395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
>>386 陸軍省優位が崩れたのは一夕会系の軍人云々〜
一夕会のメンバーは天保銭組の佐官達だよ。無天組の現場とは違うな。
それと陸軍省と参謀本部の対立はあったの?
平時の軍政、有事の軍令重視の反映に過ぎないと思うよ。
一夕会の永田と小畑の対ソ戦略での対立が痛かったな。
これが統制派と皇道派の対立の遠因となった。
>393
>今度は逆に陸軍省の権限をどんどん参謀本部へ移したんじゃなかったか?
その時期に陸軍省から参謀本部への権限委譲がある程度行われたのはその通りなんだけど、
もっぱら政党が「軍隊を政争のダシにすること」を防ぐための措置だったようなんだ。
政党政治家や予備役将官が大臣になったとき、自分の政策をアピールするために無駄に軍隊を
動かしたりしないように、「部隊の運用」に関しては参謀本部がある程度自由に出来るようにした。
でも、予算や人事に関してはあいかわらず陸軍省がガッチリ握っていたからあまり問題は起こらなかった。
つまり、軍政の側が首根っこだけは押さえておいて、あとは好きにやらせるという体制。
「ある程度は好きにしていいぞ、しかし何かあったらクビをすげ替える権利はこっちにあるからな」ってことかな。
三蔵法師と孫悟空の頭のわっかを思い起こしてすとイメージしやすいかもね。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 00:55:13.12 ID:FXrFS4IQO
軍隊のくせに肝心の戦に勝つ方法より、組織内で人間評価ごっこばかりに熱中してたんじゃね?
>395
>一夕会のメンバーは天保銭組の佐官達だよ。無天組の現場とは違うな。
「現場」っていうのは、連隊付きの配属将校っていう意味のことじゃなくて、
陸軍省や参謀本部での各課長や主任・補佐レベルの事務官達のつもりだったんだ。
大企業で言うところの、地方支店の店長や工場長がこの場合の「配属将校」で、
「現場」ってのは、本社勤務の営業課長や技術課長、みたいなのをイメージをしてくれ。
企業によって違いはあるだろうけど、本社の重要部署の課長の持ってる権限は、地方の数十人単位の
規模の支店長や工場長なんかよりもずっと強いし、社内ヒエラルキーでも上だったりする。
官庁の地方支庁のノンキャリアと、本省勤務のキャリア組、みたいなイメージの方が分かりやすいかな。
職階という意味では連隊長・大隊長(佐官)と同じかそれより下であっても、人事権や予算分配に
関われる本省勤務者の方が、軍内政治における発言権が強かったりするみたい。
>395
>一夕会の永田と小畑の対ソ戦略での対立が痛かったな。
>これが統制派と皇道派の対立の遠因となった。
これに関しては、森靖夫は「日本陸軍と〜」の中で(まだ研究途中の段階だからこの本の中では正確なところを
断定してないけど)、この小畑と永田の対立は、後世に伝聞によって形成されたもので統制派と皇道派の対立を
説明するための後付けで出てきた「ただの逸話」の可能性があると指摘してる。
というのも、この逸話を取り上げた研究者の引用文献や参考文献をさかのぼっていくと、1955年に刊行された
橘川学『嵐と戦ふ哲将荒木−「陸軍裏面史・将軍荒木の七十年」』よりもさかのぼった、当時の記録がほとんど
無いらしいんだ。
つまり、この荒木寄りの立場で書かれた伝記から生まれた架空の対立軸で、本当のところは永田と小畑の間に
明確な路線の対立というのはあまり無くて、「荒木に気に入られたか/そうでなかったか」によって生まれた
派閥対立が統制派と皇道派の成立起源で、深刻な路線の対立ではなかったのではないか、という指摘がなされている。
この6月に出た森靖夫の『永田鉄山』でこの辺が掘り下げられていれば、もう少し正確な話を出せるかもしれない。
今注文しているところなんで、読み終わってこの辺がもうちょっとハッキリしたらまた書き込ませてくれ。
思考や行動の視野が狭いよな、とかく。
アメリカ軍のバークみたいに、工学博士号とかを兵学校出たあととった、とかいう話ほとんどないし。
>>399 永田・小畑の対立がなかった、というのじゃなくて、
「対支一撃論」、「対ソ決戦論」の対立じゃなかったってことね?
あやうく誤解してレス投下するとこだったわ。
>>396 >でも、予算や人事に関してはあいかわらず陸軍省がガッチリ握っていたから
>あまり問題は起こらなかった。
陸大卒の人事は昔から参謀本部マターなんじゃなかったっけ。
>401
>「対支一撃論」、「対ソ決戦論」の対立じゃなかったってことね?
そゆこと。
統制派にしろ皇道派にしろ、抗争中には特にきちんとした命名があったわけじゃない。
後に池田純久が語ったところによれば、「皇道派は天皇の「皇」の字を押し立てて、
皇軍とか皇道とかいいたてる、ちょっと神がかった考え方が混じり込んだ右翼的心情が強い集団。
対して統制派は、これまでに積み上げられてきた西欧合理主義的な組織の運営・維持を重視する集団」
という色分けをしているけど、やっぱり後付の話で、抗争の最中にそうした命名があった訳じゃない。
派閥対立の原因が「対支一撃」「ソ連決戦」という軍の行動指針といった重大な路線の違いにあるのなら、
派閥の命名もそれに沿ったものになったはず(少なくともその残滓くらいは残るはず)だけれども、
当事者達の回想談や当時の資料の中に、そういう気配はあまり見うけられないみたいなんだ。
だから、直接的には荒木大臣という個性によって「どちらに付くのか」が別れた集団、として
観る方が実態に近いところだ、という見解みたい。
この見解が正しいかどうかはまだ何とも言えないけど、多くの研究書が「皇道派」「統制派」の言葉は
両者ともに「自称」としては使っていないことを指摘している点からも、決してうがちすぎな見方では
ないと思ってる。
>402
>陸大卒の人事は昔から参謀本部マターなんじゃなかったっけ。
人事の中でも重要なのと枝葉の部分とがあって、陸軍省が握っていたのは根幹の部分の方。
参謀本部の枢要な部分の人事はやっぱり陸軍省の方が権限も発言力も上だったよ。
イメージとしては、文部省の官僚と帝大の教授、みたいなところを想像すると類推が効くかも。
帝大という学問至上主義の集団の中では総長をトップとした学部長や主任教授が強い発言力や
人事権を持っていて、助手や助教授の承認昇格とかは自由に出来るけど、その帝大のトップの
人事を決める権限を持っているのはあくまでも文部省、みたいな感じ。
もちろん、総長クラスはそう簡単に替えが効く訳じゃないし、帝大側で相応の抵抗も出来るけど、
やっぱり所管の官庁である文部省の意向に逆らい切れるわけではない。
それがだんだんと文部省の中が混乱してきて、文部大臣の権威がないがしろにされて
組織がグズグズになっていっていくことで、逆に帝大総長の発言力が増していき、
しまいにはヒラ教授や助教授クラスの有象無象が教育行政を好き勝手に切り回して
自分の主義主張を混ぜ込んでいって訳が分からなくなっていった、みたいな構図が
>386 のような図だと思ってくれて良い。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 22:47:16.80 ID:x+6r5pkf0
陸軍の将官人事は陸軍省人事局長が原案作って、3長官会議にかけるはず。
将官になれるのは事実上陸大卒だけだから、陸大卒の人事も陸軍省がやってた。
服部卓四郎も、東條のお気に入りだったから、何度失敗しても参謀本部の作戦課
にカムバックできた。
東條が失脚したら、即左遷されたけど。
>>399 >>403 『軍国太平記』 高宮太平 (中公文庫 初出版は1951)にも、
永田・小畑の対立は書いてあったが、
「対支一撃論」、「対ソ決戦論」はなかった気がする。
隅から隅まで読み直したわけじゃないが。
桂・児玉が「両雄並び立たず」の状況に陥った時は、
上に山縣も大山も居て、両者を軍政・軍令に分け、力を尽くさせたが、
永田・小畑の時、上に居たのは、荒木・真崎、
……役者が違い過ぎたよなあ、という論旨だったと記憶。