滅亡・改易大名家のその後

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304名無しさん
>>302
崇伝がいましたね。

>>303
大崎家は、分家なので除外していました。
斯波家は、足利泰氏の庶長子(今の大河の桔梗の子)の家氏を初代とし、その曾孫の高経(新田義貞を倒した人物)が足利尊氏に仕えて越前や尾張の守護になります。
そして、その高経の弟の家兼が室町幕府の奥州探題となります。
その後、奥州探題から羽州探題が分離し、家兼の長男の直持の子孫が奥州探題大崎家に、次男の兼頼の子孫が羽州探題最上家になります。
大崎家は、義隆が秀吉の小田原攻めに参陣せずに改易となり、子孫は伊達家に拾われてその客将となりました。
最上家は、義光(よしあき)の代に戦国大名化することに成功し、関ヶ原の戦いののちまで存続しましたが、義俊の代にお家騒動を起こして改易となり、子孫は高家・交代寄合として存続しました。

大崎家系図
直持−詮持−満詮−満持−持詮−教兼−政兼−義兼−義直−義隆

最上家系図
兼頼−直家−満直−満氏−義秋−満氏−義淳−義定−義守−義光−家親−義俊