1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2006/01/16(月) 00:50:04 ID:c3E44T9C0
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/16(月) 03:33:23 ID:5KFTOG9A0
■パターン米此軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令■ 午前十一時頃私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。 特に聯隊長を指名した電話である以上、何か重要問題に違いない。 私は新しい作戦命令を予想し、緊張して受話器を取った。附近に居合わせた副官や主計、 其の他本部付将校は勿論、兵隊一同もそれとなく私の応答に聞き耳を立てて、注意している気配であった。 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った. それは 「パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、 日本軍はまだ之れを全面的に承諾を争えていない。 其の結果米此軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手許にいる米此軍 投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。 貴部隊も之れを実行せよ。」 と、いうものである。 戦闘間の命令は其の事の如何を問わず、絶対服従せねばならぬことは、厳しい軍律である。 しかしこの兵団命令は人間として、何としても聴従しかね、又常識としても普通の正義感では考えられぬことである。 この時 ?外の任を承けては勅命と雖も聴かざることあり という古い言葉が頭をかすめた。 私は自己の責任上避けられない立場に困惑したが、心を決めて直ちに応答した。 「本命令は事重大で、普通では考えられない。従て口答命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達せられ度い。」 と、述べて受話器をおいた。 私は直ちに命令して、部隊の手許に居った捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう に指示して、一斉に釈放して仕舞った。 戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀 の談によればたまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻参謀が口答で伝達して歩いたものらしい 今井武夫「支那事変の回想」より
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/16(月) 19:28:54 ID:GxqDWrFe0
もうどうでもよくないか?こう言うのって、よくある事だし。
>>1 はユダヤ教徒から侮辱されたり、打たれたり、
ユダヤ教徒から嫌な事でもされたのか?
>>1 がユダヤ教徒から嫌な事をされた事があるのならば、
ユダヤ教徒を恨むのは正当だと思うが、
そうでないのなら別に恨む事でもあるまい。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/17(火) 22:59:29 ID:5NIMxY9B0
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/17(火) 23:03:50 ID:5NIMxY9B0
↑ (d2) 日本軍側現場指揮官的回答 裁判の誤りである. いったい米比軍は持てる弾を撃ち尽くし,持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し,これが尽きれば平然として手を上げる. 降伏すれば,その時から日本軍は我々を給養する義務があると嘯いている. 虫のよい考えである. 米比軍がこの捕虜の移動を『死の行進』と言うならば,〔その戦闘においての〕戦勝国たる日本軍の移動は『超死の行進』だ. 現に捕虜群と並列して進む日本軍の姿を見よ.重い装具をつけて,喘ぎながら進んでいるではないか.貴様らに散々撃たれ,肉 体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ.できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ.貴様ら を軽装で行軍させるのが,むしろ慈悲だと思え,と言いたい. 勝った軍が,負けた軍以上の苦しみを味わわねばならん理由はないのだ.⇒more ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑ オオオ、わかるわかる・・・日本人よ。。(涙
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/17(火) 23:27:34 ID:v1C3uiR20
捕虜を養う能力もないくせに戦争をはじめた日本がアホ
7 :
冷静に :2006/01/19(木) 17:58:31 ID:kf0K0DAW0
>6 結局、罵倒しかできない。捕虜を養う能力??。第二次世界大戦の最前線で 間違い無く、正当に捕虜を扱った国は、何処も無い。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/19(木) 18:51:12 ID:yHst0WPY0
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/20(金) 05:05:09 ID:WBEu0FO20
>>6 自軍の何倍もの捕虜を養う事を考えて侵攻する軍隊など存在しない。
また、この時の日本軍は先発隊で、そもそも捕虜を受け入れる予定ではなかったし、
事前の情報では難攻不落の要塞だから仕方なかろう。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/20(金) 09:13:51 ID:FqsUMvDQ0
>>バターン攻略作戦 太平洋戦争の開戦と同時に日本陸軍の第14軍(司令官本間雅晴中将)はフ ィリピンに進攻し,1942年1月2日にはマニラを占領した。しかし,この 間,アメリカ・フィリピン軍は決戦を避けて主力をバターン半島に撤収 させ,以後,堅陣に拠って激しい抵抗を行った。このため日本軍は大き な損害をこうむったが,兵力の増強をえて4月上旬には同半島を攻略し, 5月7日にはコレヒドール要塞を占領してフィリピン全域を完全に制圧した。 なお,バターン攻略作戦の終了直後,日本軍は疲弊しきった捕虜を徒歩 で移動させたため多数の死傷者を出し,また捕虜に対する暴行も行われ たため,〈バターン死の行進〉として激しい非難を浴びた。 吉田 裕 (C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
11 :
冷静に :2006/01/20(金) 09:18:39 ID:0ieG3O5U0
>>10 疲弊し切ったのは日本兵も同じ。それも重装備で行進した。これも事実。
当時、自軍の作戦に支障を来たす捕虜を、食料を与えて、体力を回復させた
行進させる馬鹿な将校は、どの国にも存在しない。
こんな事をしたら、捕虜の暴動が起きるのは明らか。
米国の主張のみを聞き入れるのでは無く、状況を考慮して判断すべき。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/20(金) 13:20:39 ID:dJvMXXPi0
折角、スレタイに文春とSWCの名があるんだから、 なぜ、ユダヤ人権団体がバターン死の行進に口出しするか、 掘り下げてみないか?
13 :
冷静に :2006/01/20(金) 13:32:51 ID:0ieG3O5U0
>>12 本当の人道的に非難されるべき、作戦についてですか?
良いですね。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/20(金) 15:02:25 ID:FqsUMvDQ0
インパール作戦
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/20(金) 15:03:08 ID:FqsUMvDQ0
特攻隊作戦
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/20(金) 23:54:48 ID:HUBN43Z+0
バターン死の行進をでっちあげたのはマッカーサー?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/21(土) 09:41:44 ID:2IipnEKkO
パレスチナ人に対する虐殺
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/01/21(土) 09:49:19 ID:FgBR4p+T0
玉砕戦法こそ馬鹿の王者
19 :
日本人 :2006/01/29(日) 20:48:00 ID:2n13eJ2O0
米軍のトラックが沢山遺棄してあったがこの時点で日本兵の99%が車の運転が できなかった。それが徒歩輸送の悲劇をうんだ。今では考えられないがこれ事実。 その後4年の駐屯で若い兵隊は車の運転を覚え、今の車社会がある。
つーか・・・・当時の状況で、他にどうすればよかったのかと逆に聞きたい罠。 徒歩以外の移動手段はなく、食料も乏しい、あの状況で。 まさか、敵兵を(武器を取り上げた上で)ジャングルに置き去りにするわけにも行くまいし。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/02/12(日) 03:29:16 ID:P09W1sFM0
あきらかにフィリピン人に日本軍は極悪だったというイメージを植えつけるためにでしょ。 でないと、アメリカにとってフィリピンのハンドリングがうまくいかなくなってしまうから。 フィリピン人に日本=極悪、そしてアメリカ=自由への解放者という固定観念を与えるため。 といっても、バターン問題を除けば、意外にフィリピン人は冷静な歴史認識をしている者も多いが。
マッカーサーの親父がフィリピン総督で反乱鎮圧やってるだろ
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/02/25(土) 04:33:48 ID:eaKSsyL30
40万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾 『嫌韓流2』発売中 意外とおもしれーぞ
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/03/24(金) 00:22:46 ID:oe4zCtP/0
100kmを5日間、つまり1日わずか20kmの行軍で 米兵がバタバタ倒れるから、横を歩いていた日本兵がビックリしたそうだな。 日本軍は完全武装で、1日40kmぐらい行軍するのは当たり前だからなあ。 米兵弱すぎ。 まあ、トラック移動に馴れてしまって 行軍なんてやったことがなかったんだろう。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/03/24(金) 00:29:30 ID:pkait+RD0
↑いや、流石にそうゆう問題では無いと思うのだが… これも、ゆとり教育のうんたらかんたら…
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/03/24(金) 01:47:41 ID:7WS+dZFn0
バターンにおけるマッカーサー=南京における唐生智=徹底抗戦を叫んでおいて自分だけ遁走しあとの混乱を日本軍のせいにしたカス
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/03/25(土) 22:07:40 ID:7B84r4x00
米軍が日本兵の捕虜を虐待したり餓死させたりした話は寡聞にして知らないな。 日本軍が米兵を虐待したり餓死させたりした話はよく聞くが。 日本軍は捕虜をまともに養う能力すらなかったわけだ。 まあ始めた時点で負けるとわかっていた戦争なんてそんなものか。 どこまで愚劣なんだ、当時の日本の政府と軍部は。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/03/25(土) 22:10:29 ID:EFl18sD70
みんな貧乏が悪いんです。
ソ連軍よりはマシだったと思うが・・・・。 こいつらの場合、「捕虜=奴隷決定」だったし。 養う能力があってもなくても関係なしに、シベリア行き。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/03/26(日) 02:45:35 ID:dOAeFnOv0
>米軍が日本兵の捕虜を虐待したり餓死させたりした話は寡聞にして知らないな。 ヒント:@捕虜をそもそも採らなかった(→日本軍はそんなに“狂信的”だったか?) A捕虜を採っても、それを“捕虜”として認めなかった(グアンタナモのタ リバン兵と同様)
リンドバーグ手記とか読むと凄いことかかれているんだがなあ。
>>31 非武装敵軍とか認定していたんだったっけ?
これで100万近く殺したとか主張している人もいたっけね。
>>28 もっとも日本軍の後方で捕虜を扱っていたのは専ら前線で役に立たなかった朝鮮人なワケだが。
A級戦犯って本に米兵の日本兵への虐待が詳しく書いてあるよ。買って読んでみたら?
まあ、今でもイラク兵を虐待しているしなあ・・・・米軍は。
35 :
日本人 :2006/03/31(金) 20:30:14 ID:AV9jfOVo0
バターン攻略戦の日本軍馬車で大砲牽引し兵隊は徒歩。つい60年前の帝國陸軍。 マニラの車社会となんかチグハグ。車の運転なんてほとんどの兵隊ができず、なんとも 思わず、歩かせた。というのが現実。
>>10 吉田裕 か
この手の岩波的書物の文章には事実経過と総論があるけど後者は筆者の独断だよ
絶対違った見方もある筈だ。
今のWiki見れば辞典というものの近現代史項目における危うさは一目だが
紙の辞典はこの人らに項目を埋め尽くされてしまった。
>>28 終戦直後のフィリピンでは、
武装解除された日本兵の多くが米軍捕虜キャンプで餓死している。
生き残った日本兵は12万人いた。
米軍は6〜7万人だと思っていたらしい。食料が決定的に足りない。
終戦直後は歴戦の米兵達がいたから、なんとか食料を分配してくれて
まだ良かったらしいが、45年のXマスに歴戦の米兵が帰国し、
戦闘経験の無い新兵が来たら、日本兵は犬コロ扱いになり、
餓死者が続出したそうだ。まあ、そんなもんだ。
バターン行進なだけにバターン、バターンと死んでいきました なんてな、なんてな、なんてなー
(´・ω・`)ショボーン
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/05/05(金) 13:26:46 ID:Tkm7gwjg0
>>28 リンドバーグ第二次大戦日記より
「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。
爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、
待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているの
を見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する
我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」
「わが軍の兵士たちは、日本兵の捕虜や投降しようとしている者を
射殺することを何とも思っていない。彼らは日本人を動物以下のものとして
取り扱い、それらの行為がほとんどみんなから大目に見られている」
『捕虜にしたければいくらでも捕虜にできる』と将校が応えた。
『ところが、わが方の連中は捕虜を取りたがらないのだ』
『パラシュートで降下してきた日本航空兵を二千人ぐらい捕虜にした。
しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。
残りのにはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、
機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』
『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』と別の将校が
調子を合わせる」
『オーストラリアの連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に
送らねばならなくなったときの話を知っているかね?
あるパイロットなど、僕にこういったものだ。
捕虜を機上から突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと
報告しただけの話さ』
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード) 1943年の米軍の調査では,米兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えていた. その狂気はそのまま戦場に持ち込まれた. 従軍記者エドガー・L・ジョーンズは次のように書いた. 我々は捕虜を容赦なく撃ち殺し,病院を破壊し,救命ボートを機銃掃射し,傷ついた敵兵を殺し, まだ息のある者を他の死体と共に穴に投げ入れ,死体を煮て頭蓋骨を取り分け, それで置き物を作るとか,または他の骨でペーパー・ナイフを作るとかしてきた. (小林よしのり「戦争論3」,p.238) 【ツッコミ】 その「1943年の米軍調査」データの出典は何なんですかね? 小林の他の事例から観て,歪曲引用していることも多いので,ぜひとも出典を明らかにして疑念を晴らして欲しいものですな. また,捕虜に対する残虐行為ですが,そんなもの米軍に限ったわけではなく,各国軍に普通に発生しうる戦場の狂気の例でしかありません. 小林は,この記述を,「アメリカは日本人を人間扱いしていない」の一例としたいようですが,見当外れですね. 逆に,日本兵捕虜が寛大な扱いを受けた例も数々あります. 沖縄戦の日本兵捕虜の手記(なんと阪神の松木選手だ)では食い物たっぷりくれるし、 シャワーやらトイレやらの設備もちゃんとしてるし、退屈で暇をもあましてるようだと用具や景品を支給して 野球大会やなんかのレクリエーションもしてくれるし、労働力として使役する時はちゃんと代価を払ってくれるし、 脱走を試みて捕まっても殴ったり蹴ったりされるわけじゃなし。 みんな暇をもてあまして支給された煙草(収容所内ではこれが通貨代わり)を賭け,カブや麻雀したり。 印象に残ってるのが,彼が使役された時にアメリカ将校から直接言われた言葉で, 「自分はドイツ兵捕虜の収容所にも勤務した経験があるが、ドイツ兵は文句ばかり言ってちっとも働かないのには閉口した。 日本兵は文句も言わずによく働いてくれるが,コソ泥を働くのには困ったものだ」 なにせ日本軍では,他の自軍部隊から盗んで 「員数を合わせる(装備の定数を確保すること.足りていないと班長にブン殴られる)」 ことには慣れてるし、コソ泥やっても米軍は追求甘いから滅多に捕まらないし、捕まっても大して厳しい処分されるわけじゃなし。 ことに,釈放されて日本へ帰国する日が近づくと土産品調達のため,泥棒は一層盛大になったそうで。 米兵の腕時計なんかは格好の標的で、それをチェックを潜り抜けて持ち出す手口なんかも紹介されています。 逆に日本が優勢だった頃の米兵捕虜の扱いも,小林が引用している例に負けず劣らずです, いわゆる「バタアン死の行進」では,移送中の捕虜が些細なことで監視の日本兵に斬られたり,殺害されたりしており,倒れた重病の兵はそのまま路傍に放置されています. また,日本本土では,捕虜収容所へと移送されている米兵捕虜を見た一人の婦人が 「おかわいそうに」 と言ったのを、運悪く憲兵に聞きつけられて、拷問こそされなかったものの,婦人はこっぴどく怒られた上に、翌日の大新聞には 「鬼畜米兵におかわいさうにとは何事か!」 「大和撫子の風上にも置けぬ」 等などの大袈裟な見出しが踊り、婦人の家族は街にもいづらくなって引越ししたとかしなかったとか・・・・・ ちなみに、その婦人をそこまで追い詰めた大新聞とやらは某朝日. ソースは、当時新兵として徴兵されて内地にいたお人の手記です。(著者はのちに台湾に派兵されている。思想的にはノンポリ) (エセ保守監視小屋),加筆 物事の一面だけを書き立て,都合の悪い部分は無視するというのは,中共なんかがよく行うプロパガンダ手法ですな.
いったい米比軍は持てる弾を撃ち尽くし,持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し,これが尽きれば平然として手を上げる. 降伏すれば,その時から日本軍は我々を給養する義務があると嘯いている. 虫のよい考えである. 米比軍がこの捕虜の移動を『死の行進』と言うならば,〔その戦闘においての〕戦勝国たる日本軍の移動は『超死の行進』だ. 現に捕虜群と並列して進む日本軍の姿を見よ.重い装具をつけて,喘ぎながら進んでいるではないか.貴様らに散々撃たれ,肉 体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ.できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ.貴様ら を軽装で行軍させるのが,むしろ慈悲だと思え,と言いたい. 勝った軍が,負けた軍以上の苦しみを味わわねばならん理由はないのだ
>>43 大佐、そこまで言い切っちゃうと極東軍事裁判が・・・
45 :
日本人 :2006/06/25(日) 19:25:36 ID:Qg7e+MlO0
バターン、コレヒドールの戦い後の写真を見た、数百台の遺棄された車。 徒歩で歩く日本兵。宝の持ち腐れ。ほとんどの兵隊が運転できなかったのがよく わかる。近所の爺さん、運転なんて紳士のやることではない。とうそぶいてる。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/14(土) 02:24:29 ID:/B30JdYG0
「わが町」よかったな
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 15:43:15 ID:c5b+bRk50
英語版Wikiのバターンがあまりにも一方的に米国視線に偏っているので もう少し日本の見方も盛り込みたいです。せめて日本語版の視点も盛り込みたい。 敵地に攻め込む以上、資料、引用文献がきちんとしていないとはねられてしまうので いろいろ資料を探しています。 英文の資料がベストですが、日本語でも軍関連の一次資料等であれば説得力は強いと思います。 特に、日本軍の食糧事情、行軍中の日本兵死者数などに関する一次資料を探しています。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/03(水) 04:52:26 ID:OZYOQ+HbO
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/05(土) 23:55:11 ID:ew0WS+xu0
>>せめて日本語版の視点も盛り込みたい なんだ視点って? 何日も満足に食事をとらず、マラリアにかかっていた 米軍の捕虜を歩かせて大量の死者をだしたのは 紛れもない事実だろ 視点もくそもあるか
視点というか事情を書きたいんだろ 日本軍は移動といえば徒歩だったとか 物資もろくになかったとか
>>49 そして、徒歩で歩かせる以外に方法はなかったというのも紛れもない事実。
つまり、君はそこに置き去りにして、自分達だけで帰れば良かったといいたいわけだ。
なんという鬼畜な奴だ。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/08(火) 01:13:47 ID:tLUYKXGa0
>>40 >オーストラリアの連中はもっとひどい
看護婦集団虐殺の話とか耳に入ればなあ、
そりゃキレるだろ。
>>52 誰もそんなことは言っていない。
アメリカの捕虜が大勢死んだのは
事実であり、どこからどういう見方を
しようと覆せない。
>>54 結果はそうだけど、何でそうなったかを調べないと話にならない。
事件事故を起こしたとき、結果だけを見て断罪する奴はいまい。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/18(月) 07:12:09 ID:ZjvxuHy40
バターン死の行進で日本兵も死んでいるんだけどなあ(‘‘
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/07(水) 22:49:48 ID:TkWfEmbO0
■バターン死の行進の真実
1942年4月10日降伏した米比軍は8万もの捕虜を出し、これは日本側の予想を
大きく上回るものであり、日本軍はこの半数にも満たなかったという。
日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、
また食料調達の事情などから日本軍はサンフェルナンドに収容所を建設し、
トラックなどが不足していたため捕虜を護衛付で行進させることになった。
コレヒドール要塞では食料が尽きており、また日本軍さえも十分な食料を用意
できておらず、さらに炎天下で行進が行われたために、
60 - 70キロの道のりで多くの日本兵と米兵捕虜と難民が倒れた。
アメリカ側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として世論の反日感情を
掻き立てたが、日本で放送を傍受した軍関係者はその意味がわからなかった
といわれている。なぜならば当時の日本軍はトラックなどが不足していたため
将兵の移動も徒歩で行うことが当たり前であり、また輸送の際は警護する兵士も
重装備の上で同じ距離を歩いていた為、
日本側の認識ではこの捕虜移送は残虐な行為ではなかったためである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/10/16(木) 21:57:14 ID:ERrtsRdI0
20 世紀日本の戦争史年表(2)
17.1 シンガポールでは、2 月 8 日から凄まじい戦闘が行われ、英軍のほか、オーストラリア軍・
抗日華僑義勇軍が抵抗した。
17.2.15 ブキテマ高地の水源地を日本軍が抑えたため、パーシバル総司令官が降伏した
=シンガポール陥落。このとき、約 5 千人といわれる抗日華僑義勇軍は、市民の中に潜入した
ため、日本軍は、その掃討作戦を展開し、捉えた者(民間人も含まれていた)を殺害した
=「シンガポール虐殺」。占領中の犠牲者は、6 千人とも 4 万人(華僑発表)ともいわれる。
17.4.9 バターン半島の米比軍が降伏。日本軍も大きな損害を出す。約8万の同軍捕虜は
徒歩行軍によりマニラに移送される。
このときの移送は戦後のマニラ軍事法廷において“バターン死の行進”として、本間雅晴中将
がその責任を問われる訴因となった(他に隷下将兵による戦時国際法違反行為の包括的責任
及び収容所での捕虜の待遇)。→21.2.11 銃殺刑の判決。弁護団が米国最高裁に再審請求を
行ったが管轄外を理由に却下され、4.3処刑される。
しかし、降伏前に既に米比軍においては食料・物資不足に加え、マラリア患者が 80%を
超えて悲惨な状態にあり、それゆえに降伏するに至った。同様に日本軍も 4 ヶ月に及ぶ密林の
露営生活で食糧難、マラリア罹患により惨憺たる状態にあった。また行軍においては、
捕虜は軽装、日本軍兵士は 20 数キロの完全装備を負っていた。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckaaw001/armynote2.pdf 「バターン死の行進」も「シンガポール虐殺」も完全な言いがかりだな。
「シンガポール虐殺」の方は南京事件と同じく、シナ人の典型的な国際法違反の
戦闘行為を行った便衣兵を合法的に処刑したわけだ。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/11/23(日) 06:07:59 ID:1qubYQEd0
「毎日」系企業が出す「エロ雑誌」が過激すぎる
週刊文春(7月31日号)P137〜P138より抜粋
http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/ 7月20日、毎日新聞1面に「お詫び記事」が掲載された。毎日新聞が謝ったのは「ファーストフードで女子高生は性的狂乱状態」等々、
引用も憚られるような<品性を欠く性的な話題>で溢れ返っていた毎日の英文サイトコラム「waiwai」についてだった。
だが、その過激さにおいては「waiwai」を遥かに凌駕する雑誌を「毎日系企業」が発行しているから驚きだ。
「毎日新聞が出資する毎日コミュニケーションズの100%子会社が過激なエロ雑誌を作っているんです」(毎日新聞関係者)
毎日コミュニケーションズ(以下、毎コミ)とは、毎日新聞の関連会社として設立され、同じパレスサイドビルに入居する企業。
毎日新聞社は同社株を9%保有する第3位の大株主で、非常勤監査役に菊池哲郎・毎日新聞常務が名を連ねている。
毎コミといえば、大塚愛を起用したCMが話題の就職情報サイト「マイナビ」が有名だ。リクルートの「リクナビ」と並び、
最近の就活生には欠かせないアイテムだという。
(中略)
就活情報ならぬ、「エロ情報」を発信しているのは、01年に毎コミの100%出資で設立されたMCプレス。
同社は『DVDヤッタネ!』や『DVDデラデラ』などヌード満載のDVD付きグラビア誌4誌を毎月、発行しているのだ。
しかも「就活生を脱がす企画もある」(前出・関係者)という。
早速、確認してみると、『ヤッタネ!』4月号で「就活生を狙え 今はいているパンツに穴を開けていいですか?inマ○ナビ」
という企画が掲載されていた。付録のDVDではリクルートスーツ姿の女の子3人が、あられもない姿に。いくらなんでも、
これはちとヤリ過ぎでは・・・
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/08/13(木) 22:13:02 ID:jf1+Vl5H0
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/08/13(木) 22:14:40 ID:jf1+Vl5H0
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/08/13(木) 22:17:46 ID:jf1+Vl5H0
■[リベラル]笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、
どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その2)
それでは、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。
組織的残虐行為だったのか
「バターン死の行進」は、ナチスドイツのホロコーストと同列に、組織的計画による残虐行為として
論じられてきたが、戦後六十年を経た今、さまざまな角度から見直されつつある。
日本軍は事前に輸送計画を立てたが、捕虜が想像以上に多かったためトラックなどの
輸送手段や収容施設、医療施設に事欠いたこと。また日本軍は徒歩による行軍が当たり前
だったこと。もともと日本軍に食料は乏しく、捕虜に支給する余裕はなかったこと。しかも
日本軍は小銃を構え、完全軍装でこの行進に臨んでおり、軽装の捕虜のほうが楽に歩けたこと
----等々。しかも、バターン半島の米軍司令官は降伏したものの、対岸にあるコレヒドール島の
米比軍との砲撃戦はまだ続いていた。日本の軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏は、
これを「死の行進」ではなく、砲撃を避け、食料のある場所に移転するための「生の行進」だった、
と指摘しているほどだ。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060501
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/08/13(木) 22:23:45 ID:kUPliQB60
その通りです。 しかも、その戦死者の数を言えば、アメリカ兵はわずか、殆どが日本兵と、現地人です。 死の行進とはアメリカ兵が行なったものです。自分たちだけ逃げる。かなり中国人(漢人にちかい)発想です。
100kmを5日で、重い荷物も持たずに歩くなんて、日本軍では超楽勝。 日本軍なら30kgのフル装備で1日40kmぐらい歩くのが当たり前。 米軍はトラック移動が当たり前だったから、基本的な行軍訓練が 全く出来ていなかっただけ。 攻守変わって、日本軍がルソン島北東部に追い込まれて敗戦降伏になった際、 11万人の日本軍捕虜が出て来たが、米軍も突然表われた11万人に 対処出来る筈もなく、1日1回メダマ粥と言われるスープ(水同然なので メダマが映るからメダマ粥)を支給しただけで、日本軍捕虜に餓死者が続出した。 米国政府は、米軍の捕虜収容所で大勢の日本軍捕虜を大勢餓死させた事に 謝罪したのか???
なるほどね。
ふむれす
だねだね
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2010/08/01(日) 05:15:10 ID:HhtTE//A0 ベストセラー小説「真夜中のピクニック」のモデルにもなった 某高校の歩く会の行事は一昼夜で80キロだっけ。