1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2007/08/03(金) 01:40:39 ID:HZ9Awctp0 多くの政治家が口を揃えて言うような「侵略戦争」というのは真実か? だとすれば「侵略」とは何なのか? 日本は本当に対米戦争を避けられなかったのか? 避けられたとすればどうすれば良かったのか? シナ事変・日中戦争は侵略行為だったのか? だとしても謝罪の必要があったのか? 語ろう
344 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/08/02(木) 06:13:07 0
日本が対米戦争へと突入した遠因となるのは日米通商航海条約の破棄
であると思うのですが、なぜに米国はこの条約を破棄したのでしょうか?
その原因ときっかけは何なのでしょう?
やはり米国のシナ大陸への権益拡大などの帝国主義的野心からなのでしょうか?
349 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/08/02(木) 08:47:13 0
>>344 >なぜに米国はこの条約を破棄したのでしょうか?
米国が戦争したかったから
362 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/02(木) 21:26:35 0
>>344 なんで、中国への野心があると日本との条約破棄に繋がると思ったのかを聞きたい。
363 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/02(木) 22:42:46 0
>>362 日本が武力で中国の権益を独占しようとしていたのだから、別に
不思議な考えでもないと思うけど。
もっとも、アメリカは中国の権益に対しては機会均等を求めていたから、
帝国主義的野心、と呼ぶのは適当ではないだろう。
とはいえ、日本としては、資本力がアメリカとは勝負にならないぐらいの
差があったから、機会均等で勝負しては勝ち目がない。
だから資本力の不足を武力で補おうとしたわけだが、それが間違いの元。
364 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/02(木) 23:25:15 0
当時、有色人種で唯一の連盟の常任理事国だった日本への警戒感があったのでは?
アメリカ西海岸では日本人移民への警戒感があったし、
アジアの植民地諸国のナショナリズムを日本が掻き立てる恐れとか。
365 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/08/02(木) 23:30:41 0
陰謀論の域を出ないような・・・
366 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/02(木) 23:48:51 0
>>364 それらの要素は、日本との外交関係を悪化させる要因ではあったが、
条約破棄や戦争突入との直接の因果関係はないな。
日本が中国(not 満州)から撤兵していたら、少なくともアメリカは
あの時点では戦争していなかっただろうし。
あと、
>アジアの植民地諸国のナショナリズムを日本が掻き立てる恐れとか。
これは絶対ない。
367 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 00:25:58 0
まあ、散華した英霊の数を考えれば日本が撤兵できるはずもなかったのだが。
368 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 00:28:29 0
>>362 アメリカは米西戦争でフィリピンを獲得することで、東アジアに橋頭堡を
築いてからずっとシナ大陸の市場を狙っていた。
けどもうすでに英仏独露日による勢力圏が出来ており、つけいる隙がなかった。
そこで「門戸開放・機会均等」を掲げたわけだが当然、そんな綺麗事が聞き入れられる
わけもなかった。
そんな時に上手いこと、日露が満州と朝鮮を巡って戦争を始めたので
日本に与して満州の利権を得ようとした。
で、T.ルーズヴェルトが仲介して日露は講和し、日本は南満州に権益を得た。
そこまではよかったものの、満州の共同開発に日本は協力的でなく、
結局アメリカの満州進出は失敗に終わった。
で、その時の恨みがずっとあったのかどうかは知らんが、盧溝橋事件、通州事件を
経てシナ事変が勃発、日本は南京を占領したはいいものの講和も出来ず、戦争は
ずるずると長期化の様相を呈してくる。
で、その長期化の1つの原因となったのが所謂援蒋ルートなんだけど、
これなんかはアメリカが戦後、国民党政府が大陸を統一した暁に、利権を得るための
策略だと思うんだが、このために対中戦争は対米英の代理戦争と化してくる。
ただ日本は島国で資源もないから、特に石油の大部分を頼るアメリカによって生殺与奪権を握られていた。
で、前々からの恨みもあってか、アメリカがこの手段を使わない手はなく、日本が東亜新秩序宣言を出し
シナ大陸を勢力圏にとりこむことを明らかにしたため、遂に通商条約を破棄した。
結局アメリカはシナを日本に取り込まれるのを恐れたか、嫌ったか、まあ両方だと思うけど
日本を叩くしかないと思ったんだ思う。
それに日本亡き後のシナの利権を得ることを考えていたことも否定はできないと思うんだ
まあ共産党が勝ってしまったから結局は失敗に終わってるけど
これは俺の勝手な認識だから気に食わなかったらスルーしてくれ
370 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/08/03(金) 00:51:52 0
>>366 >日本が中国(not 満州)から撤兵していたら、少なくともアメリカは
>あの時点では戦争していなかっただろうし。
でも日本は対米交渉で甲案乙案を出して、中国(除満州)、仏印からは
撤退するって提案したじゃん
でも米国は受け入れなかったし、その上ハルノートみたいなものまで突きつけてきた
これは戦争する気まんまんだったとしか思えない
大体その中国からの撤退だって、日本にしたら首都南京を占領したら講和するつもり
だったのに出来なかったのが原因だし
で、その国民党政府をずっと援助してたのも米英だし
そもそも戦場で犠牲になった兵士を考えたら、なんの利権を得ることもなしに
講和なんか結べるわけがない
371 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 00:57:11 0
日比谷焼き打ち事件どころじゃ済まなかっただろうな。
2.26の青年将校たちの精神は日本国民に脈々と息づいているわけだし。
372 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:12:01 0
>>370 >日本にしたら首都南京を占領したら講和するつもりだったのに
( ・ω・)つ 「国民党政府を相手にせず」
アメリカが日本を挑発していたってとこは同意だな。
当時のアメリカは不況から脱却できず、またヨーロッパ戦線に介入する為にも
日本と開戦したがる要素は十分あったからな。
373 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/08/03(金) 01:12:19 0
アメリカはなぜ日本帝国と戦争したのか?という話題は
日本近代史板でスレを立ててまで議論している。
俺の個人的な感想として「日本人が思うほどアメリカに
とって対日戦争は大きな話ではない」ということだ。
なんてたって欧州戦線の十分の一の占領軍の規模だし。
「ドイツと戦うからついでにドイツの同盟国の日本とも
戦う」といった程度でやれ支那の市場がどうの、とか
やれ日本が有色人種なのに列強だったのがどうの、とか
そんな大した話ではない。大体、当時の日本帝国なんざ
諸葛孔明の北伐同様、待っていりゃ勝手に自爆していた
くらいのお粗末な戦争戦略で、アメリカが大きく戦力を
裂くようなものではなかった。そりゃ当の日本人にとっては
大きなできごとだったろうが、世界史的に見れば
実にどうでもいい瑣末なアメリカの極東の「おまけ」戦略に
すぎないよ。
375 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:16:57 0
>>373 理屈では分かるが、感情的には納得できないのよ。
ドイツはB-17で白昼爆撃、日本はB-29スーパーフォレストで夜間爆撃。
この違いはなんなのよ。
376 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:21:16 0
二俣川のあたりで携帯のアンテナが立たなくなるのも瀬谷の米軍施設(諜報機関)の影響だろ。
占領はまだ続いているんだからセンシティヴにもなる罠。
そういいつつ今週末は友好盆踊り大会だwww
377 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:23:51 0
>>375 フォレスト?
378 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:25:45 0
すごい森
379 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:26:47 0
>>375 作戦時期が違う、目標距離が違う、発進時刻が違う
380 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/03(金) 01:28:19 0
>>373 >欧州戦線の十分の一の占領軍の規模だし
陸戦主体の欧州と海空戦主体の太平洋では異なる
>アメリカが大きく戦力を裂くようなものではなかった。
米軍の予算では3分の1か半分程度が海軍予算として計上されてたが…
そして海軍の主要戦闘艦艇は大抵太平洋に居た
>世界史的に見れば実にどうでもいい
これは同意
冷戦における主戦線となったドイツと第2戦線だった極東の差はデカい
>>375 ドイツ方面なら航続力の関係上B-17で十分だし届く範囲だし
それに投爆量(純粋な戦略爆撃のみだと大分縮まるだろうが)を見ればジャガイモは10倍以上落ちてる
昼は米軍、夜は英軍の大花火パーティー
あとB-29も日本の防空能力が低下した辺りから昼間爆撃を実施してる
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/03(金) 05:39:17 ID:GWhjQ+Q70
国務省にいたソ連シンパの影響は?
>7 皆無
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/05(日) 10:26:35 ID:Oj/NqghV0
保守
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/09(木) 08:42:56 ID:U9tVPy280
保守
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/11(土) 12:21:38 ID:p7sbHtGS0
保守
12 :
無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/11(土) 21:13:41 ID:3jcNVsSU0
聖断を読んで感動した。 鈴木大将は、隠れ講和派で終戦に導いただと思ってたけど、実際は 内閣組閣時点で、頑強に抵抗した上での講和でなければならないと いう信念をもっていたんだね。但し時期を逸してはならないことは 心得ていた。陸軍を信用せず、本土決戦に備えた正確な戦力分析を させ組織的な武力反抗が可能なのは9月まで、それまでに敵に打撃を 与えて講和にもちこむ。沖縄では日本の頑強を示すことができた、 もういいだろうと、講和に向け舵をきる。 ソ連が日本に侵攻すると日本が分断される、敵がアメリカだけの うちに片付けてしまおう、まだ反撃する戦力が残っている今が将に その時だ、とポツダム宣言を受諾に向け舵を切る。 政治的センスゼロだが、天皇の絶大な新任と阿南陸軍大臣の信頼 により内閣を守り抜き、終戦にもちこむ手腕は相当なもの。 まさに絶妙なタイミングでポツダム宣言だ。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/13(月) 14:45:39 ID:l2AKyoQL0
保守
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/13(月) 17:05:33 ID:IFOn9hWj0
日本による欧米植民地侵略戦争って認識で正しいかと
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/13(月) 21:22:34 ID:oO7Fq2MX0
大日本帝国には外貨がなかった。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 11:55:59 ID:0EY9sKtA0
確かに、侵略戦争って認識
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:20:57 ID:6iWqNa2F0
大東亜戦争は侵略戦争でいいけど 日中戦争は防衛戦争だから そもそも支那事変は蒋介石による日本の植民地侵略事件だ
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:31:46 ID:hxwdbHMl0
>>17 >そもそも支那事変は蒋介石による日本の植民地侵略事件だ
頭おかしいの?
上海租界は、日本の植民地じゃない。
共同租界に、日本人居留民がいただけ。
蒋介石の上海租界攻撃の前に、日本から開戦通告出して北京占領してる。
廬溝橋の前から、北支に分離工作を掛けてる。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:34:54 ID:6iWqNa2F0
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:35:58 ID:hxwdbHMl0
>>19 侵略の定義って何?
当時に明確な定義はないが。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:38:32 ID:hxwdbHMl0
>>19 日中戦争(シナ事変)・日中間で、
領土侵犯したのは日本だけだが。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:43:23 ID:6iWqNa2F0
>>20 利権侵害を侵略としているが?それじゃ問題ありますか?
だから私は
日米戦争は日本が欧米植民地へ行った侵略戦争
支那事変は中国が日本の植民地を侵略した事件
とはっきり言ってるわけだが?
>>21 だから何?だから侵略していいの?
へー くだらない
23 :
上海租界は日本の植民地じゃない :2007/08/14(火) 14:46:05 ID:hxwdbHMl0
>>22 >支那事変は中国が日本の植民地を侵略した事件
だから事実と違うってw
脳内物語を書きに来るな。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:48:22 ID:6iWqNa2F0
>>23 書き換えてないけど
自分だろ都合よく書き換えてるのは
2枚舌は良くないよ
25 :
上海租界は日本の植民地じゃない :2007/08/14(火) 14:50:19 ID:hxwdbHMl0
>>24 書き換え?そんな事指摘してないぞ。
どこまでイカれてるんだよ。
病院いけ。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 14:54:35 ID:6iWqNa2F0
>>25 負け犬の捨て台詞ですか?おつかれさまです
まとめ
日米戦争は日本による欧米植民地侵略戦争
支那事変は中国による日本植民地侵略事件
これ以上でもこれ以下でもない
ど真ん中の解答
おしまい
27 :
上海租界は日本の植民地じゃない :2007/08/14(火) 14:56:55 ID:hxwdbHMl0
>>26 はやく病院に行け。妄想世界から抜けろ。
シナ事変で、シナがどの日本植民地を侵略したんだよw
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/14(火) 19:08:01 ID:08z5Ee600
そもそも侵略戦争が絶対悪ではない、最終的な敗戦国こそが絶対悪なのだ。
やる前から負けが決まってる戦争をおっぱじめるのは 相当アホだとおもうけどな 個々人が優秀でも集団になるとなんでこんなにアホチンになるのかね この日本って国は。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 20:54:00 ID:bh9XCC9f0
>>2 日米通商航海条約の破棄、それは円の価値下落により米国から借りてた
金を払わなかったから。債務不履行。借金の踏み倒し。金の切れ目が
縁の(円の)切れ目。
>>30 >それは円の価値下落により米国から借りてた金を払わなかったから。
お前、戦前は3円=1ドルの固定相場だったことも知らないのか?
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 21:06:50 ID:bh9XCC9f0
それは表向きの固定相場。
>>30 債務不履行の件は知らないのでソースがあるならお願い。
ところで固定相場の方が貨幣価値の下落でひどい目に遭うんだが・・・
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 21:57:38 ID:sGR+iEOoO
>>27 中国人は通州事件で日本の租界を襲い、日本人を殺しまくりました。まるで、南京事件のような殺し方でね。その他にも日本が和平を結ぼうとすると挑発を繰り返す。
中国は日本の権益または日本人の安全を脅かし続けた結果であり、自衛戦争と言えます。
因みに、租界とは、列強国が中国から奪った土地ではなく中国が中華思想に基づいて勝手に差し出した。
謂わば中国人からみて、外人とは汚れた民族であるため、隔離した形の物であるため、侵略して得た土地ではない
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 22:12:15 ID:bh9XCC9f0
>>33 おれもソース探してる。金を払った形跡がないから。外地にいた爺さん数名に 聞いた。昭和15年ごろアメリカで船に石油を積み込む時円建ての拒否。銀行での ドルへの交換拒否があった。ドル、ポンド、ギルダー圏でのこと。庶民の持ってた 円はまったく国際的に通用してなかったのがわかる。企業はどうやって石油、くず鉄 各種パテント料を払ってたのか聞きたい。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 22:13:08 ID:2BhG2vE90
アメリカは江戸時代からすぐさま追いついてきた日本が怖かったから、日本を追い詰めて戦争するように仕向けた。 侵略っつうか植民地だって日本は他の国の侵略政策とは違って他国の国民を日本人にしようという考えで教育も受けさせた。 それに引き換えヨーロッパの国々は植民地にした国の人を奴隷として扱って人間として扱っていなかった。つまり日本は悪くないってことです。
37 :
要因の整理 :2007/08/15(水) 22:22:38 ID:VHIiquOW0
●日本側要因● 1満州事変 2華北分離工作 5廬溝橋停戦日に大軍派兵発表 7北京占領 10追撃戦(南京〜重慶) *パリ不戦条約、九カ国条約軽視* ●中国側要因● 3西安事件 6廬溝橋停戦後の散発的攻撃 9上海租界攻撃 *廬溝橋停戦協定、上海停戦協定軽視* ●偶発か謀略か真相不明● 4廬溝橋事件 ●日本の傀儡所属による寝返り事件● 8通州事件 ●前段階● 0張軍閥→日本権益侵害 日本→張作霖殺害・対華21ヶ条 中国→ベルサイユ条約調印拒否・反日デモ
>>34 >通州事件で日本の租界を襲い、
通州は租界じゃないぞ。
>租界とは、列強国が中国から奪った土地ではなく中国が中華思想に基づいて勝手に差し出した。
アヘン戦争以前はそう言えるが、アヘン戦争後は治外法権を得た列強の支配地だ。
立派に侵略して得た土地だよ。
>>35 確か基本は石油払いならぬ生糸払い。
円なんてかつてのクルゼイロ並の扱いしか受けてなかったからな。
しかも大恐慌経験した後だし
ただ米国からの借金なら米国債購入の形式をとるだろうから、
製品価値が下がりつつあった生糸による物納が拒否されてもおかしくはない。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 22:59:33 ID:bh9XCC9f0
金持ち喧嘩せず。やっぱり必要なのは愛よりお金。お金がなくなると 争いが起きる。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 23:02:07 ID:VHIiquOW0
>>34 >>36 事実認識等がメチャクチャ。
日本だけが悪いのではないし、擁護する人がいても良いが、
もっとまともにやれ。
「租界」
×中国が中華思想に基づいて勝手に差し出した。
○イギリスの無法な介入(アヘン戦争)による不平等条約。
「通州事件」
×中国人・中国軍が日本租界を狙い日本人虐殺。
○当地は租界ではない。日本敗走デマ等で、
日本寄り政権の中国人保安隊の一部が動揺して起こす。
「アメリカ」
△日本が怖かったから、日本を追い詰めて戦争するように仕向けた。
○満州や中国で敵対行動(条約接触等)とっても、戦争の姿勢は見せなかった。
仏印進駐時でも、クズ鉄規制等や、仏印中立化等の妥協案提示に留まった。
態度が徹底強硬になったのは、日本が南部仏印進駐で基地作り計ってから。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/15(水) 23:48:46 ID:m7VMTMj+0
アメリカは、日本がシナ大陸から出てくるのを待っていたのだよ。 日本がシナ大陸にいるうちは、日本はアメリカ領フィリピンにとって脅威ではない。 しかし、フィリピンの目の前の南部仏印にでてくれば、日本はアメリカにとって脅威 となった、ということをアメリカ国民に納得させることができる。 ルーズベルトは自分の選挙公約を反故にするための理由を求め、まんまと日本をおびき出すのに 成功した。日本が脅威であれば、滅ぼさなければならない。アメリカ国民は納得するであろう。 そして、真珠湾攻撃でアメリカ世論は沸騰した。ルーズベルトの読みは当たったわけだ。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/16(木) 00:02:32 ID:VHIiquOW0
>>42 >アメリカは、日本がシナ大陸から出てくるのを待っていたのだよ。
>ルーズベルトは〜まんまと日本をおびき出すのに成功した。
陰謀論も下らんな。
「国民政府を相手とせず」で中国との講和機会を断った近衛も、
陸軍にありながら南進論を支持した東條も、
全部アメリカの手先かよ。
>>43 >「国民政府を相手とせず」で中国との講和機会を断った近衛も、
>陸軍にありながら南進論を支持した東條も、
>全部アメリカの手先かよ。
横レス悪いが電波飛ばすなって
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/16(木) 12:34:13 ID:K1GEtN7R0
>>44 陰謀論者の意見をまとめれば、日本の指導者層の多くが、
アメリカや共産党の手先、または騙されて動いてた馬鹿だった、
という結論になるが。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/16(木) 14:26:01 ID:5wURKMxh0
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/17(金) 16:25:24 ID:7MrEgZLH0
ほす
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/20(月) 03:14:41 ID:AYA5bPno0
ほ
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/21(火) 12:20:00 ID:YHiucOTl0
ほ
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/21(火) 21:30:44 ID:i1Dg93fb0
大日本帝国万歳!!!
保守しかしないなら落としちまえYO
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/22(水) 07:18:54 ID:P3SDMoBH0
そう簡単に落としてたまるかYO
53 :
真実を知っている日本人の孫 :2007/08/22(水) 22:21:31 ID:w7+PmX5Z0
左翼を倒せ!! 我が日本民族の誇りを取り戻せ!!
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/22(水) 22:26:25 ID:B6TDPmMW0
左と右ってどう違うの?
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/22(水) 23:19:48 ID:SF80jRqUO
この戦争で結局得をしたのは中共のみだよね。
56 :
名無し :2007/08/22(水) 23:43:24 ID:Bx+R/Q2S0
>>43 うん アメリカが役者としては上だな。日本の移民をゼロにして排斥し
その前に日英同盟をきっかけに日露戦争を勝利し有色人種初の白人クラブに出入りを
許可されたが、米国は不快に思い、米国の思惑で日英同盟破棄となった。
人種差別と言う意味では米国は当たり前のことをやった。当然だな。
大東亜に突っ込んだ祖先の感覚は現代人では理解が難しいと思うな。
俺も当時の人の忸怩たる思いは接することはできない。
まぁ 60年経っても同じだから。今世界恐慌が訪れようとしているが、また60年前に戻ると思うよ。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/23(木) 00:21:32 ID:UL/uBgr30
大東亜戦争は、欧米列強の支配から、アジア各国を独立へ導いた戦争だった。 それ以前の日露戦争については、ロシアが中国内に着々と武装しているのを 見て、このままでは中国のみならず日本まで植民地化されてしまうため、 宣戦布告せずにはいられなかった。 日本はアジアの連帯と独立を目指した。 アジア全体ので協力した資源の確保、独立化を目指した。 アメリカは日本のゼロ戦や人間魚雷を見て、日本の若者の精神力に恐れを 感じた。二度と戦争で戦えないような弱体化が必要だと考えた。 戦後のアメリカによる洗脳のおかげで、日本は武士道精神を破壊され、 3S政策による愚民化などにより、日本が二度と戦争をしかけてこれないような 骨抜きを行った。 このような認識が正しい。 これすらも洗脳だというのか?
神風が吹くなんて嘘を言っていたから降伏が遅れた。 天皇が本土や沖縄の人々を殺した。 天皇がいなければ敗戦を受け入れるのは早かっただろう。 天皇を退治して日本を救うべきだった。 地獄で天皇が懲罰を受けていても降伏が遅れたため死んだ人は還らない。 そして祖父の為に死んだ人々に祈りを捧げるのは馬鹿らしいと、敗戦の日を無視して家族旅行に行く天皇の子孫も問題がある。
>>57 >大東亜戦争は、欧米列強の支配から、アジア各国を独立へ導いた戦争だった。
日本やナチスの行動がアジア独立に繋がったのは、結果論。
ナチスが宗主国を荒らし、日本が南方資源を狙い進出・教育。双方敗れた結果。
拙稚な戦略で不本意な戦争に突入したのを、あまり肯定するなよ。
>日露戦争については〜宣戦布告せずにはいられなかった
ロシアの半島南下を恐れたのは事実。
>日本はアジアの連帯と独立を目指した。
↓半島の例や、その他など、対等な独立国作りなど目指してない。
(独立後の不本意な行動で、併合前から権限剥奪や弾圧。一進会主張の対等併合とか拒否)
>アジア全体ので協力した資源の確保、独立化を目指した。
協力というか、資源豊富なインドネシアは直轄領で、独立を認めなかったろ。
認めたとしても、サイパン陥落後の絶望的状況になってから。
>これすらも洗脳だというのか?
だから思考にバイアスかかりすぎだって。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/23(木) 00:44:58 ID:UL/uBgr30
>>59 おおむね俺の考えで正しいじゃねーか。
日本がアメリカのイラク侵略のような利己主義に基づいて勝手に侵略した
戦争だといえないじゃないか。
俺は歴史の本はあまりよんでないから、具体的な事実はあまりしらんが、
おおまか正しい認識を持っていればそれで良い。
>許可されたが、米国は不快に思い、米国の思惑で日英同盟破棄となった。 日本のほうが不熱心だったんすよ WW1で「金剛貸して」って英国に言われたの断っちゃったし。
>57 オナニー史観乙w
>>60 いや、結果的にそうなったからといって、お前さんのは過大評価が過ぎる
日本がそうしたのは、そうするだけの理由があったからで、他に選択肢が無かった
政策のうち、実行可能なものが施行されたという類
これは、「中東が親米であって欲しい」というアメリカの事情と大して変わりませんよ
結果は随分違いますが、根本的には同じです。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/23(木) 12:23:54 ID:x7+nIaRA0
日本は人類史上最悪の虐殺、搾取をした国家だったと信じていたころが懐かしいねえ。 それが、今や植民地を近代化し慰安婦に300円も払い、最大の悪行が南京でゲリラを数千人処刑したことになったんだからなあ
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/24(金) 09:12:58 ID:nqj6xauI0
ほ
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/24(金) 09:25:50 ID:Ohidlzgd0
そんな事より今の日本の状況が戦前の日本の状況と似てるんだが。 企業が海外にどんどん出て行く。無能ボンボンヘタレ安倍ちゃんは 大東亜共栄圏を作ろうとしてるし。 だから鎖国し〜ましょ!
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/24(金) 09:40:40 ID:W/KPOOzb0
戦前とは似ても似つかない。国家予算の半分使った軍がない、いろんなもの 輸出して外貨保有もある。戦前は繊維産業しかまともなのなかった。 鎖国時もオランダ東インド会社をとうして貿易量は多かったし、軍備はなかった。
>>66 鎖国は論外
年間6億トンの物資を輸入して、付加価値つけて輸出するのが日本の生き方
だから世界は概ね平和でないと困る、特に航路
しかるに、『どことは言わないがランドパワー国家は海に出てくんな同盟』を作るのは、急務。
>66 >そんな事より今の日本の状況が戦前の日本の状況と似てるんだが。 >企業が海外にどんどん出て行く。 はぁ? 第二次大戦前に日本から企業が出てったとでも? 寝言は寝ながら(ry
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/29(水) 21:10:15 ID:aRCPd7CC0
>>68 ランドパワー国家が海を制覇しようとして成功したためしはない。
ランドパワー国家たる○華人民○和国がどうなるか楽しみ
中国が潰れたら日本も困るんじゃないか? 金くれ。金くれ。って言われるでしょ?
共産党がコケて五胡十六国時代になるのが、まあ、理想かな そうすれば日本に干渉してくる暇も無くなると思うよ。
日本が中国に干渉する。 辛亥革命以後の日支関係が繰り返される。 干渉の名目は東亜全局の安定。
そんなのはアメリカとロシアに任せておけばいい 遠くからツッコミだけ入れる もしくはインド・タイと連携して、アンダマン海から中国海軍を追い出す なに、海賊退治とでもしておけば名目は立つ。
75 :
ユリイカ :2007/11/13(火) 13:16:10 ID:L6CEUpRe0
昭和史への口づけ。戦いの季節の遺産に生かされる者として。 穏やかな微笑と共に、あの時代は美しい心の持ち主のなかにのみ甦る。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/19(月) 21:08:56 ID:x75ekFKY0
日本の深き強き歴史 4世紀に起きた三韓征伐で新羅を打ち破り百済、高句麗を属国とした。 7世紀には東北地方の蝦夷を討伐し領土拡大 13世紀には元の大軍を九州沖で全滅させる 17世紀の琉球征伐、琉球を属国にする 19世紀イギリス海軍を薩摩藩が撃退 台湾出兵により台湾島以北を日本領とする 日清戦争に大勝利、遼東半島、賠償金を獲得 日露戦争、黄海海戦、旅順要塞陥落、奉天会戦、日本海海戦と連戦連勝 シベリアを獲得 第一次世界大戦、山東半島ビスマルク要塞陥落、山東半島、パラオ諸島 カロリン諸島を獲得 満州事変、満州全土を占領 支那事変により中国の半分を占領、首都陥落 フランス降伏、ベトナム日本に割譲 大東亜戦争では フランスを破り イギリスを破り オランダを破り アメリカガチ4年 アジア諸国を開放、白人を追い出し アジア諸国を自主独立に導く ☆*:・°輝かしい日本の歴史 ★:*:・°
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/19(月) 21:31:14 ID:x75ekFKY0
中国における虐殺史 1851年 太平天国の乱 主導者・洪秀全 死者2000万人〜8000万人 1860年〜 回教徒の乱 主導者・清王朝 死者2000万人〜3000万人 1900年 義和団の乱 主導者・義和団と西太后 死者数757名、負傷者数2654名 1928年 済南事件 主導者・蒋介石 日本人居留民の被害人員約400名 1928年〜 国共内戦 主導者・蒋介石・毛沢東 死者約2千万人 1937年 通州事件 主導者・蒋介石 日本人居留民の被害人員約400名 1938年 黄河決壊事件 主導者・蒋介石 死者約32万人、離郷者数約63万 罹災者1000万人 1951年〜 三反五反運動 主導者・毛沢東 71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束 1947年 二二八事件 蒋介石 死者19,000〜28,000人(数十万との説も) 1946年〜 国共内戦の再発 蒋介石・毛沢東 死者300万人(諸説ある) 1946年〜 東トルキスタンの虐殺 主導者・毛沢東他 死者1000万人以上 850万人が強制中絶、核実験の放射能によって75万人が死亡・50万人以上が虐殺。 1949年〜 チベット大虐殺 主導者・毛沢東、胡錦濤他 死者20万人以上(諸説あり) 1958年〜 大躍進政策 主導者・毛沢東 死者・2000万〜5000万 1960年〜 文化大革命 主導者・毛沢東 死者・1000万人(一説には3000万人) 1989年 天安門大虐殺 〜現在 法輪功大虐殺、環境大破壊、毒野菜大輸出。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/21(水) 18:04:20 ID:ot4Wayvr0
国際的に言う「侵略」=欧米列強のテリトリーを侵害すること だから明らかに侵略戦争。
>>76 >☆*:・°輝かしい日本の歴史 ★:*:・°
東北の住民を鬼と見なして征伐したり
琉球を占領して過酷な支配をしたり
ナチスが本国荒らしてる最中に、ナチスにすりより南進したり
が輝かしいのかよ
すりよってきたのはナチの方だけどなw
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/22(木) 00:15:47 ID:aw9tTQe/0
>>81 輝かしいね
日本人なら日本の歴史を誇りに思うのは当然
日本が戦乱の歴史を誇るように 中国も戦乱の歴史を誇るだろうよ
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/09(日) 20:56:56 ID:O6z2P7cc0
この間台湾のテレビ番組見たのですが、その内容が興味深かったので報告します。 番組に出演してた台湾のタレントの祖母のことが話題になったんだけど、その祖母ってのが国民党の情報将校で、のちに国民党軍初の女性将官になった人物。 この人の最大の功績というのが、日本軍の暗号を解読して真珠湾攻撃を事前に察知したことなんだそうだ。 そのことを同じく軍人である夫を通じてアメリカに報告するも、アメリカはそれを日本とアメリカの関係を悪化させるための情報工作と考え信じなかったという。 誰が暗号を解読したかはさておき、夫に当たる人がアメリカに日本の真珠湾攻撃のことを知らせたことは史実として、台湾で広く知られているらしい。 台湾人が語るアメリカが情報を信じなかった理由が納得しがたい。 アメリカはやっぱり事前に知ってたんじゃないだろうか。 おそらく自前の諜報機関で察知していて、開戦の口実を得るために口をつぐんでいた、そして国民党軍の余計なお世話を黙殺したと考えるのが自然ではないかと思う。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/11(火) 00:45:36 ID:p3W7kimo0
87 :
名無し :2008/03/13(木) 22:49:34 ID:Tq/PZ6vE0
大東亜戦争の理解は1991年のソ連の崩壊による新歴史資料で大転換した。
ウェデマイヤー将軍が述べたようにスターリンが唯一の勝利者になったのだが
、その裏に猛烈なスパイ工作があった。それも情報を盗むだけでなく、
政策をソ連寄りに動かしたのである。日本もその被害国である。
新歴史分析:「スターリンの国際戦略から見る大東亜戦争と日本人の課題」
http://www3.sea.plala.or.jp/tkyokinken/
良スレ
89 :
名無し :2008/03/16(日) 16:57:26 ID:KZARnU9D0
大東亜戦争の原因は独ソ戦にあった。これが21世紀の近代史研究の鍵 である。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/26(水) 00:51:43 ID:xBH9f8750
日中戦争は明らかに侵略だが大東亜戦争は侵略ではない
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/27(木) 10:41:34 ID:YuSSPgW40
日中戦争は明らかに防衛戦争だが、大東亜戦争はアジア開放
単なる勢力圏争い。どっちも原因。 半島併合・・・対露防衛 満州事変・・・張学良の追放や不況の打開 日中戦争・・・北支介入による衝突 大東亜戦争・・南方進出による軋轢
全て自衛権の行使
アメリカがテロへの自衛のために、 イラクをつぶして傀儡国家にするのも、 当事者にとっては自衛権の行使だな。
低脳同士が自衛権の水掛け論でFA。 普通に見れば、前段階からお互いに煽ってた。 盧溝橋や真珠湾の前からも。
煽り煽られ、まるで2chの様な世界情勢。勿論現代だってそうだ。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/05/18(日) 12:04:47 ID:PoivtLhjO
大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義
三田村 武夫【著】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4915237028.html 第3篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主議者の秘密謀略活動について
ソ連・スターリン → コミンテルン → ゾルゲ・朝日新聞・尾崎秀實 → 敗戦革命
(第3インターナショナル) ↑
日本共産党員。後、偽装転向し米英との戦争を扇動
朝日新聞記者
共産主義シンパの近衛文麿首相のブレーンとなり、日本を戦争へ導く工作を行った。
彼のねらいは、日本を共産主義国にすべく、レーニンの言う「敗戦革命」を起こすことにあった。
朝日新聞からは尾崎のほか、佐々弘雄、笠信太郎なども近衛に近づき、影響を与えた。
ちなみに同じく近衛のブレーンだった西園寺公一(きんかず・西園寺公望の孫)は戦後、日本共産党に入党したが、除名され、家族と共に中国に行き、中国共産党の党員になった。
1950年、GHQのレッドパージにより朝日新聞社内から約二百人もの共産分子が追放された。
現在、朝日新聞社は社会主義国家に向けて、今度は中国共産党と手を組み工作活動を続けている。
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/05/18(日) 12:37:35 ID:O01N+ULo0
佐々弘雄の倅こそ、石原慎太郎都知事のブレーン佐々淳行 ある時は片目のせむし男、また、ある時は内閣安全室長。恐るべし○○○○の脅威
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/05/20(火) 08:16:46 ID:Kg2d3gdV0
いはゆる大東亜戦争といふ言葉の意味につきましては、昨年十二月 十三日、情報局から、「今次の対米英戦争は、支那事変をも含めて、こ れを大東亜戦争と称ふことになつた。大東亜戦争とは、大東亜の新秩 序建設を目的とする戦争といふ意味であつて、戦争の遂行される地域 を、大東亜だけに限定するわけではない」といふ趣旨の発表をいたし ましたが、このことは皆様もよく御記憶のことと思ひます。 すなはち、これにより明かなるごとく、大東亜戦争は、大東亜にお いて新なる秩序を建設せむがための戦争であり、従つてこの戦争は、 欧州における、独伊両国を中心としての欧州新秩序のための戦争と、 密接なる関係を有し、欧州新秩序の建設と相俟つて、世界新秩序建設 の上に、極めて重大な役割を有してゐるのであります。しかして、帝 国が世界に比類なき肇國の大理想を基本とし、陸海両軍無敵の実力を 背景として、新秩序建設に進みつゝある点において、今や、将来の世 界新秩序建設の上に、指導的な役割を有するに至つてゐるのでありま す。 新なる秩序を建設せんがためには、大東亜をして、旧秩序より解放 せしむるの肝要なるは申すまでもありません。この意味において、欧 米依存、排日抗日の支那を、その旧套より蝉脱せしめて、帝国と善隣 友好、共存共栄、支那本来の姿に還元せしめんがため、すでに多大 なる努力をはらひ来つた支那事変は、今次大東亜戦争の準備戦たりし ことにおいて、新なる意義を加ふると同時に、当然、大東亜戦争に発 展帰一するものであります。また間接には、満洲事変はもとより、日 清日露の両役といへども、この大東亜戦争と密接なる歴史的の連関を 有するものであります。 大東亜戦争の意義とその使命 情報局総裁 谷正之 1942.1.6
現代でもいっそ侵略して完璧に日本化させて発展させたほうがいいような、 ダメ国家が近所に存在してるし、日本のやり方のほうが欧米よりも現地の民衆の為になると思う。 ただ、時間や労力は掛かるので泥臭い方法ではあると思う。 欧米方式の侵略のほうが手っ取り早いが搾取は酷いだろう。 一番賢いやり方は徹底的に発展して見せて羨ましがらせてマネさせるという方法だろう。 しかし情報伝達の技術が未熟だった昔の時代では難しかっただろう。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/09/11(木) 15:41:01 ID:Ksc8nJ2W0
大東亜戦争を引き起こした国内の本当の悪が今でもいるんだから 怖い。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/09/19(金) 05:49:52 ID:uOhp2CQYO
もし当時のイギリスとアメリカが日米決戦みたいに戦争してたらイギリスも日本みたいにフルボッコにされたかな?
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/09/20(土) 09:09:23 ID:4DA6L/pk0
>>90 何で開戦してきた中国を討伐しようとしたことが侵略になるんだよ。
「発端」 日本 華北介入〜制圧 中国 停戦中に事件 「拡大」 中国 南の日本軍(上海租界駐留)を攻撃。 日本 講和機会を条件つり上げでフイにし、相手にしない宣言で、重慶まで追いかける。 当時の侵略定義はあいまいだが、相手主権の地に介入したのは、日中間で日本だけ。 上海租界も、主権者は中国。そもそも日本租界でもない。
>>107 「発端」
日本 満州事変 停戦中に華北介入〜制圧
だろ。
満州事変は関係ないだろ。 そもそも日本軍の華北への進軍は共産党の攻撃への反撃・追いかけただけにすぎない。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/09/24(水) 00:19:52 ID:kL1UMz5l0
>104 アメリカ大使館?
>>109 歴史勉強しろ。そこで日本が本当に要求して実現したものが何かをな。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/10/23(木) 21:49:41 ID:RTG13TBhO
帝国主義ってそんなもん。他の列強国も一緒のことしてたやん
>>107 停戦中に日本軍に攻撃を仕掛けて、反撃で北京占拠。
どうみても中国が悪い。攻撃仕掛けなければ、北京と落とされることはなかった。
そして日本が第二次上海事変直後から、打診しつづけた講和を無視し続けたのは蒋介石だが?
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/10/23(木) 23:01:20 ID:9FIHaO+V0
>>114 >停戦中に日本軍に攻撃を仕掛け
>どうみても中国が悪い。
満州事変の停戦中に、条約や相手主権を蔑ろにし、
華北に分離工作を掛けてたのは日本だが。
日本の権益を強引に回収したり、侵害したりするから当然の結果だな。
ロスの空港からダウンタウンへ向かう途中車窓から「砂漠の中に多くの原油 自動掘削機」が動いているのを見て、思わず「東条の大馬鹿野郎」!と叫び たくなった。 「道端の砂漠で原油自動堀」の国と「木炭バス」の国と戦って「勝てる筈が無い」 帝国陸軍幹部は本当に「世間(世界)知らず」だった。「海軍」の方が開戦反対 論者が多かったのも「世界を見る機会」が多かったからだろう。江田島の卒業生 など「遠洋航海」があったから、若くして世界を見る機会があったが、陸軍は 精々「大使館駐在武官」程度だったから、たやすくヒトラーやムッソリーニに かぶれてしまった。 今度は自衛隊が旧陸軍みたいになるのが恐ろしい。もうなりかけているが:--
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/10/31(金) 00:44:31 ID:z7KvgErk0
近代日本は領土を広める為に戦ったことはない。アジアのチャンピオンとして 白色人種と戦い、全世界の抑圧された諸民族に光明をもたらした。 さかのぼれば日露戦争の勝利があり、敗れたりといえど大東亜戦争もそうである。 屈辱のもと、あえぐ虐げられたアジアを救う理想は、既に幕末以来我国多くの 先覚者達にあったが、好んでそのために戦争準備をしたことはない。 さて百年前を見よう。 当時七つの海を支配し、日の没することなき領土を誇った英国は、印度を滅ぼしたあと、 支那を襲い、巨利をむさぼるために、印度でつくらせた麻薬阿片を 買えと押しつけ、阿片戦争を起こした。力なき支那は連戦連敗、やがては香港を取られた。 イギリスは又、オーストラリアで原住民狩りまで行っている。 ツァーロシアの領土拡張は、シベリアを東へ東へ本国から数千キロ、 カムチャッカ・千島・アラスカ(後、米国に売却)にまで及んだ。 さて東アジアではこの地域安定のため戦われた日清戦争に敗れた支那は、 侵略国の露・独・仏にたのみ三国干渉を行はせ、 下関条約で日本に与えた遼東半島を東亜の安定に害があるとして返させたが、 その後同じ遼東半島の旅順・大連をロシアに与え、 又その弱さにつけこまれ、生体解剖といわれるくらい列強に領土を蚕食された。 英国が七つの海を支配し、仏・蘭もこれに続き現在、民主主義・人権の本家の如くふるまっている 米国は、メキシコを侵し、ハワイを一夜に強奪し、米・西戦争に勝ち、 フィリピンをだましとり、その後住民百万人を殺したといわれる。 この様に白色人種が世界を制覇して居るとき、しいたげられた国家民族に希望を与えたのが日本であった。 当時の支那は前述の如く、この支那を数百年来宗主国と仰ぐ朝鮮の状態は言わずもがなであるが、 ここでは何故聖戦かを論じなければならない。 そもそも森羅万象、天意天命に非ざるはなく、前述、白人の横暴を制し、 虐げられた人類解放を実現せしめるため、天はアジアに日本を配した。 そして起爆剤として邪悪な共産主義と強欲アメリカがつくられ、これらの挑発謀略から 日本は戦争にひき込まれた。即ちコミンテルンとアメリカの謀略で、日露戦争により 得られた我概益への侵害や、虐殺・暴行・略奪・放火等、日本人への迫害が満州事変を生み、 コミンテルンの介在する西安事件では、命と引きかえに抗日戦へ蒋を引きずり込み、 又中共謀略の盧溝橋事件から通州事件等あくなき彼等の挑発により支那事変へ拡大した。 米英は支那大陸の利権獲得と、日本つぶしの好機として、蒋介石援助を続け、 遂に経済封鎖からハル通達となり、平和解決を望む日本を追い込み挑発し、 大東亜戦争を発生せしめた。武力では日本が敗れ、米・英・蒋・露が勝利したが、 結果を見れば、彼等が敗退している。 即ち、米・英は多くの犠牲を払い乍ら、植民地をすべて失い、支那大陸の利権は一場の夢と化し、 その赤化を許し、共産国との東西冷戦を生んだのみであった。 共産主義と組み、白人侵略者の支援を求め、アジアに反逆した蒋介石は台湾に落ちのびて不遇をかこち、 極悪ソ連はその後分解自滅した。戦争をおこした元凶共産中国は、チベットその他 弱小諸民族の侵略・圧迫を続けているが、いつの日か同じ命運をたどることは必定であろう。 日本は現在物質的繁栄を許されているが、戦後の弱体化謀略により、 本来あるべき伝統・道徳と精神は荒廃の極に達している。しかしこの敗戦による精神的混沌こそ、 日本民族の傲慢化を押さえる天意であり、よりよき状態へ、世界を救う民族精神を 昇華向上せしむるための天命に外ならない。大東亜戦争はそれによって諸民族が解放されたこと、 又前述すべての結果からも破邪顕正の聖戦であった。 今ことごとに、日本はアジアに被害と苦しみを与えたと、正反対のことを しぶとく言いつのっている中・韓が、虐げられた諸民族の解放にいかなる業績を果たしたであろうか。 白人と組み、日本の足をひっぱることのみ多かったのが真実である。 日本へ、反省・謝罪し感謝すべき中・韓であることを強調したい。 繰り返す。天は共産主義とアメリカを使い、挑発させ、戦争を好まぬ日本民族に 大東亜戦争を遂行せしめ、諸民族の大解放を実現させた。 これこそ天命のしからしむる人類史上最高の聖戦たる所以である。
太平洋戦争時の日本の体制は明治体制とどう違うのでしょうか?
>>117 加藤隼戦闘隊で有名な加藤建夫氏みたいに、
陸軍でも実際にアメリカを見てアメリカと戦争するべきでないと
言う人もいたんだが少数派だったのが残念だね。
陸軍の過激派にアメリカの大工業地帯を見せとけばよかったんだろうがね。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/11/14(金) 01:49:22 ID:7m6Xh6L/0
「日本の南進の地歩を海南島、仏領インドシナに進め、 南進活動の拠点をつくった後、またその間、十分に国力を充実した後、 好機に乗じて蘭印を占領するのがよいと思う。(中略) これからの国家には石油およびゴミが必需品であることを考え、 我が国は南進の準備に着手しなければならない。」 (木戸幸一 1941年5月18日) 長州人の木戸が南進を煽った結果、 日本はアメリカとの全面戦争となりボロ負けしたんだよ。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/11/15(土) 13:27:40 ID:gUV6Dr7Q0
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/11/15(土) 15:03:38 ID:rPPNUrtm0
対米は自衛 対中は侵略 って論が保守派にあるらしい。 対中も自衛だと思うんだが、どうなんだろう。
125 :
エビちゃんファン :2008/11/16(日) 15:38:12 ID:TZGWw2n10
保守派は全部自衛とみなす ところで当時のアメリカは非常に微妙な時期にあった。 ニューディールの深化か、帝国主義的対外拡張の延長かである。 日本との戦いの裏で米国内での路線対立はすでに静かに起きていたと思う。 結局帝国主義派はニューディール派を圧倒した。 米国支配層にとってニューディールは米国の体制維持の為の一時的なものであって、 恒久的にやるつもりはなかったようだ。 米国にとってはあくまで貧困救済よりも中国や東南亜、中南米、アフリカ等の利権確保が大事であって、 民主主義や人権、労働環境改善は二の次なのだ。 ソ連も労働者の人権よりも党官僚の利権確保が大事である。 米ソの偽善者が連合して日本を討った。善悪ではなく、単なる事実だ。 戦国大名も大義名分は掲げた。勝てば官軍なのである。 百歩譲って日本が侵略国家だとして、殺人・大量殺戮が「悪」ならば スターリンやトルーマン、蒋介石、毛沢東、金日成も 善悪を超越する程の神に近い「悪」ではある。 悪って、一体何なんだろうね?
126 :
ナイトロ :2008/11/17(月) 00:12:55 ID:sRjrCwY3O
実力を過信していた軍部のせいで、この様だな・・・
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/11/17(月) 15:04:41 ID:KVt03Bdd0
>>1 侵略? それは当時でいえば国連規約の侵略禁止条項に違反した行為ですよ。
そして日本はそれをやらかした、と何度も非難決議を食らっている。
だから当時から侵略国。
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!! おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。 薬味はネギと紅ショウガね。 マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね! ああ〜また食いたくなってきた〜。 明日も食うけん!!
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/11/22(土) 12:41:29 ID:WwbzMjMF0
>>127 じゃあアメリカも当時から侵略国かい?たしかハーグ条約違反(民間人大量殺傷、つまり原爆)
してるじゃん。真珠湾は、民間人は攻撃していないぞ。
日本が侵略国家なら、アメリカにだってそういっていいと思うが。
(俺は日本は、侵略国家じゃないと思ってるが。)
>>129 ていうか、南京大虐殺が何だかんだ言う人間はいるが、それを捏造論で排除しても、
日本も中国の都市の一般住宅地に空爆しかけてなかったか?
アメリカが日本人を殺した数の方が圧倒的に多いのは確かだし、
当時はドイツもイギリスも結構民間人虐殺はやっていたし
「民間人大量虐殺禁止」なんて全然意味がなかったんじゃないのかな?
どうでも良いが許せないのはアメリカが
「日本では国家総動員法によって国民全てが兵隊だったからいくらでも殺して良い」
という屁理屈を言う事だが。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/12/10(水) 21:40:52 ID:JO1O1Nay0
ttp://gall.dcinside.com/list.php?id=history&no=319522 日本の帝国主義的侵略は東南アジアとハワイ,太平洋だけだ.
<丶`Д´>ノ
ゾセンジングの立場(入場)で見ようとすると朝鮮王朝 500年の間逼迫したチァングケドルを
日本が追い出してくれてのようにチァングゲを掠奪して分け前取る事に日本が部下でゾセン
ジングを受けてくれたと言える.
問題は日本軍自体がチァングゲドルと争って完璧な勝利をおさめたのではなくて(実際に
日本は中国の点と線を支配したが面を持つことはできなかったと言う.) ゾセンジング内部にも
慕華思想に垢じみたやつらがいて大国中国に敢えて立ち上がることができなかったという
切なさがある.
今中共チァングケドルはおびただしい膨脹政策をしているのに多分何年内で 2次大東亜戦争が
起るかも知れない.
あの時は日本だけでなくアメリカまで味方である側だからまともにチァングケドルとロスするように
掃除してくれて北東アジアの利権を私たちの手で入れなくてはならない.
文でロシャエルフ白馬たちと混血して人種改良も
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/12/11(木) 07:54:22 ID:Nq6fwnV80
>>118 >日清戦争に敗れた支那は・・・又その弱さにつけこまれ、生体解剖といわれるく
>らい列強に領土を蚕食された。
中国の領土蚕食って、日本が下関条約で開港場を拡大させたのが最恵国待遇
で欧米列強に自動的に与えられたことに起因してるじゃん
日本自身も台湾などを中国から奪ってるし
人生でもっとも貴重な瞬間、それは決断のときである。 太平洋戦争は我々に平和の尊さを教えたが、 また、生きるための教訓を数多く残している。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/12/26(金) 11:53:52 ID:lDFhRL1lO
『歴史的事実なんだ』三島由紀夫 Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。 三島由紀夫:大東亜戦争でいいぢゃないか。歴史的事実なんだから。 太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。 戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢゃないか。 Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。 三島由紀夫:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。 いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
>>129 侵略戦争したかどうかと、戦闘に不法手段を使ったかは別問題だぞ。
日本はアメリカ他に、自分たちが約束した条約をまとめて破って仕掛けたんだから。
不法な戦争したって話ならアメリカは無罪。太平洋戦争に限ってはな。
無差別爆撃も、日本が中国オーストラリアインドに先に仕掛けたわけで。
すべては 伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう) が悪かったのか、、そうか、、 東條は天皇は平和主義者だったんだ。。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/01/03(土) 15:12:02 ID:0+ytGi3B0
8月13日 戦いは常に最後の一瞬において決定するの常則は不変なるにもかかわらず、その最後の一瞬においてなお帝国として持てる力を十二分に発揮することをなさず 敵の宣伝戦略の前に屈し、この結 を見るに至る もろくも敵の脅威に脅え手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて指導に当りたる不明は 開戦当時の責任者として深くその責を感ずる (東条英機の日記より) こんな見通しで開戦に踏み切り、かつダメな結果が出たらそら国民らの無気魂のせいだそうですよ。
>>122 >これからの国家には石油および ゴミ が必需品
リサイクルですか?先見の明が有る。
勝敗はやってみなきゃ判らないとか言ってる人は孫子を読み直すべき。勝てる算段がついてから
戦えって書いてあるじゃん。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/01/11(日) 00:35:07 ID:m2cwoKht0
>>135 人類史上最悪の体制は共産主義ソ連ではなくて米軍。
その証拠に米軍は東京大空襲や広島長崎の原爆など、どこよりも大勢の日本人を虐殺した。
それと比べれば満州侵攻にシベリア抑留を加えても、共産主義ソ連のそれは優しすぎるくらいw
米軍の残虐さに比べれば、「レイプ、虐殺三昧のソ連軍」さえやさしくなってしまうってことさw
つまり米軍のやったことはそれだけ残虐で気が狂った凶悪犯罪だったということだ。
それはまさに何の目的も意義もない、ただ殺戮のための殺戮だった。
それと比べればアルカイダテロは、凶悪なアメリカ帝国主義と戦うという立派な大義名分がある。
米軍は東京大空襲や広島長崎の原爆の他にも世界各地で狂った凶悪犯罪を繰り返しており、
それに対する報復は当たり前すぎるくらいだ。米軍にはアルカイダテロを批判する資格などまったくない。
共産主義ソ連は世界で二番目に核実験に成功した、これはイギリスよりも早い。
しかも宇宙開発はアメリカを抜いて世界一、これは尊敬に値する。
まさに共産主義ソ連の核兵器は、平和のためのきれいな核兵器だったといえる。
なお中国人が共産主義政権で大量虐殺されたというが、中国人はそれ以前に生きる値打ちのない
チンピラゴロツキ蛆虫だった。チンピラゴロツキ蛆虫だからそれにふさわしい政権が樹立されたというだけ。
とにかく中国人は数が多すぎるから、何らかの口実を造って大量虐殺しておかないと、
チンピラゴロツキが国外流出して地球環境の汚染に繋がる。
な あ 、 こ う い う の っ て 進 歩 的 で リ ベ ラ ル だ よ な !
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/01/13(火) 15:59:00 ID:0KcH4vqq0
>>139 海軍トップとしての責任は否めないところだが、南雲忠一の愚かさに足を引っ張られた感じがする。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/01(日) 12:56:43 ID:TSh2tTEw0
パチンコをやめろ/高山正之(ジャーナリスト)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090220-00000001-voice-pol マッカーサーは戦後の日本で過去に例のない専制と独裁政治を展開した。
彼はまず罪を犯した米兵への裁判権を日本に放棄させ、新聞が米兵の犯罪を報道することも禁止された。おかげで米兵は強姦
も強盗もし放題、殺人も構わなかった。調達庁の調べでは占領期間中2500人が殺された。
彼の占領政策の柱は、日本人の誇りを奪い堕落させ2度と白人支配の脅威にならないようにすることだった。そのために東京裁判で日
本を侵略国家に仕立て、A級戦犯はわざと皇太子殿下の誕生日に死刑を執行した。横須賀港にあった戦艦三笠はいかがわしいダンスホ
ールに改造された。
日本では賭博は禁止だったが、マッカーサーは朝鮮人が国に帰還するまでのあいだ、パチンコ屋をやることを日本政府に認めさせた。
賭けごとは日本人の堕落を促すと読んだためだ。さらに彼は、軍歌いっさい厳禁のなかでパチンコ屋に限って軍艦マーチを流すことを認
めた。どこまでも日本を貶めた。
パチンコで日本人を堕落させる計画は彼の期待以上にうまくいった。なぜなら朝鮮人は帰還しないでパチンコとともに日本に居座ったか
らだ。経営者の95%が朝鮮人という業界は、日本人の射幸心をあおっていまも年商20兆円を稼きだしている。
対支那のODA総計6兆円をはるかに凌ぐ上がりは南北朝鮮を潤し、社民党への献金から北の核開発までを支えてきた。
一方、日本ではパチンコ屋の駐車場で子供が蒸し殺される悲劇が続く。3年前の一斉巡回で56人の乳幼児が蒸し焼き寸前で救出され
た。借金漬けの主婦が売春に走り、景品交換所では強盗殺人事件が後を絶たない。
松戸市の市営住宅で火事があり、3人の子供が焼け死んだ。23歳の母はそのときパチンコに熱中していた。マッカーサーの思うとおり日
本人は堕落した。百害あって一利もない違法パチンコはまだ廃止もされず、悲劇を生みつづけ、南北朝鮮だけが笑っている。
大東亜戦争は,まぁ侵略戦争だろうね。 もっとも侵略が必ずしも悪いことだとは思わないけど。帝国主義という強者 が弱者の権益に制限を加えたり奪ったりするのがまかり通っていた時代だからね。 自国の国益(安全を含む)のために隙のある他国につけ込むのはまぁ普通かと。 対米開戦が日本にとって「詰み」な状態なのは常識として,その対米戦回避の ポイントは 1.日露戦争回避 2.エドワード・ヘンリー・ハリマンの南満州鉄道共同経営提案受諾 3.リットン調査団の勧告受諾 4.仏印進駐(特に南部仏印)をしない 5.ハル・ノート提案を「日米貿易再開」「資産凍結解除」「石油禁輸解除」 の条件を付して受け入れる ですかね。 1.は,結局後々日本を孤立させ対米開戦へと持ち込む最大要因となった関東軍 の出現を封じること故に挙げてみたんだけど,現在の視点からはともかく,当時 の視点からすれば露西亜の脅威は現実問題として日本の指導部にはあったので その観点からするとこれを採るのは難しいかな。 2.は是非行うべきだったと思う。幾万もの日本人将兵の血を流して手に入れた 権益を何の血も流さないアメリカ資本と共同経営するのは感情論としては許し難い けど次の理由から採用すべきだったと思う。 a:日本を滅ぼさないキモは,当時の強国No1,2の米英を敵に回さないこと。 望ましいのは味方に付けること。そのためには共通の利害を持つことが一番良策。 b:日露戦争の戦略目的は露西亜勢力の朝鮮半島への南下を防ぐことにあった訳で 日露戦争の実質的勝利により既に達成されている。従って満鉄権益は従目的でしかない。 c:満州事変のきっかけは張作霖が満鉄に平行線を敷設し日本の権益を妨害したのが 原因であり,石原完爾の暴走の大義名分にもなった。しかし,アメリカと共同経営で あれば,張の行為は日本への敵対行為のみならずアメリカへの敵対行為ともなるので 張は平行線を敷設できないか,行ったとしても日米協調介入ができ国際的孤立を回避できる。
3.も受け入れるべきだった。これが日米開戦を避け国益を損なわない最後の チャンスだったと思う。リットン調査団報告書は,必ずしも内容において日本 にとって不利なものではなかった。いわば「下手な自作自演だから名実共に 日本による満州の支配を認めるわけにはいかないので,形の上では日本も譲り なさいよ。その代わり実質的な部分は目をつぶるからさ」という割にオイシイ 提案だった。でもメンツに拘る日本はこれを蹴って国際社会から孤立の度合いを 深めてしまう。 4.南部仏印進駐が日本の首を締め上げる直接の契機だった訳だから当然回避すべき。 日本にしてみりゃ,中国がしぶといのは米英の援助だから単純にルートを封鎖しちゃえ ばいいんじゃね?くらいの軽い気持ちだったんだろうなぁ。まさかあそこまで 首絞められるとは思ってなかったのかもな。甘い読みだけど。 5.良策とは言えないし,交渉継続しても貿易再開等の条件は飲んでくれなかった かもね。でも焼け野原にされるよりはマシと言わざるを得ないかな。 大東亜戦争の評価だけど,結果としてアジアの独立を促進する役割を果たせたのは GJだと思う。但し,当初から日本がアジアの開放を目的として開戦したという のは全然同意できんわ。贔屓の引き倒しだと思う。 だからアジアが独立できたのは日本のお陰なんて,独立できたアジア諸国が評価 してくれるならともかく日本人自らが主張することではないよ。ケガの功名なんだからさ。 ただ,かけがえのない命を散らせた将兵の中には本気でそう思って戦場に臨んだ 人も確実にいたと思うし,そうした方々の存在は誇りに思うべきだしサヨクみたい に十把一絡げにしてこき下ろすヤツは氏ねば良いと思う。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/18(水) 00:05:58 ID:BALiLDZCO
思想戦で負けましたよ。ナチズムの影響なんか受けたから。
補給線の事考えて欲しかったっす!!
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/18(水) 19:14:57 ID:yhPaF0EX0
大東亜戦争は自衛の戦いだと言うと 拡大解釈どんだけwwwなリアクションの御時世に 自衛の為にソマリア海賊退治とはこれ如何に
>>151 自国の貿易船を守るのは大事ですよ。
自衛隊出すのだめなら日本の貿易船に銃の携帯or傭兵認めて自衛させるべき。
>>148 一応、大儀は立てたんだから、ちょっとは認めてあげようよゥ(´・ω・`)
と言いつつも声高に日本人自らが主張するのは、やっぱ、ちょっと違和感があるなw
でも、大東亜の場合、普通の侵略戦争の定義からするとなんか、ちょっと違うんだよね。日中戦争もなんだかんだあるけど、基本的に中国内の権益を守るための戦いが
泥沼化して、ああなっちゃたわけで、東南アジアも戦ったのはイギリスとかオランダ
とか相手だったし。インドネシアとかでインドネシア語の復活とか国民軍作らせたり
したから、完全な植民地として乗っ取ろうとしたようにも思えないし。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/19(木) 03:06:32 ID:RZIPVYu6O
閉鎖的な悪の満州の門戸を開放しろって言って中国侵略しましたがね。 日本は開かれた国だったわけです。
先に仕掛けたのは中国ですが何か?
>>152 いや。普通に侵略戦争でしょ。問題なのは一般的によく言われる「日本はアジア
を侵略した」ってアレだが,言葉足らずなんだよね。正しくは「日本はアジアに
ある欧米の権益(植民地)に対して侵略を行った」であってアジア人国家を侵略
した訳でもなければアジア人(この表現も雑だがw)が享受していた利益を取り上げた
訳でもない(華僑は別だが)。従って「先の大戦でアジア諸国に多大なる損害を
与えた」ってのは誤り。この表現が当たるのは中国くらいなもん。朝鮮は大東亜戦争とは
関係ないからね。
こんなのは常識なのであって,だから東南アジアの国々は特段に日本の戦争を
非難したりはしていない。これは「親日」だからとかではなく「あたりまえ」だから。
それを朝鮮人が大東亜戦争で云々言うのは彼らの頭の出来が残念だから。
中国については確かに自国の権益を守る戦いが昂じて泥沼化ってのはある側面
では正しいけど一面的な考えだと思う。そもそも異民族統治そのものが難しいのに,
「二十一箇条要求」なんて相手民族に反感を持たれるような愚策やってんだから
自分で権益確保を困難にしているようなもの。
156 :
148 :2009/03/20(金) 15:14:52 ID:Mv9hWtGY0
そうした点を踏まえると,外交センスなしで相手の軍事力が弱体なのに乗じて イケイケしたのは侵略呼ばわりされても仕方がないかと。中国を甘く見過ぎた結果かな。 俺も感情的には「チャンコロのくせに」的な気分がないではないけど,冷静に 考えれば諸子百家や孔明産んでる民族だからね。侮りは危険なんだよな。 >インドネシアとかでインドネシア語の復活とか国民軍作らせたり したから、完全な植民地として乗っ取ろうとしたようにも思えないし。 俺はそうは思えないんだよね。結局南進したのは南部仏印進駐をきっかけに アメリカとかに首を絞められた結果,資源を求めて進出したのがインセンティブ だから。もしもだけど,アメリカとの戦争が仮に講和できたとしても二度と 首を絞められるのはイヤだから,完全な植民地化まではともかく資源の権益は 保持し続けようとすると思う。東南アジア諸国なんてロクな産業もない国だった んだからそこから資源の権益を奪えば本当に「アジアに対する侵略」になっちゃう んじゃないかな。そしたら現在のように「結果として独立を支援する要素となった 国」という位置づけから「欧米に代わり侵略してきた国」ってことで痼りが残った と思うよ。そう考えれば,アジアの独立と日本との友好で見れば日本が負けて 良かったんじゃないかと思う。
>>155 トンクス。
言われて侵略戦争ってのが納得したw
>>153 確かに、もし講和したとしても、なんらかの形で権益を保持し続けると思うんだけど
パラオ統治とか考えると欧米みたいな搾取するだけになるとは思えないんだよね。
で、その後、東南アジア各国から独立の声を受けと独立認めて、まぁ特に反日になるで
なく現在にいたるんじゃないかなと
>>157 う〜ん・・・
日本人の民族的特性と現に行われた朝鮮・台湾・満州での経営を見る限り
俺も指摘の通りオランダなどのような過酷な搾取って発想はないだろうと思う。
ただね,日本人ってヘンに責任感が強いというか融通が利かないというか
当時の「盟主」意識の強さからすると,日本が主導的に独立のスケジュール
作ってアジア諸国を独立させる可能性はムムム・・って感じになってしまうw
上手く現地の住民代表とコミュニケーションが取れていれば良いけど,住民
の要望無視して日本が独善的に振る舞ってしまう可能性の方が高いんじゃない
かなぁ。現地に赴任する人が今村さんみたいな人ばかりなら貴方の説もうなずける
んだけどね。ムッチーや辻ーんみたいのが行った日にゃ修復不能になりそう。
現地語教育を普及させたりしたのは素晴らしいけど,その一方で神社参拝とか
現地を日本色に染めようというイヤらしさがね気に食わんよ。
まぁ,お互いタラレバの話だからどっちにも転ぶ可能性はあるだろうけどね。
まぁ、これ以上は、本当にどうなってたか分らないよね。 でも現地を日本色に染めようとしたけど、それがうまくはまると サイパンの人が「もし、太平洋戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」 とか言っちゃったり、パラオみたいに「併合してくれ」と言っちゃったりするから、 あながち悪い事でもない気がするw しかし、なんつーか不思議な国だね日本ってw
まあ日露戦争まではまかり通ってたことが二次大戦頃には 通らなくなってきてたんだな。 覇権主義からの転換期にあったことを日本は読み取れず、 増長して叩かれた。 明治維新後、偉大な先人達が築いてきた領土や財産、生命の 多くを失い、占領下に置かれる屈辱を受ける。 大東亜戦争に踏み切ったことは日本国史上最大の失政だ。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/05/17(日) 23:02:48 ID:/sK8xjut0
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/07/03(金) 15:33:14 ID:Dj11vVh90
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/07/23(木) 13:20:35 ID:gbYrtI7c0
屑鉄と航空ガソリン停められた時点で 次なんか事を起こせば今度は間違いなく完全な経済制裁だと思わない コイツ等の陽気なポジティブ思考は見習うべきwww
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/07/25(土) 09:26:08 ID:UX4Ydx6J0
戦前の陸軍、海軍は普通のお役人の役所ではもはやなくなっていて 特に統帥権干犯問題で誰にも止められなくなっていたんだって その予算の規模といったら 驚くべきことに魚雷一本で家一軒の値段だったんだって 当時の大蔵省や議会、政治家などが軍事予算など削減などしたらそれこそクーデターも起こしかねなかったんだって 戦後、軍事官僚がいなくなって議会、政治家がどれほど気兼ねなく予算を組立て安くなったか数知しれなかったんだって
夏だな
戦後左翼が忌み嫌う、存在そのものをタブーとして触れてこなかった 林房雄という人物がいる。 林は戦前正統派マルキストから一転、右翼に転じた人物で 戦前戦中戦後を通して左翼の活動をみてきた人物であり、 昭和38年に「大東亜戦争肯定論」を書いた。 タイトルこそセンセーショナルだから損しているが、 内容は非常に面白い。 その中に、「安全な思想家たち」という一節があり、面白いので 少しずつ引用していくわ。 なぜ戦後左翼が彼を封印してきたかがよく理解できる。
大東亜戦争肯定論 林房雄(夏目書房) 「安全な思想家たち」 はじめ、私は終わりの一章を諸家の反論に対する反論にあてようと予定していた。 だが、それはやめる。 反論の数は多く、その切り抜きも集まっているが、集めているうちに、 私はそれに答える興味と義務感を失ってしまった。 どれも似たような反論である。 アカハタ屋日本代理店の店員諸君の反論は聞き飽きた公式論であり、 その他の諸氏はたいてい大学教授または助教授の肩書きをお持ちだが、 全く教授らしからぬお脳の弱さを露呈しているばかりで、 よくもこれで大学教授になれたものだとあきれかえった。(つづく)
(つづき) その一例をあげれば、最近「思想の科学」という進歩的雑誌の 編集者をしていた山田宗睦という若い哲学者が 『危険な思想家』(戦後民主主義を否定する人びと)という本を出し、 武者小路実篤、安部能成、大熊信行、竹山道雄、福田恆存、 林健太郎、高坂正尭、三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳その他の諸氏から 私に至る思想家と作家たちを、「恐るべき危険な指導者たち」として「告発」した。 出版元から送りつけられて一読したが、いかにもジャーナリストらしい文章で 中傷記事をならべただけのつまらない本であった。(つづく)
(つづき) ただおどろいたのは、この本の推薦者たちで、 「ここには彼の血がほとばしっている」と外科医的賛辞を書いている 久野収氏が学習院大学講師、 「この本は成功した第一号だ」と人工衛星的ほめ方をしている 日高六郎氏が東京大学教授、 「熱情をかたむけたこの告発に声援を送る」と応援団長を買って出ている 家永三郎氏が東京教育大学教授、 「私も微力ながら、彼の戦列にはせ参じたい」と興奮している 長洲一ニ氏が横浜国立大学教授、 「この本はあくまで今の時代に肉薄し、重大な警告を発している」と警告している 鶴見俊輔氏が同志社大学教授であったことだ。(つづく)
(つづき) 教授、教授、教授! 彼らはいったいこの二十年間、書斎と研究所で何を勉強し、 教室で学生たちに何を教えてきたのであろうか? 私は教授というものを尊敬している。 日本でも西洋でも、なみたいていの勉強では教授になれないことを 知っているからだ。 だが、ここに「戦後民主主義を死守する」と気負い立っている久野、日高、 家永、長洲、鶴見の諸教授は、いったい何の教授なのか。 私は彼らをただのジャーナリスト・グループだと思っていた。 彼らがときどき新聞雑誌にこまぎれ論文を発表すること、 また彼らのうち何人かが共同研究の名において、たとえば「転向」という 大著述を共同製作したことは知っていた。(つづく)
(つづき) 私も転向者の一人だから、この本は読んでみたが、 日本でなぜ世界に例のない大量の共産主義からの転向者が生まれ、 それぞれ社会復帰をとげたかという、この異例の根本には、 何の解明をも与え得ない非学問的な「研究」にすぎなかった。 全く頭の弱い御連中だと思っていたら、それらがいつのまにか 大学教授に「転向」してしまった。 日本の大学はよほど人手不足らしい。ジャーナリストまで教授にする。 これが戦後派教授というものであろう。 敗戦と占領が学問的実力とは別の道によって彼らに教授への道を 開いてくれたことは事実らしい。
(つづき) 家永三郎教授は最近の新聞紙上で、自分の編纂した教科書が 文部省によって三百数十ヵ所改定を命じられたと怒っていた。 どんな教科書のどんな個所を抹殺されたのかは知らぬが、 きっととんでもない教科書であったに違いない。 でなければ、いくら「頑迷固陋」な文部省でも そこまで朱筆を入れうるはずはない。 そんな無学教授とデタラメ教科書によって「教育」された戦後の学生こそ 災難である。(つづく。今日はここまで)
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/07/26(日) 18:16:05 ID:DIW0YvYPO
戦争反対
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/07/27(月) 19:47:30 ID:6pS2AlUY0
ここは大東文化大学のかた専用のスレでしょうか?
176 :
soopllofeiv :2009/07/27(月) 19:58:54 ID:Fde3PmZ80
輝け!大東亜共栄圏&愛子16歳 駕籠真太郎著
177 :
soopllofeiv :2009/07/27(月) 19:59:35 ID:Fde3PmZ80
日清戦争では大陸を日露戦争では油田を確保した日本軍が 大陸での戦線で苦戦した 米国にアシストして貰うように何度も頼んだが完全に無視され続け 何故か当時の日本軍幹部は アメリカ領のハワイにセンセイ攻撃をしかけた=真珠湾の事件 その後 米国と同盟を結ぶ国は日本を敵国の一部として手厚いケアを行うのだった カナダはシンガポールとつながる国で 敗戦間際 日本軍は南方戦線を攻めた ハワイもシンガポールも他国領の島である・・
178 :
soopllofeiv :2009/07/27(月) 20:01:05 ID:Fde3PmZ80
あの知的障害糞一族には ファーファ「もってこいのコメントだね!」 soop「うん」
大東亜戦争肯定論 林房雄(夏目書房) 「安全な思想家たち」 (つづき) 軍事占領下に民主主義があるはずがなく、国の平和も、自由も独立も、 外国の党の指令によって実現されるものではない。 日本の歴史は敗戦後の二十年間のみではないのだ。 さらに百年、千年の昔にさかのぼってはじめて理解される。 「民主化」も「近代化」も徳川時代と明治時代にその萌芽があり、 敗戦と占領によるアメリカ化は、この萌芽の成長を促進したが、 逆に停止させ異化させる作用も持っていた。(つづく)
(つづき) 戦後は虚妄であった。たしかに幻影であった。 戦後には「民主主義」も「自由」もなかった。 そこにあったものは「東京裁判」であり、日本弱化政策であり、 民主主義と称する強引なアメリカ化にすぎなかった。(つづく)
大東亜戦争肯定論 林房雄(夏目書房) 「安全な思想家たち」(つづき) 右にあげた諸教授は「敗戦民主主義の幻想」を信仰する残党にすぎない。 「戦争を否定した戦後に一切を賭ける」と久野講師はいうが、 いったい本気なのか? マッカーサー憲法の前文と第九条を守ることによって、 果たして戦争が避けられると思っているのか。(つづく)
(つづき) 信教は自由である。お信じなさい。 以後、私は彼らを敬虔無二、信仰厚き「安全な思想家」と呼ぶことにしよう。 まことの思想とは危険なものだ。 せいぜい「思想を科学して」骨抜きにすることによって、 大学教授の「平和で安全な椅子」をお守りになるがよい。(おわり) まあこの一節はエッセイ風の一節となっているが 現在「大御所」になっておられる方々の「出自」がわかって面白い。 林房雄という人物に下手に絡むと逆に噛み殺されかねないから、 ひたすら封印してきたのであろう。 林房雄(本名:後藤寿夫)1975年10月9日没。享年72歳
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/08/04(火) 00:51:17 ID:pHFzC4AN0
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/16(金) 19:43:15 ID:Px4hxmGK0
朝鮮半島で、日本が犯した 最大の失敗とは
植民地統治について欧米諸国との違いを明確にいえば、、欧米諸国では植民地住民を 人間としては扱わず、奴隷か虫 ケラのように扱いましたが 、これに対して日本は朝鮮人( 朝鮮半島の住民 )を皇民 ( 皇国の民 )、つまり 人間として扱い 、 教育を施したことでした。
前述の如く李王朝時代の貧しい朝鮮には近代的な学校制度が全く存在せず、ごく少数の貴族や富裕層の子弟などが、私塾である 書院 や寺子屋のような 書堂 に通っただけで、一般庶民は教育とは無縁で 大部分が文盲でした 。
その無知蒙昧 ( むちもうまい、無知で物事の道理に暗い )であった人々の為に、日本政府は日韓併合の翌年、明治 44 年 ( 1911 年 )には普通学校( 朝鮮人の為の小学校 )173 校 を作り 2 万人 の児童に教育を施し、
昭和 9 年( 1934 年 )にはその数が 2,221 校 になり、 64 万人 の児童が通学しました。
たとえ日本語を使用したとしても、学校に行けなかった大多数の朝鮮人児童に教育の機会を与え、昭和 18 年 (1943 年 )から朝鮮全土で義務教育を施し、
さらに大学教育についても日本国内における大阪帝国大学( 現、大阪大学 )や名古屋帝国大学( 現、名古屋大学 )の開校よりも早く
、大正 15 年 ( 1926 年 ) には 京城( 現ソウル ) に京城帝国大学を作り、学生定員の 3 割 を朝鮮人学生に開放しました。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-2a.htm#ayamachi
朝日新聞。今でこそ左翼メディアとしての地位を不動のモノとしている朝日だが、 戦時中は全く正反対の報道姿勢であった。「欲しがりません勝までは」「撃ちてし止まん」などという標語も朝日が募集した標語である。 小室直樹氏著『日本国民に告ぐ』によると、 「敗色が濃厚となった昭和20年6月14日の朝刊では『敵来たらば「一億特攻」で追い落とそう』と題する記事を掲載。『国民の中にはまだ特攻精神に徹しきっていない者があるのでは無いか』と述べ、 手榴弾のなげ方や竹やりの使い方を図解で紹介し、『老人も女も来るべき日に備えよ』と、ゲリラによる一億玉砕を呼び掛けていたのである」とされている。 このように当時の朝日は満州事変から大東亜戦争終戦まで、積極的に戦争に加担し、協力した。これは決して当局などによる干渉のみからでは無い。 しかし、昭和20年9月10日、GHQが「言論および新聞の自由に関する覚書」を出して新聞や出版物の検閲を開始。朝日新聞は発禁処分を食らう。朝日は占領軍による戦犯狩りを恐れ写真資料を消却し、 以後朝日は自己検閲により完全にGHQの走狗となった。 このように朝日には一貫したポリシーも無く、事実を大衆に伝えるというマスコミの本質すら理解せず、『長いものに捲かれろ』的な報道を繰り返し、今現在は中国/韓国への御注進報道をひたすら続けているのである。 昭和57年、高校教科書検定において、歴史教科書の記述に関し「中国侵略」を「進出」に書き換えさせたという報道が新聞各紙の紙面を賑わした。これを元に支那政府が日本政府に抗議、 韓国では人種差別事件にまで発展し、外交問題にまでなった。 しかし、その後これらの報道は完全に事実無根の誤報である事が判明する。 産経新聞は誤報が判明した後、大々的に謝罪し、誤報の経路を綿密に読者に報告した。対して朝日は「侵略→進出今回はなし」と記し、外交問題に発展したのは検定を行う政府にあるかのように責任を転化する。 上記の第一次教科書問題は御注進報道のほんの一例である。 これ以降の教科書問題、靖国参拝や従軍慰安婦問題など、中国や韓国が言い出したことではないのだ。 すべては日本のメディアが発端であり火種である
朝日新聞。今でこそ左翼メディアとしての地位を不動のモノとしている朝日だが、 戦時中は全く正反対の報道姿勢であった。「欲しがりません勝までは」「撃ちてし止まん」などという標語も朝日が募集した標語である。 小室直樹氏著『日本国民に告ぐ』によると、 「敗色が濃厚となった昭和20年6月14日の朝刊では『敵来たらば「一億特攻」で追い落とそう』と題する記事を掲載。『国民の中にはまだ特攻精神に徹しきっていない者があるのでは無いか』と述べ、 手榴弾のなげ方や竹やりの使い方を図解で紹介し、『老人も女も来るべき日に備えよ』と、ゲリラによる一億玉砕を呼び掛けていたのである」とされている。 このように当時の朝日は満州事変から大東亜戦争終戦まで、積極的に戦争に加担し、協力した。これは決して当局などによる干渉のみからでは無い。 しかし、昭和20年9月10日、GHQが「言論および新聞の自由に関する覚書」を出して新聞や出版物の検閲を開始。朝日新聞は発禁処分を食らう。朝日は占領軍による戦犯狩りを恐れ写真資料を消却し、 以後朝日は自己検閲により完全にGHQの走狗となった。 このように朝日には一貫したポリシーも無く、事実を大衆に伝えるというマスコミの本質すら理解せず、『長いものに捲かれろ』的な報道を繰り返し、今現在は中国/韓国への御注進報道をひたすら続けているのである。 昭和57年、高校教科書検定において、歴史教科書の記述に関し「中国侵略」を「進出」に書き換えさせたという報道が新聞各紙の紙面を賑わした。これを元に支那政府が日本政府に抗議、 韓国では人種差別事件にまで発展し、外交問題にまでなった。 しかし、その後これらの報道は完全に事実無根の誤報である事が判明する。 産経新聞は誤報が判明した後、大々的に謝罪し、誤報の経路を綿密に読者に報告した。対して朝日は「侵略→進出今回はなし」と記し、外交問題に発展したのは検定を行う政府にあるかのように責任を転化する。 上記の第一次教科書問題は御注進報道のほんの一例である。 これ以降の教科書問題、靖国参拝や従軍慰安婦問題など、中国や韓国が言い出したことではないのだ。 すべては日本のメディアが発端であり火種である
また、この御注進報道によって辞任させられた閣僚も多い。昭和61年、藤尾文部大臣が「日韓併合は韓国側にもいくらかの責任はある」とコメントを残しただけで辞任を要請される。 その他、奥野国土庁長官(昭和63年)、永野法相(平成6年)、桜井環境庁長官(平成6年)、江藤総務庁長官(平成7年)などがそれぞれマスコミの御注進報道の為に辞任させられた。 これらの御注進報道は日本国内において完全にパターン化してしまった。政府関係者が歴史的事実を元にちょっとでも日本の養護をしようものなら、ちょっとでも中国や韓国の責任を言及しようものなら、 オフレコであってもあっという間にこれを報道→中国/韓国に報告 →中国/韓国で非難が起こる→日本が謝罪 という寸法だ。 歴史の真実を探ろうともせず、日本の罪を意図的に作り上げ、自虐報道をひたすらに繰り返す。 これが日本のTVメディアの実状である 戦時中における日本の歴史を独自に勉強した事がない人であれば、「コロッ」と騙されるだろう。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/22(木) 06:43:41 ID:SOjC52nh0
大東亜戦争は、侵略戦争ではなく世界革命戦争らしいよ。
保守の日本防衛戦争観も大東亜戦争の矮小化であると批判。
真珠湾奇襲は20世紀最大の誇るべき世界史的行為であり、アメリカが恐れたのは、
日本の戦争にアメリカ国内の黒人が有色人種解放闘争に連動することだった。
だからアメリカは真珠湾奇襲をだまし撃ちと矮小化するのに懸命となった。
極左からの大胆な大東亜戦争肯定論というところが面白い。
http://www.linelabo.com/han/event.htm
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/23(金) 16:34:43 ID:igxAvYkw0
そうだね。 日本は大義に明らかに反人種差別を掲げてたからね。 でもその痕跡はことごとく消された。 なによりナチスと組んでたのが非常にまずい。 ・・・でもナチスが黒人を奴隷にしたなんて話は無いんだけどね。
190 :
憂国 :2009/10/24(土) 20:36:59 ID:xPxCMPxx0
日本をwikiで確認してみろ!チャンコロが書き込んでいるぞ!
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/25(日) 01:14:08 ID:oRlUwfuk0
【岡田外相 「民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる」】 植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40 1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」 岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」 2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」 岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。 陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」 3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」 岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。 "勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね? このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」 4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」 岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官 をクビにするだけです。それが政治主導です」 5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」 岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。 民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
↑この捏造コピペが災禍の元だったという
かっこよさ、親しみやすさ 植木職人天皇>ハゼ研究者天皇>>>クラゲ研究者天皇
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/20(日) 23:03:05 ID:0/3bjQxm0
太平洋戦争を起こした日本政府の振る舞いは間違っていたと考える。なぜか? 300万人の自国国民と1300万人のアジアならびに対戦諸国人民の犠牲を 生み出し、さらに関連諸国の国力、財力の夥しい出費を考えるに、無駄であっ たと断定しない根拠は存在しない。 戦争をして自分の過ちに気が付いたから良かったとでも考えるのか?科学技術 が発達したから良かったのか? 冷静に考えてみろ。 勝てない戦争して莫大な犠牲を相手にも自分にも与えてそのうえボロ負けした んだぞ。「避けられなかった」じゃねえだろ。 ハッキリ言って不平等条約結んで中国から撤退して失業者と餓死者が出たとし てもお釣りが来るよ。革命は起きてたかもしれないけどね(天皇主義革命(苦笑))。 分かる?つまり戦争は無駄だったの。大きなね。 戦争は避けられなかったっていう主張の問題点は二つある。 一つはそれが結果するところへの責任。つまり戦後民主主義のためには戦争が避けられ なかったということへの責任である。自分たちじゃ民主主義を確立するのが無理だった から戦争に負けてよかったというのもこれに含まれる。 侵略される側から言わせれば「とっとと死ね!」ってもんだろ。二つ目は「侵略されて た」という話。先にも触れてたけど、その時点で勝てなきゃ悔し涙を流すしかないだろ。 正々堂々と負ければいいだろ。負けを認めたくないガキの言い分だろ。要はくだらない プライドだろ?だから左翼に「帝国主義」とかいわれて突っ込まれるんだよ!ちなみに 明治政府が締結した不平等条約だって挽回しただろ。だったらあのとき、つまり開国し たら即戦争したか?そのときは勝てないからしなかったんだろ?じゃあ1941年時点 で勝てると踏んだのか?もし勝てると踏んだのならその判断は間違いというのは証明済 みだよな?それとも当時は分からなかったのか?本当に?まあ国民の多くは最初は勝て ると思ったらしいし、戦争を支持していたらしいけどな。今の国民から言わせてもらえ ば本当に迷惑な話だよ。だってそのせいで他の国に迷惑かけてんだからな。だいたい戦 争しなきゃ、あのときの日本の戦争は正しいとか主張する連中が目の敵にしている国々 だって今とは違っていたかもしれんだろ。ってたぶん全然違うぞ。そのへん考えろよなー。 戦争を肯定する奴らの主張は無茶苦茶だな。
>>194 あの時代に、あなたがのような人が居れば良かったのにね。
近隣諸国へ与える影響、及び先々の我が国の世界における地位。
全てお見通しですからね。
この先、日本はどんな道を歩んで行きますか?
ぜひ、ご意見をお聞かせ下さい。
すみません。
>>195 に捕捉です。
日本の、これから歩むべき方向も、御教示下さい。
太平洋戦争とはアメリカによるアジア侵略戦争である。日本の真珠湾攻撃を 聞いたルーズベルトは叫んだ「ブラボーッ!これでアジアはアメリカのもの だ!ペリー以来100年の国家目標を俺が達成する!」。戦意旺盛のアメリ カ相手に、日本が負けるのはわかりきっていたが、日本は維新以来の「アジ アへの侵略的勢力を駆逐する」という国家戦略目的のため戦わねばならなか った。日本はアメリカのアジア侵略を身を挺して防がねばならなかった。日 本は戦って負けるか、戦わず負けるかの選択しかなかった。どうせまけるな ら、一発ぶっ飛ばしとくのが礼儀。そもそも戦争を要望し仕掛けたのはアメ リカで、日本海軍も陸軍も悪くもなんともない。日本の誤算は、アメリカが、 B29爆撃や原爆などといった日本人大虐殺作戦までやるような鬼畜だと思 っていなかったこと。「え?真珠湾の仕返しに日本人皆殺しってマジで鬼畜 っすよ〜」。日本人が皆殺しにされるなど、真剣に心配したのは昭和天皇ぐ らいで、今現在に至るもほとんどの日本人が想像もできていない。逆にアメ リカの誤算は、日本が思った以上に強かったこと。4年もの激闘で疲れ果て、 対日戦争が終わった後のアジアを手にいれるためのアジア平定戦に全く注力 できなかった。対日戦以後のアメリカは、インドネシア独立戦争に参加もで きず、中国の国共戦争に国民党に援助もできず、朝鮮戦争で38°線まで後 退させられ、全力をあげたはずのベトナム戦争で敗戦。結局アメリカは対日 戦争に勝利したが、日本から横取りするはずのアジアの支配権は手に入らな かった。アメリカは困惑した。「対日戦争に勝ったのに、なぜアジアは手に 入らないのだ?。我々は何のために対日戦争をしたのだ?」。逆に日本は戦 争に負けたが、アジアに侵略的勢力を入らせないという大戦略において勝利 したため、今日の繁栄があるといえる。逆にアメリカは、今現在も相変わら ず、戦争による外交を続けている。ターゲットの相手に難癖つけて戦争を開 始し、最後は相手国も自国も大混乱で終わらせるという、戦闘に勝って戦略 を達成できないというオバカっぷりは、近年の対テロ戦争に至るアフガン、 イラクにおいてもも、全く変わらない。テロ撲滅なんてリメンバーパールハ ーバーと同じ嘘っぱち。本当は石油がほしいだけ。うまいことやっているつ もりで、結果ぜんぜんうまくなくてムカツク〜ッ、なんてのを何度もやって いる、実に勉強のないおばかな国家なのである。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/27(日) 00:15:26 ID:gmTfNvGB0
>>158-159 しかし日本化政策ってそんなに過酷でイヤラシイ代物だったんかね?
俺には其の辺りがどうも納得できないから……
取敢えず神社参拝って現地の人は何割くらいが否定的で何割が肯定的だったんだろうと。
まあ割合だけで是非を断定はしないけど、其の辺り知っておいた方が良いかと。
>サイパンの人が「もし、太平洋戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」
>とか言っちゃったり、パラオみたいに「併合してくれ」と言っちゃったりするから
其の辺は日本の政策と現地人の性質のどちらに原因(良くも悪くも)があるんだろう……
>サイパンの人が「もし、太平洋戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」 >とか言っちゃったり、パラオみたいに「併合してくれ」と言っちゃったりするから、 ごく一部だろ 嬉しいのは判るけど
>>194 なんと短絡的な歴史観であることか。
今の日本の繁栄があるのはあの戦争をしたからだよ。あそこで戦わずに引き下がっていれば日本は衰亡するしかなかった。
戦争すれば多くの犠牲が出ることはわかっていた。でも戦争をした。
なぜか?それは子孫ら、つまり我々に、白人らの差別主義・植民地主義に屈伏するようなみじめな思いはさせたくないという一念からだよ。
当時は差別することが正義である時代であったということすら理解もせずに。
先人の苦労と苦悩を見ずに、今の豊かさがあるのは自分らの手柄であるかのように思い込んでる人間は、大人を馬鹿にし自分は強いと意気がっている反抗期の中学生と変わりがない。
>>199 >ごく一部だろ
いやそう結論付けるのはちょっと……
そもそも何で貴方は
>>159 みたいな発言がごく一部だと思うんですか、と。
まあ全部がそうだったとは言いませんが。
>>200 基礎知識のレベルで間違いだらけ。
>あそこで戦わずに引き下がっていれば日本は衰亡するしかなかった。
築き上げた国際連盟常任理事国、世界3位の海軍国と言う栄光を自分で破壊したのが現実だが。
あそこで戦いを回避していたら、今頃は国連常任理事国で核保有国だよ。
>白人らの差別主義・植民地主義に屈伏する
そんな事にはならんが。英米がそれらに基づいた要求をして来た事実も無い。
むしろ、日本の植民地の拡大を止める側であり、日本こそが植民地主義の側だった。
>当時は差別することが正義である時代であった
そのような事実は無いが。表向き国家間で人種差別は存在しない。
相手が有色人種国家であとうと、独立を維持できているならその主権は尊重される時代になっていた。
むしろ、有色人種国家の主権を侵し、領土を奪っていったのは、日本やイタリアである。
>>202 > 基礎知識のレベルで間違いだらけ。
その言葉、そっくりお返ししよう。
> 築き上げた国際連盟常任理事国、世界3位の海軍国と言う栄光を自分で破壊したのが現実だが。
そういうのを結果論というのだよ。当時の世界情勢を無視している。そもそもおまえが言う「国際連盟常任理事国、世界3位の海軍国と言う栄光」というのはおまえが言う「有色人種国家の主権を侵し、領土を奪っていった」おかげですが何か?
> そんな事にはならんが。英米がそれらに基づいた要求をして来た事実も無い。
当時の世界が白人列強に隈無く分割されていたという基本的事実すら知らんのか?呆れたな。
> むしろ、日本の植民地の拡大を止める側であり、日本こそが植民地主義の側だった。
例えば日清戦争で中国はどうなった?世界は止めるどころか便乗して分割した。日中戦争では利害が合わなかった。それだけのこと。
>当時は差別することが正義である時代であった
> そのような事実は無いが。表向き国家間で人種差別は存在しない。
> 相手が有色人種国家であとうと、独立を維持できているならその主権は尊重される時代になっていた。
> むしろ、有色人種国家の主権を侵し、領土を奪っていったのは、日本やイタリアである。
呆れたね。人種差別撤廃案すら知らないのか。差別撤廃を訴えていた日本の努力を無視し、自分ら白人に都合よく世界を支配できるよう国際連盟は差別を公認したんだよ。そんな悪の組織、抜けて同然だな。
204 :
韓國人 :2009/12/27(日) 22:17:20 ID:2FfCVJXpO
原爆被害国日本 大爆笑♪♪♪ おまけに天皇陛下は朝鮮人 さらに大大大爆笑♪♪♪
>>203 >というのはおまえが言う「有色人種国家の主権を侵し、領土を奪っていった」おかげですが何か?
そうだよ。そしてそんな切り取り勝手な時代は一次大戦で終わったんだ。
「あそこで戦わずに引き下がっていれば日本は衰亡するしかなかった」と言うが、世界に対し敵対したから
衰亡したのであって、戦わねばならない相手も要因も存在していない。
>当時の世界が白人列強に隈無く分割されていたという基本的事実すら知らんのか?呆れたな。
日本はその列強の一員として分割に参加している。国家レベルで人種差別があるなら、日本の支配権など認められるはずも無い。
その白人列強も互いに戦い奪い合っている。彼らが団結して有色人種国家を狙っていたような事実は無い。
>例えば日清戦争で中国はどうなった
植民地主義は一次大戦を境に大きく変化した。日清戦争を持ち出すのは基礎知識の欠如以外の何ものでも無い。
>人種差別撤廃案
あれは人種問題を抱えた国にとっては内政干渉。日本が平等を建前に天皇制の廃止を要求されたようなもの。
大体日本自身、韓国の二等国民扱いをやめるつもりは毛頭無かったんだから。
日本人が他国で活動しやすくするためのもので、本気で人種平等を実現しようとしたわけではない。
>>205 > そうだよ。そしてそんな切り取り勝手な時代は一次大戦で終わったんだ。
「切り取る」為の戦争だったわけでもないんですが?基本的に間違えてんぞおまえ。
> 「あそこで戦わずに引き下がっていれば日本は衰亡するしかなかった」と言うが、世界に対し敵対したから衰亡したのであって、戦わねばならない相手も要因も存在していない。
欧米からのアジア解放。それにおまえは「日本対世界」の戦争だったとでも思ってんのか?連合国側以外の国は無視ですか?そもそも「衰亡」なんてしてねえし。
> 日本はその列強の一員として分割に参加している。国家レベルで人種差別があるなら、日本の支配権など認められるはずも無い。
日本は必死の思いで近代化し、軍事力も持った。国家として力があったから認められていたわけであって、「平等だから」認められていたわけではない。内心東洋の猿のくせ生意気なと思われていたのは紛れもない事実。
> その白人列強も互いに戦い奪い合っている。彼らが団結して有色人種国家を狙っていたような事実は無い。
奪い合ってる。なおのことたち悪いわ。獅子の分け前ってやつで支配される有色人種国家のことなんざまったく眼中になし。それが当時の世界の常識。
> 植民地主義は一次大戦を境に大きく変化した。日清戦争を持ち出すのは基礎知識の欠如以外の何ものでも無い。
植民地がなくなったわけではない。あたかもなくなったが如くいうおまえの論法は詐欺の論法。
> あれは人種問題を抱えた国にとっては内政干渉。日本が平等を建前に天皇制の廃止を要求されたようなもの。
差別という人間の尊厳に関わる問題に内政も国境もない。天皇制は国体の問題であって全然次元が違う問題。天皇制が差別になってるだなんてのは日本のごく一部の左巻きが言ってだけで、世界的にも王室制度はなんら無理なく存在しておるわ。話そらすなや。
> 大体日本自身、韓国の二等国民扱いをやめるつもりは毛頭無かったんだから。
朝鮮人は日本国民とされた以上二等も一等もない。選挙権も被選挙権も有したれっきとした国民であった。むしろ朝鮮人自らが戦後になって「我々は二等国民、日本人は四等国民だ」みたいなことは言い出したようだがな。
>>206 >選挙権も被選挙権も有したれっきとした国民であった。
半島は総督府によって統治され、帝国議会の議席も選挙権も被選挙権もなかったぞ。
内地に移住できれば別だが、戸籍を移し選挙権を得るには基本的に日本政府の許可が必要だった。
アメリカの黒船がやってきて、日本は帝国主義の動乱時代に単身突入した。 100年後アメリカの原爆によって、日本の対帝国主義戦争は終了した。 当時の日本の感覚 「最初にやってきたのがおまえらだった。最後もおまえらか!」 血みどろの大東亜戦争には負けたが、欧米のアジア侵略の野望はくじかれ、 日本は平和の中繁栄を謳歌する。 世界はアジア戦争、中東戦争、冷戦がそれぞれ終結して 今動乱の時代はおわった。 戦争が無くてはアメリカの存在価値がない。大暴落と不況の原因はそこにある これからアメリカは、自分の存在価値をどうするのだろう・・・。 新しい戦争を起こすのだろうか・・・。
今、日露戦争がはやっているけど、勝ったからはやし立てているんであって 負けた大東亜戦争も、同じ侵略に対応した迎撃戦争。 負けた戦争に冷たいのはなさけないね。 アメリカを怒らせたとかっていろいろ並べる人がいるけど、 怒ろうが泣こうが侵略はいけませんね。 ましてや、他国の一般人民を爆撃したり、 原爆攻撃で吹っ飛ばしたりといった鬼畜行為を容認するなど情けない。 一億総懺悔で、アメリカや中国朝鮮の代弁者の日本人がやけに偉そうなのは困った物です。 その得意面は、アメリカ中国朝鮮からもゲタゲタバカにされています。 アメリカはアジアの利権を奪取しようとしたんだろうけど、結果大失敗。 みなさん、うまい飯が今食べられるのも大東亜戦争の英傑のおかげです。 感謝しましょう。
別スレでもそうだったが、 ID:oPZdJypB0 は独り言を書いてるだけで、議論が成り立ってない。 「大東亜戦は不可避、アメリカが資源止めたのは侵略行為」 と結論だけ先にあるが、 日本が取った避戦軽視な敵対路線は、完全に棚上げ。 自分の主張を、論理的に説明できてない。 不都合は無視して、結論に固執するだけ。
俺「日本が余計な行動を取り大東亜戦」 ID:oPZdJypB0 「妄想乙。米の攻撃は絶対に避けられない」 とか言ってたが、彼の脳内世界では、 日本が満州事変や、それ以降の行動をしなくとも、不可避な大東亜戦だろうw
>不可避だったのは日本が満州事変や、 >それ以降の行動をしなくとも、不可避な大東亜戦だろうw そのとおりなのだ。 地球に帝国主義の侵略勢力が日本とアジアを侵略する意志があるかぎり、 維新も日清日露戦争も大東亜戦争もあったということだ。 アメリカにアジア侵略の意志ある限り大東亜戦争は不可避だ。 負けはしたが、その悪意を粉砕してやった英傑のご苦労を考えなさい。 そして、最低でも維新が始まった歴史を小学生の教科書でよみなさい。 いやTVで龍馬伝が始まるので、黒船来襲とか見逃さないように。 大東亜戦争も、アメリカにアジア侵略の意志ある限り避けられはしないということ 戦後日本がころっと親米になったのも、基本的に日本側にアメリカに攻撃の意図はないということ 相手が、満足して拳をおろせばそれでおわり。どこでおろさせるかというところが 軍部のアメリカ対応方針だったが、日本人皆殺し寸前までおろさなかったのは、 「そこまで鬼畜とは思わなかったよっ」と思ったことだろう。 君はアメリカを怒らせたことが悪いというが、怒ろうが泣こうがパールハーバーを攻撃しようが 仏印進駐しようが、結果原爆や、絨毯爆撃で日本人皆殺しをやって 国家改造までしてもいいという理由にはならない。 アメリカには真珠湾や仏印進駐など無関係に 侵略の意図ありと言うことだ。自衛のため応戦して当然。 まあ、戦前一億総特攻を叫ぶ朝日なやつらが威張っていたが、 今は一億総懺悔がはやりだから、日本が悪いという理由を並 べるのもはやりの考えということだが、 アメリカ中国朝鮮はバカだと思って笑っている。 敗戦国民のくせに、うまい飯が食えてるのを感謝して 英傑のご苦労を察するのが人の道。 日本の悪口を並べることの態度を改めたまえ
日本の侵略勢力への対応はいつの時代もゆるさない。 たとえば秀吉の朝鮮出兵だが、 当時スペインがインカ帝国を虐殺し、インドを植民地化しルソン島を 自分の王様の名前のフィリピンにしてしまって、後はアジアだけ。 日本にいる宣教師にアジアはとうすると聞いたところ 明国侵略がよいといったそうな。 スペインの数々の悪行の数々を聞いていた秀吉が、ザケンナと 中国と朝鮮と日本で対スペイン対抗勢力を作るために朝鮮出兵した。 結果、スペインがふぇりぺ2世が死んで、侵略の勢いがなくなり 秀頼も同時期に死んだことで、日本スペインが中国で激突するという いわゆるミニ大東亜戦争は無かった。 しかし、いつの時代も日本とアジアへの侵略勢力はゆるさないというのが 日本の対外戦争目的なのだ。
>>213 >アメリカにアジア侵略の意志ある限り
妄想乙。具体的な根拠を何一つ示さず、同じ事を繰り返している。
一次大戦後は米英ともそんな路線は放棄している。
>>214 >インドを植民地化し
秀吉の時代にはインドは一部に植民地を作っているだけで、植民地化には程遠い。
>後はアジアだけ。
アフリカの分割も終わってないし。植民地はまだ沿岸部に点として存在している時代
>中国と朝鮮と日本で対スペイン対抗勢力を作るために朝鮮出兵した。
妄想だな。違うと言うなら具体的な根拠を示せ。
>いつの時代も日本とアジアへの侵略勢力はゆるさない
日本はアメリカと朝鮮の併合と、アメリカのフィリピン領有を交換条件として相互承認する取り引きをしているのだが。
許さないどころか、自分の取り分を認めさせるために、認めているんだが。
>具体的な根拠を何一つ示さず、同じ事を繰り返している。 具体的な根拠がないのは、そちらですよ。一億総懺悔君。 アメリカが日本人を皆殺し寸前にして制圧したのは事実で、 それはしってるかな? で、なぜそんなことをしたのか説明しなさい。 仏印進駐とか真珠湾の仕返しとかそんなところだろうか? 基本的にアメリカを怒らせたのが日本が悪いっていうことで、 あれだこれだっていうだろうけど アメリカもナイナイってわらうだろう。 怒ろうが泣こうが虐殺して侵略はいかんと思わないかな?
理論的に考える人って、最初に結果を考えてそれを理論補強していく。 たいがい最初が間違えているから、それを補強しまくって いわゆる、あーいえばこーいうっていうのが多い。 なんだかあやしい、ボロボロな感じが多い。 間違いを認めてさっさと、方針かえりゃいいんだよ。
>ID:oPZdJypB0 はっきり言って、君は頭がおかしい人だから。 ID:oPZdJypB0「満州事変・それ以降の日本行動が無くても大東亜戦は起きた。論理的な説明は出来ないけど」 なんて主張してる変人は他にいない。 他の主張も変。 そもそも学問板に来るべきじゃない。
悪党日本が良い人アメリカを怒らしたんで対米英戦争になった 戦争責任は日本にあって、虐殺、原爆、皆殺しにあって当然ってのはマチガイっブーッ
>>220 >悪党日本が良い人アメリカを怒らしたんで対米英戦争になった
ではなく、資源を頼る相手に敵対路線を取ったので、軍需物資が売られなくなった。
中国で独走、ナチスと組む、英米蘭領を範疇にする基地作りを計るなど。
当時の日本指導層は、
国民の運命を預かる「ゲームのプレイヤー」として、稚拙すぎ。
だから糾弾されるのも当然。
>だから糾弾されるのも当然。 「糾弾」というのはアメリカによる虐殺侵略行為のことかな? はいだめー。やっぱりいろいろ理由がでたけど 全部侵略していい理由になっていないと思います。 けど、あなたが、「糾弾」されていいって思うのは勝手だな。 だけど家族が「糾弾」されても、当然仕方ないっていいつづけられるかな?
ID:oPZdJypB0「米の輸出規制は侵略だ。たとえ日本が敵対路線を取っても」 なら北朝鮮に対しても、輸出規制とかダメだな。北朝鮮への侵略行為になる。
あと、稚拙すぎっていうのは後知恵だな。浅はか。 当時の施政者は夜の高速道路を無灯火で走る気分だったと思うよ。 なにもみえない、次のカーブもみえない、なにがおこるかわからない。 そんななかで、ハンドルを切りまくった人たちの気持ちを考えるのがまずは人の道。 そのへんの先人への敬意と礼儀がないってのが、救われないな。 その結果で、きみは今うまい飯が食えて、ごたくをならべていられる。 その人達のおかげで、今うまい飯が食えてるのに、感謝もない。ダメダメ。
車は、うん なかなかいいたとえだな(笑。 まあ車は大破して、運転者も死んでしまって、乗ってる人もずいぶんしんだ。 だけど、ほんとなら、全損自己で、皆死んで、後遺症やら、賠償金に苦しんだりするはずが 今、それほどでもなく、うまい飯がくえるってのは、ハンドル操作は まずまず合格、とんでもないあの悪路を乗り切ったといえるな。
>当時の施政者は夜の高速道路を無灯火で走る気分だったと思うよ。 ヘッドライトつけろよw
>>217 >アメリカが日本人を皆殺し寸前にして制圧したのは事実
だから、そんな事はアメリカの侵略意図の照明にも根拠にも、全くなって無いんだよ。
>で、なぜそんなことをしたのか説明しなさい。
戦争だから。戦力的に圧倒的に優勢な戦争なら相手が降伏するまで叩きのめすのは当たり前。
抵抗し続ける以上、叩くのは当然の事。ドイツにも似たような事はしている。
>だから、そんな事はアメリカの侵略意図の照明にも根拠にも、 >全くなって無いんだよ。 殺人やったけど、殺人の意思はないですよってやつですね? コロされた遺族は納得しないぞ(笑 >戦争だから。戦力的に圧倒的に優勢な戦争なら >相手が降伏するまで叩きのめすのは当たり前。 >抵抗し続ける以上、叩くのは当然の事。 >ドイツにも似たような事はしている。 ドイツはやってやられて、お互い様ってところもあるけど、 日本は一方的だからな。あてはまるかな? 基本的に、制空権がなくなった日本で遊んでいる子供達をグラマンで撃ちまくったり 爆撃やら原爆で一般人を虐殺することが戦争とはいわないだろう それで家族がコロされまくってもいいってことならしょうがないね。 ただ、日本の軍人もアメリカがそこまで鬼畜だって おもっていなかったろうな(笑。 侵略するって拳をあげているのはアメリカの方で、 どこで拳をおろすかが見切れなかったけど、 仕方ないね。相手のお考えだし。 ところで、君の並べる日本の方が悪いって事実はなんだっけ? まあもどるけど、あちらも大人なんだから、 南部仏印進駐やら、パールハーバーなんか でこんなことしないんだって。
まあ、アメリカは日本の侵略したけどその意思はなかったってのはそうかもしれない。 やつらは、ペリー以来の国家目標の アジア侵略を考えていたわけで、日本侵略ではなかったからな。 日本を徹底的に叩いてアジアの権益を横取りっ アジア戦争の最後はベトナム戦争だけど、見事大負け。 アジアが手に入らなかったのは、ざまをみさらせってところだな アメリカは戦争に勝って、戦略でこけるって、いつもそんなことしている。 第二次世界大戦の同盟国のソ連とはすぐ仲違いで、世界滅亡寸前までやった イラク戦争も石油ほしさに、無理矢理戦争ふっかけて、石油手に入らない 中東を意のままにしようとして、アルカイーダを育てたら、逆にやられた 今後の戦争のない世界はアメリカに生きにくいだろうな
>当時の施政者は夜の高速道路を無灯火で走る気分だったと思うよ。 なのに安全運転を蔑ろにした当時の日本。酷いな。
ちゃんと昼間にカーナビつけて舗装道路を安全速度で運転しなかったのは安全運転義務違反w
日本に戦争責任があるってところから、その理由はあーで こーでっていっても 最初がちがうんじゃ永遠に続くっってところだな。 あったんだかなかったんだか、事実があやしい南京虐殺じゃないんだから。 日本は占領されなかった、原爆が無かったって人はいないわけだ でもってまた、日本があーでこーで、続くっ(笑 てんじゃなくて、 アメリカがなんでこういうことをしたのかってところがこの事件を 解決するアプローチだと思うんですね。 日本になんでこんなことされたんですか?って聞いても答えはでないだろ(w 事件は事実で、アメリカが日本をたたいたんだから、 まずアメリカさんはなんでこんなことしたんですか? まず日本の占領と一般民虐殺といった「事実」からスタートしないとね。 日本が悪くてあーだこーだっていうのは それを隠そうとしてるんだろうな。アメリカがいうならわかるようなきもするけど 日本人がいうのは、アメリカ人も笑うだろうな。歴史への冒涜ってやつ。
アメリカさん なんで日本を焼け野原にして、一般人を皆殺し寸前にして 占領して国家改造ちゃったんですか。 満州建国、真珠湾攻撃、仏印進駐、三国同盟締結、あとなんだ? これが懸案だとして、日本人皆殺しにして、解決できると思ったわけですか? → いやそんなことで、日本を叩いたりナイナイですよ(大笑 考えていたのはペリー以来の国家目標、アジア侵略です。 日本を叩いてアジアの利権を横取りできるとおもったんです。 結局それはうまくいったんですか? →いやー 日本が あんまり抵抗するんで、そこまででしたよ。 あとは、インドネシア独立戦争に介入できなかったし、 国共内戦で、蒋介石さんを助けられないは、 朝鮮戦争で38°線まで追い込まれるは しまいにゃ、すっごい本気モードのベトナム戦争で敗戦ですからね。 まあ散々でしたよ。 世界最強の日米同盟?そんなもんほしくなかったですよっ(ヤレヤレ じつは日本と戦争じゃなくて仲良くやっていれば、 もっと利益があったかなーって、あー内緒ですけどね。 まあ、日本とアメリカで、お互い散々なことになりましたけど それもこれも日本が悪いんです!
アメリカ独白続き いやほんとはハルノート渡したときに、日本がはいわかりましたって アジアをごっそりくれてれば考え通りだったんですけどね。 ちょーーっとだけ甘かったかな?テヘっ まあ、あと三ヶ月もすれば、完全に包囲網をつくって たぶん半年くらいで占領してやるって考えたのね。 こっちからやってやろうと準備してたんだけど、 先に真珠湾やりやがってむかつきますね。 えっ気づかない方が悪いだろって、ますますむかつくー。 あのね気づいていたの!きっかけにしてやろうとしたの!ほんとだってば! まあ、ちょっとだけイタすぎたかな? それから、いがいとしぶとくって、4年もかかっちゃた。 一般人を殺しまくらなきゃきもはれねぇって あーおれは鬼畜だよっ、そうですよっての!けっ もう文明人もなんもないっすよ、鬼畜のやけくそですよっ あー疲れたって、ほしかったアジアがメチャクチャになってとれませんよっ なにしてんだおれ。 あれ、日米同盟って・・・なぐりまくって相手と、結婚しちゃったよ。 なんだかなぁ。
無灯火で走り回った日本に落ち度があるだろw それも自分から進んで海外事情から目を反らしてるんだからな
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/03(日) 16:22:54 ID:qUXsnLgS0
植民地支配を謝罪しないのが、国際社会の常識
かつて植民地支配をおこなった国は G -8 諸国を初め、オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギーなど世界に数多くありますが、それについて謝罪し、補償金を支払った国は、 世界中で唯一 日本だけ でした。 、
平成 9 年( 1997 年 ) におこなわれた ホンコン返還の実例を見ても、アヘン戦争による侵略以後 156 年も続いたホンコン、九龍半島の植民地支配を英国は決して謝罪せず、一銭の補償金の支払いもしませんでしたが、中国政府もそれを要求しませんでした。
なぜ欧米諸国は謝罪や補償をせず、また旧植民地政府もそれを要求しなかったのかといえば、それが国際社会の常識だからです。 日本は国際常識についての 無知 を中国、韓国、( 北朝鮮 ) などにつけ込まれたのです。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-2a.htm#shazai
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/03(日) 16:27:12 ID:qUXsnLgS0
>>232 アメリカの戦後支配の体制を続けたい勢力がいた
それは自民党と官僚、マスコミ
だがそれも崩れるだろう
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/03(日) 16:30:14 ID:qUXsnLgS0
マスコミが隠したい自分たちの過去の悪行 ◆戦争を美化し、国民精神総動員運動を推進したマスコミ 情報委員会が設立された翌年の1937年7月、蘆溝橋事件をきっかけに日本は日中戦争に突入しました。前後して、政府は「尊厳ナル我国体ニ対スル観念ヲ徹底」させることを旨とする国民精神総動員運動を仕掛けました。 当時の近衛内閣は主要な新聞社・通信社の幹部や記者を集め、この運動への協力を求めました。 同盟通信社の岩永祐吉社長がマスコミを代表してこれに応じることを表明しました。さらに、「中央公論」「改造」「日本評論」「文藝春秋」などの出版社や、映画会社も同様に協力を誓いました。 そして、この運動を実践していく中心となる組織として国民精神総動員中央連盟が設立され、 朝日新聞社の緒方竹虎氏、毎日新聞社の高石真五郎氏、同盟通信社の古野伊之助氏が理事に就任しました。戦争を犯してゆく政府にマスコミが積極的に協力を誓ったのです。 しかし、マスコミが戦争を賛美するのはこのときが始めてではありませんでした。その兆候は明治後期の日露戦争時からありました。戦争に消極的だった政府を煽って戦火を拡大させたのは、 マスコミと言われています。 戦争後には「神風が吹いた」などと吹聴する傍ら、簡単な自己反省・批判を紙面に掲載しました。マスコミがある出来事や人物を煽ったり、持ち上げたりして、しまいに突き落とすやり方は今も昔も変わりません。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/03(日) 17:46:30 ID:AuSAPjbV0
>>6 >冷戦における主戦線となったドイツと第2戦線だった極東の差はデカい
ttp://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4768477720/ 1945年・ベルリン解放の真実―戦争・強姦・子ども
あーあ。
野獣みたいな劣等スラブ民族に、優秀なゲルマン人女性が犯られちまったよ・・・
ところでゴリラのオスの男根を、人間女性の膣にぶち込んだら、どうなると思う?
大抵の女性は強姦されると、大量のドーパミンとアドレナリンが分泌されるから、ありえないほどの快感を覚える。
吊り橋効果と似ていて、強姦魔に襲われて恐怖を感じた時に、アドレナリンが大量に分泌され生理的に極度の興奮状態に陥る事により、
自分が恋愛をしていると脳が錯覚して、脳が快感を与えるドーパミンを分泌してしまう為、体が快感を覚えて反応し、
挿入からしばらくすると、 膣が充血する事で、膣が刺激される度にピストン運動にあわせて脊髄反射で腰を振ってしまったり、
クリトリスや膣内の性感帯が過敏になり、痛みに対して悲鳴を上げるように、快感に対してよがり声をあげてしまうわけなのです。
tp://www.rakueden.com/archives/576
女は強姦されるともの凄く感じるって本当?
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/05(火) 17:44:28 ID:504zq0rz0
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/07(木) 17:20:37 ID:PNRLFGAT0
>>127 いやいや国連でも日本が侵略したとは認定できず。ソ連やイタリアなら侵略国家と
国連から認定され除名やら制裁やら受けたけど
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/07(木) 18:29:58 ID:c0NT7x+m0
日本は認定されそうだから逃げただけなんだけどね。 実質はそれ同然で、日中戦争中では侵略した日本に直接制裁できないかわりに、加盟国及びオブザーバー国は中国を支援するように、と呼びかける決議が通ったり。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/03(水) 18:45:42 ID:98CZTw/L0
>>242 >日本は認定されそうだから
反日左翼の妄想ですよ。そんなことは全然無かった
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/08(月) 12:56:49 ID:thGqmPHf0
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/08(月) 13:15:36 ID:thGqmPHf0
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/08(月) 16:37:04 ID:qpaft0Ra0
南京国民政府は日本に協力的だったし、味方でした。 国民政府軍があって、日本軍と協同作戦やってました。 それから、日本軍に帰順した支那人兵士もいた。 彼らは挺身隊員となって日本軍に協力した。 毎日新聞社「一億人の昭和史」
247 :
台湾支那人 :2010/03/08(月) 17:57:00 ID:1WMcb5Oj0
支那人として、十分に日本帝国に忠誠をしない謝罪する必要があります。 台湾、日本の帝国に併合された。 日本台湾を開発した。 台湾、アジアで2番目の最も先進的なエリア、日本だけになった。 祖父母は日本の義務教育制度をより良い教育を得られる。 彼らは大?亜共栄成し遂げた圏に感謝です。 明らかに、日本人優れている現象は、最も先進的な文化。 日本人の教育が重要です。 また、台湾の人に最高の日本文明を吸収する機会を与える戦争の最後の数年間、 多くの台湾人男性が自発的にアメリカと戦うための大きな日本軍に参加生まれた私に言った。 今日では、いくつかの高齢者は、話すことができる日本語. 彼らは、過去のとき、台湾日本の一部です夢見ている 私の日本語を謝罪する必要があります。 大日本帝国万歳!!! 大日本帝国万歳!!! 大日本帝国万歳!!!
248 :
地蔵 :2010/03/13(土) 21:39:29 ID:LXtpaXiS0
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/04/23(金) 13:55:40 ID:hWDnABX80
こんなトンチキに、なんて返してやればいいんだよ
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/04/23(金) 23:27:48 ID:Ln1BWdvK0
大東亜帝国圏の識字率は他の地域に比べて 異常に高い。 欧米列強の植民地支配とは異なる点の一つ。
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/04/24(土) 07:08:17 ID:UKl/+/je0
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/04/25(日) 01:22:31 ID:QTa5TzT00
だからさ WGIPとかそういうのいいから 反日史観だっ!って罵倒するのもいいから むしろIWGPのほうがよほど実態があるし 全日史観でも新日史観でもノアだけはガチ史観でもどれでもいいよ
>>248 地蔵、あんたのコメントも消されたな
あの「先生」は迷走に迷走を重ねた挙句、自分で自分が何を言ってるのかも
わからなくなっているんだろうさ
「日本は戦勝国」という結論ありき、で「だからどうした」という目的観が
ないから、あ〜言ってみたり、こ〜言ってみたりになってしまうのさ
>>253 今のネット界で、あんたみたいな冷静なのは少数派だ
過去の日本を持ち上げるだけ持ち上げないと国賊呼ばわりされる時代だ
まあ、冷笑を持って報いてやれ
低レベル敗北者”安濃 豊”のブログ
http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/ 「戦勝国論を多面的に研究」と抜かしながら、
以下の様な学術的な内容も消される。
-------------------------
「真の目的は資源地帯ゲット」
1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項
マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは
“大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める
これら地域では当分軍政を継続する
なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない
-------------------------
そして「日本の目的は解放だった」「戦後経済発展したから戦勝国」
とか痛い主張。
256 :
だつお ◆t0moyVbEXw :2010/05/09(日) 04:22:04 ID:+12aEDXg0
>ドイツはやってやられて、お互い様ってところもあるけど、
>日本は一方的だからな。あてはまるかな?
第二次大戦期間、中国の軍人と庶民あわせて3500万人以上が戦死した。
第二次大戦期間、中国の軍人と庶民あわせて3500万人以上が戦死した。
第二次大戦期間、中国の軍人と庶民あわせて3500万人以上が戦死した。
周知の通り、19世紀後半以降、日本はしだいに軍国主義の道を歩み始め、数々の侵略戦争を起こし、
参加してきた。その多くが中国への侵略戦争だった。100年近くにわたり、日本の軍国主義の野蛮な侵略によって、
長い歴史を誇る中国文明は散々に破壊され、これは中華民族にとって莫大な損失となった。特に1937年以降の
全面的な中国侵略戦争において、日本軍は中国の軍人・庶民を虐殺し、労働者の強制連行、婦女子への暴行、
細菌兵器、化学兵器の使用、南京大虐殺など、人間性をまったく失ったとしか言えない残酷な事件を引き起こし、
許されない罪を犯した。中国の国土にはまだ莫大な量の化学兵器が埋まっている。完全な統計ではないが、
第二次大戦期間、中国の軍人と庶民あわせて3500万人以上が戦死した。1937年のレートで換算すると、
直接的な経済損失は1000億ドル以上、間接的な経済損失は5000億ドル以上となる。第二次大戦勝利後、
極東国際軍事裁判および、中国、ソ連などの国家軍事裁判で、日本人戦犯に対する裁判が行われ、侵略戦争を開始し、
各国の人々の地で染まった犯罪者は相応の処分を受けた。この裁判は国際正義を広め、人類の尊厳を守り、
世界中の平和と正義を愛する人々の願いを体現した。これは歴史の審判であり、この正しい審判に挑戦
しようといういかなる企ても、人々の心をつかむことはできない。
http://www.fmprc.gov.cn/ce/cgfuk/jpn/xwdt/t267932.htm 論評:靖国参拝に見る誤った歴史観(3) 2006-08-17
>>254 >過去の日本を持ち上げるだけ持ち上げないと国賊呼ばわりされる時代だ
具体的な例をあげてない時点でただの被害妄想
反日工作がやり辛くなったニダ!と喚いたところで泣き言にもならん
じゃあ、こうしよう
過去の日本を持ち上げるだけ持ち上げないと在日認定される時代だ
お前が現にやってるんだから文句ないだろ
>>257
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/18(金) 20:02:27 ID:3TpVbw7l0
>>1 ちったぁ自分で調べたり勉強したりしろよ 人にばかり聞かないでさ
それすらできないの?
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/18(金) 21:33:19 ID:P//iYXz20
★WGIP (War Guilt Information Program)( 戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画 ) この「プログラム」は、大東亜戦争を日本と米国との戦いではなく、実際には存在しなかった 「軍国主義者」と「国民」との間の戦いにすり替えようとしている。そして、大都市の無差別爆撃も、 広島・長崎への原爆投下も、その責任を米国人ではなく「軍国主義者」になすりつけようとしている。 この「軍国主義者」と「国民」という架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で 錯覚したふりをする日本人が出現すれば、一応 所期の目的を達成したといえる。そうなれば日本に おける伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した エネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に 向けられるにちがいない。 この「プログラム」は1945年〜1948年当時は、期待通りの成果を上げるにはいたっていなかったが、 サンフランシスコ講和条約締結後も、なぜか日本のマスコミと教育が改められることなく、現在に いたってその効果が顕著になってきてしまっている。
■疑惑も「世襲」 自民党の小泉進次郎衆議院議員に事務所費「三重計上」疑惑発覚
(前略)自民党は、思い上がらない方がいい。
今や党内きっての“人気者”小泉進次郎が親父から事務所費疑惑まで「継承」していたのを知っているのか。
横須賀市中心部にあるテナントビルの一室。表札には「自民党神奈川県第11選挙区支部」の名はあるが、
「あるべきはずの政治団体」の名はない。
支部にいた女性スタッフは「分かる人が出払っていて何も答えられない」と繰り返すのみ。
事務所内はとても、2つの政治団体が同居しているようには見えなかった。
あまり知られていないが、国会で事務所費疑惑を追及された政治家の元祖は、進次郎の父・小泉元首相だ。…
「総理の自宅の敷地内で、なぜ家賃が発生するのか」 疑惑の舞台は、横須賀の小泉の実家にあるプレハブ小屋。
実弟が代表の政治団体「小泉純一郎同志会」が、プレハブに「主たる事務所」を置きながら、家賃などの「事務所費」
を計上していた。… 小泉は詳細な説明を拒んだまま、政界を離れてしまった。
“疑惑の三重計上”である。日刊ゲンダイ本紙は進次郎の事務所に文書で質問したが、10日までに回答はなかった。
自民党が菅政権を攻撃するなら、小泉親子の事務所費疑惑を解明してから出直した方がいい。
http://gendai. ■net/articles/view■/syakai/124500
テレビは、小泉進次郎議員のドス黒い疑惑を報道せよ!
>>260 江藤淳だけが「俺は見た!」って言ってるマボロシのデマだな
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/20(日) 10:49:36 ID:N8Md2gEi0
>>240 いまの感情的な事件・事故報道につうじるところがあるよね。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:17:35 ID:8bCKsW8o0
☆インドネシア『歴史教科書』中学3年用 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が 禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われた インドネシア語は驚異的発展をとげた。 第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい 規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人が すべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい 責任を要求する、重要な仕事をまかせた…」 インドネシア歴史教科書には、日本軍政の肯定的な部分も余さず書いてある。これらの3つの 利点は、名越が集めたモハメド・ナチールの証言の一部分と一致している。 つまり、名越が集めた証言集は極めて信憑性が高いと言えるのである。 また、馬鹿豚のでたらめな主張が崩れ去った。実に愉快だw
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:25:09 ID:8bCKsW8o0
★インドネシア モハメッド・ナチール元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して
敢行したものです。」
「大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと
思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」
大東亜戦争によって西欧植民地主義が終焉を迎え、すべての植民地が独立したのは紛れもない真実。
つまり、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならないのだ。その意義は、インドネシアの教科書
>>264 にも書かれた通りなのである。
朝日新聞や、これに賛同する狂ったクソ豚共は必死で否定するが、これが歴史の真理なのだ。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:35:42 ID:8bCKsW8o0
☆日本兵とインドネシア独立戦争 日本の敗戦後、インドネシアに残った約2000人の日本兵がインドネシア人と共にオランダと戦い、 1000人が戦死しています。その後インドネシアは勝利し、1949年、念願の独立を手にします。 そしてこの1000人の日本兵は、インドネシアの国営英雄墓地に埋葬されており、その中の数名は 独立名誉勲章を授与されています。 こういう経緯があり、インドネシアの独立記念日に国旗を掲揚する際には、二人の男女と 日本軍服を着た人の3人で国旗を掲揚するという習慣ができています。そして独立記念塔に 奉納されている独立宣言書に記載されている年月は「05年8月17日」 独立に多大な貢献をした日本に敬意を払い、西暦ではなく、「日本皇紀」を使用している のです。(皇紀2605年) インドネシアの教科書に載せられている「独立宣言文」は、全てこの皇紀2605年と記された ものである。スカルノが後に西暦表示に書き換えたものではなく、オリジナルの独立宣言文 が載せられているのだ。おあいにく様、低能豚。 インドネシアは、今も日本への恩を忘れていない。大東亜戦争は植民地を解放した。 大東亜戦争は、日本人なら誇りに思うべき植民地解放戦争に他ならないのだ。 自虐大好きな馬鹿豚は、マゾの快感を失いたくなくて必死で否定するが、無駄だ。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:39:55 ID:8bCKsW8o0
インドネシアの独立記念日に国旗を掲揚する際には、二人の男女と日本軍服を着た人の3人で 国旗を掲揚するという習慣ができています。そして独立記念塔に奉納されている独立宣言書に 記載されている年月は「05年8月17日」という皇紀表示なのです。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:43:04 ID:8bCKsW8o0
★ククリット・プラモード タイ元首相 「日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産してその母体を そこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、 米・英と対等に話しができるのはいったい誰のお陰であるか。それは身を殺して仁を なした日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々にこの重大な思想を示して くれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れては ならない。」
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:45:29 ID:8bCKsW8o0
ちなみに戦後世代の日本人にとって1941年の12月は“戦争を始めた日”として 陰鬱な印象を持たされているが、50年後の1991年12月、マレーシアの コタバルを首都とするケランタン州政府は、『日本軍の上陸50周年を祝って』 特別式典を開催し、さらに戦争博物館を設立している。 マレーシアの人々は “祝って” いるのである。 圧政者のイギリスよりも強い、“アジアの日本軍”が来てくれた、と。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/15(木) 21:51:18 ID:8bCKsW8o0
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 09:57:29 ID:shOVSw1Y0
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と それに対する自らの感想を、次のように記している。 「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実 (外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」 (深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として 取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。) 「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、 「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。 御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの 底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し 「大東亜圏内には外交なし」と極言す。 アジア・太平洋戦争は クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が おのが力におごり高ぶり 東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である 東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相) 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも のもいないのである。 八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」 (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
ここで自慰コピペを張っている「ネトウヨコピペゴキブリ」は 夜毎、東條英機の裸体を想像してはオナニーにふける変態です 得意技は嘘だとすっかりばれている名越二荒之助の著書からのコピペです 見かけたら、石をぶつけてやりましょう
名越二荒之助の捏造 「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が 一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、 撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島 の墓地に眠っている」 ↓ この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。 1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、 艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。 連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛 のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、 全く根拠のないフィクションです。 また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を 見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。 高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、 「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。 扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。 供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦 によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務 の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」 では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう? 近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて 駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。 称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | モナ板女性系キャラ総合スレッドが帰って来たわよ。 | ・・・何で私がこの子と早朝からOPを・・・ブツブツ _,-\_____ ________________ /.:;;;;;;;;;;;;;;;;:;;;;::;: \| ^^ / .::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::..ヽ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄''/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| めぐみ馬鹿だからわかんなぁイ☆ :::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\_ ____________ :::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::::: |/ :::::::::::::::::::::::::::: '⌒⌒丶 ::::::::/ノメグヽ∩ '从 从 ) |ゝ‘∀’)ノ !、゚‐ ゚ ソ -―'――ー'''‐''''⊂ 火星| ''''----''' i,|∀| |)'ー'-''――'`' ,, '''' `、 `´ノ| ノ ' /___ゝ ''' 、、, ,,, '' ,し'` J''' (__(_) ''''' ,,,, ,, ,,,, :::::::;;;;;;;;;;;::::::: ::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::::: ,, ::::::;;;;;;:::::::: ::::::::::::;;;;;;;;;;;;::::::::: '' ,, ''''''' ,,,,:::::::;;;;::::: ,, ::::::::;;;;;;;;::::::
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/lllllllllllllllllllllllllllllllllllll//llllll/ ノ/// `l|\lll|llllllllllllllllllllllllll| |llllllllllllllllllllllllllllll//,、-'´ '´´ ´ `ヽ\|\llllllllllllllllll|| |/|llllllllllllllllll,、|l/ ̄ ̄ /| `ヽ`|lllllllllllllll| | |llllllllllllllll/ 、_ // `|lllllllllll/ |lllllllllllllll| / `ヽ=、ヽ、 // _,、-, |lllllllllll|、_ | ̄``|lll|/ `ヽ、`、 // 、'´,、'´´´ `|lll/,、、| ゴキブリよ、ちょっと 組の ,| /| |l/ _,- 、`ヽ`l __// ,、'´'´_ Y /`l | / /l | `ヽ、_ヽ、_ \ ̄`// // /_,、- ―'´ |/`l | 事務所まで 来てもらおうか `l < < | \ ヽ、`>、 /_/  ̄ -'<、、、'/ |フ| / `l \`l| `ヽ―― // < ̄`>  ̄`――'´ |/ ノ \ \| ―'´// '  ̄ ̄ /´/|\ /|\ `lヽ、、 // l `l ノ|/ | `l \ / / Г\| \\ヽ_ // ,、-、 | ト―、, / ̄ || `l /フ | | | \ `ヽ,´_<_ ( | ) / | / `l '´ / / `l |  ̄`// `ヽ、`ヽ、`-ヽ ,、-'´ / | | `l / | \ | ,、l |  ̄`ヽヽ-`―-'´ | | / | / | \| ,、'´ |/ ノ ̄\`l― 、 l、 // / | `l / (| _―'´_,、-、__`l`l-、_\_ | / // | | `ヽ-、`l  ̄ヽ _‖  ̄/ |'´/ / | `ヽ `―'´ ̄_ ̄‖ ̄ // | ト、 `、 -'´ ̄ ̄ \ / / | \ `-、_ // | | |\ \ / / | `l \ \ / / `l | `l >―――――< /| | `l `l / `l // `l | `l /、 >lヽ / / `l `l \ / \ / / | / /
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 21:46:22 ID:bNLjQMAm0
皆さんお気付きの通り、ID:YbQcLvT+Pはスレ荒らしの最低のクズ ID:YbQcLvT+Pは、気違いであり、歴史板に出入りする資格は全くない。 ゴキブリ、ゴキブリと騒ぐID:YbQcLvT+P自身が最低のゴキブリであることに、 馬鹿なこいつは気づいていないであろう。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 21:55:43 ID:bNLjQMAm0
★モハメッド・ナチール インドネシア元首相 「大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。(中略) オランダは有言不実行だったが、日本軍は有言実行でした。その第一は植民地政治の粉砕です。 第二は、ペタ(祖国防衛義勇軍)を組織したこと、すなわち軍事訓練です。第三は、 インドネシア語の普及です。第四は、イスラム団結を計ったことです。第五は、 スカルノやハッタをはじめとして行政官の猛訓練です。第六は、稲作および工業技術の向上 です」 モハメッド・ナチールの証言内容に、事実と反するような矛盾も捏造もない。 当然である。ナチールが嘘をつく理由などどこにもないからだ。 インドネシアの初代首相は、日本軍政のメリットを高く評価していた。 馬鹿は認めないが。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 21:56:50 ID:bNLjQMAm0
日本軍政のメリットを認めないのは、現在日本に住んでいて、大東亜戦争も インドネシア独立戦争も経験していない、自虐史観に毒されたクソ豚だけである このクズ共の狂った妄想体験では、「大東亜戦争は侵略戦争ニダ、インドネシア は日本軍政に虐げられただけで、何一つ得るものはなかったニダ」という、真実と 大きく食い違ったインチキで満たされているのである。
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:03:27 ID:bNLjQMAm0
日本軍政がインドネシアにもたらしたものは多い。 中でも、インドネシア語の普及と、精神面での鍛錬は高く評価され、教科書にも記載されている。 <再掲> ☆インドネシア『歴史教科書』中学3年用 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が 禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われた インドネシア語は驚異的発展をとげた。 第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい 規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人が すべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい 責任を要求する、重要な仕事をまかせた…」 モハメッド・ナチールも地方の要職を任され、独立に向けて希望に燃える日々を送っていたのだ。 当時、ナチールは33歳であり、独立後、議院内閣制インドネシアの初代首相に就任する。 「モハメッド・ナチールなど、検索してもヒットしないから、架空の人物ニダ。だから、この 証言はすべて名越の捏造ニダ、と言い張っていた負け犬君は発狂してしまい、ゴキブリ以下の 唾棄すべきスレ荒らしになりましたとさ。」
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:11:03 ID:bNLjQMAm0
★アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
「日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、
他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が
引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。
この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献を
したかを認めなければならない。
日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。
その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のために
どれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、
後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。」
(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)
この記述は、
>>284 のインドネシアの教科書に簡潔にまとめられている。要するに、
大東亜戦争のおかげでインドネシアが独立できたのは紛れもない事実なのである。
それは、インドネシア自身が認めるところであり、自虐に染まったマゾヒストである
ごく一部の馬鹿日本人が否定することは出来ない。
われわれ日本人は、西欧植民地主義を終焉させた大東亜戦争の本当の意義を知るべきである。
大東亜戦争は、植民地解放戦争に他ならなかったのだ。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:18:09 ID:bNLjQMAm0
★ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相) 「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。 インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で 徹底的に打ちのめしてくれた。」 「我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は 決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば 五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。」 大東亜戦争が、インドネシア人に「独立を勝ち取る自信」を与えたのは紛れも無い事実なのである。 初代大統領であるスカルノも、その点ははっきり認めているのだ。 大東亜戦争は、植民地解放戦争であった、というのが世界の評価なのである。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:22:28 ID:bNLjQMAm0
>>275-280 の完全なる荒らしコピペを繰り返しているID:YbQcLvT+Pは、
大東亜戦争によってインドネシアが独立できたという歴史的事実
を容認できず、かといって何の反駁も出来ず、戦う前から逃げている
負け犬なのである。腐ったスレ荒らし馬鹿には天誅が下るであろう。
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:33:39 ID:LgkgJJ24O
他人スレを愛国自慰コピペで埋めた中卒携帯コピペゴキブリの寄生先はここかよ 一人だけじゃねえから お前をゴキブリだと思ってるのはW 何年もオナニしてていまだにお前のゴミ意見に賛同するやついないじゃん
>>287 同じコピペをエンドレスでやってるあんたも立派な荒らしだよ。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:39:41 ID:bNLjQMAm0
>>288 では、罵倒ではなく学問的に反論してもらおうか。賛同できないとは言っても、
どうせ感情的なものにすぎないんだろ、禿。賛同できないなら、賛同できない理由と証拠
を示しなさい。みっともないぞ、負け犬w
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/16(金) 22:42:24 ID:bNLjQMAm0
インドネシア要人達の証言に、嘘や捏造や矛盾があるのか?インドネシア教科書に 嘘が書いてあるのか?そうだ、と言い張るなら、コソコソしてないで証拠を見せなさい。
【インドネシア】 ●労働者の搾取 主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。 特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。 多くの「労務者」は現場で死んだ。 その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。 ●インドネシアが独立した背景 抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。 対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。 日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。 もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。 このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。 (「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社) インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」 「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。 インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。 それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。 −日本民族はインドネシア民族の「兄」である。 日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。 −日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。 その実体はどうであったか。 日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。 日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。 その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。 資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」
この過疎スレは、ゴキブリが涌いてしまったので 早く埋め立てないと、よそにまで迷惑がかかります ネトウヨコピペゴキブリが自発的に撤退しない限り このスレは、「消毒」の対象となります 太平洋戦争は植民地解放戦争だったと嘘を吐き 夜ごと東條英機の裸体を空想してはオナニーにふける ゴキブリは駆除しなければなりません
>不都合な事実を握りつぶそうとする卑怯な負け犬 お前のことだ、ゴキブリ 名越二荒之助の捏造 「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が 一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、 撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島 の墓地に眠っている」 ↓ この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。 1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、 艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。 連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛 のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、 全く根拠のないフィクションです。 また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を 見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。 高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、 「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。 扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。 供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦 によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務 の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」 では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう? 近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて 駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。 称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。 重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に 歴史的学問的価値など微塵もありません そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相) 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも のもいないのである。 八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」 (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任) 「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、 同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立 を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員 会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月 一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田 中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。 (中略) 一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が 出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日 本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が 本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将 軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ すという決意を、さらに固くするのであった。 日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を 目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘 密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま かい検討を行った」 (ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と それに対する自らの感想を、次のように記している。 「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実 (外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」 (深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として 取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。) 「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、 「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。 御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの 底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し 「大東亜圏内には外交なし」と極言す。 アジア・太平洋戦争は クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が おのが力におごり高ぶり 東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である 東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。 <ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた> パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。 当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、 祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。 それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ 泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。 8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵 に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても 4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。 しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、 一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。 セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、 マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか 49人になっていた。 <パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺> マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島) が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。 その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に 「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、 日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、 20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、 膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。 その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている
>仮名書きを「ヴ」とするか「フ」とするかはまた悩ましい問題であり,両方の表記が行なわれているようである. >私は f と区別するために「ヴ」を原則としたが,「ファンデルワールス」など,「フ」で慣用となっている名も多い. >また,新聞など「ヴ」を使わないことにしている世界ではたとえば va の字訳は「バ」「ファ」のいずれかになるが, >この場合「ファ」が好まれるのが普通.そして上述のようにそれは実際の発音に近いものでもある. >vとf, vとw が似ていてわかりにくいという声に対してはそれぞれ出現環境が違うので実際上の困難は >それほどでもないということだった. >Vlieland ヴリーラント >Vlissingen フリシンゲン >Vlaanderen フラーンデレン(フランス語式の「フランドル」が慣用) >de Vries デ・ヴリース/ド・フリース >Vecht ヴェヒト川 >Vermeer フェルメール >Vincent ヴィンセント/フィンセント >Van Dijk [Dyck] ヴァン・ダイク >van Eyck [Eijck, Eik]ファン・アイク どこに「サ」なんて読み方が出てくるのだろうか おい、コピペゴキブリ、お前は名越の弟子らしく、人名まで捏造かw コピペゴキブリのやっていること ・名越の捏造本のコピペに励んでいる ・自分は頭がよく、周りにいるものは皆馬鹿だという態度から、敵ばかり作っている ・挙げ句の果てに、人名まで捏造する。「サンティン」「ラグ・クリシュナン」 ・他人の発言のコピペだけして、自力で考えることをせず、とってつけたように 「太平洋戦争は植民地解放戦争である」という結論だけを無理繰りつないでいる ・しかもその発言元が、他サイトに貼られている名越コピーを、ただ拾ってきて貼っている ・誰かを説得しようとか、自分の考え方に賛同を求めるという態度に根本的に欠けている ・もっともそんな意図があったとしても、「ごくまれな例を持ち出して、すべててあるかのように 言い立てる」という詭弁のスタンダードなので、心あるものは相手をしない ・たまに間違いを正してやろうという親切な人のレスにたいしては、すり替え、誤魔化し、逃亡で応じる ・結局すべてが自己満足のための行為でしかなく、「オナニー豚」そのものである
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。 フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで 7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。 米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。 バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」 「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。 バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、 証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。 そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。 フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。 ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。 パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、 女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、 合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、 裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している (英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。 また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。 そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。 侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、 また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。 そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。 日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し 一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。 1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が 官製の統制機関である日本新聞会に改組された。 さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる 検閲は、一段と厳しいものになっていった。 出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を 官製の統制機関である日本出版会に改組させた。 日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、 従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。 雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。 企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には 書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。 なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の 思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、 その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。 戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ 削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。 そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、 関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。 このように言論と出版の統制は完璧であった。
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。 彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。 そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。 丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。 だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。 敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、 手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。 やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。 徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。 その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。 そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。 ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。 この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。 木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。 軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、 残りの81名は再突入を行うことになった。 昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。 その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。 そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。 隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。 太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は 明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。 「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは 「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」 「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」 といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として 天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。 たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが 「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。 ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、 天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、 天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった 陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。 同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。 また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。 一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、 『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、 以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。 また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。 今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。 日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、 心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、 直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。 さて、東條英機自身はどうであったか 「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。 このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
戦時中の日本で巷に流布されたスローガンの中に、 『ほふれ英米我らの敵 進め一億火の玉だ』というものがありました。 これを見たある人はこの文をもじって、 『むかし英米我らの師 困る億兆火の車』 とか書いた張り紙を路傍の共同便所内に貼り付けたといいます。 第二次大戦における、イデオロギーを抜きにした日本の実際の戦争というものはおよそ、 この言葉に要約されるといってよいでしょう
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
ttp://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s36/#p05 仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。
ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを するのか、本当に理解に苦しみました。 (H・B・ヤシンさん) 私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日 本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする 人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日 本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた 人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が 彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。 (バルカ・アルガニス・バスウェダンさん) 電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を 見下していました。女性職員に対しても同様でした。 (リリー・ガマル・スタンティオさん) 「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同 様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧 民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた ・・・・」 (インドネシア国立文書館 編著 『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)
インドネシアでの教育とやらの実態 教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。 ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、 一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた 日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。 しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。 天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、 善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか 通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、 君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。 まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない 屈辱であった。
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、 それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。 シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、 2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、 4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、 天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。学校での日の丸掲揚、 君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。学校で日本語が教えられただけでなく、 一般住民に対しても日本語が奨励された。 シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、 マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、 天皇陛下の赤子に加えられたのである。大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、 新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。そのためには、まず国民たるの資格として、 彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。(中略)国旗のひらめく所、 言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」 と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。 ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。 ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、 日本語を公用語として強制することまではできなかった。 マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、 軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。 しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと 行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、 1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、 これにより南方進攻作戦は一段落した。 日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、 ニューギニア北部からソロモン諸島、東はギルバート諸島、 北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。 また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。 1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、 44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、 多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。 日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、 英領ボルネオ、ビルマを、海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、 ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。 軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、 ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を 「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。 これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。 東条首相は42年2月の議会での演説の中で「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、 各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。 しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、 日本がこれらの地域を占領したのはあくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、 日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から 米やとうもろこしへの転換が図られたが、日本軍に食糧を供出させられたこともあり、 深刻な食糧不足に陥った。 食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。 タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、 マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。 食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。 ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。 タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。 この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への 作付けの転換を強制したこと、戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えた ことなどが指摘されている。
1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、 タキンの指導者アウンサンは国防相になった。 アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、 44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟 (のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。 そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、 それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、 反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、 5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。 日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、 勝利を得ると途端に約束を反故にした。 後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。 タイの総理大臣ピブーンソンクラームは、第二次世界大戦前より独立国であったタイが、 日本の傀儡政権であった満州国、南京政府、また独立を果たしたものの日本軍の影響下にあった フィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を表明、 日本側の度重なる慫慂(しょうよう)にもかかわらず、 王族のワンワイタヤーコーンを代理参加させるにとどまった。 公式には「健康上の理由」によるとされた。 タイの大東亜会議不参加はタイ独自の絶妙の外交戦術であった。 米英との間に一定の和平路線をも保っていたのだ。 日本敗戦時の危機にも巧妙に対応した。 当時のアパイオン内閣は舞台裏で「日本軍を一網打尽にする凄い筋書」 を作っていたと言う。
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して 反英宣伝のために資金を提供し、開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、 マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。 こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、 さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが日本軍は文化団体としてのみ認めた。 日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、 戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。 ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。 日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、 勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。 ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。 その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。 この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。 しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、 さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、 連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。 かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。 そして日本がマレーシアの独立を認めることは、ついになかったのである
インドネシア初代大統領のスカルノの言葉 「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」 「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。 最後の1回で取り返せばよいではないか」 太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり 日本軍占領下では過酷な軍政が行われた これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は ケダモノ以下のゴキブリである
日本による植民地支配 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。 しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。 それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。 (「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」) 太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり 日本軍占領下では過酷な軍政が行われた 美化の余地のない歴史的事実である
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」 (佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて) これがアジア独立の本音。 ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。 国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。 さすが自慰史観患者は痛いw
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を >得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。 ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。 その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。 ほんとに知らなかったんですか? 簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で 産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に 公刊戦史に載っていると記載されている。 その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので 元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず 自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。 なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、 元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに 軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。 アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。 これが名越における”確証を得た”というなら、 彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。 上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。 又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを 確証とかきちんと調査とか呼びませんからw そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、 確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。 しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。 まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが 日本人に対してリップサービスできるってあたりが 現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
そもそも太平洋戦争は 「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで 昭和15年1月・・・あたりかな? 陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを 第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して そこからどうやったら物資を調達できるか できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという 作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった 1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項 マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは “大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める これら地域では当分軍政を継続する なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない 資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ 日本軍にはな。 植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。 忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。 戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。 新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、 国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」 「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。 それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。 プライドはずたずたにされてしまいました。 あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。 とても惨めです。」 「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、 無敵のゼロ戦神話だったのです。」 「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・ しかしかつて栄光はあったのだと。 完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。 この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」 「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ? それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」 「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、 強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。 軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。 そういった社会的状況に便乗して、 日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」 「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。 日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、 惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」 「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、 解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。 あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを どう解釈したらいいのですか 独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが 祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。 もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、 賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。 ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、 せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。 が、このことの是非を問う国民投票で 日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。 *この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続 んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。 個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、 感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、 それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。 国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」 「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。 日本をつぶしたかった? そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」 「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。 万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、 ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」 「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。 『日本人の精神年齢は12歳である』と。 まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」 「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を 背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」 「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」 「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。 自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。 挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。 しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」 「それが、60年の歳月がたってみると、 彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ? 歴史の流れって面白いですわね(笑)」
「中国にて」 アメリカ・・・満州事変は条約違反だ、元に戻せ。 日本・・・これからは自主路線だ、さらに介入してやる。 中国・・・内戦を止めて日本と戦うぞ。 日本・・・不都合な中国を潰し、都合良い政権に置き換えてやる。 アメリカ等・・・日本の勝手は許さん。中国を支援だ。 「対米戦へ」 日本・・・アメリカ等の中国支援が邪魔。仏印からの援助ルートとか止めたい。 ドイツ・・・念願のフランス占領。 日本・・・フランス領インドシナ(仏印)に進駐するチャンス。さらに南進できるかも。 アメリカ・・・日本は調子に乗るなよ。これ以上南下したらタダじゃ済まんぞ。 日本・・・南下は会議で決定済み。基地作るぞ。邪魔するなら米英とも戦うぞ。 アメリカ・・・もう石油を売ってやらねえ。 日本・・・ここまで強気で来たが、冷静になるとヤバい。交渉も上手くいかないよ
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/17(土) 21:21:10 ID:Xl2OZIjF0
>>292-321 ID:bc9stZwjP ←こいつ一人で朝8時から夕方16時過ぎまで粘着してオナニーしてるぜ。
こいつ頭のおかしい変質者だ。こんなにたくさん長文コピペしても、誰も読まねーっつうの、
分かったか、バーカ
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/17(土) 21:58:11 ID:Xl2OZIjF0
「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実−大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。」 (シリーズ日本人の誇り 6) 桜の花出版編集部 戦時中に日本軍と深く関わったインドネシアの人々が証言します。オランダによる暗黒の植民地支配時代 からインドネシアを救い、独立を勝ち取るのに大きく貢献したのは我が日本であったのだと。 彼らは言います。オランダ時代は、インドネシア民族にとって誇りの持てない時代だった。1905年の日露戦争 における日本の勝利により初めてインドネシアに民族意識が芽生えるようになったと。 本書は、戦後、GHQによる戦争贖罪教育を受け、民族としての誇りを失ってしまった日本人に再び誇りを 持つきっかけになる良書です。余談ですが、1994年、当時村山富一首相は東南アジアを歴訪した際、 マレーシアのマハティール首相から「日本は謝罪外交を止め、アジアが平和と繁栄のためにリーダーシップ を取るべきだ」と諭されました。 また、本書は、中国・朝鮮の主張が全アジアの総意では無いことにも気付かせてくれると思います。
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/17(土) 22:07:16 ID:H1UkySBPO
オメ−の愛国自慰コピペや壁に向かってブツクサしゃべってる会話不可能なカキコミも誰も読んでねえよ 何年この板に張り付いて自慰してるんだよ ゴキブリW
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/17(土) 22:16:17 ID:Xl2OZIjF0
「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実−大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。」 (シリーズ日本人の誇り 6) 桜の花出版編集部 「インドネシアが今、独立できたのは日本のお陰です」という証言の通り大東亜戦争が決して 侵略戦争ではなかったという事実が良くわかる一冊です。 「日本人は、この2600年余の間に、独自の日本民族の誇りと威厳を培ってきました。 ところが、それをたった一度の戦争でなくしてしまうなんて、こんな情けないことはありません」 というデヴィ夫人(故・スカルノ大統領第三夫人)の言葉が胸につきささります。 マスコミがよく言う「日本は、先の戦争でアジアの人たちに迷惑をかけた」という言葉がいかに ウソであるかが納得できました。インドネシアや台湾、インドの人々、もちろん表面に出てきません が、韓国の人でさえ、日本に感謝している人は多いのです。
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/17(土) 22:53:28 ID:Xl2OZIjF0
★ベリリュー神社の碑文 「浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、 教官から教えられた英文は、次のようなものでした。 「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」” 「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして 玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」 アナポリスの教官が誰であるか、それは名越捏造説を唱える人間が探すべきである。 浦氏が存命なら聞けばよい。鬼籍に入っているなら、直接アナポリスを訪ねろ。 それができないなら、名越の調査は正しい考えるのが妥当だろう。
>>323-326 こいつ頭のおかしい変質者だ。こんなにたくさん長文コピペしても、誰も読まねーっつうの、
分かったか、バーカ
しかし、326を読むといかに名越の調査とやらが いい加減ででたらめなものかわかるな。 藤岡探検隊レベルの信憑性しかないんでやんのw
裏氏が昭和五十九年に渡英し、ネッシーの資料を求めて、ネス湖を訪れました。その時、 ネス湖近辺の村長から教えられた証拠写真は、次のようなものでした。 (例の偽造写真でもなんでもお好きなものをどうぞ) その村長が誰であるか、それはネッシー捏造説を唱える人間が探すべきである。 裏氏が存命なら聞けばよい。鬼籍に入っているなら、直接ネス湖を訪ねろ。 それができないなら、名越の調査は正しい考えるのが妥当だろう。 はい、名越の正確な調査でネッシーの実在が肯定されましたとさ。
川口浩氏が昭和五十七年に渡比し、バーゴンの資料を求めて、パラワン島を訪れました。その時、 パラワンの村長から教えられた証拠は、次のようなものでした。 (探検隊シリーズのビデオでもなんでもお好きなものをどうぞ) その村長が誰であるか、それはバーゴン捏造説を唱える人間が探すべきである。 裏氏が存命なら聞けばよい。鬼籍に入っているなら、直接ネス湖を訪ねろ。 それができないなら、名越の調査は正しい考えるのが妥当だろう。 はい、名越の正確な調査でバーゴンの実在が肯定されましたとさ。 あ、ごめん、バーゴンに限っては実物を捕獲した川口浩探検隊のほうがよく調査しているw 名越みたいな伝聞だけで実物がどうだったか全く不明とは比べもんにならんわ
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成‥‥‥‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸‥‥‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱江‥‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱子‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼成成戸成豆鬼豆成戸戸成成成豆鬼鬱鬱鬱鬱豆‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江戸戸戸戸江江江江江江戸成豆鬱鬱鬱鬱江 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江江江江江江江子江江江江江戸成豆鬱鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸戸江江子江江江子子子子子子子子江江戸戸成鬱鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江江江子子子子子子子子子子子子子江江戸戸成豆鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼戸江江江江子子子子子子子子子子子子江江江戸成豆鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成江江江江江江江子子子子子子子子子子子江江戸成豆豆鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江江江子江江江子子子子子子子子子子子江戸鬼鬱鬼鬼鬼鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江子江江江江江戸鬼鬼豆成戸江子子子江戸豆鬱鬱鬱鬱鬼鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江戸成鬼鬱鬱鬼豆成成戸江江江江戸戸成豆豆鬼鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江豆鬼豆成戸江江江江江戸戸戸戸戸戸江江子江戸成鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成江江子子子戸成江子子子子子子江江戸戸戸戸戸江江江子江戸戸鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆江江江子子子江江子子子子子子江戸戸江江江江江江戸戸鬼鬼成成鬼 鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆江江江子子子子子子子江江成鬱鬱成戸江子子江江江戸子鬱鬱鬱成豆 鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆江江江子子子子江江成鬼戸戸鬱鬱豆戸子子子江戸江戸戸成成成成成 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼戸江子子子子子子江子子子江江戸戸江子子子子戸江江江戸戸江江戸 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江子子子子子子子…子子江江江子子子子子子江戸江子江江江子江 豆豆鬼鬱鬱鬱鬱戸江江江子子子子子子子子子子子子子子子子子子戸戸江子子子子戸 江戸豆鬱鬱鬱鬱成江江江江子子子子子子子子子子子子子子子子子戸戸江子子子子戸 戸戸成成豆鬱鬱豆戸江江子子子子子子子子子子子子子戸江子子…子戸戸子子子子江 江子成江江鬱鬱豆戸江江子子子子子……子子子子子江子子……子子戸戸江子子子江 子子江江江豆鬼戸戸江江子子子子子子…子子子子江戸子子江江戸成豆成戸江江子戸 戸江戸豆戸戸戸江江江子子子子子子子子子子江江江戸戸成江戸豆鬼豆戸戸戸江江戸 戸江子戸戸江江江江江子子子子子子子子子江江江子子子子江江江戸戸戸戸戸江江戸 江戸江江子戸江江江江江子子子子子子子子江江江子子子子子子江江戸戸戸戸江戸江 子戸江子戸鬼江江江江江子子子子子子子子江江江江子子子江江戸成豆豆成戸江成子 江戸鬱鬱鬱鬼戸戸戸戸江江江子子子子子子江戸成成戸戸戸戸成成豆鬱鬱成江戸成‥ 戸江豆鬱鬱成成戸戸戸江江江子子子子子子子江鬼鬱成戸子子江江豆鬼豆江江戸戸‥ 戸江江鬱鬱成豆成戸戸戸江江江江子子子子子江戸戸戸戸戸戸戸成豆成戸江戸成子‥ 戸江江鬱鬱鬼成成成成戸戸江江江江江子子江江子子江江江戸戸戸成豆戸戸成戸‥‥ 江江江戸成鬱成成豆豆成成戸戸江江江江江江江子子子江江戸成成成戸戸戸成子…‥ 戸江江江鬼鬱戸成豆鬼豆豆成成戸戸江江江江江子子子子子江江江江江戸成江子…… 江江豆豆鬱鬱成成成豆鬼鬼鬼鬼成戸戸江江子子子子子子子子子子子江戸成子子子… 江鬼鬱成鬼鬱成成成成豆鬼鬼鬼鬼鬼豆成戸江江江子子子子子子江江戸成鬼鬼戸子… 鬱鬱鬼豆鬼鬱豆成成成成豆豆鬼鬼鬼鬼鬼鬼成戸江江江江江戸戸成成豆鬱鬼鬱鬱戸… 鬱鬱鬼鬼豆鬼鬼成成戸成成成豆豆鬼鬼鬼鬱鬱鬼豆豆成成豆豆豆鬼鬱鬱鬱鬱鬼鬱鬱戸 鬱鬱鬱鬱成鬱鬱鬼成成戸戸戸戸戸戸成豆鬼鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱豆鬱鬼鬱成戸戸戸江江戸江戸戸成豆鬼鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼鬱鬱
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/lllllllllllllllllllllllllllllllllllll//llllll/ ノ/// `l|\lll|llllllllllllllllllllllllll| |llllllllllllllllllllllllllllll//,、-'´ '´´ ´ `ヽ\|\llllllllllllllllll|| |/|llllllllllllllllll,、|l/ ̄ ̄ /| `ヽ`|lllllllllllllll| | |llllllllllllllll/ 、_ // `|lllllllllll/ |lllllllllllllll| / `ヽ=、ヽ、 // _,、-, |lllllllllll|、_ | ̄``|lll|/ `ヽ、`、 // 、'´,、'´´´ `|lll/,、、| ゴキブリよ、ちょっと 組の ,| /| |l/ _,- 、`ヽ`l __// ,、'´'´_ Y /`l | / /l | `ヽ、_ヽ、_ \ ̄`// // /_,、- ―'´ |/`l | 事務所まで 来てもらおうか `l < < | \ ヽ、`>、 /_/  ̄ -'<、、、'/ |フ| / `l \`l| `ヽ―― // < ̄`>  ̄`――'´ |/ ノ \ \| ―'´// '  ̄ ̄ /´/|\ /|\ `lヽ、、 // l `l ノ|/ | `l \ / / Г\| \\ヽ_ // ,、-、 | ト―、, / ̄ || `l /フ | | | \ `ヽ,´_<_ ( | ) / | / `l '´ / / `l |  ̄`// `ヽ、`ヽ、`-ヽ ,、-'´ / | | `l / | \ | ,、l |  ̄`ヽヽ-`―-'´ | | / | / | \| ,、'´ |/ ノ ̄\`l― 、 l、 // / | `l / (| _―'´_,、-、__`l`l-、_\_ | / // | | `ヽ-、`l  ̄ヽ _‖  ̄/ |'´/ / | `ヽ `―'´ ̄_ ̄‖ ̄ // | ト、 `、 -'´ ̄ ̄ \ / / | \ `-、_ // | | |\ \ / / | `l \ \ / / `l | `l >―――――< /| | `l `l / `l // `l | `l /、 >lヽ / / `l `l \ / \ / / | / /
| ;:',;' || ||/ / . || | / '",:;; || || / .;:',;' || 0)|| .'",:; || ||;:',;' .;:',;' '",:; || ∩___∩_ || | ;:',;' _||_ __(・∀・ ) ((0) '" ,:; C| | |||| |つ|____/ | ||| レ´_/| | | / ||| || ,  ̄ |_//_/ '",:; | || |_∞_| ||| (\_/) | || | | || ||||' ",:; | || ( ;´∀`) | | | | | | ||||||| ||| /|| `′ ||\ | | | | | || |||||| | | | /ヽ || ゴキ || ´\ | | | | | | || |||||| '",:; \ 〈 \||=====|| / ) | | | | | | || ||||||| λ \ \_|ろ===E|_/ |_|_|__|_||∧|_|_||_||||| λ  ̄ //// | | ||\\\ Zy」 Lyゝ .;:'";:'".,:;';:'";:';'.;:'",:;;( ( ( | | | | | ) ) )).;:'";:'".,:;';:'" ,:;'.;:';'.;:'",:;;:';'. .;:'",:;' '.; : ' ,;'.;:'",: ;'.;:' .;:'".,: ;:' '.;:'" .; '";'.;: ,:;';:'",:;'.;:'";:'",:;''".,:;';:'"'.;:';'../ ̄ ̄\;;';:'" ,:;'.;: ',;'.;:'",:;'.;:';'.;:''.;:'",:; :',; '", .;: .; ;' ;'. | ̄ ̄ ̄ ̄|;.;:',;'.;:'",:;'. .;:'",:;' ;:'",;'.;:'",:;;:.;:'",:;'.'".,:;';:',:;'., ̄| ̄ ̄| ̄;' .;:'",:;'.;:':;'.;:'".,:;';:',:;'.;:'",;'. .;:',;'. ' .;: ' . : .,:;.  ̄ ̄;:'",:;'.;:';'.
(\\\\\ \\ ||| ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ | ⊂⊃  ̄ ̄( ̄ ̄//// ̄\ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄(//// ̄\\( ゜Д゜) < ゴキブリを消毒中 ゴルァ !! ".;": (/(/// ̄(つ つ \_____________ ".;": (/(/| \\ .;".;": ..;".;;: (/((/ ∧|\\ .;".;": ..;.;".; .;".;": .. ; ∪ ∪ \\ .;".;": ..;.;". .;".;" .;".; \\ ゴ オ ォ ォ …… ! ! \\ ;": ..;.;".;": .;".;": _.;.;__ \\ ド カ ァ ン ! .;".;": ..;.;".; ζ /_.;_/| .;".;"_ \\ .;".;.;".;": .;".;": ..;.;".;": ;:'.;| ΓΓ | |;":从へ_/| \\.;".;"_.;__..: 从へ从へへ从 ; ζ | Γ从 | |;:.. |从Γ | | \\ ∠___/| ( ⌒( ⌒ ) ζ | 从Γ | |.:;. |从Γζ.;"._ \\|ΓΓΓ| | ( ⌒ ⌒ ⌒ ); | ΓΓ | |.;;::|ΓΓ | | ( 从へ;: |从ΓΓ| | Σ( ⌒( ⌒ ) ζ ( ( ) )⌒ ) ( 从へ从)_.;;:.;|Γ从Γ| | ( (( ( ⌒ )) ) 从 Σ( ⌒( 从へ从) ∠___/| Σ (( ( ⌒ )) ) )(( ⌒ ( 从へ从) .;".;:;|ΓΓΓ| | (( ⌒ ( ( ) )⌒ );:; .;".;": ..;.;".;":|从
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, へ_ _,,/'_j「,,,,`,,--―-、,,,,,__ ,, -、ー''''‐--、_;/ヽ、,,へ、_'''‐ ,, , " .:,ヘ、:.. '" `ヽ ヽ、,,,,__ , " ::;;;'-'''" .. `.、__`ヽ i「ヽ / _, ´..:::::::::/ ...::, ´.:.::/ ::: .:..:.:.:.. :.:.:ヽ.:|ノ / ,'i  ̄「::7" .::::, "..::::,-i :::::::::.::::::.:.:.:.....:.::ヽヽ) / ,',i :.:.:i:::/ ..::;;イ:::,-'" | .:/:::::.:::::::.:.:.::.:.:.ヽ:.∨::|' ,´,i ...:.:.:.:.,レ _;;;イ -|/,,_ |.:/l:::::.::::i:::::.:.l:::.:.:.:|i:::|∨ ,i.:,i..:.:.:.:.:.´T〈 '^:l 、_|,__ _`ヽi/ |::/_;;;j_|:::.:.i::::.:.:i:|:::|,' ,i:.,i:.:.:.:.::..:.::;i:∧ _| `''、_ノヽ |/_i:::/ i`:::.|:::.:./::|/ ,i:.ノ:.:.:.:.:.::,::;;i';;;;;`ri l' ,ハ_,|:::/:_ノ':::/ ,,i/:.:.:.:.:.:.:.:.:,::;;i':::::;;;iハ ` ,/ |/´::::::::/ ゴキブリ、バカァ? _,,,,,,,,,---―'"~:.::.:.:.:.:.:..:.:,,;-":〃:;;i;;;`、 、 '_ /イ::::/:::::::/ (´  ̄ ̄ _二ニ=―‐_=''~:::::,,;;;;;/';;;;| ヽ、 _,,,-'";;,;':::::'::::::, ' , -‐_二,,,,-―=ニ--―‐''''"~:;;;/;i ーr:'''i";;;,;;;;;;/::::::;:,イ´ /" ̄ ,-'":.::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::::::::::;;,-';;;ノ ト,,,j::::_,,-'':::_:ノ,/ /" ,/:.:.:.:.:.:::::::::::::::::::rr<ヽ='二___ ~'''-ヘヽ("´ | /:.:.:.:.:::_,,,-'''''" ̄i ,レ'" ̄''''''-、ヽー-,,,,_ ,,,-―''' | i^-, ,':.:.:.::://:::.:.:.:.:,/;;|/ `. 'i i, ` ,| | ヽ i:.:.::/ ,i':::.:.:.::;i';;;;;'::i i l i l ,| l |::./ ,i:::.:.:.:.::i;;;;'":.::| | i,_ i i | | |´ ,|:::.:.:..:::|;;,':.:.:.:::i | :i, ` 、 ,/'〈 | i:::.:.:.:.:.:l;;;i:.:.:.:::::ハ i,/ `、`、 / ヽ, | 、::.:.:.:..:i|;;|:.:.:.:..:::i i i, ヽi/ ゛,. | ヽ::.:.::|:i;;i:.:.:..:::,i:| ゛, i, ........ / | `、;ハ|;;i:.:.:::::i:l:i 'i i,.......::::::::::::::::::::::::;, ' | ' '゛、|:.:.:::i:l、l ∧ i,:::::::::::::'' :::/ | `i、::::iヘ`"...:゛, i;: ::i'l i i `、:|^ ヘ::::.:::ハ ' 、 :|| __゛,-‐-、 `、 `,'' '、ヽ `ヽ、... 〈 _〉-'" i ,-―--,,,,,_ 'i ;;ヽ ヽ:::,,-''":.:... .:.:.| __,,,,,,,,ノ´::::::::.... `ヽ, | ,,,;;;;;;`、 / :.:. :.:.:. |、 ,,-'''" .. ... ... .. .:::|、__i,,,;;;;;;;;;;;;;;;ヽ ヽ:.:.:.:. .:.:'
・ i __/ Y / z // .........V v´ // _ ,,,,,, :::::::::::::::::::::::::::::::.........../ /,,,, _ / ̄(_ ,. - ' " ´ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::',',// / /'"´ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::',',// ̄ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::',', ┌┴ / ̄ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::',',ニ=━< .| ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,',' /` |. 彡=ニニ=ミ,,、:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,',' / | ゴキブリは , - 、 ``ヾ、\::::::::::::::::::::::::::,',' /´ < プチッと潰すのが (;;;;;;;゜,) _ >/::::::::::::::::::::::::,',// | 常識じゃないか ニ二二ニ==-‐彡//::::::::::::::::::::::::::::,','/ . | ≡三三≡ 彡::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,',' _ , . ‐ ' " | ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,','ニコ''"\,,, | 二二二二二二二二二=‖:::::::::ジ ! \___ ◎ ◎ ◎ ◎ ) (○)‖,---、"  ̄ヽ========--ヽ_ノノγγ⌒ヽ ____ _ノ二二二二二ノ\、ゝゝ!!!,ノ /⌒i ヽ _i____ii_\/_ノョ l:::::::::l ┃ ::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ:‖´r  ̄ |:::::::::::l ┃ :::∩∩::::::::::::::::::::::‖Tノ\ / ̄l::::::::l | |┃ :::||二二コ::::::::::::::::‖ \ rr-イ:::::::l | |┃ :::||二二コ::::::::::::::::‖ \//~|_」:::::::l | |.┃ 三三三三三三三二)====== '" |:::::::::::l | |.┃
━━==]司〓ヨ ゴゴゴゴゴ…… _ ~|□ ┌┐ | ,,-|][ ][|」――┘└―┘└┸---┸―――| ┐ _ ,,,-'''__,,,,,__ ,,-ー''''~ ̄ ̄ ^ヽ^ヽ^ヽ^ヽ ̄皇├┐ (○) ̄) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)) )  ̄ ̄))| ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄田田田田┤ ゴキブリ消毒マシンを持ってきますた ______ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ | ̄| ̄。ノ |__|____________./ ̄ / ロ ロ ロ / ̄ ̄ ̄~.| __,,,,,,-─''''~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄,,-'''~__,,,,,,-─''''~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| /――――――/ニニニニニ|. /ニニ/ ニニニニニニ/ニニ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| __|| .∧∧ ∧∧. ||__. || ||:|〈_______〈.О__ゝ__ゝ_О〈 ________/.\ | | | | | /| スタッ ___ |::||(゚ー゚*.) (゚Д゚,,) .||: | || ||:| ヘ===ヘ ヽ  ̄ ̄ヘ====ヘ/⌒'‐┴―┴―┴―┴―┴―┘~ノ |\._\ .~||⊆⊇⊂_⊂ ヽ_||○ . || ||:| \===\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \====ゝ__人__人__人__人__人__人__人__ノ ミ \|__| || ̄゜ ̄ ̄゜ ̄| ̄| ̄ ̄ ̄| ̄|:| [ニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニ~\ ミ 〈〈 ノノノハ))) ||_===_|_|___|__/::|-――┴―┴――――┐: |===============================ヽ \ |ヽ||´∀`)|| ...|()()|≡≡≡|()()|_|_/⌒ヾ|_l:_]_]]_]]_]_」」:l /⌒`v"⌒ヾ゙l:::::|二|二二|二二|二二//⌒`v"⌒`v"⌒ヽ^\ \ ⊂[リ∨╂リ]つ .〔_lコ_[匚]]_lコ_〕E] ()) |゙lL[}韭韭韭}。]__/.l ()) ii ()) |_|::└―――――――|l|l|l| ()) ii ()) ii ()) | \ \ リ /リリリリリ ~ゞゝ__ノ ̄ ̄ ̄~ ゞゝ_ノ ̄ ̄ゞゞゝノ ̄ゞゞゝ_ノゝ_ノ ゞゞゝノ ゞゞゝ_ノゝ_ノ.ゝ_ノ  ̄ し(_)
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開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、 これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、 東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。 また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。 1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、 44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。 日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、 海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした (「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。 軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、 ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した (「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。 これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。 東条首相は42年2月の議会での演説の中で 「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、 各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。 しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、 日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。 戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、 これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。 1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。 そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、 成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」 「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」 「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。 占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。 陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。 その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、 南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、 第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ) のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。 ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。 海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。 軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、 主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。 したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、 財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。 軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。 司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。 ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。 行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、 開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では 「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、 その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。 「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。 これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。 日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、 フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、 英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、 英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、 コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。 最も重要視されていた石油について見ると、 北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。 日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。 しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。 そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。 また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。 ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。 日本軍は占領地に軍票を流通させた。 日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、 占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、 実際には軍票の発行が急増していった。 1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。 1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。 これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。 外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。 発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。 日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。 この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。 シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。 特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。 日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。 イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。 太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。 シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。 日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。 阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。 また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。 たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。 開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。 輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、 石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。 要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、 食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。 蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、 工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。 シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。 輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。 フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。 砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、 貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。 フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。 このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。 日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、 タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。 日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。 日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。 日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。 日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。 日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。 軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、 広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。 ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。 必要な工業製品は入ってこなくなった。 そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、 軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。 日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。 食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、 日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。 食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。 タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。 食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。 ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。 タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。 この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、 戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。 英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、 彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。 そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、 ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、 自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。 移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。 そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。 インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、 うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。 宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、 住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、 一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。 ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。 中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。 これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、 いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。 ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。 マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。 こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。 マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。 1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、 中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。 この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。 たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。 マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、 「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ 然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として 「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ 華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。 また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。 この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、 また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、 なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。 第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。 こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、 また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
一方、マレー人に対してはどうだったのか。 すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、 開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。 こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが 日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、 日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。 日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。 ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。 その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。 この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。 しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、 連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。 かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。 こうしたことは東南アジア各地でも見られた。 ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。 日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。 南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。 ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、 「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス 従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、 差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、 軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。 1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、 タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、 44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。 そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、 反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。 日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。 後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、 それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。 シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。 これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、 将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。 1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。 このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ 人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、 「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。 そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。 ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、 ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、 民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、 占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。 フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。 これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。 ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。 しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。 ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、 「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、 フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、 軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。 1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は 「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、 率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、 このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。 この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。 その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。 ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。 六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ (イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム (ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム (ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。 さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、 ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。 しかもそうしたことは秘密にされた。 このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、 石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、 日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。 1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。 タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。 しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。 1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。 この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、 タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。 タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。 会議では「大東亜共同宣言」を決議した。 この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。 これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して 日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、 また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。 インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。 すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、 軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が 「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。 インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、 結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、 それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。 シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、 2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、 4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、 天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。 学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。 学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。 シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、 マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、 両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。 大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。 そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。 (中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。 かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。 ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。 ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、 日本語を公用語として強制することまではできなかった。 マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。 しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。 現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。 日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。 大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。 こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。 日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。 特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。 ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。 ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。 ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、 少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。 ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。 勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、 その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、 建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。 すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。 泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。 死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。 あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。 当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。 「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。 航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。 それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。 彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。 航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。 米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。 バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。 (中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。 そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」 カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。 東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。 これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、 一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。 連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、 日本軍によって処刑されたケースを多かった。 香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。 その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。 すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が 「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、 しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。 42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、 「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている (金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。 マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。 占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。 その町の数は30以上にのぼると見られる。 東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、 また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは 現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。 第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。 クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。 第二に新聞などで募集したケースがある。 シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。 この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。 たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、 「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。 第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。 マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。 この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。 第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、 結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。 第五に暴力的な拉致によるケースである。 日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、 彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。 また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、 あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、 日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、 東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。 中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、 監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。 その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、 ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。 また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。 地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。 慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、 日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、 ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。 まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。 慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、 警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、 軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。 日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。 被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。 陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。 1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。 こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、 1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」 と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。 占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。 慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、 そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、 1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。 さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、 敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。 労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、 42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、 日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。 徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。 彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。 あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。 日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。 それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。 台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、 志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、 うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。 満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。 すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、 農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。 満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、 1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。 太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。 捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。 沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。 いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。 第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。 中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。 たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、 東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」 と蔑視観が露骨に示されている。 第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。 占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。 日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。 国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば 「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。 第三に日本軍の「現地調達」主義である。 日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。 日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。 そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、 実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、 日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。 略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。 女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、 住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。 中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない) 人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。 ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。 日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが (藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、 日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。 第四に国際法を無視したことである。 第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。 しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。 日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。 日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。 第五に日本軍内部の非人間性である。 日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。 「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。 軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。 占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。 軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、 アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。 フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。 ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。 彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。 彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。 マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。 華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、 日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、 日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。 英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、 マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。 北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。 中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。 またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。 インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、 これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。 インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、 北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、 45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。 タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。 タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。 抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。 また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。 日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。 ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、 その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。 インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、 日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、 1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。 このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、 日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した。
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。 死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、 中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、 フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、 韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。 ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。 アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある (『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。 なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。 日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。 日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。 戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。 人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。 マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。 華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。 そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、 あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。 このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。 このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。 日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。 ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。 カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。 日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。 このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。 戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。 植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために 民族間の対立を一層増幅させることになった。 日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。 ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。 これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。 もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、 ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。 しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。 インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。 ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに 日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。 独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。 国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」 「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。 日本をつぶしたかった? そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」 「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。 万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、 ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」 「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。 『日本人の精神年齢は12歳である』と。 まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」 「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を 背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」 「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」 「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。 自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。 挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。 しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」 「それが、60年の歳月がたってみると、 彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ? 歴史の流れって面白いですわね(笑)」
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを どう解釈したらいいのですか 独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが 祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。 もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、 賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。 ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、 せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。 が、このことの是非を問う国民投票で 日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。 *この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続 んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。 個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、 感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、 それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。 忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。 戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。 新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、 国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」 「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。 それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。 プライドはずたずたにされてしまいました。 あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。 とても惨めです。」 「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、 無敵のゼロ戦神話だったのです。」 「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・ しかしかつて栄光はあったのだと。 完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。 この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」 「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ? それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」 「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、 強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。 軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。 そういった社会的状況に便乗して、 日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」 「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。 日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、 惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」 「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、 解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。 あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」
そもそも太平洋戦争は 「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで 昭和15年1月・・・あたりかな? 陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを 第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して そこからどうやったら物資を調達できるか できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという 作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった 1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項 マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは “大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める これら地域では当分軍政を継続する なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない 資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ 日本軍にはな。 植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を >得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。 ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。 その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。 ほんとに知らなかったんですか? 簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で 産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に 公刊戦史に載っていると記載されている。 その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので 元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず 自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。 なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、 元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに 軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。 アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。 これが名越における”確証を得た”というなら、 彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。 上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。 又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを 確証とかきちんと調査とか呼びませんからw そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、 確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。 しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。 まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが 日本人に対してリップサービスできるってあたりが 現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」 (佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて) これがアジア独立の本音。 ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。 国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。 さすが自慰史観患者は痛いw 日本による植民地支配 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。 しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。 それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。 (「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」) 太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり 日本軍占領下では過酷な軍政が行われた 美化の余地のない歴史的事実である
インドネシアでの教育とやらの実態 教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。 ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、 一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた 日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。 しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。 天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、 善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか 通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、 君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。 まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない 屈辱であった。 インドネシア初代大統領のスカルノの言葉 「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」 「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。 最後の1回で取り返せばよいではないか」 太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり 日本軍占領下では過酷な軍政が行われた これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は ケダモノ以下のゴキブリである
ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを するのか、本当に理解に苦しみました。 (H・B・ヤシンさん) 私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日 本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする 人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日 本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた 人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が 彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。 (バルカ・アルガニス・バスウェダンさん) 電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を 見下していました。女性職員に対しても同様でした。 (リリー・ガマル・スタンティオさん) 「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同 様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧 民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた ・・・・」 (インドネシア国立文書館 編著 『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
ttp://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s36/#p05 仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は 明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。 「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは 「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」 「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」 といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として 天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。 たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが 「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。 ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、 天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、 天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった 陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。 同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。 また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。 一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、 『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、 以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。 また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。 今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。 日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、 心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、 直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。 さて、東條英機自身はどうであったか 「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。 このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。 彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。 そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。 丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。 だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。 敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、 手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。 やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。 徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。 その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。 そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。 ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。 この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。 木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。 軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、 残りの81名は再突入を行うことになった。 昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。 その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。 そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。 隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。 太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し 一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。 1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が 官製の統制機関である日本新聞会に改組された。 さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる 検閲は、一段と厳しいものになっていった。 出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を 官製の統制機関である日本出版会に改組させた。 日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、 従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。 雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。 企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には 書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。 なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の 思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、 その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。 戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ 削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。 そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、 関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。 このように言論と出版の統制は完璧であった。
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。 フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで 7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。 米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。 バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」 「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。 バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、 証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。 そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。 フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。 ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。 パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、 女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、 合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、 裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している (英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。 また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。 そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。 侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、 また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。 そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。 日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。 <ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた> パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。 当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、 祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。 それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ 泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。 8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵 に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても 4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。 しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、 一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。 セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、 マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか 49人になっていた。 <パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺> マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島) が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。 その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に 「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、 日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、 20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、 膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。 その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と それに対する自らの感想を、次のように記している。 「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実 (外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」 (深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として 取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。) 「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、 「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。 御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの 底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し 「大東亜圏内には外交なし」と極言す。 アジア・太平洋戦争は クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が おのが力におごり高ぶり 東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である 東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任) 「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、 同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立 を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員 会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月 一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田 中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。 (中略) 一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が 出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日 本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が 本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将 軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ すという決意を、さらに固くするのであった。 日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を 目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘 密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま かい検討を行った」 (ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相) 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも のもいないのである。 八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」 (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
名越二荒之助の捏造 「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が 一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、 撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島 の墓地に眠っている」 ↓ この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。 1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、 艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。 連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛 のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、 全く根拠のないフィクションです。 また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を 見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。 高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、 「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。 扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。 供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦 によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務 の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」 では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう? 近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて 駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。 称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。 重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に 歴史的学問的価値など微塵もありません そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
【インドネシア】 ●労働者の搾取 主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。 特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。 多くの「労務者」は現場で死んだ。 その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。 ●インドネシアが独立した背景 抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。 対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。 日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。 もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。 このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。 (「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社) インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」 「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。 インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。 それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。 −日本民族はインドネシア民族の「兄」である。 日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。 −日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。 その実体はどうであったか。 日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。 日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。 その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。 資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」 太平洋戦争は、資源ほしさゆえの日本による侵略戦争であり 現地では過酷な軍政が行われた これをねじ曲げて「大東亜戦争」と呼称し 植民地を解放したなどと法螺を吹聴するものは 国を誤る有害なゴキブリである
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/18(日) 21:49:51 ID:wK9/vo/e0
ID:ShAn5PGkP←こいつ一人で朝8時から夜20時まで粘着。
>>331-374 まで、必死で誰も読まないコピペ貼り。
大東亜戦争が植民地解放戦争であるという歴史的真実を認めない低能豚
の執念は、偏執狂的であり、グロテスクですらある。
大東亜戦争の真実を覆い隠し、言論を封殺し、スレッドを潰そうとする
のがこいつらの本質なのだ。こいつらに歴史を語る資格はない。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/18(日) 21:51:09 ID:wK9/vo/e0
★英国サッセックス大学 クリストファー・ソーン教授 「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉(しゅうえん)を早めた。」 (「太平洋戦争とは何だったのか」より) 大東亜戦争が西欧植民地を終わらせた、というのは、世界の歴史学者が認める歴史的真実である。 すなわち、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならない。馬鹿な低能児は悔しがって認めないが。 馬鹿に歴史を語る資格はない。
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/18(日) 21:52:34 ID:wK9/vo/e0
低能ブタID:ShAn5PGkPがいくらブーブー騒いでも歴史の真実は揺るがない。 ★スカルノ(インドネシア初代大統領) 「我々がオランダから独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に 同じことができないわけがないと発奮したからである」 日本軍は、スカルノを始めとしたインドネシア人達に勇気を与え、独立へと促した。 大東亜戦争なくして、インドネシアの独立はあり得なかったのである。 つまり、大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは紛れもない歴史的真実なのだ。 人間のクズは悔しがって必死で否定するが、スカルノも日本軍の活躍に励まされたのだ。
>>375 いや、あんたがこれまでやってきたのと同じ事をされて怒るなよ。
怒るのはまだしもすぐさま同じ事をするってのはどうなのよ。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/18(日) 21:54:41 ID:wK9/vo/e0
世界の歴史界の潮流は、誇りを失った惨めな負け犬共とは正反対なのである。 ★ジョイス・C・レプラ コロラド大学歴史学部教授 「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の 独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの 可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、 政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、 独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後に なって思い知ることになるのである。」(「東南アジアの解放と日本の遺産」) 大東亜戦争が西欧植民地主義を終わらせ、植民地独立に導いたのは、歴史的真実なのである。 すなわち、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならなかったのだ。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/18(日) 22:12:00 ID:wK9/vo/e0
☆インドネシア『歴史教科書』中学3年用 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が 禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われた インドネシア語は驚異的発展をとげた。 第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい 規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人が すべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい 責任を要求する、重要な仕事をまかせた…」 日本軍政がインドネシア人に叩き込んだ「不屈の民族魂&大和魂」がインドネシア 独立戦争のバックボーンになったのである。日本軍政は、インドネシアを独立させる 目的で、これらの待遇を与え、精神面の鍛錬を行った。 すなわち、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならないのである。 特定アジアの靴の裏を嘗め回す馬鹿なクソ豚は、詭弁を弄して決して認めないが。 日本は東南アジアのヒーローなのだ。大東亜戦争を誇りに思ってよい。
1940年5月10日、ヒトラー(ドイツの指導者)はオランダを攻撃し、その結果オランダ政府はロンドンへ逃れた。それと同時に、 インドネシアでは戦時非常事態法が施行され、政治的な集会は禁止された。国民参事会のインドネシア指導者たちは、 多くのことをなしえなかった。1940年9月には、枢軸(日本、イタリア、ドイツの連合)が形成された。 1941年12月8日(ハワイでは12月7日)、日本はパール・ハーバー、香港、マラヤを攻撃した。そして、オランダは連合国側に参加、 つまり日本に対して宣戦布告した。1942年1月10日、日本はインドネシアへの攻撃を開始し、2月15日にはシンガポールのイギリス基地が日本側に降伏した。 同月末、日本軍はオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの合同艦隊をジャワ海海戦で粉砕した。 1942年3月8日、ジャワのオランダ勢力は降伏し、総督Van Starkenborgh Stachouwerは日本側に身柄を拘束された。 日本はインドネシアを3つの支配地域に分割した。 それは、(1) 第25軍が支配するスマトラ、(2) 第16軍が支配するジャワとマドゥーラ、(3) 海軍が支配するカリマンタンとインドネシア東部であった。 3年半におよぶ日本のインドネシア占領時代は、インドネシアの歴史において最も決定的な時期のひとつであった。 ジャワでの日本の占領方針はインドネシアの民族意識を覚醒させ、その結果日本は占領した各地での戦闘・反乱に対処しなければならなかった。 しかしながら、これら抵抗・反乱の試み全てが日本のインドネシア支配を脅かしたわけではなかった。 インドネシア占領時代、日本は西洋(ヨーロッパ)的な事柄を日本的な物へと変えていった。道路は新しい名前を与えられ、 "バタヴィア"市は"ジャカルタ"市へ変更された。 インドネシア民衆の共感を得るため、またそれを確実なものにするため日本が実施したプロパガンダ(ある特定の目的へ誘導すること)の一つは、 日本民族とインドネシア民族はアジアの新秩序を作り上げる大戦争の戦友であるというものだった。 しかしながら、そういったプロパガンダの試みは度々失敗の憂き目を見た。 なぜなら、強制労働、米の供出義務、軍警察(ケンペタイ)の恐怖、殴打、暴行、日本人に対するお辞儀の義務といった日本の占領下における苦い現実があったからだ。 他方、1944年2月アメリカ軍がマーシャル諸島を攻撃すると、アジア-太平洋の戦争(第二次世界大戦)での日本の状態はますます危機的なものとなった。 それと同時にジャワの民衆による日本への反乱が目立つようになりはじめた。 インドネシア中学校社会科教科書「独立準備の過程」より
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 ̄  ̄ ̄ ̄ /\ /\ ─── ____  ̄ ̄ ̄ ̄ ─── / \/ \ / \ \ ̄ ̄ ̄ ─── ──── ___ /⌒\ / \ \ / \/ \ \  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ / \ _.‘ 丶, __ ( _ @ / ヾ,---- ──  ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ヽ / ,i´ i. ( `″ヾ / ○ ヽ,─── ---- \ ,i V | ∴ + ~ ~ │ / ∴∵ ::: _____ ── - │ / *::: :::: ;;;; | /\ /\ \ ;;::: :::: :::: ___ / \/ \ \ ∵ ;;;; / \ \ /′ * ;;;::: ̄ ̄ ̄ ̄ / \ \ _i‘ \ / \ \ _ -─ ~ )───── ──── ── _.,‘ 丶, ̄ / / ヾ, /_________ ──── ,i´ i、 ./ / │ ./ ,i -=・=- | /____ ────  ̄ ̄ ̄ │ .|/ │ .|ヽ |___/ |′ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ __ --------- ─ / i │ ゙i/ ,/ │ ─────  ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ /
_ //.| //./| //./| | //./ /|. | //./|/::/| | _______________ □/ / // | |. | | |/.;;;;//. | ||. | じゃあ、ゴキは死刑という事で・・・。 | | ;;;;;;// | ||| |_ | |.;;;// | |.|| ∧ ∧ |/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |//.. | | ||. ( ・∀・) | |/. | |. || ( ) ワイワイ ガヤガヤ ______.| |___//| ||__ / | | |__ | | // |. ̄∠/(__(__) /.| ∧_∧ ∧_∧ ∧ ∧. ..∧_∧ (| |⌒/. ∧ ∧⊃イヤァァァ. //| (´-`;)(@・ )(;´∀)( ( ・∀・).(⌒| |//(;´Д`) ←ゴキ // | ∧∧ ∧ ∧ ∧_∧. ∧∧ ( )  ̄| |/ (⊃ / ⊂.⊃. // | (∀・ )(ー゚* )( )(´∀` | | |. | | / └─┘ // /. ∧_∧ ∧ ∧ ∧ ∧. ∧_∧ (__)_) | | / // / <_` )(´・ω)(д゚` )( | |/ // /. ∧_∧ ∧ ∧ ∧_∧. ∧_∧ ∧ ~~ // / ( )( ゚∀゚)(` )( )(゚д . // / ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧. ∧_∧ ∧_∧ . // / (д- )( )(*゚ー゚)(TдT)(∀`
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鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成‥‥‥‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸‥‥‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱江‥‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱子‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼成成戸成豆鬼豆成戸戸成成成豆鬼鬱鬱鬱鬱豆‥ 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江戸戸戸戸江江江江江江戸成豆鬱鬱鬱鬱江 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江江江江江江江子江江江江江戸成豆鬱鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸戸江江子江江江子子子子子子子子江江戸戸成鬱鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江江江子子子子子子子子子子子子子江江戸戸成豆鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼戸江江江江子子子子子子子子子子子子江江江戸成豆鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成江江江江江江江子子子子子子子子子子子江江戸成豆豆鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江江江子江江江子子子子子子子子子子子江戸鬼鬱鬼鬼鬼鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江子江江江江江戸鬼鬼豆成戸江子子子江戸豆鬱鬱鬱鬱鬼鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江戸成鬼鬱鬱鬼豆成成戸江江江江戸戸成豆豆鬼鬱鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆戸江江江江豆鬼豆成戸江江江江江戸戸戸戸戸戸江江子江戸成鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成江江子子子戸成江子子子子子子江江戸戸戸戸戸江江江子江戸戸鬱 鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆江江江子子子江江子子子子子子江戸戸江江江江江江戸戸鬼鬼成成鬼 鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆江江江子子子子子子子江江成鬱鬱成戸江子子江江江戸子鬱鬱鬱成豆 鬱鬱鬱鬱鬱鬱豆江江江子子子子江江成鬼戸戸鬱鬱豆戸子子子江戸江戸戸成成成成成 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼戸江子子子子子子江子子子江江戸戸江子子子子戸江江江戸戸江江戸 鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱戸江子子子子子子子…子子江江江子子子子子子江戸江子江江江子江 豆豆鬼鬱鬱鬱鬱戸江江江子子子子子子子子子子子子子子子子子子戸戸江子子子子戸 江戸豆鬱鬱鬱鬱成江江江江子子子子子子子子子子子子子子子子子戸戸江子子子子戸 戸戸成成豆鬱鬱豆戸江江子子子子子子子子子子子子子戸江子子…子戸戸子子子子江 江子成江江鬱鬱豆戸江江子子子子子……子子子子子江子子……子子戸戸江子子子江 子子江江江豆鬼戸戸江江子子子子子子…子子子子江戸子子江江戸成豆成戸江江子戸 戸江戸豆戸戸戸江江江子子子子子子子子子子江江江戸戸成江戸豆鬼豆戸戸戸江江戸 戸江子戸戸江江江江江子子子子子子子子子江江江子子子子江江江戸戸戸戸戸江江戸 江戸江江子戸江江江江江子子子子子子子子江江江子子子子子子江江戸戸戸戸江戸江 子戸江子戸鬼江江江江江子子子子子子子子江江江江子子子江江戸成豆豆成戸江成子 江戸鬱鬱鬱鬼戸戸戸戸江江江子子子子子子江戸成成戸戸戸戸成成豆鬱鬱成江戸成‥ 戸江豆鬱鬱成成戸戸戸江江江子子子子子子子江鬼鬱成戸子子江江豆鬼豆江江戸戸‥ 戸江江鬱鬱成豆成戸戸戸江江江江子子子子子江戸戸戸戸戸戸戸成豆成戸江戸成子‥ 戸江江鬱鬱鬼成成成成戸戸江江江江江子子江江子子江江江戸戸戸成豆戸戸成戸‥‥ 江江江戸成鬱成成豆豆成成戸戸江江江江江江江子子子江江戸成成成戸戸戸成子…‥ 戸江江江鬼鬱戸成豆鬼豆豆成成戸戸江江江江江子子子子子江江江江江戸成江子…… 江江豆豆鬱鬱成成成豆鬼鬼鬼鬼成戸戸江江子子子子子子子子子子子江戸成子子子… 江鬼鬱成鬼鬱成成成成豆鬼鬼鬼鬼鬼豆成戸江江江子子子子子子江江戸成鬼鬼戸子… 鬱鬱鬼豆鬼鬱豆成成成成豆豆鬼鬼鬼鬼鬼鬼成戸江江江江江戸戸成成豆鬱鬼鬱鬱戸… 鬱鬱鬼鬼豆鬼鬼成成戸成成成豆豆鬼鬼鬼鬱鬱鬼豆豆成成豆豆豆鬼鬱鬱鬱鬱鬼鬱鬱戸 鬱鬱鬱鬱成鬱鬱鬼成成戸戸戸戸戸戸成豆鬼鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱 鬱鬱鬱鬱豆鬱鬼鬱成戸戸戸江江戸江戸戸成豆鬼鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬼鬱鬱
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∧ ∧ イライライライラ / ヽ / ヽ イライライライラ / ヽ___/ ヽ イライライライラ / ノ( \ | ⌒ / \ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ へ | _____ | < ゴキブリ退治はまだナリか?(メ ´−`) / \\ \ / \____________ / /\\ .> ヽ チンチンチン// \\/ i i _ | チンチンチン i | ‖| / ̄ ヽ / _ チンチンチン Σ [ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ / ̄ ̄ /| \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/  ̄ ̄ヽ____/ / | \回回回回回/ / | \___/ / ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ○ ___________ ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: //\ / ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: _.// | | >>総動員で退治中だ。 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / .// .|. | ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: __/ // |. | >>もうちょっと待て!! :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: __/ // | \ __________ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / .//\ |.  ̄|/ :::::::::::::::::::::: \ (∃i ヽ___ | /| /| | //\ \ ).∧ ∧ // /9 . //´ | // \ \/(∀` ) // (∃i オー // ___ ヘ / ` __/ ̄\ \.〉 (_ /==o./ /⌒ヽ . //∧__\ _/ \ | _/ ̄ ̄ \ \. /// /――‐⊃ //( ´A` )/. ∧__/ |/ | | |/ // |´∀`)_ |⌒j/  ̄\( ´Д`) ̄ /9 〉 / ./ / | \ | | |\ / \// / \E ) \ |ヽ \_ | | | |. / __ //i | _ \. | | \| \ \_/|. |.( ( ( \ノ ノ .∧_∧. | / \ \ ../ ) / (E\.\
|\ ゙i ヽ │ ゙i │ ゙i │ l │ | | | l _,.-ー''"´  ̄`'‐.、 l::::| | ,-''"::::::::::::::::::::::::::::::::`'‐、 |:::::l l /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ l:::::::|. | l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ |::::::::l. l |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::く`` l:::::::::| | _,,..-一'''" / . l::::::::::::::::::::_,..-ー''lミ/9):::> |::::::::::l l..-ー''"´ :::::::::: ,-' 」_,..- _・ノ _、-‐-ヽヽ\ _,..- l:::::::::::| |:::::::::::::::::::: , -' ヽ| / //⌒_l,,l..-一'''"~´ |:::::::::::l l ,、-''" _ ┌─- ==ー''l l //二二____ l:::::::::::::| |_,..-ー''"´ /_\ └── 、フ ヽ.__,. ̄ _,..-ー''""|::::::::::::::l l | __ | ) ヽ-'' // _,..-ー''" l::::::::::::::::|. | | l l | | _,../ _/ / / ノ:::::::::::::::::l lヽ | / | / ヽ //'\/ / ||:::::::::::::::::::| |、ヽ | : >l/ 。°/ ( / / ||:::::::::::::::::::l l ヽ l \_/ /l 。// ヽl l ||:::::::::::::::::::| | l l / l | | ||::::::::::::::::::::l l l │ / .l::::::::::::::::: / l l || l:::::::::::::::::| | l l /ヽ l:::::::::::::::::::: / | | || l::::::::::::l l | .| / /|::::::::::::::::/ ヽ ヽ || l:::::::l | / / / / /:::::::::::::::::::: ヽ ヽ ヽ| |::l l / / / / /::::::::::::::::::::-‐''" '-,_`-、 l | ,、-' / ̄/ / / ト─‐-、._ -、._``‐- | l, -' / / / / / / / /~``''=ー-、..,,_ ` - 、. l | / // / / / / / / / / / /~``''=/ 、_,. / / / / / / / / / / / / ////  ̄ ̄ / / / / / / / / / / /// >
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 10:28:39 ID:lJ9W+PgH0
>>356 >日本をつぶしたかった?
>そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから
>いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ
しかしながら本質的に疑問が残る。いったいこれらあれら650,000 tons
の中国への緊急援助は、いかなる成果を残したのかと?
But a fundamental question remains: What good end was served by the
emergency delivery of 650,000 tons of this and that into China?
チンピラゴロツキには何を援助しても、チンピラゴロツキはチンピラゴロツキ。
チンピラゴロツキに追い風吹かしても、チンピラゴロツキはチンピラゴロツキ。
中国人という中国人は、みんなみんなチンピラゴロツキ。
アヘン戦争の原因は、イギリスのアヘン輸出なんかじゃないよ。
中国人はアヘンでチンピラゴロツキになったんじゃない、元からチンピラゴロツキだった。
チンピラゴロツキだからアヘンを貪るのであって、アヘンを与えるからチンピラゴロツキ
にされたというわけじゃないんだ。アヘンであれば現在の日本でも医療に広く使われてる、
アヘンが悪いんじゃない、悪いのは全て中国人の腐った脳みそだ。
But a fundamental question remains: What good end was served by the
emergency delivery of 650,000 tons of this and that into China?
Certainly little went directly to the aid of the Chinese people and
relatively little to the Chinese armies, though it can be urged that
the regime of Chiang Kai-shek would have collapsed without the
support of General Chennault's command and that Chennault's
men were wholly dependent upon the Hump lift.
http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/VII/AAF-VII-5.html AIRLINE TO CHINA
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 10:36:21 ID:lJ9W+PgH0
≪児島襄「参謀(下)」のジョゼフ・スチルウェル編より引用≫ 「“ピーナッツ”は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ・・・・ (中国政府は) 自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、 ただ金、権力、そして地位だけだ・・・・。手に入るものには何でも頭を下げ、 自分は戦わないように心がける・・・・。“インテリ”と金持ちは子どもを米国に送り、 農民の子どもが戦争に かりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。 われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士 “ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ―おお神よ!! 」 ≪中略≫ 当時の米軍は、日本軍と同じく、行軍距離単位は四キロであったが、 その米式訓練をうけたはずの、いやボートナー准将自身がその訓練をした孫部隊は、 一キロ歩いては休み、次に一キロ進んではごろりと道端に寝転がる。 しかも、頭上に英軍機が飛来して補給物資を投下すると、隊列を 乱してむらがり、悲鳴をあげつつ、下着に利用するパラシュートを奪い合う。 ≪中略≫ 孫部隊は狂喜した。中国大陸で負けつづけ、日本軍といえばかなわないものと信じていたのに、 その日本軍がひきあげたのである。勝った、勝ったと小銃を空に乱射しておどりあがった。 ところが、勝ちに乗じた勢いで快進撃するものと期待していた孫部隊は、 たしかに前進は開始したものの、そのスピードは以前にもおとる低速であった。 そして、昭和十九年一月二十九日、孫部隊はついに完全停止した。 ボートナー准将の急報によってかけつけたスチルウェル参謀長は、にこやかに迎える 孫少将の顔をぼう然と眺めながら、考えこんだ・・・・なぜ、前進しないのか? ≪中略≫ スチルウェル参謀長は、孫少将にかみついた。 「明らかに命令違反である。よろしいか。貴下の第三十八師団は、 全中国軍のなかで とびぬけて優良な兵器、弾薬、糧食の補給を受けている。 足りないというのなら、 迎撃砲も、火炎放射器も、米兵だってさしあげる。 だが、命令に従うのが条件だ・・・・ もし自分の使命が達せられないようなら、辞職してワシントンに報告せざるをえない」
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、 これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、 東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。 また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。 1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、 44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。 日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、 海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした (「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。 軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、 ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した (「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。 これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。 東条首相は42年2月の議会での演説の中で 「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、 各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。 しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、 日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。 戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、 これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。 1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。 そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、 成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」 「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」 「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。 占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。 陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。 その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、 南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、 第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ) のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。 ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。 海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。 軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、 主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。 したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、 財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。 軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。 司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。 ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。 行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、 開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では 「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、 その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。 「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。 これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。 日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、 フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、 英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、 英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、 コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。 最も重要視されていた石油について見ると、 北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。 日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。 しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。 そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。 また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。 ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。 日本軍は占領地に軍票を流通させた。 日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、 占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、 実際には軍票の発行が急増していった。 1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。 1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。 これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。 外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。 発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。 日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。 この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。 シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。 特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。 日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。 イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。 太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。 シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。 日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。 阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。 また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。 たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。 開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。 輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、 石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。 要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、 食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。 蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、 工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。 シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。 輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。 フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。 砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、 貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。 フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。 このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。 日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、 タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。 日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。 日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。 日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。 日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。 日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。 軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、 広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。 ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。 必要な工業製品は入ってこなくなった。 そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、 軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。 日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。 食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、 日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。 食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。 タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。 食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。 ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。 タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。 この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、 戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。 英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、 彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。 そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、 ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、 自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。 移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。 そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。 インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、 うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。 宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、 住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、 一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。 ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。 中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。 これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、 いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。 ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。 マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。 こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。 マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。 1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、 中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。 この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。 たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。 マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、 「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ 然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として 「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ 華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。 また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。 この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、 また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、 なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。 第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。 こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、 また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
一方、マレー人に対してはどうだったのか。 すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、 開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。 こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが 日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、 日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。 日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。 ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。 その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。 この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。 しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、 連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。 かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。 こうしたことは東南アジア各地でも見られた。 ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。 日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。 南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。 ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、 「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス 従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、 差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、 軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。 1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、 タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、 44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。 そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、 反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。 日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。 後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、 それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。 シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。 これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、 将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。 1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。 このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ 人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、 「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。 そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。 ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、 ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、 民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、 占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。 フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。 これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。 ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。 しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。 ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、 「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、 フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、 軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。 1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は 「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、 率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、 このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。 この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。 その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。 ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。 六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ (イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム (ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム (ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。 さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、 ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。 しかもそうしたことは秘密にされた。 このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、 石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、 日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。 1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。 タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。 しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。 1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。 この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、 タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。 タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。 会議では「大東亜共同宣言」を決議した。 この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。 これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して 日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、 また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。 インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。 すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、 軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が 「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。 インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、 結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、 それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。 シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、 2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、 4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、 天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。 学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。 学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。 シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、 マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、 両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。 大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。 そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。 (中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。 かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。 ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。 ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、 日本語を公用語として強制することまではできなかった。 マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。 しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。 現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。 日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。 大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。 こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。 日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。 特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。 ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。 ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。 ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、 少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。 ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。 勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、 その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、 建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。 すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。 泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。 死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。 あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。 当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。 「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。 航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。 それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。 彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。 航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。 米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。 バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。 (中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。 そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」 カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。 東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。 これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、 一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。 連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、 日本軍によって処刑されたケースを多かった。 香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。 その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。 すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が 「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、 しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。 42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、 「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている (金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。 マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。 占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。 その町の数は30以上にのぼると見られる。 東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、 また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは 現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。 第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。 クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。 第二に新聞などで募集したケースがある。 シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。 この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。 たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、 「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。 第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。 マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。 この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。 第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、 結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。 第五に暴力的な拉致によるケースである。 日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 11:34:01 ID:OiuDGOHn0
日中間の戦闘が行われたのは1937年7月〜1945年8月です。約8年。月で言えば96ヶ月。 96ヶ月間の間に、日本軍は3500万人の中国人を殺した計算になります。これをさらに 月平均にすると約36.5万人。凄いです。30万人を殺したと言う南京事件でさえ2ヶ月 かかったのに、その2倍以上の殺戮を毎月欠かさず96ヶ月間も行った計算になります。 こうなると、南京事件は、いつもの半分しか殺さなかったサービス期間ということになります。 また3500万人を南京事件の30万人で割ると約117回。南京事件が117回起きないとこの 数字には到達しません。南京事件に匹敵する大虐殺を117回も行った日本軍。南京事件が かすんでしまい、とても小事件であったかのように見えてしまいます。 仮に、公式には戦争状態となっておらず、大規模な戦闘も行われていない1932年の満州事変 以降を無理に日中戦争の期間に含めたとしてもとても常識で説明できる数字ではありません。 ■日中戦争犠牲者数・工作推移■ 終戦時 130万人 GHQ発表 終戦時 130万人 国民党発表 1948年 438万人 国民党政府報告書 1950年代 1000万人 共産党政権発表 1970年 1800万人 共産党政権発表 1985年 2100万人 共産党政権発表(抗日勝利40周年) 1998年 3500万人 江沢民発表 2005年 5000万人 卞修躍博士発表(抗日勝利60周年) 2010年 ? 2020年 ? 2050年 ? ▼中国発表の日中戦争犠牲者数は60年で130万→5000万。 よって平均増加率は年間約6.3%増。 ▼この増加率が維持されたとすると、1億人突破は2017年頃、2億人突破は2029年頃、 そして22世紀初頭には128億人を突破するものと推測される。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 11:41:31 ID:OiuDGOHn0
>>397 >たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)
>のうち1億2500万円(42.5%)がマラヤの華僑からのものだった。
日本が攻め込んできたので、われわれを包囲していた蒋介石軍が後退した。当時のわれわれ八路軍の兵力は
3個師団3万人のみだった。日本が蒋介石を重慶まで押し退けてくれたので、われわれは日本軍の後方で勢力を拡大した。
■日本は共産軍を助けたことになっている
人民大会堂で行われた会談の重要メモを入手したので萬晩報で公開する。中国側の出席者はケ小平、廖承志、
王暁雲、孫平化、金黎、単達析であった。
両国は100年間は喧嘩したが、いまは共通の問題がある。過去、中国人民は日本の軍国主義に対抗してきたが、
毛主席は常にこう言われた「過去のことは水に流そう」と。
しかし、実際は、日本は中国(共産軍)を助けたことになっている。
日本が攻め込んできたので、われわれを包囲していた蒋介石軍が後退した。当時のわれわれ八路軍の兵力は
3個師団3万人のみだった。日本が蒋介石を重慶まで押し退けてくれたので、われわれは日本軍の後方で勢力を拡大した。
8年後に3万人の兵力は120万人にまで増えたし、さらに数百万人の民兵組織までつくった。
第二次大戦の後、米国は蒋介石軍400万を整備し、蒋介石はこれでわれわれを攻撃したが、われわれは120万の
兵力をもって3年間で蒋介石軍を打ち破った。それゆえ、みなさんだけを責めるのは不公平と思う。
http://www.yorozubp.com/0412/041210.htm
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、 彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。 また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、 あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、 日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、 東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。 中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、 監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。 その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、 ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。 また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。 地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。 慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、 日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、 ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。 まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。 慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、 警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、 軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。 日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。 被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。 陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。 1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。 こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、 1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」 と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。 占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。 慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、 そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、 1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。 さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、 敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。 労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、 42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、 日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。 徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。 彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。 あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。 日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。 それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。 台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、 志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、 うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。 満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。 すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、 農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。 満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、 1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。 太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。 捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。 沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。 いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。 第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。 中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。 たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、 東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」 と蔑視観が露骨に示されている。 第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。 占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。 日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。 国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば 「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。 第三に日本軍の「現地調達」主義である。 日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。 日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。 そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、 実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、 日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。 略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。 女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、 住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。 中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない) 人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。 ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。 日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが (藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、 日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。 第四に国際法を無視したことである。 第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。 しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。 日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。 日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。 第五に日本軍内部の非人間性である。 日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。 「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。 軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。 占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。 軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、 アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。 フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。 ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。 彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。 彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。 マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。 華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、 日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、 日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。 英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、 マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。 北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。 中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。 またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。 インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、 これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。 インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、 北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、 45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。 タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。 タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。 抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。 また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。 日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。 ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、 その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。 インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、 日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、 1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。 このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、 日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。 死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、 中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、 フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、 韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。 ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。 アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある (『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。 なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。 日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。 日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。 戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。 人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。 マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。 華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。 そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、 あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。 このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。 このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。 日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。 ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。 カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。 日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。 このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。 戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。 植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために 民族間の対立を一層増幅させることになった。 日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。 ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。 これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。 もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、 ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。 しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。 インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。 ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに 日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。 独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。 国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」 「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。 日本をつぶしたかった? そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」 「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。 万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、 ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」 「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。 『日本人の精神年齢は12歳である』と。 まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」 「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を 背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」 「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」 「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。 自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。 挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。 しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」 「それが、60年の歳月がたってみると、 彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ? 歴史の流れって面白いですわね(笑)」
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを どう解釈したらいいのですか 独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが 祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。 もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、 賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。 ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、 せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。 が、このことの是非を問う国民投票で 日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。 *この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続 んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。 個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、 感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、 それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。 忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。 戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。 新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、 国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」 「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。 それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。 プライドはずたずたにされてしまいました。 あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。 とても惨めです。」 「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、 無敵のゼロ戦神話だったのです。」 「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・ しかしかつて栄光はあったのだと。 完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。 この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」 「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ? それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」 「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、 強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。 軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。 そういった社会的状況に便乗して、 日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」 「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。 日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、 惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」 「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、 解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。 あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」
そもそも太平洋戦争は 「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで 昭和15年1月・・・あたりかな? 陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを 第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して そこからどうやったら物資を調達できるか できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという 作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった 1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項 マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは “大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める これら地域では当分軍政を継続する なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない 資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ 日本軍にはな。 植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を >得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。 ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。 その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。 ほんとに知らなかったんですか? 簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で 産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に 公刊戦史に載っていると記載されている。 その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので 元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず 自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。 なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、 元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに 軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。 アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。 これが名越における”確証を得た”というなら、 彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。 上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。 又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを 確証とかきちんと調査とか呼びませんからw そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、 確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。 しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。 まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが 日本人に対してリップサービスできるってあたりが 現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」 (佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて) これがアジア独立の本音。 ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。 国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。 さすが自慰史観患者は痛いw 日本による植民地支配 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。 しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。 それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。 (「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」) 太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり 日本軍占領下では過酷な軍政が行われた 美化の余地のない歴史的事実である
インドネシアでの教育とやらの実態 教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。 ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、 一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた 日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。 しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。 天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、 善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか 通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、 君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。 まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない 屈辱であった。 インドネシア初代大統領のスカルノの言葉 「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」 「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。 最後の1回で取り返せばよいではないか」 太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり 日本軍占領下では過酷な軍政が行われた これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は ケダモノ以下のゴキブリである
ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを するのか、本当に理解に苦しみました。 (H・B・ヤシンさん) 私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日 本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする 人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日 本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた 人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が 彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。 (バルカ・アルガニス・バスウェダンさん) 電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を 見下していました。女性職員に対しても同様でした。 (リリー・ガマル・スタンティオさん) 「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同 様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧 民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた ・・・・」 (インドネシア国立文書館 編著 『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
ttp://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s36/#p05 仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は 明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。 「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは 「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」 「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」 といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として 天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。 たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが 「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。 ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、 天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、 天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった 陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。 同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。 また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。 一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、 『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、 以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。 また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。 今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。 日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、 心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、 直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。 さて、東條英機自身はどうであったか 「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。 このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。 彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。 そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。 丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。 だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。 敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、 手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。 やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。 徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。 その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。 そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。 ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。 この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。 木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。 軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、 残りの81名は再突入を行うことになった。 昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。 その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。 そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。 隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。 太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し 一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。 1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が 官製の統制機関である日本新聞会に改組された。 さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる 検閲は、一段と厳しいものになっていった。 出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を 官製の統制機関である日本出版会に改組させた。 日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、 従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。 雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。 企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には 書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。 なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の 思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、 その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。 戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ 削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。 そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、 関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。 このように言論と出版の統制は完璧であった。
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。 フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで 7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。 米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。 バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」 「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。 バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、 証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。 そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。 フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。 ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。 パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、 女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、 合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、 裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している (英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。 また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。 そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。 侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、 また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。 そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。 日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。 <ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた> パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。 当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、 祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。 それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ 泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。 8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵 に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても 4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。 しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、 一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。 セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、 マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか 49人になっていた。 <パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺> マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島) が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。 その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に 「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、 日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、 20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、 膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。 その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と それに対する自らの感想を、次のように記している。 「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実 (外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」 (深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として 取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。) 「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、 「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。 御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの 底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し 「大東亜圏内には外交なし」と極言す。 アジア・太平洋戦争は クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が おのが力におごり高ぶり 東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である 東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任) 「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、 同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立 を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員 会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月 一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田 中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。 (中略) 一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が 出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日 本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が 本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将 軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ すという決意を、さらに固くするのであった。 日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を 目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘 密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま かい検討を行った」 (ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相) 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも のもいないのである。 八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」 (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
名越二荒之助の捏造 「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が 一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、 撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島 の墓地に眠っている」 ↓ この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。 1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、 艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。 連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛 のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、 全く根拠のないフィクションです。 また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を 見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。 高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、 「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。 扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。 供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦 によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務 の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」 では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう? 近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて 駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。 称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。 重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に 歴史的学問的価値など微塵もありません そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
【インドネシア】 ●労働者の搾取 主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。 特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。 多くの「労務者」は現場で死んだ。 その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。 ●インドネシアが独立した背景 抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。 対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。 日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。 もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。 このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。 (「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社) インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」 「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。 インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。 それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。 −日本民族はインドネシア民族の「兄」である。 日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。 −日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。 その実体はどうであったか。 日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。 日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。 その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。 資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」 太平洋戦争は、資源ほしさゆえの日本による侵略戦争であり 現地では過酷な軍政が行われた これをねじ曲げて「大東亜戦争」と呼称し 植民地を解放したなどと法螺を吹聴するものは 国を誤る有害なゴキブリである
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 21:55:41 ID:GVjf0sxX0
>>381-429 ID:B1qfg9tdP
こいつは、悪名高いスレ荒らしのゴキブリ。
この3連休、朝から晩までスレに粘着し、偏執狂的に長文コピペを繰り返したカルト信者。
こんな天気のよい3連休に、行楽にも行かず、一人で部屋にこもってオナニー三昧。
こいつは、彼女もいなければ友達もいない。哀れで惨めな低学歴・低賃金労働者だ。
貴重で楽しいはずの3連休、一人で空回りして楽しかったか?
みっともないから、涙くらい拭けよ、負け犬ww
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 21:58:45 ID:GVjf0sxX0
≪児島襄「参謀(下)」のジョゼフ・スチルウェル編より引用≫ 「“ピーナッツ”は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ・・・・ (中国政府は) 自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、 ただ金、権力、そして地位だけだ・・・・。手に入るものには何でも頭を下げ、 自分は戦わないように心がける・・・・。“インテリ”と金持ちは子どもを米国に送り、 農民の子どもが戦争に かりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。 われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士 “ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ―おお神よ!! 」 ≪中略≫ 孫部隊は狂喜した。中国大陸で負けつづけ、日本軍といえばかなわないものと信じていたのに、 その日本軍がひきあげたのである。勝った、勝ったと小銃を空に乱射しておどりあがった。 ところが、勝ちに乗じた勢いで快進撃するものと期待していた孫部隊は、 たしかに前進は開始したものの、そのスピードは以前にもおとる低速であった。 そして、昭和十九年一月二十九日、孫部隊はついに完全停止した。 ボートナー准将の急報によってかけつけたスチルウェル参謀長は、にこやかに迎える 孫少将の顔をぼう然と眺めながら、考えこんだ・・・・なぜ、前進しないのか? ≪中略≫ スチルウェル参謀長は、孫少将にかみついた。 「明らかに命令違反である。よろしいか。貴下の第三十八師団は、 全中国軍のなかで とびぬけて優良な兵器、弾薬、糧食の補給を受けている。 足りないというのなら、 迎撃砲も、火炎放射器も、米兵だってさしあげる。 だが、命令に従うのが条件だ・・・・ もし自分の使命が達せられないようなら、辞職してワシントンに報告せざるをえない」 「これが中国人だ。負けて当然」
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:05:53 ID:GVjf0sxX0
★WGIP (War Guilt Information Program)( 戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画 ) この「プログラム」は、大東亜戦争を日本と米国との戦いではなく、実際には存在しなかった 「軍国主義者」と「国民」との間の戦いにすり替えようとしている。そして、大都市の無差別爆撃も、 広島・長崎への原爆投下も、その責任を米国人ではなく「軍国主義者」になすりつけようとしている。 この「軍国主義者」と「国民」という架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で 錯覚したふりをする日本人が出現すれば、一応 所期の目的を達成したといえる。そうなれば日本に おける伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した エネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に 向けられるにちがいない。 この「プログラム」は1945年〜1948年当時は、期待通りの成果を上げるにはいたっていなかったが、 サンフランシスコ講和条約締結後も、なぜか日本のマスコミと教育が改められることなく、現在に いたってその効果が顕著になってきてしまっている。日教組がガンなのである。 今一度、我々は、大東亜戦争を冷静に再評価しなければならない。その結果として見えてくるのは、 「大東亜戦争は植民地解放戦争だった」「日本は戦争で敗北したが、戦争目的を達成し、事実上の 戦勝国に他ならない」という、学校では決して教えない歴史の真実に立ち至る。その瞬間、WGIPの 呪縛は解けるのだ。 WGIPの呪縛を断ち切り、日本人の誇りを取り戻すのだ!! 馬鹿には無理だが。
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:16:17 ID:GVjf0sxX0
世界の歴史学の泰斗は、大東亜戦争の真の意義を理解している。 ★アーノルド・J・トインビー イギリス歴史学者 「第2次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の ために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想で あった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。」 「日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを 支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らか に示した点にある。」 (1956年10月28日/英紙「オブザーバーL) 大東亜戦争によって、すべての欧米植民地諸国は独立した。大東亜戦争無しでは、 インドネシアの独立は30年遅れただろうとも言われる。大東亜戦争が植民地解放 戦争であったのは、疑いのない事実なのである。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:21:02 ID:GVjf0sxX0
インドネシアの政治学者も、大東亜戦争の深い意義を理解した。 ★ジョージ・S・カナヘレ 政治学博士 「日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事のなかで、 最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を 与えたことである。…このような機会がなかったならば、戦後のインドネシア 民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」 (「日本軍政とインドネシア独立」) インドネシアの独立宣言文は、日本の皇紀2605年を使用している。これは、日本に対する 感謝と尊敬の念の現れである。スカルノも、日本軍政が、インドネシア独立に与えた意義を 理解していた。大東亜戦争は植民地解放戦争他ならなかったのだ。
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:28:19 ID:GVjf0sxX0
★2006年8月17日のインドネシア独立記念式典 式典は国旗掲揚、国歌斉唱に始まり、式典長が独立宣言を読み上げる。"気をつけ、"休め”” 敬礼”昔の日本の軍隊式の式典である。在京のインドネシア人に混じってインドネシアに 従軍、ムルデカ(独立)を共に祝った日本軍関係者も招かれていた。みな80歳を超えている。 独立宣言文には17−8−05という数字がみられる。宣言署名の1945年8月17日のこと、 05は日本軍政下使用されていた皇紀2605年の05の略である。独立宣言文は原文のまま 皇紀表示で読み上げられた。 インドネシア政府は、現代に至っても、本来の皇紀表示にこだわっている。オランダの植 民地から解放し、独立の礎を作った大日本帝国に対する感謝と、スハルトの偉業に対する 敬意の表れである。大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは歴史的事実なのだ。 当然、インドネシアの教科書に示されている独立宣言文は、すべて皇紀表示である。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:36:47 ID:GVjf0sxX0
戦勝国の人間ですら、日本の偉業を称え、誇りを取り戻せと激励しているのだ。 ★サンティン・アムステルダム元市長 元内務大臣 「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その 東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。 その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して 闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、…その誇りを取り戻す べきであります。」 (1985年日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶) 大東亜戦争のおかげで植民地主義が終焉した事実をきちんと認識し、大東亜戦争の意義を深く考える ならば、大東亜戦争は世界に誇る植民地解放戦争であり、日本人はヒーローなのだ、という真理に 行き当たる。我々は、日本人に生まれたことを誇りに思ってよい。馬鹿は必死で否定するが。 我々は、馬鹿と在チョンに生まれなかったことを天に感謝してよい。
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:39:48 ID:GVjf0sxX0
★プン・トモ 元情報相 「日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは 白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度 持った自信は決して崩壊しない。…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、 われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。」 (昭和32年の来日の際の発言)
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:41:48 ID:GVjf0sxX0
★モハメッド・ナチール インドネシア元首相 「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を 日本が代表して敢行したものです。」
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:44:11 ID:GVjf0sxX0
★ゴー・チョクトン シンガポール首相 「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、 欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けない という自信を持った。日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は、 すべて解放された」(「諸君!」平成5年7月号)
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:47:24 ID:GVjf0sxX0
読売新聞社と英BBC放送が共同実施した33か国対象の世論調査によると、日本は世界 に良い影響を与えている」という評価は53%で、「悪い影響を与えている」の21%を上回った。 国際社会に影響を及ぼす17か国・国際機関についての評価を聞き、「良い影響」は、ドイツの 59%が最も高く、日本は欧州連合(EU)と並んで2番目だった。 日本を高く支持した国は、タイ、インドネシア等東南アジアの国々が多いのも特徴である。 これもひとえに、日本が、大東亜戦争という歴史に残る大戦争でのなかで「東南アジア 植民地を解放する」という良いことをしたのだから当然と言える。
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/19(月) 22:53:07 ID:GVjf0sxX0
★「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実−大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。」 (シリーズ日本人の誇り 6) 桜の花出版編集部 「インドネシアが今、独立できたのは日本のお陰です」という証言の通り大東亜戦争が決して 侵略戦争ではなかったという事実が良くわかる一冊です。 マスコミがよく言う「日本は、先の戦争でアジアの人たちに迷惑をかけた」という言葉がいかに ウソであるかが納得できました。インドネシアや台湾、インドの人々、もちろん表面に出てきません が、韓国の人でさえ、日本に感謝している人は多いのです。
>>436 またサンティン伝説か。名越に騙されすぎwww
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、 これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、 東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。 また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。 1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、 44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。 日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、 海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした (「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。 軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、 ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した (「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。 これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。 東条首相は42年2月の議会での演説の中で 「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、 各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。 しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、 日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。 戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、 これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。 1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。 そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、 成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」 「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」 「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。 占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。 陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。 その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、 南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、 第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ) のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。 ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。 海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。 軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、 主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。 したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、 財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、 開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では 「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、 その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。 「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。 これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。 日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、 フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、 英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、 英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、 コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。 最も重要視されていた石油について見ると、 北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。 日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。 しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。 そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。 また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。 ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。 日本軍は占領地に軍票を流通させた。 日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、 占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、 実際には軍票の発行が急増していった。 1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。 1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。 これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。 外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。 発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。 日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。 この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。 シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。 特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。 日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。 イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。 太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。 シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。 日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。 阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。 また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。 たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。 開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。 輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、 石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。 要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、 食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。 蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、 工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。 シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。 輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。 フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。 砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、 貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。 フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。 このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。 日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、 タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。 日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。 日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。 日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。 日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。 日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。 軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、 広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。 ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。 必要な工業製品は入ってこなくなった。 そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、 軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。 日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。 食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、 日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。 食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。 タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。 食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。 ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。 タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。 この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、 戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。 英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、 彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。 そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、 ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、 自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。 移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。 そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。 インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、 うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。 宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、 住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、 一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。 ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。 中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。 これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、 いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。 ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。 マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。 こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。 マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。 1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、 中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。 この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。 たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。 マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、 「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ 然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として 「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ 華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。 また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。 この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、 また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、 なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。 第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。 こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、 また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
一方、マレー人に対してはどうだったのか。 すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、 開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。 こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが 日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、 日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。 日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。 ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。 その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。 この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。 しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、 連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。 かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。 こうしたことは東南アジア各地でも見られた。 ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。 日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。 南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。 ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、 「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス 従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、 差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、 軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。 1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、 タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、 44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。 そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、 反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。 日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。 後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、 それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。 シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。 これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、 将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。 1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。 このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ 人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、 「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。 そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。 ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、 ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、 民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、 占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。 フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。 これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。 ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。 しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。 ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、 「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、 フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、 軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。 1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は 「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、 率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、 このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。 この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。 その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。 ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。 六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ (イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム (ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム (ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。 さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、 ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。 しかもそうしたことは秘密にされた。 このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、 石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、 日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。 1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。 タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。 しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。 1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。 この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、 タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。 タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。 会議では「大東亜共同宣言」を決議した。 この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。 これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して 日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、 また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。 インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。 すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、 軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が 「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。 インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、 結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、 それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。 シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、 2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、 4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、 天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。 学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。 学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。 シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、 マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、 両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。 大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。 そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。 (中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。 かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。 ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。 ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、 日本語を公用語として強制することまではできなかった。 マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。 しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。 現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。 日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。 大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。 こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。 日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。 特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。 ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。 ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。 ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、 少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。 ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。 勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、 その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、 建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。 すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。 泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。 死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。 あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。 当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。 「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。 航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。 それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。 彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。 航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。 米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。 バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。 (中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。 そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」 カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。 東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。 これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、 一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。 連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、 日本軍によって処刑されたケースを多かった。 香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。 その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。 すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が 「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、 しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。 42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、 「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている (金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。 マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。 占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。 その町の数は30以上にのぼると見られる。 東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、 また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは 現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。 第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。 クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。 第二に新聞などで募集したケースがある。 シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。 この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。 たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、 「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。 第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。 マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。 この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。 第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、 結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。 第五に暴力的な拉致によるケースである。 日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、 彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。 また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、 あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、 日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、 東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。 中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、 監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。 その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、 ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。 また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。 地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。 慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、 日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、 ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。 まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。 慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、 警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、 軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。 日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。 被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。 陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。 1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。 こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、 1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」 と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。 占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。 慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、 そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、 1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。 さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、 敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。 労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、 42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、 日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。 徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。 彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。 あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。 日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。 それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。 台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、 志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、 うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。 満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。 すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、 農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。 満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、 1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。 太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。 捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。 沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。 いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。 第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。 中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。 たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、 東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」 と蔑視観が露骨に示されている。 第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。 占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。 日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。 国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば 「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。 第三に日本軍の「現地調達」主義である。 日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。 日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。 そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、 実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、 日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。 略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。 女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、 住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。 中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない) 人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。 ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。 日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが (藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、 日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。 第四に国際法を無視したことである。 第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。 しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。 日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。 日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。 第五に日本軍内部の非人間性である。 日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。 「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。 軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。 占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。 軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、 アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。 フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。 ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。 彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。 彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。 マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。 華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、 日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、 日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。 英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、 マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。 北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。 中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。 またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。 インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、 これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。 インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、 北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、 45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。 タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。 タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。 抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。 また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。 日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。 ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、 その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。 インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、 日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、 1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。 このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、 日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した。
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。 死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、 中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、 フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、 韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。 ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。 アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある (『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。 なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。 日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。 日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。 戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。 人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。 マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。 華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。 そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、 あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。 このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。 このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。 日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。 ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。 カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。 日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。 このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。 戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。 植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために 民族間の対立を一層増幅させることになった。 日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。 ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。 これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。 もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、 ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。 しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。 インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。 ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに 日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。 独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。