織田信長死亡後の織田家のその後

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1日本@名無史さん
織田信長が本能寺でたおれた後
後に残された織田家の人々はどうなったのでしょうか?
知っている方、どうか教えて下さい
よろしくお願いします。
2生姜:2001/05/26(土) 21:51
モンゴルへわtろうとしたら鮫に食べられました
おしまい

というのは嘘で長男のぶただは一緒jに殺され次男のぶかつは家康と組んで
秀吉と戦って以降はダメ、末弟のうらくさいが大名蜷あり
明治まで細々小大名としてつながってたとおもたが一回改易
になったかもいしれない
3:2001/05/26(土) 22:02
>2
早速のレス有り難うございます
のぶただ、のぶかつは知っていますが
明治まで細々小大名としてつながって>このへんが知りたいです
今現在、織田家の血を引いている方は存在しているのでしょうか?
質問ばかりですいません
4日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:15
信雄は尾張・伊勢に100万石の領地を持ってたけど秀吉に改易された。
大阪の陣で家康がわに味方して少し功績をあげて数万石の大名になった。
子孫は大和や丹波で小大名になって明治を迎えている。
100万石→数万石の転落だけど、100万石は親からもらったものだけど
数万石は自分の働きで獲得したもの。彼はバカだとよくいわれるが、年を取ってからは
厳しい経験を通じて自分で大名の地位を獲得するくらいの力量を身に付けたようだ。
さすがは信長の息子だけはある。
5名無史さん@名古屋板ではにゃ〜がね():2001/05/26(土) 22:27
>厳しい経験を通じて自分で大名の地位を獲得するくらいの力量を
>身に付けたようだ。さすがは信長の息子だけはある。
ルイス・フロイスが「信長の性格に最も近い」と記していたのは
間違いじゃなかったんですね(感嘆)


6日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:40
>>4
>数万石は自分の働きで獲得したもの。

織田家の名跡を残そうとした家康に捨扶持与えられただけ。
7日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:44

将棋の駒、作ってほそぼそと暮らした。>子孫
8日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:46
織田無道が僭称していたような・・・。
9日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:46
小幡・天童・柏原・戒重
このあたりが織田藩のあったところ
10日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:53
信雄さん、若いときは安土城を焼き払ったり、家康と同盟しといて勝手に
秀吉と和睦したり、織田家と豊臣家との主従が逆転した事を理解してないのか
秀吉の国替えの命令を拒否して100万石丸ごと取り上げられたりとドキュソ
丸出しだったな。それが年を取ってからは冷静に政情を分析し、慎重に勝ち馬を
見極め、誰に食い込めば自分に有利に働くかを計算できるヤツに変身している。
若いときと年を取ってからの信雄は同一人物とは思えないくらいだ。
そういえばオヤジも若いときはバカ丸出しだったというが・・・。
11日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:55
>>6 それだけなら高家止まりと思うが・・・。
12日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:58
>>7 天童藩の人たちか?
13:2001/05/26(土) 23:26
みなさん大変勉強になります
>6
織田家の名跡を残そうとした家康>家康は信長の死後も信長を尊敬していたのかな?
>10
オヤジも若いときはバカ丸出し>激しく同意
14日本@名無史さん:2001/05/26(土) 23:38
>>13

尊敬していたと言うより、覇者の余裕でしょう。
自分が奪い取った豊臣はだめだけど、織田は大丈夫だったんじゃない。
15日本@名無史さん:2001/05/26(土) 23:46
>>13 尊敬はしてないだろうな。自分の妻子を氏に追いやられてるし。
ただ、家康は名家好きで、武田家とか畠山、吉良、今川なんかを高家で
残している。
16しょたしょた@名無史さん:2001/05/26(土) 23:54
信長の五男、信勝の子孫はどうなったんだろう・・・・
本能寺の変で死んだとき、まだ15歳なのにすでに子供が・・・・ハアハア・・・・
17名無しさん:2001/05/26(土) 23:55
>>9
小幡藩の織田家がのちに天童に転封になったのです。
転封の理由は、家臣が宝暦・明和事件に関わったから。
18日本@名無史さん:2001/05/27(日) 00:03
やっぱり、その後の織田家の一番は、家康に気に入られていた織田有楽斎なのでは?去年の大河を見ていた人ならご存知だろうが、現在、東京の有楽町と、名前が残る場所に館を構えていたほどなのだから。因みに、江戸織田家は、有楽斎死亡後、どうなっちゃったんでしょうね。
19武田信玄:2001/05/27(日) 02:06
わしは13歳で嫁を孕ましたぞ!(流産しちゃったけど)
20名無しさんの主張:2001/05/27(日) 02:18
高家の織田家の子孫は上野彰義隊に加わってる。
風貌もゴツく、すごい強かったらしい。
21日本@名無史さん:2001/05/27(日) 02:35
>20
知ってる〜。織田主膳でしょ。確か信長の甥の津田信澄の子孫だって
聞いた事あるゥ。
22日本@名無史さん:2001/05/27(日) 04:39
織田無道
23吾妻王ヒロシ:2001/05/27(日) 06:59
信雄だけじゃなく
信長も人の下についたら
かなりダメだったんじゃないだろうか
という予感♥
24尾張@伊勢:2001/05/27(日) 07:40
俺は織田一族の中では信雄が一番好きだな。
25尾張@伊勢:2001/05/27(日) 09:17
信雄
若いときバカ丸出し→時の権力者に警戒心をもたせない。
織田家復活の芽が無くなった頃それなりの実力を発揮
→時の権力者にそれなりの処遇を受ける。

それなりの能力があってもオヤジの能力には遠く及ばない彼がとれた
ベストの行動では。それで小大名として家系を現在に伝えることが出来た。
中途半端に徳川に抵抗して散っていった豊臣家との違いがここにあるか。
26日本@名無史さん:2001/05/27(日) 13:34
信忠の息子の三法師はその後どうなったのですか??
27日本@名無史さん:2001/05/27(日) 13:58
>26
関が原の戦いで西軍についたため、関が原後は改易されて高野山に隠居、出家
させられ、7年後に死去した。
娘(姪?)がどこかの大名に嫁いでいたという話を聞いた事あり。
28日本@名無史さん:2001/05/27(日) 14:14
織田無道の本名は「青木」。母親が「尾田」姓で、織田家とは全く関係ない。
以前、織田信長の直系の子孫が織田無道の寺を訪問した際、
「ちょっとお葬式が入りまして・・・・」といって逃げ出したことがある。

臨済宗の寺の住職になる前は、外車のセールスマンをやっており、
たけしに「本名は青木さんなんだよ」とばらされた。
今でもたけしは「はい、青木さん」といってしまうことがある。
(集週間前の「ここ変」に出てたときも、たけしにいわれてた。)

一番のお笑いは、織田無道の寺の寺紋がなぜか「三ツ葉葵」(笑)

29日本@名無史さん:2001/05/27(日) 14:18
>>27
秀信の弟、秀則の娘が、秀信の養女として公家に嫁いでいる。
30日本@名無史さん:2001/05/27(日) 16:18
>16
信長の五男は、勝長だと思いましたが。

>1
笑っていいともに、信雄の子孫が出ていました。

織田昌澄(信長の弟の信行の孫、信長の甥の信澄の子)について詳しく知りたいので、
教えて下さい。
31名無しさん:2001/05/27(日) 16:27
>>28
織田家は臨済宗?
32しょたしょた@名無史さん:2001/05/27(日) 16:29
>30
そうでした。でも15歳でおとうたんてのは・・・・ハアハア・・・・
33与六:2001/05/27(日) 16:41
天童の織田家の殿様は愚痴ばかり言っていたらしく、天童市では人気が無いですね。
34日本@名無史さん :2001/05/27(日) 16:52
>>12
信雄の子孫の、信浮の所領。2万石の貧乏藩だったけれど、藩士が内職で将棋の駒を
つくって「天童といえば将棋駒」といわれるくらい盛んだった。
明治2年まで残っていた。
35名無史さん@名古屋板ではにゃ〜がね():2001/05/27(日) 17:04
>>33
そのグチを聞きつけて、「天童織田家から信長様が復活する!」と
電波だしまくってたのが、女装が趣味の高橋克彦。
36日本@名無史さん:2001/05/27(日) 22:20
>>30 別のスレに足利尊氏の子孫が「いいとも」にでてたというレスがあった。
なにか「いいとも」でそんなコーナーができてるのか?昼頃テレビを見ることが
できる環境に無いもので・・・。
37日本@名無史さん:2001/05/27(日) 23:15
>>36
出来ている。日曜の増刊号でもやっているかもしれん。
うちの銀行の食堂は、NHKのニュースが終わったあと、テレビがいいともになるから
時々見てるが、系図とか妙にマニアックで笑える。
38日本@名無史さん:2001/05/27(日) 23:45
有楽斎
39日本@名無史さん:2001/05/31(木) 17:38
>>4 信雄が改易されたとき、もし秀吉に抵抗したらどうなっていたか?
後に豊臣秀頼が徳川家康の転封命令を拒否して大坂の陣を起こしている。
同じようなことは起こりえなかったか?信雄と秀頼の基礎的要因を比較してみると、

信雄:尾張・伊勢100万石、 織田家旧臣の存在、 清洲城
秀頼:摂・河・泉60万石、 豊臣系大名の存在、 大坂城、 親が残した財宝

基礎的要因では秀頼の後者2点で優れていると思うが、信雄はそう秀頼に劣っていない。
大規模な名古屋・清洲の陣が起こりえた可能性はあるのか?
40日本@名無史さん:2001/05/31(木) 18:15
意味がよくわかりません。
どうして、秀吉と信雄の争いではなく、
秀頼と信雄の争いになるんですか?

それと秀頼の60万石というのも意味がわからない。
秀吉の石高は223石高ですけど?
41日本@名無史さん:2001/05/31(木) 21:51
ぎゃははは。

>>4 信雄が改易されたとき、もし秀吉に抵抗したらどうなっていたか?
信雄を除く日本全国の大名 vs 信雄
信雄に味方する大名なんて皆無。
みんな秀吉に気に入られるようにする為に必死に働くだろう。

大阪の陣の時のような状況とは全然違う。
豊臣方は徳川に取り潰された大名や一攫千金を夢みた浪人たちが集まった集団だ。

それから秀吉は石高以上に商業からあがる租税に金山銀山、貿易等の収入があり
動員兵力は豊臣恩顧の大名などの存在があり、単純に石高だけで規模を計るのは片腹痛い。
その後継ぎである秀頼であるからこそ、大阪の陣になったのであって、信雄風情が天下の大乱を
起こす事は不可能であると思う。
42日本@名無史さん:2001/05/31(木) 22:02
41は稀代の蓄膿症患者
43世界@名無史さん:2001/06/01(金) 03:08
そりゃすげえや
44日本@名無史さん:2001/06/04(月) 18:18
信忠さえ生きてれば・・・
45日本@名無史さん:2001/06/05(火) 02:33
>39-41
それ以前に、転封を言い渡されたのが小田原攻めの真っ最中じゃ、抵抗の仕様がないでしょ。
特に織田(徳川も)の軍勢は最も東側に配置されたので、領国に戻るには並み居る豊臣大名を倒していかなくてはならなくなるし。
46日本@名無史さん:2001/06/05(火) 18:30
>>40 関ヶ原後は60万石。
47日本@名無史さん:2001/06/05(火) 19:11
>>31
信長は法華と禅

>>10>織田家と豊臣家との主従が逆転した事を理解してないのか
理解していたからこそ抗いたかったんでは


信長葬儀の喪主に秀勝を使った時点で織田家の諸将が秀吉の
深意に気付いていれば。。。
柴田・丹羽・池田・滝川が担げば信雄・信孝でも当主が務まった
んではないかとも思う

池田や丹羽にも柴田に対抗意識があったのかな
48五徳
関ケ原の織田一族 ◎所領加増 ○所領安堵 △改易 ×戦死

東軍:◎織田長益(信秀11男、有楽斉 子孫は芝村藩・柳本藩両藩主として明治まで存続)
   ○織田信高(信長7男 戦後、徳川将軍家旗本衆となるが、西軍に所属してた説有り。石田三成の旗本衆にいるのは同姓同名の別人?)
   ○織田信貞(信長9男 信高と共に東軍につき、徳川将軍家旗本衆となる。) 

西軍所属東軍内応派:◎織田信雄(信長次男 家督を継いだ四男・信良の子孫、信浮・信美父子が天童藩の祖。五男・高長の嫡男・信休が柏原藩の祖。いずれも幕末まで存続)

西軍:△織田秀信(信忠嫡男、三法師 戦後、高野山へ追放、まもなく病死。)
   ×織田長次(信長11男 よく知らんが討ち死にしてたらしい)
   ○織田信包(信秀4男、老犬斉 大坂の陣直前に病死。暗殺説有り。)
   △織田秀雄(信雄嫡男 大谷吉継に誘われて西軍に加担。戦後まもなく病死)