継体天皇って先代達と血つながってんの?

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1日本@名無史さん
高校の歴史資料集に系図とかよく載ってんじゃん。
で、飛鳥時代の継体天皇って、いわゆる神武とかとはえらい遠縁でさ、
なんか怪しくないか?、名前からして。



神武―…―一〜-縦1,000〇ー時bbム
21:2001/08/11(土) 04:25
↑下の方の「神武―…―一〜-縦1,000〇ー時bbム」
ミスだから気にしないで
3日本@名無史さん:2001/08/11(土) 06:02
大和の娘とは結婚してると思うから、女系ではつながっているのでは。
でも欽明帝(聖徳太子の祖父)の母は誰か知らないけど。
4日本@名無史さん:2001/08/11(土) 07:52
先代と血は繋がってなくとも、朝鮮の血は守ってる、それが天皇家だよ
5日本@名無史さん:2001/08/11(土) 10:33
てゆかさ、それを血が繋がってる、とか言うなら、
どいつも数千人とかの「親戚」がいるわけだよね。

でも、現人神の血は濃ゆいので、薄まっても意外にキクのかもよ。
6日本@名無史さん:2001/08/11(土) 12:29
欽明天皇の生母は手白香皇女とされている。手白香皇女は24代 仁賢天皇と春日大郎皇女
の間の皇女で25代 武烈天皇(仁徳天皇系最後の天皇)の妹とされている。

継体天皇(男大迹王)は、釈紀に引用されている「上宮記」逸文から。。。
応神ー若野毛二股ー意富富抒ー乎非ー汗斯ー継体 と見ることが出来るだろう。

なお 20代安康、21代雄略の生母は若野毛二股の子の忍坂大中姫とされている。従って
両天皇と意富富抒とは母系の従兄弟になる。

継体の生母は布利比売とされているが、これは垂仁天皇皇子の磐衝別(伊和都久和希)
の系統とされている。この磐衝別は「国造本紀」によれば加賀・能登国造 三尾君の祖
とされているので、継体と越前との関係も肯ける。

この程度の血縁を持つ親族が王位に就くことは、諸外国でも良くあることで、我国でも
徳川将軍家においては御三家・御三卿の制度があったことにもよるが、
吉宗は家康ー(頼宣)ー(光貞)ー吉宗、その後も家斉は 吉宗ー(宗尹)ー(治済)ー家斉、
家茂は吉宗八世孫、慶喜にいたっては吉宗とは別系統の家康十世孫(?)である。

新羅末期の第38代 元聖王(785〜799)は、何と第17代 奈勿王(356〜402?)の12世孫
とされている。継体が天皇家一族から推挙されたことに関して、特に異とすべき理由は
ないだろう。(なお俺はこの件に関しては、以上をもって終了する)
7日本@名無史さん:2001/08/11(土) 12:59
>>6

素直な人だね、あんた。

「・・とされてる」ったって、ホントか・・? と十分疑えるというか、
疑えよなー、つか。第一、曲がりなりにも近世の徳川家の事例と、
携帯天皇の時代とを同日に論じるのはひじょーに無理があろう。

宮廷政治なんてのはキキカイカイ、陰謀渦巻くセカイであってさ、
「そう公式発表されてる」からといって、全部飲み込むのもなぁー。

ただ、そういう嘘っぽさ、テキトーさ、も含めて全肯定すべし、
と言うのが論旨なら別に言う事ないけど・・。

現代人がこの系図を見て、「ひじょーに疑わしいし、なんか安直だよな・・」
と感じるのはごく自然だと思われ。
8130:2001/08/11(土) 14:12
>>7
ありがとよ!
俺は史書を100%信じる奴は馬鹿、100%嘘だと言う奴は怠惰だと言う考えでね。
徳川の例は、あれほど大奥で子作りに励んでも、宗家が断絶することがある。
その場合は傍系から宗家を継ぐことが幾らでもあるって言う人間生理共通の
例証なんだよ。。。これは近世も古代もないってことよ!
(始祖家康の傍系十世孫が宗家を継いだってのが、古代系譜に書かれていりゃ
あ「ひじょーに疑わしい」って言うかも知れないが、これは疑いようも無い
事実ナンダぜ!)

継体は聖徳太子からすれば曾祖父だ。関東の豪族クラスだって何世代もの系
譜を伝えている様な、血統を重視する社会では誤魔化しようがないレベルの
近親親族がゴロゴロしてんだよ。
この系譜を嘘だと言うのなら、アンタその理由を示すべきじゃないのかネ?
ただ単に、「ひじょーに疑わしいし、なんか安直だよな・・」ってったって
どうにもならんだろう。。。ただ史書なんて全部嘘だらけだってのなら話は
別だ。。。そういう事なら文献史学から足を洗うこったな!
9日本@名無史さん:2001/08/11(土) 14:21
>>8

これは言い過ぎだろう。
継体天皇の時点で断絶があったのでは、という疑いは
明治以前からあるもので、けして理由がないものではないぞ。

そう書いてある、てのと、ジジツ、てのは違うわけで。

>>血統を重視する社会では誤魔化しようがないレベルの
>>近親親族がゴロゴロしてんだよ。

血統のごまかしは昔も多々あった。特に平安末期のような
風紀の乱れた時代は酷かった。貴族の日記なんかでも

血統を重視するから、確かに系図上のつじつまはあわせようとする。
しかし、その系図が正確か、というと、それは全く別問題、てこと。
10日本@名無史さん:2001/08/11(土) 19:40
>>9
ああ、生物学的血統関係なんかは誰にも分からんよ!
史学のうえで意味があるのは、社会学的血統関係。。。つまり親族・縁者・臣下が
血統関係があると認めていれば、生物学的「事実」にかかわらず、それが「事実」
なんだ。それ以上のことは神のみぞ知るってことだナ!

古代の系譜については確かに疑問が持たれていたヨ。しかし稲荷山鉄剣はそう言っ
た疑問を吹き飛ばしたね。継体よりも時代が古い 5世紀の辺境の地である関東の豪
族が8世代の系譜を漢字表記で記録してるんだ。
津田博士がこれを知ってたら、彼だって抹殺を躊躇しただろうよ。
11日本@名無史さん:2001/08/11(土) 19:44
>10
で、継体は社会学的血統関係とやらがあったの?なかったの?
12日本@名無史さん:2001/08/11(土) 21:05
>>11
記紀を否定し、社会学的血統関係がないとすべき根拠はなにもない。
従って現時点では肯定すべきであろう。
貴君が否定すべき根拠を示されるのならば、是非お聞かせ頂きたい!
13日本@名無史さん:2001/08/11(土) 21:15
>11
「べき」という言葉は大嫌い。
記紀を否定する根拠がないように肯定する根拠もない。
それだけ。
単なる娘婿では困ることはわかる。
14日本@名無史さん:2001/08/11(土) 21:15
>11 → >12
15日本@名無史さん:2001/08/11(土) 21:20
継体天皇は天孫系、つまり朝鮮半島から来た朝鮮人である。
16日本@名無史さん:2001/08/11(土) 21:22
>15
たのしい?
17日本@名無史さん:2001/08/11(土) 21:34
継体の場合、
一番の問題は日本書紀に系譜が書かれていないことだ。
系譜は「上宮記」逸文があるからわかるんだけどね。
どうして日本書紀がそれを書かなかったのかってこと。
書いちゃマズいからだよ。
応神五世の孫なんて大和にゃゴロゴロいたはずなんで、
身分の高い母親から生まれた皇子に皇位継承権があるはずだ。
桓武五世の孫である平将門にそんなものないだろ。
それと同じこと。
継体の系統は越前の豪族になってたんだ。
自分より上位の者を全部排除して皇位を簒奪したんだよ。
20年も大和の周辺をウロウロしてたのも説明がつく。

それと、「国造本紀」という独立した書物はないよね。
「先代旧事本紀」の一部だろ。
江戸時代までは日本最古の歴史書と信じられてたが、
今では物部系の人が平安初期に作ったとされている。
それ自体成立が古いからそれなりの価値はあるけど、
聖徳太子に仮託した偽書なんで、
記紀や奈良朝以前の金石文と同列に扱うのはフェアじゃない。
18日本@名無史さん:2001/08/11(土) 23:25
豪族化してたにしろつながってるんならいいじゃん。許してやろうぜ。
19日本@名無史さん:2001/08/11(土) 23:38
天武天皇も近江朝廷を覆した簒奪者ですね。永楽帝のようなもの。
20日本@名無史さん:2001/08/11(土) 23:39
ようするに、天皇は全部朝鮮人ですね
21日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:05
>>18
平将門や足利義満も血はつながってるけどいいのか?
蘇我入鹿も血はつながってることになってるが。
22日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:05
朝鮮人ってナニジン?
23日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:14
>>21
蘇我入鹿にしたら、ちょっと前に皇室との関係が怪しい者が皇位を簒奪したんだから、
自分が皇位に就いても問題ないと思っただろうな。多分道鏡も同じだな。

当時の人たちは「今の皇室は正統性が怪しい」と普通に思ってたんじゃないかな。
24日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:18
>>23
道鏡は違うと思うけど。
25日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:20
>21
臣籍降下してなかったんだからいいじゃん(w 許してやろうぜ
26結論:万世一系:2001/08/12(日) 00:21
神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀応神
仁徳履中反正允恭安康雄略清寧顕宗仁賢武烈継体安閑宣化欽明敏達
用明崇峻推古舒明皇極孝徳斉明天智弘文天武持統文武元明元正聖武
孝謙淳仁称徳光仁桓武平城嵯峨淳和仁明文徳清和陽成光孝宇多醍醐
朱雀村上冷泉円融花山一条三条後一条後朱雀後冷泉後三条白河堀河
鳥羽崇徳近衛後白河二条六条高倉安徳後鳥羽土御門順徳仲恭後堀河
四条後嵯峨後深草亀山後宇多伏見後伏見後二条花園後醍醐後村上
長慶後亀山光厳光明崇光後光厳後円融後小松称光後花園後土御門
後柏原後奈良正親町後陽成後水尾明正後光明後西霊元東山中御門
桜町桃園後桜町後桃園光格仁孝孝明明治大正昭和今上
27日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:27
仁孝孝明明治はしりとりだな。
28日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:27
>>25
本当に血がつながってたにしても臣籍降下してたって。
当時、5世にわたって皇族扱いされてたとは考えられない。
皇位に就いてから、自分の先祖に○○王とか追号したんだろ。

もし、蘇我入鹿が皇位に就いてたら、自分の先祖(稲目や馬子や蝦夷たち)
に○○王とか追号しただろう。

平安時代に一旦臣籍降下してから皇族に復帰して皇位に就いた天皇がいたな。
何天皇だっけ?
29日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:38
宇多
30日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:42
>>28
当時っていつ?

入鹿が皇位について、今もその系統が続いていれば
追号なんて必要ないでしょう?
31日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:44
当時は何世たとうが王は王じゃないのか、地方豪族化しても。
皇族が地方に土着した連中の系図見てるとかなりあとあとまで
何とか命とか何とか王とかいってるの多いぞ。
3228:2001/08/12(日) 00:48
>>30
古墳〜飛鳥時代。

いや、だから本当は皇族扱いされてなかった入鹿の先祖を皇位に就いた
入鹿がそれら先祖を皇族だったことにする、ってこと。
「追号」って表現は不適切だったかも。スマソ。
33日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:49
允恭皇后忍坂大中津姫の実家ってことも関係あるんじゃないのかな。
隅田八幡の鏡のオシサカ宮とか男弟王とかも面白いね。
3428:2001/08/12(日) 00:51
>>31
う〜ん。そうなのかな。臣姓氏族は大体皇室を祖とするけど
彼らは皇族扱いじゃないと思うのだが。
35日本@名無史さん:2001/08/12(日) 00:58
>32
そうではなくて、簒奪して王位につくのなら
皇族である必要は全くないでしょってことです。
36日本@名無史さん:2001/08/12(日) 01:05
臣姓って孝元以前の後裔だろ。そんな早い時代に別れた連中はそりゃそうだろさ。
俺が言ってるのは継体の時期を指して溯らない頃に源を発する皇族ってことさ。
ちょっと言葉が足らなかった。スマソ
37解決黒頭巾:2001/08/12(日) 01:53
継体天皇は邪馬壱国の本国、日向(宮崎県)の安羅国の天皇。
卑弥呼→壱与→・・・継体→安閑→宣化→・・・アマタラシヒコ・・
と安羅国の歴史が続く。

日本書紀の目的のひとつに、安羅国の歴史を隠すことがある。
38日本@名無史さん:2001/08/12(日) 06:28
39日本@名無史さん:2001/08/12(日) 13:14
>>継体よりも時代が古い 5世紀の辺境の地である関東の豪
>>族が8世代の系譜を漢字表記で記録してるんだ。

これは携帯天皇がいかにもアヤシイよな、というこのスレの議論とは
あまし直接の関係がない話しと主我。
40日本@名無史さん:2001/08/12(日) 13:31
だいぶ間はあいちゃったがちゃんと天皇の子孫だ!って記録が
残っててもヘンじゃないって意味だろ?
41日本@名無史さん:2001/08/12(日) 14:57
>>17
継体以後に名前の出てくる応神系の人って居る?
ほとんど雄略が殺し尽くしてるんじゃ無いの。
仁徳と反正にそれぞれ男系がいて殺されたと言う記録はないけどね。
後は息長系の人かな。居るとしたら。
428・10:2001/08/12(日) 16:35
>>17継体の系譜が何故記紀に明示されていないのか?確かに問題だろうね。
一つの解釈は、書紀には系図一巻が附けられていたから、それを見れば分か
るからってのもあるが、だからといって系図と重複して記述したって一向に構
わないんだからイマイチ説得力がないのも事実だ。

だけど、逆に継体の系譜が本当は応神(大王家)と繋がっていないのに無理矢
理これと繋げようとするならば、応神五世孫なんてまどろっこしいことを言わなく
とも、反正でも允恭でも適当な天皇の孫か曾孫と言うデッチアゲ系譜を創作すり
ゃあ至極簡単なことだしね。
もっと言えば、大王家とは異なる自分達の先祖や係累を全部否定して、大王家
の祖神を敬い大王家の係累を重用するってのもケッタイナ話になってしまう。

>>39 471年頃の関東の豪族が八世代の系譜伝承を伝えている(概ね上祖は
250年以前の人物になる)ってことは、当時の大王はモチロン多くの大豪族達は
その程度の系譜伝承を持っており、周囲の豪族達もそれを熟知していたと見る
べきだろう? つまり継体の系譜だって、簡単に誤魔化せるようなものじゃあなか
ったってことだ!

>>17
で、アンタの言うように血統上は継体に優先しうる人物も多数いたんだろうな。
(現に書紀では仲哀天皇五世孫の倭彦王の存在を記述しているよね)

ここからは、単なる俺の憶測でしかないけど。。例えば、逆賊とされている
磐井の存在だ!
磐井は君姓だが、系譜に関する詳細記述がないってのも不自然だし、あるい
は継体よりも優先すべき系譜だったのかも知れない。書紀の基本姿勢として系
譜上の嘘は書けないが、沈黙は嘘ではないから差し支えないと考えたんじゃな
いだろうか。 オオトが越前方面の王族かつ大豪族ならば、イワイもそれに勝
る九州方面の王族かつ大豪族だった(おそらく応神系?)。継体は大王家の重
臣と計って、血統に勝るイワイを出し抜いた。。。イワイの乱なるものは、天
皇家継承戦争でもあった。。。それを書紀は秘匿した。ってとこでどうだろう?
(単なる憶測だから、別に賛成してくれとは言わないけどね)

なお、先代旧事本紀を記紀と同列には置くつもりはないが、有力な傍証としての
価値はあると思うんだけど?
438・10・42:2001/08/12(日) 17:20
>>41
天武13年に「八色姓」が定められた。この時に従来「公(きみ)姓」を賜わって
いた以下の王族に対して「真人姓」が与えられたね。

守山公(モリヤマ)・路公(ミチ)・高橋公(タカハシ)・三国公(ミクニ)
・ 当麻公(タギマ)・茨城公(ウマラキ)・丹比公(タヂヒ)・猪名公(イナ)
・ 坂田公(サカタ)・羽田公(ハタ)・息長公(オキナガ)・酒人公(サカヒト)
・ 山道公(ヤマヂ)

このうち、守山から坂田までと酒人は継体・敏達・用明・宣化等の継体系天皇の子孫
だけれど、羽田からは継体同様に若野毛二俣王(応神の子)の系統となってる。
とくに息長真人系の祖である息長真手の娘広姫は欽明の皇后として敏達などの生母と
なっているね。
44解決黒頭巾:2001/08/12(日) 20:41
磐井は安羅王家の一員。
日向の安羅国は、金官加羅なきあと、その旧地であった豊国を支配した。
したがって、筑紫の磐井は安羅王家の一員と考えられる。

大伴金村が安閑天皇のことであるから、金村の子の「磐」が筑紫の磐井君とわかる。
45日本@名無史さん:2001/08/12(日) 21:00
応神天皇の5世孫ってのは
「応神天皇」っていう存在が広く流布するようになってから
作られたと思う
それ以前には、まぁ誉田王の伝承みたいなものはあっただろうけど
それ自体、出自のハッキリしない人物に関する
伝承みたいなものだから。
前王統との血縁関係を盾にして王位につこうとしてたってことは
当時、それくらい血縁関係が入り組んでて、ウソかホントかも
イマイチハッキリしなかったんではないか?
46日本@名無史さん:2001/08/12(日) 22:07
あれ?
血統的には繋がりがない越前の豪族だっていう方が、むしろ
定説に近いと思うけど?
47日本@名無史さん:2001/08/12(日) 22:10
wohoto
48解決黒頭巾:2001/08/12(日) 22:27
越前は豊前の書き換え。
49日本@名無史さん:2001/08/12(日) 23:23
何度も言うが辺境の地である関東の豪族が、470年頃に八世代(上祖は250年以前の
人物)の系譜を漢字で残してるんだぜ!
57年には後漢と通交して金印を授受され、107年には生口160名送るような巨大な権
力を持ち、239年から245年に魏と通交して親魏倭王の金印を授受され、その後東ア
ジアでは類を見ないような巨太古墳を造営し、390年頃には半島に出兵して高句麗と
覇権を競い新羅・百済から王世子を質に取り、413年から宋と通交して502年には堂
々たる正格漢文で外交文書を作成して南韓の軍事支配権を承認させ、韓国南部に自
国の大古墳を造営した。。。そういった歴史を持つ国であり、その国の大王位に就
いたのが継体だぜ。

アンタらの倭国観は、毛皮を着込んだ原始人が採集生活を行ってたと言う過去の縄
文時代観から一歩も抜け出てないんじゃない? 倭国では既に縄文時代に部族国家的
な権力集団が発生してんだよ! それから約800〜900年が経過している。
そろそろ、従来の倭蛮国観を見直したほうが良いんじゃないかと思うんだがね?
50日本@名無史さん:2001/08/12(日) 23:39
きちんとしたつながりがあるのなら
5世の孫とか敢えて言い出す必要もないだろう
あったとしてかなり怪しいもの
でも、まったくなかったとしたら別に応神に繋げる必要はないと思うし
もっと近い、雄略やら仁賢やら武烈やらで構わないのではないかと思うんだけど
51日本@名無史さん:2001/08/12(日) 23:55
>50
5世ってとこがミソじゃないの?
52日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:00
平将門は桓武天皇五世の孫だし、源義家は清和天皇六世の孫。
平将門が天皇になったり、八幡太郎義家が天皇になるのと同じ事だよ。
53日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:02
>>50

継体の出自に関係あるんじゃないかな。
応神と同じ息長氏の出自という説があり、それぐらいしか応神
朝と関係なかったと思う。
54日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:04
>52
全然ちがう。
臣籍に下ってるじゃん。
55日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:10
>>46
>血統的には繋がりがない越前の豪族

何でそんな奴が天皇なれんだよ(藁

皇統譜を見る限り仁徳の子孫は絶えている。
継体に匹敵及び勝る皇族がうゴロゴロいたわけではない。
応神の子孫で続いていたのは二俣王の他には長男額田大中彦がいるが
継体には匹敵すべくもない小豪族。だから継体がふさわしいだろう。
ちなみに仲哀の子孫では忍熊王と誉屋別皇子の後が続いているので
倭彦王はどちらかの子孫だろう。
56厩戸皇子:2001/08/13(月) 00:19
どちらにしろ女系では皇統はつながっているんだろ。
57日本@名無史さん:2001/08/13(月) 03:40
58日本@名無史さん:2001/08/13(月) 09:45
>55
力のあるものが王になってどこが悪い(藁
59日本@名無史さん:2001/08/13(月) 11:19
三王朝交代説
早稲田名誉教授だった故水野祐氏は、天皇家は「万世一系」
でなく、二回血統が代わっているという三王朝交代説」を
唱えました。
 第一王朝:神武〜仲哀
 第二王朝:応神〜武烈
 第三王朝:継体以降
ですね。大体、継体天皇の「継体」という諡号もおかしいそうです。
継体とは跡継ぎの意味ですけど、「継」の字には血縁関係のある継承の意味が
なそうです。「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」に示されているように、血縁
関係がある継承を意味するのは「嗣」の字です。
ということで、継体天応は前天皇と血のつながりがないこと、
氏族を異にしている可能性が大きいのではと言われてます。
60:2001/08/13(月) 11:20
訂正:
「継」の字には血縁関係のある継承の意味がなそうです。
→「継」の字には血縁関係のある継承の意味が無いそうです。
61日本@名無史さん:2001/08/13(月) 11:22
継体天皇がどーのこうの言われだした
のってけっこう最近だよな。
皇族の血を継いでたのは事実だろ。

そんなことより、大昔から言い伝えられて
いる応神天皇のことを考えてみるべきだろ。
62日本@名無史さん:2001/08/13(月) 11:24
応神天皇始祖説は
最近の頭でっかちの学者どもが功名心から
考え出した珍説と違って、昔からの
言い伝えもあるけっこう説得力の
ある話しだからな。
63日本@名無史さん:2001/08/13(月) 11:58
>61
皇族の血を継いでいる必要もなかろうに。
64日本@名無史さん:2001/08/13(月) 12:02
>>63
継いでないと天皇になる正統性がないだろ。
そんなのは、政治学の基礎だぞ。
65日本@名無史さん:2001/08/13(月) 12:33
>64
政治学の基礎って意味わかって使ってる?
既存の天皇になどなる必要もなかろうに。
66解決黒頭巾:2001/08/13(月) 14:22
継体は卑弥呼家の末裔。
67日本@名無史さん:2001/08/13(月) 18:04
邪馬台国と天皇家って関係あるんですか?
68日本@名無しさん:2001/08/13(月) 18:41
継体天皇と高句麗って関係あるのですか?
69日本@名無史さん:2001/08/13(月) 18:59
政治学の基礎だと。
こんな時代にもオールマイティーに適用できるのか。
なにが基礎なのかは知らんが、
バカが一匹いることはよくわかった。
70解決黒頭巾:2001/08/13(月) 20:58
>>67
>邪馬台国と天皇家って関係あるんですか?

文武以降はまったく関係ない。
邪馬壱国は九州日向の安羅国を中心にした多婆羅国(熊本)、伊都国(福岡)との連合国家。

「大和地方」という地名は新羅の文武王の年号「大和」から来ている。
白村江の海戦で勝利した新羅は日本を占領して、九州の邪馬壱国と大和の秦王国を併せて「日本」とした。

日本書紀の目的は、新羅が日本を占領したことを隠すことと、(九州の)邪馬壱国の存在を隠すことにあった。
71日本@名無しさん:2001/08/13(月) 23:07
↑、嘘こけ!そんなことが、実際あれば、日本書紀以外の文献できっちり残るぞ。
 それに、その当時も一般の人々もたくさんいたし、口伝えでも残るはずだが。
 その当時の新羅に日本列島を支配する能力もないはずだぞ。朝鮮半島の支配だけ
で精一杯だろうし。
 
72日本@名無しさん:2001/08/13(月) 23:08
 うそつきだ。>70

 
73日本@名無しさん:2001/08/13(月) 23:12
うそつきだ。>70

 それが、本当なら、韓国の方にも資料が残ってるはずだし、韓国の方
から、鬼の首取ったように、そういうことを言って来るはずだ。
 何もその点について、朝鮮半島からハッキリと言わないということから、
70の言ってることが、完全なデタラメということ。
74日本@名無史さん:2001/08/13(月) 23:20
継体本人は5世王だと名乗っていたのだろうか?
75日本@名無史さん:2001/08/14(火) 00:09
>58
じゃあ、大伴でも物部でもなればいいじゃねえか。
>63
何で必要ないんだ。じゃあ、誰でもなれるのか。

俺も政治学がどうのこうのいうのはよう分からんが
少なくとも血はつながってたと思うぞ。
世襲王権て力があれば誰でもなれるってもんじゃないだろ。

それから黒頭巾さんにマジレスしてる人がいますが
何だかなあ(藁
7649:2001/08/14(火) 02:16
>>59
水野の説は完全な誤解だと思うね。神皇正統記での「継体」の用語は明らかに血統
が繋がっている場合にも使われているし、中国史書等でも「継体」という言葉が同
様の意味で使われている例が幾つもある。

第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。・・・
大祖神武より第十二代景行までは代のままに継体し給う。

第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、・・・
この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。

第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、・・・
儲君にい給けるも父のみかど継体のために顧命しましましけるにこそ。

神皇正統記はお気に召さないって言うのなら。中国史書では。。。

継体謂嗣位也・・・史記
皇帝夙夜唯思殆継体之君不宜改作・・・前漢書
今聖漢受命而王、継体承業二百余年・・・前漢書

継体承基、古今常道・・・・・晋書
謂継体其嗣業、能増輝於前光・・・宋書
以其継君之体、持其統而不絶也・・・宋書
詔、皇太子叔宝、継体正嫡・・・・・陳書
77日本@名無史さん:2001/08/14(火) 02:59
色々勉強になるな〜。
70はバカだけど・・・。
78日本@名無史さん:2001/08/14(火) 04:55
いや、黒頭巾説の方が当たっているような気がする
79名無しさん@:2001/08/14(火) 07:00
>>77
70と78は、マンコ頭の気違い、です。
80日本@名無史さん:2001/08/14(火) 09:41
>75
当時は力さえあれば王なんて誰でもなれるでしょ。
たとえは非常に悪いけど秀吉だって関白になれたし。
そもそも世襲王権が安定していれば五世王の
出る幕なんてないでしょ。
81日本@名無史さん:2001/08/14(火) 09:45
>>80

そうだな。仮ーに、携帯天皇に某かの血のつながりがあったとしても
実情はデンマークをフォーティンブラスが簒奪するみたいなもんだったろ。
82日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:13
つーか、継体即位が実力行使による王権簒奪だったら
何で、越前、近江の豪族がその後の大和王権の中枢にいないんだよ。
平たく言えば、継体は大伴や物部、その他の畿内豪族に担がれただけ。
稲荷山鉄剣金石文を見てもわかる通り当時すでに崇神時代くらいまで
の系譜は整備されていたから、簒奪でもない限り皇統に
属さないものが皇位に就く事なんてありえない。
雄略期の政争などによって近親王族が断絶したので地方豪族化した
王族が皇位に推戴されたのだろう。
83日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:20
>>65 >>69
ほんとになーんも知らないだな。
よくもそんな大口叩けたもんだ。
「この時代にも適応できるのか」
だと。
とんでもない恥晒しちゃったね。
ま、高校生には難しい話ししちゃったかな(藁
84日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:38
>>80 >>81
問題の本質が分かってないね!
当時は力さえあえれば王なんて誰でもなれるのか、それとも王の正統性
(レジテマシー)原理から、一定の血統条件が必要だったのかどうかが
議論のポイントなんだよ!

もちろん直系王統が安定してりゃあ五世王の出る幕はない。しかし彼等
の間の継承争い等で適切な該当者がいなくなれば、傍系王統から起用さ
れることも有り得る。しかし旧王朝が断絶してまったく別系統の新王朝
が成立することも有り得る。。。その何れかってのがこの問題でもある
んだよ。

徳川の例のように、直系継承が困難になることは当然有り得るわけだ。
その時に継承戦争の様なものが発生することもあれば、親族・重臣の協
議によって円満に継承が決定されることもある。
例えば新羅王統でみても、37代宣徳王(780〜785)は17代奈勿王(356
〜402?)の10世孫だけれど、別に簒奪ってわけじゃあないよ。

だから。継体の場合についてもその子孫達の意識や諸豪族の動向から、
これが簒奪なのか推戴なのか、傍系王族の出身なのか、他家の人間によ
る新王朝なのか。。。どちらと考えるのが妥当(より蓋然性が高い)か
って問題なんだよ!
85日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:39
>>82
弱体化した王権を立て直すため
有力豪族を娘婿に迎えて跡を継がせた。
後世、血のつながりがないとまずいということで
五世王(大王の孫の孫の子)とした。
こんなところだと思うけど。
ちなみに系譜上当時五世王って何人ぐらいいたのですか。
86日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:44
>84
能書きはいいからあなたの意見はどうよ。
87日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:45
>>83
もしかして本物のヴァカですか?
88日本@名無史さん:2001/08/14(火) 10:49
まー武列の代でいったん王統が断絶したのは間違いない。
このとき、当時の豪族がどう考えたのかだな。
あくまで男系血統にこだわったのか、婿に迎えれば
男系でつながってなくてもよしとしたのか。
89今izumi:2001/08/14(火) 11:16
な                い。
90||:2001/08/14(火) 11:19
正直そんな昔のことわからない。(200年前の家系図すらわからないに・・・)
(吉佐衛門ー庄兵衛ー作蔵ー明治天皇ー昭和天皇)
9183:2001/08/14(火) 11:31
>>84
頭いいね。
そのとおりだよ。
92日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:36
>>91
よ〜く見習うように。
93日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:40
>>92
スネオは黙れ
94日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:40
天皇陛下万歳!
95日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:43
>>85
アホか。たーけ。
有力豪族であることが天皇になる条件だったことを
証明してみせろ。
んなことしたらまた内乱状態だろが。ボケ。
先に血統ありし、有力豪族であるか否かはその次ぎの
条件だろが。
歴史をなめるな。
96日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:44
物部氏や大伴氏の氏上継承なんかを見てもわかる通りこの時代の
家督継承って後世みたいながちがちの近親者継承じゃないんだよな。
王家と一般豪族とでは事情が違うんだろうけど傍系の有力者が
大王位を継ぐなんて別に珍しくもないでしょ。
97日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:46
ちなみに日本でもホンの戦前まで閑院宮、有栖川宮、伏見宮といった
傍系皇族が皇位継承権を持っていました。
98日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:52
>>93
やっぱりヴァカか。
99日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:54
>97
権利はあったけど5世以下が跡を継いだ例はないですよね。
100日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:56
>>96 >>97
うんうん、そうだね。
なかなか良い意見だ。
101日本@名無史さん:2001/08/14(火) 11:58
>>95
アホやボケにレスをつけるな。
証明できれば論争にならんだろうが。
世の中をなめるな。
102日本@名無史さん:2001/08/14(火) 12:04
>99

そりゃ、「たまたま」とも言えるしね。
現実に大正天皇に皇子がいなければ伏見宮が皇位を継いでいたでしょう。
そうすると20世孫くらいかな。
103日本@名無史さん:2001/08/14(火) 12:28
>102
たとえ「たまたま」でも実例はないですよね。

継体以外に5世以下で跡と継いだ例はあるのでしょうか?
104日本@名無史さん:2001/08/14(火) 12:41
>>103

ないねー、日本の場合で言えば徳川慶喜くらいかな、将軍だけど。
朝鮮、中国だと七世孫とかある。
まあ、こういう遠縁の継承自体がごく稀なものだから
前例のあるなしを言っても仕方ないと思うが。
105日本@名無史さん:2001/08/14(火) 12:45
>104
>>96の実例を知りたかっただけ。
106日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:06
継体天皇って北陸では英雄らしいね。
日本海を背にした長いひげの巨大な継体天皇像を
子供の時に見た時はびびった。
107日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:27
>>95
同感です。
大伴金村も内乱状態を避けるためにはやく後継ぎを
決めるべきだというような発言をしてますね。
このような(>>85)無知な現代人がいるとはお恥ずかしいかぎりです。
108日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:29
もし英雄だったとしても出身地の福井県だけでしょう。
石川では聞きませんし富山では大伴家持が人気あります。
109日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:32
>>103
継いでないけど、
継体天皇の前に仲衷天皇五世の孫の丹波の倭彦王が
候補になっています
110日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:35
>>108
そうでしたか。
「北陸」と言ってもそれぞれの県で
いろいろ個性があるんですね。
111日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:39
まあ、いずれにしろ継体天皇が皇族の血を
ひいているというのは、学会でももはや定説
ですし、ここの議論を見てもそれを否定できるような
人はいないようですね。
ま、もともと戦前の皇国史観の反動で戦後の左翼
史家が話題性を狙ってぶちまけた妄説だったんですがね。
112日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:43
>>107
まるでおまえは無知な現代人ではないかのような口ぶり。
このような身のほど知らずがいるとはお恥ずかしいかぎりです。

20年も大和入りできない後継ぎがどこにいる。
113日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:44
>109
また5世の孫ですか。
11484:2001/08/14(火) 13:45
>>86
以下のとおり

>>6 >>8 >>10 >>42 >>43 >>49 >>76
115日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:46
>>111
定説などど、あんたのが一番の妄説じゃ。
116日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:47
>>108
石川県人発見!
117日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:54
>>112
>20年も大和入りできない後継ぎがどこにいる。

よく考えてからもの言えよ。
それで血統を否定できるとでも思うのか?
20年間戦をしてたってことなら別だがな。

将来の歴史家が今上陛下が赤坂離宮に住んでたからって
「正統な後継者でなかった」
なんて言うのかな?
ま、大室がどうのこうのって言ってるバカどもなら言いそうだが(w
118人権ない物:2001/08/14(火) 13:57
だれか助けて 創価学会にねらわれていますメールください 決してウイルスは送らないでください最近、そのようなメールが多くて困って・
119日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:02
>114
なるほど。

ちなみに大和入りが遅れた理由は如何に?
120日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:06
>>117
継体天皇が離宮にお住まいだったとは知らなんだ。
今はやりの別居結婚だったのか。
121日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:19
始祖王誉田王は将来、本宗家が断絶したときに備えて
王子の一人を大和の北、交通の要衝、近江に封じなさった。
この分家は越前、尾張の豪族と婚姻を結び、本宗家にも后をだし
大変栄えた。そして、本宗家が内紛で断絶すると群臣に迎えられて
大王位につかれた。
12284・114:2001/08/14(火) 14:42
>>112
>20年も大和入りできない後継ぎがどこにいる。

まったくアンタの言うとおりだよ。そんな正統後継者なんていやしないね。
しかし問題ははたして「出来ない」のか「しないの」かってことなんだよね。

いいかい、書紀は継体を応神五世孫だとし、その血統によって大王家の正統
後継になったと記述している。一方で同時に20年間も大和入りしなかった
と記述しているんだよネ。
アンタが言うように「そんな後継が何処にいる」ってことなら、書紀はワザ
ワザ20年も大和入りしなかったって書くと思うかい? 血統改竄のついで
に継体が歓呼の声で大和に迎えられる場面を書いて当然だろう?

うっかり見過ごして書いたんだなんてのは、書紀の編纂者を見くびり過ぎだよ。
書紀の編纂者にとって「正統な後継者であること」と「大和を避けた」ってこ
とは、全く矛盾していなかったと考えるのが最も妥当なんだよ!
つまりは、継体にとって旧来の勢力が渦巻く大和ではなく、人心一新と水運の
便等から樟葉を選んだ(理由はその他にもあるかも知れない)。。。つまりは
「大和には入らなかった」と考えた方が蓋然性が高いってことなんだよネ。

それでは、何故に最終的に大和に入ったのか。。。これは後継者のことを考え
て旧勢力と妥協したか、あるいは人心一新の効果は充分上がったので旧都に回
帰したのか、水害の危険が大きい樟葉を見限ったのか。。。いろいろ考えられ
るわけで、こういうことを推理考察するのが大切なんじゃないの?
123日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:58
まっ、将来女系天皇が誕生すればこんなこと気にするやつも
いなくなるんだろうな。
124日本@名無史さん:2001/08/14(火) 15:06
>>122
そうだろうか?
五世だと詐称することは容易でも
20年間大和入りできなかったことを隠蔽するのは難しかったのでは?
それにわざわざ隠蔽などしなくても
アンタのように解釈してくれる人もいることですし。
125日本@名無史さん:2001/08/14(火) 15:16
>122
なんで書記に大和に入らなかった理由が書いてないの?
126日本@名無史さん:2001/08/14(火) 18:43
天皇は大和にいなければならないものだったのか?
12784・114・122:2001/08/14(火) 23:10
>>126
まったくそのとおり。なぜ仁徳が大和を離れ、難波 高津宮に移ったのかなんて書紀
はまったく問題にしていないよ。顕宗の近飛鳥 八釣宮だって河内の可能性があるん
だからね。。。と言うことで、

>>124 >>125
>20年間大和入りできなかったことを隠蔽するのは難しかったのでは?
>なんで書記に大和に入らなかった理由が書いてないの?

孝徳が難波に、天智が大津に・・・藤原に、平城に、恭仁に、長岡に、平安に、、、
なんてことは書紀(続紀)には何も書いてないよ。もちろん遷都と当初から大和に入
らなかったこととは違うって言うかも知れないけれど、宮をどこに置いたかってこと
ではそんなに違いはないんだよ。
だから継体が大和に入らず、樟葉、筒城、弟国に宮を置いたことについて、書紀が
グダグダ言い訳がましいことを書いていたら、かえって奇妙だってことにならないか?

要するに、書紀が樟葉宮等について何も書かなかったのは、大和に入らず樟葉等に宮
を置いたという事実があって、その事実を隠蔽する必要なんて何もないし、まして特
段の説明を要するとは考えもしなかったからじゃないの?

平城京(あるいは藤原京)が出来るまでは、宮都ってのはその程度の意味しかないん
だよ。現に彼の権力の象徴とも言うべき陵墓(多分寿陵だろうけどね)だって、樟葉
の近くの高槻(茨木は間違い)に造営してるでしょう?
何故に大和以外の地に陵墓を造ったのかなんてことも同じことで、彼がそれを欲した
と言うこと以上に説明のしようがない(必要もない)ってことなんだ。
アンタ達が何故都に入らなかったかを問題にしてるのは、後世の「都」の概念にとら
われているからじゃないのかな?
128日本@名無史さん:2001/08/14(火) 23:27
>127
継体って一人っ子?
129日本@名無しさん:2001/08/14(火) 23:32
水野先生の三王朝交代説は本当か?
130日本@名無史さん:2001/08/14(火) 23:34
>129
本当だと思う人もいれば
本当ではないと思う人もいる。
131日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:08
84・114・122さんの>>127 のレスでとどめだね。
またもやアズマ君が撃退されました。
で、次ぎのネタが両朝並立説かよ。
ったく懲りないやつだな。
がんばって盛り上げたらまた相手してやるよ(w
132日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:22
↑ アホです。
133日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:22
↑またかよ
134日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:25
>>59の話だとW大の故水野祐氏名誉教授が「継」の字には血縁関係のあ
る継承の意味が無いって言ってるように読める。これが武烈と継体の血
縁関係のことなら、当り前の話だから応神と継体のことだろね。
しかし「継体」について >>76が紹介した神皇正統記なんて歴史学者な
ら当然知ってるはずだし、中国史書だって当然見たうえでのことだろう。

>>76 の「継体」諡号についての紹介は、一応筋がとおってるように思
うんだが、>>59が 水野名誉教授の意見を誤解しているのか、 >>76
出鱈目の紹介をしてるのか、 訳がわからんが一体どういうことなんだ?
135日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:29
>134
どちらの説が正しいにしろ
なんでわざわざ「継体」天皇なんだ?
136解決黒頭巾:2001/08/15(水) 01:15
>>135
>なんでわざわざ「継体」天皇なんだ?

簡単だよ。「断絶」していることを隠すためだよ。
137日本@名無史さん:2001/08/15(水) 02:01
>>104
ヨーロッパの例を言うと、フランスのブルボン朝の初代アンリ4世なんて、男系のみをたどると、カペー朝のルイ9世の10世孫という血縁で即位している。
138ていしこう:2001/08/15(水) 03:12
森鴎外の書いたおくりなに関する本があると井沢元彦で読みました。
簡単に手に入るのかなあ?
139名無しさん@1周年:2001/08/15(水) 06:51
書記にかいてあることを明確に否定できない時は、
基本的には書記の方を優先すべきだろう。
140日本@名無史さん:2001/08/15(水) 07:44
諸外国の遠縁の王維継承例としては
高麗最後の王、恭譲王は神宗の七世孫、
また、李氏朝鮮末期の王、高宗も実は英宗の五世孫(継体と同じ)
前漢、最後の皇帝、孺子嬰は宣帝の四世孫(玄孫)、
後漢では光武帝が景帝の六世孫、質帝、霊帝が章帝の四世孫、
宋にいたっては南宋初代、高宗の養子、孝宗は北宗初代太祖の
七世孫、理宗は太祖の十世孫、理宗の甥、度宗は太祖の十二世孫。
        
141日本@名無史さん:2001/08/15(水) 07:46
大体、諸外国の例を見ても王家の嫡流が途絶えれば
遠縁でも分家のものを王として迎えるパターンが多いみたい。
142日本@名無史さん:2001/08/15(水) 09:10
なぜ継体ではなく若い安閑・宣化が即位しなかったのだろう。
なぜ仁賢の3皇女をそれぞれ皇后に迎えたのだろう。
継体の兄弟は?継体の父の兄弟は?継体の祖父の兄弟は?
143日本@名無史さん:2001/08/15(水) 09:16
>>139
書記に書いてあることを明確に肯定できない時は、
基本的には書記の方を優先すべきでないだろう。
14476ー127:2001/08/15(水) 11:07
>>134
>出鱈目の紹介をしてるのか、 訳がわからんが一体どういうことなんだ?

水野説においては「継体」が血統継承を意味しない諡号だとされている。そしてこれ
が三王朝交替説の一つの論拠となってるのは事実だ。だから >>59の水野説理解は間
違っていない。

問題は水野説が何処から生まれたのかだけれど、これは俺にもまったく分からない。
実は種明かしをすると、俺の中国史書紹介は >>138の言ってる「帝諡考」からの孫
引きだ。(簡単には手に入らないが、チョット大きな図書館ならば備えてる)

「諡号」の意味=諡法を理解するうえでは、結構便利な書籍だから当然水野だって見
てると思うし、仮に見てなくっても同様の用例を抽出するはずだ。ところが、この用
例を見る限り、血統継承を意味しないなんて出てくる筈がないんだな!

神皇正統記については、北畠親房自身が強烈な万世一系論者だから、当てにならない
って言うかも知れないが、彼とて和漢の故事来歴に関しては超一流の学者だから、
少なくとも「継体」の字義については知り尽くしたうえで使用しているはずだ。

ここからは俺の邪推だけれど、水野は誰かの説を見て自説に好都合なもんだからよく
調べもしないで飛び付いたんじゃないかな?
大体諡号を制定した可能性が高い淡海三船だって、天智の子孫だから言うならば継体
の末裔に当たる。諡号制定は称徳か光仁・桓武の時代だから当時の天皇だって天智・
天武の子孫で、当然ながら継体の末裔だ。

彼等のレジテマシーは天照大神の嫡孫であって、神武・崇神・応神の直系孫であると
言うところにあるんだし、彼等を始祖・中祖神として崇敬してるわけだから、土台血
統継承を意味しない「諡号」なんて使うはずがないんだネ。
そもそも継体が応神血統を継承していないならば、これらの始祖神は彼等にとっては
血統的に無縁と言うことになるよね。他家の人間が直系祖でもない始祖神を崇敬し、
本当の直系祖や始祖神を打っちゃっておくなんてのは、古代人の始祖信仰からして有り
得ないことだとは思わない?
145日本@名無史さん:2001/08/15(水) 11:07
結論としては継体朝前後で大和王権内部の権力構造にほとんど変化は見られないので
記紀の伝える通り継体は大伴金村ら当時の有力豪族によって推戴されたのだろう。
その場合、継体は男系でも前王統に連なる人物であったと考えるのが、常識的な
判断。六世紀の段階でも五世孫くらいなら平気で遡れるのよ。
146日本@名無史さん:2001/08/15(水) 11:11
>145
なんで「継体」なわけ?
「継体」の意味は?
147名無しさん:2001/08/15(水) 11:13
天皇、皇族関係者は、支持者が自宅に連れ帰って、ブタのエサでもやって、君が代を掲げ、君が代を聞きながら、千代に八千代に、コケがはえるまで飼育しろ!
http://www4.ocn.ne.jp/~aoitori/tennou.html
148日本@名無史さん:2001/08/15(水) 11:19
継体ってのは天子の帝業を継ぐという意味だろ。
傍系から皇位を継いだのでそう追贈されたんだろ。
149日本@名無史さん:2001/08/15(水) 11:28
>148
傍系から継いだことをことさら強調する必要性があるの?
15076ー127:2001/08/15(水) 12:13
ところで、水野等が応神と継体の血統継承を簡単に否定できたのは、古代
においてその様な系譜が伝わっている筈がない。だからこういった系譜は
信憑性がないってことだった。
そして記紀の系譜に、ある程度の信憑性を認めるべきだと主張する人間に
は、その根拠を示せ。。。示せないのは科学ではなく信仰じゃないかと非
難しておけば良かったんだ。

しかしこう言った議論を、真っ向から切り裂いたのが稲荷山鉄剣だった。
これを後世の偽作だと言わない限り、470年頃の関東の豪族すら八世代にわ
たる系譜を伝えていたことを認めざるを得なくなったんだね。(これが完全
な事実かどうかは疑問なしとしないにしても、彼等にとってはその系譜は周
囲に誇示し、社会的地位を主張する重要不可欠なものだったことは否定出来
ない筈だ。)

そうすれば、今度は逆に関東の豪族ですら八世代(約240年間位)の系譜を
伝え誇示してるのに、大王家の五世孫でその家系から二人の天皇の生母を出
している人間の系譜が伝わらないと想定する根拠を示せと言うことになる。
物部・大伴・蘇我・阿部なんて言う代々大王家に縁を持つ大豪族が、何処の
馬の骨か分からない人間を何故大王家の後継者として選んだのか。。。
そして何故彼を応神五世孫と認めたのか。。。これも説明してもらわなけれ
ばならないだろうナ。(稲荷山迄だったら、物部・大伴等というのも系譜は
信憑性がないとうそぶいてれば良かったが、今度はそうかいかないはずだ)

古代史と言うのは因果な学問で、如何に精緻(水野はそうではないが)な推
理を組み立てても、考古学的物証の前には泡沫のごとく消え去ってしまう。
縄文集落の相次ぐ発見や、弥生遺跡の時代的再検討、巨大古墳の発生時代の
再検討。。。近年の考古学的所見は、記紀神話や記紀系譜の価値や日本に於
ける国家形成時期そのものを見直すことを求めてるんじゃないだろうか?

記紀は皇国史観に基づいた捏造と欺瞞に満ちている。この嘘を暴くのが科学
だと言う津田史学は、もうそろそろ見直すべきだはないだろうか?
(かといって、勿論記紀を鵜呑みにしろってわけじゃあないよ。記紀と
外国史書、考古学的諸資料、その他周辺学問所見を真摯に検証し、そこに記
された神話的脚色のなかから、史実を拾い出す努力をおこなうべきだってこ
となんですネ)
151日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:31
後世の偽作だ。

やけに枝葉の少ない系譜だこと。

何処の馬の骨かは分かっていたでしょう。

応神五世孫と認めたのは後世のこと。

それほど正当な後継者であるなら無理に親子以上年の離れた

手白香に欽明を生ませることもなかろうに。
152日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:38
>>150
その八世代にわたる系譜って正しいの?
153日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:40
継体の曽祖父には子がいっぱいいて子孫は真人姓を受けているよ。
枝葉が少ないとはいえないと思うが。
154日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:42
>>151
五世も離れてたらほとんど他人じゃねえか!
それほど正当な後継者じゃねえよ
手白香ちゃん貰わないとやってけねーなー
155日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:46
>153
祖父、父、本人は?
156日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:47
朝鮮の例なんかを見ても遠縁が即位するときは女系での関係も
重視する。これって当たり前のこと。
157日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:49
>>156
具体的には?
158日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:49
>155
兄弟は伝わってないね。
継体には三人の天皇以外にも子がいたが。
159日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:50
つーか、教えてクン、うざい。
自分で調べろ。

http://www.google.co.jp/
160日本@名無史さん:2001/08/15(水) 12:53
>159
おまえにはきいてねえよ。去ね。
161日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:06
なんだまだ続いていたのか?
アズマは天皇が本当に好きだな。
じゃあ、継体天皇が皇族の血をひいてないとしたら
なんで実力者大伴金村本人が即位しなかったんだ?
わざわざ北陸くんだりからどこの馬の骨とも知らない
人間ひっぱってくる必要なんかねえべよ。
162日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:11
大伴は無理だろう。
蘇我ならともかく。
16376ー150:2001/08/15(水) 13:11
>>152 長い文章だから、無理もないけど以下。。

>これが完全 な事実かどうかは疑問なしとしないにしても、彼等にとってはその系譜は周
>囲に誇示し、社会的地位を主張する重要不可欠なものだったことは否定出来ない筈だ。

>>151
そうかい?俺なら大和の旧勢力を手なずける為にも、先代の娘をもらうだろうね!
幾ら正統な後継者だと言っても、つい最近まで雄略から武烈まで激しい継承争いで
王族同士が殺し合ってるんだ。
正統性があるって言ったってそんなのは彼だけじゃない。、あるいは丹波の倭彦み
たいな奴を引っぱり出す奴がいないとも限らない。(現に磐井がそむいてるだろが!)

大和の旧勢力を安心させ、自分の地位をより安定させるための政略結婚なんてのは
常識じゃないの?
いっぽう大和の旧勢力にすれば、折角継体を擁立して大王家に由来する自分達の権
力や財力を護ろうとしたのに、継体の尾張系の息子に王位が完全に移って、新勢力
が巾をきかせるのは面白くない。その点では馴染みのある先代の娘の子なら安心だ。
だから欽明即位を待ちわびただろうし、継体もそれを知ってるから最後には大和に
入って彼等との融和を計ったとも思えるんだがね!
164日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:11
じゃあ、蘇我でいいよ。
165日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:13
継体天皇が皇裔でないというやつは、
実力者蘇我がなんで自ら即位せずに
北陸の田舎からひぱってきた野郎を即位させた
のか説明してくれ。
166日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:14
ヲホトage
167日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:15
>164
蘇我なら、その後即位したじゃん。
168日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:20
>>163
親子で姉妹を娶ると
子ができたらなにかともめると思われ。
169日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:20
>>167
その後は関係ねーだろ。ハゲ。
継体天皇が皇裔かそうじゃねーかが
話しの焦点なんだからよ。
170日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:22
>169
ヅラは黙れ。
171日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:23
>169
時期尚早だったんだよ。ハゲ。
17276ー150:2001/08/15(水) 13:27
>>155
祖父や父については >>6 真人係累については >>43 を見てくんろ。
詳しくは「上宮記逸文」でな。

なお、継体の兄弟については伝わっていない。彼の父は近江の高島にいたが、若死
にしたため母親の里である越前で育ったって書いてある。だから兄弟はいなかった
可能性が大きいね。
でもこのため彼は近江・越前という絶好の位置に大きな地盤を得ることになった。
血統だけでは大王位は継げない(他にも同様の人間はいただろうから)が、彼には
血統だけでなく、それだけの地盤(武力・財力・権威)もあったってことだろう。
173日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:30
>>171
なるほど。
時期尚早だったからどこの馬の骨かも
わからないやつを代わりに「天皇」に
しちゃったんだね。
それで、みんなを力づくで納得させちゃったんだ。
いや、すごいな蘇我様わ。
でも、そんなパワーがあんならやっぱ自分が
即位したほうがいいんでないの?
174日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:31
そもそもこんなトンデモ説考えたアホ学者って何者だよ。
175日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:32
>172
あの〜、祖父や父の兄弟姉妹について知りたかったのだけど・・・。
わたしが見た系図は一本線だったので。
176日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:35
>173
だから即位したじゃん。
177日本@名無史さん:2001/08/15(水) 13:51
>>176
もういい。ガキは国語の勉強してからこい。
17876ー172:2001/08/15(水) 14:02
ああそう言った係累ね。祖父さんの兄弟に阿居乃ってのがいて、その子が後に真人
姓を受けた息長真手や坂田大跨らしい(この人たちの娘が広姫や黒媛)。その他に
羽田真人の祖もいるようだけど、それ以上は良く知らない。
(書紀系図が残ってたら書いてあったかも知れないけどネ。もともと上宮記逸文が
残ってなかったら、ほとんど何も分からなかったでしょうね。)
で。。。継体の係累に関して何が知りたいんですか?

>>173
アンタあほですか? 「即位したほうがいいんでないの?」ったって、蘇我様が即
位出来なかったのは事実なんでしょう? 出来なかったのは出来ない理由があった
んでしょう? それはなにかと訊ねたら。。。蘇我にはそんな力がなく、継体の正
統性の前にひれ伏したってことじゃないの。
第一当時は物部も大伴も健在で、磐井を叩きのめす力もあった。蘇我が勃興するの
はもう少し後のことなんだよ!
179日本@名無史さん:2001/08/15(水) 14:14
>>178
誤解してるな。
しかし、2ちゃんねらーの文章読解力はかぎりなく低いな。

俺は「継体天皇は皇族の血をひいてない」っていういかれ野郎に、「それなら血の正統性の根拠もない北陸の田舎者を引っ張ってきてわざわざ皇位につける必然性はなに?」って問い掛けていたわけなのだよ。継体に血の正統性がないなら、なんで引っ張り出してくる必要があるの?っていうこと。ま、厨房相手の誘導訊問ネタだから気にせんでくださいや。
180日本@名無史さん:2001/08/15(水) 14:23
>179
読み手が悪いのか書き手が悪いのか。
厨房相手に誘導もまともにできないアホってことね。
了解。
181日本@名無史さん:2001/08/15(水) 14:27
>>177
ガキはオマエ。
越前、近江、尾張に勢力をもつ大豪族を婿に迎えたんだよ。
182日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:04
このスレ読んでる限りでは、諡号の件以外では、
継体が血つながってたとしても特に問題ないように思う。
183日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:15
>182
ていうか、つながっててもつながってなくても
特に問題ないと思うけど。
184日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:16
というより血がつながってないと連れてきた
意味がわからんだろ
185日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:20
お金持ちがお婿にきてくれたらうれしいわ〜。
186日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:24
携帯てんのう
187日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:25
たんなる豪族でいいなら畿内一円の豪族のがいいだろ。
なんで、北陸である必要があるんだ?
遠方の支配権を考えるなら九州や関東の豪族のがいいだそうし。
188日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:28
ちっちっちっ、大豪族ね。
それに北陸とちがうよ。
189日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:32
畿内の大豪族が他の地域の大豪族の発展を助けてやったわけか。
随分とボランティア精神旺盛だな。
190日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:34
話ぶっ飛ぶけど、建国記念日は大化の改新の日が妥当ってことで。
継体以後も豪族問題や内乱で、国内はオタオタしてたんだから。
191日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:34
取り込んだのよ。
これで大和王権の日本制覇に一歩近づいたっと。
192日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:36
>190
大化の改新って実際にあったの?
193日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:02
住吉仲皇子 大草香皇子 眉輪王 市邊押磐皇子 御馬皇子 木梨軽皇子
坂合黒彦皇子 八釣白彦皇子 星川稚宮皇子
これが仁徳天皇以降、政争で殺された皇族。
殺されてないのは高部皇子 磐城皇子くらいか。
そりゃ、断絶するわ。
194日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:05
さあ、そろそろ次ぎの時代に移ろうぜ
195日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:07
古代皇室の系譜を見てて思うのは男系近親婚が多いこと。
実際律令では皇后になれるのは皇女、皇妃は皇族からと決まったいたのだから、
古代では大王家の血統はかなり神聖視されていた模様。
果たして、そのような状況の中で男系で皇統に繋がらない人物が
大王位につけたものか。
196日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:11
古代っていつごろの話?
誰に神聖視されていたの?
197日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:13
>195
そうですね。
たとえ大豪族だったにしろアカの他人を皇位に
つけてたれが納得するでしょうか。
198日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:16
他にいなけりゃ納得するだろう。
199日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:32
他にいるから納得しねえよ
200日本@名無史さん:2001/08/15(水) 17:36
五世孫くらい十分たどれる範囲の血統。
よって、わざわざ、馬の骨の人物を大王に擁立しない。
201日本@名無史さん:2001/08/15(水) 18:09
>200
たどってみな。
20276・144:2001/08/16(木) 01:17
>>182
>諡号の件以外では、 。。。

「継体」諡号については >>76 >>144 で話しておいたつもりだが、何か不審な
点でもおありなの? あるんなら具体的に指摘してくれないか?
203日本@名無史さん:2001/08/16(木) 01:27
>>202
そうですね。
どこをとっても継体天皇が皇族の血をひいてない
なんて妄説の根拠になるようなものはありませんね。
204日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:04
>>201
継体(ゲーシュツだぜ!)なら何とかたどれるが、お前のはむりだ(W
205日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:08
>204
だからたどって、候補者だった2人の5世孫以外をあげてみな(W
206日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:22
>>202
どうしてわざわざ血統継承を意味する諡号「継体」を使ったのか?
男系のみで繋がった家系ではなく女系で繋がった家系ではないのか?
母方の系図のみが正しく父方の系図は偽作ではないのか?
207日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:29
その理屈で言うと「持統」も血縁が怪しいことになってしまうが如何?
208日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:40
だから、継体天皇が何らかの形で男系で繋がってるのは
事実でしょう。
問題は定義であって、普通に考えて、
十代も遡ったような男子を即位させなければならない
のは事実上、断絶と見て良いんじゃないですか?
209日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:54
>208
事実と断定は誰にもできないでしょう。

十代遡ったとしてもそれが有資格者であるなら
断絶ではないでしょう。
210日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:54
>>207
何故?
211日本@名無史さん:2001/08/16(木) 10:12
応神天皇は子沢山でよかったね。
212182:2001/08/16(木) 10:21
>>202
単に、その部分に関しては余り興味なかったんで、
よく読んでなかったんですね。で、つっこまれたら
嫌だから、保険のために「諡号の件以外」ってしといたんですが、
別のところからつっこみが入ってしまいました。
213日本@名無史さん:2001/08/16(木) 10:29
>211
応神天皇って実在の天皇なの?
214日本@名無史さん:2001/08/16(木) 10:33
津田史観では実在が確実な最初の天皇とされている。
でも、応神、仁徳同一人物説なんかもある。
古事記では継体は「誉田王の五世孫」と記されている。
215日本@名無史さん:2001/08/16(木) 11:42
最近では実在が確実なのは崇神天皇まで
さかのぼってるよ。
216日本@名無史さん:2001/08/16(木) 11:44
>>208
それを断絶と見るのはあくまであなた個人の見解。
日本史が示している見解はそれは断絶ではない、ということ。
217日本@名無史さん:2001/08/16(木) 11:57
>215
それは祟神が祟神として実在していたということ?
218日本@名無史さん:2001/08/16(木) 12:18
>217
意味わからんが、そのころは漢風諡号ないから
崇神は崇神として存在してねーよ。
だいたい諡名は死んでからつけるもんだしな。
219日本@名無史さん:2001/08/16(木) 12:19
祟神なんて不吉な名前の天皇いねーーーーよ
220日本@名無史さん:2001/08/16(木) 12:58
>218
頭悪い奴。
実在したといわれる祟神と一般的に知られている祟神が同一かってことだよ。
221日本@名無史さん:2001/08/16(木) 13:07
>>220

君の言っていること意味不明だよ。
一般的にいわれている崇神の実在性が高いから
「崇神は実在した」といわれてるんだよ。
日本語勉強しなさい、中学生?
222日本@名無史さん:2001/08/16(木) 13:28
>>221

ちみの言っていること支離滅裂だよ。
祟神の年齢知ってる?
いつ即位したか知ってる?
日本史勉強しなさい、小学生?
223日本@名無史さん:2001/08/16(木) 13:44
いや、どうみても220がおかしいだろ
224日本@名無史さん:2001/08/16(木) 13:51
いや、どうみても223がおかしいだろ
225日本@名無史さん:2001/08/16(木) 13:52
224は220だな。
やっぱ、おまえおかしいよ。
226日本@名無史さん:2001/08/16(木) 13:54
225は223だな。
やっぱ、おまえおかしいよ。
227日本@名無史さん:2001/08/16(木) 14:09
このスレには一人、茶化すだけのやつが混じってんだろ。
そいつの相手はするなよ、みんな。
228日本@名無史さん:2001/08/16(木) 14:21
227は227だな。
やっぱ、おまえおかしいよ。
229日本@名無史さん:2001/08/16(木) 14:25
仁賢帝は雄略帝の婿、手白香皇女は雄略の外孫。
230日本@名無史さん:2001/08/16(木) 17:37
ブルボン朝の場合は王朝の交替なんだよね。
てことは男系でつながってても王朝の交替はあり得るってことか。
王朝の交替ってのは何を以てそう定義するの。
231144・202:2001/08/16(木) 20:35
>>230
アンタ >>140 を見たかい? 東洋では同じリネージの中から傍系孫が推戴されて王
位についた場合は五世孫でも十世孫でも同一王朝継続と定義する。
これに対し他のリネージが仮に禅譲されて王位に就いても、王朝交替(易姓革命)
と定義するんだ。その東洋的定義において議論しているわけで、ここで直接ブルボ
ン王朝やチューダー王朝の王朝交替定義を持ち出すのは筋違いって言うことなのネ!

>>221
馬鹿は相手にするだけ、アンタの値打ちが下がる。もうおやめになったら?

>>219
崇神が不吉な名前だって?
アンタのような中(小?)学生は漢字のお勉強してからカキコしなさいね。
232144・202:2001/08/16(木) 20:44
>>206
>どうしてわざわざ血統継承を意味する諡号「継体」を使ったのか?

念の為にいっておくが、「継体」という言葉が「血統継承」を意味するとは
一言もいっていないよ。水野説の「血縁関係のある継承の意味が無い」とい
うのがアホな間違いだってことだけだよ。
「継体」という言葉は、血統継承の場合にも使用される言葉で、それ自体は
単に王位を継承したという意味しかない。しかし「オホト大王」の直系孫達
が大王家(天皇家)の「万世一系」を強調してる時代に付けられた「諡号」
なんだから、彼等の意識としては応神の血統継承者であることは自明とした
うえでの諡号「継体」だということ。
つまり「諡号」論争なんてまったくナンセンスだと言うことなんだよ!

系図が真実か偽作かなんてことも、検証のしようがないことだ。従って稲荷
山の系譜伝承例や継体擁立の状況から、彼が応神五世孫で近江・越前の大豪
族であった(これは古墳等から推定)。その結果他の王族達を陵駕して大和
の中央豪族(大王家重臣)から大王に推戴された蓋然性が高いと言うことだ。

系譜が偽作であって大王家の一族でもない地方豪族が、大和の有力中央豪族
の推挙を受けて先代大王の娘と結婚し、大王位につく蓋然性のほうが高いっ
ていうのなら、その根拠を論理的に述べてみなよ!
233日本@名無史さん:2001/08/16(木) 20:56
>>231
リネージねぇ。
継体って天皇になる前、皇族だったの?

紀元前に即位した天皇が存在していたとは驚いた。

カキコってなあに?

で、結局なんで諡号が継体なの?おせ〜てよ。
234日本@名無史さん:2001/08/16(木) 20:57
紀元前に即位って誰それ?
235日本@名無史さん:2001/08/16(木) 20:59
>>233
うのたんがナゼ持統だかおせ〜てくれたら教えてやるよ。
236144・202:2001/08/16(木) 21:16
ただし、俺は古代史を100%解明することは、不可能だと思っている。
その意味では、オホトが新羅か百済かの渡来人、あるいは斉か梁からの
亡命者で、応神家系を持つ豪族の養子に潜り込んだか、すり替わった可
能性だって絶対に無いとは言い切れない。
少なくともヴァンダル国やグプタ国の出身、あるいはドラエモンと一緒
にタイムワ−プでやってきたというよりは、かなり蓋然性は高いと考え
るけどネ。
237日本@名無史さん:2001/08/16(木) 21:18
>>232
応神の血統継承者であることは自明でありながら
単に王位を継承したという意味しかない「継体」という
諡号を贈られた天皇だったということですね。

男系の子孫がいなければ女系の子孫でもいいでしょ。
238日本@名無史さん:2001/08/16(木) 21:20
>236
記紀を全否定してしまうとまた話がややこしくなると思われ。
239日本@名無史さん:2001/08/16(木) 21:21
>234
祟神
240日本@名無史さん:2001/08/16(木) 21:27
ありゃ、まだ続いてるよ
241日本@名無史さん:2001/08/16(木) 21:47
219は、崇と祟が違ってるのを茶化したんだよ、多分。
ちゃんと読もうね、みんな。

それとも、祟神って、崇神の2ちゃん用語?
242日本@名無史さん:2001/08/16(木) 22:11
>>1
当スレでは
継体天皇は先代達と血がつながってる
と認定いたしました。




















                                  おわり
243感想:2001/08/16(木) 22:15
とっても感動しました。
また、やってください。
244144・202:2001/08/16(木) 22:15
>>233
言うまでもないが、当時「天皇」「皇族」なんていう概念は存在しないし、
近世の宮家というような特殊な継承予備家系も存在しない。
ここでは大王家と近しい家系伝承を明確に意識している一族という意味で
使ってる。
紀元前に即位した「天皇」ってのは、書紀が紀元前97年としてる崇神のこ
とだな? 言うまでもないがこの時代に「天皇」なんて概念はない。書紀が
紀元前97年としたのは、讖緯説によって神武即位を紀元前660年に遡らせた
ため、歴代大王の時代を大幅に引き上げた作為の結果で、所謂「捏造」で
あることは明らかだ。俺は崇神年代は、おそらく260年〜310年前後と考えて
るが、もちろん異論はあると思う。
しかし年代が捏造されたのと、系譜が偽作だというのは当然別次元で考察
さるべきものだ。その程度の理解力はあるんだろう?
淡海三船(多分そうだろう)が、8世紀後半に歴代「諡号」を制定した時、
何故「継体」としたのか? おそらく極めて異例な傍系継承であることは誰
しも認めていたんだから、その結果として天壌無窮の国体を継ぎ、当時の
天皇一族(もちろん彼自身もそうだが)に繋げた中祖の大王という意味だ
ったんじゃないか? (国体という熟語があったかどうかはともかく、継体
の「体」は、本来そういう意味で、身体の「体」ではない。)
245日本@名無史さん:2001/08/16(木) 22:43
淡海三船が制定したのは「漢風」諡号です。
一応。
246日本@名無史さん:2001/08/16(木) 22:44
      ○=○
      ( π  ) 正体がバレた以上、
     ,⊂    )    京都に戻るのである
    / │ │  |
    |  (_(__)
   __|/ヌヌ__/ヌヌヌヽ
  (。。\メ(。。\メメメ_)>
   U∪⌒ U∪⌒U∪  ))
247日本@名無史さん:2001/08/17(金) 00:04
このスレは ↑ のようなお馬鹿さんが比較的少なく、みなさん
がその論拠や出典を出して議論して下さったので、僕のような
ものでも良くわかり勉強になりました。
これからもみんながこんな形で進めれば、もっと日本史スレら
しくなると思いますもで、よろしくお願いします。
248219:2001/08/17(金) 00:23
>>241のいうとおり私は崇と祟の区別もできない厨房を茶化しただけ。
論旨に関しては>>232にほぼ全面同意。
249日本@名無史さん:2001/08/17(金) 00:30
このスレは ↑ のようなお馬鹿さんが比較的少なく、みなさん
がその論拠や出典を出して議論して下さったので、僕のような
ものでも良くわかり勉強になりました。
これからもみんながこんな形で進めれば、もっと日本史スレら
しくなると思いますので、よろしくお願いします。
250日本@名無史さん:2001/08/17(金) 04:57
>(144/202)231

南朝の斉と梁はどう考えればいいの?
251日本@名無史さん:2001/08/17(金) 05:22
斉の始祖の曽祖父の兄弟の子孫だから皇帝の血を引いてないので没
252日本@名無史さん:2001/08/17(金) 10:40
継体って精力絶倫だったのね
子供も多いし
欽明って50過ぎてできた子でしょ
253日本@名無史さん:2001/08/17(金) 12:21
一夫多妻なんだから精力絶倫でなくても普通にやってれば子供は
たくさんできるだろ。
254日本@名無史さん:2001/08/17(金) 12:26
できない。
255232のおまけ:2001/08/17(金) 23:16
>>237
>男系の子孫がいなければ女系の子孫でもいいでしょ。
そうね。しかし他にも丹波の倭彦のような男系の子孫がいた可能性が高いんだから
女系の子孫が出る幕はないし、そもそも東洋王家で女系子孫が継承権を持つ例はな
いでしょ。

因みに「継体」の母親である振媛(布利比弥)は、伊久牟尼利比古大王(垂仁)
→伊波都久和希(磐衝別)→偉波智和希(石城別?)→伊波己里和気→麻和加介
→阿加波智君→乎波智君→布利比弥・都奴牟斯君 となってるから
垂仁七世孫だ。確かに継体は女系においても大王八世孫ではあるようだがね。

おっと祖母の久留比売は、牟義都国造(美濃武芸郡)の伊自牟良君の娘 となってる
から 景行→大碓→押黒弟日子の子孫だろう。
つまり応神の男系五世孫、垂仁の母系八世孫、景行の祖母系X世孫ですかな。
しかし、母系での垂仁・石衝別子孫や祖母系での景行・大碓子孫よりは、やはり応神
五世孫のほうがはるかに決め手になるんじゃないの?
256日本@名無史さん:2001/08/17(金) 23:57
>255
候補者が二人だけ、しかもどちらも五世孫ってところがクサイ。
ほんとはほかにも男系の候補者がいたのかもしれないけどね。

当時、いわゆる王家といえるほどの力があったとは思えないけど
それはともかく、異例の継承だったためにその後・・・。
257255:2001/08/18(土) 02:03
>>256
>当時、いわゆる王家といえるほどの力があったとは思えないけど・・・

いわゆる王家って、どういうものを考えてるのかは知らないが、もう一度だけ言っとく。
>>49 を以下に再掲するが、
57年には後漢と通交して金印を授受され、107年には生口160名送るような巨大な権
力を持ち、239年から245年に魏と通交して親魏倭王の金印を授受され、その後東ア
ジアでは類を見ないような巨太古墳を造営し、390年頃には半島に出兵して高句麗と
覇権を競い新羅・百済から王世子を質に取り、413年から宋と通交して502年には堂
々たる正格漢文で外交文書を作成して南韓の軍事支配権を承認させ、韓国南部に自
国の大古墳を造営した。。。そういった歴史を持つ国であり、加えて470年頃には
関東と九州で同時に大王に対する忠誠を意味する金石文が存在する。。。そして当
時に至った王家だネ。

この王家に「王家といえるほどの力があったとは思えない」のなら、古代アジアに
はチャイナが統一されていた時代の「秦」「漢」「隋」「唐」位しか王家はないね!

宗主国に対する事大主義によって、自国の国号や暦さえ自主的に決定できなかった国
には、歴史上一度も「王家というほどの力があった」王家は存在しなかったって思っ
てるのかい?
258日本@名無史さん:2001/08/18(土) 03:20
>>257
茶々入れになっちゃうけど、中国以外にもアジアって強力な王国多いと思う。
インドだと、マウリヤ朝を初めとしていくつか王朝出来ているし、
西アジアだと、ペルシャとかいっぱい強力な王朝あるし。
東アジアで見ても、北方遊牧民の国結構あるし。

まあ、継体天皇の頃はすでに王家としての力が確立していたとは思うけど。
259255:2001/08/18(土) 08:39
>>258
イエイエ、ご指摘どおり! 東アジアって書こうと思って「東」が抜けちゃってた。
北方遊牧民の国は確かに強力だけど、王家を支える官僚機構の点で、イマイチなと
ころがあるかもネ。
かといって、これらの国にだってもちろん堂々たる王家が存在したし、高句麗はも
ちろん後発の百済・新羅にだって既に4世紀には「王家というほど」のものがあった
と思ってるけれど。
260日本@名無史さん:2001/08/18(土) 13:22
これに関しては『上宮記』を信用できるかにかかってますね。
『日本書紀』より古いとされるが、それでも継体の時代より
はるかに後なので、継体天皇が血がつながってるように
史実を曲げてある可能性が常識でも考えられ、信用できる
かどうかは学界でも意見が分かれてます。
261日本@名無史さん:2001/08/18(土) 15:06
>>260
ここの過去レス読んだ?
262ななしさん:2001/08/18(土) 16:43
高句麗王、新羅王、百済王、日本の大王は、みな騎馬民族である夫余族の末裔と言う説もあります。
263日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:28
継体天皇が血がつながっていることが学会の定説との話はどこから出てきたのでしょうか?
専門雑誌の文献挙げてもらえますか?
264日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:30
継体天皇が血がつながっていないことが学会の定説との話はどこから出てきたのでしょうか?
専門雑誌の文献挙げてもらえますか?
265日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:50
戦後しばらく天皇制を否定する一つの手段として
一部サヨが声高に叫んでた時期はあったけど
果たして定説とまでなってたかどうか。
当時でも血のつながりは肯定する研究者多かったからね。
最近は辞典レベルでもつながり認められてるから
定説といっていいんじゃないの。
わざわざ専門雑誌で論ずることなど恐らくないものと思われ
266日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:51
武烈天皇って本当に残忍な人物だったのかな?
267日本@名無史さん:2001/08/18(土) 19:49
>>262
高句麗は騎馬民族の王朝の可能性はあると思うけど、
他はちがうんじゃないかなあ。
まあ高句麗も、完全に朝鮮土着の国になってったけど。

>>265
戦後は左派がのさばっていたから定説化されてたみたいだよ。(特に70年代)
現在やっと半々まできたって感じじゃないかな?(血筋があった派と別王朝派の割合)

>>266
武烈天皇は後嗣が絶えたから悪く書かれただけだと思う。
日本書紀の武烈天皇の最初の人物評はいい君主だったように書かれているし。
268日本@名無史さん:2001/08/18(土) 20:28
>>267
高句麗は騎馬民族の夫余族。百済王の始祖は高句麗王の始祖、朱蒙の傍流の
子だから高句麗王と百済王は同族だよ。
269日本@名無史さん:2001/08/19(日) 00:52
卑弥呼が天照大神で崇神天皇が初代天皇だYO!
邪馬台国の崇神天皇が狗奴国の応神天皇と一緒に東征したんだYO!
それで崇神天皇が死んだ後、応神天皇が後を継いだんだよYO!
って言うのは駄目かな?
270日本@名無史さん:2001/08/19(日) 01:17
>>269
倭の五王のことを考えると、応神天皇と崇神天皇は少し年代がづれると思うが……
(賛を応神天皇とした場合はもちろん履中天皇だとした場合でも……)
271日本@名無史さん:2001/08/19(日) 02:46
なんだか定期的に継体天皇スレって立つんだね。
毎回おなじ議論のくりかえし。よくやるよ。
272日本@名無史さん:2001/08/19(日) 07:38
あの、はっきり言って
継体天皇が血が繋がってようとつ繋がってまいと
どうでもいいです。
それ以降の代は
少なくとも女系では繋がってるんでしょ?
昔は血は男のみによって繋がり女からは繋がらないとか
いう原始的な妄説からくる理論でしょ。

現代人がそんな妄想につき合う必要はないです。
273日本@名無史さん:2001/08/19(日) 07:41
結局、天皇家は天照大神の子孫だとかいう、
宗教的キチガイじみた話しになるのかな?
日本史板にそんなの本気で信じている人いるの?
天皇なんて所詮「アフリカのイブ」の子孫でしょ
274255:2001/08/19(日) 09:52
>>272
俺も継体が応神の血統であろうとなかろうと、どうでも良いと思ってる。
高句麗からの騎馬民族系渡来人であろうと、百済・新羅・任那・チャイナから来ようと
いっこうに構わんよ。
しかし歴史科学っていうのは、現在我々が持っているあらゆる資料(文献史料のみならず
考古学的所見等を含む)によって、「史実」を解明する学問だ。この板だって「日本史板」
と称するんだから、「史実」である蓋然性を議論しようじゃないかってことじゃないのか?
そんなことには興味がないっていうなら、何のために日本史板に顔をだしてんだい?

いいか。。。女系であっても血統が繋がってるなんてのは、妄想でも何でもない人類普遍の真
理だよ! 誰もそんなことは問題にしていない。ここで議論してるのは、そんな生物学的問
題じゃなくって、東洋古代において王位の継承権が女系について認められていたのかどうか
っていう政治学的・社会学的問題なんだよ! そしてそこから「継体即位」という「史実」
を。どのように解釈するかってのが歴史科学を議論してるんだ!
アンタはそんなことも理解できない「現代人」か?
275255:2001/08/19(日) 10:46
>>273
俺には現時点では「人類アフリカ起源説」が正しいかどうかは判断できない。従って我々すべ
てが「アフリカのルーシー」の子孫かどうかなんてことは知らんよ。
しかし天皇にしろ、アンタにしろ、俺にしろ、天から降ったわけでも神の子孫でもない。
そんなことを信じている奴は、歴史科学とは無縁の存在だし、ここにはおらんだろう!

だがね。人類っていうのは同じく原始人の子孫であるにもかかわらず、王・貴族・庶民・奴隷
等という階層分化を生み出してきたのは事実だ。また同質の言語・風俗・価値観を持つ者が、
ある種の宗教的始祖信仰(神話)を共有し、民族という共有幻想によって対立・抗争を演じて
きたのも事実じゃないのか?
そしてそう言った民族・階層抗争の中で多くの階層が分解し再編成されてきたんだナ。
そして新たに再編成された階層トップ(王)は、その正統性を単に武力のみではなく、神の子
孫あるいは神に撰ばれし者(易姓革命・王権神授)に求めてきた。
ところが、この日本列島には少なくとも1,500年の間にわたり、同一の男系血統を持つ階層
トップ(王=天皇)が連続している(可能性が極めて高い)。これは人類史上の奇観といって
も良いだろう。 そしてその男系同一血統の連続が、さらに引き上げられ得るのかどうか、が
「継体即位」問題なんだよ!
そしてこれは日本列島における階層の成り立ちと正統性原理(天孫降臨神話と天壌無窮万世
一系)を解明する鍵の一つでもあるんだ!
これを宗教キチガイの話だとしか理解できないなら、古代史から足を洗って遠慮なく逝って
くれても良いんだぜ!
276日本@名無史さん:2001/08/19(日) 10:52
>>274
どうでも良いと思ってることをしつこいくらいに議論している
アンタってヴァカ?
277255:2001/08/19(日) 11:25
それでは、これらの問題を解明すべき資料ってのは何だろう?
その一つが記紀であり、上宮記・風土記・新撰姓氏録・万葉集・旧事記その他の日本史書類だ
が、これ等はある意味では利害関係者の証言に近いものがあり、当然そのままでは採用できな
い性格がある。
従って、近隣のチャイナ系史書や文献類、あるいは時代的には随分遅れるが何らかの過去史書
に基づいている可能性が高いコリア系史書(三国史記等)との整合性を確認した上で、その信
憑性を検証すべきものだろう。

しかし、もっと信頼性が高い証言は広開土王碑文や稲荷山鉄剣等の金石文であり、古墳・遺跡
等から得られる考古学的所見だろう。俺はその意味で吉野里や稲荷山や全羅南道前方後円墳調
査以前の「通説」なんてのは、当時の資料で得られる判断であって、現在ではすべて見直され
るべきものだと思うネ。新証拠が発見されれば、判決が覆り得るのは余りにも当然のことだ!

その意味では江上の騎馬民族説なんてのは、当時においても矛盾だらけだったと思うが、今で
は何故こんな奇説が生まれ一定の評価を受けたのか、という学説史上の研究対象でしか無い。
未だにこんなものを根拠に、古代史を語る者がいること自体が驚きだよ!
278日本@名無史さん:2001/08/19(日) 11:49
>>277
ヴァカの一つ覚えみたいに稲荷山鉄剣がすきなのねぇ。
279日本@名無史さん:2001/08/19(日) 11:59
稲荷山鉄剣発見は衝撃的だと思うよ。
280255:2001/08/19(日) 12:04
>>276
チャチャを入れたいのなら。もう少しまともなチャチャをいれろや!

いいか例えば。。。俺は百済王家が高句麗王家から分離したのか、高句麗王家と並立して
扶余王家から分離したのか、あるいはそれらが百済王家の捏造に過ぎないのか。それ自体
はどうでも良いことだと思っている。 極論すれば。百済王が倭人であったとしても別に
どうでも良いことだ。(そんな蓋然性が、極めて少ないのは間違いないがね!)

しかし三国古代史を理解するたには、どれが「史実」である可能性が高いのかを議論する
ことは極めて重要な問題だと思っている。 分かるか?
歴史科学ってのは歴史の真実を解明し解釈する学問なんだ。だから史実にアプローチする
努力(議論)には意味がある。
(歴史の解明=歴史科学には興味が無いっていうなら、それも結構だがネ)

その考察・検証の結果として、仮に「継体」が何人である蓋然性が高いとなっても、その
論拠が妥当であれば俺にはどうでも良いってことを言ってるんだ!
まあアンタに分かるとも思えないし、分からなくとも一向に構わんがね!
281日本@名無史さん:2001/08/19(日) 12:24
>>280
分からないと思ってる相手にレスつけるアンタって
やっぱりただのヴァカ。
282255:2001/08/19(日) 13:20
>>281
確かにアンタの言うことにも一理があるね。しかしな世の中には、どうしょうも無い
真性ヴァカと、単に幼稚なだけの仮性ヴァカがいるんだネ。幼稚ヴァカの中には「分
からんだろ!」と言ってやることで、たまには気がつく奴もいてね。
(どうもアンタは前者らしいが! ここにはアンタ以外に後者の人間もいるんだろ?)
283日本@名無史さん:2001/08/19(日) 13:28
>>282
後者の人間って、アンタみたいな仮性ヴァカってこと?
しかも一生気が付かない幼稚ヴァカってこと?
ならいるいる。
284255:2001/08/19(日) 18:00
>>283
ありがとうな! アンタにそう言われりゃあ俺も嬉しいよ。
おそらく、アンタに「いるいる」って言われた者もそうだろうぜ!
てえことで達者に暮らしな。。。アバヨ!
285日本@名無史さん:2001/08/19(日) 19:10
>>284
ヴァカはヴァカなりの生き方があるから
「アバヨ!」なんて早まるなよ。
286日本@名無史さん:2001/08/19(日) 21:40
正直なところ、僕も継体なんてどこの馬の骨か分からん人
間が、大和政権を乗っ取って強引に婿入りしたように思っ
てた。
だけどこのスレでいろんな意見を聞いて、王族の一員とし
たほうが辻褄が合うように思えてきた。
その点でスレ参加者の具体的な議論に感謝してるんだけれ
ど、ここんとこ出てるレスは一体何ですか。
異論があるなら具体的に理由と意見を言ったらどうなんで
すか。
何の内容もなくヴァカヴァカの繰り返しなんて、みっとも
ないったらありゃしない。
287万世一系です:2001/08/19(日) 21:42
神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀応神
仁徳履中反正允恭安康雄略清寧顕宗仁賢武烈継体安閑宣化欽明敏達
用明崇峻推古舒明皇極孝徳斉明天智弘文天武持統文武元明元正聖武
孝謙淳仁称徳光仁桓武平城嵯峨淳和仁明文徳清和陽成光孝宇多醍醐
朱雀村上冷泉円融花山一条三条後一条後朱雀後冷泉後三条白河堀河
鳥羽崇徳近衛後白河二条六条高倉安徳後鳥羽土御門順徳仲恭後堀河
四条後嵯峨後深草亀山後宇多伏見後伏見後二条花園後醍醐後村上
長慶後亀山光厳光明崇光後光厳後円融後小松称光後花園後土御門
後柏原後奈良正親町後陽成後水尾明正後光明後西霊元東山中御門
桜町桃園後桜町後桃園光格仁孝孝明明治大正昭和今上
288日本@名無史さん:2001/08/19(日) 21:46
なんでテンコロネタになるとラリってヒートアップする
キティがでてくるのかな???しかもおよそ「国士」「武士道」
とは、かけ離れたお郷が知れるような下卑た発言で
289日本@名無史さん:2001/08/19(日) 21:50
>>286
オマエモナー
290日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:02
>>288
国士?
武士道?
ヴァカじゃない。。。
291日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:05
天皇陵ぜーんぶあばきたいなあ。
292日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:07
>>291
同意。
293日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:34
>>290

おやぁ??別にあなたの事だとは

 ひ・と・こ・と

も書いてなかったんですけどねぇ・・???(ワラワラ
294日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:45
>>293
やっぱりヴァカ?
295日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:47
そうですヴァカです
296日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:46
↑泣きそう(ワラ
297日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:49
>>295
そうですか。わたしもヴァカです。
298日本@名無史さん:2001/08/19(日) 22:58
>>296
そうですか。あなたもヴァカです。
299日本@名無史さん:2001/08/19(日) 23:09
ちょっと話題を変えて、現在、継体陵に治定されている太田茶臼山古墳何ですが
通説どおり今城塚古墳を真の継体陵とすると同地域の古墳の中で今城塚に先行する
太田の方は継体の父、彦主人王あたりの墳墓と考えていいんでしょうかね?
だとすると、継体家は大王輩出以前から畿内にも基盤を持つかなりの
有力豪族だったことになりますね。
300日本@名無史さん:2001/08/20(月) 00:04
このスレは死んだ。
301日本@名無史さん:2001/08/20(月) 08:47
>>299 さん
まともな話題転換ありがとうございます。僕は詳しいことは知りませんが、太田
茶臼山古墳は継体の父の時代からも離れていると聞いたことがあります。
また継体の父の墓と伝えられてる古墳は、琵琶湖の西北岸の方にあるということ
です。古墳に詳しい方の解説を期待したいと思います。
302日本@名無史さん:2001/08/20(月) 09:55
>>301
なるほど、とすれば曽祖父の意富富杼王なんか怪しいのかな。
意富富杼王は近江、越前と関係の深い後裔氏族をたくさんもつ
など継体家の祖ともいえる人物。妹の忍坂大中姫は允恭天皇の皇后で
安康、雄略天皇の母。彼の時代に勢力圏を畿内から近江、越前に
拡大し時の天皇の外戚として巨大墳墓を築くまでの有力豪族に成長し
後に大王を輩出するだけの基盤を築いたと見てもいいのかな。
303日本@名無史さん:2001/08/20(月) 10:10
もうひとつ気になるのは隅田八幡宮画像鏡金石文。
解釈は諸説入り乱れているが、斯麻を日本生まれの百済武寧王と
考え、男弟王を即位前の継体と考えれば、503年当時、継体は
畿内忍坂宮に居住していたことになり、倭国の支援によって王位に
ついた武寧王が皇位継承の有力候補だった継体に鏡を贈ったとも
考えられますね。
304日本@名無史さん:2001/08/20(月) 10:56
昔の人がそうだと言ってるんだからいいんじゃないの?
305日本@名無史さん:2001/08/20(月) 12:23
>>301
古墳に詳しいわけじゃ無いけど、安曇陵墓参考地(滋賀県高島郡安曇川町)
が継体の父の陵墓だっていう伝承があります。
おそらく未調査だと思うので、真偽のほどはまったく分かりません。
306井沢じゃないよ。:2001/08/20(月) 12:53
天皇の血統は、何故に重要なのですか。
継体正統説・断絶説両論ともその説明は不十分です。
何処かの馬の骨が継げばドンパチが始まるので、ということなんでしょうが、
当事者に能力がなければ、血筋だけでは治まらないのが道理。
私は、軍事的中央集権制が機能したのは近江朝以後だと考えますので、
継体は、軍事的能力ではなく、宗教的能力の高さが認められて大王に
推戴されたと見ます。
宗教上の能力ということであれば、女系でも男系でも大差は無く、
当時の有力豪族は、盛んに政略結婚を重ねてますのでほとんど皆親戚。
要するに豪族であれば大王候補の有資格者といえます。
記紀の系譜が血統に拘っているのは、外交権の前王朝からの継承を正当化するのに
都合が良いと言う対外的な理由によるのではないでしょうか。
307日本@名無史さん:2001/08/20(月) 13:01
>宗教上の能力ということであれば、女系でも男系でも大差は無く、

ここら辺は何の根拠もない。
308日本@名無史さん:2001/08/20(月) 13:06
>要するに豪族であれば大王候補の有資格者といえます

これも意味不明。何を根拠にそういえるのか?
男系血統主義については継体前後の現実の大王位継承をもとに
ごく自然に導きうる有力な王位継承法だが豪族であれば大王に
なれるとは具体的にどのような事例を元に言っているのだろうか。
309日本@名無史さん:2001/08/20(月) 13:08
>306
宗教的能力の高さとはなんぞや?
310日本@名無史さん:2001/08/20(月) 13:24
はっきりしているのは継体朝以前にすでに男系血統に
基づく王位継承がある程度確立していたし、稲荷山鉄剣銘文に
見られるようにこのように男系重視の考え方は地方豪族であっても
確立していた。また同銘文から雄略期の数代前(応神前後)位までの
系譜は地方豪族ですらはっきりしていた。
だとすると武烈の死後、近親の皇族が絶えても応神まで遡れば
傍系の皇族はたくさんいたはずでこれらの皇族が本宗を継いでも
何の不思議ではない。継体以外にも息長真手王や坂田大跨王、根王
など傍系皇族はたくさんいた。
311日本@名無史さん:2001/08/20(月) 13:40
>310
継体の家系以外で当事候補者になり得た応神の子孫って具体的に誰ですか?
312日本@名無史さん:2001/08/20(月) 14:21
継体は王族なのかそれとも大王家の血をひく地方豪族なのか?
313>>306じゃないよ:2001/08/20(月) 14:28
>>310 >継体朝以前にすでに男系血統に基づく王位継承がある程度確立
ある程度ってどの程度?
携帯が別系だと仮定した時に手白香を通じても血統が続く程度では。
そういえば、天武別系説というのも有りました。同じ発想ですね。
応神朝の系譜だって宋書の読み方次第では一系ではないし、
記紀の記載だけで異系推戴を全く否定しきれるわけではないのでは?
ただ、>>306の「対中国外交への利便の為記紀の系譜は作られた」と言うのは全く根拠無し。
まあ、王朝交換の正当性を説明するよりは、系図作った方が簡単だろうけど。
314日本@名無史さん:2001/08/20(月) 14:38
異系推戴を全く否定できないからといって逆に異系推戴を
肯定するのも論理の飛躍。宋書はむしろ5世紀の記紀の王統譜に
一定の信憑性を持たせる材料でしょう。
315313:2001/08/20(月) 14:59
>>314
>宋書の読み方次第では一系ではない は、
「第2代珍と3代済の系統説明が無いこと」以外、
肯定資料であることは承知で書いています。
「だから何なの?」とかレス付けないで下さい。わかってますから。
316日本@名無史さん:2001/08/20(月) 15:04
>>313
「だから」あなたのこのスレに対する答えは「何なの?」
317313:2001/08/20(月) 15:28
記紀の系譜の真贋について
>>306より強くは否定しないが、>>316貴方よりは懐疑的。
318日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:00
まーーこの時代のことは新資料が出てくるまでこれ以上
わかんないよね。稲荷山古墳なみの発見に期待するかね。
319日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:05
あと、やはり大きく分かれるのはどこまで記紀を信頼するか、だよね。
記紀研究の結果、五世紀以降の諸天皇の実在性を認める一方で
積極的な証拠もないまま系譜を否定するのはダブスタではないかという
疑念はいつも付きまとう。稲荷山古墳の銘文や宋書の裏づけもあるのにね。
あと、武寧王墓誌なんかも記紀の信憑性を高める材料でしょう。
320日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:07
>>319
逆に記紀の信憑性を低めるような材料はないのでしょうか?
321日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:15
低める?
うーーーん、直接的な資料としてはあまりないよね。
というかそんなものあれば古代史はもっと解明されてるし。
要するに記紀の内容が荒唐無稽って事で否定的な意見が
出てくるわけで。実際、荒唐無稽なところはいっぱいあるしね。
322日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:33
>>312
応神天皇の5世孫というのが事実なら、皇族。
(当時は、5世までさかのぼってみて天皇(大王)と
血がつながっていた場合は皇族として扱われていたらしい
(ちょうど5代ってことも、疑念が出される要因だけど))
323日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:36
>>322
それってもっとあとの時代のことだと思うけど。
324日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:37
>>311
結果的に大王位を継げなかった人達だから、書紀編纂当時にまで名前が伝わら
なかったのでしょうが、応神の子孫で後世まで残っているとされているのは、
大山守皇子 →土形君・榛原君・幣岐君
根鳥皇子 →大田君
去来真稚皇子→深河別
くらいでしょう。誅殺された大山守等の系統に比べて若野毛二股皇子系は忍坂
大中姫・衣通娘姫が允恭の后妃となり安康・雄略の外戚になってるので、勝負
にはならないのではないかと。。。(W
325322:2001/08/20(月) 21:45
>>323
書記の書かれた時代のことです。>当時
326324:2001/08/20(月) 21:51
>>323
そうですね。皇族五世は、はるか後代の律令制によるものです。そこから逆に
応神五世に後世記紀編纂者の作為的捏造があるとする学者もいるのですが、こ
れはチョット変な考えだと思います。作為的捏造ならば、何もギリギリの五世
にしなくとも誰かの三世か四世にしておくことも出来るはずですから。。。
327日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:53
>>325
なら皇族とは断定できないと思うけど。
328日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:57
>>326
三世か四世にすると今は残っていない当時の史料と
矛盾が生じてしまうとか・・・?
329322:2001/08/20(月) 22:04
>>327
継体天皇の時は血がつながっているかどうかだけな気がするんだけど>皇族かどうか
(天武持統期の後みたいにちゃんとに、絶対権力を持った天皇制が確立した時代からでないと
皇族の範囲を確定するの意味無いと思うし(ある程度人数を絞らないと、皇室の権威なくなるから)
皇族の規定はあそこで単に決めた気がする(適当でごめんね))
330324:2001/08/20(月) 22:16
>>301
通称は田中山王塚で、周濠のある二段円墳(帆立貝式とも)のようです。
古墳の北にある三尾神社旧跡には、振姫の「もたれ石」という伝承もあります。
また別に6世紀初とみられる鴨稲荷山古墳(前方後円墳)があり、これを彦主
人墓とし田中山王塚を乎斐墓に比定することもあるようです。
なおこれらの真偽に関しては一切責任は持てませんが。。。(W
331日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:17
それ以降の系譜も踏まえて考えると
継体ってワンポイントリリーフみたいな感じだったんじゃないか
とにかく武烈の直接的な血族がいなくなった時点で
豪族達は次の大王位をどうしようか考えてただろう。
倭彦王のとこに行ったりもしてるし
で、継体が即位するんだけど、20年も大和に入らない…
女系で繋がった欽明が生まれて、成人するまでのワンポイントリリーフとして
継体→安閑→宣化帝の3人が即位したが、欽明を推す勢力との対立から
クーデターみたいなことが起きて、継体朝は直接的には3代で終わった
(以上、空想)
以来、遠縁の皇族を王位につけるような考えはなくなったのではないか
332324:2001/08/20(月) 22:25
>>328
おっしゃるとおり。嘘をついてもバレルだけですから、当時認めれられていた
伝承どおり五世孫だから五世孫としたのではないかと。。。(W

>>329
これもおっしゃるとおりかと。天皇はもちろん皇族と言う概念は継体当時
には無かったでしょう。要するに大王の男系血統を持つ有力一族という程
度のものだったかと。。。
333324:2001/08/20(月) 22:40
>>331
意味が良く分からない。。。欽明は継体の子なんでしょう?
父から子に王位が伝わってのに、ナンデ継体王朝が3代で終わるのですか?

大和に入らなかったことについては、>>127 にガイシュツです。
そもそも、大和入りを重視するのは後世の都のイメージにとらわれ過ぎな
では? 大和に入れない大王が新羅攻撃を実行したり、それに抵抗した九州
の大豪族をコテパンに打ちのめしたり、今城塚のような巨大古墳を造るか
しら?
334日本@名無史さん:2001/08/20(月) 23:12
>>332
>大王の男系血統を持つ有力一族
これが正しいかどうかが主題なのでは?
(新王朝説って結局応神天皇の血統とは別物だっていうことだし)
335324:2001/08/20(月) 23:47
>>303 隅田八幡宮画像鏡金石文。
「癸未年八月日十大王年 男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直
穢人今州利二人等(?)取白上同二百旱 作此竟」
癸未は443か503年とされますが、斯麻は墓誌で確認されている武寧王と
見るべきでしょうから、在位501〜523年からも503年が妥当でしょう。
とすればおっしゃるとおり、これは継体即位(507年)以前の武烈時代とい
うことになりますネ。男弟王と男大迹・袁本杼について音韻が合わないとも
いわれてますが、6世紀初にそれほど厳密な写音を考えるべきか。。。?
忍坂は継体家系から出た允恭皇后の名称でもあり、満更縁がないとも言えな
い土地である。。。確かに可能性がないとは言えないですね。
ここからは全くの憶測ですが、磐井は毛野臣に対して「昔は吾が伴として
肩摩り肘触りつつ…」と旧知の間のように言ってます。あるいは当時既に
大豪族達が大和の大王の下に参勤することがあったのではないか。継体も
その例によって、一時的に大和に滞在していたのではないか。。。なんて(W
336名無しさん:2001/08/20(月) 23:51
少なくとも、天武から前は怪しいよな。
それでも1300年なんだから大したものだ。
337324:2001/08/20(月) 23:51
>>334
そのとおりですが、これについては既に大勢は決しているように思った
ので、「皇族」という概念に関して意見を述べたものです。
338324:2001/08/20(月) 23:59
>>336
ここまでの意見を踏まえて、貴方が「天武から前は怪しい」とされる
最大の理由は何でしょうか? もし良かったらお聞かせ頂けませんか?
339日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:03
336がチョソだからでは?
340日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:07
>>338
ここまでの意見を踏まえたからじゃないの?
341324:2001/08/21(火) 00:22
>>340
だから具体的な理由をお聞きしているんです。
342日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:23
天武天皇以降が確実って……
それじゃあ、光仁天皇はどこからでてきたんよ。
(もしかして、天皇号を称したのが天武天皇以降ってことかな?それならわかる)
343日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:25
>>342
天武から前は怪しいとしか言ってないと思われ。
344日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:27
>341
ていうか、応神5世孫って言い張ってるのアンタだけだよ。
345日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:31
>>344
324じゃないけど、おれは別に5世孫っていうのは否定してないよ。
別に昔の資料で有力な新王朝だっていうのがあるわけではないし。
346日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:38
>>324さんの論旨は、記紀の記載を否定するものが無い以上は、
その系譜を認めべきだ、でしょう。猜疑心の強い私なんかは、
現在の資料だけで断定するのはちょっとね。
347日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:39
サヨは心の奥底では朝鮮人を見下しているよ。
気付かないのか
だからサヨは反天皇なんだYO
サヨ=心底で朝鮮人を見下す差別主義者
348日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:53
>>347
天皇=鮮人ってやつ?
この説で疑問なのは朝鮮人って規定をどこにおいているのかなんだが……
民族の規定って同一の人種で、言語、宗教も同じってことだったと思うんだが。
349日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:21

若野毛二股ー意富富抒ー乎非ー汗斯

学校の日本史の教科書・年表では必ず応神−○−○−○ー○ー継体となっていて、
今日、初めて名前を知ったんですが、この人たちはどういう事績のあった人たち
ですか?
350日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:29
天皇家の菩提寺で、位牌が見あたらない天皇がゴロゴロいるというウワサは本当?
351日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:29
>>349
一人抜けてるよ。
彦主人王が最後に入る。
何をした人かは、知らない。
352351:2001/08/21(火) 01:32
あ、抜けているんじゃないか。
汗斯 って誰?
彦主人王のいみな?
353日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:13
血縁の繋がりはよくわからない(ない可能性が高い)
あったとしてもかなり薄い
ただ天皇として記述されているということは
正式に即位し、大王として認められていてはいたということ
でいい?
越前の実力者であったことが、大王位につける大きな要因だったってことなのか
354日本@名無史さん:2001/08/21(火) 05:56
延々と同じ議論が続いてるようだけど結局「継体は別王朝」論の根拠って
1 継体が応神の五世孫という遠縁だということ。
2 当時は大王家のもの以外でも即位できた。または婿でも即位できた。
って事なんだよな。ただ、2に関しては具体的な証拠がなく通説に従えば
継体前後の大王位継承はすべて男系によって行われているわけだから
蓋然性は薄い。五世孫というのが怪しいというのも稲荷山古墳鉄剣発見以前の
古い系譜観に基づくもの。ヲワケ臣が雄略と同世代だとすれば応神はヲワケ臣の
たった三世代前だ。継体の時代に応神期までの系譜が伝わっていても何の不思議
でもない。
355日本@名無史さん:2001/08/21(火) 05:56
以上のことを踏まえた上で、あえて、継体は応神の五世孫ではない、と
する積極的な理由はあるのだろうか?ただ、怪しいというだけではそれまでの
意見だろう。継体朝前後の政権基盤(大伴、物部連から大連を出し大和盆地内の
臣姓豪族から大臣を出す。)ら何の変化もないことを踏まえても継体は血縁に
基づいて畿内豪族に擁立された大王という蓋然性が極めて高いといったいいと思う。
356日本@名無史さん:2001/08/21(火) 06:04
>>352
汗斯(ウシ)、彦主人(ヒコウシ)
彦がつくかつかないかだけ。「汗斯」は上宮記逸文の表記。
357日本@名無史さん:2001/08/21(火) 06:08
>>353

血縁の繋がりはよくわからない(ある可能性が高い)
あるだろうがかなり薄いので仁賢皇女をわざわざ娶った。
正式に即位し、大王として認められていてはいたのは当然。
越前の実力者であったことが、大王位につける大きな要因の
ひとつであったのは間違いないが
358日本@名無史さん:2001/08/21(火) 07:03
天皇=鮮人って意見は聞くけど、どう言う鮮人かは聞かないよね。
中国だと呉なんとか伯とか。後はじょふくだっけ?
半島追い出された名も無い民族でも別に良いけどさ。
359日本@名無史さん:2001/08/21(火) 07:51
>>358
天皇=鮮人っては一部の人間が面白がっていってるだけ。
天皇が日本人が蔑視する朝鮮人出身というデマをばら撒いて
天皇を貶めようとしているだけ。学者は左派も含めてそんな下劣な
事はしない。
360日本@名無史さん:2001/08/21(火) 07:57
もともとは戦後、江上波夫氏によって提唱された騎馬民族日本制服説
がモデルになっているのだが騎馬民族説は文献史学、考古学的に見て
成立する余地はない。弥生期にやってきた渡来人の末裔が倭人と呼ばれる
人々であり彼らが後の大和王権を築いたのは間違いないが渡来人=朝鮮人
ではないし、渡来人を朝鮮人と呼ぶなら日本人が朝鮮人の分派だ。
しかし、言語学的にみて弥生期にやってきた渡来人は朝鮮人の祖先とは
かなり異質の人々であったと思われる。
また、古代天皇が百済人や高句麗人、新羅人というのは何の根拠もない
トンデモ説。
361日本@名無史さん:2001/08/21(火) 10:03
オホホトは姉妹が允恭后だったのでそれ相応の実力者だったのだろう。オオイラツコという名も伝わっている。
恐らくその頃まではヤマトにいたのだろうから、北に移ったのは子の代か。
ヲホトはオホホトの名を継いでいることから見て、実力者だったのだろう。
即位以前からヤマトとのパイプはあってもおかしくはない。
362324:2001/08/21(火) 10:07
>>350
これは、トンデモで知られた小林が言い出したいわゆる「泉湧寺位牌問題」ですね。
つまり泉湧寺位牌は天智から光仁、桓武と続いており、天武系諸天皇が省かれているという
ことから、天武系天皇は天智系とは氏族が異なるとするものです。
泉湧寺が天皇家勅願寺となったのは、13世紀 後鳥羽上皇時代、菩提寺とされたのは14
世紀後光厳天皇時代のようですが、天皇位牌については度々移動されて現在にようになった
のは、徳川〜明治とする説もあり良く分からないのですが。。。
問題はこの菩提寺の意味を如何に考えるかでしょう。つまり中世(?)の某天皇が日本的仏
教概念に基づき「先祖累代の先祖供養」としたのならば、天武から称徳までは直系の先祖で
はないので除外することも不思議ではないでしょう。ただ一旦天皇家の菩提寺となってから
は、傍系に移行してもその位牌をワザワザ取り除くことはしないでしょうから、結果的にこ
の様な形になったと考えれば済むことです。
たとえば「弘文・持統・元明」等も天智系ではありますが、光仁・桓武の先祖ではないので
位牌はありません。
あるいは、本来は桓武以降の天皇の位牌を祀っていたものが、後世において光仁・天智を付
け加えたのかも知れませんが。。。
(天武系は薬師寺・東大寺・西大寺という誰知らぬものも無い大寺に祀られているが、天智
勅願寺は平安期には廃寺となってしまったので、直系祖先としては余りに侘びしいとか。。。)
363日本@名無史さん:2001/08/21(火) 10:34
ちなみにオホド王は彦太尊とも呼ばれるから
ホド(フト)がもともとの名前だったのかも
オホホドもおなじ。両者は同名で後世、区別するために
オホ、オをつけたのかも。
364日本@名無史さん:2001/08/21(火) 10:38
>>361

大伴金村が知っていたくらいだから当然中央とのパイプは
あったでしょう
365日本@名無史さん:2001/08/21(火) 10:44
>>364
中央とのではなく大伴金村とのパイプだったりして。
366324:2001/08/21(火) 10:55
>>346
僕は記紀だけで判断していません。記紀とは別系統である可能性が高い「上宮記」、
家系伝承や倭大王に関する稲荷山鉄剣その他の金石文、三国史記や宋書等で窺える
倭国の体制、古墳等の考古学的所見。。。等から見て最も整合性が高い(同時に蓋
然性が高い)のではないかと言うことです。
もちろん、記紀の記述する大豪族の動向等も、特に矛盾点がない限り大きな判断材
料だとは思いますが。。。
367日本@名無史さん:2001/08/21(火) 10:57
>>365

それを中央とのパイプって言うのよ。
福田官房長官とパイプを持ってたら政府と
パイプを持っているということ。
368日本@名無史さん:2001/08/21(火) 11:03
>>367
違いを理解できないのね。
まあいいけど。
369324:2001/08/21(火) 11:03
>>365
大伴だけのパイプで、物部・蘇我・阿部・毛野等が了解するでしょうか?

>>342
光仁の出自についてまでも、何か疑問がおありなのでしょうか?
彼の即位に関して様々な陰謀術策があったと言うことならともかく、出自来歴
に関する疑問は、まず有り得ないと思いますが?
370342:2001/08/21(火) 11:07
>>369
342は336を受けての疑問だけど……
オレは別に光仁天皇の出自は疑ってないよ。
371日本@名無史さん:2001/08/21(火) 11:20
>>369
みんな「誰それ?」って思ったけれど
大伴くん恐いし
物部くんもなんか賛成してるみたいだし
ならいいかって
しぶしぶ納得したのよ、きっと。
372日本@名無史さん:2001/08/21(火) 11:32
まだ、やってんのかよ
373日本@名無史さん:2001/08/21(火) 13:55
>>371
おほともくんや、もののへくんがしってたなら、あへくんや、そがくん
(もともとだいおうけからでたしぞく)がしらんというりゆうはないと、
おもうんだけどなあ。。。
ようするに、ちゅうおうごうぞく(だいおうさんちのえらいさん)は、
たいがいしってたとかんがえるのが、むしろふつうじゃないの?

だって、とうじのちゅうおうごうぞくなんて、たいがいなんかのしん
せきだし、ちょうないかいていどの、つーかーのせかいだよ。

>>372
なんかきにいらないの? こだいしスレってすくないんだから、べつ
にいいじゃん(W
374日本@名無史さん:2001/08/21(火) 14:14
欽明の登場とともに大伴くんは没落していくのであった。
375324:2001/08/21(火) 14:28
話は変わるけど、岐阜県根尾谷に樹齢1,400〜1,500年とも言われる薄墨桜の名木があり、
この名木には継体お手植えっていう伝承があります。

おそらく、後世の誰かが付会したんだとは思うけれど、祖母の久留比売の実家が大碓の子孫
で、美濃国造りだったらしいことを考えると(これは上宮記と国造本紀を対照しないと出て
こない発想だし、誰でもしってるっていうような書籍でもない。。。)実に良くできた伝承
で、桜を見ながら思わず微笑んじゃった。。。
376日本@名無史さん:2001/08/21(火) 18:31
岐阜県に継体天皇に関する伝承が伝わっているとは
けっこう意外だね。
377324:2001/08/21(火) 21:00
>>372さんには悪いけど、ついでのことに。。。ちょっと継体関係者を祀る神社を調べて見ま
した。もちろん神社の主神は、中世から近代にかけてしばしば替わってますし、ほとんどの
神社縁起は記紀に基づいているのですが、古社伝承には記紀とは別系統のものが含まれてい
るかもしれないと言うことで。(対象は延喜式内社とされる神社)
横山神社    「繼軆天皇」          福井県坂井郡丸岡町坪江
国神神社    「椀子皇子 配振姫命、應神天皇」福井県坂井郡丸岡町石城戸
高向神社    「繼軆天皇 配振媛命」   福井県坂井郡丸岡町高田
片岸神社    「繼軆天皇」          福井県坂井郡三国町山岸
三國神社    「繼軆天皇」          福井県坂井郡三国町山王
日野神社    「繼軆天皇、安閑天皇、宣化天皇」福井県武生市中平吹字茶端
味真野神社   「應神天皇、繼軆天皇等」    福井県武生市池泉町
與須奈神社   「繼軆天皇等」         福井県福井市下市町
足羽神社    「繼軆天皇等」         福井県福井市足羽
毛谷黒龍神社  「繼軆天皇等」         福井県福井市常盤木町
多太神社   「衝桙等乎而留比古命」*1   石川県小松市上本折町
水尾神社河南社 「磐衝別命」
水尾神社河北社 「振姫命」*2       滋賀県高島郡高島町拝戸
三重生神社   「彦主人王 配振媛」   滋賀県高島郡安曇川町常盤木
*1武烈天皇の五年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝わる。
*2「秀真伝」と言う謎の古文書が伝えられている(?)。
378日本@名無史さん:2001/08/21(火) 23:27
話はかわりますが、継体は即位事情も謎めいていますが、
子ども達も謎や不都合が多いです。
欽明と安閑宣化の即位事情に係わる上宮聖徳法皇帝説や元興寺縁起と書紀の矛盾。
特に欽明は生没年ともに不祥で書紀では、父親以上に謎の人物です。
帝説・縁起は2級資料と言われますが、書紀も清寧以降は、それ以前の応神−雄略期の
記載より不整合が目立ち1級資料とは評価できません。
379日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:01
王族の後裔が地方に移ったあとも中央の本拠と完全に断絶することなく
宮などの経営体が存続していた例は多いので、ヲホトがオホホト(或いはワカヌケフタマタ)以来の
根拠地であるオシサカ宮にいたことは充分あり得ると思う。
335に引かれてる鏡の銘文が継体を指す蓋然性は高いかな。
いずれにせよ日本書紀が記すように突然遠方から呼び寄せたわけではなく
やはり前々から中央とのつながりはあったと考えるほうが自然だろうね。
380日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:05
>>377
やはり圧倒的に福井県ですな。
381日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:08
>>379
当然ですね。
血縁関係がないなら、なにが悲しくて田舎の地方豪族を
自分達の王にせねばならないのかわからない。
382日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:10
>>379
結局すべてが蓋然性が高いか低いかその程度のことなのね。
383日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:40
そうだよ。完全なんてことはありえない。
蓋然性、まさにその通り。言い得て妙。
384324:2001/08/22(水) 00:54
>>382
>その程度のことなのね。

もちろんそうですよ。古代はもちろんのこと、歴史という過去の事象を
100%確実に知ることなんて、神様とトンデモさん(W)以外には、ほと
んどの場合不可能なんです。つまり人文科学と言うのは、あっる仮説が
成立する蓋然性が高いか低いかを、検証することでなりたっている学問
なのです。
ただ、どう考えても成立する蓋然性がほとんど無いと判断できる問題も
ありますね。この問題でいうならば継体が渡来人であるとか、大王家と
は無関係な越前の一豪族に過ぎないとかいう仮説です。
しかし、それだって根拠と論理の立て方によっては、O.O1%位の蓋然性
が10%位に拡大できるかも知れないんですネ。それに挑戦されますか?
385日本@名無史さん:2001/08/22(水) 01:12
>>384
なるほど。
根拠と論理の立て方によっては
O.O1%位の蓋然性が10%位に拡大できるかもということですか。
ということは
蓋然性がほぼ100%と思われるていることも
実はもともと0.1%位の蓋然性が
根拠と論理の立て方によってそうなった可能性もあるということですね。
386日本@名無史さん:2001/08/22(水) 01:18
>>385
どうしても信じたくないんね。
確実なのは、陵墓掘り起こして、遺伝子検査でもすればいいんだろうけど、
まあ、今の段階では不可能だよなあ。
387日本@名無史さん:2001/08/22(水) 02:37
欽明は本当に継体と手白香皇女の子なんだろうか。
継体の出自より、欽明のほうが興味あるな。
388日本@名無史さん:2001/08/22(水) 07:46
継体も欽明も確かに出自は怪しいけど
全く無関係の誰かを担ぎ出せるほど、当時の大王位の権威は低くなかったと思う
血縁関係を重視する土壌が薄いなら、とっくに豪族がクーデター起こしてた
と思うんだよね
むしろ過剰に血縁関係を重視する慣習があったから武烈で直系の血が
途絶えたのではないか
血のイニシエーションみたいなことやってそうだし
389日本@名無史さん:2001/08/22(水) 09:51
武烈ってなんであんなひどい書かれかたされているのだろう。
直接の祖先ではないにしても女系ではかなり近い存在なのに。
身内の恥は隠したいというのは下々の考え方なのかな。
390日本@名無史さん:2001/08/22(水) 09:58
遺伝子がどうのこうのとか言ってるバカがいるけど
そんなことはどうでもいいんだよ。
ようは当時の人々が「継体天皇は皇裔」っていうのを
信じていたかどうかで、それを根拠にして即位したか
どうかの話しだろ?
なんだよ遺伝子検査ってのは?
391日本@名無史さん:2001/08/22(水) 10:00
で、血縁のない有力豪族だったらべつに大臣クラスに
しても懐柔できるんじゃないのか?
どうしても大王でないとだめだったのか?
392日本@名無史さん:2001/08/22(水) 10:45
>>390
バカはおまえ。
当事の人々が信じていたかどうかなんて
わかるわけねえだろうが。
393日本@名無史さん:2001/08/22(水) 10:48
>>391
懐柔などという発想はどこから出てくるのだ?
394324:2001/08/22(水) 11:33
>>385
概ねおっしゃるとおりだと思っています。僕は稲荷山以前であれば、古代に於ける系譜伝承
自体に疑問があったことから、継体が大王家血統を引く人物である可能性は、60〜70%程度
ではないかと考えていました。
しかし現在では、それに加えて吉野里遺跡やその他の弥生遺跡の調査結果、巨大古墳時代
の開始年代の見直し等によって倭国成立と体制に関する状況証拠も徐々に明らかになりつ
つあるので、概ね80〜90%くらいに高まったと考えています。
(うち応神五世孫の可能性は、70〜80%くらいかな?)
もちろん、仮に日本あるいは韓国においてこれを否定すべき金石文等が発見されれば、この
数字は大きく変化するでしょうね。古代史学ってのはそういうものではないでしょうか?
395日本@名無史さん:2001/08/22(水) 11:51
>>390
信じていたかどうか?
いつからそんな話になっているんだ?
妄想キティが。(w
396日本@名無史さん:2001/08/22(水) 11:59
>>395
煽るなよ。
でも信じていたかどうかが重要なら、天皇は天孫っていうのは正しいんだね。
397日本@名無史さん:2001/08/22(水) 12:18
>>389
血が途絶えたこと、継体を擁立したことを正統化するための記述。
398324:2001/08/22(水) 12:25
例えば、ここで欽明の出自に関する疑問があがっていますが、これはどのような
(資料的)根拠と、理論構成によって継体・手白香の実子ではないという仮説を導
き出そうとしておられるのか?そしてそれが成立する可能性はどう判定すべきか?
これが史学における問題でしょう。。。
(この場合の実子とは言うまでもなく生物学的な意味ではありません。父と子とそ
の周辺の縁戚・重臣達が実子と信じていたかどうかという社会学的な意味です。
生物学的な実子関係は、それこそ神と遺伝子調査のみぞ知るもので、史学において
は社会学的な意味で充分なのです。極論すれば遺伝子調査で実子関係が否認されて
も、社会学的実子関係は存在しうるし、その方が遙かに重要なのですからね)
399324:2001/08/22(水) 12:42
>>396
敢えて言っておられるのだろうとは思いますが、現在の科学知識から見て、
人間が天降ることはあり得ません。これは神武以降の諸大王の殆どが寿命
百歳をはるかに越えているということが有り得ないと同様に、我々の一般
的科学知識から否定することが出来ます。
つまり天孫降臨神話は、当時の人々が信じていようがなかろうが、史実で
はあり得ません。しかし継体が応神五世孫であるかどうかは、この様な一
般的科学知識とは無関係な問題です。
従って、当時の人達がそう信じていたならば、それが史実である可能性は
極めて高いと考えられます。このような、まったく性格の異なる問題につ
いて例証とされるのは、不適切ではないでしょうか?
400日本@名無史さん:2001/08/22(水) 12:43
>>398
確かに本人たちもまわりのものたちも実子だと信じていれば
実際の血のつながりなんて全く意味の無いことです。
でも、継体にしろ欽明にしろ遺伝子調査で血のつながりが否定されれば
あるとされる社会学的関係の存在そのものが怪しくなると思いますが。
401日本@名無史さん:2001/08/22(水) 12:45
>>398
それならもう、議論する意味無いんじゃないの?
出てくる史料は、継体が応神の5世孫っていうのを
補強する物が多いし。
402日本@名無史さん:2001/08/22(水) 12:55
>>399
当事の人達が信じていたかどうかなど
どうやったらわかるのですか?
403324:2001/08/22(水) 13:00
>>401
確かにそうかも知れません。ただ僕としては否定論者の方が、単に「怪しい」とか「思う」
だけではなく、もう少し明確な根拠と論理を展開されることを期待してるんです。
そうすれば、僕自身もこの問題について、より深く考察出来るんじゃないかと。。。
404日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:13
>>403
では、明確な根拠と論理にはほど遠いのですが、
当事の50代がどういう状態なのかわからないけれど、
継体と欽明って親と孫OR曾孫ぐらい年齢が離れてる。
405日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:16
否定論者はただ煽ってるだけにしかみえんぞ。
もうちょいマシな意見だせや
406324:2001/08/22(水) 13:18
>>402
ここまでの議論を読み返して、貴方自身の理性に問いかけて下さい。
407日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:26
>>402

継体が応神五世孫という血縁に基づいて擁立された可能性が
強まればそれは当時の群臣が「信じていた」ということでしょ。
今上天皇は昭和天皇の実子だと信じられているから今上天皇は
すんなり皇位を継承できたんでしょ。
408日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:30
>>407
基本的には、五世孫と認めていたっていうのは定説に近いんじゃないの?
否定するためには、生物学的に調べるくらいしか残ってないように思うが。
(当時の考えは誤っていたということは証明できるし)
409日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:37
>>406
知性ならともかく理性などに問いかけてわかるのかしら。

>>407
逆は必ずしも真ならず。
410日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:38
よい子のみんなはまねしちゃだめよ。
>>405
411日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:47
>>409
まあ、煽りだろうけど応神五世孫であることが即位の根拠と
なったのならばそれは当時の群臣がそう信じていたからだよ。
逆に五世孫でなくても五世孫ということにして擁立したのであれば
過去スレで散々議論された「血縁に基づいて皇位が継承された。」
「継体は応神五世孫でそれゆえ即位できた。」
という結果を否定する必要がある。
412324:2001/08/22(水) 13:50
>>409
それは言えるかもしれませんね。ただ僕にはこの方の知性が、どの程度のレベルかは
分からないので、より普遍的に人間に備わっている「理性」に問うたのです(W
413日本@名無史さん:2001/08/22(水) 13:59
>>397
桓武天皇五世の平将門、清和天皇六世の源義家。 彼等が天皇に即位していたら、
その不当性を責められ、簒奪と言われたでしょう。そのために武烈天皇を残忍な人物
にする必要性があったんでしょうね。継体天皇の即位の不当性が書記編纂の時代
まで尾を引いていたということなのかな。それとも本当に武烈天皇が残忍な人だったのか?
414日本@名無史さん:2001/08/22(水) 14:05
>>411
元投稿はこれ↓
「当時の人達がそう信じていたならば、それが史実である可能性は
極めて高いと考えられます。」
結果から前提を推論するのは誤り。
415日本@名無史さん:2001/08/22(水) 14:07
>>413
だから五世孫でも十世孫でも他に皇位継承者がいない状況で
皇位を継いでも不当でもなんでもないでしょ。
武烈悪帝論は仁徳聖帝論とともに血統の祖と断絶者の聖悪論を
中国史書風に書紀に持ち込んだだけでしょ。
416日本@名無史さん:2001/08/22(水) 14:13
>>415
武烈天皇以前、清寧と顕宗も子供がいなかったけど、
武烈天皇のように残忍な人物とはされてないよ。
417日本@名無史さん:2001/08/22(水) 14:15
>>414
元投稿がどれだか知らないけど>>407

>「当時の人達がそう信じていたならば、それが史実である可能性は
極めて高いと考えられます。」

とはいってないぞ。
まあ、そもそも誰かが「信じる」なんて表現使い出したのが
まずいんだが、要は血縁に基づいて即位したと考えられるのなら
それはイコール当時の群臣がその血縁を信じていたと考えるのが
ごく妥当だろう。
418日本@名無史さん:2001/08/22(水) 14:20
>>416

仁徳は仁徳血統の祖。武烈はその血統の最後の王。
単に子供がいるかいないかの違いじゃないよ。
419日本@名無史さん:2001/08/22(水) 14:31
>>417
>>399から話は始まっています。
流れをよ〜く見てから投稿しようね。
420324:2001/08/22(水) 15:48
>>419
少し話が混線しています。
>>396  >でも信じていたかどうかが重要なら、天皇は天孫っていうのは正しいんだね。

>>399 は、この様な議論の展開に関して、同じように「古代人が信じてる」と言っても、
天孫(神の子)であると信じてるという「信じてる」と、五世孫であると信じてるという
「信じてる」とは意味が違うということを述べたものです。
前者は一般的科学知識から「事実=史実」ではないことが無条件に否定できる。
後者はそうではなく逆に「事実=史実」であることを推定する極めて大きな根拠になりう
る。従って両者を混同して議論するのは、可笑しいと言ってるんです。

>>413
仮に将門・義家の時代に、皇位継承を巡って大規模な皇族同士の殺戮等があり、そのため
皇位継承適格者(血統的に直前天皇に近い男子)が完全に絶えていて、五・六世孫である
彼等にも継承適格が公然と認められるような状況で、彼らが擁立されれば、必ずしも簒奪と
はならないでしょう?
チャイナやコリアにおいても、日本では徳川将軍家においても、数世代離れた人物が正統
継承者となっているのは、何度も説明があったところですネ?
421日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:01
>>420
血の継承のために存在した御三家・御三卿や宮家と
単に血をひいているということは
同列に扱うことはできないしょう
422日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:05
しつも〜ん。
年老いた継体ではなく
若い安閑や宣化が三皇女を娶って
即位しなかったのはなぜでしょう?
423日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:09
>>420
中国はあんまり厳密さは気にしてないんじゃないの?
例えば蜀漢の昭列帝がもし統一してたら、そのまま新しい漢王朝
として認めそうだし。
あと、396の天孫云々はただの煽りでしょ。
424324:2001/08/22(水) 16:12
それももう過去に論じられたことです。王位継承に関して数世代離れた
人物が即位する例は幾つもあったでしょう?

>>422
前にも似た質問があったけど、意味不明。。。五世孫を差し置いて何故に
六世孫が即位するんですか?
425日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:12
>>390
現在はともかく、ある時代までは天孫だっていうのに、正当性
を求めていた時代もありますし、単に否定するのもどうかと思いますが。
426425:2001/08/22(水) 16:14
すみません。>>390ではなく>>420さんへです。
427日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:26
>>424
日本において血はひいているけれど王族の範疇かどうか
わからない人物が継承した例は幾つもないでしょ。

親を差し置いて子が即位した例はあるでしょ。
428日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:30
>>420
確かにおっしゃるとうりです。ただ、武烈紀の残虐記事が何故出来上がったのか。
はっきり言ってレスするのもイヤなほどですよ。>>415さんの中国史書風と言われても
夏の桀王とか殷の紂王ぐらいしか思い浮かばない(不勉強のせいですが)。
前王を悪逆非道な王として新王朝をうち立てることを正統化するみたいに。
武烈天皇の没後、足仲彦天皇の五世の孫、倭彦王を擁立しようとするけど、
出迎えに来た軍勢を見て怯えて逃げ出して行方不明なんていかにも継体以外に
皇位継承者はいないんだという感じですよ。
429日本@名無史さん:2001/08/22(水) 17:48
>>427
先例の有無が現実の近親皇統断絶の際に遠縁の王族や男系子孫の皇位継承を
妨げる理由にはならないと思うが。むしろ、男系血統に基づく皇位継承を行って
いれば五世孫でも皇位につけるというのはごく自然な流れだと思う。
あと、「親が子を差し置いて」ということだが後世の場合、例えば後花園、光格の即位や
家斉の将軍継承の場合は養子制度の問題があります。時の天皇、将軍の養子とする
場合は当然、年下でなくてはならないので親を差し置い子が継承する場合があります。
しかし、家継の養子には本来、吉宗の子、長福丸(家重)がなるはずでしたが
縁組前に家継が死去したため吉宗が継承しました。
それこそ、養子制度などなかったであろう六世紀に養子制度があるがゆえに生まれた
子が親を差し置いて即位するという事例を持ち出しても仕方ないでしょう。
430日本@名無史さん:2001/08/22(水) 17:57
あと王族の範疇うんぬんの話だが後世のように律令、法律、あるいは
臣籍降下という形で明確に範疇が決められているかは別にしても
六世紀にはすでに「大王」の称号が一般化しておりそれに付随して
「王族」には「王」の称号が与えられていたと思う。
隅田八幡宮画像鏡の「男弟王」なども王族の一員だろう。
431日本@名無史さん:2001/08/22(水) 18:23
>>429
吉宗の子が家継の養子になるはずだった?
出典を教えていただきたい。

養子制度があろうがなかろうが子が親を差し置いて即位して
何がおかしいのか?
結果的に入り婿のような形で継承したのだから
婿にふさわしいのは年若い二人であろう。
それとも5世孫が存在したら6世孫は即位できない決まりでもあるのか?
432日本@名無史さん:2001/08/22(水) 18:27
>>430
血をひいているということと王族であるということは
全く別物です。
433日本@名無史さん:2001/08/22(水) 18:39
>>431
http://www.f4.dion.ne.jp/~s.kazuya/yoshi3.htm
別に子が親を差し置いても悪くはないがあえて子を優先させる必要も
ないでしょう。現実には時の政治判断でしょう。なぜ、あなたが
「子を優先」ということにこだわるのか、恐らくみな不思議がると思います。
434日本@名無史さん:2001/08/22(水) 18:40
>>432
>>430を良く読みましたか?当時は別物といいますが血をひいている事は
王族であることの最低条件です。別物というものではありませんよ。
当時、王族と男系子孫であっても王族でないものとの明確な区別があったかは
不明ですが、(後の賜姓のように)「大王」という称号がある以上
それに呼応する「王」という称号があるのは当然で上宮記に見られるように
大王の末裔とされていても「王」を名乗れないものがいる以上
「王」という称号を名乗れるかどうかが当時の王族かそうでないかの
分岐点だったと思われます。
435日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:00
>>433
不思議がるのはあなただけだと思います。
436日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:05
>>435

324氏も不思議がっているように見えるから最低2名はいるね。
うーーん、なぜ、わざわざ六世孫にこだわるの?
そんなの当時の為政者にしかわからないことで後から推測は
できるけど結局、子ではなく親が即位したという事実が残るのみだよ。
単なる煽り?
437日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:10
中国だと世代の考えがあるんで
子が親を差し置いて即位というのはよくあるケース。
帝位が死んだ皇帝の弟へ行かず、弟の子へ行く。
弟がいなければ従弟の子に渡る。
朝鮮もそう。そうやって即位した無能な高宗の時、
王の父と妃の一族が権力闘争を繰り返し、
日清戦争の原因を作ったことはよく知られた事実。
438日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:32
>>436
推測できるなら推測して。
事実など残っていないけど。
単なる煽り?
439日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:36
>>433
そのHPの情報は信頼できるのでしょうか?
440日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:38
煽りは無視
折角の良質スレが腐る
441日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:43
>>432
>血をひいている事は王族であることの最低条件です。
当たり前のことじゃないですか。
でも血をひいていようが王を称していようが
それと王族として扱われていたかどうかは
別だといっているのです。
わかります?
442日本@名無史さん:2001/08/22(水) 19:45
>>440
腐らせているのはオマエだよ。
443日本@名無史さん:2001/08/22(水) 20:12
>>441

意味不明、残念ながらわかりません。
律令時代に五世王は王の称号を持っていても皇族とは扱われなかったが
通常は王族としての称号保持者は王族であったと考えるのが
常識でしょう。
>血をひいていようが王を称していようが
それと王族として扱われていたかどうかは
別だといっているのです
というのなら、それを証明するだけの論拠を提示すべき。
444日本@名無史さん:2001/08/22(水) 20:27
>>443
逆に、当時王族の範囲、称号、権利、義務等を定めたものがあるのなら
おしえていただきたい。
445日本@名無史さん:2001/08/22(水) 20:43
>>444
うーーん、論理の立て方がおかしいんだよな。
大王の男系子孫で王号を名乗っていれば王族と捉えるのが
きわめて常識的な考えなんだよね。律令時代の五世王のような
規定があれば別だけど。わかってていってると思うけど六世紀に
王族の範囲を定めたものなんかはない。ただし、だからといって
王号を称するものが王族でなかったという論拠にはならない。
446日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:11
「血」をひいている事は王族であることの最低条件です。(当然、是)
で、血をひいてる事は大王になることの絶対条件ではない。(これも是)
なぜなら、当時は大王になれる血筋が複数あった。(大臣になれる血筋も複数あった)
それから、当時(6世紀)の「大王」には、邪馬台国の女王と同じように軍事的能力は、
必要なかった。天武朝の「天皇」のイメージは、極力排除して考察を行わないと見えて
こない部分が多すぎる。そして、記紀の編者たちは、8世紀の天皇像を元にそれ以前の
大王たちを記述しようとしていることは当然。
447日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:23
>>446
論拠を示さないものは学説ではありません。
大王家が複数あったというのなら、まず、記紀の王統譜を
合理的検証によって覆す必要があります。
448日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:29
>>445
王号を称するものが王族であったという論拠は常識ですか?
それはいつの時代のどのような常識に基づいているのでしょうか?
449日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:54
>>448
常識です。疑っている人を聞いた事がありませんが。
律令以降現在に至るまで皇族は「親王」「王」の称号を
持っています。律令以前の王族は「王」の称号を持っていました。
記紀を見てみましょう。欽明の皇子もそれ以前の王族もみな王を
称しています。そもそも大王号の成立と王族の王号は対です。
あなたはなぜ、王号を称するものをあえて王族と考えないの?
それとも王族でない者が王を称していたとでも言うの?
450日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:55
文字が無いからわかんないだろ
451日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:59
王を称して王族でないものって日本では歴史的に
特殊だね。道鏡、白川神祇伯王、五世王くらいか。
対外的に日本国王を名乗った将軍は多いが。あと百済王の
称号を授かった百済王氏とか。
452日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:10
古代は紀元前500年前から
453日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:14
>>451
額田王は王族か?
454日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:21
>>451

王族でしょ?
当時、王族以外で王を称したものはいないのだから。
系譜は不詳だが。
455日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:21
>>453だね

王族でしょ?
当時、王族以外で王を称したものはいないのだから。
系譜は不詳だが。
456日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:47
>>451
お、詳しいね。
伯王は明治二年まで皇族以外で王号を許されて
いたほとんど唯一の例。
457日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:51
最後の神祇伯は資訓王(スケクニオウ)。
白川家が皇族であったのは遠い昔だから、
明治まで続いていればもはや皇族とは言えないと
思います。
よって、王族以外で王を称したものはいない
というのはちょっと間違ってるね。
458456、457:2001/08/22(水) 22:52
ま、特殊な例だけどね
459日本@名無史さん:2001/08/22(水) 23:05
>>456
途中で絶えてしまったけれど
三條源氏の小一條家も代々正親正を世襲して
王を称していました。
460324:2001/08/22(水) 23:30
すっごく進んじゃったんですね。まず、
>>422 >>431
>年老いた継体ではなく 若い安閑や宣化が三皇女を娶って 即位しなかったのはなぜでしょう?
>結果的に入り婿のような形で継承したのだから 婿にふさわしいのは年若い二人であろう。
>それとも5世孫が存在したら6世孫は即位できない決まりでもあるのか?

実に単純なことですが、手白香等の大王娘との結婚(婿入り)によって大王位継承が決ま
るのならば、年若い二人がふさわしいかもしれません。場合によっては孝元十世孫でも婿
入りで即位できるかもしれませんネ。
しかし大王位継承が、その血統と人物により決まるのならば、五世孫が六世孫より優位に
立つのは当然でしょう? つまり安閑や宣化より継体が優先されたのは、これが婿入(を
主要素とする)継承ではないことを意味すると考えればそれで済むことです。
また、大王自身(あるいは王太妃や王妃)が継承者を指名する場合には、子が父より優先
されることもあるでしょうが、縁者・重臣が継承者を推戴する場合に父を差し置いて子を
推戴するなんてことは、如何にも不自然だとは思いませんか?
461日本@名無史さん:2001/08/22(水) 23:57
>>460
残念ながら当然だとも不自然だとも思いません。
5世孫、6世孫といっても実の親子ですから
血統と人物において安閑や宣化が継体より劣っていたとは思えません。
実際その後即位もしているようですし。
それに縁者・重臣がわざわざ年老いた父を推戴し
結果的に若い大王娘と娶わせるほうがよっぽど不自然だと思いますが。
462446:2001/08/23(木) 00:03
>>447
貴方の記紀の系譜信仰は合理的検証に基づくものなのですか。
古事記の序に「諸家の帝紀旧辞多く虚偽を伝う」とあるように
記紀は天武朝が7・8世紀の思想の基づいて編纂した史書であり、
それ以前には、記紀の記述とは異なる「虚偽」の「史実」があ
ったことは認めていただけますか。
実は、私は継体は応神五世でも不自然ではないと考えてます。
ただ、貴方のように記紀の系譜に書いてあるからだけでは、
断定しないだけです。例えば、記紀の系譜は、継体即位の
22年前の顕宗擁立。履中の三世ですから五世の継体より
血統上は確かですが、竈番の奴であった幼児を本人の系譜
申立てだけで推戴した事例です。記紀の記述の否定資料が
ないから事実だと認めることが、合理的な検証ですか。
記紀の記載は論理的に破綻しており、王統は雄略かその後の
とても影の薄い清寧で断絶したと考えるべきではないですか。
それと、多系統王朝説はご指摘のとおり私の単なる仮説です
ので、このスレで長々と論理を展開するつもりはありません。
ただ、新羅王統の初期も複氏継承でしたよね。
わた
463日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:09
>>457
まあ、王で王族以外のものはいない、ってのは
そういった史料のはっきりしている特殊な例を除いた上での
話だけどね。
464日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:16
>>461
懲りないヒトだね。まぁ、主観でいっても仕方ないよ。
現に安閑、宣化を押さえて継体がわざわざ婿となって即位した。
継体の即位を否定するならともかく認める以上、なぜ
そうなったのか推測するよりない。
ただ、以前にもレスしたように養子のような形でもない限り
わざわざ親を差し置いて子を即位させるような真似はしづらいだろう。
血統の近さの問題もあるし最高権威のはずの大王に道徳的にはその上位に
なる父がいては政治が乱れる恐れがあるしね。
465日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:26
>>462
「信仰」とはきついね。無論、記紀の系譜をすべて信じろなんて
いってないよ。古代氏族の多くが皇統に繋げられているなど明らかな
創作は多々ある。ただ、延々と同じ議論が続いているように五世紀の
記紀の系譜をそこまで疑う必要はあるのかい?戦後の記紀研究の成果として
五世紀の諸天皇の実在性が認められ、かつ、稲荷山古墳鉄剣銘文の
ように八代の系譜を記した金石文も存在する。あえて、否定するなら
それだけの論拠が必要なんだよ。また、五世紀の記述でも旧辞部分に
関してはそのまま史実と受け取る人はいないよ。
466日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:31
>>464
論拠が常識という人に言われたかないね。
467日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:38
>>466
こどもじゃないんだからダダこねないの?
いまだに
>血をひいていようが王を称していようが
それと王族として扱われていたかどうかは
別だといっているのです

これの意味がわからんのだが。常識は常識で論拠などというものではないよ。
王であっても王族ではない、って具体的に誰のこといってるの?
白川家とかは除いてだよ。
468日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:41
王であっても王族ではない、って徳川を名乗っていても
徳川家のものではない、って言うくらい矛盾してるよね。
まぁ、特別に徳川を名乗れても徳川家のものとは認めない
という規定でもあれば別だが。
469446:2001/08/23(木) 00:45
>戦後の記紀研究の成果として五世紀の諸天皇の実在性が認められ
雄略清寧顕宗仁賢武烈継体。貴方は「合理的な検証」のもとに、
この系譜を認めるわけですね。
系譜を記した金石文資料があるわけじゃないのですが。
470日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:49
はっきりしているのは歴史ってのは単なる思い付きや主観で
論じても仕方ないということ。厳密な資料批判、検証を行った上で
肯定するものと否定するものを分ける。その中でより蓋然性の
高い仮説を立てていく。
大王家は複数あったのではないか、という説も良く聴くが
だとすればまず、古代の大王が複数の血統からでて彼らが
比較的平和裏に大王位を継承したということを証明する必要がある。
その作業なくして大王輪番制のような仮説を先に立て、よって
継体や允恭が別系統というのならそれは本末転倒の論理だ。
471日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:59
>>469
記紀に基づいてこれらの諸天皇の実在性を肯定し宋書によって允恭、
安康、雄略の系譜の正しさが証明され稲荷山の銘文によって同時代より
八世代の系譜が確認される(といってもすべて肯定しないが数世代は
肯定しても良いだろう、それこそ"常識的に"考えて)のに
きみはあえてこの系譜を否定するの?
通説が正しいとは言わないがこれを敢えて否定するには相当な
根拠が必要だと思うが。
472日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:00
>>470は何を検証して何を肯定したのだろうか?
473日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:04
もうどうでもいいや。
474446:2001/08/23(木) 01:05
>>471 しつこくてすみませんが、もう一度だけおつき合い下さい。
貴方は、雄略清寧顕宗仁賢武烈継体の系譜の全てを認めますか?
それとも、この内の一部だけですか?教えて下さい。
475日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:15
本日はこれにて終了いたしました。
















またのおこしをお待ちしております。
476日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:24
>>474
いえいえ、お互い意見を出し合うのはいいことですよ。
すべて認めても良いと思います。記紀の諱、御名代等の検証によって
応神以降の天皇の実在性、特に雄略の実在性が宋書の上表文
稲荷山、江田船山両古墳の鉄剣銘文によって証明される以上
最低でもこの時期以降の諸天皇の実在性を疑い、またその系譜を
否定するにはそれなりの論拠が必要ですがそんなものありませんし。
ただ、私見では一部学説のように清寧と武烈の系譜を入れ替えれば
和風諡号の連続性などの観点から都合が言いように思えますが
やはり、それだけでは記紀の系譜を積極的に改変するだけの正当性に
乏しいと思うので断念します。
477日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:26
>>474
いえいえ、お互い意見を出し合うのはいいことですよ。
すべて認めても良いと思います。記紀の諱、御名代等の検証によって
応神以降の天皇の実在性、特に雄略の実在性が宋書の上表文
稲荷山、江田船山両古墳の鉄剣銘文によって証明される以上
最低でもこの時期以降の諸天皇の実在性を疑い、またその系譜を
否定するにはそれなりの論拠が必要ですがそんなものありませんし。
ただ、私見では一部学説のように清寧と武烈の系譜を入れ替えれば
和風諡号の連続性などの観点から都合が言いように思えますが
やはり、それだけでは記紀の系譜を積極的に改変するだけの正当性に
乏しいと思うので断念します
478日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:28
>>474
いえいえ、お互い意見を出し合うのはいいことですよ。
すべて認めても良いと思います。記紀の諱、御名代等の検証によって
応神以降の天皇の実在性、特に雄略の実在性が宋書の上表文
稲荷山、江田船山両古墳の鉄剣銘文によって証明される以上
最低でもこの時期以降の諸天皇の実在性を疑い、またその系譜を
否定するにはそれなりの論拠が必要ですがそんなものありませんし。
ただ、私見では一部学説のように清寧と武烈の系譜を入れ替えれば
和風諡号の連続性などの観点から都合が言いように思えますが
やはり、それだけでは記紀の系譜を積極的に改変するだけの正当性に
乏しいと思うので断念します。
479日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:29
もう寝る。
480446:2001/08/23(木) 01:57
私は、鎮東大将軍になった倭王武であろう雄略までと、中国資料との
対比ができない清寧以後欽明までとは系譜の評価にも差をつけるべき
だと考えています。記紀は前レスで述べたように複数の諸家本を編集
した天武朝の成立です。系譜の不自然さは、その編集作業の産物なの
ではないでしょうか。
今日は素人にながながとお付き合い頂き、ありがとうございました。
481日本@名無史さん:2001/08/23(木) 02:08
>>480
なるほど、それはひとつの見識だと思います。
ただ、諱研究等によって積み上げられた清寧以後欽明までの
系譜を否定することに同意を得るのは難しいと思います。
あと、連続コピペしたやつと>>479は私ではないので
誤解のないよう。
482日本@名無史さん:2001/08/23(木) 02:27
記紀に出てくる王号の「王」は「みこ(御子/皇子)」と読むわけで、
よほどひねくれた解釈しない限り、普通は皇族のことだろ。
「きみ」という概念は微妙だけど、
これは「君(奈良以降は公と書かれる)」と書かれる皇族の遠縁の貴族と、
同じ「きみ」でも「君(奈良以降でも公とは書かれない)」と書かれる地方土着豪族があるよね。
王号を問題とする時、無意識に「王」を「みこ」でなく「きみ」と読んでしまうと
イメージが混乱してひいては古代史像にずれが生じるのではないかな。
483日本@名無史さん:2001/08/23(木) 05:53
まあこっちのスレ↓も読んで、マターリ逝きましょう。

継体天皇は
http://mentai.2ch.net/history/kako/980/980907202.html

がいしゅつならスマソ。
484日本@名無史さん:2001/08/23(木) 06:22
継体が王位を継いだ時代の政治形態というものは
いかなるものだったんでしょう?
応神以降の在大和の大王たちの実在性を、あるていど前提として考えると
応神朝以降〜武烈に至るまでの大和朝廷の政治形態が
たとえ、継体の血統に疑問があるにしても、
越前の実力者がやってきて大王位を継ぐことが可能なものであった
のかどうか…
いや、つまり、継体朝で、前王朝の血筋が直接的には途絶えたとはいえ
政治形態の変動はあまり見られないわけですよね?(少なくとも資料的には)
ということは、継体が大王位についたことは、それまでの王位継承の
ルールからは外れる事態ではあったけれど、内乱やクーデターにまで
繋がるものではなかったということでいいんでしょうか?
485日本@名無史さん:2001/08/23(木) 07:27
>>484
「王朝」というのは体制としての構造全体をいうべきであって、
たんなる「系図上の王統(王系)交代」を“王朝”交代などというから
話がこじれると思われメ。
486日本@名無史さん:2001/08/23(木) 10:00
継体天皇と大伴金村、どっちが実力者?
487324:2001/08/23(木) 10:08
>>485
>484さんがと言うわけではありませんが、おっしゃるとおりどうも日本では「XX朝」と
いう言葉を安易に使いすぎますね。おそらくこれは「南北朝」っていう言葉に影響されて
いるからだと思いますが、これなんかも単なる「王統」(氏族=姓を同じくする)間の継
承争いであって、本来の意味での「王朝」(氏族=姓を異にする)間の覇権抗争とはほど
遠いものです。
そして「XX朝」という言葉を安易に使うことで、単なる王統間の継承抗争を、あたかも
氏族を異にする「王朝」間の抗争であるかのように誤誘導してしまっている観さえありま
すネ。「継体朝」等という言葉もその危険性があるのは事実でしょう。
(日本の王統は姓を持たないなんて、下らないツッコミはやめてね!)
488324:2001/08/23(木) 10:31
>>486
大伴金村は大王家の外戚にすらなれなかったし、宮都の決定についても継体の意のままに
その勢力範囲に近い河内・山城(淀川木津水系)に持って行かれて、彼等の本拠である大
和に持ってくることも出来ない。(最終的には継体も大和入りを認めたが。。。なおこの
部分は僕の解釈で、今でも「入れなかった」論に立つ人がいるのは承知してる。)

ようするに彼は物部・巨勢・阿部・蘇我等の大王家を支える中央豪族の中で比較的リーダ
ーシップを発揮したと言う程度の人物じゃないかしら?
489日本@名無史さん:2001/08/23(木) 13:55
白熱してるな
490ソウジョウ王:2001/08/23(木) 14:02
 当時は世襲制が完全に定着していたわけでしょ。だから継体天皇は皇族だった
とおもう。皇族以外がなれるんだったら、それに習って有力な豪族たとえば蘇我
とか物部、後の藤原だって皇位を取ろうとしたんじゃない。だけどしなかった。い
やできなかった。かれはら天皇に限りなく近い近親者にはなりえたが決して皇位
にはつかなかった。それは前代未聞のことで、前例がなかったから。
 もし継体天皇が皇室の血を引いていなかったんなら当時の日本中の豪族などの
実力者が各地で皇位を狙ってものすごい戦乱となり、中国の春秋戦国のように
ながきにわたって血で血を洗う戦乱が起こったと思う。でもそんなことはなかった
でしょ。
 当時には物事を一つにまとめる最も重要なものは血筋だったはず。安易に継体
天皇で血筋は絶えているといっていいのか。血筋は続いていると考えた方が無理
がないし自然じゃないのか。
 最近は根拠のない断絶説が流行ってるらしいけど、どうしてそんな説が主流に
なったんだ。共産主義的思想を持った学者が学会で幅を利かせたからか。戦前の
単なる反動化。それとも反体制的なひねくれ者が多いからか。
 仮に継体天皇が皇室の血を引いていないと仮定しても、彼は皇室から后を迎え
、その間に生まれた皇子が欽明天皇で後代々の天皇の系統となる第29代天皇だ。
 
491将軍:2001/08/23(木) 14:26
 徳川慶喜が将軍になったみたいなんだぁ。慶喜の将軍就任が徳川家断絶という
なら継体天皇で皇室は断絶といえる。五世孫って言うのはそれだけ継体天皇の
誕生をドラマチックに描きたかったから、ただの皇族をそのように装飾したん
じゃないか。
492日本@名無史さん:2001/08/23(木) 17:32
>>491
慶喜は
御三家水戸家の出身
御三卿一橋家の養子
五世孫だろうが十世孫だろうが
それが正当な後継者なら全く問題なし
493324:2001/08/23(木) 18:13
>>490
最近は、稲荷山鉄剣という系譜伝承に関する衝撃的な発見や、縄文期集落の存在、弥生期の
部族国家的大規模遺跡、巨大古墳の年代見直し等で、倭国成立時代が遡る傾向にあり、それ
に伴って王朝交替説は既に流行遅れとなっています。

>>491
ドラマチックな想像も面白いとは思いますが、武烈と継体は同世代になりますネ。
応神ーーー仁徳ーーー反正ーー雄略ー清寧ー武烈
応神ー若野毛二股ー意富富抒ー乎非ー汗斯ー継体
ですから大王の3・4世孫であれば、仁徳系の可能性のほうが高くなります。
また神社伝承(記紀準拠の可能性もありますが)において、近江高島から越前にかけて継体縁
の神社が広がっているところからも、記紀や上宮記の記述の妥当性を窺わせるものが感じられ
ます。従って素直に応神五世孫であり、大和にも足がかりを持つ近江・越前の大豪族と考える
ほうが蓋然性が高いように思います。
494324:2001/08/23(木) 18:15
ところで僕が神社伝承の中で興味を持っているのは、
多太神社   「衝桙等乎而留比古命」   石川県小松市上本折町
武烈天皇の五年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝わる。

なのです。この「衝桙等乎而留比古命」というのは、おそらく出雲風土記にのみ現れる素戔嗚尊
の子で、秋鹿郡多太郷の地名説話にある「衝桙等乎(与)留比古命」だと思われます。
名前が「ホコを貫き通す」となっていることからも、たぶん武神だと思われますが、何故この神を
継体即位前に小松市に勧進したという伝承があるのか。。。どなたか地元でこの伝承に詳しい
方がいらっしゃいましたら、是非教えていただきたいと思っています。
495324:2001/08/23(木) 18:49
>>492
確かに慶喜は三家・三卿という血統継承予備家系の出自ですから、継体とは趣が異なっ
ているでしょう。
しかし徳川三百年と言う平和な時代に、さしたる継承抗争の同族殺戮もなく、子孫繁栄
のための後宮制度も整えられていたにも関わらず、本家秀忠系は7代家継で、紀伊頼宣系
は8代吉宗を経て養子つなぎを行っても14代家茂で継承適格者を失い、結局は水戸頼房系
から家康十世孫の15代慶喜を立てることになったのですネ。

こういった血統継承の困難さから見れば、血塗られた継承抗争の時代に、大王五世孫が立
ったとしても、さほど不思議な事態でないと言えるのではないでしょうか?
496日本@名無史さん:2001/08/23(木) 20:03
>>495
徳川家第16代家達は御三卿田安家の出身
徳川吉宗の5世孫
徳川家茂のまた従兄妹
497日本@名無史さん:2001/08/23(木) 21:12
吉宗ー宗尹ー治済ー斉匡ー慶頼ー家達
五代前くらい古代でもすぐたどれるよ
文字のない未開社会じゃあるまいし
498日本@名無史さん:2001/08/23(木) 21:16
慶喜の場合は緊急時だから有能な者をという意味でのリリーフ。
幕末は諸藩でもそういう例が多い。伊達宗城なんか親戚筋とはいえ
幕臣山口家からの養子で、前藩主の子に家督を譲っている。
山内容堂も前藩主の弟で、家督は前藩主の子に譲った。
499:2001/08/23(木) 21:17
結論付けるとしたら断絶はしていないということになるのかな。
断絶の根拠が乏しすぎてあまり議論にならないみたいですね。
500日本@名無史さん:2001/08/23(木) 21:33
>>497
あなたの父方の男系の五代前はだあれ?
501日本@名無史さん:2001/08/24(金) 00:11
今の人間はせいぜい祖父母までがいいとこだろ。
むしろ昔ほど遡れるよ。特に無文字社会とかね。
桓武じゃなくて光仁が継いだのと同じだよ。
502日本@名無史さん:2001/08/24(金) 00:17
>>501
光仁って皇孫だし、即位するずっと前に井上と結婚してたし、
継体とは全然違うと思いますよ。

関係ないけど、情けないぞ、塩焼王。
503参考 武烈天皇の事績:2001/08/24(金) 00:18

2年秋、妊婦の腹を割いてその胎児をご覧になった。
3年冬10月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
4年夏4月に、人の頭髪を抜いて梢に登らせ、樹の根本を切らせて、登っていた者が
 落ちて死ぬのを眺めるのを楽しみとされた。
5年夏6月に、人を池の堤の樋(ひ)に伏せて入らせ、外に流れ出てくるのを三つ又
 の矛で刺し殺してはそれを楽しまれた。
7年春2月に、人を樹に登らせ、弓で射落としてお笑いになった。
8年春3月に、女を裸にして平板に座らせ、馬を全面に引き出して交接させた。
 女の陰部を見て、潤っているものは殺し、潤っていないものは召し上げて
 官婢とされた。そしてそれを楽しまれた。
504324:2001/08/24(金) 10:00
ところで、このスレでもしばしば話題になっている継体の年齢ですが。。。
書紀によれば次のようになります。(生誕年は没年令から逆算。間違ってたら指摘して下さい)

継体生誕 450年 継体 1歳
允恭崩御 453年
安閑生誕 466年 継体 17歳 安閑 1歳
宣化生誕 467年 宣化 1歳
雄略崩御 479年 継体 30歳 安閑 14歳  宣化 13歳
清寧崩御 484年 継体 35歳
顕宗崩御 487年
仁賢崩御 498年 継体 49歳 安閑 24歳  宣化 23歳
武烈崩御 506年
継体即位 508年 継体 59歳 安閑 43歳  宣化 42歳
継体崩御 531年 継体 82歳 安閑 66歳
安閑崩御 535年 安閑 70歳
宣化崩御 539年   宣化 73歳
欽明崩御 571年
一応これによれば、安閑・宣化は継体 17歳位の子であり、雄略崩御のころにはある程度世間
の状況が分かる年齢に達していることになります。(安閑生誕の頃は、あるいは一族出身の允恭
妃 忍坂大中姫はまだ生存していた可能性があるかも知れません。)
これだと継体崩御とさほど間をおかずに彼等が崩御したのも理解できます。ところが、古事記に
よれば継体崩御は 43歳で、即位時は 20歳位となってしまいます。そして安閑・宣化は当時
5〜6歳としても 20歳代で崩御したことになってしまいます。そもそも記紀に示された年齢は、ま
ったく信頼性がないんですが、これに関しては書紀の方が多少は分があるようにも思えます。
で。。。
505324:2001/08/24(金) 12:50
ここからは単なる僕の憶測ですが、忍坂大中姫は一族の中心的人物として期待していた
継体の父が早世し、継体が母と共に越前に逼塞(?)したのを不憫に思い、大王生母と
して彼を庇護したのではないかと思います。そして允恭崩御の後に住まいした忍坂を彼
の成人後の大和の足がかりとして利用させ、おそらく相続させたのでは無いかと想像し
ます。そうすれば隅田八幡画像鏡の。。。
「癸未年八月日十大王年 男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 」も整合的に解釈出来
るかも知れないと思うのです。

また。。。
506日本@名無史さん:2001/08/24(金) 12:54
>>505
逼塞(?)したとしたら継体の父のあとは誰が継いだのだろう?
507日本@名無史さん:2001/08/24(金) 13:58
>>504
継体、安閑、宣化等の生没年はほぼその通りだと思います。
古事記の継体43才死亡説をとると宣化の娘、石姫と欽明の子、敏達の
生年(538年)と整合性が取りづらくなるので。
ただ、宋書によると倭王済の在位は440年頃〜460年頃となり
記紀の年代引き延ばしがこの頃から始まっていると思われます。
継体生年もやや繰り下がるかも知れません。
継体は時の大王の大后の兄弟の曾孫として生まれた可能性が高く
大和の豪族にしてみればごく知られた存在だったのかもしれません。
彼が即位前にオシサカ宮に居住することがあったとしても
不思議ではないでしょう。
508324:2001/08/24(金) 17:02
おそらく、継体が成人して若野毛一族の族長的立場になるまでの間は、後に息長真人や坂田真人等
なる縁戚連中が護り伝えたんでしょう。まあ想像をたくましくすれば、彼等がそうしたのも忍坂妃
が睨みをきかせていたためとか。。。(W
その結果、彼は王族としては珍しく、近江・越前にまたがる大豪族となったとか。。。
509324:2001/08/24(金) 17:52
ところで。。。もう少し妄想を広げても良いかしら?(ヤダっていっても勝手に広げるけど)
ああ、それから >>507 さん、ご支援ありがとうございます。

少し前に >>494 で小松市の多太神社伝承について情報をお聞きしたんですが、僕が気に
なってるのは、もしも(多分後世の付会だとは思うけれど。。。)この伝承に何らかの史実
が反映されているとしたら、武烈時代に継体が加賀において出雲系の神を祀ったのは、いっ
たい何を意味しているのか。。。
510日本@名無史さん:2001/08/24(金) 18:51
允恭まで話が及んだので少し話題をさらに遡らせると反正、履中は珍、讃とし
記紀が神功(応神の前代の王)を四世紀中頃の人と想定していることから
神功(仮)370年前後
応神   390年前後
仁徳   410年前後
履中   420〜430頃
反正   430〜440頃
允恭   440〜460頃
で良いのかもしれません。
雄略崩年については480年頃だと思いますが、もう少し後かもしれません。
また、継体即位も場合によっては少し後にずらして考えても良いかと思います。
書紀本文では大和入りまで20年としますが一云では7年としますので。
511324:2001/08/24(金) 23:12
>>510
倭五王については、少しスレ違いになるので深入りしませんが、僕は神功をもう少し遅く
400年頃(広開土王 391〜412年と重ねる)、応神420年頃、仁徳440年頃、雄略480年頃で
も良いと思ってます。まあ大同小異というところですが。。。

で、小松市の多太神社なのですが、越前における継体の本拠は概ね九頭竜川河口付近と思
われます。そして北近江は若野毛一族の勢力範囲であり、美濃西北部にも縁があり(薄墨
桜です W)、尾張は言うまでもなく姻族の勢力範囲です。
つまり武烈が人望を失い、継承者も不在で倭国大乱が再発した場合、南部方面の防御ライ
ンはほぼ整っており、攻撃に転じる場合は琵琶湖を利用して迅速に大和に兵を進めること
が出来ます。

しかし、東北部方面は一種のアキレス腱となっており、小松市→加賀市方面から本拠を衝
かれる危険がありますね。従ってこの方面に何らかの対策を打っておく必要があります。
とは言うものの、この方面には大豪族が存在しておらず、政略結婚もままなりません。
そこで彼は宗教政策によってこの地方の小豪族を慰撫しようとしたと想像します。
もともと、この地方(越)は大国主神話に見られるように、出雲との関係が深く出雲神信
仰が強かった。そこで出雲神でもマイナーな武神を敢えて持ち上げ、彼等の共感を得よう
とした。(もちろん神社は一種の小松における軍事拠点ともなる)
つまり小松市多太神社は、継体の倭国大乱に備えた周到な戦略的行動である。。。(W
512日本@名無史さん:2001/08/25(土) 11:08
513324:2001/08/25(土) 18:00
>>387
さて、ここで継体からすこし離れて、欽明について考えて見たいと思います。
確かに欽明即位年・治世年について、史料間に異同があるのは事実です。
ここから安閑・宣化と欽明の継承抗争(両統並立)の疑問が出ているわけですネ。

ところでこの問題を考えるに当って、継体についても話題になった大王(以下天皇)
宝算問題があるようです。記紀においては東洋史書には珍しく天皇の宝算を記述し
ている例が多いのですが、欽明以降は原則としてこの記述がなくなります。
(例外として推古・天智に関して推定可能記述がある)
因みに記紀における天皇宝算は、概ね次のとおりです。
(前が書紀、後が古事記。XXは不記載。間違いがあればご指摘下さい)
神武 127・137、 綏靖 84・45、 安寧 57・49、懿徳 78・45、
孝昭 114・93、 孝安 138・123、孝霊 129・106、孝元 117.57
開化 112・63、崇神 120・168、垂仁 140・153、景行 107・137
仲哀 53・52、応神 110・130、仁徳 XXX・83、履中 70・64
反正 XX・60、允恭 XX・78、安康 XX・56、雄略 XX、124
清寧 XX・XX、顕宗 XX・38、仁賢 XX・XX、武烈 XX・XX
継体 82・43、安閑 70・XX、宣化 73・XX (以下記述なし)

つまり書紀は原則的には仁徳以降の記述がなく、古事記も清寧以降記述がありません。
にもかかわらず書紀が継体・安閑・宣化を古事記が継体を記述しているのが、例外と
なっています。僕は記紀がこういった天皇宝算をわざわざ記述しているのは、讖緯説
によって神武即位をB.C.660年としたため、その辻褄合わせのために捏造したものだ
と思いますが、そういった中で書紀が継体・安閑・宣化について記述しているところ
に、ある種の作為を感じておられるのでしょうか?
514324:01/08/26 11:53
それでは、欽明と安閑・宣化の両統並立説がどこから出てきたのか? 僕の知る限りで
は。。。
@ 継体崩御について、継体紀では継体25(531)年としているが、28(534)年であったと
もしている。また古事記では527年としている。
A 安間は継体崩御と同時に即位しているはずだが、暦年から即位は534年とも見られ、
2年の空白がある。
B 仏教公伝について書紀は欽明13(552)年としているが、帝説や元興寺縁起は538年
としている。この年であれば宣化3年のこととなり、欽明期のこととする記述と矛盾
する。
C 書紀では欽明在位は540年から32年間(571)となっているが、帝説では仏教公伝が
欽明7年とされ、在位41年間となっており、継体25(531)年即位となる。

僕も何か不自然なものを感じますので、一時的な両統並立があったのか、あるいは欽明が若
年であったため即位はしたものの安間・宣化が王兄摂政的立場にあったのかして、それを欽
明が成人後に彼等を大王と認定したこと。。。等があったかも知れないと思っています。
(王兄摂政というのは他に実例があるわけではなく、単なる僕の憶測の一つですが。。。W)
515324:01/08/26 22:34 ID:CWZrkWEQ
ところで、それでは欽明の生誕は、概ね何時頃と考えれば良いのでしょうか?
これについては、既に述べたとおり欽明以降の多くの天皇達と同じく、記紀では不明です。
しかしいわゆる中世史書では、これらの天皇宝算について記述しているものがあります。
(その多くは、まったく整合性がない出鱈目なもので、小林・大和等の天智・天武非兄弟
説というようなトンデモの原因になるのですが。。。W)
ちなみに、欽明については12世紀頃に成立した「扶桑略記」「水鏡」には記述がなく、13
世紀頃の「愚管抄」が63(509年生)歳、「一代要記」が62(508年生)歳としています。
これ以降の史書では63歳が主流となりますが「神皇正統記」のみが81(491年生)歳とい
う異常な数字をあげています。この63(509年生)歳説とて信頼性は極めて疑問で、僕は
一書の継体7年(513年)大和入りの頃に生誕、継体崩御531年に19歳くらい、安閑崩御の
535年に23歳、宝算59歳位(またはこれ以下)が妥当ではないかと想像していますが如何
でしょうか?
516日本@名無史さん:01/08/27 08:51 ID:dcEi3xk.
ID:テスト中・・・
517dcE:01/08/27 09:59 ID:0G2v.dmg
>>376
岐阜県根尾谷にある継体手植えの薄墨桜伝承ですが、おそらくこの元になっているのは、
福井県武生市の味真野付近にある継体手植えの帆山薄墨桜伝承ではないかと思います。
この伝承は世阿弥作の謡曲「花筺」にからんでかなり有名ですので、後世の文人が薄墨
桜の古木と継体を結びつけたのでしょうが、根尾谷は尾張・美濃と越前を結ぶルートに
位置してるので、いろんな想像をかき立てる面白い伝承だと思います。
518日本@名無史さん:01/08/27 18:17 ID:AS6/njLU
今んとこ隅田八幡鏡の斯麻を、百済の武寧王とする学者はあまりいないようだけど
どうして??
519日本@名無史さん:01/08/27 21:20 ID:h5E8kRWQ
百済王と書いてないからじゃない?
520日本@名無史さん:01/08/27 21:25 ID:.yHF0vdY
しまという名前は日本人にもいそうだからね。
521324:01/08/27 22:07 ID:TKAhgzro
>>518
「癸未年八月日十大王年 男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直
穢人今州利二人等(?)取白上同二百旱 作此竟」
おっしゃるとおり、この斯麻を武寧王とする学者は、あまりいないようですね。
むしろ韓国学者のほうが肯定的だということを聞いたことがあります。(ただし、
いろんな注釈つきですが) その理由としては、
@ 斯麻=武寧王は、陵墓誌から523年に62歳で逝去していることが明らかである。
A 従って生年は462年となり、501年に40歳で百済王に即位していることになる。
B よって癸未を503年とすれば、百済王即位2年後の42歳ということになる。
B しかるに八幡鏡で、無称号の「斯麻」となっているのは不自然である。
C また百済王が、開中費直(カワチのアタイ)という姓(カバネ)を持つ倭人を、
派遣するのも不自然である。
D 倭国では「斯麻(シマ)」という名前はありふれた名であり、たまたま武寧王の
名が斯麻だからといって、これに比定する蓋然性に乏しい。
E 男弟王に近い名(厳密には異なるが)を持つ人物は、記紀では継体くらいしか確
認されないが、彼が503年に意柴沙加宮にいたという記事はない。

というようなところではないかと思います。で。。。
522324:01/08/27 23:32 ID:tAhcUucA
で。。。これに対する僕の考えは次のとおりです。
@ 503年当時に斯麻が百済王に即位していたのは間違いないが、これは外交文書では
ないので、謙譲の意味をこめて単に「斯麻」と称したことも有り得るのではないか。
A 逆に斯麻が倭人だとすれば、当然に彼は倭国の有力豪族であると思われるので、無
姓であるほうが不自然である。
B 503年当時に「斯麻」というだけで通じ、大王傘下の王と交際がある人物としては
倭国の一豪族よりも、倭大王と縁をもつ百済王の斯麻と考えるのが妥当ではないか。
C 開中費直(カワチのアタイ)は、百済王都慕(トボ)の子である陰太貴首(オンタ
キス)の後裔とされ百済系渡来人である。従ってこの一族には倭国の姓を持ちながら
百済王に仕えた人物がいても不自然とはいえないのではないか。
D 斯麻が倭国内の豪族とすれば、倭国の姓(カバネ)を持つ人物を(派)遣するとい
うのも不自然といえる。(九州等の豪族であれば、有り得るかもしれないが。。。)
E 記紀がなぜこれを記述しなかったのかは分からないが、それこそ何方かがいったド
ラマティックな継体の登場を意図したのではないか。

以上の観点から、斯麻=武寧王とする蓋然性は充分ありうると思います。
523日本@名無史さん:01/08/28 08:38 ID:tQvMUhz.
>>519 >>520 >324
ありがとうございました。たいへん面白く勉強になりました。
僕にはご意見を判断するような能力はありませんが、324さんのご意見にも
説得力を感じました。これに対する反論があればお聞かせ下さい。
524日本@名無史さん:01/08/28 08:53 ID:hke42o/k
ただCについては、「503年当時」とするのはどんなものでしょう?
問題は「443年か503年」かということだと思いますので。
525日本@名無史さん:01/08/28 18:38 ID:BYBbx/Xc
それともう一つ。斯麻が百済王だとしたら、どうして鏡を作るのに開中費直等を
倭国に派遣したのでしょうか? 百済で作ってそれを男弟王に送ったほうが余程
簡単だと思うのですが。
526日本@名無史さん:01/08/28 19:29 ID:5m7hTtyQ
日本書紀には、武寧王が生まれたときの逸話として
日本に人質として来ていた両親が筑紫の島にいるときに生まれたから
斯麻王と名付けたと書いてあります。
ちなみに日本書紀が記す斯麻王の名前や薨去年月は墓碑と全く一致します
木棺が日本特産のコウヤマキであり王冠に勾玉を多く付けていることなど
当時の百済が日本の勢力下にあったことを示すものでしょう
527324:01/08/28 22:04 ID:3HQGWT7Y
>>524
Bの部分ですね? これはご指摘のとおりですので、次のとおり訂正します。

B443年あるいは503年当時に「斯麻」あるいは「XX」という名前だけで世間に通じ、
大王傘下の王と交際がある人物というのは、倭国の一豪族では考えにくいが、倭国と縁
を持つ百済王斯麻であればほぼこれに該当する。これは単なる偶然とは思えない。

これに対する反論としては。。。斯麻という名前で世間に通じなくとも、男弟王に通じれ
ばそれで充分だという関係であれば、この蓋然性は下がる。。。ということでしょうか。、

>>525
確かにそれもいえると思いますが、これは斯麻が倭人であったとしても生じる問題で、
わざわざ開中費直を派遣しなくとも、鏡製作技術者に発注して完成品を贈れば良いこと
に成ります。しかし百済王としては、その様な発注品では王者の贈呈品としての重みに
欠けると考えたのではないでしょうか?

なお、百済で製作しなかったのは、もともと倭国と違ってコリアでは鏡がさほど重要視
されておらず、武寧王陵墓以外には副葬例もなかったと思います。従って男弟王に鏡を
贈るためには、作鏡技術に長けた倭国に派遣製作する必要があったとも考えられます。
528日本@名無史さん:01/08/29 10:22 ID:x8XEiABU
>>526 >324
かさねがさね、ありがとうございました。
ついでといっては失礼ですが、>>521 でこの斯麻が百済王ということを韓国学者
が肯定的だとおっさやっているのは少し意外な感じがします。
出来ましたら、韓国ではどんな注釈をつけているのか教えて頂けないでしょうか?
529日本@名無史さん:01/08/29 21:57 ID:qjEhcalU
>>528
韓国学者が肯定的だということはある本で知ったのですが、それをどう解釈してるか
は深くは知りません。そこで以下は僕の創作した韓国風解釈です。。。

隅田八幡鏡の「癸未年」「男弟王」 「斯麻」 については、これを「503年」「継体」
「百済武寧王」と理解するのが、もっとも妥当なところであろう。しかしながらこの
銘文には様々な問題がある。
@ 斯麻は当時百済王に即位しているにもかかわらず称号が付されておらず、恰も
「男弟王」よりも下位であるかのような表現である。
A 百済王から倭国の王族に対し贈られたものであれば、下賜であるはずだがその様
な表現がなされていない。
B 継体は記紀においても、応神五世孫としか書かれておらず、倭国の大王家とは直
接血縁を持たない越前の豪族だという説が日本でも定説になっている。あるいは韓半
島からの渡来人であるとの説も有力である。
C その継体が、即位の前に大和地方の一部と見られる「意柴沙加宮」にいたとは考
えられない。仮にそれが事実であれば、何故に記紀に書かれていないのか説明がつか
ない。
D ただ「遣開中費直」という部分は、百済王が倭国の人間に対しても一定の支配権
を持っていたことを裏付けるものであろう。
E 記紀には、斯麻が日本で生まれたとか、百済の王子が日本に入質していたとかの
記事があるが、これは百済が日本に一定の支配地を持っており、場合によっては総督
のような地位で日本に駐在していたことが、歪曲されたとも考えられる。

以上の諸点から見て、この鏡は継体即位の後になって、彼が既に武烈時代に「意柴沙
加宮」にいた王族であることや、その当時に高名な武寧王から鏡を贈られるような有
力者であったことを印象づけるために、斯麻の名を騙り、年代を偽って製作したもの
と考えるほかない。
我々は日本が既に6世紀初において、この様なあからさまな歴史歪曲と捏造を行って
いたことを正しく認識するとともに、日本人に対して正しい歴史観にたって古代以来
の両国の関係を認めるよう強く要求し続けなければならない。
530日本@名無史さん:01/08/30 09:03 ID:3G8pzTyY
>>529
結構良い線じゃない。座布団二枚あげる!
531日本@名無史さん:01/09/02 12:53 ID:rZrVSYss
継体天皇については決着済みとして、筑紫の君(国造り)磐井ってのは一体何者な
のだろうか? 君姓なんだから天皇家の一族なんだろうけど。亀レスでゴメン。
532日本@名無史さん:01/09/02 12:55 ID:OJvre4wc
>>531
勝手に決着済みにすな!!
533ものしり:01/09/02 15:27 ID:/hgO2ylk
磐井は大伴磐のこと。安閑天皇は大伴金村のこと。
継体天皇は大伴談のこと。

継体天皇が越前にいたというのは、「豊前」の「豊」を「越」に書き換えたもの。

ついでにいうと、「法隆寺」は太宰府にあった「観世音寺」を移設したもの。
534日本@名無史さん:01/09/02 16:59 ID:aR1Indjk
>>533
本当にものしりですね。素晴らしい!
535日本@名無しさん:01/09/02 17:36 ID:3wrG4YG2
古代史(特に大化の改新以前)勉強中の厨房からの質問です。

継体が別系統だと思う方、応神天皇五世の孫とする日本書紀を正しい
と思う方、双方にお聞きしたいのですが、
継体の死と安閑の死、さらに欽明の即位時期など、百済紀と書紀の間に
見られるさまざまな矛盾との関係をどう考えておられるのですか?

安閑暗殺説、安閑、宣化と欽明が並立していたとする説などがあり、
私ごとき厨房には手に負えません。
何とぞご教授を。
536534:01/09/02 17:43 ID:uLExZOJE
で。。。冗談はさておいて(W
筑紫君磐井は、おっしゃるように「君」姓ですから、おそらく大王家の一族と見られ
ます。国造本紀によれば、筑紫国造(筑前御笠)は孝元子大彦の子孫の日道系、筑紫
米多国造(筑後御井)は応神子稚沼毛二股の子孫の都紀女加系とされています。
磐井の子の葛子が糟屋(筑前)を献上しているところからすると、大彦子孫と見るべ
きでしょうが、僕はあるいは稚沼毛二股系だったのかも知れないと思っています。
もしもそうだとすれば、まさに継体とは一族になるわけで、この戦争が一種の大王位
継承戦争でもあったたと見ることが出来ますね。そして磐井の墓がごく一部の破壊に
止まり、葛子が領地の一部(?)の献上で免罪されたのも肯けます。
磐井が近江毛野臣に言ったとされる「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器に
して同食ひき」というのも、あるいはかっては一族として暮らしていたことを、継体
に皮肉った言葉であり、それを記紀編纂者が近江臣にすり替えたような気もします。
537日本@名無史さん:01/09/02 17:48 ID:UxR9EhtA
書記の矛盾といっても
まったく事実に触れずに創作したという部分は少ないと思われ
百済記にしても、伝聞で聞いてる記述なので
ただ、何かしらの異変はあって(それが何かは抹殺されている?)
当時の国情から考えると、対外的な問題に対する態度の違いが
国論を2分していたのかもしれない(と思う)
538日本@名無史さん:01/09/02 17:49 ID:/Ac33UdQ
↑ で。。。冗談はさておいて(W
539日本@名無史さん:01/09/02 18:13 ID:EaRvkcnk
日本書紀の神功紀から天智紀まで「姓を知らざる人なり」とか、「名を闕せり」とか、
「未だ詳ならず」なんていうのが腐るほどでてくるね。
540534:01/09/02 18:18 ID:/FBmIq02
>>535
一応は、>>513>>515 に欽明について、憶測を書いておきましたが、
具体的にはどのような疑問を感じておられるのでしょうか?
百済本記「辛亥(531=継体25年)日本の天皇及び太子・皇子、ともに
崩薨りましぬ」でしょうか?
541日本@名無しさん:01/09/02 18:46 ID:3wrG4YG2
>>540
一番の疑問はそれです。
1、年代的に天皇、太子と見られる継体や安閑が
  非業の死を遂げたのか?
2、皇子とは誰か?
3、1が違うなら誰がどういう理由で死んだのか?
4、このことと宣化や欽明の即位には関連性があるのか
  (皇位継承に関する争いがあったのか)?
などです。

また、年代の矛盾も(百済本紀を読むと、どう考えても
日本書紀のように安閑、宣化、欽明の順に即位したとすると
在位期間が間違ってることになります)疑問で、この時期
何があったのかということと、継体の皇位継承が円滑に行わ
れたかどうかということの関連性もあるのではと疑問に思って
おります。
542日本@名無史さん:01/09/02 19:45 ID:EaRvkcnk
「天皇及太子皇子倶崩薨」などという下手をしたら国が滅んでもおかしくないような
大事件は天皇家内には起こっていない。
百済に間違って伝わったということで許して下さい(W
543日本@名無史さん:01/09/02 20:59 ID:c3mblrLM
>>542
支配者一族の変事が
@同時代の隣国に誤って伝えられる。
A1300年後の本国では誤って伝承される。
@とAのどっちの可能性も有ると思うけどね。
それに、5世紀の倭王武の上表文によれば、武の先代の済も父と兄を一度に殺された
らしが、これも現代の天皇家には伝わってないよ。
544534:01/09/02 21:35 ID:e2HlKm96
>>541
この「百済本記」記事を考えるに当っては、そもそもこの史書が何時頃の成立か、
そしてその記事にどの程度の信憑性を認めるべきかという問題がありますね。
書紀に残っている、いわゆる百済系史書には「日本」「天皇」「貴国」等という表
現があり、何らかの基礎資料に基づいて天智期の百済滅亡以降に作成されたとも考
えられます。ですから530年頃の記事がどの程度信頼できるものかという問題があり
ます。ただ倭国においては神話、系譜、主要事件の伝承(一部は文字記録化された)
はあっても、年代についての記録はほとんど無かったのではないかと思われます。
(これは多くの民族記録に認められることで、年代記録は極めて残りにくいのです。
記紀が讖緯説によって神武即位を意図的に引き上げたのは事実ですが、それとは別
にもともと大王家には年代記録は、ほとんど無かったと思っています)

従って、記紀(あるいはそれに先立つ史書類)も、年代や韓国記事については百済
系史書を尊重したと思われます。しかし倭国内記事については、必ずしも百済系史
書が正確とは言えないでしょう。
ちなみに、百済本記には「高麗弑其王安」ともありますが、この安は安蔵王だと思
われるものの、弑殺記事の信憑性は確認されていません。
僕はこの百済本記の記事は、安康・市辺押磐・八釣白彦・黒彦・御馬・眉輪の謀殺
事件(456年?)が誤混入したのではないかと「憶測」しています。
545なな史:01/09/02 22:18 ID:CeQ69fB.
>>42>>56にうなづける。
横道にそれるが少なくとも欽明帝は武列帝と同じ血を引いているだろう。
「誰が父親か」ということよりも「誰が母親か」ということの方が証明
しやすいもんね。産まれるんだから。
546日本@名無史さん:01/09/02 22:21 ID:WHg/SdXc
同じ血って??
547534:01/09/02 22:43 ID:87EKG7Jc
>>543
倭王武の上表。。。
「臣亡考濟、實忿寇讎壅塞天路、控弦百萬義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、
使垂成之功不獲一簣、居在諒闇不動兵甲。」ですね。

ここで問題は「にわかに父兄をうしない。。。居りて諒闇に在り、兵甲を
動かさず」の主語なんですが、これが「武」なのか「亡考濟」かですね。
(何れにしても「殺された」という意味はありません)
もしも「濟」が主語で「武=雄略」だとすれば、「濟」は允恭で、この
父兄は仁徳と允恭の兄ということになりますが。。。
「讃死弟珍立遣使」「倭國王濟遣使」「濟死世子興遣使」「興死弟武立」
ここには、珍と濟の関係が示されておらず、興は世子とされています。
倭の五王を誰に比定すべきか(何故「興」が世子なのか?)という問題
になってくるのではないでしょうか?
548日本@名無史さん:01/09/02 22:50 ID:OJvre4wc
534
楽しい?
楽しいんだろうねぇ。
でもなんだかなぁ。
空しくなぁい?
空しくないんだろうなぁ。

・・・
549日本@名無史さん:01/09/02 22:59 ID:iC/zt6sw
年代記録が残りにくいってのは
初めて聞いたが、なるほどね
でも、トーシロ意見で言わせてもらえば
この時の大王位を巡る謎(このスレの主旨)と、百済本記の記述って
あまりにも一致しすぎてるような気がする…
550日本@名無史さん:01/09/03 09:08 ID:J/pB5TN.
あれ、もうお蔵入りかと思ってたら、凄く投稿がふえてますね。もっとも話題が磐井か
ら倭五王に移ってるような感じ。(磐井が継体の一族かも知れないってのは面白いけど、
確かに憶測の範囲を超えないようですね)

ところで、>>549 さんのご意見で、百済本記の記述が大王の謎と一致しすぎてるという
のは、どういうことを言ってられるのですか?
もしも、継体とともに安閑・宣化が死んだ(殺された)としたら、書紀はわざわざ彼等の
即位を書く理由がありませんし、彼等の子孫が王族として遇されることもないでしょうし、
母の実家の尾張氏をはじめ豪族達の地位も変わったかも知れないでしょう?
それよりなにより、書紀が百済本記の天皇・皇太子・皇子の死亡記事をわざわざ書き残す
こと自体が、有り得ないように思いますけど?
551てん:01/09/03 18:59 ID:sil/Osso
w
552日本@名無史さん:01/09/04 00:10 ID:Nz5CwYcY
549
確かさー
後学の人はこのことを考えてみて欲しいとかいう注があったんじゃなかったけか?
書記が手元にないのでわからんが…
553日本@名無史さん:01/09/04 08:41 ID:wREagN1Y
廿五年春二月、天皇病甚。○丁未、天皇崩于磐余玉穗宮。時年八十二。
○冬十一月丙申朔庚子、葬于藍野陵。
【或本云、天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云廿五年歳次辛亥崩者、取百濟本記爲文。
其文云、太歳辛亥三月、軍進至于安羅、營乞トク城。是月、高麗弑其王安。
又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣。後勘校者、
知之也。】
554日本@名無史さん:01/09/05 22:36 ID:wV7t1xQ6
天忍日命…初代武持(AD2??)−室屋(50?)−談(465)−金村(54?)−咋子(61?)
−長徳(651)−安麻呂(714)−旅人(731)−家持(785)…(数字は没年)

継体擁立の首謀者・大伴金村の系譜です。(伴氏系図外による)

初代は論外、二代目室屋も允恭から武烈朝まで実働100年と長過ぎ、
三代目の談は雄略朝の新羅戦役での戦死以外にこれといった事績は無い。
金村以後になると後世の家持まで矛盾なく繋がり、記紀の記録も豊富で
不自然さは感じられません。実質的な大伴氏の初代は金村だと言えます。
継体による王朝断絶を否定する論拠として、即位前後の王権内の主要勢力に
異動が無く軍事的簒奪は有り得ないという意見がありますが、大伴の場合は
継体にくっついて史上デビューを果たしたと見たほうが自然でしょう。
蘇我にしても実質デビューは欽明期ですし、物部にしても当初は大和外の豪族
でしょう。継体の初期の宮が淀川水系に置かれた以上、太夫等王権内部の主要
勢力の基盤も近辺に在り、継体の大和入りに伴い大和進出を果たした。しかし、
天武朝の万世一系思想に影響された記紀の記述では大和の在地勢力とされたの
でしょう。もっとも、私は継体による王朝簒奪は軍事的なものでは無く、比較
的穏健に行なわれ、前王朝との血縁関係も何らかの形で有った方が自然だろう
と考えていますが。
555日本@名無史さん:01/09/05 23:27 ID:UkgXip36
>前王朝との血縁関係も何らかの形で有った方が自然だろう
このスレの主旨って、先代とどこまで近い関係かってことだと思う。

いとこ以上に血統が外れてたら、きっといやな人がいるんじゃないの?
556日本@名無史さん:01/09/05 23:29 ID:3HOEVZoA
継体天皇陵ただいま発掘中!
http//www.y-morimoto.com/kofun/imashiro.html
http//www.ne.jp/asahi/y/morimoto/imashiro.html
ところで、みんな、こんなつまらない議論してないで、民族・神話学板の
「日ユ同祖論が真実ならば・・・。」見に来いよ。よっぽど面白いぞ。
557日本@名無史さん:01/09/05 23:54 ID:aRC91Iss
558日本@名無史さん:01/09/06 00:27 ID:N8p9NlGE
ケータイって名前がイマっぽいぜ。いつでもドコデモ
つながりやすい。
559日本@名無史さん:01/09/07 00:18
>>558に座布団1枚!
560日本@名無史さん:01/09/07 02:44
今残っている歴史は多分に勝者、継体の都合で曲げられたもの。
それでこれだけ怪し気となると、本当のところはすごく怪しそう。
561日本@名無史さん:01/09/07 10:50
>>554
なるほどね。
ようは豪族間の権力争いに皇位継承がからめられたって
ことか。
当然、金村としても実際に天皇の血を引いていた継体天皇を
持ち出してこねば勝ち目はありませんね。
562日本@名無史さん:01/09/07 10:57
>>561
勝ち目がないことはないだろう。
563>>560:01/09/08 14:54
>今残っている歴史は多分に勝者、継体の都合で曲げられたもの
揚げ足取るようで申し訳ないが、歴史を捻じ曲げるのは、
その当事者より後世の人間の得意技。
当事者の代では生証人の存在もありムチャは出来ないのだが、
時代が下るにつれヤリタイホーダイになる。
古事記は、天武・持統の都合、書記は不比等の都合で書いてあるんじゃないの?
現代の学校教科書は… 板違いになるんで、これは言わんときましょ。
564日本@名無史さん:01/09/08 17:22
百済本記にある天皇って、継体のところにあるけど、実は武烈を指すんじゃないの?
つまり、継体が武烈を殺して王朝交替を果たしたってことの暗示だよ。
殺されたのは継体や安閑や宣化じゃなくて、武烈とその太子・皇子だよ。
継体は殺されたんじゃなくて、殺したの。
さすがにあからさまにはそう書けなかったけど、史官たちは何らかの形で真実を
後世に残そうとしたんじゃないの? 歴史家の良心として。
武烈のことを書いている記事を読めば、当時の知識人は何を暗示してるかすぐ
気付いたと思うよ。
「このような不徳の行為を繰り返す非道な暗君は、国を失って当然だ」って。
百済本記は、武烈と関連づけて読むのが正解。
565日本@名無史さん:01/09/08 22:29
記紀の系譜で怪しいところは多々あれど、他の異系簒奪容疑者である
崇神・景行・応神・天武は、皆三等親程度の系譜に無理矢理繋がるが、
継体の場合だけ五世孫ということに、かえって信憑性を感じてしまう
ことがあるのですが・・・
566日本@名無史さん:01/09/08 22:36
五世孫って一時期皇族じゃないじゃん。
567日本@名無史さん:01/09/08 23:01
越前の王って聞くと、何か小国の王って感じだが…
でも、当時の国内で、かなり知られた実力者だったら
大和に迎えられて、そのまま大王位についても、
そんなに問題なさそう
568日本@名無史さん:01/09/08 23:26
>>324
>>490
俺も賛成ディス。
好きなように豪族が即位していたら、大和の王権は固まらないということ。
固まったということは、つまり、皇族という存在が確定していたといえる。
>>564
最近、その辺になにか事件があって、それが鍵じゃないかと思う日々。
ただし、おおど王は皇統だったと思う。
武烈帝が亡くなった原因は、おおど王が暗殺を指示したのではなくて、
豪族間の抗争が原因ではないかと。
豪族に派閥ができて、それぞれ皇族を担ぎ出したんだよ。旗印として。
その辺の構図は後世の政治の動きと同じじゃないかなあ。
で、勝った側は自分たちを正当化するために新しい帝・継体帝を名君と
記録し、前の帝・武烈帝を暴君呼ばわりしたと。
なおかつ、対抗派閥全員を処刑することは現実問題として不可能なので、
手なづけの印として、武烈帝に最も近い姫君を継体帝の室にしたのでは?
>>566
後世に定められた皇族の範囲をきめるルールとごっちゃにしないでね。
569日本@名無史さん568:01/09/08 23:40
>>567
当時の越前は、国際的な窓口だったんだ。朝鮮半島と船で連絡できる場所。
陸に上がってからのルートとしては、北九州から来るよりも遥かに畿内に
近いよね。
570日本@名無史さん:01/09/08 23:46
>>568
後世ではなく当時の史料に継体は五世孫って書いてあるんだ。
しらなんだ〜。
571日本@名無史さん:01/09/09 00:18
>>566
このスレで何回同じような意見が出て、そのたびに説明されてるか知ってる?
せめて前レスくらい読んでおいたら?

>>564 ガイシュツだけど、
百済本記…其文云「太歳辛亥…又聞、日本天皇及太子皇子倶崩薨」由此而言、辛亥之歳、
當二十五年矣後勘校者、知之也。

書紀は、この辛亥を531年として継体崩御を25年と推定してるんだけど、これが武烈崩御
としたら、継体は何年に手白香と結婚したことになるの(武烈の在世中)?
書紀史官の良心たって、中国の隔世編史と違って書紀は天皇家が編纂したもので、聖徳太
子は継体の曾孫(三世孫)、天智・天武は五世孫、書紀編纂の責任者である舎人は六世孫
だよ!
572日本@名無史さん568:01/09/09 00:41
あ、賢明なみなさんはお気づきだと思うけど、
「O世孫」って聞いて、現代の「じぃさんばぁさんと孫」
だけを連想するのは誤りだよ。

昔は貴族だろうが民衆だろうが兄弟の数は多いからね。
2・30年前にも存在したろ?小学生にしておじさんになって
しまった子。(藁

代か重なるほど、歳の近い遠いはバイアスがかかるよ。
573日本@名無史さん:01/09/09 00:47
>>571
武烈の在世中に姻戚関係になると何か問題でも有りますか?
後世の光仁のケースみたいな感じもするけど。
574日本@名無史さん568:01/09/09 00:48
>>570
もう一度、文章をよく読んで下され。ここで指摘した「後世」の意味を
履き違えないように。
575日本@名無史さん568:01/09/09 01:06
で思うのだが、のちの欽明帝が誕生された頃の継体帝の御歳は
50代ではなく、もっとお若い時ではないかな。
これだと、のちの安閑帝・のちの宣化帝ももっとお若かったと
いうことになり、即位の順や后の年齢も辻褄があうんじゃない?
576日本@名無史さん568:01/09/09 01:11
30代から20年の間大和にお入りにならなかったというより、
なんだか10代で担ぎ出されて、って感じがしてきたよ。
背筋が寒くなってきた。
577日本@名無史さん568:01/09/09 01:15
当時だったら10代の後半で2人お子様がいらしても、おかしくはない。
578日本@名無史さん:01/09/09 01:20
>>573
光仁は施基親王の子(天智天皇の孫)で白壁王、藤原仲麻呂乱の時には
正三位、大納言と言う宮廷皇族ですね? 井上内親王の相手としては自然
な相手ですが、継体は応神五世孫という越前(一部北近江)の地方王族
です。武烈の在世中にその姉と結婚するとは考えにくいでしょう?

もちろん531年以降に手白香と結婚したとしたら、欽明は532年以降の生
誕になるので、540年の即位時には最大でも9歳になり、571年崩御時に
は31歳。
そうしたら、その子である敏達・用明・推古・崇峻他は何歳で次々に生
誕し、即位したことになるのか? 書紀系譜の全面否定ですね?
579日本@名無史さん:01/09/09 01:35
もちろん継体が幾ら若くったって、この欽明との年代関係は変わらない。
問題は手白香と何時結婚したかなんだから。
で。。。安閑・宣化即位の順番や后の年齢の何処がおかしいの?
男性の生殖能力は15歳から60歳ぐらいまでは可能なんじゃないのかな?
580日本@名無史さん568:01/09/09 01:57
うーん。。。やっぱり矛盾するのかなあ。

この頃の即位って必ずしも歳の順じゃないよね?
とすると・・・
専門の史学家に申し訳ないけど、むりやりに推理させてね。

@武烈帝の崩御・継体帝の即位は今伝えられているよりも後だった。
A継体帝の生年も今伝えられているよりも後だった。
B仮に安閑帝は継体帝が17才の時に生誕したと考えてみる。
C同じく、宣化帝も継体帝が19才の時に生誕したと考えてみる。
D継体帝、19才でご即位と仮に考えてみる。

1)継体帝と手白香皇后の年齢が近くなる=欽明帝ご生誕確率高い。
2)継体帝と安閑・宣化帝の年齢差も20歳程度で収まってしまう。
3)欽明帝と石姫の年齢差には矛盾は及ばない。
4)蘇我氏が出した姫が”姉さん女房”であれば、欽明帝が10代
に皇子・皇女を設けられても不思議ではない。

記紀の「OO様は何年にお生まれになった」
↑この部分が語り部の言った通りでない可能性もあるのでは?
疑ってしまってはならないのかもしれないけど。
語り部の話を聞いた人(例:おおのやすまろ)が「ん?そりゃ
おかしいわさ」って思って自分で計算したとかいうのはないの?
後の代になって安易に逆算してしまったとかさ。

クソ書き込みでスマン。
専門家じゃないので、怒らないで許してね。
581日本@名無史さん568:01/09/09 02:03
>>579

>で。。。安閑・宣化即位の順番や后の年齢の何処がおかしいの?

おかしくございません。お若くすれば、より確実だということで
書いたのでございます。
582日本@名無史さん568:01/09/09 02:06
4)蘇我氏が出した姫が”姉さん女房”であれば、欽明帝が10代
に皇子・皇女を設けられても不思議ではない。

の補足:沢山設けられても不思議ではない、の意。
眠気を払いながら書いているので、スマソ
583573:01/09/09 02:53
>>578
光仁のケースといったのは、継体の身分が似ていると
言ってるわけではなく、前王統の直系との婚姻関係の
成立が、即位条件の一つとしてあるならば似ていると
言うだけです。
それから、5世孫の地方王族と結婚するのは不自然だ
とおっしゃいますが、王朝断絶否定論の立場に立てば
手白香が適齢期になって、婿さん候補になるような王
族は、大和には皆無なんでしょ?外にいないから近江
だか越前だかから血族を連れて来たわけですよね。不
自然だと主張する貴方は王朝断絶説支持派なのですか。
書紀系譜の全面否定?は、申し訳ないが、よく意味が
わかりません。
584日本@名無史さん:01/09/09 02:58
先代の大王達との繋がりはありそう
でも、欽明との繋がりは怪しい
大伴対蘇我の代理戦争に使われた形跡が…
585日本@名無しさん:01/09/09 04:33
武烈の死後に継体と手白香が結婚したとすると、
当時の結婚年齢からして、そのとき手白香が
20歳を過ぎていたとは考えにくい。
ということは武烈は極めて若くして死んだことになるのでは。

武烈の生前に結婚したとは考えにくい。
天皇の姉が越前の地方王族に嫁ぐというのはちょっと無理がある。

この時代、天皇は成人でなければ務まらない。
15歳未満の天皇は平安時代の清和天皇が史上初。
とすると武烈は15歳で即位としても数年の在位で、
暴君というほどのことをする時間があったかどうか。

どうもこの時代の書紀は矛盾だらけなんだよね。
586日本@名無史さん:01/09/09 10:39
継体天皇が、武烈天皇の姉婿(妹婿)にすらなれないとすれば、どうして天皇に
なれたの?
天皇家の婿になるより、天皇になる方が難しいに決まってる。
587日本@名無史さん:01/09/09 10:48
決まってない。
588>>585 :01/09/09 11:57
>>天皇の姉が越前の地方王族に嫁ぐというのはちょっと無理
だからさ、記紀編者の主張によれば、ワカササギを除いて皇位継承権者の
男性王族なんて当時の大和にはいなかったんだよ。適齢期の女性王族の
婿さん候補としては、ヲホドは最有力なんだよ。無理じゃないよ。
記紀系譜が真実ならばだけどね。
589571・579:01/09/09 16:08
あらあら。。。ずいぶんのカキコですね。では、、、

>>580 確かに大王の年齢記事がすべて正確とは思いませんが、貴方が問題にしておられるのは、
継体の即位年齢が高すぎ、手白香と間に欽明が生まれる確率が少なかった。。。ということですか?

継体と安閑・宣化は継体17歳から19歳出生で別に問題はないのでしょう?
石姫(宣化と仁賢娘の橘仲の子、継体即位とほぼ同時期に結婚すれば、欽明とはほぼ同年齢?)
と欽明の年齢も問題はないのでしょう?

確かに継体の年齢(59歳?)からすれば、手白香の間に子が生まれない可能性もありますが、
そうであっても安閑・宣化がいますから、別に問題はないとおもいますが?
そして結果的に欽明が生まれたのであれば、彼が長じてから安閑・宣化に続いて即位するのは
ごく自然な流れではないでしょうか?
590日本@名無史さん:01/09/09 16:25
親子で3姉妹と結婚するなんて不自然。
591571・579:01/09/09 17:03
>>583 573さんへ、、、
光仁即位の条件が、井上内親王との結婚であったかどうかは分かりませんが、他の皇族か次々に
罪に落とされ、あるいは臣籍に下されて継承権を失い、その中で王族の地位を保ち、かつ他戸親
王が既に生まれていたことが有利に働いたとは思います。

しかしここでの問題は、書紀には何も書かれていないにもかかわらず、継体が即位前に武烈の姉
と結婚していたと想定する根拠ですね? そしてまた、継体が手白香との結婚を条件として、即
位したのかどうかですね?

僕は継体は越前の地方王族であったとしても、中央にも足場を持っていたと思っています。(隅
田八幡鏡等からの推理) しかし地方王族である彼が、武烈存命中に武烈姉である手白香と結婚
したと想定すべき理由はないと思います。少なくとも書紀で見る限りにおいては、このような
地方王族に大王の姉妹が嫁いだ事例等はありませんし、もし結婚していたなら書紀がそれを書か
ない理由が分かりませんから。

また彼の即位が、手白香との結婚を条件にしたものであるかどうかは極めて疑問だと思います。
彼の年齢からすれば、手白香との間に継嗣が生まれる可能性はかなり低くなりますので、むし
ろ即位の結果(あるいはともなう)ものだと考えたほうが妥当でしょう。

そもそもこの問題は百済本記の天皇を武烈とし、彼が辛亥531年に崩御し、継体がその後に手白
香と結婚したとしたら、欽明の年齢等に無理が生じるから、この解釈そのものに無理があるので
はないかと言うことです。それを補うために地方王族である継体が、武烈在世中に手白香と結婚
していたと言うのはさらに解釈に無理を重ねるものだと思いますね。
継体が507年頃即位、531年頃崩御とする書紀の説のほうが、はるかに妥当ではないかというこ
となのですが?
592571・579:01/09/09 17:45
>>585
このような異例な事態(大王近親者で継承適格者が絶えた)においては、手白香が20歳を過
ぎて結婚したからといって別に不思議はないのでは? おそらく武烈は18位で即位?、26歳
くらいで崩御? 手白香28歳位で結婚?。。。でおかしいでしょうか?

>>586
状況は少し違いますが、例えば家茂が将軍にならなければ、皇女和宮降嫁は絶対に有り得ま
せん。敢えて言うならば、将軍になるより皇女降嫁のほうが難しいのです。

継体にとって顕宗・仁賢・武烈の男子血統が絶えなければ、絶対に大王には成れないでしょう。
その場合に、武烈の姉を娶ることはほとんど有り得ないでしょう。
しかし僥倖が重なって大王位についたのです。その場合には先代(先々代)の娘を娶ることは、
極めて容易ですし先代の重臣たちからも大歓迎されるはずですね。

>>590
まさか。。。この程度の政略血族結婚なんて、当時の大王家にとっては別に不自然でも何でも
ない。 しかも、この様な異例な事態においては不自然どころか、常識に属することです。
593日本@名無史さん:01/09/09 17:49
雄略以降の3代は出自が怪しすぎる
594571・579:01/09/09 18:15
ところで、当時の数少ない王族である継体でも大王の娘や姉妹との結婚が難しいとすれば、彼
女等は誰と結婚するのか? 答えは。。。ほとんど結婚できないのです。
これは後の平安期でも同様で、適当な皇族男子がいなければ斎宮になるか、出家するかしかあ
りません。もっとも皇族男子もほとんど出家するしかないので、むしろ臣籍降下を希望し地方
に活路を求めたのです。
595日本@名無史さん568:01/09/09 18:52
>>589
571・579さん、別に「おかしい」っていうことじゃないんで。
「若年即位なら、よりしっくりくるかな」ということで書いたわけで。
興味があるのは、継体帝の皇子にして仁賢帝の皇孫である欽明帝が
「最終的に本家筋になっている」という点。
単なる偶然とはどうも考えられなくて・・・。それで、百済本記の件に
何か秘密があるのでは、と常々思っていたところにユニークに解釈
されている564さんの意見に反応したと、まあこういう次第で。
やっぱり無理があったということですカナ・・・。
まわりくどい言い方しかできないのはお許しあれ。
>>590
全然怪しくないス。今の法律とは違って成人の年もバラバラだし、
一夫一婦制でなくてきょうだいの数も多いので、どんな組み合わせが
あっても不自然じゃない。
596573:01/09/09 19:36
>>591
そうですか、わかりました。
ただし、私は記紀の記述に対してこのスレ参加者の中ではもっとも
懐疑的です。「わかりました」のニュアンスはご理解下さい。
597日本@名無史さん:01/09/09 19:44
事実はすべて闇の中でしょうが、文字や記録、戸籍のない当時の社会状況の
を想像するに5代前の先祖でつながっているなんて言うのは言ったもの勝ち。
だいたい今の世の中でも5代前のじいさんの名前知っている人間何人いるの?
書紀等は基本的に後から書かれた(継体以降の王朝の元で)ものなのだから、
この件については全く参考にならないあと思う。
598564:01/09/09 19:50
568さん、私が出した仮説に長々と付き合って下さり、何か申し訳ありません。
もう少し練り上げてから書き込めばよかったかな、って思っているうちに、いろいろ
展開して下さり、すみません。
ところでもう一つ単純な疑問なんですけど、武烈には女の兄弟(姉妹)はたくさん
いました(いたことになっている)よね? 男の兄弟はいなかったんですかね。
599パリポリ:01/09/09 19:55
文字や記録、戸籍がない当時の社会状況だからこそ皆血筋を重要視
してたんだから偽れないよ。つながってるって考えたほうが無理やり
つながってないとするよりよっぽど自然じゃない。
600日本@名無史さん:01/09/09 19:55
>>597

貴族階級と庶民とをいっしょにしちゃだめ。
王侯貴族にとっては家系こそ生命線。文字や記録もあったでしょ。
601日本@名無史さん568:01/09/09 21:06
>>598
564さん、いえいえこちらこそ。
やっぱり百済本記の「日本天皇」は宣化帝のことかなあ。
その場合だと、全く逆のことも考えられるよね。
というのも、欽明帝が実は武烈帝の皇子または兄君弟君の王子で
葛城系氏族(?)の元にお隠れあそばした、そして、豪族間でもう
一度争いが起こり、宣化帝ご一族は姫以外全員・・・なんて解釈
もできてしまうんで。
この場合だと、のち記紀が編纂される時、継体帝のお血筋でないと
具合が悪いということで組み込まれたと仮定できるよね。
当然ながら基本的に男が中心の世界なので、男性が討たれたり暗
殺されても、女性は「政治的道具」として残される可能性は高い
と思うね(当時のことを言っているんで、差別発言じゃないよ)。

どっちの解釈にしろ、百済本記と姫君に秘密があると思うね。
602日本@名無史さん:01/09/09 21:16
宣化天皇の皇子で、宅部皇子っていう人がいましたね?
603日本@名無史さん568:01/09/09 21:19
そういや、いたな・・・。
604日本@名無史さん:01/09/09 21:19
>602
欽明の子
605602:01/09/09 21:25
604さんのおっしゃる通りの記述も散見されるけど、どっち?
606日本@名無史さん:01/09/09 21:26
>>595
親子で同時に姉妹と結婚した例って他にあるか?
607日本@名無史さん:01/09/09 21:30
元興寺縁起、百済本記を信じれば欽明531年即位は動かしがたい。
一方、書紀一云、本文から継体534年没、安閑即位も動かしがたい。
ということで古事記を無視すれば531年にクーデターが勃発、
欽明が即位したが、これを認めない一派は継体安閑宣化を擁立。
しかし欽明派が圧倒したため宣化皇女を欽明皇后とすることで
両派が合意、といったところか。
608日本@名無史さん568:01/09/09 21:31
>>602-605
混乱しているからなおさら、興味が出る。
>>606
平安期の公卿にいなかったっけ?んにゃ?
609日本@名無史さん:01/09/09 21:34
男系じゃなくて、女系を軸に考えた方が見えて来るものがあると思う。
610日本@名無史さん:01/09/09 21:36
>606
継体と敏達は祖父と孫で姉妹と結婚してる。
611日本@名無史さん:01/09/09 21:37
>>607
両派の合意後は、蘇我系王族が優位にたったが、
内紛で有力者を次々と失い、大王位は宣化系の田村へ渡る。
612日本@名無史さん:01/09/09 21:45
>611
そこの時代にまで行けば宣化も何もないでしょう。
田村王即位は山背大兄王を嫌う蘇我父子のせい。
613日本@名無史さん:01/09/09 21:53
>>612 田村の後裔が造った記紀の記述によればそうなってるね。
蘇我宗家滅亡でそれまでの帝紀・旧事は奪われてるからね。
614日本@名無史さん:01/09/09 21:54
>>610
同時には不可能だろう。
615571・579:01/09/09 21:59
>>595 568さん
欽明が「本家筋」となったのは、もちろん偶然ではないでしょう。同じ継体の子でも地方王族時代に
尾張の豪族の娘との間に生まれた安間・宣化と、大王として先代大王の姉との間に生まれた欽明では、
勝負にならないでしょう。大王家の重臣である中央豪族達にしても、尾張の豪族が大王外戚になるこ
とは決して望まなかったでしょうから、安閑・宣化は欽明成長までの暫定大王とならざるを得なかっ
たとも考えられます。(ここで多少のイザコザがあったことも想像できますが、安閑・宣化・尾張の
処遇を見れば、それ程深刻な対立はなかったと思われます)

>>598 564さん、
書紀で見る限りですが、顕宗の子は記録がありません。仁賢の子は雄略の娘である春日大娘との間に
高橋大娘・朝嬬・手白香(継体后)・樟氷・橘(宣化后)・真稚の女子、そして第六子の武烈です。
また和珥氏の糠君娘との間に春日山田(安間后)です。従って男性は武烈のみとなります。

>>599 >>600 さんのおっしゃるとおりです。現在の我々にとっては、少数のエスタブリシュ以外は
五代前の先祖が誰であっても日常生活には関係ありません。しかし数百年前の高級武士達にとっては、
何物にも代え難い財産でしたね。この当時の王族・大豪族にとってもそうで、だからこそ稲荷山鉄剣
の持ち主はこれを誇らしげに書き残しているのです。当然周辺の家臣や豪族達もこれを熟知していた
でしょう。
何度も言うようですがこの発見以前は、系譜伝承に疑問を持つ学者が多かったのです。しかし471年に
おいて関東の豪族ですら八世系譜が漢字で記録されていた(上祖は250年以前と想像できます)のです
から、それより後の大王の五世孫程度は誤魔化しようもないと認めるべきでしょう。
616日本@名無史さん:01/09/09 22:01
>>614

ごめん、同時にね
617日本@名無史さん:01/09/09 22:52
>>606
こんな異例な事態は、そもそも前例がないのだから、同時というのはないと思います。
しかし姉妹が父子に嫁いだのは、まず神武の后である媛タタラ五十鈴媛と、綏靖の后である五十鈴依姫
とは姉妹とされています。 >>613さんご指摘のとおり、継体妃の麻績娘子と敏達后の広姫も息長真手の
娘です。

継体即位時に継体59歳、安閑43歳、宣化41歳と言うような状況で、継体系と先代の仁賢系を結びつけて、
何とか継承者を作ろうとすれば、こういう結婚は充分あり得ると思いませんか?
618日本@名無史さん:01/09/09 23:21
思いません。
そこまでして仁賢系に結びつく必要なし。
619571・579:01/09/09 23:39
>>607
欽明派と安閑・宣化派に何らかの軋轢があったかも知れませんが、もしクーデターのような武力抗争が
あったなら、どうして欽明の子孫達が安閑・宣化の即位を記述しているのかという問題が生じます。
一応の憶測としては >>514でガイシュツ。
(一書云の534年崩御は、動かし難いと言うほどのものとは思わないけど。。。)
620617:01/09/09 23:56
>>618
継体にすれば、先代大王の娘を娶り、子を作れば自分の子孫達に箔をつけ、その後の大王
位継承を安定させることが出来る。(自分に子が出来なくとも、孫は出来るでしょう?)

仁賢の娘達にすれば、大王の正妃になり彼女等の子孫を大王位につける可能性が大となる。

大王家重臣(中央豪族)達にすれば、自分達の旧知の女性達の子孫が大王となり、尾張豪
族が外戚として台頭するのを押さえられる。亡き仁賢にも義理が立つ。

過去の伝承にも同様の事例があるのだから、これによって、受けるデメリットは特に考え
られない。(過去に事例がなかっても、別にどうと言うことはないが。。。)

貴方が必要なしといっても、継体には必要な婚姻措置だったでしょう。僕が継体だったと
して躊躇しませんがね(W
621日本@名無史さん:01/09/10 00:05
>>619
最終的に和合したのであれば認めてもかまわないでしょうし
むしろ認めるでしょう。書紀本文でも継体は死の直前に安閑に譲位しています。
そしてその安閑元年は甲寅(534)年とされていますので継体没年も534年(甲寅)
と考えたほうが自然でしょう。書紀が辛亥(531)年説を採ったのは百済本記を
重視したためです。
622日本@名無史さん:01/09/10 00:13
>>621
敏達の母親は宣化の娘。
記紀を作った天武一統はその敏達の流れ。
要するに半分は宣化系だから、御先祖様を消したりしない。
623日本@名無史さん:01/09/10 00:19
継体と手白香皇女が結婚して皇子が産まれ成長すればもともと
大伴金村主導の継体擁立劇に反感を抱いていた一派が中継ぎ天皇は
早めに退位させ欽明を擁立しようとしたのかも知れません。
一方、金村は自身の影響力を保つために敢えて「正統性」の薄い
天皇を擁立しつづけようとしたのかも。
結局、欽明派が瞬く間に実権を掌握して外国にも「継体天皇や勾太子
や高田皇子は死去した」ことにして欽明即位を伝達したというのは
どうでしょう?
624日本@名無史さん:01/09/10 00:30
恐らく安閑、宣化と欽明との軋轢は継体が長生きし過ぎた為でしょう。
継体と同様に安閑、宣化も仁賢皇女を娶っています。これは
継体と手白香皇女が子を成す前に死去する可能性が十分あったから
でしょう。また安閑は継体の太子となっているのでどの道、継体に
皇子が産まれても継体死去時にはまだ幼年であろう、と考えられ
皇位は継体→安閑へととりあえず継承させる予定ではなかったのでしょうか。
ただ、継体が皇子を成しかつ予想外に長寿だったため継体の後に
太子の勾大兄皇子ではなく直接、欽明を即位させようとする勢力が
出てきたのではないでしょうか?
625日本@名無史さん:01/09/10 00:48
>>623
ようわからんけど、「正統性の薄い」天皇って安間・宣化のこと?
継体擁立に反感を抱いていた一派が欽明を擁立するって、欽明は継体の
子じゃないってこと? 大伴主導だってどうだって、何れにしても継体
の子を大王にするんでしょう?
それに、大伴は欽明の下でも主流派として健在ジャン?

>>622
女系先祖を、即位もしてないのに即位したと言うだろうか?

百済本記だって、単に「又聞」っていう曖昧な記事なんだから、別事件
が誤って混入した可能性があると思うけどね。そもそも「高麗弑其王安」
だって、謎の記事だもの。
626日本@名無史さん568 :01/09/10 01:40
>>625
別事件の混入ってよく以前から言われている説ですナ。
今までワタクシメが言ってきた事は横においておいて
書いてみたいのだが、仮に混入だとした場合の可能性
として、このスレでは筑紫国造磐井の件があげられて
いますな。しかし、平群鮪の事件が時代を遅れて伝わ
った又は年代誤記ということは考えられないかなあ。
これだと中央政権の話になるし、実際、鮪が討たれた
理由は「大きい顔をして政を欲しいままにした」と、
蘇我入鹿が暗殺された時と同じ理由だったように記紀
には書いてあるので、外国の政権が「天皇」と間違え
てもおかしくないと思われ・・・。
って、30年以上ずれているんだけどね。スマソ
627日本@名無史さん:01/09/10 01:43
>>625
欽明の母は前王統の皇女です。安間・宣化とは立場が違います。
また金村は書紀によれば欽明元年(540年)に失脚しています。
この次期(531〜541)に大伴氏失脚、巨勢氏に代わって蘇我氏台頭、
物部氏では麁鹿火に代わって遠縁の尾輿が大連となっています。
このような豪族間の勢力図の変化は両朝の対立と収束の結果であったかも
知れません。
628日本@名無史さん568:01/09/10 03:57
ふぅむ…。
629日本@名無史さん:01/09/10 11:45
>>620
あなたはロリコンってことね。
630ロリータ:01/09/10 14:14
>>629
30歳くらいの手白香嬢と結婚するケータイ君はロリコンなの?
631日本@名無史さん:01/09/10 14:18
>>630
10代と思われ。
632手白髪:01/09/10 16:39
>>631
お上手ね。。。アタシがケータイ君と結婚したのは、弟のブレツちゃんが天皇様に
なって散々悪いことをし始めてから10年もたってる頃なのよ。
アタシが10代ならブレツちゃんは天皇様になったとき、幼稚園にいってたのかし
ら? ミエミエのオセジはかえって嫌みにきこえるわ!
633日本@名無史さん:01/09/10 17:42
>>632
行かず後家でしかも高齢出産だったのね。
お気の毒。
634手白髪:01/09/10 17:51
しかも旦那さまは、60歳に手がとどこうかって言うジイイよ!
高貴な女性って哀れなものでしょう? 同情するならお線香の一本でも
あげてね!(あれ? 仏教ってまだ入ってなかったかしら。。。)
635日本@名無史さん:01/09/10 18:52
>>634

馬鹿だな、ファザコン親父好きのいい女もいっぱいいるんだぜ。
636手白髪:01/09/10 19:04
そっか、じゃあ彼とっても優しくたくましいから、アタシって幸せだったんだ!
あっ。そろそろ陵に帰らなきゃ・・・何処だって? それはヒ・ミ・ツ。
637日本@名無史さん:01/09/10 22:01
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=990597330&ls=50
みなさんはどの人物が好きですか?
638日本@名無史さん:01/09/10 23:07
>>627 書紀から各大王の重臣とされている人物をみると、
武烈
(大臣)平群真鳥臣→誅殺 (大連)物部麁鹿火連 大伴金村連→真鳥誅殺 大伴室屋連

継体
(大連)大伴金村連→安閑非難 (大臣)許勢男人臣→薨 (大連)物部麁鹿火連→勅使辞退・磐井誅殺

安閑
(大連)大伴金村連 (大連)物部麁鹿火連 物部木蓮子

宣化
(大連)大伴金村連 (大連)物部麁鹿火連→薨 (大臣)蘇我稲目宿禰 (大夫)阿部大麻呂臣

欽明
(大連)大伴金村連→失脚 (大連)物部尾輿連 (大臣)蘇我稲目宿禰臣


これによると、蘇我稲目の台頭は宣化時代、大伴金村は欽明即位時には筆頭大連だから、
欽明即位時における変化は、麁鹿火連の死によって尾輿に交替しただけのように思う。
継体時代に安閑は大伴金村の任那政策を批判してるけど、それが欽明時の失脚の遠因にな
ってるようだし。
これらの点から見て、豪族勢力の変化が安閑・宣化と欽明の両統対立と収束とは言い難い
ように思う。。。
(仮に蘇我が欽明時に始めて顔を出し、同時に麁鹿火連存命にもかかわらず尾輿に交替し
てるなら、おっしゃるようなことが言えるかもしれないけど。。。まあ何かはあったので
しょうが)
639日本@名無史さん:01/09/10 23:15
>>638
あなたにとっての書記は聖書と同じなのですね。。。
640日本@名無史さん568 :01/09/10 23:47
「大連」は江戸幕府でいう「譜代」、「大臣」は江戸幕府でいう「外様」
のようなものだと考えていいかと思うんだけど、いいかな?
実は前から気になっていることがあって、大伴金村が活躍した頃の筆頭
の大臣の氏ってみんな音読み臭くないかなあ、と。
やはり渡来系なんだろうか・・・諸説あるけれど。そうとすれば、やはり
物部vs蘇我以前から豪族の間では在来系連合vs渡来系連合という
主導権争いがあったと考えていいんだろうか。
武烈帝崩御と暴君伝説、継体帝の擁立と樟葉宮、宣化帝から欽明帝への
帝(大王)位の移動、これらの事象の陰で、各豪族の生き残りをかけた
戦い(いくさに限らず政争含む)があったと考えていいんだろうか。
641日本@名無史さん568:01/09/10 23:50
>>640
後半、当たり前過ぎな事を書いてしまった。
何をしてるのやら。スマソ・・・.
642日本@名無史さん:01/09/11 00:04
書紀(not 書記)は、神国思想と天壌無窮万世一系を正統付けるための思想的史書
なんだから、常に批判的にみるべきものだよ。。。しかし批判と言うのは頭から否
定することではない。諸資料(外国史書や考古学所見等)との整合性によって、そ
の蓋然性を検証することから始めねばならない。当然のことだろう?
>>627 さんは書紀から豪族の変化と両統対立・収束を推定された。つまりは書紀を
根拠とされている。俺も書紀を根拠に別の解釈を示している。
方法論はまったく同じなんだよ。。。記紀以外に古代を推理する方法論があったら、
示してくれないか?(ただし桓檀古記や契丹文書はごめんだぜ!)
643日本@名無史さん:01/09/11 00:20
>>640
ちょっと違うんじゃないの?「連」は譜代、「臣」は親藩っていうべきだろう。
外様はどちらかといえば「君」だけど、本来の外様はほとんど滅ぼされるか、
結婚政策で親藩に組み入れられてるんじゃないかな?
前半はまったく意味がわからない。音読みがどうして渡来系なの?
渡来系には「村主」「史」「漢直」って姓があるんじゃないの?
644今は亡きモ板@羊の一固定:01/09/11 00:25
>>640
>在来系VS渡来系
ありえますね。
武烈天皇暴君説が継体天皇派によるデマなのだとしたら、
武烈VS継体の構図はあったと思われます。
つまり、円満な皇位継承ではなかったことになりますが、そこのところはどうでしょうか?

で、継体天皇は果たして、当時としての「皇族」だったのでしょうか?
645日本@名無史さん:01/09/11 00:30
>>642
風土記なんかどうでしょう?
646日本@名無史さん:01/09/11 00:33
>>644

そして1につづく、、、
647日本@名無史さん568:01/09/11 00:43
>>643
そうかぁ・・・。
別に渡来系と決め付けたわけじゃないじゃん。「かもな。」って
言ったのに断定しているように言われるのはツライなあ。
大伴は「おおとも」で大和言葉じゃん。
物部は「べ」自体は大和言葉じゃないかもしんないけど、
「もののべ」って大和言葉の類じゃん。
だって、目をつぶって音読してもらっても、その氏の由来
(もちろん100%が真実じゃないだろうけど)が見えて
くるだろ?
でも、「へぐり」とか「こせ」とか「そが」とか、音読し
ただけでは、氏の由来がさっぱり見えない。
そういう疑問があったから、ここで投げかけただけ。

どうしてそんなにツッケンドンに言われなきゃならないの
か、わからない。ツカレタ・・・。
648日本@名無しさん:01/09/11 00:45
>>646
かくしてメビウスの輪になるわけね。ワラタ
649日本@名無史さん:01/09/11 00:46
>>643
連は神別氏族で主に朝廷(大王)に隷属する職業集団を率いた伴造氏族に
与えられた姓。
臣は皇別氏族で連姓氏族に比べて独立的で主に孝元天皇の子孫の
大和盆地内の有力豪族に与えられた姓。
両者とも例外多数。恐らく五世紀以降、大王、畿内勢力の伸張
地方勢力の駆逐とともに古くからの大王の同盟者、従者である
連臣両氏族の代表者(大連、大臣)の権力が強まったと思われる。
650642からゴメン:01/09/11 08:57
>>647
つっけんどんなのは俺の悪癖だけど、まことにご無礼を。。。許してたもれ!
「臣」の氏名は原則として、その勢力地域名に由来する。「連」は職掌に由来する。
「かつらぎ」「へぐり」「こせ」「き」「あべ」などはすべて地名。
「おおとも」「もののべ」「なかとみ」「いむべ」などはすべて職掌。
王族近親は、は原則として氏族名はもたないが、代を重ねると地域名を称する。
(もちろん >>649さんの言うとおり、あくまでも原則としてだけれど。。。)
これで良いでしょうか? 重ねてご無礼をお詫びします。

風土記は残存部分が少なすぎるけれど極めて貴重。万葉集・姓氏録・旧事本記・帝説
等も記紀を補完するものとして貴重な存在。。。
651蘇我臣:01/09/11 19:46
蘇我は 孝元ー彦太忍信ー屋主忍男武雄心ー武内宿禰
の後裔氏族を称し、葛城・波多・紀・許勢・平群と同族と称していた。
葛城は安康事件で円大臣が誅殺され没落。平群は武烈時代に真鳥大臣が誅殺され没落したため、
継体当時は許勢と蘇我が大臣格として台頭し、蘇我が他を圧倒していった。いうならば藤原氏に
於ける南・北・式・京各家の中で南・式・京が没落し、北家が他を圧倒していった様とよく似て
いる。(紀は細々ながら存続し、平安期においても下級公家として命脈を保つ)

蘇我氏自体は、
石川ー満智ー韓子ー高麗ー稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿 とされているが、満智は「古語拾遺」にお
いて「検校三蔵」とされており、大王家の財政を担当したことが窺えるが、当時はなお葛城・平
群の下風に立っていたと思われる。 また韓子は征新羅将軍として陣没したとされており、この
頃から特に渡来人系を勢力下に取り入れたものと思われる。

なお、「満智」が漢風名であること、百済の名門貴族で不祥事によって倭国に亡命したかもしれ
ない「木満致」と同じ「マンチ」であること、その子が「韓子」「高麗」という名をもつこと、
等からこれを同一人であるとする他愛ない語呂合わせが「蘇我渡来人説」の基礎となっている。

もとより、当時は入質している百済王子やその子孫、秦や漢の子孫を称する渡来人、さらには高
麗工人等の様々な渡来人が存在しており、ある意味では日本の戦後に韓国系・北朝鮮系・中国系
・台湾系。。。が存在していたと同様の状況ににある。
この様な情勢下にあって、韓国系亡命者が在日外国人を統轄することは、到底有り得ないが、同
様に当時においても百済の亡命貴族がこれらを統轄し得たとは、まず考え難いのではないか。
652日本@名無史さん568:01/09/11 22:53
>>642さん、その他の皆さん、ありがとう。
よくわかりました。なにせ当方、少々頭が錆びておりますゆえ・・・。
2年ぐらい歴史の世界から遠ざかっていたんで、ゴメンナサイ。
>>642さん、「あべ」も土地由来なんすか。なるほど。
戦の掛け声の「あへ」から来ているという話を聞いたことがあった
んだけどなあ。
勿論、今の奈良県に葛城・平群・御所・安倍などの地名が伝わって
いることは知ってるんだけどね。殿様の名前の方が地名よりも先な
のかとも思ったりしたので、ああいう事をいってしまったわけで。
653日本@名無史さん:01/09/11 23:17
>>651
ふうん。ちょっと聞いてもいいかな?

蘇我満智は、「古語拾遺」ではいつ頃のどういう人になってるの?
どうして、その頃に「満智」などという洒落た漢風の名前がついてると思う?
「木満致」という百済人はどんな人なの?
日本に亡命したかも知れないってどういうこと?
どうして、蘇我氏には韓子・高麗などという外国の名前がついていると思う?
654日本@名無史さん:01/09/11 23:23
>>653
あなたはどう思うの?
655日本@名無史さん:01/09/12 11:13
>>654
わからないから聞いてるんだけど、あなたはどう思うの?
656日本@名無史さん:01/09/12 11:21
>>655
自分がどう思っているかわからないなんてもしかしてヴァカ?
657日本@名無史さん:01/09/12 13:22
知るを知るとし、知らざるを知らずとす。これ知なり。
658蘇我臣:01/09/12 22:30
「古語拾遺」は平城天皇 大同2(807)年に、天太玉命の子孫と称する斎部広成が著したもので、
もともと同格であった天児屋根命の子孫中臣氏(鎌足系統は藤原氏に改姓)が祭祀を独占している
ことに抗議したもの。従って過去の両氏の伝統・関係を神話時代から記述しており、記紀とは若干
異なる部分もあるが、蘇我氏については雄略紀に次の記事がある。
「此れより後、諸国の貢調、歳年に盈ち溢れき。更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎
蔵・内蔵・大蔵)を検校しめ、秦氏をして其の物を出納せしめ、東西の文氏をして、其の簿を勘へ
録さしむ。。。」
ここでは書紀履中紀の「満智」ではなく、「麻智」としている。こういった漢字表記の相違は、古
代には随処に見られることであり、洒落た漢風名というより、単に「マチ」という名を書紀が「満
智」と漢字で表したに過ぎないと思われる。あるいはこの記事に見られるように渡来系人を傘下に
おさめていたことから、彼自身がこういった漢風表現にしていたかも知れないが。(続く)
659蘇我臣:01/09/12 22:41
「木(羅)満致」は三国史記では、倭武王上表(478年)の3年前、蓋鹵王21(475)年に百済
が高句麗に敗れ、熊津に遷都した時に随伴したと言う記事があるが、その後は不明となっている。
書紀では、応神紀25年に、
「百済の直支王薨りぬ。即ち子久爾辛立ちて王となる。王年幼し。木満致、国政を執る。王の母
と相婬けて多いに無礼。天皇聞しめして召す」
とあり、応神25年は294年(明らかなデタラメ)であるが、久爾辛王の即位は420年と思われ、
この記事はほぼ倭王讃から珍(仁徳?履中?)の時代にあたる。もとより年代的には疑問がある
が、三国史記を基礎とすれば「420年代に倭国に召喚された木満致が、珍時代に蘇我満智として
倭国で国政に関与し、その後帰国してから百済で蓋鹵王に仕えて475年に熊津遷都に随伴し、そ
の後再び武時代に倭国に渡来して蘇我氏の祖となった?」
何だかわけが分からんことになる。。。特に同一人とすべき根拠もなく、明らかに別人と見る
べきだろう。
660蘇我臣:01/09/12 23:56
最後に「韓子」「高麗」であるが、書紀にはこの時代には倭人父と韓人母の間に生まれた子は
「韓子」と呼ばれたという記事がある。(別に蔑称ではない) 従って「韓子」の母は韓人で
あり、それを名としたのかも知れない。「高麗」は「馬子」「蝦夷(毛人)」「入鹿」と同
系統の命名法(動物や外人名を使用)かも知れないが、それ以上は分からない。
(蝦夷=毛人という名は奈良時代でも散見され、特に珍しい名称ではないが、もとより彼等が
蝦夷人であったわけではない)
661日本@名無史さん:01/09/13 00:03
蝦夷という名は、飛鳥時代にあった蘇我氏主導の百済人や新羅人の
関東入植と関係ないの?最前線の地域の名前を付けるとかさ
662蘇我臣:01/09/13 13:29
名前ねえ。。。古代人の名前を考えるのは難しいよ。一口に名前といっても大物ほどいろんな名前がある
し、そのどれが後世に伝わったり記録されたのか判断できないものね。
(名前・・・幼名・成人名・字名・渾名・賜名・法名・戒名・雅号・称号・尊号・愛称・蔑称・通称・父
称・屋号・官職名・院号・諡号(漢風諡号、国=和風諡号、廟号)etc.etc.和風諡号にも・・・美称・
追号・宮号等々)

例えば「天智」でいえば、これは後世の称徳〜光仁時代に制定された漢風諡号、「天命開別」は和風諡号、
「近江」は宮号或いは追号、「葛城」は幼名(いわゆる実名に近い?)、「開別」は諱(成人実名?)
「中大兄」はある種の称号?或いは通称だよね?

「聖徳」なら、おそらく「聖徳法王」ってのは後世の漢風法号(?)で、「厩戸」が幼名、「上宮」や
「豊聡八耳」が愛称あるいは通称だろう。さらに摂政としての成人名は「天足彦(アメノタラシヒコ)」
だったという未確認情報もある。

このうちおおよそ命名法が分かっているのは「葛城」「厩戸」だけど、これだって異論や例外はある。
蘇我「蝦夷(毛人)の場合も、まずこれがどの種類の「名前」かが分からないし、命名法にいたっては、
皆目わからん。。。ということで、貴方のアイディアについてはパスさせてもらいます。
663渡来系:01/09/13 23:12
ところで古代史においては、良く渡来系という言葉が出てきます。甚だしい場合は新羅系と百済系の
対立等ということさえいわれますね。それでは倭国における渡来系には、どのような氏族がいたか?

これを考える場合、百済・高麗滅亡以降と以前に別けて考える必要があるでしょう。百済王・高麗王
等は滅亡後の亡命王族です。桓武の生母である高野(和)氏もこの頃の渡来と考えられます。

それ以前の渡来系の大氏族は、弓月君子孫「秦」、王仁子孫「西文」、阿知・都加子孫「東漢」、天日
槍子孫「三宅」などで、これらはチャイナの秦・漢の子孫あるいは任那加羅の王族を称しています。
(天日槍を新羅王子とする記述もあるが、これは倭国優位を印象つけるための強弁だろう)

従って継体〜推古の頃であれば、三宅氏は神功の母系とはいえ既に勢力はなく、入質百済王族の子孫
も政治的勢力は持っていないので、「秦」「西文」「東漢」といったチャイナ系が目立つ程度で、これ
は天智・天武の頃においても変わっていません。彼等は技術・学問を通じ有力官僚氏族として成長し
ますが、あくまでも蘇我や上宮などの傘下で活動したもので、政治的主体性は感じられませんね。

新羅系では、壱呂比(豊原)・海原・小橋・清住・近義・新良貴(?)・坏作・日根・伏丸などという
出自の不確かな弱小氏族しか確認できず、とても政治的勢力を発揮するようなものではありません。
664日本@名無史さん568 :01/09/14 16:39
いろんな意見を見て、凄く勉強になったデス。

ところで、武烈帝の実像や如何に?
665日本@名無史さん:01/09/14 16:49
そもそも武烈帝は実在しない。
666日本@名無史さん568:01/09/15 02:02
>>665
一言だけでは難しすぎたので、もう少し詳しく説明して欲しいなあ。
>>all
これに関する他の意見は?
667日本@名無しさん:01/09/15 04:51
武烈は実在はしたと思うけど、あんな暴君じゃないと思う。
王朝交代があったとき、最後の王(皇帝でも将軍でも執権でも)は
バカか暴君に描かれ、正当化が行われることが多い。
668暴君:01/09/15 08:42
武烈の実像ですが。。。これは確かに難しい問題ですね。一応書紀から継体の即位年齢や手白香の結婚年齢
を想定した限りでは、彼は20代で崩御したと想像できますが、その所業が余りにもチャイナの欠徳帝王に似
たティピカルなものであり、皇后とされる春日娘子の出自も不明であるため、架空説がありうることも事実
ですね。
しかし、もともと武烈が存在せず架空のものだとするならば、顕宗に子がなく、仁賢に男子がない時点で王
統が断絶し大王継承問題が生じることになります。その場合なぜ武烈という架空の人物をワザワザ創造しな
ければならないかということになりますね。
一つにはチャイナでいう「易姓革命」に擬して仁徳系から若野毛系(あるいは全くの別系統?)への大王位
の移動を正当づけるためともいわれますが、もともと王統が断絶してるのならば如何なる形であれ、系統移
動は必然的に生じるものですから、何も易姓革命に擬する必要はないはずです。

そこで武烈は存在したとして、果たして彼は書紀のいう如く欠徳・悪逆の大王だったのか? それともタダノ
凡庸な大王だったが、書紀が継体への大王位移動(あるいは簒奪)を正当づけるためこのような人物に歪曲
したのか? あるいは幾らかの誇張はあるにしても、本当に欠徳・悪逆な大王だったのか? 書紀の記述の意
味するところは、何かと言う問題になるでしょう。 で。。。
669今は亡きモ板@羊の某固定:01/09/15 13:59
じゃあ、安閑・宣化天皇はどんな人物だったの?
670日本@名無史さん568 :01/09/15 14:54
話が前後してすまないけど、素直に考えりゃ春日娘子って大王家の姫だよね。
まさか、中臣氏の出?!もしかして武烈帝がしきたりを排して皇后になさった
ので、それが紛争の種となって暴君として伝わったのか?崩御とも関連?
そうだとすると、事実は別として暴君伝説が定着してしまった記紀編纂時代に
は、もはや藤原氏は春日娘子問題をタブー視し、出自不明にされたのかなあ?

いい加減なシロウト推理でスマソ。春日大社って藤原氏ゆかりのお宮さんだよね。
671日本@名無史さん568 :01/09/15 15:48
>>668どの、話の途中ではござらんかな?
続き聞きたいデス。
672日本@名無史さん:01/09/15 16:44
武烈よりその前の顕宗・仁賢の存在の方が怪しい。
何せ、馬飼い・牛飼いの兄弟ですからね。
記紀伝承の年代関係もツジツマ会わんし、
継体の出自のいわれの方が、まだ納得いきます。
王統断絶は、雄略・清寧の時代の話なのでは…
確か武列=雄略コピー説を唱える方もいましたよね。
673日本@名無史さん:01/09/15 17:24
>>670
春日は三笠山麓の地名です。ここに藤原氏が氏神社(当初はそうではなかった)を
移したのは平城遷都の後であり、それまでは中臣氏とはあまり関係がありません。
この当時に「春日」の名を持った人物は、雄略娘で仁賢后・武烈生母の「春日大娘」
、仁賢娘で安閑后の「春日山田」がいますが、これらを中臣と結びつけるのはちょ
っと難しいでしょう。
674日本@名無史さん568:01/09/15 18:06
>>670なるほど。わかりマシタ。

>>672その説でいけば、手白香の姫様って清寧帝の姫様または妹君になるのだろうか?
清寧帝は「お生まれになったときから白い髪でございました」なんて記載されてるから
ねぇ。
「白髪」→「しらか」・「手白香」→「たしらか」
う〜むむむ・・・。

まあ、今のところは武烈帝実在と考えたいところだけど。
675暴君:01/09/15 18:58
>>671さん、メンソーレです。
話途中でゴメンナサイ。実はたいした内容ではないのですが、少なくとも書紀の構成上は武烈を
暴君と歪曲すべき必然性はないと思うのです。仮に王統交替を正当づけるために暴君とするなら
ば、その後の空位と継体の即位が繋がらないような感じがするからです。
(事実として武烈の廃位か弑逆があって、それを隠蔽するならば、むしろこの様な「易姓革命」
の存在を暗示するような記事は拙いのではないでしょうか?)

そこで武烈には実際に暴君的要素があったのではないかと思います。(そしてさらに憶測するな
らば王族出身の正后である春日娘子に殺害されたのではないかとも。。。)
この場合、後世の書紀編纂者は如何に武烈が暴君であったとしても、何故にここまでティピカル
な欠徳・悪逆帝王としたのかという疑問が生じますね。
これはおそらく史官や編纂責任者のレベルでは不可能で、もっと大きな歴史哲学を持った権威あ
る人物が、命じた事ではないかと思います。(おそらく聖徳太子あたりか?)

つまり武烈を悪逆帝王としたのは、その中祖である仁徳の仁政と対をなすもので、如何に天照子
孫である天壌無窮の大王家の正統を継ぎ、仁政に努めた大王の家系を継いだとしても、この様な
悪逆を行えばその系統は僅か四世にして絶える。(仁徳―履中―市辺―仁賢―武烈)
倭国は神国であるから、幸いオオドという天孫傍系孫が継体したが、これが神国でなく他国であ
れば当然のこととして、易姓革命により王朝は交替を余儀なくされたであろう。。。爾後の大王
たる者は、この事を前者の轍として、必ず身を慎み、仁政に努めねばならない。という警告を残
したのではないでしょうか?

>>674
「手白香」は古事記では「手白髪」です。この名前は「白髪武広国押稚」の御名代を壬生地とし
たことによる命名と思われます。このことからして手白香を清寧娘と見ることは無理でしょう。
676日本@名無史さん568:01/09/15 19:28
>>675
素晴らしい解釈!もちろんこのスレのカキコの殆どが素晴らしいんだけれど
この解釈は身震いさえ覚えるもの。

さて、それでは継体帝が永らく大和入国されなかったのは、一体・・・?
677樟葉:01/09/15 21:34
>>676
これに関しては、>>122 >>127 でガイシュツだと思います。
この意見に疑問がおありならば、ご遠慮なく。。。
678樟葉:01/09/15 22:27
なおこれに関して、少し補足しておきます。 もちろん皆さんは藤原京が完成するまでの宮城が
大王毎に変わっているのをご存知ですね。これがどのような経緯で定まったのかについては諸説
がありますが、おそらく大王・重臣の意向によって決定したものと思われます。
この場合に大豪族(重臣)達の意向を尊重するならば、どうしても彼等の根拠地の近くに置くこ
とになります。彼等とて自分の根拠地を離れて大王宮城に伺候するのは、万一の抗争時に危険で
もありますし、生活に不便でもあるからです。
従って彼等の根拠地である大和を離れて、宮城を定めるということは余程大王の権威が強くなけ
ればなりません。何しろ大豪族達を呼び付けることになるのですから。。。下手をすれば孝徳の
ように孤立させられることさえあるのです。
継体が樟葉・筒城・弟国(乙訓)という木津・宇治・桂の合流点(古くは巨椋池もあり)に置い
たのは、明らかに琵琶湖を通じて本拠地の北近江・越前と直結(兵力を集めやすい)し、木津川
を遡及し、あるいは茨田から南下すれば大和にも近く、淀川を下れば瀬戸内にも出やすいこと等
を考慮した(桓武の長岡京と同じ発想)ものと思われますが、加うるに大豪族に阿るような大和
入りを避け、自立性を誇示したこともあると思います。

しかし一方この周辺は桓武が長岡京を廃棄したように湿潤で水害を受けやすいというデメリット
もあります。従って磐井の乱のような危険が去った時点で、住居地としてより安全な大和に入る
ことで大豪族と妥協したのではないかと思います。(嗣子である欽明への配慮もあったかも知れ
ません)
679日本@名無史さん568:01/09/15 23:19
>>677さん
別に疑問はないんだけど、ゲン担ぎかなあ、とも思ったんだよ。
>>675さん説だと、継体帝は大和を「血塗られた地」として、忌み嫌われ
たのかなあ、と考えられるからね。現代より昔に溯れば溯るほど、こう
いう要素って重要視されていたと思うんだけど。

大和以外に造宮された他のケースでは、どの大王も大和に住まわれた後に
造宮されているのに対し、継体帝のケースでは即位後すぐ大和の外におら
れたので、つい詮索されてしまうんだろうね。
状況が状況(越前から来られた)なんだから、他のケースと違って偶然、
それが重なっただけなんだろうけどね。
680日本@名無史さん:01/09/16 01:25
>>679 仁徳・反正の宮は最初から河内だよ。知らなかったの>
681日本@名無史さん568:01/09/16 01:56
>>680スマソ
2年のブランクで頭湧いてるので許してクダサレ
オオサカ不眠としてはじゅかちぃ・・・
682日本@名無史さん:01/09/16 09:33
>>675
まったくのスレ違いだし、他スレでやってることだが,
この際ついでってことで。
あなたは聖徳太子を実在人物だとしてるようだが、
架空説ってのはどうよ!
683厩戸:01/09/16 11:04
>>682
「聖徳太子架空説」ですが、要するに大王家の用明・穴穂部間人の子で大王位継承権を有していた
山背大兄の父。斑鳩に寺院・宮を建設した仏教の推進者。である厩戸そのものの存在を架空とする
説はないと思いますね。(小林のようなトンデモバナシは無視)
従って、隋書(これには異論があるのでしょうが?)・書紀・帝説等で示された人物像と厩戸の実
像との解釈問題ですね?
もともと史書においては、ある程度の人物脚色は避け得ないものですが、特に書紀の場合は神国思
想史書の色彩が顕著ですから、特定の人物を美化・神格化するのも当然であり、それを持ってその
人物の事蹟の全てを否定するのは如何なものかと思われます。

「聖徳太子架空説」というのは「全ての歴史上の人物・事蹟は、史書に記述されたとおりであると
は限らない」というごく当然のことをいったに過ぎないでしょう。ですから、史書に示された聖徳
太子の人物像と事蹟について個々にその史実性を確認すれば良いことです。
僕はこの時代に倭国が外交・内政・宗教面で大きな転換を行ったのは、ほぼ認められることであり、
これを推進した有能な大王親族が存在した可能性が極めて大であると思いますが、その人物として
は大王継承者である厩戸とするのが最も自然だと思います。

つまりは、後世において聖徳太子と尊称された厩戸は存在し、推古に変わって様々な事蹟を行った
ことは、概ね史実として認め得ると思っていますので、その意味で「聖徳太子実在説」です。
十七条憲法の一言一句まで彼が制定したかどうかは、別次元で論じれば良いことでしょう。
684>>675:01/09/16 16:25
>「手白香」は古事記では「手白髪」です。この名前は「白髪武広国押稚」
>の御名代を壬生地としたことによる命名と思われます。
って言い切られてもね。後世の穴穂部・日下部等のケースとは造語法も
異なるし、違うとおもいますけど。
685暴君=675:01/09/16 20:46
>>684 ゴメン。。。ちょっと断定的だった?
古事記雄略紀「故、白髪太子の御名代として、白髪部を定め。。。」
古事記清寧紀「この天皇、皇后なく、また御子も無かりき。故、御名代として白髪部を定めたまひき」
書紀 清寧紀「天皇、恨無子。。。置白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負。冀垂遺跡、令観於後」

ってことから、おそらく清寧時代に「白髪部」が置かれたと思う。この部の存在は後世において実在が
確認(天智紀・天武紀賜姓・飛鳥木簡)されているし、伊賀には地名痕跡もある。

いっぽうで、仁賢の子は次のとおり、
古事記「高木郎女・財部女・久須毘郎女・手白髪・小長谷若雀・真若・春日山田郎女」
書紀 「高橋大郎女・朝嬬・手白香・樟氷・橘・小泊瀬稚鷦鷯・真稚・春日山田」

高橋・朝嬬・橘・春日(山田)・長谷(泊瀬)は何れも大和の地名ですね。だから手白髪も壬生地名に
よるものと思った。少なくとも「子無し」とされている白髪武広国押稚との類似性から清寧の子とす
るよりは可能性が高いと思うんだけど?
686684:01/09/17 00:54
うーん・・・
その頃、白髪、手白髪が地名として使用されていたようには思えないんだけど。
御名代から通称名を採るなら白髪部が自然でしょう。
私は手白髪身体特徴説です。
それと、妄想ですが白髪・手白髪兄妹説とかは駄目ですか・・・
687日本@名無史さん568 :01/09/17 12:51
684さんの意見ってどうなんだろうね。
それと清寧帝が崩御された状況については、何か疑問とか類推とかでているのかな?
688暴君=685:01/09/17 21:41
>>686
どうして「地名として使用されていたようには思えないん」でしょうか?
御名代として設定された土地が壬生地にされた場合、必ずしも「部」がつくとも限らないんじゃ
ない? 朝嬬=財部だと思うけれど、片っ方は地名でもう片っ方は部名になってるしね。

親子説でも、兄妹説でも想定するのはご自由だけれど、清寧には「子無し」って記述されてるし、
雄略の子も一応明記されている(これをどうして隠さなければならいのかな?手白髪が雄略の娘
なら仁賢の娘よりむしろ出自は良いくらいでしょう?)、清寧の妹である春日大郎女は仁賢后で
武烈生母だけど、その姉妹が欽明の生母ってのはどう考えても無理がありすぎない?

欽明崩御の571年がほぼ正しいとすれば、欽明生年は510年〜520年くらい。その生母が30代で
欽明を生んだとすれば、生母の生年は480年から490年くらい。雄略崩御が479年(480年くらい?)
とすれば、崩御直前の出生と言うことでまったく不可能とは言えないけれど、かなりシンドイ
のは否めない。やはり武烈の姉妹としたほうがはるかに自然だと思うよ。

どうして白髪って名前で、そんなに清寧の姉妹(子?)に拘られるのか、わからないなあ??
あまりいいたくはないけど、手白香がアルビノだったら継体だって結婚を躊躇するとも思うけ
どね。。。
689日本@名無史さん568 :01/09/17 23:57
なるほどね。
690日本@名無史さん:01/09/17 23:58
躊躇しないと思うけどね。。。
691日本@名無史さん:01/09/18 00:20
そうかな、他に姉妹がいないわけじゃなし。。。あえて白子娘さんを
撰ぶかしら? 普通の感情としてはやはり躊躇するんじゃないの?

躊躇しないと思う理由を説明してよ!(どうせ政略結婚だからっての
はダメよ。他に樟氷・真稚がいるんだから)
692日本@名無史さん:01/09/18 00:26
>>691
樟氷・真稚は一生独身?
693日本@名無史さん:01/09/18 00:28
アルビノじゃなかったから手白香を撰んだわけ?
694684:01/09/18 02:11
>>687 単なる「妄想」です。(記紀の王統譜を組替るのが好きなのでつい ^^;)
>>688 白髪、手白髪が地名として使用された例があんの?有るならおせーて!
>>691 仁賢の娘は、記では、高木、財、久須毘、手白髪、山田の5人もいるよ。
真若は男の子みたいだね。選らんだ理由が有るとしたら年齢じゃないの。
695日本@名無史さん:01/09/18 16:31
その男の子は皇位をつげないの?
696手白髪=688:01/09/18 17:26
>>694 >>692 >>693
継体がどうして他の姉妹ではなく、手白香を選んだのか。。。最も美人だったのか、
最も健康的で多産系だったのか、年齢が相応しかったのかetc.  逆になぜ樟氷・真稚
を選ばなかったのか、そして彼女達はどうなったのか。。。そんなのは分からないし、
そんなことを論じるつもりもありません。
ここでいってるのは、手白髪の名が彼女のアルビノに由来するのかどうかってことね。

もしそうなら継体は樟氷・真稚を含む数名の姉妹の中から敢えてアルビノ嬢を選ん
だってことになるけど、これは常識的にチョットは考えにくい。。。だから手白髪
がアルビノであった(名前の由来をそれに求める)と想定することには、無理があ
るんじゃないかってこと。

それじゃあ手白髪の名前の由来ってことになれば、他の姉妹がおおむね地名に由来し
ていることから、やはり地名だろう。。。とすれば清寧の設けた白髪部の関係地名だ
ろうと考えるのがもっとも蓋然性が高いっていえるでしょう?
それじゃあ白髪が当時に地名として使用された例があるか。。。残念ながら知りませ
ん。というより記紀に出てくる地名なんてのは、当時の地名の何千分の一だろうから
記紀に出てこないからといって地名として有り得ないなんてことはいえません。しか
し白髪部という氏族が存在したことは間違いないんだから、彼等の管轄地が「白髪」
というような地名で呼ばれたことは容易に想像できるし、白髪(しらひげと読まれる
ことが多い)神社という名前は結構残っている。
(確認できる地名では伊賀に白髪村があったことは間違いないみたいだけど。。。)
しかし、遙か後世に光仁天皇の白壁王の名を憚って白髪部は真壁と改称させられてい
るから、白髪の地名も改称されている可能性があり、現在地名としてはほとんど残存
していないとも考えられるわけ。
697手白髪=688:01/09/18 17:33
それから真若(真稚)が男の子ってのはどうだろうな? もし仁賢に男子(武烈の
弟)がいたなら、そもそも応神五世孫なんかの出る幕はないって思うけどね。
(もちろん夭折してれば別だけど。。。これは>>696さんがご指摘のとおり)
ああ。。。継体が真稚の地位を簒奪したなんていうのはもう勘弁してね。この種の
想像なんてのは、それこそ言い出したらきりがないんだから(W
698日本@名無史さん:01/09/18 19:24
たしかに岡山の知人に白髪(しらひげ)という人がいたや。
たしか先祖は岡山の山奥の神主だとかいっていたな。
699日本@名無史さん:01/09/18 22:28
>>696 「地名として使用されていたようには思えない」のは、名代主の人名に
例えば「た」と言うような接頭辞を付けて地名とする造語法の用例が無いから
です。これは、た+人名(又は地名)でも同じくです。ただ、人名名代の人名
部分が後年地名になる事例は承知してます。白髪部>白髪>白河とかはそうで
すよね。あと、白髪・手白髪兄妹説は、妄想(顕宗以下3代否定説)を口走って
るだけなのでご丁寧にフォローされますとかなり面映ゆいです。
700日本@名無史さん:01/09/18 22:39
>>696
生き残っていたのは三姉妹だけだった。
この三姉妹を他に嫁がせたくなかった。
皇女であること以外は重要ではなかった。
701手白髪=697:01/09/18 22:45
了解です。接頭辞らしい「タ」は、おそらく「タ」+「シラガ」の復号地名だと思いますが、
これは憶測の範囲です。 それから真若(稚)ですが。。。
真若(真稚)が男子だというのは、古事記では仁賢記では明らかな女性にはすべて「郎女」と
なっているのに、この人物は「王」と書いてあるからですね。(書紀では「真稚皇女」と明記
してるし、春日大娘皇后の子は一人の男・六の女となってるから疑問の余地はない)

それでは古事記における尊称の用例はどうかってことだけど。。。
宣化記 女性は「比賣命」あるいは「比賣」 男性は「王」
継体記 女性は「比賣」「郎女」あるいは「命(手白髪)」 男性は「郎子」「命」「王」
顕宗記 女性は「王(難波)」 男性は「王」あるいは「命」
清寧記 女性は「郎女(忍海)」あるいは「王(飯豊)」 男性は「命」「王」
雄略記 女性は「王(若日下部)」「比賣」「比賣命」 男性は「命(白髪)」

となっており、「王」は女性にも使用されている。(書き分けには余り統一性がない?)
(なお書紀においても顕宗皇后は「難波小野王」と「王」称号である)
このような称号の不統一性からみれば、書紀において皇女と明記されている古事記の「真若王」
を「王」称号だからといって、男性とするのは疑問ですね。
702日本@名無史さん:01/09/18 23:25
女の子の可能性の方がかなり高い、そうでしょうね。
古事記は系統の異なる種本の表現をかなり無自覚に
使用してますから危ないんですが、応神紀では大勢
登場する真若(品蛇真若王、息長真若中比賣、弟日
賣真若比賣)をちゃんと書きわけてるんですけどね。
703日本@名無史さん:01/09/19 01:08
タシラカは手水鉢
704日本@名無史さん:01/09/19 17:17
名前の書き方もそうだけど、書紀と古事記って結構違ってる部分があるみたい
ですね。だいたい同じ頃に完成したのに、どうしてこんなに違ってるんだろう
か?
705日本@名無史さん:01/09/20 19:31
今城塚の発掘調査を続けている高槻市立埋蔵文化財調査センターが
新たな大型家形埴輪を含む新規発掘物を本日付で公表しました。
これも、陵墓指定を受けていないための成果なんですが、
どうせなら、系譜付の墓誌でも見つけてくれないですかね。
706 :01/09/21 02:31
http://www.jiji.co.jp/cgi-bin/contents.cgi?content=2001092011140&genre=soc


「継体天皇陵」から武人、神殿埴輪=強大な権力裏付け−大阪・今城塚古墳

大阪府高槻市立埋蔵文化財調査センターは20日、国の史跡「今城塚古墳」(同市郡家新町)で、
刀を差した武人や、神殿の形をした精巧な形象埴輪(はにわ)が61体以上出土したと発表した。
同古墳は、宮内庁から天皇陵の指定を受けていないが、考古学者の間では、継体天皇陵と推定されている。
同センターは「天皇陵級でこれだけ多数の埴輪が出土した例はなく、
古墳が強大な権力者の陵墓だったことが裏付けられた」と話している。
707日本@名無史さん:01/09/21 02:36
別のスレにも書き込んじゃったけど、安閑天皇って名前からして
マターリしてるよね。物騒なことあったと思えないけど。
708日本@名無史さん:01/09/21 02:40
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20010921k0000m040177002c.html

<和田晴吾・立命館大教授(考古学)の話> 古墳時代には10万を超える古墳が造られ、
大王の古墳はそのモデル、基準にあたるが、宮内庁が管理していて掘れないのが多い。
それだけに大王の古墳の埴輪の配列などが分かるのは非常に重要で、埴輪研究の第一級の資料だ。
復元すれば、当時の葬送にまつわる儀式の目的や具体的内容も今後明らかになるだろう。
709日本@名無史さん:01/09/21 03:10
日本書紀の神代紀は、
本文の他に各段ごとにいくつもの一書が並んでるよね。
その中のひとつに古事記と対応する一書があるよ。
710日本@名無史さん:01/09/21 15:23
http://www.jiji.co.jp/cgi-bin/contents.cgi?content=2001092011140&genre=soc


「継体天皇陵」から武人、神殿埴輪=強大な権力裏付け−大阪・今城塚古墳

大阪府高槻市立埋蔵文化財調査センターは20日、国の史跡「今城塚古墳」(同市郡家新町)で、
刀を差した武人や、神殿の形をした精巧な形象埴輪(はにわ)が61体以上出土したと発表した。
同古墳は、宮内庁から天皇陵の指定を受けていないが、考古学者の間では、継体天皇陵と推定されている。
同センターは「天皇陵級でこれだけ多数の埴輪が出土した例はなく、
古墳が強大な権力者の陵墓だったことが裏付けられた」と話している。

結論
継体天皇って先代達と血つながってんの
711日本@名無史さん:01/09/21 17:24
まだ言ってるよ(藁
712今は亡きモ板@羊の某固定:01/09/21 18:03
>>707
じゃあ安康天皇や安徳天皇は?
713 :01/09/21 18:13
孝霊天皇と血つながってんの
714日本@名無史さん:01/09/22 00:24
真の継体天皇陵とされる大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳から、推定で高さ約170センチの国内最大
級の家形埴輪(はにわ)が出土したと、高槻市教委が20日、発表した。巫女(みこ)や武人、鶏などをかたどった
埴輪も一緒に出土しており、60点を超える埴輪群は大王(継体天皇)の葬送などの儀式を再現したものとみられ
る。家形埴輪は神殿風で、王宮の建物を模したと考える研究者もおり、未解明の天皇陵の実態を知る貴重な手がかり
になりそうだ。

今城塚古墳が継体天皇陵であることは学問的には認められており、被葬者が特定できる非常に貴重な古墳と言える。今回見つかった埴
輪群も天皇陵にふさわしい規模と内容で、大王の実態を解く手がかりになる。同じクラスの天皇陵の調査ができない状況のなか、素晴ら
しい成果だ。

日本書紀によると、応神天皇の5代目の孫で、先代の武烈天皇に跡継ぎがいなかったため、6世紀初めに越(こし)の国(現在の福井
県)から迎えられ、即位した。「天皇」の称号は7世紀からで、当時は「大王」と称する。筑紫国(つくしのくに=現在の北部九州)の
豪族・磐井(いわい)との戦いに勝って九州の支配権を確立し、531年に没した。様々な考古学的成果からも、実在したことはほぼ間
違いないとされている。
715樟葉=677・678:01/09/22 09:32
みなさん。今城塚発掘調査について盛り上がってますね!
これまでも継体陵は太田茶臼山ではなく今城塚とするのがほぼ定説となっていましたが、
これでその可能性がさらに高まったと思われます。
今城塚は、墳丘長190m・全長(外濠含む)350mの前方後円墳で、その規模から見て寿陵
でしょうが、今回の発掘によって継体崩御に際し、まさに大王たるに相応しい盛大な葬儀
が営まれたことが想像できますね。
ここから直ちに結論を出すことは出来ないでしょうが、少なくともこれによって彼が20年
間も大和に入れなかったとか、その死に関し疑惑があるとか、死後安閑・宣化と欽明の間
で継承争いがあったとか。。。いうような想定が成立する可能性は、より困難になったと
思われます。
つまり大和ではなく樟葉に宮都を定めたのは、彼自身の意図で敢えて行ったものであり、
また彼の意思でその地に大規模な寿陵を造営したものであり、、かつ平穏な後継者選定の
なかで盛大に埋葬されたと考える可能性が増したのではないかと思います。
716樟葉=677・678:01/09/22 11:02
ところでこうなると、今城塚と近接している太田茶臼山とは何かという問題が生じます。
この古墳は今城塚より約一世紀ほど古いと考えられ、墳丘長226mと今城塚より一回り大き
い古墳ですが、双方の距離は約1.5km程度であり継体が陵墓地を決定する上で、これを意
識したことは容易に想像できますね。時代的には継体の先祖で応神の子である若野毛二股
と合致し得るし、「二股」や外祖父「河派仲彦(カハマタナカツヒコ)」は、河川の合流
地点を暗示しているとも思えますので。。。といってもまあこれは妄想の域ですが(W
717>>715:01/09/22 12:03
今城塚が継体の寿陵だとして(だと思うが)何故そのことが、
死後の二朝対立説否定の根拠になるの?
継体陵が大和に比定されたのなら二朝対立説には不利だけど・・・
718樟葉=715:01/09/22 12:44
>>717
誉田山や大山古墳という超巨大古墳は何れも大和ではなく、河内で造営されてるね!
つまり、これらの古墳を造営した大王は、大和の大豪族(大王家重臣)を大和外に
動員する権力を持っていたことを示している。
継体が河内北部に宮都や寿陵を造営したことも同様の意味があるのではないだろう
か? >>678
そしてその陵墓において盛大な葬儀が営まれたってことは、河内北部(今城塚)に
大和の大豪族を参集させたことになるでしょう?
このことも、死後の政権の安定性を示していると思うんだよね。。。継体の子同士
が争そっていたなら、そうは上手くいかないんじゃないかな?
719日本@名無史さん:01/09/22 12:51
死後の争いとは文字通り死後の争いのことある。
720日本@名無史さん568 :01/09/22 12:54
>>715
今城塚については真の継体陵と考えてきたけど、ほぼ決定的だね。
宮内庁もメンツだけにこだわらず、認定し直してもらいたいもの。

宮内庁の管理にしてはじめて、この文化遺産を維持し調査・研究することが
できる。どこぞの古墳のように住宅地にされてもらっては困るよね。
宮内庁にしたって、天皇家のご先祖様を、お骨を、まんま放置するのは都合
が悪いんじゃないかと思うけどなあ(何もお骨って、デムパで言ってんじゃ
ない。もののたとえ。)。

太田の方は若野毛二股王の御陵の可能性があるのか。
茨木市に「耳原(みのはら)」ってトコロあるよね。やっぱり堺市の百舌鳥
一帯の古名「耳原(みみはら)」と関連があるのだろうか。

大仙古墳=仁徳天皇陵:百舌鳥地域の、大昔は耳原と言ったところ、つまり
百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)
太田茶臼山=若野毛二股王陵?:近くに耳原というところがあり、古くはその
中に百舌鳥という小字があった

記紀の伝えるところによると、「”おおさざき大王”と”わかぬけふたまた王”
はご兄弟」・・・どうかなあ?
721日本@名無史さん568:01/09/22 12:56
「どうかなあ?」ってのはご兄弟説を否定しているのではないよ。
何か関連ありそうに思うから言っているわけで。
722日本@名無史さん:01/09/22 13:26
>>720
バカなことを言うな。宮内庁管理になったら調査できなくなるじゃないか。
心配せんでも、今城塚は国指定史跡だから宅地なんかにゃならんよ。
723717:01/09/22 14:07
>>718
誉田山や大山だって河内に有るじゃないかと言われても、
もともと河内が地盤の王統でしょ。当たり前じゃないですか。
それに天皇家以外で政権内に有る豪族がみんな大和勢力だと
決め付けてらっしゃいますが、例えば大伴氏の大和での勢力
圏は具体的にはどこですか?物部の場合は?
支持勢力の基盤が無いところに宮や陵を置くことは不自然ですよ。
ところで今城塚の有るところって「河内北部」でしたっけ?
古代地理に(も)詳しくないので勘違いだったらスマソです。
724日本@名無史さん568:01/09/22 16:18
>>722
あ、そうなの?ずっと私有地だと思っていたよ。ユルシテオクレ
725樟葉=718:01/09/22 19:39
>>723 717さん
今城塚は正確には「摂津」ですが、このような国名は後に定められたものですので、河内北部
としました。なお誉田山や大山古墳を造営した王統(要するに応神から武烈ですか?)の地盤
が河内にあったとは思えません。彼等の宮都は。。。

応神…軽島 明宮、仁徳…難波 高津宮、履中…磐余 稚桜宮、反正…丹比 柴垣宮、
允恭…遠 飛鳥宮、安康…石上 穴穂宮、雄略…泊瀬 朝倉宮、清寧…磐余 甕栗宮、
顕宗…近飛鳥 八釣宮、仁賢…石上 広高宮、武烈…泊瀬 列城宮
で、大和あるいは河内に宮都を置いたとされています。

彼等の基盤が河内南部にあったといわれているのは、その陵墓が河内南部に集中しているから
でしょうが。。。

なお、古代豪族の大和における本拠ですが、
物部の故地は河内渋川とされていますが、大和石上周辺でしょう。
(物部麁鹿火の娘である影媛を巡っての武烈記事からすれば、実質上の本拠地は大和です。
また後世には石上朝臣と改称しています)
大伴の故地は河内(和泉?)ともされていますが、大和磯城・高市周辺です。

何れにしても、樟葉・綴喜・弟国(乙訓)には物部・大伴・巨勢の勢力圏は確認出来ません。
726>723:01/09/22 23:33
横レスで申し訳ないが、
>もともと河内が地盤の王統でしょ。当たり前じゃないですか。
>それに天皇家以外で政権内に有る豪族がみんな大和勢力だと
>決め付けてらっしゃいますが、例えば大伴氏の大和での勢力
>圏は具体的にはどこですか?物部の場合は?

もともと河内が基盤の王統で、大豪族も大和勢力でないとしたら、
継体天皇が大和に入るとか入らないとか、御陵が大和か大和でない
とかを問題にすることもないと言う気がするんだが?
727723:01/09/23 00:40
>>725-726 すいませんね。私はかなり電波系なので話しが通じにくくて。
私は宋書の倭の五王は、珍と済の間で政権交代が有ったと思っています。
つまり、応神河内流は反正まで。允恭以降は大和政権です。政略上の婚姻関係は、
大和・河内間で太く結ばれていたでしょうから異系簒奪とは言いません。
これは、スレテーマの継体についても言えると思います。しかし、反正・允恭は、
記紀では兄弟扱いされているので(宋書血統記事欠落だけが根拠)かなり苦しい
ですね。
物部が石上に進出したのは、継体大和入り以降の話しではないでしょうか。
大伴の進出も何時の間にかですよね。あと、土師・安曇も河内・摂津出身では
ないでしょうか?
728日本@名無史さん568 :01/09/23 01:07
あの・・・、スレテーマとは直接関係ないんだけど、
安曇氏の「あづみ」ってのは「わだづみ」の「あづみ」
で、瀬戸内海を支配していたんじゃないかって聞いた
ことがある。
ここのみんなの最先端の情報では、どうなっているかな?
(この頃、本業でクタクタになってしまって、インターネッ
トで情報ひらうのが関の山の@568←アホダヨネ)
729日本@名無史さん568:01/09/23 01:11
あ、この頃ってこの何年かのことダヨ。ああUTU。
730723:01/09/23 01:20
↑↑727で書いた安曇の出身については取消します(根拠に乏しいので)

それから、私は継体朝は、河内・摂津・山城・近江をバックとした継体と
大和在来勢力の連合政権であり、継体の死後は欽明を中心とした大和勢力
が、穏健な形で政権を掌握したと見ます。大伴・物部なども徐々に大和進
出を果たしたので有り古来からの大和豪族ではないと言っているのですが?
731日本@名無史さん568 :01/09/24 00:36
急に書き込みが減ったね。
ここでいろんな話できるのが楽しいんだけどなあ♪
732@:01/09/24 02:09
age
733樟葉=725:01/09/24 10:21
>>730 723さん(もう止めて置こうと思ったけど、淋しそうだから。。。)

大王家と大伴氏(物部氏も同様)の関係は、神話的伝承を含めて。。。
瓊瓊杵…大伴連の遠祖天忍日命。。。
神武紀…大伴氏の遠祖日臣命、大来目を帥いて。。。汝が名を改めて道臣とす。Etc.
道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて。。。
垂仁紀…大伴連遠祖武日。。。など五大夫に詔して曰はく。。。
景行紀…吉備武彦と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に従はしむ。
仲哀紀…皇后、大臣及び中臣。。。大伴武以連に詔して曰はく。
雄略紀…大伴連室屋を大連。室屋に詔して。。。焼き死しつ。大伴談連。。。らに詔して。
大伴談連及び。。。皆力め闘ひて死ぬ。大伴室屋大連と。。。遺詔して曰はく。
清寧紀…大伴室屋大連。。。遺詔に従ひて皇太子に奉るべし。大伴室屋連、臣・連を率て
璽を皇太子に奉る。大伴室屋大連を。。。白髪部舎人。。。を置く。
武烈紀…大伴金村連、数千の兵を将て。。。鮪臣を乃楽山に戮しつ。大伴金村連、兵を率
いて自ら将として大臣の宅を囲む。大伴金村連を大連とす。
継体紀…大伴金村大連議りて。。。倭彦王。。。立てて人主としまつらむ。
大伴金村大連。。。曰はく「男大迹王。。。」

全部が史実だなんていわないけど、こんなの片っ端から切り捨てちゃうの?
734723:01/09/24 16:10
>>733
お忙しいのにどうも。
何度も言いますが、私はかなり電波が入ってますから
そんなに相手してくれなくても良いのですが(^^;
それに寂しがってるのは、568さんだったりして・・・

日本書紀では、ともにそこそこの活躍をしてるんでしょうが、
これが古事記になると葛城・丸邇・平群が大活躍で
大伴・物部の文字は、神武以前の出自記事を除けば
継体以降にならないと出てこないのです。(中臣も)
唯一の例外は、允恭記の大前小前宿禰ですが、これも何故か
氏は省略されており珍しく宿禰ですからねぇ。
古事記を見る限り私の大伴物部は継体と同時デビュー説は、
さほど不自然では無いと自分では思っています。
このあたり迄の日本書紀の記述は、私と同じで電波入ってますからね。
735樟葉=733:01/09/24 18:40
>>734 723さん、(568さんとは別人なんだね??)
古事記ねえ! 誰かが古事記と書紀の相違について言いかけてたみたいだけれど、古事記には各氏
族の出自(天皇家との関係)は沢山書いてあるのに個人記事はほとんどないし、特に外交記事にい
たってははまるでない。逆に恋愛や歌謡記事は満載されているみたいだね。(葛城・丸邇・平群と
いっても何れも恋愛・歌謡記事でしょう?)
これは両史書の性格の違いで、語弊はあると思うけど。。。書紀は「国史」で古事記は「家史」っ
ていう感じすらある。継体以降といっても継体擁立に関する氏族の動向なんて何も書いてないに等
しいんだから、古事記で氏族の盛衰を考えるのは土台無理じゃないのかな?
736554・684・723他:01/09/25 00:33
「古事記は家史」っぽい。「正統に編纂」された国史である日本書紀と
比較されると古事記も立場がありませんね。735さんは、両者は史書と
しての体裁が違うとおっしゃるのでしょう。でも、記の葛城・丸邇・平群
関係の記述は恋愛・歌謡も有りますが、政争関連中心ですけどね。
また、紀は記のような諸々の家史級国史を例えば継体紀なら7世紀末の都合で
継合わせて作られてるわけで、つまり、大伴・物部・中臣等の活躍を溯らせる
ような家史級国史が別にあって、紀はそれらを採用し、記を採用しなかった
ということだと思われますが。そして、支持母体である大伴・物部が大和土着
の豪族で無いからこそ継体の大和入は遅れたわけで、その後の、大和系臣姓氏族
と連姓氏族の性格の違い(立后とか)も自然に説明できると思います。
737樟葉=735:01/09/25 22:53
>>736
継体紀が何らかの史実の反映ではなく、7世紀末の都合で継合わせて作られているのかどうか。。。
(7世紀末に、敢えて大伴・物部氏の大王家に対する貢献を賞揚する必然性はないでしょう?)

継体が何故大和に入らねばならないとお考えなのか(遅れたということは、そもそも入らねばなら
ないという前提があるのでしょう?)。。。
貴方がそのように断定される理由が良く分かりません。(継体が大和に入らなかった理由については
ガイシュツですがそれに関する反論もなかったように思いますが?)
ということで、貴方のご意見は良く理解できませんので、取り敢えずこれまでにさせて頂きます。
738日本@名無史さん568 :01/09/26 01:15
。。。
お久しぶりでゴザンス。スゴイ展開になってしまってるね。
樟葉さんも「???モード」になってるみたいだし。

で、この前書いた「耳原」についてはどうお考えかな?
もしや一般名詞なのかな、「陵の周りの原っぱ」で意味の。
一般名詞でないとしたら、やはり関連がありそうな・・・。
739日本@名無史さん:01/09/27 13:03
740日本@名無史さん:01/09/27 20:32
>>739  ガイシュツ
741日本@名無史さん:01/09/27 22:37
>>738
「耳=ミミ」ってのは通常考えれば美称なんだろうが、一般名詞ってほどの用例は
ないみたいね。でもこれらの古墳に類似地名がついていたとしたら、いろんな妄想
の材料になるかも知れない。。。今度深酔いした時に考えてみま〜す。
742日本@名無史さん:01/09/27 23:24
耳原は珍しい地名です。
鹿児島県の薩摩半島の先っぽにも1個所あったと思いますが、
そこには古墳は無く、天皇家とも縁はなさそう。
読み方は、ミミハラです。
どなたか、他に耳原と言う地名をご存知でしょうか。
百舌鳥とか前方後円墳がセットであれば、楽しくなりそうです。
743739:01/09/28 12:32
>>740
スマソ
744日本@名無史さん568 :01/09/28 20:46
ちなみに大阪府全体の大衆の認識としては、「耳原は堺市の百舌鳥」。
仁徳帝陵に関する記紀の記述と世界的大古墳の存在が決め手。
このことから、大阪の府鳥はモズとなってオリマスル。

ちなみに読み方(繰り返すけど)は、堺→「みみはら」、茨木→「みのはら」
字は同じ「耳原」。
堺は大山古墳(仁徳帝陵)、茨木は大田茶臼山古墳(継体帝陵と言われている
が、葛葉さんによれば若野毛二股王陵の可能性)。
そして記紀によれば「仁徳帝と若野毛二股王はご兄弟である。」となる。
武烈帝は仁徳帝の子孫、継体帝は若野毛二股王の子孫と伝えられている。

うーん・・・・・・・・。
745日本@名無史さん568:01/09/28 20:48
スマソ・・・大田→X、太田→O
746日本@名無史さん568:01/09/28 20:50
>>744
の付け足し・・・決め手の部分で地名が抜けていた。
大古墳の横にある村名が代々、百舌鳥村だったこと。
747樟葉>>568:01/09/29 01:15
ところで以下は、深酒モードの妄想ですが。。。

仁徳の和名は「大鷦鷯=オホ−サザキ」で、御陵の和名が「ミ−サザキ(ササギ)」という類似性。
仁徳の和名の「大鷦鷯=オホ−サザキ」と、平群木菟宿禰「木菟=ツク=ミミヅク」の名前交換伝承。

大山古墳の立地は、現在よりはるかに海岸よりで、湿地であった想像される。つまりは
「水漬原=ミヅケ(ク)のハラ」と「ミミヅクのハラ」の類似性(?)

ぶっ飛んで。。。百舌鳥耳原(モズのミミハラ)とミミヅクとの類似性(??)
ここまで妄想を展開して。。。収束不能となったので、ネンネの時間といたします!
748日本@名無史さん568:01/09/29 08:03
まあ、昔の人名や地名って鳥関係多いからね。
(鳥にあこがれていたのか、霊力があると思ったのか。)
空とぶ船の伝説まであったりするし。
749日本@名無史さん568:01/09/29 08:14
大山古墳から少し南に下りていくと、今では「津久野」と呼ばれている
ところがある。
元は「踞尾」と書いて「つくのお」と言っていた。
塩つくところであったため、そう呼ばれた、と地元の郷土史には記載さ
れている。

まさか、もとは木菟宿禰の領地だったとか?
750樟葉=747:01/09/29 09:07
さて、妄想モードの続き(?)ですが。。。

@ 仁徳の名前の「オホ−サザキ」は本来は「大鷦鷯」ではなく「大陵墓」であった。
A しかし「陵墓=サザキ」という名前は、不祥と考えられ類似音「鷦鷯」に変えられていった。
B 仁徳の股肱の臣に、武内宿禰の子(?)で同時出生の人物がいた。
C 彼は河内平野の南端にある湿地帯である「水漬原=ミヅク(ケ)のハラ」の干拓に尽力した。
D それと同時に、かってない超巨大古墳である仁徳寿陵の造営をも行った。
E 彼はその功績により「ミ−ミヅク」と呼ばれ、仁徳は「オホ−サザキ」と呼ばれるに至った。
F しかし後世に仁徳の名が「鷦鷯」に変化すると並んで、「木菟」という鳥名に替わった。
G 干拓に成功した平原は、「水漬原=ミヅク(ケ)のハラ」から「ミミのハラ」と変えられた。
H さらに後世において、この地帯の干拓・陵墓造営に鳥(名)が関係したという伝承が誤り伝え
られて当初の「ミミヅクのミミハラ」が「モズのミミハラ」とされた。
因みに「ミミヅク」は「耳突く」と通じ、鹿が耳を突かれて死ぬという奇妙な地名説話となっ
た。

あるいは「木菟宿禰」は、河内平野北端の高槻方面の治水と太田茶臼山古墳の造営にも関係した
(?)ため、この方面にも同様の変化地名が残った。。。

なんて無責任な妄想は如何でしょうか?(津久野=木菟宿禰もいいなあ!)
751木菟:01/09/29 20:24
>>749 さん
となると。。。平群氏と「塩」の関係も注目されるところで、武烈紀によれば平群真鳥は大伴金村
に滅ぼされた時に塩に呪いをかけている。このことは平群氏が大王家の塩管理に当っていたことを
暗示しており、「津久=ツク」が製塩と関係しているという伝承は、あるいは平群の祖である「木
菟」の命名とも関係があるのかも知れないなんて。。。もちろんこれも妄想モードだけど(W
752日本@名無史さん568:01/09/29 21:24
>>751樟葉さん
そうだね、製塩となにか関係があるかもしれないね。
昔の堺の名物に海水のお風呂というのがあったし、和泉国塩穴郷と
呼ばれていた地域のうちでくにざかい(竹内街道の延長線?)に
あった部分が発展して中世の堺の街の南半分(南庄)になったと
いうことらしいし。
もっとも「つくの」の表記が「津久野」になったのは近くに電車が
走るようになって駅名が「津久野」になって更に後に堺市が地名変更
してからなんだけどね。
でも「つくの(お)=踞尾」と呼んでいたのは昔から。
長くなるので、一旦、切ることにするよ。
753日本@名無史さん568:01/09/29 21:40
続き
茨木に穂積というところがある。春日というところもある。
(ちなみに、阿武山古墳は藤原鎌足の墓。)
単純に考えればお宮さんを造る時に分霊したから、という
ところだろうけど、もっと昔から豪族の領地だったのでは
ないかと思うんだよね。
754日本@名無史さん568:01/09/29 21:43
さっきの堺の話だけど、由来のつまびらかでない不思議な地名がある。
「毛穴」とかいて「けな」と読むところ。
若野毛二股王の「毛」とは関連がないだろうか(完全に妄想系だけど)。
755日本@名無史さん568:01/09/29 21:46
撤回する文章:もっと昔から豪族の領地だったのでは ないかと思うんだよね。

書き方がおかしいから撤回。言い方がおかしかった。
欽明帝以降にそういう地名になったのではなく、もっと昔からではないか、
という意味で書いたんだけど、言い方がまずかった。スマン。
756木菟:01/09/30 00:14
少し話は飛ぶんだけど、ご存知のように近畿の古墳群には次の関係があるね。

百舌鳥耳原(仁徳?)――古市(応神?)――馬見――大和柳本(崇神?)
この古墳群が、ほぼ12km間隔で東西に一直線に並んでいる。(北緯34度35分?)

古市(応神?)――今城塚(継体?)
この古墳が、ほぼ南北に並んでいる。(東経135度35分?)
これって偶然だろうか???
757日本@名無史さん568 :01/09/30 00:38
>>756
当然ながら造成は王権の命によるもので、偶然ではないだろうと思う。
758木菟:01/09/30 01:09
>>757
でしょうね。。。とすれば、応神(?)は崇神(?)を意識して、大和
盆地外の真西に当る古市に陵墓を造営した。仁徳(?)等はさらに河内
平野真西の海岸線に当る百舌鳥耳原に陵墓を造営した。
これに対し、継体は応神(?)を意識し、河内平野真北に当る太田に古
墳を造営した。(既に若野毛がそれを意識してたかも???)
。。。ってのはどうだろう?


して、
759日本@名無史さん568 :01/09/30 01:30
大王が亡くなると、次の大王は亡くなった大王の陵墓を、
尊敬する祖先の陵墓の延長線上に造営した・・・のか、
または仁徳帝の伝説にあるように歴代の大王がご存命中
から尊敬できる祖先の延長線上に陵墓を定められていた
かのいずれかでは?
760日本@名無史さん568 :01/09/30 07:07
まあ、759のは考え過ぎかもしれないけど、こうやってみていくと、
やはり男大迹王は大王に推挙されておかしくない人物ということだね。
記紀が名前が洩らしている、「大王の末裔」もかなりあるんだろうね。
記紀の各大王の伝記の後ろには「お子様は◇◇皇子とだれだれととOO
で、OOは△△という豪族の祖先です」という部分があったと思うけど、
後からそう名乗っていただけの豪族を外しても、それでもかなりの人数
の、いわゆる「王族」がいらしたんだと思う。
だからこそ、なんだかんだいいながらも武烈帝までは大和の中だけで後嗣
問題が問題にならなかったんだよね。
ガイシュツだけど、いくら権力者であっても王統にのらない人物は大王
にはなれなかった。各豪族は誰も政権簒奪を行なっていない。実質は権
力を握ることになっても、それでも大王を上に立てた上で取り仕切った。

それで、今のところの話題につながるのだけれど、やはり雄略時代に平群
氏が討たれたのは相当の混乱が生じたんじゃないかと。
その経験から豪族達はお互いの身を滅ぼさずに覇権争いをする知恵を身に
つけていたと思うんだけどね。
もっとも更に後の時代には、またもや戦乱が起きてしまうんだけどね。

さて。話は陵墓のところだったね。
>>758さん、書き込みの続きを待ってますゾ。
761木菟=樟葉:01/09/30 12:14
で。。。このような陵墓間の特定の位置関係が成立するかどうかは、巨大古墳(陵墓?)と記紀
に記された大王の比定が妥当であるかどうか(さらにいえば大王の実在性・年代・系譜)にかか
わってくるでしょうね。

その意味では、今城塚古墳が継体陵である可能性が高まった(ほぼ確実でしょう)ことは、極
めて重要な意味を持つだろうし、ここから逆に継体陵と古市古墳群との位置関係。。。さらに
は各古墳の位置関係と大王系譜関係もあらためて考えてみるべきだと思う。(もちろん全ての
大王古墳位置が同一の原理によって選定されたとは思えないけどね。。。)

つまり、継体陵が河内(大阪)平野の北端で誉田山古墳(応神?)の真北、かつこれを基準と
して大山古墳(仁徳?)と直角をなす位置に造営されたことは、継体が如何に誉田山・大山の
主を意識したか。。。つまりは彼の出自が如何なるものであったか。。。を窺う一つの傍証と
なりうるかもしれないと思うんですね。
敢えて言えば継体陵の位置は、応神の直系子孫であり、仁徳とは別系統であるという彼の出自
を物語っている。(樟葉宮も高津宮を意識したかも知れない)
というのが >>715のカキコの意味なのです。
762日本@名無史さん568:01/09/30 16:44
>>761
了解です。
763日本@名無史さん568:01/10/01 01:39
またまた寂しいね。もっと沢山の意見を聞きたいんだけどなあ。
764日本@名無史さん:01/10/01 03:09
武内宿祢の子は石川、角(小柄や八代、襲もそうかな)など地名を負ってるのもあるから
木菟もその可能性はあると思う。
765日本@名無史さん:01/10/02 10:16
>>761
「かも知れないって」ということだが、崇神陵は行燈山より西殿塚のほうがらしい
って意見もあるみたいだし、応神陵や仁徳陵の比定にも疑問がもたれている。

そんななかで、古墳の位置が直角どうこうと言われてもなあ〜〜
766日本@名無史さん:01/10/02 20:44
崇神・応神って血つながってんの?
767木菟=樟葉:01/10/02 23:43
>>765
確かにそのとおり。。。
今城塚古墳が継体陵(ほぼ確実でしょう)だとすれば、その真南に古市古墳群(誉田山古墳)があり、
それと直角に百舌鳥古墳群(大山古墳)があり、また逆方向に柳本古墳群(行燈山)があるという位
置関係の意味するところを前向きに考えるべきだと思います。。。程度にしておこうかな?

>>766
本当のところ(特に生物学的意味において)は、絶対に分からないだろうね。
で。。。次のように考えるしかないと思う。

@ 特に矛盾が無いかぎり、記紀の系譜伝承に何らかの史実性を認める。
崇神―垂仁―景行―倭建(小碓)―仲哀―応神 を認める?

A 記紀の大王譜に何らかの史実性を認めるが、血統譜は認めない。
記紀の矛盾(?)から仲哀を架空とするか、仲哀と応神の血統を認めない等?

B 記紀の大王譜をすべて架空とし、史実性を認めない場合、

そこで、大王陵の科学的調査が実行出来ないという中で、ごく限られた考古学所見や
チャイナ史書(ごく一部のコリア史書)などからこの蓋然性を判断するしかないわけ
だけれど、君はどう思うのかしら?僕としては一応@と思っているんだけれどもね(W
768日本@名無史さん568:01/10/03 00:55
ちなみに当方も@だと考えている。
違う系統だったら、わざわざ自分のご先祖様とは言わないだろう。
まあ、別系と主張する人は「見栄のため」とか「なめられないため」
とか言うのだろうけれど、諸豪族が争いながらもバランスを保って
きたということは、大王一族の存在は不変だったのではないかな。
豪族の中の一部が王権を取ったとは思えない。そんなことでは他の
豪族に必ず不平感が残ってしまい、もっともっと大規模な、地方を
も巻き込んだ大戦争になったはず。しかし、今のところは・・・。
(記紀と魏誌を見比べて、これぞ「倭国大乱」の時代と考え、別系
をとなえる人もいるが・・・)
769日本@名無史さん568:01/10/03 01:10
あ、そうそう、系譜について「中国の影響」という主張があるけど、
あれは半分だけあたりで半分ははずれだとおもうよ。

本当に完全に中国系のものをつくるのであれば、たとえ事実が同系
だったとしても、スキャンダル君主のところでわざと切れているか
のようにみせつけるのではないかな?
そして「我が系統は立派である」と強調するだろう。
でも、そういうのが記紀にはない。
せいぜい、ここで話題にしている武烈帝→継体帝のところが綱渡り
になっている程度。
倭建命にしても仲哀帝にしても、悪くは書いていない。

やはりここは素直に同系と見るのが一番自然だと思うね。
770日本@名無史さん:01/10/04 21:18
文春新書 謎の大王 継体天皇 読んだ人いる?
771日本@名無史さん:01/10/04 21:48
>>770
著者は誰?
772日本@名無史さん:01/10/04 21:51
水谷千秋
773日本@名無史さん:01/10/10 20:56
774日本@名無史さん:01/10/11 09:51
このスレでは新説だけど他に誰か言っていたらスマソ
武烈には何らかの遺伝的障害(知的か奇形等)があったとする
男兄弟がいなく女姉妹ばかりなのも、すでに両親の仁賢から何らかの遺伝的問題
ありの傍証と思われ。まあ血縁が濃いからね
そこで周りが武列を殺害か幽閉して遠縁の継体を探してきて姉と結婚させ禅譲した
養子縁組のようなもので、臣下たちの顔ぶれは同じ
ただ当時は母系相続から父系相続に移ってそう久しくないので
養子縁組という形式的概念はまだなかったのでは
継体が大和に入らなかったのは武烈が幽閉されていたので死ぬまで遠慮したか
殺されたのならたたりを恐れたか、自分の子にも遺伝的障害が出ていないか確認
というところでは
775日本@名無史さん:01/10/11 11:53
>>774
三文小説のプロットとしちゃあ悪くない(藁
黒岩か井沢(祟りならこいつだな)に売り込んだほうが良かったかもしれな
いぜ(藁
776日本@名無史さん:01/10/11 11:56
>>775
100%否定はできないだろ(藁
777日本@名無史さん:01/10/11 13:53
>>775
万系一世の天皇家の血に遺伝的問題ありというのは公然の秘密の上にウヨも怖くて
誰も買ってくれなかった(藁

>>776
他の天皇も生まれつき変なのはいたはずだが絶対正史には書かれないだろうな

まあ子が多い場合ひそかに抹殺して第2子を皇太子にできる
一人しかいなくてそいつが変だった場合というのはむしろ例が少ないかもな
778日本@名無史さん:01/10/11 17:54
>>775
当たり前だろ。100%有り得ない話なんて三文小説にもならんよ(藁
まあ>>774の可能性は、10%程度ってとこかな?

>>776
そうかい? 清寧は明らかにアルビノだが隠しちゃいないだろが。
その他に先天的聾唖者の皇子だって正史に記述されてるじゃないか。

だいいち武烈は明らかに「サディスト」として記述されてるよ!
73世代のなかにはおかしな奴が何人か出てきても当然だろうけどな(藁
779日本@名無史さん:01/10/11 18:12
>>778
すべてがずれてる。
780日本@名無史さん:01/10/11 18:48
>>778
確かに清寧あたりからおかしいのが出てきたんだな
それで武烈でどうしようもない男子が一人だけ生まれたのでとりあえず天皇にせ
ざるを得なかった
しかしさすがにこの時代天皇を殺したとか幽閉したというのは書けないだろう
サディストというのはこのスレで誰か書いたように当時分る人には分る表現
事実は反対のただ生きてるだけみたいな感じか
泡沫皇子に変なのがいても大勢に影響ないが皇太子級だとまずいので抹殺したろう
781日本@名無史さん:01/10/11 19:42
>>778
確かに清寧あたりからおかしいのが出てきたんだな
それで武烈でどうしようもない男子が一人だけ生まれたのでとりあえず天皇にせ
ざるを得なかった
しかしさすがにこの時代天皇を殺したとか幽閉したというのは書けないだろう
サディストというのはこのスレで誰か書いたように当時分る人には分る表現
事実は反対のただ生きてるだけみたいな感じか
あといろんな時代で泡沫皇子に変なのがいても大勢に影響ないが皇太子候補だと
まずいので正史では抹殺したろう
782日本@名無史さん:01/10/11 19:44
清書前と後が両方…
打つだし脳
783樟葉:01/10/11 23:50
あれ! まだ続いてるんだね(W
確かに武烈が自然死ではなかった可能性はあると思うし、そうだとしたらその事実を秘匿した可能
性は多いにあるだろうな。しかし一方では単に早世しただけだという可能性も充分にあるだろう?
つまりはそれを判断する手懸かりも決め手もまったくないってことだ。
で。。。自然死か不自然死かすらも分からないのに、不自然死の原因が武烈の遺伝的障害のためだと
考えるのは、未確認の仮説のうえにさらに仮説を重ねるものでしかないだろう?

>>774は 男兄弟がおらず女姉妹ばかりなのが、何らかの遺伝的問題があった傍証とされているみ
たいだけれど、そんな遺伝学なんて聞いたこともない。世の中には女の子ばかりの家族なんていく
らでもいるんだからね。
もちろん当時母系相続から男系相続に移ったなんて事実はまったく認められないよ!
(卑弥呼から宗女臺与への継承は母系相続じゃないけど、ほかに何かあるの?)
784樟葉:01/10/11 23:54
(続き)
また、仮に武烈が幽閉されていたとしたら、当然に継体(及び継体の擁立者)は彼を厳重な管理下
におくだろうから、逆に大和に都を置く可能性が高くなるんじゃないの?
武烈を大和に幽閉しておいて、彼が死ぬまでその近辺に都をおくことを”遠慮”するなんて、まっ
たく理屈が通らないと思うんだけどね!

仮に武烈が殺害され、継体がその崇りを恐れたっていうのなら、彼が年を取って気が弱くなってか
ら大和に都を移すってのも不自然じゃないの?
まして手白髪との間の子に障害が出るかどうかを確認するために、大和の外に都を置く理由なんて
全く考えられないと思うんだけどね。(何か関係があるの?)

>>122 >>127から何回も言ってるけれど、継体の立場に立って都を大和に置かねばならない理由
って一体何があるの?
新大王としての権威を大和の豪族達に示すためにも、大和外に建都したのは極めて常識的な選択
だと思うんだけどね(W
785日本@名無史さん:01/10/12 10:04
>>784
何もムキになって否定することもなかろうに。

所詮、あなたの御意見もどこぞのだれぞのウケウリでしょうが。
786774:01/10/12 20:44
>>785
まあまあ
おれだって米森スレ見てて思いついたんだし(藁

しかし継体が結局大和入りした理由がやはり説明つかん
清寧でまず子がなく断絶し武烈でも断絶したので縁起を担いで
子が成人し孫ができるまで待ったのかも
あれ?孫の一人は聖徳太子だっけ?資料手元にないのでスマソ
787日本@名無史さん:01/10/12 21:18
>>784
>権威を大和の豪族達に示すためにも、大和外に建都したのは
これって、今で言えば霞ヶ関の官庁街をそのままにして、
首相官邸だけ栃木県あたりに移転したようなもんだよな。
外様の継体にとっては、とても危険な状態だよ。
大和に対抗できるような継体派豪族が摂津に居ないと無理だろね。
それと、新婦さんの手白香は何処で暮らしてたのかもわかる人いますか?
最初のは疑問、最後のは質問。
788日本@名無史さん:01/10/12 22:07
>>787
大伴・物部とかの連系が河内・摂津の在地勢力でしょ。
784氏は認めないけど。
後、手白香の住まいは泊瀬だと思う。継体とは当然別居。
789日本@名無史さん:01/10/12 22:32
別に古代の天皇の性格がおかしくはないだろ。
世界の王朝史を見ればそれが普通だ。
中国南朝の天子なんか前王朝の一族は殺すわ自分の親兄弟は殺すわ・・・
平安時代の陽生天皇だって御所で家来を「格殺」してるし。
本来の帝王の資質は今の学者揃いの天皇家より、
北朝鮮の金親子を連想した方がいい。
790樟葉:01/10/12 22:59
>>786
最終的に大和に都を移した理由も一応 >>122 >>127 >>163 に示しておいたんだけど(W
簡単にいえば。。。
@新大王の権威が完全に確立し、ワザワザそれを大豪族達に見せ付ける必要がなくなった。
A樟葉・綴喜・乙訓は水運の便は最適だけど、水害の危険が大きすぎ、湿地帯で健康に良くない。
(桓武が長岡京を放棄したのと同じ理由だね)。
B磐井の乱鎮圧などで地方叛乱の危険性がなくなり、軍事面から水運の便を活用する意味が薄れ
た。
C 大和の大豪族が希望する(先代の血を引く)「欽明」の即位を確実にするため、彼等との融和
を図った。

ってとこで、どうだろうか? (こんなことウケウリする必要なんてないけどね)
それから 継体―欽明―用明―厩戸 だから曾孫だよ!
791樟葉:01/10/12 23:03
>>787
ちょっと違うような気がするけども、敢えていえば。。。信長が尾張や美濃の武将達を安土に強制
移転させたようなものだと思う。(ただし彼等の家族、本拠は元の地に残したままでね)
もっとも既に仁徳・反正・允恭?・顕宗だって河内に都を置いてんだから、豪族達だって然程の
抵抗感はなかってことも言えるんだけどね(W

継体を支えた勢力といえば、その出自に関係する息長氏(父の故地近江の王族、敏達皇后出身)、
諸妃の出身である尾張氏(尾張)・三尾氏(母の故地でもある越前)・茨田氏(摂津)・和珥氏
(大和)だろうけど、その他に大伴・物部・巨勢氏などの大王家重臣豪族でしょう?

磐井の乱を鎮圧したのが物部だし、新羅出兵の将軍は蘇我同族の近江、もちろん大伴も使われて
るね?
手白髪は欽明を生んでるんだから、少なくとも当初は同居してたんでしょうね。だけど後には
大和で欽明を育てたかもしれない。皆さんが拘る。。いわゆる継体の大和入りも、それが原因か
も知れないよ!
(樟葉・綴喜・乙訓は水害の危険がある上に、河川合流による湿地で健康にも良くなかったからね)
792787:01/10/12 23:34
>>791 >信長が尾張や美濃の武将達を安土に強制移転させたようなもの
尾張出身の信長が譜代の家臣団を連れて安土へ移転した事例を
ぽっと出の継体と前大王配下の豪族達との関係にあてはめるのは、
「ちょっとの違い」とは言えないのでは?
まあ、官邸栃木移転説もあんまり自慢できないすけどね。
>「当初は同居」
古墳時代は妻問婚では無かったと?
793樟葉:01/10/12 23:41
>>788
手白髪は泊瀬住いで、継体とは別居なの?
まあそうかもしれないけど、継体さんも樟葉から泊瀬まで約50kmを子作りのために
通うってのは、年から見てもチョットきついんじゃないの?
794日本@名無史さん:01/10/13 00:09
通う以前に子造り自体がキツイかもしれませんね。
795樟葉:01/10/13 00:31
>>792 787さん。。
まあ敢えて言えばってことですけど。。。幾らぽっと出でも大王ですからね。
百済外交を始めとして、樟葉・綴喜で政務を行ってるんですから、当然大豪族
達を周辺に侍らさねばならないでしょう? 要するに大王宮と政庁は密接不可
分ですから、政務にあずかる大豪族は大王宮に近侍せざるを得ないってことな
んです。

仮に物部・大伴が河内在住(物部が河内渋川、大伴が和泉沿岸部?)だとして
も、樟葉・乙訓・綴喜(これらは山城ですよ!)とはやはり50km以上離れてい
るから、とても勢力圏とはいえないんじゃないの?(もっとも交野物部っての
もいたようだけど、もう少し時代は降るようです)
因みに、泊瀬と河内渋川だったら約30kmくらいで、こちらのほうが遥かに近い
んだけど。。。ご参考までに。

それから、妻問婚てのは求婚形式であって、大王の正妃は同居が原則です。
これは平安貴族も同様で、正妻は北政所として家事を司るのが原則ですね。
796日本@名無史さん:01/10/13 00:34
仁徳系では、清寧・武烈以外にも允恭(後天性の下肢障害)、
雄略(暴虐)もそれなりに異常ですな。
797樟葉:01/10/13 00:39
>>794
んなことはないでしょう? 相手がそこそこ若ければ60くらいで子作りす
る例なんていくらでもあるよ。
ただ遠距離別居の場合にはチョットしんどいと思うんだけど、何故別居って
思うのか。。。よくわからないなあ(W
から
798樟葉:01/10/13 00:50
>>796
後天性の下肢障害まで異常のなかに入れるの? そりゃ無茶だよ(W
世界的に見て、雄略程度の暴虐なんて専制君主の中には幾らでもいる。
これも「異常」の範疇には入らないと思うけどね(W

ということで、もう寝ます。皆さんお付き合い頂いてありがとう。
799787:01/10/13 02:14
継体の新政権は頼朝の鎌倉幕府みたいなもんじゃないの。
うざい旧勢力を無視して、擁立勢力の支配地内に政府を作るという点では
同じでしょう。継体の場合、晩年になって大和入りしたのは、
息子達が皆大和に拠点を構えたために、その近くに引っ越しただけってことじゃ?
800日本@名無史さん:01/10/13 02:23
ここのスレの人達って時代を超えて一括するのがお好きね。ウフッ
801799:01/10/13 02:26
>>796
失礼!
貴方の過去レス読んだら私と大して違わない(と思う)ご見解ですね。
802801:01/10/13 02:29
またまた失礼!
796は797の間違い。どっかに穴が無いかな・・・
803樟葉:01/10/13 11:13
ゴメン。800ちゃんの言うとおり。首相官邸栃木移転の例えにつられて、信長なんかを
引っ張り出したのは誤解を招くね。ヘヘッ(W
804日本@名無史さん568:01/10/13 12:06
樟葉さんはじめここのみんな、お久しぶり!
>>800
そうじゃなくて・・・他人に分かり易く理解してもらおうと思って
「たとえばなし」をしている人が大半。人間行動学的な解釈してい
るんだとおもうよ。気をつけてね。(ニコニコ
そりゃ中には「真性ゴッチャ人間」もいるだろうけど。
805日本@名無史さん568:01/10/13 12:18
んと、旬の話題は・・・遠距離別居かあ。

どうなんだろうね、「手白香皇后は樟葉宮におられた」または
「おられなかった」という記録はないんだよね。

今、読んでみて「仮に系譜をいじるとしたら・・」って考えた。
こういうのはあまりしたくないんだけどね。仮定を重ね過ぎると
無茶苦茶になるから。

例えば欽明帝が実は武烈帝の皇子だったらどうなるんだろう。
武烈帝の子孫を守る勢力が宣化帝崩御まで欽明帝を隠し玉として
奉じていたのなら、生年不祥になってもおかしくないかな、
なんて考えたりしてしまった。
806樟葉:01/10/13 23:29
>>805
あなたのカキコには突っ込みあり? それとも禁止?
別にムキになるつもりはないけど、否定禁止だったらその旨「表示」しといてね(W
807日本@名無史さん568:01/10/14 01:26
>>806
ツッコミなしで・・・お願いします。(藁
「納得いかないけど、でもいろんな意見を聞いていたら、、、」の
ノリですんで。すみませんなあ。
808樟葉:01/10/14 23:16
>>807
リョーカイです。それでは当方も同様のノリで。。。

さて、遠距離別居(?)に関係して磐余の玉穂宮と手白髪陵の所在地だけど。。。
まず磐余玉穂宮について考えて見ると、応神以降の大王で磐余に都宮を置いたのは
履中の磐余若桜宮、清寧の磐余甕栗宮があり、何れも桜井市磐余池の付近と推定さ
れています。
で。。。「手白髪」が清寧の御名代に名を負っているとすれば、磐余甕栗宮ゆかり
の地に彼女が欽明出産とともに住居を構え、後に老齢の継体が宮を移したのか。
あるいは仮に隅田画像鏡の「男弟王 在意柴沙加宮時」が「男大迹王 在忍坂宮」で
あれば、もともと大和における継体の本拠が桜井市忍坂にあり、その近辺の磐余に
手白髪・欽明を住まわせていたのかも知れない。

また手白髪の衾田陵が継体陵から遥かにはなれた天理市中山町に造営された(宮内
庁比定の西殿塚ではなく、その西北の西山塚が有力?)のも、父である仁賢の都宮
が石上廣高宮(天理市)であったことと関係しているのかも知れませんね。
809774:01/10/15 09:40
土日アクセスできなかったら話題が継体の精力の話になってしまった(藁
遅まきながら確かに間に用明がいましたね>樟葉氏

継体は招かれたので贅沢言って福井に近いところにいても許されたはず
手白髪もいたでしょう
福井はそれ以上栄えず、地理的にやはり大和盆地が栄えるのは仕方ないのも確か
単に田舎のぼんぼんが血なまぐさい大和を最後まで不吉に感じていたが
あまりにも臣下が待望するので墓だけ別にして最後は住んだと
継体より長生きした手白髪は欽明が心配でずっとそばにいた
く、苦しい(藁
810日本@名無史さん:01/10/15 15:47
うちの日本史の教師が言うには
本来なら「嗣体天皇」という
漢字であるのが適切であって
「継体」となってるのは、やっぱり
名目だけで継いだ豪族であることを示している
のかもしれん、とのことです。
ガイシュツテスカ?
811日本@名無史さん:01/10/15 17:02
>>810
この水野説に関しては、>>59 >>76 >>134 >>144 >>150 >>232
「継」と「嗣」の意味の違いと「継体」という熟語の意味を良く理解
せず混同したことによる誤解だろう。
812日本@名無史さん:01/10/15 23:13
>>810
本当に日本人の教師? 漢字を少しでも知ってれば「嗣君」はあっても「嗣体」なんて
熟語がありえないってことぐらい分かるはず(W
813日本@名無史さん:01/10/15 23:17
神武天皇マンセー
814日本@名無史さん:01/10/15 23:32
仁徳の墓がデカイのはなんで?    
815日本@名無史さん:01/10/16 10:47
>>812
「継体」って「熟語」はありえるわけ?
816日本@名無史さん:01/10/16 13:17
継体・反正はよくセットで漢籍に頻出
817日本@名無史さん:01/10/16 13:30
>>816
意味は?
818日本@名無史さん:01/10/16 17:20
>>817 >>76 で次のように例示、解説してあるのを読んだの?

>大祖神武より第十二代景行までは代のままに継体し給う。
>継体謂嗣位也・・・史記
819日本@名無史さん:01/10/16 19:50
>>818
読んだけど意味がわからないのよ。
820日本@名無史さん:01/10/16 22:50
>>817
「反正」は正しい道に返すという意味で、漢籍では「撥乱反正」という熟語で頻出
する。この場合は、乱を鎮めて正しい(平和な)世に返すという意味。

>>819
意味が分かんないの? そりゃ残念だけど、これ以上どうすることも出来ないヨ。
しっかり基礎から勉強なさいネ!
821日本@名無史さん:01/10/16 23:50
『宋史』本紀第三十二高宗趙構九贊曰
「高宗恭儉仁厚、以之繼體守文則有餘、以之撥亂反正則非其才也」
822日本@名無史さん:01/10/17 00:39
もちろんお分かりだろうけど、この場合には「繼體守文」と「撥亂反正」
が対になってる。。。前者は守成の文治派、後者は創業の武断派に使わ
れることが多い。
ただし、瑞歯別の場合は去来穂別時代の争乱がおさまって、安寧秩序が
戻ったことに由来する漢風諡号と思われる。
823日本@名無史さん:01/10/17 11:03
継体天皇って平将門が天皇になったみたいなもの。
824日本@名無史さん:01/10/17 17:55
あなたってシーラカンスが化石になったみたいなもの。(藁
825日本@名無史さん:01/10/17 22:01
>>823 駄レスは繰り返す?

52 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/13(月) 00:00
平将門は桓武天皇五世の孫だし、源義家は清和天皇六世の孫。
平将門が天皇になったり、八幡太郎義家が天皇になるのと同じ事だよ。
826日本@名無史さん:01/10/17 22:28
>825
駄レスかな?
827日本@名無史さん568:01/10/18 00:30
みなさん、こんばんわ。酔っ払ったことばかり書いているかもしれない、ただの平凡な歴史
好きの568です。
樟葉さん、このたびはどうもです。
さて、>>823-826さん、すみませぬ。ワシの妄想をば書きたい。許して欲しいです。
((否定タタキなしでお願いします)
源平は、皇籍から外されて家来になっとるわけだよね。
男弟王はあくまでも「王」なので、そりゃ系統分類でいけば一緒かもしれないけど、
ちょっと違うような気がするので例えとしてはむしろ、「宮家」に近い存在なのでは?と思うね。
それと古代の大王家の「血の濃さ」が話題になるけど、記紀から洩れた王族はきっといると思う。
相当の人数の王族がいないと、生物学上からみても血統を維持するのは大変だと思うのでね。
記紀に関しては、時の大王から遠くなるにつれ、省略されているような気がするね。
(ごめんなさい、今、家改築中で古事記とか本棚から出せない)
倭彦王の系譜も省略されていたと記憶しておるところで・・・間違っていたらすまそ。
828日本@名無史さん:01/10/18 12:41
>>827
否定タタキなしといわれたけれど。
当事は王族の範囲も王号を称せられる範囲も決まってなかったから。
意外と王子・王孫以外は臣下みたいなものだったりして。
当事の5世王って立場的にどんな感じだったのだろう。

記紀から洩れた(洩らした)王族がいることについては禿同。
829日本@名無史さん:01/10/18 19:52
>>827 >酔っ払ったことばかり書いているかもしれない、ただの平凡な歴史
好き

「酔うと歴史上戸になるかなり変わった酒好き」の間違いでは?
830樟葉:01/10/20 11:16
話はチョット変わるけど、継体が即位し、宮都を定めた「樟葉」について。。。
関西以外の人にはあまり馴染みがないと思いますが、淀合流地点に突き出した男山丘陵の先端
にある石清水八幡宮から約2km南西の交野神社付近とされており、淀川を西に見下ろす男山丘陵
の西麓です。つまり、北から桂川・鴨川、東から宇治川・山科川(合流して巨椋池)、南から
木津川が合流し淀川となって河内湖(大阪湾)に注ぐ水運の要衝に当り、またこの交野神社は
後に桓武天皇が祭郊を行った地ともされます。後世の行政区画では、河内国の最北端である交
野郡樟葉郷となります。

で。。。記紀においては、崇神天皇時代に山城の武埴安彦(孝元天皇皇子で崇神の伯父)が謀
叛を起こした時に輪韓河(木津川)で戦闘が有り、敗走する武埴安軍が褌から屎を漏らしたの
で、屎褌(くそばかま)と呼ばれ「樟葉」になったという地名説話が記述されてます。
古事記ではこの地名説話は久須婆の度(渡)とも書かれ、この場所が古来から淀川西岸への渡
河地であったことが窺えます。

また、雄略天皇が市辺忍歯(押磐)王を騙討したため、後の顕宗・仁賢が危険を避けて針間に
逃れた時にも玖須婆の河を渡ったと記述されており、やはり西国への渡河地であったことが窺
えます。なお継体陵である今城塚古墳は、淀川を渡って西に約9kmの位置にあります。
さらに桓武天皇長岡京は、淀川をはさんでほぼ樟葉の真北にあり、継体の樟葉・弟国宮は桓武
遷都の先駈けをなしたとも言える地政的位置にあります。
831樟葉:01/10/20 19:33
続いて継体固有の支持勢力について。。。
継体の本来の支持勢力として考えられるのは、やはり父母の親族と諸妃の姻族でしょう。
父の親族は若野毛二股後裔一族、母(振媛=布利比売)の親族は磐衝別(伊和都久和希)
の系統で三尾君一族と思われます。

諸妃の姻族では。。。
(古事記)
若比賣(三尾君)、目子郎女(尾張凡連)、手白髪命(仁賢)、麻組郎女(息長真手王)、
黒比賣(坂田大股王)、倭比賣(三尾君加多夫)、波延比賣(阿部)

(日本書紀)
手白香皇女(仁賢)、目子媛(尾張連草香)、稚子媛(三尾角折君)、広姫(坂田大跨王)、
麻績娘子(息長真手王)、関媛(茨田連小望)、倭姫(三尾君堅槭)、姨媛(和珥臣河内)、
広姫(根王)

このうち息長・坂田と三尾は父母の親族だから、その他の姻族は尾張連・茨田連・阿部
(和珥)と言うことになる。(ただ阿部(和珥)は大王即位後かも知れない)
そこで、尾張氏だけど。。。
832日本@名無史さん:01/10/20 20:20
無断転載許すまじ。
833日本@名無史さん:01/10/20 20:25
はいはい、さげ
834樟葉:01/10/21 00:59
そこで、尾張氏だけど。。。神代紀では天火明の後裔氏族とされている。
記紀では孝昭天皇皇后の余曽多本毘賣命=世襲足媛(奥津余曽=瀛津世襲 妹)、孝元天皇
孫の建沼河別命妃の葛城高千那毘賣(意富那毘)、崇神天皇妃の意富阿麻比賣=尾張大海
媛、応神天皇妃高木入比賣などの父の品陀真若王は、五百木入日子命(景行皇子)と志
理都紀斗賣(建伊那陀宿禰=建稲種 娘)とされる等の尾張氏記述がある。
(建稲種は日本武尊妃の美夜受比賣=宮簀媛の兄とされる)

一説では元々葛城付近の豪族が東海地方に進出したともいわれてるが、大王家と縁を持ち
続けた地方最大の神別豪族です。継体と尾張氏との婚姻関係は、越前時代に成立したもの
だけど、こういった越前と尾張の婚姻が成立したことも、当時の倭国が既に統一的な状態
であり、倭国における継体の存在の広がりを示しているともいえるでしょう。

一方、茨田氏は神武の子の彦八井耳命(紀では神八井耳命)の後裔氏族とされ、茨田屯倉
(門真市)の管理に当ったとされるので、樟葉から淀川沿いに約20km下った地が本拠で
す。
835樟葉:01/10/21 22:03
次に継体の后妃の子供達について。。。
(古事記) 7后妃 14子(7男7女)
若比賣(三尾君)。。。。。。。。。。。。大郎子、出雲郎女
目子郎女(尾張凡連)。。。。。。。。。。安閑・宣化
手白髪命(仁賢)。。。。。。。。。。。。欽明
麻組郎女(息長真手王)。。。。。。。。。佐佐宜郎女
黒比賣(坂田大股王)。。。。。。。。。。神前郎女
倭比賣(三尾君加多夫)。。。。。。。。。大郎女、丸高王、耳王、赤比賣郎女
波延比賣(阿部)。。。。。。。。。。。。若屋郎女、都夫良郎女、阿豆王

(日本書紀) 9后妃 21子(9男12女)
手白香皇女(仁賢)。。。。。。。。。。。欽明
目子媛(尾張連草香)。。。。。。。。。。安閑・宣化
稚子媛(三尾角折君)。。。。。。。。。。大郎皇子、出雲皇女
広姫(坂田大跨王)。。。。。。。。。。。神前皇女、茨田皇女、馬来田皇女
麻績娘子(息長真手王)。。。。。。。。。荳角皇女
関媛(茨田連小望)。。。。。。。。。。。茨田大娘皇女、白坂活日姫皇女、小野稚郎皇女
倭姫(三尾君堅槭)。。。。。。。。。。。大娘子皇女、椀子皇子、耳皇子、赤姫皇女
姨媛(和珥臣河内)。。。。。。。。。。。稚綾姫皇女、円娘皇女、厚皇子
広姫(根王)。。。。。。。。。。。。。。兎皇子、中皇子

書紀には古事記にはない后妃の関媛(茨田連小望)、広姫(根王)が、男子では広姫
(根王)の子である兎皇子、中皇子が記述されています。このうち後世に子孫を残し
たのは。。。椀子皇子が三国真人、兎皇子が酒人真人、中皇子が坂田真人の祖とされ
てるが、古事記ではこれらの祖を応神孫の意富富抒としており、疑問があるのは事実。
(あるいは、一族養子となったのかも知れない?)
836樟葉:01/10/21 22:35
因みに、安閑・宣化の子はつぎのとおりとされています。
安閑妃
(古事記)記載なし

(日本書紀)
春日山田皇女(仁賢娘)。。。。。子無し
紗手媛(巨勢男人娘)。。。。。。子無し
香香有媛(同上)。。。。。。。。子無し
宅媛(物部木蓮子娘)。。。。。。子無し

宣化妃
(古事記)
橘中比賣(仁賢娘)。。。。。。。石比賣命・小石比賣命・倉若江王
川内若子比賣。。。。。。。。。。火穂王・恵波王

(日本書紀)
橘仲皇女(仁賢娘)。。。。。。。石姫皇女・小石姫皇女・倉稚綾姫皇女・上殖葉皇子(椀子)
大河内稚子媛。。。。。。。。。。火焔皇子

つまり安閑・宣化と仁賢娘との間の男子は、書紀では上殖葉(椀子)、古事記では倉若江のみ。
(ただし倉若江は書紀では倉稚綾姫として女子になっおり、川内若子比売の子の恵波が書紀では
橘仲の子の上殖葉or椀子とされてるみたい??)
あるいは上殖葉(椀子)は橘仲の子ではなく、大河内稚子媛の子だったのかも知れない。
そうすると仁賢の娘である手白髪・春日山田・橘仲のうち、男子出産は結局継体后の手白髪だ
けということになる。嗣子を得るというのはなかなか大変だということですね。
837樟葉:01/10/23 00:10
で。。。この上殖葉皇子と火焔皇子だけど、それぞれ多治比真人氏と猪名(椎田・
川原?)真人氏、の祖とされてる。
多治比は河内、猪名は摂津の地名で生母の大河内稚子媛(川内若子比賣)の出自と
関係しているのかも知れない。(凡河内氏は天津彦根命の後裔氏族で、摂津・河内
に広く勢力を広げていたが、特に継体陵(今城塚)付近は本拠に近い。)
838樟葉:01/10/23 22:17
ところで。。。火焔皇子の後裔とされる猪名氏については、威奈大村の墓誌がある。
彼は慶雲四年(707)に越後で没し故郷の大和に葬られたが、見事な骨蔵器に墓誌が刻
まれている。
小納言正五位下威奈卿墓誌銘併序
「卿、諱は大村、檜前五百野宮(ひのくまいほのみや)に御宇天皇(=宣化)の四世、
後の岡本聖朝(斉明)の紫冠威奈鏡公の第三子也。・・・」

没年は文武天皇時代で、古事記(712年)、日本書紀(720年)に先立つ文章として極
めて貴重なもの。
839日本@名無史さん:01/10/23 22:54
無断転載許すまじ。
840日本@名無史さん:01/10/25 09:09
>>832 >>839
しつこく言ってるけど、どういう意味なの? 
841日本@名無史さん:01/10/25 09:55
>840
出典を示せってことでないの。
842樟葉:01/10/25 23:43
カキコの出典を示せってことですか? 出典とは少し違うけれど。。。

概ね「古事記」「日本書紀」「続日本紀」「古語拾遺」が中心ですね。
他に「三国史記」「三国遺事」「三国志」「宋書」「隋書」「新旧唐書」
「日本の古代」「国史大事典」「古代氏族(人名)辞典」「古語辞典」
「年表」「日本史図表」その他の古代史関係書籍、雑誌・新聞記事、HP
等も参考にしています。
843日本@名無史さん:01/10/26 08:05
あげ
844日本@名無史さん:01/10/26 17:41
>842
なるほど出典だな(藁
845日本@名無史さん:01/10/27 14:36
>>839
何とか言えよ!
846樟葉:01/10/27 20:57
最大の前方後円墳で、宮内庁が仁徳天皇の陵墓に指定している大阪府堺市の大山古墳
(全長486m)の墳丘から、5世紀中頃の須恵器片が宮内庁の調査で見つかっていたこ
とが、27日までに分かった。
大山古墳の築造年代はかっては5世紀後半と考えられていたが、墳丘補修の際に採取
された埴輪片などから、今では5世紀中頃とする説が有力で、この見方を裏付ける資
料となりそうだ。
須恵器片は復元すると高さ62cm、胴部直径62cmの大瓶。半分ほどが残り、口の作り
方などから近くにあった官営工場(陶邑)で西暦450年前後に製作されたと分かった。
前方部と後円部の接点から両側に張り出した「造り出し」のうち、東側の端の斜面
で見つかり、宮内庁は造り出しの上に置かれていたのが滑り落ちたとみている。
造り出しは葬儀にかかわる場所で、須恵器片の示す5世紀中頃は、古墳の完成・葬儀
の時期とみられる。
仁徳天皇の没年は、古事記から計算すると427年、日本書紀からだと399年で、はっ
きりしない。同古墳は陵墓に指定され、本格的な発掘調査は行われておらず、埴輪
片や明治初年に見つかった前方部石室内の副葬品の記録、米国に流出した仁徳陵出
土と伝えられる鏡などから推定されてきた。 平成13年10月27日(日経夕刊)
847日本@名無史さん:01/10/27 21:01
血がつながっているかいないかってそんなに問題?
血のつながりより、家として続いている事こそ重要だと思うが。
848樟葉:01/10/28 00:52
>>847
あのね。。。歴史考察っていうのは、何が「問題」とか「重要」とかと言うこととは別に
まず何が「真実」かを論じることなんだよ。もちろんほとんどの場合、100%「真実」を
解明するのは不可能に近いけれど、少なくとも現状における諸資料から、何が最も「真実」
に近い(「真実」である蓋然性が高い)かを論じることは可能だよね。これが「歴史科学」
ってものなんだよ。
だから継体が応神五世孫(あるいは男系直系孫)である可能性を論じること自体に歴史
考察としての意味があるし、同時に倭国における大王制が如何なるもので、当時の倭国
の社会・政治状況が如何なるものであったかを考察する「重要」な「問題」にもなるわ
けよ。
(ただし男系直系孫と言っても、あくまで社会学的意味であって、生物学的意味じゃあ
ないよ。生物学的意味で論じることは絶対に不可能だし、歴史考察においては無意味だ
から。。。念の為)
849日本@名無史さん:01/10/28 10:39
>>846
大山古墳の造営時期が、5世紀中頃だという可能性が高くなったんだけど、そのこと
でこれが仁徳陵だという可能性も高くなってきたんだろうか?
宋文帝が倭王珍を安東将軍倭国王にしたのが、438年だから倭王讃(これが仁徳かど
うかはともかく)は430年代に没してることになるんだけど?
850日本@名無史さん:01/10/28 13:13
>>849
宮内庁の発表では須恵器の製作年の判定根拠が今ひとつ不明ですが、
大山=仁徳陵説に不利なデータじゃないですね。
4世紀の輸入品とか、6世紀の後年祭事の遺物とかの可能性だって
考えないといけないので大山築造年代の決め手にはならないです。
しかし、宮内庁も細々と整理・研究はしてるんですね。
851>849:01/10/28 13:25
土器の編年なんていい加減とまでは言えないにしても相対的なものだからねえ、
はっきりと断定はできないでしょう
それほど齟齬が亡い限り文献資料を基本にすべきでしょうね
852樟葉:01/10/28 14:33
>>849
>850 >851 のおっしゃるとおり、この記事だけでは450年前後と判断され
た根拠(土器編年による絶対年代の判定の確実性も含め)が明確ではあり
ませんが、それに一定の根拠を認めるとすれば。。。5世紀後半より5世紀
中頃のほうが仁徳陵の可能性が若干高まったように思います。

ただ、百舌鳥耳原中(大山=仁徳陵)よりも百舌鳥耳原南(石津丘=履中陵)
のほうが古いという説もあるし、今のところ決め手に欠けるというところだと
思う。(記紀編纂時期かあるいはそれ以前に混同されたかもしれない?)
853樟葉:01/10/28 23:29
ところで仁徳の没年だけど、新聞記事のとおり書紀では399年、古事記では427年になっている。
概ね古事記のほうが讖緯説による年代捏造の程度が少なく、信憑性が高いと見られているけど、
古事記では。。。

応神が265年生・394年没(130歳)なんて無茶な年齢だし、仁徳が345年生・427年没(83歳)
と言うことは応神81歳の子という無理な年齢になる。
履中が369年生・432年没(64歳)だから仁徳25歳の子で、反正が378年生・437年(60歳)で
仁徳34歳の子になる。まあこれは良いとして、雄略が366年生・489年没(124歳)となると伯
父の履中・反正より年長で仁徳22歳の孫ということになるから、やはり年代・年齢は信じるに
足りないというしかないね。
(計算ミスがあるかも知れないので、転載に当ってはご確認を。。。)
854日本@名無史さん:01/10/29 17:46
計算ミスってゆーより、古田説(二倍歴)によって計算し直せ!
855樟葉:01/10/29 22:48
二倍「暦」だね? そうなると干支はどう計算するのかな。。。30年で還暦かい?
856日本@名無史さん:01/10/31 23:39
古事記と日本書紀で、どうしてあんなに天皇年齢が違ってるんだろう?
857日本@名無史さん568:01/11/01 01:07
この頃の歴代の帝の年齢は実際よりも引き延ばして記録されていると思う。
だから856さんご指摘のような矛盾点があるのだろう。
中には短命の方もいらしたのではないかと考えている。
858856:01/11/01 11:36
シンイ説かなんかで、年齢を引き延ばしたってのは分かるんだけど、
どうして大体同じ頃に作られた古事記と日本書紀であんなに違ってるのかが
分からない。そこんとこだれか解説してよ。(解説した本なんか知ってる?)
859樟葉:01/11/01 22:19
えーっと。多分次のようになってると思うんだけど(ミスあってもゴメン)
書紀 古事記
神武 127 137 +10
綏靖 84 45 -39
安寧 57 49 -8
懿徳 78 45 -33
孝昭 114 93 -21
孝安 138 123 -15
孝霊 129 106 -23
孝元 117 57 -60
開化 115 63 -52
崇神 120 168 +48
垂仁 140 153 +13
景行 106 137 +31
成務 107 95 -12
仲哀 52 52 0
応神 110 130 +20
仁徳 0 83 --
履中 70 64 -6
反正 0 60 --
允恭 0 78 --
安康 0 56 --
雄略 0 124 --
清寧 0 0 --
顕宗 0 38 --
仁賢 0 0 --
武烈 0 0 --
継体 82 43 -39
安閑 70 0 --
宣化 73 0 --
欽明 0 0 --
(以下略)で。。。この違いだけど。
860讖緯:01/11/01 23:50
(続き)確かに古事記と書紀では歴代天皇の宝算(没年齢)が仲哀以外はまったく違っている。
何故こうなったのかは一つの大きな謎だと思うけれど、以下無責任な想像。(ツッコミありネ)

1.書紀は仁徳以降継体まで履中を除いて宝算記述が見られない。しかし在位年代は連続記述
している。
2.書紀がこの様に在位年代を記述しているのは、神武即位を讖緯説により紀元前660年に
設定し、それに真実性を付けようとしたためだと思われる。
3.それはまた倭国の建国起源をチャイナの秦・漢よりも古く、コリア三国より遙かに古く設
定する意図にも合致していたのだろう。(コリア三国は概ね西暦紀元前後に想定してる)
4.この発想が何時生じたかは分からないが、讖緯説の起点がおそらく600年に見られる所か
らして、聖徳太子の発想ではないかと想像する。
(讖緯説では1蔀=21元=1260年または22元=1320年大革命説が取られている)
5.ところが、600年において建国1260年が経過しているとすれば、建国(始祖)王からほぼ
42世代を経ているとしなければ辻褄が合わなくなる。(一代30年弱として。。。)
6.しかし、記紀では33代推古が神武から23世代(聖徳太子が24世代)でしかない。つまり
約20世代・600年について辻褄を合わせる必要があったと思われる。
7.ここで辻褄を合わせる方法は、過去の系譜を20世代分創作するか、あるいは在位
(没年齢)を大幅に引き伸ばすしかない。
8.で。。。彼はもともと年代・年齢に関する明確な伝承が無かったことと、既に系譜
伝承が神聖かつ周知のものであり、(大豪族の出自にも直結する)捏造など不可能
なものであったため、当然のこととして年代・年齢を大胆に捏造したのではないか。

ところがこれによって。。。
861日本@名無史さん:01/11/02 22:55
辛酉は600年じゃなく、601年だろう?
この年には聖徳太子が斑鳩宮を立てたと書いてあるけど、別に革命的なことは何もないよ!
862日本@名無史さん:01/11/02 22:58
応神天皇の五代先の子孫だあ!!!!!!!
863讖緯:01/11/02 23:58
>>861
ご指摘ありがとう。推古9年=601=辛酉でしたね。

で。。。こういった年代・年齢の大幅引き上げによって、極めて不都合な事態が生じた。
それはチャイナ・コリア系史書(伝承)との整合性がまったく取れなくなったことです。
もともと聖徳太子(としておきます)の史書編纂思想は、チャイナの天命正統論(革命論)
に対して天孫正統論(天壌無窮論=革命否定論)であり、政治理念を異にする華・倭の天
子(皇)並立(対等)思想です。
ですから魏志・後漢書・宋書に示されているチャイナ従属外交(册封・叙爵)という過去
の屈辱的な歴史は抹殺さるべきものでした。しかし倭国内には外国史書と対応する伝承も
あり、大王の年代・年齢を引き上げたことによる矛盾が至るところで生じたのです。
そこで、様々な年代・年齢捏造試案が検討されたのですが、結局未完成のままで太子は没
し、この作業は後世に引き継がれることになったと思われます。
で。。。この試案の一つが古事記の大王宝算(没年齢)の元になったのではないかと想像し
ます。(古事記に外交記事が極めて少ないのもこのせいか?)

しかし後世の日本書紀編纂に当っては。。。
864日本@名無史さん:01/11/03 01:47
しかし、昔は、3王朝交代説とか騎馬民族説とかわけのわからんのがはやっとったが、
最近マシになったね。
865日本@名無史さん:01/11/03 06:51
紀元0年は存在しない
866日本@名無史さん:01/11/03 08:27
>>863
別にツッコミというわけではないが、X(聖徳太子?)が中国の政治思想を否定して
、天孫正統論(天壌無窮論=革命否定論)に立ったとしながら、同時に中国の革命
預言とも言うべき「讖緯説」によって神武建国の年代を定めたと考えるのは、自己矛
盾ではなかろうか?
867讖緯:01/11/03 11:00
>>866 ご指摘のとおり一種の自己矛盾といえますね。
ただXはこの自己矛盾を逆手にとって、極めて巧みにこれを利用したと思われます。

つまり、倭国建国を直近の辛酉(推古9年=601年)から1蔀(21元=1260年)前
の西暦紀元前660年に設定したのです。これによって倭国建国から1蔀を経過した
大革命年に当る601年を、特段何事もなく通過させてしまったのですね。

「讖緯説」は、何と言っても先進文明国からもたらされた最新法則でから、ただ単
にこれを否定しても、倭国の豪族達がこれを大王政権転覆の根拠とする危険性があ
るでしょう。
従ってむしろこれを積極的に取り入れて建国時期を確定し、史実として宣言してし
まう。そしてそこを起点として1蔀の大革命年を推古9年の辛酉としてしまう。。。
次の1蔀辛酉は1260年後になるわけですし、現実に1蔀辛酉に大革命は起こらなか
ったのだから「讖緯説」による革命は倭国では起こり得ないことを実証(?)した
とも言えるわけです。

革命預言法則を取り入れることによって、逆に倭国における革命論を事実として否
定する(天壌無窮万世一系を立証する)という高度な判断がなされたのではないで
しょうか?
868名無しさん@1周年:01/11/03 12:59
継体天皇の血筋については疑問があるので、尾張国造の娘の子である2天皇についても
血筋的な繋がりの有無は論争のあるところだろう
しかし、欽明天皇は武烈天皇の娘であるので、それ以降の天皇は母系では繋がっている
中国の習俗が広まって以降は、父系を重視するようになったが、それ以前はいずれかで
血が繋がっていれば、かまわなかった可能性が多いと思う
魏志倭人伝の卑弥呼と台与の継承も、それを窺われるものだと思う
869名無しさん@1周年:01/11/03 13:15
>>868
スマソ (訂正)欽明天皇は武烈天皇の姉の子供であるので、
870讖緯:01/11/03 13:29
>>868
>欽明天皇は武烈天皇の娘であるので、
誤解(記?)にしても。ちょっと酷すぎませんか?

チャイナのみならず、東アジア(西欧の大部分にも)には明確な母系継承
の痕跡は窺えませんが。。。
もちろん卑弥呼は独身ですから「卑弥呼と台与の継承」も直系血族継承と
はされていません。当時の倭国は一夫多妻であり、本来は男王が通常の姿
だともされていますね。。。
871讖緯:01/11/03 13:52
なお、現在のところ古代系譜伝承に関する最も確実な資料は、稲荷山鉄剣銘文で
すが、この471年作成と見られる8代の系譜(おそらく上祖は3世紀に遡りうる)
も明確に男系継承を示していますネ。。。
(同時に当時の系譜伝承がかなり明確なもので、当時の支配階級にとっては継体
の系譜も周知のもにであったことを窺わせますネ。。。)
872日本@名無史さん:01/11/03 22:07
>871
示していません。。。
873讖緯:01/11/03 22:53
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比(土危)、其児多加利足尼、其児名弖巳加利獲居、
其児名多加(土皮)獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、其児名加差(土皮)余、其児乎獲
居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作
此百練利刀、記吾奉治根原也。
874讖緯:01/11/04 09:51
一云、凡牟都和希王、娶(水至)俣那加都比古女子、名弟比売麻和加、生児若野毛二俣王、娶
母々思已麻和加中比売、生児大郎子一名意富々等王、妹践坂大中比弥王、弟田宮中比売、弟
布遅波良已等布斯郎女四人也。此意富々等王、娶中斯知命、生児乎非王、娶牟義都国造名伊
自牟良君女子、名久留比売命、生児(水于)斯王、娶伊久牟尼利比古大王、児伊波都久和希、
児偉波智和希、児伊波已里和氣、児麻和加介、児阿加波智君、児乎波智君、娶余奴臣祖名阿
那尓比売、生児都奴牟斯君、妹布利比売命也。(水于)斯王坐弥乎国高島宮時、聞此布利比売
甚美人、遣人召上自三国坂井県、而娶所生、伊波礼宮治天下乎富等大公王也。

凡牟都和希=品陀和氣・品牟都和氣・誉田別=応神天皇
(水至)俣那加都比古=咋俣長日子・河派仲彦
若野毛二俣王=若沼毛二俣・稚野毛二派・稚淳毛二岐
母々思已麻和加中比売=百師木伊呂辨・弟日売真若比売
意富々等=意富富杼・
践坂大中比弥=忍坂大中津比売・忍坂大中姫
伊久牟尼利比古=伊久米伊理毘古伊佐知・活目入彦五十瓊殖=垂仁天皇
伊波都久和希=石衝別・磐衝別
(水于)斯王=彦主人
布利比売=振姫
乎富等=袁本杼・男大迹=継体天皇

*水=サンズイ
875日本@名無史さん:01/11/04 11:33
>>872
漏れは示していると見るが、示していません。。。とは何故か?
876>875:01/11/04 12:24
また、ウリナラ野郎が妄想飛ばしてんじゃないの
877>875:01/11/04 12:53
示していると困るマルクス馬鹿ではないか。
878>876 >877:01/11/04 13:41
そう決め付けるもんじゃないよ。何か理由があるかも知れないから
まず聞いてやろうや! 名無しさん@1周年氏 プリーズ!
879横レスだが:01/11/04 14:51
>>878
稲荷山の系譜記述は、5世紀末の関東が父系優先であった有力証拠になっても
同時代の近畿の状況を証明するものではないと言いたいんじゃの?
880>横レス殿:01/11/04 15:53
>>879 わざわざの解説ご苦労に存じる。
なるほど。。。と言うことは当時の関東と近畿では支配階級における親族制
度(継承)の在り方が違っていたとお考えなんじゃろうか?

じゃが足尼(スクネ?)、獲居(ワケ?)、臣(オミ?)という身分尊称や、
前方後円墳という墓制を共有しており、近畿の大王家に世々奉事していると
ゆうとるね。意富比(土危)が大日本根子彦国牽(孝元天皇)の子である大彦
(大毘古)と関係する可能性も否定できぬ。
これらの諸点から乎獲居臣は大王家と同根同質だと思われ、近畿と親族制度
が異なっているとするのは困難じゃあなかろうか?

>>874の「児XX、児○○、児△△、、、」ちゅうのもパターンが良う似てる
んじゃないかな?
881日本@名無史さん:01/11/04 19:01
古田先生によると獲加多支鹵大王寺は関東の大王で、斯鬼宮は埼玉県内だという
ことだよ。そうなると関東と近畿では別の文化圏で、継承問題も異なっていた可
能性が出てくるね。
882日本@名無史さん:01/11/04 22:30
>>881
その可能性があると思ってる?
883日本@名無史さん:01/11/04 22:59
ははは、、、(と誤魔化す)
884日本@名無史さん:01/11/05 00:00
その八代が男系でつながってるってなんでわかるわけ?
885高校生:01/11/05 03:32
武烈天皇ってのがひどい奴だったって話だよ。
886日本@名無史さん:01/11/05 11:44
>>884
なるほど。。。意富比(土危)、多加利足尼、弖巳加利獲居、多加(土皮)獲居、多沙鬼獲居、
半弖比、加差(土皮)余、乎獲居臣(コピーだけど、これで良いかな?)の中には女性がいる
かも知れないってことか?

まあ絶対とは言わないけど、「世々為杖刀人首、奉事来至今」ってことは、少なくとも武人
として大王家に奉事してきた家系を誇りにしてんだから、まず男性と見るのが常識ってもん
じゃなかんべか?
887日本@名無史さん:01/11/05 11:52
>886
女がいるとは思わないけれど
家を継承した人が先代と男系で血がつながってるかってこと。
888日本@名無史さん:01/11/05 13:00
>>887
おっしゃっていることが良くわからんが、「其児」ってのは通常直系卑属(親子)のこと
をいうものだと理解してるんだが。。。それが男性ならば男系直系卑属(父子)だべさ?
ただし、いうまでもなく生物学的意味じゃなく社会学的意味じゃがね。
889日本@名無史さん:01/11/05 14:28
>888
親子継承のみで八代も続く家って・・・。
「其児」とは実子のみを指すのかしらん。
890日本@名無史さん:01/11/05 14:53
>親子継承のみで八代も続く家って・・・。

ありふれてるじゃん。なにか文句でも?
891日本@名無史さん:01/11/05 14:56
>890
当事だとたとえばどこの家?
892日本@名無史さん:01/11/05 17:32
今日、松戸の駅ビル本屋に行ったら
継体天皇関連の新書が売れてたな…
なんでだろ?
893日本@名無史さん:01/11/05 22:05
>>889
おやおや。。。女性でなければ今度は養子かね? 乎獲居臣はワザワザ黄金をつかった
銘文で何を誇示してるんだい?

先ずは「俺のご先祖様は、かの意富比(土危)だ!」だろが。
そして「代々のご先祖が、武人として大王に奉事してきたんだ!」と続くんだろが。
そこで「今の左治天下の俺がある!」と誇示してんだろが。

この文章を読んで、何処から先祖を異にする「養子」が介在するって思うのかね?
漏れにはまったく理解できんね。。。
894日本@名無史さん:01/11/05 22:26
>親子継承のみで八代も続く家って・・・。

ってことだが、あんたも漏れも親子継承のみで8代どころか20代も100代も続いてる
。。。ただそれが何処の誰かが、過去までたどれないだけのことじゃないのかな?
乎獲居臣の場合は、確実に8代前までたどれるって言ってるんでしょうが?
何の不思議はないと思うんだけどね。(たどれない奴は誇示しないだけのことだ!)

そりゃ。。。あんたや漏れのような一夫一婦の場合は、男系孫が絶える可能性が極めて
高いね。しかし魏志に曰く「「大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬」ってんだから、
支配階級は一夫多妻で、そうそう簡単に男系孫は絶えないと思うよ!
(某大王家のように互いに殺し合えば別だけれどもね。。。)
895日本@名無史さん:01/11/05 22:48
もっとも、あんたの「家」っていうのが、族長の地位って言うことなら、8人全員が
そうだったかどうかは分からない。おそらく乎獲居臣は関東に於ける支族長的地位だ
ったとは思うけれど。。。あるいは半弖比、加差(土皮)余は尊称を欠いているので其
の地位にはなかったのかも知れない。

つまりは多沙鬼獲居には別の児がいて、その子孫が絶えたので半弖比の子孫である
乎獲居臣に族長の地位が回ってきたのかも知れないね。(わからんけど。。。)

それでも、乎獲居臣が意富比(土危)の男系直系孫であることには変わりが無いし、
彼の血統意識が男系直系にあったことは、認め得るんじゃないだろうか?
896讖緯:01/11/05 23:55
いろいろ意見はあると思うけど、少なくとも稲荷山鉄剣に示されているのは、男系直
系尊重主義としか思えないし、畿内でも同様だったと見るのが妥当じゃないのかな?

蛇足だけれど、>>895 さんの族長地位が同男系内で変化することについて、
こういった事態(?)は当然に天皇家でも生じたことで、例えば今上は継体1世として53
世になりますね。
(神武1世とすれば125代72世だけど、ここは継体スレだから継体起点にしておく)
だけどこのうち9人(4世押坂彦人、7世施基、31世光厳、32世崇光、33世栄仁、
34世貞成、40世誠仁、45世直仁、46世典仁)は不登極(二人は北朝)となっている。
それでも社会学的意味における男系直系孫には違いがない筈ですよね?
孔祥林氏は孔子直系75世っていってるね。流石に長命家系だけれど(関係ない?)
897日本@名無史さん:01/11/06 00:13
この時代のこういった「児」ってのは族長継承を表しています。
もちろん中には父子継承もあるでしょうが、
かなり広い範囲の親族間で移動していたことが知られています。
*義江明子「古系譜の「児」(子)をめぐって」
898日本@名無史さん:01/11/06 09:52
>894
武家にしろ公家にしろ親子継承のみで8代遡れる家はまれ。
899日本@名無史さん:01/11/06 13:20
親子継承という言葉の定義で噛み合ってないと思われ。
稲荷山の銘文は乎獲居臣から上祖オホヒコまでの直系系譜を
示しているだけ。それは即、族長位の継承を意味しない。
吉宗から家康までの系譜と将軍職の継承順位が一致しないのといっしょ。
900日本@名無史さん:01/11/06 13:34
まったくおおせのとおり。
かつ、そもそもの論点は稲荷山銘文は、当時の男系血統重視の思想を示しているかどうか
にあったはずだ。
そして稲荷山銘文にその思想が認められるならば、畿内の大王家においても同様に男系血
統重視の思想が推定され、継体推戴の要素に応神の男系血統を受け継いでいることが重視
されていたことが推定できる。。。つまり彼は応神の5世孫であった可能性が高い。。。
となるわけだね!
901日本@名無史さん:01/11/06 14:06
>>900 そもそもの論点は

>>868 :名無しさん@1周年 :01/11/03 12:59
>中国の習俗が広まって以降は、父系を重視するようになったが、それ以前はいずれかで
>血が繋がっていれば、かまわなかった可能性が多いと思う

に対して、
>>871 :讖緯 :01/11/03 13:52
>稲荷山鉄剣銘文ですが、この471年作成と見られる8代の系譜(おそらく上祖は3世紀に遡
>りうる)も明確に男系継承を示していますネ。。。

にあったんだから、
>>887 名前:日本@名無史さん :01/11/05 11:52
>886  女がいるとは思わないけれど

ということで、基本的に決着がついてると思うね。

>>897 さんにお聞きしたいんだけど、
>かなり広い範囲の親族間で移動していたことが知られています

っていうばあいの「親族」ってのは、男系中心?それとも男女系どちらでも良かったの?
902日本@名無史さん:01/11/06 14:17
>900
娘婿が名を連ねている可能性が何故否定できるわけ。
903日本@名無史さん:01/11/06 14:45
娘聟が継いでいたらそっちの家系を自慢するんでないかい?
少なくともこっちの家系を自慢できないだろう
904日本@名無史さん:01/11/06 15:33
一つ指摘があるんですが、
天皇家ってアマテラスオオミカミの子孫でしょ。
アマテラスは配偶者の名も存在も触れられないまま(実は夫が
居たというよりは一人で子孫を残した感じ)
子孫を残してますよね。
いわば究極の母系ですよね。

天皇家の起源からして究極の母系なのに
どうしてその後、父系にこだわるんでしょうね?
905日本@名無史さん:01/11/06 17:42
>>902
でもさ、例えば多加(土皮)獲居が娘婿だったとすれば、そこから系図を書くのが自然だろ。
意富比(土危)までわざわざ遡らせる必要ないじゃん。
906日本@名無史さん:01/11/06 21:08
武烈天皇の子孫がいるっていうとんでも説ないの?

ところでそろそろ新スレでわ?
907讖緯:01/11/06 23:26
>>904
あのね。。。女性である天照御大神というのは高天原に住んでいて地上には降り立たないの。
そして、男子である(正勝吾勝勝速日)天之忍穂耳と萬幡豊秋津師比売を結婚させて生まれ
た男孫(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能)邇邇芸に地上を治める事を命じるんだね。

それが天壌無窮の神勅「葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。
行矣。寶祚之降、當與天壌無窮者矣」なの。(一書によって少し違ってるけど。。。)

天之忍穂耳→邇邇芸と男系継承でしょう? そして天照はその子孫が天地ある限り永遠に王と
して国土を治めなさいと言ってるんですね。
つまり天は女神である天照大神が、地は男神である邇邇芸の子孫が、治めることに定めたとい
う神話になってる。

だから天之忍穂耳→邇邇芸→穂穂手見→鵜葺草葺不合→磐余彦(神武)と男系直系継承が続く
という構成なんです。何故大王家が父系にこだわるか分かるでしょう?
908日本@名無史さん:01/11/07 00:16
神話に合理性を求めても・・・・

ところでそろそろ新スレでわ?
909日本@名無史さん:01/11/07 00:50
稲荷山鉄剣銘の系譜ってのは、899の例を借りれば
家康ー秀忠ー家光ー家綱ー綱吉ー家宣ー家継ー吉宗
みたいな系譜であって地位相承を示しており、父子継承と一致する箇所もあり得るが
父子継承そのものを示したものではない。これは別に本資料に限らず
例えば海部系図・賀茂社家系図・出雲国造系図なども同様で
国造などの地位継承を示しているものであって父子関係とは限らない。
もちろん出雲国造系図のように女性も含まれうる。
このような系図は血系系図が書かれるようになっても、なお作成され続け
中世には荘園その他の所領・所職の相伝系図、仏教関係では舎利相伝系図
伝法灌頂印信血脈・声明相伝次第、あるいは管絃者系図に代表される芸能系図
や学問などの師資相伝関係の系図が作られ現在まで伝存している。
また近世以降に作られたものでも紀伊構造・香取宮司系図などの古い部分は
親子関係ではない地位継承次第である。
910日本@名無史さん568:01/11/07 01:23
>>908
讖緯さんは神話に合理性を求めて回答したのではないでしょう。
大王家の祖先にまつわる伝承は大王家の意向が反映されている、
すなわち、大王家が男系継承にこだわっていたからこそ、神話
についても男系継承で描かれているのでは、ということでは?

>>909
家康ー秀忠ー家光ー家綱ー綱吉ー家宣ー家継ー吉宗
については、男系継承に変わりはないでしょう。
実の父子でなくとも、「継承者は男子」だと思いますが。
というか、徳川将軍家のあれは「疑似父子」では?

まあ、出雲国造系図の場合は別として。
911日本@名無史さん:01/11/07 02:14
中世なんかの場合例えばいくつかある所職のうち、嫡々継承される質的にも量的にも大きなもののほか
庶子に分配されるものの中には女子に分配されてその子孫へ相続されていくものもあり
例えば家名なんかでも小野宮家のように実資からその娘その娘‥‥と女系をたどることもある。
しかしこの鉄剣銘は杖刀人首の継承を表していようから恐らく女性はいないだろう。
名前からはカサハヨ(?)なんかはあり得るのかもしれんが。
複数の氏族の者が継承しているのかもしれんが、その場合でも事実はどうあれ
本人たちのなかでは祖を同じくする同族という意識があったと思われ。
912日本@名無史さん:01/11/07 15:58
>>909
僕には良く分からないのですが、
>地位相承を示しており、父子継承と一致する箇所もあり得るが父子継承そのものを示したものではない。

ここで皆さんが論じているのは、稲荷山の示しているのが血統継承か地位継承かですよね?
なのにこれは、理由も示さずに「地位相承を示してる」というあなたの結論を言っただけのことですから、
議論にならないと思いますよ。

問題は古代系譜が後世の血脈相承や家元相伝(これらが血統を示していないことは当たり前のことです)
と同様なものか、それとも天皇家系図のような血統を示しているのかってことでしょうが、少なくとも
記紀で記述されている天皇家の系譜は血統(親子間系)以外の何ものでもないでしょう?
(天皇という地位の継承は、その血統の範囲で弟が継いだり、甥が継いだり、別個に記述されています
ものね)

>*義江明子「古系譜の「児」(子)をめぐって」
では、「児」というのは親子関係ではなく、地位関係を示すって証明されてるんですか?
何か変だと思うのですが、どんな例があるのでしょうか?
913日本@名無史さん:01/11/07 16:08
>910
たまたま徳川将軍家がそうなだけ。
鎌倉将軍家はどうよ。
914日本@名無史さん:01/11/07 17:16
>>913
>鎌倉将軍家はどうよ。

どうよって、何がどうよなの? 関白職や鎌倉期の将軍職は世襲制では
なかったってことだけだろ? この話題とは何の関係もないよ!
915日本@名無史さん:01/11/07 18:04
当時(3世紀から5世紀頃)の高句麗や百済や新羅では女系継承や養子継承っての
はあったの? 。。。記録が残ってないみたいだから、あまり古いことは分からな
いかも知れないけれど。
916日本@名無史さん:01/11/07 19:25
>>914
鎌倉期の将軍職は世襲制です。
917日本@名無史さん:01/11/07 21:09
源頼朝ー源頼家ー源実朝ー九条頼経ー九条頼嗣ー宗尊親王ー惟康親王ー久明親王
ー守邦親王
918日本@名無史さん:01/11/07 21:45
>>915
新羅の場合は、養子どころか異氏継承です(金・昔・朴の3氏)。
女帝も有りですよ。王統譜は残ってます。
919日本@名無史さん:01/11/07 22:09
>>907さんへ
7世紀の思想が男子嫡流主義であることは、その時期に編纂された記紀を見れば誰でもわかることなのですが、
4世紀・5世紀の継承方式が7世紀と同じだったという証明にはならないでしょう。
920日本@名無史さん:01/11/07 22:30
>>915 >>918
女王は有りですが女王の子が継承した例はありません(多分独身でしょう?)

27善徳女王(632-647)
28真徳女王(647-654) 従姉妹関係
51真聖女王(887-897)
921讖緯:01/11/07 23:06
>>919
ああ。。。この例はそう言った問題ではないんです。【記紀神話】に示された皇祖神(天照
御大神)が女性であっても、同時にその記紀神話において男系継承が強調されているという
神話の構成を紹介したものなのですよ。

それから、ここで話題になっている継体の血統問題は6世紀(507年即位)の事例ですね?
記紀思想が7世紀(620年の天皇記・国記編纂ですね?)なら、時代差は僅かに百年余です。
(推古は継体の孫、聖徳太子は曾孫ですなのですからね)大王家(周辺豪族)の継承思想
(方式)という基本構造が、この僅かの間に変化したとは考え難いのですが、何かその変化
の蓋然性を確認するものがおありでしょうか?
922讖緯:01/11/08 00:30
>>915 >>918
ご承知のとおり新羅という国は、375年頃に始めて中国「北朝秦」と国交を開き、中国風
の「王」を称したのが、22代(?)智証王4年(503年)の頃ですから、57年に漢光武帝から
金印をもらっている倭国とは比較にならないんですが(魏志においては、弁辰二十四国の
うち斯慮国として登場か?)、一応王統譜は「三国史記」に記されています。

それによると、17代(?)奈勿王(356−402)以降はその子孫が男系継承を続けています。
(女王についてはガイシュツのとおりでしょう)
ただ、終末期の53代神徳王(912―917)で何故か朴氏となるので、三氏継承等という伝承
が生まれたものでしょうか?

高句麗は初代の東明王朱蒙(紀元前37年?)から最後の28代(21世)寶蔵王(642―668)
までの約700年間、高氏が男系継承を続けています。

百済は初代温祚王(紀元前18年?)から最後の32代(23世)豊璋(661―663)までの間、
余氏が男系継承を続けています。(ただし、魏志においては馬韓50国のうち伯済国として
登場?なので、これはどう見ても王統譜とは言えないでしょうが。。。)

因みに倭国では初代神武(紀元前660年)から高句麗・百済の最後の王と同時代の天智
まで38代(25世)ですから、如何に年代が引き延ばされているかが分かりますね。
つまり当時の東アジアでは倭・高句麗・百済・新羅ともに記録上は男系一系継承となって
いるようです。
923日本@名無史さん:01/11/08 00:31
909です。
912から質問を受けているのですが
その前に確認したいのですが、鉄剣銘のいわゆる文字系譜が
実の親子関係だと思ってる人ってかなりいるんですか?
私はてっきり地位相承を表しているって事は常識に属していて
その上でそれが果たして兄弟やいとこ、あるいは叔父甥などの
ある程度の範囲の親族間で継承されていたのか、それは女性を含んでいたのか、さらにその女性の子孫に継がれることもあったのか
あるいはその夫が継ぐことすらあったのか、はたまた複数の親族間に及ぶものであったのか
ってことが議論になってるかと思ってたのですが。
実子関係だというのがもしここでの多数意見なのならちょっと書き込みは遠慮します。
924日本@名無史さん:01/11/08 04:59
釈日本紀のみたいな、誰を娶って誰を生んで、誰それという児が産まれて
それが誰を娶って、また児が生まれて‥‥っていうのは実子系譜だよ。
それが事実かどうかは別として。
地位継承を意味している鉄剣銘文系譜と同列には論じられない。
925日本@名無史さん:01/11/08 10:41
>>923さん 912です。
素人の疑問を真剣に受け取っていただいてありがとうございます。
僕は稲荷山について、そんなに沢山の本をよんだわけではないのですが、僕が見た範囲では地位相承と
解釈してる意見は無かったように思います。
「上祖意富比(土危)」を「カミツオヤ オホヒコ」として、その人間と自分の系譜関係を述べているもので、
「上祖(カミツオヤ)」は血統上の祖先を示しているというのが常識的だと思っていました。
古田説では「上祖」を「ソをマツル」としておられるようですが、その場合も「祖」という言葉を血統関係と
してられるように思います。でも何も遠慮せずに923さんが地位相承だと考えられる理由(あるいはそう言っ
た説の解説)をお示しになれば良いのではないでしょうか?(生意気いってすみません)

924さんは、「娶→生→児」 は実子関係(当たり前ですね)だけれど、単に「児」とする場合は地位相承だ
と決め付けておられますが、鉄剣銘文のような限られたスペースでそこまで書くとは限らないでしょう。
単に「児」とあっても「実子」と考えるのが常識的見解だと思うのです。

>>874に上宮記逸文(ですね?)が紹介されてますが、
(水于)斯王、娶伊久牟尼利比古大王、児伊波都久和希、児偉波智和希、児伊波已里和氣、児麻和加介、
児阿加波智君、児乎波智君、娶余奴臣祖名阿那尓比売、生児都奴牟斯君、妹布利比売命也。

肝心の部分は「娶→(生)児」方式ですが、その他は単に「児」として垂仁天皇と振姫の関係が書かれてい
ます。これは記紀で振姫を垂仁7世孫としているのと合わせ読めば、やはり血統を示すものだと思います。
(各児達の名前からして、男性と解釈するのが常識的だと思います)
むしろ地位相承を示すための系図では、実子でなくとも「児」を使うことがある(後世の猶子)ということ
ではないのでしょうか?
926日本@名無史さん:01/11/08 12:31
>>924
>地位継承を意味している鉄剣銘文系譜と同列には論じられない。

まず鉄剣銘文系譜が地位継承を意味してるかどうかを論じて下さい。
927日本@名無史さん:01/11/08 12:43
鉄剣銘文系譜が地位継承を意味しているとすると当時の地位継承は
大王位のように兄弟継承が主流と考えられるからオホヒコはヲワケの
八代も前の祖とは考え辛くなって記紀の系譜と整合しなくなるが。
928日本@名無史さん:01/11/08 12:45
>>921
変化はある瞬間から起こるもの。
時代差があればそれで十分。
それに百年余が僅かとは笑止。
929日本@名無史さん:01/11/08 18:25
ううん。確かに変化はある瞬間から起こる。しかしその変化が社会全般に浸透し
普遍化するには相当の時間経過を要するってことじゃないのかな?

特に社会・家族制度(思想)というような基層部分は、容易に変わらないっての
が広く認められているところだろうな。そしてここで論じられてるのは、まさに
「ウジ」「ウカラ」「カバネ」と言うような基層部分そのものなのだべ。

例えば同姓不娶というような中国の家族思想の根幹は、いかに中国思想が尊重され
ても結局日本には受け入れられなかったが、これ等も基層部分に関わる性格があっ
たためだ。 まあこういうことを理解してから笑ったほうがよかっぺ!

ところで元々古代において女系継承や養子継承があったとする理由はなんだべさ?
930日本@名無史さん:01/11/08 18:39
とっくにガイシュツだけど、卑弥呼も台与も子孫を残してない。
新羅女王も称徳女帝も飯豊もしかり。女系による継承者など何処
におる?
931日本@名無史さん:01/11/08 19:45
卑弥呼は娘が跡を継いだと
記述されてるが・・・
台与は記録がないだけ。
932日本@名無史さん:01/11/08 20:19
>930
継体天皇。。。
933継体さん貴方怪しいですよ。:01/11/08 21:00
新羅王統ネタが出たの思い出しましたが、
草創期の半伝説的な存在である奈勿王と次の有名な実聖王はともに金氏ですが、血縁関係は不明だそうですね。
その後も遠戚の継承が多く、4世孫・5世孫もいますが、21代宣徳王は、母こそ17代聖徳王の娘ですが、
男系では奈勿王の10世孫になるそうです。
さらに、22代元聖王にいたっては、先代とは別系の奈勿王12世孫で、前王に嗣子無いため群臣に推挙され即位したそうです。
新羅王朝に比べれば、応神5世の継体なんて問題じゃないですよ。
ただ、新羅の遠戚継承をもって継体系譜の正当性を示す傍証とするか、
血統なんて周りに文句を言わせなければ何とでも書けることの実例と考えるかは意見の分かれるところです。
934讖緯:01/11/08 22:53
>>931
>卑弥呼は娘が跡を継いだと記述されてるが・・・台与は記録がないだけ。

【年巳に長大にして夫婿なし】。。。って書いてあるのでしょう?
そして【宗女壹與年十三を王と爲す】。。。と書いてあるね、宗女は後継の女性って意味
だけど親子関係とは限らないのですね。そして台与は確かに十三歳の娘さんには違いない
けど卑弥呼の娘とはちょっと読めないのです。

台与については、おっしゃるとおりこのような記録はありませんが、祭祀女王としての
卑弥呼の後継者であるところから、やはり【夫婿なし】と想像されています。
(もちろん、夫婿ありだとお考えになるのはご自由ですが。。。)

>>933
記述の上では奈勿王の父(末仇)と実聖の父(大西加)は、兄弟ですから二人は従兄弟に
なりますね。ただ実聖は奈勿によって高句麗に人質に出され、その後即位した実聖は奈勿
の子の未斯欣を倭国に、卜好を高句麗に人質に出し、訥祇の殺害を高句麗兵に依頼し、逆
に殺害されています。余程不仲だったのかも知れませんネ。

>21代宣徳王は、母こそ17代聖徳王の娘ですが、男系では奈勿王の10世孫

37代宣徳王(780―785)の母は、33代聖徳王(702―737)の娘ですね?
ところで。。。4奈勿王の後の世孫・5世孫というのは誰のことですか?
なお、遠縁者が即位した例は。。。>>6 >>140にガイシュツみたいです。
935933:01/11/09 00:31
>>934
いろいろとご指摘を頂きましてどうも。

>5世孫というのは誰のことですか?
聞きかじりなので詳しい系譜を示せませんが、
日本が継体時代だったころ新羅王だった法興王の父親「智証麻立干」や
宣徳王に殺された「恵恭王」がそのくらいの遠戚だったかと・・・違いますか?
936日本@名無史さん:01/11/09 13:54
>>930
飯豊って一度だけ男女の道を味わったけど、あまり良くなかったので二度と男を
近づけなかったそうだね。
もし何回も味わって妊娠してたら、その子供が天皇になったんだろうか?
それともやはり顕宗・仁賢が天皇になったんだろうか? チト興味がある。
937日本@名無史さん:01/11/09 14:47
>922  讖緯さん
シンイ説でふと思いついたんですが、西暦601年を基にして1260年遡った西暦紀元前660年を神武天皇
の建国にしたって事ですね。ところで高句麗の建国は東明王朱蒙(紀元前37年?)ってことは大体西暦
601年から見て630年位前になりますね。
ひょっとしたら聖徳太子(?)は高句麗の建国時期を知っていたので、大革命時期を通過させる意味と
併せて高句麗より倍くらい古い1260年前を日本(倭国)の建国時期にしたってことは考えられないでし
ょうか?
また天智天皇が神武天皇から25世で、そのころ高句麗が21世、百済が23世ってことは、ほとんど同時期
の建国になるのですが、これには何か意味があるのでしょうか?
938讖緯:01/11/09 22:28
>>935
えーっと。22代智証王(500−513)は、奈勿王孫の実寶の子。。。つまり曾孫では?
36代恵恭王(765−780)は35代景徳王の子のようですが、この辺はなにか不明瞭で
すね。。。

またおっしゃるとおり恵恭王を殺害した(奈勿王10世孫を称する)36代宣徳王は、
別系の(奈勿王12世孫と称する)37代元聖王に取って代わられ、その系統が52代
孝恭王(897−912)まで続いたところで、朴氏の神徳王(912−917)に移り、3代
の後には再び金氏元聖王系統の56代敬順王(927−938)にかえり滅亡しますね。

彼は46代文聖王(839−857)の5世孫とされてるようですが、新羅末期はまるでロ
ーマ帝国末期のような反乱・武力抗争が続き、王の権威は地に落ちていますので
継承ルールという面ではあまり参考にならないかも知れません。
939日本@名無史さん:01/11/09 22:57
>>936 ソース希望。
940日本@名無史さん:01/11/09 23:36
>>939 紀
941讖緯:01/11/09 23:36
>>937
なるほど。601年当時における高句麗の建国経過年数を倍にしたと言うことですか。。。
仮にこれを考えたのが聖徳太子とすれば、彼は高句麗の高僧恵慈に師事してるのですが、
当時の高僧は最高の知識人であり当然高句麗の歴史伝承を太子に語ったでしょうから、
充分有り得ることでしょうネ。

なお601年当時であれば、
倭国の推古(592−628)は。。。。。神武1世として33代22世
高句麗の嬰陽(590―618)は。。。。朱蒙1世として26代20世
百済の武(600−641)は。。。。。。温祚1世として30代22世(温祚は朱蒙の子とされる?)
新羅の真平(579−632)は。。。。。17代奈勿1世として26代8世

となりますが、高句麗(百済)と倭国がほぼ同世代になるのは確かに興味があります。
あるいは太子(?)は神武(磐余)が紀元前後の人間であると考えていたのかもしれませんネ。
942日本@名無史さん:01/11/10 01:00
>>938
紀では億計・弘計が皇太子・皇子として認知されてからのことになってるから、
飯豊尊の子が天皇になるのは無理だろうな。
ただ彼女は一時朝政を執ってるし、その墓も陵(天皇扱い)という呼び方をし
てるので我が子のために頑張ったかも知れん?
943日本@名無史さん:01/11/10 09:17
このスレの本題に関係するんじゃが、王位の継承に関して女系が男系に優先したり伍
したりした例なんて聞いたことがねえべ。弟と姉の子では勝負にならんじゃろ!

中国の習俗が広まる以前は男系も女系も同じじゃったとか、古代系譜の「児」は実子
関係でなく地位継承を意味するとか、ゴジャッペを言うとった連中は逝っちまったの
か?
944教えて:01/11/10 10:43
何だかんだといっても、このスレ結構面白いし勉強になります。
古代の男系女系の継承ルールとか、「児」の意味とか、ご意見に
ついて是非具体的に説明して下さい。
945日本@名無史さん:01/11/10 11:06
>>936
一回しかしなかったんですか?
初めての時は痛いだけなんじゃないの?
そんなことも知らずに二度と男を近付けなかったんですか?
946日本@名無史さん:01/11/10 11:46
おいおい。んなこと漏れに聞いてどうすんだよ?

清寧三年秋七月、飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交したまふ。人に謂
りて曰はく「一女の道を知りぬ。又いずくにぞ異なるべけむ。終に男に
交はむことを願せじ」とのたまふ。(此に夫有りと曰へること、未だ詳
ならず。)

って書いてあるが、もっと詳しいことを知りたきゃ直接メールしな!

[email protected])
947日本@名無史さん:01/11/10 12:54
>>946 ワラタ
948日本@名無史さん:01/11/10 13:30
しかし、角刺宮ってのもけっこう洒落がきついよな!
949日本@名無史さん:01/11/10 14:13
こーゆー話になると元気になるやつがいるね(藁
950日本@名無史さん:01/11/11 01:26
倭辺に 見が欲しものは 忍海(おしぬみ)の この高城なる 角刺の宮
951日本@名無史さん:01/11/11 10:31
>>944
「子」は「血縁関係(実子)」で、「児」は「地位関係(養子・女婿含む)」
ってのはどうだろう?
952日本@名無史さん:01/11/11 22:03
それなら娶・生・児じゃなく、娶・生・子になるんじゃない?
953日本@名無史さん:01/11/11 22:14
なんとまだ続いていたのか。このスレ。
で、結局、継体天皇は応神天皇五世の孫ってことで
間違いないんでしょ?
954日本@名無史さん:01/11/11 23:14
>953
間違いないのか間違いあるのか誰にもわからない。
955日本@名無史さん:01/11/12 03:57
例えば天皇位の場合でも立太子・皇太子などという。
それが先代の実子でない場合もあるのは言うまでもない。
このように先代の子という形をとるのは何も皇室に限ることではないが。
また日本に限ったことでもないが。中国では史上何度も先代の実子でない
皇帝が実父と先代とどちらに敬意を表すべきかがしばしば問題になっている。
同様のことは日本においても朝覲行幸や尊号の件あるいは院政・皇太弟などで
問題になることは将軍家などの類例も含めて周知の通りである。
皇太后や太皇太后が当代の母・祖父母と一致しないことのほうが多いのも当然である。

現代のような単婚家族が社会上の最小単位となったのは歴史的には最近のことである。
5・6世紀はすでに氏族社会の段階ではないものの、
まだまだかなり広い範囲の親族が一個のまとまりとして社会上の単位を形成していた。
そのなかでの地位継承がそれら親族間を移動するのは当然のことである。
単系直線的に父子継承で行われていたと考えるのはかなりの無理があろう。
実際8世紀以降の諸氏族においても氏上は広い範囲の親族間を移動している。
家の形成はどんなに早く見る見解でも平安後期になってからである。

皇室系譜においても単系継承が行われたことはむしろ少ない。
一般に両統迭立というと南北朝時代のみが考えられがちだが
実際天皇家は皇統迭立とその解消のための努力の歴史といってもよいほどである。

継ぐべき家に殆ど政治的意味のない現在の単婚家族とはちがって
前近代においては誰の実子であるかよりも誰の跡を継いだ者であるかのほうが
遙かに大きな意味を持っている。実父を顕彰したりするのはそれからの話である。
実子系図が作られるようになってからも依然養子関係が系線で
つながれる
ことも多いのは誰でも気づくことで、そういった人間達の実系をただるのも
意味のないことではないが、だからといって実系のほうに過剰な意味を見出すのは本末転倒である。
956秀忠:01/11/12 04:09
句読点を増やそう。読みづらい。
957日本@名無史さん:01/11/13 22:10
>>955
申し訳ないレス見落としじゃった。だが率直にいってイマイチ論旨がわからんネ。
天皇家(大王家)を含めて、世界中の王位継承が必ずしも実父子のみで行われてないことは、
明白な事実だ。。。議論の余地はないよ。(何代何世という言葉が示しているとおりじゃね!)

だが一方でチャイナ・コリアはもとより、西欧諸国においても基本的に父系(通常「姓」と
いう形であらわされる)中心継承じゃったことも明白な事実ではなかろうか?

よってここでは、古代日本において大王や豪族の地位継承が、基本的に父系を中心(弟や従
兄弟が継承する場合も父祖を共にする)に行われたか、あるいは母系や女婿についても対等
におこなわれたか。。。これが論点じゃないのかね?
要するに、貴殿の言う「親族間を移動する」の【親族】は基本的に【父系親族】なのか【母
系親族】や【姻族】をも同等に含まれるのか。。。ということなんだよ!

肝心のこの部分に関する貴殿(?)の具体例や論拠を、お聞かせ頂けんものじゃろか?
958日本@名無史さん:01/11/13 22:37
>>955
いま一つは稲荷山銘文の如き古代の系譜に関するものじゃが、ここに示された「祖」や「児」
が【血統関係】を意味しているのか【地位関係】を意味しているのかということじゃね。

漢字の意味から言えば、どう考えてもこれらは「親族関係」を示すもので、地位関係を示す
ものではなかろう。。。敢えて言えば「太子」「世子」となれば、親族名称から派生して地
位名称になっているというだけのことだよ。

古代においては、貴殿の弟が貴殿の地位を継承した場合(これはザラにある例だ)に、これ
を「児」と呼ぶのじゃろうか? 極端な場合には貴殿の伯父が地位を継承する場合とてあり
得るじゃろうが、これも「児」なのかね?
どう考えても無理な解釈だと思うが、これも具体例や論拠をお聞かせ頂きたいネ。
959日本@名無史さん:01/11/14 00:03
結論だけ申します。原則父系だと思います。但しどうしても適当な
後継者が見当たらなかった場合、女系もあり得たと思います。
しかしそれも正統な後継者、例えば幼子が成人するまでの間といった
限定的なものだったと思います。しかし年数が経過しても、適当な後継者が
見出せなかった場合は、ついには系が移動してしまう可能性も、なきにしもあらずだと思います。
弓削氏と物部守屋の場合は、その不完全な一例と、いえるかもしれません。

次に鉄剣銘は、杖刀人首としての奉事根源を記したもの、つまり
地位継承を記したものであることは、あきらかでしょう。
「児」が地位継承を示す例には、「伊福部臣古志」の第廿六大乙上都牟自臣の「久自良臣之児」
をはじめとして歴代、及び「栗鹿大明神元記」など、枚挙に遑がありません。

付け加えますと、当該スレで問題となっている、継体の釈日本紀所引の系図は、
「甲を娶って乙を生む」とあり、実子を示していることを、疑う余地はありません。
もちろん、それが事実かどうかは、また別の問題です。
960日本@名無史さん:01/11/14 18:57
>>957
>原則父系だと思います。

了解。したがってこの問題の出発点になった。。。
>>868
>中国の習俗が広まって以降は、父系を重視するようになったが、それ以前はいずれかで血が繋がっていれば、
>かまわなかった可能性が多いと思う

は基本的に却下じゃね。

>正統な後継者、例えば幼子が成人するまでの間といった限定的なものだったと思います。

これも了解。ただしこれは「地位継承」なんてものじゃなく、外戚(母方の親族)による「後見」と解されるネ。
別に取り立てて言うような問題ではなかろう。(他の男系親族の地位簒奪から嗣子を護る意味もあるが。。。)

>適当な後継者が見出せなかった場合は、ついには系が移動してしまう可能性も、なきにしもあらずだと思います。

問題は、これじゃが。。。これはX族(家)の長が後継者不在により断絶して、姻戚のY族(家)のZにその社会
的地位や職分が継承されたという事じゃね? 仮に古代社会において、そう言った事態が生じた場合にY族のZは
X族を称し、X族の先祖を「祖」とするのが【一般的】だったかどうかというのがここでの論点じゃが、その様な
具体例はあるのじゃろうか?
961日本@名無史さん:01/11/14 19:00
次に。。。
>杖刀人首としての奉事根源を記したもの、つまり地位継承を記したものであることは、あきらかでしょう。

はて。。。そこが問題者じゃね。銘文系譜によれば上祖の意富比(土危)いらい5世紀後半の乎獲居臣までの8代
。。。と言うことは、意富比(土危)は概ね3世紀中頃の人物と思われるが、その頃から「杖刀人首」と言うような
【世襲職(地位)】が存在していたとお考えか?
ここで言う「杖刀人首」とは、そう言った【世襲職(地位)】ではなく、大王家の武人として仕えてきた【家系】
を文飾したものと思われるが如何であろう?

さらに、上宮記逸文の「児伊波都久和希、児偉波智和希、児伊波已里和氣、児麻和加介、 児阿加波智君、
児乎波智君、娶余奴臣祖名阿那尓比売、生児都奴牟斯君、妹布利比売命也。」
だが、ここでは継承すべき地位など何処にも書いておらんが、「児」は何の「地位継承」なのであろうか?
明らかに血統継承と読むべきものでは無かろうか?
962日本@名無史さん:01/11/14 19:03
 最後に。。。
>「児」が地位継承を示す例には、「伊福部臣古志」の第廿六大乙上都牟自臣の「久自良臣之児」をはじめとして歴
>代、及び「栗鹿大明神元記」など、枚挙に遑がありません。

具体的例示でありがたいが、これが4〜5世紀の古代系譜に関する「児」の例証であろうか?スマンが厨房にも分
かるように解説して下さらんか?
963系譜:01/11/14 22:46
「伊福部臣古志」って言うのは、延暦3年(784)作成の「因幡国伊福部臣古志」のことですね?
火明命の後裔と称し、(煮炊)吹部・(笛)吹部・(踏鞴)吹部等と様々に考えられ、全国的に存在す
る古代氏族ですが、この古系譜は成務期に因幡国造に任ぜられたと言う伝承を記述しているんで
すね。平安初期における郡領クラスの弱小豪族で、この系譜から(3〜)5世紀の稲荷山銘文を解
釈するのは如何なものかという気もしますが、「児」に関するご解説を期待しておきましょう。
964日本@名無史さん:01/11/14 23:08
>962
厨房にはいかなる解説も無駄じゃ。。。
965>964:01/11/14 23:44
プッ。逃げの口実にしてやがんの!
966日本@名無史さん:01/11/15 00:46
つーか、継体天皇は、騎馬民族の末裔という説が定説となっている。
967日本@名無史さん:01/11/15 10:03
>>966
はいはい。。。【定説】ですよね。どうぞ騎馬民族スレで存分におやり下さい!
968日本@名無史さん:01/11/15 10:57
濃い話しが続いていますね。
ところで、申し訳ないのですが、一般大衆にも
読みやすいように、難しい漢字にふりがなをつけてもらえないでしょうか?
969日本@名無史さん:01/11/15 11:43
>>965
本質を見極められない御方!!
970>969:01/11/15 13:12
本質の何のとゴタクを並べてるひまがあったら、さっさと解説
してやれや。どっちが本質的厨房かは、漏れが判定してやるよ!
971日本@名無史さん:01/11/15 14:08
>>970
本質を理解できない御仁に判定などという行為は到底無理!
972日本@名無史さん:01/11/15 14:15
要するにその系図の話は実系だってことでいいのね(?)

じゃ次ぎ逝こう
973日本@名無史さん:01/11/15 14:35
>>964 >>965さん

失礼ながら、無意味な言葉のやりとりは、残り少ないスレの無駄使いではないでしょうか?
僕もこのスレで古代系譜の意味について興味をもったのですが、以下の例示では何のことか
良く分かりません。
>「児」が地位継承を示す例には、「伊福部臣古志」の第廿六大乙上都牟自臣の「久自良臣之児」をはじめ
>として歴代、及び「栗鹿大明神元記」など、枚挙に遑がありません。

おそらく、ガイシュツの「日本古代系譜様式論」義江明子著
「氏から「家」を貫く基層の親族原理として、双系性・非血縁性を論じ、また王統譜にも解き及ぶ。」
によるものでしょうが、折角のご紹介ですので、主要論点について解説頂けませんか?
974系譜:01/11/15 23:00
ところで「因幡国伊福部(いおきべ・いふきべ)臣古志」においては、成務期に伊
其和斯彦(いきわしひこ)宿禰が稲葉国造(いなばくにつくり)に任じられ代々歴
任したとしているのですが、「先代旧事本紀国造本紀」においては、やはり成務期
に彦坐(ひこいます)王の児である彦多都彦命が稲葉国造に任じられたと記してい
ます。
この後裔氏族が宝亀2年(771)に因幡国造を賜姓されているので、伊福部氏の稲葉
国造記事については捏造とする見解もあるようです。
また伊福部氏には連・臣・君・直・首等の様々な姓があり、五百木部や廬城部とも
表記されるとともに、始祖についても火明命、大己貴(おほなもち)と異なる伝承
があるようです。
975日本@名無史さん:01/11/15 23:53
形体天皇は、百済の文殊王といわれている
976日本@名無史さん:01/11/16 00:11
ハイハイ。。。補陀落の文殊さんお呼びですよ!
えっ、お呼びでない。。。こりゃまたスツレイシマシタ!
977途中参加:01/11/16 00:20
ちょっと目がとまったもので、流れにそいませんが・・・
一般的には継体天皇を同じ皇統に見るのは無理がありますし。
日本書紀というたぶんに民族主義的意図の強い資料に惑わされる
ことなく考えると、まったく別の部族が天孫族にとってかわった
というのが妥当なとこじゃないでしょうか?
978日本@名無史さん:01/11/16 08:41
>>977
過去スレ読みなよ! そう言う問題を970にわたって議論してきたんだ。
979日本@名無史さん:01/11/17 01:08
日本の基層には母族尊重の南方系(チャイナ江南を含む)文化があることは認める
べきだろう。しかしこのことと、血統継承の基本が父系であったこととを混同して
はいけないね。(あたかも母系であるような継承例もあるが、これはあくまで例外
的事例で、準父系と言うべきもの)
高群逸枝、関口裕子、義江明子さん達のご努力に関わらず、母系・双系論はあまり
支持者が無いが。。。まあ当然だろう。
980男大迹:01/11/17 12:46
念のためにパート2を建増しました。
語りたりない面々は次のスレに移住してください。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1005968505/
981日本@名無史さん
いちおうage