河内源氏の本流、新羅三郎義光を祖とし、孫の初代昌義。
上杉家からの養子十三代義人の曾孫にて紆余曲折にて、
佐竹家最大の苦労人でお家の団結力を強めることに注力した
中興之祖十六代義舜。
義舜の危機を救った岡本家。
戦国乱世の中、落ちぶれかけたお家を纏め上げた十八代義昭。
義昭の志を受け継ぎ、お家を引張った十九代義重。
秋田移封後も精力的に国作りを実施した二十代義宣。
秋田藩中興之祖ともいわれ、文化誉高い二十八代義和(ヨシマサ)。
奥ゆかしい佐竹、いいですねぇ!
2 :
日本@名無しさん:01/11/03 14:23
秋田蘭画を始めた廿七代目の曙山こと義敦公も。
夢窓国師と親交のあった月枢。
足利氏に従い北朝勢として転戦、尊氏から一騎奉公認められた山入家祖。
吾妻鏡の初期から「佐竹の権威境外に及び、郎従国中に満つ」だった。
>>
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=978234576&ls=50 641 and 643 より
>>「上杉中納言景勝に仕える。」
佐竹家と上杉家が
>>1 のように関係が深かったのは周知の通りです。
十三代義人が入封してきた時には、上杉家よりの後見人が付いてきたと思われます。
この後見人は常陸に赴いても越後の一族との遣り取りは当然あったと思います。
この流れより、
「水戸石塚城主 石塚彦十郎義重 九男」が家の祖の方であれば、
その方が、遠い越後の僅かなコネクションを頼りに新天地を求めたのかもしれません。
「上杉中納言景勝に仕える。」
上州辺り、松井田から厩橋あたりまで上杉家に仕えて一戦で活躍すれば、
北条方の領地も思いのまま等と考えられたのかもしれません。
>>3 豪快に板違いじゃないか?
>>1 佐竹スレは戦国板にすでにあるからあっちでやったら?
二つもいらんだろ。知ってて立てたとは思うがね。
5 :
日本@名無史さん:01/11/04 23:15
>>4 いいんじゃない?
戦国板のタイトルはもう変えられないし。
ここのタイトルの方が良い感じです。
それに、戦国板は趣旨が戦国時代じゃない。
6 :
日本@名無史さん:01/11/16 23:10
跳んでる平賀源内も、久保田藩の庇護を受けていたねぇ。
Ctrl&Alt&Delete
8 :
日本@名無史さん:01/11/28 23:34
電波を発見しました。
これから受信します。
ピピピピ
9 :
日本@名無史さん:01/12/02 01:55
10 :
日本@冷かしではない!:01/12/02 02:08
戦国大乱『逆襲の関が原』読んだ人限定!
佐竹家上杉同盟には期待できるが。
義宣の側近に義種しか出てないのはちょい不満。
もっと渋江政光や中務義久が活躍しないと。
11 :
名無草履執り:01/12/02 02:24
おっ!戦国大乱『逆襲の関が原』読んだんだねぇ。
できれば岡本家も活躍させてもらいたいですねぇ。
細かな話になりますが佐竹軍が、太田城から結城城まで行軍するとき、
結城家組下の水谷(みずのや)家の存在を忘れてますねぇ。
それと、上杉家が革ご原から大田原城へ行軍する時、
いつ大田原城を攻略したんですかね?
ページ数の関係でカットされたのか?
(解らない人はスンマソン。)
13 :
名無草履執り:01/12/02 02:46
>>12 12番氏
ありがとうございます。
ただ、あそこはタイトルがタイトルなので、
佐竹好きにはどうも耐え難きにスレ書く気になれません。
スンマソン。
14 :
名無し一番槍:01/12/02 11:23
もし頼朝に従っていたら、鎌倉幕府でもいい位置になれたでしょうか?
ふむ・・・返答がむずかしいな。
ただ、佐竹秀義が頼朝に帰参後、鎌倉幕府内でも着実に地位を上げていったらしいな。
承久の変での功労から、美濃国にも所領を与えられたらしい。
南北朝期、貞義の息子が月山中枢と号してかの禅僧夢窓疎石に師事した。
その兄弟弟子が足利尊氏兄弟。
その縁から、太平記の時代には北朝の有力豪族として名を馳せた。
この時、土佐国高岡郡に庶子の一族が下って土佐佐竹氏になったらしい。
15 :
日本@名無史さん:
平安時代から江戸時代まで一代も欠けずに義を通字とした家は、
清和源氏では佐竹氏だけじゃないですか?