1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
佐賀のエース
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 23:52:22 ID:oWYOJF9iO
アームストロング砲
大隈と大木の方が長く活躍してないか?
佐賀出身として目立つのは江藤だけど
佐賀で死んだのは江藤だけか。
>>3 大隈は佐賀では全然評価されていない
郷土を売った売国奴
個人的に、江藤が司法卿で副島が外務卿だった頃の、いわば西郷内閣が日本憲政史上最良の内閣だと思う。
政変後の大久保のも良いけど、筋が通らない事を多くやってるから好きになれない。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 21:04:45 ID:o/wamf3C0
副島の書は凄い
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 22:14:37 ID:gC95IlEA0
>>8 なんか凄い形の書もあるしね
ありゃ達人だよ
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 10:02:39 ID:YgZKND5t0
佐賀藩といえば鍋島直正
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 20:29:30 ID:3ghQ32IA0
佐賀の七賢人好きなんだけどな
なかなか評価されないのが残念
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:26:45 ID:mi0pD4xM0
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:32:03 ID:BYJknVnJ0
副島は隠れた偉人だよな
国学にもかなり通じていたらしい
副島って征韓論で下野後どういう経緯で政府に戻ったの?
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 00:25:08 ID:ZqnyIS5j0
>>14 副島は民権運動・士族反乱に関わらなかった。
佐賀の乱のときなんかの後藤象二郎を知ってると、今のNHKの龍馬伝を見たら違和感があるよな。
アレ?スレ違いになる?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 20:05:38 ID:RMGsSUDF0
龍馬伝はフィクション中のフィクション。
副島種臣の人物業書、中公新書で出ないかなあ?
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 20:38:36 ID:Yh4CJmfi0
江藤は大木と共に東京奠都(てんと)を押しすすめた人物。
>18
閑叟の意向だろ?
江戸開城後に始めて民財税の政務を取り仕切ったのが江藤だから、
ある意味、近代日本最初の東京知事でもあるわな。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 16:40:26 ID:EdB3RYRF0
>>16 あの後藤は上士下士対立での上士側の象徴だから
しかし江藤と後藤ってなんか合わなさそうなのに仲良いんだなw
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 21:01:20 ID:jOzBHbG/0
上士下士なんか鍋島には関係ねえー
軽輩でも他藩の人間にはそれなりに敬意を払ってたのかもな。
江藤新平と後藤象二郎が特別仲が良いのは、
征韓論で朝鮮半島への派兵・占領を2人で共同提案したから。
西郷隆盛がこれは行き過ぎるとして、使節派遣に改めて政府見解とした。
江藤と後藤は征韓論の同士なんだよ。
江藤は黒船来航の年に、ロシアの南下政策が、いずれ朝鮮半島を脅かすので、
日本と朝鮮が近代化して防衛にあたる必要があると記している。
征韓論に対する江藤の主張は、公使館への投石や食料断絶などの嫌がらせや、
国書持参の使者に対しての無視や侮辱などが国際的には開戦理由になるとし、
洋式兵を派兵をして、圧倒的な戦力差を見せつけて開国、近代化を促して、
ロシアの南下政策に備えようというもの。
しかし、以前から征韓論絡みになると必ず荒れるんだよなぁ。
荒れる理由は単純だ
盛り上がるからだ
江藤と後藤の仲って征韓論からなのか
随分太くて短い友情だったんだな
>>24 江藤はどれくらい征韓論に熱心だったんだろうなぁ
見切り発車で征韓論に乗った結果、降りるに降りれなくなった感がある
征韓論派の参議で、朝鮮征服するぞーって燃えてたのは板垣だけじゃないかな。
あとは、当時の首相的立場の西郷を派遣して、ハイレベル協議を行い、
開国されるなら良し、失敗しても6年に渡る国辱は十分に開戦事由になるので、
一戦交えて講和条件で開国させようってなもんだと思う。
江藤は、さらにこれを薩長弱体化のネタに使おうとしたんじゃないかな。
それで、土佐の後藤とは盟友のような存在だったんじゃないかと。
まぁ、明治六年の政変は完全に権力争いだしな。
ところで、朝鮮の国辱行動を巡る動きだけを見てると、
先月からの尖閣諸島問題とダブってみえて仕方ない。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 10:28:34 ID:Mk2yvczb0
江藤は幼少のときから既に「船中八策」に似たような書を記している
相当の切れ者だったようだ
おおざっぱすぎる後藤なんて江藤が一番嫌いそうなタイプなのに意外
>30
親友と認め合ってたという小笠原唯八は大雑把な性格。
というか、土佐出身者との関係は概ね良好だったようだが。
それに、性格が大雑把でも、緻密な思考が出来る人間はいくらでもいるわけだし。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 19:05:43 ID:MHuZpKSX0
同じく切れ者の大久保一翁とは憎しみ合ってるしな
似たものだからといって必ずしも仲良くなるとは限らない気もする
つーか、江藤に限らず佐賀の人間は性格が良く分からん
>>31 大久保一翁?
大久保利通なら分かるが、一翁とそんな接点あったっけ?
ごめん、利通
なんか勢いで一翁と書いてしまったわ・・・
>28
図海策のことを言ってるのであれば、書いたのは数えで23歳、満22歳の時だぞ。
2009年10月刊の「律令制から立憲制へ」(島善高・成文堂)を読めば良か。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 22:44:36 ID:w7M3sOl8O
佐賀人は残酷で卑怯なんだよな
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 02:52:45 ID:618zhfd0O
がばいばあちゃんとか佐賀北高校とかwwwwwwwwwwwwwww
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 02:18:42 ID:rAi48j+s0
賞典禄
150石…中牟田倉之助(佐賀藩士)、曽我祐準(柳川藩士)、山地元治(高知藩士)
100石…土方久元(高知藩士)、江藤新平(佐賀藩士)、島義勇(佐賀藩士)、万里小路通房(公卿)、穂波経度(公卿)
10石…村口村吉(佐賀藩士)
これが維新後の佐賀藩士の序列。
>38
賞典禄って江藤が作ったもので、江藤自身は辞退しまくったけど100石ならってことで落ち着いたんだよな。
市丸やったぜ〜!!
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 10:41:43 ID:+oSCBbln0
(佐賀藩)
鍋島直大2万石、前山清一郎450石、増田虎之助200石、中牟田倉之助150石、石井富之進130石
江藤新平100石、島義勇100石、石井貞之助50石
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 15:56:24 ID:wDICdr9P0
乱後、江藤新平の墓周辺
江藤新平の霊に祈ると諸病が治り盲眼が開き、延引している裁判もたちまち決着するとの
噂がある。そのため士族平民男女別なく江藤の墓参りがされている。
佐賀にとどまらず、久留米、柳川等の人民も加わり、多い日は200人程が来る。
また、午前9時から午後4時までは江藤の亡霊は県庁に行き民政を聞くといって、
この時間の参詣は少なくなる。
連日多数の参詣があるため、墓のある蓮成寺には売店が出た。
県庁が江藤の墓参りを禁じ、また、江藤の亡霊が肥後に行ったという者もあって、
人数は減ったものの、墓参りはやまなかった。
江藤の司法卿就任は、外遊を条件としてのことだったらしい。
長州閥もこれを幸いに江藤を外に出そうとしていたので、
留守政府との約束を破って井上が江藤をわざわざ卿に推挙している。
在任期間が長くなかったし、小野組転籍やマリアルスなどの事件が連発したこともあり、
司法省主導での法典編纂に必ずしも積極的でなかったようで、
実務を預かる箕作とはさほど意見の合わない局面もあったらしい。
ただ、フランス法に心酔し、ボアソナードを招へいしたことが、
今でも日本民法に生きてるんだよね。
ボアソナードって明治の招聘外国人で一番の功労者じゃなかったっけ?
彼が江藤をどう思ってたのか聞いてみたいもんだな。
東洋のガンベッタって例えたのは誰だっけ?
東洋のガンベッタって、自由民権運動の馬場辰猪が言われてるみたいだが、
江藤を評した人は司馬本以外ソースないね。
江藤は仏法丸写し即時施行派(後年の民法典論争の梅博士とかとは違う意味でだよ)
だったから、日本の国情を重視する大木・ボアソナード路線とは相いれなかったんでは。
ただ、江藤がボアソナードとうまくやれなかったという保証もないけどね。
中国へ行って立礼の前例を指摘した副島スゴスw
書に関しても本家中国の高官から一筆求められたんじゃなかったけ?
俺が見た副島の書は雄魂だけど下手って印象を受けたけどw
副島の書で、意図的に書き順を違えているものがあるのに衝撃を受けた。
書道って書き順間違えたらその時点で評価に値しないもんだって思ってた。
副島の書道本は高すぎて手が出ない
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/30(火) 12:07:44 ID:ktrnZJI80
佐賀藩のエースって本島藤大夫とか佐野常民とかじゃないのか
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 00:17:02 ID:fHy1IS7I0
佐賀の乱で一番利益を得たのは後の司法卿山田顕義(賞典禄
600石)かな。
一番損をしたのは江藤新平司法卿。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 23:45:27 ID:aGtFHerrP
副島は可哀想な奴だった。
西郷にも一目置かれてたようだし
でも副島の伝記って一種類か二種類しか無いんだよなあ
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 01:36:38 ID:xO/3P4ZU0
藩閥の後ろ盾とか抜きにしたら、副島、江藤に匹敵する人物はそうおらんでしょ。
西郷? 鼻で笑われますよw
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 13:10:36 ID:LDWDhyXJ0
そもそも、後援を得られなかったために活動を制限された僻みが、
「藩閥を後ろ盾にした卑怯者」という言い方を生むのであって、実際は後援者の力も含めた発言力で物事は決まる。
後藤象二郎なんて、明治維新後は法螺吹きの域を出なかった。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 19:21:37 ID:EnADPzLF0
佐賀藩は幕府に加わって後ろから薩長軍を突けば良かったのにな
残念な藩だ。全てにおいて中途半端になった。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 20:24:54 ID:gF5dD69eO
>>56 そういうセコいこと企んで大恥かいたのが仙台藩なわけで。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 22:10:46 ID:EnADPzLF0
確かに仙台藩は虚しかったねえ・・・
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 22:14:12 ID:EnADPzLF0
しかし、明治六年の政変の時に副島種臣は下野しなければ確実に大隈重信より早く首相になっていた。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 14:51:22 ID:DqUFjiUB0
副島って性格はどうだったんだ?
大隈は面白い性格だけど
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 16:27:12 ID:QGaGVQzW0
副島は藩主の鍋島からも期待をかけられていた人物。
「副島は学者なり」「江藤は行動派」として二人は称されていた。(中公新書・江藤新平より)
その下が海軍の中牟田倉之助と島義勇。
大隈は佐賀が嫌いで、ずーっとトンキンに住み着いた中途半端な人物。
副島は大久保からも目を掛けられてたな
>62
目をかけられてたんじゃなくて、その教養を畏怖されてたんじゃねぇの?
中国関連だけですら、科挙の超秀才たちでさえ舌を巻くほどの知識を持っていたし。
江藤の欧米に関する知識も外遊に行った者たちよりも深かった。
佐賀出身者には、外国語の読み書きが出来る者が多く、オランダ語は当然として、
江藤はロシア語、大隈は英語の読み書きが出来た。
学習理由も、江藤は、ロシアの南下に備えて、敵情を知るには、その言語からという理由だし、
大隈は、世界で最も話されているのは、英語だからと言う理由。
今の政治家より、よほど国際感覚があっただろうな。
副島は中国通
政府内では元田永孚とキャラが被る
>>63 うん。薩長の連中は正直佐賀人の能力にビビったと思う。
しかも江藤、大隈は大男。副島はイケメン。
この3人に上から目線でモノ言えた者はいなかったはず。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 21:01:48 ID:2daQ0m2d0
佐賀でマシなのは藩主の鍋島直正のみ。
直正が居なければ佐賀など維新政府に加わることは無かった。
まあ江藤くらいは入れたかもしらんがね。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 00:08:20 ID:sL8F7tWq0
佐野常民がいるだろ!
佐野常民は精錬方を率いた日本近代化の立役者。
佐賀が入らなきゃ徳川に妥協しないといけなかっただろう
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 15:53:01 ID:u59e9yTn0
前山清一郎って賞典禄で言えば佐賀藩ナンバー2なのに最後は悲惨だったね。
佐賀藩で一番学識があったのは間違いなく副島種臣だろう。
しかし、明治政府ではそれを上回る、井上毅、元田永孚といった熊本藩の敏腕が居た。
前山清一郎は石を投げられ、県外へ逃げ出し最後は野たれ死にか。
>>63 自分の代わりに参議に据える位だから、評価はしてたんだろうなと思う。
教養があっても政治力が下じゃ畏怖はされんでしょ。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 23:29:50 ID:FFLbnfgJP
>>6 >政変後の大久保のも良いけど、筋が通らない事を多くやってるから好きになれない。
正真正銘キチガイ強姦民族の鹿児島人で、佐賀の大偉人=江藤新平や島義有をさらし首にした、
狂人の大久保利通なんて好きな佐賀人がいるのか?
暗殺されて、ざまあみろだろ。大久保はコンプや嫉妬の塊。
江藤の煌びやかな才能が邪魔で仕方がなかった。
命乞いした江藤を助けなかった西郷隆盛も嫌ってる佐賀人は多いだろう。
>>66 ID:2daQ0m2d0
こいつ杉谷昭並の馬鹿なのか。
杉谷って、インチキ小説を書いたり、
佐賀城本丸歴史館をてめえのいい加減な史観で好き勝手に運営してるよな
鍋島直正より、鍋島直彬の方が、はるかにかっけーわ
>>51 佐賀人って、悪党の山田顕義がつくった日本大学なんかには、絶対入学しちゃいけねえんだがな。
とにかく薩長の強姦魔どもが、勝てば官軍で
むちゃくちゃにてめえら中心史観で近代史を捏造しまくってるから、
佐賀の乱なんて珍語は、絶対に使うな
佐賀人なら、何が何でも「佐賀戦争」
西南戦争で西郷ばかり英雄のごとくって、冗談じゃねえわ
西郷は江藤を見殺しにした重罪人。しょせん人間のクズの鹿児島人
>>36 ぷげら
そりゃ強姦民族の鹿児島だか福岡だか山口のおめえだろ
軍人を見れば分るが、佐賀人ほど、人間味と正義感あるやつらはいない
ネット上で、毛利敏彦先生を血マナコで誹謗中傷しまくってるのも、鹿児島の例のキチガイ爺さんだもんな
>>11 裏切り者の大隈が混ざってるから、佐賀人も評価しづらいんだろうな。
最近じゃ、枝吉(笑)とかを無理矢理ねじこんで八賢人とかほざいてる耄碌爺さんもいるが。
あれは都立大卒の新日鉄退職者で、鹿児島は関係なかったと思うが
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 11:43:52 ID:5iBAf6q+P
>>80 薩摩じゃなくて、長州のやつだった。
学会で総スカンの田村貞男。
売れない本しか書けず、普通の出版社からまったく相手にされない悲しい老人。
中公新書からベストセラー本何冊もの毛利先生へ、嫉妬しまくりなんだろう。
ネット上で孤独なオナニーサイトを主宰し、私怨や妄想ばらまきの怪デンパ、それが田村貞男。
、
1937年8月21日生まれ 山口県徳山市出身。東京教育大学大学院修了。元静岡大情報学部教授。
田村が静岡大教授をやってた頃、佐賀出身で田村と同じ東京教育大OBの田中浩先生(政治思想史)も
同大勤務で、その後田中先生が一橋大学へ移り、テレビに出演するほどの人気教授となったので、
その種の「個人的な怨恨感情」もあるのかもな。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 18:09:42 ID:ak/Aa8uX0
俺は江藤も大久保も大好きだわ
あれだけ優秀な官僚が明治初期に複数いたことが日本の幸いだった
大隈が佐賀出身だったってどうでもいいわ。
そう云えば大隈の元妻が再婚した相手は佐賀の乱で江藤に味方してたな。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 23:21:03 ID:fS+ZUTDl0
佐賀出身の牟田口廉也を超える極悪鬼畜はいないw
牟田口廉也はとにかく極悪すぎるwwww
さすが強姦鬼畜佐賀の奴だけあるわなw
なんで大阪と佐賀関係のスレには、スレチのキチガイが多いんだろうな。
86 :
愛のエメラルド:2011/02/01(火) 11:39:56 ID:I+OweGzZ0
44>>ボアソナードって明治の招聘外国人で一番の功労者じゃなかったっけ?
彼が江藤をどう思ってたのか聞いてみたいもんだな。
お答します。ボアソナードの心を占めたのは
大久保利通と山田顕義の2人です。
江藤さんは速く死にすぎ。
87 :
愛のエメラルド:2011/02/01(火) 11:52:00 ID:I+OweGzZ0
佐賀人って、悪党の山田顕義がつくった日本大学なんかには、絶対入学しちゃいけねえんだがな。
お答えします。後年、山田顕義は戦場で敵味方として争った
朝倉弾蔵の墓前に花を手向けていますから
悪党でもゴロツキでもないのでは?
佐賀の乱での悪党は大久保利通一人なのでは。。
大久保は西南の役でもそうだがやり方があまりに汚い。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 18:34:08 ID:h+Amaf1T0
西郷スレにて
>278 名前: 愛のエメラルド 投稿日: 2011/02/01(火) 12:59:00 ID:I+OweGzZ0
>268>>
>子孫に美田を残さず、と語ったそうだが、
>兄弟や親せき、同じ郷中の若者たちを高給で政府に就職させていた。
>
>自分の金は残さず、人の金(税金)で美田を残すのが西郷流らしい。
>
>お答えします。事実です。
>西郷隆盛は洋行帰りの弟の従道を中将に抜擢しています。
>日本軍隊を創ったのは大村益次郎と山田顕義の2トップです。
>大村の死後、人事権を握った西郷隆盛は
>西郷お気に入りの山縣有朋と弟の従道を中将に抜擢しています。
>鳥羽伏見、北越の戦い、五稜郭と戦い抜き
>日本軍隊の基礎を創った山田顕義を窓際に差し置いてです。
>
>この西郷大将の身びいきな人事は木戸孝允、顕義の怒りを買い
>西南戦争、熊本城の攻防戦、人吉の戦いなどで
>西郷軍が山田旅団に完敗すると云う結果になります。
向こうでは山田顕義賛美に満ちているのに、こちらでは叩き一色。
要するに新政府関係者は整合性がなかろうと叩く。星亮一傘下の人は、ここまで下劣なのかね。
>86
ボアソナードを招聘したのは江藤。
ボアソナードが教鞭を執ったのは、江藤が設立した司法省法学校。
何とも思ってないわけ無いだろ。
>88
山田顕義を叩いてるのは変な奴一人だけ。
ただ招聘に関して直接ボアソナードと接触したのは沼間とか、下僚クラスだし、
一緒に仕事したのは大木だろう。江藤はボアソナードでよいという追認だね。
まあ仏法大好きの江藤が生きてたら、今ごろ日本は刑法、民法、刑訴法、みんなフランス法系で、
もっとメジャーな法体系だったかも。途中から見事に独法に乗っ取られてしまったな
左院での活動に比べて、江藤の司法省って在任期間が短すぎるんだよ
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 16:46:28.01 ID:ZNKvuNWdO
江藤の失脚が無ければ警察権は司法省管轄のままだったろうね
マッポって言い方も無かったかもしれない
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 22:11:23.73 ID:b+g8NHQb0
のちの検察ファショである。
>>91 それは無いだろう。
江藤自身が変体だと認識していたし。
江藤が目指した三権分立とは相反する事にもなる。
たぶん警察組織を育てるまでは手元に置いて、発展後に内務省に引き渡し、浮いた予算で、
さらなる裁判所設置と弁護士と検察官育成をするつもりだったんじゃないだろうか。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 21:17:20.35 ID:XXoPmSYC0
佐賀藩の工廠群が明治に入ってすぐ廃れたのはなぜなのだろうか
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 00:33:57.07 ID:lmG544Xi0
藩独自の武器製造は政府への反乱行為かな
>94
閑叟の指示で、新政府に献上したんじゃなかったっけ?
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 13:16:40.23 ID:OF9nkhfA0
佐賀の役に参加した士族は11,647人とあるが実際は3,000人くらいだろな
うちの先祖は200人余りを率いた部隊長だったと資料が残ってる
江藤小三郎ってスゲェな。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 11:12:15.70 ID:8B66Tl6o0
一、武士道に於いておくれ取り申すまじき事。
一、主君の御用に立つべき事。
一、親に孝行仕るべき事。
一、大慈悲を起し人の為になるべき事。
此の四誓願を、毎朝、仏神に念じ候へば、二人力になりて、後ろへはしざらぬものなり。
尺取虫の様に、少しづゝ先へ、にじり申すものに候。仏神も、先ず誓願を起こし給ふなり。
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 22:16:27.24 ID:3w0u/AB30
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 23:47:31.82 ID:CgHxbuSCO
>>100さんへ。
情報ありがとうございます。とりあえず立ち読みしてみます。
ところで佐賀市観光協会のホムペ見たら今年の「銅像まつり」は中止らしい。これも震災の影響かどうかはわかりませんが。
>>100 「歳月」の江藤新平は分裂症みたいな感じだったな
考えや性格がいまいち安定してないというか
小説自体は面白かったけど
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 10:10:38.64 ID:fTqda9rL0
現代書館のシリーズ藩物語 佐賀藩もお勧め
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 10:31:43.84 ID:fTqda9rL0
六年政変で下野して佐賀に帰る時、江藤と同じ汽車に乗り込んでまで
後藤象二郎が「佐賀に帰るな」と説得したと何かの本で読んだ。
戊辰戦争前「討幕」か「公儀政体」かで大久保とやりあい大久保の
恐ろしさを知ってるから後藤は大久保は江藤を抹殺するため謀略を
絶対しかけてくると言ったらしい。
汽車に乗り込んでまで江藤をしたというのは史実として本当か
知ってる人が居たら教えてほしい。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 17:44:06.79 ID:pSQHfQ1t0
佐賀まで汽車に乗ったと思ったら新橋から横浜までか
>>104 後藤がそこまでして説得したとは知らないなあ
副島は、佐賀の乱の時に清国に滞在していなければ島義勇と共に加わっていたかもしれない。
江藤の墓の筆を手掛けたのも副島だったし。
でも副島は大久保とも親しかったんじゃなかったっけ?
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 12:46:22.57 ID:ccBFSlpaO
今日は江藤さんの命日ですね。
あげときます。
線香 |~
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 07:17:37.85 ID:jc6VDAjo0
江藤新平の写真は、明治期のものより幕末期の座像のほうがイケメンなのに
どうしてそっちを使わないのだろうか?
明治期のものは目が怖い。
110 :
株価【E】 u:2011/04/20(水) 23:59:02.37 ID:MQeH/6/80
江藤と大久保は性格が似すぎていた。
>110
やりたい事が似てただけで、性格は似てないだろw
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 11:47:08.36 ID:D3zoi4On0
性格は真反対な感じだけど、能力的には互いに認めざるを得なかったんじゃないかな
それで同属嫌悪になっていったとか
いわゆる志士あがりの高官に実務能力の低いタイプが多い中、
即戦力でテキパキ仕事をこなす江藤は大久保にとっても当初は「使える奴」だっただろう。
しかし、「使える奴」の一人である大久保にとって、岩倉や三條から見て”大久保に代わりがいる”
と、思われることに危機感を覚えたのでは?
江藤と大久保じゃタイプが違うから代わりになるとは思われんのでは
大久保はあれで意外とパワーバランスを気にするが、江藤にはそういう面はなさそうだから
岩倉や三条がいくら江藤を評価していようとも、二人を置きかえ得るとは思ってもみないだろ
やりたいこともそんなに似てたとは思えん…
当時ある程度先が見えてた連中はだいたいこういう方向でやりたかった
ってレベルの類似じゃねえの
115 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 【東電 87.3 %】 :2011/04/23(土) 22:26:39.62 ID:gEkJtybI0
自分も江藤と大久保は全く似てないと思う
江藤に似てるなーと思うのは大村益次郎
どっちも薩摩に葬り去られましたな
確か、大村が私用でお互いの自宅を行き来する数少ない友人が江藤。
ま、交友が始まってすぐに暗殺されたけど。
へー、彰義隊の上野戦争のとき、江藤が大村を総指揮に推薦したって話は聞いたことあるけど、
私的な交流もあったんだね。
どんな接点が……?と思ったが、共通の親密な知り合いが居たな。そういえば。
大村が生きてたら、西郷は陸軍大将を兼任せず山県もあまり権力を持てず、
留守政府のパワーバランスもがらっと変わって江藤の運命も違ってたろうなあ。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/29(金) 16:33:48.01 ID:0dUpPhqT0
江藤新平の幕末の著書『図海策』は凄いね。
同時期の開国論者、薩摩藩主島津斉彬や越前藩主・橋本左内の幕閣あての建白書は安政4年執筆だからね。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/29(金) 16:34:31.58 ID:0dUpPhqT0
弘道館退学後に新平は日本の海外対策を研究し、安政三年(1856)九月にはこれまでの攘夷論を排し開国論を主張するに至り「図海策」を草した。
この「図海策」とは、形勢・招才・通商・拓北の四章からなるもので当時の日本の政策論でも開国通商を述べるなど、時勢を抜きんでていた。
「図海策」は長文でここにすべてを記すことは困難なため、文の主旨だけを紹介します。
http://www13.ocn.ne.jp/~nanhaku/jikenbo.htm 形勢
攘夷論の批判、攘夷戦争不能の理由五つ
招才
人材登用の必要と効果
通商
日本の利点を活かして通商国家への途をとれば世界最強のイギリスをも凌駕できるであろうと予想
拓北
北海道開拓の経済的効果、対ロシア戦略にも重要
攘夷論がまだ主論であった安政三年は、あの木戸や大久保も尊王攘夷論であったことからも新平に先見の目があったといえる。
123 :
忍法帖【Lv=11,xxxPT】 【東電 70.7 %】 :2011/05/08(日) 12:23:31.24 ID:lVe02uTh0
明治の日本陸軍でも採用されたスナイドルエンフィールド銃を、最も早く装備した佐賀藩。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 21:57:15.15 ID:OYUO7bY/0
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 00:46:22.98 ID:gatiFOy30
佐賀藩なんざ所詮、鍋島閑叟公のおかけで滑り込みで維新政府に入ってきたアウトサイダーだから
いくら副島や江藤が優秀でも、所詮薩長の靴の下をナメなければ出世出来なかったのさ。
小ずるい大木喬任や大隈重信のようにね。
佐賀藩閥は(この言い方もなんだが)法曹官憲・海軍に溶け込んでいったから
政治屋で居続けた大木や大隈はレアケース
牟田口、古賀............
いや、なんでもない。
>127
そいつらみたいな思考が硬直したようなのは葉隠れの悪い面の影響なんだろうな。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 14:44:51.58 ID:r2O6AwTe0
その二人佐賀出身ってだけで藩教育とは微塵も関係ないだろ
藩教育を受けた人たちに薫陶されてるだろ。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 10:42:27.18 ID:kF65kbmH0
軍人教育は陸海軍とも葉隠れの精神を手本としてるんだろ
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 12:05:44.30 ID:fQdRz7Wv0
葉隠は『軍人としての武士』の心得書だけどそれ以上の物ではないので
あんまり傾倒し過ぎると組織の保全にしか目がいかなくなる
明治維新における佐賀なんて日本のイタリア
いやいや、南部藩との戦いではちゃんと勝ってるからね。うん。
葉隠が帝国陸海軍で流行ったのと
司馬遼太郎が自衛隊で流行っているのは似てる
>135
だが、葉隠と司馬小説は似てないし、司馬遼太郎はビジネスマンの間でも人気がある。
手榴弾とレモンは同じ形だが、全く別物であるのと同じだ。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 21:41:18.10 ID:Fm8svIsw0
俺が嫌いなのは江藤ではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきの江藤に託し、江藤が頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 23:36:05.51 ID:lEr+KX7x0
幕府直轄といっても藩内に最先端の技術と情報が満載の長崎を抱えていた
当時の佐賀藩は最新情報や技術が逸早く入っていた日本の最先端を行く
藩だったはず・・・・江藤とか大隈がやや近代先走りだったのがわかる。
走る奴は潰されたんだよ。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 02:07:21.82 ID:o5g0x3v50
江藤はロシア的急進主義者
大隈はイギリス的漸進主義者
江藤は現実がみえていなかったし、大隈は俗っぽくなりすぎた
二人に共通するのは他者がなぜ理解できないかを理解出来ていない事
>>139 それは、かなりの「歳月」観が入ってるね。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 09:44:50.56 ID:yyxVVPrK0
まあ、副島の伯爵叙爵は大木や大隈よりも早いけどね。
しかし、維新後に佐賀藩の有能な藩士達が開拓使になったり海軍に流れたのは残念だった。
鍋島直正公は北海道の開拓に力を入れたからなあ
別に、中央政府に居ることだけが国のためじゃないからいいんじゃね?
海軍将官クラスを120人も出しといて大将経験者が6人しかいないのはちょっと残念
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 03:42:56.49 ID:rLSt4lGb0
大木喬任って七賢人の中でダントツ影が薄いんだけど、どういう人間だったんだろう
副島が破産した時に助けてあげたり、江藤の仕事を引き継いだり地味に頑張ってるけど
あまり地味なせいで息子さんが伝記作りに走り回ったらしいとか
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 04:07:44.12 ID:YalCzs4z0
表立って目立たないからこそ元老院&枢密院議長の座を得た、という印象
東京遷都案考えたのは江藤じゃなくて大木だって聞いたけど 提出は連名で
>144
地味に勝ち馬に乗り続けたって感じだな。
他の人と違って、公私ともに過失も無いし。
>146
それは閑叟案だろ
しかし対ロシアを想定した先見性はスゴい
今の日本に足りない戦略家が沢山いた印象
>148
現代も先見性がある人はたくさんいるよ。
ただ、利権や思想といったものに邪魔されてるだけだと思う。
対北朝鮮や対中国で国防費増だといえば戦争反対といって反対する人達や、
スパイ対策で情報局設置だといえば、情報統制社会だと反対する人達がいるでしょ。
それと、江戸時代であれば、有能な藩主が、身分低く貧乏な藩士でも有能であれば
一気に藩政へ取り立てることができたけど、現代は絶対的に金がかかる。
>>149 江戸時代の改革派は暗殺のリスクが、段違いに高かったのでは?
いつの時代も障害あるよね、跳ねのけてスゴいなと思うよ。今の時代は経済改革が急務じゃないかな、国防なんかは1円にもならない無能な政治家の方便だよ
>>149 現代日本において国家運営における先見性やら戦略眼を求められるのは官僚でしょ。
だから官僚の戦略眼や能力を曇らせるのは省益とか省内派閥争いとかじゃないかな。
ついでに言えば国防費増反対や情報局設置反対だって、国民や左派政治家だけじゃなく
官僚にもそういう思考の人が多数いることを忘れちゃいけない。
こないだの尖閣沖の問題だって、船長釈放で胸を撫で下ろしたのは民主党だけじゃなく
外務・防衛・国交・経済産業など各省の官僚(しかも各省主流派)だったのは言うまでも無い。
ま、皮肉な見方をすれば、幕末とは違って現代日本で本当に先見性があれば、
官僚や政治家は目指さず、企業家になるんじゃないかな・・・
そして企業家として最大の利益を得るために中国進出・・・
あれ、結局官僚になろうが政治家になろうが企業家になろうが、向いてる方向が同じだぞおいw
ニッポンどうにかしてくれよまぢで
#長文&スレ違いすまぬ
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 01:04:48.47 ID:79buF0zO0
さっきNHK−BSで売国会津・荘内のことを放送していた。
オレは大隈生家の近くに実家がある佐賀市民だ。上の方で
「佐賀はイタリア」みたいなふざけたレスがあるが笑止千万。
旧幕府側でもっとも戦意が高く、装備も充実していた荘内藩を
打ち負かしたのが佐賀藩だ。
荘内藩は譜代筆頭、幕末は江戸警護を担当していた。
幕府を挑発するため薩摩が起こしたテロに怒り、薩摩藩邸に
突撃し、もう後に引けなくなっていた。
長州は、秋田藩を新政府側に寝返らせたが約束の軍事的支援は
しなかった。その秋田藩を荘内藩の猛攻から助けたのが
佐賀藩だ。秋田には亡くなった佐賀藩兵の慰霊碑および
慰霊行事があると聞く。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 01:09:39.93 ID:553zXzFd0
『佐賀はイタリア』って
意外に文化的素養が高いとことか、装備の水準とか
味な仕事をする部分が評価されてんのかと思って悪い気はしてなかったんだけど
イタリアって近代軍隊では弱腰というイメージだけど、
文化面では欧州一レベルが高いというイメージだな。
ローマ史が好きなので、良いイメージの方が強いわ。
え、イタリアって褒め言葉じゃないの?
庄内藩が譜代筆頭とは初めて聞いた。
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 03:04:08.42 ID:sP1Nuu4v0
江藤新平
切れ者だったのは確か(だからこそ下級武士から参議まで昇りつめた)
ただその後の政治行動は猛烈な権力志向のせいか目的を失った
もう少しバランスがとれてれば・・・
しかしまぁ、自分の仕事に邁進する官僚としては極めて優秀だったな
>156
目的はあっただろ。
だから西郷の下で次々と改革を実行していったわけだし。
>157
明治初期の政治家は事務手腕も辣腕家揃いだったな。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 07:15:30.20 ID:sA1708f80
江藤みたいなタイプは権力志向というより歴史にどうやって名を残すかの方に重きがあるだろ
山川出版”日本史リブレット人シリーズ”の「大久保利通」での江藤の扱いが酷すぎて笑ったw
佐賀の乱は江藤が煽動して起こしたことになってるし、攻撃開始後も二日で県外逃亡したことにされてるし、
捕縛後にきちんと取り調べされた事になってて、しかも、死刑判決後無様に大騒ぎした事になってる。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 17:30:57.55 ID:Gr9bIyBC0
事実は
でっち上げ事件→暗黒裁判→不当判決なのにな。
書いたのが佐々木克だからなー
江藤における毛利敏彦ほどは酷くないが、かなり偏った大久保贔屓の人だよね
島善高著「律令制から立憲制へ」を読みましょう。
>>162 毛利敏彦は江藤や大久保の記述で>160のみたいに事実をねじ曲げてたか?
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 12:04:17.26 ID:2bX82VkIO
佐賀藩の水車動力活用について詳しい資料ある?
江藤研究者は、毛利さんもそうだけど、刑事手続法を重視するからな(法曹出身者や法学者が多いし)
佐々木先生は政治的に妥当かどうかと言う観点だから、
佐賀の乱の処分については説明が苦しいし、ご自身でもそれは認めている
ただ、法曹関係者から見ると、実務を仕切ったのは箕作で、江藤も政治家ではあるんだよね
ボアソナードと拷問廃止の逸話などを見ると、大木のほうが実務的だったんではないかとも思う
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 18:47:23.41 ID:uh5fcE3V0
「佐賀の三平」と呼ばれた江藤。
どうもすいません
大木は支離滅裂やろ。憲法論なんか、凄ぇ復古調だし
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 20:56:05.14 ID:iIa2Zvzk0
「人智は空腹より出る」
腹減った。
古賀定雄
維新前は古賀一平と称し、大木喬任(民平)、江藤新平とともに“佐賀の三平”と呼ばれた。
早くから勤王を唱え、藩の幹部から嫌われた。
明治期の民法典論争をみる限り、
江藤新平が失脚しなかったとしても、
フランス式民法が当時の日本で施行するのは難しいかったんじゃないか?
やたら日本の伝統とやらにこだわる保守派が
政府内や議員(衆議院・貴族院両方)に多かったから。
山田顕義もそれが原因で法典論争で負かされたし。
江藤は仏民法典をほぼ直訳させたんだよ。
一方で大木=ボアソナードは国情調査を重ねて日本の慣習に適合的なものを作った。
江藤は、仏法典をとりあえず直訳させ、翻訳し終えたものを順に論議して
日本に適合する形にして施行って流れで作業してなかったか?
近代法が無いところへ一刻も早く近代法を持ち込もうとしたから、
重要なものは達しという形で施行していたし。
日本に適合と言っても、地方ごと、天領と藩領で慣習が違ったからね。そこは調査が必要だったと思う。
一方で手続法や管轄に関しては「達し」が威力を発揮した。
就任直後のマリア・ルス号事件でも小野組転籍事件でも、管轄の問題を江藤は重視している。
江藤が生きていたら、今ごろ概念ばっかりやかましいドイツ法なんてマイナーな法体系ではなく、
世界に冠たるフランス法の一国として、シエラレオネやマダガスカルと肩を並べられたのにw
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 14:12:55.57 ID:Ps2kBRtBI
歳月はおもしろかった
少々の実務能力で天狗になり薩長閥分断を策したが
天才大久保さんに憎まれ子供のよう翻弄された挙句処刑見せしめにされたんだっけ
>178
煽り乙w
みんなでまた義祭同盟つくろうよ。
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/13(土) 13:43:59.12 ID:5st/pvxK0
>>178 大久保にとって、江藤の行動は激しくKYに見えたんだろうな。
でも、現代の感覚からすれば、当時の世界中の大政治家の業績は古臭く思えるが、
江藤がやろうとした事には何の違和感もないな。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 02:02:33.74 ID:CbPKmW5b0
江藤は実務官僚としては当時屈指
実績により政策を策定する参議にまで出世
この頃からそれまで目立たなかった別の面(極端な権力志向)が現われる
山縣など政敵の失脚を狙った汚職摘発(理屈は正しくても主たる目的が前者なのがあきらか)
征韓論に組したが西郷のように士族救済というよりは権力維持のためという色彩が濃厚
下野後不平士族を宥めるというよりはむしろ利用しようとしてる
西郷にその辺を見抜かれ同盟は不調
ここまで来れば後は奈落の底
能力を考えればちょっと残念だが結局は自業自得だろう
現代の見地から過去の人の事績を断罪するなんて事はしたくないよね
>183
ひょっとして釣り?
>山縣など政敵の失脚を狙った汚職摘発(理屈は正しくても主たる目的が前者なのがあきらか)
山県の山城屋事件は山城屋和助がパリで公金を使い込んで豪遊をしているという現地の噂を
外務省筋で入手した情報を元に、捜査が始まった事件であり、失脚を狙って始めた操作ではない。
井上の尾去沢銅山事件は、鍵屋茂兵衛から職権を使って不当に取り上げて私物化したところ、
鍵屋が”司法省達第46号”の存在を知って司法省へ直訴して捜査が始まった。
双方とも、結果的に失脚するしかなかっただけで、失脚を目的に捜査をしたわけではない。
現在の価値で言えば数兆円の使い込みなので徹底追求されて然るべき事案。
>征韓論に組したが西郷のように士族救済というよりは権力維持のためという色彩が濃厚
征韓論は、征韓派とされる面々は、板垣以外は外交の非礼を糺すというスタンスであり、
会議では誰も出兵には言及していないので、元から士族救済という論陣は張られていない。
>下野後不平士族を宥めるというよりはむしろ利用しようとしてる
佐賀の乱は、江藤と島で佐賀士族は沈静化しかけていたが、大久保が派遣した新県令の
岩村高俊の挑発によって暴発する形で始まったものであり、利用云々は論外。
そもそも、江藤は逆に、反乱の首領に担ぎ上げられることを警戒して、佐賀の乱の5日前まで
長崎でブラブラと遊びながら過ごしている。
>西郷にその辺を見抜かれ同盟は不調
見抜かれるも何も、西郷は江藤を助ける策を授けるが、江藤が受け入れなかったので決裂しただけ。
法的にも、常識的にも、江藤が捕まれば東京へ連れて行かれ天皇の裁断を待つことになるはずだったので、
まさか佐賀で不法に処刑されるとは思ってなかっただろう。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 16:26:15.59 ID:gf17gKab0
大久保は江藤の晒し首の写真を自分の公務室に飾っていた。
↑↑
異常!
187 :
183:2011/08/21(日) 19:27:08.10 ID:CbPKmW5b0
>>185 権力者時代の記述は単純化しすぎかもしれないが
貴方の指摘を待つまでも無くそれも考慮した上で書いた
失脚後の貴方の意見は失礼だが都合の悪い事実は無視かよほどナイーブとしか思えない
『洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新』(刑部芳則 著 講談社選書メチエ 2010年)より
明治三年、兵部省では山田顕義らが軍制・軍旗・軍服などを検討。
機能性を重視した洋風軍服案を提出すると、江藤新平(制度取調掛)が大反対。
江藤の下で古代官服を参考に考案された軍服は近代軍制には不向きなため、
結局洋服が採用される。
ちなみに江藤の下で考案された軍服は、
乗馬した際にすぐビリッと破れてしまうような非常に脆い代物だったらしい。
明治初頭は軍人がちゃんと高官にお伺いををたてる時代だったんだな
>>190 野党だった立憲政友会が当時与党だった立憲民政党政権を打倒する政争の道具に
「統帥権干犯問題」を持ち出すまでは一応シビリアンコントロールの形は取れていた。
何も明治初期に限ったことではない。
それにしても江藤って、軍事関係にはあまり関心がなかったのかな。
実際に戦闘することを考えれば、動きやすい洋式軍服を選択することは
別に間違っていないだろうに。
佐賀藩士は洋式軍隊の訓練を受けていて、佐賀出身者は洋式軍備推進論者だったはずだが。
特に江藤は、明治維新の12年も前から、洋式軍隊を強化してロシアの南下に備えろって言ってる。
>189の書籍は妙だな。
佐賀藩士は洋式軍隊の訓練を受けていて、佐賀出身者は洋式軍備推進論者だった。
特に江藤は、明治維新の12年も前から、洋式軍隊を強化してロシアの南下に備えろって言ってる。
今度立ち読みしてみよ〜
おぉ〜
書き込みエラーが出たのに書き込まれてた〜
洋式軍隊=洋装 ではないじゃん。薩長の兵だって服装はばらばらっしょ。
それに江藤自身が和服で通した人じゃなかった?
あえてそういう服装にして、軍が反乱した場合でも対処しやすくするという
江藤の深慮遠謀が……
デザインの細部まで江藤が関わってるわけないだろ
生地変えれば和装でも代替可能だと普通思う
>195
江藤が和服で通したのは和服というポリシーじゃなく、洋服の古着が存在しなかったからでしょ?
洋装だと服だけでとんでもなく費用がかかるって事で反対だったんじゃない?
まだ小学校すら整備されてない時だったし。
>>198 >洋服の古着が存在しなかったからでしょ?
実に納得できるな〜by佐賀市民
もともと手明鑓だもんな。
あれほどの功績があった鋳立方(反射炉)の賢人(手明鑓or手明鑓格)たちも
ほとんどは行賞の上で「一代侍」
実質的な技術主任の職人たちは「一代手明鑓」
維新後、地元にとって益が無かったのは、
副島も大木も大隈も皆一緒…
佐野は問題外…
日本国内に西洋の『洋』服が殆ど無いって意味だろ
江藤は和魂洋芸の人
大村も一方で近代化した人だが和魂の人
暑い中フロッグコート着てた大久保は笑止なり
形を整えなければ相手(列強)が対等と納得しないというのも世の常なわけで
形変えたって納得なんてしないのが世の常
日本が対等に条約改正に持ってけたのは全部軍事力によって
すべて戦争の効用によるもの
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 23:52:39.03 ID:6u7gnwTq0
そうでもない
西洋には西洋文明こそ品格だという意識があった
>201
フロッグコートてwww
大久保がカエルまみれになってるのを想像したわwww
Frock Coatだから、”グ”ではないぞ。
それに、フロックコートはトレンチコートよりは短く、生地や当時の気温から考えても、
現代社会で、真夏に完全装備のスーツでいるよりは涼しかったろう。
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 00:33:11.46 ID:bORMUojl0
ここに書くのは変だが
大久保はある一面だけでは割り切れないぐらい懐が深い
政治理念、行動がとても終始一貫してるとは思えないが・・・
元勲として明治初期をくぐり抜けた伊藤、山縣にも同じ臭いを感じる
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 00:56:18.62 ID:2Z7oNe5l0
だからどうしたとしか・・・・
要旨を言ってくれ
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 00:55:35.31 ID:TiMMbvit0
政治屋と政治家の違い
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 03:07:43.65 ID:5ko3NwKKO
を具体的に示してみてください
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 05:16:28.94 ID:u0GnkwYu0
あくまでも俺の主観だが
・政治屋・・・政治理念はさすがに有るだろうがぎりぎりになると自己の利害が優先
・政治家・・・基本はたぶん同じだがぎりぎりの時に自己の利害を捨てられる人(政治目的意識が有るから)
きれい事だが歴史上ではそうゆう評価をかち得た人物もいる
>210
政治家=目的の為には手段を問わない。
政治屋=手段の為には目的を問わない。
最近は政治屋が多いから、自分が得する方へと簡単に流れるから目的も変わる。
直近だと、麻生は政治家、菅は政治屋、鳩山は目的と手段が刻一刻と変わるから政治に携わってはいけない人。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 13:53:38.50 ID:eHfawD6V0
江藤新平(1834〜74年)が首謀したとされる「佐賀の乱」について、「不平士族の反乱という誤った通説で、
『佐賀の役(えき)』や『佐賀戦争』にすべき」という改称論議が佐賀市議会で“再燃”した。
9日の市議会一般質問で議員が、江藤と敵対していた大久保利通の陰謀説を唱える学説や
英公文書に記された当時の記述などを基に「歴史教科書の記述を改めるよう求めるべき」とただした。
東島正明教育長は「最新の学説を踏まえ、多様な視点から歴史を学ぶ必要がある」との認識を示した上で
「市内の中学生に配布している歴史資料集や副読本には『佐賀戦争』などの名称も併記し、
最近の研究で新しい見方も出ていると紹介している」と説明。教科書の出版元にも、問題提起する意向を示した。
2009年にも同じ質問が出ている。今回は同市川副町の佐野常民記念館での展示説明に
「佐賀の乱」と表記されていることも指摘。市は「副読本に書かれた内容などを踏まえ、表記の見直しを検討したい」と答えた。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2044404.article.html
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 23:44:24.96 ID:oR5AMAE00
田中久重は蒸気船建造にどれぐらい関与していたんだろうか
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 20:50:55.78 ID:Hsa35QsG0
石黒寛次が洋書を翻訳→中村奇輔が設計製図→田中父子が製作
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 14:59:17.81 ID:DYFgNq760
副島の対清外交をまとめたものがMSN産経 「ライフ」の
項目に載っている。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:32:00.55 ID:2jPh2ac+0
原口一博
→参照『昭和史の辞典』(東京堂出版)
P.8 「天皇機関説排撃事件」より抜粋
「1934年2月、第65回議会において貴族院議員菊地武夫が
美濃部の著書『憲法撮要』を反国体的学説であると攻撃した。
翌35年の第67回議会でも衆議院で江藤源九郎が
美濃部の著書発禁を政府に迫り、
貴族院でも再び菊池が政府の処置を正した。」
この衆議院議員の江藤源九郎という人物は、江藤の実の甥。
親族は一体この男にどんな教育を施していたんだ?
>217
戦前の政治体制で天皇に主権は無いとかいう主張を出版をすれば、
そりゃ非難されたり発禁されても仕方ないと思うが。
しかし大正デモクラシー華やかなりし時は、普通に天皇機関説が
受け入れられて学会の主流になっていたんじゃなかったか。
対する天皇主権説派が、穂積八束―上杉慎吉の庇護者だった
山県有朋=文武官僚が分裂したり政党政治の隆盛で退潮気味だったのが
有利に働いていたにせよ。
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 14:43:18.88 ID:ekLvNlRY0
江藤新平の親戚だけど。
家に副島種臣の書がいくつかあったなぁ。
いくらくらいで売れるんだろう。
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 17:41:06.67 ID:Dv2kMj5P0
つ何でも鑑定団
>>219 菊池・江藤とも陸士出身で昭和初期の陸軍軍縮の時期に退役したんでしょ。
帝大出の受験通説なんてまったく無縁だよ…
今でも東大の憲法の先生の学説なんか、防大では教えないでしょ。政府答弁は教えるけど
>>223 いや、菊池・江藤が現役のときに知ってたかどうかなんて知らないけど……
政府の憲法解釈なんて、政治に興味なきゃ知らない奴は知らないだろうし。今でも。
そもそも、
>>219は戦前の政治体制を十把一絡げにした
>>218への指摘でして。
>>224 >217の頃は、世界中が右傾化か左傾化に振れていった頃で、
日本の主流は右翼だったんだから>218の意見は一理あるのでは?
大正デモクラシーの頃と、満州国建国後とでは相当世相も違うでしょ。
世界恐慌の前と後でもかなり違うわけだし。
江藤の甥は当時、陸軍出身のうざい政治家としてそんな変な人ではないが、
江藤の孫(冬雄、夏雄)の子が2人とも自衛官と言うのが変な感じ(夏雄も防衛次官だし)
夏雄は普通に五高帝大満鉄入社なんだけど、満州国時代に変な方向に染まったか?
>>225 いや、戦前の政治体制と一纏めになってたのが気になっただけで、
たとえば君のそのレスなんかには異論ないよ。
やっぱ江藤家は政界に打って出たいタイプが多かったのかな。
民権運動もやってるし、官僚できちんと勤め上げるタイプじゃないよね。
週刊朝日MOOKの”週刊司馬遼太郎8 ”に江藤新平特集。
というか、歳月の特集。
〉〉221結婚して下さい。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 20:46:24.64 ID:4qzz3qyH0
司馬遼太郎著/『歳月』の中の佐賀の三平って
江藤新平と大木と大隈だっけ?
歳月の序章で桂・伊藤と別れて山陽道へ西へ下ってゆく江藤を描いた記述で
夜遅く行灯を引き寄せ伏せりつつ書き物をして朝早く宿所を出立し
京都見聞記を書き上げつつ精力的に度を重ね佐賀藩へ帰って行く江藤
いつの時代にも天分というか仕事(何事か)を為す為に生まれ精力的に生きて動く人間がいるんだと
江藤氏の生き様を見て感じる
>>231 古賀定雄
維新前は古賀一平と称し、大木喬任(民平)、江藤新平とともに“佐賀の三平”と呼ばれた。
早くから勤王を唱え、藩の幹部から嫌われた。
まあ、地元の佐賀県では江藤新平は神扱いだけどね。
佐賀人と話をすると必ず江藤新平と坂井三郎を英雄に挙げる。
坂井三郎は英雄だと思うが……その……大隈重信は……?
ダメだね。
大隈は根が反骨というか、ひねくれ者すぎて正道が歩けない人
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 15:53:27.74 ID:mO4HRuM80
江藤が土佐の林有造宅を門下生と入説に訪れ不調に終わり
さて、土佐を去る場面で江藤が船田に向かい「こんな詩を知っているか?
3月の雨は六朝の涙に似たり」〜「歳月」
もちろんその場で江藤が船田とこんな会話を交わしたなんて事実は史料を漁っても当然分からないであろうし
司馬氏の想像の賜物であろうが 読んでて江藤氏に感情移入しかけた
薩摩、土佐との連携が失敗に終わり伊予、徳島の山中の険路を難儀しながら逃避行を続ける江藤
読んでてドキドキが止まりませんでした。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 17:25:32.27 ID:ee4J6ehS0
かれ(大久保)は江藤以外の政敵については少しも憎悪を感じていなかった。
大久保にとってえたいの知れぬのは江藤新平ひとりである。(江藤だけは私怨と権謀だけでうごいている)
江藤の「私怨」とは江藤がことあるごとに毒煙のように吐きちらしている薩長閥への憎しみのことであった。
さらに江藤の「権謀」とは薩長の結束力を分解せしめようとくわだて、それがために征韓論を力説した。
大久保からみれば江藤はおのれの権謀のためには国家の運命を犠牲にしてもかまわぬという徒であり、いわば国家というサイコロに細工するいかさま賭博師であった。
こういう種類の才人を大久保は「権詐機巧の才」とよんでいる。
このあたりが人間関係の微妙さであった。なぜならば「権詐機巧」ということにかけては大久保は同質同類の才質をもち、しかもその点において江藤よりはるかに巨大なタレントであった。
大久保は「だが、おれは江藤ではない。自分には満腔の赤誠がある」とあふれるほどの自信をもって言い、同時にこの頭のよすぎる男は(江藤も、自分をそうみているのではないか)とも観察し、その点をおそれた。
このおそれを消すには江藤そのものを消滅させるよりほかない。
江藤逃げてー。
こんな危険な男に無警戒にチョッカイ出す江藤…。
政敵を陰謀で葬ろうとしてるのに、自分が逆に罠にかけられるとは夢にも思わない江藤。
誰もが認める有能なのに、一面赤子のように無防備で、あっけなく命を落とした江藤。
そんな江藤が何とも言えず愛おしい。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 19:10:53.75 ID:fPAcZO1V0
司馬さんの歳月を読むと前半部分は江藤氏の溢れんばかりの天分と精力
そして卑賤の身分に生まれた為に藩の要職に就けず己の才を発揮できない氏のもどかしさへの
惜しみない賛賞と溢れんばかりの愛情を注いで記述をしているよう読み取れる
後半一転して大久保が登場する章から雲行きが怪しくなり最後は皆さんご存知の結末
司馬氏が焦点を当てて(例えフィクションであれ)作品にまとめあげ江藤氏という才人が幕末に存在し
日本近代史において光芒を放ったという印象を読者に与えた影響は大きいと思う
自分も恥ずかしながら司馬氏の歳月を読むまで江藤氏については殆ど知識を持ち合わせていませんでした
「皇天后土の我が心を知るあるのみ」三度叫んだ
史料に残された最後の叫びを記し静かに幕を引くような終章の記述も印象的でした。
歳月感想レスになってしまい申し訳ありません、偉大な政治家だったと想像します。
個人的には、江藤は政治家でなく官僚であれば大成したと思うなぁ。
政敵だった井上と同じ方向性で政治家に向いてない。
無用に敵を作るというか、人によって好悪が極端に分かれるという点で。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 20:27:26.19 ID:fPAcZO1V0
フと思ったが吉村昭氏がもしも江藤新平を題材に作品を描いたらどんなのが出来上がっただろうか?
判官贔屓?折り目正しく正直に生きる人が好きな印象がある吉村氏
恐らくだが(?進歩主義的で新しい文物を積極的に取り入れ栄達欲にかられた
江藤氏のような才は吉村氏の筆を動かすに足る人物ではないかもしれないが
大久保って江藤と仲良かったほうなんだけど?
江藤への恨みがあるとしたら予算問題くらいだろう
>243
大久保は、江藤と何度か意見対立した時に、
ことごとく論破されてるから、多少は恨みがあるかもな。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 18:26:31.92 ID:Nba/BK9B0
征韓論をテコに盟友の西郷を担ぎ薩長閥分断謀ろうとしたから憎まれてやられたんだろ。
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 02:26:13.03 ID:Thzz/FWC0
征韓論を利用して薩長閥の分断とか、歳月の影響じゃない?
史実はどうなの?歳月で描かれてるような私怨というか個人的な感情なんて大久保が抱いたのかね?
そんなに器の小さい人間が事実上の宰相;内務卿なんてなる?
江藤氏だって貧しい身分から出世したんでしょ 司馬先生の作品は読み物として面白いし
フィクションと理解してるが 不仲だったのかな?
大臣(卿)級の人間が些細な感情論でぶつかる?
政策についての異見ならまだ分かるが
>245
西郷を担いで薩長を分断しようとした痕跡ってあるか?
江藤的には、朝鮮の度重なる非礼と横暴を、新政府最大の実力者である西郷が直接赴いて
双方のわだかまりを解消してくると言ったら、賛成はしても反対する方がおかしいと思っただろうな。
現代で例えれば、竹島問題を高い支持率の総理大臣が直接乗り込んでいくのと同じ。
内治派は、何も言わず突然の武力行使をしたという事実もある。
>246
江藤が大久保をどう思ってたかはわからんが、大久保が江藤に対して尋常ならざる感情を持っていたのは事実が示してるだろ。
いや〜江藤は大久保に頼まれて国家機関の草案作ったりしてるし、
第一司法卿就任は留守政府との約定違反なんだが井上が独断で推薦したとも思えない
大蔵卿の大久保の黙認があるでしょ。大久保が驚いたのは江藤が大蔵省から予算分捕って、
しかも内務省に入れるはずだった警察まで司法省に所属すると言う留守政府の混乱だろう
佐賀の乱の時の大久保の反応はいまいち分からないね、憎かったのか警戒し過ぎたのか
明治6年政変では大久保が失脚する寸前まで行って、その僅か3か月後でしょ
それまでも士族の反乱謀議や暗殺事件はあったが、
参議まで務めた江藤のような大物が四大雄藩の1つ佐賀藩に下るので警戒感を高めたのかも
梟首じたいは雲井の事件の時にもやってるよ
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 04:09:27.60 ID:Thzz/FWC0
江藤が憎かったという理由からではなく前参議が下野して
藩士を扇動して乱を起こされんじゃ国家政府にとって危険だから
大袈裟に罰して薩摩藩と西郷党の者達への警告としたのかも
身分が低いといっても手明鑓は一応士族だから足軽身分よりは上級
大久保は西郷と正面対決するに当って死を覚悟したほどだからな
「江東、陳述曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」と書いてるくらいだから
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 20:49:52.32 ID:beZUoKby0
土佐人河野の歳月での恩人(=江藤)に対する恩を仇で返す同然の描かれ方w
>249
それなら、わざわざ大久保が手をまわして、沈静化していた佐賀士族を挑発するのはおかしいし、
反乱を起こす前に討伐軍編成を済ませて向かわせてたのはもっとおかしい。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 23:01:42.80 ID:mGtkOLKA0
よりにもよって岩村高俊のようなキョロマをやるとは
木戸もそこは百戦の好事家である
大久保の意図を見抜いた
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 08:36:38.10 ID:u9Z8JZ/C0
江藤は、一般人を巻き込む戦闘を良しとしたんだろうか?
江藤家と福田赳夫との関係知ってる人いますか?
256 :
s:2011/10/22(土) 15:00:30.41 ID:3qCvehkV0
■九州フジテレビ抗議デモ in 福岡 開催決定!
◎期日 10月23日(日)
◎場所 天神、警固公園集合・解散
◎集合 13:00
◎出発 14:00
☆10月23日は……
・福岡シティマラソン開催日。全国から約1万人の人が集まります。
・そして反日女優キム・テヒ主演のフジテレビ連続ドラマ
「僕とスターの99日」のスタート日です。
10月23日、福岡・天神のど真ん中で、一緒に正義の声を張りあげましょう!
日韓スワップに関するコールもあり!!
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 15:10:25.34 ID:+EMLpldS0
太政官の外様、それが肥前出身者
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 18:46:14.14 ID:M9TwKD9y0
肩書きはともかく、実務面での肥前出身者の功績は大きい。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 11:44:36.56 ID:gUkcsDl00
維新志士社の外部顧問
何?
江藤は海外留学したかっただろうな。
最後に佐賀の乱を起こすかどうかはともかく、本人の希望通りフランスに留学してたらどうなってたか。
見て見たかった。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 10:37:56.62 ID:jxSepuFM0
現代に生まれていれば法律事務所を開業して敏腕な弁護士になってたかな?<江藤氏
それとも国会議員になってたか?
とりあえず江藤に司法卿推挙の時の約束通り岩倉使節団の後を追わせておけばよかったんだよ。
でも江藤のことだからどっちにしても大隈と一緒に辞めたな。
自由党コースで学校創立とかじゃない?その過程で決起しないことを祈るのみだが
管轄権とかすぐさま理解できる能力は凄いけど、
法律家とか司法官僚と言う感じではないんだよね。どっちかと言うと法制局長官。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/11(金) 12:55:59.16 ID:+i7CdgrH0
近江の水口で雨に降りこめられて木戸と伊藤が雨宿りしてる場面、
江藤は西へ向かっているであろう−司馬氏の歳月より
あの、京都見聞録を旅籠で夜通し書きあげ精力的に故郷へ帰ってゆく江藤
ああいう偉人、仕事をする為だけに生まれてきた先人がいたのを作品で触れるにつけ
いつの時代にも使命感を負って国の為に命や体を擲って生きる英雄がいるのだと痛感する
多分に虚構や演出が配されてるのが作品でありエンターテインメントだと理解しつつも
江藤氏の才人ぶりが作品だから面白おかしく大袈裟に描かれてるであろうとしても
その偉大さは少しも損なわれないであろう事を強調しておきたい
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 23:23:59.62 ID:1bnGoGjE0
26 :日本@名無史さん:04/03/28 10:30
意外に思うかもしれないが
鍋島直正(閑叟)は井伊直弼と
「旧事を談じ時勢に及び、談じれば時の進むのも忘れる」
という交流をしており、親友といえる親しい関係だった。
暗殺の直前には、天草を佐賀藩預かりとし
軍艦停泊地とすることについて相談している。
(これを知っていた幕府の一部(大奥・近習等)は、家茂を動かし
井伊の死後直正に幕政について直正に協力を求めようとしたが、
直正が断った。)この井伊との関係がその後の佐賀藩の行動を
はっきりさせないものとする遠因になったという批判がある。
幕末維新の志士江藤新平(1834−74年)が、佐賀藩を脱藩した罪で
謹慎中に、実際は藩主鍋島直正の意を受け、藩外で調査活動をしていたことを
示す政策意見書「急務囈言」を、大阪市立大の毛利敏彦名誉教授が発見、
11日、佐賀市で発表した。
意見書で江藤は、幕府による「長州出兵」の失敗を鋭く予言。これまで謹慎中の
動静はほとんど分かっていなかったが、毛利教授は、実態は藩主直属の特命調査
役だった可能性もあるとみている。
江藤は62年、28歳で脱藩し、京都で尊王攘夷(じょうい)運動に加わったが、
数カ月後に佐賀に帰り閉居を命じられた。
意見書は、64年9月に作成。江藤のひ孫の江藤茂国さん(73)宅=佐賀市=
に所蔵されていた。藩主あてとみられ、「帰寧」(無事帰った)や「又々山
(謹慎中の寺)ニ帰レリ」など、長期にわたり、繰り返し藩外での調査に当たった
表現がある。
引用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040411-00000086-kyodo-soci おそるべき真実!江藤新平は007だった!
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/08(木) 04:01:09.66 ID:I+3/8HqP0
鍋島閑叟が大納言に就任したのは岩倉具視や徳大寺実則と同期?
>266
新平さんの弟源作の孫の著作で、新平が蟄居中に長崎や熊本に頻繁に行っていたそうなという事を書いてたよ。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 18:11:49.82 ID:WT30XbD90
閑叟いわく
「副島は学者なり」「江藤は武士なり」
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 21:07:28.77 ID:9L+8+1ho0
吉村昭著「白い航跡」/講談社文庫を読みました
作中で佐賀藩出身の医学の俊秀・相良知安が登場し薩摩藩との結びつきの強さを背景に
英国流の医療技術を日本に導入しようという動きに対して憤然と反旗を翻し
ドイツ国の医学を導入すべきだと参議、卿を説得して廻った逸話が紹介されています。
幕末の佐賀藩は逸材がごろごろ多出された藩ですよね。
英明なる鍋島藩主、弘道館、江藤、副島、大木、大隈、島義勇、・・・・・・
現代の日本には武士道(葉隠れ)も藩の為に準じる侍も公を重んじ私を滅する奉仕の心も消えて久しいとは思いますが
司馬氏、吉村氏を始めとした幕末物の読み物に触れるにつけ嘗ての日本には高い志を掲げて
潔く爽やかに生きぬいた先達が存在した事を知るだけで勇気と感動を与えられます。
佐賀藩の藩士達は薩摩藩の彼らとはまた趣きは違いますが英雄だと思います。
その佐賀も、現在輩出中の政治家は日和見口だけのアホの原口
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/21(水) 19:11:16.78 ID:ndCEEYcn0
佐賀の議論倒れ
司馬遼太郎氏は「歳月」の中での記述では天才の多出地、勉強に狂う土地
などと肥前の国を称していますね
経済も混沌、世界を取り巻く情勢も不透明 多極化する21世紀と言われています
幕末の佐賀藩のように禄を没収されないように藩士の家では勉強に明け暮れた
そんな藩風であったからこそ倒幕、明治維新後の新政府で要職に就けた偉人が佐賀から輩出されたのだと思います
勉強だけでのしあがれるほど現代は単純な社会構造ではなくなっていますが
必ずや嘗ての佐賀藩での教育で鍛えられた秀才が明治政府を支えたように
混迷を深める日本経済を救う仁が現れると信じています
それが佐賀県出身の人材であれば尚良しです。
今は逆に日本を混迷させてるなw
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 19:19:52.59 ID:DjVPk6Cf0
火器の発達
1777年 (仏) 軍用燧石銃の決定版完成
1848年 佐賀藩 火縄銃を廃し燧石ゲベール銃標準装備化
戊辰戦争発生の20年前に火縄銃は廃棄していた
1850年 佐賀藩 反射炉の製造着手
1866年 (英) 前装銃を改良し後装銃としたものを正式銃とした
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 20:21:22.58 ID:ldMKpJ4+0
佐賀人が嫌う者は大隈と前山だろ
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 22:18:01.42 ID:DjVPk6Cf0
前山の最後は本当に悲惨だった・・・・
賞典禄は450石で、西郷従道や西園寺公望よりも高い。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 19:35:18.56 ID:75UN7sXY0
前山清一郎って最低な野郎でしたね。
確か親戚一同こっそりと佐賀から逃げ出したはずだね。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 09:17:42.22 ID:Pe3MYChR0
>>278 マジか。後生災難やな。
佐賀人としての神は鍋島公、江藤新平、島義勇の3人かな。
逆賊=裏切り者のクソ野郎は、大隈重信と前山清一郎か。
大木の地元での評価はどうなんかな?
鹿児島も佐賀も一緒だな
中央から声が掛からない無能者が田舎にひきこもって、
中央で活躍する有能者を裏切り者呼ばわりして、留飲を下げる。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 11:37:56.06 ID:WGT5Ah5T0
権力と我欲の塊、大隈重信みたいなチンケな輩は反吐が出る。
井上馨の子飼の癖に生意気になりやがって。
来島恒喜がやり損ねたのは、日本にとって大きな損失だった。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 11:38:56.04 ID:WGT5Ah5T0
>>280 薩摩には海江田みたいなのがいるだけまだマシ。
海江田って、西郷・大久保の先輩ヅラして大物ぶってた無能者だろw
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 14:15:17.96 ID:WGT5Ah5T0
少なくとも鹿児島では大隈みたいな国賊扱いはされていないな。
いったい何の話しだw
大隈と海江田の比較なんて意味無いだろう
海江田は鹿児島では偉人あつかいなのかもしれんがその他で無能あつかい、
長州と司馬厨からは国賊あつかい
学と思慮のある者と、無学無思慮の者を比べるのもどうかと。
大隈は東北に生まれていても世に出てきただろう。
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 16:42:07.67 ID:WGT5Ah5T0
大隈ごときの世渡りがうまいだけのゴミは維新の中でも珍しい。小村寿太郎から忌み嫌われてたのも分かる気がする。
あの大木喬任ですら筋を通したというのに。
まあ大木は元老院議長、宮中顧問官、枢密院議長だから大隈より遥かに格上だが。
>>288 あんたは大隈が嫌いなだけでしょ?
大隈を貶めるために海江田を持ち上げるとかあり得んw
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 11:22:06.04 ID:jgyaACWw0
香月経五郎、山中一郎は両名ともに英国留学したんでしたっけ?
江藤門下の黄銅と大頭
江藤が失脚(下野)鎮西の乱でかつぎ上げられなければ
山中、香月も出世したのでしょうね 岩本(&大久保)の挑発、先制攻撃に乗らなければなぁ
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 20:50:45.65 ID:WgK0vSrk0
香月26才、山中27才の生涯か
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 09:31:37.37 ID:VolvF80q0
売国奴大隈厨必死すぎワロタw
征韓党も憂国党も当代人からしたら街焼こうとしたり城焼いたりで迷惑な連中だったろう
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 10:38:25.87 ID:VolvF80q0
乱を起こせるのは人望があり、勇敢な者だけ。
まあ、賞典禄すら無いゴミには無関係な話だったかw
賞典禄w
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 18:45:08.53 ID:SagMQfmJ0
吉田松陰は松下村塾を開塾し後に倒幕運動、明治新政府の要人になる志士達を育てて影響を与えた人で
著書や語録;留魂録、など中学高校の教科書にも掲載されていたり私心を廃し公に殉じた人って後世の人々に印象づけられてるけど
枝吉神陽氏の著書、発言録、が歴史、国語の教科書にはあまり(?殆ど紹介されておらず
吉田松陰先生ほどメジャーになっていないのが残念ではあります
佐賀藩の尊王の志士達に影響を与えた人物ですよね枝吉先生
見えない敵と戦ってる奴でもいるのか?
しかも、スレ違いの
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/28(水) 09:39:20.75 ID:L1HtRdJB0
片足の売国奴・裏切り者の東京専門学校関係者が必死だなw
どこの国の左翼も一旦権力握るとその執着心は凄いからな。
なんだ、早稲田落ちたバカかw
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/28(水) 15:31:40.85 ID:L1HtRdJB0
和田w
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/28(水) 22:44:58.93 ID:58aiWhUL0
征韓・憂国・中立の三党だっけ?
名前が素直で掲げてる主張が分かりやすい
現代のネットの世相もこの三派で説明できそう
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 03:33:18.63 ID:0qKS5DRe0
島義勇には遺訓、辞世の句、著書など生前書き残した筆録はないのですか?
凄い真面目で武士気質で頭も良かったそうですね
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 09:00:21.07 ID:NByG2NaP0
団にょんさん。
真面目な志士達を数多く輩出した肥前佐賀藩
日本経済は疲弊している お金儲けの才と真面目に勉学に勤しむ姿勢は両立するのか?
拙者には分かりません 拝金主義一辺倒の現代日本(世界)
勤勉で真面目で使命感に燃え藩の為公の為に私を滅し殉じていった先達
混迷の現代社会を救う者はやはり私を滅し公の為に働き犠牲を厭わない、そんな男達であって欲しいと願っています
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 22:42:08.21 ID:tRKIOpH60
>>301 中立党と云っても所詮は犬畜生でしたね。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 23:02:23.35 ID:5lM5HDXGO
大隈は戦争始めたクズだったよな
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 07:58:20.99 ID:tUAJHa+N0
でも大隈は伊藤とともに周囲の猛反対を押し切って
鉄道敷設の大英断を下したんだよ。
ちなみに新橋横浜間の鉄道が一部海上を走っているのは
土地を売らなかった薩摩の嫌がらせの結果。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 09:24:24.73 ID:ZZjg18V00
>>306 大隈は元老の靴の下をナメて、二回総理やってるけど、史上初の政党内閣だった第一次内閣はは自由党系との
内輪もめでわずか4ヶ月で総辞職、第二次内閣では対華21か条要求で中国はもちろん、
英米との関係も悪化させるなど、史上最悪の売国奴だった。
大隈は明治初期の開明派官僚としては優秀だけど、
総理としてはめちゃくちゃ評価悪いよね
明治期では最低、歴代で見ても中の下
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 09:59:04.59 ID:ZZjg18V00
由利公正の方が官吏としても優秀だな。
まあもっとも小松帯刀が暗殺されてから地位を拾った売国奴だから仕方無いが。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 09:52:05.44 ID:33m2BO150
まぁー、まぁー、正月だし酒でも飲んしゃい。
江藤は熱烈なフランス法派だったが、
当時は西郷をはじめ富国強兵を実現させたナポレオン崇拝が強く、仏法派が勢いあったんだな
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 08:37:23.84 ID:jhxnqtDh0
司馬氏の歳月作中の記述で土佐藩を入説に訪れるも失敗に終わるとあるが
下野する前に江戸や京都で林有造と江藤は個人的に面識はあったのですか?
参事として上京したりはしてるけど、江藤との関係が深まったのは帰郷の際の同行で、
それまでは板垣を介してのものにすぎなかったんじゃないかな…
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 19:17:19.04 ID:cx+XL4eO0
司馬さんのは作品でエンターテインメントなのは理解しつつも
作中の西へ下る船中で江藤に「土佐も(薩摩が立ち上がれば)呼応します」
と半ば焚きつけるように発言しておきながら江藤が伊予の山中を難儀しながら土佐城下に辿り着くも
冷たく突き放す 江藤氏の語録「南海の男児あに役に背くものならんや」
この喩えが虚しく響く冷たい林有造の連携拒否の仕打ちでした
副島の政体書にはアメリカ憲法の影響がみられる
むしろ佐賀の乱に関しては林・西郷会談での西郷の薩摩独善主義的発想が目につくが
あの時点での薩摩の実働組織たる私学校党の若手連中はどう考えていたんだろう?
この時点で独善主義ってあったのかな?
西郷が鈍重なだけだった気がするが。
林は会談の最中に明らかにそう捉えていたようだな。薩摩だけで足りるという発想だと
だから江藤に西郷は動かないから注意しろと言った
まるで関係ない話だが、司法卿就任直後のマリアルス号事件で、
副島の外務省と江藤の司法省が管轄を奪い合ったというのは間違いなんだな
まだ神奈川県裁判所の発足前だから
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 09:33:17.38 ID:Bc6EXVmU0
派閥大好きな薩摩人のことだから、
佐賀閥ざまぁ、ぐらいに思っていたかもしれないw
そもそも維新後の佐賀藩に「閥」は無い。
長州みたいに固まってる訳でもなく、土佐みたいに自由民権運動に走った訳でも無い。
所詮は、鍋島直正のカネと権力目当てで滑り込みセーフで新政府に入った藩だし。
派閥を形成している集団が自派閥外の複数人を一括りに扱うのはよくある
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 12:57:27.53 ID:JNsfsetY0
パリ万博で薩摩が薩琉勲章なんて持ちだした時
間近で見ていたであろう佐野常民がどう感じていたのかを凄く知りたい
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 20:41:22.66 ID:tqpXF2r90
>佐賀の議論倒れ
>薩人は愚鈍で長人は利に靡く
>>324 おい!
原口はその3つの特徴全て兼ね備えてるじゃないかw
>>324 肥前(佐賀)じゃなくて肥後(熊本)の議論倒れだよ
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 23:11:28.16 ID:pXvRYDMF0
その誤用よく見かけるけど
肥後の議論倒れの経緯知らんのかね
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/19(木) 18:11:42.49 ID:7qfaBNJcO
原口はいかにも佐賀人らしい
姑息で、ほら吹きで腹黒い佐賀人の特徴
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/19(木) 18:45:26.82 ID:4xC9QRfj0
余程佐賀人が羨ましいと見たが難民か?
>328
原口はただクズなだけだろ?
佐賀とか土地は関係ねーわ
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 12:31:23.22 ID:GhUzbd7j0
逆に原口は佐賀人らしからぬって印象だけどな
ああいうタイプの人間は佐賀の社会じゃ見たことねーわ
まー原口は全国知名度とはうらはらに選挙じゃいつもギリギリなわけで
その辺が佐賀の県民性とは合わない部分の表れなんだと思うw
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 15:59:29.77 ID:UHAzB0vCO
クズの原口は当選させるな
チンカス佐賀県
やっぱこっちにも湧いてたかこのキチガイ携帯
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 16:18:05.79 ID:Oggmu5ee0
義祭同盟
龍造寺八幡の境内で楠公を奉ったのは何かの意が含まれてるような気がしてならない
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/28(火) 23:25:57.66 ID:xV7N9peB0
何で草木も枯れるって云われてんだ?
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/29(水) 19:02:25.79 ID:MfAMCoqn0
意味不明
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 19:18:06.62 ID:k5eJykJF0
佐賀は元々樹木が少なくクリークの維持に必要な材木が自給できないので
他所から木材を収奪していた
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 19:52:23.20 ID:UrRmUoaA0
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 19:54:30.55 ID:L3GhsDtD0
>>338 中浦ジュリアンだろ、それ
千々石みげるは信仰を棄てたんだからさぁ
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/07(水) 11:24:00.95 ID:imq2aZfE0
大隈と江藤を教育した 離蓋を知らない?この方が007。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/09(金) 20:11:38.53 ID:FVa7wLJS0
幕末維新の志士江藤新平(1834−74年)が、佐賀藩を脱藩した罪で
謹慎中に、実際は藩主鍋島直正の意を受け、藩外で調査活動をしていたことを
示す政策意見書「急務囈言」を、大阪市立大の毛利敏彦名誉教授が発見、
11日、佐賀市で発表した。
意見書で江藤は、幕府による「長州出兵」の失敗を鋭く予言。これまで謹慎中の
動静はほとんど分かっていなかったが、毛利教授は、実態は藩主直属の特命調査
役だった可能性もあるとみている。
江藤は62年、28歳で脱藩し、京都で尊王攘夷(じょうい)運動に加わったが、
数カ月後に佐賀に帰り閉居を命じられた。
意見書は、64年9月に作成。江藤のひ孫の江藤茂国さん(73)宅=佐賀市=
に所蔵されていた。藩主あてとみられ、「帰寧」(無事帰った)や「又々山
(謹慎中の寺)ニ帰レリ」など、長期にわたり、繰り返し藩外での調査に当たった
表現がある。
引用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040411-00000086-kyodo-soci
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/09(金) 20:37:02.49 ID:UYCauOaJ0
本願寺別邸で木戸と岩倉と密談している。であるから本願寺内に新選組の屯所があり、法主を大砲で脅していた。本願寺と鍋島は関ヶ原からの仲間。
大久保が死んだ後すぐに副島を政府へ戻す動きは無かったのかな
大久保が暗殺される前も副島を政界に戻そうとした動きはあったけど本人が拒否したんでそ
ところで今年は江藤の銅像まつりが中止になってるんだけどどうしてなんだ?教えてエロいひと
伊藤、井上、五代、渋沢、みなよく飲んだが、この豪傑のうちで敢然として脂粉の気を近づけなかったものが二人あった。
それは大隈重信と副島種臣であった。
副島はことにひどく武張っていた。
蓬頭垢面、風呂には一ヵ月はいらないくらい平気で、蛮骨稜々、梁山泊名物であった。
伊藤や井上は、これをおもしろがってさかんに誘い出すけれども、副島は応じない。
やっとのことで、この仙人を浜の家へ引っ張り出したが、副島の歩いたあとは拭いて歩かねばならぬというほど汚い。
酒を飲んで酔うと何かわからぬことを咆哮する。
よく聞くと詩吟らしいといった調子で、芸者仲間でも評判の変わりものになった。
どうしたはずみだったか、木石に花が咲いて副島がまいってしまった。
伊藤を蔭に呼んで、「あの芸者をとりもってくれ、すっかりまいった」と副島がいう。
そこで伊藤が小浜を別室に呼んで、「どうだ、副島がお前にまいっているが、お前に気はないか」と砕けた調子でもちかけた。
小浜も驚いた、無論驚いた。汚い、汚い、乞食のように汚い副島。
「いくらなんだって、副島さんだけは許して下さい」
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/21(土) 20:12:49.48 ID:7QDi3Xefi
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/11(金) 19:01:05.41 ID:OVTahky60
蝶々夫人は佐賀藩士の娘らしいね
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/16(水) 17:27:39.53 ID:r/d09mw00
九条総督に佐賀藩兵を使えと進言したのは、明如と離蓋。
薩長土肥と本願寺教団の関わりはなかなか興味深い話題だけど自分には語る知識がない
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/17(木) 14:33:33.51 ID:FsE2ooPZ0
関ヶ原で西軍についた鍋島が生き残ったのは本願寺のおかげ
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/17(木) 17:59:11.39 ID:qQgqsz+50
>347ってなんか元にある文章を参考に書いたの?
とても読み易いし面白いし為になった
副島が不潔(風呂嫌い?)だったとはなぁ
幾らなんでも政府の偉いさん相手でも一ヶ月も風呂に入ってないんじゃ女郎だって嫌がるだろw普通に
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/18(金) 08:55:53.80 ID:qn/p3uwC0
明治維新で抜擢されたのも、大谷家のお陰。
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/18(金) 16:07:23.05 ID:pJsyHmGD0
大久保に意見を求められたり一定の敬意を表されていた副島
意見がぶつかり感情的にも(?相性が悪かった江藤(対大久保
江藤と大久保の対立、江藤下野、鎮西の乱により断罪は歴史的にも残念でした
江藤が大久保とうまく折り合いをつけ政府の大官として政策立案、日本を正しく牽引できていれば
歴史はもう少し変わった。。。かな(?
>355
江藤が大久保に感情的になったのは征韓論争か、大久保の一の秘策後じゃないかなぁ。
最初の遷都論争からずっと、大久保案に対して反論としての江藤案に、大久保が一言も言い返せなかったり、
江藤案を大久保と連名で提出したりで、大久保の方が、屈辱感で感情的になってた可能性が高いと思う。
日記の江藤を江東とわざと誤字してるのもあるしね。
で、多分、二人が折り合うことは無かったんじゃないかな。
政体に対しての基本の考え方がまるで違う。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 22:00:11.02 ID:YI+ZdDGp0
大村益次郎のスレ見てたら江藤氏と大村氏がちょっとだけ喋ったか、接点あったみたいなレス見つけたが
官軍が江戸を攻める時の参謀に誰が適任か?との桂小五郎からの問いかけに「貴藩の大村である」
って江藤氏が推薦したってのは(この件りは司馬遼太郎著『歳月』にも出てくるっけな)、推薦したのは史実でしょうか?
合理性と「才能」を重んじる両名が互いを認めていたとしたら面白いし
どのような交流、会話がなされたのか(もし接点が本当にあったとしたらの仮定で)興味がアリマス
佐賀閥系は伝統的に親英親米で対露強行派
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/11(土) 12:48:08.00 ID:tJKM3wm/0
佐賀城下には西本願寺派と東本願寺派のどちらかしかないんだっけ?
関ヶ原の直後に西本願寺が入って来て別系の寺が幾つか西本願寺派に宗旨変え
キリスト教の禁令が出るまでイエズス会やフランシスコ会と布教合戦を繰り広げた
結果として藩内は西本願寺が最大勢力に
マリアルース号事件の時、江藤たち留守政府首脳は仏法派が多かったと思うが、
港にある外国船舶に対する沿岸国の管轄権について、これを排除するフランス主義を取らず、
イギリス主義を援用してるのだな。
江藤が事件の本省送致を主張したのは、管轄権の問題で自信がなかったのかも知れない。
結果的には沿岸国の管轄を認めるイギリス主義が一般国際法となっていたとされるから、よかったんだけどね。
>>357 木戸、岩倉、三条、後藤などに比べると接点は少ないと思われます。
大村の推薦じたいは、江藤に限らず江戸の実情を見聞して危機感を抱いた人間はみんなしたのでは?
大村益次郎との交流といったら適塾で同門の佐野常民の方が深いんじゃないか、歳も近いし
大村が暗殺されなかったら佐野も兵部省に残っていたと思う
>>127 84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:2011/01/21(金) 23:21:03 ID:fS+ZUTDl0
佐賀出身の牟田口廉也を超える極悪鬼畜はいないw
牟田口廉也はとにかく極悪すぎるwwww
さすが強姦鬼畜佐賀の奴だけあるわなw
牟田口廉也を異常な執念で叩き、悪人イメージを必死にばらまいてるのって、
強姦民族の福岡人なのだが・・・。牟田口はそれほどの悪人ではない。
陸軍エリート綺羅星の如くの佐賀人に、
福岡の乞食たちが強烈なコンプレックスを持つのは、
まぁ理解出来るが
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 05:48:29.95 ID:Cgqs6bSW0
4月13日は江藤新平の命日。
神野公園の銅像前で毎年慰霊祭があってるよ。
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 07:22:29.57 ID:4P2gSdUfO
明日4/14の10時からみたいです。銅像祭り
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/14(日) 11:58:34.35 ID:yjUVMcLA0
本願寺門徒の桂小五郎は江藤の友人である。江藤の妻松子の院号は翠紅院。本願寺の東山別邸が翠紅館。広如(門主)、桂(長州)。
中山摂関(本願寺坊官岩倉の叔父)岩倉(公卿)、西郷、小松(薩摩)、江藤(佐賀)。、月性(真宗僧侶)、離蓋(願正寺僧侶)、松陰、春嶽(福井)家臣等。はペリー来港の年、翠紅館で密談(九条家プラン)。本願寺史
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/16(火) 02:19:52.09 ID:iQCENqofO
江頭さんは志士
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/17(水) 06:17:52.73 ID:rIvZWUd40
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/18(木) 11:43:50.48 ID:aODt3ONK0
東京駅ドームから逃げた干支4匹は佐賀武雄の温泉で湯治中。
江藤や大木がもうちょっと頑張ってたら日本ってフランス法系になってたよな。
くそマイナーなドイツ法じゃなくて
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/03(金) 09:56:16.11 ID:AWSCvKBX0
木戸と江藤って交流のほうはどうだったのか
詳しく知りたいな
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/03(金) 22:14:00.20 ID:HqJ9DazH0
翠紅館で興正寺の大室寅吉を天皇にと桂、江藤、岩倉が某議する
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/06(月) 09:06:44.59 ID:3WIAHgcq0
明治政府トップ議定鍋島直正、明治天皇の3等侍補鍋島直彬、侍従島義勇、侍従長鍋島直大、島は明治天皇との腕相撲で負ける。天皇は怪力
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/06(木) 18:55:06.27 ID:ttHMOJBY0
近代を調べると何故か佐賀に繋がるんだが、不思議だ。
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/09(日) 15:49:11.22 ID:TYeyVErz0
佐賀県立美術館で副島の書を展示してます。
天然痘の予防接種は佐賀全藩あげてのプロジェクトだったのかな
閑叟さんの趣味レベルの活動だったのかな
木戸は表立って江藤を支持こそしないが、江藤が関与した国法制定、司法省時代の小野組転籍事件と、
側面支援に回ってる(憲法制定は政変前の明治6年7月に強く主張してる)ので、かなり関係深かったろうな
江藤がいちばん仲良かった元勲は、たぶん左院の時にコンビ組んでた後藤とかだろうけど
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/13(木) 09:58:47.62 ID:lsj1flta0
蛤御門の変で逃亡者の桂小五郎、品川弥二郎等数人を西本願寺、飛雲閣の床下へ下間(シモツマ)が匿う。その他大勢は剃髪し衣を着せ学林へ。会津の役人の探索は酒を飲ませて退散させる。
この一件で明治政府の品川弥二郎は終生、本願寺に便宜を図る。縁の下で震えていた品川が4頭だての馬車で登庁していた姿をみて本願寺は失笑していた。
ごわす
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/29(日) 18:45:56.48 ID:95AdbyKh0
江藤門下の黄銅と大頭
どちらが(強いて言えば)より秀才の誉れが高かったでしょうか?
27、26歳での斬罪は両人にとってさぞや無念でしたろうな
ドイツ、フランスに遊んだ山中、オックスフォードに留学した香月
長命したら仕事をこなし充実した人生を送ったでしょうな
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/29(日) 18:51:49.79 ID:GzgG5MOa0
すべて薩長のコソドロ共が日本を売ってしまった。香月、山中君無念だ。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/30(月) 18:26:07.18 ID:trAsYEmX0
大学南校に通い江藤の鎮西の乱では参謀を務めた香月
安らかに眠ってください
後世の史家は江藤一派を賊軍と定義しても男子の本懐を遂げ江藤氏に殉じた生きざまは評価しますよ
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/07(月) 11:10:44.47 ID:mL8yHZRF0
毛利先生の著作
司馬作品に強く影響を受けていませんかね?
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/09(水) 12:32:58.11 ID:IoDJJp4C0
中公新書毛利敏彦先生著作
江藤新平と近代←タイトル失念
購入する価値ありますか?
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/09(水) 18:47:04.50 ID:zuxDXhBI0
買ってみますた、
中公新書"江藤新平/急進的改革者の悲劇"(毛利敏彦著)
楽しみなりぃ
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/13(日) 18:55:14.97 ID:Qmd9r47D0
10月15日(火)PM11:00〜Eテレ 知恵泉
激動の世の人材バンク「鍋島直正」前編
クソ不幸化滅べ!!
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/02(月) 23:02:34.76 ID:S9qwlzJY0
>>302なんだけど
探してるんだけど、島義勇、団にょんさんの辞世の句は分からない
佐賀まで行って調べなだめか
結構書籍出てるんだけど悉く死に際が解らない不思議
面識もあったのに大久保利通が日記で立派だったと名前を挙げてないのは
江藤と一緒で巨魁扱いしたからか、取り乱したからなのか…
>>246 ID:Thzz/FWC0
こいつ強姦民族の鹿児島のキチっぽいな
何が言いたいのか、わけわかめ
>史実はどうなの?
>歳月で描かれてるような私怨というか個人的な感情なんて大久保が抱いたのかね?
だってさwww
この馬鹿、司馬の本ぐらいしかソースがねえと思ってんのかwww
>そんなに器の小さい人間が事実上の宰相;内務卿なんてなる?
もちろん「そんなに器の小さいな人間」だったからこそ、
清水谷で哀れな殺された方をしたんだろうにwww
>江藤氏だって貧しい身分から出世したんでしょ
だから何なんだ?マジキチの珍論理に泣けるwww
大久保利通をけしかけていたのが、長州のサイコパス伊藤博文
朝鮮人に殺されて当然の男
一昔前の千円札が伊藤博文で、佐賀人には屈辱以外の何物でもなかった
佐賀と関係のある夏目漱石に変わり、平和が戻った
57: 日本@名無史さん 2004/03/31 07:28:00
鳥羽伏見以前には事実上まったく使えない連中が、それ以前から実戦経験を積み重ねてきた薩長に頼られる訳ないだろ。
イラク戦争で米英軍が自衛隊に頼るようなものだ。
米英軍は自衛隊に対し、実戦能力などを期待していない。
戦った事の無い兵士に対しては、給水やら学校づくりみたいな雑用しか任せられないんだよ。
薩長と佐賀には、こういう厳然たる格差があった。
佐賀が優れていたと思い込みたいのは勝手だが、出鱈目な妄想を繰り返すのはいい加減にしろ。
http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/24840767.html http://www.peeep.us/4194ffb4 ↑
これって、典型的な鹿児島のマジキチのレスだよなwww 「出鱈目な妄想」(笑)
毛利敏彦先生のストーカーでおなじみの田村貞雄並の奇怪な怒声がおもろすぎwww
天下の佐賀が日本の暗黒の象徴「薩長」にヘイコラするわけねえわ。面従腹背、恥辱の一時期はあったとしてもな
肥前どうたら何をほざいてるのか知らんが、佐賀の盲腸の「武雄」だけやろうに
>>388 2年11ヶ月も前の書き込みにレスする粘着君気持ち悪っっw
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/15(土) 14:24:04.73 ID:CKgQ/Nsf0
吹き荒れる
嵐に散れる殿山の
花をふりすて久方の
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/16(日) 17:55:28.07 ID:JzvVF8n00
上総の山や
安房の海
たちこむ今朝の霞より
運河の雲の尚深く
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/26(水) 08:47:37.17 ID:SeevmnDD0
皇居に霜錦亭を寄毫した副島。登極21年。寅之祐
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/16(金) 10:50:21.25 ID:w8V/Uk3w0
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/07(土) 05:26:07.66 ID:Zk1W7Zb50
明治天皇曰く。副島!頼むから田舎に帰らないでくれ。朕を見捨てないでくれ。ちゃんと勉強しますから。
こんな内容の手紙が近年発見された。
逆説の日本史に佐賀藩は軍事力技術力経済力ずば抜けてたと書いてあったが技術力
軍事力はわかるが経済力って特別に突出してたの?
あと鍋島直正が佐幕尊皇公武合体に対していずれも距離を取ったがこれの理由は何なの?
あと京都での政争には守護職要請以外なんで関わらなかったの
明治初年で人口40万で90万石、同60万人で98万石の山口藩と並ぶ高だったとされる
税収が20万石少々で、3〜4割取るのが普通だった全国平均より軽い
ただし広島や徳島のように人口比で実高が少ない藩もあるため
生り物に広く課税してた可能性はある
>>397 技術と統制で生産力アップ!
それを使った密貿易。
司法省的には目立たないが調整向きの大木喬任の功績が大きいな。
江藤はもちろん初代として司法職務定制などなど大功績を打ち立てたが、
民法典の方向性に関してはボアソナードを大木はよく理解していた
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/30(月) 22:23:04.79 ID:HyZa4xKZ0
佐賀のエースは江藤と島
>>398 佐賀藩は直大パパのカンソウがだいぶ経済改革したんだよね
それでも3支藩と龍造寺子孫の親類同格4家が相当領地を持ってて藩の財政を逼迫してたらしいけど
特に親類同格の家は参勤交代もないから相当な経済的余裕を有して、佐賀城内の邸宅も大きかったらしい
ただ今でも米どころとして有名だし、気候は落ち着いているし、幕末にはクリークも発達していて、
表高よりも相当の実高があったであろうことは予測される
ちなみに多久鍋島家の家臣が皇后陛下のご母堂様のお里で、佐賀鍋島家出身の梨本伊都子妃と松平信子女史(娘は秩父宮勢津子妃)が
ご結婚反対の急先鋒だったりして、龍造寺と鍋島の軋轢がここで再燃していたりする、
と言われている
明治期以降鍋島家は華麗なる一族となっているからね
宮中にも親戚たくさん
微妙にスレチ失礼
「ただ賊中人間らしきものは、副島、朝倉、香月、中山のみ」(大久保利通日記4月9日)※江藤への罵詈雑言を日記に書いた日
大久保が嫌々ながらも評価しているようだし優秀だったんだろうけど、どの程度だったんだろうね。
上にもあるけど清朝総理衙門長官を五倫の引用と立礼の前例を指摘して論破するいつかの時代の縦横家みたいな人
いや、この副島は種臣じゃなくて義高(島義勇の弟)の方。
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/22(火) 07:22:48.68 ID:+TtaTM8u0
政岡大裕は早く死ねよ!!!!!!!
>>402 鍋島そのものは実高10万石にもみたない程度だったとか?w
@城下町も明確に武家その他と区別がほとんど無い環境と
薩摩にもひけをとらない「鎖国」主義だったと
藩主の実入りが少ないって言われる佐賀本藩だけど鍋島侯爵家は大名華族の中でも屈指の資産家よね
いつの間にそういう事になったんだ
伊万里とかその辺じゃね?
司法職務定制を見ていると、証書人(41条)=公証人、代書人(42条)=avoué、代訴人(43条)=avocat
と言うフランス法の影響が興味深い。
特徴は検事職制(検察官)の部分だな。24条。
当時の状況的に、裁判官の横暴を司法省に代わって監視する役割を課せられたのだろうが、
聴訟において「孤弱婦女の保護」「貧富貴賤平当」に配慮しろと言う部分が細かい。
海外にも行かずよく明治以降の短期間でこれだけフランス法を咀嚼できたもんだな
×代訴人
○代言人=アボカ≒法廷で弁論する弁護士
フランス独特の制度だね
江藤って留学前提で司法卿就任を受けて(ほぼ確実)、司法職務定制が裁可された8月に渡欧準備してるのに
何でその後ズルズル国内に残ってたんだかな。
マリアルス号事件の船長が起こした訴訟の処理も8月14日には終わってるし、
ペルー側の抗議は翌年3月だから喫緊の案件はないよね
江藤研究を見てもそのあたりの説明がよく分からないが、結局司法省の整備に夢中になってしまったのだろうか
>>414 何回かあった江藤の渡欧チャンスは、事毎に三条か岩倉のどちらかもしくは木戸が、政府に実務家がいなくなる事を憂慮して引き留めてた。
渡欧というか、政府や東京から離れるときは必ず引き留めたという方が適切かな。
政変後の佐賀帰郷の引き留めは誰も間に合わなかったけど。
>>408 そうなんだよね。まあ藩全体の実高が高かったということなのかな。
薩長土肥の一角を占める維新の雄藩であることは間違いないから、秩禄処分やら金禄公債は有利に判定されているはず
鍋島侯爵家の資産関係は関心を持って調べてみたけど、実際の所、明治中期くらいまではよく分からない。
ただ日本全体がとても裕福になっていこうとしている所だから、よっぽどの騒動に巻き込まれない限り、
造船鉄道金融などへの堅実な投資と、不動産運用だけで相当な資産が形成されるはず。
大名屋敷が空地になって東京の治安が懸念されるようになり、結局払い下げて、多くの大名華族が東京の大地主になったりしてるからね
それで鍋島家は松濤一帯10万坪を取得したとか。
鍋島家の資産は、ピーク時には永田町の本邸、松濤の別邸(鍋島農園)、那須の牧場、大磯と日光の別邸、
東京市都心や横浜の不動産、膨大な株式や公債などに加えて、佐賀資産として現佐賀市民会館にあった佐賀国許邸、
および広大な農地(農民救済のため取得)、佐賀資本への投資など。
相当な資産家だった。
鍋島家が残していった宝物を決起用軍資金として横領し形勢が悪くなるや
最大の遺産である佐賀城ごと焼いて灰にした江藤島両人、征韓・憂国両党員は旧藩主藩士及び領民に賠償して然るべき
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/14(木) 16:08:09.13 ID:AErNHNOV0
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419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/15(金) 04:05:50.50 ID:1kFeSR6O0
江藤って自分が責任をとらなくていい時や情勢が有利な時はでかい顏してるけど、状況が不利になると真っ先に自分だけ逃げ出すんだよな・・・
大久保のような大政治家と比較しないでほしいよ。人間のスケールが違いすぎるんだよ。
あぼーん
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/21(木) 21:58:36.91 ID:oK9iIEZo0
書き込みがまったくない・・・やっぱ不人気だな・・・
21日付の産経新聞朝刊で江藤新平の事が書いてあった。前後編で来週後編があるらしい。
特に深いことは書いてなかったけど、学制の事や司法卿になってからの長州閥の汚職の排除に触れてた。
陸軍省の山城屋事件は江藤が陣頭指揮に乗り出すのを察知してああなったけど、
尾去沢銅山事件はだいぶ違うようだね。
村井さんが司法省達46号で出訴する以前から、銅山の噂は耳に入っていて、
江藤は村井の出訴を契機として井上追及の材料に使ったらしい。
裁判的にも、出訴から1年後に、井上に「懲役2年のところ…贖罪金30円申付け」て、
あと村井さんから不当に巻き上げた金は大蔵省から追徴して還付すると言う判決が出てる。
井上が辞職したのは、明治6年5月。井上の拘引が提案されたのは、その秋。つまり明治6年政変のころ。
司法省が完勝して、辞職して平人になるのを待って、さらに拘束を提案した。
明治6年政変の政治的な動きと関係あるのかどうか分からない。
>>423 読んだ事ないけど、佐木隆三の「司法卿江藤新平」というのがそこら辺を書いた本じゃなかったかな。
発売当時に、NHKの今の歴史秘話ヒストリアみたいな番組で江藤が取り上げられてたときに少しだけ触れられてた。
二つの汚職事件から佐賀の乱終結後までの、江藤と薩長閥の特に人事の動きを時系列的に追った内容だったと思う。
後藤・江藤・大木が参議就任(4月19日)
↓
大蔵省の査察を主張するに及んで井上が5月上旬に辞職
↓
辞職後した井上は渋沢栄一らと財政の内情を暴露した建議書を各新聞に載せる
↓
7月20日、司法省臨時裁判所、井上に雑犯律違反で贖罪金を申し付け
↓
8月、井上は無官の身なのに銅山を視察
↓
井上の拘引が提議される
ほしゅ