>>723 717さん
今城塚は正確には「摂津」ですが、このような国名は後に定められたものですので、河内北部
としました。なお誉田山や大山古墳を造営した王統(要するに応神から武烈ですか?)の地盤
が河内にあったとは思えません。彼等の宮都は。。。
応神…軽島 明宮、仁徳…難波 高津宮、履中…磐余 稚桜宮、反正…丹比 柴垣宮、
允恭…遠 飛鳥宮、安康…石上 穴穂宮、雄略…泊瀬 朝倉宮、清寧…磐余 甕栗宮、
顕宗…近飛鳥 八釣宮、仁賢…石上 広高宮、武烈…泊瀬 列城宮
で、大和あるいは河内に宮都を置いたとされています。
彼等の基盤が河内南部にあったといわれているのは、その陵墓が河内南部に集中しているから
でしょうが。。。
なお、古代豪族の大和における本拠ですが、
物部の故地は河内渋川とされていますが、大和石上周辺でしょう。
(物部麁鹿火の娘である影媛を巡っての武烈記事からすれば、実質上の本拠地は大和です。
また後世には石上朝臣と改称しています)
大伴の故地は河内(和泉?)ともされていますが、大和磯城・高市周辺です。
何れにしても、樟葉・綴喜・弟国(乙訓)には物部・大伴・巨勢の勢力圏は確認出来ません。