130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
半藤一利は日本人を抑え込むためのビンの蓋である
『文藝春秋』は腹がすわっていない 評論家・西尾幹二
月刊WiLL2009年3月号 31〜32頁
文藝春秋の社内のある幹部の方から、
「半藤一利、保阪正康、立花隆氏などを起用するのは『文藝春秋』のビンの蓋だからだ」ということを私は聞きました。
うまい言葉だ、と思ったものです。文藝春秋の社内からの発言ですから、
社内の体制に疑問を持っている人がいるということを物語っていて、その点まだ救われた思いがしています。
「ビンの蓋」というのはご存知のように1990年3月スタックポール在沖縄アメリカ海兵隊司令官が
「在日米軍は日本の軍事大国化を抑える『ビンの蓋』だ」と使った言葉です。
ですから、『文藝春秋』が際立つ保守系雑誌にならないための「ビンの蓋」、
つまり『文藝春秋』は朝日新聞のサイドに立ちますよという宣言のために
半藤一利、保阪正康、立花隆氏らをしきりに起用しているというわけです。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 23:24:07.95 ID:ydBeZeJ20
『諸君!』休刊 敗北史観に陥った言論界 上智大学名誉教授・渡部昇一 評論家・西尾幹二
月刊WiLL2009年5月号 35頁
西尾
「『文藝春秋』は今や、何かに遠慮するような言論しか掲載していません。
ビクビクしていて中性的、公論的な、言い換えれば衛生無害な雑誌でしかない。
三島由紀夫は日本を指して「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」と表現しましたが、
それは朝日新聞やNHKでもあります。敗戦国文化なのですね。
『諸君!』にしても『WiLL』にしても『正論』にしても敵がいないわけではない。
敵ははっきりといるのですよ。日本国家を自立させるという目的の邪魔になるものは敵です。
日本はある意味でまだ属国ですから、「独立」という目的を掲げて、反米でもなければ反中でもなく、
親日だという筋を一貫して通すスタンス、主張は厳としてあるのです」
渡部
「その対立構図の見えなくなった人が、『文藝春秋』の主流になったのではないか、という印象を受けます」
西尾
「その通り」
渡部
「今の『文藝春秋』が半藤一利氏の色が強いのは確かです。
半藤氏は辞めてからの方が『文藝春秋』に影響力を持っているらしいのはなぜか、不思議です」
西尾
「私はそれを「『文藝春秋』のビンの蓋」と言いました(笑)」
渡部
「(笑)。半藤氏は特別に部数を伸ばした編集長でもないのに、
それがどうして今の『文藝春秋』に影響力を持っているのかは謎ですね」
西尾
「そうですね。私は『WiLL』2009年4月号に、我々が戦わなければならない今の時代の
”典型的進歩的文化人”は半藤一利、保阪正康、秦郁彦、五百旗頭真らの諸氏であると宣言しました」
渡部
「3Hプラス1ですね(笑)」
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 09:37:24.33 ID:87C4lOtc0
>>130-131 狡兎死して走狗煮らる、か。、秦、半藤は冷戦時代に保守言論を
守った功労者なのにね。発言力が大きいのは、功の大きさからして
当然のこと。冷戦時代に沈黙していた西尾はともかく、渡部昇一には
心底失望したね。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 09:42:14.61 ID:87C4lOtc0
ついでに、西尾が非難する立花隆は、日本共産党の研究で、戦前の
共産主義の化けの皮を剥いだという、保守側にとってきわめて大きな
功績がある大功労者であることも言っておく。立花、秦、半藤、保阪
らの方が、西尾や渡部よりも保守側にとって功績はでかいんだよ。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 12:28:44.27 ID:vRvthPSH0
エセ保守・四馬鹿
ホラ吹き詐話師(半藤、保阪、秦、立花)=通称3H+T
日中戦争を勃発、泥沼化させ、対米戦争で大損害を出した張本人の
戦犯・山本五十六の根本的な罪を黙殺し
ひたすら東京裁判史観を肯定して、特定軍人罵倒によって
感情論で陸軍悪玉論を扇動・宣伝するしか能が無い
金儲け目当てで大嘘の近代史を語る似非保守・詐話師カルテット(半藤、保阪、秦、立花)= 通称3H+T
が関わった幼児向け童話・昭和史に、
史実など微塵も無いwww
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 12:37:57.57 ID:vRvthPSH0
エセ保守・四馬鹿
ホラ吹き詐話師(半藤、保阪、秦、立花)=通称3H+T
の主張
・張作霖爆殺は河本大作の犯行
・昭和天皇独白録と富田メモは本物
・靖国神社からA級戦犯を排除せよ
・辻政信が太平洋戦争の絶対悪
・満州事変と関東軍の暴走が太平洋戦争の原因
・軍令部の第一委員会が対米戦争を強行した。連合艦隊は悪くない
・山本五十六と米内光政は平和主義者で名将
・とにかく長州は悪い
・東北人、会津人は平和主義者
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 19:43:35.09 ID:QIEqrNdW0
>>135 >・張作霖爆殺は河本大作の犯行
ほぼ決着が着いていますが。ロシアが何をわめこうと、日本人の
歴史学者が自分たちがやったと言っているのだから、相手にされ
ない。
>・靖国神社からA級戦犯を排除せよ
これは秦の著作にあるが、最初は排除されていて、途中から入れた
から混乱が起きたと非難している。そこまで書かないと不公平。
>・辻政信が太平洋戦争の絶対悪
何か間違っている?暴虐、陰湿、卑怯と、おおよそ人間のクズその
ものなんだが。むしろ、加賀市の銅像をぶち壊せと言いたい。
>・満州事変と関東軍の暴走が太平洋戦争の原因
事実でしょ。満州事変がなければ、太平洋戦争もなかった。もっと
突っ込むと、満州事変後の対応も最悪だった。関東軍も外務省もね。
>・とにかく長州は悪い
誰が言ってる?秦や壮年までの半藤はそんなことは言わないね、
絶対に。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 00:11:46.13 ID:FmE+P3sl0
【山本五十六こそが日本を破滅に導いたA級戦犯】
■日中戦争 勃発、泥沼化 (海軍の予算拡大が目的)
海軍次官・山本五十六は、陸軍と対等の予算獲得のため大量の爆撃機配備をもくろみ
その宣伝のため脅威をあおり中国空爆を計画した。
海軍の南京爆撃は盧溝橋事件以前から準備していた、中国に対する計画的な侵略戦争。
当初は敵飛行場を標的にしたが、山本が開発した96陸攻は防弾装備が皆無で旧式の敵戦闘機に撃墜されまくり、直ぐに都市無差別爆撃に切り替える。
第二次上海事変を機に4ヶ月にもわたって南京への猛爆は敢行された。
山本五十六が中心となって強行した南京無差別爆撃こそが日本の暴走の始まりである。(日中戦争泥沼化)
そしてこれこそが全中国人を反日で団結させ、世界を敵にまわす結果を招く。戦略的な効果は殆ど無く日本の被害は増大。
ルーズベルト大統領は海軍の南京無差別爆撃を世界に向けて非難。(隔離演説)
アメリカ大統領が歴史上初めて、日本を強烈に非難した。
(満州事変でさえもアメリカ大統領が日本を批判したことは一度も無かった。)
■対米開戦
米英不可分論によって対米戦争を主張し、対米脅威論を流布し海軍全体を強行に対米開戦に決意をさせた。
皆の反対を押し切って米国本国であるハワイ、西海岸を奇襲。
戦争に参戦しないというルーズベルトの公約は反故にされ、日本支持だった共和党までが対日、対独全面参戦を支持。
米国世論は反戦から参戦支持に豹変し、アメリカを総力戦に無理やり突入させた。
国の方針(対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案)では、米国との和平を視野に入れていたが、
海軍のハワイ奇襲(東条首相ら政府は知らされていなかった)によってそれは絶望となった。
■その他疑惑
海軍の外務省に対する無通告による真珠湾奇襲の要求は、山本五十六が圧力をかけたのではないかという疑惑がある。
野村大使と海軍の不正な関係も疑いがある。偽りの外交による騙し討ちは、山本五十六が主導した可能性が濃厚。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 12:14:40.69 ID:2Ru++P7H0
>>132-133 あなたは貴重な材料を与えてくれました。
まさにあなたのような認識を持った人を渡部、西尾両氏は批判しているのですよ。
どういうことか。それは反共=保守という尺度でしか人を判断できないからそのような的外れな批判が出てくるのです。
つまり自身に日本についての確固たる信念や思想があってソ連や中共を批判していた人と
中身が空っぽでも反共という役回りを演じているだけの人の区別を付けずに
十把一絡げに「保守」とカテゴライズしている過ちに気づきましょうよ、ということです。
あなたが半藤氏や立花氏らのことを「昔は凄かったんだぞ。だから批判するな」と擁護するのは自由ですが
それは冷戦というゲームが行われていた時代の話です。
その頃は日本とアメリカの国益が一致する事が多かったので反共さえ唱えていればそれで良かったのでしょうが
ソ連は崩壊し、中国は共産主義を放棄して冷戦はとっくに終わりました。
そして今や日米の国益がぶつかり合う時代になっています。
その事に気がついてこれからは東京裁判史観の枠内で言論活動をするのかそれを打破するのかという
対立軸で現在の日本の言論界を見ているのが渡部、西尾両氏です。
ですから東京裁判史観という閉された言語空間に留まっている立花、秦、半藤、保阪各氏らについて
「かつては反共で頑張ってた」と言った所で渡部、西尾両氏は現在の話をしているのでその擁護論もまた的外れですね。
冷戦が終わってTPP問題などに見られるように親米保守派と言われた人達の化けの皮が剥がれているのが現状です。
それに冷戦時代から現在に至るまでの半藤氏やロッキード事件での立花氏などの言動を追っていくと
彼らは日本の為ではなくアメリカの国益に適ったことしかやってませんね。
半藤一利『昭和史』徹底批判 月刊WiLL2010年5月号
評論家・西尾幹二 高知大学名誉教授・福地惇 大阪青山短期大学准教授・福井雄三 情報史研究家・柏原竜一
※本文にあるカッコ<>内の文は半藤一利氏の著書『昭和史』からの引用です
西尾
「さて、本誌ではこの数年、書店の店頭に高く積まれた半藤一利氏のベストセラー『昭和史』(平凡社)の「徹底批判」を試み、
同書の歴史書としての存在資格を問いただします。そこでまず、福地先生にお願いいたします。
半藤さんの歴史観を分かりやすく具体的に説明してもらえますか」
福地
「半藤史観の下敷きは「太平洋戦争史観」(米英支ソが善で日本は悪という至極ご都合主義の史観)だということです。
半藤さんの史観の特徴は、19、20世紀の国際政治、軍事、経済への大局的な視野の欠落です。
半藤さんは、陸軍内部で有力だった「支那一撃論」を必要以上に強調して、日本の軍部が推進した侵略戦争だと言い切る。
支那一撃論とは、シナのわが国に対する「反日・侮日・日貨排斥」運動や「反日教育」、そして在留邦人に対する悪質なテロ行為、
挑発、嫌がらせがあまりにも執拗だったがゆえに、この悪い流れを「一撃」で断ち切りたいとの思いから出てきている。
侵略目的の「一撃」ではないのです。
半藤さんは、敵対諸国を信頼しているが、明治国家体制と軍部、あるいは毅然とした政治家は絶対に許せないようです。
日本民族を信頼していない。ベストセラー『昭和史』は、英米が日本を永遠に従属国に釘付けにする工作として制作した
「太平洋戦争史観」の受け売りだから、日本人のための「昭和史」ではない」
西尾
「続いて柏原先生お願いいたします」
柏原
「半藤さんの『昭和史』を通読して感じるのは、日本が明治維新以降、国際社会の中で占めていた存在感が
まるで伝わってこないということです。
ここでは、導入として日清戦争における三国干渉にまで話を戻して、私が感じている違和感を説明できればと思います。
三国干渉にドイツが加わった動機は、三国同盟の一方の同盟国であるオーストリアとの関係を悪化させることなく、
ロシアとの関係改善を図れるチャンスでもあったということなんですね。
フランスはロシアに膨大な資金を提供し、その資金を元手にロシアは清朝における鉄道建設に乗り出します。
そしてロシアは満洲を起点として北から南に、フランスはインドシナを起点として南から北に、
他の列強勢力を中国から閉め出すために鉄道建設に乗り出すのです。
しかし、これにはさすがに英国やドイツも反対します。
ですから日本が三国干渉で譲歩すると、ロシア、フランス、ドイツという極東における枠組みは消え去るのです。
このように1890年代の終わりまで、ドイツは英国と露仏同盟の狭間で漂うのです。
重要なのは、ドイツが3B政策(ベルリン・ビザンチン・バグダッド)に代表される積極的な対外進出政策に乗り出すのは、
三国干渉でのロシアとの関係改善に失敗した後であるということです。
三国干渉は日本外交にとっては一つの挫折でした。しかし、ドイツにとっても外交政策の転換点だったのです。
こうした文脈を頭に入れておくと、日英同盟も、南アフリカでボーア戦争に多くの資源を投入せざるを得なかった英国が、
露仏同盟、特にロシアへの対処に苦慮した結果生まれたものであることが分かる。
英国とロシアはクリミア戦争以降、ユーラシア大陸周辺部で、とりわけインド北西部で対立する関係にありました。
いわゆるグレートゲームです。
日露戦争の結果、日本がぎりぎりの所で勝利を収めると、英国はインドを確保できたために安心したわけですし、
ドイツやオーストリアはといえば、弱体化したロシアを横目で睨みつつ、バルカン半島への圧力を一層強めていくことになります。
その帰結が、英仏露と独墺とが雌雄を決した第一次大戦でした。
このように、日本はすでに日露戦争以前の日清戦争の時代から、国際秩序に大きな影響を与えていました」
西尾
「日本だけが、ぽつんと孤立して自己運動をしていたわけではないということですね」
柏原
「こうした日本の存在感は、半藤さんの『昭和史』からは全く感じられません。
加えて当時の列強の激しい植民地、利権獲得競争にもほとんど言及がありません。
当時の日本が置かれていた国際環境に言及して初めて、当時の日本の対外進出の意義も明らかになるのではないでしょうか。
こうした国際環境への視線のなさが、半藤さんの歴史叙述を大きく損なっているわけですが、
あえて言えば次の二つの点に集約できるように思います。
まず第一にロシアに成立した共産主義政権の活動を軽視している点です。
『昭和史』の第6章では、西安事件に対して
<中国のナショナリズムが一つになって誕生する、まさに対日抗戦を可能にする歴史の転換点>
と述べられておられますが、中国共産党の背後にソビエト・ロシアがいたことを忘れておられるようです。
加えて、ゾルゲ事件、満鉄調査部事件、企画院事件といった共産主義勢力によるスパイ事件にも言及がありません。
とくに、ゾルゲや尾崎秀実の活動は近衛内閣にも深く食い込んでおり、そのインナーサークルで
南進論を強硬に主張していたのはまさに尾崎秀実でした。
しかし、半藤さんはこうした重要な事件を故意に無視しています。
最後にもう一点あげるとすれば、日米戦争に至るまでの過程で、
半藤さんはフランクリン・ルーズベルト大統領の対日敵意を半ば正当なものとして、議論の前提にしてしまっている点です。
はじめから日本は悪者扱いです。そのために記述にかなりの無理が見えるのです。
とくに、仏印進駐を扱った10章ですね。
この部分を読んでも、なぜ仏印進駐が<日本の戦闘意識を世界的に感じさせた>のかがはっきりしません。
当時のインドシナはヴィシー政権のもとにあり、そのヴィシー政権は日本の同盟国であるナチス・ドイツの管理下にあった。
その目的も、援蒋ルートの遮断にあったことが明らかでした。
東南アジアに広大な植民地を所有する英国が脅威を感じるのは十分理解できますが、
アメリカが北部仏印進駐に激怒する理由はないのです。
対米交渉において、日本側がアメリカとの和平を重視していたのですから、植民地フィリピンへの脅威も考えられないでしょう。
むしろ、援蒋ルート封鎖に態度を硬化させたのだとすれば、アメリカの方に下心があったことになります。
それに先立つ1939年(昭和14年)1月の、日米通商航海条約破棄の理由が述べられていないのが気になります。
翌年の在米日本資産凍結、対日石油輸出禁止といった措置も、
独ソ戦の日付の後に次々と実施されていることに注目すべきだと思います。
フライングタイガーズなどの中国への支援を受け持っていた事務方は、
第二次大戦中にソ連側に情報を流していた大統領補佐官のロークリン・カリーですし、
ハル・ノートの原案を作成したのは、ソ連情報機関のエージェントであった財務次官補のデクスター・ホワイトでした。
こうしてみると、アメリカの蒋介石国民党の支援は、アメリカ側の将来の中国市場への野望と、独ソ戦開始のために
風前の灯火であったソビエトを救うための米国政府内のソビエト・スパイによる必死の努力の賜物であったといえるでしょう。
ルーズベルトは、中国と日本、そしてアメリカと日本の戦争を望んでいたのです。
半藤さんの言うように、軍部の愚かしさだけに先の大戦の原因を求めることは相当の無理があると思います」
西尾
「それでは福井先生」
福井
「昭和史に対する半藤さんの歴史観は、二つの大きなトーンをベースに構成されています。
一つは陸軍悪玉、海軍善玉という善悪二元論であり、もう一つは日清・日露戦争までの明治を栄光の時代と捉え、
昭和前期の歴史を暗黒と破滅の時代と捉える、これもまた明治善玉、昭和悪玉の善悪二元論です。
この二つのトーンは表裏一体でからみあっているのですが、半藤さんのあらゆる歴史作品は、
このあまりにも単純極まりないずさんな固定観念をバックボーンにして、最終結論にもっていくべく構成されている。
つまり「最初に結論ありき」で、ある一つの決まった結果、結論をもとに、過去の歴史を裁いているのです。
半藤さんがいわゆる司馬史観の系譜を受け継ぐ一人であることは周知の事実です。
ノモンハン事件は司馬さんが書こうとして果たせなかった最大のライフワークのテーマです。
司馬さんの死後、半藤さんがその遺志を受け継ぐかのように書いたのが『ノモンハンの夏』(文藝春秋)であり、
また『昭和史』の第7章に書かれている「ノモンハンの悲劇」という項目です。
半藤さんの文章表現には甚だしい特徴があるのですが、それは形容詞が異様に多いということです。
たとえば、陸軍の参謀たちを評して「愚劣、無責任、無謀、独善、泥縄、手前勝手でいい調子、
おぞけをふるう巨悪、夜郎自大、いい気なものよ」こういった表現のオンパレードなんです。
ところが、ノモンハン事件は司馬さんや半藤さんの解釈と違って、実は日本軍の大勝利だったことが
最近の研究と史料公開によって明らかになりつつある。
ですが、半藤さんにすれば「ノモンハン事件は、陸軍の愚かしさと昭和の破滅の象徴である」という司馬史観の最後の到達点を、
石にかじりついてでも守り抜こうとしている。最初に結論が決まっているから、その線に沿って書くしかないんです」
西尾
「半藤さんはよほど陸軍に恨みがあるのでしょうか(笑)」
福井
「同じことは海軍に対する評価についてもいえるんです。半藤さんの抱いている海軍善玉説、これはやはり日露戦争で
バルチック艦隊を撃破した明治海軍はすごいが、それにひきかえ昭和の陸軍はだめだということなんでしょう。
ところが昭和の戦史を緻密にチェックしていくと、海軍善玉などということはとてもいえません。
とりわけ、太平洋戦争などは開戦責任も含めて、あのような悲惨な結末をもたらした原因は、むしろ海軍の責任のほうが大きい。
太平洋戦争は海軍の戦争だったんです。日本の陸軍の伝統的戦略方針は対ソ戦、北進論を中心とするものでした。
陸軍としては、北方のソ連の脅威とシナ問題をいかにうまく処理するか、ということが最大の関心事であって、
アメリカとの戦争など陸軍は最初から考えていなかった。
それに対して、日露戦争以降の海軍の仮想敵国はずっとアメリカでした。
西太平洋の覇権をめぐって、日米はライバル関係になっていたんです。
満洲事変のときの第一次上海事変も、日華事変のときの第二次上海事変も、出兵を強硬に主張したのはむしろ海軍です。
海軍の戦略は伝統的には南進論ですが、南進の果てにはアメリカとの衝突が待ち受けている。
そして仮にアメリカと衝突したとしても、あのような悲惨な敗戦を回避できる方法はいくつかあったのです。
しかし、山本五十六の滅茶苦茶な作戦のせいで、日本は一挙に破滅へ転がり落ちてしまった。
ところが海軍はそれをひた隠しにし、大勝利と偽って報告し、山本の責任も問われなかった。
東條英機が敗戦直前に至るまで、ミッドウェーの大敗北を知らされていなかったというのは、有名な話です。
しかし、半藤さんは『昭和史』でも『山本五十六』(平凡社)でもそうですが、山本をまるで悲劇の英雄であるかのように美化し、
日本海軍の犯した戦略の誤りについては分析のメスを入れていない。これは非常におかしな話です」
福地
「半藤さんは山本五十六と同じ新潟県、越後の国のご出身でしたね。県人会的親近感が強いのでしょうか(笑)」
福井
「太平洋における戦闘の記録を見ていると、海軍は果たして本当にまともに戦争する気をもって戦っていたのかどうか、
それすら疑わしくなってくる場面が多々あります。
補給線を無視し、戦線をどんどん拡大していって、南方の島々に陸軍を置き去りにしてしまった。
その結果、世界最強とうたわれた日本陸軍が補給を断たれ、
その実力を発揮できぬまま、南方の孤島で飢えと病気のために次々に命を落としていったのです」
西尾
「この本はページをめくるたびに至る処、疑問ばかりです。第一次大戦についてこう言います。
<日本は、関与せず知らん顔していればできたのですが、あとになって分け前が欲しくなって突然参加>したそうです。
欧州戦線へ向かうオーストラリア・ニュージーランド連合軍を海路守った日本海軍の苦労も書いてないし、
地中海で商船を守るために自爆し、マルタ島に今でも眠る日本軍人のことも書いてありません。
満洲建国は半藤さんによると、
日本が<いきなり植民地にするのは無理なので、(中略)独立国のかたちにしてやって、その後に領有する>
下心がすべてだったんだそうです。実際に戦後満洲を「領有」したのは中共ですが、
満洲はもともと中国(漢民族)とは別の国だという認識がこの本の著者にはまったくありません。
<いち早く国際連盟が動くとか、中国の大部隊が満州に入り込んでいれば、日本もそう簡単に占領できなかったのですが・・・>
当時、蒋介石は<肝心要の日本を主敵とするという気持ちがまったくない>といかにも残念そうで、
私はいったいどこの国の立場でものを言ってるの?と聞きたくなりました。
義和団事件で日本の駐屯軍の人数は最初少なかったのだけれど、
<どさくさ紛れに日本はどんどん増やし・・・>という言い方です。
あの時、ボーア戦争でイギリスは兵が割けず、日本に急に派兵を頼んできた。
日本軍は規律正しく、現地の良民は日本軍駐屯地に逃げこんだのです。
盧溝橋事件だけは、最初の発砲が中国軍側であったことは、さすがにこの人も認めざるを得ません。
しかも、二度目の挑発までが中国側からあったことも書いているのに、
損害もないのだから放っておけばよかったのだと言います。
そして、牟田口連隊長という悪いやつがいて、彼がことを荒立ててしまったために戦争が始まったと言います。
しかも、彼は「左遷」されていたので
<当時48歳、何か殊勲を上げて、飛ばされた無念を晴らしたいという思いがまだあったのではないでしょうか>
などと、どんなこじつけも見逃さず、中国が先に手を出したのに、何でも日本側が悪いという方へもっていきます。
<軍人というのは困ったことに、戦争をして勲章をもらわないとなかなか出世しません>
こういうものの言い方が何度も出てきます。
ノモンハン事件も、「勲章欲しさもあり」戦争を起こしたのだそうです。日本兵の略奪の記録をわざわざ持ち出していますが、
匪賊(強盗団のこと)の跋扈する中国大陸で何百年にもわたり自民族に対する略奪、放火、強姦、民間人殺戮は
中国兵のいわば「慣行」であり、「属性」であったことには触れられていません。
西尾
「むかし、「正義の味方・黄金バット」という子供向きのテレビドラマがありました。
悪者がはびこる地上に、いよいよになると黄金バットが登場して懲らしめてくれるのです。
悪者はそれが出てくるのを恐れているのですが、分かっていてつい悪いことをしてしまう。
半藤さんのこの本で、悪者は日本軍で黄金バットはいうまでもなくアメリカです。
1932年(昭和7年)頃まで
<アメリカは日本に好意的でした。国際連盟がガタガタしだした時も、アメリカは日本たたきの先頭になることはなく、
日本の立場が自衛戦争であるかには若干首をかしげるところもあったとは思いますが、
少なくとも、意図的な侵略戦争とはとらなかったのです。が、ついに錦州は占領する、山海関へも出て行くとなりますと・・・>
日本は犯罪国家になりだした、とアメリカという「正義の国」が世界史を裁く大審問官となって厳かに宣告を下した、
という筋書きです。
これは戦後アメリカが持ち出した聖戦物語で、
私たちの世代が子供の時からさんざん聞かされたいわばGHQの作り話にすぎません。
半藤さんはあれから60年も経って、アメリカの動機の裏もすっかり見えている今の時代に、
GHQに洗脳されっぱなしというのは一体どういうことなのでしょうか。
今まで多くの日本人は、なぜ日本はアメリカのような巨大な国と戦争をしたのかと問うてきました。
半藤さんのこの本もその意味での日本人の失敗、あるいは愚行を問責しているといえます。
けれども、私はむしろこう問いたい。アメリカはなぜ日本を相手に戦争をしたのか、と。
何の必要があって、また何の利益や目的があってやったのか、と。今はむしろそういう問いを立てるべき時代です。
パトリック・ブキャナンという有名なアメリカの評論家が、不必要な戦争であったというようなことを言い出しています。
不必要などころかアメリカの参戦が世界の災いをむしろ拡大した、という見方をです。
人種問題は20世紀政治史の根底にありますが、半藤さんの念頭にはありません。
白人たちは夷をもって夷を制する方策を立てて、日中を争わせました。
ソ連はこれにより日本の北進を防ぎ、イギリスはアメリカの参戦を誘い、欧州の対独戦争にこれを利用したのでした。
なぜアメリカは日本と戦争をしたのでしょうか。日本の大陸での努力を不必要に妨害したのはなぜでしょうか。
もしアメリカに大陸にこだわる理由や目的があったのなら、なぜ国民党を見捨てて、
毛沢東にすべてをくれてやるようなばかな不始末をしでかしたのでしょうか。
日本がなぜアメリカと戦争したかというよりも、もっと大きな謎です」
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 02:24:26.69 ID:X4wRGFt20
ID:rSQDhsH30乙!
>>146 ありがとうございます。
本を見ながらキーボードを打つのは意外とシンドイもんですねw
「半藤一利『昭和史』徹底批判」は続編がありますのでそちらもアップします。
半藤一利『昭和史』徹底批判2 半藤一利『昭和史』は紙芝居だ 月刊WiLL2010年6月号
評論家・西尾幹二
高知大学名誉教授・福地惇
大阪青山短期大学准教授・福井雄三
情報史研究家・柏原竜一
※本文にあるカッコ<>内の文は半藤一利氏の著書『昭和史』からの引用です
西尾
「本誌5月号における「半藤一利『昭和史』徹底批判」は読者の方々から大きな反響をいただきました。
「半藤氏の歴史観は、どこかおかしいと思っていた。また、そのことをどのメディアも取り上げようとしないことに
憤りを感じていた。よくぞ、言ってくださった」との共感の声を多数いただきました。
そこで、今回は自由討論の形式をとり、半藤一利『昭和史』徹底批判を、多角度から、より深めていきたいと思います。
まず前回の続きから入ります。
日露戦争後のアメリカの対日政策の急転回、日本仮想敵国視のはじまりは重い問題でした。
この点に関して、柏原さんお願いします」
柏原
「アメリカの20世紀(戦間期)における不可思議な対応に対して、言及したいと思います。
まずアメリカとロシアとの関係をみる必要があります。
当時はコミンテルンの勢いが猛威をふるっていました。
それが西側諸国に大きな影響力を誇っていたことはご承知の通りです。
とくにドイツです。ドイツは常に革命が起こる中心地と目されており、
それ以外にフランスなどに大きな影響力を奮っていました。
たとえば、フランスであれば30年代の空軍大臣にピエール・コーがいるんですが、コーは共産主義者でした。
ことほどさように、西側諸国への共産主義者の浸透は著しかったわけです。
ここで強調したいのは、アメリカに対する共産主義勢力の浸透が早い段階から始まっていたということです。
実際には1917年(大正6年)のロシア革命と同時期、かなり早い段階から進んでいた。
この時期からニューヨークのウォールストリートの支援のもとに、ソビエトの情報活動が始まっていました。
たとえば、ソ連の政治家トロツキーはロシア革命勃発時にはどこにいたか。ニューヨークだったんです。
ニューヨークで本当はお金もなにもないはずなのに、かなり豪勢な生活を送っていたことが知られています。
しかも革命勃発後、本国に帰国する際には一万ドルの資金を手にしていたことが明らかになっています。
ウォールストリートの中にロシア革命を支援するものがいたということは、
アンソニー・サットンの『ロシア革命とボルシェビキ革命』という本にも詳細に書かれています」
西尾
「ロシア革命を支援する金融資本家がいたということですね」
柏原
「そうです。それで活動がはじまるわけですが、
問題は、なぜウォールストリートがロシア革命を支援したのか、ということです。
当時、ロシアはフランスの主要な資本輸出先でした。それは露仏同盟の効果です。
したがって、ロシアに革命が起きるということは、
アメリカやあるいはイギリスのシティの資本家にとっては、一つのビジネスチャンスだったんです」
西尾
「資本家は、金になれば何にでも見境なく群がるんですね。フランスはどうしたんですか?」
柏原
「フランスにとっては、ロシアにおける既得権益が脅かされることになります。
ロシア革命は既存の利権構造を消滅させてしまいました。そこに、西側の多くの企業や起業家がつめかけたのです。
ただ個々の企業のレベルでは、フランスの企業が英国の企業を出し抜くという事例もみられましたので、
フランスだけが馬鹿を見たというわけではありませんでした。
表向きは、イギリス政府もアメリカ政府もロシア革命には強硬な対応をとっていました。
その一方で、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック社)といった大企業から、
アーマンド・ハンマーといった共産主義者のベンチャー企業家までが
ロシア政府と個々に契約を結び、そこから利益を受けていたんです。
米政府内部でも、ロシア革命政権に否定的な国務省と、
積極的に対ソ貿易を推進しようとする商務省との間で矛盾した対応が見られました。
一見険悪な当時の米ソ関係は、経済面からすれば、外見とは逆に蜜月だったのです。それがまず第一点です」
西尾
「中国大陸で国民党政権を応援すると称しながら毛沢東に領土を明け渡したり、
東ヨーロッパで第二次大戦直後ほとんどアメリカが占領しておきながらソ連に明け渡したりしたことも、
柏原さんがおっしゃるアメリカ中枢における共産主義勢力への甘い期待や協力意思があってのことで、
それが後の時代にも遠く働いたということですか」
柏原
「ここで私が念頭に置いているのは、戦間期ですね。ですから、ここでの議論は大恐慌前後の時期です。
かつて、「共産主義とは何か?それは電化である」というスローガンがありました。
実際には、電化を担っていたのはアメリカやドイツの企業だったんです」
西尾
「シベリア出兵に対して、アメリカが日本の軍隊よりも赤軍の方に好意的だったという背景もその辺にあるのでしょうか」
柏原
「シベリアには、アメリカの企業に多くの利権が用意されていました。
アメリカ側に鉱山資源の開発権を認めたのは、実際上はソビエトの国家承認のための賄賂でした」
西尾
「では、他に後代のどんなところに影響が出てくるのでしょうか」
柏原
「表面的な対立とは裏腹に、実務ベースでの経済関係の深化によって、
アメリカの中の反共勢力(国務省・FBI)が容共勢力(商務省・企業)に押されていくわけです。
ルーズベルト政権での国交回復は、一つのピークでした。
これ以降、ロシアの影響力が加速度をつけてアメリカに浸透していくことになります。
ですから、昭和史の議論をする際には、日本だけではなく日本の背後にいた国々やその経済関係に着目する必要があるのです」
福地
「スターリンの五ヵ年計画は、日本の政治家や軍人たちに相当な威圧を与えました。
誰がスターリンに資金提供をしたのか。ロシアは自力ではできないはずなんです。柏原さんどうですか」
柏原
「そうです。ノーマン・サウルの『友人か敵か』等の研究書からもわかるように、
第一次五ヵ年計画には多くの西側企業が関わっていました。
現実には、西側の技術や資本に依拠していた五ヵ年計画を、我々は共産主義の偉大さと誤解してきたのです。
ですから日本の政治家が悪かったのではなく、背後に経済的な利益目的から悪魔とでも手を結ぶ勢力があったのです。
そこが本当は問われなければならないところです」
西尾
「日本にもそのような勢力がいたのですか」
柏原
「その代理人はいました」
福地
「はっきり確認されているのはゾルゲとつるんだ尾崎秀実ですね。
近衛のブレーンとして、経済もかなり牛耳ります」
福井
「今の柏原さんの説は斬新ですね。
1920年代から30年代の革命後のソ連は、鉄のカーテンで孤軍奮闘だったと思われていますが、
西側から企業グループが入り、ビジネスを行っていたんですね」
柏原
「ひとつの例を挙げると、自動車会社のフォードは戦間期にロシアに工場を作っており、
その際にはアメリカ人がロシアに移住しているんです。戦後、日本が北朝鮮を理想の国として帰還運動をしたように」
西尾
「いかに共産主義への幻想があったかということですね」
柏原
「そうです。冷戦に入り米ソ間があやしくなると、彼らはパスポートも取り上げられた。
ロシアに対して、棄民のような扱いとして残る」
西尾
「アメリカ政府が棄民としたわけですね。どのぐらいの数ですか」
柏原
「一万人以上といわれています」
西尾
「収容所群島という奴隷労働といわれるものがありますが、それとアメリカの棄民がどう繋がっているんですか」
柏原
「彼らは30年代初頭、ソビエトで大歓迎を受けるのです。
しかし、スターリンの大粛清によって収容所送りになってしまう。
ルーズベルト政権の下で国交も確立されるのですが、彼らのことは忘れ去られるのです。
冷戦の背後に隠れた悲劇ですね」
柏原
「ついでに、ドイツとロシアの関係をご紹介します。
1922年(大正11年)、ドイツとロシアの関係でもラッパロの秘密協定が結ばれていました。
これは一応軍事的な協定で、ドイツ軍の軍人がロシア共産軍の訓練を肩代わりする代わりに、
ロシア側が実験施設等を提供するという協定です。ただ、関係は軍だけには留まらず、
ドイツの財界、ドイツの軍事産業といってもいいですが、軍事産業といった財界がそこで利益を得ようとしたのです」
西尾
「ラッパロ秘密協定は、ドイツが英仏によって忌避されたために、ロシアと結んだ協定でしたね」
柏原
「当時、ドイツとしては進出の余地がある場所であれば、どこにでも出ていくという勢いでした。
それで、ロシアの革命政権とも親密な関係を築いており、コミンテルンの一大拠点ともなり得たのです」
西尾
「日本はぼんやりと、イギリスとだけ付き合っていたわけですか。
共産主義のイデオロギーがドイツ中枢に入っていたというのに」
柏原
「ドイツとロシアの壁はなかったわけです」
福地
「戦争の時代になるとルーズベルトという男が大統領としてアメリカを代表するわけですが、国民は全然違った考えをしていた」
柏原
「当時の米ソの経済関係を媒介していたのは、多くのフロント企業でした。
有名なところだと、アムトルグが知られています。これは通商機関であり、貿易会社でした。
ソビエトはこのアムトルグを根城にして、情報活動を行っていたのです。
他にもソビエトの息のかかったフロント企業は世界中に分布していましたから、
コミンテルンなどの共産主義活動は、経済のネットワークに依拠して世界中と結びついていたわけです」
柏原
「二点目が、当時のアメリカを考える上で重要なことが、アメリカとイギリスの関係です。
その前提となるのがルーズベルトの失敗です。
アメリカのルーズベルト大統領が二期目に入ってもニューディール政策は一向に機能せず、
むしろ、当時ナチスドイツが政権をとっていたヒトラーのほうが経済政策では大成功を収めていた。
つまりアメリカの失敗、ドイツの成功といった図式が見えていました」
西尾
「それは何年頃ですか」
柏原
「30年代中盤です。ドイツはアウトバーンをどんどん作って、大恐慌からいち早く脱しようとしていました」
福地
「アメリカ大統領ルーズベルトは、ニューディールに失敗していた」
柏原
「ルーズベルトとしては焦りがあったんだろうと思います。
このままでは失敗した大統領として終わるということを考えていたと推理できます。
一方で、当時のイギリスは第二次大戦に突入していました。39年のドイツのポーランド侵攻に始まり、
オランダ、ベルギーを経由してフランスもナチスの手に落ちると、ドイツと直接対決をするという状況に入っていきます。
大陸をヒトラーに押さえられたイギリスは、ヨーロッパから孤立していた。
当時の首相のチャーチルは、英国存続のためにはアメリカの協力が不可欠だと考えます。
ルーズベルトはもう一期やって、第三期目の大統領に就任してなんとか汚名を晴らす必要がありました。
そこで、彼らの交流というものが大きくクローズアップされていくわけです」
西尾
「双方の思惑が重なり合っていたわけですね」
柏原
「そこで設立されたのが、カナダ人のビジネスマンであるスティーブンソンがトップのBSC(イギリス安全保障調整局)です。
BSCはイギリスのアメリカにおける情報機関で、ルーズベルト三選を成功させるため、
そして第一次大戦以降、参戦に反対してきたアメリカの世論を変えるべく行動していきます。
アメリカの孤立主義を主張する者に対して悪質な中傷を流し、世論調査を改竄し、
究極的にはアメリカの大統領選に介入していくわけです。
有名な例として知られていますが、民主党に属していたウェンデル・ルイス・ウィルキーを共和党から擁立させ、
アメリカを戦争に巻き込まないため尽力した共和党のフーバー大統領を党大会で妨害工作をした。
その代償として、レンドリース法(武器貸与法)を使って、
イギリスに対しては積極的に武器の援助を図っていくプロセスがありました。
ですから、英米の特殊な関係とよく言われますが、ルーズベルトとチャーチルの「特殊な関係」を抜きにして
日本の大東亜戦争(太平洋戦争)は記述できないのです」
西尾
「おっしゃる通りですね」
柏原
「アメリカの非合理な行動は、たしかに日本人の眼からみると不可思議ですが、アメリカから見ると非常に合理的でした。
金儲けをしたいという動機がアメリカにはすごくありますから、蒋介石政府に近づき、武器をせっせと売ったりしたわけです」
西尾
「半藤さんの『昭和史』では、まるで日本一国が閉じ込められており、世界史の中では生きていないように感じられます。
そして、アメリカが第二次大戦にはなばなしく勝利し、ドイツが没落していったという
今日の結論からすべてを導いており、いわば結果論だけの記述です。
ところがあの時代を考えてみると、ドイツはアメリカをも凌ぐ経済成長を遂げ、アメリカは焦っていた。
アメリカが勝利をおさめ、現在のような超大国が出現するなど、確たることは誰にもわからなかった。
イギリスも勝利するかどうかはわからなかった。イギリスはヨーロッパから追い落とされるのではないかと思われていた。
ドイツに勝つとは考えられていなかったんです。アメリカの行方も不安に蔽われていた。
世界中にソ連に対する幻想もあった。もちろん、アメリカにも。
共産主義が没落している今の時点から物事を見てもダメなんですよね。
ですから、日独伊三国同盟というものを結んだからといって、アメリカと戦争になる愚かな選択だったかどうかなど、
その時点では分からなかったわけですよ。アメリカの参戦意思は突如として起こるわけですから。
そしてまた突如として暴力的になるわけで、
そのようなことが起こる前の我が国が置かれていた立場ははっきりとは見えなかった。
ナショナル・エコノミー(国民経済)が成功していたのは日独伊なんですよ」
福井
「ファシズムのですね」
西尾
「三国が、経済的に結びつく必然性が当然あった。我々はその時代に即して考えなければならないんです。
今の時代の結果から書いたんでは、歴史叙述にならないんですよ」
福井
「半藤さんの場合は最初に結論ありきで、自分の思い込みと独断を前提に議論を進めていくため、
その後の論理展開が間違った方向にずれてしまっているんです。
典型的な例を一つあげると、『ノモンハンの夏』(文春文庫)でおかした誤りを、
半藤さんは『昭和史』でそっくりそのまま繰り返しています。
まず、半藤さんは『ノモンハンの夏』で徹頭徹尾、日本軍の頑迷固陋ぶりを強調し、
愚かしい組織がいかに滅んでいくかの、絶好の見本として描いています。
ところが、末尾の部分にわれわれは、思わず「おや」と首をかしげるような意外な記述を発見する。
半藤さんはソ連の最新情報公開の資料を借りながら、最終第7章で
<ソ連軍の死傷者も、最近の秘密指定解除によって、惨たる数字が公開されている(中略)
全損耗は2万4492人となるという。圧倒的な戦力を持ちながらソ蒙軍はこれだけの犠牲をださねばならなかった>
と、ソ連の方が日本よりも多くの犠牲を出したという事実をそっと示唆しているんです。
これは全体の末尾の部分にさりげなく挿入されているので、本をほとんど読み終えて頁を閉じかけようとしている読者は
その重大性に気づかず、見落としてしまいがちですが、絶対に見過ごすことのできぬ重大なポイントです。
彼が『ノモンハンの夏』を出版したのは、ソ連崩壊後の情報公開で、
ノモンハン事件の真相が次々に公開され始めた時期に当たります。
おそらく半藤さん自身、この"小説"を書き終える頃になって、
さすがに「私はこの旧ソ連公開の最新情報を知りませんでしたでは済まされなくなる」という危惧の念を抱いたのでしょう。
あらかじめ予防線を張っておく意味でも、末尾の部分に目立たぬようにそっとつけ加えたんです。
だが、この記述がいかに重大な爆弾のような意味を秘めているか。
彼は自分の作品全体を構成している前提条件が、すべて根底から覆されてしまうことをみずから認めていることになります。
半藤さんは最後の土壇場で、「ノモンハン事件は実は日本軍の勝利でした」と一言だけそっと示唆して、
読者にどんでん返しを食わせ、煙に巻いているんです。しかも、それに対する説明はいっさいなされていない。
半藤さんはこのように、一見面白いストーリーを構成し語っていながら、
最も本質的な重要なテーマの部分にさしかかると、うやむやに焦点をぼかして説明を回避してしまう。
そして、『昭和史』では、
<ソ連軍も蒙古軍を含めるとたいへんな死傷者を出していて、2万4992人といいますから日本よりも多いんです。
それで近頃、うわついた評論家など「ノモンハンは日本が勝ったのだ」という人が少なくありません。
そりゃ死傷者数だけみれば、日本の兵隊さんが本気になってよくぞ戦ったというところもありますが、
結果として国境線は相手の言う通りになったのです。(中略)日本軍が勝ったなどとても言えません>
と論じるのですが、これは完全な本末転倒です。
従来、司馬さんや半藤さんの強調したノモンハン論議は、「高度に近代化されたソ連の機械化部隊に対し、
貧弱な装備の日本軍が肉弾戦を挑んで、一方的になぶり殺しにされた悲惨な戦闘になった」
という、戦闘内容の評価に関するものでした。
そして、これは科学技術の軽視と非合理主義が近代日本の悲劇であったとする、司馬・半藤史観の原点でもありました。
ノモンハンの戦闘内容の真相が明らかとなった今、半藤史観は完全に破綻しているのです。
結果的に外交交渉のまずさで相手の要求に押し切られたからといって、
それは半藤さんがこれまで展開してきたノモンハン論議の本質とはなんの関係もない。
単に自らの誤りを認めたくないという負け惜しみの言い訳に過ぎません。
多少なりとも歴史の専門知識を持つ者から見れば、そのような語り口の背後に潜む矛盾と落とし穴にすぐ気づく。
ところが、一般の読者のほとんどがそこまで注意しながら彼の本を読まないので、
まるで落語を聞いているような心地よい、半藤節の語り口にいともやすやすと誘導されてしまうんです」
西尾
「考えてみれば、これは恐ろしいことですよね」
福井
「もう一つ例を挙げましょう。半藤さんは、山本五十六を徹底的に美化して描いています。
劇的な戦死を遂げた悲劇の英雄として描かれ、海軍善玉の象徴的人物にされています。
たしかに山本五十六は戦争が始まるまでは親米的で、アメリカとの戦争には反対でした。
だがこれは山本だけではなく、当時の良識ある人なら誰でもそうでした。
問題は開戦以降の彼の行動です。
海軍が、長年にわたってその頭脳を総力結集して練り上げた漸減邀撃作戦を無視し、艦隊決戦にこだわった。
そして本来ならば、日本が長年にわたる持久戦法により、優勢のうちに展開することができたはずの日米戦争で、
虎の子の連合艦隊主力を一挙に失い、日本を破滅に追いやってしまったんです。
連合艦隊よりも海軍軍令部の方が立場は上ですが、彼は軍令部の作戦を無視し、
自分の辞任をちらつかせて横車を押し通し、おのれの独断で作戦を強行して大敗を喫した。
山本のこのような軍人としての戦略ミスに対してこそ、徹底的な分析と批判のメスを入れねばならぬのに、全く無視されている。
このように、いざ肝心要の最も重要な部分にさしかかると、彼の筆は突如として形容詞の美辞麗句が踊りだし、
読者はいつのまにか煙に巻かれてしまうのです。
『山本五十六』(平凡社)からいくつかの例を挙げましょう。
<名をも命も惜しまざらなむ>
<この愚劣きわまる戦いでは名をも捨てた。敗者の矜持も顧みない>
<この戦は、俺の流儀で戦ってやる、他の批判も後世の検証も恐れない、という捨て鉢な決意を固めた>
<山本は敢えてやれといわれるなら"自分の戦争"をやるまでだと決心し、それに固執した。
大本営が考える"南方要地を確保して敵の来攻を待つ長期不敗の構想"など、彼にあっては愚の骨頂なのである>
まるで、源義経かあるいは赤穂浪士の浪曲をうなっているかのような語り口です。
この結果が、日本にいかなる悲劇を及ぼしたかという点こそ、徹底的に議論され検証されなければならないのに、
半藤さんはそれをしない。自分の都合の悪い事になると一切説明を省いて、焦点をうやむやにぼかしてしまうんです」
西尾
「山本五十六については、『昭和史』を読んでいても、平和主義者として何度も記述し、
海軍の平和への志の高さを述べておきながら、突如として
<山本五十六連合艦隊司令長官が「対米戦争はもはや避けられないのであろうか。
やむを得ん。いざとなったら真珠湾を攻撃しよう」と考え出したのはこの時でした。
言い換えれば「いざとなったら伝統の戦術などかなぐり捨てて、俺流の乾坤一擲の戦法でいく」ということです。
戦争への道を突き進む海軍中央の動きを止める手段がまったくないとみた
彼の苦悩の選択ではなかったかと思えないでもありません>
と記述します。
コロッとひっくり返るんですよ。これは、今まで彼がいっていることと正反対の明らかに矛盾した記述です。
これじゃあまるで、「さあ見ていらっしゃい、聞いていらっしゃい」という紙芝居屋さんですよ」
福井
「それともう一つ半藤さんの特徴を挙げると、彼は世論に非常に敏感であるというのか、
アンテナを張りめぐらせて、大勢の変化をキャッチしながら風見鶏のように即座に対応できる人なんです。
2004年に、『中央公論』が「日露戦争百年と司馬遼太郎」という特集を組んだときも、
私は司馬史観徹底批判の立場で執筆しました。
それと相前後して、読売新聞が「司馬史観見なおし」の一大キャンペーンを行い、
このような潮流が生じると見るや、彼の論調も微妙に変化するんですね。
その直後、半藤さんは『諸君!』で司馬史観の中核である乃木希典愚将説に異議をとなえています。
これは、司馬史観の受け売りに近かったそれまでの半藤さんの立場と明らかに矛盾します。
私は、半藤さんの弁明を求める必要があると判断し、
2006年に『中央公論』誌上で半藤さんに公開論戦を申し込んだのですが、案の定、だんまりを決め込まれました」
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 20:33:11.73 ID:8qcUUlH00
>>147 膨大な書き込みに感謝。
多数が納得しうるこのような正論が厳然と存在することを知り
多くの人が安堵することでしょう。
>>157 そう言っていただけると書き込んだ甲斐があったというもんです。
6月号分の156の内容からはまだ続きが少し残っているのでそれも載せておきます。
西尾
「半藤さんの矛盾した記述について、他の例でも挙げましょう。
米内光政が信頼する部下の高木惣吉の言葉を引用して、
<英国も日英同盟をアメリカに売ったし、ドイツが防共協定をソ連に売ったからといって、さまで驚くにあたらないであろう。
ソ連でもまた独ソ不可侵条約をいつ英米に売らないとは保証できない>と記述します。
これはその通りになりますし、この高木惣吉の考えは卓見であり、当時の国際情勢を冷静に捉えた発言です。
したがって、半藤さんも
<これが冷静な見方だと思います。条約なんていうのは、いつだって、まずくなれば売り渡してしまうものであって、
これは現代もそう変わらないんですね。国際信義など下手すれば国家的利害のためだけにあるのかもしれません>
と述べています。これは正論なんです。
であるならば、いよいよそのときが来て、1941年(昭和16年)に日ソ中立条約を締結した松岡洋右外務大臣が、
ソ連による独ソ不可侵条約の破棄と、ドイツのソ連侵攻という由々しき事態を受けて、
<断固としていま、ソ連を攻撃しよう>と言ったことについて、
<無責任な外務大臣ですね。いまになるとまことに滑稽としかいいようがない>
と、何のためらいもなく簡単に批判していることは、
半藤さんの単なる「松岡憎し、松岡を悪者として描きたい」という、それだけの単純な動機を認めざるを得ません」
福井
「断固としてソ連攻撃を主張した松岡の行動は、非常に現実的で合理的な判断でしたね。
条約などというものはその場しのぎの単なる時間かせぎで、自国にとって機が有利に熟せばいつでも平然と破り捨てる。
これが当時の列強諸国の常識だったのです。
ヒトラーもそれを熟知していたからこそ、先手をとってソ連を攻めたのだともいえる」
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 23:57:38.67 ID:Cd8gqhMb0
西尾
「松岡は非常にリアルな判断をします。ドイツのソ連侵攻という由々しき事態が発生し、情勢が急変した。
その時、松岡大臣は断固として、今ソ連を攻撃しようと言い出した。これは私に言わせれば正しい判断です。
この段階で反転してソ連を討つ、つまり今までソ連と契約を結んできた松岡が、にもかかわらず、
事ここに至ったら今度は米英側に立ちソ連を攻撃していれば、アメリカは対日参戦はもとより、
あるいはドイツとも戦争をする口実を失う可能性があったんですよ。
つまり共産主義を倒すということが英米の最初からの目的にあるわけですから、
そうなれば世界の歴史が変わり、共産主義の問題はかたがついて、ソ連包囲網が世界中に敷かれ、
日本もその勢いにのることが可能だったと松岡は見抜いて、今こそ転じようと言った。
しかし、近衛文麿をはじめ当時の政府重鎮には通じなかった。
外交戦略としてみれば、松岡の判断は決して間違っていなかったんです。
そこで言いたいのは、半藤さんが高木惣吉の意見に賛同しておきながら、松岡の意見を罵ることはおかしいことです。
松岡を悪者に描きたかっただけで、その点の矛盾にまったく気がついていない。
これは歴史を結果から、結果の善悪から描いて、しかもその善悪判断は半藤さんの個人的感情に基づくだけなんです。
戦争がいよいよ近づくとなると、アメリカの対日参戦の意思は強い、たとえば・・・」
福地
「満洲事変のときのスチムソン・ドクトリンに、強い意思が表れていますよ。
あの時すでにアメリカは戦争をやるぞと。ところが、半藤さんはそうではないという解釈をしている」
西尾
「アメリカの意思が非常に強いということでいえば、たとえば、天皇に対して杉山参謀総長が、日米関係はと聞かれて、
陛下に日米関係は病人に例えると手術をするしかないところにきていると、危険ではあるけれども
そうすれば助かる望みはないわけではない、思い切って手術をしなければならんと存じますと、そう言っている。
これは1941年(昭和16年)7月ですね。もうギリギリのところへきてそう言っている。
これを、半藤さんは無責任でキチガイのように書いているんですよ。
しかし、この時の杉山参謀の言っていることは私には当然な表現だと思います。
それから少し経って、東條英機がとてもアメリカが要求するような条件をのむことはできない、
これは近衛・ルーズベルト会談をしたいと思いながら
松岡が帰ってくるのを待っていたためにチャンスを逸した、というくだりがありますね。
そこで、ルーズベルトから頂上会談はできないと断られると近衛内閣は愕然とするわけですが、
ルーズベルトから要求された条件はとても受け入れられるわけにはいかない、中国からの撤兵ですから、
そこでこんなものは交渉でも外交でもない、降伏要求ですという言葉がありますね。
読んでいてこれは当然だと思うんですが、半藤さんは、なんて無責任でアホなことを言うと書くわけです。
これも東條憎しの感情論です。しかし、歴史の流れから言うと東條英機の言っている通りなんですよ。
あのとき、アメリカの開戦意思は非常に明確で、
<山本は最後の最後まで、交渉の妥結を願っていたのです。
しかしながら、ハル国務長官のほうは、返事を引き延ばして、提出された乙案も読みもしない。
アメリカ外交の現在にも通じる頑固さです。自分が正しいとして、それを押し通し、柔軟性の「ジュ」の字も示さない>
と、アメリカの明確な意思というものを記述しているんですよ。
それならば、日本側が開戦を強いられたのは仕方がないではないですか。アメリカが悪いんですよ。
だとしたら、開戦の責任はアメリカにあり、日本にはないではないですか。
それは明らかです。よしんば山本五十六のやり方が酷くてもですよ。
開戦の意思はアメリカ側にはっきりと最初からあることを、半藤さんは明確に記述しているんです。
アメリカの強大な意思をかなり前からご自分で言っているのに、アメリカの悪ということについては決して見ようとしない。
アメリカを運命のごとく、神のごとく見ているんです。神の怒りなんです。半藤さんにとってアメリカは。
ですから、私は「正義の味方・黄金バット」と言ったんです。
つまり半藤さんはアメリカに責任があるということを事実上書いているにも関わらず、アメリカの「悪」については記述しない。
アメリカの強大な意思を見ようとしない。アメリカはすべて「善」、「正義の味方」なのです」