戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について

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1名無しさん@お腹いっぱい。
これは意外とありえると思う
2名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 00:28:32 ID:UXu1cPOo0
北越戦争開始時までならチャンスはあったと思う。
3名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 01:56:15 ID:gw1RT4FwO
鳥羽伏見の戦いが起きた時点で慶喜の計画は台無し、おまけにでかい口叩く会桑があっさり負けた時点でいろんな意味で逆転不可能
4名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 23:42:47 ID:7WMZoviN0
>>2
榎本艦隊が新潟に無事到着して制海権を確保して、
河井継之助が西郷率いる増援軍勝つか冬まで持ち堪えるかしかないな。

いずれにしても相当ハードル高い。
そもそも無事に新潟に到着できるかが物凄く怪しいw
5名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 07:27:54 ID:gBGEe+dC0
それ以前に、
榎本は徳川処分が終わり、自分が何をしても徳川家に迷惑が掛からない段階で蝦夷に向かっている。
新潟を守るなら、それ以前に江戸を脱走しなければならないが、脱走したらその責任を徳川家がとってお家断絶が有り得る訳だが。
それで榎本の武士道や正義感は問題視されないのか?
6名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 10:56:27 ID:B0oUBzsT0
>>5
歴史を捻じ曲げて金儲けする会津観光史学の倫理観は問題視されないの?

おまえの事だ
7名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 17:06:57 ID:kmEggSM40
せめて白河城ぐらいは防衛しきれないとお話にならないと思う。

兵力では優越してたんだしさ。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 21:04:27 ID:RR3OzfTX0
また会津観光史学がクソスレたてやがった。
ここも監視下におく。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 00:24:55 ID:llk3lk+y0
>>6
おいおい、俺は会津を叩く側だよ
会津ヲタが良く叫ぶ「榎本海軍が奥羽越後に来ていたら、会津は負けなかった」という暴論に対し、
「徳川処分が終わる前に、徳川海軍が戦争を始めたら徳川家断絶将軍慶喜は処刑になる。そんな事を幕臣の榎本がするわけねぇよ」と言いたかったんだ。
第一、榎本が会津や長岡を助けなけりゃならん理由もない。ただ、蝦夷開拓は静岡に行けなくなった幕臣を救済するという理由があった。結果的に函舘戦争になったがな。
早い話が、徳川と会津を一緒にするな。会津みたいに怨念と意地だけで戦争してた訳じゃないよ。と言いたい訳だ。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 14:16:26 ID:35Puge2NO
今の榎本スレの惨状を見たら会津厨と榎本好き(大鳥好きも)は相容れないのはわかるだろ
11名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 21:30:08 ID:bkta/Q0r0
榎本スレ荒らしてるのは、どう考えてもアンチ会津だろ?
キチガイみたいに発狂してたじゃねえか
12名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 21:55:12 ID:qNHCt7Rl0
吉外みたいなのは、会津が好きな人たちだったような気がする。
彼らに任せると、鳥羽伏見の緒戦の敗北も当事者ではなく徳川慶喜の数日後の撤退のせいにされてしまう。
歴史を語るものにとって、会津愛好者は悪例だろう。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 20:19:37 ID:tKNATR0VO
そもそも王政復古後の新政府のメンバーは
親慶喜派が多数派なんだから戦わないのが
ベストだわな

14名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 20:39:22 ID:+5wIZd5iO
>>11
あれはどうみてもいつもの成りすまし君だろ
その他も病院絡みの事ばっかじゃねーか
15名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 23:39:29 ID:lCBxZ6wy0
「天皇の世紀(9)」を読んでいるが、ちょうど鳥羽伏見の戦いのところで面白い。
薩長軍がぎりぎりの綱渡りを勝ち抜き、自然と天下の大勢を味方につけた事がよくわかる。
このスレにいる人にはお薦めなので、ほんの少しだけ紹介しよう。


・・・(中略)・・・
 戦闘は、正月三、四、五、六日と続いた。局部的には、幕府軍側が反撃に成功し、陣地を夜中保持したが、
大勢は今や京軍の作戦行動が広範囲の機動力で全面的に圧迫を加え、一日毎に敵の後退を促した。
 伏見の戦闘は、第二日には中書島、堀川右岸の郊外に出て、撃退に成功した京軍が追撃を怠った隙に、
会津軍は淀に退いて、戦闘の中心は鳥羽方面に移り、幕府軍が退いて防備した富ノ森の攻防に集中せられた。
これは代表的な戦闘となって、彼我の運命を大きく決定した。
「午前七時頃、鳥羽本道隊は昨日伏見から転身してきた新手の篠原藤十郎(国幹)の三番隊と大山弥助(巌)の二番隊とを前軍とし、
少距離をとって、五番、六番隊、一番砲隊、長(州)第三中隊の順序で前進し、外城二番隊は横大路に止まり、予備隊となった。
横大路を通過した三番隊は、村端れに出るや、前方六百メートルの富ノ森の敵陣地から砲火を受ける。
直ちに本道の左側に散開、前進したが、この地は前日(大)坂軍の槍隊や抜刀隊の潜伏、突撃を受けた所だから、
予めこれに備えて、左側やや前方に約一分隊(二十名)ほどを出し、側面援護に任じた。
かくて敵前二百メートルくらいまで敵火をおかして前進したが、激烈な鉄砲火を受けるので、ついに三番隊も停止し、銃火を開いた。
 続く二番砲隊も村端れに出るや、横隊となって前進、三番隊の近くまで弾雨の中を進んだが、
三番隊の停止を見て二番砲隊もややその後方畑地に陣地を占領し、酒樽台場に向かって砲撃をはじめた。」(大山柏「戊辰役戦史」)
16名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 23:40:58 ID:lCBxZ6wy0
 酒樽陣地は、酒造用のたるを徴発し、畳、木材その他で、この地に胸哨陣地を築いたものである。
「最初から陣地にある敵砲四門から射撃して来るので苦戦し、最初は伏臥射撃(原注・用済み砲手は直ちに伏臥する)で砲火を集中したが、
中々制圧できない。本隊の先頭に在った小銃五番隊は本道の右に、更にその右翼の狭小なる地域に無理に六番隊と長第三中隊が割り込み、
一番砲は二番砲の右に並んで砲車間隔なく密列して陣地についた。しかし敵は甚だ頑強で、十余門の放火をもってしてもこの不完全台場を破れない。
ややもすれば、かえって躍動出撃を受ける気配すらある。ここにおいて大山隊長は、その小荷駄の二十ドイム臼砲を取り寄せ、射撃を命じた。
 三番隊が停止して射撃を開始するや、秘かに突撃の機を窺っておった会(会津)軍槍隊の一軍は『時至れり』と突然草叢中より踊り出で、
三番隊の左側援護隊に喊声を挙げて突込んで来た。だが三番隊には備えがあった。援護隊の連中は狙撃兵若干名のほかはいずれも腕に覚えの剣士ばかりだった。
突撃を受けるや『何を!』とばかり立向かい、忽ち格闘となった。傍らの狙撃兵が小銃でお手伝いするので、忽ち会兵勇士はバタバタ斃され、
ついに突撃は成功しなかった。」
 近代的銃砲戦と、古風な軍記物のような一騎打ちの白兵戦との混り合いであった。
「会兵は新手を入替えて突撃を反復したが、その都度迎撃され、流石武勇を誇る槍隊も歯が立たない。
実は前々日からの戦闘で強豪を多数失い、その質が低下していた。しれぶ会藩最強の別撰組主力はこの日伏見街道に在り、
僅かに一小部しか参加せず、これも数回の突撃で死傷者が続出したからこそ、突撃が成功しなかったのである。
一方、薩兵も前日に懲り備えを立ててあったので、柳の下の鰌はもう取れなかった。
 今度は手を替え、四、五名ずつで三番隊の後方を隠蔽匍匐して、二番砲隊の左側へ躍り込んだ。
二番砲隊はその時、山砲とその後方の二十ドイム臼砲とを併せ撃っておったので手一杯のところへ躍り込まれた。
だが二番砲隊随一の豪のもの伍長川上万助は手を負傷しておったが、会兵の突進を見るや、手槍を取って立ち向かった。
流石は梅田流槍術の達人、『チェストー』と薩人独特の掛声もろとも、先頭の会兵をただ一突きに突伏せた。
次に来た一名は川上の後方から伊東強右衛門が小銃で撃ち倒し、続いて来るものは、川上がまたも渡り合い、『エーイ』と突き出す手練の一突き、
敵は受け損じて胸板を貫かれた。残りの人も斃されて砲隊は事なきを得た。これは戦闘の間における些細な小闘に過ぎないが、
この教訓は砲隊にその両翼警戒を痛感せしめ、本役以降、砲隊には砲護兵と称する歩兵一分隊ぐらいを専属せしめることとなった。」
 二番砲隊はこの騒ぎで動揺したが、直ちに立直って、二十ドイム臼砲の威力を発揮し、出撃せんとする敵を散乱せしめて陣地に封じ込めた。
しかし戦況はうごかず、午前七時から始めて、正午になっても発展しない。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 00:02:51 ID:qRGK5cLw0
「わが(薩軍)右翼では敵の抵抗は割合弱いが、その地は桂川の流域で処々に水溜りが在り、容易に前進できない。
かつ、ここは淀北端の納所(地名)に在る敵の第二線陣地(距離約六百メートル)から砲撃を受けるので、
これも前進の妨げとなっている。また遥か東南のの伏見街道にも断続的銃砲声が聞こえる。
また横大路におった予備の外城二番隊は、会兵の潜伏、白兵突撃を見、三番隊の左側を援護する如く、
密集隊形で三番隊の左翼後方に進み、敵の白兵突撃に備えながら、正面敵陣地の右翼を攻撃した。
 二番砲隊は景気よく射撃した結果、砲側の弾薬を使用し尽し、横大路まで前進しておった小荷駄の予備弾薬をもって補充したが、
これも刻々減って来る。大山隊長はついに意を決し、抜刀して『砲を捨て、銃をとれ!』の号令を下したため、
砲隊は忽ちにして小銃隊に早替りした。続いて『散開前へ』で、歩兵線を乗越え、敵の銃砲火中を一意前進し、
ついにそのまま敵の陣地へ突込んだ。砲隊の小銃前進を見た両隣の小銃隊は、共に天下無敵を誇る篠原三番隊と野津五番隊、
何でこれを見逃そう。『砲隊に遅れては小銃隊の名折れ、われ遅れじ』と突進したから、期せずして前線の総攻撃を誘発し、
さしも頑強に抵抗した幕、会兵も(前夜野営の際)みずから破壊した不完全台場では持久し得ず、
この突撃に遇って脆くも敗れ、納所の第二線陣地へ敗退した。」(大山柏「戊辰役戦史」)
 富ノ森は、かくして薩軍の手に落ちた。三番隊長篠原国幹は後の西南戦争の勇将、五番隊の野津道貫は日露戦役の軍司令官、
大山巌は満州軍の総司令官で、共に元帥と成った人々である。
「この富ノ森へ二番砲隊が小銃突撃する少し前、大山隊長は右耳を撃ち貫かれ、今日の止血包帯の意で手拭をもって頬冠りした。
かくして頬冠りのまま陣地へ突入したのが、他隊の人々には何ゆえか判らなかったので、当時『弥助どんの頬冠り斬込み』
と言ってもてはやされた。」
 富ノ森を占領して、部隊を整備した後に、薄弱となった敵の小銃火をあびながら、前進し、地域が狭いため自然に密集しつつ、
淀の北端の納所の敵陣地に突込んだ。敵は陣地を放棄して退却し、午後二時には、淀の前線を確保して、なお攻撃前進を続けた。
富ノ森の抵抗を破ったので、道が開けたのである。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:31:03 ID:FF1kUY+B0
鳥羽伏見の戦いは本来勝てる戦い。

幕軍は、洋式歩兵 5個連隊、伝習1個大隊他に撒兵隊等もおり、薩長軍を圧倒していた。

敗因として幕府側の慢心と指揮命令系統が確立されていないのと総指揮官の問題。
最低限、臨戦態勢を持って望めばあのような負け方は無かったでしょう。
私なりに考えると、伏見の奉行所周辺の要地を事前に押さえるか、押えられてしまったら伏見市街地は放棄し、鳥羽方面に集中させればと思います。


「幕府歩兵隊」著者の野口武彦氏が書いた「鳥羽伏見の戦い : 幕府の命運を決した四日間」
と言う本が出ているので私もまだ読んでませんが、読むといいかと思います。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 11:55:43 ID:KR7trXofO
また会津観光史学の妄想か
20名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 13:00:09 ID:AOlmBJgP0
>>18
>敗因として幕府側の慢心と指揮命令系統が確立されていないのと総指揮官の問題。
>最低限、臨戦態勢を持って望めばあのような負け方は無かったでしょう。

鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕府軍の戦術は前近代の立ち遅れたものでした。
優勢な火力を所持していながら、見通しの利く場所での無為な密集突撃で部隊指揮官もろとも消滅してしまったのですから。

旧幕府軍を勝利させるなら、
1.人数上の優勢を生かすために進路を分散させる
2.臨戦態勢で進軍する
3.命令を混乱させただけだった瀧川・竹中は更迭する
4.突撃戦法は無意味なので、これを指導したフランス軍将校も更迭する

これだけのことが、事前に必要でした。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 15:27:34 ID:akbiAXF30
タイトルは「鳥羽伏見の戦い 幕府軍勝利の可能性について」
にしといた方が良かったんだろうなあ。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 17:38:06 ID:FF1kUY+B0
>20
>見通しの利く場所での無為な密集突撃で部隊指揮官もろとも消滅してしまったのですから
これについては当時いたしたかなかったのでは?
南北戦争でも同様の問題はありましたしね。
密集戦法でも良いが、優勢な戦力を先鋒・中備・後詰と的確に配置し連続攻撃していれば突破できたはず。
戦国時代の武将に統帥させても勝てたのでは?

当時は戦術の過渡期でもあり、操典に忠実にやるよりも、士気の高い武士に洋式銃持たせ戦闘レベルは適当に戦わせた方が有効という見方もできる。
討幕軍や幕府脱走軍も徴寡歩兵隊除けばそんな戦い方している。
当時幕府には、歩兵役になるうる士気の高い武士が少なかったのも問題ですが。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 18:00:26 ID:4hz5pFUF0
会津観光史学に洗脳されるとここまで妄想が酷くなるのか
24名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 18:10:27 ID:e/DNAESVO
>>23
成りすまし君理解出来ないからって観光史学呼ばわりするのはマヌケだよ
25名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 18:53:42 ID:AOlmBJgP0
>>22
>密集戦法でも良いが、優勢な戦力を先鋒・中備・後詰と的確に配置し連続攻撃していれば突破できたはず。

それにしては、前線司令官は全滅した上に部隊は四散し、連続攻撃しようにも続かなかったのですが。
旧幕府陸軍が当時引き連れていた兵数では、密集戦法は無理だったのだと結論付けざるを得ません。

砲支援のない単純な密集突撃は、ライフル銃登場前の、銃の射程と威力が増す以前の戦法で、
これを採用したフランス軍将校は、以後の本国の戦闘でも敗北を喫しています。
彼らは敗北を見て改めない、無能な人間であったと私は思います。
彼らの指導には誤りがありました。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 21:28:04 ID:FF1kUY+B0
>25
鳥羽側の薩長側戦力はせいぜい2千、しかも恒久陣地を構築している訳でもく充分な砲が有った訳でもない。
幕府側の戦力は当初どおりでも5千以上、但し上洛途上での戦闘を想定していない指揮系統が別な3梯団に別れていた。
兵数不足というよりも、全体統制されない各部隊が狭い地積に集中して混乱したという構図。
近代も、中世も関係なく、鳥羽方面の指揮官を決め先鋒・中備・後詰と振り分けるだけで良かった。

当時、幕府に限らずきちんとした散兵戦法とれる部隊があったのか?
幕府以外は洋式調練も小隊どまり、また洋式教練不十分な武士に洋式銃持たせただけなので、結果的に散兵的戦いに成ったというのが実情では。



 
27名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 21:57:09 ID:AOlmBJgP0
>>26
>しかも恒久陣地を構築している訳でもく充分な砲が有った訳でもない。
砲支援も無く前進した旧幕府歩兵の稚拙さをレトリックでごまかそうとしても、それは無駄というものです。

>幕府側の戦力は当初どおりでも5千以上、但し上洛途上での戦闘を想定していない指揮系統が別な3梯団に別れていた。
>兵数不足というよりも、全体統制されない各部隊が狭い地積に集中して混乱したという構図。
>近代も、中世も関係なく、鳥羽方面の指揮官を決め先鋒・中備・後詰と振り分けるだけで良かった。
兵士を集めているだけで、砲支援も無く、一日中突撃を行い部隊もろとも消えていった旧幕府軍現場指揮官は、馬鹿そのものですね。

>当時、幕府に限らずきちんとした散兵戦法とれる部隊があったのか?
>幕府以外は洋式調練も小隊どまり、また洋式教練不十分な武士に洋式銃持たせただけなので、結果的に散兵的戦いに成ったというのが実情では。

長州勢は押し出し候節は銃隊は駆足並にて押し来り
発泡の矢頃に至り候えば太鼓打ち止め直に散兵と相成り
銘々物陰を撰びて手早く身を隠し顔ばかり出し発泡致し
匍て進み寄り候
(小倉城陥落時 加賀藩士高嶺清八・岡田助三郎報告)

これを見る限り、薩長側に散兵戦術があり、旧幕府軍には前近代的な密集突撃戦術があったようです。
洋式教練不十分な兵士とは、旧幕府軍及びフランス軍顧問団の側ではないかと思われます。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 23:19:13 ID:WMlxBtvV0
小倉戦争の大敗北で、戊辰も負ける。
戦争での勝利の要素に民衆が官軍側に支持というのもある。
抑圧的で異国との不平等条約に弱腰な幕府より薩長という世論。
関西〜関東まで、官軍に商人、民衆は援助し応援した。

あと、大村益次郎がいるので、勝ち目はない。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 15:21:43 ID:8CUUvE4Z0
>>27
幕府も歩兵隊は散兵戦術使えたのでは。
伏見でも、突撃してるのは会津や新撰組ばっかだったような。
歩兵隊は指揮官が不用意に前線に出て撃たれまくってるね。

>>22
伏見戦での官軍の戦法を見ると、十分な厚みがある部隊は前列は銃剣を装着し、
後ろの段列が射撃を担当する。
十分な厚みのない部隊では、敵の突撃を受けたらさっさと足止めして撤退する。
たとえば新撰組の永倉が、手薄な側面から迂回突撃したが後者の方法でスカされて撤退してる。

まぁ完全に効果がない訳ではないが、犠牲が大きすぎるんだな。
死体を乗り越えて遮二無二突撃しろって、言うのは簡単だが……
30名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:52:57 ID:rA6bcckk0
31名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 09:06:04 ID:rxsyMfOz0
散兵戦術をするのは幕府軍には無理。
武士は士気が低く、江戸周辺のちんぴらごろつきを集めて作った集団に、
幕府の為に戦えといったら、指揮官から離れて戦ってくれるわけがない。
長州の場合は、士気が高く一人になっても戦える兵士だったから、散兵戦術ができただけ。
また十分な練度が必要、長州は四境戦争前から調練していたわけで、
それを一朝一夕でやれというのは無理。

つまり幕府軍は密集突撃をしないと軍が維持できず、そのまま離散してしまうという事です。
軍を軍として維持するのはとても大変なんですよ。
つまり戦術としてそれしか選べなかったのです。
そしてそれを選べば負けるしかない、つまりどうあっても歴史は覆らないという事です。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 23:53:21 ID:+axvrfwGO
バックがフランスじゃ勝ち目なしだろ
33名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 00:18:39 ID:AQVbnx7m0
ナポレオン三世(仏第二帝政)1970年崩壊→イギリスへ亡命(実体は英の傀儡政権)
小栗信者は馬鹿過ぎで旧幕府系も勝ち目なんか無い。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 00:27:34 ID:AQVbnx7m0
>>33
1870年でした。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 02:51:20 ID:ntDovhTiO
幕府軍の兵力は薩長を上回っていたというが
本当に戦う気があったの会津や桑名など極一部だけだったから実質的な兵力差は余りになかったんだよな
その上で戦術、指揮能力等も薩長以下なんだから勝てる分けない
36名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 08:23:17 ID:suVBidDc0
浜田藩や小倉藩や松山藩も必死で戦ったのになあ
37名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 13:22:03 ID:v8FPw4b90
長州征伐なら、肥後藩も頑張ってたような……
いくら援軍要請しても誰も来ないからブチ切れて帰っちゃったとか
38名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 21:24:12 ID:apnL3ctq0
鳥羽・伏見の戦いだが、開戦直前時の朝廷の命令は
「会津・桑名は罷免間もないので上洛を認めない」
「大軍を連れての慶喜上洛は人心が動揺するので見合わせるように」
だったんだよね。

朝廷はあと一歩で軟化して、「徳川慶喜は会津・桑名以外の軍なら連れて武装上洛して良い」
になる可能性があった。
会津・桑名は尾張・越前ら小御所の諸侯に警戒されていたので、薩長は会桑を名目に旧幕府軍の行動に制限を加えようとした。

会津・桑名(含新撰組・見廻組)を鳥羽・伏見の戦いに参加させてはいけなかったのではないか。
先発隊は別の藩にやらせておけば、薩長軍が戦いを仕掛ける口実がなかったのではないか。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 00:15:14 ID:qnA7xPKt0
>>38
会桑は当然だが、「大軍を連れての慶喜上洛は人心が動揺するので見合わせるように」と言われているのだから、軍隊を連れて行くのは駄目だろw。
朝廷からはさらに「普段と同じように上洛せよ」と言われている。供連れは構わないが、その供が鎧着てちゃ駄目だ。鉄砲持っているなどもってのほか。
ごく普通の大名行列だったら戦にはならなかったろう。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 01:36:42 ID:7ZKtBKsM0
会津・桑名は当時朝廷を押さえていた諸侯から復帰を警戒されていたので、
彼らの軍を上洛させるのでは、諸侯の旧幕府への賛同は得にくい。

旧幕府軍は、別の藩兵を使うべきであったのではないか。
旧幕府贔屓の人が言うように、旧幕府軍は兵力で圧倒的に優位だったという主張があるなら、
尚のこと会津・桑名は後詰であるべきだろう。

また、他藩の兵や幕府歩兵の後備が動かせる状況ではなかったというなら、
圧倒的優位という口上は看板倒れで、徳川慶喜の逃亡も責められない。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 22:07:32 ID:eJVFTaan0
他藩兵というのであれば、二条城に水戸藩兵が入り、京都警備に薩長に交じって土佐兵、尾張兵がいる。
薩長はともかく、土佐と尾張は幕府軍から”味方”と思われていた。また、大津に幕府軍先鋒を担ってきた彦根部隊が布陣していた。
そういう意味では、旧幕府軍は潜在的味方を考えると別にわざわざ会桑を上洛させる必要は全くない。
武装した徳川兵も不用。尾張徳川兵がすでに京都にいるし、幕府政治総裁職の春嶽率いる越前福井兵も親徳川の山内容堂の土佐兵もいたのだから。
彼らが、なぜ薩長に味方したかと言えば、第一日目にあっという間に徳川が負け、錦旗が出てしまったから。出る前までは、味方だったよ。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 22:21:10 ID:7ZKtBKsM0
「味方」という言葉を都合よく使い分けているようだが、
小御所に詰めていた諸侯にとって、土佐藩士らを多数捕縛殺害し、御所を過去に押さえていた会津・桑名は「味方」ではない。
また、大政奉還後の彦根藩は、朝廷の命令が旧幕府より優先されるとして行動していた。

会津・桑名主力という行軍形態は、一番当時の京都へ行軍させてはならない、最低の選択だった。
43名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 23:57:32 ID:eJVFTaan0
会桑を京都へ行かさなくても、徳川兵が武装して京都へ進軍すりゃ同じ結果だと思うけどねw
普通に大名行列作って行けば良いだけでしょうにw。
そもそも、戦争を目的に京都へ兵を出せば会桑がいなくても阻止されますよw
44名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 00:09:26 ID:45hOeWZa0
戦闘を意図したにしては、昼下がりに鳥羽・伏見に到着してから
街道に関を作っていた薩摩軍との交渉が決裂したと看做して、夕暮れに行軍を再開しても、
一切戦闘隊形を作らなかったという粗忽ぶり。

それくらいなら、戦闘員なんて送らずに大名行列で京都へ向かった方がマシ。
鳥羽・伏見における旧幕府軍は、何か勘違いしていたとしか思えない。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 00:23:31 ID:4beM0hYr0
1.鳥羽伏見直前期、「会桑に何の罪があって、彼らのみを帰国させるのか?彼らも上洛して然るべき」と論難し、
  薩長をタジタジにさせた論客が土佐藩山内容堂公だという事実。
2.会津桑名が殺した土佐人の多くが、土佐脱藩の下級武士郷士の尊攘派。
  その土佐尊攘派の最大派閥、土佐勤王党は山内容堂自身が弾圧壊滅させている事実。
3.薩長に同調して挙兵しそうな土佐上士指揮官クラスの板垣退助らは、山内容堂自身が「国元へ帰っておとなしくしていろ」と命じ、
  鳥羽伏見の戦い時、京都にいない事実。

以上の事実により、土佐藩が会津桑名を嫌っているとは限りません。
まぁ一部土佐藩士の中に会津桑名を嫌っているヤツはいるだろうけれどもw
46名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 00:37:00 ID:45hOeWZa0
色々書いてはいるが、全て山内容堂一人の行動じゃないか。

実際この時期の記録を見ると、容堂の姿勢に土佐藩邸が嘆息したというものもあり、
容堂を土佐藩内に返せという意見も記録されている。
容堂が一人、土佐藩で浮いていたんだよ。
47名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 08:06:48 ID:q/IW3FMY0
容堂一人というが、土佐藩を代表しかつ土佐藩政に与える影響も大。
参政後藤象二郎も容堂の支援無しには何一つ行動を起こせない。
そういう意味では、土佐藩=容堂であり、よって土佐藩が会津桑名が来たら敵対するとは限らない。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/30(火) 13:43:25 ID:MD+nIVBG0
土佐藩がどう動いても歴史はかわらんよ。
粛清対象に土佐が入るだけ。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/30(火) 19:34:00 ID:C6SXcoip0
土佐藩が藩を挙げて公武合体に進んでいたなら、まだ慶喜にも勝ち目はあったかもしれないよ。

しかし当時の記録を見る限り大政奉還の頃には、幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので、
慶喜側の接近策は容堂一人にしか効かず、土佐藩は討幕路線一辺倒だったのだと分かる。

坂本龍馬暗殺も、会津藩の意図していた土佐と薩長との連絡役を潰すという効果ではなく、
身内を幕府勢力に殺されたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ。

大政奉還をしないのなら幕府は政権として突っ張れたし、
会津桑名が大政奉還絶対反対路線でまぜっかえさなければ、妥協の余地もあった。

幕府側の不一致が、旧幕府勢力が徹底的に敗北するまで追い込まれた原因でしょうね。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 00:15:37 ID:jtmgzPOs0
>>49
それは微妙な意見だな

>幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので

鳥羽伏見直前の段階では、逆に幕府側から味方だと思われていたよ。
王政復古に協力した土佐藩だが、鳥羽伏見では佐幕派からかなり期待されていた。
事実、会津藩先鋒の林隊が土佐隊と接触した際、土佐兵は「自分達の警備以外の地域を通るなら構わない」と返答し、
会津林隊は土佐兵を迂回し、命じ政府軍警戒線の遙か後方の薩摩藩邸を焼き討ちしているw。
土佐が討幕路線一辺倒なら、あり得ない事だぞw。

>身内を幕府勢力に殺されたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ

まだこだわってんのかよ。
会津桑名が殺した土佐人ってな、何度も言うように土佐脱藩郷士や下級脱藩士ばかりだってのw。
土佐勤王党をぶっ潰した上士の後藤象二郎や山内容堂にとって痛くも痒くもないの。
ただし板垣退助は上士だが激烈な倒幕派だから、こいつ等が会桑を嫌っていただけでしょうにw。
第一、土佐が武力討幕一辺倒なら大政奉還なんて建白する訳ねーだろw。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 01:21:22 ID:78MXUw0t0
>鳥羽伏見直前の段階では、逆に幕府側から味方だと思われていたよ。
>王政復古に協力した土佐藩だが、鳥羽伏見では佐幕派からかなり期待されていた。
>事実、会津藩先鋒の林隊が土佐隊と接触した際、土佐兵は「自分達の警備以外の地域を通るなら構わない」と返答し、
>会津林隊は土佐兵を迂回し、命じ政府軍警戒線の遙か後方の薩摩藩邸を焼き討ちしているw。
>土佐が討幕路線一辺倒なら、あり得ない事だぞw。

後方に回ってみたが味方も続かず指示も来ず、改めて伝令を出したら、「戦力が足りないので帰還せよ」だったので
何もせず引き返した、と会津側の証言には、指示を出した幕府側への恨み言と一緒に載っています。

何が焼き討ちしたですか。嘘をつくからあなたの証言は信じられないのです。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 01:37:16 ID:78MXUw0t0
大体あなたの味方認定は、
会津に都合のいいように、勝手に他人の言行を盗んで会津の功績にした挙句、
龍馬暗殺や神保切腹強要など、会津の恥部へは
味方なんだからあいつらのせいだ、容保サマは清廉潔白です、と押し通すだけで、
味方に認定されても、ちっとも喜べません。

大目付の永井に龍馬暗殺の罪をなすりつけようとしたり、
山内容堂や後藤象二郎が龍馬暗殺の真犯人だと言い張ってみたり、
神保切腹は徳川慶喜のせいだといってみたり、迷惑この上ありません。

しかもその場その場の言い逃れで全体として整合性がなく、会津を庇うだけで混乱を作ろうと画策する。
53名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 02:02:55 ID:Ag9/aZ2g0
え?おまいらどこでそんなに歴史勉強してるの?
ウィキ?
54名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 17:34:54 ID:n+UR6Ynz0
>>47
当時はそこまでの影響はないよ。
他藩と繋がっている志士連中のほうが発言力は強い。
土佐がいなくても維新はなってしまうんだよ。残念な事にね。
そしてそれがわからないわけじゃないから、結局は迎合せざるをえない。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 01:05:58 ID:irSIFOb5O
大政奉還前の時期でも土佐藩の上士は9割が佐幕派
一方郷士以下はほぼ勤王家
ソースは佐々木高行の日記
56名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 01:06:35 ID:Kxf3RBmDO
佐賀と福岡に山口の尻を襲わせれば勝てた
57名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 22:36:03 ID:4KPU7tet0
会桑が失脚しそうだったから武装上洛煽ったとか
そんな単純な問題じゃねーの?
58名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 07:02:05 ID:ARj0ewBP0
>>13
禿同!

慶喜は、大阪城で待ちながら、尾張藩や越前藩、土佐藩の多数派工作を見守っておればよかった。
何も正月早々から戦争はじめることは無かった。

岩倉を含めた公家連中は、徳川との戦争回避に躍起になっており、慶喜の議定就任と
新政府参加を認める立場、また、皇族議定が、新政府での下級藩士の活発な活動や
発言の多さを批判する意見書を提出し、岩倉を批判し出した。
その結果、下級藩士がメインの参与と大名や公卿、皇族中心の議定の会議は別々に開かれる様になり、
参与会議は下院、議定会議は上院、と言われ始める状態にまでになっていた

まだ新政府に参加していない、阿波藩、福岡藩、熊本藩が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求するし出した。

これらの事から見て。幕府側が薩摩のテロ活動による挑発に乗ってしまったのが、最大のミスだろうな。

西郷も、徳川家との戦争は3月か4月ぐらいだと考えていた。
慶喜も4月まで開戦を引っ張ってストーンウォール号(甲鉄艦)を入手してから
開戦すればよかったのにな、甲鉄艦が手に入れば、徳島沖海戦はでは、薩長の艦船を
全部沈める事できたであろうに。
甲鉄艦を含めた大阪湾の徳川海軍は、薩長側の広島藩の広島城かその城下を艦砲射撃で
焼払う事もできたであろうに。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 09:44:22 ID:qNVEjICi0
無理。
鋼鉄艦の砲門数知ってていっているのか?
ちなみに四カ国艦隊のときは200門くらいあるからな、
それでも艦砲射撃では長州側の砲撃を止めれず海兵隊が上陸して砲門壊してまわったくらい。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 02:31:38 ID:WHfF2MaE0
>無理。 鋼鉄艦の砲門数知ってていっているのか?

ストーンウォール号の凄いところはな、速度と船体の丈夫さなんだよ!

鋼鉄の船体で敵船に体当たりして、ジャンジャン沈める。

>艦砲射撃では長州側の砲撃を止めれず

長州の対艦砲撃は、薩英戦争の時とは違い、全然当らなかった。

あと判っていない様だけど、薩摩は長州と違い、藩上げての対幕府戦争に
賛成している訳では無いからな、国許では対徳川戦には反対の意見が強い。

ついでに機関砲も付いているので、敵艦の乗員をバタバタ殺せる。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 02:33:17 ID:WHfF2MaE0
(修正)
ストーンウォール号の凄いところはな、速度と船体の丈夫さなんだよ!
鋼鉄の船体で敵船に体当たりして、ジャンジャン沈める。
ついでに機関砲も付いているので、敵艦の乗員をバタバタ殺せる。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 08:20:15 ID:P6jS0ojh0
>>60
だから艦砲射撃で城下を焼き払うとか無理っていってんの。
ちなみに馬関戦争の時の長州の砲はがんがん当たっているよ。
英国の旗艦はマストも折れて、艦長以下士官が数人殺傷されているし、
死傷者も連合艦隊のほうが多い。

ちなみに連合艦隊は17隻もいるからな。幕府海軍にこれだけの規模があったのか?
ちなみに幕府海軍は幕長戦のときに、長州海軍に追い回されてなにもできなかったからw
63名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 08:38:00 ID:yUDCABTj0
幕府海軍は、全部で12隻です、ストーンウォール号を幕府が入手すれば13隻。

榎本艦隊は、7隻で出航しましたが、小型船舶や古い船は見捨てて出港しました。
榎本艦隊7隻には、3千人の旧幕府歩兵が乗船しています。

ちなみに長州藩を攻撃した4カ国連合艦隊は17隻の軍艦には5千人の兵隊(水兵・乗組員も含め)が乗船しています。
64名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 08:52:05 ID:yUDCABTj0
幕府海軍は、長州藩海軍相手にそんなに戦っていない。
むしろ補給艦としての役割を負っている。

薩摩海軍を当初海上戦闘を負担させる予定が、参戦しなかったために
幕府海軍が、その代わりをしている。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 05:11:40 ID:mSbK/uy30

結果論だけど、徳川慶喜は、戊辰戦争なんてやらずに
越前、高知、尾張の3藩に議定会議の多数派工作を任せて置けばよかったんだ。

大政奉還や王政復古のクーデターの時点で江戸に帰る、という慶喜の選択肢が有ってもよい。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 05:23:02 ID:1SK/h1lZ0
徳川家の新政府入りできても、これまでと程遠い扱いを受けることが確定な会桑が暴徒と化してるからな
あの時点の一会桑は一橋と会桑に相容れないものがある
67名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 07:36:12 ID:kvsjCUNx0
>>65
いや、あのな…
慶喜は戊辰戦争なぞ望んでいなかったし、開戦する気もなかったよ。
単に朝廷から上洛して謝罪しろと言われていたから、そうしようと思っていただけ。
実際、そうしたならば明治政府に参与として参加できると福井土佐尾張藩から聞いてたし。

そうさせなかったのは、会桑そして幕臣の主戦派でしょ。
彼らは「上さま(慶喜)を刺し殺してでも、戦争する」と息巻き、老中板倉をして「もう抑えがたき」と言わせた。
結局、慶喜は上洛の共連れとして上洛を許可したが、戦えとは命じていない。あくまでも慶喜上洛の御共だったんだよ。
彼らは慶喜に無断で勝手に開戦し、戊辰戦争を勃発させ、そして勝手に負けた。

そして今、会津の研究家は叫ぶのさ「軍隊を京都へ送っておきながら、最後まで戦わなかった無能将軍」とね。
会津の記録だけを信じ、慶喜の記録は「真実を告白していない」と頭から信じていない。
そういうことさ。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 11:04:59 ID:W4TDduM30
>>67
慶喜は、幕朝戦争を回避したかったであろうが、対薩摩藩限定の戦闘ならそうでもないぞ。
討薩表なんて物を書いているんだし。

ただまさか、鳥羽伏見で薩摩・長州藩と戦闘になるとは思っても見なかったらしい。
慶喜は、京都御所や在京藩邸を拠点に京の中で薩長と市街戦になると思っていた。
鳥羽伏見では幕府軍は、弾を込めずに整列縦隊のまま突っ立っていたら、
いきなり薩摩軍から砲撃と一斉射撃を喰らい、初っ端から大打撃を被った。

明治政府の参与じゃなくて議定じゃなかったけ?慶喜に約束されていたポストは、
しかも福井・土佐・尾張の三藩は、皇族議定に総裁を関白に変更し副関白(副総裁)に
慶喜を任命するように根回しをしていた。

これは、
皇族議定が、新政府の参与に任命された下級藩士や下級廷臣の活発な活動や
発言の多さを批判する意見書を議定会議に提出し、岩倉を批判し出した事に
目をつけた山内豊信の作戦だった。豊信は、王政復古のクーデター以前の慶喜
の摂政任官計画を復活させようと、薩長や岩倉に批判的な皇族議定に的を絞り、
慶喜を議定よりも上位のポストにつけて三職会議を事実上の諸侯会議に改変し、
その首班に任命させようとした。また明治天皇の外戚である議定の中山忠能ですら
動揺しており、慶喜と妥協する可能性があった。

それに、まだ新政府に参加していない阿波藩、福岡藩、熊本藩などが薩長に
御所の占領状態を解除するように申し入れていた。
諸藩には、強引に徳川家を新政府から追い出した薩長に対しても
良くは思ってはおらす、薩長はこちらでも孤立気味。

小御所会議の時点では、薩長は政治的に大して有利でもないんだよ。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 14:23:01 ID:T5Fx/C1e0
>>68
少し勘違いしているな、薩長に完全に主導権をとられるのが嫌で、
自分らも参加させろってのが諸藩のスタンス。
幕府はその為のコマだよ。
そして福岡熊本の両藩が薩長と敵対する事はありえん。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 15:16:10 ID:re2wRLR80
>>69
福岡熊本の両藩が薩長に敵対する事は無くても、味方にもなっていない。

それに王政復古のクーデター以降でも鳥羽伏見の戦い以前までは、
関東、東北、東海中部地方のほとんどは、幕府寄りの藩ばかりで、
しかも大政奉還以後に慶喜に東帰(江戸への帰還)を求めているし、
諸藩は朝廷からの官位を返上している。
しかも、朝廷の諸藩への上洛要請は幕府の顔を立てて断っている藩ばかり。

畿内11〜13藩程度が、幕府から離れて朝廷に近づいている。
また、中国地方と九州で尊王藩が出てきている程度。
慶喜が大阪城を放棄する前は、幕府に反抗する藩はそう大勢は居ない。

阿波藩、福岡藩、熊本藩は、御所の占領状態を解除の申し入れ書を文章に
して新政府に提出したが、本来新政府に参加していないこの三藩の書面を
受け取る必要は無かった。しかし文章を受け取り新政府内で検討した後に
返答すると応えている。

やはりこの時点この薩長軍撤退申し入れ文章を受け取ったのは、薩長の
新政府内での立場の弱さの表れだ。討幕派の多い参与会議ならともかく、
何気に徳川シンパの多い議定会議でこの三藩の薩長軍撤退申し入れ文章
が議題になれば、批判されるのは薩摩藩や岩倉となる。案外この三藩の
薩長軍撤退申し入れ文章は、慶喜が中立藩に手を回して書かせて新政府
への圧力として提出させたのかも知れない。
三藩の中に徳川シンパの阿波藩が入っているのも少し解せない。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 19:18:58 ID:T5Fx/C1e0
>>70
いやすぐに味方になっているんだが。
福岡藩なんで、長州征伐の頃から長州と繋がっている藩だぞ。
熊本藩は長州征伐で幕府があまりにへタレだったから、幕府見捨てて、
新政府にいち早く近づいた藩。
さらに東海道の諸藩は尾張の言いなりだから、尾張が新政府についている以上、
東海の諸藩も幕府の味方ではない。あくまで尾張の味方で、尾張は幕府を見限っている。
新政府内での立場強化である程度は動いているだけ。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 00:07:46 ID:MAMTh8Og0
>>68
何度か交渉した末に、埒が明かないから突破だか圧力かけようとしただかして強襲されたんじゃなかったか。
まぁ突破っつっても行軍隊形のままだったみたいだけど。
これはケーキちゃんがどうとかではなく、現場の最高指揮官が何考えてたのか謎なレベルだが。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 03:31:53 ID:W6Jjvi5j0
>>71
福岡藩と熊本藩が、完全に討幕藩に成るのは、鳥羽伏見の戦いに負けて
大阪城を慶喜が放棄したてからだろう。王政復古のクーデター以降も
阿波藩、福岡藩、熊本藩の三藩は一応中立と言うスタンスで御所の軍事
管制下での小御所会議の継続を非難している。

特に福岡藩は、慶応年間に藩主黒田長溥が、藩内の尊皇派志士を弾圧し
佐幕色を強めている時期。同時に薩摩藩と長州藩、幕府の間に立って
仲介を務めるなどの中立的な政治活動をしている。

また、この当時の熊本藩主の細川韶邦は、尊皇攘夷にはには消極的な人物で、
1862年に肥後勤王党が分裂したのを契機として藩論を尊王論に統一した。
1866年長州藩の高杉晋作が小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦って
いる。しかし隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、戦って敗
れた直後、即座に撤退している。

尾張藩は一応新政府に参加しているけど、戊辰戦争までは徳川シンパとして
新政府内でも活動している。特に尾張藩は内部で佐幕派と勤王派の対立が激
しく、徳川慶勝もそう簡単に舵を切ることができない状態。尾張藩が佐幕派
と成るのは青松葉事件を経てからで、東海道諸藩の動向もそれに連動している。
ただし、駿府城に幕府陸軍の大軍が入城すれば、東海道諸藩はそれにも反応する。

>>72
確かにそんな感じですね。
下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の押し問答から
軍事的衝突が突然起こり、鳥羽での砲声が聞こえると伏見でも戦端が開かれた。

鳥羽方面では、3日夕方には、突然砲撃を開始した。鳥羽方面の司令官だった滝川具挙の近くに着弾し
乗馬していた滝川を乗せたまま後方に逃げ出した。また、最初の薩摩の一斉射撃で
弾丸を装填していない整列縦隊の幕府歩兵隊がなぎ倒され、総崩れに成ったらしい。
事実上、鳥羽での緒戦は幕府軍の惨敗で、薩摩側の死傷者は初日はゼロだった。

伏見方面では、3日の早朝から伏見奉行所を包囲する形で薩摩藩兵が布陣し、
夕方の鳥羽方面からの砲声にあわせて薩摩軍が伏見奉行所への砲撃を開始した。
伏見方面の幕府軍の司令官は、竹中重固で、彼は戦闘開始直前には、強行突破
の決意を固めて奉行所内で地図を広げて、どこから突破しようか検討中だったらしい。

伏見の桃山中腹の薩摩の砲兵陣地から、伏見奉行所へ砲撃が開始されると、
奉行所の門が開かれ、刀や槍を持った会津藩兵や新撰組が飛び出して来た。
それをめがけて薩摩藩兵が一斉射撃を開始する。
74名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 20:49:33 ID:0gGca5j90
>>73
福岡藩の事は乙丑の変の事を言っているのだろうが、あれは長州びいきだったのを、
幕府からとがめられて、やり過ごす為に、代わりに切腹させたようなものだぞ。
処刑させても、長州と裏で繋がっていた反。
藩主もその後継者も長州よりの立場なのは変わってない。
中立的な政治活動じゃねーよ。薩長同盟の仲立ちとかもしてる藩だよここは。
本人も有名な勤皇家。内戦になる戦争には反対派であっただけで、幕府よりじゃねーよ。

熊本は尊王に統一したんなら普通に新政府派だろなにをいっているんだ?
薩長よりってほどではないが、新政府や福井や尾張なども含めた雄藩連合政権に傾注していた藩。
幕府は当然見限っている。
実際小倉戦線では熊本藩以外戦わなかった、幕府はへタレで戦わず、
援軍もよこさなかったため、熊本藩は激高して帰った。

尾張にしても対立激しくっていったって、速攻で佐幕派を処刑して、
新政府に忠誠を尽くした藩。そもそも尾張が親幕府とかないわあ。
そこは代々宗家と中悪いんだよ。
さらにチョイ前に御三卿からの養子がゴミで、尾張にすむ武士層の支持を失っており、
慶勝は宗家からの養子ではなくて、支藩からの養子でそもそも幕府とは対立している。
派閥としても、慶勝本人がふいご党などの幕府のお目付け派閥を嫌っていたからな。
尾張が幕府の為に動いたって何を根拠に?

つか都合のいいように解釈しすぎ。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 10:26:26 ID:2DGtXZMe0
>これはケーキちゃんがどうとかではなく、
>現場の最高指揮官が何考えてたのか謎なレベルだが。

慶喜は京への進軍のみを認めたが、幕臣たちは、慶喜には黙って薩摩限定の先制攻撃を仕掛けるつもりだった。
大河内正質、竹中重固、滝川具挙、窪田、塚原あたりが、鳥羽伏見を強行突破した後に
在京薩摩藩邸を攻撃して京市内の薩摩軍を叩く構想があった。
また、土佐藩もそれに同調する計画だった。

この計画は、そもそも幕臣ではなく、大垣藩士の井田五蔵が討薩の戦略を老中に進言して始まった物。
京の薩摩藩邸と薩摩藩部隊を先制攻撃し、そのスキに幕府軍の別働隊が御所を占拠して明治天皇の身柄を拘束。
天皇を大阪城に移して西南諸藩の反幕諸藩を征伐する(第三次長州征伐)、と言う計画だった。


ただし、鳥羽伏見では、まだ戦闘にはならないと思い、幕府軍は戦闘体制に入らなかった。
そこを逆に薩長に先制攻撃され、幕府軍はボロ負けした。

>幕府からとがめられて、やり過ごす為に、代わりに切腹させたようなものだぞ

それ立派な、幕府サイドの行動ですから。

>政府や福井や尾張なども含めた雄藩連合政権に傾注していた藩

雄藩連合政権=薩長政権ではないから。
徳川宗家(大政奉還後は、江戸徳川家)が雄藩連合に加わる政権構想がある。
土佐、福井、尾張等はその線。

>尾張が幕府の為に動いたって何を根拠に?

新政府の議定会議では、土佐、福井と組んで慶喜の議定就任工作をしている。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 22:33:50 ID:jX+dhHV/0
>それ立派な、幕府サイドの行動ですから。

その裏で長州の為に朝廷工作してるんですよ。
幕府サイドでもなんでもない。そもそも藩主が長州よりなんだから。

>徳川宗家(大政奉還後は、江戸徳川家)が雄藩連合に加わる政権構想がある。

これは別に幕府よりな構想でもなんでもない。
新政府に徳川家を参加させるかどうかという程度の事。
幕府を一つの藩として扱う構想で、幕府のお偉方は反対派。
また当然幕府の領地は大幅に取り上げるのが前提である。

>新政府の議定会議では、土佐、福井と組んで慶喜の議定就任工作をしている。

だからそれは幕府の為じゃないだろうがw
雄藩連合構想を目的として動いているだけで、佐幕派じゃねーよw
幕府を静岡藩60万石として、新政府に参与させるくらいは認めている。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 14:26:07 ID:n5ZgLn6L0
>そもそも藩主が長州よりなんだから。

じゃ〜何で長州征伐で小倉藩に味方すんのよ?
それに王政復古のクーデター以後に薩長による御所の軍事占領を批判する文章を朝廷に提出するんだよ?

>新政府に徳川家を参加させるかどうかという程度の事。

1867年12月の時点での小御所会議では、薩長はそれに猛反対。
岩倉は揺れ始めているし、中山忠能と皇族議定は、徳川との戦争にビビッて認め始めている。

>また当然幕府の領地は大幅に取り上げるのが前提である。

当初徳川宗家天領400万石のうち200万石を新政府が召し上げる計画だったが、
それは、土佐、尾張、福井の三藩が議定会議で多数派工作し、阻止している。
特に皇族議定が賛成に回っている。対幕府戦争に自信の無い中山、岩倉あたりも動揺黙認状態。

>幕府を静岡藩60万石として、新政府に参与させるくらいは認めている。

尾張藩は、当初の新政府が徳川宗家天領400万石のうち200万石を新政府が徴収する案を
批判し、撤回に動いている。国元の尾張藩自体が、佐幕派と尊皇討幕派に分裂している。
青松葉事件まで、佐幕派、討幕派どちらが有利ともいえない状態。
徳川慶勝は国元の事情を考えて中立的だが、実際には徳川サイドで動いている。
鳥羽伏見の戦いで慶喜が大阪城を放棄した後は、完全に新政府サイドになるが。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 18:44:08 ID:e0pjAlvb0
何を持って何サイドとするかで議論が噛み合ってないな
薩長のような武力で徳川宗家を完全に滅ぼすほどの主張はしてないからといって
江戸幕府全盛期のような徳川将軍家の専制政治を、尾張も容堂も求めてはいないよ
79名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 23:51:11 ID:Le4ioO3e0
幕府専制派vs公議政体派vs倒幕派って感じだな。あの頃は。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 11:38:32 ID:97a7Q+++0
高杉晋作さえ殺しておけばよかったのに
81名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 13:18:55 ID:IKgggugO0
高杉晋作か村田蔵六か桂小五郎の内、一人でも殺しとけば違ったのにな。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 01:13:34 ID:tA0S4P8H0
逆に、久坂玄瑞が生き延びる歴史になってしまったりして。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 23:30:43 ID:5tDm6/DZ0
>>79
慶喜は、大政奉還直前まで慶応の軍制改革などを行い幕府専制派だったけど、
土佐藩からの建白書や説得で公議政体派に鞍替えし、政権を手放した。

薩長の討幕計画が、土佐藩からカナリ詳しく慶喜に報告された。
その為に慶喜は、大政奉還を行い薩長の討幕計画の大義名分を奪う事にした。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 20:07:21 ID:fJnAfUSQ0
よく抗戦派が「大坂で篭城すれば勝てる」とか「江戸で抗戦すれば勝てる」とか
言ってるの見るけどそれって勝利条件が「薩長の撃破」ならいいけど
「徳川政権の維持」だったらこれを考慮するとかなり厳しいのでは?

 つ 市街戦が発生した場合の経済的損失(復興工事、被災者の救済etc・・)

仮に江戸で市街戦が発生した場合・・

1.当然賠償請求される薩長
2.1の支払い能力を超えた分を不良債権として被る幕府
3.2の何割かは押し付けられるであろう親藩、譜代藩(特に徹底抗戦主張した会桑)
4.1〜3の幕府、藩に金を貸してる商人

1〜4のどこまで破産するだろう・・?
85名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/24(月) 10:22:50 ID:UheNFuw80
長州って長州征伐を戦うだけで財政は破綻しなかったのか?
戊辰戦争を起こす財源ってどこから捻出したんだろう?
86名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 17:13:32 ID:OfHOcLnS0
>>85
撫育金からの出費。

7代目藩主毛利重就の頃、一般会計の再建とは別に、検地とかで浮かした金を元手に
特別会計として、撫育方っつー少数精鋭の部署を作り、産業振興やインフラ整備に加えて
業者への貸付などの利殖を行わせた。
そこで得た利潤は全て撫育方に収められ、更なる産業振興やインフラ整備に充てられた。
これの一般会計との切り離しは徹底してて、数代後の藩主んとき、台風被害の復興のために
撫育方から出金しましょうっつった重臣が、藩主の怒りをかって御役御免だか謹慎だかさせられた事もある。
んで、この撫育方は代々守られ、普請やら災害復興やらの止むを得ない時だけ出費されてきた。
それに加えて幕末に起用された村田清風の天保の改革により、一般会計の改善とともに
撫育金の利殖も大車輪で行われた。
この代々貯め込んできた金が、村田蔵六による軍制改革のときに盛大に使われることになる。

この撫育金のその後だが、明治初期の時点で約100万両が残っていたとされ、廃藩置県の折に内70万両が
明治政府に対し贈与されている。
あと、長州藩江戸藩邸には、昔々から他藩からの贈答品やら何やらを売り払って貯め込んできた古金もあったらしいw
87名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 23:06:46 ID:DtUG79C80
>>86
一方で幕府は、家斉の浪費や松平定信の重商主義否定政策なんかで
資金が尽きていたことを考えると、やはり金は戦の変数項だなぁと感じるね
88名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 12:17:42 ID:xub+pYSA0
サンクス
89名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 18:21:41 ID:swddj+ho0
小笠原長行って致命的ミスをしたのに
なぜかあまり叩かれないよな
90名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 20:25:36 ID:qyz1uuGg0
マイナーだからだろ
あの人の逃げっぷりは桂小五郎を超えてるよ
91名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 16:59:12 ID:hxNjJVG+0
逃げるべき時に逃げるならまだ分かるけどなw
そして逃げたこと自体よりも、小倉口の幕軍を完膚なきまでに自滅させたのがすげぇ。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 15:14:25 ID:f+Y8sgOz0
小笠原壱岐守って小倉藩の小笠原とはどういった関係なの?
93名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 19:37:02 ID:h+Amaf1T0
唐津は江戸時代初期の小倉の分家ですけど、唐津の方は全国を鉢植え大名として流浪しているから、
すっかり独立した存在ですよ。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 23:33:16 ID:A3DDbDN70
>>86
その撫育金を兵制改革に支出させたのが桂=木戸だよな。
そういう伝統だからと出し渋っていたのを、
今使わんでどうする、ここで撫育金を軍備増強に使わなけりゃ
戦争に負けて敵にまるごと取られるだけだぞっつー正論で。
結果、武器の充実・訓練の徹底・士気の高さで幕長戦争勝利。
95名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 08:41:23 ID:5CSynFyy0
長州を倒した暁には、長州から奪った撫育金を支給するぞ〜
って鼓舞すれば勝てたかもw
96名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 18:18:40 ID:JumOANO60
>>95
どうかなぁ。将来の金よりいま金が欲しいって藩のが多そうw
97名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 17:06:57 ID:/z4sCdFv0
そもそも長州征伐が成功したら権威回復の為にに暴走を幕府がすることを危惧してるしな
難癖付けられて次の標的にされたらかなわん。なんで熊本はやる気があったんだろう
98名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 21:40:08 ID:OBW1Uk8x0
http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167_01.html
http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167_01.html
戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
2011年2月5日21時0分

戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、
会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが
東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、
宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。

箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。
いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。
(1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。
「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。
ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。
(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。
「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。
(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。
戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、
ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

99名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 21:40:52 ID:OBW1Uk8x0
>>98

会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して
薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。
北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。
会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。
会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。
戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。
歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。
(渡辺延志)

100名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 21:59:23 ID:nU0cyZNa0
プロイセンへの領土割譲覚書は、後年榎本武揚ら北海道の旧幕府海軍が行い、
日本国は取り返すのに多大な財を費やす羽目になった、榎本政権の恥部というべき一件なのだが。

会津庄内が提案を行っていたとなると、戊辰戦争での外国軍から干渉を排した徳川慶喜の意思に完全に叛いていた事になる。
松平容保はどこまで不忠者なのだろう。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 22:50:51 ID:eBcF+rIU0
ビスマルク失脚後のヴィルヘルムだったら提案に乗ったかも知れないな。
102名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 13:56:36 ID:irfZXtyM0
あれだけ不良品を売りつけられ、しかもそれが敗因の一端を担っているのに、
スネル兄弟がまだ英雄視されて有り難がっている佐幕ヲタってどうよ?。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 23:19:50 ID:8OMgmNfpO
スネル兄弟とは何だったのか
104名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 23:42:01 ID:aHLaYRq00
明治政府の新潟港開港延期要請に従ったイギリス・アメリカ・フランス・オランダとは違い
無視を決め込み列藩同盟に独占的に武器を売り込もうとした、抜け駆け野郎以上でも以下でもありません。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 23:44:10 ID:aHLaYRq00
つまり、スネル兄弟とは、西宮神社の数年前の不正福男のような存在です。

しかし会津にとっては彼が頼りでした。
何故なら、あと一人しか新潟には外国商人は来なかったから。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 16:57:36.31 ID:cwdljvvC0
江戸無血開城後なら無理。
やっぱ鳥羽・伏見だな。あれに西洋化した庄内藩、額兵隊、etc
しかし、砲兵部隊が手薄すぎる。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 10:32:37.81 ID:vsN6tmbM0
>>100
長州も馬関戦争の講和で下関を事実上自由港化してるし、巨額賠償金を勝手に約している。
当時の幕府は開港に伴う国内商工業の打撃を緩和すべく努力していたから、
長州の講和は孝明帝の上意にも、日本財政や国内産業保護政策にも反するものだった。
自藩の存亡がかかると、そんなものだ。
108名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 12:01:11.14 ID:itjPxEx00
>>107
結局、尊皇勤皇ってのは朝廷の名を活動の正当化に利用しているだけなんだよな。
だから朝廷の意思なんか二の次なんだね。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 12:02:25.88 ID:itjPxEx00
>>100
蝦夷以外の割譲地はどのあたりが想定されていたのでしょうか?
会津の飛び地?
110名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 22:46:12.79 ID:wSiDhI7L0
>>107
>当時の幕府は開港に伴う国内商工業の打撃を緩和すべく努力していたから

kwsk
111名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 23:00:11.32 ID:g96a7AcN0
>>108
いや、長州藩が航海遠略策を放棄するときは、明確に奉勅攘夷を決意してるよ。
1862年の御前会議で、”攘夷とか無謀過ぎる。ここでいるのだけで決めても、国許がそっぽ向いたら藩主公もご立派な討死ができないよ”って意見に、
”攘夷が無謀なのは知ってんけど、勅令なんだから仕方ないじゃん。ここに居る奴らだけでも藩主公と共に死ぬしかねー”みたいな結論で
長州は攘夷に邁進し始めた。
思えば、藩主の前で本人討死大前提の議論するのはどうよw
112名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 08:12:36.85 ID:h2qR7Vrn0
>>78
>江戸幕府全盛期のような徳川将軍家の専制政治を、尾張も容堂も求めてはいないよ

それでも慶喜がニ条摂政の後任に就任したり、朝廷新政府の首班兼上院議長に慶喜が就任する事や
三職会議のbQとして副総裁(副関白)に就任する事には賛成している。

鳥羽伏見の戦いが始まるまで、慶喜の副総裁(副関白)に就任向けて
新政府(三職会議)にて尾張、越後、土佐の三藩は工作していた。

皇族議定は、慶喜の副総裁(副関白)に基本的に賛成し、公卿連中も動揺していた。
慶喜が、山城一国(35万石)を朝廷領として献上する案を持っている事を
皇族や公卿達は知っていたし、当然それを望んでいた。

尾張、越後、土佐は、幕藩体制を終わらせる事は、了解していても、
徳川宗家の主導権までは否定していない。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 08:38:59.37 ID:HMxAtOIe0
越後じゃないよ越前だよ。
それと尾張・越前・土佐は会津・桑名両藩主の辞職と京都からの退場を要求していた。
この両藩がいなくなった場合、それまでの一会桑体制は徳川慶喜を除いて消滅することになる。

これでは、公儀政権で京都の幕閣体制が発展的に存続する、と認定することはできないのではないか。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 18:55:17.35 ID:ucH3P+GS0
>それと尾張・越前・土佐は会津・桑名両藩主の辞職と京都からの退場を要求していた。

仕方ない、会津・桑名両藩は佐幕テロをやり過ぎた。
龍馬暗殺でさえ松平容保命令説が最近では有力、土佐藩は会津藩にカンカンだろう。

>この両藩がいなくなった場合、それまでの一会桑体制は徳川慶喜を除いて消滅することになる。

大政奉還後少し経過すると、会津・桑名両藩士は、家族を含めて京から避難し始めているし、
12月12日以降の両藩士は大阪城に詰めているので、大阪では一会桑体制じゃね?

それに順序の問題で、慶喜が議定や副総裁(副関白)に就任し新政府の三職会議で
慶喜の主導権が確立してから、会津・桑名両藩主を新政府に入れても良い。

また慶喜は機会を見て、会津藩に帰国命令を出すつもりだったのかも知れないが…
しかし薩長との軍事衝突が必至と見れば、帰国命令は出さないだろう。
115名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 11:46:39.22 ID:XgWyXBCg0
>また慶喜は機会を見て、会津藩に帰国命令を出すつもりだったのかも知れないが…
>しかし薩長との軍事衝突が必至と見れば、帰国命令は出さないだろう。

王政復古クーデター以降の慶喜は、和戦両ニラミ状態。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 10:00:08.91 ID:rZOuhdco0
京を出た時点で、一会桑って括りに意味はあったんかなぁ。
大政奉還には強硬に反対してるし、この時期はむしろ幕閣のが会桑に近いのでは。
まぁ伝家の宝刀は抜かない方が良かったなw
117名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 23:40:43.43 ID:DWR0qF6S0
意味無かっただろうケド、
鳥羽伏見で負けるまでは、大阪城で慶喜は「もう会津に帰っていいよ」とは言わなかったしw

それに確かに、幕閣の方が強硬派
慶喜を切ってでも、京に進撃しようとする。

大阪城に移ってから、朝廷と慶喜の連絡が悪くなるのは、幕閣のサボタージュがあったんだろう。

結果論だが、土佐、越前、尾張の斡旋に任せていた方が良かった。
皇族と公卿の議定を取り込んだこの三藩が、多数派工作に成功していた可能性がある。
そうなれば薩長が勝手に自滅していたかも知れない。


また、薩長と戦争するなら、四月五月まで待てばよかった。
ストーンウォール号は、幕府の手に入っていたし、伝習隊だけではなく
幕府陸軍の各部隊に元込式銃がもっと配備されていたかもしれない。

西郷ですら2〜3ヵ月後のつもりだった様だし。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 08:15:50.87 ID:End49zqV0
ファビョってる会桑を抑えるのが限界に来てたからしばらく待つのも無理だろ
あいつらは戦犯だよ。徳川家が穏健に新政府入りできても、自分らのポストがないから必死
119名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 12:11:14.85 ID:P+i1r2WS0
それって、
慶喜が「しばらくほとぼりが冷めたら、新政府の良いポストあっせんするから、まってろ。」
って言って宥められなかったのかね?

領国が畿内に近い桑名藩だけは、大阪城に残して、
会津藩だけは、何とか理由を付けてクニに帰すか、江戸に回した方が良かった。
120名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 12:54:50.92 ID:P+i1r2WS0

それと畿内やその近くに意外と討幕藩が多いのに驚かされる。

数え方によるが、10藩以上にも及ぶ。
121名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 20:42:25.96 ID:ur3rZndT0
公家と縁戚関係にある藩が多かったからじゃなかったっけ?
122名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 21:20:36.99 ID:R7PY5gIo0
あと皇室領や公家領が近くにある、公家の菩提寺や御陵が領国内にある、以前から天皇の逃亡経路になっていた、
京都御所の警備をやっていて公家や皇族と近くなった、etc…

江戸時代でも畿内だと1〜2日で領国と御所を行ったり来たり出来ますからね、
外様の大藩が朝廷に接近する事は、幕府は警戒しますが、小藩だとスルーしている部分も有るのかと。


討幕藩と言っても、畿内の小藩ですので、薩長と組んで大阪城を攻撃したり幕府陸軍と戦う訳ではないです、
彦根藩と西大路藩、膳所藩辺りが、薩長の後方支援程度しかしていません。
123名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 21:39:40.97 ID:T01xGmvn0
畿内が朝廷に従う勤皇多数となるのは歴史的に見て当たり前
淀が譜代なのに裏切ったとか声高に言ってる人間が多いのに逆に驚くわ

幕末は江戸時代からの幕府との関係性より
古代からの土地との関係に随分行動は左右されてるよ
124名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 10:50:32.53 ID:uaCllgTL0
>古代からの土地との関係に随分行動は左右されてるよ

土地の関係については、律令制の関係は既に切れていますよ。

応仁の乱や戦国時代で日本の土地は、ほとんど武士が接収(押領)してます。
日本のアチコチにあった膨大な寺社領、公家領はほとんどなくなります。

畿内に徳川家康の好意で皇室領(3万石)公家領(7万石)残されただけです。
朝廷の運営経費ぐらいは自分で何とかしなさい、って事でしょう。
しかも皇室領の実質的な管理者は武家(京都郡代)で幕府の旗本が面倒見ている状態。

江戸時代には軽く見られていたが、幕末になり朝廷の政治的権威が高まり、
皇室領公家領の政治的位置づけが高まった感じ、その事から…
大政奉還と徳川新政権を認めてくれれば、山城一国を朝廷直轄領に献上する慶喜の案が出てくる。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 21:41:28.71 ID:i/yb2kEJ0
そういう直近的な幕末当時の関係って意味じゃなくて
もっと古くからかつて存在していた土地との歴史的関係ってことだろ

幕末は過去の時代、神代まで遡ってあれこれと談じることが盛んだったから
畿内以外でもかつて勤皇の忠臣を排出してる備前や伯耆も尊皇思想は強いし
配流の地である隠岐も強い

朝廷との繋がりが深かった西国と過去に遡ってもろくにない東国ではやはり差が出てるよ
126名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 21:54:34.75 ID:DOthiwnP0
その神代研究の元になった人物は、秋田藩出身の平田篤胤だろ。

東国の平田のトンデモをありがたく聞いている西国人ってかw
127名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 08:01:13.46 ID:mt//x/cQ0
武家っつか、御所千度参りが行われる様な民衆層にある下地のことじゃね?
武士層も、そういう下々と関係が深いのほど影響受けたんじゃないかな。
128名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 20:49:51.97 ID:phkPsDsP0
1867年の12月9日の王政復古のクーデターは、有名だが、
実は、同年11月には、大政奉還への不満や、薩摩藩兵と長州藩兵の大挙上洛に対する警戒などから
佐幕派諸藩や幕臣だちが佐幕派クーデターともいえる計画を建てている。

ちょうど坂本龍馬が暗殺される直前に立案され、大垣藩藩士の井田五蔵が佐幕派諸藩を代表して
在京老中に進言しているが、大垣藩の後ろには、紀州藩や津藩(この時点での)などの佐幕派諸藩
が控えていた、当然会津藩や桑名藩もこの考えを後押ししている。

この佐幕派クーデターの内容は、兵力を京に集中させ始めている薩摩藩打倒クーデターであり対薩摩藩邸先制攻撃案だった。

長州藩の各地の藩邸は、禁門の変の後に全て接収破棄されており、江戸はもちろん京や大阪には
長州藩の大規模な公式施設(藩邸など)は無い、あるのは薩摩藩の藩邸であり、その為に幕府陸軍と
佐幕派諸藩による薩摩藩とその支藩である佐土原藩の京と大阪の藩邸への先制攻撃プランとして作成された。

また、この幕府陸軍と佐幕派諸藩の薩摩藩邸先制攻撃により京がパニック状態になったスキに、
京都御所に幕府陸軍の特殊部隊が突入し、明治天皇を拉致して大阪城まで搬送、
その後幕府陸軍と佐幕派諸藩は、明治天皇を頭に立てて大阪城に立て篭もり幕府海軍と
一緒に西南討幕諸藩と迎え撃つ計画だった。
また、江戸にいる幕府陸軍の上洛西進を同時に開始する事も計画されている。

特に京と大阪の薩摩藩邸は、この作戦の最重要攻撃目標であり、京都御所の裏の「相国寺二本松藩邸」や
「伏見藩邸」、「小松原薩摩藩調練場」等が京での攻撃目標になった。
また、大阪の薩摩藩邸は、土佐堀2丁目に「上屋敷」、江戸堀5丁目に「中屋敷」、立売堀西之町に
「下屋敷(蔵屋敷)」があり、この三箇所が攻撃目標となった。

これらの作戦を聞かされた徳川慶喜は、大慌てで反対し、実施しないように宥めている。
慶喜は、これから開かれる朝廷での諸侯会議での首班指名に掛けており、自らの武力行使で
政権維持を図るつもりは無かった。
しかし、慶喜側近の幕閣にも少なからずこの案に賛成する者もいた、若年寄の永井尚志などがそうで、
彼は、大政奉還後に続々と薩摩藩兵が上洛している事を察知、事前にこれを阻止する処置を慶喜に
進言したが、慶喜からは神戸開港の準備を命ぜられてしまい、永井は薩摩藩兵の上洛阻止が出来なかった。

年末の永井尚志の不在が、薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とする声さえある。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 16:24:54.24 ID:VN4vQbAt0
やっぱり幕軍が勝利するとすれば京で先制攻撃が正解だったような気がする。
交渉による位押しの路線て一見、確実に見えるけど最後まで絶対の我慢を貫き通す覚悟が必要だからね

当の慶喜でさえ討薩の表の時は少なからず期待しちゃったわけだし
130名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 02:10:43.35 ID:Bxin7K2N0
>>947
>幕府の代表者である徳川慶喜も賛同した大政奉還を、裏から非合法な形で
>葬ろうとした幕府内の勢力がいただけのこと。

慶喜の大政奉還路線を潰そうとしていた強硬派幕臣(幕権派)がいました。
徳川宗家のトップは、大政奉還路線かもしれませんが、人数から言ったら大政奉還に反対する勢力の方が多いです。
徳川幕府のトップとその側近以外は皆大政奉還に反対だった、と言っても良い状態。

特に江戸では、大政奉還撤回の声が公然と言われており、この実現の為には、
裏からや非合法な方法ではなく旗本・御家人・譜代は大っぴらに慶喜に直談判して
大政奉還撤回を求めています。

大政奉還の直後10月17日に江戸城で有司総登城の命令が下り慶喜無き大評定が開かれ
老中や各種奉行がほとんど出席し、幕権派の巨頭小栗忠順も出席しており、当然ながら
大政奉還大反対の結論になった。その後京に陸軍奉行、海軍奉行、などを兼務する
在江戸老中が次々に上洛して慶喜に接見し大政奉還の取り消しを求めた。

慶喜のお膝元であるニ条城では、流石に公然と大政奉還撤回を求める幕閣は居なかったが、
逆に公然と大政奉還に賛成した幕閣も少なく、精々板倉、小笠原、永井ぐらいである。

江戸から来た老中達は大政奉還の撤回を求めただけではない、先の見通しが立たないなら、
慶喜は江戸に帰り、譜代や旗本を糾合して江戸城で体制を立て直すべきだ、とも考えていた。
だから10月下旬に上洛した江戸の老中達は、11月11日まで二条城に留まり、慶喜への説得を続けた。
しかし慶喜は、大政奉還後には朝廷での諸侯会議で新政府首班(元首)に選出されるか、二条摂政
の後任に慶喜が選出される様に工作している事を説明して江戸の老中を何とか帰してしまった。

だが、この事で畿内やその近くの佐幕派諸藩は、江戸の幕閣のほとんどが、大政奉還に反対である事を知る。
その為か11月に入ると大垣藩の藩士である井田五蔵が、老中に“討薩の戦略”を上申披露した。
京と大阪の薩摩藩邸を佐幕派諸藩と幕府陸軍で先制攻撃し、さらに明治天皇を拉致して大阪城に
連れ出してしまおう、という作戦である。このプランは大垣藩だけが考えたのではない。
大垣藩の後ろには畿内の佐幕派諸藩のリーダーである紀州藩が控えており、津藩、淀藩、小浜藩、丹後宮津藩、亀山藩や
その他に会津藩、桑名藩などがこの計画を後押ししていた、幕府陸軍と佐幕派諸藩は共同で佐幕派クーデターとも言える
プランを徳川慶喜に提出していたのである。

だが、慶喜はこの作戦には賛同せず、何とか実行しないように幕府や佐幕派諸藩を宥めるのに精一杯だった。

龍馬や中岡、伊東申子太郎の暗殺は、井田五蔵の“討薩”を上申の直後に発生しており、
慶喜の中止勧告はあったものの佐幕強硬派による大政奉還阻止のクーデター計画の一環として
実施されたのではないだろうか?
131名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 02:30:15.00 ID:PMmGMQlPO
アニータ!アニータ幕府なのよ!!!!
132名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 01:45:42.81 ID:PUWRXQZw0
>やっぱり幕軍が勝利するとすれば京で先制攻撃が正解だったような気がする。

長州の藩兵はまだ畿内に居ないし、薩摩の在京兵力も少ないけど
(11月上旬の時点で約2000人?年末には4000人まで増強)
広島藩兵は1200人ほど京に居る。これが如何出るか?
薩摩藩の武器も禁門の変の頃よりは、格段に良くなっている。

幕府軍と佐幕派諸藩が、京の薩摩藩邸を攻撃すると、当然薩摩藩兵は藩邸に立て籠もって抵抗するわけで
そうなると京は禁門の変以上の大惨事になったと思われる。

おそらく大阪でも薩摩藩邸を攻撃しただろうから、江戸薩摩藩邸攻撃位の被害は出るね。

佐幕派クーデターは、成功するだろうが、薩長も黙っていないので
幕府軍と薩長軍は、畿内で大戦争となるだろう。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 03:07:56.08 ID:2bcWGOPnO
>>132
それが薩長の当初の予想だったんだけどなw
幕府側があんなにあっけなく山城から引き上げて大阪城まで捨てるなんて思ってなかったw
高嶺の花だと思っていた女が実はただのヤリマンだったような衝撃www
134名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 04:30:03.41 ID:jo3Ifzxz0
昔の佐々木克は王政復古クーデタを知った段階で挙兵して叩き潰すべきだったと主張していた。
一方で家近良樹などは京での暴発を抑えて下坂したのは有利な結果をもたらしたと主張する。
王政復古は越前・尾張も賛成しており、慶喜自身、土佐からの通報にも関わらず動いた形跡がないこと、
大坂を抑えて摂海と京を遮断する形勢が出来たことから、最近はこっちが有力なのかな。

しかし、下坂してきた時の慶喜の疲労度(サトウによる観察)、会桑の憤激の凄まじさ、
土佐からの通報時に慶喜が確信を持って抑えたと言うより、決断がつかなかったと思われること、
そして最後には慶喜が討薩に色気を見せて進発を許してしまったことを考えると、
京で決起したほうがよかったのかも知れないと言う気がする。慶喜が最後まで会桑を抑え切ると言う強い意思があれば別だが
135名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 04:46:47.85 ID:0EzY1K1l0
大村が「東海道で艦砲射撃されたら危なかった」と言ったのはなんだったんだろう
他の人なら100%皮肉と取れるんだが
大村って性格的にそういうこと言わないよな
136名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 08:57:15.52 ID:Qrt5ZAnH0
どうなのかね。勝はそれをやっても戦術的な勝利に過ぎないっつったらしいけど。

まぁ関東は一揆の嵐で上野に到っては藩主が追い出されるぐらい猖獗を極めてる上、
大坂からの物流が止められたらそれらの窮民を養う術がないから。
更に東山道と北陸の軍にも対処して……まぁ勝の言う通り長期戦化かも。
大村の首取る為にはもうちょっと何か欲しいな。
137名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 11:43:35.44 ID:2bcWGOPnO
東海道に冷奴ならべて網で捕まえる
138名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:13:46.79 ID:2A4HNqtU0
>>133
慶喜もカダフィ大佐ぐらい頑張って欲しいかったなw

【リビア】進撃するカダフィ、足を取られる革命家たち−アラブ紙社説[04/06]
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1302191344/

1 :mongerφ ★:2011/04/08(金) 00:49:04.42 ID:???
社説:進撃するカッザーフィー、足を取られる革命家たち

リビア情勢は政治的にも軍事的にもひどく不明瞭である。そのことは、このひと月半カッザーフィー大佐の体制に抵抗を続けている
リビア革命家たちにネガティブな影響をもたらすと思われる。

昨日米政権は、リビア元首からオバマ大統領に宛てられた書簡を受理したことを明らかにした。書簡では、
「リビアに対し十字軍的敵意を抱く帝国主義的軍事同盟」からアメリカが撤退したことへの感謝が述べられ、同時に停戦が提案されていた。

カーニー米大統領報道官は、リビア元首に対し口先だけではなく[連合側の要請を]実行するよう求め、また、
この類の書簡を受け取るのは初めてではないことを明かしたが、アメリカの対応は、リビアの武装反体制勢力の希望を挫くものであった。

反体制軍指揮官アブドゥル・ファッターフ・ユーニス・アビーディー少将の記者会見をみると、東部へ進軍するカッザーフィー部隊への
NATOの対応の遅さに、反体制軍の間で明らかに幻滅が広がっていることが分かる。
反体制側は、NATOに対する公式な苦情を安保理に提出することすら考えている。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 17:42:56.27 ID:2A4HNqtU0
佐幕派クーデターを起こすなら、長州藩兵力と薩摩藩の増援部隊がまだ上洛する以前の
1867年11月までだろう、12月になると討幕派の兵力が増加して佐幕派クーデターの成功
の可能性が薄くなる。

慶喜が11月までに決断が付かないのなら翌年の68年の5月まで戦争を始めない方が良い。
ストーンウォール号は4月まで幕府の手に入らないし、元込め式の銃をもっと導入しなければ
ならないし、アームストロング砲が手に入らなければ、代わりにクルップ砲を何十門と導入
しなければならない。色々やることがある。
>>136が言うように関東では薩摩藩のテロ活動もあり、騒乱状態なので、幕府陸軍は官軍と戦う前に
これらを鎮圧する必要がある。

>家近良樹などは京での暴発を抑えて下坂したのは有利な結果をもたらしたと主張する。

大久保利通が、同じ事を西郷に言っているから、そうなんだろう。
井上勲なんかは、慶喜は早ければ大政奉還と同時に、遅くても王政復古のクーデターの時までに
関東に帰り、江戸城で旗本と譜代を糾合して“関東甲信列藩同盟”の様な朝廷とは別の権威
を打ち立てる“東帰割拠”論が徳川再生の道と言っている(奥羽越列藩同盟からの支援も期待)。

松浦玲も、慶喜は鳥羽伏見の戦いに負けたからと言って大阪城を逃げ出したのが最大の負け要因、
としているし野口武彦なんかも同じで慶喜の桁外れなチキンぶりに呆れている。

特に野口武彦は、大阪城篭城戦では、大阪城の広大さと堅固な堀や壁、大阪城砲台の火力、城内の予備兵力、
膨大な物資、大阪湾での幕府海軍の優性、薩長軍の寡兵と補給の弱さ、などを考慮して幕府軍の優勢を分析
しており、大阪城の戦いが始まれば、土佐藩の裏切り(実際、鳥羽伏見の戦いの時に慶喜と連絡していた)
を考慮して官軍の敗退の可能性が大きかったと分析している。
実際に土佐藩が、幕府軍に寝返ると越前・尾張も怪しくなる。
140名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 19:56:58.74 ID:jo3Ifzxz0
いや、籠城は古来内から崩れてきたわけで、
鳥羽伏見で津・淀の両藩が裏切った時点では慶喜は東帰せざるを得なかったよ。
客観的な状況判断と主観的な状況判断は違う。

家近さんのは結局、外側から見た幕軍情勢の分析じゃないかな。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 02:54:29.01 ID:zmDqahxD0
>籠城は古来内から崩れてきたわけで

崩れネーヨ!
もう崩れている奴らは、官軍側に寝返っている。

大阪城に官軍が近づいて来たら、今度は土佐藩が徳川サイドに寝返るかもしれない。
板垣退助は、在国中だし。

>鳥羽伏見で津・淀の両藩が裏切った時点では慶喜は東帰せざるを得なかったよ。

ナンセンス!

客観的には、篭城すべきタイミング。
慶喜は、淀川上流から死体の山を積んだ何隻もの船を見てビビッて逃げ出したのが真相。

4日に淀藩が、6日に津藩が寝返っているのは有名だが、同じ6日に丹波最大の藩で佐幕派の
丹波亀山藩が西園寺公望率いる山陰道鎮撫隊に降伏している。翌7日にはやはり佐幕派の
福知山藩が降伏、大政奉還の頃から勤王派への色彩を強めていた園部藩、篠山藩は、難なく
同日に山陰道鎮撫隊に対して勤王を誓った。

この様に確かに鳥羽伏見の戦いの影響で丹波を中心に諸藩がドミノ倒し的に勤王派へ寝返っている現象はある。
だがこの現象も大阪城で慶喜が徹底抗戦を続ければ、大阪湾の幕府海軍の存在もあり止められる話。
大阪城を官軍が包囲してもナカナカ落城しなければ、畿内の諸藩も勤王派には、そう簡単には寝返れない。

ちなみに官軍が鳥羽伏見の戦いを進めている最中に山陰道鎮撫隊を組織して丹波制圧を進めていたのは、
万が一鳥羽伏見の戦いで官軍が負けた場合に備え天皇を長州や広島に逃す為の退路を確保しておく必要があったからだ。
官軍も少ない貴重な戦力を山陽道鎮撫に割いたのはこの為で、薩摩藩のこの時点での在京兵力は4000人だったが
鳥羽伏見の戦いに拠出した薩摩藩の兵力は3000人で残りの1000人はこの山陰道鎮撫隊に振り向けた。

この様に薩長でさえ貴重な兵力を分散し逃げ道を確保しながらの戦争であり、決して幕府軍撃退に確固たる自信があった訳ではないのだ。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 04:07:25.41 ID:Wap9CFKe0
とすると
@王政復古クーデタの計画を察知し得た段階での挙兵
A討薩表を掲げての上洛
B大坂籠城
いずれも勝つチャンスがあったと言うことか
一般にはAで幕軍が即時開戦に踏み切れる準備をしておればよかったとは言われる所だが、
さすがに紀州藩の動向まで怪しくなっている中で長期戦は難しいだろう
143名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 09:29:36.80 ID:zmDqahxD0
>紀州藩の動向まで怪しくなっている中

怪しくネーヨ!
立派に佐幕派している。

次の将軍職は、紀州出身の田安亀之助だから必至に佐幕派している。





勝つ最大のチャンスは、開戦を68年5月まで引き伸ばして、それまでに…

@元込め式銃とクルップ砲を更に買い込んで幕府陸軍に配備する事、
A幕府海軍は、ストーンウォール号を手に入れて操縦を覚える事。
B関東の幕府陸軍は、演習を兼ねて関東一円に治安出動を繰り返し、暴動、打壊しなどを鎮圧する事。

などかな、必要な処置は、その上で薩長と開戦すればよい。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 09:36:49.22 ID:QNNiNwiZ0
>>139
いや、鳥羽伏見のときに幕軍が京に乱入できていれば土佐が幕府側に付いた可能性が高いが、
正式な勅命が下った後である大阪城攻防戦の頃じゃ、それも難しいだろう。
土佐藩の軍には勤皇派が多いし、一度は差し止めたそれを戦線に出しちゃってるからね。下手すれば藩内で割れる。
あと大坂城内の予備兵力は旗本主体の歩兵隊で、野口もこいつらは使えねーっつってた気がするがw

>>141
いや、篭城って案外難しいのよ。
囲まれた後から敵の警戒線突破して能動的に作戦するのは極めて困難だから
時間とともに士気は落ちていくし、余程の信頼関係がないと城内に疑心暗鬼が蔓延るのは止められない。
小田原城なんかもそうだが、古来内応で落ちた城が数多あるのはこのせい。
まぁ幕府歩兵隊・会桑辺りだけで篭ればその心配はないかもしれんが、他を追い出したら追い出したで不安要素が増えるしなw
敗走の後だから元々士気が低い連中は信用できないし、武器兵器特に最新装備の喪失はかなり痛い。

何にせよ、出来るだけ早い段階で江戸から軍を上らせることが必要。
まぁ幕閣はやる気満々だからすぐ軍を出すだろうけど、問題はその兵と指揮官の質だろうな。
幕府歩兵隊の主力は大阪城だし、援軍の指揮官が小笠原みたいなのになったら悲惨な結果しか見えないw
どうなるにせよ、その軍で阻止に来るであろう薩長の軍に勝てるかどうかが戦局の分かれ目かな。

幕府海軍の威力は大いに認めるが、内陸部に対する影響は極めて限定的なので内陸の藩の寝返りは止められないだろう。
艦隊の取れる陸上作戦には厳しい制約があるから、大阪湾封鎖が最も重要な任務になると思われる。

あと忘れてるかもしれないが、山陽道は鳥羽伏見やってる頃から長州軍が駆け上がってる最中だぞ。
それと山陽道屈指の大藩である広島藩と岡山藩が、都落ちの際の朝廷疎開先候補に挙がるぐらいガチガチの勤皇藩であるのも痛い。
近畿地方で言えば、紀州に次ぐ石高を持つ彦根と津がさっさと寝返ってるのが不安要因。

ぶっちゃけ、有能な奴を司令官に据えて鳥羽伏見やってた方がかなり勝算が高いと思う。
145名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:06:03.19 ID:3L5TI6J6O
籠城ってw
鳥羽伏見は客観的に見れば軍事力は幕軍有利
大阪城を拠点に海軍で海上閉鎖
陸軍で陸路閉鎖
京都は補給線を絶たれ孤立
普通に戦えば幕軍が負ける戦ではないから
146名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:22:22.14 ID:pbHTvJiA0
>>145
>鳥羽伏見は客観的に見れば軍事力は幕軍有利
それが負けたのだから、指揮者の松平容保らがよっぽど阿呆ということなので、
なら他の旧幕府軍も信用できないという話になってしまう
147名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 13:29:07.64 ID:ne+8Ar4tO
どんなに大軍を擁しても
どんなに精強な兵を揃えようと
どんなに優秀な装備を持っていようと
指揮官が無能だと負けます
148名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 13:53:30.05 ID:SvPwvGOX0
竹中半兵衛の子孫、竹中丹後守のことか。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 07:27:38.54 ID:C2YYtrV30
勝つ最大のチャンスは、慶喜が東帰して開戦を68年5月まで引き伸ばして、それまでに…

@元込め式銃とクルップ砲を更に買い込んで幕府陸軍に配備する事。
A幕府海軍は、ストーンウォール号を手に入れて操縦訓練。
B関東の幕府陸軍は、演習を兼ねて関東一円に治安出動を繰り返し、暴動・打壊しなどを鎮圧する事。
C徳川宗家は、関東甲信列藩同盟、東海道列藩同盟、奥羽越列藩同盟を結成し東日本の支配権をアピール。
D幕府陸軍2万4000人の西上作戦の準備。
E薩摩藩と長州藩の船舶への継続的攻撃による畿内での薩長軍増強の阻止。

などかな、必要な処置は、その上で薩長と開戦すればよい。
150名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 08:57:19.37 ID:E+TB+6HY0
>>149
それを言っちゃうと洋式軍の絶対的な不足や指揮系統の不備という幕府軍の欠陥がなくなるなw
もはや幕府軍とは別物だ。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 10:48:08.38 ID:dRiDKZg60
志茂田景樹か星亮一の戦記小説を見るようだ。

実際は、事前に最新戦術教練と最新武器の配備に余念がなかったのは薩摩だったわけで、
実戦に堪える最新戦術という点では長州が抜きん出ていた。

会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。
幕府歩兵は武器は最新だったはずだが、戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、
追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。
152名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 03:58:17.70 ID:CkdgmDTY0
幕府にも島津斉彬みたいな人がいればよかったのに
153名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 08:04:01.21 ID:FdofPEkg0
>会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。

思ってネーヨ!

特に庄内藩と長岡藩は、もう全軍銃兵化を計画している。
藩士、郷士の身分は関係ナシの片っ端の銃兵化計画。
しかも最終的には、後装式銃での全軍銃兵化だ。

会津?シラネ
でも鳥羽伏見の戦いでは、白刃を抜いての万歳反復突撃は、物凄い物があった。
死者数も物凄いが…

>戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、
>追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。

まさか戦闘になると思っていないから、兵隊に弾を込める命令を出していないし、
丹波口からの山陰街道を下っている山陰鎮撫隊への攻撃もしていない。

最大のミスは、西国街道に幕府兵を配備しなかった事だろう。

西国街道を北上すれば、鳥羽街道の薩摩軍を迂回して薩摩軍の補給基地である東寺を攻撃出来たのだが、
幕府軍の西国街道無視で津藩は裏切ってしまった。
154名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 08:11:42.01 ID:fkgg+sZf0
>>153
文が矛盾していることに気付いていないのだろうか。
155名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 11:42:17.29 ID:XrjN6Pq3O
近代歩兵戦の経験値と金の問題で幕府が直接抱えてる歩兵隊とその他の藩兵の装備は差があるからな。

政治的な駆け引きとしても薩長髪
156名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 18:45:27.74 ID:RDywkV490
いや錬度はダメだけど装備は大して変わらんだろ。
歩兵隊も前装式ライフル。
江戸には後装式も多少あったし。
157名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 14:45:13.69 ID:YRaPQSx20
幕府歩兵隊の問題は、装備や練度よりも下士官の不足じゃなかったっけ。
伏見なんか奉行所から撤退した後最高指揮官がさっさと逃げ出して、
部隊は当てもなく一晩明かした後三々五々撤退とかお粗末すぎる。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 18:54:52.63 ID:oa6+3tYd0
>>154
銃だけで戦争を戦うわけじゃないから、べつに白兵戦における会津藩の戦力を評価するのは矛盾ではない
159名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 18:57:00.37 ID:XzjYQGOn0
下士官(軍曹級)よりも下級士官の経験不足は大きく影響しただろうね。
歩兵自体は士分ですらないから下士官程度までで指揮はできない。
中隊長クラスは士分を当てるから当たり外れが大きい。
まあそれより上のクラスでも近代戦を理解してた将校は何人いるか・・・
大鳥くらいじゃないのかね?
160名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 20:57:48.42 ID:6Py8FKGIO
>>159
大鳥も長州征伐でようやく基本を理解したってぐらいだからな。
少数のゲリラ的な戦いならある程度勘でやれたみたいだが、大兵力の火力展開から白兵突撃や後退の指揮までやれたのは寛永寺以降だったようで。
フランスやイギリスの教官から習った事だけではどうにもならなかった。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 23:18:27.69 ID:Q8T4FYRi0
先見性がある藩だからこそ新政府側へ寝返ったり日和見ったりするんだよな。
これらの藩を幕府側につけることが重要だったかも。
162名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 23:50:06.89 ID:6Py8FKGIO
>>161
味方は多いにこしたことはないからな。
ただ、どうやったら味方につくかって話で。
諸藩に分かりやすいビジョンとエサを与えるにはやっぱり天皇っていうカードは大きいかなぁ
163名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 03:56:17.77 ID:E0r9BtIa0
>>158
だが、旧幕府軍の戦力は優秀だったと宣言するときには、
鳥羽伏見の戦いに出てこない庄内・長岡を挙げ、
資料では討ち減らされるだけだった会津兵が勇猛だったかのように語るのは、鳥羽伏見の戦いにおける史実に反する。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 07:34:36.37 ID:D+YNLlmN0
大阪から京に直接行くのに、西国街道、鳥羽街道、竹田街道、伏見街道の4つがあり、
幕府と佐幕派諸藩の兵15000人が鳥羽街道と伏見街道にしか進撃しなかった。

これは大失敗。

西国街道と竹田街道には、薩長軍はほとんど居ない。
ここを進撃すれば、幕府軍も佐幕派諸藩も下京に突入できたし、
そうなれば鳥羽伏見で戦っている薩摩と長州の部隊の一部を撤退させて
下京防衛に回さなければならない。
そうなると鳥羽伏見の幕府軍は楽になる。

それに下京に幕府軍や佐幕派諸藩が突入すると、元々本音では徳川家よりの
土佐藩の寝返りが起きるし、それに釣られて越前、尾張も寝返るかも


大阪に留まっている姫路藩と京への進撃に出遅れた紀州藩には、
山陰街道に回り込んで進撃する命令を出しても良い。
薩摩軍1千人と決戦になるが、一部洋式化されている紀州藩兵相手なら面白い対戦になる。



まあ、実際のところ幕府軍は、戦闘になると思っていなかったんだろう。
兵士は弾丸も銃に込めていなかったぐらいだし、不意を付かれた訳だ。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 07:02:24.69 ID:LLx6qi7R0
>>164
戦術的には良いんだが…無理じゃね?
幕府軍の指揮官は「朝廷の命令により、通過させる事は出来ない」と関所で止められると、
「関所で止められたが、でどうしたら良いか?」と馬を大坂城へ走らせ、将軍様に一々お伺いを立てる。
多方面から進撃しても、この状況は変わらないだろう。結局、多方面で「通行出来ず、進撃不能」という報告が大坂に行くだけ。
この間に薩長に錦旗渡っちゃうよw。
最初から武力で突破して薩長に戦争準備させないのであれば、鳥羽伏見二方向からの進撃(史実通りの)で兵力は集中されているんだから、
余裕で勝てたはず。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 08:26:09.51 ID:tu6nDNA/0
西国街道、竹田街道では、幕府軍は止められないでしょう。
薩長軍が居ないんだから。

丹波街道の戦いでも、嵯峨で決戦となると天竜寺が焼けてしまうなw
167名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 09:01:10.62 ID:LLx6qi7R0
たまたま居なかっただけでしょ
朝廷命令として「幕府軍の通過を阻止しろ」と出されているので、薩長兵だけでなく大垣藩だろうがどこの藩だろうが居れば止めますw。
居る居ないという議論は無駄ですよ。そんな運まかせの戦術論は戦術論じゃありません。
戦術論で勝利を目指すなら「居る事を前提に」考えなければ、必勝の策とはなりますまい。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:00:23.34 ID:VXbf62bj0
まぁでも、薩長が居ればその分他の街道に展開してる兵力も薄くなるし、
薩長以外の藩が守っているなら突破できたかもしれない。
何より、幕府にはそれをやっても各街道で十分な兵力の厚みを維持できるという強みがある。

なーんて後世からの視点で言ってみても、あの幕府重臣連がそれを的確に指揮できたかは疑問だけどw
169名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 02:48:42.91 ID:vF8CwBsKO
170名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 19:46:52.53 ID:kXciYGsI0
慶応四年の正月早々から戦争する事無いんだよ。
関東では騒乱状態なんだから、それを鎮圧してから薩長と本格的に戦争すればよい。

ストーンウォール号を手に入れて、五月開戦で十分。

それまでに長州藩部隊の増強は有り得るが、
薩摩藩は鳥羽伏見の戦い直前に4000人の部隊を上京させたが、それ以上の増強はかなり厳しい。
薩摩藩内部に討幕戦争に批判的な声がある。
島津一門や家老でさえ意見が一本化されていないにの薩摩藩部隊を無理やり4000人を上京させている。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 23:21:40.28 ID:Bd+/77C30
>>170
それは無理じゃねぇか?
開戦したがっていたのは旧幕軍主戦派で、慶喜自身も止めようがなかった訳だし
172名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 12:29:50.89 ID:gpmh8ZHP0
薩摩藩江戸藩邸焼き討ち事件の発生を聞いた時点で、慶喜は江戸に帰還すればよい。
ちょうど関東は、騒乱状態だし。

詳細の報告書を京都の新政府に報告して
小御所(議定)会議で薩摩藩のテロ支援活動を断罪してもらえばよい。

薩摩藩の議定や参与の責任問題になり、解任されるかもw
173名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 16:41:43.53 ID:NlchFCB10
そこで慶喜東下の為に大阪城内を抑えきれるかがまた問題な訳で。
あの時点で脱出しても、それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。
まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし、余計な連中まで江戸表から上ってくるしな。
せめて幕閣の多数派がイケイケじゃなければ、何とかなったと思うんだが。
174名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 19:29:52.60 ID:kiVa3bIa0
>それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。

慶喜が居ない時には、大戦争は起こせない。

慶喜は大阪の幕閣に宿題を出してやれば良い。
幕府軍はいきなり京を攻めるのではなく、
まずは畿内の勤王藩を攻撃して、朝廷シンパが畿内に広まらないように手を打つべき。

慶喜は、大阪幕閣に畿内勤王藩制圧作戦を行うように言う
近江、大和、丹波、摂津の小藩が以外と勤王藩に転向しているケースが多い。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 10:28:30.95 ID:YXdTTC970
>>174
通常ならその通りなんだが、当時は慶喜の身が異常な状況だからな。
慶喜無しで統制できるなら、そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう。
幕閣で頼りになるのは板倉ぐらいだが、その板倉ですらお手上げ状態だからなぁ。

あと、勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で。
それならいっそ京を直撃した方がいいと思われ。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 18:52:56.08 ID:St0Cmp+V0
>まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし

いや、全員がそう思っている訳でもない。
慶応三年十一月までは、京に居る討幕派の兵力は薩摩藩兵2000名ぐらいだったが、
十二月になると薩摩藩の援軍2000と長州藩兵1300が上洛し討幕派の兵力が
5000人を超えてしまう。

永井尚志なんかは、薩長の援軍上洛を聞いて、
これ以上の討幕派の兵力増強を阻止すべく慶喜に進言している位。

>余計な連中まで江戸表から上ってくるしな

それは長州藩も同じ事、戊辰戦争で長州藩は最終的に2万人も動員している。
同じく薩摩藩は、数千人だそうだ。

>そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう

幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。

>勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で

理由付けの内容次第だろ。
無罪の藩にいきなり攻撃を仕掛けたら、朝廷三職会議で朝敵にされかねないが、
薩摩藩が関東で行っているテロ支援活動なら、むしろ薩摩藩の方がヤバイ立場に立たされる。

彦根藩や西大路藩、膳所藩などは、薩長の後方支援を行っているし、
園部藩、篠山藩などは天皇の逃亡の手助けをしているので、土佐、越前、尾張などの
徳川よりの議定(藩主)からは、非難されるだろう。

現実に畿内の藩がそれほど戦闘力を保持している訳でもない。
郡山藩の藩主も正室が薩長シンパの公卿一条家から嫁に来ているので、要注意だが、
実際に鳥羽伏見の戦いで、朝廷側に参戦して大阪城を攻撃した訳ではない。
大阪-奈良間の街道には、佐幕派の姫路藩兵数百名が陣取り、警戒していた為に
郡山藩は、何も軍事的には動けなかった。
177名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 00:01:18.79 ID:n8TUO/TC0
>>176
いやー、それはちょっと難しいんじゃないかな。
薩長側っつっても、彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ?
園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし、天皇遷御の密約を証明でもしないと
京で頑張ってる容堂公や春嶽公でもフォローできるか疑問。
あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。

軍事的には、王政復古で長州藩が大手を振って上洛出来るようになっていたことを考えれば、
敵の増強を待たずに鳥羽伏見の時点で開戦したことはそれほど悪い選択ではなかったと思われる。
ストーンウォールはあくまでも海上戦力だからね。
ただ、戦略的に指揮をとるのが史実通りの面子では話にならないが……
それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、春嶽公による政治的巻き返しに
期待した方がよい。
178名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 00:16:26.02 ID:MENVtCDq0
>>176
>幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
>討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。

了承してないしてないw
その見解は、「幕府歩兵隊(中公新書)」の著者が書いた「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」で語られたものだ。
ところが、その著者は幕府歩兵隊ひいては主戦派贔屓で、自分に都合良い資料と見解を述べているだけなんだよ。

「慶喜公伝」やその著者が使っている史料を丹念に見ていくと、
慶喜が了承したのは”討薩表”を朝廷に提出する事”であって、戦争に関しては依然として”戦うな”なんだよねw。
幕府主戦派は、提出を許可された事を利用して軍を進發させた。
主戦派の考えでは、圧倒的な兵力を前に薩長側が恐れをなし戦わずして入京。
討薩表を朝廷に提出した上で、御所に兵を入れる。
ここまで来れば、薩長は戦わずして敗れ天皇を奪還できると考えていた。
慶喜が色気を見せたのはコレね。戦争にならずに天皇を取り戻せるんならそれに越した事は無い。
だから、慶喜は討薩表を出す事に許可を与えたが、戦争をする事は許可してないんだよ。
179名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 00:22:58.11 ID:MENVtCDq0
ついでに言えば、だからこそ関所で進軍を止められ討薩表を提出出来なくなった幕府軍は、
大坂の慶喜に指示を仰いだ。圧倒的に兵力が少ない薩長から攻撃してくる訳がないと思っていたからこそ、
戦闘展開もせず行軍隊形のままで待機しちゃってたのさ。
そこを薩摩が砲撃して開戦になったんでボロ負けしたという経緯だからね。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 09:45:30.16 ID:DVVxuUCx0
>>176
すまんすまん、江戸表からの余計な連中ってのは、滝川とかの幕閣強硬派のことを指した積りだった。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 09:59:24.88 ID:vLW4seeq0
>「慶喜公伝」

「慶喜公伝」w
それ明治政府への言い訳文章だからw

それに進撃許可を与えて、戦闘許可は与えない。
なんてどんな言い訳よw
旗本銃兵と薩摩藩士が伏見で「通せ!通さない!」の押し問答している最中に、
伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw

>園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし
>あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。

畿内の小藩は、直接的な軍事行動は出来ないですよ。
兵力も少ないし銃兵化もしてないし、精々公家と密談して
「朝廷側に付きます」って言っているぐらいなもの。

>彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ?

彦根藩・西大路藩・膳所藩は、大政奉還の頃からもう幕府から離れ始めています。
彦根藩家老の岡本黄石だけが慶喜に近く二条城や大阪城に居るだけです。
藩主も井伊一門もほとんどの家老も在国中で朝廷寄りになっていますよ。
後方支援の為に東寺に入ったのも鳥羽伏見の戦い以前からです。

>それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、
>春嶽公による政治的巻き返しに期待した方がよい。

土佐・越前・尾張の政治工作で時間を稼いでその間に関東の騒乱状態を鎮圧し
ストーンウォール号や元込銃やクルップ砲を手に入れて置けば良いと思います。
引き伸ばせば、それだけ神戸港からの関税収入は手に入るし徳川サイドに有利です。

長州藩兵の更なる上洛があれば、その事を理由に幕府陸軍の西進を始めても良いわけです。

それに薩摩藩の関東でのテロ支援活動を土佐・越前・尾張の三候に頼んで朝廷で暴露してもらえば良い。
大久保一蔵は、参与を解任されるかもw
で討幕反対派の薩摩藩家老関山糺が参与に任命されたら、薩摩藩の討幕姿勢は鈍りますね。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 18:52:54.98 ID:DVVxuUCx0
>>181
篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。
要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。

幕府陸軍の西進が良く分からんが、東下の際に連れてくってことかな。
薩摩の非を鳴らすのは、政治的には+になったかもしれない。
参与云々については、当時の薩摩藩の内部事情に詳しくないので何とも言えないが。
ただ、時間稼ぎっつっても、容堂公と春嶽公は本気で慶喜中心の諸侯会議を目指してる訳で、
京で結論が出た場合は旧幕府として何らかのリアクションを取る必要に迫られるってのはある。
とりあえず納地棚上げして召集しようやってとこまで話は進んでた訳で。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 21:58:33.30 ID:y3xv+wCh0
>>181
>慶喜公伝について
もちろん明治維新後の自己弁護が入っている訳だが、それだけを見て言っている訳じゃないよw。
「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」の参考文献を取り寄せて呼んでみなってw。
逆に聞くけど、「慶喜が先頭許可を与えたという明確な史料」も無いだろw。

>伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw

 そう。幕臣主戦派は戦いたくって仕方がない。ところが総大将の慶喜が先頭許可を出さない。
だから”主戦派と慶喜の妥協案として出てきたのが、大兵を京都へ送れば、薩長がビビって逃げ出すだろうから、戦争になる事もなく勝てますよ”という案なんだって。
主戦派と慶喜の玉虫色出兵策ね。慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。先頭許可は与えずにね。

 そもそも、戦争許可を与えていたなら薩摩藩兵が守っている関所にのこのこ「通せ」なんて交渉する訳ないじゃん。
薩摩兵見つけた途端に攻撃開始でしょw。先頭命令が出ているなら。交渉なんてする必要ない。
攻撃して薩摩兵を蹴散らし、悠々と関所を突破して京都に行くでしょう普通w。
そうしなかったのは、戦うなと言う指示が出ていたからだよ。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 22:01:22.40 ID:y3xv+wCh0
誤字修正
参考文献を取り寄せて呼んでみなって:×
参考文献を取り寄せて読んでみなって:○

先頭:×
戦闘:○
185名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 23:26:07.64 ID:+ql0wMem0
慶喜の上京って軽武装上京じゃなかったかな?

それが、何故か途中で残らず行け!で15000人の大軍になっており、
これでは、慶喜は戦闘に入る事を半ば黙認している事と同じ。
と言うのが野口武彦氏の説明。

漏れもそう思う、慶喜は、あわよくばって思っている。

>慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、
>結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。戦闘許可は与えずにね。

これは残念に思う。
薩摩藩のテロ活動で、武蔵と相模は、騒乱状態だし
江戸市内の治安も急に悪化しているので、そちら鎮圧を優先する!
と言う事を慶喜は貫き通せなかったのは、誠に残念。

>要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。

薩摩が、そう言って来たら、山内容堂あたりに
「じゃ〜11月からやっている関東での薩摩藩のテロ支援活動何とかしてよ、もう土一揆まで誘発してんだから!」
長州が文句言って来たら、松平春嶽あたりに
「お宅の軍隊が、山陰道を上がってくるけど、ナンなのよ?畿内で大戦争する気?」
と、それぞれ議定会議で言ってもらいましょう。

下手をすると、薩長の責任問題になり、議定や参与の解任に成りかねません。
慶喜の責任問題も、ウヤムヤに。

>篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。

討幕派と佐幕派の内紛でゴタつく畿内小藩が多いです。
膳所藩も藩主が佐幕派だったので、藩内の討幕派と佐幕派の内紛は一応佐幕派が押さえ込んでいました。
それでも藩内で藩士同士の切り合いや、藩主による討幕派の大弾圧としての藩士の大量切腹がありました。
しかし大政奉還で藩主も討幕派弾圧を止めてしまい、同じ近江の彦根藩の動きに合わせて討幕派に合流と言う感じ。

郡山藩が討幕派に近づいた為に、同じ大和の柳生藩(歴代将軍の指南役)まで
討幕派になったのには、畿内諸藩で評判になりました。
186名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 14:50:23.04 ID:GCTYYlnP0
>>185
ちょっと勘違いしている様に思うのだが、容堂公も春嶽公も無条件に旧幕府の味方って訳じゃないぞ?
王政復古を起こして旧幕府勢力を排除したのは薩芸尾越土だ。
ただ、来るべき諸侯会議において、その中心となるべきは徳川家と慶喜しかあり得ないという点で
慶喜と協力関係が結べた訳で、あの時点においては薩長と旧幕府、どちらかの勢力が圧倒的に
優勢になるのは困るんだよ。
徳川家の力を削ぎすぎれば史実みたくなるし、逆に薩長の力を削ぎすぎれば幕権派が益々勢いを得て、
諸侯会議なんて構想は根元から吹っ飛ぶから。

だから長州藩の兵が早速上ってきてもそんな気にしないし、徳川家に対する辞官納地問題は全力で排除した。
あの時点で薩摩の起こした騒擾を利用するとしても、西郷を遠ざけるか辞官納地問題もしくは
慶喜上洛の条件について多少有利な条件を引き出すぐらいだと思われる。
さすがに史実のような大軍での率兵上洛は、諸侯会議派も望んでないから。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 22:47:38.82 ID:YzDk7lok0
>さすがに史実のような大軍での率兵上洛は、諸侯会議派も望んでないから。

じゃ慶喜が江戸に東帰して薩摩のテロ支援活動による関東の一揆や強盗を鎮圧するのは問題ないな。

>その中心となるべきは徳川家と慶喜しかあり得ないという点で

ニ条摂政の後任に慶喜、と言う話しや、諸侯会議で新政府首班や元首(大君)に就任するのは、尾越土それぞれ認めている。

他にも新政府の議定にはもちろん、総裁(関白)の次の位としての新設の2のポスト副総裁(副関白)に慶喜が任官する
という話しも尾越土が根回ししている。小御所会議では、尾越土が、慶喜に単なる議定ではなく副総裁(副関白)に任官
する様に(しかも天領400万石と陸海軍そのまま保持して)工作している現実。

これでは幕府はなくなっても、徳川宗家の政権が継続する事には変わりが無い。
しかも関東では、最後の幕政改革“慶応の改革”が続行中と言う時期にである。

>だから長州藩の兵が早速上ってきてもそんな気にしないし、

そうかな?
尾越土は、直接言わなくても、王政復古のクーデターの3日後には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが
御所からの軍隊引揚を要求し、薩長の上洛援軍について問題視し始めている。
肥後藩・筑前藩・阿波藩は、新政府に参加していないが、それなりの大藩なので岩倉ら公家議定も無視できない状態。

肥後藩・筑前藩・阿波藩の後ろに慶喜が居て、言わせているのか、までは知らんがw
188名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 23:01:26.76 ID:YzDk7lok0
>あの時点で薩摩の起こした騒擾を利用するとしても、西郷を遠ざけるか辞官納地問題もしくは
>慶喜上洛の条件について多少有利な条件を引き出すぐらいだと思われる。

既に史実でも、小御所会議が進むにつれて、徳川宗家直轄領の返上問題は、ウヤムヤになっている。

西郷の責任問題が出て(御所の警備責任者を)解任されたり、慶喜の上洛条件が緩和されれば、願ったりかなったりだw
薩長ら武力討幕派と付和雷同組の広島藩や岡山藩の間を裂く事にもなるし。
189名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 00:28:04.09 ID:/ZbVxqDS0
>尾越土は、直接言わなくても、王政復古のクーデターの3日後には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが
>御所からの軍隊引揚を要求し、薩長の上洛援軍について問題視し始めている。
>肥後藩・筑前藩・阿波藩は、新政府に参加していないが、それなりの大藩なので岩倉ら公家議定も無視できない状態。

これを見ると、慶喜が12月12日に二条城から軍隊(幕府軍5千人会津勢3千人桑名勢1500人)を率いて
大阪城に撤退する訳だが、幕府軍全てを大阪城に撤退させる必要は無かったかもしれない。
二条城に幕府軍2千人程度残した方が良かったかも知れない、大阪城には別に兵力が有るんだし。

肥後藩・筑前藩・阿波藩が御所から撤退を要求した同じ日に慶喜は大阪に撤退してしまうので、
この三藩の抗議で折角引き起こしかけた公家議定の動揺を生かしきれなかった。

12日に京から撤退してしまった為に、薩長は単に王政復古のクーデターで京都御所を占拠しただけでなく
京の市政まで掌握してしまう結果となる。14日に慶喜率いる幕府軍や佐幕派諸藩が京から居なくなった
事に気を強くした薩長は、三職会議で強引に京都町奉行の廃止を決定してしまう。

京を軍事的に支配してきた京都守護職と司所代は、王政復古と同時に廃止されたが、
実は守護職と司所代職の解任は慶喜が自主的に行ったものだ、なぜなら洛中での衝突を
避けたいと言う慶喜の意向があったからだ。
しかし、京都町奉行は一般の自治体行政事務も掌握している為に王政復古と言えでも
廃止できなかった。

しかし、慶喜が京から軍隊ごと撤退した為に薩長は京都御所の占拠だけではなく、京の市政まで掌握するべく
処置を取る。朝廷による京都町奉行の廃止命令だ。これにより京都町奉行は、洛中の警邏も出来なくなり、
また京都町奉行職員も洛中にいる法的根拠も無くなり伏見奉行所まで撤退している。

また、朝廷も洛中の混乱や治安の悪化を懸念しており、京都町奉行に代わり独自に新政府は
従来の京都町奉行所にかわって「京都市中取締役」を設置、膳所・篠山・亀山の3藩をこの職にあてた。このうち篠山・亀山両藩は佐幕派であり、その為に実際には独り膳所藩のみが洛中での治安活動に当る事になるが、
膳所藩は小藩で藩士の数も少なく、余り実効ある警察行為は出来なかったようだ。

この様に慶喜が、軍隊全部をつれて大阪城に撤退してしまった為に京都御所に
立て籠もっていた薩長は洛中全体を掌握してしまう状態になる。
二条城に少し手も兵力を残しておけば、この様な事態にならなかっただろう。
190名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 06:10:34.51 ID:S6eVg3pW0
後藤が慶喜に通報していることから考えて、
土佐藩首脳はクーデタに対してのリアクションを暗に要求してた可能性あるなあ
191名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 22:45:35.84 ID:dPnDmVNn0
司所代→× 所司代→○

>>190
当然あるだろう。

幕臣の永井尚志も薩長の援軍上洛阻止を慶喜に進言しているし、
強硬派の会津藩士佐川官兵衛や林権助は、薩摩藩先制攻撃論を慶喜に吹き込んでいる。
大垣藩もかなり詳細な対薩摩藩クーデターの上申書を老中に提出している。

だが慶喜は、調停工作に自信が有るのか、全然武力行使には乗って来ない。

畿内や京で武力行使をしないのなら、江戸に帰って一揆や薩摩支援の強盗を鎮圧するなり
慶応の改革を慶喜自身で陣頭指揮を執って進めるなり、色々やれば良いのに、と思う。

畿内に将軍が居ると朝廷の権威が大きくて慶喜の存在が小さく見える。
関東に帰れば、徳川宗家の本営であり朝廷とは別の権威となる。
慶応の改革がそれを更に軍事的経済的に補強する。
192名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 23:50:34.26 ID:dPnDmVNn0
>朝廷による京都町奉行の廃止命令だ。これにより京都町奉行は、洛中の警邏も出来なくなり、
>また京都町奉行職員も洛中にいる法的根拠も無くなり、伏見奉行所まで撤退している。

京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけの出先行政機関であり、
江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制だった。

東西それぞれの奉行所には同心20名、与力50名が配置され、京全体で町代17名が、
京都奉行所の行政事務に携わっていた。さらに町代の下には1〜2人の下町代が
配置されているし、江戸時代後期には同心・与力の人員が水増しされているので
平時でも東西それぞれの奉行所には100人以上の職員が所属していた事になる。

それが急遽、朝廷による京都奉行所廃止命令の為に活動を停止した。
身分が町人であった、町代と下町代が朝廷が新設した「京都市中取締役」の下部組織として
取り込まれたが、れっきとした徳川家の御家人である京都奉行所の同心・与力は、京都奉行所
廃止命令で急遽洛中から脱出し慌てて伏見奉行所に入った。

京都守護職の指揮下にあった京都見廻組と新撰組は、京都奉行所とは強い横の連絡があり、
事実上見廻組と新撰組、京都奉行所の三組織が連絡を取りつつ幕末の洛中の治安を維持していた。
その為に朝廷による京都奉行所廃止命令で、見廻組と新撰組も一緒に洛中から脱出し、
同じく伏見奉行所に集結した。
そして洛中から脱出した見廻組と新撰組、それに京都奉行所の同心・与力の三者は、
伏見奉行所の同心・与力も合流し“遊撃隊”を結成、隊長には京都奉行が任命され
伏見奉行所を根拠地に薩長軍の偵察を行っていた。事実上幕府軍の先方部隊との
位置づけである。

しかし洋風軍服を着込んだ幕府陸軍兵士とは異なり、見廻組みも新撰組も腕に自信のある
剣客集団だから遊撃隊は銃兵化は全くしておらず袴・羽織の和装に腰には刀を差している
日本古来の侍の姿のままである。
193名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 23:53:45.54 ID:dPnDmVNn0
京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけの出先行政機関であり←×
京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけに次ぐ出先行政機関であり←○
194名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/25(月) 14:00:20.73 ID:pySTpeT40
>>187
>肥後藩・筑前藩・阿波藩
それは御所の兵についてで、上洛軍は問題にされていたかな。
どちらにせよその動きも、辞官納地問題の駆け引きに利用されて、薩摩の政治的譲歩と共に終了でしょ?
軍についてはそのまま。俺の言ったこととは矛盾してないように思えるが。
そのレスで君も追認してるように、公議政体派にとっては第一に徳川家が日本の柱石として健在でなければ困る訳で。

>>188
まー、容堂公と春嶽公がどの程度やるつもりだったのかは分からんけどね。
195名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/25(月) 14:09:15.10 ID:vabcaEUN0
>>190
容堂公は端っから、小御所に慶喜公を呼べっつってるしね。
公議政体派っつっても、軍事衝突が避けられない所まで来たら旧幕府を支持する方に舵を切ったと思う。
鳥羽伏見の時もそんな動きをしてるようだし。

>>191
京から至近に慶喜が鎮座して、周囲に睨みを利かしてるってのは政治的に大きいぞ。
勅許が下りたら即上洛できるしな。

むしろ、旧幕閣の殆どが江戸で雁首揃えてたんだから、そっちはそっちで何とか出来なかったんだろうか。
相手も正規軍でなく、一揆や薩摩の集めた浪人なんだし。
最近、有能有能と評判の小栗とかも江戸に居るんだし。
196名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/25(月) 22:41:22.78 ID:kYtdH/Gy0
>>195
それで薩摩藩邸を焼き討ちしました。
197名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/27(水) 04:44:26.91 ID:EfjheTvJ0
>京から至近に慶喜が鎮座して、周囲に睨みを利かしてるってのは政治的に大きいぞ。

それは大政奉還や王政復古の以前の話し。
早くて大政奉還、遅くても王政復古時に慶喜は江戸に帰るべき。

>勅許が下りたら即上洛できるしな。

王政復古後に慶喜が呼び出されてノコノコ軽装備で朝廷に顔出したら、
薩長に身柄拘束されかねない。

>旧幕閣の殆どが江戸で雁首揃えてたんだから、そっちはそっちで何とか出来なかったんだろうか。

江戸の治安の悪化の原因を検討した結果、江戸の薩摩藩が問題だ。
と言う事になったのだろう。

慶応の改革は、慶喜が京に居ながら、江戸の老中や奉行たちと連絡を取り合い進めている。
しかし慶喜が江戸で陣頭指揮を執れば、もっと早く出来るし、もっと効果を期待できる。

小栗なんか旗本領を加増して大名にしてしまい、老中に任命すれば良かったのにw

武蔵や相模の一揆は、慶喜が陣頭指揮をとり鎮圧する事で、
関東が徳川宗家の本拠地である事を朝廷にアピールする事が出来る。
また関東駐留の徳川陸軍は一揆鎮圧で戦闘経験が積める。
198名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/29(金) 04:44:51.67 ID:ipDbsouiO
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ〜また食いたくなってきた〜。
明日も食うけん!!
199名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 23:45:36.54 ID:AoBVyD8f0
変革を願って政治運動に参加したのは食い詰め浪人か貧乏旗本の次男三男坊だからな。
まさか世の中ひっくり返ると思わないから与党もまじめに対応しないだろ。

つ ま り 旧 幕 府 軍 は 勝 て な い
200名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 02:36:27.63 ID:OutBiSDD0
>>199
そういう連中を集めたのが、京都の見廻組や新撰組なんだがw

また、最後の幕政改革の「慶応の改革」で旗本の部隊指揮権と領地収入の半分が幕府に奪われた。
幕府陸軍は、必ずしも旧来の身分制度に捕らわれない人材が登用され始めている。
従来の旗本八万騎から西洋式の銃兵に変わろうとしている時期に、旧来の身分のどうのこうのは無関係。
201名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 17:33:14.04 ID:/i1CUq730
素直に考えりゃよかったと思うんだよな。
関東が騒乱状態だから江戸に帰って幕府改革を進めるでもよし。
京でのクーデタ対処を優先して薩摩に対抗するでもよし。

関東を固めれば、一時は政局を放棄しても幕府はクリンチに持ち込めただろうし、
京で対抗すればどこかで折り合いがついた。鳥羽伏見の初日が全てだった。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 21:32:19.02 ID:MbmC5FMW0
関東に帰っても幕府なんて機関はもう存在しない
あるのは関東徳川領
203名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/03(火) 09:54:50.96 ID:8YYRHH2l0
>>200
よく反乱起こさなかったなと思うんだが、旗本。
旗本改革訴えた原市之進は殺されたのに。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/03(火) 22:25:53.27 ID:Lfrck5b50
徳川にはまだ!手付かずの旗本八万期がいる!
205名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 20:52:20.98 ID:flFqra6r0
いや実際には旗本八万旗もいないし。五千旗ぐらいだし。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 20:54:30.87 ID:gZ1L/7lO0
幕府歩兵が貴重な実戦経験を積めるし、関東・奥羽諸藩の動向は固まる
皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている
それと、薩摩藩邸焼き討ちで幕閣と慶喜の意思疎通が齟齬することは少なくともない
207名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 11:32:26.43 ID:aSMR7L8I0
>皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている

だから慶喜は、大阪城に立て籠もって戦争を続けるべきだったんだよ。

カダフィを見習えってんだ。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 11:55:25.40 ID:gLDsW6lV0
カダフィは援軍を呼ぶ当てがあったが、ケーキちゃんの場合、主力として関東から上ってくるのは
幕府歩兵隊の居残り組みとその他有象無象だぜ?
209名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 17:33:37.32 ID:QI/9rWe3O
大佐の敵は民兵と脱走兵ぐらいだけど
慶喜の場合は主力が有利な状態で
少ない敵に粉砕されたからねえ
210名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 18:43:30.28 ID:d0zVdwPE0
というか慶喜って旧幕府軍の勝利を強く望んでたの?
幕府軍が薩長に勝利するってことは幕藩体制が続くってことでしょ。
抜き打ちで辞官納地を要求されたのは腹が立つけど、江戸の幕府首脳に対する不信感も強そう。
211名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 20:51:07.41 ID:n5YGRpEa0
鳥羽伏見の戦いや大阪城の戦いで慶喜が勝ったら、
ニ条摂政の後任として慶喜が、徳川宗家の領土や軍隊を持ったまま摂政になるだけ、

慶喜バージョンの明治維新が進むだけ、つまり慶応の改革が、より大規模に遂行される。

幕藩体制維持は、慶喜の望む所ではない。

あと関東には徳川陸軍24,000人が居たんですけど、史実では使いませんでした。

もしガッツがある慶喜が大阪城で篭城していたら、関東の徳川陸軍24,000が小栗指揮の下で西進するでしょう。
他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。
212名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 21:05:39.93 ID:hsrf8kxG0
>>211
>他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。

それは妄想。徳川慶喜が絶対権を確立するには、他の同盟の成立は許さない。
ゆえに公儀政権も名ばかりの徳川慶喜に隷属した組織になるし、
そこでの軍事活動も、幕府ないし徳川慶喜の次の政権の枠に隷属した、下働きとしての活動になる。
213名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 21:10:32.89 ID:7YXIt4Of0
大坂籠城は、何度も指摘されてるけど、津藩、淀藩が寝返り、
紀州藩の動向にも疑念が飛び交ってるような状況では無理だったと思うよ。
幕府艦隊が摂海を遮断して薩長軍の上京を阻止し、
なおかつ幕府歩兵や諸藩が速やかに大坂へ進発すれば別だけれども、
大坂に籠居していると知って駆け付けてくる藩はそれほど多くないでしょ

やはり京での決起か、もしくは江戸帰還。
214名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 08:02:21.92 ID:5tLldOpC0
籠城ってのは「籠もっているだけ」だから、負けはしないが勝ちもしない。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 15:27:55.78 ID:mqmd3urF0
籠っているだけ、って事はない。
西郷は。鳥羽伏見の戦いの後半には、長州藩や広島藩や土佐藩と大阪城攻略の打ち合わせ
をしている。土佐藩は、その時に裏切って、幕府軍と合流するつもりだった。
216名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 22:09:56.23 ID:sCNnJMmh0
土佐藩って幕府軍に合流するつもりだったんか?
んー谷干城や板垣退助とは違う反主流派でも存在していたの?

熊本藩みたいに。
217名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 13:54:23.08 ID:6/dl/gR/0
土佐藩が幕府に味方する積りだったのは鳥羽伏見の時だろ
幕府軍が京に乱入出来てれば実現した

その後はわざわざ遠ざけてた主戦派の板垣やらが軍を率いて復帰してるから難しい
218名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 19:38:41.73 ID:D3SbpXLn0
>>211
長州征伐でその五倍率いても大敗じゃないかw
219名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 09:49:32.91 ID:zxjFmrvI0
薩長は、鳥羽伏見の戦いに勝ったとはいえ、それなりに被害も受けており
また、5千人と言う寡兵でもあるので、西郷は、それぞれ洛中に千数百人程度
の軍勢を集結させている土佐藩や広島藩に大阪城攻略の応援を頼んでいる。

土佐藩の裏切り計画は、始めは官軍による大阪城包囲に加わってから、
城内の幕府軍と連絡を取り合流する腹積もり。
既に鳥羽伏見の戦いの最中にも連絡を取り合っているが。

山内容堂と後藤は、大阪城の戦いは、長期化が予想され、特に
官軍サイドの補給が続かない事を見越しており、西郷も幕府軍が
大阪城に籠もられたら大変だ、と言う認識を持っている。

慶喜が大阪城から逃げ出した事で、全てがオールアウト!
220名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 10:16:31.45 ID:kUTNGoDw0
一分銀コレクターなんだが、幕末はエラーや偽鋳が結構多いんだよね
お前らが思っている以上の混乱だった気がする、何事も理屈通りにはいかないよ
221名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 11:46:21.98 ID:svfLhjBY0
>218
第2次長州征伐時に稼動した幕府歩兵大隊は4個にすぎない、幕府側諸藩兵も殆ど洋式化されていない。

鳥羽伏見参戦の幕府歩兵大隊は伝習大隊含め11個、幕府側諸藩の洋式化もいくらかは進んでいる。

また武器弾薬の輸送は海路を取らざるを得ず、また輸入も当然海からで制海権は確実に幕府が抑えているので補給が困難。

さらに薩長の戦費にしても大阪商人が拠出しているので、大阪押さえていれば戦費拠出もままなならない。
平時では商人自治にに任せていたが、戦争となれば薩長に金出す商人の首切ることも可能。
222名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 22:31:34.65 ID:fHcBUXsE0
鳥羽伏見の戦いの後の大阪城の戦いで幕府側の強みは、天王寺に幕府軍の
物資が集積してあるので、それを大阪城に入れるのにはそれほど時間が
かからない事と大阪城の砲兵隊は、まったく無傷で残っている事。
また、>>221の言うとおり幕府海軍が大阪湾の制海権を握っている事。

この3つがある。

大阪城の砲兵隊は、鳥羽伏見には出陣していない。
また弱兵の指摘が有るが、大阪城には、3000人の予備兵力(旗本出身)が居る。
これらの兵力は、鳥羽伏見の戦いには全く参加していない。

これらを新規に戦闘に投入できる大阪城の幕府方は、軍事的にはかなり有利な立場。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 07:18:31.54 ID:7ZmDtseWO
紀州藩、美濃大垣藩、庄内藩などは長州より先に軍備の洋式化、近代化をしてる
224名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 20:21:03.57 ID:zWFW4uNP0
>>221
長州はそれ以上に進んでいる。
長州藩は戊辰戦争末期には二万ほどミニエー銃輸入しており、
諸隊の数も200を越えている。隊ひとつで100人ほどだから、
二万という大軍だ。洋式化されて訓練された軍がな。

また幕府が制海権を抑えていたというのも間違いである、
抑えているなら、薩長の軍がそもそも自由に上陸できるわけがない、
長州征伐でもオンボロの長州海軍に制海権を握られており、
幕府海軍はなにも出来なかった、大島からは追い出され、馬関海峡を自由に航行していたのは長州である。
ましてや薩摩の海軍までいるのに、幕府がかなうはずもなし。

また長州藩は100万両ほど貯金を隠しもっており、当座の資金に困る事はない。
また大阪をどうやって幕府が抑えるというのか。
商人の首などきれば、幕府からさらに人が逃げるだけである。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 21:32:29.18 ID:t2BGXqdo0
>224

大きな間違いをしている。
ミニエー銃2万丁というのは戊辰戦争終了時点であり、江戸をおあさえて以降に江戸、横浜の商人からも徴収して戦費にしている。

また動員兵力=派遣可能兵力ではない、戊辰戦争ピークでも長州が派遣した戦力は7千程度。

話を戻すが鳥羽伏見時点での在京戦力は千名余にすぎない。

鳥羽伏見時点の話をしているのに時系列がむちゃくちゃ。
海軍にしても第2次長州征伐時の幕府軍艦は富士山、朝暘の2艦のみ
鳥羽伏見時点で大阪沖にいた幕府軍艦は2800tの日本唯一のフリゲイト開陽はじめ富士山、回天、蟠竜の4隻がいて兵庫港にいた薩艦2隻は開戦と同時に尻尾をまいて逃げた。
226名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 22:16:07.38 ID:gXQmTIly0
6日に尻尾を巻いて逃げたのは開陽ら榎本艦隊でしたが。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 22:48:38.99 ID:4xAmdsNv0
両サイドの兵の数だけ見るなら、
「戊辰戦争、薩長軍勝利の可能性について」の方がしっくり来るのだが、
その可能性が現実となってしまい、後の歴史が作られているのだから仕方ない。
まさかの慶喜トンズラ!は誰もが予測できない可能性だと思う。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 07:40:02.93 ID:WIVEuOru0
兵の数だけ見なくても、緒戦で薩長軍が負けてたら薩摩藩指導者は失脚でしょ
いくら玉を抱えてても
本当に西郷大久保以下が見通しがあって決戦に踏み切ったのか疑問なんだよな
229名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 11:44:24.50 ID:eFnCd0pF0
大きなターニングポイントは鳥羽伏見の初日。
市街地の伏見はともかく鳥羽方面は兵の質量からしても幕府側が戦闘態勢で望めば負けるべくも無い。

朝廷内でも倒幕主戦論の薩長は浮いている存在でほとんどの大名、公家は日和見であって第一日目で幕府が敗退しなければ、幕府側に多くはなびく。
230名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 13:19:38.32 ID:y98VZVP1O
大阪城にどっしり構えられたら薩長は手がでない
その上で京方面を包囲するような布陣で圧力をかければ薩長主導の勢力は自然と崩壊しそうだ
231名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 13:24:50.36 ID:y98VZVP1O
錦旗というが勝って玉を挽回すれば長州がそうだったように朝敵の汚名は返上できる
慶喜は自分こそ尊皇という自負があったはず
すると何考えて逃亡したのかよくわからない
232名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 20:33:30.88 ID:YeEk6rfV0
なんで幕府が負けたかはっきりとは言えないけど、薩摩藩は相当自信があったんだろうね。
少なくとも幕府勢力をなめていた節はあると思うよ。

安政の大獄初期に島津斉彬が政局物申すために精鋭部隊を率いて上京しようとしたり(これは未遂だが)、
文久年間に島津久光が兄のやり方を継ぎ、藩兵を率いて江戸に威嚇上京を行って幕政改革を成功させたり・・・
鎖国が解かれたとはいえ、幕府しか貿易の権利がないところを、江戸のお膝元の横浜で堂々と諸外国と貿易をしたり・・・
(幕府は薩摩の威勢に遠慮して、知らないふりを決め込む)

王政復古のクーデターも薩摩藩のそれまでの武力を背景としたやり方と同じなだけに、
まあ「今回も上手くいくだろう」思っていたような気がするんだけど、要求が限度を超えてたため鳥羽伏見の戦いになっちゃった。。

>>231
俺もわからん。慶喜が逃亡した理由は別にあったんじゃないかと思うのだが・・・
緒戦で負けて錦旗が出たから逃亡した・・・では、あまりに慶喜の行動が自由すぎるw
仮にも2ヶ月前まで将軍。そんな個人的理由でいいのか!?って普通は思う。
233名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 20:52:35.03 ID:YeEk6rfV0
やっぱり慶喜はそれまで将軍として薩摩藩の重役らと接してきて、
どう考えても幕府側に対抗できる人材がいない・・・というのを身に染みて感じていたからだと思うのだが。。。
で、大阪籠城をあきらめたとしか思えない。

というと、佐幕派が猛追撃してきそうだなw司馬に毒されすぎか?
234名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 07:54:17.28 ID:4q4+71QY0
人材が足りないのは事実だが現場指揮官の優劣なんて分からないしな
薩摩藩の在京指導者に関しては、おそらく藩論と離れて暴走したあげく巻き返しにあって、
最後に踏み切った冒険だった。鳥羽伏見の緒戦で負けたら切り捨てられて失脚
235名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 18:59:21.56 ID:dk02o+QYP
>>233
http://peachy.xii.jp/korea/korea2.html
100回音読して出直して来い。
236名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 09:04:36.58 ID:vG+JBwdY0
>>231-232
負けるはずの無い鳥羽伏見で負けたからじゃないの?
幕府歩兵隊8800の内、江戸に居残り組みが1800ぐらい、
奥詰銃隊他、3分の1は使い物にならないと言われてた旗本隊が大坂城詰め。
つまり幕府歩兵隊で最良の部隊が最大限動員されてる。
これで負けちゃ駄目だろ……

しかも篭城は難しいしな。
関東からの援軍が新政府軍を突破できなければ、城内に不安が発生する。
古来、城が落ちた原因で一番多いのは内応裏切りだから。
大軍とはいえ、士気が落ちてるごたまぜ部隊で篭城するぐらいなら、少数精鋭で篭城した方がいい。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 17:40:47.60 ID:m6Khtl3q0
慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない。
その場の場当たり対応に終始している、頭が良いから議論や場当たり処理はこなしてしまう。

将軍というよりも後見職が似合っている。

238名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 21:47:06.65 ID:DOGt95wU0
>>237
>慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない

 お前さぁ、水戸学の知識無いだろw知識がなきゃ見えるはずもない罠w
239名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/24(火) 11:21:17.60 ID:GlAm4yL50
>238
慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/24(火) 11:54:49.51 ID:89AmCZCc0
徹するとか意味分からん
241名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/24(火) 12:47:51.82 ID:D/PYZdWc0
    ヽ`-'´/ `゙´ヽ , -−¬ ノ` / , j-、:i      , -'´`ッ
    彡、、 l j 三ニ≧r‐ュ、ヽノヽく´ ´ ヽ ヽ ,-‐一゙, / ´
    /´ヽl  ヾ  `ヽミニ=‐リ`゙ニ{{,,∠ニミ,r'´i´゙7::: /´
/ `ヽ  ',,ヽ    ヽ‐=フ´ヽ,__,人tュッ、升ヒト、:〃
'    ヽ ヽ`ヽ` ̄ ´/´ // l ヽ ヽ‐´ ト、ニ-'´
      ヽ \ ` - 、`‐- 、__ , ノヽ ノ
      ヽ  \ `ヽ  ̄` jフ, - '´
このままでは日本がダークサイドに落ちるのじゃ
シナの逆襲-Revenge of the China-中国 国防動員法 編
http://www.youtube.com/watch?v=pzap6aRXZzg
242名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 00:13:52.54 ID:nSty2Jfa0
幕府側の人材も馬鹿にならない、小栗や栗本などはたいした者。

ただ第二次長州征伐の失敗で幕府の弱体化が露見し南西諸藩が幕府から離れ始めた、と見ることも出来る。

その時期に幕府が崩壊しなかったのは、以前から孝明天皇の支持がある慶喜が、色々工作をして
朝廷の支持を幕府に繋ぎ止めていたから。慶喜の政治力はたいしたモノで薩摩は
慶喜相手では高等な政治工作では勝てないと見て、武力討幕に切り替えた。

それと、桂小五郎が言うように、慶喜により開始された最後の幕政改革である
“慶応の改革”が、予想よりも大規模な改革でこの改革が実行されると幕府(徳川宗家)が
更に強大化し、薩長は敵わなくなる、と言う判断もあり、なるべく早い段階での幕府への
武力行使を検討する事になる。

戊辰戦争の背景の一つには、幕府の“慶応の改革”の進展を阻止する目的があった。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 00:25:47.76 ID:gatiFOy30
さあ、どうかねえ栗本や小栗が有能だったとは思えんな。

実際に外国奉行の栗本より部下の福澤諭吉の方が優れた見識を持っていたことが維新後にはっきりした。
つまり、幕府は人材登用方法を知らなかったのだよ。

内ゲバや足の引っ張り合いで勝手に自爆していくだけだった。
自業自得ですな。。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 16:49:42.21 ID:1oKUKBRI0
>>242
玉石混交でも人材豊富なのは結構だが、軍の指揮を執れるだけの軍事的才能を持ったのが居なくね?
鳥羽伏見の陸軍奉行、陸軍奉行並、歩兵奉行は血筋も経歴も立派な人ばかりだが……なぁ。
大鳥は良かったと思うが、江戸開城の頃でも歩兵頭だから大隊長クラスなのが痛い。
海軍は榎本でいいと思うけど。

大鳥がわざわざ白河城支援の為に日光から貴重な歩兵隊の兵力を割いたのに、
その別働隊が絶好の位置に進出していながら大した働きもせずに撤退してるのを見ると
指揮官って大事だなと痛感する。

あと、幕府はその人材を浪費しすぎ。
川路聖謨とか岩瀬忠震とか勿体無さ過ぎる。
245名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 18:54:41.63 ID:UGm/Mjmf0
本来は歩兵隊と一緒に訓練した連中を指揮官にすべきだったよね。
食い詰め集団の歩兵隊も使える人員はいたんだから士分に取り立てて下級士官にするとか。
薩長の軍権は実質的に下級武士が握ってたのと、幕府軍が旗本指揮だったのが対照的。
246名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 22:46:34.88 ID:gatiFOy30
んー、大鳥圭介は旗本格になるのがあまりにも遅すぎた。
福澤諭吉が幕臣に取り立てられ、旗本格になったのが1864年。大鳥は更に1年遅れて幕臣になる。

とにかく幕府陸軍は人材に乏しい。沼間守一では何も出来なかっただろう。
海軍は木村芥舟、矢田堀鴻、肥田浜五郎、小野友五郎と中々いい人材が揃っているが皆協調性が無い。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 23:55:13.34 ID:PpevNtflO
大村益次郎がいるかぎり幕軍に勝利はないのだろうか
248名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 01:52:21.90 ID:VEmeQatj0
大村益次郎は、「小栗の反撃計画をやられていたらコッチの首が無かった」と言っている、けど。
249名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 02:08:49.25 ID:fGhI5ByY0
榎本艦隊で東海道沿いを襲撃すればいい、と幕臣が胸を張ったものの、
新政府軍が中仙道を主力にしていると聞いて絶句し、以後は押し黙った、という話の方が有名
250名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 02:19:57.42 ID:VEmeQatj0
そんなの初耳。

それに官軍主力部隊が中仙道だと、なんでダメなのよ?
持久戦になれば、官軍だって信州のド田舎の山の中では補給がママなら無いじゃん、
2月中ぐらいは、甲府城は、幕府側なんだし。
251名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 05:00:06.76 ID:ASXbW9f/0
軍事的な側面に限っていうのなら、鳥羽伏見での敗戦以後も幕府側が徹底抗戦を行って
攻め上ってくる薩長軍を相手に戦うという選択肢はそれなりにあったような気がする。

優勢な艦隊勢を使用するのも有力な手だった。
また、指揮官の無能のせいで活躍は出来なかったし、素行の悪さ等から幕府上層部からは
鼻つまみ者扱いされていたけれども、薩長に対抗しうるポテンシャルを有していることは示した
幕府歩兵部隊を前面に押し出して存分に働かせるという手も有った。

ただ、その結果として内乱状態が長引いて、旧幕府・薩長勢の双方が人命と軍費を消耗して
弱体化することを良しとしなかった人間が双方の上層部に何人かいて、その人間達の意志が
全面的な衝突を回避することに繋がった、という理解で良いんだと思う。

スレタイに即して言えば、こんな感じかと。
「勝利の可能性はあったが、とてつもなく高い代償を払うことになり得る可能性もまた高かった。
負けてしまう可能性も勘案に入れれば、あまりにもリスクの高い賭なので踏み切るだけの自信がなかった」
252名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 08:53:30.33 ID:g64L/5TX0
>>248
それも伝聞だけどね。
関東の守りって意味では箱根の天険による計画はいいと思うが、
上方からの物流が途絶える=一揆祭りになってる関東単独で持久する
ってことだから、政略も考えると案外厳しいんではと思う。
あと軍指揮官の資質の問題もあり、慶喜はその辺も考えて降伏に踏み切ったのでは。

それと、北陸道のこと、たまには思い出してあげてください……
加賀百万石が泣いてます
253名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 16:36:18.77 ID:Hh8c0tZp0
慶喜が、大阪城から逃げ出さずに頑張れば良いだけの事。

そうなれば官軍は大阪城対策に手一杯になり
江戸からの援軍の対策は打てません。
254名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 19:59:22.45 ID:g64L/5TX0
江戸からの援軍も来るだろうが、薩長の国元からも援軍が来るわけで……
あと上にも書いたが、篭城って篭もる軍兵の連帯が大事なのよね。
淀は裏切る藤堂も裏切るでは、慶喜がその点に疑問を抱くのも当然。
255名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 08:36:15.64 ID:Vgd6/rjQ0
大阪城に籠城するぞって判断を下すにも、「トロイの木馬」みたいなことをやられちゃかなわん
という事もあるしなぁ。

逃げた総大将を非難するのも無理からぬ事だけど、身内から裏切りを出してしまうような
現場統率力の無さや状況判断の甘さを、兵を率いていた指揮官クラスが認識してくれないとね。
256名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 09:29:05.93 ID:anR/r+7P0
鳥羽伏見の敗戦後の東帰抗戦は厳しいが、
鳥羽伏見前の東帰なら効果的だったと思う
と言うより、京でクーデタを潰す・大坂退去・東帰のいずれの選択肢でもよかった
257名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 12:38:06.57 ID:UXjbmuDL0
>>239
>慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

人に聞いている時点で駄目だ。君は水戸学が何なのか知らなすぎる。

>慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

ホントに知識が無い人だね。将軍職がどのようなものなのか、その意味役目使命を規定したのが水戸学。
もちろん、”江戸時代の将軍とは”という意味であって、戦国時代以前の将軍の役目とは違うよ。
258名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 13:17:19.04 ID:hNVw8jAT0
やはり、箱根の関に幕軍が待ち伏せして官軍を押し返す中で
幕軍の軍艦が駿河湾から官軍部隊に砲撃を加えていたら…
東海道の官軍は壊滅的打撃を受けていたんでは??

まぁ…でも箱根の関である事も無いわな。
由比で幕軍が待ち伏せして官軍を足止めさせた上で
駿河湾から軍艦が官軍へ砲撃する方が確実だろうな。
間違い無く官軍部隊は壊滅したと思う。

東照神君再来慶喜公が錦旗に弓引き、一天万乗の天子様に刃向かう
朝敵・国賊に成る覚悟が有ればの御話だけどな。
259名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 14:54:20.60 ID:W2wppKs00
>>258
>駿河湾

天候が良ければできるが…
悪天候と海流次第だな。静岡沖は遠州灘と伊豆半島の先端の海流が酷い。
黒潮の激流がときどき変な流れを生み出す場所でね。
江戸時代を通じて、海運といえば日本海の北前船だったのは、太平洋側の航路が危険だったからだ。
房総沖で難破事故を起こしている榎本艦隊の運用を見ると、果たして必ず迎撃できたかどうか?。
ちなみに航海術に天候予測の知識はあるはずだから、悪天候は運が悪いなどとは言えないのだ。
260名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 20:08:55.33 ID:m8aN7dqIO
>259
それは千代田形のことで、証明されていますよ。
261名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 18:11:18.49 ID:bc187DSC0
どのみち関東では一揆のアラーシで、抵抗するにもどうしようもない。
埼玉では「殿様殺し事件」があって、旗本が領民に殺害される所まで逝っている。
抵抗は、その土地の統治能力があってこそできるのであって、庄内藩のような
本間家のバックアップや領民の支持があればできる。
気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと
厳しい。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 19:33:51.33 ID:qzEdHh5P0
>261
御用盗みたいなことをした連中に、おいそれと
従いますかね。
263名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 17:36:40.09 ID:hCqyEMTC0
>気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと厳しい。

そこで鳥羽伏見の戦いの前に幕府陸軍2万4千の北関東への治安出動(訓練を兼ねて)ですよ。
一部は、元込め式の最新式銃を装備しています。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 19:14:32.73 ID:YuI3DJ4P0
その前に、まず陸軍奉行や歩兵奉行に相応しい人材を探した方が
265名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 20:40:41.75 ID:PaBhimIQO
>264
いませんよ
266名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 09:47:40.17 ID:KN57YYce0
鳥羽伏見で敗戦するまで、身分が低い有能な人材を抜擢する仕組みが存在していなかった。

海軍に関してはオランダから学んで一から組織・制度を作っていったから、
長崎海軍伝習所出身の人間が登用されたけど、陸軍に関しては門閥・家柄重視で
人材登用が行われていたからまともな軍隊運用など夢のまた夢という状態。
26748:2011/05/31(火) 10:00:46.26 ID:9vy4Z5u50
>266
その通りです。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:07:48.85 ID:GxekY3WN0
幕府陸軍の体制だが

陸軍総裁
陸軍副総裁 (兼)若年寄
陸軍奉行   老中支配 五千石 諸大夫 芙蓉間 駿府城代の上席 海軍奉行の下席 若年寄並
陸軍奉行並 老中支配 三千石
騎兵奉行   老中支配 三千石 諸大夫 芙蓉間 歩兵奉行の上席
歩兵奉行   老中支配 三千石 勘定奉行の上席
歩兵頭    老中支配 二千石 中之間詰
歩兵頭並   老中支配 一千石 布衣
歩兵総目付 若年寄支配 七百石 
騎兵差図役頭取 陸軍奉行支配 四百石
歩兵差図役頭取 歩兵奉行支配 四百俵

こんな感じ?
歩兵頭の中之間っつーと、目付とかと同じ間か。
まぁ差図役とかに旗本を登用したのは、失業者対策として仕方ないね。
269名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:14:10.93 ID:A+TEYuLMO
これじゃかてない
270名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 14:41:48.23 ID:s/LusuwY0
しょうがない。
家格を否定すると最終的に徳川将軍家の否定に繋がってしまう。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 17:41:03.59 ID:NlY892lQ0
明治になってから陸軍で活躍した戊辰戦争に従軍した幕府の人材で有名な人物って
だれだろう。大鳥や榎本は内政の方にいったし、立見尚文は桑名だし。
272名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 18:45:37.63 ID:GxekY3WN0
揖斐章とか?
結構いい経歴だったのに、早死にしちゃったな。
273名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 11:50:33.03 ID:2ldXgchg0
この時期の欧州にしても士官は貴族はじめそれなりの身分の出身。

また幕府陸軍にしても既存兵制と並存する形で作られたたので、指揮官クラスはそれなりに登用されている。
問題なのは、その登用が洋学知識偏重。
特に陸軍総裁の松平 乗謨は知識は一流かも知れなかったが将の器かは?
274名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 17:56:53.26 ID:0paIjQuj0
根拠がある訳ではないが、陸軍総裁クラスになると
後の陸軍大臣みたいな立場にならないかな。

>>268
案外身分高いのな。
歩兵奉行なんか、勘定奉行の上席か。
こうして考えると、大鳥なんか、歩兵頭とはいえ大抜擢?
275名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 20:06:09.02 ID:Gl7PNG6x0
>274
歩兵奉行が行政組織上の位置付けとして勘定奉行よりも格上だったとしても、
それがイコール幕府内での権力を振るえたかどうかとは別問題なんじゃないかなぁ。

勘定奉行は「勘定所」という実働部隊を下部において、行政組織としての財政やら法整備やらの
権限を一手に握っていたから、組織図上の位置よりもはるかにハバをきかせてたし。

幕府は本来的には「軍事組織」という建前があるから、武官系の方が組織図の上では優遇されてるけど、
江戸の中期以降は、実際には国政を担当する「行政組織」としての性格の方が強くなっちゃっていたから、
具足奉行やら鉄砲奉行やらの軍事系の職階よりも、勘定系や大目付・目付といった事務系職の方が、
実質的な権限を握っていたみたいだよ。

そもそも、幕末に編制された鉄砲を主とする歩兵隊は、刀槍をメインの武器として位置づけていた
江戸幕府の軍事組織の中では「足軽・雑兵」みたいなイメージで見られる場合が多くって、
そんなに大事にされてなかったし。

歩兵隊の重要さに本当に気がついたのは、第二次長州征伐以降のことだし、それだって本当に
理解していたのは慶喜とその側近だけで、会桑や幕府首脳は心の底からは理解していなかったから
鳥羽伏見で負けを喫しちゃったわけだしね。
276名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 13:07:02.07 ID:v6HBPJD00
幕府のもとで近代化していたら軍隊の階級呼称がどうなったか興味がある。
少尉、大佐などお公家さん風の名称は使われなかったと思う。

奉行とか与力、あるいは一等士官とかになったのだろうか?
277名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 21:40:02.25 ID:crv5Y0zb0
>>275
さも見てきたかのようなw
278名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 10:59:57.95 ID:UtwUgNPc0
皆さん幕府のことをボロクソに色々言うけど、明治維新政府は、混乱に混乱を重ねて、
結局最後には幕臣が作った最後の幕政改革“慶応の改革”を丸呑みして富国強兵に乗り出したんだよ。


小栗や栗本あたりは、本当にスゴイ人だったと思う。

“慶応の改革”の途中で戊辰戦争が始まっちゃった。
しかしこれも桂小五郎が言うように、“慶応の改革”が成功すると
徳川宗家(あえて幕府とは言わない)が強くなりすぎて討幕が
出来なくなるので、慌てて王政復古のクーデターを起した面がある。

慶喜も在京の幕臣も幕藩体制には、それほど固執していない。
実質的に徳川宗家の政治力が残れば、どんな体制でも言いや!
っていう割り切りがある。
大政奉還後の小栗もそんな感じ、小栗だったら政府が近代化しても大蔵官僚出来るしね。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:10:15.64 ID:vpBHbPIX0
>278

それはあまりにも慶喜や小栗といった、幕府内でも極めて少数だった「先の見える有能な政治家」の
考えに偏したモノの見方のように思える。

当時の幕閣や幕臣たちの大多数はそうした慶喜らの先を見据えた施策の意味を理解できず、
旧態依然とした政治・経済・軍事の仕組みを墨守しようとした集団だったという側面にも
目を向けておく必要があるんじゃなかろうか。

鳥羽伏見において刀や槍といった旧式の武器を手放そうとしなかったのが幕臣や会桑の藩士達だったし、
その認識を改めて銃砲を主体とした部隊を重視するようになったのも、それらの部隊を指揮する能力を持った
下級階層出身者を重用するようになったのも、「敗戦」という危機にさらされてはじめて起こった変化だった。

薩長主体の明治政府をことさら称揚するつもりはないし、慶応の幕政改革の重要性を否定するつもりもないけど、
末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して明治政府のような形態の強大な国家へと変貌を遂げられた可能性は
必ずしも高くないという見方も、一応は押さえておくべきだと思うよ。
280名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 12:39:09.57 ID:GW5dhM8r0
幕臣に新軍事教練やらせてみても、全く真面目に取り組まず戦力化できなかった。
しょうがないから軍役を人納、金納に変えて歩兵隊を組織したわけで。
本来なら部屋住みはこぞって参集してもおかしくないはずなのにね。
281名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 12:48:15.04 ID:16GunPla0
>>278
長井雅楽や吉田東洋もいるし、
小栗や栗本だけが優秀だったわけではない。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 12:50:35.53 ID:16GunPla0
>>280
旗本の軍役を金納に変えた時点で幕府軍は崩壊してるね。
慶喜は戦争するつもりなかったからこれでいいというか仕方なかったんだけど。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 17:34:15.08 ID:B96/mUyC0
しかも指揮官が>>268みたいなんだから、ぶっちゃけ旧来の家格による人事を刷新できたとは言い難いと思う。
少なくとも近代戦を理解してる奴が軍単位での指揮を執らないと、薩長には勝てない。
まぁ旗本改革を訴えた原市之進は同僚に暗殺された訳で、難しかったんだろうけど。

そもそも、慶応の改革っつっても外国の行政制度取り入れ、富国強兵っつー指針が一致してたってだけで、
明治政府がやったこととそんな具体的に一致してるか?
あのままの勢いで軍制改革が進めば、討幕派としては不味かっただろうが。

あと、徳川宗家の政治力だけが問題なら、薩摩藩邸焼き討ちに始まる強硬派江戸幕閣の暴発を
何としてでも抑えるべきだったな。
西郷の挑発にまんまと乗って鳥羽伏見だから。
まぁ小栗が死んだのは惜しかったけどね。
284名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 17:41:12.25 ID:UkdmqPlSO
鳥羽伏見の前日に幕末軍の兵も官軍の兵も一緒に風呂に入り雑談を交わす者もいた
って歴史の本に書いてあった
モチベーション高くない人はこんな感じだったのかな
285名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 09:16:58.32 ID:g346IEnd0
>末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して……可能性は必ずしも高くないという見方も、

大政奉還(慶喜は単に政権返上)は言いだしっぺは、土佐藩だが、慶喜も納得している。
征夷大将軍職の辞表は67年の10月24日に朝廷に提出している。67年の時点では、
もう幕藩体制を維持する為に軍事行動を起す事は、下級幕臣はともかく幕閣クラスではないよ。

朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

慶喜も征夷大将軍職を維持するのではなく、むしろ朝廷新政府の摂政(関白)に就き
さらに諸侯会議(上院)議長を狙っていた。そして何れはその双方のポストを合併し
ナポレオン3世をモデルとした“大君”を目指す予定だった。
慶喜が目指したのは、フランス第二帝政をモデルにした“徳川版ボナパルト体制”
当然諸大名は全部潰すし、旗本領は徳川家が収公する。全武家、全藩は“大君慶喜”が廃止する。
>>282にあるように小栗が計画した六百万ドルの起債が薩摩の妨害工作で潰された、という事もあるが。
286名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 09:46:45.27 ID:g346IEnd0
そもそも征韓論は、幕末の幕閣で老中の板倉勝静が唱え始めた。

征韓論をあおり、対外的緊張をワザと高めて、武家や諸藩の廃止を実行しようとしたのかもしれない。
また、征韓論自体軍事力の強化が必要となるので、小栗の立案した“慶応の改革”を
更にスケールアップしスピードアップ出来る訳だ。

小栗がヤケに武器と艦船の国産化に急いだのも、当面の薩長との対決も有るのだろうが、
より長い目で見れば“徳川宗家(大君慶喜)による征韓論”を念頭においていたのだろう。

“徳川版ボナパルト体制”による日清戦争を見てみたかったなw
287名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 10:03:03.85 ID:YalCzs4z0
日清以前に借銭の返済で潰れそうだがね
288名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 10:15:15.91 ID:WKMSZNop0
>285
>朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

少なくとも、大政奉還の知らせを聞いた江戸城では天地がひっくり返ったかのような感覚で
この出来事を受け止めた人間の方が多数派だったらしいし、「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、
旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性の方が高かったんじゃないかな。
289名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 12:54:56.16 ID:AtVuPzXu0
>当然諸大名は全部潰すし

さらっとものすごい事言ってるなw
実際には長州ひとつ潰せなかったけど
290名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 14:05:17.06 ID:g346IEnd0
>>289
慶応の改革の当面の目標は、薩長潰し。
最終目標は、征韓論。

悪い意味で菅直人とカダフィのあの頑張りを見習えばよい。
全然評価できないがww
291名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 14:12:40.44 ID:g346IEnd0
>いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
>現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

慶喜が大政奉還後10月後半から11月中旬にかけて説得している。
江戸や大阪の強硬派幕臣や佐幕藩の対薩摩藩先制クーデター計画が
くすぶってはいるが、慶喜は、なんとかこれも押さえ込んだ。

>「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性

それはない。
旗本は、領地収入が半減している上に更に幕府からの俸禄がなくなるとマジで収入無くなる。
292名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 14:21:24.21 ID:v2nlKBEA0
菅直人なみに頑張ったといえば、敗北後に東北全土を巻き込んで更に敗北した、松平容保がいますが。
往生際が悪いのは良い結果を生みません。
293名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 14:58:32.62 ID:tS27dykIO
>>291
そもそも会桑自体が大政奉還大反対じゃん
んで強硬派を押さえ込めなかったが故の鳥羽伏見なのであって
294名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 16:32:15.42 ID:g346IEnd0
大垣藩立案の対薩摩藩先制クーデター計画を慶喜は押さえ込んだ。
この計画には会桑はもとより紀州藩、津藩、若狭藩、宮津藩など
畿内周辺の佐幕藩までも参加し後押しした大規模な計画だった。

また、別途若年寄の永井尚志が立案した薩長両藩の部隊集結を阻止する
計画も慶喜が抑えてしまった。67年12月7日には兵庫開港・大阪開市の
準備の為に大阪と西宮に出張するが、この様に永井が慶喜の側を離れた事が、
12月9日の薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とまで言われている。

12月6日には、薩長の王政復古のクーデターが慶喜の耳に入っていた。
それなのに慶喜は何も対策を打たず、何故か翌日に永井を大阪と西宮に
出張させてしまったのか、良く判らない。

永井が二条城に居たら、慶喜の躊躇を押し切ってでも、彼が幕府陸軍を
率いて京都御所の警備を更に厳重にさせる事も可能だっただろう。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 11:28:35.53 ID:8JREsp7+0
慶喜は戦うつもりないんだもの。
296名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 19:22:16.92 ID:nVbCsgAz0
議論が分かれるね。
JFKはベトナム戦争をするつもりが無いvsイヤある!と言う議論に似ている感もあるが…

慶喜は、征夷大将軍職には復帰するつもりが無いだけで
徳川宗家の実権維持には汲々としている。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 07:20:24.67 ID:77yAuCgy0
最近の王政復古のクーデターや鳥羽伏見の戦いについての資料発掘や再検討からは、
在江戸の幕府有司を含めた、軍事担当の幕臣たちが、逡巡する慶喜を巧みに開戦に追い込んだ。
と言う複雑な構図も見えてくる。

この時期の幕府は、朝廷新政府や薩長への方針が幕臣の間でも一致していないのが特徴であり、
勝海舟や大久保忠寛の天領・政権放棄路線から小栗や栗本らの幕権派(近代化)までいるが、
小栗は時期において大政奉還(天領放棄は?)をも認める発言もしてもいる。

しかし、江戸であれ大阪であれ、意見の異なる旗本を含めた幕臣達が、慶喜に薩摩藩との戦闘開始か、
さもなくば、徳川宗家の政治生命に致命的打撃を与える天領放棄を含めた政権返上か、どちらか
両極端な政策の二者択一を迫る進言を繰り返し、慶喜が戊辰戦争開始の道を進むしかない無い様な
方向に仕向けた事が改めて問題になる。

慶喜は、対薩摩藩の攻撃準備と新政府入りした土佐、越前、尾張を通じた多数派工作
の両方を実行しているが、このこと自体幕臣たちの意見の相違と徳川宗家の内部分裂を
表している様に思える。
298名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 12:20:08.77 ID:S+0Bm4Ux0
軍隊の近代化を進められなかったツケが慶喜に廻ってきたからな。
薩長に負けてしまうとはねえ。情けない。
299名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 04:43:49.17 ID:iAaAUodg0
まあ〜何にせよ以下のような馬鹿馬鹿しい事にならずに軍隊の近代化を進めた幕臣も偉いよな。
       ↓
1882年に李氏朝鮮では、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、
賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、
閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午事変が発生する。
壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は
清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。
300名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 10:08:04.87 ID:rxMQkJq60
しかしまぁ、一会桑vs江戸幕府がなきゃ、もうちょっと上手く政治工作出来たんじゃね?
って気もするがw
旗本の一部も原市之進暗殺とか地味に抵抗してたが、第二次長州征伐の敗北も
軍制改革進める一助になったんかな。
301名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 12:05:45.02 ID:7jX59Mea0
>>299
閔妃暗殺は日本が暗躍してるけどね。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 09:51:00.37 ID:qHEiB8Bc0
>第二次長州征伐の敗北も軍制改革進める一助になったんかな。

当然そうだろ、最後の幕政改革「慶応の改革」は、長州征伐の問題点を
克服しようとする形で始まった。


また、一会桑体制が崩壊したのなら、畿内に近い桑名藩はともかく
兵力が大きくて東北の大藩である会津藩は、さっさと帰国させるべきだろ。
なのになぜグズグズ京に居続けたり、慶喜の大阪城撤退にくっ付いて来たりするのかね?

会津藩は大政奉還と同時に少なくても江戸に戻るべきじゃね?

だらだら会津藩を畿内に居座らせていた慶喜も問題。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 22:59:32.93 ID:oREi9d2h0
そうは言っても軍事力が背景にないと、
相手はやる気満々なんだから、話し合いもできないでしょう。
やはり問題はその軍事力が全く当てにならなかったこと。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 23:03:19.30 ID:5TRo9k+J0
改革が進んだことにしておかないと
勝利の可能性がみえてこないので
305名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 00:05:29.39 ID:nTBmv7VW0
江戸幕府がトーマス・グラバーを介してアームストロング砲35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

これらが大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

ただ言われているほど、アームストロング砲の威力や性能は、高くないらしい。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 05:47:24.16 ID:o+SzL6FK0
>>304
最後の幕政改革の「慶応の改革」は、それなりに進捗していた。
桂小五郎もビビッて居るくらいだ。

直接的な戦闘能力の向上もさることながら、
幕府の兵器と軍艦の国産計画が、薩長には脅威に思えたのでは?
薩長は、小さな工房程度ならあるが、基本的に兵器の調達は輸入だ。

有る程度幕府が、兵器を自主開発出来る能力を持ってしまうと
武器の補給面で幕府軍には敵わなくなる、と薩長は思ったのでは?

この時期アジアで唯一炸裂弾を生産できたのは徳川幕府の兵器廠だった。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 14:31:53.79 ID:rx20EQSf0
しかも朝廷に命じられて作ってるから薩長も批判するわけにいかんしな。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 15:29:05.60 ID:f9AUFa1N0
>しかも朝廷に命じられて作ってるから

そうなの?
知らなかったw

例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

>アームストロング砲35門が大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

そうしたら安心して慶喜は、大阪城に篭城していたかもなw

しかし以外とアームストロング砲って扱いが難しかったり、故障が多かったりで
イギリスも正式な大砲としての採用年数は短かったはず。
幕府は、無理にアームストロング砲を採用せず、幕府海軍旗艦の開陽に搭載している
クルップ砲の大量発注でも良かったんじゃないかな?と思う。

メンテナンスや故障頻度を考えるとアームストロング砲よりもクルップ砲の方が
使い易いし結果的に幕府軍の戦力になった、とも思えるのだが。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 15:48:17.59 ID:+BQlpF8V0
>>306
炸裂弾っつーと、江川英龍の遺産?
銃自体は輸入したほうが早いと思うが、大砲や軍艦の生産能力は脅威になるかもね。
ただ、幕府陸軍の拡充のが直截的な脅威だったんでないかと思うが。
310名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 04:16:11.06 ID:t3+aP06B0
>>309
まあ、そうだろう。
ただ長期戦になれば、輸入もままならないし、幕府が有利になったと思う。
現実には、武器のメンテナンスや修理は、幕府の施設でまかなえた様だ。

それとあきれ返るけど“慶応の改革”に反対していたのは、討幕諸藩だけではない。
なんとあの大奥が“慶応の改革”に大反対している。
311名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 00:20:06.07 ID:NdxkBz6W0
慶喜の親父の 徳川斉昭は大奥でかなり嫌われていたからな
312名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 14:06:10.98 ID:mZxQCHLQ0
大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?
全員失業ってことだと威張るくらいしか能がない気位が高いバカ女どもだから路頭に迷ったろうな。
313名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 17:29:10.27 ID:961s1Kyl0
まぁ大奥は昔から保守派の温床だし
あそこを上手く操れたのって田沼意次ぐらいじゃね?
314名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 19:47:36.20 ID:XZKXhOHq0
>312
>大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?

基本的には全員失業。
ただ、大奥に上がった女性は基本的な行儀作法が仕込まれているから、
旧家の家政の取り仕切り(下働きの下女達の監督)などを期待されて
そこそこの就職口はあったかと思われ。

明治に入ってから士族階級が没落していってしまったから、
全体の就職口のパイはそれほど多くはなかったろうけど、
そのまま自活能力なしで苦界に身を沈めたというほど酷い状況では
なかったからしい。

むしろ、大奥という場所で(ある意味での)職業訓練ないし宮仕えをしていた女性達より、
旗本・重臣層の奥方連として安穏とした生活を送っていた女性達の方が維新後には酷い目を見てる。
315平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2011/07/25(月) 21:14:28.38 ID:RYh62SyT0
このスレに感謝。
316名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 04:09:36.75 ID:V/QAxbtL0
>>311
当然それも理由としてある。
慶喜は水戸系であり、大奥は南紀派だからどうしようもない部分が有る。

大奥としては15代将軍には亡き家茂の意向として三歳児wの田安亀之助を推していたし、
それがダメなら最後の紀州藩主の徳川茂承を推していた。また家茂と茂承は大変仲が良かった事も有る。
しかし和宮と幕閣と幕権派中堅官僚は、「今の時期には慶喜しか将軍職をこなせる人材は居ない」
と大奥に逆らう動きを見せ、結局将軍職の4ヶ月空位を経て慶喜が15代将軍に任官する。
この4ヶ月空位期間に岩倉が“宮将軍”の画策を行うなどの混乱もあったが、孝明天皇の強い意向もあり、
ついに慶喜は15代将軍に任官する。しかし慶喜が将軍に任官した直後に孝明天皇は崩御される。

ただ大奥の“慶応の改革”の反対は、水戸系将軍と紀州系大奥の対立だけでもないらしい。
慶喜が将軍職任官した慶応2年の末から幕府では急ピッチで幕府軍の近代化と産業インフラの整備を進めた。
その為に慶喜は大奥関連の予算をバッチリ削ってしまい、その事でも大奥からかなり恨まれている。
慶喜の正室である美賀子などは、大奥に行っても布団一枚も出してもらえなかった。

さらに驚く事に大奥が「慶応の改革」に反対した理由は、これにより幕府が西洋式の軍事色を
強める事そのものに嫌悪感を持っていた事だ。元々慶喜と仲の悪い天章院はもとより、
慶喜将軍任官を支持した和宮ですらこの意向を示し、二人とも慶喜が西洋式の軍服を着た
写真を見せられると大変嫌がった、と言われる。
また江戸城内でも慶喜治世下では、伝統的な武家の装いが廃止され始め、西洋式の衛兵が配置され
砲台や兵舎の設置も行われている。天章院も和宮もこの様な江戸城の西洋式の軍隊化に激しく反対していた。

慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、天章院は、今まで仲の悪かった
和宮と協力して徹底的に反対しているが、これは大奥改革が“慶応の改革”の
費用捻出の為と疑っていた為であろう。
317名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 12:50:53.14 ID:duoZPn+KO
>>312
彼女達は明治新政府により朝鮮半島に送り込まれほぼ全員が朝鮮人によってレイプされました。【氷河清話より】
318名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 19:11:20.38 ID:XRPDRXUp0
とりあえず徳川家は、何が何でもアームストロング砲35門を調達して
そのうち15門を大阪城に、20門を江戸城に配備すべし。

ついでにクルップ砲も幕府艦隊旗艦の開陽搭載用以外に30門確保しておけばさらにOK!
319名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 17:42:13.09 ID:RBRRt+sP0
>>316
幕府は、慶応の改革以前から、改革に着手しようとしていたが、
幕府内の守旧派によって退けられた。
それを決定的にしたのが井伊の大老就任。
井伊が強権振るえたのは守旧派が味方だったから。
(彼は朝廷無視して開国したが、幕政についてはガチガチの守旧派)
守旧派には旗本なども含まれる。もちろん軍の近代化には反対。

水戸対紀州ってよく言われるけど、事実としては改革対守旧。
それが「今の時期には(改革派の)慶喜しか」の意味なんだけど、
維新後は慶喜を改革派とみなすのはご法度だったから、
水戸対紀州ってことにされて、今もその影響下のまま。
本来慶喜が改革派じゃなければ、朝廷がわざわざ
幕府に慶喜を将軍後見人にしろなんて言うわけないのだが。

尊攘を代表するナショナリスト的価値観が、
幕府寄りの立場の人間の改革に対する正当な評価を阻んでる。
土佐藩の内部抗争についても、同じような誤解がある。
320名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 20:17:33.43 ID:yL0B9/u00
>>308
> >しかも朝廷に命じられて作ってるから
>
> 例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

その時、副使として付いて行った攘夷急進派の姉小路が
大阪で勝と龍馬に篭絡されて開国派になるでしょ。
当時、姉小路は国事参政になったばかりで、朝議を決定できる立場にあった。
その姉小路が大阪で開国派に篭絡されたわずか二週間後に、
朝廷から「摂海防備三か条の沙汰」が幕府に命じられて、
製鉄所や軍艦を建造することになった。

勝曰く「我が微衷天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」

小攘夷派が維新の中心から退けられる決定的な出来事です。
この後は、薩摩が神戸開港を口実に慶喜を攻撃したくらいで、
この後は都は開国一直線です。
(田舎のほうではなんやら事件やらこれやら戦争などありましたが)
321名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 21:01:30.56 ID:hiGac+H00
阿部正弘の評価を阻む点では佐幕シンパも同様
322名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 21:02:36.71 ID:Mf7rSP380
新撰組も尊攘派だからナショナリストのはずだし、
慶喜警護の為に京にいる水戸藩も連中(本国寺党)も尊攘派。
原市ノ進を斬った旗本も尊攘派、佐幕派や幕府方にも尊攘派は結構居たんだけどねw
なぜか全部親仏派や開国派になっている。

また、幕府の改革派は、幕権派と言われ、いわゆる近代化グループ。
郡県制の施行や諸藩の廃止、政権の一元化や重火器や艦船の小銃の国産化
造船業や製鉄業、兵器産業の立ち上げ、鉄道・電信・道路等のインフラ整備
などの実現を志向する幕府内の勢力。
323名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 21:05:05.97 ID:Mf7rSP380
>>322のつづき)
ただ面白いのは、幕権派の面々は、どちらかと言うと家茂人脈の人ばかり、
小栗や栗本、勝にしてもそうで、家茂治世下で出世した人ばかり。
それに家茂治世下では、幕府の近代化はそれほど進まず、むしろ慶喜での
「慶応の改革」でようやく本領を発揮できた。

慶喜が将軍に任官してトップダウンで近代化政策を実行出来た事と、第二次長州征伐の失敗の
ショックでさすがの江戸の幕府有司も近代化を進める必要性を感じた事が背景にある。

それと繰り返すが、アームストロング砲35門の調達は、是非とも実現させるべきだった。
アームストロング砲35門と甲鉄艦が、手元に揃うまで慶喜は開戦すべきではなかった。

江戸での薩摩藩邸焼き討ちが起きたら、大阪市内の薩摩藩邸(2〜3箇所ある)を
攻撃してお茶濁しておけばよいのに。伏見奉行所を増強するとか、畿内の勤王藩
(彦根・西大路・郡山・園部・十津川郷士)にプレッシャーをかけるとか。
324名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 21:30:39.46 ID:yL0B9/u00
家茂は本人はともかく、
バックが守旧派(昔で言う所の南紀派)だから、
改革を進められるわけない。
彼らが家茂を押した理由は、(紀州直系の人はともかく)
慶喜?一橋家なんて支流の御三卿の養子、しかも改革派なんてとんでもない
って理由だけだからね。

守旧派には大人物がいないから、
人物中心の歴史読み物では忘れられがちだけど、
あちこちで無視できない力を発揮している。
まあ長州に負けて発言力低下したけどもw
325名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 22:19:09.71 ID:xwIqE9Ro0
旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。
大体石高から言ったら、本来薩長などに負けるはずないのに負けまくり。
旗本は従軍嫌がるし、福沢が篭城で幕府に暴言吐いてもスルー。
彰義隊も江戸で薩摩武士を大勢で闇討ちしたりしたが、逆に死を覚悟した薩摩武士に斬り立てられ逃げ回ったり。
326名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 09:33:48.97 ID:+fj4aCbG0
上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな
327名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 01:44:26.72 ID:KagjRR7A0
>旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。

中には近代化した行政府でも使えそうなのが居る、榎本は幕臣ながら明治政府で閣僚に。
大鳥圭介は、日清戦争開戦時の清と朝鮮の大使で陸奥外相の命で日清戦争の開戦の準備をしている。

あとは徳川宗家の大久保利通とも言える小栗や外務大臣も出来そうな栗本鋤雲、他に山口直毅、向山一履
甲鉄艦をアメリカで見つけ出して交渉し調達した小野友三郎、京不在が王政復古クーデターをやり易くした
とまで言われた若年寄の永井尚志などは旗本だが、徳川新政府の官僚でも使えるだろう。

譜代大名では、慶喜治世下での筆頭老中で征韓論の言いだしっぺの板倉勝静や自分の居城を西洋式の要塞と
したり、大政奉還直後に全国の大名の禄高の半分を削って全国統一軍を創設しその総司令官に前将軍の慶喜
を構想した老中兼陸軍総裁の松平乗謨なども閣僚として使えよう。

>上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

そういう意味ではフランスからの600万ドル借款計画がアボンして良かった。
薩摩藩のプロパガンダで600万ドルの起債が失敗したらしいが、そのおかげで旗本領300万石
の内半分の150万石を事実上徳川宗家が収公出来た。

平時だったら旗本の大反対運動で上手く行かなかっただろう。
幕末の最後の幕政改革だったからこそ、旗本領地収入半分収公計画が上手く行った。
328名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 02:32:38.23 ID:KagjRR7A0
それとこの時期は、徳川家による征韓論がかなり検討されている。

南紀派で井伊大老の側近で老中の間部詮勝は、開国と条約の締結を求める勅許の奏請にあたり、
「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現する事が
出来ると朝廷を説得したとされる。

守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。案外南紀派は南紀派で征韓論を考えていたのかもしれない。

文久3年(1863年)5月、対馬藩士の大島 友之允は、老中・板倉勝静の顧問であった山田方谷と会見する。
この時、征韓論だけに留まらず、中国大陸進出を唱えていた山田方谷に
「貴藩困乏斯の如し、何ぞ朝鮮違約の罪を鳴らして、之を征服する策に出でざるか」
と説かれ、これに感化された大島は征韓論を唱えることとなった。

そして元治元年(1864年)には、朝鮮進出の建白書を提出している。

この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、
大島の論は政局に重大な影響を与えることとなる。
329名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 02:40:14.74 ID:KagjRR7A0
日米修好通商条約の交渉に臨んだ幕閣の岩瀬忠震は、現代で言えば侵略主義的な考え方を持っていた。
岩瀬は、勝海舟と仲がよく、彼の思想は勝海舟にも受け継がれている。

勝は文久3年(1863)4月27日、桂小五郎と上記の対馬藩士大島友之允に対して次のように述べている。
「当今亜細亜洲中、欧羅巴(ヨーロッパ)人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、
彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、
横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁(の)がるべからず。
先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」(海舟日記)

これは後の「征韓論」に繋がる考え方です。
そして幕閣として初めて公式に征韓論を唱えたのは老中板倉勝静(かつきよ)で、
文久3年5月に対馬藩の朝鮮進出の請願書を受理しました。意外な感じがしますが、
当時の武家政権である幕政の担当者としては特に過激な考えと言う訳ではない。

そして翌月に、勝に対して対馬差遣を命じています。
その辞令には「朝鮮国の事情探索」とあったそうですが、実際には征韓準備のために派遣されたのです。
ところがその後、板倉と勝は失脚してしまい、幕府による征韓は沙汰止みとなります。
330名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 07:37:52.43 ID:oMDEonQV0
実は攘夷には「大攘夷」と「小攘夷」の二つがあって、このどちらを採るかを巡って紛糾したのが幕末という時代。

「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、
無謀な攘夷を否定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によって
十分な武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。
公武合体派と呼ばれた人たちは、これを主張している。
 
一方で「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、
しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するものだった。
長州藩などが、これに属していた。

通商条約を独断で結んだのは井伊直弼ですが、その彼も攘夷論者で、「大攘夷」の考えだった。
井伊直弼は売国奴のイメージを与えられていますが、実際には最後まで通商条約の締結には慎重だった。
全権委任した岩瀬忠震(ただなり)らに、窮したときには調印しても良いと言う言質を与えた為に実行された。

直弼としては、やむを得ず時限的に海禁政策を放棄し、武備を整えた後は破約するつもりでした。
井伊大老の真意として、後の攘夷のための“海軍力強化”政策を打ち出しています。
これは「大攘夷」に当たります。

守旧派といわれる南紀派も“海軍力強化”などの大攘夷政策を立案しており、近代化政策を全く行わなかった訳でもない。

また幕末の最後の幕政改革「慶応の改革」もこの大攘夷の原則に則って始まった近代化政策であり、
当面の敵である薩長を圧倒する事を目先の目的としていたのだろうが、最終的には“大攘夷”と“征韓論”の実行
を目論んでいた「富国強兵」計画だった。

しかし徳川宗家にそんな事をされては、薩長の出番は無くなってしまうので、
彼らは幕府の兵器や艦船の国産化計画に反感を持つジャーディン・マセソン商会や
その代理店のグラバー商会から支援を受けて、王政復古の名の下に討幕挙兵に討って
出てきたのが実情。
331名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 09:31:48.04 ID:BQ2YyKBt0
>>327
上の人の言っている「旗本」はそんな大物のことじゃないんじゃないの?
歩兵が駄目だと指揮官がまともでもどうしようもないしね。

>>328
> 守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。

南紀派の「守旧」は徳川宗家万歳、血統万歳ってことであって、
対外的政策のことじゃない。
むしろ朝廷に断らずに開国した。
もちろん開明とも違うが。

幕末を「〜派」で語ると弊害が多い。
332名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 09:38:25.66 ID:BQ2YyKBt0
>>330
小攘夷には2つあって、
一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。

もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
幕府牽制のために言っている。

ちなみに攘夷に反対している人間はいません。
黒船外交は武力威圧的なものだから当たり前なんだけど。

黒船来航直後の公家に前者が多かったのが幕末の混乱の原因。
まあ倒幕で近代化が進んでよかったけども、
死なんでいい偉い人がたくさん死んだよ。松陰とか象山とか。
333名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 10:25:21.87 ID:oF/RrDoz0
小攘夷には、奉勅攘夷派もいるぞ。
尊皇=攘夷でなければ、少なくとも水戸藩の内訌や長州藩が藩を挙げて
攘夷に邁進することはなかった。

>>330
井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。
前者は戊午の密勅を誘発して返す返さないで水戸の天狗を敵に回すし、
後者は前者による反感に拍車を掛け、更に幕府の西洋に明るい人材群を浪費した。
川路聖謨はボロボロになるし、岩瀬忠震なんか憤死だろう。
334名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 10:54:32.25 ID:WavHP4bf0
孝明天皇は薩摩に内勅を与えて、
急進即今尊攘派を京都から排除するようにお願いしていたくらいだから、
奉勅攘夷派と言っても、ほとんど即今攘夷馬鹿みたいなもんだ。

まあ三条とかが勝手に勅を出してるの知らんから仕方ないけども、
長州藩は大昔の御製を取り上げて、攘夷に反論変えたり、頓珍漢が極まってる。
大久保なんかは気づいていたみたいだけども。

当時、孝明天皇は攘夷派よりも松平容保の方に尊皇を感じていたようだし。
http://bakumatu.727.net/kotonoha/kotoba-1-gyosei.htm
335名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 11:33:55.16 ID:wyJzx06Y0
久留米出身で長州尊攘派の中心人物になっていた真木和泉は逆に
ロシアはシベリアを占領しながら来ている為危険だが、
ペリーは通商を求めているだけで戦争するつもりはない、
なのに幕府のやり方は表面では和親を求めるが裏では軍備を整えて
数年後にペリーを討とうというもので『真心』がないと批判している。
336名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 13:07:41.77 ID:tLIloRF20
攘夷と言っても、
条約を対等の立場で結び、開国を進めたいと思ってる奴から、
横浜での寄港給水すら受け付けない奴まで、いろいろいるからな。
337名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 16:49:17.20 ID:kN9xAbas0
その寄港給水も、最初は遭難されては気の毒だといういわば人道的な非常措置だったのが、
何度も何度も同じように来られるのでこりゃたまらんと原則に立ち帰って打払令に至ったわけで。
こっちの顔色もお構いなしに遠慮もなく既得権益だとばかりに当然の要求として来る。
その時点で侵略的なものを嗅ぎとったとしても責められるものでもない。
338名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 00:27:44.95 ID:8NMeasyp0
嗅ぎとったw
339名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 03:30:45.58 ID:0fClwfP50
チョソ臭を嗅ぎ取って、今ウジテレビは大変な事になっているからねw
日本人は、そういうのには敏感だよ。

>>332
>小攘夷には2つあって、
>一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。
    ↑
 長州藩と水戸藩

>もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
>幕府牽制のために言っている。
        ↑
       薩摩藩

>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて

正確には…“今すぐには、出来ません”
13〜4年して海軍力を整えたら、攘夷しましょう。ついでに征韓もしましょう。
って感じ。

>ちなみに攘夷に反対している人間はいません。

留学以後の長州五傑は、どうかな?
あの留学は、完全にジャーディン・マセソン商会がお膳立てしたモノ。
一種の欧米帝国主義の洗脳工作の部分がある。

特に井上馨は、留学中に西洋文明に見せられてしまい、完全な欧化主義者になっている。

井上は、幕府の便宜的な親フランス派官僚よりも酷い欧化主義者で、
明治維新後に井上馨は、今までのヨーロッパを視察して、現地では日本人が
「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという
事実から明治政府の政策として“人種交配計画”を実行しようとしていた。
積極的に白人との結婚や性交渉を奨励し日本で混血児を増やして見た目から
白人に近づこうとしたのだ。
こういう見かけだけの「欧化」に突っ走る元長州藩士の元勲がいたという事は、
それほど長州藩のナショナリズムは激しくなかったと言える。
340名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 03:57:10.61 ID:0fClwfP50
>井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。

まあそうだけど、最大の失敗は、水戸藩のテロ攻撃が迫る中、刀を結び付けていた事だと思うぞ。

>>334
長井雅楽の“航海遠略策”を言っているが、これは大攘夷と言うよりは
開国論と攘夷論の折衷案でどちらかと言うと開国論だ。
長州藩の尊皇攘夷派は“航海遠略策”に反発した、と言うが、
正式な藩論に採用されている事からこの時点の長州藩は、それほど攘夷派は強くないのだろう。
長州藩=攘夷派と単純に言うのはどうか?

>>335
真木和泉もそんな事言っているのか?
案外長州藩も便宜的ナ攘夷論者で単に政局の中心に座りたかっただけなのだったのかも。
341名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 06:37:15.14 ID:dqxefsb10
攘夷実行した薩長、今即攘夷派の英雄が日本を救ったのだ。
攘夷実行の歴と功を都合よく無視し、挙句明治維新は薩長や攘夷派の単なる便宜的陰謀だったかのような、歴史改変捏造するのが売国の常。

新政権は開国はしたが、そもそも攘夷論と開国鎖国論は同じでない。
初期こそ鎖国は国是と思われてたが、途中から徳川幕府が成立した法でしかないと認識されてる。
流れから開国は避けられない必然で、問題はどの様に開国するかの問題でしかない。

和親条約は単に開国し、互いに外交しましょうという普通の外交条約に過ぎない。
次に結んだ日米修好通商条約が、攘夷派を急進論にしたのである。

日米修好通商条約は不平等な条約で、日本にとって著しく不利な条約である。
さらに国内的に朝廷の許可なく結び、対外的には侵略者の害夷の脅しに屈し無策で結ばされた。
この為に、国内経済は物価高で無茶苦茶になり、金銀を消失し、国民は苦しみ、植民地国の例に従い植民地手前の危機。

攘夷論は日本を害夷から守れという当然の論でしかない。
清国や、世界の植民地化された国々は、皆害夷との通商開国で植民地化されたのだ。
開国するのも、よほど上手く開国できなければ、他国のようと同じ道に過ぎない。

徳川は日米修好通商条約の結んだ時点で、もう命運と政権担当資格を失ってる。

その後不平等条約改正(破約攘夷)は薩長主導の新政府が半世紀以上の時間と血と労力をかけて改正を成し遂げた。

>>339
井上は不平等条約改正に苦心し、批判された鹿鳴館や極端な欧化政策を取ったが、そんな訳の分からないことはやってない。
目的は破約攘夷だ。
342名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 07:08:48.36 ID:dqxefsb10
自称大攘夷開国派とやらは、単なる腰抜けでなんら大した役にたってない。

便宜上「開国して大攘夷だー」だの言ってるだけで、実態は幕府の失策を誤魔化しこれまでの行動を追従してるだけ。
航海遠略策などは実態を見ない、実践のない、単なる議論上便宜上のみで通じる空論、と見抜いたのは急進攘夷派の久坂玄瑞。

「英仏の力をほしいままにして皇国に向かい、干戈を用いざるは、支那の長髪賊の勢威はなはださかんなるゆえなるべし。
万に一も長髪賊、英仏に屈せば英仏の我に寇すること必然ならむ。
幕吏の穢き心もちたる奴らは戦いをおそれ和を唱えて、まず武備を整えてのち攘えしと・・・されど、癸丑の頃よりすでに十年の久しきを経ぬるに、器械何ほど整いたるか。士気何ほど奮いたるか。」と批判してる。

久坂は国際情勢を計り、害夷は清国の乱に手こずってるが、侵略の芽はいずれはこちらに向かってくる。
幕府の奴らはそれをよい事に、ただ戦いを恐れ、口先だけで航海だの武器を整え攘夷だの10年も述べてる。

「西洋諸国といえども、魯王のペートル、米利堅のワシントン師の如き、国を興す者の事業を見るに、是非とも百戦中より英傑起り、議論に定まりたる者に非らざれば、役に立たざるものなり。」
「これ非共早く一旦戦争を始めざれば、議論ばかりになりて事業は何時までも運び申さず」

と攘夷を経ずしてでなければならないと結論つけてる。
象山や福沢諭吉など開国派は、ただ外国知識があったってだけ。
攘夷論者の松陰や久坂や高杉や大村などと違い、大した人物でなく大して事もしてない。
会津に至っては、薩長憎しの私怨で北海道を売り飛ばそうとした。

ハッキリ歴史の正邪を明らかにしないと。
343名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 11:43:09.52 ID:sAQruKBA0

井上馨の「人種改良論」知らないの?

馬鹿だねw

ソース
 ↓
井上馨の欧化政策と現代日本の政治
http://www.ubsgw.net/2006/03/blog-post/36
344名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 11:55:09.81 ID:45pdrgeJ0
>>342
久坂や三条は孝明天皇に京都を追い払われてるじゃん。
あの頭のいかれたヤツらをどうにかしてくれって薩摩に泣きついて。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 13:10:05.70 ID:qtn+tQBd0
大東亜戦争は科学技術が発達したとこでもう一度、攘夷を試みたわけだね。
大攘夷も結局は失敗に終わり、「平和で民主的」な屁たれ戦後社会ができた。
346名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 19:23:12.40 ID:RfmWIXDU0
>>343
そこで井上を激烈に非難してる鳥尾小弥太も長州藩士でっせ。
ぱっと見反対派が圧倒的多数って感じだが、高橋義雄vs加藤弘之とか
やり合ってたとこ見ると、それなりに盛り上がってたのか?
井上はそんなことを言ってる一方で、憲法についてはドイツ式でも
イギリス式でもなく日本の国情に合ったものをって持論で、
盲目的に欧米信奉かと言うとそうでもない。
伊藤のキリスト教一件といい、どこか焦りというか浮ついたというか
そんな所のある連中だなw
大久保や木戸の苦労が偲ばれる。
347名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 21:43:40.54 ID:3OFAo5oM0
>>330
幕府に近代化と改革は無理。
もし出来ても日本が植民地になってる。
何故なら幕府は金がカラケツで、旧態依然とした組織を潰す事も出来なかった。
幕府の改革は全て欧米からの借金が前提になっており、
鉄道などもみな敷設権を欧米に認めるというもの。
あれほどの巨額の融資をしてもらって、それを無事返済できるとは思えない。
幕府は馬関戦争の賠償金すら払えず、欧米に利権を譲り渡していた事だしね。

借款ができないか、代わりに領土なり権益なりを大幅に失い、
その権益を守る為に、欧米の兵が駐留するという植民地化が関の山。
348名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 23:29:23.79 ID:b133A+Xq0
松陰、久坂、高杉らは天才であり、対外戦である攘夷戦が内にも急進的革命を引き起こす事を知っていた。
通常の尊皇攘夷論はまず内を固めてから外を跳ね返す論だが、これは空論でしかない事を知っていた。
外を攻撃する事で内も固めるという機微を知ってる。
これを早い時期から知っていた久坂は、中岡によると第一に卓識なる者となる。

>>345
あれは単なるアメリカとの戦争。
国民も負けたのは単に産業と科学の劣勢、原爆が原因と思ってたとされてる。
それを捻じ曲げたのはGHQのプロパと、それに操られ踊らされた戦後左翼や日教組に過ぎない。
349名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 01:29:21.95 ID:fq9CrOMU0
ガルトネル開墾条約事件って
もしかして会津の蝦夷売却話と関係あるのでしょうか?

関係ないとすれば蝦夷共和国のトンチンカンぶりが悲しい。
350名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 03:16:08.10 ID:suKcuN0BO
ジャンプしてサボンを作れ釜次郎
351名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 16:50:56.85 ID:+qXZgZuY0
>>349
前にその辺をNHKBSの番組でやっていたが
政治的なことを個人の感傷にスライドしてごまかして終わってよくわからなかったな
まあその内に総合で再放送するだろう
352名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 16:53:55.02 ID:R8HSsNrg0
>>349
会津の蝦夷地売却の件については、ビスマルクが列強との関係上宜しくないと
断ったって話じゃなかったっけ。
実際はその返事が来る前に会津が終わってたようだが。
353名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 13:46:54.27 ID:nIwnoJ6n0
>>347
ウソばっかり書き込むな!
354名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 13:56:03.08 ID:/bsMUlJN0
>>352
んでケリが付けばいいものを余計なことをしてプロイセン商人に結局6万ドルをふんだくられたのだから
函館府も蝦夷共和国もアホとしか言い用がない
355名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 13:57:56.91 ID:/bsMUlJN0
函館府をアホみたいな公家なんかに任せたから99年租借なんかホイホイ認めちゃうんだよな。
長州藩が彦島租借を断固阻止したのと対照的だ。本当に公家は・・・・
356名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 14:28:56.89 ID:H+//NYuO0
>>355
>本当に公家は・・・・


昭和天皇がマッカーサーに沖縄占領を長く続けてくれるように
頼んだのをおもいだした。
357名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 06:47:10.79 ID:Zu10m+9H0
>何故なら幕府は金がカラケツで、

関税収入が、順調で幕府の税収は確保され、財政破綻はしていない。
従来の貨幣改鋳収入もまだそれなりに確保されているし、特に1867年以降は、
兵庫開港の関税収入は大きくなる。結果これらが、幕府が進める「慶応の改革」の資金源となる。

>旧態依然とした組織を潰す事も出来なかった。

大政奉還直前に幕藩体制から郡県制に移行する事を慶喜が表明している。
大政奉還後の朝廷新政府への政権一元化と合わせて、従来の幕藩統治機構は終了。

>幕府の改革は全て欧米からの借金が前提になっており、

薩摩藩のサボタージュで見事に失敗、代わりに徳川家が旗本領半分を収公してこれに当てる。
結果として、この方が良かった。

>鉄道などもみな敷設権を欧米に認めるというもの。

構想だけで、実現はしていない、外債の起債が失敗した時点でもうこの計画は危うくなっている。
もし徳川宗家の権力が維持されていた場合には、旗本領の残り半分を収公してそれに当てるしかないだろう。

>あれほどの巨額の融資をしてもらって、それを無事返済できるとは思えない。

だから「慶応の改革」は、外債の起債が失敗して、旗本の領地半分を使って費用を捻出したの!
358名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 19:14:15.26 ID:X7IwqS7s0
江戸幕府がトーマス・グラバーの仲介で35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった件だが、

これはグラバーが薩長の関係を重視した為に幕府に引き渡さなかった、
と言われる事が多いが、それと同時にジャーディン・マセソン商会の意向もあった。
ジャーディン・マセソン商会はグラバー商会の元請であり、逆に言えばグラバー商会は、
ジャーディン・マセソン商会の日本の代理店に過ぎない。

この様な最新式の重火器35門と言う大量発注の際は、元請のジャーディン・マセソン商会の
意向を聞かないとグラバーだけの判断では動けない。やはりジャーディン・マセソン商会は、
慶喜治世下の徳川幕府を警戒していたと思う。

ジャーディン・マセソン商会を始めとする外国商社が幕府から距離を取り始めたのは、
1864年に幕府が横浜鎖港を表明した為だ。と言うのが一般的に言われる説だが、幕府は
横浜鎖港の代わりに兵庫と新潟の開港を約束している訳で、外国商社にとってそれほど
不利益ではない。

やはり慶喜が遂行した「慶応の改革」で、大砲や軍艦等の国産化を目指したり、
輸出入や全国の運送を一元的に行なう徳川家肝いりの大商社の設立構想などが、
ジャーディン・マセソンらの外国商社にとっては、利害に直接的に反する、
と判断したからだろう。

幕府が軍艦や重火器の国産化を成功させた場合、外国商社からの武器や艦船の買い付けは大幅に減ると思れる。
また大商社設立計画も外国商社との直接競合する為、その存在を嫌がる。
その為に慶応の改革を実行した幕府への薩長の討幕運動に外国商社も関与した。

幕府の倒壊には、外国商社の関与もよく検討すべき。
359名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 19:16:57.64 ID:X7IwqS7s0
幕府が軍艦や重火器の国産化を成功させた場合、外国商社からの武器や艦船の買い付けは大幅に減ると思れる。
   ↓
   ×
幕府が軍艦や重火器の国産化を成功させた場合、外国商社からの武器や艦船の買い付けは大幅に減る。
   ↓
   ○
360名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 21:51:46.22 ID:G17+9XSE0
慶應年間なんて崖っぷちの時期に改革なんてしても却って混乱しただけだったんじゃないの
361名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 12:01:46.50 ID:+WlrMtf70
その崖っぷちの「慶応の改革」を見て、桂小五郎は…

「今や、関東の政令一新、兵馬の制、またすこぶる見るべきものあり、一橋の胆略決して侮るべからず。
 忠し、今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し。」

と言って、慌てて討幕を始めますがね。

また、桂小五郎も長州五傑の1人でジャーディン・マセソン商会の資金で欧米に留学しています。
外国商社の息がかかっている人物とも言えます。

軍艦と兵器の国産化や輸出入や全国の運送を一元的に行なう大商社の設立構想等をもった幕府に
アームストロング砲を売って今より更に幕府の軍事力を高める事は、ジャーディン・マセソンや
彼らの代理店であるグラバー商会にとっては、迷惑極まり無い事なのでしょう。
362名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 12:20:59.58 ID:j9MbpILl0
>>361
>また、桂小五郎も長州五傑の1人でジャーディン・マセソン商会の資金で欧米に留学しています。
この一文で台無しだよwwwなんちゅう適当な情報をw
桂が長州五傑として留学してたら818政変とか池田屋とか禁門に立ち会えないってのw当時新鮮グミが追っかけてたのは何者なんだw
加冶とかのトンデモ情報にしても時系列滅茶苦茶な捏造だなー、もっと考えて話作れよな。
欧米の留学費は大村益次郎が工面して長州から出してる。

アームストロング云々なら佐賀藩で自作していた事はどうなのかね。
363名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 12:42:12.04 ID:5z8WbHfK0
正直そんなん気にしてないだろ。
日本初のドッグ建造を斡旋したのはグラバーだぞ。長崎の。

兵器を生産出来る技術と、それを大量生産する技術は異なる。
生産できる鋼鉄の質と量、工作機械の調達、大量生産に適した組織作りが必要。
少なくとも、横須賀製鉄所すら出来てない状態で警戒しても意味がない。しかも結局明治政府が受け継いでるし。
また、マセソン商会が売らなくとも、他の商社や最終的にはフランスって伝があるから
どの程度の効果を期待できたか疑問。

ぶっちゃけ、戦争を長期化させたいから圧倒的優勢に見える幕府軍の戦力強化を敬遠したか、
売掛金の回収に不安でも生じたかってとこではないだろうか。

あと、ジャーディン・マセソン商会の仲介でイギリス留学したのは、桂小五郎じゃなくて
伊藤や井上を含む長州五傑の間違いじゃないか?
彼らは工学・鉄道・造幣の技術を学んで帰り、明治にはそれらの分野の重鎮として活躍している。
恒久的に日本に兵器を売りつけたいなら、工業生産性を高める工学や鉄道技術を学ばせちゃダメでしょ。
364名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 12:54:32.22 ID:JbZUnlE80
技術は結構簡単に盗めるもんだけど、
(事実、戦国時代末期、日本は世界一の鉄砲輸出国だった)
金が継続的にないと大量生産のための投資はできない。
365名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 13:52:34.09 ID:0uZ6cU6Q0
英国へ留学した長州五傑は、
井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の
5名の長州藩士ですた。

>アームストロング云々なら佐賀藩で自作していた事はどうなのかね。

買っただけで、自作はしていない。

>ぶっちゃけ、戦争を長期化させたいから圧倒的優勢に見える幕府軍の戦力強化を敬遠したか、

自分の商売がらみとは言え、それも結構な薩長支援じゃね?

>恒久的に日本に兵器を売りつけたいなら、
>工業生産性を高める工学や鉄道技術を学ばせちゃダメでしょ。

黄色人種全般を馬鹿にしていて、技術を教えたところで、マサかドイツ並みの製造業を
日本が立ち上げるとは、この時点では予測していなかったんだろう。

だいぶ後の話になるが、ニクソン訪中の直前にキッシンジャーと周恩来が秘密交渉しているんだけど、
その時にキッシンジャーが
「日本がこれほど経済的に誇張するとは思わなかった。日本を大きくしすぎた事を反省している。」
って周恩来に言う場面がある。これって白人の本音じゃネーのかね?

周恩来も、これを受けて
「日本が台湾の独立運動を支援したり、自主防衛や核武装する事をアメリカは阻止して下さい。」と言い、
キッシンジャーも了解している。

バブルの頃は、FSXの国産を妨害されたし、NOと言える石原慎太郎が、米中両国から嫌われる理由はこの辺りかと。
366名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 15:14:55.04 ID:5z8WbHfK0
>>365
幕府発注のアームストロング砲のその後については今一よく分からんが、
結局鳥羽伏見には間に合ってないんで、そこまで薩長支援って訳ではないのでは。
前年に入荷してるようだし、本当に支援したいならもっと早く渡してるんでないかと。

まぁアームストロング砲自体、特に活躍したと言われるのも上野戦争ぐらいで、
それも佐賀藩所有の6ポンド軽野戦砲らしいから、ぶっちゃけどの程度の価値があったか疑問でもある。
お前ら最新兵器って売り文句に飛びついたんちゃうんかとw
せめて何ポンド砲が発注されたのか分かればなぁ。

あと、技術の吸収力について甘く見てたとしても、最初は外国人技師に頼らざるを得ない訳で。
その辺の判断材料与えるのは、収奪目的としてはマイナスだと思うんだよね。
結局明治政府は、鉄道の経営権を海外に販売するのは禁止しちゃったし。
幕府から買ってた経営権まで無効宣告されたのはザマァだがw
367名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 16:00:02.55 ID:T0ysT2wT0
>結局鳥羽伏見には間に合ってないんで、そこまで薩長支援って訳ではないのでは。
>前年に入荷してるようだし、本当に支援したいならもっと早く渡してるんでないかと。

鳥羽伏見の戦い時点でアームストロング砲を持っているのは、鍋島藩だけで、薩長は持っていない。
上野戦争や会津の攻城戦の時は、薩長は、鍋島藩から借りているだけ。

グラバーにしろジャーディン・マセソンにせよ、鍋島藩に売って、なんで幕府に売らないのよ?
って感じだ。その辺に外国商社の恣意性が感じられる。
まっ薩長にアームストロング砲を売っていないから、露骨な薩長支援はしていないのだろうが…

アームストロング砲を薩長にだけ売って幕府に売らなかったら、グラバーは幕府向けの商売出来なくなっていたかも、
下手したら、攘夷派の旗本に斬られるなw

>あと、技術の吸収力について甘く見てたとしても、最初は外国人技師に頼らざるを得ない訳で。
>その辺の判断材料与えるのは、収奪目的としてはマイナスだと思うんだよね。

清朝も徳川幕府も最初は買うばっかりだったけど、
数年したら、幕府の兵器廠?が炸裂弾を造り始めたり、小栗が“慶応の改革”でアジア最大の造船所を建設したり、
艦船の国産化を言い出したりして、外人たちも次第に幕府と清朝の違いが、判り始めたんじゃないかな?

日本は、国産と輸入の併用で出来れば国産という志向があったけど、清朝は、日清戦争の頃でも輸入ばっかり。

清朝と幕府の兵器輸入政策は、ホンの数年で違いが出ている感がある。
368名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 20:04:42.44 ID:f55yfpz40
>>366
アームストロング砲は秋田戦争などでも活躍しているよ。
369名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 20:17:58.13 ID:/TkvJhdJ0
アームストロング社製でも艦載重砲は破裂しまくりの欠陥品
370名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 20:36:54.07 ID:yaNzQzIC0
「幕府に西郷や大久保の様な大人物居ねーから無理勝てねーから」by慶喜
これが全て
371名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 21:08:04.30 ID:iz2H1qeR0
それは鳥羽・伏見の戦いで負けて帰ってきた上に、大阪城に籠もりましょ、と松平容保らが言い張るから
お前らは大軍を擁し、大見得切って飛び出しておいて、ここまで負けておいてそんな器か、という意味の言葉のあやなわけ。

勝てば問題はなかった。問題は会津ら旧幕府軍が惰弱だったこと。
372名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 21:36:44.31 ID:9CwWlNfG0
為替で財政流出して改革費ねえだろ。北海道担保にしようとしてたぐらいだろ?







ちゃんと調べてないけどwww
373名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/08(月) 08:39:29.78 ID:5UOUDAVn0
>>349
あれは幕府政権下の箱館奉行が認めたものを
蝦夷共和国と明治政府がどちらも追認しただけ。
んで明治政府が莫大な違約金をとられた。
まあ榎本は確信犯だったかもしれないけど。
374名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/08(月) 18:41:37.55 ID:7NeYOYkC0
>>368
ああ、秋田戦争ね、成程。
そこまで記録に残ってるなら逆に、グラバーが引き渡し拒否ったアームストロング砲は
一体どこ行ったんだろうな。
薩長の手に渡ってたら、どっかの戦線で使ってその記録が残るだろうし。
可能性としては、新政府軍にも引き渡されなかったか、重砲クラスで
野戦での運用なんか出来ない代物だったか、ぐらいかなぁ。
>>367が正しそう。
ちなみに、清は洋務運動で、製鉄所や造船所作って武器製造を行ったりしてるぞ。
いかにもあっちの国らしい理由で失敗してるが。
375名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 13:13:58.31 ID:6iI1qqv60
>>357
>関税収入が、順調で幕府の税収は確保され、財政破綻はしていない。

関税率が引き下げられたため、収入が大幅に悪化した。財政破綻している。
下関事件の賠償金も払えなかった。
また国内においても酷いもので、長州征伐の失敗で500万両以上を無駄に使い、
その費用は御用金で捻出しており、幕府の金ではない。

>大政奉還直前に幕藩体制から郡県制に移行する事を慶喜が表明している。

もう幕府がつぶれた時の話だろ、そしてそんなことが実行できるわけもなし。

>構想だけで、実現はしていない、外債の起債が失敗した時点でもうこの計画は危うくなっている。

この時点で売国奴の発想なんだが、そもそも郡県制は構想のみであったといい、
敷設権を与える事は構想のみだから問題ないというのはただのダブスタに過ぎない。
基本的に幕府の艦船購入や、製鉄所や港湾の建設などの費用は全部外国からの借款が前提であり、
それが無理なら、破綻するものでしかなかった。
フランスからの莫大な借款は、フランスの優先購入という生糸の独占を許すものとの交換条件であり、
フランスは相場の半額以下で日本から買い叩いていた。

さらに慶応の改革の問題点をあげれば、日本の流通などもフランスにかませるというものまであり、
正直幕府は自らが存在する為に、日本を切り売りしようとしていたとしか思えない。

ちなみに明治政府は外国人の起業なども厳しく制限していた。
そうやってまず日本国内の産業を守る事が必要な時代だったんだよ。


>だから「慶応の改革」は、外債の起債が失敗して、旗本の領地半分を使って費用を捻出したの!

違うだろ嘘つくな。
旗本の領地収入の半分を収めさせた収入で作り上げたのは、幕府歩兵隊だ。
軍制改革も確かに慶応の改革ではあるが、なんでこれと政治改革まで混同させるんだよ。
376名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 13:27:32.31 ID:vKyzxWDR0
絹利権は大きいからねえ。
蚕種の品質改良をすすめた幕府や絹織の技術を持ち帰った博多の人とかは
もっと評価されてもいいとおもう。
377名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 13:32:26.56 ID:vKyzxWDR0
ちなみに俺は長い間「越後のちりめん問屋のご隠居」の「ちりめん」を絹のことと知らず
シラス(ちりめんじゃこ)を連想していますた。
378名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 17:57:16.40 ID:4esNBwgl0
改税約書だっけ。
当時の列強の常識とは言え酷いもんだ。
379名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 21:01:10.73 ID:zhN/zpHj0
>>375

いろいろ言うけど、結局幕府はフランスから金借りる事に失敗してね?
380名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 21:53:10.03 ID:hOKv4mDL0
>>379
この文は、>>357が嘘という趣旨で書かれたもので、別にその部分は否定していないと思う。
381名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 16:29:13.91 ID:lyY2HQba0
>>380
この分は>>347が嘘という趣旨で書かれたもので、別にその部分は否定していないと思う。
382名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 17:13:01.02 ID:RBiEtOsu0
>>381
>>347は正しいと思うが。
嘘だらけの論証なしの>>357を論じられるのが、そんなに嫌なのだろうか。
383名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 02:20:19.75 ID:+ruQHGX0O

結局、大平洋戦争に続く!

あんな馬鹿な大平洋戦争は、政治経済問題と共に、幕末維新の幕府軍の末裔の意識の裏返しがある!

384名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 04:00:57.99 ID:biUBvJjB0
三国干渉の頃までは物事を客観的に見て現実的な判断が下せたんだがな
メンツを捨てても国を守れた

日露戦争で勘違いしちゃったんだな
385名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 06:06:30.90 ID:CWByOfz+0
現実的な判断が何かという話だけどね
物質で勝つ戦争すべきなのは至極当たり前だけどアメリカならともかく
他の国からしたらほぼ戦争理想論に近いし
当時の指導者立場からしたらあれが地に足ついた現実的判断なんだろう
386名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 11:20:49.54 ID:Rljzyzwv0
>>385
日本語でおK
387名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 12:09:10.42 ID:YY2SD3cI0
お前が理解できないからといって誰もが理解できないと思わないほうがいい
388名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 12:16:37.25 ID:Rljzyzwv0
意味不明だよw
389名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 12:24:58.02 ID:Zw+1tyRC0
>>379
最初の借款は成功したが、追加借款は難航しており、交渉中に幕府が滅んだ。
390名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 17:33:07.87 ID:asidz2/h0
>結局、大平洋戦争に続く!
>日露戦争で勘違いしちゃったんだな

幕末明治の戦争と太平洋戦争をつなげない方がいいよ。問題の質がまったく違う。

明治以前の戦争の主題は「いかに日本を守るか」だった。
そういう意味では、国防や国益をキチンと考えている。
昭和期の戦争は、ほとんどが軍閥の勢力拡大に端を発している。
政治家などの議会の方は、戦争なんかしたくなかったが、軍部や軍閥の方は戦争が起きた方が
自分達の権限や資金が集まる為、戦争を起こそうとして事件を起こした。
国或いは国益なんて考えてねぇもん。
日中戦争が特にそう。その日中戦争で中国側にたったのが米国などの連合国で、
太平洋戦争の原因は、日中戦争にある。
391名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 18:06:45.54 ID:AEp7lCKt0
国益を考えてああなったんでわ
政治家などの議会は我が身の保身しか考えてなかった
アメリカはずっと満州利権狙ってたし
392名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 20:20:29.05 ID:asidz2/h0
国益を考えてたら
”議会を通さず、参謀本部といった軍中央にも相談せず、ナントカ事変”なんて起こさないでしょ。
個人的利権や権力拡大の為にやったから”謀略的事件”になっとるわけで。
393名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/12(金) 06:31:48.15 ID:MHCPq+xf0
昭和のは全部既成事実と事後承諾の繰り返しの時点でどういう類のものだったかお察し
394名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/12(金) 11:36:30.82 ID:yG2/Trsc0
>>390
甘いよ議会というか議員さんのバックには財閥がいるわけで、
財閥は不況で消費が芳しくないから、戦争需要を当てにしているんだよ。
さらに満州に進出している企業はかなり多い。
そのうちの一つの満鉄の株だけで、東証の株価の一割はもっていた。
その株を保険屋や銀行がもっているわけで、ここが潰れると金融が連鎖倒産する恐れがあったんだよ。
だから彼らも満州の権益を手放すなんて出来ない。

日中戦争とは日本が権益をそのまま持とうとした事と、
それを奪還しようとした中国の戦いなのさ。

在日米軍基地に特攻しかけたようなもんだ。
395名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/12(金) 13:48:33.54 ID:ARr07uud0
まぁ戦前は国民感情的にも、満州放棄は無理だったと思うけどね。
ただ張作霖爆殺と満州事変ってやり方は……
396名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/14(日) 00:15:06.63 ID:IC8Xm1ay0
直ちに放棄しろとは言ってないんだな。
397名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/14(日) 07:59:23.51 ID:a5///+6F0
政治家も内田外相の焦土演説が受け入れられたのを考えると満州国を肯定してたように思えるけど。
まあ犬養みたいに粛軍とリットン提言に近い線での満州処理を考えてた政治家もいるんで一概には言えんけどな。
398名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 02:11:36.79 ID:xm3TMv5h0
生糸利権フランスに売り渡そうとした小栗の父祖伝来の領地が養蚕王国上州だったというのが
皮肉めいて面白いんだろ。歴史の妙な必然。
小栗の功績、横須賀ドックは軽工業(紡績)で数十年経験積んで、重工業に移行した時に
やっと役に立った。我が国唯一の資源、生糸利権売り渡してれば無駄。
399名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 02:48:44.96 ID:vov+57J3O
>>397
満州国に関する犬養の答弁やインタビューはかなり苦しいけどなw

経済建て直しには新興財閥の更なる成長は不可欠な上に、予算を突っ込みたい化学・軍事関係は旧財閥より新興財閥の方が積極的。


もし満州放棄になればこの新興財閥が一気に離れ、経済も更に失速という。


ジレンマってやつだな
400名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 02:54:09.44 ID:YM4H6hUN0
日明貿易を牛耳る大内氏が絹利権に目をつける

満田彦三郎が大内の手引きにより広州で修行し大陸の絹製法を持ち帰る

博多織や西陣織等絹織物が大きな利権となる

生糸の需要も高まり南蛮人が絹の転売で大儲けする

諸藩が蚕の改良に尽力する

生糸、絹織物ともに中国水準に迫る質を得る

養蚕製糸が殖産興業の主力になる

富岡から三河へ紡績が広まる

豊田佐吉が自動織機を作る

挙母町に自動車工場が設立される

人工繊維の開発で絹需要が激減

自動車産業全盛期へ

歴史って面白いですね。
401名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 14:28:08.49 ID:lSbE5xg/0
つながってるからな
402名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 21:19:40.49 ID:cZHAze0Z0
そろそろ話を幕末に近づけましょう。

戊辰戦争に勝利した新政府は、長州藩の大村一派と薩摩藩の海江田一派により
軍制の策定を巡って対立論争をし始めた。そしてついに海江田一派は長州藩の
大村益次郎を暗殺してしまう。

このような新政府内の混乱をよそに紀州藩(和歌山)が独自の徴兵制を敷いて
ドライゼ銃とクルップ砲で武装したプロイセン式農兵軍を組織し、地理的な優
位性と徳川宗家16代当主の田安亀之助が紀州徳川家の縁者である事などもあり
同藩は軍事的に台頭しつつあった。
また、この動きに、土佐藩が同調する動きも有った。

大村の後を継いだ長州奇兵隊出身の山縣有朋は、紀州藩の動きに危機感を覚え
て薩摩との協調に転じ、山縣の依頼を受けた西郷隆盛は、1871年(明治4年)
に中央政界に復帰して御親兵(後の近衛師団)に各藩の藩兵を拠出させて改組
し、これを中央軍とする体制が暫定的に発足し、この御親兵の軍事力を梃子に
して廃藩置県を新政府は断行した。

江戸城開城以後も薩長に軍事的に対抗する動きを見せた土佐藩や紀州藩の軍事
力を廃藩置県という大義名分の下に解散させた。
403名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/19(金) 01:36:05.35 ID:36O2hM9c0
16 名前:日本@名無史さん :03/02/10 03:22
行軍隊形に京都へ進軍したから。
旧幕府側はあの場で戦争するつもりはなかったから。
以上の原因から生ずる初日二日目の旧幕府軍敗北で旧幕府側は
後手後手にまわり、これと心中したくない土佐、淀、津各藩現場部隊は、
隠居や藩主の意向などおかまいなく錦の御旗にすがりつき、
旧幕府軍敗退に拍車をかけた。
404名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/19(金) 22:13:45.37 ID:QbVNpUxS0
淀藩、津藩はともかく土佐藩は、幕府軍を裏切ってはいない。

幕府軍が、鳥羽伏見の戦いに負けて大阪城に撤退した後も土佐藩は幕府や会津藩と連絡を取り、
京都への最進撃を要請してきている。

特に官軍の兵力と食料弾薬のの不足の情報を提供しており、再度の進撃が合った場合、
鳥羽伏見の防衛線で官軍は守りきれるか判らなかった。
405名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/20(土) 02:23:23.47 ID:eSGS9HJ50
>>404
土佐藩は四日には新政府側として参戦してるぞ。
しかも敗退した後に進撃とか、三分の一の数の薩長だけでも勝てなかったのに
日和見して裏切った淀藩や津藩だけではな無く、旧幕府側として出兵していた
小浜藩も新政府側に恭順しだした情勢では無謀だよ。
士気の面でもね。
406名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 14:33:49.86 ID:keUABWZI0
幕府のまま近代化していたら朝廷の位置づけはどうなっていたのだろう。
ローマ教皇のようなものと説明するのだろうか?
407名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 15:37:09.59 ID:iKEhZOg40
西南戦争終わるまで
一般市民のとっては天皇って地味だったろ
408名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 17:43:50.86 ID:bwsBG1At0
庶民でも論語や孟子くらい読んでいた。
その中の「正名」という概念について学べば
武官の長にすぎない「将軍」と呼ばれる者が
「帝」と呼ばれる存在をさしおいて
実質上最高権力者の地位にいる事を奇異に思わないはずがない。
そういう議論は幕末までには庶民レベルまで相当浸透していた。
庶民というのは下級武士も含むからね。
409名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 18:04:15.44 ID:keUABWZI0
易姓革命も辞さないという強い態度で臨んだらお公家さんはへたれ
だから、宗教上の指導者ということで祭り上げられるんじゃないか。
410名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 12:12:33.06 ID:2t0iOnr30
下級武士は幕藩体制で固定化されている身分制度を打ち壊すために
勤皇を利用したって側面も大きいけどね。
要するに成り上がるには将軍すっ飛ばして天皇に直接ぶら下がるのがいいと考えた。
411名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 13:22:13.81 ID:Z9JN689I0
光格天皇のとき、御所千度参りとかいうのがあったのを考えると、
少なくとも近畿では神社的な存在感はあったんじゃないか?w
あと庄屋とか豪農辺りだと教育受けて勤皇に走ったのもいるから結構知られてただろうし、
寺子屋の多かった辺りは農民でも知っていたかもしれない。
伊藤博文や山県有朋だって、元は中間だしね。
412名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 21:33:46.75 ID:lDTJ3fkS0
長州藩の場合は国内でも二番目の数の寺子屋があって、
けっこう教育に熱心な藩だったからねえ。
農民をある程度教育していたのは、岡山藩(寺子屋の数一位)と長州藩くらいのもの。
そしてだから勤皇藩に長州藩はなったといえる。
413名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 22:33:41.76 ID:mua/5ZeP0
勤皇の結果、神がかり対米戦争に突入だけどな。
414名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 13:49:40.62 ID:p/wwS9Zl0
外様の藩士なら特に勤王の論理に飛びついただろう
415名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 14:41:15.08 ID:2NVp0XRq0
一番物凄い勢いで飛びついたのは親藩の水戸だけどなw
416名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/26(金) 20:26:00.72 ID:7cjsw/eS0
尊皇攘夷は当たり前の常識。
尊皇攘夷を政治実現化すると勤王になる、なぜ勤王か。
攘夷の為には上下左右の軋轢を廃し日本を一つにまとめる必要がある。
幕府は諸侯の中で大いなる盟主に過ぎないから、日本の旗になるのは不可能。
結局天皇以外なしとなる。
417名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/26(金) 23:57:49.93 ID:4f2QJFrC0
天皇抜きに出来なかったのが当時の日本人の弱さだな。
418名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 01:03:08.67 ID:VqUUL52d0
権力を持たない権威という点で都合のいい
天皇家という中核がいたことが当時の日本の強みだな

民主主義はよほど成熟しないと権威と権力の分離が上手くいかない
共和制国家は統合の中核を欠き、
王政国家は権力の専横のリスクがある
だからフランスですら王政と共和制を行ったり来たり動揺していた
419名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 06:54:21.36 ID:U5t82uyw0
日本の場合幸い、天皇家は西洋における政教的役割も兼ねてる。
欧米の場合はナポレオン戦争や独立戦争の攻伐から、挙国攘夷体制の国民国家を作り出した。
その点日本は言語習慣風習が同じ単一国で、皆尊敬する天皇家という人工では作れない権威象徴がある。
皆尊王だったから大きな内乱なく、封建体制や身分制を廃し国民国家を成立できた。
420名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 05:09:24.33 ID:3O1HL39B0
>>405
土佐藩兵は、幕府軍とほとんど戦っていないのが現実。
>>410
それは、その通り、徳川将軍家のオールマイティーを打ち消す為に、皇室を持ち出した。
ある意味、明治天皇が徳川慶喜に成り代わって廃藩置県や富国強兵を行った。
>>417
今でも日本人には天皇家は欠かせない、必要ないのはブサヨとチョソとシナだけ。
民主党のデタラメぶりを見れば、出来れば天皇に拒否権ぐらい与えても良いくらいだ。
>>418
フランス革命政府は、ルイ16世のクビをちょん切ってから“理性の祭典”なんてのをやっている。
421名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 06:37:30.13 ID:AgXYJAVCO
きんのー
422名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 09:40:44.84 ID:0takiqB90
>420
リヒテンシュタインですか?
423名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 16:09:06.65 ID:AA2JbzZf0
フンガー
424名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 11:52:45.75 ID:f4vVOKa/0
桃山時代には大砲を安宅丸に搭載した徳川水軍がいたのに
それらはどこにいった?
425名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 02:54:27.22 ID:HV9jIlfm0
海軍は維持費が馬鹿高いので解体しました。
大船建造禁止令があるからいいじゃない。
商船利用しようにも、一本帆だから切り上がり性能が良くなくて風待ちは必須だし、
沿岸航海に特化してるから、大挙してやってくれば絶対どっかで見つかるし。
商船に偽装して建造しようにも、一本帆は大型船に向いてない。
426名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 10:25:45.00 ID:L7rogHm/0
御三家の尾張、紀州はヘナチョコすぎた。
427名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 01:38:14.44 ID:SApfssfw0
尾張は第一次長州征伐で幕府に面目潰されたのが大概だと思う。
紀州は第二次で頑張ってたし、鳥羽伏見じゃ出た頃には負け確だから
情状酌量の余地があると思うw
428名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/19(土) 11:29:07.59 ID:UZ07duQ10
諸国名産魚名尽し

尾州の川魚 大海の魚にはましり難たし
水戸の人魚 あるか無いかわからない
紀のごまめ 魚ノ数のみとるにたらず
備前 鮫  かまぼこより外しかたなし
因州 初かつを 皆人々好く
田安 池の魚 大海へでて、うつけばかり
安藤(信正) 南風(はえ)にあたった魚 腹わたが腐っている
久世広周 車海老 味あれども骨がたりない
薩州 鯨  動き出しては大騒ぎ
長州 ボラ 作り身にして鯛に続く
土州 かつお なくてはならぬ
肥州 鰐の子 成長の後恐るべし
芸州 馬鹿貝のむき身 魚の数にいらず
鍋嶋 鰐 呑みもはねもする恐るへき勢い
429名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/04(日) 14:24:53.17 ID:YKoNZWLK0
430名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 14:40:11.65 ID:xM1hbJYEO
>>427
尾張は幕末の悲劇が、ありましたからね。

紀州は独自の改革は、凄かった
431名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/17(土) 09:21:15.13 ID:dIKEvGtH0
指揮官が自分だけ逃走するが一番萎えるよな
小笠原壱岐守とか徳川慶喜とか
432名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 20:26:40.43 ID:N5nwPYe70
>>431 現代では佐々淳行とか。
433名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 21:35:58.81 ID:WT30XbD90
・・・
434名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/21(水) 16:09:18.44 ID:XVFmncb00
>>426-427
紀州藩は、戊辰戦争終結後も独自の兵力を誇り、薩長を牽制していますよ。
薩長は、徳川本家(天領)や東北地方を制圧しましたが、まだ土佐と紀州が組んで薩長に対峙しています。

東京で御親兵が急遽設立され、
廃藩置県が強行されたのも薩長が紀州藩や土佐藩の素早い武装解除を目論んだ面があります。
435名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 08:44:59.84 ID:DjVPk6Cf0
1884年,藩士からの勲功華族(維新・戊辰・函館の功)

薩摩
侯爵:大久保。
伯爵:大山、川村、黒田、西郷従、寺島、松方。
子爵:伊東、樺山、高島、仁礼、野津。

長州
侯爵:木戸。
伯爵:伊藤、井上、広沢、山県、山田。
子爵:鳥尾、三浦、三好。

土佐
伯爵:佐々木。
子爵:谷、福岡。

肥前
伯爵:大木。
子爵:中牟田。

筑後
子爵:曾我。
436名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 08:45:14.64 ID:DjVPk6Cf0
1887年,藩士からの勲功華族(維新・戊辰・函館の功)

薩摩
子爵:岩下方平、森有礼、吉田清成。

長州
子爵:青木周蔵、杉孫七郎、野村靖、林友幸。

土佐
伯爵:板垣、後藤。
子爵:清岡公張、田中光顕。

肥前
伯爵:大隈。

その他
伯爵:勝安芳。
子爵:田中不二麿、香川敬三、福羽美静、渡辺昇。
437名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 13:31:57.76 ID:zs6bH/bY0
幕府のアームストロング砲35門の輸入計画。
何でジーディン・マセソンやグラバー商会は、邪魔するんだよ。


アームストロング砲35門が、江戸城や大阪城に配備されていれば、戊辰戦争は幕府の勝ちだろ。

幕府もアームストロング砲にばかり拘らずにクルップ砲の輸入も併行して行えば良かった。

幕府海軍旗艦「開陽丸」に搭載されているクルップ施条砲は、
デンマーク戦争で威力を発揮し欧州でクルップの名をとどろかせた。

「開陽丸」に搭載されているクルップ施条砲は、
海上試射距離3900メートルなどの高い試験結果を残し、アームストロング砲を上回る性能を示した。

この為にオランダ海軍軍人さえも「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と言わしめている。

アームストロング砲35門が手に入らなければ、幕府も他の武器商人に手を回して、
クルップ施条砲をそれ以上に輸入して江戸城や大阪城、駿府城、甲府城に配備してやればよい。
官軍は、これらの城に近寄れなくなる。

スネル兄弟からも幕府はガトリング砲を数十門買うべきだった。
438名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 17:15:42.06 ID:9/PSJq600
>>437
つか、普通に仲良かったフランスから買えば良かったんじゃね?と思うんだが
もう軍機でも何でもなかったから、迂回輸入でも出来たでしょ
アメリカにしても、たしか甲鉄の兵装とかアームストロング砲だったし
439名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 19:38:45.05 ID:m8RUMRw+0
クルップ砲は、ドイツだからフランスからは買えない。
ガトリング砲も実用化しているのはアメリカだけだったはずだが、大政奉還以前なら幕府も大量に買えただろうな。

まあ幕府は、ジーディン・マセソンやグラバー商会だけじゃなくてスネル兄弟からも購入すべきだったね。



クルップ砲35門、ガトリング砲50門、あと甲鉄艦が手に入るまで幕府は、開戦すべきではなかった。
440 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/12/22(木) 19:40:54.82 ID:DjVPk6Cf0
火器の発達
 1777年 (仏) 軍用燧石銃の決定版完成
 1848年 佐賀藩 火縄銃を廃し燧石ゲベール銃標準装備化
        戊辰戦争発生の20年前に火縄銃は廃棄していた
 1850年 佐賀藩 反射炉の製造着手
 1866年 (英) 前装銃を改良し後装銃としたものを正式銃とした
441名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 12:16:08.56 ID:FeH6Ecy/0
>1866年 (英) 前装銃を改良し後装銃としたものを正式銃とした

幕府の関口製造所では、この時期から、先込式エミニー銃を元込式に改造する事も始めている。
442名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 13:10:27.27 ID:c4TASKh80
もし仮にアームストロング砲35門やガトリング砲多数を幕府が入手していれば、
慶喜は、鳥羽伏見の敗戦後も大阪城を逃げ出さず、籠城を続けた可能性が大きい。

そうなると幕府艦隊も、
大阪湾の埠頭やその近くから、大阪城を包囲する官軍に向けて艦砲射撃を行っていたかも。
クルップ砲なら4キロ近く砲弾が飛ぶからな。
443名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 21:52:33.66 ID:i/PLqfyI0
そうなると大阪町民に大被害が出るかも…

薩長軍は、5千人しか居ないし、
西郷が言うように補給が続かないので大阪市内で官軍による虐殺略奪行為が横行するかも。

会津若松市内でも薩長軍による町民への虐殺行為があったが、大阪で同じような事が、もっと大規模に起きていただろう。
444名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 13:24:54.66 ID:fmX+gaC30
>>443
官軍による大坂での略奪は実際にあった事だよ。幕府軍が逃げた後でね、
もっとも旧幕軍や会津兵が大坂城に放火して大坂から逃げ去る時に彼らも略奪しまくったがね。
445名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 14:52:48.15 ID:OhqX5F070
大阪の民衆が略奪しようとして
トラップに引っかかって大勢絶命したそうな
446名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 01:11:02.01 ID:MmZjdk2M0
>>444
大阪での略奪はそれほどの規模ではなかったのでは?
薩長も幕府軍が逃げたので、それほど殺気立っていないだろうし。


それに薩長軍が大阪城を包囲しても、土佐や越前、尾張などはあんまり幕府軍と戦いたがらないだろ。

下手すると土佐、越前、尾張は、大阪方の徳川に寝返るかも。
447名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 14:16:30.02 ID:U9T5UPMS0
>>446
そこで寝返るぐらいなら、鳥羽伏見のとき寝返ってるでしょう。
大阪目指して東上してくる徳川軍vs新政府軍の天王山が終わるまで洞ヶ峠では。
尾張と越前は恐らく問題ないが、土佐は板垣などの急進派が上洛した後では
容堂公が寝返ろうとしても上手く行くか微妙。

>>439
初期のアームストロング砲みたいに輸出禁止の軍機扱いになってなけりゃ
どこの国でも買えるぞ。政治的横槍が入らなければ。
フランス経由が独仏関係で難しいならオランダ経由でもいい。
まぁ直接買えるツテが出来るならそれが一番いいんだが。
オランダ製の開陽丸のときはクルップ(前装砲)指定してるし。
448名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 01:40:54.22 ID:JDkuqNY00
鳥羽伏見の戦いの時は、土佐藩兵と幕府軍が出会い頭で勝ちあっているけど、
別に衝突もせず、土佐藩兵が迂回路を教えて幕府軍を誘導さえしている。
上からの命令で土佐藩兵は幕府軍との衝突を避けるように命令されている。

尾張と越前は、鳥羽伏見の戦いでは裏切ろうにも鳥羽伏見に出兵していない。
鳥羽伏見では、薩長vs幕府・会津・桑名・新撰組・新遊撃隊の戦い。

アームストロング砲は、ジャーディン・マセソンやグラバー商会の判断で幕府に売らなかった。

それに開陽丸のクルップ砲は、先込だったのか?かなりの最新式で飛距離もかなり飛んだらしいが。
449名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 12:05:46.70 ID:G1GswB6b0
土佐って一番ずるがしこい立ち位置だったからなあ
450名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 15:41:08.71 ID:WkXzV4NmO
購入するだけの金がなかった
451名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 04:54:41.44 ID:S2qTe1AU0
幕府には、アームストロング砲35門ぐらい買う金あるよ。
旗本領300万石からの貢租収入半分を幕府が押えた。

旗本はこれに怒っているけどね。


慶喜が、大阪城に篭城をきめたら朝廷は大阪に軍を進めたかどうかも判らない。
議定会議で尾張、越前、土佐が大阪進軍を拒否するだろうし、薩長も補給を
考えてイキナリは進軍しないかもしれない。

特に補給を考えると大阪湾に幕府艦隊が居るのは痛い。
452名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 08:26:36.19 ID:sFwlfGUE0
>議定会議で尾張、越前、土佐が大阪進軍を拒否するだろうし、薩長も補給を
>考えてイキナリは進軍しないかもしれない。

どちらもありえない。
453名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 08:30:44.78 ID:kG8NZ9lU0
幕府は財政難でしたけど
戦費調達はどのようにおこなっていたのでしょうか?
454名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 09:00:32.23 ID:sFwlfGUE0
>>453
御用金と商人からの借金と欧米からの借金
ついでに給料の支払いの遅延や停止。
長州征伐だけで数百万両の借金ができたので、このときの幕府はすっからかん。
455名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 19:15:35.05 ID:+T/wIu820
鳥羽伏見で戦わずに大阪篭城だったら>>451の展開はありえただろうな。
三条実美あたりが妥協点を探って開戦を回避しようとしたかも。
456名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 22:01:38.15 ID:pQWucJDK0
>>455
薩長より圧倒的な兵力を持っている状況で籠城?ありえねぇってw
そんな臆病な兵隊&指揮官なら最初から戦わずに降伏するってのw
457名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 01:09:38.71 ID:3b0h0qyK0
慶喜は、一月五日には、
大阪城の大広間に幕閣や諸隊長を集めて、篭城する旨の演説しているんだよ。

でも翌日6日には逃亡しちゃうので、大阪城の幕府軍の崩壊と逃亡が始まってしまう。
458名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 08:30:52.86 ID:62Z3BcNV0
>>454
サンクス
貧乏が憎いぜ
459名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 15:34:23.83 ID:89BUFD1Y0
>>457
何が篭城を困難にする情報が入ったのかねえ。
流言飛語も飛び交っているし。
当時の慶喜としては朝敵になって次々に機内の諸藩が裏切っていたから、
紀州などまで裏切るかもしれんと判断して早期に撤退を判断したかもしれん。
紀州まで裏切ったら完全に孤立するのでほぼ詰み。

佐幕派の中にはこういう当時の状況を正確に知れるわけがないのに。
後世の後知恵で逃げた事を批判する奴が多くてなあ。
紀州なんて鳥羽伏見の前からどっちつかずの微妙な態度とっていたわけで、
慶喜にそれを信じろというのは無理がある。
越前や尾張まで裏切っているしな。
460名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 21:45:49.41 ID:rJyJC6qt0
>>459
慶喜の回顧談や福井藩の松平春嶽、尾張藩の記録を総合すると、

@王政復古による大名議会制を意図する福井・土佐・芸州・尾張が、薩長ら倒幕派と組む。
 王政復古後、徳川家は一大名として政権に参加。その際は議長クラスか薩長(土芸福井尾張ら)と同列となる。
Aこの路線で、岩倉具視を説得し賛同を得た。結果として岩倉は薩長等倒幕派に京都警備以外の積極的な出撃を禁じ、警備しかさせなかった。
 この件で、大久保利通西郷隆盛が激怒して岩倉に文句を言ったが、岩倉は華麗にスルー。
B慶喜と朝廷との仲立ちに尾張藩主と土佐、福井藩が入り調整を行った。
C結果として、小御所会義の決定事項、徳川に対する辞官納地が有名無実化した。
D尾張藩福井藩から、慶喜を薩長と同格の参議として向かえるとの言質を取る。
E慶喜は、大坂城に居ながらにして徳川穏健論派の尾張や福井藩の活躍で、明治政府参議の資格で参加することが確定。
 ただし、岩倉が出した唯一の条件「普通の服装で(つまり武装せずに)参内し、これまでの失政を謝すること」があった。
 これが行われれば、徳川家の明治政府の参加が決定的となる。
F慶喜は尾張福井土佐藩等からその事を聞き、朝廷よりも参内の命令が届いた。
G慶喜は参内する意思を見せたものの、家臣達主戦派が武力進撃論で固まっており、迂闊に動けないと朝廷に返答。
H参内上洛の命令が朝廷から出たことを知った主戦派会津桑名藩は、上洛に護衛の兵が附屬する事は当然として出兵を開始。
I慶喜、サジを投げる。
J大久保西ク、旧幕軍暴発を聞いて岩倉に錦の御旗を出せと要求。
K岩倉、薩長に錦旗を渡さず保留し、警備以外するなと厳命した後、尾張土佐福井藩に調停を依頼。
L福井藩松平春嶽、尾張福井藩兵で旧幕軍と薩長軍の間に入り、戦争を阻止しようとするも間に合わず。
M鳥羽伏見の戦い発生。旧幕軍まさかのボロ負け。土佐福井尾張藩の努力は水の泡となり、錦旗薩長に渡される。
N徳川家朝敵になる。
O慶喜、このまま戦えば勝ち、天皇を脅迫して幕府存続できると想像するも、その勝ち方は足利尊氏と同じであり、歴史上比類無き大悪人のレッテルが永遠に貼られる事を恐れる。
 (水戸学では、足利尊氏は毛虫扱いで、現代で喩えればオウム真理教の麻原教祖と同じ評価)
P慶喜、戦を止めたくも止められず。逆に戦う演説をした後、会津桑名藩主を連れて大坂城を脱出。
 慶喜の回顧談には、なぜ会津桑名両藩主を連れていったのか聞かれた慶喜は、「あれがいたら(戦争が)始まる」と答えた。
 つまり、大坂脱出は幕府首脳陣を部隊を引き離す事で戦争継続不能=停戦にさせる策だった。
461名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/31(土) 04:21:39.88 ID:bWwDfwkU0
>>459
>紀州などまで裏切るかもしれんと判断して早期に撤退を判断したかもしれん。
>紀州なんて鳥羽伏見の前からどっちつかずの微妙な態度とっていたわけで

これ大間違い。
紀州藩は、どっちつかずではない。断固佐幕派だ。
龍馬が暗殺される少し前に、大垣藩と紀州藩は、在京老中に佐幕派クーデターを建白している。
この計画は、会津・桑名両藩や津、宮津などの畿内近辺の佐幕藩の支援も受けた計画。
朝廷の次期摂政や朝廷諸侯会議議長の就任のウワサが出ていた慶喜は、この計画を強引に辞めさせた。

東北での戦争が終わった後に紀州藩は、領内で徴兵を実施しドイツ式兵法で洋式軍隊を整備していた事から
土佐藩と組んで薩長と対峙する姿勢を見せている。その為に明治新政府は、故郷に帰り始め解散しつつある
官軍の中から御親兵を選抜し東京に設置、廃藩置県を断行して紀州藩と土佐藩を兵力を取り上げる政策を実施する。

紀州藩は16代将軍候補の田安亀之助を抱えていたので、慶喜の大政奉還ですた内心反対している。
さっさと亀之助に将軍職を繋げたい意向だ。
462名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/31(土) 04:28:51.24 ID:oUWfWjYO0

欧米列強に見放された幕軍に勝利の見込みはないな
中途半端に混乱していれば30年後にロシアのバルチック艦隊が
押し寄せて完全に列強の分断植民地だよ
日本の薩長明治政府は英米の下請け間接支配を選んだんだ
それにより分断植民地を免れ近代化を進める許可を得たんだよ
まあ、列強のロシア対抗の英米下請け防波堤の役割
463名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/31(土) 17:43:25.96 ID:BoL68/sA0
英米下請け防波堤

下請けが、いかに儲からないか、動きに自由が無いか、を知らないアホの発言だなw

下請けになっても何時切られるか判らないぞ、だったら自分で販路確保しろってこと。
464名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/01(日) 19:19:34.64 ID:nLBaLOnK0
>英米の下請け

そうか?むしろ日本が英米を利用しまくり、いらなくなったらポイ捨てしただろうにw

日露戦争時、ロシアに対し日本単独では勝てないから英国と同盟。英国は日本を利用してロシアの南下を止めた。
しかも、その仲裁役は米国で、戦いが長期化すれば日本が負けてたのに米国は仲裁してしまい日本の勝ちにw。
英国の望む通り日本が勝ったわけだが、その後はロシアと対等に戦える事実をもって英国を利用して不平等条約を撤廃。
しかも大陸にも進出して利権を確保し、英国を利用しまくりながら覇権を拡大。
英国がヤバいと思い、米国もヤバイと思えばこその軍縮条約で軍艦の制限を掛けられ、
英米が日本にひれ伏せと言わんばかりの外交を始めれば、日本は英米をポイ捨てして国連脱退。三国同盟締結でしょw。
465名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 06:52:28.24 ID:iDzjunB/0
バカじゃねw

販路押えている方が、強い立場なのは分かりきった話だろ。

下請けは、販路持って無いからダメなんだよ。

とりあえず、自社のホームページから自社製品を販売出来る様にしとけよ。

自分が生産したものを直接エンドユーザーに販売出来れば、
元請はもとより、お店(小売店)すら要らないんだよ。

ユニクロは、中国やバングラディシュの生産工場と契約して
自社品を作ってもらい、それを売っている体制。だから儲かる。

しかもユニクロは、ネット販売にも力を入れ始めた。
今まで店10、ネット販売1の割合だったが、今では店5、ネット販売1の割合。
466名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 13:41:54.09 ID:7nVK4eI30
>>448
開戦当初の土佐藩の動きは知ってるんだが、早々に参戦しようとして呼び戻された部隊もいたやん?
そんな場に、勝手に薩土密約結んじゃうような板垣が来た後では、容堂公が裏切りに動いても
下がどう動くか不安要素があるってこと。
ちなみに史実では、土佐に戻されてた板垣が鳥羽伏見の報を受けたのが1月8日、土佐進発が1月13日だから
そういうジレンマには陥ってないけどね。

あと一応、尾張や越前は鳥羽伏見の頃宮門警備を担当してる。
能動的に裏切りを働けるほどの兵力は無かっただろうけど。
467名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 22:03:05.21 ID:RRE94CuV0
>>466
淀藩と津藩が裏切り、完全に旧幕軍が大阪に引き上げた6日の夜には
大阪の会津藩の陣営に土佐藩からの密使が来て、色々相談している。

その直後に土佐藩本陣に岩倉が来て、押さえ込みに着ているが。

土佐藩の上士の9割が佐幕派である状況から見て、慶喜が大阪城で抗戦
を続ける限り、豊信と後藤が旧幕府側に寝返るチャンスはあるよ。

6日の夜に大阪の会津藩の陣営に来た土佐藩からの密使も慶喜が江戸に帰る
事が無い様に念を押しに来ているし、むしろ再度京に進撃する事求めているくらい。



仮に官軍が、大阪城を包囲しても、
薩長はともかくその他の藩は、旧幕府軍と対峙し続けるか不明だ。
468名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 03:30:00.65 ID:uhmOCSZZ0
長州藩は、ともかく
薩摩藩は、討幕戦争が長引いたら、国元が持たない。

薩摩は、もともと大政奉還以前から京に千数百名の藩士や軍勢を置いていた。
京の郊外に広大な演習場も整備し軍備を整え訓練を重ねていた。

しかし、この規模の軍の在京でも藩の財政が苦しいと言う事で、国元では批判が高かった。
しかも大政奉還で更に追加援軍3000名を上洛させる事を大久保と西郷が求めると
家老の関山礼が公然と批判の声をあげ、鹿児島藩では大騒ぎになってしまった。

結局、藩主の君命で何とか3000名を集めて、大政奉還後の新政府の幼帝の警護と
言う事で上洛を決定した。決して討幕戦争の事は、国元では一切明らかにせず、あく
までも天皇の警備と言う事しか明らかにしなかった。

その後更に鹿児島藩は、さらなる援軍を結成中だったが、当然討幕戦争の事は
一切明らかにせず、天皇警備の名の下での再援軍召集だった。このために大阪で
戊辰戦争が膠着した場合には、鹿児島藩の再援軍の畿内出兵はかなり厳しい事になる。

鹿児島藩の場合には、幕府海軍がおり海路での部隊運送も難しく、薩摩藩の場合、
3000名以上の兵力を畿内に集めるのは困難だと思われる。

その点、長州藩は、陸続きであり、2万人近い援軍が中国地方を通じて、
京に向けて進軍を続けていた。もし仮に大阪城での戦いが始まったら、
長州藩の追加派兵2万人も大阪城の戦いに参加していただろう。
469名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 12:31:11.01 ID:kWXJLWA00
>長州藩の追加派兵2万人も大阪城の戦いに参加していただろう。

でもこいつ等は、スナイドル銃なんか持っていないから。

長州藩も先込式のエミニー銃が、
標準装備の部隊で、事実上幕府軍(特に伝習隊)よりも装備の面では貧弱。

あと長州や薩摩の本国が、幕府艦隊の艦砲射撃の的にもなる。
470名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 12:38:43.47 ID:PTuO8Xs3O
>>469
薩摩には春日がありますから、どうでしょうか。

長州ですが榎本がいれば、第二次長州征伐でも、活躍していたでしょう。

土佐や佐賀はどうしますかね。
471名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 17:54:42.43 ID:jg7fF74i0
慶喜も興奮して正月から戦争する事無いんだよ。

甲鉄艦とアームストロング砲35門が、手に入ってから開戦すればよかった。

アームストロング砲が十数門大阪城に配備されていれば、官軍は大阪城に近寄れない。
薩摩の春日も甲鉄艦に体当たりされて沈没する。
472名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 19:11:50.18 ID:PTuO8Xs3O
>>471
そこは冷静になるべきでしたね
473名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 00:27:41.29 ID:fUJQWsyK0
誰もがそう思ってるよ。諸藩抑えられなかったんだろ。
474名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 01:24:51.10 ID:FC8PpZdQ0
えー、開陽とシャスポー装備の幕府陸軍、薩長の三倍もの兵力をもっていながら、
甲鉄とアームストロング砲数十門持った上に籠城するのか?w

幕府軍ヨワwwwそこまで弱けりゃ戦う前から降伏すんじゃねーのw。
天下の笑いものになるだろうよ大坂籠城戦w
475名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 03:07:45.89 ID:EwT4yEuw0
慶喜が新政府に迎えられる段取りになってたから焦った薩摩が
戦争吹っかけたんでしょ
476名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 14:35:16.22 ID:rTMdTSvg0
>>474
淀藩と津藩が裏切って、朝廷側についたから、兵力差は3倍も無い。

それに丹波でも、佐幕派諸藩の中心だった亀山藩が朝廷側についている。

大政奉還以後に畿内では12〜3藩ぐらいが、
もう朝廷サイドに擦り寄っている事を考えると、大阪城篭城も悪くない選択。

仮に幕府側に甲鉄艦とアームストロング砲があれば、
官軍は、どんなに頑張っても大阪城は落とせないけどねw

大阪篭城戦が、長引けば、
土佐、越前、尾張、あたりがぶれ始めて幕府サイドと交渉し始める。

下手をすると土佐藩は、
公然と寝返り、大阪城を包囲している官軍を側面から攻撃しかねないよ。
477名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 17:08:52.77 ID:osLWYMaH0
>>475
旧幕の瀧川が薩摩に「無理矢理通る」と喧嘩を吹っかけたはずですが?
武器持ってけんか腰でやって来たのだから、旧幕軍の方が戦争吹っかけてますよ。明らかにw。
旧幕軍の軍令書にも戦争するつもりで作戦が綴られている訳だし。
478名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 19:28:17.58 ID:IJGIc0qt0
喧嘩を吹っかけたのは幕府軍、戦争を仕掛けたのが薩摩軍だろ。
細かいこと気にしなければ薩摩が吹っかけた戦争という判断で間違いない。
479名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 20:01:58.62 ID:osLWYMaH0
>>478
馬鹿言えw。薩長軍は岩倉具視から京都警備を厳命され、開戦すべしと大久保西クコンビが怒鳴り込んでも許さず錦旗も渡さなかったよ。
同様に、岩倉は朝廷の命令として徳川家に普段着での上洛参内を命じた。
これに対し徳川家は普段着ではなく武装して大軍を上洛させた。
薩摩軍がストップをかけたのは正統な行為でしょw。
ついでに言うが、薩邸浪士が江戸で暴れた事をして戦争を仕掛けたというなら、
西ク隆盛は薩邸浪士に「江戸撹乱中止命令」を王政復古の翌日に京都藩邸留守居役の吉井を通じて出してますよ。
だから薩摩藩は討幕の密勅時は戦争するつもりだったが、大政奉還王政復古時は戦争する気がないですなw。
大政奉還ですら、慶喜に実行すべしと説得したのは土佐の後藤坂本コンビではなく、薩摩の小松帯刀。
『大西郷全集』読めばわかるが、薩邸焼き討ち時の第一報が入った時の西クは大慌てし、徳川に先手を打たれたと悔しがってますw。
こうした経緯から、結果的に戦争を仕掛けたのは相楽総三ら一部の浪人達の暴走を真に受けた徳川側です。
さらに言えば薩邸焼き討ち時点時の朝廷、特に岩倉具視は薩摩と徳川の私闘と断じ、朝廷としては不問にしています。
しっかり史料に目を通してから大言壮語せいw。
480名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 20:36:55.81 ID:IJGIc0qt0
>>479
分かってないな。
両者の戦争準備の差が大きすぎるだろ。
岩倉やら三条やらの公家側に対して薩摩が主戦論だったのは認めるんだよな。
封鎖場所に散兵して戦争準備を固めた状態で幕府軍が来るのを待ち構えてたわけだ。
一方で幕府軍は行軍態勢のまま交渉してるわけで、戦端を開く意思がどちらに強かったのかは明瞭でしょ。
481名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 22:47:14.45 ID:fUJQWsyK0
初弾は薩軍だしな。
482名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/10(火) 14:33:32.44 ID:G7yI7QKp0
開戦したがってたのは薩摩だし、戦端開いたのも薩摩ってのは認めちゃっていんじゃね?
しかしまぁ優勢だった公武政体派がこの進軍のことを政治的に庇えなかったのは、慶喜の上洛命令が出てなかった or
上洛条件として「軽装で」ってのがあったのに一万五千の御先供を京へ進軍させちゃったという事が原因な訳で、
あれだけ親徳川だった春嶽公らも、「徳川と薩摩の私戦だよ」とは言えても「徳川は戦しないよ!」とまでは言えず、
徳川の辞官納地問題の時は味方してくれた諸侯も離れていってしまった訳で。
いつ干渉されず京に入れると錯覚した?というか、正直なとこ滝川&竹中あっめぇー!と思う。
まー勝てば問題なかったんだけどさ。

>>469
その質的にも数的にも優勢な幕府歩兵隊の殆どが出撃したのが鳥羽伏見の戦いで。
それが劣勢な新政府軍相手に連戦連敗したってのも、慶喜が大坂城退去した理由にあると思っている。
あと大坂城篭城してから通商破壊開始しても、敵の後方が動揺するまで持つかどうかが問題かな。
要所には砲台があるし。
483名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/10(火) 23:18:49.97 ID:bjPmjwod0
>>469
長州征伐では少数の長州艦隊に追い回される幕府海軍の姿が往々にして見られたという。
ていうか幕府海軍がまともなら、門司に渡航攻撃されてないわw

また篭城しても援軍の宛がないわけで、餓死するだけだろ。
引きこもっている間に尾張や越前が新政府ついているわけで、
この時点でもう幕府軍は孤立している。
484名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/10(火) 23:29:43.11 ID:Jq5pGHY00
>>483
高杉晋作が幕府側の準備完了直前に奇襲して物資を焼き払うために付近の漁師に進捗を偵察させたり
民間船に偽装して奇襲をしかけたる便衣兵的な戦術を多用しているので
対応が後手に回るのはやむをえないかと。
485名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 00:50:28.57 ID:bxmbMWj60
対応できなかったのは別に民間人の犠牲を恐れてたからじゃないだろ
幕府軍の無能は長州のせいではない
486名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 08:07:33.13 ID:NirJR2Qb0
大島口で住民のゲリラ行為に対応をした幕府歩兵隊や松山藩は
「住民虐殺を行った」と周辺諸藩に批判されてしまった。
そのあたりを考慮すると隠れ戦闘員への対処が奥手になってしまうのでは?
487名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 14:21:37.59 ID:bxmbMWj60
大島で住民が幕府軍に反抗したのは、幕府軍が先に艦砲ぶちこんだり、村焼いたり、略奪暴行したからだろうが。
これをもって「ゲリラ行為に対応」とはよく言ったもんだなw
488名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 15:22:00.54 ID:fhBERmZa0
>>486
>ゲリラ行為に対応

これは間違い。佐幕諸藩の記録を見ても、無抵抗の住民に幕府艦隊からの上陸兵が一方的に略奪暴行を行っている。
どうも、自分の兵に対して不当な高評価を下す傾向が、この佐幕派擁護の人には見える。
489名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 15:37:40.84 ID:OsR9OErx0
殺害とかの件については、幕府歩兵隊は冤罪じゃなかったっけ?
遺棄された家屋や家具を勝手に使ったり、家畜や備蓄食料なんかを勝手に食ったりする程度の狼藉は
あの時代はどこの戦場でもあったことだし。
住民に暴行したり殺したりをやらかしたのは松山藩兵だったかと。
殺した人数もそう多くないと思うが、そりゃまぁそんなことしたら住民も命懸けになるよね。

>>484
便衣兵は主に逃げる連中だろw
あと船を民間船に見せたり他国船装ったりするのも割とよくあった。
宮古湾海戦で回天丸が接近に使った偽装も、19世紀欧州ではしばしばあった戦術。

>>483
榎本指揮の幕府海軍なら頑張れると思われ。蝦夷周りの海戦でも、劣勢でも逃げてないし。
490名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 22:31:38.95 ID:kso7KosM0
>>482
野戦と大阪城のような天下普請の大城での篭城戦とでは、
まるで違のだけれでも、慶喜はチキンでその点の見分けが出来なかった可能性は確かにある。

ましてや大阪城にアームストロング砲が、配備されていれば、官軍の方が打ち崩されたであろう。

返す返す、幕府側は、甲鉄艦とアームストロング砲35門を入手してから、開戦すべきだった。

>>483
>また篭城しても援軍の宛がないわけで、餓死するだけだろ。
>引きこもっている間に尾張や越前が新政府ついているわけで

援軍のアテ有るだろ、関東から。
食料だって、武器・弾薬も含めて、
大阪天王寺に置いてあるから、それを突貫で大阪城内に移せばよいだけ。

尾張、越前は、大阪城の戦いが長期化したら、一番先に動揺するところ。
官軍サイドの一番弱い輪でもある。
491名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 04:03:41.28 ID:64YQR5mc0
>>489
広島でもやらかしているから冤罪とはいえんな。
大島みたいに住民を真っ先に襲ってはいないが。
略奪、住居の占拠、撤退するときには敵に利用されないように焼くのは当たり前。
まあ長州のほうも最初はガンガン火をつけて焦土にして、敵の拠点にされないようにしているけどな。
最も長州はその後浅野からナニカ言われたのか、占領地の村長あたりからナニカ言われたのか、
途中からはそういう行為はやめて、住民に炊き出しとかまでしているが。
492名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 18:14:57.93 ID:+z4IeHsC0
>>490
野戦と篭城戦は確かにまるで違うが、実は野戦より篭城戦のが遥かに難しいんだわ。これが。
もちろん局所戦などにおいては篭城側が防御設備のある分かなり有利になるんだが、
篭城は能動的な行動をかなり採り辛いため、士気の維持が最も重要で最も至難な要件になる。
士気が落ちれば内応して助かろうという輩が出てくるし、古来内応を許して落ちなかった城は殆ど無いから。
しかもこの場合、橋本の敗戦で壊走した直後で一部強硬派以外の士気が落ちてることと、淀藩や津藩の離反を
目の当たりにしてしまったという悪条件も重なっている。
また、包囲側は古来と同様、情報を遮断して城内の不安を煽ってくる。
こういう場合の旧幕府軍の弱点だが、全軍が幕府歩兵隊の様な慶喜直轄の軍ではない為、最悪の場合は歩兵隊や
会津以外の部隊が丸ごと内応することすら考えられる。
そして篭城戦が長引けば長引くほど士気は鬱屈し、逆に疑心暗鬼は蔓延する。
武器も兵糧も十分だった小田原城が落ちたのは、篭城特有のこの病症が限度を越えて進行したため。

そもそも篭城はそれそのものによって敵を撃退するのが目的ではなく、後巻などの援軍を得て敵を撃退するもので、
特にこの場合の様に篭城軍が多い場合、後巻と協同して包囲軍を挟撃するという必殺の作戦も夢ではないんだが、
1万5千の軍で勝てなかった軍を相手に勝利できる部隊がどこにあるかという重大な問題がある。
特に重要なのは、軍配表の通りこの1万5千には慶喜が鍛え上げた幕府陸軍の中でも最良の部隊の殆どが参加してること。
関東以東の諸侯軍は会津など以外無傷だが、これらの部隊に匹敵する装備や練度を持った軍などどこにもない。
しかも時間が経つほど薩長の軍は東上して来るし、仙台藩など東の大藩がこの時点では態度を決定していないというのも不安要素だった。
そして関東からの援軍が来なかったら或いは壊滅したら、本当に大坂城は落ちるのを待つだけになる。
強硬派が橋本からの敗走直後にも関わらず城外決戦を主張したのは、これらの事も考えていたからだと思われる。

そして城門の様な狭い所から打って出るぐらいなら、強硬派が主張した通り野戦で決戦を挑んだほうがいいんだが、
それにしたって何か名案がある訳でもなく。それで勝てるなら鳥羽伏見か橋本で勝ってただろうと。

正直、慶喜が大坂城を脱出して江戸に帰ったのも仕方ないと思うわ。

ちなみに、アームストロング砲と一口で言うが、アレにも色んな口径があってな。
小口径の野戦砲が活躍した記録はあるんだが、艦砲や要塞砲に使用される大口径砲の方は
薩英戦争での尾栓の不備で早々に破裂して以来、どっかで活躍したって記録もない。
野戦砲の方を大坂城に据え付けても、強襲を受けるまでは敵の砲兵戦力を打ち崩すぐらいしかやることないぞ。
強襲せず包囲だけなら土壁などの野戦築城でも被害はかなり軽減できる上に、篭城側の弾薬は有限という重要な問題がある。
もちろん、包囲軍が城を強襲するとなったら、十分な脅威となるだろうが。
砲だけで打ち崩すとか、野原に棒立ちの戦列歩兵相手でもないと難しいぞ。
493名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 19:18:36.44 ID:64YQR5mc0
>>490
主力が大阪に閉じ込められている状況なら、
動揺するのは尾張や越前ではなくて、東海道や北陸の諸藩。
そして関東からどうやって送るんだよw
長州海軍にすら追いまわされる幕府海軍では、補給すらままならんぞ。
494名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/13(金) 00:04:59.14 ID:C3qEUnkA0
>全軍が幕府歩兵隊の様な慶喜直轄の軍ではない為、最悪の場合は歩兵隊や
>会津以外の部隊が丸ごと内応することすら考えられる。

流石にそれは無いと思う、徳川の旗本・御家人は彰義隊みたいに頑張るだろ。

>淀藩や津藩の離反を目の当たりにしてしまったという悪条件も重なっている。

それは、認める。
慶喜自身いじけているし、丹波の佐幕派の中心だった亀山藩も6日には官軍側に降伏している。
京周辺の軍事的拠点は、全て官軍サイドに落ちてしまった。

なので、大阪城から出ない方が良いのは、当然の判断。
大政奉還直後から大和郡山藩が、勤王藩なのも畿内の大藩なのでヤバイ、
だから大阪郊外の奈良街道に佐幕派の姫路藩兵数百人を配備して大和郡山藩を牽制している。

>仙台藩など東の大藩がこの時点では態度を決定していないというのも不安要素だった。

この時期、朝廷がしきりに「会津を攻撃しろ!」見たいな工作をやっていたはず。

確かにやばいから、幕府は、江戸詰の老中や大老を
仙台に急遽船で派遣してでも藩主伊達慶邦と直談判して徳川サイドに付けるしかない。

この時期の仙台藩は、軍事的にも大した事無くても、
100万石の実石があり、兵力も2万近いため、是非とも徳川サイドにつけないとダメだろな。

>強襲を受けるまでは敵の砲兵戦力を打ち崩すぐらいしかやることないぞ。

大阪城備え付けの大口径のアームストロング砲の第一の目的は、それだろ。
敵(官軍・薩長)への攻撃準備阻止砲撃。
495名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/14(土) 19:22:12.91 ID:cx6dXPIg0
正直な話いくら慶応の改革が成功してると言っても焼け石に水でしょうよ。
長州征伐だって第一次は成功したと言っても錦の御旗と薩摩の協力があっても
改易も転封も減封も出来ません。って状態。
長州一国ですらどうにもならないのに軍事的にどうにかなるわけない。
だから政治闘争に持ち込もうとしたけどそれも小御所会議で失敗したわけだし。
頼みの綱の非薩長の雄藩だって肥前は興味なさげだし、土佐は親幕府は藩主だけで
まともなのは福井藩しか残ってないからなあ。
そもそも上にもあったが喧嘩売ったのは幕府だけど戦争吹っかけたのは
薩摩なわけで負ける可能性があったら辞官納地が決定してる有利な状況で最初から仕掛けないっての。
496名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/14(土) 21:38:54.06 ID:P+8M3qPV0
>だから政治闘争に持ち込もうとしたけどそれも小御所会議で失敗したわけだし。

慶喜排除に失敗したのは、薩長な。
土佐、越前、尾張の斡旋で慶喜は、
議定どころか、その一つ上の位である副総裁「副関白(内大臣)」就任案も絶賛浮上中。

>土佐は親幕府は藩主だけで

執政の後藤も上士の9割も佐幕派ですよw

>喧嘩売ったのは幕府だけど戦争吹っかけたのは薩摩なわけで
>負ける可能性があったら辞官納地が決定してる有利な状況で最初から仕掛けないっての。

戦争吹っ掛けたのは、薩摩藩の在京藩士だけ、
国元は対幕府戦争には大反対、だから薩摩藩の増援はあんまり期待出来ないと思ったほうが良い。

それに薩摩藩は、別に最初から勝てるつもりでもないぞ。
西郷の戦争計画では、丹波街道を明治天皇担いで逃げ出す計画で、
事実5日には山陰道鎮撫隊を進撃させて丹波を通じた広島までの退路を確保しようとしている。

明治天皇を、広島城に移してそこから幕府軍と抗戦する予定だった。
その為に長州藩の応援部隊が、山陰から東進していた。

薩摩のテロ活動は、旧幕府が戦争始める前に、幕府陸軍を関東一円に治安出動させて
鎮圧しても良かったかも、幕府陸軍のちょうど良い演習に成るだろう。

西郷も戦争は4月ぐらいの積もりだし、慶喜も数ヶ月〜半年待って
甲鉄艦とアームストロング砲35門を手に入れてから開戦すればよかった。

幕府の関口製作所では、慶応の改革により
先込式エミニー銃を元込式に改造する技術もこの頃に取得していたから、
幕府陸軍が所持する銃をもっと元込式に改造する処置もこの間に行うべきだろう。
497名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/14(土) 22:52:42.07 ID:eqhJI79E0
土佐の立ち回りがいまいち解せない
いつの間にか幕府を裏切っているんだよな
498名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/15(日) 00:24:22.74 ID:D/aQmKS50
>議定どころか、その一つ上の位である副総裁「副関白(内大臣)」就任案も絶賛浮上中。

無理 何故なら薩長が認めないから。

>それに薩摩藩は、別に最初から勝てるつもりでもないぞ。

そう、天皇拉致って独立するのが狙いだったのに、幕府軍があまりに脆すぎて圧勝してしまっただけ。
長州の主力はまだ状況してすらいない。長州の主力が到着したら幕府軍は終り。
勝てるわけがない。
499名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/15(日) 11:35:19.84 ID:5vopdBDn0
>無理 何故なら薩長が認めないから。

そんな事無い。慶喜の山城一国(25万石)を朝廷直轄領として献上する案があり、
それ欲しさに皇族議定や公卿議定が、慶喜サイドに移行している。その為に岩倉
や三条が動揺し、薩長と組んでいるはずの広島藩も動揺し始めている。

岩倉なんかは、慶喜の新政権参加を認め、何だかんだで議定会議をサボり始めているぐらいヤバイ事態。
新政府に参加していないものの熊本藩・阿波藩・鍋島藩の薩長の独善的行動への抗議もあり、小御所会議では、薩長の方が孤立し始めている。

>長州の主力が到着したら幕府軍は終り。勝てるわけがない。

長州藩の主力が到着したら討幕派は当然有利だが、実は補給が続かない。
特に瀬戸内海や大阪湾は、幕府海軍に押えられている。
無理に長州藩の汽船や軍艦が通過しようとしたら、撃沈されてしまう。

もし甲鉄艦が、幕府の手の元にあったら、討幕派の艦隊・輸送船団は全滅する事になる。
慶喜は、甲鉄艦とアームストロング砲35門を手に入れてから開戦すべきだったね。
500名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/15(日) 16:58:05.18 ID:om/7zaxi0
>>499
>もし甲鉄艦が、幕府の手の元にあったら、討幕派の艦隊・輸送船団は全滅する事になる。

これは妄想。実際は旧幕府海軍には操船技術がない。
鳥羽伏見の時点では数字における戦力差は圧倒的だったのに、相手に命中させることも出来ずに逃がしている。
501名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/15(日) 18:15:53.80 ID:sM28UbUj0
海が荒れたり暗くなったりするだけで戦闘不能になる19世紀の海軍に過剰な期待は禁物かと。
あの規模の艦隊が瀬戸内海掌握するとか、レーダーとガスタービン機関でも備えてなきゃ不可能だろ。
502名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/15(日) 22:49:03.26 ID:02Tglof40
しかし正月の徳島沖の海戦で薩摩藩の汽船や軍艦は、逃げ出している。

その後、大阪湾に再突入して薩摩藩の海軍は、勝てるんですか?
疑問ですね。

特に甲鉄艦が、あったら薩長双方の海軍は、幕府海軍に手も足も出ないでしょう。
503名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 00:32:02.16 ID:geAqyuSv0
むしろあれは取り逃がしている幕府の失態だと思うが。
504名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 01:00:46.90 ID:0+3D270r0
海路が駄目なら陸路を使えばいいじゃない
505名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 01:17:33.23 ID:aBvgM7z20
一隻は、逃げ切れずと覚悟し自沈しているし、その後に薩摩藩の海軍が大阪湾に再突入出来るとは思えない。
長州藩の海軍と一緒でもね。

夜中に慶喜が、軍艦で逃げ帰った事を見ても、制海権は幕府海軍が握っていたと思うぞ。

大阪城に大口径の要塞用のアームストロング砲があれば、官軍は近寄れないし、
それ以外の大砲も大阪城に備え付けてある。それをかいくぐって大阪城の二の丸三の丸に
たどり着いても、城の石垣の土塀の銃口から伝習隊の元込式シャスポー銃で狙い撃ちされるだけだと思うぞ。

天下普請の大城の大阪城を攻める方が、断然不利だ。

後から長州藩の主力が来るとしても、当面は鳥羽伏見の戦いで使った5000名の薩長軍で大阪城を攻撃するしかない。
淀藩や津藩の藩兵を大阪城攻撃に向けても、また寝返るだけだぞw
506名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 08:22:57.39 ID:g+12ImR7O
阿波沖海戦ですね。
春日と平運が相手でしたよ。

淀はまだしも津は攻撃したから、毒をくらわば皿までですから裏切らないでしょう。

板垣退助は薩長にくわわります
507名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 20:09:54.87 ID:esJNSHy+0
土佐藩の上士9割が佐幕派。

板垣退助は上士に暗殺されます。

津藩が、大阪城を攻撃しても、大した戦果挙げられないでしょう。
逆に幕府軍に狙い撃ちにされるだけかも知れません。

津藩や淀藩は、もう当事者能力無いです。

それよりも大阪城を落とせず、長引いたら、
薩長の鳥羽伏見の戦いでの勝利の政治的意味がだいぶ無くなってしまいます。

そうなると新政府内の土佐、越前、尾張あたりが仲介に乗り出しますし、
新政府に参加していない、熊本藩・鍋島藩あたりも薩長主導の対幕府戦争に異議を言い出すでしょう。

広島藩ですら国元は、長州寄りですが、在京藩士は必ずしもそうではありませんから動揺し始めるでしょうね。

朝廷新政府内部でも12月中旬から三職会議では、皇族議定や公卿議定が、身分の低い藩士もいる
参与たちの積極的な発言や議事進行に不快の念を持ち、議定会議と参与会議に分ける建白書を三条総裁に提出。
そして、それが認められてしまい、藩士中心の参与の力が押えられてしまう。
鳥羽伏見の戦い直前には、議定会議は“上院”と呼ばれ、参与会議は“下院”と呼ばれ始めていたと言う。

これ以降、皇族議定の支持を受けた土佐、越前、尾張らの藩主議定による巻き返しが始まるのであり、
慶喜は、鳥羽伏見で負けた後も大阪城で篭城抗戦を続けて薩長の朝廷新政府内の政治的発言力を弱め、
議定会議における土佐、越前、尾張らの藩主議定の発言力の回復を促せばよい。

大阪城をすぐにでも落とせないと、薩長は軍事的にも政治的にも苦しくなる。
特に薩摩藩の更なる援軍は望めない。
508名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 20:37:44.13 ID:geAqyuSv0
>>505
だから無理だってば。
長州征伐の幕府海軍の体たらくをみればわかるように、
幕府海軍では制海権を握るなんて無理。
阿波沖の海戦にしても、薩摩に寄港する途中に襲い掛かったけど、
そのまま帰られている。そして逃げ切れずに自沈したんじゃなくて、
座礁して動けなくなったので自分で焼いたわけ。
509名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 22:52:47.21 ID:SbyItMw60
まあ結局は政治闘争なら旧幕府が有利、戦争なら薩長が有利という状況で
上手い事幕府軍と戦闘状態に持ち込んだ西郷大久保の戦略勝ちって事で良いんじゃね?
510名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/17(火) 12:11:21.44 ID:r+jvNVRyO
春日は15ノットと最速ですから、淡路島より西から攻めたらまだしも追い付くのは、無理でしょうね。
511名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/17(火) 12:26:16.32 ID:oTURk2q3O
どんなに性能が良くとも幕府じゃ使いこなせなかったんだから関係ないよねw
512名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/17(火) 21:22:19.46 ID:fW4fwJ0T0
政争でも別に有利でも何でもないが。
領土を返還するなら、一つくらい席あげてもいいくらいで、
薩長などの雄藩を牽制したい勢力が都合よく利用しようとしたに過ぎないし。
そして押していた藩が何を言おうと、薩長がうんと言わなければどうせまとまらないわけなんだがら意味ないね。
513名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/17(火) 23:22:42.41 ID:t8Tw523W0
>>508
座礁したのは幕府艦隊の砲撃や追撃を逃れる為なんだから、結局逃げ切れなかったという事。
逃げ切れたのなら、座礁なんかしなかったはず。

>薩長がうんと言わなければどうせまとまらないわけなんだがら意味ないね。

薩長抜きでまとまりそうだったよ慶喜の新政権参加問題は。
むしろ薩長の方が孤立気味だった。それなのに幕府軍が鳥羽伏見に進軍してきた。

薩摩藩の関東でのテロ活動やテロ支援活動の報を聞いて、
幕臣が頭に来てそれを慶喜が押えられなかった為に幕府軍が鳥羽伏見に進撃してきた。

12月12日に慶喜は二条城から撤退、14日には東西二箇所ある京都町奉行所が朝廷の命令で急に廃止。

その為に両京都町奉行所の与力・同心だった武士と見廻組は、新遊撃隊に再編され、
伏見奉行所の武士と共に同奉行所に配備された。大目付の永井尚志に従って下坂し
北野天満宮に陣取っていた新撰組だが、伏見鎮撫を命ぜられ、伏見奉行所に合流、
年末ぐらいまでは、京付近の幕府側の兵力はこの程度で、基本的には幕府軍は大阪に居た。

伏見では幕府の奉行所があるので、そこが鳥羽伏見の戦いの時も幕府側の拠点となったが、
奉行所は本来軍事施設ではなく、行政分署であり、幕府側もこの程度しか軍事拠点がなかった。

だから年末に大軍をそろえて大阪から出陣する事が無ければ、幕府と朝廷の武力衝突は避けられた。

伏見奉行所近辺で、見廻組や新撰組、新遊撃隊(旧京都町奉行所詰の武士で構成)あたりが
示威行為を盛んにしていた為に討幕派と小規模な衝突や狙撃事件は多発していた。
現にこの時期に伏見街道で近藤勇が伊東甲子太郎暗殺の報復として御陵衛士に狙撃され
被弾し大阪城で治療を受ける程の銃傷を負う。 その後、御陵衛士は解散状態になり
薩摩藩邸に逃込み戊辰戦争では赤報隊に加わっている。

この様に幕府や諸藩の藩兵は出動しておらず、年末に幕府軍と譜代佐幕派諸藩の藩兵が、
大挙鳥羽伏見に進軍しなければ、正規軍同士の大規模な戦闘は起きなかったであろう。

ただ、新撰組やら見廻組は、伏見奉行所付近で討幕派の諸組織との小競り合いを続けるだけ。
514名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 10:32:33.37 ID:guWhcFWpO
>>511
操艦技術をみにつけるためにオランダに榎本らを派遣したが、開陽や千代田形の有様をみれば、あなたの意見もわかりますよ。

限度があるが時間や金をかけてでも、開陽を鉄製にしたり装備を強化すべきでした
515名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 17:09:44.78 ID:BliqPv8xO
京都から大阪に移転する際、
会津と桑名に帰国命令を出していた方が、
結局は徳川慶喜にとっては有利だった。
会津と桑名の暴発が敗北の原因。
516名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 18:08:11.90 ID:guWhcFWpO
>>515
ききますかね
517名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 20:23:51.34 ID:CHJ+jHLT0
客観的に言えば、
・鳥羽伏見の戦いにあたって第一の好戦主義が松平容保
・戦闘し敗北した後も、「大阪城に籠もって交戦」と主張し、徳川慶喜に敗戦責任を問われ叱責を受けたのが松平容保
というわけで、会津や桑名が徳川慶喜の命令で帰国するとは考えにくい。

しかし、松平容保を愛護する作家などは
・容保候は地位にこだわらず逆に辞職を主張し、長州赦免問題などへの会議への出席を頑なに拒むお方であった

などと主張しているので、彼らの見解なら帰国してくれるかもしれない。
でもあの欠席って、長州赦免とか自らの辞職とかを拒否するための欠席だったと思うんだけど。
彼らの主張は筋が通らない。
518名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 20:26:54.45 ID:CHJ+jHLT0
他の問題を討議する際は、辞意表明で欠席。
辞職帰国を勧告された際は絶対拒否、が松平容保の当時の姿勢なので、
まず、徳川慶喜の命令を受けても松平容保は帰国することはないと思われます。
519名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 20:34:53.13 ID:fdMEKBGP0
12月12日夜に二条城から大阪城に慶喜は撤退したが、
その時に会津藩兵は、藩主ごと軍艦や輸送船に乗せて江戸に返しておくべきだった。

会津藩の兵力は3500名と言われるが、ちょうどその時期には、江戸市中では、
薩摩藩のテロ支援活動が活発化し、武蔵、相模では騒乱状態も始まっていた。

だったら慶喜は、会津藩に江戸や関東での治安維持活動の任務を与えて、返して置けばよかった。

会津藩士が出動すれば、関東で暴れている一揆勢を鎮圧するのも楽だっただろうし、薩摩藩邸焼討
も三田の上屋敷だけじゃなくて近くの蔵屋敷や日比谷の中屋敷、品川の下屋敷も全部攻撃出来たんじゃね?

天領内部での騒乱状態の鎮圧なら大政奉還した後でも問題ないし、そこで薩摩藩の
テロ支援活動の証拠を掴んだら、逆にそれを朝廷に提出し土佐、越前、尾張、熊本
の各藩主や藩士に議定会議や参与会議で取り上げてもらい薩摩のテロ工作を朝廷新
政府の三職会議で糾弾してもらえば良い。

朝廷新政府内部での薩摩藩の立場が悪くなるばかりだし、元々国元は対幕府戦争には反対の声が強い。
あまりにも露骨で酷い工作だったとなると、薩長に近かった広島藩も離反し始めるかもw

幕府や佐幕派は、薩長にとってジャンジャン不利な情報を朝廷新政府に上申し、薩長を朝廷新政府内部で孤立させる事が重要かと。
520名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 20:51:48.32 ID:if40wbhz0
でも思うのは鳥羽伏見が無かったとして慶喜の政権参画はあったとしても
首班ってのは無理だと思うんだよね。首班って言うと平たく言えば
今の総理ポストって事だろ?良くて今の衆議院議長悪けりゃ内大臣待遇の
一議定に留め置かれる気がする。しかもそれも数年限定みたいな感じで。
薩長土肥の殿様連中の維新後の扱い見てると(特に久光)とても慶喜が
実権握れたとは思えん。
521名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 21:06:24.09 ID:fdMEKBGP0
薩摩藩は大阪に藩邸を三ヶ所持っていた。

土佐堀2丁目に「上屋敷」、江戸堀5丁目に「中屋敷」、
立売堀西之町に「下屋敷」があり、蔵屋敷と称されていた。

この薩摩藩上屋敷は、鳥羽・伏見の戦いの時に自焼したとの事ですが、
むしろ鳥羽伏見に進撃する前にこちらを幕府軍や佐幕派諸藩で攻撃しておくべきだったのでは?

江戸薩摩上屋敷焼討ちの報が入ったら、大阪の三つの薩摩藩邸も攻撃した方が良かったのでは?
522名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 21:17:03.84 ID:5evt6bdt0
>>513
>座礁したのは幕府艦隊の砲撃や追撃を逃れる為なんだから、結局逃げ切れなかったという事。

座礁は操船技術の問題に過ぎない。当時の砲撃力で船を沈めるのは難しい。輸送船とはいえね。

>薩長抜きでまとまりそうだったよ慶喜の新政権参加問題は。

ありえません。その場合は薩長が自派の公卿使って潰すだけ。
そういう事態にならなかったし、そもそも薩長は武力で追い出すつもりだったのでする必要がなかっただけ。
それをもって新政権参加できたというのは薩長が何もしなかったらという過程に過ぎない。
もし失敗しても天皇拉致って広島かどっかに遷都だから問題なし。
523名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 21:22:19.50 ID:if40wbhz0
>>522既に慶喜の辞官納地は骨抜きにされてたし、状況的には慶喜の
新政権参画は内定していた状況だった。
まあ俺は参画しても>>520だったと思うけど。
524名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 22:43:36.11 ID:TQKICkfI0
>>513
>>522

燃料投下してんのか?w
525名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/19(木) 00:24:07.96 ID:+b8D6jN/0
福井や土佐が頑張って薩長の思惑を骨抜きにしようとしていたのに
どこがまずかったのだろう?
526名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/19(木) 01:51:29.56 ID:kXrnd26i0
会津桑名の暴発進軍が致命傷
527名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/19(木) 03:21:07.61 ID:KXDXH7r60
>>520>>523
土佐、越前、尾張が工作していた内容は、三職のトップは総裁(皇族)であり、
その下に藩主と皇族、公卿が構成員の議定がおり、その下に公家と藩士クラスの参与がいる。

大久保利通も議定ではなく、参与でしかない。

大久保辺りが三職会議で、
かなり積極的に発言し三職会議を仕切ろうとした為に逆に皇族議定に嫌われてしまう。

下っ端の田舎侍が、参与となり朝廷の身分秩序をわきまえず
ギャーギャー騒ぐのを見て、これではいずれ朝廷の特権を剥奪されると皇族議定は思ったらしい。

しかし、これはある意味致命的な失敗だったかもしれない。
三職会議の議長は、総裁だが、皇族なんだよ。有栖川宮で和宮の元婚約者だ。
皇族議定には、仁和寺宮と山階宮がいる。有栖川宮が和宮の元婚約者なので大久保も大丈夫だと思い
積極的発言を繰り返していたのかも知れないが、どうも総裁の有栖川宮にも嫌われてしまった感あり。

こういう皇族議定の参与に対する反発が出てきたので、土佐、越前、尾張が、三職会議を議定会議と
参与会議に分割し別々に開催する体制に誘導する事に成功してしまう。さらに総裁と議定の間に副総裁職
(内大臣職)を設置し会議の運営を円滑にしましょう。副総裁(内大臣)は慶喜公に就いて頂き
大久保、西郷や岩倉を押えてもらいましょう。って事になった。

これを見ると大久保らは、慶喜の辞官納地の実現に躍起になり
三職会議での積極的発言になったが、それが逆にあだになった様に見える。

岩倉も当初は、議定でなく参与として三職会議に参加している。
岩倉は公家としては身分は中堅で公卿程ではないし、皇族議定が大久保や岩倉に反発しているのを見て
議定の中山忠能と中御門経之が揺れ始めてしまう。そうなると当初議定の定員は10名なので優に半数
以上の議定が、慶喜の辞官納地に反対!と言う事になってしまう。

議定会議は、上院と呼ばれ始めていたし、参与会議は下院と呼ばれ始めていたから、
下院の参与会議でいくら威勢のよい議決がされても上院の議定会議でハネられると、
手も足も出なくなる。副総裁(内大臣)として議定会議を上手く慶喜がまとめれば、
下の参与会議を押さえ込める。

それに慶喜には、奥の手もある。江戸城の和宮だ。
和宮を上京か上阪させて、有栖川宮と密会させて和宮から「慶喜公をよろしく」と言わせてば良い。
そうなれば有栖川宮も元婚約者の願いと成れば無下には出来ないし、薩長も皇族の和宮には手を出し難い。

慶喜は、和宮からみで有栖川宮をいじる事も可能で、
有栖川宮総裁-慶喜副総裁(内大臣)体制で朝廷新政府を運営出来ると思う。
528名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/19(木) 03:23:54.68 ID:KXDXH7r60
土佐、越前、尾張が工作していた内容は、三職のトップは総裁(皇族)であり←×

土佐、越前、尾張が工作していたが、三職のトップは総裁(皇族)であり←○
529名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 01:21:34.07 ID:vVaEAQeV0
長州征伐や戊辰戦争での捕虜について質問。
捕虜交換など取引はおこなわれていたのでしょうか?
530名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 04:11:05.71 ID:VhSS9ywj0
7/8 中野剛志x柴山桂太 2011.12.22  (4分37秒ぐらいの会話)
http://www.youtube.com/watch?v=S4zXEv0o9w0&feature=related

中野 だいたいね〜維新とかね、幕末維新のアナロジーを使う奴って碌な奴いないですよね。
    坂本龍馬に憧れてる奴で面白い奴見た事無い!碌な奴がいない!


坂本龍馬に憧れている現在の有名な財界人って言うのは、ソフトバンクの孫正義の事だなw
反TPP官僚(今は京大出向中)の中野さんは、禿の事をボロクソに言ってんだろうなww


徳川幕府=NTT   薩摩藩=KDDI   長州藩=ソフトバンク  って感じかな?
531名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 17:12:06.45 ID:srYscJwv0
さすが中野さん、アジのある面白い事言うなw


NTT(持株会社)=徳川宗家

NTT社長=将軍

東西会社=幕府

ドコモ=尾張藩

コミュ=越前藩

KDDI=長州藩

SB=薩摩藩

禿=大久保

SB社長室長=小松

ティーガイア=坂本龍馬

総務省=朝廷

辞官納地=NTT分割
532名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 17:23:42.98 ID:bSeJrYfEO
会津と桑名と庄内で御用盗を、ぶちのめせ(怒)。
もちろん処刑しか選択肢は、存在しませんよ。

幕府陸軍も加えたら、訓練になってよいでしょう。
533名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 18:18:41.44 ID:srYscJwv0
400万石と幕府陸海軍を持ったまま、有栖川宮総裁-慶喜副総裁(内大臣)体制が
出来たら、改訂版徳川政権だワナw  事実上の新しい中央政権と言っても良い。

有栖川宮総裁-慶喜副総裁(内大臣)体制が出来たら、
慶喜が次にやることは、朝廷新政府の行政組織の乗っ取りである。

大政奉還を受けて、五摂家の連中が慶喜や諸大名に将来の政権構想を提出させ、
さらに自分達も太政官八省再興案を朝廷に提出した。これは王政復古のクーデター
まで朝廷を牛耳っていた二条摂政と中川宮が、慶喜に大政再委任や後任の摂政任官
を検討していた。それに対抗する為に薩摩に近い近衛家や一条家が、他に鷹司家を
巻き込んでニ条-中川宮ラインに対抗する意味で太政官八省再興案を朝廷に提出した。

この五摂家の太政官八省再興案は、王政復古のクーデター以後は俄然意味のある提案
となり、旧幕府の行政組織に換わる朝廷新政府の執行機関の創設の意味が出てきた。

三職会議の下に太政官八省を再興し、朝廷新政府の形作りを始める必要があるが、
もし慶喜が、慶喜副総裁(内大臣)に任官できていたのなら、旧幕府の幕閣や中堅官僚
を太政官八省の幹部に次々任命し事実上太政官八省の要職を旧幕府の人間で固める事が
出来るであろう。そうすれば旧幕府の人材で太政官八省の行政組織を乗っ取る事が出来る。

そうなれば、朝廷新政府は、完全なる改訂版徳川政権となり、徳川宗家の影響力は、朝廷
新政府内部でも残せる。特に問題になるのは、兵部省と大蔵省の人事だろうが、兵部省の
幹部には幕府陸海軍の要職を任命すればよいし、大蔵省ならモロに旧幕の勘定奉行の組織を
そっくり大蔵省に移して、小栗を大蔵大臣か大蔵卿に任命すればよい。

徳川宗家による富国強兵もこれで執行できる。
534名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 21:25:45.52 ID:x/3tkWLw0
>>533
だからありえねーって。
薩長が認めない政権がその時に樹立できるわけがない。
またそんなのは越前や土佐なども認めない。
小御所会議で幕府を庇っていたのは、あくまで薩長の発言力がこれ以上高くなると困るからであって、
幕府を復権させたいわけじゃないんだよ。
535名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 04:51:21.84 ID:9eepN4a90
>>534
バカじゃネーの?

慶喜副総裁(内大臣)案で多数派工作していたのは、土佐、越前、尾張なんだよ!
皇族議定が岩倉や大久保に反発して、それを認め始めていた。
議定の中山忠能と中御門経之ですら揺れ始めていた。

慶喜は、正月に進撃を開始しないで、もう少し我慢していれば良かった。

とりあえず江戸での薩摩藩邸焼討ちの報が入ったら、
鳥羽伏見に進撃するのではなく、大阪市内の三つの薩摩藩邸を攻撃していれば良かった。
536名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 04:56:08.64 ID:9eepN4a90
慶喜副総裁(内大臣)任官=徳川幕府復権  では無いんだよ。

もう幕藩体制は終りで、
朝廷一元化した新政府で郡県制の中央集権国家を作る事になっていた。

その朝廷新政府に幕閣や幕府の中堅官僚が、移る事を狙っていた。

時間が経過すればするほど幕府側が有利。
537名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 05:41:47.43 ID:9eepN4a90
鳥羽伏見の戦いで勝つまで、大久保と西郷は朝廷ではダッカのごとく嫌われていた。

大久保と西郷が、朝廷に参内すると公家や女官達が
遠巻きにしてチラチラ見たりコソコソささやき合ったりして、完全に煙たがられていた。

大久保も西郷も鳥羽伏見の戦いで勝つまでは、あんまり気分良くなかったらしい。

鳥羽伏見の戦いで買った後の状態が王政復古のクーデターから続いていた
なんて思わない方が良い。はっきり言って鳥羽伏見の戦いに勝つまでは
大久保と西郷は、針のむしろでむしろ徳川と仲介出来る立場の土佐・越前・尾張
の方が立場的には強かったし、12月中旬以降は彼らの主導で議定会議は運営されていた。

三職会議は、当初は、薩長の軍事力で発足し議定と参与の議論して話しを議事を進める
事になっていたが、次第に内部では以前からの粛然たる身分の差が出てきた。公卿議定と
大名議定の詰まる部屋が違うし、大名議定が立ち入り禁止の場所も多かった。
下級藩士出身の参与ならなお更であり、三職会議の身分的な差が次第に出てきた事も、
西郷や大久保の力を抑える方向に動いている。
538名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 07:10:06.92 ID:sychixQ00
官位任官でふとおもったのですが
明治以降はどこの家も爵位が用いられていましたが、
旧大名家の武家官位は全部取り上げられたのでしょうか?
539名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 07:54:35.98 ID:Rq2+uYcy0
岩倉は日和ったし大久保も日記に水泡画餅とか泣き言みたいな事
書いてるからなw
540名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 10:16:47.58 ID:4+6n4uCy0
もしかしてダカツをダッカと言っているのか
541名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 16:15:40.42 ID:3wG98y3d0
原発村を潰す為には平和的な手段では潰されるだけだ

暴動、ネガキャン、何でも良いから戦うしかない。


薩摩も平和的な路線で維新を進めていたら慶喜を始めとする公武合体派に潰されたことだろう。
542名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 16:54:15.83 ID:/RRxE/hP0
>>3
>>18

そうんなんだよ、どうして無警戒のまま進軍して待ち伏せを受けたんだよ

何故ナゼなぜ・・・

>>20
中間指揮官・現場指揮官が足りないのが理由じゃないかい?

つまり、例えば、大鳥圭介のようなの軍政畑がいる一方で
土方歳三のような現場指揮官が足りなかったと

無用な突撃が問題であって、突撃しなければ勝てるというもんじゃないなぁ
543名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 20:02:05.87 ID:DatIwioz0
>>535
馬鹿はおめえだ。
小御所会議というか新政府の総裁は有栖川宮熾仁親王
長州藩と縁戚で、長州藩の国学者に学び、婚約者を徳川に取られた。筋金入りの人物がやっているんだよ。
薩長が気に入らないものが成立する事はないんだよ。
薩摩藩主や中山、三条をはじめとして薩長の代弁者がいるわけ。
だからそういう事が成立する事は絶対にない。
544名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 20:04:28.77 ID:DatIwioz0
>>535
馬鹿はおめえだ。
小御所会議というか新政府の総裁は有栖川宮熾仁親王
長州藩と縁戚で、長州藩の国学者に学び、婚約者を徳川に取られた。筋金入りの人物がやっているんだよ。
薩長が気に入らないものが成立する事はないんだよ。
薩摩藩主や中山、三条をはじめとして薩長の代弁者がいるわけ。
だからそういう事が成立する事は絶対にない。
545名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/21(土) 20:38:33.15 ID:DatIwioz0
>>537
そもそも徳川は必要とされていない。
薩長の影響力が非常に強かったので、それを嫌った諸侯派が抑える為に引っ張ってきたのがもう終わった徳川。
だが朝廷では尊号一件いらい幕府嫌いが非常に多かったわけで、むしろそれらを押す大名も嫌われて、
幕府が暴発したのを理由で、諸侯も追い出される結果となった。
546名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/22(日) 22:20:01.10 ID:6AIoIHhy0
>婚約者を徳川に取られた。筋金入りの人物がやっているんだよ。
>薩摩藩主や中山、三条をはじめとして薩長の代弁者がいるわけ。

自分の都合の良い事ばかり信じる基地外がいるので、あまり相手にしたくも無いが…

薩長の思い通りと、思って有栖川宮を総裁に人選したが、大久保や西郷などの藩士参与が
身分差を無視して三職会議で騒ぐモンで有栖川宮を始め皇族議定が怒り出しアテがはずれw

有栖川宮も自分が得になる範囲しか薩長に協力しない。
皇族も公卿も見返り無く、朝廷内の特権を手放す訳無い。

その点を判っているから慶喜は山城一国25万石を丸ごと朝廷直轄領として献上するハラだった。

>そもそも徳川は必要とされていない。

薩長は邪魔でも、土佐、越前、尾張には必要。

皇族議定や公卿議定も何だかんだで徳川頼り、五摂家が二条摂政や中川宮に対抗して
提出した太政官八省再興案も、現実には、王政復古のクーデター以後も全く三職会議
の議題の遡上にも出なかった。

ようやく議題として三職会議に出てきたのは鳥羽伏見の戦い以後のこと。


慶喜は、江戸薩摩藩邸焼討ち事件の報を聞いても出兵すべきではなかった。
大阪の三つの薩摩藩邸を攻撃して強硬派幕臣の矛先をそちらに向けるべきだった。

薩摩藩は、参与会議でも議定会議でも、幕府の藩邸攻撃を材料に幕府に対する制裁を
求めるだろうが、土佐、越前、尾張の三藩に関東での薩摩藩のテロ支援活動の情報と
証拠を手渡して逆に薩摩藩を追い詰めればよい。
547名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 00:37:55.01 ID:hj3KW27I0
>自分の都合の良い事ばかり信じる基地外がいるので、あまり相手にしたくも無いが…

hhhhhhhhhhwwwwwwwwwww面白いギャクだなw
センスあるよ君。

>その点を判っているから慶喜は山城一国25万石を丸ごと朝廷直轄領として献上するハラだった。

ぜんぜん足りんな。幕府領全部献上して官位をかえして、やっと罪を免除だよ。
なんで山城程度で妥協するんだよアフォかw
そもそも大名連中も明治天皇を幼帝だからと馬鹿にして皇族や公卿から反発買いまくって、
下級藩士と同じように嫌われたってのにお前の脳内ではなかったことになっているようだなw
大名と公卿では歴然とした格差があったのに。朝廷序列もわきまえずでかい口叩くから、
むっちゃ嫌われていたのに。
548名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 01:29:14.84 ID:8Gvt9K/10
今更だけど、スレタイの旧幕府軍のくくりはどこまで?
549名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 05:10:46.35 ID:OFSvhqRm0
>>547
全部、妄想なw

>幕府領全部献上して官位をかえして、やっと罪を免除だよ。

特にこれ。

薩長と岩倉が最初にこれで押していたんだけど、土佐、越前、尾張が、皇族議定を
巻き込んでこの案もを封じてしまい、納地の件は、豊信候の全大名石高割案も棚上
げになり、いずれ「天下の公論をもって御確定遊ばさる…」と継続審議になってしまった。

慶喜の官位は前内大臣と称する事になり、軽武装での上洛も決定している。
この納地継続審議案は、議定の中山、中御門も飲んでしまった。

三条議定と参与の岩倉は、慶喜による自主的納地案を提出したが、
土佐、越前、尾張、皇族議定、中山、中御門らが、納地継続審議案を飲んでしまった為
この案で議定会議の大勢を制してしまった。

その直後の12月28日に岩倉は議定に昇格したが、納地継続審議案は揺らいでいない。


それに下級藩士がデカイ口たたいたら、大名より下級藩士の方が叩かれるに決まってだろうが。
下級藩士は、大名よりさらに下の身分なんだけどw
550名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 08:08:08.00 ID:OrZLe8fi0
だからさ幕府厨も薩長厨も議論のレベルが低過ぎるから噛みあわないんだよ。
鳥羽伏見の前段階では確かに辞官納地は骨抜きにされてたから
慶喜が会津と庄内を押さえこんでいれば慶喜の政権参加は可能だった。
というよりあの時点ではほとんど決定事項だったと言ってもいいかもしれない。
ただ慶喜の政権参加を主張してた中心人物の越尾土の殿様達は
あくまで薩長への牽制としての慶喜の政権参加を主張していただけに
過ぎないから一度慶喜の議定もしくは副総裁就任が決まったとしたら
今度は慶喜主導の政権作りに協力したか?と言われるとそれはそれで微妙だし
上にも書いてる人がいたが維新後の薩長土肥の殿様や明治天皇以外の皇族
岩倉以外の公卿の扱いを見ると普通に考えれば慶喜の扱いは
有栖川宮とか三条とか久光みたいな名誉職的な扱いしかしてもらえんだろう。
まあ小栗や大鳥榎本なんかは最初から新政府に関与できてた可能性はあるから
人事の面では多少変わった可能性はあるが大きな流れが変わったとは思えんな。
551名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 10:37:18.46 ID:l/CbYno80
>だからさ幕府厨も薩長厨も議論のレベルが低過ぎるから噛みあわないんだよ。

失礼な!
レベルが低いのは、薩長ビイキのアホの方だ!

>有栖川宮とか三条とか久光みたいな名誉職的な扱いしかしてもらえんだろう。

鳥羽伏見の戦い後に副総裁に就いた岩倉は、事実上三職会議を主導している。
有栖川宮は、あまり前面に出る人でもなかったし、江戸城総攻撃やら江戸城接収で
京に居なかったので、岩倉が事実上三職会議の首班となってしまう。

慶喜が、副総裁に就けば、彼の能力と四百万石の天領、徳川の陸海軍などの存在もあり
三職会議の首班は慶喜になるだろう。出来れば和宮から有栖川宮に「慶喜に任せるべき」
と言わせても良い。

豊信や慶勝、慶永にそれだけの能力と軍事力と領地があるか、と言う問題になる。
552名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 13:32:01.47 ID:lK/18nrMO
大阪城を拠点に海上閉鎖

京都の薩長は補給路を絶たれ敗戦必至
553名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 18:40:56.80 ID:hj3KW27I0
>>549
>いずれ「天下の公論をもって御確定遊ばさる…」と継続審議になってしまった。

これただの誰にとってもいいように聞こえる玉虫色の解釈に過ぎないよ。
薩長がどうせ認めないのだから、領土を全て献上するしかないのは明白。

>慶喜の官位は前内大臣と称する事になり、軽武装での上洛も決定している。

「前」ね。もう官職にはいないことの証。

>その直後の12月28日に岩倉は議定に昇格したが、納地継続審議案は揺らいでいない。
それ幕府が返上する方針のことだろ。
554名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 20:12:48.04 ID:vyBqn20K0
>>552
そういう事なんですよ。
西郷も「大阪城を包囲したら一ヶ月で薩摩の兵が死んでしまう。」と言っている。

大阪と西宮を幕府陸軍海軍に押えられたら、補給路も断たれるし
だいいち天皇を逃がす経路も遮断されてしまう。

陸路で長州から運ぶとなると大変だし量も運ぶ種類も制限されるし。

薩摩江戸藩邸焼討ちの報が、入ったら、大阪の三つの藩邸を攻撃するのと同時に
幕府艦隊を使って大阪湾を封鎖するのが効果的ですね。

京を包囲している間に幕府は、アームストロング砲35門とストーンウォール号の入手を急ぎ、
更に幕府陸軍の全軍“後装式”銃兵化の処置もあわせて急ぐべきでしょう。
幕府の関口製作所をフル稼働させ、横須賀製鉄所も稼動を始めれば、エミニー銃の後装式への
改造も進展する。

>>553
はいはい、症状が悪化していますよ、処方されているトランキライザー飲んでくださいね。
555名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 20:54:15.78 ID:hj3KW27I0
>>552
無理。長州征伐でも長州の渡航の阻止ができなかったのに。
幕府海軍が薩長の補給路を断つことは出来ない。
そもそも市場から買えばいいだけだったりする。
そもそも長州は山陰のほうから来てる。
556名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 20:59:07.59 ID:vyBqn20K0
ID:hj3KW27I0は、大至急入院して下さい。
557名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 21:32:54.09 ID:hj3KW27I0
>>554
長州の兵が万単位でくるから問題ないです。
大阪と西宮を押さえても無意味。元々の計画では山陰を通る予定。
実際鳥羽伏見の戦いの最中に山陰鎮撫の軍をだして平定している。
ちゃんと退路を確保しているんだよ。
558名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 21:43:22.93 ID:hj3KW27I0
>>554
内戦状態になっているのに旧幕府に武器売るとかないから。
そもそも支払いすらも出来ない状況だったし。
あと旧幕府軍が勝てない雑魚部隊だった最大の原因は兵器じゃなくて、兵士だから。
559名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 21:49:28.32 ID:UxENOkuF0
>>556
君の方が論理がおかしい。
徳川が勝つ要素が乏しい朝廷内の会議も、全て慶喜大勝利と断定しており、
しかも中国筋を押さえている薩長へ、幕府海軍があるから旧幕府大勝利、では話が通じない。
560名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 21:52:17.69 ID:K0IpsFcNO
確かに兵器の充実によって戦況が左右されるなら、
そもそも鳥羽伏見で、装備も数も下の薩長に負けるわけが無いわな
561名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 22:08:09.59 ID:hj3KW27I0
そもそも諸侯派がある程度盛り返せたのは慶喜は穏健派です!
ここで強気にでて強硬派を暴発させたら戦争になります。
慶喜は自主的に土地と官位を返還します。
とかいって公卿連中をだま蔵かしたからに過ぎないんだよ。
返さなければ当然揉める。そもそも薩長の影響下にある新政府がんなの認めるわけがない。
そして薩長の影響下になければその後幕府追討令などでない。
562名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 22:18:53.95 ID:K0IpsFcNO
幕府厨くんは相当ゲーム脳だなあw
まあifを語る時点でゲームっぽくなるのは仕方ないけどさ
563名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 23:28:43.25 ID:rXATDuAm0
久々にのぞいたら大荒れ?でワロタw
>>542です。最近に遅いながらも手にした『幕府歩兵隊』が面白っくてww

>>562
if歴史は同時代感覚の図上演習やらケーススタディになって
面白いというのはあるよなぁ
564名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 01:59:22.54 ID:pCaIaAyV0
どうでも良いけど、特定の奴が書き込んでいるだけだぞw

>徳川が勝つ要素が乏しい朝廷内の会議も、全て慶喜大勝利と断定しており、
>しかも中国筋を押さえている薩長へ、幕府海軍があるから旧幕府大勝利、では話が通じない。

話合い工作でも戦闘でも徳川有利だよ。

鳥羽伏見の戦いは、まさかの敗退だった。
普通は負けない戦で負けてしまったのが旧幕府軍。

ただし洋上では、幕府海軍の勝ち。
565名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 02:32:53.47 ID:pCaIaAyV0
>そして薩長の影響下になければその後幕府追討令などでない。

コレもおかしい。

幕府追討令でなくて徳川慶喜追討令だろ。

それに慶喜追討令が出たのは、鳥羽伏見に旧幕府側の大軍が押し寄せてきたからに他ならない。
しかも広島藩も土佐藩も出兵を拒否しているし、尾張と越前は議定の辞表を提出している。

正式に慶喜追討令が発令されたのは、大阪城を逃げ出した後の7日だぞ。
鳥羽伏見の戦いが完全に官軍サイドの勝利で決まった後だ。

それ以前にも薩摩藩が慶喜追討令を朝廷に提出していたのだが、反対多数で否決される。

伏見奉行所には12月中旬から新撰組、見廻組、京都町奉行所と伏見奉行所の与力と同心たちが
集結し、示威活動と偵察を兼ねて討幕側の諸隊諸組織と衝突しているが、別に朝廷はこの時点で伏見に
出動命令を出してはいない。近藤勇もこの時期に伏見奉行の近くで御陵衛士の残党に狙撃されている。

慶喜追討令は、薩長の朝廷支配とは全く関係なく、鳥羽伏見の戦闘の勝利の結果である。
566名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 06:21:51.05 ID:cBGb2k6j0
>正式に慶喜追討令が発令されたのは、大阪城を逃げ出した後の7日だぞ。
決着が付く前の翌日には官軍になっている。むしろ四日には官軍だ。
この日には錦の御旗と皇族が総大将として討伐に当たっている。
当然戦争の決着など付いていない。
567名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 07:09:42.75 ID:cBGb2k6j0
どうもわかってない奴がいるけど、慶喜が戦争を避けるために自主的に領地を返して、
官位も返すというのを主張する連中がいたわけ。
だからこのままいけば戦争もなく新政府を作れると主張したんだよ。
越前や尾張の藩主などもそれだが(まあ薩長の独裁を危険視したのもあるけど)
決して旧幕府の復権の手伝いをしたわけじゃない。内戦を恐れたに過ぎない。
佐幕派にはそれが幕府を庇っているように見えるようだがなW
568名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 07:21:57.17 ID:aiMgLMx+O
まさかの敗退と言ってるが、
天狗党を止められず第二次長州征伐はどの方面からも一歩も長州に攻め込めず、
更に鳥羽伏見の敗北だからなあ

大阪で篭城戦やったらすぐ内通者が出て内側から崩壊しそう
569名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 07:59:26.50 ID:pCaIaAyV0
>>566
>むしろ四日には官軍だ。 この日には錦の御旗と皇族が総大将として討伐に当たっている。

話がずれている。話しは慶喜追討令の事だ。官軍やら錦の御旗やら皇族総大将やらは別件。

>慶喜が戦争を避けるために自主的に領地を返して、官位も返すというのを主張する連中がいたわけ。

その話しすら、土佐、越前、尾張が皇族議定と結んだ時に押え込められている。

当初の薩長の過激な辞官納地論は全然通らないし、中途半端な自主的辞官納地論も
土佐、越前、尾張と皇族議定が潰し、豊信候の全大名石高割案も棚上げになり、
最終的には「天下の公論をもって御確定遊ばさる…」という継続審議案で辞官納地
は、議論そのものがウヤムヤになった。

>大阪で篭城戦やったらすぐ内通者が出て内側から崩壊しそう

だからアームストロング砲35門やストーンウォール号が手に入るまでは、開戦しない方が良かった。
アームストロング砲が、十数門大阪城に配備されていたら、官軍は近づけなかっただろう。

また、野戦よりも篭城戦の方が有利だし、薩長でも天下普請の大阪城はなかなか落とせない。
伝習隊が、土塀の銃口から元込式シャスポー銃で狙撃してくるので、官軍の大阪城攻めも大変
と言うか長期化し、官軍の方が不利になりかねない。
大阪城の包囲が長引いたら、官軍サイドの土佐、越前、尾張の各藩が離反し裏切らないとも限らない。
さらに紀州藩のプロイセン式農民徴兵部隊が、南から援軍としてやって来る。

そうなると大阪城の幕府軍と紀州藩兵の両方を薩長が相手にするのは大変だろう。
大阪湾はどの道幕府海軍の制圧下にあるので、官軍も下手に西宮や大阪城を迂回
して大阪市内に入ると幕府海軍から砲撃される可能性もある。
570名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 09:06:19.10 ID:cBGb2k6j0
>話がずれている。話しは慶喜追討令の事だ。官軍やら錦の御旗やら皇族総大将やらは別件。

一緒、新政府がもうすでに薩長の思い通りに動くことの証左だからね。諸侯は相手にされてない。

>最終的には「天下の公論をもって御確定遊ばさる…」

薩長が領地返上を取り下げることはないので、確定するのは領地がなくなることだけ。諸侯がなに言っても無駄。
571名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 09:10:53.46 ID:cBGb2k6j0
>だからアームストロング砲35門やストーンウォール号が手に入るまでは、開戦しない方が良かった。

そのころには薩長の武装と兵士の数が増えているから幕府は勝てないよ。
鳥羽伏見は薩長の先遣隊に過ぎない。それにすら勝てなかっただけなんだから。
長州征伐で戦った長州の主力と戦って勝てるわけないだろ。薩摩も戊辰には7000もの大軍送っているし。

>大阪城の包囲が長引いたら、官軍サイドの土佐、越前、尾張の各藩が離反し裏切らないとも限らない。
むしろ西日本、東海道や北陸の諸藩次々に下っているのが史実なんだが。
紀藩すらも裏切る可能性のほうが高い、また裏切るかも知れない状況下で篭城などできない。
572名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 09:13:35.08 ID:cBGb2k6j0
>大阪市内に入ると幕府海軍から砲撃される可能性もある。

長州征伐の広島方面は長州が海軍回す余裕なかったから、自由に砲撃できたけど、
長州軍にはさっぱり勝てなかったんだが。兵数は10分の一以下で。
それどころか逆に進行される始末。どうやって幕府軍が勝つんだよ。
お前自分の都合のいいように考えすぎ。篭城している間に紀州が裏切ったらどうするつもりなんだよW
573名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 15:51:04.14 ID:JQfTk1AZ0
俺も紀州が慶喜方として参戦することは無いと思う
鳥羽伏見にすら出兵していないのに、それより状況が悪化している状態で
不利な方に参戦するのは都合がよすぎるよ。
それに、家茂死亡時には慶喜が家茂を暗殺したという怪文書が回るぐらい
慶喜は旧幕府勢力から信頼を得てないわけだし。
574名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 18:31:50.57 ID:qvmeFPx00
じゃあ仮に田安亀之助は15代将軍になってたらどういう展開になってたと思う?
575名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 19:00:33.80 ID:KNy7AAZv0
徳川慶喜が朝廷から制東大将軍に任命されて進軍して、会津桑名が江戸放火占領だね。
576名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 19:12:28.80 ID:KNy7AAZv0
征東大将軍の誤りか。

徳川慶喜及び会津・桑名が幕末の土壇場で朝廷側から幕府へ立場を変えたのは、
対立していた14代将軍家茂の急死と、征夷大将軍位の相続が原因だ。

つまり、家茂の遺言の通りに田安亀之助が15代将軍に選ばれた場合は、
一会桑の幕府への態度は冷淡なものとなっていたと思われる。

諸侯としても、幕府から自らへ、外交権や政治に参加する権利を奪おうとする際、
徳川慶喜を中心に幕府へ対抗してゆく、という形式になるだろう。

となれば徳川慶喜の軍として先鋒は会津。目標は江戸幕府。
そして会津の関係した戦闘は放火が恒例。松平容保の指揮の下、江戸は炎上するだろう。
577名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 20:08:41.26 ID:aiMgLMx+O
>>569
アームストロング砲ってそんなに脅威なの?
威力はあっても精度は低いというし、
上野戦争と違って市街地に向けると街が焼けるといったリスクがあるし、
実際に上野戦争では着弾付近に関わらず突っ込むほど薩摩兵は強靭な訳で、
そんな相手に対して威圧効果があるかなあ

…そういや京都を焼き尽くした慶喜&会津なら大坂の街炎上の可能性なぞリスクでもないか
578名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 20:22:05.84 ID:9GK3f0Ct0
鳥羽伏見の戦い以降は、朝廷の薩長支配が強まるのは事実。
でもそれ以前は、薩長の方が、少数派で煙たがられているのが現実。
慶応3年12月に何を薩長が言っても相手にされない。鳥羽伏見以後と以前では薩長の力は全然別。

鳥羽伏見の戦い以前に、薩長が徳川宗家の辞官納地を言っても負け犬の遠咆状態。
圧倒的少数派で特に議定会議では、否決されるだけ、参与会議でも微妙。

時間が経てば経つほど、薩長軍が畿内に集結する、と言う話しだが、それも長州だけ。
薩摩藩は、家老の関山糺筆頭に薩長同盟と対幕府戦争には反対の声ばかり、既に1000人
以上の京駐在の薩摩藩士が居て、それに加勢する先遣隊の3000名を出すのにも大政奉還
で幼い天皇を警備する、と言う名目で半ば国元を騙しての出兵だった。もうこれ以上の
出兵は薩摩は無理。来るのは長州だけ、しかも瀬戸内海や大阪湾は下手をすると幕府海軍
からの攻撃がある状況下での進撃となる。

紀州藩は裏切らない。15代と16代将軍候補を抱えており、紀州藩は、11月に畿内周辺の
佐幕派諸藩と共に佐幕派クーデターを計画している。当然会津と桑名も入っている。
さらに同じ時期には江戸の紀尾井町の藩邸を根城に譜代大名に朝廷への官位の返上と
上洛令の拒絶、慶喜の江戸帰還を工作し前者2つに関しては成功している。
もし慶喜が、朝廷新政府の摂政や副総裁に選ばれるなら、紀州藩は後任に田安亀之助を
という話になるだろうし、紀州は戊辰戦争終了後も土佐藩と組んで薩長や東京の新政府
と対峙する姿勢を見せている。それが御親兵結成の理由の一つにもなっている。

それに家茂の遺言書には後任には田安亀之助、幼年でそれがダメなら紀州藩主の徳川茂承
と言う事になっていた。しかし幕閣と幕府中堅官僚が慶喜を支持し家茂遺言書をひっくり
返している。晩年の孝明天皇の意思でもある。それでも大奥と一部旗本の抵抗があり、
慶喜は徳川宗家相続は認めたが将軍職は中々就かなかった。その内に岩倉が宮将軍構想で
朝廷内をかき回し始めた事もあり、長州との戦争の後始末や薩摩の討幕姿勢を見て大奥も
次期将軍に亀之助と言う条件で慶喜の将軍任官を認めた。
岩倉の宮将軍工作と薩摩藩の討幕姿勢の明確化が、慶喜と幕権派(幕府近代化・集権派)
の結合を強め慶喜将軍任官を早めてしまう。この様に討幕派の政治的攻勢の中で慶喜以外
の選択肢は有り得ない。亀之助はまだ子供だし、徳川茂承は慶喜ほど頭良くない。
579名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 21:33:52.99 ID:cBGb2k6j0
鳥羽伏見前は薩長が少数派って時点でわかってないわあ。
総裁である有栖川からして長州ととても懇意にしている人物だぞ。
縁戚であり思想的にも長州の人から学んでいる。彼が薩長を裏切る事はないよ。
そもそもそんな事しても後ろ盾をなくすだけ。
鳥羽伏見の時に薩長になんで錦の御旗が降りたのかほんと分かってないね。
その前有利だったように言っているけど、あれは有利じゃなくて慶喜と旧幕府は穏健派です。
そのうち自主的に返還します。強気に出たら強硬派を勢いつかせて駄目になる。
と諸侯派の主張に理解を示していたからであって、従来の方針を変えたわけじゃないんだよ。
580名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 22:06:57.32 ID:cBGb2k6j0
そして長州がというかその長州に諸藩総出で勝てなかったのが幕府なんだけど。
それに幕府海軍が、と狂ったように主張しているけど、
幕府海軍なんて長州征伐から戊辰戦争にいたるまでいいとこなしじゃん。
少なくとも安定した戦力として期待できるものじゃないよ。運用できる人員も少ないし。
581名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 22:14:16.96 ID:WzH9WVh50
幕府側に西郷に匹敵するものがいたか?大久保のほどのものがいたか?吉井に拮抗しうるものがいたか?
いなきゃ勝てないし朝敵になるだけだよ。
582名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 00:49:27.51 ID:M6gdUYgc0
>縁戚であり思想的にも長州の人から学んでいる。彼が薩長を裏切る事はないよ。

それが、裏目に出ているんだな。

西郷や大久保らが騒ぐので、皇族議定は、反発して土佐、越前、尾張に組している。
長州系だと思い、大久保と西郷がヤリタイ放題していたら、皇族や公卿の特権を剥奪
されると思い、皇族議定は辞官納地反対に回ってしまった。

>従来の方針を変えたわけじゃないんだよ。

辞官納地の実行案は、変えマクリだよ。

@即時の辞官納地実行案

A自主的辞官納地案(しかも200万石で良くなっている)

B豊信の全大名割高案

C辞官納地、継続審議案

>少なくとも安定した戦力として期待できるものじゃないよ。運用できる人員も少ないし。

鳥羽伏見の時は、大阪湾を押えましたし、江戸から脱出する時は3000名近くの人員を乗せています。
幕府艦隊の江戸脱出は、官軍では止められませんでした。

>>581
色々居たでしょう。
小栗なんて蔵相は当たり前で、総理も出来たでしょう。
583名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 00:54:15.56 ID:M6gdUYgc0
辞官納地の実行案をコレだけ変えまくると言う事は、実行不可能だという事。
朝廷は、直轄領として山城一国をもらい、慶喜が副総裁任官へ。
584名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 01:41:24.56 ID:5KXzDebMO
>>582
581が言ってるのは朝廷工作の手腕や人望や軍事力や権謀術数に長けた人材と言う意味であって、
おぐりんはどれも勝てないと思うよ

実務者としてなら大久保や吉井より遥かに優れているけど、
その小栗を持ち上げてる大隈とか、江藤とか大村とか、
後は幕府や西日本諸藩の海外留学生たちもわらわらいるので別に抜きん出てる訳でもないだろう
585名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 07:58:05.73 ID:NSd7O+LO0
春嶽に「百の才知はあっても一つの胆力もない」って
言われた慶喜の責任逃れの妄言なんか真に受けなくてもいいのにw

586名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 11:03:10.69 ID:M6gdUYgc0
慶喜の政治力は、凄いけどね。

薩長は散々徳川宗家をやっつける事やったが全部失敗し、
結局、高等戦術では慶喜に歯が立たず、最後に戦争に持ち込むには、テロ活動しか方法が無かった。

その点を判っているから、紀州藩主徳川茂承は、15代将軍を辞退したんでしょうね。


江戸からの薩摩藩邸焼討ちの報を聞いて鳥羽伏見に進撃したのが間違いでした。
アームストロング砲35門とウォールストーン号を手に入れてから、薩長と開戦すべきでした。
(それと全軍後装式銃兵化の進展やガトリング砲も手に入れるべきかと)

鳥羽伏見ではなく大阪市内の三つの薩摩藩邸を攻撃し、
大阪湾内(西宮も含めて)の薩摩や長州の軍艦汽船を攻撃すべきでした。

また、紀州藩の出兵も待つべきでした。
587名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 20:55:18.64 ID:ORpuflPh0
>紀州藩は裏切らない。15代と16代将軍候補を抱えており、紀州藩は、11月に畿内周辺の

だから慶喜を嫌っていた。自分のところから出せると思っていたのに下位の水戸藩からだからな。
そして実際幕府につくか朝廷につくかで相当揉めている。
そしてさっさと朝廷に下っている。慶喜が篭城しようと下るのは変わらないよ。
588名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 23:47:00.13 ID:+OCn8hkx0
>だから慶喜を嫌っていた。

は〜?
徳川茂承は、慶喜と張り合った訳じゃないよw
家茂の遺言やら大奥から押されたけども、自ら15代将軍を辞退しているんだよ。

何言っているの?

戊辰戦争後も、紀州藩は、土佐藩と組んで薩長や東京新政府と対峙しているし、
徳川が勝たないと田安亀之助を将軍や朝廷新政府の首班格に出来ないじゃないか!



慶喜の将軍任官を嫌って譜代の佐幕派が討幕派に寝返ったのは彦根藩だろ、むしろ。
589名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 01:33:40.01 ID:k4CKYfKm0
>>582
小栗なんかダメだね。
あいつが勘定奉行として上州の商人の言うことを聞いて蚕種紙改印なんていうのをやったせいで
武州や信達で世直しだなんだっていって一揆がおきたじゃないか。
しかも朝廷から将軍後見職に加増しろって話が出た時にあいつは邪魔してきたんだ。朝廷もあいつを嫌ってるよ。
>>584
原市之進が生きてればそういうことを任せられたんだけどなあ。
>>585
間違っているとは言えないがあいつも似たようなもんだろう。
それに彼を知り己を知って状況を判断することこそ大将の責任だ。
無責任なのは板倉の方だよ。
590名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 06:40:30.57 ID:S1+rOqnm0
>しかも朝廷から将軍後見職に加増しろって話が出た時にあいつは
>邪魔してきたんだ。朝廷もあいつを嫌ってるよ。

朝廷の言う事ハイハイ聞く訳無いだろw まったく。


王政復古でさっさと大阪城まで撤退し、
会津も江戸に戻して、薩摩藩のテロ活動鎮圧に使うべき、
大阪城には紀州藩の兵力を集めて使うべきだったな、慶喜は。
591名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 07:12:14.00 ID:S1+rOqnm0
>小栗なんかダメだね。

お前の下らないケチのつけ方をしても、
横須賀製鉄所の建設と増築、武器や軍艦の国産化、郡県制の導入などの功績をみれば余りある。

誰も知らん細かい例持ち出して、あーだ、こーだグチグチ言うんじゃないよ、ボケナス!
592名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 13:13:58.01 ID:2b0FB9+S0
郡県制の導入って結局何もできてないじゃない。
武器や軍艦の国産化のできて無いし、横須賀製鉄所も借款だし
財政問題が解決できてないのに近代化を推し進めても、エジプトやオスマン帝国の
二の舞になるだけだよ。
それに小栗が薩摩藩邸襲撃しなければ、在坂の強硬派が
進撃する事も無かっただろうに。
593名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 21:09:16.31 ID:Pw4dt7aU0
>>582
>皇族議定は辞官納地反対に回ってしまった。

反対などしていません。嘘言わないように。
慶喜に自主的に返還させるか、命令で取り上げるかで揉めていただけ。
薩長は強引に命令して取り上げればよい、断れば戦争すればいいというもので。
諸侯派は今内戦するのは不味い、寛大な処置をすれば慶喜が強硬派を抑えて領地を返すだろう。
という二つの意見があっただけ。

>鳥羽伏見の時は、大阪湾を押えましたし、江戸から脱出する時は3000名近くの人員を乗せています。

何の役にも立ってないな。逃げる時だけは早いが。
594名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 21:13:35.76 ID:Pw4dt7aU0
つまりどちらの意見でも慶喜に領地を返させて、官位を返上させるという基本方針に変更は一切ないんだよ。
北風と太陽の違いに過ぎない。そして北風が正しかったという事。
>>584
そもそも大隈が持ち上げたのは新政府から追い出されてからだしな。
実際小栗なんて借金作っただけの無能宰相。
民主党とかわらんわ。
595名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 21:25:51.65 ID:Pw4dt7aU0
>>586
そもそも紀州ごときが来ても大阪の勝敗は変わらない、大阪城の周りの死体が増えるだけ。
そして紀州も馬鹿じゃないので慶喜を見捨てるだけ。
実際戊辰戦争でもすぐに幕府を裏切って、逆に新政府に金を献上して兵士もだしている。
慶喜が篭城してもこれはかわらんよ。
596名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 05:22:10.95 ID:2RowhAQy0
アームストロング砲やガトリング砲を手に入れてからの方が更に有利だが、
史実の慶喜の大阪城篭城でも薩長は中々落とせないぞ。

篭城論は、慶喜ではなく家臣からの意見でもあるし、
天下普請の城に砲兵隊や元込式銃を持った伝習隊も居るので、薩長も城を攻撃しても中々落とせない。

アームストロング砲があれば、そもそも薩長は近づけなかっただろう。

官軍が抗戦意欲のある旧幕軍が篭城する大阪城を包囲しても、
田安亀之助を抱える紀州は、すんなり官軍サイドにはなびかない。

史実では紀州藩の兵が大阪に到着する前に、旧幕府軍が出動してしまっただけだし、
もし会津藩の換わりに大阪城に兵を出していれば紀州藩兵も篭城する事になる。


大阪城で抗戦中の旧幕府軍が居た場合、紀州藩はそう簡単には官軍サイドには行けない。

下手をすると、佐幕派として官軍が大阪城を包囲している後を攻撃しかねない。
そうなると大阪城の旧幕軍と紀州藩兵力で官軍は挟み撃ちにされる。

大阪城の後背地である紀州藩が、佐幕派として参戦したら逆に官軍の負けであり、
官軍は、下手に大阪城を包囲出来ず、鳥羽伏見から旧幕府軍を追い払った時点で膠着状態。

下手をすると土佐、越前、尾張が裏切りかねない。

>反対などしていません。嘘言わないように。

辞官納地は、継続審議に成ったって事は、当初の即時実行案はもとより、
自主的辞官納地も全大名石高割案も無くなり、今後開かれる諸侯会議が
この三職会議で再度話し合いましょうって事。

年末の時点で辞官納地は、即時実行案も自主的辞官納地も全大名石高割案も採用されませんでした。

だから継続審議案になったんです。
597名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 05:33:27.92 ID:2RowhAQy0
>>592
>郡県制の導入って結局何もできてないじゃない。

先の話だから。

>財政問題が解決できてないのに近代化を推し進めても、
>エジプトやオスマン帝国の二の舞になるだけだよ。

エジプトやオスマン・トルコほど幕府財政が切迫していませんから。

>それに小栗が薩摩藩邸襲撃しなければ、

薩摩藩邸を攻撃しなかったら、薩摩藩のテロ攻撃は終了しなかったでしょう。
攻撃そのものが問題なのではなく、それを聞いた強硬派幕臣が鳥羽伏見に進撃
したのが間違いなのであり、江戸の薩摩藩邸攻撃の報を聞いても鳥羽伏見に進撃
しなければ良かっただけ。

大阪市内の3つの薩摩藩邸を攻撃するとか、大阪湾の薩摩海軍を攻撃するとか、
むしろ会津藩を大阪城から江戸に戻して江戸に四つある薩摩藩邸全部を攻撃すべきでした。
598名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 05:39:02.42 ID:2RowhAQy0
小栗の外債起債計画も薩摩の妨害で失敗し、
旗本の貢租収入半分を事実上幕府が接収してそれを武器や工場整備に当てている。

この様に幕府は、外国からの借入金を無制限に入れている訳でもない。

薩摩も幕府債券が、パリやロンドンで発売される事を嫌がっているのは、
幕府の軍事力増大を気にしているからでしょうね。
599名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 07:40:19.38 ID:kHkq4FQ5O
慶喜が籠城しなかったのはもう勝てないと悟ったからだよ。
朝敵になったら勝てない。諸藩も次々に降伏軍は連戦連敗
600名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 10:26:21.10 ID:ljzJx3lnO
>>555
海上閉鎖してる大阪湾に薩長の海軍が突撃出来る訳がありません

海軍でも幕軍圧倒的有利

尊王やらの宗教的思想が存在しなければ薩長に勝ち目はありません
601名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 10:30:51.66 ID:ljzJx3lnO
>>599
朝敵に成ったらでは無く、『朝敵に成りたくない』だから

そもそも兵力で圧倒的に劣る京都の薩長軍では大阪城包囲など非現実的であり不可能
つまり籠城では無く、大阪城は拠点です
602名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 10:40:23.43 ID:ljzJx3lnO
幕末は兵力やら軍事力だけで戦局を推し測るのはナンセンス
『尊王』の思想の下に成り立ち、極論を言えば『尊王』の下に帝の意志が正当化されたら一人で数万の敵をも撤退だって可能
長州征伐然り鳥羽伏見然り
幕軍が負けたのは極地戦だけで本来なら大局には影響されない部分

真珠湾にキリストが居て、日本海軍が正当な理由で身柄を確保出来てれば太平洋戦争も日本は十字軍となり勝てたかもしれません
603名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 18:32:49.01 ID:2i7C0CTy0
>>602
長州征伐で勝ったのは賊軍たる長州で、負けたのは官軍たる幕府軍なんだけど。

>>597
小栗は在坂の軍が進撃することを見越して薩摩藩邸を攻撃したんだよ。
604名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 19:29:37.94 ID:2RowhAQy0
>小栗は在坂の軍が進撃することを見越して薩摩藩邸を攻撃したんだよ。

いいや、慶喜が江戸に逃げ帰ってくるまで、
鳥羽伏見で薩長と戦闘になっている事や負け戦だった事も江戸の幕閣は、知らなかった。

605名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 20:23:31.28 ID:1tWl6m+a0
>>596
万単位の兵士が今日明日篭城しましょと決めて篭城できるわけないだろ。
食料と武器弾薬の備蓄が必要なんだから。
そもそも篭城なんてのはどこかから援軍が来る見込みがあってやるもの。
引きこもってて状況が良くなるなんて事はないんだよ。西日本と機内東海道の諸藩が次々に降伏してるのに。
606名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 20:28:45.37 ID:6WUL1iWj0
>>604
明治以降、江戸の幕臣の証言に「薩摩藩邸焼き討ちは、京都の旧幕府軍を決起させるための行動だった」というものがある。
607名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 20:48:33.57 ID:1tWl6m+a0
>紀州藩はそう簡単には官軍サイドには行けない。

根拠がない。機内の諸藩は殆ど下っている。機内の諸藩は朝廷との付き合いが深いからな。
嫁が皇族の紀州が朝敵になってまで反抗する事は考え難い。
紀州はほぼ完全に孤立している。西日本でもほぼ全ての藩が下っている。
ここで抵抗しても紀州に勝ち目はない。
608名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 20:52:58.97 ID:1tWl6m+a0
>佐幕派として参戦したら逆に官軍の負けであり、

負けることはありえない。紀州藩が参加した長州征伐の結果は酷いもんだったよ。
紀州がきても結果が覆るわけがない。そして紀州は朝廷が討伐に動くと即座に土下座外交と、
上納金と兵士まで差し出した所、幕府に付くほうがおかしいだろう。
また土佐やら尾張やらが幕府に着くこともない、尾張などは佐幕派を全員切腹させてまで忠誠をあらわしている。
609名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 20:57:09.59 ID:1tWl6m+a0
>だから継続審議案になったんです。

つまり辞官と領地の返上の方針は変わらなかったという事ですよ。
これからは皇族議定が反対したなどと嘘を言わないようにね。彼等が反対したのは即時領土の返納だけだよ。
領地を返させるという基本方針になんら変更はない。
610名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 21:00:04.07 ID:1tWl6m+a0
>>597
>郡県制 具体的な構想も何もない、実現性も皆無の妄想。
>幕府財政が切迫していませんから。
幕府は金に困って外国から数百万ドルの借款を申し込んでいる。
下関の賠償金も払えなくなっている、国内の商人からも莫大な御用金を取り立てて、
さらに借金までしている。破綻寸前だよ。
611名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 21:11:17.41 ID:2i7C0CTy0
>>604
朝比奈昌弘の回顧で、小栗ら強硬派が京都で今動かなければ時を逸する。在京の士は臆病だ
こちら兵を動かせば、向こうも進撃すると論じた記録がある
612名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 22:50:58.61 ID:2RowhAQy0
>機内の諸藩は殆ど下っている。機内の諸藩は朝廷との付き合いが深いからな。
>嫁が皇族の紀州が朝敵になってまで反抗する事は考え難い。

機内じゃなくて畿内だろ。

それに鳥羽伏見の戦い以前に勤王派になっている畿内の藩は12〜3藩でしかない。
その後の鳥羽伏見の戦いで官軍に寝返ったのは淀藩、津藩、亀山藩ぐらいなモノ。

畿内の藩は、それほど勤王派にはなっていない。
雪崩を打って勤王派になるのは、大阪城を脱出した事が判り始めてからで、順序が逆。

九州なので各地の奉行が逃げ出すのは、慶応4年の一月中旬ぐらい。
慶喜が大阪城で抗戦していたら、どうなっていたか判らない。

>そして紀州は朝廷が討伐に動くと即座に土下座外交と、
>上納金と兵士まで差し出した所、幕府に付くほうがおかしいだろう。

それも慶喜が大阪城を逃げ出して、大阪の旧幕府軍が解体してしまった後の話。

>尾張などは佐幕派を全員切腹させてまで忠誠をあらわしている

青松葉事件は、一月下旬の話。慶喜が江戸で抗戦の姿勢を表さない事を見定めた上での藩主の行動。

>また土佐やら尾張やらが幕府に着くこともない

土佐藩は裏切る気満々だからw 会津藩と土佐藩と話合いしている。

>領地を返させるという基本方針になんら変更はない。

継続審議なんだから、単にまた後に話し合うって事だけを決めている。

>破綻寸前だよ。

関税収入が、かなり潤っている。

>611
それは結果論だ!
613名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 00:25:57.90 ID:B/Gy7C9nO
>>608
芸州口の紀州+幕府歩兵隊は西洋化してるだけあって、なかなか頑張ってるよ
彦根フルボッコの後は一進一退で膠着してるもの


まあ、5分の1以下の規模の相手にだけどねw
614名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 07:54:52.45 ID:0BZDGldX0
>食料と武器弾薬の備蓄が必要なんだから。

大阪天王寺が、幕府軍の補給基地になっていて、
そこにある武器弾薬、食料と突貫で大阪城に搬入すればよい事。

>在京の士は臆病だ

これは、12月12日に慶喜が大阪城に撤退する前の話で、月末、年末の話ではないね。

それに月末、年末では、幕府の外国事務局は、神戸開港、新潟海市、横須賀鎖港の
対応で追われていた。そこに更に王政復古のクーデターで6ヶ国公使と大坂城で会談
となり、そのセッティングなどもあり色々忙しかった。特に神戸開港は、幕府への
関税収入への足しが大きくなる事などから慶喜側近で12月以降の対薩長強硬策の提
唱者でもある永井尚志を担当者に当てるなど、慶喜政権ではかなり重要視されていた。

江戸でも慶応の改革の施策は、続けられており、全軍銃兵化や先込式銃への転換、
フランス将校による幕府軍の訓練、新兵募集の継続や横須賀製鉄所の拡大、鋼鉄製
軍艦の買付など幕軍改革の仕掛過程の業務が沢山あり、その一方で薩摩のテロ活動
への対策も打たなくてはならない等江戸の陸軍局、海軍局、会計局(勘定奉行)は
結構忙しかった。
更に江戸の陸軍局、海軍局、外国事務局は、大政奉還や王政復古で朝廷新政府の三
職会議の決議内容次第では今後の日本の軍制度が決まるのでそれに対する準備まで
している。
67年5月以降は、幕府従来の奉行制や老中合議制は廃止し、西洋型の事務局制とその
トップに担当老中を当てる事実上の内閣制に移行している。
この様に個別政策に関しては担当部署以外の人間の発言では動かなくなり始めている。
また、それ以外の慶応の改革の施策でも忙しい。

この様に大政奉還〜王政復古時期の幕府上層部は、中々忙しくて、はっきり言って
京での討幕派への対応策や朝廷でのロビー活動まで頭に入っていない状態。フラン
ス大使のロッシュでさえも慶応の改革では部局ごとの改革の進捗度が違ったり、横
の連絡が取れていなかったりで、ロッシュの目には改革の進展は捗々しい物ではなかった。
その為に慶喜が江戸に帰還して自ら慶応の改革の先頭に立つように要請している位。

しかし京では、薩長の王政復古のクーデターなどがり、その対応策や畿内諸藩の動向、
朝廷新政府への内部工作等の難問が山積しており、とてもじゃないけど江戸に帰れる状況
でもなかったが、江戸では慶応の改革の途中であり、京への政変への対応工作よりも
幕府自らの改革作業や朝廷新政府への合流準備の方が忙しくて、幕閣はあまり京への政変
対応策まで目が行っていないのが実情。だから鳥羽伏見の戦い後にイキナリ慶喜が江戸に
軍艦で戻って来た事にも江戸での幕閣が驚いている。一々江戸の幕閣が薩長相手の施策ま
で判断していた訳でもない。
615名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:13:26.46 ID:AQ6obydZ0
>>612
>淀藩、津藩、亀山藩ぐらいなモノ。
もう殆ど下っているじゃないか。
機内の雄藩なんて津、淀、亀山、郡山、宮津、膳所、桑名、姫路くらいしかないぞ。
宮津とか速攻で降っているし、敵対したのって姫路と桑名くらいのものだし。
藩主が抵抗しただけで、留守居役は速攻で降伏。
616名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:15:05.20 ID:0BZDGldX0
だいたい薩長が、王政復古のクーデターを仕組んだり関東でのテロを仕組んでいるのは、
幕府の慶応の改革が進展するのを嫌がっているからこそ、そうやって改革作業を妨害している。

慶応の改革が進展すれば、薩長はもう幕府には手が出せず第三次長州征伐や第一次薩摩征伐
が日程に入ってくる。最終的には幕府による廃藩置県と郡県制の導入であり、慶喜大君制に
よる征韓論、植民地獲得論となる。

そうならないうちに、慶応の改革が進展しないうちに、幕府を倒そうというのが薩長の決定。
長州の木戸あたりが慶喜の慶応の改革を物凄く警戒しており、むしろ慶応の改革の実行が、
薩長の急進的な討幕姿勢を呼び寄せた面がある。
617名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:15:10.95 ID:nEyxZKxz0
>>614
>これは、12月12日に慶喜が大阪城に撤退する前の話で、月末、年末の話ではないね。
根拠がありません。不可。
618名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:18:32.11 ID:0BZDGldX0
>>617
>在京の士は臆病だ

12月12日以降は、大阪城に撤退して幕府の人間は京には居ないんですけどwww
619名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:19:53.93 ID:0BZDGldX0
>>617
>根拠がありません。不可。

12月12日以降は、大阪城に撤退して幕府の人間は京には居ないんですけどwww

>>618は訂正。
620名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:27:52.21 ID:AQ6obydZ0
>それも慶喜が大阪城を逃げ出して、
違う撫順隊がきたら速攻で降伏が流れ、朝敵にはみななりたくなかっただけ。
機内の藩は朝廷>幕府だから。九州とか中国とかでも速攻で降伏。
篭城してても彼等を助けに行けるわけがないから、降伏の流れは代わらない。
そして尾張は藩主が朝廷に忠誠を誓う為に起こしたことであって、慶喜が抵抗していても流れは代わらない。
621名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:32:04.21 ID:AQ6obydZ0
>土佐藩は裏切る気満々だから
ありえんな、そもそもそんな事したら藩主が隠居させられるだけ。藩士は付いてこない。
>継続審議なんだから、
つまり方針は変わらなかったッてことだろ。何時何処で辞官納地が辞めになったんだよ。
>関税収入が、かなり潤っている。
幕府の借金に比べれば微々たるものだよ。余裕があるなら賠償金を支払えないで兵庫を開港したり、
借金の返済の待ってもらう為に、関税率を20%から5%に下げられる事もないよ。
622名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 08:37:29.50 ID:AQ6obydZ0
>>613
いや10分の一くらいだろwあの方面は長州は1500程度だし。
紀州の洋式の武器もった連中だけで6000くらいはいる。
けど複数の街道や山などに分散しているから実際は数百程度の長州に数千で襲い掛かって返り討ち。
さらに海からは艦砲射撃もしているのにねw
>大阪天王寺が、幕府軍の補給基地になっていて、
篭城してんのにどうやってそんな事するんだよ。場外にいる作業中の連中なんて敵でもないぞ。
623名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 09:08:36.67 ID:0GBC1DgJ0
>>591
>誰も知らん細かい例持ち出して、あーだ、こーだグチグチ言うんじゃないよ、ボケナス!
やっぱり小栗ヲタってこういうこと全然知らないんだな。
普通は小栗なんかよりも世直し一揆のほうが有名なのに。
だから大村とかのリップサービスを真に受ける事になる。
財政的な意味でもフランスとの提携という点でも
当時の小栗の要になっていたのは養蚕業だったのにそれを敵に回したんだから細かい例ですむわけないだろ。
しかも小栗は結局上州での世直し一揆勢に襲撃され
それを銃で撃退したことが上州の草莽に報告されて殺されてるんだよ。
624名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 11:19:18.74 ID:0LnulJL1O
>>603
結局は薩長が勝つって当たり前だったって考えてる奴は馬鹿しかいない

第2次長州征伐では勅命は下りてないから幕軍は官軍ではありません
また第2長州征伐然り鳥羽伏見然り
幕府が弱いから負けたのでは無く、大将の気移りと言う想定不可能な理由での敗戦
戦局だけを見れば幕軍に負ける要素は皆無
625名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 11:22:25.32 ID:0LnulJL1O
結果だけを見て『薩長勝って当たり前』って考える輩が、無謀な太平洋戦争をおっ始めたのは明らか
626名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 11:31:04.81 ID:AQ6obydZ0
戊辰戦争で幕府が負けた理由を大将の移り気とか言っている時点でお前ダメだわw
その前の戦争で負けているんだよ。だから大将はもう勝てないと悟っただけの話。
そして薩長に勝てるとかありえん妄想を抱いている奴等が、アメリカにも勝てるとか変な妄想抱いて戦争始めただけの話。
幕府が薩長に勝てる可能性こそありえない。実際どの戦闘でも勝ったためしがない。
627名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 12:24:52.78 ID:B/Gy7C9nO
>>624
いやいや勅命下りてるよ
大久保の「非義勅命は勅命にあらず」って結構有名だと思うんだか知らないの?
薩長同盟における坂本の動きを語る上でも必ず言及される

第二次長州征伐も鳥羽伏見もどうみても幕府が弱すぎるから負けたんだろ
薩長が強いから勝てたなんて誰も思ってないよ
小笠原が逃げたのは圧倒的に戦力が上の幕府海軍がやすやすと長州を小倉に3回も上陸させてしまった後、
慶喜が逃げたのは鳥羽伏見で3倍以上の戦力の旧幕府兵が薩長に撃退され撤退した後だ
628名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 13:33:15.53 ID:0BZDGldX0
>>612
相変わらず、機内って書いているなw
バカだなww

鳥羽伏見の戦い以前に勤王派になっていた畿内とその近辺の藩は、

(近江)
彦根藩、西大路藩、膳所藩

(大和)
郡山藩、柳生藩、高取藩、小泉藩

(河内)
狭山藩

(摂津)
三田藩

(丹波)
園部藩、柏原藩、綾部藩

ぐらいなもの。
629名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 13:35:06.19 ID:0BZDGldX0
>>628
>>615に修正。
630名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 14:35:28.22 ID:2HtiYk7U0
>>614>>618
薩摩藩邸焼き討ちの直前の話だよ

>>624
慶応元年9月21日に出てるよ
631名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 15:54:25.99 ID:0BZDGldX0
>薩摩藩邸焼き討ちの直前の話だよ

その頃なら、京には幕府の人間居ない。

二条城は、水戸藩尊攘派に預けているし、
京都町奉行所は14日付で朝廷新政府の命令で廃止になっている。

伏見奉行所に新撰組と見廻組、
それに新遊撃隊「京都町奉行(東西二箇所)と伏見奉行の与力、同心で結成」が居るだけ。
632名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 16:34:47.83 ID:AQ6obydZ0
>>628
石高で見れば残りの機内の諸藩など俺があげたもの以外は、自衛すらままならない小藩のみ。
機内で10万石を超えている藩で抵抗していた藩なんて、姫路と桑名くらいのもんで。
そこも即座に降伏。それが史実というもの。
633名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 16:55:30.33 ID:B/Gy7C9nO
>>632
姫路は岡山に形だけ一発大砲打たせて即降伏だもんなw

しかし漢字は直してくれよ、畿くらいすぐ出るだろう
634名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 17:57:13.97 ID:Zb0DR1030
明治天皇「高松、松山征伐せよ」 土佐藩に命令

 明治天皇が土佐藩の第16代藩主山内豊範に「(幕府を助ける)高松藩や伊予松山藩を征伐すべし」と命令した御沙汰書=26日午後、高知市
 薩摩と長州に討幕の密勅が出された直後の慶応4(1868)年1月11日に、明治天皇が土佐藩の第16代藩主山内豊範に「(幕府を助ける)
高松藩や伊予松山藩を征伐すべし」と命令した御沙汰書が見つかり、26日、高知市の歴史研究会が発表した。

 所有していた高知県の男性が研究会に鑑定を依頼。鑑定した歴史研究家の松岡司さん(68)は「土佐藩にとって、明治維新の最重要文書。残っているとは驚きだ」と話している。
 書状は縦22センチ、横110センチの切り紙。文書の内容は山内家がまとめた資料集などで知られていたが、原本は所在が分からなくなっていた。
http://town.sanyo.oni.co.jp/news_k/d/2012012601001060
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_k/images/2012/01/26/2012012601001094-256.jpg
635名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 00:18:11.32 ID:n8rZl4380
中国地方・山陰地方は、西から長州藩の軍勢が来ているので勤王藩が増えているが、
畿内では鳥羽伏見の戦いで負けた時点で尚且つ慶喜逃亡以前に勤王派に寝返った藩は、
淀、津、亀山、高槻などの諸藩で、それ以外は形勢を見ている。
大阪城のすぐ近くの尼崎藩や麻田藩などは、慶喜逃亡の報を聞くまで動きを取れなかった。

雪崩を打って勤王派になるのは慶喜の大阪城逃亡が公然化し、大阪の幕府軍の溶解が始まった以後。
慶喜が大阪城で抗戦を続ければ、畿内やその付近の藩は動けない。

鳥羽伏見の戦い以前に大和の四つの藩が、勤王藩に傾斜しているが、これもかなりリスキーな行動だった。
紀州藩が、佐幕派として参戦したら攻撃されかねない行動だった。丹波でも3つの外様が勤王藩に成っているが
これは西から長州が来るのでまだ判るが、近江や大和ので鳥羽伏見の戦い以前に勤王藩に傾斜していたのは、
かなりリスキーだったと思われる。

慶喜が大阪城で抗戦を続けた場合は、これら鳥羽伏見の戦い以前に勤王派に成っている藩や
鳥羽伏見の戦いで勤王派に寝返った藩は、旧幕軍の攻撃の対象にされるだろう。
636名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 00:38:09.40 ID:b5IyGMNq0
夜逃げ逃亡が全てよ
あれで新政府内の親慶喜の諸侯派は沈黙せざるを得なくなったし
日和見の藩は全て薩長についた
慶喜からしたら戦わないのがベストだったけど開戦に及んだんだから
腹くくって勝負すべきだった
春嶽の慶喜評「百の才知があっても一つの胆力もなかった」
は的を射ているわ
637名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 01:47:47.40 ID:HabBhD41O
慶喜がどんなに抵抗しようが、越前尾張が朝廷についているから畿内の藩が幕府に付くことはないよ。
638名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 08:58:37.71 ID:/7d6agsB0
もう慶喜厨は荒らしの領域に入り込んでる気がするがそれはさておき
客観的事実として一度決定した辞官納地は既に骨抜きにされていた事
慶喜の新政府参画は既に内定していた事は事実なので
会津庄内をもし慶喜が押さえられていたら鳥羽伏見のあった日に慶喜は
御所に参内して悪くても平議定普通に考えれば議定筆頭くらいにはなってたと思う。
ただ副総裁までは越尾土の連中も協力はしない(容堂は微妙だが)だろう。
ただ薩長土肥の維新後の扱いそれはお飾りの左大臣にされた久光に
代表される殿様個人の扱いもあるし、版籍奉還、廃藩置県に代表される藩としての
扱いもあるがそれを見るに三職制から太政官制に移行すれば慶喜が政治的実権を
有する可能性は零に等しい。
ただ太政官制下の参議のポストは史実では薩長土肥が独占していたが
この場合だと小栗榎本大鳥勝あたりの旧幕臣連中と由利公正に代表される
越前藩の連中あと状況によっては尾張宇和島水戸の連中も参議入りして
人事の面では大幅に変わって来る可能性は多少ある。
まあこれについても結局10年ちょっとで土佐肥前の連中は新政府から
追い出されたのでやっぱり史実通りだった可能性も高いがね。
ただ榎本や大鳥があんだけ活躍できたわけで小栗が新政府に参画すれば
全く違う展開になってたかもしれんとは思う。
639名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 11:02:41.29 ID:49LoPbpLO
>>638
戊辰戦争が起こらなければ廃藩置県で各方面からの反発が大きそうだなあ
西南戦争までいかなくとも士族反乱が早い段階で各地で起こるやも
もしくは緩やかに移行させて史実よりずっと後に実施するか
640名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 11:52:23.77 ID:JcBLBNwx0
>>636
>春嶽の慶喜評「百の才知があっても一つの胆力もなかった」

 それを書いた春嶽の回顧談では、「水戸の徳川斉昭は幕府を乗っ取って天下を取ろうとしていた」と断言しているのだが、
信じてるの?慶喜の評はその延長上に書かれたものだしw。これ信じてるなら、君はかなりイタいぞw。
641名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 12:09:10.11 ID:/7d6agsB0
>>639 その場合は多少遅れていた可能性はあるが要は史実の戊辰戦争の
替わりが廃藩置県戦争になってただけじゃないかな?
内乱はもちろんあったでしょうが不平士族の反乱とは別物だと思う。
642名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 14:37:50.68 ID:JcBLBNwx0
>>638
慶喜には上洛を、会津桑名両藩には帰国命令が朝廷から出ていたから、
会津桑名が慶喜と一緒に参内する事はありえん。
そういう意味では、朝廷の役は貰えまい。というか最初から彼らは幕府の役だけで朝廷から何らかの役目貰ってたわけじゃないし。

>>641
廃藩置県戦争で済めばまだ御の字だな。
自由民権思想が諸外国から流入するのは時間の問題な訳で、こちらが先なら市民革命戦争になる。
そうなれば武士階級どころか天皇や公家までも庶民の手でギロチンだ。
643名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 15:18:28.31 ID:4IjpVV060
>ただ副総裁までは越尾土の連中も協力はしない(容堂は微妙だが)だろう。

土佐も越前も尾張も副総裁の線で工作しているんだがね。

>慶喜がどんなに抵抗しようが、越前尾張が朝廷についているから畿内の藩が幕府に付くことはないよ。

開戦時に土佐も越前も尾張も議定の辞表出している。

>史実の戊辰戦争の替わりが廃藩置県戦争になってただけじゃないかな?

それも含めて慶喜は朝廷の摂政や新政府の副総裁になるつもりだったんだろう。
天皇の権威と徳川の西洋化した軍事力で諸藩を圧倒して実行する心算ではなかったのか?

それには第三次長州征伐や薩摩征伐での幕軍勝利が必要だった。
644名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 15:46:50.36 ID:Cng1tb9N0
>>643
第三次長州征伐や薩摩征伐をするには、何を口実に
しますか?
645名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 16:37:14.73 ID:EvjDgfvs0
>>631
正確に言えば「大坂の因循して時機を逸するは、在坂の有司孰れも臆病者なるが故なり、関東より端を
開きて其眼を覚まさしむるに若かず」だから焼き討ち直前だよ。
646名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/29(日) 22:57:05.13 ID:JcBLBNwx0
>>643
慶喜は新政権の樹立に向かっていたが、幕臣の多くは幕府の継続を望み朝廷を中心とする新政府発足に反対しとるよ。
慶喜の思惑がどうであれ、徳川が二派に割れるから戦争になっても第二次同様に全力は出せまい。
647名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/30(月) 11:08:15.50 ID:k3/HQaoxO
>>627
10万石削減&藩主隠居
これが勅命

武力討伐の勅命は皆無
648名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/31(火) 07:26:15.01 ID:edZfXRIrO
>>646
その場合、新政府+旧幕臣の一部対旧幕府+会津桑名その他、の戊辰戦争が始まるかもな
そうなると江戸が焼けるのは不可避か…
長州は復権さえ出来たら新政府側に付くだろうからしばらくは征伐の心配は無さそうだが、
薩摩はどうなるか
649名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/31(火) 16:18:14.25 ID:NEALSGZ30
>焼き討ち直前だよ。

なおさら京には幕府の人間居ないって。

>幕臣の多くは幕府の継続を望み朝廷を中心とする新政府発足に反対しとるよ。

史実では慶喜が説得して何とか納得させています。小栗も含めてね。
650名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/31(火) 19:43:48.53 ID:EfD1cL9D0
>>638
小栗は会庄と同じカテゴリーであって新政府入りは無理。
小栗が慶喜に罷免された時に大久保一翁は越前に幕府の旧弊を改める好機と書状を送っているくらいで
越前・大久保・勝らと小栗では別だ。
榎本や大鳥は幕府が解体された後に登用されたんだし話が違う。
651名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 09:29:07.35 ID:DrVHxZR90
徳川家の私財を投じて国家運営しているようなもので
全国徴税の仕組みをつくらないと勝ってもいずれ息詰まるだろ。
652名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 10:35:28.99 ID:HfsHslIP0
>>651
勝たなければ何も始まらないですね。

第2次長州征伐に成功していれば余裕をもって、
幕政改革ができましたが・・・・・・。

紀州よりも長州のほうが武器の性能や能力が
すぐれていますから、撃退されて当然です。
653名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 11:53:35.99 ID:G5xw8Pop0
Ifを言うなら、慶喜が第14代将軍になってれば大分歴史が変わったんじゃないかな。
安政の大獄も起きないし。

>>650
小栗と共に慶応の改革に従事し、また勝海舟を蛇蝎の如く嫌ってた
栗本鋤雲のとこにも新政府から出仕の誘いが来た(けど断った)らしいから、
本人にやる気があれば不可能でもなかったんじゃないかな?
小栗のことだから、出仕の誘いが来ても断るだろうけど。
どちらにせよ、小栗も函館まで行けば良かったんだが。
654名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 12:26:23.83 ID:O5gfzL6mO
>>652
第二次長州征伐の時なら紀州の武器の性能は長州と同じくらいかむしろ上
そして芸州口における兵の数は紀州の方が圧倒的に上

しかし一歩も長州の地に攻めこめなかった
武器の性能のではなく組織体制や士気の問題だろう
655名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 12:34:21.17 ID:QaAM1X4U0
散兵戦術と戦列歩兵じゃなあ。
戦術が50年か100年は違うんじゃね?
656名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 15:56:15.32 ID:UBlypi6E0
芸州口に限れば、紀州藩兵の士気は高かったんじゃなかったっけ
総督が徳川茂承だし、支藩主が自ら出兵してたりもするし
粘り強く戦ってたと長州側の記録にもあった……気がするw
数で勝ってるのに苦戦した理由は、戦術か戦略、あと地形辺りじゃないかな
657名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 17:06:49.79 ID:PPrmiFUlO
だ・か・ら

幕軍1万5千で大阪城拠点に陸路閉鎖

海軍で海上閉鎖
京都の薩長軍5千はどうやって補給路作るの?
武器が優れてても弾薬切れたら鉄屑だよ
658名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 19:33:28.24 ID:HfsHslIP0
>>654
紀州は独自にプロシアから軍事顧問を、
招聘していましたからね。

組織体制や士気の問題でしょうね。
659名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 20:21:35.65 ID:X1kU/9TE0
紀州藩がプロイセンから軍事顧問を招いたのは、明治維新後だったと思われ

>>657
鳥羽伏見前ならそんなことせずに傍観してりゃ政治的に勝てるし、
強硬派は衆を恃んで余裕ブチかましてるから封鎖とか消極的な作戦は眼中にない

鳥羽伏見後だとしたら、その1万5千で惨敗したのに更に封鎖の為に分散させるとか正気なの?って
言いたくなるだろうな、慶喜の立場ならw
しかも橋本の戦いで幕府軍が壊走した後は、新政府軍内で軍需品の鹵獲競争が起きてる
あと当然ながら援軍も来るわけで、慶応4年1月9日には長州軍が備後福山藩を降伏させている
660名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 21:54:38.34 ID:OGKLdaud0
慶喜は、江戸から薩摩藩邸焼討ちの報が入った後は、
強硬派幕臣を鳥羽伏見に進撃させるのではなく、
大阪市内の三つの薩摩藩邸を攻撃する事で誤魔化すしかないね。

あと大阪湾で薩摩や長州の軍艦や船を攻撃するとか。

史実でも伏見奉行所に詰めている新撰組や見廻組、新遊撃隊が
それなりに示威行為で暴れてはいるのだが、西郷と大久保がこの事を
批判しているものの議定会議で土佐、越前、尾張が工作して伏見奉行所
への出兵話は無くなっている。
薩長への鳥羽伏見への出動命令は、あくまでも幕府軍接近の報があってから。

関東各地で行った薩摩藩のテロ活動の方がはるかに大規模で酷かった。
一揆や騒乱状態まで発展し伊豆代官の江川家は、伊豆で徴兵した農民兵を治安出動させている。
661名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 22:26:25.77 ID:HfsHslIP0
テロリストは打ち殺せ。

寛大なる処置に感謝している庄内はおかしい。

>>659
そうでしたか?
662名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 12:15:48.46 ID:W0R8qFx/0
幕府は、元込式銃に転換し始めた直後に大政奉還やら王政復古やらだから
もう少し時間があれば、武器の近代化をもっと整備できただろう。
幕府軍が大阪の幕府軍5000人だけでも先に元込式銃兵化を完了してから
鳥羽伏見の戦いを始めるべきだった。

しかし、ま〜ジャーディン・マセソンが、アームストロング砲を幕府に売却しなかった
背景を知りたいね、誰かが幕府軍の強化を邪魔している訳だ。長州の木戸も慶応の改革
の進展を気にしている訳だし。

結局、薩長は、慶応の改革を進めさせたくなかったんだろう。
ある意味、慶応の改革は「富国強兵」の第一歩と言っても良い。
663名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 13:22:12.76 ID:PJQTfopbO
>>659
惨敗?
初戦で敗走はしたが、大阪城及び港を押さえてる以上戦局は幕軍有利は変わってないよ
664名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 13:25:36.13 ID:PJQTfopbO
>>662
武器マニアは痛々しい…

初戦敗走は錦の御旗による物

大将に戦意が有れば3日で京都の薩長は追い詰められてたよ
665名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:53:34.59 ID:oz1Cygyc0
そういう心構えがないから負けたんだし政治を任せられなくなった
666名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 18:08:09.20 ID:OH8u1PZH0
>>656
他の幕府歩兵とかと一緒になって10分の一以下の長州軍に攻め込まれて、
一歩も長州の土地を踏めずに負けた。
>>663
薩長に攻め込まれたらどうせ守れないよ。戊辰で一度でも薩長に勝った事あったっけ?
667名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 18:17:49.28 ID:abgta0mF0
指揮官を家柄で選んでる限り勝てないだろうね
668名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 20:49:11.99 ID:1/4dPMM80
>>664
慶喜は、土佐、越前、尾張の三藩の朝廷工作にかけていて、それは上手く行きかけていたのだから、
戦意が無いのは当たり前。むしろ伏見奉行所での挑発行為と徳島沖での海戦、関東での薩摩藩邸
焼討ちや関東各地への治安出動、大阪市内の薩摩藩邸への攻撃ぐらいで止めておくべき。

会津藩などは、東帰させて江戸での警備や関東各地への治安出動をさせておいた方が良かった。

薩摩藩邸焼討ちで薩摩藩が三職会議で文句を言って来ても関東でのテロ活動の件を逆に批判出来る。
この時点での戦意は、はっきり言って無駄な効率の悪い戦意。もっと開戦は先延ばしにするべき。
アームストロング砲35門とストーンウォール号の入手、元込式銃兵化の進展、この三つが揃ってからの開戦でも遅くない。

>薩長に攻め込まれたらどうせ守れないよ。戊辰で一度でも薩長に勝った事あったっけ?

徳島沖海戦では、薩摩藩海軍は見事に負けていますけどねw
天下普請の大阪城は一寸やそっとでは落とせない。アームストロング砲が十数門配備されていれば
官軍は近づく事も出来ない。下手に大阪市内に突入したら幕府海軍の艦砲射撃の的になるだけ。
669名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 21:15:44.34 ID:OH8u1PZH0
阿波沖の海戦は兵士の輸送が終わって薩摩に帰る途中の船を襲ったもの。
そして薩摩は輸送船が一隻座礁しただけで、無事任務を全うして帰っている。
幕府は船二隻すら沈められない体たらくなんだが。
長州征伐でも少数の長州海軍にボコボコにまけて、関門海峡も制海権は長州が握っていた。
670名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:17:28.95 ID:7LN0TxSp0
北越戦争では薩長側が寡兵の旧幕側に局地戦では度々負けてるな
671名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:01:24.74 ID:OH8u1PZH0
負けたのは薩長の兵じゃないけどなそれ。
672名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:28:22.69 ID:X0Ouact10
>>668
アームストロング砲を過大評価しすぎだろ。幕末時はまだ不安定ですぐ壊れるので
そんな超兵器と言われるほどの威力は無いぞ。
当時の英軍ですら四苦八苦していたのに、幕府軍に満足に運用できるとは思えん。
673名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:34:56.70 ID:kKDp5FPXO
>>668
何度も何度も同じこと書いてるようだけど、
つまりはあのタイミングで鳥羽伏見の戦いを起こしてしまった時点で幕府の負けは覆せないってことね
674名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 00:52:18.72 ID:Q7frZP2R0
>何度も何度も同じこと書いてるようだけど

それが事実だから。

>鳥羽伏見の戦いを起こしてしまった時点で幕府の負けは覆せないってことね

慶喜は、それが判っているから二条城から撤退したし、
土佐、越前、尾張の三藩に朝廷工作を任せている。

それに幕府軍を鳥羽伏見に進撃さえさせなければ、朝廷は慶喜を朝敵にはしなかった。
江戸や大阪の薩摩藩邸や関東の一揆勢を鎮圧して、時間を稼いでいれば良かったのだ。

その間にアームストロング砲35門やウォールストーン号の入手、幕府陸軍の元込式銃兵化
を推進していればよかった。木戸が言う様に慶応の改革が進めば進むほど幕府軍は強くなる。

一度戦いを起こしたなら大阪城に篭城して抗戦を続けるべきだろう。
大阪の戦いが長期化すれば、薩長の力が弱まり、土佐、越前、尾張が仲介に乗り出すなり、
土佐が裏切るなりするだろう。
675名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 01:38:37.10 ID:kOsU2UkM0
それ無理。何故なら幕府には金がない。
下関の賠償金も払えなかったのが幕府。
だからフランスから追加借款を申し込んでいたけど、もう領土でも担保にしないと無理な状況になっている。
676名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 07:18:49.83 ID:jalfgSLtO
>>674
アームストロング砲だろうがストーンウォール号だろうが銃兵を鍛えようが、
指揮官が硬直した身分人事な時点でただの鉄屑だよ無理矢理


逆に、鳥羽伏見の指揮官を大鳥にするくらいの実力に促した人事が出来てたら、
(そして一番難しいことだが頑迷な会津兵らもその指揮官にちゃんと従ってたら)
幕府軍は勝ってたと思うよ
武器の性能と兵力なら勝ってたんだから
677名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 08:06:43.07 ID:kOsU2UkM0
んー違うなあ。指揮官も大事だが一番大切なのは戦術と士気だからね。
薩摩の立ち撃ち、長州の寝撃ち、土佐の膝撃ちというが。
この三藩はある程度散兵戦術を駆使して戦える。
薩摩や土佐の場合は敵が近づいたら即座に近接戦闘に切り替えて突撃する胆力を持つ。
長州はそこまでの胆力は持たないが、まず崩れる事がなく最後まで持ち場を死守する忍耐力を持つ。
幕府は散兵戦術が取れない。何故ならそうしたら軍が崩壊する。
かといって密集して攻撃しても的である。結果どうやっても勝てない。
678名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 10:45:38.11 ID:MhrNBbmxO
>>666
痛々しい
679名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 10:50:18.91 ID:MhrNBbmxO
>>668
いったい何の話を?
幕軍が戊辰戦争で勝つ可能性の話

つまり鳥羽伏見開戦以前の話は論外

一々さかのぼってたら『参勤交代を廃止しなければ良かった』って結論に成っちゃうがな
680名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 12:39:16.51 ID:I7lbfCNO0
「鳥羽伏見の戦い」(幕府の命運を決した四日間)の著作者の野口武彦は、
慶喜のチキンぶりと大阪城放棄が最大の敗因では有るが、戦闘現場では、
連絡将校(采図役)の絶対数の不足と訓練不足が、敗因だ、としている。

また、一部元込式銃兵化を行っていた伝習隊は、総崩れの幕軍の中でも比較的
踏み止まって良く戦っており、薩長も伝習隊との対戦では苦戦している事を記している。

薩長の戦闘記録でも伝習隊は他の部隊とは異なって、
反撃が激しく、伝習隊の射撃で味方に被害が出ている事を記している。
681名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 12:48:14.72 ID:I7lbfCNO0
>つまり鳥羽伏見開戦以前の話は論外

頭悪くない?
開戦し無い事が有利なら、それも検討すべき。

また正月の段階で開戦しないでも、どのみち年内中旬には開戦している可能性が大きい。

それに開戦して大阪城を薩長が中々落とせなかったら、
土佐、越前、尾張はどちらに転ぶか判らない。特に土佐は裏切る気満々。
682名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 16:11:35.08 ID:MhrNBbmxO
>>681
開戦回避はスレ違い
スレタイ100回嫁
683名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 16:13:59.09 ID:2zNVRlA40
通りすがりだけど、戦わずして勝つとか言うし
もしくはまた別のいくさの準備なのかもしれんし
684名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 17:18:50.54 ID:jalfgSLtO
>>681
>>683
戊辰戦争において旧幕府軍の勝利を考察するスレだから、
戦わないという選択肢はスレ違い
鳥羽伏見が起こらなかった場合の、
後々戊辰の年に起こりうる別の戦争に関してもスレ違い
鳥羽伏見後に大阪城に篭城したら、はここで語るべき内容
685名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 19:27:25.40 ID:9wecEBnA0
なあちょっとスレ違いかもしれんけど奥羽越列藩同盟の他にもう一つ
列藩同盟ってあったよね?
俺の記憶違いかな?ぐぐっても出てこない。
686名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 21:46:06.83 ID:Irbqc2WS0
戊辰戦争は、年の事ではなく、幕朝戦争の意味を表している。
その勝利の為に開戦時期を見合わせるのは、ありうる事だ。

4月になればストーンウォール号も徳川家の手に入るしな。

西郷だって3〜4ヵ月後での
開戦だと思っていた位だから、正月開戦はむしろ偶発的要素が大きい。
ま〜正月に開戦しないでも戊辰の年内には、どのみち戦争の可能性が大きいが。

長州藩だって本国から山陰を通って援軍を京へ登らせようとしている。
長州藩の援軍が入京したら、どのみち戦争だよ。

もっとも幕府vs朝廷の構図ではなく、
朝廷内部の“副総裁vs議定”の戦いになるのかも知れないが。

慶喜も開戦するなら、準備万端で開戦すべきなんだ。
慶応の改革の途中で開戦する方がおかしい。

>鳥羽伏見後に大阪城に篭城したら、はここで語るべき内容

結局、薩長では落とせません。
ハイ終了。
687名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 21:57:33.70 ID:9wecEBnA0
>>686やたら慶喜副総裁就任を推すが議定にはなれても副総裁になるのは
無理だと思うぞ。総裁が皇族なのに副総裁を慶喜にしたら新体制も
事実上徳川中心でやっていきますよって言ってるのに等しい。
薩長はもとより公家連中だってそんな話簡単にOKするわけないと思う。
688名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 22:24:01.00 ID:cftt1l5v0
ところで幕府軍の戦術の拙さ(散兵戦術vs戦列歩兵)を指摘する
声がいくつかあるんでふと思ったんだけど

・松平定信(林子平の「海国兵談」発禁処分)
・鳥居耀蔵(高島秋帆を謀略で排除)

↑これが幕府(や佐幕派の藩)の兵制改革の遅れの原因の一つになってる
気がするんだけどどうだろう?
689名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 22:31:48.25 ID:Irbqc2WS0
>総裁が皇族なのに副総裁を慶喜にしたら新体制も
>事実上徳川中心でやっていきますよって言ってるのに等しい。

土佐、越前、尾張は、慶喜副総裁の線で工作し、かなりの賛同を得ている。

辞官納地が継続審議で事実上棚上げ状態で、しばらくは徳川家は400万石
を維持しそうだし、しかも旧幕の陸軍や軍艦、全国各地の城や奉行所、陣屋
などを考えると、行政執行は徳川宗家がやるしかない。

まあ〜議定になった岩倉や薩摩、それに慶喜の副総裁就任と同時に長州も
議定に任命されるだろうから、これら三者が、慶喜副総裁に反抗するんだろうな。

慶喜も議定会議で薩摩の関東でのテロ活動の件を持ち出して批判するだろうから、
そうなると結局年内に徳川宗家vs薩長で戦争になるかもな。

>薩長はもとより公家連中だってそんな話簡単にOKするわけないと思う。

皇族議定は了解済み、
皇族が了解しているのに、公卿が断るのは難しい。

鳥羽伏見の戦い直前には、
中山と中御門はもとより、岩倉でさえ動揺しまくっているが。
690名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 01:31:30.62 ID:1Nqew55cO
嘘も百編言えばなんとやらだな、諸侯が期待したのは薩長の牽制で合って慶喜の復権ではない。
691名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 02:30:50.86 ID:CFpwL5PG0
薩長の牽制=慶喜の復権=慶喜の副総裁任官
692名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 02:35:01.13 ID:t98Zzaug0
>>688
松平定信の時期に幕府の財政は急激に悪化しているので、
その意味で、幕末に幕府に余裕がない原因を作った無能政治家であることは確か。

また、政敵を抹殺するにあたり、政敵の行政的な業績を踏みにじるために
意図的に経済を困窮させ、政敵に罪をかぶせた傾向も否めない。

これは新井白石にも伊東正義にも見られる。
正義を名乗る人間はよほど気をつけないと、そいつが悪と名指しする人間よりも数段邪悪であることが多い。


鳥居耀蔵もろくな人間ではないが、奴というよりはその上の水野忠邦が評価できない。幕府を混乱させただけだった。



軍制に関しては、高島秋帆の時代はゲベール銃による集団突撃戦法で、当に鳥羽伏見の旧幕府軍の戦法そのものであった。

これが近代散兵術に取って代わるのが大砲の発達で、これによって、密集歩兵の中心を砲撃することが可能になったため、
歩兵の密集突撃戦術は急速に廃れていった。鳥羽伏見でも瀧川の馬が最初に吹っ飛んだね。

これと同時に銃の進化、ライフルと元込めによる長距離狙撃が可能になり、司令官の前線指揮は目立つことを避けるようになってゆく。
鳥羽伏見ではこの状況を考えずに旧幕府歩兵は突撃を繰り返し、司令官を多数失うことになる。
693名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 02:38:22.08 ID:t98Zzaug0
>>691
それはおかしい。
慶喜の完全な復権を諸侯は望んでいない。
諸侯が望んでいたのは、京都に幕府に代わる自らの意見の通る政権を立てること。

慶喜が領土も権威も完全に復権しては、諸侯の願いは果たせない。
将来の領地差出と官位制限は当然残る。
694名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 06:45:29.82 ID:fC57686Y0
>>663
大坂城は戦略的には重要だし、鳥羽伏見前は慶喜がまさにそれを最大限活用して
京都の政局に無言の圧力を掛けていたわけだが、戦局として考えるなら
旧幕府軍が鳥羽伏見から敗走してきた後である以上、とても有利とは言えないよ。

まず新政府軍は少なくとも橋本まで進出してるから、これと山陽道を上る最中にある
増援軍を遮断するには大坂城から淀川の北へ進出する必要がある。
だがそちらへ進出したらしたで、その両軍を止められるかっつーと、そこで止められるんなら
少なくとも橋本の戦いでは負けてないんじゃねーのって話だわな。
しかも敵軍の数が増える分不利になってるし。
更に籠城策を取るには、すでに裏切った藩が二つ出たという事実が重い。
また、港も保持するなら大坂城とは別に堺などの港へも軍を割かなければならないが、
まともに対抗できる幕府歩兵隊をそんなんに割り振っていいのか?

戦局を考えるなら、慶喜がこれは無理だと判断しても頷けるよ。
695名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 07:00:00.64 ID:fC57686Y0
>>677
いやいや、指揮は古今東西、戦術と兵器に勝るとも劣らず重要だよ。
鳥羽伏見での幕府陸軍は戦術・兵器ともに薩長と互角かそれ以上だったし、
軍の数では幕府歩兵隊だけでも薩長の軍より多く、また粘り強く戦った。
もちろんそれ以外には装備が旧式、近代戦を知らないで役に立たない連中も
居たが、そいつらを後方に回してもまだ数では勝ってる。
それでも勝てなかったのは、上層司令部に戦略性が欠如してたから。

緒戦の鳥羽伏見からの撤退は仕方ないとしても、伏見奉行所から脱出した軍が
その後の命令すら受けられず、一晩経ってから三々五々自主的に撤退した様に、
敗北後の兵力の収容と再編って基本的なことすら出来てないから、その後もグダグダと負け続けたんだよ。
だから総兵力では勝っているにも関わらず、戦略的な迂回攻撃どころか富ノ森で勝った後の追撃も行えずに
敗走後の敵軍に再編の余裕を与えてしまった。
軍の指揮官としては評価されてない観のある山縣有朋ですら、長岡城で河井の奇襲を受けて敗走した時は
後方陣地への集結と収容指示、軍の再編ぐらいは迅速に行ってるぞ。

司令級の人材についても門地石高に囚われず、大鳥のような下から伸びてきた人材を充てられていれば、
鳥羽伏見での旧幕府軍の勝利も十分あり得たと考えられる。
696名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 08:11:35.49 ID:60R9618k0
>>695
幕府陸軍は戦列歩兵の訓練を受けていたから、散兵戦術をとってくる相手には対処できてないよ。
幕府の中には伝習隊のように同等の武器を持っていた隊もいたけど、
戦術がさっぱりだったのは変わらない。
砲や射程と命中力の高いライフルが出てくると、戦列歩兵は的でしかない。
だから勝てない。
697名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 11:09:38.01 ID:4yKeWqO8O
>>694
ん?
私の意見は鳥羽伏見に於いて大阪城拠点に陸路と海路閉鎖

京都の薩長軍は補給路を絶たれ敗戦必至

尊王なんて宗教的思想が無ければ幕軍に負ける要素は皆無

故に武器がなんちゃらとか言ってる輩も論外だと思ってます
698名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 11:19:42.51 ID:0yHOIxFzO
>>697
陸路も海路も幕府軍にゃ閉鎖は到底無理
長州からは援軍
ハイ終了。
699名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 11:25:22.22 ID:OC3j9ACn0
クラウゼヴィッツは「戦争は違った形で行う外交であり政治だ」という。
思想無き政治はなく、故に思想無き戦争もありえん。
「尊王なんて宗教的思想が無ければ……」
故にこの論理は非常識に過ぎるだろう。
そもそも天皇の家臣たる征夷大将軍たる徳川幕府の正当性は尊王思想に根座しているのだから。
700名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 03:36:57.87 ID:Ir6T2/DL0

とりあえずアームストロング砲35門とストーンウォール号を手に入れてから開戦だ。
701名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 04:04:56.67 ID:dVMdHo050
>>696
素人なんだけどさ、自然発生的に散兵戦術を体得する可能性ってある?
本職じゃないから分からないけど
702名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 09:07:24.24 ID:bmyY18Rf0
>>696
鳥羽の緒戦では竹林とかに散開して交戦してるよ幕府歩兵
戦列歩兵なら散開なんてせずに、戦列を維持するか後方に引いて戦列を再構築するよね。
それに大鳥が指揮を執るようになってからは積極的に散兵戦術を活用してるが、
たった2,3ヶ月で習得したってことになるが
まー幕府歩兵隊の全軍が散兵戦術を使えたとは限らないし、そもそもフランスの歩兵操典が
戦列と散兵を併用するナポレオン時代引き摺ってた可能性はあると思うが

富ノ森などでの野戦築城などを見ると、南北戦争の教訓は既に取り入れられているようだが
703名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 10:15:26.90 ID:lLZqxcON0
>>702
結果脱走兵逃亡兵がでまくり
704名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 13:15:03.65 ID:oAkTzHCl0
その意味で、方言だらけで言葉も聞き取りにくい薩摩歩兵は逃亡が無かった。
逃亡したら即孤立だから。
705名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 13:46:45.93 ID:ZIA3MOwG0
散兵って下手すると逃亡する兵がでてくるんだっけ?
706名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 16:15:30.21 ID:S8s/oPK+0
散兵戦術とは、単にバラバラになっている状態じゃないぞ
散開し、かつ離れた位置から統一指揮され、部隊として射撃戦闘を行う。
指揮官と離れているだけに、一人で逃げ出そうと思えば簡単にできるし、
轟音響く戦場で、指揮官の合図や信号を見て指揮される訳だから、事前に訓練していなけりゃ無理。
自然に覚えることはありえんよ。
707名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/06(月) 16:57:18.40 ID:ohfRF4Wj0
そらまぁ逃げるチャンスは無限にできるからなw
でも幕府歩兵隊ですら散兵戦術を使えないなら、>>697の言う陸路封鎖なんて
夢のまた夢じゃね?

>>703
負け戦だし当然逃亡兵が出たことは考えられるが、
しかしそんなに凄い数の逃亡兵が出たん?
708名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 16:31:42.13 ID:LvuNnUYgO
>>698
全く論理的でないですね

言った者勝ちですか?
709名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 16:36:25.45 ID:LvuNnUYgO
>>699
『尊王なんて宗教的思想がなければ』
ってのは、戦力的にも戦局的にもマトモにぶつかれば幕軍が負ける戦では無いって意味

つまり武器がなんちゃら…第二次長州征伐がなんちゃら…
全て論外って事
710名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 16:56:28.55 ID:LvuNnUYgO
因みに第二次長州征伐を持ち出して、『幕軍ヘタレやら』『洋式軍隊』云々を語る輩も無知
何れの局面も国力・軍事力で圧倒してたのは幕府である。
にもかかわらず結果だけを見て『第二次長州征伐の結果』に固執する輩は無知
第二次世界大戦の、開戦当初の快進撃や米軍の逃走劇を持ち上げて『米軍はヘタレ』とでも言うのかな?
明治維新と第二次世界大戦の違いは『相手に菊の紋章が通用するか否か?』であり、大局を見れば国力・軍事力で圧倒していた幕軍が勝って当たり前の筈ですよ
711名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 17:02:22.60 ID:LvuNnUYgO
>>707
幕軍1万5千
薩長5千
錦旗の登場により逃走者は出たが、大阪城拠点にした幕軍を京の薩長が退けて補給路確保など不可能
そもそも肝心要の港が幕府海軍に占拠されてる以上、京の薩長が陸戦を戦うメリットは皆無
薩長は港を奪還しない限り、何も出来ません

712名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 19:03:59.81 ID:3WCcgwu50
西国街道無視かよ
713名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 19:08:58.67 ID:iQJQFntM0
薩摩は兵が優秀で指揮官の伊地知正治が平凡
長州は兵が平凡で指揮官の大村益次郎が優秀

薩摩はともかく、大村不在の長州兵はそれほど脅威ではないはず
714名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 20:24:57.52 ID:3WCcgwu50
伊地知が平凡って
白河口の戦いを知らんのか
715名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 22:44:23.27 ID:8UEQBVcH0
>>713
兵が平凡ってw幕末で最も強力な兵士だぞ。
>>710
長州征伐鳥羽伏見戊辰と幕府軍にはいいところは一つもないぞ。
716名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 01:01:12.41 ID:EuWvo9cwO
>>713
小倉口とか芸州口とか鳥羽伏見など、
大村不在で脅威ではない長州兵にさえ負けるほど
幕府は弱いということですか
717名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 10:22:34.81 ID:qmKxMm+RO
>>715
ミッドウェイ開戦まで米軍も良いとこ無しでしたよね

勿論『米軍=幕軍』なんて言うつもりは更々ありません

んが、国力・軍事力…ましてや海軍なんか赤子と大人ぐらいの差がありました

『第二次長州征伐では〇〇〇だったから』なんて非論理的な見解は盲目的過ぎます
タラレバスレなのでタラレバを言うなら
大将に戦意があれば・尊王なんて宗教的思想が無ければ幕府に負ける要素は皆無です
718名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 10:23:38.47 ID:2XejkhC70
>>716
小倉は高杉の指揮も大きいのでは?いなくなったら小倉のゲリラに苦戦しているじゃん
719名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 11:38:54.82 ID:EuWvo9cwO
>>717
なんかこの人って、本土決戦に持ち込んで、
かつソ連が攻めてこなければ日本は負けなかった!
て言ってるのと同じだね

>>718
高杉不在も大きいかもしれんが、
対ゲリラ戦になったからこそ苦戦したんだろう
720名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 14:58:27.40 ID:USKkeUEHO
少ない数で白河城を陥落させたり、会津若松城を攻略したのは、伊地知の功績ですからね。

板垣は自由民権運動に転身したとはいえ、どうして軍職につかなかったのでしょうか。
721名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 15:19:05.95 ID:NGaXglCe0
尊王思想がなかったらとか、そこまで前提を無視していいならもう幕末日本が舞台じゃなくても良くないか?
幕府軍とか薩長軍じゃなくて甲軍、乙軍でいいじゃん。
722名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 19:23:15.88 ID:k+mg6OLs0
>>718
兵力が少ないしからな。それにゲリラ兵に対処する為に、
村ごと焼き尽くすわけにもいかんだろ。
潜伏する長州兵を追い出すために、京都を火の海にした幕府じゃあるまいし。
723名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 22:42:53.39 ID:Dy4coSDa0
>>713
大村益次郎が異常なだけで伊地知正治は平凡ではない
アインシュタインと比較すれば
どの大学の教授や天才だって平凡になってしまうのと同じ
724名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 03:06:40.20 ID:easOgyJa0
NTT持株=徳川宗家
NTT社長=慶喜
東西会社=幕府
ドコモ=尾張藩
コミュ=越前藩
データ=土佐藩

KDDI=長州藩
SBM=薩摩藩
禿=大久保
SB社長室長=西郷
ティーガイア=坂本龍馬

総務省=朝廷
辞官納地=NTT分割
725名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 14:09:02.28 ID:8BQaiP08O
>>719
屁理屈で絡むなよ
726名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 14:15:03.85 ID:8BQaiP08O
>>721
言いたい事の意味が解らんらしいな
第二次長州征伐やら最新式武器やら
幕府ヘタレやら
マトモにぶつかっても薩長が勝って至って盲目的な輩が多いから、それを否定する為の意見
てか先にも書いたがタラレバスレ
『幕軍敗戦』って揺るぎ無い歴史がある以上『勝ってた可能性』を語るにはタラレバしかありませんから
史実通りにナゾって行けば『幕軍敗戦』って結論にしかなりませんよ
727名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 15:29:54.48 ID:N6TZkI7B0
国力や正面戦力だけを比較して、数字が上だから「こっちが勝つ」とするのが論理的で、
史実を基に各勢力の政治的な立場や、兵や指揮官の質、武装や戦術を比較して「こっちが勝つ」とするのは非論理的ということか?

歴史では非論理的なことがよく起こりますなぁ
728名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 17:23:36.76 ID:8BQaiP08O
>>727
全て過密した上で国力・軍事力共に幕府が圧倒的有利なのは揺るぎ無いですよね?
2ちゃん脳に侵された方は屁理屈並べて反論の為の反論をしてくるから話にならない…
勝手に2択に摩り替えるなっつーの

大阪城拠点に陸路閉鎖

海軍を持って港閉鎖
補給路を絶たれ京の薩長軍が如何にして勝つのか?

未だに具体的な策すら出てきてませんよ
729名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 17:31:03.80 ID:xTEO1dvM0
大阪城拠点で陸路封鎖しても山陰ががら空きなんて問題なし。
そもそも長州の増援はそっちからくるし。官軍は鳥羽伏見と同時に撫順隊をだして降伏させている。
んで当時の幕府海軍で海上封鎖とか閉港とか無理だから。長州征伐でも無理だった。
また長州海軍に追い回されて逃げ回るのが落ち。むしろ幕府が海上封鎖を受けかねない状況。
730名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 18:37:40.12 ID:N6TZkI7B0
どうも幕府軍の実力評価にいかんともしがたい差異があるっぽい。

俺は史実をかんがみるに、大阪城を拠点とした機動防御や海軍を有効に利用できる指揮官が、当時の在阪幕府軍には居ないと思ってるんだが、
728は大所帯の幕府軍の圧倒的戦力を完全に掌握し、士気を保ち、縦横に采配しうる、家柄も実力も兼ね備えたスーパー指揮官がいると思ってるんだろ?
そんな奴いたらそもそも鳥羽伏見で負けないんじゃないの?とは思うが、過去の戦いを持ち出すのは非論理的らしいし・・・
731名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 21:31:47.96 ID:Em1OpsIR0
質問。
戊辰戦争後期になって佐幕勢力でめざましい活躍をした庄内藩や長岡藩は
鳥羽伏見ではなにをしていたのでしょうか?
732名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 23:05:07.89 ID:AsfBiJ4BO
庄内は江戸警備

寛大なる処置に感謝とは、テロに屈した。

733名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 23:22:43.34 ID:JhK1agZ70
>>728
史実でも鳥羽伏見直後の長州の援軍は姫路経由で着てるし
大阪城に篭るなら西国街道封鎖できないし
734名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 00:04:54.58 ID:TYIlEcR70
>>731 長岡は河合継介が過大評価され過ぎてる。
確かに長岡城奪回は戦術的には奇跡的な勝利だったがそれ以外は
勝ったり負けたりで小藩にしては頑張ったねって感じ。
庄内はほとんど新政府軍とは戦わずに主に戦ったのは気候の関係で飢饉が
頻発して破綻寸前しかも周囲敵だらけの秋田藩と自分とこの半分以下の
図体しかない新庄藩であまりにも会津と仙台の両藩が弱過ぎたんで
クローズアップされるだけでじゃあ薩長とやりあえるか?と言われると
疑問符が付く。
735名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 01:38:45.18 ID:JDAVJyr00
ソフトバンクの禿、“大政奉還”の意味取り違えてない?

◆禿「NTTは大政奉還すべき」 光回線の分社主張◆
http://logsoku.com/thread/hato.2ch.net/news/1289387314/

1 : なまはげ君(東京都) : 2010/11/10(水) 20:08:34.40 ID:kSAER+xx0● BE:1138423436-PLT(12000) ポイント特典 [1/1回発言]

孫社長「NTTは大政奉還すべき」 光回線の分社主張 2010/11/10 17:33

 ソフトバンクの孫正義社長は10日午後、民主党の情報通信議員連盟総会で講演した。
2015年までにブロードバンド通信の完全普及を目指す「光の道」構想について、
NTTの光ファイバー回線接続事業を分社化する案の優位性を改めて示し「いまこそ大政奉還をすべきだ」と強調した。
NTT東西が一体管理・運営する案と比べ「普及する時期が早く、税金を1円も使わずに成長できる」と訴えた。

 NTT側がソフトバンクの提案に対して「収支試算が間違っており、非現実的だ」と批判していることに関しては
「(試算をやり直しても)結論は変わらない。成功するのは小学生でも分かることだ」と反論した。

 世界有数のIT(情報技術)先進国を目指すために、教育機関での電子教科書の導入や、
医療機関向けに電子カルテの展開を急ぐべきだとの政策提案も示した。

 総会の冒頭あいさつで、会長の原口一博前総務相は
「日本の成長に向けて、最後の望みをかけるのはここ(光の道構想)しかない」と語った。〔日経QUICKニュース〕

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381949EE3E2E2EBEA8DE3E2E3E3E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2
736名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 10:37:24.92 ID:gC0Edj4rO
>>729
長州は陸路で援軍に向かう準備なんかしてないよ

>>730 も同じだが一方の穴だけを見つけるだけで大局をみれないのが問題
指揮官云々を見つけだすのは良いが、んじゃ薩長はどんな優秀な指揮官の下に、どんな艦隊で幕府海軍を蹴散らすのよ?
薩長にはマトモな軍艦は皆無
幕府海軍と薩長海軍とでは歴然たる火力の差があるのだよ
737名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 10:45:09.71 ID:gC0Edj4rO
>>733


陸路閉鎖&海路閉鎖は兵糧攻めではないから

端的な話だ。大阪城拠点に海路を使える幕軍

と君が言う姫路経由やら西国街道やらの陸路しか使えない薩長

どちらが有利ですか?
君も大局を考えられない輩みたいだね

大阪城拠点に陸路&海路閉鎖された時点で薩長の負けは確定

幼帝を連れて逃走するしか術はありません
738名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 11:21:12.52 ID:gC0Edj4rO
>>730
それと過去の戦の一部だけを持ち出して『〇〇でも勝ったからココでも勝つ』ってのが非論理的だと言ってんだよ
本当に読解力ないね…
第二次長州征伐だって地の利を生かした長州が局地戦で勝ったに過ぎず、鳥羽伏見に当て嵌まる部分は皆無
結果だけを見て『幕軍ヘタレ』『薩長無敵』的思考が多すぎ
第二次長州征伐で〇〇だっから幕府海軍は弱いって思考も然り
真珠湾は成功したからミッドウェイもって盲目的な思考と同じ
くどいようだが薩長が勝ったのは尊王って宗教的思想を上手く利用したからで、軍事力では明らかに劣っていた
つまり政治の部分で幕府が出し抜かれたのであり、慶喜はそれに見事に嵌まった
これまたシツコイが、このスレはタラレバスレ
故にタラレバの結論を言えば慶喜に戦意が有レバ負ける戦では無い
739名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 11:40:26.20 ID:1nISeWQ30
軍事的に薩長>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>幕府というのが基礎なんだよ。
だから幕府がどう足掻こうが幕府は負けるんだよ。
つまり何をどうやっても負けるわけ。それを認めたくないだけだろ。
一度も勝っておらず装備的にもゴミ、貧弱戦術的にも無能。兵士はクズ、指揮官はアホ。司令官はチキン。
勝てるわけねーだろw
740名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 11:42:49.13 ID:1nISeWQ30
薩長は運や偶然で勝ったわけではない、勝つべきして勝っただけであり、
幕府は負けるべくして負けただけ、海上封鎖は必ず失敗して、幕府海軍は壊滅するし、
大阪城はあっさり陥落する。IFなど一切起きない。慶喜が何をどうやろうと歴史は変わらないんだよ。
その事をいい加減認めろ、理解していないのはお前だけだ。
741名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 13:04:32.67 ID:TYIlEcR70
>>740 慶喜厨を擁護するわけじゃないがあの時点ではまだ幕府は勝てないが
強硬派を抑えれば議定には慣れてたわけでそれでしばらく時間を稼いで
慶應の改革の完成を待つっていう選択肢もなかったわけではない。
742名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 14:18:18.43 ID:5cFFS+DI0
>>740
運や偶然はあった。
長州征伐の大島口の松山藩なんかたまたま水浴びしてて敗走しているし
家茂の病死も運では?
743名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 14:36:23.52 ID:TYIlEcR70
>>742 家茂将軍だったら大政奉還してなくてそのまま朝敵になってオワタ
じゃないの?
744名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 16:20:03.02 ID:xoCK58nyO
家茂死去の報がなくても小笠原は既に逃げてたし、
浜田は落ちてるし、芸州は膠着してるし、
家茂生きてても第二次長州征伐の幕府不利は変わらないだろう
むしろ死んだおかげで慶喜の改革が進んだんじゃないか?
745名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 16:46:07.41 ID:gC0Edj4rO
>>740←根拠が無い代表的な書き込み
746名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 16:49:17.34 ID:gC0Edj4rO
>>744
幕軍10万

長州2500だっけ?

不利なのは長州だよ
電撃作戦で勝利しても全く無意味
747名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 17:04:35.89 ID:TYIlEcR70
いや慶喜は政治家としては失格だが官僚としては優秀だった。
14代が慶喜なら幕政改革もっと早く終わって薩長とも普通にやりあえた
可能性はある。
ただ清の洋務運動みたいになってた可能性もあるけど。
748名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 17:52:33.48 ID:1nISeWQ30
>>742
家茂が生きてても全方面大敗という結果は何一つ変わらない。
そして幕府には金が一切ない。戦争継続は出来ない結果は何一つ変わらない。
>>746
それを覆せる戦力があったから結果は変わらないと言っている。
749名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 19:07:39.90 ID:TYIlEcR70
まあ取り敢えずやれる事はやっぱり鳥羽伏見の起こった日に
会津桑名の連中に京じゃなく大阪の薩長拠点を叩かせて自分は御所に参内して
議定になる事。交渉次第で前内大臣の議定筆頭を目指す。
その状況でできるだけ時間を稼いで早急に慶応の改革を
完成させる事。史実でも一応譜代大名の雄藩である大垣藩長岡藩庄内藩との
連携を深める事。
譜代ではないが一応薩長よりは幕府よりである越前藩宇和島藩土佐藩を
きっちり幕府側に引き込む事。御三家も同様。
これくらいかな?
750名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 19:35:07.47 ID:TYIlEcR70
幕府は慶喜が戦意なくしたからあれだけど雄藩同士で戦争したらどうなると思う?
具体的には薩長対宇和島土佐肥前越前大垣長岡庄内みたいな感じで。
国力とか戦力とかで考えてみてくれ。
751名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 21:10:56.76 ID:kalxMG9xO
薩長と肥前が潰し合いを始めたら幕府としては願ったり叶ったりだろうが
そういう「夷をもって夷を制す」が機能しなくなって幕末の情勢を作りだしたわけで
どうやってそのシチュエーションまでもっていくのかが難しい
752名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 21:45:58.86 ID:TYIlEcR70
>>751 潰し合うというより薩長対幕府肥前越前宇和島土佐という構図に
持ってく方法ですね。
753名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 22:19:47.58 ID:TYIlEcR70
連レスになるけど鍋島や宇和島伊達、山内や松平慶永辺りも
このまま薩長の思惑通りになるならまだ慶喜の方がマシだとも
思ってるだろうし、薩長除外した方が自分たちの政治力が上がるという条件で
彼らを連れば味方になってくれる可能性は高いと思うんですけど。
あと慶應の改革の完成までの期間とか。
754名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 22:29:20.88 ID:3P1fHlBm0
>鍋島や宇和伊達、山内
この辺りの大名と組むとしても
外様ごときと轡を並べて戦えるか、なんて言いだしそうな連中が親藩譜代に多すぎな感がある
755名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 22:45:29.29 ID:TYIlEcR70
というわけで俺はいつもの慶喜厨じゃないけど
旧幕府勝利のシナリオだけどまず鳥羽伏見の起こった日に
会津桑名の藩兵に大阪の薩長拠点を叩くよう命令する。
両藩の蔵屋敷を襲って米を接収するとかね。その隙に必要最低限の軍備で
上洛する。すでにこの時点で朝廷では慶喜の新政権参加は決まっている。
これは史実。恐らく最低でも議定だ。ただし副総裁はおそらく無理。
前内大臣待遇という事だから多分武家議定筆頭みたいな地位だと思う。
岩倉が副総裁だったから公家議定筆頭が三条みたいな感じになると思うの。
就任したら今度は全力で時間を稼ぐ。最悪薩長に頭を下げてでもね。
最低1年。できれば2年欲しい。その間に慶応の改革を全力で進める。
もう一つは雄藩を味方に引き込む事。
最低やらねばならないのが御三家。尾張は会津藩主と桑名藩主に。
紀伊は藩主に徳川宗家の家督の座。水戸は実家だから慶喜が自分でどうにかする。
あとは新政府参与に就任してる小原鉄心。これも譜代大名だし最低条件だね。
あとは当然越前の慶永これも親藩だ必要最低条件。
ここまでは難しくはない。
問題は山内容堂と宇和島藩だ。彼らはどちかというと親幕府だから
出来れば味方にしたい。
佐賀鍋島は中立に近いのでできればで良い。
広島辺りは無理だろうから最初から諦める。
この状況で薩長との戦争に持ち込む。動機は征韓論か版籍奉還。
これでどうだ?
756名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 22:55:04.42 ID:TYIlEcR70
あと味方に出来そうなのは熊本藩くらいか。
徳島藩は中立だから佐賀藩同様敵に行かないようにすればいい。
岡山藩辺りはまあ薩長側だろうなあ。
ただこれなら勝率50パーセントは超えると思うが俺だけか?
757名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 23:01:23.72 ID:WZsb5O+E0
>>737
その程度の有利は大した差にならないのは
史実の鳥羽伏見が証明してるじゃない
758名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 23:15:26.04 ID:TYIlEcR70
俺の意見が完璧なんでこれで決着がついたらしいなw
759名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 00:30:27.68 ID:FTBTKWAD0
希望的観測によって立てられた戦略は必ず失敗することは、
古今東西の戦史から明らか。鳥羽伏見の戦いからして然り。
故に>>758の意見は見るべき価値なし。
760名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 00:54:35.76 ID:qRjPaFuT0
>>755
>会津桑名の藩兵に大阪の薩長拠点を叩くよう命令する。

意味なし。というか鳥羽伏見の緒戦を本当に鳥羽・伏見だと勘違いしている。

実際は、大阪湾内に停泊していた薩摩船を中立とされていた港内に退却させ、
大阪の薩摩藩邸を焼き払ってから旧幕府軍は京都へ進軍を始めている。
鳥羽・伏見での問答と阿波沖海戦はその後のお話。

つまり、旧幕府軍は在大阪薩摩藩邸を焼き払っておきながら鳥羽伏見では通行入京できると考えていたわけで
酷い誤認をしたものだと思う。

>その隙に必要最低限の軍備で
>上洛する。すでにこの時点で朝廷では慶喜の新政権参加は決まっている。

上記の史実から考えると、大阪で開戦した時点で、慶喜朝敵論で尾張・越前・土佐なども一致せざるを得ない。

>これは史実。恐らく最低でも議定だ。ただし副総裁はおそらく無理。
>前内大臣待遇という事だから多分武家議定筆頭みたいな地位だと思う。

妄想お疲れ様。

残りは妄想に妄想を重ねるだけで意味なし。
761名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 01:54:40.61 ID:e0QJxdWG0
たとえば幕府軍の上洛する経路を鳥羽伏見だけでなくもっと分散させるだけでも、
史実とは大分違う展開になったんじゃないかと思うけどねぇ。

>>737
1.大坂城を拠点にしてるから負けないという論理が不明。
  大坂城を落とすなら時間はかかるが、山陽道を遮断するには大坂城から出て淀川の北へ進出する必要がある。
  大坂城から出ても負けないと考えるのであれば、なぜ鳥羽伏見から橋本の戦いで負けたのか理由が不明。
  ちなみに、当時は陸路で糧食を補給するのは困難だが、弾薬については当時の陸路のみでも十分可能。
  白河口で半孤立状態だった官軍が連日の攻撃を退けながら、なぜ弾薬欠乏に陥らなかったか考えるべき。

2.また食糧の補給については当時は現地調達が基本だが、その駐屯地だけでなく、その周辺地域全てから
  徴収するのが当然だが基本。
  有力な勤皇藩である岡山や畿内の帰順した藩から大坂近郊までの補給を行う場合は、陸路としても短距離であり、
  街道も整備されており、また新政府軍も小規模であることから何を以って不可能と断じているのかが不明。

3.港=大坂城ではないので、大坂城が保持できれば港も保持できるという論理が不明。
  港を保持するためには大坂城から兵を割く必要があり、また保持すべき港も一つではない。
  たとえば幕府海軍は、完全な海上封鎖を目指す場合は大坂・兵庫から岡山までの広範な海域を監視しつづける必要がある一方、
  輸送を試みる側は、陸上から制圧している沿岸の小規模水運を使用することができる。
  ナポレオン戦争の頃も、海上封鎖中のイギリス海軍はフランス〜スペイン沿岸のこうした水運の遮断に骨を折っている。
  蒸気機関は特に内海であることから大きなイニシアチブを発揮できるだろうが、それには石炭の補給が必要になることも考慮してしかるべき。

>>736
1月9日には備後福山藩が長州軍に降伏しているのだが、何を以って援軍の準備がないとしているのかが不明。
そもそも鳥羽伏見に参加した長州軍は朝敵解除後に急ぎ上洛してきた先兵に過ぎず、自前の砲すら持って来ていない。
762名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 01:56:52.55 ID:e0QJxdWG0
また追記だが、補給路の遮断については山陰道も考慮すべき。
763名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 02:30:54.12 ID:SvtXBHGv0
天皇家公家関係者を全員確保して殺害して簒奪し、
擁立する対象をなくしてしまうというのは無理?
764名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 04:30:35.91 ID:VmrmYJJmO
それはまずいことになるでしょうね

765名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 08:29:12.52 ID:kYG+OZA90
>>760
>大阪の薩摩藩邸を焼き払ってから旧幕府軍は京都へ進軍を始めている。

ウソつくな!
大阪の三つの薩摩藩屋敷は、鳥羽伏見の戦い直前に薩摩藩の役人が自分で
藩邸に火をつけたんだ。幕府軍は大阪では薩摩藩邸の焼討ちはしていない。

>>761
>1月9日には備後福山藩が長州軍に降伏しているのだが

先に上京して鳥羽伏見の戦いに参加した長州藩兵は約1500人。
薩摩藩兵は鳥羽伏見の戦いの為に3000人を上京させたが、以前より京には約1000人近い薩摩藩兵が居る。

鳥羽伏見の後に来るとされている長州藩の援軍はどの程度の援軍なのか不明。
766名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 13:46:26.08 ID:qRjPaFuT0
>>765
>ウソつくな!
調べたところ、君の方が嘘つきじゃないか。

>幕府軍は大阪では薩摩藩邸の焼討ちはしていない。
これも嘘判明。旧幕府は大阪薩摩藩邸を焼き払ってから進軍している。
767名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 13:51:50.34 ID:qRjPaFuT0
>>765
>自分で 藩邸に火をつけたんだ。幕府軍は大阪では薩摩藩邸の焼討ちはしていない。

これは誤りで、徳川慶喜は、薩摩藩と戦闘に至ったと条約諸国に通知し大阪薩摩藩邸に夜襲を行っている。
この際の炎上であり、焼き討ちといえる。
768名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 18:04:28.94 ID:mafoaD9G0
大阪薩摩藩邸は、薩摩藩士(役人)による自焼。
769名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 21:20:25.85 ID:yOp9R2+80
つーか大坂城に籠城して幕府海軍が援護射撃すれば勝つる、って作戦は
薩長軍の司令官が城と艦隊の両方の砲撃の的になるようなところに
布陣するような無能でないと成り立たないと思うけど

仮にそうだとして今度は幕府艦隊の背後から来るであろう薩長艦隊を
ノーマークにするわけにもいかず攻城部隊と艦隊に火線を振り分ける
必要があるわけで

幕府艦隊にハープーンSSMでもあれば交戦状態になる前に
薩長艦隊一掃も可能だろうけど・・
770名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 04:16:22.85 ID:7oCWcijV0
>>768
旧幕府軍の夜襲の結果です。
771名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 08:38:46.10 ID:xIIx196n0
夜襲の前にそれをキャッチして薩摩藩邸に火を付けている。
自焼だよ。
772名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 09:57:17.60 ID:ZtspQbo90
なんたって不手際で鷹司邸だけでなく京都一帯を焼いた慶喜だからなあ
薩摩藩邸だけで済んだってことは慶喜の仕業じゃないとおもうね
慶喜なら大阪一帯が焼けているはずだ
773名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 19:02:53.93 ID:xIIx196n0
会津藩が攻撃予定だったらしいけど、大阪の薩摩藩邸には
当直の藩士しか居らず、とても防ぎ切れないので自ら藩邸に火をつけた。

個人的には地上戦は、江戸と大阪の薩摩藩邸焼討ちだけして、
後は様子を見ながら、議定会議に任せておくべきだと思うけどね。

大阪湾や瀬戸内海、徳島沖では幕府海軍に好きにやらせておいても良いけど。
774名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 20:09:52.84 ID:IpNaQ7vu0
>>772
潜伏している長州藩士を燻りだす為なら、京都が火の海になって10万人くらい被害者がでても気にしない連中だからな。
会津史家は長州藩邸からの火で京都が火の海になったと主張するのが笑えるw
775名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 21:24:16.55 ID:wrRm9GmrO
>>761
@他の街道を使って何をするのですか?京都から遠く離れた長州からの陸路補給vs海路補給の幕府
どちらが有利?
A幕軍の1/3の軍勢で長期戦を戦うメリットは?君が言う補給路は長いですよ
B港は既に幕府海軍が占拠してますよ。
閉鎖云々は海路を閉鎖では無く、港閉鎖。
幕府海軍を如何にして追い払うの?
てか君の意見読んでも結局具体的な打開策は皆無

〇〇街道やら〇〇の補給やら…
具体的大阪城拠点にした幕軍及び海軍を如何にして打ち負かすと言うのかな?
粗探ししてるだけで全く大局に影響しない事ばかり
776名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 21:28:42.22 ID:wrRm9GmrO
>>769
布陣しない
つまり薩長は勝てないのだよ

大阪城拠点にした幕軍に手も足も出せない
故に幼帝を連れて陸路逃走しか術はありません
777名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 21:29:33.34 ID:wrRm9GmrO
>>769
薩長艦隊どはどんな艦隊?
ありもしない艦隊を持ち出さないでね
778名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 22:35:20.25 ID:ZtspQbo90
>>774
本当に長州が原因なら民衆に恨まれるはずなのに依然として長州びいきの声が高かった。
当時の民衆は火災が誰のせいなのかわかっていたんだな。
779名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 02:54:55.60 ID:fHtfziSJ0
せめて妄想の中では勝たせてあげたいという気持ちは分かる
780名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 17:53:24.29 ID:4oJsfh4F0
>>775
@当時の弾薬消費量は激戦地でも機関砲登場以後ほど多くないんですよ。
 消費量のデータについては日本では乏しいですが、ほぼ同時期の普仏戦争などのものが
 補給戦という本にあるので参考にして頂きたい。
 また、旧幕府軍が薩長軍を弾薬欠乏に陥らせるためには、積極的に野戦を行う必要があるのですが。
 イニシアチブを攻城側に与えたままだと、いつまで経っても欠乏してはくれませんよ。

A旧幕府軍を大坂城まで押し戻しましたし、援軍も東上中です。
 数は多くとも野戦では恐れるに足らず、むしろ退く要素がありませんが。
 旧幕府軍は確かに大軍ですが、だからこそ淀城や橋本で何が起こったのか考えた方がいいでしょう。
 大軍だからこそ、相互の信頼や士気の維持が難しいんです。籠城戦で内応が起きたら一巻の終わりですよ。
 慶喜公はその点も勘案して、大坂城を脱出されたのでしょう。

B旧幕府軍はそれぞれの港を”維持”する必要があるということですよ。
 まぁ旧幕府艦隊が洋上にある以上、新政府軍がそれらを使用することは非常に困難ですが。
 岡山から隙を見て兵庫などに運ぶ程度でしょう。

>>776
アームストロング砲でも射程は5km程度、しかも丘陵や山林に遮蔽されている位置に布陣されたら手を出せませんよ。
メクラ撃ちでもいいなら別ですが。
781名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 19:54:09.03 ID:BrOJ7OEI0
>>775
そもそも長州はいざとなれば天皇拉致ってかえるつもりで前もって山陰の方面を制圧している。
なのでそっち方面ががら空き。
また補給なんて当時は武器と弾薬くらいのもので、(武器弾薬も買える場合がある)
それ以外は現地調達が基本なので、補給路とか関係ないんだよ。水や食料を後方から送って戦争なんてしないんだよ。
782名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 21:35:06.69 ID:BrOJ7OEI0
>>775
港を幕府が維持できないと幕府軍は孤立して戦闘にもならないんだが。
そして戦闘で勝てるわけがないので、幕府は港を維持できない。
沖合いに船がいても問題なし。
783名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 23:23:34.74 ID:2uzbnz9U0
>アームストロング砲でも射程は5km程度、しかも丘陵や山林に
>遮蔽されている位置に布陣されたら手を出せませんよ。

当時の大砲の技術で5キロも飛ぶのは凄い事で、
城を包囲する兵站や陣地は、城から5キロも離れていないですよ。

それに5キロも射程距離があるなら丘陵や山越えの砲撃も可能なので、
命中率はともかく、大阪城にアームストロング砲が十数門有れば、大阪城を
包囲している官軍の後方の補給路まで砲撃範囲内になりますよ。

>>782
江戸城開城に反発した脱走兵を見ると、
鳥羽伏見の戦い以後の方が全然近代的な戦闘になれている。

旧幕府軍は、むしろ鳥羽伏見の戦いで負けた事で、強くなっている。
784名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 00:33:13.14 ID:uTahQzUF0
滝川播磨や竹中丹後を解任して大鳥圭介を歩兵奉行に就任させていればということか。
つーか滝川は薩摩藩邸焼き討ちの報を伝えて大坂の兵を激高させて、
京都に進撃して拙い指揮で敗北って戦犯筆頭だろ。
785名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 05:05:53.14 ID:/wdeapz70
>>783
五キロとか戦国時代でもありえんくらい間近に陣地作るわけないし、
五キロとか走ったら何分で付くよ、そんなところ作って奇襲されたらどうするんだよ。
ましてや後方の補給路とかw馬鹿じゃないのw
そして強くなったってwその後も連戦連敗だろ。
786名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 10:27:30.70 ID:ZLpL9vGv0
長岡藩てそれなりに近代化された兵力があって西軍に被害も与えたけど戦略的には全く役に立ちそうにないんだよな
トップの性格が難点か
787名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 10:48:46.21 ID:xZ1u7TW3O
>>780
@無理に弾薬を減らす必要は皆無
補給線が長い薩長はじり貧。
なにか勘違いしてませんか?
薩長に取って鳥羽伏見で大事なのは『帝を奪還されない事』
戦で敵を崩壊させる事でも、京都を守る事でもありませんから
A野戦で恐れるに足らず?これまた根拠が皆無
Bなんか補給路を全く理解してない

貴方は根本的に鳥羽伏見の戦いを理解されて無い
双方に取って何の為の戦か?
何度も書きますが補給線の長い薩長に取って長期戦を行うメリットは皆無

幼帝を連れて逃走がベストです
788名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 10:56:06.76 ID:xZ1u7TW3O
>>781
貴方の補給線軽視は 牟田口中将クラスですね
数で劣り補給線も長い薩長に勝機はありません
以前にも書きましたが海路が使える幕軍と陸路しか使えない薩長
貴方は薩長の補給路ばかり拘ってますが、長期戦なら幕軍だって援軍&補給はするのですよ
789名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 10:56:51.04 ID:xZ1u7TW3O
>>782
どんな理由で維持ができなくてなるのよ?
790名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 10:58:56.71 ID:xZ1u7TW3O
因みに鳥羽伏見と同時期に安房沖開戦で幕府海軍は圧勝してますから
791名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 11:02:07.09 ID:xZ1u7TW3O
因みに薩長が使う陸路は平坦では無く山道

792名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 14:33:31.66 ID:DrTxLMz90
>>781
山陰といえば山陰の雄である鳥取藩池田家がやけにやけに長州に肩入れしていますが
禁門の変から長州征伐までは別として、
鳥取藩が長州に味方していたのはなにか理由があるのでしょうか?
793名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 17:00:03.77 ID:W4i86LbO0
>>785
長篠の戦いでは、勝頼が敵からす数百メートルに陣取っていた。
794名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 20:36:43.12 ID:/wdeapz70
>>787
戦闘は現地調達が基本だよ。後方から輸送するものなんて兵士くらいのもの。
補給線が長いからってのはほんとお前が戦争を理解していない事の証。
後方から前線まで食料とか全部輸送するとか思ってないか?
消費地に陣取って、市場から買うのが軍隊の基本。
795名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 02:28:23.92 ID:UI1yuL82O
>>792
へー、そうなんだ

安藝の何とかという家老が長州を裏から支援する算段に加わってから中国地方は比較的薩長支援の姿勢になってたみたいだが
796名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 06:43:57.47 ID:UbZyNKwqO
>>792
因州藩は斉昭の子を藩主として迎えたことからガチガチの尊皇派
だから長州が朝敵になるまでは何かと協力してた

ついでに中国地方は岡山藩も浜田藩も斉昭の子だね
797名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 10:38:57.33 ID:flhTOMEMO
>>794
言ったもの勝ちみたいだねw
798名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 10:51:01.00 ID:BQ3lW5p60
>>794
三十年戦争の傭兵とかならまぁそうなんだが、この内戦ではどうなんだい?
799名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 22:10:32.58 ID:etWdVtMF0
>>798
戦争しているなら現地調達だよ。
長州征伐でも広島では長州の軍と幕府軍が現地調達やっている。
現地調達でも略奪か対価を払うという違いはあるがね。
奥羽列藩同盟も現地調達。会津軍は長岡で略奪と徴用(村人とかを強制的に働かせる)
させている。新政府軍の場合は基本対価を払うが相手が断れば強制徴収だろう。
戦争で補給が大事とか言うのは、フィクションの読みすぎだな。
戦争は綺麗事じゃない。現地調達が不可能なジャングルの奥地に行くとか以外は現地でまかなうんだよ。
800名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 08:50:02.92 ID:AuiXn6tP0
>>796
徳川斉昭の兼ね合いなんですね。
同じ兄弟の徳川慶喜が不憫だなあ。
801名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 12:57:11.15 ID:EIuMPzpdO
>>799
現地調達など最低限の補給であり、現地調達だけで戦線維持など不可能
ましてや港閉鎖で京都には物資が入りません
兵力で圧倒的に劣る薩長は、幕軍より有効的な補給路が無ければ絶望的
幼帝を連れて逃走しか術はありませんから
貴方は大局を無失して一点の打開策ばかり掲げてますが、無謀な現地調達を繰り返してまで薩長が戦線維持をする理由ありますか?
802名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 13:17:09.06 ID:tZdmulus0
>>799
幕末、後先考えないで見栄はって超貧乏だった会津とは違い
長岡藩は財テクの神様がいたから豊かだったのだよ
(ただこの神様が近代兵器スキーだったせいでエラい目にもあった)

米百俵が美談にされてるけど実際そこまで飢えてなかったのも事実
戊辰直後に優秀な人材をどんどん慶應義塾に送り込んでるくらい
803名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 19:18:08.24 ID:D2cufj3n0
>>801
逆現地調達が殆どなんだよ。後方からいちいち食料とか送ることはない。
現地で調達できない武器や弾薬のみ後方から送られる。
日中戦争でも軍の食料を本土から送っていたとでも思っているのか?
当然幕府軍や新政府軍も同じ事をしている。長州征伐の為に大阪に滞在していたわけだが。
その結果大阪の穀物が高騰したのは何でだと思っているんだよ。
804名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 20:05:39.08 ID:yaxE9EMcO
>>802
河合継之助

805名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 20:54:49.34 ID:yvzVkTsL0
やっぱ兵員と銃砲弾薬は現地調達ムリだな

日中戦争と太平洋戦争にかけて軍票を刷りまくったから占領地でヒンシュクかったなw
806名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 20:58:17.06 ID:/S0kQwR60
>>804
ガトリング撃ちまくりはさぞ楽しかっただろう
戦争にはやっぱりこういう変人がいないとなあ
807名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 21:56:45.06 ID:yaxE9EMcO
>>806
会津に向けて打っていた可能性が、ありました
808名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 23:06:24.35 ID:8bPmu2rU0
長岡人は戊辰戦争はやりきった感があって
終わったら「はい次、次」て感じだったんだよなあ
その辺は河合のキャラの影響も大きかったんだろう

河合って真面目で古臭い会津人とは致命的に合わなさそうな気がする
809名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 10:41:42.09 ID:9UsEdo2zO
>>803
日中戦争ってw

メイン補強は勿論本土&満州ですよ

正し、中国って資源豊富で広大な土地と京都って土地を一緒にしないでね

海上閉鎖され庶民への物資すら入らない京都で、5000の兵が現地調達だけで戦線維持など不可能
てかそれを行うメリットは薩長に皆無
810名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 10:44:12.18 ID:9UsEdo2zO
>>803
やっぱり君は牟田口中将ばりだね
資源が無い土地でも補給路無失して現地調達とか言いそう

日中戦争を持ち出すなら、ガダルカナルも現地調達で戦線維持出来たのですか?
811名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 12:32:09.04 ID:zXvCSlmgO
幕府軍は現地調達が基本だが?それで会津は長岡で略奪暴行しまくった
812名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 13:12:47.34 ID:+Z/ankXJ0
会津は邪魔だった
長岡だけで戦いたかった by河合
813名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 13:32:10.65 ID:rp8wQxxn0
長岡は会津の佐川官兵衛に陥れられたという説もあるしなあ
814名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 14:13:12.19 ID:vlQoENT+0
>>809
民間の物資まで封鎖とかやったら確実に反幕府で暴動が起こるな。
薩長は弄せず人心を掌握する。
数十万の人間が生活する大都市で5000人が養えないわけがないと。
>>810
ガダルカナルが中国にあったとは知らなかったなw
815名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 15:16:58.35 ID:N+NoQPdbO
>>812
長岡は戦いたくなかった
会津が旗を落として新政府を騙し、長岡を無理矢理巻き込んだ
816名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 16:20:29.32 ID:9UsEdo2zO
>>814
んで?
817名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 16:23:51.80 ID:9UsEdo2zO
>>811
全く異なる事例ばかり上げて意味あるの?
薩長が略奪してまで鳥羽伏見で戦線維持するメリットはなによ?
818名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 16:31:28.99 ID:vlQoENT+0
>>817
薩長がする事は米問屋にいって米を買うだけ。
819名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 22:07:27.92 ID:pT05vIGO0
>>788,809,810
中国はむしろ村落の間隔が日本に比べて広く、日本軍は現地調達に苦労したのですが……

他のスレで御持論を披露される前に、まず上でも紹介しましたマーチン・ヴァン・クレヴェルトの補給戦を一度お読みになられては如何でしょうか。
欧州戦史に偏ってはいますが、詳細なデータを元に兵站史とその現実を分析を施した佳作です。

まずこれはよく勘違いされていることですが、WW2においても、食料を含めた完璧な補給を常に行えたのはアメリカ軍だけです。
日本軍は元より、ドイツ軍、ソ連軍においても補給を行うための兵站能力が不足しており、食糧の不足分は現地調達で補っています。

現地調達ですが、これは最前線よりその後背地で主に行われます。
旧日本軍は東南アジアや中国で軍票を濫発していましたが、これこそが現地調達の対価として使用されたものです。
ではなぜ牟田口中将が当時から現在に至るまで非難されているかといいますと、食糧の現地調達は現地で人が生産活動を行っていなければ不可能だからです。
人が居なければ当然食糧の備蓄などあろう筈がなく、略奪も市場による調達もできません。
また、現地における街、村、集落が軍の規模に比して小さすぎれば、当然ながら早々に調達すべき食糧は尽きるでしょう。
ビルマ-インド国境は、あえて言うまでもなく、生産性の著しく劣るジャングルと山岳に隔てられた人口過疎地域でした。
それに対して牟田口中将は、牛で部隊を編成し連れて行くという斜め上な方策を考案し、案の定失敗したため、今でも非難されている訳です。
上のレスで名前の挙がっているガダルカナルでの失敗も、上記の要因によるものです。
ちなみに、ドイツ軍においても鉄道網から現地へ輸送するための自動車が足りず、旧態依然とした馬匹まで使用しています
これらを踏まえて、幕末に戻ります。

まず京都-大坂ですが、上記の”人の生産活動が行われていない、或いは小規模な地域”に当然ながら当てはまりません。
また、畿内および中国地方東部には大小の藩があり、これらが全く兵糧米の備蓄を行っていないとはまず考えられません。
兵站線についても、山陽道の他に、越前藩が大阪へ米を輸出していた際に使用していた琵琶湖−淀川の水運とその周辺地域が利用可能です。
例えば、早々に新政府軍に転向していた彦根藩などはこれを即座に活用することが十分可能でしょう。
確かに大阪湾に旧幕府海軍がいることは新政府軍にとって大きな阻害要因となりますが、それを以って食糧の補給が不可能ということは非論理的です。

三十年戦争でもそうであったように、長期に渡る大規模な軍の駐屯は地域を疲弊させ、いずれ食糧の欠乏を招きます。
しかし、食糧を調達する後背地が広ければ広い程、そこでの生産活動が活発であればあるほど、その破局に至るまでの期間は伸ばせます。
糧食の調達において本国からの補給というのは、その『食糧を調達する後背地を広げ』かつ安定させるという行為であるという認識が必要です。

ちなみに、軍の兵員数はそのまま養う口の数に直結するため兵站にとっても重要な要素ですが、幕末と徴兵制採用後ではこれが大きく違います。
鳥羽伏見においては、多く見積もっても旧幕府軍15,000名、新政府軍5,000名です。
一方帝国陸軍ですが、1個師団で25,000名から15,000名になります。
たとえばお気に入りの牟田口中将によるインパール作戦を例にとりますと、参加兵力は第15軍3個師団を中心に約86,000名に上ります。
幕末の兵員規模と比較すれば、1日当たりで必要となる食糧の量が全く違うということがご理解頂けると思います。
これを欧州の戦史上で比較しますと、三十年戦争でのリュッツェンの戦いは、スウェーデン軍16,000名、皇帝軍26,000名です。
ちなみにこの時皇帝軍を率いたヴァレンシュタインは、皇帝の勅許の下、街や村に軍税として金銭および食糧の調達を義務付け
現地調達を効率的に行うシステムを構築しています。
820名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 22:27:10.19 ID:pT05vIGO0
>>817
新政府の威信を維持し、彦根藩や淀藩などの勤皇諸藩を見捨てないというのは非常に大きな政治的メリットですが……

そもそも、大坂城の放棄を発見してそのまま受け渡し交渉を行ったのは、敵情視察に来た長州軍の一部隊なのですが。
京都から撤退するつもりならそんな無駄なことはせず、旧幕府軍が体制を立て直す前に京へ引き上げ、山陰へ撤退すべきでは?
821名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 00:00:54.68 ID:3jEpYdD20
>>815
でもやっぱガトリング砲は使いたかったんだよね
買ってから皆wktkだったし by河合
822名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 00:51:01.99 ID:Hs64hZOzO
官軍と朝敵の違いで目に見えるぞw
823名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 10:54:12.96 ID:aszav88aO
>>819 結果的に線では無く、点で占領したんだろ

だからなんだ?鳥羽伏見に何か類似する点が日中戦争にあるのか?
824名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 11:05:05.81 ID:aszav88aO
>>820
全く論外
幕府が大政奉還してる以上、政権が朝廷にあることは承知の事実
薩長がすべき事はその朝廷を徳川に渡さない事
何度も書く

幕軍15000対薩長5000
補給路も薩長は長く険しい

つまり増援だって武器弾薬や食料調達も全て幕軍有利

この現状で薩長が戦うメリットを考えろ
不利な状況で戦って朝廷失う可能性と、朝廷を従えて山口へ帰還
どちらが薩長に取ってベストか?
君はこれまた何度も書くが大局を見れず一点だけしか見れないから支離滅裂する
薩長の補給路の話しをしたら、補給路の事しか見えてない

兵力で劣り補給路でも幕軍に負けている薩長
この客観的事実を踏まえて考えてください
でないと堂々巡りだよ
825名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 13:06:02.32 ID:IFG5sDbdO
幕軍が勝ってるのは穀潰し兵の数だけ
826名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 13:36:56.64 ID:HC0m8+Xy0
>>825
数は大事
特に近代戦ではとっても大事
827名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 13:43:08.63 ID:k7who6/mO
薩長軍千と幕府軍一万でやっと五分なので戦力で負けているのは幕府軍。補給も大阪の幕府軍を追い出せばいいだけなので問題ない。
828名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 14:03:35.59 ID:Gj1x/a+g0
近代になればなるほど数より質のほうが重要になると思うが
829名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 15:36:07.41 ID:CnxkfVjJ0
>>824
西国街道を封鎖できない以上補給は薩長に不利ではない。
むしろ幕軍の方がその大軍を維持するのに膨大な費用、具体的に一日に8000両以上かかって
補給を圧迫してる。
830名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 20:04:20.78 ID:wE0TIpJrO
費用が圧迫するから、薩長と妥協すべきですね。
831名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 21:24:41.42 ID:mLpyjgoN0
>>826
>>828

戦闘やその方法にも依るよね。
832名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 09:16:12.61 ID:EdT0gcVcO
>>829
なんか勘違いしてるね
戦争とは相手合っての物
補給路も含め相手より優れてなければ不利になるのだよ
可能か不可能か?の問題では無いから
んで困った時のお約束の財政問題(笑)
幕府に維持費が掛かるなら当然薩長にも掛かりますよ
国力でも徳川の天領の方が薩長よりも圧倒的に多く国力も幕府が圧勝
何れにしろ、大阪城を拠点に海路&陸路閉鎖された時点で薩長は帝を従えて撤退
早期決着ですから
833名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 10:25:40.16 ID:i5nNWnrw0
>>832
鴻池財閥が幕府に献金するでしょう。
834名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 15:33:53.29 ID:Z2PUYRx00
長州征伐時に関門海峡が封鎖されて米価が高騰したのって鳥羽伏見の時はもう解消されてるんだっけ?
835名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 18:31:15.08 ID:LAj6Osvn0
>>832
当時の幕府は財政難。下関事件の賠償金も払えなかった。
長州はそれに比べて財政に余裕があった。長州は2万近い兵を戊辰戦争に送っておきながら、
藩を潰した時は100万両の金があった。
幕府という無駄の塊を維持するには莫大な金がかかるのを忘れている。
836名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 18:43:39.69 ID:EdT0gcVcO
>>835
幕府体制は大政奉還で無くなってますよ
撤退抗戦なら後先考えて金策なんかしないし
まぁ何れにしろ撤退抗戦なら財政難が出るなんて話しも史料も見たことない
勝ってな妄想は辞めてください
てかくどいね
鳥羽伏見に関しては薩長は帝を従えて早期撤退が妥当だから
長期戦の可能性など皆無
837名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 19:10:35.59 ID:LAj6Osvn0
>>836
幕藩体制がなくなろうと、幕府には無駄飯食らいの武士が何万とおり、
大奥という無駄な消費をする人間が何千とおり、
つか貧乏人には徹底抗戦すら出来ないって事が分かってないね。
838名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 01:01:21.10 ID:vSvfdzsG0
>>837
旗本八万騎は労働対価ではなく待機していても禄を要求するからなあ。
839名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 09:24:21.28 ID:xjkG55kEO
>>838
問答無用とリストラだ
840名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 11:49:25.43 ID:tJS4zS4DO
>>837
貧乏人?結局は先入観だけで騒ぐ君。
もう相手してられないから勝手に勝利宣言でもしてくれ

因み幕府は軍艦買う時に一緒に軍も洋式化してますよ

金が無ければ出来ませんよね
841名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 11:57:46.14 ID:tJS4zS4DO
因みに撤退抗戦とは長期戦の事では無いから

てか何度も書いてるのに都合が良いように解釈し、なんの根拠も無く反論の為の反論の為に思いつきや先入観だけで、さも史実の用に永遠と絡んでくるヲタ
後は勝手に宜しくやってください
んで脳内理論で勝手に騒いで勝手に勝利宣言してください
んじゃ
842名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 13:55:38.27 ID:kfAMTiGHO
オマエガナー
久しぶりに言ったぞこれ
843名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 17:24:24.30 ID:8yYskPgH0
勝利宣言してろと勝利宣言してるw
ゲームみたいに幕軍が大坂に駐留したら封鎖コマンドがでて、実行すれば
薩長軍の士気ゲージ低下して撤退するなんて単純なものでは無いと言われてるのにw
844名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 21:02:02.38 ID:+30Ywi7D0
>>840
それ全部借金でやっているんだよ。フランスからその借款の為に。
生糸の独占購入件とか(相場の半額で叩き売りしていた)
関税率の引き下げとか、色々利権を欧米に売り渡して借金の返済に回していたんだよ。
そんな事も知らないで幕府に金があったとかw馬鹿も休み休み言えよ。
845名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 10:15:39.36 ID:qK/ZCN3IO
会津の小説家に洗脳されたんだろうな。
846名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 10:30:46.57 ID:lgkHJcAd0
私は広島がルーツですが、
原爆は会津攻めの報いだといわれました

847名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 11:22:01.57 ID:RfXESYq1O
また来たw
>>844
だからなんだ?徳川政権が勝利した場合の日本はどうなっていたか?
なんてスレではないよ
鳥羽伏見から始まった戊辰戦争で徳川勝利の可能性の話し
君が言ってる話はスレ違い
幕府勝利と言えば幕府ヲタやら会津ヲタやらのレッテル貼らなきゃ語れない輩ばかり
因みに私は明治維新は立派な革命であり、徳川政権下では国体維持は不可能だったと思ってます
しかし明治維新に至るまでの過程に於いて、『薩長が勝って当たり前だった』なんて盲目的な考えではありません
鳥羽伏見を取っても薩長は敗戦必至だった
故にその鳥羽伏見での徳川圧倒的有利を説いてるだけ
んじゃアディオス
848名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 12:57:24.02 ID:DKvXKxjKO
うん、少なくとも会津オタは慶喜を高く評価しないから
君が会津オタではないことは分かる
849名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 14:25:49.27 ID:Bnjvcbp80
たしか幕府は軍役の代わりに金銭を納付させたことがあったよな?
長州征伐の前だっけ?
850名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 16:46:11.62 ID:v1apg0g+0
>>848
15代を高く評価する奴なんかいるのか
どっちにも嫌われてると思ってた
851名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 17:46:17.16 ID:NElo57F90
そんないい作戦があったとしてそれを実行できる人材がいなかったのならやはり
「幕府に西郷や大久保に匹敵するものがいるか?」だな。
その点でやっぱり慶喜はすごい。
852名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 19:05:25.75 ID:J/VhNDHq0
大阪城で強硬派を鎮撫できなかったことを除けば致命的な失敗もなく、
政治的には有能な人だったと思いますよ、慶喜公。

>>849
旗本の軍役金納であれば、文久の改革と慶応の改革の2回行われています。
文久の改革における金納は部分的なもので、より徹底したのは長州征伐後の慶応の改革になるかと。
その後でも旗本により編成された奥詰銃隊などが残っていますが。

>>823,824
>819などでは、あなたの提示された戦略条件の一つである「補給路も薩長は長く険しい」という点に疑義を呈したのですが、
特に具体的な反論もなく、ご理解もいただけなかったようで残念です。
ちなみに旧幕府軍の増援ですが、幕府陸軍の過半数を大阪城へ連れてきていますので、装備・戦術で優秀な部隊は余り期待できません。

>兵力で劣り補給路でも幕軍に負けている薩長
>この客観的事実を踏まえて考えてください

ではなぜ兵力で劣っている鳥羽伏見で戦い、またその間に朝廷の疎開を行わなかったのでしょうか。
また、鳥羽伏見での勝利後も、なぜ京から撤退することなく、大阪へ偵察隊を繰り出したのでしょうか?
まず事実を土台に置いて、当時の政治・戦略を分析されることをお勧めします。

>>832
>戦争とは相手合っての物
>補給路も含め相手より優れてなければ不利になるのだよ
>可能か不可能か?の問題では無いから

横レスですが、兵站が敵より優れていて有利になる点は、より大量の軍を動員できる、
或いはより長い期間活動できるということです。
第2次長州征伐などのように、敵より大軍を動員できるという点において利がなければ余り意味はありません。
一点だけで判断をせず、当時の戦略状況を総合的に把握されることをお勧めします。
853名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 21:19:30.65 ID:gV5RvgnS0
>>847
つまり幕府には金がさっぱり無かったという話なんだが。
欧米からの借款や商人からの御用金で財政をまかなっており、
天領が薩長より広いからとか関係ないよ。GMはトヨタよりでかいけどトヨタより貧乏だろって話だよ。
欧米相手にどうやって工面するのやら。
854名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 00:59:32.99 ID:m65OZRBq0
いや、有能でも性格に難があり過ぎて好かれないタイプじゃん
味方より敵から評価が高い典型例w
855名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 08:03:13.68 ID:mztpN5uK0
>>854
小栗ですか。
856名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 09:05:26.76 ID:rjOJ2wBQO
>>852 まともに話せそう
薩長の補給路が長く険しいのは客観的事実。
また日中戦争と鳥羽伏見
全く類似する部分が無いのに『日中戦争では大丈夫だった』なんてのが貴方の根拠なのですか?
敢えて日中戦争に触れるなら、点ではなく線で占領してたのは中国も同じ
中国には制空権も無く線で防衛してたのではありませんから
また異なる事例を掲げるなら、補給路を無失したガダルカナルやインパール等々
貴方はどう説明すると言うなか…
何れにしろ類似しない戦争を掲げて比較する意味はありませんよ
857名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 09:13:29.45 ID:rjOJ2wBQO
>>852
また疎開云々・偵察云々
それは『勝機があったから疎開させなかった』『勝機があったから兵力で劣ってても戦った』『勝機があったから鳥羽伏見後も偵察した』
って意見とか?(汗)
だとしたら実に幼稚な意見であり、客観的に物事を見れないのですね
んじゃ幕府も鳥羽伏見で戦いました。それは勝機があったからではないですか?
また戊辰戦争に於ける会津は勝機無くても戦ってますよ
貴方の言う土台とやらは表面だけの薄っぺらい土台
全く話す価値が無さそうで残念です
858名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 09:14:45.89 ID:rjOJ2wBQO
>>853
だから?戦線維持出来るか否か?
幕府は戦線維持出来ます
そこから先の話はスレ違い
859名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 09:21:16.33 ID:rjOJ2wBQO
大阪城を拠点に陸路閉鎖(京阪陸路)
海軍で海上閉鎖
孤立した薩長がどうするか
具体的に書いてください
有りもしない薩長艦隊やら、陸戦なら恐れるに足らずやら、日中戦争やら根拠無き妄想は聞き飽きた
挙げ句は『勝機があったから兵力で劣ってるのに戦った』
こんな話しで『はい。そうですね』なんかなるのかと…
因みに西郷自身も敗戦必至と手紙に書いてますよ
860名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 11:29:00.96 ID:G7kzGqPTO
陸路封鎖、海上封鎖という前提からして不可能なのに
しつこく何書いてるんだろう、この人
861名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 13:30:26.40 ID:Pkqd/wVQ0
幕軍が負けてほんと良かった。

幕軍が勝ってたら日本はどうなってただろうかね?
どの場面で勝つかによるけど、鳥羽伏見だとして・・・

1.薩長兵は帝を擁して薩摩に退却
2.慶喜が全国に討薩の大号令をかけて、軍団招集。
  これに半年ほどかかる。
3.薩摩に侵攻するも、徹底抗戦にあい失敗
4.薩長がまた勢いを盛り返して京・江戸を目指して進軍

やはり繰り返しではないか。
862名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 18:14:10.04 ID:TcWbViFh0
日中戦争の反論は第二次大戦時でも基本的には補給は現地調達だったという証左だろ。
そもそも、阿波沖海戦後の長州軍の活動、戊辰戦争での幕軍の活動から
封鎖は無理と根拠だして主張してるのに反論として人跡未踏のビルマやガ島と畿内を同一視し
挙句の果てに牟田口呼ばわりする。どちらが『具体的』でどちらが『根拠無き妄想』なんだか。
863名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 18:17:21.72 ID:Pkqd/wVQ0
しかし、慶喜と薩摩とは将軍継嗣争いでは仲間であったのに、
どうしてこうも食い違ってしまったのか。

島津斉彬と徳川斉昭が生きていれば、こうはならなかっただろうが。。
久光や春嶽とは相性があわなかったのか、将軍になって人が変わったのか・・・
権力を持つと人はかわるものだね。

やっぱり有力諸侯を排除して一会桑で牛耳ったのが失敗だね。
864名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 18:22:49.97 ID:YdbMOsJC0
>>861
これもアリかと・・

4’.幕府と薩長両方が疲弊して無政府状態化
865名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 18:31:24.34 ID:Pkqd/wVQ0
>864
それは列強が食い込む最悪のパターンでごわすな。
866名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 20:02:46.03 ID:U/pm9DiV0
薩長以外の雄藩は内心そうなるのを期待していた節がある
867名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 23:04:04.52 ID:Pkqd/wVQ0
初耳だわ。
雄藩といってもたくさんあるけど、どこ?
868名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 07:35:17.97 ID:p/+oP13h0
>>856
そもそも薩長の補給路が長く険しく幕府が楽という客観的事実とやらが間違っている。
畿内の諸藩の多くが薩長に靡いている時点である程度補給は受けられる。
逆に幕府は実質畿内に孤立しており補給が困難。
大阪城に篭城すれば完全に干上がるだけ。だから慶喜は逃げたんだよ。
869名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 07:45:12.43 ID:p/+oP13h0
そして孤島やジャングルと畿内を一緒にするのはなんなんだよ。
何十万という人間が暮らしている京都、数百万の人間が生活している畿内で、
5000人が養えないわけがないだろうが。
餓死なんてものは人が生活していないところに大量の兵士を送るから起こる事であって、
人が生活しているところで兵士が餓死するわけねーだろ。住民が餓死する事はあってもな。
870名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 10:54:20.39 ID:GScEQN0dO
>>862
第二次世界大戦での補給路無視で現地調達。インパールやガダルカナルはどう説明する?って何度も聞いてますよ
また類似無き戦を比較しても無意味ってのも何度も何度も
また安房沖開戦後の長州の動き?具体的に書いてくれ
それと鳥羽伏見以降なんか論外
以前にも書いたが幕軍敗戦って結果が出てるのだから、慶喜の戦意喪失を含めた史実を遡れば『幕軍は負ける』って結論しかならないから
このスレはタラレバスレ
幕軍勝利の可能性のスレで『慶喜に戦意があっタラ』『撤退抗戦してレバ』
出直して来なさい
871名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 10:57:42.67 ID:GScEQN0dO
>>868 鳥羽伏見時点での話し
しかも籠城なんかしません
何故なら薩長は包囲など不可能
西郷曰く『1ヶ月で兵は死ぬ』
872名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 10:59:32.88 ID:GScEQN0dO
>>869
比べてません
第二次世界大戦を持ち出して『補給路は関係無い』『現地調達が基本』と騒ぐ輩に聞いてくれ
873名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 15:22:39.55 ID:p/+oP13h0
>>872
補給路なんて必要ない、現地調達が基本。これは戦争にとって常識だ。
それに対してお前が牟田口がどうとか言うからそういう流れになったんだろうが。
第二次大戦でも現地調達が基本だったとね。
孫氏も言っているだろ、現地でまかなえと。自国から輸送する将軍は馬鹿だと言っている。
ゲームじゃねーんだから、後方から物資なんか輸送しねーんだよ。
戦国時代の上杉が遠征していたのは口減らしが理由の一つだ。関東で略奪すれば冬の新潟で餓死する人が減るだろ。
874名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 15:31:32.34 ID:p/+oP13h0
>>871
鳥羽伏見で戦えば薩長が確実に勝つ。だから畿内の諸藩は確実に降伏する。
よって薩長が補給に苦しむことはありえない。
875名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/24(金) 00:07:30.90 ID:D1v4u3dL0
>>870
>>第二次世界大戦での補給路無視で現地調達。インパールやガダルカナルはどう説明する?って何度も聞いてますよ
北アフリカ戦線やインパールやガ島見たいな人のいない場所では糧秣も持っていくが
そうでない場合糧秣は現地調達、例外はアメリカぐらい、第二次大戦時でさえほとんどの国がそれほどの
輸送力を有して無い。
>>また安房沖開戦後の長州の動き?具体的に書いてくれ
733でも書いたように阿波沖海戦後に幕府海軍は姫路経由できた長州部隊を阻止できてない
気づいてもいない。大坂だけならともかく湾一帯を封鎖するには艦数が少なすぎる。
>>それと鳥羽伏見以降なんか論外
>>以前にも書いたが幕軍敗戦って結果が出てるのだから、慶喜の戦意喪失を含めた史実を遡れば『幕軍は負ける』って結論しかならないから
>>このスレはタラレバスレ
イフならなおのこと、実際の戊辰での動向からそれぞれの行動を予想すべきだろ
でないと何でもアリになってしまうぞ。
>>幕軍勝利の可能性のスレで『慶喜に戦意があっタラ』『撤退抗戦してレバ』
慶喜に戦意があったとしても京都封鎖は下策。封鎖しても得られる結果は糧秣の調達の
値段が上がるぐらいで決定的では無い。それより親慶喜派の尾越土と天皇が京にいるのに
封鎖なんてしたら尾越土を親慶喜で無くしてしまう。尾越土は金吾中納言では無い。
上策はそもそも政治的に有利なのは慶喜なのだから戦わないこと。
中策は西国街道や竹田街道にも兵を派遣して、会敵次第戦闘せよとでも命じておくことだろうけど
それを指揮する人材が幕府陸軍にいないからな。新政府で旧幕府の人材が登用された時も
陸軍は他の部門と比べて少ない。
876名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 09:51:10.24 ID:emDdc5Ms0
承久の乱のことを、思い出したら
良かったのに。
877時の勢い:2012/03/14(水) 03:03:34.03 ID:0BZMzx2S0
原発村が山本太郎に
勝てないのと同じだよ。
878名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/14(水) 07:45:02.50 ID:GdLOINu2O
蝦夷に逃げて徳川埋蔵金でロシアから樺太買って
潜水艦とか気球で武装すれば負けない
879タツノオトシゴ:2012/03/14(水) 10:57:29.90 ID:DnMpU0nX0
あの悲劇からもう一年…
残されたオイラと同じ人間たち、皆はまだちゃんと生きているのかな
死にたくなったり独りぼっちになって辛くて寂しくて耐えられない状況に居てないかな…
俺ら人類の『過去』に生きた先祖たち(おじいちゃん、おばあちゃん)が残していった沢山の憎しみ恨み悲しみ…
全ての『負』の始まりはお金から来てるんやで…? でも誰も教えてくれへんかったから全然解らへんよな
そしてこんな世界、こんな国、こんな親、大人達ばかりの世の中でごめん…
こんなにも寂しくて苦しくて辛い想いさせて 独りぼっちに一度でもさせて…
これからも死にたくなるような時も沢山あると想う
でも必ずこの『憎しみの世界』ぶっ壊すからそれまで生きててな…
『自分の命だけ』はどんな事があっても必死に守っててあげて欲しい。 言いたい事はそれだけです
ただ早くお前らが心の底から笑ってる姿が見たいねん
By 世界に最後の戦いを挑む天翔る者・カカロットより
http://www.youtube.com/watch?v=unG7-_yuum4
880名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/02(水) 08:59:59.89 ID:apRxvenz0
塩谷問題で、民主党の予算関連法案が参議院で通らず6月解散を隠すメディア

また鹿児島と種子島の間を中国海軍が通行したのも報じない親中メディア

情報統制下か日本は




着実に愚民化政策が効いてるニダ<丶`∀´>
881名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 22:07:50.22 ID:SZfq202P0
>>875
>上策はそもそも政治的に有利なのは慶喜なのだから戦わないこと
撤退したら撤退したで「じゃあ軍を解いて完全降伏しろ」「それはできない」という会津の直面した問題が起こり、
慶喜はやはり内外からそれこそ政治的に追い詰められてしまうのでは。
慶喜が置いてけぼりにしてきた江戸の諸機構、および旗本集団にとってそれは「臆病」「裏切り」にしか見えないからな。
戦機を逃し、みすみす天皇と京を明け渡し、のこのこ帰ってきた将軍でもないヒトの命令がどれほど通るか。
鳥羽伏見の敗戦も経験しない幕軍は居丈高なままだろう。
そうするとやはり史実と同じ「慶喜謹慎」イベントが起こり、鳥羽伏見を経験しない幕軍は上野戦争の拡大版のような
大敗を喫し、江戸が火の海になる可能性もある。

鳥羽伏見は戦うべきだった、いや戦うしかなかったと思う。
勝てば勿論御の字だが敗戦にも効用はある(火力戦や散兵戦の重要さ、薩長の手ごわさを実感できた)。
旗本が言われるほど臆病揃いではなかったことは、死傷者の多さが逆に証明している。
ただ、敗戦後の慶喜と上層部の処置があまりに悪かった。
882名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 14:57:40.16 ID:eVqINE5fO
>>881
パフォーマンス演説をしておきながら、一夜明けたら逃走・・・・・。

東武皇帝を擁立することを、忘れていたのか?
883名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 21:03:14.98 ID:/D8RC6e30
水戸学漬けで公家腹の慶喜だから、錦旗に宗教的に怯えて全てを諦めたのだろうな。
リーダーとして間違った心もちであり、個人はそれで満足でも部下にとっては大迷惑だったわけだが。
しかし解せないのは会桑や板倉老中の態度。
眼の前で、主が武士としてあるまじき行為をしようとしているのに、誰も強く止めないというのは一体。
彼らもまた、実は逃げ出したかったのだろうか。
884名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 21:09:49.60 ID:lK8obi7A0
自ら天皇擁立して内戦とか、まんま尊氏じゃないですかやだー。
885名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 22:36:08.87 ID:eVqINE5fO
>>884
輪王寺宮はそのために、あったのに・・・・・
886名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 23:51:01.12 ID:/D8RC6e30
慶喜が抗戦を決意したとしても、さしあたって火力を期待できるのは伝習隊くらいしかいないか。
武器弾薬が海路届くまでは和銃や刀槍でのゲリラ的攻撃に頼るしかない。
しかし伝習隊と鳥羽伏見の経験者以外は近代戦には全員ずぶの素人、
(ペリー来航の際、重藤弓を抱えて駆けつけた時よりは進んでいるだろうが…)
しかも接近戦に幻想を抱いている旧弊な人々ときている。
やっぱり甲冑も着たがるだろうし。
防禦にならないだけじゃなく、弾丸とともに破片が体内に押し込まれて大惨事なんだけど。
甲信や箱根足柄に出来るだけ早く多く幕府軍を送り込み、山岳地帯でできるだけ足止めし
兵器の到着と将兵の覚醒、成長を待つしかないか。
887882:2012/06/24(日) 08:50:42.19 ID:BnXIieTYO
>>886
海軍力では上ですから。
888名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 15:34:22.07 ID:zddxtBd30
>>885
榎本も輪王寺宮を東北に送り届けた時に宮に、南北朝の先例のように自立するのは先祖に
申し訳なくなるから自立だけはダメ絶対、と言って宮もそうだねと言ってるからな。
家康が新田の子孫を僭称するから悪い。南朝を顕彰せざるおえなくなる。
889名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 17:51:51.78 ID:BnXIieTYO
>>888
献金源氏
890名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 18:47:59.85 ID:H35WHKFa0
しかし輪汪寺宮を擁立したとして、それゆえ旧幕勢力に本気で投じる大名や旧幕臣がいるだろうか?
「逆臣」の名を助長しかえって人を遠ざけるだけじゃないのか。
奥羽の主導的立場である仙台、米沢、庄内にしても困ってしまうだろう。
名分としては武装上京の際奉じた「薩摩をはじめとする奸臣を討つ」で十分だ。
891名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 19:46:33.05 ID:BnXIieTYO
御用盗
892名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 00:14:09.63 ID:HLwYXr2W0
慶喜は、薩長と戦うかどうか迷っている感じ。
倒薩表を見ても、全く戦意が無い訳でもない。

だが、鳥羽伏見の戦いは、強硬派幕臣が勝手に始めた感が大きい。

結局慶喜の狙いは、>>741だったのかな?
とも思える。

慶応三年の幕府によるアームストロング砲35門の購入失敗は痛かったな。

十数門のアームストロング砲が大阪城に有れば、慶喜は大阪城に篭城しただろう。
官軍も後方の輸送路を砲撃により遮断されて大阪城の戦いに負けるだろうし、
土佐藩も大阪城を包囲すると見せかけて官軍を裏切っていただろう。

幕府陸軍5千人も全軍後装式銃兵化が完了していれば、
緒戦はともかく2〜3日目には反転攻勢に出れたのでは、とも思える。
893名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 03:15:41.96 ID:p/vDz9Kw0
鳥羽伏見における西郷は、戦争の天才
戦争のタイミングが的中しすぎだろ
あれは遅くても早くてもダメだった

王政復古から江戸での幕府方挑発、薩摩藩江戸藩邸焼討、鳥羽伏見開戦と、
まんまと相手がはまってくれたようにしか見えない

慶喜が勝つためには、それまでのように薩摩の動きを読み切った上で先手を打たねばならないのだが、
鳥羽伏見で無計画に上京したのは明らかに慶喜の「油断」だったな
政治では薩摩より上手だっただけに、実際の戦となると勘が冴えなかったのか…
894名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 19:04:30.77 ID:cs8AMi9H0
慶喜が二条城から大阪城に撤退した時に、会津藩を江戸か国元に帰さなかったのも、まずかったのでは?

土佐藩や越前藩や、尾張藩は、慶喜が、副総裁(内大臣)ポストに就ける様に
新政府(三職会議)で懸命に工作活動しているが、会津藩にはそれが無い。

会津藩は、新政府には居場所無いんだから、もう国元か江戸に帰った方が良いのにな。
慶喜も鳥羽伏見の戦いの後に帰すのではなくて、二条城から撤退した時点で帰すべきだった。

桑名藩は、畿内に近いので、大阪城に居てもおかしくないけど。
895名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 21:42:35.80 ID:p/vDz9Kw0
>>894
やがて薩長との戦争が必至と見られる状況下で、会津兵を国元に返すはずがない。
幕府軍といっても、慶喜自体は手持ちの兵をほとんど持たない一橋家の出身。
幕府陸軍も1、2年で百姓や浪人に洋式訓練を施して兵士に仕立て上げただけで、実戦経験もなく心もとない。
諸藩の動員兵はそもそもあてにならない。
となると、一会桑政権時代から結束の固い会津と桑名の兵を手元に置くのは妥当といえる。

慶喜としては不用意に決戦をしかけたのが失敗のもと。
挑発に乗らず時間を稼ぐだけでも薩長を追い詰められる優位な状況だったのに、
敵の力を甘く見たために軽挙出撃し、すべてを失ってしまったといえる。
896名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 22:49:01.84 ID:cs8AMi9H0
>敵の力を甘く見たために軽挙出撃し、すべてを失ってしまったといえる。

これは強硬派幕臣に引き摺られただけでなく、会津藩にも引きづられたと思う。
不用意に攻撃を仕掛けない為にも、会津藩を江戸に戻しておくべきだったと思う、

会津藩には、庄内藩と一緒に、江戸表と相模や武蔵での騒乱状態を鎮圧して欲しかった。


大体、何で江戸の幕閣は、慶喜の許可無しに薩摩の江戸藩邸を攻撃するのよ?

この攻撃命令の発令には、勘定奉行の小栗忠順も関っているらしいが、慶喜の許可得たの?得てないでしょう!?
897名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 23:59:27.52 ID:p/vDz9Kw0
>この攻撃命令の発令には、勘定奉行の小栗忠順も関っているらしいが、慶喜の許可得たの?得てないでしょう!?

江戸の老中、稲葉正邦が独断で薩摩藩邸の武力討伐を指示したらしいな。
慶喜の勢威は畿内においてのみで、江戸の幕閣には及んでいなかったということだな。
898名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/19(木) 03:10:59.80 ID:8pD1TQ+M0
>稲葉正邦が独断で薩摩藩邸の武力討伐を指示したらしいな

稲葉正邦って、例の鳥羽伏見の戦いの最中に裏切った淀藩の藩主でしょう。
最悪だな。

>慶喜の勢威は畿内においてのみで、江戸の幕閣には及んでいなかったということだな。

将軍になってずーっと京の二条城だもんね。
大政奉還の時でも幕府有司がほとんど出席した江戸城での大評定では、反対を決議している。

鳥羽伏見の戦いに負けるまで、一度も江戸に帰っていないのが痛かった。

二条城から撤退してきた時に一度短期間だけでも江戸に戻るべきだった。
その時に松平容保を連れて帰っても良いかも。

軍艦開陽丸なら江戸でも直ぐに帰れたのに。
899諸橋 嘉久:2012/07/19(木) 05:07:41.60 ID:TOZbesIs0
>幕府陸軍5千人も全軍後装式銃兵化が完了していれば、
>緒戦はともかく2〜3日目には反転攻勢に出れたのでは、とも思える。

シャスポー銃で武装した旧幕府軍は弱くて当然でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.B7.E3.83.A3.E3.82.B9.E3.83.9D.E3.83.BC.E9.8A.83

エンフィールド銃を国内で元込めに改造するのが一番良かったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.83.95.E3.82.A3.E3.83.BC.E3.83.AB.E3.83.89.E9.8A.83

スナイドル銃の問題点
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E9%8A%83#.E5.95.8F.E9.A1.8C.E7.82.B9
900名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/19(木) 16:06:48.25 ID:I8WEiYRw0
シャスポー銃で武装していたのは、伝習隊だけです。
しかも、その伝習隊が鳥羽伏見の戦いで、一番敵を手こずらせています。

シャスポー銃が、湿気に弱いのは、事実だと思いますが、
野戦でも攻城戦でも前装式銃よりかは、全然マシだと思います。

慶応の改革では、幕府陸軍を全て後装式銃兵化する予定になっていました。
銃と大砲のメンテと弾薬製造などは、国産化が既に始まっています。
炸裂砲弾をアジアで最初に造ったのは、清朝ではなく徳川幕府です。

鳥羽伏見の戦いで、幕府陸軍5千人が、仮に全てシャスポー銃を装備していたら、
幕府陸軍の銃火が激しく、薩長軍5千人では、撃退出来なかったかも知れません。

そうなると、どこかで戦線が膠着化し、土佐藩が裏切ったかも知れません。
もともと土佐藩は、幕府軍が薩長の鳥羽伏見の防衛線を突破した時点で裏切る予定でしたし。

土佐藩が裏切れば、広島藩もどうなるか、判りません。

いずれにせよ、慶喜は、幕府陸軍の後装式銃兵化が、もっと進展してから、戦争を開始すべきでした。
901名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/19(木) 18:26:27.59 ID:AhlGUs+W0
薩摩藩って、この時すでに弾薬生産などの製造基盤が整っていたんだよな。
伝習隊だか何だか知らんが、百姓かき集めただけの烏合の衆じゃ鉄砲の島津に勝てんやろ。
902名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 03:39:56.03 ID:RrErBkqL0
>薩摩藩って、この時すでに弾薬生産などの製造基盤が整っていたんだよな。

幕府の方が、関口製造所、滝野川反射炉、横須賀製鉄所などで更に大規模化してます。
大砲や砲弾の製造メンテ以外にも、滝野川反射炉には、火薬製造工場もありました。

横須賀製鉄所では、造船所の増設も行われています。

>百姓かき集めただけの烏合の衆じゃ鉄砲の島津に勝てんやろ。

それは、薩長も同じ事。
伊豆代官の江川家は、豪農富農の子弟専門の部隊を結成していますが、
そちらの方が、規律も良く、成果をあげています。
903名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 05:56:36.29 ID:gwMY10ZE0
>幕府の方が、関口製造所、滝野川反射炉、横須賀製鉄所などで更に大規模化してます。

うんうん。薩摩より遅れて作ったんだよね。
運用面におけるノウハウの蓄積が数年遅れているんだよ。

>それは、薩長も同じ事。

長州の奇兵隊はともかく、主力の薩摩に百姓兵なんて聞いたことない。

伝習隊って江戸の博徒ややくざ者を集めた無頼集団だよ。
幼少より士族教育を受け、かつ洋式調練も受けている精鋭部隊と兵隊の質が違うのは明白。
904名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 07:32:36.97 ID:Zw2qBs3n0
>うんうん。薩摩より遅れて作ったんだよね。

炸裂弾をアジアで最初に造ったのは、清朝ではなく徳川幕府です。 薩摩藩でもないよ。

で、薩摩藩は、何時造船所や鉄鋼所、火薬工場を造ったんだよ?

>伝習隊って江戸の博徒ややくざ者を集めた無頼集団だよ。

百姓と言いつつ都市住民である江戸の博徒ややくざ者を集めたと言うw どっちなんだよ、全く!
905名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 10:53:53.46 ID:I9qlWx7O0
鳥羽伏見の戦いの敗因は、竹田街道と西国(山崎)街道に旧幕府軍を配置しなかった事だろう。
この両街道には、薩長の軍勢は配備されておらず、土佐藩兵だけだった。

竹田街道を北上すれば、途中の伏見の薩摩蔵屋敷も攻撃出来たし、更に北上すれば東寺である。
また、別の隊が、西国(山崎)街道を北上すれば、下京に突入して官軍の前線司令部兼補給基地
だった東寺も攻撃する事が出来た。東寺には薩長の軍隊は、ほとんど居らず、彦根藩や西大路藩、
膳所藩位しか配備されていなかった。その為に兵力が足らず僧侶を動員して東寺を防衛していた。
東寺を巡る戦いになれば、予備兵力の無い薩長は、鳥羽や伏見から兵力を割いて東寺防衛に
廻さなければならなかったし、そうなれば鳥羽伏見の旧幕府軍はラクになって居ただろう。

また、紀州藩兵と姫路藩兵に西宮から北上させて山陰街道から丹波口を攻撃させるのも手であった。
そうなれば、京都御所防衛用の薩摩軍も丹波口で応戦する必要が出て来る事になり、
京都御所から薩摩軍を切り離す事も出来たと思う。

東寺周辺である下京や丹波口が有る西京で戦闘が始まれば、土佐藩の裏切りも有っただろうし、
公卿達も動揺して、幕府軍よりの行動を取りかねなかった。

つくづく惜しい事をした。
906名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 18:01:03.66 ID:gwMY10ZE0
>で、薩摩藩は、何時造船所や鉄鋼所、火薬工場を造ったんだよ?

炸裂弾生産のアジア初は知っていて、アジア初の近代洋式工場群の建設については知らんのか…

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD
907名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/21(土) 03:53:34.58 ID:lN9mpxRl0
>>905
勝海舟も同じ事を言っているよ。
>>906
幕府の規模程では無い。
908名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/21(土) 16:27:48.93 ID:vexj7csA0
>>907
十年以上も後になって、ようやく規模を広げてるね
フランスからの借款でw
909名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 01:07:16.92 ID:mFauqvQb0
>>908
パリでの起債は、卑怯なる薩摩藩の妨害で大失敗させられました!

でも貨幣改鋳益やら旗本領収効などの国内貯蓄でなんとか賄っています。

慶応の改革は、事実上の明治政府の富国強兵の第一歩になっています。

徳川宗家独自の近代化政策が、慶喜政権下で始動している訳です。

薩長主導の近代化だけが、明治維新でも富国強兵でもありません。

徳川家主導の近代化や富国強兵の可能性もありました。

土佐、越前、尾張の工作で、慶喜が、新政府(三職会議)の副総裁(内大臣)職に就いていれば、

また、戊辰戦争に勝っていれば、徳川家主導の近代化が始まった事でしょう。
910名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 02:37:31.20 ID:tNlSZG3h0
>また、戊辰戦争に勝っていれば、徳川家主導の近代化が始まった事でしょう。

徳川幕府がフランスの援助で近代化を成し遂げる事ができたはず!
と一部の徳川信者が言うが、その手の人?

幕府では小栗上野介がフランスの力を借りて、幕府の復権を図ったが、
それは西国雄藩を武力で倒し、幕藩体制を根本から見直し、
フランスのような共和国にしようという青写真だったと言われている。

あくまでも、幕府の復権がまず優先的に実施される話であり、
次に富国強兵という順番になるから、四民平等などの施策は実行出来なかったでしょう。

新政府は薩長主導といっても、薩長両藩の士族特権すら剥奪している。
徳川幕府は外様諸藩の士族特権剥奪は喜んでやると思うが、
徳川幕府の直参である旗本・御家人の士族特権剥奪までできますか?
911名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 13:47:13.00 ID:pSdqfYue0
>それは西国雄藩を武力で倒し、幕藩体制を根本から見直し、
>フランスのような共和国にしようという青写真だったと言われている。

って話しなのに、なんで↓の様な記述になるのよw

>あくまでも、幕府の復権がまず優先的に実施される話であり、

幕府の復権ではなくて“徳川宗家の政治的主導権の維持”でしょう。

>徳川幕府の直参である旗本・御家人の士族特権剥奪までできますか?

慶応2年の段階で、旗本領を半分収公しているのですがね〜
912名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 15:43:47.66 ID:tNlSZG3h0
>って話しなのに、なんで↓の様な記述になるのよw

その前の一行を読み飛ばすな

->幕府では小栗上野介がフランスの力を借りて、幕府の復権を図ったが、


>慶応2年の段階で、旗本領を半分収公しているのですがね〜

この程度では士族特権を剥奪できる根拠とはいえない。
この段階でも要職につくには家格が必要なのに、権力基盤の根本を覆すような改革は無理だと思う。
幕臣同士で足を引っ張りあって結局は頓挫するのがオチ。
913名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 15:51:19.11 ID:daQmmoo30
http://www.youtube.com/watch?v=kUu8oF5NVsg
長州の実態
こんな形で会津征討は計画されたものだった
長州から攻め上ってきておいて、いまだにこれだ。
東日本を土足で踏みにじった長州は許すまじ!!
914名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 16:11:38.76 ID:daQmmoo30
>>910
頭大丈夫?
小栗云々など私的概論の域だろ小栗の。
宗家は西周による議題草案は呼んでみても、長州が維新直後に打ち立てた幼稚的暫定政権や、そ
の後の太政官構造は、旧幕藩に怪我は得た程度のものですが?
よほど慶喜貴下の草案のほうが近代的行政府に近いですが?
その前に、藩閥政治垂らした長州はどうなの?w

四民平等に関していえば、長州の維新組が根こそぎ軽輩者たる足軽や中間出自からくるコンプ改革だけどな
長州が、騎兵隊に、戦後どのように接したか調べてみ?これが長州の実態。
おのれらの出自コンプが、今後の国体に支障だからそうしただけ。
しかし、その維新組みは公爵だの男爵だのになって、成り上がった身分を手放さなかったけどなwww
915名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 16:17:32.88 ID:pSdqfYue0
>幕府では小栗上野介がフランスの力を借りて、幕府の復権を図ったが、

幕府復権じゃなくて、近代化投資だろ。
徳川宗家の政治力が残れば、幕府と言う形態には拘らない。
小栗は、幕府から新政府への移行を認める発言もしている。

>この段階でも要職につくには家格が必要なのに

それもだいぶ崩れて来いる。
若年寄の永井尚志は、本来若年寄につける家格ではなかったが、
慶喜が能力重視で採用しており、慶応の改革以降は、そんな事も言っていられない。
916名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 16:26:51.93 ID:daQmmoo30
そもそも勝家だってそうだし、
そもそも勝海舟じたい、3代前は貧農が株かってのっとった家
917名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 16:57:26.50 ID:pSdqfYue0
それを考えると、
幕府は自身の近代化政策で自らの家格秩序が崩壊させ始めている面が有る。

佐幕派には、単に昔の幕藩体制を復活させたい保守派もいるが、
慶応の改革の実務を担っているのは、近代化政策を推し進めた
中堅の幕府官僚であり旗本御家人クラスの人材だ。

慶喜が幕閣に、後者を採用したいのは、当然と言える。
918名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 17:04:43.75 ID:daQmmoo30
>>917
君も少し頭悪いの?
家格秩序?w
そんなもの存在した?そもそもなり上がりが身分奪った政権だし、
厳密に言えば、賄賂政治の田沼や柳沢の時代から相応しくないものでも、
大老老中になってるジャン。それに御家人株や旗本株の売り買いなんて
江戸中期から頻繁に行われてるし、幕末に始まったことじゃない。

はっきり言うが、薩長厨がほざく、がんじがらめの身分制度!!なんて実際は存在しない。
維新組みがテロを起こした正当性を図る根拠として、江戸時代は身分制の暗黒時代!!なんてデマを流したまで。
身分の流動性は、薩長閥の新政府時代よりよほど中産階級以下は流動性があった。
江戸時代は身分制の暗黒史観というのは明治以降の価値観。
919名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 17:21:18.35 ID:daQmmoo30
そもそも長州はあれだけ京都で殺戮しておいて、
その志は崇高な譲位魂だったはず。
で、下関でふるぼッコにされた後、いつ譲位したかな?
いきなり180度方向転換し、今度は倒幕だって。
ころころころころ信念もかえ、やり口だけは、
勝手に英国大使焼き討ち
勝手に英国商船に発砲
賠償は全部幕府になすりつけ
京都で番所まで襲う
幕府公家屋敷に、そぎ落とした鼻や耳を投げ込む
天皇を拉致計画
逆切れし、御所に向けて発砲。
平気で勅許を改ざん
錦旗を勝手に複製
・・・

いえばきりがないこの長州が言ってる、幕府暗黒史。
誰が信じる?こんなことやって幕府転覆したやつらの理論を誰が信じるよ?
920名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 18:10:53.90 ID:pSdqfYue0
老中は知らんが、大老の家格は決まっている。
大老四家で、井伊家、酒井家、土井家、堀田家しか大老に就任していない。

それと柳澤吉保は、正式には老中にも大老にもなっていないからな。老中格、大老格まで。
また、紀州藩の足軽出身の田沼家と違い、柳澤家は、甲斐武田家の家臣でそれなりの家筋。

>>918は、そんな事も知らんで、人をバカ呼ばわりするな、ドアホ!
921名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 18:22:33.84 ID:daQmmoo30
>>920
いやいや、いい?格がどうのこうのなんて問題じゃない。
賄賂で大岡だの政治中枢を担うものもいくらでも賄賂や他の起因で
政治中枢になりあがれて多ということ。
そもそも大老みたいな内閣総理大臣クラスの部分が決まってたから、
慄然とトップダウン式に役格は家格と比例するとか言われてもねえw
どうしちゃったの?じゃあ今日調子悪いの?そんな稚拙なレスでw。

で、田沼ガいるのに、なぜ他はなかったと思うの?
その時点で現代の江戸史観である、家格絶対主義的なものは、
最上級の大老しか存在してないじゃない。
他、大目付以下の役職も、江戸中期以降、筆頭御家人までなれてるが?
しかもこれすら一台限りが、いつのまにか世襲になってる有様。
与力も本来旗本なはずだが、これら御家人もごろごろいる。
騎馬格でなかったのに、慣例として騎馬格として許されちゃってる始末。

どうなのよ。さあ、君のおつむでよく考えてレスしてごらん?
922名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 18:30:37.62 ID:IHzxuUQc0
>>919
京都を燃やしたのは会津や新撰組が原因と言われているし、
その際に放火を示唆して西本願寺を脅迫するという罰当たりなこともしている。
923名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 18:39:38.95 ID:daQmmoo30
>>922
そういっていたのが長州派浪士なんですよね。
いいですか?ヨーク考えてみてください。

会津藩は何しに京都に行きましたか?
長州藩が不貞なことをし、狂乱し始めたので、
治安維持の目的に送られました。
いい?合図のような藩が、守護職という臨時政策を下さなければならないほど、
京都を不穏にしていた元凶の長州がいなければ、そもそも京都守護職という職域も、
また会津が京都に抑止力として配置されることもなかった。
で、なぜ、京都の炎上が会津の性になる?
そこに幕府からの再三再四の忠告も無視しての聴衆不逞浪士の活動あり気が原因でしょうに。

彼らはその後何しました?京都御所に向かって攻め上ってきましたね?
で、どの面下げて、聴衆がすべての根源で、その延長上にある様々な事象に、
会津の部分的欠陥だけあげつくろうことできますか?

そこに長州がいなけりゃ何もおきなかったことですよ?
幕府から、何度討伐軍派遣されました?
最後は狂気の沙汰で、高山時血気で、自らの家老職まで藩士が暗殺しましたね?

すべての元凶の根源に長州が存在し、その延長上に、幕末の会津や桑名藩の活動が存在するということ忘れる出ない。
924名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 18:48:17.47 ID:IHzxuUQc0
基地外の思考は理解に苦しむなあ
925名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 19:13:20.27 ID:daQmmoo30
>>924
いやいや、きちんとした反論もいえないくらい、無能だったのかい?w
926名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 20:28:08.91 ID:Zgb9N54U0
柳沢や田沼は単に将軍の側近が権力を握りやすいってだけで
それはむしろ幕府の組織が恣意的で不公平だったって話だから。
927名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 21:02:35.07 ID:tNlSZG3h0
ずいぶん荒らされてるなぁw

>>925
要するに、昇進に賄賂がまかり通ってきた徳川幕府は、潰されて当然ってことでオケ?
928名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 21:32:21.60 ID:7s+zZV3I0
勤皇派浪士って非公認というか勝手に活動するために脱藩しているわけで
しかも勝手に勤皇派浪士を名乗って暴れていたチンピラも多いし
それを長州藩公認の仕業と断定するのは無理がねえか?
929名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 23:05:40.66 ID:daQmmoo30
>>927
まー長州じゃなくてもいつかは内乱起きてたでしょうけど。

>>928
は?そういうチンピラも誘導してたのが長州だろ。
そもそも>>919にもかいたが、長州藩士じたいが、チンピラじゃなくテロ行為でしょ。

さらにその長州のやったもんがちに先導されて、薩摩も江戸市中で
薩摩判定から不逞浪士を出入りさせ、江戸中に放火してましたよね?
市中取締りの省内藩にとがめられたら逆切れ。

いよいよ頬って置けないほど放火やさっtしょうを繰り返すと、省内藩は、
仕方なく薩摩藩邸焼き討ち
それを口実に賊ときめつけ、かってに錦旗を複製し、攻め上ってくる計画。

全部長州が発端でしょ。全部長州が誘導したんだろ。

どこの世界で大使館放火焼き討ちする馬鹿民族がいる?
930名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 23:12:27.62 ID:daQmmoo30
もっといいますが、そもそも、徴収の偉人とされてる、吉田は、
幕府に何度、老中暗殺(今で言う総理)というテロ文章送り付けました?
一度や二度じゃないよね?
幕府はそれでも許した。しかし長州自体が危険人物として牢に入れるほどの人物だろ。

自分の塾生たちにも、どういう手紙を送りつけてる?
幕府要人を殺せ!!どんどん殺せ!できないやつは塾生にあらず!
というような感じの内容ですよ?

こんなのがうじゃうじゃいる長州でしょ。

で、維新後も長州はどういう政治とってくれました?
あれほど崇高な志とといた攘夷など、下関でぼこぼこにされていらい、一度も口にしない。
やらない。四民平等どころか門閥政治。山縣の東北人とくに会津に対する嫌がらせ。

結局天下取りたかっただけじゃない。

931名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/23(月) 06:44:14.25 ID:Zrlx+Pws0
長岡で乱暴狼藉したのは会津藩正規軍ではなく脱藩水戸藩士です(キリッ)だもんな
932名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/23(月) 21:45:20.50 ID:lnYKZQtwO
山県閥って東北出身者いるよね
どっちかってーと出身地よりも自分に忠実かどうかで出世させてたような
後会津への嫌がらせとやらは被害妄想じゃねwww
933名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/24(火) 02:43:26.49 ID:BKOgqVDO0
>>918は、家格秩序は無い!と言いつつ、>>921では、上の方ではある、と言い、良く判ん無い話し。
最上級の方に家格秩序があれば、下に向かって順繰りにありそうなモンだけどな。

ただ、それを覆す事態もあって>>926の力関係による幕府人事の恣意性の指摘は否めませんけどな。

それと戊辰戦争の中で特に鳥羽伏見の戦いは、幕府対薩摩藩の対決の色が濃い。
薩長同盟があるから長州も対戦相手に出てくるが、実際には徳川宗家vs薩摩藩であり、
慶喜も討薩表を記している。



他にも長州藩には、幕府の『慶応の改革』が実現してしまうと、完全に軍事的にも経済的にも
徳川宗家が圧倒し彼ら主導で近代化されてしまう。そうなると薩長では、とてもじゃないが
徳川宗家には手が出せなくなり、討幕が実現不可能になる。

特に長州藩の桂小五郎は
「関東の政令は一新されている(慶応の改革の事)、一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」
と警戒しているぐらいなので、薩長としては幕府の『慶応の改革』が完成しないうちに討幕を実行したがった。

幕府の関口製造所では、大砲や小銃の改造メンテも行っており、先込式エミニー銃に元込式に改造する事も行っている。
横須賀製鉄所や造船所が本格的に稼動し始めれば、甲鉄艦や重火器の国産が始まり、徳川宗家は、小銃だけでなく
重火器や軍艦なども輸入に頼らずに自主的調達出来る体制が出来上がる。

この様な徳川宗家の武器国産体制が整う前に薩長は、討幕戦争を始めたかった背景があると思う。
934名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/24(火) 13:23:25.41 ID:QkkP/we+0
銃に弾を装填すらしていないところに先制攻撃を受けた、
薩長側に有利に作用したといわれる北風、淀・津藩の裏切り・・・
これらを除いても、幕府軍は橋本まで後退させられてたんだから、
純粋な戦術面でも薩長側の方が上だったと思える

ただ保持してる弾薬・食料や戦費調達面で考えると薩長はギリギリ
あともう1週間戦いが続いてたら薩長側は物資不足で力尽きるところだった

にしてもそんなギリギリでしかない手持ちの物資で、それも惜しげもなく
1月3日〜6日の戦闘に全力投入する判断が出来た大久保・西郷の戦略眼はすごいと思う
富ノ森では一時、薩軍が敗退するもすぐ反撃に貴重な兵力を投入、千両松あたりでは
薩長側に予備兵力は皆無だったんじゃないだろうか
この戦力投入の思い切りの良さが薩長勝利の大きな要因に見えるね
935名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/24(火) 18:59:44.33 ID:F5pMA1Kv0
>>932
山田顕義は長州閥なのに山縣と対立して軍から追い出されたが、
山縣ではなく彼が軍のトップだったらまた違った軍になってたかもね
936名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/25(水) 03:20:32.63 ID:qb0UKwxQ0
>>934
って事は、慶喜が大阪城に篭城して、徹底抗戦していたら薩長はヤバかったっていう事になる。
大阪湾には幕府艦隊も居るし、官軍は補給も援軍も大変困難かも。

淀藩の裏切りは、既に傾向に出ている、と言う識者も居る。
実は、第二次長州征伐には、淀藩は、城代家老の田辺家の判断で不参加を決めている。
一説には討幕派の公家からの要請があったのでは?とも言われ、藩主はともかく
国元は、幕府と朝廷の両ニラミ状態だったらしい。

歴代淀藩主は、江戸での幕政が忙しく、国元の経営は、城代家老の田辺家に丸投げ状態。
国元での事案では、藩主の意向すら城代家老の田辺家が覆す事も度々だったとか。

その為に藩主や淀藩江戸藩邸と国元の意向が相反する事は、良くあったようだ。
そういう意味では、案外旧幕府軍も淀藩の裏切りは、予測していたのではないか?

逆に津藩の裏切りは、想定外で本当に旧幕府軍としてはショックだったのでは、ないだろうか?
937名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/25(水) 15:18:06.59 ID:MgI/vtJ70
ぶっちゃけ、
スレタイを「戊辰戦争・幕府軍敗北の理由について」にしたほうがいんじゃね?
「…可能性について」だと、初めから勝てる見込みがないみたいで変。
938名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 00:55:02.26 ID:cGblv5aT0
この兵力と武器の性能の差を考えれば、旧幕府軍が負ける方がオカシイのは確か。

淀藩の裏切りではなくて、津藩の裏切りで旧幕府軍は崩壊したからな。
幕府軍に山崎街道への援軍を頼んだのに、対応してくれなかったのが原因らしい。

津藩の裏切りが無ければ、木津川、淀川、天王山を結ぶ防衛ラインで戦線が膠着する可能性があった。
そうなれば、大阪城の幕府予備軍を追加投入して戦線の維持を図れる。

丹波では、山陰道鎮撫隊が丹波道へ進撃を開始し、6日には亀山藩を降伏させている。
これも紀伊藩の軍勢を投入する事で山陰道鎮撫隊を撃破する事は可能だ。
山陰道鎮撫隊は、数も少なくて薩長だけではなく、畿内の勤王諸藩の寄せ集めの軍隊だ。

紀伊藩の銃兵化された軍勢が、山陰道鎮撫隊を攻撃すれば、丹波街道でも押戻せる。
939名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 13:28:49.93 ID:h0lReAb/0
上杉・伊達(東日本)対 毛利・島津(西日本) 
940名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 22:38:37.39 ID:orCMdq+vO
>>939
その組み合わせだと戦国でも幕末でも東に勝ち目が無いじゃないか
941名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 23:50:00.82 ID:0LO2xf7v0
鳥羽伏見での旧幕府軍視点から見ると、戦闘第2日目に薩長軍を何とか圧倒するなり、
数的優勢を活かして、薩長軍を拘束しつつ、一部部隊を持って京都進入がifとしてはベストかな
3日目以降になると錦旗が出てくるし、鳥取や土佐が薩長方に公然と加担するようになり、
それでも数的優勢は揺るがないものの、敵が増えてややこしいことになる
942名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 23:55:11.03 ID:IcKJxSiy0
長州は、ともかく、薩摩は国元に出兵反対論が多かったからな。
鳥羽伏見の戦いが、膠着化したら、かなりやばい事になっていたと思う。

長州は、何が何でも援軍出すと思うけど、史実でも薩摩の援軍は長州のそれよりもだいぶ少ない。

旧幕府側も、紀州藩の兵力が大阪に到着する前に出動しているが、これも敗因の一つかなと思う。
紀州藩の兵力を竹田街道や山崎街道に配置していたら、下京に突入できたしね。

>>938の言う様に丹波街道から攻撃させても構わないけど。
943名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 01:45:36.02 ID:A0UuALHx0
問題はそのような指揮をとれる人間が幕府陸軍に見当たらないということ
滝川播磨や竹中丹後では無理。
944名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 03:08:51.62 ID:K0scR/fS0
長州征伐を迎え撃った経験がある長州藩兵の動きは素早く、
伏見での市街戦でも鳥羽での野戦でも旧幕軍サイドの動きよりも手馴れたものだった。

しかし薩摩藩兵は、それほどでもないぞ。
別に鳥羽伏見の戦いで西郷や大久保が、現地で指揮していた訳でもない。
この二人は、御所に詰っきりだった。まだ、土佐藩や公卿皇族たち親徳川派の策動もあった。

幕府軍は、将クラスよりももっと下の差図役クラス(将校クラス)の人員
や経験が不足していた為に初戦の敗退の体制を立て直せなかったのでは?との指摘がある。

イザとなったら旧幕府軍は、まあ将クラスの代えなら、シャノワンを頼ったって良い訳だし。
945名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 05:54:33.98 ID:/vgCcLlF0
土佐藩はいろいろ口出しして置きながら
土壇場で裏切った屑中の屑
946諸橋 嘉久:2012/07/27(金) 07:21:27.51 ID:2hEVMcd90
早乙女貢によると、
正論を吐く山内容堂にピストルを向けて岩倉具視が黙らせたそうだ。

山内容堂が岩倉具視に射殺されたら、過激派の乾退助も薩長に味方しなかっただろう。
947諸橋 嘉久:2012/07/27(金) 07:46:01.53 ID:2hEVMcd90
徳川慶喜と勝海舟は藤原北家の子孫の意向で動く工作員だった。
戊辰戦争は藤原北家の子孫による茶番に過ぎない。

京を守る會津と桑名の兵に国内で元込めに改造したエンフィールド銃を標準装備させない時点で、
徳川慶喜が態と薩長に負ける様に仕向けているとしか思えない。

多湿の日本で使えないシャスポー銃で伝習隊を武装しても意味が無かった。

紀伊の兵の到着を待てなかった連中が馬鹿だったのか。

差図役クラス(将校クラス)の人員が旧幕府軍に居なければ、
桑名の立見鑑三郎と立見鑑三郎の兄弟に遣らせた方が良かっただろう。
当時は無名だったと言う突っ込みは無しね(大和田爆笑)
948名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 11:11:22.51 ID:037AcbLf0
西郷は、4月ぐらいに戦争開始の心算だったみたいだよ。
949名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 18:29:09.20 ID:VVaAh0Vm0
実際鳥羽伏見も土佐や福井の主張通り薩長も妥協し決まりそうだったけど
幕府会津の抗戦派が上洛したため鳥羽伏見起きたよね
950名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 20:05:50.37 ID:zYqKXUOd0
67年の11月中旬以降には関東一円で薩摩藩のテロ支援活動が開始されたが、
旧幕側も一時は慶喜と一緒に大阪に撤退していた会津藩や新撰組、新遊撃隊
(旧京都町奉行所や伏見奉行所の与力・同心)などが、12月初旬ぐらいには
再び伏見奉行所に再進出し新政府側を挑発している。

彼らは薩長の藩士と小競り合いを繰り返しており、旧高台寺党の残党までもが、
薩摩藩の支援を受けて、会津藩や新撰組、新遊撃隊への挑発行為を行っている。
鳥羽伏見の戦い直前には、新撰組局長の近藤勇が狙撃されて重傷を負うが、
これはこの時の旧高台寺党の残党の挑発行為である。

12月18日に新政府は、この伏見奉行所付近での小競り合いを気にして、会津藩に
再び国元への帰国を命令している。そして23日に新政府は薩長土芸4藩に伏見で
の警備巡回活動を命令しているが、この命令は土芸両藩が辞退し衝突には至らなかった。

江戸での薩摩藩邸焼討ち事件以前にも新政府サイドからの攻撃に繋がりかねない
命令が出ている。だが、ギリギリのところで土佐藩と広島藩が気転を効かせて回避した。
951名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 21:12:01.83 ID:FSgUAfIO0
そもそも大政奉還後、王政復古以前に
諸侯に上洛命令が出されたが
佐幕藩は江戸の紀伊藩邸で忘恩の王臣よりも全義の陪臣たらんと言って
上洛しなかった。
もともと慶喜は江戸からは警戒されていたからね。
この時点で慶喜の構想は理解されなかったためにほぼ敗北していた。
そして津藩とかよく裏切ったといわれるが上洛に応じた諸侯はもともとある程度尊王なんだし
幕府側は周囲に連絡を全然とっていなかったんだから裏切ったなんていわれる筋合いはないんだ。
952名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/29(日) 05:26:04.95 ID:rEPT7yCu0
淀藩は、第二次長州征伐の頃から、藩主はともかく、国元はふらついていた。

津藩は隣地の桑名藩の影響も有り、佐幕藩として周囲から認知されていた。
その為に淀藩の裏切りよりも津藩のそれの方が、旧幕府側に衝撃が大きかった。

津藩の裏切りが無ければ、天王山や木津川の防衛線でこう着状態に持ち込める可能性もあった。

だが、津藩の裏切りで、その希望も無くなり、旧幕軍は総崩れで撤退。
牧方の防衛陣地での抵抗も不可能になり、旧幕軍は、バラバラに大阪城に撤退を開始した。
953名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/29(日) 10:26:18.55 ID:Bp7IT7NE0
>>946
正論じゃなくて、
徳川宗家排除に血道を上げる討幕派たちに皮肉と言うかイヤミをいったんだよw

「朝廷なんてものは、光秀ですら将軍に任命しちゃう程度なんだよw」ってね。

岩倉?中山?中御門?が、山内容堂にピストル突き付けたのは事実らしい。
そこに後藤象二郎が割って入り主君を防いだ。

>>951
>諸侯に上洛命令が出されたが、佐幕藩は江戸の紀伊藩邸で忘恩の王臣よりも
>全義の陪臣たらんと言って上洛しなかった。

これは、紀州藩の譜代大名工作な。
紀州藩士の榊原耿乃介と竹内孫助が紀州藩江戸藩邸に一門・親藩・譜代
諸藩の代表者を集めて、朝廷からの上洛命令を拒絶するように訴えた。

それだけではない、大名各家に授けられた朝廷からの官位を返上する様に
演説し、更に慶喜の江戸帰還すらも呼び掛けている。完全に大政奉還を
ひっくり返そうと言う幕府保守派(幕藩体制維持派)の工作である。
954名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/29(日) 12:00:24.18 ID:iD6Vv49l0
>>953
ソース
後藤象二郎かっこよすぎ
955名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/29(日) 12:05:05.99 ID:8ha7VMlb0
>>950
>鳥羽伏見の戦い直前には、新撰組局長の近藤勇が狙撃されて重傷を負うが、
>これはこの時の旧高台寺党の残党の挑発行為である。

これは挑発ではなく、伊東暗殺の報復だろ。
956名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/29(日) 21:01:16.60 ID:tbnAHLLe0
>>954
野口武雄著 「鳥羽伏見の戦い」158ページ
>>955
伊東暗殺とその後彼の遺体収容に来た御陵衛士への暗殺で事実上高台寺党は壊滅。
残党は伏見薩摩藩邸(蔵屋敷)に逃げ込んでいる。もともと高台寺党を立ち上げた
時点で薩摩藩の支援は受けており、この両者は近い関係に有った。

高台寺党残党は、鳥羽伏見の戦いまでは、伏見薩摩藩邸に匿われており、
薩摩藩の支援と庇護の下で伏見界隈で会津藩士や新撰組、新遊撃隊員と
小競り合いや発砲事件を繰り返していた。

近藤勇への狙撃も夜に行われたもので、かなりあてづっぽの発砲だった。
しかし、それが近藤の肩にまぐれ当たりしてしまう。この為に本当に近藤
を射殺しようとして発砲したというよりも挑発行為として行った可能性の
方が高い。

近藤勇狙撃事件直前には、高台寺党残党による沖田総司暗殺未遂事件があった。
鳥羽伏見の戦い以後の高台寺党の残党は、赤報隊に参加している。
957名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/01(水) 14:35:19.20 ID:HJDywyUb0
何でも良いから、紀州藩兵4000人を竹田街道に投入するのだ。

それで、旧幕サイドの勝ち!

土佐藩は、旧幕側に寝返る。
958諸橋 嘉久:2012/08/01(水) 15:21:53.29 ID:4zaRf0gA0
前装式の施錠銃で四千人の兵が武装していたのなら、
鳥羽・伏見の戦いでは勝てます。

偽の天皇を引っ担いで、長州のカッペが丹波で再起を図る?
959名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/01(水) 22:11:56.50 ID:zYLvcj370
広島城まで明治天皇を担いで逃げるのでしょう。
そこで幕府軍を迎え撃つ。

ニセの天皇は、比叡山に移して、幕府軍にそう思わせて時間を稼ぐ。

西郷の計画では、そうなっていたはず。
960名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/02(木) 18:23:07.37 ID:wKbeULqL0
竹田街道他への分派は史実の兵力でも可能だが、なぜかやらなかった訳で
旧幕府軍の軍首脳陣が代わらない限り、紀州藩が間に合っても鳥羽か伏見に投入して終わり臭い
961名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/02(木) 21:35:25.53 ID:QCPxUofv0
諸藩への指揮系統はどうなっていたんだろ
962名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 04:56:37.58 ID:ujgagcLk0
大阪の陣や島原の乱から変わってない
外様を先鋒の栄誉という名の肉の壁にするだけ
大方針に沿わない、気に食わない行動した大名が出たら命令違反として厳罰に処す振りをする
963名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 22:06:05.77 ID:gWnpipoC0
>なぜかやらなかった訳で

一応、会津藩の一部隊数百人が、竹田街道を途中まで北上している。
途中で土佐藩の部隊と出くわしたが、戦闘にならず、回り道を教えてもらい途中まで進撃した。

>旧幕府軍の軍首脳陣が代わらない限り…

ピコーン!
良い事思いついたw

鳥羽伏見の戦いの指揮をを丸ごとブリュネとシャノワンに委託すれば良いw
映画「ラストサムライ」状態になるけどなw

まあ〜徳川家にとっては、恥だけど、背に腹は変えられない。
第二次長州征伐を委託しても良いけどねw

>>961
その辺が、あやふやで、津藩の裏切りの一因にもなっている。
紀州藩兵も鳥羽伏見の戦いに間に合っていないし、横の連絡がどうも?
964名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 23:19:45.82 ID:ZbUjstBk0
         ,  -─-
       , -'´       `丶、    
      /            \   
     /                  ヽ
    /            _     ',  
   l   -‐  --──-- _     |
   |  /`ヽ、    , -- 、     __,|  
   |__, ===─i=r === 、_, -‐'{.トl|
  /f'il -=ユヾj  {.l にニ=‐}}    レ'´゙!  
  ヽ_}ヽ '´ ̄  /  ヽ  ̄` .ノ     rj/    
   l `=='/     ヽ= '      /  ただのカカシですな。俺達ならまばたきする間に皆殺しにできる、忘れないことだ
    l     /{,. -、_, -、j\        !
     l   /  /lllllllllll\  ヽ      l    
     ! { llllllllllllllllllllllllllヽ }     /
      ',  '´  ̄二 ̄ ̄ `   /jヽ   
      \           //  l   
        | \____/ '´     !
     .__| |\ \_,. -‐'_, ‐i       }─-  
_,. -‐'"´ | |丑ュl | r‐'´  。 |    /
       \セヨ| | | 。 °/ /     
        \_| ! -‐'´ -‐'´
965名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/04(土) 12:56:24.70 ID:BGZIlWvl0
野口武彦『鳥羽伏見の戦い』では竹田街道にも幕府陸軍の大砲隊一大隊が
進撃して一切阻止に合わず途中の薩摩藩屋敷を襲撃したりしたが、
増援がなく結局撤退したとのこと

翌日以降も会津藩の一隊をもって間隙から薩軍本営の東寺へ進行する作戦が行われるも
増援を送って戦果拡大等の計画は無く、結局他所で激戦が始まると転進が命ぜられたり・・・
どうも幕府軍首脳の戦いに対しての本気度が疑われる
966名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/04(土) 13:15:01.12 ID:bqCL+U6l0
>>963
進撃したけど後詰を送ってもらえなくて撤退したんだよね
その辺の、戦力の集中・分散箇所の選択するのも幕府軍司令部の役目だと思うんだが
そこが一番幕府のダメな所だろう、少なくとも第二次長州征伐の敗戦で学んでいれば……
あと外国人武官に指揮権委ねるのは、徳川の面子もだが会津・桑名とかの佐幕諸藩が受け入れるかも問題だなw

>>961
戦術級の部隊指揮は諸藩、戦略級の指揮は幕府軍司令部じゃないか?軍配書なんかも残ってるし
967名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/04(土) 21:19:34.60 ID:EQvOmnlAO
ブリュネなんか引っ張りださんでも大鳥いるじゃん
まあそんな長州みたいな人事が出来りゃ第二次長州征伐の時点で負けてないわな
968名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/04(土) 22:22:47.05 ID:NsZs3xuC0
慶喜が、直接旧幕府軍を指揮していないのも、良くなかった。
横の連絡が悪いのは、その所為もあると思う。

禁門の変では、何だかんだで長州藩と激派志士達を御所から撃退している。

ブリュネでもシャノワンでも良いけど、慶喜の参謀にしても良いし。
江戸薩摩藩邸焼討ちは、シャノワンが一部指揮している。
969名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/04(土) 22:33:03.23 ID:NsZs3xuC0
>>967
大鳥圭介?
アイツはだめだろ〜負け戦が何故か多い。

勝ったのは、晩年の日清戦争の緒戦ぐらいジャね?
970名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 00:47:26.96 ID:wLJFgezr0
幕府陸軍の指揮官で薩長軍相手に互角以上に戦えそうな人物で尚且つ
当時からある程度の地位にあった人物というと窪田備前守か北条新太郎といったところかなぁ
不評の竹中丹後守にしても初めから薩長軍相手には既に全面戦争状態であり交渉不要、
見つけ次第、先制攻撃せよと厳命しておけばもう少しマシだったかと思う
971名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 01:06:34.34 ID:x27nd2gq0
>見つけ次第、先制攻撃せよと厳命しておけばもう少しマシ

最初は、朝廷との示しあわせで軽武装少人数上洛のはずが、
残らず全部行け!になって15000人の大軍上洛になった。

この時点で旧幕府軍も覚悟できていると思ったんだが…?

なぜか鳥羽では薩長に不意打ちを喰らっている。
972名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 02:25:33.00 ID:a15PuH8D0
強硬派の幕臣と穏健派の慶喜との折衷案だったのだろうか。
973名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 06:47:26.53 ID:FHNPZV0A0
>>970
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974名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/06(月) 12:56:31.82 ID:pGq4m2GT0
>>972
旧幕府軍は、洛中に入ってから本格的な市街戦を想定したんだろ。
禁門の変もそうだったし、応仁の乱も洛中の市街戦からだった。

二条城ですら、12月12日夜に慶喜が二条城から撤退した後でも、
幕府の政庁として機能していた。永井尚志が政務を執っていたし、
新撰組局長の近藤も12日以降に何度か二条城に通って打ち合わせを
している。12日以降の二条城の警備は、水戸藩の攘夷派の本国寺党
に任せられており、幕府の役人も大阪城や伏見奉行所から通っていた。

旧幕府軍は、再び二条城に入り、朝廷に立て籠もっている薩長軍と戦う心算だった。

鳥羽伏見の戦い直後の9日に、本國寺党は、二条城を朝廷に明け渡した。
この時点で、ようやく幕府の洛中の拠点が無くなり、洛中での幕府サイド
の軍事活動の可能性が無くなった。
975名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/06(月) 15:20:04.15 ID:0PkD9xYO0
淀藩:内高 11万3335石、人口 7万2786人
華族4人、士族2979人、卒1255人(女子供を含む)
保有大砲:8
保有小銃:612 (先込施条銃)

津藩:内高 29万9335石、人口24万7687人
華族5人、士族7917人、郷士族6889人、卒1956人(女子供を含む)
保有大砲:72
保有小銃4597:先込施条銃(エンフィルド)2256、元込施条銃2231(スナイドル2000、レミントン170、スタール61)、内訳不明10

兵隊は4倍、軍備は8倍程度違うんで、
津藩の寝返りの方がダメージが確実にデカイ
976諸橋 嘉久:2012/08/06(月) 16:35:58.40 ID:e0p89/Ha0
>保有小銃4597:先込施条銃(エンフィルド)2256、元込施条銃2231(スナイドル2000、レミントン170、スタール61)、内訳不明10

この時点では、薩長を凌駕する武装ですね。
977名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/06(月) 19:05:08.14 ID:182XQMjPO
大阪城を拠点に陸路閉鎖
圧倒的に勝る海軍で大阪港を海上閉鎖
はい、詰みました
旧幕府軍の勝利です
978名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 00:47:45.46 ID:IhRoMuwN0
淀藩って藩士が3000人も居ないんだ。
もし慶喜が、奥詰銃隊3000人を率いて淀城に入っていたら、旧幕府軍の方が人数多くなってしまうw
そしたら裏切れないね、下手に裏切ったら旧幕府軍に城を乗っ取られる。

それと津藩って元込施条銃2231も持っていたんだ!

だったら、旧幕府軍は山崎街道に援軍出さない訳だ。
自分で何とかできるだろ、って思うのは無理無いね。

元込銃隊2000人が居れば、津藩単独で天王山方面で薩長軍を引き止める事も出来ただろうに。

で、ソースは?

隣の桑名藩の元込銃保有数も知りたい。
979名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 08:26:59.73 ID:EZx25SFj0
>>977
それは最初から旧幕府軍が本気で薩長相手に全面戦争し掛けてればの話だな
実際は軍配書にある通りに京都を半包囲してから、慶喜が上京し
そこで軍事力の圧力の下に最終的な辞官納地の決着、会津兵の帰藩問題、
そして新政府内におけ薩摩勢力に対しての処分を慶喜自ら交渉するつもりだったんだろうな

討薩表は一見、薩摩即討伐な文面だけども、長州処分でも藩取り潰し、藩主父子死刑などと
強硬な面を見せてから、徐々に交渉で軟着陸させていくのが当時の政治のやり方の一つだし
980名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 12:16:02.58 ID:6jI+bPGH0
薩摩藩は、国元が事実上討幕戦争に反対していたからね。
家老の関山礼を始めとして国元の藩の重役はほとんど反対、島津一門にすら反対派が居た。
その為に今日への出兵の目的は、討幕戦争ではなくて、朝廷警備の為、としている。

薩長同盟にすら、疑問の声が上がっていた。
鳥羽伏見の戦いに、旧幕府軍が勝って、天皇が広島に逃げて長州藩・広島藩あたりが
連合を組んで幕府軍と対峙する事になっても、薩摩が援軍を出すかどうか不明だな。
むしろ岡山藩や鳥取藩の方が、好意的中立かもしれない。

長州はともかく薩摩は、長期戦や戦争が膠着状態になったら、案外国元から崩れたと思う。

そういう情報も有って、
旧幕府軍は、薩長から鳥羽伏見街道で急襲されると思わなかった、のかも知れない。
981名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 19:23:16.06 ID:wHiC0zHO0
>>976 >>979

>>975の保有銃火器のソースは
南坊平造, 「明治維新全国諸藩の銃砲戦力」, 軍事史学, 13(1), 77-102 (1977年)

ただ調査自体は明治3年の報告が主体なので、戊辰戦争の時期に各藩が
これだけの銃火器を持っていたという情報ではないのが難点

【五大藩】加賀藩・薩摩藩・仙台藩・紀州藩・長州藩
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1305980577/104-109

桑名藩は、南坊平造論文によると、大砲22、ミニエーが1,100

桑名藩の人口は、『藩制一覧』によれば総人口6万4848人で、華族4人、
士卒族7086人(『統計集誌』によると士族4439人、卒族2054人)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444759/187

兵隊の数は、二大隊で640人、大砲4座で108人
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444774/201
982名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 19:30:59.22 ID:9wrLZaym0
勝てると倒幕派も思ってなかったから、仕掛けるつもりもなかったと思うけどね。
幕府側は何も統率利いてないから、攻め上って戦争ぶつかって敗北しただけで。
体制奉還した時点で政治的な決着はついてるし、戊辰戦争段階だとこれまでの流れ上のしこりによる戦いで。
983名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 22:14:58.47 ID:2IQIc4Vq0
この時代って本当の意味で政治主導の時代だよな。
政治的に実権を得た薩長が官軍となり、実力で上回る幕府軍を賊として討つんだから。
勝てば官軍とはよく言ったものだが、勝つための信念と度胸が凄い。
西郷&大久保は幕末史上最強タッグといえる。
984諸橋 嘉久:2012/08/08(水) 05:51:24.82 ID:z4ilfKkU0
西郷吉之助の所謂『御用盗』は新徴組屯所に発砲して、
犯人が逃げ込んだ薩摩屋敷を旧幕府が砲撃して炎上させた。

西郷吉之助は鳥羽・伏見の戦いを起こす目的で、所謂『御用盗』に新徴組屯所を発砲させたのでは無いだろう。
寧ろ旧幕府軍を江戸に集結させる目的の謀略であろう。

其れに乗らなかった會津は大軍での上京、朝廷への強訴を徳川慶喜に進言したのだろう。

徳川慶喜が大政奉還後直ぐに旧幕府軍を引き連れて江戸に向かわなかった訳は、
鳥羽・伏見の戦いを起こす腹積もりだからだ。

鳥羽・伏見の戦いは、藤原北家の子孫の意向で動く、工作員の徳川慶喜によって引き起こされた。
985名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 12:04:23.44 ID:8Sfr3L2x0
慶喜の朝廷新政府(三職会議)での議定就任は決定事項であり、土佐、尾張、
越前、が皇族議定を巻き込んで慶喜の副総裁就任を狙っている。宮様総裁職
の下に行政実務を担う副総裁職を設置し、そこに慶喜を任官させて、朝廷新
政府(三職会議)の主導権を徳川宗家が確保するのが狙い。

当然、徳川家の天領や陸軍海軍の処遇も副総裁主導で処理する意向なので、
議定に任官した島津やその後に任命される予定の毛利などは、慶喜副総裁
主導体制に反発する可能性が大。そういう意味では、慶喜が副総裁に任じ
られても、徳川宗家と薩長の対立はそのままと言う気がする。

下手をすると、新政府そのものが、徳川宗家と薩長の対立で内部分裂して
やっぱり戊辰戦争と言う可能性も有る。

慶喜サイドは、その後に開催予定の列藩会議の議長職就任をも目指しており
副総裁兼列藩会議議長として、朝廷新政府を主導する体制も構築する心算だった。

慶喜は、最終的には、副総裁職と列藩会議議長職を統合し大君というポストを
構築して、そこに任官する心算だったといわれる。事実上ナポレオン3世の第二
帝政をモデルにした新しい徳川王朝だ。

普仏戦争で第二帝政が崩壊したあとは、プロイセン王国-ドイツ第二帝国体制を
真似る事に成るのであろう。事実、江戸時代の幕藩体制から中央集権的郡県制に
変更させる場合には、ドイツの第二帝国の方がモデルとしてやり易い。

プロイセン王国は、徳川宗家直轄領(天領)であり、バイエルン王国やザクセン王国
などの藩王国的な小王国がひしめき合っていたのが、当時のドイツだった。それを
プロイセン王国が束ねて、ドイツ帝国が出来上がった。

その事を考えると、慶喜政権が出来上がったら、普仏戦争以後は、ドイツ第二帝国に
モデル変更すると思われる。欧州では、最大の封建領主が、その国の主権者になる事
が定食メニューである。日本の様に地方の封建領主が、その国の最大の封建領主を
軍事的に打倒して近代国家を作り上げたケースは異例中の異例。

普通なら最大の封建領主の徳川宗家が、近代国家の主権者に成るのが定型コース。
英国のスチュアート家しかり、フランスのブルボン家しかり、ドイツ(プロイセン)のホーエンツォルン家しかりである。
986名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 03:12:17.25 ID:O9iKKSQx0
薩摩と長州が組めば幕府を倒せることは、当時、誰の目にも明らかだったって言われてるね。
となると、薩長同盟が成立した時点で倒幕はほぼ確定していたことになる。

もっと言うと、慶喜が実権を得た時点で幕藩体制は命運が尽きているんだけどね。
もともと慶喜自体が討幕を考えていたような人だから。

つまり、薩長も慶喜も基本的な方向性としてはたいして違わないわけで、
あとはどちらがイニシアティブをとるかってところで揉めた訳で。
だから新政府に慶喜が主要ポストについたとしても、戊辰戦争は必ず起きていたと思う。
四侯会議の決裂ですでに慶喜と薩摩の政治的対立は決定的だし、和解することもなかっただろうし。

で、何でそんな事になったかというと、やはり最大の原因は慶喜が島津久光を締め出した事だろうね。
本来味方である旧一橋派の諸侯を締め出したのは、慶喜個人の器が足りなかったという事かと思ってる。

また、この慶喜という人、明治の世を悠々自適な趣味人として優雅に送っている。
戊辰で落ちぶれ、辛酸を舐めて明治を生きた幕臣たちの目にはどう映ったであろうか。
しょせん貴人に下々の気持ちはわからないと言うが、薩長に負けたのも当然な気もするのである。
987名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 10:10:51.99 ID:lMowKZop0
どう見ても一般的だったのは
幕府が長州を恫喝したらまた首脳陣が切腹恭順で終了って見方でしょ
988名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 20:45:25.64 ID:Q5WPJFD40
>>986
それはウソだね。

福沢諭吉なんて、戊辰戦争で旧幕側の負けが決まるまでは、
「日本の近代化は、慶喜公によるモナキー(王政)しかない!」って断言していた。

そもそも「慶応の改革」は、徳川宗家(幕府ではなくて)が、
薩摩と長州を潰して、その勢いで廃藩置県(諸藩廃止)を断行、
武家そのものを廃止する。
そして中央集権体制である郡県制に移行する為の計画。
それをやるには、幕藩体制ではなくて、朝廷一元支配体制の方がやり易い。
その次の段階では、征韓論だった。

ニ条摂政と中川宮は、王政復古のクーデターを起きるまでは、
次期摂政には、慶喜を考えていた。

結局、徳川宗家にとって薩摩は、中央集権化の阻害要因なんだよ。
慶喜が、久光を締め出したのはその為で、幕権派(近代化グループ)の総意でもある。

幕権派は、徳川宗家の主導権と富国強兵路線が実現できれば、幕藩体制に拘らない姿勢。
989名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 21:09:06.20 ID:O9iKKSQx0
結局、薩摩か徳川かって所で、どちらが勝っても似たような日本になってたんだろうな。

薩摩にしてみたら、久光が慶喜との争いに敗れて国元に引っ込んでくれたおかげで、
西郷と大久保の二本柱で一気に討幕へ邁進することができるようになった。

どちらも政敵を潰した上での改革を考えていたわけで、その一方が明治維新だったと考えると、
日本の歴史は東と西の勢力が入れ替わり立ち替わりで権力の座についている印象。
990名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 00:42:09.60 ID:KmgpdLh/0
西郷と大久保も久光同様に慶喜の高等戦術や朝廷工作では勝てなかった。

で、西郷が、尊攘派の浪士を使って江戸や関東一円でテロ支援活動を
引き起こしてようやく開戦に持ち込んだ。

>どちらが勝っても似たような日本になってたんだろうな。

そういう事。
富国強兵は、どちらの勢力もやり抜く必要の有る方針で、変えられない。

また、薩長藩閥も徳川門閥も、どの道大正デモクラシーでアボーン!する運命だと思う。
徳川宗家が、明治以降に政治的主導権を維持していたとしても、日露戦争以後は、民主化は避けられないしね。

>どちらも政敵を潰した上での改革を考えていたわけで、その一方が明治維新だったと考えると、
>日本の歴史は東と西の勢力が入れ替わり立ち替わりで権力の座についている印象。

慶喜の代わりとして日本の近代化の歴史に出て来たのが、明治大帝の様な気がする。
そういう意味では、仮に慶喜が、新政府に副総裁なりの大君の地位を獲得したとしても、
大蔵官僚化した小栗あたりが内閣の閣僚になって慶喜から実権を奪うかも知れない。

ドイツ帝国のヴィルヘルム2世も、1908年に失言事件(ディリーテレグラフ事件)を起こして、
世論や議会から猛烈な批判を浴びてしまい、事実上表立って帝権を行使する事が無くなり、
ドイツ帝国の実権は、内閣や参謀総長に移行してしまった。

特に参謀総長は帷幄上奏権を使って、逆に皇帝を操作する様になっている。
991名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 20:50:29.84 ID:QyobxCdi0
徳川政権が続行していれば、太平洋戦争も原発事故も無かった。

徳川政権が続行していれば、
太平洋戦争はおきず、
北方領土の全喪失、在日米軍への領土・領空の割譲、日本への空襲や原爆投下もなかった。

山口過誤死魔は嫌われ者。日本の常識ww


幕末機動隊などと呼ばれ、幕末を扱った小説や映画では悪役とされてきた新撰組であるが、その実態は決して幕府側の守旧派の集まりではなかった。組長の近藤勇をはじめ、副長の土方歳三、など隊士の大半は下級武士か、農民出身の若者であり、
彼らにとって新撰組は、身分を越えて出世する大きなチャンスであった。
思想的には、開明的で、土方のように、後に北海道に逃れ、函館に日本最初の共和国「北海道共和国」を建て、大統領選挙を行った人物もいた。
土方に従った隊士も何人かいた。新撰組が戦ったのは、薩摩、長州であり、彼らのきわめて政治的な行動に不信感を持つ者は多かった.近藤、土方の出身地である東京の多摩地区は、明治になってからの自由民権運動の中心地でもあり、
それを担った豪農層は、同時に新撰組の支持層でもあったのである.土方らの思想には、長州、薩摩と違い、天皇に対する思い入れは微塵もなかった.このことは、長州、薩摩主導によらない日本の近代化が行われたならば、今の天皇制はなかったことをしめしている。


15代将軍徳川慶喜は、大政奉還後、諸藩の大名を議員とし、自ら初代大統領となる議会を開こうとした.これは、フランス議会を真似したもので、大統領と議会による共和制を目指したものである.
従来、この慶喜の構想を幕府と将軍の生き残り策とする見方が多かったが、慶喜が.将軍在任中にヨーロッパの政治制度や法律の研究を進めていたことから、決して生き残り策としてだけではないとの見方も出されている.
慶喜の近代化政策も、天皇制でなく共和制だったところが興味深い
992名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 20:51:46.99 ID:QyobxCdi0
史実は、
原爆を落とされた上に、
アメリカの半植民地ですが何か?

さらにアホ東電の原発・自爆テロのおまけ付き。

http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/us-51st_state.html
993名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 21:08:02.69 ID:QyobxCdi0
>>975
裏切りに、いじめ事件とか、
近畿周辺の奴らは、腐ってるから、
友達とか、婚姻相手には、しない方がいいよ。


994名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 21:09:39.54 ID:LFPyCTXZ0
幕府は人材なかったし、幕府でまとまらない
幕府は大名の盟主に過ぎず主君でないから
石高からしても本来幕府が圧倒的有利
幕府が幕府温存を考えず雄藩取り込んでいたら長州との敵対もない
新撰組も尊皇攘夷には変わりない近藤が降伏したのもその為
995名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 21:12:28.46 ID:qSs0gXev0
我田引鉄の政党政治を初めたり
非協力的な内閣を倒閣して政治を牛耳った統制派とか
日本をおかしくしたのはほとんど東北閥じゃねえか
996名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 21:26:56.85 ID:rlms4nTW0
幕末機動隊(笑)
997名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 21:42:38.22 ID:pmw1+CHO0
議会に発展し得る参与会議や四侯会議を潰したのは慶喜。
しかもその際に主張した横浜鎖港や勅許ありの兵庫開港などは
幕府の方針とも対立するものだった。
998名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/11(土) 04:17:09.34 ID:wrdbGOsh0
>>991
無能の賊軍、東北閥が昭和の日本軍を支配し、
日本を無謀な戦争へ引きずり込み、東北閥が無能な指揮で日本を大敗させた。

■陸軍
板垣征四郎(岩手・盛岡藩)陸軍大臣
東條英機(岩手・盛岡藩)総理大臣・陸軍大臣・参謀総長
畑 俊六(福島・会津藩)陸軍大臣
小磯國昭(山形・新庄藩)総理大臣
石原莞爾(山形・庄内藩)

■海軍
米内光政(岩手・盛岡藩)総理大臣・連合艦隊司令長官・海軍大臣
及川古志郎(岩手・盛岡藩)海軍大臣・軍令部総長
山本五十六(新潟・長岡藩)連合艦隊司令長官
南雲忠一(山形・米沢藩)
嶋田繁太郎(東京・幕臣)海軍大臣・軍令部総長
井上成美(宮城・仙台藩)

999名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/11(土) 04:18:10.25 ID:wrdbGOsh0
東北大震災はその天罰だなw
1000名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/11(土) 04:19:41.09 ID:wrdbGOsh0
東北人は無能だから
こいつらが戦争を指揮すれば
勝つわけが無いwww
10011001
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