田中正造は法螺吹きドンキホーテ

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1名無しさん@お腹いっぱい。
事典類や小学国語、中高の歴史教科書に書かれた「足尾鉱毒事件」は、ほとんどが事実
からかけ離れています。
原因は、発言に嘘が多く行動に現実性を欠き、公害の被害者でもない田中正造を、学者や
研究者やマスコミが、反対運動の当事者として英雄にまで祭り上げたことにあります。

歴史の嘘は放置すべきではないので、「田中正造神話を粉砕しよう」というスレッドで真実を
訴えてきましたが、異常に長いコメントを書く妨害者のために、容量が512Kを超えたため、
614番で書き込みが不能になりました。そこでこのスレッドを立てました。
内容は、、「田中正造神話を粉砕しよう」の続きです。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 21:20:38 ID:TmqqE5eJ0
本題に入る前に、事典や教科書の記述とはかなり違う、事件の経過を略記します。

1.田中正造の最初の国会質問の直後、加害企業の代表である古河市兵衛は被害民との示
  談交渉を開始。結局、総額10万円(今の10億円に相当)ほどの示談金を支払った。
2.しかし、明治29年の3回の大洪水で被害が拡大し、田中正造に説得された一部の被害民
  は、示談による解決から足尾銅山の「鉱業停止」(閉山)を求める方針に転換した。

3.一方、これら過激派被害民と反対の立場をとった穏健派被害民は、「鉱業非停止」(閉山
  反対)の陳情運動などを進めた(穏健派の人数は過激派の10倍ぐらい)。
4.反公害運動を受けた政府は、鉱毒調査委員会を設置して対策を講じ、明治30年5月に、
  古河鉱業に対して、大規模な「鉱毒予防工事」を命じた。これには各工事ごとに、不可能に
  近い工事期限が定めてあり、「違反するときは直ちに鉱業を停止すべし」との規定が付され
  ていた。

3名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 21:21:55 ID:TmqqE5eJ0
5.明治30年11月、104万4千円(今の104億4千万円ほど)の工事費(足尾銅山の年商は
  180万円程度)をかけた工事が竣工した。
6.4年後の明治34年秋、新聞が「激甚被害地を除けば豊作」と報ずるほど被害農地は復旧
  した。
7.しかし同年12月、田中正造が天皇に直訴した。研究者たちは、この行為を「反対運動の
  活性の為」とし被害民も支持しなかったが、東京の学生やキリスト者等を大いに刺激した。

8.明治36年6月、政府の第2次鉱毒調査委員会が、「鉱毒予防工事の効果があった」との調
  査結果を発表した。
9.同年10月、田中正造自身が「激甚地の一部は5倍以上の豊作なり」と演説して回るほど
  被害農地は復旧した。
10.公害防止対策に成功した政府は、渡良瀬川の洪水対策として谷中村の遊水池化を決定し
   たが、栃木県議会も上流の被害民もすべて賛同し、反対した田中正造は全く孤立した。

4名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 22:15:21 ID:jamTcIyS0
>>1
それで、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったなどと
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
まともな反論は全て無視を続けて、都合のよいでたらめだけを
垂れ流しし続けるあなたの言うことなど、誰も信用しませんよ。

ちなみに前スレとやらのアドレスはこちら。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1158498296/l50
5名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:02:22 ID:XfA7jedc0
>>4
さて。ものはついでなので、
この方は、大嘘を指摘されると、素知らぬふりをして別の嘘をわめき
ちらしてはぐらかしたつもりになるということを何度も繰り返しています。
1902年大洪水のほかにもたとえば、

菅井という研究者の文章を勝手に改ざんし、元の文にない文字が入っている上に
どこを省略したのかも書かずに「省略して引用」などとうそぶき、

指摘されると、その省略した部分は間違いだとかとんちんかんなことを言いだし、

間違いかどうかではなく、文章が捏造かどうかを聞いているのだと聞くと

逃走(今ここ)

内村鑑三が、「福音新報」に記事を書いたかのようにでっちあげ、

その文章は、匿名の読者による投稿文で、しかも、文章が違う、と指摘されると

逃走(今ここ)

横井という学者が、「桑は豊作、米は1反あたり3石もとれた」と書いた文を元に、
鉱毒が完全消滅したなどとわめきちらし、

それは、横井が、鉱毒被害がある土地とない土地の比較のために出した無害
地の産量だ、と指摘すると

逃走(今ここ)

1897年予防令工事で鉱毒は完全消滅した、などと大嘘をぬかし、

そんな報告をしたえらい学者はどこにもいない、と忠告すると

逃走(今ここ)

恐らくこの方は、そうやって逃走した方と自分が同一人物である証拠はない、
とか言い出すと思いますので、今のうちに書いておきましょうね。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:08:10 ID:XfA7jedc0
>>2
> 本題に入る前に、事典や教科書の記述とはかなり違う、事件の経過を略記します。
これも9割がた大嘘なので、本当のことを書いておきましょうね。

> 1.田中正造の最初の国会質問の直後、加害企業の代表である古河市兵衛は被害民との示
>   談交渉を開始。結局、総額10万円(今の10億円に相当)ほどの示談金を支払った。
 被害民全員との交渉は完了していません。この時点で、「こんなはした金では示談しない」と
言って交渉を蹴った農民が何十人もいます。足利市史に載ってます。従ってこれは大嘘。

> 2.しかし、明治29年の3回の大洪水で被害が拡大し、田中正造に説得された一部の被害民
>   は、示談による解決から足尾銅山の「鉱業停止」(閉山)を求める方針に転換した。
 明治29年以前に突っぱねた農民がいましたから、これも大嘘。

> 3.一方、これら過激派被害民と反対の立場をとった穏健派被害民は、「鉱業非停止」(閉山
>   反対)の陳情運動などを進めた(穏健派の人数は過激派の10倍ぐらい)。
 過激派農民などはいませんでしたのでこれも大嘘。竹槍もって足尾に押しかけるような攻撃
的な農民がいたという事実はありません。これは、自身を正当化するためのでっちあげです。
 そもそも、「穏便派農民」とやらは、渡良瀬川流域でも鉱毒被害が比較的少なかった村の農民
たちです。これは単に、「被害民より被害を受けなかった農民のほうが多かった」といっているだ
けに過ぎません。しかもそれも嘘だったりします。

> 4.反公害運動を受けた政府は、鉱毒調査委員会を設置して対策を講じ、明治30年5月に、
>   古河鉱業に対して、大規模な「鉱毒予防工事」を命じた。これには各工事ごとに、不可能に
>   近い工事期限が定めてあり、「違反するときは直ちに鉱業を停止すべし」との規定が付され
>   ていた。
 予防令があったのと、工事が行われたという事実だけは本当です。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:15:35 ID:XfA7jedc0
>>3
こちらもいきます
> 5.明治30年11月、104万4千円(今の104億4千万円ほど)の工事費(足尾銅山の年商は
>   180万円程度)をかけた工事が竣工した。
 工事が竣工し、政府がそれを確認したのは事実ですが、小滝浄水場は翌年、早くも崩壊しています。
 これは古河が出した文書にはっきり載っています。
 竣工さえすればよいという、いい加減な工事が行われたのは事実ですが、鉱毒は全くなくなり
ませんでした。

> 6.4年後の明治34年秋、新聞が「激甚被害地を除けば豊作」と報ずるほど被害農地は復旧
>   した。
 激甚地は豊作になりませんでした。鉱毒被害はこの後も続きます。

> 7.しかし同年12月、田中正造が天皇に直訴した。研究者たちは、この行為を「反対運動の
>   活性の為」とし被害民も支持しなかったが、東京の学生やキリスト者等を大いに刺激した。
 支持しなかった農民もいましたが、そうでない農民もいました。従ってこれも大嘘。
>
> 8.明治36年6月、政府の第2次鉱毒調査委員会が、「鉱毒予防工事の効果があった」との調
>   査結果を発表した。
 効果があったという報告は出ましたが、鉱毒がなくなったという報告は出ませんでした。
 古河による鉱毒の垂れ流しはこの後も続き、被害はやみませんでした。

> 9.同年10月、田中正造自身が「激甚地の一部は5倍以上の豊作なり」と演説して回るほど
>   被害農地は復旧した。
 復旧したのは「激甚地の一部」であって、「激甚地の大部分」は豊作になりませんでした。
 また、豊作の理由は、農民が必死に鉱毒汚染土除去をやったからであって、予防令工事とは
直接は関係ありません。

> 10.公害防止対策に成功した政府は、渡良瀬川の洪水対策として谷中村の遊水池化を決定し
>    たが、栃木県議会も上流の被害民もすべて賛同し、反対した田中正造は全く孤立した。
 足利鉱毒救済会委員長でもあった荻野萬太郎県議は、谷中村買収案が県会に出たり、出そう
になったりするたびにことごとくこれに反対しました。従ってこれも大嘘。
 なお、荻野県議自身は農民ではありませんでしたが、支持者の多くは農民でした。また、荻野も
農民相手の商売をしていました。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 21:59:59 ID:54FK/Lmc0
なつかしい
9名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 22:20:30 ID:Ly/4c8WZ0
>>1
悔い改めよ
10名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:18:25 ID:c8DnC6Wq0
今回はでたらめを指摘するだけでなく、誰かさんの妄想の国の世界とは違う、
現実世界で起こった本当のことをご紹介しましょうね。
1.古河市兵衛が足尾銅山を買収した当時は産出量は非常に少なかったのですが、
かなりの投資をして奥深くまで坑道を掘ることによって産出量は激増。
製錬時の鉱毒ガスも激増して、周辺の木々を枯らします。(明治20年ごろ)
また、銅を取ったあとの残りカスも、その辺に捨てていたのですが、だんだん捨て
場もなくなり、さらに増えたカスが大雨のたびに渡良瀬川に流れだし、下流の田畑
に流れ込んで作物を枯らして騒ぎになります。
2.被害が起きても、当時は政府も古河も素知らぬふりをして何もしません。
少なくとも足尾には下野新聞は来ていたんだから、銅山側が知らないはずはないん
ですが。
困った農民は、前年にできたばかりの衆議院で、被害地選出の議員だった田中正造
に泣きつき、正造は国会演説をします。(明治24年)
3.政府は調査をしますが、特に命令とかはしませんでしたし、被害地復興策も
たてませんでした。古河は、仲介人を立てて農民と示談契約を行います。(25年)
この契約も古河に相当有利で問題の多いものでした。これはあとで紹介します。
大部分の農民は、金額はとにかく、鉱毒がなくなればいいと考えてはんこを押しま
すが、あまりに農民側不利な条件だったので、交渉を蹴ってはんこを押さなかった
農民もたくさんいましたが、全部でどれくらいなのかは分かりません。足利郡梁田
村で椅子を蹴った農民の数は分かっています。
4.ところが、この示談契約の期限が切れてすぐ(29年)に大洪水があって、また
また鉱毒が田畑を襲います。期限切れに合わせて、新しい示談契約も進んでいまし
たし、一部の農民は洪水前にはんこを押していましたが、洪水後にはんこを押そう
とする農民はほとんど皆無でした。
5.田中正造は、この間数年、国会では鉱毒に関する質問をほとんどしていません。
きっと、古河は誠実に対応しているのだろうと考えていたようです。しかし、洪水
で被害が拡大したのを知ると態度を一変させ、どんどん鉱毒に関する質問を行いま
す。
6.しかし、政府は知らんふりを続けます。農民は直接政府に請願しようと、みん
なで歩いて(一部船や列車の者もいます)東京に向かい、榎本武揚農商務大臣と面
会し、被害の惨状を訴えます。ちなみに、当時の憲法では、大日本帝国臣民には請
願権がありました。(30年)
7.農商務大臣は被害を視察し、鉱毒調査委員会をつくります。委員会はもめにも
めたあげく、古河に大規模な鉱毒予防工事をするように命令します。(31年)
8.古河は大量の金を使って工事を完成させますが、理由をつけて煙突の高さを低
くすることを認めさせたり、沈殿池と濾過池を別に作らなければならないところを
一緒にさせるのを認めさせたり、できあがった工事の内容は命令の内容とは相当に
異なっていました。それでも政府はこの工事が完工したというお墨付きを与えます。
(31年)
9.しかし、どれくらい鉱毒が予防できるかという点については検査をしていませ
ん。あくまでも、「命令書のとおり」のものができたかしか検査していません。従
って、鉱毒はこのあとも流れ続けました。ちなみに、煙害防止用煙突の効率は26%。
何と、鉱毒ガスの4分の1しか除去できないというお粗末なものでした。
10.さらに、翌年、小滝浄水場は崩壊。古河は作り直します。その間、鉱業活動
は停止させなければならないのに、停止しませんでした。(32年)
11.古河が鉱業を停止できなかったのは、外国企業に莫大な銅を提供するという
契約を結んでいて、銅の産出が止まれば違約金で破産する可能性があったためとい
われています。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:19:34 ID:c8DnC6Wq0
12.さらにこの後も鉱毒は流れ、被害民は何度も東京に請願に出かけます。4回目
の請願のときに、警察が無抵抗の農民の列に殴りかかるという弾圧が行われます。
(川俣事件。33年)67人が逮捕されて51人が裁判にかけられましたが、最終的に有
罪になったのは何と0人でした。(35年)検察側は再提訴も断念。つまり、検察が
提訴をあきらめるほど、警察側に不利な証拠ばかりしか見つからなかったのです。
13.この裁判の途中、田中正造は突如、衆議院議員を辞職。辞職後すぐに、有名
な直訴を行います。しかし、途中で石につまづいて直訴は失敗。しかし、マスコミ
は大騒ぎをして、足尾や被害地には多数の民衆や学生が見学に訪れます。(34年)
なお、正造はこれ以前に議員歳費の値上げに反対して全額を返上していたので、収
入はしばらく前からゼロでした。
14.一方、田中正造の直訴後、世論の盛り上がりにあわてた政府は第2次鉱毒調
査委員会を設置。(35年)委員会は翌年、予防令工事で鉱毒は減ったという報告を
まとめます。(36年)実際の文章は、まるで鉱毒がなくなったかのような書き方で
すが、よーく読んで見ると、鉱毒は減ったがまだ出続けているとはっきり書いてあ
るります。
15.しかしこの後、マスコミは日露戦争一色になり、国民から鉱毒は忘れ去られ
ていきます。ます。鉱毒地ではしばらく洪水もなく、農民が何年もかけて鉱毒汚染
土を捨てる作業をしたおかげで、農地は徐々に回復します。(36年)
16.しかし、渡良瀬川から直接水を引いていた地区(毛里田村)と、下流で低地
にあるために何度も洪水に見舞われた谷中村では、被害が全然減りません。
17.政府は谷中村を遊水池にする計画を立てますが、谷中村の農民はもちろん、
上流の足利町に住む荻野萬太郎県議でさえ大反対し、計画は全く進みません。
(36年)ちなみに荻野県議は、田中正造と対立する木村半兵衛派でした。
18.谷中村買収案があることを知った正造は、谷中に移り住みます。とはいって
も、もう国会議員でもない無職の身。毎日、村人の家に居候して、翌日は別の人の
家に厄介になるという生活でした。(37年)
19.しかし、谷中村でも内紛などがあり、地主が突然県に呼び出されて缶詰にさ
れて買収の用紙にはんこを押させられるようになると事態は一変。県は谷中村遊水
池化案を可決。もちろん荻野県議は反対しました。反対票は12票出ています。(38
年)
20.もうこの時点では、鉱毒被害民の組織もばらばら。特に、豊作になった地域
では、既に「鉱毒? まだやっているの?」的な扱いでした。中流の足利郡毛野村
でこの時代も鉱毒反対運動をしていた岩崎左十は、変人扱いされたそうです。(衛
生兵をやったこともある岩崎はこの後、正造の臨終の際に看病することになります)
21.買収されたあげく強制廃村にされ、さらに強制破壊までされ、谷中村は崩壊。
しかし、破壊された家の跡に仮小屋をつくって10数軒の農民たちは住み続けます。
正造も、農民たちと行動をともにします。(40年)
22.もうこの時点では、田中正造と行動を共にするのはほとんど限られた住民だ
けでした。自分の田んぼに毒が入らなければ、ほかはどうでもいいや的な農民が多
かったのです。また、もうそんな活動をする余裕さえなくなり、ひっそりと北海道
や那須郡へ移住していった農民もいました。そして田中正造は死にます。(大正2年)
葬式の参列者は5万人といわれています。葬儀委員の名簿だけで100人以上の名があ
りますから、あながちでたらめな数ではないでしょう。当日は、佐野駅から佐野厄
除け大師(葬式をやった寺)までびっしり行列ができて前に進めなかったそうです。
23.正造が死んでも谷中の住民たちは頑張っていて、遊水池にされた村から出よ
うとしません。一方、政府はまた強制破壊をちらつかせます。このままだとまた流
血の惨事になってしまいます。でも、政府も農民も頑張っていて、どちらも引きま
せん。
そこで、田中正造の甥の原田定助県議の登場です。原田は、「何とか藤岡町(谷中
村が無理矢理合併させられた町)に移住先を見つけるから」と農民を説得。農民ら
も、原田の勧めに従って移住し、谷中は無人になります。(14年)
12名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:20:33 ID:c8DnC6Wq0
24.で、めでたしめでたしではまだ終わりません。
25.上流の毛里田村の鉱毒被害はどんどん続きました。しかも、流れてくる鉱毒
のほうが、流れ出て行く鉱毒より多いので、田んぼには鉱毒がたまる一方です。ほ
かの被害地同様、汚染土を捨てる作業も行いましたが追いつきません。それに、捨
てても捨てても新しい鉱毒が流れてくるのできりがないし、もう捨て場(毒塚とい
います)もないのです。
26.毛里田の住民たちは、用水路の改良工事代金とか、石灰代とかを細々ともら
い続けていましたが、戦後のある日、状況は一変します。
27.足尾町にある(今もあります)源五郎沢堆積場が大崩壊。渡良瀬川に莫大な
鉱毒が流れ出しました。足尾では、渡良瀬川をはさんで対岸にあった家が流される
ほどのすさまじい惨事だったそうです。ところが、農民らには電話の一本もありま
せん。用水路の入口を塞ぐのが遅れ、鉱毒が一気に流入。毛里田の田畑は全滅しま
す。(昭和33年)
28.農民らは鉱毒根絶期成同盟会を作り、古河と交渉。20年近く経ってようやく
和解が成立。古河が明治20年からの80年ぶんの被害の原因を認めて15億円のお金を
払いました。(この和解は、源五郎沢堆積場崩壊事故以前・以後も含む、当時まで
の鉱毒被害に対するものです)また、鉱毒汚染土除去費用(43億円)の半分も、古
河が出すことになりました。(残りは税金)もう鉱毒はたれ流さない、と、古河側
が保証したのもこのときがはじめてです(昭和49年)
29.この間の昭和48年、古河側は足尾銅山を閉山にします。が、製錬は続けると
表明。もっとも、平成元年に足尾線が貨物扱いをやめると、製錬事業も開店休業状
態になります。
30.古河の社長が同盟会との契約書にはんこを押してから、渡良瀬川を流れる鉱
毒の量は劇的に減りました。逆にいうと、それまではずっと流れていました。でも、
同盟会はまだ活動しています。たとえ銅山が閉山しても、足尾の山には鉱石カスが
山のように積まれたままなのです。それがなくならない限り、同盟会の活動は続き
ます。(平成19年)
31.用水路組合の鉱毒との戦いはまだまだ続きます。と、用水路組合(待矢場両
堰土地改良区)も宣言しました。(平成19年)
32.今でも、毛里田の被害地には鉱毒防止用の施設があって、常時稼働していま
す。足尾銅山はもう閉山してしまい、鉱毒も減りましたが、坑口があって、鉱毒水
がそこから流れ続ける限り、そして、それを処理する中才沈殿池が動き続ける限り、
簀子橋堆積場がある限り、足尾に鉱石カスがある限り、
農民と鉱毒との戦いは、                (つづく)
13名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:33:24 ID:SjMem6q90
生まれつきの嘘つきなのか、田中正造の文章は常に誇大表現・大言壮語にあふれています。
直訴状の5年前に、正造は「足尾銅山鉱業停止請願書」の草案を書いています(明治29年9月)
が、それは以下のような文章です。

「今や渡良瀬川などその支流沼地の魚類ほとんど絶滅して、沿岸多数の漁業者これがために
生計を失えり」

「したがってこの川水によって灌漑を仰げる数多の田畑荒廃を来たし、一茎生ぜず一穂実らず、
その被害極めて酷なる所にいたっては、満目(見渡す限り)半点の緑翠(草や樹木)をとどめず」

「もしそれ洪水氾濫に際せば、常に河身に沈澱せる鉱毒一時に流出し、濁水両岸に横溢して、
勢い壮絶一帯低窪の土地は全く毒水の中に浸さるるに至る。かくのごとくにして一村見る影もな
き砂漠と変じ、幾百の同胞相擁して飢凍に泣くものその数年々に増加せんとす。あに惨憺凄愴
の極ならずや」

正造は被害地域の県や町村にこの草案を示して、政府に請願するように強力に働きかけました。
しかし、この文章が実際に使われた形跡は見られません。
実際に提出された請願文を次に紹介しますが、正造の文章がいかににオーバーかが、確認でき
ると思います。この年の12月に群馬県議会が内務大臣に宛てて提出したものです。

「足尾銅山より渡良瀬川に流出する鉱毒は、いまや全く国家の公益を害するの程度に達せり。す
みやかにこれが救済の方法を施さずんば、渡良瀬川一帯の地方は索漠たる不毛の地と化すは、
けだし遠きにあらずと信ず。よって鉱業条例第十九条により営業停止の処分あらんことを請う」   

14名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:49:36 ID:c8DnC6Wq0
>>13
それで、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったなどと大嘘をつき
続けるのは何故ですか?

正造は洪水が起きたとか言ってるけど嘘だってわめきちらしたんですよね。
宇井純は田んぼに泥かぶったという田中正造の嘘をうのみにしているとまで
言い切ったんですよね。

ところが本当は洪水があって、田んぼに泥かぶった、って、正造より先に
農民たちが言ってるんですよね。みんな足利市史に載ってるんですよね。

法螺吹きドンキホーテって誰のことでしょうね?
正造を嘘つきにするために、事実さえ捏造する。そんな方の言うことは誰も
信用しませんよ。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 20:25:42 ID:E8vyN4rH0
新しいスレッドを立ててコメントを入れたのが8月23日の21時38分ですが、その37分後の
22時15分には、私に終始文句をつけていた常連が再登場していました。
何と執念深い田中正造オタクなのでしょう。

彼は、これまで何度も途中で文章をカットされていましたが、相変わらず規定を無視して異常
に長いコメントを書いていました。
何と無神経で非常識で、強情な人なのでしょう。

これまで何度も指摘しているのに、また「明治35年の秋に洪水があった」と強調しています。
しかし、翌年は豊作だったのでこれは公害防止工事の成功と、正造の「豊作山崩れ説」否認
の根拠になり、当然自分の主張を否定していることになります(私はこの洪水を肯定していま
す)。
何というお馬鹿さんなのでしょう。

お気の毒ですが、良識的な読者はこんなドンキホーテなどまず信用しないでしょう。

16名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 21:36:27 ID:i9rf0vOT0
>>15
正に
「お前が言うな」
17名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 21:40:37 ID:qBEqDZjE0
ギャグでやってるとしか思えん。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 18:39:44 ID:/R2mNgzx0
>>1で「異常に長いコメントを書く妨害者のために」と書かれた後すぐ
異常に長いコメントを書く妨害者が出現したのでワロタ
19名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 19:15:43 ID:0+6dae2X0
>>1が砂川なのか、砂川ブログからネタ拾いしてる物好きなのか、判断が難しい。
全スレで言論弾圧だって言い出したのは本物に違いないんだけど。

リンク
砂川ブログ
http://ashio-jiken.ameblo.jp/
言論弾圧騒動
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E7%A0%82%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E9%9B%84+%E3%81%8A%E7%AC%91%E3%81%84&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
著書紹介
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/?field-keywords=4794964757
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/?field-keywords=4585053166
Wikipediaの「足尾鉱毒事件」の項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6
参照リンク
http://www.yufuin.gr.jp/maturi/usikui.html
20名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 20:24:49 ID:E+U1d0OM0
正造の誇大表現・大言壮語・針小棒大を、更に実例で示していきます。

明治33年2月13日は、有名な川俣事件があった日で、野口春蔵たち活動家の大半が逮捕され
ました。ちょうど帝国議会が開会中だったため、田中正造は17日に演説でこの事件を取り上げ
ましたが、、現場を見たわけでもないのに、警察官の暴行について次のように発言しました。

「杖一本持ってこない、一本の兵器も持たない人民にサーベルを持って、いきなり吶喊(とっかん)
をして(ときの声を上げて)切ってかかって、・・・追うも追う2里も追いかける、1里も追っていって
殴って、幾人もかかって口の中へ砂を摺りこみ、泥を摺りこみ眼をほじくって、片目っごにしたと
いう残酷もございますぞ」

「諸君、眼球を抉り抜いたのでございまする。諸君(笑い声)何がおかしい。・・・無罪の人民が巡査
に眼球を抉り抜かれたということをおかしいと言うに至りましては(「笑いはしない実に驚き入った」
との野次)、左様仰せられますれば、まことに有難い仕合せでございます」
21名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 23:35:38 ID:h8Uzg6ME0
砂川の文章歪曲・誹謗中傷・著作人格権侵害を実例で示していきます。

この前スレでも何度も他の住人から砂川ではないかと指摘されるどこかの誰かが
他人の文章を歪曲、捏造して自説に都合の良いように捻じ曲げていましたが、
砂川幸雄はこの行為で過去に訴えられています。
その顛末はhttp://ashio-jiken.ameblo.jp/ashio-jiken/entry-10002385306.html
で砂川の視点から綴られていますが、このスレや前スレをご覧になってる方々には、
一体どういう事が起こっていたように見えるでしょうか?
この裁判で日経が勝つというのは社会的影響力から考えて異常事態です。
棄却された事は一市民として喜ばしいと言える事かもしれません。
しかし、実際にはどんな事が行われていたのでしょう?
その実例はここの過去ログに何度も現れているのかもしれませんね。
22砂川幸雄の理解しがたい生涯 :2007/08/29(水) 20:32:08 ID:dt33Bxji0
>>15

[私に終始文句をつけていた]と思っている所で
あなたは終わっている。

お気の毒ですが、良識的な読者はこんな>>1などまず信用しないでしょう。

自伝でも書かれては。

[砂川幸雄の独りよがりな生涯]
23名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 20:37:57 ID:ReSNwLsf0
>>20からの続きです。
警察官がデモ隊を1里も2里も追いかけるなど絶対にありえない話をしていることから、彼がいか
に大げさな嘘を言う人間、つまりは法螺吹きであるかがよくわかります。
「一本の兵器も持たない人民」とありますが、人民が兵器を持たないのは当たり前です。
16日付けの『毎日新聞』ですら、「(警官や憲兵が)靴をもって蹴り、拳を固めて殴り、土砂を投げ、
所持品を奪い、負傷して倒れた者を捕縛した」と報じましたが、「眼球を抉り抜かれた人がいた」と
は書いてないのです。

翌々19日に、政府は次のように答弁しています。その内容から「杖一本持ってこない」も、どうやら
嘘らしいとわかります。

「本月13日群馬県において警察官憲兵が人民を殺傷したる事実あるを認めず。ただし、多数人民
中あるいは土石を乱投し、あるいはその端を尖らしたる竹竿を船とともに荷車にのせて群集中を疾
駆したる等、喧騒を極めたる者あるをもって、その間に負傷者ありしといえども、重傷者はこれなき
見込み」 

24名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 21:49:36 ID:LwryFwgT0
>警官や憲兵が)靴をもって蹴り、拳を固めて殴り、土砂を投げ、所持品を奪い、負傷して倒れた者を捕縛した」

つまりこんな事は何でも無いと?
25名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 21:50:51 ID:Z2qe0dIe0
>>13
さて、この方の主張が、わずか13レス(しかも半分はこの方以外の発言)で
破綻していることをみなさんに説明しましょう。

鉱業停止を求めた農民は、非停止を求めた住民より少なかった、と、どっかの
誰かさんが言ってましたよね。

>>2
>3.一方、これら過激派被害民と反対の立場をとった穏健派被害民は、「鉱業
>非停止」(閉山
>  反対)の陳情運動などを進めた(穏健派の人数は過激派の10倍ぐらい)。

ところが、>>13では、何と、群馬県会が鉱業停止を求める決議をしたことを
認めているではないですか。
群馬県では、鉱業停止を求める農民のほうがずっと多かったことがよくわかります。
いやそれは農民以外が鉱業停止を求めたとかいう言い訳をすると思うので今の
うちに書いておきますが、群馬県は今でも農業県。当時は今以上に農業県でした。
それとも、栃木県側には群馬の3倍の非停止を要求する農民がいたとでも言うつもり
ですかね?
残念ながら、栃木県と群馬県は、人口はほぼ同じで、栃木のほうが少し少ないくらい
です。今と100年前は違うかもしれませんが、そう莫大には変わらないはずです。

100万人を超える群馬県民は、鉱業停止を要求したのです。
もちろん、大間々町とか黒保根村は、鉱業非停止を求めはしましたよ。だって、それら
の町や村は、足尾への物資輸送で生計を立ててる人がいっぱいいましたから。
しかし、それらの住民よりはるかに莫大な群馬県民全体が、鉱業停止を要求したのです。

栃木県ではそういう決議はやってません。そもそも、銅山のある足尾町そのものが
栃木県に属していましたし、足尾はかつては足利や栃木を抜いて、栃木県第2の都市
だった時代もあるのです。

26名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 21:53:43 ID:Z2qe0dIe0
ところでこの方の発言で気になる点がありますが、

>>15
>彼は、これまで何度も途中で文章をカットされていましたが、相変わらず規定を無視して異常
まさか、今までの発言が読めないと思ってるんじゃないでしょうね?
全部読めますよ。単に1ページにおさまってない場合があるだけです。
読めないときは、「(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)」の、
「ここ」のところ(色が変わります)を押してください。
ただ、どういう場合に1ページにおさまらないのかは、環境によって違うので、
どの長さが長いとはすぐには言い切れません。
ほかにもツッコミどころがいっぱいあるのですが、長すぎてあとのほうが途切れている
と思われるので今日はやめときます。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 00:42:14 ID:9yXwtfmH0
みなさんは、「足尾鉱毒事件」について「政府も加害者も何もしてくれなかったので田中正造が天皇に直訴した」と学校で教わったと思います。
それは概ね真実です。では枝葉末節はどうだったのでしょうか。砂川幸雄が書いた『直訴は必要だったか――足尾鉱毒事件の真実』をぜひ立ち読みして下さい。
そして、あなたの意見をこのスレッドに書き込んでください。反対意見は一切無視します。
ここを既知外の独壇場にしたいと思います。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 19:57:03 ID:qWmOCjlm0
正造がもっとも得意としたのは演説だったので、帝国議会での演説や質問書には、誇大表現や大
言壮語が数限りなく現われます。

「政府は13万余の被害民が毒を飲み且つ毒食するを知らざるか」(明治30年3月24日、質問書)
「この洪水・鉱毒の合成加害は・・・この土地人民を亡滅し尽すにあらざれば止まらざるの悪毒たる
を如何」(明治31年6月6日、質問書)
「多くの被害民を毒殺し・・・打殺する等の一大事実あり、如何」(明治33年2月14日、質問書)
「鉱毒の氾濫は・・・多大の国土を亡滅し人民を暴殺しつつあり、これを如何」(明治34年3月
17日、質問書)

「失礼ながら早稲田の大隈さんの邸のあのきれいな庭が、一本の草もない、花もないとなったら、
諸君どうであるか。伊藤(博文)さんの大磯の別荘の前の砂が鉱毒の砂ならどうでございましょう。
この上は鉱毒の水を汲んできて農商務大臣に飲んでもらいましょう」(明治30年3月24日、演説)

29名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 20:31:25 ID:CfLnhcp/0
砂川が最も得意なのは捏造ですので、2ちゃんでの書き込みや自身のブログや著書には、
恣意的な引用や歪曲が数限りなく表れます。

「1902年9月28日に渡良瀬川大洪水はなかった」
「被害地は疑いなく復旧しました(これを否定できる当事者の発言はありますか?)。」
「本経済新聞社は裁判で、この記述を証拠に「予防工事では農地が回復しなかった」と主張しま
した。そこで、事実を証明して相手を沈黙させました」
30名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 22:42:52 ID:/ZCHUWEC0
>>15
> の根拠になり、当然自分の主張を否定していることになります(私はこの洪水を肯定していま
> す)。
> 何というお馬鹿さんなのでしょう。

 はて、前スレ>>250で、
>この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
などと大嘘をついた誰かさんとは別人ですかね?
そのあと、>>423で、
>したがって、「谷中の遊水池化の根拠は、1902年は渡良瀬川上流の洪水が少なかったから」、という
>コメントに変えさせていただきます。
 などと大嘘の上塗りをしていますが、私が聞いているのは「洪水があったかどうか」
ではなくて、「大」洪水 があったかなかったか、です。
大洪水が足利郡、つまり、谷中村より数十キロ上流で起きた。破堤箇所の隣村まで
泥につかるくらいの大洪水だった。事実はこうであって、
>1902年は渡良瀬川上流の洪水が少なかったから
などというのは大嘘です。
繰り返して書きますが、1902年9月28日に渡良瀬川「大」洪水はなかったなどと
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
大嘘をついてそのままにしている輩の言うことなど、誰も信用しませんよ。

まさか「洪水が少なかった」と書けば、「洪水があった」という史実とも激しく乖離しないし、
「田んぼが泥をかぶったというのは大嘘」という自身の立てたいんちきも露呈せずに済む
だろうとか虫のいいことを考えているわけじゃないですよね?
何度も書きますが、このときの洪水は「大」洪水です。足利郡だけでも何人も死人が出て
います。洪水の報道がなかったなどとわめきちらしたんだから、このときの洪水の栃木県内
での死者数くらいは知ってますよね? 書いてくださいよ。ちなみに桁数は3桁です。
うち半分以上が渡良瀬川流域(支流も含む)での死者です。
日光大谷川や鬼怒川流域の洪水も相当な被害でしたが、大谷川で洪水があったことと、
大谷川の洪水が多く報道されたことは、渡良瀬川沿岸で被害が少なかったことの証拠には
なりません。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 23:05:49 ID:G9+fKpAq0
何というお馬鹿さんなのでしょう。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 19:40:18 ID:k5w3WooD0
>>2の3項に示した数値を否認された方へ。
この数値は、田中正造の研究者で、岩波の「全集」の編集者でもあり「解題」も執筆している花村
富士男の計算によるもので、確度が高い数字だと判断して採用しました。
あなたに自信があるのなら、花村氏にクレイムを付けたらいかがでしょう。
33名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 21:38:05 ID:UmPYgpW00
おぉ、本物なのか。
安心して下さい、否定されてるのはあなたの存在そのものだ。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 23:50:03 ID:BgSYlVMe0
>>32
花村がいつそういう集計を出したのかそれも問題ですね。
そもそも、鉱毒の研究は、「足利市史以前」と「足利市史以後」で
全然違います。
花村がいつどこでそう書いたのか分かればもっとツッコミようがある
でしょう。
私の知る限り、鉱業非停止の署名をある程度(300以上)集めた町村は、
足尾町、宇都宮市、大間々町程度です。(明治30年頃の集計)
さすがに足尾は銅山のお膝元だけあって、8000以上の署名を集めて
はいますが、被害民はその当時では25人しかいません(旧松木村
住民全員の数)からね。松木村住民以外が鉱業非停止を求めるのは
当然でしょう。残りの2つの町村は、そもそも被害地ですらないですよ。
穏健派「被害民」って何ですか? あなたはそういう書き方をしたんですよ。
>3.一方、これら過激派被害民と反対の立場をとった穏健派被害民は、「鉱業非停止」(閉山
>  反対)の陳情運動などを進めた(穏健派の人数は過激派の10倍ぐらい)。
宇都宮に1592人(鉱業非停止の署名をした人数)もの「被害民」がいたん
ですか? 宇都宮でどう頑張れば、鉱毒被害民になれるんですか?
署名をした宇都宮市民を『穏健派「被害民」』などに仕立てるのは
大嘘つきの仕業です。それとも花村がどこかで直接「被害民」と書いた
んですか? どこで書いたんですか?

どちらにしても、群馬県会は大間々がどうわめこうがさわごうが、
鉱業停止を求めたのは事実です。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 21:54:18 ID:2X86PzNp0
>>32
> >>2の3項に示した数値を否認された方へ。
> この数値は、田中正造の研究者で、岩波の「全集」の編集者でもあり「解題」も執筆している花村
> 富士男の計算によるもので、確度が高い数字だと判断して採用しました。
> あなたに自信があるのなら、花村氏にクレイムを付けたらいかがでしょう。

 さっそく花村の著書を確認しました。
 とはいっても、何冊も著書がある人なので(田中正造関連だけで6冊)、全部は確認できません
でしたが、「田中正造 終わりなき戦い」「神に最も近づいた人」「田中正造翁の生涯」「愛の人 田中
正造の生涯」の4冊で確認しました。「我拾って天国を創らん」「田中正造翁伝」は見てませんが、
そう激しく違うことは書いてないでしょう。
 花村自身が「集大成」といっている「愛の人 田中正造の生涯」の100ページにはこうあります。
> 正造の質問と相前後して、連合町村を中心に各激甚地町村の足尾銅山鉱業停止請願運動が
>活発化した。一方、古河側は銅山関連企業や無害地の人々を動員して一大非停止請願運動を
>展開した。その人数は停止請願者の十倍以上にのぼった。

 もう一度、>>2の大嘘と比べてみましょう。
>3.一方、これら過激派被害民と反対の立場をとった穏健派被害民は、「鉱業非停止」(閉山
>  反対)の陳情運動などを進めた(穏健派の人数は過激派の10倍ぐらい)。
 花村の著述のどこに「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらが登場するんですか?
 上記4冊以外のどこかにあるのならページ番号も含めて提示してください。どこかの図書館におさま
っているような文献なら、必ず見つけてチェックしますので。
 花村が書いている内容は、非停止請願をしたのは無害住民だったという意味ですよ。あなたの書いた
のと全く逆の意味です。日本語が読めますか? あなたは「穏健派『被害民』」と大嘘をついたのですよ。
言っている意味が分かりますか?

 法螺吹きドンキホーテって、誰のことでしょうね?
 ひとまず、花村氏にクレームをつける必要は全くないということはよく分かりました。
 クレームをつける相手は、花村の記述を捏造したどっかの誰かさんです。
 で、どっかの誰かさんってのも誰なんでしょうね?
36名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 21:48:26 ID:hrNxltth0
帝国議会での質問書に出てくる誇大表現を、またいくつか挙げます。

「(政府は)10万余の人民をして害毒のためことごとく死に至らしめんとす。現に急激過度
の貧苦に陥り、あわせて毒食をなさしむるの惨状、あたかも人類をもって評すべからず。
これ政府が人民を害毒死に至らしむると同一の道理あり」(明治30年3月24日)

「本年9月大出水あり。・・・毒中衣食住の三を失い窮迫の極一家離散に至らんとせる者1万
余人。活路を求め・・・26日相助けて入京せんとせしに政府は、船を南岸に奪うて利根川を
渡らしめず、・・・軍人馬を駆けて枕頭を蹂躙し、・・・あらゆる卑劣の手段の醜態を演じ罪な
き良民を辱しむるのみ」(明治31年12月10日)

「(被害民は)今や悲惨の極にしてほとんど例うるに物なく、実に人類の生活し能わざるまで
に変化せり。・・・実に禽獣すらなお忍びざる境遇に陥られたるものなり。・・・我等被害民中
その千余名はすでに鉱毒のために惨憺たる非命の死を遂げて、その他幾万の生霊今まさ
に死地に陥りつつあり」(明治33年2月9日)

「ことさらに無罪の人を殺すべからず。しかるに加害者の意のままにこれを殺傷して豪も厭
わず、・・・実に暴虐飽くなきの加害者ありて殺すなり。即ち鉱毒をもって殺すなり。・・・しかし
て政府これを救わず」(明治33年2月15日)

明治30年には政府が徹底した公害防止対策を立て、これを古河鉱業が履行しています。
いったいどうしてこれほどまでに加害者や政府を責めることができるのでしょうか。
足尾銅山の公害が原因で人が死亡したという医学的報告はゼロなのです。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 22:13:01 ID:HhFIKd8s0
話を変える前に>>35の指摘に決着を付けられてはいかがでしょう?
あからさまなインチキを指摘されて、そ知らぬ顔をする様な人の言う事を、
一体誰が信用するのでしょう?

何というお馬鹿さんなのでしょう。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 22:38:18 ID:iRN8ZONl0
>>30
お前、頭おかしいんじゃないの。
大洪水があってその後に豊作になったってことは、鉱毒がなくなった証拠じゃないか。
お前のコメントはてんで説得力ないぞ。そろそろ引っ込めよ。

39名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 23:05:59 ID:b1OdwmOt0
>>38
何度でも書きますが、「全部の鉱毒被害地が豊作になったわけではない」んですよ。
激甚地は豊作になりませんでした。
さらに追記すると、鉱毒の量は、日によって、時間によって、そして年によってまちまち
なのです。
今年流れてこなかったからといって、来年流れてこない保証はありませんし、
古河はそんな保証はしませんでしたよ。
そして、この後も何度も鉱毒のたれ流しをやるわけです。

そして、被害地が豊作になったからといって、それが鉱毒予防工事のおかげだと
短絡的に結論づけることもできないんですよ。
何しろ、被害民は鉱毒汚染土の搬出をやりましたからね。そういう、「予防工事以外」
の要素を完璧に無視して、鉱毒がなくなった(そもそもこれが嘘)、古河さまのおかげ
だ(こちらももちろん嘘)」ってわめいても、それはどっちも嘘だと説明しているわけです。

被害地がたとえ100分の1の面積になったとしても、それが存在する限り、「公害防止工事が
鉱毒の除去に成功した」などという誰かさんは大嘘つきです。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 23:11:11 ID:b1OdwmOt0
>>36
花村の言及のほうはどうなりましたかね?
花村の残りの2冊の著書も参照してみましたが、
「穏健派被害民」などという言い方はどこにもありませんでしたよ。

大嘘つきじゃないですか。
花村の書き方は「無害民の人々」です。
そもそも被害民と無害民では、意味が180度違うんですが、日本語が
読めますか? 途中で途切れてるときは「ここ」の部分を押してくださいね。
全部読めますから。

花村の著書には、銅山が無害民を動員して銅山非停止運動をやった、
その署名者数は停止運動の10倍だった、そういう意味のことが書いて
あります。
どこにも10倍もの「穏健派被害民」がいたなんて書いてません。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 02:42:44 ID:nLKYNYt80
>>38
お笑い担当は砂川さんだけで充分です
42名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 20:07:54 ID:1AOmrw7u0
帝国議会の演説では、彼は、誇大表現・大言壮語に止まらず、実に大袈裟なな予言
までして人々に恐怖を与えました。しかし、当然彼の予言は完全にはずれました。

「ただ今申す所の6万町歩以上ある所(彼の言う被害農地)は、60年にして不毛地と
なることを明言する。明治10年に見つけたのであるから当年は20年になります。
6万町歩の3分の1いけなくなったものと見るとあと40年かかれば終わる割合になる。
・・・あと40年でいかなる鉱毒希薄地といえども、ことごとくいけなくなってしまう」(明治
33年2月13日)

「鉱毒というものは、他の損害とは違って地面がなくなってしまう。・・・同時に、その土地
に居るところの人類もなくなってしまう。すべて砂漠地になって人類までにも及んで行く
筋合いの被害でございます。・・・人民は死に、国家はなくなってしまいまするということ
を繰り返し怒鳴るに過ぎない話でございます」(明治34年3月23日)

しかし、まことに不思議なことに、こんな大法螺吹きが反公害運動の偉大な闘士で、
尊敬に値する人物とされているのです。 

43名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 20:18:28 ID:YCIbnbi90
それで、花村が、
「10倍」もの「穏健派被害民」がいたと言った、などと
大嘘をついたのは何故ですか?
クレイムをつける相手は花村じゃなくてて、大嘘をついた
あなたです。

法螺吹きドンキホーテって、誰のことでしょうね?

さて、ここからはそのほかの方への説明です。
たった32スレで、内部矛盾・あっという間にばれる大嘘の
オンパレード。
すいませんが私には、そんな輩の言うことは全く信用
できません。
そしてこの方はこれまでも、そしてこれからも、同じ大嘘の
垂れ流しを続けるのです。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 00:40:05 ID:xjPpqWRv0
>>32
信念に基づいて捏造を続ける勇姿に惚れました。
新世界国際2階でお待ちしています。
黒いtシャツとヤンキースの帽子が目印です。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 20:13:53 ID:e5a26/kq0
誇大妄想のようなことを言う正造の性癖は、死の床にあっても変わりませんでした。
正造を尊敬していた谷中村の島田宗三少年に、彼は低い声でキレギレに次のように
言ったというのです。

「この正造はな、天地とともに生きるものである。今度倒れたのは、安蘇、足利(郡)の
山川が滅びたからだ。・・・ですから<山川擁護会>をつくるよう、安蘇郡有志の近藤
貞吉君あたりへお話ししなさい。もしそれができなければ、遺憾ながら正造は、安蘇、
足利の山川とともに滅びてしまう。死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋めても、そ
んなことは正造の喜ぶところではない」

この言葉を拝聴した宗三は、次のように答えたそうです。
「お言葉は真理ですから、光ですから、光はたとえ消えても永久に残ります。私も永久
に忘れません」(島田宗三著『田中正造翁余禄』)

こうなればもう宗教の教祖か預言者の「御教え」や「予言」です。自分は天地と一体だ
というのですから、神のごとく特別な人間だと思い込んだのでしょう。インチキ宗教の
教祖と変わりません。

46名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 22:22:52 ID:PNrSXXBI0
それで、花村が、
「10倍ぐらい」もの「穏健派被害民」がいたと言った、などと
大嘘をついたのは何故ですか?

クレイムをつけろといったのはあなたじゃないですか。
あなたの言うとおりに、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいた
などとでたらめをやめきちらした輩に対してクレイムをつけて
あげているのに、全く無関係な新しいでたらめをたれ流し続ける
のは何故ですか?

花村は「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとは書きません
でした。
妄想の国の図書館にはそういう文書があるのかもしれませんが、
これ以上妄想の国にしかない文書の話はしないでください。

あなたは、「10倍くらい」の「穏健派被害民」がいたと大嘘をついた
上に、
花村がそんなでたらめをわめいたと、二重に大嘘をついたのですよ。

以前の菅井のときと同じじゃないですか?
菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
花村の言及をねじまげたのは何故ですか?
法螺吹きドンキホーテって誰のことですか?
47名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 21:02:19 ID:qONm1q920
>>39
なに?>激甚地は豊作になりませんでした、だって?
明治36年10月に、激甚地の一部は5倍以上の豊作、とチラシに書いたのは誰?
それとも、それは田中正造の法螺だというつもりか?
お前の嘘なんか、お粗末だからすぐばれるし、お前のは反論でなく下手な言い訳
だけだ。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 21:13:40 ID:P2iscLGx0
砂川さん、自作自演はアマゾンの書評だけにしときなよ。
頭の悪さが同じだからすぐに解るよ。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 21:23:40 ID:pc4IsW+m0
>>47
あのね、豊作になったのは、激甚地の「一部」なの。
激甚地の「大部分」は、豊作にならなかったの。

それに、その豊作の理由だって、被害農民が汚染土
除去をしたという要素が理由の大部分であって、
古河さまの予防工事のおかげとは言えないの。
鉱毒は、やってくればくるだけ、少しずつ土を痛めていく。
流れてくる鉱毒が減ったって、痛む早さが遅くなるだけで、
鉱毒被害は減らないしなくならないの。
どうやったら、田園に浸入した鉱毒がなくなるの?
鉱毒には揮発成分はないので、放っておいても減りません。
水溶性成分は少しだけあるので、上から新しい「きれいな」水
が流れてくれば、多少は減りますが、
上から流れてくる水に少しでも鉱毒が入っていると、
流れ出ていく鉱毒よりも、入ってくる鉱毒のほうが多いので、
土は少しずつ痛みます。
来年不作になる、が、10年後に不作になる、に変わるだけで、
鉱毒はなくなっていません。

おまけに、古河がこれまでにたれ流した鉱毒のおかげで、
そして、ここから先に垂れ流し続ける鉱毒のおかげで、
当時は激甚地とされていなかった山田郡毛里田村の
被害はどんどん増えていったの。

それに、古河は、1890年から1974年までの鉱毒被害を
もう認めているの。あんたがいくらわめいても、古河が
責任を認めたという事実は消えないの。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:21:49 ID:a7V2EWWL0


参考文献とかないのか?
51名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:50:45 ID:jvMEPxpY0
>>50
山ほど有る。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 20:48:53 ID:K+Dxj4bA0
被害農地についての正造の発言がどう変わったかを整理してみますが、いかに
デタラメかがこれでわかると思います。説明は次回にします。

1.「鉱毒というものは、他の損害とは違って地面がなくなってしまう。同時にその
  土地の人類もなくなってしまう」(明治34年3月23日、議会演説)
2.「昨年の台風で10里以上の山々が崩れ、新しい土が肥料となって稲は旧年
  の5倍の豊作になった」(明治36年10月29日、配布チラシ)

3.「大小麦が、谷中の高砂地方で1000俵以上、隣の部屋村で2000俵収穫
  しました。人民夢のごとく喜んでおります」」(明治43年6月28日、逸見斧吉
  宛書簡)
4.「谷中遊水池は鉱毒の沈澱池である」(例えば明治44年11月3日の糸井等
  6人宛の書簡など)

5.「谷中村といえば不毛荒廃の地のごとく見なされていますが、県庁が堤防を
  破壊したにもかかわらず、明治35年度約7万6000円、36年度8万6000
  円、38年度には約7万6000円の収穫を見るに至っています」(大正2年3月
  5日、東京控訴院宛文書)

6.「正造が倒れたのは、安蘇、足利(郡)の山川が滅びたからだ」(大正2年8月
  13日、死の床で島田宗三に)
53名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 20:57:01 ID:dRO79gYx0
54名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 21:27:15 ID:E4wHCCzE0
それで、花村が「10倍くらい」の「穏健派被害民」がいた
と言ったなどと大嘘をついたのは何故ですか?

あなたの嘘はいつもそういう薄っぺらで、原典を当たれば
大嘘だとすぐに分かるようなものばかりです。

横井の鑑定書だって、菅井の世界大百科事典の記述だって
そうでしたよね。

横井が「1反あたり3石とれた」と書いたのを、あたかも鉱毒予防令
工事で農地が復旧したかのように書いたのは何故ですか?
実際の鑑定書見たら、横井は無害地と被害地の比較のために、
無害地の収穫を算出しただけではないですか。
そして、横井の鑑定によれば、この土地の10分の1の収穫とかいう
ひどい被害地があるのです。

>「(この年)9月28日に関東では近年にないほどの大風雨があり、茨城、栃木の両県は大きな被害を
>受けた。ところが渡良瀬川の沿岸の鉱毒被害はそれほどでもなかった。理由は、それ以前の雨で崩
>れたままだった谷中方面の堤防から洪水が谷中村一帯に流れ込み、そのおかげで上流の桐生や足
>利方面は案外水嵩が増さず、その下流の海老瀬村辺も例年のようには停滞せず、大氾濫がなくて済
>んだのである。そこで沿岸農民たちは、谷中に偶然できた遊水池の効果を知り、栃木県も遊水池設
>定を計画したと言うわけである」(田川大吉郎著『嗚呼鉱毒論』)
 何度でも書きましょう。これは田川の捏造です。それこそ、3才の
子供でも分かります。谷中村の標高は13〜18m。足利の標高は
33mあります。(※足利駅付近。足利郡最下流部には22mという地点が
あります)桐生なんか90mもあります。標高15mの谷中村で洪水が起きた
からって、90mの桐生の洪水は防げません。それとも、当時、高さ75mの
堤防があったとかいうでたらめを言い出すつもりですか

1902年9月28日には渡良瀬川大洪水があって、足利郡南部でも、
大規模な洪水があったのです。
嘘がばれると素知らぬふりをして違う大嘘をつき続ける人の言うことなど、
信用できませんね。

法螺吹きドンキホーテって誰のことでしょうね?


55名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 21:40:44 ID:E4wHCCzE0
>>52
一応こっちにもツッコミいれときますか。
>被害農地についての正造の発言がどう変わったかを整理してみますが、いかに
>デタラメかがこれでわかると思います。説明は次回にします。
(中略)

>3.「大小麦が、谷中の高砂地方で1000俵以上、隣の部屋村で2000俵収穫
>  しました。人民夢のごとく喜んでおります」」(明治43年6月28日、逸見斧吉
>  宛書簡)
>4.「谷中遊水池は鉱毒の沈澱池である」(例えば明治44年11月3日の糸井等
>  6人宛の書簡など)

 あのね、明治43年の秋に大洪水があって、鉱毒汚染土がまたまたまたまた(中略)
また谷中を襲ったの。
 だから、明治43年春作の麦は豊作で、43年秋以降は凶作なの。
 間に大洪水があったという重大な要素があるのに、それをわざと隠して、
まるで状況が変わらないのに田中正造の言うことだけが変わったかのような
デタラメをわめきちらすのはやめてください。

 ああ、一応いっておくと、田中正造は結構言うことが変わる人だったのは事実
ですよ。感情が爆発しやすい人だったし、そうなると思うままに言ったり書いたり
してる人ですから。ただそれは嘘つきとかいうのとは違いますね。
 前にも書きましたけど、誰かをおとしいれる意志や理由がない限り、ただ感情に
まかせて言ったり書いたりしたのか、何かの記憶違いで違うことを書いたのか、
そんなのの見分けは私にはできません。

 ちょっと気に入らないことがあって、何かの拍子にそれが大爆発して、人の
悪口をえんえん言いだして止まらなくなって、しょうがないので非常に親
しい人が頑張ってたしなめたとたんに急に機嫌が直って、いやあいつはほんとは
いいやつだとか言い出すとかいうのは日常茶飯事だったそうですから。

 もっとも、田川大吉郎が意識的に大嘘をついたというのは間違いない事実です
けどね。
 そして、どっかの誰かさんが、花村冨士男が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」
がいたなどと書いたのも意識的についた大嘘ですけどね。
 それとももうろくでもしましたか?

 法螺吹きドンキホーテって誰のことでしょうね?
56名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 21:57:52 ID:OIodnCWX0
>>46
>法螺吹きドンキホーテって誰のことですか?
何でこんなこと書くんだ。主語があるじゃないの。 お前さんの頭は相当ヘンだな。

57名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 22:58:28 ID:E4wHCCzE0
>>50
 何しろ足尾鉱毒事件は100年にも及ぶ、そしてまだ全面解決していない事件なので、
全体をざっと説明するだけで本の1冊や2冊は必要です。
 そんなわけで、1冊でだいたい全部、というのでしたら、
『通史足尾鉱毒事件1877-1984』東海駿吉郎・菅井益郎 があります。
上下2巻になりますが、森長英三郎『足尾鉱毒事件』(上)(下)というのもありますが、
こちらの本を書いた森長氏は法律学者らしく、法律論の話が多いです。
上記2冊は、1980年代の本なので、その後の話があんまり出ていません。
その後の話は『百折不撓』高橋哲朗が詳しいです。
簡単に手に入る、というのでしたら、『公害の原点を後世に―入門・足尾鉱毒事件』
広瀬武 が、今比較的手に入れやすい入門書です。
ただ、これらの本を使うと、どっかの誰かさんが菅井は大嘘つき、広瀬は大嘘つき、
などとわめきちらす可能性があります。
そういう場合、研究者向けの資料集を使うことになります。

『足利市史 別巻史料編 鉱毒』足利市 は、1970年代の本ですが、今でも手に入る
上に、どっかの誰かさんの大嘘をことごとく粉砕してくれる大変に有用な本です。
一般書店売りはないので、平日昼間に足利市役所に買いにいくか、電話してくださ
い。通販もしてくれます。
80年代以降に出た鉱毒関連書籍にはほとんど例外なく参考文献として挙げられていて、
この本読まなきゃだめだと言い切っている人も一人や二人ではありません。まさかこ
れを読まずに鉱毒を語ろうという輩はいないでしょう。大嘘つき以外は。
このほか、『栃木県史』にも足尾銅山の巻があります。古河側の史料が多いのが特徴
です。
群馬県史や太田市史にも鉱毒に関する史料がちらっと出てきますが量は少ないです。
(貴重な資料が少ないという意味ではありません)
地方自治体の発行した本で、真っ正面から鉱毒を取り上げたものは、このほか、板倉
町史の鉱毒編と、藤岡町史の『谷中村』の巻があります。ほぼまるまる1冊鉱毒、と
いうと、前述の足利市史、栃木県史と合わせて、この4冊が全部だと思います。
58名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 23:00:32 ID:E4wHCCzE0
国会図書館は明治時代の文献を電子化しているので、その中に鉱毒の本もいくつか入
ってます。電子図書館で「鉱毒」で検索をかけてみてください。ただ、コピーが薄か
ったりします。また旧字旧カナですのでその点は覚悟しといてください。

田中正造のことを調べるのなら、当然『田中正造全集』ですが、20巻もあって重いで
す。岩波新書の『田中正造』あたりがオーソドックスな解説書です。子供向けの伝記
はいくつもあるのですが、大人向けとなると純粋な伝記は何故かほとんどありません。
というか、あっても伝記小説のことが多いです。まあそれほど小説になりやすい人な
んでしょうが。
というわけで、一応最新の伝記、ということで、花村冨士男『愛の人 田中正造の生
涯』を挙げておきます。でも、正造の分骨地を5カ所にしている(しかも、その理由
も書いていない)とか、細かいツッコミは入れやすい本ではあります。まあ、田中正
造については、書いた人の思い入れが強すぎて、どの人の伝記も力が入ってるのは分
かるけどあの話を入れてくれなかったのは何故なのかなあという感じのするのが多い
です。

鉱毒事件の一部分を非常に細かく書いた本もあります。
『川俣事件』田村紀雄 タイトルのとおり、川俣事件についての詳しい研究書です。
『谷中村滅亡史』荒畑寒村 明治時代に出た、荒畑寒村のデビュー作です。
タイトルのとおり、谷中村が強制廃村になる前後のことが詳しく載っています。

研究誌は2つ。『田中正造と足尾鉱毒事件研究』と『救現』があります。
共に不定期刊で、数年に1度出ます。以前は『田中正造研究』というのもありました。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 19:27:37 ID:LIoPE1Ea0


>>52について説明します。
2.の山崩れのために豊作になったという作り話を信じる方は、まさかいない
でしょうが、岩波の全集も新書も、真実とみなしているのです。何と不可思議
なことでしょう。

2.も、3.も、5.も、農地が回復したことを示す事実で、鉱毒が消えた証拠です。
それなのになぜ4.が成立し、6.のように「山川が滅びた」と言えるのでしょう。
中学・高校の歴史教科書は、4.を事実とみなして、「政府は鉱毒問題を治水問
題にすりかえた」などと記述しています。

こんな法螺吹きにだまされて子供までだますとは、あまりにも罪深いことです。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 20:27:52 ID:CbfrUI7M0
>>59
3と4が同時に成立しうるという話はもうしてますが?
間に大洪水があったという事実を隠匿して、あたかも
田中正造の言うことだけが変わったかのような印象操作を
するのは何故ですか?
ばれるとまた素知らぬふりですか?

それで、その法螺とやらの前提になった
渡良瀬川「大」洪水がなかったなどと大嘘をつき続けるのは何故ですか?
事実として、1902年9月28日渡良瀬川「大」洪水は存在していて、
足利郡はもちろん、桐生周辺でも破堤しました。
田川大吉郎の言うことは、3才の子供でも分かる大嘘です。
そして、3才の子供ですら大嘘だと分かる内容を、さも、事実であるかのように
装って提示するのも大嘘つきの仕業です。
それとも、3才の子供よりも知能が低いんですか?
何で田川の言うことが誰にも信用されてないのかとか考えなかったんですか?
東京市助役とか元衆議院議員とか、明治学院総理とかいう、田川のこの後の
肩書きに目を奪われましたか?

標高15mの谷中村が洪水になったからといって、標高33mの足利や、
標高90mの桐生の洪水を防ぐことは、絶対にできません。

そうそう、それと、花村の言及のどこに「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやら
が登場するのか教えてください。
私の確認した限り、花村は「10倍」の「無害地の人々」としか書いてませんよ。
花村に対しても無礼千万な話じゃないですか。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:43:02 ID:SJNSodxQ0
>>54
あなたのコメントによれば、無害地では1反あたり3石収穫しているそうですが、
ということは、直訴状に正造が書いたことは全くの嘘だということになります。
ここには、見渡す限り惨憺たる荒野、などとあるのですから。

62名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:52:28 ID:xbYaEffW0
>>61
無害地と被害地の意味の違いが解らない人ですか?
被害を訴えるのに無害地の話をする人が居ますか?
正造の誇張の是非以前にあなたの疑問の是非を問いたい。
ピントのずれ方が誰かと一緒だ。
同じ様な人が何人も居るんだね。
アマゾンの書評にクローンのようなレビュワーがずらっと並んでいたのを思い出す。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 22:45:12 ID:CbfrUI7M0
>>61
前にもう書いてますが、DAT落ちなのでもう一度書きますね。
前スレ>>594で、
>直訴状の中身は、秋水が書いたもので、正造の直筆ではおそらくありません。
>秋水は鉱毒地の惨状を正造ほどには詳しくは知りませんでしたので、
>中身は結構違ってます。
 と、既に書いてあります。直訴状の中身がおおげさなのはそんな理由です。
 そんなこと書くだろうってのは頼む前から分かるのに、そんなやつに頼んだ
田中正造が悪いとかいう主張ならまあまあ聞くに値するかもしれませんけどね。

 あと一応いっておくと、1反あたり3石の「多々良村日向」という場所は、
鉱毒被害地としては端のほうで、あまり激甚地ではありません。
 となりの字に行けばもう字全体が無害地です。
 えんえんと被害地が続くって書いてあるのは嘘だというのなら、
日本中全部被害地じゃなきゃいけないじゃないですか。えんえん続く被害地にだって、
必ず端っこがあるんですよ。そして、横井はそういう被害地と無害地の境目付近で
調べたんだからそうなるのが当然です。
 横井は、鉱毒以外の条件をなるべく揃えるために、わざわざそういう被害地と
無害地の境目付近で鑑定をやったのです。
 ちなみに、1反あたり0.2石とかいう激甚地は、渡瀬村下早川田とかそっちの
方向です。場所が数キロ違います。
 どの字も今でも残ってますから地図で探してご覧なさい。今ではどちらも館林市に
なってます。
64名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:05:14 ID:FA8LPqxE0
この人って直談判したって印象しかないけどいったいなにが凄いの?
65名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 21:07:44 ID:scvOmaje0
正造は、鉱毒の人体への影響を極端に強調しています。帝国議会での質問書や
演説で、彼は次のような発言をしました。

「鉱毒激甚地は衛生を害され、婦女の妊娠中乳汁(母乳)の欠乏を来たして死体
分娩となり、たまたま出産するも乳児の多くは死亡し」(明治32年3月6日)

「当年は100人死に来年は200人死ぬというようにして、これから何千人死ぬかわ
からない」(明治33年2月9日)

「鉱毒地の人間は、せまい所を調べたばかりでも千人という死人がいる。政府の
調べでは何千人になっているかわからないぐらい」(同年2月17日)

「この毒のために、乳が出なくなって子供に乳を飲ませることが出来ぬというのが、
一番ひどい悲しみでございまして、そういう地方は15,6か村あるのでございます」
(明治34年3月23日)

政府は、内務省衛生局や東京帝国大学の専門家を現地に派遣して調査をしてい
ます。しかし、その因果関係を医学的に明確にすることはできませんでした。上の
発言が事実だといえる根拠はありません。全く根拠のない彼の多くの発言から類
推すれば、決して「信用してはいけない」と断言できます。

66名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 21:23:00 ID:jjom80ej0
>>65
それで、嘘だって断言できる証拠はあるんですか?

>上の
>発言が事実だといえる根拠はありません。全く根拠のない彼の多くの発言から類
>推すれば、決して「信用してはいけない」と断言できます。
 ご自分のことを書いてどうするんですか?
 全く根拠のないあなたの多くの発言から推測すると、
あなたの主張を決して「信用してはいけない」と断言できます。
 以前も書きましたが、あなたの言及の語尾はあなたの言及に
対して使うのが最も合っているようですよ。

 田中正造の言うことは、ちゃんと根拠があるからそれよりは
信用には値しますね。
 もっとも、根拠があるからといって、常に正しい結論にたどりつく
という保証はありませんが。

 ただはっきり言えることは、あなたのような全く根拠のない多くの
発言をする人間は全く信用に値しないということだけです。

 花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとどこで言った
んですか?
 花村の書いたもののどこをどう見ても「無害民の人々」としか書いて
ないんですが。
 法螺吹きドンキホーテって誰でしょう? 田中正造でないことだけは
確かですが。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 21:04:08 ID:veV2CQWA0
実際、正造の言うことは相当にいい加減で、ひどい嘘をついているという証拠
が沢山あります。その一つを紹介しましょう。
あるときの議会で彼は次のように農商務省を攻撃し(明治30年2月26日)、
その後もこれを根拠に「健康有害説」を唱えつづけました。

「銅山に毒があり、人畜植物に害があることは、古来学者の定論であって、あえ
て学者を待って始めて知るというものではない。明治22年と29年に医科大学(東
大医学部)の教師の三宅秀という人が、衛生に害があるということを栃木県に
2回来て断言せられた」

しかしその後、この発言は完全に作り話だということが判明しました。川俣事件
の裁判(明治34年)で、医学博士の三宅秀が、裁判官の質問に、次のように答
えたのです。
「渡良瀬川の水中に毒があるとすれば、医師たる者はその原因を探求し、衛生
上の影響を調べる必要があると言ったことはありますが、そのほかには何も言
っておりません。2回とも、鉱毒が人体に害があるなどと演説してはおりません」 
68名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 21:44:23 ID:VzMTcbeQ0
天皇陛下に出す直訴状を他人に書いてもらい、間違いも直さないでそのまま使った
わけですか。とんでもなく失礼な話じゃないですか。
69だつお:2007/09/13(木) 21:50:49 ID:X3l9nQ3l0
>田中正造は法螺吹きドンキホーテ

http://1868.fc2web.com/ashio.html
足尾鉱毒事件と谷干城

別に田中正造でなくても多くの識者が、足尾鉱毒事件を認めてるぞ。
この時代に工業化を進めるとなると、自由主義経済国であっても、
スターリンの五カ年計画にも準ずる弊害が出ることもありうる。
ドイツだってアウシュビッツ殺人工場で軍需生産をやってたはずだ。
資本主義の黎明期で帝国主義戦争の時代は大抵そんなものだ。
自由主義経済といっても日本も欧米もこんな調子ではソ連を嘲笑できない。

共産主義=絶対悪というのも冷戦思考で、共産主義でなくても人命無視は、
日本でも欧米でも内外で起こっていたことをも知っておこう。
70sage:2007/09/13(木) 21:54:30 ID:yD0Fzcxd0
>>67
で、例によって田中正造の演説文と文章が違うんですが。
もうツッコミ入れるのもばかばかしいです。

>銅山の毒は人畜植物に害を与えるものであると云うことは、古来学者の
>定論であって - 学者の定論であるから、敢て学者を俟って始めて知ると云う
>ものではないので、農商務の官吏が皆正直でさえあればそれで宜しいのである、
>学者の定論があるにも拘らず、無闇に己の妙な所からして分らなくしてしまふ、
>先づ近き例を以て、明治二十五年農家大学の試験に於ても、足尾銅山の鉱毒の
>程度と云うものは能く分って居ることである、二十五年の農家大学の試験の成績、
>それから昨年 - 極く近いのは、昨年の栃木県の農事試験所に於て致した所の
>試験の成績、又明治二十二年と二十九年の此両度に於て、医科大学の教師
>三宅秀と云う人が、即ち衛生に害があると云ふことを二回程栃木県へ来て断言を
>した - (後略)
 ※カタカナをひらがなに換えました。

この部分の文章の大意は、「鉱毒には害がある」であって、三宅が言ったかどうかで
それが劇的に変化するわけではありません。
それに何度も言いますが、どの時代でも国会演説の影にはブレーンがいる。
ブレーンが故意に誤った情報を正造に伝えたのか、ブレーンが集めた情報がそも
そも間違っていたのか、聞いた農民から話が伝わるうちに伝言ゲームで話が変わ
ってしまったのか、私にはそんなのは分かりませんね。
きちんと調べてから演説しろってツッコミならありかもしれませんけど。
嘘と間違いを区別する方法は1つしかない。それは、他人を騙す意志があったか
どうかです。その誤った情報で、自身が得をしたり、誰かが損失を被らないかぎり、
嘘と間違いを断言することは極めて困難です。でも、田川大吉郎とかどっかの誰か
さんのように、はっきり誰かの利益になる大嘘はひとめでわかりますけどね。
三宅がそう言った、というのが嘘だとして、その嘘で得するのは誰ですか? 損
するのは誰ですか? まあ三宅はちょっと損するかもしれませんけどね。
はっきり言えるのは、この長大な(全集で50ページもある)演説の中で、明治時代の
情報の伝わり方とかを差し引いたとして、それしかツッコミの入れようがないという
のは、ずいぶんたいした立派な演説だということだけです。
もちろん、この日の正造の演説は、国会史上に残る名演説として知られています。
71sage:2007/09/13(木) 22:00:49 ID:yD0Fzcxd0
>>68
直しはじめたけど直しきる前に天皇の馬車が来る時間になっちゃったの。
何でそんなに時間がなかったのかとかいうのは、いろんな研究者がいろんな
説を出してるのでそっちを見てください。それこそ、紹介しきれないくらい
いろんな人がいろんな説を出してますから。
それに、直訴するって時点でそもそも失礼どころか無礼なの。
まあ、失礼かどうかと嘘つきかどうかってのは別の話なので、
失礼だと思う人がいてもその価値観は否定はしませんけどね。
ただ、偽の情報を使って他人のことを嘘つきとかわめきちらして
いる大嘘つきを放っておくわけにはいきません。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 20:47:26 ID:oi4KOAUG0
>>54
「実際の鑑定書見たら、横井は無害地と被害地の比較のために、無害地の収穫
を算出しただけではないですか。」
とんでもない。嘘を言って知らない人達をだまさないでください。

この資料は、鉱毒事務所が発行した『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』です。
タイトルでわかるとおり鑑定の対象は鉱毒の被害地です。
検察側は当然被害の小さい場所を、被告側は大きい田畑を申請したでしょうが、
裁判所は不平等にならないように対象を選び、横井博士に鑑定を依頼したはず
です。横井博士が勝手に無害地のデータを提出することなど、あり得ません。
被害を大きく見せたい鉱毒事務所も、そんな記録を刊行するわけがありません。

鑑定番号23号の水稲は、群馬県多々良村の原武八の所有で、推定1反歩3石5合
の成績でした。博士は多収の理由を次のように説明しています(平易な文に直した)。

「手入れが行き届いたことと気候が良かったことにあると認められる。土の中に銅分
はない」

何人かの方がだまされたようですが、お気の毒なことです。
因みに鑑定番号24号は同じ村の原礼三郎所有の陸稲で、反当り8斗5合7勺でした。


73名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 21:54:00 ID:Bz1JPzsz0
何言ってるんですか? っていうか、横井の鑑定書本当に読んだんですか?

最初のほうにこうあります。
>仮りに土地に如此力ありとするも現今の農地は悉く多少の人工加わらざるものなく天然の物其僅か
>なるものあらざるが故に天然物なる土地の生産力なるものは之を測定し得べきに非さるなり果して
>然り即ち所謂土地本来の生産力なるものは或る外来の原因の為に其生産力を害せられざるの土壌
>其物に於ては手入其宜しきを得、気候亦た適順にして諸の患害ある事なき場合に於て其生産物を
>産するの力の強弱なりとすを以て穏当とすべし但し理想的に完全なる人為天然に於る好事情の
>備わりし全き場合の如きは実際に於て見る可き所にあらざるが故に此力を鑑定するには豊収の年柄に
>なるに拘わらず此標準に相当するの土地を見る能わず此して地方人の証言の如きは信憑の価値なきが
>故に土地調査の結果各地坪刈の成績比較等各種の事情に参酌し僅かに所謂本来の生産力なるものを
>推定するを得たり而して本鑑定人は此推定の甚だ当そ失せざるを疑わず。
>(中略)
>指定地中の中鑑定番号第二十五号は無害地の一標準となすべきものにして二石一斗五舛八合の可驚的
>多量の収穫高を示せるあるをや
(漢字を現代のものに、カタカナをひらがなに改めました)

横井は、まず、最初に、被害(と書かずに外来の原因とかいてますが)がない場合の産量を調べる、ってい
ってますよ。で、「第二十五号」は、「無害地」の「一標準」とはっきり書いてますよ?

23番はあまりに豊作すぎるので標準には採用しなかったようです。
おまけに23番の話は私が書いてるじゃないですか。鉱毒予防工事のおかげで豊作になったなどと、
横井はひとことも書いてませんよ。

しかも、24番は陸穂じゃないですか。23番の水穂と同じ比較はできませんよ。またしても捏造ですか。

横井は「第二十五号は無害地の一標準」とはっきり言い切りました。
自身の鑑定地の中に、「無害地」の「一標準」があることを認めているのです。
そして、この25番と比較して、鉱毒で減収になった、と計算しているのです。
なお、25番の土地も多々良村日向の土地です。

74名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 22:22:04 ID:Bz1JPzsz0
参考のために前スレで紹介した横井の鑑定結果の表もごらんいただきましょう。

鑑定番号:1反あたりの収穫(単位 石)。
1:0.8914 2:0.8458 4:1.3273 5:1.4000* 5:0.2380* 7:0.2380 10:0.1772*
11:1.0500 11B:2.1000 13:1.2090 14:0.4320* 17:0.2030* 18:1.2940 19:2.1770
20:1.5900 21:0.4900* 22:1.4890 23:3.0050 24:0.8057* 25:2.1580* 26:1.4780
34:1.6470 35:1.5290* 38:1.4400* 38B:1.7250*
*印は陸穂で、他は水穂です。欠番は桑畑などで、横井は別に集計しています。桑畑の値は省略します。
5番が2つあるのは同じ田んぼの別の場所を別々に測定したためです。

横井はこの全部の値から、3番目に収穫の多い(陸穂と水穂が混じってますが)25番を「無害地」の「一
標準」に選びました。
陸穂ならば、これらのほぼ全部の土地で同じくらい収穫があったはずだ、という意味です。
被害が復旧しているなんていうところがどこにありますか? 3番目に多いといっても、
1番と2番は両方とも水穂なので直接の比較は危険です。しかも1番目は無害地です。
被害地の中で唯一、無害地よりも収穫のあった(ただし水穂)19番の鑑定では、横井は
こんなことを言っているのです。
>土中の銅分百分中「〇.〇二五九〇六」分溶解性「〇.〇〇二二四四七」分にして
>尚頗る多か為に本来の地力を一反歩三石以上の生産を為すに至れりと認むるに比し
>本年の収量約三分の二に居るに過きず植物中所含の銅分実に百分中「〇.〇〇〇六
>七三七」に及ふ
(漢字を現代のものに、カタカナをひらがなに改めました)
 横井はこれでも「減収33%だ」と言っています。
 ちなみにこの土地の場所は、梁田村久保田です。
 こんな比較ができるのも、「無害地」の「一標準」である25番の鑑定をしたからで
す。「無害地」の鑑定をしていなければ、19番だけを見て「減収33%」なんて推算
できませんよ。仮にしたとしても、「そんなのデタラメだ。元から2石しかとれない
土地なんだろう」とツッコミを入れられたときに、横井本人が反論できません。
 どっかにいるようなおバカさんにツッコミを入れられないように、わざわざ25番の
「無害地」の「一標準」を算出しているのではないですか。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 21:15:57 ID:++k/xoiw0
>>70
医学博士の三宅秀の発言については、田中正造は何度も言及しているようです。
まだあると思いますが、全集第7巻の417頁、第8巻の316頁、372頁にありました。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:16:58 ID:AqPgTgui0
>>75
この方の捏造はあまりにもひどすぎて、そこまでツッコミを入れられていない
のですが、そもそも三宅は、裁判で>>67
「2回とも、鉱毒が人体に害があるなどと演説してはおりません」
などとは一言も言っていませんでした。それは調書が残ってるのでそっちを
見ていただければ分かると思います。
あんたの見た裁判記録じゃないところに書いてあるとかいうくだらないツッコミ
を入れられるのが明白だったので、まだネタにはしていませんでした。
というより、ネタが多すぎてそこまで手が回りません。すいません。
それに第二に、確かに三宅は「演説していない」とは言っていますが、「鉱毒
に害はない」とも言っていません。(裁判で、鉱毒に害があるのかと聞かれた
ときの答え)>>67の文章はそもそもその時点で捏造なのですが、三宅の調書を
転記するのもあまりにもばかばかしいくらいの捏造なので、どうか本当の三宅の
言及は、調書そのものを見てください。誰かさんのわめいていた、亜紀書房の
資料集に載ってます。
なお、亜紀書房の資料集自体は、大変にまじめなものです。ただ、その文章の
ごくごく一部を恣意的に書き換えるとこの方のような捏造が生じます。
もしこの資料集(に限らず、誰かの言及)を証拠にしたいのなら、恣意的に言い
換えた文章じゃなくて原文を提示してください.>>67 カタカナをひらがなにする
のと、漢字を現代の字体に換えるのだけはやってもかまいませんが、勝手な
言い換えはいい加減やめてください。>>67

※三宅は証人として呼ばれただけであって、別に裁判の原告や被告や
検察官ではありません。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 19:47:18 ID:Lwjf1o5U0
>>73,>>74
横井博士は、「指定地中鑑定番号25号は無害地の一標準とすべきもの」と書いて
いますが、それは、この時点で土中に銅分がない状態にまで回復し、つまり無害の
田んぼになり、しかも23号のように収穫が多すぎないので、平均的な無害地と同様
に見なそうという意味です。鑑定の対象たる被害地であることには変わりません。

そうでなければ、鑑定番号を付けて調査する意味がないし、被告側も無害地の鑑定
など認めるわけがありません。

鑑定人調書によれば、裁判長の質問に横井時敬は次のように答えています。
「当初無害の標準地として38号を指定したが、多量の銅分を含んでいたので、
銅分がゼロの25号を無害地の標準とした」(前スレ参照)

この発言からも、銅分を含む被害地を標準的無害地に選んでいたことが分かります。

78名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 20:11:24 ID:NS/vubvW0
砂川さんは施工関係の本をいくつも書いてるみたいだけど、そっちでもこういう読み違え、
我田引水をやってるのかな?
79名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 20:36:38 ID:1WJg3rL40
>>77
あのですね、本当に鑑定書見たんですか?
23〜25番の土地は、全部、多々良村日向にある、原という農民の土地です。
で、原は「24と25の土地は同じ農民が同じように肥料をくれて同じように耕作してる
のにこんなに産量が違うんだ、だから鑑定してくれ」って頼んでるんです。
(※23も無害地ですが、残り2つが陸穂、23のみ水穂なので比較はできません)
鉱毒の鑑定書だからって、鑑定を頼まれた土地が全部被害地である必要性はないでは
ないですか。
それに38号の話を捏造しているようですがあまりにひどい捏造ですね。
鑑定書読めばすぐ分かる捏造を繰り広げるのは何でですか?
横井は、頼まれた鑑定地以外に自身で選んだ場所を鑑定して、そこを「無害地」の標
準にしようとしていました。
38号がそれに当たります。38号の土地は、別に被告農民や検察や裁判官から頼まれた
わけではなく、横井が「勝手に」鑑定したのです。それは鑑定書に書いてあります。
ところが、あとから調べたら、38号鑑定地からは銅が出てしまいました。(坪刈りの
結果が先に出て、土地の銅分の鑑定があとから出たためにそういうことが起きます)
そこで、横井は、「38号は無害地の標準には使えない」と宣言し、無害地だけど鑑定
を頼まれた25号を標準にしたのです。それも鑑定書に書いてあります。最初から38号
が被害地だと思って鑑定したわけではありません。
横井は最初、38号は被害地に近いけれど高台だし、洪水で泥かぶったこともないとい
うので、無害地だと思って鑑定しました。
ところが鉱毒(銅)が検出されてしまったのです。何でそうなったかというと、その
あたりの農民は伝統的に近くの沼から泥を汲んできてそれを肥料にしていたのですが、
その沼が鉱毒に汚染されていたのです。
鉱毒(銅)が出たんじゃ、無害地の標準にはできない、そう判断し、横井は「頼まれ
たけど無害地」の25号を無害地の標準に選んだのです。
それも鑑定書に全部書いてあります。でたらめをわめきちらすのはいい加減にやめ
てください。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 20:37:13 ID:1WJg3rL40
仮に、25号が元汚染地だとしたら、横井は「無害地」とは書かずに「元被害地」だと書
くでしょう。鑑定書にそんなこと書いてないですよ。
しかも、横井は、鉱毒汚染地を元に戻す方法は、汚染土除去しかない、と明言している
ではないですか。
>(前略)去れば現今に於て多少の収穫を納め得る所以のものは此の毒土を掘取り撤去
>せるか乃至は之を深く土中に埋むる等の手段を取りたるに依るもの多し(後略)
 この文章だけではそう明言しているわけではないと言い逃れをされそうなので、
念のために裁判で召還されたときの横井の証言はこうです。
>問 鑑定書結論に於て毒土を他に搬出せざるに於ては到底其地力を恢復し得られ
>ざるが如くあるが左様か。
>答 左様です。
(どちらも、カタカナをひらがなに、漢字を原題のものに改めました)

もし、25号が元々被害地で、その後に無害地になったのだとしたら、横井の理論からいえば、
それは原が鉱毒汚染土搬出をしたからであって、古河さまのおかげでは決してありません。
ただ、横井が見れば、汚染土除去を既にした土地なのか、元々無害地なのかはすぐに分か
るでしょう。それを全く書いていないのだから、この土地は元々無害地なのです。
それに言ったでしょう。「多々良村日向」のどこに渡良瀬川が流れてるんですか?
多々良村日向は、もし鉱毒被害地であったとしても、被害は限定的です。もちろん、ここに
鉱毒被害地がある理由はちゃんとあって、それは洪水のとき、矢場川や多々良川に渡良瀬川
の水が逆流してくるので、鉱毒被害が起きる可能性はあるのです。

繰り返して書きますが、鉱毒の鑑定書だからって、全部の土地が鉱毒被害地だとは限り
ませんよ。というか、全部が被害地じゃなきゃいけない理由がどこにあります?
しかも25号は、24と25で同じ農民が同じに耕して同じに肥料をくれているのにこんなに産量が
違うのは何でだというので鑑定しているのです。だから25号が無害地であるのは当然だし、
頼んだほうもそのつもりで鑑定を頼んでいるのです。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 20:51:03 ID:1WJg3rL40
もう一つ、おまけに書いておきましょう。
この時代からずっとあとの1974年に、やっと古河は原因を認めて
農民にお金を払いました。
同時に、古河が半分以上の金を出して、汚染地の土地改良をやることに
なりました。
つまり、古河の金を使って、汚染された土地を元に戻そうという事業が
ようやく始まったわけです。
そのときに使われた方法はどういう方法だったでしょうか?
実は、70年以上経った1974年過ぎになっても、その方法は横井の出した
方法しかありませんでした。
つまり「汚染土除去」です。ショベルカーで汚染土をけずって捨てたのです。
1974年になっても、横井の方法でしか土地を恢復させる方法がなかったん
ですよ? 1902年に、被害地を元に戻す方法がほかにあったんですか?
あるならぜひその方法を古河機械金属株式会社に教えてあげてくださいよ。
そして私とほかの方々にも。古河は20億を超える金をこの事業に注ぎ込んだ
んですよ。
あなたの言うことが正しければ、そんな莫大な金を使わなくてもお手軽に
汚染土を恢復させる方法があるんじゃないですか?
何で古河は20億以上の金を出したんですか?
1902年にそんな方法があったのに、1980年代に使わないのは何故ですか?

答えは簡単です。そんな方法などないからです。
足尾の鉱毒被害地を恢復させる方法は、2007年現在、たった1つしか知られて
いません。それは、1902年に横井博士が考え出した方法、「汚染土除去」です。
(※同じ方法を、古在博士も考えています)

1970年代の話は関係ないとかわめきだすと思い出すので書いておきましょうね。
鉱毒が1970年代まで続いたという話をしているのではありません。
あくまでも、鉱毒被害地を恢復させる方法について聞いているのです。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 21:28:02 ID:1WJg3rL40
一応訂正。
24号は原礼三郎、25号は原武八の農地で、所有者は違いました。
ただ23号は原武八の土地です。
ただ、隣接地ですし、恐らくこの二人の原は親戚同士だとは思います。
25号は、24号との比較のために鑑定してくれと頼まれた、というのは、
鑑定書にはっきり書いてあります。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 19:42:28 ID:MqKbRS0J0
よくよく見返すと、微妙に鑑定と違っていることも書いてしまったので、先に訂正しておきます。

まず、23〜25号はどれも、鑑定を依頼された場所で、横井が「勝手に」鑑定した場所ではあり
ませんでした。横井が「勝手に」鑑定したのは、37〜39号です。このほか、号外3号も「勝手に」
鑑定した場所です。(ただ、今までの紹介の中には出てません)鑑定書には、「鑑定人選択地」と
書いてあります。
ただし、前述のとおり、25号は24号との比較のために鑑定したものです。従って、この地が被害地
ではない可能性は十分にあります。23号にはそういう言及はありません。
>原は「24と25の土地は同じ農民が同じように肥料をくれて同じように耕作してる
>のにこんなに産量が違うんだ、だから鑑定してくれ」って頼んでるんです。
と書きましたが、鑑定書によると24号はあまりちゃんと耕していなかったために不作になったように
書いてあるので訂正しておきます。恐らく、耕作方法でどの程度の差が生じるのかを証明するため
に鑑定が依頼されたのでしょう。
24と25の地主の原が別人だというのは昨日訂正しておいたとおりです。

ついでに、>>11の15.で、「しばらく洪水もなく」と書きましたが、実際には前年に大洪水があったので
それも訂正しときます。
あと、19.で、地主が缶詰にされたのと、県会に谷中村買収案が出たのは、時間的に逆だったよう
です。ちなみにこのときの県会は秘密会でした。秘密会で議決したあと、何も知らせずにすぐに
地主を缶詰にして買収したというのが実際のプロセスのようです。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 19:48:02 ID:xuf2Ue040
>>76
内水護編『資料・足尾鉱毒事件』(亜紀書房、1971年)の「控訴審における鑑定人陳述
と証人調べの調書」の中に、「三宅秀の証言」が採録されています(436頁あたり)。
興味のある方は、>>67が嘘を言っているかどうかを、この資料で確かめてください。
ただし、この場は学術論争とは違うので、原文通りではありません。
だれでも理解でき、短くて簡潔なコメントにするため、文章は書き改めてあります。

85名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 21:15:17 ID:MqKbRS0J0
>>84
それで、花村の文章さえも書き改めたという言い逃れをするつもりですか?
花村は「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなんて書いてませんよ。
花村は「無害民の人々」と書いたのです。

三宅の言及を簡潔に述べますと、
31年に栃木県の佐野(鉱毒被害地の近く)に行ったが、鉱毒の演説はしていない。
30年に、宇都宮で下野医学会に行ったが、鉱毒の話はしていない。
「二十正年」(と、原文に書いてある)、第1回下野医学会で、
渡良瀬川の魚類が絶滅したのは毒のせいなのか毒ならよく調べるべきだみたいこと
を言った、と証言しています。

22年とか29年とかいう年号は出てきません。仮に、仮に原文の「二十正年」というのが
22年だとしても、29年の話はしていませんし、「二十正年」が29年の話だとしても、
22年の話は出て来ません。要するに全部あなたの捏造です。
そもそも、正造の国会演説は30年の2月です。時期的に食い違っているではない
ですか。
あたかも三宅が「22年と29年の」「2回とも」などと回数を数えていたかのような、しかも、
年号が合わないような話をつくるのはやめてください。
それとも、三宅が「22年と29年の2回」と言ったとは書いていないとかまたしても都合の
よい言い逃れをするつもりですか?
>>67を見る限り、どう見ても三宅がまるで「22年と29年の2回」の話をしたようにしか
読めませんよ。

だいたい、三宅の証言だって捏造です。三宅は「渡良瀬川で魚類が絶滅したそうだが、
水中に毒があるのなら」という意味のことを言っているのです。「渡良瀬川に毒があるの
なら」などとは言っていません。魚類の絶滅とかいうのはたいして意味のない内容です
か? そんなことはありません。鉱毒の被害を微少に見せかけようとする人物や会社
にとって都合の悪いというだけの事実です。
86名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 22:31:54 ID:nXRRQnQU0
>>79,>>80,>>81,>>82,>>83
どんどん泥沼に嵌って行ってるようだな。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 12:15:29 ID:Nk+o4s7s0
茶々入れるだけのバカ
面白くないよ
黙って見てろよ

砂川の自演じゃないならなw
88ドンキホーテの田中:2007/09/19(水) 12:25:01 ID:4Z2xOkU60
千葉健一、おまえ、ちゃんと調べたのか?
89ドンキホーテの田中:2007/09/19(水) 12:49:49 ID:4Z2xOkU60
資料じゃなく「魂」で見るんだよ。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 22:02:07 ID:fAPx6T5p0
左部彦次郎編・鉱毒事務所発行の『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』は、
科学者が調査した客観的なデータです。
しかし、その内容はこれまで無視され、専門家にも知られていないらしいので、
農学博士横井時敬による指定地(裁判所による)の鑑定結果を、桑、栗、玉蜀
黍を除き、稲作に限って数値の多い順に並べて紹介します。

鑑定番号       所有者               反当り推定収量
  23号  群馬県多々良村・原武八    水稲   3石5合
  19号  栃木県久野村・富田鹿蔵    水稲   2石1斗7升7合
  25号  群馬県多々良村・原武八    陸稲   2石1斗5升8合
  11号B 栃木県植野村・大出治作    水稲   2石1斗        

  12号     同村・兵藤織右衛門    水稲   2石1升2合                         
  34号  群馬県大島村・相田貞吉    水稲   1石6斗4升7合  
  20号  栃木県久野村・増田熊次郎   水稲  1石5斗9升      
  35号   同県大島村・斉藤亀衛     陸稲  1石5斗2升5合 
 
  22号  群馬県多々良村・真下シモ   水稲   1石4斗8升9合      
  26号         同村・御友甚作   水稲   1石4斗7升8合 
   5号  栃木県犬伏町・川田喜一郎   陸稲   1石4斗    
  18号  栃木県久野村・阿部源次郎   水稲   1石2斗9升4合                
  
  13号    同県吾妻村・吉川清太郎  水稲   1石2斗9合
  11号    同県植野村・田名網和吉  水稲   1石5升
   1号    同県犬伏町・小林定吉   水稲      8斗9升1合                       
   2号        同町・山田由松    水稲     8斗4升6合            
 
  24号  群馬県多々良村・原礼三郎   水稲     8斗6合
   7号  栃木県界村・三関富吉      水稲     7斗5升8合  
  21号   同県久野村・橋本兵吉     陸稲     4斗9升
  14号   同県吾妻村・北村金次郎    陸稲     4斗3升2合 
 
  17号   同県毛野村・茂木多門     陸稲     2斗3合 
  10号   同県界村・茂呂浪三       陸稲    1斗7升7合  
    
  
  
91名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 22:07:49 ID:mNvNFyEp0
さあ、今度はどういう種類の捏造なんだろう。
楽しみにしています。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 22:27:42 ID:1wGQRhFn0
>>90
その値は既に私が全部出していますよ。もっとも、所有者と村名は書いてませんがね。
で、上位3位までで、鉱毒被害地は19号のみ、しかも、横井は、19号鑑定地について、
2石とれたけど、鉱毒被害で33%減収だ。本当はこの田んぼなら3石とれるはずだ、って
明言してますよ。

1位の23号、25号はともに、鉱毒激甚地ではない「多々良村日向」の陸穂で、しかも、鉱毒
被害がありません。
鉱毒被害がないのは、古河さまの予防令工事のおかげではない、と、横井は間接的に明言
しています。
>問 鑑定書結論に於て毒土を他に搬出せざるに於ては到底其地力を恢復し得られ
>ざるが如くあるが左様か。
>答 左様です。
(カタカナをひらがなに、漢字を原題のものに改めました)
 被害地を恢復する方法は汚染土除去しかない、と横井は明言しているわけですから、23号
25号鑑定地から鉱毒物質(銅)が出ないのは、(1) 元々鉱毒被害地ではない (2) 農民が汚染土
除去をやった の2つしかありえません。少なくとも、古河さまの予防令工事のおかげでは決して
ありません。ほかに可能性があるのなら提示してください。
ちなみに、(2)もありえません。なぜなら、横井は、鑑定地の中に汚染土除去をやった場所がある
場合、わざわざそれを明示して鑑定しているからです。11号Bがそれに当たります。11号はひどい
不作なのですが、すぐ隣の田んぼで汚染土除去をやった部分だけは露骨に豊作でした。
産量に何と2倍も差があったのです。

あとですね、植野村だって船津川と田島、飯田では全然様子が違うわけですよ。そこんとこ分かっ
てますか?

そして何度も言いましょう。
鉱毒被害地で、「無害地の一標準」である25号鑑定地よりも産量の多いところは1つしか
ありませんよ(しかも水穂なので、直接の比較ができない)。そして、その場所でさえ鉱毒で33%の
減収で本当は3石とれたはずだと横井は明言しているのです。

この鑑定のどこを読めば、予防令工事のおかげで被害地は恢復したとか豊作になったなどと
でたらめをわめきちらせるのですか?
私はそんな読み方のできるあなたが不思議でなりません。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 22:32:50 ID:1wGQRhFn0
途中からこのスレをごらんの方、前スレの保存をされていない方のために、
肝心の鑑定書全文をごらんになれるサイトを紹介しましょう。
この鑑定書は全文が国会図書館サイトで全文が公開されているので誰でも
読むことができます。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40067623&VOL_NUM=00000&KOMA=10&ITYPE=0

どこがどう嘘っぱちなのか、ご自身の目ではっきりと確認してください。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 20:45:03 ID:EBMoc+vj0
>>73,>>74,>>79
「水穂」、「陸穂」なんて何度も書いているが、こんな言葉日本語にないよ。常識の
ない人間がいくら歴史論争したって、勝てるわけないだろ。

95名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 21:09:43 ID:hmZgShmc0
>>94
文句は横井に言ってくださいね。
横井はそう書いてるんですから。
無料で読める鑑定書も読んでいないのがばればれですね。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 21:12:11 ID:hmZgShmc0
>>95
ああ。正確には水稲、陸稲ですね。
97名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 21:45:35 ID:zzCZzdOj0
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
キホーテ型人間には、反論しないことにします。

>>90のリストをよく見てください。鉱毒無害地の稲田は1反歩当り2石ほどなのに
裁判所が鑑定を指定した鉱毒被害田22箇所のうち、半数の11箇所が平均の7
割、つまり1石4斗以上の収穫を挙げています。
鉱毒防除工事は明治30年の11月に終了したのですが、4年目には稲田がこれ
ほどまでに回復していたわけです。

私はこの資料をよく見ていなかったので、このようにリストアップしてみて、はじめて
これほど収穫が好成績な科学的データがあったのかと、びっくりしました。
この鑑定が実施されたのは明治34年10月、「鉱毒事務所」が鑑定書を印刷した
のは12月8日、発行したのは14日、正造が直訴したのは12月10日です。

「かくのごとくにして二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦、満目惨憺の荒野
となれり」という 直訴の内容がいかに実態と違っていたかは、このデータが明確に
証明しているではありませんか。

>>78 
「施工関係の本をいくつも書いてるみたいだけど」とおっしゃいますが、書いており
ません。設計関係はありますが。 
98名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 22:37:54 ID:hmZgShmc0
>>97
>>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
>キホーテ型人間には、反論しないことにします。
 ほう。ご自分には反論しないという意味ですね。

 で、1石4斗じゃむちゃくちゃ不作なんですが。
 陸稲ですら2石とれるはずなのに、何で1石4斗で豊作なんですか?
 7割ってことは、実に30%の減収ですよ。
 だいたい、そんな減収率は、それ以前の減収率と変わらないではないですか。
 足利市史に載ってますよ。もう一度提示しますか?

>減収率は、梁田村で田27%,畑29%でした。(1892年調査、
>ただし、値は1890年時点での調査)

>ただし、堤外地では田57%、畑62%です。
 10年経っても全く減収率が減少していません。むしろ堤内では27%から30%に増えているでは
ないですか。(サンプルが少なすぎるため、直接の比較は危険ですが)
 鉱毒予防令で農地が恢復したなどというのは大嘘です。
 横井もはっきり言っています。
>問 鑑定書結論に於て毒土を他に搬出せざるに於ては到底其地力を恢復し得られ
>ざるが如くあるが左様か。
>答 左様です。
(カタカナをひらがなに、漢字を現代のものに改めました)
 こういう、横井が予防工事のおかげではないとはっきり明言している部分は、完全無視ですか。


 30%の減収になるほどの激甚人災なのに、農地が恢復しているなんてでたらめもいいところです。
それに当時の農民は自分のメシは自分の田畑でとれたものを食べていたわけですから、たとえ
減収が10%でも自給自足が崩れて、ほかに買いにいかなければならなくなる。しかも金はないと
きたら、こんな大規模人災はありませんよ。
 ところでその30%の減収分は、当然古河が農民に支払ったという計算ですよね。
 私の知る限り、ビタ1文も出してないと思いますが。
 こんな激甚人災を引き起こしておいて、はした金をけちったおかげで、百年公害とか言われる
はめになったのです。
99名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 22:51:38 ID:hmZgShmc0
ものはついでなので。
仮に、予防令工事から4年で農地がたいそう恢復のきざしを見せたり
しているとするのなら、やはり、1970年代の事実とつじつまが合いません。

古河鉱業の社長が、もう鉱毒は流さないという文書にはんこを押したのが
1974年。ところが、被害地の土地改良の開始は1981年にずれこみました。

その間、7年も経っています。7年も「鉱毒をたれ流さない」時期が続いたのに、
何故、土地は恢復しなかったのでしょうか?

答えは簡単です。鉱毒は、たれ流しをやめたからといって下流部の被害が
なくなったりはしないからです。

その70年も前に、横井は裁判ではっきりとそう述べています。
>問 鑑定書結論に於て毒土を他に搬出せざるに於ては到底其地力を恢復し得られ
>ざるが如くあるが左様か。
>答 左様です。
横井は正しいことを言いました。
鉱毒汚染地の土地を恢復させる方法は、2007年の今になっても、たった1つ
しか知られていません。それは、1902年に横井(と古在)が指摘した方法、すなわち、
汚染土除去です。

汚染土除去をしていない土地が、予防令工事のおかげで恢復することはありえません。
それは横井が明言したとおりです。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 22:54:49 ID:hmZgShmc0
>>97
横井の鑑定書を恣意的にねじまげて解釈して、
予防令工事のおかげで農地は恢復したなどとわめきちらし、

横井は、汚染土除去をしない限り農地は復旧しないと断言している、
と、ご丁寧に説明して差し上げると、

逃走(今ここ)
101名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 23:50:20 ID:hmZgShmc0
>>97
とにかくツッコミどころが非常に多いので、すぐに分かるデタラメを提示しておきます。

>>90のリストをよく見てください。鉱毒無害地の稲田は1反歩当り2石ほどなのに
>裁判所が鑑定を指定した鉱毒被害田22箇所のうち、半数の11箇所が平均の7
>割、つまり1石4斗以上の収穫を挙げています。
まずここが捏造です。
そもそも、25号は「無害地の一標準」なのですから、「鉱毒被害田22箇所」では
絶対にありえません。
次に、この中に、農民が土地改良を行った土地が2つ含まれています。それは、
11号Bと35号です。11号Bは汚染土除去を、35号は、汚染土を土中に深く埋める
作業をしています。
そういう、農民の不断の努力を完全に無視(というか、あえて隠匿)した上で、1.4石も
とれたところがこんなにある、などとわめきちらすのがまず大嘘つきの仕業でしょう。
これら2つが1.4石以上とれたのは、農民のおかげで古河のおかげではないので、
当然、計算からは外さなければなりません。

次に、標準で2石というのは、陸稲の場合です。水稲の場合は違います。
さらに、横井は、ほぼ全部の場所について、「本当はこれくらい取れるはずだが」
という値を出しています。
たとえば、横井が「3石以上とれるはずだ」と言った19号鑑定地を、標準の「2石」
と比べても何の意味もありません。
そうして減収率を全部計算し直したところ、被害地で減収が30%未満の田は(陸、水
両者を含めて)たったの2つしかありませんでした。それは、22号、26号鑑定地です。
ついでに書いておくと、どちらも、私が再三、被害激甚地じゃない、と言った、多々良村の
土地です。22号は何度も名が出てくる多々良村日向の土地。26号は多々良村木戸の
土地でした。正確には木戸は日向よりは鉱毒が押し寄せる可能性が高いです。横井は
これら2つについて「のみ」鉱毒被害は軽微、と鑑定しました。
被害地の中で3番目に被害が少なかったのが、これまた何度も出てくる、19号鑑定地
(梁田村久保田)の33%です。
被害地の半分で、収穫が7割に「戻った」などというのはでたらめです。
102名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 06:26:06 ID:/9TKwDXd0
>>97
なるほど。
設計関係で同じ様な読み違えや間違った引用、笑われるような出鱈目満載の本を書いてるんですね。
おそろしい。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 21:05:17 ID:d+8d5VHo0
>>95
誤植だということに全く気づかずに、意味も分からないまま写したから、常識が
ないと言ったんだ。横井の間違いでなく鉱毒事務所のミスだよ。
自分の責任を横井に転嫁するなんて、相当に低レベルだな、あんたは。

104名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 22:30:32 ID:t7FMRAb40
川俣事件の裁判で、医科大学教授の入沢達吉も証人尋問を受けましたが、政府の
依頼で鉱毒の人体への影響について調査した結果を、次のように答えています。 

「(全部で83人について検査をして)大小便等に銅分が含んでいることを認めたものの、
銅または硫黄の中毒に罹った者を発見できなかった。少量の銅分が長く身体にあって
中毒を起こすということはないものと信じる」

最も驚くべき正造のでっち上げは、「鉱毒非命死者1064人」と断じた上で、これを根拠
に政府の責任を攻め立てたことです。
この数字は、正造が活動家の岩崎左十に調べさせたもので、2つの町と12の村の34
字(あざ)について、1年間の死亡者数から出生者数を引いたところ、1064人になった
ため、彼はこれだけの人が鉱毒で死んだことにしてしまうのです。

その上で彼は、第14回の帝国議会で、理論的にも科学的にも何の根拠もないこの数字
を使って、次のように演説したのです。

「目下我ら被害民中その1千余名はすでに鉱毒のために惨憺たる非命の死を遂げて、
・・・しかもなお恬然過ちを改むるの意なくして、かえって鉱毒予防工事の効能を云々す
る者ありとせば、けだし他に為にする所あるによらずんばあらず。政府は何故に・・・我
等被害民の父母兄弟姉妹を毒殺せしか。目下の現況無政府よりも甚だしと言わざるべ
からず」(明治33年2月9日)                                     



105名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 22:41:37 ID:AyCkiK940
>>101
参考のために、「70%の収穫」がどれだけでたらめなのか、
かつ、豊作の原因が古河の予防令工事とは全く関係ないことを、
横井の鑑定書の数字を挙げて説明しましょう。

鑑定地番号:1反あたりの収穫(石) 横井による、本来の地力 収穫(%)

23:3.0050 (無害地)100.0%
19:2.1770 3.0以上 67%(横井自身の計算)
25:2.1580* (無害地 標準) 100.0%
11B:2.1000 3.0以上 70.0%(汚染土除去済)
34:1.6470 2.5内外 65.9%
20:1.5900 3.0以上 53.0%
35:1.5290* 2.0内外 76.5%(汚染土を深く埋めた)
22:1.4890 「相当の出来」100%弱
26:1.4780 「相当せる出来」100%弱
5:1.4000* 1.4 100%(無害地)
4:1.3273 2.0以下 66.4%
13:1.2090 2.8以上 43.2%
18:1.2940 3.0以上 43.1%
11:1.0500 3.0以上 35.0%
1:0.8914 2.0以上 収穫44.6%
2:0.8458 2.0以下 42.3%
24:0.8057* 2.0以上、ただし無害地
7:0.7580 2.0内外 37.9%
21:0.4900* 2.0以上 24.5%
14:0.4320* 1.8以上 24.0%
5:0.2380* 0.8以下 29.8%
10:0.1772* 2.0以上 8.9%
17:0.2030* 1.8以上 11.3%

38:1.4400* 不明
38B:1.7250* 不明

参考。農家大学試験田:2.3〜2.4(平年は2.0程度)
106名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 23:03:45 ID:AyCkiK940
>>105
そもそも横井の「標準で2.1石」というのは、陸稲の場合でした。
105でも、陸稲に「*」印をつけて区別しましたが、さて、1.4石以上の収穫があった陸稲って
一体何カ所ありますか?
何と、11Bと35号の、どちらも「汚染土除去などの土地改良を行った地点」でしかそんな値は
出ていないのです。(あと1ヶ所ありますがそこは標準地で、元々鉱毒被害のなかった地点です)

さらに、水稲の場合、横井はどれくらい収穫できるかといっているかというと、裁判で呼ばれたときに、
>問 日本一若しくは関東一の豊*(のぎへんに「農」地と言ふ事を得るか。
>答 責任を以て答ふること能はざるも水稲は三石陸稲は二石桑は三百貫の収穫なり(後略)
(カタカナをひらがなに改めました)
といっているのですから、控えめに見ても、70%の収穫というのなら、3石の70%、つまり、2.1石以上の
ところを探さねばならないはずです。
そうしなければならないところを知っていて、わざと陸稲の2石と比べようというのですから、これは
いかさまバクチ以外の何物でもありません。
で、そうやって3石を基準にして、収穫70%以上の地点を探すと、そんなところは標準地以外には
1ヶ所(19号)しかありませんし、しかも、横井はここの減収は33%だと明言していますから、残念ながら
「70%の収穫」の中には入れることができません。
この結果をどう見れば、被害が減ったなどとわめきちらせるのでしょうか。だいたい、被害がほぼ
なかった、22,23,24,26号鑑定地は、全部、多々良村の土地です。(1ヶ所のみ字木戸、残りは字日向)
いいですか? 多々良村には、渡良瀬川は流れてすらいないんですよ。村の中でも、
日向と木戸には被害がありますが、成島とかには被害すらないんですよ。

植野村船津川とか、渡瀬村下早川田とか、毛野村川崎とか吾妻村下羽田とか、渡良瀬川に接した
農地の激甚災害ぶりを見て見ぬふりをして、渡良瀬川すら流れていない多々良村の値だけを恣意的に
見せつけて、予防令工事で鉱毒被害がなくなったなど、大嘘つきにもほどがあります。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 23:31:44 ID:AyCkiK940
>>104
一応こっちにもツッコミいれておきますね。
入沢が調べたのは、「急性銅中毒」です。慢性銅中毒については、入沢自身が
「銅には急性中毒はあれども慢性中毒あるや否やは未定の問題なり」と、
存在する可能性は否定できないと述べています。

そもそもこのときの入沢の発言は、どっかの誰かさんの文章とはだいぶ違います。
複数の文章から都合のいいところをはぎとって文章を捏造しているのはいつもの
手段ですが、
>少量の銅分が長く身体にあって 中毒を起こすということはないものと信じる
こんなことは言っていません。実際の文章はこうです。問は裁判官です。

>問 左の事項に付き短時日に於て鑑定を為し得るや又は数十年を要するや。
> 一米粒中又は飲料水中に銅分ありとせば人間の身体に慢性中毒を起すや若し慢性
>中毒を起すとせば銅分の最少量は如何。
 入沢の答えはこうでした。
>入澤達吉答 此鑑定は頗る困難なり(中略)若し最少限が飲食物中に含有するも差支なし
>銅分の少量なるに於ては長く身体を持続し中毒を惹起することは之無きものと信じます故に
>鑑定は到底出来ません。

 横井は「最少限」の量をずっと摂取しても問題ないと言っているだけです。
 「最少限」を超えた量を摂取したら当然、害が出ます。そういう言い方でしょう。
「少量なら中毒を引き起こすことはないと思う」っていうのは、少量の限度があるという
意味ですよ。少量なら全部排出されてしまい、体内に蓄積はしていかない。ただ、その
「少量」の限界を調べろと言うのは自分にはできないと言っているのです。
ついでに言うと、裁判長は、横井が「鑑定できない」と言ったので、「鑑定を命令しない」
と言っています。
108名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 04:38:40 ID:JWb/bNNh0
トンデモの発生が観察出来る兄弟スレ。

キリスト教会は日本女性50万人を性奴隷にしていた
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1158818888/
109名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 12:41:15 ID:QpTA1aNQ0
本当に田中正造って「法螺吹きドンキホーテ」ですよね。この人、鉱業も科学
もわからないで、何かを目的に感情だけでものをいっている感じですね。
いい加減な数字を挙げて、<<104 1年間の死亡者数から出生者数を引いて、
1064人なんて数字を使って、これだけの人が鉱毒で死んだことにして演説
するなんて。本当にこうやって嘘の歴史が作られてしまうんですね。直訴状だ
って、<<97で示したように、えらい毒々しいこと書いている、田中正造らしいんじゃ
ないですかね。
とにかく、演説するには、数字を挙げて最もらしくする。根拠のない数字やさも
大変な毒がありそうな言葉を使っているし、それで人を信じ込ませる。
テクニックはまさにペテン師以上。本当に、こんな人を、愚かな人達は英雄に祭
り上げ、いまだに、信じているんですね〜〜。ひどい話です。
私は、<<97を信じます。鉱毒予防工事は有効だったと聞いております。
そうでなければ、今現在も使われている明治30年に造った浄水場は有効でなく、
下流域に被害が出続けることになると思いますが。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 19:43:16 ID:VTOqs8Mp0
>>109
中才浄水場のことですね。あんなもの知ってるのは古河関係者か元足尾町民の
方ですね。ちなみに私はどっちでもありませんが。
中才浄水場竣工後も鉱毒出てますよ。1977年にはかった値が基準値を超えて、
毛里田の同盟会から文句が出ています。
まあ、できる前よりは鉱毒は減りましたけどね。減ったのとなくなったのは違います。
それに、今は、下流域にも鉱毒沈殿用設備があります。明治からありましたが、
昭和時代に建て直したものです。中才浄水場で鉱毒が全部防御できるなら、そんな
ものつくる必要性もないじゃないですか。しかも、戦後すぐに作った鉱毒防御施設作る
のに、古河は金出してるんですよ。寄付金って名目で、鉱毒防止施設の建設費用だって
のは契約書には書かないっていう形でしたけどね。中才で全部防御できるのに、何で
そんなものがいるんですか? というか、何でそんなもの作るのに寄付金なんか出したん
ですか?
(※下流域の鉱毒防御用沈殿池は何度も作り替えをしています。今稼働中のものには、
古河は金出してません)
(※足尾にはさらに間藤浄水場もあります)

そのあと、1970年には砒素が出て大騒ぎになりました。
今流れ出る鉱毒が少ないのは、銅山が実質的に動いていないからです。
あのままの設備で製錬所を動かせば鉱毒のたれ流しはまた始まるでしょう。

桐生市議会は、2年ほど前に中才浄水場に自動採水器をつけてくれって決議を
しましたが、もうそろそろ付いた頃なんでしょうかね? というか、環境企業を自負
する古河機械金属株式会社が、ほかの鉱山の浄水場にはついている採水器を
よそより後にならないとつけないってのは不思議な話ですね。鉱毒出してないの
なら、それを示すためにさっさと自動採水器をつけて「ほら鉱毒は出ていない」って
大宣伝すればいいのに何でしないんですかね?
それに、備前楯山から出る水が全部沈殿池に入ってるかっていうと入ってませんよ。

今日も桐生市水道局は目を皿のようにして、渡良瀬川の水質を調べています。
鉱毒がもう流れてこないと分かっているのなら、何で桐生市水道局は、常時検査を
今も続けているんですか?

まあ田中正造が英雄だったかそうでなかったかというのは個人の価値観なので
否定はしませんよ。ただ、大嘘をぬりかためて、他人を大嘘つきに仕立て上げるのは
黙ってみているわけにはいきません。
111名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 21:08:24 ID:XnI+8ePf0
>>106
被害がなかった稲田も入っているそうですが、「被害地の鑑定」をしたはずの
裁判所が嘘をついたわけですか。そんなデタラメな記録を何で鉱毒事務所は
印刷したのか、わけを教えてください。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 21:12:40 ID:PTI6WYjD0
>>111
何故文章を理解する前に質問しようとするのか、その理由を教えてください。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 22:09:12 ID:I3wFcjK10
>>111
鑑定書は公開されてるんだから理由が知りたかったら読んでください。
読むことのできるアドレスも提示してあります。
ちなみに、鑑定書は日本語で書いてありますので念のため。
それに、理由もこのスレに何度も書いてますが。答えが見つからなかったのか、
探すつもりもないのか、書いてあってもそれを理解できるだけの能力または日
本語力がないのか、どれでしょう? それによって答え方も変わりますが。

ご親切にお答えしてさしあげると、それは被害地と無害地の差を出すためです。
>>74
> こんな比較ができるのも、「無害地」の「一標準」である25番の鑑定をしたからで
>す。「無害地」の鑑定をしていなければ、19番だけを見て「減収33%」なんて推算
>できませんよ。仮にしたとしても、「そんなのデタラメだ。元から2石しかとれない
>土地なんだろう」とツッコミを入れられたときに、横井本人が反論できません。
> どっかにいるようなおバカさんにツッコミを入れられないように、わざわざ25番の
>「無害地」の「一標準」を算出しているのではないですか。
 これで分からなければ、日本語を勉強してから突っ込んでください。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 20:49:46 ID:3ok1uTbn0
正造の人間性が低劣なことをうかがわせる事実も数多くあります。
そのうちでしつこいほど繰り返されるのが、古河市兵衛に関する捏造話です。

世間の話題になり始めた公害の原因が、自らの会社にあることをすぐに認めて、
古河市兵衛が被害農民との間で示談契約を交わし、示談金を支払った事に関
して、佐野銀行頭取の村山半宛の手紙に、正造は次のように書きます(明治28
年3月16日)。

「(契約の仲介をした郡長や県会議員は)皆古河の奴隷となり、番頭となり手代
となり、犬となり猫となり、被害村々に運動を強いて調印奪取。・・・足利、梁田の
村々中気弱な人々少数の人々、私利目前汲々の人々は、この威嚇的利欲的の
二途に迷い込まれ引きずり込まれ、・・・」

古河市兵衛が強圧的に示談契約を結ばせたような書き方ですが、損害を賠償
する会社でさえ公害事件では珍しいし、支払う側が無理矢理調印を迫ることな
どあり得ません。何の必然性もないでっち上げ話だとわかります。



115名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 21:50:56 ID:Jr2T3Ad70
>>113
言ってる意味が全く分かりません。支離滅裂ではありませんか。
>>107では入沢を横井にしていますが、頭が相当混乱している証拠ですね。
相手は、被害が相当回復しているのに直訴はおかしい、とコメントしているのに、
作柄はまだ良くない、と論点をはずしてごまかしている。確実に負けてますよ。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 22:18:58 ID:E/6jtu6O0
>>114
それで、横井の鑑定書の値を恣意的に読み替えて、あたかも
横井が「予防令工事で鉱毒被害が減少した」という鑑定をしたかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

もう一度鑑定書を見返したら、2.1石収穫があって、横井が減収33%と
断言した19号鑑定地も、農民が汚染土除去をした土地ではないですか。
被害地で豊作になっているところなどどこにありますか?
被害地の端の、渡良瀬川が流れてすらいない多々良村の土地と、
農民が土地改良をした場所しか、まともな収穫量はありませんよ。

そうそう、花村のこともすっかり忘れるところでしたね。
「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらは、花村の言及のどこに出てくる
のですか? 花村はそんなこと言っていないのに、花村に「こんなこと
言っただろう」とか言うのは、花村に対しても大変失礼なので、ぜひとも、
花村の何という著書の何ページにそう書いてあったのか教えてください。
そんな本はないと思いますがね。

で、古河(ふるかわ)の画策のほうですが、なにやら動きがあったのは
確かのようです。ただ、残念ながらそれらは歴史の闇に消えてしまいました。
証拠を残さずにキャッシュだけのやりとりとかいう金の動きは、なかなか歴史の
表舞台には出てこないのです。
ただ、古河(こが)町で行われた現金の山分けの話は、複数の人が実名を
出して、確かにそういうことがあった、って言ってるので確かでしょう。
しかし、何で谷中村から古河(こが)町に移転した人に、古河(ふるかわ)が金を
出す必然性があるのかとか、細かいツッコミはいくらでもできるところが歴史的
には弱いところです。
117名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 22:29:14 ID:E/6jtu6O0
>>115
別に勝ったり負けたりの話はしてませんが。
>>107は確かに全部入沢の話ですね。
で、>>113の意味が分からないのでしたら、あなたは日本語を
習う必要があるというだけのことです。
日本語を習得されたらまたお相手してさしあげます。それまで
気長に待っていますので早く習得してくださいね。

そもそも、鑑定しなきゃ、被害地か無害地か分からないのに、
それを調べるための鑑定なのに、最初から全部が被害地だという
前提で話をされても困りますし横井はそんなこと言ってません。
鉱毒の鑑定だからって、何で全部が鉱毒被害地である必然性が
あるんですか?
裁判所からダイヤの鑑定を頼まれた鑑定人は、頼まれたものが
全部ダイヤモンドだって鑑定しなきゃいけないんですか?
「25番目の石はダイヤモンドではない」という鑑定が出ることだって
十分にありうるではないですか。
支離滅裂なのは、全部の鑑定地を被害地に仕立て上げようとしている
どっかの誰かさんです。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 22:33:59 ID:E/6jtu6O0
>>115
> >>113
> 相手は、被害が相当回復しているのに直訴はおかしい、とコメントしているのに、
> 作柄はまだ良くない、と論点をはずしてごまかしている。確実に負けてますよ。

「作柄が相当回復している」という部分が捏造なのでそう指摘しているだけです。
別に直訴がよかったか悪かったかなどという価値観の話はしていません。
それのどこが論点を外しているのか、意味が全く分かりません。
作柄の話をするなということですか? 作柄がよくなったという捏造を、証拠もない
のに事実だと認めろということですか?
作柄の話が前提で、その前提が捏造だといっているのです。
119名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/25(火) 02:47:57 ID:LJXI8+th0
>>114
理がなくなったら印象操作っていうのはクソッタレが良く使う手ですね。
まあ、それだけあなたが手詰まりだという事なんでしょうけど。本当に哀れだ。

あなたが道理も何もないクソッタレだって言うのは誰かが無理して作り上げたんじゃなくって、
あなたがここで行ってきた事で自分で作り上げた印象だから、本物ですけどね。

正造の晩節に関する中傷は何時再開するんでしょう?
あなたの晩節の方が遥かに醜いですけどね。
120名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/25(火) 21:42:59 ID:rFayNbeH0
明治29年には3回も大洪水があり、被害が大きく広がったために、示談金をも
らった被害農民の多くが、正造の運動方針である「足尾銅山鉱業停止(閉山)
請願運動」の仲間に加わりはじめました。
そこで、示談契約の仲介者である県会議員の横尾輝吉たちが、ある文書でこ
れを問題にしたところ、正造は蓼沼丈吉宛の手紙で次のように非難したのです
(明治29年12月3日)。

「図らざりき、横尾輝吉他数名の者、古河の委嘱を受け、金銭をもって請願者
を瞞着せんとして印刷物を配布。加害者市兵衛を崇拝すること恰も神のごとく、
・・・停止請願派を非難すること言語に絶し、実に油断ならざる運動を始めんと
は、これ実に彼ら腐敗漢のわれわれ正々堂々停止請願を為す者に対し公然
戦いを挑みたるものというべし。・・・仮にも示談仲裁等のごとき腰抜不節操の
挙動なきよう御誘導これありたく・・・」

「加害者市兵衛を崇拝すること恰も神のごとく」は、決してあり得ない、あまりに
も無茶苦茶な作り話です。それに、示談契約をしようと請願派に転じようと、そ
れは被害者個々の自由ではありませんか。それに対して当事者でもない正造が、
何の理由があってこれほどまでに示談仲裁派を責め立てるのでしょう。農民の
自由を束縛するのは、封建的権力者のしてきたことです。                                      

  
121名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/25(火) 23:36:52 ID:HoxjYhWN0
>>120
それは単に単に田中正造は批判しているだけで、正造の文章にしては
ずいぶん平穏な感じですね。

「ああするな、こうするな」というな、というのなら、あなたも田中正造に
対して「ああいうな、こういうな」というべきではありませんね。
何だかいつものごとく自分のことは棚に上げて、人の言動に文句をつけて
るだけのようですが(しかも、自分自身で同じ事をしている)。

田中正造が農民にああするなこうするなと言うのはよろしくなくて、
あなたが田中正造にああ言うなこう言うなと言ってもよいという理由は何ですか?

ところで花村の言及はどこにあったんでしょうか? クレイムをつけるのに
必要なので教えてください。花村の言及のどこに「10倍ぐらい」の「穏健派
被害民」とやらが出てくるんですか? 花村がどこでそんなことを言ったの
か分からないと、花村にクレイムをつけようがないので教えてください。
まあ花村はそんなこと言ってないと思いますがね。
そうするとクレイムをつける相手は、花村の言及とやらを捏造したどっかの
誰かさんに言うことになります。

そして、横井の鑑定を恣意的に読み替えたのは何故ですか? 収穫の多かった
上位の田畑は、皆、「渡良瀬川が流れてすらいない多々良村の土地」か、
「農民が土地改良をやった土地」しかありませんよ。古河がやった鉱毒予防令
工事で鉱毒被害が減少したなどというのは、横井の鑑定書のどこにも書いて
ありません。逆に横井は、汚染土を除去しない限り、農地は復旧しないとはっき
り言い切っているではないですか。
横井は、予防令工事では被害地は恢復しないと間接的に明言しているのです。
122名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 21:09:22 ID:7zP5QLMi0
演説の場合はボルテージが上がるためか、市兵衛に対する悪口雑言は相当
激しくなります。帝国議会での演説を並べます。

「この鉱業者一人に限って法律の外にわがまま跋扈をさせるのは、治外法権
を特別にこしらえて執行権を与えておくのと同じでございます」(明治30年2月
26日)

「政府は、古河市兵衛を鬼神のごとく恐れる。地方官のごときは古河のことを、
鉱主様と言っている。古河市兵衛と名を呼ばない位であります」(明治34年3月
23日)

「(政府は)人民に対しては、古河市兵衛に頼まれてわが軍隊まで繰り出して、
これを弾圧したであろうが。ざまあ見ろ、一人の商人のために堂々たるわが
護国の兵を濫用し、国費を濫用し、・・・その醜態見るべからず。古河市兵衛
に頼まれずにそんな悪いことをする馬鹿はない」(明治33年2月9日)

「あるいは間違いかは知れませぬが、警察官の服は着ておったけれども、古河
の番頭に相違ない顔を見たということである。古河の番頭にあらずといえども、
古河市兵衛の小使いでなければ、左様なことをする訳はないのである」(明治33
年2月15日)

「加害者は政府監督の下におるから、(被害者が)政府に請願をすると古河市
兵衛は躍起となって反対をするのである。わけの分からないにも程がある。金を
使いあるいは被害地の村長や県会議員に金をくれて、鉱毒はない、鉱毒は薄い
などと言わせる。被害地の村長が鉱毒は薄うございますなどと願書を出すヤツも
出す奴でございます」(明治31年6月6日)
123名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 22:07:12 ID:ufniA4n+0
>>117
「日本語を習得されたらまたお相手してさしあげます」とは、大変な自信ですね。
でも、>>105で、農科大学を農家大学と書き間違えてます。自信過剰では?
124名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 22:32:23 ID:Fz0QyRNH0
>>123
日本語の習得はもうできましたか?
それは誤字といって、インターネットの世界ではごく普通です。
こっちは大嘘のたれ流しに対して数時間でツッコミを入れている
のでどうしても誤字は生じますよ。
もっともその前に日本語を理解できないと、「農家大学」と
「農科大学」がただの誤字だということも分からないわけですが。
どっかの誰かさんもいっぱい誤字がありますから、そちらにも
ツッコミをいれてあげてはどうですか?
もっともどっかの誰かさんのほうは、誤字というより捏造ですがね。
「被害民」と「無害民」の違いは、日本語では誤字とは言いません。

で、「被害民」と「無害民」を違えて書いている人にもぜひぜひその
ツッコミを入れてあげてください。ただし、日本語を習得してからに
することをおすすめしますがね。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 22:45:56 ID:Fz0QyRNH0
>>122
さて、正造がそう言ったからどうなんでしょうか?
国会の議事録にそう書かれるだけのことをしでかした輩だ、ということでしょう。
そうでないなら、たちまち「そんな発言は不穏当だ。議事録から削除しろ」とかいうことに
なって、議長権限で議事録から消されるはずですからね。
で、何で議事録にそんなのが残ってるんでしょうね?
今の発言を取り消せってツッコミ入れる議員が皆無だったのは何故でしょうね?
いやいたけど結局削除しないことになったのかもしれませんが。

ところで、花村の言及に「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらがいたというのはどこに
ありましたかね?
私の探した限りはどこにも見あたりませんでしたよ。
どっかの数行しか文字が書けない方のように、スレもまともに読まない方と違って、花村の
正造関連著書全6冊(と、花村は言っている)をざっと目を通しましたが、花村の言い方は「
無害民の人々」なんですが。
「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどというのは大嘘です。
さらに、花村がそんなことを言ったというのもまた大嘘です。
あなたは二重に大嘘をついたのです。
あなたの嘘はそれだけではありません。横井の鑑定の、少し値のよいところだけを抜き取って、
しかも、その中の半分近くは、農民が汚染土除去などの土地改良をやったという事実をわざと
隠して提示して、予防令工事で被害農地が復旧したかのような大嘘をついたのです。
これまた、そんな大嘘ともう一つ、あたかも横井がそんなことを言ったかのような大嘘までついた
のです。
三宅のときもそうでしたよね。三宅は「22年」と「29年」の「2回」などと言ってません。31年と二十
正年に言わなかったと言っているのです。
もっともっと大嘘がありますよね。1902年の渡良瀬川の洪水が少なかったなどと大嘘の上塗りを
してまだ訂正してないんですよね。
もっとも、そこの訂正をしたら、自身が大嘘つきであることを認めることになりますからできないん
ですよね。そして、自身の虚構がそれによって全部崩壊するからできないんですよね。
1902年9月28日に大洪水があったことを、そして、1902年に、渡良瀬川を何度も洪水が襲った
ことを、証拠を挙げて懇切丁寧に説明してさしあげました。
繰り返して聞きましょう。
>したがって、「谷中の遊水池化の根拠は、1902年は渡良瀬川上流の洪水が少なかったから」、という
>コメントに変えさせていただきます。
などと大嘘の上塗りをして訂正をしていないのは何故ですか?
1902年には回数も規模も大きな洪水が何度もあって、鉱毒汚染土が農地を襲っているのです。
だいたい、横井の鑑定書にも今年泥かぶったとか書いてあるところがあるじゃないですか。
126名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 20:40:44 ID:lijneM4I0
正造はいろいろ言っていますが、全部口から出まかせの嘘だということがわか
ります。そして、いずれも実にお粗末な作り話です。

例えば、「地方官のごときは古河のことを、鉱主様と言っている」と正造は言い
ますが、『実業之日本』の記事には次のようにあるのです。

「官人の翁(市兵衛)の名を呼ぶものは、皆単に<市兵衛>というをもってせり。
されば、翁は官人を恐るること鬼神よりも甚だしく・・・」(明治36年5月1日号)

古河市兵衛は、鉱毒は足尾銅山に原因があることを認めたからこそ示談金を
支払い、会社の存亡をかけて鉱毒防止工事を施したのです。それなのに、何で
「被害地の村長や県会議員に金をくれて、鉱毒はない、鉱毒は薄いなどと言わ
せる」必要があるのでしょう。

他の話も、同様にありえないと言うことは、よくお分かりと思います。
127名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 21:26:04 ID:9Ee2OhJ+0
>>126
いつの演説か知りませんが、(田中正造は、国会では、一度に50ページも喋る人なので
いちいち全集めくっていられません)そんな演説をするのに、何十人もの国会議員が
賛同者として名を連ねるのは何ででしょうね?

田中正造が何か喋るらしい、って聞いた時点で何喋るかぐらい、国会議員ならある程度
見当はつくのに何で何十人もの国会議員が署名したんでしょうね。

で、田中議員はそんなこと言ってるけど嘘っぱちだって演説した国会議員は皆無に近い
ようですが(政府答弁でも、「古河市兵衛はいい人です」って答弁はなかった気がします
けど)何で反対演説をする人がほとんどいないんですかね。

ありえない話だってのは、いつ国会で決まったんですか? あなたの妄想が、何十人もの
国会議員が議員生命を賭して時間を勝ち取って演説した内容に優先するという根拠を
提示してください。
もちろん国会演説の全部がいつも正しいとは限りませんけどね。ただ、一国の国会の
議事録に永遠に残される記述の中にそれが記されているというのは、どっかの誰かの
戯れ言よりははるかに重みのあることです。
言うだけならあなたのように誰でも言える。しかし正造は議員生命を賭けて演説をして
いる。何十人もの国会議員が、議員生命を賭けて正造の演説に賛同している。
そして、その議事録は、その国の政府が責任を持って、国が滅びるまで保存し続けるの
です。そしてきっと、国が滅びたあとも残るでしょう。そして後世の人々は、あの、滅びた
国の最初の国会議員の一人に、田中正造という人がいた。その議員の言うことを聞いて
いれば、滅びずに済んだのに、と、何千年にも渡って語り継ぐことでしょう。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったか書いたものは見つかり
ましたでしょうか。そんなものは存在しないので、あなたを大嘘つき呼ばわりすることに
するので(もうしてますが)。クレイムの宛先も教えてください。場合によっては花村氏にも、
「あなたがこんなことを言っていた、とデタラメをわめく人がいますよ」って教えてあげなきゃ
いけないかもしれませんので。花村氏への連絡先は分かっていますので(随想舎気付で
届きます)それは教えていただかなくて結構です。
128名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 21:49:36 ID:9Ee2OhJ+0
>>126
あと、さんざん示談金を払った払ったってわめいてますが、
実は、示談金の支払いは未だに完了していません。

植野村、界村、久野村、梁田村ほか数町村の被害民が、1896年洪水のあと、
80万円(今のお金でたったの80億円程度)ほどの雀の涙ほどの示談金を
要求したところ、古河市兵衛は少し考えさせてくれといったきり払いませんでした。
そこで農民たちは、鉱業停止運動を繰り広げるのです。

たったの80万円ですよ? 市兵衛が破産さえすれば、すぐにでも
払えるくらいの金です。予防令工事に100万円以上かける金がある古河に
とっては、ほんのはした金じゃないですか。
それを、ほかの被害地に払った示談金より多すぎるとかいう理由を
つけて、結局未だに払わないでいるのです。

古河市兵衛は確かに「一部」の被害農民に示談金を払いましたよ。
しかしそれははした金です。その金額がすさまじいはした金だったことは、
前スレで私がさんざん計算しました。1戸あたり、11円76銭。本当にはした
金じゃないですか。田んぼ1枚(1反)だって80円はするんですよ。こんな
はした金で3年分の示談金+その後3年間は一切文句を言わない、
要するに計6年分の示談金ですよ。

それに、「一部」の被害農民には払いませんでしたし今でもまだ払ってません。
あまりにも金額が少ないので、当時、椅子を蹴って(当時は畳かもしれませんが)
示談しなかった農民もいます。

「払った」「払った」というのは言葉のあやです。まるで全部の鉱毒被害民に
示談金を払ったかのような言い方はそもそも大嘘です。

それともう一つ。1896年の示談は非常に悪い意味で有名な「永久示談」です。
金をもらったら永久に文句を言うな、という、大変に古河にだけ有利な条件が
ついています。しかも何度も書きますが、古河は文句を言ってはいけないと
いう条件はついていないのです。
この契約書は、古河側主導で作られたことが、後の歴史学者の研究で分かって
います。その証拠を先に挙げると、(1)農民が主導で作ったのなら、村ごとに
契約書の文章が違うはずなのにほとんど同じ (2)古河が「払う」と書いてある
ので、古河が主導で作ったのは明白 です。
まあ、古河も、そんな契約書が未だに残されているなんて、そして、自身に有利
なつもりで作った契約書が、死んでも自身を貶める契約書になっているなんて、
夢にも思ってないでしょうけどね。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 20:16:40 ID:k4u7NAeM0
正造は議会の演説で根も葉もない市兵衛の悪口を言っていただけではなく、
被害民の活動家たちに、手紙などで「市兵衛のスパイに気をつけろ」といった
警告もしていました。

「村々には古河市兵衛の犬多くかくれおり候間、噛み付かれぬようにご用心
下さるべく候」(山崎ケイ次郎宛、明治34年3月6日)

「この人為の被害を念頭にせざるものは、自家不正の行為ある者なり。神も
仏もクソなり。よろしくその不義の社祠を破り、その背徳の寺院を焼き、古河
の番頭たるその郡長を追い出し、その議員を排斥し、すべての加害者の犬を
殺し尽すべし」(蓼沼丈吉宛、同日)

「古河市兵衛は年々離間中傷のため20万円ずつの多額の費用を、地方と東京
との間に散財せしと」(野口春蔵宛、明治34年4月4日)

「例の市兵衛の犬はますます地方にていたずらいたしおり、下野新聞、足利の新
聞とも被告人を悪し様に中傷いたし候・・・。村々に潜伏せる狐狸の巣窟をあばき
悪漢の根城を絶滅いたし下されたく候」(山崎ケイ次郎宛、明治34年4月14日)

示談金を支払い、大金をかけて公害防止工事を敢行した経営者が、いったい何
でスパイを使い、被害者側の分裂を図るために20万円(今の20億円)ものお金を
使う必要があるでしょう。正造のつく嘘はあまりにも見え見えの、お粗末なものば
かりですが、こんな法螺にだまされて、これを信じているらしい研究者たちもまた、
お粗末としか言いようがありません。                    

130名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 21:52:15 ID:rIST8vBf0
>>129
古河は金出して工事したからスパイなど雇わないとかいうのは
全然理屈になってませんが。

あなたは、田中正造が何か言うと、根拠のない捏造とわめいてい
ますが、
あなたのわめいている内容は根拠のない捏造ですよね。
自身は、「予防令工事をする人間だからスパイは雇わない」で済む
のなら、当時鉱毒被害地をあちこち歩き回ってる正造の言うことの
ほうがはるかに信用できますね。
確か、誰さんは示談したとかいって示談契約書にはんこを押させよう
としたその瞬間に、その誰さんがたまたまその家に用があってやって
きて大嘘がばれたとかいう言及も残ってますよね。
そういうのは完全無視ですか。

ほかにも、古河市兵衛からあいまいかつ多額の金を受け取った議員が
いたおかげで、議会が大荒れになったとかいう記述も残ってますよ。
不思議なことに、その町の「正史」にはその話が全く載ってないので、
まだネタにはしないでおきましたけどね。

それに、100万円出して予防令工事やる人間が、なんでたったの
80万円の示談金の支払いを渋るんですか?
示談金払えば、銅山停止運動しなかった農民はたくさんいますよ。
自分でまいた種じゃないですか。

ところで、花村の言及を捏造したのは何故ですか?
花村は「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとは書いてません。
花村の書き方は「無害民の人々」です。


花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと書いたなどと大嘘をつき、

花村は、「無害民の人々」としか書いていない、と指摘してさしあげると、

逃走(今ここ)
131名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 20:49:56 ID:yxFvf9We0
もう一つ市兵衛についての大法螺を手紙で紹介しますが、正造という人がいか
にあくどい嘘つきだったかということが、これでよくお分かりになると思います。 
文章は分かりやすいように書き直しました。
日付けと宛先とこの返事は、明日お知らせします。

「鉱毒地の町村は古河市兵衛の領分である。人民は古河市兵衛の奴隷よりも
甚だしい境遇にある。人民の生殺与奪は市兵衛が握っている。(川俣事件の)
保釈人が出獄しても、市兵衛の領分だから彼は市兵衛の術中にある」

「市兵衛の配下の者どもに虐待を受け、欺かれあるいは怖れされて、被告人は
獄中のことを弁護士にさえ語らず、あるいは妻の病気や子供の風邪など、いわ
ゆる悪魔の境にいる者は、悪魔の境にいることを知らず、実に限りなき悲しき
有様である」

「君は一日も早くこの市兵衛の領分を逃げ出して東京に来て、獄中のことなどを
人々に語って、弁護士が有利になるよう力を貸してほしい」
132名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 22:07:51 ID:F2MjBRLz0
さて、ネタがあまりに豊富で古いネタにツッコミを入れる
余裕がなかったので、ちょっと古いものにツッコミ入れますか。

>>114
>損害を賠償
>する会社でさえ公害事件では珍しいし
 金払わずに(あるいははした金で示談を押しつける)しらばっくれる
という手法は古河が開発したもので、後の会社とやらは古河のやり
方をまねただけです。
 日立鉱山なんか、被害が出ると毎回、すぐに全農民との示談交渉を
やって、しかも、被害が出てから全部の農民との示談が成立するまでの
時間が何と3時間から5時間ですよ(実際は農民側も代表を立てて、
その人のはんこ=農民全員のはんこのかわり、という形ですが)。
最初文献を見たときに、いくら何でも3日から5日の間違いじゃないかと
思ったんですが、実際、本当にこの時間で示談したようです。
 逆に言うと、それだけの短時間で、「どの農民も文句を言わない賠償額」
を、日立鉱山側は提示したのです。

それと、
>>126
>例えば、「地方官のごときは古河のことを、鉱主様と言っている」と正造は言い
>ますが、『実業之日本』の記事には次のようにあるのです。

>「官人の翁(市兵衛)の名を呼ぶものは、皆単に<市兵衛>というをもってせり。
>されば、翁は官人を恐るること鬼神よりも甚だしく・・・」(明治36年5月1日号)
 そもそも正造の言うのは「地方官」で、実日のほうは「官人」で意味が違うんじゃ
ないですか?
 実日の文章のほうはどう見ても国家公務員で、正造の言うほうは足尾町の
町役場の役人でしょう。それとも、実日が足尾支局でも持っていて、そこからの
レポートですか? 古河の本店は日本橋ですよ。

そうそう。忘れるところでしたが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと発言したかのような大嘘をついた
のは何故ですか?
あなたの言うとおり、クレイムをつけてさしあげますので、送付先を教えてください。

横井の鑑定書を恣意的に読み替えたのは何故ですか?
横井は、汚染土除去をしない限り、鉱毒汚染地は復旧しないとはっきり断言してますよ。
「左様です」は、「さようです」と読みますよ。知ってますよね。
しかも、鑑定書に出てくる、それなり以上の収穫のあった土地は、全部「農民が汚染土
除去などの土地改良をやった土地」か、「渡良瀬川が流れていない多々良村」の土地
しかありませんよ。
渡良瀬川が流れてすらいない多々良村でさえも鉱毒被害があったという、すさまじい
人災だったというのは横井の鑑定書でよくわかりますけどね。

それと、1902年に渡良瀬川にたいした洪水がなかったかのような大嘘をつき続けて、
しかも、大嘘の上塗りをしてそのままなのは何故ですか?
横井の鑑定書にも、今年泥かぶったとかいう田んぼがあるではないですか。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 20:11:38 ID:vHhi6vjj0
昨日紹介した正造の手紙は、明治36年9月4日に、川俣事件でデモ隊のリーダー
だった野口春蔵に宛てたものです。
16日後の9月20日、野口はなんとなくあいまいな、意味のはっきりしない、しかし、
「そんな話は知りませんよ」という意味はわかる返事を出し、上京の件はきっぱり
断っています。こちらは原文で引用します。

「貴下は先日の御書(書簡)中古河市兵衛にならぬと申し候。耳こすりは答弁の
部に入れ申さず、小生も古皮のかばんでも持ちたることなし。上京御催促に候
えども、差し支えに付き失敬ながら諦め下されたく候」

当然野口は出獄した保釈人ですから、正造の書いてきたことが事実か虚偽かを
最もよく知っている当事者です。
ということは、明らかに作り話だということを知っている相手に対し、正造はこの
嘘を本当の話として広めてくれと頼んだのでしょう。しかし、野口は断ったという
わけです。
何という卑劣なことをしたのでしょう。まったく空いた口がふさがりません。

                   
134名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 21:37:56 ID:OWa7N9GF0
>>133
全集見る限り、野口は、裁判中は下手な動きができないのでしゃべれない、
って言ってるように見えますが。
だいたい、古河をわざと「古皮のかばん」とか書いてる時点で、野口の考えてる
ことはだいたい明白でしょう。
その前に古河この時点で死んでたような気もしますが。
そもそも野口は、自身は古河の手先になっていないと言っているだけで、
古河が善人だとは全然言ってませんが。

その前に、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと発言したかのような
大嘘をつくのは何故ですか?
花村の言い方は、「無害民の人々」です。
都合の悪い話をされるとたちまち、

逃走(今ここ)
ですか?
135名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 23:28:03 ID:yI9nxxiZ0
足尾に限らず、公害の特徴として、「公害をたれ流すほうは好き勝手に
好きなときに好きな量の毒をたれ流す、一方、被害者のほうは、四六時中
毒がやってくるか監視と対策をしなければならない」というのがあります。

このスレがまさにそうですね。大嘘を垂れ流すほうは、好き勝手に好きな
ときに好きな量の大嘘を垂れ流している。たれ流すほうはそれで結構ですが、
それの相手をするほうは大変です。しかも「あとにしよう」とかいってスルー
すると、それまでの間に、さらにたくさんの大嘘(あるいは鉱毒)が垂れ流し
されるのですから、放っておくわけにもいきません。

ここにいる大部分の方は知らないし前スレで書いたきりなのであらためて
紹介しておきますと、今でも足尾には、鉱毒除去用設備があって、稼働
しています。

そのほかに、下流部の農村地帯にも、100年前に農民らが古河市兵衛から
一部の金を出させてつくった鉱毒防御設備のなれの果てがまだあって、常時
稼働しているのです。
もちろん、古河が金を出して下流の農村地帯に作った施設は、すべて壊されて
しまいました。
それは、古河が金を出して作った設備では、鉱毒がならなかったので、新しい、
もっと威力のある設備に取り替えたからです。
今ある除去設備は、国営事業として整備されたものです。
はて? 公害をたれ流して、尻ぬぐいは被害民の払った血税というシステムを
作り上げたのは、どこの古河市兵衛でしたっけ?

今でも鉱毒被害なんかあるの? 怪しむ方はいらっしゃると思いますが、
何度も書きますが、鉱毒は今日やってこなかったからといって、明日やって
こない保証はありません。まあ、鉱毒がやってきたら古河に請求書を回せば
いいんですけれど、前回、古河が鉱毒をたれ流してから金を払うまでに数十年
かかってますから、普通の農民はそんなに待てません。そんなわけで、被害民
の鉱毒への監視は、今も続いているのです。

ところでどっかの誰かさんは、その分は戦後に起きた別の公害事件だなどと
わめきちらしていますが、その下流部の鉱毒除去設備は、戦前を含めて古河
市兵衛の時代からただの一度もなくなったことがないのです。つまり、新しいのを
作って、古いのを壊す、それを何度も続けているだけなのです。つまり、古河市兵
衛の時代から、鉱毒が完全になくなった時代なんていうのはないのです。

足尾や古河系の人はだまされているようですが、足尾の中才浄水場では鉱毒を
完全に防御することはできませんでした。
そもそも、源五郎沢堆積場とか原堆積場とか、中才につながってないじゃないで
すか? 原堆積場の汚水をどうやって浄化してたんですか? 中才浄水場のこと
を知ってる人ならすぐ分かりますよね。原や源五郎沢は、はるか下流です。
中才浄水場で、原堆積場から流れる汚水を除去することはできません。
鉱毒予防令で作られた中才浄水場で鉱毒が除去できた、というのは大嘘です。
まあ一部は除去できたかもしれませんが、全部は除去できませんでしたし、
除去できなかった分はその後もたれ流しが続いたのです。
一部しか除去できない設備なのに、「除去できた」と書くのは、大嘘つきの仕業です。
真実を語るなら「一部は除去できた」と書くべきです。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:54:31 ID:EwNQUepG0
そもそも、田中正造とその支援者たちの人間関係というのは、
相当に研究した人たちでもよく分からないところがいっぱいあるのです。

ものすごい罵詈雑言の手紙を突きだしたその相手と、仲良く(?)鉱毒
反対運動をしたり、一緒にメシ食ったり、それどころかまた泊まったり、
そんな例はいくらでもあります。
そして、相当詳しい研究者が、あの人間関係はよくわからないとか言ってたり
するわけです。

前スレでどっかの誰かさんがひきあいに出していた増田清三郎なんかが
いい例で、金返さないなら自分を殺せみたいなすごい督促状を正造に送った
にもかかわらず、正造の最晩年には祭りのゆで饅頭ができたから食べに来て
くれって招待までしてるわけですよ。

文筆家が手紙を出す場合、それが残されて記録されることを前提に書いている
ようなところがあります。しかし、鉱毒被害農民も正造も、書いた当時はそんな
ことは全然考えていなかった。もっとも、正造は、自分の書いたものは鉱毒被害地
で回覧されることは前提に手紙を書いていましたが、さすがに、弟子の黒沢が
自分の全集を作るだろうなんてことは死ぬまで考えていなかったはずです。

そんなわけで、正造の手紙を、あるいは正造に手紙を送った人の考えやその後の
正造との関係を、そういう手紙だけで判断するのは大変に危険です。
むしろ、それだけのことを言い合える関係だったと見るほうがよいでしょう。

正造は借金をあちこちで踏み倒しました。しかし、踏み倒す相手はよっぽどの豪農か、
よっぽど正造が信頼していた人たちだけです。そのほかの借金はみんな返してます。
その前にたいてい、借りたことすら忘れてたりもしますが。
そして、踏み倒された家では、正造直筆の証文を表装して床の間に飾ってたりする
わけです。普通借金の証文なんか飾らないだろうと思われるかもしれませんが、鉱毒
被害地出身の人が見れば「この家は正造が借金踏み倒しているくらいだから、さぞかし
名家なんだろう」ってのが分かるのです。そして、子孫に「うちは昔は田中正造が借金を
した上に踏み倒すくらいのいい家だった」と語り継ぐのです。
立派な家具も美術品も屋敷も、金さえあれば手に入ります。しかし、正造が書いた借金の
証文は、どんなに金を出しても手には入らないのです。仮に手に入ったとしても、そこには
自分の先祖の名は記されていません。
ただ一応言っておくと、正造のおかげで貧乏になったからといって、後の時代の碑の作成
とかに関わらなかった農家もいるそうです。誰かと違って恣意的に都合のよい情報だけを
出して印象操作をしたとか言われないために先に書いておきます。
137名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 23:47:55 ID:iNitBuMp0
鉱毒事件に関連して脅されたという言及がもう1つ見つかりました。
古在の息子が、母親から、あのとき(鉱毒の調査のとき)は脅迫とか
されて大変だったと息子に言っていたそうです。
古在自身は、何かを書いて残す人じゃなかったらしく、鉱毒関連では
鑑定書と鉱毒調査会の発言以外のものは何も残さなかったようです。
古在が鉱毒に関わったのは、明治24年と明治35年のときで、古在夫人
の言うことがどっちのことだかよく分かりません。古在の結婚は25年なので
35年のときかなあとも思えますが、24年のときには既につきあっていた
のなら話は合いますしね。

で、どっちにしても、農民側が古在やその夫人を脅す理由というのは
さっぱり見あたりません。一体、古在夫人は誰におびえていたのでしょう?

古在夫人はものを書く人だったそうなので、掘り起こせばそっちから何か
出てくるのかもしれませんが。
不思議なことに、古在夫人が筆を折ったのは、何故か古在が第二次鉱毒
調査委員会にたずさわる直前の明治34年ごろです。

古在の孫はまだ生きてるので、ひょっとするとそっちから何か出てくるかも
しれません。それにしても古在の孫が鉱毒被害地と同じ県で天文台長を
やってるなんて何だか不思議な因縁ですね。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 22:45:54 ID:obCLGRBD0
そもそも田中正造の性格は分裂症気味のところがあり、その言動は矛盾に満
ちています。しかも独善的で、自分の立てた方針を押し付けようとするので、
正造と行動をともにした農民活動家たちは、彼についていくことができずに、
最終的にはみんな離れていきました。

しかし、帝国議会での演説や日記、だれかれかまわず毎日のように書く手紙
などから伺われるのは、強気一方ではなく、時には弱気を見せることによって、
2枚舌で何とか協力者の気持ちをつなぎとめようと努力していた事実です。

次回から、実際の演説や手紙文などででこのことを検証していきます。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 19:55:37 ID:jaSPqIMI0
大規模公害防止工事が施された後は、正造がいくら質問しても演説でどんな
に噛み付いても、政府は全面的に拒絶しようという強硬姿勢に終始しました。

しかし、明治32年3月8日の帝国議会での演説では、それでも次のような意気
軒昂振りを見せています。

「明治24年以来、これで13回目の質問書になっておるのである。何回でもこれ
を追い詰めないうちは、止めるのじゃあないのである」

ところが、2ヵ月後の5月に親戚の原田定助に宛てた手紙には「鉱毒事件は追
い込められ、・・・我々の事業は失敗のみ」と書くのです。
そうかと思うと、その2ヵ月後の7月には、友人の村山半に宛てて、仲間である
べき被害農民を平気で非難する次のような手紙を出し、不満の矛先を被害民
に向けるのです。

「今の壮年は屁の如し。青年はなお屁の如し。老年もとより論ずるに足らず。
・・・今の壮年青年に気力なく、腕力なく、・・・その心も因循姑息、まことに見る
べきものなし」                                                                           

140名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 20:51:06 ID:K+u6YrCZ0
>>139
> 大規模公害防止工事が施された後は、正造がいくら質問しても演説でどんな
> に噛み付いても、政府は全面的に拒絶しようという強硬姿勢に終始しました。

そんなことをするから、80年後に莫大な税金を投じて被害農地の土地改良を
やるはめになるんじゃないですか。
当時、しっかりした対策を立てていれば、そんなに莫大な税金を投じる必要など
なかったはずなのです。
そのときの被害は、古河市兵衛とは違う時代の分だなどと話をそらす人がいる
かもしれないので念のために書いておきますが、横井の言うとおり、汚染土を
除去しない限り、鉱毒被害農地の地力は恢復しません。汚染土の中に入って
いた鉱毒物質の何割かは、確実に古河市兵衛の時代に古河市兵衛がたれ流し
たものです。

80年後の被害農地の土地改良には、40億円以上の金が注ぎ込まれました。
51%が古河鉱業の負担、残りが血税です。しかも、40億では全然足りなかったので、
足りない分はまたまた血税が注ぎ込まれました。
何度も書きますが、当時の対策がしっかりしていれば、使う必要などなかった税金です。
はて、自分は大もうけして、被害の尻ぬぐいは80年後の被害者と被害者の子孫の血税
というシステムを作り上げたのは、どこの古河市兵衛でしたっけ?
141名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 20:51:22 ID:4q3Jb0Of0
揚げ足取りの印象操作もここまで稚拙だと良心的だ。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 19:57:00 ID:uaeHtxji0
前回は、「公害反対運動をする被害民は駄目人間ばかりだ」と決め付ける、
自信たっぷりで強気の手紙を紹介しましたが、なんとその翌月は正造の気分
は大きく変化し、全くの弱気に転化するのですから驚きます。

明治32年8月に野口春蔵他公害反対運動活動家たち16名に宛てた手紙は、
「自分は指導者の資格がないので引退する」と言い出すのです。

「正造、愚才短慮浅学にして、衆人の長たるべき器量には決してあらず。ただ
誠実に被害地を永遠救い出さんとして、あるいは多数に対し、しばしば無礼の
演説をなし、しばしば主なる諸氏に向かっては言辞円満ならず、あるいはせっ
かくの多勢出京をも、これを説得して帰らしめ、あるいは示談金を得るの機会
あるも、永遠に救うの決心から、これを排斥してかえって飢餓に陥らしめ、・・・
いくたび当路者に膝を屈するも、いくたび同志を集合するもその効少なし」

143名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 20:11:01 ID:4e0dVK2H0
>>142
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたかのように
発言したという大嘘をついたのは何故ですか?
クレイムをつけなければならないので、花村がいつどこでそう言及したのか、
それを直ちに提示するか、自分がいかさま野郎であることを認めるか、
どちらか立場をはっきりとさせてください。

何度も書きますが、田中正造の発言や鉱毒被害民とのやりとりは、
文章に残っている字面だけでは全然判断できません。
同じ人間に宛てたものでも、明治25年のものと33年のものと43年のものでは
ニュアンスが違うし、それは相当研究した人じゃないと分かりませんし、相当
研究した人ほど、あの人間関係はよく分からないと言っているのです。

全集に残った文字だけで何もかも分かると思ったら大間違いです。
だいたい、何で被害民はそんな自分を大馬鹿野郎と書いているかのような
手紙を後生大事に、しかも自分が死んだあとまで代々とっておいたりしたんですか?
全集が出るまでの間に、黒澤酉蔵と島田宗三以外の弟子や支援者はほとんど全部
死んでしまいました。家によっては代が2代代わっている家さえあります。
そんな家で、田中正造が、ご先祖を大馬鹿野郎と書いているかのような手紙を、
家によっては家宝として代々伝えているのです。
田中正造が、戦後の公害学者たちによって英雄にされたなどというのはそもそも
大嘘です。だったら70年後に数千通もも手紙が残っていることが説明できません。。
しかも、田中正造の全集は、田中正造が死んでから70年近くも経ってからつくられた
ものなのです。大作家の全集のように、死んですぐに作られたものではないのです。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 20:12:47 ID:gojQcnZh0
明治32年8月に野口春蔵他16名に宛てた手紙の続きです。

「正造老いてとかく病気、その任を尽さずして機に遅るることしばしばなり。
諸氏の上位にあって言語動作の上においても、いたずらに長老の体を装う
に過ぎざるのみ。よりては、正造も自今・・・諸氏の驥尾に付して一心ただ難
きをさけざるの尽力を為すべし。諸氏今より公議体を組織し・・・正造に代わ
ってこもごも正道を守り、正義を張り、・・・必ず救済の方法を講ぜられよ。正
造近々帰国、他の壮年および青年にも図りて、諸氏を推して参謀に仰ぎ、正
造もその命に服せんことを約せんとす」

引用した手紙は、正造が若者たちにすべてを任して引退したのだと解釈できま
すが、実際は全く違うのです。前回の手紙は、明らかに「約束」を破るもので、
大法螺だったのです。次回にこのことを説明しましょう。

145名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 21:58:33 ID:Z5nPX0FE0
>>144
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかの
ような大法螺をふいたのは何故ですか?
あなたは、
(1)いつどこで花村がそう言及したのか明示する
(2)ご自身が大法螺吹きであることを明言する
のどちらか一方を選ぶことができます。もしどちらも選択しない
場合、後世の人々は、あなたが(2)を選んだと判断するでしょう。
その前に、現代の人々もそう判断していますよ。
あなたの大嘘、大法螺はこれまでの累計だけでも膨大な数になります。
横井の鑑定の都合のいい数値だけを挙げて、あたかも、横井が、鉱毒
予防令工事で鉱毒がなくなったと言ったかのようなでたらめをわめきちらし
ました。
実際には横井はそんなことは言っていません。横井は、汚染土除去をしない
限り、地力は恢復しないと言っているのです。
三宅のときもそうでしたよね。三宅は22年と29年の2回などと回数を数えて
何かを言ったとか言わないとかそんな話はしてません。
入沢のときもそうでしたよね。
たった100レスくらいで、それだけの大嘘を垂れ流しまくっているんですよね。
どうしてあなたの言うことなど信用できるのでしょうか。
あいにく私にはできません。そして、現代の人々と、後世の人々はそう判断します。
あなたは自身が大嘘つきでないことを誰にでも分かる形で説明しなければなりません。
そうでない限り、何をわめいても、ああ、また大法螺吹きがまたすぐばれる大法螺を
吹いていると思われるだけです。

さて何度も書きますが、正造の手紙を手紙の字面だけで判断するのは大変に危険
です。私にもうまく説明はできませんし、私にも理解不能な人間関係がいっぱいあります
が、強いて説明するなら、恋人に出す「お前なんか嫌いだ」という手紙みたいなもんです。
146名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 22:27:38 ID:kfQK7Np70
>>145
「あ、あんたなんか大っきらいなんだからねっ!」
田中正造翁がツンデレだったとはw
147名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 20:03:16 ID:Lt3alz/k0
これより少し前、彼は入院中の順天堂病院からハガキで「最大急務。被害激
甚地の小児悪徳商人のために死亡せしは、即ち殺されたると同じ。これを等
閑にせば人類社会にあらず。心あるものは専心尽力調査すべし」と、若い活
動家たちに指令を出していたのです。

そして、引退宣言の4ヵ月後の12月1日、被害民の一人である庭田源八に、
この調査に協力しようとしない息子の恒吉を非難する、次の手紙を書くのです。

「恒吉君はなぜ鉱毒死亡表調査に反対せらるるや。・・・この調査に賛成せざ
る如きは奇怪千万と存じ候。これは、誰か側に邪道がありて恒吉君を悪魔の
境に誘うて御身の明を暗ませるにはあらざるか。如何」

更に、翌々日の3日には、正造は次の手紙で、庭田源八にしつこく追い討ちを
かけています。引退どころではなく強引なボス振りを発揮するのです。

「ご令息恒吉君にお話し下されたく候。・・・些細のことに迷いて、本旨本目を失
うなかれとお話し下されたく候」                    

148名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 20:46:40 ID:8FtJyAR+0
>>147
そして、庭田の分家は正造の臨終の場所です。
正造は庭田家の敷地の中で死にました。
それほどまでに言われた庭田は、死にゆく正造を追い出したりは
しませんでした。
正造が庭田に残した遺言というのがあって、庭田家の人々は、それを
今でも忠実に守っています。
そういうのは全部無視ですか。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

>>97
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
>キホーテ型人間には、反論しないことにします。
残念ながら、あなたがそう言うことは、私が既に予報しておいてありますよ。


逃走(今ここ)

まさにこの状態ではないですか。
それにしても不思議ですね。何を言っても自分が正しいと思っているドンキホーテ型
人間というのはまさにあなたのことではないですか。
もっとも、実際の小説の中に出てくるドンキホーテはもう少しマシな人間ですがね。
最後は学士たちの言うことを聞いて、賢明な生活をするんですから。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 19:59:14 ID:jYtnrlBG0
明治32年の春までは、代議士の歳費は800円でした。ところが当時の内閣
(山県有朋)が、土地税の値上げ案を通す為に、これを2000円に増額する
「議員歳費値上げ法案」を提出したため、結局これが通過して歳費は2000円
に増額されました。

しかし、絶対反対の意思表示をしていた田中正造は、他の反対議員はや
むなく従ったのに、1200円の増額分を拒否するのではなく、歳費辞退を全
く受け取らないという「歳費辞退届」を議会に提出(4月19日)。他に1銭の
収入もないのに、彼はそれ以降無報酬で国会議員を続けました(以下次回)。
150名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 20:31:23 ID:lhOqh1kK0
>>149
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
無視して大嘘をたれ流すというのは、まるで農民に何を言われようと平然と
鉱毒をたれ流し続けた古河市兵衛と全くやり方が同じではないですか。
垂れ流しをほうっておくわけにはいかないのは、放っておいてよい結果は
生まれなかったからです。

コメントしないことにするというのは要するに、自身が大嘘つきだということを
認めるのと同じですよ。それは、


逃走(今ここ)

といいます。
これは(以下次回)にせずに直ちに説明してもらわなければなりませんね。
だって説明がないのなら、読者はあなたが大嘘つきかそうでないのか判断
しかねるかもしれないじゃないですか。
あなたがはっきり「自分は大嘘つきだ」と明言すれば、読者も安心して、
あなたのでたらめのたれ流しにつきあうことができます。

庭田は何で自分がぼろくそに言われているかのような手紙を、後生大事に
80年もとっておいたんですか?
全集を見たら、庭田に、字で書いて渡すな、口伝えで知らせろみたいことも
書いてますよね。正造は。そういう時代の、そういうやりとりをしていた人たち
の関係を、書かれて残ったものだけで判断できるわけがありません。
それこそ、野口の「古皮のかばん」(意訳:古河市兵衛のこと)と同じですよ。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 19:23:07 ID:s/oXRcI+0
歳費を辞退した時、選挙のために支援者たちが佐野銀行から借りていた
お金が1500円もあったので、この行為は彼らを痛く失望させたそうです。
ところが正造は、堂々と次のように言明したのです(明治32年4月23日
付けの原田定助宛の手紙)。

「(歳費を辞退したことを)人は馬鹿と言う。(しかし、この行為は)人心の腐敗
をして幾分の矯正を為すこと疑いなし。その利挙げて算すべからず。嗚呼、世
の政治家の馬鹿この理を知らず、宗教・道徳家またよくこれを行う者なし」

まことに高潔で立派な精神で、かつ強気の姿勢ですが、蓼沼丈吉宛の600円
貸してほしいという借金申し込みの以下の手紙から、卑屈な精神と弱気な姿勢
の、彼の真の姿をうかがうことができます。

「当時正造は金銭大必要の最中に歳費を辞したれば、1銭の抵当となるべき
ものなく、他借の道絶え非常に困惑の折柄、大切なる第3(選挙)区人民より
は・・・辞退は名利のことなりなぞと悪口せられ、ほとんど進退に苦しみたり。
・・・昨春より今春に至るまでは、どしどしやってはおりましたけれども、前述の
借金は出来いたし申し候」(明治34年2月23日)  
152名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 20:43:15 ID:uDukQ0SA0
>>151
それで、それは単に人格攻撃なだけであって、
全然法螺吹きドンキホーテな話じゃないですね。

そうそう、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及
したかのような大嘘をついたのは何故ですか?
そんな大嘘をつくほうが、はるかに法螺吹きドンキホーテではありませんか。

古河市兵衛は、全部の被害農民に示談金を払ったわけではないし、
支払いはまだ完了していないし、
下流の被害農地には、今でも鉱毒除去装置があって、しかも、それは
古河市兵衛の時代から何度も作り替えられながらもどの時代にもずっとあった
もので、なくなった時代なんてないし、
そういう都合の悪い事実は全部無視して自分の都合のいいことばかり
わめきちらしている法螺吹きドンキホーテの言うことなど誰も信用しませんよ。

で、わめいている大嘘もどんどん矮小化して、正造が借金を申し込んだとか
そんな程度ですか。
卑屈かどうかは価値観の話なのでそっちまでは相手しきれませんが、
代議士が借金を申し込んではいけないという法は今も昔もありません。
それに、蓼沼丈吉は何でそんな手紙を後生大事に80年もとっておいたんですか?
田中正造が後の時代の学者やマスコミによって英雄に祭り上げられたなどと
いうのがそもそも大嘘です。
蓼沼は、何でそんなどうでもいい人からの手紙を後生大事にとっておいたんですか?
藤岡の田中霊祠のお祭りは、今まで一度も絶えたことがありませんよ。
祭ったのは鉱毒被害民です。祭り上げたのも鉱毒被害民です。そして、今も
祭りをやっているのは鉱毒被害民の子孫です。
何度も書きますが、祭り上げたのが学者とマスコミなどというのは大嘘です。
祭り上げたのは鉱毒被害民です。
153名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 07:57:41 ID:FD/BaKVa0
>>152
反論できないので論点をずらしたわけだ。
154名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 19:41:19 ID:x3kTawdR0
正造が代議士を辞め、明治天皇に直訴した明治34年になると、活動家たちも
ほとんど彼から離れていき、思いどうりにはいかなくなります。
そのため、この年の彼の手紙は、被害民への同情などどこかへ行ってしまい、
言うことを聞いてくれない彼らへの鬱憤があふれています。

野口春蔵への手紙には次のような愚痴がみられます(明治34年4月22日)。

「正造の申すこと今日ほど(被害地の人々が)信ぜざることなし。しかるに(東京
など)無害地の人々はようやくにして信じ来たり候。・・・悲しむべきは被害地人の
しだらなし。予ら流悌(涙を流して)これを救うの術に苦しめり」

よほど頭に来たのか、理性などどこ吹く風、その6日後には野口を含む活動家
10人に宛てて、被害民一般に徹底的な悪口を叩き、同時に少数の彼ら活動家
を徹底的に褒め上げる次の手紙を書くのです(同年4月28日)。

「被害地の馬鹿は自家の権利を縮めることのみに汲々とし、請願の上京を怖れ、
上京を悔い・・・嗚呼、これらの愚、嗚呼、これらの馬鹿に貼付すべき良薬なし。
・・・(彼らに反し)諸君は沿岸の先覚なり、沿岸の神なり、仏なり。よって諸君の
責任や甚大なり」 
155名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 19:53:04 ID:GT4HxAqm0
>>154
34年頃に鉱毒反対運動が弱体化したのは、川俣事件で弾圧されたから
じゃないですか?
少なくとも、運ナントカとかいう本には弾圧だったとは書いてありますよね。
それに、またしても言っている中身が法螺吹きドンキホーテの話じゃない
じゃないですか。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったなどと
大嘘をついたのは何故ですか?
花村の言い方は「無害民の人々」ですよ。
一度くらいなら思いっきりど勘違いしたのかとも思ってあげられますが、
あなたの場合、菅井の世界大百科事典の文章を捏造したことといい、
横井の鑑定書を都合のいいように読み替えたことといい、
恣意的に人の文章を自分に都合のよい内容に書き換えることばかりして
いるではないですか?
そんな法螺吹きドンキホーテのいうことなど誰も信用しませんよ。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 19:36:09 ID:+nBAzlZH0
指導者がこのようなことをすると、当然団結がくずれていきます。翌明治35年の
手紙からは、内ゲバが始まった様子も見られます。
明治35年5月14日付けの庭田源八宛の手紙に、正造は次のように書きました。

「左部(彦次郎)、野口(春蔵)2氏のことをなんのかんのと申す馬鹿ありとて、考え
てみろと申し聞かせ下さるべく候。・・・大出(喜平)氏のごとき、また非凡の名士
なり。非常に尊敬せねばならぬなり。この3人のことを事実も知らず、・・・ただ悪
口言う奴こそ身の程知らずに候」

こんなことを書けば、事態はますます悪い方へ行くはずですが、果たして翌年には、
正造がこの時褒め上げた3人しか残っておらず、この3人をつなぎ止めるために、
彼は3人宛ての手紙で次のように彼らを称賛するのです(明治36年7月10日)。

「正造は諸君の護衛兵たり。しかもなお沿岸人民には分からぬ。・・・諸君の智、諸
君の明にして、万一にも少々にても厘ほどにても疑う点あらば、その行き違いより
来る損害は幾千円幾万円の金にも代え難からん。小生も諸君を信ずるあまりに申
し上げ候」
157名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:13:07 ID:GuHhfPU00
>>156
黒澤酉蔵とかもいたんですがそっちは無視ですか。
それにそれは相変わらず田中正造が法螺吹きドンキホーテだという
話じゃないですね。

それはそうと、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
そんな大嘘をつき続ける輩のほうがはるかに法螺吹きドンキホーテじゃ
ないですか。
前にも何度も書きましたが、あなたの言及は、あなた自身に使うのが一番
似合っているようですよ。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 20:53:02 ID:Oe91S/GF0
ところが、こんなに褒め上げても正造はなお不審を買ったらしく、野口が正造に腹
を立てていると言ううわさを聞くや、野口に次のように書いて謝っています(明治36
年10月30日)。

「とにかく正造は盗人なり。野口君や大出君の功名を盗んだり。また山本君や青木
君や田野入君や亀井君や稲村君や谷君や糸井君や小野君や新井君やの功名を
盗んで、正造はこれをわが者顔にせし不埒不届の盗賊の魁である」

自分の蒔いた種で問題が深刻になると、得意の2枚舌を使ってそのピンチを切り抜
けていた実態が、この文面からよく伺えると思います。  
159名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 01:36:06 ID:QONQ8Umk0
巷に溢れる評伝の類を書いてる人がどのようなものなのか良く解り、
非常に役に立ちます。
いつもご苦労様です。
160名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 20:52:36 ID:aEjuESVe0
明治37年7月30日、正造は、遊水池に予定されて立ち退き移転を余儀なくされた
谷中村へ移住しますが、この時彼に付いて来た活動家は、左部彦次郎一人だけで
した。その左部も間もなく去っていくので、頼るべき活動家はいなくなりました。
正造は谷中村の人々を新たに教育しようとします。

しかし、後になってから間違いだと気づいたなどと言いますが、正造には彼らの意識
は相当に低いとしか見えませんでした。その辺りのことを手紙などで検討してみると、
彼が、いかに考えをくるくる変える二枚舌人間かということがわかります。
明治37年12月16日に森鴎村に宛てた手紙には、次のように書いています。

「謹んで申し上げ候。谷中の人民は愚に陥りて、今は人事をも解する者少なくして哀れ
にて候。また、悪人どもといえども、もと人事を解さぬによりここに至りたるものにて、自
らその命を縮めるので、まるで無邪気なのです。予等は人民を以って是非せずして、た
だ天の命によりて救うことに尽さんとするも、力足らず恥じ入り申し候」

161名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 21:05:32 ID:P17aWcb00
>>160
島田宗三はどうしますか。
黒澤酉蔵は、田中正造のほうから、あいつは鉱毒反対運動やらせてる
よりは勉強させたほうがいいっていって、学費を出してやったから
鉱毒から離れるんであって、別に黒澤のほうから離れたわけじゃない
ですよね。
しかも、黒澤の学費を出したのは、正造の支援者の一人の蓼沼丈吉です。
ということは、蓼沼もこの時点で田中正造から離れたわけじゃないことが
分かります。
そういう都合の悪い事実は全部無視ですか。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
花村の言い方は「無害民の人々」です。
大嘘をついた上に、嘘がばれても知らんふりをして新しい大嘘をたれ流す。
まるでどっかの古河の鉱毒のたれ流し方と同じですね。

そういえば新スレになってから書いてませんでしたが、いくら何でも今の古河は
そこまでひどい会社じゃありません。
社長が同盟会との契約書にはんこを押してから、本当に鉱毒は減ったのだし、
一応、金も払ったのです。
それでも、100年鉱毒をたれ流したんだから、あと数百年は「あの、100年間鉱毒
をたれ流した会社」と言われ続けるのは自業自得でしょうけどね。
162名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 20:33:42 ID:UJsVhyNX0
谷中村の残留農民には、次のように手紙で教訓を垂れていました。農民を愚か者と
捉え、賢い自分なら救えると勘違いしている単純さには、あきれはてます。
「分からぬことは聞きに来るべし」と言いますが、働かないで食べている人間が、土
地を奪われようとしている者に、何かを教える資格などあるのでしょうか。

「嘘をつく者は罪あり。嘘をつく者は天罰あり。谷中の人は常にうそをつくために今日
の不幸せあり。今より改めて、嘘をつくことを止めて正直の人となれ」(明治38年4月
21日、島田熊吉宛)

「人は正直で、強い正直でなければ用に立たぬ。弱い正直は役に立たぬ。今日はな
おさら強く自分の権利を重んずべし。分からぬことは聞きに来るべし」(明治38年8月
19日、同人宛)
163名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 20:50:09 ID:n959rt5w0
>>162
そうですか。
ところで、人に嘘をつくなと言うことのどこが法螺吹きドンキホーテなんでしょうね?
で、一番「嘘をつく人」はあなたじゃないですか?
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような、
大嘘をついているではないですか。
嘘をつくことを止めて正直の人となってくださいよ。

おまけに分からぬことを聞きにもいかずに大嘘をたれ流しているんです
よね。
あなたのペンフレンドの布川了氏に頼んで、横井が鑑定した「多々良村日向」
の田園風景を案内してもらえばいいじゃないですか。
こんな、渡良瀬川すら流れていない土地にまで、鉱毒水が逆流してきたのか
とびっくりできることうけあいです。
少なくとも私は「多々良村日向」には行ったことがあります。(今は館林市日向町
ですが)そこの田んぼも見たことがあります。
鉱毒被害地など見る必要もないとかうそぶくどっかの嘘つきとは違います。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 19:39:58 ID:kve2j0QN0
政府も栃木県も、決壊した堤防は全く修理してくれないので、村民は自分たちの力で
修理をするのですが、大雨のために何度も決壊してしまいます。決壊の2日後に村民
の早乙女岩一郎に宛てた手紙に、正造は次のようにお説教をしました(明治38年8月
21日)。

「堤防は造らんとせば出来る。買収も中止せんとせば中止なり。皆村民の心にあり。
故に堤防の強弱は人心の強弱なり。切れたは天の罪にあらず。人の罪なり」                                                                              

自分は働けるのに仕事をせず、生活費も活動費もすべて他人に依存していながら、
よくもこんな偉そうなこと言えるものだと唖然とします。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 20:09:04 ID:jWCB28p00
>>164
>政府も栃木県も、決壊した堤防は全く修理してくれないので、
こっちのほうが重要だとは思わないのは何故ですか?
この時点で谷中村遊水池化案は成立していないし、
水害多発地帯の堤防を直さないのは明らかに怠慢ですよね。
というより、遊水池化案を通すために、わざわざ「元々、水ばっかりで
作物のとれない場所だ」という事実をでっちあげるために、
わざと修理しなかったんですよね。
当時の渡良瀬川は別に谷中村管理の河川ではないので、上の役所が
堤防を直さなければならないのは当然です。
そういう都合の悪い事実は全部無視ですか。
政府は誠実だとかわめきちらしたのはどこの誰ですか?
県境を流れる(当時、渡良瀬川は、谷中村付近では県境を流れて
いました)川なんだから、栃木県管理部分があるとはいえ、政府が何も
しないのは明らかに怠慢ですよね。
あなたは、明治政府は怠慢だったというのを身をもって証明したのです。
政府が誠実な対応をしたなどというのは大嘘です。しかも、あなたは
それをわざわざ証明しているのです。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらがいたと言及
したかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
そもそも「穏健派」なんて言葉さえ出てこないじゃないですか。
花村の言い方は、(本によって微妙に違いますが)「無害民の人々」です。
そりゃ、事実を捏造しまくれば、自身に都合のよい結論はいくらでも製造
できますよね。でも、そうやって製造した、都合のよい結論は、全部
でたらめです。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 21:48:44 ID:x6ZPIoXV0
田中正造という人のしつこさは徹底していて、例えば、同じ日に同じ内容の手紙を
何人にも書くだけでなく、1日に2回も同一人物に書くことさえしています。栃木町に
居た正造が、明治39年7月13日に谷中村民に出した3通の手紙は、以下の内容
でした。

茂呂松右衛門宛: 「(堤防が)潰れたりと思う者はその人の心の潰れたるのみ。心
すら潰れざれば、一人にても二人にても、その心の潰れざる限りは、谷中は潰れざ
るなり。谷中は今よりも盛大の村となり、田畑は一反7、8千円の値に登るべし」

島田熊吉・宗三、母宛: 「潰れたりと思うものはその人の神経痛なり。谷中は潰れた
るにあらず。他人これを潰さんとしつつあるのみ。村人にして潰れたりと思う者は、そ
の人の心の潰れたるのみ。心の死したる人々のみ。谷中は必ず蘇生せんのみ」

島田熊吉・宗三等宛: 「親を欺くなかれ。兄弟たがいに欺くなかれ。叔父叔母を欺く
なかれ。朋友を欺くなかれ。村中の義人の前に偽りを言うなかれ。おのれを欺くなか
れ。すべて他の人のために信義を厚くせられよ。村を売るなかれ。親を売るなかれ。
兄弟を売るなかれ。また、おのれに近づくものにへつらえあるは、悪人なりと知るべし」

しかし、一方で彼は、貧しい農民から金を借りて踏み倒すという、口先とは正反対の
行動をとっていたのです。                                                                       

167名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 22:35:24 ID:VS9JCXaf0
>>166
前にも書きましたけど正造の手紙にはガリ版とかの印刷のものも
ありますからね。同じものも何通も見つかってますよ。
しかも同一の内容なのに明らかに版が違っていて、ここから推定
すると何部くらいの手紙を書いたのか分かるかもしれないとかいう
研究をしている人もいます。
確か、1日に10通くらいもらった人もいるみたいですね。
さっきの手紙に書いたことは間違いで実は、とかいうふうに、
手紙がえんえん続いて一度にどっさり届くのです。
ところでそれは全然法螺吹きドンキホーテな話じゃないですね。

花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかの
ようなでたらめをわめきちらすのは十分法螺吹きドンキホーテですが。

もっとも実際の小説のドンキホーテは最後にまともな生活に戻りますが。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 20:21:54 ID:yi437dPL0
前回の手紙の宛先である島田熊吉からは、田中正造は、このあと220円(今の220
万円ほど)お金を借り、約束の期限を1年以上過ぎても返しませんでした。そこで、熊
吉から催促を受けました(明治41年2月15日)。その文面からは、貸したお金が、立
退き料を貰って移転していった村人から無理やり借用して、正造のために用立てたこ
とがわかります。

それから更に2年経っても約束が果たされません。そこで、熊吉は元利合計340円の
返済を求める催促状を正造に出しますが、そこには、次のような嘆きが述べられてい
ます。結局は踏み倒されたのでしょう。仕事をしない正造にお金があるわけがないから
です。

「実に困難と苦労とは限りなく候。・・・先祖伝来の土地は彼ら(国家)に失わしめられ、
補償金までもメチャメチャに消費し・・・仮小屋にて僅かの手稼ぎをもってその日その日
を暮らし居るものに御座候」(明治43年4月3日)。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 21:01:16 ID:M0XzBt5g0
>>168
それで、都合の悪くなった増田の話とかは完全無視ですか。
政府は水害多発地帯の堤防を直さないし、全然誠実じゃない
んですよね。

都合の悪い話をされると、
>>97
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
キホーテ型人間には、反論しないことにします。
などと逃亡宣言をするような輩には、自身の言ってることの矛盾など
分からないんでしょうけどね。

で、何度も書きますが、正造が島田に借金したのは事実だし、恐らく
踏み倒したのも事実だろうという推測はできますが、
それは法螺吹きドンキホーテだって話とは全然違いますね。
だって、田中霊祠は最初、島田家にあったんですから。(島田家は強制破壊後
も谷中村に残りました)

でも、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたかのような言及をした、
などとわめきちらすどっかの誰かさんは確かに法螺吹きですけどね。
それにさらにドンキホーテをつけると、あまりにもドンキホーテがかわいそう
なので、同列にはしないでおいてあげますよ。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 21:13:10 ID:0c24qV//0
「人は正直でなければ用に立たぬ」と、谷中村民に教訓を垂れていた明治38年
のことですが、正造は谷中の対岸の埼玉県河辺村に住む谷中支援活動農民・
増田清三郎から200円(今の200万円)借りました(この年4月)。正造に同情
した増田が、年利1割2分の高利で借りて融通したお金でした。実はこれもまた、
正造は逸見斧吉に一部返させただけで踏み倒しています。

何度催促しても返してくれないので頭にきた貧乏農民増田の催促状が、田中正
造全集に載っています。だいぶ手を入れましたが、次のような内容です。

「たすけてくれと何回ニモ申込みせシ残リ金ハ壱百七拾円ニ相成、この元金
返済ニ付キ貴君ハ小生ニ向カッテよくガふかいト申シ、・・・ばカノ私ヲ口車ニ
のせて、・・・小生家内九人ニテ日々食する物ナシ。貴君田中正造ハ・・・
をにであるカ、じゃである、盗賊である。・・・小生は運通(?)ニでても、くわづ、
のまづ、・・・昨年1月ヨリ病気です。この病気のカらだニて毎日毎日しごとをやりて、
カぎう(家業?)をやりました。田中殿、君ニはゼニガなくてモ、人ガ食わせる、とメモ
する、人力車モ引ます。小生君の為メ実ニ力なし、よくみろ、よくカんがいろ、小生
宅の九人をころせころせ、をニどん、ころせころせ・・・」(明治42年6月20日)
171名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 05:31:05 ID:+4EbIE510
どうして手を入れなきゃ気がすまないんだろうね、この人。
読解力と信念に問題が有るからどうやったって捏造に結び付くのに。
学者じゃなけりゃ何をやっても良いとかいう言い訳を用意してるのかな?
172名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/28(日) 22:16:56 ID:hvjQ6YvF0
>>170
その増田は前も何度も書いたとおり、正造の最晩年に、祭りのゆで饅頭が
できたから食べに来てくれ、って招待をしています。
正造と支持者たちの関係というのはそういうものなのです。
罵詈雑言の手紙をやりとりしているのに、不思議にそうやって仲良くメシ食った
りしている。
そういう関係だというのも無視して、単に増田が書いた手紙1通だけを引き合いに出す
のはこれまたいかさまバクチ以外の何物でもありません。
何でそういう人に、支持者たちはついていったんだろう。
何で、踏み倒されるって分かってるのに、何度も借金の申し込みに応じたんだろう。
田中正造の研究者たちが研究しているのはそっちです。
「田中正造は借金を踏み倒していた!新発見だ!!」などとわめいている人はいません。
少なくとも、まともな研究者では。
だって新発見でも何でもないですからね。
田中正造の支持者には、文盲や、かろうじてしか文字の読み書きができない人が
いっぱいいました。非常に重要な支持者なのに、署名以外に書いたものが一切見つ
かっていない人もいます。恐らくその人は文盲だったのだろうと推測されています。
増田の文章も、まともな教育を受けた人間の書いた文には到底見えませんね。
増田には悪いですが、そういう人が書いた文章を、ほかの人が書いた文章と同じように
並べて比較すること自体がまた大きな間違いです。
田中正造自身も、佐野のことを「佐の」とか書いたり、宛先の名前間違ったり、そういう
人でしたけどね。ただ、正造は若い頃は塾とかにも通ってましたし、自身で塾を開いた
こともある人ですから、全然無学な人ではありません。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 20:28:45 ID:s1j+BA+m0
理由は不明ですがしばらく規制されていたためと、小旅行で入力できませんでした。

谷中村入りしてから数年間は、農民を軽蔑するような態度が強く、農民宛の手紙は強気
に終始しますが、自分の考えに共鳴してくれる都市の支持者には極めて低姿勢で、正造
はわざわざ自分を卑下する手紙を書いています。

桐生の玩具商・大沢恒三郎宛の手紙を紹介しましょう(明治40年7月24日)。

「正造儀、この3,40年は夢のごとくにして、親子夫婦兄弟朋友はもちろん、親粗遠近の
分かちなく、空々翻翻、風の如く雨の如く、また鳥の如く獣類の如く、居住すら一定せず、
鳥や獣類にも劣れる生活に数十年を経過して、何の為すこともなく、社会の為にもならず、
人の為にもならず家の為にもならず、親子夫婦の為にもならず、況や親戚朋友の為には
あらず。今年67まで何をなしたるや」

「貴家諸氏、正造の心を知りて正造の事業を助けて候。正造が多年のご無礼をもあえて
お咎めなきは、まことに有難きことにて候。かかる重大の恩恵に浴しつつ何のお世話もで
きざるは、慙汗慙愧(まことにお恥ずかしき次第)、お許しくださるべく候」

174名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 21:07:34 ID:IFtUdgOY0
>>173
桐生の大沢って人は知らないけど、奥さんの旧姓が確か大沢だった気が。
親戚ですかね。この人。
ただ何度も書きますが、一通の手紙だけで人間関係とかは分かりませんね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とか書いたか言ったかのような
大嘘をついたのは何故ですか?
>>97
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
>キホーテ型人間には、反論しないことにします。
などと敗北宣言をしながら、のうのうと大嘘の垂れ流しを続けるのは、
鉱毒防止もしないでのうのうと操業を続ける銅山と同じですよ。

幸い、私は何を言っても自分が正しいとは思いこんでいませんがね。
何をいっても自分が正しいと思いこんでいるのはあなたですよ。
だって、花村はそんなこと言ってませんからね。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 20:33:25 ID:NVoQxsV30
ところで、村民を実際にはどう見ていたかといえば、以下の逸見斧吉宛では相変わらず
<愚民>扱いをしているのです(明治41年11月14日)から驚きます。

「衣食足りて礼節。飢えては権利もなし。谷中人民は愚なるのみならず、思慮も何にも
なくなるので、殺さるるまでは死をも知らぬです」

しかし、まことに不思議なことに、村民の我慢強さに脱帽した彼が、同じ逸見斧吉宛の
手紙に、これより1年前には次のように書いていたのです(明治40年9月1日)。

「正造がぬれた着物で困りて苦痛を忍ぶは忍ぶの難儀あり。谷中の人々水野、間明田
二人とも病人で、着物ぬれたはもとより、しかも水の中に安座して怒涛を避けるまでほ
とんど平気。これは自然にして正造ほどに深く苦痛とも思わざりしならん。この点は、
この人々の自覚は神にも近き精神となり、故に正造の及ばざる遠し。それ神あり。・・・
及ばざるもの必ずしも愚にあらず。智者必ずしも智ならざるも、またここにあらんか」

全く矛盾だらけですが、彼がいかに口からでまかせの二枚舌を使っているかが、よくわ
かると思います。何しろ、このあとの手紙では、また村民を軽蔑することを平気で書くの    
です。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 21:21:02 ID:s9Q8QN6C0
>>175
まあ、自身の思うとおりに事が運ばなくていらいらしてたってのは
分かるかも知れませんがね。
それは法螺吹きドンキホーテな話とは全然違いますね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をついたのは何故ですか?
花村の言い方は「無害民の人々」です。(本によって、言い方は若干
違いますが)
花村はそんなこと言ってません。そういうことを言う人でもありません。
177名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 19:40:36 ID:4508Rmjt0
明治44年になると、正造は更に反省の姿勢をみせます。谷中村民の島田宗三宛に
東京の逸見斧吉方から出した手紙に、正造はこう書きました(明治44年7月19日)。

「正造も、去る37年以来教えんとして失敗せり。最初より人民の話を聞かんことに努
めればよかりしに、聞くことは後にして教えることのみ切迫せるまま、ひたすら教えん
と計り、取詰めたり。せき込めばせき込むほど反動して、正造の申すこと聞く人もなく
して空しく徒労となり、3年また4,5年目より少しずつ話を聞く方針に改めたので、
8ヵ年を経て聞くと聞かせるとの一つを発明したのみです」

正造の文章は、まともな日本語にはなっていないのでわかりずらいのですが、「農民
にはかなわない」と、心から反省して悟ったように言っています。しかし、これは建前で、
単なるポーズに過ぎないということが、その後の本音の発言からわかるのです。彼の
本音はあくまでも強気で、指導者として「教え」を人民に垂れることでした。それは、生
涯変わっていません。だから、死ぬ前に彼はこう発言したのです(次回)。
178名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 20:49:38 ID:jdnTlDLQ0
>>177
どちらにしてもそれは全然法螺吹きドンキホーテの話じゃ
ないですね。

それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
どこで発言したんですか?
「何を言っても自分が正しいと思い込んでいる」のは
あなたではないですか。
花村がそんなことを言った、というのは大嘘です。
そんなことは調べればすぐに分かります。
けれど、世の中には複雑な真実よりは分かりやすい大嘘を
簡単に信じてしまう人がいるので、わざわざ大嘘だというのを
指摘してさしあげているのです。
179名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 19:45:54 ID:3a3+LvEp0
大正2年8月2日、栃木県足利郡吾妻村の庭田清四郎宅で倒れて死の床に就きま
すが、8月13日、前述の島田宗三に正造はこんな予言めいたことを言いました。

「この正造はな、天地と共に生きるものである。今度倒れたのは、安蘇、足利(郡)
の山川が滅びたからだ。・・・ですから<山川擁護会>をつくるよう、安蘇郡有志の
近藤貞吉君あたりへお話ししなさい。もしそれができなければ、遺憾ながら正造は、
安蘇、足利の山川と共に滅びてしまう。死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋め
ても、そんなことは正造の喜ぶところではない」

島田宗三によれば、9月4日、死の直前に岩崎佐十を枕頭に呼び、正造は「お前
方大勢来ているそうだが、嬉しくもなんともない。皆んな正造に同情するだけで、
正造の事業に同情して来ている者は一人もいない。行って皆んなにそう言え」と、
叱咤したということです。本当に立派な人物がこんなセリフをはくでしょうか。

最後まで「自分は偉大な人物である」と思い込んでいたことがお分かりになると思
います。彼は正にドンキホーテ的人間だったわけです。   
180名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 20:15:49 ID:XRQMhk5q0
>>179
正造が岩崎にそんな話をしたのは、その直前(まだ正造が倒れる前)に岩崎が
正造の顕彰碑だか銅像だかを建てようとして、正造のところに話を持って行ったら、
正造本人がそんなものいらん、つくるな、と大激怒した、っていう前提があるから
ですよ。
まともな研究者なら当然そういう前段の話があったということを紹介してから
倒れた正造が枕元の岩崎にそう言った話をするはずです。
もちろん、その話は当然知ってますよね。

一方、まともでない人は、そんな前段の話を全部「なかった」ことにして、そんな
話だけしたがるわけです。
何というドンキホーテでしょう。

でも、田中正造は別にドンキホーテじゃないですね。
ついでにいうと、この話はどこも全然法螺吹きドンキホーテの話じゃないですね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと発言したかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
花村に対して大変に失礼じゃないですか。

ちなみに衛生兵だったこともある岩崎は、死の床にあった正造の看病を続ける
ことになります。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 19:43:53 ID:oZ2F+Yme0
お説教調の強気の手紙をもう少し紹介しましょう。

新人の栃木県会議員である白石荘蔵宛の手紙では、先輩顔をして次のような文
面を書き送っています(明治41年1月25日)。

「およそ自家野心のために10万円を散ぜんよりは、同志のために1千円を散ぜよ。
しかして、1千円は少なくもその3倍の報酬を得るものにて候。予正造選挙について
の経験上、正にかくのごとくです。正造は、明治の13年春より34年10月まで20年
間大小議員たり。この間に多少の経験はありますから申すのです。・・・悪を憎む甚
だしからざるものは、善を為すもまた甚だしからず。善を為す甚だしからざれば、仁
を為すこと難し。政治の要は仁義のみ」

182名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 20:25:35 ID:lVo2lVhL0
>>181
そしてそれは全然法螺吹きドンキホーテの話じゃないですね。

岩崎は、正造の顕彰碑だか銅像だかを作ろうとして、正造本人に
拒絶された。
その直後、正造は倒れ、誰が見てもそれは臨終の床だった。
衛生兵だったこともある岩崎は真っ先に駆けつけ、死ぬまで看病した。

そういう前段の話を全部あえて隠匿した上で、まるで正造本人が
自身が偉人だと言ってるかのような言い方をする人の言うことは
全然信用できませんね。

正造は自身が死の床にあることを知っていた。谷中に返せ、俺は
そこで死ぬみたいことを、臨終の床で何度も言っています。
そして自身を看病してくれている人が、直前に顕彰碑だか銅像だか
を作ろうとした岩崎であることを知っていた。
正造は、自身を銅像にするような偉人扱いする人に対して、そういう
ことをするなと念を押しているだけで、自身が偉い人だと言っている
わけではありません。
そういう前段の話は全部無視ですか。
そして、岩崎は死ぬまで、正造の顕彰碑も銅像も決して造りません
でした。
正造の銅像は今では3つくらいありますが、岩崎はそのどれにも
関わっていません。
田中霊祠の碑まで含めると、関係していると言えないこともないかも
しれませんが。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及
したかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
>>97
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
>キホーテ型人間には、反論しないことにします。
と書けば、自分の大嘘が帳消しにでもなるとでもお思いですか?
わたしがあなたに対して断言できるのは、あなたが大嘘つきで、
その主張は捏造である、ということだけです。
あなたが死んだ後、いずれ歴史がそれを証明するでしょう。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 19:49:29 ID:ANmSgRZo0
同じく栃木県会議員の後輩で、正造に最も忠実だった碓井要作宛の手紙でも、実に
立派な「教え」が語られています(明治42年11月11日)。

「人は心、人は精神、人は道理、人は大義名分、人は誠実。高く信じ、厚く信じ、深く
信じ、たがいに信と信との結合に限るべし。仮にも偽りをいうなかれ。すぐ尻から顕
われる。決して偽りをもって信用を得るなし。人は信なくして何を以って立たん。また、
同志間に物事をかくすなかれ。・・・人みな女房あり。女房を思う如く村中の細民を思
え。また同志を思うべし」

ところで彼は、奥さんを大事にしていたでしょうか。鉱毒事件にかかわってからは、
夫人のカツさんとは一緒に住まず、生活費は1銭も渡さず、明治44年7月に彼女が
入院して静脈瘤の手術をしたときでさえ、一度も見舞いをしなかった(全集・18巻「解
題」)そうです。          
「仮にも偽りをいうなかれ」も、自分自身が一番反省しなければならないことです。
この手紙も、正造の偽善者ぶりを見事に示しているではありませんか。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 21:16:12 ID:3er8rDF30
>>183
そんな田中正造なんか離縁しちゃえばいいのに、
カツ夫人は決してそんなことをしませんでしたよね。
葬式のときにも、原田定助のすぐ次に名前が出てくるのが
カツ夫人です。
(当時は女の人がそういう大きな葬式をあげることはしなかったの
でしょうか。甥っ子の原田のほうが名前が先に出てます)

何でそんな旦那に愛想を尽かすことがなかったんでしょうね。
それは、たとえ離れていても気持ちが通じ合っていたからなんじゃ
ないですか?

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつくのは何故ですか?
都合の悪い話はそうやっていつも完全無視ですか。

「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」などいませんでした。
いたのは、花村の言い方を借りれば、「無害民の人々」です。
185名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 20:20:56 ID:K9XpdCAx0
彼の本音は強気の姿勢で、弱気の方はポーズに過ぎないと私は結論付けますが、
彼はほとんどあらゆる問題に関して、自分だけが正しく、他人は間違っていると結
論付け、しかも黙っていることが出来ずに相手に攻撃を加えています。

大隈重信は彼が所属していた政党の党首ですが、大隈の銅像を建てた人に対し
てまで、彼は噛み付いて責め立てます。明治40年11月22日付けの三宅雪嶺宛
の手紙を紹介しましょう。

「昨夜、たまたま正造、宇都宮に来たり、弁護士山田鶴三氏宅に泊す。予曰く、何
者が大隈の銅像を造りたるか。ああ、この社会の大馬鹿野郎め。なんぞその愚、
その馬鹿、幸いにして(大隈)伯爵のは(伊藤博文のと違い)学校内に学校創立25
年の記念にせるをもって、辛くも銅像の命脈を保ち得べきのみ。ああ、この御諂
(へつら)え。ああ、この大馬鹿野郎の大多数がついにこの大馬鹿、大諂えを表す
るためにこの銅像を造りたるは、実に伯爵の真の価を落とし、伯を傷つけるの甚だ
しきものなり云々と。思わず悪言を放ち、図らず社会の堕落を罵(ののし)りたり」

186名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 20:59:03 ID:T7FdJtqK0
>>185
例によって前後関係が全く分からないところでここだけ恣意的に
抜き出されても何がなんだかわかりませんね。
何しろ、自分の碑だか銅像だかを建てようとした人が枕元で
看病していて、その人(や、その人の回りにいる人に向かって)
「死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋め
ても、そんなことは正造の喜ぶところではない」
って言って、
死んだあとも像や碑をつくるなって
念を押している正造の文を、
まるで、正造自身が自分を偉人か何かのように言っている言葉のように
伝えようとしているいかさま師のやることですからね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
>>185
>自分だけが正しく、他人は間違っていると結
>論付け、しかも黙っていることが出来ずに相手に攻撃を加えています。
 これは田中正造のことではなくて、あなた自身のことですよね。
 だって、田中正造は後から、この前のは誤解で間違っていた、とかいう
文を書いたり言ったりしたことのある人ですからね。
 で、どっかの大嘘つきは、そうやって田中正造が何かを訂正しようとする
と、言うことがどんどん変わる、嘘つきだとかわめきちらすわけです。
 で、訂正しないと、嘘をついたまま直さないとかわめきちらすわけです。
 そしてその大嘘つきは、自身の大嘘を決して認めようとしません。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 19:35:59 ID:sc1YyX9N0
しかし、このままで終えないところが彼らしいところで、すぐ後でまた三宅雪嶺に宛
てて次のような弁解の手紙を書いて送るのです(明治40年11月27日)。

「先便に生が銅像攻撃いたし候段は、かえって生の性向の穏やかならぬと自覚い
たします。ただし、この上とも万事お諌めのお筆お見捨てなく、いつまでも、よきほ
どにご警醒(戒め、目を覚まさせること)の道をお尽くし下されたく候。正造」

社会的な地位が高く、正造の言動に理解を示していた雪嶺のような者に対しては、
本音を引っ込めて二枚舌を使い、諂っているといえるほど低姿勢を装っていた
わけです。
田中正造の書簡を見ていて驚くのは、自分に批判的な相手には徹底して恨みを
抱くと言うその単純さです。
政治家である以上、世間からさまざまに言われることは当然のことで、普通の政
治家なら上手にあしらって済ましますが、彼は我慢することができず感情のまま
に怒ったり怒鳴ったり、愚痴ったりしてしまうらしいのです。この点では政治家失
格ということができます。

188名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 20:15:57 ID:l/gTGzbu0
>>187
政治家として失敗だったかどうかはあなたの判断することでは
ありませんね。
あなたがものかきとして失敗だったのは私が断言できますが。
田中正造が変な人だったってのはどうも事実のようですが、
あんな古河(ふるかわ)に立ち向かえるのは田中正造くらい変な
人じゃなければつとまらなかったって言ってる人もいますね。
田中正造は確かに相当に非常識な人でしたが、銅山の持ち主も
相当に非常識な人だったみたいですよ。
むしろ、そんな変な人に何で被害地の人々はついてったのか、
そっちのほうがむしろ不思議です。

ところでそれは全然法螺吹きドンキホーテの話じゃないですね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
このスレで一番法螺吹きなのはあなたのようですよ。
189名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 19:39:53 ID:06sRFWe60
彼は、「宇都宮」と言う土地さえ「悪魔」だと思い込んでしまうのですから、あきれて
しまいます。
明治40年11月18日の逸見斧吉宛の手紙を紹介しましょう。

「宇都宮は足尾銅山の台所といわれるほどの所で、正造には悪魔。新聞社は3つ
あれども皆悪魔で、うち2つは正造も300円ずつの金を入れた資本家の一人でした。
一つは創業者の一人でした。明治12年5月より発行して、今の下野新聞と申し、一つ
は足尾より金をもらってこしらえた野州新報と申すのです。彼らは10年1日のごとく正
造の中傷に余念なし。下野人をおろそかにすることに努めつつありますけれども、この
3新聞に取り消しを申し込んだことはありません」

前記の手紙が真実を語っているとすれば、地元出身の国会議員であったにもかか
わらず、地元の新聞からは絶えず悪口を書かれていたこと、つまり人気がなかった
ことがわかります。

「下野人をおろそかにすることに努めつつある」と彼は言います。しかし、読者を増
やしたい地方新聞が、読者をおろそかにするわけはありませんから、これは「田中
正造をおろそかにすることに努めつつ」と言う意味なのでしょう。

「新聞に取り消しを申し込んだことはない」も全く驚きです。取り消しを要求できるほ
どひどい記事があったのでしょうか。なければ意味をなさないわけです。

190名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 21:47:17 ID:JBgV/SAd0
>>189
当時の下野の原紙とかは宇都宮空襲で焼けちゃって、一体、
正造の何をどう報道してたのかは全体像ははっきり分かりません。
断片的に残る当時の紙面から見ると、特に下野は紙面が日露戦争
一色になって、鉱毒のことを伝えなくなります。
しかし、当時の下野は既に「宇都宮」の新聞でした。そして、宇都宮は
鉱毒被害地ではないのです。
被害地から遠く離れた新聞社。それも、下野は、電話を持っていること
を自慢していたような新聞社です。そんな新聞が、鉱毒のことをまとも
に取材して記事にできるわけないじゃないですか。

>、「宇都宮」と言う土地さえ「悪魔」だと思い込んでしまうのですから
何しろ、鉱毒非停止の請願などというものをまとまった数出した町は、
栃木県では足尾と宇都宮だけですからね。そういう前提がある以上、
正造が宇都宮をそう呼ぶのは驚くことではありませんね。
もう一つ、「栃木県」民であった正造にとって、たかが「宇都宮県」の
県庁所在地ごとき、というニュアンスもきっと含まれていると思います。
それにしても、自分の県の県庁をあがめなければならないってのは
全然意味が通りませんね。
正造は、県会議員選挙でも、国会議員選挙でも、宇都宮を選挙区と
する選挙は戦ったことがありません。全部、安蘇郡、足利郡周辺が
選挙区の選挙ばかりです。
佐野の人の利害が、宇都宮の人と異なることはよくあることでしょう。
それとも、旭川の人が、「札幌なんて悪魔」って言っちゃいけないんで
すかね?
旭川市民は札幌を崇めろとでもいうつもりですか。
完璧に主張が破綻していますよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及
したかのような大嘘をついたのは何故ですか?
花村は「無害民の人々」と書きました。そして、その人々は、鉱毒が
流れてこない宇都宮とかにいっぱい住んでいました。
191名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 19:59:01 ID:RNsnpwnd0
前回と同じく彼の攻撃的な性格を示す実例を紹介します。
明治34年に有名な政治家の星とおるが暗殺されましたが、その4年後に、
正造は政敵だった星のことを自分と比較しながら徹底的に攻撃しています。
甥の原田定助に宛てた手紙(明治38年1月21日)にはこうあります。

「星とおるは、陽に公に厳にして陰に私欲酷なり。故に殺さる。正造は陽に
公に厳なれども公私なし。表裏なし。星は盗を捕えて放つ。放つ時に臓物
の分配を得るを目的とす。故に殺さる。正造は盗を罵りて捕うるの術を知
らず。星は盗を捕うると同時に自ら盗を為す。正造は盗を捕え得ず。また
自ら盗をなさず」
「正造は公に叫べども、私に直接に盗を咎むるほどに至らず。星は公に
叫んで私に盗むのみならず、私に直接する人の不正を糺すこと急なり。
しかも彼は上を好めり。正造は上を好まずして下を好む」

つまり彼は、「自分は清潔な政治家だが星は悪徳政治家だった」と主張し
ているわけです。何という奢りぶりでしょう。
常識的な人なら、自分のことを「公私なし。表裏なし」などと偉そうに言いま
せんし、また、心では思っていたとしても、死者を非難するような失礼はし
ないものです。あきらかに、彼は礼儀知らずの欠格人間だと言えます。
192名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/18(日) 16:51:18 ID:ITxPIDhz0
>>191
>せんし、また、心では思っていたとしても、死者を非難するような失礼はし
>ないものです。
そっくりそのままあなたにお返ししますよ。
死んだ田中正造を非難するような失礼をするのは何故ですか?

自分は死人に文句を言っていいのに、田中正造がしてはいけないのは
何故ですか?

そうそう、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつくのは何故ですか?
花村に対しても失礼ではないですか。
あなたのやっていることは、大嘘の上塗り、そして失礼の上塗りです。
193名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/18(日) 17:21:43 ID:hOk195Bj0
>>191
よう、礼儀知らずの欠格人間。
194名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/18(日) 19:22:53 ID:9KPcFBni0
明治の代表的な政治家である星とおるは、イギリスの弁護士の資格を持つ
有識者であり、薩長藩閥政府と闘って投獄された経験を持つ革新政治家で
あり、同時に、長州閥の伊藤博文とも手を結ぶという現実性も兼ね備えた、
実力派の政治的傑物でした。

政治家の評価は、見方によって全く異なります。『朝日・日本歴史人物事典』
は、星のことを次のように評価しているのです。正造の非難は、単なる偏見
に過ぎないということがこれでよくわかります。

「富国強兵策と政党内閣を巧みに結びつけた星の現実的な政治指導がな
かったら、この後の日露戦争を闘い得る日本は存在しなかっただろう」 
195名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/18(日) 19:51:21 ID:ITxPIDhz0
>>194
自称礼儀知らずの非常識人間がそう言ったからといって、
常識的な人間が同じように判断するとは限りませんね。
だいたい、政治家の評価なんて文字通り見方によってそれぞれ
なんですからね。
田中正造がえらい政治家だって言う人がいて、その逆に言う人がいて、
星亨がえらい政治家だって言う人もその反対のことを言う人もいる。
別におかしい話でも何でもないですよ。
それに対立政党の政治家ですしね。そんなのは間引いて読まなきゃ
だめですね。
それとも、公明党や自民党や共産党の政治家は、浅沼稲次郎が
えらい政治家だって言わなきゃならないという理屈でもあるんですかね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
都合の悪い嘘はしらばっくれればそれで終わると思ってるんですか?
あなたのけちのつけかたはいつもそうです。正造が走り書きしたような、
そもそも公開を目的にしない手紙の端々のどうでもいい誤りとかを大嘘、
大嘘とわめきちらし、花村の言及などの自身の巨大な大嘘はそのまま
平気でしらばっくれる。
そんな大嘘つきの言うことなど、誰も信用しませんよ。
196名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 19:52:19 ID:ZVi9fbAo0
彼は、世の中のほとんどのことが気に入らず、友人達への手紙でその不満
をぶちまけています。その前提は自分は正しいことをしていると言う意識で
すが、しかし、単なる利己主義に過ぎないと言うことができます。
ここでは2通の手紙を紹介します。

「医者は病人すらあれば繁盛す。経済家は悪事を働けば繁盛す。法律家は
愚人を欺けば繁盛し、政治家も賄賂で繁盛して、共に国家の悲惨を知らず。
農民と労働者は食乏しく、家屋破れて雨は漏る。衣も汚れて虱(しらみ)多し。
国家は早晩下落してほとんど株式の下落のごとし」(原田勘七郎宛。明治40
年7月24日)

「国家は疾く滅亡して、社会独り苦悶の中にあり。東京はその病原地にして地
方は被害地。・・・東京は実に良心保全の地にあらず。東京の一般は乱心する
ものの如し。本心を有する者ほど憐れなり。有するものほど悲惨なり」(逸見斧
吉宛。明治42年11月10日)

農民と労働者は正直で貧乏であり、政治家や医者その他の社会の上層部の
人々は悪事を働いてうまくやっている、東京は加害者で地方は被害者だ、と決
めつけていますが、現実の世界は、このように単純ではありません。しかし彼は
自己を中心に物事を解釈し、世の中のことを観念だけで理解するわけです。
197名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 21:56:08 ID:n551rJS20
>>196
あなたが自称礼儀知らずの欠格人間だという主張は大変に
よく理解できました。そして、それを否定しないであげますから、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及した
かのような大嘘をつくのは何故かぜひぜひお答えください。
そうでないとあなたの大嘘のたれ流しについていける人がいません。
いなくても困らないのですが、田川のような適当なことを書く人の
文をわざわざ100年後に掘り返してきて、見ろ!田川はこういってる、
みたいなでたらめの再生産をする人が出現しないように、わざわざ
あなたの言っていることはでたらめだと100年後の人に向かってご説明
してさしあげているわけです。
100年後も、横井の鑑定書の現物がちゃんと残っていればいいんです
けどね。もっとも、残っていたとしても、どっかの誰かさんのような恣意的
なねじ曲げ方をする人はきっといるのでしょう。
そして、100年後にもきっと、そのでたらめを暴く人がいるでしょう。
その前に、100年後には足尾鉱毒事件が解決してるといいですね。
なぜなら、足尾の来た道は、ほかの公害事件があとから続けて歩く道だからです。
今までずっとそうでしたから。
198名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 19:40:37 ID:Nm0uUqv00
彼はすぐカットなって怒り出すタイプの人間で、帝国議会で失礼な発言を繰り返し、
よく発言禁止、公式記録からの発言の削除、退場、出席停止などを命じられました。

その議会でも、しばしば馬鹿野郎発言をしていますが、彼が所属する政党の党首だ
った大隈重信が、外務大臣との兼任で農商務大臣に就任した時(明治30年3月29日)、
農商務省が、足尾銅山などの鉱業を管轄する役所だったからでしょう、同じ党員の
衆議院議員の尾崎行雄に宛てて、次のような手紙を出しています。

「犬養馬鹿尾崎馬鹿、イカナレバ伯(大隈伯爵)を農商の大臣とせしは馬鹿の馬鹿、
大馬鹿三太郎よりも大馬鹿なり。その詳論を聞きたくば来たれ。正造病気中にあり
候まま一書さし進じ候。頓首。3月30日。尾崎君馬鹿、犬養君馬鹿、なお武富君馬
鹿、高田君馬鹿、阿部君馬鹿、島田君馬鹿、外馬鹿御中」

絶えず不満を持ち、その原因を他人にぶつけて怒りをあらわにしていた非常識さが、
この手紙によく現われています。単なるユーモアとはとても思われないのです。                       
199名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 20:38:53 ID:KKwvKEoQ0
>>198
自称非常識なあなたにとって非常識な正造は
常識的な人間にとってはとっても常識的な人間になってしまいますが
どうしますか?

もちろん、田中正造は相当に非常識な人だったというのは
今までにすっかり分かっていることで、別にあなたの大発見では
ありません。
非常識な古河市兵衛に立ち向かうには、
田中正造くらい非常識な人じゃないとやっていられなかったのです。
まあ、市兵衛と正造とどちらのほうが非常識かっていうと、どっちもどっちに
見えますけどね。

ところで、自称礼儀知らずの欠格人間であるあなたにお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのはどうしてですか?
正造は非常識でしたが、あなたは非常識な上に自称礼儀知らずで欠格人間で
しかも大嘘つきときています。
自分が言ったりやったりしたことはすべて正当。たとえ嘘だろうと、
田中正造を嘘つきにするための嘘は正当。そう思ってるから、そういう
自分自身を礼儀知らずで欠格人間に仕立て上げる発言ができるのですよ。
まあ、あなたが礼儀知らずで欠格人間であることは否定しませんけどね。
200名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 20:40:57 ID:KKwvKEoQ0
>>199
そうそう。念のために書き足しておくと、
非常識だっていうのと、法螺吹きドンキホーテだっていうのは
全然関係ない話ですね。

田中正造は非常識な人でしたが、
法螺吹きドンキホーテではありません。

しかし、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言っていて、
訂正さえしない輩は、法螺吹きです。
201名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 21:22:13 ID:YBUcMj3w0
正造は、国会議員だけでなく栃木のほとんどの県会議員の対しても敵意をあらわ
にし、特に名前を挙げて徹底的に彼らの悪口を書いています。谷中村の遊水池化
を推進した議員たちですから批判の対象には違いありませんが、正造と鉱毒反対
運動をしていた被害農民もまた推進派だったわけですから、民意にも逆らって責
め立てていたわけです。
明治44年10月15日付けの近藤政平(佐野市)宛の手紙に、彼は次のように書い
ています。

「たとえば清水氏の智にして、すでにこの術中(古河鉱山側の策略)に落ち込み、
わずかの物を得て多大の信用にきずつけ、木塚氏物を得ずして術中の奴隷と
認めらる。あに馬鹿然たり」

「たとえば横尾、野島は陸軍参謀、影山ひとり外交上にわたりて功名あり。彼等が
銅山の奴(やっこ)となりてここに十余年。これに伴う下野人道の頽廃は、今日の
極度に落ち果てたり。事実は山の如し」

「予今議論を好まず。ああ、県議の貴重任なること、地方において非常の資格なり。
しかも県会開設以来、未だ県会議員の真権発動の美を見ず。明治は44年なりとす。
真権の発動こそまほしくも思えおり候」

「未だ県会議員の真権発動の美を見ず」などと、現実にはありえない夢のようなこと
を言っていますが、元県議の自分は真権を発動できたのでしょうか。自分のことは
相変わらず棚に上げて、他人ばかりを責めるので、つい「あなたは何様のつもり?」
と言いたくなります。           
202名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 21:54:24 ID:A6C144uH0
>>201
>自分のことは
>相変わらず棚に上げて、他人ばかりを責めるので、つい「あなたは何様のつもり?」
>と言いたくなります。           
 おやおやまたしてもご自身のことを責める文章ばかり書いておられるようですね。
 確かに、自分の大嘘を棚に上げて、他人の細かい間違いを責めるあなたを見ている
と、つい「あなたは何様のつもり?」と言いたくなりますよ。

 ところで花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような大嘘をつき
続けるのは何故ですか?
 正造は死んじゃったのでもう発言の訂正はできませんが、もしあなたが生きている
人間なら訂正ができるはずですよね。
 それとももう死んじゃってる人なんですかね。あなたは。
 それとも、この世に生きたことのない、壊れたテープレコーダーか何かなんでしょうかね、。

 しかも、都合の悪い話をされると、
>>97
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
キホーテ型人間には、反論しないことにします。
 などと逃亡宣言をしてそのまま大嘘をたれ流しているんですからね。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 23:41:53 ID:aaBL6v2N0
「反論をしないと認めた事になる」っていう素晴らしい論法も有ったなあ。
何も反論しないところを見ると、砂川は自他認める礼儀知らずの欠陥人間らしい。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 20:24:02 ID:HPp0VAyb0
正造の不平不満は政治的な敵対者である国会議員や県会議員にとどまりません。
鉱毒反対運動の闘士だったかつての仲間に対してさえ、不満の捌け口を向けます。

紹介するのは界村の村長で被害民のリーダーだった野口春蔵宛ての手紙ですが、
野口たちは谷中村の遊水池化反対運動に背を向け、正造が強引に引っ張り込も
うとしても応じなかったので、こんなことを書いたのでしょう。明治42年1月21日付け、
足利の親戚の家から投函しています。

「沿岸(渡良瀬川)は年に月に貧窮に陥り、才子は逃げ、狡猾は盗み、青年は奪わ
れ、老年は死す。流毒は止まず、すでに昨年41年の8月7,8,9日の如きは、また
ねずみ色の毒水流れ、新田、山田の用水路も魚死せり」
「しかれども先年のごとく人民騒がず、界村役場、植野村役場なぞこの流毒を知ら
ず。庭田恒吉君すら川の端にいて驚かず。この大敵を見て驚かぬは熟練の兵とな
りたるためか」

「ねずみ色の毒水流れ」は法螺としか考えられませんが、このような無関心状態が
自分にも問題があるという意識は、この手紙からは全く感じられません。

    
205名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 21:20:16 ID:j9TYo7rA0
>>204
本物の鉱毒水を見たことがないから
『「ねずみ色の毒水流れ」は法螺としか考えられませんが』
などと自身の無知を平然とさらけ出せるんですよね。
それが、鉱毒被害地など見なくても十分だとわめいている
あなたの限界です。
鉱毒水の色については何人もの鉱毒反対運動参加者が
見て記述を残してますからそっちをごらんください。
明治42年になろうが、昭和42年になろうが、鉱毒のたれ流しは
ずっと続くんだし、見た被害農民の言及にはほとんどぶれがあり
ません。
鉱毒根絶太田同盟会会長の板橋は「白ニゴリ」って言い方をしてますね。

ところであなたが無知な上に、無知を前提としたでたらめをわめき
ちらす輩だというのは元から分かっているので、
非常識で自称礼儀知らずの欠格人間のあなたにお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をついたのは何故ですか?
直接「花村が10倍ぐらいの穏健派被害民がいた」とは書いていない
などと言って逃げるつもりですか?
これまでのあなたの発言からすると、正に花村が確かにそう言った、
そうとしかとれない言い方をしてますよ。
しかしそれはでたらめです。花村は「無害民の人々」と書いたのです。
無害民を自分の都合に合わせて勝手に「被害民」に書き換える
あなたのやり方は大嘘つきです。
そして大法螺吹きです。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 21:24:41 ID:pmXpDzE40
渡良瀬川沿岸の鉱毒反対運動が終わると、彼は谷中村の遊水池化反対の孤独な
運動に全精力を傾けますが、反対を訴えるために膨大な手紙を書きます。そして、
ここでも又政治家の無理解に腹を立て、名前を挙げて個人攻撃を繰り返しました。

この時期に正造の数少ない理解者であった逸見斧吉(缶詰メーカー・逸見山陽堂の
社長)への手紙の一つには、次のように書かれています(明治43年1月6日)。

「(遊水池の計画地域は)東西南北3,4000町、村数11ケ。皆死せるごとし。日本
亡国はこれに証しても余りあるけれども、東京の代議士中にも2,3の賢者を気取
る人あれども、その人々に未だ(遊水池化反対の)陳情の運びなし。卜部氏は、利
島、川辺(谷中に近い村)が選挙民のいる所なりしも来てくれず。津久居、細野氏こ
の村潰し、人殺しに賛成せり。憐れむべし、彼らの傲慢心、人の教えを聞くの得なく、
悪人というにもあらでこの不義に組みせり」  

207名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 21:53:46 ID:56gkqpFx0
>>206
>渡良瀬川沿岸の鉱毒反対運動が終わると、
今でもやってますが?
鉱毒反対運動が終わったかのような大嘘をつくのは何故ですか?
今反対運動をやってる人たちは、田中正造より先に反対運動を始めて、
そして今でもやってる人たちです。
途中の断絶はありません(正確には5年ほど、運動を休んでいた時代が
あります)。
もちろん初期には田中正造との交流もありましたが、
当時はその地方の鉱毒被害がそれほどにはすさまじくなかったので、
田中正造もあんまりそっちのほうには出向かなかったみたいです。
そんなわけで、今反対運動やってる人たちの話は、田中正造を軸に
した足尾鉱毒事件の話にはあまり出てきません。
でも、鉱毒がなくなったわけでも、反対運動がなかったわけでもありません。
念のために書いておくと、今反対運動をやってる人たちは、わざわざ碑に
正造の名前を刻んでますので、無視したり喧嘩別れしたわけではありません。

非常識で自称礼儀知らずの欠格人間のあなたにあらためてお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
>>97
>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
キホーテ型人間には、反論しないことにします。
何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドンキホーテ型人間とはまさにあなた
のことではないですか。
何度も何度も自分のことばかり書くのは何故ですか?
花村だけじゃない。三宅の話も、入沢の話も、そして横井の話も、全部あなたの
捏造でした。岩崎の話も、増田の話も、断片的な手紙の文章だけを挙げて文句を
言って、その前後の正造と岩崎や増田の付き合い方とかを意図的に完全無視して
るんですからね。
さらに前のスレまで合わせると、あなたの大嘘はもう数えきれません。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 20:17:16 ID:acMgQ8uc0
碓井要作は、田中正造を尊敬する栃木の県会議員で、二人の間には相当な信頼
関係があったはずですが、正造はこの碓井にも疑心暗鬼を抱きました。明治43年
11月15日の碓井宛の手紙には、こうあります。

「諸君が行動の時事に適わざるを惑うなり。いたずらに足尾銅山の内意のみを受け
たるもののために誘惑せられて無意味の楽観に陥り、その命の下にのみ唯々諾々
たるをもって足れりとするか。・・・いやしくもまじめの日本人の資格ありとせば、その
罪を責めざるべからず・・・」

また、県会を批判した次のような手紙もあります(明治43年11月15日付け、吉岡
耕作他3名宛て)。
「めしの上のハエも追わざれば飯残らずハエクソとなりて候。今は県議の過半はうじ
バエとなりて県民にくそひりかけたり。既往ハエを追うを見ては小事なりとして、更に
大害を招きて臍を噛んで及ばざるは、現今の我が県会なり」

209名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 22:33:09 ID:6rz0Shm30
>>208
今みたいに電話とかがどこにでもある時代じゃないし、
あることないこと吹き込む人がいるんだから、そういうことになっても
全然驚きませんけどね。

そしてそれは全然法螺吹きドンキホーテの話じゃないですね。

非常識で自称礼儀知らずの欠格人間のあなたにあらためてお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造の時代と違って、今は電話もインターネットもあります。
もし、あなたに向かって、花村がこんなことを言っていたと吹き込む人が
いたとしても、あなたは3日以内にそれがでたらめだと判断できるはずです。
だって、私は、あなたが今年の8月31日に、そんな大嘘をわめいてから、
4日後の9月4日には花村の著書を4冊見比べ、
翌5日には残りの2冊の中身も調べました。
どこにも「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」などという言葉はありません。

それとも、まさか花村の著書を6冊とも見比べる人間はいないだろうから、
嘘をついてもばれないだろうと思ったんでしょうかね?
残念ながら、あなたのような捏造が長い時間信じられる時代はずいぶん
昔に過ぎ去りました。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 19:45:51 ID:M7btttRK0
前述したように、逸見斧吉は正造が晩年に一番数多くの手紙を書いた相手で、
正造の様々な愚痴や不満がこの人に寄せられました。明治41年11月14日
の書簡の内容を紹介します。

「衣食足りて礼節。飢えては権利もなし。谷中人民は愚かなるのみならず、思慮も
何もないので、殺されるまでは死をも知らずです。国滅びて乞食に陥るまでは楽観
して、汝の胃袋を食い破る」

「廟堂(朝廷のこと)馬車来往、錦を飾る高等官等の奢侈貪欲、胃袋を破り、法律
を破り、憲法を忘れている。彼もまた殺さるるまで死を知らず。ただし神はいずれ
に近いか。谷中人民のこの愚鈍なる者に組するはもとよりにして、我々の光栄こ
こに存しては、また精神上の大勝利」

正造にとっては、貧しい農民も上流階級も気に入らないのです。だから両方に文句
を言っています。しかし、寄るべき場はその時谷中村にしかなかったので、「神に近
い」とまで言わざるをえませんでした。しかし、彼は死ぬまで谷中村民を自分に従わ
せようとしていますから、軽蔑していることには変わりありません。この手紙も明らか
に二枚舌で書かれているといえます。  
211名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 21:54:13 ID:yK8nBya10
>>210
あなたがいえるとかいう内容をほかの人が同意するとは到底思えませんが。
非常識で自称礼儀知らずの欠格人間のあなたにあらためてお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような大嘘を
つき続けるのは何故ですか?
暴かなくてはならないあなたの大嘘はこれ以外にも膨大にあるので、
さっさとけりをつけてくださいよ。
毎日、新しいでたらめをわめきちらしているんだから、約3ヶ月前のでたらめの
検証ができないわけはありませんよね。
それとも、8月31日のでたらめのように、それ以後も同じように口からでたらめ
をわめき続けていたわけですかね。
それとも、壊れたテープレコーダーには検証ということができないんですかね。
212名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 20:58:58 ID:9qpWckUX0
最晩年になると、彼の気に入らない原因の何もかもを、足尾銅山のせいにしてしまい
ます。死の1年前の大正元年8月14日に和田大三郎他に宛てた手紙は、次のように
書かれています。

「今日は(栃木)県会そのものが銅山のものなり。県の官吏も市民も富豪も銅山のも
のなり。銅山党にあらざれば人にあらずで、横尾(輝吉、元県議)の手腕も傲慢も勢
力も暴勢も、皆銅山党の尻持ち、尻押し、助力のためなり。隠然たる間諜遊説、離間
紹介集散、皆銅山の自在、殺活また銅山の自在にして、彼の衆議院議員の当選もま
た、銅山の応援の多大なる証拠たるを知るべきなり」

横尾輝吉は、早稲田出身で栃木県の県会議員を長く務めた後、明治35,45、大正
4年に衆議院議員に当選しています。
もともと田中正造の選挙参謀までした人ですが、被害農民と古河の間の示談交渉に
積極的に取りくんだりしたことから、正造の怒りをかい、徹底的に憎まれることになっ
たのです。それにしても、何の根拠もないことを、うわ言のようにしゃべっているだけ
ではありませんか。 
213名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 22:17:31 ID:KONSzzQ50
>>212
それこそ、政治家の評価は人によってさまざまなんじゃないですか?
横尾がよい政治家だったのか悪い政治家だったのかの判断はここでは
しませんがね。別に横尾がよい政治家だという人がいても、悪い政治家
だという人がいても、両方がいても誰も驚きませんよ。

あなたの言い方だと、田中正造が文句を言った相手は全部よい人で、
その理由は田中正造が文句を言ったからという理由しかないようですが。

ところで自称礼儀知らずの欠格人間のあなたに何度でも繰り返してお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
最初のうちは反論はいくらでも受けるようなえらそうなことを言っておきながら、
都合の悪いネタがどんどん出てくるとその主張すら消滅ですか。
214名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 21:00:17 ID:C+qlN4N80
正造の晩年に、自分の本当の姿を見せていた相手は、缶詰メーカー・逸見山
陽堂の経営者だった逸見斧吉でした。
経営者でありながら社会主義者と付き合い、公害のような社会問題にも関心
が深く、正造の行動に深い理解を示し、なんの仕事もせず収入の全くなかっ
た正造のためにお小遣いを渡していたので、彼に対しては大きな口をつくこ
とができなかったのでしょう。

正造はしばしば自分の弱い面を、逸見に対しては正直に見せています。
死の少し前の逸見宛の手紙(大正2年7月30日)に、足利の親戚に身を寄
せていた正造は下のように書きました。
誰に対しても、自分より偉い人間はいないかのごとく悪口を言う正造の反面
が現われています。これこそ正造の自己反省による本当の姿で、弱点を正
直に曝した数少ない文章ではないでしょうか。しかし、同時にみごとな2枚舌
でもあります。

「正造の30余年間は実に残忍なる反響、同志殺し、朋友殺し、親戚殺しの
反響、何のために他人に損さするも、その罪おのれの力および悟りの到らざ
るあり、です」
215名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 22:46:36 ID:RutCf3yz0
この人に掛かったらどんな人間も人非人になるな。
216名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 23:27:48 ID:65dxVsin0
>>214
私には全然そういう文章には見えませんですがね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及
したかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
でたらめは数日でホイホイと製造できるようですが、
真実の検証ができないのは何故ですか?

まさに、
>>212
>それにしても、何の根拠もないことを、うわ言のようにしゃべっているだけ
>ではありませんか。 
何度も書きますが、あなたの文章の最後は、あなた自身に使うのが
一番似合ってるみたいですよ。

217名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 20:03:32 ID:C2qBZwd20
田中正造の手紙や日記を見ていると、彼が被害農民を救済するのだと宣言してい
ながら、彼らを自分より下層の人々と思い込んでいた、ということがわかります。
実例を紹介していきます。

若いときに正造に共鳴して直接接蝕し、後に北海道に渡って雪印乳業を創立する
黒沢酉蔵に宛てて、明治37年11月7日、正造は谷中村から次の手紙を送りました。
ここで彼は、はっきりと「下層人民」という言葉を使っています。

「社会のこと、いよいよむずかしく、下層人民のこと、とうていその真相を知るべから
ず、と思うほどなり。正造7月31日よりこの谷中に出没起臥しても、いまだ人情の真
相を知るあたわずして、毎日毎日新たなることを耳にしては驚き且つ悲しみます」
218名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 22:47:53 ID:MDaddiG80
>>217
この文章に出てくる下層ってのは、生活に貧困しているという意味じゃ
ないんですか?
下等とか下劣とかいう意味合いには、少なくともとれませんね。
まあ、田中正造も古い時代の人だから、今から見れば差別発言だ!
と言われかねないことは言ってるし書いてますよ。
それは今の価値観で判断するのは逆に危険です。
どっちにしろ、この文章は全然そういう意味じゃないですね。

けれど、花村冨士男は現代の人です。
花村が「無害民の人々」と書いたら、それは現代人にとって
「無害民の人々」という意味です。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をついたのは何故ですか?
読者をだます以外の理由があるならお聞きしますよ。
219名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 21:43:51 ID:RytBY2pT0
継母の死去を知らせた木下尚江宛の手紙(明治43年5月26日付け)にも、一般社
会を下等、下級などと見下した表現があります。

「継母昨日死去。今日葬式に候。準備なかなかに出来てありて正造は世話なしです。
下等社会が案外に発明であるのを見ました。・・・この人々の間に妙な組織ありて広き
社会を知らない人々の社会は妙に成立しています。そこに下級社会の広い天地を見
るなり。ああ、神仏を知らぬこの人々にしてよくも神も仏も知りつつあるを見ました」   
220名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 21:55:29 ID:JjznJJ6b0
>>219
その文章は下等社会とか言われている人々のほうが
実は逆に神や仏に近い存在だという意味だととられることのほうが
多いようですが。
私はあなたの読み方のほうが恣意的なものだと思います。

それよりも、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
あなたの木下宛の文章の読み方のように、恣意的に違う意味にとろうと思いながら
読まない限り、そもそも花村がそんなことを言う人じゃないってのが先に分かると
思いますが。

221名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/06(木) 19:58:01 ID:h5qP58wK0
一般の人々を「下層人民」だと思いこんでいた正造は、東京の公害被害者と栃木の
被害者についても差別の目を注いでいます。
明治44年3月、東京にいた正造は浅野セメントの煙害による公害反対運動に遭遇
したので、すぐさま谷中村の残留農民たちにこのことを伝える手紙を書きます。
しかし、相変わらず、農民たちを叱りつける内容でした。
21日付けの島田熊吉・宗三・渡辺長輔宛のそれにはこうあります。

「東京の深川区にては、老年、青年団体の大会やら政談演説やら、非常に元気である。
これを藤岡(旧谷中村)、部屋(村)辺の人々に比せば、死したる鼠と生きたる猫ほどの大
差である。青年の元気のなさは何ともかとも、神にも仏にも捨てられるのみ」
222名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/06(木) 20:26:28 ID:AoCFwHok0
>>221
そりゃたいして運動してないんだからそういう言い方があっても
おかしくないですね。
それと、「藤岡(旧谷中村)」とか書いてますが、原文は「藤岡」だけです。
藤岡は谷中村が強制的に合併させられた町ですが、正造が藤岡と
書いたら、それは谷中村以外も含む当時の藤岡町全体のことですよ。
谷中村の人々のことを言いたいなら正造は谷中って書きますよ。
勝手に藤岡と旧谷中村を同じ意味にしないでください。
仮に正造が藤岡町全部のことを藤岡っていったにしても、谷中は藤岡の
一部であって全部じゃありません。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
藤岡が都合よく旧谷中村になっちゃうんだから、無害民も都合よく被害民に
なっちゃうんですよね。
でもそれは大嘘です。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:32:49 ID:fenS2Kux0
>>221の続きですが、翌22日付けの佐山梅吉、小川長三郎、川島要次郎など8人宛
のそれは、更に厳しく村人を責めるものでした。

「東京の深川では大騒ぎが始まった。これを谷中に比べれば、谷中には日本人は幾人
ありますか、ありましたか。借家人の如く、居候の如く、無籍ものの如く、自から軽くする。
鉱毒が来てもヘイヘイ、立てよヘイヘイ、すわれよヘイヘイ、退けよヘイヘイ。何ほどでも
悪人様の御見計いでよろしいです。田中ジイなどの申す事は、話が大きすぎて谷中には
嵌らぬ。谷中に嵌るは小さな欲。小さな話。田中のはべらぼうに大きくてダメダメとは 」

正造は、自分は進んでいて農民は遅れているという差別意識を死ぬまで捨てられなか
ったようです。しかし、こんなお説教をすれば農民との距離は離れるだけではありません
か。何と単純な人なのでしょう。何をしても成功しなかったのは当然です。  
224名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:50:43 ID:tMiX33Z/0
>>223
実際の谷中の人々の動きを見もせずに、
正造の言動にだけ文句をつけるのは変ですね。
正造の主張が正当か不当かの調査が完璧に抜けてますよ。
それに、何度も書きますがそんなのは別に法螺吹きドンキホーテの話でも
何でもないですね。
そういう細かいところにけちをつけて、田中正造を大嘘つきに仕立て上げる
つもりのようですが、
そこまで細かいところにけちをつけるつもりなら、「藤岡(旧谷中村)」にも
さっそくけちをつけてあげますよ。
藤岡は旧谷中村じゃありません。
谷中村が無理矢理合併させられた相手の町が藤岡町です。
同義でもないのに「藤岡(旧谷中村)」などとかき立てる。そっちのほうがはるかに
大嘘つきですね。
どうでもいい細かいところにけちをつけるから、そういうところまであなたの大嘘に
仕立て上げられてしまうんですよ。
正造の文章なんか、書き間違いはしょっちゅうだし、特に晩年は怒ってばかりで、
そういう感情のときに書いた文章だというのを差し引いて見なきゃだめですね。
そんなときにもの書くなって文句ならつけられるかもしれませんが。

ところで花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をついたのは何故ですか?
225名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 20:33:13 ID:Y1mn7w9Z0
正造は谷中の人々を何時までたっても理解できず、意識が低いと見ていたので絶えず
文句を言っていました。
逸見斧吉等が、谷中の人々のためにお手伝いさんを派遣しようと提案したことに関連し
て、正造は、明治44年6月24日、東京から島田熊吉・宗三兄弟に宛てて次の内容の
手紙を書いています。

「(昨年12月に谷中に帰って)逸見様のお話をせしに、うんともすんとも答える人なし。家
ごとに話しても、応ずる者なかりき。河川検分の途中に戻りて話しても一人も喜ぶ者なし。
・・・東京の逸見様や木下(尚江)様や島田(三郎)様のお世話とあらば、中学卒以上と同じ
で、人類学上は大学卒にも及ばぬのに、谷中の人民やたら反対するは、何か他に教唆
する者があると心得ます・・・」

「谷中の人民は良いことは耳に入らず、欲で丸められれば、首でもやるのですから。私は
半日でも谷中を離れ去るは残念なれど、年々老いて諸君のためになり申さず候。谷中の
人々が私の話を分かるのに、5ヶ月も6ヶ月もかかるのは、やり切れ申さず候」

こんなことで腹を立てるようでは、谷中の人々を救うことなどとても無理。彼には忍耐とい 
うものがまるでなかったのです。
226名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 20:42:58 ID:I6ab2DU90
>>225
相変わらず前後関係がよく分からない文章の
一部だけ抜き出しても何がなんだかわかりませんが。
正造が何かにいらだっているのと、誰かが誰かに何かを
吹き込んだのだと思っているということだけは分かりました
けれどね。
東京救済会の話でもしてるんですかね。これは。
どっちにしても全然法螺吹きドンキホーテの話じゃないこと
だけは確かですけどね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
まともな回答が得られない限り、ずっと聞き続けますよ。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 19:35:08 ID:ioRiprPC0
最晩年になると、正造の味方になる人はますます少なくなり、彼は周りはみんな敵だとい
う意識が強くなっていきます。
しかし、それでもなおかつ彼は、その残された「同志」にさえ「愚人」といってはばからない
のですから驚きます。自分は賢く、農民は愚かだという差別意識が、よほど強固だったの
でしょう。
この意識こそ、彼がどんどん信用を失い、孤立を深めていく原因なのに、それに気がつ
かず、だから不平はますます拡大するわけです。その結果、被害者妄想に取り付かれ
るのです。それを証明する手紙は次回に紹介します。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 21:09:27 ID:ZGR+Rmu20
>>227
あなたの証明は全然証明になってないようですが。
恣意的な事実の抜き出しや強引な解釈、
そして、事実の捏造までやってるんですからね。
まあ晩年の正造が怒りっぽくなっていたのは事実ですが、
それは全然法螺吹きドンキホーテの話じゃないですね。
実際に鉱毒はなくならなかったわけだし、
正造が死んでから古河が同盟会との契約書にはんこを
押すまでに60年以上かかってるわけですし、
そういう不都合な事実は全部、戦後に起きた関係ない
公害事件とかいって無視するんですからね。
都合のいいことなら、田川のような明らかに間違った記述で
さえ平気で使う。
一方、都合の悪いことなら、自身の著書でさえ違うとか言い出す。
だったらそんないかさま本をさっさと絶版にして、訂正を出すのが
ものかきとしての本当のやり方なのに、それすら知らないんです
かね。
ああ、ご存じないのなら一応書いておきますが、著者は一方的に
瞬時に本を絶版にできますよ。版元に電話1本「絶版にする」って
かければよろしい。あとでもめたくなかったら、同時に内容証明付き
郵便で同じものを版元に出しておくとよろしいでしょう。
自身も認めるいかさま本をこれ以上流布させないための、著者と
しての最低限のエチケットですね。

ところで花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

そういう大嘘がばれまくると、枝葉末節のごとき、正造の私信の言葉の
一つ一つにけちをつけだして、それでさぞかし立派なことをやっている
つもりなんだから驚きですよね。
そんな枝葉末節にけちをつけるから「藤岡(旧谷中村)」などという
捏造をまたまたやらかしてツッコミ入れられてるんですよね。
藤岡は谷中村が合併させられた町ですが同義ではありません。
当時の藤岡は旧谷中村民もいるし、元々の藤岡町民もいる町です。
229名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 20:58:54 ID:0QznduZC0
死の前年、大正元年9月8日付けの原田勘七郎・たけ子(姪夫婦)宛ての手紙には、次
のようにあります。

「正造には大小の反対あり。一は足尾銅山党、二は政府中のこの銅山党。下吏および
地方官中多大なり。大小議員中この類多し。郡長町村長中、十中の九は皆なり。警官
また同じ。しかして正造の同志たる者は被害窮民の餓えて食なしの徒にして、常によく
流言に左右せらるる愚人のみというも可なり」

「今は正造ただ一人にして関東5州、上野、下野、常陸、下総を救わんとするにありて、
歳月20年、今は人民もまた正造の心を知らず、ますます正造を疑って信ぜず、かえって
行為を賤しめる者十中の八、九なり」 

こんな孤立状態にありながら「正造ただ一人にして関東5州、上野、下野、常陸、下総を
救わんとする」と大言壮語するのですから、あきれてものが言えません。正にドンキホー
テそのものではありませんか。
230名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 21:41:55 ID:9V5P9CNG0
>>229
十中の八、九なりってのなら、残りの1割か2割は味方がいるんだから、
完全に孤立したわけじゃないじゃないですか。
そういう恣意的な文の読み方をするのは何故ですか?
そういう読み方をするから、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」
がいたと言った、とかいう大嘘を製造できるのですよ。
私はあなたにはあきれてものが言えません。
231名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/13(木) 19:37:21 ID:/gsHSwGQ0
大正元年11月11日には、谷中村の島田栄蔵・宗三、川島要次郎に宛てて、次のような
不満の手紙を出しています。

「予、9ヵ年谷中におり、谷中人民に同情して止まざるなり。しかし、谷中人民にのみ同情
すると思うなかれ。正造は人民中同情すべき人にのみ同情す。むしろ谷中には薄しとい
うも可なり。むしろ大薄情というも可なり。谷中人民人情に薄ければなり。谷中人民の同
志間を見れば明らかならざるを得ず。薄きものには常に薄し。厚きものには常に厚きも
のなればなり」

自分から谷中村に飛び込んで、村を救うのだといいながら、村民は「人情が薄い」と批判
するとは・・・。唖然とするほかありません。何と愚かな人なのでしょう。
232名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/13(木) 20:51:52 ID:zff+ZSXO0
>>231
単にそういう人がいたんでしょう。
農民の温度差みたいのが結構あったってのは
既に指摘がありますね。
そういう農民の意識も変えなきゃならんってのが
正造の主張なんだから、別にこれはおかしな文では
ありませんね。
むしろ、農民の言うとおりにして、果たして農民たちが
その後幸福になったのか。だまされて「こっちのほうがいい
に違いない」って判断して、結局あとでだまされてたことに
気付いたけどもう後の祭りだった人だなんて何人もいるわけ
です。それはそれまでも何人もいたし、その後もいるわけです。
具体的には、北斜面のいいところだとかいう栃木県の
役人の大嘘を信じて、南斜面の佐呂間の栃木集落にまで移住
して結局定着せずに逃げるように帰ってきちゃった人だって何人も
いるわけですよ。
そういうのは完全に無視ですか。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
こっちは農民の意識なんかは全然関係なく、花村が
「言った」「言わない」ってだけの話ですからね。
恣意的な解釈が入る余地はありません。
花村は「無害民の人々」と書いたのです。
そもそも花村の著書のどこに「穏健派被害民」とやらが登場
するんですか。
233名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 19:56:04 ID:p4G1HCou0
残された数少ない彼の「同志」である谷中村の残留農民への手紙は、彼の死が近づくほ
どさらに神経質で、不平ばかりになります。
死の半年前の大正2年2月5日に、川島要次郎他数人に東京の巣鴨館にいた正造が書
いた手紙から、東京の文化人を尊敬し、谷中の村人を軽蔑する正造の差別意識がよく
読み取れます。

「(慈善家の)多数の人々何回ともなしに(谷中に)来ている。しかるにこの人々をば恩とも
せず、かえって恨みに思うことこそあれ、未だ足尾銅山鉱毒沈澱池ともいう者なし。はな
はだしきは、堤防を破られてもこれを忘れ、たまたま東京より視察に来るもろくに人を集
めず、まことに少数の人にて、ご苦労様ですとただ一言、頭を地にすりつける人もなし、
隣近所から駆けつける人もなし、一向に有難げもなしです」

正造は谷中村を「鉱毒沈澱池」と言い続けました。しかし、当時農地は復旧していたので、
村人はそんな嘘を認めるわけにいかなかったのでしょう。彼は他人の立場になって考える
ことを全くしていません。いつも自分だけが正しいのです。

234名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/15(土) 22:36:21 ID:7IjW5Ebl0
>>233
旧谷中村の被害地は全然復旧してませんが?
未だに旧谷中村、現在は渡良瀬遊水地になっている場所を掘り返すと鉱毒が
いっぱい出てきて、旧谷中村以外の場所にはあそこの土を簡単に搬出することは
できないんですよ?
嘘だと思ったら国土交通省にでも聞いてください。
焼き捨ててなければ、きちんと資料が残ってるはずです。
そんなことも知らずにのうのうといかさまをかき続けるのは本当にあきれるしか
ないですね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような、
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

もちろんそれは、自身の大嘘を正当化するためですよね。
だって、鉱毒は、鉱毒汚染土を他の場所に捨てない限り恢復しないんですから。
それは100年も前に横井が明言していて、横井の言うとおり、未だに旧谷中村の
土壌からは鉱毒物質が出るんですから。

100年経ってもまだ、鉱毒は渡良瀬川の川底に残っています。
そしてそれは、搬出しない限り、100年くらいで消えることはありません。
そう明言したのは、私ではなくて横井です。
横井は正しいことを言いました。
掘り起こせば怒濤のごとく鉱毒が流れ出すので、誰も掘り返しません。
今、大きな被害がないことは、鉱毒が完全になくなったことを意味しません。
それは別の問題です。
235名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/16(日) 12:20:29 ID:9IP8wQp70
田中正造と勝海舟の関係が深く記されている本、全集って
どんなのか教えてもらえませんか?
236名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 20:11:43 ID:j6HZ4PyV0
川島要次郎他谷中村の人々に宛てた手紙には、次のようにも書かれています。村民に
対する差別意識は明らかですし、相変わらずお説教をしています。正造が他人に対して
失礼なことをしてこなかったかといえば、事実は正反対なのに、それに気づいていないの
です。

「頭をていねいに下げるくらいの、人の人たる道を稽古する必要がある。出来ないはずは
ない。くれぐれも、魚が多くとれるなぞのと、ホラを吹くはよろしくないです。東京その他より
来る人々の中には神様のような人も来る。我々は決して来客に失礼してはならないのです」

「魚が多くとれるなぞのと、ホラを吹くな」は、「東京の人に本当のことを言うな」という意味
でしょう。百姓はホラなど吹かないからです。
正造は自分の嘘にあわせてくれない農民に腹を立てたのでしょう。唖然とするばかりです。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 22:22:09 ID:NjV2Dtit0
>>235
『足尾銅山物語』小野崎敏にちょっと話が出てましたが、
まとまったのとなると全集めくるしかないかもしれませんね。
238名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 22:29:11 ID:NjV2Dtit0
>>236
そりゃ何が本当なのか、この文章だけでは分かりませんよ。
「魚がいっぱいとれた」、って言うと得になる、と、誰かに吹き込まれたのかも
しれませんし。そして、吹き込んだ本人は、逆の主張にそれを使おうとしている
のかもしれませんし。この文だけじゃなんだか分かりませんね。
あるいは、たとえば谷中村の思川で魚がとれた、って農民が言ったのを、
都合よく解釈して、そらみろ、被害地の谷中でこんなに魚がとれるんだ、
鉱毒被害地は完全復旧したなどと大嘘をたれまくる嘘つきが当時もいたんじゃないですか?

当時の谷中村は渡良瀬川だけしか流れてない村じゃありませんから、思川のような
別の水系(とは言っても最後は渡良瀬川に流れ込むんですが)の川や沼で
魚がとれてもおかしくはないんですけどね。
ただ、それは、鉱毒が無くなったり減ったりしたということは全然意味しません。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
谷中の魚の話は、実際どっちが本当かぱっと見この文だけじゃわかりません。
しかし、花村の著書にそんな言及がないというのは誰が見ても分かる事実です。
まずは検証可能な事実からお聞きしていきましょう。
何で大嘘をついてそのまんまなんですか?
239名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/18(火) 19:54:39 ID:15IZ92KV0
前回紹介した手紙から7日後、大正2年2月12日付けの島田熊吉・宗三宛ての手紙もまた、
谷中村民へのお説教で、農民を愚民扱いにしていることが良くわかります。

正造の最大の理解者であり、彼に何を言われても反抗せずに、従うべく努力をしていた
島田宗三に対して、なぜこんなことまで言わなければならないのか、全く理解できません。
宗三が離れていったら正造はこの村にいられなくなるぐらいなのに。彼は先のことなど何も
考えていなかったようです。手紙文は次回に紹介します。 
240名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/18(火) 20:42:24 ID:f3EiEJpK0
>>239
それは単にあなたにとって理解できない事実がこの世には存在する、
ただそれだけのことです。
勝手にあなたの価値観を当時の人間関係に押しつけないでください。

きっとあなたにとっては、自身の発言が大嘘だという事実も全く理解できないんでしょう。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
自身の発言が大嘘だという事実が全く理解できていないようですね。
そんな輩に、正造と島田の関係が理解できるはずありませんね。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/19(水) 21:02:29 ID:q7SqbqJH0
大正2年2月12日付けの島田熊吉・宗三宛ての手紙には、こう書かれています。

「谷中残留民は、下都賀南部10か町村を救う知識を持っている。この貴重の財産は数
千万の価なるか。論より証拠、これを周囲の無経験の村々に比べれば明らか。正造は
愚人なり。谷中残留民また愚人なり。愚人にしてなおかつこの知徳を得、この知徳の富
を有せり。しかれども、ここに一つの難題あり。谷中人民は自家有形の財産の価をすら
知らざりしより、財産を略奪せられたり。価を知らざれば価なしです。あれどもなきと同じ
です」
242名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/19(水) 22:46:12 ID:CAi2Iqvq0
>>241
自分も愚民だって書いてるし別に谷中の人々を
貶めるつもりの文じゃないですね。
って普通の人なら読むと思いますが。
何もかもが正造を悪人にするための証拠の文章にしか
見えないようですね。
だからこそ、自身が大嘘つきだとご自身で明言している文章
なんかも平気で書けるんですよね。
なんと言ってもあなたは自称礼儀知らずの欠格人間ですからね。
そんな欠格人間に何を言われても正造は別に困らないでしょう。

ところで、あなたが自称欠格人間だというのはもちろん、
あなたが本当に欠格人間だというのも十分分かった上でお聞きしますが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
そんな大嘘をついて、しかもあっという間にばれたのに、知らんふり
をして新たなでたらめを垂れ流しつづけるあなたは確かに欠格人間
ですね。
しかし、花村の名誉というものもありますから、あなたは大嘘をついた
理由を明言しなければなりません。
正造をけなすためには、花村の名誉などどうでもいいんですか。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 20:06:42 ID:u4V4W8880
よく読めばわかりますが、実は>>241に引用した手紙にはまるで内容がありません。
「論より証拠」とありますが、証拠など書いてありません。
なぜ谷中人民は「10か町村を救う知識」をもっているのでしょう。
なぜ「知徳の富を有す」のでしょう。
人民の財産とかを誰が何のために、どのように「略奪」したのでしょう。
言ってることが全く意味を成していません。
自分でも分かっていないのでしょうが、正造という人はなんともデタラメで、偉そうな言葉
を並べているだけ。だまされやすい人を脅かしているにすぎません。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 20:25:07 ID:JQiXIhhB0
>>243
田中正造は手紙を書き飛ばしてる人だから、それだけでは内容のない
ように見える手紙もいっぱいありますよ。
で、何で受取人でもないあなたがそんなことに文句を言える
んですか?
差出人と受取人の間にそれまでの意志の疎通があれば、たとえ
1文字の手紙でも、いや、0文字の白紙の手紙でも、差出人の
意図が伝わることもあるし、あるいはそうでないこともあるでしょう。
差出人と受取人の人間関係もろくに知らないあなたにとっては
内容のない手紙でも、当事者の間には内容のある手紙だった、
ただそれだけのことでしょう。
そうでないと80年も手紙が保存された理由がつきません。

しかし、あなたの発言にはまるで内容がありません。
しかも、大嘘ときています。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言及したかのような
大嘘をつき続けるのは、そして、その大嘘を訂正しないのは何故ですか?
自身が大嘘だと認めることがそんなに恥ずかしいですか?
私はそんなことにも素知らぬふりをしてさらなる大嘘をたれ流し続ける
ほうがもっとはずかしいと思いますけどね。
245名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 19:49:18 ID:JdLNnLGc0
田中正造は谷中の村民のためにいったい何をしたのでしょう。何一つしていません。
まともな仕事をしないで、食べ物も着るものも、他に必要な生活費や交通費その他も
すべて他人に依存しながら、彼のエネルギーの全部を注いだはずなのに、何の成果
も挙げていないのです。

三宅雪嶺、逸見斧吉、弁護士の今村力三郎や花井卓蔵ら東京の支援者は、「谷中村 
救援会」を作って残留民の移住を栃木県と交渉しようとしました。しかし、何もかも絶対
反対の正造はこれを受け入れず、立ち退き料値上げ要求の裁判闘争にも、当初は反
対しました。

結局、早稲田大学教授の安部磯雄たちと残留民が「不当廉価買収反対」の裁判を起
こし、正造もそれに加わるのですが、正造の死後、大正8年8月まで続いたこの裁判が
「残留民の団結を守り抜く要因になった」(由井正臣)のだそうです。
つまり、全エネルギーをかけた正造の行動は、まったく無効だったわけです。

246名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/22(土) 22:17:16 ID:9IJWPM3H0
>>245
訴訟は東京救済会が金を出すからやることになったわけで、
しかも、訴訟が始まってすぐに東京救済会が空中分解してしまい、
あとは農民たちが自分自身で裁判を続けなきゃならなかったという
前段の話があるわけですよ。
そういうのは完全に無視ですか。あるいはその程度のことも知らない
のかどっちでしょうかね。
またしても由井の言及を恣意的に使っているわけですが、
由井は農民が団結するのに訴訟が役立ったといっているだけであって、
正造の取り組みが無効だったなんて言ってませんよ。
あなたは前も、由井の言ってることを全然違えて使おうとしてツッコミ
入れられてたじゃないですか。またまた同じ失敗を繰り返すつもりですか?
「訴訟が役立った」と書いてあれば、正造の行動が無効だったという意味にしたい
ようですが、そんな大嘘は誰も信じませんよ。
由井が書いてもいないことを勝手に由井の発言にしないでください。
どっちにしてもそれは法螺吹きドンキホーテの話じゃないですね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
由井の言及をねじまげて使ったように、花村の言及をもねじまげて使おうと
したんですよね。だからそういう捏造が生まれるんですよね。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 19:50:44 ID:9/BeGH1q0
谷中村の残留農民を救うのだと宣言しながら、結局正造は何もできなかったわけですが、
それなのに彼は、何一つ職業を持とうとせず、谷中村の遊水池化反対を叫び続けて他に
何もせず、衣食住の全てを他人に依存することに徹したのです。

つまり彼は、経済的に自立しようとせず、貧しい農民からの借金さえ平気で踏み倒し、
扶養義務のある妻に生活費を与えず、甥たちに生活費や活動費を毎月送金させ、
東京の支援者や栃木県の有力者にお金を出させるなど、他人を上手にだまし、利用し
てその後半生を送ったのです。

次回からは、全集に載った手紙類によって、その実情を具体的に説明していきます。

248名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 21:28:25 ID:albC77Mw0
>>247
それぞれの宛名の人々と正造の人間関係をろくに知りもせずに、
いや、知ろうともせずに恣意的な解釈をしようとする人の妄想を
わざわざ信じる人がそんなにたくさんいるとは思えませんがね。
何度も書きますけれど、何でそんなろくでもない人の手紙が何千通も
残ってるんですか?
それはその当時の人々が、わざわざ残したからです。
死ぬ間際に、家も田んぼも手放すようなことになっても、正造さんからの手紙
だけは代々伝えていけと、直接は言わなかったかもしれないけれど、そうやって
伝えられた結果を、全集という形で我々は見ているわけです。
文筆家じゃない。総理大臣とかをやった人でもない。なのにそんな人に全集が
あって、しかも、死んで70年以上経ってから編まれた全集に、何千という書簡が
載ってるわけですよ。総理大臣をやった政治家ですら、たいした全集なんかない
人だっていくらでもいます。
何で、弟子の黒澤は、人生の最期に正造の全集を編もうとしたんですか?
何で、その時代まで、何千通もの手紙が残ったんですか?
それは単に田中正造が、あなたの言うような、農民に寄生しているだけの存在では
なかったからです。
正造が国会議員をやめてからも、鉱毒被害民たちは鉱毒に関して何か変化があるたびに
正造のところにやってきました。
待矢場両堰の人たちが、古河が新しい示談契約書持ってきたんだけどはんこ押した
ほうがいいかなあ? って相談に来たときは、ろくに契約書も見ずに、示談なんか絶対
するな、って怒って追い返してます。
正造がそうして追い返したおかげで、今でも鉱毒被害民たちは鉱毒反対運動を続けて
いるわけです。
そしてその人たちは、自分たちは正造の時代からずっと鉱毒反対運動をやり続けてきた
と言ってるわけです。
待矢場が当時、安直に永久示談契約書にはんこを押してたら、そこまで運動は続かなかった
でしょうね。
で、そういう自身に都合の悪い話は例によって全部無視ですか。
いやいや、無視ではありませんよね。そういうことがあった、ということすら知らないほどの
無知だから、それを前提とした話にもついていけないんですよね。
だから、
>>97
>>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
>キホーテ型人間には、反論しないことにします。
などと逃走宣言をしてその後ものうのうと大嘘をたれ流しできるんですよね。
あなたは反論しないのではなく、できないのです。
無知だから。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような大嘘を
つき続けるのは何故ですか?
あなたは花村や由井に単に寄生するだけの存在ですかね。
249名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/25(火) 20:29:41 ID:jolNV1+o0
『田中正造全集・16巻』の「解題」に、花村富士男はこう書いています。

「(明治)33年から39年まで、甥の(原田)定助が毎月かなりの金額を(正造に)提供し
ていたようである。正造は、毎月のように臨時費を定助に要求し、時にはそれが200円、
300円となることもあった。ほかに、弟の原田光次郎や妹の婿の原田勘七郎にも依頼
することがあった。定助は39年の綿糸相場で失敗し、再起不能の痛手を受け、以後
田中の財政を担当したのは、逸見斧吉、今村力三郎ら、主として東京の支援グループ
の人々であった」

事実関係にだいぶ誤りがありますが、これでも正造が大勢の人からお金をもらって
暮らしていたことがわかります。
実は、県会議員や国会議員は職業とはいえないので、彼は定職を持ったことがなく、
他人のお金で暮らしていたといってもいいのです。つまり、乞食と同じだったのです。
どのようにしてそれが可能になったのでしょう。他人をうまくだます才能があったから
としかいえませんが、手紙類を読むと次第に事情が分かってきます。

どうか、皆さんも全集で直接事実を探索してみてください。
歴史は自分で調べなければ面白くありません。
250名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 06:24:57 ID:247ecFqI0
>>249
その花村冨士男の言及をきちんと調べると、あなたが大嘘をついているという
のがよく分かるんですが。
そっちは完全無視ですか。
いや、反論すらできないんですか。

花村は、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとは言ってません。
「無害民の人々」と書いたのです。
無害民を勝手に穏健派被害民とやらに書き換えて、しかもそれが花村の
言及であるかのようにわめきちらす輩は大嘘つきです。
歴史は自分で調べなければ意味がありません。
ちゃんと自分で調べたから、このような大嘘を暴くことができるのです。

もちろん、ちゃんと自分で「近代足利市史」を読みましたよ。
そこにはどっかの誰かさんの言ってることが大嘘だと繰り返し書いてあります
からね。
しかも、どっかの誰かさんが大嘘をわめきちらす前に、もうそうだったと書いて
あるのですから。
近代足利市史で鉱毒を扱っている巻は、「別巻 史料編 鉱毒」の巻です。
足利市役所の窓口で買えますからぜひ購入して、大嘘を暴きましょう。
念のために書いておくと、これから足利市役所は年末年始休暇に入ります
ので購入はおはやめに。通販もやってます。詳しくは足利市役所まで!

>実は、県会議員や国会議員は職業とはいえないので、彼は定職を持ったことがなく、
>他人のお金で暮らしていたといってもいいのです。つまり、乞食と同じだったのです。
 国会議事堂前にでも行って勝手にわめいていてください。
251名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 20:41:09 ID:6bxOuw6b0
柴田三郎著『義人田中正造翁』(1921年)によれば、正造と同郷の江森泰吉は、
次のように発言しています。つまり、明治27年の日清戦争直後、正造は、学生
の江森と早稲田鶴巻町の学生下宿で暮らし始めたが、家賃の5円は正造が払
った。しかし、それは全額原田定助からの仕送りだった。翌年の秋には、7つの
部屋に台所付きの1軒家を家賃3円で借り、江森等学生3人と正造の4人がここ
に引っ越したが、その家賃も定助からの仕送りだった、と。

その上、正造は学生たちに「これで俺の根拠地はできた。時々田舎から人が訪
ねてくるが、そのときは迷惑だが泊めてやってほしい。彼らの食事代に月々3円
渡すから使ってくれ」とも言っていた、ということです。
252名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 00:03:07 ID:247ecFqI0
>>251
それで、代議士が学生と同居しちゃいかんという法があるんですか?
学生下宿だっていうんだから豪華な下宿でもないんでしょうしね。
だいたい、甥が下宿代出してたからといって何だっていうんですか?
ああ、言い忘れました。知らない人のために書いておくと、原田定助っていう
人は、正造の甥です。妹の息子に当たる人です。
正造が代議士をやめてから、県会議員とかになる人でもあります。

ところで、あなたの大好きな花村冨士男は、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」
がいたなどとは全然言っていないわけですが、
花村がそんなことを言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

>>249
>どうか、皆さんも全集で直接事実を探索してみてください。
調べましたとも! 全集だけじゃなくて、花村の6冊の正造に関する著書全部を、
「近代足利市史 別巻史料編 鉱毒」も。
田川の著書も、横井の鑑定書もみんな読みましたよ。
読んで分かった事実は、あなたは大嘘つきだということです。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 19:46:09 ID:wn5OZqDE0
花村富士男は「甥の原田定助は(明治)33年から毎月かなりの金額を(正造に)
提供していたようだ」と書いています。しかし、彼は正造の本を5冊も書いている
のに、なぜ前回の資料のことを無視したのでしょう。仕送りを始めた年に6年の
ずれがあるのです。

このことはともかくとして、正造の側近の活動家だった大出は、「定助は自ら
倹素を守って翁(正造)の生計一切を負担していた」(『毎日新聞』明治36年9
月11日)と書いています。倹約して送っていた定助の貴重なお金を、正造は、
定助と何にも関係のない学生たちの生活費や交際費に使っていたのです。
何と無礼なのでしょう。正造を尊敬し、信用して送金し続けた定助を、明らか
に馬鹿にした行為ではありませんか。

254名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 20:50:52 ID:soVf1G490
>>253
で、花村よりも柴田のほうが正確だと言い切れる理由は何ですか?
当事者でさえ、押し出しの回数や日付を間違って書いてたりする時代ですよ。
正造は選挙のたびに大借金をつくって、毎回、原田が尻ぬぐいをしてたのは事実
みたいですし当時も今も知られていたようですがね。
逆に言うと、正造が原田から資金援助をしてもらったのは、もっと前の時代に
さかのぼるでしょうね。
ただ、その事実をもって、柴田が正しいとか間違っているとか、
花村が正しいとか間違っているとかは言い切れません。
柴田と花村で、資金援助の基準が違うんでしょうから。

しかし、あなたが大嘘つきだというのははっきり断言できます。
何しろ、花村の言及は、「無害民の人々」であって、「穏健派被害民」ではないの
ですから。(花村は複数の著書があるので、言い回しは少しずつ違います。
また、このこと(非停止請願)のことをそもそも書いてない著書もあります)

さらにあなたは、「彼は正造の本を5冊も書いている」などと新たな大嘘をついて
いるではないですか。
今年、「愛の人 田中正造の生涯」が出ているんですから、全部で6冊です。
まあそんなのは、普通だったら、ああ、単にろくに調べて書いてないんだな、
とか放っておかれる内容ですが、正造のちょっとした言い間違いとかを
大嘘とかわめきちらすあなたのことですからね。それくらいは厳密にツッコミを
いれてあげなければいけませんね。
新しい大嘘がまた増えました。
花村は正造に関する本を6冊書いているのに、
>しかし、彼は正造の本を5冊も書いているのに、
などと、恣意的に数を減らしているのは何故ですか?

まあどっちにしろあなたがろくに花村の著書の数さえ数えてないというのはよく
分かりますけどね。
255名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 18:34:48 ID:D06+LpEI0
正造は、定職をもっていなかったので、国会議員だった時は、年800円の
歳費が収入の全てで、政治活動と生活の費用をこれでまかなっていたと思
われます。しかし、議員になってすぐの明治25年の段階で、すでに多額の
借金をしていたようです。その上、自分では返却できないので、支持者がそ
の尻拭いをしています。

明治36年9月11日、大出喜平は『毎日新聞』に次の内容の投稿をしました。
「翁(正造)は、少しばかりの田畑も売却し、余財はない。しかし、政治上の
費用は多年有志がこれを弁じて翁に心配させなかった。明治25年の選挙
費負債残高1500余円は、数年前まで佐野銀行にあったが、本人が知ら
ない間に22名の有志が代償した」
256名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 20:35:12 ID:3LvAONPy0
>>255
正造は国会議員の立場を利用して金儲けとかする人じゃ
なかったんで、議員生活を続ければ続けるほど借金が増え
ましたよ。だからどうだっていうんですか?
政治家や実業家から賄賂をもらう政治家よりはマシじゃない
ですか。
安蘇足利の人々にとっては、正造はそこまでして支持するに値する
人だった、ただそれだけのことです。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
自身の嘘の尻ぬぐいもできない輩の新たな大嘘のたれ流しなど、
誰も信用しませんよ。
ちょうど、自身の鉱毒の垂れ流しすらろくにできない鉱山が、
もう鉱毒は流さないって言っても誰も信用しないのと同じですね。

念のために書いておくと、古河市兵衛は、もう鉱毒は流さないなんて
言ってません。たれ流しを続ける前提の言及や契約書ばかりが残って
います。
257名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 06:13:23 ID:MsLYclbJ0
明けましておめでとうございます
今年も砂川某の独りよがりな戯言が楽しみです
こういう書き込みには反応してくれるんでしょうか

「外野のオバカさん」とか言って
258名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 20:36:14 ID:j0mXwtPt0
「信念」明けましておめでとうございます。
今年も今日も、鉱毒被害地の足尾銅山への監視は続きます。
田中正造が鉱毒反対運動に加わる前から始まった監視ですが、
田中正造が死んで95年経っても、監視はまだまだ続きます。
日本の公害の原点。そして、未だに解決のめどの経たない、
これからもずっと続く公害紛争です。
どっかの誰かが足尾のどこを見たのかは知りませんが、
まあ、あと100年は反対運動は続くでしょうね。
一見、緑が恢復したかのように見える足尾の山のその裏の、ちょっと
見た目には見えないところには、莫大な鉱毒物質が野積みされたままの
堆積場がまだまだ10以上残っています。
誰かさんが、自分の本を置いてもらうことにした、とか誇らしげに
書いていた、足尾のどっかの施設そのものは、実は堆積場の上に
建ってたりします。
そういうのは全部無視なんでしょうね。いや。自分の著書が、
野積みの堆積場の上で平然と売られているというのも知らないほど
無知なんでしょうね。
(※この場所は表向きは堆積場扱いされていません)
といったとっておきのネタがまだまだたくさん用意してあるのですが、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつくのは何故だかいっこうに答えがないので、とっておきのネタ
もまだとっておくだけでごらんいただけないのが残念です。

それにしても、大嘘を垂れ流すほうは1月の頭は休業ですか。うらやましい
ですね。でも、鉱毒被害地の監視は今日も休みはありません。
恐らく今、この時間も、被害地の水門では24時間体制の監視が続けられて
います。そして、鉱毒が入り込みそうになると、急いで水門を閉めるのです。
どっかの誰かさんは、それは古河市兵衛とは別の時代の話だとか言って
話をそらそうとするでしょうが、被害地の監視は古河市兵衛の時代からずっと
続いていて、2007年まで止めた時代はありません。2008年に止められれば
いいですが、多分、止めないでしょう。というより、止められないでしょう。
鉱毒被害地の鉱毒との戦いは、今年も、そして今日も続きます。
259名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 00:40:51 ID:GSfk32Cr0
田中正造が法螺吹きかどうかよりも、鉱毒の被害があったことは事実。田中正造がドンキホーテだと
いうことを立証して何になるのか。経済発展のための犠牲であり、今後、地球環境レベルで鉱山開発
の功罪を検証してみるべきでは?
260名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 16:51:25 ID:zliQ6hQF0
dionの規制が解除されたから、バカがまた書き込みにくるぞwww
261名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 19:59:51 ID:QgvbeNAJ0
年末年始で休みましたが、再開しようと思い入力したところ、アクセス規制
で出力不能になりました。やっと規制が解けたようです。

>>259に反論しますが、私は、足尾鉱毒事件や田中正造についての書物や
辞典や教科書の間違いを指摘しているだけです。「鉱山開発の功罪」につい
て論じているのではありません。テーマも次元もまるで違うではありませんか。
何の疑問もなく勘違いするあなたのような人がいる事に、唖然とするほかあ
りませんし、お気の毒様と思うだけです。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 20:30:07 ID:aqUEIAm00
>>261
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
という指摘にいっこうに答える気配がないのは何故ですか?

>辞典や教科書の間違いを指摘しているだけです
間違っているのは辞典や教科書ではなくあなたの主張です。
ありもしない「花村の10倍の穏健派被害民」を前提にしたら、
真実を書いている辞典や教科書が嘘扱いになるのは当たり前では
ないですか。

あなたは大嘘を通すために、花村の言及を捏造したのです。
ちなみに捏造はこれだけではありませんからね。
世界大百科事典が間違ってるとかわめきちらしたくせに、
その肝心の世界大百科事典の「足尾鉱毒事件」の項目を
捏造して提示したんですからね。
もっと山のように捏造があるんですからね。あなたには。

勘違いしているのはあなたではないですか。
唖然とするほかありませんし、お気の毒様と思うだけです。
263名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:06:06 ID:zVtKcG1k0
唖然とする他無いな、気の毒に。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 19:40:41 ID:bUbuFIqE0
>>255からの続きを書きます。

正造の選挙区の支援者たちは、実は、正造の歳費を抵当にして佐野銀行
から借り、歳費の半分を強制的に取り上げて返済していたということです。
ところが、明治32年に歳費が800円から2000円に増額された時、増額
案に反対だった正造は、歳費自体を拒否して「歳費辞退届け」を議会に提
出したため(4月19日)、以来彼は無報酬で国会議員をつづけました。

困ったのは大出喜平たち支援者です。
正造と同郷の江森泰吉によれば、一部の人々は失望のあまり正造の行
動を恨み、反対者も増えたということです(柴田三郎著『義人田中正造翁』)。
それでも、残った支援者たちがお金を出し合ってこの借金を返したのでしょう。
265名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 21:16:09 ID:z7gXDwsU0
>>264
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けて、
それを指摘されても素知らぬふりを続けるのは何故ですか?

もっともっと突っ込むネタが後ろで待機してますから、さっさと
けりをつけてくださいよ。

そもそも増額に反対したんだから増額された歳費は受け取らない、
っていう主張は特におかしくはないですけどね。
一部を受け取らないって方法は当時は選べなかったのか、とか
研究している人はいるみたいですけどね。

ただはっきり言えるのは、大嘘つきは田中正造ではなくてあなただ
ということです。
266名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 21:40:13 ID:NZrQhkwy0
あのさ、対話する気がないならブログでやれよ誰かさんは。
ここは一応開かれた掲示板なんだし、反論を無視して持論を垂れ流すだけだと
前スレのように削除されるよ。
267名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 19:58:38 ID:i4Tbqa5H0
このようなケースは無数にあるようです。正造は自分の借金を返す努力など
全くしないので、人のいい周りは仕方なく尻拭いをするしかなかったわけです。
他人に迷惑をかけることよりも、自分を格好よく見せるほうが、正造にとって
ずっと重要だったのでしょう。  

歳費辞退届けを提出した4日後、原田定助に宛てて正造は、「何という立派な
政治家なのだろう」と思わせるような文章を手紙に書きました(明治32年4月
23日)。

「今2000円を辞す。人は馬鹿という。・・・(しかしながらこの行為は)人心の
腐敗をして幾分の矯正を為すや疑いなし。その利挙げて算すべからず。嗚呼、
世の政治家の馬鹿この理を知らず、宗教道徳家またよくこれを行う者なし」

268名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 20:02:27 ID:eI+opO3G0
>>267
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けて、
しかも、それを指摘されているのに知らんぷりを続けているのは何故ですか?
大嘘つきはあなたではないですか。

それに、支持者は何故借金の申し込みに応じたんですか?
正造がたいして金を持ってなかったのは、少なくとも貸した人のほうは知ってる
はずですがね。
269名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 20:03:47 ID:eI+opO3G0
>>267
ああ、急いでて言い忘れました。
>267
>このようなケースは無数にあるようです。
これはもちろん、ご自身の大嘘があっという間にばれるというケースが
無数にある、という意味ですよね。
270名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 22:16:49 ID:NG64rb6/0
>>264
念のためにここで登場する柴田三郎の著書を確認しました。
だいたい見当がつくと思いますが、柴田の著書の原文はこれとは
全然違います。
まあそんなのは皆さん見当ついていると思いますのでこっちに置いておいて、
さらに重要なことは、この内容は、「伝聞」なのです。
田中正造が死んだ。その、死んで数日間の間に、柴田が、田中正造
ゆかりの人々に、田中正造のことを聞いて回った話をまとめた本なのです。

つまりどういうことか、というと、この、「失望のあまり正造の行動を恨み、」
というのは、柴田が言った内容ではなくて、柴田が別の人に聞いた話なの
です。
しかも、話した相手も当事者じゃない。そういう話を聞いたよ、というのを、
ちょっと喋っただけなのです。しかもそれが本人が死んで数日後に
ちらっと話しただけで、それに対する批判などは柴田は寄せていません。

いくらゆかりのある人が喋った内容だとはいえ、死んで数日後に聞いた
うわさ話みたいなものをあたかも真実であるかのように提示するのは
ずいぶん恣意的な内容ですね。

ついでに書いておくと、この同じ柴田の本には、かなりの金を積みあげて、
正造を買収しようとしたけど正造は突っぱねた、とかいう話もいくつも載って
ますけどね。そういうのは完全無視ですか。
ちなみに、買収しようとした相手が誰かとかいうのも載ってますよ。
古河市兵衛とかいう人だそうですよ。
この本をそこまで信じるのでしたらね。

念のために書いておくと、この本は、当事者から直接聞いたという意味で、
非常に重要な本ですが、しかし、事実と違ううわさ話もいっぱい載ってる、って
批判のある文書です。一応書いておきます。
で、誰かさんはそういうのも完全無視ですか。
しかも、自身に都合のよいことだけつまみ食いして、この本を使うと自身が
いっそう窮地に陥るというのも全然考えてないんですね。

そうそうすっかり忘れるところでしたが、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」
がいたと言ったかのような大嘘をつき続け、しかも、そう指摘しても答える気配が
ないのは何故ですか?
>>259 氏には答えられるのに、こちらの質問には答えられないのは何故ですか?
あなたが大嘘つきであるからという以外の理由があるのならお聞きしますよ。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 21:00:51 ID:PBtg20+g0
また規制があって、しばらく書き込みが出来ませんでした。>>266の方へ。
まともな歴史論争に繋がるようなコメントを寄せて下されば、喜んで対話し
ます。不毛な争いは読者の迷惑になるので、避けています。悪しからず。

本論は>>267から続けます。
しかし、この手紙を受け取った甥の定助はどう思ったでしょう。無収入になる
正造が「仕送りを増やしてほしい」といってくるに違いないのです。

定助の仕送りでは足りなくなったのは事実で、その後借金が増えて困った正
造は、蓼沼丈吉に「600円貸してほしい」と申し込みます。その手紙に、彼は、
何とこんな情けない事実を告白しています(明治34年2月23日)。こんな人
間に、「人心の腐敗の矯正」など、どうしてできるでしょう。

「当時正造は金銭大必要の最中に歳費を辞したれば、1銭の抵当となるべき
ものなく、他借の道絶え非常に困却の折柄、第3(選挙)区人民よりは・・・辞退
は名利のことなり、などと悪口せられ、ほとんど進退に苦しみたり。・・・昨春より
今春まではどしどしやっておりましたが、前書(手紙)の借金は出来いたし候」

蓼沼丈吉は、正造が「議員を辞めたら選挙区を譲り渡す」と約束した人ですから、
返してもらえないことは十分承知した上で、この600円(今の600万円ぐらい)は
融通したはずです。働くことをせず、収入の当ての全くない正造に、返却は不可
能だからです。 
272名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 22:27:20 ID:TYXZKM+70
読者の迷惑って、このスレはあなたのblogじゃないんだけど…。
それに読者の期待にこたえるというなら、是非「不毛な争い」が見たいです。
先生よろしく。
273名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 22:41:29 ID:M7pJ0QSV0
>>271
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいた、などとは
言っていない、という指摘は、
不毛な争いなんですか?
読者の迷惑なんですか?

読者にとって迷惑なのは、あなたの大嘘のたれ流しにつきあわされる
ことです。

不毛な争いを希望される方もいらっしゃるようですよ。
言っておくと私の自作自演ではありません。

たとえ読者の迷惑になろうがなるまいが、デタラメは指摘をし続けますよ。
花村は「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとは言ってません。

あなたにとっては、自身の大嘘への指摘が「迷惑」なんですよね。
しかし、あなたにとっての「迷惑」が、読者にとっての「迷惑」になるとは
限りませんよ。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 17:21:33 ID:UhjDcFPa0
dionは永久規制で良いよ
275名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 19:56:42 ID:fkSt/PnY0
先生、dionは他の荒らし行為の巻き添えになる規制が多いのでプロバイダーを変えた方がいいと思います。
276名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 20:58:23 ID:EAAVZ51A0
正造は、原田定助から定期的に仕送りをさせていただけではありません。
それ以外にもしばしば甥の定助にツケを回していました。

足利に住む定助が所用で横浜に行き、その帰りに日本橋の静岡屋という旅館
に泊まった折、新橋の越中屋という旅館に滞在していた正造に宛てて、正造が
未払いにした宿賃20円を払っておいたが、今後はこんな恥かしいことはしない
でほしい、と手紙で書き送っています(明治37年4月7日)。

「昨日横浜行き多用にてお目にかからず欠礼仕り候。本日も急用これあり候間
このまま帰国いたし候。静岡屋よりご持参相成り候由につき、本日金20円相
払い申し候。後静岡屋よりご持参はご免を蒙り候。小生より参上、直接に差し
上げ候様仕りべく候。よろしくご承知おき下されたく候」

親戚であるとはいえ、定助はどうして伯父が支払うべきお金まで出す必要があ
ったのでしょう。
しかし、金銭的に余裕がなくなるといくら人のいい甥でもそうはいかなくなります。
この手紙の一ヵ月後、定助は正造に大ショックを与える手紙を送るのです(明治
37年5月15日)。要点部分だけ引用します。

「引き続いての商況不振に加え、諸般の出費相かさみ、困難を加え候に付き、
先頃来家政を改め諸事節約致し候。伯父上にも昨年はおよそ1000円も御用
達致し、本年もすでに170余円に上り候に付き、お気の毒ながら、今後は1ヶ月
金20円にご改正下されたく候」  
277名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 21:58:22 ID:EvsbNjwo0
>>276
それで、花村は「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいた、などとは言っていない、
という指摘を無視し続けるのは何故ですか?

大嘘を暴かれてさぞ迷惑と感じられているとは思いますが、あなたにとっての
迷惑と、読者にとっての迷惑は必ずしも一致しません。
うっかり大嘘を真に受けそうになるほうが、はるかに重大な迷惑です。
大嘘がばれそうになると、新たな大嘘で覆い隠そうとするあなたのやりかたは
大変によく分かりましたが、それは卑怯な方法です。
そこであなたのそのやり方に乗らずに、わざわざ最初のほうで出てきた重大な
大嘘について、まともな回答があるまで何度も大嘘を指摘し続けてさしあげて
いるわけです。
自分で言うのも何ですが、あなたにこんなに親切にしてくれる人は探しても
なかなかいませんよ。

どっかの壊れたテープレコーダーと同じで、同じことを繰り返して言うことしか
できないとか言われるのもしゃくなので、一応、このへんで新ネタもふっておき
ます。
>>249
>実は、県会議員や国会議員は職業とはいえないので、彼は定職を持ったことがなく、
正造は、隣村のつくり酒屋で番頭をしていたことがあります。
したがってこれは真っ赤な嘘。
こんなすぐにばれる大嘘で読者をだまそうとするなんて、どっかの誰かは
何と浅はかなのでしょう。
もっともすぐに首になっちゃいますけどね。
278名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/30(水) 22:14:26 ID:5p7NTcXn0
>>272
「このスレはあなたのblogじゃないんだ」というけど、実際は大部分が私のコメント
ですよ。真正面から反論してくる人はいないじゃありませんか。
また、読者の迷惑になる不毛な争いを「是非見たい」といっても無理です。大勢の
読者に嫌がられるはずのことを、何でわざわざするものですか。
>>274
「永久規制で良い」と思う人が何で見に来るのでしょう。いやなら見なければいい。
>>275
他の荒らし行為の巻き添えになっているらしい、ということは、最近やっと分かって
きました。しかし、だからといって、今すぐ「プロバイダーを変えた方がいい」かどうか。
親切はありがたいのですが、もう少し様子を見たいと思います。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/30(水) 22:19:33 ID:FKHO1b5o0
>>278
真正面から反論してますが。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかの
ような大嘘をついたのは何故ですか?

そんな大嘘をついたまま知らんふりをして新しい大嘘を垂れ流して
も、その新しい大嘘は信用できないと重ねていっているのです。
あとからたれ流した大嘘が、大嘘でないと証明するためには、
まず、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいた、とどっかで
発言した証拠を探せばいいじゃないですか。
そうすればみんな信用しますよ。

私がさんざん探した文章は「無害民の人々」という表記だけでした
けどね。
280名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 21:45:32 ID:3Q8mOspS0
甥の原田定助からの仕送りが、月に20円(今の20万円ぐらい)に減額されたことを
前回書きましたが、その後定助の収入はピンチになり、次いでまもなく仕送りはスト
ップしたと思われます。
その通知をもらった正造は、慌てふためいて定助に次の手紙を書きました(明治37
年12月6日)。

「突然のお叱り状、謹んでその罪を待つべし。何はともあれ、この場合突然に兵糧
断絶は、出兵者のご決心として驚愕悲痛に候。これには何らかの離間者(仲違いを
工作する人間)あり。または貴下の善心を襲う悪魔の入り来るなるべし。しかりとい
えども、予だけは天に代わりてお留主を守るべし。その悪魔を誅して貴下の留主を
清むべし」
281名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 21:58:06 ID:RgHNwgm60
>>280
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
一度くらいなら単なる誤りかとも思ってあげられますが、あなたの
場合は文章の恣意的な捏造が多すぎるので、わざわざ指摘して
さしあげているのですよ。

しかも、
>>278
>「このスレはあなたのblogじゃないんだ」というけど、実際は大部分が私のコメント
>ですよ。
数えたら、私の発言だけで120ありました。
少なくとも、278分の120が他人の発言なんだから、あなたのコメントは全然
「大部分」ではありませんね。
妄想の国ではそういう捏造はいくらでもできるのでしょうが、現実世界では
その手は通用しません。
このスレの発言の278分の120、実に43%は私の発言です。
あなたの発言は「大部分」ではありません。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 20:16:14 ID:dhW8BT210
明治37年12月6日付けの、定助に宛てた手紙のつづきです。

「ハガキにて兵糧断絶のお断り書あり。呆然進退を失ったり。かく兵糧に困らせられ
ては今後は何人に申し出ずべきか。厳本殿にでも内願せば可なるか。このハガキは
俄然兵糧断絶して、実に驚愕して、予は手足措く所を知らざるなり」

送金停止の理由を、「これには何らかの離間者あり」と、正造と定助を仲違いする工
作があったと断じたり、定助の「善心を襲う悪魔」がいるような話をつくるなど、正造と
いう人は驚くべき異常者だということが、これではっきりします。

田中正造の研究者である花村富士男は、「定助は39年の綿糸相場で失敗し、再起
不能の痛手を受けた」と、『田中正造全集・16巻』に書いていますが、実際には明治
37年の末には、上記のように仕送りができない経済状態になっていたのです。                           

実は、原田定助が「お気の毒ながら、今後は1ヶ月金20円にご改正下されたく候」と、
仕送り金の減額を通知してまもなく、正造は名古屋に住む定助の姉夫婦、原田勘七
郎・たけ子に「金送れ」の手紙を書いていたらしく、正造の姪とそのお婿さんは、明治
37年7月9日に正造に次の内容の手紙を出しています。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 20:36:06 ID:24IHD+K10
>>282
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらは、このスレの実に2レス
目で既に登場します。
ところが、そんな「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらは実在
しませんでした。
実際の花村の言い方は「無害民の人々」です。

2レス目でそんな大嘘をたれ流して訂正もしていない輩の言うことが、
どうして信用に値するのでしょう?
しかも、大嘘が完璧にばれてから、既に5ヶ月が経とうとしています。
284名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 22:11:46 ID:01rYojsl0
明治37年7月9日に正造の姪とそのお婿さん(原田夫妻)が正造に宛てた手紙とは
こうです。

「御用金なるべく都合致したく候えども、御要求額はあるいは難しいと存知候。昨年
お約束して未だ果たさざりし金15円は、本月14,5日頃出浜(横浜行き)致し候に
付き、その節上京、久々にて拝面致したく、持参致すべく候。横浜よりまたまた出状
(お手紙)致すべく候」

この文面から、正造はすでに前の年に原田夫婦にお金をねだっていたとともに、最
近また、この二人には無理と思われる額のお金を要求していた事実がわかります。
国会議員を務めた名士で、どこかの顧問でも引き受ければ月に50円でも100円で
ももらえるはずの有名人が、15円を出費するのも難しい親戚に、何で「お金を恵ん
でくれ」という手紙を出さなければならないのでしょう。
        
実は、原田家には定助の弟である原田光次郎がいますが、正造はこの人にもタカル
のです。 
285名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 21:29:39 ID:jSp07hOi0
原田光次郎は大阪にいたようですが、明治38年2月11日、東京の弁護士・今村
力三郎宅に寄留していた正造に宛てて、次の手紙を書いています。
この文面から、正造が「100円送れ」とこの甥に要求していたこと、しかし、甥はお
金がないので、友人にお金を送らせたことがわかります。
何とも不自然な話ではありませんか。
正造は誰彼かまわずお金を出させ、それで乞食のように生きていたのです。

「田中伯父上様。数日中に金100円ご送付申上べく候。これは当てにしておいて
大丈夫なり。一友人より尊台に進呈するはずなり。小生の力によるに非ず。届先
は今村氏に致すべく、その折は改めてご通知申上げ候」

100円といえば、今の100万円位ですから、相当な生活費が甥のお陰で手に入
ったことになります。知らない人間からお金をもらうことに、正造は何の抵抗も感じ
ていないのです。何と異常な悪(わる)なのでしょう。                                                       

286名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 21:47:16 ID:+GaBCXdY0
>>285
>何と異常な悪(わる)なのでしょう。
これは、花村冨士夫の文章を不当に改ざんして、
しかもその悪事がばれてもそのまま素知らぬふり
をし続けているあなたにまさにぴったりな表現ですよ。

花村は、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」などとは
言ってないし書いてません。
花村の表現は、「無害民の人々」です。
そんな大嘘をついて、しかも、それを指摘されても
平然としていられるのは何故ですか?

「嘘つきだから」
それ以外の理由が、私には考えつきません。
287名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 20:46:55 ID:6v5VrI3Z0
前回の手紙は、大阪在住の原田光次郎からのものでしたが、それから2ヵ月後
には、光次郎は中国の牛荘(にゅうちゃん)の日本大使館に在籍していて、この
地から東京の今村弁護士宅に寄留していたらしい正造に宛てて、「お金を送った」
という手紙を出しています(明治38年4月8日)。

この文面から、正造の甥の原田光次郎が、兄定助に代わって正造に月20円ずつ
送金する約束をし、3月からそれを実行し始めたこと、しかし、光次郎は、4月分で
さえ送金できるかどうか分からないほど貧乏だということ、兄定助も戦争で従軍し
ていることなどが読み取れます。

「先月および先々月送金いたしかねたるは、遊びおりて差し支えたるために候。お
詫び申し上げ候。本日、今村君宛にて20円相送り申し候。4月分は都合相付き次
第お送り申し上げるべく候。兄定助は目下奉天にあり。歩兵50連隊第一大隊、陸
軍3等主計にて、ご書簡下さり候わば相届き申し候。小生も当分は貧乏、先ず致し
方なしとあきらめ申し上げ候」

それにしても、この兄弟はいったいなぜ、伯父の生活費を負担しなければならなか
ったのでしょう。親戚だから仕方がないと思ったのでしょうか。同情を禁じえません。



288名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 21:54:53 ID:eDvcK1xx0
>>287
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」と言ったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

答えない理由は知っています。答えられないからです。
知っててわざわざ聞いてさしあげているのです。

それにしても政治家が資金集めをしている手紙の端っこに
いちいちけちつけるだけなんて何とみみっちい指摘でしょう。
289名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 20:00:27 ID:vjoA7Gxv0
毎月仕送りをしていた甥の原田定助は事業に失敗して、正造への仕送りができ
なくなったことは、すでにお知らせしたとおりです。
しかし、相当にあつかましい性格だったのでしょうが、正造はしばしばこのお人よ
しの甥に平気で付けを回していたようです。次の手紙からこの事実を読み取るこ
とができます。
「過般来再三の御用達、ことに東京静岡屋にても、御用向きこれあり候由に付き、
当分3カ月位は御用金ご下命はお断り申し上げ候」(明治39年7月31日)

正造は、東京日本橋の静岡屋という旅館をよく利用していたようですが、宿泊代を
払わないので、しばしば定助のもとに請求書が回ってきたようです。金銭的な余裕
がなくなって困っているのに、定助はきっぱりと断ることができません。「当分3カ月
位はお断り申し上げたい」としか言えないのです。
290名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 20:21:04 ID:0UR3phiz0
>>289
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

私は、あなたが答えない。答えられないということを全世界の皆々様に
お伝えできればよいので。別にあなたが答えなくてもいっこうに困りません
がね。

自身では大嘘をつき続けながら、その大嘘の後始末もせずに新たな大嘘を
つき続けるとは、あなたは何という大嘘つきなのでしょう。
291名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 20:53:56 ID:ZHxEZHm80
そこで正造は、かえって強気に出てタカリをつづけたようで、その3年後に定助に
お金を無心するこんな手紙を書いています(明治42年4月6日)。

「(来る4月10日に前橋のキリスト教青年会で講演をします。そこで前橋へ行きます
が、行きの)銭は都合できますけれども、帰路の時もし同地の厄介なければ、帰れ
ぬ時は残念ですから、金5円ばかり、前橋の弁護士徳江玄之助氏金主に付き、こ
の人のところにご恵送下さり候わば、ありがたく奉り存じ候」 

確実にはわかりませんが、定助はおそらく正造の言うとおりにしたでしょう。                                                                               
正造のような人は、相手を見てこれはお人よしだと見ると、どんどん付け上がります。
なんとも厚かましい人たちなのです。

292名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 21:30:58 ID:8VfwuAXO0
>>291
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

私はあなたが答えられない、という事実を全世界の皆様に紹介したくて
しょうがないのですが、不思議なことにあなたは私の望んだとおりの
行動をとっていますね。

全世界の皆様に念をおしておきますが、自作自演ではありません。
293名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 20:58:48 ID:z+byvfhs0
甥である原田定助に対するお金の無心は、定助に経済力がなくなってからもまだ
まだ続きました。
明治43年11月27日付けの正造の次の手紙は、その事実を証明しています。
正造がどのような文章を使ってお金を出させていたかが分かって、興味深いもの
があります。

「一概には申し上げかね候えども、新たな獲物もこれあり候えば、多大の車代この
たび限りご許容相願候。下野は事実上滅亡に候えども、谷中の窮民19戸独りが
人民中残り、人民の一部分とは相成り候。あわれ、あわれ、御洞察、御洞察」
294名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 21:39:11 ID:BYYoVgmg0
>>293
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

鉱毒関連のネタを出すとすぐにぼろが出ると気付くと、
細かい資金援助の手紙を持ち出してきてけちをつけるくらい
しかできないようですね。
政治家が資金集めに苦労するのはいつの時代だって同じです。
どのようにして金を集めていたのかは分かりますが、一応書いて
おくとそれは新発見でも何でもありません。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 21:13:43 ID:FFHQb5zF0
前回の手紙で、正造が定助から相当多額の交通費をもらおうとしたことがわかります。
しかし、この3年前には、正造はこの定助をさんざんこき下ろす手紙を、定助の姉であ
る原田たけ子に宛てて出していたのです。こんなこと言う資格が彼にあるのでしょうか。
あまりにも非常識です。

「近頃聞く。定助殿より聞く。連戦連敗なりという。しれた事、足利にいて勝敗を争うて敗
するはもとよりなり。かく過ちを幾度もなすは何のことです。兄弟には相談がないのか。
如何。身を戦地に投ぜざれば勝敗に手出しすべからざるは、三才の童子も知るところの
兵法なり。前に忠告せし時は論題にならぬとして用いず。今またその敗を重ねる。
何たることに候や。・・・定助は洋糸のほか何の相場も知らぬ人です。書画も知らず、人
物の相場はなおさら暗し。危うき事薄氷を踏む如し」(明治40年12月18日)。                                              


296名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/16(土) 00:40:46 ID:q26yinj40
>>295
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

都合の悪い話は完全無視ですか?
あなたがそういう態度をとる輩だということを、全世界にお披露目
したがるのは何でですかね。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 21:13:29 ID:0iotnnmH0
田中正造が甥の原田定助に対して掛けた迷惑は、相当に根深いものがあります。
栃木町の長谷川氏が正造に宛てた次の手紙は、正造が「定助に返させるから」という
約束で勝手にお金を借りたものの、何時までも約束を果たさないので、正造に対して
「原田さんに催促してほしい」という、変てこりんな内容になっています。

「過日、原田定助様より御回し下さる約束で差し上げたお金のことですが、いまだ御送
金がないため、義母と家内から苦情が起こり、小生はほとんど途方に暮れております。
原田様から御送金下さるよう大至急お願い申しあげます」(明治39年3月28日)。 

結局、定助は正造が借りたこのお金を支払わされました。その直後に正造に宛てた手
紙が、その事実を証明しています。事業に失敗して暮らしにも困っている定助が、伯父
に対して本当に怒っていることが分かります(明治39年4月2日付け)。

「長谷川氏へ本日送金致し候。以後外様より借用の義はお断り申し上げ候」                          
298名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 21:34:12 ID:oVE+e5df0
>>297
迷惑かどうかは原田が決めることであなたの決めることではないですね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
大嘘かどうかは私が決めなくても、ここをごらんの皆様が決めて
くれるでしょう。
299名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 19:55:23 ID:TYHx+AuU0
しかし、甥に対してこんな迷惑を掛けながら、彼は、最晩年になると逆に甥の定助から
迷惑を受けていると、他人に吹聴するのですから、あきれるばかりです。
大正2年2月12日の石関郡蔵、白石五平、篠崎平吉(足利町)宛の次の手紙を読んで
みてください。

「小中(正造の実家)の田畑わずか3,4反のことにつき、貴君らの手をわずらわし・・・
(しかしながら)原田定助氏は、商法に通人なりしも通俗の人事に暗きより、正造の多
忙をよく覚らず、小中の田畑の相場もよく知らず候。私より小島国平氏をもって申し入
れても、話も途中で流れ、ついに6年の長きにわたり、正造は蓼沼、島田両氏に偽りを
申したようにもなり、信用も減るわけとなる。正造が迷惑することなぞは、原田氏は夢
にも悟らず、この推量の乏しきは原田氏の通弊とも申すべき・・・」
300名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 20:18:44 ID:I/s2BpON0
>>299
それこそ前提の話が分からないと意味が通じない手紙を
出してきてどうするんですか。
この手紙には前提があります。小中の土地のことで何かが
あったことが分かります。
半分くらいのことは推測ができますが、あとの半分の内容は
これだけではよく分かりませんね。
そういう前提を完全に無視して、自身の都合のよいように
中身を歪曲して伝えようとするのは何故ですかね?
あなたのやりかたはいつもそうですね。
たとえば、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をたれ流して、嘘がばれても知らん顔を
して新たな大嘘を垂れ流す。

田中正造のような、資料がいっぱい残っている人の場合、自身に
都合のよい資料がいっぱいあると喜んで使おうとすると、同じ資料
の中に、全く逆の意味の内容もいっぱいあったりするわけですよ。
それを、自身に都合のよい内容だけを、それも恣意的に歪曲して
使うのですから、自身に都合のよい話ばかり製造できるのは当然
です。
しかし事実はそうではありません。それは、製造された大嘘です。
301名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 21:22:08 ID:SC5YVaYw0
前回の手紙に関連する、定助から正造宛ての7年前の手紙を紹介します。

「小中の山林書き換え済み、御安心下されたく候。島田先生への手紙に小生の連名
云々仰せ候ども、小生名義御使用の義は御免を蒙りたく候」(明治39年6月13日)。

正造は、甥に自分の家の不動産の書き換えを頼んだのでしょう。しかし、その結果に
不満なので彼を非難したようです。しかし、甥としては、この時点で、人の名前を勝手
に使う伯父に抗議しています。どう見ても正造のほうが非常識ではありませんか。                  
なお、島田先生とは、正造の親友で国会議員、正造の宣伝機関同様の新聞社を経
営していた島田三郎のことです。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 22:23:16 ID:jyo/ITNv0
>>301
それで、手紙の内容の前提を知ろうともしないで文章に文句を
つけているだけのあなたの言うことなど全然信用できないんですが。
何かトラブルがあったらしいというのは分かりますし、内容も
半分くらいは推測できますがね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとは
言っていないというのは、何の前提もいらない事実です。
花村はそんなことを言う人じゃないですし、言ったとしたら、何かの
言い間違いでしょう。
花村の言い方は「無害民の人々」なのですから。

で、花村が、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
303名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 20:40:19 ID:RsCj9f1J0
正造の実家の家屋敷、田畑・山林は、手紙類を見る限り、篠崎という医者その他に
売り渡しましたが、蓼沼丈吉や島田雄三郎その他への借金の返済に充て、残りは
(実家のある)小中の青年団に寄付したようです。

しかし、その寄付の名義人を原田定助にしたとも正造は書いています。おそらく、
定助が正造の生活費のほとんどを負担していたことに配慮したためだと思われます。
ただし、書かれた数字は怪しいし、全体にどこまで本当なのかも分かりません。
定助の姉の原田たけ子・勘七郎夫婦に宛てた2通の手紙から、そのことは推察でき
ます。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 21:03:59 ID:aZ4SxQR50
>>303
家屋敷は誰にも売ってませんよ。
そのへんの研究は相当詳しくやってる人がいるので、
ちゃんと先行した研究を読んでから書いてください。
先行する研究は正しいとか間違いだとか言うのならまだしも、
見もせずにでたらめを製造する道具に使われては困ります。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどという
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
305名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 19:56:28 ID:+xU7Z26o0
前回に述べた2通の手紙(正造から原田たけ子宛)を引用します。

「医師篠崎氏には、家も土蔵も屋敷も残らず譲り渡し候。・・・正造は天地を家とし、
同胞千万億兆の人民皆わが兄弟なり。皆わが父母姉妹、子孫にて候。今日の正造
は正にこの人にて候。正造は今この天国に生活せり。まことに貧し。しかも貧しきも
のは幸いなりにて候」(大正2年3月4日)

「正造から足利(原田定助のこと)へ預けた田畑3反6畝は、小中回復農業会青年団
の学田に寄付することにした。ただ、蓼沼、島田雄三郎に400円、その他少しずつ
500円ばかり古い借金があるので、右の田畑は1000円から8,900円のものであるから、
500円を引き二人に完済しても3,400円は残る。その分が小中の農業会の寄付になる
わけ。寄付名義人は原田定助になる」(大正2年3月7日。文章は現代文に直した) 
    
「正造は今この天国に生活せり」は明らかに二枚舌。大法螺。ペテン師は言葉で人
を騙すのです。定助からの送金その他に1銭のお礼もしないのはなぜでしょう。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 21:20:45 ID:ljQek1o50
>>305
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

礼をこの場でしなかったからといって、別のときにしてないとは
限りませんよね。
ちなみに、定助はこの年、正造の葬式をあげることになります。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 05:37:29 ID:+iB4ITj50
最近は針小棒大は目立ったけどでっち上げはあまりしてなかったようなんだけど、
また大胆な捏造をするようになってるな。
死後は舌抜き確定だな、かわいそうに。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:11:26 ID:Ll5Hm6/V0
同じ原田なので、やはり正造の親戚だと思いますが、足利町の原田政七に正造が
宛てた明治40年4月9日の手紙もまた、きわめて興味深いものがあります。
同時にこれは、原田定助からの送金が途絶え、定助の姉や弟も頼りにならない事
が分かった正造が、やむなくこの人に泣きついたことがわかる極めて貴重な資料
でもあります。

「1.金20円也。右借用致したく候。実は御貰い申したいのです。貰うとは申せぬから借用
と申し上げます。委細は後で分かります。定助殿には当分お話しお控え下されたく候」

「貰うとは申せぬから借用と申し上げます」に、皆さんはどんな感想を持ちますか。
いかにも正造らしい手口だと、私は思います。ずるいのか正直なのか馬鹿なのか、
相手を混乱させているからです。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:20:32 ID:9ImEKkTF0
>>308
「思いますが」じゃなくてちゃんと調べてから書いたらどうですか。
そんなのすぐに調べがつきますよ。
調べもせずに書くから、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘がつけるのです。
鉱毒被害地なんか行かなくても、情報は東京で全部手に入るんじゃ
なかったんですか?
安心してください。国会図書館におさまっている文献の中に、原田政七が
田中正造の親戚なのかそうじゃないのか書いてある文献がおさめられて
いますから。ただその文献がどれなのかはわざと言いません。
そんな基本的なことも調べずに適当なことを書く輩の主張など、どうして
信用できるというのでしょう?
310名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 19:59:12 ID:gDdVyeMS0
前回の原田政七宛ての手紙(明治40年4月9日)の続きです。
「本金このたび限りごく内にてご貸与相願いたく候。なお、あと20円計り、佐野(町)小島氏
にも前に申し上げ候事あり。ごく内にて願い上げ候。・・・名古屋(定助の姉原田たけ子の
こと)よりは少しずつ贈られ、定助殿よりも少々ずつはもらって今日までやり来り候ところ、
ここに非常の欠乏を生じ、全く進退差し支え候次第、何とも申し上げ兼ね候えども、今回
だけ極内にてご採用下されおきたく、伏して、ひとえに懇願仕り候」

佐野の小島の分も20円くれと頼む所にも、ずるさが感じられます。自分の分なのに、他人
の分だといってだますのも、彼らしい手口でしょう。
「定助やたけ子からの送金がまだある」というのも、おそらく真っ赤な嘘です。                            
「今回だけ極内にて・・・」も、人をだます者のよく使う台詞です。
311名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 20:05:20 ID:Wn1gr4Bg0
>>310
人をよくだます者の使う台詞に、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかの
ような言い方があります。
直接そうは言ってないとか言い逃れをするんでしょうけどね。
いや、その前に言い逃れすらしないしできないでしょうけどね。
312名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 20:45:57 ID:jNBiaEEG0
原田定助からの送金がストップした後、正造がお金をねだり続けたのは、缶詰メーカーの
2代目社長だった逸見斧吉でした。

全集にある手紙類を見てみると、かなり頻繁に「金をくれ」と言っていたことがわかります。
斧吉に宛てた次の手紙は、お金の前にまず着る物を求めていますが、彼の場合、衣食住
の全てを他人に依存していたので、他人からもらうものは、現金以外の方がはるかに大き
かったのではないかと思われます。

他人からお金や物をもらうコツのようなものが、これを読めばよくわかると思います。
それにしても、彼はなぜ自分で働いて、自分のお金で生活しようとしなかったのでしょう。
人救いをしているのだから当然と考えたのでしょうか。手紙文は次回にします。

313名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 22:40:46 ID:Tr4qsp2I0
>>312
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
いったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
次回に回さなくていいので、すぐに答えてください。
答えないと、私の言ったとおり、答えない、答えることができない
という事実を全世界にお披露目することになりますよ。
314名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 19:38:30 ID:9frzmiFJ0
斧吉に宛てた正造の手紙です。
「今宇都宮に着きました。然るに、着る物は単衣一つに袷せ一つ、薄い下着二つに
外套ですけれども、少々寒く候間、小包にて羽織だけお贈り下され度、お手数お願
い申し上げ候」
「困るは例の金円にて候。まことにまことに重ね重ね恐れ入り候えども、金5円也
小包の中に為替でお入れお願い申し上げ候」(明治40年11月18日)

その9日後、正造は、宇都宮の猪熊国三郎方から斧吉に宛ててハガキの礼状を出
しています。この内容も興味深いものがあります。紹介します。

「昨日、ご封書と小包正に拝受。御封中の御為替も正に拝受仕り候。右お手数か
たがた、ひとかたならず有難く奉り存じ候。さて、わたくし自分の用には数通の手
紙差し上げても、着物も懐も暖かくなり、用が足りると、御礼にはただこの端書一
葉です。恐縮恐縮」(明治40年11月27日)      

315名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 20:16:03 ID:OW9ebq/b0
>>314
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
そして大嘘がばれても、取り消そうともしないのは何故ですか?
私にはよく分かりますよ。取り消したら自分が大嘘つきだと言う
ことになりますからね。
でも、取り消さないでいると、大嘘をそのままにしておく単なる大嘘
つきですよ。
316名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 21:16:46 ID:G9PlAAhb0
逸見斧吉には、何時までも甘えてお金の無心を続けていたようで、それは正造
に宛てた斧吉の次の手紙からも証明できます。
その内容から、斧吉は正造の行動にむしろ反対していることが判明しますが、
にもかかわらず、お人よしの斧吉は送金を続けたこともわかります。

「遊水池問題も茨城はついに可決の醜態を演じました様子。ご焦慮の程も拝察
され、ただただ噂してのみおります。如何とも力が及びません」

「(しかし)問題が問題のため、闘われることは、真の解決をもたらすでしょうか。
いつもながらの疑問に打たれる次第でございます。別券にて少しばかりお送りし
ます。またご入用の時にはおっしゃって下さいませ。すぐお送り申しあげます」
(明治42年12月6日)   
317名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 23:10:03 ID:mSBJ7kmg0
>>316
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けて、しかも嘘がばれても
訂正しないのは何故ですか?
金勘定の話は有名な話なので、そんな話をされても誰も
驚きませんよ。
それに、正造は生活自体は質素だった人です。借りた金で豪遊してた
わけでも何でもない。お金はみんな鉱毒反対運動に使ってしま
っていたのです。借りたりもらった金で豪遊でもしてたのなら
話はまた別でしょうけどね。
318名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/04(火) 19:42:26 ID:DOjImqi90
逸見斧吉に向けたお金の無心状は、まだあります。
これを読むと、正造と言う人はこの方面の文才が抜群に優れているという感想を
持ちます。前回の手紙から半年後の明治43年5月11日のものです。

「恥を忍び、侮辱を忍び、迫害を忍び、寒暑を忍び、病いを忍び、私情を忍び得
るも表面なり。内心怒りと色とは忍びかねしは壮年の時代なり。今や飲食を忍び、
起臥すべき枕すべき所を忍び、虚栄を忍び、欲を忍び得るも、未だパンを絶つ能
わず。間食を絶つ能わず。パンのほかに空気と聖霊とによりのみにて生ける能わ
ず。しかもまた、このほかにも予の悩みあり。借金を返済し能わざるにあり」

長い手紙なので、残りは次回にします。
319名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/04(火) 20:14:44 ID:my095lK00
>>318
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
大嘘でないならちゃんと申し開きをすればよろしい。
都合の悪い話は全部、論点が違うとか話題が違うとか言って
逃げるおつもりですか?
それとも不毛な争い扱いにするつもりですか?

都合の悪い話には耳をふさいで自分勝手なことをわめきちらすとは、
あなたは何という法螺吹きドンキホーテなのでしょう。
320名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 20:51:42 ID:zhmAxpwC0
逸見斧吉に向けたお金の無心状のつづきです。

「この一大事、人道の全てを償う能わず候。いわゆる敗軍の兵は論ずべからずで、
予正造の苦痛ここにあり。このほかに苦痛なし。多年銅山党や奸賊の迫害はこの
金策に害を加えしことのみなり。貧ますます貧せしめ、窮はますます窮さしめたり」

ここまでは、悲惨きわまる状態にあると告白していますが、「金を送って」とは直接
書いていません。しかし、正造はこの日、もう一通の手紙を次のごとく書き、斧吉
が送金せざるを得ないような状況を作っていました。

「拝啓、また封書にして申し上げます。・・・原田定助殿失敗後は、3月より出金余儀
なく中止となり、故郷の継母と愚妻病気であるよしなれども、この方面だけは、原田
定助にて少しずつ救うとの由にて申し出たり。・・・借金のことは貴下に申し上げるつ
もりはなかりし。寸暇すらあれば相談するところも少々ありと、一日一日と伸ばした
るはよろしからず。年々寸暇なくしてむなしく罪を深めたり。実は小生の親類・親友
の間に、貴下か木下(尚江)君のご尽力を得ればとも考え中に候。何分一寸のばし
になりました次第です」(明治43年5月11日)
321名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 22:41:02 ID:Ijux/qjK0
>>320
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

偉人と言われる人の中にも金遣いが荒かったり、借金取り
から逃げたりする人はいっぱいいました。
太宰治がそうだったし、野口英世の借金の証文なんかは、
今でも田中正造と対決できるくらいの量は残ってるようですよ。
そういえば田中正造が借金取りから逃げた話は聞きませんね。
もっとも、晩年は宿無しでしたから、借金取りもどこに取りに
いけばいいのかわかんなかったみたいですが。
何で田中正造だけを攻撃するのかさっぱり分かりませんね。
しかも、田中正造はその借金で豪遊してたわけでも何でもない。
でも、太宰も野口も、その借金で豪遊してました。
今にして思うと、千円札ってなんか借金そのもののような気も。
322名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 21:18:43 ID:p3muMBo50
前回に紹介した明治43年5月11日の正造の手紙を、もう一度ゆっくり読んでみて
下さい。

この日の手紙は、正造の発言の矛盾がよく現われていますが、「借金を返済でき
ないのが予の悩み」といいながら、「このほかに苦痛なし」とうそぶいています。普
通なら最大の苦痛なのに、どうしてこんな事がいえるのでしょう。

返済できないのは、自分が仕事をしてお金を稼がないからなのに、反対派が金策
を妨害しているからだと、他人を加害者にしているのですから、あきれはてます。
母親や妻の病気まで甥に面倒を見させて当然、とする神経も不思議。

「お金の事はあなたにお願いするつもりはなかったが、親類などのまわりがお願い
したらといっている」と、お金をねだる事まで他人の責任にしています。 

323名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 22:21:22 ID:gdgx7spI0
>>322
それで、花村が「10倍ぐらい」の穏健派被害民がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

そもそも、借金の申し込みの手紙なんて、あまり残らない種類の手紙です。
太宰治全集で、借金の申し込みの手紙でまるまる1巻編めたって話はあまり
聞きませんが、太宰治はそれくらいの量の借金はしていたし、それくらいの量の
の借金の申し込みや返済が遅れる言い逃れの手紙は残したはずです。
けれどそれは残らなかった。でも、田中正造のものは残った。
それも、死んで70年経ってもまだ残っていた。
何で残ったのかを検証せずに、借金の申し込みの手紙がいっぱいあるって
わめいても、単にそれが残ったという事実を提示するだけですよ。
しかもそれは新発見でも何でもない。
太宰治の借金の申し込みの手紙が100通単位で出てくれば新発見とは呼べる
でしょうけどね。
324名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 07:18:04 ID:IdBaTLij0
砂川さんは田中正造や足尾鉱毒の研究に関して、入り口にも立ってないのに
本を書いちゃったの?
325名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 20:53:54 ID:P40asfnR0
働くことができるのに、仕事をしようとしない貧乏人が生きていくためには、着る物
や食べ物も人からもらわなければなりません。
正造の場合も例外ではありませんでした。
明治43年7月3日付けで、古河町の旅館から正造が逸見斧吉に宛てた手紙を、
以下に引用します。

「先ごろいただきたる去年の羽織、この間紛失せしため、田中屋(古河町の旅館)
の下女なか子、戸棚まで探すや大風呂敷一個発見。おどろき開き見れば、こはい
かに、一昨年の冬服一通り、木下(尚江)兄にもらった襦袢、それから牛込大学
(早稲田大学)に演説に行く時着せてもらった綿入れ2、下着白1、これは貴下よ
り借りたる物、そろってありました。冬になりて狼狽しての借り着、昨夜はこの品が
誰から借りたのかも忘れていたのを、この間、(谷中村の)間明田氏より昨年10月
頃借りた物だといわれて恐縮です」

正造は、襦袢や下着や綿入れなどを「借りた」と書いていますが、「これはもらった
ものではない。いずれは返すつもりだ」と言明している所に、平気で嘘をつく正造の
姿を見ることができます。しかし、誰がこんな衣類を貸したなどと思うでしょう。

326名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 21:57:22 ID:0IBXmP8l0
>>325
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

だいたい、「過激派被害民」とかいう言い方自体が、あなた以外の
誰も使っていないデタラメの表現ですよね。
どういう意味で過激派などと言い切れるんですか?
あなたの言い方だと、彼らは鉱業停止を求めただけじゃないですか。
それのどこが「過激派」なのかもさっぱり分かりませんね。

しかも何度も書きますが、古河は1896年に農民が請求した賠償金をちゃんと
支払ってません。ほかの農民に支払った額と違いすぎるなどと理由をつけて、
「まだ」払ってないのです。
327名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 19:52:05 ID:5VmJ5E/40
>>324
「田中正造や足尾鉱毒の研究に関して、入り口にも立ってない」という理由を説明
して下さい。たぶんあなたはできないでしょうが、反論してみたいので、試みにやっ
てみてください。

それに、そもそも、私は研究などしていませんよ。教科書や辞典や新聞記事に書
いてあることは間違っているといっているだけです。こんなことは研究の領域では
ないし、誰でも出来ることです。私は全集を見て感想を述べている程度のことしか
していませんよ。こんな単純な偽装にだまされている世間一般を、だまって見てい
られないですから。

全集は読んでもらうためにあるのに、ほとんど読まれていないみたいですね。読め
ば誰だって私と同じ感想を持つと思いますよ。歴史は、資料を直接読まなければ
面白くありません。どこの図書館にもありますから、どうぞ、読んでみて下さい。
328名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 21:32:09 ID:r1LZktBq0
>>327
研究などしてないなら本など出さなきゃいいんじゃないですか?
出しちゃったいかさま本はとっとと絶版にするべきなんじゃないですか?

研究などしていないなら、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民がいた」
と言ったかのようなデタラメを最初から書かなければよろしい。

教科書も辞典も、たいして間違ったことは書いてません。まともな辞典にはね。
そりゃ、完璧に何から何まで正確なことしか書いてないような教科書ばかりだ
とは言いませんけどね。
しかし、あなたの言っていることは大嘘だと断言できます。

全集を読んでも、「足利市史」を読んでも、結論は同じ。
あなたの言っていることは大嘘です。
誰だって私と同じ感想を持つと思いますよ。
歴史は、資料を直接読まなければ面白くありません。
どこの町でも村でも「足利市史」は購入できますので、どうぞ、読んでみて下さい。

反論してみたいのならさっさとしてください。
私が聞いていることは去年からずっと同じです。
花村が、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民がいた」と言ったかのような大嘘を
つき続けるのは何故ですか?
それとも、ご都合のよい相手にだけ反論するとかいういかさまバクチをまた
始めるつもりですか?
329名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 04:18:02 ID:2BtpTnwA0
そうか、砂川さんは研究する気なんてさらさら無いからあんな出鱈目な本を書けるし、
頭がおかしいとか、恥知らずとか、末節を汚してるとか、作文レベルとか、
親の顔を見たいから先祖の墓を掘り起こしたいとか、そういう事を言われても平気で、
恥かしげも無く無為な書き込みを日夜続けてるのか。

死ねよ、マジで。
330名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 20:10:35 ID:n/ouDydk0
田中正造は、遠慮とか慎ましいとかには全く無縁の、無神経で非常識人間だと、
言えるようです。
前回は、逸見斧吉たちから数多くの着る物をもらっていた話をしましたが、次の
手紙では、自分の使う物だけでなく、逸見とは何の関係もない人に指定した物を
ただでやってほしいと、宇都宮にいる正造が、逸見におねだりをしています。
何というあつかましさでしょう。
いったいこんな人を、歴史的な偉人として教科書で教えるなんて、日本の教育は、
いったいどうなっているんですかね。

「置き炬燵一個、これを栃木県旗川村大字小中医院中井育氏に、お贈りお願い
に候。この医師は、継母の病気・死去まで充分世話をしてくれた人です。近頃病
人となり、貧乏医で困ります。わたくし出京の折ごとに夜具の中に入れていただ
きましたとき暖かでした。これをです。その品をいただきたいのでお願いします」
(明治45年1月26日) 
331名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 22:28:15 ID:FEcbKwdV0
>>330
結局、都合の悪い指摘は無視して新しい大嘘をつきはじめるしか
能がないんですね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
大嘘をついて、それに対する弁明もしていない以上、その嘘に続く
発言は全部大嘘だと思われてもしょうがないですよ。
だいたい、中井に炬燵をゆずってくれって言ったのが何で厚かましい
のか全然分かりませんね。
逸見と中井に何らかの関係があって、逸見が「中井にプレゼントしたい
けど何がいいかなあ。正造さん選んでよ」って聞いたのかも知れない
ですし、そんなのこの手紙1通だけじゃ分かりませんね。
あなたの恣意的な読み方だとそうなるというのは大変によく分かります
けどね。

そもそも当初は横井の鑑定書とか高橋とか言う古河の飼い犬とか田川
の著書まで使っていたのに、何で全集だけの話しかしてないような話の
すり替えをするんですかね。
あなたの読み方は極めて恣意的か、そうでなければ信頼できない人物に
よる記述であるかそのどちらかです。

そもそも、人に全集を読めば分かるとかわめきちらしておきながら、ご自身
はいつになったら「足利市史 別巻史料編 鉱毒」を読むのでしょう。
人に読めと言うのなら、自身も読めと言われた文献を確認するのが当然の
義務でしょう。しかも、田中正造全集は20巻もありますが、足利市史の鉱毒
の巻はたったの1巻です。しかもその中に、誰かさんの言うことは大嘘だと
何度も繰り返し書いてあるのです。それも、誰かさんがそんなことを言い始め
る30年も前にもう書いてあったのです。
332名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 20:31:29 ID:oJoULtET0
>>329
「死ねよ、マジで」ですか。悪態しかつけなくなったわけ?本当のこと言われて頭
に血がのぼったようですね。本題をつづけます。

逸見斧吉宛の手紙を見てきましたが、正造の死の年である大正2年3月10日の
それは、彼がついにここまで落ち込んでしまったかと思わせるものがあります。
お金を恵んでほしいという手紙ですが、無関係な話から始めています。

「この越中屋(港区新橋にあった)に信用減じました。忽ち減じました。この宿屋
去る(明治)32,33年の頃宿屋開業、今日に無事に成長せしほどにて、人を見る
眼は光れり。正造の一文無しを早くも見て取りてより、非常に信用なしとはなれり。
これむしろ営業上ほめてよろしく候。ただし、34,35年など正造この新店に来たり
て旅籠銭を相談して、一昼夜金27銭で、誠に一汁一菜の相談にて厄介になり、
最も多くの鉱毒民と共に30銭以下にて宿したり。当時は新店なり。中々27銭でも
信用高かりし。今は50銭でも一両日以来は俄かに甚だ信用を減じて、疲労中、
床中の不便言語に絶せり。(ドテラ)もなく、寝ていても外風寒く候得ば外に出る
こと思へよらず。昨夜柴田兄より20銭葉書代とせしのみ」(以下次回)

333名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 20:51:34 ID:Li4D8Yd20
>>332
「死ねよ、マジで」などとは言いませんから、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故だか答えてください。

「死ねよ、マジで」という発言にはコメントができるのに、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか? という発言にはコメントが
できないのは何故ですか?
334名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 20:21:52 ID:bLcW5P3F0
(前回の手紙の続き)
「わたくしの疲労より約束の果たせぬところより万事ぼろの顕れるので、四方八方
また大停滞。大破も小破も忽ちに出来いたし申すべきありさま。かたがたにて候え
ば、ドテラ一枚。もし、これ無き候わば、小夜具一つ、これは車上日暮里(逸見の
家がある)に逃げ帰る途上の準備に候。その車(たぶん人力車)の帰り持たせて
やるおよそ金5円以内、宿屋に勘定いたすのです。郵便、紙、牛乳いろいろ立替
もあり、5円では如何か。・・・わたくし動き不便となりまして候。この段ありのまま御
届け、且つ平に御救いを願い上げたく、この一書拝呈せり。頓首」

新橋の宿屋に泊まったが、金がなくて払えないので、5円恵んでほしい、その前に、
そちらに受け取りに行くのに着る物がないので、ドテラを届けてもらいたい、と解
釈できます。
それにしても、「平に御救いを願い上げたく」とは、自業自得とはいえ、なんとも哀
れな、乞食老人の最後の姿を物語っているではありませんか。

335名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 21:35:26 ID:WSHf0ZNU0
>>334
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

>>97
>>>92でお分かりと思いますが、何を言っても自分が正しいと思い込んでいるドン
>キホーテ型人間には、反論しないことにします。
 とか書けば、都合の悪い指摘は知らん振りをし続けながら、新しい大嘘を
つき続けられるとかお思いですか?

 何を言っても自分が正しいとか思っているのは、このスレでの発言者の
中ではあなただけのようですよ。
 少なくとも私は間違っていたところは訂正したし、指摘があったところは
訂正しましたからね。
 ところがあなたはしょっぱなの2スレ目の誤りですら、訂正しようとしない。
訂正しない限りあなたは大嘘つきです。そうでないなら、自身の発言内容が
正当だという事実を、花村の著書のタイトルとページ番号を挙げて証明すれば
よろしい。それができない以上、あなたは大嘘つきです。
336名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 00:27:59 ID:hNyd2zlz0
>>335
この人がしつこくレスを続けてる限り
>>334
の人がいくら頑張っても後世に残るのは「都合の悪いことから逃げてる人」って印象のログだから
さっさと
>>335
の人を論破しちゃいなよw
337名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 20:21:13 ID:UDZzTvmV0
前回紹介した逸見斧吉宛ての「お金を恵んで下さい」という手紙は、大正2年3月10
日に、正造が無銭宿泊を覚悟して滞在した、新橋の越後屋から出したものでした。
なぜか同じ日に、同じ逸見斧吉宛に、正造はもう1通ハガキを出していますが、そこ
には、「知らず知らず腹中イツシカ空ともなりし時多くありしとみえて終に疲労に変じ
たるこの罰、今朝よりまた復活に到りまして候(疲労は回復した、ということでしょう)。
ドテラ他一物逸見5男君より正に・・・」とあります。

どうやら、日暮里の逸見斧吉は、新橋の宿屋にいる正造まで、息子を使ってお金
(一物)を届けさせたようです。
実はこれより2日前の3月8日、驚いたことに、正造はこの宿屋から「お金を恵んで
もらいたい」という手紙を、もう一通出しているのです(次回)。

338名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 21:02:04 ID:/rg3K/bU0
>>337
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造は大正2年9月4日に死にます。
ガンで死ぬ人が半年前まで東京とかを飛び回っているほうがびっくり
な事実ですが。そもそも、新橋から日暮里まで金を受け取りにいく
体力があったかどうかも怪しいものです。
そういうのはきっと全部無視なんでしょうね。

そう。もう一つ。
昨年の9月4日は、私があなたの大嘘を暴いた記念日でもあります。
>>35をごらんください。私はこの日、2007年9月4日からずっと、同じ
ことを聞いているのです。
花村がいつどこで、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とかいう表現を
使ったのですか?
使っていないのに、何故、花村がそう言ったかのような大嘘をつき
続けるのですか?
弁明の機会は半年もありました。半年経っても、花村が言ったという
証拠を出さないあなたは大嘘つきです。
339名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 22:37:20 ID:Xl67rOG/0
>>336の方へ。この人の言うことはもともと破綻しているので、「論破しちゃう」必要
はないと考えます。

大正2年3月8日に正造が出した手紙の宛先は染色業の林重平という人で、内容
は次のとおりです。

「ご無沙汰つかまつりました。かねがねご心配下され候谷中収用価格の控訴裁
判官および書記、弁護士数名、鑑定人同道、来る12,13,14日頃、東京より古
河町に出張、谷中調査に相成り候。・・・かれこれ○(お金の意味)何ほどにても、
実は、7,8,9にても急ぎ為替御送り下されたく候」           
340名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 22:48:08 ID:xVtJsorF0
>>339
破綻しているのはあなたのほうではないですか。

花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民がいた」とは言っていない。

この内容のどこに破綻があるのですか?
あなたの大嘘と整合性がないということは、破綻とは言いません。

何度でも聞きましょう。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

いずれにしても、あなたが都合の悪い事を破綻とか論点がずれている
とか理由をつけて無視しようとする輩だというのは大変によく分かります。
元々分かってましたけどね。
341名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 21:23:34 ID:InX04jSO0
そして、その2日後の10日、前日に11通という沢山の手紙を書いたその翌日に、
正造は次のような封書を林さん宛てにまた出しているのです。

「久しく御無音して突然に金円借用の事まで申し上げ候に付き、次便ハガキにお
詫び申し上げ候次第。・・・正造年73の老朽といえども、天地人道のためにはおよ
ばずながら勢いの大小(政府その他の大きさと谷中の小ささ)に論なく今日までは
継続して力を尽くしつつあれども、たまたま疲労に取り臥し候まま、この東京より
金借申し上げ候次第、悪しからずおくみ取り、お手許になくとも百方ご工夫下さり
候いて、至急このところに御回金相成候様お願い申し上げ候。くれぐれ病気にあ
らず、疲労中といいども床に臥していてこの手紙です。早々当用のみ。頓首頓首。
林重平様、同御母上様、同御家内御中」  
342名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 21:28:59 ID:K/wS6MIl0
>>341
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

>>339
>この人の言うことはもともと破綻しているので、
 前にも書きましたが、あなたの使う表現は、あなた自身に向かって
使うのが一番合っているようですよ。
343名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 20:21:26 ID:YfrB+DJc0
その後どうなったのか気になったので調べてみたら、逸見斧吉にもらったお金で
越後屋への支払いを済ませ、次に知人の渡辺政太郎方(東京・麻布)に滞在して
いたらしい正造が、3月14日に、前回に記した林さんに宛てたハガキがありました。
以下に引用します。

「お詫び申し上げ候。先日はハガキの粗雑な文面にて、突然に○談(お金の話)を
申し上げたるは今更粗忽でありしに気づき、重ね重ね申し訳けなしです。平にお詫
びです。それ故、2日の手間、30円ばかりを損かけまして候。今後は注意します。こ
のたびは平に平に」

「天地人道のためには、およばずながら力を尽くしつつある」と、偉そうなことを言い
ながら、仕事もしないで、乞食みたいに、何で他人にお金をねだるのでしょう。結局、
この林さんから、30円(百年後の今なら30万円ぐらい)をせしめたわけです。いったい
「今後は注意します」で済むようなことなのでしょうか。あきれるばかりです。
344名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 22:39:00 ID:n4W2AwJw0
>>343
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造本人は疲労って書いてますけど末期ガンでもう死にかけてるってのは
文面からよく分かりますけどね。
それに正造の仕事は政治家ですから、世のため人のために動き回るのが
仕事ですよ。
そして応援する人がその資金を出す。そのしくみは今も昔も変わりません。
政治献金を受けたという形にするのが嫌なので名目上は借金にしてたっていう
見方もできますしね。

自他共に認めるいかさま本を製造して金をせしめるのよりはまともな生き方
だと私は思いますが。
まあそんな本ではろくに印税は入らないでしょうけど。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/21(金) 20:10:42 ID:1BNo1t/80
ところで、このように他人からお金をもらって歩く田中正造という人が、皆さんは乞食
のように弱者的な意識があったと思いますか?

林さんにハガキを出した翌々日の大正2年3月16日は、谷中の残留農民たちが立ち
退き料金の値上げを求めた裁判の現地調査がある日で、東京高裁の裁判官、鑑定
人、関係弁護士たちが、谷中の現地を訪問する予定でした。
その前日の3月15日、渡辺政太郎方に滞在する正造は、田中屋助次、島田宗三、
川島要次郎ら谷中村の残留農民たちに、コロタイプで印刷した次の手紙を書いてい
るのです。ここからは、乞食根性など全く感じられません。卑屈になるどこらか、自分
は誰よりも優れた指導者だ、という優越意識にあふれているのです。

「東京の人は、谷中人民の身なりを見て困る。百姓の身なりは、みのとかさを常とせり。
みのは、船渡町田島屋にあります。代金27.8銭なり。すげがさにみのをきて、もし途中
休みのときあらば、東京の人々にそのみのを広げて、その上に休むのです。正造は年
来この行いをなせり。きれいな物着て、のそのそするなかれ。・・・丁寧に、恐れ入って、
言葉も少なく、落ち着いて、要所要所の説明は一人ずつにすべし。生意気はあきれら
れる。利口ぶると損のみ。ホラはなおさら損なり。必要の言葉を忘るるなかれ。必要の
場所をうかうかと通り過ごすなかれ」
346名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/21(金) 20:38:54 ID:jk6fyJyY0
>>345
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

何しろあなたは自分自身が常識知らずの欠格人間になってしまうような
ことを平気で言ってのけられる人ですからね。
そういうのを破綻しているというのですよ。

手紙の中身も別に全然変じゃないですね。
正造を乞食扱いしたい人にとっては変なのかもしれませんけれど、
乞食扱いしたい人は自称常識知らずの欠格人間ですからね。
そんな欠格人間の判断に合わせるなどという無駄なことはするべきでは
ないでしょう。
347名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/31(月) 19:12:54 ID:BJLiW+VF0
逸見斧吉は、正造から頼まれるたびにお金や着るものをあげていたようです。
早い時期の事例を少し、まとめて紹介します。
明治40年11月25日、逸見斧吉は、宇都宮の猪熊方に滞在する正造に宛てて、
以下の内容の手紙を出しています。

「昨日はご封書3通、おハガキ1葉拝見いたし候。その前におハガキ3葉拝受
仕り候。・・・仰し越され候金子5円、別券にてお送り申し上げ候。・・・羽織を送
れとのお申し付けのところ、羽織はウチにはこれなき候由に御座候。綿入れ
のお召し物はウチにこれ有り候ゆえ、本日、足袋、股引と共に小包みにてご
送付申し上げ候」

斧吉のこの手紙から、正造が一日に同じ人に4通も手紙を書いていた異常さ
も、知っていただけると思います。
正造は、一日に同じ人に4通も手紙を書いてアタックをすることで、周りの人々
との関係を辛くも保っていたわけです。
348名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/31(月) 22:03:46 ID:0Dr4voje0
代議士に後援者が居る事自体、悪だって言ってるのか?
人格攻撃も遂にネタ切れか。
349名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/31(月) 22:52:40 ID:RjjW/BYa0
>>347
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
いったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

電話がほとんどない時代ですよ?
今の時代だって、1日に同じ人に4回電話をかけることはあるでしょう。
4回電話をかける人を異常とは言いません。

手紙しか連絡手段のない時代の人が、1日に同じ人に4回手紙を
書いたからといって、全然異常なことではないですね。
何で現代の価値観を当時に無理矢理あてはめようとするんですか?
350名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 09:43:05 ID:5h2PGFlM0
その四通の手紙が残ってるのか。
よっぽど大事にされてたんだな。
351名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 13:27:50 ID:eFb0W1wn0
Sさんの本はF河がほとんどお買い上げってことはないよね?
352名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 18:35:54 ID:VPQjrghZ0
理路整然とキチガイの嘘を暴いてる人が何度もヒントを出してるのに、
キチガイには全く届いてない大切な事が一つ。

正造の関係者は、正造の死後も正造が居た事とその思い出を大事にしたため、
借金の証文や、常軌を逸した激しい手紙が後世に沢山残った。
正造がどれだけ大切な人だったかを、キチガイが引用したり曲解してるおびただしい数の
手紙や文書が証言しているのです。
砂川が死んでも、ここのログ以外は何も残らないでしょう。
353名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 20:49:40 ID:I9hVkzTk0
明治42年11月19日、古河町の田中屋という旅館にいた正造から、東京の逸見
斧吉に、次の手紙が出されています。お金を受け取ったという報告なのは間違
いないでしょう。

「ご封入中、二にて八印正に拝受。封入沢山に相成り、恐縮」

明治43年12月31日、逸見斧吉が正造に宛てて出した手紙です。

「お望みの金5円は別紙の小為替証書で差し出しました。お受け取りください」

よく探せば他にもあるでしょうが、私が見つけたものはこの程度です。  

354名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 22:04:41 ID:K5cpCfgf0
355名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 22:06:55 ID:iqspWDc70
>>353
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

金を受け取ったからといって、それがどうだというのでしょう。
そういえば、正造は、被害民が洪水被害に遭ったとかいうと、
自分で天秤棒をかついで麦を届けにいったりもしています。
そういうのは全部無視で、寄生しているだけの存在だなどと
よくまあ言えるものですね。
念のために書いておくと、あなたが引いた文献のどこかに、
このエピソードが載ってますよ。

>>351
この方の主張を取り入れると、古河は極悪人になってしまう上に、
古河鉱業株式会社はろくでもない会社ということになってしまう
ので(自分でそう言ってる)、古河関係者は頭に来て買わないと
思いますよ。
何しろ、古河市兵衛は鉱毒を止めた善人だけど、そのあとの時代の
古河鉱業株式会社が鉱毒をたれながしたそうですから。
356名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 23:44:05 ID:t3gOQqCF0
>>355
ただkonozamaの五つ星レビューは基本的に古河マンセーになってますよね。
あれ古河関係じゃないなら、全部自分でいちいち書いたのかな・・・?
357名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 19:09:35 ID:cneKyoUQ0
なにを今更…
358名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 20:59:22 ID:47hlRO7P0
>>348,>>350,>>351,>>352
珍しくコメントが寄せられましたが、今後も大いに書き込んで下さい。その是
非は読者が判断して下さるでしょう。
親戚の原田家や逸見斧吉へのお金の無心はこのくらいにして、今度は正造
に「金を払ってくれ」という催促状をいくつか紹介していきます。

古河町の池田新平が谷中村の川鍋方にいる正造に宛てた、明治39年5月
13日の手紙には、次のように書かれています。

「過日貴君よりお預かりの衣類をご送付の際、拙者よりお立替金ご返却の期、
相過ぎ候も、原田定助君より何ら御沙汰これなく、はなはだ迷惑に候間、ご照
会申し上げ候処、今だ何のお答えこれなく、いかがなれや。至急お答えこれあ
りたく候」

あなたのために立て替えたお金は、甥の原田定助君があなたに代わって払っ
てくれるという約束だったので、先日その催促をしました。しかし、いまだに返事
すらいただいていません。至急返事をください。こういう内容でした。
359名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 22:08:14 ID:X3R9fC3X0
>>358
コメントならずっと前からさんざんしていますよ。

花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民がいた」と言ったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

都合の悪いコメントは見ることもできないんですね。あなたは。
360名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 07:02:36 ID:hFpCKbOf0
>>358
黙れ、クズ。
361名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 20:18:03 ID:vEPZ+id20
前回の手紙は更に次のように続きます。

「加藤安世君も、君(正造のこと)より1,2泊を宿泊致しくれとのお頼み故、荷物
もそのままにこれあり、警察よりも断られ、いかが致すべきか。1泊は承知いた
し候えども、我が家は宿泊営業にあらざれば、これまた困難。今日限りお断り
申し上げ候。しかる所以は、拙者少女数人を育ており候えば、もし男の人を故
なく宿泊させるは、はなはだ迷惑のみならず、世間に対し疑惑の点実に困り入
り候。君の依頼何事迷惑のみ」

田中正造という人が、いかに非常識かということがよく分かります。
旅館でもなく若い娘がいる家に、迷惑を全く考えずに男を泊めろ(もちろんタダ
で)と言うのですから、「君の依頼何事迷惑のみ」は当然でしょう。
362名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 21:31:20 ID:fAPwwaab0
砂川っていう人が如何に厚顔無恥だかも良く解るよ。
363名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 21:54:59 ID:qW/wkRPV0
>>361
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あなたの発言の是非も、読者が判断してくれているようですよ。
364名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/04(金) 19:58:06 ID:OOiTQMnW0
田中正造は仕事をしようとせず、無収入であるのみならず、ホームレスでも
あったので、奥さんはやむなく親戚などに身を寄せ、内職などをしながら暮ら
していたようです。

そのかつ子夫人が正造に宛てた珍しい手紙が全集に載っていたので、これ
また正造の借金の実態を明らかにする証拠として紹介します。前半部分は、
何をされても夫には決して不満を言わない昔の女性気質がよく現われてい
るので、あえて引用しました。ただし、文章は現代文に直してあります。明治
39年7月16日の手紙ですが、少し長いので紹介は次回にまわします。
365名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/05(土) 00:10:22 ID:5oXumDxl0
この人が田中正造に向けてるのと同じ視線を俺は砂川幸雄に向けたくなった。
366名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/05(土) 20:24:17 ID:vLG9FzoU0
前回に言った明治39年7月16日付、正造宛の夫人の手紙はこうです。

「ご無沙汰して申し訳けございません。そちらへまいりたいとは思いますが、
何分病弱で意のままにならず、遺憾至極でございます。近頃は一層弱くなり、
毎日薬を飲んでいる始末。お医者様が温泉がいいと申されるので、矢島国
治の下の子のみちが、来る21日頃那須温泉へ行くというので、同行いたした
く思います。お許しくださいますか。お伺い申し上げます。お取り込み中恐れ
入りますが、ご返事下されたく存じます」

「次に、田島村の島田嘉内殿の地所書き換えの折、清算した所、役場の間
違いで年貢の立替が45円ばかりあって、戻ってくることが分かりました。そこ
で、川津平四郎を代理に使わしたところ、島田殿が言うには、正造殿に30円
貸してあるので、それを差し引いてくれ、ということでした。この件についても
併せてご返事いただきたくお願いいたします」


367名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/05(土) 20:48:18 ID:LR7Lif8g0
>>366
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あなたが、都合の悪いコメントは全部論点がずれているとか関係ない話だとか
理由をつけて無視をする輩だというのはよく分かっていますが、
それをご存じない方がいるかもしれないので念のためにこうやってお聞きして
いるわけですよ。

都合の悪い話は無視するというのは、どこかの鉱毒をたれ流した輩とやってる
ことはたいして変わりませんね。
368名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/07(月) 20:09:30 ID:LGgTJzCj0
>>365
そうですか。ちっともかまいません。どうぞご自由に。

田中正造が借りたお金その他、支払うべきお金を払わずに踏み倒したケー
スは、おそらく相当な数にのぼるだろうと思われます。
のみならず、無銭の彼なのに、何と知り合いの費用まで自分が払うからと約束
し、当然ながらこれを踏み倒すのですから、本当に空いた口がふさがりません。
宇都宮駅前の近江屋旅館が谷中村の川鍋宅の正造に宛てた、明治39年12月
20日の手紙には、次のように書かれています。

「しばらく滞泊していた柴原君、宿泊料金30円余(今の30万円くらい)、未だ本人
よりお支払いなく、過日ご面会(正造と)の折、あなた様が弁償されるということ
でしたが、その後、今か今かとお待ちしておりましても、全く約束が果たされてお
りません。国税の納付に当てるつもりでしたが、役場からはきびしく督促されてお
り、差し押さえ処分を受けるかもしれません。このことをご洞察の上、あなた様か
らぜひぜひお立替え下されたく、ひとえに願い上げ奉ります」
369名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/07(月) 20:40:08 ID:qtsysThH0
>>368
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

答えがなくても、私もちっともかまいませんがね。

私はあなたに対して、本当に空いた口がふさがりません。
370名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 20:59:20 ID:1FJuz+ro0
次は栃木県足利郡御厨村の橋本安十郎という人からのお金の催促です。
明治41年12月21日に正造に宛てた彼の手紙を、以下に引用します(現代文に
直しました)。

「以前御用立ていたしましたお金のことですが、その後利子だけは小生が支払
っておりましたところ、明治29年の水害で少なからぬ損害を受けてその利子も
滞り、今日では元利合計が450円余りとなりました」
「そこで、この年末に債権者から厳しい督促を受け、ほとほと困却いたしており
ます。何卒ご推察の上、何らかのご方便でご救助下されたく、何重にも願いあ
げます」

「実は戦争(日露)前、足利の原田(定助)様に事情を申し上げたところ、何らか
のご補助を下さることになりましたが、原田様も出征されたため、そのままにな
ってしまいました。もしご救助がなければ、田畑を売却せざるを得なくなります。
以上をご賢察の上、至急いずれかのご返事を煩わしたく思う次第でございます」

この手紙から、正造は甥の原田定助に、何かといえば尻拭いさせていたことが
わかります。
371名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 21:38:23 ID:8nW92hWM0
>>370
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか。

このことから、あなたが都合の悪い発言を無視して、さらなる大嘘の上塗りを
する輩だということがわかります。
372名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/09(水) 22:04:11 ID:ocUnlpzz0
この橋本さんは、20数日後に、わざわざ正造の家まで訪ねた上で、もう一度催促
状を出しました。
明治42年1月13日付けの下の手紙を読むと、本当にお気の毒といわざるをえま
せん。

「先日谷中地方にまいり、ところどころおたずねして藤岡に4泊もいたしましたが、
ご面会できずに空しく帰宅いたしました。その後も債権者から厳重に談判されて
本当に困っております。ご多忙も察せずに実に申し上げかねますが、小生もこの
ような次第でありますので、失礼とは思いながら、何卒悪しからず思し召し下され
たく存じます」

何の仕事もせず、お金は全く稼がずに忙しい忙しいとあちこち駆けずり回り、しか
し、立ち退きを食らった谷中の農民には何一つ貢献せずに終わった正造は、橋本
さんのような人々大勢に、同様の迷惑をかけていたはずです。
正造が必要とした生活費や活動費は、結局、お人よしの彼らがそのすべてを負担
していたのです。 
373名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/09(水) 22:42:04 ID:WcYGRNJ90
>>372
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あちこちツッコミをいれられると、結局、金に困ってた話を持ち出すくらいしか
あなたには芸がないってのはよくわかりますがね。

何度も書きますが正造は、野口英世や太宰治のように、借金してその金で
豪遊してたわけでも何でもない。被害民が金に困ってるって聞くと、自分が借金
してまでその人に金を供給してた人です。
そういう人だからこそ、返すあてがないって分かっていても貸す人がいたのです。
そういう都合の悪い話はみんな無視ですか。
374名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 21:00:21 ID:ycyYJsAB0
谷中村の村民は、東京にいる偉い人との付き合いも多く、社会的な名士の正造が、
まさか一文無しだなどとは思っていません。だから、裁判費用なども当然正造が出
すと思い込んでいたようです。しかし、弁護士にいろいろ頼んでおきながら、お金を
払う時になると、正造はどこかへ雲隠れしている有様なので、彼らは相当に当惑し
たようです。
今度は、そういう現実を感じさせる手紙を紹介します。

明治41年4月6日、島田栄蔵・島田熊吉・間明田条次郎たちは、東京の逸見斧吉方
に滞在中の正造に宛てて、次の内容の手紙を出しています。

「5日付をもって栃木町において差し出し下されたる書面につき、鑑定人費用100円
也、私どもにおいて一時当借して、本日古河町において郵便局へ振り込み為替にて、
弁護士茂手木清へご送付申し上げ候間、ご承知相成されたく願い上げ奉り候。追っ
て金円は至急ご返済願いたく候間、至急お取り計り下されたく候」

正造がお金を持っているはずはありませんから、おそらく、彼らは払ってもらえなか
ったと思います。もしもらえたとしても、最終手段として、逸見斧吉が正造の代わりに
出したに違いありません。
375名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 21:22:17 ID:w1wQ7mmO0
>>374
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

私の知る限り、田中正造が弁護士への弁護代金を踏み倒した
ことはありません。
なぜなら、田中正造は、無給で引き受けると言った人にしか頼まな
かったからです。
その中には相当な名のある弁護士もいます。
そういう人が無給で弁護を引き受けた、田中正造はそれほどの顔の
持ち主だったというのはよくわかりますけどね。
376名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 07:41:47 ID:WlBS1kra0
また捏造か。
377名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 21:30:18 ID:tEmdRLEz0
明治42年3月28日、大沢新八郎が、東京の島田三郎方に滞在中の正造に宛てて、
彼らの困りきった情況を物語る次の手紙を出しています。

「ご老台様から音信がないため、谷中村の人民は、ひたすらご老翁のご尽力の結果
を待っております。茂木弁護士からは、再調査にかかる費用の話が出ておりますし、
今や谷中村堤内人はどのようにしたらいいか困っております」

「小生も日々の運動費に欠乏し、如何とも致し方なく、申し訳ありませんが、至急何程
なりとご都合なされ下されたく、併せてお願い申し上げます」

生活費も活動費もゼロなのに、立ち退き反対運動をしようとすれば、こういう問題が起
こってくるのは当然です。正造は計画性というものを何も持ち合わせてていないので、
このように、結局みんなを困らせつづけていたわけです。                                             
  
378名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 22:37:28 ID:eNjQLZiV0
>>377
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

新しいネタにツッコミを入れると、またまた素知らぬふりを
して新たな大嘘の再生産をされるので、わざわざ、最初の
巨大な大嘘である「花村の10倍ぐらいの穏健派被害民」に
的を絞ってツッコミを入れてさしあげているのですよ。
379名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 02:02:06 ID:wtktsOb80
>>377
つまり、公益というものを大資本にしか認めないわけですね?砂川さんは。
そりゃ古河も迷惑するような形でトンデモ論を乱発するわけだ。
まるっきり、ネットウヨ、心情ウヨって言われているネット上でしか存在出来ない
蛆虫みたいな可哀想な連中と同じですね、人間の本質が。
380名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 19:51:13 ID:10h2TsoP0
谷中村の(立ち退きを拒否しつづけた)残留農民中、正造と一番気脈が通じていた
人物は島田宗三でした。

彼は、正造の死の床で、
「この正造はな、天地と共に生きるものである。今度倒れたのは、安蘇、足利(郡)
の山川が滅びたからだ。・・・ですから<山川擁護会>をつくるよう、安蘇郡有志の
近藤貞吉君あたりへお話ししなさい。もしそれができなければ、遺憾ながら正造は、
安蘇、足利の山川と共に滅びてしまう。死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋め
ても、そんなことは正造の喜ぶところではない」

という言葉を拝聴して、
「お言葉は真理ですから、光ですから。光はたとえ消えても永久に残ります。私も
永久に忘れません」
と答えたほどの人です(『田中正造翁余禄』)。

そんな関係で、彼は兄の熊吉に頼んで、正造のために人からお金を借りて、それ
を貸しました。しかし、正造からは1年以上経っても返してもらえませんでした。
宗三の催促状を次回に紹介します。
381名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 22:21:47 ID:ND3azwoD0
>>380
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
いったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

だいたい、裁判の話だって、正造の土地の鑑定をしたわけじゃ
ないでしょう?
この裁判は、谷中村の人々が、買収額が不当だ、っていって
起こした訴訟のはずです。
正造はそもそも当事者ですらない。谷中の地主じゃないです
からね。
それに、裁判だって乗り気じゃなかったのです。元々正造自身が
裁判が好きな人じゃないですし。でも、説得する
人たちがいたので裁判を起こしたわけです。

自分が主体で起こしたわけでもない(もちろん、起訴のときには
名前くらいは使ってると思いますよ。谷中に1坪くらい土地を持ってた
みたいですから)裁判の費用を、そもそも何で正造が払うべきなのか、
そっちの視点が全く欠けてますな。

だいたい立ち退き反対訴訟とかわめいている時点で底が見えまくり
ですね。訴訟は、買収額が不当に安い、という訴訟であって、別に
立ち退きに反対という訴訟ではありません。

382名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 20:24:16 ID:zjEz7bHw0
明治41年2月15日に島田正造が正造に宛てた手紙です。

「わが兄熊吉よりご用立の金円は、貧乏なる親戚の買収金を無理矢理に借用し、
貴方のご病気中御用立て申したるものに候。時は39年10月、返済期限は40年3
月の約定なりき。この金円願わくは至急ご返済くだされたく、伏して願い上げ候。
もし、ご処理下さらずして、毎日のように先方よりしばしば請求せらるるに於ては、
わが兄何かに変心をきたすやも知れず」

「たとえば、落合熊吉、岩波弥太吉、篠崎又吉等のごときも、田中様よりの御用
立て金、2,3日も早く彼らの手に入らば、必ずしもかかる場合はなきものと後悔
する如く、我々愚かなる者どもは総て金銭目の前勘定にて、大きなる利害得失
を忘れ、一寸した時に変心を来たすこと、甚だ多く候。右の次第に付き、ぜひ至
急ご返済下されたく願い上げ奉り候」

「およその調べ、1.元金220円也。2.明治39年10月より41年2月までの利子46円
80銭以下。内返済分22円で、差し引き残金24円80銭以下。3.合計245円以下」
この手紙から、すでに3人の村民が貸したお金を正造に踏み倒され、敵対するに
至ったという事実がわかります。

なお、当時の245円は、今の245万円ぐらいに相当します。  
383名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 22:13:32 ID:cqpshtWu0
>>382
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

裁判の話だって正造が主体の裁判ではない。
そもそも何でその裁判の費用が正造もちになるんですか?
この鑑定代ってのは、正造の土地の鑑定ですか?
その土地を鑑定することによって、正造が何か金銭的に
得をするんですか?
金銭的に得をするのは、正造ではなくて、谷中村で強制買収
された村民たちですよ。

何も考えないで正造を悪者にするために恣意的に情報を
一部だけ抜き出したのが見え見えです。
384名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 23:02:06 ID:r0vhR0/W0
恣意的な情報の選択とあからさまなミスリードの誘発。
これを捏造ないしヤラセと言います。
385名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 20:39:33 ID:8lpI/57B0
前回、島田宗三からの催促状(明治41年2月15日)を紹介しましたが、正造から
返事がなかったらしく、その2ヵ月後に、宗三は熊吉の名前で催促状を出します。
ただし、兄は字が書けないので、宗三が代筆しています。明治41年4月12日のも
のです。

「あの金は実際自分の金にあらずして親戚の買収金を借用してご用立てしたる
ものにして、40年3月限りの約定なるに、未だご返済もなし下さらず、まことに困
難にて候。7か年も米を取らず、半か年食分の麦を得て生活しおる谷中村民に、
他人より金を借りさせ、期限より1か年余もご返済されざるについては、困窮せ
る我をなお痛困なさしめらるるように思われ候」

「私は思う。この位の金は東京の逸見様でも島田様でも、足利の原田様でも名
古屋の原田様でも、一寸お話申せばできることならんと。・・・何卒至急ご返済の
方法を立てられ、窮困なる私方の痛苦をお救い下さるよう、泣いて、幾重にも願
い上げ候。謹言」

この時から更に2年を経ても、正造は全く1銭も返してくれませんでした。島田兄
弟はどんな催促状を出したでしょう。それは次回にします。 

386名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 20:55:51 ID:3/PgW4k60
>>385
次回は永遠になくてもいいので、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

次回の前にこちらに答えていただきましょう。
答えないで次回とやらが続いたら、それはあなたが大嘘つきだと
認めたということになりますね。

それに裁判の話でも捏造をくりひろげるのは何故ですか?
だいたい、裁判費用なんか、裁判起こせって正造や谷中の人たちを
説得した人が出すべきじゃんじゃないですか?
そもそもその人たちは、裁判費用はこっちで持つからって説き伏せて
裁判を始めさせたんじゃないんですか。
その人たちは誰だか分かるはずですよ。
387名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/17(木) 20:31:47 ID:oknilu+60
島田熊吉・宗三兄弟は、正造にもっとも忠実だった谷中村民ですが、返済期限
から3年経っても貸したお金を返してもらえないので、しびれを切らしてまた催促
状を出しました。
明治43年4月3日に島田熊吉が正造に宛てた手紙で、やはり宗三の代筆です。

「かねてたびたびお願い申し上げおきたる金円の件。至急ご返済相成りたく候。
かくご請求を申すは実に心よろしからず候えども、先方よりしきりに催促せられ、
今日に至るまで3年と7ヶ月も日に延べ月に送りて、ようやく延期して来たり候え
ども、先月来より俄かにまた厳しく請求せられ、ここにおいて愚かなる小心の私
には先方へ申し述べようもなく、実に困難致しおり候」

「ご大老様とて、決してご返済下さらぬお心は御座なく候わん。私方のような貧乏
な者をお倒しなさるようなご精神は露ほどもなきことを信じ候。ご多端中の一日を
割きて、ぜひ私方の困難をお救い下されたく、利子の点についても大なる損害こ
れあり候えば也。翁に取りては、これくらいの金円は低利をもってご融通の出来
得ることを深く信じ申し候」

388名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/17(木) 21:18:51 ID:N0NhwaAf0
>>387
そうですか。
あなたのこの発言は大変に長いので、
「内容の要旨が伝わるとともに、原文をそのまま生かしながら相当大幅に削除し、それによって生
ずるつなぎ目の不自然さを直して読みやすくしてある」
形にすると、こうなります。
「自分は大嘘つきだ」
、あなたはご自身が大嘘つきであることを認めたわけですね。

もちろんこの文章が、あなたの文と意味が違うなどとはわめきちらしたり
しませんよね。あなたは菅井が世界大百科事典に書いた文を捏造したあげく、
省略して引用とか言い逃れをしたんですからね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

自他共に認める大嘘つきが何を言っても、誰も信用しませんよ。
389名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/18(金) 19:53:58 ID:Cyblleis0
農民を救うために忙しく駆けずり回っていると宣言しながら、貧しい農民からの
借金を踏み倒し、彼らを苦しめているとは、何という矛盾でしょう。
返済を催促している方が遠慮していて、実におかしな関係になっていますが、こ
れより7日後に、宗三が古河町の田中屋という旅館にいる正造に出した手紙もま
た、正造に文句がありながら、結局、相手でなく自分の方を責めてしまう、農民の
弱さを物語っています。

「拝啓。昨日は久しぶりでご面会いたし、有難く存じ奉り候。陳(のぶ)れば、染宮
与三郎のことにつき、あなた様私に向かって曰く、<私の不在の時、裏切りをす
る。村の中に村を壊す者がある>。この一言、実に気にかかりたり。私はもとより
村を壊し、村の権利を毀損し他人に損を与える心は豪もなかりしなり。・・・何か分
かりませぬが、私が考えるちょっとした事にても、田中様は私を非常にお戒(いさ)
め下さるように思われます。何でも、総てがそう思われます。私の身の上に、何か
あなた様に疑う所があるかどうか知れぬが、これも私が悪いのです。皆おのれの
信心の足らざるためです。罪はすべて私にあり。この罪を悔い改めねば、やっぱ
り人間にはなれぬのでしょう」(明治43年4月10日)                                  
390名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/18(金) 22:47:43 ID:kT5+iWUK0
>>389
あなたの発言の中身は、何という矛盾でしょう。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あなたは、「自分は大嘘つきだ」と主張している。それはもう理解できましたから、
そのような大嘘をつき続ける理由をぜひ教えてください。
人をだます以外の理由があるのならお聞きしますよ。
391名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/23(水) 20:16:49 ID:NCjbU6030
正造が貧しい農民にお金を借りて、返済せずに踏み倒したケースで最も悪辣な
のは、おそらく埼玉県河辺村の増田清三郎からの借金だと思います。

正造の活動を積極的に支援していた増田は、渡良瀬川をはさんで谷中村の対岸
に住む農民で、明治38年の4月に、正造のために年利1割2分という高利で人から
200円を借りて、それを融通したらしいのです。

失業者である正造には、当然返せるはずがありません。増田が催促を続けたもの
の全く駄目で、やっと少しだけ返してもらえたのが、明治41年の9月になってからで
した。おそらく逸見斧吉が代わりに支払ったのだと思います。
金額は不明ですが、文面からは50円内外だと考えられます。手紙文は次回に引用
します。
392名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/23(水) 21:01:48 ID:FMvP/13x0
>>391
それで、増田は、正造が死ぬ2ヶ月か3ヶ月前に、
祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、って、
正造を招待しているんですよね。
あなたはそれは知っているはずです。
増田と正造の関係は、あなたの思うようなものではありません。

何度でも書きましょう。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
393名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/24(木) 20:45:17 ID:rm6FB2oU0
前回の手紙とは、明治41年9月26日付けで、前半は姉のせきが書き、後半は本人
とせきの連名で書いてあります。候文を現代文に直しました。

「過日あなた様より内金として届けられた分、正に拝受いたしました。しかし、受け
取ったお金は、堤防の上置き金200円の利子30円を払い、残金は質物の利子に
支払い、その他夏物4,5枚を質屋から受け戻したため、1銭たりともさらになく、ま
ことに困難きわまりなきところです。弟の清三郎は永く病気を患っていまだ全快せ
ず、私は煙草銭や小遣い銭にも欠いて、近所や親類から50銭、30銭と小遣い銭を
借りている始末です。これについては、いずれ面会の上、いろいろお話申し上げた
く思います。増田せき」

「二伸を申し上げます。元金200円については、明治38年4月7日に、古河の片町よ
り借用しましたので、それに対する利子も84円になり、金主より頻りに請求が参っ
ており、困却いたしております。この段お伺い申し上げます。ただし、利子1割2分。
増田清三郎・せき」            

394名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/26(土) 00:03:04 ID:5g70eVKJ0
全集に載った手紙によって、その後の経過を調べてみました。
前回の催促状から半年以上たった明治41年9月26日、増田清三郎は、正造に宛
てて感謝の手紙を次のように書きます。

「田中正造様に申し上げ候。逸見様より金額50円送り付け相成り、有難く、ありが
たく、ありがたく、ありがたく存じ候。なおまたこの上に有士様方にお願い込みをして、
小生家内一同をお助け下されたく願い上げ候。早々。増田清三郎拝」

利子だけで100円ぐらいにはなっているので50円はわずかですが、逸見斧吉から
入金があって、とにかく正造にお礼を言ったわけです。
395名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/26(土) 08:16:46 ID:567wmXoc0
>>394
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あなたの発言は、単に「自分は大嘘つきだ」というのを繰り返しているのに
過ぎない。もうあなたが大嘘つきだというのはあなた自身を含めた誰もが
認める事実ですから、そんなに繰り返す必要は全くありませんよ。

そもそも増田の督促状だって全部が残ってるかどうかは分からないし、
全集には集まった全部の資料は載ってません。田中正造の全集ですからね。
不採用資料もたくさんあります。そんな断片だけを取り出しても、果たして
入金が50円だけだったのか、借りてた額の総額だとかはさっぱり分かりません
ね。
それに何度も書きますが、増田は正造の最晩年に、祭りのゆで饅頭を食べに
来てくれ、って正造を招待しています。そういう仲だというのを恣意的に無視して
督促状だけの話をするなどというのはいかさまバクチ以外の何物でもありません
ね。
396名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/26(土) 10:11:04 ID:8UgCzQtM0
>>394に間違いがありました。申し訳ありません。手紙の日付は、明治41年9月26日
でなく明治42年3月19日でした。お詫びして訂正します。以下は続きです。

しかし、それから2ヶ月後、明治42年5月25日には、増田清三郎はまた、東京の
逸見斧吉の家に滞在する正造に催促状を出します。それによれば、彼は、正造か
ら返してもらうことは諦めていたらしく、正造に近い人物の左部彦次郎と武藤金吉
から代わりに返してもらう約束をしたその証拠書類を、この手紙に添付してありま
した。
本文は次の通りです。
「過般ご来車の際、ご相談下され候件、私方も母上も借金のため財産減少に相
成るは実に面目次第に御座候に付き、就いては是非とも元金だけは御尽力下
さるよう伏して願い上げ候。増田清三郎、同母」
「1、金110円也」
「1、金70円也。ただし武藤金吉分」
397名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/26(土) 18:28:25 ID:567wmXoc0
>>396
そんなところにお詫びをする必要はたいして感じませんが、
花村に対してお詫びをしてください。

花村は「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどとは
言ってません。そういうことを言う人でもありません。
もし言っていたとしたら、それは何かの言い間違いでしょう。
花村の記述からそれは大変によく分かります。

あなたは、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をついたのです。
花村に対する謝罪はいつされるつもりですか?
398名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 19:13:28 ID:mKMvjRJk0
前回の手紙に添付された資料は、次のとおりです(武藤金吉の分はハガキ)。

「かねて御恩借金の儀、本明治40年8月10日限り相違なく解決いたすべく、その
節に至り必ず遅滞なく約束履行仕り、よって約束書件のごとし。明治40年7月6日。
群馬県利根郡池田村・左部彦次郎。河辺村・増田清三郎殿」

「謹賀新年。田中翁関係の件につき、翁参られ、委細承り、この2週間に何とか
致し候。左部氏分ともご送金申し上げ候。明治40年1月5日、東京・武藤金吉。
河辺村・増田殿」

この手紙から、無責任極まりない正造が、自分の支払うべき借金を、この二人
に肩代わりさせようとしていたことが分かります。
徹底して正造に尽した左部は、彼に貢いで家業の造り酒屋を倒産させてしまい
ました。ですから、増田との約束など果たせるはずはありません。
正造の政治姿勢に共感する武藤に関しても、政治家ですから単なる出まかせ
の口約束にすぎません。
果たして、このひと月後には、増田は正造に怒りの催促状を出すのです。                                            

399名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 21:20:32 ID:A9qwWd6t0
>>398
左部が実家をつぶしたのは、みんなが反対するのに
選挙に出て負けたりしたからじゃないですか?
まあ鉱毒の分もあるかもしれませんけど、ほかの要素を
なかったことにしていかさまバクチをうち
続ける輩のことは誰も聞きませんよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

そして何度も書きますが、正造の最晩年、増田は、
祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、って、
正造を招待するのです。
もちろん正造は食べに行きました。
400名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 19:15:45 ID:Ha6QFjQF0
増田清三郎の怒りの手紙は、教育を受けず、まともに手紙が書けない昔の農
民の、心からの叫びを示しています。そこで、原文で紹介します。
これまでは、代筆だったり、分かるように手を加えたりしましたが、今回は理解
はとても困難ながら、そのままにします。

日付は明治42年6月20日、差出人は埼玉県北埼玉郡河辺村大字小野袋・増田
清三郎で、「家内一同九人にて」とあります。宛先は、東京日暮里村金杉百五十
五番地 逸見斧吉・田中正造外有者一同様。「大至急用ニ」と書かれています。

「拝啓 君ハばカの私ヲ口車ニのせて三ヶ月の間返済スル返済スル返済スル返
済スルトシテ、金額四百円以上の金ヲ支テ、今日ハ小生モ、君ニ向イ、利子ハ向
ニ(無効?)ニシテ元金ヲ返済ヲ願い、たすけてくれと何回ニモ申込せシ残り金ハ

壱百七拾円ニ相成、この元金返済ニ付キ貴君ハ小生向テよくガふカいト申シ、君
ハ世界デ壱人の有者ガばカノ私ヲ口車ニのせて、所持ノ田畑ヲ君の利子の為メと
られてしまい、本年麦作取込、麦ヲ三拾五俵取ました。利子ト小作トニ以(持っ?)

テいガれてしまい、まだ利子ト小作ニ麦拾俵以上の金額ガたれない。小生家内九
人ニテ日々食する物なし」(つづく)
401名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 20:14:08 ID:c4n/DhhU0
>>400
あなたの言いたいことは分かっていますよ。
「自分は大嘘つきだ」と言いたいのでしょう?
それはもう分かりましたから、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続ける理由を教えてください。
人をだます以外の理由があるのならお聞きしますよ。

ちなみに増田は、正造の最晩年に、祭りのゆで饅頭ができた
から食べに来てくれ、と、正造を招待しています。
増田と正造の関係というのはそういうものなのです。
402名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 20:32:23 ID:Acn+PKzF0
明治42年6月20日付けの増田清三郎の手紙は、以下のように続きます。

「貴君田中正造ハ、私、母、子供、家内事の身ニとる、正造ハをにであるカ、じゃ
である、盗賊デある。日本デハ女ト金額トの為メニいのちをとられ、いのちをしま
い、けいさつもあり、裁判所あ、貴君ハ小生ヲ口車ニ乗せて家内九人ヲヒボシデ

ころす。小生家内九人モ正造の為メニいよいよこぢきです。正造元ヲ返済するニ、
よくガふかいと。ばカな金カら、うぬガカてニすろとのことばです。ある東京有者ハ、
小生家内九人ヲたすけてください、たすけてください、たすけてください、たすけて

ください、たすけてください。左部彦次郎ノ地所も貴君正造、小生ニ向、何回モ申入、
谷中運道ニこまるカら、左部彦次郎ニモ地所買テモらいたいト、又ハ左部ニ目ヲ
掛テもらいたいト、この地所壱反九畝歩、左部県長(庁?)ニ売渡シ、この代金四

拾七円五十銭ニ売渡シ、正造の申入の事ハ目ヲカけてくれろト、何回ニも申ス為
メニ、其ノ外貸金弐拾八円也、又小生姉、左部ニ貸金七円也、この事モ貴君正造
ハみてをる。今日ニシテハ、田中シりませんと、ゆいますだろ」                                              

403名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 20:43:28 ID:OC6yeagQ0
>>402
そして増田は、正造の最晩年に、祭りのゆで饅頭ができたから
食べに来てくれ、と、正造を招待するのです。
そういう都合の悪い話は全部無視ですか。
知らないとは言わせませんよ。
どっかのいかさま本に載っている文献にちゃんとこのエピソードが載ってます。
ということは、どっかのいかさま本をつくった張本人は、このエピソードを
知っていなければならない、いや、知っていると断言したも同じなのです。
いかさま本にこの文献の名をを載せたのは何故ですか?
本の名前を出せばご立派そうな本に見えるからですか?
そうでない理由があるのならお聞きしますよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
読者をだます以外の目的があるのでしたらお聞きしますよ。
花村の言い方は「無害地の人々」であって、決した「穏健派被害民」などでは
ありません。

404名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 19:34:48 ID:I2muz6Oa0
増田清三郎の怒りの手紙(明治42年6月20日)の続きです。暗号を解読するつも
りで読んでみて下さい。少しずつ分かってくるはずです。

「小生家内ガこじきニなるのガ、さぞさぞさぞさぞさぞをもしろいだろ。小生ハ三
十八年度ヨリ三十九年、四十年、四十一年、四十二年六月、五ヵ年の間、元金
四百円以上の利子ハ、正造ニモわカるだろ。一百円ニ付、年利拾五円ヅツ、こ

の利金ハ向ニするのわ、ちのなみだにて、正造ニも向ニするカら元金だけガ、
今日、百八拾円です。申シ(もし?)この事ニ付、よくガ深いとハ何ニ事なる。小
生家内ニシテハ、ゆてゆいきれん。正造ハ今日年ニ壱回、二回、三回、シらき

ない。正造ハばカやろをの金額ヲ左部ト小生でつカてやたカらをしろい事ガ、田
中カをニ目(見?)ます。実ニカなしいカなしいカなしいカなしいカなしい事です」
405名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 19:57:14 ID:k2nut2jv0
>>404
島田宗三著「田中正造翁余録」を読んでみてください。
暗号でも何でもないですから。
増田は正造の最晩年に、祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、
と、正造を招待しています。
正造は招待に応じ、饅頭をたくさん食べました。しかしその日のうちに全部
吐いてしまいます。
ガンに冒されていた正造の胃は、もう、それらの食べ物を受け付けなくなって
いたのです。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
私は、人をだます目的以外の理由がどうしても思いつきません。
406名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 20:59:07 ID:lgE5Hlrt0
増田清三郎の怒りの手紙は、まだ続きます。

「東京ニモ正造の有者きうさい会たちてをます事、そのきうさいもみてをるカ。
田中の為メニ九人ニテヒボシをみてをるカ」

「小生モ身ヅからしする事ハできづ、又ハ古澤事件ニ付、小生ハ古澤の頭ヲ
たたいて、しらんとの、とうがんをするはカらいニテ、古澤のあたまを、こぶし
ニてたたき、正造ハ古すて木で、きヅをまくり、それを小生引受テとうがん、こ
のとき田中殿ハ小生に向テ、君ニ金参拾円やりますから、小生をばカニみて、
口車のせた。みな田中正造のことば、小生に向テハみなふとうのことば也」

「この書面次件次第ニ田中正造殿、刀を以テ小生の家内九人ヲころしてもら
いたい。刀のせいニなれば、しとをもい、田中殿大至急ニテ刀ニテころせころ
せころせころせころせころせ。小生君の為いきてていきぐるしみ、貴君ころさ
んとすれば、東京市中ニ右段ヲ有士ニ向ほこくす」  
407名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 21:03:39 ID:p0OHLLhh0
>>406
それで、増田は正造の死ぬ年、つまり、1913年(大正2年)、
祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、と、田中正造を
招待するのです。

そういう都合の悪い話は全部無視なんですよね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといった
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
と何度聞いても答えないのは、都合の悪い話だから無視している
んですよね。

いやあ、あなたの言っていることはとても分かりやすい。
こんなにわかりやすい形で、自分が大嘘だと宣言する人も珍しい
ですね。
408名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 20:20:09 ID:fgzTEhGG0
増田清三郎の怒りの手紙(明治42年6月20日)はもっと続きます。

「正造殿小生宅ニ明治三十五六年まいり、へたくさ青年ヲ引つれ、小生ヲくい
つぶしました。何百回デあるカ、すうしれづ、君ハ小生を、よくガふカいカ、君
ガをにであるカ、東京ニこぢきにでてわけます。日本事(中?)ニ新分(聞?)
ニテ、ほうこくします」

「小生のくるしみを、これ正造殿よくカンガいろ。小生利子為メニ地所ニはな
れても、元金デよろしいと、ちのなみだニテゆたのです。どせい君の為メニし
だい(身代?)カぎりをしたのですカら、元金だけでよろしと、家内事の相段ニ

テ君ニゆいましたのです。元金の為メで、よくガ深いと、君の大な小生あくを
した。これを世界ニホヲコクする。小生家内九人ニテこぢきカ、しするカ、正
造元利金とトリカいこです。これより宅地ニはなれ、村ニはなれ、家内九人
ニテそろうてわ、こぢきもできないカら、わカれてしまて、こぢきです」(つづく)

409名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 21:52:52 ID:ppbN2hkd0
>>408
そして増田は、正造の最晩年に、祭りのゆで饅頭ができたから
食べに来てくれ、と、正造を招待するのです。
もちろん正造は食べに行きました。
相変わらず自分の都合のよい部分だけをつまみ食いして、大嘘を
捏造しているというのがよくわかりますね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
花村はそんなこと言ってないし書いてないですよ。
410名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 19:57:00 ID:y7RBS9XP0
長い長い手紙はもう少し続きます。

「小生モ神(親?)せきノ間デモ、これまでに、をいニたすけてもらいましたカら、
今ども神せき向テ麦作ヲとられたはなしを、あんまりカなし、為メニ神せきニは
なしをして麦壱俵ヅツも、モらい度との為メ、はなしをしたところガ、神せき一同、

小生宅ニよりてくれて、神せ一同ハ小生ニ向、明治弐五六年ヨリ運通(動?)せ
シ、又ハ三十七八年ヨリ人のせつニわ、田中正造の為メニをうい、そうんガいで
あると人ガゆいますカら、これヨり、しするとモ、こぢきニなるとモ、田中正造ニく

わせてモらうとも、神せきのことわりや、小生わ田中ニたをされたとたをされたと
たをされたと為メです」(つづく)
411名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 21:14:15 ID:Ur4tXiyl0
>>410
島田宗三の「田中正造翁余録」はどうなりましたか?
下巻の176ページに、増田が正造を招待したときの話が出てますよ。

「翌二日の朝、お祭りで茹饅頭が出来たから来て貰いたいと、
増田清三郎氏に招かれ、翁は黒砂糖を持って増田氏宅に至り、
その砂糖をなめながら饅頭をたくさん食べた。」(つづく)

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
「無害地の人々」を「穏健派被害民」に差し替えれば、自分の捏造した
大嘘にちょうどぴったりな文章が製造できるからという以外の理由が
あるのならお聞きしますよ。

412名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 20:16:40 ID:y0u+NmkL0
「小生わ運通ニでてモ、くわづ、のまづ、よるヒる運通為メ、昨年一月ヨリ病気です。
この病気のカらだニて毎日毎日毎日しごとうをやりて、麦を取入て母上供ニ安心
させるつモりで、病気モいとわづ、カぎう(家業?)をやりました。麦三十五俵取入た 

る麦ヲさそく、みカけでをカれたとめいて金利小作ニもていガれしまいた。田中殿、
君ニわぜにガなくてモ、人ガくわせる、とめもする、人力車モ引ます、それモ何回
モたたでわしない。小生君の為メ実ニカなしカなしカなしカなし、よくみろよくみろ

よくみろ、よくカんガいろカんガいろカんガいろ、大至急、小生宅の九人ヲころせ
ころせころせころせ、刀にてころせころせころせころせ、をニどん、ころせころせ
ころせ、大至急。明治四十二年六月二十日、増田清三郎、田中正造殿」(つづく) 
413名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 22:26:02 ID:Rm9c8co30
>>411

「田中正造翁余録」島田宗三 より
「谷中村急水留工事に対する川辺村義捐のことなどを訊ねる
予定であったが、農繁期で話合う予定もないため、翁は人力車
で古河の田中屋に行き、徒歩の私があとからついた時には、
すでに二階で横臥されていた。」(つづく)

この「二日」というのは、大正2年(1913年)7月2日のことです。
ご存じの通り、正造はこの年の8月2日に倒れ、9月4日に死にます。
倒れる1ヶ月前の人が、死ぬ2ヶ月2日前の人が、それもガンで死ぬ人
が、増田のところに茹饅頭を食いに行くのです。
相当に気合いの入った話ではないですか。しかも食ったあとは自力で
動けなくて、人力車で古河駅前までたどりつくのです。
増田の家は、おおざっぱに言えば、北川辺町の正造の墓のそばにあり
ます。西小学校のあたりです。そこから古河駅まで歩く力が既になかった
のです。しかも、着いたらもう横になってたわけです。
そんな人が、これからまだあとぴったり1ヶ月、鉱毒対策のために走り
回るのです。

正造が増田に借金をしたのは事実ですし、恐らく全部を返さなかったのも
きっと事実ですが、死ぬまぎわまでこうやって正造をもてなす増田の思い、
そういう都合の悪い話は全部無視なんでしょうね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
花村は、銅山関係者や、銅山への物資の販売や輸送を手がけていた業者が
そういう運動をしたという言い方であって、決して、「穏健派被害民」ではありま
せん。
414名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 19:41:58 ID:7kTOA21W0
増田清三郎の怒りの手紙(明治42年6月20日)は、もっと続くのです。
『田中正造全集』には、6月20日より少し後らしいが日付けのない手紙が、この直
後に載っています。
今と違って、当時は、学校にも行かず何の教育も受けていない百姓が、雲の上の
人である元国会議員にこのような抗議文を送ることが、いかに異常で、考えられな
いことであるかわかりません。それを想像しながら読んでみて下さい。
これまでと同じく、増田は正造の「口車に乗せられた」ことや、「欲が深い」と言わ
れたことを、しきりに訴えています。

「正造殿、過日書送りたるこの事ハどうしたのであるカ。これ正造うそだろを。これ
モ私ヲ口車まにのせたのうだろう。君ガ左部彦次郎この事ニモカわづ又ハうぬれ
ガ支カた元金ニ付よくガふカいとわ何ごとな。武藤金吉殿の事うそであるだろう。

利島川組合ノ水理委員モ長年間つとめ、村会議員モ長年間つとめ、又ハ明治二
十五年ヨリ運通(運動?)せシ利島、川辺ノ青年ヲ引シテモ、又ハ利島、川辺、古
河、野渡、谷中、藤岡、新合(郷?)、栗橋、東村、原通(道?)、村君村、いびせ
村の人民ニモよくガ深と、又ハづるいにんげんだとふせつニモない」

「これ田中殿、元金返済ニ付よくガ深いとわ、これ田中、地方ニテ小生のしまつを
きうてみろ。むカしのこぢうんガたといのとうり、をに田中正造ぢやう、正造ごうとう
わひるまわしない。よるのいのちガけ、正造為メニヨリこぢきとわなさけないど、正
造さぞをモしろいだろ。正造、小生モしぬものぐるいです」  

415名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 20:09:13 ID:7NYXWf0K0
>>414
それで、増田が、正造の死ぬ2ヶ月2日前に、祭りの茹饅頭ができたから
食べに来てくれ、って招待をして、正造がその茹饅頭をたくさん食べたという
事実から目をそむけ続けるのは何故ですか?

そしてもう一つ。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

人をだますため以外の目的がどうしても見つかりません。
何故、化けの皮がはがれてもまだ、大嘘をつき続けるのか、その理由を
お聞きしているのです。
もっとも、最初からはがれてましたけどね。
416名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 07:10:21 ID:q+7KlZUqO
消防員を訴えるのは間違いWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWアホ
417名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 00:34:46 ID:isBP5wJ60
増田清三郎による死に物狂いの抗議の手紙は、以下のように結ばれています。
この手紙の宛先は、「東京日暮里村金杉百五十五番地 逸見斧吉・田中正造外
有者一同様」ですが、この部分は、正造でなく逸見斧吉に訴えています。

「この段逸見様、日々の食する麦ヲ三十五俵田中殿為メ引とられてしまい、まだ
利子ト小作ニ麦十俵以上ガたれない。家内九人ニテ食する物ガない。田中正造
ノ為メニこのしまつとうの事ヲ、逸見様、東京有士様ガた、私ノ心ろヲぢうぶん
(自分?)のむねニあてはめてみてモらいたい。谷中売収ニハ社会ニ人あるガ、
田中正造ノ為メニ小生ハこれヨリこぢきニなる事ニハ人ガないのでしよカ」

418名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 09:10:30 ID:SKdN1AsD0
>>417
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

増田と正造は、この手紙が書かれた時代よりもっとあとの
最晩年まで大変に親しくつき合っていたという事実から目を
そむけるのは何故ですか?

さて、今から書いても誰も対応できないお知らせです。
田中正造の伝記映画「赤貧洗うがごとき」の上映が、今日、
太田市学習文化センターで上映されます。10時半と14時の
2回だそうです。
今回の上映は、渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会の協力で
行われるそうです。と、ポスターなどには書いてあります。
鉱毒被害者の団体は、太田市にまだこうして存在して、
少なくとも活動はしているのです。
419名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 19:55:40 ID:9nazKGLf0
「長すぎる行があります」と規制されたので、以下は入力不可でした。
いたいどうして「長すぎる」のか不可解です。改めて入力します。

「逸見様、東京市中ノ有士、新分ン東京市中ノ有士方ニモ御方告

御願度く、小生書面又ハこぢきニでて、有士、新分ン(新聞)社ニ

たのみますカら、其ノ内御貴君様、東京田中きうさい会及ビ有士

方ニ御しら御段願度く、御貴君様上カらモ田中殿ニ向テ、

よくはなしを願ウ。増田殿ノ家内人ヲころすとモ、いカすとモ、大至

急ニしてやるガよいと田中向テ御せつめを願う。小生ハ田中刀
でころしてモらいたをわ」


これが、まともに字が書けない貧しい農民の、明治42年6月20日
の怒り狂った、心の叫びの手紙の全部です
420名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 21:00:45 ID:FLykutsf0
>>419
そしてその増田は、正造が死ぬ2ヶ月と2日前に、
祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、と、
正造を招待するのです。

何度でも書きますが、そういう都合の悪い事実を全部
無視すると、あなたのような捏造で塗り固められた
大嘘ができるというのはとてもよく分かりましたよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいた
と言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
これも、増田の茹饅頭のように都合の悪い事実だから
無視するんですよね。
421名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/21(水) 20:05:57 ID:IzyWk+eT0
前回の手紙から半年後、明治42年12月26日に、増田清三郎は東京
日暮里の逸見斧吉の家に滞在する田中正造に宛てて、また金返せ
の催促状を出しています。内容は以下の通りですが、誰かに代筆し
てもらったことは歴然としています。
とは言っても、意味が分からないところがたくさんあります。なぜそう
なのかをよく考えながら、読んでみてください。

「拝啓、御貴殿様に申し上げます。3か年間田畑不作のために家族
9人、実に食することも出来ない始末。明治40年度より3か年村税未
納、次に学校建築費と共に53円を、いよいよ、いよいよ、いよいよ、

財産差押えの命令あり、他に借用金の返済を請求され、子供5人に
寒さしのぎが出来ず、そのために子供が病気を引受け、小生も長年
の病気で見る影もなく、御貴君様お助け、お助け、お助けを願います」
422名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/21(水) 21:09:02 ID:DhcHiBXs0
>>421
そしてその4年後の1913年(大正2年)7月2日、
増田は、祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、と、
正造を招待するのです。

そういう都合の悪い話はまたしても全部無視ですか。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
もちろん理由は分かっています。花村の文章の「10倍」という数字
をそのまま使って、同じく、花村の文にある「無害地の人々」を
「穏健派被害民」に差し替えれば、自分の大嘘に都合のいい
嘘が捏造できるからです。
そういう理由とはまた別に、何故に人をだまそうとしたのか、
その理由をお聞きしています。
423名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 19:49:10 ID:QElOK0hF0
前回の手紙(明治42年12月26日付け)は、以下のように続いています。

「御貴君様は、聞くところによれば、来ても小生宅には寄らず、この次
は寄るかと思えば素通りして、お願いもできず、12月30日までに金100円
をぜひぜひぜひ、ご都合なり、借用するなり願います」

「家内どもは、御貴君が素通りに付き、田中さんは金の為に殺すんだ
ろうか。実に母始めとして涙に暮れております。金もなし、食するものも
ないから、毎日母上に口説かれておりますことは、貴様が14,15年間の

運動と田中正造への立て替え金元利、34年の調べは山のごとくだろ、
その為にぢうらいのしんくうをしまうのか。実に情けない、なさけない、
なさけない。毎日家内一同に泣かれております。大至急御情け、助け
を願います。増田清三郎、家内一同にて」
424名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 20:03:59 ID:cwB8IC6Z0
>>423
そしてその増田は、それから4年後に、祭りのゆで饅頭が
できたから食べに来てくれ、と、正造を招待するのです。
増田と正造の関係を何も知らない、いや、知っていて都合の悪い
部分だけを無視し続ける大嘘つきの言うことなど、誰も信用しませんよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
読者をだます以外の理由があるのならお聞きしますと何度も
聞いていますが、お答えがないということはそれ以外の理由は
ないということですね。
最初から、読者をだますつもりだったんですね。
425名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 20:01:12 ID:eMZ3448L0
増田清三郎からの「金返せ」という催促状に対して、田中正造はいったい
どのように対処したでしょうか。

実は、すでに明治42年8月15日の段階で、古河町の旅館・田中屋に滞在
する正造は、逸見斧吉に次の手紙を出しています。

「増田清三郎のこと、右は正に相渡し候。大喜びでトント別人の如し。しか
れども今後同人より貴下に何事を申上げるもこの上はナシです。委細は
更に御面会」

正造は、借金を踏み倒した農民・増田清三郎に、何一つ同情していません。
むしろ軽蔑しています。

426名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 22:11:17 ID:W2Gahs9y0
>>425
督促状を出した増田清三郎に対して、
正造は、招待を受けるという形の対処をしました。
そういう都合の悪い話は全部無視ですか。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
まあ、自称礼儀知らずの欠格人間はそんな都合の悪い
事実は無視して、新しい大嘘をたれ流すんでしょうけど。
どっかの、鉱毒をたれ流した輩と同じですね。
427名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 19:45:54 ID:eh7PR1HN0
それは、前回の明治42年12月26日付けの増田の催促状から10日ばかり後、
明治43年1月6日の手紙からもよく分かります。古河町の村沢旅館に滞在す
る田中正造は、ここから東京の逸見斧吉に宛てた手紙に、この日なんと増田
を馬鹿にして次のように書くのです。

借金を踏み倒した相手に済まないと思うどころか、平気で軽蔑してお説教まで
しようとしてするのですから奇奇怪怪。

田中正造という人は、農民を救済するどころか、明らかに愚弄していたことが
よくわかります。言葉と行動は完全に分裂しているのです(引用は次回に)。
428名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 20:27:13 ID:+UpfTMQS0
「ニッコッコ掲示板」をヤフーで検索してみ!ひらがなで「○っこっこ」でOKだよ!
検索はひらがなでお願いします。(○は「に」)(カタカナでは引っかからないかも?)
まだ規制ないし、色々貼れる
429名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 18:36:34 ID:k9FNWexj0
>>427
それは、花村の田中正造に関する著書を見返してもよく分かります。

花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
430名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 19:55:31 ID:fe4Q6pXf0
明治43年1月6日付け、逸見斧吉宛の手紙とは、以下のとおりです。

「去月下旬以来(埼玉県の)川辺の増田清三郎氏の裏通行。車にて往来6回
せるに1回も立ち寄らざりしは、他人の素人にはなし急ぐためなり。しかして
去月30日青年4人同行、立ち寄りたれば、この人すでに貧苦止みなく悪魔の

小売に欺かれたり。増田氏は食えぬその理由の弁解、気焔万丈。これまこと
に神の我に教えられたるところなり。凡人食尽き飢えれば敵に降るを恥じず。
あたかも兵士の戦破れて降るも同一に心得ておる。非戦論の困難ここにあり。

食多ければ無益の戦争を聞き、食尽きれば内地の人民を責め滅ぼして兵士
の食物とす。これ、現代の政治が我人民を殺しその肉を食うに至りしは、まこ
とに凡人社会の常となり申し候。恐るべし恐るべし。増田清三郎氏の変化もま

た哀れなる次第にて候。ただし、追々この人には人道の汚点たるをば説き申す
べく候。蘇生まで説き申すべく。31日の夜も飯積の野中氏方にて夜食して、暗夜
無灯提、独り麦倉の飯塚伊平氏に来泊す。10時にて候。5日夜書く。6日朝」

封筒の裏には、「古河町旅舎村沢方より本日発す。あとは田中屋、43年1月6日
午前9時」とあります。彼は正月に人の家を泊まり歩き、ご馳走に預かっていた
わけです。乞食をしながら、借金を踏み倒した相手を責めているのです。 
431名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 20:16:14 ID:k9FNWexj0
>>430
そして、増田は、3年後の1913年7月2日に、田中正造を
祭りのゆで饅頭ができたから食べに来てくれ、と誘うのです。
もちろん、正造は食べに行きましたとも。
そして、その1ヶ月後に倒れ、さらにその1ヶ月2日後に死ぬのです。

断片的な文章だけでは何も分かりませんよ。
それにまたしても正造か増田のどっちかが誰かにまた変なことを
吹き込まれたのかもしれませんしね。

はっきり言えるのは、正造と増田はこの手紙のあともずっと死ぬまで
親しくつきあったということです。

それに、知人に御馳走してもらうのは、乞食とは言いません。
その言い方だと、パトロンのいる芸術家は全員が乞食ですね。
ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチと同じだと言うのなら、
まあ、そうかもしれませんけどね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
432名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 12:21:16 ID:Xafe5swl0
砂川さんはレス乞食だけどね。
誰も思うようなレスを返してくれないので独演会しか出来ないけど。
433名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 20:02:00 ID:twnca0HG0
田中正造は、借金を踏み倒した増田清三郎に関し、前回の手紙のほかに明治
44年1月7日にも、同じく逸見斧吉に次の手紙を書いています。

「また埼玉の河辺村増田殿、同村に従来の悪漢等また人民を売って(私欲)云々、
しかも増田殿等これを発見、去月その由を訴えるとて300人県庁に行く道、久喜
の停車場辺にて警官の偽言にだまされて空しく帰りたりとの風聞は、かつて聞き
おりたるところ、右利島(村)、川辺(村)の人民は、ここに到りて正造を頼まんと
するのです」

「増田氏、先年は偽りの文句を左部彦次郎に学びて、悪手紙を東京市の我々の
同志にくばりて、面目を傷つけ、今また正に死になんなんとしては人民を引き連
れて正造にすがる。正造は暇すらあれば救うのです。増田殿が前年の事は咎め
ぬのです。けれども谷中の外四方八方皆この混乱で、手も足も廻るものでない。
無邪気の人民は、鉱毒よりも水害よりも恐ろしき危難に陥りました。右参考に申し
上げ候。早々頓首」
434名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 20:58:08 ID:sSKfkTp10
>>433
そしてその2年後の1913年(大正2年)7月2日、増田は、祭りの
茹饅頭ができたから食べに来てくれと正造を招待するのです。
そして正造は食べに行きました。

要するに増田にいろんなことを吹き込んだ人がいたんでしょう。
それは前からさんざん指摘していますよ。

それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
大嘘だと指摘されても、全く悪びれることもなく平然と新しい大嘘を
つき続けるのは何故ですか?
あることないことを吹き込む輩のおかげで、増田と正造は、かなり仲が
悪くなったこともありましたが、しかし、死ぬまで招待をされたり受けたり
する関係が続きました。
そういう都合の悪い話は全部無視なんですね。あなたは。
435名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 20:42:19 ID:2Po9GqjJ0
前回の手紙は、何を言っているのか判然とはしませんが、増田たち農民を「無邪
気の人民」と決め付け、彼らは自分を頼ってくるが、「暇すらあれば救える」けれ
ども、「手も足も廻るものでない」から、それはできないといっています。お金を返
すことが先決なのに、自分勝手な理屈を持ち出して、その相手をかえって責める
のですから驚きです。

田中正造の異常な金銭感覚は、大正元年11月30日の次の日記にもよく伺えます。
彼は、国会議員引退後に選挙地盤を譲った蓼沼丈吉から、200円(今なら200万円)
借りていました。相手は当然返金など期待していないお金でした。
ところが正造は、お金を返したことがないのに、口から出る言葉はいかにも立派に
聞こえます。だから学者たちはだまされるのです。

「去る7月中、蓼沼丈吉氏は、佐野町川田屋にて予に面会の時、予が金200円の
借金は帳消したりと告げたれば、予はこれに答えていう。返済の義務は我にあり。
帳面は消すとも予が精神は消すべからず。予の精神は、返金せしのちにあらざ
れば消えず。蓼沼氏笑う」                                                   
436名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 22:36:12 ID:wQLy4yfJ0
>>435
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

貸した本人が返済をあてにしていないのなら、そもそも何の問題があると
いうのでしょう。今だったらまあ贈与税とかの問題が起きるでしょうけどね。

ひとまず、あなたが、何が書いてあるのか分からないのに、文章に出てくる単語
を抜き出して自分の都合に合わせた内容に製造する輩だということはまたしても
よく分かりましたけどね。
学者はだまされているのではありません。
あなたの大嘘にだまされなかっただけです。
どの学者かは知りませんがね。
437名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 21:26:40 ID:d1j+afE10
もう一つ、正造の興味深い手紙があったので紹介します。
島田雄三郎と言う人に宛てたものですが、どうやら、正造がこの人から時々お金を
恵んでもらっていたようです。
そこで正造は、借用証を発行し、実際に甥の原田定助にお金を払わせようとしたが、
相手から「お金は差し上げたので貸したのではない」と断られた、というのです。

「先年来の恩借金といえども、何もかも投げやりにても人道またよろしからず、今後
参上の頃、証文らしきもの相認め申したく候間、その節紙と筆と墨とをご用意、ご貸
与下されたく候。おうかがいかたがた併せ御意を得候。頓首」(明治39年5月21日)

それからひと月後の明治39年6月25日、正造はこの島田雄三郎に宛てて、次の手紙
を出しました。

「仮証。1.金20円也、ただし、間接に津久居彦七君を保証人に選任いたし、足利町
原田定助殿より来る6日受取、急ぎ御回金仕るべく候事。明治39年5月19日。田中
正造。島田雄三郎殿」
「本証元金返済のため持参候ところ、なお御恵与下さる候との厚きお言葉にしたが
い、すなわち頂戴いたし候につき、後来のため、この仮証そのまま貴下に御預け申
し上げ置き候也。6月25日、田中正造」

正造は、彼に寄付したいという人々に甘えて、「証文を書きます」などと口先で相手を
だましながら、収入を得る道を選んだのではないでしょうか。
                                                  
438名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 22:07:23 ID:iQH2Io/40
>>437
其れで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

くれるというのにわざわざ証文を書くのは正造の性分でしょうね。
別に悪いことをしてるわけでも何でもない。
闇に隠れてこそこそ現ナマの受け渡しをしている輩だと思われたくなかったの
かもしれませんね。

「証文を書きます」ってのはだましてるわけでも何でもないじゃないですか。
どうせ正造が返さないなんてのは島田雄三郎は知っている。だから証文は
いらないといった、にもかかわらず正造は書いた。
元々返すあてがないと分かっている相手に金を渡したときに、
相手が「証文を書く」と言ったことのどこが誰をだましていることになるんですか?

しかし、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
言い方をする誰かさんは、人をだまそうとしているのが明白です。
だって、花村はそんなこと言ってないですから。
もし言ったとしたら何かの言い間違いでしょう。
439名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 20:48:33 ID:2oalIh9X0
旅行に出ていたうえ、帰ったらアクセス規制されてだいぶ途絶えましたが、書き込み
を続けます。

田中正造の日々の動きを見ていると、あちこち転々と移動していて、本拠であるべき
谷中村にはほとんど落ち着いていません。
谷中から動かない方がお金がかからないはずなのに、働かずに収入のない彼が、
なぜあちこち動き回っていたのでしょう。理由は簡単です。お金がないからこそ、他人
の家を訪ねて食事をおごってもらい、泊めてもらっていた、というわけです。
このことを正直に告白した手紙があるので、次回に紹介しましょう。
440名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/15(日) 19:26:20 ID:EGa1eBzm0
その手紙とは公害反対運動のリーダー的な活動家だった野口春蔵に宛てたもので、
日付けは明治44年9月1日、差出人は「日本の東京より、世界的土人」となっています。

「拝啓、臨時お頼み申し上げておきます。それは小中辺の人々が何を誤解せしか、
正造が村長を望むとやら、万一にもなられては大変、郡長さん困るだろうとかにて、
内々反対の運動しておるとの風聞が耳のきわをかすってきていた。・・・去年以来正造
がたまたま小中に行くのは、銭に困って行くので、他に用があって行ったのではないで
す。正造は天国に行く道普請の最中で、多忙ですと話して下さいよ」

小中とは、正造の生まれ故郷で、栃木県佐野町にある地名です。
多忙な人が、お金に困って故郷の知り合いの所に出かけ、泊めてもらって食事をご馳走
になり、お小遣いをもらって帰るなんて、あり得ることなのでしょうか。多忙は明らかにうそ
です。彼は誰からも何も頼まれていないし、自分で勝手に動き回って、忙しいといっていた
に過ぎないからです。 
                                                  
441名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/15(日) 20:59:32 ID:ZUo81Dbj0
>>440
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造が誰にも何も頼まれているかいないかなんて分かりませんよね。
あなたにとって頼まれていないと都合がいいというだけですよね。
事実と製造した大嘘は読者に分かるようにしてください。
だいたい、人に頼まれて多忙だなんて書いてないじゃないですか。
天国に行く準備で忙しいってだけでしょう。
旅の準備で忙しい、というのを、人に頼まれごとをして忙しいという
大嘘に作りかえないでください。
442名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/16(月) 20:18:11 ID:DGtHMDaJ0
いったい、他人の家をどのように転々と訪問していたのか。日記を見れば分かると思った
ので、明治の末年から少しの間、正造の日記をメモしてみました。それを並べてみましょう。

明治45年4月29日、昨日栃木県茂木氏を訪れて佐野に至り、小島氏方に泊す。
   同年5月5日、昨4日、谷中より海老瀬、藤岡に。田中弥平氏方に泊す。
   同年5月6日、木村市郎氏と共になり、海老瀬佐山の家に泊す。
   同年5月18日、前夜本郷稲村広吉氏に泊し、河辺村稲村氏を立って、三人して
   (島田宗三と竹沢房之助と)古河町に。わだやで昼飯ののち、板倉、雷電、板倉沼を
    見に行かんと材木店○○方に泊す。 
   同年5月19日、汽車で足利に至りて原田氏方に投宿。
   同年5月22日、昨日馬門大橋屋に泊し・・・・。

443名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/17(火) 20:19:46 ID:DroI2ris0
>>442
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

ひとまず、正造には支援者がたくさんいたというのは分かりますね。
444名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/17(火) 22:04:23 ID:zTYvrNVH0
前回の日記について少し説明します。

5月22日に出てくる大橋屋は旅館のようですが、その他は普通の家です。
元国会議員の偉い人が来れば、ご馳走を出して饗応し、床の間のある一番奥の部屋に、
来客用の寝具を用意するでしょう。
本当は乞食のように、食べ物と寝る所を求めて行っただけでしょうが、正造を迎えた人々
は、賓客と思って受け入れたはずです。
ですから、職業もお金も家族も家もなかった正造は、その家を訪問する具体的な用事が
ないにもかかわらず、次々と個人の家を泊まり歩いていたのだと思われます。  
445名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/17(火) 22:10:58 ID:DroI2ris0
>>444
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造が泊まる家を毎日変えたのは、いろんな理由がありますが、
そのうちの1つが、あそこの家ばっかりひいきにする、と言われている
という噂を聞いたからです。
あなたが大嘘を製造したいのはよく分かりますが、それは事実とは異なります。
446名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/18(水) 19:30:52 ID:VnJR3iJw0
前回の日記について少し説明します。

5月22日に出てくる大橋屋は旅館のようですが、その他は普通の家です。
元国会議員の偉い人が来れば、ご馳走を出して饗応し、床の間のある一番奥の部屋に、
来客用の寝具を用意するでしょう。

本当は乞食のように、食べ物と寝る所を求めて行っただけでしょうが、正造を迎えた人々
は、賓客と思って受け入れたはずです。

ですから、職業もお金も家族も家もなかった正造は、その家を訪問する具体的な用事が
ないにもかかわらず、次々と個人の家を泊まり歩いていたのだと思われます。  
447名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/18(水) 19:36:32 ID:0Le/9ioA0
明治45年6月、7月の正造の動静を、日記からまたメモって行きます。

6月12日、11日出京、神聖舎に泊す。12日、野木役場に到りて泊す。
6月15日、昨夜、藤岡の河内屋、今15日、赤麻に急行して船田源蔵氏に泊す。
6月21日、久保田氏にて昼、山崎氏方に泊す。

7月2日、金龍寺方出立。字悪戸日高文六氏を訪れて、中妻関口安蔵
      氏方に1泊し、今2日西小路田中ます子方に休む。
7月3日、夜、藤岡町鍛冶店田中弥平氏方に泊す。
7月8日、赤貧の洗うが如き心もて、無一物こそ富というなれ。田沼高沢
     に泊す。人を見るは神を見るより難し。
7月9日、朝、三好村蓼沼氏方を訪ね、・・・遠藤氏死去を訪うて、五月女
     両家を訪うて小中に泊す。
7月16日、15日夜、関口吾一郎氏を訪れて泊す。
7月20日、今日まで佐野の新里兼吉方に厄介となる。
7月24日、この7日間は、印刷屋船江氏方に出入りして、氏の多忙にじゃ
      まして大いに困られた。 
448名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/18(水) 19:45:09 ID:xYJ87H9Y0
>>447
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

別に正造が泊まりに来たって、泊めたければ泊めればいいんじゃないですか?
そんなのはそれこそ正造の勝手だし、支援者の勝手です。
あなたのところに正造が泊まりに来たら、断ればよろしい。
実際、断った人だっていたはずです。その場合、正造は、近くの別の家に行く
わけです。
臨終のエピソードがまさにそうですよね。雲龍寺に行ったら箸にも棒にもかからない
ような扱いを受けて、しょうがないから庭田本家に行った。
そうしたらまたまた主人が留守だったので、分家のほうに「回された」のです。
そして、正造は、庭田の分家で死にます。

正造がどこに泊めてくれといっても、誰が正造を泊めても、それは正造と支援者の
勝手です。

しかし、足尾から鉱毒をたれ流すのは勝手ではありません。
449名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/19(木) 21:45:32 ID:IXdI9qWG0
人の家に押しかけて行って、いろいろ厄介になりながら、「無一物こそ富
というなれ」と言ってのけるとは、何という無神経でしょう。

「人を見るは神を見るより難し」と言っていますが、いったいどうすれば神
を見ることなど出来るのでしょう。この人の言ってることは全く訳がわかり
ません。

印刷屋の仕事の邪魔をして迷惑をかけたようですが、これで、相手の
都合に関係なく人の家に押しかけていたことも分かります。自分でも認
めているように、彼は、遠慮というものを知らない不躾な人間なのだと
言えます。
450名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/19(木) 21:58:28 ID:5cclomPa0
>>449
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

>この人の言ってることは全く訳がわかり
>ません。
分からないんだったら、せめて分かってから文句を言うべきなんじゃないですか?

そもそも、人に見せるつもりで書いたわけじゃない日記に向かって意味が分からない
などというのは、そもそも言う相手が間違っています。

「タバコ 2 夕方 565−98999 安蘇郡」
って日記に書いてあったら、意味が分からないとか図々しく言うんでしょうね。
あなたは。
正造の日記は自分が後で見返すためのものであって、解読は読者の責任です。
誰の日記だって、後世の歴史家が解読に苦労するのは同じです。別に正造の日記だけが
特別なわけじゃない。
日記に「島田」とあったら、島田熊吉なんだろうか、島田早苗なのだろうか、島田三郎
なんだろうか。書いた本人は見返せば分かるから困らないのだし、他人に見せるつもりで
書いたわけじゃないのだし、それをどの島田か分からないなどというのは筋違いというものです。
451名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/21(土) 20:28:26 ID:7wccbvR20
明治45年7月に明治天皇が崩御されていますから、8月から大正時代
に変わります。大正元年に入ってからの正造の日記を見てみましょう。
次々と他人の家を回って食事をいただき、泊めてもらっている様子が
分かりますが、何の用事でその家に行ったのかについては、何も書い
てありません。

8月22日、(古河の旅館)田中屋より人力車で新郷村に入り、山中栄吉、
     小倉佐市、小野善助氏を訪れて新久田の並木氏を訪問。不在。
     渡良瀬川を西に越えて河辺村稲村広吉氏方に入り昼飯を乞う。
     車夫と二人分。 
8月29日、去る24日、館林町荒井清三郎氏方の厄介となり泊す。
     ・・・眠り覚めて小便に立ち、東西を誤り、行く所を失い隣室を
     呼ぶ。この家の老婆驚き起きて下女を呼ぶ。家中騒動となる。
     小便ほとんど洩る。
452名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/21(土) 21:35:39 ID:aL1sKnmU0
>>451
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

泊まりに行った家に何の用があったのかなかったのか知りませんが、
日記にそれを書かなきゃならないという法はありませんね。
453名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/23(月) 20:21:53 ID:r+jB9rKL0
大正元年の日記を続けます。

9月2日、植野村新井新次郎方に休息を許されて昼寝す。島田雄三郎
     氏を訪ねて小遣金3円を得て馬門に行く。
9月7日、昨夜海老瀬村の増保金蔵氏方に泊す。
10月3日、昨夜福田女史、石川三四郎両氏と宮崎女史を訪ねて泊す。
      2氏は帰る。
10月10日、昨日、部屋に泊す。
10月11日、昨日、古河町田中屋に泊す。
10月12日、恵下野に泊す。
10月20日、赤麻村大前山志家氏に 泊す。
10月21日、藤岡、谷中、古河町、野木に入りて夜栃木に来たり<か
       な半>に 泊す。
10月23日、恵下野に泊す。

人力車の車夫と二人分の昼飯を請求したり、小遣いを3円も(今の
3万円ぐらい)もらったり、昼寝をするために家にあがったり、深夜に
老女を起こしたうえ小便を漏らしてしまったり、何とも迷惑至極ではあ
りませんか。
454名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/23(月) 21:06:58 ID:CJ1oerb80
>>453
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

死の前年でも、相当精力的にかけずり回っているというのは分かりますけどね。

昼寝をするために上がったのではなくて、休息しているうちに寝ちゃったんじゃ
ないですか? いかさまバクチをうつためにはそういう意味にとったほうがいいと
いうことは分かりますけどね。
455名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/24(火) 19:59:06 ID:kSC5xWag0
もう少し、彼の日記を続けます。死の前年に当る大正元年の11月分からです。

11月5日、4日夜繁桂寺に泊す。本日、知事に陳情書を出す。3日夜田中
      弥平氏に泊す。2日は赤麻の日高文六氏方に泊す。1日は部屋
      村田中森之進氏に泊す。30日金半に泊す。31日、皆川村森戸
      金太郎氏に泊す。およそかくのごとし。
11月6日、田中弥平氏方。昨夜ここに泊す。
11月21日、海老瀬の佐藤氏方に泊す。昨夜古河町田中屋に泊す。
11月28日、東京日本橋芳町上総屋方にて飯村丈三郎氏に逢い、邑楽郡
      に帰り、大出氏の死を訪うて山本氏に泊す。
11月30日、昨夜大出氏に泊す。
456名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/24(火) 21:36:51 ID:HUUY0B4q0
>>455
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

ほかにもツッコミをいれなきゃならない大嘘がたくさんあるので、
早くけりをつけてくださいよ。
大嘘がばれると、新しい大嘘で覆い隠そうとしても、
その手にはもう乗りませんよ。
457名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/25(水) 20:09:18 ID:fLDuukLn0
大正元年の12月分には次の記述があります。

12月5日、古河町より宇都宮に行き、翌6日帰りて藤岡の篠山にめぐりて
     川島氏に泊す。
12月7日、川島氏より恵下野に来り、島田氏に泊し、田名網氏に逢う。
     閑を得て野木に来たり、大野氏に逢うて、古河町田中助次氏に
     逢うて泊す。
12月17日、藤岡町川内屋に泊す。
12月18日、出京、上野の上野館に泊す。
12月19日、島田三郎氏を訪う。この夜巣鴨の巣鴨館に。12月20、21、22、
      23日、巣鴨館、上野館に泊す。
12月29日、本所緑町3ー20佐野屋川辺長三郎方、久々にて泊す。今日
      花井氏を訪うて上野館に厄介。  
458名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/25(水) 20:18:27 ID:k5zYOAgV0
>>457
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
正造はあっちこっちに泊まり歩きましたが、だからといってそれが何なんでしょう?

最晩年に正造をただで泊める家が山のようにあったということは、
最晩年になるまでの間に、正造がそれらの人々に金では勘定できないほどの
貢献をしたという証拠です。
459名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 20:13:59 ID:5oYC5ZhR0
彼の最後の年である大正2年の日記に移りますが、正月の元旦から
他人の家に泊まり歩いていることがわかります。

1月1日、2日、横浜根岸婦人慈善病院の上隣、福田・石川両氏を訪うて泊す。
1月3日、芝口越中屋に投宿す。
1月6日、東京より逗子に来たり松屋に投宿す。
1月20日、友沼、教員木本寅之助氏方宿。
1月22日、野木村字野渡に昨夜泊して、野木村の田畑を買収する手続き
      を聞き、足尾銅山党の悪謀たるを説明し、降雪中古河町に帰る。
      田中屋に宿す。
460名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 20:27:56 ID:pp7U3Hij0
>>459
あなたがどれだけお願いしても、これだけの人が泊めてくれるって事は無いでしょうね。
461名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 20:45:20 ID:qlcTvFOk0
このように、他人の家を回って寝と食とを恵んでもらうホームレス生活を
繰り返す中で、正造はこの間の日記に次のように書くのです。

「大正2年1月10日、宇都宮市停車場白木屋にて書く。予は、人の幸せを
祈る者なり。人の命を長くする者なり。人を助くる者なり。世の中を清む
る者なり。世を正す者なり。予は、山川を荒らさぬ、自然の者なり。河川
を地勢のままにして水を自然の清きを汚さず、流れを流す者なり」

いったい、寝たり食べたりする生活の基本をすべて他人に依存している
人間が、何で「人を助くる者」なのでしょう。馬鹿馬鹿しい限りです。
462名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 23:00:40 ID:YGv5kSn+0
>>461
そして正造はその年の8月に倒れ、9月に死ぬのです。
そんな人がその年になってまだ精力的に動き回っているというほうが
すごいことだと思いますがね。
しかも末期ガンですよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」と言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
大嘘をついて指摘には素知らぬふりとは、まさしく馬鹿馬鹿しい限りです。
463名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 23:53:07 ID:2m1J2XRe0
生前にどれだけ自己犠牲を強いて駆けずり回っていようと、後世の
蛆虫が貶す事は可能なんだな。神の視点ってやつだ。
俺はその埋め合わせに現世であなたに蛆虫って言って上げるよ。>>461
464名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 21:05:13 ID:p6GbE3d10
田中正造は、10年以上も無収入のまま、働くことをせずに生活費をすべて
他人に頼るという、異常な生き方をしていたわけですが、普通の人ならそう
いう生き方はまずいと思うのに、彼は、それでも「世間の人は自分にお金を
くれたがらない」ことを不思議に思い、しかしそれは、神様がそうされている
のだと悟って、反省することにしたというのです。この感覚を皆さんはどう思
われますか。

この実体をよく物語っている手紙があるので、次回に紹介します。
465名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 23:31:03 ID:Mvs+zMTH0
>>464
それ、現在の政治家にそのまま言って回る方が意味有るよ。
歳費で活動費用なんて到底まかなえなくて寄付が頼みなんだから。
大人なんだから知ってるでしょ?
466名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/29(日) 19:07:16 ID:utPsuS9Q0
それは、明治43年8月23日付けの碓井要作宛の手紙で、次の通りです。

「人を救うもの、かえって人に助けらるる点あり。しかれども笑うなかれ。天
は我に食を賜うの厚き甚だ多くして、分に過ぎたり。ただ天我に金品を賜う
の乏しき事、また分に及ばずして正造常に窮するところなり」

「これを案ずるに、予正造は金品に関係なきをもって予の業とせよとの教え
たるを悟れり。今はこれを悟れり。・・・金と道とは併行せざる所以、まことに
よく天は教えて、また我に金品をもって給せず。ここに安心立命の道自然に
備われり」

「よりて予は金品に乏しきを憂えず、厭わざるなり。天の賜うところのものを
受けて天の命に働かんとするにあるのみ」

この手紙から、彼の突然の訪問を受けた人々は、正造にお金をくれることは
あまりしなかった代わりに、多すぎるほど食事を出していたことがよく分かりま
す。もちろん、一番いい寝室に暖かい蒲団を敷いたことでしょう。
467名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/30(月) 19:31:59 ID:IG/kg3Z/0
ところで彼は、当然その家に迷惑をかけるこうした行為をしながらも、さらに
平気で、普通の人には出来ないような失礼を繰り返していました。
岩崎勝三郎がまとめた『田中正造奇行談』(明治35年)にあるエピソードをい
くつか紹介していきます。

「先年、翁(正造)は被害地の各村を回って、帰途影沢某の家へ行ったこと
があるが、その時翁は雨茣蓙に草鞋がけという出で立ちで、裏口からつか
つかと奥座敷に入ったが、そのまま横になり、腕枕で昼寝を決め込んでし
まった」

「家人はそんな事とは夢にも知らなかったが、しばらくたってこれを発見した
から何者かと行ってみると、はからずも田中翁であることが分かった。翁が
家人に向かって言うのに、あまり駆け走って疲れたゆえ、裏の方から失礼し
たと、挨拶がすむとまたも昼寝をつづけたとは、いかにも頓着しない男である」 

この頃は、国会議員は雲の上の人だったので、庶民はどんなことをされても、
文句を言わなかったのでしょう
468名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/30(月) 21:11:45 ID:DHz0JKPy0
>>467
どっかの誰かが鉱毒をたれ流ししなければ、田中正造もそんな
苦労をしなくてよかったんですけどね。
その言い方では、正造が草履がけで他人の家で昼寝したのは、
古河市兵衛が悪いからという意味にしかなりませんよ。
どうしてそんなに古河を悪人にしたいんですか?

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言った
かのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
469名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 12:43:30 ID:TSz1Vjqk0
岩崎勝三郎って奴の身元が気になるな
誰かさんみたいにどっかから金もらって書いたんじゃないのか?w
470名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 21:09:52 ID:oSGCkkvU0
>>469
いえいえ。この本の序文は
「此世に生活して居ればこそ田中正造だが、死ねば直ぐに田中明神と祭られるのだ、して其死んだ
後に祭られた人は、明治の昭代にも少なくないが、死なぬ前に、なんだかんだと騒がれるものは、
恐らくは此田中正造の外は一人もあるまい。
 然らば何故に、此くも世間で持囃されるかと云つたならば、外でもない、翁は実に忠君愛国の至誠に
富んで居るからである。
 殊に鉱毒問題の如きは、翁が一生の事業として、十年一日の様に、其善後策に翻弄されて居るにも
関はらず、当局者は未だにこれを解決して呉れない、最早此上は一身を犠牲に供しても、幾萬の
被害民を救ひ出すの外ないと云つて、遂に直訴を企てた、所謂明治の佐倉宗五郎を演じたのである。」
(一部の漢字を現代のものに改めました)
と始まる本なので、そういう誰かに金をもらった本ではなさそうですよ。

ところで、岩崎の言うとおりだとすると、当局者は全然鉱毒問題を解決させなかったということになりますね。
まさにそれは本当です。
どこかの大嘘つきに見せてあげたい文章ですね。
ああ、もう読んでるんですっけね。
471名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/03(木) 00:41:05 ID:V/Ik5/G/0
ワロタ、正造のヨイショ本なのに
悪意を持ったような部分だけ抜き出したのかw
472名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/05(土) 21:36:19 ID:yCceqjnJO
佐野の、昔まさに鉱毒被害地だった地域に住んでる者だが…

10氏の書き込みを見てちょっとガクガク来ちまったよ。
子供の頃(昭和50〜60年代)よく渡良瀬川でコイ釣りとかしてたんだが、足尾銅山って結構その近年まで操業してたのね… orz

さすがに鉱毒事件とか、地元の偉人の田中正造のことについては学校で習って知ってたので、釣った魚を食べはしなかったが、
もし1が言うような「毒が完全に消えた」みたいな大嘘や妄言を信じて口にしてたらどうなってたことか…(((゚Д゚))
473名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/15(火) 20:48:49 ID:xgT2WJoj0
旅行に入力規制が加わってだいぶ間が空きましたが、>>467から続けます。
これも『田中正造奇行談』にある話です。

「翁がかつて肥塚龍の邸内に住んでおった時の話であるが、その当時は2,3人
の書生を養って、一緒に自炊生活をしていた。すると、初めのうちは毎日薪や炭
は外から買ってきたけれども、しまいには面倒くさくなったものだから、今度は邸
内の壁板を折りくじってきては、それをこまかくして燃やしておった」

「すると家主の肥塚が、知らずに邸内を回って歩くと、壁のところどころに穴が開
いているので、どうしたのかと思って注意していると、翁が例によってたきぎの材
料を取りに出かけたので、初めてそれを分かった。さあ大変だとすぐに翁の所へ
駆けつけて言うのに、たきぎはいくらでもやるから、それだけは許してくれろ」

正造のしている行為のレベルがあまりにも低いので、唖然としてしまいますが、
これを単なる奇行として片付けている著者岩崎勝三郎の無神経振りにも驚きます。
泥棒のようなことをしているのに、結局、彼を公害反対運動の英雄として祭り上げ
ているのですから。
474名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/15(火) 21:46:51 ID:0OPnMHet0
>>473
あなたのしてる行為のレベルの低さにこっちは唖然としてる。
普通こういうスレだと、ネット右翼だのなんだののおっちょこちょいが沢山群がるんだが、
ここには誰も寄り付かない。何故でしょうね。
初めは居ましたよね、何人か。でももう誰もあなたに耳を貸さない。
不思議ですねえ。
475名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/16(水) 21:04:45 ID:4RzbcxXH0
岩崎勝三郎の『田中正造奇行談』には、次のエピソードも載っています。
これもまた、彼が泥棒と同じことをしているのに、「全く無邪気な男だ」と感想を
書いているに過ぎません。
しかし、正造は他人のものをただで持ってきて、それを人にあげて自分の評判
をよくするために利用しているのです。

「翁は思いの外刀剣の鑑定に長じているそうだが、・・・どこに行っても自分の好
きな書画骨董があるとたまらない。すぐに<これは俺がもらっていく>と言って
先方が承知しようがしまいがそんなことは頓着せず、引っかついで持っていって
しまう」

「さて、それをどうするかといえば、例の平民クラブや鉱毒事務所などへ持って
いって、戸棚の中へぶち込んでおくと、しばらく経って忘れてしまう。すると、たま
たま知友が来て、例の戸棚を開けてみると、立派な書画骨董が5本も10本も入
っているので、しめたとばかりに、どうか1本くれまいかと翁に談じこむと、翁は
以前のことは忘れてしまうのか、どれでも持っていけ、という塩梅であるからた
まらない、クラブへ行く者は誰も彼もすぐに例の戸棚を開けてみるという話であ
るが、この点より見たなら、翁は全く無邪気な男だ」
476名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/16(水) 23:22:27 ID:96JlngmX0
>>475
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造はいろんなものをもらいましたけど、特に貧乏人には
何でもくれてしまいました。
平民倶楽部なんて、貧乏人の寄り合い所帯ですからね。
来た人にはなんでもやったでしょうね。正造なら。

それで、岩崎は、鉱毒は全然解決しなかった、と、この本が
出た時点でいっているわけですよ。
そういう都合の悪い話は全部無視して、またしても都合の
よいところだけつまみ食いですか。

岩崎が信頼に足りる記述者だというのなら、鉱毒はこの時点で
全然解決していないという記述も信用に値しますし、

鉱毒がこの時点で全然解決していない、という部分が嘘だと
いうのなら、岩崎の述べるその他のエピソードの信頼性も
非常に薄いはずですよね。

両方が信頼できる、というのならまだ分かりますよ。
両方とも信用できない、というのもまだ分かります。
ところがあなたは、特に条件もつけないで、わざわざ自身に都合の
よい部分だけをつまみ食いしようとしているから、このとおり、
破綻するのです。
片方だけが信用できるというのなら、その理由を挙げなければ
なりません。
理由も挙げずに都合のよい記述だけをつまみ食いするのは、
単に自身の大嘘にとって都合がよいからという理由だとしか
見てもらえませんよ。
477名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/17(木) 19:21:25 ID:thwMsyWV0
あちこち転々と泊まり歩くことで、大勢の人にかけた最大の迷惑は、おそらく
虱(しらみ)を撒き散らしつづけたことです。
まず、『上野民報』の記者だった岩崎勝三郎が書いた『田中正造奇行談』から
引用します。

「翁が島田三郎の家に泊まった時のこと、翌日、家人が翁に着せた夜具をた
たんで奥へ持ち運ぼうとした。すると中から例の虱先生が這い出したので、こ
れは大変とびっくりして、一々調べた所が、5匹も10匹も這い出した。家人は、
やっと退治したあとに、主人の島田に物語ると、彼の言うのに、田中には汚く
てほんとに困るよ」

>>474 反論できないから、沈黙するしかないのでしょうね。
478名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/17(木) 19:54:32 ID:nK5yebCt0
>>477
そっくりそのままあなたにお返ししますよ。

花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
反論できないから、沈黙するしかないのでしょうね。
479名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/17(木) 21:28:36 ID:GWAZr5X20
>>477
故人に対してただの人格攻撃しか出来無い人に対して言う事っていうのは確かに無いですね。
奇特な人は早く死ねよ、砂川って言うかもしれないけれど。
480名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/19(土) 22:32:34 ID:oDb2D82S0
虱については、正造自身が告白した手紙文もあります。
親戚である足利の原田方にいる正造が、東京の逸見斧吉に宛てた明治42
年1月16日付けの次の手紙ですが、斧吉は正造の最後のスポンサーなので、
自分の失礼を正直に詫びたのだと思われます。

「1昨日以来、ところどころ虱14,5匹発見いたし、昨夜足利に来たり親族の
手を借りて虱の巣窟捜索候ところ、彼は衣類の縫い目のたてよこに潜伏せ
り。ついに365匹生け捕り候。ずいぶん大騒ぎしました」

「さて、先ごろ2回貴家に参上、第1回の頃より下腹のあたりがかゆく候に
つき、多分夜具および衣類に今頃多くの悪魔を繁殖いたさせたりと存じ候
間、右大至急お届け申し上げ候間、早々ご征伐のほどを奉り願い候」
481名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/20(日) 19:46:55 ID:a1OnxMmf0
今はあまり見かけなくなりましたが、昔は、不潔にしておくとしばしば虱が身
体中にたかって、痒くて気持ちが悪くて、容易なことでは退治が出来ません
でした。

日本人の大部分が貧乏生活を余儀なくされた第2次世界大戦直後は、虱が
大流行して、今は禁止になったDDTという強力殺虫剤を、学校で身体に撒
りまかれました。

たぶん、あまり風呂にも入らず、いつも不潔だったに違いない正造は、絶え
ず虱を飼っていたでしょうから、彼を泊めたどこの家でも大変な迷惑をこう
むったことでしょう。「早々ご征伐のほどを」といわれても、殺虫剤がなかった
時代に、虱を征伐することなど、簡単にできるはずはありません。

その点でも正造はずいぶん非常識ですが、仕事をしてお金を稼ぐことをせず、
すべての資金を他人に依存しながら虱を飼っていたこの不潔男のことを、栃
木県立の3高校の校長を歴任した花村富士男は、「神に最も近づいた人」と
まで言っているのですから驚きです。
482名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/20(日) 20:09:13 ID:aM4azmLo0
>>481
それでその花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」が
いたと言ったかのような大嘘をつき続けるのはなぜですか?

そもそもあなたは自称常識知らずの欠格人間じゃないですか。
そんな常識を知らない輩に非常識と言われても正造は多分
ぜんぜん困りませんね。
483名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 19:51:16 ID:H42ECtIy0
正造の行動のうちで私が一番不思議に思うのは、明治の終わり頃から、
彼が河川調査と称してあちこちを飛び歩いていたことです。

そのことに使った時間やお金は膨大なはずですが、その成果というものは
ゼロだったということができます。彼の言うことを聞いてくれる人はこの頃ほ
とんどいないのですから、彼がもし調査報告書を書いたとしても、それを採
用してくれるはずがないからです。

にもかかわらず、死ぬまで彼はその無意味な行動を続けていたのです。
河川工学の専門家でもないのに、まるで土木技術者でもあるかのように、
正造は「今どの辺りを調べている」といった手紙を、連日のように書きまく
っています。それらをまず少しずつ紹介していきます。
484名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 23:41:38 ID:nfR+Dtww0
>>483
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造の調査結果を誰も使わないなんていうのは単にあなたの
願望であって、事実ではありません。
現に、100年後の研究者が使っているわけですから。
書いて5分後までには誰も使わなかったかもしれませんがね。
それは永遠に誰も使わないことを意味しません。
正造のおかげで、100年前にも確かに鉱毒があったこと、
鉱毒予防令工事で鉱毒が完全になくなったわけではないこと、
そして、あなたの言うことが大嘘であることがちゃんと分かるのですから。
485名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/22(火) 19:43:18 ID:11zAAUXc0
「河川調査のために飛び回っている」と報告した手紙を引用します。

「一府五県水害地方を広くめぐり歩き奔走中にて候。足は弱く、銭は短く、
道は泥で悪く、困ることのみです。しかれども世間見ずの我儘では害のみ
で益なしですから私は広く見るのです。このたびこそ谷中の人々も金玉を
みがきて、きれいに光るほど金玉をみがくのですとお伝え下されたく候。
谷中の人々にのみお伝え下されたくご尽力願い奉り候」(明治43年9月
19日に旧谷中村の竹沢角三郎他10人に宛てたもの)

いったい、河川調査と谷中の人々と金玉とに、どんな関係があるのでしょう。
わけが分かりません。
こんなことを書いて農民たちに何らかの影響を与えられると思っているとは、
正造は正に自らが言う「世間見ずの我儘」でしかないと言えます。
486名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/22(火) 21:15:30 ID:CFadtHBn0
>>485
何度も書きますが、あなたにとって意味が分からないことは、
意味がないということを意味しません。
これでちゃんと相手には伝わったんだったらそれはあなたが
文句を言うべきことではないでしょう。関係ないことに勝手にしゃしゃり
出てあれこれ言うのは正造じゃなくてあなたのほうじゃないですか。

何しろ正造やその回りには変なことを吹き込んだりスパイとかもいました
からね。伝言を二手にばらして伝えたり、例のことは字に残さずに
言葉で伝えろみたいな手紙も残ってるんですから、何かの符牒かも
しれませんしそれはちゃんと研究しないと分かりませんね。
研究する気がない輩にわけが分からないなどとわめく資格はありません。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
わけが分からないなどとは言いませんから、ちゃんとお答えいただきましょう。
そのあとの話は、これにけりがついてからにいたしましょう。
早くしてくださいよ。ほかにもツッコミを入れなきゃならないデタラメは
あなたの発言の中にいっぱいあるのですから。
487名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/23(水) 20:27:03 ID:mlxu92+x0
河川調査で忙しいという手紙を、更に紹介していきます。

「不肖も毎日毎日山を越し、谷を下り、諸河川水源(渡良瀬、思、巴波、
永野、秋山その他)再三の調べにて候。今日は深く山に入り、水源につ
いての調査にて候。今日は雪降り、谷の流れも氷となりて、寒さは強く候。
しかれども、今の世の人心の冷ややかなるよりは、この寒さはかえって
暖かにて候」(明治44年1月20日付け、旧谷中村の島田栄蔵、川島要
次郎、島田宗三、水野定吉・官次宛)

「今の世の人心の冷ややかなるよりは、この寒さはかえって暖かにて候」
という部分に、「世間は冷たいが自分は違う」という彼の思い上がりがよく
表現されているではありませんか。
488名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/23(水) 21:17:22 ID:qNIvP1N80
>>487
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あなたの思い上がりがよく表現されているではないですか。
489名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/24(木) 20:02:13 ID:rbJDfDfi0
>>487からのつづきです。

「正造も去年8月以来水の調べにて東西奔走して、一日片時もすきまな
しです。それですから、たまたま谷中に帰るときは早く集まりて、いろいろ
のはなしを私に話して下さい。一戸一戸に巡りて聞くのは、5日も6日も7
日も8日もかかりて、また一方では毎戸毎戸で食物や夜具の世話厄介あり。
これもまた中々大厄介ですから、今後は集まりを早く願います。なお、老人
方によろしく。父母兄上様方によろしく。弟妹様方にもよろしくよろしく」(明治
44年3月23日付け、竹沢房之進他12人宛)

この手紙への感想は次回にします。
490名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/24(木) 22:01:58 ID:bkP3Xu2q0
>>489
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

次回と言わずさっさと答えてくださいよ。
491名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/25(金) 20:12:24 ID:2WqEfdJ70
明治44年3月23日付けの正造の手紙についてコメントします。

「一日片時もすきまなしです」とありますが、河川調査は自分が勝手に始め
ただけで、別に締め切りなどありません。ですから自分が勝手に忙しがって
いるに過ぎません。谷中村の農民に集合せよと要求するのは、ですから全
く失礼な話だと言えます。

この手紙で分かるのは、正造の訪問を受けた家では食事の世話をし、お客
様用の寝具を用意して接待していたという現状です。正造は実質的には乞食
でありながら、元国会議員ですから階級がはるかに上級で、農民側にとって
は、最大限のもてなしをしなければいけないエリートでした。正造はその現状
に甘えていたわけです。
そして、やたらに「よろしく」といっていますが、全く心がこもっていません。
492名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/25(金) 20:22:24 ID:pR4dU/8B0
>>491
階級が上だとか下だとかはあなたが勝手にわめいているだけでは
ないですか。
何度でも書きますが、最晩年になっても農民たちが正造を泊めた
のは、その前の何十年かで大変に世話になったからです。
だれかさんは正造を乞食扱いしたくてしょうがないようですが、
世話になった人が泊めてくれって言ってきたので泊めてあげた、
ただそれだけの話です。
そんなぼろぼろになっても、正造は生涯の大恩人。
その恩を忘れない被害地の農民ってのはたいしたものではないですか。

ところで花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかの
ような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
493名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/25(金) 21:15:49 ID:Zgig5zpn0
おぼれる犬を叩く人種が増えたなあ。

日本名を騙るチョウセンとシナの影響だな。

昔を蒸し返して何がしたいのか。
494名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/25(金) 21:29:32 ID:MO7iuM5r0
>>491
砂川さん、暑い中いつもご苦労様です。
喜んで下さい、本当に久し振りに2ちゃんねるらしいタイプの馬鹿が>>493に現れましたよ。
彼ならあなたの説を信じてくれるかもしれません。
495名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/28(月) 19:55:50 ID:nRLppA0o0
正造のいう河川調査は、その範囲をどんどん広げていったようです。
今回は千葉県と栃木県から出した手紙3通と、河川工学の専門家を見下す
ほどの自信家振りを示す日記と手紙とを紹介します。

「今日より向こう3日間、日本南海沿岸被害視察。行徳、船橋、千葉、佐倉、
印旛沼方面より、また中利根川に出るつもりにて、今夜はこの船橋にて太神
宮社の前の旅亭に一泊いたしました」(明治44年8月2日付け、島田栄蔵等
6人宛て)

「本日は立て川通りより御なり川の東南、江戸川の末にて千葉東葛飾郡浦
安町に。これより同郡中山より乗車、成田に一泊か佐倉に一泊かと決し候。
それよりアビコ線、茨城の取手町に到り一泊して、いったん東京に帰ります」
(明治44年8月2日付け、逸見斧吉宛)
496名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/28(月) 20:18:09 ID:cru+E+PO0
>>495
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

確か自分で言いましたよね。
>>477「反論できないから、沈黙するしかないのでしょうね。 」

何度でも書きますが、あなたの発言の末尾は、あなた自身に対して使うのが
一番合っているようですよ。
497名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/29(火) 20:48:42 ID:n8KY4Oiu0
翌大正元年の手紙です。

「正造も1昨年8月洪水当時より東京以北5カ国の河川を跋渉せり。長きは
東西50里、短きも10余里にわたる。この数十の河川の大半は、余す所少な
きまでに実現せり。治水のことようやくしてその大意を知れり。今は土木吏
の詐りには欺かれず。今は付近数十か村内、下都賀南部を巡りて、多忙
に呆れたり。手紙書くひまもなし。話するひまもなし。時下翁においてもご自
愛あれ」(大正元年8月15日付け、栃木町から島田栄蔵宛)

「日本工学技師は風水の学を知らず。故に風と水とに失敗多し。彼の横浜の
切り通し、大阪築港のごとき、河川工事のごとき皆失敗せり。これ、あたかも
法律家にして人道を学ばざるもののごとし」(大正元年9月27日の正造の日記)

498名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/29(火) 21:15:24 ID:c6X5CJYA0
>>497
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

大嘘がばれると素知らぬふりをして新たな大嘘を製造するのは言い加減
やめてください。
499名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/30(水) 21:33:18 ID:aCjhXKMy0
彼の死の年の大正2年には、我こそは河川工学の第1人者だと宣言します。

「去る41年の頃、逸見君より治水上につき左のお言葉ありき。いくら偉くても
治水は内務省の専門家に及ぶまいと。当時正造も貴君の説に服せり。しかる
に昨今に至りてみれば、内務省の専門家は全然無学なりと確信いたし候」
(大正2年1月25日付け、逸見斧吉宛)

「手紙書くひまもなし」と書きながら、彼は前日(14日)には7通、当日に2通手紙
を出しています。しかも相手が求めてもいない内容ばかりです。
河川工学の専門家を馬鹿にして自分の方が偉いのだと威張っていますが、
それは彼がそう夢想しただけで、第三者が評価したわけではないし、自慢する
ことは自分が愚かだと表明することなのに、そこにも気が付かないのですから、
彼は子供のように単純そのものです。             
500名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/30(水) 23:03:37 ID:cpZIre1g0
>>499
それもまたそっくりあなたにお返ししますよ。

それはあなたがそう夢想しただけで、第三者が評価したわけではないし、自慢する
ことは自分が愚かだと表明することなのに、そこにも気が付かないのですから、
    
確か、横井の鑑定書を恣意的に湾曲して解釈した上で、こんな事実がある、
などと自慢げに大嘘をついていましたよね。
横井は、汚染土を除去しなければ、元の収穫は望めない、とはっきり言い切って
いるにもかかわらず。しかも、その部分を読んでいるにもかかわらず。
横井の鑑定書によれば鉱毒被害は激減しているなどと大嘘をわめきちらしたのです。
でも、その大嘘にツッコミをいれるのはあとのお楽しみにとっておきましょう。
こちらに先に答えていただきますよ。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような大嘘をつき
続けるのは何故ですか?
501名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/31(木) 21:10:55 ID:8iMKblDV0
正造は、治水問題に関して河川工学の専門家よりも自分は優れていると思い込
んでいたのみならず、治水に関する思想を様々な人に説教していました。次の
手紙を読んでみて下さい。

「およそ雨は昔も今も同じことなり。されど昔は雨一升降れば一升のままを海に
行かしむ。今は然らず。一升の雨を三升にして流す故に、3分の2はすなわち人
造の水害なり。近年山林乱伐、水源山はげ崩れて赤裸体たり。2日間に流るる
雨量を1日間に流して2倍とし、また途中利根川の各所に流れを妨げ逆流せしめ
て3倍とす。故に雨は昔に同じきも流水は昔に3倍す」

「河川の改修とは回復の義なり。されば政府はまず渡良瀬川改修の前に早く流
水妨害を除かば洪水の減ずる直に4,5尺。しかして後改修の年限を経ば成功。
減水の合計はやや一丈に至らん」(明治43年8月31日、木下尚江・安部磯雄・逸
見斧吉・石川三四郎宛の印刷したはがき)

表面的にはいかにも立派に聞こえます。このもったいぶった文で騙される人が
多いのですが、「流水妨害を除」けば解決するといっても、現実的な対策などあ
りませんから、正に空理空論に過ぎません。 

502名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/31(木) 21:41:48 ID:zf+ZRjW50
>>501
やっぱりその言葉はあなたにお返ししますよ。

>表面的にはいかにも立派に聞こえます。このもったいぶった文で騙される人が
>多いのですが、
あなたは大嘘つきです。

大嘘つきでないのでしたら、花村は、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民がいた」
などと言及していない、と指摘されて、ちゃんと答えるはずですからね。

で、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
503名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/01(金) 21:49:22 ID:2KMNnacm0
正造は、「自分こそ水害の真因を知っている。世間の人はみんな間違っている」
と言い続けました。また、手紙でその実例を挙げていきます。

「今日の(水害)は天災にあらず。天災なりと誤解して原因の調査も研究もないの
が今日までの結果です。今よりは進んで新しき心にてお進め下されたく候。いやし
くも正造等および被害民の主唱はやや20年以前よりです。しかも世人耳を傾けず
して今回の一大災いとはなれり」(明治43年9月11日、桐生町・大沢恒三郎宛)
504名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/01(金) 22:02:13 ID:mNuQr03R0
>>503
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造の主張が正しかったことは、あとの時代にはちゃんと判明したので
安心してください。
しかし、あなたの言っていることは大嘘です。
505名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/02(土) 20:03:21 ID:KxIXt5L60
正造は結局、水害まで人間の心に原因があるのだと言って、哲学者ぶるのです。
この手紙を見てください。

「関東の水害は寸毫も厘も天災にあらで、ことごとくこれ皆人為人造、私利私欲、
愛憎と偏頗(かたよって公平でないこと)とより来たりし悪事の大洪水にて候ことの
疑いなき大事実にて候。治水は河川の上にあらず、人心の上にありです。もしそ
れ天災なりなぞとの迷夢の覚めざる点あらんか。万事万端無用の心配、無用の
苦労に相成り候事と確信せり」(明治43年11月19日、碓井要作宛)

正造は、どんなことに対しても決定的な言い方をします。
たとえば、科学的・客観的に表現すれば、水害は天災の側面もあり人災の側面
もあるというのが正確でしょうが、彼は「天災でなく人災で、人間の欲が原因だ」
などと発言してしまいます。つまり、主観でしかものを言いません。
だから大概のことは虚言になってしまいます。しかし、だまされやすい人は虚言
を信用してしまうわけです。
506名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/02(土) 22:36:26 ID:XYNvoyjT0
>>505
正造の言うことは正しいですよ。
古河市兵衛という個人の物欲のために、
鉱毒被害地全体が犠牲にされたのですから。

そして、鉱毒被害や洪水被害は、古河による人災だと
言っているのですから。
そしてそれは全部事実です。

あなたにとってはでたらめに見えるのでしょうけどね。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと
言ったかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?

正造の言うことは理解できますが、あなたの言うことは
「内容は大嘘だ」という以外のことが把握できません。
507名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/03(日) 04:28:17 ID:xampL35jO
スレタイ吹いた
508名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/07(木) 19:19:17 ID:Wme5ScX00
明治43年8月の大洪水以来頻繁に河川調査を始めたと書きましたが、正造は
それ以前に彼独自の治水論を持っていて、それを渡良瀬川改修計画反対の
根拠にしていました。

ですから、改めて河川調査をする必要などないはずなのです。実際、政府の治
水計画に反対する彼の理論的根拠は、終始変わりませんでした。
彼の理論とは、渡良瀬川の洪水の原因は、この川自身の水勢にあるのではな
く、その下流の利根川からの逆流にある、というものでした。

明治41年12月14日、「利根川治水の統一に関する意見書」に、すでに彼は次
のように書いています。

「江戸川の河口、千葉県関宿においてセメント工事をもって堰堤を築き、河口を
狭窄にして流水を妨害したるがために、利根川の洪水は丈余の水層を湛えるに
至る。かつ、関宿以西の権現堂の阻害工事および栗橋の鉄橋・柱脚の障害など
によって、思川、渡良瀬川に逆流し、栃木県南部の水量は普通洪水の上になお
6,7尺を高め、沿岸村落の堤防はあるいは破壊し、あるいは河伯の暴逆をたく
ましうするは近年の変状なり」      
509名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/07(木) 20:48:43 ID:jEfmIfyt0
>>508
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

それに、治水論があるなら河川調査は必要ないというのはあまりにでたらめな
主張ですね。それこそ3才の子供でもわかりますよ。
自分の論が正しいかどうかを確かめるために、そして、誤っているのなら修正
するために河川調査をしているだけでしょう。

論があるなら確かめはいらないという主張は、でたらめをわめきちらすあなたに
まさにぴったりですね。
何しろ、「花村が「10倍ぐらい」の穏健派被害民」がいた、」というでたらめを
わめけば、確かめのために花村の著書を参照する必要などない、と言う意味
になるのですから。
しかしそれはいかさまです。私はちゃんと、花村の著書を参照した上で言って
います。
花村の著書には、少なくとも、花村自身が昨年挙げた、6冊の田中正造に
関する著書には、どこにも「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらは出て
きません。
出てくるのは、「10倍以上」の「無害地の人々」です。
510名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/08(金) 20:09:19 ID:qqh5l2mQ0
正造はあくまでも渡良瀬川改修計画に反対で、死ぬまで徹底的にその態度を
変えませんでした。
しかし、この川の沿岸に生活する農民など住民の大多数は、改修を積極的に
支持しました。
ですから沿岸4県の地方議会は、群馬県の明治42年9月10日を始めとして、
栃木県(同年9月27日)、茨城県(同年11月28日)、埼玉県(明治43年2月9日)
という順序で渡良瀬川改修諮問案を成立させました。
511名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/08(金) 21:34:08 ID:I6hRcU6n0
>>510
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

で、結局たいして役に立たない工事に金と時間を注ぎ込むことになったわけ
ですよね。
たいして役に立たなかったことは、工事をやったあとに分かりましたけれど、
そういうのは全部無視なんでしょうね。
512名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/11(月) 19:09:58 ID:o7RgWEbf0
住民側が渡良瀬川の改修をどれほど切望していたかを示す証拠を紹介しましょう。
木塚貞治議員は、栃木県会で次のように演説しています。

「この機会を逸したならば・・・我々はいつの時を待ってこの国難を防ぐことが出来
ましょうか。・・・今日まで貴・衆両院、内務省、内閣、1年として請願を出さない年は
ないのである。・・・我々両沿岸の人民が困難をしておりますのも20年来のことで、
・・・実に5000町歩にわたるくらいで、・・・この幾多の土地を復活し、多数の被害民
を助けるためには、一小部分の犠牲は実に涙をのんで・・・」(明治42年9月10日)
513名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/11(月) 21:17:42 ID:2AxrOI6+0
>>512
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

改修工事で鉱毒はなくなりませんでした。
たいして効果もなかったことは、あとの時代に分かります。
住民が希望したのはもっとまともな改修工事でしょう。
だいたい、改修工事は、鉱毒が流れているのが前提の工事です。
渡良瀬川に毒が流れているから、その毒が洪水時にも外に漏れないように、堤防工事を
したのです。
鉱毒予防令工事で鉱毒がなくならなかったという事実もばれてしまいますよ。
514名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/12(火) 20:25:23 ID:rcgPFwQq0
正造と正反対の立場をとったのは、沿岸4県の地方議会だけではありません。
足尾銅山の公害反対運動で正造と一心同体だった活動家もまた、改修案を支持
しました。
そのため、正造は彼らのことを「狂った」と言いつつ哀れんでいます。
逸見斧吉・木下尚江・柴田三郎(都新聞の記者)に宛てて正造は、次の内容の
ハガキを出したのです(明治42年9月16日)。

「野口春蔵氏、大出喜平氏を始め、従来の同志2郡狂せり。しかれども真理にあ
らず。ただし、この人といえども、多年耕作収入乏しく貧困の人民を救うで無理も
なし。これ人なり。未だ神に至らざるのみ。御あわれみ相願いたく」

「彼らは神様でなく人間なので真理は理解できないのだ」というわけですが、正造は、
「自分だけは絶対的に正しい」と思い込んでいたことがわかります。しかし、主役は
沿岸住民であって、浮浪人で第3者で絶対少数派の正造ではないのです。
515名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/12(火) 23:29:33 ID:8QYIRisv0
>>514
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

たとえ野口の地元、安蘇郡での鉱毒被害が少々減ったからといって、
鉱毒が全部なくなったわけではありません。
被害地が残っている限り正造は鉱毒反対運動を続けたのだし、
そして、死ぬまで鉱毒被害地はなくなりませんでした。

そして今でも鉱毒被害地は残っています。
516名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/13(水) 20:48:44 ID:URCLtxdf0
沿岸4県の地方議会の決議を受けて、渡良瀬川改修案は帝国議会に上程されます
(明治43年3月9日)。
正造は徹底的な陳情・請願運動を展開し、知人の代議士に頼んで議題にしてもら
おうと図りました。しかし、誰一人協力してくれる人がありませんでした。

結局議会運動も失敗に終り、渡良瀬川改修計画案は、3月23日に第26帝国議会
で可決されました。
このような過程から見ると、正造の言動には相当に無理があることがわかります。

にもかかわらず、正造は、この年の8月に起こった大洪水を契機に、以前より更に
徹底した河川調査に歩き始めるのです。
517名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/13(水) 22:35:21 ID:jUaFxiPg0
>>516
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

渡良瀬川は元々、河川改修が必要な川でした。
別に正造は、改修が必要ないといっているわけではありません。
谷中村をつぶすのが前提の改修には賛成できないというのが正造の
主張です。
そして、谷中村をつぶしても、渡良瀬川の洪水は全然なくならないというのが
正造の主張です。
それは全部本当のことです。でも、そういうのは全部無視なんですよね。
それに言及すると、あなた自身の大嘘がまたばれてしまいますから。
518名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 20:06:19 ID:SPI1IRyy0
全集の解説によれば、彼は、利根川、渡良瀬川、鬼怒川、那珂川、荒川などの
河川を、その枝川、細流まで約2年にわたって綿密な現地調査を実行しました。

その調査とは、過去の洪水や増水と最近のそれとの比較だったということです。
そして、明治44年以降、「河川巡視踏査はいっそう本格的になり、詳細な調査記
録が残っている」と、全集・第18巻の「解題」には書いてあります。
しかし、確かめてみたところ、「詳細な調査記録」などではなく、現地の農民からの
単なる聞き書きにすぎませんでした。

洪水時の水位、出水の模様、堤防の破壊状況、橋梁が流れた様子などを聞い
てまわっていますが、データを分析する専門的知識がない正造に、客観的な結論
が得られるはずなどありません。

519名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 21:53:24 ID:E9IyB4fA0
>>518
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

「単なる」聞き書きとか書いている時点であなたの程度が知れますよ。
江戸時代の洪水と現代の洪水の比較をどうやってするんですか?
川の中に葵の御紋のついた幕府の認証付きの尺でも立ててあって、川奉行が
毎日巡回しながら何年何月何日、平時に比べ一尺三寸五分の増水、などと
記録していたとでも思うんですか?
聞き書きをしたからこそ、現代の洪水と当時の洪水の比較ができるのですよ。
まともな学者だってそうやってます。

そもそも、聞き書きしかない江戸時代の洪水と比べるためなんだから、
聞き書きしたって全然おかしくないですよ。
あなたの主張は完璧に破綻しています。
520名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/15(金) 20:37:08 ID:5gJr3ERl0
正造がいくら張り切って調査しても、その記録を認めてくれる機関もありません。
当然のことながら、当時は正造の治水論など全く無視されました。
ところが、1960年あたりからは、正造のほとんど意味のない当時の行為が極めて
高く評価されるのです。
全集第18巻の「解題」には、次のように書かれています。

「これ(この調査)によって田中は、自己の実証的治水論の正しさに自信を深め、
具体的な治水策を提唱することができた」

「提唱することができた」としても、無視されたのでは意味がありません。しかし、
学者や研究者は、相当大きな価値があったかのように説明し、正造の主張は
正しかったと言っているのです。しかし、いったいどうして正しいのかその理由は
何も書いてありません。理由もなく正造を賞賛しているだけなのです。
521名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/15(金) 21:12:12 ID:ISCXUiYp0
>>520
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

それと、うっかり前回突っ込むのを忘れてしまいましたが、
>>518
>データを分析する専門的知識がない正造に、客観的な結論
>が得られるはずなどありません。

この言葉はそっくりそのままあなたにお返ししますよ。
鉱毒の成分やどのように農地が汚染されるのか、そしてその除去方法すら
知らないほどの全くもって専門的知識がないあなたに、客観的な結論
が得られるはずなどありません。
知識があるのなら答えられるはずですよね。
鉱毒汚染農地を恢復させる方法にはどんな方法がありますか?
何と、正造の時代から現代まで、方法はたった1つしか知られていないのです。
それは「汚染土除去」。
流れてくる鉱毒の量が多少減ったからといって、汚染農地は放っておいても恢復
しません。
522名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/19(火) 21:13:00 ID:MiVqg6ik0
ところで、単なる素人に過ぎない正造が、他に何の仕事もせず、河川調査なる
名目で数年間も各地を渡り歩くきっかけになったその洪水は、実は渡良瀬川
周辺だけではなく、日本全国に及ぶ大規模なものでした。

全集第12巻の解題は、朝日新聞を資料に使って次のように記しています。

「明治43年8月の大洪水は、8月上旬から東日本一帯に台風の余波による大雨
が続き、関東各地で河川の氾濫や山崩れ、堤防決壊が相次ぎ、利根川、渡良
瀬川、などに天明以来といわれる大水害をもたらした」
523名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/19(火) 23:54:12 ID:lnk7tVwB0
>>522
ところで、自称研究者でもない素人に過ぎないあなたが、
他に何の仕事もせず、田中正造は法螺吹きドンキホーテなどという
名目をつけて、1年以上も掲示板で大嘘をつき続けるきっかけは
何ですか?

全国で洪水があったとか書いてますが、その朝日新聞の資料とやらは
「東日本一帯」としか書いていないようですが、西日本も大洪水だった
っていうのは一体どこの文献に書いてあるんですか?
もしそれも提示できないのだとしたら、それはあなたの大嘘です。

そっちの大嘘にはあとでじっくり指摘を入れることにして、こちらのほうに
先に答えてもらいましょう。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
524名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 20:51:23 ID:eK/w5Rvw0
全集第12巻の解題によれば、明治43年8月の大洪水は以下のような規模でした。

「それは全国的にも、東海、中信越、関東、東北の1府17県におよび、死者1048
人、行方不明383人、家屋全半壊4817戸、同流失3856戸、浸水家屋44万3210戸、
堤防決壊1922箇所、橋梁流落1578箇所、山岳崩壊901箇所、浸水面積27万94
72町歩に達した」

いったい、これだけ大規模な災害をもたらした大自然の猛威なのに、河川・治水
対策の欠陥がどこにあったかという超難問題を、素人がたった一人でどうやって
調べることが出来るのでしょう。専門家が何百人で調べても不可能ですから、出
来るはずはありません。

その発言を読めばすぐ分かりますが、正造はそもそも、科学的な知識も判断力
も分析力も全くない反理科系人間です。
にもかかわらず、分かったつもりになっているので始末が悪いのです。
しかも、文科系の学者たちは、正造を正義の味方と思い込み、彼の言うことを頭
から信じてしまうので、もっと始末が悪いのです。
525名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 21:11:12 ID:hHG/qSUJ0
>>524
それで、それがどうやったら九州・四国・中国・近畿・北陸・北海道地方で
大水害があったという意味になるんですか?

日本全国に及ぶんじゃなかったんですか?
自身の都合に合わせて、内容を超巨大拡大解釈しているのが見え見え
ですよ。
そして、自身の都合に合わせて、鉱毒被害とかは過小に見せかけるのが
あなたのやり方です。

まあそれはひとまずこちらに置いておいて、
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
526名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/21(木) 20:37:05 ID:ybtt15ll0
学説は、「明治43年8月の大洪水以降、正造の河川調査はさらに本格化した」
ことになっています。
しかし、彼の治水論は終始変わっていません。結論は「人工的に狭めてしまっ
た千葉県の関宿の部分を広くせよ」というもので、河川調査をする前も後も同
じ台詞を繰り返しているだけなのです。

明治41年9月19日付けの内務大臣宛の訴願には、次のようにあります。
「利根の水底は、上流より流下する自然の土砂、徳川時代において、僅々年に
4,5分ずつ埋設するにすぎざるも、250年間には1丈余の埋設を来たす。これま
ことに自然の致す所」

「今や然らず、河底1年に2尺5寸内外ずつ土砂をもって埋む。したがって、堤防
もまた2尺5寸を増築せざるを得ず。(したがって)今より250年の以後には(埋設
は)驚くべし62丈5尺となり、堤防もこれに伴いて62丈余の増築をなさざるべから
ざるに至らん」

「関宿を開放して旧に復し、下流に適当なる疎水工事をなし、水勢を海湾に注ぐ
べし」
527名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/21(木) 21:00:05 ID:B89cSbdk0
>>526
これまたそっくりそのままあなたにお返ししますよ。

たいした根拠もないのに、妄想を元にして正造は嘘つきだ
ドンキホーテだと、
>同じ台詞を繰り返しているだけなのです。

そして、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたといったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
という質問には全く答えられません。
何しろ同じことを繰り返しているだけなので、答えに適合する台詞がないの
です。

528名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/22(金) 23:07:21 ID:w4xkpNl40
2尺5寸というデータはどのようにして調べたのでしょう。彼がいかに出まかせの
数字を挙げているかがこの文章でよく分かりますが、その1年後、明治42年9月
12日に栃木県会に宛てた陳情書にも、
「関宿の河口を開けば治水問題の大部分は解決される」
「関宿を開くは5県下200余ケ村を死より生に甦らせ、かつ堤防増築は不要となり、
年々の工費に余裕を来たす」
などと、同じことを繰り返しているに過ぎません。

大規模な河川調査をしても結論は同じでした。
明治45年1月23日の日記には、「関宿開放せば、利根、渡良瀬の改修は殆んど少し」
と書いてあります。
同年5月23日の日記にも、「渡良瀬川沿岸の水害は関宿石堤工事の妨害なり。
しかして沿岸の目は関宿に注がずして、藤岡町(旧谷中村)北方切断に熱中す。
至愚の至愚なるものなり」
と記しています。
結論が決まっているのに、なんで何年間も河川調査をする必要があったのでしょう。
正造は初めから不必要なことをしていたにすぎない、ということが分かります。   

529名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/23(土) 13:08:15 ID:HCQzFdSL0
>>528
やっぱりその言い方はあなたにそっくりお返しするのが
一番合っているようですよ。

鉱毒予防令工事で鉱毒被害地が恢復したかのような
>データはどのようにして調べたのでしょう。彼がいかに出まかせの
>数字を挙げているかがこの文章でよく分かります

証拠もないのに正造は嘘つきだ、法螺吹きドンキホーテだと、
>同じことを繰り返しているに過ぎません。

>結論が決まっているのに、なんで何年間も
田中正造全集の重箱の隅をつつくようなことを
>をする必要があったのでしょう。

あなた
>は初めから不必要なことをしていたにすぎない、ということが分かります。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
答えられない理由はわかってますよ。
だって、同じことの繰り返しの中に、その答えはありませんものね。
530名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/25(月) 19:54:20 ID:h6fd9SDF0
渡良瀬川改修計画にへの田中正造の反対理由は、前述したように、明治31年に
関宿に鉄筋コンクリートの堤防を作って川幅を狭めたために、洪水が逆流するこ
とになったわけだから、この部分を拡げる以外に対策がない、というものでした。

しかし、正造のこの理論が科学的に正しいという根拠は何もありません。洪水のメ
カニズムは複雑で、一人の人間が頭で考えられるほど単純ではないからです。

洪水が起こる時には、必ず逆流があるはずです。上流からはさまざまなものが流
れてきますから、それが障害になってどこかで流れが滞り、当然のことながら逆流
は起こります。関宿の堤防もその原因になったでしょうが、これによってどの程度
の逆流が起こったかも計測は不可能です。
531名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/25(月) 21:24:20 ID:H26XdWHC0
>>530
>「科学的に正しいという根拠は何もありません。」
あなたは自身に都合の悪いことはこうやって「まるで嘘のような」書き方を
するんですよね。
しかし、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をついたという事実は消えません。
大嘘でないのなら、花村がそう言及したのは何という著書の何ページなのか
教えてさえくれればよろしい。しかしあなたはそうしなかった。というより、
できなかった。なぜならそんなものはないからです。教えてくれと言ってから
もう1年経ちますよ。

しかし、あなたの主張を使って、「正しい」内容の文章を作ることは可能です。
「洪水のメカニズムは複雑で、一人の人間が頭で考えられるほど単純ではない」
というのなら、
たかがあなたが考えた「正しいという根拠は何もありません。」という考えだって、
一人で考えたんだから「正しいという根拠は何もありません。」

つまり、あなたは、自身の主張が「正しいという根拠は何もありません。」
と主張しているわけです。

どうぞどうぞ。自身の主張が「正しいという根拠は何もありません。」
ときちんと断りを入れた上で、どんどん主張してください。
あなたが断りを入れない場合は、私が代わりに入れて差し上げましょう。

>>530
この方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。
532名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/26(火) 20:05:36 ID:B+PoUp4d0
明治41年3月25日、政府は、正造の友人である弁護士の花井卓蔵が提出した
「利根川流域の被害に関する質問」(全30項目)に対し、具体的な回答書を提出
しました。
それによれば、利根川、渡良瀬川、思川の明治39年と40年8月の最高水位など
のデータを示しながら、正造の指摘する逆流に関して次のように説明しています。

「栗橋鉄橋柱脚の厚さは、総計13間4尺で、同所の川幅は257間1尺2寸である」
(正造は、逆流原因として関宿の堤防と同時に東北本線の栗橋鉄橋を挙げていた)
「利根川筋においては、特に流水を阻害する事実は認められない」
「利根川の洪水時において渡良瀬川の逆流は約2里、思川の逆流は約1里である」
「下都賀郡寒川村付近の浸水は、主として思川筋上流一部の無堤地から来るもの
で、川辺村の東端より来る逆流の結果ではない」
「4県の被害は逆流にのみ起因するものではない」

とても丁寧で分かりやすい説明ですが、これと比較すれば、正造の発言がいかに
口からでまかせで、説得力を欠いたものかがよく分かるではありませんか
533名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/27(水) 19:33:13 ID:z4u+Gn6D0
>>532
おやおや、肝心の断り書きが抜けていますよ。
私が代わりに断り書きを入れてあげますね。

>>530
この方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

あと、政府のデータとやらは、田中正造の主張と相反するものではありませんね。
534名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/27(水) 20:41:43 ID:WdIg/EGB0
河川工学の専門家で、田中正造の言動をかなり無批判に受け入れた学者がいます。
それは前新潟大学教授・大熊孝で、彼の著書『利根川治水の変遷と水害』(1981年)
を見ると、その入れ込みぶりがよく分かります。

昭和17(1942)年生まれの大熊は、東京大学工学部土木工学科を卒業したあと大学
院の博士課程を修了し、新潟大学に奉職して助教授・教授へと進んで定年退職して
いますが、今年(2008年)の3月1日にあった最終講義で、彼はこう話しています。

「<利根川治水の変遷と水害>は、私のドクター論文です。これを書いて7年後に出
版しましたが、これから20年経ってもまだ再版されているのは、まだ死んでいない本
だと思う」

この本に相当愛着があるようですが、正造の吹いた法螺を全く疑わずに本当だと信じ、
実は、読者に多くの嘘をこの本で教えているのです。
535名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/27(水) 21:03:23 ID:z4u+Gn6D0
>>534
またしても、肝心の断り書きが抜けていますよ。
私が代わりに断り書きを入れてあげますね。

>>534 の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。


ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

ところで、あなたにとって都合の悪いことを言う人は、専門家でさえ「無批判に受け入れた」
なのに、
田川大吉郎とかいうど素人が適当に書いた内容をあなたが「無批判に受け入れた」のは
何でですか?
田川は都市計画の専門家かもしれませんが、河川改修の専門家じゃないですよね。

自身の都合のよいことならば、どこの誰が書いたものだろうが、どんなに信頼性の低い
ものだろうがみんな正しいことにして、自身に都合の悪い内容は、全部田中正造を
無批判に受け入れたことにしてしまう。
自身の都合に合わせているだけで、正しいかどうかの検証をしていないというのが
見え見えですよ。
536名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/27(水) 21:05:27 ID:z4u+Gn6D0
>>534
そうそう、書き忘れてましたが、

>実は、読者に多くの嘘をこの本で教えているのです。

まさに、あなたとあなたの著書にぴったり当てはまりますね。
何度も書きますが、あなたの発言の末尾は、あなた自身に
対して使うのが一番合っているようですよ。
537名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/28(木) 19:48:58 ID:dbC7y2rx0
田中正造を信用して彼が流した偽情報を、この本を引用しながら検証していきましょう。

「明治13年には、栃木県令(知事)藤川為親から渡良瀬川の魚の販売ならびにその
食用を厳禁する通達が発せられる」

しかし、これは田中正造がでっち上げた作り話で、大熊教授がこの本を出版した時に
は、この話が正造の虚言だったということが、関係者の間ではよく知られていました。

そうでなくても、明治13年には、足尾銅山では銅の鉱脈が見つかっておらず、本格的
な操業の段階にまで至っていないので、公害が発生するはずはないのです。
足尾鉱毒事件の入門書を読んでも、明治17年の10月ごろから新聞のニュースで公害
の記事が始まったことになっています。

学者でありながら、こういう基本的なことさえ調べずに、この著者は正造のついた嘘に
だまされているわけです。何とお粗末なのでしょう。          
538名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/28(木) 22:11:20 ID:IzfuPQAv0
>>537
おやおや。またしても、注意書きが抜けていますよ。
念のためにまた私が代わりに断り書きを入れてあげますね。

>>537 の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

大熊氏の著書の公刊は1981年。自身で7年前に書いたと言っていますから、
実際に書いたのは1974年。これは、大熊氏自身のプロフィール(1974年大学院博士課程修了)
と一致します。
「大規模鉱毒発生が明治13年頃だった」というのが嘘だと分かるのは、1975年のことなので、
当時発表した大熊氏の論文にそれに関する言及がないのは別におかしなことではありません。
公刊するときに註くらいは入れておけよというツッコミはあるかもしれませんが、
少なくとも、与えられた情報から、大熊氏がちゃんと調べずに書いたという証拠は見つかりません。
だいたい、ちゃんと計算すればそこまで分かるじゃないですか。
大熊が嘘を書いたような大嘘をつくのは何故ですか?

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
それこそ大嘘ですよね。
花村はそんなこと言ってないんですから。

一応書いておきますが、「大規模鉱毒発生が明治13年頃だった」というのが嘘だと分かったのは、
1975年に、当時の栃木県令(県知事の命令)を全部ひっくり返して調べてみた人がいたからです。
栃木県庁は、その後2回火事で丸焼けになっていて、当時の県令は全部焼けたと考えられていま
したが、何故か県庁の近くの機関が全部保存してたおかげで分かったのです。
ちょっと調べれば嘘だと分かるとか誰かさんは言ってますがそれも大嘘です。
539名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 09:18:55 ID:hB1lLdiAO
過去について考える時、神の視点を一度捨てるのは鉄則。
研究家じゃないからと言って、それをおろそかにしてたら、誰にも相手にされない。
540名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 19:54:01 ID:8C53I1/J0
前新潟大学教授・大熊孝は、著書『利根川治水の変遷と水害』に、次のようにも記述
しています。

「明治25年には、古河市兵衛が農民と紛鉱採集器の据付けを条件に、<永久に苦情
申し上げ間敷く>を含む契約をとりかわしている」

少し解説を加えると、加害者責任を認めた古河市兵衛は、正造が鉱毒問題を帝国議
会で取り上げた翌年から被害民と示談交渉を始め、示談金を支払う約束を次々と取り
交わしていきました。
被害農民の数が多いので一人当たりにすれば金額はわずかですが、明治29年までに
契約を終えた示談金の総額は、10万円(今の感覚では10億円)には相当したということ
です。
541名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 23:30:57 ID:cRv1+2120
>>540
おやおや、またしても、肝心の断り書きが抜けていますよ。
私が書き足しておいてあげましょう。
>>540の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

古河市兵衛は、雀の涙ほどにもならないはした金で、農民の口を封じようとしました。
被害者が莫大ならば、ちゃんと全員に賠償すればよろしい。
少なくとも、破産さえすれば古河はもうちょっとマシな金額が出せたはずです。
たったの10万円なんて、古河にとっては本当にはした金じゃないですか。
それに、被害者がたくさんいることが、何で一人当たりの示談金が安くていい理由になるんですか?
100万軒の家に泥棒に入れば、一人当たりに返す金はほんの少しでいいと言っているのと
同じですよ。

足尾の採掘権を買うときだって、それより多い金を使ってるんですよ。
ところが、肝心の被害者には雀の涙ほどのはした金を渡して黙らせるという
方法を古河市兵衛が編み出したおかげで、ほかの公害を出した企業も、
古河のやり方をまねして被害者にはした金を握らせて黙らせるという方法をとったのです。
そして最悪の結果となった例がいくつもあるのを我々はもう知っています。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
古河がたかだか10万円を農民に配ると、さも莫大な賠償をしたかのような、
自分に都合のいいことはおおげさに書くというあなたの手法はもうわかってますから、
先にこちらに答えてください。
そして、渡良瀬川で大洪水があった話は、「洪水が少なかった」とかいうことにしようとする。
都合の悪いことはまるでなかったかのように表現するというあなたの手法ももう分かってますから、
先に花村の言及に対する回答をしてください。
542名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/03(水) 04:44:10 ID:qSrtGi3m0
あえて両者の方に言います。

>539の方が

過去について考える時、神の視点を一度捨てるのは鉄則。
研究家じゃないからと言って、それをおろそかにしてたら、誰にも相手にされない。


といった意味をよく考えてみてください。
自分の立ち位置があるのはわかりますが、ここは匿名掲示板。
使い方を間違えると毒になりますが、良薬にもなります。

感情や立場を一度捨てて検証に徹してみれば、この議題は有意義になると感じます。
叩かれたといってめげずに、しかし100%自分の主張が正しいとせず、
ご自分の思われる最大限客観的な手法で部分的にでも反論してみることで、
読者にとって

何もどちらの立場が100%正しいなんていう善悪の価値観で
今更100年前のことを考えている牧歌的な読者はおりません。
有意義な議論を望みます。

543名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/03(水) 09:35:10 ID:4oUkriy40
砂川の場合、それ以前の問題だ。
544名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/03(水) 21:35:35 ID:4vCPavHA0
>>542
私は、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたなどと
言っていない、言っているならどこでどういう発言をしたのか
提示してくれと言ったのですが、全然説明がないので
大嘘つき呼ばわりしているだけです。

最初から大嘘つき呼ばわりしてたわけじゃありませんよ。
最初は何度も何度も、花村がどこでそう言ったのか教えてくれと
頼みました。ただ、全く説明がないので大嘘つき呼ばわりしている
だけです。それはスレを読み直していただければ分かります。
私は検証を要求しているだけです。
検証した結果として、花村の6冊の田中正造に関する著書(昨年
出た最新刊の中で、書名を上げて花村自身がこれで全部と表明
しています)の中に、「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらは存在
しませんでした。
私の検証は済みましたので、異なる主張をした方の検証をお待ちして
おるわけです。
これが客観的でないというのなら、どういう方法が客観的なのか
提示していただきたい。
それとも、>>542氏は、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」が
いたと言ったという根拠文献をお持ちなんですか?
545名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/04(木) 19:24:07 ID:oiJeV3j80
さて、今日は田中正造が死んで95年目の記念日、つまり、田中正造の96回忌です。
今日も臨終の地のそばにある分骨地の1つ、雲龍寺では正造の法要が営まれました。
死んでから95年経っても法要をやってもらえるなんてよっぽどの人ですよね。
ちなみに、死んでから1度も欠かしたことがないそうですよ。

ところでそれとは別に、この日、9月4日は、私が誰かさんの大嘘を暴いたまさにその
記念日でもあります。
狙って9月4日に暴いたわけではありません。
8月末の大嘘を暴こうとしたら、たまたま9月4日になっただけです。
記念にそのレスを全文引用しましょう。
ちなみに、1年待ちましたが、このレスへの返答はまだありません。
1年間シラを切れば、大嘘をついたという事実さえ忘れ去られるとお思いですか?
残念ながら逆ですよ。1年経ってもまだ反論もできずに新しい大嘘をわめきちらしている輩
だとしか思われてませんから。


>35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/04(火) 21:54:18 2X86PzNp0
> >>32
> > >>2の3項に示した数値を否認された方へ。
> > この数値は、田中正造の研究者で、岩波の「全集」の編集者でもあり「解題」も執筆している花村
> > 富士男の計算によるもので、確度が高い数字だと判断して採用しました。
> > あなたに自信があるのなら、花村氏にクレイムを付けたらいかがでしょう。
>
>  さっそく花村の著書を確認しました。
>  とはいっても、何冊も著書がある人なので(田中正造関連だけで6冊)、全部は確認できません
> でしたが、「田中正造 終わりなき戦い」「神に最も近づいた人」「田中正造翁の生涯」「愛の人 田中
> 正造の生涯」の4冊で確認しました。「我拾って天国を創らん」「田中正造翁伝」は見てませんが、
> そう激しく違うことは書いてないでしょう。
>  花村自身が「集大成」といっている「愛の人 田中正造の生涯」の100ページにはこうあります。
> > 正造の質問と相前後して、連合町村を中心に各激甚地町村の足尾銅山鉱業停止請願運動が
> >活発化した。一方、古河側は銅山関連企業や無害地の人々を動員して一大非停止請願運動を
> >展開した。その人数は停止請願者の十倍以上にのぼった。
>
>  もう一度、>>2の大嘘と比べてみましょう。
> >3.一方、これら過激派被害民と反対の立場をとった穏健派被害民は、「鉱業非停止」(閉山
> >  反対)の陳情運動などを進めた(穏健派の人数は過激派の10倍ぐらい)。
>  花村の著述のどこに「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」とやらが登場するんですか?
>  上記4冊以外のどこかにあるのならページ番号も含めて提示してください。どこかの図書館におさま
> っているような文献なら、必ず見つけてチェックしますので。
>  花村が書いている内容は、非停止請願をしたのは無害住民だったという意味ですよ。あなたの書いた
> のと全く逆の意味です。日本語が読めますか? あなたは「穏健派『被害民』」と大嘘をついたのですよ。
> 言っている意味が分かりますか?
>
>  法螺吹きドンキホーテって、誰のことでしょうね?
>  ひとまず、花村氏にクレームをつける必要は全くないということはよく分かりました。
>  クレームをつける相手は、花村の記述を捏造したどっかの誰かさんです。
>  で、どっかの誰かさんってのも誰なんでしょうね?
>
546名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/04(木) 20:07:53 ID:287A/5Tl0
歴史関係のトンデモ本で見慣れたインチキの手法だ。
547名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/05(金) 20:00:46 ID:yq2pwTIl0
旅行で家を空けたため、間が空きました。>>540から続きます。

ところで、明治25年8月23日に栃木県梁田郡久野村の稲毛教次郎ら13名と交わした
示談書には、次のように書いてあります。

第1条 古河市兵衛は、粉鉱の流出を防ぐために明治26年6月30日を期し、精巧な紛
     鉱採集器(公害防止設備)を足尾銅山の工場に設置する。 
第2条 古河市兵衛は、徳義上示談金として、左のごとく支出する(内容省略)。
第3条 明治29年6月30日までは、紛鉱採集器の試験中のため、契約民は苦情を唱
     えたり、行政・司法の処分を乞うなどしてはいけない。
第4条 明治29年6月30日以降、紛鉱採集器がその効を奏したときは、この契約は解
     除される。 
第5条 紛鉱採集器が万一効力がないときには、なお将来について臨機の協議を行い、
     別段の約定をする。
548名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/05(金) 20:52:44 ID:f7umScBd0
>>547
それで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をついたのは何故ですか?

私がこの大嘘を暴いてからちょうど1年と1日経ちました。
都合の悪い指摘には素知らぬふりをして、新しい大嘘を垂れ流し続けるという、
まるでどっかの鉱毒製造垂れ流し会社みたいなまねはいい加減やめてください。
549名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/06(土) 21:20:48 ID:HCRudR710
いったい、示談書の第3条と4条をどう読めば「永久に苦情を言わない」と言う意味に
なるのでしょう。

契約書の内容を確かめずに、正造側の流した下のような嘘を鵜呑みにしたから、こ
んな偽情報を流すことになったのです。
平凡社の『世界大百科事典』に、国学院大学の菅井益郎教授は次のように書いてい
ます。

「陸奥宗光は、・・・被害民と古河との間に、わずかの補償と引換えにいっさいの苦情
を申し立てないことをうたった示談契約を締結させた」

学者であり研究者で、ましてや科学の分野の学者ですから、確認することは不可欠の
基本事項です。この契約書などは簡単に探すことが出来ます。大熊孝は、何とお粗末
で怠慢な科学者なのでしょう。

実際、この紛鉱採集器なるものは効力がないことが分かり、明治29年6月30日以降に
被害民と古河の新たな交渉が始められました。その記録も存在しますから、調べてみ
てください。他人の言うことはまず疑うこと。そして、自分で調べること。そこに歴史の
面白さがあります。  


550名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/06(土) 21:29:58 ID:Y4So0yQk0
>他人の言うことはまず疑うこと。そして、自分で調べること。そこに歴史の面白さがあります。

全くです。
でも、このスレの中だけでも破綻してる人の意見にはさすがにだれも耳を傾けませんね。
551名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/06(土) 23:58:07 ID:3yBfmVZ00
>>549
> いったい、示談書の第3条と4条をどう読めば「永久に苦情を言わない」と言う意味に
> なるのでしょう。
>
この大嘘には呆れると言うより唖然とするほかありません。
明治時代の古河と被害農民の示談は、大別して、明治25〜26年のもの(初期)と、
明治29年ごろのもの(後期)があります。
おおざっぱにいうと、初期のものは、古河が粉鉱採集器をつけるかわりに、農民は
契約の前3年と契約後3年の計6年間苦情を言わない、というものです。
ところが、契約が切れる明治28年ごろに、巨大な洪水がやってきて、古河が全然
対策をとってないことがばれてしまいました。
そこで改めて契約をした(後期の示談契約)のですが、これが悪名高い永久示談です。
今後、農民は、古河に文句を言わない、という条件がついています。


>>549は、前期の示談と後期の示談をわざとごちゃまぜにした上で、菅井を嘘つき扱い
しています。
>>547の内容は、前期の示談契約です。一方、菅井が書いたのは後期の示談契約です。
後期の示談契約書もちゃんと残ってますので、知らない方は「近代足利市史別巻資料編鉱毒」を
ごらんください。足利市役所で絶賛発売中です。(足利市役所以外の販売店はありません)

足利市史の該当巻から引用しましょう。
171ページに、御厨村ほか四か村と古河の契約書が載ってます。(明治30年)
「第参条 古河市兵衛ニ於テ前条ノ示談金ヲ無滞支払フニ於テハ関係地人民ハ政府又ハ帝国議会
又ハ裁判所等ニ対シ何等ノ請願ヲ為サザルハ勿論、永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」


永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト
永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト
永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト
永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト

あまりに重要なので5回繰り返してみましたよ。
古河市兵衛の名前入り(本人の自署かどうかは未確認です)の証文にこう書いてあるんですよ?
これのどこが
> 「陸奥宗光は、・・・被害民と古河との間に、わずかの補償と引換えにいっさいの苦情
> を申し立てないことをうたった示談契約を締結させた」
>
> 学者であり研究者で、ましてや科学の分野の学者ですから、確認することは不可欠の
> 基本事項です。この契約書などは簡単に探すことが出来ます。大熊孝は、何とお粗末
> で怠慢な科学者なのでしょう。
なんですか?

ついでに言うと、菅井の名前が途中で大熊になってるのは何でですか?

> 実際、この紛鉱採集器なるものは効力がないことが分かり、明治29年6月30日以降に
> 被害民と古河の新たな交渉が始められました。その記録も存在しますから、調べてみ
> てください。他人の言うことはまず疑うこと。そして、自分で調べること。そこに歴史の
> 面白さがあります。  
>
調べましたよ。今。そして分かったことは、あなたは永久示談がなかったかのような
大嘘をつく輩だということです。明治29年から30年の示談契約書には、農民は永久に
古河に文句を言わないという条件がついています。

そうそう。忘れるところでした。
花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような大嘘をつき続けるのは
何故ですか?
552名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/08(月) 19:26:19 ID:C+st4mcs0
大熊孝の著書への批判をつづけます。

この本で著者は足尾鉱毒事件の説明をしていますが、その中に次のような部分が
あります。

「明治35年9月の洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさり、被
害が軽減される傾向が現われ、36年には多少の収穫が見られ、37年には平常に
近い収穫が得られるという状態であり、鉱毒問題に関する運動は急速に下火にな
った」

事典や教科書で足尾鉱毒事件のことを調べれば必ず書いてありますが、鉱毒の被
害は必ず洪水の後で起こっています。
川底に沈澱していた公害物質が洪水に伴って沿岸の農地を汚染するからです。
それなのに、なぜ「洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさる」の
でしょう。なぜ「37年には平常に近い収穫が得られ」たのでしょう。
553名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/08(月) 21:26:38 ID:x1/+HAji0
>>552
それで、菅井を嘘つき扱いしたほうは取り消しになると思ってるんですか?
だいたい、あなたの証文にもちゃんと農民は苦情を言わないという内容が入っている
ではないですか。

大熊が、25年ごろの示談と29年頃の示談の内容をごちゃまぜにしているという
指摘なら合ってるかもしれませんがね。
しかし、古河は、示談金と引替に、一切農民は苦情を言わないという証文に
本当にはんこを押させたのです。

25年にはそんな示談契約はなかったと書けば、
永久示談(農民は永久に古河に文句を言わないという示談)契約そのものがなかったかの
ように見せかけることができるとお思いかもしれませんが、
残念ながらそんな手にはひっかかりませんよ。


ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
554名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/09(火) 19:32:49 ID:iGfsys2/0
この人は、科学者でありながら現実には起こり得ない現象が起こったといっているわ
けです。しかも科学者でありながら何の証明もしていません。
彼がなぜこんな珍妙な解説をしたかといえば、それは、彼が田中正造が思いつきで
創作した法螺話を、本当だと信じてしまったからです。

大熊孝はこのことに全く触れていませんが、政府の厳命に忠実に従った加害者の古
河鉱業は、明治30年に大規模な鉱毒防止工事を敢行しました。

その効果は絶大で、明治34年秋には、「鉱毒被害地も、激甚地を除く外は極めて豊
作」(朝日新聞・10月6日)という記事や、川俣事件の2審の鑑定結果に見られるよう
にかなりの回復振りを示し、35年秋の洪水でも農地は汚染されなかったらしく、翌36
年の秋には正造が、全部で10回の演説のうち8回も「被害地豊作の実況」と題名を
つけたほど、鉱毒被害は消えていたのです(『田中正造全集・別巻』の年譜を見てく
ださい)。
555名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/09(火) 19:48:39 ID:45xqmI/Y0
>>554
「鉱毒被害は消えていたのです」
よくまあどんどん大嘘をつきますね。
鉱毒予防令工事で鉱毒が減ったのは事実ですが、なくなりはしません
でした。
鉱毒後、豊作になった被害農地は全部、農民自身が汚染土除去などの
鉱毒対策をやった土地です。
それは、横井の鑑定書にはっきり書いてあります。
古河さまのおかげでは決してありません。
それもこのスレの前のほうに出てますので確認してください。
この時代、鉱毒反対運動は決してなくならず、その後も続きました。
一体いつ頃までやっていたのかというと、何と、今でもやっています。
鉱毒は昔の話だと思ってる人があまりに多いのですが、「今でも」
「鉱毒反対運動」をやっている人たちはいるのです。
そしてその人達は、田中正造の時代からずっとやってる、って主張している
わけです。
正造の時代から鉱毒反対運動がずっと続いていること。これが鉱毒がこの
時代になくならなかった動かぬ証拠です。

それと、古河が
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
という証文をつくったのは事実です。
明治25年の証文にこの条文はなかった、と書けば、明治29年の証文に
この文があったという事実が覆い隠せるとお思いでしょうが、そうは問屋が
おろしません。

「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
あまりに大事なことなのでまたしても5回繰り返してあげましたよ。
こうすることによって古河は、農民の言動を封殺できると思ったのです。
しかし、事実はそうは問屋がおろしませんでした。
あまりにも証文の内容がひどすぎたため、大多数の農民は怒って証文に
はんこをつかなかったのです。

ところで花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
もうあなたのやりかたはさんざんぼろが出まくって、穴のあいてない場所なんか
ないくらいですよ。
人があなたの言動に耳を傾けないのは、単にそれが嘘だからです。

556名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/10(水) 19:59:39 ID:D2OqzsuC0
「古河の鉱毒防止工事は全然効果がないのだ」といい続けてきた正造は、この農地
回復にどう対処したでしょう。大熊孝たちが騙された次の法螺話を作ったのです。

「昨年9月の風雨の際、渡良瀬川本支流水源の山々が10里以上に渡って崩れ、ほと
んど50年分の土が数尺被害激甚地の上に覆いかぶさった。その新土は天然の新肥
料になったので今年は5倍の豊作になった。今は3歳の小児でも、豊作の原因が古河
鉱業の鉱毒防止工事のためでないと知っている」

こんな馬鹿げたフィクションをなんで学者まで信ずるかといえば、彼らが正造によって
完全に洗脳されてしまったからです。         

557名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/10(水) 21:09:14 ID:ihuW4wti0
ご注意。
>>556の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?

「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
あまりにも重要なので今度は7回繰り返してみましたよ。
これが、古河が鉱毒被害民と結んだ明治29年示談の契約書の一部です。

それにしても、都合の悪い記述は、証拠も挙げずに「馬鹿げたフィクション」
ですか。便利なものですね。私には、あなたの言動のほうが馬鹿げたフィクション
に見えますよ。
何度も書きますが、あなたの言動の語尾は、あなた自身の言動に対して使うのが
一番合っているようですよ。
558名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/11(木) 20:09:44 ID:9Y8GpQpO0
田中正造は、「渡良瀬川が利根川と江戸川に変わる千葉県関宿の川幅を拡げれば、
治水問題はすべて解決する」といい続けました。

このことはすでに何度か述べましたが、河川工学者でありながら、この本で大熊孝は、
専門分野のその辺のことについても、正造の素人河川論にべったり追随しています。

明治18年に護岸工事をして川幅を狭めた上に、江戸時代には26〜30間はあった関宿
の堤防を、明治31年にはセメントで改築して川幅を9間強にまで狭めてしまったと説明
した上で、大熊はその理由を書いていきます)。

それは、「理由は明らかでないが正造は次のように述べている」という内容です。

「政府がこのような強化を行った理由は明らかでない。しかし、大正2年6月20日に島田
宗三が栃木警察署に宛てた<谷中残留民居住立ち退き説諭に対する回答書>では、
次のように述べている。ただし、この回答書は田中正造の口述を筆記したものであり、
正造の意見そのものである」
「田中正造は次のように主張していた」(以下次回)
559名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/11(木) 20:59:22 ID:lg5KbhR20
ご注意。
>>558の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
大変に重要なので10回繰り返してみましたよ。
明治25年の契約書にこの文言がなかったのは事実かも知れません。
しかし、明治29年以降の契約書には、確かにこの文言があるのです。
25年の契約書にはこんな内容はなかったと書けば、29年の契約書には
書いてあったという事実がもみ消せるとお思いでしょうが、それは大嘘です。
だいたい、菅井の文には、明治25年に「いっさいの苦情を申し立てないことを
うたった示談契約」などという言及はありません。
これのどこが「正造側の流した下のような嘘」なんですか?
契約書は残ってるんですよ。現物が。今でも。
契約書の現物でさえ、都合の悪いものは全部「正造側の流した下のような嘘」
に仕立て上げるあなたの流した嘘にはあきれかえるほかありません。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
よく分かってますよ。都合の悪いものを嘘に見せかけるためにあなたが製造した
大嘘だということはね。
560名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/17(水) 20:48:10 ID:cwGHzs9A0
規制でだいぶ間が空きましたが、>>558から続きます。以下、正造の発言です。

「明治29年の大洪水で渡良瀬川の毒水が利根川を犯し、その運河を遮り、江戸川を
横切り、氾濫して(東京)府下の農商務大臣榎本武揚の邸を浸した」

「そこで、直ちに江戸川に技師を派遣して設計させ、オランダ工法によって、31年に至
り自然の流路たるその江戸川の河口は千葉県関宿地先のおいて石堤を持って狭窄し、
かつ石とセメントで川底27尺を埋め、利根川各所に流水妨害工事をして洪水を耐え、か
つ渡良瀬川の落合たる川辺村本郷の逆流口120間を拡げて、上流に水害をつくるととも
に、下流東京府下の鎮撫に努め、もって一時の急を逃れようとした」

「これが原因して、一朝洪水あるときは、逆流滔滔として沿岸諸村を圧し堤防破れ、田宅
荒廃し、人屋流れ、鉱毒に加うるに人為の水害頻りに至り、農民の困窮目もあてられぬ
状態に陥った」
561名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/17(水) 21:49:00 ID:iQy+D9wP0
ご注意。
>>560の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
大変に重要なので12回繰り返してみましたよ。
古河は、永久に文句を言わないという条件でなければ示談しない、
という条件をつけました。
その証文が残っているおかげで、われわれは100年以上経っても、
古河がどんな輩だったのか分かるのです。

ところで花村が「10倍ぐらい」の「穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
562名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/18(木) 00:13:50 ID:r1oiOubh0
S川さん、こんなところで吠えても何の影響もないですよ。
wikiを編集されたらどうでしょうか
影響力抜群ですよ!

http://ja.wikipedia.org/wiki/田中正造
563名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/18(木) 00:15:57 ID:r1oiOubh0
ttp://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj080906.html

そもそも、この砂川氏の歴史認識には肯諾しがたい部分が多い。なぜか田中正造を貶めようとする文が多い。
多過ぎる。たしかに田中正造の言動には過激でオーバーな部分も多かったようである。
しかし、田中正造らの活動によって足尾鉱毒事件が世に紹介され、
日本近代における公害問題のさきがけとなった鉱毒問題の解決に向ける取り組みが本格化したことを思えば その功績を認めざるを得ない。
砂川氏の書かれた内容は、「この発言のこの部分がおかしい、この発言のこの部分が事実と違っている、
この表現はオーバーだ、直訴を行った時点ではもう鉱毒事件は解決済みだった」と具体的にあげているが、
そういう個別の問題よりも、公害問題に真摯に取り組んだ田中正造という人物をこそ
よく考察する必要があるのではないかと、私などは思うのである。
564名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 19:58:59 ID:i/aXCUgN0
>>563 田中正造が「公害問題に真摯に取り組んだ」かどうかは、「個別の問題」を「よく
考察する」ことなしには決められませんよ。

本論に戻ります。正造の政治的発言を引用した上で、大熊は何の検証もすることなく、
これを全面的に受け入れる見解を次のように述べるのです。

「鉱毒による被害がすでに激化しており、利根川の舟運に変わる鉄道輸送網がほぼ完
成されていることを考えあわせるならば、(政府による関宿の極端な強化は)田中正造の
見解のように、東京府下に鉱毒水が氾濫することを恐れての対策であると考えることに
は矛盾がないように思われる。特に、江戸川河口行徳の塩田を考慮した場合、これへの
鉱毒被害の拡大をもっとも恐れたためではないか、と考えられる」 
565名無しさん@お腹いっぱい。
ご注意。
>>564の方は、ご自身で、「自分の主張が正しいという根拠は何もありません。」
と主張しています。

「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
「永久鉱毒問題ニ対シ苦情等一切申出ザルコト」
大変に重要なので15回繰り返してみましたよ。

古河市兵衛とかいう輩が、下流の被害農民との示談交渉の際に、
契約書に書かせた文言です。
名目上は、仲裁した人が間に入って、その人が作ったことになって
ますが、古河側主導で作られたのが分かっている示談契約書です。
古河は、はした金で農民の口を封じようとしたのです。
そして失敗しました。
農民の大多数がはんこを押さなかったからです。

多分、>>563氏の言っているのは、あなたが個別の問題をよく考察してないという
指摘ですよ。

ところで、花村が「10倍ぐらい」の穏健派被害民」がいたと言ったかのような
大嘘をつき続けるのは何故ですか?
私はこのような大嘘という個別の問題を大変によく考察しているのですよ。
何度も書きますが大熊が最初にこの論文を書いたときにはまだ「足利市史」も
ろくに出てない時代ですから、その後に分かった事実と少し違っていても
おかしくはありませんよ。
本にする時点で註釈くらいつけろという指摘なら当たっているかもしれません
がね。
ただ、何らかの事情で註釈を入れるヒマもなく、急いで本にしなきゃなら
なかったのかもしれません。
それは私には分かりません。
大熊のものは、単に「情報が古い」だけですが、あなたは、書いた時点で
既に事実と異なっているということがはっきり分かることを書き続けている
大嘘つきです。