負け犬一族★佐竹

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1日本@名無史さん
足利幕府に敗れる(南朝)

伊達に敗れる(戦国)

関ヶ原で敗れる
2日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:16
つーか勝ったことあるの?
3日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:19
一族滅亡しない限り負けたとは言わない。
4日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:22
>>3
途中から上杉の血が・・・
5日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:25
このスレ面白い
6日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:27
北朝方でしょ。
北畠とかと戦った。
7日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:31
源頼朝にも負けた。
8日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:33
それが普通じゃない。
勝ち続ける方が特異。
9日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:44
佐竹ファンでっか?>8
めずらしいですな。
10日本@名無史さん:2001/08/06(月) 23:56
戦国時代、佐竹義重の最盛期(1582頃)には
常陸の国、久慈郡のごく狭い領土から
婚姻政策と武略で周辺を切り従え
常陸一円と下野北部・岩代・白河・会津
を勢力下に置き、反北条の盟主として北関東に君臨した。
それを弱いと?
11日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:00
しかし伊達には一度も勝てなかったと・・・
12日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:02
久保田にスッとばされたのはヒサン

オヤジの代まで執行猶予されたんだから、
そのあいだに、本多とか井伊に手を回して
おけばよかったものを・・・
13日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:05
佐竹って武家方じゃないの?
14日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:07
>>12
本多に手を回してあれですんだんじゃなかったけか?
15日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:08
横道にそれるが、佐竹の前にいた

秋田ってなんで東軍なのに減俸されちゃったの?
16日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:09
>>12
長曾我部はどうなるんよ?
17日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:11
佐竹が伊達に負けた詳細教えて。
18日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:12
>>12

たしかに気になる
19日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:12
>>16

司馬史観では、敗戦後土佐にヒキコモっていて
温存工作に失敗したんだろ?

同じような鍋島とかは、所領安堵されたのに
20日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:15
>>19
鍋島は兵糧を買って東軍に送ってたからね。
21日本@名無史さん:2001/08/07(火) 00:16
長曾我部は、徐福の子孫(秦河勝)の血筋と
いわれているが、アヤシイ

関ヶ原で長束正家に関止めされて、西軍に
組み入れられてしまったからヒサンといえばヒサン

しかし、司馬の「城塞」で寺子屋の教師が
颯爽とした姿で隠居住まいを後にして、
大阪に死に場所を求める姿は
名家の有終の美といえよう
22提供:名無しさん:2001/08/08(水) 04:31
なんか佐竹って悲惨だね、戊辰戦争でも官軍側についたのに結局報われなかったし。
23提供:名無しさん:2001/08/08(水) 04:34
あ、素朴な疑問。
秋田藩士て靖国神社に祀られてるの?
24地球皇帝さなーと熊等:2001/08/08(水) 05:08
佐竹は伊達に負けたことは無いなあ。
人取橋合戦は引き分け。
安積表合戦も引き分け。
よくいわれる摺上原合戦は蘆名勢が伊達勢に蹴散らされ敗退。
そのとき佐竹勢は田村氏を攻めていた。
関ヶ原も参戦していないので負けというわけじゃないな。
家康も佐竹を常陸からどかしたのはかなり申し訳無く思っていたらしい。
そんで結局は鎌倉時代以前から明治まで続いている。
負け犬というより、何もしなかった、というほうがいいな。
25日本@名無史さん:2001/08/08(水) 05:12
家康は源氏の末裔を名乗って将軍職を得たわけだから
本当の源氏の傍流である佐竹氏を滅ぼすわけにはいかなかった。
26>23:2001/08/08(水) 05:47
官軍なので当然まつられている。
「山城ミヨ」という女性最初の合祀者がいる。
27日本@名無史さん:2001/08/08(水) 06:29
維新後佐竹氏は侯爵、伊達南部津軽は伯爵
28日本@名無史さん:2001/08/08(水) 09:26
>>27
そうそう。維新では勝ち組み。
29日本@名無史さん:2001/08/08(水) 10:25
勝ち組だけど、結局得られたものは、侯爵の爵位と、旧南部領の鹿角郡と、旧秋田県民歌の歌詞に「錦旗を守りし戊辰の栄えは」と入れられたことの3点だけ。

>>15
秋田は確かに不思議だよね。
でも限りなく中立に近い東軍だったと何かで読んだような気がする。
最上と南部に対抗するのが基本方針だったから、しょうがないかも。
でも考えようによっては、秋田で太閤蔵入地を5万石くらいもとられているよりは、関東に近い三春(一時期は常陸宍戸だから関東そのもの)にいた方が、実質的には栄転なのかも。
ただ、海の豪族だったのに内陸部にされたのは痛いけど。
30日本@名無史さん:2001/08/08(水) 10:43
佐竹って維新当時、最初は列藩同盟に与して
仙台に官軍が上陸したら翻意したんじゃなかったんだっけ?
世界史でいうと第二次バルカン戦争当時のブルガリアとか
同じような状態(=周りぜんぶ敵)

東北諸県の高齢者とかは、秋田は
「裏切り者」「へっぴりごし」と
あしざまに罵ってるし。
31日本@名無史さん:2001/08/08(水) 10:45
むかし「中島みゆきのオールナイトニッポン」で
「茨城にいた佐竹の殿様が、関ヶ原で負けて
 領内の美人を全部秋田に持っていってしまった。」
「んで、秋田は日本三大美人の産地、茨城は日本三大ブスの産地
 になっちまった」
と、言ってた。
32日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:09
>>29
賞典禄もあるけど。
33日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:17
佐竹義宣の親父が家康となかよしで
本人は石田ミッチーとなかよしだったんで、
親父が死ぬまで転封は執行猶予だったんだろ?
3429:2001/08/08(水) 11:21
>>31は俗説。

>>30
そうだよね。
でも確か当時佐竹家中では平田篤胤の系統の尊皇派が主流だったけど、家老の一人が仙台に呼ばれて、東北中の大名家の圧力を受けて列藩同盟に参加させられたって聞いたことがある。
まあ、裏切りには違いないけど。
でも早くに裏切って、周り全部敵で苦労したんだから、秋田に官軍が上陸してから降伏したどっかの藩には言われたくないだろうな。
35日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:21
負け犬だ!
3629:2001/08/08(水) 11:22
>>33
親父が死ぬ前だよ。転封は。
37日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:28
鎌倉時代から幕末まで国主だった家って意外にあるものなの?
不勉強なので島津くらいしか知らなかった。
38日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:31
相良
39日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:31
脇坂
40日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:47
義重は転封後、馬から落っこちて死んだんよ。
つーか、戦国板で語り尽くされてるぞ
41日本@名無史さん:2001/08/08(水) 11:51
負け犬だ!
42日本@名無史さん:2001/08/08(水) 12:26
↑ おまえがな!
43世界市民NO65536(ペッティボーン12吋):2001/08/08(水) 13:36
佐竹には義久というのがいて、こいつがなかなか家康に好かれていた。
上杉でいえば、直江兼続みたいなやつだ。
家康が、義久が生きている間は転封はしないよ、といったが、
その言質を佐竹に持ち帰るや否や死亡。かくして佐竹は転封となる。
転封が決まった後も、しばらくは石高が知らされなかった。
徳川は、佐竹が東軍についても転封しなければならかったことは確かだ。

しかし、なんかこう佐竹は悪し様に言われても仕方ないところもあるな。
44日本@名無史さん:2001/08/08(水) 13:42
>43
たとえばどんなところが?
45世界市民NO65536(ペッティボーン12吋):2001/08/08(水) 14:09
>>44
1.伊達にいっぱい食わされて蘆名を見捨てる形になった。ドンくさい。

2.義久は関ヶ原の弁明をしに江戸にいったときのこと。
 「いやー、上杉は佐竹がいたから動けなかったんすよ。マジでマジで。
  佐竹がいてよかったすねー。ショウミのハナシ」
  西軍から見れば、この日和見野郎!と言はれても仕方なし。

3.上でも言はれているように結果的に列藩同盟を裏切る形になった。
46日本@名無史さん:2001/08/08(水) 14:23
>45
1、2、3はとても悪し様に言われても仕方がない理由とは
思えませんが。
47世界市民NO65536(ペッティボーン12吋):2001/08/08(水) 17:00
  ハハハ
  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ^∀^)<  あほか
 ( つ ⊂ ) \_________
  .)  ) )
 (__)_)    (゚Д゚)ハァ?
48日本@名無史さん:2001/08/08(水) 17:02
↑ おまえがな。
49日本@名無史さん:2001/08/08(水) 18:01
佐竹右京太夫って、茨城の豪族を宴会にあつめて
皆殺しにして大領を得たんでしょ?

だったら、秋田に転封されても、差し引きでみれば
プラス(≠負け犬)じゃない?
50日本@名無史さん:2001/08/08(水) 18:06
>>43

> 家康が、義久が生きている間は転封はしないよ、といったが、
> その言質を佐竹に持ち帰るや否や死亡。かくして佐竹は転封となる。

おそるべし!タヌキおやじ(藁
51日本@名無史さん:2001/08/08(水) 18:12

> 家康が、義久が生きている間は転封はしないよ、といったが、
> その言質を佐竹に持ち帰るや否や死亡。かくして佐竹は転封となる。

佐竹、高橋グルをよんでシャクティパッドしてもらって
「義久はまだ死んでません!本人に死ぬ意思が無ければ死体ではありません!定説ですから」
って、家康に言えばよかったのに(藁
52与六:2001/08/08(水) 18:20
佐竹の転封がなければ、水戸が日本三大○ス都市にならずに済んだ?
53日本@名無史さん:2001/08/08(水) 18:26
だめだ、だめだ、だめだ!
そんな事言ってる場合か!
54日本@名無史さん:2001/08/08(水) 18:33
昔茨城に住んだことがあったが、>>31 の話が真実と思うくらいブスしかいなかった。
佐竹はやや西軍がたで秋田へ転封になったから幕末まで生き残れたんじゃない?もし東軍に着いていたらどっか四国か九州へ飛ばされて、因縁付けられて潰されたんじゃないかな?
伊達政宗が家光の前で摺上原の戦いでの武勇を自慢げに話すのを側で義重が歯ぎしりして悔しがっていたと聴いたがほんと?
55世界市民NO65536(ペッティボーン12吋):2001/08/08(水) 18:53
>>54
>昔茨城に住んだことがあったが、>>31 の話が真実と思うくらいブスしかいなかった。
なんてひどいことを言ふんだ、君は。茨城県人として君には
謝罪と賠償を要求するニダ。

>伊達政宗が家光の前で摺上原の戦いでの武勇を自慢げに話すのを
>側で義重が歯ぎしりして悔しがっていたと聴いたがほんと?
資料は忘れたが、本当らしい。ただし事実関係に間違いがある。
政宗曰く、「いやー、人取橋の戦いではマジヤバだったけど、
何とか引き分けたYO!オレってマジスゲェ」
同席していたのは義宣。
「あれは俺のおかんがデマ飛ばしたんで急いで常陸に帰ったんじゃ!」
人取橋の戦いでは佐竹連合軍が伊達勢に有利に戦を進めていたが
義宣のおかん(政宗のおば)の策略で常陸に帰らざるを得なかった。
56日本@名無史さん:2001/08/09(木) 04:51
義宣のおかんは、なんで息子じゃなくて甥の片棒を担いだの?
57日本@名無史さん:2001/08/09(木) 04:54
今の茨城県民は御三家好きが多いのか佐竹好きが多いのか・・
どっちなんだ?
58日本@名無史さん:2001/08/09(木) 05:02
>伊達政宗が家光の前で摺上原の戦いでの武勇を自慢げに話すのを
>側で義重が歯ぎしりして悔しがっていたと聴いたがほんと?
この手の悔しさ、恨みが2ちゃんの佐竹信者にもみなぎってるような気がする。
そして、それが反感を買うと思われ・・・。
59世界市民NO65536(ペッティボーン12吋):2001/08/09(木) 05:05
>>56
政略結婚だからです。佐竹より伊達のほうが大事だったんでしょう。
おいらの女房が「実家へ帰ります!」というようなもんです(知良
>>57
佐竹好きは太田氏とか県北に多いと思われます。
水戸付近は肛門好き。
それ以外はどうでもいいという感じかな。
60日本@名無史さん:2001/08/09(木) 08:23
>>59
本物の校門さんて、けっこうやんちゃだったんでしょ?
61日本@名無史さん:2001/08/09(木) 13:35
水戸泉はダメですか?
62日本@名無史さん:2001/08/09(木) 17:16
佐竹好きはやはり支配領域の研北ですね。研北、県央は肛門派。県南は将門派。
63日本@名無史さん:2001/08/09(木) 17:53
秋田では、秋田市土崎地区と男鹿市付近は安東好き、由利郡・本荘市地区は小大名割拠、鹿角郡・鹿角市地区は南部好き、仙北郡北部は戸沢好き。
残りは一般的に佐竹好き多いって聞いたよ。
なんで、小野寺とか安東より佐竹が好きなのか?
それだけ名君が多かったのかな?
64日本@名無史さん:2001/08/09(木) 19:43
政宗が生き残れたのは、佐竹を含む伊達家周辺の諸豪族が
たいてい、縁戚関係だったおかげで伊達家を滅ぼすのに気が引けてた
だけじゃないの?
 天正16年の郡山合戦(人取橋の戦いの後で摺上原の戦いの1年前)で、もし義宣の母が
伊達家の滅亡を心配して政宗の安全を乞わなかったら、伊達家は終わってたんじゃないの。

>伊達政宗が家光の前で摺上原の戦いでの武勇を自慢げに
>話すのを側で義重が歯ぎしりして悔しがっていたと聴いたがほんと?

 徳川秀忠が、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣を茶の湯に呼んだとき
秀忠が政宗に「一生のうちでもっとも会心の合戦は何か?」と
聞いたら、政宗はこの時の合戦をあげたらしい。
 そのため義宣は帰宅後に「あの合戦は母上が政宗をかばわれたために
不本意な合戦で終わったのに、さて心外なこと聞くものである」
と、かたわらの者に話したらしい。
65tyrfdht:2001/08/09(木) 20:08
66日本@名無史さん:2001/08/09(木) 20:19
雪の峠は良かったねえ
67日本@名無史さん:2001/08/09(木) 20:21
>>45
>1.伊達にいっぱい食わされて蘆名を見捨てる形になった。ドンくさい。
秀吉の命令を遵守しただけ
68日本@名無史さん:2001/08/10(金) 01:03
>>67
そういう弱者に強くて強者に弱い所が、ますます地味さを醸しださせますよね。
69日本@名無史さん:2001/08/10(金) 01:11
>>67
佐竹のカタを持つわけじゃないが、北条みたいな例もあるしな。
微妙な情勢だったんじゃないか?
うまく乗り切ったとはいえ、伊達も一歩間違えばヤバかったし。
70日本@名無史さん:2001/08/10(金) 01:38
おお、佐竹家のかつての栄光が・・
常陸に割拠してたころの石高がもう目の前に・・。
71日本@名無史さん:2001/08/10(金) 05:17
鎌倉から幕末まで国主として続いてたとこって意外にあるもんなの?
不勉強で島津くらいしか知らんかった。
72世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット):2001/08/10(金) 07:07
>>67
そういう説、てゆーか言い訳みたいがあるのは知っている。
わしもそう思っていたときもあったが、よく考えれば、この時佐竹は
田村氏の城を攻めていた。
つまりは残念ながら佐竹も惣無事令を守っていないんだよ。

佐竹と伊達の領内支配にはかなり差があって、輝宗期には佐竹も伊達も支配の仕方
あまり変わらなかったが、政宗が当主となると領地支配を改革した。
これが南奧の勢力に政宗が嫌われる原因になったと思われる。
所謂近世化といっていい。このとき佐竹は未だ洞を中心とした支配形式で、
機動力にある程度差があったんじゃないか。
おそらく人取橋の合戦で佐竹が勝っていても伊達を滅ぼすことはしなかったに違いない。
例えば、それは佐竹と那須氏、大掾氏、小野崎氏、その他の佐竹庶子家等との
関係を見れば自然とわかる。
伊達の摺上原での勝利は、起こるべくして起こったといっていいんじゃないか。
尤も、こういった佐竹の純朴な統治形式が
秀吉に好かれる原因であったのかもしれない(これ妄想)。
73日本@名無史さん:2001/08/10(金) 12:40
>>72
しかし結果として本領安堵されたんなら、この時点では伊達より利口だったってことかな
当主を出しているといっても、戦国時代にわざわざ隣国助けて自分の領地減らす必要も
ないしね。
74蒙子:2001/08/10(金) 16:29
http://www.satsuma.ne.jp/nichiwa/kyoudo.html
島津の家臣に佐竹がいるぞ。
だから官軍についたのね。
75日本@名無史さん:2001/08/10(金) 16:42
>74
全然違うとおもうけど・・・。
76日本@名無史さん:2001/08/10(金) 18:11
しつこいけど、佐竹は武家方でした。
77消防小僧:2001/08/10(金) 18:34
素朴(バカ)な質問ですが、
明智光秀の家来の佐竹氏ってこの佐竹一族出身ではないのですか?
78世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット):2001/08/13(月) 16:04
>>77
馬鹿な質問ではないです。きはめて高い確率でそのとおりです。
佐竹五代太郎秀義の三男八郎秀義の子孫が、
承久の乱で貰った美濃国の土地に住みました。
その後、この一族は足利幕府の奉公衆になるなどしています。
明智家も幕府に奉公していましたね。
室町幕府の資料『永禄六年諸役人附』には、外様詰衆に「佐竹三郎」の名が見えます。
足軽衆には「明智」という者がいます。これが光秀だと言はれています。
足利義昭が信長の保護をうけると、明智光秀は幕府の足軽衆という
比較的低い身分だったにもかかわらず(恐らくは
信長の縁者ということで)信長に抜擢されますが、
このときに、細川藤孝のように光秀の下につくことになったと考えられます。
あるいは両方とも濃州の出身だったこともあり、
行動をともにしていたのかもしれません。
この濃州佐竹氏は、沙也可衆と同様に紀州の鉄砲の名人で知られた佐武氏の祖でもあります。
79世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット):2001/08/13(月) 16:14
>>74
島津についていった佐竹は佐竹五代秀義の幻の三男義博かも。
80日本@名無史さん:2001/08/18(土) 02:27
>>72
この意見に非常に説得力を感じるんだが、佐竹派からの反論は何かないのか?
81日本@名無史さん:2001/08/20(月) 09:15
72は佐竹がどうというより、伊達が目を付けられた理由の様な気がするが。
82日本@名無史さん:2001/08/20(月) 11:36
というかわざわざ北へ向かう理由はない。
北からウザイのが来ないように時々牽制&虱潰しすればいいだけ。

伊達?トーホグに篭ってれば?
83てんぴん:2001/08/20(月) 15:14
>>82
東北への進出は、先祖の源新羅三郎義光の後三年の役参戦のころからひきずっていたみたい。
義光は、みちのくへの地理や風俗にも詳しかったとか。
84日本@名無史さん:2001/08/20(月) 15:32
K−1で敗れ、
プライドでボロボロ。
8510:2001/08/21(火) 00:04
>>80
>>72の言う通りだと思う。
86日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:30
佐竹を馬鹿にするな
87日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:31
佐竹は長い歴史をもつ一族です。
その歴史は北条家を超える
88日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:21
時がたって腐ってしまったんだね、義光の納豆のように・・・
89日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:30
>>86
なぜか、小バカにしたくなるんだよね。
90日本@名無史さん:01/08/28 02:13 ID:h/CZFLyA
>>89
佐竹と言うより、茨城を馬鹿にしたくなる。
91日本@名無史さん:01/09/02 11:52 ID:ur/IDgq2
好き嫌いはともかく、平安からの生き残りの家系として貴重だし、
調べると結構面白いかな、と思いますが・・・

頼朝の”北伐”
南北朝時代(那珂氏などとの関係)
お家騒動(山入りの乱)

滅亡の危機を何度も乗り越えている逞しさはある意味感動です。

関谷亀寿著「佐竹新太平記」筑波書林刊 は知られざる佐竹氏
の歴史を知るのに入門書としてはいいと思います。
92日本@名無史さん:01/09/05 12:17 ID:inOD3WJU
佐竹の日の丸扇子の家紋は珍しいけど、まさか鎌倉期からあの家紋ではないよね。
93日本@名無史さん:01/09/05 12:21 ID:6HotUrkU
負け犬佐竹っていうと
佐竹雅昭を思い出してしまう。
94日本@名無史さん:01/09/05 12:29 ID:jAPLZzr2
佐竹雅昭って小川に首絞められて負けた奴?
あれは俺も見に行ったけどマジ笑ったね。
95日本@名無史さん:01/09/05 13:08 ID:6HotUrkU
空手家の限界を見たな
やっぱ、柔道のが強いんだよ。
96日本@名無史さん:01/09/05 13:27 ID:.Vh3AIO.
清水義載のまちまちな街々の秋田の項に「どっちにつこう物語」ってのがあるね。
97日本@名無史さん:01/09/05 13:54 ID:sdU/f88c
>>91
>山入りの乱

ははは、そりゃないよ。
山菜とりに行く訳ではないんだから。
98日本@名無史さん:01/09/05 18:30 ID:RX5coLF2
佐竹の乱、山入一揆
99日本@名無史さん:01/09/06 01:13 ID:aqyaBMIU
名門好きあげ
100日本@名無史さん:01/09/06 01:16 ID:B/RdHVB2
天皇のこびへつらう常陸人はアズマの裏切り者。
101日本@名無史さん:01/09/06 03:32 ID:2CTVZ8yA
>>92
確か、頼朝が平氏追討の為各地の武士に集合をかけていた時に同じ源氏繋がりで
佐竹も鎌倉?に行ったおり、佐竹の旗(家紋?)と頼朝のそれとが同じであった
ので頼朝に日の丸扇子の家紋を賜った。うるおぼえですけど。
102日本@名無史さん:01/09/06 10:36 ID:IRnDBTkM
佐竹親直
103てんぴん:01/09/08 12:56
>>101
当時源氏は「白旗」が目印でした。
ついでに、最初は「月丸」だったのが、縁起やら何やらで、いつのまにか「日の丸」になってしまいました。
研究者からは「化け紋」といわれています。
104日本@名無史さん:01/09/08 14:55
105日本@名無史さん:01/09/08 15:02
角館佐竹家当主、兼秋田市長
http://www.city.akita.akita.jp/city/mayor/profile.htm
106日本@名無史さん:01/09/08 15:12
角館佐竹家って佐竹北家ですな。http://www.ne.jp/asahi/home/sata/rekishi/rekishi/rekishi.htm
107日本@名無史さん:01/09/09 03:27
107
108日本@名無史さん:01/09/09 10:49
佐竹って、弱いイメージの割にしぶとく生き長らえている。
処世術としてはむしろベストなんじゃないの?
109日本@名無史さん:01/09/09 20:23
あげ
110日本@名無史さん:01/09/09 21:27
>>108
名門だからでしょ。日本郵船みたいなもんだよ
111age:01/09/10 15:41
佐竹の本拠地は常陸太田。
ここを押さえるために水戸徳川家は瑞龍山に歴代の墓を築いている。
光圀の隠居場所の西山荘もここにある。
112日本@名無史さん:01/09/10 15:43
確かに茨城にはブスしかいないのは事実だ
113幕末の秋田藩:01/09/10 20:13
秋田藩は、九条総督の命により、奥羽越列藩同盟結成以前、
庄内藩と戦闘状態にあったが。結局秋田藩は奥羽越列藩同盟の
白石会議に、戸村十太夫を送り、同盟に加わる
そんな折、奥羽越列藩同盟結成の動きを見るや仙台藩から亡命
してきた九条総督が秋田入り。藩内の反同盟派が一気に勢い付く。
九条総督の引渡しを求めた、仙台藩の使者7人を斬殺、これにより
仙台藩は白河口の兵を引き揚げさせ、秋田藩に充てざるを
得なくなった。
114戊辰時の秋田藩:01/09/10 20:38
また、これにより、新庄藩も列藩同盟から脱落、庄内救援のために
秋田藩の裏切りと同時に、新庄も奥羽越列藩同盟を離脱していた。
新庄に駐屯していた仙台軍5個小隊はこの裏切りを知らされておらず、
秋田勢から壊滅的な打撃を受け、大隊長梁川播磨は自刃、その首を
秋田城下五丁目橋にさらされる。これにより、仙台藩はやむをえず
岩出山から三小隊、また先にも述べたように白河口に駐屯していた兵を
投入。これによって白河口は手薄となり、列藩同盟の敗北を早めた。
115戊辰時の秋田藩:01/09/10 20:46
前レス訂正
→( 秋田藩の裏切りと同時に、新庄も奥羽越列藩同盟を離脱していた。
庄内救援のため新庄に駐屯していた仙台軍5個小隊はこの裏切りを
知らされておらず)

新庄の裏切りは庄内を激怒させた。庄内藩は、新庄藩に三百挺の
新式銃を供与したばかりであった。庄内藩の酒井吉ノ丞の二番大隊が
新庄に攻め入り、新庄城下は火の海となり、城主戸沢正実は城に
火をかけ秋田へと逃亡した。
116戊辰時の秋田藩:01/09/10 21:20
まもなく、仙台勢も秋田領に到着、仙台、庄内連合軍は8月11日に
横手城を急襲、これを落とした。以降、戦線は秋田領内全域へと
拡大する。南部藩も鹿角口に2000余の軍勢で攻め入り、8月22日には
大館城へと迫った。しかし、9月4日に米沢が降伏、戦況は一進一退と
なり、結局9月13日に仙台降伏、22日には会津が降伏。25日に庄内降伏
・・・結局秋田は生き長らえた。

これらの戦いによる秋田勢の被害は戦死者329人
負傷者316人、しかしこの数字は武士だけで占められており、人夫として
徴発された農民の被害をふくめればこの数倍は行くといわれている。
秋田領内では5000を越す家屋が焼失した。
117名無し@日本史苦手:01/09/15 14:04
・・・一般庶民の好みって、一代で成り上がる勝利者か、花と散る判官びいきかのどっちかだからな。
名門の血統でありながら、苦難と苦渋の選択の中、土壇場で発動する悪運で命脈を保つ話は敬遠されるのもしかたないか。
まあ、ゆえに玄人好みでもあるか。
118日本@名無史さん:01/09/20 04:48
現市長までの佐竹北家の系図はないのか?
119世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット) :01/09/20 06:37
>>118
「佐竹七家系図」には載ってると思うよ。
市長の名前なんていうの?
120てんぴん:01/09/20 13:14
>>119
佐竹敬久氏です。
121秋田犬人:01/09/20 19:47
戊申戦争時の秋田の弱さは語り草だなぁ。平田篤胤大人なんつう大キチガイ人のせいで大変なことに・・・。
遊び惚けていて軍備がおろそかだったと踏んでいるが。

ところで、江戸期に佐竹藩が石高ごまかしていて大変豊かな暮らしをしていたという話は本当ですか?
いまだに米だけはむちゃくちゃ作ってるので信憑性ありそうなんすが。
本当だとしたら平時の佐竹もなかなか侮れませんが・・・。
どうなんでしょう?
122世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット):01/09/20 21:59
>>120
なるほど。
>>118
直系だけなら、
北義信>義住→義廉>義斯>義憲>義廉→義隣>義明>義命>義掾→義邦>
義躬>義文>義術>義許>義倫>義尚>義敬>敬治郎>敬久
だと思われる。
→は養子。
123てんぴん:01/09/21 16:07
>>121
豊かな生活していたら、「銀札騒動」なんて起きなかった気がするけど。
当時は結構有名な事件だったらしい。
124日本@名無史さん:01/09/21 17:57
>>121

八郎潟のヤミ米検問突破とかみても、ゴマかしに掛けては
東北六県の雄だろ
125日本@名無史さん:01/09/21 19:44
このスレも佐竹氏同様しぶといね、しかし。
126日本@名無史さん:01/09/21 21:18
>>122

早稲田政経教授の佐竹元一郎さんは違うんですか?
自分では子孫だと言ってたけど・・・
127日本@名無史さん:01/09/21 21:56
>>126 統計学?
128世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット):01/09/22 06:41
>>126
佐竹には宗家と、東西南北あわせて五つの家があって、
>>122は北家の、しかも直系だけの系図。
129てんぴん:01/09/22 15:20
>>128
あれ?5つ?
秋田の「宗家」「東家」、角館の「北家」、湯沢の「南家」、大館の「西家」、江戸の「壱岐守家」の6家じゃなかった?

後、系図にのっていない分家としては、
足利尊氏と共に西日本を転戦した「美濃佐竹氏(明智光秀の家臣となったらしい)」「九州佐竹氏(島津氏の家臣となったらしい)」
美濃佐竹氏から出た鉄砲名人「佐武氏(雑賀衆と何か関係あるらしい)」
その功績から室町幕府京都扶持衆となった「山入佐竹家」がいたと聞いたけど。
130日本@名無史さん:01/09/22 18:00
>>126
やつは本家直系だったはず。
テスト楽勝だったなぁ・・・
131世界市民NO65536(ハウスファイヤー・エディット):01/09/22 23:48
>>129
そういえば壱岐家なんてのもあったなぁ。
あと、式部少輔家なんちゅうのもあるな。
それらをあわせて佐竹七家というんだった。
よく見たら>>119に自分であげてるじゃないか。

ちなみに山入は滅亡。
足利尊氏とともに戦ったのは師義とその子らで、これが山入の祖。
美濃の佐竹は三郎秀義から出た北酒出氏の一族の末裔。
九州の佐竹はかなりぁゃιぃ。
132日本@名無史さん:01/10/13 18:35
あげ
133日本@名無史さん:01/10/23 03:30
岩明均の「雪の峠」を読んでから非常に佐竹が好きになりました。
134日本@名無史さん:01/10/23 09:53
ありゃま。信じられないだろうけど、おれ佐竹の茨城移封の5代目。
非道いいわれよう・・・
135日本@名無史さん:01/10/23 09:54
ん?8代目か。いまスレ、ばーっと読んだけど、たしかに可もなく不可もない一族だよね
136日本@名無史さん:01/10/23 12:08
ふぅ、かの佐竹氏もついに名無しさんにまで堕ちたか(藁
137日本@名無史さん:01/10/23 12:54
>>129
土佐にもいるよ
138日本@名無史さん:01/10/31 22:48
>この33館主攻略は義重の意向ではなく、義宣が石田三成を通して秀吉に許可を得たらしい
恐らく、下総国境(徳川と領地を接する)であったためと、津の利潤も関係すると思う。
目先の利益に囚われることなく、国人衆の手綱をしっかと握る事が出来ていれば
関ケ原の際に、西にしろ東にしろマシな働き出来たであろうから、
南方仕置=佐竹の地力を失わせたという個人的考え(義宣の代に常陸全域支配となるが
江戸、大掾、土岐、鹿行館主等は滅ぼされる)により、義宣の知略は低め。

佐竹ファン的にこの見方はどう?
139日本@名無史さん:01/10/31 23:31
 藩運営では北東北では佐竹氏は一番良かったのでは?津軽藩は先物取引に
失敗し、飢饉なのに大量の米を大阪に送らなければいけない羽目に陥り、沢
山の餓死者を出した。俺は秋田北部に住んでいるが、自藩の餓死者も確かに
多かったけど、それ以上に伝わっているのは津軽藩から流入し、次々に死ん
でいく浮浪者の群れの記述だ。南部藩は頻繁に農民一揆が起きて、しかもそ
れが多くの集落を巻き込んで大弾圧を受けているよね。仙台藩まで行って、
仙台藩主に南部藩の運営をしてくれって言った住民もいたそうな。
 金持ちはわざわざ南部藩の鹿角から佐竹藩の大館に来て(比較的近い)、
連日旅館に泊まりそこで飯を食っていたそうな。その方が安くつくとか…。
140日本@名無史さん:01/11/01 01:50
一応維新も勝ち組みだよな、一応・・・
141日本@名無しさん:01/11/01 15:26
>>140
ぎりぎりまで迷って、止むをえず官軍側・・・といったところ。
おかげで奥州列藩同盟最強と言われた庄内藩の攻撃を受け、そうとうやばかったらしい。
すんでの所で肥前藩からの援軍到着で、助かった。
142日本@名無史さん:01/11/01 20:30
>>141
 おまけに、庄内藩は何故か新政府の西郷どんとつながりがある人もいて
負けた後も、ほとんどおとがめなし。しかも、初代山形県令も有能な人が
来て、結構発展しているんですよねー。
 それにひきかえ、秋田藩は一応戦争に勝ったからとお金を貰ったのです
が、それで買った船が沈没してせっかくの苦労が水の泡…。新政府にして
も、秋田よりも山形・岩手の方がエライ人が続出するありさま。
 秋田出身の明治時代の偉人である和井内貞行(ヒメマス養殖・十和田観
光)とか内藤湖南(この板でも「邪馬台国畿内説」で有名)らはどちらも
元南部藩出身なんですよね…。
143日本@名無史さん:01/11/16 20:37
幕末の佐竹を扱った小説って無いのでしょうか?
144日本@名無史さん:01/11/19 23:39
秋田蘭画の2大巨頭の一人、佐竹所残は美術史の世界では
カナーリ評価されてますな。辻惟夫おかげ。
145千葉県人:01/11/20 17:52
佐竹は誇り
146日本@名無史さん:01/11/20 22:35
>>145
千葉県人なら、千葉氏を誇ろうYO!佐倉城マンセ〜
147日本@名無史さん:01/11/20 23:41
>>144
 よく平賀源内呼べたなぁ。でも、平賀源内は本当はこれを教えて欲しかっ
たという、最新式金属精錬の方法は佐竹氏に最後まで教えなかったんだよね。
(灰吹き法)何で秘密にしたのかな?>平賀源内
 代わりに蘭画を習って実績を残したけどね。
148てんぴん:01/11/21 14:14
>>1
もし仮に佐竹が東軍に加勢していたら、常陸は佐竹のままでありましたか?

いや、その後徳川譜代家臣の本多正純が、宇都宮つり天井事件で出羽預かりになったろう。
彼の様に、幕府からなにかと理由をつけられてかならずお家取り潰しされていたろうな。
本多氏は徳川歴代の譜代、その譜代家臣でも、あのざま。それに対し佐竹は外様。
徳川側だったにもかかわらず、佐竹と交代で常陸へ向かった秋田氏はその後どうなった?
やはり、再改易されて、常陸は水戸徳川家の領分、天領扱いとなったではないか。
149日本@名無史さん:01/11/25 22:21
>>147
平賀源内は日本橋で秋田藩士太田伊太夫と会って、秋田の銅の品質の良さに
惹かれて吉田理兵衛と秋田へ行ったんですよね。
秋田藩の方では、鉱山師としては、吉田の方に期待していたようですが。(記連書アリ)
その辺が、平賀が灰吹き法をわざわざ伝授しなかった理由の一つなんですかねぇ。
150上野藩士:01/11/25 22:29
今年から秋田に居住したが、佐竹は秋田ではけっこう人気がある
151日本@名無史さん:01/11/26 00:06
既出かもしれないが、佐竹の分家としてあるのは、須賀川、塙等色々
あり今でも、佐竹が秋田に移るまえにいた辺りでは子孫が残ってるよ。
152日本@名無史さん:01/11/26 00:09
>>150
 庄内藩はまだしも、津軽藩とか南部藩とか結構民衆に酷い政策を取って
いたからなぁ。南部藩なんか、カムイ伝状態だったし…。
153日本@名無史さん:01/11/26 05:21
佐竹の家紋って日の丸扇だよね。
オレん家の家紋も日の丸扇なんだけど、佐竹系なのかなぁ。
154大和@名無しさん:01/11/26 12:26
日の丸扇(本当は月だけど、本家も日の丸扱いだし、まあいいか)って、縁起がいいから
戦国時代には結構他の家でも家紋にしていた気がする。
155日本@名無しさん:01/11/26 14:09
>>152
藩政の事で徹夜続きで案を練り、血まで吐いた藩主もいたとか。
・・・他藩でそんな藩主っていた?
156日本@名無史さん:01/11/29 00:48
プロレスラーですか?
157日の本@名無史さん:01/12/01 05:37
疲労→結核→吐血
なんじゃない。
158日本@名無史さん:01/12/01 06:13
オレん家は格上の佐竹本家からヨメをもらって以来数百年
男は本来の家紋、女は日の丸扇だよ。
夫婦別姓のハシリか、こりゃ!
159日本@名無史さん:01/12/01 06:25
家紋は男性と女性、別に受け継ぐもんじゃないの?
例えば、うちの母は母の実家の方の祖母(要するに実母)の家紋を受け継いでるよ。
夫婦別紋?
160日本@名無史さん:01/12/01 08:57
>>144 マイナーすぎるので、当て字にすべきではない
と思うぜ。
佐竹曙山ね。
161名無草履執り
関連リンク

負犬嫌いな佐竹孤高FANレス
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1004708420/l50
\●/月印五本骨扇
の12番氏
一応関連レスのリンク張っておきました。
どうぞ!