは、東北軍との衝突に備えて関東軍の兵力の寡少を 火力で補うためであった。その後の経緯や永田らが作成した「満州問題解決方策の大綱」(六月)から見ても、 永田が全満州の武力制圧にすでにこの時点で合意していたとは考えられない。」 「満蒙問題の合法的解決路線に立っていた永田は、石原らの動きも危惧しており、参謀本部第1部に対する 軍政系の統制力を強めていた。 (略) 永田らは、武力行使は時期尚早であると考えており、中村事件を口実に関東軍が満蒙占領に打って出る ことを強く警戒していたのである。」 君が目の前にある本をちゃんと読めていない事がモロばれなんだが。
>383 >有末精三は永田が「サーベル、ガチャガチャやって脅かすか」と何度も話のなかでこのフレーズを使っていたと言っている。 サーベルをしょっちゅうガチャガチャ言わせていた有末をからかったんだろ。 実際に永田がサーベルをガチャやって脅かした実例を出してくれよw >根本博も十月事件の時に永田が「抜かずに内閣に凄味を効かせる方が得策だ」と話したと言っている。 根本は十月事件でクーデターを決行しようとしてた当の本人じゃねーかw どうみたって、アホなことしでかそうとしてるヤツをなだめるための説得の言葉だろw 永田は、説得できないところに対して結局は実力行使で解決する。 この姿勢では国家破綻は必至なので駄目駄目ですね。 >「あなたの個人的感想などはどうでも良いですよ。」 そのとおり。 有末の個人的な感想などはどうでも良いよ。 きちんとした裏付けのある史料を持ってきておくれ。
>384 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:gASawQaIO >永田が生きていた頃は衆議院でたったの5議席しかないんだが? その低迷していた社大党が、永田が関わり始めてから一気に支持を広げだして、 永田の死の翌年の総選挙で18議席と4倍近い議席を獲得、さらにその翌年の 総選挙では36議席ともともとの議席の7倍以上を獲得してるんだが? >お前は永田賛美の偏向した本ばかり読まず常識でものを考えろ 君は自分の不勉強をまず先に反省しておくべきだね。 >385 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:gASawQaIO >そもそも永田信者が永田賛美のために書いた本を根拠にしている時点でね 何の根拠もなく「永田信者による永田賛美本」とか言ってる暇があったら、 まずはきちんと森や川田の著作を読んでみたら? まぁ、君らに読みこなせるモノなのかどうかは分からないけどね。 ymI6Avm90氏のように、自分の目の前にある本の内容をちゃんと理解出来ていない 輩もいるようだしね。
>387 >閉塞状況の打開ではなく閉塞状況を利用して首相の任免権を握ろうとしたのが正しいよ。 2・26事件後の陸軍の行動はそれに近いモノだけど、永田がそのような意図を持っていた という傍証はないね。 >統制派がクーデターのような非常事態を待望していたのは対策要綱で戒厳令を布くことで >議会や重臣に掣肘を加える企図を見れば明らかだよ。 それは2・26事件での、真崎・荒木と青年将校達が意図していたものじゃないか。 統制派はそれに対処するために行動しただけど、議会を破壊しようとし重臣を殺戮したのは皇道派だよ。 そもそも、永田死後の陸軍には皇道派以外の明確な派閥なんて存在していない。 北岡伸一が言っているように、本来「統制派」というのは存在して居らず、永田の生前に皇道派と対立して 陸軍の統制を回復しようとしていた一群の人々を「永田派」と呼ぶのが実情に近い。 永田死後の陸軍に存在したのは、皇道派という派閥が一つのみ有り、あとはそれに対して 批判的な目を向ける多数の軍人が存在していただけというのが実情だよ。 もちろん皇道派への反発の具合によって、個々の間に他と繋がる際の濃淡はあったけれども、 基本敵には「派閥」と呼びうるような強固な繋がりなどは存在していない。
>388 >板垣や石原が統制はではないって珍説は誰が提唱してんの?個人的妄想? 板垣が石原が統制派だって珍説はだれが提唱してんの? そのように主張して居る著書や論文を挙げてみてくれない? >まあ、一般的な分類では彼らは統制派ダロ? 個人的な妄想は要らないんだけど。 ちゃんとした論拠を持ってきてくれないかな?
ymI6Avm90氏はまさに満州事変後の永田や陸軍の事後承認を問題にしているのだが 同じ統制派だからと石原を処分もしないから満州事変が一部の策動でなく日本の行為 になったのだが、事変前の永田の態度から満州事変には関係ないという論を張るから 「永田信者による永田賛美本」と言われているのがわからないのかな。それとも永田にはそんな 権限はなかった永田雑魚論でも張るかね。 >>根本は十月事件でクーデターを決行しようとしてた当の本人じゃねーかw クーデター計画するような奴と比較しなければ穏健派だと言えないような人物なのね 永田は。 根本の発言通り永田は他の奴に刀を抜かしてそれを鎮圧し戒厳状態で首相の任免権を得る というカウンタークーデターを構想したのは片倉衷の回想のとおり。
>391 >永田の対中一撃論はデマとかも永田マンセー本にしか書いていなく 永田に批判的な川田稔の著書にも書いてあるんだけど。 『浜口雄幸と永田鉄山』 p194〜210 小畑が満州国を日支提携を主張した野に対して、永田が支那を叩くことを主張した、 という荒木の戦後の述懐を紹介し、その発言が根拠のないモノであることを示して、 「小畑対永田の対立」という戦後長らく信じられていたこの二人の対立構図を 当時の史料に依拠する形で否定している。 君らが通俗的な書物しか読んでいないでせいで事実誤認しているのを 攻めるのは気の毒だとは思うが、近年の研究ではそうした誤った俗説は 否定されつつあるというのは認識しておくべきだね。 >逆に小畑が対ソ戦キチガイでソ連を攻撃しようとしていたとかの方がデマの可能性が高い 上記の当該箇所をきちんと読みなさい。 そもそも、2・26事件を起こすような陸軍皇道派を擁護する発想を持っている時点で、 君らの脳みそが偏っているというのを余すところ無く証明しているようなもんだが。
>392 >東条を批判する文脈で永田が持ち上げられたのだろう。 戦後長らく永田は「東條の兄貴分」として軍閥の親玉扱いされていて、 まともな再評価が始まってきたのは、ここ10年かそこらの話なんだけど。 君の願望だか妄想だかはどうでも良いけど、もうちょっと戦後の陸軍研究の実相や その受容のされ方について勉強したほうが良いんじゃない?
>398 >ymI6Avm90氏はまさに満州事変後の永田や陸軍の事後承認を問題にしているのだが 事後承認を求めたのは陸軍だが、要は時の内閣である若槻が承諾しなけりゃよかった ってだけじゃん。 政治の力で陸軍を統制するだけの根性が若槻内閣に無かったことが最大の問題。 >同じ統制派だからと石原を処分もしないから満州事変が一部の策動でなく日本の行為になった 石原をはじめとした関東軍首脳部を処分しなかった(あまつさえ顕彰し栄転させた)のは、 若槻内閣が倒れた後に政権を取った犬養内閣に陸相として入閣した荒木貞夫なんですけど。 満州事変の論功行賞に軍務課長だった永田の出る幕なんか無いよ。
>>399 それが荒木によるデマだと裏付けする資料は?
三次か四次の創作物では証明になりませんよ?
もう一度繰り返すが永田の子分どもが仕出かしたことを見れば事実としか言いようがない
そしてその子分どもは同胞三百万人を死に追いやった
二・二六事件は確かにとんでもないことではあるが成功していたら三百万人も死なずに済んだかも知れない
>402 >それが荒木によるデマだと裏付けする資料は? 人の書き込みに文句を付けるよりも前に、実際に川田の『浜口雄幸と永田鉄山』を読んでから 言ってくれないかな? 川田が使用している史料としては以下のものが挙げられている。 参謀本部第二部作成の「根本国策並対策大綱」 原田熊雄『西園寺公と政局』 「鈴木禎一日記」 斉藤内閣に提出された「帝国国策」「国策理由書(皇国内外情勢判断)」 橘川学『嵐と闘う哲将荒木』 『秘録 永田鉄山』所収の片倉衷の談話 君らが反駁したいのであれば、これらを積み上げた川田の著作や森の著作を 否定しうるだけの研究成果を積み上げる必要があるんだが。 まぁ、がんばっておくれ。 >もう一度繰り返すが永田の子分どもが仕出かしたことを見れば事実としか言いようがない 全く非論理的だな。 永田が死んだからこそ、そうした陸軍の暴走を止めるだけの力が失われたのであって、 そもそもの原因は暴走を始めた石原や板垣と言った関東軍などの現地軍であり、 それらの盲動をおさえられなかった陸軍中枢と政府の弱腰にある。 原因と結果を取り違えた話しかできないんだったら、歴史を研究する資格はないぞ。 専門の研究者が出した結論を否定したいのであれば、それ相応のモノを積み上げてからにしな。
君が金出してくれるのなら読んでもいいよ? あと資料を引用するならどの資料が荒木のデマだと証明出来るのかちゃんと指摘しなきゃ ただ並べるだけではダメですよ? それくらいわかるよね? あと永田がそういう考えだったからこそ子分どもも影響を受けたと考えないのかねえ だいたい軽挙妄動を慎むならなんで重砲を運ぶんだよw それこそ非論理的だわ
>>394 川田本にも永田が現地部隊が満州で実力行使の清算があるなら事変を容認すると書いてあるわけだが?
で、永田書簡にも正道の他に奇道で事変を起こして政府を引きずる方法でも良いと書き残している。
永田信者は都合の良いところしか読まないのか?
結局、永田路線は史実路線だから閉塞まっしぐらなんだが、本を全部読まない輩には分からんか。
>404 >君が金出してくれるのなら読んでもいいよ? ほう、そうかい。 んじゃ、君の氏名と住所と電話番号をここに書き込んでおくれ。 なんなら銀行の口座番号でもかまわないよ。 >あと資料を引用するならどの資料が荒木のデマだと証明出来るのかちゃんと指摘しなきゃ だから本を読めって。 こちらはちゃんと書名と著者名とを記載してるんだから、それを検証するのはそちらの仕事だよ。 なんでもかんでも教えてくれって要求するのは、ただの駄々っ子でしかねーぞ。 >永田がそういう考えだったからこそ子分どもも影響を受けたと考えないのかねえ 史実をねじ曲げて勝手な妄想を膨らまされてもねぇ。 君がそう言う主張をしたいのであれば、きちんとした史料を提示するなり研究者の見解なりを 持ってきてからにしてくれないかな。 >だいたい軽挙妄動を慎むならなんで重砲を運ぶんだよw 当時の張学良軍と関東軍の戦力比は20対1くらい。 戦力増強を図るのは軍を預かるモノとして当然の仕事だ。 今の尖閣諸島周辺で、相手方の脅威に対して海上自衛隊の戦力が足りないというのであれば、 戦力補強や強化を考えるのは自衛隊上層部の当然の責務。 だからといって、与えられた戦力を勝手に行使して勝手に中国海軍に対して砲撃を始めるような 暴走軍人は処罰するのが当然だろ。 手順を守って粛々と行う防衛任務と、上官の指揮から離脱して勝手に戦闘をしだす暴走とを いっしょにするなよ。
>405 >川田本にも永田が現地部隊が満州で実力行使の清算があるなら事変を容認すると書いてあるわけだが? ほう? どの本の何ページ目だい? 提示して見せてくれないかな。 君が勝手に川田が書いてもいないことを読み取って妄想しているだけというのでない 証明をして見せておくれ。 >で、永田書簡にも正道の他に奇道で事変を起こして政府を引きずる方法でも良いと書き残している。 その主張に対しては<393>で既に反論済み >>書簡でも「対支対満問題・・・(は、国家を引きずるなら)奇道でも可なり」と実力行使を認めています。 >矢崎勘十宛の書簡の一節だね。 >ちゃんとその文章をよく読んでごらん。 >「また上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず。陸軍の力のみにて事を決するは、 >国が真に滅するや否やのドタン場の最大非常手段なり。軽々しく用うべきにあらず。」 >どうみたって満州事変を擁護する文章じゃないだろ。 川田自身、永田の当初の意図が「奇道」にあったとは断定していない。 『浜口雄幸と永田鉄山』(p174) >永田信者は都合の良いところしか読まないのか? 皇道派の信者は自分に都合の良い解釈しか受け入れようとしないんだね。 ちゃんと本を読めば、永田が謀略やクーデターに対しては徹底して批判的な姿勢を とっていたのが明白なのに。 『浜口雄幸と永田鉄山』だけでも、p152〜153の「満州問題解決方針の大綱」の紹介や、 p155〜156での永田が3月事件に対して述べた反対意見が記載されているんだけど、 皇道派贔屓で、真崎や2・26事件を起こした青年将校連中を賛美する人たちには 都合が悪いと文字が読めなくなる病が発症するみたいだ。
>>407 永田大好き君は統制派がカウンタークーデターを目論んでいたことを
どうしてスルーするのかな。片倉衷の回想からクーデターに批判的な永田が
どうして5.15後に非常事変に対応する準備計画をしたのかな。それが片倉の
「政治的非常事変勃発二処スル対策要綱」につながったことは所蔵の永田礼賛本
には書いていなかったのかな?
どうも永田を評価するものはピンボケ感があるな。皇道派をテロリストとみなすなど
ずれているとしか言い様がない。非常事態を陸軍の主導権獲得の絶好の機会
とみなしていたのは皇道派、統制派共通の認識だったというのに。
統制派皇道派の争いをコップの嵐とみなすようでは永田も永田を殺した相沢も
浮かばれんな。
>>401 その荒木の陸相就任こそが永田や東条、石原など陸軍中堅層の擁立運動あってこそなんだが
その荒木の判断に永田たちは無関係と?そもそも三長官にもならずに終わった永田や石原
が後世研究の対象になるのは1920年代から始まる荒木擁立などの派閥運動がすべての淵源なのだが
まさか能力一本槍でのし上がったとか件の永田本には書いてあるのかね?
永田贔屓で、永田や2・26事件を利用した軍人たちを賛美する人たちには
都合が悪いと「永田が謀略やクーデターに対しては徹底して批判的な姿勢を
とっていたのが明白」な異次元の世界に逃げ込む病が発症するみたいだ。
まあそもそも資源も工業力もない「持たざる国」の日本が総力戦体制を目指すこと自体が無理なわけで そして「持てる国」を目指すなら必然的に南進することになり米英などと衝突することになる だったら総力戦体制など最初から目指さず米英などと友好関係を保ち資源や武器などを買った方が安上がりではないか 永田も石原もそこら辺がわかっていなかったと思う
経済的合理性だけで国家が動けるならそもそも戦争は起こらんわ
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:OeLJlZuH0
え〜と、 ソースの明確な提示ができないオコチャマが独り叩かれている。 というレスの流れでO.K.?
>>410 いやむしろ石原や永田はまだヴィジョンを持っていたほうだよ。
ソ連を仮想敵とみなしていたことに関しては終始一貫していたといっていい。
(それができるかどうかは別だが)
2.26後に戦時統制の構築を目指した石原が盧溝橋事件以後の中国との戦争に
よる国力の消耗を防ぐために戦争に反対したために失脚したように、当時の
日本にはファシズム体制への布石や行動は取れても盧溝橋事件のような
偶発事件で全面戦争に突入したように将来への展望が欠けていた。
>日本にはファシズム体制への布石や行動は取れても この文脈におけるファシズムって何?
>408 >永田大好き君は統制派がカウンタークーデターを目論んでいたことをどうしてスルーするのかな。 その話の前提には、「皇道派がクーデターを起こすと予想されていた」 というのがあるんだけど。 皇道派がクーデターなんぞを画策せずにいたら、 あるいは陸軍という組織のトップにいた荒木や真崎が 青年将校のクーデター熱を煽るようなことをせずに きちんと取り締まろうという姿勢を見せていたのであれば、 なにもクーデターへの対処法なんぞを練る必要もなかったろうね。 10月事件でクーデターを画策していた連中に甘い対処をせず、 きちんと厳罰に処してその後の策動の芽を摘んでいたなら、 カウンタークーデターなんてことを目論む必要なんざ これっぽっちも無かったっての。 >片倉衷の回想からクーデターに批判的な永田が どうして5.15後に非常事変に対応する準備計画をしたのかな。 5・15のテロで犬養首相を殺害した犯人たちを 「その心情は諒とすべし」とか言って思いっきり軽い量刑で済ませたのが 皇道派の総帥であった荒木陸軍大臣なのですが。 軍のトップが跳ねっ返りのチンピラ達に「いいぞ、もっとやれ!」とか けしかけるような言動をしてたんだから、そりゃ非常事変を覚悟せざるをえまいて。 >皇道派をテロリストとみなすなどずれているとしか言い様がない。 上官を暗殺したテロリストが相沢三郎。 その行為を称賛して「相沢に続け!」とかいって 2・26事件に邁進したのが皇道派青年将校。 その連中に「お前らの気持ちはよぉっく分かっとる!」 とか言ってのけたのが真崎甚三郎。 どう贔屓目に見ても、皇道派ってのはテロリストの集団だとしか思えませんな。
>409 >荒木の陸相就任こそが永田や東条、石原など陸軍中堅層の擁立運動あってこそ 陸相をやらせてみるまで、まさかこんな基地外だとは思わかなったろうからねぇ。 テロで首相を暗殺するような連中を指して、「志は良し!」とか言ってのけちゃうんだから あいた口もふさがらなかったろうよw 普通は、自分の足もとの軍人が犯罪を犯したんだから「責任を取って辞職します」 くらいの見識を見せるのが当然なのにね。 >その荒木の判断に永田たちは無関係と? 荒木が陸相になってから、永田は冷や飯を食わされたし東条も左遷されたけど? >三長官にもならずに終わった永田や石原が後世研究の対象になるのは 石原が研究の対象になったのは、まずなによりも満州事変の立役者であり、 2・26事件時の鎮圧指揮や、支邦事変勃発時の不拡大派としての動きなど、 様々な歴史の表舞台・大舞台に立ったからだろ。 1920年代の策動なんぞが理由では無いよ。 そもそも永田の研究なんて、川田や森が取り上げるまで、まともに研究対象に されること自体が無かったくらいに陸軍研究の中では手つかずだったが? >永田贔屓で、永田や2・26事件を利用した軍人たちを賛美する人たちには 自分で文章を考えるだけの知恵も語彙もない人の常套手段ですね。 オウム返しで改変した文章を提示してドヤ顔するとか、 みっともねーったらありゃしねえw
>410 >必然的に南進することになり米英などと衝突することになる 全く必然性がない論理だね。 英米と衝突したのは中国と戦争して英米の権益を 侵すことになったからだろ。 戦争なんかせずに国力の扶植のみを考えているだけでよかったのに、 現地軍が手柄を立てて出世したいという欲望を抱いて暴走するのを 抑制できなかったがゆえに、米英との戦争に突入して破綻していった というのが実際の歴史の流れ。 満州事変を起こした石原や板垣をきちんと処罰していさえすれば、 皇道派がテロやクーデターを起こすような考えを持っていさえしなければ、 陸軍はもうちっとまともな組織として機能していたろうにね。
ここは「僕ちゃんが思い込みで語る妄想日本史スレ」じゃないから。 そろそろ発言には、根拠となる書籍・論文名とページを添える習慣を弁えようね。
>418 >発言には、根拠となる書籍・論文ページを添える習慣を まったく同感。 ここしばらくの書き込みで、皇道派を擁護する連中は まったく論文名も書籍名も提示してないもんな。 学問板らしく、少しは論拠なり根拠なりの提示をして欲しいもんだよ。
>>419 やっと永田がカウンタークーデターを計画していたことや荒木を擁立したことを認めたな。
永田をもちあげるような人物中心史観はその人物に都合の悪い行動を中国の正史のように
カットするから困るよ。
>戦争なんかせずに国力の扶植のみを考えているだけでよかったのに、
>現地軍が手柄を立てて出世したいという欲望を抱いて暴走するのを
>抑制できなかったがゆえに、米英との戦争に突入して破綻していった
>というのが実際の歴史の流れ。
昭和恐慌以後の農村の困窮は小作争議がそれまでの小作料減額から
地主の小作契約解消のトラブルになったことから激化したことがわかる。昭和7年
の自治農民協議会の請願運動の要求には滿蒙移民への支援を求めるなど
農業国日本の癌である小作農の貧困の解決策を対外進出に求めるのは
当事者である農民自身も抱いていたものだ。社会大衆党のような無産政党
が生まれたのもこの過程からだ。
恐慌は当時の日本の社会矛盾を先鋭化させそれに対応できない既成政党の後退、
上の殖民政策という妄想や陸軍のクーデター、それに伴う戒厳そして首相の任免への影響力の増大
を可能にするという悪夢を現実のものにした。
しかしこの農村対策がヴィジョンでなく権力奪取の方便に過ぎないのは
盧溝橋事件後、現地軍の暴走で始まった中国との戦争が対ソビエトのための満州産業開発5ヵ年計画
を阻害させると思った石原莞爾が失脚させられたことからよくわかる。
>>415 どうもこちらの論旨がわかっていないようだからもう一度言うが
統制派のカウンタークデターは皇道派との抗争のためではなく
戒厳状態という議会政治への攻撃という陸軍によるクーデターの完遂を
目指したものだということだよ。2.26前に死んだ永田というキャラクター史観本
にはそこまで書いていなかったかね。
>自分で文章を考えるだけの知恵も語彙もない人の常套手段ですね。
>オウム返しで改変した文章を提示してドヤ顔するとか、
>みっともねーったらありゃしねえw
>390が言っているように
低レベルなキャラクター礼賛本を批判的にも見れない知恵も語彙もない人の常套手段ですね。
低レベルな文章を提示してドヤ顔して、それを改変されて怒って
みっともねーったらありゃしねえw
スレ違いですがお願いします 最近、山岡荘八の太平洋戦争を読んだのですが だいたい史実に忠実なのでしょうか?
>420 片倉が書いていた、「政治的非常事変勃発二処スル対策要綱」のことかい? いったいいつ「永田が計画した」なんてことになったんだ? >荒木を擁立したことを認めたな。 こちらは永田による荒木擁立運動を否定したことなどはないよ。 そんなのはどの本にも書いてある基本的な常識であって、認めるも認めないもあるもんかい。 >永田をもちあげるような人物中心史観はその人物に都合の悪い行動を おいおい、言いがかりも勘弁しろよ。 2ちゃんの書き込みでその人物の事績の全てを書き込むことなんざ 出来るわけがねーだろうが。 こちらは種本として川田稔や森靖夫や小林道彦の著書や論文を提示しているんだから、 そこに書かれていることは既知のこととして扱うのが当然だろ。 そう言ったことをきちんと読んだ上で、彼らがこういった永田の発言を引用したり、 自身の考えを述べているのを参考にしているのだが。 <393> 「また上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず。陸軍の力のみにて事を決するは、 国が真に滅するや否やのドタン場の最大非常手段なり。軽々しく用うべきにあらず。」 「永田が榴弾砲の搬入・据付を認めたのは、東北軍との衝突に備えて関東軍の兵力の寡少を 火力で補うためであった。その後の経緯や永田らが作成した「満州問題解決方策の大綱」(六月)から見ても、 永田が全満州の武力制圧にすでにこの時点で合意していたとは考えられない。」 「満蒙問題の合法的解決路線に立っていた永田は、石原らの動きも危惧しており、参謀本部第1部に対する 軍政系の統制力を強めていた。 (略) 永田らは、武力行使は時期尚早であると考えており、中村事件を口実に関東軍が満蒙占領に打って出る ことを強く警戒していたのである。」 で、君らは相変わらずこちらの<419>の指摘である以下の行動を取っていないね。 >ここしばらくの書き込みで、皇道派を擁護する連中は >まったく論文名も書籍名も提示してないもんな。 >学問板らしく、少しは論拠なり根拠なりの提示をして欲しいもんだよ。 一体いつになったら、君たちから君たちの主張の根拠なり論拠なりとなる論文や著書の 提示をして貰えるんだろうかね。 こちらの主張を低レベルなキャラクター礼賛本とか言ってのけるくらいなんだから、 当然君らは高レベルな実地研究に基づいた学術書か学術論文を提示して貰えるんだよね?
>421 >統制派のカウンタークデターは皇道派との抗争のためではなく >戒厳状態という議会政治への攻撃という陸軍によるクーデターの完遂を >目指したものだということだよ。 君の勝手な理解の仕方でモノを言われても困るんだが。 その論拠となる文献なり資料なりを出してからモノを言ってくれ。 いずれにせよ、統制派がクーデターをやらかそうとしたのではなく、 皇道派に連なる青年将校たちがクーデターをやらかそうとしているんで それに対処するための方策を練っていたってだけのこったろ。 一番の元凶は、テロやクーデターを起こすという暴力的な方法で 自派の主張を通そうとした連中だ。 そういうアホな連中を一掃して、軍を本来の姿に立ち返らせて 統制のある集団にもどすというのが本来の趣旨じゃねーか。 >低レベルなキャラクター礼賛本を批判的にも見れない知恵も語彙もない人の常套手段ですね。 >低レベルな文章を提示してドヤ顔して、それを改変されて怒って >みっともねーったらありゃしねえw 相変わらず、こちらの発言内容を文字を入れ替えてオウム返しすることしかできない 語彙の貧弱さを披露してくれてありがとうw 君の知恵の足り無さを遺憾なく発揮してくれるのは良いけど、こちらの失笑をかっている だけでしかないって事にいったいいつになったら気がつくのかねぇw
>>407 以下のページは 川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』 から
p138
木曜会での永田発言「支那は無理に自分のものにする」昭和3年1月19日の木曜会記録
川田考察「これは今まで検討した彼の議論からして、単なるモデルケースに止まらず、ある面、永田自身の意見の表出であると考えてよかろう。
ここからは、軍事的手段など一定の強制力による中国資源確保、すなわち満蒙・華北・華中をふくめた持久圏の形成を永田が想定していたことがうかがわれる」
p139
事変後の永田発言「非道きわまる排日侮日」のなか、「暴戻なる遼寧軍閥の挑発」に対し、余儀なく「破邪顕正の利刃」をふるったものだ、と主張する。
さらに「民族の生存権を確保し福利均分の主張を貫徹するに何の憚る所があろうぞ」、とも述べている。
p165
「永田の主張する陸相総長の同時辞職は、両ポストが一挙に空席となり、政府にたいしてより衝撃力の大きいもので、辞意の表明それ自体が内閣への強い恫喝となり、永田のねらいもそこにあったと思われる。」
p174
「対支対満蒙問題[は]・・・正道より進むを可とし、奇の道も時に可なり。・・・奇道の場合、国論を引きずり得るごとくなさざるべからず。」
p254
以降参照
>425 元の書き込みは<405>での 「永田が現地部隊が満州で実力行使の清算があるなら事変を容認すると書いてある」というものなんだが? 君が挙げた文章は、どれも永田が政府と軍を動かして公式に満蒙問題を解決することを考えていたことの 傍証になるだけで、「満州事変」という「謀略による手段」の容認を永田が考えていたことの証明には なっていないんだが? >p138 > 木曜会での永田発言「支那は無理に自分のものにする」昭和3年1月19日の木曜会記録 >p139 >事変後の永田発言「非道きわまる排日侮日」のなか、「暴戻なる遼寧軍閥の挑発」に対し、 >余儀なく「破邪顕正の利刃」をふるったものだ、と主張する。 >さらに「民族の生存権を確保し福利均分の主張を貫徹するに何の憚る所があろうぞ」、とも述べている。 これは永田個人の考えと言うより、当時の陸軍の全体的主張の代弁じゃねーかw そもそも、満州事変を公認して上記の主張をしていたのは陸相である荒木貞夫その人なんだから、 その下僚である陸軍省軍事課長である永田がそうした主張を敷衍した発言を行うのは当然だろw >p165 >「永田の主張する陸相総長の同時辞職は、両ポストが一挙に空席となり、政府にたいしてより衝撃力の大きいもので、 >辞意の表明それ自体が内閣への強い恫喝となり、永田のねらいもそこにあったと思われる。」 「と思われる」というただの推測でしかないな。 現実には今村や梅津らの主張した「通常の手順」という穏便な方法が、満州事変という激烈な事態に対処する方策として 妥当なモノだったかどうかは定かではない。 そもそも陸相の辞職それ自体が内閣への恫喝なのには違いないんだから、「穏当だ」と川田が言っている今村の主張そのものも 結局は恫喝なんだよ。 恫喝をより効果的にするかどうかというレベルの話であって、恫喝を行うという点では今村も永田も全く同じ。 そしてその手法はそもそも陸軍が内閣に対抗する際の伝統的手段であって、永田らの独創でもなんでもない。 >p174 >「対支対満蒙問題[は]・・・正道より進むを可とし、奇の道も時に可なり。・・・奇道の場合、国論を引きずり得るごとくなさざるべからず。」 <393>で既に反論済み >>書簡でも「対支対満問題・・・(は、国家を引きずるなら)奇道でも可なり」と実力行使を認めています。 >矢崎勘十宛の書簡の一節だね。 >ちゃんとその文章をよく読んでごらん。 >「また上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず。陸軍の力のみにて事を決するは、 >国が真に滅するや否やのドタン場の最大非常手段なり。軽々しく用うべきにあらず。」 >どうみたって満州事変を擁護する文章じゃないだろ。 その同じページに書いてあるように、川田自身、永田の当初の意図が「奇道」にあったとは断定していない。 >p254 「永田が満蒙領有に異を唱えていた」という説を巡る「注釈3」の部分かい? 結局、川田はあれこれと永田が満蒙領有不要説を説いていたという説の裏付け作業を しているだけだよね。
>>426 何いってんの?
そもそも、コメントは下の頓狂なレスについてですよ? (別に永田が正道論も持っていたことについて、否定しない)
ただし、永田は正道論も奇道論も容認していたし、現地部隊の判断を尊重したし、満州事変にあたって重砲を送るなど支援もした。
376 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:zIJYBPpV0
>374-375
それだけ読んでいるのであれば、満州事変に際して永田がそれを積極的に推進する
ような行動を取って居らず、むしろ抑制しようとした陸軍中央部の側に立って
現地軍の統制に心を砕いていたことくらいは理解出来ると思うのですが。
永田が大砲を送ったのも、国内の合意を取り付けて政府主導での軍事行動を起こすための準備の一環であって、
非合法な謀略によって武力行使を行うことを念頭に置いたモノでは ありません。
満州権益を守るために政府の支持の元に武力行使に行うことと、デッチアゲの謀略で騙し討ちするのとは、
ぜんぜん違うことだということくらいは理解しておくべきです。
そもそも、満州事変を起こした石原や板垣が「統制派」であるという認識に到っている時点で、
あなたの理解が底の浅いモノであることを示しています。
見当外れというほかありません。
>427 >そもそも、コメントは下の頓狂なレスについてですよ? (別に永田が正道論も持っていたことについて、否定しない) まったくこちらのコメント内容を否定出来ていないんだけど? 「満州事変に際して永田がそれを積極的に推進するような行動を取って居らず、 むしろ抑制しようとした陸軍中央部の側に立って現地軍の統制に心を砕いていた」 「永田が大砲を送ったのも、国内の合意を取り付けて政府主導での軍事行動を起こすための準備の一環であって、 非合法な謀略によって武力行使を行うことを念頭に置いたモノではありません。」 「そもそも、満州事変を起こした石原や板垣が「統制派」であるという認識に到っている時点で、 あなたの理解が底の浅いモノであることを示しています。」 どの発言も、まったく修正する必要を感じないし、きみらの発言はこちらの主張に対して なんら反論出来ていない。 >ただし、永田は正道論も奇道論も容認していたし、現地部隊の判断を尊重したし、満州事変にあたって重砲を送るなど支援もした。 永田が想定していた「奇道」が、実際に石原完爾が行った棒尺と同種のモノであることを証明してくれ。 現地部隊の判断を尊重するのは組織としては当然だろう。 その上で、許してはいけない一線を越えようとした場合には制止する必要が有るし、実際に永田はそれをしようとしていた。 満州に重砲を送ったのは既に書いているように「満州権益を守るために政府の支持の元に武力行使に行うこと」を 念頭に置いていたのだから、軍事課長としてやって当然の仕事。 それを謀略使って戦端を開き、勝手に使用した石原らの現地軍が非難されるべきであって、 永田を非難するのはお門違い。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』より 「永田が榴弾砲の搬入・据付を認めたのは、東北軍との衝突に備えて関東軍の兵力の寡少を 火力で補うためであった。その後の経緯や永田らが作成した「満州問題解決方策の大綱」(六月)から見ても、 永田が全満州の武力制圧にすでにこの時点で合意していたとは考えられない。」(p178) 「満蒙問題の合法的解決路線に立っていた永田は、石原らの動きも危惧しており、参謀本部第1部に対する 軍政系の統制力を強めていた。 (略) 永田らは、武力行使は時期尚早であると考えており、中村事件を口実に関東軍が満蒙占領に打って出る ことを強く警戒していたのである。」(p180) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− これらの研究者の見解を否定出来るだけの論拠を提示してからモノを言ってくれ。
>>428 いや、書いてあるじゃん。永田は満州事変を容認していたし、推進している。
傀儡を立てて国家を主導して満州や支那を無理にでも我が者にすることが、永田のベストであったとしても、機を見た現地の実力行使で国家を引きずるのもベターだと永田は認めている。
永田が満州事変の総本山であることは違いはない。永田自身が北大営を攻撃するための攻城砲を旅順から奉天駐屯地はまで大砲を運ぶのには苦労したと語っている。
>429 >いや、書いてあるじゃん。永田は満州事変を容認していたし、推進している。 >機を見た現地の実力行使で国家を引きずるのもベターだと永田は認めている。 何度言わせるんだ? >「上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず。陸軍の力のみにて事を決するは、 >国が真に滅するや否やのドタン場の最大非常手段なり。軽々しく用うべきにあらず。」 「軽々しく用うべきにあらず」という言葉が「ベターだと認める」だってか? もう少し日本語を勉強した方が良いんじゃない? 機を見た実力行使で国家を引きずるのと、現地軍が軍中央の制止を振り切って暴走を 始めるのとはイコールではない。 粗雑な頭脳の持ち主には上記の二つが同一のモノに見えてしまうのかもしれないが、 あるきっかけを持って組織を動かし始め、そのあとは組織の中枢が全体を制御して物事を進めるのと、 あるきっかけを持って組織を動かした末端が、中枢の意志を無視して暴走を始めるのとの違いだ。 道の途中でエンストして止まった車を動かすために、後ろから押して車輪が動いた勢いで エンジンを動かして走り出させるのは問題はないが、動き出した車が運転手の意志に反して 暴走を始め、アクセルも戻らなければブレーキもきかない状態に陥るのは大いに問題だろう。 満州事変において生起したのは後者の現象だ。 >永田が満州事変の総本山であることは違いはない。 これは川田稔の著書にそう書いてあるのかい? それとも君が勝手にそう考えているだけのことなのかな? 川田の著作に上記の文言があるのであれば、出典を明記してから書いて貰えないかな? 「川田がこういっている」みたいな文脈で君の意見を述べているのであれば、 悪質な印象操作であるとしか言いようがないが。 >永田自身が北大営を攻撃するための攻城砲を旅順から奉天駐屯地はまで大砲を運ぶのには苦労したと語っている。 そりゃ苦労はしただろうさ。 当時の満州では反日感情が渦を巻いている状況だったんだから、関東軍の軍事力増強は 張学良軍を刺激するだけだからね。 で、こちらの提示した以下の主張を覆す論拠を君らは提示出来ていないよね? −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』より 「永田が榴弾砲の搬入・据付を認めたのは、東北軍との衝突に備えて関東軍の兵力の寡少を 火力で補うためであった。その後の経緯や永田らが作成した「満州問題解決方策の大綱」(六月)から見ても、 永田が全満州の武力制圧にすでにこの時点で合意していたとは考えられない。」(p178) 「満蒙問題の合法的解決路線に立っていた永田は、石原らの動きも危惧しており、参謀本部第1部に対する 軍政系の統制力を強めていた。 (略) 永田らは、武力行使は時期尚早であると考えており、中村事件を口実に関東軍が満蒙占領に打って出る ことを強く警戒していたのである。」(p180) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− はやくこの見解を覆すに足るだけの史料なり論拠なりを提示してくれないかい?
>>430 だから示したところに書いてある。永田は現地が国家を引きずる場合も容認していたこと。
更に北大営の攻撃用の攻城砲の移設も手配。
>>430 こちらこそ何度も言わせないでくれよ。本は全部通して読みなよ。永田は正道論の他に合法性が確保できるなら関東軍が陸軍中央と政府を引きずる実力行使は認めている。
以下のページは 川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』 から
p185
鈴木貞一『「永田は満州事変について自分で積極的にやる考えを持って」おり準備もしていた
』
根本博『永田は事変勃発直前、関東軍の謀略工作について、「現地[関東軍]がこの秋でなければダメだと云うなら現地の云うことには従うべき」、と語っていた』
川田稔『永田が、石原・板垣との二葉会・木曜会・一夕会などでの関係からして、少なくとも九月下旬の謀略計画を全く知らなかったとは考えにくい』
川田稔『永田と岡村は、ほとんど情報を共有しており、永田も同様であったのではないだろうか。これらのことは、前述の事件翌日午前の省部首脳会議の動きからも推測される』
根本博『十月事件についても永田は、「抜かずに内閣にすごみをきかせる方が得策だ」と述べた』
p186
有末精三『永田が話のなかでよく「サーベル、ガチャガチャやって脅すか」といっていた』
川田稔『関東軍に引きずられたというより、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し陸軍首脳部を動かしたというべき』
川田稔『したがって、満州事変は、関東軍と陸軍中央の一夕会系中堅幕僚グループの連携によるものといえる』
p187
永田鉄山『(犬養後継内閣について)もし政党による単独内閣の組織せられむとするがごとき場合には、陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局、組閣難に陥るべし』
永田鉄山『(満州国商人直後の『外交時報』一〇月号)破邪顕正の利刃をふるう正にその所・・・民族の生存権を確保し福利均分の主張を貫徹するに何のはばかる所があろうぞ」
p254
麦田平雄『(間島暴動計画について)その甘粕の暴動計画案にたいして、永田が、さらに大規模にやるように提案した』
p259
綾部橘樹『永田さんは、やはりこれ[満州事変]はいつかはやらねばならんものであるということは十分考えておられた』
西浦進『やはり満州事変の一味でしたからね、石原、永田というのは。・・・とにかくいつかはやらねばということを永田さんは同意している』
高松太平『永田は直接関東軍の土肥原大佐、石原中佐と連絡していた・・・[事変勃発の]翌朝早く永田の私邸を襲うと
・・・『どうだ、[奉天の]北大営は占領したんだろうね。・・・あの要塞砲を旅順から[奉天に]運ぶのには苦労したよ、支那人の目に付かないように
・・・石原は非常に慎重にやったんだ。・・・うまく行ったかな』と前からの計画の概要を大体話してくれ・・・そして満州事変は最初の計画通り、ぐんぐん推進されて行った』
>432 >こちらこそ何度も言わせないでくれよ。本は全部通して読みなよ。 きちんと読んだ上で言っていることだが? >永田は正道論の他に合法性が確保できるなら関東軍が陸軍中央と政府を引きずる実力行使は認めている。 現実に満州事変は合法性を確保出来ていないんだから永田は認めていないだろw 中央の指示を無視して違法な武力行使を行い続けてる現地軍のどこが合法だよw >p185 >鈴木貞一『「永田は満州事変について自分で積極的にやる考えを持って」おり準備もしていた』 その部分に附された注釈をちゃんと読め。 「その当時ああいう状況で[関東軍の謀略]で満州事変が起こったとは永田も私も夢にも 思わなかった。」としている。そして、満州事変が「ああゆう奇道を踏んで起こった」ことを 知ったのは、リットンが来てからだと付けくわえている。」 合法にやろうと思っていた永田と、違法な方法でやってしまった石原との違いが ちゃんと述べられているじゃねーか。 >根本博『永田は事変勃発直前、関東軍の謀略工作について」 石原達と組んで国内でのクーデターである十月事件を画策していた根本が何をいってるんだかw 自分の都合の良いように記憶をねじ曲げてるんじゃねーの? 川田も注釈74で書いているように、「橋本欣五郎によれば、永田や岡村は満州での謀略に 不賛成のようだった」って書いてあるじゃん。 橋本の述懐を採用せず、根本の発言を採用するって時点で川田の恣意が入り交じった 推測でしかないな。 >川田稔『永田が、石原・板垣との二葉会・木曜会・一夕会などでの関係からして、 >少なくとも九月下旬の謀略計画を全く知らなかったとは考えにくい』 全く知らなかったわけではないからこそ、橋本欣五郎の述懐にあるように 「永田や岡村は満州での謀略に不賛成のようだった」んだろw >根本博『十月事件についても永田は、「抜かずに内閣にすごみをきかせる方が得策だ」と述べた』 十月事件でクーデターを起こそうとしていた根本たちの暴発を押さえ込むための方便だろ。 その隣に書いてある今村の回想である「クーデターの計画を知った永田は、「こういうことを 勝手にやらせちゃいけない。橋本欣五郎以下、みんなひっくくろう」、と主張していた」ってのを 見落としているのかい? 君、ちゃんと本文を読んでる?
>432 >p186 >有末精三『永田が話のなかでよく「サーベル、ガチャガチャやって脅すか」といっていた』 有末は関係があったというだけで直接に上司・部下として深く関わったわけではない。 「私が軍事課に八月一日付で行き、凶変の日まで十日ほどであったが、軍事課の直属上官としては 橋本大佐でしたから、永田局長とは余り直接の接触もなかった」 「さて、その時私がやった永田局長と関係のある仕事は、例のシャム(タイ)の軍人を二十数名 預かっている時で、その処置に関することであった。その仕事で永田局長の決済印をもらいに 一、二回行った程度で、仕事の本属としては何も永田局長からの直属の仕事をやっていなかった。」 『秘録 永田鉄山』(p36) そして、実際に下僚として仕えた西浦進や武藤章は「学者的な風貌の人」「合理適正と認めざるかぎり 頑として応じない人」という述懐を述べているね。 どちらの方がより信頼出来る発言なのか、考えてみるまでもないように思うが。 >川田稔『関東軍に引きずられたというより、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し陸軍首脳部を動かしたというべき』 >川田稔『したがって、満州事変は、関東軍と陸軍中央の一夕会系中堅幕僚グループの連携によるものといえる』 事変直後で、この事件が石原の謀略によって起こされたことを知らなかった時点での話だね。 また、満州事変というのは昭和6年の9月18日に起こったことだが、事態がどんどん進展して 局面も変わり国内情勢(首相の交代「若槻→犬養→斉藤」)も、国際情勢(連盟の避難勧告→連盟脱退)も 変化し続けていた。 全部一括して「満州事変」という大雑把な括りで、「中堅幕僚グループの策動」と決めつけること自体が無茶だ。 >p187 >永田鉄山『(犬養後継内閣について)もし政党による単独内閣の組織せられむとするがごとき場合には、 >陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局、組閣難に陥るべし』 木戸日記ではそうなっているようだね。 一方、原田日記には永田はこういっていたということになっているようだが? 「この際、できるだけいわゆる挙国一致が望ましい。しかしもし政党人が入閣する場合には、党籍を 離脱して入るようにしてもらいたい」 あくまで個人の記憶を書いているものだからね。 原田の言っていることと、木戸が言っていることと、どちらがより真実に近いのかは定かではないな。 そして当時のクーデター騒ぎが連続し、要人へのテロが行われるような軍内の情勢を考えれば、 政党内閣の陸相に就任する人間はいないだろうという観測は、別に奇矯なモノでも何でもない。 >永田鉄山『(満州国商人直後の『外交時報』一〇月号)破邪顕正の利刃をふるう正にその所・・・ >民族の生存権を確保し福利均分の主張を貫徹するに何のはばかる所があろうぞ」 <426>で反論済み。 >>事変後の永田発言「非道きわまる排日侮日」のなか、「暴戻なる遼寧軍閥の挑発」に対し、 >>余儀なく「破邪顕正の利刃」をふるったものだ、と主張する。 >>さらに「民族の生存権を確保し福利均分の主張を貫徹するに何の憚る所があろうぞ」、とも述べている。 > >これは永田個人の考えと言うより、当時の陸軍の全体的主張の代弁じゃねーかw >そもそも、満州事変を公認して上記の主張をしていたのは陸相である荒木貞夫その人なんだから、 >その下僚である陸軍省軍事課長である永田がそうした主張を敷衍した発言を行うのは当然だろw
>432 >p254 >麦田平雄『(間島暴動計画について)その甘粕の暴動計画案にたいして、永田が、さらに大規模にやるように提案した』 「これは麦田平雄大日本航空大連支所長の談話による旨が注記されているが、具体的な談話内容が公表されておらず、 確認できない。」と書いてあるのが読めないのかな? ちゃんと川田の文章を読んでる? それとも、意図的なトリミングなのかな? だったらもうちょっと上手くやった方が良いよ? >p259 >綾部橘樹『永田さんは、やはりこれ[満州事変]はいつかはやらねばならんものであるということは十分考えておられた』 >西浦進『やはり満州事変の一味でしたからね、石原、永田というのは。・・・とにかくいつかはやらねばということを永田さんは同意している』 満州問題の解決はいずれやらなければならない、というのは「満州問題解決方針の大綱」にも堂々と記載された、 軍の公式見解だよ? 「いつかはやらねば」というのは、なにも綾部や西浦が「秘話」みたいな語り口で喋らなくとも、 既に公式な文書として作成されている。 問題は謀略という手段で騙し討ちをすることを容認するかどうかなんだけどね。 >高松太平 しょせんは一新聞記者の臆断混じりの推測でしかないね。 川田自身が「あながちガセネタとは思えないがどうであろうか」という注釈を付けて、 必ずしも全幅の信頼をいける情報ではないというのをあきらかにしているよな。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』より 「永田が榴弾砲の搬入・据付を認めたのは、東北軍との衝突に備えて関東軍の兵力の寡少を 火力で補うためであった。その後の経緯や永田らが作成した「満州問題解決方策の大綱」(六月)から見ても、 永田が全満州の武力制圧にすでにこの時点で合意していたとは考えられない。」(p178) 「満蒙問題の合法的解決路線に立っていた永田は、石原らの動きも危惧しており、参謀本部第1部に対する 軍政系の統制力を強めていた。 (略) 永田らは、武力行使は時期尚早であると考えており、中村事件を口実に関東軍が満蒙占領に打って出る ことを強く警戒していたのである。」(p180) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− いずれにせよ、この見解を覆すに足るだけのものではない。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Vujs3xHF0
ええー、有識者の皆様。
是々非々が理解できず、好みでソースの取捨選択をする
>>433-435 に何か言ってやって下さい。
酷いな
全く知見の無いオコチャマが、妄想・思い込みで暴れ続けて誰もいなくなるなんて、壷じゃ日常茶飯事だが、何か?
果てしなくどーでもいいけど、
>>325 の
>これはフィンランド軍が冬戦争で実践した
>装備兵力とも貧弱なフィンランド軍は機械化されたソ連の大軍に大損害を与え壊滅させた
は間違いな。確かにフィンランド軍はソビエトを相手に健闘したけど、フィンランドの損害も大きかったし
結局、戦争の発端だったカレリア割譲に応じざるを得なかった
雪中の奇跡と喧伝されてるからよく勘違いしてる奴居るけど
結局はノモンハンと変わらん
んじゃ漏れもw
>果てしなくどーでもいいけど、
>>325 の
>装備兵力とも貧弱なフィンランド軍は機械化されたソ連の大軍に大損害を与え壊滅させた
>は間違いな。
この時期のソ連軍機械化部隊は紙の上の存在に過ぎない。
米のレンドリースによる支援が本格化される迄、ハーフトラック・トラック等は重点的に南方に配属されていた。
フィンランド軍による鹵獲品は馬匹が圧倒的に多く輸送車両の類は少ない。
機械化されたソ連の大軍なんぞ存在しない。
満州事変は予算も付いたし林将軍の越境も認められて合法化されているよ。 永田は国内で運動しているし、次善策通りになった。 一夕会以来の永田グループ(統制派)の思惑通りに自体は進行したが、国際的な枠組みから行き詰まった。
>>439 スウェーデンがバカなことしなければフィンランドが勝っていたと思う
石原や板垣が統制派じゃない論理って統制派が存在しなかった論理だから永田も統制派じゃなくなるよな。 永田は中堅エリートによる陸軍支配をもくろみ、石原たちのイデオローグにして首領だった。 盟友の岡村、腹心の東条、石原も同じ穴の狢だ。 事変後の論功人事についても佐官以下に強いさじ加減を行使した補任課長が岡村だったから永田派の強い息がかかっていた。
>441 錦州爆撃などをはじめとする北満州への侵攻もそうだけど、関東軍の行った独断専行っていうのは 上官からの指示に逆らうという陸軍刑法違反の非合法行為なんだけどw 後から追認されたことを持って、非合法行為が合法行為に変わるってモノじゃないよ? 万引きをやらかした悪ガキに対して、その親が「よく言って聞かせるので勘弁して下さい」って頭を下げて、 店主が警察に突き出すことを取りやめてその親に商品を買い取らせたら、一応形としては合法だけど、 最初にやらかした「万引き」という犯罪行為がなかったことになる訳じゃない。 店主や警察という外部からの追求を免れただけで、悪ガキは親からは制裁なり処罰なりを受ける必要が有る。 永田が考えていた満蒙問題の解決策ってのはあくまで合法的な手段によるモノであって、 石原や板垣などのはねっかえりが好き勝手やって起こしてしまった満州事変は、 永田にとっては「やむを得ず」させられてしまうことになった他人のケツ拭きみたいなもんだ。
>443 >永田は中堅エリートによる陸軍支配をもくろみ、石原たちのイデオローグにして首領だった。 石原や板垣が一夕会に所属していた時期って、山岡重厚や小畑敏四郎や山下奉文とかも名簿に名を連ねてるんだけど、 君の理解の仕方に従うならばこれらの人物も「統制派」と呼んでいいことになるねw >事変後の論功人事についても佐官以下に強いさじ加減を行使した補任課長が岡村だったから永田派の強い息がかかっていた。 岡村は満州事変の真っ最中に上海派遣軍参謀副長として中央から追っ払われてるんだけどw いったいどうやって事変後の論功人事に関われたのかな〜?w 時系列をまるっきり理解出来ていない低能っぷりを晒してくれるのはありがたいけど、 穴だらけの論理を使って突っかかってくるのは勘弁してほしいなぁw
石原や板垣って皇道派よりじゃね?w 永田は中国一撃論者で統制派はその影響受けたらしいし
>>446 弱小な満州軍に流されているのに。なぜ?
>>445 永田グループは権力奪取のために、皇道派と組んだり、宇垣系と組んだりしている。
その中で離合集散もして経緯を無視して、一夕会=統制派なんてレッテルを貼るバカトハオモワナカッタナ。
陸軍中堅層による権力奪取と満蒙の支配、それによる総力戦体制の構築を目指したことで、永田が首領で石原は手先という一派の関係は変わらない。
いくら大同小異をいってもね。
>449 >永田グループは権力奪取のために、皇道派と組んだり、宇垣系と組んだりしている。 >その中で離合集散もして経緯を無視して、一夕会=統制派なんてレッテルを貼るバカトハオモワナカッタナ。 それは<443>で「永田は中堅エリートによる陸軍支配をもくろみ、石原たちのイデオローグにして首領だった。 盟友の岡村、腹心の東条、石原も同じ穴の狢だ。」とか言い出したヤツに言っておくれw 中堅エリートによる陸軍支配を目論んだのは、 山岡重厚や小畑敏四郎や山下奉文も同じ穴の狢だw つまり、「石原や板垣が統制派」という理解をしている限り、山岡・小畑・山下も統制派ってことになるんだよw >陸軍中堅層による権力奪取と満蒙の支配 山岡重厚や小畑敏四郎や山下奉文が目指したことと同じだねw つまりは君は「この連中も統制派だ」って言ってることになるんだよw
>>446 石原は林の組閣時や中国に左遷されたあとも東条と対立した
ように純粋な軍人とはいえない行動を繰り返したからそう見えるだけだよ。
板垣は林や荒木と同様の担ぎやすい神輿に過ぎない。
>>450 そもそも荒木の陸相就任までに統制派と皇道派の争いなんかないよ。
荒木を神輿にして長州閥の打破にしてはじまり、「戦時」を旗に陸軍による
内閣の首のすげ替えを容易にする体制を目指すことに統制派と皇道派も
変わりはない。
小畑や山下は永田と違って政治にはあまり興味なかったよ
傀儡政治家を立てて日本や満州をコントロールしようとした永田に政治能力がなかったからね。 詰んだ戦略で権力を取ろうとしたんだよ。永田が生きていても統制派の石原や東条と同等がそれ以下だったろう。
>452 あいつらが興味を持っていたのは、派閥抗争という「軍内政治」だけだろw 実際に国防という重責を担う軍人として身につけるべき、対立国との関係を見据えた上で、彼我の実力差を勘案して合理的な判断するなどの 能力をどっかに置き忘れて来たからな。
>>454 いや、能力がないのに政治や外交に介入して失敗したのが永田達の統制派だから。
荒木貞夫は三国同盟反対の意見だったか。
中堅層による支配自体が幻想だった。政府や国際関係に協調していける人材を一掃してしまった。 永田や残った統制派の生き残りは省益優先の強硬派だけだった。 永田、石原、東条、武藤、田中・・・どれも偉くなってはいけない人物だった。永遠の中堅層。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/02(月) 22:43:19.37 ID:8pjvIjJs0
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/07(土) 19:47:38.28 ID:N77xJPQE0
永田の次にリーダーになったのは石原?
豚骨派VS醤油派
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/17(火) 07:03:02.61 ID:Ut5otaux0
歴史群像 No.121 2013年10月号
■ 第3特集
「総力戦」から見た陸軍派閥抗争
【皇道派 vs. 統制派】
昭和初期の軍事史に有名な日本陸軍の二大派閥「皇道派」と「統制派」。熾烈な権力抗争を
繰り広げた彼らではあったが、それは単なる政治的主導権を争うものではなかった。両派の
対立は「国家総力戦」に日本がどう対処するかという大問題に端を発していたのである。
http://rekigun.net/magazine/index.html
>>461 皇道派と統制派が元は同じ穴の狢であったことも書いてくれたらいいのだろうけど
しょうもない権力抗争を政策の対立だとか歴史の必然とか
おためごかしの記事ばかりなんだろうな。
>461-462 この雑誌の記事を呼んでみたが、片山杜秀の『未完のファシズム――「持たざる国」日本の運命』の論旨を ほぼそのまんま引き写した内容だった。 統制派と皇道派の両派の間の政策対立がおためごかしだと思っているんだったら、 片山の本を一度読んでみると良いよ。
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/08(火) 15:03:10.58 ID:r3g+a8jtO
永田はソ連との戦争を考えていなかったのならいったいどこと総力戦をするつもりだったんだろうね? なんか手段と目的が逆になっていないか?
永田の主たる仮想敵はソ連だったよ。 その点においては荒木や小畑と違いはない。 ただ、荒木や小畑が軍備が充分でない状態なのにもかかわらず、「大和魂があればソ連に勝てる!」とかいう 「青竜刀式な頭脳」を持ってソ連と対峙しようというプランを立てていたから彼らに反対しただけ。 敵の強さをきちんと見定め、こちらの手持ちの戦力をきちんと把握せずに戦争を仕掛けようという 荒っぽいやり方を批判しただけだ。 そしてなにより、総力戦の時代においてはいざ戦争となったら国運を賭す一か八かの勝負になるし、 勝っても負けても戦争によって消尽した戦費や損耗は回収する術がないというのが 第一次世界大戦の最大の教訓。負けたドイツにおっかぶせられた天文学的と評された賠償金が 全て支払われたとしても、英仏が被った被害額を補填するモノではなかったという事実が なによりも雄弁にそれを物語っている。 だからこそ、なるべく戦争になる方向には持っていかずに勢力の均衡を図るべく、 自国の国力の増進に努めて、産業力や経済力を高めて総体的な国力の充実を図ろうとした。 皇道派の連中にはそうした国家全体に関する見通しが全く無かったのが、永田らと皇道派が 対立した原因だ。
つまり小さな利益(陸軍の儲けや自分のポスト)しか理解できなかったという事か。 半ば戦争屋になっていたのではなかろうか?
>>465 小畑が立てていたプランは戦争末期の満州での戦いとほぼ同じで
少ない兵力で迎え撃つ内線作戦だよ?
自軍の実力を無視した無謀な攻勢など最初から企図していていない
小畑が闇雲にソ連攻撃を主張したとか永田一味によるデマだよ
あと荒木が日露戦争の再来を夢見ていたとする批判もあるが
結局資源も工業力もない貧乏な日本は英米などからの支援がなければソ連と戦えないんだよ
これは日露戦争のときと同じ構図でありその意味から荒木は間違っていない
そしてその構図は戦後になってからも続き
自衛隊が立てていた作戦は北海道でソ連軍を内線作戦で迎撃しアメリカからの支援を待つというものだった
観念的に総力戦体制を叫び具体的なプランもなかった永田とどちらがより近代戦を理解していたのかねえ
上でも出てたけど、こっちから仕掛けてるのに内線作戦で敵侵攻軍を撃破してその後どーすんの? 冬戦争を引き合いに出してたけどあの時点では完全に被害者だったフィンランドでさえ 結局誰も仲裁に入ってくれなかったのに、誰が仕掛けた側の味方するの? 敵に大打撃を与えても国力差が大きすぎる相手にはどうにもならないのは フィンランドの例を挙げるまでも無くその後の太平洋戦争の顛末を見れば明らかだろうに ましてや侵攻を前提にしない戦争なんて何も得るものが無いのに誰が賛成するんだよ? それどころか満州を戦場にする分損害だけは確実に出るのに 戦後の自衛隊云々に至っては完全に意味不明 戦略環境も国内情勢も全く異なる上に困難な渡洋侵攻を強いられる北海道の防衛と 地続きの満州の防衛を同列に語るとか
これは永田史観信者乙としか 権力争いに勝った方のプロバガンダを鵜呑みにされても
結局、具体的な反論は無いのな せめて内線作戦成功から戦争終結までの青写真位は提示しろよ
だから小畑がソ連への先制攻撃を主張したとかいうのは永田一味によるデマだっての
>471 川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』を読め。 第五章「統制派と皇道派−陸軍派閥対立」 「1 省部首脳会議」 荒木・小畑の意見が反映された文書として『帝国国策』『国策理由書』を挙げて 「強硬手段を尽し蘇国内部の解体を期す」とか、「好機を捕えて積極的行動に出できたるべきは 自明の理」とかの文言を引いて、ソ連の国力回復前に「一撃」を加えるべきだと主張している と述べている。 対して永田の意見としては参謀本部第二部作成の資料『根本国策並対策大綱』という文書を挙げて、 ソ連との開戦を急ぐことを押しとどめようという強い意向が表れていることを指摘している。 また『西園寺公と政局』の中から原田熊雄の談話としてこういう記述も紹介している。 「陸軍全体のなかにロシアを討たなければならんと前から言っている連中と、むしろロシアと親しんで 事を構えない方がいいという派と二つあって、参謀本部では前者は小畑少将が代表であり、 後者の代表は永田少将である。結局永田少将の議論が大体において勝を制して、今日では 大勢がそれに傾いてきた。」 こちらの主張をデマだなんだと難癖を付ける前に、拠って立つべき史料や論文を提示してくれよ。
>>472 小畑側がデマだと主張していたのも知らんのか?
つーかそもそも内線作戦は守勢側が採る作戦なのは軍事的常識であって攻撃側が採るものではない
作戦畑一筋の小畑がんなことを考えるわけがない
おそらく永田一味による改竄が入っていると思われ
>473 なんで批判されている当事者の弁明を信じなきゃならないんだよ。 小畑や荒木など以外の第三者の証言なり回想なりを持ってくるかしてくれ。 >作戦畑一筋の小畑がんなことを考えるわけがない 君の願望などは聞いていない。 ちゃんとした史料なり、研究者の見解なりを持ってきてからモノを言ってくれ。 次の書き込みでそうした文献の提示ができなかった場合には、君の敗北宣言と見なすからね。
>>474 小畑の教え子の三吉元大佐はそう回想しているが?
こちらに備えがあればソ連は手出ししないだろう言っていたと
満蒙国境地帯に落とし穴をいっぱい掘ったら解決だ!
>475 「第三者の証言・回想」って書いたんだけど? 小畑の教え子って時点でバイアス掛かりまくりじゃん。
>>477 というか君が挙げたのも一次史料じゃないだろ?
原本とかあるの?
>478 『帝国国策』『国策理由書』『根本国策並対策大綱』『西園寺公と政局』あたりは 一次史料だよ。 それらの原本が手許に無ければならないという決まりはないだろ。 そもそも、国会図書館の憲政資料室や防衛省の防衛研究所にしか存在しない史料とかは、 原本を手元に置くこと自体が不可能なんだし。
君の挙げている著作が曲解している可能性あるからね 「見られる」とか如何にも主観が入ってそうじゃん 原文を見てさらにそれに小畑が関与したという明確な証拠を見せなきゃ ちなみに西園寺には小畑を貶めるために永田が嘘を吹き込んだという噂もあるんだがね
>480 だったら、川田稔に対して直接文句を言ってきなよ。 こちらはきちんと歴史学者の著作から、一次史料に当たった上での判断を引用したのだから、 その内容に文句があるのであれば、相応の論拠なりを君が用意する必要が有る。 イチャモンを付けるのは誰でもできるけど、それは「論駁」とはいわない。
吉見なんとかいう学者が史料を曲解して強制連行はあったとかいう例もあるからねえ んで論拠だが何度も言うように内線作戦で先制攻撃は有り得ないってことだよ 軍事学の基本から完全に外れている 川田とかいう御仁は軍事素人でこの矛盾に気づいていないようだがね 軍事素人といえば永田もそうだからこんな荒唐無稽なデマを流したんだろうな
>482 >んで論拠だが何度も言うように内線作戦で先制攻撃は有り得ないってことだよ いや、何度も言うけど、こちらが出してほしい論拠というのは君の願望などではなくて、 ちゃんとした史料なり、研究者の見解なりを持ってきてくれっていってるんだ。 その小畑が内戦作戦のみを考えていて、先制攻撃をしようとしていたと言うことは ありえないということを主張してる、研究者の著書や論文を持ってきてくれ。 それができない限りは、「シロウトのタワゴト」以上のものにはならないよ。
>>461 総力戦を夢見た統制派と、日本に総力戦は無理と考えた皇道派
なるほどと思った。
神懸かり的な皇道派は実は現実を見据えていたわけね
>>483 君こそ小畑が明確に先制攻撃を主張したとする一次史料なり証拠を出してくれないか?
「見られる」とか主観の入った憶測じゃなくてさあ
ちなみに挙証責任は「あった」と主張する側にあるのは知っているよね?
対ソ戦を実施しなかった統制派、皇道派。引き分け。 対中戦を実施した統制派、しなかった皇道派。皇動派の勝ち。 対米英戦を実施した統制派、しなかった皇道派。皇動派の勝ち。 どっちが正しかったかは明瞭。 永田は外交音痴で理論倒れの暴走野郎ってことで結論。
マンセー本だけに依拠して永田が満州事変に反対だったなんて主張を繰り返している奴には理解できないだろう。 証言を示しても好みで根拠を取捨してトリミングした主張しかできないんだから。例、根本証言ほか。 だいたい永田が満州事変などの総力戦体制を築こうとしていたのはソ連との戦争のためなんたが? 挙げ句はソ連に備えるために中国やアメリカと戦争をしたという本末転倒に。 陸軍内での権力闘争には長けていたが結局は先が読めない男だったんだよ。
>484 >日本に総力戦は無理と考えた皇道派 「総力戦は無理」と日本が考えたところで、相手から攻めてこられたら 総力戦にならざるを得ないんだけど? 革命を経て国力が安定したソ連が攻めてきて総力戦になったら 持ちこたえられないわけだろ。 物量に押しつぶされて負けるのが目に見えてるし、総力戦というのは そうしたもの。 だからこそ、相手の物量に押しつぶされないだけの国力を付けて対峙し、 その武備でもって相手に開戦を回避させるという外交を行う必要が有った。 「短期決戦ならば分がある」とか、「精神力なら皇軍の方が勝っている」とかの あやふやな見通しで戦争しようなんて正気の沙汰じゃない。 まるっきり太平洋戦争で米軍を相手に戦争始めたのと同じ発想だ。 総力戦というものを全く理解出来ていないからこそ出てくる発想だ。
>485 >君こそ小畑が明確に先制攻撃を主張したとする一次史料なり証拠を出してくれないか? なんで私がそんなことをしなくちゃならないんだい? 私は川田稔が主張している内容を紹介してるだけのことであって、その川田の説に対して 反駁するのであれば、私ではなく川田のところに行って自分の疑義をぶつけておくれ。
>487 >証言を示しても好みで根拠を取捨してトリミングした主張しかできないんだから。例、根本証言ほか。 好みで取捨しているのはそちらだろ。 根本が言っているのとまるっきり食い違う今村均や橋本欣五郎の回想、との整合性は どうやって取るつもりだい? >だいたい永田が満州事変などの総力戦体制を築こうとしていたのはソ連との戦争のためなんたが? >挙げ句はソ連に備えるために中国やアメリカと戦争をしたという本末転倒に。 中国やアメリカと戦争を始めたのは永田が皇道派に殺された後のことだよ? まさか時系列を知らないでモノを言ってるの? もし永田が生きていたら、中国との戦争もアメリカとの戦争もなかったかもしれないね。 実際、太平洋戦争開戦時に企画院の総裁だった鈴木禎一はそうした趣旨の発言をしているし
>>488 局地戦で勝利出来る戦力を保持するだけでも十分に抑止力になることを君はわかっていない
相手としても大損害を被る総力戦をやりたいとは思わないんだよ
なるべくなら緒戦で大勝して有利な条件で戦争を終わらせたいと考えている
ソ連も敵は日本だけじゃないから戦力はなるだけ損耗したくない
緒戦で大敗するかも知れないと認識したらそれだけで十分抑止力になりうる
だいたい戦争仕掛けていきなり大敗したら士気がだだ下がって戦争継続すら難しくなるのは歴史の証明するところ
例えば中越戦争なんかいい見本
ベトナムに攻め込んだ中国軍は緒戦で大惨敗しもはや戦争どころではなくなった
中越戦争なんて例にならないだろ 中国はあくまで懲罰程度のつもりで侵攻したんだから そもそも相手はソビエトなんだからソビエトの例を挙げるべきだろ でソビエトは何度も言われてるように冬戦争でフィンランドに仕掛けて大損害を受けたけど 結局は当初の目標を達成したよね? 戦後のハンガリー動乱でも一度は国外に叩き出されたけど再侵攻して鎮圧してる訳だが
>>490 中国やアメリカと戦争を始めたのは皇道派なの?
>>492 スウェーデンがアホなことしてフィンランドへの支援を邪魔したからな
フィンランドが講和に応じたのも軍需物資の調達がこれで困難になったからだし
これがなければソ連が戦争を継続出来たかははなはだ疑問
日本も別に自国で生産しなくても外国からガンガン輸入すればいいのよ
実際中国はそうして日本と戦ったしな
>>490 永田が生きていたら〜は陸軍を統制できたとか本当に思っていたとかお笑いものだな。
永田に止めれたら東条でも止められただろう。
統制派が戦時体制研究の嚆矢だったように鈴木禎一の発言は戦時体制を構築に協力したした人間の
自己弁護の一環に過ぎんよ。この種の発言を引くことこそがアンフェアだといわざるを得ない。
そもそも開戦に賛成し推進していた鈴木が言ってもな
>>490 いやいや。永田が壊した秩序ですから。
下克上を正当化した奴の末路など自明でしょ?
テロられなかったら、石原や武藤の末路と一緒。
>491 >局地戦で勝利出来る戦力を保持するだけでも十分に抑止力になることを君はわかっていない へぇ。 太平洋戦争で、初戦の真珠湾攻撃とマレー作戦は大勝利だったけど、結末はどうなったんだっけ? >なるべくなら緒戦で大勝して有利な条件で戦争を終わらせたいと考えている 第一次大戦でも、参戦各国はみんなそう思ってたんだけどね。 お互いにそう思ってたからどんどんエスカレートしてってあのザマになったわけだ。 なぜ日本だけがその轍を踏まないと断言できるんだか、聞いてみたいもんだ。 >緒戦で大敗するかも知れないと認識したらそれだけで十分抑止力になりうる 昭和8年頃の満州におけるソ連軍の軍事的増強と、関東軍の防備のポンコツぶりを 知ってていってんのか? 皇道派の鈴木率道がこういってるよ。 「実はいまとなりては変なことなるも、対R〈ロシア〉作戦は現状に於ては 必勝の信念立ち難し」って。 飛行機や戦車と言った近代的兵器の数でロシアに対抗できず、日露戦争レベルの武器で 第一次大戦後の近代兵器群に立ち向かわなければならないという致命的な状況を ようやく理解出来たらしいが、自分たちで作った「歩兵が敢闘精神を発揮すれば 強大な敵に勝てる!」とかいう発想の「対ソ戦闘要綱」「対ソ軍歩兵戦闘」などの 教本を全軍に向かって主張した手前、引っ込みがつかなかったみたいね。 実際、こうした皇道派の主張が誤りであったことがノモンハン事件で暴露されるわけだ。
>494 >日本も別に自国で生産しなくても外国からガンガン輸入すればいいのよ それは戦争という膨大な戦費を投入する消費活動を行いながら、 他国から物資をガンガン輸入できるだけの経済力と工業力を持ち得ておいて、 はじめて言いうることだろう。 中国相手の戦争だったからこそ大した工業力も鉄鋼生産力も要求されなかったけど、 戦車・自動車・航空機を大量に必要とせざるを得ないソ連相手の総力戦で そういうことが出来るとか考えているノーテンキさは、 いかにも皇道派支持者らしいアホっぷりで、いっそ清々しいくらいだなw
>496 >永田に止めれたら東条でも止められただろう。 どういう理屈だよw 永田は少佐ぐらいの頃から「未来の陸軍大臣」と周囲から目されていたが 東條なんて「永田の腰巾着」程度にしか見られていなかったよ。
>498 >下克上を正当化した奴の末路など自明でしょ? 下克上が大好きなのは皇道派の方でしょ。 隊付の青年将校をおだて上げて軍紀をグチャグチャにして下克上の風を 蔓延させたのは皇道派の荒木や真崎じゃねーの。 そもそも満州事変という下克上の典型例を賞賛して推進したのが荒木貞夫だし、 テロで首相を暗殺するような連中を「志は良し!」っていって擁護してみせて 下克上を「もっとやれー!」ってあおり立ててたのも皇道派だよな。
>>501 日米開戦前は東条だけが戦争を止められると期待されたがな。
このスレは人間関係を軸にした派閥抗争を語る場だから当然なんだが
法によらず、永田や東条の「人格」に期待する世評がこの2人だけでなく
荒木や真崎、宇垣、米内などへの期待も間違っていたようにこの期待する構造こそが
陸海軍を軍閥呼ばわりされる原因だよ。
>>502 荒木擁立は統制派皇道派に分裂する前の打倒長州閥を目指した陸軍中堅層の
目的だよ。
>503 >日米開戦前は東条だけが戦争を止められると期待されたがな。 永田がすでに死んでたから、他に仕えそうな人材がいなかったからね。 >法によらず、永田や東条の「人格」に期待する世評がこの 永田が信頼されたのは、「法によって」陸軍内の下克上の気風を抑え込んで 組織としての陸軍を統制しようという意図を持っていたからだ。 >502 荒木が満州事変推進したり、5・15事件のテロリスト共を賞賛して擁護したりしたのは 永田らが擁立に動いた後のことだよ。 永田は荒木のそうした行動を見て、早々に荒木への支持を無くしている。 「○○の時点で誰々を支持している」なんてのは何の基準にもならん。
>>499 そりゃ仲介国の目途もないのに戦争仕掛けたらああなるわな
あと大東亜戦争の場合日本の方が先に仕掛けたから
小畑の想定していたプランとは前提から違うわけ
それから第一次大戦の場合陣営が真っ二つに割れていたせいで抜け駆け講和出来なかったのをお忘れなく
小畑らは相手はソ連のみであり他国との戦争は考えておらず大戦が起こっても不参加という考え
>>499 あと小畑荒木らは日本軍が二流の軍隊だったことは十分認識していたのは散々既出
だからこその内線作戦なわけ
あとノモンハン航空戦は日本の方が優位だったの知らんのか?
辻とかの永田一味のアホどもがパイロットを交代もさせずにやらせたから後半苦戦することになった
>>500 金がないときは借金すればいいのよ
実際日露戦争のときの日本はそうしていた
それから君は勘違いしている
私が言っているのは中国軍が外国から武器を購入して日本軍と戦ったってこと
日本軍じゃないぞ?
>>506 >パイロットを交代もさせずにやらせたから
数的劣勢にある以上避けられない事ですね
ノモンハンはお互いにとっての僻地でやった局地戦だったからあの程度で済んだけど
仮にソ連が満州侵攻を企図するなら当然投入される戦力はノモンハンの比ではない訳で
より劣勢を強いられるのは確実なんだが、本当に優位に戦えると思ってるの?
同じように数的劣勢下で戦ったルフトバッフェがどうなったかは知ってるよね?
>>507 日露の時は背後に英国がいたしロシアの南下を好ましく思わない連中も多かったから借りられたけど
締め出されて金にもならない当時の満州での戦争のスポンサーになってくれる国なんてあんの?
既に日露の時にハリマン協定が反故にされてるのに
>>504 荒木が五・一五事件を賞賛したというのは初耳なんだが?
仮にも犬養内閣の閣僚だったんだけどね荒木は
そんな非常識なことをやるとは思えないんだが(そんなことしたら確実に辞職に追い込まれるだろう)
一次ソースあるの?
>>508 優位に戦えると思うよ?
ソ連はドイツ同様航続力の短いバッタ戦闘機しかなく制空戦闘は出来ないだろうから
BOBで英空軍は戦闘機もパイロットも数的劣勢だったがこのおかげで優位に戦いを進められた
のこのここちらから出て行ったノモンハンとは違うわけ
あと別にスポンサー云々の話じゃないから
日本に返済能力があるという信用があれば国債を買ってくれるのはいくらでも出てくる
だいたい日露戦争でも民間が日本国債買ってくれたからね
>509 >荒木が五・一五事件を賞賛したというのは初耳なんだが? >仮にも犬養内閣の閣僚だったんだけどね荒木は >そんな非常識なことをやるとは思えないんだが(そんなことしたら確実に辞職に追い込まれるだろう) しかし、われわれにとって、五・一五事件の経緯よりもさらに重要なのは、 事件に対する軍部および民間指導者の反応である。 総じて、陸軍当局は事件に関連した青年将校に対し同情的であった。 暗殺直後談話の形式で発表された声明において荒木陸相は、「犯行は飽くまで国法を 破ったのであるから寸毫も仮借する所なく遵法の精神により処断せねばならぬ」、 としながらも、青年将校の動機の純粋さを強調し、「これら純真なる青年がかくの如き 挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。名誉のためとか利欲の ためとか又は売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったこと である。故に本件を処理する上に単に小乗的な観念を以て事務的に片づけるやうなことを してはならない」と述べた。同時に発表された海軍大臣の談話も険悪な世相に刺戟されて 青年将校がこのような行為へ走ったことを考え、軍人も国民も反省し、二度と不祥事の 起らないように努めねばならないという趣旨のものであった。 軍部指導者、なかんずく荒木らが青年将校に同情的であったことは、翌年に行われた 五・一五事件の軍法会議のやり方に影響を与えることになった。法廷において、被告達は 政党、資本家、ならびに宮中関係者に対する非難を自由に表明し、あたかも彼らの信条を 宣伝する機会を与えられたかのごとくであった。海軍側検察官は、いわゆる被告達の動機の 純粋性なるものを公然と非難したが、陸軍側検察官は被告らの「愛国の赤誠」に敬意を表し、 今日のような国家の内外ともに行き詰まった情勢のもとでは、「国民をして真に其の使命を 覚醒せしめんとする被告人等窮極の目的は寧ろ時世に適切なるものと謂はざるべからず」とすら 結論した。法廷は被告に対し有罪を宣言したが、その判決はきわめて寛大なものであった。 首謀と見なされた古賀清志と実際に犬養を射殺した三上卓の二人には最高刑である禁錮十五年が 言い渡された。また陸軍側は行動に加わった士官学校生徒十一名に対しわずか禁錮四年の判決が 下ったのみであった。判決後間もなく、当時引き続き陸相であった荒木は、受刑者に恩赦または 大赦の措置をとるよう首相やその他の要人に働きかけた。 緒方貞子『満州事変 政策の形成過程』岩波現代新書(p285-287) 緒方が参照した一次史料は内務省警保局発行の「出版物ヲ通ジテ見タル5・15事件」と 『西園寺公と政局』『木戸幸一日記』のようだね。 疑問があったら君がこれらの一次史料に当たっておくれ。
>>511 おーいどこに荒木が擁護したと書いてあるんだ?
通説では減刑嘆願書が山ほど送られてきてそれに政府が配慮したってことを知らんわけじゃあるまい
つーかやっぱり史料を著者が主観で解釈したものじゃないか
>512 >おーいどこに荒木が擁護したと書いてあるんだ? 「これら純真なる青年がかくの如き挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。 名誉のためとか利欲のためとか又は売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じて やったことである。」 判決後間もなく、当時引き続き陸相であった荒木は、受刑者に恩赦または大赦の措置をとるよう 首相やその他の要人に働きかけた。 「そんな非常識なことをやるとは思えない」とかいってしまった自分の無知を取り繕おうと 一生懸命のようだけど、全く成功してないよ?
>>513 その前の「犯行は飽くまで国法を破ったのであるから寸毫も仮借する所なく
遵法の精神により処断せねばならぬ」とあるが、その後の「これら純真なる〜
を言わなければいけないのは512の言うまさにその当時の世情だろう。
5.15は現在では過激将校の暴挙と記述されるが駐屯地の縁である橘孝三郎
のような農村問題の活動家との交流から起きたことを見逃せない。これ以前の
血盟団事件、後の2.26のように戦前日本の格差社会は限界を露呈しつつあり、
標的として財界や代議士はもちろんのこと牧野伸顕のような天皇側近も攻撃された
ように誰がつるし上げになるのか分からない情勢であることを軍部批判者は
失念している。
>514 逆だよ。 「これら純真なる〜」とか言い出してしまうようなアホが陸軍や海軍の中で威を張り出して、 それに呼応した在野右翼が、牧野や西園寺などの穏健な宮中グループや若槻・幣原・浜口ら への武力による恫喝や圧迫を加えたからこそ世相が不穏なモノになっていったんだ。 娘を身売りするようなハメに陥るほどに農村が苦しめられた格差社会を是正したいのであれば、 国家予算の数十パーセントを分捕っていた陸海軍が軍縮を呑んで、その分をそうした窮乏した 人々への手当に回していれば良かった。 そう考えて軍縮を進めるために穏健な外交を目指していた上記の政治家達を排除して、 武力に訴えてでも予算を獲得して自分たちの地位の保全を図ろうとしたのが 皇道派であり艦隊派だったし、そうしたかれらにそそのかされてテロに走ったのが 民間のテロリストたちだった。
>>515 それはそれは。半周遅れた昔の左翼っぽい意見ですね。
反軍演説で有名な斉藤隆夫は当時の格差社会における社会的弱者を 「努力不足」と切って捨てたように戦前議会の大勢である自由主義は 社会の矛盾の苗床になった。だから5.15や血盟団のテロリズムを擁護する 空気が生まれた。ここを軍部批判者はなぜかスルーするな。 日本の軍事費は高橋財政が重工業重視の軍優先だったように軍縮なんてのは 議会の意志でもでも乏しかった。宮中で穏健といえたのはロンドン軍縮会議時の 牧野ぐらいで本来宮中、宮内省は儀礼だけでよいと考える木戸幸一が主流だよ。 だからこそ牧野は「君側の奸」として右翼の標的にされた。満州事変後の犬養斉藤時代の広田外交 をはじめとして内閣、外務省がとても穏健とはいえないな。 戦前の日本の福利厚生が低劣なのは戦時体制で兵員確保のために1938年に厚生省が誕生した という歴史がよくあらわしている。戦時体制は戦前社会の行き詰まりの帰結であり、 軍部の暴走なんていうのは大日本帝国の失敗の本質から目をそらすためのものでしかない。
>517 >戦前議会の大勢である自由主義は社会の矛盾の苗床になった。 >だから5.15や血盟団のテロリズムを擁護する空気が生まれた。 >ここを軍部批判者はなぜかスルーするな。 その辺については坂野潤治がちゃんと指摘しているぞ。 そうした政党政治への不満の高まりとして昭和初期の無産政党の伸張があった。 永田らはそうした層を取り込むことを考えていたし、所得格差を無くすために 農村での小作の経済状況の改善と、都市部での労働問題の対処として労働組合などの 育成を政策に掲げていた。 「国防の本義と其強化の提唱」より 一、経済の整調 現機構の不備 現経済機構が、我が国の経済的発展に、大なる貫献を為したることは認めねばならぬ。 然し国家的全体観、特に国防の観点より見て、左の如き改善整調の余地ありと言はれて居る。 1、現機構は個人主義を基調として発達したものであるが、其反面に於て動もすれば、経済活動が 、個人の利益と恣意とに放任せられんとする傾があり、従つて必ずしも国家国民全般の利益と一致しないことがある。 2、自由競争激化の結果、排他的思想を醸成し、階級対立観念を醸成する虞がある。 3、富の偏在を来し、国民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落等を来し、国民生活の安定を 庶幾し得ない憾がある。 4、現機構は、国家的統制力小なる為め、資源開発、産業振興、貿易促進等に全能カを動員して、 一元的運用を為すに便ならず、又国家予算に甚しき制限を受け、国防上絶対に必要とする施設すら 之を実現し得ざる状態に在る。 新経済機構に具備すべき要件 現経済機構の変改是正の方案に対しては、種々の意見があるが、国防上の見地よりして左の如き事項が挙げられて居る。 1、建国の理想に基き、道義的経済観念に立脚し、国家の発展と国民全部の慶福を増進するものなること。 2、国民全部の活動を促進し、勤労に応ずる所得を得しめ、国民大衆の生活安定を齎すものなること。 3、資源開発、産業振興、貿易の促進、国防施設の充備に遺憾なからしむる如く、金融の諸制度竝に産業の運営を改善すること。 4、国家の要求に反せざる限り、個人の創意と企業慾とを満足せしめ、益々勤労心を振興せしむること。 5、公租公課を真に公正ならしむる如く税制の整理。 こういう主張に賛意を示していたのが社会大衆党の亀井や麻生たちだ。
>517 >軍縮なんてのは議会の意志でもでも乏しかった。 ロンドン軍縮条約を推進した浜口内閣のことをまるっきり無視しないと 出てこない言い分だね。 >宮中で穏健といえたのはロンドン軍縮会議時の牧野ぐらい その牧野を5・15でも2・26でも「君側の奸」として暗殺しようとしたから それ以外のメンバーが「殺されたくない」という気持ちを持って軍に迎合する 態度を取るようになった。 まさに軍の横暴としか言えない。 >満州事変後の犬養斉藤時代の広田外交をはじめとして内閣、外務省がとても穏健とはいえないな。 10月事件のようなクーデターが画策されたり、血盟団事件〜5・15事件のような テロが頻発する状態だからこそ、軍に迎合する親軍的な集団がそれぞれの集団の中で 力を持つようになったのであって、軍の暴力を伴う威嚇さえなければ戦前の内閣や外務省は 穏健な勢力が力を持ったまま推移していたろう。 満州事変前の幣原外交やロンドン条約締結推進を主導した勢力の存在を無視して、 それ以後の軍の脅威に晒されて命の危険すらあった彼らを非難するのは妥当とは いえないな。
>>515 そもそも濱口をはじめとする当時リベラルと言われた連中がデフレ円高政策をやったために農村部が貧困に突き落とされたんだが?
農村の稼ぎ頭だった養蚕産業はこれで壊滅状態になったし
つーか荒木小畑といった皇道派が貧困にあえいでいた農村に同情的だったのは通説でしょ
>520 >そもそも濱口をはじめとする当時リベラルと言われた連中がデフレ円高政策をやったために 当時の段階では金解禁政策があそこまで激烈な経済環境の激変をもたらすとは予想されていなかったし、 アメリカ発の金融恐慌があれほど長期にわたる大規模なモノになるとも予想されてはいなかった。 後知恵で当時の為政者を批判するのは簡単だけど、その批判が同時代的な視点でどれほどの妥当性を持っていたのかを 考慮に入れるべきだね。 >荒木小畑といった皇道派が貧困にあえいでいた農村に同情的だったのは通説でしょ 単に心情的に同情するのはいくらでも出来るが、それが実際の政策や国内環境の整備といった 施策にまで及ばなければクソの役にもたちゃしない。 また、そうした貧困を背景として頻発していた農村での小作争議や炭坑や工場などでの労働争議に対し、 「共産主義の脅威」を言い立てて、抑圧しようとしていたのも皇道派だ。 彼らにとっては農村の貧困など、共産主義という自分たちの思想上の敵を打倒するためなら いくらでも無視してかまわないものだったんだろうね。
>522 高橋是清が荒木陸軍大臣に投げた名文句だね。 皇道派を擁護する連中にこの台詞をぶつけてみたいもんだ。
>>521 当時四方から反対意見があったの知らないの?
そもそも不景気に緊縮財政やる時点で間違っているわけで
その間違いを財界の言いなりになってやったのが濱口井上
しかも井上なんか失業者はいくら出ても構わないとか言う始末
あと皇道派は別に彼らを抑圧はしていないでしょ
小作争議や労働争議が共産主義の温床になることを危惧していただけで
まあ実際ソ連の息がかかった連中がそこにいたわけだけど
旧名コミンテルン日本支部こと現日本共産党が
>524 >当時四方から反対意見があったの知らないの? ソースよろしく。 >皇道派は別に彼らを抑圧はしていないでしょ ソースよろしく。
>>525 濱口らと敵対関係だった政友会はもちろんのこと石橋湛山とかの経済人らが反対していたのを知らんのか?
ググればいくらでも出てくるぞ
あとソースは「あった」という側が出すのは知っているよね?
>526 私は「四方から反対があった」というソースを提示してくれと言っているんだが? 君が出したのは「石橋湛山」と「政友会」だけのようだけど。 はやく、それ以外の勢力の名前を出してくれないかい。 まさかこの2者だけを指して「四方から」とかいわないよね? >ソースは「あった」という側が出す そのとおりだね。 「四方から反対が「あった」」と言っているのは君の方なのだから、 はやくソースを出してくれないかな。
>>527 んじゃあ国民の多くも反対だった
これもググれば出てくる
さて皇道派が抑圧していたというソースを提示してもらおうか?
>528 「ググれば出てくる」? 何度言えば理解出来るのかな? こちらは「ソースを出せ」って言ってるんだけど。 ググって出てきたものを君が提示しえて、はじめて「ソースを出した」と言えるんだよ。 出来ないんだったらとっとと失せな。
>530 君の出したサイトのどこにも、「金解禁に国民の多数が反対していた」という記述は無いようだが? あくまでアメリカ発の金融恐慌という偶発的な出来事が起こったために金解禁政策が失敗しただけで、 浜口内閣が金解禁という方向に舵を切ったこと時点でそれを非難する声は出ていないよ? 高まる金解禁要求 1928年(昭和3年)に入り、フランスが金解禁を行うと主要国でこれを行っていないのは日本のみとなり、内外からの批判を浴びた。 また、為替相場の不安定ぶりに悩まされた金融界と貿易関係の業界からは、金解禁を行って為替相場を安定させることを望む声が上がり、 東京・大阪の両手形交換所と東京商工会議所からは「金解禁即時断行決議」が政府に対して突きつけられた。 さらに、1930年(昭和5年)に設立される国際決済銀行の出資国・国際連盟財政委員会構成国の要件に、金解禁の実施が盛り込まれたことにより、 (略) ところが、この少し前の1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落が発生して、アメリカ経済は大混乱に陥っていた(「暗黒の木曜日」)。 これが後の世界恐慌のきっかけになるが、当初日本国内ではその影響について意見がまちまちであった。 これを見た「新平価論」を唱えていた石橋ら経済評論家やアメリカ経済の動向を危惧する三菱財閥の各務鎌吉らは、旧平価での金解禁に強く反対した。 一方、三井財閥の池田成彬を中心とした金融界は、これ以上の金解禁の遅延は許されないとして金解禁を支持。 井上も、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していたことから、今回の恐慌を通常経済の範囲内の出来事と考えたために方針変更を行わなかった。 上記の記述を見ても、石橋湛山らの反対はあくまで一つの意見であって、国民世論の大多数とは言い得ないな。 金融恐慌という外的な要因があってこそ金解禁があれほどの失敗に終わっただけであって、事前にそれを予測し得なかった ことをもって浜口内閣の方針を批判するのはやはり後知恵としか言えないね。
>>530 そのあとの項目が読めないの?
大恐慌が起こってから金輸出の禁止もしくは平価切り下げもしくは景気対策をやれと一般国民から噴出したと
>532 こちらの元の書き込みをちゃんと読みなさい。 <521> 当時の段階では金解禁政策があそこまで激烈な経済環境の激変をもたらすとは予想されていなかったし、 アメリカ発の金融恐慌があれほど長期にわたる大規模なモノになるとも予想されてはいなかった。 後知恵で当時の為政者を批判するのは簡単だけど、その批判が同時代的な視点でどれほどの妥当性を持っていたのかを 考慮に入れるべきだね。 「世界恐慌が起こってから」の批判の事なんて言ってねーよ。 なにトンチンカンなこと言ってんだか。
>>533 ああそうだね
永田一味は南部仏印進駐でアメリカがあそこまで激怒するとは予想もしていなかったよね
見通しの甘さという意味では同じだわ
というかリンク先を読めばわかるが濱口内閣は最初から国民に傷みを強いる政策をやろうとしたのよ
デフレになるのも当然ながらわかっていた
だいたい輸出で儲けなければならない日本の通貨を身の丈に合わずに高く設定した時点で狂っていたとしか言いようがない
さらに言うならもはや明らかな失敗なのに何の対策も打たなかった時点で言い訳出来ない
それどころか他国が金本位制から次々と離脱していったのに異常しか言いようがないほどそれに固執した
まあ金融屋どもは喜んだがね
>534 >永田一味は南部仏印進駐でアメリカがあそこまで激怒するとは予想もしていなかったよね 南部仏印に進駐したときにとっくに永田は殺されてたんだけど、いったい「永田一味」ってのは 誰と誰のことを指すんだい? 永田とは関係のない人間たちのやった行いを指して、その悪行の結果を永田になすりつけようという 底の浅い批判でしかないね。 >リンク先を読めばわかるが濱口内閣は最初から国民に傷みを強いる政策をやろうとした その浜口内閣は、国民から新任されて過半数の議席を獲得していたし、 高い支持を得ていたんだけど? 君が後知恵でどれだけ文句を言おうと、その当時の国民は浜口の示したビジョンに対して 信任を与えていたし、テロに倒れない限りはその政権は続いていた。 >明らかな失敗なのに何の対策も打たなかった時点で言い訳出来ない 様々な対策は行っていたし、そもそも恐慌という外的な要因が大きかった状況なのに 国内の対策だけで乗り切れるとか考える方がおかしい。
>>535 統制派=永田一味だよ
わかっているくせに
あと当時はまだ政党政治だったから国民の信任云々は当たり前じゃん
ただそうして選ばれた政府でも国家国民のためにならないことをやることはあるんだよ
つーか最近そういったことがあったろ?嘘つきまくって政権取ったのが
国民から選ばれた政権だから一切の批判はするなとか君の考えは明らかにおかしいわ
それから皇道派が民衆を抑圧していたとかいうソースはいつ出してくれるんだ?
>>518 >永田らはそうした層を取り込むことを考えていたし、所得格差を無くすために
>農村での小作の経済状況の改善と、都市部での労働問題の対処として労働組合などの
>育成を政策に掲げていた。
農村における産業組合(労働組合ではないよ)の結成は農村に浸透し始めた社会主義思想
を取り締まるためのものだよ。これは陸軍オリジナルというよりはすでに農林省で計画され
是清のいた斉藤内閣の自力更生運動の核とも言える政策だ。
>>519 議会と内閣を同一視する、牧野を攻撃した右翼を軍と同一視するなど論旨が乱暴すぎる。
>536
>統制派=永田一味だよ
理解が粗雑すぎて話にならん。
南部仏印進駐って昭和16年の時点だろ。
永田が死んでから何年経ってると思ってるんだ。
統制派という言葉を定義し直すことからまずはじめることだね。
「軍は命令と服従を基礎とする集団であって、統制を強調することは当然のことであるため、
統制派というと、皇道派反感を持つものすべてを含んでしまうことになる」
北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(p85)
>あと当時はまだ政党政治だったから国民の信任云々は当たり前じゃん
つまり、浜口内閣の施政は国民の支持を得ていたことを認める、と。
コレで話は終わりだね。
>つーか最近そういったことがあったろ?嘘つきまくって政権取ったのが
そんなもん、戦後の自民党政治はどの政権も同じだろ。
「公約を守れないことぐらい大したことではない」とかいう政治家が
80%近い支持率を得てしまうくらい何だから。
>国民から選ばれた政権だから一切の批判はするなとか君の考えは明らかにおかしいわ
は?
私がいつそんなことを言ったんだい?
レス番を明示して挙げてみてくれないか?
<521>
>後知恵で当時の為政者を批判するのは簡単だけど、その批判が同時代的な視点で
ど>れほどの妥当性を持っていたのかを考慮に入れるべきだね。
君の脳内では、こういう指摘をすることが「一切の批判はするな」とでも翻訳されるのか?
>皇道派が民衆を抑圧していたとかいうソースはいつ出してくれるんだ?
皇道派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE 「農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、
軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えた」
民衆の生活改善要求から生じてきた共産主義への共鳴に対して
危機感を持っていたって書いているね。
>537 >すでに農林省で計画され是清のいた斉藤内閣の自力更生運動の核とも言える政策だ。 永田が他の省庁の若手官僚との連携を進めていたことも知らないのかい? 外務相や商工省も含めた、いわゆる「革新官僚」らとの協力関係こそが 永田を他の陸軍軍人とは一線を画する存在として他に知らしめた要因だ。 >議会と内閣を同一視する、牧野を攻撃した右翼を軍と同一視するなど論旨が乱暴すぎる 当時は「議会の多数派が内閣を組織する」という政党政治が定着し始めていたんだが。 内閣が「議会の多数派」を元にしている以上、両者を無関係なモノだとする君の見方こそ 当時の政治状況に対する理解の乏しさを示すものだ。 また、牧野を襲撃した5・15も2・26も、どちらも軍人が起こした事件なんだが。
>>539 はあ?永田の跡を取った東条石原武藤らもやっていますが?
>540 永田の跡を取った? いったい誰が? 言葉の定義付けを厳密にやってくれないかな? 東條と武藤と石原がいったい何をやったって?
>542 具体的に答えろよw 何をしたって? 永田がやったのは、他省庁の実務を担当している若手と連携しての政策作り、 財界と連携しての合理的な経済環境の整備、国内における富の平準化の推進、 陸軍内の指揮命令系統の確立と下克上の気風の除去、陸軍大臣を中心にしての 合法的な政府への働きかけ、といったものだが? 東條や石原や武藤がこれらをどの程度やっていたと言うんだい?
>>543 それぞれ権力を握った奴らは財界との提携や革新官僚との提携ぐらい普通にやってあることだが?
当然統制もね。
何で永田を特別視するのか、皆目見当が付かないものだ。 よほど読書が偏っているのか? そう言えば、きわめて論理的、客観的な分析は、まるで学者と話しているようだなんて人物評は服部卓四郎あたりだって貰っているわけで。 同じ優秀な権力指向者の彼らと何が違うのかと。
>544 >財界との提携や革新官僚との提携ぐらい普通にやってあることだが 永田が後世に名前を残しているのは、その「普通」ではないレベルで そうした行為を行ったが故のことなんだけど? そもそも、それまでの軍はそうした他の領域の行政官とも経済人とも提携するということを まともに行ってこなかったからこそ多くの批難を寄せられていたわけで。 また、統制が乱れたのは満州事変という石原が起こした軍事的冒険主義に基づいた 非合法な武力行使にその端を発している。 永田はそうした行為によって惹起された統制の乱れを立て直そうとしたが故に 「統制派」というレッテルを貼られてしまっただけで、そもそも永田が行ったのは 軍人ならば当然守ってしかるべき「上官の命令に従う」という組織のルールを確立しようと しただけのことだ。
>545 >何で永田を特別視するのか、皆目見当が付かない 君の読書量が足りないが故の無知の責任をこちらに転化しないでもらいたいね。 ここ十数年の間に猛烈な勢いで深化している旧軍を巡る政軍関係の研究の成果をまともに読んでいれば、 永田の業績への理解がようやく共有されだしてきているという現状が少しは理解できるはずだが。 まぁ、そうした最新の知見に触れていない、学術書を読み込むだけの根性が無いシロウトさんには 難しいのかもしれないがね。
また永田マンセーさんの妄想ですか?
だって永田を持ちあけでいたのなんて一昔前までじゃん。
>>521 > 単に心情的に同情するのはいくらでも出来るが、それが実際の政策や国内環境の整備といった
> 施策にまで及ばなければクソの役にもたちゃしない。
永田が生きていたら〜 永田が生きていたら〜 永田が生きていたら〜
>548-550 なんら有効な反論を出来なくなったあげくの一行レスですかw あー、みっともねー。
>>538 だから永田の子分どもの見通しが甘くてアメリカとの戦争になったと言っているだろうが
君が結果論云々言っていたから喩えを出したのを理解出来ないのか?
民政党政権が当初国民からの支持を受けていたのは事実だよ
民主党と同じようにね
んで君は何が言いたいんだ?
失敗したら非難されるのは当然だろ
あと君が出したもののどこが抑圧していたんだ?
皇道派が共産主義に危機感持っていたという通説を出してきただけじゃないか
君は何かしたいんだね?
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/30(水) 12:28:59.95 ID:6sCw3RCT0
>>546 永田が起こしているのに
満州事変を免罪できないわな
貧乏なのに建艦競争して勝てると踏んだあたりが米の国力を甘く見てる証拠…。
>>539 自力更生運動は斉藤内閣が行ったもので蔵相の是清だったように戦時体制や
革新官僚とは無縁のものだよ。「永田が他の省庁の若手官僚との連携を進めていた」とは
雑な論旨だな。それが政策の要因になった証拠や証言をあげてくれ。
>当時は「議会の多数派が内閣を組織する」という政党政治が定着し始めていたんだが。
ではなぜ床波や鈴木喜三郎は首相になれなかったのかな。実に理解が豊富なので突込みがいがあるなw
2.26のような変事が起きれば戒厳令を敷き首相の任免権を握るシミュレーショである
「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成した統制派の永田を持ち上げる
気が知れんな。こんなクーデター上等の人物を礼賛できる人間はいいかげん司馬遼太郎
の小説のように主人公の悪行や失敗をオミットする専門書(笑)以外の本を読んで
ほしいものだ。
556 :
age :2013/11/03(日) 05:58:29.19 ID:bZ3Sa2hl0
>>539 「議会の多数派が内閣を組織する」
これは間違った認識だね。組織された内閣が多数派を形成しいったわけだったが?
557 :
age :2013/11/03(日) 05:59:30.44 ID:bZ3Sa2hl0
>>539 ちなみに永田が提携した「革新官僚」とば誰のこと?
永田信者君は適当だから岸あたりの名前でも挙げるんでないの。 商工系の岸の名前を挙げても自力更生運動は農水系だから証明にならないけどな。 戦時体制構築のための軍部のテクノクラートとの連携が形としてはっきりするのは 満州国における宮崎機関だけどこれは宮崎機関を国内で展開させようとした林内閣組閣時の ごたごたを見る限り石原のスタンドプレーといわざるを得ない。企画院設立のような形を実現させたのは近衛 の挙国体制運動が大きい。当時の文芸春秋の評論で挙国体制を支持する言論や社会主義右派の協力が 大政翼賛会への結実と世論形成とつながり軍国体制を実現させたと考えるべきだろう。
559 :
age :2013/11/03(日) 19:19:39.83 ID:LUCC1nRU0
>>558 革新官僚じたい永田よりも後の時代の物では?
革新官僚たちが目指したのはソビエト式の統制経済であり、研究は20年代から はじまっていた。ブレーンにマルクス主義の影響を受けた人物の多い近衛を中心とする 人脈が連合した時には革新官僚たちや永田も含まれていた。
>552 >だから永田の子分どもの見通しが甘くてアメリカとの戦争になったと言っているだろうが 永田の子分どもの見通しが甘かったことと、永田の見通しがどうだったのかとは イコールではないよ。 >君が結果論云々言っていたから喩えを出したのを理解出来ないのか? 君の「永田の子分共が〜」というのがまさに結果論そのものだね。 >失敗したら非難されるのは当然だろ だれが「失敗しても批難するな」って言ったんだ? こちらの発言を勝手に捏造して批難するというマッチポンプみたいなマネはやめてくれないかな? >あと君が出したもののどこが抑圧していたんだ? >皇道派が共産主義に危機感持っていたという通説を出してきただけじゃないか つまり、労働組合や労働争議を「共産党の策動だ」という口実を付けて抑圧するという 指向性を持った集団だというのを認めるってこったね。
>553 >永田が起こしているのに >満州事変を免罪できないわな まだ「永田が満州事変を起こした」とかいう無知な思い込みを持ってる輩がいるのか。 満州事変の中心人物の一人だった片倉衷が「永田は満州事変とはなんら関係がない」って 明言しているのも知らないらしいね。
>555 >「永田が他の省庁の若手官僚との連携を進めていた」とは 雑な論旨だな。 >それが政策の要因になった証拠や証言をあげてくれ。 >>当時は「議会の多数派が内閣を組織する」という政党政治が定着し始めていたんだが。 >ではなぜ床波や鈴木喜三郎は首相になれなかったのかな。実に理解が豊富なので突込みがいがあるなw 「定着し始めていた」だけ、だからだよ。 「完全に定着していた」とは言っていないんだがね。 自分の日本語能力の未熟さをひけらかすのは勝手だが、独り相撲にしかなっていないのを ハタから見ていると滑稽でしょうがないからほどほどにしといておくれ。 >2.26のような変事が起きれば戒厳令を敷き首相の任免権を握るシミュレーショである >「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成した統制派の永田 2・26のような事態が起こったらそれを収拾するためには相当な非常手段を取らざるを得ないから あらかじめそのシミュレートを行っておくことは軍人として当然のことだろw 「昭和九年一月五日に『政治的非常事件勃発に対する対策要綱』が出来た。 要するに事変が起きた場合の軍の態度、その警備、戒厳を下した場合の措置等細目にわたった。 そしてこの意見書をそれぞれ上司の課長、部長に提出して進言したわけです。 (略) 私共の意見書は、例えば西浦君は山岡軍務局長、山下軍事課長に、島村君は鈴木作戦部長、 また第一部長とか総務部長、第二部長に提出するという風にして上司を鞭撻したのでした。 研究は秘密であったがおsの内容は決して秘密ではなく、成果を明示した。 国家革新を若い将校が考えているような非合法的手段や軍人の結束だけでやるのはよくない。 あくまで陸軍大臣が一国務大臣として発言し内閣を動かし、議会に訴える、また議会に反映 せしめて内閣を動かすというような合法手段で解決する革新でなければならない。 議会否定、内閣否定ではなかったのです。」 「片倉衷氏の証言」『秘録 永田鉄山』(p92) ただのシュミレートである文章よりも、実際に2・26事件を起こした皇道派の青年将校どもの 愚劣さの方を問題とするべきじゃないのかな? >こんなクーデター上等の人物を礼賛できる人間 まさに荒木貞夫に代表される皇道派の将官たちのことですね。 「これら純真なる青年がかくの如き挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。 名誉のためとか利欲のためとか又は売国的行為ではない。 真にこれが皇国のためになると信じてやったことである。 故に本件を処理する上に単に小乗的な観念を以て事務的に片づけるやうなことをしてはならない」 テロを起こして一国の首相を殺害した犯人連中に対する荒木貞夫の談話がこれだからねぇ。
>556 >「議会の多数派が内閣を組織する」 >これは間違った認識だね。組織された内閣が多数派を形成しいったわけだったが? 君の方が間違った認識をしているだけだよ。 議会の多数派が組織した内閣に失政があって倒閣したとき、第二党に政権が託された後に 選挙によって第二党が多数派を形成することがあったというべきだね。 いずれにせよ、政権を「議会の多数派が手にするのが妥当だ」とする政治環境が整備されつつあった というのが大正〜昭和初年にかけての実相だ。
>557 >ちなみに永田が提携した「革新官僚」とば誰のこと? 「大蔵大臣が高橋是清さんから藤井真信さんに代わり、この藤井さんが永田さんと非常に仲の良い 人であったらしい。その時に大蔵省の要職に川越丈雄さんがおり、この川越さんが渋谷で永田さんの 家の隣に住んでいたんです。満州事変の処理のために対満事務局というのができた。その総裁を陸軍 大臣が兼任するわけでしたが、その下に大蔵省から川越さんが対満事務局の次長に来られた。 (略) 庶務課長には増田甲子七さんが内務省から任命された。増田さんは長野県人で永田さんとは同県人と いう関係でした。永田さんは大蔵省とはそういう関係ですから、大蔵官僚と非常にツーツーなのです。 軍事課の高級課員をやり、軍事課長をやり、軍務局長をやったのですから予算折衝などで相当関係も 深かったのです。しかも総動員の関係で、新しい国家機構を作ろうとかなんとかいうようなことでも、 大蔵省以外の省庁のインテリと話しているわけです。」 「有末精三氏の証言」『秘録 永田鉄山』(p75) 永田と連携しあった他省の官僚っても、1人や2人の話じゃないからねぇ。 全部の名前は上げきれんよ。
>当時は「議会の多数派が内閣を組織する」という政党政治が定着し始めていたんだが。 >内閣が「議会の多数派」を元にしている以上、両者を無関係なモノだとする君の見方こそ >当時の政治状況に対する理解の乏しさを示すものだ。 >「定着し始めていた」だけ、だからだよ。 >「完全に定着していた」とは言っていないんだがね。 >自分の日本語能力の未熟さをひけらかすのは勝手だが、独り相撲にしかなっていないのを >ハタから見ていると滑稽でしょうがないからほどほどにしといておくれ。
>>566 議会の多数派が政権委譲を受けたのは原と加藤だけでは?
田中、浜口、犬養と前政権の失政による少数党の政権だった。
>567 >田中、浜口、犬養と前政権の失政による少数党の政権だった。 その通りです。 なのでこれらの少数与党の政権は組閣後に議会の解散を行い、選挙で国民に信を問い、 その上で多数派を確保することでその政権としての正統性を確保している。 選挙で多数を得て政権を手にし、政権を手にした後で選挙で多数を得たかという違いはあれども 議会の多数を根拠として政権の正統性を確保するという原則には変わりはない。 こうした原則の存在を指して、この時期の政権運営は「政党内閣制」と呼ばれている。
>>568 ほら「議会の多数派が内閣を組織する」なんて御主張は当時のシステムじゃなかったじゃん。
>568 こちらがいつ「当時のシステムがそうだった」なんて云ったんだい? あくまで「政党政治が定着し始めていた」と述べただけで、政党政治が制度として完成していた なんて言ったことはないよ? 歴史のシロウトが当時の実情をよく知らずにくちばしを突っ込んできたせいで勘違いしただけだろ。 当時の政党政治の推移や変遷を少しは勉強してくるこったね。
>>570 それで、次のようにわざわざ鍵括弧付きで強調されている論理の大前提が狂っているワケだが修正しないでイイノカネ?
>>539 >当時は「議会の多数派が内閣を組織する」という政党政治が定着し始めていたんだが。
>571 >論理の大前提が狂っているワケ は? 言っている意味がよく分からないんだけど?w 「組織する」ってのは、その内閣が成立する当初から倒れるまでの全期間のことを言うんだよ。 成立する「スタートの時期」のみを取り上げてどういうという言葉ではないんだけど? 内閣成立時点で少数派で、倒れるまで少数派のままだったなら「政党内閣制にのっとった内閣」では無いが 内閣成立時点で少数派でも、途中の選挙で多数派になったのであれば「政党内閣制にのっとった内閣」だろうが。
>>572 述語の 組織する の主語は 多数派 じゃないの?
ジタバタと(笑)言い訳してみても少数派の組織した内閣があるのは動かぬ事実。
組織された ぐらいだったら多少できた苦しい言い訳だったんだけどねえ。
> 内閣成立時点で少数派で、倒れるまで少数派のままだったなら「政党内閣制にのっとった内閣」では無いが
> 内閣成立時点で少数派でも、途中の選挙で多数派になったのであれば「政党内閣制にのっとった内閣」だろうが
だろうが なんて見得を切られましても?そんなわけなかろうもん。びっくりしちゃう意見ですね。
もう政党内閣制の定義もむちゃくちゃ。この程度の日本能力なら永田信者もつとまるんだろうね。ちょっと前までは石原信者でもやっとったんじゃなかろうね?
>573 >述語の 組織する の主語は 多数派 じゃないの? そうだよ? 選挙で勝った後は多数派になってるだろw >少数派の組織した内閣があるのは動かぬ事実。 なにか問題でも? その少数派が政権獲得後には選挙を行って多数派になってるんだから「多数派が組織する」という 状況は現出している。 「政党内閣制」的な慣例が定着している証だね。
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/11/11(月) 06:24:34.85 ID:+PSMOXC40
>>574 まさか第二次加藤高明内閣が政党内閣ではなかったという基地外論理とは思わなかった…
政党内閣に多数も小数もない。
議院内閣制と中途半端に混同しているお思われ
>574 >第二次加藤高明内閣 何とトチ狂ったことを言ってるのかな?w こちらはちゃんと5・15や2・26が起こった頃の時期を指して話をしているんだけど? <539> >当時は「議会の多数派が内閣を組織する」という政党政治が定着し始めていたんだが。 >内閣が「議会の多数派」を元にしている以上、両者を無関係なモノだとする君の見方こそ >当時の政治状況に対する理解の乏しさを示すものだ。 >また、牧野を襲撃した5・15も2・26も、どちらも軍人が起こした事件なんだが。 大正末年の第二次加藤内閣の話なんざ誰もしてねぇっつのw
>>577 226の斎藤内閣は政党内閣じゃないのに
515の犬養内閣も議会の少数派が組織した内閣だったのに
なに言ってんだ、あんた?
>579 2・26が斎藤内閣? もういっぺん小学校の社会科の授業を受け直してから来た方が良いんじゃねーの?w
>>579 ああ、岡田内閣の間違いだったね。
僕は間違いを認めて訂正しておくよ。
誰かさんと違って直さなかったり自分勝手に打ち切ったりしない。
その場のリーダーだっただけで永田がその前後のリーダーと比べて特別ということもない。 特筆すべきは下克上による陸軍と政府の傀儡化システムに先鞭をつけた元凶だってこと。
>>563 「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」は皇道派への対抗策ではなく非常事態における
権力掌握のためのシミュレーションなんだが、首相任免を記しているように最終目的が統制派
によるクーデターにあることがわからないのかな。どうもこの永田信者は永田好きの永田知らず
の傾向があるな。
片倉の苦しい言い訳をそのまま載せるとかその本の著者はボンクラだな。
「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」の内容も載せずによく書けるな。
「一、現下ノ世相二鑑ミ政治的非常事変勃発二際シテハ軍部ハ之ヲ契機トシテ国内事態改善ノ為撃固ナル決意ヲ以テ目的ノ貫徹ヲ期ス」
「ニ、軍ハ其統制ヲ堅持シ革新ノ原動カトナルモ事変ノ渦中二投セス
「三、革新ハ国策遂行上ノ国カノ充実ヲ目的トスルモ一方昭和十年以降激化スヘキ対外危機二応シ得ルノ準傭二遺憾ナカラシム」
「四、現下ノ状勢二鑑ミ革新ヲ断行スル時期ハ成ルヘク遠ナルヲ希望ス」
「五、軍部自ラハ非合法手段タル直接行為ヲ行使セス」
「六、非常事変干与ノ軍人、群集等ハ一時保護監禁ス」
「七、軍隊軍人ノ妄動ハ厳二戒事ス」
「八、革新二対シ適正ナル与論ヲ指導シ国民多数ノ信頼ヲ獲得シ又諸外国ノ誤解ヲ生セサル如クス」
「九、革新妨害者ハ強制拘束ス」
この内容は皇道派への敵意を剥き出しにするものだが繰り返される「革新」が皇道派の言う「維新」と同じことぐらい馬鹿でもわかるわな。
さらに、
「方策」
「一、軍ハ非常事変勃発二対スル準備ヲ完成シ若干ノ応急施設ヲ講ス」
「ニ、事変突発二際シテハ希望スル後継内閣ノ組閣ヲ図リ之ヲ通ジ革新ヲ断行ス」
「実行期間ノ処置」
「非常事変突発ノ為現内閣其責ヲ負フノ期二至ラハ遠二左記諸項ノ処置ヲ講シ以テ希望スル後継内閣ノ機運ヲ醸成ス」、
(イ)「戒厳ノ宣告(又ハ必要ナル警備)但其時機ハ過早ナラサルヲ要ス」
(ロ)「現総理二対スル処置ニ奏請スヘキ後継首班ノ強制」
(ハ)「予想スル新総理二対スル処置(新総理ノ決起ト革新二対スル態度ノ慫慂)」
(二)「宮中府中其他軍内外主要人物二対スル処置(兵カヲ以テスル保護監禁)」
これの一体どこが「議会否定、内閣否定ではなかったのです。」なんてことを言えるのか。天皇まで
押さえる念の入れようだよ。
>>565 で、斎藤内閣時の永田に協力した農林省官僚は誰?大蔵省官僚しか上げていないんだが。
「全部の名前は上げきれんよ。」なんて逃げないでよ。
永田信者は聞こえないふりを思想。
永田を賛美していたのは一人だけだったのね
長文ばっかで読みにくい もう少し短く書いてくれ
上のほうに皇道派が軍の近代化を進めたとか言ってる人がいたけど 統制派以外が普通に仕事をしてただけなんじゃないの?統制派は国家の統制と派閥抗争それ自体が目的となった陸軍でも異様極まりない集団だろ 床次50万元事件みたいな酷い謀略とかやってるし あと青年将校と皇道派って派閥としては別物じゃないの? 陸パン事件では青年将校は統制派についたみたいだし
永田を最初に過大評価したのって鈴木貞一? 彼のあの発言っていつ出てきたの?
>>587 過大評価というか・・・
鈴木はただ単に永田みたいに出世したかっただけかと。
どっちつかず派 と どっちも派 は?
>555 >自力更生運動は斉藤内閣が行ったもので蔵相の是清だったように戦時体制や >革新官僚とは無縁のものだよ。 自力更生運動を行ったときの農相は後藤文夫だろ。 岡田内閣時の内務大臣で、永田が連携を取っていた「新官僚」の代表じゃねーか。 >「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成した統制派の永田 それ書いたの片倉衷なんだけど なに勘違いしてんだ?
>582 >「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」は皇道派への対抗策ではなく非常事態における >権力掌握のためのシミュレーション 君の思い込みはどうでも良いよw >繰り返される「革新」が皇道派の言う「維新」と同じことぐらい馬鹿でもわかるわな。 君の思い込みはどうでも良いよw >これの一体どこが「議会否定、内閣否定ではなかったのです。」なんてことを言えるのか。 一体どこが「議会否定」「内閣否定」なんだよw あくまで軍がその要望を内閣に強く要求しているだけで議会も内閣も否定してないだろw >天皇まで押さえる念の入れようだよ。 まさか「宮中府中」のことを天皇のことだとでも思ってるの?w 歴史を勉強し直してから出直してこいよw
>>565 >で、斎藤内閣時の永田に協力した農林省官僚は誰?
農林大臣である後藤文夫自身が、永田が連携していたウチの1人だよw
>587 >永田を最初に過大評価したのって鈴木貞一? 永田を評価する発言は、けっこうあちこちで語られてるよ? 「以上で察せられることは、永田が政治問題に関心を有した事実であるが、 しかもその政治的意見は、少しも脱線していない。民主主義の政治家が 構想するところと同一の線を歩いている。 一言にして評すれば、彼は円満なる政治常識をもつ軍人であった。この常識があったから、 昭和九年末、統制派の中佐級幹事、兵力の威嚇を用いて軍本意の政権を獲得するという 原案を拒否し、「軍の要望は、現憲法下において陸軍大臣を通してのみ期生する」方針に 改めさせたのである。そうして革新的要請は、新官僚の協力をまって成案し、陸相をして 閣議に要求させることになったのだ。 相当に鼻息の荒かった統制派の将校が、永田の方針に文句なく従って固く一本となったのは、 即ち彼の指導力と統制力を照明するものであって、残る問題は、いかなる「革新政策」を 作成要求するかの一点にあった。 (中略) 不幸にして永田はこのテストの日まで生きなかったのである。幹事達が作った暴力案を 陸相一本主義に修正し、これから政策の作製指導というところで殺害の悲運に会ったのである。 だから永田が生きていたら軍はどうなったかの問題は、すべて想像ではあるが、しかし彼の 知力と統制力とは、軍を立派に建て直したろうというのが衆評の一致するところだ。」 (伊藤正徳「「永田がいたら」の声」『軍閥興亡史 2昭和軍閥の形成まで』) 「私は荒木、真崎、柳川、小畑等の諸将軍には何回か面会したことがあるが、永田軍務 局長には会う機会がなかった。当時唐沢内務省警保局長が永田局長とは同郷の関係で 親しく交際していたので、若輩の私が出しゃばってもいかぬという遠慮もあったのである。 したがって永田軍務局長の人物はよく知らないが、非常に傑出した人材であったらしく、 もし永田健在なりせば、東條時代は出現しなかったであろう、という人もいる。 目立った人材であったため、林陸相のやったことまで永田局長のせいにされ、 悲劇を生んだのではあるまいか。」 (安部源基「二・二六事件の前奏曲」『昭和動乱の真相』)
>>586 > 統制派は国家の統制と派閥抗争それ自体が目的
統制派結成メンバーの田中清がそんなこと言ったそうだね
外国への対処なんて考えてなかったとか
>594 その田中の発言とやらを正確に引用してくれないかな? 君がテキトーに与太を言っているだけという可能性があるのでね。
>>595 こんな与太を言って私になんの得があるんだ?
君は誰だ?誰と戦ってるんだ?
立ち読みしただけだから詳しく覚えてない
光人社文庫の大谷敬二郎のやつ
ところで 南次郎派ってのはどんなんだったの?
検索したら中国語ページのほうがたくさん出てくるんだが
>>596 宇垣系だねい。
現実的だし、常識的だし行政経験も豊富。
だから総理候補でもあったが、統制派に目の敵にされて能力を発揮できなかった。
>596 >立ち読みしただけだから詳しく覚えてない >光人社文庫の大谷敬二郎のやつ つまり、書名を挙げることも出来ない程度のあやふやな記憶に基づく発言なわけだね。 自分の発言の程度の低さを言明してくれてありがとう。
>597 >統制派に目の敵にされて能力を発揮できなかった なに言ってんだ? 南と対立したのは満州事変後に出てきて陸軍中枢を掌握した皇道派だろ。 北岡伸一の「陸軍派閥対立の再検討」をちゃんと読め。
>>599 いやそれ、皇道派とか以前に三将軍擁立を誓って満州事変を推進した永田グループ。
>600 >いやそれ、皇道派とか以前に三将軍擁立を誓って満州事変を推進した永田グループ。 まったく反論の体をなしていない。 お前さんは北岡伸一の著書『官僚制としての日本陸軍』に収録されている 「陸軍派閥対立(1931-1935)の再検討」をちゃんと読んでいるのか? 読んでいるのだとしたら、まったく文意を読み取れていないし、 読んでいないのだとしたら、そもそも反論を提示する資格がない。
>>601 その本にも永田が反南を明らかにして行動したのは、
満州事変や三月事件以来のことである。
政友会の小川に働きかけて犬養首相の陸相指名を
受けるなどの荒木擁立の工作をしていたと書いてあるね。
しかも二個所に書いてある訳だが?
本はちゃんと読もうよ。
>602 >本はちゃんと読もうよ。 そうだね、本はちゃんと読むべきだよね。 「以上検討してきたように、南軍政は、主としてソ連に対抗しうる軍備の強化をめざす 軍制改革と漸進的満州政策という、相互に関連しあった二つの政策を中心として展開されていった。 その過程で軍の伝統的体制に変革を加えることに反対する荒木以下の勢力、急進的満州政策の展開を 目指す関東軍、あわせて急激な国内改造を志向する桜会を中心とする一部中堅軍官僚、などの 反対派が浮上してきた。 南は建川、小磯等宇垣系将官と、永田・今村等中堅軍官僚を結束し、大将級将官については 軍事参議官会議の強化によって陸軍内の統制を進めていった。 南軍政はこのような体系性を持っていたがゆえに、満州事変と十月事件によってその中心部に打撃を受け、 没落することとなった。しかもそれを促したのは、年代的にも宇垣と南・金谷の間にあって要職から 遠ざけられており、それゆえに反宇垣的傾向の強い軍事参議官たちであった。」(p188) 「荒木による最初の定期異動におけるこの皇道派人事は、南以外にも、荒木に対する不信感を植えつけることとなった。 たとえば、前節に述べたように、荒木陸相擁立者の一人であった永田鉄山は一九三五(昭和十)年七月、暗殺される直前 に記した覚書の中に皇道派批判を展開しているが、その主要項目の一つは「人事不公正」であり、その項の冒頭には 「不適材不適所(山岡軍務、松浦人事)急激無理(中村人事ノ更迭、今村第二課長更迭、東條左遷〔三四年三月か〕、 二宮馘首〔三四年三月〕」とあり、第一期皇道派人事に対する永田の反発を示している。 永田は、前にも述べたように南軍政の重要な一角を担っており、荒木支持が明白であったのは、せいぜい満州事変の 勃発ないし十月事件の発覚のころから、一九三二(昭和七)年二月末の第一期皇道派人事までの五カ月程度であったと いってよい。」(p191) 永田が南軍政に近い場所にいて、荒木への支持は極めて短い時期にしか見られないことがちゃんと書いてあるね。
さて、永田と南との距離が近かったことを論述した文章をもうちょっと引用しておこうか。 「ともかくも林の就任以後、南は林による人事行政の転換を強く期待していた。 その第一は皇道派の追放であった。なかでも南は秦憲兵司令官の更迭を不可欠とし、しかも秦は師団長としては ならぬと強く主張していた。その第二は南系の抜擢であった。この中で南が最も重視したのは、建川を参謀次長に 起用することであった。これと関連して第三に、南は林に、宇垣排斥を行わぬよう申し入れている。 すなわち、皇道派の排除、南系の進出、宇垣内閣の成立によって、南は陸軍の新たな権力核と陸軍ー政府間の 新関係とを作り出そうとしていたのである。 (略) しかし南系の強い意向にもかかわらず、秦は師団長となった。また、南系が強く望んでいた建川の次長就任は 実現しなかった。さらに南系の有力者、小野寺長治郎経理局長が、主計閥全体の強い反対を押し切って更迭された。 小野寺は職務上、政党との関係も深く、南系の中では最も政治的な存在とみられていた人物であった。 このように林人事は政治的活動能力を持ち、それゆえに批判を受けることの多い人物を排除すること、 すなわち党派性の除去を主たる意図として推進されていったとみてよい。 これに比べ南系とも連携して新たな権力核の形成に積極的であったのは、永田軍務局長であった。 従来、林と永田との一体性はしばしば指摘されているが、以外に根拠は薄弱なように思われる。 そもそも林の陸相就任について、永田は「意見アリシモ決定故致方ナシ」と語っていた。 また林は、四月十二日、南に「将来部内ノ切抜ノ自心ナシ。左右只有末〔精三、陸相秘書官兼陸軍省副官〕 アルノミナリ」と語っており、永田にはふれていない。 (略) 一九三四(昭和九)年の人事における永田の主張については十分な資料が無い。 しかし、たとえば永田は小野寺の留任を可としていた。また、宇垣・南系の林桂によれば、 東條は「建川小磯ヲ中央ニ南ヲ担テ改革セント」して左遷されたという。 他方南の側でも、秦更迭後の憲兵司令官に一時永田を考え、また満州の要職への永田の起用を考えていた。 南系と永田との接近を推測してよいであろう。 翌三五(昭和十)年の人事についてみるとき、永田の構想はいっそう明確となる。 「Nノ意見」と題された永田のメモには、更迭さるべきものが八名挙げられているが、それは南系の松井石根 軍事参議官を別とすれば、真崎教育総監、秦第二師団長、香椎浩平第六師団長、山岡整備局長、参謀本部の 牟田口廉也庶務課長、鈴木率道作戦課長、陸軍省の小藤恵補任課長の計七名の皇道派有力者であった。 また永田の意見をもとにして林が作成したメモ(「強硬論、永田」)によれば、永田は人事の要綱として 八項目を挙げており、真崎の待命または軍事参議官、秦の待命、建川の次長就任、杉山の台湾軍司令官就任、 山岡整備局長の支那駐屯軍司令官への転出と東條の整備局長就任、小畑陸大校長の更迭と梅津の就任であった。 松井の場合のみを除けば、他は皇道派の全面後退と南系および統制派の全面進出であった。 (略) 以上のように林の人事行政の背後には、すべての党派的勢力の排除をめざす林の方針と、南系と提携して 新たな権力核を形成しようとする永田の方針とが対立していた。」 (p203−206)
永田は一九三三(昭和八)年十月の書簡において、「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、 青龍刀式頭脳、まだ残っていること、及び過度に日本人の国民性を自負する錯誤に陥っている者の 多いことが危険なり」として、「邦貧乏にして思う丈のことが出来ず、理想の改造の出来ないのが 欧米と日本との国状の差中最大なるものなるべし、此の欠陥を糊塗するため粉飾する為に、まけ 惜しみの抽象文句を列べて気勢をつけるは止むを得ぬ事ながら之を実際の事と思い誤るが如きは 大いに注意を要す」と述べていた。 皇道派に対する根本的な批判であった。 こうした皇道派を追い落とすため、永田は、かつて荒木・真崎と一体と言われた林銑十郎を 利用することとなる。一九三四(昭和九)年一月、荒木が病気で辞職し、その後任に林が就任すると、 永田は三月にその下で軍務局長となり、皇道派を追い詰めていくのである。 その際、対ソ軍備強化で一致していた南次郎および宇垣とも、永田は連携を強めていった。 敵の敵は味方であった。かつて永田は軍事課長として南軍政の一翼を担ったものの、宇垣・南を 政党政治から切り離すべく荒木を推した。しかし荒木軍政に失望して、今やがんらいの近代化 路線に立ち戻って、宇垣・南と接近したのである。さまざまな回想における二人の永田への 態度が温かいのは、そのためであろう。(p84)
この本をちゃんと読んでいれば、永田が荒木を支持したのは、あくまで陸軍内部が満州事変や十月事件などで 動揺しており、かつ政党政治の腐敗がとりわけ酷かった時期に、緊急避難的に荒木を推しただけのことであって、 総力戦を見据えた軍の近代化・機械化・火力装備や航空機の増強と言った軍事官僚として当然進むべき道を 見据えたときには、皇道派を排除すべき「愚物」として見据えていたのが明らかだし、それは宇垣・南の路線と 軌を一にしていたこともよく分かるはずだ。 それが理解出来ずに、永田が荒木に一時的に支持していたことをことさら重大事のように取り上げて、 北岡の論文の全体の趣旨を歪めようとするというのは、いったいどういう動機に基づくモノなのか、 理解に苦しむね。
>>606 論点ずらすなよ。
永田グループはバーデンバーデンから水面下で宇垣や南を放逐して権力を掌握する事を狙っていた。
中国資源の支配のために満州事変を進め、反南工作を鮮明にした。
さらに荒木と真崎が傀儡にならないとみると南に続いて放逐工作を行った。
>607 根拠レスな言いがかりは止めてもらえないかな? 何かを主張したいのなら、資料なり文献なりを持ってきなよ。
>>608 いや、アンタの主張についてアナン多の出してきた文献を引用して永田グループのもたらした混乱を述べたわけだが?
>609 え? いったい何処で北岡の文章を引用したの? たいへん申し訳ないが、私には君がどの部分で北岡論文の 引用をおこなったのか、まったくさっぱり分かんなかったので、 君が引用したという北岡の文章をもう一度提示してみてくれないかな?
>>610 永田が満州事変から三月事件以降に南陸相を放逐する工作を表立って行ったこと。
政友会に働きかけて荒木擁立の工作をしていたこと。
>611 なに言ってんだ、こいつ? 南を陸相から放逐したのは、>603で引用したように、 荒木・関東軍・桜会の三つの勢力だ。 永田は今村とともに結束して南軍政の一翼を 担っていたって北岡は書いてるだろ。 ちゃんと論文を読めよ。 永田が政友会に働きかけたのは、南が辞職した後に、 後継の陸相に誰を選ぶかを政友会側が模索していた時点の話だ。 君の理解が粗雑なせいで事実関係を正確に 把握できていないだけのことだ。
>>612 まだ排他的な狂った論理を振り回しているのかね?
私は別に南を陸相から放逐した勢力のうち、荒木・関東軍・桜会を排除などしていないわけだが?
それを踏まえて、永田は政友会の小川平吉へ工作して犬養首相に荒木と阿部から荒木を指名するように工作した。
それは北岡本に限らず書いてあるわけだが、永田信仰が深いと無謬に見えるらしいな。
>613 ほう。 で、北岡論文のいったいどこに「永田が南を放逐した」と書いてあるのかな? きちんとページ数を明記して、北岡の書いた文章を抜き出してもらおうか。 たんに君の「永田が南を放逐した」という妄想を語ってもらっても困るんだがね。 何度も言うようだけど、荒木を陸相に氏名するように働きかけた時点で、 既に南の退陣は決定していたんだけど。 あと、君が>607で書いているように永田が満州事変を進めたという証拠を 提示してもらおうか。
>>614 p82「一九三一(昭和六)年末、若槻内閣が崩壊し、犬養内閣が組閣を命ぜられたとき、永田鉄山は政友会の領袖の小川平吉に書簡を送り、
荒木貞夫を起用するように述べている。宇垣の系統からは阿部信行を推す声が出ているが、それでは少壮・中堅は収まらない、どうしても荒木が必要だというのであった。」
p187も同様
p191「永田は、前にも述べたように南軍政の重要な一角を担っており、荒木支持が明確であったのはせいぜい満州事変の勃発ないし十月事件の発覚のころから、一九三二(昭和七)年二月末の第一期皇道派人事までの五ヶ月であったといってよい。」
とまあ中国資源の確保と共に一夕会の目的の一つであった、藩閥の流れとして攻撃対象にしていた宇垣系(南、阿部、建川、小磯)を放逐しているよね。
>615 あれ? こちらの言う事がよく理解出来なかったのかな。 もう一度聞くよ? 「永田が南を放逐した」と書いてある部分を抜き出してくれ。 それから「永田が満州事変を進めていた」という部分も。 君の書き込みは上記の質問に全く答えていないんだけど?
>617 まったく提示してもらっていないんだけど? いったいいつになったら返答を返して貰えるのかね。
>>618 北岡伸一の著書『官僚制としての日本陸軍』
p76「一夕会が結成され・・・(二)満蒙問題解決の重視・・・を定めた」
p78「河本は日本が満州を直接把握するしかないと考え、・・・河本擁護が、一夕会の最重要課題となった」
筒井清忠『昭和期日本の構造』
p221「具体的に「張学良放逐」を決めたことが推測される」
p221「こうして中央部では永田、鈴木ら動き、関東軍では石原、板垣が動くということで満州事変の準備整えられていった。」
p223「最期の時点で決行の時期について石原らと永田らとの間にズレが生じていたことも事実である。しかし、大枠は一夕会によって進められていたことは理解されよう」
川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』
>>425 >>432
>>619 緒方貞子『満州事変』岩波書店
p104「(昭和6年6月の関東軍・中央会合では奉天特務機関の花谷少佐の同秋における行動開始申請について)
花谷の早期行動開始申請に対して、次の者が同意を与えたといわれている。
すなわち、建川第二部長、重藤支那課長、橋本欣五郎ロシア班長は真っ先に賛成した。
永田鉄山軍事課長も賛意を示したが、根本博支那班長、東条英機動員課長は、準備の不完全を心配しながらも結局同意し、
二宮治重参謀次長および小磯国昭軍務局長もこれを了承した。
かくのごとく、満州への出動は軍中央部の最有力者の間で極秘裏に承認されたのである。」
>619
>北岡伸一の著書『官僚制としての日本陸軍』
>p76「一夕会が結成され・・・(二)満蒙問題解決の重視・・・を定めた」
>p78「河本は日本が満州を直接把握するしかないと考え、・・・河本擁護が、一夕会の最重要課題となった」
で?
これのどこが「永田が南を放逐した」「永田が満州事変を進めていた」になるの?
いいかげんちゃんと返答しなよ。
>筒井清忠『昭和期日本の構造』
>p221「具体的に「張学良放逐」を決めたことが推測される」
>p221「こうして中央部では永田、鈴木ら動き、関東軍では石原、板垣が動くということで満州事変の準備整えられていった。」
>p223「最期の時点で決行の時期について石原らと永田らとの間にズレが生じていたことも事実である。しかし、大枠は一夕会によって進められていたことは理解されよう」
根本的に勘違いしてるようだが、満州問題を解決するために軍事行動を起こそうというのは
なにも一夕会の策動とかではなくて、当時の省部中枢を含めた全陸軍の総意に近いモノだよ。
「昭和六年度情勢判断」や「満蒙問題解決方策の大綱」をきちんとよめば分かるとおり、
正々堂々と張学良側の非を鳴らして軍事行動を起こすことは、当時の陸軍の規定方針だ。
満州事変が問題なのは、その「決行の時期」を「現場の謀略によって早めた」ことにある。
筒井の指摘である「石原らと永田らとの間にズレが生じていた」というのは、とりもなおさず
永田が石原らの企図した非合法な謀略に対しては否定的だったことを示していると言って良い。
>川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』
>>425 >>432 <425>に対しては<426・428・430>で、
<432>に対しては<433・434・435>で、
すでに反論を論拠込みで提示済み。
425・432を書いた人は、こちらの提示した反論になんら返答出来ずに逃げだしたようだが。
>620
>緒方貞子『満州事変』岩波書店
>104「(昭和6年6月の関東軍・中央会合では奉天特務機関の花谷少佐の同秋における行動開始申請について)
その部分の叙述はすでにこちらが反証を提示済みの根本博の談話に基づいたものだろ。
根本の証言と根本的に食い違っている橋本談話や今村の回顧談との整合性が取れない以上、
「同意を与えたといわれている。」という確実性を欠いた推論でしかない。
いみじくも巻末で酒井哲哉がいっているね。
「史料的には現在の研究水準とは異なる」って。
>>591 永田ヨイショ本で片倉の苦しい言い訳を鵜呑みにできるのだから思い込みなんて言えるのだろうな。
片倉のダブルスタンダードを見過ごすレベルだからスレ住人から全く支持を得られず永田を逆に
貶めていることを自覚して欲しいな。
皇道派への対抗策なのに宮中の掌握まで述べているのにそれを天皇を指さないとか言い訳にすらなっていないぞ。
勉強以前に常識のない奴は勉強すら無駄だということを証明しているな。
「思いこみ」で否定できると考える永田信者くんに聞こうか。
統制派の主張する「革新」とは何か?
宮中を押さえる意図は何か?
「事変突発二際シテハ希望スル後継内閣ノ組閣ヲ図リ之ヲ通ジ革新ヲ断行ス」とまで言っているのに
「議会否定ではない」と言える根拠は何か?
片倉が作成した要綱を一文すら引用せずに反論とは恐れ入るな。個人崇拝の行き着く先が詭弁を振りかざす
しかなくなるのは当然のことなのだろうけど
>>592 後藤文夫は農林系ではなく内務系官僚だよ。犬飼暗殺後の斎藤内閣では右翼系を取り込む
挙国体制であり、後藤はそのパイプ役だよ。
外様の後藤の果たした役割は蔵相の是清と組んで農村負債整理組合法、農業動産信用法、米穀統制法
を議会に通したことだよ。外様にも関わらず後藤が農相というポストをあてがわれたのは後藤が民政党系
であり、議会対策を円滑にするためだよ。そして岡田内閣では内務相になり、2.26で襲撃されている。
苦しいねえ、永田信者くんよ、農林省内部というより地主を中心とする農会から上がった自力更生運動を
戦時体制の一環として永田や統制派につなげようとだいぶ知恵を絞ったようだが墓穴を掘ったな。
永田信者くんよ、2.26の将校たちが農村救済を掲げたようにまた一連の過程で満蒙開拓を農会が主張した事実を
もって戦時体制への協力者とする方がまだ筋は通るぞ。その場合は皇道派と統制派を重複させるため私は詭弁とみなすが
戦時体制に皇道派も統制派もないと思うスレ住人は賛同するだろう。
永田信者くんは歴史の勉強も詭弁の勉強も足りないなw
>>621 個人の感想で複数学者の見解を否定されてましても…
最後は永田信仰に縋るしかないとは哀れですね。
もっと普通に本を読んで文明人になろうよ!
>622
>皇道派への対抗策なのに宮中の掌握まで述べているのにそれを天皇を指さないとか言い訳にすらなっていないぞ。
宮中ってのは宮内大臣や大臣府、枢密院や侍従武官などを中心とした「天皇周辺の高官」のことを指す用語なんだが。
戦前期の「宮中」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD 戦前日本における天皇は統治権の総攬者であるとともに国家神道の祭司でもあり、皇室の家長でもあった。
そのため、宮内省(宮内大臣)及びその外局である内大臣府(内大臣)、侍従武官府、枢密院などといった
天皇の日常及び各職務の遂行のために必要な組織・人員が置かれていたが、大日本帝国憲法において天皇の
親裁権の確立と「宮中、府中の別」という原則が並立していた。
だが、一方で天皇が有していた天皇大権の大きさを背景として、国政の重要問題に関して天皇による調整が
期待されるようになると、宮中側の人々も政治的な問題に関与するようになった。
特に昭和期には彼らは「宮中グループ」もしくは「宮廷グループ」と呼ばれ、軍部や官僚などの諸勢力と
結びついて国政の動向に重要な影響を与えるようになった。
だが、宮中グループも標的とされた二・二六事件以後は強大化する軍部の力を府中・宮中ともに抑制することが
出来なくなったために、彼らと妥協もしくは積極的に加担することで自らの地位を保持するようになっていった。
近衛文麿や木戸幸一はその代表的人物とされる。
当時は近衛のような皇道派に近い人間が木戸や原田といった人間を通して宮中に影響を与えていたし、
枢密院には皇道派に繋がる右翼の大物である副議長の平沼騏一郎が、岡田内閣に近く天皇機関説論者だった
枢密院議長だった一木喜徳郎を攻撃して自分が枢密院を牛耳ろうと暗躍していた。
そして侍従武官長だった本庄繁が2・26事件で、担孤島×を主張する昭和天皇と皇道派の青年将校達の
間に立ってどのような態度を取ったか、まさか知らないわけじゃないだろうな。
こういう策動をする連中が宮中に盤踞している限り、皇道はがクーデターを起こした際にはその暗躍を
押さえるためには宮中を掌握することが肝要だというのはなんら間違っちゃいねーよ。
>622 >統制派の主張する「革新」とは何か? 国内の改造であり、国家総力戦を可能なら占める環境を現出させることさ。 筒井の書物にも書いてあるだろう? 「永田は軍務局長に就任し、その下から軍事課員池田純久の起草したパンフレット『国防の 本義と其強化の提唱』が出された。 パンフレットの基調は「国防力構成の要素」として「人的要素を充実培養し、挙国一致の 実を挙げんが為めには、国民全部をして斉しく慶福を享有せしめねばならぬ。国民の一部のみが 経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を 生ずる如き事実あれとせば、一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」 とする点にあった。このような視点から「農山漁村の匡救」のための方策が説かれ、資本主義 的・自由主義的経済制度が批判されたのである。 >宮中を押さえる意図は何か? そもそもお前さんも引用した筒井清忠の『昭和期日本の構造』にはこういうことが書いてあるんだけど、 君には趣旨が理解出来なかったようだね。 「見られるように、「蜂起」の「成功」の可否の焦点は常に「暫定内閣」をめぐる点にあった。 最後の時点でも、青年将校に有利な暫定内閣さえできれば、彼らはたとえ捕縛されても恩赦の形で 出所することは可能であり、木戸の政治的資質が非凡でなければ、まさに「実質的には反乱軍の 成功に帰すること」になったであろう。 木戸や湯浅ら(できうれば杉山参謀次長も)の行動が規制されていれば、天皇の前に次々とに 現れるのは、本庄侍従武官長、伏見宮海軍軍令部総長、川島陸相、准元老清浦奎吾と、 〈青年将校に有利な)暫定内閣の必要を進言するものばかりである。天皇が反対の医師を持って いたとしても、これだけの「輔弼の臣」の進言を斥け通すことは容易ではない。その意味では、 この事件は磯部対木戸の戦いであり、磯部はいま一歩のところで敗れ去ったともいえよう。」 (p277−278) クーデターを起こすにせよ、クーデターに対抗するにせよ、宮中を掌握することがいかに重要か ということが理解出来ないというのはホントに度し難いね。 >「事変突発二際シテハ希望スル後継内閣ノ組閣ヲ図リ之ヲ通ジ革新ヲ断行ス」とまで言っているのに >「議会否定ではない」と言える根拠は何か? 君が引用している一文のどこに「議会を停止する」とか書いてあるわけ? 議会は「立法の府(言論の府)」であり、内閣は「行政の府」だよ。 片倉らは「行政の府」を自分らの意向に沿う内閣にしようと策動しているだけで、 議会の否定などは行っていないんだけど? そもそも君の言う「議会の否定」はすでに犬養内閣が5・15で倒れた後に議会に拠らない 斉藤内閣が出現したときにすでに行われているよね。 そのときの陸軍大臣が皇道派の荒木貞夫であり、その荒木が出した談話がコレだからねぇ。 「これら純真なる青年がかくの如き挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。 名誉のためとか利欲のためとか又は売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったことである。 故に本件を処理する上に単に小乗的な観念を以て事務的に片づけるやうなことをしてはならない」 こちらのほうが、よほど強く「議会否定」を行っているんじゃないかな。 なにせ議会において選ばれた首相をテロで殺した犯人のやったことを「皇国のためになる」とか 言ってのけてるんだから。
>623 >後藤文夫は農林系ではなく内務系官僚だよ。 その農林省で、生え抜きの農林官僚であり、農政の第一人者として知られ、「農政の神様」とまで いわれた石黒忠篤のことを知らないのかい? 後藤はその石黒と東京帝大法科の同窓生であり、かねてからの旧知の仲だ。 大竹啓介『石黒忠篤の農政思想』には、その辺の経緯が詳しく書かれているから、 よく読んでおくこったね。 いずれにせよ、昭和9年の時点での農林省による農村救済事業は後藤農相・石黒次官のコンビで なかったらありえなかったという歴史的事実ぐらいは把握しておくべきだよ。
>624 >個人の感想で複数学者の見解を否定されてましても… その通りだね。 小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』 「永田が榴弾砲の搬入・据付を認めたのは、東北軍との衝突に備えて関東軍の兵力の寡少を火力で補うためであった。 その後の経緯や永田らが作成した「満州問題解決方策の大綱」(六月)から見ても、 永田が全満州の武力制圧に すでにこの時点で合意していたとは考えられない。」(p178) 「石原と荒木の策動は、陸軍内部における反宇垣系の策動の一端を示すものであった。宇垣による軍政改革を 実務的に支えていた永田や小磯は、南満州での武力衝突の可能性をも視野に入れつつあった。もっとも満蒙問題の 合法的解決路線に立っていた永田は、石原らの動きも危惧しており、参謀本部第一部に対する軍政系の統制力を 強めていた。 八月の人事異動では、永田の息のかかった建川美次(十三期)と今村均(十九期)がそれぞれ 第一部長と作戦課長に就任し、以後、彼らは対列強強調と国民世論の支持を重視する、内閣主導の政略出兵方式に もとづく作戦計画を立案していく(六月十九日付「満州問題解決方策の大綱」)。永田らは、武力行使は時期尚早 であると考えており、中村事件を口実に関東軍が満蒙占領に打って出ることを強く警戒していたのである。」 (p180) 森靖夫『永田鉄山 平和維持は軍人の最大責務なり』 「ここで注意しなければならないのは、第一に永田ら五課長会は関東軍の軍事行動計画を知り、それを何とか 抑えるための方策が「大綱」だったということである。第二に「大綱」の解決プロセスが、統帥権を盾に内閣を 無視して陸軍が主導するというものではなく、外交交渉決裂の場合で、従来の慣行通り内閣主導により出兵を 行うというものだった点である。しかも内外の支持を得る準備期間を設けるという慎重さであった。 この点は永田が国家総動員を論じる際にもっとも重視した点で、ここでも一貫している。」(p156) 北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』 「なお、以上のいわば漸進的な満州問題解決方針には、少なくとも省部中枢では、中堅層にまで相当広い合意が 存在した。先の「大綱」が定めた一九三二(昭和七)年春までの準備については、永田鉄山軍事課長が政策面を、 今村均作戦課長(八月一日着任)が作戦面を、それぞれ中心となって担当していくこととなっていた。 このうち今村は「大綱」を熟読し、「大臣総長の意のあるところを十分に諒解」し、「上司の人々の慎重な態度に 敬服」して作業を進めたという。また永田についても、八月八日、張学良顧問矢崎勘十少佐に送った次の書簡から みて、「大綱」の方針に完全に一致していたことが知られる。 対支対満問題に関する大兄の所論概ね同感、正道より進むを可とし奇の道も時に可なり。 只何れの場合に於ても内国論の或る程度の理解醞醸と外諸列強の正義感を認むることを要し、 奇道の場合国論を引きずり得る如くなさざるべからず。……問題の解決は陸軍丈けでは 何としても出来ず、又上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず、陸軍の力のみにて事を 決するは国が真に滅するや否やのドタン場の最大非常手段なり。……大兄等に於ても事を誤らざる 如く善処を望む。 さて、以上の漸進論は、関東軍の容れるところとならず、ついに満州事変が勃発した。」(p180−181) 個人の意見で、複数の学者の見解を否定するのは無理があるよな。
上記の書き込みで誤字があったので訂正しておきます。 ×第一部長と作戦課長に就任し、以後、彼らは対列強【強調】と国民世論の支持を重視する ○第一部長と作戦課長に就任し、以後、彼らは対列強【協調】と国民世論の支持を重視する それから、ここで三者が取り上げらている「満州問題解決方策の大綱」を掲示しておこう。 「一、張学良政権の排日方針の緩和については、外交当局と緊密に連絡の上、その実現に努め、 関東軍の行動を慎重ならしめることについては陸軍中央部として、遺憾なきよう指導に努める。 一、右の努力にもかかわらず排日行動の発展を見ることになれば、遂に軍事行動の已む無きに到ることがある。 一、満州問題の解決には、内外の理解を得ることが絶対に必要である。 陸軍大臣は閣議を通じ現地の状況を各大臣に知悉せしむることに努力する。 一、全国民、特に操觚界(ジャーナリズム)に満州の実情を承知せしむる主業務は、主として軍務局の任とし、 情報部(第二部)はこれに協力する。 一、軍務局と情報部とは緊密に外務相関係局課と連絡の上、関係列国をして満州で行われている排日行動の実際を 承知させ、万一にもわが軍事行動を必要とする事態に至ったときは、列国をして日本の決意を諒とし、不当な 反対圧迫の挙に出でしめないように周到な工作案をたて、予め上司の決裁を得ておき、その実行を順調ならしめる。 一、軍事行動の場合、いかなる兵力を必要とするかは関東軍と協議の上作戦部において計画し、上長の決裁を求める。 一、内外の理解を求めるための施策は、約一ヶ年即ち来年春までを期間とし、実施の周到を期する。 一、関東軍首脳部に中央の方針を熟知させ、来たる一年間は隠忍自重、排日行動から生ずる紛争にまきこまれることを避け、 万一にも紛争が生じた時は、局部的に処置することに留め、範囲を拡大せしめないように努めさせる。」
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/03(金) 01:37:40.74 ID:c4BKUaUO0
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/03(金) 12:27:20.69 ID:qW/H7o50O
艦隊派と皇道派を対立させ、ソ連マンセー統制派と英米指向条約派を対立させたら楽しそうだぞ。
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/03(金) 22:29:36.05 ID:yFdbFnza0
陸軍の最後の薩摩閥は上原(薩摩支藩出身)、長州閥は田中(長州藩出身) 二人とも、藩閥の利益はたっぷり享受しておいて、先輩たちから受け継いだ 藩閥を個人閥化し、郷土の後輩に藩閥を受け渡さなかった。
別に永田鉄山による満州事変の容認や追認を否定していないから駄目だな。 成り立たない総力戦体制への運動は日本を破綻させた。 陸軍受けしなかった宇垣系や皇道派の協調政治や総力戦対応の方が実務的・現実的だったね。
永田信者は途中で自分の意見を混ぜちゃっているからね。 見ざる聞かざる言わざる、なのに言わざるだけが守れない。 永田の無茶振りが日本滅ぼしたというのに。
>633 >永田鉄山による満州事変の容認や追認を否定していない なぜ満州事変の容認や追認を否定しなければならないんだい? 当時の陸軍大臣である荒木貞夫自身が、率先して満州事変を称揚して正当化しているってのに、 下僚である永田が否認できるわけがないだろうに。 >成り立たない総力戦体制への運動は日本を破綻させた。 粗雑な発言だね。 総力戦体制への指向が日本を破綻させた、というのをきちんと立証してからモノを言いな。 総力戦体制が出来ても出来なくても、無謀な戦争を仕掛けさえしなければ日本は破綻などしなかったろうさ。 愚かな政治指導しか行い得なかった為政者の無能と、総力戦体制を目指すことの可否をごっちゃにするなよ。 >宇垣系や皇道派の協調政治や総力戦対応の方が実務的・現実的だったね。 総力戦体制の構築を目指したのが宇垣の行った軍備整理なんだけど。 また、荒木が陸相として行った満州事変の拡大と満州国建国、国際連盟からの離脱などの施策が協調政治だって? 知識の欠如が甚だしくて話にならん。
>634 >永田の無茶振りが日本滅ぼしたというのに。 君の願望だか妄想だかはどうでも良いから、きちんとした論拠や根拠を持って来なよ。
>>625 とうとう統制派が天皇を押さえる意図を持っていたことを認めたな。
宮中という語をどうしても天皇と切り離したいのは永田以下の統制派が
皇道派と同類になることを証明されるのを認めたくないのだろうが木戸や原田を「君側の奸」
とみなす思想は永田信者君の忌み嫌う皇道派のものだぞ。
>宮中を掌握することが肝要だというのはなんら間違っちゃいねーよ。
結局永田信者君はまた永田批判者になってしまうんだねwなんで皇道派を批判するのやら。
>そもそもお前さんも引用した筒井清忠の『昭和期日本の構造』
一度も引用したことはないが永田信者君よこのスレ住人は君の批判者で溢れかえっている
現状を認識して欲しいが。
しかもこの筒井の引用文では木戸が皇道派に敵対しているじゃないか、知的誠実さを持って
文章を書いて欲しいな。
>君が引用している一文のどこに「議会を停止する」とか書いてあるわけ?
要領八の「革新二対シ適正ナル与論ヲ指導シ国民多数ノ信頼ヲ獲得シ又諸外国ノ誤解ヲ生セサル如クス」
九の「革新妨害者ハ強制拘束ス」
これを見ても国民世論の代表である議会否定でないと言えるのだから信者君の読解力におそれいる。
今では珍しくもない「革新」という言葉が革命と同義なのは行動指針を見れば明らかなのにずれすぎだよ。
>>627 >その農林省で、生え抜きの農林官僚であり、農政の第一人者として知られ、「農政の神様」とまで
>いわれた石黒忠篤のことを知らないのかい?
論点ずらし乙。もう自力更生運動はいいのかい?永田信者君はこれも永田の功績なんだろ?
農村救済事業なら是清や斎藤も入れることになるぞ。623でも述べたように民政党へのパイプ役
という大役も永田信者君には功績にならないのだから後藤も浮かばれないな。
どうして農会の事績を無視するのかい?592では後藤の政策だったのが石黒込みの条件部分に後退しているぞ。
歴史的事実とやらをコロコロ変えなさんな。
説得力を持たせたいなら「よく読んでおくこったね」なんて言わず引用しなよ。永田信者君はどうも知識の羅列にこだわり
木戸がいい例のように論旨が矛盾しすぎだよ。勉強以前に推敲してくれ
>637 >とうとう統制派が天皇を押さえる意図を持っていたことを認めたな。 人の発言を捏造するのはやめて貰えないかな? 何度も言うように、「宮中」というのと「天皇」というのは別の概念であり別の言葉だよ。 >木戸や原田を「君側の奸」とみなす思想は永田信者君の忌み嫌う皇道派のものだぞ。 木戸や原田を「君側の奸」なんて誰が言っているの? 私が<625>の書き込みで挙げているのは、近衛文麿や平沼騏一郎や本庄繁といった連中だよ。 木戸も原田も、近衛の皇道派への傾斜に対しては真正面から反対している。 木戸日記や原田日記を良く読むこったね。 >>君が引用している一文のどこに「議会を停止する」とか書いてあるわけ? >要領八の「革新二対シ適正ナル与論ヲ指導シ国民多数ノ信頼ヲ獲得シ又諸外国ノ誤解ヲ生セサル如クス」 >九の「革新妨害者ハ強制拘束ス」 うん。 どこにも「議会を停止する」なんて書いて無いね。 わざわざ自分の論旨が破綻していることを示してくれてありがとう。 >「革新」という言葉が革命と同義なのは行動指針を見れば明らか 君の妄想だか願望だかはどうでも良いよ。 ご苦労さん。 なんら有効な反論を提示できなかったようだね。
>638 >もう自力更生運動はいいのかい?永田信者君はこれも永田の功績なんだろ? だから、人の発言を捏造するのはやめて貰えないかな> 私の発言は<518>での「>永田らはそうした層を取り込むことを考えていたし、 所得格差を無くすために農村での小作の経済状況の改善と、都市部での労働問題の 対処として労働組合などの育成を政策に掲げていた。 」というもの。 それに対して<537>で「農村における産業組合(労働組合ではないよ)の結成は 農村に浸透し始めた社会主義思想を取り締まるためのものだよ。これは陸軍オリジナルというよりは すでに農林省で計画され是清のいた斉藤内閣の自力更生運動の核とも言える政策だ。 」という 反論が寄せられた。 それを受けて、<539>で「永田が他の省庁の若手官僚との連携を進めていたことも 知らないのかい? 外務相や商工省も含めた、いわゆる「革新官僚」らとの協力関係こそが 永田を他の陸軍軍人とは一線を画する存在として他に知らしめた要因だ。」と返答したまで。 永田自身が「農村救済事業」に携わっていたなどとは一言もいっていないし、永田が自分で 農村救済事業を行えるのであれば、他省との官僚との連携などそもそも要らないだろうに。 >どうして農会の事績を無視するのかい? だれが無視しているんだい? 農林省で行われた一連の農村救済事業は石黒忠篤の強力な指導力の元に推進された事業であり、 永田は大臣となった後藤と連携することでそれらの施策への協力を行っていたと言っているんだよ。 >説得力を持たせたいなら「よく読んでおくこったね」なんて言わず引用しなよ。 おやおや。 自分はどの本のどのページを引用して述べているのかな? こちらに労力を費やすことを要求する割には自分は大した労力を払っていないようだがw で? 君はちゃんと大竹啓介の『石黒忠篤の農政思想』は読んだのかな? まさかこちらが引用するのを待って自分の不勉強を補おうなんていう 怠惰な気持ちを持っているんじゃ無かろうねw
永田マンセーには永田マンセー文しか読めんのだろうねえ
642 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/25(土) 10:26:59.28 ID:Xr3KAh2m0
すり寄っていたのは他省からもだし 永田に限ったことではないよ
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/27(月) 22:20:01.20 ID:f0x1Cfuj0
マルハニチロホールディングスの子会社「アクリフーズ」の群馬工場で製造された冷凍食品から農薬が検出された事件で、待遇面での不満が、犯行の動機として浮上してきている。35歳の男の素顔、そして、犯行とも関わる工場内での行動が見えてきた。 27日午前11時40分、ウェザーニューズのキャスターストーカーの山川広 (ひろ1979@山形人 自宅警備員 在日朝鮮人)が警察署から出てきた。 27日午前 ウェザーニューズのキャスターストーカーの山川広 (ひろ1979@山形人 自宅警備員 在日朝鮮人)(35)の身柄が検察に送られた。 上下グレーのスエット姿で、階段を下りたあと、警察官に促され、車に乗り込んだ。 ウェザーニューズのキャスターストーカーの山川広 (ひろ1979@山形人 自宅警備員 在日朝鮮人)は、契約社員として勤務するアクリフーズ群馬工場で、冷凍食品に農薬の「マラチオン」を混入させた偽計業務妨害の疑いが持たれている。 ウェザーニューズのキャスターストーカーの山川広 (ひろ1979@山形人 自宅警備員 在日朝鮮人)が勤務していた工場では、27日朝、足早に出勤する従業員らの姿が見られた
永田の唯一評価出来るところはチョンはクズで悪さばかりしているからさっさと独立させて切り離せと言っていたとこくらい
645 :
「ガスライティング 集団ストーカー カルト」で検索を! :2014/01/28(火) 01:27:44.77 ID:DfgxwuE+0
★マインドコントロールの手法★ ・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する 偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法 ・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする 誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法 ↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、 カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。 リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。 ,..,
646 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/02(日) 06:16:34.56 ID:CyqOmMF+0
WEDGE 2014年2月号
経済の常識・政策の非常識 by 原田 泰
誤った認識で3本の矢を狂わせるな
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3520 農村の疲弊で娘の身売りが激増した悲劇が、2・26事件などに結びついていったとされるが、
当時のデータを調べてみると、必ずしもそのような実態はなかったと原田氏が指摘している。
つまり、誤まった認識による逆上が軍国主義を招いたという分析をしている。
200くらいまではおもしろかったのになぁ 永田って当時最も頭の切れる男だったって言われるけど、陸大は梅津が首席らしね。梅津について勉強したいんだけど、なんかいい本あるかな
>647 質量ともに、いちばん良いのは芙蓉書房から出ている『最後の参謀総長 梅津美治郎』じゃないかねぇ。 本人が日記や手記のたぐいをまったく残していないから、ほぼ全編軍内の上司・同僚・部下の談話等から その時々の梅津の言動を浮かび上がらせるという手法を採っている。 むしろ、本人の日記や手記に頼って記述された伝記などよりも、本人の人物像がより深く窺えるものに なっているといえるから、梅津の事績を詳しく知りたいならこれを読むと良いと思うよ。
>>648 それを読んで興味を持ったから
>>647 の質問に至ったのだ
その本が面白かったら、昭和軍事史叢書に興味を持ったけど、全巻のタイトル一覧とかどっかにないかね
池田純久と阿南惟幾にも興味を持ったからいずれはその方面も勉強したい
>649 おう、こりゃ失礼。 けど、この本以外ではあとは周辺の事情を調べた本を読んでいくくらいのコトしかないんじゃなかろうか。 それぐらい、この本に収められた情報量は他の書籍を圧倒してるから。 陸軍関係の本はけっこう読んできたつもりでいるけど、梅津について述べている本ってむちゃくちゃ少ないよ。 しかもそうした本で述べられている内容は、ほとんどのばあいこの本にも収録されていたりするし。
>>650 ありがとう。やっぱ外堀から埋めるしかないのか……
昭和陸軍の超重要人物だと思うのにあまり顧みられないよね
>651 >昭和陸軍の超重要人物 同感。 昭和天皇をして「後任陸相には畑か梅津を選べ」とまで言わしめるほどの信任を受けていたくらいだし。 あのときに畑ではなく梅津が陸軍大臣の椅子に座っていたなら、歴史の流れもけっこう変わったんじゃないかと思うんだよね。 少なくとも、米内内閣が倒壊することは無かった可能性が高いし、そうなれば三国同盟の締結もしないで済んだかもしれない。 近衛内閣時の日米交渉が暗礁に乗り上げたのも、陸相の東條が頑強に大陸からの撤兵に反対したからだったけど、 梅津だったら陸軍内部の異論を押さえ付けるだけの統制力があったろうから、撤兵という難題も実現したかもしれない。 タイミングとか巡り合わせとか、何とも言いようがないけど、もったいない人材だったよなぁ。 まぁ、終戦時に参謀総長を務めて、阿南を含めた軍のクーデターの企図に断固反対を示しただけでも、 実際にはとてもつもなく巨大な功績なんだけど、阿南の自決の印象の方が強く印象づけられているせいか、 ここでもやたらと影が薄いという・・・
>>652 東條より優秀なのは間違いないが、梅津をもってしても当時の流れを変えられなかったような気もする
ただ、あの関東軍から独断専行を排し、国境で静謐を保ったわけだし、中央も抑えられたのかな?
ソ連が戦犯にしようとしたのも、きっと梅津時代の関東軍を恐れたからなんだろうな
>>653 優秀の意味にもよるが、梅津だからといって陸軍は押さえられないだろ。
それが永田の作った中堅支配システムなんだから。
畑にできなかったんだから難易度はさらにあがるし。
そもそも政治的理念を同じくして集まった団体ではないにも関わらず、陸軍を政治団体化しようとしたのが永田の失敗だな
>653 >梅津をもってしても当時の流れを変えられなかったような気もする よくそうしたことを言う人がいるけど、当時のことをミクロの視点で検討してみると、 日本が戦争へ向かっていく重要な決断の個々の場面(三国同盟締結・日米交渉・南部仏印進駐など)で、 もう少し理性的な人間が強硬論を吐く人間を抑えていたなら開戦には到らなかった可能性が あることを見落としてる。 組織のトップが現場の突き上げに流されずにちゃんと冷静な決断を下していたなら、回避できた選択が実に多い。
>654 >それが永田の作った中堅支配システムなんだから。 永田が作ろうとしていたのは陸相に権限を集中して下克上を起こそうとする連中を 抑え込むことで「統制を確立した組織」だよ。 中堅支配システムというのは、陸相から権威と権限が失われ、下克上が活発化していった からこそ現出したシステムだと言うことが理解出来ないのかな?
>655 >そもそも政治的理念を同じくして集まった団体ではないにも関わらず、陸軍を政治団体化しようとした それって、まるっきり荒木や真崎らの皇道派のことじゃん。
>>658 永田が陸相重視してたのは同意。
でも、やりたかったのは陸相を通じて内閣に影響を与えることじゃないの?
そして、それこそが俺の言いたかった「陸軍の政治団体化」だ。
そして、元から陸軍全体で目標が一致するわけないのに、陸軍が政治力を手に入れた結果が、強硬論で相手を引きずり降してはその強硬論が国策として採用される連鎖だ
>659 >やりたかったのは陸相を通じて内閣に影響を与えることじゃないの? 考え方が逆だよ。 陸相を通さない限りは内閣に影響を与えられないってところが肝要。 陸相が認めた意見だけが「陸軍の意見」として内閣に伝わるというのが原則なの。 >元から陸軍全体で目標が一致するわけないのに 陸軍全体で目標が一致するわけなど無いんだから、それぞれに違う意見を陸相が 善悪理非を判断して許容した意見のみを採用し、それ以外は却下するという形で 「表出する陸軍の意志」をコントロールするのが「統制の効いた陸軍」というもの。 現地軍は「軍事作戦をするぞ、兵を増員しろ、そんための予算をよこせ!」っていうし、 航空担当者は「爆弾をもっと積める性能の高い飛行機を作れ、そのための予算をよこせ!」といい、 砲兵は「強力な大砲を作れ、火薬を改良しろ、射程を伸ばせ、そのための予算をよこせ!」といい、 歩兵は「機関銃を軽量化しろ、無尽蔵にばらまけるだけの弾薬を装備させろ、そのための予算をよこせ!」といい、 騎兵も、軍医も、以下同文。 こんな調子で、それぞれの立場によって意見が割れるのは当たり前なんだから、陸相は獲得可能な 予算がどれだけなのかのメドを付けた上で、各部署の要求内容を勘案して全体のことを考えながら 優先順位を決めなければならない。 そのためには、陸相(およびそのスタッフである次官・軍務局長)以外の人間が 「これが陸軍の意志である」なんてことを主張して内閣の施策に影響を与えちゃいけないの。 教育総監が「国体明徴」なんてことを主張して倒閣に走るなんてのはもっての他だし、 それを受けた隊付将校が「内閣を倒せ」なんて騒ぐなんてのは論外もいいとこ。 >陸軍が政治力を手に入れた結果が、強硬論で相手を引きずり降してはその強硬論が国策として採用される連鎖だ 陸軍が政治力を手に入れたのではなくて、陸相によるコントロールという統制力が失われた 結果として、陸軍内の各組織が暴走を始めて、議論の対立相手を「腰抜け!」と罵倒して圧伏できる 強硬論だけが大手を振ってまかり通るようになり、その強硬論が持つエネルギーが内閣を揺さぶって 国策をねじ曲げていったというのが実情に近い。
それなら永田関係なく元からの陸軍のありかたじゃん。 彼らが嫌ってた藩閥軍人がやってたことそのもの。 荒木だってもともとは永田たちが担いだ神輿だろ。
>661 >元からの陸軍のありかたじゃん 永田はもともと宇垣が陸相の時に行った宇垣軍縮、人員の削減と装備の近代化を 実務で支えていたウチの1人なんだけど? 永田が批判したのは無能な人間が中央で要職に就くことを可としていた 藩閥のあり方を批判したのであって、組織を統制する陸軍本来のあり方を 否定したことなど無いよ? >荒木だってもともとは永田たちが担いだ神輿だろ。 <416>で既に書いていることではあるが、イマイチ通じていないようなので再掲載。 >陸相をやらせてみるまで、まさかこんな基地外だとは思わかなったろうからねぇ。 >テロで首相を暗殺するような連中を指して、「志は良し!」とか言ってのけちゃうんだから >あいた口もふさがらなかったろうよw >普通は、自分の足もとの軍人が犯罪を犯したんだから「責任を取って辞職します」 >くらいの見識を見せるのが当然なのにね。 「かつて永田は軍事課長として南軍政の一翼を担ったものの、宇垣・南を政党政治から 切り離すべく荒木を推した。しかし荒木軍政に失望して、今やがんらいの近代化路線に 立ち戻って、宇垣・南と接近したのである。さまざまな回想における二人の永田への 態度が温かいのは、そのためであろう。(p84) 「永田は、前にも述べたように南軍政の重要な一角を担っており、荒木支持が明確で あったのはせいぜい満州事変の勃発ないし十月事件の発覚のころから、一九三二(昭和七)年 二月末の第一期皇道派人事までの五ヶ月であったといってよい。」 (p191) どちらも北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』より。
>>657 陸相に権力を集中して下克上を起こすって、何の例?
永田がやったのは課長前後が結託して実務を曲げて上司をコントロールしたことじゃない。
そして自分が上司になったときには部下がコントロールできない環境を整備してしまった。
>663 >永田がやったのは課長前後が結託して実務を曲げて上司をコントロールしたことじゃない。 永田が実務を曲げた? その実例を示して見ろよw 永田は常に上司に対してはその意向に沿って仕事をするようにしているよ。 あくまでその上で自分の意見は意見として具申しているだけで、それを上司が却下したときにはちゃんとそれに従っている。 >自分が上司になったときには部下がコントロールできない環境を整備してしまった。 永田が上司となったときに、部下が離反してしまった例なんてほとんど無いんだけど? 「以上で察せられることは、永田が政治問題に関心を有した事実であるが、しかもその政治的意見は、 少しも脱線していない。民主主義の政治家が構想するところと同一の線を歩いている。 一言にして評すれば、彼は円満なる政治常識をもつ軍人であった。この常識があったから、 昭和九年末、統制派の中佐級幹事、兵力の威嚇を用いて軍本意の政権を獲得するという原案を拒否し、 「軍の要望は、現憲法下において陸軍大臣を通してのみ期生する」方針に改めさせたのである。 そうして革新的要請は、新官僚の協力をまって成案し、陸相をして閣議に要求させることになったのだ。 相当に鼻息の荒かった統制派の将校が、永田の方針に文句なく従って固く一本となったのは、 即ち彼の指導力と統制力を照明するものであって、残る問題は、いかなる「革新政策」を 作成要求するかの一点にあった。 (中略) 不幸にして永田はこのテストの日まで生きなかったのである。幹事達が作った暴力案を 陸相一本主義に修正し、これから政策の作製指導というところで殺害の悲運に会ったのである。 だから永田が生きていたら軍はどうなったかの問題は、すべて想像ではあるが、しかし彼の 知力と統制力とは、軍を立派に建て直したろうというのが衆評の一致するところだ。」 (伊藤正徳「「永田がいたら」の声」『軍閥興亡史 2昭和軍閥の形成まで』)
>>664 永田は南-金谷の穏健派路線をねじ曲げて真崎荒木林の擁立を図ったり
中国資源が欲しくて満州事変を推進したり
薩長出身者の陸大入学を阻止したり
中堅層に同志を配置して下克上の陸軍支配を始めたよね
結局は陸相の抑えが効かない陸軍を作って日本を駄目駄目にしてしまいました
>665 >永田は南-金谷の穏健派路線をねじ曲げて真崎荒木林の擁立を図ったり 事実無根だね。 「以上検討してきたように、南軍政は、主としてソ連に対抗しうる軍備の強化をめざす 軍制改革と漸進的満州政策という、相互に関連しあった二つの政策を中心として展開されていった。 その過程で軍の伝統的体制に変革を加えることに反対する荒木以下の勢力、急進的満州政策の展開を 目指す関東軍、あわせて急激な国内改造を志向する桜会を中心とする一部中堅軍官僚、などの 反対派が浮上してきた。 南は建川、小磯等宇垣系将官と、永田・今村等中堅軍官僚を結束し、大将級将官については 軍事参議官会議の強化によって陸軍内の統制を進めていった。 南軍政はこのような体系性を持っていたがゆえに、満州事変と十月事件によってその中心部に打撃を受け、 没落することとなった。しかもそれを促したのは、年代的にも宇垣と南・金谷の間にあって要職から 遠ざけられており、それゆえに反宇垣的傾向の強い軍事参議官たちであった。」 (北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』p188) ここに書かれてあるとおり、南-金谷路線の敗退は満州事変と十月事件のダプルパンチが主要原因であり、 永田はこの両事件には火消し役を務める立場だったよ。 >中国資源が欲しくて満州事変を推進したり すでに<628>で提示済みなんだが。 森靖夫『永田鉄山 平和維持は軍人の最大責務なり』 「ここで注意しなければならないのは、第一に永田ら五課長会は関東軍の軍事行動計画を知り、それを何とか 抑えるための方策が「大綱」だったということである。第二に「大綱」の解決プロセスが、統帥権を盾に内閣を 無視して陸軍が主導するというものではなく、外交交渉決裂の場合で、従来の慣行通り内閣主導により出兵を 行うというものだった点である。しかも内外の支持を得る準備期間を設けるという慎重さであった。 この点は永田が国家総動員を論じる際にもっとも重視した点で、ここでも一貫している。」(p156) 北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』 「なお、以上のいわば漸進的な満州問題解決方針には、少なくとも省部中枢では、中堅層にまで相当広い合意が 存在した。先の「大綱」が定めた一九三二(昭和七)年春までの準備については、永田鉄山軍事課長が政策面を、 今村均作戦課長(八月一日着任)が作戦面を、それぞれ中心となって担当していくこととなっていた。 このうち今村は「大綱」を熟読し、「大臣総長の意のあるところを十分に諒解」し、「上司の人々の慎重な態度に 敬服」して作業を進めたという。また永田についても、八月八日、張学良顧問矢崎勘十少佐に送った次の書簡から みて、「大綱」の方針に完全に一致していたことが知られる。」(p180−181) >薩長出身者の陸大入学を阻止したり それを行ったのはこの時期の陸大教官を務めていた東條英機らしいね。 永田が直接的に関与したという記録はないよ。 >中堅層に同志を配置して下克上の陸軍支配を始めたよね 人事局補任課長の地位にいたのは岡村寧次であって永田じゃないよ? 何を勘違いしているのかな?
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/12(水) 20:24:11.52 ID:XQBB7a0Z0
>>666 アホかよ?本人がやっていないから無罪とかやっていてもよそ見してるんだもんな。
また永田信者が暴れたのか。もうこのスレ落としていいんじゃね ちょっと人集まってきてもすぐ過疎る
二葉会や一夕会を主導首謀していたのが永田なのに やったことに責任がないとはすごい論理だな。
どうして永田や梅津なら陸軍を抑えられたとか幻想が抱けるんだろうな? 個性や能力で何とかなるようなものじゃなくもっと構造的な問題なのに。
>670 現実に永田と梅津が部下の策動や下克上の傾向を抑え込んで、組織を纏める手腕を示したからだよ。 そういう手腕を持った人間が殺されたり、あるいは重要な場面で中央から離れたところで勤務せざるを 得なかったりしたことに問題があり、そうなっていなかったらあのような破滅的な事態には立ち至らなかった 可能性があると考えることは至極当然の話。 海軍で言えば、米内・山本・井上といった三国同盟に反対するメンバーが海軍省に残っていれば、 ナチスドイツと同盟を結ぶなどという選択をしなかった可能性が高いし、延いては日米戦争へと なだれ込むような事態には立ち至らなかった可能性があると考えることに相応の妥当性があるのと一緒。 構造的な問題はあったとしても、それは重要な位置にいる人間が毅然とした意志を示して組織を 取りまとめることで抑え込むことは可能だ。 そうした基本的な個々の史実をよく理解していない不勉強な人間が、「あの戦争は仕方がなかった」とかいう 負け犬のような歴史観に捉われてしまっていて、本来追求されるべき「あの場面でこの人物がこのような判断を 下したことに戦争に突入していった原因の一つがある」といった省察を行うことを怠っているだけ。
藩閥のままの方が政治は安定していたとかそういう主張の人か
>>671 それはそれは司馬とか阿川の本読んでカブれた一昔前の人みたいな意見ですね?
どうせちょっと前までは石原にガブれていたんじゃねえのかと。
>673 なんら内容のある反論ではないですね。 無内容な返答しか返せないんだったら書き込むだけ無駄なんじゃない?
>>674 あなた以外はそうは思っていないから。
だって図星なんでしょ?個性に幻想を抱いている時点で。
なんでこんなに永田信者の人は孤立無援なの? 永田アンチの意見結構無様に論破されてるだろ 永田信者の意見の是非は俺には分らんが 間違ってるならアンチにもまともな反論をしてほしいわ
>676 >なんでこんなに永田信者の人は孤立無援なの? たぶん、「永田は東條の親玉で悪の元凶」とかいう刷り込みを学生時代に植え付けられて、 最新の学説とかを参照するだけの脳みそのリソースが少ない人が多いから、でしょうね。 これだけこちらが論拠や根拠を提示しているのに、十年一日の如くの「統制派批判」と それの裏返しである根拠の薄弱な「皇道派ヨイショ」を延々と続けている辺りをみても ちゃんと自分の頭でものを考えていないことが窺えますから。
永田信者君は米内が内閣総辞職をちらつかせて和平交渉ぶち壊したことや 井上が主導した重慶無差別爆撃が戦争を泥沼化させた上に後のアメリカによる無差別爆撃および原爆投下の正当性を与えたこと知らんのか?
>678 とうとうネトウヨまがいの妄想を持ち出すに到ったかw 米内が「トラウトマン和平交渉をぶちこわした」といいたいのであれば、その責任の過半は首相である近衛と外相である広田にあるだろ。 米内はあくまで「首相と外相がこういっているのを参謀本部が横やりを入れて潰すのであれば、内閣総辞職しかない」って言っただけであって、 和平交渉を潰す決断を行ったのはあくまで首相と外相、そして実際に陸戦を戦っていた陸軍大臣だよ。 それから、重慶爆撃で支那事変が泥沼化した? 支那事変の泥沼化はその遙か以前からの話だろ。 お前が言っているのは、大東亜戦争を開始した東條英機の責任を問おうとせずに、 終戦への道筋をつけた鈴木貫太郎に対して、「原爆投下を回避できなかった」って 責任を押しつけようとしているのと同じ事だ。
>>679 また持論に都合のよいだけの解釈ですか。
>680 相変わらず、反論にも何にもなってない一行レスですか。 反論するための手材料がなにも無いのを自分で証明してますね。
>>681 永田善玉論者からはそう見えるのかもね。
永田信者君によれば明らかな戦時国際法違反をやった井上に責任はないらしい
>683 >明らかな戦時国際法違反をやった井上に責任はないらしい いったい何の話かな? こちらが言ったのは以下の内容だけど? 「米内・山本・井上といった三国同盟に反対するメンバーが海軍省に残っていれば、 ナチスドイツと同盟を結ぶなどという選択をしなかった可能性が高いし、 延いては日米戦争へと なだれ込むような事態には立ち至らなかった可能性がある」 三国同盟や日米戦争を避け得た可能性について述べているだけで、個々の戦術レベルでの 話などしてはいないのだけれども。 本質的に違うレベルの話を持ってくることしかできないこの人の知性の欠陥は いったい何なんでしょうかね。
海軍は自動参戦条項がなければ三国同盟への参加に反対しないから「いわゆる海軍左派トリオ」の個性はあまり関係ないのでは? だいたい外交大権は外務省にあるのだから。
>>676 陸軍パンフレットで世論から批判されたら「国民は神経衰弱」
とか言っちゃうような時代錯誤人を擁護できるのだから
本質的に選民思想が強いネトウヨなんだろ。
>>671 組織エゴを個人で押さえ込むことができるとか1次大戦後の長州閥打倒
に奮闘した永田、東条、石原の事跡を全否定ですか。
>構造的な問題はあったとしても、それは重要な位置にいる人間が毅然とした意志を示して組織を
>取りまとめることで抑え込むことは可能だ。
それが無理だから戦後のシビリアンコントロールであり、内閣法制局であり、9条だろうが。
司馬遼太郎レベルどころか、サラリーマン金太郎レベルだな。
>>687 その程度なんだろな。常に誰かに騙されていないと気が済まないんだろう。
支離滅裂でまともに論をたてられないのにレッテル付けは得意 キチガイが居ついていると思っていたらネトウヨとか朝鮮人しか使わないレッテル貼りか… どうりでスレが臭いわけだw
>687 >組織エゴを個人で押さえ込むことができるとか ほんの数年前に宇垣軍縮という、陸軍の組織エゴを抑え込んだ個人が居たんですが。 >>重要な位置にいる人間が毅然とした意志を示して組織を取りまとめる >それが無理だから戦後のシビリアンコントロールであり、内閣法制局であり、9条だろうが。 山梨軍縮・宇垣軍縮という形で、実際に組織エゴを抑え込むことが出来るという実例は ちゃんとあるんだけど。 戦後のシビリアンコントロールの強化問題は、出てくるかどうか分からない、 組織エゴを押さえ込めるだけの「実力を持った個人」という存在に頼ることを期待するには、 敗戦という代償があまりにも大きかったので、戦後の国民も政治家も軍の内部の存在に権限を 与えることを良しとしなかったってコトでしょ。
>>690 宇垣軍縮は大正デモクラシーの圧力を受けたからこそ可能であって個性は関係ないのでは?
田中は政友会と宇垣は民政党と協調していたわけだが。
永田は軍縮なんてやってないよね。
>691 >宇垣軍縮は大正デモクラシーの圧力を受けたからこそ可能であって個性は関係ないのでは? 永田の対皇道派抑制策は、宮中側近・元老・岡田内閣・新官僚・マスコミといった、 当時の国家機構を構成するかなりの勢力からの支援を受けていたけれども。 宇垣軍縮が大正デモクラシーの追い風を受けていたにせよ、「個人が組織エゴを抑え込んだ」という 構図自体にはなんら変わりがないよね。 >永田は軍縮なんてやってないよね。 粛軍をやろうとしていたんだよ。 下克上を日常的に行い、テロを起こすことを称揚する連中を排除しようという行為は、 軍縮以上に重要なシビリアンコントロールの具現化策だ。
それに軍縮でも利益享受する組織もあるわけだ だいたい宇垣軍縮は予算的には縮んでいないよねえ
>694 >軍縮でも利益享受する組織もある そういう簡単な理屈も分からずに「皇軍の師団を削減するなどとはもってのほか!」とか言って 宇垣に反攻しようとしたのが上原勇作であり、その流れを受け継ぐ武藤や荒木・真崎なんだけどね。 >宇垣軍縮は予算的には縮んでいないよねえ 元の話題は「組織エゴを個人で押さえ込むこと」というものなんだけど? 自分が所属していた原隊が消えてしまうことを嘆き悲しむ軍縮期の軍人の嘆き節を知らないのかな? 「予算が縮小された訳じゃないんだから宇垣軍縮を恨むんじゃない」って理屈を素直に聞き入れられるような 物わかりの良い軍人ばっかりだったら苦労はなかったんだけどねぇ。
>>695 へえ?上原が皇軍なんて言ってたの?どこで?
身の丈にあった軍備という意味では上原のも一つの戦略だったな。 永田の戦略は中国の物資を手にれるには 持久戦が必要と言うことで成り立たない戦略だった
>696 >上原が皇軍なんて言ってたの?どこで? 一言一句この通りの言葉を喋ったなんて言ってないけど? >679 >身の丈にあった軍備という意味では上原のも一つの戦略だったな つまり、上原が主張して西園寺内閣を潰した「二個師団増設」というのがそもそもの間違いってこったねw 身の丈に合わない軍備を求めようとしたアホと、身の丈に合わせた軍備縮小を主導した宇垣らとの見識の違いを 君は追認するわけだw
700 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/03/09(日) 14:38:30.90 ID:lV6+K7ou0
★日中戦争は海軍利権のために中国都市無差別爆撃を強行した 海軍と山本五十六によって計画的に引き起こされた。 ■山本五十六海軍次官が牛耳る海軍は 戦争を煽り、制無差別爆撃を強行。日中停戦を完全に絶望的に確定させてしまった。。 また、その結果、共産主義者を大喜びさせた。 陸軍参謀本部が進めていた日中停戦交渉はぶち壊された。 山本五十六の目論みは、陸軍への対抗心、海軍の利権拡大、予算の獲得、長州への恨みetc そのための大量の航空兵力配備。 その宣伝のため南京無差別爆撃は強行されたと考えられる。 第二次上海事変を口実に(船津和平工作などから見て停戦は十分可能だった) 南京無差別爆撃を強行し、反日勢力を刺激し、全中国人を抗日で一致団結させる結果を招く。 日中間は泥沼戦争状態になった。 海軍次官・山本五十六が主導したと考えられる南京無差別爆撃の結果 ・米国大統領が歴史上初めて日本を批判(隔離演説) ・国際連盟は海軍による南京無差別爆撃に対し非難決議を採択。 ・国共合作が実現。バラバラだった全中国人が抗日で一致団結してしまった。 ・蒋介石夫人がアメリカ議会で日本の無差別爆撃を非難。アメリカ政府の中国支援は議会の賛同を得る。 ・親日だったアメリカ共和党までが反日に傾く 以後、山本五十六海軍次官は米内海相とともに 黒潮会(山本五十六が育てた戦争宣伝組織)を利用して 徹底して新聞で中国討伐を煽りまくり 陸軍参謀本部の日中停戦工作(船津和平工作、トラウトマン工作)をことごとく妨害し潰した。 何もかも、海軍の利権拡大が目的だと考えられる。 山本五十六は記者クラブ(黒潮会)を利用し、 新聞社を戦争扇動機関に育てた日本の先駆者である。
>>699 上原は皇軍なんて言ってないのに、あなたは嘘を意図的に吐いたってこと?
>701 >宇垣を長閥と末裔として追い出したのが永田グループだった そのような事実はないけれども? 宇垣系の排斥を行ったのは荒木らの皇道派であって、永田が属していた宇垣−南系統の人間達を 左遷した一連の人事が「荒木軍政」として怨嗟の的となっていたのだが。 「以上検討してきたように、南軍政は、主としてソ連に対抗しうる軍備の強化をめざす 軍制改革と漸進的満州政策という、相互に関連しあった二つの政策を中心として展開されていった。 その過程で軍の伝統的体制に変革を加えることに反対する荒木以下の勢力、急進的満州政策の展開を 目指す関東軍、あわせて急激な国内改造を志向する桜会を中心とする一部中堅軍官僚、などの 反対派が浮上してきた。 南は建川、小磯等宇垣系将官と、永田・今村等中堅軍官僚を結束し、大将級将官については 軍事参議官会議の強化によって陸軍内の統制を進めていった。 南軍政はこのような体系性を持っていたがゆえに、満州事変と十月事件によってその中心部に打撃を受け、 没落することとなった。しかもそれを促したのは、年代的にも宇垣と南・金谷の間にあって要職から 遠ざけられており、それゆえに反宇垣的傾向の強い軍事参議官たちであった。」 (p188) 「永田は、前にも述べたように南軍政の重要な一角を担っており、荒木支持が明確で あったのはせいぜい満州事変の勃発ないし十月事件の発覚のころから、一九三二(昭和七)年 二月末の第一期皇道派人事までの五ヶ月であったといってよい。」 (p191) 北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』 >702 >嘘を意図的に吐いたってこと? 私の発言が嘘だったと談ずるためには、上原が一度も「皇軍」という発言を行っていないということを 君が立証する必要が有るんだけど。 頑張って「上原勇作関連文書」を全部読んできてね。
しかしつくづく陸の話ばかりだな
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/06/06(金) 03:51:48.95 ID:xy770VhY0
海軍の条約派、陸軍の統制派の日本の国力についての見通しは正しかった。ただ、 条約派はどうせ勝てないよと放置、統制派は総力戦体制を目指して政治介入を繰り 返したが、そんな体制は出来あがらず。条約派は半数海軍から追放されたが、残り の連中が戦略を目茶苦茶にし、艦隊派は長年研究した戦術が時代遅れになり、ロク に研究してない航空戦で戦力を擦りツブしてしまう。統制派は皇道派を追放したが 、そのため戦術家が不在になり戦勢不利になると現場指揮が迷走、統制派軍人など 所詮は指揮官ではなく省部の官僚に過ぎず、敵前逃亡など醜態を晒した。
706 :
田中寛治 :2014/06/06(金) 06:21:03.90 ID:1O7/epSD0
「平家」の子は「公達」、「源氏」の子供は「御曹司」と言ったそうな。 明確な線引きが可能だったのである。 「源平合戦」は医学論争だったのではないだろうか? 異質な子供がいたのである。「平敦盛」。 時代が進み危惧種の絶対数が殖え始めた。
>>704 派閥抗争が激しかったのは陸軍の方だからね。
海軍の方は一応のところはまとまってたし。
>>707 宇垣路線のまま行っていりゃ順当だっのに
永田グループが藩閥なんて実体のないレトリックまで持ち出して
下克上をやり始めたのが間違いだった。
>708 下剋上をやり始めたのは石原らの満州グループとそれに乗っかろうとした桜会の連中でしょ。 永田はこの頃は宇垣路線の推進者の一人だよ。
>>709 バーデンバーデンの誓いがすでに下剋上な件。
宇垣もいい迷惑。
>>710 組織の抱える問題や非合理的な慣習に対して、上司や同僚に働きかけて改善や改革を志すことが「下剋上」ですか。
君の論理でいうと、改善や改革を志す人間のほとんどが「下剋上」を目論む人間ってことになるわけだ。
つまり宇垣一成や田中義一も下剋上を目論んだ人間であり、山縣有朋も大山巌も桂太郎も児玉源一郎といった、
陸軍の制度や編成の改革を行った人間はすべて下剋上を行ったってこったな。
下僚同志で結託して新規採用を思いのままに染めたり 上司に決済を出さなかったり 政治に容喙して中国に手を出して泥沼化させたり 永田派はがやったのは駄目なことばかり
>>712 >下僚同志で結託して新規採用を思いのままに染めたり
単に長州ってだけでどんな馬鹿でも陸大に入れていたような情実人事を無くすという
やって当然の改革を行っただけでしょ。
>上司に決済を出さなかったり
具体例をどうぞ。
永田がいつそんなことをやったのかな?
>政治に容喙して中国に手を出して泥沼化させたり
板垣・石原を中心とした満州派や、荒木を中心とした皇道派がやったことだね。
<666>の書き込みをよく読んでみることだね。
>>713 「帝国陸軍「革新」志向諸グループと反「長閥」運動--レトリックとしての反「長閥」」堀茂『軍事史学 44(2)』
「「長閥」の数値的実態に関する一考察--「二葉会」による長州人陸大入校阻止について」堀茂『軍事史学 43(1)』
名がマンセーさんには見えないかつ読めない論文です。
派閥で権力を握ろうと意地悪をした永田のやったことを忘れちゃダメよね。
>>715 >マンセーさんには見えないかつ読めない論文です。
んじゃ、概要を述べておくれ。
タイトルを述べるだけならいくらでもできるが、こちらの主張を否定する内容の論文だとは全く思えないがw
反「長閥」というのレトリックだったとするならば、なおのこと永田がそのような行動をとったことはないという
傍証にしか過ぎないんだけどw
>>716 駄目だこの人。読んでも読まなくても結論一緒なんだもん
ああなんと篤い永田への信仰心であることかねえ
>>717 読んでやってもいいから、その前にまず概要を述べよって言ってんだが?w
それとも、概要を書いたら何か都合がまずいことでもあるのかい?
こちらは小林道彦や北岡伸一の著書から、ちゃんと必要な部分を切り出して引用しているんだが、
君はそれはできないってことでいいの?w
>>718 黒ヤギさんたら読まずに述べた
結論先行で曲解するなら読んでも無駄だろう?
小林や北岡や川田や筒井の時も同じ
あーそれなら読んだよ。 永田は長閥の実態がないのを自覚していたにもかかわらず 同志を募って自派の結束を固めるためのスローガンに使ったとか 永田達は山口県出身者の陸大入学を阻止したことが異常確率から実証されたとか
>>719 >結論先行で曲解するなら
こちらが曲解した事例をどうぞw
>>720 >同志を募って自派の結束を固めるためのスローガンに使った
「長閥打破」がスローガンとして機能する程度には、当時の陸軍内ではかつて存在していた
長州閥への反感が強かったという証左だね。
>山口県出身者の陸大入学を阻止したことが異常確率から実証された
陸大入学者って毎年50人くらいなんだけど、全国で47ある都道府県のうちで
何年間か山口県出身者が入らなかったってのは「異常な高率」なのか?
試験での選抜がある以上、毎年毎年、全部の都道府県から均等に一人ずつ陸大に入学するという方が
確率的におかしいだろう。
山口県以外の都道府県で「数年間合格者がいなかった事例」というのが存在するかどうかを
調べたうえでの「異常な高率」って結論なのか?
722 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/06/18(水) 00:31:05.96 ID:oWiB3juT0
. _ ,. -‐ '' ´ :::::::::', ハワイを奇襲攻撃する!! r::- _ :::::::::'、 早期開戦こそが、日本が勝つ /:::::::: ´` ' ::::::::':、 唯一の策である!!! ,.:'::::::: ::::::::ヽ / ̄\ /::::::: ::::::::丶 | | ,.::':::::::::: ::::/ ,:、 \_/ _,..:':::::::::: / ,..':::::::> _|__ ... く:::::::::: / ,.:::::::: /\ , , /\ `、 \ / ,.∩ / <●> <●>\.`、 \∩ / , ' l ヽ∩ / (__人__) \ ∩ノ j / , ヽ ノ | |::::::| | ヽ ノ \ / , ' | ヽ \ ` ⌒´ / / j \ / , ' \  ̄  ̄ / `、 \ ./ , ' 山本五十六 なにもかも、このバカが悪いw ハワイを不法攻撃したテロリスト犯罪者 アメリカを全面参戦させ日本を惨敗させた最悪のアホwww 日本が負けたのはこのバカのせいwwwwwwwwww
>>721 満州派とかいって板垣や石原を永田と切り離しちゃうのは拙ずかろうね。
満州事変について永田は何年も前から推進してきたし現地世要請に応じて北大衛攻撃用の大砲を送ったりしている。
慎重てあっても賛成派であり事変容認派であったのは明らか。
読んでない論文を推定で批判している主張は非論理的だね。
永田は実体がないのを知っていて山口県出身者を排除して自派を顕職に就けて権力掌握に励んでいたのに。
永田が目的に掲げていたことの一つ。
>>723 >満州派とかいって板垣や石原を永田と切り離しちゃうのは拙ずかろうね。
>満州事変について永田は何年も前から推進してきたし現地世要請に応じて北大衛攻撃用の大砲を送ったりしている。
このコピペ貼るのって、これが何回目だったかっけかなぁ。
「以上検討してきたように、南軍政は、主としてソ連に対抗しうる軍備の強化をめざす
軍制改革と漸進的満州政策という、相互に関連しあった二つの政策を中心として展開されていった。
その過程で軍の伝統的体制に変革を加えることに反対する荒木以下の勢力、急進的満州政策の展開を
目指す関東軍、あわせて急激な国内改造を志向する桜会を中心とする一部中堅軍官僚、などの
反対派が浮上してきた。
南は建川、小磯等宇垣系将官と、永田・今村等中堅軍官僚を結束し、大将級将官については
軍事参議官会議の強化によって陸軍内の統制を進めていった。
南軍政はこのような体系性を持っていたがゆえに、満州事変と十月事件によってその中心部に打撃を受け、
没落することとなった。」
(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』p188)
森靖夫『永田鉄山 平和維持は軍人の最大責務なり』
「ここで注意しなければならないのは、第一に永田ら五課長会は関東軍の軍事行動計画を知り、それを何とか
抑えるための方策が「大綱」だったということである。第二に「大綱」の解決プロセスが、統帥権を盾に内閣を
無視して陸軍が主導するというものではなく、外交交渉決裂の場合で、従来の慣行通り内閣主導により出兵を
行うというものだった点である。しかも内外の支持を得る準備期間を設けるという慎重さであった。
この点は永田が国家総動員を論じる際にもっとも重視した点で、ここでも一貫している。」(p156)
北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』
「なお、以上のいわば漸進的な満州問題解決方針には、少なくとも省部中枢では、中堅層にまで相当広い合意が
存在した。先の「大綱」が定めた一九三二(昭和七)年春までの準備については、永田鉄山軍事課長が政策面を、
今村均作戦課長(八月一日着任)が作戦面を、それぞれ中心となって担当していくこととなっていた。
このうち今村は「大綱」を熟読し、「大臣総長の意のあるところを十分に諒解」し、「上司の人々の慎重な態度に
敬服」して作業を進めたという。また永田についても、八月八日、張学良顧問矢崎勘十少佐に送った次の書簡から
みて、「大綱」の方針に完全に一致していたことが知られる。」(p180−181)
>読んでない論文を推定で批判している主張は非論理的だね。
だから、こちらは「さっさと概要を提示しな」って言ってるんだけど。
それをしない以上、タイトルから読み取れる部分とそちらが提示した文章から類推できる内容に対してのみ
反論を提示しただけさ。
こちらの主張に瑕疵があるというのであれば、論文本文からこちらの主張の反証となる文章を抜き出して
提示すればそれでいいだけのことだよ。
>永田は実体がないのを知っていて山口県出身者を排除して自派を顕職に就けて権力掌握に励んでいたのに。
「長州閥に対する怨念の持ち主」という実体なら、荒木貞夫や真崎甚三郎という皇道派首脳という形で
存在していたけどね。
それに「自派を顕職に就け」るも何も、当時の一夕会の連中なんぞ省部の課長や主任レベルばっかりで、
顕職なんてのには程遠い状態だったんだが。
だからそこでも満州事変を否定しているわけじゃないでしょ?
>>725 >満州事変を否定しているわけじゃない
「満州における軍事行動が必要となる」という認識は、省部のトップから中堅層までの間で
幅広い合意ができていたよ。
けれども石原らのように、騙し討ちので事態を始めて全満州の軍事占領に至るなんてことは
想定していなかったろうと推定されている。
短絡的な頭脳の持ち主は、「満州で軍事行動をする」=「満州事変だ」とか考えてしまうのかも知れないが、
国内と諸外国の同意を取り付けたうえで合法的に国家意思として軍事行動を起こすことと、
謀略的な陰謀によって事を起こして国家意思に反する行動をとって他国を軍事占領することとは
根本的に違うことだ。
>>727 >>727 石原の成果を最大限に利用して満州事変を推進していたのが永田。
勃発する何年も前から穏健であったり慎重であっても永田が満州事変を推進していたことには違いがない。
それと徒党を組んでの権力奪取も計画実行していたよな。
>728 >石原の成果を最大限に利用して満州事変を推進していたのが永田。 満州事変を推進したのは南陸相が責任を取って辞任した後に陸相に就任した荒木貞夫だ。 永田はあくまで満州事変が穏当な結末を迎えるように、現地軍の統制と戦線の不拡大に奔走している。 >徒党を組んでの権力奪取も計画実行していたよな。 何の話だ? 永田がそのような計画を実行したことはなかったが?
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/06/21(土) 01:06:54.18 ID:0GoodXrI0
日本を大敗させたアホの山本五十六 ■小室直樹 『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』 「大東亜戦争の初め、東条首相は真珠湾攻撃を知らなかった。 これは東条のみでなく、陸軍全体が知らなかった。 誰もが驚くような話である。 何故かと言えば、日本軍の共同体の構造がそのようになっていたからだ。」 ■佐藤晃 『太平洋に消えた勝機』 「だがこの時すでに、真珠湾作戦部隊はヒトカップ湾をハワイに向けて 出航している。 政府はこのことを知らされていない。 略 国家存亡の戦争を行う国の最高指導者が知らぬまに、 そして 共同作戦をとる陸軍が知らぬ間に、このような重大作戦が決行される事など、 最高指導者の下に統合幕僚組織のある普通の国では考えられないことである。」 ■西村眞吾 『眞悟の時事通信 No.693』 「つまり連合艦隊司令長官は、この時既にハワイ真珠湾攻撃を決意していたのだ。 このことは海軍軍令部総長も知らない。 もちろん、首相である近衛も十月に首相になった東条も知らない。」 略 腹案は、よくできている。そして、現実には、第一段階(南方作戦)は一挙に達成され、第二段階(西亜作戦)の途中まで達成された。 しかし、この「戦争終末促進に関する腹案」の基本方針に反することを、最初から実施し、しかも順調に進んでいた第二段階を自ら放棄して、 結局、腹案全体の戦略と戦術、我が国家の基本戦略を崩壊せしめた人物がいた。 我が国から統合幕僚本部を喪失させた山本権兵衛に続く、海軍のもう一人の山本。山本五十六連合艦隊司令長官である。 ■茂木弘道『史実を世界に発信する会』 その基本戦略に反する戦いを始めたのは、海軍の山本五十六連合艦隊司令長官であった。 略 山本提督一派によるパフォーマンスのようにしか見えない戦い方だが、最初の真珠湾攻撃で意見の対立が生じたとき、 山本提督を更迭するだけの力(それだけの人物)と覚悟が海軍上層部になかったということなのか。 結果、日米戦争での日本の戦いは相手(米国)のリングで戦うことになり、惨憺たる負け戦になったことは史実が示す通りである。
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/06/21(土) 13:35:12.43 ID:CVHGOAkB0
永田がかき回して陸軍を台無しにした。 バーデンバーデンの誓いや二葉会一夕会の活動を無かったことには出来ないと思う。
733 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/06/21(土) 16:54:20.60 ID:rJ9eSYRF0
梅津が回りまわって主流に就けなかっのも統制派の責任か。 宇垣路線のままの方が穏健さやコンセンサスの側面からは良かったのでは?
735 :
田中寛治 :2014/06/23(月) 04:46:47.71 ID:v+Jcsf+H0
「松本零士」の「1000年女王」で「雨森始」の父親の経営する特殊な町工場が爆発する。 「始ーっ、来るなーっ。」 「B29」が焼夷弾で爆撃するのではなく「オカルト化学」「オカルト物理学」に手を染め る「罰当たり」が増え始めた。
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/06/26(木) 06:58:36.98 ID:sSWU9HbL0
岡村はどっちに近かったんだろうね?
>731
>バーデンバーデンの誓いや二葉会一夕会の活動を無かったことには出来ないと思う。
バーデンバーデンで永田や小畑が同意したのは、軍の近代化が必要・無能な上官を
淘汰することが必要・そのための新進的な知識と思想を持った若手の選抜を要する、
といった事柄だろう?
無かったことに出来ないも何も、当時だったらそれが必要だというのは誰の目にも
明らかな事実だったんだから何の問題もないよ。
二葉会や一夕会の活動の中から過激な言動を取るような連中が出てきたのが
永田の責任だってのも論理が強引すぎるね。
あくまで責任は暴走した板垣や石原という個人に帰せられるべき問題であり、
現地で暴走した連中の責任を軽減するための繰り言でしかない。
>>734 >梅津が回りまわって主流に就けなかっのも統制派の責任か
梅津は陸軍次官になっているんだけど?
陸軍軍政のNo2が主流ではないって、いったいどういう理屈だよ。
>宇垣路線のままの方が穏健さやコンセンサスの側面からは良かった
同感だ。
永田はその宇垣路線の推進者だったんだけどね。
>736
岡村はこの時期の派閥闘争にはあんまりかかわってないみたいだ。
ちょうど永田・小畑の対立が悪化していった昭和7年から9年頃にかけては
中国にいたから。
その後も、一時的に国内に戻っても基本的には中国で軍司令官として働く期間が
長かったから、派閥抗争的な動きにはほとんど巻き込まれていない。
宇垣が陸軍内で干された理由がよくわからん。 出世した理由も分からんのだけどw 宇垣縮軍だっけ? あれで人数じゃなく、装備を重視という方向に向けようとして士官達を敵に回した? 226の直前もこの人がクーデター仕掛けようとしていたか、担がれようとしてたって話もあったと思うんだが。 よー分からん人じゃ
>>738 永田派が結託して拒否ってたからね
権力闘争は怖いよね
石原も武藤も東条も一夕会で永田の影響下にあったからなー
741 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/07/16(水) 17:39:59.00 ID:ng3Z3LSz0
東条はバーデンバーデンにも参加しているし
永田は宇垣を追い払って宇垣と同じことをやろうとした。 陸軍下克上の親玉だな。
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/07/17(木) 20:45:21.87 ID:oi6dd+B/0
>>742 陸軍士官学校、陸大時代やバーデンバーデンの頃の永田と小畑の関係は
どうだったんだろう?
永田が参本2部長、小畑の参本4部長時代には完全に決裂していたが。
もともと永田と小畑は馬が合ったのだろうか?
海軍だと、米内光政と末次信正が犬猿の仲だったのが、東条内閣打倒で
和解しているけれど。
>>743 小畑や山下は有能さを証明しているよな。
大臣にして良し、大将にして良し。
>>738 >宇垣が陸軍内で干された理由がよくわからん。
宇垣は陸軍内にいた時には陸相として最高位を占めていたんだけど。
現役を引退した後に排斥されたのは間違いないけど、それを指して
「干された」とは言わないんじゃないかな?
>出世した理由も分からんのだけどw
仕事ができたし、その仕事の手腕に期待しての人望もあった。
当時、第一次大戦を経た欧州の陸軍に対して3流以下に成り下がっていた
日本軍の装備や編成の近代化が必要だったことは衆目の一致するところだった。
その一方、政党政治の定着して民意を重視する政治が行われる中で、
税負担を軽減するためにも軍備縮小を要求する声が非常に強かった。
その逆風の中で、人員削減という政党や国民に対する説得材料を用意することで
軍の近代化を推し進めるという政治的手腕を見せつけた宇垣に対して
近代化が必要だということを理解している軍の中堅層の佐官や尉官あたりは
相応の支持を与えたんだよ。
対して、頭が固くて軍事技術の進歩についてゆけず、日露戦争の勝利という過去の幻想に
囚われたまま「三八式歩兵銃を持ち、よく訓練された兵士が居さえすれば日本軍は無敵だ」
とかいうアホな思い込みを持ったままの将官級の連中は、自分のクビを切られた恨み節を
抱え込んでしまったので、宇垣排撃へと動いて行った。
>226の直前もこの人がクーデター仕掛けようとしていたか、担がれようとしてたって話もあったと思うんだが。
3月事件のことかな?
事件そのものが闇に葬られたうえに関係者が自分に都合のいいことしか喋ってないから
何が正確なところなのかが今一つ判らないけど、事件の主犯というべきなのは
宇垣よりもむしろ小磯国昭の方だろうね。
>742 >永田は宇垣を追い払って宇垣と同じことをやろうとした。 は? 宇垣が陸相を退いたのは浜口内閣退陣の時だよ? 永田がどうやって宇垣を追っ払ったっていうんだい? >陸軍下克上の親玉だな。 ほう。 「下剋上」というのであれば、上司の言葉に逆らって勝手な行動をとっているという 事実があったはずなんだが、その事例を挙げてもらえないかな? >743 >陸軍士官学校、陸大時代やバーデンバーデンの頃の永田と小畑の関係は >どうだったんだろう? 基本的には仲の良い親友同士だったようだよ。 でなければ、岡村と並んで十六期三羽烏なんて形容はされないだろ。 >744 >小畑や山下は有能さを証明しているよな。 >大臣にして良し、大将にして良し。 大臣や大将になったことが有能さの証明なら、荒木貞夫や林銑十郎も有能だったことになるねw
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/07/20(日) 23:37:52.20 ID:G7QeIQ840
>>746 永田と小畑が決裂したのは、厳密に言っていつ頃?
>>746 永田は荒木や真崎をもり立てて宇垣系を排除してるが?
あのままま宇垣の影響力を残して穏健な南・金谷路線を維持するのが正解だった。
バーデンバーデンで結託したり二葉会や一夕会の派閥を作って下克上。
>>747 >永田と小畑が決裂したのは、厳密に言っていつ頃?
昭和7年に満州事変が一段落した5月ごろから順次行われた、
いわゆる「荒木人事」の頃から徐々に関係が悪化していったようだ。
まぁ、この時期は永田と小畑が仲違いをしたというよりも、
荒木を主軸とする皇道派勢力の派閥専横っぷりを見てそれに反発した
陸軍の大多数が反感を募らせていったという方が近いが。
完全にこの両者が決裂したのは、昭和8年の6月ごろに省部の主だった
メンバーを集めた会議が行われた際に、対ソ政策や対支政策を巡っての
意見対立が下で完全に喧嘩別れに至った時だろうね。
この時は小畑が対ソ戦争を念頭に置いていたのに対して、永田その反対に
平和を維持して戦争には反対するというもので、ほぼ全面的な対立だった
といっていいようだ。
>>748 >永田は荒木や真崎をもり立てて宇垣系を排除してるが?
荒木や真崎の擁立に動いたのは確かだが、宇垣系の排斥は荒木ら皇道派が
行ったことであって、永田がそれを主導したわけでもなんでもないんだが。
というか、永田はこの皇道派の専横人事を見て愛想を尽かして反皇道派の
立場をとるようになったんだけどね。
>あのまま宇垣の影響力を残して穏健な南・金谷路線を維持するのが正解だった。
まぁ、その通りだろうね。
要するに、満州事変によって下剋上をやらかして南路線を葬り去った石原の暴走と、
その石原らと気脈を通じて十月事件を起こした桜会のクーデター未遂騒動とが
宇垣が主導した軍の近代化と穏健な大陸政策を葬り去ったわけだ。
>>749 >バーデンバーデンで結託したり
3〜4人の中堅どころの陸軍軍人がヨーロッパのどこだかで集まって
気焔をあげてたのがどうかしたのかい?
上原勇作や武藤信義といった連中の家に集まっていた後の皇道派メンバーが
打倒長州閥を誓い合っていたのと比べたってたいした違いはないんだがね。
>二葉会や一夕会の派閥を作って下克上。
荒木や真崎、小畑・山岡・松浦・山下といった連中も派閥を作っているんだが。
2・26事件を起こすことになる尉官クラスの青年将校を含めた皇道派こそが
下剋上の代表例だよ。
>>750 小畑も元々永田の同士だろうが。なぜ永田だけ免罪する。
永田は下克上派閥活動の首謀者じゃない?
>>751 >小畑も元々永田の同士だろうが。なぜ永田だけ免罪する。
小畑は派閥的専横の代名詞ともいうべき皇道派の重鎮で、永田は統制派と呼ばれはするけど
そうした派閥的な動はほとんど行っていないからね。
>永田は下克上派閥活動の首謀者じゃない?
永田は下剋上を行ったことなどないよ?
石原らが起こした満州事変と橋本らが起こしかけた十月事件の両方とも、
永田は火消し役に回って奔走している。
また、派閥の力を利用して人事を捻じ曲げて出世しようともしていない。
そんなことをしなくとも出世できるだけの力を持ち、周囲にも認められていたからね。
実際、「永田に派閥的配慮をしてもらったおかげで出世した」といっている人間もいなければ、
周囲からそのように見られている人間もほとんどいない。
永田の周りに集まってきた東条や武藤、片倉衷や池田純久といった連中は、
どいつも自分の才覚で頭角を伸ばしてきたやつばかりで、永田による庇護を得て
派閥的な恩恵を被っているなんてのはほとんどいない。
>>752 はあ?バーデンバーデンも二葉会も一夕会も永田が中心なわけだが?
>>753 >はあ?バーデンバーデンも
バーデンバーデンで集まるように声をかけたのは岡村だよ?
>二葉会も一夕会も永田が中心なわけだが?
単に集まったメンバーの中で実力人望ともに抜きんでていたのが永田だっただけで、
永田が派閥的な言動をとって「俺の言うことを聞け」的な親分・子分的な関係を
強いたことは資料からは窺えないのだが?
>>754 その後も組織を指導していたのは永田だが?小畑や岡村が不在の間もだ。
>>755 組織を指導?
具体的にどういった行動を指すのかな?
基本的には二葉会も木曜会も一夕会も、名目上は単なる陸軍の中堅軍人同士が
寄り集まって軍事的な研究をするというただの勉強会だよ?
いったい永田が一夕会員たちをどのように「指導」していたんだか、具体的な根拠を
資料を基に提示してくれないかな?
>>756 っ木曜会記事
最近でた川田本にも記載されているが?
新閥を作って政治指導。
山口県出身者の陸大からの排除。
中国資源の確保。
政治かと結託して陸軍上層部の操作。
>>757 >っ木曜会記事
木曜会記事のいったいどこに永田が「指導」したという記載があるんだい?
ちゃんと該当する箇所を抜き出してみなよ。
>新閥を作って政治指導。
永田がいつ政治指導などを行ったんだ?
まさか木戸や原田から陸軍の意向を聞かれたときに個人的な考えを述べたのを
「政治指導」などと思っているんじゃなかろうね?
>山口県出身者の陸大からの排除。
これは当時陸大の教官だった人間に等しく可能性のある作業であって、永田個人がどうこう
という話ではまったくないね。
そもそも陸大の入学者数は一期につき50人前後。
都道府県が47ある以上、情実を排した公正な試験によって選抜が行われていたのなら、
何年間かどこかの県の出身者が入らない程度の偏りが生じるのは統計的にいっても
全く不思議ではないが。
>中国資源の確保。
君が持ってきた木曜会記事には、こんな永田の発言も載っているんだが。
「戦争は必ずしもする必要はない。戦争をしなくても満蒙を取る必要があるのか」
筒井清忠『昭和期日本の構造 二・二六事件とその時代』講談社学術文庫(p194)
> 政治かと結託して陸軍上層部の操作。
クーデターを起こして権力を奪取しようとする連中の策動を抑え込んだり、満州で暴走を
続けている関東軍を抑制するために、それを制御しうる可能性を持った人間を陸相に持って
こないとどうにもならんという判断をし、その意見を伝えることはあくまで個人の裁量だろ。
実際に若槻内閣での南陸相・金谷参謀総長は上記の混乱の末に内閣総辞職にまで
事態を持って行ってしまったんだから、宇垣・南系を推すことは難しかったろうよ。
森 靖夫『永田鉄山』(ミネルヴァ日本評伝選)で再評価されたと永田信者が喜んでみても 川田 稔『昭和陸軍全史 1 満州事変』 (講談社現代新書)やその他の本でも幻想が上書き否定
>>759 逆じゃね?
川田稔が主張してるのって、森や小林道彦、北岡伸一らが掘り起こした「永田は満州事変において現地の抑制に動いていた」という
事実をまったく無視して、従来の自分の持論に延々としがみついているだけの内容でしょ。
>>760 断片的な材料から森や小林が再評価した永田評についてモロに否定されているね。
五課長会議や七課長会議が満州事変の地均しをしていたとか、事変勃発後も南・金谷の妨害をした事実とか。
このスレで触れられていた点も多々検証されている。
一巻が永田派対宇垣派が主だけど、永田派対皇道派、石原対武藤、武藤対田中の対立にスポットが当たる続刊も楽しみ。
永田は謂わば和製ルーデンドルフ。
一周遅れなんだよ。
永田信者は川田稔や筒井清忠が嫌いで大好きなのは森靖夫と小林道彦なのか? しかし永田が軍閥化を進めた評価をしている史料や学者は前から多いからな。
永田主犯で小幡、岡村と東條が従犯。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/08/06(水) 13:59:25.99 ID:Q2HqOR0r0
『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想篇』
(二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。
斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。
昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、
同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。
第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。
(「岡村寧次大将資料」(上) P302〜P303)
慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様←ココ注目
岡村寧次大将回想記「私は恥かしながら慰安婦案の創設者である」
岡村寧次
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年(明治17年)5月15日 - 1966年(昭和41年)9月2日)は、
日本の陸軍軍人。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、
官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。
父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛
の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。
『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想篇』(稲葉正夫編、原書房 なお、(下)は刊行されていない)
慰安婦(『資料(上)』によれば、慰安婦制度を最初に考案したのは岡村。
第一次上海事変当時のことで、強姦事件が起きたために長崎県知事に依頼して慰問団を
送ってもらったと述べている)
永田派の策動で荒木を擁立したのが道を踏み外した大きな一歩になった。 長閥だ宇垣派だとのレッテル貼りの批判に負けないで阿部信行のまままで行っていれば政治優先で良かったのでは?
陸相人事も阿部を拒否って荒木を擁立した永田の間違い。
下剋上をやって 成り上がったら 下僚に刺されるとは
相沢三郎
岡村のスタンスが正解だったのかな?
永田さえおとなしくしていれば。
これらの派閥を全部ポル・ポトみたいに大粛清していれば戦争は起きなかったと思う。
宇垣路線で陸軍が統制されていたらどうなっていたろ?
陸軍刑法により林将軍は死刑 本庄、板垣、石原も処刑 民政内閣が続き、その後も政党内閣制が定着。
>>773 まあ確実に内戦に突入だな。天皇も退位か殺されるんじゃないの。