滅亡・改易大名家のその後

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157ちびた
>>151 152の通りです。この10代将軍義植(タネ)系の平島公方家のほかに、義昭の弟・尾池玄蕃頭義辰の系統の西山家(肥後細川客分)があるがこれら両家とも北朝系ということで>>153の新田家(150石で、貧乏といわれる公家でも中堅以下クラスの公家より低いくせに明治17年早々に男爵となった)とは明暗を分けた
>>153 三家の付家老(おおむねが3万石前後の城主クラス、幕閣では老中になれる石高)や八代の城持ちの松井、白石の片倉は格式上当然、その他でも3万石以上の陪臣は(実際これらの家=先述の付家老を除く、が男爵を受けたのすら16年遅れ前後遅かった)成瀬以外も子爵にすべきだった。