滅亡・改易大名家のその後

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224日本@名無史さん
>>222
http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/DramaticBlood/contents/ukita.html
 八丈島は江戸期を通して、約1800人余の流人が送り込まれたが、秀家一族は「宇喜多一類」「宇喜多流人」等と呼ばれ他の流人とは別格に扱われていた。そんなことで長男・孫九郎は代官奥山縫殿助の娘を娶った。
 孫九郎、小平次ともに二人の子供をもうけた、彼らの子孫は島の人々の中に溶け込み、島の娘と結婚して多くの家系を作る。秀家の妻の実家・前田家からは、明治に至るまで毎年白米70俵、金子、衣類、薬品、雑具など、多量の物資が八丈島の宇喜多家に届けられてはいたが、生活は決して楽ではなかったようだ。
 明治3年、新政府の恩赦により赦免され東京に入った。秀家が流罪になってから、実に260年以上たっている。この後一族は、士族に加えられ明治天皇より板橋に約20000坪の宅地を賜わっている。